映画監督・河瀨直美が体験する、創造的休暇。

紀寺の家 「きおくと現実のはざまで」
文・河瀨直美

 紀寺で生まれ、紀寺で育った。紀寺はわたしの故郷である。この路地の先の長屋には、現実ときおくを行き来する空間がある。余分なものは一切無い。庭にある木々たちも、自らの場所をわきまえて存在している。枝葉を太陽に向かって伸ばしている姿は美しい。領域は無限だが、わきまえることで、その無限は無限たるに在る。季節ごとのしつらえも、あるがままに美しい。ひとりがこんなに贅沢なのは、物言わぬものたちが、その存在そのもので充分に豊かだからだ。それ以上でも以下でもない。比べることもない。私が私であって良いと彼らに存在を認めてもらっているような安心感が心を満たす。歩くこと、迷うこと、時間を気にしないこと、委ねること。丁寧に生きるとは、私の中の私を愛でることなのかもしれない。あたりまえに備わっている自分に感謝すること。もうひとつの目を持って、それらを見つめること。この空間は、そうして私を解放する。ああ、自由だ。風が心地よい。ささいな陰影が目に飛び込んでくる。細やかな物事がまるで奇跡のように思えたら、ここにある創造的休暇は、どんなことよりも贅沢だ。これでもかこれでもかとありとあらゆるものを自分の周りに置いて過ごしてみても、何やら孤独が押し寄せる夜は、ふっとこの路地の向こうを思い描いてみよう。そうすれば心の奥のほうに確かに存在しているあの日の自分を取り戻せるかもしれない。

 アテもない散歩、この辻を曲がれば何に出会えるのだろうと心弾ませていたあの日、私の笑顔はきっと穏やかで清々しい色をしていたに違いない。あの色にもう一度逢いにいく。でも、もう少し、だから、ここで頑張ってみる。そう思い、空を見上げるとまんまるなお月様がじっと私を見つめてくれていた。梢の向こうに輝くそれは、この地球に暮らす人々の上に等しく光を放つ。ああ、同じだね。大好きだよ。ここにいるよ。ありがとう。

1969年生まれ、奈良県出身。地元・奈良を拠点に映画を創り続ける。一貫したリアリティの追求はカンヌ映画祭をはじめ、各国の映画祭で受賞多数。代表作は、「萌の朱雀」、「殯の森」、「2つ目の窓」、「あん」、「光」など。映画監督のほか、CM演出、エッセイ執筆などジャンルにこだわらず表現活動を続け、故郷奈良において「なら国際映画祭」をオーガナイズしながら次世代の育成にも力を入れている。最新作「朝が来る」は、第73回カンヌ映画祭公式セレクション、第93回米アカデミー賞国際長編映画賞候補、日本代表として選出。第44回日本アカデミー賞では、6部門で優秀賞と新人俳優賞を受賞。また、東京2020オリンピック公式映画監督に就任。2025年大阪・関西万博のプロデューサー兼シニアアドバイザー。バスケットボール女子日本リーグの会長も務める。プライベートでは、野菜やお米も作る一児の母。
www.kawasenaomi.com

住所:奈良県奈良市紀寺町779 MAP
TEL:0742-25-5500(受付時間9:00~19:00)
http://machiyado.com

Photographs:HARUHI OKUYAMA

「紀寺の家」と「奈良」を通して、「創造的休暇」について考える。

紀寺の家自然と生きる。自然に生きる。

奈良には、自然が溢れています。『紀寺の家』からゆっくりとそれを目指すに連れ、町の風景から樹々の風景へと変化し、徐々に人の気配は消えてゆきます。中には1000年以上、地に根を張り続ける木のある森もあり、そこに身を置けば、人類の無力ささえ感じます。

また、霧や靄をまとった自然の姿は、生命力にみなぎり、野生を感じさせます。真の自然とは、ただ優しく、美しいだけではありません。時に狂気も孕みながら、神聖なる領域を維持しているのだと思います。

大地があり、種が落ち、芽生え、雨によって水を蓄え、植物は育ち、やがて森や林、山を作る。環境が備われば、生き物も暮らし、そこには生態系が創造されます。ただただ、圧倒されつつ、私たち人間はこの場所から生まれた恵みをいただいているのだと気付きます。

『紀寺の家』では田んぼを借り、苗から育てたお米でごはんを炊いています。苗は、山々から湧き出る水によって育ちます。私たち人間は、それを体内に取り入れます。自然に生かされているのです。日々の忙しさに感け、そんな当たり前を忘れてしまいがちですが、決して、当たり前は当たり前ではありません。

自然と生きるとは何か。自然に生きるとは何か。技術やテクノロジーが進化し続けるからこそ、考えなければいけないことだと思います。人類の本当の進化は、いつの時代も創造力から生まれていると信じているからです。

紀寺の家見えるものではなく、見えないことを知る。

奈良には数々の伝統行事があります。中には、1000年以上前より続くものもあり、その行事を知ることは、町の歴史や文化を知ることにもつながります。

日本各地に著名な行事は数多くありますが、ただ見るだけで終えてはいけないと思います。そこに深く根付いた理由や源に触れることに意味があると考えるからです。残り続けているからには、何か大切なメッセージが隠されているはずです。なぜ、なくしてはいけないのか。なぜ、なくならなかったのか。なぜ、想うのか、祈るのか、願うのか。

見えるものではなく、見えないことに本質は潜んでいます。創造力を膨らませ、考え続けるからこそ、応えが見つかるのだと思います。

紀寺の家ものの命は、人の命よりも長い。

『紀寺の家』は、100年余の歴史を刻む建物です。5棟の町家群を修復したそこには、独特の時間が流れていると思います。その理由を少し考えてみました。

修復するという行為は、実は、非常に時間と手間がかかります。いっそのこと、解体し、建て直してしまった方が効率良く建築物はできてしまいます。しかし、『紀寺の家』は、古き良き建物を残す活動を続けています。なぜなら、そうやってこれまでも誰かが守ってきたからです。

建物を残すということは、風景を残すことにつながると思います。それを先人たちが成してくれたおかげで、時空を超えた奈良町の邂逅体験を現代に与えてくれました。

『紀寺の家』では、長きにわたり生き続けている建物の呼吸を感じていただけると思います。使い込まれた床、撓んだ木材、圧倒的存在を放つ梁……。経年による老いは、深みを増し、美しい空間を形成しています。つまり、ここには、100年前の時間が残っているのです。

いつか、私たち人間は死を迎えてしまいます。しかし、建物は、その後も生き続けていくでしょう。『紀寺の家』がこれからできることは何か。それは、正しい人に正しくこの建物を引き継いでいくことです。

これから先、この建物には、どんな未来が待っているのだろうか。未来を創造するということは、過去を振り返るきっかけにもなるのです。そんな両輪的発想から何が生まれるのか。

ものの命は、人の命よりも長いです。100年後も『紀寺の家』が建つ奈良町の風景を創造しながら、今日もまたお客様をお迎えしています。そして、ほんの少しでも「創造的休暇」を感じるようなことがあれば、是非、『紀寺の家』の方々に教えてあげていただければと思います。

紀寺の家灯の数だけ、暮らしがある。

奈良町には、古い民家が建ち並ぶ風景が今なお残っています。旧市街地ゆえ、夜になると暗さが際立ちますが、それによって存在感を増すのが灯です。
路地に建ち並ぶ民家からこぼれ落ちる灯は、古き良き奈良町の風景だと思っています。

灯の数だけ暮らしがある。
灯の数だけ家庭がある。
灯の数だけおいしいごはんがある。
灯は創造力を掻き立てます。

風景は、心の奥にあった記憶を手繰り寄せてくれます。ある日、そんなことに想いを馳せながら散歩をしてみると、突如現れる異質な空間も愛おしく感じました。さらに歩を進めると、足元に百日紅。目の上に咲く花の美しさもあれば、散る美しさもある。

視点を変えれば、いつもの風景が全く違うものに映るかもしれません。

住所:奈良県奈良市紀寺町779 MAP
TEL:0742-25-5500(受付時間9:00~19:00)
http://machiyado.com

Photographs:HARUHI OKUYAMA
Text:YUICHI KURAMOCHI

10年という節目に迎えた試練。導かれた「創造的休暇」という応え。

紀寺の家私たちは何かを失っただけではない。そこから何かを得なければいけない。

2021年10月、「紀寺の家」は、10周年を迎えます。

「本来であれば、様々な計画を練るところでありますが、ご存じの通り、2020年より人類を脅かす世界規模の難局が訪れてしまいました。以降、「新型コロナウイルス」という言葉を、ニュースや報道などにおいて目にしない日は一日もありません」。そう語るのは、『紀寺の家』の主人、藤岡俊平氏です。

突如現れたそれは、瞬く間に人類から日常や当たり前を奪ってしまいました。『紀寺の家』も例外ではありません。

「空室が続き、宿屋としての存在価値を失ってしまい、経営面はもちろん、何よりお客様をお迎えできないことはこんなにも辛く苦しいことなのだという現実を知ることになりました。夢であったら覚めてほしいと思うも、夢ではありません」と言葉を続けます。

まるで役目を終えてしまったかのような『紀寺の家』には、ただただ静寂が漂っていました。どうしたらいいのか。残念ながら、時間はたっぷりあります。予定もありません。

もし、この問題が終息したとしても、日常は戻ってこないかもしれません。当たり前は、当たり前ではなくなっているかもしれません。色々なことが藤岡氏の頭の中で巡ります。

そんな時、まるで導かれるように藤岡氏は「創造的休暇」という言葉と出合いました。今まさに、その時と同じ現象が起きているのではないでしょうか。

17世紀、著名な学者、アイザック・ニュートンが経験したパンデミック。そして、ニュートンが故郷へ避難したからこそ「万有引力の法則」を発見できたように、『紀寺の家』でも何か発見できるのではないか。そんな能動的な思考が生まれたのです。

藤岡氏は、再度、誰もいない『紀寺の家』へ足を踏み入れてみます。すると、これまでにはなかった感性が芽生えている自分に気が付きました。

「昨今、急速なテクノロジーや技術の革新により、物事の良し悪しを“時短”で判断するという風潮を感じます。頼んだものがすぐ届く。検索すればすぐ見つかる。買いたいものがすぐ買える……。旅においても、美しい景色やおいしい食事は、インターネット上に溢れ、行ったつもり、食べたつもり、見たつもりなどの“つもり”現象もしばしば。もちろん、それらによって格段に便利になったこともあるでしょう。しかし、本当にそれが全て正しいのでしょうか。誰もいない『紀寺の家』には、正しい時間が流れていました」。

窓から差し込む朝日、日中には陽光が空間を優しく包み込み、徐々に染まりゆく朱色が夕刻の便りを届けてくれます。その残像による気配を片隅に、群青色から闇へとグラデーションしていき、やがて夜が訪れる。奈良の夜は暗いです。しかし、暗いからこそ、月明かりが美しく星が煌めいています。

ここには、1時間を30分にするような「時短」はありません。正しい時間が正しく流れています。

「忘れてしまった何かを感じました。我々は、正しい時間を正しく体感できているだろうか。正しい食材を正しくいただけているだろうか。正しいものを正しく使えているだろうか。正しい自然と正しく共存できているだろうか。そして、人として正しく生きられているだろうか」。

寄せては返す波のごとく、様々な自問自答を重ねました。もしかしたら、自己との対峙によってニュートンも何かを得たのかもしれません。

近道ではなく遠回りをしてみる。表側ではなく裏側を見てみる。角度を変えて物事と向き合ってみる。いつもの場所へひとけを避けて違う時間に訪れてみる。その対象は「紀寺の家」だけではありません。真夜中の社寺、誰もいない山頂、早朝の原始林……。

大袈裟なことではなく、ほんの少し視点を変えるだけで、これまで気付きを得ることがなかった何かに出合えるかもしれません。

庭にある木から落ちるりんごをヒントに着想を得たニュートンのように。

大地の鼓動、風の音、光の陰影、自然への敬意、そして、生きるとは何か。

無だからこそ見える景色、無だからこそ聞こえる音、無だからこそ得られる感受。

その先にある豊かさとは何か……。

「人類は、地球上の一生物に過ぎません。そんなことも、こんな時代になってしまったからこそ再認識するきっかけになりました。これも私にとっては、発見のひとつです」。

「創造的休暇」の応えは、人それぞれです。

「自身の心に耳を傾け、開眼した世界に気付きを得る体験こそ、“創造的休暇”なのだと思います。私たちは何かを失っただけではありません。そこから何かを得なければいけません。10年という節目。様々な想いを、ここに記しておきたいと思います」。

住所:奈良県奈良市紀寺町779 MAP
TEL:0742-25-5500(受付時間9:00~19:00)
http://machiyado.com

Photographs:HARUHI OKUYAMA
Text:YUICHI KURAMOCHI

切っても脂が滲まない、臭みと無縁の味。至高の淡水魚・信州サーモン。[鹿島槍ガーデン/長野県大町市]

北アルプスの雪解け水で育つ信州のブランド魚。

北アルプスの豊かな自然に囲まれ、力強くも澄んだ味わいの食材を生産する長野県大町市。そんな大町市で素晴らしい食材を探すべく、イタリアンの巨匠『HATAKE AOYAMA』神保佳永シェフが大町市を巡りました。
今回出合ったのは、研究者の探究心と生産者の熱意、そして長野の清冽な水が生んだ奇跡の淡水魚・信州サーモン。神保シェフは信州サーモンに何を感じ、そしてどんな料理を思いついたのでしょうか。

北アルプスの雪解け水を源とする鹿島川の水。夏でも15度以下という低い水温が特徴。

最新のバイオテクノロジーで誕生した信州サーモン。

時は20世紀の終わり頃。「信州ならではの食材を」との思いから長野県水産試験場で淡水魚の研究が始まりました。しかし新品種の開発はそう簡単には進まず、時間が流れます。そして約10年の歳月を費やし、ついに満足のできる種が誕生しました。
それは細心のバイオテクノロジーによってニジマスとブラウントラウトを交配し、両者の良いところを受け継いだ種。三倍体という遺伝子構造で雄しか存在せず卵を産まないため、産卵のエネルギーを脂の乗った肉厚な身として蓄えます。研究者はその輝く銀色の魚体から、この魚を“信州サーモン”のと名付けました。

特殊な技術によって生まれる信州サーモンの稚魚は長野県水産試験場で育てられ、そこから県内の各養殖場に出荷されます。そこから先は、熟練の魚飼いたちの出番。独自に餌を工夫し、環境に細心の注意を払いながら、それぞれが愛情を持って育てます。やがて同じ信州サーモンでも養殖場によって違いが生まれ、2〜3年後に成長しきる頃にはその生産者の自慢のブランドとして出荷されるのです。

銀色に輝く体からサーモンの名がついた信州サーモン。身は肉厚で鮮やかなオレンジ色。

クセがなく、適度な脂が乗った信州サーモンは、もちろん刺し身でも抜群のおいしさ。

水産試験場から出荷された稚魚を、各生産者が丹精込めて育て上げる。

鹿島川の清き水が育てる臭みのない魚。

名峰・鹿島槍ヶ岳の懐に位置する『鹿島槍ガーデン』は、そんな養殖場のひとつ。正確には広大な敷地の中に管理釣り場と養殖場を備えたフィッシングガーデンで、巨大なニジマスやトラウト、ときにはイトウまで釣れると釣り人たちの伝説として語られる名所です。

そんな『鹿島槍ガーデン』は、人生を川魚の養殖一筋に捧げてきた社長・矢野口千浪氏が1971年に開きました。安曇野穂高生まれの矢野口氏は、当時28歳。釣り場を開くことを夢見て、良質な水を探して長野中を歩き回りました。そしてとうとう見つけたのが、安曇野にもほど近いこの場所。「探していた場所がこんなに近くにあったんですね」矢野口氏は懐かしそうに振り返ります。

矢野口氏が惚れ込んだのは、鹿島川の水。北アルプスの雪解け水を源流とするこの水は、冬場は水温0度まで下がり夏場でも15度以下。川の水をそのまま引いている養殖場も、自然そのままの環境です。そしてこの厳しさが、結果としておいしい魚を育てました。

というのも冬場、極寒となる水中の魚たちは活動を止め、餌をまったく食べなくなります。ゆえに一般的な養殖場と比べ、成長まで2倍近くの時間がかかるのです。そしてゆっくり育てることで臭みが抜け、クリアなおいしさの身になるのだとか。さらに冷たい水は身を引き締め、脂を良質にします。自然に近い環境のため余分な脂は乗らず、身には旨味がギュッと凝縮されます。「鹿島川ほどおいしい魚のいる川はない」矢野口氏はそう胸を張ります。

実は以前に何度も『鹿島槍ガーデン』を訪れ、信州サーモンも料理に使用していた神保シェフ。つまりその品質は、すでにシェフのお墨付きです。それでも再びこの地を訪れ、矢野口氏と再会の挨拶を交わすと、すぐに養殖場の見学や試食などで変わらぬ品質を確認します。

鹿島川の水をそのまま引き込む『鹿島槍ガーデン』は、自然に近い生育環境。

『鹿島槍ガーデン』の矢野口氏。半世紀以上の月日を、川魚の養殖に捧げてきた。

『鹿島槍ガーデン』を見学する神保シェフと『ANA ホリデイ・インリゾート信濃大町くろよん』 の泉田シェフ。

『鹿島槍ガーデン』では信州サーモンのほか、希少な岩魚の刺身や卵などを試食させてもらった。

濃厚な旨味と食感を、シンプルな調理で際立てるシェフの技。

「川魚特有の臭みが一切なく、身が引き締まっている。海の魚にも負けない味です」

そう言い切る神保シェフ。
そして神保シェフが『鹿島槍ガーデン』の信州サーモンも使って作ってくれたのは、意外にもシンプルなフライでした。

「鹿島槍ガーデンの信州サーモンは、揚げても身がしっかりと締まった肉のような身質ですから、レアのねっとりとした食感を味わってみてください」とフライに仕立てた理由を教えてくれた神保シェフ。
さらに「切ったときに赤い脂が滲んでこない。身に臭みがまったくない。いろいろと魚を食べてきましたが、ここまでクリアな味わいの川魚ははじめてです。多くの場合、臭みの原因は水質。だから鹿島槍ガーデンは、水質が本当に良いんでしょうね。何しろ岩魚を刺し身で食べられる養殖場ですから」と手放しの称賛を寄せました。

レシピはパン粉を付けて揚げる一般的なフライの作り方。イクラを添え、バジルオイルで香りを付け、仕上げにパプリカの粉を振れば、より本格的な味わいに。
内部をレアに揚げるコツは「2cmほどの厚みの場合なら冷蔵庫から出したての魚を、180度で2分ほど揚げる。表面がこんがりしてきたら、内側はちょうどレアになっています」と神保シェフ。

揚げたてを頂いてみると、衣の香ばしさとねっとりとした独特の信州サーモンの食感、ギュッと締まって旨味を湛えた身、イクラの塩気とタルタルソースの酸味が一体となった極上の味。一見、家庭料理のようですが、さまざまな小技で一体感を演出するのは、まさにスターシェフならではのテクニックです。

『鹿島槍ガーデン』のいくら(奥)と岩魚の卵(手前)。この希少な味も神保シェフのインスピレーションを刺激した。

フライといってもシェフが仕立てるのは、美しく盛り付けた洋食としての逸品。

中は見事なレア。衣の香ばしさとの食感の対比や濃厚な味わいが楽しめる。

Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA
(supported by 長野県大町市)

切っても脂が滲まない、臭みと無縁の味。至高の淡水魚・信州サーモン。[鹿島槍ガーデン/長野県大町市]

北アルプスの雪解け水で育つ信州のブランド魚。

北アルプスの豊かな自然に囲まれ、力強くも澄んだ味わいの食材を生産する長野県大町市。そんな大町市で素晴らしい食材を探すべく、イタリアンの巨匠『HATAKE AOYAMA』神保佳永シェフが大町市を巡りました。
今回出合ったのは、研究者の探究心と生産者の熱意、そして長野の清冽な水が生んだ奇跡の淡水魚・信州サーモン。神保シェフは信州サーモンに何を感じ、そしてどんな料理を思いついたのでしょうか。

北アルプスの雪解け水を源とする鹿島川の水。夏でも15度以下という低い水温が特徴。

最新のバイオテクノロジーで誕生した信州サーモン。

時は20世紀の終わり頃。「信州ならではの食材を」との思いから長野県水産試験場で淡水魚の研究が始まりました。しかし新品種の開発はそう簡単には進まず、時間が流れます。そして約10年の歳月を費やし、ついに満足のできる種が誕生しました。
それは細心のバイオテクノロジーによってニジマスとブラウントラウトを交配し、両者の良いところを受け継いだ種。三倍体という遺伝子構造で雄しか存在せず卵を産まないため、産卵のエネルギーを脂の乗った肉厚な身として蓄えます。研究者はその輝く銀色の魚体から、この魚を“信州サーモン”のと名付けました。

特殊な技術によって生まれる信州サーモンの稚魚は長野県水産試験場で育てられ、そこから県内の各養殖場に出荷されます。そこから先は、熟練の魚飼いたちの出番。独自に餌を工夫し、環境に細心の注意を払いながら、それぞれが愛情を持って育てます。やがて同じ信州サーモンでも養殖場によって違いが生まれ、2〜3年後に成長しきる頃にはその生産者の自慢のブランドとして出荷されるのです。

銀色に輝く体からサーモンの名がついた信州サーモン。身は肉厚で鮮やかなオレンジ色。

クセがなく、適度な脂が乗った信州サーモンは、もちろん刺し身でも抜群のおいしさ。

水産試験場から出荷された稚魚を、各生産者が丹精込めて育て上げる。

鹿島川の清き水が育てる臭みのない魚。

名峰・鹿島槍ヶ岳の懐に位置する『鹿島槍ガーデン』は、そんな養殖場のひとつ。正確には広大な敷地の中に管理釣り場と養殖場を備えたフィッシングガーデンで、巨大なニジマスやトラウト、ときにはイトウまで釣れると釣り人たちの伝説として語られる名所です。

そんな『鹿島槍ガーデン』は、人生を川魚の養殖一筋に捧げてきた社長・矢野口千浪氏が1971年に開きました。安曇野穂高生まれの矢野口氏は、当時28歳。釣り場を開くことを夢見て、良質な水を探して長野中を歩き回りました。そしてとうとう見つけたのが、安曇野にもほど近いこの場所。「探していた場所がこんなに近くにあったんですね」矢野口氏は懐かしそうに振り返ります。

矢野口氏が惚れ込んだのは、鹿島川の水。北アルプスの雪解け水を源流とするこの水は、冬場は水温0度まで下がり夏場でも15度以下。川の水をそのまま引いている養殖場も、自然そのままの環境です。そしてこの厳しさが、結果としておいしい魚を育てました。

というのも冬場、極寒となる水中の魚たちは活動を止め、餌をまったく食べなくなります。ゆえに一般的な養殖場と比べ、成長まで2倍近くの時間がかかるのです。そしてゆっくり育てることで臭みが抜け、クリアなおいしさの身になるのだとか。さらに冷たい水は身を引き締め、脂を良質にします。自然に近い環境のため余分な脂は乗らず、身には旨味がギュッと凝縮されます。「鹿島川ほどおいしい魚のいる川はない」矢野口氏はそう胸を張ります。

実は以前に何度も『鹿島槍ガーデン』を訪れ、信州サーモンも料理に使用していた神保シェフ。つまりその品質は、すでにシェフのお墨付きです。それでも再びこの地を訪れ、矢野口氏と再会の挨拶を交わすと、すぐに養殖場の見学や試食などで変わらぬ品質を確認します。

鹿島川の水をそのまま引き込む『鹿島槍ガーデン』は、自然に近い生育環境。

『鹿島槍ガーデン』の矢野口氏。半世紀以上の月日を、川魚の養殖に捧げてきた。

『鹿島槍ガーデン』を見学する神保シェフと『ANA ホリデイ・インリゾート信濃大町くろよん』 の泉田シェフ。

『鹿島槍ガーデン』では信州サーモンのほか、希少な岩魚の刺身や卵などを試食させてもらった。

濃厚な旨味と食感を、シンプルな調理で際立てるシェフの技。

「川魚特有の臭みが一切なく、身が引き締まっている。海の魚にも負けない味です」

そう言い切る神保シェフ。
そして神保シェフが『鹿島槍ガーデン』の信州サーモンも使って作ってくれたのは、意外にもシンプルなフライでした。

「鹿島槍ガーデンの信州サーモンは、揚げても身がしっかりと締まった肉のような身質ですから、レアのねっとりとした食感を味わってみてください」とフライに仕立てた理由を教えてくれた神保シェフ。
さらに「切ったときに赤い脂が滲んでこない。身に臭みがまったくない。いろいろと魚を食べてきましたが、ここまでクリアな味わいの川魚ははじめてです。多くの場合、臭みの原因は水質。だから鹿島槍ガーデンは、水質が本当に良いんでしょうね。何しろ岩魚を刺し身で食べられる養殖場ですから」と手放しの称賛を寄せました。

レシピはパン粉を付けて揚げる一般的なフライの作り方。イクラを添え、バジルオイルで香りを付け、仕上げにパプリカの粉を振れば、より本格的な味わいに。
内部をレアに揚げるコツは「2cmほどの厚みの場合なら冷蔵庫から出したての魚を、180度で2分ほど揚げる。表面がこんがりしてきたら、内側はちょうどレアになっています」と神保シェフ。

揚げたてを頂いてみると、衣の香ばしさとねっとりとした独特の信州サーモンの食感、ギュッと締まって旨味を湛えた身、イクラの塩気とタルタルソースの酸味が一体となった極上の味。一見、家庭料理のようですが、さまざまな小技で一体感を演出するのは、まさにスターシェフならではのテクニックです。

『鹿島槍ガーデン』のいくら(奥)と岩魚の卵(手前)。この希少な味も神保シェフのインスピレーションを刺激した。

フライといってもシェフが仕立てるのは、美しく盛り付けた洋食としての逸品。

中は見事なレア。衣の香ばしさとの食感の対比や濃厚な味わいが楽しめる。

Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA
(supported by 長野県大町市)

苦いものは苦く、辛いものは辛く。自然そのままの環境で力強く育つ信濃大町の野菜。[アルプス八幡農園/長野県大町市]

野菜の魔術師・神保シェフ、本領発揮の野菜料理。

土壌や水質、寒暖差や日照時間。ある土地で育つ野菜には、その土地の風土がダイレクトに表れるもの。長野県大町市の野菜が各方面から高い評価を受けるのは、北アルプスの水、寒暖差のある気候、豊かな土壌などが野菜栽培に適していることの証明なのでしょう。
そんな大町市の野菜生産者を、『HATAKE AOYAMA』の神保佳永シェフが訪ねました。野菜料理に定評があり、“野菜の魔術師”の異名を持つ神保シェフ。そんなシェフに大町市の野菜は、どんな爪痕を残すのでしょうか。

豊かな水と肥沃な土壌が育む信濃大町の野菜。そのおいしさはプロの料理人の間でも高評価を得ている。

一家で移住して就農し、環境保全型農業に挑戦。

この国には時折、常識破りの生産者がいます。手間暇や合理性を度外視し、ただ作物のおいしさをストイックに追求する求道者のような人。土地の特性を理解し、その恩恵を最大限に活かすスーパー生産者。
北アルプス山麓、標高700mの場所で家族で営む『アルプス八幡農園』も、きっとそんな生産者のひとつ。

『アルプス八幡農園』の畑を訪れてみると、すぐに一般的な畑との違いに気がつくことでしょう。まず見た目が違うのは、畝の間に雑草が伸びていること。ここでは畑に住むさまざまな生き物が暮らしやすい環境を作るべく、無農薬無化学肥料で環境保全型農業を進めているのです。雑草も定期的に刈るのではなく、伸びすぎて作業に支障を来す状態になったら刈るだけ。さらに刈った雑草はその場に留め、やがて土に還ります。雑草があるから手を抜いているのだと思うなら大間違い。作付けの場所を計算し、害虫避けには虫が嫌うハーブを植えるなどの工夫を凝らし、むしろ普通以上の多大な手間暇をかけ、自然に近い状態を保持しているのです。

話を聞かせてくれたのは責任者の八幡大智さん、そして父の八幡博己さん。実は八幡一家はこの地の出身ではなく、農業も2010年に関西から移住し就農しました。

大智さんが農業に傾倒したきっかけは幼い頃に何度も訪れていた祖母の家での家庭菜園の記憶、そして父・博己さんに連れられて訪れた大自然の記憶。成長した大智さんは農業高校、農業大学に進学し、その後、研修センターで実践を積みました。そして「いよいよ自分の畑を」と考えていたちょうどその頃、会社を定年退職した博己さんも第二の人生を大好きな山を眺めながら過ごしたいと引っ越しを目論んでいました。そうしてふたりの意見が合致した結果、長野県大町市への移住を決意したのです。

3年ほど経験を積んだ後、いよいよこの地に『アルプス八幡農園』がスタートしました。しかし相手は自然。大智さんは家族みんなで団結しながら、少しずつ野菜の収穫量を増やしました。

『アルプス八幡農園』の若き代表・八幡大智氏。大学で体系的に学んだ知識と実践で得た経験が武器。

父・博己氏は定年退職してこの地へ。ホームページやデータ管理なども博己氏の仕事。

一見、雑草が伸びてワイルドに見える畑だが、その実各所に細やかな計算が潜んでいる。

新鮮で瑞々しく、味の濃い無農薬野菜たち。

現在『アルプス八幡農園』で育てられるのは年間60品種ほど。家族経営のため大幅に収穫量を増やすことはできませんが、少量多品種、そして抜群のおいしさでリピーターをがっちりと掴んでいます。

そんな『アルプス八幡農園』の野菜の一番の特徴は、食感と甘み。シャキッと瑞々しい食感は、北アルプスの清冽な水をたっぷりと吸って育つから。口に広がる野菜本来の優しい甘みは寒暖の差が大きい大町市の気候特性をうまく使いこなしているから。そして何より、自然に近い環境を作り出すことで野菜に適度なストレスがかかり、植物が本来持つ力強い生命力が揺り起こされるから。

つまりここの野菜のおいしさは、この大町市という土地で、八幡一家の熱意なしでは育たないもの。ただ無農薬野菜といえばシンプルですが、その裏には真摯においしさを追求する一家の思いがこもっているのです。

そして“野菜の魔術師”たる神保シェフは、畑を訪れてすぐにその本質を見抜きました。
「畑を見るとワイルドな自然のままの姿に見えます。そしてひとつひとつの野菜に目を凝らしてみると、それがのびのびと生命力に満ちているのがわかります。どれも本当においしい野菜です」

神保シェフの考える野菜のおいしさとは、野菜本来の個性がはっきりと見えること。甘さやみずみずしさだけでなく、苦味や青臭さといった要素も野菜のおいしさの一貫だといいます。
「大根なら苦味と辛味、カブならみずみずしい甘み、ピーマンは苦味と青臭さ。それぞれの個性がはっきりと主張する素晴らしい野菜です」

少量多品種が『アルプス八幡農園』の方針。西洋野菜などの珍しい品種も作られている。

畑で博己氏の解説を聞く神保シェフ。栽培方法に関する鋭い質問も飛び出した。

許可を得て畑の隅々まで見て回る神保シェフ。宝物を見つけた子供のような好奇心に満ちた姿が印象的だった。

細かな技で野菜の魅力を引き出すバーニャカウダサラダ。

神保シェフは『アルプス八幡農園』の個性際立つ野菜に敬意を表し、その個性をより引き出したバーニャカウダサラダを作りました。一見シンプルなサラダですが、それぞれに手の込んだひと手間が加えられています。

ししとうは、素揚げ。揚げることで生のえぐ味を少し抑え、甘みとほのかな酸味を加えます。小カブは皮付きのままゆっくりと茹で、甘みを引き出しました。色による味のわずかな違いまで伝わる繊細な火入れです。ズッキーニは下茹で、大根は薄切りであえて生のまま。レタスは中心部を使い、赤タマネギは赤ワインビネガーでマリネ。

「イメージは八幡農園のあの畑。ワイルドな印象でありながら、ひとつひとつは繊細な手入れがされている。そんな様子を一皿で表現しました」

ソースは『アルプス八幡農園』のニンニクを牛乳で茹でこぼし、オリーブオイルとアンチョビを加えてミキサーへ。ビネガーを少々加えることで、野菜が引き立つ軽やかな味わいにしました。仕上げのパウダーは、キャベツとグリーンカールを茹でてから乾燥させて砕いたもの。抹茶のようなほろ苦さと青い香りが、サラダに奥行きを加えました。

「あの畑を訪れ、直接見ていなければ生まれなかった料理です」神保シェフの言葉には野菜と生産者への深い敬意が込められていました。

『アルプス八幡農園』から届いた野菜。「水が良いのでしょう。食感が瑞々しく、日持ちも良い」と神保シェフ。

野菜ひとつひとつに合わせた下ごしらえ。素材を見極め、その魅力を際立てる引き出しの多さはさすが。

「単体だとアクやクセが目立つ野菜を集合させて、全体のバランスを取る」ことがサラダのコツだという。

Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA
(supported by 長野県大町市)

ストレスなく育つことで、旨味を凝縮する長野のブランド鶏・信州黄金シャモ。[松下農園/長野県大町市]

真摯に、実直に、地鶏と向き合うひたむきな生産者。

豊かな自然と清冽な水に恵まれ、この土地ならではの食材を多数擁する長野県大町市。そのクリアな味わいは、イタリアンの巨匠たる『HATAKE AOYAMA』神保佳永シェフを唸らせました。
街を巡り、生産者と会話を交わしながら、食材を見極め、料理のイメージを膨らませた神保シェフ。そのイメージが形となり、後に神保シェフは3つの料理を仕立てました。野菜、魚、肉、それぞれが主役となる3皿。その食材と料理から、信濃大町の食材の魅力が伝わります。

北アルプスの澄んだ水が、信濃大町産食材のおいしさの源。

信濃大町が誇る食材を、名シェフが美皿へと昇華。

「こんなバカなこと、やっている人はいないだろうね」

長野県のブランド鶏・信州黄金シャモを育てる『松下農園』の松下豊弘氏は、そう笑いました。それは決して自嘲などではなく、誇りに満ちた笑顔でした。

信州黄金シャモとは、父鶏に旨味の強いシャモ、母鶏に弾力とコクがある名古屋種という在来種2種をかけ合わせた信州生まれの地鶏。それぞれの長所を受け継いだ、適度な弾力と濃厚な旨味を兼ね備えた鶏です。
さらに血統のみならず、一般的な地鶏が75日以上に対し120日以上と定めた飼育期間、1平米5羽以下とする飼育環境など、厳しい基準を定め品質の保持に務めています。

それほどまでに徹底して旨味を追求する信州黄金シャモですが、『松下農園』は、さらに上を行く飼育をします。それが、家畜に心を寄り添わせ、ストレスのない飼育を目指すアニマルウェルフェアの追求です。松下氏は厳しい基準をさらに越える飼育環境や、米を中心とした飼料など、考えうるさまざまな飼育方法を実践。つまり松下氏のいう“バカなこと”とは、採算を度外視しブランドの基準を大きく越える手間暇をかけて鶏を育てること。

愛情をいっぱいに受けて、ストレスなく育った『松下農園』の信州黄金シャモは、品種特性である歯を押し返すような弾力がありながら、そこから少し顎に力を込めるとさっくりと噛み切れる柔らかさも併せ持っているのです。

一般的な地鶏の飼育基準が1㎡10羽以下に対し、信州黄金シャモの基準は1㎡5羽以下。

『松下農園』の松下豊弘氏。実直な人柄で、手間ひまかけた飼育を実践する。

飼育日数もブロイラーの3倍近い120日以上を基準。じっくりと時間をかけて育てる。

最後の出荷を終え幻となった地鶏。

在来種100%の魅力を受け継ぐ品種特性と、さらに徹底したこだわりで育つ『松下農園』の信州黄金シャモ。アミノ酸のなかでも旨味成分であるアスパラギン酸とグルタミン酸がとくに豊富で、塩焼きにするだけでも溢れる旨味が感じられます。もちろん、そんな逸品をプロの料理人たちも放っておきません。焼き鳥屋から洋食店まで、地元のみならず首都圏からも引き合いがあり、松下氏は鶏舎を増築しながら常時1000羽以上の雛を育てていました。

しかし多大な手間隙をかけ、プロの料理人向けに作っていた鶏だけにコロナ禍による飲食店休業の打撃は、松下氏にダイレクトに響きました。丹精込めて育てても廃棄となってしまう。松下氏は苦渋の決断として鶏の飼育を休止し、卵の販売に切り替えることにしました。かつて1000羽いた雛も70羽にまで減少。もちろん、状況が落ち着けば再開予定ですが、現状、『松下農園』の信州黄金シャモは、幻の鶏となってしまいました。

『松下農園』を訪れた『HATAKE AOYAMA』の神保佳永シェフも、松下氏の話に神妙に聞き入っていました。そして、最後に残っていた信州黄金シャモを譲り受け、料理を仕立てます。料理人にとって、食材や生産者への最大の敬意は、おいしく料理すること。

イメージはすでに固まっていました。味の軸は信州黄金シャモの適度な弾力の中から溢れ出す濃厚な旨味。それを引き出すのは、同じく信濃大町で出合った香り豊かな行者にんにく。そして神保シェフの頭の中にあった料理が、形を成します。

松下氏と会話を交わす神保シェフ。生産者の苦境に料理人としてできることを模索する。

大町市『キハダ飴本舗』の行者にんにく。旬に収穫し、オリーブオイルと塩で漬けたもの。

『キハダ飴本舗』の行者にんにく畑は、全国有数の規模を誇る。

信州黄金シャモのソテー 行者にんにくのソース

信州黄金シャモは、皮目に熱したバターを繰り返し流しかけながらじっくりと火を入れる。こうすることで、皮目はパリッと香ばしく、身はしっとりやわらかいという食感のグラデーションが生まれます。そして高温のバターで閉じ込められた鶏自体の旨味が、口の中で溢れ出すのです。
添えるソースはオイル漬けにした行者にんにくに、さらににんにくを利かせたもの。強くなりすぎて鶏の旨味を消さないよう、レモンをたっぷり絞って軽やかさを加えます。添えたのは信濃大町の野菜のグリルと、仕上げの白トリュフ。香りに特徴のある食材たちが、まるでパズルのピースのようにぴたりとはまり、見事に調和した風味となっています。

バター、オイル、地鶏、トリュフという重量級素材でありながら、鶏の食感や旨味がはっきりと感じられるのは、レモンが透明感を加えるから。あっという間に作り上げた料理でありながら、まるでコースのメインディッシュのようにテーマと味わいのはっきりした料理。その重層的な味わいの中で、いっそう信州黄金シャモの存在感が際立っていました。

熱したバターを繰り返し表面にかけて火を入れるフレンチの技法で、皮を香ばしく焼き上げる。

ソースは主張し過ぎず、けれども弱すぎず。信州黄金シャモの持ち味を理解しているからこその絶妙な加減。

肉、ソース、添えた野菜。すべてが過不足なく、一体となっておいしさを伝える。

Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA
(supported by 長野県大町市)

その味わい、軽やかにして、濃醇。輝き始めた石川県独自の新品種酒米「百万石乃白」。前編[Bon appétit Ishikawa !/石川県]

ずらりと並んだ石川県の日本酒を前に、ワインテイスターの大越基裕氏。どれも原料に新品種酒米・百万石乃白を使った、デビュー間もない日本酒だ。
※写真の百万石乃白を使った日本酒は、2021年2月時点で入手できたものです。

百万石乃白新しい酒米「百万石乃白」で醸された未知なる日本酒の数々。

日本酒の新酒の搾りが最盛期を迎えた2月、とある共通点をもった日本酒が一堂に集められました。ずらりと並んだ21種の日本酒はすべて、石川県にある酒蔵が酒米「百万石乃白」を原料に使って醸したもの。2020年から本格的な醸造が始まったばかりの、まだあまり世に知られていない1本が勢ぞろいしています。

これらを一挙に唎(き)いてみようというのは大越基裕氏。フランスでワイン醸造を学び、グランメゾンでシェフソムリエを務めた経験を持つ、日本のトップソムリエのひとりです。現在は、モダンベトナム料理とファインワインの店『An Di』を経営しながら、ワインテイスターとしてレストランや飲料メニューの監修やプロデュース、商品開発などで活躍中。日本酒にも精通しており、国際的な日本酒コンクールでの審査員の経験もあります。造り手、レストランサービス、カスタマー…さまざまな視点で酒類を見つめることができるプロフェッショナルです。

「21本を一気にテイスティングすることによって、まだベールに包まれた百万石乃白という新しい酒米の輪郭が浮かび上がってくることでしょう」と、大越氏は期待します。1本につき酒、水、酒と2回の試飲で一口の酒をじっくりと味わいながら、パソコンに素早くメモを打ち込んでいきます。時折、酒を口に運ぶや否や大越氏の目の色が変わるような瞬間が見られました。そのような銘柄では、とりわけ入念にテイスティングを行われていきます。

試飲しながら、香りの種類や味わいの特徴、バランス、持っている世界観などを素早くメモしていく。

『ONESTORY』フードキュレーターの宮内隼人も大越氏と共にすべての酒を唎いた。

百万石乃白通底する “軽やかさ”、きらりと光る個性。

テイスティングを終えた大越氏は開口一番、率直な感想を語ります。
「全体としては、ミッドパレット(最初に感じる味わいの次に感じる中間部の味わい)から余韻に向かって軽やかなイメージがあるように思います。旨口系のリッチな口当たりの酒を主に造っている蔵であっても、うま味とともに軽やかな終わり方をしてくれる 。心地よい抜け感がある“軽やかなお米”という印象を受けました」

百万石乃白の特長の一つが、他の酒米と比べて元々のタンパク質含有量が少ないこと。このことにより、雑味の原因となるアミノ酸が少なくなり、雑味の少ないきれいな酒を造りやすくなります。もう一つの特長は、高精白できること。玄米の表面をたくさん削っても割れにくく、雑味の元となるアミノ酸が多く含まれる表層部分を取り除くことができる。この二つの特長の相乗効果で、さらに、他の酒米に比べアミノ酸が少なくなり、すっきりした味わいに仕上げやすい酒米と言えます。大越氏は百万石乃白のポテンシャルを次のようにまとめています。

「百万石乃白は、軽やかさが光る一方、おそらくタンパク質含有量が低いことにより、主にミッドパレットの厚みが控えめになりがちという傾向もあるように感じました。厚みを出すためにうま味を無理に出そうとすると、キレが損なわれて味わいが重くなりがちです。軽やかな印象はそのままに、うま味は優しく広がり、輪郭が整っている。心地よくキレていく余韻と共に全体がうまくまとまっている。これが百万石乃白のポテンシャルを高次元に発揮させたお酒のイメージではないかと思います」

以下、大越氏の具体的なコメントとともに4本を紹介します。

天狗舞 COMON 純米大吟醸
精米歩合:50%
アルコール度数:15%
車多酒造

「元々味わいをきっちり出すことに長けている蔵元。天狗舞らしいキャラメル系やシリアル系の香り、完熟したバナナのような芳醇な香りを出しつつも、味わいにフレッシュ感を残していて軽やか。うま味と爽やかさのバランスが秀逸です。一般的には純米大吟醸の酒では明確な酸味が出てこないことが多い中、心地いい酸も感じられる。この酸があるおかげで、うま味のキレもよくなっています。天狗舞らしい力強い味わいと百万石乃白のデリケートさを見事にクロスさせています」

手取川 純米大吟醸原酒 百万石乃白
精米歩合:50%
アルコール度数:15%
吉田酒造店

「グリーンアップルに加えてほんのりストロベリーのような香りが印象的なのですが、手取川の素晴らしい点は、この香りの出し方をきちんと抑制し味わいとバランスを取っていること。グリーンアップル系の香りを出す場合、日本酒はやや甘い味わいの印象に仕上げられることが多いので、このような軽やかさが持ち味のお米とバランスを取るために、香りのコントロールがひときわ重要となります。この手取川は香りが絶妙に抑えられていて見事に軽やかであり、ミネラリーなニュアンスまである。香り、軽やかさ、ミネラル感が1本の線にうまくまとめられていて、非常にタイト、ピュア、そしてエレガントなストラクチャー(骨格)に仕上がっていると感じました」

奥能登の白菊 百万石乃白 純米吟醸
精米歩合:55%
アルコール度数:15%
白藤酒造店

「どこまでも、とことん穏やか。蒸しあげたお米やバナナのやさしい香り。口に入れた瞬間からソフトで、ミッドパレット、余韻に至るまでやさしく穏やかで、軽やかなタッチで終わっていきます。前出の手取川とは対照的に、明確な味わいのストラクチャーが出現するのではなく、ふんわりとやさしい世界観に包まれます。百万石乃白の酒米としての本質、純粋な部分を、もしかすると最もうまく捉えている造りなのかもしれません」

遊穂 生もと 純米 百万石乃白
精米歩合:68%
アルコール度数:14%
御祖酒造

「今回の21本の中で最も個性的と言えます。キャラメル系、シリアル系、完熟バナナ、パン・デピス(香辛料が入ったライ麦パン)などの香りが感じられます。非常に強いうま味と酸味のコントラストが表現されています。うま酸っぱさが際立つ世界観でありながら、最後は穏やかにキレていく。遊穂はうま酸っぱい世界観を極めて高度につくり上げる蔵です。もっとうま味や酸味を押し出した酒もありますが、このように極めて軽やかに終わっていくのは、百万石乃白という酒米ならではの個性が生かされているからでしょう。強く、芳醇な味わいを押し出す遊穂スタイルが、百万石乃白によってライトに表現されているという点で、新たなとても魅力的な仕上がりになっています」

百万石乃白を使った日本酒のテイスティングを通じて、「日本酒は農作物である」という認識を新たにしたと大越氏は話します。
「こうして百万石乃白を共通項に横断的に味わったことで、各蔵が元々持っている個性の奥に、百万石乃白が生み出す世界観が浮かび上がってきました。石川県産の独自の米を地元の蔵がみんなで使い、さまざまな日本酒が生み出されていく。これにより、石川の土地で、石川の米で、石川の水で、石川の人の力で醸された日本酒は、なんとなくこんなおいしさであると提示できたのです。元来、日本酒は農作物であり、その土地の恵みが凝縮されたもの。その個性を味わう喜びをあらためて実感しました」

「百万石乃白は軽やかな世界観を展開する酒米という本質が見えてきた」と大越氏。

1976年、北海道生まれ。国際ソムリエ協会インターナショナルA.S.Iソムリエ・ディプロマ。渡仏後2001年より『銀座レカン』ソムリエ、2006年より約3年間フランスにてブドウ栽培・ワイン醸造を学ぶ。帰国後同店シェフソムリエに就任。2013年、ワインテイスター/ワインディレクターとして独立。2017年にモダンベトナム料理店『An Di』オープン。世界各国を回りながら、最新情報をもとにコンサルタント、講演、執筆などを通じてワインの本質を伝えている。日本酒や焼酎にも精通しており、ワインと日本酒を組み合わせた食事とのマリアージュにも定評がある。

Photographs:SHINJO ARAI
Text:KOH WATANABE
(supported by 石川県、公益財団法人いしかわ農業総合支援機構)

石川県食のポータルサイト
いしかわ百万石食鑑
https://ishikawafood.com/

その味わい、軽やかにして、濃醇。輝き始めた石川県独自の新品種酒米「百万石乃白」。前編[Bon appétit Ishikawa !/石川県]

ずらりと並んだ石川県の日本酒を前に、ワインテイスターの大越基裕氏。どれも原料に新品種酒米・百万石乃白を使った、デビュー間もない日本酒だ。
※写真の百万石乃白を使った日本酒は、2021年2月時点で入手できたものです。

百万石乃白新しい酒米「百万石乃白」で醸された未知なる日本酒の数々。

日本酒の新酒の搾りが最盛期を迎えた2月、とある共通点をもった日本酒が一堂に集められました。ずらりと並んだ21種の日本酒はすべて、石川県にある酒蔵が酒米「百万石乃白」を原料に使って醸したもの。2020年から本格的な醸造が始まったばかりの、まだあまり世に知られていない1本が勢ぞろいしています。

これらを一挙に唎(き)いてみようというのは大越基裕氏。フランスでワイン醸造を学び、グランメゾンでシェフソムリエを務めた経験を持つ、日本のトップソムリエのひとりです。現在は、モダンベトナム料理とファインワインの店『An Di』を経営しながら、ワインテイスターとしてレストランや飲料メニューの監修やプロデュース、商品開発などで活躍中。日本酒にも精通しており、国際的な日本酒コンクールでの審査員の経験もあります。造り手、レストランサービス、カスタマー…さまざまな視点で酒類を見つめることができるプロフェッショナルです。

「21本を一気にテイスティングすることによって、まだベールに包まれた百万石乃白という新しい酒米の輪郭が浮かび上がってくることでしょう」と、大越氏は期待します。1本につき酒、水、酒と2回の試飲で一口の酒をじっくりと味わいながら、パソコンに素早くメモを打ち込んでいきます。時折、酒を口に運ぶや否や大越氏の目の色が変わるような瞬間が見られました。そのような銘柄では、とりわけ入念にテイスティングを行われていきます。

試飲しながら、香りの種類や味わいの特徴、バランス、持っている世界観などを素早くメモしていく。

『ONESTORY』フードキュレーターの宮内隼人も大越氏と共にすべての酒を唎いた。

百万石乃白通底する “軽やかさ”、きらりと光る個性。

テイスティングを終えた大越氏は開口一番、率直な感想を語ります。
「全体としては、ミッドパレット(最初に感じる味わいの次に感じる中間部の味わい)から余韻に向かって軽やかなイメージがあるように思います。旨口系のリッチな口当たりの酒を主に造っている蔵であっても、うま味とともに軽やかな終わり方をしてくれる 。心地よい抜け感がある“軽やかなお米”という印象を受けました」

百万石乃白の特長の一つが、他の酒米と比べて元々のタンパク質含有量が少ないこと。このことにより、雑味の原因となるアミノ酸が少なくなり、雑味の少ないきれいな酒を造りやすくなります。もう一つの特長は、高精白できること。玄米の表面をたくさん削っても割れにくく、雑味の元となるアミノ酸が多く含まれる表層部分を取り除くことができる。この二つの特長の相乗効果で、さらに、他の酒米に比べアミノ酸が少なくなり、すっきりした味わいに仕上げやすい酒米と言えます。大越氏は百万石乃白のポテンシャルを次のようにまとめています。

「百万石乃白は、軽やかさが光る一方、おそらくタンパク質含有量が低いことにより、主にミッドパレットの厚みが控えめになりがちという傾向もあるように感じました。厚みを出すためにうま味を無理に出そうとすると、キレが損なわれて味わいが重くなりがちです。軽やかな印象はそのままに、うま味は優しく広がり、輪郭が整っている。心地よくキレていく余韻と共に全体がうまくまとまっている。これが百万石乃白のポテンシャルを高次元に発揮させたお酒のイメージではないかと思います」

以下、大越氏の具体的なコメントとともに4本を紹介します。

天狗舞 COMON 純米大吟醸
精米歩合:50%
アルコール度数:15%
車多酒造

「元々味わいをきっちり出すことに長けている蔵元。天狗舞らしいキャラメル系やシリアル系の香り、完熟したバナナのような芳醇な香りを出しつつも、味わいにフレッシュ感を残していて軽やか。うま味と爽やかさのバランスが秀逸です。一般的には純米大吟醸の酒では明確な酸味が出てこないことが多い中、心地いい酸も感じられる。この酸があるおかげで、うま味のキレもよくなっています。天狗舞らしい力強い味わいと百万石乃白のデリケートさを見事にクロスさせています」

手取川 純米大吟醸原酒 百万石乃白
精米歩合:50%
アルコール度数:15%
吉田酒造店

「グリーンアップルに加えてほんのりストロベリーのような香りが印象的なのですが、手取川の素晴らしい点は、この香りの出し方をきちんと抑制し味わいとバランスを取っていること。グリーンアップル系の香りを出す場合、日本酒はやや甘い味わいの印象に仕上げられることが多いので、このような軽やかさが持ち味のお米とバランスを取るために、香りのコントロールがひときわ重要となります。この手取川は香りが絶妙に抑えられていて見事に軽やかであり、ミネラリーなニュアンスまである。香り、軽やかさ、ミネラル感が1本の線にうまくまとめられていて、非常にタイト、ピュア、そしてエレガントなストラクチャー(骨格)に仕上がっていると感じました」

奥能登の白菊 百万石乃白 純米吟醸
精米歩合:55%
アルコール度数:15%
白藤酒造店

「どこまでも、とことん穏やか。蒸しあげたお米やバナナのやさしい香り。口に入れた瞬間からソフトで、ミッドパレット、余韻に至るまでやさしく穏やかで、軽やかなタッチで終わっていきます。前出の手取川とは対照的に、明確な味わいのストラクチャーが出現するのではなく、ふんわりとやさしい世界観に包まれます。百万石乃白の酒米としての本質、純粋な部分を、もしかすると最もうまく捉えている造りなのかもしれません」

遊穂 生もと 純米 百万石乃白
精米歩合:68%
アルコール度数:14%
御祖酒造

「今回の21本の中で最も個性的と言えます。キャラメル系、シリアル系、完熟バナナ、パン・デピス(香辛料が入ったライ麦パン)などの香りが感じられます。非常に強いうま味と酸味のコントラストが表現されています。うま酸っぱさが際立つ世界観でありながら、最後は穏やかにキレていく。遊穂はうま酸っぱい世界観を極めて高度につくり上げる蔵です。もっとうま味や酸味を押し出した酒もありますが、このように極めて軽やかに終わっていくのは、百万石乃白という酒米ならではの個性が生かされているからでしょう。強く、芳醇な味わいを押し出す遊穂スタイルが、百万石乃白によってライトに表現されているという点で、新たなとても魅力的な仕上がりになっています」

百万石乃白を使った日本酒のテイスティングを通じて、「日本酒は農作物である」という認識を新たにしたと大越氏は話します。
「こうして百万石乃白を共通項に横断的に味わったことで、各蔵が元々持っている個性の奥に、百万石乃白が生み出す世界観が浮かび上がってきました。石川県産の独自の米を地元の蔵がみんなで使い、さまざまな日本酒が生み出されていく。これにより、石川の土地で、石川の米で、石川の水で、石川の人の力で醸された日本酒は、なんとなくこんなおいしさであると提示できたのです。元来、日本酒は農作物であり、その土地の恵みが凝縮されたもの。その個性を味わう喜びをあらためて実感しました」

「百万石乃白は軽やかな世界観を展開する酒米という本質が見えてきた」と大越氏。

1976年、北海道生まれ。国際ソムリエ協会インターナショナルA.S.Iソムリエ・ディプロマ。渡仏後2001年より『銀座レカン』ソムリエ、2006年より約3年間フランスにてブドウ栽培・ワイン醸造を学ぶ。帰国後同店シェフソムリエに就任。2013年、ワインテイスター/ワインディレクターとして独立。2017年にモダンベトナム料理店『An Di』オープン。世界各国を回りながら、最新情報をもとにコンサルタント、講演、執筆などを通じてワインの本質を伝えている。日本酒や焼酎にも精通しており、ワインと日本酒を組み合わせた食事とのマリアージュにも定評がある。

Photographs:SHINJO ARAI
Text:KOH WATANABE
(supported by 石川県、公益財団法人いしかわ農業総合支援機構)

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いしかわ百万石食鑑
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11年の歳月をかけて誕生した酒米「百万石乃白」の秘めたるチカラ。後編[Bon appétit Ishikawa !/石川県]

百万石乃白を使って3回の醸造を経験した吉田酒造店の社長で杜氏の吉田泰之氏。山田錦に匹敵する県産酒米の登場を喜ぶ。

百万石乃白「石川県産米で大吟醸酒を」の願いに応えるために。

冬場の寒冷な気候や白山水系の清冽(せいれつ)な地下水脈など酒造りに適した環境に恵まれる石川県。日本の代表的な杜氏集団のひとつである能登杜氏を擁する酒どころで、37の蔵が酒造りを連綿と続けています。百万石乃白は県内の蔵元や杜氏たち待望の酒米。その誕生の秘密を探るために、金沢市才田町にある石川県農林総合研究センター農業試験場を訪ねました。百万石乃白の品種開発の歴史は、2005年までさかのぼります。

当時は、日本酒の消費量が減少していく中、地域の独自性を打ち出した付加価値の高い日本酒を造るために、地域固有の酒米を求める声が大きくなってきた頃。石川県内で造られる大吟醸酒は、ほとんどが兵庫県産山田錦を使ったものでした。米の表面を50%以下に削って使うことが条件となる大吟醸酒。大粒で割れにくい山田錦は、「酒米の王様」として吟醸酒カテゴリーに君臨しています。新品種開発のスタートは、石川県酒造組合連合会からあらためて「石川県産の酒米で大吟醸酒を造りたい」との要請を受けたのがきっかけ。「50%まで精米しても割れにくいこと」と明解な育種目標が掲げられました。

百万石乃白の開発を担当した石川県農林総合研究センター農業試験場 育種グループ主任研究員・畑中博英氏。

農業試験場では毎年約50組の米の交配を行なっていると、育種グループ主任研究員・畑中博英氏は話します。
「米の中心にある白い部分を心白といいますが、この部分がもろいため、大吟醸酒を造る時は心白近くまで削るのでどうしても割れやすくなってしまいます。この問題を克服するために、交配ではとにかく心白が小さいものを選抜していきました。有望な交配の組み合わせを入念に検討しても、その結果が出るのは1年後。優良な組み合わせが見えたら、試験醸造を行いながら、さらに選抜を繰り返していくので、長い年月がかかります。割れにくくても、収穫量が少なかったり、酒にした時の味がいまいちだったりという問題もありました。結局、百万石乃白の開発には実に11年を要しました」

大粒の酒米「ひとはな」と大吟醸酒向けの酒米「新潟酒72号」との掛け合わせにより、石川県独自の酒米「'05酒系83」が誕生。これに山田錦を交配することで、のちに百万石乃白と命名される理想形「石川酒68号」の産出に至りました。肝心の“割れ”について農業試験場の分析では、50%精米時で割れるのは1割以下と、山田錦の2割以下を凌ぎます。さらに、収穫量も山田錦を上回り、草丈は山田錦よりも1割ほど低いことから台風などで倒れにくく、石川県での栽培にも適しています。

「実は私は体質的にお酒が飲めないので、香りをチェックすることしかできないのですが、試験醸造で『良い酒ができた』という声が上がった時には、本当にうれしかったですね。ようやく一人前の酒米に、うまい酒に育ったんだなと」

2018年に石川県内10の蔵が百万石乃白の使用を開始し、2019年には20蔵、2020年には24蔵に拡大。多くの酒蔵が百万石万白の醸造に挑戦しており、今後、県産酒米としての定着が期待されています。

精米後の百万石乃白。公募によって決まった愛称の由来は、その美しい白さ。

百万石乃白適切な栽培法を確立するために、田んぼでの奮闘は続く。

古来、米作りが盛んな加賀平野。そのほぼ中央に位置する白山市山島地区で、稲作・麦・大豆の農業を営む林勝洋氏は、酒米作りにも積極的に取り組んでいます。夏場、この地では、手取川が冷涼な空気を運ぶことで夜から朝にかけての気温がぐっと下がり、良質な米ができる条件である昼夜の大きな寒暖差が生まれています。酒米として山田錦に次いで全国2位の収穫量のある五百万石、吟醸酒向けに先行開発された石川県独自の酒米・石川門に加え、3年前からは百万石乃白の作付けも開始。2020年7月に設立された生産者団体「百万石乃白」研究会の会長も務めています。百万石乃白の4作目となる今年は、3.3ヘクタールに田植えしました。品種の特性が少しずつわかってきたと話します。

「百万石乃白の稲は軸が太いのが特徴です。そして軸は根元から広がり気味に伸びて、穂がつく頃には一株の束がバサッと広がっています。石川門や五百万石よりも収穫期が1ヵ月ほど遅い晩生(おくて)の品種なので、実のつまり方もしっかり。稲穂の形としてはやや不格好ですが、そのおかげで強い風でも倒れにくく、高い収穫量をもたらしています」

「百万石乃白」研究会では、25の生産者が、より適切な栽培方法や収穫後の管理方法などについて情報交換しながら栽培しています。目下の課題は、肥料の選定と施肥のタイミングの見極めです。酒蔵が百万石乃白を安心して使えるように、栽培地域や生産者による品質のブレをなくし、いち早く安定供給できる体制を整えることを目指しています。

林氏は、夏場は米作り、冬場では近隣にある吉田酒造店の蔵人として酒造りに従事した経験もあります。酒米を作るには、それを使う現場を知りたいという思いがあったからだと話します。
「我々百姓ってのは、ついつい自分が作りたいもんばかり作ってしまうもんで。それを意識的に変えていかんと。何が求められて、どんな農業をしていかねばならんのか? そこにちゃんと向き合って挑戦するのがおもしろい。新品種の酒米を作るのは正直、農業経営的にはまだ割りに合わなくて、厳しいものがある。でも、やる。なぜなら、おもしろいからですよ」

林勝洋氏に百万石乃白の田んぼを案内してもらうonestoryフードキュレーターの宮内隼人。極力農薬を使わず、土壌改良に能登産牡蠣の殻を利用するなど、そこに隠れた工夫や手間ひまの一端を知った。

百万石乃白は軸が太く、広がって伸びるのが特徴。成長しても草丈が短く、倒れにくい点も評価が高い。

26歳の結婚を機に農業指導員から脱サラ就農した林氏。農業指導を行う中で、白山市は全国屈指の稲作の好適地と判断。「ここでやっていけなきゃダメ」と農家への転身を決断したという。

百万石乃白ここにしかない水、ここでしかとれない米、ここにしかない酒造りの技を。

霊峰白山を間近に望む穀倉地帯、手取川扇状地で150年に渡って酒を造り続ける吉田酒造店。大越基裕氏も高く評価した「手取川 純米大吟醸原酒 百万石乃白」を醸す酒蔵です。迎えてくれたのは、昨年7代目社長に就任した吉田泰之氏。山形の出羽桜酒造で修行し、10年前から家業での酒造りに取り組み、現在は杜氏も務めています。

酒米には伝統的に山田錦と五百万石を使い、2008年からは県産の石川門、そして2018年からは百万石乃白を積極的に使って酒造りをしています。酒米は、精米時の割れやすさもさることながら、発酵によって溶けて味や香りが出るかどうか、雑菌に対する強さなど特徴は千差万別。吉田氏は、酒米の個性について学校のクラスを例にして話します。

「山田錦はスーパースター。勉強は一番、スポーツ万能、健康優良児の人気者。五百万石は成績は上位だけど、苦手教科も少しある、体育も脚は速いけど球技は苦手みたいな。でも、サポート役としては非常に優秀で、山田錦が学級委員長なら、五百万石は副委員長として力を発揮してくれる。実際、麹米として使うと素晴らしい働きをしてくれます。石川門は割れやすいため、雑菌に汚染されやすく、日本酒ではタブーとされるスモーキーな香りを発しやすい酒米。勉強も運動も苦手で気難しい生徒ですが、実はアートや音楽の才能がずば抜けている天才肌。扱い方によって大化けするタイプです。そして、百万石乃白は注目の転校生。勉強でもスポーツでもみんなをあっと驚かせているけれど、まだミステリアスな存在。どの子も、それぞれにかわいいんですよ」

銘酒「手取川」と「吉田蔵」を醸す吉田酒造店。山廃仕込みを中心とする伝統的な酒造りを守り、2020年に創業150周年を迎えた。

吉田酒造店では、蔵人たちが蔵周辺の田んぼで酒米を育てている。初夏、百万石乃白は青々とした葉を広げつつあった。

吉田酒造店では、兵庫県産山田錦のほか、石川県産の五百万石、石川門、百万石乃白の4種の酒米を使用。自社精米によって最適な磨き方も追求している。

この10年ほどで、全国的に日本酒の味は格段に向上したと吉田氏。しかし、その背景を知っていると、手放しでは喜べないと話します。酒造りから流通に至るまでの冷蔵技術の発達、発酵を促進させる添加物の使用、水質を醸造しやすい構成に変えるテクノロジーなど、多大なエネルギーを要し、地域で培われた酒造りの伝統技術を否定する手法も少なくないからです。極端な話、優れた酒米を取り寄せ、水質を調整し、最新技術と電力をふんだんに使えば、東京都心のビルでも高品質な酒は造れます。でも、果たしてそこに地酒としての価値はあるのでしょうか。何を大事にして、何を変えていくべきか? 吉田酒造店は原点回帰しながら、地域に根差す蔵としてのあるべき姿を模索しています。

「私たちにとって水は命。かつて暴れ川と呼ばれた手取川が山の岩石を平地に運んだことから、この地でくみ上げる地下水はミネラル感豊富な中硬水となります。この水を守っていくためには、森や田んぼが健全に保たれていくことが必須です。田んぼが次々と工場やショッピングモールに変わっていく状況に危機感を覚え、7年前に地元の酒米をさらに積極的に使っていくようになりました。百万石乃白はこの地の気候風土に適しているので、持続可能性の観点でも理想的です。そして、百万石乃白を使った3回目の造りを経て、この地の水や私たちが大事にしている伝統的な製法との相性のよさも見えてきました。ここにしかない水、ここでしかとれない米、ここにしかない酒造りの技で、次世代の地酒を造っていきたいと思います」

いまだ謎めく転校生、百万石乃白の真価が問われるのは、これからです。

百万石乃白や石川門を使った最新の酒をテイスティング。アルコール度数を13%程度に抑えた食事に寄り添う酒の開発に注力している。「百万石乃白のバランスのよさ、石川門の自然でやさしい甘味、どちらも甲乙つけがたい」と宮内。

工場内の貯蔵庫などには冷たい地下水を利用した井水式クーラーを導入して、極力電力を使わない操業を追求。今年、全電力は再生可能エネルギー由来に変えた。「アイデンティティである水、米を見つめ直し、持続可能な酒造りを目指していきたい」と吉田氏。

住所:石川県白山市安吉町41 MAP
電話:076-276-3311
https://tedorigawa.com/


Photographs:SHINJO ARAI
Text:KOH WATANABE
(supported by 石川県、公益財団法人いしかわ農業総合支援機構)

石川県食のポータルサイト
いしかわ百万石食鑑
https://ishikawafood.com/

11年の歳月をかけて誕生した酒米「百万石乃白」の秘めたるチカラ。後編[Bon appétit Ishikawa !/石川県]

百万石乃白を使って3回の醸造を経験した吉田酒造店の社長で杜氏の吉田泰之氏。山田錦に匹敵する県産酒米の登場を喜ぶ。

百万石乃白「石川県産米で大吟醸酒を」の願いに応えるために。

冬場の寒冷な気候や白山水系の清冽(せいれつ)な地下水脈など酒造りに適した環境に恵まれる石川県。日本の代表的な杜氏集団のひとつである能登杜氏を擁する酒どころで、37の蔵が酒造りを連綿と続けています。百万石乃白は県内の蔵元や杜氏たち待望の酒米。その誕生の秘密を探るために、金沢市才田町にある石川県農林総合研究センター農業試験場を訪ねました。百万石乃白の品種開発の歴史は、2005年までさかのぼります。

当時は、日本酒の消費量が減少していく中、地域の独自性を打ち出した付加価値の高い日本酒を造るために、地域固有の酒米を求める声が大きくなってきた頃。石川県内で造られる大吟醸酒は、ほとんどが兵庫県産山田錦を使ったものでした。米の表面を50%以下に削って使うことが条件となる大吟醸酒。大粒で割れにくい山田錦は、「酒米の王様」として吟醸酒カテゴリーに君臨しています。新品種開発のスタートは、石川県酒造組合連合会からあらためて「石川県産の酒米で大吟醸酒を造りたい」との要請を受けたのがきっかけ。「50%まで精米しても割れにくいこと」と明解な育種目標が掲げられました。

百万石乃白の開発を担当した石川県農林総合研究センター農業試験場 育種グループ主任研究員・畑中博英氏。

農業試験場では毎年約50組の米の交配を行なっていると、育種グループ主任研究員・畑中博英氏は話します。
「米の中心にある白い部分を心白といいますが、この部分がもろいため、大吟醸酒を造る時は心白近くまで削るのでどうしても割れやすくなってしまいます。この問題を克服するために、交配ではとにかく心白が小さいものを選抜していきました。有望な交配の組み合わせを入念に検討しても、その結果が出るのは1年後。優良な組み合わせが見えたら、試験醸造を行いながら、さらに選抜を繰り返していくので、長い年月がかかります。割れにくくても、収穫量が少なかったり、酒にした時の味がいまいちだったりという問題もありました。結局、百万石乃白の開発には実に11年を要しました」

大粒の酒米「ひとはな」と大吟醸酒向けの酒米「新潟酒72号」との掛け合わせにより、石川県独自の酒米「'05酒系83」が誕生。これに山田錦を交配することで、のちに百万石乃白と命名される理想形「石川酒68号」の産出に至りました。肝心の“割れ”について農業試験場の分析では、50%精米時で割れるのは1割以下と、山田錦の2割以下を凌ぎます。さらに、収穫量も山田錦を上回り、草丈は山田錦よりも1割ほど低いことから台風などで倒れにくく、石川県での栽培にも適しています。

「実は私は体質的にお酒が飲めないので、香りをチェックすることしかできないのですが、試験醸造で『良い酒ができた』という声が上がった時には、本当にうれしかったですね。ようやく一人前の酒米に、うまい酒に育ったんだなと」

2018年に石川県内10の蔵が百万石乃白の使用を開始し、2019年には20蔵、2020年には24蔵に拡大。多くの酒蔵が百万石万白の醸造に挑戦しており、今後、県産酒米としての定着が期待されています。

精米後の百万石乃白。公募によって決まった愛称の由来は、その美しい白さ。

百万石乃白適切な栽培法を確立するために、田んぼでの奮闘は続く。

古来、米作りが盛んな加賀平野。そのほぼ中央に位置する白山市山島地区で、稲作・麦・大豆の農業を営む林勝洋氏は、酒米作りにも積極的に取り組んでいます。夏場、この地では、手取川が冷涼な空気を運ぶことで夜から朝にかけての気温がぐっと下がり、良質な米ができる条件である昼夜の大きな寒暖差が生まれています。酒米として山田錦に次いで全国2位の収穫量のある五百万石、吟醸酒向けに先行開発された石川県独自の酒米・石川門に加え、3年前からは百万石乃白の作付けも開始。2020年7月に設立された生産者団体「百万石乃白」研究会の会長も務めています。百万石乃白の4作目となる今年は、3.3ヘクタールに田植えしました。品種の特性が少しずつわかってきたと話します。

「百万石乃白の稲は軸が太いのが特徴です。そして軸は根元から広がり気味に伸びて、穂がつく頃には一株の束がバサッと広がっています。石川門や五百万石よりも収穫期が1ヵ月ほど遅い晩生(おくて)の品種なので、実のつまり方もしっかり。稲穂の形としてはやや不格好ですが、そのおかげで強い風でも倒れにくく、高い収穫量をもたらしています」

「百万石乃白」研究会では、25の生産者が、より適切な栽培方法や収穫後の管理方法などについて情報交換しながら栽培しています。目下の課題は、肥料の選定と施肥のタイミングの見極めです。酒蔵が百万石乃白を安心して使えるように、栽培地域や生産者による品質のブレをなくし、いち早く安定供給できる体制を整えることを目指しています。

林氏は、夏場は米作り、冬場では近隣にある吉田酒造店の蔵人として酒造りに従事した経験もあります。酒米を作るには、それを使う現場を知りたいという思いがあったからだと話します。
「我々百姓ってのは、ついつい自分が作りたいもんばかり作ってしまうもんで。それを意識的に変えていかんと。何が求められて、どんな農業をしていかねばならんのか? そこにちゃんと向き合って挑戦するのがおもしろい。新品種の酒米を作るのは正直、農業経営的にはまだ割りに合わなくて、厳しいものがある。でも、やる。なぜなら、おもしろいからですよ」

林勝洋氏に百万石乃白の田んぼを案内してもらうonestoryフードキュレーターの宮内隼人。極力農薬を使わず、土壌改良に能登産牡蠣の殻を利用するなど、そこに隠れた工夫や手間ひまの一端を知った。

百万石乃白は軸が太く、広がって伸びるのが特徴。成長しても草丈が短く、倒れにくい点も評価が高い。

26歳の結婚を機に農業指導員から脱サラ就農した林氏。農業指導を行う中で、白山市は全国屈指の稲作の好適地と判断。「ここでやっていけなきゃダメ」と農家への転身を決断したという。

百万石乃白ここにしかない水、ここでしかとれない米、ここにしかない酒造りの技を。

霊峰白山を間近に望む穀倉地帯、手取川扇状地で150年に渡って酒を造り続ける吉田酒造店。大越基裕氏も高く評価した「手取川 純米大吟醸原酒 百万石乃白」を醸す酒蔵です。迎えてくれたのは、昨年7代目社長に就任した吉田泰之氏。山形の出羽桜酒造で修行し、10年前から家業での酒造りに取り組み、現在は杜氏も務めています。

酒米には伝統的に山田錦と五百万石を使い、2008年からは県産の石川門、そして2018年からは百万石乃白を積極的に使って酒造りをしています。酒米は、精米時の割れやすさもさることながら、発酵によって溶けて味や香りが出るかどうか、雑菌に対する強さなど特徴は千差万別。吉田氏は、酒米の個性について学校のクラスを例にして話します。

「山田錦はスーパースター。勉強は一番、スポーツ万能、健康優良児の人気者。五百万石は成績は上位だけど、苦手教科も少しある、体育も脚は速いけど球技は苦手みたいな。でも、サポート役としては非常に優秀で、山田錦が学級委員長なら、五百万石は副委員長として力を発揮してくれる。実際、麹米として使うと素晴らしい働きをしてくれます。石川門は割れやすいため、雑菌に汚染されやすく、日本酒ではタブーとされるスモーキーな香りを発しやすい酒米。勉強も運動も苦手で気難しい生徒ですが、実はアートや音楽の才能がずば抜けている天才肌。扱い方によって大化けするタイプです。そして、百万石乃白は注目の転校生。勉強でもスポーツでもみんなをあっと驚かせているけれど、まだミステリアスな存在。どの子も、それぞれにかわいいんですよ」

銘酒「手取川」と「吉田蔵」を醸す吉田酒造店。山廃仕込みを中心とする伝統的な酒造りを守り、2020年に創業150周年を迎えた。

吉田酒造店では、蔵人たちが蔵周辺の田んぼで酒米を育てている。初夏、百万石乃白は青々とした葉を広げつつあった。

吉田酒造店では、兵庫県産山田錦のほか、石川県産の五百万石、石川門、百万石乃白の4種の酒米を使用。自社精米によって最適な磨き方も追求している。

この10年ほどで、全国的に日本酒の味は格段に向上したと吉田氏。しかし、その背景を知っていると、手放しでは喜べないと話します。酒造りから流通に至るまでの冷蔵技術の発達、発酵を促進させる添加物の使用、水質を醸造しやすい構成に変えるテクノロジーなど、多大なエネルギーを要し、地域で培われた酒造りの伝統技術を否定する手法も少なくないからです。極端な話、優れた酒米を取り寄せ、水質を調整し、最新技術と電力をふんだんに使えば、東京都心のビルでも高品質な酒は造れます。でも、果たしてそこに地酒としての価値はあるのでしょうか。何を大事にして、何を変えていくべきか? 吉田酒造店は原点回帰しながら、地域に根差す蔵としてのあるべき姿を模索しています。

「私たちにとって水は命。かつて暴れ川と呼ばれた手取川が山の岩石を平地に運んだことから、この地でくみ上げる地下水はミネラル感豊富な中硬水となります。この水を守っていくためには、森や田んぼが健全に保たれていくことが必須です。田んぼが次々と工場やショッピングモールに変わっていく状況に危機感を覚え、7年前に地元の酒米をさらに積極的に使っていくようになりました。百万石乃白はこの地の気候風土に適しているので、持続可能性の観点でも理想的です。そして、百万石乃白を使った3回目の造りを経て、この地の水や私たちが大事にしている伝統的な製法との相性のよさも見えてきました。ここにしかない水、ここでしかとれない米、ここにしかない酒造りの技で、次世代の地酒を造っていきたいと思います」

いまだ謎めく転校生、百万石乃白の真価が問われるのは、これからです。

百万石乃白や石川門を使った最新の酒をテイスティング。アルコール度数を13%程度に抑えた食事に寄り添う酒の開発に注力している。「百万石乃白のバランスのよさ、石川門の自然でやさしい甘味、どちらも甲乙つけがたい」と宮内。

工場内の貯蔵庫などには冷たい地下水を利用した井水式クーラーを導入して、極力電力を使わない操業を追求。今年、全電力は再生可能エネルギー由来に変えた。「アイデンティティである水、米を見つめ直し、持続可能な酒造りを目指していきたい」と吉田氏。

住所:石川県白山市安吉町41 MAP
電話:076-276-3311
https://tedorigawa.com/


Photographs:SHINJO ARAI
Text:KOH WATANABE
(supported by 石川県、公益財団法人いしかわ農業総合支援機構)

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いしかわ百万石食鑑
https://ishikawafood.com/