津軽ボンマルシェたくさんの菓子屋が軒を連ねる城下町、弘前。
城下町と呼ばれるところには、昔ながらの和菓子屋が変わらぬ姿で残っていることがよくありますが、ここ弘前もそんな町のひとつです。城あるところ、銘菓あり。今や弘前はお菓子の町と言ってもいいくらいに、古き良き素朴な餅菓子を売る和菓子店はもちろんのこと、津軽のりんごをふんだんに使ったモダンなアップルパイを出すパティスリーまで、新旧、和洋、様々なタイプの店が、町中に無数にひしめいています。それでいて、どの店にもさり気ない中に個性があり、それぞれの良さが感じられるのです。弘前城の裏鬼門といわれる南西方向には、全国的にも珍しい、禅林街と呼ばれる33もの寺院が一同に集まるエリアがあり、そういったことも弘前の菓子文化が発達したひとつの所以ではないのでしょうか。お菓子好きにとっては、これ以上ワクワクする場所もなかなかありません。
寛永7年(1630年)に創業した、東北でも特に古い歴史を持つ『御菓子司 大阪屋』は、そんな弘前という町を代表する和菓子店のひとつ。弘前城のある弘前公園から、徒歩4、5分のところにある店は、蔵造りの風格ある門構えが老舗の重みを感じさせます。
店には、冠婚葬祭や様々な行事のおつかいものにと由緒ある菓子を求める客がいる一方で、日常のおやつとして、気軽に1個、2個と買いに来る、ご近所さんもいます。以前に紹介した『カネタ玉田酒造店』の玉田宏造氏も御用達だそうで、「歴史を感じるどっしりとした店構えで、弘前を代表する大店です。全てにおいて感嘆するばかり」と称賛しています。弘前の和菓子文化の重鎮的存在ともいえるこの店から、一体どんなお菓子が生まれてきたのでしょうか。
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津軽ボンマルシェ京都で修業し、300年を超える伝統の技を受け継ぐ。
言い伝えによると、『大阪屋』の先祖はかつて豊臣家の家臣だったそうで、大坂夏の陣、冬の陣に敗れた際に、縁を辿って弘前までやってきました。その後は津軽藩2代目藩主・津軽信枚(のぶひら)の命で、藩御用達の菓子司として仕えたといわれます。初代・福井三郎右衛門から現在までのおよそ390年、その味と技は受け継がれています。
13代目として生まれた福井清氏は、子供の頃から菓子作りの現場を身近に見て育ちました。
「昔から甘いものは大好きでしたよ。子供の頃は、羊羹の切れ端をよくもらって食べていました。枠に流して固めた羊羹を切るときに、両サイドから細い切れ端が出るんですね。それをたくさんまとめて厚くしてパクッと。味は一緒ですからね」と笑いながら話してくれます。小さな頃から祖父母には「おめえはここを継ぐんだよ」と耳にタコができるほど言われていたそうですが、実際にお菓子を作ったのは、大学を卒業し、修業に出てから。4年間修業した、京都の老舗『亀屋清永』でのことです。
「私らの時代は丁稚奉公で、“昔は見て覚えろ”の世界。『菓子屋のせがれが餡玉(練り切りなどの芯になる部分、和菓子のベース)も作れないのか!』なんて怒られましたが、本当に何にも知らなくてね。1度に200、300とたくさん作るんですけど、均一の大きさでつるっときれいに丸くならないといけない。時間はかかるわ、凸凹になってしまうわで、何度も『やり直し!』と叱られて。だから、人が見ていないところで必死に練習しました。でも作ることは基本的に嫌いじゃなく、苦ではなかったですね。むしろ、お菓子作りは性に合っていたのか、楽しかったですよ。修業先の旦那さんには本当に良くして頂き、感謝しています」
京都では様々な経験をさせてもらったことが良い思い出として残っている、という福井氏。菓子だけに偏らず、幅広くいろんなものの世界を見ることで勉強させてもらったそう。例えば着物の新作発表会に出かければ、その絵柄や図案が、菓子作りのアイデアのヒントとして役立ったのだそうです。祇園の祭りに参加したり、神社の手伝いをしたり、京都の文化を肌で感じることも多く経験しました。それらの学びは、『大阪屋』の菓子に通じるどこか優美で気品ある風情と、芯の強い職人気質なものづくりのベースとなっているのかもしれません。
津軽ボンマルシェ江戸時代の伝統菓子を今に伝える「竹流し」と「冬夏」。
元は砂糖蔵だったという建物を改装し、現在は菓子作りの工房として活用している『大阪屋』。中へ入ると数人の職人たちが黙々と作業を行なっていました。この日作られていたのは、『大阪屋』を代表する銘菓の一つといわれる「竹流し」。薄く繊細な短冊状で、パリパリとした軽い食感、噛むほどにふわりと蕎麦粉の香ばしい風味が感じられる上品な味わいの焼き菓子です。その名の由来は、4代目の福井三郎右衛門包純(かねずみ)が、いまはなき西目屋村の金属鉱山・尾太(おっぷ)鉱山で行われていた、青竹の節に金を流す様子からヒントを得て創作したといわれます。うっすらと焦げ目の付いたベージュの焼き色は、磨く前のくすんだ金の姿を表しているとか。時の津軽藩主へ献上し、大変喜ばれたと伝えられており、この土地らしい歴史を感じさせます。
「竹流しは、実は一番手間のかかるお菓子なんです」と福井氏。材料は小麦粉と砂糖蜜、そして蕎麦粉だけ。ごく限られた材料だけに職人の腕が頼り。作り方は昔からほとんど変わっていません。
「西目屋は古くから蕎麦の産地で、昔の菓子屋は蕎麦も打って藩に献上していたそうです。めん棒一つでなんでも作るんですね。でも蕎麦粉と砂糖蜜をこね、めん棒で伸ばして竹流しを作ろうとしても、なかなかうまくいかなかった。4代目は随分と研究したようです。そこで小麦粉を入れて薄く伸ばし、最後に蕎麦粉を手粉で振って焼くことで良い香りを出しています」
伸ばした生地は小さな短冊状に切りそろえ、鉄板に並べてオーブンで焼きます。この作業がまた気を抜けません。薄い生地はあっという間に焼けていきますから、オーブンからいっときも目を離さず、火加減とにらめっこしながら、一番いいタイミングで火から下ろすのです。季節、天候や生地の状態によって焼き具合は変わってくるし、オーブンの癖もあるため、毎回一斉に焼きあがるわけではありません。鉄板にずらりと並んだ短冊生地から、ちょうど良く焼けた順に、微妙な時間差で1枚1枚選び取っているのです。職人の経験と勘がものをいう作業だからこそ、機械化が難しいのです。
「焦げ過ぎや、焼きむらのあるものは商品にできないので外すのですが、実はこのちょっと焦げ過ぎのものも結構おいしいんですよ。外には出回らない、職人だけのおやつです」と手渡してくれたのは焦げ目の付いた熱々の一枚。パリッとかじってみると、焼きたて独特のコクと深い香ばしさに包まれ、確かにこれはついつい手が伸びてしまいそうです。
江戸時代の技術を引き継いでいる菓子のもう一つに、「冬夏(とうか)」があります。名前の由来は、大坂夏・冬の陣で戦に敗れたことを忘れてはならない、という戒めの意味があるとか。和三盆に包まれた繭のような形をしており、ほんのり甘くサクッとした食感の軽焼で、かつて4代目が江戸で習い、覚えてきた菓子だそうです。当時は全国的に流行っていたらしいのですが、何分長い時間と手間を要する製法のため、現在作っている店もごく僅かで、ほとんど廃れてしまったといいます。
「だいたい出来上がるまで3〜5ヶ月くらいかかります。餅米に砂糖を入れたタネを仕込んでから数ヶ月かけて乾燥させ、じっくり熟成させる必要があるのです。タネを作ってすぐ焼くと、中がスカスカのがらんどうになってしまうんです。時間をかけて良い具合に乾燥させたものは、中がみっしり詰まって、ふわふわの心地よい食感になります」
その年の気候や米の品質、熟成具合でタネの様子が変わるので、ひとつは失敗してもいいよう1回につきふたつのタネを仕込まないといけません。福井氏は子供の頃、冬夏の失敗作を離乳食にして食べていたという、思い出があるそうです。
「手間のかかる菓子ですが、作り続けていかないと職人の腕が衰えてしまう。ご先祖様が習い覚えてきた技術を途絶えさせたくはありません。私たちが続けていくことで、江戸時代から伝わる和菓子の文化に少しでも興味を持ってもらえれば」と控えめな口調ながら、思いを込めて語ってくれました。
津軽ボンマルシェ目新しさでなく、他では真似できない唯一無二を追求。
2019年11月より翌年3月まで、弘前市誕生130周年記念として、市立博物館で「殿さまのくらし―五感で味わう大名文化―」という企画展が行われました。実は弘前藩9代目藩主、津軽寧親(やすちか)は菓子に関心が高く、本人お手製の菓子を周りに振る舞っていた、という記録もあるそうで、藩主と菓子の関わりが紹介されました。福井氏も、江戸時代の菓子の再現や、その解説を行うために登壇するなど、この企画に協力したそうです。
「殿様がカステラや饅頭を作って配っていたそうなんですが、昔のカステラの配合表を見ると、今のようにしっとりしていなくて、パンみたいに硬いんです。この時代の菓子文化を改めて深く知ることができて、私もすごくいい勉強になりました。大勢の人の前で話をするのは、どうなることかと冷や汗をかきましたがね」
時に古い時代の菓子を復元することはあるけれど、『大阪屋』では新商品と呼ばれるような目新しい菓子はそうそう作りません。見ればホッとするような、馴染みの菓子が店に並び、ずっと変わらない様子が、『大阪屋』らしい魅力でもあります。それらはシンプルな素材で一見地味ですが、伝統を受け継ぎ、昔ながらの手法で、職人の丁寧な手仕事が細部まで行き届いた、他では食べられない唯一無二の菓子なのです。竹流しや冬夏は、かつては代々跡を継ぐ長男だけに製法を伝えられる秘伝だったそうですが、現在は若いスタッフの誰にでも作り方を教えているとのこと。伝統の味を次の時代へ残していくためにはそうする必要があるという福井氏の思いがあります。
「新しいものを作るのも手だとは思うのですが、菓子屋には、その店の味というものがありますので、私たちは長く受け継がれてきたうちの味を大切にしたいのです。お客さんには『おいしかった』とか、『綺麗だね』と言われたら、もうそれだけで十分に嬉しい。割と単純ですよ。いつもご先祖様に感謝して、この店を守り、地道に続けていくことで、和菓子業界に少しでも貢献できればありがたいと思っています」
終始穏やかな優しい口調で話す福井氏。しかし、そこにはお菓子への深い愛情と職人の誇り、そして先人への感謝の気持ちが一言一言に深く重く滲み出ていました。
住所:青森県弘前市本町20 MAP
電話:0172-32-6191
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