神のエネルギーを導く花。利島が誇る日本一の宝・椿。[東京”真”宝島/東京都 利島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島椿を撮るためにもう一度訪れた。空からもその赤色は輝いていた。

「利島(としま)には、2回上陸しました」。
そう語るのは、映像作家の中野裕之監督です。そんな中野監督が利島でどうしても撮りたかったもの、それは椿。
古くから日本の椿は魔除けの花としても知られ、神のエネルギーを導く花として親しまれてきたといわれています。
「1回目は、緑が鮮やかなうちに島全体と海を撮り、雰囲気も知るために上陸しました。2回目は椿。撮影を分けたのは、開花時期もそうだったのですが、それよりも椿を撮ることに集中したかったから」と語るよう、映像冒頭には、椿の美しきピンクが画面を彩ります。「チャッ、チャッ」と鳴くメジロの声は、まるで鳥たちもその開花を喜んでいるかのよう。
「島の約80%が椿林で覆われている利島は、日本で一、二を争う椿油の生産量を誇ります。椿の数は、約20万本! 早いものは11月ごろから咲き出し、長いもので4月下旬まで残ります。利島と言えば椿! 椿と言えば利島!」。

利島の椿の歴史は、江戸時代まで遡り、200年以上にわたって椿油を生産されていると言われています。初夏から秋にかけて十分に油を貯め、冬に花を咲かせる椿は、「ワックスがかかったように葉が艶々しており、太陽が当たると撮影時にハレーションを起こしてしまうほど!」。
また、椿は常緑のため、風景で四季を感じることが難しく、開花を持って季節の訪れを知らせる役目も果たしています。
「椿を撮影している時に、空からもその風景を覗いてみたのですが、そのカットが一番気に入っています。深い緑にヴィヴィッドに点在する椿は、本当に美しかったです」。
その椿を育てるために畑が段々になっているのも、落ちた実が雨などで流されないで収穫できるように考えられた先人たちの工夫からなるもの。
利島の椿は、島のシンボルであり、古くから島を支えてきた宝でもあるのです。


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冬の時季に花を咲かせるヤブツバキは島のシンボル的存在。初夏から秋にかけ、たっぷり油を蓄えた実になる。

島内には、約20万本のヤブツバキがひしめき合う。椿油の生産量は、日本で一、二を争う。

ヤブツバキをはじめ、自然豊かな利島には、ウグイスやメジロ、キジも生息する。

宮塚⼭の裾野に広がるヤブツバキ。冬になると島全体を艶やかに彩る。

都心から南に約140km離れた場所に位置する利島の人口は、約300人。島の魅力に魅かれ、移住する人も多い。

東京"真"宝島色々な人に島のことを聞いたが、誰も答えられなかった謎の島・利島。

「僕も今回の撮影で初めて利島へ行きました」。
そう語る中野監督。
「行く前に色々な人に“どんな島か知っていますか?”“行ったことありますか?”など聞いたのですが、誰も島のことを答えられる友人知人はいませんでした。しかし、きっとそれが普通なのだと思います。だから利島は謎の島であり、秘密の島。それが魅力的なのだと思います」。
先述の通り、利島へ2回訪れた中野監督は、まず1回目の撮影でイルカに虜になりました。
「利島には、約20頭のイルカの生息が確認されており、ドルフィンスイムとダイビングと両方楽しめる珍しい島だということが分かりました」。

そして2回目は、椿。
「繰り返しですが、利島と言えば椿。どうしてもカメラに収めたかったので、開花に合わせ再訪しました。花の数は想像以上で圧巻! そして、その時にもうひとつ感じたことは、美しい鳥の鳴き声が多いということ。僕はメジロに出合ったのですが、キジやウグイスもいるそうです。あくまで持論ですが、鳥のいる場所は良い生態系が形成されていると思っています。利島にもそれを感じました」。
ゆっくりと椿を眺め、鳥のさえずりに耳を傾ける。海に足を向ければイルカとの出合い。
利島は都会の喧騒とは対極の世界。朝日が1日の始まりを告げ、そのバトンを夕日が受け取り、1日の幕を閉じる。当たり前の日常の全てが美しい。時計や携帯を見る時間は忘れ、島の時間にその身を委ねたい。
「もしまた訪れる機会があれば、3回目の利島では釣りを楽しんでみたいです!」。

島の周囲には、野生のイルカが20頭ほど群れで生息している。利島のイルカは、高確率で合うことができる。

利島村の夕日展望台からの景色。周囲に遮るものがない利島では、美しい夕日を望めるスポットが多い。

東京"真"宝島断崖絶壁に囲まれた小さな島は、ひとつの山から成る。

都心から南に約140km、島の周囲は約8km、面積は4.12㎢。
利島は、他の島と比べてもその形状が特異であり、珍しくもその周囲は砂浜ではなく、断崖絶壁です。
「島と一体化する宮塚山は、山頂はもちろんですが、道中そのものが展望台のように絶景が広がります。散策中、僕のライフワークとも言える神社探しもまたそこで出合いました。島民から一番神様と呼ばれる阿豆佐和気命神社に始まり、二番神様の大山小山神社、三番神様の下上神社などを巡りました。そして、この島の特徴は、山だって事。だから坂が多い! 特に人が住む地域は、坂が急です」。
そんな利島は、島を周遊するにしても車で20分もあればできてしまうほどコンパクトなサイズ感。
「人が住まう地域は島の北側に集中し、宿や飲食店も少ない。そこが暮らしの全て。一見、これを不便と感じる人もいると思いますが、この現代離れした世界が今の時代に必要だと思います。いや、もしかしたら、人として生きる正しい世界は、こっちの方なのかもしれません」。
椿以外、何も事前情報がなかった中野監督は、利島をそんな風に感じたそうです。

最後に中野監督は、「何で利島っていう名前(読み方)なんだろう?」と素朴な疑問を抱きますが、その由来については今なおはっきりとはしていません。以前は、外島や戸島と書かれていた説もあるそうです。
「その謎めいたところもまた歴史ある島の魅力。全てを知ることが必ずしも美徳とは限りませんね」。

改めて問いたい。
利島は“どんな島ですか?”“行ったことありますか?”
「誰かにそう聞かれたら、その魅力を存分に伝えてあげたいです!」。

島の周囲はわずか約8km。その輪郭を断崖絶壁が囲む。

利島から南側の伊豆諸島の島々を望むことができる南ヶ山園地。新東京百景にも選ばれる名所。

利島村にある夕日展望台は、島民からも愛されているスポット。夕日から夜の帳まで楽しめる。

標高507mの宮塚山。中腹に登山道が数カ所あり、展望台も用意されている。 

正月三が日は、山廻りの日としてお米とお酒を持って一番神様、二番神様、三番神様と参拝。阿豆佐和気命神社は一番神様。

上記の阿豆佐和気命神社から少し歩いたところにある大山小山神社は、二番神様。

三番神様である下上神社はウスイゴウ園地の下にあり、阿豆佐和気命の妃を祀っている。

集落内で一番山よりの都道沿い位置する堂山神社。創建については不詳であり、明治初期にそれぞれ私宅に祭ってあった神々を合祀して設立。

利島の集落は、北斜面に位置する。坂道の先に海が見えるというふたつの関係は、長崎やサンフランシスコにも似る。

宮塚山登山の終着地。利島で発掘された銅鏡を模った池や当時の住居をモデルにしたあずまやなど、古代太陽信仰をテーマにした場所。

島全体がひとつの山のような形状をした利島。その頂点となるのが宮塚山。

(supported by 東京宝島)

大見得を切るような造形美。その姿は、まるで島が歌舞いていた。[東京”真”宝島/東京都 三宅島]

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監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 空撮:遠藤祐紀 音楽:木下伸司

東京"真"宝島睨みを利かされた僕は、島に撮らされていたのかもしれない。

「とにかくこれまで回った島の中でも、一番“ジオ”を感じました」。
そう語るのは、映像作家の中野裕之監督です。
この「ジオ(=地球・土地)」をもう少し紐解くと、島の輪郭にそれを感じる風景が広がっていたと言います。
「例えば、赤場暁(あかばっきょう)。海岸側には大小の石が集積され、もっと陸に目を向ければ朱色に染まる岩場や赤土、更にそれを空から望めば、現在の大地があって。異物同士の地層は火山活動によってできたのは理解できるのですが、その歴史の一片が可視化される場所を目の当たりにした時、すごくジオを感じました。この島は、生きているのだ、と」。

また、中野監督の目には、そんな三宅島の姿がこう映ったそうです。

「三宅島は、歌舞いていた」。

「かぶくとは、ご存知の通り、 歌舞伎の語源であり、古語です。本来の意味は、かたむく、自由奔放にふるまう、異様な身なりをする、など、色々ありますが、島を奇抜だという見方をしているわけではありません。歌舞伎の醍醐味でもある、大見得を切ったように島が見えるのです、三宅島は」。
そして、ひと言でいえば「格好良い」。

しかし、時折走る緊張感。心身を解放してくれる包容感のある一方、無意識に体が感じる厳威。その刹那は、「島の睨み」かもしれません。
この邂逅は「言葉で表せない感覚」ではありますが、長年積み重なって築き上げられた歴史ある島、そう容易いわけがありません。
「三宅島は、僕が格好良く撮ったのではなく、島にそう撮らされたのかもしれません。ですが、余所者の僕にそういうチャンスを頂けたことに感謝したいと思っています。海、風、空など、撮影に恵まれた環境もまた、島の天佑だったのかもしれません」。

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三宅島は富士火山帯に含まれる活火山。生きる島、生きる地球を身体中で感じることができる。

島の北東に位置する赤場暁。「地層を見れば、過酷な時代を生き抜いてきたことが想像できる。それでも自然が生み出した光景は美しい」。

近年では2000年に噴火した標高約775mの雄山。島内では、ダイナミックな火山島の景観を望むことができる。※特別に許可を得て撮影しております。

東京"真"宝島足元の植物から林、森、山。蘇る力と絶えない生命力。三宅島は、随一、緑が美しかった。

冒頭、三宅島に「一番“ジオ”を感じた」理由は、ほかにもあります。
それは「緑」です。
「荒涼とするひょうたん山で必死に自生する植物から迷子椎のような巨木、更には全体を見渡せば、サタドー岬を手前に海側から見た島の景色は、一面が緑です」。

その土地に根付いた木々は、生きる島に力強さを纏わせます。
「椎取神社に訪れた時に広がっていた白木にも驚きを隠せませんでした。見た目も似るそれは、綺麗に胴吹きされ、その佇まいは、まるで自らを持って時代の足跡を残しているかのようでした。2000年の噴火によって鬱蒼とあった森は飲み込まれてしまいましたが、約20年でここまで蘇ったのかと思うと感慨深い気持ちにもなりました」。
また、そんな植物の力強い生命力に安らぎを与えてくれるのもまた植物。花好きの中野監督の心を癒したのは、仙人草でした。
「樹齢うん十年、うん百年などという樹木はもちろん“大好物”なのですが、花の美しさにもちゃんと目をやりたいです。三宅島の花といえばガクアジサイを思い浮かべますが、僕は仙人草に惹かれました。島を離れてしまっても、どこかでこの香りと出合えば、島の余韻を呼び覚ませてくれるかもしれませんね」。

ふたつの噴石丘が並んでいたが、長い年月をかけ、海側の一つが波風に削り取られてしまったといわれる「ひょうたん山」。

手前に見えるのは、海面から約20mの高さにそびえる絶壁の岬「サタドー岬」。流れ出た溶岩と火山弾が見られる。

古代より、噴火を司る神が宿る神木と伝えられる。また、密林に迷い込んでもこの大木を目印にすれば助かると言われ、「迷子椎」と呼ばれるように。

「椎取神社」周辺は、2000年の噴火により森の大半がなくなってしまったが、現在は蘇りつつある。立ち枯れた白木も立ち並ぶ。

三宅島の撮影中に出合った仙人草。濃厚で甘く、繊細な花の香りが特徴。

東京"真"宝島水中の建築と芸術。そこにはもうひとつの三宅島の世界があった。

「三宅島には、柱状節理を形成する風景があります。陸でのそれは、ある意味想像できるのですが、水中にも存在していることが島の魅力を一層引き立てます」。
溶岩やマグマが冷えて固まる時、その体積は小さくなって縮みます。その縮みが生じる際に割れ目が発生し、5角形や6角形の柱状になるのです。これを柱状節理と言います。

中野監督曰く、「水中の建築」。
「それ以外にも、巨大な岩のアーチや地形が生んだドロップオフなど、水中にも“ジオ”を感じずにはいられません。そして、もうひとつ忘れてはならないのが、テーブルサンゴの群集です。三宅島のテーブルサンゴは、世界最北端としても知られるダイビングの聖地。広がるそれは、自然が創造する芸術。もちろん、悠々と泳ぐウミガメや様々な魚との出合もあります。陸の三宅、海の三宅。双方の表情をぜひ体感してほしいと思います」。

水中にも見られる噴火の足跡。しかし、この「柱状節理」は、火山からの贈りものと言って良いくらい、形状が美しい。

溶岩が生み出した海底アーチ。独特の地形が海の中を幻想的な世界に演出する。

世界中のダイバーを虜にするのは「テーブルサンゴ」。サンゴの群集が見事に広がる。

透明度の高い三宅島の美しい海では、ウミガメに至近距離で遭遇することも。

三宅島は、島周辺の海域が全てダイビングスポットと言って良いくらい様々な魚たちと出逢え、海が美しい。

東京"真"宝島鳥のさえずり、沈む夕日。三宅島の1日は、儚くも美しい。

中野監督は、島の生命体や自然の生態系を感じ取る上で欠かせないことがあると言います。それは、「鳥のさえずり」です。
「三宅島には、美しい鳥の声が鳴っていました。聞けば三宅島は、野鳥の生息密度が非常に高く、通称バードアイランドと呼ばれるほどだそうです。中でも、“日本一のさえずり小径”と称される大路池やその周辺の原生林には200種以上の野鳥が生息しているそうです。国の天然記念物であり絶滅危惧種として指定されている希少な鳥アカコッコは、一目見るために国内外から訪れる観光客も少なくないそうです。鳥が気持ちよく過ごしている島は、正しい自然の島。この島は、鳥にとって楽園だと思いますよ」。

鳥に魅了される中野監督ならではの映像よろしく、本編の冒頭は、無音の境地の中、優雅に鳴く鳥のさえずりから始まり、次のシーンでは良く見ると心地良く空を舞う鳥の姿を採用する細かい演出も。
「雄山中腹には展望台もあるのですが、ここから見る朝日は本当に綺麗です。遊歩道も整備されているのでアクセスも良いため、必見の景色です。そして、この遊歩道しかり、人の手を加えるバランスが絶妙だなと思うのが、迷子椎。巨木を支える支柱も島への敬意。決してあらがえない自然との共存を選んだ島民がこの島で暮らすことの覚悟や意義を、そんなところで少し感じました」。

人と自然の領域、人と自然の境界線。
様々な試練を経て、なぜ今なお島民はこの島で暮らすのか。それは三宅島への愛。全てを受け入れ、人と自然が共存する島、それが三宅島なのです。

「大路池」は三宅島を代表する野鳥観察スポット。希少なアカコッコからイイジマムシクイ、 カラスバトなど多くの野鳥を見ることができる。

雄山中腹を通る環状道路を七島展望台から坪田方面に進んだ先にある「大路池展望台」。天気の良い日は、「御蔵島」や「八丈島」まで見える。

「三宅島は、地球の生命力を感じることができた島でした。生きる島ゆえ困難もあるとは思いますが、この島の今を後世に残したいという思いで撮りました」と中野監督。

(supported by 東京宝島)

80代にして未だ現役!右手で回し、左手で器を生む。[因久山焼/鳥取県八頭町]

「ちょっと見せてあげるよ」と、手回しのろくろを使い、こともなげに器を作ってしまう芦澤氏。

因久山焼鳥取・八頭町に伝わる伝統の焼物・因久山焼とは?

ろくろに空いた小さな穴に棒を挿し、右手でぐるぐると勢いよく回し始めたかと思えば、ろくろに遠心力があるうちに左手のみで土を成形。あれよあれよと言う間に、みるみる器の形ができていきます。ですが、しばらくするとろくろの勢いは弱まり、また右手でぐるぐる。すぐさま左手一本で成形。その作業を数度繰り返すと、齢80を超えた陶芸家・芦澤良憲(あしざわよしのり)氏は、ようやく右手も使い仕上げ作業に入っていくのです。

「たぶん現時点で、この棒を挿して使う手回しのろくろで器を作っているのは、日本で自分ひとりかもしれない。電動ろくろはもちろん、普通は足踏みや蹴りろくろが主流ですから。今使っているこのろくろは、もしかしたら300年近い歴史があるんです。同じ型の手回しのろくろは江戸時代に京都などでよく使われた、ろくろだと言われています」

鳥取藩御用窯である因久山焼(いんきゅうざんやき)の歴史は古く、1688年(元禄元年)に出版された『因幡民談記』の中に久能寺焼として記載されていることから、300年以上前には陶器を産出していたといわれ、代々鳥取藩の御用窯として保護されてきたと言います。

九代目である芦澤氏もまた、その歴史を脈々と受け継ぐ陶芸家。300年以上に亘り、先祖が大切に守り続けた因久山焼を、今なお現役で守り続けているのです。

300年近く使い続けられているという檜を使ったろくろ。右手で回し、左手で成形する。

「右利きだから、最初は左手だけで成形するのに難儀しました」と笑う芦澤氏はこの道60年のベテラン。

冬でも冷たい水を使い作陶。温かいお湯を使うと土に油分が吸い取られてしまい荒れてしまうそう。

ろくろを回し生み出された器はまずは日陰で十分に乾燥させ、焼きの工程へ進む。

因久山焼因久山焼の特徴は、芦澤氏の生き様そのもの。

「因久山焼とは、果たしてどんな焼き物ですか?」と芦澤氏にその特徴を問えば、とても難しい質問だと氏は笑います。

因久山焼自体は、鉄分を多く含む地元八頭の土と藁灰釉(わらばいゆう)や緑釉(りょくゆう)、海鼠釉(なまこゆう)、辰砂(しんしゃ)など、さまざまな釉薬を用いた素朴かつ格調高い焼き物に仕上げます。ですが300年以上の歴史を紐解けば、時代時代の流行りや、作風があり、これが正解ということはないのかもしれません。

「300年の歴史があるとまことしやかに言われる中で、古文書や江戸時代からの資料を読み解くのも自分の仕事。本当に300年以上の歴史があるのかは、自分の見聞ではわからないので、文献を頼りに調べるしかないのです」

そうなのです。芦澤氏は作陶の傍ら50年以上に亘り、不透明であった因久山焼の実態を調べ続けているのです。焼きの実態、窯のあった場所、製作の状況など、立証するものが限りなく少ない中で、当時の状況を紐解き、それを自らの作陶に活かす。そうして生まれるのが、現在の因久山焼。現在、因久山焼の名を掲げているのは、9代の芦澤良憲氏と息子であり10代目の保憲氏のみ。

まさにその特徴とは、良憲氏が長年探し続け、追い求めるもの。「特徴は?」と問われれば、それは氏が追求する理想であり、自らが人生をかけて作陶した器そのものなのかもしれません。

茶道具を作陶するために、若かりし頃には裏千家での勉強から始めたと芦澤氏。

長年のファンはもちろん、海外からの買付などもあるという因久山焼。

鳥取市の南に位置する八頭町で育まれた鳥取城御庭焼が因久山焼。

因久山焼3日をかけて焼きあげる登り窯こそが、作品の良し悪しを左右する。

「あ、そうだ。因久山焼の特徴をひとつ思い出しました。それが外にある登り窯。これも300年以上の歴史があると言われております」

そう言ってろくろで汚れた手を洗うのも早々に案内してくれたのが、7室の窯が段々に連なる登り窯。土とレンガで造られた本窯と、それを覆う瓦屋根で作られた登り窯は、修繕しては使い、また修繕することで歴史を紡いできたと言いいます。

「薪に火をつけて高温で焼くのですが、2昼夜寝ずの番。毎回3日をかけて焼いていくのですが、窯の中は1300度にもなる高温で、その前で薪をくべ続けるのですがこれが熱いし、眠い。スタッフが10人がかりで順番に番をして焼き上げるのです」

今では年に1〜2回しか火入れをしない登り窯。聞けばその火入れの際、10人のスタッフがサポートしてくれるものの、基本、芦澤氏はずっと窯の前で火の状態を見続けるというのです。

「どんなにいい形ができても、乾燥させ、釉薬をつけ、火入れするまで、良し悪しがわからないのが面白いところ。だからだろうね、毎年が楽しみなんだよ」

そう笑う芦澤氏は少年のように無邪気。80を過ぎても、まだまだ現役。その姿勢こそが、因久山焼の特徴なのかもしれません。

300年以上使い続けられているという、風格漂う因久山焼の登り窯。

茶道具を得意とするのが、9代目・芦澤氏の作風のひとつ。

「やってもやっても上手くいかないから面白いんだよ。もうすぐ春がまた来るね」と3月中旬、まだ肌寒さの残る登窯前で笑顔。

住所:鳥取県八頭郡八頭町久能寺649 MAP
電話:0858-72-0278
http://inkyuuzan.ftw.jp/

(supported by 鳥取県)

子供達の学び舎を保存継承したホテルで、ノスタルジックな旅を。[The Hotel Seiryu Kyoto Kiyomizu/京都府京都市]

昭和8年に現在の地に移転新築された小学校は、装飾や内装デザインにおいて唯一無二の特徴をもつ建築として当時評価された。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水昭和初期築の歴史的小学校がハイグレードなホテルに。

2020年3月22日、京都・清水の地に、新たな歴史を紡ぐホテル「The Hotel Seiryu Kyoto Kiyomizu」が誕生しました。その名は、この土地で古来より東山の護り神として信じられてきた「青龍」に由来。客室数48室、レストラン、プライベートバス、フィットネスジムなどを有するラグジュアリーな空間。築80年以上の元清水小学校をコンバージョン(用途変換)しました。

客室から京都を一望。山腹の傾斜地に位置する建物は、低い建物の多い東山地区でシンボル的な存在。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水京都の小学校は、地域自治の拠点や伝統的コミュニティの中心施設だった。

はじめに、京都における小学校の歴史の話から。京都は小学校発祥の地であり、他の地域とは成り立ちが違います。明治になってから、京都には住民自治組織の「番組」をもとに64校の「番組小学校」が作られました。これはのちに国が整備した小学校制度に先駆けたものですが、大きな特徴は、地元の住民が資金や意見を出し合って建てられたということ。そのため各校の佇まいやデザインも異なり、それぞれの地域の財政力や思想、教育への想いなどが個性として表れていました。

異なる階層の3棟をコの字型に配置し中央の大階段でつなぐ棟配置など、傾斜地の特性を巧みに生かした印象的な建物。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水西洋建築の意匠を凝らし、京都を一望する場所に建てられた清水小学校。

元清水小学校は、明治2年に開校した「下京第27番組小学校」が前身。この学校も、未来の京都の輝かしい街づくりを目指した清水地域の住民の寄付により創設されたものです。東大路通から清水寺に向う清水坂の途中、京都の町並みが一望できる高台にあり、この地に移転新築されたのは昭和8年のこと。京都市営繕課設計の鉄筋コンクリート造り3階建てで、アーチ型の窓や軒下の腕木装飾といった特徴ある外観、スパニッシュ瓦葺き屋根やスクラッチタイルなど、細やかな意匠が凝らされています。

ロビーは2つのレセプションデスクとコンシェルジュデスクにより、宿泊客とスタッフが「つながる」空間を演出。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水閉校後も、その貴重な建物の歴史と価値を繋ぐためプロジェクトが始動。

残念ながら小学校統合により2011年に閉校しましたが、この貴重な建築と多くの生徒・市民に親しまれてきた歴史を次世代に繋ぐべく、開発計画が進められてきました。そして2016年からNTT都市開発による計画が進められ、ホテルとしてだけでなく、地域の集会やイベントに利用できるよう、さらには避難所として活用できるような場を作るプロジェクトが始動。ホテルでありながら、かつての清水小学校のように、人々の学びや地域のコミュニティ創出に貢献できる場を目指しました。

ジュニアスイート。校舎のクラシカルな建築を引き立てるため、敢えてデザインをシンプルにまとめた。

ザ・ホテル青龍 京都清水クリエイティブチームにより、時空を超えた心地よさを体験をできるホテルに。

今回完成したホテルの内装含む総合デザインを監修したのは、乃村工藝社のクリエイティブディレクター小坂竜氏。約90年の歴史を持ち、廃校になった清水小学校のホテルへのコンバージョンプロジェクトを担ったことについて、小坂氏は次のように話しています。

「歴史的な趣を持つ西洋建築とその内部空間に最大限の敬意を払い、そこに新しい機能としての建築と内部空間を附加するデザインを行い、懐かしさと新しさの融合を試みました。建築、ランドスケープ、インテリア、グラフィック、ユニフォーム、アートワーク、FFEと細部に至るまでクリエイターとの協業を行い、全く新しいここだけの空間を創出しました」。

この地にまつわる”桜”、”山鳩”、”清水”と名付けたプライベートバス全3室を用意。1室6,000円(90分)で4名まで利用可能。

ザ・ホテル青龍 京都清水館内の「レストラン ライブラリー ザ・ホテル青龍」で京の旬の食を。

和×洋・モダン×アンティークなど違った要素を掛け合わせたデザインにより、この地の特徴を活かした、ここにしかない建物に。かつて講堂だった建物は、天井の高さを活かした開放的な44席のレストランrestaurant library the hotel seiryu(レストラン ライブラリー ザ・ホテル青龍)に生まれ変わりました。多くの書籍に囲まれたインテリアはかつての学校であった頃を彷彿とさせます。“養生ブレックファスト”がテーマの「京の朝食」は、選べるメインディッシュに本日のスープ、サラダ、お粥など日替わりのブッフェが味わえる贅沢な朝御飯。宿泊者以外も入店できるほか、多目的スペースとしてさまざまな用途に利用することも可能です。

レストランは高さのある本棚に多数の書物が並び、アカデミックな空間に。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水デュカス・パリ監修の「ブノワ 京都」もオープン。

注目すべきは、別棟に「ブノワ」京都一号店が登場したこと。アラン・デュカスが設立したミシュラン星付きレストラン監修の「ブノワ」は、100年以上世界中の食通に愛され続けるビストロ。京都では、ブノワならではの定番料理に加え、京都の季節やテロワールを感じるビストロ料理を展開。ランチタイムは、旬の食材を取り入れたメニューをプリフィクススタイルで提供し、ディナータイムは、ワインとともに楽しめる前菜、メインディッシュ、デザートなどをアラカルトで味わえます。エグゼクティブシェフには、ミシュラン星付きレストランで経験を積んだフランス人シェフ、アントニー・バークル氏を迎えました。

「ブノワ  京都」も、宿泊者以外の利用が可能。店内68席ほか、テラス20席を設ける。

メインの一例は、「本日の魚のグルノブロワーズほうれん草のソテー」や、「京都牛のロッシーニ」など。

ザ・ホテル青龍 京都清水京都を代表する名店がプロデュースしたルーフトップバー&レストランも。

また、屋上には京都を代表する「K6」のバーテンダー西田稔氏がプロデュースに参画したバー「K36」も。オーセンティックな空間のメインバー「K36 The Bar」(屋内)と、京都の街並みを一望できるルーフトップバー&レストラン「K36 Rooftop」(屋上)の2つのエリアで、希少なウイスキーやワインを用意。さらに、本格的なフードメニューも提供しているので、幅広い使い方ができそうです。

ルーフトップバーやゲストラウンジからは「八坂の塔」を間近に望むことができる。

ザ・ホテル青龍 京都清水過去と現在が交差する空間で、アートや知と出会う。

かつて小学生が走り回っていた廊下や階段は敢えてそのまま残したという小坂氏。子供たちが学んでいた教室の扉を開けると、コンテンポラリーな全くの別世界が広がります。また、部屋やエントランス、レストランなどホテル内各所にはアート作品を展示。その多くが京都にゆかりのある作家の作品です。滞在中には、多彩なアートとの出会いも楽しめます。

人々が街の発展を願い、子供の未来を紡ぐ場所であった小学校跡が、次のバトンを受け取って世界と地域を繋ぐ場所へ。これまでになかったスタイルの、古くて新しいラグジュアリーな空間で、歴史を旅する上質な一夜を過ごしてみてはいかがでしょう。

クラシカルな廊下を歩けば、幼き頃の記憶が呼び起こされる。

住所:京都府京都市東山区清水二丁目204-2 MAP
電話:075-532-1111
料金:スタンダードキング1泊朝食付き ¥64,687~¥131,100
アクセス:
[タクシー] 京都駅より約20分
[市営バス] 京都駅より約15分「清水道」バス停下車 徒歩約5分、「五条坂」バス停下車 徒歩約10分
[京阪電車] 「清水五条」駅下車 徒歩約20分
https://www.seiryukiyomizu.com/
(写真提供:NTT都市開発株式会社)

今を乗り越えられたら、僕たち料理人は、もっと強くなれる。[ASIA’S 50 BEST RESTAURANT]

長谷川シェフ。第3位の発表を受けた直後の表情。

アジアのベストレストラン50

3月24日に発表された2020年版「アジアのベストレストラン50」。日本の最高位「日本のベストレストラン」には、長谷川在佑シェフ率いる『傳』が3位にランクインし、3年連続で3冠を達成しました。この評価をどう受け止めているか、次の1年に思うこととは。長谷川シェフにインタビューしました。

今年の特異な開催形式によるものなのか、あるいは結果についてなのか。すべての発表が終わった後、真っ先に長谷川シェフに話を聞きに行ったところ「満面の笑み」とはいえない微妙な表情が印象に残りました。ランキングについて率直に尋ねると「ううん、まあ、いろんな思いはありますよね」と、前置いてから、次のように話してくれました。
「1位の『オデット』も2位の『チェアマン』も、本当に素晴らしいレストラン。シェフのこともよく知っていて、2人とはすでに祝福のメールのやりとりをしています。自分の店のことはさておき、毎年ベスト10にランクインされた店は、どこが1位を取ってもおかしくないくらい実力が拮抗していると感じていて、そういう意味では結果を誇りに思っています」

新型コロナウイルスの感染拡大で急遽、オンラインストリームによるバーチャルイベントという形で発表された本年度のランキング。当初は、佐賀県武雄でセレモニーの開催が予定されていました。日本初開催ということもあり、日本の運営スタッフ及び関係者、メディアやシェフたちの間からも、過去2年連続で「日本のベストレストラン」に輝いている『傳』の1位獲得を期待する気運が高まっていたのは事実です。
「そうですね、日本を元気にしたいという気持ちは常にあり、今の状況がその思いをより強くしていることは確かです。ただ、1位が目標かといわれると、それも違う。昨日より今日、今日より明日、よりよいパフォーマンスを、という気持ちは開業したときから変わりません。料理人というのはゴールがない仕事。このランキングは、お客様やスタッフなど、自分を常に支えてくれている人々に改めて感謝し、次の1年も頑張ろうというといういい節目になっているように感じます」

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ランキングの発表を待つ長谷川シェフ(写真右)。

トロフィーを手に。日本評議会のチェアマンを務める中村孝則氏と。

アジアのベストレストラン50逆境下で試される真価と、「アジアのベストレストラン50」の意義。

例年、ランクインしたアジアのスターシェフが集結し、1000人規模で開催される華やかなセレモニー。いまだ収束の目途が立たないパンデミックは、2020年の授賞式の形を変えた以上に、今、世界のレストラン業界を危機的な状況に追い込んでいます。
「アジアン50をはじめさまざまな評価を頂いたことをきっかけに、ここ数年で海外からのお客様が非常に増えた。とてもありがたいことです。日本料理を通じ、日本の素晴らしい食文化を海外のお客様にも知って頂く機会になると思っていたので。ですが、現在の状況ですべては一旦リセットされた。とても残念に思います」

『傳』をはじめ、国内外で高い評価を受け、海外から食べ手を呼んでいたレストランは、インバウンド需要において、大きな役割を果たしてきたといえます。それが、誰もが予想だにできなかった形で、窮地に追い込まれています。
「今こそ、大事なものは何か今一度考えるとき」
そう話す長谷川シェフの表情に、悲壮感はありません。

「お客様が来て下さるということは“当たり前”ではない。そしてレストランとは“人間関係”、つまり人と人とのつながりそのものなんだということを改めて深く考えているところです。常連のお客様が大丈夫か、と心配して連絡を下さる。3カ月に1回のペースでご来店下さっていた方が、毎月予約をして下さる。これまでお断りをせざるを得なかった方々が、今ならとばとお問い合わせ下さりご来店下さる。感謝しかないです。私は料理人にとっての最高の評価は、“お客様の次回のご予約”だと思っています。これは開業時から変わらず、スタッフにも、次のご予約を頂くにはどうしたらいいか考えて仕事をするように話しています。それを今いちど徹底していこうと」

「世界のベストレストラン50」の日本評議会のチェアマンを務める中村孝則氏は、「アジアのベストレストラン50」の2020年のランキング及び変則的なイベントを振り返り「単なるランキングではない。“競う”こと以上に“分かち合う”賞」と、講評しました。授賞シェフの一人である長谷川シェフも、まさに同じように感じているようです。

「毎年セレモニーでアジア各国のシェフと一斉に顔を合わせ、近況を語り合いながら1年の健闘をたたえ合う、というのがこのランキング発表の最大の楽しみでした。今年初ランクインしたシェフたち、日本のシェフならば『ode』の生井さんらに、その興奮、熱気を味わってもらえなかったのは残念だったな、と思います。同時に、回を重ねることで、店や国を超えた料理人同士のつながりが深まっていることも確か。今を乗り越えられたら、僕たち料理人は、もっと強くなれる。もっとお互いを敬い、いざとなったら助け合い、これまで以上に料理で、食で何ができるかを真剣に考えるようになる。アジアン50のおかげで生まれた連帯が、この先のレストラン業界に必ず役に立つと信じています」

一言ずつ、言葉を選ぶように現在の状況について話す。

いつもの5人が集まれば、美味しい談義に花が咲く。若手農家版・津軽“めぇもん”自慢![TSUGARU Le Bon Marché・特別対談/青森県弘前市]

津軽の一次産業の未来を担う若手生産者の5人。左からにんにくを生産する『鬼丸農園』奈良慎太郎氏、ぶどうやせりを手掛ける『岩木山の見えるぶどう畑』伊東竜太氏、養豚や生ハム生産を行う『おおわに自然村』三浦隆史氏、弘前市のりんご農園『ちかげの林檎』石岡千景氏、板柳町のりんご農園『アルファーム』会津宏樹氏。

津軽ボンマルシェ食の宝庫・津軽で食べるべき“めぇ(美味しい)もん”は? 若手生産者が教えます。

「津軽ボンマルシェ」編集メンバーが現地を訪れるたび実感するのは、「津軽では何を食べても美味しい!」こと。市場へ行けば、見るからに新鮮な山海の幸がずらり。街中でも、飾りっ気のない食堂の定食の漬け物がびっくりするほど美味だったり、ふらりと入った居酒屋のお通しに、東京ではまずお目にかかれないほど新鮮な魚介類が出てきたりと、日頃接している食べもののレベルの高さが伺えます。となると、気になるのは、地元の人が一番美味しいと思っているものは何なのか。そこで、これまで「津軽ボンマルシェ」で紹介してきた生産者と、その仲間たちに声をかけました。集まってくれたのは、スキーリゾートとしても知られる大鰐町で養豚業を営む『おおわに自然村』三浦隆史氏と、神奈川県から移住し岩木山の麓に畑を構える『岩木山の見えるぶどう畑』の伊東竜太氏、そして伊東氏・三浦氏と共に若手農業生産者の組織の会員を務めるりんご農家『アルファーム』の会津宏樹氏と、農業仲間として親しいにんにく農家『鬼丸農園』の奈良慎太郎氏。途中からは会津氏同様若手のりんご農家として活躍する『ちかげの林檎』石岡千景氏も合流し、普段の仲の良さが伺える賑やかな対談となりました。

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若手生産者の会合後などによく集まって飲んでいるという5人。ちなみにこの日は会津氏の目論見により、会津氏が手掛ける『モツハウス』のロゴ入りパーカーを揃いで着用。なぜモツなのかは本文にて。

当日は、津軽土産としておすすめしたい加工品の数々を持ち寄ってもらい、推薦するポイントをプレゼンしてもらった。津軽への旅を予定している人は必見!

津軽ボンマルシェ・特別対談恩恵にも弊害にもなる厳しい気候が、津軽の食文化の源。

会津宏樹氏(以下会津):早速ですけど、飲んじゃってもいいですかね。

一同:乾杯~!

ONESTROY編集部(以下編集部):きょ、今日はよろしくお願いします!“めぇもん”自慢ということでお集まりいただきましたが、まずは津軽ならではの食文化について教えていただければと思います。

奈良慎太郎氏(以下奈良):いつも感じるのが、こっちの漬物文化の根強さ。種類が多くて、スーパー行っても売り場にめちゃくちゃ漬物が並んでる。

伊東竜太氏(以下伊東):保存食文化ってことだよね。野菜を漬けて冬の間も食べられるようにする、雪国ならではの工夫。自分は神奈川県の横浜出身だけど、こっち来て漬物多いなとは思った。若い子の漬け物に対する意識も違うし。

三浦隆史氏(以下三浦):うんうん、みんなちっちゃい頃から食べてる。うちの子も漬物大好き。

会津:津軽で子育てするときの注意点に、子どもにあんまり漬物を与えちゃだめってあってさ。しょっぱいのに慣れちゃうから。さすが短命県だよね(笑)(※)。漬物用の野菜の買い方もとんでもないっすよ、かぶ10キロとか(笑)。「道の駅」に行くと漬物用に大量の野菜が売られていて、冬になれば赤かぶや白かぶ。味付けも家庭それぞれ。

奈良:こっちはおばあちゃん専用の“漬物小屋”があるもんね、樽がずらっと並んでるの。大量に漬けて近所にも配る。

伊東:でもさ、漬物も今じゃ高級食材でしょ。にしんやほっけの漬物も昔からあるけど、買おうと思ったら高級。冬になるとおばあちゃんたちが作る干し餅もそう。タウンページの紙に包んで干してるやつ(笑)。保存食文化はすごいけど、今は作る人が減ってきているから、ビジネスとしてやろうとする人がいないとなくなるよね。

三浦:確かに。漬物も家それぞれで味が違うじゃないですか。最近もらった漬物の味がちょっと合わないときがあって、やっぱ親の作るものが一番だなって。そのとき作り方くらいは覚えておきたいなとは思いました。

奈良:小さい頃食べてたものも、今なくなってきてるもんね。細かく刻んだ根菜や山菜を入れた郷土料理の「けの汁」とかも。岩木山の方にうちのにんにくを使ってくれている『山の子』っていう古民家カフェがあるんだけど、そこで久しぶりにけの汁食べたら、ほんとにうまくてさ。でも自分で作ろうと思うとめちゃくちゃ手がかかるから。とにかく野菜を細かく刻むし。

会津:保存食も郷土料理も、俺ら世代はもはや消費者ですからね。でも30代になってから、なんか創作意欲が湧いてきて、自分も漬物漬けたり、料理作ってみたいと思うようになった。ちなみになんでけの汁っていうか知ってる?“け”ってお粥みたいなご飯のことなんだって。お米がとれなくて“け”を作れないとき、保存のきく材料で代用していたみたい。

伊東:細かく刻むのは米の粒々をイメージしてるのか。

会津:重いよね。子どもにも、せめて“お米風”にして食べさせてあげたいという。せつなくて泣きそう……。でも津軽ってそういうせつない食べものが多いかも。野菜がとれるのもほんの一時期だし、そもそも豊かな土地ではないから。りんごも、今でこそ日本一の生産量だけど、当初はそれしか作れなかったわけだし。

編集部:その話は『弘前シードル工房kimori』の高橋哲史さんにも聞きました。色々な作物の栽培を試して、最後に生き残ったのがりんごだったから、それを作り続けるしかなかったと。

奈良:でも気候は厳しいけど、県外の生産者から「津軽は寒暖差のバランスがすごくいい、生産地として優秀だ」と言われたことがあります。作れないものも多いけど、ここで作れる作物であれば、間違いなく美味しくなるって。意外と災害も少ない。

三浦:確かに寒暖差はすごく感じる。海も山も平地もあって、それぞれの生産者が特性を活かしてやっている感じ。弊害もあるけど、恩恵も受けているよね。

会津:津軽だとりんごひとつとっても、“山のりんご”とか“里のりんご”とか区別するし。「山のりんごが好き」とか言ってる人見ると、生産者としては「うわっ、にわか~!」って思うけど(笑)。やっぱり作り方や作る人で全然違うから。

伊東:あとは水がいいんだと思う。昔、横浜の小学校に通ってたとき、世界一水道水がまずいのが東京で、世界一うまいのが横浜っていうのを聞いたんだけど(笑)、弘前に移住して初めて米炊いたとき、水の違いをすごく感じた。それとさ、4月くらいになっても、水道水がすっごい“しゃっこい”じゃん。

一同:おお! 津軽弁出た(笑)。

奈良:分かる、春先までめちゃくちゃ冷たいよね。水道水もだけど、その辺の畑と畑の間に地元の人しか知らない美味しい水が湧いてたりして、それで料理するとうまいっていう。知らなきゃ絶対行かないようなところ。雪が多い年か少ない年かで水量も変わるとは思うけど、とにかく水は豊富で、水不足にもめったにならないし。

編集部:豊かな水は雪の恵みでもありますよね。厳しい気候ではあるけれど、その分作物は美味しくなり、厳しさゆえに発達した保存食文化や郷土料理の文化もある。ちょっとせつなさもありつつ、それが今の津軽の食の美味しさを支えているのだなと感じました。

(※)青森県は2000年以降、平均寿命が男女ともに全国最下位。

おおわに自然村』三浦隆史氏。1986年生まれ。今回の対談企画に際し、メンバーを集めてくれた。仲間内では会津氏と並ぶ古株で、会津氏とは若手農業生産者組織の会員となった20歳の頃からの付き合いとか。手に持っているのは、自社の放牧豚のソーセージや味噌漬け。弘前市内のデパートなどで購入可能。

岩木山の見えるぶどう畑』の伊東竜太氏は1980年、神奈川県生まれ。弘前大学在学中に津軽に魅せられ、弘前に移住して早20年。三浦氏や会津氏と同じ生産者組織には10年前から所属する。冬の間は、湧水に囲まれた一町田地区の畑でせりを栽培し、その質の高さで知られる。

津軽ボンマルシェ・特別対談ラーメンにモツ……明るみになる、根深き青森・短命県問題!

編集部:では本題に参りましょう。ぜひ津軽の美味しいもの自慢を。

奈良:それ言ったら、自分はやっぱりにんにく。実は料理のバリエーションがすごいんです、にんにくは。一番作るのはモツ煮込みに皮だけむいた状態でそのまま入れる。芋みたいにホクホクになってほんとうまくて。モツよりにんにく入っちゅうのかってくらい、遠慮なく入れるのがミソです。美味しさは保証しますけど、翌日は色々とすごいことになるんで、そこは自己責任で(笑)。

三浦:こっちは、皮をむいたにんにくを丸ごと料理に使って食べることが多いですよね。モツに入れるのも普通にやる。

奈良:県外だと割と限定的みたいね。最近うちの会社で粉状のにんにく作ったら、納豆にめっちゃ合うの。

一同:え~~~~。

奈良:いや、一回やってみって。あと津軽のうまいものっていったら、イカゲソや野菜を小麦粉と混ぜて揚げた郷土料理の「いがめんち」。すごい好きだけど、あれも材料を刻んだりするのに手間がかかる。居酒屋でも頼むし、嫁の実家に行くと手作りのが出てきます。それと、『弘前中央食品市場』にある大学芋! あの作り方ほかにないよね? あのためだけに市場に行くお客さんも多いし。

編集部:水あめではなく白砂糖をまぶした『山田商店』さんの大学芋ですね。前にも弘前名物としておすすめしてもらったことが。その場で量り売りしてくれるのもおもしろかったです。

(ここで『ちかげの林檎』石岡千景氏が登場し、挨拶。やはり『モツハウス』パーカー着用済み)

会津:あとはやっぱり津軽といえばラーメンじゃないですか。しょっちゅう食べてます。

三浦:この辺はラーメン激戦区ですよね。有名な煮干し系だけじゃなくて、色々な種類があるのも特徴。元々「津軽中華」と呼ばれる細いちぢれ麺と煮干し出汁のスープのあっさりしたラーメンがあって、それからの派生だと思うんですよ。麺好きの人ばかりだよね。

伊東:こっちに来て衝撃だったのは、弘前の『たかはし中華そば店』の中華そば。最初は煮干し臭がすごすぎて「もう食わねえ」って思ったけど、なぜかその後も通っているという。それとお祭りでラーメンや蕎麦の出店がたくさんあるのにびっくりした。席が用意されてて、食堂みたいになってるの。

奈良:むしろほかの地域にはないの? こっちはそれすらも違和感ないけどね。昼間っからお酒でべろべろになりながらラーメン食ってるじいちゃんとかよく見るし(笑)。

編集部:青森短命県問題は根深そうですね…。

奈良:県をあげて対策をしていて、社員の健康面を考えていると認定を受けた会社は、地方銀行の融資の利率が優遇されたりするんですよ。健康診断を義務化したりとか分煙したりとか。

会津:え~、そんな制度があるんだ。うちはりんご農家やりながら、みんながモツを囲みながら交流できる『モツハウス』という施設を運営してるんですけど、モツ食べたら野菜も食べろって言われるじゃないですか。だから漬物も用意してます。

編集部:さすが短命県ですね(笑)さっきモツ煮込みを自宅で作る話もありましたが、津軽ではみなさんすごく豚のモツを食べますよね。こちらではホルモン屋といえば、店内で食べる店より持ち帰り専門店の方が多いですし。県外にはほぼ知られていない食文化なのではないでしょうか。

三浦:昔から津軽は畜産が盛んで、農家が家の納屋で豚を飼っていたり、養豚が身近だったんですよ。で、単価が安い部位といえばモツ。ほかの部位は出荷するけど、モツは安いから自宅で食べていたという。この辺だと豚ですけど、北津軽に行くと馬を飼っていたり、鶏を飼っていたりします。ちなみに、青森県は日本で一番豚肉を食べる県なんです。だから街の飲食店にはヒレカツもあれば生姜焼きもあるし、豚肉のBBQも頻繁にやってるし。

会津:確か豚は畜産農家あたりの飼育頭数も日本一だよね。隆史くんとこの生ハム塾、行ってみたい。モツに生ハムに漬物、最強じゃない。春に「津軽森」っていうクラフトイベントがあるんですけど、そこに隆史くんが出店してたときのモツ鍋、めちゃくちゃうまかった。蓋開けたらほとんどモツで野菜が少なくて、こんな至高の食べものあるの? って。……でも自分は今日、そんなにモツについて語るつもりはなくて。

奈良:あのさ、今日みんなにこんな『モツハウス』のパーカー着させといて、いやらしくない?(笑) 全員着てるのに、読んでる人が気にならないわけがないじゃん。

会津:いやいや、モツは置いといて、自分が薦めたい津軽のうまいものは、やっぱり肉です! 豚モツ以外だと鶏ですかね。モツ会やるとき、豚の横隔膜、いわゆる豚サガリと鶏ネックも用意します。

編集部:鶏ネック……?

石岡千景氏(以下石岡):鶏ネックって、ほかの地域じゃあまりないんだよね。

奈良:えー? これもご当地ものなの? 知らなかった。

三浦:鶏ネックは鶏の首部分で、小さくて希少部位なんですけど、安いんですよ。こうやって考えると、津軽は豚・鶏・馬・鶏・牛揃ってますよね。モツに限らず、肉は自慢。津軽って、肉好きな人にとってはいい場所だと思います。

『アルファーム』会津宏樹氏。1985年生まれ、2007年にUターンし実家のりんご農家を継ぐ。三浦氏、伊東氏も所属する生産者組織『4Hクラブ(全国農業青年クラブ連絡協議会)』では、63代目会長を務めた。若手生産者のコミュニケーションの場として、無料宿泊施設『モツハウス』を運営し、一部で“モツの人”として有名に。

『鬼丸農園』奈良慎太郎氏。1982年生まれ。岩木山麓の鬼沢地区にて、元々りんご農園だった地を開墾してにんにく農園を営む。会津氏が実行委員を務めていた農業産直市「あおもりマルシェ」への出店をきっかけに、今回参加のメンバーと知り合った。自慢のにんにくを使った加工品の製造にも意欲的。

津軽ボンマルシェ・特別対談あれもこれも津軽名物。知られざる地域のいいもの、次々と。

伊東:自分は津軽に来てから、果物がほんと美味しいと思った。最初に働いた観光農園では何十種類も果物を作ってて。さくらんぼの時期に食べれば「さくらんぼ一番好きだわ」って思って、桃の時期になれば「桃が一番だわ」ってなって、それが、梨、ぶどう、りんごって時期ごとに一番好きな果物が変わるという。

編集部:確かに、津軽といえばりんごですが、こちらの青果店で果物の豊富さと新鮮さ、安さに驚きました。実はフルーツ天国ですよね。これも県外の人からすると意外なのでは。

伊東:でもりんご農家がいるから言うわけじゃないけど、30歳過ぎて一番食うようになったのはりんごかも。長期保存もできるし飽きない。長野県の知り合いが美味しいりんごを作ってるから、一概に津軽が一番とは言い切れないんだけど、やっぱり味はいいよ。あとこれ親世代とかに言うとびっくりされるんだけど、津軽は干し柿がうまい。東京だと干し柿って高級品なわけよ。年にせいぜい数個しか食べられないみたいな。こっちだと、これも雪が多い地域ならではの保存食で、渋抜いて干して、自家用に作る人が多いイメージ。あの甘さはなかなかない。

奈良:手間暇かけて、人にあげるために作るおばちゃんとかもいますよね。うちの会社のパートさんにも、一週間くらいかけて山菜とってくる人がいて。筍も栗も、料理するのにめちゃくちゃ手間がかかりますよ。そういえば前にみんなで山菜とりに行ったね。熊が出る山に……。

石岡:ちなみに、誰かもう筋子言った?

一同:あ~、言ってない!

石岡:自分のおすすめは筋子。小さい頃からすごく食べてる。この辺の店でも「ここのはうまい、ここのはダメ」っていうのがあって。弘前駅の近くのショッピングセンター『虹のマート』に売ってるのは確実にうまい! 買ったら全部ほぐして、ご飯に混ぜる。

一同:混ぜる!?

石岡:全部混ぜると筋子が潰れて、ピンクになるの。そのピンクのご飯を食べる、小さい頃から。うちだけ?(笑)

奈良:ピンクにするのはどうかと思うけど(笑)、津軽弁に「あっつままさすんずご」って言葉があるんですよ。炊き立ての熱い(あっつ)ご飯(まま)に筋子(すんずご)のせて食うって意味。津軽だと、これでもう完成された料理みたいな感じなんだよね。さっきの水にも繋がるけど、米も美味しいし。自分は納豆に筋子入れてご飯と食べる。太宰治がやってた食べ方らしいんだけど。

三浦:やっぱりしょっぱいものは好きだよね。短命県……。

編集部:テーマからは少しずれますが、食べもの以外で津軽が誇るものは何ですか?

奈良:岩木山ですね。完全に岩木山。岩木山の写真だけアップするインスタグラムのサイトが立ち上がってるくらい、ほんとみんな写真撮ってる。それぞれみんな好きな撮影ポイントがあって、車停めて。

伊東:関東で富士山見るのと意味が違うのよ。富士山も「おお!」ってなるけど“よその偉い人”って感じじゃん。岩木山は“うちの親方”的な感じ。

一同:ちょっと、言い方!(笑)

会津:確かに全国色んなとこ回っても、山があんなにズドンときれいに見えるの、岩木山と桜島くらいでした。津軽平野の風景も好き。「こめ米ロード」っていう道があるんですけど、周りに全然山がなくて、一面の田んぼがスパッと見えて。実家が三重県で農家やってる大学生が泊まりにきたとき、こんなところで米作りたいって言ってくれてうれしかったなあ。ドライブするだけでもおすすめ。

三浦:津軽のよさと聞いて思い浮かべる風景は多いですよね。岩木山も、田んぼも、桜もねぷたもそう。春夏秋冬、色合いの美しさが日本一だなと思う。

会津:あ、あと温泉もある。白く濁った湯もあれば赤い湯もあるし。

奈良:お湯がいいとか風呂入った後の飯が旨いとか、バリエーションが多いしね。関東圏行けば温泉入るのに1000円くらいするじゃないですか。それがこっちでは少し高くても400円。

石岡:自分のおすすめはですね、「ふらいんぐうぃっち」という漫画です。読みました? 読んでください。なぜかって、私の弟が作者だからです(笑)。弘前の色々な場所が舞台になっています!

奈良:今度うちの畑がある鬼沢地区も取り上げてって言ってよ。俺が参加するはだか祭も。

三浦:そういえば、津軽はご当地のお祭りも色々ある。それこそ農業の県なんで、作物の神さま、生きものの神さまとかを祀るお祭りがあったり、面白いです。

奈良:五穀豊穣系ね。柳の枝とか“くわ”とか落としてその年の作物の出来を占ったり。くわは10人で「せーの」で落として、揃えば豊作。本番の前にちゃんと練習するのよ。1時間くらい練習して、その後2時間飲む(笑)。

会津:飲むための口実なんじゃないの?(笑)

奈良:でも祭のこと自体は大事にしちゅうわけよ。実際にはゲン担ぎで、何かその年の指標というか、意気込みみたいなものを得たいんだろうね。

伊東氏は自身が手掛けるぶどうジュースを持参。津軽で生産が盛んな品種・スチューベンを絞った濃厚な味わい。畑から見える岩木山のシルエットをぶどう果汁で表現したラベルデザインが美しい。

会津氏持参の駄菓子「大王当て」「イモ当て」は、レトロな見た目もいい感じの津軽のソウルフード。この後の大王&イモ当て大会も大いに盛り上がった。お土産にして家族や友人と楽しめば喜ばれること間違いなしのスイーツだ。

途中から飛び入り参加してくれた、『ちかげの林檎』石岡千景氏(左)。1982年生まれ。昨年弘前市下湯口にある実家のりんご農園から独立し、現在はひとりでりんご栽培と向き合う。アルペンスキーの全国大会優勝経験を持つ、アスリートの一面も。

今や全国区の人気を誇る「スタミナ源たれ」が三浦氏イチオシの津軽土産。今回の対談で、「一家に一本」どころではない高い浸透率が判明した人気調味料だ。青森県産のりんごとにんにくがたっぷり使用されている。

津軽ボンマルシェ・特別対談普段食べているものだけをおすすめ! 手土産にするならこの商品。

編集部:この記事を読んでいるのは、津軽以外のエリアに在住の方も多いと思われます。今日はそんな方々におすすめしたい、手土産向けの加工品を持ち寄っていただきました。ぜひプレゼンをお願いします! まずは伊東さん。

伊東:うちのぶどうで作ったジュースです。生産量が少ないのでネットでも売ってなくて、欲しい場合は直接連絡をもらわないとなんですけど。毎年ぶどうの出来も違うので味も変わりますが、知ってる人は毎年注文してくれます。大きいボトルで出してるのは、コップで飲む方が香りを感じやすいから。あと高級志向のジュースじゃなく、みんなで自宅で飲んでほしいという気持ちもあって。これで1本800円。

会津:安いよねえ。絶対美味しいし。毎年普通にぶどう買ってるけど、ほんとうまいもん。自分が持ってきたのは「大王当て」と「イモ当て」。小さい頃から駄菓子屋で買ってた思い出深いご当地のお菓子です。弘前だと、駅にある商業施設『アプリーズ』とか弘前公園脇の『弘前市立観光館』とかで手に入ります。「大王当て」は練り切り、「イモ当て」は芋ドーナッツのタイプ。

伊東:これやったことないんだけど、どうするの。

奈良:くじになってる紙をめくるんですよ。ちなみに「イモ当て」は親と子の2種のうち、どっちかが当たる。「大王当て」は大きな大王、中サイズの親、小サイズの子の3種。当たりの大王は1本しかないから、こっちの方が夢があるよね(笑)。じゃ、初めての人からどうぞ。当たったら全部食べなきゃだめですよ。

伊東:……子!

会津:(笑)あ、親出た! 甘い~。これ、居酒屋にあっちゃいけない甘さでしょ。

奈良:子のサイズがちょうどいい。もう当たりが当たりじゃないですよねこれは(笑)。

伊東:いやでもうまいよ。子どもはみんな大王狙うわけでしょ。

(結局大王は出ないまま一巡し、「大王当て」も「イモ当て」も終了)

三浦:自分は定番ですが「スタミナ源たれ」を持ってきました。最近は東京でも普通に売られているけど、値段が全然違うんで。こっちだと安いときは200円切ることもあります。それこそ焼肉にも使うし、うちではこれに生姜を足して生姜焼き作ったり。材料のほとんどがりんごとにんにくで、調味料として万能ですよ。色々種類があるけど、うちではこのメジャーなタイプを使ってます。家にはストックがいっぱい。

伊東:使い切っちゃう前にストックをね。うちも2本ある。でもこないだ数年ぶりに「エバラ」の焼肉のタレ使ったら、すげーうまかった(笑)。

会津:浮気すんなや!!「源たれ」のチャーハンも間違いない美味しさっすよ。弘前の城東にある『CoCo壱番屋』だと、ご当地メニューの「源たれチキンカレー」があります。

奈良:なんか最後の紹介になっちゃってすごく嫌だけど、自社製品持ってきました。これは生のにんにく。こっちの乾燥にんにくは一回水で戻して使うタイプで、東京の「イオン」さんとかにも置かせてもらってます。あと、うちの農園のイチオシがこの「にんにく麹たれ」。にんにくの比率が結構高くて、しょうゆ、砂糖、麹を混ぜて作ってる。麹が肉を柔らかくするんで、これに漬け込んでから揚げた唐揚げとか最高っす。よくあるにんにく調味料は味噌ベースだけど、これはしょうゆベース。東京の県産品ショップでも売ってます。

会津:これはほんっとにうめーんだわ。空港にも売ってるから、自分で買ってお土産にしてます。

石岡:前に限定で出してた辛いバージョンもよかった。こっちは黒にんにく? 黒にんにくにすると、成分が変わるっていうけど。

奈良:普通のにんにくに比べて、栄養価が6倍になるそうです。がんを予防する効果とか、色々研究が進んでるみたいですね。

編集部:今日は色々とおすすめを挙げていただいて、とても勉強になりました。最後になりますが、今は一次産業が厳しいと言われる時代です。みなさんはこれからを担う若手として、どんな展望をお持ちですか?

三浦:個人的には、農場の規模を大きくして、ほかの生産者さんと一緒に何かしていきたい。お金というより、その方が面白そうなだなって。モチベーションも上がるし、例えば奈良さんと何かやれば、にんにくを使ってる人にうちの肉を広められて、その逆もある。知名度を上げるとっかかりにもなると思います。

奈良:うちは法人なんで、やっぱり稼ぎたいです。普通の会社は営業がいて、総務がいて、それぞれの役割を分けないと掘り下げられないっていうのがあるじゃないですか。だから生産と販売を分けたんです。ちゃんと作ったものをしっかり売って、農業でちゃんと稼げているということをもっと出していきたい。

伊東:一次産業って、食べものを作る仕事じゃん。自分はそれがすごいなと思って就農したから、その想いは大切にしていきたい。10年やっただけでも温暖化による気候の変化を実感するけど、栽培方法も品種改良も、今が頭打ちというわけじゃないですよね。時代に合うよう工夫してやっていきたいと思います。もちろん廃業する人は多いですよ。でもここ1、2年で、勉強したいとうちに来てくれる新規就農希望者もいて。自分は双方の気持ちが分かるから、始めたい人と辞めたい人を繋げられる人間になりたいです。

会津:うちは祖父から受け継いだのがたまたまりんごだったから、個人的に青森県とかりんご産業とかにこだわりはないんです。ただ最近、ぶどう好きの奥さんのためにぶどうを作ったらすごく喜んでもらえて、これが農業のあるべき姿なのかなって。従業員も自分も食べてくれる人も幸せになれる一次産業ができたらいいなと思います。市場では高い安いで価値が左右されるけど、それに左右されずに、こだわった商品はしかるべき形と価格で判断してもらえるようにしたいですね。

石岡:うん。極論だけど、農家がひとりひとりちゃんと経営して儲けることだよね。津軽はなかなかそこまでいっていなくて、農家自身もりんご一個にいくら分の価値があるのか知らない状況があると思う。ひとりずつが経営感覚を身に付けて稼ぎをアップさせることが大事。りんごって技術のハードルが高くて人手もいる特殊な作物なんですよ。事業拡大も手だけど、一昨年まで農業法人にいた身としては、人間集まれば集まるほど手を抜くことをひしひし感じて。規模や量が必要なら、ひとつの会社にしなくても、経営感覚を持った個々が繋がることでなんとかできるんじゃないかと。今は人間の研究中です。

三浦:同じ意識を持った共同体ってことだよね。

石岡:そう。津軽人てすごく自信ないんですよね。

一同:ないよね~。

石岡:でも「どうせこうだから」とか、そういうメンタル持ってる人が農家にいるってマイナス。悩んでいる人にはアドバイスもしてあげたい。あとは、りんごで得た収入を使って、農家がだめになったときの足を他に作りたくて。りんご以外で、それこそモツとかの飲食店でもいいし。

会津:うちは最近奥さんと、雪が少なくてりんごが美味しくできそうな場所に支店出そうかって話してます。東京の奥多摩だって、青森の栽培技術使えばりんごできるじゃんって。今年は雪が少なくてほんとに楽。でも雪だって人を集めるコンテンツになるんだよね。それ考えると青森って宝の山だし、あんまりネガティブなこと言いたくないんですよ。『モツハウス』でも、ネガティブなことは言わないで、一緒にモツつつきながら飲んだら、もう家族じゃんてスタンスで。

編集部:それぞれの事情をお持ちかと思いますが、当事者の方から“青森は宝の山”という言葉が出たことに希望を持てました。あと、みなさんのおしゃべりが単純に楽しかったです。本当に仲良しですね。本日はありがとうございました。

奈良:なんか今すごく酔っぱらってて、ちゃんと話せたか心配。

三浦:記事になるのか不安です……。

会津:ま、とりあえず次の店行く人~?

(夜の繁華街へと消えていく5人)

奈良氏持参の手土産好適品はすべて自社の『鬼丸農園』のもの。手前の「にんにく麹たれ」はリピーターの多い人気商品。

「大王当て」「イモ当て」は昭和27年創業の老舗メーカーの商品。どちらも“当物(あてもの)駄菓子”と呼ばれるくじ付き菓子。

当物駄菓子初体験の伊東氏も、素朴な味わいをいたく気に入った様子。結局この日は一番大きな練り切り菓子の「大王」は出ず、決着は次回に持ち越しに。

対談場所となったのは、弘前市中心部にある居酒屋『南国食堂shan2(シャンシャン)』。店主の加藤肇氏は、DJやイベントプロデューサーとしても活躍する。店内には弘前出身の世界的アーティスト・奈良美智氏などのサインも。

同年代の農業従事者として悩みや目標を共有する5人の姿に、こちらまで元気をもらえる対談となった。ちなみに『モツハウス』のロゴが表現しているのは「家」という漢字。“モツを囲み家族のように語らえる場所に”という会津氏の想いが、仲間との関係性にそのまま表れているように感じられた。

場所協力:南国食堂shan2(シャンシャン)
住所:青森県弘前市桶屋町4-8 MAP
電話:0172-32-8320

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

厳しくも美しい南会津の冬。自然と人、自然と自然の対比で紡ぐ、トリップムービー最終章。[南会津ショートフィルム/福島県南会津郡]

南会津ショートフィルム/クリス ルッズ雪、そして雪。圧倒的な白銀の世界に小さな命が燃える。

春夏秋冬、移り変わる南会津の姿を、4人の映像作家が表現するトリップムービープロジェクト『南会津ショートフィルム』。その4作目にして最終章となる冬の南会津に迫った作品「WHITE WIND TRAVELLER」が公開されました。映し出されるのは、厳しくも美しい白銀の世界。指揮をとったのは、東京を拠点に世界で活躍する監督/シネマトグラファーのクリス ルッズ氏です。

国内屈指の豪雪地帯である南会津の冬は、雪や風が止まることなく吹き付ける厳しい環境。自然の猛威にさらされながらも、粛々と、時にはその状況すら楽しみながら、人々は営みを続けます。

「自然と人間の対比を通して、厳しい雪の天候や、野趣あふれる自然から南会津の美しさを発見してもらいたかったのです」。人や個人の物語にフォーカスし、観る者にあたかもその場所にいるかのような感覚をもたらす表現を得意とするクリス氏。そのメッセージは、コントラストを強調した演出と力強いビジュアルで表現されています。

「夜から夜明けにかけて、嵐とともに自然の表情は刻々と変化します。森は霧の中に消え、無人の高原では雪と風が混ざり合い、夜明けには純白の世界が光に照らされて、雪上に風のシルエットが浮かび上がります。タイトルの『WHITE WIND TRAVELLER』は、そんな南会津の自然そのものを表現した言葉です」。
時に花が散るようにひらひらと、時に軽やかに踊るように。作中、ほぼ全編を通して登場する雪は、ひとつとして同じものはありません。それは雪と風の共演が織りなす刹那であり、その美しさは私たちの感性に強烈に語りかけてくるようです。

そして雪と同じく印象的な光景を作り上げるのが、人の存在です。壮大な自然の佇む人の姿は小さく、だからこそ内に燃える命の炎が、より際立って見えてきます。「人と自然だけでなく、自然と自然にもコントラストはあります。私たちはこのムービーを通して、吹雪が到来した時の厳しさとそれが過ぎ去った後の穏やかで美しい自然の変容を目の当たりにするのです」。

【関連記事】NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/南会津の一年を密着取材! 春夏秋冬を作家と巡り、若き力を発掘する旅へ。

たかつえスキー場近くの広場にて撮影されたカット。ホワイトアウト寸前、女性がひとり立つ姿は、ポエティックな世界を創造する。

「こんなに激しい吹雪の中で撮影するのは初めてだった」と語るクリス氏。中でも、それを象徴するのがこのシーン。南会津の過酷な冬の環境を物語る。

南会津ショートフィルム自然の力強さに畏怖しながらも、懸命にとらえた一瞬の輝き。

撮影時は大雪、というよりも吹雪に近い天候で、クリス氏の経験史上、指折りのハードな撮影だったといいます。「こんなに激しい吹雪の中で撮影するのは初めてでした。機材が環境に耐えうるかという心配をしながら撮影を進めなければならず、そこが大変だったところでしょうか。またアシスタントがスノーシューズを忘れてしまったのですが、強い義務感を持つ彼は、この過酷な撮影をコンバーススニーカーで乗り切ったということも印象に残っています(笑)。」

生半可なものではない南会津の冬。容赦のない自然の力強さに畏怖しながらも、懸命に映像にとらえたその一瞬の輝きは、向き合った者だけが手に入れられるものです。

「私は自然と親しみ、触れ合うことが大好きです。その思いが作品を通じて伝わるようにと制作しました。トピックは雪だったので、吹雪がどれほど強くて強烈であるかを感じると同時に、対照的な冬の日がどれほど美しく爽快であるかを捉えたかった。自然は厳しくあると同時に美しいものです。晴れた冬の日にさわやかな新鮮な空気、それは特別で、私の大好きな風景。観る方が少しでも同じように感じてもらえることを願っています」。

監督/シネマトグラファー。東京を拠点にワールドワイドに活動し、オリジナルコンテンツ、ドキュメンタリー、ミュージックビデオ、CM(Audi, Nike, Lexus, Goldwin, 東芝など)と、様々なジャンルの映像制作に携わる。視聴者の感情を揺さぶるような、ストーリー性に富んだ力強いビジュアルの演出を最大の持ち味とし、あたかもその場にいるかのような感覚を与える、人や個人の物語にフォーカスした作品を発表している。

監督・撮影・編集 Chris Rudz
撮影助手 Jeremy Sanson
音楽 Filip Piskorzynski
マネージャー 中神 惟

プロデューサー 植田 城維
スチール nasatam
南会津コーディネーター 瀬田 恒夫

出演 李 桃

<撮影協力>
南郷スキー場
たかつえスキー場
だいくらスキー場
尾瀬檜枝岐温泉スキー場
南会津町指定文化財 旧斎藤家住宅

(supported by 東武鉄道)

2020年、佐賀で開催するはずだった「アジアのベストレストラン50」の行方。[ASIA’S 50 BEST RESTAURANT]

日本国内からランクインされたレストランのシェフたち。

アジアのベストレストラン50

3月24日、「アジアのベストレストラン50」の2020年のランキングが発表されました。「レストラン界のアカデミー賞」ともいわれる「世界のベストレストラン50」のリージョナルエディションとしてスタートし、今年で7年目を迎える同アワードは、その授賞式もまた国際的な食の祭典として華やかさを極め、世界中の注目を集めてきました。日本初、佐賀県武雄で開催予定だった本年度のセレモニーは、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、やむなく中止に。結果発表のみが行われることになっていましたが、急遽、オンラインストリームによるバーチャル・イベントが行われました。

【関連記事】ASIA’S 50 BEST RESTAURANT/速報! 2020年、幻となった「アジアのベストレストラン50」初の日本開催。

「世界のベストレストラン」の日本評議会チェアマンを務める中村孝則氏。英国の委員会による発表がオンラインでストリーミング配信された。

アジアのベストレストラン50日本から12軒がランクイン。アジアに示したガストロノミー大国の威信。

栄えある1位に輝いたのは、フランス人シェフ、ジュリアン・ロイヤー氏が率いるシンガポールの『オデット』。昨年に続き、2年連続2度目の1位で、その実力を示す形となりました。1位の『オデット』同様に注目を集めたのが、9ランクアップで2位に躍り出た香港『ザ・チェアマン』。『ザ・チェアマン』は41位にランクインした『ウルトラバイオレット』を制し、「中国のベストレストラン賞」も受賞しました。
                                                      
日本のレストランのランクインは、12軒と去年と同数で、2020年の国別最多数を記録。アジアにおけるガストロノミー大国の地位を国内外に示しました。今年こそは1位との呼び声が高かった外苑前『傳』は、2019年と同じ第3位でしたが、「日本のベストレストラン」のタイトルを3年連続で獲得する栄誉に輝きました。ほか7位に外苑前の『フロリレージュ』、9位に青山『NARISAWA』がランクインしています。

日本勢の中でとりわけ脚光を浴びたのは、昨年から4ランクアップの10位でベスト10入りを果たした大阪『ラ・シーム』。オーナーシェフの髙田裕介氏は、同業者であるシェフたちの投票で選ばれる「シェフズ・チョイス賞」も獲得。ローカルガストロノミーといえば、産地との距離やロケーションで勝負する店が多い中、大阪という国内第2の都市から、東京とは異なる食文化の発信に努めてきた髙田シェフ。シェフたちの間で「ランキング以上の名誉」といわれる同賞を授賞し、「大阪」発『ラ・シーム』の名を各国のシェフやフーディーに強く印象付ける結果となりました。

また広尾『ode』(35位)、飯田橋『イヌア』(49位)、2店の初のランクインも特筆すべき点です。ともに開業から3年以内のニューカマー。とりわけ「世界のベストレストラン50」で4度、1位を獲得したコペンハーゲン『noma』のDNAを受け継ぐ『イヌア』は、来年以降の躍進にも注目です。

部門賞カテゴリーでは、髙田シェフ以外にもふたりの日本人シェフが栄冠に輝いています。2019年に新設された「アメリカン・エキスプレス・アイコン賞」に選出されたのは、日本料理界のレジェンド、京都『菊乃井』の村田吉弘氏。そして「アジアのベストパティシエ賞」を、恵比寿『エテ』の庄司夏子シェフが授賞しました。30歳の若さで、日本人女性シェフとしては初という快挙です。
「女性でも、小さな店でも、チャンスがあるということが示せたとしたら、それが一番うれしい」と、話す庄司シェフ。フルーツケーキをシグニチャーとしながら、レストランでもシェフとして腕を振るスタイルは世界でもユニークで、今後は、ランクインにも期待がかかります。

3年連続「日本のベストレストラン」に輝いた『傳』の長谷川シェフ。

満面の笑みで授賞を喜び、互いを讃え合う。左から『ラ・シーム』髙田シェフ、『フロリレージュ』川手シェフ、『ode』生井シェフ。

アジアのベストレストラン50アワードの歴史に残る異例の開催、ガストロノミー界の未来の土台づくりの年に。

「世界のベストレストラン」の日本評議会チェアマンを務める中村孝則氏は、異例の形で行われた発表を振り返り「例年にない熾烈さを極め、ランキングは大きくシャッフルされた印象。日本の2店を含め7店がニューエントリーしたのも驚きです」と、話します。
さらにランキングの結果以上に、現在のような状況下で「オンラインストリームによるバーチャル・イベントとして発表したことに意義があった」とも。
「アジアのベストレストラン50は、もはや単なるランキングではない。“競う”こと以上に“分かち合う”賞であることを改めて確認しました。世界中に同時配信することで、オンラインで各国のシェフがつながり、栄誉を讃え合い、喜びを分かち合った。回を重ねるごとに、シェフ同士が連帯を深めていることを、特別な開催スタイルで行ったことで改めて実感できました」。

世界中のレストランが、かつてないほど過酷な試練にさらされている、その状況についても、次のように話します。
「ここ数年のレストランシーンは、世界中で予約困難ともいえるレストランが続出し、日本国内においてはそれが顕著に表れていたと思います。しかし、その“夢”が一気に打ち砕かれる事態が今、起こっています。収束後に待つのは“予約が取れない”はブランドにならない、“本物の時代”。今日ここにランクインされたレストランのシェフたちは、そのことに気付き、動き始めているはずです」。
レストラン業界に向けた厳しくも的確なエールともとれる言葉で、2020年の講評を締めくくりました。

1月に開催された『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』でも活躍した福山剛シェフ。

ルカ・ファンティンシェフ(右から二番目)。手には「イタリアに力を」のプレートが。

バーチャル・イベントとして発表された2020年ランキングの意義を語る中村氏。

すべては食で地域を感じてもらうために。タッグを組んだ能登の料理人たちの素顔。[N-Terra お披露目イベント/石川県能登半島]

『ラトリエ ドゥ ノト』のとある魚料理は、能登内浦の宇出津港に揚った寒ブリを熟成させてグリルに。ぶりの骨からエキスを抽出したブイヤベースのソース、色とりどりの根菜、サンゴケールなどと一緒にいただく。

N-Terra お披露目イベント「このままでは能登が……」。問題意識が原動力に。

料理人の力で能登の持続可能な地域社会を目指すネットワーク『N-Terra』。
発足メンバーは輪島市のフランス料理店『ラトリエ ドゥ ノト』のオーナーシェフ・池端隼也氏、七尾市のイタリア料理店『Villa della Pace』のオーナーシェフ・平田明珠氏、七尾市の洋食店『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏、七尾市に割烹のお店の開店を控える料理人・川嶋享氏、能登町のジェラート店『MALGA GELATO』のジェラートマエストロ・柴野大造氏の5名。彼らの素顔に迫ってみました。

輪島市にあるフランス料理店『ラトリエ ドゥ ノト』のオーナーシェフ・池端隼也氏は『N-Terra』のリーダー的な存在です。輪島市に生まれ育ち、高校卒業後は大阪へ進学、就職し、フランスで修業を積みました。大阪で開業を予定していましたが、帰郷した際に、能登の素晴らしい魅力に気付き、急遽、開業地を能登に変更しました。その経緯は、こちらの記事をご覧ください。

池端氏は『ラトリエ ドゥ ノト』を人気店に成長させながらも、いつももどかしさを感じていたと話します。
「能登は北前船の恩恵で全国の優れたモノや技術を採り入れながらも、僻地として取り残されてきました。外部からの手が入らず、さまざまな魅力が保全されてきたのです。豊かな海山の自然があり、そこに素晴らしい文化が根付いた里山里海があります。料理人として心躍る食材や工芸があり、私はその魅力を伝えることがここでレストランを営む者の使命だと考えていました。ですが、私がひとりでいくら頑張っても伝える力には限界があります。能登の農業や工芸も例に漏れず深刻な後継者不足に陥っていて、人材確保に向けた収益の安定や労働環境の改善が喫緊の課題となっています。地元を愛する料理人はみんな、これに対する問題意識を持ってはいても行動できていませんでした。気のおけない仲間が増え、ふと話してみると、『自分も何かをしたいと思っていた』という反応が返ってきました。そしてごく自然にコラボイベントを開くようになったのです」

池端氏は、今後『N-Terra』のメンバーが増えていくことを望んでいます。そして、旗振り役は発足時だけで終わりとし、誰かがリーダーシップをとらなくても有機的なつながりが広がり、日常的にコラボレーションが生まれていくことを理想としています。
「田舎には、やる気のある料理人が多ければ多いほどいい。これからは競争の時代ではなく、共存共栄の時代です。暮らすように滞在して、店主がおすすめするレストランを巡り歩く。能登をそんな場所にしたい、いや、できると思っています」

【関連記事】N-Terra お披露目イベント/能登に根差す若手料理人トップチーム「N-terra」結成。能登の地に芽吹く、美食旅の最新形。

『ラトリエ ドゥ ノト』からすぐ、輪島朝市が立つ通りにて池端氏。朝市は最も近い仕入れ先として、毎日のように通っている。

楢木の原木の切り株で提供される『ラトリエ ドゥ ノト』のシグニチャー、原木しいたけ「のと115」のコンフィ。上にのった能登牛のテール赤ワイン煮込みとゴボウ、下に敷かれた菊芋などと一緒に、能登の山の味覚を味わえる。

『N-Terra』のムードメーカーとしても欠かせない池端氏。明るくテンポのいいコミュニケーションが、快活な空気をつくり出す。

N-Terra お披露目イベント食材を深く理解した先に、独自の価値観は生まれる。

七尾市のイタリア料理店『Villa della Pace』のオーナーシェフ・平田明珠氏は、5名の中で唯一のIターン者です。東京出身で、大学卒業後は営業マンとして就職したものの、「扱う商品が本当にいいものだとは思えず、売ることが嘘をついているようで嫌だった」ことから、ほどなく退職。学生時代にアルバイトをしていた飲食業に足を踏み入れました。当初は賃金が低くキツいといったネガティブなイメージがあったものの、次第におもしろさを見出すようになり、歴史や文化も盛り込めるイタリア料理で本格的な修業をスタートしました。
「初めの店はシェフがすべて自分で作業し、自家菜園で野菜を育て、ハムなども自家製という自分の仕事を徹底している店でした。そこに3年いて食材の背景まで深く関わる料理の魅力を学んだことが、自分の料理人としてのスタンスを決定付けました」と平田氏は話します。重視しているのは、日本の食材を大切にすること。全国の生産者を訪ねる中で能登に魅了され、移住開業を決意しました。食材がすぐそばにあることは、料理をする上での何よりも大きな魅力だったからです。しかし、平田氏は優れた食材が手に入るというだけでは満足しません。
「本当に美味しい料理は、シェフの世界観が皿の上に表現されているもの。世界観をつくり上げるためには、一つひとつの食材について、その歴史や生産の背景まで掘り下げていき、理解する必要があります。とても根気の要る作業です。食材のそばに来てわかってきたのは、新鮮だからすべてが良いというわけではないこと。旬ではないのに無理して栽培されるものも多く、そのような食材では本質的な価値を提供できないと思っています。今は保存食や野草なども多用するようになり、より能登の風土に合った料理が表現できるようになってきたと感じています」

秋には、七尾市の別所で1日1組限定のオーベルジュとしてリニューアル予定。宿泊と飲食の両面でスローツーリズムのフロンティアに立つことになります。

『Villa della Pace』にて平田氏。「移住者だから見える部分があるし、移住者だから攻められることもある。振り切ったチャレンジができる恵まれた環境かもしれません」と自分を見つめる。

本州鹿のグリル。根つきほうれん草、鹿のフォンで炊いた大根、ムカゴのポレンタ、ふきのとう味噌を添えて。どれも素材の味をしっかり噛みしめることができ、大地の恵みを体感できる一皿。

自然栽培の五百万石を使ったリオレ(ライスプディング)。野山で自ら手摘みした冬苺ををたっぷりとのせ、どぶろくをソース代わりにかけていただく。野性味あふれる苺とまろやかなプディング、辛口な微発泡のどぶろくの一体感が素晴らしい。

N-Terra お披露目イベント店を先代から受け継ぐ者だからこそ果たせる役目。

七尾市の洋食店『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏は、幼い時からお父さんが始めた店を引き継ぐと決めていました。高校卒業後は京都の調理師専門学校でフランス料理を学び、フレンチ懐石の店に入りました。5年の修業の後、フランス・パリの伝統的なレストラン、大阪の斬新派のフランス料理店、カジュアルなビストロと渡り歩き、多彩な料理の技術を学び、経営のヒントを探りました。そして帰郷。現在は2代目シェフとして、フレンチの技法を使った新メニューを盛り込むと共に、ハンバーグやグラタンといった定番の洋食メニューもブラッシュアップさせています。
「祖父はこの場所で土産物店を営んでいましたが、旅館が大型化し館内に売店を併設するようになると低迷してしまい、父が洋食店に鞍替えしました。観光客も仕事を終えた仲居さんにも利用してもらおうと朝から夜遅くまで通し営業を長く頑張ってきましたが、時代と共にレストランの方向性も変えていく必要があります。元々ある店を受け継いだので、既存の地元客にも配慮し、自由が効かない面もあります。ですが、この視点は能登の持続的な発展には不可欠なもの。“承継”を実践する立場として『N-Terra』のプロジェクト推進に貢献していきたいです」

『ブロッサム』は黒川一家の4名が切り盛りしている。「地元の常連さんとの信頼関係ができ、新メニューも注文していただけるようになってきました」と黒川氏。

能登牛の脂包み焼き、『高農園』の人参ピュレ、ポルト酒のソース(手前)。タラの白子とカリフラワーのフラン。黒川氏がメニューに加えたポルト酒のソース、フラン(西洋茶碗蒸し)は『ブロッサム』の定番になりつつある。

海岸線を走る道路沿いに建つ瀟洒なレストランが『ブロッサム』。地元民と観光客を問わず、老若男女に愛される洋食店だ。

N-Terra お披露目イベント「食は楽しいものであるべき」という信念を胸に。

メンバー唯一、日本料理で腕を奮う川嶋享氏は七尾市和倉温泉に生まれ、旅館の総料理長を務めるお父さんのもとで育ちました。料理の道は考えていませんでしたが、短大で経営学を学んだ後、夢を与える仕事をしたいと、調理師学校で学び直すことにしました。
「結局親父の背中を見ていたんでしょうね。“食”って間口が広いうえに、大きな感動をもたらすこともできる万能なツールだと気づいたんです。自分で言うのもなんですが、本当に一生懸命修業して、かなりのスピードで腕を上げることができました。しかし今思えば、天狗になっていた部分もあって、それが料理に現れていたように思います」

学校卒業後に修業に入った大阪の有名割烹では7年以上、ひたすら賄い作りと整理整頓をやらされた川嶋氏でしたが、持ち前の努力とセンスで参加者が300人もエントリーする料理コンテスト『食の都・大阪グランプリ』で総合優勝を果たします。修業先を変えて経験を積み、脂が乗ってきた30歳手前、結婚して子どもが生まれたばかりの時に、交通事故に遭ってしまいます。料理人生命を断たれる危機に直面しました。
「リハビリ漬けの3カ月は復帰できるのだろうかと不安で苦しい日々でした。ですが、心から料理が好きだと確認できた貴重な機会になりました。自分は何のために料理をするのか? それは夢を与えるため。自分の技術に酔っているようでは到底実現できない。お客さんが楽しいと感じるものでなければ、という結論に至りました」

理想の自分の店を持つための修業の仕上げとして、日本一美味しい出汁を引くとの呼び声も高い割烹、星付きの名居酒屋でも腕を磨きました。そして現在、七尾市での開業に向けて準備の最終段階に入っています。割烹でありながらライブ感を重視し、カウンター内ですべての調理ができる店を計画しています。調理を見てもらうと同時に、客とのコミュニケーションを大切にするための仕掛けです。
「例えば30分前にもいだズッキーニを天ぷらにするとと、新鮮な素材をお見せできたら、美味しさに楽しさが加わった本当に豊かな料理となります。蕪の根っこに付いた赤土について説明して、能登の魅力を伝えることもできます。料理において料理人は裏方。スポットライトは生産者に、そして地域に当たればいい。地域の魅力がストレートに伝わる食を提供できれば、それは完成度の高い仕事です。料理人の腕の見せ所は、そこにあると思います」

古い街道の雰囲気を残す七尾市一本杉通りで割烹の開店を控える川嶋氏。関西の名店を渡り歩き、満を持しての独立開業となる。

引き締まった身に脂がよくのった寒ブリは、川嶋氏のお気に入りの素材のひとつ。もち米との相性を良くするために麹で4日間熟成させてから使う。

七尾市一本杉通りの昆布問屋『昆布海産物處しら井』の3年熟成の利尻昆布などを使って丁寧に引く出汁は、川嶋氏の真骨頂。「出汁の香り高い風味をさりげなく味わっていただける料理にしたい」と話す。

N-Terra お披露目イベント世界最先端「ガストロノミー・ジェラート」への挑戦。

『N-Terra』のユニークなメンバー構成に一役買っているのが、『MALGA GELATO』のジェラートマエストロ・柴野大造氏。近年、ジェラートの世界的コンテストで好成績を連発し、企業の商品開発監修などコンサルティング、音楽と光に合わせてジェラートを作り上げるエンターテインメント「ジェラートイリュージョン」でも活躍中の気鋭のジェラート職人です。今でこそ押しも押されもせぬ存在ですが、その歩みは平坦ではありませんでした。農大卒業後、家業である能登町の牧場に就農。生産する牛乳の6次産業化を目指して直営のジェラートショップをオープンさせます。その後、牧場は経営難のために手放してしまいます。

柴野氏はジェラートの研究を地道に続けることで着実に品質を上げ、野々市市に2号店出店を果たします。ブレークスルーは2015年頃。経験則に基づいて改良を重ねてきたレシピに、糖分・塩分・油分・温度などの構成要素の組み合わせ仮説が最適解として一致するようになってきたのです。
「研究を重ねてきた科学的なアプローチが確かなものになれば、どんな素材からでも美味しいジェラートを創り出せると確信していました。例えば今回お出ししたレタスのジェラートはレタスのフレッシュな香りが立ち、モッツァレラのそれはジェラートと思えない淡白な旨みがあります。バゲットは焼きたての香ばしさも感じられますよね。科学の裏付けを得てジェラート作りがより自由になり、料理とジェラートの調和を楽しむガストロノミー・ジェラートの完成度も大きく向上していると実感しています」

多忙を極める柴野氏だが、かつて牧場があった山を見上げる位置に建つ小さな店で過ごす時間を大切にしていると話します。美味しいものを作るために不可欠な「心の波長」を整えるためだとか。
「常に生まれ育った牧場の原風景が心にあります。牛の鼻息、虫のオーケストラ、星の瞬き……自然に生かされているという実感が、地域に育まれた素材一つひとつへの敬意となり、物事を追求する原動力になります。これからの料理人は、自分の仕事や提供する料理について分厚いストーリーを語れるようにならなければいけない。情報が蔓延し、小手先だけの美味しいものが行き渡っている今、実体験に基づきプロが語るストーリーこそが、本質的な美味しさを生み出せると信じています」

本店のすぐそばには廃校となった町立の小中学校校舎が佇んでいます。自身の母校でもあるこの学校を、職人を養成するジェラート・アカデミーとして再生するのが、柴野氏の夢です。「地域に愛される職人を創るのが最終目標」と話す姿には、地域に根差す『N-Terra』の精神もたぎっているように見えました。

ジェラート職人養成所としてリノベーションしたいという廃校の前で柴野氏。生徒と一緒に校庭で牛を飼い、搾った牛乳でジェラートを作るのが夢だ。

人気のパイン・セロリ・リンゴミックスと季節商品のふきのとうの盛り合わせ(右)とマスカルポーネとオレンジバニラ(左)。甘さは控えめで、フレーバー素材の味が驚くほどハッキリ感じられる。

田園に佇む『MALGA GELATO 能登本店』。冬場のこのロケーションでも客がひっきりなしに訪れ、その大半が男性客というから驚く。

イートインコーナーも備えた『MALGA GELATO 野々市店』。飾られたトロフィーや賞状の間にお祖父さんが描いた牧場の絵がある。いつか牧場を再生させたいという気持ちは変わらない。

「能登のために」という熱い思いと「楽しくなければ意味がない」という軽妙さがいいバランスで同居する『N-Terra』。彼らもまた能登が育んだ地域の宝だ。

住所:石川県輪島市河井町2-142 MAP
電話:0768-23-4488
https://atelier-noto.com/

住所:石川県七尾市白馬町36-4-2 MAP
電話:0767-58-3001
http://villadellapace-nanao.com/
(2020年秋に移転し、オーベルジュにリニューアルOPEN予定)

住所:石川県七尾市和倉町ヲ部22-2 MAP
電話:0767-62-2410
https://www.wakura-blossom.jp/

住所:石川県七尾市一本杉32-1
(2020年春にOPEN予定)

住所:石川県鳳珠郡能登町瑞穂163-1 MAP
電話:0768-67-1003

手つかずの自然の残された、美しき母なる島へ。[東京“真”宝島/東京都 小笠原諸島・母島]

東京"真"宝島OVERVIEW

東京には、人が暮らす島が11島あります。
飛行機で30分もかからずに行ける島。
思い立ったらその日でもすぐに行ける島。
かと思えば入島が制限され上陸するのも一苦労という島。

その中でも本州からもっとも遠く、もっとも時間を要するのが今回ご紹介する母島です。

まずは竹芝桟橋から父島まで定期船「おがさわら丸」で24時間。
父島に到着し、約1時間後に出港する「ははじま丸」に乗ること2時間。
24時間+乗り継ぎ1時間+2時間=合計27時間かかる島、それが東京の有人島最南端の母島なのです。

人口は450人。
お店は3軒、高校や大学もなく、バスや、タクシー、信号もない。
ですが、ここには驚くほどきれいな海があり、
世界自然遺産にも認定された動物や植物が豊富に生きる。
島では、誰もが当たり前にあいさつし、
子どもたちは野山を走り、海で泳ぎ、自然が遊び場。
元気なおじいちゃんやおばあちゃんは会えば、立ち話。
都会のように便利ではないけれど、大切なものがたくさんある。
島の名が示すとおり、大きな愛に包まれる“母なる島”こそが母島なのです。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

デニムストリート上陸!!!

 

 

 

 

こんにちは音譜

本日は重大なお知らせがあります!!

 

 

なんと!

 

 

デニムストリートが新しくオープンします!!

 

 

場所は、、、、

 

 

 

 

江ノ島に!!魚しっぽ魚からだ魚あたま音符

 

湘南デニムストリートが上陸!!!!

 

 

湘南デニムストリート

令和2年 4月1日 OPENキラキラ

 

〒251-0036
神奈川県藤沢市江の島1丁目4番12号

 

電話0466-47-6769

 

 

 

和蔵の青ステッチが江ノ島限定商品です上差し音譜

(ちなみに倉敷デニムストリートは白ステッチです)

 

 

レディースとメンズどちらも展開していますキラキラ

 

青ステッチって意外と珍しいですよね!!

 

 

江ノ島にご旅行の際には

是非、湘南デニムストリートへお越し下さい!!

 

皆様!!4/1ですよ~!!お待ちしております目音譜

 

 

 

古来の祈りの場を再生して“導き”の神社としてリファイン。[和布刈神社/福岡県北九州市]

潮の満ち引きを司る月の神様「瀬織津姫」を祭る神社が、中川政七商店のコンサルティングによって“在るべきすがた”へアップデート。(Photo Takumi Ota)

和布刈神社由緒正しい神社が、そのままの意義で現代に在り続けるために。

古来より人々が集い、敬虔な祈りを捧げ続けてきた神社。人々の悩みや苦しみに寄り添って、地域の絆をも育んできたそこは、しかし、近年は世情の変化によって賑わいを失いつつあります。

そんな神社を“導きの場”としてリファインしようというのがこのプロジェクト。創建1800年、九州の最北端で関門海峡を望む『和布刈神社(めかりじんじゃ)』が、奈良の老舗・中川政七商店のコンサルティングによって改まりました。

2019年12月に“導き”の神社としてコンセプトや神紋、授与所などを一新。(授与所の内観/Photo Takumi Ota)

本州と九州を繋ぐ大動脈・関門海峡を仰ぎ見る地で人々を導く。(Photo Takumi Ota)

神功皇后が瀬織津姫の教えのままに三韓の征伐に向かわれ、勝利した際に創建された、と伝わる。

和布刈神社迎合するのではなく、移り変わった世の中で存在感を示すために。

全国に8万社以上もある神社は、時代の変化とともにその役割が弱まり、維持や存続が難しくなりつつあります。そんな中コンサルティングを依頼された中川政七商店が『和布刈神社』とともに打ち出したのは、“和布刈神社を在るべきすがたへ”というビジョン。ただ注目を集めるためのリニューアルではない、ご祭神と創建の由緒が伝わるよう丁寧にコンセプトと伝える手法を整えました。

まずは潮の満ち引きを司る女神「瀬織津姫(せおりつひめ)」にちなみ、“導き(=道先を先導する)”というキーワードを創出。そして伝統ある八重桜の神紋をリファインして、御守やおみくじ・縁起物など参拝者の心を“導く”手助けをする授与品と、それらをお渡しする授与所の装いを一新しました。さらに人生の最後の“導き”をも担うために、関門海峡での海洋散骨供養を「海葬」に改めました。

授与品の一覧。再生や始まりを意味する「白」を基調とした御守・おみくじ・縁起物と、万物の源たる「陰陽五行」をモチーフとした御守などをリデザイン。

「一年幸ふくみくじ」。関門海峡の名物・ふぐに見立てた可愛らしいおみくじで、釣り竿で釣ることで神のお告げを頂く。

有史以前からの自然信仰にならって、御霊が海へと還るための供養「海葬」も執り行っている。海洋散骨ののちも、境内の遥拝所で故人を偲ぶことができる。

和布刈神社一気通貫した「コンサルティング」で、伝統の再興を支援。

これらを実現したのは、中川政七商店とそのプロジェクトメンバー達。中川政七商店は、日本の工芸をベースにした生活雑貨の企画製造・小売業として全国展開する直営店舗の印象が強いものの、実は自社の培ってきたノウハウを生かしたコンサルティング事業でも多くの実績を持っています。

まずはコンサルティング事業部の部長であり、「経営者とクリエイターの共通言語」を重んじるメソッドを確立してきた島田智子氏が、コンサルティングを担当。そしてグラフィックデザインは伊勢丹の包装紙のリニューアルや、パティスリーキハチのパッケージなどを手がけてきた岡本健デザイン事務所の岡本健氏と、山中港氏が担いました。さらに参拝者との交流スポットとなる授与所のデザインは、中川政七商店や茶道ブランド「茶論(さろん)」の直営店舗などを手掛けたABOUTの佛願忠洋(ぶつがん・ただひろ)氏が担当しました。
こうしてあまたの実績を誇る精鋭によって、『和布刈神社』は“在るべきすがた”へ改まったのです。

第32代神主・高瀨和信氏も、『和布刈神社』の再建に向けて精力的に活動。その意気を汲んで格調高くリファイン。

由緒や歴史、神領に縁(ゆかり)ある古道具や作家の器などを販売する「母屋」。連綿と続いてきた潮流に触れるひととき。

和布刈神社想いを形にして心を繋ぐ。

「今回のアップデートは、『和布刈神社』の由緒や歴史に紐づくストーリーを重視しつつ事業を整理いたしました」と島田智子氏は語ります。
「コンサルティング時はいつもそうなのですが、特に今回は『神社』からのご依頼ということで、私どもが経験していない領域での1からのスタートとなりました。神社や神道に関しては、長い歴史の中で様々な解釈や考え方があります。私どもでは到底判断がつかない部分も多く、そのため神主の高瀬さんの考えや想いをいかにしっかりと聞き出し、整理した上で表現できるかを大切にいたしました」

こうして『和布刈神社』の整理を進めていき、「なるべく分かりやすく、そぎ落とす」「開きすぎずに神聖さ、緊張感を担保する」、これら2つのバランスをとることを大切にしました。

「神社の創建の歴史などは、古事記や日本書紀といった文献から紐解いている記述が多くあります。ですが、文献によってそれもバラバラですし、難しい漢字が羅列されていて、一般の人々にとっては非常に難解な説明になりがちです。かつての『和布刈神社』様もそのような状態でしたので、“なるべく伝えたいことだけにそぎ落とす”ことに専念いたしました」

一方で、神社は一般的なビジネスとは全く違う領域です。“わかりやすくキャッチ―に伝える”マーケティングのみならず、古来より受け継がれてきた“神聖さ”や“緊張感”を保つことも欠かせません。
それらのバランスをとりながら、神主の高瀬氏や、デザイナーの岡本氏と打ち合わせながら、何度も調整を重ねていきました。

「影と光」というコンセプトでリニューアルされた授与所。(Photo Takumi Ota)

ご祭神の瀬織津姫は、もともと天照大神の荒魂(神の荒々しい側面、陰の部分)だった。そのいわれにちなんで授与所内にも影と光の陰影を表現。(Photo Takumi Ota)

授与所の中央に据えられた御神体の一部「受け岩」は、神社の象徴として授与所全体を見守るとともに、御守の授与の際に重ね合わせて、神職による鈴振りを行うことで、神様の御魂を御守ひとつひとつにお分けしている。

和布刈神社伝統を守りながら新たな歴史を刻む。

こうして『和布刈神社』は、新たな祈りと“導き”の場として再生しました。今後は「茶房」など、古来の日本人の在り方を伝える場の展開も予定しているそうです。

また2020年1月25日には、1800年以上の歴史をもつ祭事「和布刈神事(めかりしんじ)」が厳かに執り行われました。3人の神職が干潮によって現れた海底に降り、鎌でワカメを刈りとって神前に供えながら、航海の安全と豊漁を祈願する習わしです。

さらに3月15日には、人形(ひとがた)に身の罪穢れを移し、無病息災を祈る「上巳(じょうし)の祓い式」が執り行われます。そして北九州市の一大イベント「門司みなと祭」の開催時期に合わせて、5月23日(土)~24日(日)の2日間には、これまた毎年恒例の「例祭」が執り行われます。

新たな人々の拠り所として生まれ変わった『和布刈神社』。日本人のルーツを想い、人と人との絆を確かめ合う場として、どんな人々でも温かく迎え入れてくれます。

親しみやすくも神聖な場として、次の時代へと続いていく。(Photo Takumi Ota)

住所:福岡県北九州市門司区門司3492番地 MAP
電話:093-321-0749
受付時間:9:30~17:00(授与所)
https://www.mekarijinja.com/
(写真提供:中川政七商店)

世界最高峰のレストランのスーシェフと、人気店の寿司職人。ふたりの料理人が、冬の能登島を巡る。[能登島取材ツアー/石川県七尾市]

夜明け前の漁港に、次々と定置網漁の船が帰港する。ここから能登島の豊富な海産物が出荷される。

能登島取材ツアー七尾湾に浮かぶ小さな島へ、食材を探しに。

能登島は、能登半島の中ほどにある七尾湾に浮かぶ周囲約72kmの島。1982年に能登島大橋が開通するまでは、船が本土と行き来する唯一の交通手段でした。そのため島内よりもむしろ対岸にある都市との交流が盛んで、七尾市に面した島の西側と珠洲方面に近い東側では方言まで異なるとか。「話してみれば、島内のどの地区の出身だかわかる」と、島の方々は口を揃えます。

このように小さな島の中に多様性があり、さらに島特有の文化も育みながら歩んできた能登島。今回はそんな能登島の食を探し、ふたりの料理人が島を訪ねました。

ひとりは食材を追求し日本各地を歩き回る真摯な寿司職人・江戸川橋『酢飯屋』の岡田大介氏。ひとりは「World’s Best 50 Restaurants」で4度の1位に輝いたデンマーク『NOMA』でスーシェフ兼メニューを開発者として活躍する高橋惇一氏。ふたりは長年の友人同士。活躍の場は違えども、食材を見つめる目や、料理哲学には共通点もいろいろ。そんなふたりは能登島の食材をどう見つめ、そこから何を得たのでしょうか?

友人同士のふたり。ときにふざけ合い、ときに真剣な料理論を交わす。

能登島取材ツアー郷土寿司とハーブ。興味の先は異なれども、見つめる本質は同じ。

旅行にしては真剣な目的があり、しかし視察と呼ぶには自由すぎる。それはきっと“旅”と呼ぶにふさわしい数日間でした。

2月初旬。雪の舞う能登島。
ふたりが最初に訪れたのは、折しも開催されていた「まあそいマルシェ」の会場でした。“まあそい”とは“豊かな、肥えた、成長した”といった意味の、この地方の方言。地元の集会所で開かれている小さなマルシェですが、ふたりは真剣です。とくに岡田氏は、出店する地元のおばあちゃんに郷土寿司の作り方を真剣に尋ねています。岡田氏のスタンスはいつもこう。人懐こく、誰にでもフレンドリー。ふと気づくと、見知らぬ誰かとすっかり仲良くなっている。この持ち前の性格が、岡田氏の食材探しを有意義にしていることは想像に難くありません。

次いで訪れた『NOTO高農園』は、九州出身の高利充氏と奥様が、20年前にこの地に開いた農園です。方言が島内の東西で異なるのは先述の通りですが、実は土壌も東西で別。外海に面した東側は稲作に向いた砂地、西側は野菜づくりに適した赤土。『高農園』は西側の赤土と向き合いながら、有機野菜づくりに励んでいます。「来る前に土壌の特質がわかっていたわけではありませんが、やればやるほど面白い土です」と高氏。現在では各地の料理人のリクエストに応えながら、年間300種以上の作物を育てています。そしてその畑を前に、今度は高橋氏が目を奪われています。とくに惹きつけられているのはハーブ。「このレモンタイム、爽やかな香りでしょう? この葉だけを摘んでペーストにするんです」と話す高橋氏。優しい視点で、いつもスタッフにまで気を配り、場の雰囲気を和ませるのが高橋氏。岡田氏とは異なるスタイルですが、こちらもまた現地の方の心を溶かします。陽気で活発な岡田氏、穏やかで優しい高橋氏。見事なまでのコンビです。

「まあそいマルシェ」の会場で、メモを取りながら郷土料理の「花ちらし」について訪ねる岡田氏。

『NOTO高農園』では、『NOMA』でのハーブの使い方などを高橋氏が伝えた。

蕪と大根を中心に、土と向き合いながら多種の野菜を作り続ける。

『NOTO高農園』の高夫妻とともに。2月にしては雪が少ないという。

能登島取材ツアー生活の道具であること。器にも潜む、能登島らしさ。

次いでふたりは、能登島にある二箇所の工房を訪ねました。自身の店の一角をギャラリーにするほど器が好きな岡田氏と、器とのバランスも含めてメニューを考案する高橋氏。どちらも料理における器の大切さを実感しています。

そんなふたりを迎えた能登島を代表する工房。一軒目は元プロダクトデザイナーの藤井博文氏の『陶房 独歩炎』。藤井氏が手掛けるのは陶器のような磁器と、磁器のような陶器。土のあたたかみがありつつ、磁気のような滑らかさも併せ持つテクスチャは唯一無二の存在感ですが、藤井氏は「自分は作家というよりもデザイナー。日常的に使う道具であることを第一に考えています」といいます。その上で企業や飲食店から難しい依頼が入ると「燃える」のだと笑います。真っ平らな皿、独特な形のキャセロール、液垂れしない醤油差し。藤井氏の作品の多くは、そうした依頼から生まれています。

岡田氏はそんな藤井氏の言葉に深く頷きます。「えび専用皿とかイカ専用皿といった依頼をすることがあります。そういう課題がある方が、創作意欲が湧く人もいますから。そしてそこから思いもよらないものが生まれたりもするんです」
器の大切さを知っているからこそ、作家の創作意欲にまで心を配る。岡田大介という人物がまた少し見えてきました。

次いで訪れたのは能登島の小さなガラス工房『kota glass』。ガラス作家・有永浩太氏のアトリエで、ここから数々の賞に輝く独特なガラス作品が生まれます。ふたりの料理人を惹きつけた有永氏の作品の特徴は、色。とくに海外ではガラス作品に色が入るのは珍しいといいます。「海外の多くのレストランは白を中心にデザインされています。だから透明なガラスが映えます。一方、日本では木が主体のため、色を少し入れることで背景と馴染みやすくなるのです」そんな有永氏の解説を熱心に聞くふたり。

色がありながら、ガラスならではの清廉な透明感を失わない有永氏の作品ですが、その根本はやはり「生活の中にもっとガラスを取り入れて欲しい」との思い。

道具として日常に親しみ、使われてこそ価値がある。能登島で出会ったふたりの作家の思いは、能登島のものづくりに共通する哲学なのかもしれません。

『陶房 独歩炎』の藤井氏。自身を「デザイナー」と言いつつ、熱い職人魂も持つ人物。

金属を混ぜた釉薬で光沢を出す陶器など、独自の感性が光る作品が揃う。

藤井氏の作品は、東京・明治神宮前のギャラリー『一客』でも常設展示されている。

『kota glass』の有永氏。個人の工房だからこそできる個性ある色とデザインを目指す。

グレーやアンバーなどの色が入ることで、器自体の輪郭が際立つ。

2軒の工房で見た作品は、ふたりともその場で購入していた。

能登島取材ツアー早朝の漁港から醤油蔵まで、多様性に富んだ食をたどる。

翌朝、まだ夜も明ける前から起き出したふたりは、『えのめ漁港』に向かいます。
七尾湾、富山湾、そして日本海と豊かな漁場に近い能登島は、言うまでもなく魚介の産地。とくに定置網漁が盛んで、ブリ、タラ、サバなどの魚介が豊富に揚がります。
戻ってくる漁船を港で迎えるふたり。しかし考えてみれば、どんな魚が揚がるか知るだけならば、電話で尋ねるだけでも十分なはず。それでも、突き刺すような寒さの中、早朝の漁港に向かうのは、どのような魚がどのように扱われているか、自身の目で確かめたいから。それほどまでにふたりの料理人は、食材と真剣に向き合うのです。

揚がったばかりのイカを手渡され、その場でかじりつく。どのように選別、梱包されるかを真剣に見つめる。ふたりの漁港の見学は、夜がすっかり明けるまで続きました。

さらにふたりの興味は、この地特有の調味料にまで広がります。鉄製の釜で海水を煮詰めるという、一度は途絶えてしまった能登島独自の塩作り製法を蘇らせた源内伸秀氏を訪ねて話を伺う。日本三大魚醤に数えられる能登独自の魚醤“いしり”づくりの工場を見学し、その味を確かめる。岡田氏が惚れ込み、日頃から使用する手作りの醤油の『鳥居醤油』の蔵を訪れる。

どれも熟成などの長い時間がかかる仕込み作業であり、目の前で完成する様子が確認できるわけではありません。それでもふたりは足を運び、話しをするのです。それは造り手の思いや人柄が、ある食材や調味料の完成形に大きな影響を及ぼすことを知っているから。「たとえば寿司屋が必ず扱う醤油。鳥居さんは手で作って、自分で売っている。“昔は当たり前だった”なんて言いますけど、それを変えないことがすごい。自分で作って売る仕事をしているからには、こういうものを使いたいと思うんです」岡田氏はそう言います。

取材班が同行した能登島の2日以外にも数日間能登半島に滞在し、食材を見て回ったふたり。そこで見極めたのは、現地での食材の扱われ方、そして生産者の人間味でした。
「自分たちの居場所、身の回りのものを大切にされている、という印象」高橋氏は能登島をそんな言葉で語りました。「だから言い方が難しいのですが、もしも仮にここの食材がベストではなくても、使いたいなと思います。もちろん、おいしいんですよ。でもそれ以上に人間味の部分が印象的で。料理は、生産者のことも含めたストーリーを伝えられることが大切ですから」そう笑いながら付け加えます。「人と直接会って話すと、メールのやりとりでは起こり得ないミラクルが起きるんです」
岡田氏も今回の旅から得るものが多かった様子。以前に何度も能登半島を訪れている岡田氏ですが、能登島ははじめてでした。「能登というくくりにできないほど特徴的ですね」と印象を語ります。「僕は比較的産地を訪問する料理人だと思いますが、そこで見るのは“現地でどんな食材が大切にされているか”ということ。現地で大切にされていれば、大切に出荷されますからね。この能登島でとくに驚いたのは海藻。これは今後取り入れていこうと思う部分です」

約40種類が食用になり、“日本で一番海藻を食べる”と言われるこの海藻のほか、海を泳いで渡って原生林で繁殖し、いまでは島民以上の数になったイノシシ、牡蠣殻を肥料にする米など、まだまだ能登島には特産がいろいろ。この能登島での数々の出会いが、ふたりの料理人、そして2軒の名店の未来を、少し変えていくのかもしれません。

頂いたイカをその場で齧る岡田氏。まず自身の感覚で確かめることが寿司職人としての矜持。

次々と船が入り慌ただしい朝の漁港。それでも質問に答えて頂くなど、どこか穏やかな人の良さが垣間見えた。

立ち寄った道の駅では、能登島でつくられる地酒に興味を示した。

塩作りの源内氏にタコ捕りを習い、はしゃぐふたり。疲れなど感じさせない行動力。

鉄の釜で海水を煮詰めるかつての塩作りを復活させた源内氏。

『いしり工房』で、魚醤の製法を学ぶ。調味料には土地柄が表れやすいとか。

『いしり工房』直営の飲食店『いしり亭』では、自家製いしりを使った料理が楽しめる。

昔ながらの手仕込みを守る『鳥居醤油』。その頑固なまでの姿勢が岡田氏を魅了する。

『鳥居醤油』は手仕込み故に、味と香りに振れ幅があり、そこがまた魅力になっている。

住所:〒926-0224 石川県能登島百万石町27番3号
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住所:〒926-0806 石川県七尾市一本杉町29
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能登に根差す若手料理人トップチーム「N-Terra」結成。能登の地に芽吹く、美食旅の最新形。[N-Terra お披露目イベント/石川県能登半島]

『N-Terra』のメンバー。『ラトリエ ドゥ ノト』の池端隼也氏(写真中央)、ジェラート店『MALGA GELATO』 の柴野大造氏(左端)、イタリア料理店『Villa della Pace』の平田明珠氏(左から二人目)、日本料理の料理人・川嶋享氏(右から二人目)、『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏(右端)。

N-Terra お披露目イベントジャンルを超えたコラボが生む「能登の里山里海」フルコース。

2月のある晩、石川県輪島市にあるフランス料理店『ラトリエ ドゥ ノト』は、静かな熱気に満ちあふれていました。旅や食関連のジャーナリスト、有名旅館のオーナー、伝統工芸の作家らが続々と集まってきています。迎えるのは、同店のオーナーシェフ・池端隼也氏を筆頭に、能登町のジェラート店『MALGA GELATO』のジェラートマエストロ・柴野大造氏、七尾市のイタリア料理店『Villa della Pace』のオーナーシェフ・平田明珠氏、七尾市で割烹を開店準備中の料理人・川嶋享氏、七尾市の洋食店『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏の5名。彼らは、料理人の力で能登の持続可能な地域社会を目指すネットワーク『N-Terra(エヌテラ)』を結成。そのお披露目イベントとして、夕食会が開かれようとしているのです。

“能登”の「N」にイタリア語で“大地”を意味する「Terra」を組み合わせたチーム名には、能登の地に根差して活動していくことへの強い思いが込められています。本州から北へ細長く突き出る能登半島は、外浦は暖流と寒流がちょうどぶつかる荒々しい海、内浦は“天然の生簀”とも称される穏やかな海の恵みを受け、山、平地、川、湾が複雑に入り組んだ自然豊かな地。魚介、肉、米、野菜、果物、山菜、ジビエ、調味料に至るまで実にバラエティ豊かで良質な食材に彩られています。さらに、古来、北前船の中継地であったことから、日本全国や大陸との交流によって、各地の技術を取り入れた食文化を発展させてきました。また、輪島塗や珠洲焼といった伝統工芸においても技術の洗練が追求されてきたことも特徴的です。

2011年には、農林漁業を中心に自然と調和した暮らしが継承されてきた「能登の里山里海」は世界農業遺産に認定。能登の自然環境と文化を、食を通じて広く発信したいという思いをひとつにして結成されたのがこの『N-Terra』なのです。

能登の5人の料理人がタッグを組んだ渾身のコースがいよいよスタートしました。

一品一品に対して、使われている素材の背景とコンセプトなど、皿に込められているストーリーの説明が。すべてに能登のワインや日本酒をペアリング。器やグラスにも能登の作家のものが使われている。

池端氏の締め鯖のクレープ。緑の大地を連想させる小松菜のクレープで魚とハーブをくるりと巻き、里山里海の恵みをひと口で味わえる。器は輪島塗工房『キリモト』製。

お碗の出汁は直前に鰹節を削る。日本料理の命である出汁を引く工程では、川嶋氏はひときわ気持ちが入る。

川嶋氏による“手仕事”を表現したお碗。加工に大変な手間ひまを要するなまこの卵巣の塩辛このわたと、胡麻を煎り、あたり(擦る)、手で練り上げる胡麻豆腐に、削りたての鰹節と3年熟成の昆布でとった香り高い一番出汁を張る。塩味はこのわたの塩分のみ。胡麻と磯の上品な香りが鼻に抜ける。ペアリングは中能登町の純米酒『池月』。

池端氏のサラダ。ガス海老、イカ、バイ貝、中能登町の無農薬・自然栽培の農園『あんがとう農園』のハーブとエディブルフラワー。ガス海老もイカもすぐに身がだれ変色してしまうものだが、鮮度抜群のものをシンプルに堪能できる、能登ならではの一品。ペアリングは輪島市の白藤酒造の希少な酒『奥能登の白菊 自然栽培米 純米酒』。

N-Terra お披露目イベント信頼できる生産者、最高の食材はすぐそばに。

この日の昼、生産者の元へ行く平田氏に同行させてもらいました。向かったのは七尾市能登島で有機栽培で多様な有機野菜を作る『高農園』。『N-Terra』のメンバー全員が懇意にしている生産者のひとつです。

代表の高利充氏は脱サラで農業を始めた新規就農者です。金沢出身で、福岡で営業職のサラリーマンをしていましたが、鹿児島出身の奥さんと出会ってから「ふたりで農業をやろう」と場所を探し、能登島に出合いました。土作りから始めてアルバイトをしながらイモ類やキャベツを育てていましたが、食べていくまでの収入にはつながりません。限界を感じた高氏は、買い叩かれない付加価値の高い少量多品種の野菜作りへのシフトを図ると同時に、消費の最前線である飲食店への直販ルートの開拓に努めます。

著名な料理人に採用されたことが口火となり、東京を中心に販路は着実に増えていきました。現在、直販先は約200カ所にのぼり、耕作面積は約20ha、年間を通じて300種類を栽培するまでになりました。
「能登島は赤土なのでミネラル豊富で、しっかりした味の野菜が育ちます。大切にしているのは、農薬も化学肥料も極力使わず、大地がもともと持っている力を借りて自然のままに育てること。愛情は全力で注いでいますけど」と高氏は話します。
「畑の周りではノビルやハコベなども採れます。これはタラの芽ですよ。作物以外にもいろんな食材が身近なところにあることを地元の方々に教わっています。結局、その土地で無理なく育ったものがいちばん美味しいということを学びました」と平田氏。時間をつくっては高氏を訪ねて、旬の野菜やハーブの様子を確認したり、新しい品種の情報などを仕入れるようにしています。高氏も平田氏のように直接料理人と話す時間を大切にしています。野菜を実際に調理する人の感想や味わった人の反応をつぶさに知ることができ、また野菜作りにフィードバックすることができるからです。

出荷に追われる高氏を引き留めてはいけないと、平田氏は採れたてのサンゴケールやちりめんキャベツ、日野菜蕪などを仕入れて農園を後にします。午前中まで土の中にいたこれらの野菜たちは、この日のディナーに登場しました。優れた食材が目と鼻の先にあり、すぐに調理できるという状況は、なんと贅沢なことでしょうか。食材がなんでも手に入るという能登では、料理人と生産者とのこのようなネットワークがごく自然なものとして存在しているのです。

うっすらと雪をかぶった『高農園』の畑にて代表の高氏と平田氏。高氏にとって料理人と話す時間は現場のニーズを知る大切な機会。平田氏にとっても畑を訪れるのは料理のインスピレーションを得るために、なくてはならない時間だ。

平田氏の原木しいたけ「のと115」のコンフィ。肉厚な能登のブランドしいたけ「のと115」のオイル漬けを金柑とカワハギと共にいただく。表面にはフキノトウの香り、ソースからはイカ墨と海藻の風味がふわりと漂う。周りにはシェフ自ら山で積んできた野苺や野草が。ペアリングには10年以上前に瓶詰めされた二羽鶴酒造『能登 三年酒』。

『高農園』と『あんがとう農園』の野菜を使った黒川氏のサラダ。シーザードレッシングは液体窒素で急冷しパウダー状に。人参とほうれん草はそれぞれの調理法で甘みを引き出し、雪の下で糖度を上げる畑を表現している。柴野氏のレタスのジェラートと共にいただく。ペアリングは羽咋市の御祖酒造『遊穂 おりがらみ』。

普段は各自の店でリーダーシップをとるシェフたち。プロフェッショナル同士のコラボレーションは、細かな説明がなくても呼吸が合うから不思議だ。

川嶋氏の蒸しかぶら寿司。本来のかぶら寿司はかぶらとブリを使って発酵させるなれずしだが、麹に漬けて4日熟成させたブリを香ばしく焼き上げ、もち米と合わせて握り寿司状に。そこにかぶら餡をたっぷりとかけている。輪島の伝統菓子「柚餅子(ゆべし)」へのオマージュにもなっている。ペアリングは中能登町のどぶろく。

平田氏のイノシシの煮込み。能登のじろ飴を塗ったイノシシをイノシシの骨でとったスープでじっくりトロトロに。付け合わせは、イノシシの大好物であるサツマイモを入れて野草茶で炊いたリゾット、春の山の味覚であるノビルのピクルスとセリのタプナード。さらに穴水町で伝統的に栽培されているカラシナ種、唐川菜のジェラートが添えられる。ペアリングは数馬酒造がジビエ専用に開発した『竹葉 ジビエ純米』。

N-Terra お披露目イベント能登を「スローツーリズム」を実現する世界最先端の田舎に。

ひとつの料理ジャンルの研究や振興を目的にした料理人ネットワークはたくさんありますが、『N-Terra』のように特定地域でジャンルを超えて結びつくネットワークはあまり聞きません。そもそもどのような経緯で生まれたのでしょうか。
池端氏が旗振り役となってメンバーを募ったと勝手に想像していましたが、結局のところメンバーのみなさんに聞いてもはっきりしたことはわかりませんでした。共通した話としては、互いの店へ食べに行って知り合い、付き合いのある生産者が同じだったり、おすすめの生産者を紹介したりする中で交流を深めてきたということ。そして、能登には素晴らしい食材があり、その存在を伝えるのは料理人の役目だと感じていたこと。どうやら志を同じくする彼ら5名が自然に結びついてコラボレーションするようになり、そのグループにあらためて名前がついた、というのが事の真相。出会うべくして出会った仲間と言えるでしょう。

彼らの描く未来には石川県の「スローツーリズム」の考え方がベースにあります。“食”を切り口に、その地域ならではの新しい価値観を創造し、来訪者に新たなライフスタイルを提案する旅。イタリアのスローフードやスローシティのコンセプトにも通じる、物事の本質を見つめる目でゆったりと能登の魅力を味わってほしいという思いがあるのです。

料理はなによりも雄弁です。コースが進んでいくにつれ、次は皿の上で能登のどんなストーリーが語られるのだろうかと期待がさらに膨らんでいきます。メンバーは調理の合間にサーブを手伝い、ゲストたちとしばし語らいます。彼らも次第に緊張がほぐれ、達成感に満たされていくのが伝わってきます。

ゲストのひとり、日本におけるスローフード運動をリードする島村菜津氏の言葉が印象的でした。
「日本の観光地を見てもそうでしょう、世界中でマスツーリズムが浸透していくにつれ、それまで地域ならではの個性を持っていた田舎は壊され、均質化し、中央の資本に利益を吸い取られて魅力を失っていきました。その教訓から、マスツーリズムの進出を食い止め、地元民の手によって地域の自然と文化を守りながら唯一無二の個性を磨いていくのが、世界の潮流になっています。能登には世界に誇れる文化と自然がある。文化と自然を守り、魅力を発信できる人々がいる。ここには最先端のツーリズムがあると言っても過言ではないでしょう」

『N-Terra』の取り組みは、ローカルがローカルであり続けながら本質的な豊かさを未来へとつなげていけるか。その試金石としても注目を集めていくはずです。

池端氏の魚料理、マフグのミキュイ(半生)。春菊のソースと共にたっぷりと注がれているのは、さまざまな骨や野菜の切れ端を材料に丁寧に抽出したスープ。厨房においてフードロスは微塵も発生させないという決意が表現されている。その上品かつ複雑なスープをまとったフグは、噛むほどに旨味があふれ出る。ペアリングは輪島市にあるハイディワイナリーの『セイベル ブラン』。

黒川氏による能登牛のハンバーグ。先人からの知恵や技術を受け継ぐ“承継”をテーマにした一品。穴水町にある能登ワインの赤ワインを使って煮込み、やはり洋食の定番であるマカロニグラタンを添えている。同時に柴野氏によるバゲットのジェラートをパン代わりにサーブ。ジェラートだけど確かにバゲットという摩訶不思議な美味しさ。冷温の共演も楽しいメインディッシュだ。ペアリングは能登ワインの『クオネス ヤマソーヴィニョン』。

デザートは柴野氏のジェラート盛り合わせ。モッツァレラ、桜、能登大納言小豆、どぶろく、ビターチョコレートなど。どれも甘さ控えめで、素材のフレッシュな風味が心地いい。口溶けがやさしく、喉ごしとキレが秀逸。いくらでも食べられる。

最後にスタッフ全員でご挨拶。やり切ったというスタッフと幸せそうなゲストの笑顔にその場は包まれた。

人気パティスリーを切り盛りする、26歳の若社長。津軽スイーツ界のホープに会いに行く。[TSUGARU Le Bon Marché・アンジェリック/青森県弘前市]

現在は20名近いスタッフをまとめる『アンジェリック』代表・成田巧樹氏。開店中のほとんどの時間、ほかのスタッフと一緒に厨房で手を動かし続ける。

津軽ボンマルシェ午前中から人が絶えない、弘前の超人気パティスリー。

りんご生産量日本一を誇る津軽エリアでは、アップルパイがひとつの強力な観光コンテンツ。多くのスイーツ店やパン店がそれぞれに趣向を凝らしたアップルパイを販売する中、根強い人気を誇るのが、弘前市にあるパティスリー『アンジェリック』のアップルパイです。以前「津軽ボンマルシェ」で行ったりんごがテーマの対談企画でも、普段津軽をベースに活動している参加者全員が「本当に美味しい!」と大絶賛。しかも参加者のひとり・『パン屋 といとい』成田志乃さんが元々働いていた店という縁もあり、対談当日は代表の成田巧樹氏が飛び入り参加してくれる展開となりました(ちなみに、同じ苗字のふたりですが、血縁関係などはなし。『成田』は津軽に多い姓として知られています)。

生産者の高齢化や後継者不足など、津軽のりんご産業が直面する課題についての話も多く交わされた対談の中、大いに盛り上がったのが、弘前市内でも一、二を争う人気パティスリーを切り盛りする成田氏の、地元への強い想い。「弘前の街が活性化したら、自分たちの商売ももっと良くなるはず。色んな業種の人の独立を後押しするような活動ができればいいなと思って」。そう語る成田氏は、弱冠26歳の若さです。きっと成田氏のような存在が、これからの津軽を牽引していくに違いない。対談時に感じたそんな想いから取材を申し込み、後日改めて店舗を訪れました。

弘前駅から車で10分ほどの幹線道路沿い、真っ白でスタイリッシュな外観が目を引く建物が『アンジェリック』。中に入ると、圧倒されるのがその品数です。美しいケーキが鎮座する正面の冷蔵ケースの上には、タルトやパンがずらり。右にも左にも、クッキーなどの焼き菓子、カラフルなマカロン、贈答用の詰め合わせなどがぎっしりと陳列された什器が並びます。「生ケーキはいつも25種類前後、パンは2、30種類揃えています。そのほか焼き菓子やチョコレートが50から60種類くらいかな。改めて数えると、結構ありますね(笑)」と成田氏。開店時間を過ぎると次々とお客さんが訪れにぎわう店内の様子から、名実ともに弘前を代表するパティスリーであることが伝わってきます。

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いい意味でケーキ店のイメージを裏切る、白い箱のような独特の外観がユニーク。気付かずに通り過ぎてしまう人も多いとか。

ケース内には洗練されたデザインのケーキ類が並ぶ。季節ごとの新作も多く、「楽しみながら作りたいから、飽きてきたら変えるんです(笑)」と成田氏。

ショップからは、厨房の忙しそうな様子が見て取れる。遅い時間でも商品が売り切れることがないよう、毎日夕方4時頃まで製造を続けるそう。

津軽ボンマルシェ金髪だったやんちゃな青年が、数千万円の借金を背負って代表取締役に。

成田氏は弘前市の郊外出身。パティシエのキャリアのきっかけとなったのは、高校時代にケーキ店でアルバイトを始めたことでした。「共働き家庭のおばあちゃん子だったこともあり、成田氏にとってケーキは昔から“クリスマスや誕生日にしか食べられない特別なもの”。アルバイトを始め、初めて「ケーキって作れるものなんだ!」と知ったそう。勉強は嫌いでも何か作るのは好きだったこともあり、高校卒業後に紹介を受けて就職したのが、当時別のパティシエが経営していた『アンジェリック』だったのです」。想像以上に繊細な作業に苦労する一方、気付けばケーキ作りの魅力にどっぷりハマっていたという成田氏。失敗しても、理由を調べると「これはそういうことか、あれもそうなのか」とどんどん繋がっていくのが楽しく、日々「何でだろう、じゃあ調べよう」の繰り返しだったとか」。当時同僚だった『パン屋 といとい』成田志乃さんは、その頃の成田氏を振り返ってこう話します。「バッキバキの金髪でとがってたけど、根は真面目でした。“腕に貯金”っていうのが、当時の私たちの合言葉で。今学ぶ技術が後の自分への投資になるはずと信じて、よく遅くまで一緒に残って作業していました」。

当時の社長にも、そんな成田氏の様子が見えていたのでしょう。自身が経営から退くと決めたとき、『アンジェリック』の事業を引き継がないかと声を掛けたのが成田氏でした。「正直、なんでオレ?って。相当やんちゃで、理不尽な先輩にふきん投げつけるくらい生意気だったから(笑)。同僚の中にはケーキ屋の息子も多かったけど、自分はそうじゃない。帰るところがない分、応援してくれたのだと思います」。社長業を担うことを決心したのが24歳。銀行に融資を頼み込み、数千万円を借り入れて自らの会社を設立、『アンジェリック』を買い取り代表となったのはそれからわずか3カ月後のこと。

就任後にまず改革したのは、販売する商品より先に、スタッフの労働環境でした。それまでは固定残業で給金、休みともに十分ではないと感じていたうえ、ほかのスタッフの不満も耳にしていた成田氏は、最初に残業時間の管理を開始。好きなときに休みが取れるシステムに変更しました。「そもそもケーキ作りって、すごく効率が悪いんですよ。ひとつ作るのに、土台作ってジャムやクリーム炊いて、冷やしたり温めたり……。収益上げるには、もう自分が頭使うしかなくて」と成田氏。さまざまな施策に取り組みましたが、売り上げが落ちる夏場に行うホールケーキのセールもそのひとつ。予約が一台入るごとに、スタッフ全員に決められた金額のボーナスが入る制度にしたところ、現場のやる気がぐんと上がったそう。「『あと10台売れば3000円!』って、みんな自分からどんどん宣伝してくれて。普通そういうキャンペーンって働く側からしたら忙しくなるし、嫌なものじゃないですか。でも目に見える形で収入が上がると変わる。スタッフみんなと一緒に、自分たちでお金を作っていきたいんです」。

今も何でも調べたり、試したりするのは変わらないと成田氏。「新しい素材はすぐ試します。メーカーや商社の営業さんと話すのも勉強になるし、すごく楽しい」。

『アンジェリック』で一番の人気を誇る「アップルパイ」。パイ生地の上にりんごペースト、紅玉ジャム、スライスした生のりんごを乗せて焼き上げる。

前社長の時代に、弘前店・鶴田店・青森店の3店舗を展開していた『アンジェリック』。現在はそれぞれが独立し、経営母体は異なる。

津軽ボンマルシェスイーツを介し、生産者、お客さん、そして地域と繋がる店に。

既に確固たる人気を確立していた『アンジェリック』。特にアップルパイは、長年店の代名詞的存在でした。成田氏が代表となった2017年、最初に原材料を見直した商品がこのアップルパイ。それまで青果店から仕入れていたりんごを、すべて弘前市の契約農家のものに変更したのです。「ずっと誰が作ったか分からないりんごを使っていて、なんか気持ち悪いなって。一カ所の農家さんからたくさん買う代わり、シャキシャキした食感出したいから少し早く収穫してくれとか、美味しく加工するためのわがままは言わせてもらってます。品種も時期によってまちまち。一年中同じ味に作るのが一般的だと思うけど、うちでは品種が変わるから味も変わる。でも生ものなんだから、ブレてなんぼでしょ? 作ってる俺らも楽しいし、お客さんも『今日は何の品種?』とか『この品種初めて食べた』とか話してくれますよ」と成田氏。

ちなみにアップルパイはこの3年間で売り上げが倍増。多い日にはなんと900個も販売するそう。さらに成田氏は、アップルパイの新たな仕掛けを計画中とか。現在販売中のアップルパイの難点は、フレッシュな分賞味期限が1日と短く、遠方への手土産には向かないこと。ならば途中まで作った状態で冷凍し、最後にお客さん自身が焼き上げるアップルパイがあれば、持ち帰りも発送もできるうえ、美味しいタイミングで食べてもらえると考えています。「家で出来立てが味わえるの、おもしろいじゃないですか。それにこれが売れたら、津軽のりんごをもっとたくさんの人に知ってもらえる。りんごの食感をどう残すかとか課題も多くて、まだまだ計画段階ですが」と成田氏。

取材に訪れた時期は、タルトに使われた洋梨のル・レクチェやいちごなども地元・津軽産。地域の旬の農産物を積極的に使うようになった『アンジェリック』は、農家と消費者の橋渡し役を担います。パティシエとしてさまざまな食材に接するうち、「農家の仕事ってすげーなと思うようになった」という成田氏。「ここの農家さんの作物が好き、考え方が好きだと思ったら、傷ものでも何でも最高に美味しく加工して売るのが俺らの仕事」と語ります。

パティシエになってからは『アンジェリック』一本の成田氏。地方から東京や海外へ出向き経験を積む若手も多い中、特に他店での修業は考えなかったと言います。その理由は、今後もずっと大好きな地元・津軽をベースに商売を続けていきたいという想い。「県外で数年やるより弘前で数年やる方が、断然こっちのニーズも分かるし繋がりもできるでしょ。東京にも、最高の素材と最新の技術でめちゃくちゃ美味しいケーキを出すところがあれば、手頃な価格と食べやすい味でファミリー層に愛される店もあります。結局それぞれだし、地元と県外を天秤にかけて考えなくてもいいかなと。うちで目指すのは、幅広い年齢のお客さんに美味しいと思ってもらえるもの。マニア向きは作りません。でもその中にひとつかふたつ、自分がやりたいことだけ詰め込んだ攻めたケーキがある。なぜって、その方がやってて楽しいからですよ(笑)」。

ごく一部のイベント出店を除き、商品の販売を行うのはこちらの店舗のみ。「自分の目が届かないところで売られるのが気持ち悪いから」と成田氏。

取材時に使われていた地元産のフルーツ。成田氏が代表となってから、こうした食材の比率が増えた。津軽はほかにもぶどうや桃、さくらんぼ、メロンなどの名産地として知られる。

津軽らしさ全開のケーキは観光客にも人気。プライスカードには、中身の構造がひと目で分かるイラストが。成田氏曰く、「カッコつけた店より、分かりやすい店でありたい」。

津軽塗の漆器にそっくりなチョコレート菓子「津軽香々欧(つがるカカオ)」も手土産に最適。クッキーを包んだミルクチョコレートに、食用色素による模様をプリントしたもの。

津軽ボンマルシェ経験の浅さも長所に。独自の“放牧式”経営術で生まれる団結力。

次々語られる迷いのない言葉から、経営者としての技量が垣間見える成田氏。しかし意外や「店で一番足を引っ張っているのは俺ですよ」と笑いながら話します。曰く、自らの経営方針は“牧場経営”。その心は、「スタッフに割とのびのび動いてもらう、“放牧式”の経営です。自分が未熟な分、みんなに助けてもらわないと」とのこと。たとえば成田氏が思い付きで購入を決めてしまった陳列棚は、「下に在庫が入れば品出しが楽になる」というサービス担当者の意見により改造され、使いやすい焼き菓子用什器に変身。「各担当者がそれぞれ自発的に考えるようになったら、どんどん効率が上がって。最近は何かあると、スタッフ同士で解決してくれるようになりました(笑)」と成田氏。

さらに成田流のコミュニケーションも、チームの関係作りに大いに影響を及ぼしているようです。「自分は経験が浅い分プライドがないから、突っ走る前にブレーキをかけられるんです。周りに意見を言われても、普通の社長だったら『いや、ここはこうすべき』と通すところも、俺の場合は『え、何で? 理由教えて!』って。だから大きな失敗はそれほどないし、失敗するときはみんなも一緒(笑)。クセの強いメンバーが多いけど、何かやり残しがあれば全員で終わらせるのが今の共通のスタンスだし、人間関係はすごくいいと断言できる。スタッフこそがうちの店の強み、武器みたいなものだと思っています」。『アンジェリック』の経営元となる会社を設立する際、『グランメルシー』と命名した成田氏。「めっちゃ感謝!」(by成田氏)という意味のこの名には、お客さんへの感謝のほか、スタッフや業者・生産者の人々など、すべての工程に関わる人、物を大事にしたいという想いを込めたそう。

取材中、成田氏のいくつかの言葉が印象に残りました。スタッフの働き方改革について話したときには「体調がキツいから休みたいって言うのも結構勇気がいるはず。その気持ちをないがしろにしたくない」。チームワークの話題になったときには「失敗って、別にひとりのせいじゃない。普段からお互いに気に掛けていれば、誰かが気付いて止められるじゃないですか」。りんご対談の際は少し不敵な一匹狼タイプに見えた成田氏でしたが、今回じっくりと話を聞いて見えてきたのは、周囲へ細やかに気を配るリーダーの一面。『アンジェリック』の美味しいスイーツとにぎわいは、そんな成田氏率いるチームの団結力あってこそなのでしょう。

前社長から引き継いでから3年、「ありがたいことに、売り上げもよく人手も足りている。事業としては順調です」という『アンジェリック』。成田氏は現在、新たに『グランメルシー』の名前でブランドを作りたいと考え中とか。初めて立ち上げから手掛けるブランドに託すのは、人口減少が顕著な地方を盛り上げるため、自分たちのような若い世代が行動し、実績を作るべきという信念です。「刺激を受けた人が、何か始めるきっかけになれば」。そう語り、自ら地元の台風の目となるべく進み続ける成田氏。その視線の先には、スイーツ界に留まらない、津軽の未来が広がっていました。

一部商品ラインナップのほか、黒を基調にしたシックな内装やパッケージなどは、前社長時代からそのまま継続。「既に人気もブランド力もある店だったので、変えない方がいいところも多かった。一番変化したのは、スタッフの働き方ですね」と成田氏。

記念日需要の高さにも納得の、見目麗しいホールケーキ。卵や小麦粉、乳製品を使わないアレルギー対応ケーキのオーダーも受け付けている。

普段は愛煙家で塩辛い食べ物が大好きだが、「味に対する勘はいい方だと思う。人が作った食べものの改善点をあら探しするのが癖なんです」と笑う成田氏。インタビューを行ったのは、『アンジェリック』上階にあるコーヒー専門店『iro coffee』。元々『アンジェリック』スタッフだったバリスタ・千葉俊氏の独立を後押しし、二階のスペースでの営業を提案したのも成田氏だ。

住所:青森県弘前市野田1-3-16 MAP
電話:0172-35-9894
https://www.instagram.com/angelique_hirosaki/

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厳しい自然環境にありながら、その豊かな恵みとともに生きる小さな島。[東京“真”宝島/東京都 利島]

東京"真"宝島OVERVIEW

周囲約8kmというとても小さな島ながら、海からも空からも必ず目に入る利島の唯一無二の存在感。それは、島そのものが美しい山だからではないでしょうか。宮塚山のなだらかな裾野は海へと広がり、洋上にぽっかりと浮かぶその愛らしい姿かたちがとても印象的です。東京都心から南に約140kmの位置にあり、その名を「としま」と呼びます。伊豆諸島最大にして最も都心に近い大島の南に位置し、伊豆諸島の中では2番目に近い島でありながら、その厳しい自然環境ゆえ、簡単にたどり着くことが困難な島でもあります。

中央に位置する宮塚山のなだらかな姿かたちからは想像もつかないほど、島の周辺は激しい波に削られた断崖絶壁に囲まれ、穏やかな湾も砂浜もなく、着岸が難しい桟橋があるのみ。特に波が荒れやすい冬の海では船の就航率はさらに悪くなり、欠航することもしばしば。島に降り立つと、平らな土地が一切なく、急な坂しかないことにすぐに気がつくでしょう。利島の人々は、御神体そのものである宮塚山のふもとに暮らしている、という表現のほうがしっくりきます。集落は比較的なだらかな島の北側に密集しており、いたるところから大海原をのぞむことができます。

そんな厳しい自然環境の中で暮らす島民の数は約320人ほど。ですが、近年は島暮らしを希望するI ターン者が徐々に増え、現在では島民の約半数を移住者が占めているのだといいます。まだまだ利島の存在を知る人は少なく、降り立つ観光客は決して多くはありませんが、この島で暮らしたいと希望する人々が増えているという事実は、利島という小さな島にある大いなる魅力に惹きつけられている証左でもあるでしょう。

利島を利島たらしめるもの。それは島の約8割を埋め尽くすという、約20万本ものヤブツバキの存在です。最盛期を迎える冬には、島じゅうを赤く染める椿の花が咲き誇り、どこを歩いても可憐な椿の花が目に入ってきます。利島では古くは江戸時代から椿とともに暮らし、椿油を生産してきました。日本で一、二を争う生産量を誇り、有機で栽培された良質なものとして、高く評価されています。さらに、冬にはイセエビ漁がさかんになり、軒先で椿の実を干す光景も利島ならではの風景です。ほかにも、宮塚山にはスダジイなどの巨樹が数多く残っており、初夏には世界最大ともいわれるサクユリの白く美しい大輪の花を目にすることができるでしょう。

険しい断崖絶壁に囲まれた島だからこそ、美しい自然とのどかな暮らしが守られてきました。暮らしの中にある厳しくも豊かな自然と、そこから得られる恵みとともに暮らしてきた利島の人々は “足るを知る”からこそ、来るものたちをやさしく、あたたかく迎えてくれるのです。

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人々が憧れ、集まり、文化を深めていく。コーヒーの聖地を津軽のこの土地へ。[TSUGARU Le Bon Marché・白神焙煎舎/青森県中津軽郡]

30kgのコーヒー豆を炭火で焼くことができるフジローヤル製の大型ロースター。焙煎中はコーヒーの豊かな香りが店内に漂います。工房はガラス張りでオープン。中の様子を自由に眺めることができます。

津軽ボンマルシェ世界自然遺産の玄関口で味わう、一杯のコーヒー。

津軽富士と呼ばれる岩木山の麓にあり、白神山地の玄関口である中津軽郡西目屋村。弘前の街中からは車で30分弱、約1500人という青森県でも最も人口の少ない村であり、世界自然遺産に認定された広大なブナの原生林はすぐ目の前。水源の里と謳われるほどにきれいな水が豊富に流れる、自然に恵まれた地域です。まわりはりんご畑も多く、まるで絵本の中にいるような里山の風景が続く車窓を眺めていると、町の中心ともいうべき施設「道の駅津軽白神 Beechにしめや」に到着しました。近くには村役場や郵便局などが点在し、住民の生活の拠点であると同時に、世界中から観光客が訪れ、エコツーリズムや各種アクティビティ体験ツアーの案内を行う観光情報施設として賑わっています。建物内には、以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した『GARUTSU』の2ヵ所目の醸造所である『白神ワイナリー』や、屋上で養蜂を行なっている蜂蜜専門店『BeFavo(ビファーボ)』、ダムマニアに人気の「津軽ダムカレー」が食べられるレストラン『森のドア』などが入っており、道の駅としてはかなり個性的。そして『白神焙煎舎』も同じ建物内の一角にあります。

キリッと黒で統一された店内は、コーヒーの良い香りに包まれ、旅人から仕事の合間のビジネスマン、地元のおじいちゃんおばあちゃんまで、幅広い層の人々がコーヒーを買いに訪れます。店の奥には広い焙煎工房があり、若い男性が興味津々でガラス越しに作業の様子を覗いていることも。誰もが自然と吸い寄せられ、ほっと寛いだ空気に癒される、コーヒーには言葉にできない不思議な魔法が備わっていることは、すでにご承知の通りだと思いますが、この土地には何かそれ以上の神がかったような強い吸引力が感じられるのです。その秘密は一体何なのか?まずは津軽におけるコーヒーの歴史と文化を紐解いてみましょう。

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モダンで落ち着いた雰囲気の白神焙煎舎店内。賑やかで活気ある道の駅の建物内で、この一角だけが一味違うオーラを放っています。道の駅に焙煎施設があるというのも珍しいです。

店の入り口に設置された、ダッチコーヒー(水出しコーヒー)メーカー。白神山地のまろやかな水をポタポタと半日かけて落とす、この地ならではのコーヒーです。その場に立ち止まり、じっと様子を見つめているお客さんも多いとか。

コーヒーを入れるパッケージもユニーク。代表の成田志穂さんがアメリカ西海岸で見つけた、チャイニーズレストランのテイクアウト用パッケージをヒントにデザインしてもらったそうです。

津軽ボンマルシェ江戸時代から続く、津軽のコーヒー文化を受け継いで。

津軽のコーヒーの歴史は江戸時代まで遡ります。およそ200年前、幕府より命を受け、北方警備のため蝦夷地(北海道)へ赴いた津軽潘兵は、冬の厳しい寒さの中で栄養不足になり、当時は不治の病だった浮腫病にかかって多くの人が亡くなりました。そこで、予防薬として配給されたのがコーヒーだったのです。1803年(享和3年)に蘭学医の広川獬が著した「蘭療法」には、浮腫病に対してコーヒーに薬効があることが記されています。コーヒーが最初に伝わったのは長崎の出島といわれていますが、当時飲むことができたのは一部の特権階級のみ。津軽潘兵は農民や漁師の出身も多かったそうで、一般庶民として最初にコーヒーを飲んだのはおそらく津軽の人々だったのではないでしょうか。

現在、弘前の街中には個人経営の小さな喫茶店が多く、コーヒーの街と呼ばれています。津軽出身の文豪・太宰治がよく通っていたという歴史ある喫茶店も当時の面影を残しつつ、営業を続けています。街の人々と共に長い年月をかけて育まれてきたコーヒー文化。その担い手の一人ともいえるのが、1975年に創業した「弘前コーヒースクール」の代表、成田専蔵氏です。店舗・成田専蔵珈琲店を営む傍ら、コーヒーの歴史を自ら研究し、津軽潘兵が飲んでいたコーヒーを再現。弘前市内のいくつかの喫茶店で飲めるように働きかけ、広めました。同市内の喫茶店を巡るスタンプラリーを考案したり、コーヒーに携わる人々の知識や技術向上のためにスクールやライセンスを設けたりと、コーヒーを通じた地域振興に関わる活動を長年精力的に行ってきました。その功労を讃えて、2018年には日本コーヒー文化学会より、第1回文化学会賞を受賞しています。

白神焙煎舎は、成田専蔵氏の思いを受け継ぎ、さらに新しい一歩を踏み出した珈琲施設。代表を務めるのは娘である成田志穂さんです。子供の頃からコーヒーに親しんできたのかと思いきや、大きくなるまで、父親が何をして働いているのかよく知らなかったそうです。
「ある時は使えないクズ豆を大量に持って帰ってきて、家の裏にある畑に撒いていましたから、子供の頃は何か肥料を作る人だと思っていました(笑)。家に篭って文章を書いて、それが新聞に掲載されたり、講演や調査で全国を旅したり、いろんな人に先生って呼ばれていたり。不思議な仕事だなあと思っていて。父の仕事をちゃんと意識するようになったのは、もう少し大人になってからです。自宅の隣に店ができてアルバイトを始めて、だんだんと自分もコーヒーの勉強をするようになりました。大学は英文科でしたから、通訳として父に付いてブラジルやバリ島にコーヒーの視察に行ったりしました」
志穂さんがいつも見ていたのは、なにやら楽しそうな父の姿。コーヒーに携わっていると海外に行けて、いろんな人の繋がりができ、ワクワクするような面白い経験ができる。なんて魅力的な仕事なんだろう、と思っていたそうです。大学を卒業し、ワーキングホリデーでカナダ・バンクーバーに滞在すると、アメリカ西海岸はサードウェーブの新しいコーヒーカルチャーが盛り上がってきたときで、そこから近いバンクーバーもまさに影響を受けていました。エスプレッソ、ラテアートなどは、当時まだ日本でやっているところは少なく、志穂さんの目にはおしゃれな最先端の飲み方に映ったのです。コーヒーへの価値観もガラリと変わりました。その後は自然な流れで父の会社へ入社し、コーヒーに没頭する人生が始まりました。

世界各国からやってきた、コーヒーの生豆の入った麻袋が積み上がるバックヤード。ちなみにブルーマウンテンだけは木樽に詰めて送られて来るそうで、店内のディスプレイにも使われています。

普段は物腰柔らかな志穂さんですが、コーヒーと向き合う時の表情は真剣。ハリオのガラス製ドリッパーを使い、ハンドドリップで淹れています。

ドリップされた豆が膨らみ、ふわりと香りが広がる、至福のひととき。

定番の「白神焙煎炭焼珈琲」。香り豊かでまろやかな、すっきりとした味わい。志穂さんはこの土地のテロワールを大切にし、“西目屋らしい味”を常に意識しています。

津軽ボンマルシェ西目屋村の炭焼きを復活。りんごの剪定枝を炭にしてコーヒーを焙煎。

津軽のコーヒー文化を長らく牽引してきた成田親子。しかし、二人の兼ねてからの願いは、その歩みをさらに一歩深いところへ踏み込み、しっかりと根を張って広げて行けるような場を整えることでした。自分たちのやりたいこと、コーヒー文化の根源を表現できるような場所を、ずっと前から探していたそうです。縁あって巡り合った西目屋村は、彼らにとって理想郷ともいえる、驚くほど環境に恵まれた土地でした。
「コーヒーに最も大切な、きれいな水と空気が得られるこの環境は申し分ありません。この土地に誇りと愛情を持ち、大らかでオープンな西目屋の人々にも助けられました。さらにこの村はかつて炭を作っていた歴史があり、それはコーヒーの焙煎に適していたのです」と志穂さん。
西目屋村は「目屋炭」と呼ばれる、青森県内有数の炭の生産地として栄えた歴史があります。山間地域では昔は農作物を育てることが難しく、住民のほとんどは炭を焼いて生計を立てていました。白神山地の山の中には炭焼き小屋が点在し、できた炭は街へ運んで売られました。この地域の伝統工芸品である「目屋人形」は、ほっかむりをした野良着姿の女性が背中に炭俵を背負っており、当時の様子を窺い知ることができます。昭和の初め頃までは実際にそのような女性を見かけることも多く、彼らは車も通れない細く険しい山道を何時間も歩き、せっせと炭を運んでいたそうです。

2019年、白神焙煎舎は山の中に自社で運営する炭製造施設「白神炭工房 炭蔵」を設立しました。実際に現地を訪れると、山の斜面に赤い三角屋根の建物が建っています。中は学校の体育館かと思うほど広々としており、半年以上かけて作ったという大きな炭窯がどんと鎮座していました。窯で炭を焼く時は、専門の職人が一週間から10日、近くに寝泊まりしながらずっと火の番をするそうです。岩木山の周りにはりんご畑がたくさんあり、剪定などで不要になるりんごの木の枝が大量にありました。それらを有効活用し、炭として資源を甦らせています。
「りんごの木は硬質なため、炭にすると火持ちが良く、炎も熱量も安定します。欧米では昔から、お客様がいらしたときの特別な炭として、暖炉を焚くために使われていました。りんごの木炭の性質はコーヒーにも適しており、爆ぜにくいので豆が焦げることなく、柔らかな炎で芯までじわじわ火を通し、ふっくらと焼きあがります」
白神焙煎舎では、この道30年以上の熟練の職人が炭火を操って焙煎。その豆で淹れた「白神焙煎炭焼珈琲」は、この土地でなければ味わえない、唯一無二のコーヒーとなったのです。

白神焙煎舎から車でさらに10分ほど行った、山奥にある炭製造施設「白神炭工房 炭蔵」。冬はすっぽりと雪に覆われ、辿り着くのも困難。すぐ近くには津軽ダムがあります。

炭焼き小屋内部。1回で5トン焼けるという巨大な炭窯。窯を作れる職人は現在一人しかおらず、津軽の「やってまれ(やってしまえ)」精神で、作っているうちにどんどん大きくなってしまったそうです。

りんごの剪定枝で作られた炭。りんごの木炭はアウトドアやバーベキュー用などでも人気が高く、販売するとあっという間に売れてしまうそうです。

津軽ボンマルシェ津軽の風土を丸ごと味わえる、西目屋村をコーヒーの聖地に。

白神焙煎舎で特にやりたかったことの一つが「コーヒースタジオ」。専蔵氏の兼ねてからの念願でもありました。コーヒーの淹れ方のコツや焙煎の仕方を気軽に学べ、本物の味を知ることができる体験講座です。実際の講座ではプロが試作用に使う小型ロースターを1人1台使い、自分でりんごの炭を詰め、機械を操作して豆を焙煎するなど、かなり本格的。「弘前コーヒースクール」でコーヒーを学び、資格を取得した、専蔵氏の弟子といえる人々が講師を務めています。機械をパソコンに繋ぎ、データも残せるので、将来喫茶店をやりたい人が本気の姿勢で学びに来ることもあるそうです。海外から来た人が珍しがって動画撮影していることも。
「父曰く、コーヒーはそもそも欧米では、家庭に焙煎用の調理器具があって、自分で豆を焙煎することが普通だったようです。味噌汁みたいに各家庭の味があったのです。日本では、既に焙煎された豆を買うことが常識のようになっていますが、もっと根本のところからコーヒーに親しんでいないと、本当の文化は育たないというのです」

成田親子がこの先何十年後かに夢見ている壮大なプログラムは、西目屋村をコーヒーの聖地にすること。この村では家庭でも普通に美味しいコーヒーの淹れ方を心得ていたり、自分で焙煎ができたり、日常的なコーヒーの文化度が圧倒的に高い地域として、地元が誇りを持ち、コーヒー好きな人々が憧れ、各地から訪れ、多くの人が集まってくれるような場所に育てていきたい。そして、この土地の歴史と文化が溶け込み、醸成され、風土を丸ごと味わえるような独自のコーヒーの味が創られていくことを見届けたい。
「西目屋村に昔からあった炭作りに学び、津軽を代表する果物であるりんごの剪定枝で炭を作って豆を焙煎し、世界自然遺産として知られる白神山地の清らかな水で淹れる。どれもこの地でなければできないことであり、コーヒーに欠かせない要素であり、自信を持って語り伝えたいストーリーです。その価値が自然に地域に浸透し、『西目屋はどこで飲んでもコーヒーが美味しいな』とか、『ここに住んでいるおばあちゃんはコーヒー淹れるのがうまいよね』なんて言われるようになったら嬉しい」
いつもの日常の中に、上質なコーヒーが当たり前のようにあり、それがこの地で出会うみんなの幸せに繋がる。そんな世界を目指して一歩一歩進んでいきたい、と語る志穂さん。脈々と続く土地の歴史と豊かな大自然、そして西目屋村の人々の温かな郷土愛が丸ごと抽出された一杯のコーヒーは、きっと大切な贈り物をいただいたような、忘れられない味になることでしょう。

炭焼き焙煎体験用のロースターは3台。各機械には「SHIRAKAMI」、「KUMAGERA」、「ANMON」(暗門の滝から命名)と名前が付いており、それぞれ性格が違うといいます。志穂さんは「この子はね…」と我が子のように愛情と親しみを込めて話します。

住所:〒036-1411 青森県中津軽郡西目屋村大字田代神田219-1 MAP
https://shirakami-roast.jp

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冬のツアーは美味しい会津を体験!収穫し、食べて、学ぶ。[NEW GENARATION HOPPING AIZU/福島県会津若松市]

2月15、16日に行われたツアーの一幕。例年のこの時期の会津は雪景色だが、今年は100年に一度の暖冬らしく、遠くの山の頂にしか雪の姿はなかった。

ニュージェネレーションホッピング南会津調味料ひとつにも表れる会津の豊かな食卓。

南会津の四季を体感していただくONESTORYのツアーもひとまず最終回。今回の旅のガイドを務めてくださるのは、本格ナポリピッツァや会津の食材を使った料理が評判の『ピッツェリア&トラットリア フェリーチェ』を営むシェフの矢澤直之氏です。

冴え渡る青空の下、バスに乗り込んだ参加者が最初に向かったのは1834年創業の『満田屋』です。こちらは江戸末期から続くお味噌屋さんで、味噌蔵を改築した店内で味噌田楽をいただくことができます。先ほど顔を合わせたばかりの面子ですが、「この竹串、具材によって形が違うね」「お店の方が1本1本削っているみたいだよ」などと会話を交わすうちに打ち解けたムードに。まだ明るいうちからビールなどいただきつつ、2種類に焼き分けたこんにゃくは甘味噌と柚子味噌で、外はカリッと中はふわふわのおもちは甘味噌で。大豆のうま味がしっかり残る豆腐には山椒味噌。うるち米を使ったしんごろうは、荏胡麻を使ったじゅうねん味噌をたっぷり、と4種類の味噌を使い分けながら様々な具材を楽しみました。冬場の食卓に彩りを添える味噌に、会津の方の丁寧な暮らしが表れているようです。

次に向かったのは磐梯山系に囲まれた気持ちのいい畑。あぜ道を歩いていると、前方で満面の笑顔の矢澤氏が手を振っています。「会津の美味しい旅ということで、ここではネギの収穫体験を楽しんでいただけたらと思います」と矢澤氏。その隣で我々を出迎えてくれたのは、農家の佐藤忠保氏とトマト農家の大友佑樹氏です。「ここ一帯は冬になるとネギの頭が少し見えるぐらいまで雪が積もります。ネギを傷めないよう雪をほぐしてから1本1本手で抜くのですが、今年はその手間がない分ラクですね」と佐藤氏。鮮やかな手つきでネギを抜いてみせてくださったのを機に、参加者も次々に収穫を体験しました。試しに1本抜いてみると、ずっしりと重量があり、たっぷりと水分を蓄えていることが伺えます。「この辺りの土は水分を多く含んでいるので、1本あたりの重さは300g~400gほど。うちはこのネギを“とろねぎ”と名付けて独自にブランド化しています」。収穫したネギを軽トラで作業場に運び込み、切った根の先を見ると、蜜のような粘度のつゆがとろり。香りも力強く、食材を見る矢澤氏の目も真剣です。その様子から、このネギを使うという今宵のディナーへの期待が高まります。

農作業の後は松本養蜂総本場に立ち寄り、国産オーガニックはちみつを使ったレモネードをいただきました。稼業を継いで5代目という松本高明氏の蜂蜜は、樹種によって全く味が異なり、どれも天然由来のワイルドさを秘めています。矢澤氏もさまざまな料理に用いるのだそう。蕎麦や栗などレアなはちみつを試食させていただいた後は温泉タイムです。訪れた会津若松の奥座敷・東山温泉は、約1300年前に行基上人によって発見されたとされている、さらさらの硫酸塩泉。日帰り湯でお世話になった『くつろぎの宿 新滝』の露天風呂からは、渓流を見下ろすことができ、農作業による心地よい疲労感がするすると湯の中に溶け出していくようでした。

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江戸末期から会津若松の地で180余年続く『満田屋』。5代目が味噌蔵を改装した店内では味噌や醤油、油などの物販も行っている。

炭火でじっくり焼いた味噌田楽。4種類の味噌すべてのベースになっている田楽味噌は、会津赤味噌に砂糖を加え、独自に仕上げたシンプルな味わい。

飴色に磨きこまれたカウンターで食す身欠きにしんの香ばしさよ。ビールだけでは物足りず、昼から日本酒に手を伸ばす参加者も。

農家の佐藤氏(左から2番目)と大友氏(左)を紹介する矢澤氏。このネギ畑から年間20万本のネギを収穫するという。「この他、コメやトマト、アスパラなども手掛けています」と佐藤氏。

ネギの収穫体験。まっすぐ上に引き抜くのがポイントで、やってみると抜ける瞬間が気持ちいい。しかし、腰をかがめ続けるこの作業はなかなかの重労働だ。

下仁田ネギばりに太いとろねぎだが、「甘さもありつつ、しっかりとしたネギの味わいと香りがあるのが特徴です」と佐藤氏。

出荷前のネギにエアを当て、外側の薄皮を泥ごと飛ばす。その作業も体験させてもらった。専用の機械を購入するまでは自作の機械を使っていたという。

収穫体験のあと、松本養蜂総本場に立ち寄り、福島と新潟の県境にある日本最大のぶなの森で採れた有機はちみつのレモネードを振る舞っていただいた。

稼業を継いで5代目の松本氏。アカシアやレンゲといったメジャーどころから、栗や蕎麦、上澄桜など、レアなはちみつまで味見させていただく。

東山温泉『くつろぎの宿 新滝』の日帰り湯で旅先の疲れを癒す。館内には趣の違う源泉かけ流しの4種類の風呂があり、宿泊すればその全てを堪能できる。

ニュージェネレーションホッピング南会津イタリアン×日本酒=魅惑のコラボレーション。

街に夜の帳が下りる頃、お楽しみのディナータイムです。迎えてくださった矢澤氏とマダムの未来さん、ピザ職人の林添氏は満面の笑顔。宴には、今までの取材でお世話になった会津木綿の新しい価値を提案する「IIE Lab.」の谷津拓郎氏と千葉崇氏、先ほどお世話になった農家の佐藤氏と大友氏も参加してくださり、賑々しいスタートとなりました。そしてもうひとり、重要な役目を担ってくださったのは、酒舗『植木屋商店』十八代目の白井與平氏。今回のディナーは、矢澤氏の料理と白井氏セレクトの日本酒をペアリングさせたディナーになっているのです。

乾杯は大友氏が作ったトマトを使ったクラフトビール。春のツアーでお邪魔した会津田島『Taproom Beer Fridge』併設の醸造所『南会津マウンテンブルーイング』で醸造した冬場限定のトマトセゾンです。矢澤氏と白井氏から挨拶があり、一皿目の「イチゴのカプレーゼ」が供されました。詰めたバルサミコと松本氏の上澄桜のはちみつがいちごの甘みと酸味を増幅させ、ミルキーなモッツァレラと絡み合います。ここには福島県喜多方にある大和川酒造と植木屋で特別につくられた「爆発!やまヨ別品大和川おりざけ」自社田栽培喜多方産夢の香45%の純米大吟醸の直汲み無濾過にごり生酒を合わせました。2品目は「馬肉のタルタル」。雌の太もものみを使用したシルキーな舌触りのタルタルは、庄内の板麩と合わせることで触感の違いを楽しむことができます。ここで供されたのは蔵付き酵母のみで醸した生酛の「弥右衛門」。キレイな酸を輪郭とした酒からは米のうま味もしっかり感じられ、馬肉と好相性です。3番目は「会津地鶏の白レバーのペースト」。生のマスカルポーネとセミドライにした見知らず柿を合わせた一皿には、震災で福島県浪江町から山形県長井市に移転した磐城寿の「黄金蜜酒」を。こちらは上品な舌触りの本みりんで、全ての食材と酒が口中でトロリと溶け合うのを楽しみました。

ここで、東山温泉の置屋で芸妓をしている月乃さんと千代乃さんが登場するサプライズがありました。芸妓さんというと敷居が高いイメージですが、なかには年末の時代劇『白虎隊』の主題歌にもなった堀内孝雄さんの代表曲『愛しき日々』に合わせたオリジナルの舞もあり、伝統芸を身近に感じることができました。

このタイミングで運ばれてきたのは、収穫したばかりのとろねぎを使った「とれたてネギのアフォガード」。3種類の調理法のネギが複雑に重なり合いながらも上品に纏まった旨味が沁みる一皿。ここでの日本酒は、土産土法の酒造りをモットーとする高橋庄作酒造の「会津娘」雄町の純米吟醸。デキャンタージュを繰り返すことで広がりが生まれた一杯が、料理と共鳴しあいます。滲み出る甘みとかすかな苦みが春の訪れを告げる喜多方産の「ホワイトアスパラのロースト」は趣向を変えてシャトーメルシャンの白ワイン「新鶴シャルドネ2014」と共に。濃い旨味が口中に広がる会津地鶏の胸肉とモモを使った「会津地鶏の食べ比べ」は、ほまれ酒造の「からはし」山田錦純米吟醸無濾過生原酒と合わせていただきました。完熟したフルーツを思わせる吟醸香とイキイキした酸が、山ざんしょうなど調味料でメリハリを利かせた料理とぴったりです。締めのパスタは「会津地鶏と打ち豆のボロネーゼ」。打ち豆とは、青大豆を水で戻して臼で潰した後に乾燥させた会津の伝統的な半加工豆。「このお料理に関してはあえてペアリングをしません。今日、飲んで美味しかったお酒と合わせていただければ」と白井氏。ここでは先ほどのお酒だけでなく、「写楽」や「飛露喜」といった人気銘柄のレア酒も登場し、会場内が色めき立ちました。

会津の自然が育んだ食材、風土を背景に生まれた知恵、そこで育った人々が思いを込めた料理と日本酒……その全てに思いを馳せつつ、ペアリングディナーは大満足のままフィニッシュに。最後に「IIE Lab.」さんから酒袋やあずま袋のプレゼントがあり、カラフルな袋をぶら下げた参加者は、意気揚々と二次会へ繰り出しました。

大友さんが育てたトマトのビールで乾杯。酸味のある青いトマトと完熟したトマトのピューレを使った冬場限定のトマトセゾンは、含み香にも味わいにもトマトがしっかり。

今宵のディナーは日本酒とのペアリング。そのセレクトを担ってくださったのは、会津の地で400年余り商いを続けている『植木屋商店』の白井與平氏。

現代のライフスタイルにも取り入れやすい会津木綿の商品を提案する研究所『IIE Lab.』の代表・谷津氏。ストールはもちろん、IIE Lab.のもの。

一皿目の「いちごのカプレーゼ」。ナポリから空輸したモッツァレラといちごで食欲全開に。合わせた「爆発!やまヨ別品大和川おりざけ」はその名の通り開栓時に吹きこぼれるほど発泡してまるでスパークリングワインのよう。

2皿目「馬肉のタルタル」。庄内から取り寄せた板麩を揚げて、カナッペ風に仕立てたもの。贅沢に黒トリュフを散らして。

東山温泉の置屋から駆けつけてくださった月乃さんと千代乃さん。イタリアンな店内に伝統芸能という異色のコラボレーションに会場から歓声があがった。

マダムの未来さん。この日、ほとんどのサービスを担当。とてつもない作業量ながら、それを全く表情に出さないプロ意識に感動!

3皿目は「会津地鶏の白レバーのペースト」。生のマスカルポーネと会津名産の見知らず柿、滑らかな舌触りのペーストが同じ速度で溶け合っていく。至福。

「とれたてネギのアフォガード」。一番下にはシイタケや白子、牡蠣と合わせてムース状にしたネギ、2層目のネギには会津地鶏のネックからゆっくり取り出した油で蒸し焼きに。上段はネギの根を揚げたもの。

「ホワイトアスパラのロースト」。初物の喜多方産のホワイトアスパラ。「北海道産とは違う独特の苦みを味わって頂きたくて、何とか14本だけ確保しました」と矢澤氏。

オープンキッチンから次々にワンダーな料理が生み出される。調理中の矢澤氏の表情は真剣そのもの。時折、参加者にキッチンから声をかけ、サービスも忘れない。

「会津地鶏の食べ比べ」。昨日締めたばかりの地鶏の胸肉とモモは皮目を香ばしく焼いていただく。会津の山山椒の実の赤ワイン漬けとタスマニアのマスタードと共に。

「会津地鶏と打ち豆のボロネーゼ」。刻みいれたうどの爽やかな苦みと鼻を抜けるふきのとうの香りがパスタを通して会津に春が近づいていることを教えてくれる。

大友さんが作ったトマトのジュースと乾杯時に登場したトマトセゾン。ビール酵母がトマトの赤い色素を食べてしまうそうで、色味は普通ながら味はしっかりトマト。

現代的なストライプが目をひく「IIE Lab.」からのお土産。日本酒やワインを入れて友人宅を訪れたくなる酒袋か、バッグインバッグとしても使えるあずま袋から好きなものを選べる趣向。

ニュージェネレーションホッピング南会津ホッピングで酒処・会津の奥深さを知る。

エプロンを脱いだ矢澤氏に先導され、向かった先は『時さえ忘れて』です。雑居ビルの2階にある看板の無いこのバーは、店主の鈴木啓介氏偏愛のお酒が楽しめる場所。今日は特別に『Baku table』(2020年現在、イベント出店、ケータリングで活動中)のシェフであり、「南会津の秋のツアー」でスペシャルディナーを担当してくれた山門夢実さんが地元食材を使ったおばんざいなどをご用意してくださり、2次会のスタートです。アンダーな照明と肩の力を抜いてリラックスできるムード、心温まる料理と心づくしの酒によって場の空気は一層打ち解けたムードに。そこに『塗師一富』の3代目・冨樫孝男氏の下で研鑽を積んだ菊池遥香さんや、大内宿でカフェ兼雑貨屋を営む『茶房 やまだ屋』の諸岡康之氏も加わり、観光ガイドには載っていない会津の話や街の移り変わりなど話題は多岐に及んでいきます。あれだけ飲んで食べたのに、胃の深いところにすとんと落ちていくのですから、郷土料理って不思議です。ここでも食べて、飲んで、「オータムポエムとニシンの山椒漬けの玄米おむすび」で締めて。多くの方々のおもてなしで心に灯った温かなものを感じながら、楽しい夜を過ごしました。

大成功のディナーを終え、夜の会津若松を歩きながら2次会の会場へと向かう一行。矢澤氏の隣にいるのは、常連客の金井氏。

仕事帰りに矢澤氏も訪れるというバー『時さえ忘れて』の鈴木氏。クラフトビールや蒸し燗でいただく日本酒など、こだわりの酒を提供している。

『時さえ忘れて』のカウンターにしっとり馴染んでいる夢実さん。普段の営業時のおつまみは自家製パンとミックスナッツのみなのだとか。

この日のカウンターには、夢実さんが作る地元食材を使った「白菜と雪下にんじんの三五八漬け」や「長芋と蕗味噌の揚げ春巻き」が並んだ。

参加者が思い思いの酒を注文するなか、ひとつひとつを丁寧に提供してくださった鈴木氏。生産本数の少ない国内の気鋭の造り手によるリキュールなども頂き、楽しい夜となった。

右は『塗師 一富』で修業を積んだ女流塗師の菊池さん。次世代を担う彼女の存在は、後継問題にゆれる伝統産業業界においても明るいニュースに違いない。

2次会は、今回のツアー参加者とおもてなしをしてくださった地元の方々が垣根なく話し込むことができる貴重な時間となった。

ニュージェネレーションホッピング・南会津城下町に息づく老舗と和菓子と麦とろと。

翌朝は『植木屋商店』でお土産を物色しました。一同、DJブースのある店内に驚きつつ、昨晩美味しかった銘柄を思い出しながら、これはと思う日本酒を選びます。個人的に気になったのが、自社田のなかでも特に特徴的な7枚の田んぼを選び、1枚の田んぼごとに獲れた米で仕込んだ会津娘の純米吟醸「穣(じょう)」。ひとつひとつのお酒にストーリーがあり、気持ちを込めてそれを伝えてくださる白井氏の話や素敵な酒器で試飲させていただき、あれもこれもと目移りしてしまいました。その後、矢澤氏が幼少期から通っているお店『麦とろ』でランチとなりました。店内には既に、湯気を立てたおかずや炊き立ての麦飯がセットされています。「さぁさぁ」と促され、山で採ってきたという菜の花のお味噌汁や磐梯筍をいただきました。栽培ものと違って、味も香りも力強い天然もののうま味は身体に染み込むよう。働き者のオヤジさんによると、この味をお客さんに味わってもらうため、4月は毎日山に入るそう。それでも昨年休んだのは1日だけというから恐れ入ります。

本日の最終目的地・大内宿へ移動するバスのなかでは、『日本一本店』という不思議な店名の和菓子屋で買ったあわまんじゅうをいただきました。くちどけのよいあんを鮮やかな黄色い粟の実で包んだシンプルなまんじゅうは、淡雪のように口の中で溶けていきます。「このお店は、早い時間からご主人が丁寧にあんを練っているから口どけが違うんですよ」と矢澤氏もえびす顔。熱い緑茶を飲みながら、車窓から雪のない磐梯山を眺めます。茅葺屋根の商店が軒を連なる大内宿を歩き、最後は『茶房 やまだ屋』へ。店内には諸岡氏とお母さまの久美子さんのセンスでセレクトした会津や福島で研鑽を積む若いアーティストや職人の民芸品が並び、さながらギャラリーのよう。天井の高い店内はリラックスした空気が流れ、曳きたてのコーヒーの香りが漂っています。淀みない矢澤氏の話に耳を傾けながら、ゆったりした時を過ごし、お別れの時間がやってきてしまいました。バスが走り出しても、しばらく手を振り続けてくれた矢澤氏に会釈しつつ、会津の美味を満喫するツアーは終了となりました。

2日目の午前中は『植木屋商店』へ。ネオンサインの店名がお出迎え。この日は休業日だったにも関わらず、お店を開けていただいた。

店内は要冷蔵の酒と常温の酒の棚が左右で分かれている。気になる酒について質問をすれば、よりその酒への興味が喚起される応えが返ってくる。

酒の話になるとつい熱が入る矢澤氏と白井氏。地元を愛する2人だからこそ飛び出す会話に、周囲にいる参加者もつい耳をそばだててしまう。

帰り際に白井氏から参加者全員に特製手ぬぐいのプレゼントがあった。描かれている絵が何を表しているかをあてる江戸時代に流行った「判じ絵」を用いて、『植木屋』と読ませる。

矢澤氏の案内でもないと、一観光客では辿りつけそうにない『麦とろ』。味わい深い看板に期待が高まる。

完璧に整えられた昼食。分厚い卵焼きやにしんの山椒づけ、自然薯をすりおろして出汁を加えた滑らかな味わいのとろろ…毎日でも食べたいものばかり。

たまたまお昼を食べに来た夢実さんとばったり。オヤジさんは誰へだてなく親しみのある笑顔を向け、さまざまな話題を振ってくれる。

矢澤氏が「日本一旨い」と語る『日本一本店』のあわまんじゅう。持つと驚くほど柔らかい。「この状態で成形できるって本当のプロだよね」と矢澤氏。

会津若松から山道を2,30分ほどバスに揺られて大内宿へ。茅葺屋根の商店が並ぶ道をそぞろ歩く。

『茶房 やまだ屋』の諸岡氏。東京に出てから地元に戻り、カフェを営みながら若いアーティストや職人の活動を応援すべく物販も行っている。

ジャズが流れるなか、矢澤氏のトークと丁寧に淹れた美味しいコーヒーが穏やかな時間をもたらす。評判の出し巻きたまごのサンドイッチをつまむ参加者も。

植木屋のショッピングバッグを携え、帰りの特急リバティに乗り込む。帰り際、会津木綿のトートバッグに入った佐藤氏のネギが配られた。

住所:〒965-0042  福島県会津若松市大町1-2-55 MAP
電話:0242-36-7666
http://www.pizzeria-felice.jp/

(supported by 東武鉄道

柿渋染め【レディース館】

 

 

こんにちはキラキラ

まだ少し肌寒いですが少しずつ過ごしやすい気候になってきましたねクローバー

 

 

 

 

本日は、レディース館で徐々に人気を上げてきた商品を紹介しますね音譜

 

 

 

皆様は 柿渋染め という染め方をご存じでしょうか?

 

 

青い渋柿をすりつぶして果汁を搾り、

発酵、熟成、させたものを「柿渋」といいます。

 

柿渋に含まれる「タンニン」には

抗菌、防腐、防水、防虫、補強

などの効果があり、

昔から染料や塗料として使われてきました。

 

 

そんな、日本古来の染色法を 柿渋染め といいいます。

 

 

 

そして、その染色法で染めたジーンズ 柿渋ジーンズです上差し音譜

 

 

【デニムクローゼット】 MP01 柿渋ジーンズ ¥28,600(税込)

 

形は少し太めのストレートですが

股上が深めでウエストを絞られているので

腰からお尻にかけて女性らしいラインが出るようなジーンズになっていますラブラブ

 

そしてすごく柔らかくて穿きやすいんです!

 

 

 

 

あとは、

この柿渋の茶色が味を出していますね!

 

 

 

 

ロールアップをして穿くとよりオシャレですねあしあと

 

穿いていくうちに、

↑このロールアップしている茶色に全体的に近づいてくるので

経年変化も楽しめますねイエローハーツ

 

 

 

 

柿渋バッグもありますよ~~音譜

 

 

ぜひ、穿き心地や色味を確かめに来てくださいね目

 

 

お待ちしておりますラブラブ

 

 

 

 

 

 

 

 

豊かな水と無数の巨樹が描く原始の風景。イルカだけではない、美しき自然の島・御蔵島。[東京“真”宝島/東京都 御蔵島]

東京"真"宝島OVERVIEW

三宅島の南約19kmの洋上に浮かぶ、お椀を伏せたような形の丸い島。海辺からすぐに急峻な山が切り立つ独特の地形から、船の就航率は夏で8割、冬で3割強。そのアクセスの難しさから、かつては「月より遠い」とまで言われていました。

そんな御蔵島には近年、年間7000人から8000人の観光客が訪れます。その大半の目的は、イルカ。御蔵島の周辺には150頭ほどのミナミハンドウイルカが生息し、イルカウォッチングやイルカとともに泳ぐドルフィンスイムが楽しめます。だから御蔵島の存在を知る人にとっても、その印象はほぼ“イルカの島”となっています。

1990年代前半から突如始まったイルカブームは、島民の生活を変えました。観光客が増え、活気に包まれ、1970年代には200人以下まで減っていた人口も約320人まで増えました。島民も、基本的にはその状況を歓迎しています。しかし、好況に浮かれ、ただ無計画に観光客を受け入れないのが、御蔵島らしさなのです。
御蔵島にある宿は、村営バンガローを合わせて7軒。島を訪れるにはまず宿を抑えることが先決。ただし予約受付開始とともに満室となり、ようやく部屋を押さえても船が出ない可能性もある。不便な状況ではありますが、結果的にこの“行きにくさ”が自然を守ることに繋がったのも事実。現在は新たな桟橋が建設中で、やがて就航率の問題は改善されるかもしれませんが、この守られてきた自然は、今もこれからも御蔵島の財産です。

海はもちろん、山に目を向けてみても、自然の美しさは同様。あちこちから湧き出す清冽な水、しっとりと湿った森、圧倒的な存在感を誇る巨樹、無数のオオミズナギドリ。そのすべてが御蔵島の人々が守り、未来へと繋げようとする財産なのです。

幸運にも御蔵島に行くチャンスを掴んだ人は、ぜひ考えてみてください。樹齢1000年を越える木が、なぜこれほど生えているのか。オオミズナギドリが、有人島である御蔵島でなぜこれほど繁殖するのか。広い海を泳ぐイルカたちは、なぜ御蔵島周辺にとどまっているのか。その意味を感じ取れたとき、御蔵島の自然や文化はより深く心に刻まれることでしょう。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

世界に目を向けて、改めて問う『DINING OUT』の意義。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』に関わった5人の対談が行われた。左から、『料理通信』編集主幹・君島佐和子氏、コラムニスト・中村孝則氏、ハレクラニ沖縄セールス&マーケティング部部長・市川明宏氏、レクサスグローバルブランディングマネージャー・関根美香氏、『DINING OUT』総合プロデューサー・大類知樹氏。

ダイニングアウト琉球うるま沖縄に残る「精神風土」をストーリーとして描く。

2020年1月中旬、通算18回目の開催となった『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。『DINING OUT』としては初めての世界遺産・勝連城跡での開催、その舞台で腕を奮った世界から注目されるシェフユニット「GohGan」の圧巻のパフォーマンスなど、見どころも多かった今回。大いに盛り上がったプレミアムな二夜の模様を、5人の関係者で振り返りました。

大類:一昨年の11月に南城市で開催した『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』のときから、琉球神話になぞらえて、1回目はアマミキヨが降り立った「南城」で、今回はその後、アマミキヨとシネリキヨというふたりの神様が住んだと言われる「うるま」、と繋げていこうと。さらに今回は、中世の時代にうるまを統治していた「阿麻和利」という人に注目しました。かつては首里に反逆した悪党とされていましたが「おもろさうし」という沖縄の万葉集のような書物のなかで「肝高」(気高い、という意味)と表現されていることを後々発見されてヒーローになっていく。小国の中でポジションを得るのは大変だったはずですが、独自の文化圏をつくり、経済的に繁栄させた彼は相当レベルの高いプロデューサーだった。この人にスポットを当てることでこのエリアの精神性を表現できるんじゃないかと。

中村:一般的にはうるま市に世界遺産「勝連城跡」があるということがあまり知られていないですよね。知られていない魅力を発掘するのが『DINING OUT』の楽しみどころ。史跡としての価値、主人公のまわりを含めた歴史上の物語の面白さ。このふたつを紐解けるというのは、知的好奇心をくすぐられると思うし、あれ以上の場所もストーリー展開もなかったと思います。

君島:南城の『DINING OUT』が、私に対して与えた影響が大きかったんです。その時には沖縄に残る「精神風土」という書き方をしましたが、気候風土などと同時に、日常的に「拝む」という精神性が沖縄には確実に残っていて、非常に面白いと思いました。その後、仏教の影響が極めて希薄なのが沖縄の独自性だ、と何かに書かれているのを読み、だから神話が未だに生き続けていると理解したんです。

市川:(東京と沖縄とでは)全然人が違います。考え方も感じ方も、神話の世界やユタ信仰なんていうのも。実際カミンチューという方からお話を聞く機会もありましたが、驚くことが多いですね。

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『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』ではアマミキヨが降臨したと伝わる久高島にてレセプションを開催。

『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』では、女性の神「アマミキヨ」にちなみ、伊勢志摩観光ホテルの総料理長、樋口宏江シェフが担当した。

『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』のレセプションが行われた浜比嘉島のシルミチュー霊場。なにもない“洞窟”こそが神聖な場所。

世界遺産・勝連城跡を舞台にした『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。地元の中高生による『肝高の阿麻和利』の演目は、今回のテーマを直にゲストへ伝えた。

ダイニングアウト琉球うるま味覚を開発し、人を変える。それがレストランの役割。

中村:ガガンシェフって賛否はいろいろ分かれるんですが、4年連続でアジアベストレストラン1位です。なぜそんなに人々を惹き付けるのかというと、ある種原始的に戻ることを彼らはやる。いまフーディといわれている人たちはある種みんな“知識武装”をしていますが、ガガンはそれを壊すんです。皿をなめあげるなんてまさにそう。さっき君島さんが話されたように、沖縄にはまだ原始的な宗教観や自然信仰が残っています。生身の人間くささや食文化が残っていて、だから僕らはそれに感動する。それが「GohGan」にフィットしたんだと思います。本来のおいしさ、根源的な喜びや楽しさを体験したい、という動きの中で彼らは評価されている。

君島:以前孝則さんと、なぜ「傳」の料理長・長谷川さん(『DINNG OUT NIHONDAIRA with LEXUS』を担当)があんなに外国人に支持されるのか話したことがあります。日本料理が積み上げてしまった格式が日本料理を分かりにくくしていますが、それよりも長谷川さんのストレートな、ほら楽しんでよ、っていう方がよほど世界の人々にフィットしたんだと。ガガンもそれと同じことが言えると思います。固有の文化によって、共有している人同士じゃないと分からないものではなく、固有の文化を取り払って感覚で面白いと思うかどうか、というところで支持をされている。
もうひとつ、ガガンの料理をいただいたのは昨日が初めてだったのですが、情報量が多く、五味がぜんぶ詰まっていて削ぎ落すところがなくて、食べていて収容しきれなくなる。それはわたしにとってはあまり快感ではないのですが、一方昨年ずっと考えていたのが、新しい味覚領域の開拓が必要だということ。アートで言えば美しさとはなにか、と絶えず問いかけていくのが役割だと思うんですね。おいしさとはなにかを問いかける役割を担うのがガストロノミー。ガガンがやっているのは、おいしさってなに?と投げかけている行為であることに間違いはなくて、彼が果たしている役割はありますよね。

大類:2013年に徳島県祖谷で開催した『DINING OUT IYA with LEXUS』を担当してくれた米田肇シェフが「レストランの役割というのは味覚を変えること。それが未来の人間を変えることに繋がっている」とまじめに言っていて。口の中に入るものが人を作るから、人間の進化に関わっているんだ、という意識なんです。シェフって料理を提供するだけじゃなくて、もっと大きな存在として成立するんだなと思いました。

市川:ゲストの方とお話をして一番クリアに分かったのは、彼らが求めているのはおいしさだけじゃないということ。ホテルはどうしてもおいしさを追求してしまうのですが、そういうコメントは衝撃だった。味覚を変えることは人類の将来を変えること、とありましたが、そういう部分にホテルとしてどう踏み込んでいくかというのは、『DINING OUT』のようなイベントの存在意義なのかなと。

関根:クルマのデザインも同じで、お客様に支持されていることをレプリケートしていたら進化がない。デザインを大きく変える際には賛否両論、分かれたんですが、そこで新しい方へ行ってみないと進化はない。全然違うアプローチでやってみるというのは、どんなことにも通じますね。
 

ガガン・アナンド、福山剛両シェフによるユニット「GohGan」。ユニット名は二人の名前を組み合わせたもの。

「傳」料理長の長谷川在佑氏は「DINING OUT NIHONDAIRA with LEXUS」で腕を振るった。

『DINING OUT IYA with LEXUS』を担当した「HAJIME」オーナーシェフの米田肇氏。

ダイニングアウト琉球うるま多様化する“人”へ、いかにアプローチしていくのか。

大類:今回、ハレクラニ沖縄さんと組んで宿泊施設と一体化したラグジュアリーパッケージつくることができたのはよかったです。

君島:いままで何度も参加して、弱いな、と思うのは宿泊ですね。地方には眠っている宝はあるんだけど、宿泊がいまひとつという所が多くて、そこが日本の弱み。だから今回はハレクラニ沖縄から会場へ、レクサスで繋いでいただいたことで、完全にすべてがひとつになりましたね。

関根:地元のドライバーの皆さまにもご協力いただいて、お客様にはショーファー付きのレクサス車両での移動を楽しんでいただきましたが、こうするとロケーションからロケーションに移動すること自体がひとつの体験になりますよね。訪れた場所の余韻を残しながら、車窓からの景色の変化を楽しむことで、旅のクオリティは更に高まると思います。

市川:実はお客様にとって、空港からホテルへ辿り着くまで、が重要なんです。そこであまりいい経験をしないと、ネガティブな状態でチェックインされるので。今回はレクサスさんがスポンサーになられていて、会場までの移動が全てレクサス車であったことも、ぜひ参加したいと思った理由のひとつ。そしてわたしたちは「ハレクラニ沖縄 エスケープ」という、ハレクラニ沖縄に泊まらないと絶対に体験できないユニークなプログラムを提供していますが、まさに今回の『DINING OUT』のコンセプトがばっちりはまりました。特に今回のお客様はお金のことは全く気にしなくて、一体どういう体験ができるのか、というところがポイントでした。ハワイでもモルディブでもバリでもなく、沖縄を選んでいただくために必要なコンテンツです。

中村:「アジアベストレストラン50」でどうすれば選ばれますか、と日本の地方のレストランや自治体の方によく相談されますが、投票者は実際に行ったことのあるレストランにしか投票できない。つまり、レストランだけではなくトータルで動線を考えないとランキングは上がらないんです。海外からのお客さんの数は増えていても金額が伸びていないことが問題で、いかに高級化するかが日本の観光業の大きな課題。それぞれの領域で、ラグジュアリーってなんなのか、なにをもって贅沢とするかを考えなければならないんです。

大類:今回、初めて海外ゲストのみの開催日を設けてみて、これまでの『DINING OUT』でも表現してきた「日本のおもてなしの精神性」は、五感を通して伝えられたと思います。一方で、海外ゲストを相手にする際は言葉や文化的背景の違いなど、難しい問題がたくさんあって。前提条件が違う人にどう日本の地域を表現していくか、というのがこれからの新たな課題ですね。

関根:今回、イギリス人の同僚と参加させていただいたのですが、歴史的な説明は同時通訳で聞いて理解した上で、勝連城跡を舞台にした地元中高生の迫力のある歌と踊りや、地元スタッフによる心のこもったサービスなど、「驚き」や「感動」は、ユニバーサルに心に響くのだと改めて感じました。

大類:『DINING OUT』をプランニングするとき、僕は東京の人間だから常によそ者なんですね。そのギャップがプランニングの起点で、そこにテーマを求めていく。日本の中でもそれが基本なのですが、これが海外のゲストが対象となったとき、そのギャップはさらに大きくなる。世界はグローバルになっていっているけど、表現者としてはどこに起点を求めればいいのかと。

関根:レクサスは90カ国以上に展開するグローバルブランドですが、レクサス独自のテースト(味)やブランドの価値観といった、人で言うとパーソナルな部分を発信し、共感いただいた方がブランドを支持してくださる。そういったものは日本とか海外とか関係なく共感いただける方には伝わるので、レクサスブランドってどういうブランドなのかというメッセージを発信し続けていくことは非常に大事だと思っています。特に今のラグジュアリーのお客様は、どういう価値観をもったブランドなのかといったような部分にものすごく興味関心を持たれている。

大類:今の時代、国別でもなく、個人にダイレクトにネットで繋がってしまえる時代。個人の強い意志や思いが大事で、個を立てていくということがブランド戦略になっていくんでしょうか。

中村:シェフもやっぱりパーソナルな、誰が作っているのか顔が見えるというのは戦略として必要な時代かなと思います。発信する方も受け入れる方も、それぞれの人がどういう価値観を持っているのか、見定めなくてはいけないですよね。海外のお客様を迎えるときに金継の器を出すとすごく喜ばれるんです。経年変化に美を求めるのは日本独自かもしれず、まだ自分たちが気づいていなかった日本のブランド価値のようなものがあるかもしれませんね。

関根:レクサス車の細部に至るまでのこだわりは、海外のお客様からは日本的と捉えられるようです。レクサスではヒューマンセンタード(人間中心)、と言っていますが、車に近づいたらウェルカムライトが点灯するなど、人間にとっての心地よさを常に追求しています。

2019年7月に開業したばかりのハレクラニ沖縄が今回のゲストの宿泊先に。

レクサスに乗って海中道路からレセプション会場のシルミチューへ。同じ道を帰ってくるときには日が暮れて、異なる景色を楽しむことができた。

外国人ゲストのみで開催する日を設けるという初の試み。客席のみならず、厨房も国際色豊かな顔ぶれとなった。

ダイニングアウト琉球うるま“サステナブル”を超えた表現が人を刺激する。

君島:ヒューマンセンタードという話がありましたが、この間弊社でSDGsのカンファレンスをやったときに、登壇してくださる方にサステナブルな取り組みをしている人が何人もいまして。農業に取り組むとこの先どうすべきか、よりクリアに見えてくるからサステナブルな方向へ進む。どちらも農業に携わっていて、共にサステナブルを語っているとしても、自然を中心に考えるか、人間を中心に考えるかで求めるものが違ってくることに気付きました。自然を中心に考えると人間なんていない方がサステナブルと言える。一方人間を中心にすると、わたしたちが存続するために地球をどうしなくてはならないか、考えていくことになる。

関根:車も同じですね。自動運転を例にとると、ただ単に人がいなくなって車だけが走っていればいいということでもなく、疲れて運転を任せたいときには自動運転、自分が運転を楽しみたい時は安心して運転できるようサポートしてくれる、というように、新しいテクノロジーは考え方によって全然違う使い方ができる。いまのお話と共通するなと思いました。

大類:日本ではサステナブルという言葉がファッション化しているところがありますが、サステナブルって言葉を使うのは、本質的な意味においては重いことですよね。

君島:いまや原稿にサステナブルって書かない日はないくらいですが、サステナブルであればOK、という雰囲気にだんだん陥ってくる。ガストロノミーと名乗っている人たちでも、確かにサステナブルな生産者の素材をつかったサステナブルな料理だけれども、これってどこにクリエイティビティがあるの?と思うような料理を提供するケースも増えている。サステナブルであればあるほど、あなたの表現はどこにあるのよ、と思えてくる。だから昨日いただいた「GohGan」の料理は、サステナブルを超えた表現として人を刺激してきて、ああ、おいしいってなんだろう、これは好きかなきらいかな、という根源的な問いかけがあったと思うんです。

皿を舐めて食べる「3種芋のリキットアップ」は、おいしさや食べることの本質を問いかけてくる一皿。

沖縄の伝統食、サーターアンダギーをパリブレスト風に飾り付けたデザートの一品。「GohGan」最後のパフォーマンスを祝うかのよう。

2006年6月、クリエイティブフードマガジン『料理通信』を創刊。編集長を経て、17年から現職。「The Cuisine Press」(Web料理通信)では、時代に消費されない本質的な「食の知」を目指して様々なコンテンツを届ける。辻静雄食文化賞専門技術者賞の選考委員。

ホテルオークラ、ハイアット、フォーシーズンズにて国内外のホテル開業を経験し、 2018年ハレクラニ沖縄へ。非日常的な体験を提供する「ハレクラニ沖縄 エスケープ」の開発に従事。

ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。
http://www.dandy-nakamura.com/

2006年トヨタ自動車入社。商品企画、国内営業企画を経て、12年よりLexus International所属。グローバルブランドキャンペーンやデザインイベントなど、グローバルにレクサスを発信する施策に多数関わる。

1993年、博報堂入社。2012年に新事業として『DINING OUT』をスタート。2016年4月に設立された、地域の価値創造を実現する会社『ONESTORY』の代表取締役社長。

“普通”をやり続けて150年。津軽の四季と人の手が、唯一無二の味噌を生む。[TSUGARU Le Bon Marché・加藤味噌醤油醸造元/青森県弘前市]

5代目となる加藤裕人氏と諭絵さん。穏やかで飾らない雰囲気が共通点の素敵な夫婦だ。

津軽ボンマルシェシャープな塩味と深いコク。弘前唯一の味噌蔵が守り続ける「津軽味噌」との出合い。

弘前駅にも近い商業施設『ヒロロ』の中にある食材店『フレッシュファームFORET』。以前ご紹介した『ひろさきマーケット』が運営するこの店には、青森県中の名産品が集まっています。そこで発見したのが、初めて見る“津軽味噌”なる表記の味噌。津軽の食材ハンター・『ひろさきマーケット』代表の高橋信勝氏のおすすめということもあり早速購入して使ってみると、これがなんとも個性的な味噌なのです。色は濃い目の茶色で、少しふんわりしたテクスチャー。ひと舐めすると、キリリとした塩気、ほのかな酸味とともに豊かな香りと深いコクが口の中いっぱいにふくらみ、長い余韻を残します。八丁味噌にも似た味ですが、より渋みが控えめでなめらかな印象。味噌汁はもちろんのこと、野菜にそのまま付けても美味しいほか、マヨネーズと混ぜてディップにしたり、ホワイトソースの隠し味にしたりと大活躍してくれるのです。

この味噌を造っているのが、弘前市内で唯一の味噌蔵である『加藤味噌醤油醸造元』。100年以上前、明治初期頃に建てられたとされる街道沿いの店舗と蔵は今も現役で、レトロ建築好きなら大興奮間違いなしの堂々たる立ち姿を見せています。「こんな古くて汚い場所で、すみません」。そう謙遜して出迎えてくれたのは、蔵の5代目となる加藤裕人氏、諭絵さんのふたり。諭絵さんの父である現代表で4代目の加藤元昭氏に代わり、数年前からメインで製造を担っているのが裕人氏です。「まずはぜひ、麹作りから見てください。味噌造りにおいて一番大切な作業なので、何か感じてもらえると思います」と裕人氏。

麹作りが行われる麹室の内部は温度と湿度が高めに調整され、ミストサウナのよう。室の中にずらりと並ぶのは、麹蓋(こうじぶた)と呼ばれる道具です。「今は蒸した米に麹菌を振って、麹蓋に移し、最初40℃に設定した室内で少しづつ温度を下げながら一晩寝かせた状態。これを手でほぐして人肌くらいの温度に下げ、再度寝かせます。米麹が出来上がるのは3日の朝。最初パラパラしていた米がぼってりしてきたら、麹の菌糸がきちんと米の中心部まで入っている証拠なんですよ」。まだ完成途中の米麹ですが、噛みしめるとじんわりと甘みが出てくるのは、米のでんぷん質を麹菌の酵素が分解し、ぶどう糖に変えているから。静かな麹室の内部ですが、実は目に見えない菌たちがじゃんじゃん活動中なのです。まさに発酵の神秘!

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

弘前市指定の「趣のある建物」にも登録されている建物。近所には日本酒蔵『カネタ玉田酒造店』もある。

創業は明治4年。古くから造る味噌のほか、昭和に入ってからはしょうゆ製造もスタート。味噌の仕込みがひと段落した2月から2ヵ月間は、しょうゆの醸造期間にあてる。

手前がベーシックなタイプの津軽味噌。奥は20年ほど前に顧客のリクエストに応えて作った白味噌タイプで、仕入れた味噌と自社の味噌のブレンド。

しっとりした空気と温かさが心地よい、麹室の内部。作業中の裕人氏の額には汗がにじむ。1シーズンに作る味噌用の米麹の量は700kgほど。

津軽ボンマルシェすべては手作業で。伝統の“寒仕込み”の現場は、驚きの連続。

蔵を訪れたのは1月下旬、仕込みの真っただ中。ここ『加藤味噌醤油醸造元』の味噌造りは、前年に収穫された米や大豆を使い、真冬の間に一気に作業を行ういわゆる“寒仕込み”です。冬場は雑菌の繁殖が抑えられること、気温が低いためゆっくりと発酵が進むことなどさまざまな理由から広まった伝統的な仕込み方ですが、特に寒さの厳しい津軽の冬はこの寒仕込み向きの気候。メインとなる作業期間は約2週間という短さですが、代わりにその期間、蔵には独特の緊張感が漂います。

麹の出来上がりとともに始まるのが、洗ってから一晩寝かせた大量の大豆を大釜で煮る作業。4時間以上かけ煮続け、柔らかくなった大豆を広げて冷ましてから、麹と塩を合わせた“塩切り麹”を混ぜていきます。さらに全体をミンチにかけ、熟成蔵にある木桶に詰めて、上から“踏み込み”を行って空気を抜き、作業はようやくひと段落。朝一番に大豆を煮始め、最後の桶詰めが終わる頃には午後4時過ぎになっていました。驚いたのが、とにかくほとんどの作業が蔵人の手で行われていること。たとえば大豆を運ぶのはバケツリレーで。塩切り麹と大豆を混ぜる作業も、スコップを使ってよいしょ、よいしょと行います。「この時期は雪かきとこの作業が被るから、腰が大変で。コルセットを着けて耐えています(笑)」と裕人氏。

しかし味噌はこれで完成ではありません。商品として出荷するまでに、木桶の中で自然熟成させること足掛け3年。四季がはっきりした津軽の気候の中、周囲の環境の変化が桶を通してゆっくり作用することで、味噌に複雑な風味が生まれるのです。そしてその際、裕人氏が頼りにしていると話すのが、桶や道具、建物の天井や柱など、蔵の至る所に住み着いた菌たち。「自分は味噌造りに携わってまだ数年。見よう見まねでやってきて、『なんとなくこんな感じ』と感覚に任せているところもあるんです。それでも毎回ちゃんと“加藤の味”になるのは、菌が活躍してくれるおかげ。多くの蔵の味噌が集まる鑑評会で商品名を隠して食べても、うちの味噌はすぐ分かる。個性の強さは良さだと思っています」と裕人氏。現在、仕込みは6人の小人数で行っていますが、菌は7人目のスタッフのような存在。津軽味噌のユニークな味わいは、津軽の気候と人の手、そして菌の力、そのどれが欠けても生まれないのです。

表面がふんわりと菌糸に覆われた完成形の麹。米は、なんと全量自家精米の「つがるロマン」。仕込み期間以外は、田んぼでの米栽培も蔵人の仕事となる。

大豆は津軽北部の五所川原市で生産される「おおすず」という品種を使用。親指と薬指で潰せるくらいの柔らかさが、煮上がりの目安。

煮終わった大豆は一度広げて粗熱を取り、バケツリレーで運ぶ。もうもうと湯気が立ち込め、煮豆のいい香りが一面に立ち込める。

坂の途中にある立地を生かし、高低差による重力を利用した構造。塩切り麹を混ぜた大豆はこの後下に落とされ、ミンチにかけられる。

津軽ボンマルシェ津軽の味噌蔵で育った妻と、群馬出身の夫。若夫婦の挑戦は二人三脚。

現在、製造工程の指揮を執る裕人氏ですが、諭絵さんと結婚し加藤家の一員となるまでは、まったく違う世界で活躍していたといいます。大学時代に東京で出会ったふたり。群馬県出身の裕人氏は、大学卒業後に建設系の企業に就職、諭絵さんと交際を続けながら、長野県松本市で営業職をしていたそうです。一方の諭絵さんは、家業のこともあり東京農業大学へ進学したものの、卒業後はアパレル会社に入社、東京で働いていました。転機が訪れたのは2009年のこと。父・元昭氏が体調を崩したことから諭絵さんは弘前へ帰郷します。「いつかは実家を手伝うことになると思っていました」という諭絵さんに対し、「自分は単純に彼女と一緒に暮らしたくて(笑)。元々環境が変わっても、全然気にしないタイプなんです」という裕人氏。ふたりは結婚し、裕人氏が加藤家に入るとともに、家業を継ぐことを決心します。

持ち前のポジティブさで「行ってみたら何とかなる」と弘前へやってきた裕人氏でしたが、当然ながら多くの困難に直面したそう。まずは家業ならではの悩み。「家庭も仕事場も一緒だから、いつ何時も諭絵さんが横にいる。結婚前はほとんど喧嘩をしませんでしたが、今は引きずるといいことがないから、逆にどんどん言い合うようになりました」と笑います。そしてこの地域特有の人々の気質にも、もどかしさを感じることが多かったとか。「外からは分からなかったしがらみや意地みたいなものが、思ったより強くて。それなのに、みんなはっきり本音を言わないんです!」。そう、その正体が、これまでも「津軽ボンマルシェ」で何度となく登場してきた津軽人の“じょっぱり”=頑固者気質です。

話が遡ること2年前。最初に取材を打診したとき、ふたりの返答はNGでした。「蔵の中をお見せできなくて」というのがその理由。それから1年半後、諦めきれず再度連絡すると、今度の返答は「お受けしたいのですが、NGかもしれない。父の了承を得られるかどうか、まだ分からなくて」というものでした。代表を務める父・元昭氏こそ、ふたりの身近にいるじょっぱり津軽人代表。「父は、家の仕事は人様に見せるようなものじゃないという考え方。これまで詳しい取材を受けたことはほとんどありませんでした」と諭絵さんが言えば、「でもうちの味噌は独特。きちんと説明しないと、食べ方が分からない人も多くて。僕らは今の時代、もっと発信力を付けるべきだと思っています。父を説得するので、もう少し時間をください」と裕人氏が続けました。

ミンチにかけた原料を、木桶が並ぶ敷地内の熟成蔵まで運ぶのも人力。今年の冬は雪が少なかったが、例年はなかなかハードな作業だ。

100年以上使い続けている木桶。大釜やミンチの機械なども年代物ばかり。大量生産の味噌とは違う個性的な味わいは、こうした設備で造られる。

“踏み込み”作業を終え、熟成を待つ味噌。6月から7月には桶を移し替え、熟成を均一にするための “天地返し”を行う。

売店から蔵へ続く廊下の入口には、屋号が染め抜かれたのれんが。弘前界隈では、屋号の「ヤマトウ」より「加藤の味噌」として親しまれている。

現在は4種のしょうゆを製造。「しょうゆはまだまだ勉強中。今は脱脂加工大豆が原料ですが、丸大豆しょうゆを造ってみたい」と裕人氏。

津軽ボンマルシェ変えないこと、変えるべきことを模索しながら、津軽の食文化を未来へ繋ぐ。

無事取材を受けてもらえることになった今回、ぜひ知りたかったのが元昭氏の話でした。伝統を守り、製法を変えないこと。そうした『加藤味噌醤油醸造元』のやり方は、元昭氏が長年目指してきたことだったそうです。どんな思いで味噌造りに取り組んできたのか。幸運なことに、元昭氏自身に聞くことができました。

明治期に雑穀卸業としてスタートした後、扱っていた豆や米から味噌やしょうゆの製造を始めた『加藤味噌醤油醸造元』。しかし元昭氏が生後9カ月のときに3代目の父を戦争で亡くし、当時の民法により、元昭氏が全遺産を相続、かつ家族を扶養する義務を負うことになったそうです。その際必死で家を守ったのは、元昭氏の母。戦後の原料不足のとき、「加藤の味噌は自家製でないと」と早くから自家精米を復活させ、昔の製法にこだわったのも母でした。「津軽味噌の看板を守るという気概でしょう。自分は中学から地域の試験場に出入りして農大へ進み、そんな母を助けようと一生懸命でした。冬は仕込み、夏になれば田んぼで米作り。ずっとやることがありました。でも“寒仕込み”も、かっこよく言えば雑菌の繁殖がどうのとこうのとなるけど、本当は冬になれば農作業が減って、やることがなくなるというのが理由でね。そもそもは生活の流れの中に、味噌やしょうゆ造りがあったんですよ」と元昭氏。

味噌造りは、暮らしの仕事が四季の移ろいの中にあった時代から続く、大切な食文化。元昭氏はこう続けました。「ただ、日本の食生活は大きく変わりました。蔵で大切に使い続けてきた道具も、限界が来ているものが多い。メーカーも時代に合わせ、変化すべきところもあるはずです。まあでも、津軽人は“じょっぱり”ですからね。自分もそう(笑)。なかなか意見を曲げない分、息子が県外から来てくれたことがありがたい。味噌造りはまだまだだけど、経験が浅いからこそ出てくる的確な意見もあって、期待しているんです。本人に直接は言ったことはありませんが(笑)」。

にこやかに取材に応じてくれた元昭氏の言葉から見えてきたのは、苦労して続けてきた家業への覚悟と未来への想い。一方、元昭氏への取材前、裕人氏と諭絵さんはこう話していました。「自分たちの代は過渡期。設備、働き方、発信の仕方……次の代、その次の代のことまで考え、改革するときだと思います。でも、造り方は変えません。これからも全部人の手で、うちならではの味噌を造りたい。こだわりというより、これしか出来なくて。普通のことをやっているだけなんです」。普段は意見が食い違うこともあるという元昭氏と若夫婦ですが、結局、向いている方向は同じ。津軽味噌の唯一無二の美味しさが、これからも受け継がれ、食べ続けられる。そんな津軽の将来が見えたようでした。

普段あまり話さないという生い立ちや味噌造りのこだわり、娘夫婦への想いについて、丁寧に答えてくれた元昭氏。これまでの取材の中でも、特に印象深いひとときとなった。

取材中にいただいた、津軽の郷土料理「けの汁」と和菓子のおもてなし。にぼし出汁を津軽味噌と合わせ、細かく刻んだ野菜を入れた「けの汁」は、冷えた身体に染みわたるとびきりの美味しさ。

仲が良く、雰囲気も似ているふたり。現在は2人の子どもの子育て中。老舗の伝統を受け継ぐという大役に、協力し合いながら取り組んでいるのが印象的だった。

住所:青森県弘前市新寺町153 MAP
電話:0172-32-0532
https://www.tsugaru-yamatou.com/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

25ozセルビッチデニムポーチ

アイアンハートの25ozセルビッチデニムでつくったポーチ!

  • 小ぶりなサイズでちょっとした小物を入れるのにピッタリ
  • ジーンズと同じ素材のため色落ちします
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  • 21ozデニムを使った同形のポーチ【IHG-092】もどうぞご覧ください
  • 商品により多少の誤差が生じる場合がございます

素材

  • 綿:100%

21ozセルビッチデニムポーチ

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素材

  • 綿:100%

冴え冴えとした寒晴に深化する感覚。胎動する冬にTOKYOの本質を知る。[SIX SENSES TOKYO/東京都八王子市高尾]

シックスセンス東京OVERVIEW

冬はつとめて。
清少納言は『枕草子』で早朝に見る霜の白さに深い感銘を受けていますが、今年の高尾も冬は白く、美しい。都心とは全く異なる清冽な空気で満ちています。
頬を撫でる風は冷たく、身も引き締まるように感じられて、とても心地が良い。
ここが『京王線』で新宿からわずか1時間足らずとはにわかに信じられないほど、静かな朝を迎えています。

高尾山の頂に足を運べば、雪化粧した富士山が偉容を誇り、『髙尾山薬王院』では、「六根清浄」の精神に、「SIX SENCES」との驚くべき符合を感じます。

一方の『うかい鳥山』でも、冴え冴えとした空気の中、そびえる合掌造りに改めて日本人が大切に育んできた美意識の高さを感じ、文化まで移築せんと奔走した創業者の志に感銘を受けます。
共鳴した魂は連綿と受け継がれ、今の『うかい鳥山』にもしっかりと息づいている。
冬にしか出合えない鍋に舌鼓を打てば、身も心もほっこりと和みます。

冬の高尾も素晴らしい。
四季を通じて、TOKYOの四季を見つめてきたONESTORYの取材班は、新しい年を迎えた晩冬の高尾を目指しました。

【関連記事】SIX SENSES TOKYO/五感に響くことで研ぎ澄まされる第六感。都心から60分のTOKYOに顕在する本物の四季

(supported by うかい京王電鉄)

雛めぐり

 

 

皆さんこんにちは晴れ

 

気温もだんだん高くなってきましたが日々の

ニュースを見ていると各地でイベントが中止に

なったりと影響力に痛感しますねあせる

 

 

そんな中美観地区では2月22~3月8日まで

雛めぐりと言うイベントを開催してまして、

美観地区にある一定のお店はこの期間中

雛人形を飾ったりひな祭りに関する商品を

販売したりしているのです雛人形桜

 

きゃら工房がある場所は別名石畳通り

と言われていて、この通りでは短冊に願い事

を書いて飾っていてとても華やかです七夕

 

 

皆さんの素敵な願い事ばかりでした付けまつげキラキラ

 

 

早く今の状況が落ち着きますようにと

キャラ工房からも願いを込めて、、、

以上キャラ工房からでしたルンルン

 

 

「日本最初期のリゾート地」に敬意をはらった建築界の巨匠によって、文人たちが通い、思索した天空のリゾートが再生![六甲山サイレンスリゾート/兵庫県神戸市]

阪神間モダニズム(明治~昭和初期にかけて六甲山麓を舞台に花開いた芸術文化)を代表する歴史的建築物・旧「六甲山ホテル」が、イタリアを代表する建築家ミケーレ・デ・ルッキ氏の手によってリニューアル。2025年までに宿泊棟、オードトリウム、チャーチなどを含めた複合施設として完成する予定。

六甲山サイレンスリゾート「昭和のモダニズム」を体感できる、現代に蘇った神戸の新名所。

六甲山。神戸市を見守るかのようにそびえるこの風光明媚な山は、明治時代より、神戸に居留する外国人たちによってリクリエーションの場として開発されてきました。
瀟洒な山荘が建ち並び、日本で最初のゴルフクラブ「神戸ゴルフ倶楽部」が拓かれるなど、リゾート地の先駆けとして発展。そして昭和に入った1934年には、九州の雲仙・霧島と共に日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定されました。

そんな由緒正しいリゾート地に、1929年、名門「宝塚ホテル」の分館として創られたのが旧「六甲山ホテル」。2007年に国の“近代化産業遺産”に認定されたその貴重な建築は、令和の現代になって、イタリア建築界の巨匠ミケーレ・デ・ルッキ氏の手によって『六甲山サイレンスリゾート』として蘇りました。

約2年間に及ぶ修復工事の末に、開館当時の美しさのままに再生!(旧館2階のレセプションエリア)

四季折々の樹々や花々、鳥や動物たちが息づく表情豊かな六甲山の自然に溶け込む。

六甲山サイレンスリゾート緑の中に佇む、歴史ある文化遺産。

六甲山のリゾート地としての歴史を汲んで、「昭和のモダニズム」を現代に蘇らせた『六甲山サイレンスリゾート』。しかし、その実現は簡単なものではありませんでした。

この素体となった旧「六甲山ホテル」の近くにヴィラを所有していた八光カーグループの代表取締役・池田淳八氏夫妻は、閉ざされて久しい建物の前を通る度に、朽ちていく歴史的な建築を目にして日々悲しい思いを抱いていました。

1959年に創業し、アルファ ロメオ、フィアット、アバルト、マセラティ(イタリア車)とジャガー、ランドローバー、アストンマーティン、マクラーレン(イギリス車)といったそうそうたる高級欧州車の正規ディーラーとして知られる八光カーグループの代表として、神戸のシンボルとも言える六甲山と、そこを舞台に花開いた“阪神間モダニズム”の文化や歴史が失われつつある光景は、実に耐えがたいものだったといいます。

そこで、この類まれなる文化遺産を開業当時の姿に蘇らせて、次の時代に継承していくことを決意。そのため旧「六甲山ホテル」をかつての所有者より譲り受けました。こうして歴史への敬意でもあり、公共の福祉でもある壮大なプロジェクトが動き始めたのです。

そして旧「六甲山ホテル」の建築を往時のままに再生すべく、様々な有名建築家に相談したものの、「解体して新設する方が経済的です」という意見が大半。しかし、そんな中でミケーレ・デ・ルッキ氏が、唯一「素晴らしい文化遺産なのでぜひ修復して次の世代に遺しましょう」との回答を寄せてくれました。こうしてデ・ルッキ氏に設計と監修を依頼することとなり、旧「六甲山ホテル」の再生が始まったのです。

ミケーレ・デ・ルッキ氏の近影。1980年代に世界中にムーブメントを巻き起こしたデザイン集団「メンフィス」の主要メンバーで、新たなデザインの潮流を生み出した。

六甲山サイレンスリゾート化学素材から自然素材に回帰した世界的建築家が、日本の木造建築を見事に再生。

デ・ルッキ氏は、デザイン界に登場した当初はカラフルなプラスティック材のプロダクトを中心としたコレクションを発表し、ポストモダンの代表的な作家として一世を風靡していました。
しかし時代が彼らに追いつく前に、将来の社会情勢や環境保護を鑑みて、プラスティックを破棄することを明言。現在は「木を使わせたら世界一」との呼び声も高い、「環境を保護して共存する建築家」として、世界中から高い評価を受けています。

そんなデ・ルッキ氏の作風と見事に合致した『六甲山サイレンスリゾート』 は、「六甲山の自然との共存」をテーマにしています。そして、その中心となる旧「六甲山ホテル」の建築は、“近代化産業遺産”に認定された風格のままに、美しいステンドグラスや重厚な梁、格調高いメイン階段などを修復・保存し、開業当時の姿を蘇らせました。

「阪神間モダニズム」の空気を肌で感じられる、往時のままの空間。エントランスには旧「六甲山ホテル」の歴史を紹介するヒストリー・ギャラリーを備えている。

“近代建築の三大巨匠”の1人として知られるフランク・ロイド・ライト氏や、阪神に多くの近代商業建築を遺した渡辺節氏が大正後期~昭和初期にかけて設計した。

修復作業の様子。伝統建材と新建材を知り尽くしたデ・ルッキ氏によって、見事に再生した。

六甲山サイレンスリゾート六甲山の自然と共存する、魅惑的な建築。

こうして誕生した『六甲山サイレンスリゾート』で愉しめるのは、「文化遺産の中で遊ぶ」という贅沢この上ない体験です。
旧「六甲山ホテル」の2階には、開業当時のステンドグラスを天井に仰ぎ見られるカフェテリアがあり、パティシエが毎日焼き上げるスイーツやフレッシュ・パスタなどの小洒落た軽食、そしてイギリスと縁が深い神戸ならではのティーセレクションや、本格的なアフタヌーン・ティーなどが楽しめます。

さらに旧館と通りを挟んだ向かい側、神戸港を見おろしながら大阪湾や淡路島までも一望できる絶景スポットには、ゴージャスなグリルレストランを創設。神戸港に水揚げされた新鮮な瀬戸内海の幸や、但馬牛、淡路鶏などのご当地グルメをふんだんに味わえます。

カフェテリアの内観。ステンドグラス越しに降りそそぐ自然光に癒される。

本場・英国式のアフターヌーン・ティーは神戸ならではのお愉しみ。

グリルレストランの鉄板焼きコーナーでは、選び抜かれた食材と調理方法に合わせたワイン、シャンパンなどのドリンクリストを用意。

3段式の広大なテラス席からの眺望。阪神の街並みと歴史を俯瞰するひととき。

六甲山サイレンスリゾート六甲山の歴史を繋ぎながら、新時代のリゾートを目指す。

旧「六甲山ホテル」を基軸として蘇り、六甲山の自然に溶け込むラグジュアリー・リゾートとして再生した『六甲山サイレンスリゾート』。しかし、その歩みはまだ始まったばかりです。今後も雄大な円環を紡ぐように、様々な施設が続々とオープンする予定です。

まずは2020年中に、より六甲山の自然に親しめる森に佇むカフェテリアを新設。そして2021年には、輪のように連なる宿泊棟「サイレンス・リング」を築いて、その中心に周囲の森さながらの樹々を内包する予定です。

さらにオードトリウム(コンサートや劇を鑑賞できる観覧席)や、結婚式を行なえるチャーチなど、文化と芸術を育む複合施設を展開。2025年にすべての完成を目指して、鋭意建築を進めています。

豊かな六甲山の自然を舞台に、それらと調和しながら広がっていく新時代のリゾート。
神戸市内から車で約30分の地に、自然に溶け込む文化遺産と、真のイタリア建築デザイン、そして最上の眺望と美食を堪能できる至福のひとときが待っています。

森の中のカフェテリア。環境に配慮された、持続可能な歴史遺産を目指す。

「サイレンス・リング」の完成イメージ。客室は神戸港を望むオーシャンビューと、六甲山の自然に癒されるマウントビューから選べる。

六甲山の景色や音を体感できるプレイルーム。ファミリーで訪れるゲストにも安心。

夜は“1000万ドルの夜景”が広がるパノラマビューと、ダイナミックな六甲山の自然との共演は、訪れる人々を非日常のひとときにいざなってくれる。

住所: 兵庫県神戸市灘区六甲山町南六甲1034 MAP
電話: 078-891-0650
https://rokkosansilence-resort.com/
(写真提供:八光自動車工業株式会社)