小林紀晴 冬の写真紀行「反転の雪」。

 再び冬。

 私はまた、南会津へ向かう。一年前のことが自然と頭に浮かぶ。それまでその地を訪れたことはなかった。まず雪の深さに驚いた。雪深いことも、流れる川は太平洋ではなく新潟を経て日本海へ流れ込むことも、知らなかった。私はその直前まで一週間ほどタイを旅して戻って来たばかりだったこともあり、まったく違う時空間へ放り出されたような感覚をおぼえた。雪の世界に圧倒された。色、質、その量。

 あれから一年をかけて、4つの季節を巡った。

 そして、再びの冬。

 5つめの季節と呼びたくなる。同じ冬は二度とないと感じるからだ。昨年の冬は恐ろしいまでの積雪量だった。想像を超えていた。道路は除雪されていたが、道の端には雪の壁ができていて、どこまで進んでも雪、また雪だった。世界は美しかった。

 一年前に決めたことがある。翌年の冬、写真を撮るために必ず再訪しようというものだ。もちろん理由があって、それは山のかたちに深く繋がる。

 南会津の山の特徴は、平地から急に始まることだ。山深い部分はもちろんあるのだが、人が多く暮らす地から見える山々は唐突に、それもかなりの角度をもって立ちはだかっている。そこに強く惹かれた。
 
 妙な理由だとは自覚している。地元の方は別として、旅で訪れる者にとってその形状は、直接の関わりがないだけに本来、重要ではないだろう。ただ、私にとってはそれが魅力となった。

 6、7年ほど前から生まれ育った長野県諏訪地方で冬の山を撮ることを続けている。冬だけに限って撮影するのは、葉が落ちた山々を撮りたいからだ。シノゴと呼ばれる大型カメラを駆使し、モノクロフィルムによって雪に覆われた雪の山を撮影する。初期は藪などを中心に撮影した。写真展を一度開催して一段落すると、次は山の斜面全体を広く撮ることにした。しかし、なかなか思うようにはいなかった。困難を極めた。なかば諦めかけていたといってもいい。

 うまくいかなかった理由のひとつは山のかたちにある。諏訪では平地から突然山が始まることがないからだ。八ヶ岳の裾野や南アルプス山系の端の山々を被写体としたのだが、山が深すぎて視界が開けず、山の斜面を撮るには反対側の山の斜面からカメラを向ける必要があるのだが、そんな場所は本当に限られているし、自分が立っている斜面の木の幹や枝などが邪魔をして反対側の斜面がクリアに撮れないことも多い。さらにカメラが大きいので操作に時間がかかる、レンズの長さが足りない、といったハードルが立ちはだかっていた。

 そんな時、思いがけず南会津の山々に出会った。里から山肌を撮りやすい。それに雪も多い。行き詰まっていた撮影が打開される確信を得た。

 まず丸3日間を山の撮影だけにあてた。おおよそのあたりをつけて、ほうぼうを車で走った。よさそうなところがあると車を降り、歩いて撮影する。途中で吹雪かれ、人生で初めてホワイトアウトを経験することにもなった。

 最も目星をつけていたのは国道352号線に架かる銀竜橋の上。大きなカーブとなっている。春、夏、秋、どの季節もここからの眺めに惹かれた。

 冬の日は短い。

 暮れると同時に撮影は終わる。

 そこからの楽しみはお酒を飲むことへ緩やかにスライドする。地方ロケに行った時、私は特別な理由がない限り必ずお酒を飲む。それを趣味としている。カメラは携えない。純粋にその地のお酒や料理を楽しみたいからだ。

 外は凍えるほどに冷えて雪が降っているけれど、自分のまわりはほっこりと穏やかに暖かい。雪で作られたカマクラを連想する。外は寒いけど、なかは暖かい。寒暖のコントラスト。反転。そんな空間が好きだ。心底、幸福な気持ちに包まれる。

 秋に初めて訪れた「Bar & Dining CAUDALIE」へ再び向かう。

 “季節のジントニック”。
 以前、訪れた時にうかがった、午後に新しい靴を下ろす際は鍋ブタに靴をつけるという話をまた聞く。場所が変わると微妙にそれが変わる話も重ねて。鍋ブタではなく、鍋底につける場所もあるという。

 さらに雪の量や除雪といったことについて。時々、まったく知らない国の話を聞いているような気持ちになる。

 私はいったん東京へ戻り、10日後にまた南会津へ向かった。雪の季節は限られている。当然ながら、雪の山は冬にしか撮れない。だからできるだけ撮りためておきたい。10日前より雪が少なくなっていた。あれ以来、雪は降っていないようだ。昨年と比べると相当に少ない。

 南会津を代表する酒蔵のひとつ、『会津酒造』へ向かう。ここもまた一年前に訪れていて、二度目の訪問となる。

 玄関の軒下、頭上に巨大な杉玉。一年前にカメラを向けたことを思い出す。記憶がよみがえる。あの時は青々としていた。いまは青くはない。茶色く染まったそれ。またカメラに収める。

 玄関を開けると土間が広がっていて、奥に座敷が見える。やはり一年前に訪れときと同じだ、なにもかも。

 あたかも時を止めたかのように映る。建物は100年余り前に再建されたものだという。それ以前の建物は火災で焼失したらしい。酒蔵自体は元禄年間に創業され、およそ330年の歴史を持つ。

 9代目の弟にあたる渡部裕高さんにお話をうかがった。この地で生まれ育った裕高さんは東京で5、6年のあいだ別の仕事をしていたのだが、数年前に戻り家業を手伝っている。
「水はとても大切です」

 その言葉を何度も口にした。
「日本酒のほとんどは水なんですよ」

 例えばワインは水を一切加えずに果汁だけで作るのに対して、日本酒は水の度合いがかなり高いという意味からだ。
「このあたりの水は全国でトップテンに入るくらいの超軟水です。ミネラルなどの不純物がほとんど入っていません」

 軟水でお酒を作ると、どんな味になるのですか?
「口に含むと、舌に溶け込んでくる感じ……といいましょうか」

 水は地下40メートルから汲み上げている。その水を飲んでみたいと思った。お酒ではなく、まずは水を。
「どうぞ、こちらへ」

 建物のすぐ外に蛇口があった。酒造りに使っているのと同じ地下水だという。口に含んでみた。

 ふわっ、つるっ。

 最初に抱いた感覚だ。
「この水があったから、ご先祖さまはここで酒造りを始めたのだと思います」
 なるほど、そういうことか。水が始まりなのだ。水が不動不死であることに気がつく。

 天井に近い柱の部分に神棚みたいなものが見えた。かなり古いものだろう。昨年来たときも見上げた記憶がある。
「あれはなんですか?」
「さあ、なんでしょう?」

 意外な答え。
「全然わからない……いじったことも気に留めたこともなかったです。なんなんですかね」

 そう言って笑った。

 よく見ると、神棚に収められた紙に「水」と書かれているのがわかった。

 柱のすぐ下には井戸がある。建物を再建する以前から井戸の場所は変わっていないという。井戸には現在は蓋がされているが、いまでも水をたたえているはずだ。「水」という文字は井戸と何かしらの関係があるのかもしれない。
 変わらないこと、変えないことに価値の重きを置く。おそらく一年後、またここを訪れても、杉玉の色以外何一つ変わっていないはずだ。
「ご先祖様のおかげです」

 この言葉を、何度も耳にしたのが印象的だった。

 写真を撮るうえで、大切なことはいくつかある。そのひとつは撮影以前に仕上がりのイメージを明確にもてるかどうか。冬の山を撮るときのそれは、白と黒が反転した世界を表現したい、というもの。

 次の晩は「Taproom Beer Fridge」へ向かう。

 このお店を訪れるのは桜の季節以来のことだ。あのとき昼間は日差しも強く、かなり暖かかったのだが、日が暮れると急に気温が下がった。随分と遠い昔のことに思えるのは、冬の景色がそう思わせるのだろうか。妙に懐かしく感じられる。

 最初に“モモ”という、福島県・梁川で採れた桃を使ったクラフトビールをいただく。私は梁川という言葉に反応した。実は昨年、一昨年とその地へ自主映画を撮影するために何度も通っていて、桃畑で桃の花も撮影したことがあるからだ。桃畑を撮影したのは、確か5月半ばだっただろうか……。記憶を手繰りよせる。

 オーナーの関根健裕さんは偶然にも、昼間訪れた会津酒造の裕高さんが小学生の頃の剣道教室の先生だったという。
「相当シゴキましたよ。だからあの頃、教えた子たちは今でもオレのこと、そうとう怖がっているんじゃないかなぁ(笑)」

 私は幼い頃から冬の山が気になってしかたがなかった。360度、それに囲まれて育ったからだが、見たいような見たくないような、冬の山を前にすると相反する感情がふつふつと湧いてくる。

 足のつま先にできた霜焼けがコタツの中で暖かくなると、かゆくなってゆく感じに似ている。心地よさと、うっとうしさが同居しているような感覚。それが私にとっての原風景ともいえる。

 東京で暮らすようになっても、冬の山をときどき思い出す。厳しい季節の記憶だからこそ、深いところに刻まれているのだろう。南会津の風景も似ている。だから親しみを覚える。

 白と黒。ネガとポジ。

 山を撮ることでそれを表現できるのか。少なくとも、みっつの条件が同時にそろわなくてはならない。
——落葉樹の葉がすべて落ち、山肌が露わになること。
——山肌に雪が残っていること。
——木の幹や枝に積もった雪は落ちていること。

 最後の夜はピザが食べられる「アルフィー」へ向かった。昭和59年にオープンし、34年がたつという。店内に入って驚いた。昭和で時が止まっているかのようだったからだ。古い雑誌が置かれ、さまざまなポスターが貼られている。地元のお祭りのものも、女優さんが写ったお酒のポスターもある。

 心地よい。遠い日のFM放送が流れているからだ。

 どうやらNHKのそれらしい。カセットテープに録音したものを店内で流しているようだ。
「2月18日……テンプテーションズ……」

 MCの声がささやく。もちろん今日は2月18日ではない。何年前のその日なのか……。

 しばらくして『CAFE JI*MAMA』のマスター五十嵐大輔さんもやってきた。私は五十嵐さんにも地元に伝わる風習について聞いてみたくなる。酒に酔うと、どうしてもその傾向がある。
「12月12日に『十二月十二日』と書かれた紙を、子供たちが家々をまわって配ります」

 ハロウィンでお菓子をもらいに、各家を回る感覚に近いのだろうか。
「ここ田島では大きな火事が過去に二度ありました。ひとつは約100年前……」

 会津酒造で耳にした、以前の建物が約100年前に焼失したという話が、こんなところでつながってゆく。
「もう一回は昭和に入ってからです」

 その二度の火事により会津田島の街並みは焼け落ち、かつての姿をほとんど留めていないという。
「だから火事に敏感なんだと思います。冬の始まりに用心のために『十二月十二日』と書いた紙を配るようになったのだと思います」

 正確な起源はわからないようだ。
「この紙を上下逆にひっくり返して、台所に貼ります」

 ひっくり返す?
「どうしてかわかりますか?」

 まったく想像がつかない。
「逆から読むとヒ・ニ・トウ・ク・ツキ・ニ・クイと読めるからです。最後の“クイ”は十の文字の形を杭に見立てたものですね」

 なるほど。ちょっと感動した。畏れとともにユーモアを感じさせる。

 お酒を飲みながら、こんな話を聞く時間が私はやはり好きだ。いまを生きる人を通して、遠い過去に生きた人たちの意思や感情に触れることができるからだ。そして雪の山に囲まれた南会津は、そんな話を聞くのにうってつけの土地なのだ。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。写真家・作家。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。