映画監督・河瀨直美が体験する、創造的休暇。

紀寺の家 「きおくと現実のはざまで」
文・河瀨直美

 紀寺で生まれ、紀寺で育った。紀寺はわたしの故郷である。この路地の先の長屋には、現実ときおくを行き来する空間がある。余分なものは一切無い。庭にある木々たちも、自らの場所をわきまえて存在している。枝葉を太陽に向かって伸ばしている姿は美しい。領域は無限だが、わきまえることで、その無限は無限たるに在る。季節ごとのしつらえも、あるがままに美しい。ひとりがこんなに贅沢なのは、物言わぬものたちが、その存在そのもので充分に豊かだからだ。それ以上でも以下でもない。比べることもない。私が私であって良いと彼らに存在を認めてもらっているような安心感が心を満たす。歩くこと、迷うこと、時間を気にしないこと、委ねること。丁寧に生きるとは、私の中の私を愛でることなのかもしれない。あたりまえに備わっている自分に感謝すること。もうひとつの目を持って、それらを見つめること。この空間は、そうして私を解放する。ああ、自由だ。風が心地よい。ささいな陰影が目に飛び込んでくる。細やかな物事がまるで奇跡のように思えたら、ここにある創造的休暇は、どんなことよりも贅沢だ。これでもかこれでもかとありとあらゆるものを自分の周りに置いて過ごしてみても、何やら孤独が押し寄せる夜は、ふっとこの路地の向こうを思い描いてみよう。そうすれば心の奥のほうに確かに存在しているあの日の自分を取り戻せるかもしれない。

 アテもない散歩、この辻を曲がれば何に出会えるのだろうと心弾ませていたあの日、私の笑顔はきっと穏やかで清々しい色をしていたに違いない。あの色にもう一度逢いにいく。でも、もう少し、だから、ここで頑張ってみる。そう思い、空を見上げるとまんまるなお月様がじっと私を見つめてくれていた。梢の向こうに輝くそれは、この地球に暮らす人々の上に等しく光を放つ。ああ、同じだね。大好きだよ。ここにいるよ。ありがとう。

1969年生まれ、奈良県出身。地元・奈良を拠点に映画を創り続ける。一貫したリアリティの追求はカンヌ映画祭をはじめ、各国の映画祭で受賞多数。代表作は、「萌の朱雀」、「殯の森」、「2つ目の窓」、「あん」、「光」など。映画監督のほか、CM演出、エッセイ執筆などジャンルにこだわらず表現活動を続け、故郷奈良において「なら国際映画祭」をオーガナイズしながら次世代の育成にも力を入れている。最新作「朝が来る」は、第73回カンヌ映画祭公式セレクション、第93回米アカデミー賞国際長編映画賞候補、日本代表として選出。第44回日本アカデミー賞では、6部門で優秀賞と新人俳優賞を受賞。また、東京2020オリンピック公式映画監督に就任。2025年大阪・関西万博のプロデューサー兼シニアアドバイザー。バスケットボール女子日本リーグの会長も務める。プライベートでは、野菜やお米も作る一児の母。
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住所:奈良県奈良市紀寺町779 MAP
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Photographs:HARUHI OKUYAMA