移住で芽生えた愛と夢。工夫を重ねて高みを目指し、明日の津軽を思い描く。[TSUGARU Le Bon Marche・岩木山の見えるぶどう畑/青森県弘前市]

たわわに実ったぶどうを収穫する伊東竜太さん。出来の良さに、思わず笑顔。

津軽ボンマルシェ・岩木山の見えるぶどう畑岩木山を望む、美しい畑で大切に育てられるぶどう。

「ズラッと、ぶどうが実る、その向こうに岩木山。この光景が大好きで」。
柔らかい津軽のイントネーションで、朴訥と、伊東竜太氏が語ります。確かに、整然と並んで美しく実を結ぶぶどうと、今日も凛々しい岩木山のコントラストは見事です。

弘前市一町田(いっちょうだ)。
ここが伊東氏の『岩木山の見えるぶどう畑』です。「80アールある」と言いますから、広さはサッカーコートとほぼ同じ。2009年に開設されました。

ぶどうは、青森でおなじみの「スチューベン」という品種が多く、50アールほどの作付面積。そのほかは、皮ごと食べられて昨今、人気の「シャインマスカット」が10アール弱、残りの畑で「藤稔(フジミノリ)」や「サニールージュ」など、いろいろな品種を少しずつ、計20品種を育てています。「農業って、自分で考えて工夫できる楽しさがある」。そう言って、伊東氏が畑を案内してくれました。他県で一般的な「平棚(点在する木が茂って屋根のように上空を覆う)」ではなく、「垣根(等間隔で木が縦列する)」でぶどうの木を仕立てるのは雪の多い、津軽に合わせたスタイル。

「ヨーロッパでワイン用のぶどうを育てる仕立て方に似ています」。
畑には、以前に『ONESTORY』でも紹介した『オステリアエノテカ ダ・サスィーノ』の笹森通彰氏も見学に訪れたことがあるそう。伊東氏は、さらに工夫して、すべての木が同じY字型に伸びるよう、左右で一本ずつの枝を誘引し、余計な脇芽は摘んで整理しています。こうすると、風通しが良くなり、病気に罹りにくくなる。「光合成の効率も上がる」と言います。ほかにも、根をしっかりと張らせて幹を太くするため、植える木の本数を絞っていること、周囲に自生する草はあまり刈らずに残し、紫外線から土の中の微生物を守るためのカバーにして、健全な土壌を作ることなど、この10年で培った、良いぶどうを育てるための知見をあれこれ教えてくれます。
「田んぼだった土地を買って始めましたが、最初の2年は売れるぶどうが全然、できなかった(笑)」

聞けば、伊東氏は新規就農者。イントネーションから、ずっと津軽の人だと思っていたら、何と、出身は横浜でした。
「最近は両親にも『訛っている』と言われちゃいます」。そこまで、伊東氏が津軽に惹かれた訳とは?理由が知りたくて、これまでのこと、これからのことを聞きました。

名の通り、岩木山を背に作業する毎日。すべての枝を整えるのに一週間がかかり、終わる頃には「初日に手を入れた枝はもう伸びている」。畑を美しく維持するのも一苦労。

ぶどうの木は2.7mの間隔で縦列に並ぶが、足元を見れば、自然な状態で草花が生えている。「作業を考えると歩きにくいんですけどね(笑)」。この草花が健全な土壌を育む。

津軽ボンマルシェ・岩木山の見えるぶどう畑「買う」から「作る」へ。津軽で起きた、私的なパラダイムシフト。

「4年間が本当に楽しかったんですよね。あまりにも楽しかったから、卒業した途端、津軽を去ってしまうのはもったいない気がして。離れたくない。そう思ってしまった」。伊東氏は弘前大学の卒業生。環境問題を学びたいと進学を志し、「学費を考えれば国立」「どうせなら一人暮らしがしたい」と志望校を絞っていった結果の選択でした。
「受験で初めて、津軽に来ました。実際に住んでみたら、独特の良さがあると気付きました。雪が降って不便かもしれないけど、その分、ご近所同士で助け合う優しさがある。見返りを求めているわけではないですけど、雪かきを手伝えば、何か、くれる(笑)。雪があるから、津軽は良い」。農業に興味を持ったのは、「友人たちの元に届く、両親が育てた野菜や果物が魅力的に映ったから」。身近に、実家が農家という校友が多く、横浜時代は「ただ買うモノだった」野菜や果物が、急に「人が愛情を込めて作るモノ」に感じられたそう。「カッコよく言えば、食べ物の有り難さを初めて実感しました」。

横浜と津軽。都市で生活した実体験があったからこそ、津軽の素朴な人情も際立って映ったのかもしれません。農産物に愛を感じてから、就農を決意するまで、そう時間はかかりませんでした。学業の傍ら、旧浪岡町でりんごを育てる後輩の実家に毎週末、通うようになります。
「畑をちょっと見て終わりではなく、やるなら、農家の生活サイクルに入り込むべき。そう考えて一年間、通いました」
そのお父様は青森市が設定する青森農業委員。指導やアドバイスも的確だったのでしょう。そして、自分がこれまで続けてきた農作業に尊敬の念を抱き、懸命に手伝う若者の姿を見て、心底、嬉しかったに違いありません。
「いろいろなことを教えてくれました」。

卒業してからは、まず岩木山麓にある『森の中の果樹園』に就職しました。そこで、いろいろな作物を育てながら、自分に相応しい作物を模索。ぶどうに決めたのは「手間がかかってヘタをすればゼロにもなる果物ですが、しっかりと手をかければ、最高のモノができる。それが魅力」と実感したから。

そして、この土地と出合い、今に至るのです。
「この作物が育つ土地にはどんな景色が広がっていて、その作物はどういう風に実を結ぶのか。作物の育つ環境まで伝えたいんです」
『岩木山の見えるぶどう畑』という名は、そんな伊東氏の志の表明。語る横顔には、静かに燃える熱意のようなものが滲んでいました。

主力の「スチューベン」。昔の「デラウエア」と同じく種があり、果肉だけを食べるが、糖度はかなり高く、味は濃密。国内で生産されるスチューベンの約7割が青森県産だ。

ぶどう畑に巣を張る蜘蛛。「ウチの畑にとっては良いヤツ(笑)。虫を全部、食べてくれますから。食料事情がいいんでしょうね、ウチの畑の蜘蛛、太っているらしいです」

津軽ボンマルシェ・岩木山の見えるぶどう畑伝統のセリ栽培で改めて実感した、量より質の基本姿勢。

一町田は、古くからセリの栽培で有名な地区です。伊東氏がぶどうを育て始めて3年ほどが経った頃、近隣の農家から「セリの栽培もやってみないか?」という申し出がありました。
「名産地ですからね、自分も作ってみたいということは、ずっと周囲に伝えていたんですけど、お話を頂いたときは本当に嬉しかった」
申し出た農家は知人の実家。当初は「『ヨソから来たヤツにセリなんて、できるわけない』と思われていたはず」と伊東氏は言いますが、きっと、ぶどうを作る真摯な姿勢が知人を通じて伝わって、「この人ならできる」と確信したのでしょう。無償でセリ田を貸してくれました。今では、さらに自身でも田を購入して作付面積を増やし、所有する田だけで年間の収量「300〜400kgというレベル」のセリを育てています。
農業は工夫。

セリの栽培でも、伊東氏はこの考えを貫きました。「一本一本がしっかりしたセリを作りたい」。
そう決心して、辿り着いたのが根を抜き取って保管し、新芽と新根が出た「種セリ」を作って水のあるセリ田に蒔く方法。一町田では、根は田に残したまま成長を待ち、オフシーズンの夏、何度か、刈り込みを入れて、冬に力強い枝を育てるのが一般的でした。湧水が豊富で、周囲を巡る用水路からだけでなく、「掘った畑の壁からも水が湧く」一町田では「種セリを蒔くと湧水で流されてしまうから不向き」と思われていた栽培法です。宮城県のセリ農家から学んだ新しい知見でした。新しい知見を得たら、まずは試してみる。試行錯誤を繰り返しながら続けていたら、思い通りのセリが育つようになってきたので、今年からすべて、この栽培法に切り替えました。

しかし、それにしても、セリの栽培は重労働。例年、12月ぐらいから収穫が始まりますが、積雪も多く、極寒のその時季に腰まで水に浸かり、作業は屈んだ状態で。収穫だけでなく、成育のお世話も全部、手作業という過酷さです。「割に合わない」と伊東氏も笑いますが、「種を買って育てるのではなく、自分の株で育てる。それがセリ栽培の面白いところ」。

しっかりと育ったセリは収穫した後、一本一本、丁寧に外葉を取り除き、自宅に掘った井戸の水で「最も美味しい」根をキレイに洗って、収穫の何倍もの時間をかけて、出荷の準備をします。この行程は、最初にセリの栽培に誘ってくれた知人の実家から受け継いだ「私の師匠」の教え。「地元で、採ったその日に食べて欲しい」と思っていますが、最近は直に買ってくれる東京のレストランもできました。
「やっぱり量より質なんですよね。その方がお客様の反応も良く、やっていて良かったと本当に思います。これからも『お客様の口に入る食べ物を作っているんだ』という気持ちを大切にして、農業を続けていきたい」。今度は真顔でそう言い切りました。

取材は9月中旬。「種セリ」を蒔いて2週間ほどの頃で、根も定着。青葉も美しい。「成育に合わせて水位を上げていきます」。20cmの泥の上に、最深で30cmまで水を入れる。

新芽と新根が出た「種セリ」。畑から採取した根を乾かないように保管して1週間ほどで、この状態にする。山と積まれた種セリからは、早くも清涼感ある鮮烈な香りが漂う。

田の一角に前所有者から引き継いだ小屋があり、「かつてはセリの洗い場だったはず」。湧水のプールには絶滅危惧種のイバラトミヨも泳ぐそう。「代々、棲みついています」。

津軽ボンマルシェ・岩木山の見えるぶどう畑津軽は素晴らしい。移住者の実体験に基づくから説得力がある。

工夫を重ね、地道に前進を重ねてきた伊東氏は今、自宅の裏庭に、小さなぶどう畑を新たに設けています。ここは、新しい品種、新しい知見を試しに導入する挑戦の場。
「今年は、新しい試みとして、雨除けを設けてみました。あ、これが『竜宝』ですよ。瑞々しくて甘みもしっかり。個人的にも大好きな品種です。そして、これが『雄宝』。皮ごと食べられて人気です。で、こっちが『ピオーネ』。ぶどうの王様ですね。これは『シャイニーレディ』で……」。
ぶどうの話が止まりません。できたぶどうは全体の7割ほどを市場に卸し、あとは弘前の農業生産法人『ANEKKO』が運営する農産物直売所『野市里(のいちご)』と『オヤマ・アグリサービス』が営む直売所に毎朝、届けています。そして、去年より、自宅の脇に自前の直売所も設けました。
「ぶどうを買いたい人だけが来てくれる。これが理想かもしれません。買う気のない人に買わせるセールストークは苦手ですけど、ぶどうが好きな人にはいろいろ説明したくなる」。

週末限定ですが、今年も10月いっぱいまで、営業を続けます。そして、伊東氏には今、挑戦していることがもうひとつありました。それが、後継者の育成。『鶴田町地域おこし協力隊』に参加して、今は来春の津軽移住と就農を目指す埼玉の夫婦に、ぶどう作りを教えています。「人に教えると自分も勉強になります」。弘前実業高校には、年に8回ほど出向いて、ぶどう畑のことや、作業の実際を解説しながら実技も指導しています。

すべては「自分が津軽でしてもらった恩に報いるため」。そう聞いて、『岩木山の見えるぶどう畑』を案内してくれたときの言葉を思い出しました。
「畑を囲うネットは『森の中の果樹園』で一緒に働いていた深浦町の漁師の奥さんが畑を始めるとき、『もう使わないから』と下さった、漁のための網なんです」。
振り返れば、ぶどう畑の有機肥料を作る材料も、近隣の自然牧場や馬術協会などから家畜の排泄物を、津軽半島・蓬田村からは名産のホタテの貝殻を、安く、ときには「不要だから」と無償で提供してもらっていると言っていました。

こうした互助の精神に、津軽で幾度となく触れてきたから、伊東氏は津軽を愛し、津軽で農業に取り組みたい、そう強く思った──。
「10年、農家をやってきて培った技術や知識を、今度は私が広める番。そして、りんごや米だけではない、ぶどう作りの楽しさ、後継者が不足する伝統のセリ栽培の面白さを、津軽という環境も含めて発信していきたいんです」。
伊東氏の真っ直ぐなチャレンジ精神は周囲に伝播して、津軽で生まれた人、津軽に暮らす人、そして、津軽を目指す人、いろいろな人と繋がっていきます。

農産物直売所『野市里』の棚に、自らぶどうを陳列する伊東氏。これが毎朝の日課だ。「今日は4種で、『竜宝』『シャイニーレディ』『黄玉(おうぎょく)』『藤稔』」。

6年ほど前からりんご生産者『せいの農園』の清野耕司氏と作っている『ぐあばだびょん』はスチューベン×りんごのジュース。ラベルは東京の書家・田川悟郎氏が手掛けた三者のコラボだ。「グァバのよう」を意味する名は最初に飲んだ人の感想を津軽弁にしたもの。

自宅裏のぶどう畑で実っていた『雄宝』。「これでひと房900gぐらいですかね。1.2kgまで成長します」。さっぱりとした上品な甘さで、シャリシャリとした食感も心地良い。

住所:青森県弘前市一町田早稲田24-1 MAP
電話:0172-55-8543
岩木山の見えるぶどう畑 HP: www.facebook.com/iwakibudou