
長年にわたり、「BEST RESTAURANTS」のチェアマンを務めた中村孝則氏。アイコンとなった着物を初めて着用したのは2016年。以降、ドレスコードにおいても日本文化をアピールしてきた。
BEST RESTAURANTS美食家ではなかった、中村孝則の過去。
「BEST RESTAURANTS」史上最長レベル、12年もの間、チェアマンを務めた中村孝則氏。その奇跡をたどる前に思う。
中村孝則とは何者なのか。
昨今においては、美食家として認知されていますが、以前より中村氏を知る人であれば、やや違和感を感じたのではないでしょうか。やはり、中村氏といえば、代表とされる領域はファッション。そのほかであれば、旅やシガー。総合的にはラグジュアリーの世界で活動していました。ワインやカクテルなども触れてはきましたが、「食は避けてきた領域」と自身も振り返ります。事実、過去のプロフィールには、食に関する記載は一切ない。
「当時、メディアといえば、雑誌が主流。書き手であれば、ファッション、車、デザイン、映画、音楽など、ジャンルごとに分断されていました。もちろん、食もそう。媒体においても、それぞれのスタッフを抱え、クレジットを見れば、誰がどこに深く入り込んでいるのかも一目瞭然。そんな時代でした」。
つまり、ファッションに携わっている人間が急にレストランに携われることはなく、それぞれの専門領域が絶対領域だった時代。中村氏は、いつ食と接点を持つようになったのか。それは、某媒体の連載でした。
「懐石料理を1年間学んで、読者に伝えてほしいという依頼をいただきました。最初は、お断りさせていただきました。自分は素人なので。そうしたら、素人の視点から学んでほしい企画なので、是非と背中を押され、お引き受けさせていただいたのが、食と接点を持った始まりだったと思います」。
これは、2006年の出来事。なぜ中村氏だったのか? その解はわかりませんが、茶道、剣道を嗜んでいた知見も多分にあったのではないかと推測。この連載では、ごはんを炊く、味噌汁を作る、出汁を引く、はたまた包丁の使い方などを、料理人より指南いただくというもの。まさに、道を極める道の世界。そして、1年後、新たな依頼が舞い込みます。
「今度は、様々なレストランでスペシャリテを学ぶ連載の依頼をいただきました。結果、100店くらいは訪れたかもしれません」。
この話までであれば美談。食に携わっていなかった中村氏にとって、各店からは無下にされることも少なくなく、「お前に何がわかるんだ。直接的な言葉はなくとも、そう感じることも多かったです」と話します。
連載は10年以上続き、それはまるで修業のよう。そんな時、突如、一本の連絡が。「BEST RESTAURANTS」のチェアマン就任依頼です。「BEST RESTAURANTS」は2002年に創設された、ロンドン発祥のレストランランキング。
「突然、BEST RESTAURANTSの本部からメールが届きました。THE WORLD’S 50 BEST RESTAURANTS (以下、THE WORLD’S 50)に加え、2013年にASIA’S 50 BEST RESTAURANTS(以下、ASIA’S 50)が立ち上がったタイミングでした」。
実は、中村氏の前に、もうひとり、チェアマンを務めた人物がいます。レストランジャーナリスト、犬飼裕美子さんです。2007年より2013年まで務め、周知の通り、2014年以降は、中村氏が担ってきました。
犬飼さんにおいては、現在、注視される地方に既に目を向け、地方素材の普及に努める料理人を選定する農林水産省料理人顕彰制度審査委員としても活動するなど、食に携わる第一人者でした。おそらく、日本で初めてレストランジャーナリストを公言した人物ではないでしょうか。そして、何を隠そう、中村氏と親交が深かった数少ない、食の専門家でした。
「自分が初めてBEST RESTAURANTSに関わったのは、2013年にゲストとして参加した時です。当時より、賛否両論の多いアワードだということは、理解していましたが、チェアマン就任後、まさかここまでとは……と思うようなことの連続でした」。

中村氏が初めて携わった2014年「ASIA’S 50」のカタログ。当時は、現在のような華やかなイベントではなく、雑誌の企画だったことに歴史を覚える。
BEST RESTAURANTS公正を欠く賞。最大のデタラメ。
これは、日本のメディアにおいて、中村氏が「BEST RESTAURANTS」の取材に応じた時に掲載された言葉です。
声の主は、フランス料理の巨匠、故・ジョエル・ロブション氏。そのほか、レストラン評論家、フランソワ・シモン氏は、世界規模のレストラン比較は不可能。直ちにやめるか、変わるべきと批判していました。
「その批判は、今も消えたわけではないと思っています。しかし、長年携わることによって見えてきたもの。それは、ナンセンスから生まれる価値もあるということです」。
当時、「BEST RESTAURANTS」の主催者でもある「RESTAURANT MAGAZINE」編集長、ウィリアム・ドゥリュー氏もまた、このナンセンスという言葉を起用し、「BEST RESTAURANTS」を肯定。「多種のジャンルを同じ土俵で論じることはできない」と言うシモン氏に対し、「その考えがナンセンス。食の発展に貢献できるはず」と反論。そして、ドリュー氏は中村氏とも共通項があり、元ファッション誌「ARENA」出身。余所者への強い風当たりは世界共通なのか!?
「BEST RESTAURANTSは、RESTAURANT MAGAZINEの企画からスタートしました。それが本ではなく、アワードになり、イベントになり。開催当初は小ぢんまりとした地味なものでしたが、それが徐々に変化し、進化し、現在のようにエンターテインメント性も高くなりました」。
なぜそこまで一大行事に成長できたのでしょうか。それは、ビジネスモデルとしても成長できたからといっても過言ではありません。オフィシャルHP を覗けば、OUR PARTNERSに連なる企業の多さにも驚く。一大行事は一大ビジネスとなり、出る杭は打たれる。因果関係があるかは分からずとも、某メーカーの非買運動や類似アワードもローンチするような現象も。様々な角度から、「BEST RESTAURANTS」は、注目を集めていきました。
そんな「BEST RESTAURANTS」に中村氏が初めてチェアマンとして携わったのは、2014年に発足された「ASIA’S 50」の時でした。
「厳密には、2013年にASIA’S 50は発足していますが、既存集計をアジア向けに抜粋したもののため、本格的な発足は2014年。2013年は、NARISAWAが1位を獲得。2位は、日本料理 龍吟でした。ですが、2014年の1位は、Nahm(タイ・バンコク)。2位がNARISAWA。日本料理 龍吟は5位でした」。
そのほかでは、15位「石川」、22位「Quintessence」、25位「L’Effervescence」、34位「TAKAZAWA」(現・TAKAZAWA PRIVATE RESERVE NISEKO)、38位「すきやばし次郎」、41位「さわ田」、42位「HAJIME」、43位「鮨 さいとう」が名を連ね、現在のランキングとも変化を感じます。
「変化があるのは当然のこと。それがBEST RESTAURANTSの特性でもあります。理由は、ジャーナリスト、シェフ、フーディの3部門から構成される審査員は、毎年25%入れ替わるため、その個性に左右されることも多分にあります。そして、料理のテクニックだけでなく、BEST RESTAURANTSでは、ジョイフルも大切な要素とされています」。
だからこそ、批判され、だからこそ、面白い。これこそがナンセンス。(審査の仕組みも含め、過去にレポートした2022年「ASIA’S 50」の記事も合わせてご覧ください)
当時、中村氏においては、この結果に対する批判が集中。その内容は様々ありましたが、主には、「NARISAWA」の降格。「ASIA’S 50であれば、日本が1位ではないのはおかしいだろ!」など、厳しい声が寄せられました。しかし、その状況から中村氏を救ったのは、成澤由浩氏でした。冒頭、レストランのスペシャリテを学ぶ連載において、実は「NARISAWA」にも訪れていた中村氏。多くのレストランで辛酸を舐めてきましたが、そんな中、暖かく迎えてくれた数少ないシェフが成澤氏だったのです。
「成澤さんには、レストランのことを色々教わりました。中でも一番思い出に残っていることは、2011年、パリのメゾン・エ・オブジェに参加させてもらったことです。成澤さんは料理を、自分は茶事を実演し、日本の食文化をプレゼンテーションするという企画でした。滞在中は、名だたるレストランも案内いただき、本場の味に感動したことは、今でも鮮明に覚えています」。
旧知の仲だからこそ、厳しくも優しい存在。「NARISAWA」は、2009年より、実に16年連続受賞。
「そんなレストランは見たことがありません。日本の誇りです」。
結果論にはなりますが、ある意味、1位を獲得するよりも偉業を成しているのが「NARISAWA」なのかもしれません。

「THE WORLD’S 50」と「ASIA’S 50」の双方において、常にランクインしている「NARISAWA」。※写真は、2022年「THE WORLD’S 50」

中村氏のSNSにも必ず登場する成澤氏とのツーショット写真。ふたりの関係を知れば、毎回の投稿に感慨を覚える。※写真は、2016年「ASIA’S 50」
BEST RESTAURANTS無名だったレストランのランクイン。そして、1位奪還。
これまでの通り、中村氏は、多くの苦労を重ねてきた時代が長く、華やかな「BEST RESTAURANTS」の舞台とは裏腹に、その道は実に険しいものでした。振り返れば、シェフとの信頼関係が強固になったのは、ここ数年なのかもしれません。
そんな中村氏がチェアマン任期中、特に印象に残っている出来事がふたつあると言います。まずひとつは、「La Maison de la Nature Goh」(以下、Goh)の芽吹き。
「Gohがランクインしたのは、2016年のASIA’S 50の時でした。会場に集まるシェフや自分も含め、誰も知らないレストランがランクインしていることを知りました。一体誰なんだ!?と現場は騒然としましたが、これこそがBEST RESTAURANTSの真髄。発掘も大きなテーマになっているからです」。
当時、31位を獲得した「Goh」は、今では「ASIA’S 50」の常連。不動の人気を博しており、現在においては、同じく「BEST RESTAURANTS」の常連、「Gaggan」とともに、「GohGan」としても活動しています。
そしてもうひとつ。「傳」です。
「ASIA’S 50では、2013年のNARISAWA以降、ずっと1位を獲得することができませんでした。これは、チェアマンとして、重く受け止めておりました。ですが、2022年、遂に傳が奪還してくれました。悲願を達成でき、本当に嬉しかったです」。
「傳」においては、「Goh」同様、2016年に初ランクインし、当時は37位。
ここで素朴な疑問が生まれます。日本チームすら知らなかった「Goh」は誰が投票したのか? それは、海外からの票。噂によれば、当時、「傳」においても、同一人物からの支持があったと聞く。
「この現象もまた、BEST RESTAURANTSならでは」。
また、「傳」長谷川在佑氏においては、「中村さんがチェアマンのうちに1位を獲らせてあげたかった」という言葉を残しています。
食の素人だった中村孝則は、もういない。名実ともに、食の専門家となり、食は専門領域。美食家を名乗ることに対し、異論を述べる人はいなくなりました。

初めて「Goh」と「傳」がランクインした2016年「ASIA’S 50」は、タイ・バンコクにて開催。振り返れば、日本にとってはエポック的な年となった。

2020年「ASIA’S 50」では、新型コロナウイルス感染拡大を受け、急遽、オンラインストリームによるバーチャルイベントとして開催。「傳」は3位。1位は「オデット」(シンガポール)だった。

2022年も、尚続く、コロナ禍。バンコク、マカオ、東京の3都市にて同時中継された「ASIA’S 50」。会場を熱狂させた最大のトピックは、日本にアジアNo.1の座をもたらした「傳」。
BEST RESTAURANTS時代と生きた「BEST RESTAURANTS」の痕跡。
「BEST RESTAURANTS」を語る上で欠かせない存在、それはフーディではないでしょうか。しかし、その言葉が市民権を得たのはいつからか。記憶を手繰り寄せると、2014年に公開された映画「Foodies」(邦題:99分,世界美味めぐり)の影響は大きかったのではと考えます。
その内容は、5人の美食家が世界中のレストランを目的に旅をするというものであり、巡ったレストランは全29店舗。日本においても、「鮨さいとう」、「都寿司」、「傳」、「菊乃井」が登場します。本編によると、当時、世界に109軒ある三ツ星レストランを制覇したフーディも。「Maaemo」(オスロ)においては、「新世代のジャーナリスト」とも語っています。
この映画には、なぜ中村氏にチェアマンの依頼が来たのかというヒントが潜んでいると考えます。そのキーワードは、世界。
「今思えば、当時の食の専門家の方々は、日本の食の専門家だったのだと思います。景気が良い時もあったため、海外取材も果敢でしたが、食に特化した海外企画はありませんでした。風景、ホテル、アート、各ショップなど、観光全般のものがほとんどのため、レストランにおいても、特集の中のひとつ。ゆえに、必ずしも、食の専門家がそのスタッフの一員になれたわけではありません。むしろ、各ジャンルをスタイルとしてまとめられる人が重宝されていました」。
中村氏においては、重宝される類。加えて、様々な国の大使館より親善大使も任命されていたため、世界との接点が多かったのです。「BEST RESTAURANTS」は、日本のベストレストランではありません。世界のベストレストランゆえ、海外の知見は必須。
そして、時代という文脈に沿って、フーディに話を戻せば、その存在に追い風を与えたのはSNSの普及ではないでしょうか。テレビ、新聞、雑誌、ラジオなど、マスメディアが情報を支配していた時代は過ぎ去り、視聴者や読者ではなく、フォロワーを対象に個が発信力と影響力を持つ時代は一気に加速。
そしてもうひとつ。不景気です。近年においては、コロナ禍も手伝い、高所得者と低所得者をより二極化させました。では、それがレストランとどんな関係があるのか。
「世界においては先んじて生じていたことですが、例えばスペイン。美食の町として世界中から愛されていますが、スペイン人が皆、レストランを楽しめるわけではありません。ことさらグランメゾンにおいては顕著に現れ、2011年、惜しまれつつ閉店してしまった「エル・ブジ」に訪れることができた生活者はごくわずかだったでしょう。だからこそ、世界のゲストをターゲットに置くのです」。
これは、レストランという文化を守る術でもあり、世界中からゲストが訪れなければ、名店がこの世から消える。そんな危惧も孕んでいます。
世界から一足遅く、日本にもその現象は訪れ、中村氏がチェアマンを務めた12年の間に、日本のレストランも日本人ゲストだけだった時代から、見渡せば半分以上は外国人ゲストという景色も当たり前に。
その結果、次に生まれた現象が、予約困難。「BEST RESTAURANTS」においては、投票したくとも、レストランに行けないからできないという現象も生まれたのではと推測します。
そして、フーディも二極化され、そんな予約困難店のプラチナチケットに重きを置く人間もいれば、レストランに寄与するために活動する人間も。
まさに激動の12年。時に波乱を巻き起こしてきた「BEST RESTAURANTS」の視点から読み解くと、その急成長が物語る通り、全てが味方してくれたのかもしれません。

中村氏がチェアマンを務めた最後の「BEST RESTAURANTS」は、2025年「THE WORLD’S 50」。1位は「Maido」(ペルー・リマ)が獲得し、日本勢の最高位は、7位の「SEZANNE」。次ぐ21位は「NARISAWA」。
BEST RESTAURANTS「BEST RESTAURANTS」への期待。そして、次なるチェアマンは誰か。
中村氏が任期中、「BEST RESTAURANTS」が進化した点もありましたが、改善できなかった点や叶わなかった夢も。進化した点は、やはり規模の拡大。改善できなかった点は、いくつかありますが、その一部について話します。
「BEST RESTAURANTSの仕組みには、いくつか乗り越えたい課題もあります。それは、マネタイズ。例えば、チェアマンやシェフ、関係者が会場に足を運ぶ渡航費や宿泊費は、基本的に自費になります。国や地域によっては、支援くださるところもございますが、開催地によって様々。もっと人を呼びたい気持ちはありますが、心苦しく思っております」。
映画「Foodies」よろしく、当時、稀有だったレストランを目的に旅をするスタイルは、現代において幅広く浸透。ガストロノミーツーリズムという言葉の誕生は、その好例ではないでしょうか。つまり、旅と食は、消費動向と直結しており、2024年の訪日外国人旅行消費額は、8兆1,257億円(国土交通省 観光庁の調査結果より)。そのうち、飲食費は21.5%を占める。ゆえに、国内のレストラン需要が伸びれば、この消費額は、さらに伸びる可能性を秘めているのです。
中村氏が話してくれた、支援している国や地域は、この可能性を理解しているから。そして、叶わなかった夢は、日本開催。
「これはいつか実現してほしいです。しかし、成立させるには、レストランや食に関係する業界に限らず、国、行政、県、地域、そして、民間企業など、多くの方々のご支援も必要とされます。一筋縄にはいかないとは思いますが、いつかそんな日を迎えられることを願っています」。
12年という年月をゆっくりと振り返る中村氏。その全てを語り尽くすことはできませんが、やはり気になることは、次のチェアマンについて。しかし、チェアマンは、本部が独断で決めるため、その時を迎えるまで分かりません。では、チェアマンにはどんな能力が必要とされるのか。
「ひとつは、コミュニケーション能力ではないでしょうか。日本のレストランを一丸とさせることはもちろん、各国のチェアマンとの交流も大切な任務。そして、現実的には自己資金力も必要です。BEST RESTAURANTSは、日本のレストランだけを対象にしていないため、世界中のレストランを体験しなければいけません。食費、渡航費、宿泊費は、想像を超えることもあるため、その覚悟を持たなければいけません。それ以外ですと……、強靭な体力と胃袋ですかね(笑)」。
2026年の「BEST RESTAURANTS」には、トレードマークでもある着物姿の中村孝則はもういない。
冒頭に戻りたい。中村孝則とは何者なのか。
12年の奇跡から浮かび上がった正体は、複雑なものではありませんでした。中村孝則は美食家である前に、努力家だったのです。
そして、言わずもがな、中村氏が日本のレストラン界にもたらした功績は、計り知れない。
Photographs:BEST RESTAURANTS
Text:YUICHI KURAMOCHI