見てくれなきゃイタズラしちゃうぞ~

 

 

 

 

 

 

こんにちは紅葉

 

 

 

9月に入り一気に涼しくなり、

あぁー、夏が終わったなー

なんて思っていた矢先・・・

連日猛暑が続いており

毎日汗だくな私です(涙)

 

 

 

 

 

ですが、9月は9月!

暑いけど9月!

 

ということで

モニュメントをハロウィン仕様

へ~んしんっハロウィンおばけ!!!

 

 

 

 

 

 

可愛いハロウィンカラーの水玉の前で

こんな感じ↓↓↓の楽しい1枚撮って下さいね爆  笑

倉敷へ来た思い出の1つになれたら

嬉しいですラブ

 

 

 

 

 

倉敷はまだ少し暑い日が

続くようなので

美観地区へお越しの際は

水分補給しっかりして

ご旅行を楽しんでください!

 

 

 

倉敷デニムストリートで

お待ちしております照れ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「輪島塗」に新たな風を吹き込むプロジェクト 『DESIGNING OUT Vol.2』が始動。[DESIGNING OUT Vol.2/石川県輪島市]

日本を代表する漆器「輪島塗」は、国の重要無形文化財に指定されている。

デザイニングアウト Vol.2世界的建築家の隈 研吾氏を迎え、『DESIGNING OUT Vol.2』始動。

地場産業や伝統工芸など、プロダクト(モノ)に焦点を当てることで、地域の「価値」を再発見する、『ONESTORY』と雑誌『Discover Japan』の共同プロジェクト『DESIGNING OUT』。日本に眠る伝統的なデザインに最先端のクリエイションを加え、新しいプロダクトを開発、発信していきます。
Vol.1のクリエイターには日本の伝統工芸に新しい価値を加えて世の中に発信し続ける『丸若屋』代表の丸若裕俊氏を迎え、創業400年という有田焼の歴史とその起源を回顧し、有田、伊万里、唐津の3地域より、13名の窯元・作家とともに12のスペシャルな器をつくり上げ『DINING OUT ARITA& with LEXUS』にて発表しました。

そして、満を持して迎えたVol.2の伝統工芸は、国指定重要無形文化財の「輪島塗」です。クリエイターには世界的な建築家である隈 研吾氏を迎え、「輪島塗」に新たな風を吹き込むモノづくり『DESIGNING OUT Vol.2』をスタート。『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』にてお披露目致します。

今回は、1944年の設立以来、輪島塗の啓もう活動や販売窓口を担ってきた「輪島漆器商工業協同組合」を訪ね、輪島塗の歴史を紐解きながら、輪島塗の特徴や現代の課題、『DESIGNING OUT Vol.2』への期待を伺ってきました。

【関連記事】DESIGNING OUT Vol.1

能登半島の北部に位置する輪島には、日本の原風景が広がる。

輪島漆器商工業協同組合の日南尚之理事長(左)と、隅 堅正事務局長。

デザイニングアウト Vol.2輪島塗の強さの秘訣は、門外不出の「地の粉」。

日本海の中央に大きく突き出した能登半島の突端に位置する石川県輪島市は、県都・金沢から車で約2時間かかる人口約3万人の小さな町です。東京からも大阪からも決して近いとはいえない場所ですが、漆器「輪島塗」の産地として、多くの人にその名を知られています。いったいなぜなのでしょうか。
「この“遠さ”が輪島塗の繁栄に一役買ったのです。遠いがゆえに競争力をつけるため、“丈夫である”という他産地との差別化を図るようになったのです」。輪島漆器商工業協同組合理事長の日南尚之氏はこう説明します。

輪島塗の包み紙には、「大極上 布着せ 本堅地」と判が捺されています。これは、丈夫な品質の保証表示のようなものです。輪島塗の堅牢さの理由は、いくつかありますが、まずは上質な漆を惜しみなく多量に使うこと。塗っては研ぎ、研いでは塗りの繰り返しによって、艶やかで丈夫な肌になります。また、「布着せ」とは、椀の縁や高台などの木地が薄く、割れやすい部分や箱の継ぎ目などに漆で布を貼って補強する技術です。これも輪島塗のうつわの強さの秘訣です。

「もっとも大事なのは、輪島の“地の粉”と呼ばれる特殊な土を漆に混ぜて、下地塗りに使うことです」と日南氏。続けて「江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に、輪島で“地の粉”を使うという技術が生まれました。地の粉とは、輪島で採れる珪藻土のことなのですが、これを焼いて粉砕し、漆に混ぜて下地を作ります。粉砕の粒子の大きさによって一辺地粉、二辺地粉、三辺地粉と呼びますが、これらを数回塗り重ねることで強さを出します。珪藻土は、日本全国にありますが、不思議なことに輪島の珪藻土でなければ、輪島塗の強さと緻密さは生まれないのです。輪島地の粉は、輪島塗の丈夫さと優美さの秘訣ですので、現在でも、輪島の職人しか使うことができませんし、輪島から持ち出すことはできません」。

こうして江戸時代にその技術が確立した輪島塗は、「塗師屋」と呼ばれる企画デザインや販売を担う専門職の行商によって、地方の豪商や網元、旅館、料理屋などを中心に全国に広がっていったのです。

輪島塗に欠かせない「地の粉」は大切に管理されている。

江戸時代初期に「地の粉」が発見されたことで輪島塗の技術が確立した。

現存する最古の「輪島塗」は、室町時代の1524年(大永4年)作と言われている輪島市河井町にある重蔵神社の旧本殿の朱塗扉。

デザイニングアウト Vol.2街全体が工房のように結びつく分業システム。

日南氏は、「もう一つ、忘れてはならない輪島塗の大きな特色は、高度に専門化した分業システムにあります」と言います。

商品が出来上がるまでに100以上の工程があると言われている輪島塗は、製造工程ごとに専門の職人がいます。「塗師屋」がある商品を作ろうとすると、まずは「木地師」に木地の制作を依頼します。できあがった木地は、「下地塗」や「研ぎ」「上塗り」などの塗り・研ぎを専門とする職人によって塗り上げられ、さらに「沈金師」「蒔絵師」などの職人の手によって加飾がほどこされ、完成品として塗師屋の元に届けられます。つまり、職人たちの手から手へと製品が渡り、まるで輪島の街全体がひとつの工房のように結びついているわけです。
「工程を細分化することで、それぞれの作業の精度が高まり、職人の腕も磨かれていきます。職人たちは、前後の工程を担当する職人の仕事に敬意をこめ、自分の仕事を完成させます。こうした輪島の分業システムは、江戸時代後期には出来上がっていたそうです。かつては、『椀木地』『指物木地』『曲物木地』『塗師』『蒔絵』『沈金』の6職種を“輪島六職”と呼んでいましたが、現在はさらに細分化が進んでいます」と日南氏。

江戸時代から変わらない分業システムは、現代においては一見、非効率のようにも思えます。しかし、お客さんの注文によるオーダーメイドや、「なおしもん」(修理)をして長く使い続ける輪島塗の技術は、それぞれの工程にたずさわる職人が、長年にわたって試行錯誤を繰り返していまに伝えてきたものです。この技術力こそが、他の産地の追随を許さない名漆器「輪島塗」を生み出したのでしょう。

ロクロをひいて丸い木地をつくる「椀木地師」職人の技は、「輪島六職」のひとつに数えられる。

「地の粉」を混ぜた漆を塗る「下地塗」。丈夫でキメ細かい塗肌をつくる。

「中漆り」は素早く丁寧に。塗っては研ぎ、研いでは塗りをくりかえして艶やかな肌をつくる。

文様を彫る「沈金師」の技。厚く塗り重ねる輪島塗だからこそ、深く彫りこめる。

9代続く塗師屋「輪島屋善仁」の中室耕二郎氏。輪島漆器商工業協同組合理事も務め、隈氏と職人たちの間をとりもつコーディネート役を担う。

デザイニングアウト Vol.2輪島塗だからこそできる「新しい漆器」づくり。

海外で「ジャパン」とも呼ばれ、日本を代表する伝統工芸品の漆器。なかでも、全国の漆器産地で初の国の重要無形文化財の指定を受けた輪島塗は、間違いなく日本の漆器のトップランナーです。それは「通常、御用聞きは家の裏口にまわるが、輪島の塗師屋は表玄関から招かれた」などの逸話があることからもよくわかります。

そんな輪島塗ですが、日本人の生活様式の変化や食の西洋化などに伴って、生産額や職人数の減少が課題となっているのも事実です。輪島漆器商工業協同組合・輪島塗会館の事務局長の隅 堅正氏は「輪島塗の生産額の推計は、1991年の年間180億円をピークに年々減り続けていて、2018年は38億円まで落ち込んでいます。輪島塗にかかわる職人などの数も、ピーク時の半分以下になっています」と言います。

求められる商品にも変化があるそうです。バブル期までは、絢爛豪華な蒔絵を施した商品がよく売れていましたが、90年代半ばからは無地やシンプルなデザインが好まれる傾向にあります。また、私たちの食生活も変わり、椀や重箱だけでなく皿やワイングラスといった食器も求められるようになってきました。

「塗師屋は、行商のなかで流行やスタイルを探っていきます。一見、世間話のようなお客様との話が、お客様の好みを知り、世の中の動きを知る手立てなのです。これが、輪島は全国のみなさんの情報や教育で成り立っていると言われるゆえんです」。
こう話すのは、輪島漆器商工業協同組合理事の中室耕二郎氏。中室氏は、今回の『DESIGNING OUT Vol.2』で、クリエイターの隈 研吾氏と輪島の職人たちのコーディネーター役を担っています。また、1813年創業の「輪島屋善仁」の9代目で、1年の約半分は輪島の地を離れ、全国を行商してまわる昔ながらの「塗師屋」でもあります。

かつて輪島の塗師屋は、分業システムによって作り上げた輪島塗を背中に、全国の客先を一軒一軒訪ねて商売をする行商制度を守っていました。塗師屋ごとに決められた担当地域をまわり、客先でじっくりと話し合って注文を受け、納得してもらえる高品質の漆器を納める――。こうした行商先で出会う情報や客の厳しい目によって、輪島の塗師文化が栄え、輪島塗の技術が磨かれてきたわけです。

中室氏は「江戸時代から塗師屋は、外の風を輪島に引き込む役割を担ってきました。今回、隈 研吾さんという外部のクリエイターとともにモノづくりをすることは、輪島に新しい風をとりいれることです。職人たちが新しい風を感じながら、それぞれの技を駆使する素晴らしいプロジェクトになると期待しています」と話します。

『DESIGNING OUT Vol.2』のプロダクトの全貌は、まだ明らかになっていませんが、理事長の日南氏は「これまでの輪島塗にはない“新製品”が出来上がる予定です。ほかの産地では不可能な、輪島塗だからこそできるデザインになると思います」と笑顔で話します。

隈氏と輪島塗の職人たちが共に開発する新しい輪島塗とは!?

1954年生。東京大学建築学科大学院修了。1990年隈研吾建築都市設計事務所設立。現在、東京大学教授。1964年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。大学では、原広司、内田祥哉に師事し、大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を横断し、集落の調査を行い、集落の美と力にめざめる。コロンビア大学客員研究員を経て、1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。これまで20か国を超す国々で建築を設計し、日本建築学会賞、フィンランドより国際木の建築賞、イタリアより国際石の建築賞、他、国内外で様々な賞を受けている。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案している。また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。

2人のキーマンが振り返る『DINING OUT』を通して青森浅虫温泉に残したこと。[DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS/青森県青森市]

ダイニングアウト青森浅虫

2019年7月初旬、青森県青森市浅虫温泉にて、初の東北開催となる『DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS』が開催されました。

青森といえば、三内丸山遺跡や縄文土器にはじまり、暗闇の中に華やかなねぶたがまちを練り歩く「青森ねぶた祭」、北の青い空に力強い墨線と色彩で舞い上がる「津軽凧」などで知られています。芸術風土の色濃いこの北の大地からは、強烈な個性を持った芸術家や作家が多数輩出されています。

冬は深い雪に覆われる豪雪地であり、荒々しくも多くの生命を抱く陸奥湾や、力強くそびえる八甲山と雄大な自然に囲まれた青森市。冬の真っ白な雪と青い空の対比や、夏に芽吹く緑などの四季の強い彩、ねぶたや津軽凧の強い色彩の荒々しさも彼らの芸術の精神的源泉となったのではないでしょうか。

そんな、昔から今に至るまで青森に宿るアートの感性にフォーカスし、青森の地域性を読み解いてみたいと考え掲げられたテーマは、「Journey of Aomori Artistic Soul」。

このテーマに挑戦した料理人は、代官山「abysse」の目黒浩太郎シェフ。日本で獲れる世界トップクラスの魚介類を使用し、魚介に特化したフランス料理を提供し、ミシュラン東京では一つ星を獲得している、新進気鋭の若手料理人です。

ホスト役には、初期の『DINING OUT』から携わり7回目の登場となる、アレックス・カー氏。東洋文化研究家であり作家としても活動し、国内の昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っています。

携わった2人のキーマンが、青森の風土や食材について、また今回の『DINING OUT』を通して地元に残せた'あること'について語って頂きました。

【関連記事】DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS

1985 年、神奈川県生まれ。祖父は和食の料理人、母は栄養士という環境で育つ中で自然と料理人を志す。服部栄養専門学校を卒業後、都内複数の店で修業後、渡仏。フランス最大の港町マルセイユのミシ ュラン三ツ星店「Le Petit Nice」へ入店し、魚介に特化した素材の 扱いやフランス料理の技術を習得。帰国後には日本を代表する名店 「カンテサンス」にて、ガストロノミーの基礎ともなる、食材の最適 調理や火入れなどさらに研鑽を積んだ。2015 年、「abysse」をオープ ン。日本で獲れる世界トップクラスの魚介類を使用し、魚介に特化し たフランス料理を提供し、ミシュラン東京では一つ星を獲得している。
abysse HP:https://abysse.jp/

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の吹き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

Ignition Black Tapered Jeans

素材

色落ちを楽しむヘビーオンスブラック

  • 20oz Black denim
  • 経糸 ブラックロープ染め 硫化染料
  • 緯糸 ブラックチーズ染め 硫化染料
  • C-100%

商品説明

  • 生地の織りを緩くし、動きやすさを伴ったヘビーオンスブラック。
  • 洗いこむ事でゆっくりグレーに変化して行くのも魅力。
  • バイクに乗る際の姿勢を考え、やや深めの股上と共に腰回りには余裕を持たせたスリムカット。
  • 膝から裾にかけては思い切って絞り込んだシルエットながら、オリジナルの柔らかいヘビーオンスデニムを使うことで膝の曲げ伸ばしは楽に行えます。

サイズスペック

  ウエスト 前ぐり 後ぐり ワタリ ヒザ幅 裾幅 股下
30 77.5 22.5 34 29.5 19.5 17.5 92
31 80 23 34.5 30.2 20 18 92
32 82.5 23.5 35 31 20.5 18.5 92
33 85 24 35.5 31.8 21 19 92
34 87.5 23.5 36 32.5 21.5 19.5 92
36 92 25.5 37 34 22.5 20.5 92
38 97 26.5 38 35.5 23.5 21.5 92
  • インディゴの【IGW-101D】は、ストレッチ素材のため、ブラックの【IGW-101B】よりヒザ幅が5mm程度細めです。

Ignition Blue Stretch Jeans

素材

動きやすさのヘビーオンス

  • 19oz Indigo denim
  • 経糸 インディゴロープ染め
  • 緯糸 ベージュ反応染め、ウレタンコーティングストレッチ糸
  • C-98% , Pu-2%

商品説明

  • ヘビーオンスながらストレッチデニムを使うことで動きやすさを実現。
  • バイクに乗る際の姿勢を考え、やや深めの股上と共に腰回りには余裕を持たせたスリムカット。
  • 膝から裾にかけては思い切って絞り込んだシルエットながら、オリジナルのストレッチのヘビーオンスデニムを使うことで膝の曲げ伸ばしは楽に行えます。

サイズスペック

  ウエスト 前ぐり 後ぐり ワタリ ヒザ幅 裾幅 股下
30 77.5 22.5 34 29.5 19 17.5 92
31 80 23 34.5 30.2 19.5 18 92
32 82.5 23.5 35 31 20 18.5 92
33 85 24 35.5 31.8 20.5 19 92
34 87.5 24.5 36 32.5 21 19.5 92
36 92 25.5 37 34 22 20.5 92
38 97 26.5 38 35.5 23 21.5 92
  • インディゴの【IGW-101D】はストレッチ素材のためブラックの【IGW-101B】よりヒザ幅が5mm程度細めです。

Black Tracker Vest

素材

  • 20oz Black denim
  • 経糸 ブラックロープ染め 硫化染料
  • 緯糸 ブラックチーズ染め 硫化染料
  • C-100%

商品説明

  • 細身のシルエットでありながらも生地を緩めの織りにすることで動きやすさを実現。
  • 洗いこむ事でゆっくりグレーに変化して行くのも魅力。
  • フロントはファスナーとボタンのダブル仕様。高速走行時から街乗りまで幅広く対応します。
  • 衿先は裏側にボタンを配し押さえ込んであり、走行時にばたつくことはありません。
  • 走りながらもストレスなく使える深めの胸ポケット、腰に配したハンドウォーマーも大きめ深めの作りで入れたものをしっかりホールドします。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅
M 62 41 105 98
L 64 43 109 102
XL 66 45 113 106
XXL 68 47 117 110
  • インディゴの【IGW-201D】は、ストレッチ素材のため、ブラックの【IGW-201B】よりバスト寸法が1cm程度細めです。

Blue Stretch Tracker Vest

素材

  • 19oz Indigo denim
  • 経糸 インディゴロープ染め
  • 緯糸 ベージュ反応染め、ウレタンコーティングストレッチ糸
  • C-98% , Pu-2%

商品説明

  • ストレッチデニムを使い細身のシルエットと動きやすさを両立。
  • フロントはファスナーとボタンのダブル仕様。高速走行時から街乗りまで幅広く対応します。
  • 衿先は裏側にボタンを配し押さえ込んであり、走行時にばたつくことはありません。
  • 走りながらもストレスなく使える深めの胸ポケット、腰に配したハンドウォーマーも大きめ深めの作りで入れたものをしっかりホールドします。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅
M 62 41 104 98
L 64 43 108 102
XL 66 45 112 106
XXL 68 47 116 110
  • インディゴの【IGW-201D】はストレッチ素材のため、ブラックの【IGW-201B】よりバスト寸法が1cm程度細めです。

Blue Tracker Vest

素材

  • 19oz Indigo denim
  • 経糸 インディゴロープ染め
  • 緯糸 ベージュ反応染め、ウレタンコーティングストレッチ糸
  • C-98% , Pu-2%

商品説明

  • ストレッチデニムを使い細身のシルエットと動きやすさを両立。
  • フロントはファスナーとボタンのダブル仕様。高速走行時から街乗りまで幅広く対応します。
  • 衿先は裏側にボタンを配し押さえ込んであり、走行時にばたつくことはありません。
  • 走りながらもストレスなく使える深めの胸ポケット、腰に配したハンドウォーマーも大きめ深めの作りで入れたものをしっかりホールドします。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅
M 62 41 104 98
L 64 43 108 102
XL 66 45 112 106
XXL 68 47 116 110
  • インディゴの【IGW-201D】はストレッチ素材のため、ブラックの【IGW-201B】よりバスト寸法が1cm程度細めです。

Black Waffle Logo Thermal

素材

  • C-100%

商品説明

  • 立体的な編み地の表面で多くの空気を抱え込むサーマルロングスリーブTシャツ。
  • 細身のボディと袖で身体へのフィット性を高め夏を除く3シーズンに対応。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅 袖丈
M 64 40 88 84 58
L 66 42 94 92 60
XL 69 45 102 98 62

White Waffle Logo Thermal

素材

  • C-100%

商品説明

  • 立体的な編み地の表面で多くの空気を抱え込むサーマルロングスリーブTシャツ。
  • 細身のボディと袖で身体へのフィット性を高め夏を除く3シーズンに対応。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅 袖丈
M 64 40 88 84 58
L 66 42 94 92 60
XL 69 45 102 98 62

Blacke Waffle Thermal

素材

  • C-100%

商品説明

  • 立体的な編み地の表面で多くの空気を抱え込むサーマルロングスリーブTシャツ。
  • 細身のボディと袖で身体へのフィット性を高め夏を除く3シーズンに対応。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅 袖丈
M 64 40 88 84 58
L 66 42 94 92 60
XL 69 45 102 98 62

White Waffle Thermal

素材

  • C-100%

商品説明

  • 立体的な編み地の表面で多くの空気を抱え込むサーマルロングスリーブTシャツ。
  • 細身のボディと袖で身体へのフィット性を高め夏を除く3シーズンに対応。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 裾幅 袖丈
M 64 40 88 84 58
L 66 42 94 92 60
XL 69 45 102 98 62

Black Logo T

素材

  • C-100%

商品説明

  • 6.5ozオリジナルボディ。
  • 着やすさと丈夫さを兼ね備える一年を通じて使えるTシャツ。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 袖丈
M 66 47 108 20
L 68 50 114 21
XL 70 55 120 22

White Logo T

素材

  • C-100%

商品説明

  • 6.5ozオリジナルボディ。
  • 着やすさと丈夫さを兼ね備える一年を通じて使えるTシャツ。

サイズスペック

  着丈 肩幅 身幅 袖丈
M 66 47 108 20
L 68 50 114 21
XL 70 55 120 22

正反対のふたりと津軽の四季、その素敵な化学反応。美しき草木染めアクセサリーの故郷へ。[TSUGARU Le Bon Marché・スノーハンドメイド/青森県弘前市]

染め上げた藍製品を天日干しする佐々木亮輔氏(右)と葛西由貴さん(左)。風に揺れる草木染めの布が工房の目印だ。

津軽ボンマルシェ・スノーハンドメイド南から北へ。日本縦断の末たどりついた、手仕事の街・弘前。

「取材には少なくとも3、4時間かかると思います。それでも良ければ」。初めて『Snow hand made』の佐々木亮輔氏に連絡した時返ってきた言葉からは、作り手としての熱意が伝わってきました。実際にかかった時間は6時間ほど。どれだけ話しても話し足りない、本気のものづくりがそこにありました。

これまで紹介してきた『パン屋といとい』の成田志乃さんや『bambooforest』の竹森 幹氏、『Flower Atelier Eika』の英花さんなど、多くの人から「すごい作り手がいるからぜひ記事に」と推薦されたのが、草木染めでアクセサリーや織物を制作する夫婦ユニット『Snow hand made』。満を持して向かった工房は、青森県弘前市郊外の古びた一軒家でした。「これは藍、こっちは日本茜と紫紺。紅花もありますよ」。染料を栽培する庭を案内してくれたのは、主に染色を担当する夫の亮輔氏。亮輔氏が天然の植物染料で染めた糸や布を使い、アクセサリーなどの作品を作るのが妻の葛西由貴さんです。

亮輔氏と由貴さんが出会ったのは、沖縄県波照間島(はてるまじま)でした。神奈川県横浜市出身、生粋の浜っ子ながら沖縄の環境や人に魅せられ移住を決めた亮輔氏と、青森県弘前市出身、知り合いを訪ねてやってきた沖縄の心地よさに惹かれた由貴さんは、著名染織家・石垣昭子さんに師事した後仲間と染織工房を立ち上げ、波照間島を拠点に6年ほど活動。ふたりで独立を考えた時思い浮かんだのが、沖縄と真逆に位置する弘前だったといいます。「彼女の実家があるので、それまでも弘前には来ていたんです。城下町だった弘前は沖縄と違い、塗り物や焼き物など色々な工芸があって、クオリティも高い。やるならここでと決めました」と亮輔氏。2015年5月に波照間島を出発、各地の友人や世界遺産などの名所を訪ね歩きながら、6,500kmの距離を47日間かけて新天地・弘前へやってきました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

亮輔氏が古来の染織方法を用いて生み出す繊細な色合いと、手仕事とは思えないほど正確で緻密な由貴さんの技術から、世界でひとつのアクセサリーが誕生する。

庭では様々な染料の植物を栽培。日本茜は夕日のような茜色を生み出す希少な染料。黄色い根が、時間の経過とともに鮮やかな赤色へと変化する。

今は少なくなった「正藍染め」という古いやり方で藍染めを行う。染めの作業に重要なのが水質。井戸水を使えることが、引っ越し先の第一条件だった。

染料の中で藍に一番惹かれるという亮輔氏。甕から引き上げた糸が水や空気に触れることで、さっと透明感のある青色が現れる瞬間がたまらないという。

津軽ボンマルシェ・スノーハンドメイド津軽の四季の移ろいを宿す草木染め。その豊かな表情に魅せられて。

亮輔氏のものづくりの原点は、「波照間島の自然の色の美しさを何か形にしたい」という想い。今も力を入れるのは海の色=青を生み出す染料・藍です。「色々な染料がある中で、やっぱり藍をえこひいきしちゃうんです(笑)」と亮輔氏。どっしりと濃い青、軽やかで淡い青……独特の奥行きを感じさせる様々な青を生み出すのが、室町時代に確立した「正藍染め(しょうあいぞめ)」と呼ばれる古い技法です。

藍の乾燥葉を発酵させた原料「すくも」から染液を作る藍染めですが、現在一般的に使われる石灰や日本酒、蜜やブドウ糖などを使わず、木灰汁(もくあく)のみを加えて染液を建てるのが「正藍染め」。発酵を促す添加物を入れないため難しいとされる一方、「淡い青や抜けるような青が表現できるんです」と語る亮輔氏。2016年からは自ら藍の栽培も始め、津軽ならではの藍の表現を探ります。藍の他、日本茜や紫紺、紅花は、自分で栽培したものと青森県内の生産者のものを混ぜて染料に。他にも近隣の山で採れるオニグルミや竹、弘前市内の桜の枝なども使用する亮輔氏の作品には、津軽のパワフルな自然が育む豊かな彩りが宿ります。

藍には化学的処理をいっさい用いない亮輔氏ですが、染料や素材によっては化学的に中和させて色を出す「農染処理」を施すことも。「『古いやり方を守りたい』というのとは違う。『正藍染め』も色が美しくて色落ちしづらく、何よりシンプルなのが良くて。伝統的なものと近代的なもの、それぞれの特徴を天秤にかけ、使う使わないを判断しています」と語ります。自身を「なぜそうなるのか常に深掘りする面倒くさい性格(笑)」と分析するだけあって、何を聞いても瞬時に的確な答えを返してくれる亮輔氏。感覚的なものづくりを追求しつつ、論文や資料から得られる科学的な裏付けも理解する。そんなバランス感覚が、作品の根幹を支えます。

古い染液と新しい染液を混ぜて使い独特の青を表現する。通常は3ヵ月ほどで使えなくなる染液だが、「正藍染め」の染液は寿命が長く、2年近く使用可能だそう。

工房から車で5分ほどの所にある畑では、しゃんと伸びた藍の葉が収穫を待っていた。10月には採取した葉を100日ほど発酵させる「すくも」作りが始まる。

どこか穏やかさを感じさせる色の糸たち。橙色はりんご、黄色は竹の葉、青は藍、ピンクとグレーは桜が染料。その艶やかな発色にも驚く。

津軽ボンマルシェ・スノーハンドメイドビッグメゾンも認めた、マシンメイドのごとき緻密な手仕事。

亮輔氏が染める美しい布や糸を使い、芸術的な作品に仕上げるのは由貴さんの役目。亮輔氏曰く「彼女はとにかく集中力がすごい。それに、なんでその形にしたの?と聞いても『なんとなく。特に意味はない』って(笑)。自分は物事にいちいち意味を求めるタイプだけど、彼女は感性でどんどん動くタイプ。作品作りには、彼女の感覚がないとダメだと思います」。

小さい頃からひとりでスケッチブックを抱えて出かけては、目に入るものを描いていたという由貴さん。「絵を描いたり編み物をしたりするのが大好きでした。でも小学校の授業では、みんなと同じものを描いても自分だけ違っていて、先生に『もっとよく見て描いてね』と言われる。何をしても人と違うから、ずっと自分に自信がなくて……。初めて『由貴ちゃんはそのままでいいよ』と言ってくれたのが、亮さんと波照間島の仲間だったんです」と話す由貴さん。ありのままでいい、そう気付けた由貴さんにとって、『Snow hand made』の仕事は天職に他なりません。

鉤針で細い糸をレース状に編み込んだモチーフが揺れるピアスや、天然石や貝をくるむように編み込んだリングやネックレス。波照間島時代から使い続ける、「原始機(げんしばた)」と呼ばれる古い機織り機で織り上げた紐やストラップ。由貴さんの手がける作品のクオリティの高さは、近づいてじっくり眺めれば一目瞭然。機械編みや機械織りのような正確さと緻密さ、由貴さんならではのデザインの独創性が評価され、2017年からは世界的なアパレルブランドに依頼され、ブランドの商品のためのサンプル制作も行います。新作のアクセサリーを出すたび購入してくれる熱心なファンのため、「毎年デザインを変更するし、色や素材の組み合わせも全部変えています」と由貴さん。同じものはない、唯一無二の作品が揃います。

自宅兼工房の2階、畳敷きの6畳間が由貴さんの作業部屋。床にぺたりと座って黙々と作業するのが、由貴さんのいつもの制作スタイルだ。

繊細な動きを繰り返す針先は、まるで精巧なマシンを見ているよう。感性の赴くまま、驚くようなスピードで作品を仕上げていく。

最も原始的な機織りの方法とされる「原始機」で紐を織っていく。糸の一端を織り手の腰につなぎ、腰の力で張り具合を調整しながら織るのが特徴。

波照間島時代から、伝統柄にはない鳥やヤモリといった自然界のリアルなモチーフを取り入れる。手前はふろしきに結びつけるとバッグのように持ち歩ける「ふろしきハンド」。

津軽ボンマルシェ・スノーハンドメイド尊重し補い合う。ふたりと津軽をつなぐ心地いい関係。

理論的に物事を捉える亮輔氏と、感覚的にものづくりと向き合う由貴さん。正反対の性格のふたりですが、纏う雰囲気は不思議とそっくり。「由貴のセンスと技術力は本当にすごい。それに絶対に手を抜かないんです」と亮輔氏が言えば、「自分は一から説明してもらわないと理解できないタイプ。お客さんに商品を説明するのも難しくて。でも亮さんが私の想いをうまく伝えてくれるんです」と由貴さん。信頼関係で結ばれたふたりの関係からは、あるものとないものを互いに補い合う、理想のコミュニケーションの姿が見えてきます。

弘前で活動を始めてから5年目。ふたりのコミュニケーションは、工房内から地域へと広がりつつあります。「すくも」作りに必要な木灰汁の原料は、近所のりんご農家の畑から譲り受けた剪定木や古木。灰汁を取り終えた灰は板柳町の陶芸家の手に渡り、釉薬として再利用されます。「別の職業の人から受け取ったものを、また次の職業の人に回せるのが嬉しくて。弘前には色々な職人がいるからこそ、こうした循環が可能なんだと実感しています」と亮輔氏。

今ふたりが取り組むのは、自ら育てた弘前産の藍だけで染める「弘前藍」の製品化。現在は自社畑の藍に徳島産の「阿波藍」を混ぜていますが、今後は栽培量を増やし自家栽培率100%に変える他、藍染めに使う資材全てを県産にすることを目指しているそうです。実は戦前まで、藍は津軽の主要産業のひとつでした。この取り組みが、消滅の危機にあるといわれる津軽の藍産業に刺激を与えるだけでなく、工芸の街・弘前全体を盛り上げることは間違いありません。

横浜と弘前から沖縄へ、そしてそこから再び弘前へ。各地を巡った後たどりついたここ津軽で、ふたりの活動は、よりオープンでローカルなものに変化しつつあるようです。「来年は洋服やバッグも製品化したい。ものづくりに関わる友人たちと、何か一緒に作ることができれば」と亮輔氏。自信と期待に満ちた晴れやかな表情に、津軽の工芸の明るい未来が見えた気がしました。


(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

由貴さんが長年描きためてきた絵を「これからはもっと外に出してあげたい」と亮輔氏。絵をモチーフにしたバッグなどの雑貨を販売する計画も。

りんご畑に囲まれた藍畑で、息子の悠慎(ゆうしん)君と。今後畑の規模を広げ、「弘前藍」のブランド化を進める予定だ。自宅の庭では種の採取用の藍も栽培する。

https://www.pictame.com/user/ykks58/1192408397
https://www.facebook.com/snowhandmade.hirosaki/
スノーハンドメイド HP:http://snow-hand-made.com/

海のない街・奈良の盆地で続いてきた貝ボタン作りの軌跡。[トモイ/奈良県磯城郡川西町]

『トモイ』の3代目を担っている伴井比呂志氏。

トモイ

奈良県北部、奈良盆地のほぼ中央に位置する磯城郡川西町。ここに、国内シェア約50%を誇る、日本有数の貝ボタンメーカー『トモイ』の工場があります。後編では、貝ボタンとともに発展してきた街の歴史と『トモイ』の歩みをたどり、更なる展望に迫ります。

【関連記事】トモイ/確かな品質と技術に裏打ちされた、世界に誇る貝ボタン。

見渡す限りのどかな田園風景が広がる川西町。

トモイ豊かな自然と歴史文化に抱かれた、貝ボタンの街・川西町。

豊かな自然が残る奈良県北部の街、磯城郡川西町。盆地らしく、周囲を山に囲まれた平坦な土地に田畑が広がり、所々に集落や工場が見られます。また、立派な前方後円墳の『島の山古墳』をはじめ、千年以上の歴史を誇る『糸井神社』や『比売久波(ひめくわ)神社』など、歴史遺産も多く残っています。

一方、古くから貝殻を原料としたボタン作りが盛んに行われ、「貝ボタンの街」の異名も持つ同町。ですが、奈良は四方を他県に囲まれた、いわゆる海なし県です。にも関わらず、なぜこの街で貝ボタンが作られるようになったのでしょうか。それには、海ではなく川の存在が重要な鍵となりました。

『トモイ』のすぐそばにある巨大な『島の山古墳』。

古墳の隣には歴史ある『比売久波神社』が。

トモイ川の流れに乗ってもたらされ、瞬く間に製造の一大拠点に。

川西町にはその名のとおり、昔から大きな川が5つも流れています。そのため、舟運が主流だった時代には、大阪と結ぶ集散地として発展。様々なものが船で運ばれてきたその中に、貝ボタンもあったのです。

貝ボタンの製造技術は、明治時代半ばの1887年頃にドイツから兵庫県神戸市へと伝来。その後、1897年頃には大阪府の河内地方へ。更に、1905年頃には奈良県の川西町まで伝わったとされています。当時から原料の貝は南太平洋から輸入されていたため、製造場所が海沿いであるかどうかは問題ではありませんでした。

ちょうどこの頃、川西町では木綿織物や養蚕業が衰退し、農家では綿加工業が苦境に立たされていました。そのため、副業として貝ボタン製造が始められることに。以降、町内の人々が続々と参画し、大正時代初めの1914年には業者数50戸にまで拡大しました。

その後、昭和になっても繁栄を続け、最盛期を迎えたのは1945年頃から1955年頃にかけて。「昭和20年~30年代は、このあたりの400世帯のうち、300世帯は貝ボタン関連の仕事をしていました。当時は、ぬき屋、擦り屋、穴あけ屋、磨き屋などボタン作りは分業で、それぞれの工房があちらこちらにあったんです。まるで、町全体が工場のようでした」と『トモイ』代表取締役社長の伴井比呂志氏は振り返ります。

当時から原料は、南太平洋で育った貝が使われていた。

町内を流れる川で最も大きな一級河川『大和川』。

トモイ他を圧倒する独自の取り組みで活路を開いた『トモイ』の歴史。

『トモイ』の創業は、大正時代初めの1913年。初代は伴井氏の祖父で、貝殻からボタン生地をくり抜くぬき屋として商いを始めました。その後、川西町全体の発展とともに、『トモイ』も事業を拡大。やがて、貝ボタン製造の全工程を、一貫して自社工場で行うまでになりました。

更に、2代目である伴井氏の父は、新たな技術も導入。ボタンに様々な文字や模様を施せるNC彫刻機を考案しました。滑らかな仕上がりが特徴のこの機械は、約30年前に導入した最新式のレーザー彫刻機と併用しつつ、今も現役で活躍中。「速くて正確なレーザー彫刻機が主流ではありますが、ボタン全体を彫り込むようなデザインの場合や、レーザー彫刻機だと焦げてしまうような材質のボタンを彫る場合は、NC彫刻機を使います。やはり、仕上がりの際の独特の滑らかさは、この機械ならではだと好評です」と伴井氏は話します。

また、2代目は新たな販路も開拓。創業当時、貝ボタンは真珠と並ぶ輸出品のひとつとして、安定した売り上げを誇っていました。しかし、更なる成長のためには国内で販路を開拓する必要があると考え、奈良の工場を初代である祖父に任せると、幼かった伴井氏を連れて一家で上京。寝る間も惜しんで働いた結果、一気に受注量が増えたといいます。更に高度経済成長期の追い風もあり、東京から奈良に戻って以降、従業員は70名を数えるまでになりました。

川西町全体で見ると、貝ボタン生産は1955年頃をピークに、徐々に縮小。特に1965年頃からは、安価で大量生産可能なポリエステル製のボタンが本格的に流通し始めて急速に衰退し、最終的には数軒しか貝ボタンの業者は残りませんでした。『トモイ』はその中の貴重な1軒。他に類を見ない製造規模と、創業当時からこだわっている確かな品質、更に新たな技術で生み出すバラエティ豊かなラインナップを武器に、独自に成長を遂げた結果です。
 

100余年にわたり貝ボタン製造を続ける『トモイ』。

本社工場内には、製造途中のボタンが山のように。

短時間で正確に彫ることができるレーザー彫刻機。

滑らかな仕上がりが特徴的な、2代目考案のNC彫刻機。

トモイ本場イタリアの技術や感性を持ち込むことで、更なる発展を実現。

『トモイ』の3代目である伴井氏は、1961年生まれ。幼い頃から両親の背中を見て育ち、早い段階から後継ぎとしての自覚があったといいます。ビジネス系の専門学校で経理を学んだ後は、製造技術習得のために、貝ボタン発祥の地であるヨーロッパへ留学。修業先は、ボタンメーカーが数多くあるイタリア・ベルガモの中でも、世界的メーカーである『ボネッティ』社です。ここで、本場の職人技を1年かけて学びました。

例えば、伴井氏が持ち帰った技術のひとつが、艶出しの方法。『テッポウ』と呼ばれる木桶の中にボタンと熱湯を入れ、薬品を少しずつ点滴のように垂らしながら、約1時間回転させるという手法です。伴井氏曰く、「以前は、10分程度の短時間で済ませていた作業。悪く言えば、薬品でごまかしていたようなところもあったと思うんです。でも、これを1時間かけてじっくり行うと、貝が持つ本来の艶を引き出すことができる。木桶を使うというのもポイントで、木なら錆びないですし、ボタンに傷がつきにくいという利点があります」。

また、細かい点では、ボタン生地に穴を開ける『窄孔(さっこう)』に用いる針の研ぎ方ひとつにも違いがあったのだとか。本場の職人からその技を習得した伴井氏は、『トモイ』の製造工場でも生かすことで、より高品質で多種類の貝ボタンを製造できるようになりました。更に、日本にはない多彩なデザインに触れられたことも、大きな学びになったといいます。

その後、1994年に伴井氏は3代目に就任。歴史を受け継ぎ、更に発展させることで、国内シェア約50%を誇る、日本有数の貝ボタンメーカーへと『トモイ』を押し上げました。

丁寧に研がれた針で正確に穴を開ける『窄孔』作業。

工場の片隅には、艶出し用の大きな木樽が置かれている。

艶出し後は、ロウを付着させた籾で磨きをかける。

丁寧な艶出しと磨きで、手触りの良いボタンが完成。

イタリアでは多様なデザインを知り感性も磨かれた。

トモイ貝ボタンの魅力を大切に、更に研ぎ澄ませ広めていくために。

貝ボタン作りに携わって25年。改めて伴井氏に貝ボタンの魅力を聞くと「やはり天然素材である貝ならではの深い輝き、滑らかな手触りは格別ですね。また、ポリエステル製のボタンは軽いですが、貝ボタンは適度に重さがある。そのため、例えばシャツの一番上のボタンを外して着ても、ボタンの重さで襟元に自然と美しいカーブが生まれる。それも、貝ボタンならではだと思います」と笑顔で話します。

そして近年は、国内はもとより、海外へと販路を拡大している伴井氏。「特にイタリアとの取引を拡大中です。修業時代にも感じたことなのですが、やはりイタリアの方々はセンスが磨かれているので、きちんと上質な貝ボタンを求めてうちに声をかけてくださいますし、どんどん新しいデザインのオーダーを頂くのも刺激的なんです」と話す伴井氏。「デザインファーストというか。例えば、日本の場合は縫製のしやすさを重視してボタン穴を大きくするよう依頼されることがあるのに対して、イタリアの場合はあくまでデザイン重視。そんな違いも勉強になります」と続けます。

より高いレベルを求める相手と向き合い、丁寧な仕事をしながら斬新なデザインにも果敢に挑戦することで、自らの幅を広げている『トモイ』。今度は逆に日本でもその姿勢を貫くことで、国内市場がもっと盛り上がれば……。そう考える伴井氏は、貝ボタンの更なる未来を見据えています。

1913年創業、奈良県磯城郡川西町に本社工場を構える貝ボタンメーカー『トモイ』の3代目。ビジネス系専門学校卒業後、単身イタリアへ留学。ボタン機器の世界的メーカー『ボネッティ』社で貝ボタンの製造工程を学んで帰国し、1994年より『トモイ』の代表取締役社長に就任。確かな品質と技術、高いデザイン性を誇る日本随一の貝ボタンメーカーとして、国内はもとより、海外の名ブランドからもオーダーが絶えない。

住所:〒636-0204 奈良県磯城郡川西町唐院201 MAP
電話:0745-44-0066
トモイ HP:https://www.shellbuttons-tomoi.jp/

地銀×地域×自治体。地方創生の未来を拓く、新たな関係性。[DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS/青森県青森市]

地銀、地域、自治体が結託する初の取り組みとなった『DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI』。

ダイニングアウト浅虫浅虫温泉で実現したかつてない『DINING OUT』の形。

地域に眠る魅力を掘り起こし、新たな価値を見出す――そんな思いの元、過去15回開催された『DINING OUT』。その音頭を取ったのは地域に根づく企業、あるいは自治体。そこに地元を愛する有志たちが集い、それぞれに魅力を持つ、その土地ならではの『DINING OUT』を開催してきました。

しかし16回目となる青森市浅虫温泉の『DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS』は、少し違いました。地域と自治体、住民と地域、それらを繋ぐ橋渡しとして、まず青森の地方銀行の『みちのく銀行』が立ち上がったのです。そして地元の旅館がそこに賛同し、さらに青森市が影から支える。そんなかつてない形で実現したのが、今回の『DINING OUT』だったのです。そしてその成功から、地域創生の在り方、温泉街の活路、これからの地方銀行の重要性が見えてきました。

【関連記事】DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS

2019年7月に浅虫温泉で開催された『DINING OUT』の一場面。

ダイニングアウト浅虫町に溶け込む支店長が、銀行の取り組みの象徴。

北の温泉地・浅虫温泉に数日も滞在すると、必ずどこかで目にする人物がいます。地元住民とにこやかに挨拶を交わし、道路のゴミを拾い、日曜でもイベントとあれば真っ先に駆けつける。今回の『DINING OUT』でも率先して雑務をこなしていたその人物こそ、『みちのく銀行 浅虫支店』の支店長・工藤秀樹氏です。「浅虫のことなら、まず工藤さんに聞けば間違いない」地元住民が話すそんな言葉は、決して冗談ではありません。2016年に支店長として浅虫に入って3年、工藤支店長は地元に不可欠な存在になっていたのです。

もちろんそれは、工藤氏の明るい人柄による部分も少なくありません。しかし『みちのく銀行』のなかにあって、そんな工藤氏は決して「変わった人材」ではないのです。工藤氏の前任の浅虫支店長・鶴岡真治氏(現・地域創生部 参与)も、たびたび浅虫を訪れては住民たちと旧友のように語り合います。それはきっと『みちのく銀行』という地方銀行の在り方そのものが、地域とともに歩むことを目指しているから。銀行として資金面だけで地方を支えるのではなく、もっとも根本的な部分である人々の活気や熱意も下支えする。それが今回の『DINING OUT』の原動力となった『みちのく銀行』なのかもしれません。

その誠実な人柄で地元住民の信頼も厚い『みちのく銀行』浅虫支店長・工藤秀樹氏。

地元のサービススタッフ達がお客様に接客している中、工藤支店長は、ゲストが食べ終わった料理の皿を洗い場へ運ぶなど陰ながら『DINING OUT』を支えた。

ダイニングアウト浅虫若き頭取が語る、これからの地方銀行の在り方。

そんな予想を確かめ、そして浅虫での『DINING OUT』の開催の理由を探るため、『みちのく銀行』本店を訪ねました。出迎えてくれたのは若き頭取・藤澤貴之氏。朗らかでユーモアあるその人柄からも、この銀行の在り方が垣間見えます。

浅虫温泉に『DINING OUT』を招聘した理由を尋ねると「銀行はお金を預かり、貸す仕事。しかしそれだけではなく、地域のためにできることをして元気にしていきたいという思いがあります。とくに浅虫支店は90年以上前から続く当行で4番目に古い支店。それだけ長い付き合いのある温泉街が、果たしてこのままで良いのかという問題提起として『DINING OUT』の実現にこぎつけました。“主人公”はあくまでも地元。そこにサポートできることがあるか模索した結果です」との答え。その言葉にも、地元の発展を心から願う姿が垣間見えます。

さらに藤澤氏のそんな思いを、タイミングも後押ししました。「2017年、地域が抱える課題に金融機関のノウハウを活かして望む“地域創生プラットフォーム”を創設しました。ダイニングアウトの話が上がったのは、まさにその頃でした」。そして続けます、「これからの地方銀行の在り方は、もっと地域に入り込み、住民や商売を営む方々と共に街を元気にさせなければいけないと思っています」。

熱意とタイミングにより実現した『DINING OUT』。その結果について「地元の人が当たり前に受け入れていた浅虫の魅力に改めて気づかせてくれたイベントでした。これは外からの知見、目線があってはじめてわかったこと。大きな収穫だと思います。今後は近すぎて見えなかった魅力をどう育て、発信していくか。本番はこれからです」と藤澤氏。さらに「今回の浅虫をひとつのモデルとして、さまざまな場所に広げていきたいと思っています」との展望も語ってくれました。

『みちのく銀行』の若き頭取・藤澤貴之氏。その柔軟な発想は地銀の在り方を変えていくのかもしれない。

『みちのく銀行』本社の入り口に掲げられる、墨痕鮮やかな企業理念。

レセプションで地元の思いを伝えた青森県立美術館館長・杉本康雄氏は元『みちのく銀行』会長(現・相談役)。今回の『DINING OUT』実現にも腕をふるった。

ダイニングアウト浅虫地方銀行の思いに応える、地元の若き経営者たち。

藤澤氏が語った“タイミング”は、実は『みちのく銀行』内の話だけではありません。もっと広い視野で、青森市に革新のタイミングが訪れていたのです。それは、地方創生の中心となる人たちの若返りでした。藤澤氏が『みちのく銀行』代表取締役頭取となったのは2018年、52歳の頃。同じ頃、浅虫温泉の旅館組合や観光協会も、トップが若い世代に変わりました。さらに2016年に青森市長になった小野寺晃彦氏も現在44歳の若さ。こうして青森市や浅虫温泉の未来は、若い世代へと託されたのです。

2017年には浅虫温泉活性化に向けて浅虫温泉若手経営者の有志が「青森MOSPAプロジェクト」を始動。そこに小野寺市長も加わり、歯車が少しずつ動き始めました。「ピーク時は30万人以上の観光客が訪れ、“東北の熱海”とも呼ばれた浅虫温泉。映画館もあり、芸者さんもたくさんいました。しかし元に戻そうとは思っていません。今あるものを受け入れてどう活用するかを考えていきたい」とは「MOSPAプロジェクト」も主導する『ホテル秋田屋』の代表・佐藤方信氏。同じく「MOSPAプロジェクト」に参加する浅虫温泉辰巳館の戸嶋竜一常務も「当初は明確なビジョンがありませんでしたが、それが少しずつ変わってきました」といいます。

そんな折、『みちのく銀行』から『DINING OUT』を浅虫温泉で実施する話が持ち上がったのです。「最初に(ダイニングアウトの)話が来たのは2年前。当初は“やってみたいけど、お金はどうするの?”という段階でした。そこから毎月会議をして、みちのく銀行がサポートしてくれることとなり、実現に動き出しました」そう振り返る佐藤氏。「板前やサービススタッフが参加して、刺激を得られた。それだけでもやった価値は十分。浅虫の“食”のレベルがぐっと上がると思います」と『DINING OUT』の収穫を語ってくれました。戸嶋氏も「町が一丸となったことが、目に見えない最大の効果」と振り返ります。

地銀が音頭を取り、地域が動き、行政を巻き込んで町が再生する。これは今後、課題を抱える地方の創生におけるモデルケースとなるのかもしれません。

左から、『みちのく銀行』浅虫支店・工藤支店長、『辰巳館』の戸嶋常務、『ホテル秋田屋』の代表・佐藤氏。ホテル秋田屋のロビーに飾られた、青森を象徴するねぶたの前にて。

『ホテル秋田屋』は飲み処や土産店も備えた大型施設。しかしホテルで完結せず、町を周遊して欲しいと佐藤氏は願う。

風情ある佇まいの『辰巳館』。若い世代の客も少しずつ増えているという。

小野寺市長も『DINING OUT』の会場に二夜連続でゲストを迎え、青森の魅力を伝えた。

魚介とアートを五感で堪能した饗宴『DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS』スペシャルムービー公開。[DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS/青森県青森市]

ダイニングアウト青森浅虫

DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS』(2019年7月開催)の感動を、スペシャルムービーとフォトギャラリーでお届けします。

『DINING OUT』第16弾となる舞台は、初の東北地方・青森県青森市浅虫。強烈な個性を持った芸術家や作家が多数輩出されている芸術風土の色濃い土地にて、昔から今に至るまで青森に宿るアートの感性にフォーカスし、青森の地域性を読み解いてみたいという想いから導き出したテーマは、「Journey of Aomori Artistic Soul」。
4つの違った特性の海を擁する青森の魚介だけを使ったフルコースと、演出全体でひとつのアート作品として、五感全てでご堪能いただく究極のダイニングをぜひ体感してみてください。

【関連記事】DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS

@hoshii19 義德

次の一歩が止まらない靴です。 クッションが効いていて、足の裏から膝などへの影響を軽減する。 また足の指が靴の中でも自由に動かせ、フィット感がある。素足で走る、歩く感覚が強い。

児島ジーンズ 着るバッグ【メンズ館】

 

 

 

カバンを持って手がふさがるのが嫌、、、、

 

そう思ったことはありませんか?(唐突にw)

 

 

そんなあなたに朗報です上差しキラキラ

 

 

辿り着いた究極の手ぶら

”着るバッグ”

 

このうたい文句を見た瞬間私は衝撃が走りました雷

 

そうか、、、、バッグを着てしまえばいいのか、、、!!

 

 

 

ブログに載せるのが遅くなってしまい、カーキは売り切れとなってしまいましたが

デニムとブラックの2種類のみ在庫ございますクローバー

大きめのポケットが沢山付いているので、

大容量入りますキラキラ

 

そして、頑丈です!!

ちなみにブラックの方は帆布素材です

 

 

このような格好をしたオシャレな男性を見たことありませんでしょうか?

 

そう!それが着るバッグなのです乙女のトキメキ

 

 

残りわずかですので、気になる方はお早めに音譜

 

最近、気温の変化などで

体調を崩しやすい季節ですので皆様、お気を付けくださいませクローバー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森とともに変化していく、小さな町の大きなお祭り。[飛生芸術祭/北海道白老町]

日暮れと共に点火されるキャンプファイヤー。森を敬い、森に感謝する祭りの幕開けだ。©︎Asako Yoshikawa

飛生芸術祭2019わずか10世帯ほどの集落が一年に一度、にぎわいに包まれる日。

北海道の小さなまちで開かれている芸術祭。限りなく自然に近く、限りなく自由なお祭りと言えるかもしれません。
 
飛生は北海道・白老町にある小さな集落です。新千歳空港から1時間ほどの距離に位置し、住民はわずか10世帯ほど。最寄り駅はないに等しく、国道から山深い道を車で20分ほど走ると辿り着く、ひっそりと静寂に包まれた場所です。

このまちに年に1度、全国から1000人以上の人が訪れ、歌や音楽、ダンスやアートイベントで盛り上がる日があります。それが「⾶⽣芸術祭」。スタートは2009年、2019年に11回目を迎えます。

「飛生橋(Bridge of Tobiu)」(永田まさゆき)。飛生芸術祭では、森そのものが作品の一部になる。©︎Asako Yoshikawa

「TOBIU CAMP」では、森の一昼夜のドラマが繰り広げられる。©︎Asako Yoshikawa

飛生芸術祭2019閉校を機にアーティストにバトンを渡された小学校。

飛生芸術祭の説明をする前に、ここがどのような場所なのかを紹介しましょう。芸術祭が行われる「飛生アートコミュニティー」は、約30年前に閉校になった飛生小学校の建物をそのまま利用した施設です。ここは現在、アーティストの共同アトリエとして活用されており、主に作品の制作や展覧会、イベント、プロジェクトなどが行われています。1986年に最後の卒業生4人が巣立つのを機に、地元から「アーティストの方々に活用してもらいたい」と札幌の彫刻家・國松明日香氏らに維持を委ねられ、その後校舎と教員住宅にメンバーが住んだり、週末に通うなどして創作活動を行ってました。現在は、明日香氏の息子である希根太氏が受け継ぎ、飛生アートコミュニティーの代表を務めています。

飛生に若いアーティストたちが訪れるようになる中で、2007年、初めてのイベントであるアイヌのトンコリ奏者OKIによる「TOBIU meets OKI」が開催されます。そうしたことがきっかけで地元の人々やアーティスト同士の交流も深まり、2009年から飛生アートコミュニティーの1年の成果の発表の場として「飛生芸術祭」がスタートしました。

飛生小学校は1949年創立。子供達は「鳴き声で鳥の種類が分かる」ほど自然に親しかったという。©︎AKITAHIDEKI

「木が育ち、管理しないと荒れてしまう。森づくりに終わりはないんです」と希根太氏。

飛生芸術祭2019黒い鳥が守る森を、再び子供達の笑顔あふれる場所に。

2011年には「飛生の森づくりプロジェクト」が始まります。実は飛生アートコミュニティーの裏には昔の学校林が広がっていましたが、閉校し人の手が入らなくなった後は、笹が伸び放題で荒れ果てた放置林となっていました。それをアーティストたちが再び子供達が自然に触れ合い、遊び、学び、集える森として再生しようと整備に取り掛かりました。まずは背丈ほどもある笹を刈って散策路を作り、2013年には高さ10mのトーテムポール「Tupiu TOWER」を立てました。

これは、「飛生」という地名の由来の説が二つあり、一つはアイヌ語で「ネマガリダケ(トップ)の多い(ウシ)所(イ)」、もう一つは「Tupiu」という黒い鳥の多い地であるという神話に基づくことからの着想です。アーティストたちはこの森を、Tupiuという黒い鳥が存在する「"森の住人"の暮らす世界」と想定し、人と自然が共生できる場所として一つずつ形作っていきました。森の住人の家「Tupiu HOUSE」や、森の住人のピザ窯「Tupiu OVEN」、菜園「Tupiu FARM」などを完成させ、2016年には森の主Tupiuを迎える「Tupiu NEST」も登場しました。

黒い鳥の栖が森に出現。「Tupiu HOUSE」(木木木人)©︎Kai Takihara

"根曲がり竹”を素材にした森のトンネル空間「Topusi」(石川大峰)は拡張し続ける。

飛生芸術祭2019飛生芸術祭の始まりの合図は、キャンプファイヤーで。

2011年、森づくりとともにスタートしたのが「TOBIU CAMP」。飛生芸術祭のオープニングとして2日間、一昼夜行われるキャンプイベントです。校舎や森のあちらこちらで音楽、アート、ダンス、演劇とさまざまなパフォーマンスが開催され、森のワークビレッジでは、アイヌ伝承楽器ムックリづくりといったワークショップが開かれます。またTOBIU CAMPの楽しみの1つはフードにあると言われるほど、道内から選りすぐりの手作り料理のブースが集います。広大な牧草地でキャンプをしながら、自分も森の住人になって、思うままに自然の中で過ごすことができる2日間です。

写フードを楽しみに来る人も多い。地元からも道内からも多彩な店が参加。©︎Asako Yoshikawa

飛生芸術祭2019今年も歌と踊りとアートで、森への敬意と感謝を示す。

10周年を迎えた昨年は北海道胆振東部地震の影響で中止になりましたが、その分、今年のTOBIU CAMP・飛生芸術祭はさらに盛大に開催されます。2016年から参加している奈良美智をはじめ、後藤正文+古川日出男、相川みつぐなど総勢90組が登場。白老町との連携企画も加わって、音楽、ダンス、パレード、朗読と音楽の劇、夜学、展覧会と様々な催しが繰り広げられます。

8年かけて整備してきた森そのものが一つの作品となり、舞台となり、交流の場となる飛生芸術祭。今年も小さなまちが、大きな感動と賑わいに包まれることでしょう。

期間:2019年9月7日(土)〜15日(日)
時間:10:00-16:00(9月7日、8日はTOBIU CAMPに準じる)
会場:飛生アートコミュニティー校舎と周囲の森<北海道白老郡白老町字竹浦520(旧飛生小学校)>
入場料:ドネーション制(期間中会場に募金箱を設置)、高校生以下無料
※9月7日、8日は、飛生芸術祭のオープニングイベントとして、キャンプイベント「TOBIU CAMP 2019 森と人との百物語」を開催。この期間は、別途「TOBIU CAMP」の入場チケットが必要になります。
写真提供:飛生アートコミュニティー

会期:2019年9月7日〜8日
時間:7日は開場12:00/8日は閉場14:00 ※時間は予定
入場料:一般前売 4500円(7月5日よりローソンチケット、Peatixで発売開始)、当日5500円、9月8日6:00以降の入場1500円
飛生芸術祭2019 URL:https://tobiu.com/