ワインの新たな銘醸地としてのポテンシャルを秘めた「大町テロワール」。

「Ferme36」のペティアンと白をいただく。石は畑から掘り起こされたもの。オーナーの矢野夫妻はこの石を眺めながら飲むのが好きなのだとか。

 大きな寒暖差が生み出す奥深い味わい。

信濃大町の平新郷地区から遠望する蓮華岳や爺ヶ岳の山並み。その雄大な景色に向かって「Ferme36(フェルムサンロク)」のブドウ畑は広がります。銀座『BAR GOYA』の店主・山﨑剛氏は、年間出荷量約4,000本と少量ながら年々評判を高めているヴィニュロン(ブドウ栽培とワイン醸造を共に手掛ける人)を訪ねました。

「Ferme36」は矢野喜雄氏・久江氏夫妻による家族経営のワイナリーです。商品を紹介するカタログには、ヴィニロンとして夫妻の名前、その隣にはプチ・ヴィニロンとして、夫妻をよく手伝ってくれる息子の相達くんの名前が記載されています。“Ferme”はフランス語で農園を意味し、36は喜雄氏のお気に入りの数字。“山麓”とかけた造語であり、「親子3人で6人分働こう」という思いも込めているそうです。

夫妻は長年、栃木県足利市の「ココ・ファーム・ワイナリー」に勤め、ブドウ栽培とワイン醸造の両方の経験を積んできました。2014年に独立して大町市に移住し、理想のワイナリー「Ferme36」を少しずつ形にしてきました。現在、2ヘクタールの土地で約15種類のブドウを有機栽培し、5種のワインを造っています。ブドウ栽培から醸造、瓶詰めまでを行う、いわゆるドメーヌのワインはすべてナチュールワインに準じるブドウ栽培と醸造法を守り、病害予防の薬剤もEUで認証されたボルドー液を使うのみ。房を絞った果汁には酸化防止剤として一般的な亜硫酸は無添加もしくはごく微量の使用に限定。野生酵母の力で発酵させています。

ブドウを試食させてもらいます。シャルドネやメルロー、ピノ・ノワール、ピノ・グリ、ソーヴィニヨン・ブラン……。口にするたびに山﨑氏は感嘆の声を漏らします。
「これも旨い! ピノなんかめちゃくちゃ甘くて酸もしっかりある。僕はワインの仲間のシェリーというお酒の大会で日本一となりまして、本国スペインも何度も取材しているんですが、あちらではみんな『醸造用のブドウは美味しくない』と言っていましたけどね。矢野さんのブドウは食用ブドウとしてものすごく美味しい。これ、フレッシュカクテルに使ったら最高ですよ」

ブドウの美味しさの理由を矢野氏は分析します。
「このあたりは、夏でも冷涼な気候がブドウ栽培に向いていると言われています。それに加えて大きな寒暖差が影響しているでしょう。10月になると夜温がぐっと下がります。日中の最高気温は25℃くらいででも、夜間は10℃にまで下がることもざら。この15℃もの寒暖差は北海道よりも大きいと言われるほどで、この独特の気候のおかげで酸度をキープしながら糖度を高く追い込んでいけると考えています」

よく手入れされた「Ferme36」の畑。使用する薬剤はボルドー液のみであるため、そこここでさまざまな生き物が蠢く。

シャルドネは収穫の時を間近に控えていた。50年後も元気な樹であることを念頭に有機栽培に徹するが、病害虫の前にはいつも不安の連続。「有機には勇気が必要」と矢野夫妻は話す。

皮ごと発酵させるピノ・ノワールは、粒の選別を入念に行う。

「Ferme36」のワイン「Remerciements」。エチケットには、畑を見守るようにそびえる蓮華岳のシルエットがデザインされている。

「Ferme36」のオーナー、矢野夫妻と共に。「私たちが誰よりも自分たちのワインを飲んでいます(笑)。自分たちが飲みたいワインを造ろうと、ふたりで決めているんです」と久江氏。

 ミネラル豊富な土壌と、澄んだ味わいを生む天然水。

「このストイックな土壌もブドウによい影響をもたらしているでしょうね」と喜雄氏は続けます。
「うちの圃場は糸魚川-静岡構造線の西側に位置します。鹿島川が長い時間をかけて山から石を運び、広大な扇状地を作ってきた場所です。地面を15cmも掘ると、石がゴロゴロとある砂礫層になっているのがわかります。近くで行われた掘削調査によると、花崗岩が3割、火山岩が7割ミックスされた特徴的な土壌とのこと。そのような層が地下350mまで堆積しているそうです。ですから、ブドウ栽培に必要な水はけの良さは抜群で、かつミネラル成分も豊富。ブドウの樹が地中深くに根を伸ばしていくことで、ミネラル成分をより吸い上げ、奥深い味わいをもたらしてくれるものと思っています」

「Ferme36」のワインには「Remerciements(ルメルシマン)」と名付けられています。フランス語で“感謝”という意味で、作業を手伝ってくれる障がい福祉サービス事業所の人たちへの感謝の気持ち、偉大な自然への感謝の気持ちが、そこには込められています。
薄く雪を被った北アルプスの稜線が青空にくっきりと浮かび上がっています。BGMは発酵タンクに聴かせているモーツァルトの弦楽四重奏。この最高の環境で試飲させていただきます。
抜栓したのはロゼのペティアン(弱発泡性ワイン)。こちらは大町ぶどう生産組合から購入したブドウを使った、いわゆるネゴシアンのスタイルで造ったもの。ナチュールワインの方法で醸造しており、瓶内で二次発酵させ、おりもそのまま残しています。

「美味しいです、本当に。しっかりした果実味がありながら、すっきりドライ。微発泡のなめらかな舌触りも心地いいです。力強い発泡がずっと続いています。それにしてもキレイな色ですね」と山﨑氏が話すと、喜雄氏は「おりも混じっているので濁っていますよね」と返します。晴わたる空に透かしてみると……。
「これ、マイクロバブルのせいで少し濁ったように見えるんじゃないですか、ほら? 僕の師匠はサイドカーというカクテルで世界的に有名なんですが、彼はシェイクによってこんな感じのマイクロバブルを液体に溶け込ませることができるんです。その濁り方と似てます。シェリーにしてもワインにしても僕はおりにこそ旨味があると思っているんで、こんなふうにマイクロバブルとおりが混じっているのは最高。これはもう自然のカクテルですよ」と山﨑氏は笑います。

続けて試飲したのは、シャルドネの他8種類の自家栽培のブドウを使った白。印象的な香りがふわりと立ち上がります。
「ナッツ、ローステッドマロンのような香り。アタックはスッと穏やかに入ってきますが、ミッドパレットからフィニッシュにかけていろんな風味が口の中で踊ってくるようなイメージです。旨いです。とても深くて立体的な美味しさ。このモーツァルトのように、9種類のブドウの個性が調和していると言いますか……」と山﨑氏。

「それぞれのブドウで造ったワインを調合するのではなく、各ブドウの発酵段階でミックスしていきます。科学的根拠はないのですが、その方がブドウが助け合って調和するような気がするもので」と喜雄氏がプロセスについて話すと、山﨑氏はなるほどと頷きます。そして再び味わいながら、「とても複雑で奥行きがあるんですが、どちらも澄んだ味わいですよね。飲み飽きしない美味しさです」と、2本のワインの共通点を指摘します。

「みなさん“澄んでいる”とおっしゃいますね。それは大町の水のおかげだと思います。醸造工程で水を加えることはありませんが、ブドウ一粒一粒が蓄えた水が澄んでいるから、かと。他の地域でもワインを造ってきましたが、澄んだ印象になるのは水の違いが大きいと感じています」と喜雄氏は話します。

特有の土と水、気候が織りなす「大町テロワール」を体感する1杯と出合えました。

「それにしてもキレイな色ですね。ほらマイクロバブルが見えるでしょ」と山﨑氏。

白の複雑な香りと味わいを堪能する。

美しい山容がいつもそばに。夕刻、夕陽を受けた山肌が赤く染まる現象、アーベンロートを見ると、疲れも吹き飛ぶのだとか。

 農家を受け継ぎ、ブドウ栽培から一手に担う醸造家に。

信濃大町で、もうひとりのヴィニロンを訪ねました。黒部立山アルペンルートの起点である扇沢へ向かう幹線道路沿いにある「ノーザンアルプスヴィンヤード」の若林政起氏です。信濃大町で稲作やリンゴ栽培の農家に生まれた若林氏は、20代前半にいつしか自分の手でワインを造ってみたいという気持ちが強くなったと言います。当時、フランス料理店「タイユヴァン・ロブション」のソムリエとして活躍し、現在は「エスキス」の総支配人を務める従兄弟の若林英司氏にブルゴーニュのワインを飲ませてもらったのがきっかけでした。

「ワインの美味しさ、カルチャーの奥深さに衝撃を受けて、家業を引き継いでワインブドウ栽培にチャレンジしようと決心しました。ところが、ワイン醸造までやるには当時の見積もりで設備投資に数億円の試算になってしまい、あえなく断念することに。挫折して東京でプログラマーとして働いていましたが、醸造免許の規制緩和が進み次第に風向きが変わってきました。ブドウ農家の叔父に相談しながら再検討すると、なんとか自分でもできそうな道筋が見えてきました。2007年に母が亡くなったの契機に、2008年に父から畑を借りてシャルドネやメルローを植え始めたのです」と若林氏は話します。ブドウ栽培と同時に近くのワイナリーに勤務して醸造経験を積み、2011年に初めてブドウを収穫。そして、2013年には農業生産法人「ノーザンアルプスヴィンヤード」を設立します。クラウドファンディングでの資金調達に加えて国の6次産業化認定を受けるなど醸造環境を整備し、2016年に自家醸造ワインの初出荷に漕ぎ着けました。

以降、ワインは堅調に評価を高めていましたが、ピノ・ノワールのワインについての賛否両論が激しくなり、若林氏は苦悩します。

「うちはヨーロッパの伝統的な栽培法にはこだわっていないので、かなり個性的なブドウに育つんです。とりわけピノ・ノワールはかなり特徴的な仕上がりなので、そこがいいという派とダメという派に極端に分かれます。当初は気にせずにやっていたのですが、著名な評論家に叩かれたり、販売会のお客さんに面と向かって『まずい』と言われたりして、さすがにこたえて精神的に病んでしまいましてね。そんなところにコロナがやってきて、売り上げは3分の1に。人も雇えずとてもひとりでは手が回らないので、一部の畑は返し、ピノ・ノワールの樹はほったらかし状態です。もういろいろ嫌になっちゃって」と、内容は深刻ですが、若林氏はカラカラと笑って話します。

2022年からは、目が届く範囲でブドウ栽培を行い、一部の畑は樹のオーナー制度を採り入れてお客さんに管理や収穫を任せるなど、少しずつ立て直しを図っているそうです。

そんな若林氏に山﨑氏はいたく共感します。
「うちのお店もコロナの影響をモロに受けました。ピンチをチャンスに変えたいと思って、新たなビジネスとして築地でジュース屋を始めたし、マーケティングの勉強にも打ち込みました。助成金なども含めて自己投資に500万円はつかったでしょうね。でも、僕は根っからの職人で人に店を任せられる性格でもないのでうまくいきませんでした。カクテルの日本一を決める競技会のあとで燃え尽きて、2ヶ月間仕事を休みました。そこから原点に立ち返って削ぎ落としていき、今はコロナ以前よりもいい状態になれました。若林さんも、一度下がって上がる、これから上がるフェーズに入っているんだと思います。若林さんのワイン、飲ませてください!」

職業は違えど、「コロナはきつかったけど、自分を見つめ直す機会になりましたね」と共感するふたり。

シャルドネはブルゴーニュで生育された樹のクローンを丹念に育ててきた。

もともと樹が持っている個性が強く出ているというシャルドネは、信濃大町の冷涼な気候から来るシャブリのようなイメージとは真逆で、パイナップルのような南国を思わせる果実味が強い。

 禅を採り入れた日本だからこそのワイン造りを。

シャルドネをオークの古樽で熟成させた「オルター シャルドネ オーク」をいただきます。
「旨いですねえ。確かに意外性のあるトロピカルなフルーツの香り、白桃のような香りが印象的です。果実味とほどよい酸がとてもいいバランスですね」とひと口含んだ山﨑氏の顔はパッと明るくなりました。

そして、件のピノ・ノワールの最後の造りのワインもテイスティングすると……
「おお、これはすごい! 一般的にピノ・ノワールは飲みやすくて安心感がある味わいだと思うんですが、若林さんのピノはそのイメージを根底から覆しています。ものすごくスパイシーで、カシスの香りも強い。ブランデーのようなニュアンスもある。あと、なんだろう? 不思議と日本的な雰囲気も感じます。この土地の微生物の影響ですかね。めちゃくちゃ複雑でめちゃくちゃ個性的。これは唯一無二の美味しさです。僕は好きだなあ」と山﨑氏は絶賛します。

こちらは潰したブドウを無傷のブドウでふたをし、炭酸ガスの中に漬け込むセミ・マセラシン・カルボニック方式を独自にアレンジした方法で醸造されているそうです。
「天然酵母で造るにはどうすればよいかを考えて自分なりに編み出した方法です。醸造は弓矢をイメージしています。一般的な醸造法が照準器がたくさん付いた西洋のアーチェリーなら、自分がやりたい醸造法は日本の弓道。照準器もないごくシンプルな道具だけど、狙ったところにちゃんと当たる。道具の力で自然をコントロールするのではなく、自然の力をうまく利用して無理なくいい仕事をする。そんな醸造家になりたいと思っているんです」と若林氏は話します。

そして、話題は「ブドウ」から「武道」へ。

「弓道や合気道などの武道、茶道も華道も日本の“道”がつく伝統文化はどれも禅の思想と結び付いていますよね。私は日本でワイン造りをするなら、この禅を採り入れたいと考えるようになってきました。禅は削ぎ落とす引き算の世界観。筋力ではなく、むしろ脱力した無駄のない動きで信じられないほど大きな力を発揮します。達人ほど動きはゆっくり見えるけど作業は早く、仕事の精度も高い。今までは力に任せてガンガン働くのがいいと思い込んでいたけれど、禅の思想で、静かに立ち止まって、理にかなった動きでブドウ栽培も、醸造も自然体でやっていきたいと思っているんです」と若林氏は続けます。

「僕もバーテンダーの技能を高めようと、ジムでものすごくトレーニングして筋肉をつけたことがあるんです。だけど、その結果、カクテルのシェイクはなぜか遅くなってしまったし、フルーツカービングにも変な力が入って完成度は落ちてしまいました。それで、筋トレをやめて、逆にヨガで脱力する訓練を始めたら、自分でも驚くほどよく動けるようになったんです。若林さんの話、ものすごくよくわかりますね。僕もまさにそのプロセスを経てようやく納得できるカクテルが作れるようになってきたところですから」と山﨑氏は話します。

若林氏は、「なるようになる、なるようにしかならない」という境地に入り、2023年はトラウマとなったピノ・ノワールのワインも再開しようと思い始めているそうです。

またここにも、独自の道を追求する醸造家の姿がありました。

「ピノ・ノワール 2020」(左)と「オルター シャルドネ オーク」(右)。どちらも若林氏の人柄が感じられる個性豊かな味わい。

期せずして「禅」の話で盛り上がる。共に挫折を経験し、引き算と脱力という禅に通じる考え方で逆境を克服してきたふたりは、すぐさま意気投合した。

産み捨てられていた仔猫・タマちゃんがいつしか居ついた。人懐っこく、誰であっても膝に乗ってくる。孤軍奮闘する若林氏のよき理解者だ。


Photographs:SHINJO ARAI
Text:KOH WATANABE
(supported by 大町市)

ワインの新たな銘醸地としてのポテンシャルを秘めた「大町テロワール」。

「Ferme36」のペティアンと白をいただく。石は畑から掘り起こされたもの。オーナーの矢野夫妻はこの石を眺めながら飲むのが好きなのだとか。

 大きな寒暖差が生み出す奥深い味わい。

信濃大町の平新郷地区から遠望する蓮華岳や爺ヶ岳の山並み。その雄大な景色に向かって「Ferme36(フェルムサンロク)」のブドウ畑は広がります。銀座『BAR GOYA』の店主・山﨑剛氏は、年間出荷量約4,000本と少量ながら年々評判を高めているヴィニュロン(ブドウ栽培とワイン醸造を共に手掛ける人)を訪ねました。

「Ferme36」は矢野喜雄氏・久江氏夫妻による家族経営のワイナリーです。商品を紹介するカタログには、ヴィニロンとして夫妻の名前、その隣にはプチ・ヴィニロンとして、夫妻をよく手伝ってくれる息子の相達くんの名前が記載されています。“Ferme”はフランス語で農園を意味し、36は喜雄氏のお気に入りの数字。“山麓”とかけた造語であり、「親子3人で6人分働こう」という思いも込めているそうです。

夫妻は長年、栃木県足利市の「ココ・ファーム・ワイナリー」に勤め、ブドウ栽培とワイン醸造の両方の経験を積んできました。2014年に独立して大町市に移住し、理想のワイナリー「Ferme36」を少しずつ形にしてきました。現在、2ヘクタールの土地で約15種類のブドウを有機栽培し、5種のワインを造っています。ブドウ栽培から醸造、瓶詰めまでを行う、いわゆるドメーヌのワインはすべてナチュールワインに準じるブドウ栽培と醸造法を守り、病害予防の薬剤もEUで認証されたボルドー液を使うのみ。房を絞った果汁には酸化防止剤として一般的な亜硫酸は無添加もしくはごく微量の使用に限定。野生酵母の力で発酵させています。

ブドウを試食させてもらいます。シャルドネやメルロー、ピノ・ノワール、ピノ・グリ、ソーヴィニヨン・ブラン……。口にするたびに山﨑氏は感嘆の声を漏らします。
「これも旨い! ピノなんかめちゃくちゃ甘くて酸もしっかりある。僕はワインの仲間のシェリーというお酒の大会で日本一となりまして、本国スペインも何度も取材しているんですが、あちらではみんな『醸造用のブドウは美味しくない』と言っていましたけどね。矢野さんのブドウは食用ブドウとしてものすごく美味しい。これ、フレッシュカクテルに使ったら最高ですよ」

ブドウの美味しさの理由を矢野氏は分析します。
「このあたりは、夏でも冷涼な気候がブドウ栽培に向いていると言われています。それに加えて大きな寒暖差が影響しているでしょう。10月になると夜温がぐっと下がります。日中の最高気温は25℃くらいででも、夜間は10℃にまで下がることもざら。この15℃もの寒暖差は北海道よりも大きいと言われるほどで、この独特の気候のおかげで酸度をキープしながら糖度を高く追い込んでいけると考えています」

よく手入れされた「Ferme36」の畑。使用する薬剤はボルドー液のみであるため、そこここでさまざまな生き物が蠢く。

シャルドネは収穫の時を間近に控えていた。50年後も元気な樹であることを念頭に有機栽培に徹するが、病害虫の前にはいつも不安の連続。「有機には勇気が必要」と矢野夫妻は話す。

皮ごと発酵させるピノ・ノワールは、粒の選別を入念に行う。

「Ferme36」のワイン「Remerciements」。エチケットには、畑を見守るようにそびえる蓮華岳のシルエットがデザインされている。

「Ferme36」のオーナー、矢野夫妻と共に。「私たちが誰よりも自分たちのワインを飲んでいます(笑)。自分たちが飲みたいワインを造ろうと、ふたりで決めているんです」と久江氏。

 ミネラル豊富な土壌と、澄んだ味わいを生む天然水。

「このストイックな土壌もブドウによい影響をもたらしているでしょうね」と喜雄氏は続けます。
「うちの圃場は糸魚川-静岡構造線の西側に位置します。鹿島川が長い時間をかけて山から石を運び、広大な扇状地を作ってきた場所です。地面を15cmも掘ると、石がゴロゴロとある砂礫層になっているのがわかります。近くで行われた掘削調査によると、花崗岩が3割、火山岩が7割ミックスされた特徴的な土壌とのこと。そのような層が地下350mまで堆積しているそうです。ですから、ブドウ栽培に必要な水はけの良さは抜群で、かつミネラル成分も豊富。ブドウの樹が地中深くに根を伸ばしていくことで、ミネラル成分をより吸い上げ、奥深い味わいをもたらしてくれるものと思っています」

「Ferme36」のワインには「Remerciements(ルメルシマン)」と名付けられています。フランス語で“感謝”という意味で、作業を手伝ってくれる障がい福祉サービス事業所の人たちへの感謝の気持ち、偉大な自然への感謝の気持ちが、そこには込められています。
薄く雪を被った北アルプスの稜線が青空にくっきりと浮かび上がっています。BGMは発酵タンクに聴かせているモーツァルトの弦楽四重奏。この最高の環境で試飲させていただきます。
抜栓したのはロゼのペティアン(弱発泡性ワイン)。こちらは大町ぶどう生産組合から購入したブドウを使った、いわゆるネゴシアンのスタイルで造ったもの。ナチュールワインの方法で醸造しており、瓶内で二次発酵させ、おりもそのまま残しています。

「美味しいです、本当に。しっかりした果実味がありながら、すっきりドライ。微発泡のなめらかな舌触りも心地いいです。力強い発泡がずっと続いています。それにしてもキレイな色ですね」と山﨑氏が話すと、喜雄氏は「おりも混じっているので濁っていますよね」と返します。晴わたる空に透かしてみると……。
「これ、マイクロバブルのせいで少し濁ったように見えるんじゃないですか、ほら? 僕の師匠はサイドカーというカクテルで世界的に有名なんですが、彼はシェイクによってこんな感じのマイクロバブルを液体に溶け込ませることができるんです。その濁り方と似てます。シェリーにしてもワインにしても僕はおりにこそ旨味があると思っているんで、こんなふうにマイクロバブルとおりが混じっているのは最高。これはもう自然のカクテルですよ」と山﨑氏は笑います。

続けて試飲したのは、シャルドネの他8種類の自家栽培のブドウを使った白。印象的な香りがふわりと立ち上がります。
「ナッツ、ローステッドマロンのような香り。アタックはスッと穏やかに入ってきますが、ミッドパレットからフィニッシュにかけていろんな風味が口の中で踊ってくるようなイメージです。旨いです。とても深くて立体的な美味しさ。このモーツァルトのように、9種類のブドウの個性が調和していると言いますか……」と山﨑氏。

「それぞれのブドウで造ったワインを調合するのではなく、各ブドウの発酵段階でミックスしていきます。科学的根拠はないのですが、その方がブドウが助け合って調和するような気がするもので」と喜雄氏がプロセスについて話すと、山﨑氏はなるほどと頷きます。そして再び味わいながら、「とても複雑で奥行きがあるんですが、どちらも澄んだ味わいですよね。飲み飽きしない美味しさです」と、2本のワインの共通点を指摘します。

「みなさん“澄んでいる”とおっしゃいますね。それは大町の水のおかげだと思います。醸造工程で水を加えることはありませんが、ブドウ一粒一粒が蓄えた水が澄んでいるから、かと。他の地域でもワインを造ってきましたが、澄んだ印象になるのは水の違いが大きいと感じています」と喜雄氏は話します。

特有の土と水、気候が織りなす「大町テロワール」を体感する1杯と出合えました。

「それにしてもキレイな色ですね。ほらマイクロバブルが見えるでしょ」と山﨑氏。

白の複雑な香りと味わいを堪能する。

美しい山容がいつもそばに。夕刻、夕陽を受けた山肌が赤く染まる現象、アーベンロートを見ると、疲れも吹き飛ぶのだとか。

 農家を受け継ぎ、ブドウ栽培から一手に担う醸造家に。

信濃大町で、もうひとりのヴィニロンを訪ねました。黒部立山アルペンルートの起点である扇沢へ向かう幹線道路沿いにある「ノーザンアルプスヴィンヤード」の若林政起氏です。信濃大町で稲作やリンゴ栽培の農家に生まれた若林氏は、20代前半にいつしか自分の手でワインを造ってみたいという気持ちが強くなったと言います。当時、フランス料理店「タイユヴァン・ロブション」のソムリエとして活躍し、現在は「エスキス」の総支配人を務める従兄弟の若林英司氏にブルゴーニュのワインを飲ませてもらったのがきっかけでした。

「ワインの美味しさ、カルチャーの奥深さに衝撃を受けて、家業を引き継いでワインブドウ栽培にチャレンジしようと決心しました。ところが、ワイン醸造までやるには当時の見積もりで設備投資に数億円の試算になってしまい、あえなく断念することに。挫折して東京でプログラマーとして働いていましたが、醸造免許の規制緩和が進み次第に風向きが変わってきました。ブドウ農家の叔父に相談しながら再検討すると、なんとか自分でもできそうな道筋が見えてきました。2007年に母が亡くなったの契機に、2008年に父から畑を借りてシャルドネやメルローを植え始めたのです」と若林氏は話します。ブドウ栽培と同時に近くのワイナリーに勤務して醸造経験を積み、2011年に初めてブドウを収穫。そして、2013年には農業生産法人「ノーザンアルプスヴィンヤード」を設立します。クラウドファンディングでの資金調達に加えて国の6次産業化認定を受けるなど醸造環境を整備し、2016年に自家醸造ワインの初出荷に漕ぎ着けました。

以降、ワインは堅調に評価を高めていましたが、ピノ・ノワールのワインについての賛否両論が激しくなり、若林氏は苦悩します。

「うちはヨーロッパの伝統的な栽培法にはこだわっていないので、かなり個性的なブドウに育つんです。とりわけピノ・ノワールはかなり特徴的な仕上がりなので、そこがいいという派とダメという派に極端に分かれます。当初は気にせずにやっていたのですが、著名な評論家に叩かれたり、販売会のお客さんに面と向かって『まずい』と言われたりして、さすがにこたえて精神的に病んでしまいましてね。そんなところにコロナがやってきて、売り上げは3分の1に。人も雇えずとてもひとりでは手が回らないので、一部の畑は返し、ピノ・ノワールの樹はほったらかし状態です。もういろいろ嫌になっちゃって」と、内容は深刻ですが、若林氏はカラカラと笑って話します。

2022年からは、目が届く範囲でブドウ栽培を行い、一部の畑は樹のオーナー制度を採り入れてお客さんに管理や収穫を任せるなど、少しずつ立て直しを図っているそうです。

そんな若林氏に山﨑氏はいたく共感します。
「うちのお店もコロナの影響をモロに受けました。ピンチをチャンスに変えたいと思って、新たなビジネスとして築地でジュース屋を始めたし、マーケティングの勉強にも打ち込みました。助成金なども含めて自己投資に500万円はつかったでしょうね。でも、僕は根っからの職人で人に店を任せられる性格でもないのでうまくいきませんでした。カクテルの日本一を決める競技会のあとで燃え尽きて、2ヶ月間仕事を休みました。そこから原点に立ち返って削ぎ落としていき、今はコロナ以前よりもいい状態になれました。若林さんも、一度下がって上がる、これから上がるフェーズに入っているんだと思います。若林さんのワイン、飲ませてください!」

職業は違えど、「コロナはきつかったけど、自分を見つめ直す機会になりましたね」と共感するふたり。

シャルドネはブルゴーニュで生育された樹のクローンを丹念に育ててきた。

もともと樹が持っている個性が強く出ているというシャルドネは、信濃大町の冷涼な気候から来るシャブリのようなイメージとは真逆で、パイナップルのような南国を思わせる果実味が強い。

 禅を採り入れた日本だからこそのワイン造りを。

シャルドネをオークの古樽で熟成させた「オルター シャルドネ オーク」をいただきます。
「旨いですねえ。確かに意外性のあるトロピカルなフルーツの香り、白桃のような香りが印象的です。果実味とほどよい酸がとてもいいバランスですね」とひと口含んだ山﨑氏の顔はパッと明るくなりました。

そして、件のピノ・ノワールの最後の造りのワインもテイスティングすると……
「おお、これはすごい! 一般的にピノ・ノワールは飲みやすくて安心感がある味わいだと思うんですが、若林さんのピノはそのイメージを根底から覆しています。ものすごくスパイシーで、カシスの香りも強い。ブランデーのようなニュアンスもある。あと、なんだろう? 不思議と日本的な雰囲気も感じます。この土地の微生物の影響ですかね。めちゃくちゃ複雑でめちゃくちゃ個性的。これは唯一無二の美味しさです。僕は好きだなあ」と山﨑氏は絶賛します。

こちらは潰したブドウを無傷のブドウでふたをし、炭酸ガスの中に漬け込むセミ・マセラシン・カルボニック方式を独自にアレンジした方法で醸造されているそうです。
「天然酵母で造るにはどうすればよいかを考えて自分なりに編み出した方法です。醸造は弓矢をイメージしています。一般的な醸造法が照準器がたくさん付いた西洋のアーチェリーなら、自分がやりたい醸造法は日本の弓道。照準器もないごくシンプルな道具だけど、狙ったところにちゃんと当たる。道具の力で自然をコントロールするのではなく、自然の力をうまく利用して無理なくいい仕事をする。そんな醸造家になりたいと思っているんです」と若林氏は話します。

そして、話題は「ブドウ」から「武道」へ。

「弓道や合気道などの武道、茶道も華道も日本の“道”がつく伝統文化はどれも禅の思想と結び付いていますよね。私は日本でワイン造りをするなら、この禅を採り入れたいと考えるようになってきました。禅は削ぎ落とす引き算の世界観。筋力ではなく、むしろ脱力した無駄のない動きで信じられないほど大きな力を発揮します。達人ほど動きはゆっくり見えるけど作業は早く、仕事の精度も高い。今までは力に任せてガンガン働くのがいいと思い込んでいたけれど、禅の思想で、静かに立ち止まって、理にかなった動きでブドウ栽培も、醸造も自然体でやっていきたいと思っているんです」と若林氏は続けます。

「僕もバーテンダーの技能を高めようと、ジムでものすごくトレーニングして筋肉をつけたことがあるんです。だけど、その結果、カクテルのシェイクはなぜか遅くなってしまったし、フルーツカービングにも変な力が入って完成度は落ちてしまいました。それで、筋トレをやめて、逆にヨガで脱力する訓練を始めたら、自分でも驚くほどよく動けるようになったんです。若林さんの話、ものすごくよくわかりますね。僕もまさにそのプロセスを経てようやく納得できるカクテルが作れるようになってきたところですから」と山﨑氏は話します。

若林氏は、「なるようになる、なるようにしかならない」という境地に入り、2023年はトラウマとなったピノ・ノワールのワインも再開しようと思い始めているそうです。

またここにも、独自の道を追求する醸造家の姿がありました。

「ピノ・ノワール 2020」(左)と「オルター シャルドネ オーク」(右)。どちらも若林氏の人柄が感じられる個性豊かな味わい。

期せずして「禅」の話で盛り上がる。共に挫折を経験し、引き算と脱力という禅に通じる考え方で逆境を克服してきたふたりは、すぐさま意気投合した。

産み捨てられていた仔猫・タマちゃんがいつしか居ついた。人懐っこく、誰であっても膝に乗ってくる。孤軍奮闘する若林氏のよき理解者だ。


Photographs:SHINJO ARAI
Text:KOH WATANABE
(supported by 大町市)