
畑を見学する泉田シェフ(奥)と神保シェフ(手前)。食材を前にプロの料理人らしい専門的な会話が交わされる。
まだ見ぬ食材を探し、初夏の信濃大町をめぐる2日間
2021年7月某日。立山黒部アルペンルートの玄関口であるJR大糸線信濃大町駅に、多くの登山客に紛れ、ひとりの人物が降り立ちました。数々のメディアでおなじみのその顔は『HATAKE AOYAMA』の神保佳永シェフ。とりわけ野菜の本質を見極め、その魅力を引き出す料理から“野菜の魔術師”と呼ばれるイタリアンの巨匠です。
今回、神保シェフが信濃大町を訪れた理由は2021年9月5日(日)に『ANA ホリデイ・インリゾート信濃大町くろよん』で開かれる「食育・料理体験イベント」の準備のため。これは同ホテルの料理長・泉田康晴シェフとともに神保シェフが考案したコラボレーションメニューを、参加する子供たちと一緒に作る体験イベント。さらにイベント以降9月6日から10月31日までは、ふたりが考案したメニュー全5品が、同ホテルのレストランに登場します。子供たちには、食の楽しさと大切さを、大人には大町の食材の豊かさを、それぞれ伝える大切な仕事です。
今回の訪問の目的は、大町市内の食材生産者を巡り料理の構想を練ること。さらにこの地らしい料理のアイデアのため、10月から開催予定の『北アルプス国際芸術祭』の作品なども見学する多忙な工程です。東京で腕を振るう神保シェフは、この信濃大町でどんな食材と出合い、どんな料理を生み出すのか。信濃大町を拠点とする泉田シェフは神保シェフに何を伝え、どんなコラボレーションを目指すのか。駆け足で訪れた1泊2日の信濃大町視察の様子をレポートします。

黒部ダムへの長野側の玄関口であり、市内には大町ダム、七倉ダム、高瀬ダムを擁する大町市。豊かな水はさまざまな食材を育む。
山麓の農場で味わう、自然の力を凝縮した野菜
「このあたりの土は火山灰と腐葉土の混じった黒ボク土。寒暖差もあるから旨味の濃い野菜が育つんです」そう話すのは『勝本農園』をひとりで切り盛りする勝本あけみさん。山麓にあり、12月から3月は雪に埋まってしまいますが「先祖代々の畑だから」と、心を込めて丹念に手入れします。
泉田シェフの『ANA ホリデイ・インリゾート信濃大町くろよん』では、以前から勝本さんにお世話になっているとか。外国で買い付けた苗を育ててくれるなど柔軟な作付けにも対応し、この地のレストランにはなくてはならない存在。
手入れが行き届いた農園で、採れたての野菜をかじる神保シェフと泉田シェフ。その口からは「苦いですね」との言葉。誤解がないように補足するなら、シェフによる「苦い」は最上の褒め言葉。加熱方法や味付けにより、苦味やえぐ味を減らすことはできる。しかし野菜本来の持ち味を後から付け足すことはできない。だから苦味を含む味の濃い野菜は、料理人にとって良い食材である、というわけです。

勝本さんの案内で農園を見学。作物の出来はもちろん、農園の自体の手入れの行き届いた美しさがふたりのシェフを惹きつけた。

栄養をたっぷりと湛えた黒土と昼夜の寒暖差が、旨味の濃い野菜が育つ理由。

シャイな勝本さんの露出はここまで。自然体の人柄だが、言葉の随所に農業への強い思いが垣間見える。

「色が濃く、葉がしっかりとしている」と好評価。その場で試食させてもらい、その味わいを確かめた。
野菜、魚、肉。多彩な食材がシェフの感性を刺激
続いて訪れた『八幡農園』は、若き代表の八幡大智さんが、家族5人で無農薬有機栽培に挑む農園です。大智さんは農業大学を経て実務経験を積み、2010年にこの地に移り、自身の理想とする農業を実践する人物。
その理想とは、自然に近い状態を保ち、作物本来の力を引き出すこと。雑草はやみくもに刈らず、落ちた葉はやがて地面にかえり栄養となる。作付けする位置や組み合わせを工夫することで農薬ではなく自然のサイクルで作物を育てる。それはいわば、膨大な手間暇をかけて、一周回って自然に近い状態にすること。明確な目標とロジカルな戦略がなければなし得ないことでしょう。そしてそんな自然の力を凝縮した野菜の数々には、“野菜の魔術師”神保シェフも心動かされた様子でした。
北アルプスの懐に抱かれる『フィッシングランド鹿島槍ガーデン』では、信州サーモンやイワナを視察しました。実は以前にも何度かここを訪れ、実際にこちらの魚を使用したこともあるという神保シェフ。「味わいの透明感が段違い。臭みはなく、上質な脂が乗っています」と絶大な信頼を寄せています。
養魚場を見学した後、社長のご厚意で信州サーモンやイワナの刺し身と卵を試食した一行。身質に自信があるからこそ出せる刺し身、黄金に輝くイワナの卵などには、同行した泉田シェフも驚きを隠せない様子でした。
もちろん肉も負けてはいません。視察に訪れた『松下農園』は、長野県のブランド鶏・信州黄金シャモを育てる農園。この『松下農園』では飼料に米を混ぜることで、さらに上質で柔らかい肉質を実現しています。残念ながらコロナ禍において生育数は縮小していますが、また素晴らしい鶏を届けてくれることでしょう。
なお『八幡農園』の野菜、『鹿島槍ガーデン』の信州サーモン、『松下農園』の信州黄金しゃもの3つの食材をそれぞれ主役に、後日神保シェフが3種の料理を仕立ててくれました。その詳細については、後日別記事にてお知らせします。

家族5人で営む『八幡農園』で父・八幡博己さんに話を聞く神保シェフ。

『鹿島槍ガーデン』にて。魚体はもちろん、環境や餌など細かい点を確認する。

試食の際のふたりのシェフは真剣そのもの。味の特徴を見極め、料理の構想を練る。

信州黄金シャモは、シャモと名古屋系のかけあわせ。適度な弾力と噛むほどにあふれる旨味が魅力。

『北アルプス国際芸術祭』に向け、市内随所に展示される作品。個性的なアートがシェフに刺激を与える。

屋外アートや触れて体験できるインスタレーションなど、市内には多数のアートがあふれる。
澄んだ水に育まれる美味を伝えるコラボレーションメニュー
大町市の多様な食材は、肉、魚、野菜にとどまりません。
続いて一行が訪れたのは『キハダ飴本舗』。その名の通り、柑橘の一種であるキハダの実のエキスを使った飴の店ですが、実はそれだけではありません。
「ここで食堂をやっていて、長野らしい食材として山菜をつけていたのですが、わざわざ山に採りに行くのは大変でね。だったら育ててみよう、と」そう聞かせてくれたのは、社長の古川孝雄さん。神奈川で大手企業に勤めていましたが54歳で早期退職し、奥様のトミコさんとともに大好きな鹿島槍ヶ岳が見えるこの地に移ってきました。それから20余年。ふたりが作る山菜畑はいまや1ヘクタール。とくに行者ニンニクの出荷量は全国有数の規模にまで成長しました。
ふたりが試行錯誤をしながら時間をかけて育てた行者ニンニク。取材時はシーズンオフで生はなく、オイル漬けを試食させて頂きましたが、神保シェフは「素晴らしい香りで、かつ甘みがあります。料理に取り入れてみたら良いアクセントになりそうです」と強く興味を惹かれた様子でした。
さらに、この地ならではの味を追求するためにあえて水質調整をせず、湧き出したままの水で仕込む『北アルプスブルワリー』、道路一本を挟んで硬度の異なる水が湧く『男清水』『女清水』、地元の水とそば粉に山芋を混ぜてつるりとした食感を生む老舗蕎麦処『タカラ』など、水の素晴らしさを伝えるスポットの数々も、シェフに多大な影響を与えました。
「産地に足を運ぶ意味は、生産者の顔を見て、直接話をするだけではありません。その土地の水を味わい、文化を知り、名物を食べる。そうすることで、イノベーティブが生まれるのだと思います。私は野菜を軸に料理をしますが、そこに現地に伝わる発酵を加えたり、地元の漬物を取り入れてみたり、といった具合。普段お店でお出しする料理とはかけ離れていきますが、それもまたこうして地域に入り、イベントをする意味だと思います」視察後、神保シェフはそんな言葉でイベントへの思いを語ってくれました。
泉田シェフも「身近にある地元の食材を改めて見たことで、初心に戻った気分です。私はホテルの料理人として、フランス料理をベースにしつつ、アレンジし過ぎず食材そのものの魅力が伝わる料理を目指していますが、その中で地元食材の価値を改めて伝えていきたい」と決意を語ります。
およそ一ヶ月後に控えた、ふたりのシェフのコラボレーションによる『ANA ホリデイ・インリゾート信濃大町くろよん』の料理。東京から訪れたイタリアンシェフと、地元大町で活躍するフレンチシェフ。ふたりのクリエーションがどんな化学反応を起こし、どんな料理が誕生するのか。期待は高まるばかりです。

『キハダ飴本舗』では、広々とした山菜の畑を見学。

苦味と独特の香りがあるキハダ飴だが、神保シェフに大ヒット。いくつも口に運んでいた。

併設の醸造所で作られる『北アルプスブルワリー』のビール。この地でしか味わえないビールをテーマに、水の特徴を押し出して醸造される。

『北アルプスブルワリー』の松浦周平さんは、大町市内でコーヒー店も経営。多角的に大町の水の良さを伝える。

老舗『タカラ』の蕎麦。地元名物を味わうことも、視察の重要な工程。

ホテルに戻り、泉田シェフの料理も試食。相互理解を深め、コラボレーションメニューの構想を練る。

厨房で意見を交わすふたりのシェフ。泉田シェフの地元食材の知識、神保シェフの野菜の知見が互いの料理を高める。
Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA
(supported by 大町市)