津軽ボンマルシェ津軽の歴史とともに歩んだ製鉄業。
「鬼に金棒」といったら、怖いもの無しの強さを表す言葉ですが、鬼と金棒は、思った以上に深く結びついている、と津軽の地に来て知ることになりました。
名峰・岩木山の麓には、製鉄遺跡が多数発掘された一大地帯があります。大半は平安時代からのものといわれていますが、同時代の日本の他の地域とは異なる、独自の形式を有する遺跡もあり、もっと古くから製鉄が行われていたのではないかと考えられています。
この地域に多く伝わるのが「鬼伝説」。点在する小さな神社の鳥居には、全国的にも珍しい「鳥居の鬼コ」と呼ばれる小さな鬼の彫り物がちょこんと鎮座している姿を時々見かけます。鬼コは悪者、怖い鬼というよりも、ちょっとユーモラスな明るい風貌で、地域を守る強く頼もしい神様のような存在として親しまれています。この辺りでは節分の時も「福は内、鬼も内」と言うそうです。この鬼というのが、鉄を扱う民だったのではないか、と伝えられているのです。炉の炎で顔を真っ赤にしながら、一心不乱で熱い鉄を打つ様子に、まるで鬼のようなパワーを感じたのかもしれません。
岩木山麓には「鬼沢」という地名もあり、そこには「鬼神社」という名の通り、鬼を祀った神社があります。「村人たちが水不足で困っていると、山から降りて来た鬼が一夜にして水路を作り上げ、田畑の開墾を助けた」という伝説が残っています。鬼神社の御神体はなんと鉄の鍬。拝殿には古い農耕具が飾られ、製鉄の技術が村人たちにとって大切なものだったことを物語っています。鬼(鉄の民)と金棒が村人たちの暮らしを支える、ありがたい存在だったのです。
一方で、弘前市内には「鍛冶町」という地名があります。弘前っ子にはお馴染みの、市内最大の繁華街。現在は飲食店が無数に軒を連ねる楽しいエリアですが、ここはかつての城下町であり、江戸時代初期には100軒以上の鍛冶屋が建ち並んでいたといわれています。当時、藩お抱えの鍛治職人たちは、戦となれば鎧や刀などの武器を製造。やがて農耕具や日用品なども作るようになり、明治時代になると軍用品などの注文を受け繁栄していたそうです。
こうした津軽の長い歴史の中に深く根付いている製鉄の技術や文化を、今に伝えている会社があります。それが、津軽藩政時代から350年以上続く伝統の鍛造技術を誇り、「津軽打刃物(つがるうちはもの)」を作り続けている『二唐(にがら)刃物鍛造所』です。以前に紹介した『カネタ玉田酒造店』も創業330年、同じ歴史ある老舗の職人同士だからか、玉田宏造氏も予てより吉澤氏と親しくしているとのこと。老舗酒蔵お墨付きの刃物となれば、一層興味は深まります。
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津軽ボンマルシェ苦手だったものづくり、努力と信念で受け継ぐ。
工場に一歩足を踏み入れると、轟々燃え盛る炎と、カーンカーンと響く音。ハンマーを打ち下ろすたびに、赤い火花が勢いよく飛び散り、そこには昔ながらの手仕事の姿がありました。職人たちはそれぞれの持ち場で黙々と手を動かしています。制作されているのは、主に包丁などの刃物。1200℃の炉で熱した鉄と鋼を叩いて接合する「鍛接」、鉄を叩きながら刃物の形を整えていく「荒延ばし」など、包丁作りには23もの製造工程があり、どれも神経を集中して行う、気の抜けない作業。精巧な、高い技術が求められます。
「私は手先が不器用で、実はものづくりはあんまり好きじゃないんです」と意外な一言を告げたのは、7代目代表の吉澤俊寿氏。青森県伝統工芸士であり、弘前市が創設した優れた技術者に認定される「弘前マイスター」にも選ばれていますが、寡黙な職人というより、明るく陽気でおしゃべり好きなイタリア紳士といった風情。ファッションにも関心が高く、昔は“ロン毛”だったとか。お洒落なメガネをコレクションしたり、その日の気分や服に合わせたり。読書が趣味で、さらにアート好きというのですから、こちらが勝手に想像していた鍛冶屋の印象がガラリと変わりました。
吉澤氏の祖父である5代目の故・二唐国俊は、日本刀作りの技術で数々の賞を受賞し、県無形文化財保持者である、優れた名工だったそう。叔父である6代目の故・二唐国次に後継ぎがなかったため、吉澤氏は中学生になると家業を継ぐ者として、夏休みには工場の手伝いをし、大学を卒業すると、22歳で本格的な厳しい修業に入ることになりました。
「先代は頭の切れる人で、みっちり仕込まれました。自分は苦手と思いながらも、一番長く苦楽を共にした人。今の自分があるのは、先代が厳しくやってくれたおかげです。本当に感謝しています」と吉澤氏は当時を振り返ります。
津軽ボンマルシェ鉄構事業がもう一つの柱となり、津軽打刃物は世界へ進出。
吉澤氏の修業時代は平坦な道ではありませんでした。時代と共に、世の中のニーズは刻々と変化し、代々伝わる刀づくりの技術を継承していきたい一方で、それだけでは売上は下がるばかり。吉澤氏は製造の傍ら、店頭に立って刃物販売のノウハウを身につけたり、飛び込みで営業したり。ありとあらゆることを実践し、会社を支え続けました。そうして鍛冶屋が衰退の一途を辿っていた頃、6代目が立ち上げたのは鉄構事業でした。長年受け継がれてきた金属加工技術を鉄骨製造に応用し、やがて事業の大きな柱となっていきます。建設現場の鉄骨から住宅用の防雪フェンスまで、多岐にわたる製造を請け負い、その仕事は弘前城をはじめとする文化財建造物の耐震補強や、ねぷた祭りの骨組み製作などイベント関連にも波及。近年では、東京の商業施設「GINZA SIX」の天井からぶら下がるアート作品の骨組みを製作したこともありました。吉澤氏も溶接管理技術者一級の資格を取り、自ら鉄構事業に関わるようになっていきました。
「現在のうちの売り上げの90%は鉄構事業なんです。この大きな支えがあるおかげで経営が安定し、歴史ある打刃物を途絶えさせることなく継承していける。一方で、津軽の伝統工芸である打刃物が広告塔となって、うちの事業に注目してもらえるのだからありがたいことです」
2008年より、弘前商工会議所による津軽打刃物のブランド化プロジェクトがスタートし、再び脚光を浴びることになりました。日本だけでなく、フランスのインテリア・デザイン系国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」やドイツで開催される世界最大級の消費財見本市「アンビエンテ」など国際的なイベントに刃物を出展する機会に恵まれ、海外からも高い評価を得ました。切れ味の良さやデザイン性の高さは、プロの料理人に支持されています。
常に外部へ情報発信することに努力を厭わず、自分たちでオリジナル商品を生み出していることも強みだという吉澤氏。特に「暗門(あんもん)」と呼ばれる独特の模様が入った包丁は自信作で、世界遺産である白神山地の麓にある「暗門の滝」をイメージし、揺らめく波紋の繊細で神秘的な美しさを表現しています。他にはない個性的なデザインが、海外でも大きな反響を呼びました。
「でも実はこれ、最初のインスピレーションはアンディ・ウォーホルが描いた、ジョン・レノンの絵がヒントなんですよ。僕はどっちも大好きで。ジョンのメガネの部分が波のような不思議な模様になっていて、そこからピンと来たんです」とお茶目に笑う吉澤氏。アートや音楽など幅広い分野に興味を持ち、あちこちにアンテナを巡らせて常に感性を磨いてきたことが、制作にも大いに反映されているようです。ストイックに技術を高めることももちろん大事ですが、幅広い視野を持つことが、新たな扉を開くと吉澤氏は説きます。
「ものづくりは苦手だけれど楽しいですし、すごく面白くてやりがいがありますよ」
津軽ボンマルシェ次の若い担い手へと引き継がれていく未来に向かって。
現在、刃物部門を牽引しているのは、いずれ8代目となる、吉澤氏の長男・剛氏。吉澤氏と嗜好が似ているのか、実は映画や小説が好きで、かつては小説家や脚本家に憧れていたこともあったそう。しかし6代目が亡くなる時、吉澤氏は病床に呼ばれこう遺言を授かったそうです。「剛を手元に置いて育って欲しい」。最初は興味がなかった剛氏でしたが、「3年目くらいから少しずつものづくりの魅力に気付き、面白くなっていった」といいます。転機が訪れたのは5年目のとき。頼りにしていた兄弟子が抜け、自分で全てを背負わなければならなくなり、納期に間に合わせるために夜中の3時まで必死で制作、納品したにも関わらず、ほとんど返品されてしまった、という苦い経験がありました。
「その時の気持ちは今も肝に銘じています。ものの品質を見る目、お客様の厳しさ。あの時は心折れそうになりましたが、ものすごく勉強させてもらいました。正直未だに自分のことは鍛冶屋だと思っていなくて、『これでいい』と思ったことはありません。まだまだ未熟者です」
一方で三男の周氏は「兄貴が大変そうだったので、助けになればと思って入りました。高校時代にインターンシップで試しにやってみたら『腕がいい』と言われ、やる気が出たんです。自分の成長を楽しみながら続けていきたい」と明るく話します。地域おこし協力隊として、20代で県外からIターンでやって来た花村氏と丸山氏は、13名の応募者から選ばれたという精鋭。花村氏は以前より趣味で金属加工や刃物などをつくっていたそうで、実用刃物をもっと追求していきたいと職人魂をみせています。手先が器用で時計修理技能士の資格も持つ丸山氏は東京から家族みんなで引っ越して来たそうで、仕事への強い思いと覚悟を感じます。
「彼ら3人が来なかったら、自分はもっと未熟だったと思いますし、お互いに刺激を受けています。自分が教えるなんてまだまだおこがましい立場ですが、先輩として負けてはいられないという気持ちです」と剛氏は話します。
剛氏の次なる目標は、日本刀をつくる「刀匠」を目指すこと。そして「津軽の刃物の知名度をあげ、その魅力をもっと広く世界へ伝えていきたい」と真摯に語ります。吉澤氏は、剛氏を中心とした若手世代が安心して前に進みやすいように、「後ろから後押しすることが自分の役目」だといいます。そして、「一生懸命やっているならそれを認め、見守り、口出しはせず、経済的なサポート体制を整えることが私の仕事です」と続けてくれました。
先祖代々が苦労して続けて来た永きに渡る伝統の炎を決して絶やしてはならない。その言葉には、ひたむきな思いとともに、次の担い手へと手渡され、さらにその先の未来へ続いていくことへの揺るぎない決意が感じられるのでした。
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