6.5ozループウィールロングTシャツ

着心地抜群の吊り編みTに長袖が登場!

  • 吊り編み機(LOOPWHEEL)で時間をかけて編み上げたロングTシャツ
  • 左胸にはIRON HEARTとPRIDE OF JAPANのプリント入り
  • プリントTシャツ(14番単糸)より一格薄い生地(16番単糸)を採用
  • ボディ:16番単糸吊り編み天竺/ネック:20番双糸フライス
  • XS〜Lサイズは脇はぎなしの丸胴、XL , XXLは脇はぎ仕様
  • 定番の7.5ozプリントTシャツよりもワンサイズ小さめになります。ご購入の際はサイズスペックをご確認ください
  • 専用衿ネームと裾ネームが付きます。

IHTL-2001 : サイズスペック

着丈 肩幅 身幅 裾幅 袖丈 袖口幅
XS 63 40 87 90 62 8.0
S 64.0 42.0 93.0 96.0 62.0 8.0
M 65.0 44.0 99.0 102.0 63.0 8.5
L 66.0 46.0 105.0 108.0 64.0 8.5
XL 67.5 48.0 113.0 116.0 65.0 8.5
XXL 69.0 50.0 119.0 122.0 66.0 9.0
  • 商品により多少の誤差が生じる場合がございます。
  • ワンウォッシュ済み

素材

  • 綿:100%

求めるのは心の“スパーク”?津軽のヴィンテージファンから愛される、家具屋の名物店主に会いに行く。[TSUGARU Le Bon Marché・RandBEAN/青森県弘前市]

取材中、自らの性格やプライベートについて驚くほどオープンに話してくれた『RandBEAN』代表・佐藤孝充氏。多くの人に慕われる誠実な人柄が伝わってきた。

津軽ボンマルシェ岩木山を眺める高台に佇む、りんご畑に囲まれた家具店。

弘前の街を歩くと、こじゃれたヴィンテージショップをよく見かけます。以前ご紹介した『green』の姉妹店『green furniture』はじめ、古道具や古着を扱うさまざまなテイストの店が揃い、各店に馴染み客が付いている模様。古道具店が多いのは弘前市が戦争時に空襲をまぬがれ、古い蔵や建造物が多く残っているのも理由だそうですが、そこに藩政時代から培われた高い文化レベルと、元々おしゃれなものに敏感な津軽人の“えふりこき”=見栄っ張り気質が相まって、古いものに価値を見出し素敵に活用する土壌が育ったとも言われているそうです。そして数あるヴィンテージショップの中でも人気のひとつが、今回ご紹介する『RandBEAN』(ランドビーン)。弘前市郊外、津軽のシンボル・岩木山を真正面に眺める気持ちのいい高台に位置するショップと工房では、国内外から買い付けたヴィンテージや新品の家具を販売するほか、手頃な価格のオリジナルの家具も製造、古家具のリペアやリメークも受注しています。

『RandBEAN』の代表を務めるのが、地元出身の佐藤孝充氏。実は佐藤氏の話は津軽の色々な所で耳にしていました。例えば弘前市代官町のセレクトショップ『bambooforest』。パッと目を引くウッディなファサードや内装を手掛けたのは佐藤氏で、店主の竹森幹氏とは、互いの店舗がまだ小さかった頃からの旧知の仲だとか。また、『パン屋 といとい』の店主・成田志乃さんと佐藤氏は高校時代の同級生。卒業後、お互い独立を果たしてから偶然再会したことがきっかけで、今では佐藤氏自身が『といとい』の馴染み客になっているそう。そして何より印象的だったのが、佐藤氏のことを話すとき、誰もが表情を崩すこと。竹森曰く「豆さん(佐藤氏の愛称)はね、ほんとおもしろい人なんですよ(笑)」。そんなこともあり、高まる期待と共に訪れた工房。現れたのは穏やかな口調で話す、物腰柔らかな青年でした。

2012年に『RandBEAN』を立ち上げ、多い時には4店舗を展開していた佐藤氏。取材時にはここ弘前ショップ兼工房のほか、青森市内にもショップを運営していました。その躍進の原動力を探ろうと、まずは独立の経緯を聞けば「元々音楽をやっていて。最初はギター作りを勉強していたんです」との答えが。ちょっと意外な話題から、取材のスタートとなりました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

元々りんごの加工場だった場所に造られた木工所跡地を居抜きで購入、改修し、2019年にオープンさせた現弘前店。全体の敷地面積は600坪もある。

ヴィンテージ家具やセレクト雑貨、「カリモク60」「IDEE」などの人気ブランドの新品家具を扱うほか、オリジナルの家具のショールームも兼ねている。

ショップ部分の小窓からは、併設する工房の様子が伺える。「現場を見てもらうことで、自分の家具に愛着を持ってもらいたい」と佐藤氏。

津軽ボンマルシェひとりの音楽青年が、自分の家具店を立ち上げるまで。    

音楽少年だった佐藤氏は高校卒業後、「楽器が作りたい」と東京の音楽・芸能系の専門学校へ。そこで2年間、ギター制作を学んだそう。「木に触れながらものづくりをするのはいいなと思っていました。でも卒業したものの、職人になる気が起きなくて。東京にいる理由もないから、弘前に帰ったんです」と佐藤氏。帰郷後は、当時弘前にあった伝説的なライブハウス『萬燈籠』を拠点にアーティスト活動を行うかたわら、観光施設『津軽ねぷた村』で働き出します。ねぷた祭や津軽の伝統芸能、伝統工芸を紹介するこの施設で担当していたのは、木工芸品の制作や販売。曰く「やっぱり木に触れる仕事に惹かれたんでしょうね」。

昔から中古品好きで、東京在住時は高円寺で古着屋巡りをしていたという佐藤氏はその後、アンティーク家具の輸入販売業者へ就職。約9年間、家具の修理や制作、買い付けを手掛けていました。しかしその間に一度退職、さらに同じ会社への再就職を経験したという佐藤氏。退職の理由は、一社員の立場では、やりたいことがなかなかできないというフラストレーションだったといいます。「大鰐町にある木工房に入り、3カ月勉強させていただきました。でも、何か違うんですよ。そこでは県産の無垢材の家具を受注生産していて、技術も作品もすばらしいけれど、ひとつの家具が何十万円もする。僕は自分と近い年齢の人たちが、もっとリアルに生活に使えるもの、10万円あれば買えるようなものがやりたいんだと気付いたんです。それで工房を辞め、元いた会社に戻りました」と佐藤氏。

もうひとつ、10年ほど続けていた音楽活動にも転機が訪れます。自分がいいと思ったパフォーマンスとそれを観た周囲の反応の落差に、音楽は結局聴く人の好みがすべてなのだと感じたこと、そしてとあるアーティストとの対バンで、輝くばかりの才能を目の当たりにしたことがきっかけでした。そのアーティストとは、今や超が付く人気者となった竹原ピストル氏。「こりゃ敵わないと思ったし、自分はもうやりきったかなって。ザ・挫折ですよ」と佐藤氏は笑います。それまで自己実現の手段だった音楽をあきらめることで、次に踏み出した佐藤氏。自分が理想とする家具を、自分が思い描く方法で販売したい。そんな想いを胸に、リペアやリメイクの頭文字「R」に自身の愛称「豆」=BEANをくっつけた屋号『RandBEAN』を掲げ、ヴィンテージ家具の専門店としてスタートを切ったのでした。

座面の生地を張り替えたヴィンテージの椅子は、創業当初からの人気アイテム。生地の張替えのオーダーも多く受注する。

テーブルや椅子、シェルフなどのオリジナル家具の受注生産を始めたのは、独立から数年後。店舗やギャラリーの内装を丸ごと請け負うこともある。

扱う商品の中には、「津軽ボンマルシェ」で紹介してきた作家のものも。こちらは『YOAKE no AKARI』が手掛けたキャンドル。

津軽ボンマルシェ常に子どものような心で、物事と向かい合っていたい。

それは独立時の心境を聞いたときのこと。「今もそうだけど、僕はいつも“スパーク”していたんです」。佐藤氏はふと呟いてから、こう続けました。「誰かの言葉に『気付いたら夕日を背負っていた』みたいな表現が出てきて、すごくいいなって。子どもの頃って、夢中になって遊んでいたらあっという間に夕方だった。いつもそんな気持ちでいたいんですよ」。やってみたいという直感が弾ける瞬間が“スパーク”。そしてこれこそが『RandBEAN』の躍進の原動力です。

独立当初、親戚のりんご倉庫を借りて始めた店は、ほどなくして弘前市中心部にある商業施設に移転。3年目には市内のデパート『中三 弘前店』内に移転したほか、青森市内の『中三 青森店』に支店を出します。その後も弘前駅前の商業施設『ヒロロ』や五所川原市の『エルム』内に短期出店。拠点となる弘前の店ではヴィンテージやオリジナルの家具に力を入れ、青森店では新品の家具、ほかではリーズナブルなユーズド家具をメインに、エリアに合わせた商品展開を続けてきました。「創業してからの7年はずっと『やりたいことはやる、やってみないと分からない』という精神でした。思うように行かず泣いてばかりでしたが(笑)、自分のスパークに正直に、ブレずにやってきたと思います。でも最近会社が大きくなり過ぎて、スパークできているのか分からないときが続いて。拡大するより、10年、20年続けられる店にしたいという気持ちが出てきたんです」と佐藤氏。

昨年、長く営業していた『中三 弘前店』の店を閉め、次なる拠点を探して見つけたのが今の場所。岩木山の雄大な眺めに一目ぼれだったといいます。そして着手したのが、お客さんと作り手の距離が近い、工房併設のショップ作り。7年の経験を経てたどり着いた、佐藤氏の理想の店舗の形でした。資金調達にはクラウドファンディングも利用。店舗面積120坪の新たな『弘前店』が誕生します。「この物件の話が来たとき、この場所で経営者として、地に足をつけてやっていきたいと感じて。これも自分なりのスパークだと思っています」と佐藤氏。

現在、家具の制作やリペアを担当するスタッフは2人。どちらも佐藤氏がスカウトした、キャリアの長い腕利きの職人だ。

同世代でも手が届くアイテムを。佐藤氏のそんな想いが込められたさまざまなオリジナル家具を制作。定番は、古材を再利用したシリーズ。

セレクトショップ『bambooforest』のファサードは、店主の竹森幹氏のアイデアを佐藤氏が具現化したもの。木目のリズミカルな配色がユニーク。

津軽ボンマルシェ気付けば、最高のチームに囲まれて。“スパーク”探しの旅は続く。

かつて「やりたいことがやれない」と不満を抱えていた会社員時代のことを「結局、失敗の責任を負うのは自分自身。一社員の僕には、そんな覚悟もなかったんだと思います」と振り返る佐藤氏。『RandBEAN』を立ち上げてからは、「ひとりでできると意気込んだのに、デザインひとつ決めるのも不安で。何度も壁にぶつかりました」と話します。そんなとき救いとなったのが、周囲のスタッフの存在。「今いるスタッフは最高なんです。彼らにきちんと休みを取ってもらい、家族を養える給料を渡すのが、今の僕のモチベーションといってもいいくらい。地に足をつけるとか、安定を求めて守りに入るって、マイナスに捉えられがちだけどそうじゃない。大事なものが壊れないよう大切に扱いながら自分の人生を生きる“タフさ”、そこに夢があるなと思うんですよ」。佐藤氏は笑顔で付け加えました。「今は、次の“スパーク”待ちの期間かも。ていうかこの取材、こんなとりとめのない話ばかりで大丈夫ですか?(笑)」。

事実、佐藤氏と話した2時間のうち、家具や木工の話題はそれほど多くありませんでした。それより盛り上がったのは、影響を受けた本のことや、自身の家族のこと。ときには佐藤氏の悩み相談のような展開になった場面もありました。まだ会って間もない相手に対し、オープンに本音だけを話してくれた佐藤氏。取材中、『RandBEAN』を売り込むお決まりの宣伝文句のような発言は、ただのひとつも出なかったことが記憶に残っています。「木の質感や素材としての魅力は好きだけれど、それで自分の作品を作りたいわけではなくて。家具そのものより、それを使う人の暮らしがいいものになることが理想です」と佐藤氏。

個人ごとですが、担当ライターの住まいは東京郊外。「RandBEAN」のようにヴィンテージやオリジナルの家具を手掛ける店は、近所にも多数存在します。それでも話を聞くうち、いつか弘前のこの店で家具を誂えたいと思うようになったのは、佐藤氏の人柄に惚れ込んでしまったからにほかなりません。多くの人が顔をほころばせながら佐藤氏の話をする訳は、飾ることも強がることもなく、手探りで挑戦を続けるその生き方が魅力的だからでしょう。取材後しばらくして、佐藤氏からメールが届きました。
“青森店を閉め、弘前店の売り場を倍にすることにしました。今、弘前店の二階を改装中で、外には飲食スペースも作る予定です”。
どうやら新たな“スパーク”を見つけたらしい佐藤氏。きっと今頃は日が暮れるのも忘れ、夢中で改修作業に取り組んでいるはずです。今年4月に予定されているリニューアルオープンが、弘前の春に楽しい話題を運んでくれることは間違いないでしょう。

2018年青森市の中心街にオープンしたカフェレストラン『UGUISU』には、テーブルや椅子、スツールを納品。直線と曲線のコントラストが美しい。

「昔は中古品の安さやかっこよさに惹かれていたけれど、この仕事を始めてからは、物が持つストーリーに魅力を感じるようになりました」と佐藤氏。

古い窓枠を配したファサードが印象的な『RandBEAN』弘前店。スタッフの労働条件を考慮し、現在ショップの営業は週4日のみ。今後スタッフを増員し、この4月からは水曜定休のみに変更となる。

「若い頃から地元・青森が大好き。東京に比べたら田舎だけど、そんなところもいいんです」と佐藤氏。取材時の本音トークの端々に、愛されキャラの片鱗が見えた気がした。

住所:青森県弘前市小沢山崎83-4 MAP
電話:0172-55-9564
https://randbean.com/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

和牛の原型と言われる、幻の純血種から生まれた奇跡のハンバーグ。[やまぐち三ツ星セレクション・ハンバーグ/山口県]

幻の純血種“見島牛”の血を受け継ぐ“見蘭牛”を100%使用した粗挽きハンバーグ。あふれ出る肉汁と肉本来の旨味を堪能できる。

やまぐち三ツ星セレクション希少な純血和牛「見島牛」を未来へ守る。

「見島牛(みしまうし)」という名を聞いたことはあるでしょうか。それは、山口県萩市の沖約44kmに浮かぶ離島、見島で飼育されている牛のこと。室町時代に朝鮮半島から渡来し、農耕用の役牛として飼育され、現代に至るまでその命が脈々と受け継がれてきました。西洋種の影響を受けていない、日本に残る純血和牛2種類のうちのひとつが見島牛。和牛の原型と言われる見島牛は、その文化遺産としての価値も高く評価されており、見島全域とともに「見島ウシ産地」として国の天然記念物に指定されています。

島人が育てる見島牛は、その数わずか約80頭。島内で見島牛を飼育する6戸のうちの一つであり、見島牛保存会会長を務める多田一馬氏を訪ねました。
「牛は家族の一員。物心ついた時から家に牛がおるのは当たり前で、子どもの頃には親父や爺さんが田んぼや畑で牛を使っていたのを覚えていますよ。専用の農耕具を引かせて土を起こしたり、整地したり。親父や爺さんは手綱1本で指示を出すとなんでも言うことを聞くんやけど、子どもの私やと全然だめでね。とても賢いんですよ、牛は」と笑います。

【関連記事】やまぐち三ツ星セレクション/山口県を身近に感じる逸品たち。そのふるさとを訪ねて。

▽見蘭牛 男の粗挽きハンバーグ
価格:1.620円

見島は人口約740人の小さな島。萩港から定期船で約70分。冬場は船が揺れることが多く、欠航率も高い。

成熟した見島牛。一般的な和牛に比べて体高は低く細身。しかしながら力は強く、ジャンプ力もある。

見島牛共同飼育場を多田氏に案内してもらう。見知らぬ取材班が訪れても、従順で性格が穏やかな見島牛はいたって静か。

見島牛共同飼育場の放牧地にて、対馬沖の漁師を辞めて地域おこし協力隊として見島牛飼育のために島に移住した花田康章氏。開放的な土地で、見島牛はストレスなく育つ。

やまぐち三ツ星セレクション働き者で、グルマンも唸らせる、見島牛こそ牛の鑑。

見島牛は一般的な黒毛和牛と比較すると体格が小さく、成熟まで5年、7〜8歳まで成長が続くように発育は遅いのが特徴です。しかし、性格は穏やかで、粗食に耐え、病気に強く、力も強いとあって、農耕の重要な担い手となってきました。「まず牛に食べさせて、残り物を人間たちが食べたものです」と多田氏が話すように、室町時代から代々、各家庭で家畜以上の存在として大切に飼われてきたのです。
昭和30年代、その伝統が大きく変わってしまいます。農機具の機械化と共に見島牛の役牛としての必要性が薄れ、働き手とならず飼育にお金と手間がかかる牛を手放す農家が続出。一時は600頭もいた見島牛は33頭にまで激減してしまいました。
天然記念物の行く末に危機感を覚えた地元青年たちが中心となり、昭和42年に見島牛保存会が設立。共用の運動場を開設し、運動や健康診断を推進するなど地道な保護増殖の努力により、現在は80頭余りまで回復してきました。

現在、見島牛は保護増殖に影響しない去勢牛や雌の廃用牛が年間数頭ほど島外に出され、食用として消費されています。気になるのはその味です。
味わった人は「いくらでも食べ続けられる美味しさ」と絶賛します。一般的な高級和牛よりも霜降り具合が落ち着いていて、肉のサクサクとした小気味よい食感と力強い赤身の旨味を楽しめるとあって、牛肉マニア垂涎のブランド牛となっています。

多田氏の牛舎で生まれたばかりの仔牛。「うちではメスばかりが産まれとる。メスは金にならんからつらい」と苦笑いするが、その目は母親候補の誕生にうれしそう。

放牧場から、宇津港を望む。豊穣な海と緑に覆われた大地が見島牛を育む。

正観音が祀られる観音崎は絶景スポットの1つ。島内には風光明媚な名所も数多く点在する。

自然環境に即した暮らしを大切にする見島。ゆったりとした“島時間”に合わせて心穏やかに過ごすことができる。

やまぐち三ツ星セレクション見島牛の肉質を受け継ぐ「見蘭牛」をハンバーグに。

絶品と称されながらも、あまりにも希少な見島牛。一人でも多くの人にその魅力を体感してもらうことが、島民の暮らしを支え、見島牛の種の保存にも繋がります。そんな中で今、脚光を浴びているのが「見蘭牛(けんらんぎゅう)」です。見島牛を父親に、オランダ原産のホルスタインを母親に持ち、24カ月をかけて育てられる、萩市が誇る銘柄牛です。

見蘭牛を飼育する『ミドリヤファーム』の代表・藤井照雄氏は見蘭牛の特徴について話します。
「ホルスタインは乳牛のイメージがあるかもしれませんが、ヨーロッパでは肉牛としても肥育されます。ホルスタインと見島牛を交配すると、見島牛ならではの濃醇な風味やすっきりとした後味といった優れた肉質が受け継がれながら、ホルスタインのように四角く大きな体に育ちます。肉質は見島牛に匹敵する美味しさ。肉そのものの圧倒的な旨味を楽しんでいただくために、ぜひ塩で味わっていただきたいです」

そんな見蘭牛の味を手軽に、そして存分に楽しめるのが「見蘭牛・男の粗挽きハンバーグ」です。つなぎを一切使用せず、見蘭牛を100%使用。ソースではなく、添付の藻塩と胡椒でいただくという、肉のポテンシャルに裏打ちされた、なんとも潔いスタイルです。
商品担当の藤井治雄氏は、開発の苦労を振り返ります。

「ソースを使わずに塩で美味しいハンバーグを、しかもレトルトで完成させるのは想像以上に難しいチャレンジでした。当初はいろいろなつなぎを試しましたが、最終的には複数の大きさに挽いた見蘭牛の粗挽き肉、脂の比率、混ぜ方の順番を突き詰めることで満足のいく仕上がりに到達することができました。口に広がる肉本来の旨味を堪能していただきたいです」
孤島で奇跡的に命が紡がれてきた純血和牛から生まれた奇跡のハンバーグ。格別な食体験となるのは、間違いありません。

萩市内の牧場で飼育されている見蘭牛。顔つきは見島牛に似ているが、体格はホルスタインのように立派だ。野生のウリボウの登場にも気にせず堂々と餌を食む。

『ミドリヤファーム』の加工施設に隣接する直営レストランと直売店。見島牛と見蘭牛を味わえるとあって、遠方から足繁く通う客も多い。

『ミドリヤファーム』の直売店『みどりや本店』では、見蘭牛の生肉のほか、ソーセージなどの加工品も販売。地元の常連客でにぎわう。

『ミドリヤファーム』の藤井照雄氏(左)、見島牛保存会会長の多田一馬氏(中)、地域おこし協力隊の花田康章氏。見島牛の保護に不可欠な3人だ。

「見蘭牛 男の粗挽きハンバーグ」¥1620。遊び心あふれるパッケージ。湯煎するだけで絶妙な焼き加減の極上ハンバーグを味わえる。

住所:〒750-0025 山口県下関市竹崎町4-2-36 MAP
電話:0120-414716
https://www.ymtc-webstore.jp

住所:〒758-0057 山口県萩市大字堀内89番地 MAP
電話:0838-25-1232
https://www.ym-tc.co.jp/list/

(supported by 地域商社やまぐち株式会社)

3人のキーマンが振り返る、世界遺産を舞台に躍動したシェフユニット「GohGan」幻の饗宴。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

ダイニングアウト琉球うるま

2020年1月中旬、沖縄県うるま市を舞台に開催された『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。
舞台となったのは県南東部のうるま市に残る世界遺産・勝連城跡。古くから海運の要衝で、15世紀には琉球王朝と拮抗(きっこう)する栄華を誇った勝連。様々な国や地域の人々を受け入れ、文化に寄り沿うことで発展してきた土地には「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」の精神が今も根づいているといわれています。今回の『DINING OUT』のテーマは、この「肝高」、そして交易の地に伝わる「おもてなし」。

そんな壮大な舞台で料理を担当するのは、世界的なシェフ二人で構成されるポップアップユニット「GohGan」。2010年に開いた「Gaggan」で、エグゼクティブシェフを務め、世界から注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurants」では4位を獲得したインド人シェフのガガン・アナンド氏。そして、九州で唯一「Asia's 50 Best Restaurants」にランクインした「La Maison de la Nature Goh」の福山 剛氏。

そして、2人をよく知る「The World's 50 Best Restaurants」の日本評議委員長を務める中村孝則氏がディナーホストを努めました。

沖縄とインドの融合、サプライズによる彼らなりの「おもてなし」を実現させた驚きの二晩を、3人のキーマンが振り返ります。

【関連記事】DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年、フランス料理店『イル・ド・フランス』で研鑽を重ね、その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「Asia's 50 Best Restaurants 」に選出され、2019年には24位にランクインを果たす。

インド コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、エルブジで研修を積む。2010年に開いたレストラン「Gaggan」では、エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurant」では4位を獲得。同年8月新たなチャレンジに向けてお店をクローズし11月に再始動をする。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を授勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士の称号も授勲。(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称))2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。
http://www.dandy-nakamura.com/

一度味わうと忘れられない、甘鯛という滋味。真冬の海でその最前線を追う。[Fisherman’s Wharf Shimonoseki・甘鯛/山口県下関市]

フィッシャーマンズワーフ 下関OVERVIEW

若狭のぐじや京料理などでよくその名を目にする高級魚・甘鯛ですが、実は山口県は国内屈指の漁獲高を誇ります。というのも長年、漁獲高は山口県が全国一位を保持。足が早い魚でもあるため、都心にはなかなか出回らず、県内消費が多かったといいます。
しかし、そんな話は今や昔、冷凍保存の設備の向上や、漁師の船上での神経締めの技術の発達により、今や下関産の甘鯛も全国屈指のブランド魚の仲間入りを果たそうとしています。

淡白な味わいながら、火入れや下処理など丁寧な仕事を施せば施すほど、どんな料理にも適応するポテンシャルを持ち、滋味溢れる味わいは食通を唸らせます。なかでも脂を蓄える冬場の甘鯛は絶品と言われています。
下関沖、真冬の海での甘鯛漁から、フレンチの食材としても大活躍のレストラン、さらには高級魚・甘鯛の干物まで、一度味わうと虜になってしまう下関の甘鯛の現場を訪れました。

【関連記事】FIsherman's Wharf SHIMONOSEKI メインページ/豊かさの再発見。改めて知る海峡の街・下関へ

(supported by 下関市)

美しき藍色に染まる絶海の群島は、世界を震撼させた固有種の宝庫。[東京“真”宝島/東京都 父島]

東京"真"宝島OVERVIEW

竹芝桟橋から定期便の「おがさわら丸」に乗ること24時間。航路の途中は電波もほぼつながることがなく、旅の行きすがら、日常がいかに携帯電話に依存していたかを実感するところから小笠原諸島への旅路ははじまります。
午前11時の出港から、船内でランチを味わい、見渡す限り360度の海の青に染まる世界を貪り、さらには燃えるような夕日を眺め、それでも余りある時を過ごせる船の時間。レストランでの夕食の後、ほろ酔いで星空を観察する頃には、電波なんて気にしなくなっている自分に気がつきます。

日常とはかけ離れた時間旅行。小笠原諸島を目指す人は、そんな一瞬を求め、この島を目指すのかもしれません。

翌朝、朝日とともに身体が自然と目覚めると、島への上陸の準備は万端。小笠原の玄関口となる父島への旅が、いよいよ幕を開けるのです。

東京都に属しながらも、所在地は都心から南へ約1000kmの絶海の群島。かつて島を開拓したハワイや欧米系の人々が「無人(ぶにん)」を「ボニン」と発音したことからボニンアイランドの愛称で親しまれ、小笠原の象徴である息を呑むほどの美しい海の藍色は「ボニンブルー」と呼ばれてきました。

さらには島が歩んだ歴史も特筆。小笠原諸島は1543年にスペイン船により発見された後、日本人よりも先に欧米系やハワイ系の人々が定住していたと言われています。その後、日本では1593年(文禄2年)に、信州深志(松本)城主小笠原時長のひ孫、小笠原貞頼が発見したと伝えられています。

そして2011年には、その隔絶された環境により独自に進化を遂げた固有種の生態系が高く評価され、小笠原諸島は世界自然遺産に。生息する陸産貝類のうち約100種が固有種という驚異的な報告も世界を驚かせました。

行きづらい、だからこそ守られた自然と歴史に育まれた、固有種の宝庫。それこそが、美しい藍色に彩られたボニンブルーの島・父島なのです。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

月と砂漠の先にある世界。僕は、まるで小惑星に降り立ったような錯覚を覚えた。[東京”真”宝島/東京都 大島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

日本唯一の砂漠。そこにはSF映画のような風景が広がっていた。

なぜ日本唯一なのか? そう思う人も少なくないでしょう。
その理由は地図にあります。国土地理院が発行する地図に唯一「砂漠」と記された場所が大島にあるのです。その1つである「裏砂漠」のことを、映像作家の中野裕之監督はこう言います。
「SF映画の惑星のような場所」。

初めて訪れたのは、22年前。その後、公私ともに幾度となく訪れた大島は、数々のミュージックビデオを手がける中野監督にとっては、「音」を感じる島でもあります。
「子供が小さい頃、一緒に三原山を登りました。そこに吹く風の音が何か原始的で。そんな自然音が印象的でした。仕事では、映画の撮影や日本を代表するあるアーティストのミュージックビデオの撮影で訪れたのですが、そのロケーションが裏砂漠でした。東側一帯は黒い火山岩で覆われ、歩く度に聞こえてくる“ジャッジャッ”という音がリズムを刻んで。今回も、あの岩の前であれを撮って、これを撮って……など、当時の音楽や撮影シーンが走馬灯のように思い出されました。また、(時期により)朝夕に霧が出るのですが、それが映像としてはとても幻想的。裏砂漠は低層ですが起伏の表情も豊か。SF映画の惑星のような場所でした」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

地球ではなく、まるで違う惑星の世界のような「裏砂漠」。

黒い火山で覆われた「三原山」の東側一帯に広がる「裏砂漠」。

夕刻の「三原山」もドラマティック。「ずっと眺めていると心まで浄化されるよう」。

島の面積は約91㎢。伊豆諸島北部に位置する最大の島であり、都心から最も近い島でもある。

東京"真"宝島「裏砂漠」へ向かう道。その美しい名に感じる浪漫。

「裏砂漠」へ向かう道は、大きく分けて3つ。東側の道から入って高台から向かう「月と砂漠ライン」、東側の道沿いにある入口からの道、そして北側から向かう「再生の一本道」です。
「今回、僕は『月と砂漠ライン』から裏砂漠へ向かいました。『月と砂漠ライン』は、208号線(大島一週道路)から入るのですが、看板がとにかく小さいです。そこから3kmほど山道を走り、行き止まりにある駐車場まで行き、更に徒歩で約10分かけてたどり着きます。裏砂漠自体の景色が良いのはもちろんですが、何が良いって、この道のネーミングが美しい」。
月と砂漠……。それはまるでバンド名のようでもあります。

そして、「再生の一本道」。この道は、「温泉ホテルルート」と呼ばれ、この温泉ホテルとは、「大島温泉ホテル」を指します。
「大島温泉ホテルは、何度も宿泊しました。ここの露天風呂は、目の前に原生林が広がり、その奥には三原山が望めるのですが、それが本当に絶景!遮るものが何もなく、温泉の癒しを感じながら大島を体中で体験できます!」。
その「温泉ホテルルート」は、約3km歩いて向かうハイキングコース。この道中では、この場所の過酷な自然環境を目にすることができるでしょう。溶岩の上から出す芽が、徐々に草原になる。その後、樹木が育ち、森を作る。裏砂漠への道は、風景ができるまでのプロセスを描く道でもあり、そんな「再生」の物語がここには形成されているのです。
「大地の上にゴツゴツとした溶岩石が転がっているので、植物が根を張るのはきっと困難な場所だと思います。しかし、そんな環境でも力強く、たくましく、何とか生きようとしている姿に心が打たれます。生命力のエネルギーがすごい。植物は偉大ですね」。

「裏砂漠」は、三原山のマグマのしぶきが大地を焼き、植物を燃やし、漆黒の世界を創造しています。強く吹く風も手伝い、植物が定着しにくい場所でもあるのです。「それでも所々、綺麗な緑がちゃんとあって。昔はもっと黒かったと思うのですが、ちょっとずつ、ちょっとずつ増え、きっと現在に至るのだと思います。また来た時には、もっと緑が増えているかもしれませんね」と、中野監督はしみじみ話します。
そんな希望も込めてなのか、「再生の一本道」の一部には、こんな名前も付けられています。
「いつか森になる道」。
通りの名前を見ているだけで浪漫を感じる島、それが大島なのです。

「裏砂漠」から見る「三原山」。黒く焼けた大地の中、自生する植物が少しずつその面積を広げる。

寒さの残る3月の早朝の「裏砂漠」では雪が積もり、白いベールを纏わせる。

漆黒の世界が広がる「裏砂漠」。左側にある細い道が、「月と砂漠ライン」。

長く続く一本の道は、「再生の道」。温泉ホテルルートと呼ばれるそれは、「三原山」まで約3km。

東京"真"宝島大島の神聖。耳を澄ませば聞こえてくる、自然のオーケストラ。

「大島でもうひとつ印象深かった場所、それは神社でした」と中野監督は話します。その場所は、「大宮神社」と「波知加麻(はじかま)神社」です。
「一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と、ゆっくり長い参道の階段を登り、その鳥居を潜る度に何か世界が開けた感じがしました。左右には巨木が幹を連ね、数百本はある椎の木は圧巻です。しかも、椎の木は神木でもあるので、その群生の画力たるや凄まじかったです」と、神社のことを振り返り、映像制作をする上で欠かせない音についても言葉を続けます。
「大宮神社は、まず風の流れが良かったです。風が流れれば音が生まれ、その風によって葉が擦れ、更に音が重なる。加えて、ここでは鳥もさえずり、心地良い音も奏でていました。鳥がいるということは、そこにはひとつの生態系ができている証拠だと思います。そんな環境もまた神々しい。それらが成す重層音は、まさに自然のオーケストラのようでした」。

そして、「波知加麻神社」。
「ここも印象的だったのは、参道です。大宮神社の椎の木に対して、波知加麻神社は杉。天高くそびえる杉の林立は、陽光を遮り、独特な隠の世界を作っています。その環境も手伝っているのだと思いますが、目線を下げれば生き生きと苔がむしています。それはまるで絨毯のように広がっていました」。

1939年(昭和14年)12月に東京都指定天然記念物に指定された「大宮神社」。

「大宮神社」の参道には、巨木が連なる。途中、手水舎や鎮座する狛犬もその姿を表す。

「波治加麻神社」は、三社ある大島の旧郷社の中のひとつ。残りのふたつは「大宮神社」と「波浮比咩命神社」。

波治加麻神社」の参道は、真っ直ぐに伸びる杉の古木に囲まれる。

東京"真"宝島切られた大島。1万5千年前と今をつなぐ、歴史の風景。

島の西側、208号線を元町港から波浮港へ走ると現れるのが「地層切断面」です。長さ約630m、高さ約24mのそれは、言葉を失うほど圧倒されます。
中野監督曰く、「大島最高のジオ」。

伊豆大島の火山は、世界的にも解明の進んだ火山として有名であり、噴火を表す木目のような単位層を辿ると約1万5千年前の年月を数えるものもあると言われています。
「そんな昔からこの断層はここにいたんだと思うと、今こうしてその歴史の一片を見ることができるのって奇跡ですよね」。
そして、この断面は島民からとても愛されてもいるのです。その証に最寄りのバス停には「地層切断面前」とあり、愛称はバームクーヘン!(バス停のサインもバームクーヘン型!)
もちろん、大切に保護管理もされています。

また、「切る」という意味では、「地層切断面」の真逆にある島の北側に位置する「泉津の切り通し」。まるで巨木がまっぷたつに切られたような道は、パワースポットとして知る人ぞ知る場所でもある。そして、数十万年前より太平洋の荒波に切り削られて現在のような形になったと言われる「筆島」も是非。「神の宿る岩」としても知られ、ここもまた神聖な場所として足を運ぶ人が多いと言います。

近くで見ると様々な表情を持つ地層が幾十にも重なっている。その数だけ時が経った証。

少し引いて見た「地層断面」。道路のサイズと比べれば分かるよう、巨大な地層がうねりを上げる。

「砂の浜」上空から見た「地層断面」。長い距離を保ってその断層が続いているのが分かる。

「三原山」の火口。この山の噴出物によって、「裏砂漠」の一面は黒く覆われている。

まるで異次元への誘いのような「泉津の切り通し」。両脇には根がむき出しになり、今にも動き出しそう。

手前にある突起した岩は、「筆島」。高さ30mほどのそれは、れっきとした島であり、小さな無人島。

「筆島」の裏手にある岩。一箇所だけ赤く焼け、まるでここだけ切り削られたような異彩を放つ。

東京"真"宝島都心から最も近い島へ。次の旅先の候補には是非、大島を!

高速船、フェリー、飛行機でのアクセスが可能な大島は、都心から最も近い島であり、例えば高速船であれば東京・竹芝から1時間45分で到着します。
「大島は都心から近いですし、まず島のビギナーの方にもお勧めです。是非、春には大島桜を見てもらいたいです。シーズンを迎える島内には、多くの大島桜が咲き誇ります。今回の映像や写真にも入れているのですが、大島桜はピンク寄りの色味ではなく、白に近く、それを再現するのがなかなか難しかったです。なので、是非、実際にその目で見てください!」。

島の御神火様であり、シンボルの「三原山」の登山をすれば、この島の鼓動を感じることもできます。
「標高は758mなので、登りやすい山だと思います。火口を周遊できる遊歩道も完備されていますし、散策コースとしても最適だと思います。もちろん景色も抜群!」。

また、海にも宇宙がありました。
「魚、ウミガメ、サンゴ……。どれも美しいですよね。世界に自慢できるようなサンゴに魚たち。海の中にも宇宙があるっていう感じですよね。僕は近頃はやっていないですがもう一度、本格的にダイビングを始めたくなってしまいました! 大島でダイビングにハマってしまうということをよく聞くのですが、その意味がわかりました。この水中撮影をした佐藤さんは若い頃に務めていた仕事を辞め、それを本業にまでしてしまいましたからね!」。

花と葉に香りがあることや花が大きいことが特徴とされる「大島桜」。例年、3月から4月が見頃。

開花時期を迎えると、島内には「大島桜」がそこかしこに点在している。

「三原山」の火口周辺には遊歩道が用意され、散策やハイキングも可能。

手付かずの自然が残る美しい海では、美しいサンゴを見ることができる。

ダイビングで更に潜れば、色とりどりの熱帯魚や魚群との出合いもあり、別世界が広がる。

優雅に泳ぐウミガメ。「都心から1時間45分でウミガメに会えるなんてすごくないですか!」と興奮する中野監督。

「三原山」周辺には、ほかの山も点在する。ここ「白石山」は、大島で2番目に高い山。ちなみに、中央の車が見えるところが「月と砂漠ライン」の駐車場。

「トウシキ遊泳場」は、溶岩に囲まれた自然のプールのよう。溶岩が波を遮り、穏やかではあるが深さがあるため、飛び込みも楽しめる。

島の最南端から臨む大島。黒潮の影響により、一年を通して温暖な気候に恵まれているため、オールシーズン心地が良い。

月と砂漠の先にある世界。僕は、まるで小惑星に降り立ったような錯覚を覚えた。[東京”真”宝島/東京都 大島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

日本唯一の砂漠。そこにはSF映画のような風景が広がっていた。

なぜ日本唯一なのか? そう思う人も少なくないでしょう。
その理由は地図にあります。国土地理院が発行する地図に唯一「砂漠」と記された場所が大島にあるのです。その1つである「裏砂漠」のことを、映像作家の中野裕之監督はこう言います。
「SF映画の惑星のような場所」。

初めて訪れたのは、22年前。その後、公私ともに幾度となく訪れた大島は、数々のミュージックビデオを手がける中野監督にとっては、「音」を感じる島でもあります。
「子供が小さい頃、一緒に三原山を登りました。そこに吹く風の音が何か原始的で。そんな自然音が印象的でした。仕事では、映画の撮影や日本を代表するあるアーティストのミュージックビデオの撮影で訪れたのですが、そのロケーションが裏砂漠でした。東側一帯は黒い火山岩で覆われ、歩く度に聞こえてくる“ジャッジャッ”という音がリズムを刻んで。今回も、あの岩の前であれを撮って、これを撮って……など、当時の音楽や撮影シーンが走馬灯のように思い出されました。また、(時期により)朝夕に霧が出るのですが、それが映像としてはとても幻想的。裏砂漠は低層ですが起伏の表情も豊か。SF映画の惑星のような場所でした」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

地球ではなく、まるで違う惑星の世界のような「裏砂漠」。

黒い火山で覆われた「三原山」の東側一帯に広がる「裏砂漠」。

夕刻の「三原山」もドラマティック。「ずっと眺めていると心まで浄化されるよう」。

島の面積は約91㎢。伊豆諸島北部に位置する最大の島であり、都心から最も近い島でもある。

東京"真"宝島「裏砂漠」へ向かう道。その美しい名に感じる浪漫。

「裏砂漠」へ向かう道は、大きく分けて3つ。東側の道から入って高台から向かう「月と砂漠ライン」、東側の道沿いにある入口からの道、そして北側から向かう「再生の一本道」です。
「今回、僕は『月と砂漠ライン』から裏砂漠へ向かいました。『月と砂漠ライン』は、208号線(大島一週道路)から入るのですが、看板がとにかく小さいです。そこから3kmほど山道を走り、行き止まりにある駐車場まで行き、更に徒歩で約10分かけてたどり着きます。裏砂漠自体の景色が良いのはもちろんですが、何が良いって、この道のネーミングが美しい」。
月と砂漠……。それはまるでバンド名のようでもあります。

そして、「再生の一本道」。この道は、「温泉ホテルルート」と呼ばれ、この温泉ホテルとは、「大島温泉ホテル」を指します。
「大島温泉ホテルは、何度も宿泊しました。ここの露天風呂は、目の前に原生林が広がり、その奥には三原山が望めるのですが、それが本当に絶景!遮るものが何もなく、温泉の癒しを感じながら大島を体中で体験できます!」。
その「温泉ホテルルート」は、約3km歩いて向かうハイキングコース。この道中では、この場所の過酷な自然環境を目にすることができるでしょう。溶岩の上から出す芽が、徐々に草原になる。その後、樹木が育ち、森を作る。裏砂漠への道は、風景ができるまでのプロセスを描く道でもあり、そんな「再生」の物語がここには形成されているのです。
「大地の上にゴツゴツとした溶岩石が転がっているので、植物が根を張るのはきっと困難な場所だと思います。しかし、そんな環境でも力強く、たくましく、何とか生きようとしている姿に心が打たれます。生命力のエネルギーがすごい。植物は偉大ですね」。

「裏砂漠」は、三原山のマグマのしぶきが大地を焼き、植物を燃やし、漆黒の世界を創造しています。強く吹く風も手伝い、植物が定着しにくい場所でもあるのです。「それでも所々、綺麗な緑がちゃんとあって。昔はもっと黒かったと思うのですが、ちょっとずつ、ちょっとずつ増え、きっと現在に至るのだと思います。また来た時には、もっと緑が増えているかもしれませんね」と、中野監督はしみじみ話します。
そんな希望も込めてなのか、「再生の一本道」の一部には、こんな名前も付けられています。
「いつか森になる道」。
通りの名前を見ているだけで浪漫を感じる島、それが大島なのです。

「裏砂漠」から見る「三原山」。黒く焼けた大地の中、自生する植物が少しずつその面積を広げる。

寒さの残る3月の早朝の「裏砂漠」では雪が積もり、白いベールを纏わせる。

漆黒の世界が広がる「裏砂漠」。左側にある細い道が、「月と砂漠ライン」。

長く続く一本の道は、「再生の道」。温泉ホテルルートと呼ばれるそれは、「三原山」まで約3km。

東京"真"宝島大島の神聖。耳を澄ませば聞こえてくる、自然のオーケストラ。

「大島でもうひとつ印象深かった場所、それは神社でした」と中野監督は話します。その場所は、「大宮神社」と「波知加麻(はじかま)神社」です。
「一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と、ゆっくり長い参道の階段を登り、その鳥居を潜る度に何か世界が開けた感じがしました。左右には巨木が幹を連ね、数百本はある椎の木は圧巻です。しかも、椎の木は神木でもあるので、その群生の画力たるや凄まじかったです」と、神社のことを振り返り、映像制作をする上で欠かせない音についても言葉を続けます。
「大宮神社は、まず風の流れが良かったです。風が流れれば音が生まれ、その風によって葉が擦れ、更に音が重なる。加えて、ここでは鳥もさえずり、心地良い音も奏でていました。鳥がいるということは、そこにはひとつの生態系ができている証拠だと思います。そんな環境もまた神々しい。それらが成す重層音は、まさに自然のオーケストラのようでした」。

そして、「波知加麻神社」。
「ここも印象的だったのは、参道です。大宮神社の椎の木に対して、波知加麻神社は杉。天高くそびえる杉の林立は、陽光を遮り、独特な隠の世界を作っています。その環境も手伝っているのだと思いますが、目線を下げれば生き生きと苔がむしています。それはまるで絨毯のように広がっていました」。

1939年(昭和14年)12月に東京都指定天然記念物に指定された「大宮神社」。

「大宮神社」の参道には、巨木が連なる。途中、手水舎や鎮座する狛犬もその姿を表す。

「波治加麻神社」は、三社ある大島の旧郷社の中のひとつ。残りのふたつは「大宮神社」と「波浮比咩命神社」。

波治加麻神社」の参道は、真っ直ぐに伸びる杉の古木に囲まれる。

東京"真"宝島切られた大島。1万5千年前と今をつなぐ、歴史の風景。

島の西側、208号線を元町港から波浮港へ走ると現れるのが「地層切断面」です。長さ約630m、高さ約24mのそれは、言葉を失うほど圧倒されます。
中野監督曰く、「大島最高のジオ」。

伊豆大島の火山は、世界的にも解明の進んだ火山として有名であり、噴火を表す木目のような単位層を辿ると約1万5千年前の年月を数えるものもあると言われています。
「そんな昔からこの断層はここにいたんだと思うと、今こうしてその歴史の一片を見ることができるのって奇跡ですよね」。
そして、この断面は島民からとても愛されてもいるのです。その証に最寄りのバス停には「地層切断面前」とあり、愛称はバームクーヘン!(バス停のサインもバームクーヘン型!)
もちろん、大切に保護管理もされています。

また、「切る」という意味では、「地層切断面」の真逆にある島の北側に位置する「泉津の切り通し」。まるで巨木がまっぷたつに切られたような道は、パワースポットとして知る人ぞ知る場所でもある。そして、数十万年前より太平洋の荒波に切り削られて現在のような形になったと言われる「筆島」も是非。「神の宿る岩」としても知られ、ここもまた神聖な場所として足を運ぶ人が多いと言います。

近くで見ると様々な表情を持つ地層が幾十にも重なっている。その数だけ時が経った証。

少し引いて見た「地層断面」。道路のサイズと比べれば分かるよう、巨大な地層がうねりを上げる。

「砂の浜」上空から見た「地層断面」。長い距離を保ってその断層が続いているのが分かる。

「三原山」の火口。この山の噴出物によって、「裏砂漠」の一面は黒く覆われている。

まるで異次元への誘いのような「泉津の切り通し」。両脇には根がむき出しになり、今にも動き出しそう。

手前にある突起した岩は、「筆島」。高さ30mほどのそれは、れっきとした島であり、小さな無人島。

「筆島」の裏手にある岩。一箇所だけ赤く焼け、まるでここだけ切り削られたような異彩を放つ。

東京"真"宝島都心から最も近い島へ。次の旅先の候補には是非、大島を!

高速船、フェリー、飛行機でのアクセスが可能な大島は、都心から最も近い島であり、例えば高速船であれば東京・竹芝から1時間45分で到着します。
「大島は都心から近いですし、まず島のビギナーの方にもお勧めです。是非、春には大島桜を見てもらいたいです。シーズンを迎える島内には、多くの大島桜が咲き誇ります。今回の映像や写真にも入れているのですが、大島桜はピンク寄りの色味ではなく、白に近く、それを再現するのがなかなか難しかったです。なので、是非、実際にその目で見てください!」。

島の御神火様であり、シンボルの「三原山」の登山をすれば、この島の鼓動を感じることもできます。
「標高は758mなので、登りやすい山だと思います。火口を周遊できる遊歩道も完備されていますし、散策コースとしても最適だと思います。もちろん景色も抜群!」。

また、海にも宇宙がありました。
「魚、ウミガメ、サンゴ……。どれも美しいですよね。世界に自慢できるようなサンゴに魚たち。海の中にも宇宙があるっていう感じですよね。僕は近頃はやっていないですがもう一度、本格的にダイビングを始めたくなってしまいました! 大島でダイビングにハマってしまうということをよく聞くのですが、その意味がわかりました。この水中撮影をした佐藤さんは若い頃に務めていた仕事を辞め、それを本業にまでしてしまいましたからね!」。

花と葉に香りがあることや花が大きいことが特徴とされる「大島桜」。例年、3月から4月が見頃。

開花時期を迎えると、島内には「大島桜」がそこかしこに点在している。

「三原山」の火口周辺には遊歩道が用意され、散策やハイキングも可能。

手付かずの自然が残る美しい海では、美しいサンゴを見ることができる。

ダイビングで更に潜れば、色とりどりの熱帯魚や魚群との出合いもあり、別世界が広がる。

優雅に泳ぐウミガメ。「都心から1時間45分でウミガメに会えるなんてすごくないですか!」と興奮する中野監督。

「三原山」周辺には、ほかの山も点在する。ここ「白石山」は、大島で2番目に高い山。ちなみに、中央の車が見えるところが「月と砂漠ライン」の駐車場。

「トウシキ遊泳場」は、溶岩に囲まれた自然のプールのよう。溶岩が波を遮り、穏やかではあるが深さがあるため、飛び込みも楽しめる。

島の最南端から臨む大島。黒潮の影響により、一年を通して温暖な気候に恵まれているため、オールシーズン心地が良い。

@sYNe9yfGlfKUp4j 橋本典子

野球ならヒットうつ 守備しっかりやる は基本ですね どちらも出来ないなら ベンチ阪神見てたら 定まらない。 パナソニックは強さ半端ない 阪神油断したらずるずる が目立つ違いがわかる。 なんか違う、パナみたいやないし。

@sYNe9yfGlfKUp4j 橋本典子

野球ならヒットうつ 守備しっかりやる は基本ですね どちらも出来ないなら ベンチ阪神見てたら 定まらない。 パナソニックは強さ半端ない 阪神油断したらずるずる が目立つ違いがわかる。 なんか違う、パナみたいやないし。

世界的シェフユニットが躍動した、サプライズ満載のディナーショー。『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』スペシャルムービー公開。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

ダイニングアウト琉球うるま

DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』(2020年1月開催)の感動を、スペシャルムービーとフォトギャラリーでお届けします。

『DINING OUT』第18弾となる舞台は、沖縄県うるま市が擁する世界遺産「勝連城跡」。世界遺産での開催は『DINING OUT』として初の試みとなりました。古くから海運の要衝で、15世紀には琉球王朝と拮抗(きっこう)する栄華を誇った勝連。様々な国や地域の人々を受け入れ、文化に寄り沿うことで発展してきた土地には「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」の精神が今も根づいているといわれています。今回の『DINING OUT』のテーマは、この「肝高」、そして交易の地に伝わる「おもてなし」でした。

その壮大な会場で腕を振るったのは、世界から注目を集めるシェフユニット「GohGan」です。2010年に開いた「Gaggan」で、エグゼクティブシェフを務め、世界から注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurants」では4位を獲得したガガン・アナンド氏。そして、九州で唯一「Asia's 50 Best Restaurants」にランクインした「La Maison de la Nature Goh」の福山 剛氏。

ポップアップとしての活動が最後になった「DINING OUT」で繰り出されたサプライズ満載の料理の数々をぜひ体感してみてください。

【関連記事】DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS

@i_am_o_ok かな

紀平梨花ちゃん、とても可愛いです💗 adidas様のスポーツウェア・シューズ似合っています!!!✨✨✨ 今後のご活躍も楽しみにしております!!!⛸️🏅💗

想像を超える展示空間で、アートを見る。買う。[ARTISTS’ FAIR KYOTO 2020/京都府京都市]

モダンな重要文化財が「ARTISTS’ FAIR KYOTO 2020」の舞台に。

アーティストフェア京都 2020アーティストが自分だけでなく、若手作家まで売り込む斬新なイベント。

京都で3年前から開かれている「ARTISTS' FAIR KYOTO」は、他のアートフェアとは一線を画した、これまでのアートフェアの枠組みを超越するイベントです。

「アートフェア」とはバイヤーやコレクターが美術品の買い付けをする催しで、海外では「アートバーゼル」や「アーモリーショー」など大きなものから小規模なものまで頻繁に開催されています。近年は日本でも行われ、一般の人にも開かれた作品展のようなアートフェアも見られるようになりました。

ただ、通常のアートフェアはギャラリー単位で出展し、ギャラリストが作品を紹介しますが、「ARTISTS' FAIR KYOTO」は「アーティスト自身が企画、運営、出品、プレゼンする」という珍しいスタイル。

ただ単に作品を「商品」として並べるのではなく、作家の意思のもとに表現し、その空間を味わった上で来場者が購入する、展示会としての面白さを併せ持ったアートマーケットなのです。

普段は非公開の元印刷工場の地下空間を現代アートが彩る。

2019年の風景。左は南方熊楠の哲学思想を追った「まんだらぼ」プロジェクトで知られ、京都を中心に世界で活躍する前田耕平氏作。右は、第22回岡本太郎現代芸術賞で「岡本太郎賞」を受賞した檜皮一彦氏作。

2019年より。中央は油野愛子氏の作品。幼少期の記憶に起因するおもちゃや、愛着物に着想を得て表現する若手作家。

アーティストフェア京都 2020若手アーティストと企業、コレクターをつなぐ架け橋に。

ディレクターを務めるのは、自らもアーティストである椿昇氏。「世界のアートフェアがマンネリ化しつつある状況を変えたい」という想いから、この「ARTISTS' FAIR KYOTO」を作家が自分の作品をプロデュースするというスタイルに方向づけました。

国内外で活躍する旬なアーティストたちが自分自身の作品を出展するだけでなく、彼らが「アドバイザリーボード」となって若手アーティストを推薦。そこには、「アーティストを志す若者が生涯にわたって制作により生計を立てられるよう、個人コレクターや企業などと接続するためのブリッジとなり、制作を続けられる未来への一歩を踏み出したい」という願いが込められています。

地域再生のアートプロジェクトのディレクターも務める椿昇氏。

椿氏が推薦するアーティスト、前田紗希による作品『18_5』(キャンバス、油彩)。椿氏は「これだけナイフで絵の具を重ね削り取るという人為を加えながらもMの絵画には気になる所が何一つ存在しない」と評する。

アーティストフェア京都 2020国内外で活躍する第一線アーティストほか、過去最多の62組が参加。

今年は「Singularity of Art (シンギュラリティ オブ アート)」をテーマに、アドバイザリーボードとして名和晃平、塩田千春、加藤泉、ヤノベケンジらをはじめ、第一線で活躍するアーティスト19名が参加します。そして、彼ら独自の目線によるキュレーションと公募により選出された若手アーティスト49組が参加。過去最多となる合計60組以上のアーティストが、ペインディングからテクノロジーを駆使したインスタレーションまで多種多様な表現方法を披露し、新時代のアートマーケットを作り上げます。

京都を拠点に、国内外での展覧会や他ジャンルのクリエイターとのコラボレーションを展開する彫刻家・名和晃平氏。撮影:Nobutada OMOTE|SANDWICH

塩田千春氏と作品。頻繁に使われるモチーフのひとつである「舟」は、先の見えない未来を連想させる。撮影:Sunhi Mang  (C)2019 Chiharu Shiota

アーティストフェア京都 2020エキセントリックな地下空間と建造物が、多彩な表現に彩られる。

注目すべきは会場となる空間。まずは近代洋風建築の重要文化財である「京都文化博物館 別館」は、明治期築の重厚な建物です。そして、もう一つの舞台である「京都新聞ビル地下1階」は、かつて印刷工場として使われていた巨大な地下帝国のような空間。「趣のある京都の建物をエキセントリックな展示空間に変え、現代アートを鑑賞できるのも本フェアの見どころの一つ」と椿氏。

また今年は、市内のホテルや飲食店など身近な会場で行われるサテライトイベント「BLOWBALL」にも注目が集まっています。木崎公隆・山脇弘道からなる現代アートのユニットYottaが運営する本格石やきいも販売車「金時」や、若手ディレクター3名が手がける、市場をオルタナティブに思考するアートマーケット「スーパーマーケット“アルター”市場」など、街中のあちこちで斬新な表現が繰り広げられます。

1906年(明治39)築、元日本銀行京都支店である「京都文化博物館 別館」。

広大な地下神殿のよう。廃墟感たっぷりの「京都新聞ビル地下1階」。

アーティストフェア京都 2020「売れる、売れない」よりも「見られることが大事」。

一流アーティストの作品を直に見る・買うことができるだけではなく、彼らの審美眼で選んだ次世代を担うアーティストと出合えることがこのフェアの見どころ。
ベルリンを拠点に活躍し、糸を空間に張り巡らした大規模なインスタレーションで知られる塩田千春氏もこのアートフェアに初回から参加。
塩田氏は、ONESTORYストーリーの取材に対しこのようにコメントを寄せています。
「エネルギーのある20代につくった作品は、後々とっても貴重なものになるので、『売れる・売れない』関係なしに、大きな会場で人の目に触れることができるのはとてもいい環境だと思います。私が学生だった時は、作品発表の機会自体が少なく貸画廊へお金を払って個展をするということがよくありました。でも今の時代に生きる若いアーティスト達はARTIST’S  FAIR KYOTOのような機会があり、恵まれていると感じます。ぜひ多くのコレクターや美術関係者に自分の作品を見てもらい、飛躍のきっかけが得られることを願っています」。

「シンギュラリティ」とは「特異点」の意味。伝統から革新を生み出し続ける京都において、「ARTIST’S  FAIR KYOTO」により新たなマーケットが形作られ、アートが次元上昇する特異点が見出されるのではないでしょうか。

京都にある2つのユニークベニューにこの2日間、さまざまな感性が交差する。

開催期間:2020年2月29日(土)、3月1日(日)
開催場所:京都府京都文化博物館 別館 MAP/京都新聞ビル地下1階 MAP  
時間:11:00~18:00
入場料:1,000円(学生無料 要・学生証) ※京都新聞ビル地下1階は無料
https://artists-fair.kyoto/
(写真提供:ARTISTS' FAIR KYOTO実行委員会)

地域と共に作りたいのは、子供達の未来に繋がるチョコレート。[TSUGARU Le Bon Marché・浪漫須貯古齢糖(ロマンスチョコレート)/青森県弘前市]

店舗の奥にあるチョコレート工房にて。須藤氏の両サイドにあるのは、カカオを磨砕・コンチング(磨砕しながら撹拌してチョコレートの粒子を滑らかにし、摩擦熱による香りや風味を出す作業)するリファイナー。

津軽ボンマルシェ心を掴んで離さない、宝石のように美しいチョコレート。

扉を開ければ、部屋一面に漂うカカオの香り……。チョコレートとは、なぜこんなにも魅惑的で人をワクワクさせる食べ物なのでしょうか。
ショコラティエ・須藤銀雅氏の作るチョコレートは艶やかで繊細、まるで宝石のような輝きと優美さ、そこはかとない色気を感じさせます。もともとはバー専用チョコレート「アトリエAirgead(アールガッド)」としてブランドを立ち上げ、一般販売はせず、全国にある卸先のバーに行かなければ食べることのできない、幻のような存在のチョコレートでした。ふらりと入った薄暗いバーのカウンターで、須藤氏のチョコレートがあることを知ったときは喜びもひとしお。ドキドキしながら待っていると、いそいそと運ばれてくるアンティーク風の木箱。そっと蓋を開けると、そこにはキラキラとまばゆいばかりのボンボンショコラが静かに並んでいるのでした。

2018年、須藤氏の出身地である弘前市に、自身の初めての店舗「浪漫須貯古齢糖(ロマンスチョコレート)」がオープンしました。弘前城からもすぐ近くの静かな住宅街にポツンと佇んでいます。ここで作っているのはカカオ豆を独自に輸入して自家焙煎するところから行う、Bean to bar(ビーントゥーバー)のチョコレート。店を訪ねると、カカオを磨砕するための複数のリファイナーがビュンビュン回り、チョコレートの幸せな匂いに包まれる中で、須藤氏がテキパキと忙しそうに作業していました。店舗ができても「アトリエAirgead」の商品は相変わらずバー専用としてここでは販売はせず、二つのブランドは完全に切り分けています。須藤氏は以前からあった東京の工房と弘前を行き来し、月の1/4くらいを青森で過ごしています。

NHKの番組「美の壺」にも登場し、テレビや雑誌など各種メディアから注目される須藤氏。食べてみたいと思う人も多いと思いますが、彼の作ったチョコレートを一般客が買えるのは、今のところ弘前にあるこの店だけです。「津軽ボンマルシェ」に以前登場した『オステリアエノテカ ダ・サスィーノ』の笹森氏は、須藤氏のことを気にかけ、こちらのカカオを料理に使っているとか。すでに東京に拠点を持っているのに、地元に店を構えたのは、何か理由があってのことなのでしょうか。まずは須藤氏の生い立ちを探ってみることにします。

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ロマンスチョコレート店内の様子。アンティークの家具を什器に使い、洋館の多い弘前の街にイメージを重ね合わせています。

リファイナーの中を覗くと、石臼のように二つのローラーが縦に回転してカカオ豆がすり潰され、トロトロに溶けたチョコレートが撹拌されていました。およそ3日間もの回転を続けてチョコレートが出来上がります。

チョコレートの原料となるカカオ豆。コーヒーのように豆の状態で仕入れ、自分たちで焙煎しています。殻を剥いて焼きたての豆をぽりぽりと齧ると、ナッツのような香ばしさの中に酸味や苦味など複雑な風味があり、産地によっても味わいが違います。

津軽ボンマルシェお菓子への強い憧れと、チョコレートという素材の面白さが原動力に。

子供の頃から甘いものが大好きだったという須藤氏。お菓子への憧れが特に大きく募ったのは、高校時代にボクシング部へ所属していた時でした。きつい食事制限がある減量生活の中で、部活後の疲れた体を引きずりながら、学校から家への道を急いでいると、その途中に一軒のお菓子屋さんがありました。
「店のショーウィンドーを覗くと、そこにはたくさんのケーキが並び、きれいな艶がキラキラと輝いて見えました。自分もいつかこんなケーキを作ってみたい、とすっかり心を奪われてしまいました」

高校を卒業後は自分で学費を稼ぎながらお菓子の専門学校へ通い、神戸の洋菓子店へ就職。6年間みっちり働き、技術を習得した後、次は恵比寿のフレンチレストランへ。しかしそこで大きな挫折を味わい、辞職してしまいます。自分はもうこの業界で生きていくことはできないかもしれない、と思い詰めるまでだったそうですが、そんな須藤氏にもう一度チャレンジのきっかけを与えたのは、チョコレートでした。今まで様々なお菓子作りの腕を磨いてきましたが、チョコレートについてはまだ未開拓の分野だったのです。パティシエとは別に、ショコラティエという専門の職業があるくらい、特別な技術を必要とするジャンルです。これでダメなら本当に諦めようと覚悟を決めて門を叩いたのは、ベルギーの名門チョコレートブランド「ピエール・マルコリーニ」でした。

ピエール・マルコリーニのボンボンショコラはベルギー現地から空輸だったため、実際の仕事はチョコレートを使った洋菓子作りがメインだったそうですが、須藤氏はチョコレートという素材の面白さに次第にのめり込んでいきました。仕事が終わった後も自主練として、ボンボンショコラ作りに精を出していると、知り合いのバーテンダーから声がかかりました。
「うちのバーで出すチョコレートを作って欲しいと頼まれました。オーセンティックバーでは昔からチョコレートを出していましたが、本格的なものを出しているところはほとんどなかったのです。自分はバーが好きでバーテンダーになろうかと思っていたこともあったし、お酒とのペアリングを考えるのは勉強にもなると思い、引き受けました」
チョコレートは次第に好評を得て、やがて店舗を持たないバー専用の卸しを行う「アトリエAirgead」として独立。しかし、それは今までにない全く新しいジャンルのビジネスであり、最初の頃は赤字が続きました。須藤氏は自身でバーを一軒一軒回って営業していたそうです。誠実な人柄で努力家の須藤氏。ひたむきにコツコツと続けていくことで徐々に信頼を得て、取引先も増え、広まっていきました。「アトリエAirgead」は定期的な契約という形は取らず、毎回新規に注文をもらって取引するというスタイル。自分を厳しく律し、常に緊張感を持って対応したいという須藤氏のストイックな性格が反映されています。実際はリピーターが多いそうで、毎回注文をもらえることが、須藤氏にとって大きな自信とモチベーションに繋がっているといいます。

テンパリングしたチョコレートをモールド(型)に流す作業。テンパリングとはカカオバターの結晶構造を安定させるための温度調整で、チョコレートを扱う上でのキモとなります。須藤氏のキビキビとした動きには全く無駄がありません。

艶やかなチョコレートがとろりと流れる様子に、思わず生唾をごくり。

冷やし固めたモールドの上部をコンコンと軽く叩くと、ボンボンショコラが見事に外れました。きれいに外れるのはテンパリングが上手くいった証拠。

ボンボンショコラはビジュアルも重視。主にベルギー製のモールドは、種類豊富に揃えています。奥の赤い色は着色用のカカオバターで化粧を施したもの。刷毛やスプレーガンなどを使い、何層にも色付けすることもあります。

津軽ボンマルシェカカオを極めることをきっかけに、故郷への思いが深まる。

須藤氏のチョコレートへの飽くなき探求はさらに深まり、カカオをもっと極めたいと思うようになりました。バーに来る客の知識の深さ、知的好奇心の高さも、須藤氏に影響を与えました。客に鍛えられ、自然とクオリティが上がり、珍しいスパイスや日本の発酵食品など様々な素材を使い、ますます手の込んだチョコレートを生み出していく中で、最終的に行き着いたのが原料そのものであるカカオ豆。世の中はクラフトチョコレート(Bean to Bar)の全盛期で、異業種でも小さな個人店でも、カカオ豆を自ら輸入して自家焙煎し、自分でチョコレートを作れる時代が到来していました。世界中から好きな豆を選んで作ることで、チョコレートはより繊細で複雑な味わいを引き出すことができ、表現の幅も一層広がります。

「Bean to Barを本格的に始めるにあたり、東京の工房では手狭でした。もっと広い場所をと考えて、思い付いたのが故郷の弘前。最初はただ作業のための工房が欲しかったんです。そこで久しぶりに帰ってみると、ここはやはり自分の生まれた大切な場所であり、故郷のために何かできないだろうか、という思いが強まりました。青森ではまだBean to Barのチョコレートを作っているところは一軒もありませんでしたので、店舗を出せば街の活性化や雇用促進に繋がるのではないかと考えました。弘前は歴史文化の深い街で古い洋館が多い。その一方で若い人の新しい店も増えていました。美意識の高い人が多いせいか、美容院も多いんです。質の高いコーヒー店、洋菓子店も多い。そういうアカデミックな雰囲気を持つ街にきっとチョコレートはフィットする、と考えました」

「浪漫須貯古齢糖」という店名は、古き良きレトロな弘前の街をイメージし、あえて漢字表記にしたそうです。貯古齢糖という文字は、明治時代にチョコレートが初めて日本で売り出された頃の実際の表記です。タブレット(板チョコレート)の包み紙は、大正時代の東奥日報や弘前新聞など、地元の古い新聞からデザインを起こしています。ボンボンショコラの箱には、弘前の観光名所となる洋館を須藤氏が自ら撮影し、各所に許可を取ってセピアカラーでプリントしています。箱の写真を見て、弘前のことを思い出し、また観光に足を運んでもらえたら嬉しい、と須藤氏。青森産の食材も少しずつチョコレートに反映させており、つい最近完成したのがりんごのチョコレート。青森県だからりんご、というのはあまりに安易過ぎて最初は敬遠していたそうですが、フリーズドライのりんごを使うことで、一味違うチョコレートに仕上げることができました。ガーナとトーゴの豆をブレンドした自家焙煎チョコレートをコーティングし、カカオニブをまぶしています。ほのかなりんごの甘い香りとサクサクとした食感、ビターなカカオニブの香ばしさがアクセントになって、上品で大人っぽい味わいのチョコレートになりました。

古い地元の新聞をデザインしたパッケージ。タブレットはカカオの産地別に作り、ヴェネズエラ産は甜菜糖、ハイチ産はメープルシュガーなど、カカオの味の特徴に合わせて砂糖を変えています。店頭には常に10種類くらいのタブレットが並びます。

こちらのパッケージは地元の若いアーティストがデザインしたもの。チョコレートのパッケージは自由度が高いので、若い人の新しい表現を発表する場として活用できたら、と語る須藤氏。

弘前の店舗で購入できるボンボンショコラ。苺ハーブ、ナツメグシナモン、柚子紅茶など、親しみやすい素材ながら組み合わせにちょっとひねりが効いています。こちらはお酒とのペアリングは考えていないものの、徹底的に磨き上げた味と香りの構成です。

津軽ボンマルシェ地域を巻き込んで一緒に盛り上がれる仕組み作りを。

須藤氏のチョコレート作りの大きな特徴の一つは香りの分析。バー専用チョコレートを作るにあたって、香りはお酒とのペアリングを考えたときに欠かせない重要な要素です。カカオや合わせる素材の香気成分を分析し、お酒に含まれる成分と共通するものを見つけながら、味の構成を考えていきます。須藤氏は日本香料協会にも所属しており、毎月送られてくる分厚い専門誌の学術文献を読んで日夜勉強しています。弘前に拠点ができてからは、さらに一歩進み、弘前大学と共同で香りの研究を始めました。例えばカカオ豆の産地別はもちろん、焙煎でも120℃、150℃、170℃など、温度の違いで出てくる香気成分が変わってくるそうです。
「手仕事なので感覚的なことももちろん大事なんですが、人間だけでは感じ取れない部分もきっとあると思います。専門の研究機関で化学的な分析を行い、きちんとデータに表すことで説得力のある裏付けになります。研究結果は自分たちが利用するだけでなく、どんどん発信して共有していきたい。そんなに明かしちゃっていいのかともいわれますが、情報の使い方は人それぞれだし、お互いに交換することで幅が広がりブラッシュアップできる。自分たちだけで囲うより、シェアすることの方がメリットは大きいと感じています」

須藤氏はミラーレスのカメラを買い、YouTubeでの配信も始めました。チョコレート作りの技術や知識を、かなり専門的なところまで惜しげもなく動画で解説し、情報をシェアしています。YouTubeは第二の検索ツールとして活用を重視しており、これからも続けていきたいそう。また、2019年には地元の公民館などと連携して、親子で参加できるワークショップを開催。カカオを豆の状態から観察し、フライパンなどで煎り、すり鉢で砕いて潰し、チョコレートになるまでを一通り体験します。募集は開始後10分で埋まり、当日は大雪にも関わらず、誰も欠席することなく大盛況。須藤氏は大きな手応えを感じることができました。
「地域を巻き込んでみんなで盛り上げていくというのが、自分の本当にやりたかったことの一つ。チョコレートができるまでの工程は、実際には知らない人も多く、例えば手作り品と大量生産品の違いを教えることでも、食育に繋がっていくと思います。子供達の反応も良くて、思った以上に質問が多く飛び交いました。地域で育つ子供達ともっと関わり、彼らの未来に繋がることをやっていきたいと思っています」

探究心旺盛な研究者であり、明確な視野を持つビジネスマン、そしてアスリートのような熱血職人。物腰柔らかく、クールに淡々と話す須藤氏は、チョコレートが溶けそうなほど故郷への熱い思いに溢れていたのでした。

テンパリングしたチョコレートの状態を真剣に見極める須藤氏。

店に並ぶ須藤氏が作ったアートピースの数々。もちろん全てチョコレートでできています。最近は、自分で好きな型を作れる機械を購入し、さらに表現の自由度が増したとか。右下の手と心臓は、自分で型から起こしたオリジナル。

住所:〒036-8332 青森県弘前市亀甲町5番 MAP
電話:0172-88-9015
営業時間:11:00~19:00(商品が売切れ次第閉店)
休日:月曜(月曜が祝日の場合は火曜)
https://romance-cacao.shop-pro.jp

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

銘酒「東洋美人」を超える、蔵史上最高峰の1本、誕生。[やまぐち三ツ星セレクション 純米大吟醸 東洋の女神/山口県]

不動の人気を誇る『東洋美人』を超える、最新の旗艦商品『東洋の女神』が限定発売で、誕生。

やまぐち三ツ星セレクション“圧倒的な透明感”を目指す王道の酒造り。

島根県との県境に近い山間、萩市中小川地区には田畑がのどかに広がっています。真冬の朝、凛とした空気の中に湯気を上げる建物が見えてきました。日本酒「東洋美人」を醸す『澄川酒造場』です。仕込みの最盛期を迎えた酒造場では、蔵人たちがキビキビと麹造りの作業を進めています。

陣頭指揮を執るのは4代目当主・澄川宜史氏。蔵外から杜氏を迎える従来型の酒造りから、当主自らが杜氏として酒造りを手がけるスタイルに転換を図り、「東洋美人」の酒質を劇的に向上させ、その知名度を全国区に押し上げてきました。今や「東洋美人」は日本酒ファンの間で入手困難な銘柄となっています。

澄川氏は、人気銘柄「十四代」の蔵元でありカリスマ杜氏として知られる高木顕統氏の唯一の弟子と言われています。
「高木さんの真摯に酒造りに取り組む姿勢を目の当たりにし、奇をてらわずに王道の酒造りによって日本酒という作品を世に送り出すことの大切さを学びました。私は、たまたま美味しくできてしまう酒造りに進化はないと考えています。また、技術力の欠如によって生まれた味を個性として認めてしまう風潮も日本酒の未来にとってはマイナスだと感じています。日本酒は明確な意図のもと、化学、物理学、生物学、数学を駆使して造り出す作品でなければならない。なおかつ100%の再現性を実現し、去年よりは今年、今年よりは来年に少しずつでもより良くしなければいけません」

そんな澄川氏は、どのような日本酒を造りたいと考えているのでしょうか。
「詰まるところ、私が飲みたいお酒ですね。感覚的な表現になりますが、目指すのは“圧倒的な透明感”。華やかで味も香りもしっかりある。それでいて他の酒には負けない爽やかな喉越しやキレを備えたお酒を追求しています」

【関連記事】やまぐち三ツ星セレクション/山口県を身近に感じる逸品たち。そのふるさとを訪ねて。

▽純米大吟醸 東洋の女神
価格:5,500円 

萩市中心部からクルマで1時間ほど。美しい雑木林の山に抱かれるように、『澄川酒造場』は佇んでいる。

朝一番で行われている蒸米作業。大きな甑(こしき)から朦々と湯気が立ち上る。

蒸し上がった米は、即座に放冷へ。小分けにして手でかき混ぜながら冷ましていく。

麹室にて澄川氏。「奇をてらった酒造りはブームになっても、伝統になることはない」と王道の酒造りにこだわる。

やまぐち三ツ星セレクション壊滅的な豪雨被害を乗り越え、蔵はさらなる進化を遂げた。

着実な前進を見せていた『澄川酒造場』でしたが、2013年7月、思いもよらない悲運に見舞われます。山口・島根両県において観測史上最大の降雨量を記録する集中豪雨が襲い、『澄川酒造場』の前を流れる田万川が氾濫。蔵と自宅が濁流に飲まれ、酒造りの機材と在庫が泥に浸かり、すべてを失ってしまったのです。

「酒造りのことなど考えることはできなかった」という澄川氏でしたが、被災翌日から同業者、酒販店、飲食店、日本酒ファンら延べ3000人を超える支援者が全国からボランティアに駆けつけ、立ち止まる余裕もないまま蔵の再建へとつき動か出されます。例年の4カ月遅れとなったものの、その年の12月にはなんとか酒を仕込むことができました。

大きな設備投資を経て再建を果たすには、「東洋美人」をより多くのお客様に届けていくことが必要です。以前にも増して、酒質を上げ、さらに魅力的な日本酒の開発に邁進しました。

追い風が吹いたのは2016年。日露首脳会談の夕食会にて「東洋美人 壱番纏 純米大吟醸」がオフィシャル日本酒に採用されます。この時、プーチン大統領が絶賛したことが話題となり、「東洋美人」は一気にブレイクしました。
「東洋美人 壱番纏 純米大吟醸」は地元萩産の山田錦を40%まで磨いて醸した逸品。リンゴや洋ナシのような爽やかな香りが立ち上がり、芳醇な旨味の後に、上品な含み香が鼻に抜けます。サラリと清々しい口当たりは、まさに“圧倒的な透明感”を体現しています。

澄川宜史氏と「地域商社やまぐち」の代表取締役・坪倉昭雄氏。ふたりは高校の先輩後輩の間柄。山口の美味しい酒を全国に広めたいという思いは同じ。

『澄川酒造場』には、他の蔵元の子息らやる気にあふれる若い人材が酒造りに取り組んでいる。

放冷後の蒸米は高温の麹室へ。スピードが命とあって、米を担いで駆け足で運ぶ。

蔵の壁やドアには、支援に訪れた人たちのサインやメッセージが。元サッカー日本代表で日本酒通として知られる中田英寿氏の名前も見える。

やまぐち三ツ星セレクション記念碑的フラッグシップ商品を、さらなる高みへ。

2019年、この「東洋美人 壱番纏 純米大吟醸」を超える『澄川酒造場』史上最高峰の酒が誕生しました。それが「純米大吟醸 東洋の女神」。「美人」を超越し、神秘性を備えた気高い「女神」。出荷先限定のスペシャルなハイエンド商品です。契約栽培の萩市産の山田錦を極限の30%まで磨き上げ、「東洋美人」の華やかな香りと上品な味わいはさらなる高みへ至っています。天才杜氏がたどり着いた“透明感の極み”を、心ゆくまで味わえる1本と言えるでしょう。

至高の一杯。おすすめの飲み方、おすすめの肴が気になるところです。
「白身魚やフグなど山口の海の幸との相性がいいという話も聞きます。ですが、私はお好きな飲み方で、お好きなものと合わせていただければ、と思います。なにしろ、お酒は自由で楽しいものですから。ハレの日のお酒として、特別な時に、特別な人と一緒に楽しむために選んでいただければ、最高にうれしいですね」と澄川氏は笑いました。

麹菌を米に付着させ、米の中で菌を繁殖させる製麴(せいきく)作業。麹菌がふわりと舞い落ちる様はどこか神秘的。

タンクに酒母を入れ、麹、蒸米、水を加えて発酵が始まると、約30日間でお酒に。その後、圧搾、火入れ、ボトリング、冷蔵での貯蔵などを経てようやく商品となる。

生粋の酒好きである澄川氏。ビールやワインも飲むが、ほぼ毎晩、自社の酒も酌む。「今、うちの酒がどんな状態かが心配でたまりませんので、つい」。

「純米大吟醸 東洋の女神」¥5500。エレガントな円筒型の化粧箱、流麗なプリーツが印象的なボトルデザインも秀逸。味わいも優雅そのもの。

住所:〒750-0025 山口県下関市竹崎町4-2-36 MAP
電話:0120-414716
https://www.ymtc-webstore.jp

住所:〒759-3203 山口県萩市大字中小川611 MAP
電話:08387-4-0001

(supported by 地域商社やまぐち株式会社)

七星てんとう

皆さんいかがお過ごしでしょうか?
寒い日が続きますね(。-_-。)

しか〜し今日の倉敷は少し暖かかったです^_^

寒い日が続く中で久し振りにてんとう虫を見つけました🐞

ナナホシテントウかな?
階段の下で歩いていたので逃がしてあげました(´∀`*)

寒いかもしれないけど、強く生きるんだ!!

春になると君の季節だ!

なんか、微笑ましかったです(o^^o)

建築・家具ラバーの隠れた聖地である讃岐。アーティスト、家具好きがひきもきらずに訪れる、”木匠”が残した偉大な足跡。[ジョージナカシマ記念館&桜製作所/香川県高松市]

ジョージナカシマ記念館&桜製作所OVERVIEW

香川県高松市は、現在にも大きな足跡を残す建築家やアーティストを数多く輩出した街です。その流れを決定づけたのは、「デザイン知事」「建築知事」と呼ばれることになる金子正則氏です。金子氏は、1950年から6期24年に渡り知事を勤めましたが、1958年に竣工した香川県庁舎の設計を建築界の巨人・丹下健三氏に依頼しました。また、高松市近郊で芸術村を構想するなど、文化面での功績がとても大きかった人です。

その金子知事らを世話人に、彫刻家・流政之氏が1963年に発足させたのが「讃岐民具連」という運動です。讃岐の伝統である、漆や建具、金工、石、指物、竹細工といった「民具」を時代に合う形でリデザインし、日本中に、さらには世界のマーケットに向けて売り出すという、デザイン運動と商品開発をハイブリッドさせたプロジェクトでした。

その発足メンバーに名を連ねるのが、今回伺った「ジョージ ナカシマ記念館」を運営する桜製作所なのです。ナカシマは日本人の父母の元、米国ワシントン州で生まれました。ワシントン大学で建築を学び首席で卒業。その後ハーヴァードの大学院に進み、さらにマサチューセッツ工科大学に移籍。アメリカの超一流の高等教育を受けた人物です。戦前から祖国日本とは縁の深かった彼を、戦後の1964年に讃岐に招いたのが、流政之でした。この地を訪れたナカシマは、桜製作所の素晴らしい技術を持った職人に感銘を受け、一緒に家具を作ることになったのでした。

そんなナカシマの代表作のひとつに「コノイドチェア」があります。上記写真の椅子は、第1回「ジョージ ナカシマ展」出品した漆塗りの特別バージョン。「ミングレンデスク」は、貴重なローズウッドを高松に運んで作った逸品です。

そんな美しい出会いから幾年月、桜製作所設立60年を記念して、2008年に完成したのが「ジョージ ナカシマ記念館」なのです。ギャラリーショップを併設したこの場所から、讃岐のアーティストを巡る旅を始めましょう。

住所:香川県高松市牟礼町大町1132-1 MAP
電話:087-870-1020
時間:10:00~17:00(入場は16:30まで)
休館:日曜、祝祭日、年末年始、夏季休暇
入館料:一般550円 小・中学制220円
https://www.sakurashop.co.jp/memorial_hall/

住所:香川県高松市牟礼町大町1132-1 MAP
電話:087-845-2828
営業時間:8:30~17:00(日・祝・第2土曜は休み)

天上のカタルシス、無我の境地。苦難の分、神はその報酬を僕に授けてくれた。[東京”真”宝島/東京都 神津島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤宏 音楽:木下伸司・Lior Seker 

東京"真"宝島

一合目から登らなければ、出合えなかった風景がそこにはあった。

神津島のシンボル、「天上山」。登山ルートは白島登山道と黒島登山道の2種があり、今回、中野裕之監督は白島登山道から山頂を目指します。地上572mのそれは、6合目までは車で合流できるため、頂上の景色を見るためだけであれば、この選択が一般的です。しかし、中野監督が選んだ道は、一合目からの登山。

「実は、知らなかったんです……。6合目まで車で行けることを……」。
!?
そう、中野監督は知らなかったのです。ただ、知らなかっただけなのです。6合目まで車で行けることを。
「とにかく、1合目から3合目までは急斜面で人ひとりが通れるほどの狭い道幅。本当に辛かった。島の方に“天上山”のことを伺ったら、“幼稚園の年長さんも登りますよ”とおっしゃっていたので、それなら楽勝だ!と思って登ったら、大変なことになってしまいました(笑)。おそらく、6合目からの話だったのだと思います……」と、その時のことをかみしめるように話します。

「本当に辛かったなぁ」、「かなりキツかったなぁ」。そう、話す中野監督ですが、登山中に心を癒してくれたのは花の存在でした。
「僕が登った時にはキキョウが咲いていました。“天上山”は、花の百名山にも選ばれるほど、花の美しい山。そんな美しい花が僕に一歩一歩前へ足を運ぶ力を与えてくれました」。
春にはスミレやアジサイ、夏にはバラやラン、秋には中野監督も見たキキョウやキク、冬にはユリなど、四季を通して様々な花が咲き誇ります。そして、歩みを進める中、最も中野監督が感動した風景との出合いが訪れます。

それは、神域へ入る境界線ともいえる鳥居。
「“光”を“観”る。これが本来の観光だと思っています。この光を観た時、僕は神津島の真の観光に触れられたような気がしたのです。閉ざされた登山道で、こんなにも美しい景色と出合えるとは思いませんでした」。
それは、3合目から4合目に差し掛かる途中。つまり、1合目から登る選択をしなければ、この景色と出合うことはできなかったのです。
「神様からのご褒美だと思いました」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

白島登山道の途中、3合目から4合目に差し掛かる時に出合った鳥居との邂逅。「この風景が僕の中では一番神々しく、神津島らしいと思った1枚でした」と中野裕之監督。

 2合目から3合目あたりの山道。左右の木が支えあうように重なり、まるでトンネルのよう。「この山道も好きな風景」。

島の北部に位置する「赤崎海岸」に作られた「赤崎遊歩道」。全長約500mのそれは、展望台もあり、伊豆諸島北部の島々や富士山、南アルプスなどを望むことができる。

台形のように山頂が広がる「天上山」。山頂からは、太平洋を一望できる。

「天上山」の山頂の景色。上記と角度を変えて見ると、目下には「前浜海岸」が広がる。

石が積み重なったような山頂付近。「乾いた土壌でも、そこに生きる植物があることに感動を覚えます」。

「登山中、キキョウの花を良く見かけました。本当はもっと撮るつもりだったのですが……。登るのに精一杯でした……」。

「天上山」の一部は崩れ、えぐられている山肌も。過酷な自然環境を物語る。

東京"真"宝島天上へ向かうまでのプロセスが生んだ、絶景の価値と深く刻まれた記憶。

「天上山」は、台形に近い形をしており、山頂が広がっている山です。島の名所でありながら、深山幽谷の趣きも漂う理由は、やはりその島名の通り、神々の力か。

「6合目から歩いていくと、徐々に景色が開けてきます。山の側面をギリギリに歩く道からは絶景が広がり、様々なスポットが点在しています。ハート形の“不動池”は古くから島の漁師の信仰の対象であり、今も池の中央には龍神を祀る社があります。荒涼とした砂地には、“表砂漠”と“裏砂漠”とあり、特に“裏砂漠”の鋭角的な形状は、どこか遠い惑星のクレーターのよう。また、“不入が沢(はいらないがさわ)”は、遥か昔、神代の時代にこの地で伊豆諸島の神々が集まり、水を分ける相談をしたと伝えられており、この島らしい逸話だと思いました。最高地点からは富士山や南アルプスを始め、眼下には、太平洋が広がります」。
神々しくも感動的なスポットであるも、中野監督は「この感動は6合目から登っていたら得られなかったかもしれない」と言います。

「山頂からの景色はもちろん重要だし、美しかったのですが、同じくらいプロセスも大切。僕の中では、あの1合目からの経験が全てに価値を纏わせたと思っています。景色の価値、登山の価値、島の価値。1合目から登って初めて見える景色があるんだなと思いました」。
この初めて見える景色とは、目に見える景色だけではありません。それは、心眼に見る目には見えない価値の景色なのです。

月面のような風景は「表砂漠」。砂は真っ白でサラサラ、規模は大きくないが、綺麗な砂漠。

荒涼とした風景が広がる「裏砂漠」。ここを抜けると、「天上山」の東側の崖地に面した「裏砂漠展望地」につながる。

雨の後だけ表れるという「不動池」。ハート型(写真の向きは逆さ)の池として知られ、「天上山」の名所として人気も高い。

「天上山」山頂の火口跡、「不入が沢(はいらないがさわ)」。神々が集まった場所とされ、立ち入りを禁じていることがその名の由来。

東京"真"宝島顔の見えない誰かのために、そして島のために。その身を尽くした情熱のテイクアクション。

「天上山」では、苦行!?とも言える登山と絶景以外にも、感動を得たと中野監督は言います。
「何度も言ってしまうのですが、1合目からの登山は本当に辛かったし、キツかったのです。その時に救われたのが、ベンチの存在でした。“天上山”には、所々、登山道にベンチがあります。景色を見てほしくて設置したのか、体を休めるために設置したのかは分かりませんが、確実に言えることは、この重たい木材を持って登山した人がいて、作った人がいるということです。素晴らしいと思いました。日本のベンチ特集の企画があったら、間違いなく1位取れますよ!」。また、その感動は地上でも体験したと言葉を続けます。その場所は、「赤崎遊歩道」です。

「島の北部に位置する“赤崎遊歩道”は、全長約500mの木造遊歩道です。展望台からは、伊豆諸島北部の島々や富士山、南アルプスなどを望むことができ、設置された飛び込み台も人気です。ここを見て思ったんです。遊歩道は、一番の観光につながると。先ほどの“天上山”のベンチではありませんが、これを作った人がいると思うと、本当にすごい。遊歩道がなければただの岩場ですが、ただの岩場を名所にした工夫と創造力が“赤崎遊歩道”だと思うのです。“天上山”のベンチにしても“赤崎遊歩道”にしても、誰かのために、島のために、という想いがあって生まれたもの。そのために身を尽くした情熱と行動力は、偉大だと思いました」。

その他にも、「前浜海岸」や「沢尻湾」、「多幸湾」など、神津島には名所がまだまだあります。自然と共存しながら生み出された観光資源は、島民の知恵と努力の賜物なのです。

「このベンチから見る景色は格別。そして、このベンチを作るために木材を運んで登山をした人は立派です」と中野監督。

自然の入り江を生かした海水浴場、「赤崎遊歩道」。展望台や飛び込み台、シュノーケルからダイビングまで楽しめる。

沈み行く夕日も神々しい。何でもない風景の全てが特別に映るのもまた、神の思し召しなのかもしれない。

 約10mの真っ白な十字架は、おたあジュリアを偲んで建てられた「ジュリアの墓」。

 「長浜海岸」の南側にあるぶっとおし岩。長年の波の侵食によって削られた穴は、自然が作り上げた驚愕の景観。

 島の西側に位置する「前浜海岸」。約800mの白砂が続くそこは、民宿が多い中心部から近く人気のスポット。

「沢尻湾海水浴場」。近くには、温泉保養センターや露天風呂なども用意され、便利に海水浴を楽しめる。

島の東側に位置する「多幸湾」。背景には雄大な景色が広がり、切り立った「天上山」がそびえ立つ。

東京"真"宝島再訪は元旦に初詣。初日の出も望みながら、もう一度、神津島の感動を享受したい。

「伝説、神話、言い伝え、風習。全てを取ってもこれだけ神々しい場所は稀有だと思います。僕が感動した“天上山”の鳥居もしかり、ひとつの島にこれほどまでに社寺や像、モニュメントがあるのも、ある種の別世界であり非日常。でも、この島にとっては、それが日常的風景として広がっていて。そんな島で、もう一度そのエネルギーを享受したいです」。
 
そして、その「もう一度」の時は、中野監督の中で心に決めているそうです。それは、元旦。
「是非、元旦に訪れてみたいと思いました。だって、神の島で初詣をして、初日の出を望むってすごくないですか! だから、いつかの元旦を夢見て、神津島にまた訪れたいです」。

3合目あたりの登山の映像シーン。大地を一歩一歩踏みしめる“ざっざっ”という音の演出は、臨場感が漂う。

「天上山」を登山する中野監督。「本当に辛かったですが、(強がりではなく)1合目から登って良かった! 達成感が違う!」。

「山頂や山道に鳥居があるのも珍しいと思いました。やはり神津島は、その名の通り、神が宿る島であり、その最高峰が“天上山”なのだと思います」と中野監督。

(supported by 東京宝島)

白砂がどこまでも続くロングビーチにミルキーブルーの海。自然が生み出す圧巻の造形美から目が離せない。[東京“真”宝島/東京都 新島]

東京"真"宝島OVERVIEW

東京から南に約151km、新島は伊豆諸島のちょうど中ほどに位置しています。島は南北に細長く、島の北には若郷地区、南には本村地区の2つの集落がありますが、元は別々の島でした。その証拠に、若郷地区には玄武岩質の黒い砂浜が存在しており、886年の大きな海底噴火によって2つの島がひとつになり、今の島のかたちになったといわれています。つまり、今から約1100年ほど前にできた島だから「新島(あたらしま)」と名付けられたというのです。

新島に初めて訪れた人は、他の伊豆諸島の島々とは違う印象を持つことでしょう。島の印象を決定づける最大の理由。それは圧倒的な“白さ”でした。火山島である伊豆諸島は、そのほとんどが玄武岩質であり、真っ黒な火山岩が多いのですが、新島は流紋岩と呼ばれる白い火山岩で島全体が覆われています。そのため、ビーチの砂も白く、海の色は驚くほどのミルキーブルー! 他の島の海の色とはまったく異なり、目にするすべてのものが白く映るのでした。

この白い砂浜は、新島だけで採れる珍しい石「コーガ石」が浸食されて砂になり、堆積したもの。そのコーガ石を原料に美しいオリーブグリーンの「新島ガラス」が生まれたり、不思議な石像「モヤイ像」が彫られては島のあちこちに点在していたり……。他にも1970年代に巻き起こったという離島ブームの名残が島のそこかしこに感じられました。当時の若者たちは、非日常の世界を求めて、この美しい新島を目指したのでしょう。今では考えられないほどたくさんの人の波が押し寄せたといいます。

東京とは思えない圧巻のロングビーチ「羽伏浦海岸」は、島の代名詞的存在です。その絶え間ない波のパワーは、時に美しくサーファーたちを魅了し、時に激しくビーチのかたちをも変えてしまう、すさまじい力を持っていました。日本とは思えない絶景を目の当たりにした時、長い時間をかけて生まれた新島独特の圧倒的なまでの自然の造形美に、誰もがきっと息をのむことでしょう。


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古き良き日本が今に残る式根島の風景。穏やかな島の暮らしが静かに息づく。[東京“真”宝島/東京都 式根島]

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東京にある11もの有人の島の中で最も小さい島。それが式根島です。島の面積は約3.7㎢、外周は約12kmとコンパクト。けれど、そんな数字では決してはかれない、さまざまな魅力が小さな島に凝縮されていました。

式根島は隣に位置する新島と二島合わせて同じ行政区分の新島村に属しています。新島からの距離は約5km、連絡船「にしき」で約10分の近さにありながら、まったく異なる景観を有しています。新島と同じく、白い流紋岩の溶岩に覆われた式根島ですが、その形はテーブルのように真っ平ら。しかしながら、島の周囲はリアス式海岸さながらの複雑な入り江で構成されており、穏やかな波が島を取り囲んでいます。

火山島である伊豆諸島の他の島々が織りなすダイナミックな景観とは裏腹に、式根島では、とても日本的かつ箱庭的な美しさを見てとることができます。島の北部には表情豊かなビーチがいくつも点在しており、夏ともなれば波の穏やかな白砂のビーチには海水浴客があふれます。南側の海岸沿いには大きな岩間からこんこんと湧く温泉が! なんとこの小さな島に2種もの源泉が豊富に湧き出ているのです。潮の満ち引きに合わせて入る海中温泉のため、「入るタイミングが肝心だよ」と島の人が教えてくれました。西には年中緑に覆われた森が広がり、1〜2時間ほどで回れる優しい遊歩道が整備されています。また、島の中心部にある集落には島民約500人が暮らしており、歩いて回れる範囲にほぼ集中しています。美しい海や絶景温泉へも歩いて行ける、そんなほどよいサイズ感が式根島の最大の魅力なのです。

小さな島だからこそ、出会えた風景がいくつもありました。道の真ん中で日向ぼっこする島猫に出会ったり、木漏れ日が心地いい遊歩道で深呼吸したり。はたまた、なんでもそろう島の商店をふらりと訪れ、島ならではのお弁当や焼きたてのパンを買ったり。車で足早に回ってしまっては決して出会えない島の風景にふと足を止めてしばし時を過ごす時、都心とは違う島ならではの時の流れを感じられるはずです。

島での暮らしは、自然との境目と人の暮らしとが途切れることなく、ひと続きになっています。式根島で出会った島の風景や人のあたたかさに触れるたび、かつてはどこにでもあった古き良き日本の豊かさと穏やかさが、この島では今なお息づいていることに気づかされることでしょう。


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