コロナ禍でも攻め続け、木下威征であり続ける。そこに待ち受ける未来とは!?[Grand Bleu Gamin/沖縄県宮古島市]

グランブルーギャマンいつか宮古島へ。スタッフと交わした7年来の約束を実現。

実は宮古島に『Grand Bleu Gamin』というオーベルジュを出すに至ったのにはひとつのエピソードがあります。

あるとき、仕事で宮古島を訪れた木下氏は、帰京すると、宮古島の素晴らしさをスタッフに伝えます。
「こんなきれいなところあるんですか?」「いつか行ってみたいっすね」
写真を見せながら、宮古島の魅力を伝えると、当然スタッフは興奮しました。
しかし、その一方で「自分たちの給料じゃ全然いけないな~」との声もあがったそうです。
それに対し木下氏は、「じゃあ、今年の目標は宮古島に行くことにしよう。売上を上げてみんなで社員旅行で行こう!」と約束したといいます。
その場ではスタッフも喜ぶものの、みんなどこか半信半疑であったのも事実でした。

ただ、それを木下氏は話半分にすることはしませんでした。
「絶対にこいつらを信じさせてみせよう」
スタッフとともに必死に働き、店舗だけの利益では宮古島旅行はできないと見るや、休み返上で他の仕事もこなし、講演をこなしたり……。なんとか社員旅行の経費を捻出、念願の宮古島にこぎつけるのです。ただ木下物語はここで終わりません。

宮古島でのバカンスを楽しんだチーム木下のスタッフは「いつかこんなところで働いてみたい」という思いを抱くようになります。そして、木下氏はその場でスタッフにこう約束するのです。
「よし、だったら次の目標は、この宮古島に店を出すことな!」

それから7年。2020年2月、宮古島にオープンしたのが『Grand Bleu Gamin』なのです。

2020年2月にオープン。まさにコロナがじわじわと世界中に蔓延し始めたタイミングでの開業となった。

ディナーは『Grand Bleu Gamin』の真骨頂ともいえる鉄板焼のカウンターで。木下氏がカウンターに立てばそこは劇場と化す。

グランブルーギャマンコロナ禍も連日、満席、満室。攻めの姿勢が新たな客層を呼ぶ。

『ONESTORY』は今回の記事を制作するにあたり、コロナ禍をまたいだことで2度の取材を敢行しています。一度目は2020年2月のオープン直前、二度目は2020年12月。誰もが予想しなかった新型コロナウイルスが、観光産業に支えられる宮古島に与えた影響は小さいはずがありませんでした。しかし、木下威征がとった行動は、経営者として見事なものでした。

木下氏は4月からまずキャッシュの確保に奔走します。
「役員報酬は減らして、若手にはいままで通り、給料は全額支給する。なんとか2年間は耐えられる金額を集めました」
そのうえでもちろんスタッフを危険にさらすことはできません。2020年4〜5月は東京の店を閉め、満席が続いた宮古島だけ営業を続ける形に。

しかし、ふたを開ければ、コロナ禍で始めたYouTubeの料理教室も人が集まり、もともと通販を行なっていたノウハウをいかして、料理セットを販売するとこちらも好調。2店舗分くらいの収益を得たことで、借りたお金には一切手をつけず今まで来ることができたといいます。
さらに、このコロナ禍で、一番の想定外だったのが満席の続く店の客層でした。オープン当初は東京をはじめ県外から訪れるゲストがほとんどでしたが、コロナ禍では県外の客が5割、残り5割は島内の人々という比率に。
「YouTubeで強気にも課金性の料理教室をやったら、それでも人が集まってくれた。そこで繋がった人たちが宮古島に泊まりにきてくれたり、食事にきてくれたり。地元の人にとっても、いままで島内にこんなレストランがなかったから、特別な時間を過ごすのにきていただけるんです」

さらに、木下氏の攻めの姿勢は、コロナ禍で「新たに20人のスタッフを雇った」ということにも現れます。
「この状況だからもちろん閉めざるを得なくなったレストランも多い。そんななかで働き口を失った料理人たちが僕のところにやってくるんです。本来なら、どこも人を新たに雇える余裕なんかない。でも、知人から『木下さんのところならなんとかしてくれるかも』という話を聞いて助けを求めにやってくる人もいる。自分は面接をしたら基本的にみんな採用するんです。飲食業が大変ななか、仕事がなくなり、それでもうちにお願いしにくるということは、そいつは料理が好きでなんです。お客さんを喜ばせるこの仕事が好きだから頭を下げてやってくると思っている。『じゃあ、その好きな気持ちを、お客さんを喜ばせたいという思いを一緒にカタチにしていこうじゃないか』と。それだけなんです」

コロナでも攻め続けた木下氏。キャッシュを確保し、役員は減俸にしたうえで若手スタッフにはいままで通り全額支給を続けた。

レストラン2Fにあるバースペース。『Grand Bleu Gamin』で働くスタッフひとりひとりに木下イズムが浸透している。

グランブルーギャマン宮古島の開発エリアにプロデュース店オープン。さらには……。

そんな攻めの姿勢を続ける木下氏には新たな展開も待ち受けていました。いまとある企業から宮古島の新たな開発施設の目玉となるテナントプロデュースの仕事が舞い込んでいます。
これも実は木下氏の誠実な性格があってこそ実現したもの。

というのは、別業界で財を成した、とある企業の会長が飲食店展開に興味を持ち、木下氏に話しを持ちかけます。その会長とは、以前に別店舗のメニュー開発で関わりをもっていた木下氏は、新規飲食店の展開に対しこう助言します。
「会長、飲食は儲からないですよ。会長がやってきた業界との利益率とは桁がひとつ違います。絶対に止めたほうがいいですよ」
すると、その会長はこうきっぱりと返すのです。
「木下君ね、だからこそ、僕は君とやりたいんだ。いままで、こんな話をいろんなやつらにしてきたけど、全員うまいこといって、お金だけ釣り上げ、ちょろまかして消えていった。『儲からないからやめた方がいい』といってくれたのは君だけだ」

偶然にもそのときに、宮古島の新たな開発施設の目玉となるテナント運営の話を持ちかけられていた木下氏。しかし、そこを開くには数千万円単位のお金がかかる。そんなことを会長に告げると、「よし、じゃあ、それをやろう。運営はうちがやるから、木下くんはプロデュースをしてくれ」というのです。
それが、今後オープンする予定の『トリプルG』という名のカフェ。『Grand Bleu Gamin』に続く宮古島の第二章はすでに始まっているのです。

それだけではありません。極めつけは、2023年にフランスの南西、スペインとの国境にほど近いビアリッツという海沿いの街に店を出す予定もあります。
「留学時代、アジア人としてバカにされ、悔しい想いをしながらも料理の素晴らしさを教えてもらったフランス。そこで“日本”を売りにいくんです。メイド・イン・ジャパンの皿で、メイド・イン・ジャパンのお箸で、メイド・イン・ジャパンの食材で、フランス料理を表現する。そんな店です」

コロナ禍で飲食業界が悲鳴を上げるなか、こうして常に攻めの姿勢を続ける木下氏。それは無理をしているでもなく、背伸びをしているのでもありません。熱く、優しく、何事にも真っ直ぐに、真摯に向き合ってきた木下氏だからこそのいまであり、これからの物語も必然として紡がれていくのでしょう。

『Grand Bleu Gamin』のアイコン的に建物の目の前に停まるギャマン号。次に木下氏が目指す場所とは?

『Grand Bleu Gamin』の名は、伝説のダイバー、ジャック・マイヨールの生涯を追った映画『グラン・ブルー』に由来。

グランブルーギャマン宮古島でも受け継がれる、温かさに満ちた木下イズム。

実は、2度目の取材の前日、木下氏がいないことを知りながら、『ONESTORY』取材班は『Grand Bleu Gamin』をふと訪れました。すると、スタッフのひとりがわれわれを、温かくもてなしてくれるのです。旅行かばんも持っていませんから、われわれが宿泊客でないことは一目瞭然です。
しかし、そのスタッフはレストランやバーを丁寧に案内してくれて、『Grand Bleu Gamin』のパンフレットを見せてくれながら、真面目に、そして楽しそうに話をしてくれるのです。

翌日の取材でそのことを伝えると、木下氏はこういうのです。
「それは、みんなが『雇われ』という気持ちがないからだと思うんです。ひとりひとりが自分たちのホテル、自分たちのグループ、自分たちのゲストと思っている。全員がそういう捉え方をしてくれているんです。だからこそ来てくれた方には、全力でもてなしをしてくれる」
そんな言葉を聞いて改めて確信しました。これこそが木下威征という料理人の魅力なのだと。そのぶれない人間力のような、どっしりとした幹があるから、そこから多くの枝が伸び、葉が茂り、実がなっていくのだ、と。その木の隅々には当然、木下イズムが行き渡っています。
料理人である前に、サービスマンである前に、ひとりの人間であること。
そして、そこには温かさがないといけないということ。
木下威征という人間のまわりには、そんなの温かさが満ちていました。

キラキラと目を輝かせ、どこまでも真面目にまっすぐに。そんな人間としての魅力が、木下氏のまわりに人を呼び寄せる。

住所:沖縄県宮古島市平良字荷川取1064-1 MAP
電話:0980-74-2511
https://www.grand-bleu-gamin.com/

料理、空間、ディテールにまで落とし込まれた、ゲストを喜ばせたい思い。[Grand Bleu Gamin/沖縄県宮古島市]

グランブルーギャマンディテールの積み重ねが、日常からゲストを開放する。

『Grand Bleu Gamin』のオーベルジュという立ち位置を考えれば、もちろん宿としてのハードの説明が必要でしょう。
『Grand Bleu Gamin』があるのは宮古島の北部、大浦湾にほど近い海沿いにあります。畑と緑に囲まれ、生い茂った木々を抜けた先には、宮古ブルーの海が広がるプライベートビーチ。
南仏にあるような白亜の館を思わせる建物は、ワンフロアで構成されたスーペリアスイート、メゾネットタイプのデラックススイート、リビングと独立した2ベッドルームを備えたプレミアムスイートの3タイプ全5室で構成されています。そのすべての部屋にプライベートプールを備えるという贅沢な空間で、世界各地から厳選した最高級の麻を100%使うベッドリネン、ハンガリーホワイトダックのダウン85%、フェザー15%という2枚合わせの羽毛布団、ルームウェアには『JAMES PERSE』のパーカーとTシャツ 、パンツを用意。それだけではなく、無垢のピーチ材を使ったハンガーやブラシは、浅草橋にあるインテリア雑貨ブランド『clokee』とのダブルネーム……。
そうしたちょっとしたディテールに「ゲストを喜ばせたい」との心遣いが形となって表現されているのです。
「日常の喧騒を忘れてゆっくりと流れる島の時間に身を委ねてもらいたい」
そのコンセプトは、言葉にすれば簡単なことですが、小さなことの積み重ねのひとつひとつが、ゲストを日常から乖離させているのです。

ベッドリネンは、最上級麻を、羽毛布団はホワイトダックダウンとフェザーをかけ合わせ、睡眠の質を追求。

滞在時間をよりくつろいでもらうべく、ルームウェアにもこだわった。パーカー、パンツ、Tシャツスタイルがリラックスさせる。

ポーチも歯ブラシセットも『Grand Bleu Gamin』のロゴ入りオリジナル。こうした小さなこだわりが嬉しい。

グランブルーギャマン食材に乏しい宮古島。そのなかで宮古島バージョンにアップデート。

そして、『Grand Bleu Gamin』のハイライトとなるのが、もちろん食事の時間でしょう。その舞台は、『AU GAMIN DE TOKIO』のスタイルを踏襲したオープンキッチンのカウンターです。
ここで登場するのも当然、フレンチをベースとした鉄板料理で、そこには木下氏の「ゲストに喜んでほしい」という遊び心と、もてなしの心が詰まっています。

たとえば、『AU GAMIN DE TOKIO』でも出しているメニュー「サイフォントマトラーメン」。それを進化させた宮古島バージョンでは、カリカリに焼いて粉砕した宮古島産の車海老を鰹節とともにサイフォンに入れ出汁を抽出。カペッリーニと合わせ、島とうがらしを使って仕込んだ自家製ラー油を加えアクセントにしています。

一方で、木下氏のスペシャリテでもある「とうもろこしのムースと生うに」でも宮古島らしさを演出します。チップになるまで焼いて焦がす宮古島産の玉ねぎを練り込んだクッキーを添え、『Grand Bleu Gamin』仕立てへとアップデートしているのです。
「四季がない宮古島ではどうしても食材が限られています。皮肉にも一番観光客が集まるシーズンが、一番食材に乏しい。その中でいかに工夫してゲストに喜んでもらうか」
その言葉は、まさに木下氏が修業時代、三谷氏や福島氏から学んだ精神なのではないでしょうか。

木下威征といえばこれ。スペシャリテ「とうもろこしのムースと生うに」。ムースと生うにの絶妙なハーモニー。

すぐ近くにあるビーチの貝や砂をあしらった「イカともずくのアロエ和え-みょうがと大葉の薬味とともに-」。

サイフォンで出汁をとる。この一手間もまたカウンターのライブ感となってゲストを喜ばせるのだ。

グランブルーギャマンなければつくるまで。食材探しに奔走し、築いた生産者との信頼関係。

とはいえ、宮古島で料理をつくるのであれば、できるだけ島内の食材を使いたいのは当然です。しかし、それが一朝一夕でできるものでもありません。
「宮古島で食材を仕入れるとなると料理人が行き着くのは、やっぱり『あたらす市場』か『島の駅』になるんです。ただ、そうなると『この食材もどこかで見たことがある』『この食材はほかで食べたことがある』となってしまう。宮古島で他にはない何か特別なものを使うとなると、やり方も考えないといけなかった」と木下氏はいいます。

木下氏は『Grand Bleu Gamin』をオープンする1年前から宮古島を訪問し、食材探しに奔走、そこである答えに行き着きます。
「ないのなら、生産者から育てていくしかない」
オープンまでの間、木下氏は宮古島にある農園の住所を調べ、片っ端から生産者のもとを訪ね歩きました。
「『わたくし木下と申しますが、1年後、宮古島でお店を開きます。市場に出る前の食材をあなたにつくってもらいたいのです。一緒にやっていただけませんか?』とお願いしてまわりました」
ただ、宮古島ですでに栽培されている既存の食材をつくってもらうのではありません。生産者には、まだ宮古島ではつくられていない野菜を栽培してもらおうというのです。
「ルッコラやプンタレッラももともとは宮古島にはなかった食材でしたが、種を渡してつくってもらったんです。漁師にも魚を釣ったらバンバン甲板に投げるのでなく、『めんどくさいけど釣ったら一度神経締めにして、血抜きしたやつをクラッシュアイスにいれて、うちのだけでもいいから、このサイズがとれたら処理してまわしてほしい』とお願いしてまわりました」といいます。
それだけでなく、マンゴーやドラゴンフルーツなどをつくっている生産者には間引いていらなくなった果物を譲ってもらったり、宮古島では豆腐しか食べる習慣がないので、島豆腐の生産者には湯葉をいただいたり……。そうして、宮古島らしさを打ち出すために木下氏は準備をしてきました。

車海老の頭と鰹節を使いサイフォンでとった出汁にカペッリーニを合わせた「車海老のサイフォンスープ」。

マンゴー農家から仕入れるマンゴー。完熟を冷凍してデザートなどに使う。

マンゴーの生産者。カフェも営み、そこで出されるマンゴーカレーは、木下氏絶賛の一品。

グランブルーギャマンかつての常連の言葉が今に重なる。木下威征らしさを追求する。

そんな具合に生産者を含めてここ宮古島でチームをつくってきた一方で、料理についてはまだまだ進化の途中とも木下氏はいいます。
「今回お出ししている料理も、まだまだ自分らしくないと思っているんです。ここが開業するまで、ああでもない、こうでもないと思って、1年間スタッフとともに話をしてやってきたんですが、もっとライブ感があっていいと思っています。お客様に高いお金を出して来ていただく以上、『待たしてはいけない』とか『洗練された料理を出さないといけない』という思いが強くなるのは当然。でも、どこか縮こまっている。僕らしくないと自分では、感じているんです」

昔、『深夜食堂はなれ』という店をつくり、木下氏が和食に挑戦したときのこと。木下氏をよく知る常連客にこう評されたことがあったそうです。
「料理は素晴らしかったよ、素晴らしかったけど、おまえらしくないんだよね。『木下が和食をつくる』っていうから来てみたけど、あの料理だったらオレ、赤坂の料亭に行くよ。手が込みすぎていて、綺麗すぎて、いざ来てみたら全部仕込まれていて、後は盛り付けるだけの状態の料理だとは思わなかった。おまえなら、カウンターの目の前で最高級の明太子を串に打って、炭火でジリジリと炙って、『いまだ!』というタイミングで土鍋に落とし、『これがオレの最高の和食ですっ!』と来ると思っていた。そういうことを平気でやるやつだと思っていたから」

その言葉が木下氏を改めさせ、その後『深夜食堂はなれ』はコースをやめ、アラカルト中心で勝負するようになったそうです。それは、まさにいまの『Grand Bleu Gamin』にも重なっている。木下氏はそう感じているのです。
だからこそ、食材にも本気で向き合う。その日揃った食材を見て何をつくるか。そのくらいのライブ感があってこそ、木下威征なのではないかと自問自答するのです。

2回の取材を通して分かったこと。それは、木下氏とは逆境にこそ真価を発揮するシェフであり、その真価がさらなる進化へと繋がっていくことでした。
『オー・バカナル』時代のまかない事件の時も、それがきっかけでシェフの右腕に。福島氏との深夜のまかないセッションは、木下氏の真骨頂となるライブ感あふれる料理の礎になりました。そして、コロナ禍では、経営者として先頭に立ち、数手先をみこした行動でスタッフを守り、会社としては攻めの姿勢を崩しませんでした。
その結果、チーム木下の結束力は増し、木下イズムはより浸透したことは言うまでもありません。そして、それらが、空間、ファシリティ、料理、もてなしといった、何気ないすべてに散りばめられていることこそ、『Grand Bleu Gamin』の魅力なのです。

木下らしさとは何か? 今一度、宮古島でそれを追求する。もちろん、行き着く所はゲストを喜ばせることだ。

住所:沖縄県宮古島市平良字荷川取1064-1 MAP
電話:0980-74-2511
https://www.grand-bleu-gamin.com/

強く、優しく、熱い。木下威征という男の半生が、宮古島のオーベルジュの魅力を描き出す。[Grand Bleu Gamin/沖縄県宮古島市]

グランブルーギャマンOVERVIEW

1990年代に美食家の話題を集めた『MAURESQUE(モレスク)』のシェフを務め、独立した『AU GAMIN DE TOKIO』では鉄板フレンチとして一斉を風靡したシェフ・木下威征(たけまさ)氏。料理人として幅広く活躍する一方で、東京では『TRATTORIA MODE』『深夜食堂はなれ』を展開するなど、GAMINグループのオーナーとして店舗経営にも手腕をみせています。

そんな木下氏が次なる一手を打ったのが、2020年のこと。新たに選んだ場所は、東京ではなく観光バブル絶頂の宮古島でした。しかも、宮古島北部の大浦湾近くに土地を購入し、業種もレストランではなく、オーベルジュだというのです。

そう書けば、手広くやっている、ビジネスライクなシェフというイメージを描くかもしれません。しかし、実際の木下威征という料理人、木下威征という男は、その真逆にいく人間です。
人情に厚く、人に優しく、負けず嫌いで、自分のなかの正義に真っ直ぐに突き進む。一言で表現するなら、温かな料理人であり、人間です。
そのことは、これまで木下氏が紡いできた数々のストーリーが証明してくれます。

1度目の取材は2020年2月。4月に控えていた記事公開は、コロナ感染者の増加、緊急事態宣言の発令を受け見送りに。その後も未知なるウイルスとの向き合い方に多くの人が不安を抱えるなか、『ONESTORY』は記事公開の時期を模索していました。そして、そのコロナがやや落ち着きを見せた2020年12月、当時の状況をうかがうべく再取材したものの、その後にまたコロナ感染者が増加。容易に公開に踏み切れない状況は続きました。
それからおよそ10ヶ月、機を見計らっていた『ONESTORY』は、今しかないという決断を下し、この記事を公開します。

オープンからおよそ2年。『Grand Bleu Gamin』とはどんなオーベルジュなのか。それを紐とくにはオーナーである木下威征氏というシェフがどんな人間かを知る必要があります。
フランスでの修業時代、『オー・バカナル』『MAURESQUE』『AU GAMIN DE TOKIO』。木下威征が歩んできた道のりが、『Grand Bleu Gamin』の魅力を教えてくれました。

これは単なるオーベルジュの紹介記事には当てはまらないかもしれません。ここにあるのは木下威征というひとりの人間の物語。しかし、それこそが『Grand Bleu Gamin』というオーベルジュの魅力を顕にするのです。

住所:沖縄県宮古島市平良字荷川取1064-1 MAP
電話:0980-74-2511
https://www.grand-bleu-gamin.com/

強く、優しく、熱い。木下威征という男の半生が、宮古島のオーベルジュの魅力を描き出す。[Grand Bleu Gamin/沖縄県宮古島市]

グランブルーギャマンOVERVIEW

1990年代に美食家の話題を集めた『MAURESQUE(モレスク)』のシェフを務め、独立した『AU GAMIN DE TOKIO』では鉄板フレンチとして一斉を風靡したシェフ・木下威征(たけまさ)氏。料理人として幅広く活躍する一方で、東京では『TRATTORIA MODE』『深夜食堂はなれ』を展開するなど、GAMINグループのオーナーとして店舗経営にも手腕をみせています。

そんな木下氏が次なる一手を打ったのが、2020年のこと。新たに選んだ場所は、東京ではなく観光バブル絶頂の宮古島でした。しかも、宮古島北部の大浦湾近くに土地を購入し、業種もレストランではなく、オーベルジュだというのです。

そう書けば、手広くやっている、ビジネスライクなシェフというイメージを描くかもしれません。しかし、実際の木下威征という料理人、木下威征という男は、その真逆にいく人間です。
人情に厚く、人に優しく、負けず嫌いで、自分のなかの正義に真っ直ぐに突き進む。一言で表現するなら、温かな料理人であり、人間です。
そのことは、これまで木下氏が紡いできた数々のストーリーが証明してくれます。

1度目の取材は2020年2月。4月に控えていた記事公開は、コロナ感染者の増加、緊急事態宣言の発令を受け見送りに。その後も未知なるウイルスとの向き合い方に多くの人が不安を抱えるなか、『ONESTORY』は記事公開の時期を模索していました。そして、そのコロナがやや落ち着きを見せた2020年12月、当時の状況をうかがうべく再取材したものの、その後にまたコロナ感染者が増加。容易に公開に踏み切れない状況は続きました。
それからおよそ10ヶ月、機を見計らっていた『ONESTORY』は、今しかないという決断を下し、この記事を公開します。

オープンからおよそ2年。『Grand Bleu Gamin』とはどんなオーベルジュなのか。それを紐とくにはオーナーである木下威征氏というシェフがどんな人間かを知る必要があります。
フランスでの修業時代、『オー・バカナル』『MAURESQUE』『AU GAMIN DE TOKIO』。木下威征が歩んできた道のりが、『Grand Bleu Gamin』の魅力を教えてくれました。

これは単なるオーベルジュの紹介記事には当てはまらないかもしれません。ここにあるのは木下威征というひとりの人間の物語。しかし、それこそが『Grand Bleu Gamin』というオーベルジュの魅力を顕にするのです。

住所:沖縄県宮古島市平良字荷川取1064-1 MAP
電話:0980-74-2511
https://www.grand-bleu-gamin.com/

いまも変わらない。強くて、優しくて、義理人情に厚い木下威征という男の原点。[Grand Bleu Gamin/沖縄県宮古島市]

グランブルーギャマン伝説的レストラン『オー・バカナル』でのまかない事件。

木下威征という男の半生を描けば、ここには書ききれないほどの物語に溢れています。
札付きのワルだった学生時代。悲しい思いをさせてしまった母親に対して変わった自分を見せようと邁進した調理師専門学校では、料理の知識がまったくなく入学したにもかかわらず、料理学校の東大といわれる調理学校を首席で卒業。フランス語がしゃべれないなか孤軍奮闘したフランス留学も木下氏に大きな影響を与えたのは間違いありません……。
そんななか木下氏の礎を築いたといってもいいのが、かの『オー・バカナル』でした。
『オー・バカナル』といえば、当時一世を風靡したレストラン。ブラッスリー、カフェ、ブーランジェリーが一体となり、料理はもちろん空気感、文化までもフランスそのものを再現したようなレストランで、閉店時(現在は他資本の経営で営業)にはテレビの生中継が入るほど、その人気は凄まじいものでした。

1995年、木下氏はそんな伝説的なレストラン『オー・バカナル』のオープンニングスタッフとして働き始めました。料理長を務めていたのは、今はなき『レスプリ ミタニ ア ゲタリ』の故・三谷青吾氏。当時21歳、スタッフ最年少の木下氏は、そこで70人ほどいる従業員のまかないを毎日のようにひとりつくっていたそうです。そこで木下氏が次の道を切り開く出来事が起こります。
当時、まかないはレストランの地下にあるパーティルームに用意していたそうで、トップの三谷氏から順にまかないを食べにいきます。すると、その地下からブザーが鳴り、こう言われるのです。
「おー、今日のまかないつくったやつ誰だ? こんなクソまずい料理つくりやがって」

それも、ある意味当然のことでした。他の先輩たちから頼まれる多くの雑用をこなしながら、調理に割く時間がない状況でまかないを仕込んでいたのですから。
木下氏も「与えられるのは30分くらい。その時間で美味しい料理なんてつくれるわけないだろと思っていた」と当時を振り返ります。

そして、ある時、木下氏は三谷氏から決定的なダメ出しを受けるのです。
「おまえの料理には愛情を感じない。人を喜ばせようとしている料理には思えない。今日のまかないはいらない、外で飯食ってくる」
「それが悔しくて、悔しくて……」とその一言が木下氏に火をつけることになるのでした。

『オー・バカナル』オープン当初は一番の下っ端。木下氏はまかないづくりで、自らの地位を確立していく

『オー・バカナル』で供されたのはいわゆるビストロ料理。そこで学んだ技術、精神は、木下氏の原点になっている。

グランブルーギャマン30分ちょっとで70名分のまかないづくり。どうやって美味しく?

そこで木下氏がとった行動が、マネージャーに店の鍵を借りること。当然、マネージャーには「お前、何やるつもりなんだよ」と詰め寄られます。
「毎日毎日、『まかないがまずい』って言われてムカつくんすよ。オレだって時間さえあればうまいもんつくれるんすよ。30分で70人前つくるなんて無理っす」
木下氏がそう迫ると、マネージャーは「やっとお前みたいなやつが出てきたか」と笑って鍵を預けてくれたそうです。

木下氏はレストランの営業が終わり、従業員が帰った後の深夜2時に再び店に向かいます。そこで翌日の70人分のまかないを仕込み始めるのです。
午前4時過ぎ、鍵を貸してくれたマネージャーが、店にやってきました。自宅でご飯を炊き、木下氏を鼓舞しようと大きなおにぎりを差し入れにきてくれたのです。
「木下な、いまのお前の気持ち忘れなんよ。見てくれる人は見てるからな。明日のまかない楽しみにしているよ」
そんな言葉とおにぎりだけを残し、そのマネージャーは帰っていったそうです。
木下氏は「この人を喜ばせるためにも、明日は美味しいまかないをつくろう」と改めて決心します。

翌日、ランチ営業後のまかないの時間。テーブルにずらりと並べた料理を、シェフの三谷氏から順に食べていきます。すると、いつものように地下のパーティルームからブザーが鳴りました。
「おー、今日のまかないつくったやつ誰だ?」
木下氏は「なんか、やっちまったかな?」と思ったそうです。
ところが、です。三谷氏は木下氏の目の前まで来て、深々と頭を下げてこう告げました。
「うまかった~、ごちそうさま! こういうまかないだったら、毎日食いたいな」

こうしてまかないづくりで名をあげた木下氏は、三谷氏の右腕として働くようになるのです。
単に負けず嫌いなだけではない。そこには人を喜ばせるためにどこまでも真面目である木下威征という男の芯の部分がありました。

語りきれないほどのエピソードは、それだけ木下氏が一瞬、一瞬に妥協なく人生に向き合ってきた証拠でもある。

『Grand Bleu Gamin』から木々の間を抜けていくと、その先にはプライベートビーチが待ち受けている。

グランブルーギャマンレストランプロデューサー・福島直樹氏とのまかないセッション

しかし、このまかないの物語には続きがあります。
三谷氏に認められるようになり、一番下っ端から一気に三谷氏の右腕になった木下氏でしたが、厨房の最年少であったため、日々まかないをつくり続けたそうです。そこからこの物語は新たな展開をみせるのです。

深夜のまかないづくりが続いたある日、午前2時になって店に誰かが入ってきました。その人こそ、当時の『オー・バカナル』の副社長であった福島直樹氏。後に『MAURESQUE』『AU GAMIN DE TOKIO』(後に経営権を木下氏に譲渡)、『酒肆ガランス』『焼肉ケニヤ』などを手掛けた、言わずと知れたレストランプロデューサーです。
当時の『オー・バカナル』といえば、まさに一世を風靡した“イケイケ”の時代でした。副社長という立場の福島氏も毎日が接待で夜中まで飲んでは、こうして近くにある自分の系列店に寝泊まりしにきていたそうです。

深夜の厨房に立つ木下氏は、事情を福島氏に説明します。すると、福島氏が一肌脱ぐのです。
「よし、じゃあオレも一緒に手伝ってやるよ!」

『オー・バカナル』では副社長という立場でしたが、もとを辿れば福島氏も料理人。しかも、かの三田『コート・ドール』の斉須政雄氏のもとで修業を積んだ方で、福島氏もまた熱い男でした。

そうして、木下氏と福島氏の真夜中のまかないセッションが始まります。
「キノヤン、ポロネギあるか?」「あります!」
「蒸し器もってこい!」「はい!」
「ポロネギは、蒸してからこうして水で締めてな……」
「これはな、『コート・ドール』の斉須さんと一緒につくった料理でさ……」

木下氏の熱い思いが、福島氏の料理人魂に火をつけたのです。ふたりの料理セッションはこの日だけでなく、この後も夜な夜な繰り広げられていくことになります。
そこで木下氏は、福島氏の姿を目の当たりにし、改めて料理人としての大切さを思い知ることになります。
「いままで料理するのが楽しかったはずが、『いつのまにか作業になっていたのでは?』と。とにかく時間に追われて、意地だけでやっていたのかもしれない、と気付かされたんです」
福島氏のとにかく楽しそうに調理する姿、材料が足りないとみるやその場にあるもので工夫しながら料理をつくる姿。暑い季節には、冷たいサラダを出すために、まかないにもかかわらずわざわざ冷凍庫で皿を冷やしておいたりもしたそうです。
「キノヤンな、ここまでやってサービスだからな」

木下氏は、福島氏のそんな一挙手一投足に感銘を覚えたそう。ここにも料理人木下威征の原型があるのは間違いありません。

『MAURESQUE』では、『AU GAMIN DE TOKIO』に通ずるライブ感あふれる鉄板料理の礎を見出した。

いかにゲストを喜ばせるか。シェフズテーブルという概念から、カウンターのライブ感を大切にする。

住所:沖縄県宮古島市平良字荷川取1064-1 MAP
電話:0980-74-2511
https://www.grand-bleu-gamin.com