先人に誇れる本物の塩辛作りを通して、津軽の明るい未来を牽引する。[TSUGARU Le Bon Marché・赤羽屋 磯辺商店/青森県西津軽郡]

赤羽屋 磯辺商店代表取締役の磯辺角美氏。気さくな人柄ですが、仕事となると頑固な職人スイッチが入ります。

津軽ボンマルシェイカの町から生まれた、絶品の塩辛。

青森県の日本海沿岸、鯵ヶ沢町は通称「イカの町」。海岸沿いを走る国道101号線は「焼きイカ通り」と名付けられ、生干しのイカを焼いてくれる店が点々と佇んでいます。道を歩けば、炭火の上でジュージュー炙るイカの香ばしくおいしそうな匂いが、あちこちから容赦なく漂ってきます。建物の横には、ずらりと何列にも並んで干されたイカの姿。真っ白なイカが風にたなびく様子はまるでカーテンのようです(この地域では「イカのカーテン」と呼ばれ、町の風物詩として親しまれています)。「赤羽屋 磯辺商店」もそんな海沿いの一角にあります。

「道の駅わんど」へ行ったら必ず買ってください、と地元の人から熱烈に勧められたのが、ここの人気商品である「昭和の塩辛」でした。実は新幹線のJR新青森駅にある売店「あおもり北彩館」などでも冷蔵コーナーにさりげなく売られているのですが、渋いパッケージデザインのせいか、一見すると知る人ぞ知るツウ好みな一品です。しかし、一口食べたなら「うわっ」と叫び、一度その味を知ってしまうと、その後は何度も手を出さずにはいられない、無意識で夢中になって食べてしまうようなおいしさがあります。まろやかで複雑な旨味のあるイカの塩辛は、酒のつまみにも、ご飯のお供にも、延々箸を止めることができません。津軽ボンマルシェで以前紹介した「ひろさきマーケット」の高橋信勝氏もここの塩辛のファン。「無添加で塩辛を作る生産者さんは青森県内でもごく少数だと思います。しかもちゃんとおいしさにこだわって作っている。若手社長の磯辺角美さんが頑張って立ち上げた会社です。自分と同世代でもあり、応援したいですね」とのこと。そんなこだわりの塩辛を作る現場を知りたくて、はるばる海辺の町までやって来ました。

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海沿いに建つ、赤羽屋 磯辺商店の社屋。特に晴れた日は、海を望む眺めが絶景です。車で約15分のところには、隆起してできた広大な岩棚が続く「千畳敷海岸」という景勝地もあります。

この地域ではイカを干している様子をあちこちで見ることができます。ロープに干すところも多いですが、磯辺氏の干し場では使っていません。「すぐ焼く場合はロープでいいかもしれないのですが、うちは遠方にも出荷するため、縄跡が付かないよう、木材に干しています」

専用に建てたイカの干し場。虫除け、衛生に配慮し、目の細かい網で完全に囲っています。快晴で冷涼な風のある日は絶好のイカ干し日和。

津軽ボンマルシェ波乱万丈だった東京での暮らしから悟ったこと。

明るく元気な笑顔で迎えてくれたのは、代表の磯辺角美氏。生まれも育ちも鰺ヶ沢です。しかし話を聞くと、今の仕事を始めるまで、磯辺氏の人生はかなり波乱万丈だったようです。地元の高校を卒業後は東京の大学へ進学。カラオケ店でアルバイトをしたことをきっかけに、世間の表も裏も見るような経験をすることに。どこか人たらしなところのある磯辺氏は、自身の采配でサービス精神を発揮し、店のスタッフにも常連客にも気に入られ、お客さんからは直接名指しで連絡が来るほどの人気だったそうです。磯辺氏の活躍で店の売り上げは上がり、学生だというのに当時の磯辺氏には驚くほど収入がありました。大学を卒業後も就職をせずにそのままカラオケ店で働き続け、やがて誘われるままに社員なったそうです。
「あまりに稼いでいたので、普通の会社に就職する気にはなりませんでした。いずれは地元に帰らないといけないという思いもありましたし、起業したいという気持ちもありました」

しかし、磯辺氏は稼いだお金のまっとうな使い方を知りませんでした。夜な夜な街に繰り出しては飲み歩き、ありとあらゆる遊びに精を出して、気付けばお金を使い果たすどころか、借金の塊になってしまったのです。
「東京の夜なんて、若かった自分には誘惑だらけだったんです。お金があればあるだけ使ってしまっていました。若いくせに稼いでいたので、お金に関して完全に麻痺していましたね。全く自慢にはなりませんが、高いところに登りつめた分、落ちた穴は異様に深かったです。ただ、最終的に破産だけはしたくなかったので、弁護士さんに相談しながら、なんとかきっちり返済しました」

天国から地獄のような生活を経験した磯辺氏ですが、あの時の失敗のおかげで学ぶことは多かった、お金に関して感覚が鍛えられた、と今は前向きに語ります。人に真似しろとは決して言えない出来事ですが、若いうちに大きな痛手を受けておいたことで、現在は堅実にシビアな目線で仕事と向き合うことができているといいます。

東京での生活で底辺を味わった磯辺氏は、その後30歳を目前に区切りを付け、実家のある鰺ヶ沢町へ戻ってきました。

素早い手付きで次々とイカを捌くスタッフ。工房のガラス越しに作業の様子が伺えます。工房はわざと汚れが目立つような作りにしたそうで、床に水を流す構造にもしていません。いつもピカピカに掃除が行き届いていることも特徴的です。

捌かれたイカ。実は青森県はスルメイカの漁獲量が日本一だそうです。

新鮮でピカピカなイカのワタ。塩辛には必ずワタを入れます。「うちはワタが命。ワタを入れなければ厳密には塩辛じゃない」と断言する磯辺氏。ワタの酵素作用によって発酵が進み、旨味の素となるアミノ酸が形成されます。

津軽ボンマルシェ他にはない、唯一無二の塩辛を作る意気込み

磯辺氏の実家は40人程泊まれる、比較的大きな民宿で、母親が一人で切り盛りしています。子供の頃から民宿の一角で暮らしていた磯辺氏は、物心付いた時からいつも大勢の人が出入りし、知らない人と話すことも多い環境でした。バブルの時代は毎夜大きな宴会が繰り広げられていたこともあったそうです。飾らず人見知りせず、誰とでも気さくに話し、懐に飛び込める磯辺氏の性格は、そんな幼少時の経験からきているのかもしれません。また、自宅で食べる毎度の食事は民宿の料理の余り物が活用されていました。
「だから子供の頃から塩辛も普通に食べていましたね。特に強く印象に残っているというわけでもないのですが、抵抗もなかったです。宴会料理で余ったお刺身とか、焼き魚の切れっ端とか、とにかく海が近かったので良質な海産物は豊富でした。それなりに自分の舌も鍛えられていたのかもしれません。またイカの町というくらいですし、塩辛はいつも身近にある存在でした」
磯辺氏が自身の事業の主軸を塩辛としたことも、「そこに塩辛があったから」という自然な流れが大きいようです。

会社の設立にも苦労がありました。磯辺氏には「お金がないところからでも商売はスタートできる」という信念がありましたが、当初は母親が営む民宿に関わっていたことから、助成金の申請がなかなか通りませんでした。既に名のある民宿に、若手経営者の新規事業としての支援はできないと言われてしまったのです。東日本大震災の1年後というタイミングもあり、ダメージを受けた経営の借金の保証人になっていたこともネックになりました。それでも諦めずに新たな道を模索し、雇用促進を目的とした別の助成金を見つけました。しかしやはり民宿では申請が降りず、最終的に「もう自分で起業するしかない」というところまで追い込まれました。
「申請の期限も迫っていたので、とりあえず100円ショップで印鑑を買って、税務署に駆け込みすぐさま起業。新規事業者として再スタートしました」

面接官へのプレゼンでは、減塩、低コレステロールと言われる今の時代に、なぜ塩辛なのか?という厳しい突っ込みを受けましたが、磯辺氏は次のように答え、大きな覚悟を決めました。
「塩辛は全国各地で作られており、日本人にとって大変馴染みの深い食材です。自分たちの作る塩辛は、鰺ヶ沢という地域に根ざし、必ず人の手をかけ、しっかりとした本物を作っていきたい。他にはない、ここでしか作れない塩辛であれば、日本中の他の塩辛にも負けることなく、全国規模で広がっていくことを目指せます。それは雇用の促進にも繋がっていくのではないでしょうか」

たくさんの塩辛が熟成されている部屋。仕込み樽はラップでぴっちり閉められ、魚特有の匂いもなく、驚くほどにクリーンな状態が保たれています。

発酵・熟成を経て、いい色合いになってきた塩辛。塩辛作りの工程は必ずスタッフ二人で確認しながら行い、ミスをしないように心がけています。

津軽ボンマルシェ何事にも手をかけた祖母の姿を自身の鏡に。

磯辺氏の作る塩辛は、基本的に青森県産のスルメイカが原料。できるだけ地元で獲れるものにこだわっています。スルメイカは夏のイメージがありますが、俗に秋イカと呼ばれる秋から冬の産卵期の方が、寄生虫も少なく、体に栄養分を蓄えているので、身の質が良いそうです。磯辺氏はその時期には特に集中して仕入れているといいます。そして、今日は絶対に安全と思えるくらいに天候の優れた日を慎重に選び、朝から夕方まで一気に干します。風の強さや温度、湿度も大事で、干し場の柱には温度計と湿度計が設置されています。イカは生鮮食品であり、ちょっとの温度差が品質に影響することも多いため、常に細かくチェックして、干し時間を短くしたり、風の方向によって向きを変えたりしています。

イカスミ入りの塩辛を作るときは、一般的にイカスミペーストを別で購入して使うことが多いそうですが、磯辺氏はスルメイカが持っているイカスミを一本一本手作業で外し、そのまま利用しています。
「そんな風に作っているところは、他にないんじゃないかな。自分はイカスミペーストだとどうしても臭みが気になってしまうんです。食べた最後にふわりと香るくらいの上品な味わいを出したくて。イカ本来が持っている味を自然に引き出せればと思っています」

イカワタに関しても手間暇をかけています。完全に無添加の塩辛の場合、ワタを普通に混ぜるだけでは、数日経つとアンモニア臭が出てしまうそうです。そこでワタを塩漬けにし、何度も塩を取り替えながら、1ヶ月かけて丁寧に臭み抜きをします。時間と手をかけることで味わいは深まり、水分が減少して保存性も高まります。
「イカのワタを塩漬けしてしっかり熟成した塩辛って、食べると本当にうまいんですよ。それはもう、後で添加した味付けとは全然違います」

しかし独自の技術を編み出すまでには相当の労力がかかりました。百貨店の物産展で出会った先輩業者からヒントを教わったり、他社製品の成分表示をチェックしたり、自分でも思いつく限りにあれこれ試して地道な工夫を重ねた結果、少しずつ進化していったとのこと。現在でも改良は続けており、ここ数ヶ月でまた工程も少し変えてみたのだとか。疑問に思えば日々調整したいし、逆にそうじゃないといけないと思う、と話す磯辺氏の言葉には厳しい職人の姿がありました。

それだけ丁寧に手間と時間を惜しまない磯辺氏の仕事への姿勢の根底には、祖母の姿がありました。
「自分はおばあちゃん子でした。うちの祖母は、例えばだしをとるにしても、ひとつひとつ手をかけてしっかりおいしいものを作るような人でした。そんな姿を間近で見ていたことが、自分自身の行動や考え方のベースになっているように思います。もし祖父母が生きていたら、感動を与えられるような塩辛を自分は作っているか。常に問いかけて研鑽を続けています」。
「昭和の塩辛」という商品名も、昭和生まれで昭和の元号が大好きだという磯辺氏が感じる、どこか懐かしい時代の匂いと、祖母が作ってくれた料理への感謝の思いが込められているようです。

現在スタッフは5名。従業員には誇りを持って働ける場所にしたい、と今後への希望を語る磯辺氏。そのためには給料を始め、働く人の待遇を良くし、働く側も責任を持って気持ちよく働けて、技術を磨いていけるような仕組みを常に考えていきたいとのこと。鰺ヶ沢をアピールしながら、地域の雇用促進、地元の活性化に少しでも繋がっていけるよう、売り上げにも一層力を入れていきたいそうです。海辺の小さな町から、希望に満ちた熱い風が吹いてくるのを感じました。

赤羽屋 磯辺商店を代表する商品である塩辛。全て無添加で、イカの他に材料は食塩、味噌、清酒、唐辛子のみ。定番の「昭和の塩辛」と、コクのあるスルメイカの墨をふんだんに使用した「北の黒づくり」。

住所:青森県西津軽郡鰺ヶ沢町赤石町大和田39-43 MAP
電話:0173-82-0138
http://akabaneya.com