この間、大雨の後に
虹が、、、
これで長かったジメジメの季節がようやく終わりました
夏の新作なども続々入荷しておりますので
デニム雑貨館、レディース館、メンズ館、キャラ工房
スタッフ一同ご来店お待ちしております
暑いので水分補給もしながら美観地区をお楽しみ下さいね
永遠の藍染。
城下町と呼ばれるところには、昔ながらの和菓子屋が変わらぬ姿で残っていることがよくありますが、ここ弘前もそんな町のひとつです。城あるところ、銘菓あり。今や弘前はお菓子の町と言ってもいいくらいに、古き良き素朴な餅菓子を売る和菓子店はもちろんのこと、津軽のりんごをふんだんに使ったモダンなアップルパイを出すパティスリーまで、新旧、和洋、様々なタイプの店が、町中に無数にひしめいています。それでいて、どの店にもさり気ない中に個性があり、それぞれの良さが感じられるのです。弘前城の裏鬼門といわれる南西方向には、全国的にも珍しい、禅林街と呼ばれる33もの寺院が一同に集まるエリアがあり、そういったことも弘前の菓子文化が発達したひとつの所以ではないのでしょうか。お菓子好きにとっては、これ以上ワクワクする場所もなかなかありません。
寛永7年(1630年)に創業した、東北でも特に古い歴史を持つ『御菓子司 大阪屋』は、そんな弘前という町を代表する和菓子店のひとつ。弘前城のある弘前公園から、徒歩4、5分のところにある店は、蔵造りの風格ある門構えが老舗の重みを感じさせます。
店には、冠婚葬祭や様々な行事のおつかいものにと由緒ある菓子を求める客がいる一方で、日常のおやつとして、気軽に1個、2個と買いに来る、ご近所さんもいます。以前に紹介した『カネタ玉田酒造店』の玉田宏造氏も御用達だそうで、「歴史を感じるどっしりとした店構えで、弘前を代表する大店です。全てにおいて感嘆するばかり」と称賛しています。弘前の和菓子文化の重鎮的存在ともいえるこの店から、一体どんなお菓子が生まれてきたのでしょうか。
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言い伝えによると、『大阪屋』の先祖はかつて豊臣家の家臣だったそうで、大坂夏の陣、冬の陣に敗れた際に、縁を辿って弘前までやってきました。その後は津軽藩2代目藩主・津軽信枚(のぶひら)の命で、藩御用達の菓子司として仕えたといわれます。初代・福井三郎右衛門から現在までのおよそ390年、その味と技は受け継がれています。
13代目として生まれた福井清氏は、子供の頃から菓子作りの現場を身近に見て育ちました。
「昔から甘いものは大好きでしたよ。子供の頃は、羊羹の切れ端をよくもらって食べていました。枠に流して固めた羊羹を切るときに、両サイドから細い切れ端が出るんですね。それをたくさんまとめて厚くしてパクッと。味は一緒ですからね」と笑いながら話してくれます。小さな頃から祖父母には「おめえはここを継ぐんだよ」と耳にタコができるほど言われていたそうですが、実際にお菓子を作ったのは、大学を卒業し、修業に出てから。4年間修業した、京都の老舗『亀屋清永』でのことです。
「私らの時代は丁稚奉公で、“昔は見て覚えろ”の世界。『菓子屋のせがれが餡玉(練り切りなどの芯になる部分、和菓子のベース)も作れないのか!』なんて怒られましたが、本当に何にも知らなくてね。1度に200、300とたくさん作るんですけど、均一の大きさでつるっときれいに丸くならないといけない。時間はかかるわ、凸凹になってしまうわで、何度も『やり直し!』と叱られて。だから、人が見ていないところで必死に練習しました。でも作ることは基本的に嫌いじゃなく、苦ではなかったですね。むしろ、お菓子作りは性に合っていたのか、楽しかったですよ。修業先の旦那さんには本当に良くして頂き、感謝しています」
京都では様々な経験をさせてもらったことが良い思い出として残っている、という福井氏。菓子だけに偏らず、幅広くいろんなものの世界を見ることで勉強させてもらったそう。例えば着物の新作発表会に出かければ、その絵柄や図案が、菓子作りのアイデアのヒントとして役立ったのだそうです。祇園の祭りに参加したり、神社の手伝いをしたり、京都の文化を肌で感じることも多く経験しました。それらの学びは、『大阪屋』の菓子に通じるどこか優美で気品ある風情と、芯の強い職人気質なものづくりのベースとなっているのかもしれません。
元は砂糖蔵だったという建物を改装し、現在は菓子作りの工房として活用している『大阪屋』。中へ入ると数人の職人たちが黙々と作業を行なっていました。この日作られていたのは、『大阪屋』を代表する銘菓の一つといわれる「竹流し」。薄く繊細な短冊状で、パリパリとした軽い食感、噛むほどにふわりと蕎麦粉の香ばしい風味が感じられる上品な味わいの焼き菓子です。その名の由来は、4代目の福井三郎右衛門包純(かねずみ)が、いまはなき西目屋村の金属鉱山・尾太(おっぷ)鉱山で行われていた、青竹の節に金を流す様子からヒントを得て創作したといわれます。うっすらと焦げ目の付いたベージュの焼き色は、磨く前のくすんだ金の姿を表しているとか。時の津軽藩主へ献上し、大変喜ばれたと伝えられており、この土地らしい歴史を感じさせます。
「竹流しは、実は一番手間のかかるお菓子なんです」と福井氏。材料は小麦粉と砂糖蜜、そして蕎麦粉だけ。ごく限られた材料だけに職人の腕が頼り。作り方は昔からほとんど変わっていません。
「西目屋は古くから蕎麦の産地で、昔の菓子屋は蕎麦も打って藩に献上していたそうです。めん棒一つでなんでも作るんですね。でも蕎麦粉と砂糖蜜をこね、めん棒で伸ばして竹流しを作ろうとしても、なかなかうまくいかなかった。4代目は随分と研究したようです。そこで小麦粉を入れて薄く伸ばし、最後に蕎麦粉を手粉で振って焼くことで良い香りを出しています」
伸ばした生地は小さな短冊状に切りそろえ、鉄板に並べてオーブンで焼きます。この作業がまた気を抜けません。薄い生地はあっという間に焼けていきますから、オーブンからいっときも目を離さず、火加減とにらめっこしながら、一番いいタイミングで火から下ろすのです。季節、天候や生地の状態によって焼き具合は変わってくるし、オーブンの癖もあるため、毎回一斉に焼きあがるわけではありません。鉄板にずらりと並んだ短冊生地から、ちょうど良く焼けた順に、微妙な時間差で1枚1枚選び取っているのです。職人の経験と勘がものをいう作業だからこそ、機械化が難しいのです。
「焦げ過ぎや、焼きむらのあるものは商品にできないので外すのですが、実はこのちょっと焦げ過ぎのものも結構おいしいんですよ。外には出回らない、職人だけのおやつです」と手渡してくれたのは焦げ目の付いた熱々の一枚。パリッとかじってみると、焼きたて独特のコクと深い香ばしさに包まれ、確かにこれはついつい手が伸びてしまいそうです。
江戸時代の技術を引き継いでいる菓子のもう一つに、「冬夏(とうか)」があります。名前の由来は、大坂夏・冬の陣で戦に敗れたことを忘れてはならない、という戒めの意味があるとか。和三盆に包まれた繭のような形をしており、ほんのり甘くサクッとした食感の軽焼で、かつて4代目が江戸で習い、覚えてきた菓子だそうです。当時は全国的に流行っていたらしいのですが、何分長い時間と手間を要する製法のため、現在作っている店もごく僅かで、ほとんど廃れてしまったといいます。
「だいたい出来上がるまで3〜5ヶ月くらいかかります。餅米に砂糖を入れたタネを仕込んでから数ヶ月かけて乾燥させ、じっくり熟成させる必要があるのです。タネを作ってすぐ焼くと、中がスカスカのがらんどうになってしまうんです。時間をかけて良い具合に乾燥させたものは、中がみっしり詰まって、ふわふわの心地よい食感になります」
その年の気候や米の品質、熟成具合でタネの様子が変わるので、ひとつは失敗してもいいよう1回につきふたつのタネを仕込まないといけません。福井氏は子供の頃、冬夏の失敗作を離乳食にして食べていたという、思い出があるそうです。
「手間のかかる菓子ですが、作り続けていかないと職人の腕が衰えてしまう。ご先祖様が習い覚えてきた技術を途絶えさせたくはありません。私たちが続けていくことで、江戸時代から伝わる和菓子の文化に少しでも興味を持ってもらえれば」と控えめな口調ながら、思いを込めて語ってくれました。
2019年11月より翌年3月まで、弘前市誕生130周年記念として、市立博物館で「殿さまのくらし―五感で味わう大名文化―」という企画展が行われました。実は弘前藩9代目藩主、津軽寧親(やすちか)は菓子に関心が高く、本人お手製の菓子を周りに振る舞っていた、という記録もあるそうで、藩主と菓子の関わりが紹介されました。福井氏も、江戸時代の菓子の再現や、その解説を行うために登壇するなど、この企画に協力したそうです。
「殿様がカステラや饅頭を作って配っていたそうなんですが、昔のカステラの配合表を見ると、今のようにしっとりしていなくて、パンみたいに硬いんです。この時代の菓子文化を改めて深く知ることができて、私もすごくいい勉強になりました。大勢の人の前で話をするのは、どうなることかと冷や汗をかきましたがね」
時に古い時代の菓子を復元することはあるけれど、『大阪屋』では新商品と呼ばれるような目新しい菓子はそうそう作りません。見ればホッとするような、馴染みの菓子が店に並び、ずっと変わらない様子が、『大阪屋』らしい魅力でもあります。それらはシンプルな素材で一見地味ですが、伝統を受け継ぎ、昔ながらの手法で、職人の丁寧な手仕事が細部まで行き届いた、他では食べられない唯一無二の菓子なのです。竹流しや冬夏は、かつては代々跡を継ぐ長男だけに製法を伝えられる秘伝だったそうですが、現在は若いスタッフの誰にでも作り方を教えているとのこと。伝統の味を次の時代へ残していくためにはそうする必要があるという福井氏の思いがあります。
「新しいものを作るのも手だとは思うのですが、菓子屋には、その店の味というものがありますので、私たちは長く受け継がれてきたうちの味を大切にしたいのです。お客さんには『おいしかった』とか、『綺麗だね』と言われたら、もうそれだけで十分に嬉しい。割と単純ですよ。いつもご先祖様に感謝して、この店を守り、地道に続けていくことで、和菓子業界に少しでも貢献できればありがたいと思っています」
終始穏やかな優しい口調で話す福井氏。しかし、そこにはお菓子への深い愛情と職人の誇り、そして先人への感謝の気持ちが一言一言に深く重く滲み出ていました。
住所:青森県弘前市本町20 MAP
電話:0172-32-6191
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
世界的にロックダウンや自粛を余儀なくされた数ヵ月間、様々なことが一変してしまいました。
そんな中、「悪いことばかりではなかった」と語るのは、写真家の石川直樹氏です。写真家として作品を発表し続けてきましたが、登山家、冒険家、作家など、ひとつの肩書きに留まらない横断的な活動をしています。
「今回のコロナ禍によって国内やブラジルのサンパウロで行う予定だった写真展、パキスタンへのヒマラヤ遠征など、全て延期になりました。これまで1年の大半を旅に費やしてきた自分にとって、こんなに長い間、同じ場所(東京の自宅)にいるのは初めてかもしれません。でも、これまでずっと振り返らずに走り続けてきたので、改めて自分自身と向き合い、色々なことを考え直す時間にもなりましたね」と石川氏。
一日は24時間、一年は365日。当然、アウトプットが増えればインプットは減ってしまいます。国内外を旅し、移動に次ぐ移動をしていると、先のことを「考える」にはちょうどいい時間になりますが、振り返って「考え直す」時間にはなりにくいのかもしれません。
「旅をすることはできませんが、映画を観たり本を読んだりして想像力の旅に出ることはできる。頭の中でイメージを巡らせ、今まで到達することのできなかった目的地に意識を飛ばし、ひとところにいながら新しいこと、今までやれなかったことに着手することができました」と石川氏は語ります。
読書による想像力の旅は、石川氏の原点でもあります。幼少期に通った学校は電車で約30分の場所にあり、手にはいつも本を持っていました。そのタイトルは、『トム・ソーヤーの冒険』、『ロビンソン・クルーソー』、『十五少年漂流記』など、冒険をテーマにしたものばかり。
石川氏は「通学中に本を読む時間が僕にとって旅の始まりでした」と言います。同時に「実際に移動し、旅をすることがどれだけ自分にとって大切なことかも改めて認識することができました」と話します。
活動は止まってしまっても、思考は止めない。
ネガティブなニュースや悄然(しょうぜん)とする記事がはびこる社会ではありますが、己との向き合い方や視点次第で、日常が戻ってきた時に備え、未来を描くことはできるのです。
そして、石川氏の活動の場でもある山など自然環境は、この時間をどう生きているのでしょうか。
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世界中を旅する石川氏は、日本の中で特別な場所がいくつかあるといいます。そのひとつが「富士山」です。
「富士山は、これまで30回以上は登頂したと思います。富士山は“見る山”だと言う方もいますが、僕にとっては完全に“登る山”ですね」と石川氏。
その価値観は、石川氏の写真絵本「富士山にのぼる」のタイトルが物語っています。
―――
「みんながしっている富士山。とおくから何度も見ていた富士山。でも、そこに登れば、かならず、新しい世界にであうことができる。見なれた姿の中に知らないことがたくさんあることに、ぼくは気がついた」と。
それは富士山にのぼることにとどまらない、人生の真実を伝える言葉だ。
この絵本を通して、一歩、一歩、読者にも、前に進んでほしいと著者は願う。
どんな事でも、一歩、一歩、足を前に出すことしか、たどり着く方法はない。
この絵本は未来へ歩きだす子どもたちに差し出された、力強いバトンである。
(写真絵本「富士山にのぼる」作品紹介より抜粋)
―――
そんな富士山は、コロナ禍によって夏のシーズンは全ての登山道が閉鎖。人間との関係が遮断され、ゆったりした時間が流れています。
「富士山の全道閉鎖は、僕の知る限り初めてのことです。大勢の登山者によって絶えず登山道は踏まれ続け、どんなにその山が野生の力を備えていてもダメージは少しずつ蓄積されていきます。富士山のような人気のある山は特にそうでしょう。でも、これほどまで人が立ち入らない期間が長いと、富士山の自然はある程度再生されるはず。2021年の夏はよりいっそう鮮やかな自然に触れられるのでは」と石川氏は話します。
石川氏同様、富士山にとっても「悪いことばかりではなかった」のかもしれません。
「登山者のいないこの数ヵ月によって、自然環境は野生を取り戻すきっかけになったと思います」と石川氏。
例えば、大気汚染の度合いの変化が挙げられます。
ネパールの首都カトマンドゥから世界最高峰のエベレストが近代史上初めて目視できるようになったことは、その好例でした。
「ネパールは深刻な大気汚染に悩まされていて、中でも首都のカトマンドゥの公害はひどい。舗装されていない道から舞い上がる砂埃は、瞬きするだけで涙が出ることも。ゴミが原因のダスト公害や排気ガスなど、環境問題が深刻なカトマンドゥで、ヒマラヤ山脈の白い峰々やエベレストさえもが目視できたなんて、明らかに空気が澄んだ証拠。人間の活動がどれだけ大気に影響を及ぼしているかよくわかりますよね」と石川氏は言います。
空気の変化は、都心でも感じることができました。
今回、石川氏の取材先となった「渋谷SKY」は、地上229m。
(2020年8月31日まで、「渋谷SKY」にて石川直樹写真展「EXHIBITION SERIES vol.1 -EVEREST 都市と極地の高みへ-」開催中)
「渋谷から奥多摩や奥秩父の山まで見えたりして、奥行きのあるこのような景色を望むことができるのは、都心もまた空気が少しは浄化されたからではないでしょうか」と石川氏は言います。
緊急事態宣言とそれに伴う外出自粛によって、車の移動による排気ガスは抑えられ、店舗や商業施設などの一時閉店は、深刻な地球温暖化問題の一因となる室外機の排熱低減にもつながったと思います。
「外国の自然と日本の自然を比べると、日本では“機微”が感じられます。四季を通じた環境の繊細な変化が、多様な風景をもたらしてくれる。時の流れとともに表情の変化がきちんとあって、春夏秋冬で色彩も豊か。ヒマラヤだったら、春と秋の乾季と夏のモンスーン、そして雪に閉ざされる冬が繰り返され、日本の四季ほどの変化は当然感じられません。ちなみに、遠征でヒマラヤに行くと2~3ヵ月は現地にいることになります。その間、氷河の氷を溶かしたものが飲み水になるわけですが、砂なども混じっていて、意外と綺麗じゃない。そんな経験を経て久しぶりに帰国すると、日本の蛇口から出る綺麗な水が本当にありがたく思える」と石川氏は話します。
水もまた自然からの恵み。昨今、各界において「サスティナブル」という言葉に重きを置くようになりましたが、「水」はその原点なのではないでしょうか。
これまで世界中を旅してきた石川氏ですが、国内では定期的に訪れる場所があるといいます。それは、北海道の「知床半島」です。
「ただ美しい場所であれば、これまでたくさん見てきました。“通いたい”と思うようになるのは、やはり人との出会いがあったからです」と石川氏は話します。
もともとは仕事で訪れた知床ですが、地元の人々と交流を深め、現在では「知床写真ゼロ番地」というプロジェクトを立ち上げて、定期的に展覧会などを開催しています。
「このプロジェクトは2016年にスタートしました。以降、写真展やワークショップ、地元の人たちとの共同制作など、様々な活動をしています」と石川氏。
特筆すべきは、地域と一体になって活動していること。結果としてプロフェッショナルな写真とはまた別の、地元から発信される新しい知床の側面を伝える写真が生まれています。
知床では、漁業や農業、そして観光業が盛んです。
「コロナ禍の中にあっても、作物は育つ。特に第一次産業はこうした状況下に強いな、と改めて思いました」と石川氏は言います。
知床といえば、北海道の東部に位置する最果ての地。オホーツク海に約70km突き出たそこは冬になると流氷に覆われます。やはり石川氏は、雪に取り憑かれているのか、はたまた過酷な地に惹かれるのか……。
「僕は、端っこが好きなんです(笑)。北だけでなく南の沖縄にも頻繁に行っていますね」と石川氏。
そして、通わなければならない場所。それは「ヒマラヤ」です。
その理由は「自分自身を一度自然な状態に戻すため」だと言います。
「一年に一度、ヒマラヤに行くようにしています。デジタル化が急速に進んで、何もかもスピードが増すばかりですよね。何かを調べたり、探したりするのも、スマートフォンがあればすぐにできてしまう。そして、それだけで知っているつもり、行ったつもりになってしまいますが、そんなのはもちろん錯覚です。インターネットの数百文字から読み取れる情報と、その場所に行って全身で感じることとは、情報量も、その質も全く異なる。日々、インターネットで検索しているだけでは、人が持つ感受性が減退していくばかりだと思います。体験から得られる豊かさや多様性に勝るものはないでしょう。僕は、自身の目で見て、耳で聞いて、身体で感じたい。そういうごくごく当たり前のことをちゃんと気付かせてくれるのが、自分にとっては、ヒマラヤでの数ヵ月間の旅なんです」と石川氏は語ります。
石川氏にとってヒマラヤは、気付きの装置。
他の生き物同様、人もまたこの地球(ほし)の生き物。特別な存在ではありません。大地を踏みしめ、胸いっぱいに空気を吸い込み、胸の鼓動に耳を傾ける。
― 僕はちゃんと生きている ―
「ヒマラヤで、毎回、僕は生まれ変わっているような感覚を持っています」と石川氏。
「エベレストの頂上に行きたいけれど、ヘリコプターで行ったら意味がありません。頂上はたくさんあるうちのひとつのゴールでしかなく、そこにたどりつくまでのプロセスが大切。もちろんたどりつけなかったとしても」と石川氏は語ります。
そのプロセスの中には、想像を超える出来事や新しい自分自身の発見もあるそうです。
「自分はこういう状況ではこんなに弱かったのか」と思うこともあれば、「こんな場面では自分は踏ん張ることができるんだ」など、知らなかった自分の一面との出会いがあって、石川氏にとって旅が「思考を活性化させる」と言います。
効率よりも非効率、便利よりも不便、近道よりも回り道。時にはそんな選択も必要で、石川氏が選ぶカメラにも、それが表れています。
「プラウベルマキナという中判のフィルムカメラを使用しています。普通の35mmのカメラよりも重いのですが、僕にとってはこれが一番身体にフィットしています」と石川氏。
少しでも荷物を軽くしたいと思うのが登山者の心理ですが、それとは真逆の発想です。更に驚くべきは、1本のフィルムで10枚しか撮れないこと。過酷な雪山であれば、デジタルカメラにSDカードを入れて何千枚も撮る方が効率的で便利ですが、石川氏が選択したのは非効率と不便。
「でも、そのカメラでしか撮れない写真があるんですよ。僕は、とりあえず撮っておく、みたいな撮り方をしていないし、できないんです。デジタルカメラであれば、たくさん撮っておいて失敗したら消せばいいですが、僕のカメラではそういう撮り方はできない。人生も同じですよね。失敗したからといって、簡単に消すことはできない」と石川氏は言います。
地球規模で巻き起こる今回の難局によって、色々なことがゼロ化されるのかもしれません。
「わずか0.1ミクロン以下の新型コロナウイルスによって、あれだけ揺るぎなかった日々が、政治が、経済が、根底から揺さぶられています。人間は自然の領域に踏み入りすぎてしまった。ウイルスは打ち克つための存在ではありません。環境を変えるのではなく、自分たちがこの環境に順応していかなくてはならない。ヒマラヤ登山において最も重要な“高所順応”とも似ています。周りを変えるのではなく、自分を変える。自然に抗ったり、侵したりするのではなく、自然への敬意を持ち、謙虚に生きていきたいですね」と石川氏は語ります。
この難局もまた人生のプロセス。世界に暗い影が落ちている今をどう生きるかによって、希望の光は見えてくるのではないでしょうか。
1977年東京生まれ。写真家。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。2008年「NEW DIMENSION」(赤々舎)、「POLAR」(リトルモア)により日本写真協会賞新人賞、講談社出版文化賞。2011年「CORONA」(青土社)により土門拳賞を受賞。2020年「EVEREST」(CCCメディアハウス)、「まれびと」(小学館)により写真協会賞作家賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した「最後の冒険家」(集英社)ほか多数。2016年に水戸芸術館ではじまった大規模な個展「この星の光の地図を写す」は、新潟市美術館、市原湖畔美術館、高知県立美術館、北九州市立美術館、東京オペラシティアートギャラリーなどへ巡回。同名の写真集も刊行された。2020年には「アラスカで一番高い山」(福音館書店)、「富士山にのぼる」(アリス館)を出版し、写真絵本の制作にも力を入れている。
http://www.straightree.com/
農業というフィールドで革新を打ち出す人は、大きく2つのタイプに分けられます。ひとつは、手間暇、採算を二の次に考え、ひたすら農産物の質を掘り下げる職人タイプ。もうひとつが、産物の質だけでなく販売ルートや加工品なども含めて戦略を練る経営者タイプ。もちろん、どちらのタイプも地域振興や農業の未来を考える上で、必要な存在です。
そして今回お会いした『鬼丸農園』の奈良慎太郎氏は、後者のタイプでした。
『ひろさきマーケット』の高橋信勝氏は「意欲的な若手農家として期待している存在」と評し、『パン屋といとい』の成田志乃さんは、『鬼丸農園』のにんにくをふんだんに使用したおいしいパンを仕立てます。『おおわに自然村』三浦隆史氏や『岩木山の見えるぶどう畑』伊東竜太氏とは、同じ若手生産者同士、地域の農業を牽引していく仲間。
地域でも存在感を発揮しながら、『鬼丸農園』の名はいま全国でも知られつつあります。
“青森のにんにく”という一般名詞ではなく、“鬼丸農園のにんにく”という固有名詞での指名買いを目指す。奈良氏が思い描く、その戦略と内に潜む思いを伺いました。
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奈良慎太郎氏は昭和57年8月、弘前市北部の鬼沢という地区に生まれました。鬼沢は岩木山の山裾に広がる標高200mほどのエリアで、弘前の鬼伝説の中心部である「鬼神社」を擁する歴史ある地。そして、そこは寒暖差のある高地というロケーションを活かしたリンゴ園が多くある地区でもあります。
はじめは農業とは無縁の職に就いていた奈良氏。成人すると、その鬼沢地区で父親とともに建設業を営みはじめました。しかし、28歳の頃、最初の転機が訪れます。りんご園を営んでいた親戚が農地を譲りたい、と伝えてきたのです。
当時は、ちょうど建設業が軌道に乗りはじめたときでもありました。農業は未経験の奈良氏でしたが、会社の人手も増えてきたことから、この話を受けることにしました。奈良氏は28歳にして、異業種からの農業デビューを果たすことになるのです。タイミングもあったのでしょう、奈良氏は「ちょっとやってみようかな、という漠然とした気持ちでした」と当時を振り返ります。
ところがはじめて見ると、これがたやすくできるほど農業は簡単な話ではありませんでした。とくにりんごは一年通して何かしらの作業が必要になる作物。建築業との二足のわらじでは手が回らなかったのです。軌道にのった建設業をないがしろにはできない。一方で、このままでは譲り受けた農地が無駄になる。奈良氏は試行錯誤の末、青森産のブランドが確立されつつあったにんにくの栽培に目をつけます。「秋に作付けして、夏に収穫。建設業の繁忙期とも重ならない。これなら効率的にできる、と思いました」
偶然は続きます。りんごに変わって作り始めたにんにくを収穫してみると、その質が明らかに高いのです。にんにくの糖度は一般的に39度〜40度。ところがここで育ったにんにくはそれよりも、平均2度ほど高かったのです。
「『なぜだろう?』といろいろ考えてみました。寒暖の差が大きい気候や岩木山由来の火山灰土は関係しているとはすぐに分かりました。しかし、それよりも大きいのが土の状態だったのです」
というのも通常は水田の転作として作付けされることが多いにんにくですが、こちらはりんごが実をつけていた豊かな土壌。露地栽培でその栄養をたっぷりと吸ったにんにくが甘く育つのは必然のことだったのです。
「りんごの力に助けられて育つにんにく。弘前らしいですよね」
偶然はそれだけではありませんでした。
鬼沢地区の鬼神社を舞台とした鬼伝説。これも奈良氏の仕事に大きく関わってきます。
弘前の鬼伝説、それはかつて岩木山に住んでいた鬼が農民と親しくなり、困った農民のために一夜にして堰を作り、畑を拓いたという逸話。優しく、農民の敬愛を集める鬼、ゆえにこの神社の「鬼」の字の上には、角にあたる「ノ」がなく、この地区では節分に豆まきをすることもないといいます。
さて、そんな鬼神社で宵宮が開かれたときのこと。奈良氏は、弘前の歴史を研究する先生と同席することになります。そして、その先生の口から、この地が青森にんにくの発祥の地であることを聞かされたのです。
「鬼の好物がにんにくだったということで、神社ににんにくが奉納されることは知っていました。しかし、この地が青森のにんにく栽培発祥の地ということまでは知りませんでした」
りんご園の土が作る甘いにんにく、にんにくが好きだった鬼の伝説、そしてここが青森のにんにくの発祥の地という事実。さまざまな要素が絡み合う、鬼沢のにんにく作り。
「これでストーリーが繋がった、と思いました」
奈良氏は、この偶然が紡いだ物語を軸にブランディングに乗り出しました。
奈良さんへの追い風は、地区の状況にもありました。
それは高齢化をはじめとしたさまざまな理由で引退、廃業するりんご農園の存在でした。耕作放棄地は持っているだけで維持費がかかる、所有者にとってはいわば負債でもあります。りんご園だった土地を、『無償で構わないから使ってほしい』と奈良氏に申し出る人が数多くいたのは当然のことでもあります。
奈良氏には、元りんご園の土地でにんにくを育てた実績があったことも大きな要因だったのでしょう。奈良氏の元には、そんな依頼がいくつも飛び込んできたといいます。
一般的には、耕作放棄地であったりんご園を畑として使えるようにするには、根の排除などを業者に依頼する必要があります。しかし、奈良氏の本業は建設業。自前の重機で障害物を取り除くのもお手の物です。
こうして地域の環境を守り、地域住民の悩みを解決し、そして初期投資なしで農地を拡大するというwin-winの関係ができあがりました。
現在、奈良氏が借りている耕作放棄地は約15箇所、広さは約10ヘクタール。気づけば『鬼丸農園』は、弘前市内で最大のにんにく農家になっていました。建設業との二足のわらじではなく、農業に本腰を入れる農事組合法人も立ち上げました。
この土地ならではの物語に支えられた『鬼丸農園』のにんにく生産は、右肩上がりで増加しました。同時に『鬼丸』というインパクトある名前のにんにくは、首都圏や関西でも少しずつ知名度を増しています。
しかし奈良氏の目は、さらに先を見つめています。これこそ、奈良氏が経営者タイプと書いた故由。農業の未来を作る第一歩は、労力に見合う収入をしっかりと得られること。ブランディングだけではなく、経営者タイプにはより具体的な販売戦略も必要とされるのです。
「極端にいえば農作物は、収穫した瞬間から劣化が始まります。つまり、それは他の産業に比べて、買い手の存在がより重要になるということ。ただ良いものをたくさん作れば良いというのではなく、売り方、つまり出口の部分まで見極めた上で作付けしていくことが重要です」
先行投資としてマイナス2度の貯蔵用冷蔵庫を導入したのは、収穫期だけでなく通年一定量のにんにくを出荷するため。生産者としての情報はSNSで発信し、反対に消費者の声はイベントなどで丁寧に拾い集めます。その声をもとに、ニーズを捉えた加工品も次々と開発。近隣農家からの買い付けも行うなど、地域生産者の応援する体制も整えています。
また、近年では「作ることと売ることには別の能力が必要」との思いから、営業のプロフェッショナルをヘッドハンティングし、販売部門を分社化しました。すべては売り方、つまりアウトプットを見定めるための戦略。
育てる、加工する、売る。そのすべてを計算した『鬼丸農園』の存在が、おいしいにんにくを消費者に届け、耕作放棄地の再利用により地域を支え、そして青森の農業の未来も切り開いていくのです。
住所:青森県弘前市鬼沢276-23 MAP
電話:0172-98-2485
http://onimarunouen.com/
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
東洋文化研究家、作家として活躍するアレックス・カー氏が、徳島・祖谷の地に魅せられ、住居を構えたのは40年以上前のこと。深緑の山あいに佇む別世界は桃源郷さながら、悠久の時を閉じ込めたかのようにひっそりと人々が暮らすこの地は「千年のかくれんぼ」とも称され、古き良き原風景は訪れる人に感動を与え続けています。
2020年9月、アレックス氏自らがナビゲーターとなり、知られざる祖谷の風景や魅力をご紹介する「祖谷の旅」が幕を開けます。これまでに数多くの『DINING OUT』のホストを務め、『ONESTORY』とも親交の深い彼が、今だからこそ伝えたい祖谷の姿、そして、今だからこそ追求したい観光の意味に触れる旅とは、どのようなものなのでしょうか。
「第一は、古くからの景観を美しく維持していることです」
心から素晴らしいと感じる地域の条件とは?との問いに、こう答えたアレックス氏。
中でも祖谷は一般的な日本の風景と大きく異なり、田んぼがほとんどなく、山の傾斜地に住居が建つ、全国でもあまり例がない場所だといいます。
「茅葺きの家が点々と建ち、畑が斜面に流れ、遠く眼下に川を眺められるという別世界――険しい山々が創る雲の上の「秘境」という言葉がふさわしい、世間からかけ離れた雰囲気を持ちあわせています」
傾斜地に人が住んでいる村はイタリアなどにもあるといいますが、深い渓谷に沿って密集するジャングルのような木や苔、川といった自然に囲まれた祖谷の風景は、日本特有の自然環境だからこそもたらされたもの。その深緑こそが、世界でも類を見ない神秘性を感じさせるのです。
第二の故郷として、長く祖谷と関わりを持ってきたアレックス氏。自然農業や古民家、風習の保存といった事業にユニークかつ前進的に取り組んだ結果、祖谷は知る人ぞ知る名地として知名度を上げていきました。
「祖谷を特徴付けるもののひとつが、保存された古民家の数々です。古材を活かしながらも水回りなどは整備し、快適に滞在できるようにしています」
アレックス氏が語るように、落合の8つの古民家は比較的モダンなスタイルで修復した一方で、彼の心を強烈に揺さぶり、自身で購入するに至った「篪庵(ちいおり)」は、時代の古さをそのままに、ディープで古典的な感覚が残されています。
「今回のツアーの目的は、まず旅行者に祖谷のありのままを知っていただくこと。観光名所を回るのではなく、茅葺きの家、山、霧が、深く心の中に浸透する旅になってほしいと考えています。
発見こそが旅の本来の目的であるはずなのに、決まったルートばかりを歩み、「奥」の魅力的な場所を追求しない……そうならないように、今回は一般的に知られている祖谷を敢えて紹介せず、奥に秘められた美しい場所にみなさまをお連れします」
祖谷の旅をさらなる高みへと昇華させるのが、地域の美味を知り尽くした地元の料理人が作るコース料理です。
供されるのは、郷土の歴史や文化を表現した「祖谷ヌーヴェルランチ」。世界農業遺産認定の、急傾斜地の畑で穫れる食材を贅沢に使用した料理の数々は、この場所でしか味わうことはできません。
「2013年に開催された『DINING OUT IYA』、その革新的な取り組みから7年の間に進化を重ねたプレミアムな祖谷の味覚を、どうぞお楽しみください」
近年は「観光(ツーリズム)」そのものが自身における重要なテーマだと語るアレックス氏。過疎と高齢化に苦しむ祖谷は観光こそが命綱であり、だからこそ篪庵(ちいおり)と落合の家の修復を通じて、地域の活性化を目指してきたという背景があります。
「お客様をどこにお連れすれば、祖谷の自然が静かに吟味できるのか。どう説明すれば祖谷の美しさが伝わるのか。料理もとても大事で、だからこそどこでも食べられる『温泉懐石』ではなく、地元の素材を使った新しい料理に力を入れています。
コロナ禍により大勢の人が集まるような場所を避けたくなるご時世ですが、それがきっかけとなり、これまでに当たり前に思っていた観光の意味を考え直す機会になりました。特別感こそが旅の醍醐味だと、今はそう考えています」
古民家を「快適で美しく直した」と同時に、観光も快適で美しく立て直したい、それがアレックス氏の思いです。
「交通や通信が発展し、身近になった現代人にとって、旅行は簡単なものになりました。そのために特別感は失われ、SNSで知り得た有名な観光スポットで写真を撮れればそれでお終い、という旅が一般化していることを憂慮しています。
祖谷を訪れるということは、全くの別世界、未知の自然環境と出会うということです。下から湧きあがる幻想的な霧は、本当に美しく心揺さぶられるもの。日常から離れ、自然の静けさ、済んだ空気の中に、旅の魅力、ひいては人生の新たな発見が待っているかもしれません」
未知の秘境に立ち、その風景を眺める時、何を感じ、何を思うのか。
この旅でしか出合うことのできない祖谷に、ぜひ身を委ねてみてはいかがでしょうか。
※2020年7月16日時点では実施を予定しておりますが、今後、更なる新型コロナウイルスの感染拡大や災害の危険性などにより、本ツアーが延期及び中止の可能性もございます。参加申し込みをされるお客さまには、事前にご連絡をさせて頂きますが、あらかじめご了承のほど何卒宜しくお願い致します。
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1952年にアメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の葺き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社を設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。
着丈 | 肩幅 | バスト | 裾回り | 袖丈 | |
---|---|---|---|---|---|
S | 63 | 43.5 | 104.5 | 101.0 | 64 |
M | 64 | 44.5 | 108.5 | 105.0 | 65 |
L | 65.5 | 46 | 112.5 | 109.0 | 66 |
XL | 67 | 47.5 | 116.5 | 113.0 | 67 |
XXL | 68.5 | 49 | 120.5 | 117.0 | 68 |
「鬼に金棒」といったら、怖いもの無しの強さを表す言葉ですが、鬼と金棒は、思った以上に深く結びついている、と津軽の地に来て知ることになりました。
名峰・岩木山の麓には、製鉄遺跡が多数発掘された一大地帯があります。大半は平安時代からのものといわれていますが、同時代の日本の他の地域とは異なる、独自の形式を有する遺跡もあり、もっと古くから製鉄が行われていたのではないかと考えられています。
この地域に多く伝わるのが「鬼伝説」。点在する小さな神社の鳥居には、全国的にも珍しい「鳥居の鬼コ」と呼ばれる小さな鬼の彫り物がちょこんと鎮座している姿を時々見かけます。鬼コは悪者、怖い鬼というよりも、ちょっとユーモラスな明るい風貌で、地域を守る強く頼もしい神様のような存在として親しまれています。この辺りでは節分の時も「福は内、鬼も内」と言うそうです。この鬼というのが、鉄を扱う民だったのではないか、と伝えられているのです。炉の炎で顔を真っ赤にしながら、一心不乱で熱い鉄を打つ様子に、まるで鬼のようなパワーを感じたのかもしれません。
岩木山麓には「鬼沢」という地名もあり、そこには「鬼神社」という名の通り、鬼を祀った神社があります。「村人たちが水不足で困っていると、山から降りて来た鬼が一夜にして水路を作り上げ、田畑の開墾を助けた」という伝説が残っています。鬼神社の御神体はなんと鉄の鍬。拝殿には古い農耕具が飾られ、製鉄の技術が村人たちにとって大切なものだったことを物語っています。鬼(鉄の民)と金棒が村人たちの暮らしを支える、ありがたい存在だったのです。
一方で、弘前市内には「鍛冶町」という地名があります。弘前っ子にはお馴染みの、市内最大の繁華街。現在は飲食店が無数に軒を連ねる楽しいエリアですが、ここはかつての城下町であり、江戸時代初期には100軒以上の鍛冶屋が建ち並んでいたといわれています。当時、藩お抱えの鍛治職人たちは、戦となれば鎧や刀などの武器を製造。やがて農耕具や日用品なども作るようになり、明治時代になると軍用品などの注文を受け繁栄していたそうです。
こうした津軽の長い歴史の中に深く根付いている製鉄の技術や文化を、今に伝えている会社があります。それが、津軽藩政時代から350年以上続く伝統の鍛造技術を誇り、「津軽打刃物(つがるうちはもの)」を作り続けている『二唐(にがら)刃物鍛造所』です。以前に紹介した『カネタ玉田酒造店』も創業330年、同じ歴史ある老舗の職人同士だからか、玉田宏造氏も予てより吉澤氏と親しくしているとのこと。老舗酒蔵お墨付きの刃物となれば、一層興味は深まります。
【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!
工場に一歩足を踏み入れると、轟々燃え盛る炎と、カーンカーンと響く音。ハンマーを打ち下ろすたびに、赤い火花が勢いよく飛び散り、そこには昔ながらの手仕事の姿がありました。職人たちはそれぞれの持ち場で黙々と手を動かしています。制作されているのは、主に包丁などの刃物。1200℃の炉で熱した鉄と鋼を叩いて接合する「鍛接」、鉄を叩きながら刃物の形を整えていく「荒延ばし」など、包丁作りには23もの製造工程があり、どれも神経を集中して行う、気の抜けない作業。精巧な、高い技術が求められます。
「私は手先が不器用で、実はものづくりはあんまり好きじゃないんです」と意外な一言を告げたのは、7代目代表の吉澤俊寿氏。青森県伝統工芸士であり、弘前市が創設した優れた技術者に認定される「弘前マイスター」にも選ばれていますが、寡黙な職人というより、明るく陽気でおしゃべり好きなイタリア紳士といった風情。ファッションにも関心が高く、昔は“ロン毛”だったとか。お洒落なメガネをコレクションしたり、その日の気分や服に合わせたり。読書が趣味で、さらにアート好きというのですから、こちらが勝手に想像していた鍛冶屋の印象がガラリと変わりました。
吉澤氏の祖父である5代目の故・二唐国俊は、日本刀作りの技術で数々の賞を受賞し、県無形文化財保持者である、優れた名工だったそう。叔父である6代目の故・二唐国次に後継ぎがなかったため、吉澤氏は中学生になると家業を継ぐ者として、夏休みには工場の手伝いをし、大学を卒業すると、22歳で本格的な厳しい修業に入ることになりました。
「先代は頭の切れる人で、みっちり仕込まれました。自分は苦手と思いながらも、一番長く苦楽を共にした人。今の自分があるのは、先代が厳しくやってくれたおかげです。本当に感謝しています」と吉澤氏は当時を振り返ります。
吉澤氏の修業時代は平坦な道ではありませんでした。時代と共に、世の中のニーズは刻々と変化し、代々伝わる刀づくりの技術を継承していきたい一方で、それだけでは売上は下がるばかり。吉澤氏は製造の傍ら、店頭に立って刃物販売のノウハウを身につけたり、飛び込みで営業したり。ありとあらゆることを実践し、会社を支え続けました。そうして鍛冶屋が衰退の一途を辿っていた頃、6代目が立ち上げたのは鉄構事業でした。長年受け継がれてきた金属加工技術を鉄骨製造に応用し、やがて事業の大きな柱となっていきます。建設現場の鉄骨から住宅用の防雪フェンスまで、多岐にわたる製造を請け負い、その仕事は弘前城をはじめとする文化財建造物の耐震補強や、ねぷた祭りの骨組み製作などイベント関連にも波及。近年では、東京の商業施設「GINZA SIX」の天井からぶら下がるアート作品の骨組みを製作したこともありました。吉澤氏も溶接管理技術者一級の資格を取り、自ら鉄構事業に関わるようになっていきました。
「現在のうちの売り上げの90%は鉄構事業なんです。この大きな支えがあるおかげで経営が安定し、歴史ある打刃物を途絶えさせることなく継承していける。一方で、津軽の伝統工芸である打刃物が広告塔となって、うちの事業に注目してもらえるのだからありがたいことです」
2008年より、弘前商工会議所による津軽打刃物のブランド化プロジェクトがスタートし、再び脚光を浴びることになりました。日本だけでなく、フランスのインテリア・デザイン系国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」やドイツで開催される世界最大級の消費財見本市「アンビエンテ」など国際的なイベントに刃物を出展する機会に恵まれ、海外からも高い評価を得ました。切れ味の良さやデザイン性の高さは、プロの料理人に支持されています。
常に外部へ情報発信することに努力を厭わず、自分たちでオリジナル商品を生み出していることも強みだという吉澤氏。特に「暗門(あんもん)」と呼ばれる独特の模様が入った包丁は自信作で、世界遺産である白神山地の麓にある「暗門の滝」をイメージし、揺らめく波紋の繊細で神秘的な美しさを表現しています。他にはない個性的なデザインが、海外でも大きな反響を呼びました。
「でも実はこれ、最初のインスピレーションはアンディ・ウォーホルが描いた、ジョン・レノンの絵がヒントなんですよ。僕はどっちも大好きで。ジョンのメガネの部分が波のような不思議な模様になっていて、そこからピンと来たんです」とお茶目に笑う吉澤氏。アートや音楽など幅広い分野に興味を持ち、あちこちにアンテナを巡らせて常に感性を磨いてきたことが、制作にも大いに反映されているようです。ストイックに技術を高めることももちろん大事ですが、幅広い視野を持つことが、新たな扉を開くと吉澤氏は説きます。
「ものづくりは苦手だけれど楽しいですし、すごく面白くてやりがいがありますよ」
現在、刃物部門を牽引しているのは、いずれ8代目となる、吉澤氏の長男・剛氏。吉澤氏と嗜好が似ているのか、実は映画や小説が好きで、かつては小説家や脚本家に憧れていたこともあったそう。しかし6代目が亡くなる時、吉澤氏は病床に呼ばれこう遺言を授かったそうです。「剛を手元に置いて育って欲しい」。最初は興味がなかった剛氏でしたが、「3年目くらいから少しずつものづくりの魅力に気付き、面白くなっていった」といいます。転機が訪れたのは5年目のとき。頼りにしていた兄弟子が抜け、自分で全てを背負わなければならなくなり、納期に間に合わせるために夜中の3時まで必死で制作、納品したにも関わらず、ほとんど返品されてしまった、という苦い経験がありました。
「その時の気持ちは今も肝に銘じています。ものの品質を見る目、お客様の厳しさ。あの時は心折れそうになりましたが、ものすごく勉強させてもらいました。正直未だに自分のことは鍛冶屋だと思っていなくて、『これでいい』と思ったことはありません。まだまだ未熟者です」
一方で三男の周氏は「兄貴が大変そうだったので、助けになればと思って入りました。高校時代にインターンシップで試しにやってみたら『腕がいい』と言われ、やる気が出たんです。自分の成長を楽しみながら続けていきたい」と明るく話します。地域おこし協力隊として、20代で県外からIターンでやって来た花村氏と丸山氏は、13名の応募者から選ばれたという精鋭。花村氏は以前より趣味で金属加工や刃物などをつくっていたそうで、実用刃物をもっと追求していきたいと職人魂をみせています。手先が器用で時計修理技能士の資格も持つ丸山氏は東京から家族みんなで引っ越して来たそうで、仕事への強い思いと覚悟を感じます。
「彼ら3人が来なかったら、自分はもっと未熟だったと思いますし、お互いに刺激を受けています。自分が教えるなんてまだまだおこがましい立場ですが、先輩として負けてはいられないという気持ちです」と剛氏は話します。
剛氏の次なる目標は、日本刀をつくる「刀匠」を目指すこと。そして「津軽の刃物の知名度をあげ、その魅力をもっと広く世界へ伝えていきたい」と真摯に語ります。吉澤氏は、剛氏を中心とした若手世代が安心して前に進みやすいように、「後ろから後押しすることが自分の役目」だといいます。そして、「一生懸命やっているならそれを認め、見守り、口出しはせず、経済的なサポート体制を整えることが私の仕事です」と続けてくれました。
先祖代々が苦労して続けて来た永きに渡る伝統の炎を決して絶やしてはならない。その言葉には、ひたむきな思いとともに、次の担い手へと手渡され、さらにその先の未来へ続いていくことへの揺るぎない決意が感じられるのでした。
住所:〒036-8245 青森県弘前市金属町4-1 MAP
電話:0172-88-2881
https://www.nigara.jp
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
こんにちは
この前、とうとうセミの鳴き声を聞きましたもう夏ですね
さて、今回はデニムのご紹介、、、
ではなくデニムのお箸のご紹介です
倉敷デニムストリートの隣には
倉敷遊膳というお箸のお店があるのですが
そのお箸やさんで人気の商品がなんと
和蔵のジーンズをモチーフにしたデザインのお箸なんです
こちらが倉敷遊膳オリジナルのお箸
デニム箸です(デニム生地ではありません笑)
まるでお箸がジーンズを穿いているようですね
カラーは
青色、白色、赤色、水色、黒色の
5色展開となっています
家族やお友達、カップルでお揃いにしたいですね
これだけでも充分可愛いお箸なのですが
よく見ると、、、裾がロールアップされている、、、
細かいところまでこだわっていてビックリです
名前彫刻も無料で出来るので、
特別感がより出ますね
プレゼントやお土産にもピッタリです
他にも、遊膳にはデニムのランチョンマットやコースター、デニム柄のお皿など
可愛い箸置きやお箸も沢山の種類が置いてあるので
見るだけでもワクワクするお店です
倉敷にお越しの際には
是非、倉敷遊膳にも立ち寄ってみて下さいね
日本の伝統工芸や産業に現代のクリエイションを加え、新たな価値を創出するプロジェクト『DESIGNING OUT』。世界的建築家・隈研吾氏をプロデューサーに迎え、「輪島塗」をテーマにした『DESIGNING OUT Vol.2』は、1年以上の準備、製作期間を経て過去前例の無い輪島塗の器を『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』(2019年10月開催)にてお披露目しました。
それは124あるといわれる輪島塗の工程そのものを表現した、全く新しいアプローチでデザインされた6枚1セットの器。
作業工程は完全に分業され、多数の職人の手を介す事でできあがる輪島塗のプロセスはこれまで仕上げの漆塗や加飾以外、表面上は全く見えなかった部分。その途中工程の器を製品にするチャレンジは輪島塗史上初めての試みです。
工程を6つに分解し、これまで可視化されていなかった職人たちの技術力がひと目でわかるよう、独立した6枚の器として完成させました。隈氏らしい、緻密な計算を経て6枚を重ねた時も美しい見事な「輪島塗」です。
この取り組みは、世界的に知名度が高い隈研吾氏を迎えることにより、日本が誇る輪島塗の素晴らしさを改めて世界に発信するために企画されたもの。
とりわけ台湾は、リサイクル輸送コンテナを使用した花蓮市のスターバックスの設計、勤美術館で開催された個展『隈研吾的材料公園』の成功など、近年、隈氏の話題が高まる地。さらに日本の漆器文化も取り入れながら発展してきた漆工芸の歴史、茶器や食器に縁の深い台湾茶道の存在、そして日本文化への深い理解などから、この輪島塗を自然に受け入れてもらえるはず。
そんな思いのもと、まず台湾で実験的に輪島塗を主役にしたレストランイベントを開くことになったのです。
今回、日本を飛び出した輪島塗は、どのような料理と出合い、世界の人々の目に、どう映ったのでしょうか?
【関連記事】DESIGNING OUT Vol.2
2020年2月。
台湾でも知名度が高い隈研吾氏プロデュースの器と、台湾ミシュラン2ツ星『祥雲龍吟』の料理がコラボレーションするイベントが開かれる旨がアナウンスされました。
ビッグネーム・隈研吾氏の名が呼び水となったのか、あるいは日本国指定の重要無形文化財である輪島塗が興味を呼んだのか。用意された席は、発売からわずか2時間で完売。『祥雲龍吟』のある台北からも遠いはずの台中や台南からのゲストも、こぞって限られた席を押さえました。
台湾の食材で、日本の技と心を表現する。そんな『祥雲龍吟』の持ち味ですが、今回はさらに器が生まれた輪島の地も大きなテーマ。稗田良平シェフはイベントに先立って輪島に足を運び、そこで景色や伝統、特産に触れました。
「能登空港に着陸する時、窓から景色を眺めていたのですが、山が深く高低差もあり、ここで生活することの大変さを感じました。きっと昔、冬の間は完全に雪で閉ざされていたのだろう、と」稗田シェフは輪島の第一印象をそう語りました。
しかしそれは、決して僻地へのマイナスのイメージばかりではありません。
「過酷な状況の中だからこそ、輪島塗を始めとした工芸品や、さまざまな郷土料理が生まれたのでしょう」そんな能登への敬意を胸に、地元生産者や工芸品に触れた稗田シェフ。そこからすでに、料理の着想は始まっていました。
輪島塗と能登の食材を起点に発想し、現地の体験でイメージを膨らませ、名店の技で仕上げる。果たしてどんな料理が生み出されたのでしょうか?
「私自身の輪島での経験を起点に、輪島と台湾の食材を組み合わせ、それを器のストーリーに繋げ、お客様に体験して頂くこと」稗田シェフは、今回の料理のコンセプトをそう語りました。それは料理や土地の食材と同様に、器への深い理解も求められる難しい工程。しかし輪島を体験した稗田シェフに迷いはありませんでした。
「今回のお客様はすべて台湾人。もし日本通の方が来られても知らないような輪島のローカルを届けたいと思ったのです」つまり稗田シェフが目指したのは、単においしい料理を提供するのではなく、料理という“メディア”を通して知られざる文化を発信すること。
「能登牛や鮑、赤ムツ、ホタルイカをといった有名な食材だけを使っても面白くありません。だからたとえば“鬼姫”と呼ばれる波の荒い場所でしか育たない海苔や、鯖と塩のみで作るという魚醤、藁で巻いて塩蔵した巻鰤など、ローカルなものを取り入れたかった。そして、そんな食材を、それにまつわる話も含め料理として提供したら、より輪島のことを知っていただけると思いました」
そして稗田シェフが仕立てたのは、輪島塗の工程を伝える6枚の皿、そのそれぞれを掘り下げるような料理。色や質感だけではなく、器の制作工程や受け継がれてきた伝統も考慮した内容。そこに現地に受け継がれてきた伝統的食材を合わせることで、時代を越えた能登の情景を皿の上に描き出したのです。
「木目と色合いに深みがある“木地の器”を、これから最盛期を迎える蓮の池に見立てました」
稗田シェフがそう説明する最初の皿。料理はドライエイジングした真鯛を台湾のレモンでマリネした海鮮。キャビア、海ブドウとともにナスタチュームの葉で包んで味わう仕掛けです。
続く“布きせの器”からは、能登の冬をイメージ。能登の厳しい冬を越すために生まれた伝統の塩鰤を取り入れ、柔らかい羽カツオを合わせました。
さらにゴツゴツとした質感とマットな黒の色合いに能登の磯場の情景を重ねた“下地の器“には能登の磯場で暮らす魚介類のお造りを、「光沢があり、水に触れるとまた違う美しさが見える」という“中塗りの器”には波をイメージし、台湾で旬を迎えている鰆の炭火焼を合わせた稗田シェフ。木を使った器に海や水のイメージを重ね、独自の世界観を構築します。
そして5枚目の皿は、稗田シェフをして「こんなに美しい塗りの器には出合ったことがない」と言わしめた“上塗りの器”。シェフはその驚きを表現すべく、油分のある液体を使って光を反射させることで、その赤い色合いを際立たせます。タタキのように仕上げた赤むつに台湾の馬告(マーガオ)という胡椒と一緒に発酵させたキャベツを合わせ、能登の伝統調味料である“いしる”で仕上げた一皿です。
最後の“加飾の器”は、輪島の餅と栗を使った甘味。シンプルな色彩の料理が、重厚な光沢ある器を彩ります。6枚の皿すべてにストーリーがあり、皿の上に広がる世界がある。料理が卓に届き、シェフが説明するたびに会場からは拍手と歓声があがり、ゲストたちは一皿一皿を写真に収めていました。
それはまるで、皿の上に能登の情景が浮かび上がるような料理たち。料理はできたてを味わうべき、と知る美食家のゲストたちですが、それを知ってもなお写真に収めずにはいられない美しさを感じ取ったのでしょう。
稗田シェフが仕立てた料理にはどれも、器そのものへの深い理解が垣間見えました。そして使用する食材や構成には台湾と能登への敬意が。
「輪島で出合った食材や工芸品はどれも素晴らしいものでしたが、それ以上に生産者の方々が印象的でした。みなさんご自身の扱う食材や商品に愛情を持って接し、それを通して能登の良さを多くの人に知ってもらいたい、という情熱があったのです」
食材や器のほか、テーブルセッティングに使用されたのは、輪島仁行和紙という海藻を練り込んだ輪島の伝統的な和紙。稗田シェフ自らが輪島の地で生産者と話し、その思いを汲み取ったこの和紙は、すべてのゲストが終演後にお持ち帰りになりました。この事実ひとつからも、ゲストがこの日を存分に楽しんだ様子が伝わります。
輪島塗を幾つも所有する蒐集家の方や食器好きのゲストは、事前にこの日の器について調べ、大きな期待とともに訪れたといいます。そしてもちろん『祥雲龍吟』と稗田シェフに惹かれた方々は、見事な料理に心打たれたことでしょう。
訪れた誰もが「大満足です」という言葉を残して会場を後にしたこのイベント。
稗田シェフも「台湾の人たちに輪島塗はとても人気です。しかし今回は、輪島塗の美しさだけでなく、工程や職人さんの思いにまで興味を持って頂けました。日本人としてとてもうれしい」と手応えを伝えてくれました。
そして稗田シェフ自身にとっても、今回の試みは大きな糧となったよう。イベントのあと、稗田シェフはこんなことを話しました。
「輪島塗は、これ以上進化の余地がないほど完成されています。それはこれまで輪島塗の歴史に関わってきた方々が、日々さらなる高みを目指してきたことの結果です。私も料理人として、毎日なにかひとつでもアップデートして、翌日を迎えたいと思っています。だからこの輪島塗には、とても共感できる部分が多くありました」
稗田シェフの料理を起点に、輪島塗の素晴らしさを伝えることができた今回のイベントは、輪島塗という日本文化のさらなる可能性を示しました。
海を越え、時代を越えてもなお人々を魅了する、美しき漆器。その確かな存在感は、食という舞台で、これからも価値を高めていくことでしょう。
毎年ゴールデンウィーク頃に開かれる日本一の桜まつり・弘前さくらまつり。人口約17万人の弘前市に、まつりの期間だけで例年200万人以上の人が訪れると聞けば、その盛り上がりようが窺えます。
残念ながら2020年の弘前さくらまつりは中止となってしまいましたが、お濠の向こうに咲き誇る桜が市民の心の支えとなったことは想像に難くありません。そしてさらに想像してみれば、遠くに見える桜の陰に、その美しさを守り続ける縁の下の力持ちが居ることもわかります。
それが今回の主役、桜守(さくらもり)です。弘前市の職員として弘前公園の桜を手入れする「チーム桜守」は約45名。そのひとりで樹木医である橋場真紀子さんに話を伺いました。
【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!
弘前城を中心とした弘前公園には、52品種、約2600本。例年4月下旬から5月上旬に見頃を迎える桜は、弘前のシンボルとなっています。この桜は、単なる春の風物詩として以上に、市民と深いかかわりがあります。
たとえば「不定期ですが、雪や寿命で倒れた弘前公園の桜を木材として使用しています」と話すのは、弘前市に工房を構えるオーダーメイド家具工房『木村木品製作所』の木村崇之さん。「桜の木自体は古くから家具造りに使われ、珍しいわけではありません。でもこれが弘前公園の桜になると、意味が変わってきますよね。楽しませてくれた桜を最後まで大切にしよう、というメッセージにもなります」と、桜への愛着を語ります。
開花の時期以外も、毎日弘前公園を散歩する人もいます。桜の景色を名物にするカフェやレストランもあります。「桜との繋がりが非常に強い市民。市職員に桜の管理をする係があること自体が、市民の理解があることの証明です」と橋場さんは話しました。
「桜を見に来た方には綺麗だな、すごいな、と思って頂ければ良いのですが、私たちは仕事ですから、葉の出方や樹勢、土壌の状態など、さまざまな点を注視しなくてはなりません」とプロの目で桜を見守る橋場さん。
「それでも満開の時期にはやっぱり圧倒されてしまいますが」と笑う橋場さんの物語を少しだけ紐解いてみましょう。
橋場さんは1973年、青森県大鰐町に生まれました。
「自然が当たり前にある環境で育ったからでしょうか」と、小さい頃から植物が好きで、成人後は弘前公園内にある植物園に就職。そこで経験を積み樹木医の資格を取り、やがて弘前市の職員となり、公園緑地課に配属されました。
「弘前公園が自分のフィールド。恵まれた環境だと思います」と自身の仕事への愛を語ります。
桜守の仕事は、一年中続きます。4月と5月は開花調査。花の咲き方、散り方を見て、今後に繋げる計画を立てるのです。「少し調子の悪いエリアがあれば、肥料の与え方などを変える。そして翌年以降に効果を調査する。地道な作業です」
6月になると土壌を調査するほか、新しい品種を作るための種の採取。夏には枝や葉をチェックし、病虫害の部分を剪定します。秋には極端に弱った木の土の入れ替えをし、冬は枝の雪下ろし。古い枝を落とし、若い枝を育てるための冬の剪定も大切な仕事です。そして1月には枝を加温して人工的に開花させることで、その年の開花量を調査し、3月からは開花を予想。どの作業も桜のために欠かすことのできない、大切な仕事です。
橋場さんに仕事で辛かったことを聞くと「ありませんね」ときっぱり。それでも「今年はさくらまつりが中止になって、改めて大勢の方がこの桜に関わり、待ち望んでいたのだとわかりました。早くまたみんなで楽しめたら良いですね」と思いを聞かせてくれました。
反対に仕事でうれしいことは「今年の桜は良いね、といわれること。市民の方は桜との思い出が多く、大切に見守っていますから、その言葉は重いですね」といいます。弘前の桜を守る、責任と誇りが垣間見える言葉です。
弘前市で桜が管理されはじめたのは昭和30年代から。手入れの方法や桜への思いを、脈々と引き継ぎながら現在に至ります。
その甲斐あって、通常は60〜80年といわれるソメイヨシノの寿命ですが、弘前公園には樹齢100年を越える木が400本以上。開花量も豊かな古木の存在が、日本屈指といわれる弘前公園の桜景色を生み出しているのです。
「弘前の桜を守るために仕事をしています。だから今の夢は、この景色を100年先まで繋げること」
桜を守るため日々努力する桜守の存在を思えば、来年の桜はいっそう美しく感じられるかもしれません。
住所:青森県弘前市大字下白銀町1 MAP
電話:0172-33-8739(弘前市公園緑地課)
https://www.hirosakipark.jp
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
ウエスト | 前ぐり | 後ぐり | ワタリ | ヒザ巾 | 裾巾 | 股下 | 胸当て高さ | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
W30 | 92.0 | 24.0 | 30.0 | 31.8 | 24.5 | 23.0 | 88.0 | 28.5 |
W32 | 97.0 | 25.0 | 31.0 | 33.4 | 25.5 | 24.0 | 88.0 | 30.0 |
W34 | 102.0 | 26.0 | 32.0 | 35.0 | 26.5 | 25.0 | 88.0 | 31.5 |
W36 | 107.0 | 27.0 | 33.0 | 36.6 | 27.5 | 26.0 | 88.0 | 33.0 |
W38 | 112.0 | 28.0 | 34.0 | 38.2 | 27.5 | 26.0 | 88.0 | 34.5 |
着丈 | 肩巾 | バスト | 裾回り | 袖丈 | 袖口 | |
---|---|---|---|---|---|---|
XS | 64.0 | 38.0 | 84.0 | 85.0 | 62.0 | 8.0 |
S | 66.0 | 41.0 | 90.0 | 91.0 | 63.0 | 8.0 |
M | 68.0 | 44.0 | 94.0 | 95.0 | 64.0 | 9.0 |
L | 70.0 | 46.0 | 100.0 | 101.0 | 65.0 | 9.0 |
XL | 72.0 | 48.0 | 106.0 | 107.0 | 66.0 | 9.0 |
XXL | 74.0 | 50.0 | 112.0 | 113.0 | 67.0 | 10.0 |