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理屈ではない。また還りたいと思わせる故郷がここにはある。[東京”真”宝島/東京都 青ヶ島]
高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 空撮:田中道人 音楽:木下伸司
東京"真"宝島
島のシンボルは活火山。生きる島と暮らす選択。
「思わず“うわぁ”と声が出ました。それくらい圧倒されました」。
青ヶ島は世界的にも珍しい二重式カルデラ火山の島です。断崖絶壁の島そのものが外輪山を形成しており、南側に広がる「池之沢」と呼ばれる大きなカルデラの凹地の中には、内輪山の「丸山」があります。中野裕之監督が唸ったのは、「丸山」に足を運んだ時のこと。
「空撮のビジュアルは見たことがありましたが、実際に足を踏み入れた地上からの目線でその景色を見ることはありませんでした。周囲にそびえ立つカルデラは、圧巻でした」。
青ヶ島は1785年(天明5年)に噴火を引き起こしました。のちに「天明の大噴火」と呼ばれるこの噴火によって「丸山」は誕生しました。山腹に植林された椿によって縞模様を纏った現在の「丸山」の姿は、青ヶ島の代名詞となる風景です。
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東京"真"宝島上陸難易度は最高クラス。限られた人のみが体験できる島、それが青ヶ島。
都心から南へ約360km、東京都青ヶ島村無番地、日本一人口の少ない村、それが青ヶ島です。しかし、その島へ訪れることは、実に至難の技。至難の技とは、苦行を強いるような困難な道のりという意味ではなく、気象の影響を受けやすいため、上陸できる確率の問題として難易度が高いということです。基本的に東京からの直行便はなく、八丈島からヘリか定期船で渡ります。
「一度、八丈島に降り立ち、そこからヘリで上陸するのですが、それも1日1便9席のみ。予約を取るのもなかなか難しく、人気アーティストのコンサートさながらの争奪戦です。ただ、島民も少ないですし、たくさん観光客が訪れても、それを受け入れる許容や施設がないので、島が島らしくあるための秩序を守るには、きっと今のやり方がベストなのだと思います」。
東京"真"宝島ここは果たして観光地なのか。その広大な自然は、想像をはるかに超える。
「北側に位置する“大凸部(おおとんぶ)”からは島が一望でき、青ヶ島のシンボル、縞模様の“丸山”も望め、絶景が広がります。その先にある“尾山展望公園”も“大凸部”と同じように外輪山の稜線上にあり、ここもお勧めです」と、中野監督。
そして、この2ヶ所に関しては星も美しい場所でもあります。
「夏には天の川が望め、冬には一等星が輝き豪華絢爛です」。
さらに、「星を見るなら“ジョウマン”」と中野監督は言います。
「島の最北端、ジョウマンから見る星はとにかく綺麗です。標高200mのそこは、草原の中にあるため、集落の灯りもなく、絶好の場所だと思います」。
また、青ヶ島の特徴の1つに挙がる、「池之沢」の「ひんぎゃ」(ひんぎゃの語源は、火の際/ひのきわだと言われています)と呼ばれる水蒸気が噴出する穴がありますが、この周辺は地面もあたたかく、冬の寒さも安心です。「地熱と言えば、この地区にあるサウナもお勧めです!」。
そのほか、「丸山」ではハイキングも楽しめ、ゆっくりとその地形と向き合うことができます。
絶景ポイント、星空観測、ハイキング、サウナ……。もちろん、観光も体験できる島ですが、「迫力ある自然は想像以上!」と中野監督は言います。長い年月をかけて鬱蒼と茂る森を作り上げ、「まるで恐竜が出てきそう!」と、生命力がみなぎる島の力に驚愕します。また、前出の地熱というところでは、「例えば、地面が茶色くなってしまっている場所には大地が発熱しているところも多いため、緑が育たないのです。撮影中、三脚を立てても熱くなるくらいでした」。
やはり生きる島、青ヶ島。そんな地球の鼓動を感じる旅を、是非楽しみたい。
東京"真"宝島歴史を振り返り、「還住」を知る。この島にはこの島の生き方がある。
黒潮の真ん中に浮かぶこの島は、いつ誕生し、いつ人が住むようになったのか、未だにはっきりとは分からないそうです。青ヶ島の存在は、15世紀(1401〜1500年)に歴史上に登場するも、その内容は船の遭難や海難事故の記録ばかり。当時の困難な海上交通を物語っています。中でも、青ヶ島を知る上で忘れてはいけない出来事が、先述の「天明の大噴火」です。当時、島民は隣島である八丈島への避難を余儀なくされ、一時は青ヶ島が無人島と化した時代もあったようです。そんな困難な生活を強いられた人々をまとめ上げ、50年余りの年月を費やし、島への帰還を果たしたのが江戸時代の名主と呼ばれた佐々木次郎太夫という人物でした。
「その時に思ったんです。帰るんだ、と。当たり前のことなのかもしれませんが、別の島で生きていく選択もある中、帰るんだ、と」。
火山噴火後、青ヶ島を離れ、再び青ヶ島での生活の復興を成し遂げることができた事実は、1933年(昭和8年)に日本の民俗学者でもある柳田國男氏が発表しています。「青ヶ島還住記」と題されたそれは、苦難の末に青ヶ島へ帰島を果たした事実を記しています。そして、タイトルにも用いられたこの「還住」という言葉は、徐々に島民に定着してゆき、八丈島と青ヶ島を結ぶ定期船の名にも起用され、「還住丸」としてその役目を果たしました(2014年より、定期船は「あおがしま丸」が就航)。
「“還”って“住”む。それが何年経ってしまっても、還って住む。当時の人々にとって、やっぱり青ヶ島は“故郷”だったのだと思うのです。いつか還って住むという気持ちがずっとあったのではないでしょうか。そんな先人たちがいるからこそ、今の青ヶ島があって、島民がいて。滞在中、あるお店で食事をしている時、おそらく同級生の集まりのような会を隣でしていたんです。楽しそうにワイワイと。その方々も、島で生きる選択をして今もここにいるんだと思うと、歴史を振り返ったことも手伝い、なんだか感慨深くなりました。色々な生き方があるんだな、と。そして、この島にはこの島の生き方があるんだな、と。誰にでも故郷はあると思いますが、その場所は極論どこでもよくて。生まれた場所を愛せることは素晴らしいと、この島に訪れて感じました。青ヶ島は、そんな愛に溢れた島だと思います」。
今回、映像の冒頭は、太鼓の音から始まります。「還住太鼓」です。「還住」という言葉は、島民にとってはとても大切な言葉なのです。映像が終わっても、その残像と太鼓の余韻が、きっと心の中で静かに響き続けるでしょう。
(supported by 東京宝島)
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