南城、琉球うるま、琉球首里。沖縄3部作を全て見届けた中村孝則が「ダイニングアウト」を説く。[DINING OUT RYUKYU-SHURI/沖縄県那覇市]

ディナー会場が設えられたのは「瑞泉門」の前。1933年に国宝に指定されたものの沖縄戦で焼失。現在の姿は1992年に復元されたもの。

DINING OUT RYUKYU-SHURI首里城内で開催された空前絶後の晩餐。

「DINING OUT RYUKYU-SHURI」が2024年2月10日(土)から12日(月)まで、沖縄県・那覇市の首里城で開催された。今回、料理を担当するのは東京・南麻布の「茶禅華」の川田智也シェフである。ご存知の通り、首里城は2000年にユネスコの世界遺産にも登録され、約450年以上にわたり琉球王朝の中心であり続けた城(グスク)である。そして、記憶に新しいと思うが2019年10月に不慮の火災で正殿などが消失し、いま2026年の完成を目指して修復の真っ只中にある。今回の「DINING OUT」は、その首里城のしかも城壁内部を貸し切って開催されたのであったが、そのこと自体が大きな話題となった。世界遺産の敷地のどこで、どのようなレストランを作るのかと。もっとも「DINING OUT」の醍醐味というか魅力が、たんなる美食の饗宴でないことは、読者貴兄もよく知るところであろう。その土地の魅力を自然に触れ、文化あるいは、そこに住む人々の営みから紐解き、五感と知的好奇心を総動員して味わうが趣旨であるからだ。なので今回も、舞台となった首里城を隅々まで探索することから始まった。

 今回、案内を務めてくださったのは、琉球史研究家の上里隆史氏である。その上里氏の著書『尚氏と首里城』(吉川弘文館)によると、首里城の総面積は約4万7千平方メートル、東西約400メートル、南北約200メートルの楕円形の城郭であり、大別して内郭・外郭から構成されている。15世紀初頭、中山を掌握した尚巴志により本格的整備が開始され、やがて大規模な王宮へと変貌する。もっとも、それ以前の14世紀前半には、「京の内」と呼ばれる区画を中心にすでにグスクとして信仰儀式の場とされていたようである。なので今回の「DINING OUT」は、まさにその「京の内」から探索することとなった。多くのゲスト同様に、筆者もこの「京の内」の内部を歩くのは初めてだった。中世から大切に守られ、鬱蒼と南国の草木が生い茂り遊歩道のあちこちには、御嶽(うたき)などの信仰の場所があり、歩み進むうちに、徐々に琉球王朝の中世の時代にタイムスリップするような感覚になってゆく。やがて首里城の中枢部の、南殿・北殿・奉神門で囲われた御庭(うなー)に到達する。2019年に焼ける前の正殿は二層三階建て、赤瓦葺の入母屋造で、壁は弁瓦色で塗られ、で中央正面には豪華に装飾された唐破風(からはふ)が備わっていた。この建築様式は琉球独自のものであったが、火災で完全に焼け落ちてしまった。もっとも、この正殿は1453年を初めに、先の大戦の1945年まで過去に計4回消失しており、その都度、不死鳥のごとく再建されてきた歴史を持つ。いまはその再建の真っ只中にあり、今回の「DINING OUT」では、その再建中の骨組み内部まで拝見することができた。むしろ、それはゲストたちにとっては、今だけしか肉眼で見ることが出来ない貴重な機会となった。
 
 ゲストはいよいよメイン会場の入り口の歓会門へとたどり着く。首里城には幾つかの門があるが、“歓会”とはまさに、「DINING OUT」会場の入り口にふさわしい銘ではないか。その巨大な門は、合図と共にゆっくりと開けれ、導かれたその奥には、純白のテーブルクロスが張られたダイニングテーブルが用意されてた。その場所は、第一尚氏時代の正門である瑞泉門を望む広場になっている。美しい石垣は中世のそのままの趣を残し、厳かな空気に包まれていた。そして夕暮れとともにいよいよ、ダイニングがスタートをした。私たちは、まるで琉球王朝に招かれた、中世の各国の特使にでもなったように気分が高揚していた。実際に、今回のゲストは、海外のゲストも参加していたのだ。

首里城を案内する琉球史研究家の上里隆史氏。歴史の舞台を前に、琉球王国の信仰や精神性までを深く解説した。

2026年の復元を目指して作業が進められる首里城正殿。その作業工程の大部分は「見せる復興」として誰でも見学することができる。

首里城の代表的な門である「守礼門」。扁額の中の文字は「守礼之邦(しゅれいのくに)」。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。

ゲストをディナー会場へと誘った「歓会門」。歓会とは「歓こんで迎える」の意で、かつて琉球王国に招かれた中国の特使を歓迎する意味で命名された。

通常、首里城は18時以降閉鎖され夜間の姿を見ることはできない。その幽玄な雰囲気の中で食事をするという稀有な体験だった。

DINING OUT RYUKYU-SHURIアジアの中で独自の地位を築いた琉球王朝の外交戦略と首里城。

ここで少し、琉球王朝時代の歴史についても触れておきたい。というのも、今回の「DINING OUT RYUKYU-SHURI」の料理の本質を紐解くための重要なヒントが隠されているからだ。琉球王朝は、14世紀末から16世紀にかけて、西南諸島のみならず、アジア諸国全域にかけて、広範囲な交易活動を行ってその地位を誇っていた。とりわけ中国(明・清)との交易は特別な関係を持ち、約500年続いた。琉球の交易は王府が運営する国営貿易であり、明朝への朝貢などと通じ特権的な地位を与えられ、明だけでなく南はいまのタイ国のアユタヤ王朝や、ベトナムの安南、マレー半島のマラッカ王朝とも広く交易をしていた。東アジア全域の貿易経済ネットワークを構築することで、独自の立ち位置を築いたのである。当時、琉球から明への主な朝貢品は、沖縄島北方にある硫黄鳥島の硫黄や馬だったと、さきの『尚氏と首里城』で上里氏は書いている。硫黄は、火薬の原料として明で珍重された。そして、琉球からは多くの馬が飼育され、明に輸出されたそうだ。当時の明は北方のモンゴル軍と対峙しており、琉球の馬たちは軍馬として供給されていたのだ。かわりに明からは陶磁器をはじめ最先端の品々を輸入し、それをアジア諸国に輸出した。また南方からは胡椒などの香辛料や象牙を、日本からは日本刀を輸入して、アジア全域の貿易センターとして富を得ていた。もうひとつ重要なことは、琉球王朝の文化的外交手腕である。当時、明王朝からは「冊封使(さっぽうし)」と呼ばれる、皇帝の使節団が定期的に明からやってきた。しかも彼らは大型ジャンク船で一度に4、5百人が訪れ、長い時には数ヶ月滞在したという。その歓待の舞台となったのが、この首里城である。彼らへのもてなしは、極めて洗練された琉球の文化––––音楽であり歌であり組踊りあり装束であり、城の中で作られた極上の酒、泡盛であった。そして何より冊封使たちが最も楽しみにしてたのは、料理であった。なので、今回の「DINING OUT」を読み解くカギは、琉球王朝の歴史を踏まえ、ゲストが“現代の冊封使だったら”、という見立から進めるのが分かりやすいのだと思う。

首里城正殿前に位置する礼拝所「首里森御嶽(すいむいうたき)」。この御嶽があるから首里城がこの場所に建てられたというほど格式高い聖地。

正殿横にある珊瑚の礫が敷かれたエリア。琉球王国では聖なる場所や墓所に珊瑚や海の砂を敷くという慣わしがあったため、おそらくここは神に仕える女性が儀式に使ったのではないかと考えられているという。

首里城内の聖地「京の内」には4つの御嶽があるが、その周囲を取り囲む御嶽林も琉球王国の歴史を元に復元されている。

御庭へ入る最後の門となる「奉神門」は、現在は有料エリアへの改札所となっている。朝の開門の儀式「御開門」を見ることができるのもこの門。

DINING OUT RYUKYU-SHURI琉球王朝最高のもてなし、「御冠船料理」とはなにか。

御冠船と書いて、「うかんしん」あるいは「おかんせん」と読む。明王朝の冊封使が琉球王朝の王を認める冠を持参する船であったことがその語源である。「御冠船料理」とは、有り体に言ってしまえば、冊封使を接待するための宴席料理である。そしてその内容とスケールが桁違いに凄い。赤嶺政信著『沖縄の神と食の文化』(青春出版社)によると、冊封使たちが滞在中に7回の大宴会を開催し、一回の宴席には一の重から5の重まで、合計30以上の珍味美味の料理が並んだと記している。これを「五段のお取り持ち」と呼び、近代まで首里の士族層の祝儀の料理に引き継がれたという。宴席には料理だけでなく、音楽や組踊などの演出も繰り広げられた。料理は南西諸島の海の幸、山の幸はもちろん、イラブウミヘビから、鹿肉やアヒルなどの肉類、日本からは干したナマコ、明からはツバメの巣といった珍味まで、さながら琉球版満漢全席(まんかんぜんせき)といった様相だ。中には、海馬もあったそうだ。海馬とはジュゴンのことである。ちょっと脇道にそれて恐縮だが、ジュゴンは近世までアジアの王侯貴族にとって、不老不死の究極の食材として垂涎の的だった。もちろん、現在ジュゴンは絶滅危惧種で食すことなどもってのほかだが、民俗学者の柳田国男や南方熊楠も、その美食の歴史にも触れ、辺見庸の『もの食う人々』では、1960年代のフィリピンのブスアンガ島で最後に食された記録ことも記述している。ちなみに昨年、沖縄の海では、ジュゴンのフンや海藻の食み跡が見つかっており、かつてジュゴンが琉球全域に生息してことを空想させる。話がつい脱線してしまったが、何が言いたいかといえば、今回の川田智也シェフが手がけた料理の裏テーマは、さながら現代版の「御冠船料理」ということに違いない。勉強熱心な川田シェフのことだから、当然「御冠船料理」の文献など紐解き、沖縄県内の様々な食材をくまなくリサーチしたに違いない。それを、往時と同じ首里城で味わえたということは、画期的な企画だと、あらためて思うのである。

コースは御冠船料理さながらの全15品。慣れない厨房でその品数を遅延なく仕上げたのは、川田シェフの采配とキッチンスタッフのチームワークの賜物。

キッチン、ホールともに現地スタッフではなく、東京からやってきた総勢20名の『茶禅華』スタッフが担当した。

DINING OUT RYUKYU-SHURI一際余韻を残したふたつの料理、長命海月と甲魚光貝の記憶。

現代の「御冠船料理」という見立ては、筆者の勝手な空想であるので、実際に総合プロデューサーの大類知樹氏から川田シェフにそのような指示があったのかはわからない。しかし、おそらく大類氏の中では、だいぶ以前から川田シェフと決めていたのではないだろうか。というのも、仮に「御冠船料理」を再現するとしても、この料理は単なる中華料理でもなければ沖縄料理でもないからだ。広大な東アジア全体の食文化の融合であり、日本料理、中華料理、そして東南アジア諸国の最高のレシピを融合し、高度に洗練されたものであると推測されるから。そもそも川田シェフは中華料理を基本にしつつも、「日本料理 龍吟」で日本料理も極め、中華料理と融合することで独自の境地を開拓し、「ミシュランガイド東京版」で中国料理として初めて三つ星を獲得した。中華圏のフーディーたちも、本国より美味しいと足繁く通うほどである。おそらく、このミッションに応えられるシェフは、川田シェフしかいなかったであろう。実際に15皿に及ぶ今回の料理はどれも素晴らしい内容だったのだ。ここで、筆者が特に印象的だった料理をふたつほどご紹介しよう。「長命海月」と名付けられた小さな料理は、クラゲに沖縄の長命草を和え、柑橘のタンカンで風味付けされたものだ。長命草とは、近年研究で優れた薬効が認められ、いわゆる「ぬちぐすい」という、沖縄流の医食同源の象徴の食材である。クラゲのコリコリとした食感と長命草の苦味、タンカンの酸味が合間って、沖縄らしい涼やかな風味一皿だった。「甲魚光貝」は、夜光貝と呼ばれる大きな貝とスッポンを、暖かなスープ仕立てにし、夜光貝の貝殻をお椀の器に見立て、手で持ち上げて飲む趣向。貝殻も温められており、スープの滋味だけでなく、手のひらからも美味しさが伝わってくる逸品だった。ちなみに夜光貝は琉球王朝時代に「螺殻(らかく)」と呼ばれ、琉球から明への主要な輸出品にひとつだと高良倉吉氏は『アジアのなかの琉球王朝』(吉川弘文館)で記している。この貝は、螺鈿細工の原料として珍重されたのだ。これも筆者の空想だが、もしかしたら実際に「御冠船料理」でも夜光貝が食されたかもしれない。もちろん食した後の貝殻は、冊封使が持ち帰ったのだろう。今でいうサスティナブルな料理である。なんていう見立ても川田シェフならではの美味しさのレシピになっているのであった。いずれにせよ、どの料理も洗練されて美味しいだけでなく、琉球王朝へのオマージュや王侯貴族たちの長旅の滋養強壮のもてなしを引き継いているところが、川田シェフの非凡なところである。おそらく、今回の料理のいくつかは、「茶禅華」のグランドメニューに加わるのではないだろうか。川田シェフの凄いところは、今回のような機会を得て、常に料理が進化しているところであるから。

「素材の背中をそっと押すような料理」と川田シェフが語る今回の献立。素材名を軸にしたシンプルなメニューが並んだ。

食感豊かなクラゲに、沖縄で古くから親しまれてきた野草である長命草と爽やかなタンカンを合わせたひと皿「長命草クラゲ」。上部は葱の風味、下には甘酢のジュレが敷かれている。

夜光貝とスッポンのスープ。手袋をはめて貝を直接持ち上げて口に運ぶという演出も、五感で味わう料理を探った今回の川田シェフの計算のひとつ。

DINING OUT RYUKYU-SHURI「ダイニングアウト」沖縄三部作。その集大成への道のり。

「DINING OUT」が沖縄本島で開催されるのは、今回を含めて合計3回におよんだ。2018年に南城市で開催された「RYUKYU-NANJYO」。2019年に、うるま市で開催された「RYUKYU-URUMA」。そして、今回の首里城の「RYUKYU-SHURI」である。いま振り返ると、いずれも琉球王朝時代から沖縄の各地に脈々と受け継がれる食材だけでなく、食文化の物語を提供していた。南城市では、樋口宏江シェフが、久高島の郷土食であるイラブウミヘビが、往時のマラッカ王朝を通じて日本の鰹節の原型であることをヒントに、日本と沖縄の食文化の融合を紐解いた。うるま市で担当したガガン・アナンドシェフは、自身のルーツであるインドのコルコタや、タイの食文化と沖縄の共通点を指摘し、独自のメニューを考案した。そして今回の首里城である。それぞれに物語があるだけでなく、この三部作を通じて、眠っていたあるいは知られざる琉球王朝時代の豊穣な食文化を掘り起こし、再現して示したのではないかと改めて思うのであった。これは、沖縄の未来のガストロミーを思索するうえでも、貴重な機会になったのではないだろうか。

初めて沖縄を舞台にした『DINING OUT RYUKYU-NANJO』は2018年に開催。ディナー会場となったのは、知念城跡。琉球王国時代から続く聖地巡礼の拝所のひとつで、切石組みのミーグスク(新城)と、自然石を積んだクーグスク(古城)から成り、国の史跡にも指定される。

『DINING OUT RYUKYU-NANJO』で腕をふるったのは、『志摩観光ホテル』総料理長を務める樋口宏江シェフ。特筆すべきは、「DINING OUT」史上初の女性シェフだったということ。樋口シェフは、2016年に行われた「伊勢志摩サミット」でも、各国の首相陣をうならせる料理を提供した実績を持つ。

DINING OUT RYUKYU-NAJO』のホストを務めた中村氏。土地の歴史や文化、料理など、様々な文脈を伝えるだけでなく、法螺貝のパフォーマンスなども披露。

沖縄2回目となるDINING OUT RYUKYU-URUMAは、うるま市にて2019年に開催。舞台となったのは、県南東部のうるま市に残る世界遺産・勝連城跡。

DINING OUT RYUKYU-URUMA』のシェフを務めたのは、タイ・バンコク『Gaggan Anand』のオーナーシェフ、ガガン・アナンドシェフと福岡『La Maison de la Nature Goh』の福山 剛シェフによる『GohGan』。現在は、同ユニット名のレストランを福岡で運営する。

DINING OUT RYUKYU-URUMA』でもホストを務めた中村氏。レセプション会場、浜比嘉島にて、「阿麻和利」の衣装でゲストを迎えた。

DINING OUT RYUKYU-SHURIガストロミー・ツーリズムにおける高付加価値化とはどういうことか。

現在、観光庁が地方における高付加価値なインバウンド観光地づくりを推進し、沖縄を含めて全国11地域をモデル観光地として選定している。その最大の課題は、人数ではなく高単価高付加価値観光にある。特にインバウンドに関しては、訪日客ひとりあたり、1回100万円以上と定義して推進している。ところが現実は、ひとりあたり約10万円と大きな隔たりがある。

日本各地には沖縄だけでなく、素晴らしい食材や食文化が数多く眠っている。それを掘り返すだけでなく、いかに高価値、高価格で提供するかが課題なのだが、単に“美味しい”だけでは舌の肥えた彼らを満足させることは出来ないだろう。美味しいものは、どこでも作れるからだ。打開策を端的にいえば、美味しさの奥にある、“美味しさの物語”を体験として、どう表現し伝えるかということに尽きると思う。彼らは、五感的な美味しさだけでなく、文化的な美味しさに高い対価を払う傾向にあるからだ。文化的な美味しさというのは、学ぶことによって初めて知ることができる美味しさと言い換えてもいいだろう。それは、単に高級食材や珍奇な食材を使うということではない。大事なことは、ゲストの脳のなかに新たな味覚ゾーンを作ることだ。自覚的にせよ無自覚にせよ、いまの富裕層やフーディーたちが、各地を旅する原動力になっているのは、自分の脳のなかに目覚める、新たな味覚ゾーンへの快感ではないかと思う。そのためには、文化としての美味しさを物語にかえて、演出を含めた総合的な体験として提供することが必須なのだ。その意味で今回の三部作を含めた集大成ともいえる「DINING OUT RYUKYU-SHURI」の試みは、今後の日本のガストロノミー・ツーリズム戦略を練るうえでも、貴重なショーケースになったと改めて思うのである。


Text:TAKANORI NAKAMURA

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。

主催:沖縄県文化観光スポーツ部 観光振興課
企画・プロデュース:ONESTORY
協力:沖縄美ら島財団
販売:ハレクラニ沖縄
協賛:オリオンビール、CHAMPAGNE TAITTINGER、瑞泉酒造、T GALLERIA、ホシザキ沖縄  *五十音順