津軽のアートの未来を担う美術館。場所に息づく100年の物語をひも解く。[TSUGARU Le Bon Marché・弘前れんが倉庫美術館/青森県弘前市]

取材当日、勤務中だったスタッフに集まってもらい記念撮影。この記事の主役は、彼らのような関係者、そしてこれまでこの場を作り育ててきた弘前の市民や文化人だ。

津軽ボンマルシェ市民に愛された「レンガ倉庫」の記憶を、美術館として継承する。

つい先日の7月11日、弘前市に新たなスポットがグランドオープンしました。本来は今年の春に開館予定だった『弘前れんが倉庫美術館』。新型コロナウイルスの影響で開館延期となり、6月のプレオープンを経てからの全面オープンは、津軽にとって明るいビッグニュースとなりました。印象的なのは、味のある赤色のレンガ造りの建物。完成したばかりにもかかわらず、昔からあるような落ち着いた佇まいで周囲に馴染む理由には、元々この場所が弘前市民から赤壁の「レンガ倉庫」と呼ばれ親しまれてきた歴史があります。

建築設計者は、次世代を担う若手建築家として、世界各国でプロジェクトを手掛ける田根剛氏。代表作の『エストニア国立博物館』では、旧ソ連時代の負の遺産であった軍用滑走路を美しい文化施設に生まれ変わらせ、国際的な評価を受けています。その土地に代々積もり重なってきた「場所の記憶」を掘り起こし、その精神性を未来へ繋げていく──。そんな田根氏の手法は、今回の『弘前れんが倉庫美術館』でも一番大切にされたことでした。たとえば、この建物のアイデンティティともいえるレンガ。温かみのある赤い外壁は残され、蛇腹状に積んだ新しいレンガ壁を付け加えることで、建物の顔となるエントランスのアーチが作られました。また、通常はいわゆるホワイトキューブ=白い立方体で構成される展示空間も、ここでは一部、白ではなく黒に。タールが塗られた黒い壁をあえて残し、美術館としては異色の“ブラックキューブ”をメインの展示室としています。

建物に残され、継承された「場所の記憶」。そのルーツは100年以上も前の明治・大正期まで遡ります。歴史を紐解くと現れるのが、りんごやシードルといった現代の津軽を象徴するキーワードの数々。そしてこの建物に関わってきたたくさんの人々の想いです。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

弘前市初の公立美術館。レンガ壁を保存すべきという田根氏の意志により、元々の壁に長さ9メートルの鋼棒(こうぼう)を打つ高度な耐震補強が施された。

美術館のシンボルが、シードルをイメージした“シードル・ゴールド”の屋根。1万3000枚もの特注チタン製プレートは、天気や時間によりさまざまな色合いに変化する。

田根氏により「弘前積みレンガ工法」と名付けられた独特なレンガ使いのエントランス。古いレンガ壁に合わせ、新しく付け加えた部分にもあえて色むらやゆがみを出した。

黒い壁と天井高が圧倒的な吹き抜けの展示室。奥はタイ出身ナウィン・ラワンチャイクンによる大型作品《いのっちへの手紙》2020年。手前は尹秀珍《Weapon》2003-2007年。

津軽ボンマルシェ津軽のものづくりの歴史の真っただ中に、この倉庫があった。

レンガ造りの建物が建てられる前、ここ弘前市吉野町はりんご園が広がる土地でした。今でこそ津軽の名産品であるりんごですが、当時は栽培が始まったばかり。園主の楠美冬次郎は、りんごの普及に努めたレジェンドとして知られています。その後、土地を譲り受けた実業家・福島藤助により、日本酒醸造のためのレンガ倉庫群が建設されたのは1910年代から1920年代にかけて。当時、最先端の技術や設備を備えた醸造所は県随一の製造量を誇ったそう。「この時代に一番頑丈とされた建材がレンガでしたが、費用も相当なもの。安価な木造にすればいいと止めた人もいたといわれています」。当時の逸話についてそう教えてくれたのは、現在美術館の運営統括を務める小杉在良氏。「それでも福島さんは『これは自分の子孫のために造るのではない。もし事業が失敗しても建物が残れば、街の将来のための遺産になる』といって聞き入れなかったそうです」。

関東大震災や太平洋戦争といった激動の時代を経て、レンガ倉庫に活気が戻ったのは1950年代。酒造会社の代表だった吉井勇が『朝日麦酒』(現アサヒビール)との連携により、日本初の大規模なシードル工場として操業を開始。りんご産業を活性化させ、地元に貢献したいとの想いから生まれた「朝日シードル」は、大きな話題を呼びました。1960年には『ニッカウヰスキー』にシードル事業が譲渡され、「ニッカウヰスキー弘前工場」として操業をスタート。しかし、1965年の工場の移転に伴い稼働が止められると、一時的に政府米の保管用倉庫に。長く“ものづくりの場”として認知されてきたこの場所には、静かな時間が流れるようになります。

街のシンボルであるレンガ倉庫に再びものづくりの火が灯ったのは、弘前市民の働きかけがきっかけでした。1980年代には美術家を中心としたグループにより、倉庫を美術館にする働きかけが起こるなど、その活用方法が議論され始めます。そして大きな転機となったのが2002年。弘前市出身の現代アーティスト、奈良美智氏による個展「IDON’T MIND,IF YOU FORGET ME.」の開催です。

福島藤助の時代に形成されたレンガ壁には、絶妙な趣が。当時はこの壁のため、専用のレンガ工場を建設。数年がかりで建物を作る、大がかりな事業だったといわれる。

受付スタッフの制服にも、津軽のものづくりの技術が。襟元には「弘前こぎん研究所」によるこぎん刺しのブローチ。胸元のロゴは市内の刺繍店「東北シシュー」が手掛けた。

エントランスに鎮座する奈良美智《A to Z Memorial Dog》2007年。 2006年の個展後、展覧会をサポートした地域のボランティアのために制作、奈良氏から弘前市に寄贈された。

運営統括の小杉氏。弘前大学在学中、奈良氏の個展の運営に参加したことがきっかけでNPO法人『harappa』メンバーに。その後も津軽のアートシーンに関わってきた。

津軽ボンマルシェ“奇跡の展覧会”が築いた、弘前のアートの地盤。

大型の美術展としては規格外のことだらけだったこの個展は、今も弘前で伝説的に語り継がれています。始まりは、レンガ倉庫を管理していた『吉井酒造』の社長(当時)・吉井千代子さんが書店で見かけた奈良美智氏の作品集でした。吉井さんと奈良氏の出会いにより、このレンガ倉庫で奈良氏の個展が開催されることが決まります。ゼロの状態からスタートを切った個展でしたが、吉井さんから相談を受けた青森県立美術館の学芸員(当時は準備室)や弘前大学の教授の働きかけにより、市の商工会議所や商店会が始動。ボランティアの市民で組織する実行委員会を立ち上げ、運営が行われました。蓋を開けてみれば、集まったボランティアの数は450人以上。当時の人口が17万人程度だった弘前市において、51日間の開催期間中5万8000人以上の入場客を集めたほか、公的な助成を受けずに運営され、展覧会は異例の成功をおさめたのです。

弘前のアートの灯を繋ぐべく翌年誕生したのが、アート系NPO法人『harappa』。その後も2005年の「From the Depth of My Drawer」展、2006年の「YOSHITOMO NARA + graf A to Z」展と2度に渡り奈良氏の個展の開催をサポートします。現職の前に『harappa』事務局員を務めていた小杉氏は「倉庫オーナー・吉井さんの活動から始まり、市民が関わって実現させた最初の展覧会では、美術専門家の参加はほんのひとにぎりでした。自分たちで作った新しいアートの場、そういう市民の想いがこの場所の根幹となり、今の『弘前れんが倉庫美術館』のスタートになったのだと思います」と語ります。

奈良氏の個展終了後も、展覧会や映画上映会、ワークショップなどを開催しつつ、活動を続けてきた『harappa』。美術館の開館準備期間には市民を巻き込んで「れんが倉庫部」なるグループを立ち上げ、レンガ倉庫の歴史やエピソードを探って成果展示を行いました。ちなみに以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した『蟻塚学建築設計事務所』の蟻塚学氏や、家具工房『イージーリビング』の葛西康人氏、『弘前シードル工房kimori』の高橋哲史氏は、家具やプロダクトの開発など、これまでさまざまな企画を共同で行っていますが、そのきっかけとなったのも『harappa』での出会いだったと聞いています。『harappa』は津軽のアートシーンのパイオニアとして、今もものづくりに関わる人々を支える組織となっています。

美術に関する書籍、展示に参加している作家の作品集のほか、津軽の歴史や文化について書かれた書籍が並ぶ美術館2階のライブラリー。どれも自由に閲覧が可能だ。

『CAFE & RESTAURANT BRICK』はシードル工房も併設。『弘前シードル工房kimori』や『ガルツ』、『もりやま園』などのさまざまなシードルの飲み比べもできる。

『CAFE & RESTAURANT BRICK』のテーマは、幅広い年代が集う“弘前のファミリーレストラン”。特別感のある料理を目当てに、ここを目指して訪れる市民も多い。

美術館のオリジナルグッズのほか、『ヨアケノアカリ』や『スノーハンドメイド』の雑貨、『岩木山の見えるぶどう畑』や『おぐら農園』のジュースなど津軽の良品を揃える。

カフェ併設の『A-FACTORY 弘前吉野町シードル工房』は、青森市『A-FACTORY』の2つめの醸造所。今後は順次ラインナップを増やしていく予定だそう。

津軽ボンマルシェ未来の弘前市民へバトンを繋ぐ。それがこの美術館の役割だから。

2015年に弘前市が買い取った「レンガ倉庫」は、2017年に市民のための芸術文化施設とされることが発表され、翌年には正式に『弘前れんが倉庫美術館』という名称が決定。ものづくりの場として受け継がれ、津軽にアートの火を灯し、数々のエポックメイキングな出来事とともに存在してきたこの場所は、田根氏の設計によってその記憶を宿したまま、未来へ開いた新たなスポットに生まれ変わりました。

「実際に人が入ると館内の雰囲気が明るくなって、建物に息が吹き込まれたような感覚に。『初めて来たのに懐かしい』、そんな感想も多くいただきます」と感慨深く話すのは、広報の大澤美菜さん。“不要不急”が叫ばれた新型コロナ渦では、「美術には何の意味があるのか」を問う日々だったと語ります。6月頭から弘前市民のみを対象とするプレオープンを決めた際も、万人に開かれるべき美術館という場で対象を制限することに、スタッフ内で議論が起こったそう。「でも、ずっとこの建物に向き合ってきた田根さんから『市民のための美術館でもあるので、まず市民から観ていただきましょう』と言っていただき、少しホッとしました」と小杉氏。「オープンしてみたら、みなさんが美術館の完成を自分ごとのように喜んでくれて。とてもうれしかったです」と続けます。

開館を記念した最初の展覧会のタイトルは「Thank You Memory ―醸造から創造へ―」。建築同様、記憶の継承に焦点をあてたこの企画には、弘前市民が制作に協力した作品や、倉庫に残されていた古い建具や資材を取り入れた作品、倉庫の改修工事の過程を記録した作品など、8人のアーティストと弘前の街のさまざまな要素が交錯します。吹き抜けの展示室にあるナウィン・ラワンチャイクン氏の作品《いのっちへの手紙》は、弘前のねぷたを模した全長13メートルの扇形の大型絵画。登場人物は過去と現在の弘前市民たちです。りんごの普及に努めた楠美冬次郎やレンガ倉庫を建てた福島藤助、シードル造りを始めた『吉井酒造』の人々……。「ここは彼らのように、私利私欲よりも人のためを想い、行動した人たちが作り上げた場所なんです」と小杉氏。「開館を延期中、ドイツのメルケル首相が『新型コロナ禍でも多彩な文化が存在し続けることが大事』と話しているのを見て、それこそが我々の役割なのだと。ちょうどこの建物ができた頃も、スペイン風邪が大流行した時代でしたが、バトンは今に繋がっている。それを途絶えさせないようにしていきたいと思います」。

今から100年前、ここが津軽の芸術文化の中心地となると予想できた人はいなかったでしょう。歴史をたどると、静かに積もり重なった多くの人々の想いが、美術館の実現を引き寄せたようにも思えます。さて、あなたがここに立つときは、どんな想いに包まれるでしょうか。そのとき、あなたもまた弘前の時間軸、土地の記憶の一部となり、未来を作る一部となるのです。

畠山直哉×服部一成《Thank You Memory》2020年の一部。コラージュされた田根氏のスケッチには、この建築の目指す姿が「MORE HISTORY」と表現されている。

「ここには、誰でも気軽に入れる緑地やライブラリーもあります。刺激を受ける場、クリエーションの場として使っていただけたら」と広報の大澤美菜さん。

ショップでは奈良美智氏のグッズも期間限定で販売、人気を博す。過去に3度個展を開いたこの場所と奈良氏の繋がりは、やはり特別なもの。

住所:青森県弘前市吉野町2-1 MAP
電話:0172-32-8950
https://www.hirosaki-moca.jp/
※開館記念プログラム「Thank You Memory ―醸造から創造へ―」は2020年9月22日までの開催。

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社