北国の暮らしに寄り添う家は、複雑なパズルを解いたその先に。[TSUGARU Le Bon Marché・蟻塚学建築設計事務所/青森県弘前市]

物静かで落ち着いた印象の蟻塚氏だが、実は野球部出身の体育会系。高校では「ひろさきマーケット」代表・高橋氏とチームメート。その縁で、高橋氏の店の設計を多く手掛ける。

蟻塚学建築設計事務所津軽から南へ。カープ好きの少年は広島を目指す。

津軽から南へ。カープ好きの少年は広島を目指す。
日本有数の豪雪地、津軽。厳しい気候条件の中、人々の生活を包み、守るのが住宅です。北国ならではの工夫が建築物にも求められるここ津軽で、地元に根差し活躍する弘前出身の若手建築家がいます。『蟻塚学建築設計事務所』代表・蟻塚 学氏。2012年に日本建築家協会による「JIA東北住宅大賞」を受賞した個人邸「冬日の家」と、2016年に再び同賞を受賞した「地平の家」は、建築専門誌にも取り上げられ注目を集めました。

蟻塚氏が建築家を志したのは、意外にも早く小学生の時。といっても、「自宅の改修に来た大工さんが高倉 健さんのような人で。寡黙で男らしい仕事ぶりに、格好良い!と痺れちゃって」という無邪気な憧れからでした。高校で進路を決める際は、なんと大好きな広島カープの地元という理由で、広島大学へ。「このあたりから建築学部へ進むとしたら、普通は北海道大学か東北大学の工学部。だから推薦枠も空いていたんです」と蟻塚氏。一見物静かで生まじめな印象だった蟻塚氏ですが、どうやら思っていたより情熱的。そういえば津軽弁には「やってまれ」(標準語で「やってしまえ」)という言葉があるそうですが、これが「やってまれ精神」なのでしょうか。

しかし「行っちゃえ! 広島」の勢いでやって来たカープの街は、実は建築家の街でもあったそうです。「建築学科のある大学が6つもあって、巨匠のような建築家も多いんです。個人のお客さんでも、若手に頼みたいという人がいっぱいいて、独立したばかりの建築家が活躍できる土壌がある。運が良かったと思います」と語る蟻塚氏も早くから独立を見越し、広島の建築設計事務所へ入所。晴れて6年後に独立を果たします。が、せっかく条件のいい広島にいるにも関わらず、「でも」と話す蟻塚氏。「広島に住み始めた時から、ずっと地元・弘前に帰りたいと思っていました」と続けます。

▶詳しくは、TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

書類を送る際の封筒や図面の端にちょこんと押されるアリのマーク。ふと和んでしまうこんな遊び心に、蟻塚氏の人柄が滲む。

事務所の外壁を見ると、様々な素材が使われているのがわかる。「実験住宅」と命名されたこの場所では、名前どおり、建材などの実証実験を行って提案に生かしている。(Photo by Akira Misawa)

蟻塚学建築設計事務所各地を回ってようやく気付いた、地元・弘前の心地よさ。

弘前には仕事がないだろうし、帰らない方がいい。一度東京に行ってみたらどうか。多くの人からのそんな助言があっても、蟻塚氏がUターンを決めた理由。それは、離れてみて初めて気付いた地元・弘前の心地よさでした。「学生時代、日本各地や海外に行って様々な街を見た時、弘前は全然負けてない、むしろいいじゃないかと思えたんです。コンパクトで趣きがあって、ここにしかない文化もある。一方で商店街が寂れてきたと聞いてさみしい気持ちもありました。『仕事は何とかなるだろう』と、心地よさという自分の感覚を優先したんです」と蟻塚氏。「やってまれ精神」、再び。弘前へ戻ったのは2008年、28歳の時でした。

当初、仕事は閑古鳥が鳴く状態だったそうですが、蟻塚氏は徐々に「地域の中の建築家の在り方」について考え始めます。例えば、地元のNPO法人が主導した駅舎のプロジェクト。田んぼのど真ん中、りんご畑と岩木山を望む場所にある弘南鉄道の無人駅・柏農(はくのう)高校前駅を、地元の人々と一緒に綺麗にするという内容でした。「このあたりの人には当たり前だけど、他にはなかなかない素晴らしいロケーション。『蟻塚くん、設計やってるの? じゃあ、塗装の色選べるの?』という感じで依頼されて(笑)、すごくローカルでお金にもならないけれど、みんなで一緒に場所を作っていくのが本当に楽しかったんです」と蟻塚氏は話します。

それまで広島でやってきたのは、「クライアントに自分の作品を売り込む」仕事。津軽に戻った蟻塚氏は、駅舎のプロジェクトなどを経て、地方で生きる建築家として違うアプローチがあるのではと気付き始めたといいます。

天井に壁紙を貼り、壁を塗り替えた。収益のないボランティア活動だったが、ローカルコミュニティの中で建築家が担う役割について教えられたと蟻塚氏。

天井に壁紙を貼り、壁を塗り替えた。収益のないボランティア活動だったが、ローカルコミュニティの中で建築家が担う役割について教えられたと蟻塚氏。

蟻塚学建築設計事務所デメリットがメリットになる。行きついた北国ならではの形。

転機が訪れたのは、前述の「冬日の家」を設計した時のこと。それまでの営業スタイルとは違う、「作品を売り込まない」設計に挑戦したのがこの物件です。「クライアントの説得のため、わりと嘘というか、大げさにメリットを伝えがちなのがずっとジレンマで。クライアントの言うことを全部聞いたらストレスがないんじゃないかと思ったら、本当にストレスがなくなったんですよ。条件を全部クリアした上で格好良いものを作ろうとしたら、すごく感動してもらえて。賞を受賞して雑誌に載るなど評価も頂き、あの物件を境に世界が変わりました」と蟻塚氏。

寒さや雪といった北国の気候条件に挑戦したのが「冬日の家」。施主の希望を踏まえた上で蟻塚氏が提案したのは、大きなガラス窓が印象的な平屋でした。熱を逃がしてしまうため、通常北国ではデメリットとされる大窓。しかし蟻塚氏は「広島ではいくつもガラス張りの建物を作っていたのに、こっちだと避けられるのが悔しくて」と、建物の南面に二重のガラスで遮ったサンルームを設けることで問題を解消します。冬は採暖だけでなく、洗濯物の物干し場や、ふっとひと息つくためのリビングに。夏は開け放てば通風口に。デメリットをメリットに転換させたアイデアであるサンルームは、蟻塚氏の代名詞となりました。

大きな窓はまた、津軽の四季の美しさを家の中まで届けてくれる存在でもあります。しんしんと雪が降る事務所の外の景色を眺めながら、蟻塚氏は「暗いイメージの雪国ですが、実際は光が雪に反射して明るいでしょう? 一番暗いのは12月、雪が降る前。でも降った途端周囲がすごく明るくなる、そんな劇的な空間の変わり方も、津軽らしくていいなと思うんです」と話しました。

ちょうど右端の寝室部分。サンルームの機能も採用当初に比べ多様化し、向上しつつあるそう。(Photo by 阿野太一)

「冬日の家」内部。サンルーム部分のガラス窓を開けると、リビングがそのまま庭側へ拡張され、開放感のある子供の遊び場となる。(Photo by 阿野太一)

その後、多くの物件でサンルームを取り入れている蟻塚氏。この模型で示すと、ちょうど右端の寝室部分。サンルームの機能も採用当初に比べ多様化し、向上しつつあるそう。

蟻塚学建築設計事務所名実ともに津軽に根差す、若手建築家のこれから。

北国における建築の制約は、特殊な気候条件のみならず。全国的に見ても所得額が低い青森県では、コストを抑えることも大きなテーマです。「そこはもう工夫するしかなくて。でも制約がある分、経験値は上がります。すごく複雑なパズルを解いているようで、楽しさもあるんです」と蟻塚氏。色々な物件を手がけてパズルの攻略を続けるうち、やはり自分は津軽の建築家だという意識が強くなったそうです。

蟻塚氏が故郷・津軽を最も強く感じた物件は、2014年に「グッドデザイン賞」も受賞した、りんご畑に佇む「弘前シードル工房 kimori」。蟻塚氏曰く「やっぱり、りんごは津軽の象徴ですから。青森に帰る前から、りんご畑というロケーションで何かやりたいと思っていました」。ちなみに、「弘前シードル工房 kimori」内に置かれたテーブルやスツールは、蟻塚氏が弘前市内のアート関連のNPO法人を通じて知り合った、家具工房「Easy Living」代表・葛西康人氏に依頼したもの。更に最近では、りんご木箱のメーカー「キープレイス」代表・姥澤 大氏、葛西氏との3名で、木箱を再活用する家具プロジェクト「又幸」を始めるなど、津軽エリアに根差した活動を精力的に続けます。

目下の大仕事は、津軽の海の顔となる大型の建築物。青森港新中央ふ頭に完成予定のクルーズ船ターミナルです。「この規模を手がけるのは初めて。ボロボロになりながらやっています」と笑う蟻塚氏ですが、故郷に帰って丸10年、蟻塚氏の存在は既に、地域の若きキーパーソンのひとりとして知られているようにも思えます。「青森に限らず、色んな場所の仕事をしていきたい」と語る蟻塚氏。でもきっと、津軽が蟻塚氏を放っておかないはず。日本や世界が注目する名建築が、この地に誕生する日も近いかもしれません。

弘前シードル工房 kimori」。代表・高橋哲史氏のことを「すごく想いが強い人」と表現する蟻塚氏。その想いに寄り添うような包容力を持つ建築を造り上げた。

雪の降る中庭を事務所内から眺めて。蟻塚氏に言われ、津軽の雪景色は明るいことに改めて気付く。大きなガラス窓が、四季の移ろいを屋内に届ける役目を果たしている。

住所:青森県弘前市南城西2丁目1-9 MAP
電話:0172-88-5620
蟻塚学建築設計事務所 HP:http://www.aritsuka.com/