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「輪島塗」に新たな風を吹き込むプロジェクト 『DESIGNING OUT Vol.2』が始動。[DESIGNING OUT Vol.2/石川県輪島市]
デザイニングアウト Vol.2世界的建築家の隈 研吾氏を迎え、『DESIGNING OUT Vol.2』始動。
地場産業や伝統工芸など、プロダクト(モノ)に焦点を当てることで、地域の「価値」を再発見する、『ONESTORY』と雑誌『Discover Japan』の共同プロジェクト『DESIGNING OUT』。日本に眠る伝統的なデザインに最先端のクリエイションを加え、新しいプロダクトを開発、発信していきます。
Vol.1のクリエイターには日本の伝統工芸に新しい価値を加えて世の中に発信し続ける『丸若屋』代表の丸若裕俊氏を迎え、創業400年という有田焼の歴史とその起源を回顧し、有田、伊万里、唐津の3地域より、13名の窯元・作家とともに12のスペシャルな器をつくり上げ『DINING OUT ARITA& with LEXUS』にて発表しました。
そして、満を持して迎えたVol.2の伝統工芸は、国指定重要無形文化財の「輪島塗」です。クリエイターには世界的な建築家である隈 研吾氏を迎え、「輪島塗」に新たな風を吹き込むモノづくり『DESIGNING OUT Vol.2』をスタート。『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』にてお披露目致します。
今回は、1944年の設立以来、輪島塗の啓もう活動や販売窓口を担ってきた「輪島漆器商工業協同組合」を訪ね、輪島塗の歴史を紐解きながら、輪島塗の特徴や現代の課題、『DESIGNING OUT Vol.2』への期待を伺ってきました。
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デザイニングアウト Vol.2輪島塗の強さの秘訣は、門外不出の「地の粉」。
日本海の中央に大きく突き出した能登半島の突端に位置する石川県輪島市は、県都・金沢から車で約2時間かかる人口約3万人の小さな町です。東京からも大阪からも決して近いとはいえない場所ですが、漆器「輪島塗」の産地として、多くの人にその名を知られています。いったいなぜなのでしょうか。
「この“遠さ”が輪島塗の繁栄に一役買ったのです。遠いがゆえに競争力をつけるため、“丈夫である”という他産地との差別化を図るようになったのです」。輪島漆器商工業協同組合理事長の日南尚之氏はこう説明します。
輪島塗の包み紙には、「大極上 布着せ 本堅地」と判が捺されています。これは、丈夫な品質の保証表示のようなものです。輪島塗の堅牢さの理由は、いくつかありますが、まずは上質な漆を惜しみなく多量に使うこと。塗っては研ぎ、研いでは塗りの繰り返しによって、艶やかで丈夫な肌になります。また、「布着せ」とは、椀の縁や高台などの木地が薄く、割れやすい部分や箱の継ぎ目などに漆で布を貼って補強する技術です。これも輪島塗のうつわの強さの秘訣です。
「もっとも大事なのは、輪島の“地の粉”と呼ばれる特殊な土を漆に混ぜて、下地塗りに使うことです」と日南氏。続けて「江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に、輪島で“地の粉”を使うという技術が生まれました。地の粉とは、輪島で採れる珪藻土のことなのですが、これを焼いて粉砕し、漆に混ぜて下地を作ります。粉砕の粒子の大きさによって一辺地粉、二辺地粉、三辺地粉と呼びますが、これらを数回塗り重ねることで強さを出します。珪藻土は、日本全国にありますが、不思議なことに輪島の珪藻土でなければ、輪島塗の強さと緻密さは生まれないのです。輪島地の粉は、輪島塗の丈夫さと優美さの秘訣ですので、現在でも、輪島の職人しか使うことができませんし、輪島から持ち出すことはできません」。
こうして江戸時代にその技術が確立した輪島塗は、「塗師屋」と呼ばれる企画デザインや販売を担う専門職の行商によって、地方の豪商や網元、旅館、料理屋などを中心に全国に広がっていったのです。
デザイニングアウト Vol.2街全体が工房のように結びつく分業システム。
日南氏は、「もう一つ、忘れてはならない輪島塗の大きな特色は、高度に専門化した分業システムにあります」と言います。
商品が出来上がるまでに100以上の工程があると言われている輪島塗は、製造工程ごとに専門の職人がいます。「塗師屋」がある商品を作ろうとすると、まずは「木地師」に木地の制作を依頼します。できあがった木地は、「下地塗」や「研ぎ」「上塗り」などの塗り・研ぎを専門とする職人によって塗り上げられ、さらに「沈金師」「蒔絵師」などの職人の手によって加飾がほどこされ、完成品として塗師屋の元に届けられます。つまり、職人たちの手から手へと製品が渡り、まるで輪島の街全体がひとつの工房のように結びついているわけです。
「工程を細分化することで、それぞれの作業の精度が高まり、職人の腕も磨かれていきます。職人たちは、前後の工程を担当する職人の仕事に敬意をこめ、自分の仕事を完成させます。こうした輪島の分業システムは、江戸時代後期には出来上がっていたそうです。かつては、『椀木地』『指物木地』『曲物木地』『塗師』『蒔絵』『沈金』の6職種を“輪島六職”と呼んでいましたが、現在はさらに細分化が進んでいます」と日南氏。
江戸時代から変わらない分業システムは、現代においては一見、非効率のようにも思えます。しかし、お客さんの注文によるオーダーメイドや、「なおしもん」(修理)をして長く使い続ける輪島塗の技術は、それぞれの工程にたずさわる職人が、長年にわたって試行錯誤を繰り返していまに伝えてきたものです。この技術力こそが、他の産地の追随を許さない名漆器「輪島塗」を生み出したのでしょう。
デザイニングアウト Vol.2輪島塗だからこそできる「新しい漆器」づくり。
海外で「ジャパン」とも呼ばれ、日本を代表する伝統工芸品の漆器。なかでも、全国の漆器産地で初の国の重要無形文化財の指定を受けた輪島塗は、間違いなく日本の漆器のトップランナーです。それは「通常、御用聞きは家の裏口にまわるが、輪島の塗師屋は表玄関から招かれた」などの逸話があることからもよくわかります。
そんな輪島塗ですが、日本人の生活様式の変化や食の西洋化などに伴って、生産額や職人数の減少が課題となっているのも事実です。輪島漆器商工業協同組合・輪島塗会館の事務局長の隅 堅正氏は「輪島塗の生産額の推計は、1991年の年間180億円をピークに年々減り続けていて、2018年は38億円まで落ち込んでいます。輪島塗にかかわる職人などの数も、ピーク時の半分以下になっています」と言います。
求められる商品にも変化があるそうです。バブル期までは、絢爛豪華な蒔絵を施した商品がよく売れていましたが、90年代半ばからは無地やシンプルなデザインが好まれる傾向にあります。また、私たちの食生活も変わり、椀や重箱だけでなく皿やワイングラスといった食器も求められるようになってきました。
「塗師屋は、行商のなかで流行やスタイルを探っていきます。一見、世間話のようなお客様との話が、お客様の好みを知り、世の中の動きを知る手立てなのです。これが、輪島は全国のみなさんの情報や教育で成り立っていると言われるゆえんです」。
こう話すのは、輪島漆器商工業協同組合理事の中室耕二郎氏。中室氏は、今回の『DESIGNING OUT Vol.2』で、クリエイターの隈 研吾氏と輪島の職人たちのコーディネーター役を担っています。また、1813年創業の「輪島屋善仁」の9代目で、1年の約半分は輪島の地を離れ、全国を行商してまわる昔ながらの「塗師屋」でもあります。
かつて輪島の塗師屋は、分業システムによって作り上げた輪島塗を背中に、全国の客先を一軒一軒訪ねて商売をする行商制度を守っていました。塗師屋ごとに決められた担当地域をまわり、客先でじっくりと話し合って注文を受け、納得してもらえる高品質の漆器を納める――。こうした行商先で出会う情報や客の厳しい目によって、輪島の塗師文化が栄え、輪島塗の技術が磨かれてきたわけです。
中室氏は「江戸時代から塗師屋は、外の風を輪島に引き込む役割を担ってきました。今回、隈 研吾さんという外部のクリエイターとともにモノづくりをすることは、輪島に新しい風をとりいれることです。職人たちが新しい風を感じながら、それぞれの技を駆使する素晴らしいプロジェクトになると期待しています」と話します。
『DESIGNING OUT Vol.2』のプロダクトの全貌は、まだ明らかになっていませんが、理事長の日南氏は「これまでの輪島塗にはない“新製品”が出来上がる予定です。ほかの産地では不可能な、輪島塗だからこそできるデザインになると思います」と笑顔で話します。
1954年生。東京大学建築学科大学院修了。1990年隈研吾建築都市設計事務所設立。現在、東京大学教授。1964年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。大学では、原広司、内田祥哉に師事し、大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を横断し、集落の調査を行い、集落の美と力にめざめる。コロンビア大学客員研究員を経て、1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。これまで20か国を超す国々で建築を設計し、日本建築学会賞、フィンランドより国際木の建築賞、イタリアより国際石の建築賞、他、国内外で様々な賞を受けている。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案している。また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。