津軽ボンマルシェシャープな塩味と深いコク。弘前唯一の味噌蔵が守り続ける「津軽味噌」との出合い。
弘前駅にも近い商業施設『ヒロロ』の中にある食材店『フレッシュファームFORET』。以前ご紹介した『ひろさきマーケット』が運営するこの店には、青森県中の名産品が集まっています。そこで発見したのが、初めて見る“津軽味噌”なる表記の味噌。津軽の食材ハンター・『ひろさきマーケット』代表の高橋信勝氏のおすすめということもあり早速購入して使ってみると、これがなんとも個性的な味噌なのです。色は濃い目の茶色で、少しふんわりしたテクスチャー。ひと舐めすると、キリリとした塩気、ほのかな酸味とともに豊かな香りと深いコクが口の中いっぱいにふくらみ、長い余韻を残します。八丁味噌にも似た味ですが、より渋みが控えめでなめらかな印象。味噌汁はもちろんのこと、野菜にそのまま付けても美味しいほか、マヨネーズと混ぜてディップにしたり、ホワイトソースの隠し味にしたりと大活躍してくれるのです。
この味噌を造っているのが、弘前市内で唯一の味噌蔵である『加藤味噌醤油醸造元』。100年以上前、明治初期頃に建てられたとされる街道沿いの店舗と蔵は今も現役で、レトロ建築好きなら大興奮間違いなしの堂々たる立ち姿を見せています。「こんな古くて汚い場所で、すみません」。そう謙遜して出迎えてくれたのは、蔵の5代目となる加藤裕人氏、諭絵さんのふたり。諭絵さんの父である現代表で4代目の加藤元昭氏に代わり、数年前からメインで製造を担っているのが裕人氏です。「まずはぜひ、麹作りから見てください。味噌造りにおいて一番大切な作業なので、何か感じてもらえると思います」と裕人氏。
麹作りが行われる麹室の内部は温度と湿度が高めに調整され、ミストサウナのよう。室の中にずらりと並ぶのは、麹蓋(こうじぶた)と呼ばれる道具です。「今は蒸した米に麹菌を振って、麹蓋に移し、最初40℃に設定した室内で少しづつ温度を下げながら一晩寝かせた状態。これを手でほぐして人肌くらいの温度に下げ、再度寝かせます。米麹が出来上がるのは3日の朝。最初パラパラしていた米がぼってりしてきたら、麹の菌糸がきちんと米の中心部まで入っている証拠なんですよ」。まだ完成途中の米麹ですが、噛みしめるとじんわりと甘みが出てくるのは、米のでんぷん質を麹菌の酵素が分解し、ぶどう糖に変えているから。静かな麹室の内部ですが、実は目に見えない菌たちがじゃんじゃん活動中なのです。まさに発酵の神秘!
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津軽ボンマルシェすべては手作業で。伝統の“寒仕込み”の現場は、驚きの連続。
蔵を訪れたのは1月下旬、仕込みの真っただ中。ここ『加藤味噌醤油醸造元』の味噌造りは、前年に収穫された米や大豆を使い、真冬の間に一気に作業を行ういわゆる“寒仕込み”です。冬場は雑菌の繁殖が抑えられること、気温が低いためゆっくりと発酵が進むことなどさまざまな理由から広まった伝統的な仕込み方ですが、特に寒さの厳しい津軽の冬はこの寒仕込み向きの気候。メインとなる作業期間は約2週間という短さですが、代わりにその期間、蔵には独特の緊張感が漂います。
麹の出来上がりとともに始まるのが、洗ってから一晩寝かせた大量の大豆を大釜で煮る作業。4時間以上かけ煮続け、柔らかくなった大豆を広げて冷ましてから、麹と塩を合わせた“塩切り麹”を混ぜていきます。さらに全体をミンチにかけ、熟成蔵にある木桶に詰めて、上から“踏み込み”を行って空気を抜き、作業はようやくひと段落。朝一番に大豆を煮始め、最後の桶詰めが終わる頃には午後4時過ぎになっていました。驚いたのが、とにかくほとんどの作業が蔵人の手で行われていること。たとえば大豆を運ぶのはバケツリレーで。塩切り麹と大豆を混ぜる作業も、スコップを使ってよいしょ、よいしょと行います。「この時期は雪かきとこの作業が被るから、腰が大変で。コルセットを着けて耐えています(笑)」と裕人氏。
しかし味噌はこれで完成ではありません。商品として出荷するまでに、木桶の中で自然熟成させること足掛け3年。四季がはっきりした津軽の気候の中、周囲の環境の変化が桶を通してゆっくり作用することで、味噌に複雑な風味が生まれるのです。そしてその際、裕人氏が頼りにしていると話すのが、桶や道具、建物の天井や柱など、蔵の至る所に住み着いた菌たち。「自分は味噌造りに携わってまだ数年。見よう見まねでやってきて、『なんとなくこんな感じ』と感覚に任せているところもあるんです。それでも毎回ちゃんと“加藤の味”になるのは、菌が活躍してくれるおかげ。多くの蔵の味噌が集まる鑑評会で商品名を隠して食べても、うちの味噌はすぐ分かる。個性の強さは良さだと思っています」と裕人氏。現在、仕込みは6人の小人数で行っていますが、菌は7人目のスタッフのような存在。津軽味噌のユニークな味わいは、津軽の気候と人の手、そして菌の力、そのどれが欠けても生まれないのです。
津軽ボンマルシェ津軽の味噌蔵で育った妻と、群馬出身の夫。若夫婦の挑戦は二人三脚。
現在、製造工程の指揮を執る裕人氏ですが、諭絵さんと結婚し加藤家の一員となるまでは、まったく違う世界で活躍していたといいます。大学時代に東京で出会ったふたり。群馬県出身の裕人氏は、大学卒業後に建設系の企業に就職、諭絵さんと交際を続けながら、長野県松本市で営業職をしていたそうです。一方の諭絵さんは、家業のこともあり東京農業大学へ進学したものの、卒業後はアパレル会社に入社、東京で働いていました。転機が訪れたのは2009年のこと。父・元昭氏が体調を崩したことから諭絵さんは弘前へ帰郷します。「いつかは実家を手伝うことになると思っていました」という諭絵さんに対し、「自分は単純に彼女と一緒に暮らしたくて(笑)。元々環境が変わっても、全然気にしないタイプなんです」という裕人氏。ふたりは結婚し、裕人氏が加藤家に入るとともに、家業を継ぐことを決心します。
持ち前のポジティブさで「行ってみたら何とかなる」と弘前へやってきた裕人氏でしたが、当然ながら多くの困難に直面したそう。まずは家業ならではの悩み。「家庭も仕事場も一緒だから、いつ何時も諭絵さんが横にいる。結婚前はほとんど喧嘩をしませんでしたが、今は引きずるといいことがないから、逆にどんどん言い合うようになりました」と笑います。そしてこの地域特有の人々の気質にも、もどかしさを感じることが多かったとか。「外からは分からなかったしがらみや意地みたいなものが、思ったより強くて。それなのに、みんなはっきり本音を言わないんです!」。そう、その正体が、これまでも「津軽ボンマルシェ」で何度となく登場してきた津軽人の“じょっぱり”=頑固者気質です。
話が遡ること2年前。最初に取材を打診したとき、ふたりの返答はNGでした。「蔵の中をお見せできなくて」というのがその理由。それから1年半後、諦めきれず再度連絡すると、今度の返答は「お受けしたいのですが、NGかもしれない。父の了承を得られるかどうか、まだ分からなくて」というものでした。代表を務める父・元昭氏こそ、ふたりの身近にいるじょっぱり津軽人代表。「父は、家の仕事は人様に見せるようなものじゃないという考え方。これまで詳しい取材を受けたことはほとんどありませんでした」と諭絵さんが言えば、「でもうちの味噌は独特。きちんと説明しないと、食べ方が分からない人も多くて。僕らは今の時代、もっと発信力を付けるべきだと思っています。父を説得するので、もう少し時間をください」と裕人氏が続けました。
津軽ボンマルシェ変えないこと、変えるべきことを模索しながら、津軽の食文化を未来へ繋ぐ。
無事取材を受けてもらえることになった今回、ぜひ知りたかったのが元昭氏の話でした。伝統を守り、製法を変えないこと。そうした『加藤味噌醤油醸造元』のやり方は、元昭氏が長年目指してきたことだったそうです。どんな思いで味噌造りに取り組んできたのか。幸運なことに、元昭氏自身に聞くことができました。
明治期に雑穀卸業としてスタートした後、扱っていた豆や米から味噌やしょうゆの製造を始めた『加藤味噌醤油醸造元』。しかし元昭氏が生後9カ月のときに3代目の父を戦争で亡くし、当時の民法により、元昭氏が全遺産を相続、かつ家族を扶養する義務を負うことになったそうです。その際必死で家を守ったのは、元昭氏の母。戦後の原料不足のとき、「加藤の味噌は自家製でないと」と早くから自家精米を復活させ、昔の製法にこだわったのも母でした。「津軽味噌の看板を守るという気概でしょう。自分は中学から地域の試験場に出入りして農大へ進み、そんな母を助けようと一生懸命でした。冬は仕込み、夏になれば田んぼで米作り。ずっとやることがありました。でも“寒仕込み”も、かっこよく言えば雑菌の繁殖がどうのとこうのとなるけど、本当は冬になれば農作業が減って、やることがなくなるというのが理由でね。そもそもは生活の流れの中に、味噌やしょうゆ造りがあったんですよ」と元昭氏。
味噌造りは、暮らしの仕事が四季の移ろいの中にあった時代から続く、大切な食文化。元昭氏はこう続けました。「ただ、日本の食生活は大きく変わりました。蔵で大切に使い続けてきた道具も、限界が来ているものが多い。メーカーも時代に合わせ、変化すべきところもあるはずです。まあでも、津軽人は“じょっぱり”ですからね。自分もそう(笑)。なかなか意見を曲げない分、息子が県外から来てくれたことがありがたい。味噌造りはまだまだだけど、経験が浅いからこそ出てくる的確な意見もあって、期待しているんです。本人に直接は言ったことはありませんが(笑)」。
にこやかに取材に応じてくれた元昭氏の言葉から見えてきたのは、苦労して続けてきた家業への覚悟と未来への想い。一方、元昭氏への取材前、裕人氏と諭絵さんはこう話していました。「自分たちの代は過渡期。設備、働き方、発信の仕方……次の代、その次の代のことまで考え、改革するときだと思います。でも、造り方は変えません。これからも全部人の手で、うちならではの味噌を造りたい。こだわりというより、これしか出来なくて。普通のことをやっているだけなんです」。普段は意見が食い違うこともあるという元昭氏と若夫婦ですが、結局、向いている方向は同じ。津軽味噌の唯一無二の美味しさが、これからも受け継がれ、食べ続けられる。そんな津軽の将来が見えたようでした。
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