美会コロナ禍のオープン。すべてが変わった『美会』の10ヶ月。
2020年6月、銀座7丁目の路地裏に一軒のワインバーがオープンしました。店の名は『美会(びあ)』。銀座の中心にあって、夜中でも人が集えて美味しい料理と酒に出会える店。そんなコンセプトを店名に込めた店は、実に前途多難の船出となりました。オープンしたのは1回目の緊急事態宣言が解除された直後。どの飲食店にも苦しい状況は変わりませんが、こと『美会』に関しては、新型コロナウイルスの影響で店のコンセプトすら崩壊しかねない状況でした。
それでも『美会』は、確実に前を向いて進んでいきます。日本を代表する名店とのコラボ弁当の販売、アラカルトを止めコースの一本化。さらに、料理長の交代、オープン半年にして店の大胆なリニューアル、日本一予約が取れない焼鳥店として知られる『鳥しき』とのコラボランチの開始……。あらゆる手を打ち、店を存続させてきた店が、2021年3月にひとつの決断を下します。
「こんなときだからこそ、飲食店として、『美会』としてやらないといけないことがある、やるべきことがある」。
それがコンセプトの一新でした。オープンよりおよそ10ヶ月。激動の時を経て、コロナ禍だからこそ自分たちがやるべきことを突き詰めた『美会』のいまに迫ります。
美会料理人の間でも愛される美食家が『美会』を開くまで。
『美会』という店を紐解くにあたり、まずこの店のオーナーの存在を知る必要があります。その人物こそ通称ビア、本名をピーラゲート・チャロンパーニッチといいます。料理人の間ではその名の知れた美食家でもあるビア氏は、タイ・バンコクの出身。幼い頃から日本の文化に興味を持ち、2006年に来日すると立命館アジア太平洋大学に入学、卒業後は日本の貿易会社、トリップ・アドバイザーでの勤務を経て、通訳や翻訳業のフリーランスとして活躍するようになります。そのビア氏に転機が訪れたのはおよそ10年前。あの『すきやばし次郎』の映画『二郎は鮨の夢をみる』がきっかけでした。ビア氏は、アメリカでも極めて高い評価を得たその映画を見た海外の友人から、こんな依頼をされたそうです。
「『すきやばし次郎』の予約をとってくれないか」
ビア氏は朝一番で並んで『すきやばし次郎』のプラチナシートを予約したといいます。すると、今度は「『鮨さいとう』が食べてみたい」「『すし匠』も行ってみたい」「『都寿司』も(移転前の『日本橋蛎殻町すぎた』)」とオファーが舞い込むようになったといいます。
「もともと自分は日本の文化が大好きで来日したんですが、いろんな店に一緒に食べにいくようになって、職人の仕事そのもの、特に寿司や日本料理の料理人の仕事に惹かれるようになったんです。自分のなかでは、はじめは“食べに行く”というより、職人さんに“会いに行く”ようなイメージ。僕のレストラン巡りはここから始まりました」。
それからおよそ10年、現在では全国の名店をめぐり、日本を代表する美食家となったビア氏。ではなぜ、そのビア氏が『美会』をオープンしたのかといえば、「それは本当に偶然だった」といいます。
ビア氏が、現在の『美会』のある物件と出会ったのは2019年12月のこと。知人から「銀座にいい物件があるんだけど、何かやってみない?」との何気ないひとことが引き金となりました。銀座といえば、ビア氏にとっても憧れの地。銀座に空いた物件の話が表に出てくること自体が珍しく、しかも、7丁目の路地裏にある一軒家という奇跡的な条件。ビア氏は考え抜いた末、この話を引き受けることにしました。
銀座といえば日本の一流の店が集まる美食街ながら、ビア氏が納得できるような、夜中まで美味しいものに出会える店は少なかった。ビア氏はそこに目をつけました。
「銀座には一流の料理人さんの友達がいっぱいいます。そんな料理人が仕事帰りに美味しい料理とお酒にありつける店にしたかったんです。夜な夜な料理人が集まってきて、みんなと一緒になってワイワイ楽しめる店にしたかった」
料理は、ビア氏ががこれまでに全国を食べ歩いて築き上げてきた、料理人や生産者とのパイプを活かし、全国の名だたる食材を使用したアラカルト。深夜でもワイン一杯から楽しむことができ、誰もが気軽に通える。いわゆる古臭い言葉ですが、味を知る大人の社交場のような店にしたかったのだそう。
美会前途多難。皮肉にもオープン予定日は、緊急事態宣言発令日。
しかし、新型コロナウイルスがすべてを台無しにしたのです。そもそも当初予定していたオープン日が2020年4月7日。皮肉なことに、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言が発令された日でした。当然オープンは先延ばしになります。それでもビア氏には「オープンしたらなんとか客がやってきてくれるだろう」という気持ちもあったといいます。ところが蓋を開ければ、緊急事態宣言解除後も元には戻りませんでした。とりわけ、日本の他のエリアに比べても夜の銀座は、劇的に人通りが少なくなったのですから当然のことでした。それだけではありません。当初掲げたコンセプトからして、withコロナの時代には逆行するものになってしまいました。銀座の料理人が仕事終わりにワイワイ楽しめる店、深夜でも美味しい料理と酒にありつける店というコンセプトは、時短営業が余儀なくされ、密が避けられる状況では破綻しています。
さらに追い打ちをかけたのは、『美会』が新店であること。営業自粛、時短営業をしても、前年の売上実績がない『美会』には国からの協力金が支払われないのです。かさむ人件費、大きな負担になる家賃。オープン直後の6~7月は、店を開ければ開けるほど赤字になりました。迎えた9月には、今度は料理長の持病が悪化し、新たな料理長に交代することになります。当然ながらそこで料理も変更せざるを得ませんでした。
ところがこのあたりから、少しずつ『美会』の巻き返しが始まります。料理長の交代を機に、日本料理の王道をリスペクトしながら、日本全国の最高級の食材をかけ合わせた、ここでしか味わえない料理を提供するように。11月には店舗を思い切ってリニューアルすると、徐々に客足も戻ってくるようになります。そして、ビア氏は次なる一手を打ちます。
日本一予約が取れない焼き鳥店『鳥しき』とのコラボランチを始めるのです。それこそが現在の『美会』のコンセプトにも通じる「カオマンガイ」の提供でした。これがスマッシュヒットとなり、『美会』の大きな道標となりました。
「カオマンガイ自体はタイ料理ですが、『鳥しき』さんや日本料理の技術、食材を活かすとすごく洗練された味になり、人気が出た。だったら僕の目線でほかのタイ料理も、『日本の食材を使った日本でしか食べられない料理にしたらどうだろうか』と考えたんです」。
美会日本の食材を活かした新しいタイ料理のあり方。
そして、『美会』は新たな道を進むことになります。
夜遅くになっても美味しい料理と酒にありつける店ではなく、『美会』でしか味わうことができないタイ料理を追求すること。岐阜のジビエ、気仙沼の鱶鰭、豊洲『やま幸』のマグロや、『旭水産』の白身魚、『川岸牧場』の神戸牛……。これまでビア氏が全国を食べ歩いてきたなかで築き上げた料理人や生産者とのパイプ・ネットワークを活かして仕入れる、日本全国の最高級の食材をタイ料理に。取材日、『美会』で供されたのは、まさにここでしか味わえないタイ料理になっていました。
たとえば、コースの幕開けとなる生春巻き。つけダレは、和の出汁にわずかにナンプラーを加え、コブミカンの葉で香りをのせてジュレ仕立てにしています。巻かれているのは黄色人参、新生姜、キュウリ、鴨肉など。しかも、この鴨肉がただの鴨ではありません。ミシュランの星付きフレンチなども使う、岐阜のハンターから直接仕入れる極上の鴨肉だというのです。「トムヤンクン」に使われる魚介類も、日本を代表する名店のものと同じ。豊洲『旭水産』より仕入れる天然蛤や車海老、鯛が、丁寧に取られた魚と蛤の出汁に。レモングラスやガランガル(タイの生姜)、コブミカンの葉といったハーブのニュアンスを感じさせながら、実に優しいトムヤムクンに仕上がっています。
「タイは暑い国だから、日本のようによい食材がとれない。だから、ハーブやスパイス、辛さや甘さを重ねた料理ができたとぼくは思っています。それを日本の本当にいい食材を使うと、まったく料理に対するアプローチが変わってきます」。
これでもかという素材を活かしつつ、香草を加えたり、スパイスでアクセントを足したり、和の調味料や技法を交えたり、緩急自在に『美会』の料理にタイのエッセンスを纏わせる。ありそうでなかった新しいタイ料理の形。『美会』でしか楽しむことができない味がそこには確かにありました。
美会雨降って地固まる。激動の10ヶ月がビア氏の心を変えた。
オープンから激動の10ヶ月。コロナ禍でコンセプトが変わり、人が変わり、料理が変わった『美会』。そして、コロナが変えたもうひとつのことがありました。
「生産者さんを助けないといけないという思いも芽生えました。そのためにも店をやっている自分こそ、この状況を乗り越えないといけない。そして、タイ料理を通してタイという国を知ってもらうことで、自分の故郷にも恩返ししていければいいですね。いろんな料理人さんが気遣ってくれてアドバイスしてくれて手を差し伸べてくれました。そんな方々のためにも頑張らないといけません」。
最後に、コロナが落ち着いたら、またもとの『美会』のコンセプトに戻るのか? と尋ねると、きっぱりとビア氏は答えてくれました。
「この店をもとのようにすることはありません。この料理でタイ料理の素晴らしさを知ってもらえたらいいですね」。
コロナ禍でコンセプトが覆され、絶体絶命の危機を迎えた『美会』。もちろん、料理、サービス、プレゼンテーションなど、完成度でいえばまだまだ改善の余地があります。それはビア氏自身が一番感じているところ。しかし、進むべき道が見えたいま、裏を返せばそれは前進していくしかないことを意味します。
雨降って地固まる。新生『美会』がこれからどんな形でタイ料理を昇華していくのか、期待は高まるばかりです。
住所:東京都中央区銀座7-3-16 MAP
電話:03-3572-5599
営業時間:11:30〜22:30(23:00)
定休日:日曜・祝日
Photographs:JIRO OHTANI
Text:SHINJI YOSHIDA