海のない街・奈良の盆地で続いてきた貝ボタン作りの軌跡。[トモイ/奈良県磯城郡川西町]

『トモイ』の3代目を担っている伴井比呂志氏。

トモイ

奈良県北部、奈良盆地のほぼ中央に位置する磯城郡川西町。ここに、国内シェア約50%を誇る、日本有数の貝ボタンメーカー『トモイ』の工場があります。後編では、貝ボタンとともに発展してきた街の歴史と『トモイ』の歩みをたどり、更なる展望に迫ります。

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見渡す限りのどかな田園風景が広がる川西町。

トモイ豊かな自然と歴史文化に抱かれた、貝ボタンの街・川西町。

豊かな自然が残る奈良県北部の街、磯城郡川西町。盆地らしく、周囲を山に囲まれた平坦な土地に田畑が広がり、所々に集落や工場が見られます。また、立派な前方後円墳の『島の山古墳』をはじめ、千年以上の歴史を誇る『糸井神社』や『比売久波(ひめくわ)神社』など、歴史遺産も多く残っています。

一方、古くから貝殻を原料としたボタン作りが盛んに行われ、「貝ボタンの街」の異名も持つ同町。ですが、奈良は四方を他県に囲まれた、いわゆる海なし県です。にも関わらず、なぜこの街で貝ボタンが作られるようになったのでしょうか。それには、海ではなく川の存在が重要な鍵となりました。

『トモイ』のすぐそばにある巨大な『島の山古墳』。

古墳の隣には歴史ある『比売久波神社』が。

トモイ川の流れに乗ってもたらされ、瞬く間に製造の一大拠点に。

川西町にはその名のとおり、昔から大きな川が5つも流れています。そのため、舟運が主流だった時代には、大阪と結ぶ集散地として発展。様々なものが船で運ばれてきたその中に、貝ボタンもあったのです。

貝ボタンの製造技術は、明治時代半ばの1887年頃にドイツから兵庫県神戸市へと伝来。その後、1897年頃には大阪府の河内地方へ。更に、1905年頃には奈良県の川西町まで伝わったとされています。当時から原料の貝は南太平洋から輸入されていたため、製造場所が海沿いであるかどうかは問題ではありませんでした。

ちょうどこの頃、川西町では木綿織物や養蚕業が衰退し、農家では綿加工業が苦境に立たされていました。そのため、副業として貝ボタン製造が始められることに。以降、町内の人々が続々と参画し、大正時代初めの1914年には業者数50戸にまで拡大しました。

その後、昭和になっても繁栄を続け、最盛期を迎えたのは1945年頃から1955年頃にかけて。「昭和20年~30年代は、このあたりの400世帯のうち、300世帯は貝ボタン関連の仕事をしていました。当時は、ぬき屋、擦り屋、穴あけ屋、磨き屋などボタン作りは分業で、それぞれの工房があちらこちらにあったんです。まるで、町全体が工場のようでした」と『トモイ』代表取締役社長の伴井比呂志氏は振り返ります。

当時から原料は、南太平洋で育った貝が使われていた。

町内を流れる川で最も大きな一級河川『大和川』。

トモイ他を圧倒する独自の取り組みで活路を開いた『トモイ』の歴史。

『トモイ』の創業は、大正時代初めの1913年。初代は伴井氏の祖父で、貝殻からボタン生地をくり抜くぬき屋として商いを始めました。その後、川西町全体の発展とともに、『トモイ』も事業を拡大。やがて、貝ボタン製造の全工程を、一貫して自社工場で行うまでになりました。

更に、2代目である伴井氏の父は、新たな技術も導入。ボタンに様々な文字や模様を施せるNC彫刻機を考案しました。滑らかな仕上がりが特徴のこの機械は、約30年前に導入した最新式のレーザー彫刻機と併用しつつ、今も現役で活躍中。「速くて正確なレーザー彫刻機が主流ではありますが、ボタン全体を彫り込むようなデザインの場合や、レーザー彫刻機だと焦げてしまうような材質のボタンを彫る場合は、NC彫刻機を使います。やはり、仕上がりの際の独特の滑らかさは、この機械ならではだと好評です」と伴井氏は話します。

また、2代目は新たな販路も開拓。創業当時、貝ボタンは真珠と並ぶ輸出品のひとつとして、安定した売り上げを誇っていました。しかし、更なる成長のためには国内で販路を開拓する必要があると考え、奈良の工場を初代である祖父に任せると、幼かった伴井氏を連れて一家で上京。寝る間も惜しんで働いた結果、一気に受注量が増えたといいます。更に高度経済成長期の追い風もあり、東京から奈良に戻って以降、従業員は70名を数えるまでになりました。

川西町全体で見ると、貝ボタン生産は1955年頃をピークに、徐々に縮小。特に1965年頃からは、安価で大量生産可能なポリエステル製のボタンが本格的に流通し始めて急速に衰退し、最終的には数軒しか貝ボタンの業者は残りませんでした。『トモイ』はその中の貴重な1軒。他に類を見ない製造規模と、創業当時からこだわっている確かな品質、更に新たな技術で生み出すバラエティ豊かなラインナップを武器に、独自に成長を遂げた結果です。
 

100余年にわたり貝ボタン製造を続ける『トモイ』。

本社工場内には、製造途中のボタンが山のように。

短時間で正確に彫ることができるレーザー彫刻機。

滑らかな仕上がりが特徴的な、2代目考案のNC彫刻機。

トモイ本場イタリアの技術や感性を持ち込むことで、更なる発展を実現。

『トモイ』の3代目である伴井氏は、1961年生まれ。幼い頃から両親の背中を見て育ち、早い段階から後継ぎとしての自覚があったといいます。ビジネス系の専門学校で経理を学んだ後は、製造技術習得のために、貝ボタン発祥の地であるヨーロッパへ留学。修業先は、ボタンメーカーが数多くあるイタリア・ベルガモの中でも、世界的メーカーである『ボネッティ』社です。ここで、本場の職人技を1年かけて学びました。

例えば、伴井氏が持ち帰った技術のひとつが、艶出しの方法。『テッポウ』と呼ばれる木桶の中にボタンと熱湯を入れ、薬品を少しずつ点滴のように垂らしながら、約1時間回転させるという手法です。伴井氏曰く、「以前は、10分程度の短時間で済ませていた作業。悪く言えば、薬品でごまかしていたようなところもあったと思うんです。でも、これを1時間かけてじっくり行うと、貝が持つ本来の艶を引き出すことができる。木桶を使うというのもポイントで、木なら錆びないですし、ボタンに傷がつきにくいという利点があります」。

また、細かい点では、ボタン生地に穴を開ける『窄孔(さっこう)』に用いる針の研ぎ方ひとつにも違いがあったのだとか。本場の職人からその技を習得した伴井氏は、『トモイ』の製造工場でも生かすことで、より高品質で多種類の貝ボタンを製造できるようになりました。更に、日本にはない多彩なデザインに触れられたことも、大きな学びになったといいます。

その後、1994年に伴井氏は3代目に就任。歴史を受け継ぎ、更に発展させることで、国内シェア約50%を誇る、日本有数の貝ボタンメーカーへと『トモイ』を押し上げました。

丁寧に研がれた針で正確に穴を開ける『窄孔』作業。

工場の片隅には、艶出し用の大きな木樽が置かれている。

艶出し後は、ロウを付着させた籾で磨きをかける。

丁寧な艶出しと磨きで、手触りの良いボタンが完成。

イタリアでは多様なデザインを知り感性も磨かれた。

トモイ貝ボタンの魅力を大切に、更に研ぎ澄ませ広めていくために。

貝ボタン作りに携わって25年。改めて伴井氏に貝ボタンの魅力を聞くと「やはり天然素材である貝ならではの深い輝き、滑らかな手触りは格別ですね。また、ポリエステル製のボタンは軽いですが、貝ボタンは適度に重さがある。そのため、例えばシャツの一番上のボタンを外して着ても、ボタンの重さで襟元に自然と美しいカーブが生まれる。それも、貝ボタンならではだと思います」と笑顔で話します。

そして近年は、国内はもとより、海外へと販路を拡大している伴井氏。「特にイタリアとの取引を拡大中です。修業時代にも感じたことなのですが、やはりイタリアの方々はセンスが磨かれているので、きちんと上質な貝ボタンを求めてうちに声をかけてくださいますし、どんどん新しいデザインのオーダーを頂くのも刺激的なんです」と話す伴井氏。「デザインファーストというか。例えば、日本の場合は縫製のしやすさを重視してボタン穴を大きくするよう依頼されることがあるのに対して、イタリアの場合はあくまでデザイン重視。そんな違いも勉強になります」と続けます。

より高いレベルを求める相手と向き合い、丁寧な仕事をしながら斬新なデザインにも果敢に挑戦することで、自らの幅を広げている『トモイ』。今度は逆に日本でもその姿勢を貫くことで、国内市場がもっと盛り上がれば……。そう考える伴井氏は、貝ボタンの更なる未来を見据えています。

1913年創業、奈良県磯城郡川西町に本社工場を構える貝ボタンメーカー『トモイ』の3代目。ビジネス系専門学校卒業後、単身イタリアへ留学。ボタン機器の世界的メーカー『ボネッティ』社で貝ボタンの製造工程を学んで帰国し、1994年より『トモイ』の代表取締役社長に就任。確かな品質と技術、高いデザイン性を誇る日本随一の貝ボタンメーカーとして、国内はもとより、海外の名ブランドからもオーダーが絶えない。

住所:〒636-0204 奈良県磯城郡川西町唐院201 MAP
電話:0745-44-0066
トモイ HP:https://www.shellbuttons-tomoi.jp/