シャキッと食感、ほのかな甘み。そのまま味わえる行方市自慢のサラダちんげん菜。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・サラダちんげん菜/茨城県行方市]

なめがたベジタブルキングダムOVERVIEW

ちんげん菜生産量の日本一は茨城県。全国生産量のおよそ1/4が茨城県で生産されています。そしてその茨城県のなかでもトップの生産量を誇るのが、野菜王国・行方市なのです。

実は日本におけるちんげん菜の歴史は意外にも浅く、本格的に生産が始められたのは1960年頃のこと。1972年の日中国交正常化を機に中国野菜に注目が集まり、一般家庭でも少しずつ消費されるようになったといいます。

そんなちんげん菜が行方市で広く育てられるようになったのは、1980年頃。当初はやはり中華街などへの出荷が中心。そこでさらなる販路開拓を目指し、生でも食べられるちんげん菜の研究がスタートしたのです。

中華料理のもの、加熱して食べるもの、というイメージを覆し、生でも、気軽に、さまざまな料理で味わえるものに。そんな思いで作られたちんげん菜は、やがて少しずつ人気を集め、今では行方市を代表する野菜となりました。それが今回ご紹介する「サラダちんげん菜」です。

行方が誇るブランド野菜・サラダちんげん菜のおいしさの秘密、生産者の思い、そしておいしい味わい方を紐解きます。

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Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

豊かな水と、肥沃な土壌。恵まれた環境で育てられる、行方市のレンコン。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・レンコン/茨城県行方市]

なめがたベジタブルキングダムOVERVIEW

水と土。
言うまでもなく、農産物を育てるのに不可欠な要素ですが、レンコンに関してはよりいっそう重要度が高くなります。
なぜならレンコンが育つのが水田、蓮田だから。長い時間、水と泥に包まれてじっくりと育つレンコン。
米よりもずっと深く土を耕す必要があり、収穫や洗浄に使用するため水もたっぷりと必要になる。だから蓮田が多い場所は、水と土に恵まれた場所であることを意味するのです。

茨城県行方市。年間60品目以上の野菜が出荷されるこの地域は、霞ヶ浦と北浦に挟まれた豊富な水、関東ローム層の肥沃な土を持つ農業に最適な場所。当然、レンコン栽培が盛んな地域でもあります。

たっぷりの水と柔らかい土に包まれて育つから、ほっくり柔らかく、表面は美しい白。空気の通り道となる穴は均一に並び、肥沃な土の栄養は優しい甘みと旨味に変わります。行方市が誇る、上質なレンコン。その魅惑の世界をお伝えします。

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Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

望まなかった再始動。そして、日本は「食」とどう向き合うのか。

「『Smile Food Project』の再始動もしかり、改めて、我々は何を表現するのか、何を訴えていくのか、何を全うするのかを考えなければいけない。日本の食文化を守り、広げ、つなげ、伝える、その役目も担う義務があると思っています」と石田氏。

スマイルフードプロジェクト

常に準備はしていた。『Smile Food Project』は、自分の使命。

新型コロナウイルス感染拡大に伴い、2020年4月18日に『Smile Food Project』は発足。医療従事者の方々に無償でお弁当を届ける活動をしてきました。

同プロジェクトは、『CITABRIA(サイタブリア)』代表の石田 聡氏と『Sincere(シンシア)』オーナーシェフの石井真介氏を中心に、一般社団法人Chefs for the Blue(シェフス・フォー・ザ・ブルー)』と『NKB(エヌケービー)』をメンバーに3社で構成。石井シェフは、同一般社団法人のリードシェフも担います。

その後、2020年7月18日。感染者の減少と医療現場の実態を踏まえ、活動を“一時”休止。作ったお弁当の数は、21,086食。

2020年4月、『ONESTORY』は、本件に関して石田氏を取材しました。記事の後半、「『Smile Food Project』は、これからどんな道を歩んでいくのでしょうか」の問いに対し、石田氏は「継続を目指します。しかし、継続しなくて済むような世の中になることが一番です」という言葉を残しています。既に再始動を予測していたのでしょう。

「第1回の活動休止後も常に医療関係者の方々とは連絡を取り合い、状況を把握し、何かあった時の準備はしていました。第2波の時は、やるべきか悩みましたが、医療現場の逼迫までには至らなかったため、自分たちの仕事に専念しました。しかし、第3波は急変急増。再びやるしかない。そう思いました」と石田氏は話します。

2020年12月21日、『Smile Food Project』は再始動。

その原動力は何か。

「使命」です。

Smile Food Project』再始動時もお弁当には必ずメッセージを添える。手紙を読んでくれた医療従事者からのお礼も多く、それがまた同プロジェクトの原動力にもなる。

医療従事者に年末年始はない。せめて、食で季節や行事を感じてほしかった。

「日々、感染者数や重症者数などは報道されますが、実際、医療現場は、どうゆう状況で食事をしているとか、どんなローテーションで労働しているとか、その環境が取り上げられることは、ほとんどありません。医療従事者の方々は、24時間関係なく働いてくださっています。クリスマスや年末年始、家族と過ごすことができない人やお祝いをできない人もいます。せめて、食事をする時だけは、季節や行事を感じてもらいたい。ほっとしてもらいたい。再始動の時期も手伝い、そんなことを思いながらメニューを考えました」と話すのは、『Smile Food Project』の拠点でもある『CITABRIA Catering』の奥田裕也シェフです。

プロジェクト再始動後、提供したお弁当は、クリスマスメニューとおせちメニューの2種(2021年1月8日現在)。前者を奥田シェフが考案し、後者を『一般社団法人Chefs for the Blue』のメンバーでもある『Salmon&Trout』の中村拓登シェフが考案。

「第1回の時は、お手伝いで入らせていただきましたが、今回は、メニューから考案し、やりがいを感じました。自分の作った料理で喜んでくれる人がいる。ほんのひと時でも笑ってくれる人がいる。誰かのために料理するという行為は、レストランで出すひと皿もお弁当も変わりなく、本気で取り組みました」と中村シェフ。

中村シェフは、日本料理の名店『八雲茶寮』で副料理長を務めた経歴を持ち、「以前より、おせちは作っていたので、今回に活かせたと思います」と言葉を続けます。『八雲茶寮』の総料理長・梅原陣之輔氏もまた、『一般社団法人Chefs for the Blue』のメンバー。以前『ONESTORY』が『Smile Food Project』を取材した日のお弁当も担当していました。

「おせちもしかり、日本のお弁当は、冷めてもおいしい文化。病院に搬入しても、医療従事者の方々がすぐに食事を取れるかというとそうではありません。『Smile Food Project』のお弁当は、冷めてもおいしい料理にはこだわっています。そして、何よりこのお弁当には、自分たち料理人以外の様々な想いも詰まっています。生産者さんからのご支援もいただき、採れたての野菜も使用しています。体が資本ですから、もちろん添加物は一切使用していません」と奥田シェフ。

また、料理人や生産者以外にも、パッキングや運搬は『CITABRIA Catering』のケータリングマネージャー・新井剛倫氏が務め、商品ラベルやお弁当に添える手紙は、同社の営業サポート・洞内裕美子さんが手配します。

しかし、そんなお弁当をいただく時間さえ、決して明るくない現実があります。誰かと向き合って食事をすることが許されないこともあれば、壁に向かってひとり黙々と食べなければいけない時もあります。ゆえに前述、おいしいはもちろん、ほっとしてもらいたい。

また、環境を配慮した容器は、土に還る素材を使用。本プロジェクトに限らず、『CITABRIA』は、サスティナブルやエコなどに関心が高く、そういった点においても『一般社団法人Chefs for the Blue』と親和性は高いです。

現在、支援を受けたいという病院関係者からの連絡が次々と届いています。求められる喜びがある一方、それは医療崩壊を意味します。

そんな葛藤する日々が続きます。

「『Smile Food Project』は、料理人同士の交流にもなるし、互いの技術向上にもつながる。我々に取っても良い機会です」と奥田シェフ(左)。「いつもはひとりで料理を作っていますが、同じ思いを持ってみんなで作れる環境に一体感を感じました」と中村シェフ(右)。

彩り豊かなクリスマスメニューのお弁当。「せめて、お弁当を通して季節感や行事を感じてほしい」と奥田シェフ。

丁寧な仕込みが成される、おせちのお弁当。その好例は、炊き合わせ。その調理法のごとく、複数の食材を別々に煮て、合わせる料理は、時間と手間のかかるひと品。

『一般社団法人Chefs for the Blue』のメンバーがメニュー開発に携わる際には、サスティナブル・シーフードを必ずひとつ加える。今回、中村シェフは、ベトナム産の「ASC(Aquaculture Stewardship Council) 水産養殖管理協議会」認証を得たエビを採用。

今回は、仕込みを含め、4日間お弁当作りに励んだ中村シェフ。「自分たちの料理で、少しでも医療従事者の方々を元気にしたい」。

添加物を一切使用しないお弁当は、生産者の協力もあり、獲れたての食材も調理。環境を配慮した容器は、土に還る素材を採用。

手紙のイラストやお弁当に貼る食品記載ラベルは、『CITABRIA Catering』営業サポート・洞内裕美子さんが手配。

パッキングや運搬は、『CITABRIA Catering』のケータリングマネージャー・新井剛倫氏が務める。毎日、毎日、お弁当を運び出す後ろ姿は、胸にグッとこみ上げてくるものがある。

 黙々と、淡々と責務を全うしながら「都内の道は、かなり詳しくなりました!」と笑顔も見せてくれる新井氏。

本当は自分たちだって怖い。未だ正解がない中で、正解を探し続ける。

前述の通り、第1回目の『Smile Food Project』は、2020年4月18日から7月18日まで活動し、作ったお弁当の数は、21,086食にも及びます。

しかし、ここで特筆すべきは、その日数でも作ったお弁当の数でもありません。

この期間、この数において、「安心安全」を提供できたことにあります。

「一番、気をつけていることは食品管理です。僕らが作ったお弁当で、食中毒を出してはいけない。プロである以上、もちろんそれはあってはならないことですが、絶対はありません。衛生面においても徹底していますが、そのリスクはゼロではないため、細心の注意を払っています」と奥田シェフは話します。

また、リスクは、それだけではありません。

「現状、プロジェクトメンバーには感染者は出ていませんが、今の世の中の状況を見ると誰がいつ出てもおかしくありません。感染する可能性は、誰もがあります。もし出てしまった場合、自分たちはお弁当を作り続けられるのか……。そんなことが頭によぎることもあります。我々にも家族はいます。大切な人を守らなければならい。だからこそ万全の体制で臨んでいます」と言葉を続けます。

それでも熱い想いをたぎらせ、チーム一丸となって、誰かのために料理を作る。料理人が持つ魂の結実は、実に凛々しく、その目は輝いています。

「今、自分のお店では、ひとりで料理を作っていますが、今回のようにチームで作れることにも別の喜びを感じます。仕込みの数など、通常とは異なる難しさや苦労も楽しかったです。そんな思いになれたのは、みんなが同じ方向に向かって夢中になっているから。大変な中にもワクワク感がある」と中村シェフが話せば、「料理人は、気持ちが味に出ちゃうからね(笑)」と奥田シェフ。

ひとりで成す達成感もあれば、皆で成す達成感もあります。後者であれば、苦しさは分散し、喜びは倍増。中村シェフは、それを体感したのです。「志が同じであれば、キッチンの場所は関係ない」と中村シェフ。

「2020年から現在に至るまでの間、料理人をやめてしまった人もいるかもしれない。最後の力を振り絞っている渦中の人も多いと思います。自分は、今の環境にも恵まれ、料理人になって本当に良かったと思っています。だから、このプロジェクトを通して業界にも元気を与えたい。料理人に料理人を諦めてほしくない。自分たちは、誰かの助けがあって『CITABRIA』をはじめ、『Smile Food Project』を活動できています。だから僕たちも誰かを助けたい」と奥田シェフ。

「今こそ、飲食業界の底力を見せたい」と奥田シェフと中村シェフは、その言葉を噛み締めます。

おいしいだけでなく、思いが込められたお弁当。『Smile Food Project』を求め、様々な医療機関からの問い合わせも多い。

2021年1月8日、緊急事態宣言発令。狙い撃ちされた飲食業界と平等な不平等。

今回、取材が行われた日は、2021年1月7日。

その翌日、1月8日には緊急事態宣言が発令。周知の通り、飲食店が狙い撃ちされました。

主には、営業時間短縮が強化されることに伴い、要請に全面的に協力した中小の飲食事業者などに対し、新たに協力金を支給するといった内容です。

―――
・夜20時から翌朝5時までの夜間時間帯に営業を行っていた店舗において、朝5時から夜20時までの間に営業時間を短縮するとともに酒類の提供は11時から19時までとすること。
緊急事態措置期間開始の令和3年1月8日から2月7日までの間、全面的に協力いただいた場合(31日間)、1店舗あたり186万円(1日6万円)の支給が得られる。
(東京都産業労働局HP参照)
―――

店舗により、ひとりで営業しているところもあれば、複数の従業員を抱えているところもあります。家賃も異なるため、全てにおいて一律というのは難しい問題です。ましてや、中小企業(個人事業主も含む)の飲食店のみ対象のため、そうでない企業は対象外になります。20時閉店を促すも、7割以上のテレワーク推奨及び外出は控えるようにと発信されたメッセージを総合すると開店休業を意味しています。一方、石田氏の古巣、『グローバルダイニング』のように通常通り営業を行う方針を示すところもあり、困惑混乱の日々。

1月13日には、大阪、兵庫、京都、そして、愛知、岐阜、福岡、栃木の7府県にも対象地域として追加されました。

平等に与えられた不平等は、これからどう作用していくのか。

石田氏は、「それでもまだ、自分たちは恵まれていると思います」と言います。

「『Smile Food Project』は一度休止し、再始動していますが、医療従事者の方々は、止まることなく人命のために最前線で闘っています。彼らには“Go to eat”も“Go to travel”もありません。さらには、飲食業界以外にも苦しい業界は多々あり、給付金や協力金を支給されない人たちもいます。だから、それが得られる飲食店は、もっと元気でありたい」。

しかし、飲食店が感染源だとも見紛う今回の施策やそれを後押しするような報道は、同調国家が働く国民へのマインドコントロールとも受け取れます。

Smile Food Project』に関して言えば、医療従事者を支援している立場でありながら、医療崩壊に追い込んでいる業界という刷り込みもされてしまい、「自分たちは誰と闘っているのか……。新型コロナウイルスか? はたまた別の誰か……?」と、うがった見方をしてしまうこともあります。

それでも、活動を止めることはありません。なぜなら、それが石田氏をはじめ、プロジェクトメンバーにとっての「使命」だからです。

「どんなに誰が嘆いても、一番の被害者は医療従事者だと思います。新型コロナウイルの感染に時間は関係ない。昼夜を通して酷使している医療従事者のために、自分たちができることを常に考え続けてきました。食を通して鋭気を養っていただくことで我々は飲食業界の動きを止めない。生産者の動きを止めない。より多く食事を作ることによって救われる人がいる。『Smile Food Project』はイベントではない。今こそ誰かのために活動したい。いや、しなければならない」。

いつものように運ばれてゆくお弁当たち。こうして車を見送る日々がなくなることを一刻も早く望みたい。

自分たちは負けない。自分たちは諦めない。日本の食文化を絶やさないために。

準備や備えがあったにせよ、『Smile Food Project』のようなプロジェクトを1度ならず2度できる体力は、並の覚悟ではありません。

「今回は、企業の方々に支援・協賛を募っています。1回目の活動を通して思ったことは、まだまだ知名度が低いということでした。ある経営者の方に“これは支援を募るのではない。賛同してもらうものだ”と言われました。嬉しい気持ちと同時に、より大きなものにしたいと思いました。医療従事者の方々は、自らを酷使し、尽力してくださっています。だから自分たちも頑張れる、やるしかない。飲食の活動停止は、農家などの一次産業、酒蔵、ワイナリー、酒屋など、様々に影響します。学校においても休校してしまえば給食はなくなり、同じような現象が起きてしまうでしょう。それが長く続けば、廃業、倒産が相次ぎ、日本の食文化が失われてしまう」と石田氏は話します。

一次産業や職人たちは高齢化も進み、後継者のない産業も多々あります。今回の難局は、その追い風となり、さらにスピード感が増す可能性が危惧されます。

「日本の食を文化として残していく政策が国になければ、大切な技術も価値も失われてしまう。日本全国には食の宝が眠っている。それを決して絶やしてはいけない。日本の食は、世界的に見ても強力なコンテンツであり、それだけで観光国家になる可能性を十分秘めている。環境や生産物を見ても、レストランのクオリティを見ても、日本は世界一を誇れると思います。それをおろそかにしてはいけません。ものを作る人たち、作れる人たちの力は、本当に偉大です」。

様々な波乱を巻き起こした2020年でしたが、『CITABRIA』にとっては積み重ねた努力が結実された年にもなりました。『ミシュランガイド東京2021』では、『レフェルヴェソンス』は三つ星に輝き、サスティナブルな取り組みと献身的な活動も評価され、「ミシュラン グリーンスター」も獲得。石田氏もまた、様々なジャンルで開拓する異端児を称える『Esquire』主催の「The Mavericks of 2020」を受賞。

「自分たちが大事にしてきたことや大切にしてきたことは間違いじゃなかった。だから、もっとやっていいんだ、やらなきゃいけないんだ。そう思いました。名実ともに日本を代表するレストランになれた今、自分のお店だけ良いということはなく、目の前にお客さまだけ満足させれば良いわけでもない。維持する苦悩も失う恐怖もこれから寄り添っていかなければならない。そして、改めて、我々は何を表現するのか、何を訴えていくのか、何を全うするのか。日本の食文化を守り、広げ、つなげ、伝える、その役目も担う義務があると思っています。今、新型コロナウイルスに翻弄されている騒動はいつか終わりはやってきます。重要なことは、また同じような難局が訪れた時、どう対応するのか。絶望はもう見たくない。希望を見たい。やり遂げたと思ったことは一度もありません。ひとつ乗り越えたら、また乗り越えなければいけない山がある。終わりなき使命を背負い、生きていきたいと思います」。

『Smile Food Project』の詳細はこちらへ。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

出会うことのなかった戦友。シャンパーニュによって引き寄せられたふたり。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・ラ・メール/三重県志摩市]

互いの存在を知りながら「伊勢志摩サミット」で饗宴するも、当時は出会うことがなかったふたり。今回、「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」によって奇跡的なご縁が実現し、初対面を果たす。

ラ・メール × 堀木エリ子2016年、ふたりは「伊勢志摩サミット」で出会うはずだった。

和紙デザイナー・堀木エリ子さんが「テタンジェ」のトップキュベ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」のペアリングを体験する「食べるシャンパン」。

第1回目となる舞台は、風光明媚な三重県志摩市に位置する『志摩観光ホテル』内、「ラ・メール」です。2021年に70周年を迎える同ホテルの特徴は、伝統と革新にあります。このふたつを言葉にするのは容易いですが、そこには並々ならぬ努力と常に挑戦し続けてきた精神があってこそ。そんな両者のバランスは、「食」における領域が顕著に表れています。

牽引するのは、2014年より料理長に就任した樋口宏江シェフです。

自然と向き合い、豊かな地産の味わいを引き出す「伊勢志摩ガストロノミー」は、国内外からも高い評価を受け、数々の賞も受賞。中でも、大きな転機は2016年に開催された「伊勢志摩サミット」でした。

樋口シェフはワーキングディナーを担い、堀木さんは「ザ・クラブ」2階ホールの空間デザインを監修。巨大な一枚和紙から成る「光壁」という名の神々しい装飾は今なお輝き続け、それを一目見ようと足を運ぶ人も少なくありません。

しかし、お互いの存在は知るものの、当時、両者が出会うことはありませんでした。それが今回、約4年の歳月を経て「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」によってふたりは引き寄せられたのです。

「ご縁ですね」。

そんな堀木さんの言葉から始まりました。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/深まる「ご縁」、湧き上がる「パッション」。和紙デザイナー・堀木エリ子が体験する「食べるシャンパン」。

樋口シェフが「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」に合わせて考案した料理、「東紀州、黒潮の恵み ガスエビを様々な形で」。ひと皿に表現されているが、一品一品を一膳に例え、それらを出汁がつなぐ。

「和紙も料理も自然から生まれます。当然、年によって生り物も変わるため、私はいただけた大切な食材をどうおいしく調理するかの責務をまっとうするだけです」と樋口シェフ。

「伊勢志摩サミットをきっかけにご縁をいただき、3年ほど前からガスエビを分けてもらえるようになりました。これまでは地元で消費されてしまい、流通に乗らない希少な食材でした」と樋口シェフ。

「伊勢志摩国立公園」の一部でもある英虞湾が目の前に広がる『志摩観光ホテル』。リアス式の海岸線が織りなす美しい景観は、今回の舞台でもある「ラ・メール」をはじめ、全室スイートルームの客室からも一望できる。

ラ・メール × 堀木エリ子堀木エリ子のクリエイションに共鳴すべく創造された料理のペアリング。

「堀木さんがデザインされた“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”の日本限定ギフトパッケージの件を伺い、非常に刺激を受けました。産地への想い、職人への敬意、伝統を重んじる心、挑戦する姿勢、どれを取っても素晴らしかったです。今回は、ふたつのテーマをひと皿に込めました。ひとつは、生産者や地域への敬意や想いの表現。もうひとつは、和紙の四層漉きのごとく、同素材を4種のスタイルで味わう表現です。また、和紙という日本の伝統に寄り添うべく、あえて和の要素も取り入れました」。

そう話す樋口シェフが用意した料理は、堀木さんのテーブルに運ばれる前から豊かな香りが漂います。それが和の要素であり、正体は出汁。

「本当に良い香りですね! フランス料理に出汁とはびっくりです!」と堀木さん。

皿の上には3つの品とひとつの出汁。その全てを結ぶのは、三重県産のガスエビです。

「“東紀州、黒潮の恵み ガスエビを様々な形で”をご用意しました。まずは、ぜひお出汁から召し上がりください。三重県産の鰹とガスエビで取った出汁になります。鰹は伊勢神宮の神様に供える神饌にも使われています。昔からこの地は御食国と言われ、海産物が豊富に取れるので、神様の食事には鰹節が御膳の中心に配して備えられているほど大切な食材でした」と樋口シェフ。

崇めるその姿勢は、白い紙が神に通じると言われている日本の和紙の神聖な世界にも似ます。

以降、堀木さんの呼吸に合わせ、樋口シェフは料理を勧めていきます。

「崩すのがもったいないくらい美しい」と堀木さんが話すそれは、「ガスエビのカクテル」です。

「ガスエビを生で叩き、同じく三重県産のディル、レモンの皮と果汁、エシャロットを赤ワインビネガーでマリネしたものを塩とオリーブオイルで調理しています。ペッパーも効かせ、赤玉ねぎのピクルスとキャビアを添えて仕上げました」と樋口シェフ。

堀木さんは、満面の笑みを浮かべながら「これは、“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008” にぴったり! ひと口食べたら自然とグラスに手が伸びますね」。

「次は、ガスエビを大葉と一緒にパートグリックで包み、揚げた料理になります。添えてあるソースは、南伊勢のデコポンで作りました。皮も実も丸ごとピューレにし、柑橘のフレッシュと料理の香ばしさとシャンパーニュの相性も良いかと思います」と樋口シェフ。

「樋口シェフは、港や市場、畑などに足を運ばれているとお聞きしています。現場を知るということは背景を知るということ。それをお客様に伝えることで、よりその味が深まる。良い循環だと思います」と話しながらも、再びグラスに手が伸びる堀木さん。「やっぱり合いますね(笑)」。

「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”の酸味、スパイシーさと非常によく合います。私は和紙を通してシャンパーニュとご縁をいただきましたが、更においしい料理とのご縁までいただけ、幸せです!」と言葉を続けます。

「最後は、ガスエビと大葉をリンゴで巻き上げた料理になります。リンゴはシロップで軽くコンポートしており、“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”と香りの同調を楽しんでいただければと思います。大葉の香りは日本らしく、海老との相性も良いです。上には花穂紫蘇を添えています」と樋口シェフ。

「切り込みが入れてあり、細やかな心配りは食べ手には嬉しいです。味だけでなく、香りのマリアージュも素晴らしいと思います。単品それぞれもシャンパーニュに合いますが、4品の流れも緻密に計算されていると感じました。食感、温度、甘味、塩味、旨味……。バランスが整っています。加えて、食材の物語も聞いて堪能できるという体験は、味の奥行きが広がります。手間暇かけて、現場に足を運び、生産背景も学んでいる樋口シェフの努力の賜物だと思います」と堀木さんは話します。

堀木さんの言葉を借りるならば、「見えることよりも見えないところが大事」。漁師や農家とのつながりができたことは、やはり「『伊勢志摩サミット』がきっかけでした」と樋口シェフは話します。

「ホテルという構造上、なかなか個人で食材を仕入れることの難しさがあります。しかし『伊勢志摩サミット』のご縁をいただき、三重県の食材を存分に活かした料理がテーマとして与えられました。今回、使用させていただいている食材は、ガスエビはもちろん、その時に出会った方々によるものが多いです。そのご縁に感謝する一方、より感じるようになったのは自然の変化。以前、ガスエビは春と秋が漁期だったのですが、年々不漁だと伺っています。その原因は、海水温度の上昇によるものだそうです。反面、これまで獲れなかった魚が取れたり、これまでいた魚の生育地域が変わってしまったり。人であれば暑さを凌ぐことはできますが、魚はそうはいきません。環境との共存も真摯に向き合わなければいけないと感じています」と樋口シェフ。

「料理、シャンパーニュ、ものづくりは、共通して同じことがあります。全て自然と向き合って作るものだということです。こんなふうに作ってみようと思っていてもその時の海の状態、ぶどうの状態、水の状態によって思い通りにはなりません。人間は自然には抗えない反面、偶然性によって生まれる感動もあります。お互い難しさを楽しんでいきたいですね」と堀木さん。

鰹とガスエビで取った出汁は旨味が満ち溢れる。「樋口シェフの料理は、日本人が作るフランス料理を土地のものを生かして表現していることが素晴らしいと思います」と堀木さん。味に奥行きを手伝うのは、葉野菜、香味野菜からの出汁。「一番手が抜けない品ですが、樋口シェフのお出汁はすごく手間暇かけて作られているのがしっかり伝わります」。通常はビスクなどで合わせるも、今回は堀木さんの和紙の世界に寄り添い、あえて和のエッセンスを加える。

ガスエビのカクテルを見て、「美しいですね。栄養素だけを得るためならば、綺麗な器や盛り付けは必要ありません。これは相手を思うおもてなしの心の文化。誰かが誰かを想う気持ちから生まれます。その心を樋口シェフからは感じます」と堀木さん。爽やかに香るレモンは、「ちょうど黄色くなりかけた青い感じの時期のものを使用しています」と樋口シェフ。「実は、今日も畑にお邪魔してきました」。

ガスエビを大葉と一緒にパートグリックで包み油で揚げた料理。ガスエビだけでなく、ソースに使用するデコポンも三重県産。主役脇役問わず、地産地消を演出する。

軽くコンポートした薄切りのリンゴでガスエビと大葉を巻き上げた料理。「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”と香りの同調をお楽しみください」と樋口シェフ。

ペアリングを堪能後、「単品もさることながらこの3つの組み合わせ方は素晴らしかったです。食感、温度、甘みと旨みがそれぞれの調理法で最良に表現されていると思いました。ひと皿ですが4皿と同じクラスの料理は、全て“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”と寄り添い、互いを高める相乗効果を生んでいたと思いました」と堀木さん。

「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”は味もさることながら香りも豊か。香りという視点では、お出汁。今回の料理は、味だけではない香りのペアリングも親和性を生んでいました」と堀木さん。

「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”は、グラスに注がれた時の香りが素晴らしかったです。冷たい飲み物がこれだけ力強い香りを持っているのは驚きですでした」と、料理人らしい視点で自身の見解を話す樋口シェフ。

ラ・メール × 堀木エリ子受け継がれる美学。背景を知ることで、初めて本質は表現される。

「実は私、両親が伊勢出身なのです!」と堀木さん。「父が斎宮、母が松阪なのです。小さいころから『志摩観光ホテル』にはお世話になっており、“志摩観(しまかん)”“志摩観(しまかん)”と呼ばせていただいておりました」と言葉を続けます。

『志摩観光ホテル』への再訪や供された樋口シェフの料理を通して様々思い出すも、特に印象に残っているのは第5代総料理長の高橋忠之シェフの言葉でした。

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海の幸フランス料理「火を通して新鮮、形を変えて自然。」
火を使って、あるいは形を変えてより新鮮に、より自然に変えることは、素材に対する祈りである。
著書「美食の歓び」より
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「生でもおいしいものは火を入れてもおいしい。今回、お料理をいただき、樋口シェフは高橋シェフの想いも受け継がれていると思いました。樋口シェフは、フランス料理の伝統を受け継ぎ、『志摩観光ホテル』の歴史も受け継ぎ、高橋シェフの想いも受け継がなければならい立場にあります。非常に重要な責務ではありますが、その背景を学び得た上で、ぜひご自身の美学に昇華していただければと思っております」と堀木さん。

「私は第7代になります。2014年より料理長をさせていただいておりますが、月日を重ねるごとに高橋シェフの偉大さを思い知らされます。『伊勢志摩サミット』は本当の意味で地域を知り、つながるご縁をいただけたと感謝しています」と話す樋口シェフに対し、堀木さんは「自らご縁を広げた樋口シェフの“パッション”があったからこそ。『伊勢志摩サミット』では顔を会わせることはありませんでしたが、同じ舞台で命をかけて表現した戦友のようですね」。

体験こそ価値。その土地で獲れたものをその土地でいただく。その土地で生まれたものをその土地で浄化させる。表現することと土地を知ることは一心同体なのです。

「土地で育ったという事実が大切。ガスエビがどんなに良くても別のところで育ったガスエビでは同じ味にはなりません。この土地で獲れたからこそ良いのだと思います。それが体験につながるのではないでしょうか。“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”もまた、シャンパーニュ地方のグラン・クリュ(特級畑)に認定された5つの村で収穫したからこそのシャンパーニュ。フランス料理もシャンパーニュも和紙も自然とともに生きています。土地の声に耳を傾け、自然と生きる樋口シェフは、あっぱれだと思います!」。

「ミシュランガイド愛知・岐阜・三重2019特別版」にて一つ星を獲得した「ラ・メール」。地元三重県産の食材に向き合い続ける樋口シェフの世界を堪能できる。「三重の食材の素晴らしさを取り入れた料理をご提供していきます。自然の恵みに感謝の気持ちを込め、つながる全ての思いがお皿の上に、お客様に届きますように」と樋口シェフ。

女性として表現者として、互いを敬愛する堀木さんと樋口シェフ。2020年、テタンジェは長女のヴィタリー・テタンジェが5代目に就任。顔こそ見えないが、実は3人の女性が今回の饗宴を果たしているのだ。

「伊勢志摩サミット」にて堀木さんが表現した「光壁」の前にて。「まさか堀木さんとご一緒にこの場に立てるなんて感謝しかありません」と話す樋口シェフに「ご縁ですね」と堀木さん。神々しい光がふたりを照らす。

住所:三重県志摩市阿児町神明731 『志摩観光ホテル』内 MAP
TEL:0559-43-1211
https://www.miyakohotels.ne.jp/shima/index.html/

1962年京都生まれ。高校卒業後、4年間の銀行勤務を経て、京都の和紙関連会社に転職。これを機に和紙の世界へと足を踏み入れる。以後、「成田国際空港第一ターミナル」到着ロビーや「東京ミッドタウン」などのパブリックスペース、さらには、旧「そごう心斎橋本店」や「ザ・ペニンシュラ東京」など、デパートやホテルの建築空間に作品を展開。また、「カーネギーホール」(ニューヨーク)での「YO-YOMAチェロコンサート」舞台美術や、「ハノーバー国際博覧会」(ドイツ)に出展した和紙で制作された車「ランタンカー‘螢’」など、様々な分野においても和紙の新しい表現に取り組む。「日本建築美術工芸協会賞」、「インテリアプランニング国土交通大臣賞」、「日本現代藝術奨励賞」、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2003」、「女性起業家大賞」など、受賞歴も多数。近著に『和紙のある空間-堀木エリ子作品集』(エーアンドユー)がある。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/

Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

(supported by TAITTINGER)

深まる「ご縁」、湧き上がる「パッション」。和紙デザイナー・堀木エリ子が体験する「食べるシャンパン」。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE]

テタンジェOVERVIEW

ファミリーの名をブランドに冠する、今日では数少ない家族経営のシャンパーニュ・メゾン「テタンジェ」。

テタンジェは1734年に創業したシャンパーニュで史上3番目に古い醸造社である「フォレスト=フルノー社」を前身とする名門ハウス。長きにわたりテタンジェ家が培ってきた伝統と品質は、フランス大統領の主催する公式レセプションでも供されるほどです。

そんな「テタンジェ」は、単体で飲むだけでも優れていますが、料理と合わせることによって、更に味の奥行きが生まれ、ポテンシャルを発揮します。

今回は、「テタンジェ」の中でも至宝ともいえるトップキュヴェ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」のリリースに合わせ、3人のシェフが料理を考案。

フレッシュで洗練された果実味、熟した果実の香り。そして、滑らかで生き生きとした躍動感、スパイスのニュアンスを感じる洗練された味わいは、料理とペアリングすることによっておいしさが何倍にも増幅します。

言わば「食べるシャンパン」。

今回は、それをあるひとりの人物に体験していただきます。

それは、和紙デザイナーの堀木エリ子さんです。

堀木さんは、「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」の日本限定ギフトパッケージにて共演をしたことでも話題を読んでいます。

「日本の和紙は、もともと白い紙が神に通じると言われており、白い和紙は不浄なものを浄化するという考えがありました。だから、職人さんたちは、より白い紙を、混ざりもののない和紙を、約1300年にわたり追求してきたのです。そんな中、日本人はものを包んで人に渡すという文化が生まれました。ひとつのものを浄化して人に差し上げるという行為は、日本人のおもてなしの心につながっています。今回は、テタンジェの白い箱をさらに和紙で熨斗のように巻き上げました。贈る方の想い、シャンパーニュを召し上がる方の想い、人とのご縁をつなぐ心を和紙で表現しています」。

その熨斗には高い職人技が活かされていることはもちろん、四層漉きという驚愕の手仕事が成されているのが特徴です。

「ベースとなる緑の和紙、テタンジェのロゴ部分だけ薄く漉いた透かしの和紙、シャンパーニュの煌めく泡をモチーフにしたダイヤモンドマーク部分だけを厚く漉いた和紙、そして、表面の白い和紙の四層です。白透かしと黒透かしという技法を採用しました」。

また、堀木さんは、シャンパーニュ地方にあるテタンジェのカーヴにも足を運んでいます。

「ワイナリーで一番印象的だったのは、眠っているボトルの姿でした。それが本当に美しくて。毎日のように澱が溜まらないように回すのですが、まるでこどもの寝返りを打たせてあげているようで、愛を感じました。これを見ているのと見ていないのとでは、味の感じ方は変わります。できあがったものだけで本質を得ることは難しいと思っています。現場を見てきたものとして、飲むだけでは得ることのできない真実、現場の姿もお伝えしたいと思っています」。

本当に大切なことは、見えるものではなく、見えないところにあります。背景を知ることが本質を知ることにつながるのです。

シャンパーニュと和紙の「ご縁」。そして、互いが持つ技術や歴史の「パッション」の邂逅から、これまでにない特別感が生み出されます。

「合わせる」ことで生まれる、「1+1=2」以上の可能性。

その魅力を堀木エリ子さんとともに綴っていきたいと思います。

※「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」の日本限定ギフトパッケージは、2008本限定のため、売り切れの場合がございます。あらかじめご了承ください。

1962年京都生まれ。高校卒業後、4年間の銀行勤務を経て、京都の和紙関連会社に転職。これを機に和紙の世界へと足を踏み入れる。以後、「成田国際空港第一ターミナル」到着ロビーや「東京ミッドタウン」などのパブリックスペース、さらには、旧「そごう心斎橋本店」や「ザ・ペニンシュラ東京」など、デパートやホテルの建築空間に作品を展開。また、「カーネギーホール」(ニューヨーク)での「YO-YOMAチェロコンサート」舞台美術や、「ハノーバー国際博覧会」(ドイツ)に出展した和紙で制作された車「ランタンカー‘螢’」など、様々な分野においても和紙の新しい表現に取り組む。「日本建築美術工芸協会賞」、「インテリアプランニング国土交通大臣賞」、「日本現代藝術奨励賞」、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2003」、「女性起業家大賞」など、受賞歴も多数。近著に『和紙のある空間-堀木エリ子作品集』(エーアンドユー)がある。
 

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Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

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新潟食材を堪能する料理教室。中村孝則流、男の晩酌レシピ。[NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN Vol.2/新潟県]

茶人として自分で料理の腕を振るうことも多い中村さんが、今宵は料理教室の先生に。

新潟プレミアムライブキッチン限定5名の受講者が、中村さんのオリジナルレシピをリアルタイムで料理。

新潟ウチごはんプレミアム」とONESTORYのコラボレーション企画として、コラムニストの中村孝則さんによるオンライン・クッキングイベント『NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN VOL.2』が開催されました。参加抽選への応募は50名を超え、その中から見事に参加資格を勝ち取った5名が参加しました。

新潟ウチごはんプレミアム」は、自宅で新潟の食材を楽しむためのポータルサイト。レシピ動画の公開のほか、さまざまなオンラインイベントを紹介しています。今回、中村さんは新潟へ食材探しの旅を敢行し、そこで手に入れた食材とお酒を事前に参加者へ届けました。開催当日は、中村さんのオフィスのキッチンと参加者のキッチンをオンラインでつなぎ、料理教室がにぎやかにスタートしました。

「今日はお酒のお供になる料理を4品作ります。どれも簡単でシンプルなレシピですから、飲みながら、食べながら、楽しく進めていきましょう」と中村さん。まずは、全員で乾杯です。
乾杯のお酒は、長岡市摂田屋地区で470年以上続く日本酒蔵・吉乃川が、11月より販売を開始した発泡性純米酒「酒蔵の淡雪プレミアム PAIR」です。参加者からは「シャンパーニュのような泡立ち」「めちゃくちゃ美味しい!」と驚きの声が上がりました。ワインのインポーターである参加者も「香りの広がり方が素晴らしい」と絶賛です。4つの料理に合わせて、中村さんが吉乃川のラインアップから選んだ4種類のお酒をペアリングしていきます。

中村さんはメインの食材として新潟特産のふたつのブランド野菜を選びました。ひとつは長岡市の「大口(おおくち)れんこん」、もうひとつは五泉市の里芋「帛⼄⼥(きぬおとめ)」です。どちらも新潟県民にとってはおなじみの野菜であるものの、収穫量がそれほど多くはないため基本的に新潟県外に流通することはなく、全国的にはほとんど知られていません。中村さんは、大口れんこんや帛⼄⼥は、知られざる食の宝庫・新潟を象徴する存在だと話します。
「新潟に“食”のイメージがあまりないという方もいるかもしれません。ですが、実際には新潟はとても豊かな食材に恵まれ、奥深い食文化を育んできた土地です。暖流と寒流がぶつかる東西に長い海岸線と佐渡島を有することから、良質な海産物の宝庫となっています。コシヒカリはもちろん、酒米である五百万石の栽培が盛んで、日本酒の蔵の数は全国第1位。越後姫やル レクチエなどの人気のフルーツもたくさんありますし、ブランド豚やブランド牛などの畜産や酪農も盛んです。野菜に関しては枚挙にいとまがないほど多くの特産品があり、新潟県内では日常食として消費されています。今、新潟県民だけがそのずば抜けた美味しさを知っている大口れんこんと帛⼄⼥は、新潟の“食”のポテンシャルの高さを象徴する幻の野菜だと言えます」

【関連記事】NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1/平野紗季子×長田佳子 抽選で限定5名が参加できる「オンライン料理教室」を開催

「美味しい料理を作るなら、飲みながら」が中村さんのモットー。まずは参加者全員で乾杯します。

今回のメインとなる新潟食材である大口れんこんと帛⼄⼥について解説。

料理をしながら、帛乙女の畑をたずねて自分で収穫した体験談を話します。

時にドタバタと、時にゆるりとお酒を楽しみながら、6カ所での同時クッキングが進んでいきます。

新潟プレミアムライブキッチン食材の生産の現場を知り、生産者の声を聞く。それが、究極の美味しさへの近道。

1品目の「あっさり辛子レンコン」は、茹で上げたれんこんを使ってわずか5分ほどで完成。辛子れんこんと言っても、辛子味噌を詰めて揚げたものではなく、いわばれんこんの辛子和えです。

「大口れんこんの生産者たちは、口々にシンプルな料理を勧めるんです。辛子れんこんやきんぴらでさえ彼らにしてみれば調理しすぎで、本来の味が分からなくなっていると。実は辛子れんこんを作りたいと思ったのですが、そのアドバイスを受けて超シンプル版の辛子れんこんにしてみました」と、中村さんはレシピ考案の背景を話します。
参加者たちは「れんこんがこんなに美味しいものとは知らなかった」と、味見に手を伸ばし、グラスを傾ける回数が加速していきました。

2品目、素揚げした大口れんこんと中村さん特製のジェノベーゼソースの組み合わせには、また歓喜の声が上がりました。九州在住の参加者は「れんこんを口に入れた瞬間、新潟へ早く行かなきゃと思いました」と笑います。

中村さん自身も、これらの野菜を現地で試食した際は鮮烈なインパクトを受けたと振り返ります。とりわけ印象深いのが帛⼄⼥を使った新潟の郷土料理「のっぺ」です。
「正直、それまで里芋の魅力が今ひとつわかっていなかった。ぬめっともさっとしたところが苦手で積極的に選ぶ食材ではありませんでした。でも、長生館という老舗旅館でのっぺをいただいた時には、心から感動したんです。自分の知っている里芋とは全く別物で、なんてきめ細やかでさらっとした心地いい舌触りと。奥深い味わいなんだろうと」
その感動をもとに、中村さんは3品目の洋風のっぺを作りました。旅で立ち寄った、だし製品の直営店「ON THE UMAMI」で手に入れたトマトだしと、中村さんのお気に入りの食材であるグラノパダーノチーズを使った、ユニークなオリジナルのっぺです。

新潟県三条市出身の参加者は、「洋風アレンジののっぺは新潟ではあり得ませんね。いやぁ旨い。県外の人の自由な発想が入ると、料理がぐっと楽しく広がりますね」と唸ります。

最後の4品目は、中村さんの得意料理のひとつであるスペイン風オムレツ。本来じゃがいもを使うところを帛⼄⼥に置き換えて作ります。
「帛⼄⼥をくたっとさせて、そのまろやかなぬめりを半熟卵にくるんで楽しむ一品です。味付けは塩のみ。一見凝った料理のようですが、実は極めてシンプルです。帛⼄⼥そのものの独特な食感と、他の食材と調和する万能食材としての魅力を堪能できると思います」と中村さん。ペアリングには、「特別純⽶ 極上吉乃川」の人肌燗を勧めます。

とろりとしたオムレツと、米の旨味がしっかり感じられる燗酒を味わいながら、全品を無事に完成させたみんながホッと一息。ほどよい酔い心地です。

最後に、完成した料理とお酒を思い思いに楽しみながら、しばし語らいます。「実際に料理し、味わいながら新潟の食について楽しく勉強できて、とても有意義な時間だった」「毎月開催してほしい。こういう講座があったら絶対に参加したい」「新潟のイメージが変わった」といった声が聞かれました。
中村さん自身にも今回の体験は大きな変化をもたらしたようです。
「料理人たちがなぜわざわざ生産者を訪ねるのか。その理由が感覚的にわかりました。生産者は、自分が丹精込めて育てる食材のいちばんの魅力を知っている。そして、その前には魅力を高めるために努力を重ねてきているわけです。その食材がどのように生まれ、生産者はどのように考えているか。それを知ることは、料理人にとって目標である“美味しさ”にたどり着く最短コースであり、食の本質を深く理解するための唯一の道だと気づいたんです」

画面越しに大きくうなずく参加者たちの笑顔が、イベントの成功を物語っていました。

辛子れんこんの材料を示す中村さん。このように、中村さんの料理は至ってシンプルで手軽。それでいて、味は文句なし。

4品の調理とお酒のプレゼンテーション、旅の思い出トークと孤軍奮闘する中村さん。手慣れた包丁捌きは流石の一言。

時折、大口れんこんの収穫風景を見せながら、れんこんがどのように栽培されているか、収穫がいかに大変な作業であるかを伝えました。

「洋風のっぺ」に合わせたのは、吉乃川新シリーズの「純⽶⼤吟醸 50 PAIR」。骨格がしっかりしていて、和食洋食を問わず食中酒として光るタイプ。

「辛子れんこん」と吉乃川「酒蔵の淡雪プレミアム PAIR」

ON THE UMAMI だし屋の⽩だしと水で粉辛子をとき、れんこんと和えるだけで絶品のおつまみに。

新潟プレミアムライブキッチン【あっさり⾟⼦レンコン】

材料
*⼤⼝れんこん(1個)
*和がらし粉(適量)
*⽩だし(ON THE UMAMI だし屋の⽩だし・適量)
*⽩ごま(少々)

手順
1.⼤⼝れんこんを皮がついたまま硬めに茹で、皮をむき、5㎜幅に輪切りにする。
2.和がらし粉に、⽔と⽩だしを半々の割合で少しずつ混ぜ、ゆるいソース状に溶かす。(ゆるさはお好みで)
3.1に2のソースをかけ、⽩ごまを振って完成。
合わせるお酒
吉乃川「酒蔵の淡雪プレミアム PAIR」

「れんこんフリットのバジルソースがけ」と吉乃川クラフトビール「摂⽥屋クラフト」ペールエール(左)とヴァイツェン(右)

大好評だった中村さん特製バジルソース。酸味として梅干しを加えるのがポイント。

新潟プレミアムライブキッチン【れんこんフリットのバジルソースがけ】

材料
*⼤⼝れんこん(1個)
*オリーブオイル(適量)

《バジルソース》
*フレッシュバジル(ひとつかみ50gくらい)
*オリーブオイル(100ml)
*グラナパダーノチーズ(50g)
*カシューナッツ(素焼き・50g)
*梅⼲し(1/3個)
*塩(少々)

手順
1.⼤⼝れんこんを皮がついたまま硬めに茹で、皮をむき、乱切りにする。
2.⼩さめのフライパンや鍋にオリーブオイルを浅めに張って、1を素揚げにする。
3.ミキサーかジューサーにバジルソースの材料を塩→梅⼲し→オリーブオイル→バジル→グラナパダーノチーズ→カシューナッツの順に⼊れて、ペースト状になるまで仕上げる。
4.⽫に2を盛りつけ、3のソースを添える。

合わせるお酒
吉乃川クラフトビール「摂⽥屋クラフト」(ペールエールとヴァイツェン)

「洋風のっぺ」と吉乃川「純⽶⼤吟醸 50 PAIR」

「洋風のっぺ」の仕上げにグラノパダーノチーズをたっぷりふりかける。帛⼄⼥はコクのあるチーズとの相性もいい。

新潟プレミアムライブキッチン【洋⾵のっぺ】

材料
*ON THE UMAHI UMAMIだし トマト(1パック)
*帛⼄⼥(2個)
*鶏もも⾁(50g)
*⼈参(1/2本)
*グラナパダーノチーズ(⽿の部分を含む)
塩少々

手順
1.帛⼄⼥と鶏もも⾁と⼈参を⼀⼝⼤に切る。
2.切った帛⼄⼥と⼈参を軽く下茹でする。
3.鍋に300ccの⽔とだしトマトパックとグラナパダーノの⽿を⼊れ、沸騰させて5分間煮出す。
4.3に2を⼊れて全体に味が馴染んだら、塩で整える。
5.器に盛りつけ、グラナパダーノをマイクロプレイン、なければすりおろし器ですりおろして完成。

合わせるお酒
吉乃川「純⽶⼤吟醸 50 PAIR」

「帛⼄⼥のスペイン風オムレツ」と吉乃川「特別純⽶ 極上吉乃川」(燗)

スペイン風オムレツのコツは、具材を熱々のまま卵に加えながらも、卵が固まりすぎないよう加減すること。中村さんがその極意を伝授した。

新潟プレミアムライブキッチン【帛⼄⼥のスペイン⾵オムレツ】

材料
*帛⼄⼥(4個)
*⽟ねぎ(1/2個)
*オリーブオイル(適量)
*イタリアンパセリ(適量・なければパセリ)
*卵(3個)
*塩少々

手順
1.帛⼄⼥を1cm幅にスライスする。
2.⽟ねぎを千切りにする。
3.フライパンにオリーブオイルを⼊れて、1を柔らかくなるまで軽く揚げる。
4.3に2を加えて炒める。
5.卵をとき、その中に塩をふる。4を熱いまま⼊れて、帛⼄⼥を⼿早くつぶして混ぜながら3分待つ。
6.フライパンにオリーブオイルを少しひき、熱くなったら5を⼊れて焼く。裏面がきつね⾊になったらひっくり返して、両面がきつね色になったら完成。

合わせるお酒
吉乃川「特別純⽶ 極上吉乃川」


Photographs:JIRO OOTANI
Text:KOH WATANABE

料理の完成後は、茶室に移動してオンライン飲み会状態に。そこに美味しいお酒と肴があれば、オンラインでも人と人との距離はぐっと縮まる。

記事で登場した商品は、こちらから購入できます。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長を務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。http://www.dandy-nakamura.com/

(supported by 新潟県観光協会)

「今、人としてどう生きるかを問われている。食がもたらす役割、そのひとつの体験をより大切にしたい」pesceco/井上稔浩・井上景子

穏やかな表情だが、内には強い覚悟を秘めている井上シェフ(左)。「今のような世の中だからこそ、“食”を通して人々の心身を“元気”にしたい」と夫婦で語る。Photograph:AZUSA SHIGENOBU

旅の再開は、再会の旅へ。自分にできることを自分の場所でやる。“食”を通して、おいしいだけではない“力”もご提供したい。

時を遡ること2018年8月。島原のレストラン『pesceco』は、大きく舵を切りました。

町の繁華街で3年9ヵ月営んだカジュアルなイタリアンレストランを閉め、海沿いの一軒家に店を移して、新たな拠点として再スタートしたのです。完全予約制で、料理は昼夜ともおまかせのコースのみに。

当時を知る人であれば、「敷居が高くなった」と足を遠ざける地元客も出てしまいましたが、その一方、「ここでしか食べられない料理がある」、「店での食事を目的に島原へ旅する価値がある」と、『pesceco』を目指して旅する人も少なくありません。

ここを担う井上稔浩(たかひろ)シェフは、島原生まれの島原育ち。県外に、いや世界に伝えたい島原の素晴らしいところも、他の地方都市同様に抱えている多くの地元の問題点についても、誰よりもよく知っています。その上で「島原が好きだから」と、この地に根を張る道を選びました。

愛する故郷のために、料理人だからできることがある。

店のあり方を大きく変えた移転リニューアルは、井上シェフの「覚悟」にほかなりません。

「大変ありがたいことに国内外を通してお客様に恵まれていましたが……」と言葉を詰まらせる理由は、新型コロナウイルスによる激動激変です。しかし井上シェフは「僕らのスタンスは変わらない」と覚悟を口にします。「これまでも、周りがどうだからとかでなく、"自分たちなら?"と問いながら変化してきました。だから今回も、自分たちらしく、変化し続けるだけで”自分たちなら?”が根本にある 精神は変わりません」。

『pesceco』 は、2020年3月初旬には5月末まで予約が埋まっていました。しかし、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、ほぼ全てそれは白紙に。緊急事態宣言発令時には、やむ得ずレストランを一時休業しました。

「もともと需要がないところからスタートしたので、予約が白紙になったことに危機感を抱くということはありませんでした。むしろ、開店当時の事を思い出し、"自分たちなら?"と今できることを冷静に考えることができました。店舗の再開時には1日2組に体制を変更し、昼、夜ともにおまかせコース一本にさせていただく決断をしました。今の状況下においても、心の安らぎを求めお越しくださるお客様に、より良い一皿を、より良い時間を安心して過ごして頂きたいと思っております。正直、営業すること自体、とても各々リスクがあり、シビアだということは理解しています。それでも粛々とやれることをやるしかない。感染対策を意識しながら営業をするスタンスを取っていました」。

新型コロナウイルスがもたらす地域の悲鳴は、テレビを始めとしたメディアでは取り上げられない現状が各々あります。

「島原は小さな観光土地でもあるのですが、緊急事態宣言が発令されてから夏のお盆ぐらいまで県外からの観光客はほぼいませんでした街は閑散としていました。9月ぐらいからは徐々に戻ってきたような感じはありましたが、それ以前から夜の街はは衰退の最中でしたので、昔ながらのお店が立て続けに店仕舞いを余儀なくされるところもありました」。

感染拡大の防止と経済の活動、一長一短であるため、その解決策は未だ見えません。

また、地域の場合、その土地に根ざした独特の距離感と手の取り合い方があると思います。レストランで言えば、地産地消がそれになります。地元の食材や生産者とのつながりが料理を支えており、ゆえに『pesceco』は、「田舎でしか食べられない料理」を表現できる場所に成長したと言えるでしょう。

「ひと皿を通し、お客様、地元の生産者、食材、自然をつなげることができると思います。その土地に根ざし、期待に応え続け、求められ続けることこそ、土地に存在し続けることの意義。それが『pesceco』の手の取り合い方なんです」と井上シェフは語ります。

それはメニューの最後に刻まれている「百姓」「漁師」「魚屋」「塩」が物語っています。

前回の取材時、「塩」は平戸市獅子町『塩炊き屋』の1軒で、他はそれぞれ2軒ずつ。「魚屋」の欄にはもちろん父・井上弘洋氏が営む『おさかないのうえ』の名も記されていました。最後は「自然」。自ら採取した野草、そして雲仙市西郷で汲む岩戸の湧き水。食材を茹でたり煮たり、出汁を取ったりする際に使う湧き水を汲みに行くことから井上シェフの一日は始まるのだと言います。

「これが全てです。逆に、この方々抜きでは、僕の料理、僕らの店は成立し得ない」。

今回の難局においては、食以外に関してもその手の取り合いを発揮しました。

「お店を守るため、資金集めに奔走していたこともありました。そんな時、色々な方々が親身にサポートの声をかけてくださいました。そんな優しさは、田舎ならではの距離感だと思います。日々のご縁や繋がりの有り難みに改めて感謝しています。また、島原に限っては、市を通して比較的早く、給付金などの手続きもしていただけました」。

どんなに辛いことがあろうとも、ここに残る理由は何か。それは前出の通り、「島原が好きだから」。そして、この渦中においても井上シェフは、冷静に言葉を続けます。

「今、このような世界をもたらしたのは、私たちの社会によるものです。つまり、人が生み出してしまったものだと思っています。新型コロナウイルスによって今までの当たり前や日常は奪われ、人としてどう生きていくのかを問われているのではないでしょうか。人間は自然の中で、地球の中で生かされています。このコロナ禍においては、直接会わなくとも画面越しに会話できるようになり、直接訪れなくとも物が届くようになりました。それが良い、悪い、とかではなく、私たち人間はそうしてお互いに繋がりながらでないと生きていけません。だからこそ今一度、人としての豊かさとは何なのか、人としてどう生きるべきなのかに向き合うべきだと思っています。自分は一料理人として、一人間として、"繋がりが見える料理"を作っていきたいし、食が心にもたらす役割を意識しながら、そのひとつ一つの体験をより大切にしていきたいです」。

2020年は、井上シェフに訪れた次なる「覚悟」の年になったことは間違いありません。それでも「レストランは人々の心身を豊かにすることを信じています」。レストランの語源でもある「レストレ」のごとく。

「世界中が未曾有の不幸に見舞われるという中、日々、レストランとしての存在意義と向き合っています。 少しでも自分たちと関わりがある人たちや来てくださるお客様が、“食事”を通して心身ともに元気になっていただければ嬉しく思います。“食”を通して、おいしいだけではなく、心のエネルギーになるような“力”もご提供したい。 そして、1日も早く心置きなく旅ができる日が戻ることを願います。まず、自分は自分の場所で、できることをしていきます。『pesceco』は、灯台のような存在でありたいと思います。また自由に旅が再開できた時、お客様とお会いできるのを楽しみにしています」。

淡いブルーグレーの建物が、海岸沿いの景色に溶け込む。店名はイタリア語で「魚」を意味する「ペッシェ(pesce)」と、景子さんの名前の「子(co)」を合体させた造語。

海をすぐそばに感じることができるレストラン。店内には余計な装飾はなく、真っ白なリネンが清々しい印象。

3人の子供を育てながら、店でサービスを担当する奥様の井上景子さん。井上シェフの大きな精神的支柱でもある。

住所:長崎県島原市新馬場町223-1 MAP
電話:0957-73-9014(完全予約制)
https://pesceco.com/

Text:YUICHI KURAMOCHI

「外の発信から内の発信へ。地元に留まることによって見えた足元の価値を表現する」Araheam/前原宅二郎

肩の力の抜けた、気持ちのいい接客が印象的な前原宅二郎氏。お店は兄の良一郎氏と共同経営

旅の再開は、再会の旅へ。今できることにベストを尽くし、いつか鹿屋で再会したい

鹿児島県の大隅半島中央部・鹿屋(かのや)市に、グリーン好きの間では全国的に有名なショップがあります。

前原良一郎氏、宅二郎氏の兄弟が営む『Araheam(アラヘアム)』です。

そんなお店の周辺環境は、国道沿いにあるいくつかの大手チェーン店の他は、個人経営のお店は限られており、シャッターが下りている商店も少なくない場所です。

2018年、『ONESTORY』が訪れた取材では「ここで店をやることは、リスクだらけですよ」と語った宅二郎氏ですが、予想もしないリスクが2020年に訪れます。それは、周知のとおり、新型コロナウイルスです。

「新型コロナウイルス前は、新たな計画を立てていました。自粛や緊急事態宣言などによって二の足を踏む日々が続きましたが、気持ちは落ち着いていました。もちろん海外への買い付けができなくなったのは残念でしたが、今は仕方ないですね。販売に関しては波があり、直近の見通しもたたないため、仕入れやイベントなど、リスクが伴うことを考えると、やや消極的になっていました。感染が拡大してからはできるだけ市外へも足を運ばず、地元に留まり、できることを行ってきました」と宅二郎氏は話します。

前原兄弟に限らず、日本中、世界中が当たり前を奪われ、篭る日々が続きました。そこで改めて感じたこと。それは、「外の発信から内の発信へ」のシフトチェンジです。

「新型コロナウイルスの一番大変な時期はウェブでの販売に注力していました。自粛期間中、併設している喫茶店は休業しました。その後はテイクアウトメニューなども増やし、世間のニーズに合わせたメニュー構成にしています。これまでは外からのアイテムの発信が多かったのですが、これからは内からの発信をしたいと思っています。新たに地元の食を発信するプロジェクト『
LOCAL FOOD STOCK』を立ち上げ、インターネットでの販売、地域の情報発信を行う予定です。新型コロナウイルス収束後、このプロジェクトをきっかけに足を運んでくれる人が増えてくれたらと思っています」と宅二郎氏。

前回訪れた時、宅二郎氏はこんな言葉を残しています。「地に足をつけて自分たちの店をしっかりやる。元気な店作りをすることが、一番の町おこしなんじゃないかなと思うようになったんです」。

『Araheam』は『Araheam』のやり方で、地に足をつけ、一番の町おこしに向け、一歩一歩前へ進んでいます。

ちなみに、今回の取材対応も前回同様、宅二郎氏が担当。店頭に立っているのも多くが宅二郎氏です。

「僕は保守的ですが、兄は本能的!?とでも言いますか(笑)。野球のバッテリーでいったら兄がピッチャーで僕はキャッチャー」と、その兄弟の関係を明かしてくれます。

「まだまだ不安定な日々が続き、先が見えないこともあると思います。新型コロナウイルスの状況を様々なメディアで目にしますが、それに翻弄されている人が多いように感じました。国や政府からの情報もホームページやインターネットが中心のため、もう少し高齢者の皆さんにもわかりやすく届くといいなと思いました。また、業種や規模によってその制度も様々なので比べることはできませんが、もう少し地方へのご配慮もぜひお願いできれば幸いです」と宅二郎氏は話します。

一刻も早く日常が戻ることを願うばかりですが、『Araheam』は、温かくも落ち着いた空気感を保ちながら一致団結。兄弟や家族だけでなく、スタッフも含めたチームで乗り切ります。まさに全員野球。

『Araheam』は、逆から読むと『maeharA』。マエハラです。

『Araheam』は、兄・良一郎氏と弟・宅二郎氏の2人のコンセプトがひとつになり、形となる場所ですが、現在は更に父と三男の弟も欠かせない存在になっています。

『Araheam』の始まりは、父の経営する植物の卸し兼園芸店からスタート。「自社農園もあるのですが、その農園はもともと父が中心になって始めたことで、三男にあたる弟は現在その生産管理をしています」と宅二郎氏は話します。

現在の『Araheam』は、前原ファミリーがひとつになるための場のような存在。まるで呪文のような店名は、家族が一丸となって店に携わるための言霊だったのかもしれません。兄弟のバッテリーから始まった『Araheam』は、チームの『Araheam』へと絆を深めています。

そんな『Araheam』は、2020年7月に新たな挑戦を果たしました。

「東京・千駄ヶ谷に新店『Araheamy』をオープンしました。小さなお店ですが『Araheam』をギュッと詰め込んだ店舗となっています。今後の見通しが中々つかず、不安な日々が続きますが、みんなで困難な時期を乗り越え、収束後には元通りの生活に戻れることを切に願います。何も考えずに旅をして様々な出会いができる日が早く来ますように。そして、少し先になりますが、新型コロナウイルス収束後には、ぜひ、鹿屋にお越しください。再び皆様にお目にかかれることを楽しみにしています」と宅二郎氏

そっけないほどの外観は、ここが店舗と気付くかどうかさえ危うい佇まい。店内にはコーヒーショップを設け、今ではご近所の喫茶店代わりの存在。遠方から来た人には、旅の途中の安息所にもなっている。

種類、大きさ、高さも様々なグリーンが置かれている広々とした店内。もとは材木倉庫だった場所を利用。

お店の奥の部屋ではファッション、生活雑貨、鉢など、ライフスタイル関連の商品が並ぶ。

千駄ヶ谷の新店『Araheamy』。最後に「y」が付く意味を尋ねると「こぢんまりとしたお店なので「y」を加えて親しみやすい名前になればと思い、『Araheamy』にしました」と宅二郎氏。

住所:鹿児島県鹿屋市札元1-24-7 MAP
電話:0994-45-5564
http://araheam.com

住所:東京都渋谷区千駄ヶ谷3-3-14 MAP
電話:080-9458-0108

Text:YUICHI KURAMOCHI

統括編集長・倉持裕一が振り返る、2020年の『ONESTORY』。

『ONESTORY』として、ひとりの人間として。この一年をどう生きたのか。

振り返ること2018年、毎年恒例に行われている京都『清水寺』が発表する漢字は「災」でした。しかし、その2年後に更なる「災」が訪れることを誰も知る由もありませんでした。

2020年2月。最悪の事態が始まってしまいます。以降、テレビやインターネットなどで「新型コロナウイルス」という言語を目にしなかった日は今日に至るまで1日もありません。

正直、最初は対岸の火事のような感覚でした。しかし、急速に自体は変化していきます。あっという間に自粛から緊急事態宣言。日常は奪われてしまいました。

『ONESTORY』に関して言えば、取材はおろか、地域を行き来することすらできなくなり、予定していた『DINING OUT』も全て白紙。2020年は一度も開催することができませんでした。

一方、これまで出会ってきたレストランやホテルなどは崩壊寸前まで追い込まれ、経営難になるところも少なくありません。前代未聞の難局ゆえ、国や政府の保証もすぐには可決されず、待ったなしで訪れるのは月末の支払いという現実。

それぞれの立場や環境も異なるゆえ、抱えている問題は多種多様。国民全てに満足のいく対応をするのは困難を極めます。

自分たちには何ができるのか、何もできないのか。無力さを感じた時もありました。

そんな時、あるシェフの活動を目にすることになります。

大阪のレストラン『HAJIME』の米田 肇シェフによる飲食店倒産防止対策の署名活動です。

 

忘れもしない2020年4月5日。一本の連絡からやるべきことが見えた。

前述、『HAJIME』の米田 肇シェフによる飲食店倒産防止対策の署名活動は、3月29日から始まりました。その後、4月5日に米田シェフから今回の詳細を伺い、翌日、4月6日に霞ヶ関への訪問後、付近で緊急取材を行いました。記事の公開は同日というスピード感。最速での配信となりましたが、その理由は、国の補正予算案が発表される前にこの活動を世に伝えなければいけないと思ったからです。

そして、この件をきっかけに『ONESTORY』としてやるべきことが見えたのです。

潰したくないお店がある。
なくなってほしくない場所がある。
応援したい人がいる。

何ができるかわかりませんでしたが、今、自分たちにできる「日本に眠る愉しみをもっと」伝えていかなければならない、届けなければならない。

それが、「#onenippon」という企画でした。

ゴールはありませんでしたが、それでも前へ進むことが大切だと思ったのです。

以降、医療従事者に食事提供する「Smile Food Project」やパリの『MAISON』渥美創太シェフ、ミラノの『Ristorante TOKUYOSHI』徳良洋二シェフ、伝統工芸に表現手法を置く芸術家・館鼻則孝氏など、様々な方々に取材。国やジャンルなど、垣根を超えた現実を記事化していきました。

そんな時に感じたことは、テクノロジーの利点です。

米田シェフや「Smile Food Project」の活動は、インターネットやSNSがきっかけでした。米田シェフは海外のシェフが署名活動を行った前例をインターネットで目にし、「Smile Food Project」は、『シンシア』の石井真介シェフのSNSコメントに『サイタブリア』の石田 聡氏が反応したことから始まりました。また、離れていてもパリやミラノを取材できるコミュニケーションが取れることも、そういった発展によるものと言って良いでしょう。拡散によって輪は広がり、誰かとつながることで安心を得られた人も多かったと思います。

今伝えたい、この瞬間に発信しないと意味がない、そんな情報が多かった2020年は、webの機能が最も有効活用された年にもなりました。雑誌などのように発行日が決まっているものや定期刊行物ではそうはいきません。毎日が生き物のように目まぐるしく循環した『ONESTORY』は、初めての体験でした。

しかし、個人が自由に発信できる場は、イイネなどの数字に左右されることもしばしば。更には、疑似体験を実体験と見紛う傾向も発生し、見たつもり、行ったつもり、食べたつもりなど、「つもり」現象という仮想空間も形成してしまったのではないでしょうか。本質を見失うだけでなく、人を傷つけてしまうこともあるため、誤った使い方をしない道徳心が問われていると思います。

2020年は、新型コロナウイルスによって、全てがリセットされたと言っても過言ではありません。

我々、ひとり一人は、これからどう生きていくべきなのか。

働き方改革ならぬ、生き方企画こそ、人類にとって必要なのではないでしょうか。

そこで新たな企画を始動します。

生きるを再び考える/RETHINK OF LIFE」です。

 

人は特別な生き物ではない。我々は、今、どう生きるべきなのか。

生きるを再び考える/RETHINK OF LIFE」の立ち上げは、「#onenippon」を製作中に見た海外のあるニュースがきっかけでした。それは、ネパールの首都・カトマンズから近代史上初めてエベレストが目視可能になったという内容でした。大気汚染が深刻な地域に起こったそれは、人の活動停止によって明らかに空気が澄んだ証拠です。

そこで、世界的にもっと環境改善された例はないか調べてみたのです。

すると、ほかにも様々な記述があり、 水の都として知られるイタリアの世界遺産・ベネチアでは濁った運河が透き通り、タイやアメリカなどではウミガメの繁殖が増えている報告もされたそうです。プーケットではウミガメの巣は10カ所以上も確認され、過去20年で見ても最多の数だとありました。フロリダの保護団体は、人工照明の減少によって生まれたばかりのウミガメの子が方向を見失うことが少なくなったと伝えています。観光客で賑わうハワイのワイキキでも海の透明度が増したと言われ、固有種の絶滅危惧種に指定されているハワイアンモンクシール(アザラシ)の数が例年より増加しているとニュースも報じられていました。

これらはあくまで一例に過ぎませんが、不謹慎を承知で言えば、新型コロナウイルスが人類にもたらした唯一の美点なのではないでしょうか。

奪われてしまった日常や当たり前などから生まれた時の停止は、様々な変化をもたらしました。

しかし、自然に関しては、人類との関係を遮断することによって野生がみなぎり、本来の姿を取り戻すきっかけになったかもしれません。

昨今、「サスティナブル」という言葉を耳にする機会も増えましたが、源は地球環境にあります。

その保全や配慮がない限り、我々の未来はないでしょう。

「生きるを再び考える」ことは、容易いことではありません。

その答えは、もしかしたら生涯見つからないかもしれません。

しかし、考え続けることに意味があるのだと思います。

 

もし日常が戻った時、自分はどんな旅をするのか。その答えは「再会」だった。

4月以降、上記のような企画を推進してきましたが、やはり気になるのは「旅」について。

早く取材を再開したいと思う気持ちはもちろん、それよりも、これまで出会ってきた方々の顔が一番に浮かびました。

もし日常が戻った時、自分はどんな旅をするのか。

いや、もっと言えば、例えワクチンが供給されたとしても、日常は戻ってこないかもしれない。これまでの常識は非常識になるかもしれない。当たり前とは何だろう? 旅の概念も変わってしまうのではないか?

様々な思いが錯乱するも、その答えだけは明確でした。「再会の旅」です。

今回の難局は、世界的に見ても人と人が触れ合う環境を遮断され、引きこもりや孤立した生活を余儀なくされました。

そんな時に芽生えるのは、誰かを思う心。

見る、食べるよりも出会うことを目的にした旅は、より一層、絆を深めるでしょう。

ご無沙汰しています! お元気でしたか? またお会いできて嬉しいです! そんな何気ない会話は特別になり、握手やハグ、肩組みなどのコミュニケーションは、心の底から込み上げてくる何かを感じるに違いありません。

そんな旅は、人生において忘れがたい時間になるはずです。

大切なことは、どこへ行くかではなく、誰に会いに行くか。

HOPE TO MEET AGAIN/旅の再開は、再会の旅へ」の企画は、新型コロナウイルスが終息するまで、コツコツと続けてきたいと思います。

ぜひ、皆様もこれまでの旅を振り返ってみてください。
遠い場所で頑張っている誰かを思い出してしてみてください。
そして、次の旅は、その方のもとへ足を運んでみてください。

旅の再開は、再会の旅へ。

 

さらに地域と向き合う覚悟。『ONESTORY』のこれから。

周知の通り、2020年は激変の年になってしまいました。これは、もしかしたら生涯を通して、最初で最後の苦行かもしれません。

なぜなら、全世界が同時に対峙する難局は、極めて稀有だと思うからです。

この時代をどう生き抜いたかは、各々が歩むこの先の人生を大きく左右するのではないでしょうか。

『ONESTORY』として、ひとりの人間として、未来の時間軸から今を振り返った時、恥ずかしくない生き方をできているのか? 後悔のない生き方をできているのか? 自問自答を繰り返してきました。

そんな『ONESTORY』の2020年は、「挑戦」の年となりました。

その理由は、これまでになかった新プロジェクトにあります。

メディアだけでない『ONESTORY』のカタチ。『DINING OUT』だけでない『ONESTORY』のカタチ。

弊社代表・大類知樹を中心に立ち上げた「FOOD CURATION ACADEMY」です。

メディアや『DINING OUT』を通じて我々が思うことは、食の定義への変化です。

おいしいはもちろん、シェフや料理人への共感、地域への敬意、土地が育む風土などが食を選ぶ理由となり、それらを体感できる場は、より社会的な存在になってきたと考えます。

これは、星やランキングでは評価しきれない領域です。

世界は日本の「進化」を追いかけられたとしても、「深化」までは追いかけられないでしょう。

我々が大切にしていることは、後者です。

そのほか、まだここでは発表できないプロジェクトを水面下で進めています。それもまた、イベントでもメディアでもないカタチです。

『ONESTORY』は、既成概念にとらわれることなく、時代と目的に合った表現をより強固にしていきます。カタチのないカタチ、その活動体が『ONESTORY』です。

2021年には、それを可視化できると思いますので、ぜひお楽しみいただければ幸いです。

そして、2020年も多くの読者様、地域の方々にお世話になりました。この場を借りて、深く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

どんなに時代が変わろうとも、『ONESTORY』は、まだ見ぬ日本の感動を探し続けます。

それでは、日本のどこかでお会いしましょう。

『ONESTORY』統括編集長・倉持裕一

「共鳴するパイオニア」 グレンフィディック×アンリアレイジ 森永邦彦

共鳴するパイオニア/グレンフィディック×アンリアレイジ森永邦彦道なき道を創造したパイオニア。グレンフィディックとアンリアレイジ 森永邦彦の邂逅。

1887年。

『グレンフィディック』の蒸溜所は、ウィリアム・グラント氏の手によって設立されました。

以降、一族で数々の苦難を乗り越え、挑戦を続けた結果、1963年にシングルモルトウイスキーを初めて世に売り出し、今では180ヶ国以上で愛されるようになりました。

その当時はブレンデッドウイスキーが主流だったため、「無謀な行為」と嘲笑う人も少なくありませんでしたが、信じれば道は拓ける、そう実証したのが『グレンフィディック』なのです。

今回、その杯に手を伸ばすのは、『アンリアレイジ』ファッションデザイナー・森永邦彦氏。

両者に共通することは、常に「挑戦」し続け、新たな道を「開拓」してきたということにあります。

―共鳴するパイオニアー

その物語は、最高の一杯から始まります。

常に「挑戦」し続け、新たな道を「開拓」してきた『グレンフィディック』と森永邦彦氏。両者の邂逅は、いつしか互いのルーツを振り返る時間を生む。

今回、森永氏が口にするのは、「グレンフィディック 12年 スペシャルリザーブ」。1887年から受け継がれる伝統の香りと味わいを堪能できる。仕込み、発酵に由来するフルーティーさ、バーボン樽とシェリー樽で熟成されたモルトによって、滑らかで繊細なコクを生み出す。洋梨やレモンを彷彿とさせる軽やかさも特長のひとつ。

1963年、業界で初めてシングルモルトを世界へ売り出し、ウイスキーを嗜好する人々に驚きと感動を与えた。 以来50年以上たった今も、世界販売数量No.1※のシングルモルトウイスキーの雄として世界180ヶ国以上で愛され、 圧倒的な存在感を放っている。その香りと味わいが認められ、世界中で数々の栄誉あるアワ ー ドを受賞。※IWSR2019

https://www.glenfiddich.com/jp/

1980年、東京都国立市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。大学在学中に「バンタンデザイン研究所」に通い、服づくりを始める。2003年『アンリアレイジ』として活動を開始。2005年、ニューヨークの新人デザイナーコンテスト「GEN ART 2005」でアバンギャルド大賞を受賞。同年、東京タワー大展望台にて06S/Sコレクションを『Keisuke Kanda』と共に開催。以降、「東京コレクション」に参加。2011年、第29回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞。2014年秋、15S/Sよりパリコレクションデビュー。2015年、DEFI主催の「ANDAM fashion award」のファイナリストに選出。2019年「LVMHヤング ファッション デザイナープライズ」ファイナリストに選出。2020年『FENDI』の2020-2021秋冬メンズミラノコレクションではコラボレーションを発表。2021年ドバイ万博日本館の公式ユニフォームを担当。国内外を通して活躍。
https://www.anrealage.com

Photograph:KENTA YOSHIZAWA, KOH AKAZAWA
Text:YUICHI KURAMOCHI

(supported by サントリースピリッツ株式会社 )
ストップ!20歳未満飲酒・飲酒運転
お問い合わせ先:サントリーお客様センター

やむないフードロスを宝に変える! 壱岐の豊かさを知った若きホテルマンが焼酎蔵にジン造りを依頼する。[IKI’S GIN PROJECT/長崎県壱岐市]

写真右が今回のキーパーソン『壱岐リトリート 海里村上』のホテルマン・貴島健太郎氏。左はもうひとりのキーパーソン『壱岐の蔵酒造』代表・石橋福太郎氏。焼酎貯蔵タンクの上から、眼下に深江田原平野を望む。

壱岐ジンプロジェクトOVERVIEW

壱岐の焼酎メーカーが、クラフトジンを造る。
そんな話が編集部に届いたのは、国内で新型コロナウイルス感染第二波が押し寄せていた2020年8月でした。クラフトジン造りだけならば、今や世界中で一大ムーブメントが起きており、別段珍しい話でもありません。
そんな状況ですから、編集部では「今回のネタは流れる可能性が高いね」と話していました。しかしその後、編集部がわざわざ壱岐を訪れてまでジンを追いたいと思ったのは、ひとりのキーパーソンの熱意にほだされたからかもしれません。その人物とは、約1年半前にホテルへの就職が決まって壱岐を訪れることになった、壱岐とは無縁の20代のホテルマン・貴島健太郎氏。
「壱岐がとても豊かな土地だと感じて、ただ純粋にその素晴らしさを伝えたいと思ったんです。ですが、地元の人には壱岐の豊かさは日常。普通すぎて、僕の言葉にピンときてもらえないんです。この溝こそが、日本中の地方が抱えている問題だと思ったんですよね。そこをなんとかしなければと」と貴島氏は語ります。
ジンについての話を聞きに来たのですが、貴島氏は島の魅力について熱弁。そんな壱岐の豊かさこそが、今回のジン造りの原点。彼の熱意が伝播し島の人々を徐々に動かしていくことになるのです。そんな彼の熱量に動かされた人物が、今回のもうひとりのキーパーソン『壱岐の蔵酒造』代表・石橋福太郎氏です。
「今回のジン造り。2年前ならばたぶん断っていた。ですが、ここ数年のマーケットの変化に危機感を募らせていました。島の人口流出、雇用の減少、高齢化など、目を背けられない島の問題にも直面し、今やらなければいつやるんだと思ったんです」と石橋氏。
かくして若きホテルマンと、壱岐を代表する焼酎蔵の代表がタッグを組んだことで、今回のジン造りは大きく動き出すことに。ご法度・タブーの連続かもしれない焼酎蔵によるジン造り。しかし、常識にとらわれない若者の情熱こそ地域の課題を魅力に変える新たな装置にもなり得るのです。我々『ONESTORY』編集部もまた、地域の抱える問題への光明を見てみたいと、2021年に「Made in 壱岐」のジンができるまでを、追っていこうと考えたのです。

住所:長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触520 MAP
電話:0120-595-373
http://ikinokura.co.jp/

住所:長崎県壱岐市勝本町立石西触119-2 MAP
電話:0920−43−0770
https://www.kairi-iki.com/

Photographs:YUJI KANNO
Text:TAKETOSHI ONISHI

「コロナ禍に海は透き通り、煌めいた。それを持続させるために、改めて海と生きたい」プロサーファー・大野修聖

長きにわたり日本のサーフシーンを牽引してきた大野氏。今回は、サーファーとしてはもちろん、ひとりの人間として広義にわたり海について、水について考える。Photograph:JUNJI KUMANO

大野修聖 インタビュー勝ち負けよりも大切なことがある。表彰台から見る景色よりも大切な景色がある。

出身は静岡県。両親ともにサーファーという環境に育ち、「物心ついた時にはサーフィンをしていた」と言うのは、プロサーファーの大野修聖氏です。

「MAR(マー)」の愛称で親しまれている大野氏は、国内外で活躍するトップアスリート。今や多くの日本人サーファーが世界のコンペティションを賑わすようになっていますが、その礎を築いたのは間違いなく大野氏だと言って良いでしょう。

双子の兄、ノリこと仙雅氏とともに5歳からサーフィンを始め、16歳でプロに転向。2004年、2005年と2年連続で「JPSA(ジャパン・プロ・サーフィン・アソシエーション)」グランドチャンピオンに輝きます。2006年からはオーストラリアを始めとした海外に拠点を移し、「WCT(ワールド・チャンピオンシップ・ツアー)」にクオリファイすべく活動。以降、2009年にポルトガルで開催された「WQS(ワールド・クオリファイ・シリーズ) 6スター」では日本人初となる準優勝を果たすなど、自ら持つ日本人記録を次々塗り替えていきます。そして2013年、日本にカムバックし、8戦中7戦を優勝、残る1戦も準優勝という前人未到の記録で3度目の頂点を極める偉業を成し遂げます。

一方、サーフィン界の近況で言えば、2018年に大きな転機を迎えます。「ISA(国際サーフィン連盟)」は、2020年に開催される予定だった「東京オリンピック」に向け、選手委員会を設立。その目的は、サーフィンを始めとする関連競技において、選手達の意見をより反映していくことにあります。委員長には、これまで「ISA」のショートボード、ロングボード、SUPの3部門でメダル獲得経験のあるフランスのジャスティン・デュポン氏が任命され、日本からは唯一、大野氏が委員会メンバーとして抜擢されたのです。

「波乗りジャパン」という名のもと、日本チームのキャプテンとして、シンボルライダーとして、「東京オリンピック」の招致活動に貢献してきましたが、迎えたのは新型コロナウイルスによる開催延期です。

「誰もが予測しなかったこの世界を人類は受け入れるしかないと思いました。しかし、じっくりと与えられた時間は自分と向き合うことにもなり、それによって様々な気付きを得ることができたようにも思えています」と大野氏は言います。

その気づきは、長年にわたり、海に生きてきたからこそ。

「勝ち負けよりも大切なことがある。表彰台から見る景色よりも大切な景色がある」。

【関連記事】生きるを再び考える/RETHINK OF LIFE 特集・10人の生き方

「ただ波の音を聞くだけで心が穏やかになります。ずっと見ていられます。炎を見る感覚にも似ると思います」と大野氏。

大野修聖 インタビュー海はこんなに美しかったのか。煌めきと透明度にみなぎる力を見た。

今回、大野氏に話を伺った場所は、自身が住まう鎌倉。

「コロナ禍でサーフィンをしなかった時期もありますが、海には足を運んでいました。海は生まれてからずっと見てきましたが、ここ数ヶ月は本当にキラキラして。まるで海が喜んでいるように見えました。自粛や緊急事態宣言などによって世界は停止を余儀なくされ、サーファーや観光客は激減しました。それによって海岸のゴミなどが減ったのは実感としてあります。海は本来の姿を取り戻すきっかけになったのかもしれません」。

実は鎌倉の海に限らず、世界各地でコロナ禍によって「水」に関する好影響は多く見られています。

「例えば、イタリア。“水の都”として知られる世界遺産・ベネチアでは濁った運河が透き通り、水の底が見えるようになったというニュースを目にしました。大型クルーズ船や水上バスなどの増加による水質汚濁が社会問題として課題とされていましたが、人の活動停止によって水質は改善され、鵜が小魚を追い、白鳥が悠々と泳ぐ様も目撃されているそうです。そのほか、タイやアメリカなどではウミガメの繁殖が増えている報告もされたそうです。プーケットではウミガメの巣は10カ所以上も確認され、過去20年で見ても最多の数だとありました。フロリダの保護団体は、人工照明の減少によって生まれたばかりのウミガメの子が方向を見失うことが少なくなったと伝えています。観光客で賑わうハワイのワイキキでも海が綺麗になったと言われ、固有種の絶滅危惧種に指定されているハワイアンモンクシール(アザラシ)の数が例年より増加しているとニュースも報じられていました」。

これらは地球規模で見ればごく一部の情報ではありますが、少なくとも大きな事実がふたつあると考えます。

ひとつは、環境は改善できるという事実。そしてもうひとつは、残念ながら人の意志でそれが成されなかったという事実。

海の面積は、約3億6000万㎢と言われ、地球全体(約5億1000万㎢)の約71%を占めています(一般社団法人 日本船主協会HP参照)。つまり、海を綺麗にするということは地球を綺麗にするとうことにもつながります。さらには、魚つき保安林(魚つき林)という言葉があるよう、漁業者の間では海岸近くの森林が魚を寄せるという伝承があるという通り、海と山は一心同体。海と向き合うには山とも向き合い、山と向き合うには海とも向き合うことにもなるのです。

「生命体という視点で見れば、まだまだ地球上には未知の生物は多いと言われているそうですが、生物の重さで表した時、その90%は海洋生物だと言われているほど、種類、量ともに海は生命の宝庫(日本海事広報協会HP参照)。しかし、そんな海は外来によってその環境を脅かされていると思います。例えば、海の生命体がほぼ陸に上がることはないのに対し、陸の生命体が海に入ることは多分にあります。温暖化や海面温度の上昇なども陸が起こした海の問題だと思います。宇宙レベルで言えばおこがましい話かもしれませんが、少なくともその責任は人間にあると考えますが、地球上に生きる生命の総数で見ると人間は約0.01%という一説を見ました(WORLD ECONOMIC FORUM HP参照)。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだと思いますが、新型コロナウイルスはこの数値の生命体が発生した件だということは向き合うべきだと感じています」。

生物史上、人間は最も進化を遂げた種だと言っていいでしょう。しかし、それによって失ってしまったことや理に反したことがあったのかもしれません。

「人間の知能は紛れもなく素晴らしく、それによって得た恩恵もあります。その反面、環境において致命傷を負わせてしまったと考えずにはいられません。今から何が我々人間にできるのかはわかりません。なぜなら、その性格はすぐには変われないと思うからです。だからと言って何もしないわけにはいきません。きっと、それぞれができることは目の前に必ず何かあるはずです。ひとり一人ができる小さなことが何か実を結び、世界を変えるのだと信じています」。

取材は、鎌倉の海辺を舞台にゆっくりと時間をかけながら、夕刻まで。「もともとサーフィンの起源は、(ボードを使わない)ボディサーフィン。体だけで滑るそれは、非常に原始的でもあります。新型コロナウイルスによって当たり前は奪われる今だからこそ、人生もサーフィンも原点に還りたいと思う時があります」と大野氏。

大野修聖 インタビュー
台風の波によって気づかされる海の悲鳴。地球の悲鳴。

去る2018年、その年を表す漢字は「災」でした。それだけ多くの災害に見舞われ、地震や集中豪雨、台風、記録的な暑さ……。しかし、その「災」は日本だけではありませんでした。

ヨーロッパの異常な猛暑、インドネシアでは津波と地震、アメリカ本土では過去50年で最も勢いの強いハリケーン、カリフォルニアやカナダでは山火事、インドでは洪水、オーストラリアやドイツでは干ばつ……。

世界の海水温も観測史上最高を記録。驚くべきは、過去100年を振り返って見ても右肩上がりであり、日本の海域平均海面水温の上昇率は100年あたり+約1.14℃、世界全体で比べると約+0.55℃高く、深刻な問題です。それによって発生するのが大雨や台風です。近年の台風に関して言えば、2018年、2019年ともに発生個数は29回のうち、上陸回数は5回。2020年の発生回数は22回のうち、上陸回数はゼロ(2020年11月現在/国土交通省 気象庁HP参照)。このまま上陸しなければ、2008年以来、実に12年ぶりではあるも、接近するだけで暴風が吹き荒れ、土砂崩れや河川の氾濫など、その威力は凄まじいです。

「台風と言えば、サーファー視点だと波にばかり目がいってしまいますが、本来、問題視しなければいけない様々なことがあると痛感しています」。

若きより海外遠征も多かった大野氏は、「日本のサーファーと海外のサーファーを比べた時の意識の違いを感じます」と言葉を続けます。

「小さなことでもそれぞれができることを行動に移しています。マイボトルやマイバッグを持参したり、プラスチックをできるだけ使わない生活を取り入れたり。中には、海洋ゴミを使ったアートを製作し、メッセージとして表現したり。サーファーである前に海に生きる人としての意識が高いと思います」。

中でもその好例は、過去に11度も「ASP(Association of Surfing Professionals)ワールド・チャンピオンシップ・ツアー」のチャンピオンに輝いたプロサーファー、ケリー・スレーター氏の活動にあります。

「ケリー・スレーターは、サスティナビリティをコンセプトに掲げた『Outerknown(アウターノウン)』というブランドを立ち上げています。従来のアパレル業界のあり方を変えたいという思想のもと、環境に有害でない素材を使い、公正な労働環境で生産しています」。

「Outerknown」は、ブランドローンチ前からFLA(公正労働協会)に加入し、2年半で生産工程の完全認定を受けています。そして、ローンチ前の加入や2年半で完全認定されたのは、アパレルブランドとしては初。

「海のゴミを拾うことは大切なことですが、マイクロプラスティックのように拾いきれないゴミもあります。結果、それを魚が食べてしまい、場合によってはその魚を人が食べてしまうかもしれません。自分たちはゴミを拾う前にゴミを減らしていくことや日常で使うものの質を変えていくことが重要なのではないでしょうか」。

地球上に生きる生物でゴミを出すのは人間特有の行為かもしれません。もし、ほかの生物も人間同様にゴミを出していたら……。「想像を絶する感覚に襲われます」。

「そして、環境問題でもうひとつ真摯に考えたいこと。それは、世界中でビーチが減少しているということです」。

「海は生き方も思考もシンプルにさせてくれます。心身が不安定な時でも、僕にとっては病院に行くより海や山に訪れることがメディケーション」と大野氏。

大野修聖 インタビュー
温暖化の影響によって砂浜は激減。世界のビーチが失われつつある。

「昔の人に聞くと、ビーチはもっと沖まであったのだと言います」。

温暖化により南極棚氷の崩壊も加速、その気候変動と海面上昇により、このまま進行し続ければ世界の砂浜の半数が2100年までに消滅するかもしれないという研究論文さえ発表されています。

「水が温かくなると膨張するため、海水温度の上昇によって海全体の体積が増えていると思います。極地の氷も溶けるとなれば、より拍車はかかるのではないでしょうか。ビーチもしかり、海抜の低い島は危機的状況に陥っています。伝説の古代大陸、アトランティスではありませんが、海中に没するということになりかねません」。

数億年前に遡れば、過去に5~6回、地球上に誕生した生物は大量絶滅を経験していると言われています。しかし、その原因は火山の噴火や隕石の衝突などと言われており、避けては通れなかった災害と言っていいでしょう。しかし、今回発生した新型コロナウイルスにおける難局は人災から生まれたものだと思います。地球温暖化もしかり、人間が地球に負荷を与えていることに関して、どう改善していくべきなのか。

「コロナ禍においても海は淡々と生き続けている。波は、寄せては返し、返してはまた寄せて。自分はずっと前からサーフィンしかやってこなかったのですが、サーフィンによって色々な景色を見ることができました。旅はもちろん、人との出会いもしかり、大自然から生き方を学んだと思います。30年以上サーフィンをやっていてもベストなライディングは一度もありません。どんなに練習し、技術を高めても、自然を舞台にすることの難しさは常にあります。海の呼吸に合わせようと思っても、そう易々と味方にはなってくれません。海自体が自分の呼吸であり、全てを映し出してくれていると思っています。心が乱れれば波も乱れる。精神を整え、海、大自然と一体になることが大切なのだと思います。なぜなら、自分はこの星に生かされているから。人がこんなに窮地に追い込まれていても自然はウイルスにはかからない。強くたくましく生き続けています」。

大野氏が話す海との向き合い方は、サーファーに限ったことではないのかもしれません。幸福をもたらす海もあれば、不幸をもたらすのも海。

「海があるからサーフィンはできますが、海があるから津波も起こる」。

優しく人々を歓迎する姿もあれば、街や人を飲み込む姿も併せ持ちますが、全ては人間の問題。前述の通り、「海と一体になることが大切」なのだと思います。

アスリートの精神であるスポーツマンシップに則った生き方こそ、今の時代に求められているのかもしれません。

「Good gameをめざして全力を尽くして愉しむことがスポーツの本質です」。
「Good gameを実現する覚悟をもった人をスポーツマンと呼びます」。
「Good gameを実現しようとする心構えがスポーツマンシップです」。
(一般社団法人 日本スポーツマンシップ協会より抜粋)

この「Good game」を「Good earth」に置き換えてみれば、より理解できます。

「Good earthをめざして全力を尽くす」。
「Good earthを実現する覚悟をもつ」。
「Good earthを実現しようとする心構え」。

スポーツマンシップの精神は、多くの問題を解決する糸口かもしれません。

「これまで海を始めとした大自然から、多くのものをいただき、学びを得てきました。自分は今、ひとりのサーファーとして、ひとりの人間として、地球環境との関わり方をしっかり考え、行動したいと思っています。世界を変えるなど、そんな大それたことはあまりにもおこがましくて言えません。しかし、考え続けることが、少しずつより良い社会になると信じています」。

※文中には諸説あるうちの一説や時期によって数値などが異なる場合がございます。あらかじめご了承ください。


Photographs&Text:YUICHI KURAMOCHI

「色々なビーチや海沿いにあるお店でお水をくめるようなウォーターステーションがあったらと思っています。それがプラスティックやゴミを少しでも減らすことにつながるシステムになればと考えています」と大野氏。

1981年生まれ、静岡県出身。日本のサーフシーンを牽引し続けるトップサーファー。若くして海外プロツアー「WSL(ワールドサーフリーグ)」の「QS(クオリファイシリーズ)」を転戦し、世界大会において日本人史上初となる様々な偉業を成し遂げる。2013年、国内でも精力的に活動し、日本プロサーフィン史上初、国内外ツアー含め8戦中7戦連勝し、前代未聞の記録を樹立。そのほか、国内プロツアー「JPSA(ジャパン・プロ・サーフィン・アソシエーション)」グランドチャンピオンにも3度も輝く。近年は、2018年 に開催された「ISA WORLD SURFING EVENT」のキャプテンを務め、サーフィン日本代表 「波乗りジャパン」を日本初の金メダルへと導いた。プロサーファーをする傍ら、イベントのプロデュース、音楽活動、コラムニストなど、他分野でも活動の場を広げている。現在は、2021年に開催延期予定の「東京オリンピック」に向け、引き続き「波乗りジャパン」のキャプテンとして活動中。

若き料理人が情熱を注いだ「ル・テタンジェ賞」2020日本大会、最終審査結果発表[厨BO!YOKOHAMA/神奈川県横浜市]

10月28日に行われた国際シグネチャーキュイジーヌコンクール「ル・テタンジェ賞」の日本大会最終審査を終えて。

テタンジェ料理コンクール 54年の歴史の中で、生まれ変わった「ル・テタンジェ賞」。

秋晴れの10月28日、正午過ぎに始まったのは、国際シグネチャーキュイジーヌコンクール「ル・テタンジェ賞」の日本大会。1967年に世界的なシャンパーニュ・メゾン「テタンジェ」のクロード・テタンジェが創設したこの賞は、若き料理人を顕彰し、フランスの美食文化を発展・継承していくことを主目的に設立され、ジョエル・ロブション氏、ミッシェル・ロスタン氏、ベルナール・ルプランス氏といった数多のスターシェフを輩出してきました。今年は世界中で猛威を振るった新型コロナウイルスにより世界中で社会的混乱が起き、一時は開催を危ぶむ声もありました。しかし、参加・受付の方法を見直し、例年のような授賞パーティーは取りやめるなど時世を踏まえた体制に改め、開催の運びとなったのです。

書類選考は10月7日に行われ、厳正なる審査によって3名のファイナリストが日本大会の最終審査にコマを進めました。横浜市中区にある東京ガス業務用テストキッチン「厨BO!YOKOHAMA」で行われた最終審査にて審査員を務めたのは、都下のフレンチ店で腕を振るう一流シェフや舌に覚えのある識者の計8名。

大会は、1984年にパリで開催された「ル・タンジェ国際料理賞コンクール・アンテルナショナル」にて日本人として初めてグラン・プリを獲得した『マンジュトゥー』の堀田大氏の挨拶から始まりました。今回、感染予防の観点から日本大会としては初めて、ファイナリストが下準備を整え、日本大会事務局が依頼した3名の料理人が仕上げの調理を担当。審査員は手元のルセットや調理風景をにらみつつ、各テーブルに配られた料理を試食審査しました。

【関連記事】テタンジェ/食べるシャンパン。それは、ひとりでは完結しないシャンパーニュ。

『リヨンドゥリヨン』オーナーのクリストフ・ポコ氏や『レストラン ラフィナージュ』オーナーの高良康之氏らに、毎日新聞社営業総本部補佐の山本修司氏や『料理通信』編集長の曽根清子氏らマスコミ人が加わり、計8名で試食審査を行った。

料理の仕上げは、ホテルオークラ東京『ヌーヴェル・エポック』料理長・髙橋哲治郎氏、同ホテル宴会調理副料理長・池田進一氏、『シェ・フルール横濱』総料理長・飯笹光男氏の3名が担当。

完成した皿の盛り付けをじっくり観察する『ジョエル・ロブション』総料理長のミカエル・ミカエリディス氏も審査員のひとり。

すみずみまで感染対策が施されたテストキッチンで、既定の時間内に調理を行う。若きシェフの今後がかかっているため、3名の代理料理人の目は真剣そのもの。

完成品をチェックした後、ディスタンスをとった場所で試食審査に移る。味はもちろん、見た目や全体の調和も重要な審査要素だ。

調理手順をチェックする審査員。パリ本選ではテーマと課題の2つのルセットを4時間以内に調理しなければならない。国内選考ではテーマに沿ったルセットを3時間以内で調理。

テタンジェ料理コンクール 思いのこもった皿が登場した試食審査。

今年のテーマは「牛肉(任意の部位/温製料理)」。合わせる食材に何を使うかは自由ですが、金額や調理時間に規定が設けられています。最初にお目見えしたのは、『東京會舘』神戸宏文シェフの「牛フィレ肉のウェリントン風 3本の人参」。東京オリンピックが開催された1964年にレイモン・オリヴェールが日本に伝えたウェリントンは、古き良きフランス料理。重たい古典料理というイメージを払拭すべく、全体的に軽い酸味を利かせ、スタイリッシュなウェリントンを目指して創作されたひと皿です。

次は『ひらまつ』石井友之シェフの「牛肉のアンクルート」。あえて和牛ではなく国産経産牛を使用したのは、独自の熟成方法によって使いづらい食材に付加価値をつけ、美味しくすることこそ料理人のあるべき姿なのでは?との思いから。また、海苔や柚子味噌を使用し、日本とフランスの食材の調和が取れるよう考えられています。

最後は、春菊や椎茸、紫蘇を使い、フランス料理に日本のエッセンスを取り入れた「パレスホテル」堀内亮シェフの「牛フィレのブリオッシュ」。センス溢れるルセット創作の経緯に、「フランスでの本選は冬の開催なので、その時、旬を迎える菊芋、トリュフ、ジャガイモなどを食材として選びました」とあり、世界大会を視野に入れた食材選びが印象に残りました。

3名のファイナリストが会場入りし、自ら考案した料理を前に結果発表を待った。参加資格は職歴5年以上、一般客が利用するレストランで働いている24~40歳までのプロの料理人。

審査はルセットの独創性30点、ルセットに使われる技能30点、ルセットのコンセプトと一貫性20点、盛り付けとプレゼンテーション20点とし、その合計点を算出する。

優勝した堀内シェフ(右から2番目)と審査委員長の堀田氏、審査員のクリストフ・ポコ氏、サッポロビール事業部部長の三上氏で記念撮影。

カップとディプロムを手にした堀内氏。1984年の堀田氏、2018年の『ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション』の関谷健一朗氏に続き、日本人で史上3人目の国際大会優勝に期待がかかる。

ディプロムと「テタンジェ ブリュット レゼルヴ ジェロボアム」を手にした2位の神戸シェフ。

3位の石井シェフ。コンクール参加がよい刺激となり、日本の料理界の活性化と料理芸術の発展に寄与することだろう。

ル・テタンジェ国際料理賞コンクール委員会主催で行われた日本大会も無事、閉幕。協力はシャンパーニュ・テタンジェ社およびサッポロビール株式会社。日本事務局はフランス文化を識る会。

日本大会を終えて、今大会への想いやコロナ禍によって厳しい状況下にあったガストロノミーと若いシェフを思いやった堀田氏。

テタンジェ料理コンクール 結果発表。パリ行きの切符を手にしたのは……。

ファイナリスト3名分の試食審査が終わり、採点に入りました。審査項目は、テクニック、デギスタシオン、ハーモニー、プレゼンテーションの4つで、各料理の最高点と最低点から平均点を算出し、その得点で順位を競います。審査員一同、己の感覚に全集中し、会場内には紙の上を鉛筆が走るサラサラという静かな音だけが響きました。どの料理も甲乙つけがたく、評価はバラけているようです。集計を出す間にファイナリストの3名が会場入りし、いよいよ結果発表となりました。

見事、最高得点を獲得し、来年1月に行われる「コンクール・アンテルナショナル」への出場権を得たのは堀内シェフ。サッポロビール事業部事業部長の三上氏より、第1位のカップとディプロム、「テタンジェ ブリュット レゼルヴ マチュザレム」、ファイナル準備金として2400€の小切手が贈られました。「自分では仕上げられなかった決勝戦でしたが、無事に勝つことが出来てよかったと思います。ここからが世界選に向けてのスタートだと思いますので、皆さま応援よろしくお願いいたします」と堀内シェフ。コンクールに出場すること自体が初めてだったそうで、最初から本選を意識していたのは「6年間フランスで修業をしてきましたが、日本のレベルは世界的にみても高水準なので、日本での優勝を目指すことイコール世界を目指すことと同義だ」と考えていたとのこと。この後、2位の神戸シェフ、3位の石井シェフにもそれぞれの順位のカップとディプロム、「テタンジェ ブリュット レゼルヴ ジェロボアム」が贈られました。

大会を終えた堀田氏に話を伺ったところ、「堀内シェフのソースが素晴らしく、メインも軽やかで、結果的に思ったとおりの順位になりました。今回、より審査の公平性を期すために点数制にして全審査員の前でひとりひとりの点数を発表する方式を取りましたが、皆さん自身の感性を信じて審査を行い、評価がバラけたのがよかったと思います。石井シェフと神戸シェフは惜しくも優勝を逃しましたが、この点数を励みに次回も頑張ってもらえたら」とのベストを尽くした3人にエールを送りました。

若きシェフの情熱と才能、フランスと日本の食材と調理法が美しく結実した料理を目の当たりにした日本大会。そこには、文化の壁を軽やかに越えていける今日の世界に必要な力が宿っていると感じました。彼らが創り出す料理は、今後もガストロノミーを通じて人々の心を動かし、新しい文化の礎となっていくことでしょう。


Photographs:JIRO OHTANI
Text:MAO YAMAWAKI

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/

(supported by TAITTINGER)

若き料理人が情熱を注いだ「ル・テタンジェ賞」2020日本大会、最終審査結果発表[厨BO!YOKOHAMA/神奈川県横浜市]

10月28日に行われた国際シグネチャーキュイジーヌコンクール「ル・テタンジェ賞」の日本大会最終審査を終えて。

テタンジェ料理コンクール 54年の歴史の中で、生まれ変わった「ル・テタンジェ賞」。

秋晴れの10月28日、正午過ぎに始まったのは、国際シグネチャーキュイジーヌコンクール「ル・テタンジェ賞」の日本大会。1967年に世界的なシャンパーニュ・メゾン「テタンジェ」のクロード・テタンジェが創設したこの賞は、若き料理人を顕彰し、フランスの美食文化を発展・継承していくことを主目的に設立され、ジョエル・ロブション氏、ミッシェル・ロスタン氏、ベルナール・ルプランス氏といった数多のスターシェフを輩出してきました。今年は世界中で猛威を振るった新型コロナウイルスにより世界中で社会的混乱が起き、一時は開催を危ぶむ声もありました。しかし、参加・受付の方法を見直し、例年のような授賞パーティーは取りやめるなど時世を踏まえた体制に改め、開催の運びとなったのです。

書類選考は10月7日に行われ、厳正なる審査によって3名のファイナリストが日本大会の最終審査にコマを進めました。横浜市中区にある東京ガス業務用テストキッチン「厨BO!YOKOHAMA」で行われた最終審査にて審査員を務めたのは、都下のフレンチ店で腕を振るう一流シェフや舌に覚えのある識者の計8名。

大会は、1984年にパリで開催された「ル・タンジェ国際料理賞コンクール・アンテルナショナル」にて日本人として初めてグラン・プリを獲得した『マンジュトゥー』の堀田大氏の挨拶から始まりました。今回、感染予防の観点から日本大会としては初めて、ファイナリストが下準備を整え、日本大会事務局が依頼した3名の料理人が仕上げの調理を担当。審査員は手元のルセットや調理風景をにらみつつ、各テーブルに配られた料理を試食審査しました。

【関連記事】テタンジェ/食べるシャンパン。それは、ひとりでは完結しないシャンパーニュ。

『リヨンドゥリヨン』オーナーのクリストフ・ポコ氏や『レストラン ラフィナージュ』オーナーの高良康之氏らに、毎日新聞社営業総本部補佐の山本修司氏や『料理通信』編集長の曽根清子氏らマスコミ人が加わり、計8名で試食審査を行った。

料理の仕上げは、ホテルオークラ東京『ヌーヴェル・エポック』料理長・髙橋哲治郎氏、同ホテル宴会調理副料理長・池田進一氏、『シェ・フルール横濱』総料理長・飯笹光男氏の3名が担当。

完成した皿の盛り付けをじっくり観察する『ジョエル・ロブション』総料理長のミカエル・ミカエリディス氏も審査員のひとり。

すみずみまで感染対策が施されたテストキッチンで、既定の時間内に調理を行う。若きシェフの今後がかかっているため、3名の代理料理人の目は真剣そのもの。

完成品をチェックした後、ディスタンスをとった場所で試食審査に移る。味はもちろん、見た目や全体の調和も重要な審査要素だ。

調理手順をチェックする審査員。パリ本選ではテーマと課題の2つのルセットを4時間以内に調理しなければならない。国内選考ではテーマに沿ったルセットを3時間以内で調理。

テタンジェ料理コンクール 思いのこもった皿が登場した試食審査。

今年のテーマは「牛肉(任意の部位/温製料理)」。合わせる食材に何を使うかは自由ですが、金額や調理時間に規定が設けられています。最初にお目見えしたのは、『東京會舘』神戸宏文シェフの「牛フィレ肉のウェリントン風 3本の人参」。東京オリンピックが開催された1964年にレイモン・オリヴェールが日本に伝えたウェリントンは、古き良きフランス料理。重たい古典料理というイメージを払拭すべく、全体的に軽い酸味を利かせ、スタイリッシュなウェリントンを目指して創作されたひと皿です。

次は『ひらまつ』石井友之シェフの「牛肉のアンクルート」。あえて和牛ではなく国産経産牛を使用したのは、独自の熟成方法によって使いづらい食材に付加価値をつけ、美味しくすることこそ料理人のあるべき姿なのでは?との思いから。また、海苔や柚子味噌を使用し、日本とフランスの食材の調和が取れるよう考えられています。

最後は、春菊や椎茸、紫蘇を使い、フランス料理に日本のエッセンスを取り入れた「パレスホテル」堀内亮シェフの「牛フィレのブリオッシュ」。センス溢れるルセット創作の経緯に、「フランスでの本選は冬の開催なので、その時、旬を迎える菊芋、トリュフ、ジャガイモなどを食材として選びました」とあり、世界大会を視野に入れた食材選びが印象に残りました。

3名のファイナリストが会場入りし、自ら考案した料理を前に結果発表を待った。参加資格は職歴5年以上、一般客が利用するレストランで働いている24~40歳までのプロの料理人。

審査はルセットの独創性30点、ルセットに使われる技能30点、ルセットのコンセプトと一貫性20点、盛り付けとプレゼンテーション20点とし、その合計点を算出する。

優勝した堀内シェフ(右から2番目)と審査委員長の堀田氏、審査員のクリストフ・ポコ氏、サッポロビール事業部部長の三上氏で記念撮影。

カップとディプロムを手にした堀内氏。1984年の堀田氏、2018年の『ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション』の関谷健一朗氏に続き、日本人で史上3人目の国際大会優勝に期待がかかる。

ディプロムと「テタンジェ ブリュット レゼルヴ ジェロボアム」を手にした2位の神戸シェフ。

3位の石井シェフ。コンクール参加がよい刺激となり、日本の料理界の活性化と料理芸術の発展に寄与することだろう。

ル・テタンジェ国際料理賞コンクール委員会主催で行われた日本大会も無事、閉幕。協力はシャンパーニュ・テタンジェ社およびサッポロビール株式会社。日本事務局はフランス文化を識る会。

日本大会を終えて、今大会への想いやコロナ禍によって厳しい状況下にあったガストロノミーと若いシェフを思いやった堀田氏。

テタンジェ料理コンクール 結果発表。パリ行きの切符を手にしたのは……。

ファイナリスト3名分の試食審査が終わり、採点に入りました。審査項目は、テクニック、デギスタシオン、ハーモニー、プレゼンテーションの4つで、各料理の最高点と最低点から平均点を算出し、その得点で順位を競います。審査員一同、己の感覚に全集中し、会場内には紙の上を鉛筆が走るサラサラという静かな音だけが響きました。どの料理も甲乙つけがたく、評価はバラけているようです。集計を出す間にファイナリストの3名が会場入りし、いよいよ結果発表となりました。

見事、最高得点を獲得し、来年1月に行われる「コンクール・アンテルナショナル」への出場権を得たのは堀内シェフ。サッポロビール事業部事業部長の三上氏より、第1位のカップとディプロム、「テタンジェ ブリュット レゼルヴ マチュザレム」、ファイナル準備金として2400€の小切手が贈られました。「自分では仕上げられなかった決勝戦でしたが、無事に勝つことが出来てよかったと思います。ここからが世界選に向けてのスタートだと思いますので、皆さま応援よろしくお願いいたします」と堀内シェフ。コンクールに出場すること自体が初めてだったそうで、最初から本選を意識していたのは「6年間フランスで修業をしてきましたが、日本のレベルは世界的にみても高水準なので、日本での優勝を目指すことイコール世界を目指すことと同義だ」と考えていたとのこと。この後、2位の神戸シェフ、3位の石井シェフにもそれぞれの順位のカップとディプロム、「テタンジェ ブリュット レゼルヴ ジェロボアム」が贈られました。

大会を終えた堀田氏に話を伺ったところ、「堀内シェフのソースが素晴らしく、メインも軽やかで、結果的に思ったとおりの順位になりました。今回、より審査の公平性を期すために点数制にして全審査員の前でひとりひとりの点数を発表する方式を取りましたが、皆さん自身の感性を信じて審査を行い、評価がバラけたのがよかったと思います。石井シェフと神戸シェフは惜しくも優勝を逃しましたが、この点数を励みに次回も頑張ってもらえたら」とのベストを尽くした3人にエールを送りました。

若きシェフの情熱と才能、フランスと日本の食材と調理法が美しく結実した料理を目の当たりにした日本大会。そこには、文化の壁を軽やかに越えていける今日の世界に必要な力が宿っていると感じました。彼らが創り出す料理は、今後もガストロノミーを通じて人々の心を動かし、新しい文化の礎となっていくことでしょう。


Photographs:JIRO OHTANI
Text:MAO YAMAWAKI

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/

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12月26日、27日限定!パリの『MAISON』渥美創太シェフが銀座のフードトラックに登場![GEN GEN AN幻/東京都中央区]

パリのレストラン『MAISON』の渥美創太シェフ(左)と『GEN GEN AN 幻 in 銀座』を主宰する丸若裕俊氏(右)。2016年に開催された『DINING OUT ARITA & with LEXUS』以降、2回目となるコラボレーションは、2日間限定のフードトラック!

GEN GEN AN幻銀座からパリへ。料理を通して旅をする。

2020年12月、『銀座ソニーパーク』に10ヶ月限定でオープンした『GEN GEN AN 幻 in 銀座』。

「こんな時代だからこそ何かに挑戦したかった。自分も含め、実験的な場にしていきたい」と話すのは、主宰する丸若裕俊氏です。

その第一回となる実験、それがゲリラ的に登場するフードトラック『Taki-Dashi』。

腕を振るうのは、パリで活躍する『MAISON』の渥美創太シェフです。

2020年、『MAISON』は、フランスの「GUIDES LEBEY」にて肉料理部門・最優秀シェフベストレストランのダブル受賞を果たし、国内外で話題を呼んでいます。

「丸若さんとは10年以上前からのお付き合いなのですが、何か一緒にやりたいねってずっと話していて。ふたりの最初の仕事は、2016年に開催された『DINING OUT ARITA & with LEXUS』でした。今回の仕事は、2回目です」と渥美シェフ。

今回、『GEN GEN AN 幻 in 銀座』では、『MAISON』が新たに発足した『TOMETTE』名義にて参画し、主にアイスクリームやソルベなどのデザートや菓子などを開発します。

『MAISON』はレストランに対し、『TOMETTE』はプロジェクト。

「『MAISON』は、理屈抜きにお客様がおいしいと感じてもらいたい場所」と渥美シェフが言うも、その背景には溢れんばかりの想いが詰まっています。食材へのこだわり、生産者や農家とのつながりなどはその好例であり、「見える」キッチン以外にも、「見えない」多くの人、もの、ことが親和しているチームこそ『MAISON』なのです。

対する『TOMETTE』は、そんな見えない様々を可視化するプロジェクト。

伝えたい、共有したい、派生したい。

「おいしいを知る」とは、奥様の明子さんの言葉。『TOMETTE』のディレクターも担います。「日本でもフランスでも生産者さんや農家さんたちと一緒に『TOMETTE』を発信していければと思っています。まずは日本からスタートしたかったので、『GEN GEN AN 幻 in 銀座』が第一歩になります」と続けます。

前出の通り、店舗では、アイスクリームやソルベなどのデザートがメインですが、「Colony」と題したピタパンも用意。これは、新型コロナウイルスによってパリがロックダウンした際、渥美シェフが医療従事者やホームレスの方々へ食事提供を行うボランティアに参加した時に作った料理です。

パリには、ホームレスに無償で食事を提供しているレストランがあります。その発起人たちがスーパーの賞味期限が迫る食材を集める場所を郊外に作って、そこから仕入れるもので食事を作っていました。レストランと大きく違うところは、日々どんな食材が来るのかわからないことと食べ手が明確だということ。医療従事者は、エネルギーや神経を使うので、味を濃いめにしたり、どうすれば少しでも元気になってくれるのかを考えました。そこで作った料理のひとつがピタパンでした」。

与えられた食材で何が作れるか。今の環境に合ったもので何ができるか。どうすればおいしくなるか。毎日がライブなそれは、レストランとは違った思考であり、「シェフ・渥美創太」というよりも、「人間・渥美創太」という人格が現れた料理だったのかもしれません。

「今回、『GEN GEN AN 幻 in 銀座』で提供しているピタパンのパンは、『ブリコラージュ』さんにお願いしています。レシピを渡して作ってもらったのですが、ピタパンであればこっちの方がおいしくなるのでは?と、アレンジしたものも提案してくださり。小麦粉だったレシピから全粒粉に変えたのはそれなのですが、こっちの方が断然良かったです。実は、その考え方はパリでも同じで、発注が入ったものをそのまま提供するのではなく、より精度を上げられるためにはどうしたら良いかを各々が常に考えています。このピタパンもまた、みんなの想いが詰まった料理です」。

そして2020年末、様々な体験を経て臨む次なる舞台がフードトラック。

この日のために、渥美シェフは『MAISON』からパンやチーズ、エディブルフラワーなどのピクルス、鹿タンなどを持参。供される料理は、下記を予定しています。

「オープンサンド/栗粉の自家製薪窯パン 24ヶ月熟成コンテチーズ 春に漬けた花の酢漬け」(トリュフバージョンもあり)
「古代麦のリゾット/うなぎの出汁と茶」
「鹿タンと牡蠣のチレアンチョ煮込み」
「オニオンスープ ブルーチーズのせ」(トリュフバージョンもあり)
「ゴーフル」
(2020年12月25日現在も鋭意制作中のため、料理写真のご用意はありませんが、当日のお楽しみに!)

予定は未定の2日限りのステージ。しかし、唯一わかることがあります。

そこにはレストラン顔負けの本気の料理が待っています。

フードトラックだからといって侮るなかれ。どんなライブになるかは乞うご期待。

是非、銀座でパリを堪能いただきたい。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

フードトラックでお腹を満たした後は、『TOMETTE』のアイスクリームやソルベが用意される地下の店舗へ是非。「Earth/玉緑茶」のアイスクリームは、茶葉の複雑かつ豊かな余韻が染み入るように広がる。球面はまるで惑星!

「本日の肉とハーブのピタパン&茶」。 この日のお肉はホロホロ鶏。是非、料理が生まれた背景も知り、おいしいを感じていただきたい。

ピタパンの具材もひとつ一つ丁寧に仕上げる。口に運ぶ度、おいしいだけでなく旅の情景が浮かぶのは、渥美シェフの想いが料理に宿るからなのか。

肉の食感、ハーブの香り、アクセントに効かせたスペインのビネガー・ペドロヒメネスの味わいをブリコラージュのパンがまとめ上げる。全粒粉ならではの食感と香りも見事に同調する。

フランスの「GUIDES LEBEY」にて肉料理部門・最優秀シェフとベストレストランをダブル受賞したパリのレストラン『MAISON』渥美シェフの料理をいただける貴重な2日間! 自由に旅ができない今だからこそ、この機会をお楽しみいただきたい。

住所:東京都中央区銀座5-3-1 Ginza Sony Park地上フロア MAP
期間:12月26日(土)・12月27日(日)
営業時間:11:00〜19:00 ※無くなり次第終了

住所:東京都中央区銀座5-3-1 Ginza Sony Park B1F MAP
https://www.ginzasonypark.jp/shop/06_2.html
https://en-tea.com/pages/gengenan

1986年千葉県生まれ。19歳で渡仏し「メゾン・トロワグロ」、「ステラ・マリス」、「ラボラトワール・ドゥ・ジョエル・ロブション」などを経て、26歳で「ヴィヴァン・ターブル」シェフに就任。2014年、100年以上続く「クラウン・バー」のリニューアルに伴いオープニング・シェフを勤め、2015年、フランスで最も人気のあるレストランガイド「ル・フーディング」の最優秀ビストロ賞を受賞。2019年、自身初となるオーナー・シェフを務めるレストラン「MAISON」を開業。2020年、フランスの「ガイド ルベイ」にて肉料理部門・最優秀シェフとベストレストランのダブル受賞。また、「ONESTORY」が主催するレストランイベント「DINING OUT」には、過去2回(「DINING OUT ONOMICHI」、「DINING OUT ARITA」)参加。
http://sotaatsumi.wixsite.com/mysite-1

12月26日、27日限定!パリの『MAISON』渥美創太シェフが銀座のフードトラックに登場![GEN GEN AN幻/東京都中央区]

パリのレストラン『MAISON』の渥美創太シェフ(左)と『GEN GEN AN 幻 in 銀座』を主宰する丸若裕俊氏(右)。2016年に開催された『DINING OUT ARITA & with LEXUS』以降、2回目となるコラボレーションは、2日間限定のフードトラック!

GEN GEN AN幻銀座からパリへ。料理を通して旅をする。

2020年12月、『銀座ソニーパーク』に10ヶ月限定でオープンした『GEN GEN AN 幻 in 銀座』。

「こんな時代だからこそ何かに挑戦したかった。自分も含め、実験的な場にしていきたい」と話すのは、主宰する丸若裕俊氏です。

その第一回となる実験、それがゲリラ的に登場するフードトラック『Taki-Dashi』。

腕を振るうのは、パリで活躍する『MAISON』の渥美創太シェフです。

2020年、『MAISON』は、フランスの「GUIDES LEBEY」にて肉料理部門・最優秀シェフベストレストランのダブル受賞を果たし、国内外で話題を呼んでいます。

「丸若さんとは10年以上前からのお付き合いなのですが、何か一緒にやりたいねってずっと話していて。ふたりの最初の仕事は、2016年に開催された『DINING OUT ARITA & with LEXUS』でした。今回の仕事は、2回目です」と渥美シェフ。

今回、『GEN GEN AN 幻 in 銀座』では、『MAISON』が新たに発足した『TOMETTE』名義にて参画し、主にアイスクリームやソルベなどのデザートや菓子などを開発します。

『MAISON』はレストランに対し、『TOMETTE』はプロジェクト。

「『MAISON』は、理屈抜きにお客様がおいしいと感じてもらいたい場所」と渥美シェフが言うも、その背景には溢れんばかりの想いが詰まっています。食材へのこだわり、生産者や農家とのつながりなどはその好例であり、「見える」キッチン以外にも、「見えない」多くの人、もの、ことが親和しているチームこそ『MAISON』なのです。

対する『TOMETTE』は、そんな見えない様々を可視化するプロジェクト。

伝えたい、共有したい、派生したい。

「おいしいを知る」とは、奥様の明子さんの言葉。『TOMETTE』のディレクターも担います。「日本でもフランスでも生産者さんや農家さんたちと一緒に『TOMETTE』を発信していければと思っています。まずは日本からスタートしたかったので、『GEN GEN AN 幻 in 銀座』が第一歩になります」と続けます。

前出の通り、店舗では、アイスクリームやソルベなどのデザートがメインですが、「Colony」と題したピタパンも用意。これは、新型コロナウイルスによってパリがロックダウンした際、渥美シェフが医療従事者やホームレスの方々へ食事提供を行うボランティアに参加した時に作った料理です。

パリには、ホームレスに無償で食事を提供しているレストランがあります。その発起人たちがスーパーの賞味期限が迫る食材を集める場所を郊外に作って、そこから仕入れるもので食事を作っていました。レストランと大きく違うところは、日々どんな食材が来るのかわからないことと食べ手が明確だということ。医療従事者は、エネルギーや神経を使うので、味を濃いめにしたり、どうすれば少しでも元気になってくれるのかを考えました。そこで作った料理のひとつがピタパンでした」。

与えられた食材で何が作れるか。今の環境に合ったもので何ができるか。どうすればおいしくなるか。毎日がライブなそれは、レストランとは違った思考であり、「シェフ・渥美創太」というよりも、「人間・渥美創太」という人格が現れた料理だったのかもしれません。

「今回、『GEN GEN AN 幻 in 銀座』で提供しているピタパンのパンは、『ブリコラージュ』さんにお願いしています。レシピを渡して作ってもらったのですが、ピタパンであればこっちの方がおいしくなるのでは?と、アレンジしたものも提案してくださり。小麦粉だったレシピから全粒粉に変えたのはそれなのですが、こっちの方が断然良かったです。実は、その考え方はパリでも同じで、発注が入ったものをそのまま提供するのではなく、より精度を上げられるためにはどうしたら良いかを各々が常に考えています。このピタパンもまた、みんなの想いが詰まった料理です」。

そして2020年末、様々な体験を経て臨む次なる舞台がフードトラック。

この日のために、渥美シェフは『MAISON』からパンやチーズ、エディブルフラワーなどのピクルス、鹿タンなどを持参。供される料理は、下記を予定しています。

「オープンサンド/栗粉の自家製薪窯パン 24ヶ月熟成コンテチーズ 春に漬けた花の酢漬け」(トリュフバージョンもあり)
「古代麦のリゾット/うなぎの出汁と茶」
「鹿タンと牡蠣のチレアンチョ煮込み」
「オニオンスープ ブルーチーズのせ」(トリュフバージョンもあり)
「ゴーフル」
(2020年12月25日現在も鋭意制作中のため、料理写真のご用意はありませんが、当日のお楽しみに!)

予定は未定の2日限りのステージ。しかし、唯一わかることがあります。

そこにはレストラン顔負けの本気の料理が待っています。

フードトラックだからといって侮るなかれ。どんなライブになるかは乞うご期待。

是非、銀座でパリを堪能いただきたい。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

フードトラックでお腹を満たした後は、『TOMETTE』のアイスクリームやソルベが用意される地下の店舗へ是非。「Earth/玉緑茶」のアイスクリームは、茶葉の複雑かつ豊かな余韻が染み入るように広がる。球面はまるで惑星!

「本日の肉とハーブのピタパン&茶」。 この日のお肉はホロホロ鶏。是非、料理が生まれた背景も知り、おいしいを感じていただきたい。

ピタパンの具材もひとつ一つ丁寧に仕上げる。口に運ぶ度、おいしいだけでなく旅の情景が浮かぶのは、渥美シェフの想いが料理に宿るからなのか。

肉の食感、ハーブの香り、アクセントに効かせたスペインのビネガー・ペドロヒメネスの味わいをブリコラージュのパンがまとめ上げる。全粒粉ならではの食感と香りも見事に同調する。

フランスの「GUIDES LEBEY」にて肉料理部門・最優秀シェフとベストレストランをダブル受賞したパリのレストラン『MAISON』渥美シェフの料理をいただける貴重な2日間! 自由に旅ができない今だからこそ、この機会をお楽しみいただきたい。

住所:東京都中央区銀座5-3-1 Ginza Sony Park地上フロア MAP
期間:12月26日(土)・12月27日(日)
営業時間:11:00〜19:00 ※無くなり次第終了

住所:東京都中央区銀座5-3-1 Ginza Sony Park B1F MAP
https://www.ginzasonypark.jp/shop/06_2.html
https://en-tea.com/pages/gengenan

1986年千葉県生まれ。19歳で渡仏し「メゾン・トロワグロ」、「ステラ・マリス」、「ラボラトワール・ドゥ・ジョエル・ロブション」などを経て、26歳で「ヴィヴァン・ターブル」シェフに就任。2014年、100年以上続く「クラウン・バー」のリニューアルに伴いオープニング・シェフを勤め、2015年、フランスで最も人気のあるレストランガイド「ル・フーディング」の最優秀ビストロ賞を受賞。2019年、自身初となるオーナー・シェフを務めるレストラン「MAISON」を開業。2020年、フランスの「ガイド ルベイ」にて肉料理部門・最優秀シェフとベストレストランのダブル受賞。また、「ONESTORY」が主催するレストランイベント「DINING OUT」には、過去2回(「DINING OUT ONOMICHI」、「DINING OUT ARITA」)参加。
http://sotaatsumi.wixsite.com/mysite-1

10ヶ月間限定、短期連載企画。『GEN GEN AN幻』が消えるまで。[GEN GEN AN幻/東京都中央区]

GEN GEN AN幻OVERVIEW

1966年開館、銀座のシンボルのひとつだった「ソニービル」は2017年に幕を閉じ、2018年に「銀座ソニーパーク」として開放しました。

その名の通り、公園のそこは、散歩を楽しんだり、お弁当を食べたり、はたまた通り抜けをしたり……。誰もが自由に使える場としてはもちろん、様々な表現を通して世間に驚きも与えてきました。

振り返れば、「買える公園」をコンセプトにプラントハンター・西畠清順氏がプロデュースした「アヲ GINZA TOKYO」やデザイナーであり音楽プロデューサー、ミュージシャンなど、様々な顔を持つ藤原ヒロシ氏をディレクターに迎えた「THE CONVENI」は、その好例と言って良いでしょう。

銀座の一等地は、変化し続ける壮大な実験の場となったのです。

そして、2019年12月、新たな実験が始まりました。

『GEN GEN AN幻 in 銀座』です。

前述、「ソニービル」が幕を閉じた2017年当時、『GEN GEN AN幻』は、渋谷に茶葉店を開業。以降、国内外から注目を集めています。

理由は、茶葉から作るその高い品質しかり、空間の表現力も大きな役割を担っています。お茶の世界とは似つかぬサブカルチャーを彷彿とさせるアンダーグラウンドな店内には、カセットテープがひしめく演出が成され、これまでになかったお茶との邂逅を体験できます。

主宰するのは丸若裕俊氏です。その活動は多岐にわたり、お茶屋だけでなく、日本各地で培われてきた伝統工芸や工業技術を再構築し、新たな提案も行なっています。

2016年に開催された「DINING OUT ARITA & with LEXUS」でもその手腕は発揮され、クリエイティブ・プロデューサーも担いました。そして、シェフを務めた人物は、フランスを拠点に活躍する渥美創太氏。

現在は、自身初となるレストラン『MAISON』のオーナーシェフでもあり、今回の『GEN GEN AN幻』では、『MAISON』が新たに発足したプロジェクト「tomette(トメット)」として、お茶に合う菓子を開発しています。

つまり『GEN GEN AN幻』は、『ONESTORY』としてゆかりのあるふたりが交錯する舞台でもあるのです。

「アヲ GINZA TOKYO」、「THE CONVENI」、『GEN GEN AN幻 in 銀座』。そして『DINING OUT』。

全てに共通していることは、消えること。

実は、「銀座ソニーパーク」自体も「新ソニービル」が着工するまでの場であり、消えてしまいます。期日は2020年秋まででしたが、新型コロナウイルスによってそれは延長され、現在は2021年9月までを予定。

『GEN GEN AN幻in 銀座』が与えられた命も同様になります。

10ヶ月間、どんな変化が待っているのか、どんな現象が起きるのか。

『GEN GEN AN幻in 銀座』が消えるまでを定点観測していきます。


Photograph:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

住所:東京都中央区銀座5-3-1 Ginza Sony Park B1F MAP
https://www.ginzasonypark.jp/shop/06_2.html
https://en-tea.com/pages/gengenan

「地元の食材を地元の人たちがいちばん愛してほしい」という大野シェフが料理教室を開催。[Chef’s Journey in Kagoshima Osaki/鹿児島県大崎町]

料理教室で作ったスッポンのリゾットを、大崎町を象徴する松や、スッポンの甲羅などで飾り、より深く表現してみせた。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎地域の課題を「おいしく」解決するのもシェフの役割。

11月の日曜日、大崎町のさまざまな産地を見てまわった大野尚斗シェフは、朝から大崎町公民館の料理講習室にいました。大崎町ならびに周辺の市町の人たちを集めた料理教室を開催するためです。

大崎町の食材を、世界中のレストランで腕を磨いてきた大野シェフと一緒に料理する。特別な料理教室開催のきっかけは、大野シェフが「大崎町の食材の魅力を、じつは住んでいる人たちがあまり知らないんです」という声を聞いたのがきっかけです。

「ふるさと納税の効果もあってウナギのことは知っていると思うのですが、それ以外の食材のことを地元の方々が知らないのはもったいない。胸を張って自分たちの地域の食材を自慢できた方がいいですよね? それならおいしく料理をして食べてもらわなきゃ」と大野シェフが提案したのでした。

さらに種牛から一貫して大崎町で育てられた「大崎牛」の塊肉、ウナギの養殖池で育てられたスッポンを料理教室のメイン食材にしたいと大野シェフ。大崎町の2つの大きな産業である養鰻業と畜産業を見学するなかで、時代の変化によって生まれた課題があることを知った大野シェフが、料理人がもつ知識と技術で「おいしく」解決したいとメニューを考えます。

【関連記事】Chef's Journey in Kagoshima Osaki/若き料理人、大野尚斗氏が見た“食材未開の地”鹿児島県大崎町が秘めるローカルガストロノミーの可能性。

朝9時30分から始まった料理教室には、5名の生徒が出席。大野シェフの手ほどきを受けながら、食材のカットや塊肉の火入れなどを分担して行った。

大崎牛の塊肉は、赤身主体で程よくサシが入ったイチボ(腰まわりのモモ)とサシが入った三角バラ(バラの先、肩バラとも)、2種類の部位が用意された。

スッポンは、前日から仕込みに入ってとった、大野シェフの得意料理コンソメに。このあとどんな料理になるのか、参加者も興味深々。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎きれいな味――。大崎町の気候や風土が肉の質にあらわれる。

大崎牛の塊肉を、一般家庭でも焼ける方法をお教えしたい。そんな想いを大野シェフが抱いたのは、大崎町内の焼肉店「肉のたかしや」で大崎牛の試食をしていたときでした。

肉のたかしやは、繁殖から肥育を一貫して行う前田畜産の前田隆氏の長男、隆博氏が町内で営む店。大野シェフは事前に、ロースやヒレ、肩ロースといった部位ではなく、カイノミ(ヒレに近いバラ)、ランプ(腰)、マクラ(前脚のスネ)といった希少部位の試食をリクエストしていました。

「ロースやヒレばかりが売れる一方で、他の部位がなかなか売れないという問題があります。すこしでも料理人の力で、そういった部位にも価値をつけていきたい」と大野シェフ。塊肉のまま焼き込んで、各部位の特徴を確認していきます。「塊肉で焼くと肉の旨味が逃げづらいので、焼き肉とは違ったおいしさがあります。また、塊で焼くことで大崎牛のきれいな赤身と脂の味が伝わるんじゃないかな」と大野シェフはいいます。

また「現在、大崎町では肥育農家さんが少なく、人工授精から出荷までを一貫して大崎町で行うには、規模がとても小さいというのが実情です。今後、羽子田さんや町と連携して肥育できる環境を整え、大崎牛としてのブランド力をもっと上げていきたいです」という隆博氏。

大崎牛が目指す一貫した畜産環境のヴィジョンを聞いた大野シェフは、「子牛を地域外から買い、肥育だけを地域でしたブランド牛が主流ですが、種牛から繁殖、肥育までを大崎町で行えるのは魅力的です。この土地の気候風土がDNAにまで埋め込まれているなんて、ほかにない価値があると思います」と、大崎牛のこれから描こうとする物語に強く共感。貴重な大崎牛のすべての部位を余すことなく使っていくためにも、料理教室では家庭でできる方法で塊肉を焼くことに決めました。

町内で大崎牛を食べるなら「肉のたかしや」がおススメ。前田隆氏の長男、隆博氏が店主を務める店で、大崎牛のさまざまな部位を食べることができる。

焼肉の網で、3種類の塊肉に火を入れていく大野シェフ。表面をできるだけ高温で火を入れてしかり焼き目をつけた後、アルミホイルに包んで余熱で火を入れていく。

3種類の部位を焼き上げて試食。「赤身も脂もすごくきれいな味。塊で焼くと、肉の旨味が逃げ出さず、素材本来の良さがでると思います」と大野シェフ。前田氏一家が手塩にかけて育てた大崎牛に可能性を感じていた。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎減り続けるウナギ、生産者は未来をスッポンに求める。

環境省は、2013年にニホンウナギを「絶滅危惧IB類」(ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの)としてレッドリストに掲載しました。翌2014年には、国際自然保護連合(IUCN)もレッドリストに掲載しています。

国内のシラスウナギの水揚げ量は、過去最低を記録した2013年以降、漁獲管理を中心とした資源保護に国や自治体、養鰻業者が取り組んでいます。しかし、生態のすべてが未だ解明されていないウナギの資源回復は、それだけでは難しく、なかなか効果が見えてきていません。

年によってシラスウナギを捕獲する量が大きく異なり、安定した生産ができづらくなってきている状況下で、大崎町の養鰻業者「鹿児島鰻」では、空いたウナギ用の池を利用できるスッポンの養殖を2018年から開始。これからより不安定になっていくと考えられる養鰻業を支える新しい事業として、今年から出荷が始まりました。

体長30センチ。1キロほどになったスッポンは、都市の料亭などに販売しているといいます。しかし一方で、スッポンの養殖のノウハウがまったくなく始めたことで、同じ生育期間でも大きさが異なる、たとえば個体が50センチにもなることも。その大きさでは料亭に引き取ってもらうことができず、売り先がなくなってしまう問題ができているのです。

「スッポンの出汁は、日本料理ではない僕のようなフランス料理人でも使ってみたいと思うはずです。スッポンでコンソメをひいたらおいしいかも。それなら個体の差は関係ないので、規格外のスッポンも使うことができます」と大野シェフ。町内の居酒屋「大野商店」に移動し、店主で日本料理人の大野貴広氏から、スッポンの捌き方を教わり、初めてのスッポン料理で料理教室に挑みます。

鹿児島鰻の川添靖男氏(右)にスッポンの体の仕組みを教えてもらう大野シェフ。「ウナギと同じ飼料を与えられるので、導入がしやすいんです。スッポンの赤ちゃんから育て始めて1年半、今年出荷できるまでになりました」と川添氏はほっとした様子。

獰猛な性格のスッポン、大野シェフを威嚇するために首をぬうっと伸ばして、牙をむける。大野シェフは、鹿児島鰻の規格外のスッポンを応援したいと、現在、別プロジェクトを進めているチームにその場で連絡をして、大崎町産スッポンを使った商品開発を提案。すでに実現に動き出している。

鹿児島鰻では、飼育したスッポンからとった卵をふ化させることに成功した。今後は、大きくなり過ぎない特徴をもつスッポンの卵を選んでふ化させていくことで、サイズのバラツキを抑えていきたいという。

甲羅と体の軟骨の場所を見極めるのが難しかったという大野シェフ。大野氏に学んだ経験を活かして、料理教室ではスッポンを使ったひと品を披露することに。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎シェフの知識と技によって、「食」で地域をアップデートしていく。

料理教室は大崎牛からスタートしました。イチボと三角バラの塊肉をフライパンで焼き始めます。「家庭でも簡単に再現できるように」と、今回はオーブンを使わず、フライパンとアルミホイルだけで塊肉を焼いていきます。表面にしっかり焼き目をつけたら、アルミホイルに包んで15分ほど放置し、余熱で火を入れていきます。「ええ、これだけですか??」と参加者から驚きの声があがります。

スッポンは、前日に仕込んでおいたコンソメ(フランス料理で澄んだスープのこと)を使います。コンソメは、素材を長時間煮出すことで旨味や香りだけを抽出する料理。とくに素材の良さや下処理の丁寧さがそのままスープに出てくるので、とても手間がかかります。それでも「スッポンの良さを知ってもらうには、コンソメが一番」と大野シェフは、時間をかけて旨味を引き出しました。

大野シェフは、このスッポンのコンソメでリゾットを作ります。その前に、まずは全員でスッポンのコンソメを味わいます。「スッポンの臭みがまったくなくて、すごくきれいな味!」と、初めてのスッポンのコンソメに参加者は驚いた様子。他にも、大崎町で栽培された不知火の鹿児島県ブランド「大将季(だいまさき)」のカルパッチョなども生徒と一緒に作ります。そして最後にアルミホイルで包んで休ませておいた大崎内のイチボと三角バラの仕上げに取り掛かります。

肉をアルミホイルから取り出し、バターを溶かしたフライパンに投入。弱火にかけながら、溶かしたバターを泡立てるように空気を入れながらフライパンの中でまわしかけていきます。肉の中心までやさしく火をいれながら、バターの香りをまとわせる、フランス料理の加熱技法「アロゼ」です。

フランス料理の醍醐味といえる技法に、「かっこいい!私もやってみたい」と参加者の一人の岡本昌子氏。大崎町の隣、東串良町で料理教室「ゆいまーる」を主宰する岡本氏は、「塊でお肉を焼くとこんなにおいしいんですね。今まで塊肉は敬遠していたのですが、意外と簡単だったので、ぜひ家に帰って焼いてみたい」と、塊肉を焼く楽しさとおいしさに、魅了されたようです。

「いちばんよかったのは、料理教室の雰囲気。みなさんが楽しんでいただけたのが僕としてもうれしかったです。知らなかった大崎町の食材を地域の方に味わっていただけて、みなさんからも大崎町の魅力を発信してほしいです」と話した大野シェフも手ごたえを感じていたようです。

食材だけでなく、食材を作る生産者、そして大崎町で暮らす人との交流も生まれた5日間の旅。地球環境の変化や急激な過疎化による後継者不足や財源不足など、さまざまな課題に直面している地域の苦労と、それを乗り越えようとするエネルギーも肌で感じることができました。「この旅が始まりになるように」といった大野シェフの言葉が象徴するように、シェフと地域との結びつきの中から、「食」をテーマにした地域復興・地域アップデートが進むことを十分に予感させる。そんな旅になりました。

終始、和やかで和気あいあいとした雰囲気になった料理教室。料理教室の経験はそれほどないという大野シェフでしたが、ポイントの教え方や支持が的確で、「プロの指摘や視点がとてもためになった」という声があがった。

弱火にかけて溶かしたバターを泡状に保ちながら、肉にかけまわし続けてゆっくりと火を入れていく加熱方法が「アロゼ」。肉の表面にバターの香りをまとわせるイメージでまわしかけていく。

焼き上がった肉は、世界各国で料理修業をしてきた大野シェフらしく、フランスの料理の定番「レムラード・ソース」と南米料理の定番ソース「チミチュリ」という両極にあるソースとともに。大崎町内の産地直売所で見つけた大葉を使うなど、使いやすい食材で簡単にできるようなレシピで、参加者からも好評だった。「もしも焼いたお肉が余ってしまったら」と大野シェフが用意したのは、醤油とみりん、昆布、酒で作った漬け汁。これに卵黄と肉をひと晩漬け込むと、冷めてもおいしいままでおすすめだという。

料理教室の後は、完成した料理を全員で囲んでのランチ会。塊肉のおいしさに全員が感激。大崎町在住でイメージコンサルタント「美人仕立屋」の名前で活動している救仁郷文(くにごう・あや)氏は、「大崎牛も、スッポンのことも知らなかったので、これから周りのお友だちに紹介していきたいです」と、シェフの想いに共感してくれた。

料理教室に参加した5名の生徒と大野シェフ。左から霧島市でお弁当や通信販売を行うブランド「かごしまのっける」で商品開発を行う吉崎千賀氏、「ママコト」で食のワークショップや地域の食材を使った加工品を販売する渡辺和泉氏、鹿屋市で「カラオケ 青春時代」を営む渡辺憲太郎氏。和泉氏と憲太郎氏は夫婦で参加してくれた。大野シェフの右から岡本氏、救仁郷氏。「地域のインフルエンサーの皆さんと一緒に、大崎町や周辺地域を一緒に盛り上げられたらいいですよね」と大野シェフは話す。

1989年福岡県出身。2010年4月 高校卒業後 福岡中洲の人気フランス料理店「旬FUJIWARA」にて見習いとして修業を開始。2011年、「The Culinary Institute of America」ニューヨーク本校へ入学。在学中に 「The NoMad」(ミシュラン一つ星)にて勤務。ガルドマンジェ(野菜)とポワソン(魚)部門シェフを務める。The Culinary Institute of America 卒業後、2014年から2年間、シカゴ「Alinea」(ミシュラン三つ星・在籍時、世界のベストレストラン50で世界9位)にて勤務、部門シェフを務める。帰国後、日本国内数店で研修し、包丁1本持ちヨーロッパをバックパッカーでまわった後、代官山「レクテ」(ミシュラ一つ星)に勤務、スーシェフを務める。その後、赤坂の1年限定会員制レストランにてExecutive chef を経験。2019年、スウェーデン「Fäviken」(ミシュラン二つ星)研修。2020年3月、ペルー「Central」(世界のベストレストラン50・世界6位)研修。現在は、2021年の独立に向けて準備中。

Photographs:JIRO OHTANI, KOH AKAZAWA
Text:ICHIRO EROKUMAE
 

(supported by 大崎町)

「一服、一煎、一献。誰かに頼るではなく、自分たちのできることを行動してゆく」万yorozu/德淵 卓

歴史から美術、器まであらゆる面に造詣が深く、話は簡潔で明解。茶の味だけでなく、話術でもカウンターのゲストを魅了する。

旅の再開は、再会の旅へ。お客様との距離感は変われど、つながりは深く。

「湯を汲む」、「茶を淹れる」。

一滴の液体に価値を付加し、思考を促す場。 茶と茶菓と、酒を等しく扱うこれまでになかった場。

それが『万yorozu』です。

主人は、徳淵 卓氏。

「1服の玉露、あまりに衝撃的だったその美味しさに導かれ、“茶”を自らの進む道と決めました」と話します。

現代の茶室とも形容できるそこは、カウンター中心の茶酒房。そのあり様は、かつて存在した「日本茶カフェ」とも「バー」とも異なります。

深い知識と日々のたゆまぬ研鑽が生む味わい、それを決して前には出さぬおもてなし。『万yorozu』には、そんな日本の美意識が凝縮されています。

2012年、福岡市中央区赤坂開業以降、その評判は徐々に広まり、国内外から炉を囲むカウンターにゲストが集います。

しかし、2020年、誰もが予想しなかった新型コロナウイルスにより、世界的に日常は奪われてしまいました。自由に旅ができなくなってしまったことをはじめ、自粛や緊急事態宣言。視野を広げばロックダウン……。

その間、『万yorozu』はどう過ごしていたのでしょうか。その答えは、実に前向きでした。

「リモートやオンラインショップなど、お客様との関わり方は変わりましたが、コミュニケーションはより人と人の繋がりが深く、親密になった様に感じます。ありがたいお言葉を頂戴することが多く、感謝しかありません」。

以前、『万yorozu』は午後3時から営業していましたが、現在(2020年12月)は、正午からオープンし、24時閉店。 また、オンラインショップを開設し、茶葉の購入も可能としました。

そんな『万yorozu』が人を惹きつけてやまない最大の魅力は、やはり集い。用意されたメニューの最初のページがそれを物語っています。

「人々が集い、出逢う茶屋でありたい。人々が語らい、愉しむ、酒場でありたい」。

この言葉通り、酒もまた茶同様に、この場に訪れた人々をもてなす大切なもののひとつ。

シャンパーニュをはじめとするワイン、日本酒、スピリッツ類と幅広く揃い、それぞれのセレクトに徳淵氏の審美眼と提案が光ります。更に「茶酒」の提案も用意。読んで字のごとく、それは茶を使ったカクテルのことです。玉緑茶のマティーニ、野草茶のカクテル、更には炒りたての焙じ茶で作るハイボール……。どれもとびきりの茶が使われているのは言うまでもないことですが、甘みの効かせ方、アルコールのボリューム感と香りのバランスなどからカクテルメイキングの技術の高さも感じさせてくれます。

1日も早く、それをもう一度体験したい。そう願う人は世界中にいます。

「一服、一煎、一献のお茶とお酒で不安な日々を忘れさせるよう、ごくわずかな時でも皆さまにより豊かなお茶の時間を過ごして頂けたらと常に考えて模索しております」。

以前の取材では、「必要最低限の道具さえあれば、どこでも茶が点てられる。茶の魅力を、そして日本の心を海外の方に知って頂ける機会があるのならば、どこにでも出かけていきたい」と徳淵氏は話していました。

「どこでも茶が点てられる」、「どこにでも出かけていきたい」。どこでも……という日常はいつ戻ってくるのか、まだ知る人はいません。

「誰もがはじめてのことで情報収集や対応に追われて正確な答えは未だ手探りだと思います。誰かに頼ることよりもまずは自分たちでできることから考えて行動していき、お客様へより安全な商品を提供できたらと思います。まだまだ不安な日常が続きますが、『万yorozu』が微力ながら皆様により良い時間をお過ごし頂けるよう努めてまいりますので引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます」。

ごく低温の湯で抽出する「伝統本玉露」の1煎目。液体に旨味が凝縮されている。

ナツメとクルミ、発酵バターを合わせたお茶菓子。濃厚なコクと凝縮感のある甘みが抹茶に合う。

8時間かけて抽出する水出し茶。グラスで供すうことによって香りが広がる。和洋中問わず、食事にも合う一杯。

茶酒の一例、日本の薬草でつくる薬草茶を使ったカクテル。ダークラムのベースにアールグレイの香りを添えて。茶酒のあては豆乳ショコラ。

茶酒より、玉緑茶のマティーニ。シェイクにより滑らかな口当たりで、苦みと甘みのバランスが素晴らしい。希少なオールドバカラのグラスで。

実は徳淵氏のキャリアのスタートは、バーテンダーだったといいます。学生時代からバーでアルバイトを始め、N.B.A(日本バーテンダー協会)主催のカクテルコンペティションで福岡代表として活躍したことも。

炉を囲むコの字型のカウンター。道具や器の一つひとつが美しく、場と調和している。

住所:〒810-0042 福岡県福岡市中央区赤坂2-3-32 MAP
電話:092-724-7880
http://www.yorozu-tea.jp/

Text:YUICHI KURAMOCHI

Vol.5 大地に、海に、この町に感謝をしつつ[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・オマージュ/東京都台東区浅草]

フランス人シェフに“料理人よ地元に帰れ”という言葉を教わりました。自分も地元のために料理を作りたかった」と荒井シェフ。その舞台は浅草にて「どんな料理が出てくるのか楽しみです!」と角田さん。

オマージュ × 角田光代

 浅草寺を抜けて、言問通りを渡ると、浅草の町はがらりと印象を変える。各国の旅行者であふれるにぎやかさは消え、整然とした通りに、こぢんまりとした飲食店や商店が点在する、落ち着いた住宅街といった雰囲気だ。この浅草の町で生まれ育った荒井昇さんがシェフを務めるレストラン「オマージュ」は、この静かな町なかにある。
 今日いただく料理は、ビーツとキャビアの一品だという。厨房にお邪魔して調理の工程を見せていただく。ホイル包みにし、オーブンで一時間半ローストしたビーツを、ブナの木のチップでスモークし、それを細かく切っていく。ビーツの色鮮やかさにも驚くが、広がるスモークの香りの強さにも驚く。細かく細かくカットされていくビーツの、紫色に近いような深い赤は、ローストされただけなのに、ゼリーや飴のように加工されたうつくしさに見える。
 そのビーツに、粒くらい細かくカットされたエシャロット、ペースト状のケッパー、ホースラディッシュを加えて混ぜこみ、塩、エクストラバージンオイル、白胡椒をかける。
 セルクル(円形の型)に、ビーツ、キャビアを交互に重ねて抜くと、ケーキみたいなうつくしい一品になる。その上から冷たいヴィシソワーズをかけていく。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/作家・角田光代が体験する「食べるシャンパン。」の特別連載エッセイ!

ビーツ、ジャガイモ、キャビアを食材のメインにしたひと品。海のものと山のものを合わせることによって味の奥行きを演出し、それが「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」の余韻とも絶妙なペアアリングを創造する。

調理の過程を見学する角田さん。キッチンでは荒井シェフとの会話も弾む。「今回も想像がつかない料理。どんな仕上がりになるのか楽しみです」と角田さん。

今回、荒井シェフが考案した料理のメインとなる食材はビーツ。レッドビーツを、ホイルで包み、180度のオーブンで1時間半ほどローストする。

上記の次工程は、レッドビーツを厚切りにカットし、ブナの木でスモーク。その後、香りを纏ったビーツを細かくカットし、食感にアクセントを加える。

「是非、香りをたのしんでみてください」と荒井シェフ。燻製したビーツの香りを嗅ぐ角田さん。「うわー、良い香り! うっとりします」。

燻製したビーツは牛肉のタルタルのように細かく刻む。仕上がった料理を食べた瞬間、「食感もタルタルのようになり、肉のような錯覚さえ感じます!」と角田さん。

燻製したビーツを細かく刻み、ケッパー、エシャロット、レフォール、アサツキ、白胡椒、塩、オリーブオイルなどを混ぜ、ベースは完成。

料理の仕上げにヴィシソワーズを流し込む。ヴィシソワーズは、薄切りの玉ねぎとポロネギをバターで炒め、スライスしたジャガイモ、ブイヨンを入れて煮る。ミキサーにかけて牛乳とクリームを加え、味を整えて冷やす。「これだけでもおいしい!」と角田さん。

オマージュ × 角田光代

 一口食べて、まずは言葉が出てこない。今まで食べたことのないものだ、ということだけがわかる。コントドシャンパーニュを一口飲み、また料理を一口食べて、ああ、おいしいとしみじみ口をついて出る。キャビアの塩気と香り、立ち上るスモークの香ばしさ、ビーツのほんのりした甘みと滋味深さ、ヴィシソワーズのクリーミーなやさしさが、みごとに調和している。ビーツのつぶつぶ感とキャビアのつぶつぶ感も、混じり合ってものすごくおいしい。
 そのあとでシャンパーニュを飲むと、きりっとひきしまった味が際立つ。食べていると、ビーツの赤い色がスープに溶け出して、ヴィシソワーズがピンク色になっていくのもおもしろい。それにしても、ボルシチ以外でビーツを食べたことのなかった私は、ビーツっておいしいんだ、と感動した。口に残ったつぶつぶの一粒まで、おいしい。
 テタンジェに、どうしてこの料理を合わせようと思いついたのか、荒井さんに訊いた。コントドシャンパーニュを飲んだときの印象が、大地の力強さと、泡のクリーミーさだった、そこからの発想だと荒井さんは言う。畑の作物ビーツと、海の恵みキャビアを組み合わせて、スモークで中和させる。さらに、テタンジェと料理をいっしょに味わうことで双方の味が微妙に変わっていくのがおもしろいと思い、ヴィシソワーズの色の変化をそれに重ねてみた、とのこと。発想の柔軟さ、ゆたかさにびっくりする。

ビーツとキャビアはミルフィーユ状に形成。味はもちろん、キャビアの粒と細かく刻んだビーツのサイズ感が見事な食感の融合を成す。「食べるたびにビーツの色が白いヴィシソワーズに溶け出し、美しい!」と角田さん。「その溶け出す見た目変化と味わいの変化、そして、同じく時間によって変化するコントドシャンパーニュの味わい。この3つの変化をお楽しみいただければと思います」と荒井シェフ。

「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”を飲んだ時、大地の力強さを感じました。それがビーツに結びつくのですが、シャンパーニュと言えばキャビアの印象もあり、それをどう組み合わせれば良いペアリングになるのかを熟考しました」と荒井シェフ。

「ビーツと言えば、ボルシチや酢漬けなどの印象ですが、今回のように手の込んだ料理で味わうビーツ体験は初めてです」と角田さん。

「泡の細かさ、クリーミーさが特に印象的でした。フランス料理の代表的なヴィシソワーズを採用することで、ノーブルなシャンパーニュに別のステージの味わいを表現したかった」と荒井シェフ。

オマージュ × 角田光代

 フランス料理の道に進んだのはたまたまだった、という荒井さんは、フランスの星つきレストランでもフランス料理を学び、2000年に自身の店をオープンさせた。フランス料理の伝統に敬意を払うことを信念としている。どんなに独創的な発想も、重厚なフランス料理を礎にしている。
 もう少し若いときは、頭のなかで思い描いて組み立てた味は、九割がた、そのままを実現できると思って調理していたけれど、今は、茹でかた、切りかた、火の通し具合、素材の組み合わせ、すべてにおいて試行錯誤をくり返し、それをスタッフ全員で共有することをだいじにしている、と話す。

「フランス料理で一番大事にしていることはなんですか?」という角田さんの質問に対し、「情熱を持ち続けること」と荒井シェフ。

「料理の核となるビーツやキャビア、ビソシワーズだけでなく、薬味も一体になっているのがすごいと思いました! 一口食べた後に“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”を飲むとキリッと引き締まり、双方の味が際立ちます」と角田さん。

「今回、一流なシャンパーニュと一流な食材を合わせる料理を考案したくありませんでした。なぜなら、絶対合うのは当たり前だからです。ビーツやジャガイモのような一般的な食材を“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”のようなグランクリュの高貴といかに肩を並べられる味にできるかを挑戦したかった」と荒井シェフ。

「日本人である自分が異国の味を表現させていただいているので、よりフランス料理の文化に敬意を払いたいと思っています。正しい技術や思考を学び、曲がった発信はしてはいけないとも思っています」と荒井シェフ。「食べ物を通して人を呼べるって本当に素晴らしい」と角田さん。

オマージュ × 角田光代

 荒井さんの話のなかで興味深かったのが、2010年前後の、考えかたの変化についてだ。フランス料理に求められるものが、そのあたりから変化してきたと荒井さんは感じたのだそうだ。「これがフランス料理」という大きな枠ではなくて、もっとパーソナルなものが求められているように感じた。作り手の荒井さんも、料理における自分の表現のありかたを今まで以上に模索するようになった。あくまでもフランス料理の基礎をだいじにしながら、「今」のおいしさにアプローチしていきたい。そう思うようになって、作りたいものが明確になってきたという。料理の個性が、よりはっきりしてきたということなのだろう。
 荒井さんが感化されたフランス人シェフの言葉に、「料理人よ地元に帰れ」というものがある。地元の市場で食材を買い、地元の食に貢献せよ、ということだ。店名の「オマージュ」は、荒井シェフの抱く、食材への、生産者たちへの、ともに働くスタッフたちへの、フランス料理という世界への、そして生まれ育ったこの浅草への、すべてへの敬意をあらわす店名なのだろう。

「ペアリングは物語を大切にしたいと思っています。そうすることによって互いの価値を増したい」と荒井シェフ。「次回は、コース料理でペアリングの物語を体験してみたいです!」と角田さん。

住所:東京都台東区浅草4-10-5 MAP
TEL:03-3874-1552
http://www.hommage-arai.com

1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。1990年『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。1996年『まどろむ夜のUFO』で第18回野間文芸新人賞、1998年『ぼくはきみのおにいさん』で第13回坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で1999年第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年第22回路傍の石文学賞、2003年『空中庭園』で第3回婦人公論文芸賞、2005年『対岸の彼女』で第132回直木賞。2006年『ロック母』で第32回川端康成文学賞、2007年『八日目の蝉』で第2回中央公論文芸賞、2011年『ツリーハウス』で第22回伊藤整文学賞、2012年『紙の月』で第25回柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、2014年『私の中の彼女』で河合隼雄物語賞を受賞。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
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Photographs:KOH AKAZAWA

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DNAまで大崎町産。種牛から肥育までを一貫して行う大崎牛の壮大な取り組み。[Chef’s Journey in Kagoshima Osaki/鹿児島県大崎町]

大崎町で牛の繁殖・肥育農家である前田畜産では、450頭ほどの牛を飼育している。シラス台地の上にある大崎町は、古来農業が盛んで、農耕具として牛を飼う家が多くあった。人々の生活の近くにあった牛が、戦後、畜産業になっていった。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎和牛の種を全国に届ける町、大崎町。

日本各地を旅しながら食材と、生産者を巡る日々を続けている若き料理人・大野尚斗シェフが向かったのは、"食材未開拓の地"鹿児島県大崎町。

大崎町中央公民館の郷土資料展示室には、『牛馬改帳』という江戸時代の調査報告書が展示されています。幕末の1864年(元治元)にまとめられたもので、当時の農耕従事の様子を知ることができる貴重な資料です。これによると大崎町には当時、42頭の牛馬がいたことが書かれており、古くから牛や馬が地域の暮らしのなかにありました。

そんな農耕具として牛を飼っていた歴史をもつ大崎町では畜産業が盛んです。畜産業は、種牛の精子を買って母牛に受精させ、妊娠、出産、仔牛の育成までを行う繁殖と、仔牛を買いとって出荷まで育てる肥育に分かれており、とくに大崎町では、繁殖農家が多いのが特徴。そのため大崎町の隣、曽於市には「曽於中央家畜市場」があり、子牛の出荷頭数は、日本一を誇ります。

さらに畜産の町、大崎町のもう一つの特徴は、家畜人工授精所として全国に名を知られる「羽子田人工授精所」があることです。体が大きくサシが入りやすい種牛を育て、その精子を採取して全国の繁殖農家に販売するのが、家畜人工授精所の役割。羽子田人工授精所は、1962年の創業で、種牛界のスーパースター「隆之国」を生むなど、全国的に評価の高い人工授精所です。現在は「隆之国」の子「隆安国」の種も評価が高く、全国の肥育農家から注文が殺到。出荷が2カ月待ちになっているといいます。

2003年生まれで、今年17歳の隆之国に対面した大野シェフ。種牛としての役目を終えて“隠居暮らし”をしていますが、「風格が違う!」とレジェンドとしてのオーラを感じとっていました。

【関連記事】Chef's Journey in Kagoshima Osaki/若き料理人、大野尚斗氏が見た“食材未開の地”鹿児島県大崎町が秘めるローカルガストロノミーの可能性。

取材班が訪れた10月の競りでは、3日間で1275頭が競り落とされた。総平均売却額は72万8273円。

曽於中央家畜市場には、大崎町の他、志布志市や曽於市の繁殖農家から子牛が集まってくる。子牛の体重は、雌牛が240~270キロ、雄牛(去勢)が270~300キロになる。

種牛としての仕事を終えた隆之国はのんびりと、羽子田人工授精所の牛舎にいる。岡山の「第6藤良」を祖先とする藤良系(糸桜系)の血統で、有名ブランドの素牛(子牛)にもなり全国的に知られている。羽子田人工授精所代表の羽子田幸一氏(中央)は、「A5、A4といった肉質等級や霜降りの入り方を示すBMS値などの評価を大事にしながらも、自分たちがおいしいと思った系統を大事にしてきました」と、あくまでおいしさを重視する。

採取された精子は、勢状をモニターで検査した後、2倍~5倍に希釈される。その後、ストローに入れ、液体窒素によって一瞬で凍結させる。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎親子二代が協力し大崎牛の確立を目指す。

肉牛の人工授精から繁殖、肥育を大崎町内で行える土地の利を活かしたブランド和牛を育てたい。そんな羽子田氏の思いから生まれたのが「大崎牛」です。

コンセプトは「大崎町で生まれ育った牛」であること。そのため大崎牛は、三代祖、つまり曾祖父にあたる種牛までが、羽子田さんの人工授精所で生まれ育った種牛であることを「大崎町生まれ」の条件にしています。

地域の名前がついた和牛は多くありますが、その多くは子牛を他の地域から買って肥育だけを地域で行っているのが実情です。大崎牛のように種牛までも同じ地域で育てているのはひじょうに珍しい例。大崎牛には、この地域の気候風土が“DNA”にまで刻まれているのです。

もともと繁殖が盛んで肥育農家が少ない大崎町ということもあって、生産量の拡大を含む大崎牛のブランド化はこれから本格化していきます。そのカギを握るのが、繁殖と肥育を一貫して行う前田畜産です。

前田畜産は、繁殖180頭、肥育200頭、子牛80頭を育てる地域でも有数の規模をもつ農場。「昔は、大崎町にも肥育農家がいたんですが、どこも20頭程度の小さな規模。それでも当時は、多い方だったんだよ。みんなやめちゃって、今では肥育をやっているのはウチくらいじゃないかな」と、長く地域の畜産を見てきた前田隆氏は言います。現在は、隆氏が肥育、次男の喜幸氏と三男の龍二氏が繁殖を担当。親子2世代で農場を守る前田畜産にとっても、大崎牛は大きな可能性を秘めているものです。

鹿児島県には「鹿児島黒牛」という県産ブランドがありますが、その規定では、「種牛から大崎町産」という大崎牛の価値は評価されず、鹿児島黒牛というブランドでひと括りされてしまいます。大崎町の畜産の特異性が正当な評価を受けることで、地域の畜産を盛り上げる。大崎牛は、そうした地域復興も可能にする前田氏一家の希望でもあります。

「種牛から大崎町で育った牛というのは、これまでのブランド和牛とまったく違う」と大野シェフ。「牛とともにある暮らし」が古くからあったからこそ生まれた大崎牛のストーリーに刺激を受けたようです。

前田畜産では、繁殖を息子たちに任せ、肥育に専念する隆氏。トウモロコシをベースに、ムギや大豆かす、キノコや黒糖など7種類を配合した飼料のほか、間におやつを1頭1頭の体調を見ながら与えて、体調を管理していく。

月齢9カ月の子牛を20カ月間かけてしっかりと肥育していく。出荷時の重さは800キロほどになる。

繁殖を担当している隆氏の次男、喜幸氏。前田畜産では繁殖と肥育を完全に一貫しているわけではない。一貫生産のデメリットの一つに、生まれてから成牛として出荷されるまでの2年半、収入がないことがあげられる。そのため、ときおり子牛を競りに出すことで牧場の経営をコントールできるのだ。

前田畜産の牧場を見学した後に立ち寄ったのが、大崎町にある鄙びた共同風呂の「篠段寿湯」。温泉好きの大野シェフも「なめらかな湯でほかほかになる」と絶賛。夏は8時から19時、冬は8時から18時までで入浴料は大人350円(タオルの購入は100円)。定休日は毎月1日、10日、20日、21日。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎リサイクル率全国1位の町が目指す「サーキュラーヴィレッジ大崎町」構想。

大崎町は、2019年1月14日に、住民参加による低コストかつ持続可能なリサイクル事業の国際展開と人材育成を中心にSDGs型リサイクル地域経営を目指す「大崎町SDGs 推進宣言」を発表しました。

環境省の「一般廃棄物処理実態調査結果」で12年連続資源リサイクル率全国1位を達成した大崎町では、家庭から出るゴミを27品目の分別を行なうことで、83.1%のゴミを資源に“再生”し(全国平均は約20%)、経済的利益と町内の雇用を創出。大崎町のリサイクルシステムは、世界からも注目されています。

大崎町では、こうした取り組みで得た利益で、若者の地元Uターンを促進するためするための「大崎町リサイクル未来創生奨学ローン」を設立し、大崎町の未来を創る若き人材に投資。2013年から始めている「ふるさと納税」も、町の持続性のために使われています。とくにこの旅で訪れた、養殖ウナギの加工品の返礼品が人気となり2015年にふるさと納税による納税額が全国4位に。返礼品は、今回の旅で訪れた大崎牛やハチミツ、南国の気候で作られるマンゴーなど、“食材の宝庫”にふさわしい品物ばかりです。

少子化が進む地方自治体にあって「住民がずっと住み続けられる町」であることが、大崎町が目指すヴィジョンだと大崎町企画調整課の竹原静史氏はいいます。必要なのは、地域の雇用を生み、優れた人材を大崎町に集めること。そのために、ゴミのリサイクルやふるさと納税といった税収以外の財源を活用することで、Iターン、Uターンを促進し、可能な限り地域内で人材や資源が循環するような新しい地方自治外のモデルを作り上げようとしています。

大崎町役場住民環境課の松元昭二氏の案内によってリサイクルの取り組みを見学する大野シェフ。まずは生ゴミを集めて堆肥化させる「そおリサイクルセンター」の大崎有機工場へ。

生ゴミの中から不純物を取り除いたのちに、造園などで出た草木を混ぜることで、草木に付着した菌が繁殖して発酵していく。発酵には、温度と湿度管理が重要。最後にヨモギの乳酸菌を添加して臭いを消す。

出来上がった堆肥は「おかえり環ちゃん」の商品名で、家庭菜園向けに販売され、町内を中心に消費されている。

大崎町は、莫大な建設費がかかる焼却施設を持たない。その代わり、町民が協力してゴミを分別することで、最小限のゴミだけを埋立地に埋める。15年でいっぱいになる予定だった埋立地は、30年経った今でもまだ想定の半分の量にもなっていない。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎大崎町のやさしさが町に現れ、食材に現れる。

大崎町では、月に1度、三文字地区の商店街で、「おおさきチャレンジ朝市」が開催されています。200メートルほどの商店街に30店ほどの市が並びます。町内の飲食店や商店のほか、町外からの出店もあり、ふだんはひっそりとした町がこの時ばかりは活気づきます。

滞在中に開催されていたこともあり、大野シェフとともに朝市を歩いてみると「食べていってよ!」「どこから来たの?」と、気さくに声をかけてくれます。都会にはない、人と人の温かい交流。「大崎町に5日間滞在して思ったのは、みなさん本当にやさしい。それが食材にも町の雰囲気にも出ています」と大野シェフはいいます。

アットホームで活気がある朝市を歩いていると、大崎町が掲げる大きなヴィジョンの達成は、この景色を未来まで残すためにあることに気づきます。そしてそれは、拡大から継続へ、社会の価値観が大きく変わろうとしている現代において、地方自治体が自立する大きな先例になるのではないでしょうか。

大崎町の取り組みを「食」を通じて応援していけることは、シェフにとっても、食という文化を愛する人にとっても大きな誇りになるはずです。

取材班のお気に入りで、滞在中に何度も訪れた末野菓子店の末野知春氏(左)とハル子氏。三文字地区の商店街で40年、その前には吹上地区で17年、菓子店を営んでいた。後継者が見つかっておらず知春氏の代で閉店することになるという。

末野菓子店の「けせん団子」。「けせん」は、シナモンのような香りがする葉。小豆団子をはさんで蒸し上げてある。噛むほどにじんわりと甘味がにじみ出る素朴な味。

人懐っこい大野シェフは、「食べみたい!」「これなんですか?」と、朝市に来ていた町の人たちとすぐに意気投合。10分ほどの予定だった散策が、気づいてみたら25分が過ぎてしまった。「だって、すごく楽しいんですもん」と、大崎のみなさんの温かさに触れて、一気に大崎町の人を好きになった瞬間だった。

大崎町の飲食店が特別メニューを持ち寄って賑わう。「おおさきチャレンジ朝市」は、新型コロナウイルスの感染症の拡大によって3月から中止になっていたが、ようやく10月から再開。町に活気が戻ってきた。

1989年福岡県出身。2010年4月 高校卒業後 福岡中洲の人気フランス料理店「旬FUJIWARA」にて見習いとして修業を開始。2011年、「The Culinary Institute of America」ニューヨーク本校へ入学。在学中に 「The NoMad」(ミシュラン一つ星)にて勤務。ガルドマンジェ(野菜)とポワソン(魚)部門シェフを務める。The Culinary Institute of America 卒業後、2014年から2年間、シカゴ「Alinea」(ミシュラン三つ星・在籍時、世界のベストレストラン50で世界9位)にて勤務、部門シェフを務める。帰国後、日本国内数店で研修し、包丁1本持ちヨーロッパをバックパッカーでまわった後、代官山「レクテ」(ミシュラ一つ星)に勤務、スーシェフを務める。その後、赤坂の1年限定会員制レストランにてExecutive chef を経験。2019年、スウェーデン「Fäviken」(ミシュラン二つ星)研修。2020年3月、ペルー「Central」(世界のベストレストラン50・世界6位)研修。現在は、2021年の独立に向けて準備中。

Photographs:JIRO OHTANI, KOH AKAZAWA
Text:ICHIRO EROKUMAE
 

(supported by 大崎町)

ふたりが新潟で出会った、おけさ柿とヨーグルト。注目のオンラインクッキングイベントはほっこりおいしく、幸せな時間に。[NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1/新潟県]

新潟各地をまわって得たインスピレーションをオリジナルレシピに表現します。

新潟プレミアムライブキッチン限定5名が受講。新潟の「おけさ柿」を使った菓子作り教室。

11月7日(土)、「新潟ウチごはんプレミアム」とONESTORYのコラボレーション企画第1弾として、フードエッセイスト・平野紗季子さんと菓子研究家・長田佳子さんによるオンライン・クッキングイベント『NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1』が開催されました。参加したのは、応募総数200名以上から約40倍の応募抽選を勝ち抜いた幸運な5名。スタジオと参加者5名の自宅キッチンをオンラインでつないで行われました。

新潟ウチごはんプレミアム」は、自宅で新潟の食材を楽しむためのポータルサイト。レシピ動画の公開のほか、さまざまなオンラインイベントを紹介しています。今回の料理教室では、終始インスタライブのような和やかな空気を共有でき、全員がリラックスしてお菓子作りに取り組むことができました。受講者が使い慣れたいつものキッチンと道具で調理できるのも、オンライン教室の魅力です。

平野さんと長田さんは新潟特産の「おけさ柿」に注目しました。ふたりにとって、柿は果物の中でもずっと気になっていた存在だったと言います。
「最近の果物屋さんは、本当にいろんなフルーツがあって華やかですよね。そんな中で、柿ってちょっと地味じゃないですか。でも、ものすごくおいしいし、あの心地いい甘さとすっきりした後味って、ほかに代わるモノないって思うんですよ。新潟ではいろんなおいしい果物が穫れるけど、長田さんのやさしいお味のお菓子には柿が合うんじゃないかなと思って」と平野さんは話します。
「私も柿は大好きだけど、お菓子の材料として選ぶことは少なかったんです。。柿っておもしろい果物で、パリパリいうくらい硬いものも、じゅくじゅくになった完熟のものも、それぞれにおいしいですよね。そんな熟し方の違いもお菓子で表現できたらおもしろいなと思っていたので」と長田さん。二人の興味がピッタリ合ったのが柿だったのです。

今回、新潟で見学した畑で大きく実った旬の「おけさ柿」を用意しました。そして、工場を訪ねた「ヤスダヨーグルト」の製品を使って、長田さんはふたつのレシピを用意してくれました。

【関連記事】NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1/平野紗季子×長田佳子 抽選で限定5名が参加できる「オンライン料理教室」を開催

抽選を勝ち抜いた5名が自宅のキッチンからオンラインで参加しました。

材料に選ばれたのは新潟名産のおけさ柿とヤスダヨーグルト、そしてヤスダヨーグルト社が製造している発酵バター。必要な材料とレシピは、事前に参加者へ届けられました。

全員で「柿のタルト」と「柿のネクター」の2品のクッキングに挑戦しました。

新潟プレミアムライブキッチン現地の人も気付いていない素材の魅力を引き出す。

ひとつ目のレシピは「柿のタルト」。ヘーゼルナッツが香ばしい生地にキャラメリゼした柿をたっぷりとのせた贅沢な一品。ローズマリーの香りと、サワークリームのほのかな酸味があるクロテッドクリームが、全体を華やか、かつまろやかに調和します。

ふたつ目のレシピは「柿のネクター」。ネクターとは果実をすりつぶして作るドリンクのこと。ヤスダヨーグルトに柿のピューレをたっぷりと加え、カスタードクリームでアクセントをつけています。このカスタードクリームは、牛乳の代わりにヤスダヨーグルトを使い、ハーブティーなどに使われるエルダーフラワーで香りづけをしているのが特徴です。

これらのレシピは、「おけさ柿」の原木を取材した際のインスピレーションから生まれたとのこと。平野さんは、スマホで現地の写真を見せながら振り返ります。
「おけさ柿の原木は柿の木としてはものすごい大木なんだけど、普通の住宅地に1本だけすっくと立ってるんですよ。老木なのに、枝振りは力強くて、ちゃんと実もなっていて。どこか神秘的で、ふたりでずっと見とれちゃったんだよね。すると、どこからかローズマリーと金木犀の香りが漂ってきて……」(平野さん)
「あのなんとも言えない不思議で心地いい体験をレシピに表現できたらいいね、なんてことを帰り道で話したりして。そんなわけで、今回、ローズマリーと金木犀のニュアンスが感じられるエルダーフラワーを加えてみることにしたんです」(長田さん)

長田さんのお菓子は、身体への負担がなるべく少ない配合と調理法によって、素材の持ち味が引き出されています。素材を生かすために引き算されているから、工程もシンプルでお菓子作りのビギナーでも無理なくチャレンジ可能。5名の参加者も、見事に完成させることができました。

そして、試食タイム。
「柿のタルト」をほおばった平野さんは、おいしさにしばし唸ったあと「佳子さん、天才!」と一言。「よく柿を焼こうと思ったね。農家の人にもあれだけ熱を加える調理はご法度だと言われたにもかかわらず、に」
渋柿である「おけさ柿」は渋抜きの工程を経てから出荷されています。渋抜きといっても、じつは渋味成分であるタンニンは柿の中に残ったままで、人間の舌が感じないような処理がされているだけ。言わば、人間の舌を騙す状態になっているだけであり、熱を加えるとその渋味が戻ってしまうということを、ふたりは現地取材で学んでいたのでした。

長田さんはあえて渋柿に熱を加えるというチャレンジをしました。
「熱を加えても渋くならないギリギリ大丈夫な線があるはず、と思ったんです。逆に君はまだ甘いよって柿を騙せるギリギリのところが(笑)。実際に調理して、ここまではOKという線を見つけられたので」と長田さんは飄々としています。
このレシピには、柿農家の方たちもきっと驚くことでしょう。

「柿のネクター」を味わった平野さんは、またもや興奮しています。
「これ、すんごいヤスダヨーグルトに柿、カスタードクリーム、そしてエルダーフラワー! ワタシ、材料名しか言っていない(笑)。それぞれ単体でおいしいものが、一緒になって何十倍も美味しくなってるの」

参加者からも新鮮な体験になったという声が上がりました。参加者のひとり、新潟出身の方のコメントが印象的でした。
「長岡の出身なので、おけさ柿もヤスダヨーグルトもとてもなじみ深い食材でしたが、そのまま味わったことしかありませんでした。ずっと親しんできた食材が思いもよらないおいしいお菓子になって、とても楽しい体験になりました。そして、地元出身者として、本当にうれしかったです」

新潟の食を再発見し、その魅力を料理体験を通して分かち合ったひととき。みんなの笑顔がその充実ぶりを物語っていました。

現地で実際に体験したエピソードを紹介しながら、調理は和やかに進んでいきます。

旅の話をもっと聞きたいという参加者に「牛とふれあう神々しい佳子さんを見て」とスマホの写真を見せる平野さん。とっておきのエピソードが食材への愛着を一層深くします。

完成後、みんなで試食。直接会うことはできなくても、楽しさ、うれしいという体験を共有することはできます。

新潟プレミアムライブキッチン【柿のタルト】

材料
《タルト生地》
*米油30g(菜種、ひまわり油などでも可)
*水5g ※水と油を一緒に小さなボウルにはかっておく。
*きび砂糖15g
*薄力粉75g
*天然塩ひとつまみ
*皮付きヘーゼルナッツ20g ※170度で8分焼き皮をむきミキサーで細かく砕いておく

《クロテッドクリーム》
*サワークリーム45g
*生クリーム15g

《デコレーション》
*柿1個(固めのもの)
*バター5g (同封済み)
*きび砂糖5g
*フレッシュローズマリー1枝

手順
1.タルトをつくる。ボウルに薄力粉、きび砂糖、塩、ヘーゼルナッツを入れ、軽くゴムベラで混ぜる。
2.別のボウルに水と米油をいれ、1に加えたらゴムベラでひとまとまりになるまで混ぜる。
3.2の生地をクッキングシートにおき、めん棒で12cm程度の円形に平らにのばしたら生地の真ん中にフォークで穴を開け、鉄板にうつし170度で28分~30分を目安に焼きよく冷ましておく。
4.柿の皮をむき、ヘタもとったら12等分にカットし、フライパンにきび砂糖、バターを入れて溶けたらローズマリーと柿を入れて表面をキャラメリゼするように焼く。
5.クロテッドクリームをつくる。ボウルにサワークリームと生クリームを入れゴムベラでなじませたら、星の口金をつけた絞り袋にいれてタルトに絞る。
6.5の真ん中に4の柿を並べたら完成。

タルト生地を円形に平らにのばす。クッキングシートの上だと作業しやすい。

バターを溶かし、きび砂糖、ローズマリーを入れて、柿の表面をキャラメリゼするようにしっかり焼く。

長田さんがクロテッドクリームを絞り袋で絞っていく技を伝授。絞り袋を持っていない人には、スプーンで飾り付ける方法をアドバイスした。

「おけさ柿」の豊かな甘みを存分に味わえる一品が完成。

新潟プレミアムライブキッチン【柿のネクター】

材料
*完熟柿1個
*ヨーグルト200g程度
*エルダーフラワーひとつまみ
*卵黄1個
*薄力粉5g
*黄色系のエディブルフラワー

手順
1.柿を洗い、皮をむき、ミキサーでピューレにし冷蔵庫で冷やす。
2.ヨーグルトカスタードをたく。鍋にヨーグルト100gとエルダーフラワーをいれ弱火で温める。
3.ボウルに卵黄をいれ、薄力粉を加え、ホイッパーでよくかき混ぜ、2を加えたらしっかりかき混ぜ、鍋にこしながら戻す。
4.3を弱火で、プルンとするテクスチャーになるまでたき、たけたらボウルに入れて冷蔵庫で少し冷やす。
5.器に、残りのヨーグルト、柿のピューレ、カスタードソースを加え、最後にエディブルフラワーを飾る。

カスタードクリームは弱火で焦がさないようにかき混ぜながらたく。こっそり味見して、あまりのおいしさに手が止まる。

完熟したおけさ柿のピューレはツヤツヤのトロトロ。ヤスダヨーグルトにたっぷりと加える。

ネクターはスプーンで混ぜながらいただく。ヤスダヨーグルトの爽やかな酸味、柿の上品な甘み、カスタードクリームのコクが渾然一体に。

登場した商品は、こちらから購入できます。

※おけさ柿の出荷時期が毎年10月上旬〜11月上旬のため、現在は加工品のみ購入可能です。 (時期によって取り扱いしていない場合もございますのでご了承ください。)

1991年福岡県生まれ。小学生時代から食日記をつけ続け、大学生時代に日常の食にまつわる発見と感動を綴ったブログが話題になり文筆活動をスタート。雑誌等で多数連載を持つ他、イベントの企画運営・商品開発など、食を中心とした活動は多岐にわたる。著書に『生まれた時からアルデンテ』(平凡社)。最新作は『私は散歩とごはんが好き(犬かよ)。』(マガジンハウス)。Instagram:@sakikohirano

レストラン 、パティスリーなどでの修業を経て、現在は「foodremedies」(「レメディ」とは癒しや治療するという意味)という屋号で活動。ハーブやスパイスなどを使ったまるでアロマが広がるような、体に素直に響くお菓子を研究している。著書に『foodremediesのお菓子』『全粒粉が香る軽やかなお菓子』(文化出版局)などがある 。Instagram:@foodremedies.cac


Photographs:JIRO OOTANI
Text:KOH WATANABE

(supported by 新潟県観光協会)

変わりゆく自然環境とともに生きる人たちに、シェフは料理でエールを送る。[Chef’s Journey in Kagoshima Osaki/鹿児島県大崎町]

志布志湾を臨む「くにの松原」で、砂浜の自然環境を守る下野氏(右)と大野シェフ。今回の旅は、この穏やかな海を100年、1000年先まで残すために、料理人が産地とどう関わっていけるかを見つける旅でもある。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎江戸時代から好漁場で知られる志布志湾にシラスウナギはやってくる。

10月下旬、鹿児島県東部の町、大崎町を訪れた新進気鋭の料理人・大野尚斗シェフは、町の主要産業の一つである養鰻業から食材の旅を始めます。しかし、なぜか最初に向かったのは国定公園の一部にも指定されている「くにの松原」の美しい砂浜。志布志湾を臨む白砂青松の海岸とウナギの養殖にどんな関係があるのでしょうか。

薩摩藩が治めていた志布志湾には、フィリピン北東から東シナ海、鹿児島県沖を北上して黒潮が流れ込んでいます。さらに一級河川の肝属川のほか、田原川や菱田川といった河川によって山の栄養も運びこまれ、藩政時代から「本藩中漁利を得るの多き」(『三国名勝図会』)とうたわれる好漁場だったそうです。この豊かな湾を目指して黒潮にのってやってくるのが、ウナギの稚魚「シラスウナギ」です。

急激な減少により二ホンウナギは、環境省と IUCNから絶滅危惧種に指定されています。シラスウナギ漁も漁期が厳格に規定されており、大崎町でシラスウナギ漁がおこなわれるのは、12月から3月。その時期に日没が過ぎると、菱田川河口には150人ほどのシラスウナギ漁者が腰まで海水に浸かり、ヘッドライトで海面を照らしながら体長6センチほどのシラスウナギを網ですくう姿を見ることができます。

大崎町の浜の近くに生まれ、8年前からボランティアで砂浜を守る下野明文氏は、70歳を過ぎた今でも、シラスウナギ漁が解禁になれば海に入ります。「シラスウナギも少なくなったねぇ。大崎の砂浜にはウミガメも産卵に来ていたけど、それも減ってしまった。地域の子どもたちに大崎のすばらしさを伝えていきたいと思って浜を守ってきたけど、もう難しいのかもしれない」と、すこし寂しそうに海を見ていたのは忘れられません。

「海洋資源の回復は、食材がなければ何もできない僕たち料理人にとって重要な問題です」と大野シェフ。SDGsやサステイナブルへの取り組みが経済に取り込まれようとしているなかで、現実的な課題として実感できたことは、大野シェフにとっても、大きな経験になったのではないでしょうか。

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菱田川の河口南側は大崎町、左岸は志布志市(有明町)の管理でシラスウナギ漁は行われる。漁期のほか網の大きさにも規定がある。写真提供:大崎町

今年73歳の下野氏は、2代目の浜の守り人。町内の小学生たちを案内しながら、故郷の豊かな自然を知ってもらおうとしている。少子化が進む中、大崎町のような地方自治体にとって故郷で暮らし続けたり、町から出た町民が戻ってきたりするような政策が重要になってくる。

穏やかな志布志湾に思いを馳せる大野シェフ。大隅半島の付け根に、ポッカりとくぼんだ志布志湾は、古来交通の要衝で商船の往来も多かった。そのため異国船の襲来に備え、大崎町には薩摩藩が設置した異国船番所・異国船遠見番所が置かれていた。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎高隈山地からの豊かな湧水がウナギの味を決める。

砂浜で採れたシラスウナギは、町内の14の養鰻業者に渡り1年から1年半かけて養殖されます。大崎町内と隣の志布志市に養鰻池をもつ鹿児島鰻は、国産の養殖ウナギの消費量が2万トン程度といわれているなかで、年間1000トンから800トンを生産する国内でも最大規模の養鰻施設をもっています。

鹿児島鰻の養殖場の一つ菱田事業所を訪れた大野シェフがまず驚いたのは、養鰻場で大量に使われている水でした。場長の川添靖男氏によると、使用しているのはすべて湧水だといいます。「町内でお昼を食べに入った定食屋さんのお水がきれいで雑味のない味でおいしかったんです。人の生活は水から始まるように、ウナギの養殖もこの水が身質に影響を与えると思います」と大野シェフ。

大野シェフが感じたように大崎町の水は、西に広がる高隈山地から流れこむ伏流水で、火山灰が堆積してできたシラス台地によって長い時間をかけてろ過されたもの。さらに菱田事業所は「平成の名水百選」に選ばれた普現堂湧水源から近く水質は事業所内でも有数だといいます。

素材の味は、食べたものによって決まる。そう考える大野氏は、さらにウナギにどんな飼料を与えているかが気になったようです。「ウナギはおいしいエサでないと食べない“グルメ”な生き物なのです。なので、飼料にはコストをしっかりかけています。魚粉を中心に、鰻の育成に適した配合飼料と水とフィードオイルを餅状に練り上げたもの。鰻が食べやすい形にするのもポイントです」と川添氏はこだわりを説明します。

その後、おおさき町鰻加工組合の加工施設を見学し試食をした大野シェフ。口にすると一瞬で笑顔がこぼれ、「嫌な泥臭ささがなくて、身質がすごくきれい。加工場で作られたとわ思えないウナギの火入れで、専門店の味と大きな差がないですよ!」と想定外のクオリティに心の底から驚いていました。

鹿児島鰻では、1年間で500万尾から600万尾のウナギを出荷する。ウナギは、背の文様と白い腹の境界線がしっかりと見えている方がおいしいという。

1年から1年半かけて成長したウナギは、初めに背骨が曲がったものを人の目で選別する。この後は機械に通され、重さごとに仕分けられる。

養鰻では、生けすでの飼育だけでなく、池あげ後の仕分けの間も大量に水が必要になる。大崎町は湧水が豊富で水質もよいため、養鰻に適した土地といえる。温暖な気候も、赤道付近で生まれるウナギにとっては重要なのだ。

鹿児島鰻などの養鰻業者が出資して設立された「おおさき町鰻加工組合」の加工施設を見学。1匹7秒ほどで背から開いて内臓を取って骨を抜く。正確で無駄のない熟練の技に驚いた大野シェフは、「勉強のために」と、スマートフォンで録画したほどだった。

開いたウナギは、ベルトコンベアにのせられて、焼きからタレ漬け、冷凍までの加工を一気にオートメーションで行っている。途中には本物の炭で焼く工程もあり、専門店の蒲焼きのような香ばしさが生まれる。

タレ漬けして加熱する工程を4度繰り返して完成。タレが焦げて香ばしく仕上がった蒲焼きを試食した大野シェフは「機械で焼かれたとは思えないおいしさです」と絶賛。ウナギのタレは、関東風と関西風、九州風の3種類ある。白焼きも製造している。

シェフズジャーニー 鹿児島大崎旅する料理人と旅する養蜂家。皿の上でどう出会うのか?

大崎町の北部、山間地域にあたる野方で養蜂業を営む「佐元養蜂場」の佐元和寿氏は、鹿児島から九州、東北を経て、最後は北海道まで、およそ3000キロをミツバチとともに移動しながら採蜜する旅する養蜂家です。移動養蜂自体は伝統的な採蜜法ですが、移動コストがかかることもあって近年減少しつつあります。

「温暖な気候を好むミツバチにとって大崎町は、飼育に最適な場所です。野方の山のなかでミツバチを病気にさせないように、600箱ほどの巣箱を管理しながら、その年の状態の良いミツバチが集まった箱を240箱ほど選んでハチミツ採取の旅にでるのです」

大崎町と宮崎県でレンゲのハチミツを中心に採取した後、5月末から青森に入ってトチのハチミツを。6月初旬に秋田に移りアカシア、6月中旬に北海道芽室に渡ってから大崎町に戻ってきます。

「大崎町だけでハチミツが採れればいいですが」という佐元さん。しかし近年の気候の変化で、鹿児島県内でハチミツの採れる時期が変わってきたそうです。採蜜量も減っていくなかで、これまで培ってきた全国のネットワークを使って良質なハチミツを採り続けたいといいます。

大野シェフは、ミツバチたちが大崎町周辺で集めてきたレンゲのハチミツに興味を示します。ひと舐めした大野シェフは、「クセのある独特な香りもいいですし、後味もスッキリしていてきれいな甘味ですね」と驚いた様子。「ハチミツの糖度が、例年なら78度程度なのですが、今年は81度と高い。つまり、水っぽくないのがおいしさの理由だと思います」と、佐元氏も自信をもって勧めた味を気に入ってもらったことで、自然と笑顔がこぼれていました。

巣箱にミツバチたちが集めたハチミツ。240箱から多ければ、500缶ちかくのハチミツを採ることができる。

採れたてのハチミツを味見する大野シェフ。透明でありがながら輝くような蜜の色に見入っていた。

佐元養蜂場は、小売り店として「ハニー・ハウスSMT」も運営している。旅の途中に立ち寄ってみたい。

雨の中、養蜂場を案内してくれた佐元氏(右)。よく管理された巣箱は貴重で、盗難にあうこともある。そのため町内の数十カ所にわけて巣箱を分散して管理している。

1989年福岡県出身。2008年4月 高校卒業後 福岡中洲の人気フランス料理店「旬FUJIWARA」にて見習いとして修業を開始。2011年、「The Culinary Institute of America」ニューヨーク本校へ入学。在学中に 『The NoMad』(ミシュラン一つ星)にて勤務。ガルドマンジェ(野菜)とポワソン(魚)部門シェフを務める。The Culinary Institute of America 卒業後、2014年から2年間、シカゴ『Alinea』(ミシュラン三つ星・在籍時、世界のベストレストラン50で世界9位)にて勤務、部門シェフを務める。帰国後、日本国内数店で研修し、包丁1本持ちヨーロッパをバックパッカーでまわった後、代官山『レクテ』(ミシュラ一つ星)に勤務、スーシェフを務める。その後、赤坂の1年限定会員制レストランにてExecutive chef を経験。2019年、スウェーデン『Fäviken』(ミシュラン二つ星)研修。2020年3月、ペルー『Central』(世界のベストレストラン50・世界6位)研修。現在は、2021年の独立に向けて準備中。

Photographs:JIRO OHTANI, KOH AKAZAWA
Text:ICHIRO EROKUMAE
 

(supported by 大崎町)

トップシェフ監修のアテと最高級日本酒ブランド『長谷川栄雅』のマリアージュを堪能する「日本酒体験」。[長谷川栄雅 六本木/東京都港区]

東京・六本木の星条旗通り沿いに位置する『ヤヱガキ酒造』の直営店であり、日本酒体験の舞台となる『長谷川栄雅 六本木』。

長谷川栄雅 六本木350余年の歴史を誇る酒蔵と野菜料理を極める料理人のコラボレーションが実現。

アテ(酒の肴)とは、酒を飲む際に添える食品であり、おつまみ。酒にアテが合うことから「アテ」と呼ばれ、例えばビールに枝豆、ワインにチーズなどの組み合わせは広く知られています。酒との相性が良く、互いに美味しさを引き立て合う相思相愛の関係性をじっくりと堪能することができたら……。そんな願いをかなえてくれるのが、『長谷川栄雅 六本木』による「日本酒体験」です。

『長谷川栄雅 六本木』は1666年(寛文6年)の創業以来、技術とものづくりの精神を受け継ぎ、最高品質の日本酒を醸す兵庫県姫路市『ヤヱガキ酒造』の直営店。最高級日本酒ブランド『長谷川栄雅』と日本を代表するトップシェフが監修するアテとともに堪能する「日本酒体験」が今秋リニューアルし、話題を集めています。これまでも名だたるトップシェフが登場しましたが、今回のアテは、「Top 100 Best Vegetables Restaurants 2019」初登場でアジア最高の17位を獲得。「野菜が美味しい世界のレストラン」として世界中のグルマンや料理人が注目する和歌山『ヴィラ アイーダ(villa aida)』オーナーシェフの小林寛司氏によるもの。知的好奇心を満たし、感性を揺さぶる日本酒とアテによるマリアージュの魅力をお伝えします。

酒質を際立たせる形状の酒器で味わう日本酒と5種のアテ。プレゼンテーションにも美学がある。

長谷川栄雅 六本木350余年の歴史を誇る酒蔵と野菜料理を極める料理人のコラボレーションが実現。

酒米の最高峰「山田錦」の名産地である播州に位置し、風通しが良く寒暖差がある気候条件に恵まれた兵庫県姫路市の郊外、城下町で知られる播州林田の地に創業した『ヤヱガキ酒造』。歴史ある酒蔵による「日本酒体験」は、直営店の店内に設けられた静謐なる空間が舞台。日本酒づくりに込めた思いをスタッフが丁寧に伝えてくれます。

「長谷川栄雅」の日本酒づくりは、米作りから始まるとのこと。使用するのはごく限られた特A地区、兵庫県加東市小沢地区で生産される最高級の「山田錦」。更に蔵元の個性を決定づけ、酒質を左右するといわれる仕込み水は、甘みのある軟水で、口当たりの柔らかな酒を生み出す名勝「鹿ヶ壺」を源流とする揖保川(いぼがわ)水系林田川の伏流水にこだわります。
更に特筆すべきは、製造方法。日本酒づくりで最も重要な工程とされる麹づくりは、古くから伝わる「蓋麹法」を採用。木製の麹蓋に米を小分けに盛り段々に積み重ねる方法で、上下で温度変化が生じるため、神経を注ぎながら2~3時間おきに積み直す作業を一晩中繰り返します。
搾りに関してもこだわりは同様です。一般的には機械で短時間に、かつ大量に圧搾するところ、『長谷川栄雅』では袋搾りに。酒袋にもろみを詰めてタンクに吊るし、袋から自然に染み出した一滴一滴を集めます。生きた酵母にストレスがかからないため、無垢な味わいのみを抽出することができるのです。手作業による時間と手間を惜しまない酒づくりだけに、量を確保することは難しく、それでも深く追求するのが『長谷川栄雅』の姿勢です。

1杯目「栄雅 純米大吟醸」とアテの「黒豆蜜煮」。黒豆は日本料理の保存食を超えた味わいを追求。

2杯目「栄雅 特別純米」とアテの「ドライトマト 梅塩」。スパイスを纏ったピクルスを添えて。

3杯目「長谷川 純米大吟醸三割五分」とアテの「柚餅子クリーム」。テクスチャーの妙味も楽しみたい。

4杯目「長谷川 純米大吟醸五割」とアテの「かぼちゃ みりん 七味」。カボチャとみりんの甘みが日本酒へとつなげる。

5杯目「長谷川 特別純米」とアテの「玄米 酒粕 生姜」。玄米と酒粕の2種の食感とインパクトのある生姜の風味が印象的。

長谷川栄雅 六本木普通の材料で新しい価値観を生み出す。

『ヴィラ アイーダ(villa aida)』オーナーシェフの小林氏は兼業農家の長男で、調理師専門学校卒業後は国内外の星つきレストランで修業。2007年に和歌山の自宅の敷地内にレストランをオープンしました。周囲の畑で130種類もの野菜やハーブを育てながら素材と向き合い、その持ち味をとことん突き詰めることで「ここでしか味わえない」料理を創る「アグリガストロノミー」の実践者です。「日本酒体験」で供される5種類のアテも、その哲学から生み出されました。
「日本酒とのマリアージュは初めての経験。どれも和歌山の畑で採れる普通の材料ですが、新しい価値観を生み出すことにこだわりました」と語ります。

例えば、ふくよかで澄み切った仕上がりの1杯目「栄雅 純米大吟醸」に合わせるアテ「黒豆蜜煮」は、「柔らかく甘く炊いた昔の保存食というイメージを、現代人の嗜好に合わせて変えたかった。自宅の畑で黒豆から作っています」と小林氏。少量の塩と砂糖の甘みがポイントで、日本酒の味わいにつなげます。

香りも十分で米の旨味が楽しめる2杯目「栄雅 特別純米」には、「ドライトマト 梅塩」。まず酒器の縁につけた梅塩を口にしてから、日本酒を味わうという趣向です。「お酒から感じられる酸味と熟成感、ミネラル分を意識しました。ドライトマトに合わせたピクルスに黒糖とスパイスをまぶすことで、お酒の味わいに寄り添うように仕立てました」と小林氏は話します。

旨味と甘みのバランスを追求したという3杯目「長谷川 純米大吟醸三割五分」には、柚子を丸ごと使った「柚餅子クリーム」を。柔らかな口当たりで、皮由来のほどよい苦みと果実味が口に広がり、お酒との見事な調和が楽しめます。
「柚餅子は毎年作っています。そのままお出しするのではなく、若干の味噌を加えてコクを出しました。テクスチャーを意識して食べ飽きないように心がけています」と小林氏は言います。
続く4杯目「長谷川 純米大吟醸五割」には「かぼちゃ みりん 七味」。カボチャのピュレにみりんでとろみをつけ、最後に七味の辛みで後味を引き締める一品です。
「カボチャとは散々向き合ってきて、ありとあらゆることをやってきました。そこにないものを掘り続け、あるものの中から新しいものを考え出しました」と小林氏。
最後の5杯目、香りは控えめながらとろみのある「長谷川 特別純米」には、「玄米 酒粕 生姜」。せんべいのような軽快な食感としっとりとした酒粕が渾然一体となり、生姜の風味がパンチを効かせています。

『長谷川栄雅』の酒づくりは、素材と正面から向き合い、その価値を最大限に引き出す小林氏の姿勢に通じる。

長谷川栄雅 六本木あるべき食について考え直す機会に。

『ヤヱガキ酒造』代表・長谷川雄介氏は、「日本酒は米と水でシンプルに造られたお米のジュース。小林シェフの素材を大事にしたシンプルな味付けの料理と『長谷川栄雅』は親和性も高い」と評価しています。
監修にあたり、小林氏も「日常生活の忙しさのあまり食事の時間は短くなり、食の大切さを考えることすら忘れてしまったかと思うことがあります。しかし今回の新型コロナウイルスの世界的な感染は、あるべき食について考え直す良い機会になったと考えています。私が創る『長谷川栄雅』のアテを通じて、“これからの食の豊さとは何か?”を考え直すきっかけになれればと思っています」と語ります。

斜めの天井が緊張感を醸し出し、小林氏をイメージした生け花の影が映えるよう室内空間が施されている。

長谷川栄雅 六本木名シェフのクリエイションを味わえる希少な機会。

これまで、福岡『La Maison de la Nature Goh』の福山 剛シェフ、美しいデザートで知られる『été』の庄司夏子シェフ、ミシュラン1つ星レストラン『Ode』生井祐介シェフ、「魚介フレンチ」レストラン『abysse』の目黒浩太郎シェフ、大阪のミシュラン2つ星レストラン『La Cime』の高田裕介シェフなど、今最も注目されているトップシェフが担当し、新しいアテの監修にあたった小林氏を推挙したのは美食評論家でありコラムニストの中村孝則氏です。それぞれの日本酒に合わせて作家が手がけたという酒器も楽しみのひとつです。
今回、限定的な素材を生かしながら新しいクリエイティビティに挑戦した小林氏。その料理が東京で食べられるのは12月末まで。前日20時までの要予約で、1回のセッションで4名まで受け付け可能です。日本のみならず世界で日本酒の価値を高めたいという『ヤヱガキ酒造』と、その思いに共感した小林氏との共演を、この機会にぜひご堪能ください

住所:東京都港区六本木7-6-20 1F MAP
電話:03-6804-1528
営業時間:12:00~20:00
定休日:火曜

1名様 5,000円(税別)
1組4名様まで
1日5組限定
所要時間:約40分
https://hasegawaeiga.com/?mode=f5


Text:MAMIKO KUME

「コロナ禍でも移転の決意は変わらなかった。僕は地元に必要とされるトラットリアでありたい」IL COTECHINO/佐竹大志

「イタリアでハムの仕込みは覚えられても熟成までは教わりませんでした。山形に戻り、試行錯誤しながら独学で熟成を試みて、ようやく自分のハム作りが見えてきました。イタリアと山形では環境が違いますからね」と佐竹大志氏。(Photograph:Zen Watanabe)

旅の再開は、再会の旅へ。こんな変わったスタイルのお店と僕を受け入れてくれた山形には感謝しかない。

東京の名店たちが愛する「ハム」が山形にあります。

「ハムだけで満足させたい」と、地元・山形に『IL COTECHINO』を開店させたのは、遡ること2012年。

声の主は、佐竹大志氏です。

その道のりは決して平坦ではありませんでした。いや、むしろ紆余曲折。6年にも及ぶイタリア修業や東京での研鑽を経て、佐竹氏が「これだ!」とたどりついた入魂は、「ハム」でした。

ここで注目すべきは、「イタリアン」ではなく「ハム」だったという点です。

『ONESTORY』が取材したのは2018年。その日も満席状態で、もちろんゲストの目的は佐竹氏のハム。それを食べるために旅をするファンは、全国にいます。

2020年、新型コロナウイルスがニュースを轟かすも、佐竹氏は冷静を保っていました。

「4月、5月中の自粛期間は店を閉めておりましたが、6月からは感染防止対策をしながら通常営業を再開させて頂きました。初めは静かでしたが、売り上げも7月には通常に戻りました。しかし、8月くらいに首都圏で第2波が始まると、前年に対して大分ご予約の数が少なくなりましたが、週末はお客様に助けられ、大きな不安もなく過ごすことができました」と佐竹氏は振り返ります。

多くの飲食店が苦戦する中、なぜ、『IL COTECHINO』は、大きな不安もなく過ごすことができたのでしょうか。その理由は、フーディーが行くレストランではなく、地元客や常連客が行くレストランの姿にありました。

「本当に感謝のひと言だけです。 地域の方々に守られていると感じます」と佐竹氏。

自粛期間中、『IL COTECHINO』ではテイクアウトなどを行っていましたが、「営業再開後は以前と変わることなく、ありがたいことにお客様にご来店頂けておりました」と佐竹氏は話します。


しかし、9月に再度お店を閉めました。理由は新たな挑戦をする準備のためです。

「移転」です。

この時期に!?と思う方も多いかもしれませんが、今回の大胆な行動にもおいても、やはり佐竹氏は冷静を保っていました。

「9月初旬から20日ほど、移転の準備、引っ越しなどでお店を閉め、9月26日から新店舗での営業をスタートしました。自分の好きなようにお店を作りたかったので物件から購入しました。正直、大分借り入れもしたため、不安がないかといえば嘘になりますが、ありがたいことに毎日たくさんのお客様にお越し頂いております。店が大きくなったこともあり、売り上げも前より伸びております。移転に関しては、随分前から決めており、新型コロナウイルスによってそれを諦めるという選択肢はありませんでした。新たな店作りに関しても変えた点はありません」。そう話す佐竹氏。表現したいことは、やはり「ハム」なのです。

そんな新店舗のために選んだ地は、同じ山形の中でも静かな郊外。「様々な友人、知人たちの助けによって作られました」と佐竹氏は話します。


「新たな『IL COTECHINO』は、友人たちが作ってくれたかけがえのない場所です。小さいコミュニティだからこその助け合いが育まれ、周りの方々にも助けられました。常連さんからもたくさんおめでとうの言葉を頂戴し、皆様の想いに恥じないよう、これまで以上に楽しんで頂ける空間を作っていきたいです」と言う佐竹氏。

様々な感謝を享受した佐竹氏が改めて思うこと。それは、地元への愛。

「山形に出店して良かった。この地域を選択したことに間違いはなかった」とその想いを噛み締めます。

「実は、食べ歩きをされている方々やグルメサイトなどを意識していた時もありました。しかし、今回の難局の中で時間を過ごしたことで、自分の方向、お店の方向がわかったような気がします。僕は、地元のトラットリアでありたい。地域の方々に愛される店を作っていきたい。こんな変わったスタイルのお店と僕を受け入れて頂けた土地柄です。それだけで人の温かさと許容の広さを感じています。世界的にも日常は一変してしまいましたが、それでも前を向いていきたいですし、僕だから表現できることを突き進みたい。大変なことはもちろんありますが、それ以上に今はやりがいがあります。また、皆様と再会できる日を楽しみにしています」と佐竹氏は話します。

熟成方法は基本的に独学。山形の風土に合わせた独自の手法を追求している。自らを「日の当たらないシェフ」だと笑う佐竹氏だが、ハムだけで人々を魅了する唯一無二の味は、ますます味わい深く熟成を重ねていく。(Photograph:Zen Watanabe)

新店舗のハムセラーは圧巻の存在感を漂わせる。その中には、様々なタイプのハムが格納され、出番を待っている。(Photograph:Zen Watanabe)

新店舗の外観。「移転先は中心地から離れた郊外。全く飲食店がない場所です」と佐竹氏が話すように、周りは静か。(Photograph:Zen Watanabe)

店で山盛りにして出しているルッコラは、父・長一郎氏が佐竹氏の要請により丹精込めて作る逸品。以前の取材では、小雨が降る中、ふたりがルッコラを摘む作業にも同行。

ハム登場の瞬間は、どのテーブルからも歓声が上がる。圧倒的な種類の多さとボリュームは衝撃的。非加熱タイプのハムは熟成期間が長く、香り豊かなものが多い。

住所:山形県山形市あこや町2-1-28 MAP
TEL:023-664-0765
https://www.ilcotechino.com

Text:YUICHI KURAMOCHI

全国の名だたるシェフが登場! レクサスが贈る「DINING INSIDE」のレシピ動画、第二弾公開! part2

ダイニングインサイド各地の風土に想いを馳せて。名シェフの想いがこもるレシピ動画。

遠出が憚られ、積極的に外食ができない以前に比べ、少しずつですが外で食事をする機会も増えてきたのではないでしょうか。ただ、それでも以前と同じように「食」を楽しむには、まだまだ時間がかかるのは間違いありません。

しかし、その一方で、コロナ禍は自宅で楽しむ「食の時間」の大切さを改めて我々に教えてくれました。自分で料理を作る楽しさ、人に料理を振る舞うことの喜び、大切な人と食卓を囲むひと時……。今まで身近にあったはずの「食の時間」の豊かさに改めて気付かされたことでしょう。
そればかりでなく、オンラインを通して、自宅で楽しむ「食の時間」に新たなる魅力と可能性をも見出してくれたのです。

それを象徴するのが、モビリティ・ブランドであるレクサスが、日本各地の一流シェフと考案した本格レシピを発信するプロジェクト『
DINING INSIDE』です。
日本のどこかで数日間だけ開店する、プレミアムな野外レストラン『
DINING OUT』のパートナーとして、レクサスが全国の一流シェフや真摯な生産者とつながってきた経験。それを生かし、『DINING INSIDE』では、これまでに『DINING OUT』で腕をふるってきた4人のシェフによるオリジナルレシピを公開してきました。そして今回、『ONESTORY』ではこれまで未公開だったレシピ動画をリリースしたのです。しかも、それらを考案してくれたのは、これまで『ONESTORY』が取材で出会ってきた全国各地の11人のシェフというから、なんとも贅沢なレシピなのです。
生産者とつながり、その土地の食材や調味料を使い、シェフの想いまでをものせる。ただ美味しいだけではない、全国各地の土地へ想いを馳せることができる『
DINING INSIDE』のレシピは、きっと、自宅で楽しむ「食の時間」に新たな豊かさをもたらしてくれるでしょう。
※掲載しているレシピは、2020年6月に考案頂きました。


【関連記事】全国の名だたるシェフが登場! レクサスが贈る『DINING INSIDE』のレシピ動画、第二弾公開!part1

鶏肉の両面を焼き、漬け汁に5時間ほど漬けて完成。しっとりとした食感で、口の中に比内地鶏の旨味が広がる

ダイニングインサイド秋田県『日本料理たかむら』高村宏樹シェフの「比内地鶏の鶏ハム」

唯一の正統派江戸料理の継承者といわれ、秋田で江戸料理の魅力を発信し続ける『日本料理たかむら』の高村宏樹シェフ。今回は、店でも実際に出しているという、秋田を代表する食材、比内地鶏を使った鶏ハムのレシピを特別に公開して頂きました。調理自体は家庭でも簡単にできるレベルにありながら、アルミホイルの輻射熱を使いながら鶏肉に火入れしていくなど、さすがのテクニックを駆使。完成した鶏ハムは冷蔵保存で5日間ほどもつので常備菜にもぴったり。鶏ハムとしてそのまま食べられるだけでなく、漬け汁を煮玉子やチャーハンの味付けなどにも応用できる一品です。

讃岐うどんは、茹で終えて冷水で締める際によくもみ洗いをしてぬめりを取るのがポイント。食感が変わり、タレも絡みやすくなる。

ダイニングインサイド香川県『長江SORAE』長坂松夫シェフの「讃岐うどん冷やしタンタン」

かつて西麻布にあった『麻布長江』で一世を風靡した、中国料理界の重鎮ともいえる『長江SORAE』の長坂松夫シェフ。そんなスターシェフが考案してくれたレシピは、香川県のソウルフードでもある讃岐うどんを使い、長坂シェフ流に担担麺に仕立てた一品です。用意したのは長坂シェフもよく食べに行くという、『手打うどん 源内』という店のうどん。具材も鶏の胸肉やミニトマトなどで、特別な調味料を使うことなく家庭でも簡単に作れるようにアレンジしてくれています。気軽に作ることができるこちらの一品。そこには「料理の基本は家庭の中にある」という長坂シェフの思いも込められています

野菜は、種類によっては油で炒めてから混ぜることで、素材の香りや甘みを引き出している。

ダイニングインサイド新潟県『里山十帖』桑木野恵子シェフの「新潟 初夏の山と畑の白和え」

2020年7月に発行された『ミシュランガイド新潟』において、レッドパビリオンと一ツ星を獲得した宿『里山十帖』。その料理長を務める桑木野恵子シェフが考案してくれたレシピは、地の食材の魅力をナチュラルに、そしてストレートに表現する桑木野シェフらしい、地野菜の白和えです。野菜は、『里山十帖』の料理にも使われている『協同組合 人田畑』から届くもの。無肥料または微量な有機肥料のみを使ってじっくりと育てられるため、茎や皮までも味わえるのだそうです。塩と醤油で調えるだけの味付けも、シンプル極まりないですが、その分野菜の味わいをダイレクトに楽しめます。

手の込んだ鮮やかなグリーンのソースにはアサリの出汁とハーブの香り。味覚的にも視覚的にも奈良を感じられる。

ダイニングインサイド奈良県『アコルドゥ』川島 宙シェフの「景色と香り イツモソコニアルモノ。」

奈良の東大寺の旧境内跡地という絶好のロケーションでイノベーティブなモダンスパニッシュを提供する『アコルドゥ』。川島 宙シェフからは、味覚だけでなく、視覚でも奈良という土地に想いを馳せることができるレシピをお届けします。使用するのは、古くから粉ものの歴史と食文化が根づく奈良で、素麺の老舗として知られている『三輪山本』の手延べパスタめん。その麺に絡ませるのが、アサリの出汁と、ハーブやキュウリなどのピュレを合わせた鮮やかなグリーンのソースです。ソースを絡ませた麺をお皿にこんもりと盛れば、それはまさに山のよう。「お店から見える若草山をイメージしました」と川島シェフ。奈良を想起させるちょっとした遊び心が心憎い一品です。

濃厚な味わいの卵に、しっかりと魚介の出汁を含ませることでコクに奥行きをプラス。たっぷりの黒胡椒が味を引き締める

ダイニングインサイド鳥取県『AL MARE』飯田直史シェフの「魚介のカルボナーラ」

イタリア・ミラノで、ただひとりミシュランの星を持つ日本人の徳吉洋二シェフがプロデュースする『AL MARE』。ミラノでその徳吉シェフに師事した飯田直史シェフは、鳥取県の魅力を「魚介や種類豊富な農畜産物は、料理人にとって宝の山」と話します。そんな飯田シェフが作ってくれたのが、『大江ノ郷自然牧場』の天美卵という鶏卵を使ったカルボナーラです。海の目の前に店がある『AL MARE』らしく、具材はパンチェッタでなく魚介類。自家配合した飼料を与え、平飼いで育てた鶏の濃厚な旨味の卵に、魚介の出汁を合わせることで、いつものカルボナーラとは異なる深みのある味を楽しめます。

生産者の思いが詰まったソーセージと、化学肥料や農薬を使わずに育てた野菜が、栃木の魅力を伝えてくれる

ダイニングインサイド栃木県『Café&Bar Baum』水下佳巳シェフの「成澤菜園の初夏の野菜と白ソーセージのハニーマスタードソースがけ」

文化リゾートホテルの先駆けとして知られる『二期倶楽部』で料理長を務めた『Café&Bar Baum』のオーナー・水下佳巳シェフより提案頂いたのは、酪農王国・栃木の魅力が詰まったレシピです。その主役となるのが、『グルメミートワールド』の日光HIMITSU豚のふわふわソーセージ。日光連山の清らかな伏流水で育てられた臭みのない銘柄豚を使った、ドイツの朝食には欠かせない定番ソーセージ・ヴァイスブルストをイメージした白ソーセージは、肉の旨味とふわふわの食感が真骨頂。そのソーセージに『成澤菜園』の瑞々しくも力強い味わいの旬の野菜を合わせました。ハチミツとマスタードを使ったソースは、作り置きすれば様々な料理に使えます。

全国の名だたるシェフが登場! レクサスが贈る『DINING INSIDE』のレシピ動画、第二弾公開! part1

ダイニングインサイド各地の風土に想いを馳せて。名シェフの想いがこもるレシピ動画。

遠出が憚られ、積極的に外食ができない以前に比べ、少しずつですが外で食事をする機会も増えてきたのではないでしょうか。ただ、それでも以前と同じように“食”を楽しむには、まだまだ時間がかかるのは間違いありません。

しかし、その一方で、コロナ禍は自宅で楽しむ“食の時間”の大切さを改めてわれわれに教えてくれました。自分で料理をつくる楽しさ、人に料理をふるまうことの喜び、大切な人と食卓を囲むひととき……。いままで身近にあったはずの“食の時間”の豊かさを改めて気づかせてくれたことでしょう。
そればかりでなく、オンラインを通して、自宅で楽しむ食の時間に新たなる魅力と可能性をも見出してくれたのです。

それを象徴するのが、モビリティ・ブランドであるレクサスが、日本各地の一流シェフと考案した本格レシピを発信するプロジェクト「DINING INSIDE」です。
日本のどこかで数日間だけ開店する、 プレミアムな野外レストラン「DINING OUT」のパートナーとして、レクサスが全国の一流シェフや真摯な生産者とつながってきた経験。それを活かし、「DINING INSIDE」では、これまでに「DINING OUT」で腕をふるってきた4人のシェフによるオリジナルレシピを公開してきました。そして今回、ONESTORYではこれまで未公開だったレシピ動画をリリースしたのです。しかも、それらを考案してくれたのは、これまでONESTORYが取材で出会ってきた全国各地の11人のシェフというから、なんとも贅沢なレシピなのです。
生産者とつながり、その土地の食材や調味料を使い、シェフの思いまでをものせる。ただ美味しいだけではない、全国各地の土地へ想いを馳せることができる「DINING INSIDE」のレシピは、きっと、自宅で楽しむ “食の時間”に新たな豊かさをもたらしてくれるでしょう。
※掲載しているレシピは、2020年6月に考案頂きました。

【関連記事】全国の名だたるシェフが登場! レクサスが贈る「DINING INSIDE」のレシピ動画、第二弾公開! part2

洋の野菜やハーブなどで香りを加えた「玄米豚丼」。白米よりもさっぱりと味わえる。

ダイニングインサイド和歌山県『Villa AiDA』小林寛司シェフの「玄米豚丼」

自ら畑を耕し、種を蒔き、野菜を育て、収穫する。そんな畑で採れた野菜と、地元の食材をふんだんに使い感性溢れる料理を提供するレストラン『Villa AiDA』の小林寛司シェフが考案してくれたレシピが、この「玄米豚丼」。暑さが厳しく、食欲が落ちた夏には、シェフ自身もまかないとしてよく食べていたという一品です。この料理の味を支えるのが、『堀川屋野村』の三ツ星醤油と、香りのアクセントとして使う『かんじゃ山椒園』の手摘み臼挽き 粉山椒。レシピでは畑で採れたフェンネルシードを使うなど、ハーブを加えるあたりも『Villa AiDA』らしさ満載。小林シェフならではの一品をお楽しみください。

牛肉、野菜、中華麺を茹でるのもお鍋ひとつ。海の恵みを凝縮したXO醤が味の決め手に。

ダイニングインサイド宮城県『楽・食・健・美-KUROMORI-』黒森洋司シェフの「仙台牛と野菜のXO醤和え麺」

フカヒレ、干しアワビ、干しナマコといった海産物をはじめ、宮城県の海産物、農畜産物をふんだんに使った、ここでしか味わえない中華料理が信条。宮城県を代表するレストランとしてご登場頂いたのは、『楽・食・健・美-KUROMORI-』です。オーナーの黒森洋司シェフが考案してくれたのは、気仙沼『石渡商店』の「気仙沼旨味帆立とコラーゲンのXO醤」を使った、冷製中華和え麺。気仙沼産の帆立の貝柱や自家製ラー油など、天然素材の旨味を凝縮したXO醤をシンプルに生かした味わいは、まさに宮城の恵みを享受できる一品。麺を茹でる以外は、鍋ひとつで作れる手軽さもポイントです。

沖縄の食材だけでなく、食文化まで落とし込んだ琉球ガストロノミーを、家庭で気軽に再現。

ダイニングインサイド沖縄県『Restaurant État d'esprit』渡真利泰洋シェフの「宮古島のヤギのチーズを使ったサラダ」

沖縄の知られざる食材と食文化を、渡真利泰洋シェフの自由な感性で表現する琉球ガストロノミー『Restaurant État d'esprit』。今回、渡真利シェフが注目したのは、沖縄の食文化を語る上で欠かせないヤギです。ヤギ肉の料理はもちろん、沖縄ではかつてヤギのミルクを飲む習慣もあったことから、ヤギのチーズを使ったサラダを仕立ててくれました。合わせたのは鰹と、沖縄定番の常備菜であるニンジンしりしり。爽やかな酸味と甘味、さらっとした口溶けが特徴のヤギのチーズに、鰹、薬味的にニンジンしりしりをぶつけ合うあたりは、さすが琉球ガストロノミー。思わず泡盛と合わせたくなる一品です。

家庭では難しい低温調理も、電子ジャーを使うことで、手軽にチャレンジできる。

ダイニングインサイド神奈川県『季音-KINON-』村野敏和シェフの「鎌倉野菜とみやじ豚のカルパッチョ仕立て カカオビネガーのドレッシング」

サンフランシスコの三ツ星店(当時)『SAISON』にて薪火料理を学んだ村野敏和シェフが、その魅力を鎌倉から発信しようと2019年にオープンした『季音-KINON-』。「季節の野菜や相模湾の新鮮な魚介など、鎌倉エリアは食の宝庫」と話す村野シェフは、そんな食材の素晴らしさを伝えようと、家庭でも簡単にできる低温調理で、火入れが難しいとされる『株式会社みやじ豚』のブランド豚をカルパッチョ仕立てに。甘さ際立つ焼き野菜と、フレッシュ感溢れる生野菜を添え、『MAISON CACAO』のカカオビネガーを使ったドレッシングでまとめ上げました。家族や仲間で大皿を囲みたくなる一品です。

レシピでは下関の垢田のトマトを使用したが、市販されるトマトでも代用できる。

ダイニングインサイド山口県『レストラン高津』高津健一シェフの「菊川の糸と下関垢田のトマトの冷たい素麺」

劇場型のカウンターで、イノベーティブな料理を通して地の食材の魅力を伝える『レストラン高津』の高津健一シェフ。そんなレストランの味を家庭で気軽に味わえるとしたら? 実は、このメニューは「お店のコースでお肉のメインの後に実際にお出ししている料理」という一品。メインとなる食材は、下関市民なら誰もが知っているという素麺「菊川の糸」。今回は、小麦粉と塩水だけを使って生地を熟成、手延べで時間をかけて仕上げていく『加島製麺』の素麺を使用しています。合わせたのは、トマトウォーターの酸味と、セミドライトマトの甘味、そして大葉オイルの爽やかな香り。レストランの味を家庭で気軽に再現できます。

FRANCIACORTA(フランチャコルタ)&FARO(ファロ)、ふたつのFのコラボレーションがスタート。[東京都中央区/FARO]

イタリアを代表するスパークリング『FRANCIACORTA』と銀座『FARO』によるスペシャルな1ヶ月が開幕。

フランチャコルタ×ファロ ポップアップバー革新のイタリアワインと料理の邂逅イベントが銀座の名店で開催。

イタリアの文化やモードの発信地・ミラノから車で約1時間の距離にあるワイン産地の名、かつ同地において瓶内二次発酵製法で醸造するスパークリングワインの名称でもあるフランチャコルタ。イタリアワインの格付けの最高峰、統制保証原産地呼称(D.O.C.G)に認定された歴史は数多いイタリアワインの銘醸地と比べれば最近であり、その歴史は50年あまり。しかし現在、世界のワイン消費が鈍化する中で快進撃を続け、マーケットを広げている活気あるワインとして注目されています。一方、郷土料理、伝統料理というイメージの強いイタリア料理の枠を飛び出し、銀座からこれからの時代に求められる料理を、イタリア料理で培った知識と技術を土台に切り開こうと新たなガストロノミー料理を志向するリストランテが、イノベーティブイタリアン『ファロ』。イタリアの伝統をベースにしながら革新を目指すことで共通する両者が、2020年11月19日よりポップアップバーでタッグを組み、フリーフローや期間限定の特別コースメニューに挑みます。(期間:2020年11月19日(木)〜12月18日(金))。
このまたとない機会を楽しんでいただくべく、ONESTORYでは企画の注目のしどころをレポートさせていただきます。

ポップアップバーのフリーフローで供されるフランチャコルタはこちらの4種類。ロゼ、ドサッジョ・ゼロ(補糖ゼロ)、サテン、ミレジマートと、フランチャコルタのバリエーションを彩るラインナップ。

フランチャコルタ×ファロ ポップアップバー攻めすぎない泡とヴィーガン料理の可能性。

そもそもフランチャコルタとはどんなワインなのか、もう少し詳細に説明させていただきます。イタリアを代表する瓶内二次発酵スパークリングワインという枕詞で紹介されることの多いこのワインは、冷涼なアルプスから吹き下ろす冷たい風と温暖なイゼオ湖、北風と太陽に切磋琢磨されて健全に育つブドウ、氷河が削って運んだミネラル豊富な土壌に保水力の高い粘土質土壌、また、モンテオルファノという主要産地に陣取る山の麓には水はけの良い土地が広がり、小さいながらもモザイクのように豊かな微気候に恵まれています。よく比較されるところのシャンパーニュからすると生産規模は約1/20と非常に小さいのですが、近年イタリア国内消費も国外への輸出量も年々増加。

日本で人気となった理由は様々考えられますが、シャンパーニュと同じ瓶内二次発酵製法でありながら、泡のアタックが非常にソフトで自然な果実味があること、酸が強すぎずスムースな喉越しであるのは大きな特長で、広く日本人の好みにフィットしたと思われます。そもそもシャンパーニュは日照量が少ない冷涼な地域で、完熟しないブドウ果汁に糖を補って発酵を促し、酸化熟成などで風味を強めてその特色を確立。きめ細かく強いアタックの泡、強い酸、ドライ感が格式に繋がってきたのです。対して太陽に恵まれ、ブドウが自然に完熟する環境下のフランチャコルタは、丁寧な造りながらも緊張感を強いない、いい意味での隙があり、その緩やかさが今の時代の自然な風合いや軽さを求める料理に合っているのではないでしょうか。
こうしたフランチャコルタの特長を考えれば、『ファロ』のエグゼクティブシェフ、能田耕太郎さんが、自身が考案するヴィーガンメニューにフランチャコルタを合わせてみたいと考えたのは自然な流れなのかもしれません。能田さんは目下、日本でヴィーガンガストロノミー料理という分野のパイオニアとなることを自らに課してもいるのです。ファロのヴィーガン料理は、基本コースで提供されます。動物性食材を使用しない穏やかながら起伏あるコースにドリンクの構成はとても重要になります。期待したいのは、ワインと料理が互いを挑発することなく、しなやかな押し引きの中でバランスをとる関係性。今回は、19日にスタートするポップアップバーの企画と並行して提供されるヴィーガンコース料理(要予約制)を、いち早くフランチャコルタとのペアリングで体験させていただきました。

現在、ローマで料理長を務めるミシュラン一ツ星店『ビストロ64』と銀座のファロの二拠点で活躍する能田耕太郎シェフ。

フランチャコルタ×ファロ ポップアップバー多様な泡とヴィーガンのコース料理のマリアージュ。

今回のペアリングイベントのナビゲーターは、ワインジャーナリストの宮嶋勲さん。宮嶋さん自身もまた、クリエイティビティの高いヴィーガン料理コースを日本で体感するのは初めてということで、その反応もまた楽しみのひとつです。

ここからは今回の料理と合わせるフランチャコルタの一部をご紹介。
まずは、八寸×Brut Quadra “Green Vegan”。
八寸の皿はバジルのカゼッタ、切干し大根のタルト、ナスお米のチップス、菊芋のミルフィーユで構成。
日本料理の八寸からイメージしたアンティパストミスト(前菜の盛り合わせ)に、グリーン色のエチケット“Green Vegan”が、この日の食事の始まりを象徴的に物語ります。切干し大根や菊芋、日本の里山の冬を彷彿とさせる野菜が小さなポーションにぎゅっと詰まった八寸風前菜に、野菜のトーンのあるフランチャコルタが心地よく染み入るのです。

続いては、能田さんの名がイタリアの国内外で広く知られるきっかけとなったじゃがいものスパゲッティをヴィーガンバージョンで。通常は魚醤にアンチョビバターでコクを出すが、今回はセロリ醤油、甘みとコクにココナッツクリームを使用。歯ごたえを残してさっと炒めたじゃがいもは、エスニックな芳香を纏うとまた違う料理のような表情を見せます。合わせたフランチャコルタは補糖なしでドサッジョ・ゼロと表示されるタイプ。(同様に補糖しないフランチャコルタをNATUREと表示する場合も多い)

通常シャンパーニュなどでは、二次発酵時に酵母の餌となる糖を足して泡を醸成します。しかしフランチャコルタの場合、一次発酵を終えてなお完熟したブドウに糖が残っているため、そのまま糖をたすことなく瓶内で二次発酵が進むのです。ですから、近年このドサッジョ・ゼロは糖質のない健康的ワインとしても注目されているのです。キリッとしたドライなフランチャコルタが、味の複層的なじゃがいもパスタの輪郭をはっきりさせてくれます。

メインは肉厚な椎茸のファルス。椎茸の傘の中には干しゼンマイ、発酵ビーツ、ポルチーニ茸が詰められており、野菜由来の豊かな旨みに、熟成したフランチャコルタの厚み、伸びやかな酸が重なります。カ・デル・ボスコを代表するアンナマリア・クレメンティは、おそらくはシャンパーニュ好きも好むであろう、凛として重厚感のある、フランチャコルタにしては少々緊張感を強いるワイン。ミレジマートは、良年のみに造られて製造年度を記します。動物性の刺激のないところに、アンナマリア・クレメンティの良質でタフな泡が少し力強さを足す。メインで満足感をどう出すかがヴィーガンコースの難しさであり面白味と思いますが、そこにフランチャコルタの力を借りるというわけです。

また、デザートの面白さも特筆。
ファロをファロたらしめていのは料理だけではないのです。その一人が、菓子職人の加藤峰子さん。彼女が世界のベストレストラントップ50で何度も世界一位になり、殿堂入りを果たしたイタリア唯一のレストラン『オステリア・フランチェスカーナ』で菓子担当だったのはあまりに有名。素材の組み合わせに素晴らしいセンスを発揮する彼女の今回の提案は、紫蘇とアーモンドミルクのソルベ。チャーミングなフェルゲッティーナのロゼと一緒に味わえば、赤のニュアンスが増幅します。赤紫蘇は季節に収穫したものをシロップ(甜菜糖とメープル)に浸けて、横田農園のバラの香りとバジル、ラズベリーの香りが重ねられ、なんとも優雅な香り。さらに今回特別に事前注文できるアラカルトで、彼女のシグニチャーである花のタルトが登場しました。何度食べても毎回感動する花のタルトは、40数種もの花とハーブを一つ一つ、刺繍のように緻密に配した珠玉のタルト。農園の収穫次第で、少しずつ内容は変わり、お品書きに淡々と書き連ねられた花とハーブの名前は、読むだけでポエジーなのです。

ワインに関する圧倒的知識とユーモア溢れる話術で定評のある宮嶋勲さん。書いて、話して、笑わせてのご本人曰く「私のことをお笑いの人だと思っている人もいるかも」の自己紹介から会はスタートした。

日本料理の八寸からイメージしたアンティパストミスト(前菜の盛り合わせ)に、グリーン色のエチケット“Green Vegan”が、この日の食事の始まりを象徴的に物語る。

じゃがいものスパゲッティ×Dosaggio Zero Villa Crespia”Cisiolo”のペアリング。

フランチャコルタ×ファロ ポップアップバー感性を研ぎ澄ます料理とスパークリングの組み合わせ。

食事が終盤を迎えた頃、宮嶋さんがポソリ。「ヴィーガンのこれだけ洗練されたコース料理は初めていただきましたけれど、今日は赤ワインを飲もうという気には一切ならなかった。感性が研ぎ澄まされるような料理だったので、こういう料理には泡があうと思いました」
スパークリングワインは、開放的にもなるし、逆に内省的にもなるのかもしれません。繊細な味わいに自然と意識が集中するヴィーガン料理と一緒に味わえば、フランチャコルタの泡のサワサワとした川のせせらぎのようなかすかな刺激が1/fの揺らぎのごとく、食事しながらも私たちの心の奥深くをノックしてくるようなのです。

11 月19 日からスタートする『FF Pop-up Bar』では、記事で紹介した中の4種類のフランチャコルタ(なんと、カ・デル・ボスコのアンナマリア・クレメンティを含む)とフィンガーフードをフリーフローで楽しめるとともに、同時展開する4皿構成のショートのヴィーガンコース(ガストロノミーショートコースもあり)も、フリーフローのコースで楽しめます。今回紹介したメニューはあくまで一例で、ファロならではの日本各地の生産者ネットワークから届く素材で、まだまだ引き出しのあるヴィーガン料理が展開されるというから、一度コースで体験してみたい人にとっても、フランチャコルタのバリエーションを体感したい方にとっても良い機会になること請け合いです。

シェフパティシエの加藤峰子さん。イタリアで大学卒業後はヴォーグ・イタリアでアートディレクターを務めるが、菓子職人の道へ。

紫蘇とアーモンドのソルベ×Rose Brut Ferghettina 2015

1999年に渡伊。2007年までイタリアの名店で修業を積み、その後、現地でシェフとして活躍。2013年、「ノーマ」(コペンハーゲン)など最高峰の北欧料理店での研修を経て再びイタリアへ。自身が共同経営するローマの「bistrot64」では、ネオビストロのスタイルで人気を支える。2016年11月『ミシュランガイド・イタリア 2017』 にて二度目の一ツ星を獲得。イタリア料理のシェフとして二度の評価を得るに至った初の日本人となる。2017年には「テイスト・ザ・ワールド(アブダビ)」の最終コンペティションにローマ代表として出場し優勝。「ファロ」では、風情や旬を大切にする日本文化の中、イタリアで培ってきたことを東京・銀座で発揮し、自身の感性とチーム力で“お客さまが楽しむレストラン”を創り上げていく。

デザイン、美術、現代アートやモノづくりに興味を持ち、食の分野からパン・お菓子の道を選び進む。約10年間、「イル ルオゴ ディ アイモ エ ナディア」「イル・マルケジーノ」「マンダリンオリエンタルミラノ」(ミラノ)、「オステリア・フランチェスカーナ」(モデナ)など、イタリアの名立たるミシュラン星獲得店にてペイストリーシェフを勤める。「エノテカ・ピンキオーリ」(フィレンツェ)のチョコレート部門を経験。「ファロ」では、"旅するように特別な体験として脳裏に残るようなレストラン”を目指し、日本の自然や和のハーブをリスペクトしたデザートを提案。自家製酵母など原材料からこだわり、メニュー開発に取り組む。

住所:〒104-0061 東京都中央区銀座8丁目8−3 東京銀座資生堂ビル10階 MAP
電話:03-3572-3911
https://faro.shiseido.co.jp/

期間:2020年11月19日(木)〜12月19日(土)
場所:FARO (東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル10F)
電話:0120-862-150(03-3572-3911)※予約受付時間 11:00〜22:00(営業日のみ)
時間:フリーフローはディナータイムのみの展開
   ディナー 18:00〜20:30(L.O)
定休日:日曜日、月曜日、祝日、年末年始
同期間で提供する特別ショートコース:
ヴィーガンショートコース 前菜、パスタ、メイン、デザート(税込6,000円 サービス料別途)※メニュー内容は、季節や仕入れ状況により変動する可能性があります。
ガストロノミーショートコース(税込7,000円 サービス料別途)※ご希望のアラカルトメニューは、必ず事前予約をお願いいたします。

Photographs:MASAKATSU IKEDA
Text:KAORI SHIBATA

「人間はどう生きていくのか。生き抜いていくのか。今一度、真剣に考えていきたい」とおの屋 要/佐々木要太郎

1981年生まれの佐々木氏は、21歳の若さで遠野に戻り、どぶろくの醸造からスタートさせる。

旅の再開は、再会の旅へ。今までが当たり前ではなかった。それを認識させてくれたのは、新型コロナウイルスがもたらした唯一の良点。

「和食ではない。でもフレンチやイタリアンベースでもない料理は唯一無二」。

東京の飲食店や酒販店、ワイン関係者までもが声を揃えてそう絶賛するお店が岩手県遠野市にあります。

『とおの屋 要(よう)』がそれです。

店主の佐々木要太郎氏は、民話の里・遠野に初めてできた『民宿 とおの』の4代目も担います。

佐々木氏は、高校卒業後、飲食とは全く関係のない職に従事していましたが、久方ぶりに帰った故郷・遠野で「何かできることはないか」と始めたのが自家栽培米を使ったどぶろく醸造でした。

「遠野の地に根ざして生きていく」。

そう覚悟を決めてから、先代の父とともに厨房に入り『民宿 とおの』を全国から客を集める名宿に育て上げます。

そこから「自分の力だけで勝負できる場を」と一念発起し、2011年、民宿に隣接する敷地に和のオーベルジュ『とおの屋 要』をオープン。地元の食材を使った発酵食品や自家製加工肉をふんだんに取り入れたユニークな料理とどぶろくとのマリアージュは、国内だけでなく、世界からも注目を集めています。

しかし、そんな宿の運営は窮地を迎えます。2020年4〜6月の予約は全てキャンセル。理由は新型コロナウイルスによって発生した緊急事態宣言によるものです。

「緊急事態宣言後は徐々にお客様も戻っており、今(2020年10月現在)では、ありがたいことに『とおの屋 要』としては依然と変わらずお客様にお越し頂いております。 本館の『民宿とおの』は2021年3月まで休館予定です。理由は、3密に当てはまる施設状況の為です。休館後、『民宿とおの』は、1日1組の宿泊施設に変わる予定でおり、1階部分をカフェにし、都心部との距離を縮める場作りをスタートさせます」。

経済活動を再開する施策は展開されど、施設やレストラン、お店など、空間構成によっては、必ずしもすぐに受け入れ体制が整っているわけではありません。『民宿とおの』のようにスタイルを変える必要が出てしまうことやそれに伴う資金繰りなど、苦渋の選択を迫らせることも多々あります。

「地元全体として見ても観光業や飲食業は苦戦を強いられていると思います。また、遠野に関しては、Go To トラベルキャンペーンの効果はあまりないという情報も伺います」。

国や政府が講じる地方活性の施策は、全てに適合しているわけではありません。効果的な部分のみ報じるメディアの存在は、時に錯覚さえ起こします。では、適合していないところを報じるところはあるのかと言えば、それは中々ありません。

果たして、真実はどこにあるのか。

そして、佐々木氏が一番想うこと。それは食に対しての見直しです。

「このような状況になってしまったからこそ、食についてもっと掘り下げて考えてみてはいかがでしょうか」。

それは、佐々木氏自身も含め、国民ひとり一人が向き合うべき問題でもあると思います。

「コロナ禍の最中ですが、改めて思うことは、今までが当たり前ではなかったのだということです。それを認識させてくれたのは、唯一良い機会だったと感じています。 文明はとてつもないスピードで進化してきました。その逆に人間の感覚や感性は退化した事は言うまでもありません。 目先の数字に操られ、“人間”都合で全てを決め、生産・廃棄・自然環境破壊・悪循環農業。 こういったことを我々人間が行ってきたのは事実です。そして、こういった問題も地球上で人間しか解決できないのだということもまた事実だと考えています。 今、こういった問題に気が付き指摘し、正そうとする人たちの割合が少ないことは大きな問題ではないでしょうか。今こそ、イノベーションを起こしていく必要性を感じております」。

大袈裟に言えば、人間は地球を支配し、全てを変える力さえ手に入れてしまったのです。自然の営みから外れた不可能を可能にし、時に環境に負荷をかけ、私欲を正義に見せることもしばしば。

「今回のこの新型コロナウイルスという問題を含め、この現代において人間はどう生きていくのか。生き抜いていくのかを今一度真剣に考えて行くべきだと思っています」。

『とおの屋 要』と言えばどぶろく。どぶろくと言えば『とおの屋 要』。その味に惚れ込むレストランは国内だけでなく、バスクの『ムガリッツ』など、世界に名をとどろかすトップレストランばかり。

イニングと宿泊客用のリビングは吹き抜けに。六間継ぎ目なしの太い梁や建具の装飾など、建築された当時の構造、意匠を可能な限り生かしている。

モダンなデザインながら古い建物にしっくりなじむ椅子は、長野県木曽の木工作家・般若芳行氏のもの。

人間工学に基づき設計されたドイツ『ヒュルスター』社のベッドを設えるゲストルーム。

『とおの屋 要』のエントランスは、石が敷かれたアプローチの先に。建物は紫波町(しわちょう)の豪農が所有していた米蔵を移築、リノベーションしたもの。

以前の取材時、田んぼを歩いている間中、「うちの田んぼは綺麗でしょう」と繰り返す佐々木氏。2017年から地域の米農家を支援する「どぶろくの丘プロジェクト」も始動。

住所:〒028-0521 岩手遠野市材木町2-17 MAP
電話:0198-62-7557
http://tonoya-yo.com/

住所:〒028-0521 岩手遠野市材木町2-17 MAP
電話:0198-62-4395
http://www.minshuku-tono.com

Text:YUICHI KURAMOCHI

中村孝則さんを講師に迎える「オンライン料理教室」第2弾。抽選で限定5名が参加できるスペシャルイベント [NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.2/新潟県]

新潟中之島名産「大口れんこん」を収穫する中村孝則さん。極上のれんこんを手に入れてご満悦。

新潟プレミアムライブキッチン新潟の食の魅力を体感するオンライン料理教室

12月6日(日)、コラムニスト・中村孝則さんを講師に迎えたオンライン・クッキングイベント『NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.2』が開催されます。これは、新潟ウチごはんプレミアムとONESTORYのコラボレーションによって実現した特別企画。抽選を勝ち抜いた5名だけが参加を許される限定イベントです。
「新潟ウチごはんプレミアム」とは、新潟の食を支え育んできた生産者や料理人を通じて、全国の食卓に「新潟の食」を紹介するポータルサイトのこと。ONESTORYはフードカルチャーのトップランナーに新潟の食材を使ったレシピ開発を依頼し、新潟ウチごはんプレミアム」のオンライン料理教室を通じて、新潟の食の魅力を発信します。

講師を務める中村孝則さんは、ONESTORY『DINNING OUT』のディナーホスト役でもお馴染みの人気コラムニスト。「The World's 50 Best Restaurants」の日本評議委員長を務めるなど、フードカルチャーへの知見を生かしてワールドワイドに活動する一方、茶の湯の実践として茶事を定期的に催すなど、料理とおもてなしの研究に余念がありません。とりわけ、お酒との相性のいい料理の探究に情熱を傾けています。
今回、中村さんは、新たなレシピ作りのために、新潟へ食材探しの旅に出ました。自ら畑で土を掘り、沼に浸かって手に入れた食材たち。地元に連綿と受け継がれる食文化の一端にふれた中村さんは、一体どんな料理を教えてくれるのでしょうか?
ぜひ、イベントへふるってご参加ください。


【イベント概要】
ご自宅に届いた新潟の食材を使い、中村氏と一緒に調理を愉しむオンライン料理教室。事前に、レシピに使用される新潟の食材をご自宅に配送させていただきます。(調味料等ご自身でご用意頂くものは、当選者にご連絡させていただきます)

*日程
12月6日(日)19:00~20:30
*開催方法
オンラインイベント
お申し込み頂いた方の中から抽選で5名様に、イベント参加用のZOOMのURLをお送りいたします。
*定員
5名(主催者にて抽選)
*参加費
無料
*応募方法
下記ボタンより応募可能です。(パスワード:niigata)
*応募期限
11月28日(土)23:59

↑ボタンをクリック後、パスワード欄に"niigata"とご入力ください。

里芋は植え付けられた種芋(親芋)のまわりに子芋が実り、その子芋のまわりに孫芋が実る。一株には30個もの芋がついており、重さは5〜6kgにもなる。

新潟プレミアムライブキッチン知る人ぞ知るブランド里芋。五泉市の「帛乙女(きぬおとめ)」

新潟と言えば、コシヒカリ、日本酒、鮭、寒ブリ、ル レクチエ、おけさ柿、越後姫、雪下人参……名産品は枚挙にいとまがありません。そんな中、中村さんは冬においしくなるふたつの野菜に注目しました。里芋とれんこんです。新潟で里芋? れんこん? イメージできない人も多いでしょう。実は、新潟は里芋とれんこんの知る人ぞ知る名産地。極めて上質な里芋とれんこんが穫れるにもかかわらず、生産量がそれほど多くないためほとんどが県内消費。新潟県外の人にとっては、幻の逸品野菜となっているのです。

新潟県内でも里芋の産地として名高いのが五泉市。ここではブランド里芋、「帛乙女(きぬおとめ)」が栽培されています。折しも収穫の最盛期。中村さんは、芋掘り作業のお手伝いを買って出ました。
現在はトラクターで掘り起こし作業が軽減されるようになりましたが、今も変わらず手作業を要するのが、芋と芋の間に詰まった土を指でしごいて落とす“土はがし”作業。掘り起こした里芋の鮮度を保つためには適度に土が付いている状態が望ましく、土を洗い流すわけにいきません。芋を傷つけずに機械化する方法も確立されておらず、一株一株、丁寧に土はがしをしていくしかないのです。
「これはキツい! 想像以上に指先の力が必要で、ちょっとやっただけで腕がパンパン。普段剣道の稽古をしているから、握力には自信はある方なのだけど」と中村さん。「この土はがしさえなければ、里芋農家も後継者不足に悩まねえはずなんだけど」と笑いながらスピーディに作業していくJA新潟みらい 五泉園芸組織連絡協議会 野菜部会長・川口恵二さんの姿に目を丸くしています。

阿賀野川流域のこの地は、砂と壌土の中間の砂壌土に恵まれています。水はけのよい肥沃な土壌は、里芋の中でもひときわ美味とされる「帛乙女」を育む秘密です。ただし「帛乙女」は他の里芋同様に連作障害が厳しく、一度収穫した畑は3年間は他の作物を栽培することで土壌を改善する必要があります。そのため、人気があるからといって無闇に耕作地を広げることはできません。「帛乙女」が希少である根本原因はそこにあります。

JA新潟みらい 五泉園芸組織連絡協議会 野菜部会長・川口恵二さんに教わりながら、里芋の株の土はがし作業。体力と手間を要する重労働だ。

新潟プレミアムライブキッチン「大口(おおくち)れんこん」の驚愕の旨さ

延々と続く黄金色の田んぼ。長岡市中之島地区に入ると、その風景が一変しました。稲作の田んぼの代わりに、枯れた蓮に覆われた沼地がそこここに広がっています。「大口(おおくち)れんこん」のれんこん田です。
収穫期は8月上旬から翌年5月まで。栽培品種は早生品種の「エノモト」と晩成品種の「ダルマ」の2種で、「ダルマ」は中之島地区が全国唯一の産地となっています。

中村さんは「ダルマ」の掘り出し作業に挑戦しました。田んぼに入ると、長身の中村さんでも股近くまで水に浸かります。足元は重たい泥。その中にれんこんは横方向に伸びています。れんこん掘機が水圧で泥を吹き飛ばした場所を、手探りしてれんこんを収穫していきます。
見事に連なったれんこんを引き揚げた中村さんはニコニコ。泥まみれの笑顔です。
「何事も経験。れんこんがどんなふうになっていて、どうやって収穫されているか。それを身体で理解できるなんて。いやはや、歩くだけでも大変なのに、こともなげにやっている農家の皆さんは、本当にすごい。これぞプロフェッショナルです」

作業後、JAにいがた南蒲大口れんこん生産組合の事務所で、穫れたての「大口れんこん」を試食しました。腕をふるってくれたのは髙橋秀信組合長です。
「シンプルイズベストですよ。れんこんの料理というときんぴらを挙げる人が多いけど、れんこん自体が新鮮でおいしかったら、きんぴらにするのはちょっともったいないと思っちゃうね。刻んでドレッシングかけるとか、一夜漬けとか、ごくごくシンプルな方がれんこんの風味を楽しめる。特に、「大口れんこん」はシャキシャキした食感と、豊かな甘みが持ち味だから」

髙橋組合長が用意してくれた料理は、茹でた「大口れんこん」に醤油と七味をかけたもの、青じそドレッシングをかけたもの、そして「大口れんこん」をキムチの素で和えたもの、と至ってシンプルです。

中村さんは一口食べて、驚きの声を上げました。
「えっ、こんなに旨いものなの!? 甘みが上品で、食感も小気味よくて。醤油と七味だけだけなのに……れんこんのポテンシャルって、ここまで高かったのか。これを肴に日本酒がいくらでも飲めそう。キムチもいいなあ、こちらは泡盛が合いそうだ」と箸が止まりません。醤油を塗って焼いた熱々にかぶりついた時には、目をつむってしばし豊かな風味にひたっていました。

「大口れんこん」の収穫は8月に始まり、翌年の5月まで毎日続く。残暑の時期、厳冬期はとりわけ厳しい作業になる。

れんこん堀機が高圧の水を吹き付けた場所を手探りして、れんこんを取り込んでいく。深い泥の中を進み、かがむ作業は足腰への負担が尋常ではない。

焼いた「大口れんこん」は、中村さんが無言になってしまった旨さ。れんこんはビタミンCやポリフェノール、食物繊維が豊富な健康食。喉の保護や花粉症などにも効くという人も多いという。

JAにいがた南蒲大口れんこん生産組合・髙橋秀信組合長の収穫を分けてもらった。「れんこんの収穫はきついけど、それは早朝から昼まで。あとはお酒を飲んだり自由に過ごせるから、いい人生ですよ」と髙橋組合長。

新潟プレミアムライブキッチン新潟伝統の里芋料理「のっぺ」に感服

里芋を使った新潟の郷土料理と言えば、のっぺい汁(のっぺ)。五頭温泉郷・村杉温泉の宿「長生館」の荒木善行総料理長に、「帛乙女」を使ってのっぺを作ってもらいました。のっぺは里芋の他、人参やゴボウ 、椎茸、こんにゃくなどを醤油味のダシで煮る料理。お正月とお盆、冠婚葬祭に欠かせない行事食であり、冬は温かくして、夏は冷やして一年中食べる家庭料理として、新潟県民に親しまれています。「長生館」ののっぺは貝柱からとったダシを使い、灰汁をまわさないように丁寧に煮ることで澄み切った汁に仕上げています。

中村さんは唸ります。
「衝撃的な旨さ。帛乙女の品質の高さと調理技術がなせる究極の料理ですね。正直、里芋がここまで旨い食材だと思っていなかった。独特のヌメっとした歯応え、ダシのうまみをたっぷり吸ったコクのある甘味。まいったな、これを食べちゃったら、他に何を作っていいものやら」

「大口れんこん」を使ったれんこん蒸し、「帛乙女」を使った里芋まんじゅうもまた、里芋やれんこんの無骨なイメージを覆す、繊細な味わいです。
「荒木さんの料理は洗練の極み。とても参考になりました。僕は我が道を歩んで、レシピを練っていきます」

「長生館」荒木善行総料理長による「のっぺ」と「れんこん蒸し」。どちらも素材特有の食感とダシとの相性のよさを生かした洗練の味。

のっぺのあまりのおいしさに恍惚とする。結局、お代わりして平らげた。

「里芋がこう化けるとは」と中村さんが称賛した「里芋まんじゅう」。裏ごしした「帛乙女」を揚げ出している。

新潟プレミアムライブキッチン連綿と続く新潟の醸造文化の象徴「摂田屋」

新鮮な海山の幸に恵まれた新潟。素晴らしい食材の魅力を最大限に引き出す味噌や醤油、日本酒など伝統的な発酵食品の文化が根付く地域でもあります。中村さんは“醸造の町”として知られる長岡市「摂田屋」地区を散策しました。旧三国街道に面する交通の要衝に位置、上質な地下水に恵まれた摂田屋には、江戸時代から味噌、醤油、日本酒などを醸造する蔵元が集積し、醸造文化が栄えました。長岡市は戊辰戦争や第二次大戦の空襲などで甚大な被害を受けたものの、摂田屋は奇跡的に難を逃れ、歴史的建造物が立ち並ぶ、風情ある街並みを今に残しています。

今も醸造を続ける5つの蔵のひとつ「味噌星六」は、無農薬・有機栽培の大豆を使い、添加物を使わない古式製法の味噌造りを守っています。熟成させた2年物や3年物も人気で、店頭には真っ黒になった10年物も。店主の星野正夫さんは、熟成度合いによる味の違いを解説します。
「1年目の新味噌は人間で言えば10代、ピチピチとし若さが魅力です。2年物は20代、3年物は30代。人間は家庭を持つこの頃からまるくなってきますが、味噌も角がとれてまろやかになってきます。以降、人間は円熟味を増していくように、味噌も味わい深くなっていきますが、10年物までになるとかなりクセが出てきます。そのクセは好みが分かれるところ。頑固な年寄りに接しても、『このクソじじい』と怒る人もいれば、『味のあるじいさんだ』とおもしろがる人もいますよね」
そう笑う星野さんに、「僕はクセのある10年物、好みです。ちびりちびりなめるだけで、日本酒が止まらなくなって、楽しくなってくる」と中村さんは笑い返します。

創業470年、日本酒蔵として新潟県で最も歴史のある「吉乃川」では、酒蔵ならではの「米麹」を副原料としたクラフトビールを試飲し、摂田屋を後にしました。

古い醸造蔵など歴史的建造物が立ち並ぶ摂田屋地区。その多くが現役で使われており、時折、味噌や醤油の香りが漂ってくる。

「味噌星六」の店主・星野正夫さんに熟成した味噌の魅力をうかがう。「うちのお袋はいちばんの年代物で、106歳。まだかくしゃくとしているのも、味噌を食べているおかげかな」と星野さん。

日本酒蔵「吉乃川」を訪ねた中村さん。「すべては地下から汲み上げる信濃川の伏流水のおかげ。ミネラルをバランスよく含む清冽な軟水を仕込み水に使うことで、吉乃川の飲み飽きしない味わいが生み出されています」と蔵元の川上麻衣さん。

「吉乃川」の敷地内にある酒ミュージアム「醸蔵」にて。今年、新潟県内限定で蔵出しとなった発泡性純米酒「酒蔵の淡雪プレミアム」を試飲して、「まさに淡雪という印象の繊細なスパークリング。桃のような香りが心地いい」と中村さん。

移動中、業務用のダシや鰹節などを製造する「フタバ」の中央研究所へ立ち寄った。最新科学によって、謎に満ちていたうまみの世界は少しずつ解明されつつあるという。

フタバ中央研究所には、一般家庭向けのブランド「ON THE UMAMI」のショップが併設。鰹節や昆布など定番のダシの他、野菜4種のダシ、離乳食用など多彩な商品が揃う。

コーヒーのように、ハンドドリップで抽出したダシも味わえる。中村さんもスープとも違った新感覚のドリンクを堪能した。

新潟プレミアムライブキッチン入魂の中村孝則流料理術に、乞うご期待

充実したリサーチになったと満足する中村さん。オリジナルレシピの方向性も見えてきているようです。貴重な食材「帛乙女」と「大口れんこん」を堪能するスペシャルなオンライン・クッキングイベント『NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.2』。その参加資格を勝ち取って、中村孝則入魂の料理を一緒に楽しみましょう。
まずは、応募を。

↑ボタンをクリック後、パスワード欄に"niigata"とご入力ください。

旅の中で登場した商品は、こちらから購入できます。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。http://www.dandy-nakamura.com/

Photographs:KOH AKAZAWA
Text:KOH WATANABE

(supported by 新潟県観光協会)

『DINING OUT』から2年、琉球王朝時代からの聖地を舞台に地元スタッフだけでつくる幻のレストラン。[Sanctuary Dining/沖縄県南城市]

2018年に開催された「DINING OUT RYUKYU-NANJO」の感動が地元有志の力で蘇ります。

サンクチュアリ ダイニング「祈りの場」を舞台にしたレストラン、その感動を再び。

日本のどこかに数日間だけ現れるプレミアム野外レストラン『DININGOUT』。2018年11月に沖縄県南城市で開催された『DINING OUT RYUKYU-NANJO withLEXUS』は、琉球王朝創世の地を舞台に、『志摩観光ホテル』の総料理長・樋口宏江シェフが腕を振るい、参加したゲストを深い感動の渦に巻き込み、大盛況のうちに幕を閉じました。

15回目にして初めて女性シェフが厨房を預かることになったのは、琉球創世記の神話に登場する女神・アマミキヨにちなんでのこと。レセプションは五穀発祥の地で、沖縄県内でも最高の聖地といわれる久高島で行い、琉球王朝時代以前から続く拝所の一つ、知念城跡がメイン会場となりました。テーマは、「origin いのちへの感謝と祈り」。山羊やアグー豚、イラブー(ウミヘビの加工品)などの食材を、地元の食文化に寄り添う形で、まったく新しいフランス料理の一皿として表現。ライトアップされた知念城跡の幻想的な美しさ、神聖さとともに、土地の歴史と神秘性、豊かさを余すところなく伝え『DININGOUT』の歴史に新たな1ページを刻みました。

その感動から2年を経た2020年12月、再び南城市を舞台にした夢の野外レストランが『Sanctuary Dining』として蘇ります。主催は地元事業者を中心に設立されたSanctuary Dining in Nanjo実行委員会。開催にかける思いについて、2人のキーパーソンに話を聞きました。

県内最高の聖地として名高い久高島。カベール岬へ続く道は豊かな自然が、祈りの場として古くから形を変えずに残されている。

「DINING OUT RYUKYU-NANJO」で腕を振るった『志摩観光ホテル』総料理長の樋口シェフ。見事に地元の料理人をまとめあげた実績が、2年の時を経て繋がる。

沖縄の食文化を尊び、地元生産者、料理人すべての想いを一皿にした「ぬちぐすい」。

サンクチュアリ ダイニング次は地元から。食を通じた地域文化の発信・継承を、一回で終わらせないために。

キーパーソンの一人目は、南城市役所勤務の喜瀬斗志也氏。2018年の『DININGOUT RYUKYU NANJO with LEXUS』開催時は、主催地側の中心スタッフとして会場の提案、決定から開催までのあらゆることに尽力。琉球王国の歴史、神話、祭礼や伝統食文化について樋口シェフ、ホストを務めたコラムニストの中村孝則氏をはじめとする関係者にレクチャーし、二夜の宴を大成功に導いた影の功労者でもあります。

南城市には「琉球王朝のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に指定されている斎場御嶽をはじめ、国が重要文化財に指定する史跡を6か所も有する南城市。『DININGOUT RYUKYU NANJO with LEXUS』の話が浮上したのは、それらの有効な活用方法についての議論が進んでいた時期だったといいます。
「歴史公園などにするのが一般的ですが、ハード面だけでなく、ソフト面も含め、文化を発信する場として活用したい。そんな風に考えていた我々にとって、地域の多くの人々が関ることができて、歴史、伝統、食文化を包括的に発信できる『DININGOUT』は非常に魅力的で“これだ!”と、開催地として名乗り出たのです」

二夜のレストランを経験し、ハード面の整備ありきで考えていた史跡活用法が、がらりと変わることに。このままで、ありのままの姿で、場の力を十分に伝えられる。そのカギが、自分たちの足元に無数に眠っていたことに気付いたのです。
「この経験を、一回限りで終わらせないために、自分たちの手で、等身大の形で続けていきたい。そんな思いからSanctuary Dining in Nanjo実行委員会を立ち上げました。『DININGOUT』の反省点もある。例えば、南城市には素晴らしい食材がまだまだたくさんあり、それらをしっかりプレゼンすることで、広く沖縄ではなく、よりこの南城という地にフォーカスする形にできたのではないか、というようなこと。Sanctuary Diningに限らず、今後の課題にしていきたいです」

もう一人のキーパーソンは、『Sanctuary Dining』の一日目と二日目に料理長を務める那覇市の郷土料理店『月桃庵』の屋比久保シェフ。『DININGOUT RYUKYU NANJO with LEXUS』開催時は、地元のキッチンスタッフを束ね、樋口シェフの右腕として活躍したベテラン料理人です。土地の食文化を伝える宮廷料理に取り組み、地元食材に関する知識も豊富な沖縄を代表するトップシェフ。

「『DININGOUT』と樋口シェフから学んだことの大きさは計り知れません。一番は食材からの発想力。イラブーの料理といえばイラブー汁と、地元の人間ほど固定概念にとらわれがちですが、予想もしない料理で、食材の素晴らしさとその背景を余すところなく伝えて下さった。スタッフ同士もほぼ初対面という“寄せ集め”チームをまとめ上げる厨房での統率力も、圧巻でした」

沖縄県内のホテル勤務を経て、2017年、『月桃庵』の料理長に就任して以来、伝統に即し、ときに創作を織り交ぜながら、より深く沖縄の食の魅力を発信し続けてきた屋比久シェフ。『Sanctuary Dining』の記念すべき第一回目は、やはり「宮廷料理で勝負したい」と話します。
「今回は、料理とあわせ、甕仕込みの古酒を含む泡盛とのペアリングをお楽しみ頂く予定です。琉球王朝時代、中国王朝への献上品としてつくられた琉球漆器の最高峰で、東道盆(トゥンダーブン)と呼ばれるお盆や、カラカラ、ちぶぐゎーといった伝統的な酒器をはじめ、器にもご期待下さい」

写真中央がキーパーソンの一人、南城市役所の喜瀬斗志也氏。裏方から地元スタッフ全員を支えたイベント成功の功労者。

重要文化財でありながら注目されて来なかった知念城跡も、演出の仕方で魅力的にできるという事を肌で感じた喜瀬氏。

写真右が屋比久シェフ。樋口シェフをフォローしつつ、自身もたくさんの学びがあったという。

沖縄の伝統食材・イラブーの生産者。『DININGOUT』の食材として、樋口シェフに紹介したのも喜瀬氏だった。

樋口シェフはイラブーをクロケット(コロッケ)にして提供。地元料理人の固定概念を覆した。

サンクチュアリ ダイニング「聖地×食×文化」が織りなす感動を南城から世界へ、『Sanctuary Dining』始動。

『Sanctuary Dining』は2020年12月11日(金)、12日(土)、13日(日)の3日間に渡り開催されます。会場は、『DININGOUT RYUKYU NANJO with LEXUS』と同じ知念城跡。『月桃庵』の料理長・屋比久保シェフと、山羊料理をメインにしたフレンチとして人気を博す『ビストロ ル・ボングー』の山口慎一シェフが厨房に立ち、ゲストを迎えます。ディナーの翌朝早くには、開場前の斎場御嶽を訪れ、黄金(くがに)色の朝日を拝む『Sanctuary Dining』参加者限定のオプショナルツアーも用意されています。

「守礼の邦=礼節を重んじる国」として、訪れる外国人をもてなしてきた琉球王国。特に中国皇帝から派遣された冊封使のもてなしに力を注ぎ、その歴史の中で育まれてきた宮廷料理や御用酒である泡盛、宴とともにあった芸能は、今も変わらず沖縄の人々の誇りであり続け、日常の中で親しまれています。王国時代から続く祈りの場を舞台に、個性豊かな沖縄食材の恵みや、神聖な琉球文化を体感できる『Sanctuary Dining』。琉球王朝神話における「はじまりの地」で、感謝や祈り、生命の起源にふれる特別なひとときは、単なる美食体験に終わらない特別な時間になるはずです。

Day1 : 12/11() 18:3021:15(琉球懐石料理,18時開場)
Day2 : 12/12() 18:3021:15(琉球懐石料理,18時開場)
Day3 : 12/13() 18:3021:15(琉球フレンチ,18時開場)
場所:知念城跡(沖縄県南城市知念字知念)
¥59,800(税込)/お一人様あたり
http://sanctuary-dining-nanjo.com/index.html#food

「本当の豊かさとは何か。今こそ、田舎に目を向けてもらいたい」pejite/仁平 透・君島北斗

「やりたいことをやる」という姿勢を貫いた仁平氏。「それができたのは、益子を始め、近隣の街に、やりたいことをやり、認められている良き先輩たちがいたからでした」。

旅の再開は、再会の旅へ。『pejite』同様、これからの未来に必要とされることは「リペア」の概念。

150年以上も前に生まれた益子焼を始め、様々な分野の作家が活動する栃木県芳賀郡益子町。

東京から車で2時間ほどの「田舎」ですが、年2回行われている「陶器市」や個性のあるショップ、カフェが話題となり、県外からも高感度な人たちが多く集まってきます。

そんな益子を代表するお店のひとつ『pejite』は、『仁平古家具店』を運営する仁平透氏が2014年にオープンしたセレクトショップです。築60年以上の大きな石蔵を舞台に、リペアした古家具のほか、陶器やアパレル、雑貨などが並んでいます。

『pejite』最大の特徴は、その空間を体感することにあり、「どこにいてもものが買える(売れる)時代だからこそ、実店舗に足を運ぶおもしろさを伝えようと努力してきました」と仁平氏は話します。

しかし、新型コロナウイルスによって生活は一変。人々は、旅を始めとした行動を奪われてしまいます。

「当店のある栃木県益子町は観光地でもありますが、新型コロナウイルスによって来客数が激減しました。4~5月は、特に辛い日々が続きました」と話すのは、スタッフの君島北斗氏。

人の動きが停止してしまったゆえ、インターネットとの共存は避けて通れません。通常であれば当たり前のことですが、店舗での体感を大切にしてきた『pejite』にとっては苦渋の決断でもありました。

「あくまで僕たちが大切な場所は実店舗であることに変わりはありませんが、今はインターネットの力も借りて、この先を乗り越えていこうと思います」と仁平氏。

一方、足を運べなくなったファンにとっては嬉しいことでもあり、「オンラインショップは、反応の高さを感じます。家での時間が増えたことによって、生活を見つめ直し、当店で取り扱っているような家具や器のようなインテリア全般が再注目されているように感じます。現在は以前より更にオンラインの更新に力を入れています」と君島氏。

益子は『pejite』同様、体感の街。前出の「益子陶器市」を始め、多くの来客を誇る人気イベントは軒並み中止になってしまいました。お盆を境に少しずつ人が戻ってきてはいるものの、不安な日々は続いています。

「益子は都心からもほどよい距離のため、日帰り旅行が可能な場所ということがとても恵まれていると思います。時間がゆっくりと流れ、少し車を走らせれば自然豊かな風景も広がります。新型コロナウイルスによるストレスを癒す場所としてもお勧めです。コロナ禍でも無理なく行ける場所として、これから更に注目される土地になると嬉しいです。まだまだ油断できない状況が続きますが、自分たちはできること(仕事)をするだけです。 暗い気持ちにもなりがちですが、この状況をプラスに変えられるように努めたいと思います」と君島氏。

「新型コロナウイルスの感染拡大によってリモートワークなどが当たり前になりつつ今、 これからは東京離れが視野に入る人も少なくないと感じています。 こんなときこそチャンスと考え、自分の住む町の魅力をどんどん発信し、 移住のきっかけになってくれたらと思っております。 本当の豊かさを改めて考え、東京だけではなく、田舎にも目を向けてもらえると嬉しいです」と仁平氏。

以前の取材時、仁平氏はこう語っていました。

「こだわったのは、インターネットという販路でなく、あえて店舗を持つこと」。

「やりたいことをやる」という姿勢を貫いてきた仁平氏が今やりたいこと、それは今も変わらず、実店舗にあります。

昨今、様々なテクノロジーや文明の進化は、地球や人類が生きるスピードを超えてしまったのかもしれません。

新型コロナウイルスによって立ち止まざるを得ない時間をあえて好転して捉えるのならば、『pejite』の古道具同様、環境のリペア。

丁寧にリペアされたものは新たな価値を生みます。

そんな未来を信じ、『pejite』は今日も前を向いています。

蔦(つた)にびっしりと覆われた趣のある建物。作家の手による古材を使った扉に、仁平氏らしいセンスが漂う『pejite』の外観。

店内には、明治から昭和初期にかけて作られたショーケースや棚など、大型の什器の数々が並ぶ。それらの存在も手伝い、空間を回遊すれば不思議とノスタルジックな気分に浸ってしまう。この感覚こそ、実店舗だからこそ得られる体感の醍醐味。

リペアされた家具は、インターネットでも販売されていますが、新型コロナウイルス収束後は、是非、直接見て、触り、その風合いの良さを感じてほしい」と仁平氏。

住所:栃木県芳賀郡益子町益子937-6 MAP
電話:0285-81-5494
http://pejite-mashiko.shop-pro.jp/

Text:YUICHI KURAMOCHI

「今でも必要としてくれるお客様がいる限り、私は小さな火を灯し続ける」nagaya./吉田絵美

「3〜4月ごろの暗澹たるムードは少し薄れ、 どうやって対策をしながら過ごすか、光明は見えてきている雰囲気はあります。日本の感染者や死亡率が少ないことも、何十年後かの科学が理由を解明してくれるのかもしれませんね」と吉田さん。

旅の再開は、再会の旅へ。「日々の生活を彩るものが、こんなに気持ちをホッとさせてくれるんですね」。そんなお客様の言葉に救われた。

徳島県徳島市沖浜町。JR徳島駅からふたつ目の二軒屋駅より歩いて10分ほどの何の変哲もない住宅街に『nagaya.』はあります。その舞台となるのは、その名の通り、築50年の「長屋」です。

オーナーの吉田絵美さんの祖父母が借家として長年使っていたというそこは、およそ10年間誰も住んでおらず、まもなくその役目を終えようとしていました。そんな時、吉田さんがここを『nagaya.』として蘇らせたのです。

紆余曲折ありながらも順調に歩みを進めていましたが、「まさかこんな世の中になるとは誰も予想できませんでした……」と吉田さん。理由はもちろん、新型コロナウイルスによるものです。

「3月ごろから新型コロナウイルスが騒がれ始め、お店ではマスクを着用し、感染拡大防止に気をつけながら営業を続けていましたが、4月からお客様が激減。緊急事態宣言下では店舗をお休みしていました。決まっていた展示会を延期したり、オンラインへ移行したりと毎日ニュースで状況を観察しながら、それに対してお店をどうするか考える日々。情報収集と意思決定、実行を続け、慌ただしく過ごしていました。6月には県内のお客様は戻り始め、常連のお客様とは近況報告をしながらお顔を見て話せる喜びを改めて実感しました。9月ごろからは県外のお客様も戻り始めて、マスクをつけて感染対策は万全にするという違った景色ではありますが、徐々に元の店の日常に戻りつつあります」。

『nagaya.』は、生活雑貨を扱うショップとカフェを併設するお店です。ショップでは焼き物を中心とした食器類を展開し、特筆すべきは作家と吉田さんの関係性が強く結ばれていること。ゆえに、以前の取材時にも「これはどんな作家さんの焼き物ですか?」と尋ねれば、「この作品を作った方は佐々木智也さんといって、実家が妙楽寺というお寺なんですよ。だから名前は妙楽窯。住職として後を継ぐ一方で、作家さんとしても活動しているんです。境内の横にある自宅の庭に窯があって、土も自分で持ってきて作品に使うなど、チャレンジ精神旺盛な方ですね。最近はモダンな形の作品が増えている気がします」と、丁寧に解説をしてくれたのは、今でも記憶に新しいです。

今回、『nagaya.』の難局を救ったのは、そんな「もの」たちでした。

「もしカフェのみであれば、緊急事態宣言中の売り上げはゼロでした。私は、作家さんが作ってくださったものに救われたのです。というのも、2020年4〜5月の緊急事態宣言ごろから、今まで細々とやっていたオンラインショップの売り上げが急に伸び始めたのです。現在は予約制を取り入れ、店舗も再開し、感染対策をしっかりしながら通常営業に戻しています。喫茶スペースは4月からしばらく閉めていたのですが10月から席を減らしメニューを限定して再開しています。ただ、飲食店だけの方々はまだまだ厳しい状況が続くと思います。今後も厳しい業界には引き続き補助金などの検討も視野に入れて頂ければと思います」。

そんな暮らしの変化は『nagaya.』だけではなく、街や地域も同様です。

「徳島県は7月ごろまで感染者が少なかったので、正直、県外の方に排他的なムードで息苦しさがありました。7月から数カ所でクラスターが発生し、8月の阿波踊りも中止になってしまいました。お盆は例年一番お客様が多い時期なのですが、2020年は寂しい夏でした。9月以降は県内外のお客様も戻ってきているので、徐々に感染対策をしながら暮らしていくという方法が浸透していっている雰囲気はあります。また、店舗でお客様の客単価が上がっているようにも感じました。徳島は唯一の百貨店が今年の夏撤退するくらい、神戸や高松で買い物をする方が多いのですが、なかなか外出ができないこともあり、県内の小売店でまとめて購入しているのだと思います。地元でのお買い物の良さが見直されているのではないかと感じています」。

前述にあった作家との関係性が最たる例ですが、吉田さんが大切にしていることは「普遍的な仕事」。以前は東京でもデザインやインテリアに携わるも「トレンドと普遍の溝を感じていた」と言います。

そんな葛藤をしていた時、祖母の訃報が届きます。更に難は容赦なく襲いかかり、帰郷するために徳島へ向かう羽田空港で起こったのが3.11の東日本大震災。人生を大きく変えた出来事であり、同時に徳島で一からスタートをしようと決意したきっかけにもなりました。

「今回の難局で一番顕著だと思ったことは、弱者がより辛い状況になるということ。学生さんやお年寄りが不自由な暮らしをしていると思います。学校は今までのように授業を受けられるよう、万全な運営をすることを一番優先して欲しいです」と話す吉田さんは二児の母でもあります。

当たり前は、当たり前ではない。自分以外の誰かのことを気遣い、日常に感謝する。これは、今こそ、ひとり一人が感じなければいけないことだと思います。

苦しい渦中、吉田さんの心を救ったのは、あるお客様から言われたひと言でした。

―――
コロナ禍でも日々の生活を彩るものが、こんなに気持ちをホッとさせてくれることもあるんですね。
―――

「心に染み入りました。不要不急と思われる弊店のような雑貨店でも、必要としてくださるお客様がいらっしゃるという喜び、感謝、そして、勇気を頂きました。徳島の片田舎ですが、小さな火を長く灯せるよう営業していますので、もしご興味湧きましたらお立ち寄りいただければ幸いです」。

長屋の面影を残すカフェスペース。趣のある店内は、つい長居してしまう居心地の良さがある。

丁寧に並ぶ作品の数々。「作家さんの展示会はしばらく並行してオンラインショップでも販売します。ぜひご覧いただければと思います」と吉田さん。

以前の取材時、文中にも引用した佐々木さんの作品。伝統的な器の形である輪花や八角が人気。釉薬の種類が豊富で色違いも。佐々木さんの作品は現在、店頭にて展示会を実施中。11月17日からはオンラインショップでも販売開始。

住所:徳島県徳島市沖浜町大木247番地 MAP
電話:088-635-8393
http://nagayaproject.com/

Text:YUICHI KURAMOCHI

「地域の結束力はより強固に。今もこれからも、瀬戸内の価値を信じている」瀬戸内リトリート青凪/吉成太一

「『瀬戸内リトリート青凪』だからこそ提供できる“非日常体験”に大きな価値があると信じています。皆様の再開の旅で、お目にかかれますよう、ホテルスタッフ一同、お待ち申し上げております」と総支配人の吉成氏。

旅の再開は、再会の旅へ。学びは忘れず、常に進化し続ける。それは難局の渦中にあっても変わらない。

標高450m、総面積3,500㎡に対し、客室はわずか7部屋。天然温泉も有するそこは、本館、別館から成り、その全てが規格外。

瀬戸内が持つ風光明媚を独占できる『瀬戸内リトリート青凪』を手がけたのは、日本を代表する建築家、安藤忠雄氏です。

『ONESTORY』が出会ったのは、遡ること2018年。その後、数々の快挙を成し遂げますが、新型コロナウイルスによって迎える試練は、例外なく訪れています。

2015年の開業から2020年にかけ、我々『瀬戸内リトリート青凪』はお客様と優秀なスタッフ、地域のサポーター様に恵まれ、順調に成長を重ねて参りました。(『ONESTORY』の)取材後の2018年には、国内系ホテル初のミシュラン最高評価やワールドホテルアワード3冠、40ヶ月連続売上増などの記録を得ることができました。しかしながら、新型コロナウイルスによって緊急事態宣言が発令され、我々も4月から2ヶ月の休業を余儀なくされてしまいました」と話すのは、総支配人の吉成太一氏です。

吉成氏は、以前の取材でこんな言葉を残しています。
「同価格クラスなら“良い宿”であることは当然。その中でいかに突出した宿になれるか」
「安藤忠雄建築だけではダメ。僕たちは安藤先生に勝ちたい」。

『瀬戸内リトリート青凪』は作品なのか、ホテルなのか。

もちろん答えは後者ですが、安藤建築はそれほどまでに圧倒的存在感を放ちます。

当時、「安藤忠雄建築を入り口として泊まりに来るゲストがほとんど。しかし大事なことは、その中でサービスがずば抜けている、あるいは料理が抜群に美味しいという理由でお客様にリピートしてもらうこと。安藤忠雄建築というウリ文句にあぐらをかいていては、決して“スペシャル”にはなり得ないのです」と吉成氏は話を続けていました。

ゆえに、休業中も努力の歩みは止めず、更に進化したスペシャルをお客様に提供できる日に備え、できることを一丸となってしてきました。

「新型コロナウイルスによって止むを得ず迎えた休業中は、チーム全体で毎日のようにオンライン研修で学びを深めてきました。 新しいマーケティングや財務スキルなど、普段はホテルオペーレーション以外で接する機会が少なかったことにも積極的に向き合い、知識を深めてきました」。

2020年5月に緊急事態宣言は解除。6月から再始動した『瀬戸内リトリート青凪』は、その力を存分に発揮します。

「スタッフ皆で得た学びを再オープンと同時にアウトプットし、アートイベントなどの新企画を多数スタートさせてまいりました。もともと3密が発生しない構造の『瀬戸内リトリート青凪』は、GoToトラベルのスタートと同時に非常に多くのお客様がお戻りになり、大変ありがたいことに8月以降は過去最高の稼働が続いています」と吉成氏。周囲の様子も訪ねると「インバウンドのお客様も多かった道後温泉や松山城など、主力の観光地は、例に漏れず一時ゴーストタウンのような状態と化してしまいました。しかしながら、ローカルのパワーと結束力は力を増し、今は多くの国内の観光客で賑わいを取り戻しています」と言葉を続けます。

しかし、終息を迎えたわけではありません。両手を上げて喜べない件もあり、表裏一体の日々。

「政府の施策により旅行者が多くなったことは喜ばしい反面、もしGoToトラベル起因によって我々のホテルで感染者が出てしまった場合どうしたら良いのか……という心配も抱えています。実際に瀬戸内内ホテルでも感染者が出てしまい、休業を余儀なくされてしまいました」。

経済の再開は必要とされるも、それによって新たに生まれる懸念への補償が約束されているかと言えば、そうではありません。注意深くするも目に見えない相手ゆえ、一刻も早く「日常」が戻る日を願うばかりですが、美点の「非日常」が広がるのが『瀬戸内リトリート青凪』の最大の魅力。

「我々は、ホテルが提供する“非日常体験”にこそ大きな価値があると信じています。コロナ禍において、我々の日常は大きく変化してしまいした。しかしながら『瀬戸内リトリート青凪』は、今もこれからも圧倒的な“非日常体験”をお客様にご提供できればと思っています。体験した全てのお客様が、この宿泊体験によって何かを感じ、それがその方の人生にとってより良いものとなれば、それに勝る喜びはありません。皆様の再開の旅で、お目にかかれますよう、ホテルスタッフ一同、お待ち申し上げております」。

森に突き出すように延びる『瀬戸内リトリート 青凪』の象徴的なデッキプール「INFINITY POOL」。時間帯により様々な表情を見せる。

瀬戸内リトリート 青凪』オリジナルの寝湯が備わる浴室。湯には天然温泉が引き湯される。

天井高約8m、広さ約170㎡を誇る『瀬戸内リトリート 青凪』最上級の客室「THE AONAGIスイート」。

住所: 〒799-2641 愛媛県松山市柳谷町794-1 MAP
電話: 089-977-9500
http://setouchi-aonagi.jp/

Text:YUICHI KURAMOCHI

Vol.4 料理とシャンパーニュの、果てのない可能性。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・アルテレーゴ/東京都千代田区神田神保町]

本に生きる角田さんにとっては馴染みある街、神保町が今回の舞台。「アルテレーゴ」の平山シェフは、どんなペアリングで角田さんをおもてなしするのか!?

アルテレーゴ × 角田光代

 路地を入ると、杉玉の下がったお店がある。和食のお店だろうと通り過ぎようとして、「アルテレーゴ」の看板に気づいた。
 濃いグリーンの壁が印象的な、すっきりした店内だ。お店に入ってすぐ右手に大きな機械が置いてあり、私はてっきり飾りとしてミシンを置いているのかと思ったのだが、生ハムを切る器機だという。いろんなことがさりげなく意外なリストランテである。
 今日の料理は「ボタンエビのタルタル」。シェフの平山秀仁さんが冷蔵庫から取り出して見せたくれたのは、海老の昆布締めならぬ生ハム締め。薄く切られた淡い桃色の生ハムのなかに、これまた淡い桃色の海老が並んでいる。その海老を細かく叩く。なんという贅沢な料理だろう。
 鍋にだいだい色の粒と少量の水を入れ火にかける。「クスクスに見立てた乾燥にんじんです」と平山さん。戻した乾燥にんじんと、みじん切りにした落花生のコンフィをエビのタルタルに混ぜる。にんじんがとびっこに見える。そのタルタルを器に置き、レモンジェルを少々、それからラルドと呼ばれる塩漬けした豚の油をかぶせるように敷いていく。それを、軽く火であぶる。エビの桃色とにんじんのだいだい色が、溶けた油の下からふわっと浮かび上がる。フェンネルの花、にんじんの葉、粉末状の乾燥黒オリーブをかけて、完成。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/作家・角田光代が体験する「食べるシャンパン。」の特別連載エッセイ!

今回、平山シェフが「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」とのペアリングのために考案した料理は、「ボタンエビのタルタル」。丁寧に時間をかけた仕事と高い技術から生まれた味わいは、そのシンプルな料理名では語りきれない。

「食材はイタリアのものが多いですが、調理法は和の技術を活かしています」と平山シェフ。

昆布締めの要領でボタンエビを生ハムで締め、旨味を移し、タルタルに。「生ハムを食材としてではなく、調味料として採用するチャレンジしたメニューでもあります」と平山シェフ。

ニンジンをクスクスに見立てるために薄くスライスし、乾燥させ、細かく刻む。更に水に戻すと食感まで似る。それをバターと一緒に火にかける。一口だけ頂いた角田さんは「甘い! そしてニンジンの味か濃い!」。

生落花生にゆっくりと火を入れ、ホクホクに。角が取れた食感は、ねっとりとしたエビのタルタルと相性抜群に。

豚のラルド(背脂)を塩漬けし、胡椒、にんにく、ローズマリーとともに熟成。今回の料理は、それを薄くスライスし、エビのタルタルと合わせる。「角田さんが豚の脂が好きだという情報を見つけて料理に取り入れてみました」と、はにかみながら話す平山シェフ。「バーナーで炙ってラルドを溶かし、甘みを感じやすくします」。

薄く切った豚のラルドは、手のひらの体温で徐々に溶けてゆくほど。豚の品種は、イタリアはトスカーナ、シエナ産のチンタセネーゼを使用。

上記、豚のラルドを一口食べた角田さんは、「うーん!! 美味しい!!」とにっこり。

イタリアンだが入口には杉玉が。料理同様、レストランの容姿にも和の要素を取り入れる。更に言えば、ここは以前、和食の名店『神保町 傳』跡地。様々な角度からイタリアと日本が交錯する。

アルテレーゴ × 角田光代

 完成した品はもちろんのこと、料理の工程すべてがすでにうつくしい、なんと手の込んだ一品だろう。食べるのに緊張してしまう。
 ラルドの上品な脂気、エビのねっとり感、生ハムの塩気とうまみ、にんじんのつぶつぶ、落花生の香ばしさとコリコリした食感、フェンネルの香り、レモンの爽快さ、ほのかにこっくりしたバター……、と、びっくりするほど一口の情報量が多いのだが、口をついて出る言葉は「おいしい!」の一言。よく知っているような気がするのに、食べたことのないおいしさだ。
 コントドシャンパーニュを飲む。エビのタルタルが力強くて繊細なことがよくわかる。そして、このシャンパーニュの味と風味が、じつにしっかりしていることがあらためてわかる。この一品はコントドシャンパーニュの味を消さずに引き立てて、料理の味も消えずに引き立てられる。
 テタンジェの特徴は力強さだと平山さんは言う。それに合わせる料理としてコントドシャンパーニュに負けないものは何かと考え、このタルタルを思いついたそうだ。素人の私からしてみれば、いったいどのようにボタンエビを思いつくのか、いや、思いついたとしても、なぜそれを生ハムで締めようと思いつくのか、なぜ乾燥にんじんを、なぜ落花生のコンフィをまぜこもうと思いつくのか、まったく発想のみなもとがわからない。思いついたものが、実際にこうしてコントドシャンパーニュの強さに負けず、たがいの魅力を引き立て合っているのだから、感嘆するほかない。

コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランは柑橘系の味わいも感じるリッチな味わいなので、それに合わせてレモンのジュレを少しだけ料理には忍ばせています」と平山シェフ。

ニンジンのクスクスは、まるでボタエビの卵のような見た目で馴染む。薄く切った豚のラルドの上にはニンジンの葉とフェンネルの花を添える。黒いパウダーは黒オリーブを乾燥させたもの。

「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」はボリュームのある味わいなので、料理も力強く。「豚のラルドとエビのねっとりした味わいが相乗効果を生み、より深みを出しています」と平山シェフ。

「イタリアンはもっとシンプルな仕上げの印象ですが、平山シェフの料理は良い意味で複雑。それがまたコント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランと良く合うと思います」と角田さん。

アルテレーゴ × 角田光代

 アルテレーゴは、ミラノで、はじめてミシュランの星を獲得した日本人シェフ、徳吉洋二さんの店である。ミラノの徳吉さんとともに働いた平山さんが、アルテレーゴのキッチンをまかされている。アルテレーゴは「分身」という意味だ。
 平山さんがいちばん重要視しているのは何かと訊くと、「調和、バランス」だという答えが返ってきた。一品としてのバランス、コース全体の流れを通してのバランス、店内の雰囲気を含めてのバランス。そして、お客さんに楽しんでもらえる空間作りに心を砕いているとも話す。食事はリラックスして楽しむもの、というのが平山さんの信念だ。そのためにはシェフもスタッフもその場を楽しまなければならない。緊張しているお客さんがいれば、その緊張をほぐす。ミラノのお店では厨房にいてお客さんの表情を見る機会はなかった。けれどここ、アルテレーゴはカウンター中心なので、お客さんの様子がよくわかる。それぞれの表情を見ながらやりとりをする。

「いわゆるラグジュアリーなレストランの良さもありますが、カウンターでお客様の表情を見ながら料理をしたかった」と平山シェフ。取材時も角田さんと会話がはずむ。

「一番大切にしていることは、エクィリーブリオ。イタリア語でバランスや調和という意味になります。食材同士の調和、料理とコント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランの調和。それを意識して考案しました」と平山シェフ。それをメモする角田さん。

アルテレーゴ × 角田光代

 ふだんのアルテレーゴはコース料理中心で、しかも、各皿とともにスープが出るのだという。スープと料理のペアリングを楽しむというコンセプトだ。料理とスープ、あるいはごはんとおかずなど、異なるものを口に含み、口のなかで混ぜ合わせて味わうことを「口中調味」というのだと平山さんに教わった。これができるのは日本人だけなのだという。まさに料理とスープという構成は、口中調味をたのしむためにある。シャンパーニュと料理の、こんなに完璧な組み合わせを思いつく平山さんだから、スープと料理もきっと一筋縄ではいかないのだろう。ただ「合う」だけではなくて、足し算引き算、かけ算割り算と、味も香りも食感も、無限に楽しめるのに違いない。

「最初は、ミシンかと思いました!(笑)」と見まごう角田さん。薄く綺麗に切れる生ハムは香りも豊かで、皿に並んだそれを見てうっとり。

手際よく生ハムを切る平山シェフ。「この器具は、ベイケルというイタリア制の老舗ブランドです。スライサー界のフェラーリって言われてるんですよ!」。

「まず手にかけて、香りを嗅いだ後に……」と、平山シェフより本場の生ハムの食べ方を指南される角田さん。その生ハムは、24ヶ月熟成のパルマ産・ガローニ。ほど良く効いた塩味となめらかな味わいが特徴。

店名である「アルテレーゴ」の意味は、ラテン語で「分身」。ミラノに本店を構える「リストランテ・トクヨシ」の分身という位置付けであり、両店のキーカラーはグリーン。角田さんのファションもグリーンだったため、「ご存知でお召しになってきてくださったのですか?」という平山シェフに対して「偶然です(笑)」と角田さん。

住所:東京都千代田区神田神保町2-2-32 MAP
TEL:03-6380-9390(ご予約:050-3184-4001)
https://alterego.tokyo

1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。1990年『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。1996年『まどろむ夜のUFO』で第18回野間文芸新人賞、1998年『ぼくはきみのおにいさん』で第13回坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で1999年第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年第22回路傍の石文学賞、2003年『空中庭園』で第3回婦人公論文芸賞、2005年『対岸の彼女』で第132回直木賞。2006年『ロック母』で第32回川端康成文学賞、2007年『八日目の蝉』で第2回中央公論文芸賞、2011年『ツリーハウス』で第22回伊藤整文学賞、2012年『紙の月』で第25回柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、2014年『私の中の彼女』で河合隼雄物語賞を受賞。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/

Photographs:KOH AKAZAWA

(supported by TAITTINGER)

日本一の農産物に与えられる栄誉「天皇杯」に輝いた、行方市を代表する農産物。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・サツマイモ/茨城県行方市]

行方 ベジタブルキングダムOVERVIEW

年間60品目以上を生産し、通年新鮮な野菜を各地に出荷する行方市。そんな行方市を象徴する農産物をひとつだけ挙げるとしたら、サツマイモとなるでしょう。

なにしろサツマイモは『JAなめがたしおさい』の農業産出額およそ200億円のうち、実に約40億円を占めるほど。行方市では、多彩な品種を栽培し、そしてそれぞれの品種に合わせて熟成をかけることで、年間通じてサツマイモを出荷し続けているのです。

サツマイモは秋のもの、というかつての常識。しかし野菜王国・行方市が誇るサツマイモは、そんな歳時記さえも変えてしまうのです。
地元では甘藷(かんしょ)と呼ばれ、生産者の誇りでもあるサツマイモ。JAなめがたしおさい甘藷部会連絡会の現会長・高木雅雄氏の言葉をもとに、行方市のサツマイモの魅力に迫ってみましょう。

【関連記事】NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM/温暖な気候、肥沃な大地、豊富な水。年間60種以上の野菜が育つ、日本屈指の野菜王国。

Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

豊かな水資源に支えられ、多彩な米が育てられる行方市の多様性。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・愛鴨米/茨城県行方市]

行方 ベジタブルキングダムOVERVIEW

関東一の米どころ・茨城県。近年は米どころとしての認知度も定着し、コシヒカリ、あきたこまち、ミルキークイーンといった定番品種から、茨城県のブランド米であるゆめひたちや一番星、さらに古代米や餅米、加工用米など、多種多様な米が育てられています。

もちろん霞ヶ浦と北浦という2つの湖を擁し、肥沃な土壌に恵まれた行方市でも米栽培は盛ん。そして平野部が広く広大な耕作地が持てることから、他の地域ではないアプローチで農業が行われるのも、行方市らしさのひとつです。

通常よりも化学肥料や農薬の使用を半分以下に抑えた特別栽培で、『JAなめがたしおさい』が一丸となって研究して誕生した冷めてもおいしいと評判の「行方コシヒカリ」、そして農薬・化学肥料を使わずに育てられる愛鴨米。豊富なバリエーションは、行方の農業の底力と多様性をそのまま表しているのです。

日本の食卓になくてはならない米。今回は、食卓を彩るおいしい米の秘密を、行方市で探ります。

【関連記事】NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM/温暖な気候、肥沃な大地、豊富な水。年間60種以上の野菜が育つ、日本屈指の野菜王国。

Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

「地方はすごい! 再びそう言ってもらえるよう、僕は新潟を思う存分表現してゆく」Restaurant UOZEN・井上和洋

必ず誰でもがまた普通に旅が出来る日が来ると思います。その時に“地方ってやっぱり良いね!”、“田舎ってすごいね!”と言ってもらえるような店になっていたいです」と井上氏。

旅の再開は、再会の旅へ。この地でお店を続ける覚悟。その意志は、コロナ禍によってより強固に。

「顔が見える生産者が育てる野菜で作る料理」。
「野菜がたっぷりの身体に重くないフレンチ」。

今ではスタンダードになりつつあるヘルスコンシャスな料理を10年以上前から提唱し話題を集めた池尻大橋『HOKU』。オーナーシェフを
務めるのは、井上和洋氏です。ところが開店から7年目、人気絶頂のさなかに突如、お店を閉め、東京から姿を消してしまいます。


2013年、井上氏がたどりついた新天地は、新潟県三条市でした。

しかもそのロケーションは田んぼの真ん中にポツン。

そんな『Restaurant UOZEN』は、地元の人に愛されながら、県外からもゲストを呼ぶ店として成熟。夏は自ら佐渡沖まで釣りに出かけ、猟が解禁になる秋から冬にかけては、毎日のように山に出かける日々。失敗と工夫を繰り返しながら、パーマカルチャーの理念に基づき、循環型のライフスタイルによる野菜作りにも挑戦しています。

しかし、そのライフスタイルは、新型コロナウイルスによって一変してしまいます。

「新型コロナウイルス前は県外のお客様が中心でした。自粛から緊急事態宣言の発令がされた時は、お店の営業を一時停止し、再開した後は県内のお客様が中心になっています。ですが、今回の難局によって大きく変化させたことは特にありませんでした。強いて言えば、おせちの全国配送を検討していることです。これまでのおせち料理は県内限定に行っていたのですが、今年は全国配送の予定をしています。理由は、営業休止中に全国配送メニューを試みたのですが、ありがたいことにそれが好評だったため、それならばおせち料理もやってみようと」。

旅はできなくても『Restaurant UOZEN』の料理を食べたい、井上氏の料理が食べたい。全国のファンは、会えなくてもつながっています。

2020年10月現在、「県外への旅行には慎重な方も多くいらっしゃいますが、 新潟県は比較的、元通りに戻ってきているように思います。残念なのは、年配の経営者の方はこれを機に廃業を決断された方もいらっしゃったことです」。

そこで思うのは、もう少し補助や支援の制度が早かったら……。

「当店が位置する新潟県三条市の新型コロナウイルス対策の補償などは、各地方に比べても手厚くスピーディーな方だと思います。国の補償は2020年冬にどうなるかによって、その時に早急に対応できるような体制であってほしいと思います」。

地域の判断と政府の判断……。規模も体制も制度も異なるため、双方を比べるのは難しいかもしれませんが、そのスピード感は、国民の生活を大きく左右します。

経営者であればなおのこと。月末は待ってくれません。

そう言った意味では、後手になった政府の対応をただ待つだけではない新潟県三条市の対応は、地域住民にとって、どんなに心強く感じたかは想像するに難しくありません。

以前、井上氏は『ONESTORY』の取材にて、「きちんとした食材を使い、その味を感じられる料理を提供したい。東京時代から抱き続けてきた想いに新潟で血肉を通わせてきました」と話しています。

井上氏は香川出身。ではなぜ新潟だったのか? それは、奥様の真理子さんにあります。真理子さんの両親は、この地で日本料理のお店を営んでいたのです。

しかし、真理子さんが20歳の時に父を亡くし、その10年後に跡を継ぐはずの兄も亡くしてしまいます。母親がひとりで細々と続けていたここを引き継ぎ、いつかカフェのようなお店ができないか……。そう考え、真理子さんは上京し、飲食店勤務を続けていたのです。井上氏との出会いは、『HOKU』にゲストとして訪れたのがきっかけです。

「本当のサスティナブルな形とはなんだろう?とずっと考えていました」と井上氏。ゲストから友人に、恋人に、夫婦になった真理子さんとの時間がその答えを導いていきます。

ふたりは東京を離れることを決意。夫婦で新潟県三条市へ移り、料理人・井上和洋氏の第2章が始まったのです。

「必ず誰でもがまた普通に旅が出来る日が来ると思います。その時に“地方ってやっぱり良いね!”、“田舎ってすごいね!”と言ってもらえるような店になっていたいです。世界中、誰しもが予想出来なかったこの状況。皆様にまた新潟に来ていただけるよう、更に自分自身が思う存分新潟を楽しみ、表現したいと思います。新潟県三条市にお越しいただけるのをお待ちしております!」。

自由に行き来できる旅は、いつ再開できるのか。それは知る人はまだ誰もいません。井上氏は、いつかのその日のために、今日もまた、ただただ、おいしい準備をしています。

最後に。

2020年、『Restaurant UOZEN』は、「ミシュランガイド新潟2020 特別版」で二つを獲得。

きっと、亡き真理子さんの父、兄も歓んでくれていると思います。

真理子さんのご両親が大切にしてきたこの地でお店を続ける意志は、コロナ禍によってより強固に。

Restaurant UOZEN』第3章の始まりです。

そして、今日もまた、いつもと変わらず、井上氏はキッチンに立ちます。

田んぼの真ん中にポツンとあるRestaurant UOZEN』のキッチンで。

真理子さんの父が営んでいた割烹料理店時代のままの姿をあえて残す外観。旧屋号『魚善』の看板もそのまま。

新潟県のほぼ真ん中、越後平野に位置する三条市。しかし、Restaurant UOZEN』が位置するのは、市街地から離れた田園地帯。美しい風景が広がる。

以前の取材にて訪れた長岡市小国町の富井貴志氏の工房にて。富井氏一家とは家族ぐるみの付き合い。写真の左側が富井ファミリー。右側が井上氏と真理子さん。「東京を離れるならば、知らない土地で料理をしてみたいと思いました。それから徐々に妻のルーツでもある土地に根ざしたいという思いも強くなっていき。不思議と迷いも恐れもありませんでした」と井上氏。

住所:〒955-0032 新潟県三条市東大崎1丁目10-69-8 MAP
電話:0256-38-4179
http://uozen.jp/

Text:YUICHI KURAMOCHI

「近くの本屋を気にかけてもらいたい。僕らも地元の人々に助けられた」BOOKS AND PRINTS・新村 亮

「本屋は自分にとってなくてはならない存在。『BOOKS AND PRINTS』も誰かにそう思われるお店になりたい」と若木氏。

「まだまだ様子を見つつの営業ですが、今の状況でも可能なかたちでイベントや展覧会を開催していきたいです」と店長の新村氏。

旅の再開は、再会の旅へ。ニューヨークやサンフランシスコに住んでいた時、近所に本屋が必ず3~4店はあった。日本にもそんな風景を残したい。

昔からその場所にあったように佇む『BOOKS AND PRINTS』は、写真家・若木信吾氏が運営する本屋です。

場所は、若木氏の故郷・静岡の浜松です。数々の著名人を撮り、その被写体をも虜にする若木氏の写真には、業界内外にファンは多い。ゆえに東京からの来訪が大半を占めていたが、自粛に緊急事態宣言、それ以降も控えるよう促された不要不急の外出も手伝い、ゲストは激減しました。

そんな時、お店を助けてくれたのが地元の人々だったのです。

元々遠方からのお客様が多かったので当然ご来店数は落ち込みましたが、 その分、地元の常連さんたちが気にかけて ご来店してくださっているのが大変ありがたいです」。
そう話すのは、店長の新村 亮氏です。

そして、インターネットの普及や今の時代だからこそできる試みも実施。中でも、今回、大きく活用されたサービスはクラウドファンデイングと言っていいでしょう。

一時期、通常営業がままならなくなった時、弊店も参加させていただいた「Bookstore AID」というクラウドファンディングのご支援ご協力がとても大きかったです。また、遠方からもオンラインショップをご利用いただき、本当にたくさんの方々に支えていただきました。そのおかげで今も変わらず店を続けることができています」。

Bookstore AID」とは、新型コロナウイルス感染症拡大による緊急事態宣言が全国に発令され、出口のみえない外出自粛要請と休業要請の日々の中で、全国の書店・古書店を支援するため、有志で立ち上げたプロジェクトです。2020年5月29日終了時点、4476人の人々が支援し、47,548,000円もの金額が集まりました。

誰かのために何かしたい、支援したい、応援したい。しかし、どうやったらいいのか……。一昔前ならば、結局何もできずで終わっていたかもしれませんが、テクノロジーの進化によって誕生したクラウドファンディングによって救われた人は少なくないと思います。

「地域や業種に関わらず、これだけやっておけば大丈夫ということがまだないので難しいと思いますが、 できる限りの対策や工夫をして、何とか持ち堪えているといったお店が多いのではと思います。また、国や政府の対応に関しても、未曾有の事態ですし、全ての人に対して充分な補償や対策ができないのは仕方のないことだと思っています。同様の状況になったとき、政府も私たちも今回の経験を生かし、混乱せずしっかりと対応していけたらと思っています」。

日本を代表する建築家・安藤忠雄氏が手掛けたはじめての絵本「いたずらのすきなけんちくか」の一説にこんな言葉があります。
───
旅には2しゅるいあります。
ひとつは、遠くまで行って、ちがう場所の空気をすうふつうの旅。
もうひとつは、本を読んで想像のせかいをめぐる心の旅です。
───
今だからこそ、「本を読んで想像のせかいをめぐる旅」にでかけてみたい。

また安心して行き来ができるようになった時に皆様とお会いできるのを浜松で楽しみにお待ちしております。それまでは、ぜひお近くの本屋さんで本をたくさん手に取っていただけると嬉しいです」。
お近くの本屋……。それは、本屋が生活の一部になっていた若かりし頃の若木氏の生活体験でもあります。

「10代の終わりにニューヨークに留学した時も、サンフランシスコに住んでいた時もそうでしたが、近所に本屋が必ず3~4店はあったんです。暇な時は必ず本屋かレコードショップ通い。それが定番となっていました」と若木氏は言います。

海外と日本、異なる文化、時代の変化……。様々あれど、美しい街には本屋があります。いや、あると信じたい。

そんな風景を絶やさないためにも、ぜひお近くの本屋さんへ。

2017年の取材時、ある日のイベントのトークショーにオーディエンスとして参加していた若木氏の父・欣也氏。

訪れるお客さんは実に様々。本屋で過ごす時間をじっくりと楽しんでいく人も少なくない。

戦後に多く建てられた共同建築を象徴するKAGIYAビルの2階にお店は位置する。4階にはイベントスペースも構え、トークショーや展覧会も開かれる。

住所:静岡県浜松市中区田町229-13 KAGIYAビル201 MAP
電話:053-488-4160
http://booksandprints.net/

Text:YUICHI KURAMOCHI

「建築家として、人として。どこかのために、誰かのために、僕は生き続けたい」建築家・田根 剛

「自分が大切に思っていることは“場所”と“記憶”。世界中が迎えている難局の最中、その信念はより一層強くなりました」と田根氏。Photograph:Atelier Tsuyoshi Tane Architects

田根 剛 インタビュー0.1ミクロン以下のウイルスによって、パリは都市の機能を失い、村になった。

2020年3月、新型コロナウイルスによってパリはロックダウン。

「都会的な生活と都市機能は奪われました」。

そう話すのは、パリで活動する建築家・田根 剛氏です。

「当時、日常は一変してしまいました。ほとんどの移動手段は制限され、行動範囲も歩ける距離であり、生活の中心は家の中。“都市”だったパリは、まるで“村”のようでした」。

パリは大気汚染の問題が深刻化される街でもあり、ここ数年においても旧ディーゼル車の禁止や交通規制を設け、改善に取り組んでいます。途絶えた移動手段は、一時的に街の空気を好転させるも「これを続けなければ環境改善にはなりません」。

そんな田根氏の近作は、2020年4月に開業を迎えた『弘前れんが倉庫美術館』です。そのコンセプトは「記憶の継承」。2018年に『東京オペラシティ アートギャラリー』と『TOTOギャラリー・間』にて同時開催された大規模個展「未来の記憶|Archaeology of the Future」もしかり、両者に共通するのは「記憶」。

田根氏が最も大切にしている言葉であり、建築においては「場所の記憶」を徹底的に調べます。

「自分たちのプロジェクトは、場所が持つ記憶の発掘からコンセプトを考えていきます。ゆえに、この作業に時間と労力を一番かけています。建築を通して、この場所に意味を持てるか、記憶を持てるか。この場所のために何ができるのか、どんな可能性があるのか。そんなことを常々考えています」。

既存の場所に建物を作り、そこから新たに人の流れを生む。建物が土地の文脈に沿った過去になれれば、それは記憶として成立されます。記憶とは、過去と未来をつなぐ装置なのかもしれません。

しかし、新型コロナウイルスによって世界は暗い影を落とし、未来に目を向けられない人も少なくないでしょう。

「未来が見えなければ、僕は過去に遡ります。できるだけ遠い過去に」。

田根氏は、そう話します。

「原子や太古まで振り返り、そこから光を見出す。例えば、1万年前まで戻った時、きっと今を生きるための未来の手がかりがあると思うのです。しかし、何も答えが探せないこともあるでしょう。その時は、考え続けるのです。昨今、サスティナブルという言葉を耳にしますが、人類の誕生から受け継がれてきた記憶から得られる発見は、驚異的な持続性です。僕は、建築を通してその持続性を創造したい」。

じっくりと書籍や文献を読み、調べ、探求し、過去の旅へと脳内を巡らせる中、ある変化にたどり着きます。

それは、「自然と不自然の違い」です。

【関連記事】生きるを再び考える/RETHINK OF LIFE 特集・10人の生き方

田根氏が日本で初めて手がけた美術館建築『弘前れんが倉庫美術館』は、2020年に開業。長く市民に愛されてきた建物を美術館として再生、継承する。Photograph:DAICHI ANO

2018年に『東京オペラシティ アートギャラリー』と『TOTOギャラリー・間』にて開催された「未来の記憶|Archaeology of the Future」。「Search & Research」にもとづき、建築における思考と考察のプロセスを展開。Photograph:Nacása & Partners Inc.

田根 剛 インタビュー自然には摂理があり、不自然には無理がある。不自然は地球に残らない。

「新型コロナウイルス前と後、一番変化を感じたのは“自然”と“不自然”の違いでした」。

その見解について、田根氏はこう話を続けます。

「20世紀後半から21世紀にかけ、人類の進歩は急速に発展し、グローバル化もされました。しかし、それは不自然だったのではないかと思うのです。都市には、その面積に対して住めないくらい人の量が溢れ、電車も体積に対して乗車できないくらい人の量が押しかけ満員状態に。自分もそうですが、飛行機に乗って毎月のように国内外を行き来するなどの行為は、自然の流れではない時の経過であり、地球のエネルギーの中では極めて不自然」。

本来、自転と公転を繰り返しているのは地球ですが、不自然や無理な移動によって、太陽や月が動いているような錯覚に。地に足をつけていれば、自然がもたらす時間に太陽と月は訪れます。

新型コロナウイルスによって、長く自宅で過ごす日々の中、田根氏はそんなことを如実に感じたのです。

「当たり前のことなのですが、自宅にいると、ちゃんと朝が来て、陽が沈んで、月が出て、夜になって。眠る。自然にはちゃんと摂理があります。僕たちは今、地球の時間軸で生きている……。そう感じました」。

新型コロナウイルスもまた、グローバライゼーションによる不自然さから生まれたもの。

「あんな小さなウィルスが“不自然”な人類の活動の結果、瞬く間に世界中に広がってしまった」。

更に、そんな「自然と不自然の違いは、建築にもある」と田根氏は話します。
 

建築と大地を切り離してはいけない。不自然から生まれた無理な建築は短命に終わる。

「近代以前、建築はその土地のものを使って建物を建てるというのが基本的な考え方でした。よって、必然的に建材は運べる距離のものになりますし、そのほかの使える材料もまた土地のものになりなす。建材と建物は切り離せない関係、土地と建物も切り離せない関係でした」。

しかし、近代以降、流通を含めた様々な進化は効率化を促し、不自然を可能にしていきます。

「例えば、ドバイで建物を造るとします。その建材に石があったとしたら、その石を中国で切って、スペインで加工し、ドイツで組み上げ、またドバイに送るなどということが起きてしまう。最新の手法を駆使すれば、工期短縮な上、コスト面も含めて効率良くできてしまうのです。世界中のどこでも建てられるような技術を身につけてしまった反面、建築は大地から切り離されてしまった。しかし、それには無理があると思うのです。これは建設業界が考えなければならない大きな問題だと感じています。僕は、建築と大地を切り離さない。どうすれば大地の一部になれるか、大地に根付くことができるかを大切にしています」。

その好例は、『エストニア国立博物館』です。

負の遺産とも言われた軍事滑走路を再利用したそこに費やした歳月は、約10年。更に驚くべきことは、本作が田根氏にとってほぼ処女作だったということです。先述の通り、「場所が持つ記憶の発掘」から始まる作業に変わりはありませんが、完成後、建物は土地ともに過ごし、育ち、生き、大地の一部になったそこには様々な人が行き交う風景が形成されました。

―建築は未来を創造できるー

『エストニア国立博物館』のために捧げた10年は、田根氏がそれを感じるきかっけにもなったのです。

土地と建物の関係は、土地と植物の関係にも似るのかもしれません。温暖、寒気、熱帯、はたまた砂漠や高山……。正しい環境に正しく育つからこそ、植物は根を張り、長きにわたり命を宿し、大樹となります。

逆に言えば、植物を大地から切り離し、誤った土地との関係を持ってしまえば枯れてしまいます。

建築もまた、長く土地に根ざすからこそ記憶を増し、人の命よりも遥かに長く生き続け、歴史や文化の伝承者(物)となるのです。

2005年に開催された国際コンペを勝ち取り、2016年に完成した『エストニア国立博物館』は、約10年かけて建設。エストニア独立後初の国立博物館でもある。ソ連占領時に使用されていた軍用滑走路を活かし、それが延長するように建ち上がる。Photograph:Propapanda / image courtesy of DGT.

田根 剛 インタビュー
直す力が社会や文化を作り、持続性を形成する。建築もそうでなければならない。

パリで活動する田根氏の出身は、東京。古き良き街並みを持つパリとスクラップアンドビルドを繰り返す東京。相反する街をどう客観視するのか。

「パリは継続型。昔からパリのまま。建物の入口や窓の大きさなども条例に定められており、長い年月をかけて大切にその風景を守ってきました。それは、国や地域も一体となって取り組んできたからこそだと思います。一方、東京は開発型。作っては壊し、新しいものを積極的に取り入れる街。ゆえに世界でも稀なエキサイティングな都市だとは思います。但し、これが日本の地方の美しい風景や街並みをも、近代化の波によって壊され続ける……と危惧してしまうこともあります。日本は、新しいものを作ることに未来を見る国だと思います。それは、資本主義経済の流れに伴い、建設業が大きな力を持ってしまったことも要因のひとつかと考えます。東京の場合、特にそれが風景として顕著に表れており、人の一生よりも長くのこるはずの建築が、人の命よりも短命な建物が多くなってしまった。20世紀後半は建築界にとって大きな節目を迎えたと思います。急速に新しい建物が乱立するようになりましたが、建築の考え方は“作る”ではなく”直す”。直す力が社会や文化を作り、持続性を形成してきたのだと思います。近年は、直さずに壊してしまうものが多過ぎると感じています。その結果、スクラップアンドビルドという現象が起きてしまう。直せるものにこそ、価値がある」。

この思考は建物に限らず、様々なものも同様。伝統工芸にある金継ぎは、まさにそれです。

「本当に大切な建物や風景は、作ることではなく直し、使い続けることではないでしょうか」。
 

誰かのために尽くすことで大きな原動力が生まれる。自分の人生は、その役目を果たすためにある。

2020年、新型コロナウイルスの猛威は世界中を窮地に追い込み、未だ深刻な国は多いです。

「自分が建築家として一番大切にしていること、それは“場所と記憶”です。今回、より一層その想いが強くなりました」。

「僕たち人間は、すぐには変われないかもしれません。人間はそんなにちゃんとした生き物ではないのです。でも、改めて生きることとは何かを考え機会にはなったと思います。それは、自分も含め、世界中の人間ひとり一人に問われているのではないでしょうか。残された人生の時間をどう全うすべきか、子供たちや未来のために何ができるのか。亡くなった多くの方々がいる中で、幸運にも生かされた自分たちには何ができるのか、考え続けたいです。建築家は、ひとりでは何もできません。自分たちのアイデアを元に、様々な職種の人たちが人生を掛けて同じ目標に向かって全力を尽くす気持ちが大きな原動力を生みます。建築は、そんな役目を果たすためにあると思っています。建築家として、人として。どこかのために、誰かのために、僕は生き続けたい」。

建築家。1979年東京生まれ。Atelier Tsuyoshi Tane Architectsを設立、フランス・パリを拠点に活動。場所の記憶から建築をつくる「Archaeology of the Future」をコンセプトに、現在ヨーロッパと日本を中心に世界各地で多数のプロジェクトが進行中。主な作品に『エストニア国立博物館』(2016)、『新国立競技場・古墳スタジアム(案)』(2012)、『とらやパリ店』(2015)、『Todoroki House in Valley』(2018)、『弘前れんが倉庫美術館』(2020)など多数。フランス文化庁新進建築家賞、ミース・ファン・デル・ローエ欧州賞2017ノミネート、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞、アーキテクト・オブ・ザ・イヤー2019など多数受賞 。著書に『未来の記憶|Archaeology of the Future』(TOTO出版)など。
www.at-ta.fr

Text:YUICHI KURAMOCHI

平野紗季子×長田佳子 抽選で限定5名が参加できる「オンライン料理教室」を開催 [NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1/新潟県]

新潟名産「おけさ柿」の農園を訪ねた平野紗季子さん(左)と長田佳子さん(右)。色づく柿を実際に見ながら、レシピのアイデアをふくらませます。

新潟プレミアムライブキッチンオンライン料理教室で新潟の食の魅力を発信

11月7日(土)、フードエッセイスト・平野紗季子さんと菓子研究家・長田佳子さんによるオンライン・クッキングイベント『NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1』が開催されます。これは、「新潟ウチごはんプレミアム」とONESTORYのコラボレーションによって実現した特別企画。抽選を勝ち抜いた限定5名が参加可能な、贅沢な料理教室です。
「新潟ウチごはんプレミアム」とは、新潟の食を支え育んできた生産者や料理人を通じて、全国の食卓に「新潟の食」を紹介するポータルサイトです。今回、ONESTORYはフードカルチャーのトップランナーに新潟の食材を使ったレシピ開発を依頼。「新潟ウチごはんプレミアム」のオンライン料理教室を通じて、新潟の食の魅力を発信します。

記念すべき第1回目を担当するのは、平野紗季子さん・長田佳子さんのコンビ。 平野紗季子さんといえば、小学生のころから食日記をつけ続ける人気フードエッセイスト。雑誌『Hanako』での連載をまとめた著書「私は散歩とごはんが好き(犬かよ)」では、コミカルなタッチで綴られる文章と写真が、同世代の女性読者から絶大な支持を得ています。 長田佳子さんはといえば、パティスリーやオーガニックレストラン勤務での経験を生かし、現在は「foodremedies」として活動。砂糖やお菓子が体に負担をかけるものではなく、人を癒すものになってほしいという願いのもと生産者に会うことを大切にし、素材を厳選したお菓子作りは、やはり全国にファンを持つ人気の菓子研究家。 そう、記念すべき初回は人気のフードエッセイストと、菓子研究家がこの日のためだけにスペシャルタッグを組んでくれたのです。

今回、ふたりはレシピ開発のために、あらためて新潟を訪れました。さまざまな食材の生産の現場を巡る中で、ふたりはどのようなインスピレーションを受けたのでしょう。そして、注目のレシピとは?

ぜひ、イベントへふるってご応募ください。

【イベント概要】
ご自宅に届いた新潟の食材を使い、平野氏・長田氏と一緒に調理を愉しむオンライン料理教室。
事前に、レシピに使用される新潟の食材をご自宅に配送させていただきます。
(調味料等ご自身でご用意頂くものは、当選者にご連絡させていただきます)

*日程
11月7日(土)15:00~16:30
*開催方法
オンラインイベント
お申し込み頂いた方の中から抽選で5名様に、イベント参加用のZOOMのURLをお送りいたします。
*定員
5名(主催者にて抽選)
*参加費
無料

食材を探すふたり旅は休憩時間も全力。ずっと行ってみたかった新潟市中央区のヴィーガンカフェ「mountain△grocery」で作戦会議。

新潟プレミアムライブキッチン「おけさ柿」の甘さのヒミツ、渋さのワケ

傘が要らない程度の心地よい秋雨が落ちる中、平野さんと長田さんのふたりは、新潟市の柿畑にいました。ここ秋葉区真木野の柿畑は広さ約8ヘクタール。推定1600本の「おけさ柿」が植えられています。ふたりがお菓子の食材として選んだのが、そう、この「おけさ柿」です。
新潟県のブランド柿として知られる「おけさ柿」は、実は品種名ではなく商標。品種としては、平核無柿(ひらたねなしがき)と、その早生品種である刀根早生(とねわせ)の2品種です。こちらの畑に並んでいるのは刀根早生で、果実は大きく四角に膨らみ、薄橙に色づいています。あと2〜3週間で本格的な収穫の時を迎えるそうです。
「甘いですか?」という平野さんに、「いやいや渋いですよ」と笑って答えるのは、JA新津さつきの田中宏樹さん。「おけさ柿」の2品種はどちらも渋柿。収穫後、渋抜きの加工を経て、甘い柿として出荷されています。田中さんは、渋抜きのメカニズムについて説明してくれます。
「柿の渋味の正体はタンニンという成分。渋抜きといっても、このタンニンが抜けるわけではなく、柿の中に残ったままです。タンニンは水に溶けやすい性質でして、水に溶けたタンニンが口の粘膜に付くと渋味になります。渋抜きはヘタにアルコールを染み込ませる方法が有名ですが、どの方法もタンニンが水に溶けない工夫をして、人間が渋味を感じないようにごまかす技術なんです」
こちらで収穫する柿は、室の中で炭酸ガスを吸わせる方法で渋抜きが行われています。柿を炭酸ガスで窒息状態にすると、柿の中にアセドアルデヒドが発生し、アルコールをしみ込ませたような効果が得られると言います。

「渋味を生かした食べ方もありますか?」という平野さんの質問に、「いやあ」と口ごもる田中さん。渋柿を食べたことがないというふたりは、何事も経験と、渋抜き前の柿を試食することに……。
「おぉーー、そういうことか。口の中が一瞬で砂漠化した! 渋いというレベルがイメージとまるで違っていました」と平野さん。「あ、口の中いっぱいに麩菓子を詰め込まれた感じ」と長田さんも目を丸くしています。
そして、晴れて、渋抜き後の甘い「おけさ柿」の試食したふたりは、「このやさしい甘味がなんともいえずいいですね」「香りも穏やかで上品」と幸せいっぱいです。

ところが、地元での柿を使った調理法についてリサーチを進めていくと、驚きの事実に直面してしまいました。「地元の各家庭で作られる郷土菓子のようなものはありますか?」と長田さんが質問すると、田中さんはまた渋い顔をして、「いやあ、聞かないですね。熱を加えると、また渋味が戻っちゃうんで。だからジャムなんかも、おけさ柿のものはないんですよ」とのこと。「えぇ〜っ!」と顔を見合わせる平野さんと長田さん。そして、「ふふふふふ」と笑い合います。ぜひ「おけさ柿」でお菓子を作りたいと意気込んでいたふたりですが、さて、一体どうするつもりなのでしょうか?

真木野地区の柿畑を管理するJ A新津の田中宏樹さん。37年前、池や湿地だったこの地区に、河川工事で発生した土を利用して干拓し、今の柿の木が植えられた。今は最も勢いよく実をつける年代に入っているという。

「おけさ柿」は種がなく、渋抜き後は甘柿よりも甘く濃厚な味わいになる。ポリフェノールやビタミンCが豊富で、古来「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われるほど、健康的な食べ物として知られる。

人生初の渋柿体験をした平野さんは、その激烈な渋味を「口が瞬時に砂漠化」と表現した。

炭酸ガスで柿の渋を抜く工場で、渋抜き後の「おけさ柿」を試食させてもらうふたり。渋味にやられた後の口を甘い柿で癒す。

「おけさ柿」のルーツとされる原木は、今も新潟市秋葉区にある。推定樹齢320年、樹高16メートル・幹周り2メートルにも及ぶ、柿の木としてはかなりの巨木。その強い樹勢は神秘的でさえある。

阿賀野市のブルワリー「スワンレイクビール」が運営する古民家レストラン「五十嵐邸ガーデン」にてランチ。そのデザートには柿が。隣のイチジクのコンポートにも負けない甘さに驚く。

おっとりとした雰囲気からは想像できないほど活動的な平野さんと長田さん。知り合いが新潟市中央区に開いたスープ・サンドイッチ・おやつの店「スズキ食堂車」へ、閉店間際に滑り込み。再会とお菓子の購入を果たしてご満悦。

新潟プレミアムライブキッチン知られざる酪農王国・新潟の逸品

平野さんと長田さんは、五頭連峰を間近に望む田園地帯にあるヤスダヨーグルトを訪ねました。33年前に、旧地名である安田町の酪農家9名が結束し、生乳の6次産業化を目指して加工場を作ったのが始まりです。看板商品であるドリンクタイプをはじめとするヨーグルト製品は、新潟県民にとっては今やお馴染み。身近なソウルフードです。
工場では、次々とボトル詰めされ、ラインを流れていくヨーグルトに釘づけのふたり。製法の解説に耳を傾けます。使用するのは新潟県下越地区の新鮮な生乳のみ。味わいで特徴的なのが、ヨーグルト特有の酸味と甘味の絶妙なバランス。これは、新潟特産の20世紀梨の糖度と、心地よい酸味をヒントにしているそうです。
新潟県産イチゴ「越後姫」や国産ミカンなどのフルーツを使ったヨーグルト製品にも注目した長田さんは、製品ラベルを確認して感心しています。
「どれも香料不使用なんですね。この手の商品で香料を使っていないのはとてもめずらしいですよね。生乳と果物本来のおいしさを大切にした自然でやさしい味わい。食材や生産者への想いも伝わってくるようなおいしさです」

工場で借りた傘を開いたら、思いがけず、かわいい牛柄。

ヤスダヨーグルトの工場見学に参加してテンションが上がるふたり。酵母のこと、発酵時間など質問も尽きない。

ほどよい酸味と生乳ならではの豊かな味わいを楽しめる飲むヨーグルト。新潟県民には定番の味。

新潟プレミアムライブキッチン希少品種・ガンジー牛の生産者も訪問。

クルマは一路、長岡市の山間にある加勢牧場へと向かいました。この牧場ではめずらしい「ガンジー牛乳」が搾られています。「ガンジー牛乳」とは、英仏海峡に浮かぶ島・ガンジー島原産の乳用種であるガンジー牛の乳。ガンジー牛は世界的に希少な品種で、日本では飼育頭数がわずか180頭ほどと推定されています。
牧場を案内してくれたのは、この地で牛たちと共に育ったという加勢健吾さん。
「この牧場は私の父がホルスタインの仔牛1頭から始めました。一時は飼育頭数を60頭まで増やしましたが、多忙を極めながらも収入が上がらないことに限界を感じ、付加価値の高い牛乳作りへの方向転換を図りました。今から20年前のことです。父がこだわったのは、何よりもおいしさでした。評判の牛乳を全国各地から取り寄せて飲み比べした結果、いちばんおいしかったのが栃木県・南ヶ丘牧場のガンジー牛乳だったのです。コクがあるのに後味がすっきりしていることがポイントだったそうです」
加勢さんのお父さんは、群馬県伊香保にある牧場に何度も通って頼み込み、ようやく1頭の仔牛「みちる」を譲ってもらいました。以来、地道に頭数を増やしながらホルスタインと入れ替えていき、現在はガンジー牛のみを16頭飼育しています。

ガンジー牛は、乳牛として品種改良が進んだホルスタインに比べるとかなり小柄で、やさしい顔立ちをしています。1日に搾れる乳は1頭あたり約15リットル。ホルスタインが1日30リットル前後というから、生産性は単純計算で半分程度です。しかし、規模を追わず、1頭1頭丹精込めて飼育している加勢牧場の「ガンジー牛乳」は、一般的な牛乳よりもはるかにおいしいとの評価を得ていて、高級牛乳として飛ぶように売れています。

「ゆったりとした牛舎で、こんなふうにリラックスして過ごしたら、牛乳だっておいしいはず」と長田さん。早速、牛乳と、牛乳をたっぷり使ったミルクプリンをいただきました。
「あ、おいしい。濃厚っていう印象ではないのに、牛乳らしい味わいが豊かでするっと入っていく感じ。後味もきれい。他の食材を引き立てながら調和してくれそうな牛乳です」と長田さんは話します。
ミルクプリンを一口食べた平野さんは、「これ、いきなりスイーツ!」と長田さんにも試食を促します。「ガンジー牛乳にバニラビーンズを入れたら、いきなりスイーツになっちゃったっていう味。こんなにおいしいミルクプリンがあるなんて」と平野さん。「ほんとだ」と長田さんも驚いた様子です。
「製法はまさに、お砂糖をほんの少し使っているだけで、ほとんどガンジー牛乳を固めたようなものです。できるだけシンプルに、ガンジー牛乳のおいしさを楽しんでいただきたいと思っているので」と加勢さん。ふたりは深く頷いていました。

つぶらな瞳がクリクリとかわいらしいガンジー牛に惹き込まれる。牛の方も平野さんのキラキラした目に興味津々。

放牧場で運動させるのも加勢牧場のこだわり。牧場には、“野良馬”の「小梅」や草刈り要員のヤギ「キラリ」もいる。生き物たちがのんびり暮らす楽園だ。

週500本だけ製造される加勢牧場の「ガンジー牛乳」。ネットショップで買えるとあって、全国にファンを抱えている。

平野さんの驚きとうれしさが入り混じる顔から、ミルクプリンのおいしさは推して知るべし。

新潟プレミアムライブキッチン旅から生まれた新潟「おけさ柿」オリジナルレシピとは?

充実した新潟の旅を終えた平野さんと長田さん。たくさんの魅力的な食材に出合い、心を込めて食材を生み出す人々の貴重な話を聞くことができました。この旅で得たインスピレーションは、オンライン・クッキングイベント『NIIGATA PREMIUM LIVE KITCHEN vol.1』で、どのように表現されるのでしょうか?
ぜひ、イベントへの参加にご応募ください。幸運な5名のひとりは、あなたかもしれません。

旅の中で登場した商品は、こちらから購入できます。

住所:〒950-0075 新潟県新潟市中央区沼垂東3-5-16 MAP
電話:090-6516-8626
https://www.instagram.com/mountaingrocery/

住所:〒956-0007 新潟県新潟市秋葉区小戸下組2224 MAP
電話:0250-25-1211
https://www.ja-satsuki.com/

住所:〒959-1944 新潟県阿賀野市金屋340-5 MAP
電話:0250-63-2100
https://www.swanlake.co.jp/main/ikarashi_info2.asp

住所:〒951-8126 新潟市中央区学校町通2-5299-3 MAP
電話:080-1140-2467
営業時間:10:00〜18:00
定休日:日・月曜日
http://www.suzukisyokudousya.com/

住所:〒959-2221 新潟県阿賀野市保田940 MAP
電話:0250-68-5028
http://www.yasuda-yogurt.co.jp/

 住所:〒949-4505 新潟県長岡市根小屋147 MAP
電話:0258-74-2863
https://www.kasebokujo.com/

1991年福岡県生まれ。小学生時代から食日記をつけ続け、大学生時代に日常の食にまつわる発見と感動を綴ったブログが話題になり文筆活動をスタート。雑誌等で多数連載を持つ他、イベントの企画運営・商品開発など、食を中心とした活動は多岐にわたる。著書に『生まれた時からアルデンテ』(平凡社)。最新作は『私は散歩とごはんが好き(犬かよ)。』(マガジンハウス)。Instagram:@sakikohirano

レストラン 、パティスリーなどでの修業を経て、現在は「foodremedies」(「レメディ」とは癒しや治療するという意味)という屋号で活動。ハーブやスパイスなどを使ったまるでアロマが広がるような、体に素直に響くお菓子を研究している。著書に『foodremediesのお菓子』『全粒粉が香る軽やかなお菓子』(文化出版局)などがある 。Instagram:@foodremedies.caco

Photographs:KOH AKAZAWA
Text:KOH WATANABE

(supported by 新潟県観光協会)

食を分かち合うことから持続可能な平和を考える「サステナブルピーステーブル」。

前列左より、佐藤さん、岩田さん、中井さん、クリスティーヌさん。後列左より、広瀬シェフ、山倉さん、西田氏、進行役を務めた小田部巧氏、青島氏。

サステナブルピーステーブル国際平和の日に、日本から。食を通じ平和を叶える未来へ。

「食卓を共にする」ことは、お互いの信頼と分かち合いの精神なしでは成立しないこと。持続可能な平和を未来へと繋ぐために、人々が分け隔てなくひとつの食卓を囲むことからできることを考える『Sustainable Peace Table(サステナブルピーステーブル)』が、国連の「国際平和デー」に定められた9月21日にキックオフミーティングを開催しました。

会場は、アジアのベストレストラン50で2018年に「サステナブルレストランアワード」を受賞したレストラン『レフェルヴェソンス』。参加者は「Sustainable Peace Table」の代表を務めるマリ・クリスティーヌさん、国際連合人口基金(UNFPA)東京事務所所長の佐藤摩利子さん、建築家の西田司氏、くらし研究家で新潟燕市を拠点に町づくりの活動を行う『Sync Board Inc.』代表取締役の山倉あゆみさん、東京女子大学の学生で「Sustainable Peace Plateコンテスト」を運営する中井遥さんと岩田万菜さん。会の冒頭の挨拶でクリスティーヌさんは、「COVID-19(新型コロナウイルス)感染予防対策から、大切な友人とすら食卓を囲むことが難しくなっている今こそ、活動を始める意義がある」と話します。

「レストランは”元気を回復させる”という意味を持つRestoreが語源になっています。食卓を囲み、食事を分かち合い、互いを敬い、対話することで、平和への願いを未来へ繋ぐ活動を、ここ、レストランから始められたらと思います」。

2020年で10周年を迎えた『レフェルヴェソンス』。食の世界で活躍する多くの人材を輩出している。

サステナブルピーステーブルはじまりは鐘の音から。世代や立場を超えて「食の可能性」を探る。

ミーティングは会場に響く鐘の音を合図に始まりました。会場に用意されたモニターにも、大きな鐘の映像が映し出されます。
大阪万博記念公園の「平和の鐘」は、ニューヨーク国連本部にある「平和の鐘」の姉妹鐘です。この二つの鐘は、日本の一国民の中川千代治氏の尽力で造られたものです。「国連平和の鐘を守る会」代表の髙瀨聖子さんが、大阪万博記念公園から東京のシンポジウム会場にメッセージを送ります。

「太平洋戦争のビルマ戦線に従軍し、部隊は全滅、ひとり生き残った中川千代治は平和の大切さを生涯を懸けて伝えることを決意しました。そして、二度と戦争が起きないように世界の平和を願う人々のコインを集め、平和の鐘を鋳造し、ニューヨーク国連本部の庭に設置したいと考えたのです。1951年第6回国連総会にオブザーバーとして参加した千代治は、国連事務次長の応援で、その意義を力説。60余ヵ国の加盟国から200のコインとその後多くの人々の協力で数千に及ぶ古貨幣を蒐集し鐘を鋳造、1954年国連本部に贈呈しました。1970年の大阪万国博覧会の折には、世界各国の来場者にその音を聞かせるべく、ウ・タント国連事務総長に申し入れ、国連の平和の鐘の里帰りもさせました。その間、国連の鐘楼が空になると気付いた千代治は、“戦時中武器に変えられた鐘は平和の象徴であり、鐘楼を空にしてはいけない”との思いから、国連の姉妹鐘を造り、大阪万博の期間中、留守番鐘として国連に設置。現在の大阪万博記念公園の平和の鐘がその鐘です」。

※「国連平和の鐘を守る会」代表の髙瀨聖子さんのメッセージ全編は、こちらよりご覧ください。


「Sustainable Peace Table」は、国連がサポートする食の活動としても大きな注目を集めています。2020年は国際連合創設75周年の節目の年。佐藤さんは「国連の設立目的、ミッションは、言うまでもなく平和と安全保障を実現すること。COVID-19は、人々の健康に被害を及ぼし、暮らしを破壊し、国際的緊張を高め、ただでさえ一筋縄ではいかない平和、安全の実現をさらに困難にしています。こんな時代だからこそ、平和をつくるために国や人種、世代を超えた対話が必要なのです」と、言葉に力を込めます。

代表のクリスティーヌさん。東京女子大学教授。2015年まで国連ハビタット親善大使を務めた経験を持つ。

東京女子大学の岩田さん。運営する「Sustainable Peace Plateコンテスト」の結果は11月に開催予定のVERA祭(大学祭)で発表予定。

23年間、国連に勤務する佐藤氏。幅広い経験から、フードセキュリティの重要性を強く訴える。

西田氏。料理をランドスケープに見立てるなど、建築家ならではの視点が生きた言葉が飛び出す。

中井さん。言葉を慎重に選びながらも、堂々と食と平和についての意見を述べた。

食を通じた地域創生に取り組む山倉さん。具体的な活動報告を交えた意見が注目を集めた。

父である中川千代治氏の意志を受け継ぎ「国連平和の鐘を守る会」の代表を務める高瀬さんは、ビデオメッセージで参加。

サステナブルピーステーブル『レフェルヴェソンス』による「Sustainable Peace Plate」を分かち合う。

続いて、『レフェルヴェソンス』による「Sustainable Peace」をテーマにした一皿がサーブされます。「本日はようこそお越し下さいました」という挨拶に続けて、まずはマネージャーの青島壮介氏から料理の説明があります。
「ご用意させて頂いたのは、『レフェルヴェソンス』のコースを構成する上で、非常に大事な一皿です。使われている40種以上の野菜の多くは、市場に出回らない、いわゆる規格外のもの。時季ごとに豊かな個性を見せてくれる野菜を、無駄なく使おうという、店のステイトメントに代わりであり、10年かけて築いてきた農家さんたちとの信頼関係があってこその一皿です」。

色とりどりの野菜が散りばめられた繊細な盛り付けに目を輝かせていた一同は、まずは青島氏の言葉を噛み締めるように聞き、続いて一口ずつ慈しむように、じっくりと味わいます。
「どんな料理か楽しみにしていたけれど、まさかのプレート。小さな未熟果には、旬の野菜とはまた一味違う、力強い生命力を感じます」と、山倉さん。
西田氏は「通常は表に出てこないものたちが主役になり、ハーモニーを奏でている。どんな野菜でも美しく盛り込む絵力のある皿です」と、感嘆の表情で語ります。

「土に見立てた昆布のパウダーで、野菜のフレッシュさが中心の味わいに旨みを加えています。この昆布も、一番だしを取った後の昆布にひと手間加えたもの。旨みとともに”最後まで無駄なく”という想いも添えています」とは、ヘッドシェフの広瀬隼人氏。
一皿を分かち合ったことで、対話はさらに熱を帯びていきます。
「生産者方々や、シェフの思いを知ることの大切さに改めて気付きました。知って食べることで、おいしいだけじゃない、何かを得られる」と、岩田氏。
中井氏もまた、「確かに、知ることで、意識が変わり、会話も生まれる。シェフという仕事、レストランという場は、生産者と消費者を繋いでくれる素晴らしい存在だと気付くことができました」と続けました。

『レフェルヴェソンス』では今年5月、厨房に新たに薪窯を導入しました。
「調理法として非常にプリミティブであること、加えて森を守り、林業従事者の方々の暮らしを守り、資源と経済のいいサイクルを生み出すことに微力ながら貢献できたらという想いがあります」。青島氏が経緯をそのように話してくれました。キックオフミーティングでの試食やディスカッションの様子を見て「レストランは、人に幸せを与える場であることを再認識しました」とも。

「コロナ禍での約2か月間の営業自粛は、私たちスタッフ一人ひとりが自分たちの仕事の意味を見つめなおす時間でもありました。そして今回、このようなイベントの会場として皆様にお越し頂いて改めて、レストランという場は、人に幸せを与える場であるという想いを強くしました。テイクアウトやデリバリーでもおいしい料理そのものを食べることはできますが、ご予約された日からその日を心待ちにし、ゆっくりと食事と、サービスをお楽しみ頂き、帰り道にご同伴者と余韻の対話を交わす。遠くに出掛けられない今、小さな旅のようなひとときをご体験頂ける場であるべきと」。

エグゼクティヴシェフの生江史伸氏が築いてきた、生産者との協働も、さらに深めていきたいと話します。
「レストランと生産者との協力が、食の環境を守ることにつながり、誰もが食の喜びを享受できることこそが、平和な世の中につながる。利己ではなく、利他の時代へ。この場でできることを、これからも続けていきます」。

『レフェルヴェソンス』のシグニチャーともいえる一皿「敬愛する素晴らしきArtisan(職人)たち」。

繊細な盛り付けは、その時季の自然、畑の風景を描き出すかのよう。広瀬シェフの表情も真剣だ。

未熟果や脇芽なども一皿に。ディナー営業時のメニューには、個々の野菜の生産者の名がすべて記されている。

青島氏。ゲストへの挨拶と変わらぬ言葉で参加者を迎え、料理の説明をする。

料理を味わった参加者からの質問一つひとつにに丁寧に答える広瀬シェフ。

2015年からヘッドシェフを務める広瀬氏。エグゼクティブシェフの生江史伸氏とともに、食を通じた様々な活動にも尽力する。

サステナブルピーステーブル誰もが心に抱く「食の素晴らしさ」。未来の平和のために「食」ができること。

これまでは生産者支援や環境保全の文脈で語られることが多かった食の「サステナビリティ」。それを「平和」という、人間の幸福の根幹と結びつけ、新たな視点を提示したのが「Sustainable Peace Table」。その目指すところは、2015年の国連サミットで採択された「SDGs(持続可能な開発目標)」が掲げる「地球上の誰一人取り残さない」という宣誓にも重なります。2021年12月には日本政府がホスト役を務める「東京栄養サミット2021」の開催が予定されています。佐藤さんは言います。

「フードセキュリティは、国連の重要な課題でもあります。世界を見渡せば、フードロス(食糧廃棄)の問題がある一方で飢餓に苦しむ人がいる不平等が存在している。77億人の世界人口を、どうやったら地球が支えて行けるか。真剣に議論すべき時が来ているのです」。
佐藤さんの言葉を受けて、クリスティーヌさんは「現代は、幸せの基準が問われている時代」だと続けます。
「平和というと言葉は大きいですが、まずは身近な人と対話をすること、お隣の状況を知ることから、始められる何かがある。昔の日本の長屋や、隣組のようなコミュニティは、そういう意味で非常に有益だったように思います。私が日本に暮らし始めた1970年代は、”何か食べた?””お腹空いてない?”というのが、おもてなしの基本にあった。ところが時代の移り変わりとともに、そういったものがだんだん失われつつあります」。

食は、生命の持続に欠かせないものであると同時に、文明社会の根幹を成すものでもあります。
「食べ物は、毒を盛れば、命さえ奪えてしまう。だからこそ、食卓を囲むことが、敵味方がない状況を、つまりは平和を意味するわけです。奪い合うのではなく”分かち合う”、その行為も含めて。過去の戦争の多くは、地面の奪い合い。国土を失うことは、農地を、食糧を失うことになります。胃袋が満たされ体が癒されると、気持ちが元気になり、安心感や周囲への感謝の気持ちが満ちてくる。平和と食には、切っても切れない深い因果関係があります。日本には、世界に誇る食文化がたくさんあります。中川千代治さんが日本から、国連平和の鐘を通じ世界に訴えかけたことを、私たちは『Sustainable Peace Table』という食の活動を通じて受け継いで行けたら。今日参加してくれた若い世代と手を携えて。世界が、未来永劫、平和であれと」。

国連創設から75周年目の国際平和デーに、平和の鐘の音で始まった「Sustainable Peace Table」のキックオフミーティング。ここから、明日へ、その先の未来へ、平和への思いを繋いでいくのです。

アメリカ人の父と日本人の母を持つクリスティーヌさんは、東京に生まれ、欧米、中東、アジア各国で暮らした経験を持つ。国境や人種を超えた平和への思いは強い。
 

※「Sustainable Peace Table」ミーティングの総集編は、下記よりご覧ください。

https://sustainablepeacetable.com/

Photographs:KEI SASAKI
Text:YUJI KANNO

HOPE TO MEET AGAIN/旅の再開は、再会の旅へ。

旅の再開は、再会の旅へ。OVERVIEW

様々なキャンペーンや施策が講じるも、自由に旅ができるかというと、それはまだ先になるかもしれません。

もし日常が戻った時、あなたはどんな旅をしてみたいですか?

広大な海を望む旅、堂々とそびえ立つ山々を愛でる旅、ゆっくりと湖畔で過ごす旅、温泉に癒される旅、アウトドアを堪能する旅、美食に興じる旅、はたまた海外……。

いつかに備え、想像を膨らませる日々かもしれませんが、『ONESTORY』は「再会の旅」をしたいと考えています。

皆が知る「再会」という言葉の意味を改めて認識したいと思います。
「長い間別れていた人同士が、再びあうこと」(広辞苑より)。

今回の難局は、世界的に見ても人と人が触れ合う環境を遮断され、引きこもりや孤立した生活を余儀なくされました。

そんな時に芽生えるのは、誰かを思う心。

見る、食べるよりも出会うことを目的にした旅は、より一層、絆を深めるでしょう。

ご無沙汰しています! お元気でしたか? またお会いできて嬉しいです! そんな何気ない会話は特別になり、握手やハグ、肩組みなどのコミュニケーションは、心の底から込み上げてくる何かを感じるに違いありません。

そんな旅は、人生において忘れがたい時間になるはずです。

今回は、再会の日を夢見て、これまで出会ってきた人たちの今の想いをお届けしたいと思います。

大切なことは、どこへ行くかではなく、誰に会いに行くか。

旅の再開は、再会の旅へ。
 

※日々の変化がめまぐるしい中、各所が取材に応じてくださっています。内容によっては、世の中の情勢と時間差があるものもございます。また、新型コロナウイルス収束後、自由に旅が再開できるようになった際には、本企画を予告なく終了する場合がございます。予めご了承ください。


Text:YUICHI KURAMOCHI

Vol.3 シャンパーニュと無数の扉[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・オード/東京都渋谷区広尾]

「ただ“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”に合わせるだけでなく、今の気候も加味して今回は料理を考案しました」と話す生井祐介シェフ。猛暑の取材当日、「暑い日に頂く今回の逸品は、冷たくて嬉しい!」と角田光代さん。その料理の正体は、下記にてお楽しみを! 

オード × 角田光代

熱中症警戒アラートが発令されるくらい暑い日、できるだけ日陰をさがして移動しながらレストラン「オード」を目指す。グレーのカウンターがキッチンを囲むシンプルな店内。厨房への入り口に取りつけられた「オード」の提灯がチャーミングだ。キッチンに、見たことのあるようなないような機器が設置されている。あれはなんでしょうと、シェフの生井祐介氏に訊くと、かき氷製造機という意外な答えが返ってくる。フランス料理店にかき氷……デザート用?
「今日はガスパチョのかき氷をお出しします」と、これも想像のはるか上をいく答えが返ってくる。
その答えに驚きつつも、実は私は「やった!」と心の中でガッツポーズをとるくらい嬉しくなった。本当に暑くて、きーんと冷たいものを心底欲していたのである。
厨房でガスパチョの作りかたを見せて頂く。キュウリの芯をくりぬいて細切りにしたもの、ごく薄く切られた大葉、隠し味の梅干し、かすかに金色の液体が用意されている。この液体、なんと大量のトマトをミキサーにかけ、一晩かけて布濾ししたトマトウォーターなのだという。ひと口飲ませてもらうと、透明に近い液体から凝縮されたトマトの旨味が立ち上る。
キュウリと大葉をごま油でさっと炒め、梅干し、生姜汁とレモン汁、コニャックをひとたらし入れて、ミキサーで攪拌(かくはん)し、急速冷凍する。
料理の完成形にも驚かされる。エキストラバージンオイルをたらしたガスパチョのかき氷は、コリアンダーの花がちりばめられていて、まるでアーティフィシャルグリーンのようだ。一緒に供されるのは花束みたいなハーブ。コリアンダー、レモンバジル、ミントで、好きなものを好きなように摘んでガスパチョに散らして食す。

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今回、生井シェフがテタンジェに合わせて用意した料理は、「胡瓜のガスパチョ」。キュウリをベースにしたそれは、これがガスパチョ?と思わせる容姿だが、それもそのはず。凍らせたスープをかき氷のようにして皿を覆い、ハーブを自ら摘んで一緒に頂く。芸術的な逸品である。

付け合わせのハーブは、コリアンダー、レモンバジル、ミントなど。盛り付けの妙も手伝い、架空の畑を彷彿とさせる。「バジルは、和歌山の『ヴィラ・アイーダ』さんから取り寄せたものになります」と生井シェフ。「食材は、できるだけ生産者さんから直接取るようにしています。市場に出るものも良いのですが、欲しいサイズや収穫時期など、阿吽の呼吸はコミュニケーションから生まれるので。いつかは自分も畑をやりたい」と続ける。

今回の料理に使用する主な食材は、上から時計回りにトマトウォーター、梅干し、キュウリ、大葉。全て、時間と手間のかかった仕込みがなされている。

トマトの種を丁寧に取り、ミキサーに。更に丸一日ゆっくり布濾しし、混ざっている個体を取り除くと、透明なトマトウォーターが完成。「え! これトマトなんですか!?」と角田さんも驚くほど、クリアな液体。生井シェフに勧められ、スプーンで口に運ぶと「わー! トマトだ!(笑)」。

「今回の料理ではキュウリの青臭さを消したいので、一度炒めます。風味とコクを出すためにごま油も加えます」と生井シェフ。フライパンからは火が立ち上り、その光景はまるで中華!? 「キュウリと油の相性は、とても良いんですよ」と生井シェフは話す。

炒めたキュウリと大葉に生姜汁とレモン汁、トマトウォーターと梅干しを加えてミキサーに。その後、隠し味にコニャックを加えるのがポイント。

上記をミキサーにかけた後、液状のものをひと口。「おー! すごい! 不思議な感覚だけど、ちゃんとキュウリの風味は残ってる! なんだこれは!」と角田さん。

バジルを利かせたアンズのアイスとハラペーニョ液に浸けた刻んだキュウリのピクルスを中に忍ばせ、食感のアクセントに。

中央のキッチンには、フランス料理店には似つかわしくないかき氷製造機が! 「不思議な光景ですね(笑)」と角田さん。更にその奥には、提灯が。店内に施された様々な遊び心にも生井シェフのセンスが垣間見える。

まるで苔庭のようなかき氷の表面にコリアンダーの花を丁寧に配し、料理を仕上げる生井シェフ。それを覗いていた角田さんは、カウンターから身を乗り出して「なんて綺麗なんでしょう!」とうっとりする姿も。

オード × 角田光代

まずはそのままスプーンで一口食べる。気持ちのいい冷たさとしゃくしゃくした感触が口に広がり、それからトマトの旨味やごま油のコクが、時間差で口に広がる。シャンパーニュを続けて飲むと、ふわっと味と香りが広がる。ハーブを散らして更に食べる。ガスパチョの下に何か隠れていて、味覚も食感も香りも変わる。
ハラペーニョとレモンのジュースでマリネしたキュウリとタマネギ、それからアンズのアイスがガスパチョの中に入っているという。それらに加えて、三種のハーブのどの部分(花か葉か)とガスパチョを食べるかで、ひと皿の味も食感も香りもくるくると変わっていく。更に、ガスパチョと一緒に口に含むようにしてシャンパーニュを飲むと、ふくよかさが倍増していく。無数の扉が次々と開かれていく感じ。

「何かドキドキします……」と、目の前に供された料理にやや緊張!?する角田さん。まるで観察するかのような眼差し。「僕も緊張してきた……(笑)」と生井シェフ。

「ガスパチョを口に含んだ後、ぜひ追いかけるように“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”を召し上がってください」という生井シェフのアドバイスのとおり、口にグラスを運ぶ角田さん。「味だけでなく、香りも複雑に混ざり合い、口の中が心地よいです」と角田さんは話す。

添えられたハーブは、好みに応じて自分で摘み、料理に合わせていく。「この作業もまた楽しい!」と角田さん。

「料理の味、食感、ペアリング、今まで経験したことのない提案をしたかった」と生井シェフ。「それぞれ単体でも美味しいですが、色々な組み合わせ次第でどんどん変化していくのが楽しい。どう食べるか、どれから口に含むかで全く表情が変わります!」と角田さん。

料理を食した後、記憶が鮮明なうちにメモを取る。「口内に残る余韻だけでも “コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”を楽しめます」と角田さん。

オード × 角田光代

もともと音楽をやっていた生井さんが料理の世界に入ったのは25歳の時だという。レストラン「オード」を開いたのは3年前。この仕事で、生井さんが一番魅力を感じるのはどんなところかと訊いてみると、「スタッフみんなで準備し、下ごしらえしたものを、お客様のタイミングに合わせて、わっと組み立てていくこと」という答え。下ごしらえの段階では、なんの脈絡もなかった素材が様々に組み合わさってひとつの料理になる。とはいえ、シェフの気まぐれで、下ごしらえしていたものをぜんぶなしにして、急にあらたな調理を始めることもあるのだという。そうした変更の余地も少しは残しつつ、緊張感を持って準備から始めていく、それが面白いのだと生井さんは話す。
そして常に心に留めているのは「お客様に対して真正面を向いて料理を出しているか」ということ。「オード」で提供しているのはおまかせのコース料理だけれど、生井さんをはじめスタッフは、常にお客さんの反応を見て、ちょっとした会話のやりとりなどから、受け取れる範囲の情報を得て、一人ひとりへのカスタマイズをしているのだというから、びっくりしてしまう。

「氷に含まれる梅と忍ばせたアンズ。どちらも酸っぱい要素があるのですが、それぞれリズム良くその存在を覗かせるので、その変化が味わえます。どんな味の奥行きにも合う“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”もまたすごい」と角田さん。

「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”に合わせる料理は、常温か冷たい前菜、もしくは温かい料理だと思います。今回のように“氷”とのペアリングは、なかなか見ないのではないでしょうか。その振り切ったところで勝負したかった。口の中で泡が弾ける時、氷の粒子がそれに反応し、双方のボリュームが増すところが今回の特徴だと思います」と生井シェフ。「後はライヴ感が大切!」と言葉を続ける。

オード × 角田光代

生井さんの話を聞いていたら、以前対談をさせて頂いたミュージシャンの話を思い出した。ライヴの日のために、私にすればおそろしいほどのストイックな準備をし、その日のためだけのテンションを作り上げていって、当日、ライヴが始まる。客席の反応を見ながら歌いかたや曲調の微細なところを、バンドメンバーとコンタクトをしつつ変えていく、とそのミュージシャンは話していた。それはそのまま生井さんの料理スタイルと重なると思ったのだ。
その日その瞬間の、最善を尽くす。不変の完璧を目指すのではなくて、対する人の、その日その瞬間の様子も見ながら臨機応変に、変化させていく。まさに生井さんが日々繰り広げているのは、食の世界のライヴなのだ。幾度も足を運んでも、きっとその日その瞬間だけの感動が、ここ「オード」にはあるのだろう。

「料理の話はもちろん、音楽の話まで、色々お話しできて楽しかったです」と角田さん。「話しすぎちゃったかな(笑)」と生井シェフ。会話に弾みをつけたのは、「これもまた“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン”の力ですね」とふたり。

住所:東京都渋谷区広尾5-1-32 ST広尾2F MAP
TEL:03-6447-7480
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1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。90年「幸福な遊戯」で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。96年「まどろむ夜のUFO」で第18回野間文芸新人賞、98年「ぼくはきみのおにいさん」で第13回坪田譲治文学賞を受賞。「キッドナップ・ツアー」では99年に第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年に第22回路傍の石文学賞を受賞。03年「空中庭園」で第3回婦人公論文芸賞、05年「対岸の彼女」で第132回直木賞を受賞。06年「ロック母」で第32回川端康成文学賞、07年「八日目の蝉」で第2回中央公論文芸賞、11年「ツリーハウス」で第22回伊藤整文学賞、12年「紙の月」で第25回柴田錬三郎賞を受賞、「かなたの子」で泉鏡花文学賞を受賞。14年「私のなかの彼女」で河合隼雄物語賞を受賞。

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Photographs:KOH AKAZAWA

(supported by TAITTINGER)

花は限りある命を懸命に全うする。自分の生き方もそうありたい。

2016年よりスタートした「FLOWER SHOP KIBOU」は、世界中に足を運び、花を通して人々に希望を届けるプロジェクト。インドでは、レイを編み、現地住民に振る舞った。

東信 インタビュー芸術家として、花屋として、人として。再び命に向き合う。

世界的に活躍するフラワーアーティスト・東 信氏。その舞台は、日本よりも海外の比重が大きく、ニューヨーク、パリ、デュッセルドルフ、ミラノ、ベルギー、上海、メキシコ……。美術館からアートギャラリーまで、引く手数多です。

東氏の表現は、花が持つ美しさを芸術に昇華させ、更に価値化。そして、花に想像を超えた邂逅体験をさせる手法もまた、独自の世界観を生みます。宇宙へ飛び立つ「Exobiotanica - Botanical space flight -」や深海に沈む「Sephirothic flower : Diving Into the Unknown」はその好例です。

自身の創作以外では、ビッグメゾンとの取り組みも多く、「HERMES」や「FENDI」のウィンドー制作やインスタレーション、「DRIES VAN NOTEN」のショーでは「Iced Flower」が採用され、「YOHJI YAMAMOTO」のコレクションではフォトビジュアルを生地に転写。近年においては、「COMME des GARCONS」の川久保 玲さんに選ばれた逸材、「noir kei ninomiya」の二宮 啓氏と共に花のヘッドピースやマスク、ルックに生花を合わせるといった前衛的なコレクションを発表しています。

そんな東氏は、直近に予定されていた海外の活動延期を余儀なくされてしまいます。理由はもちろん、新型コロナウイルスによるものです。
「こんなに長い間、日本にいるのは久々かもしれません。良い意味で、自分と向き合う機会になりました」。

その時に浮かんだこと。それは、「何か違う」。

ここ数年、おぼろげながらに感じた心境の変化と対峙し、答えを探します。

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作品「Exobiotanica Ⅱ - Botanical space flight -」。その芸術性はもちろん、想像を超えた演出方法もまた、東氏の表現の特徴。

作品「Sephirothic flower : Diving Into the Unknown」。深海でも花の美しさは健在。植物も海も自然界のものゆえ、より生命力が溢れ出す。

東信 インタビュー本当に大切なものは何か。芸術家である前に人として何ができるのか。

遡ること2016年、新たなプロジェクトがスタートしました。それは、「FLOWER SHOP KIBOU」です。世界中に足を運び、ゲリラ的にショップをオープン。訪れた地の人々に花を贈り、希望を届けるための活動です。

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フラワーショップ“希望”とは、世界中の様々な街に出現し、人々に希望という名の花を届ける花屋である。国籍や人種、言語、宗教問わず、花を贈る人間の心は万国共通である。憎悪や悲しみ、絶望の中で、かすかな希望を託すもの。我々は、人々に花を届け続ける。希望が必要な限り、花を届け続ける。
──

花には「希望」がある。改めてそう東氏が実感したのは、2011年。日本中に大きな衝撃を与えた「東日本大震災」の時でした。
「僕たちは、“JARDINS des FLEURS”というオートクチュールの花屋を2002年から始めています。注文に合わせてデッサンを起こし、花材を仕入れ、花束を作るお店です。今回、このコロナ禍で真っ先に花の業界は影響を受けると思っていたのですが、実際は想像と真逆でした。花をお買い求めになるお客様が非常に多かったのです。しかも、イエローやオレンジなど、ビタミンカラーの配色をご希望する方が多かったのも特徴のひとつでした。みなさん、誰かを元気付けたいと思っていたのです。“東日本大震災”の時にも同じ現象が起きていました」。

「JARDINS des FLEURS」は、特異な花屋です。まず、花屋なのに花がありません。理由は、前出の通り、オートクチュールにあります。誰にどんな用途でお花を届けたいのかという会話からオーダーはスタート。必要な分だけ花を仕入れ、各々に適した作品を提供しているため、通常の花屋に見る切花やブーケなどが陳列される風景がここにはないのです。
「自分も元々は花屋に勤めていました。しかし、そこでは売れるか分からない花が多分に並び、しおれてきてしまったら廃棄。場合によっては、古いものからお客様に提供するところも。そこに疑問を感じ、自分は必要な分だけ花を仕入れ、無駄をなくした花屋をやりたいと思ったのです」。
食材で言えば、賞味期限に似るのかもしれません。更には、それが生きる動物の品と考えれば想像するのは難しくないでしょう。

「命を無駄にしたくない」。

人々は、なぜ花を必要とするのか。届けたい先の見える化が形成されているのも「JARDINS des FLEURS」の大きな特徴です。
「これは、僕らが改めて“花の力”をお客様から学ばせて頂いたことなのですが、花は自分のために得るのではなく、誰かのために与える存在だということです。元気付けたい。励ましたい。勇気付けたい。それは依頼内容に如実に表れていました。やはり、花は生きる活力なのだと思いました」。

生活を豊かに彩るのも花ですが、苦しい時に光を見出してくれるのもまた花。冠婚葬祭、お見舞い、献花、お供え……。様々な場面において、花は常に寄り添い、相手の心を癒します。
この感受は、芸術家・東 信だけでなく、花屋・東 信も続けてきたからこそ得られた精神と言って良いでしょう。

先述の「何か違う」と思った答え、それは表現の先にある「希望」。
「果たして僕は、花を通して希望を与えられているのか」。

人から人へ、手から手へ、花を届ける「FLOWER SHOP KIBOU」。このコロナ禍により、改めて、そんな温もりの大切さを再確認させられる。

国や人種、年齢や性別に関係なく、花を渡すと人々は、皆、笑顔に。花には自然と人の心を豊かにする力があるのだ。

東信 インタビュー花は自分に希望を与えてくれた。次はその希望を誰かに届けたい。

「FLOWER SHOP KIBOU」は、コンゴ、アルジェリア、ドイツ、インド、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、ジャマイカ、中国、日本(福島、福岡、石垣島、青森)を巡ってきました。
「国も違えば、土地も文化も違う。正直、治安の悪いところもありましたが、全てにおいてひとつだけ共通していることがあったのです。それは、自分が得た花を自分だけのものにせず、その美しさを誰かと共有するということでした」。

お母さんにあげるんだ! 恋人にプレゼントするね! 友達にも見せてあげたい! お墓に手向けます! プロポーズしてくる!!

そして、花を受け取った人は、満面の笑顔でただ「ありがとう」。希望の連鎖です。

「この体験は、芸術活動では得られないと思います。なぜなら、美術館やギャラリーで開催される展覧会は鑑賞であり、わざわざ足を運んでくれた一部の人しか花を見ることができません。しかし、もっと身近な人たちに僕は花を感じて欲しかった。今度は、自分が足を運ぶ番だと思ったのです」。

花は人を無欲にし、人間そのものが持つ澄んだ心までも手繰り寄せるのかもしれません。

「ウルグアイに訪れた際、幸運にもホセ・ムヒカ元大統領とお会いする機会を頂きました。生きることは何かや命についてお話を伺ったのですが、こうおっしゃっていました。“約70億人が暮らすこの地球上では、争いが絶えません。国家間の対立やイデオロギーの衝突、個人で言えば、価値観の不一致が争いを招き、名も知れぬ人々の死を伝えるニュースは日常化してしまっています。私利私欲にまみれ、皆が好きなことをやってしまえば、世界はもちろん、地球すら崩壊してしまうかも知れません”」。

コロナ禍では、自粛やロックダウンによって排気ガスは低減され、空気は澄み、人が足を踏み入れなくなった大地や自然のみ、本来の力を再生させる機会となったのかもしれません。人間の活動停止による地球回復という皮肉な結果になったと言えるでしょう。
ムヒカ元大統領は、命や人生よりも大切なことはないと提唱し、「人生で一番大事なことは、成功することじゃない。歩むことだ」、「幸せに生きるには、目的意識を持つことだ」という言葉も残しています。

日本へ訪れた際には、日本人へのリスペクトとして広島へも足を運んだ過去も持ち、東氏もまた、毎年、原爆の日には献花を行っています。

はたして我々は、どう歩み、どんな目的意識を持つべきなのか。そして、これからどう生きるべきなのか。

「FLOWER SHOP KIBOU」は、テントのみで行うゲリラショップ。ショップと名打つも、花は無償で提供。それが人々の希望につながれば、と活動を続ける。

ブラジルでは、人々の日常にある街中にて展開。子供は花を手にし、「家族に見せたい!」、「友達にも分けてあげたい!」と、笑顔の連鎖を生む。

アルゼンチンでは、フフイに訪問。荒涼とする村には先住民も多く、色濃い文化も残るも、花の美しさは世界共通。異国民への警戒は開放され、感謝の心も生まれた。

アフリカはコンゴでも展開。広大な熱帯雨林が残り、生息する植物にも特徴がある。「FLOWER SHOP KIBOU」は、現地で花を仕入れるため、花を通して地域の環境を知ることもできる。

アフリカ、コンゴにて。観光客もあまり訪れない村では、異国からの訪問はすぐ噂に。子供たちは、不思議な花屋に興味津々。

インドではカラフルな花が多く、日常と密接につながる。仏教やヒンドゥー教発祥の地でもあるため、礼拝などにも手向けられ、神秘的な存在として扱われる。

インドではガンジス川のほとりでも展開。聖なる川として愛されるここでは祈りの儀式も行われ、神聖な場所でもある。

日本では、福島の某小学校に展開。震災以降、「FLOWER SHOP KIBOU」に限らず、花を通して夢や希望を与えられる活動を行なっている。

授業が終わり、チャイムが鳴ると、すぐさま校庭に。放課後には行列ができるほど子供たちは花に夢中になった。

花をもらった女の子は、東氏にお礼を伝え、すぐさま走り出す。その先には、クラスの友達に花を手渡す風景が。喜びや美しさを分かち合う心に導いてくれるのも、また花の力。

ラスタカラーが印象的な壁面での展開はジャマイカにて。常夏の地域、レゲエの聖地としても有名だが、ピースの文化も根付く。ここでも子供たちが花を求め、列を成した。

アルジェリアの首都、アルジェの旧市街カスバにて。カスバとは、アラビア語で要塞の意味。丘がつならなるそこは、その名の通り、壁に守られ、迷路のような階段状の路地が多い。

ウルグアイに訪問の際には、第40代大統領、ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダーノ氏と会談する機会も。これから人はどう生きるべきなのか、自然や地球の環境問題など、様々な議論を繰り広げた。

東信 インタビュー
僕たちは何かを失ったのではない。確実に何かを得たのだ。

2019年、東氏は「The New York Times」にて、各大陸を代表するフローリストとして選出され、更に世界中から注目を集めています。

「とても名誉なことではありますが、(冒頭の通り)今は、芸術力や演出力、表現力よりも人間力を磨くべきだと思っています。僕自身、花に生かされていますし、その花が生きる環境問題に目を向けられなければ花に携わる人間として資格。今、僕らのお店では、お花のバッグやブーケのケースも再利用できるものに全て変えました。それをご説明すると、みなさんは楽しそうにまた持ってきてくださって。自分たちにできることは些細な活動かも知れませんが、コツコツと積み重ねていくしかありません。もう一度、花屋を始めた初心に返り、再び命と向き合いたいと思っています」。

東氏のもとには、オーダーした花を提供するに終わらず、その後、お礼の連絡とともに花を渡した相手がどんな反応を示したかの便りが届くと言います。
「僕たちの手を離れた花がどんなふうに人を喜ばせ、命を全うできたかを知れるのは本当に嬉しいです。僕らが希望を与えたはずなのに、巡り巡って、結果、僕らに希望を与えてくれます」。

取材後、ある場所へ東氏が案内してくれました。そこにはユリが壮観に並び、数にして約3,000本。
「2020年7月、九州を襲った豪雨では、たくさんの方々が被害に見舞われましたが、その中には花を育てている生産者も少なくありませんでした。傷がついてしまったり、汚れてしまった花は、市場に出荷できないため、引取先がない場合は、破棄されてしまいます。それを僕らが買い取り、どうにか花の命を全うさせたいと思い」。
ひとつでも美しいユリですが、集積された美しさもまた圧巻。
「生産者の方々が丹精込めて育てた花の命を無駄にするわけにいきませんから」。

こうした創作活動は、コロナ禍も地道に続けており、その後の花の行き先は、医療従事者の方へのギフトとして贈っていました。
「コロナ禍によって失ったものは大きいかもしれませんが、そればかりではないはずです。我々は確実に何かを得たのだと思います。今こそ、自分たちがどういきるかを再び考えなければいけません」。

世界中に日常が戻ったとしても、後戻りはしてはいけません。回復した自然環境をより持続させ、そういった配慮を人間はしていくべきなのです。

「花に携わって約20年。表現者として、花屋として、人として、バラバラに歩んでいた道がひとつに重なってきた感があります。それは、つまり生き方。花は限りある命を懸命に全うし、誰かを幸せにし、笑顔にし、希望を与えてくれます。自分の生き方もそうありたい」。

人はいつか死を迎えます。花も同様ですが、人と大きく違うところは、植物は朽ちた後も大地に還り、次の命のためにその身を捧げます。

「自分が生きている間、誰かのために、花のために、自然のために、何ができるのか」。

その答えはすぐには見つからないかもしれません。いや、死ぬまで見つからないかもしれません。数多の花の命を見取ってきた東氏のこれからは、より植物に近い生き方を歩むのかもしれません。

「死期を迎えるその時まで、僕は花とともに希望を届けたい」。

様々な国や地域を訪れ、花を通して希望を届ける「FLOWER SHOP KIBOU」。「花を受け取った人々が得た希望は、きっと違う誰かにまた連鎖していく。花にはそんな力があると思います」と東氏。

九州の豪雨によって行き場をなくしたユリを招き入れ、作品を創作。傷を追ったものも多分にあるが、役割を与えられた花々は、より生き生きとした表情を見せる。力強い個の集積は、圧巻の生命力がみなぎる。

1976年生まれ。フラワーアーティスト・『JARDINS des FLEURS』主宰。2002年より、注文に合わせてデッサンを起こし、花材を仕入れ、花束を作るオートクチュールの花屋『JARDINS des FLEURS』を銀座に構える(現在の所在地は南青山)。2005年頃から、こうした花屋としての活動に加え、植物による表現の可能性を追求し、彫刻作品ともいえる造形表現=Botanical Sculptureを開始し、海外から注目を集め始める。ニューヨークでの個展を皮切りに、パリやデュッセルドルフなどで実験的な作品を数多く発表する他、2009年より実験的植物集団『東 信、花樹研究所 (AMKK)』を立ち上げ、欧米のみならずアジア、南米に至るまで様々な美術館やアートギャラリー、パブリックスペースで作品発表を重ねる。近年では自然界では存在し得ないような地球上の様々なシチュエーションで花を生ける創作を精力的に展開。独自の視点から植物の美を追求し続けている。また、2016年より世界各国を巡り、花の美しさや植物の存在価値を伝えるプロジェクト『FLOWER SHOP KIBOU』を始め、花と人との関係性を探る活動も展開する。
http://azumamakoto.com

Flower Art:MAKOTO AZUMA
Photographs:SHUNSUKE SHIINOKI & AMKK
Text:YUICHI KURAMOCHI

全ては整った。長谷川在佑&川手寛康の短期密着連載・最終章! [デンクシフロリ/東京都港区]

『デンクシフロリ』のメンバー集合! 左より女将の橋本恭子さん、シェフの森田祐二氏、スタッフの寺下尚希氏、山木 望氏、後野篤郎氏、そして長谷川在佑氏、川手寛康氏。更に、日本料理の料理人・黒野仁喜氏が合流する。

デンクシフロリ2020年9月30日、「デンクシフロリ」オープン!

改めて振り返ること、2020年8月。

『傳』の長谷川在佑氏と『フロリレージュ』の川手寛康氏がふたりでレストランを始めるという一本の連絡があってから約1ヶ月、それならば!と工事中の現場から密着し続けた短期連載も今回が最終章になります。

本プロジェクトの経緯やお店に携わる様々な人の声も吸い上げ、多角的な視点から『デンクシフロリ』ができるまでを綴ってきました。
当初、コンセプトを伺った時、「何か凄そうですが、結局どんなお店なのか……」と、「???」が頭をよぎったのは、今でも記憶に新しい正直な感想(汗)。

しかし、わからなくて当然なのです。
なぜなら、ふたりが歩み出そうとしている世界は、新たな一歩であり、前代未聞の挑戦のため、すぐに他所が理解しようと思うこと自体、虫が良すぎるわけなのです。
そのふわりとしたイメージは、密着することによって、少しずつつながっていったような気がします。
それは、このお店が掲げる一番の根幹である「人と人とのつながり」がどんどん結実していった様子にありました。

長谷川氏の言葉を借りるならば、「“クシ”は料理にも表現しますが、それが主ではありません。“つなぐ”ものはさまざま。和食とフレンチ、傳とフロリレージュ、長谷川と川手、文化と文化、国と国……。そして、一番は人と人。見えない“クシ”で“つなぐ”ことが一番重要」。これに尽きると思います。

ただ食べるためではない。ただ飲むだけではない。集いや出会い、ご縁が生まれる場所こそ『デンクシフロリ』なのです。
その理解を手助けしてくれたのは、本連載でも取材した建築家・デザイナー、陶工、左官職人、フラワーデザイナー、染色家の方々でした。
スケルトンだったそこは、彼らの手によりどんどん具現され、つながっていきます。

そして遂に、2020年9月30日オープン!

その全貌を一挙公開します。

【関連記事】東京都港区/「デン」と「クシ」と「フロリ」の関係。

入口の暖簾は、江戸型染作家・小倉充子さんによるもの。通称、よっぱらいおじさんの「デンクシフロリ」ロゴのグラデーションは、徐々によっていく様を表す。

お店に入ってすぐ。正面の壁面仕上げは、大橋左官の職人・大橋和彰氏によるもの。そこに飾る花は「piLi flower design works」のフラワーデザイナー・大類淳子さんが手がける。ひとつ一つを観察するだけでも、そこかしこに何かと何かがつながる。

空間の主役でもあるおくどさんも大橋左官の職人・大橋和彰氏が手がける。おくどさん、壁面ほか、適材適所に表情を変えて仕上げる。経年変化も楽しみだ。

カウンターの素材はイロコと呼ばれるアフリカンチークを採用。「純和に寄らず、洋の要素も加味しました」と、建築家・インテリアデザイナーのエスキス・甲斐晋介氏。

凹字型の空間は『フロリレージュ』と同スタイル。『フロリレージュ』が劇場型であれば、『デンクシフロリ』は小劇場型。元気に! 賑やかに! コミュニケーションがつながる場所。

デンクシフロリ誰もが美味しいと思える料理を構成した。「デンクシフロリ」のコースを全公開!

「今回は、誰もが食べて美味しい!と思える料理を念頭にコースを考えました」。
そう語るのは、川手氏です。

「何度も何度も試作しました。毎日アイデアを出し合っては、作っては手直しして。お店の営業時間以外は、お互いのキッチンに行き来する日々でした」とふたりは話します。

そんなコースは、全8品。
・ブータンノワール りんご
・いわし レバームー
・ビスク 海老芋
・なす 茄子ピューレ
・ピジョン えび
・フラン 水牛モッツァレラ
・タンコンフィ 茸ご飯
・甘味

まず、「ブータンノワール りんご」。フレンチでは定番のブータンノワールに長谷川氏考案のりんごのガリを合わせます。「このガリは、季節に合わせて変えていく予定です」とは長谷川氏。また、通常はマスタードを添えるところですが、和がらしにしているのも特徴的です。

「いわし レバームー」は、『傳』と『フロリレージュ』が初めてコラボレーションした時の組み合わせを再構築。「どうしてもこの料理をコースに加えたかった」とふたりが話す思い出の品です。少しずつレバームーをいわしに乗せて食べるも良し、単体で香りを楽しむも良し、串からはずして混ぜ合わせるも良し。お好みに合わせてお楽しみいただきたいひと皿です。

「ビスク 海老芋」の海老芋は、出汁を含ませ、ビスクの濃厚な味わいと絶妙なバランスが溶け合います。ソースではなく、スープとの合わせも斬新なひと皿です。

「なす 茄子ピューレ」のなすは、揚げ浸しに。皿上に広がる2種のソースには、酸味の効いたものとスパイシーなオイルを用意。上にはナスの皮で作ったペーパーシートを添えます。本作は、Vol.2の連載の試作でも登場しましたが、その時よりも進化しています。

「ピジョン えび」の鳩は味噌漬けに、えびは醤油漬けに。漬けの響宴が成された料理。コース内、唯一のふた皿構成には、森田氏が作るパスタも添えられます。基本的に今回のコースは、長谷川氏と川手氏が考案したものですが、この料理に限り、長谷川氏・川手氏・森田氏がつながる味を堪能できます。

「フラン 水牛モッツァレラ」は、出汁ベースの茶碗蒸しに軽く炙ったモッツァレラを沈め、表面には醤油の餡とオリーブオイルを浮かばせます。

「タンコンフィ 茸ご飯」の茸は、舞茸とセップ茸を。「今後は、季節によって茸の種類を変えて行く予定です」と長谷川氏。合わせる牛タンには醤油の餡を絡め、器の縁にはアクセントに山椒の実のペーストを添えます。『傳』直伝、土鍋から炊き上げたご飯を見せる演出もまた、美味しさを倍増させます。

最後の甘味は2種より。ひとつは「煎茶プリン」。クラシックなプリンに煎茶のクリームと茶葉を乗せ、豊かな香りを演出します。もうひとつは「メレンゲ大福」。炊いた小豆とメレンゲをアイスにし、きめ細やかな餅で包み、メレンゲでサンドします。「ガシガシ食べてほしい!」とは川手氏の言葉。

また、それらに彩りを添え、相乗効果を生むのがドリンク。中でも、特に割りものがおすすめです。

沖縄の柑橘フルーツ、カーブチーを使用したサワーや「ブータンノワール りんご」のりんごのガリを使用した「アップルジンジャー」、山葵を漬け込んだウォッカにかぼすを添えた「かぼす山葵」はその好例です。また、大麦焼酎 青鹿毛(あおかげ)と台湾茶 八八金萱を合わせたお茶割りで〆るのも「デンクシフロリ」流。

川手氏は、台湾に姉妹店『ロジー』を展開し、『ハレクラニ沖縄』のレストラン「シルー」のコンサルティングシェフも務めます。台湾と沖縄、つながりのある地域から選ぶ素材を起用したドリンクもまた、「デンクシフロリ」らしさと言えます。

とにもかくにも、まずはぜひご賞味あれ!

森田氏を中心に料理を展開。オープン前のこの日は、長谷川氏と川手氏も参加し、ポイントや手順を整理。精度を上げていく。

席に用意される式膳は、越前塗。こういった細かい演出も高揚感を誘う。

「ブータンノワール りんご」は、Vol.2の連載にも登場。試作の初期段階から採用されるも精度は更にアップ。当初、千切りだったりんごは輪切りになり、より食感と味わいが増す。

「いわし レバームー」は、長谷川氏と川手氏が初めてコラボレーションした思い出のメニュー。「これだけはどうしてもコースに入れたかった」とふたり。以前よりも向上したふたりの技術やキャリアは、当時の味よりも、はるかにレベルアップ!

スープにクシが刺さった斬新な「ビスク 海老芋」。海老芋には出汁を含ませ、風味豊かに。

揚げ浸しにしたなすに酸味とスパイスを効かせた2種のソースでいただく「なす 茄子ピューレ」。本作を始め、「ブータンノワール りんご」、「いわし レバームー」に使用された白磁の器は、『李荘窯』の有田焼陶工・寺内信二氏が手がける。

「ピジョン えび」では味噌漬けの鳩と醤油漬けのボタンエビをクシで刺した漬けペアリング。パスタは森田氏が手がけ、添えたネギソースと絡めても美味しい。和食・長谷川、フレンチ・川手だけでなく、イタリアン・森田もつながる料理。

表面にかかったオリーブオイルの風味がモッツァレラと茶碗蒸しのつなぎとなり、絶妙にマッチ。和と洋が見事に融合された「フラン 水牛モッツァレラ」。

湯気が立ち上る炊きたてのご飯。土鍋から見せる演出は、『傳』の手法を採用。土鍋は、 Vol.4の連載にも登場した『安楽窯』陶磁器製造の有田焼陶工・末村安孝氏が手がける。

味はもちろん、香りが豊かな「タンコンフィ 茸ご飯」。タンにかかった餡をご飯に絡めても美味しい。

「煎茶プリン」は、「食べた後の余韻が他の茶葉と比べてダントツに心地良い!」と長谷川氏と川手氏。

「メレンゲ大福」は「思っ切りバリバリ口に頬張って食べてください!」と川手氏。本作を始め、「ピジョン えび」、「フラン 水牛モッツァレラ」、「タンコンフィ 茸ご飯」、「煎茶プリン」の器は、Vol.4の連載にも登場した『柳瀬晴夫窯』14代目、小鹿田焼陶工・柳瀬元寿氏が手がける。

ウォッカベースに沖縄の青みかん「カーブチー」を合わせたサワー。「“いわし レバームー”とぜひ!」とは女将・橋本さん。

「アップルジンジャー」は、生姜を漬けたウォッカベースに紅玉りんごジュースとスパイスを効かせた自家製ジンジャーシロップを加え、「ブータンノワール りんご」のりんごのガリと仕上げる。

山葵を1日ウォッカに漬け、液体に風味をまとわせた「かぼす山葵」。「山葵のツンとした味と香りに爽やかな柑橘を合わせました。本当の酒飲みが好きな味!」と橋本さん。

大麦焼酎 青鹿毛と台湾茶 八八金萱を合わせたお茶割りは、麦の香ばしい香りとお茶の爽やかな味わいが綺麗にまとまる。「タンコンフィ 茸ご飯」のような甘辛いタレの味との相性は抜群。「“メレンゲ大福”との合わせもぜひ!最後の“あがり”感覚でもお召し上がりください!」と橋本さん。

デンクシフロリ長谷川在佑と川手寛康は、コラボレーションをしたのではない。レストランを作ったのだ。

「2020年9月30日にオープンを迎えますが、ここからがスタート。森田シェフを中心に『デンクシフロリ』のメンバーがそれぞれ考えていくことが大切」と長谷川氏と川手氏は話します。

ふたりがお店には立たないものの、名シェフによる新店とあれば、自ずとゲストの期待値は高まります。
「期待値が高いのは覚悟の上。僕は長谷川さんにはなれないですし、川手さんにもなれません。美味しい料理を作ってお客様に楽しんでいただくこの舞台を誠心誠意全うするだけです」と森田氏。

「改めて思うことは、僕たちはコラボレーションをしたのではありません。レストランを作ったのです。コースの内容は、時間をかけてじっくり考え、どうすれば美味しいと思ってもらえるかを日々熟考しました。それは、イベントでご提供するような数日限定の料理ではありません。常にお楽しみいただけるレストランでご提供する料理を作りました」と長谷川氏と川手氏は話します。

「“クシ”という鎖があったからこそ、できたと思います。ある種のルール、規制があったのが良かった。自由に表現し過ぎたら、まとまらなかったかもしれません」と長谷川氏。
「改めて“クシ”って良い言葉で良い出会いを“つなぐ”のだと思いました」と川手氏。

長谷川氏と川手氏のつながりに始まり、和食とフレンチ、そこにイタリアンがつながり、食材をつなぎ、料理をつなぎ、ものをつなぎ、人をつなぎ……。

―全ては整った―
冒頭にそう明記しましたが、実は誤りがあり、厳密には1ピース欠けています。

それは、『デンクシフロリ』がつなぐ最後のピース、お客様。

そのピースは、ぜひあなたが。

常に笑顔が絶えないメンバー。お客様も含め、同じ空間に居合わせた人々がいかにグルーヴを体感できるかが重要。そういった意味では、『デンクシフロリ』は、バンドにも似るのかもしれない。

住所:東京都渋谷区神宮前5-46-7 GEMS 青山CROSS B1A MAP
TEL:03-6427-2788
https://denkushiflori.com

Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

これを逃したら二度と味わえない!? サッポロ一番の無限の可能性を楽しむレストランが期間限定オープン。[サッポロ一番劇場/東京都港区]

なんとこれがサッポロ一番!? 参加した一流シェフ2名の共作による「伊勢エビチリ」。5,500円のディナコースの一品として登場する。

サッポロ一番劇場サッポロ一番への思いが詰まった16日間限定の夢の劇場がついに開演!

たかがインスタントラーメン。

そう思っている方がいたら、そんな人にこそ、ぜひこの店に足を運んでほしい。
名だたるレストランのセカンドラインが軒を連ね、世のグルマンたちを夜な夜な魅了する『虎ノ門横丁』に9月25日(金)から10月10日(土)までの期間限定でオープンする『サッポロ一番劇場  @虎ノ門横丁』。『虎ノ門横丁』では、これまでにもポップアップレストランとしてさまざまな店を期間限定でオープンしてきましたが、今回コラボするのは料理人やレストランにあらず。何と、日本が誇るインスタントラーメン『サッポロ一番』とコラボして、サッポロ一番を使ったアレンジ料理を提供しようというのです。

しかも、その前代未聞のコラボに参加するシェフも、一流の料理人。中華から銀座『Renge equriosity』の西岡英俊氏、イタリアンから自由が丘『mondo』の宮木康彦氏がサッポロ一番のしょうゆ味、みそラーメン、塩らーめんの3種のインスタントラーメンを自在にアレンジ。独自の視点と解釈、さらにお互いの“らしさ”をプラスして、未知なるサッポロ一番のポテンシャルを引き出そうというのです。

さらに言えば、一人一品ずつではなく、ランチでは開催期間中を3期に分け、ランチでは西岡シェフが4品、宮木シェフが5品のラーメンを考案するというから、両シェフの熱量も凄まじい。ディナーには、お酒とともに楽しめるようサッポロ一番がコース料理となって登場、両シェフの共作も提供されるとあって、サッポロ一番ファンはもとより、これには世のフーディも黙ってはいられないことでしょう。

そんな期間限定の『サッポロ一番劇場』のプレス発表にONESTORYが参加、サッポロ一番の驚くべきポテンシャルを体感してきました。

サッポロ一番のおなじみのあの味が、一流シェフの手にかかるとこうも味が変わろうとは!

プロデューサーであるマッキー牧元氏。自身もサッポロ一番アレンジ料理をつくりつづけてきたが、両シェフの料理のアプローチには舌を巻いた。

こちらは宮木シェフ作「3種イワシのアーリオーリオエペペロンチーノ カリカリパン粉がけ」1,000円。10月1日(木)~5日(月)に登場。

サッポロ一番劇場3品から垣間見えた、両シェフのサッポロ一番へのリスペクトと愛。

プレス発表で実際に供されたのは全3品。しかし、この3品だけでサッポロ一番の奥深き世界、両シェフによるこの企画に対しての熱量と本気度を知るには十分すぎる内容でした。

まず登場したのは、宮木シェフ考案の「サッポロ一番塩らーめんのテッリーナ」。見た目からして「これがサッポロ一番?」と目を白黒させれば、味わってさらに驚きます。塩らーめんの麺と、白菜、椎茸、人参といった野菜を、塩らーめんのスープを寄せてテリーヌにしているのですが、味わえば確かにあのサッポロ一番塩らーめんそのものの味なのです。ただ、すごいのは、添えられたアンチョビのソースとともに口に運ぶと、その味わいが激変すること。聞けば、ソースにはフルーツトマトとクリーム、レモンの皮が混ぜられ、それらの酸味と塩味が塩ラーメンの味わいを引き締め、「これがサッポロ一番?」と、改めて食べ手を驚かせるのです。
「白菜、椎茸、に〜んじん♪」
あの名CMを知っている世代には懐かしいテリーヌの構成も、遊び心満載。サッポロ一番ファンなら心をぐっと掴まれることでしょう。

続く料理は西岡シェフ作。こちらもサッポロ一番塩らーめんを、ストレートにアレンジした「天然真鯛の松茸ラーメン」。しかし、シェフのアイデアは食べ手の想像を軽々と超越してくるのでした。
まず、スープには真鯛のアラから取った出汁を使用。粉末のスープの素を溶いてつくるのですが、フリーズドライのネギだけを除外。そうすることでサッポロ一番塩らーめんらしさを残しつつも、「インスタントラーメンのジャンキーさを消すことができる」のだそう。合わせる具材は、焼いた松茸と岩のり。松茸で仕立てたオイルをスープに浮かべることで、麺との絡み具合もアップし、香りも重層的に。未知なるサッポロ一番の世界にうなるばかりです。

3品目は宮木シェフの「モンサンミッシェル産ムール貝の混ぜそば」。こちらは『mondo』でも提供するコルツェッティというパスタとムール貝のラグーのソースを合わせた一品から着想し、みそラーメンをアレンジ。刻んだムール貝とにんにく、玉ねぎ、セロリを白ワインで煮込み、そこにみそラーメンのスープの素を絡めたソースを中心に、卵黄、ネギ、セロリ、トマト、バジルの葉をトッピングしています。しっかりと混ぜ合わせて食べれば、みそラーメンが主張しつつも、しっかりとイタリアンとして着地させるあたり流石。黒酢のスプレーで「味変」させる点にも、楽しさが溢れています。

「サッポロ一番塩らーめんのテッリーナ」。白菜、椎茸、にんじん、麺を塩らーめんのスープで寄せて形成。夜のディナーコースに登場する。

準備期間中も連絡を取り合い、お互いのアイデアをブラッシュアプしていったという宮木康彦シェフ(左)と西岡英俊シェフ(右)。

西岡シェフによる「天然真鯛の松茸ラーメン」1,500円。すだちを搾ると上品な味わいが東南アジアのテイストになり、違う顔を見せる。9月30日(水)まで。

宮木シェフが考案した「モンサンミッシェル産ムール貝の混ぜそば」1,000円。みそラーメンとイタリアンが見事に融合する。9月30日(水)まで。

サッポロ一番劇場ランチではしょうゆ、みそ、塩の3種のラーメンが各15食限定で登場。

プロの凄みを痛感した。
「超一流のサッポロ一番の作り方」という本を出し、「サッポロ一番塩ラーメンのアレンジなら50種類は軽いぜ」と、威張っていた自分が恥ずかしい。
プロの手にかかると、こんなにもサッポロ一番ラーメンの可能性が広がるのか。
長い長いサッポロ一番ラーメン人生で、こんなにも驚いたことはない。(原文ママ)

これは、この店のプロデューサーであるマッキー牧元氏がFacebookに投稿した文。ここに書かれている内容が決して誇張されたものではないことは、この日供された3品を味わって身にしみてわかりました。

そして、マッキー牧元氏はこうもいうのです。
「どう味を構築して、構成していったらいいかは、これまでにサッポロ一番をアレンジして作り続けてきた身からすれば、ある程度想像がつく。しかし、ふたりのシェフはさらにその先を行っていた。最も驚くべきは、麺へのアプローチ。『こんな茹で方をすると、こんな食感になるのか?』と舌を巻いた。

ランチに登場する9品のラーメンに、ディナーコースで供される6品を加えると、西岡シェフと宮木シェフの両氏が考案したメニューは全15品。その一つひとつに苦心があり、アイデアがあり、サッポロ一番への愛とリスペクトを感じます。
この日食べた料理はわずか3品。驚くには十分すぎる内容ですが、一方で、それはサッポロ一番の無限の可能性の一部に触れたに過ぎません。
マッキー牧元氏も「できることなら、全メニューを皆さんに味わってほしい」と、その出来に太鼓判を押します。

繰り返しになりますが、『サッポロ一番劇場』がオープンするのは10月10日(土)までの期間限定。ランチでは3種のラーメンを提供しますが、各限定15食。この機会を逃したら二度と味わえない!? ふたりのシェフによるアレンジメニューをどうぞお楽しみください。

ふたりの一流シェフと、サッポロ一番による、わずか16日間限定の夢の劇場。未知なる味の発見と、一期一会の邂逅を楽しみたい。

住所:東京都港区虎ノ門1-17-1虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー3F 虎ノ門横丁  MAP
開店期間
9月25日(金)~ 10月10日(土)
営業時間
平日:ランチ12:00~ 売り切れ終い 
   ディナー18:00~(LO21:00)
土日:ランチ12:00~ 売り切れ終い 
   ディナー17:30~(LO21:00)
https://www.toranomonhills.com/toranomonyokocho/1029.html

PhotographsJIRO OHTANI
Text:SHINJI YOSHIDA

(supported by サッポロ一番)

本で旅する物語。もうひとつの「森岡書店」。[森岡書店/東京都中央区]

本と旅/森岡書店森岡督行と読む、見る、日本の旅へ。

───
旅には2しゅるいあります。
ひとつは、遠くまで行って、ちがう場所の空気をすうふつうの旅。
もうひとつは、本を読んで想像のせかいをめぐる心の旅です。
───
これは、建築家・安藤忠雄氏が手掛けたはじめて絵本『いたずらのすきなけんちくか』の一節です。

「改めて、自分が本と向き合うきっかけになった言葉です」。
そう話すのは、『森岡書店』の店主・森岡督行氏です。

「本の良いところは、まず形があるということです。もうひとつは読み返したくなるということではないでしょうか。これはデジタルにはない感覚だと個人的には思っています。再読の度、自分の成長とともに印象が異なることがあるのもおもしろい。はじめて読んだ時には気づかなかった発見もあるかもしれません」。

紙で読む、見る行為は、画面で読む、見る行為より、記憶に深く刻まれると言われています。脳科学の分野では証明されているようですが、脳が認識する部位が異なることと反射光と透過光の違いにもあるそうです。

「地域に特化したものや街をテーマにしたもの、はたまた建築や寺社仏閣、祭りや催事、日本の目線、海外の目線など、多角的に日本の旅を想像できる本を選書していきたいと思います。特に外国人が見る日本は、我々が気づかないところに重きを置いたり、見慣れた風景すら新しく感じることもあります」。

そして、本に浪漫を感じるところは、前出のように形として残ることです。

「本は、人の命よりもはるかに長く生き続けます。つまり、歴史の伝承物でもあるのです。今ある本も、もしかしたら、数十年、数百年先には古書店に並び、また別の人の手に渡るかもしれません。そんなドラマもまた、形に残る本だからこそ得られる喜びです」。

そう話す森岡氏ですが、実は本に関する失敗談も。

「今思えば、手放せなければよかったと後悔している本もあります。また読み返したいと思った時には手元にない……ということもしばしば。しくじった!(笑)と思っても、後悔先に立たず。ですが、再会できるのもまた本。そんな縁も楽しみたいと思います」。

銀座に実店舗を構える『森岡書店』では、一冊の本を扱う本屋ですが、ここはもうひとつの『森岡書店』。

店主とともに、さまざまな本を通して、日本を読む、見る、想像の旅へ出かけたいと思います。

住所:東京都中央区銀座1-28-15 鈴木ビル1F MAP
TEL:03-3535-5020

1974年、山形県生まれ。1998年に神田神保町の一誠堂書店に入社。2006年に独立し、茅場町の古いビルにて古書店・ギャラリー『森岡書店』を開業。その後、2015年に銀座へ移転し、一冊の本を売る本屋として『森岡書店 銀座店』を開業。著書に『写真集 誰かに贈りたくなる108冊』(平凡社)、『BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌』(ビー・エヌ・エヌ新社)、『荒野の古本屋』(晶文社)など。

Photographs:JIRO OTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

初公開!! 長谷川在祐と川手寛康が託したふたり。新シェフと女将の挑戦。[でんくしふろり/東京都港区]

新たなシェフ・森田祐二氏(右)と女将・橋本恭子さん(左)。なぜ、ふたりが『でんくしふろり』に携わることになったのか、その真相に迫ります!

でんくしふろり『でんくしふろり』のシェフは誰なのか。遂に、その答えが明らかに。

『傳』の長谷川在祐氏と『フロリレージュ』の川手寛康氏が手がける新たなお店『でんくしふろり』。まだまだ謎は多く、未だその詳細は明らかにはなっていませんが、一番の注目は、誰がシェフを務めるのか。

ふたりは自店があるため、本プロジェクトのスタート時から「僕たちが立つお店にはしません」と公言。しかし、新シェフの存在については、これまでヴェールに包まれていました。
そのシェフは、『傳』や『フロリレージュ』からの人選ではありません。

名前は、森田祐二氏。北海道・札幌のイタリアン『トラットリア/ピッツェリア テルツィーナ』で研鑽を積んだ人物です。
そして、森田氏とともにお店を切り盛りするのは、『フロリレージュ』からの電撃移籍、マネージャーの橋本恭子さんです。

気になるのは、やはりプロセス。
ふたりは、どうゆう理由で『でんくしふろり』への切符を手にしたのでしょうか。

森田祐二・橋本恭子・でんくしふろり。そのつながりを紐解きたいと思います。

【関連記事】東京都港区/「でん」と「くし」と「ふろり」の関係。

『でんくしふろり』の名刺も完成! 裏面には川手氏作の「よっぱらいおじさん」を模した屋号が。橋本マネージャーは、遂に橋本女将に!

でんくしふろりきかっけは、田原諒悟。9:1で反対されたが、チャンスは今しかないと思った。

田原諒悟氏は、『フロリレージュ』の姉妹店、台湾『ロジー』を担うシェフです。「ミシュランガイド台北2020」では、2つ星を獲得。2018年のオープンから数えて半年も満たない期間で1つ星を経て、現在に至るスピード昇格です。そんな田原氏と森田氏は、前述の『トラットリア/ピッツェリア テルツィーナ』で約4年間、同じキッチンに立っていました。

「諒悟さんは、北海道で一緒に働いていた僕の先輩です。ひと足先に拠点を東京に移し、今では世界で活躍するシェフとして尊敬しています。一方、僕は、2020年に入ったくらいに今の店から独立しようか、他のジャンルのお店で料理の幅を広げようか悩んでいました。ちょうどその時、今回の件で一本の連絡を頂いたのです。長谷川さんと川手さんがふたりで始めるお店のシェフを探していると」。

当時は、まだ『でんくしふろり』という名前はおろか、物件も未定。海のものとも山のものともつかぬ状態ではありましたが、田原氏の誘いもあり、長谷川氏と川手氏に会うため、森田氏は一度上京します。
「お話しさせて頂き、正直、断る理由がありませんでした。チャンスしかないと思いました。イタリアンでは学べない技術や表現の自由度、自分の求めているステージがそこにはありました」。

しかし、唯一の懸念もありました。それは、新型コロナウイルスの問題です。都外からの上京は、必ずしも賛同を得られるわけではありません。
「9:1で反対されました。“今じゃなくてもいいんじゃないか”、“もう少し状況が落ち着いてからにしたらどうだ”など、その意見は様々でしたが、僕は今しかないと思いました。コロナを理由に諦めたくなかった」。
それらの声は、当然、森田氏を心配してのこと。しかし、自分のタイミングでチャンスはやってこないことを森田氏は分かっています。
来年であれば是非が通用すれば良いですが、それもまた難しい。逃せば手から滑り落ちてゆくかもしれません。更には、こんな絶好が再び訪れるとは限りません。

しかし、9:1の1。それは誰だったのでしょうか。
森田氏の師匠、『トラットリア/ピッツェリア テルツィーナ』の堀川秀樹氏です。

「“もうここでは学び尽くした”、“次のステージへ進め”、“絶対、行くべきだ”。堀川さんは、そうおっしゃってくれました」。しかし、こう言葉も続けます。
「“大切な人やお世話になった人、周囲の人への配慮を怠らず、真摯に説明をし、きちんと理解を得てから行きなさい”とも言われました」。

強力な1の味方によって、2020年9月14日に北海道を後にします。東京入りしてからは、『傳』と『フロリレージュ』のキッチンに入り、実際に同じ現場でシェフとしての時間をともにし、訓練の日々。それ以外は、メニュー作りに没頭します。
「料理のベースを長谷川さんと川手さんが作ってくださっているので、オープンまでにその精度をいかに上げられるかが自分の使命。ふたりに安心してお店を任せてもらえるように務めます!」。

『でんくしふろり』森田祐二シェフの誕生の瞬間です。

「今回、このようなチャンスをいただけた長谷川さんと川手さんには感謝しかありません。これからの人生を捧げるつもりで頑張ります!」と森田氏。

でんくしふろりマネージャーから女将へ。もう一度、ゼロからやってみたかった。

『でんくしふろり』の未来を担うもうひとりの重要人物、それが橋本恭子さんです。ご存知の方も多いとは思いますが、『フロリレージュ』のマネージャーを務めています。意外にも見えるこの移籍は、「自分が更に成長できる絶好の舞台!」と言います。今回に限らず、常に我が道を切り開いてきたようにも見える橋本さんの歩みを振り返ると「運だけでここまできました!」と豪快に笑います。

「もともとは全然飲食とは関係ない仕事をしていて、ひょんなことからお手伝いをすることになったのが約10年前。表参道にできる某飲食店の立ち上げでした。最初だけ……と思っていたのですが、気がつけば7年半(笑)。とても好きなお店だったので辞める理由はありませんでしたが、“このままでよいのか”、“次のステージに向かわなくてよいのか”など、様々な自問自答を繰り返していました。『フロリレージュ』はお客さんとして訪れていて、料理に感動したのは今でも記憶に新しいです。ある時、川手シェフとお話しする機会があり、“それならば一緒にやってみないか”と声をかけて頂き、満を持してお世話になることに」。

しかし、以前のカジュアルなお店と比べるとレストランでの接客やサービスは通用せず、「最初はひどいものでした……」と苦笑い。試行錯誤するも、中々うまくいかず、目指したこともなかった選択肢の挑戦は、そう甘くはありません。
「ある時、気づいたのです。語弊を恐れずに言えば、“私はレストランに憧れがないのかもしれない”と」。
この「憧れ」をもう少し噛み砕くと、「働き方の憧れ」、「体制の憧れ」を指します。
「例えば、レストランであれば、支配人がいて、マニュアルがあって。その絵図になぞろうとする自分がいたのですが、その憧れが弱かったので理想とはほど遠いサービスに。更には、圧倒的にレストランの経験値のなさを『フロリレージュ』で目の当たりにもしました。しかし、幸い自由度の効く場所だったので、そこで気持ちを切り替えたのです。私は私にできることをやろうと」。
今の橋本マネージャーのスタイルは、こうして形成されたのです。持ち前の明るさと元気、コミュニケーション能力の高さは発揮され、生き生きとカウンター内を笑顔で動き回ります。

そんな過去を振り返っていると「実は私、もともと台湾組だったんです(笑)」とも。
当時、前述の『ロジー』のオープンが控え、そのスタッフとして橋本さんは参画予定でしたが、紆余曲折あり、国内組に。現在は、『フロリレージュ』歴2年半、もう一度、挑戦したいと思った矢先に飛び込んできたのが『でんくしふろり』でした。

「実は、密かにもう一度、カジュアルなお店に興味が湧いてきていたのです。ですが、誰かのお店に情熱を注げる自信がありませんでした。それほど、最初にお世話になった表参道のお店と『フロリレージュ』の想いが特別だったから。そんな時に『でんくしふろり』の話を聞き、即立候補しました。もう一度、ゼロからやってみたかった」。

表参道のお店に始まり、川手氏との出会い、幻の『ロジー』!? 『フロリレージュ』、そして『でんくしふろり』……。決して楽しいことばかりではなく、時に「運」は試練も与えてきましたが、都度、自分らしく橋本さんは乗り越えてきました。

「『フロリレージュ』ではワイン中心のペアリングが主流ですが、『でんくしふろり』では日本酒や割りものをメインにするつもりです。割りものは特にこだわりたいと思っており、予想外の組み合わせや面白い品々の仕込みもしているので、ぜひお楽しみください! ワインやドリンクコースのご用意もする予定ですが、ワイワイ楽しんでいただければと思っています」。

規模は違えど、奇しくも凹字型のカウンターは『フロリレージュ』同様。オープンスタイルで繰り広げられる阿吽の呼吸、美しい動きでゲストを魅了する『フロリレージュ』が「劇場型」であれば、『でんくしふろり』は、声に出して賑やかに笑いさえも生む「小劇場型」か!?

その中心で一番声を張っているのは、橋本女将かもしれません。

「『傳』っぽさもありながら『フロリレージュ』っぽさもある。ふたつの良いところを『でんくしふろり』では表現したいです!」と橋本さん。高い目標は、早くも女将の貫禄が漂う!?

でんくしふろりここには、長谷川在祐も川手寛康もいない。チームで乗り切る。

取材を行った9月某日、森田氏と橋本さんは、会ってまだ4回目。
「森田さんはとにかく明るい! あとは声が大きいのが良い!」と橋本さん。
「いやいや、橋本さんの方が明るくて、声が大きい!」と森田氏。
「でも、声が大きいことは、『でんくしふろり』には絶対に重要!」とふたりは笑いながら声を揃えます。

「私は、お客さまとシェフとの間にいる中間地点、それをうまく中継してつなぎたいと思っています。スタッフのひとり一人にファンがいるようなお店を目指したいと思っています」と橋本さん。
「料理に関してベストを尽くすことはもちろん、サービスや細かいところも互いに支えられたらと思っています。例えば、キッチンとサービスでは、忙しい時と手が空く時のサイクルが異なります。そんな時は、どっちがどっちの仕事と区分するのではなく、お皿を下げたり、お会計をしたりと、みんながみんなの仕事に関心を持っていきたいと思っています」と森田氏。
「それを聞いて、今からそのような視点を持ってくれているのはとても嬉しかったですし、そんなシェフがチームにいることも心強いと思いました」と橋本氏が続きます。

社会で言えば縦割り、横割りですが、『でんくしふろり』流に言うならば、縦くし、横くし。その縦横を取り払い、縦横無尽にくしでつながることが、チームをより強くしてくれるのでしょう。

ご存知の通り、ここには長谷川氏も川手氏もいません。ある意味、スター選手不在の中、それでも勝算があるのは、個人競技ではなく、団体競技にあります。チーム戦だからこそ成せる技なのです。
「とはいえ、まだ上京してきたばかりの田舎者なので、東京に慣れるところから始めます!」と森田氏が言うも、「そのネタが使えるのは、最初の一ヶ月だけ!」と橋本さんの鋭いつっこみ。
「『傳』や『フロリレージュ』のお客様にも、『でんくしふろり』が好きだと言ってもらえるようになりたいです!」とふたりが言うも、すぐさま「とはいえ、お店を始める前からそんな図々しいこと言ってしまう性格も似てる(笑)」と言葉を続け、息もピッタリ。

『でんくしふろり』では、そんなシェフと女将のかけあいも一興か!?
人の出会いもご縁のつながり。ついに、演者は揃いました。

いよいよ、本格始動です!

※『でんくしふろり』の住所も公開! 予約も開始しました!

「まずは同じ価値観を皆で持つことが大事。時にぶつかることもあると思いますが、“どうしたらお客様が喜んでいただけるか”というゴールさえ同じであれば、常に議論してお店を成長させていきたい」とふたり。『でんくしふろり』はチーム戦。全員野球で望む。

Photographs:KENTA YOSHIZAWA
Text:YUICHI KURAMOCHI

「くし」でつながる仲間の声! Part.2 有田焼陶工・小鹿田焼陶工・フラワーデザイナー・染色家[でんくしふろり/東京都港区]

『でんくしふろり』では、陶器やご飯炊き鍋を手がける『安楽窯』陶磁器製造の有田焼陶工・末村安孝氏。「時代に合った焼き物作りを目指しています」。

でんくしふろりふたりの職人技が光る。料理を更においしくする、究極の相方。

「ふたりと」は、『安楽窯』陶磁器製造の有田焼陶工・末村安孝氏と『柳瀬晴夫窯』14代目、小鹿田焼陶工・柳瀬元寿氏であり、相方とは「器」を指します。

今回、『でんくしふろり』の器全般は、ふたりが手がけます。
末村氏は陶器やご飯炊き鍋を、柳瀬氏は器を。両者とも『傳』からの付き合いになります。
「長谷川さんとは、有田焼創業400年事業がきっかけで出会いました。いつも笑顔が素敵で元気をもらっています」とは、末村氏。特にこだわるご飯炊き鍋は、「火の通りが良く、ご飯がふっくら炊けます!」と長谷川氏も絶賛。
『傳』に訪れたた方ならすぐにわかると思いますが、あの土鍋ご飯の美味たるや。お腹だけでなく、心も満たしてくれる優しい味には、ファンも多いはず。

柳瀬氏は、小鹿田焼陶工歴20年目、柳瀬家14代目の異名を誇ります。「仰々しい肩書きですが、一般人です(笑)」
とにこやかに話すも、日々『傳』で使用する器を通し、その実力のほどは長谷川氏が一番良く知っています。
「まだ制作中ですが、自分の作品は常に自然がテーマ。主張が強すぎてもいけませんし、器はあくまで脇役。お店や料理の一部として馴染めることが最良かと思っています」と柳瀬氏。
「長谷川さんは、源泉みたいな人(笑)。長谷川さんと川手さん、スタッフの皆様の手によって器がどんな風に様変わりを見せてくれるのか、自分自身が一番ワクワクしています!」。

器は単体でも美しいですが、料理を迎えることで様々な表情に変化します。

「これから進むべき行方は、長谷川さんと川手さんが歩んできた道に続いていくことを心から願います。そして、お客様へ感謝のおすそ分けをしていただけるようなお店になることを期待しています」と柳瀬氏。
「世界中に元気を届けてもらえるようなお店になってもらえることを願います! ふたりならできるはずですから!」と末村氏。

【関連記事】東京都港区/「でん」と「くし」と「ふろり」の関係。

若干41歳にして、小鹿田焼陶工歴20年目の柳瀬家14代目を担う柳瀬氏。『傳』でも親交の深い長谷川氏の新たな挑戦ともあり、その想いは熱い。

色、形など、様々に試作。どんな器に料理が盛られるのかも是非ご注目いただきたい。

でんくしふろり無意識にゲストの心を掻き立てる、見る旬。食材だけでなく、植物を通して季節を彩る。

アーティスティックな空間の『Florilage』を彩る、ダイナミックな生け込み。それは単なる装飾のみならず、知らず知らずのうちにゲストの高揚を誘い、花の彩りや緑の濃淡を通して旬を知らせてくれます。

今回、『でんくしふろり』も同じ人物が手がけます。それは「piLi flower design works」のフラワーデザイナー・大類淳子さんです。

「『Florilage』の生け込みを手がけさせて頂き、そのご縁で川手さんに声をかけてもらいました。『でんくしふろり』では、植物に関わる装飾全てに携わります」。
と言っても、これから決めていく料理のコンセプトやコース内容、ドリンクなどと同様、装飾も『でんくしふろり』のスタッフたちとディスカッションしていきたいため、現状はまだイマジネーションの段階になります。

「現在は、一部ですがデザインに着手しています。確かに未確定要素はありますが、それでも何か手掛かりにして形にしていくのが、今回は自分の役目だと思っていています。ドキドキしますが、やり甲斐も感じています」。

現段階でわかっていることは、空間の主役がおくどさんということです。

「おくどさんを植物で装飾するコンセプトはお題として頂戴しているので、そこをメインにどうストーリーを組み立ててデザインしていくのかがポイントだと思っています。全体としては、独創的な世界観にふさわしいパワーのある楽しい空間をイメージしつつ、おくどさんへの敬意を表せたらと思っています」。

ふたりからのリクエスト、それは「フレッシュな植物」の起用です。

「時にその場で時間の経過を感じたり、季節の移ろいを感じたり。メッセージを植物に込めたいと思っています。『でんくしふろり』で過ごすゲストの感受もこだわりのポイントにできればと思っています」。

語弊を恐れずに言えば、命ある植物は、常に優雅なわけではありません。花びらや葉が落ちゆく様もまた美しく、生き物として当然の姿でもあるのです。

「『でんくしふろり』は、おいしい料理をいただく以上の何かをすでに感じており、私自身、早くお客として行きたいです!」。

自身のアトリエ「piLi flower design works」にて。『でんくしふろり』では、どんな植物が空間を彩るのか!? そんな視点を含め、風景を愛でる時間も楽しんでいただきたい。

「川手さんの印象は、豪快に笑う人。長谷川さんの印象は、即興で場を作っていくのが上手な人」と大類さん。

でんくしふろり右手でちょいとかき分け、暖簾をくぐる。そこから「でんくしふろり」の世界は始まる。

諸説ありますが、暖簾の文化は奈良時代だと言われているそうです。
主には屋号、商標、はたまた取り扱い商品を記すところもありますが、お客様目線で言うと、暖簾の役目はお店が営業中か否かのサインでもありました。

『でくしふろり』にも暖簾が下がります。手がけるのは、江戸型染作家・小倉充子さんです。

「実家が神保町で履物屋をやっている関係で、神保町時代に『傳』の長谷川さんと知り合いました。それがご縁で、お店の暖簾と手ぬぐいなどを製作させて頂き、今回は『でんくしふろり』でも同じく暖簾と手ぬぐいを手がけさせていただきます」。

小倉さんは、大学でデザインを学んだ後、型染職人のもとで江戸文化と型染めを学び、独立。以降、江戸の町人文化、風俗をテーマに、浴衣や手ぬぐい、下駄の花緒、暖簾など、型染の作品を製作してきた人物です。特筆すべき点は、図案、型彫り、染めまで、ほぼ全ての工程を一貫して手がけていることにあります。

「暖簾はお店にとって第一印象になります。今回は、入口の重厚なアンティークの木戸と共鳴するように暗めの藍色のグラデーションを施しました。柄はオープニングということで、シンプルに『でんくしふろり』の酔っ払いおじさんワンポイントで! これもおじさんが徐々に酔っ払っていく様子を赤のグラデーションで表現しました。今後は季節によって違う素材、色柄でも展開していきたいと企んでいます!」。

手ぬぐいは、『傳』と『Florilage』が初めてコラボレーションした際に制作した手ぬぐいを改めて染めます。丸紋がモチーフのそれにあらゆる食材をぎゅっと詰め込み、混沌としている中から見たこともないような楽しい何かが生まれるイメージでデザイン。注染の本染めで染めています。

「長谷川さんは、いつお会いしても小学5年生男子のようで楽しそう! 昔から全く変わりません。いや、歳を重ねるごとに子供に戻っていっているような気が……(笑)」。
そして、川手氏もまた、「長谷川さんとそっくりだなあと思いました」。

そんなふたりの新たな門出『でんくしふろり』は、ぴかぴかの○年生♪の誕生か!?

「“でんくしふろり”の印象は、ふたりのぴかぴかの一流料理人のおもちゃ箱。今後に期待することは特にありません。きっと期待なんか裏切って、いつも驚かせてくれるお店になると思いますから!」。

暖簾に腕押し、暖簾に誘われ、ふと一杯。愛さればまた訪れ、そうでなければ立ち去る。布一枚だからこそできる技であり、粋な境界線。

未来の暖簾分けはあるのか!?を考えるのは時期早々ですが、まずは暖簾を守るところからスタートします。

『でんくしふろり』を長谷川氏と川手氏以外の視点で聞き取りした「くしでつながる仲間の声!」Part.1&2。登場していただいた建築家、インテリアデザイナー、左官職人、有田焼焼陶工、小鹿田焼陶工、フラワーデザイナー、染色家は、皆プロフェッショナルなミッションを創造することはもちろん、共通していることは、関係者としてではなくゲストとしての高い期待。

仲間が「行きたい!」と思わせる『でんくしふろり』の世界。
 

そんな『でんくしふろり』は、あなたとつながることも心待ちにしています。

※『でんくしふろり』の住所も公開! 予約も開始しました!

制作過程における版木彫り。今回の参画において、「こんなワクワクするプロジェクトにお招きいただいて光栄です!暖簾や手ぬぐいで、少しでもワクワクのお返しができたら幸いです」と小倉さん。

実際の暖簾の制作風景。微妙な染まり具合や濃淡にこだわる。お店に足を運ぶ際は、ぜひご注目を!

Text:YUICHI KURAMOCHI

瑞々しく、香り豊か。パティシエの心を捉えた、水の都の恵みを湛えた滋賀県のお茶とフルーツ。[Local Fine Food Fair SHIGA/滋賀県、東京都]

ブドウ、梨、柿、イチジク。滋賀県の豊かな水と温暖な気候が多彩なフルーツを育てる。

ローカルファインフードフェア滋賀パティシエと食材バイヤーが巡った、滋賀県が誇るお茶とフルーツ。

都内で活躍する料理人たちが滋賀県産の食材を肌で感じ、その美味しさを最大限に引き出した料理をそれぞれの店で提供する期間限定の滋賀食材フェア『Local Fine Food Fair SHIGA』。9月11日(金)より都内の各レストランでフェアは始まっていますが、その開催に先立ち、滋賀の食材の本質と美味しさの裏に潜むストーリーを掘り下げるべく、参加する料理人や食材バイヤーが現地の生産者のもとを訪問しました。

料理人たちが参加した滋賀県視察ツアー第一弾に対し、第二弾となる今回の視察はパティシエが中心。素材にこだわるパティシエたちは「知る人ぞ知るフルーツ産地」滋賀県でどんな発見をして、どんなお菓子を構想したのでしょうか。

【関連記事】滋賀食材フェア/産地を巡り、生産者と語り、本質を知る。滋賀県の食材の魅力を伝える都内レストランフェア開催。

古くから茶所として知られる朝宮茶の産地『かたぎ古香園』にて。昼夜の温度差が香り高いお茶を育てる。

ローカルファインフードフェア滋賀ドリンクとしてではなく、素材として捉えられる滋賀県の銘茶。

今回、滋賀県を訪れたのは、フランスの三3つ店や都内の名店のシェフパティシエを経て、2020年に九品仏(くほんぶつ)に自身のパティスリー『INIFINI』を開いた金井史章氏、人気パティスリーからレストラン、ベーカリーまで幅広く経験を積んだ後、その集大成として代官山にデニッシュ専門店『Laekker』をオープンした小出貴大氏、そして洋食の料理人として働くうちにより深く食材を突き詰めようと仲卸に転向し、現在は数多の高級料理店の食材仕入れを担当するバイヤー・木村 聡氏の3名。それぞれ食材に対する深い思い入れがあり、現地に向かう車中からすでに滋賀県の食材談議に花が咲いていました。

一行がまず訪れたのは、県南部の甲賀(こうか)市信楽町の高台にある『かたぎ古香園』の茶畑。1200年以上の歴史を誇り、日本五大銘茶にも数えられる朝宮茶の産地です。『かたぎ古香園』は、茶畑を案内してくれた片木隆友氏の祖父である先々代が小売を始めたことをきっかけに、完全無農薬に切り替えた茶園。47~48年前、その頃は無農薬という言葉さえもなく、完全に手探りの挑戦だったといいます。しかし、その苦労は実り、現在ではこの土地の力を凝縮したような上質なお茶が採れるようになりました。参加者たちも、試飲したこのお茶を「クセがなく、繊細で透明な味わい」と高く評価しました。

しかし、パティシエの目線になると、少し話が変わってきます。
「私のデニッシュは、強く焼き込むスタイル。優しく焼き上げる方がこのお茶には合いそうです」と小出氏が言えば、金井氏も「皿盛りのデザートと違い、一品で完結するケーキは構成要素が多く、このお茶の繊細さが生きてこない」と同意します。
しかし、そこで終わってしまわないのが、人気パティシエたるゆえん。「ダイレクトにショコラに混ぜたらどうか。食感は楽しいけれど口に残る」「ほうじ茶ならバターやアーモンド、卵など他の素材に隠れないかもしれない」「ここのほうじ茶は香りが柔らかく雑味もないためケーキに合わせやすい」。
「私はお菓子はさっぱり」と苦笑する片木氏を置いてけぼりにするように熱く語り合う参加者たち。片木氏に鋭い質問を投げかけつつ、予定時間を大幅に過ぎてもお茶の話に熱中していました。

昔ながらの方法で在来種の茶を育てる政所(まんどころ)茶『茶縁むすび』を訪ねても、パティシエの興味は尽きませんでした。前回の訪問で訪ねた料理人たちが基本的にこの政所茶を「ドリンク」と捉えていたのに対し、お菓子を構成するひとつの「素材」として見た今回のパティシエたち。
「一般的な茶園では、葉の栄養を取られないようになるべく花を咲かせません。しかし政所では自然のままの姿で育てていますから、花も咲くし実もつきます」と話すのは、生産者の山形 蓮さん。この話が参加者たちを惹きつけました。目当ては珍しいお茶の花、そして花を搾って採れるオイルです。山形さんが試しに少しだけ搾ったというオイルを前に、小出氏は「オイルはクリーム系と非常に相性がいいんです」と言い、金井氏も「土地の匂い、土の匂いがするオイル。コーヒーやカカオとも相性が良さそうです」と続けます。ここでもパティシエの頭の中では、具体的なメニューの構想が生まれていたようです。

『かたぎ古香園』の片木氏。半世紀近くも無農薬栽培を続けるこの茶畑には、多くの野生動物もやって来る。

品種はやぶきた。菜種かすや胡麻かすなどの植物系肥料を与えながら完全無農薬栽培で茶を育てる。

『かたぎ古香園』でお茶を試飲する木村氏。元料理人だけに、食材の味や香りに敏感だ。

在来種のお茶を育てる政所。古き良き里山の風景が、パティシエの創造力を刺激する。

政所に湧く清冽(せいれつ)な水は地元の生活用水。硬度40mg/Lほどの軟水で、政所茶との相性は抜群。

葉も花も、時には生産者さえ食べたことのないものも必ず香りを確かめ、口に運ぶのが金井氏のスタイル。

ローカルファインフードフェア滋賀多彩なフルーツが、パティシエのインスピレーションを刺激する。

日本一大きな湖・琵琶湖と、そこに流れ込む460の川。豊富な水に恵まれた滋賀県では、たっぷりと水分を含んだジューシーなフルーツが育ちます。

東近江市で作られるブランドブドウ・黒蜜葡萄もそのひとつ。その実力を探るべく、愛東ぶどう生産出荷組合青年部の漆崎厚史氏の農園を訪ねました。
「ワイン用として知られるマスカットベリーAという品種ですが、生食での美味しさを伝えるために、試行錯誤を重ねてブランド化にこぎつけました」と漆崎氏。糖度は22~23度まで上げ、皮は薄く、実は大きく、種はない。そうして生まれた黒蜜葡萄は、日々各地の食材と向き合う木村氏をして「生食用のマスカットベリーAは初めて見ます。おそらく豊洲市場にも入っていません」と言わしめるほど希少。「身離れが良く、甘みも香りも良いですね」と味の面でも太鼓判を押していました。

琵琶湖東岸に位置する彦根市の名産・彦根梨の畑でも、生産者から説明を受ける一行。かつてこの場所が沼だったこと、今から40年ほど前から地域で梨生産に乗り出したこと、土作り、畑作り、剪定、品種特性、旬……。様々な話を興味深げに聞き入る参加者たち。
ちなみに、完熟してから収穫する彦根梨は日持ちしないため、ほぼ県外には出回らないという希少な梨。さっぱりとした幸水、酸味がありジューシーな豊水の2種を食べ比べながら、次なるメニューのアイデアを練ります。

滋賀県西部にある高島市今津町では、名産品である柿の畑を訪ねました。取材時の9月初頭は、柿の収穫には少し早い季節。それでもJA今津町柿部会の部会長・岡本義治氏は、色づいた柿を探し、その場で食べさせてくれることで、柿を使ったスイーツ作りのアイデアをくれました。
岡本氏の柿園がある深清水(ふかしみず)という地区は扇状地であり、豊富な伏流水が湧き出す地。その水と、長い日照時間を利用して10品種の柿を育てているのだといいます。広大な柿園を歩きながら、そんな説明を受ける一行。試食した柿の味はもちろん、この地で見た景色や聞いた物語が、パティシエのインスピレーションを刺激するのでしょう。

黒蜜葡萄を作る愛東ぶどう生産出荷組合青年部の皆さん。若い世代の力で新たなブランドの認知に挑む。

黒蜜葡萄の品種・マスカットベリーAはワインでおなじみ。デラウェアに近い適度な酸味と上品な甘さが特徴。

美味しさだけでなく、生産者の思いやストーリーも伝えたいと話す小出氏。

彦根梨は出荷の真っ最中。瑞々しく、糖度が高い幸水のもぎたてを皮ごと試食した。

彦根梨を生産する吉田保夫氏。「糖度は計測できるが、食感や香りには生産者の個性が表れる」と言う。

JA今津町柿部会の部会長を務める岡本氏。大正初期から続く柿の名産地・深清水の誇りを伝えてくれた。

色づき始めたばかりの晩夏の柿園にて。焼酎とドライアイスで渋を抜くさわし柿もこの地域の名物。

西村早生(にしむらわせ)、太秋、さわし柿が今回のフェア用の品種。甘み、食感、香りなどそれぞれに際立った個性がある。

ローカルファインフードフェア滋賀ジューシーさと、上質な香り。お菓子作りの肝となる滋賀の食材。

上質なお茶と多彩なフルーツを巡った今回の視察。続いて訪れたのは、甲賀市のイチジク生産者でした。そしてこのイチジクが、参加者に大きな衝撃を与えたのです。

約900坪の敷地でおよそ160本のイチジクの木を育てる『浅野ファーム』の浅野正明氏は、元大手電機メーカー勤務。14年前に脱サラして、露地栽培主体でイチジク生産に乗り出しました。前職の経験からか、園は非常に美しく整備され、生産もロジカル。大きく、甘く育てる日照と水の関係を緻密に計算したイチジクは、品評会でも高い評価を得ています。
採れたてのイチジクを試食した参加者たちも、その美味しさに驚いた様子。更に話は、イチジクそのものの美味しさを超え、この品質を生かすお菓子についてまで広がります。お菓子などに調理する際、熟したイチジクの実は熱を加えることで水分が生地に染みて食感が悪くなってしまうのです。だからといって、洋梨のようにあらかじめソテーすると食感が生きず、コンフィチュールにすると香りが飛んでしまいます。そこで金井氏が提案したのが、ドライフルーツの要領で事前に実の水分を減らすこと。「縦半分に切ったらどうだろう? 」「穴を開けてみては?」「半乾燥なら使用量も増え生産者にもメリットがあるのではないか?」。様々なアイデアを出しながら、具体的に話し合う浅野氏と参加者たち。
「美味しい果実を育てることに尽力しますが、それがどのような形になって使用されるか、最終形のイメージが生産の現場にはあまりありません。パティシエの方々に直接具体的な話を聞けて良かった」。浅野氏は今回の訪問をそう振り返りました。

全ての視察を終えた帰り道、金井氏は滋賀の食材を「瑞々しく、香りが良い」と評しました。「香りを通して記憶に残るお菓子を作ること」を信条とする金井氏だけに、これは最上級の賛辞。生産者と交わした具体的な話から、すでにフェアに向けたアイデアも固まりつつある様子でした。「まずは箱を開けた時の香り、見た目、そして口に近づけた時の香り。そして口どけのスピード感に差をつけることで主張したい香りをどこに持ってくるか」と、自身のお菓子作りの理念を語る金井氏。「甘さは足すことができますが、香りや食感には素材の特徴が出てきます。そういう点で滋賀の魅力を伝えられるメニューを作りたい」と、金井氏は『Local Fine Food Fair SHIGA』への決意を語ってくれました。

傷がついたもの、粒の揃わないもの、捨てられる部位。日頃から食材を無駄なく使用することを意識する小出氏は、そんな値のつかない素材を、正規品と変わらぬ値段で買い求め、加工することを大切にしています。「大げさに言えば、未来への投資。農業が潤わなければ洋菓子はなくなってしまいますから。ただ単純に、捨てられるものに価値を見出すのが面白い、というのもあります」と話す小出氏。それだけに今回の視察で生産者と直接話せたことは、『Local Fine Food Fair SHIGA』に向けての構想だけでなく、今後の自身のクリエイションにも大きく役立ったといいます。そして「例えば若手生産者がブランディングを進める黒蜜葡萄。誰が、なぜ、この場所でそれを作るのか。そういう物語の部分まで伝えられるメニューを作りたい」と決意を語ってくれました。

今回の視察第二弾ではお茶とフルーツの生産者を巡りましたが、『Local Fine Food Fair SHIGA』では、これら以外にも滋賀の食材をふんだんに取り入れた料理が登場します。10月末まで、東京の7つのレストランにて開催していますので、ぜひ、この機会に滋賀の旬の恵みを味わってみてください。

『浅野ファーム』の浅野氏は、就農14年。品評会で高い評価を得る今でも「毎年がチャレンジです」と語る。

品種は桝井ドーフィン。例年、お盆前から10月半ばまで出荷される。

浅野氏が手がけるドライイチジク。パティシエたちはこれをセミドライで試作するよう依頼した。

産地を巡り、生産者の話を聞くことで、これまでにない様々なアイデアが浮かんだという。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by 滋賀県)

瑞々しく、香り豊か。パティシエの心を捉えた、水の都の恵みを湛えた滋賀県のお茶とフルーツ。[Local Fine Food Fair SHIGA/滋賀県、東京都]

ブドウ、梨、柿、イチジク。滋賀県の豊かな水と温暖な気候が多彩なフルーツを育てる。

ローカルファインフードフェア滋賀パティシエと食材バイヤーが巡った、滋賀県が誇るお茶とフルーツ。

都内で活躍する料理人たちが滋賀県産の食材を肌で感じ、その美味しさを最大限に引き出した料理をそれぞれの店で提供する期間限定の滋賀食材フェア『Local Fine Food Fair SHIGA』。9月11日(金)より都内の各レストランでフェアは始まっていますが、その開催に先立ち、滋賀の食材の本質と美味しさの裏に潜むストーリーを掘り下げるべく、参加する料理人や食材バイヤーが現地の生産者のもとを訪問しました。

料理人たちが参加した滋賀県視察ツアー第一弾に対し、第二弾となる今回の視察はパティシエが中心。素材にこだわるパティシエたちは「知る人ぞ知るフルーツ産地」滋賀県でどんな発見をして、どんなお菓子を構想したのでしょうか。

【関連記事】滋賀食材フェア/産地を巡り、生産者と語り、本質を知る。滋賀県の食材の魅力を伝える都内レストランフェア開催。

古くから茶所として知られる朝宮茶の産地『かたぎ古香園』にて。昼夜の温度差が香り高いお茶を育てる。

ローカルファインフードフェア滋賀ドリンクとしてではなく、素材として捉えられる滋賀県の銘茶。

今回、滋賀県を訪れたのは、フランスの三3つ店や都内の名店のシェフパティシエを経て、2020年に九品仏(くほんぶつ)に自身のパティスリー『INIFINI』を開いた金井史章氏、人気パティスリーからレストラン、ベーカリーまで幅広く経験を積んだ後、その集大成として代官山にデニッシュ専門店『Laekker』をオープンした小出貴大氏、そして洋食の料理人として働くうちにより深く食材を突き詰めようと仲卸に転向し、現在は数多の高級料理店の食材仕入れを担当するバイヤー・木村 聡氏の3名。それぞれ食材に対する深い思い入れがあり、現地に向かう車中からすでに滋賀県の食材談議に花が咲いていました。

一行がまず訪れたのは、県南部の甲賀(こうか)市信楽町の高台にある『かたぎ古香園』の茶畑。1200年以上の歴史を誇り、日本五大銘茶にも数えられる朝宮茶の産地です。『かたぎ古香園』は、茶畑を案内してくれた片木隆友氏の祖父である先々代が小売を始めたことをきっかけに、完全無農薬に切り替えた茶園。47~48年前、その頃は無農薬という言葉さえもなく、完全に手探りの挑戦だったといいます。しかし、その苦労は実り、現在ではこの土地の力を凝縮したような上質なお茶が採れるようになりました。参加者たちも、試飲したこのお茶を「クセがなく、繊細で透明な味わい」と高く評価しました。

しかし、パティシエの目線になると、少し話が変わってきます。
「私のデニッシュは、強く焼き込むスタイル。優しく焼き上げる方がこのお茶には合いそうです」と小出氏が言えば、金井氏も「皿盛りのデザートと違い、一品で完結するケーキは構成要素が多く、このお茶の繊細さが生きてこない」と同意します。
しかし、そこで終わってしまわないのが、人気パティシエたるゆえん。「ダイレクトにショコラに混ぜたらどうか。食感は楽しいけれど口に残る」「ほうじ茶ならバターやアーモンド、卵など他の素材に隠れないかもしれない」「ここのほうじ茶は香りが柔らかく雑味もないためケーキに合わせやすい」。
「私はお菓子はさっぱり」と苦笑する片木氏を置いてけぼりにするように熱く語り合う参加者たち。片木氏に鋭い質問を投げかけつつ、予定時間を大幅に過ぎてもお茶の話に熱中していました。

昔ながらの方法で在来種の茶を育てる政所(まんどころ)茶『茶縁むすび』を訪ねても、パティシエの興味は尽きませんでした。前回の訪問で訪ねた料理人たちが基本的にこの政所茶を「ドリンク」と捉えていたのに対し、お菓子を構成するひとつの「素材」として見た今回のパティシエたち。
「一般的な茶園では、葉の栄養を取られないようになるべく花を咲かせません。しかし政所では自然のままの姿で育てていますから、花も咲くし実もつきます」と話すのは、生産者の山形 蓮さん。この話が参加者たちを惹きつけました。目当ては珍しいお茶の花、そして花を搾って採れるオイルです。山形さんが試しに少しだけ搾ったというオイルを前に、小出氏は「オイルはクリーム系と非常に相性がいいんです」と言い、金井氏も「土地の匂い、土の匂いがするオイル。コーヒーやカカオとも相性が良さそうです」と続けます。ここでもパティシエの頭の中では、具体的なメニューの構想が生まれていたようです。

『かたぎ古香園』の片木氏。半世紀近くも無農薬栽培を続けるこの茶畑には、多くの野生動物もやって来る。

品種はやぶきた。菜種かすや胡麻かすなどの植物系肥料を与えながら完全無農薬栽培で茶を育てる。

『かたぎ古香園』でお茶を試飲する木村氏。元料理人だけに、食材の味や香りに敏感だ。

在来種のお茶を育てる政所。古き良き里山の風景が、パティシエの創造力を刺激する。

政所に湧く清冽(せいれつ)な水は地元の生活用水。硬度40mg/Lほどの軟水で、政所茶との相性は抜群。

葉も花も、時には生産者さえ食べたことのないものも必ず香りを確かめ、口に運ぶのが金井氏のスタイル。

ローカルファインフードフェア滋賀多彩なフルーツが、パティシエのインスピレーションを刺激する。

日本一大きな湖・琵琶湖と、そこに流れ込む460の川。豊富な水に恵まれた滋賀県では、たっぷりと水分を含んだジューシーなフルーツが育ちます。

東近江市で作られるブランドブドウ・黒蜜葡萄もそのひとつ。その実力を探るべく、愛東ぶどう生産出荷組合青年部の漆崎厚史氏の農園を訪ねました。
「ワイン用として知られるマスカットベリーAという品種ですが、生食での美味しさを伝えるために、試行錯誤を重ねてブランド化にこぎつけました」と漆崎氏。糖度は22~23度まで上げ、皮は薄く、実は大きく、種はない。そうして生まれた黒蜜葡萄は、日々各地の食材と向き合う木村氏をして「生食用のマスカットベリーAは初めて見ます。おそらく豊洲市場にも入っていません」と言わしめるほど希少。「身離れが良く、甘みも香りも良いですね」と味の面でも太鼓判を押していました。

琵琶湖東岸に位置する彦根市の名産・彦根梨の畑でも、生産者から説明を受ける一行。かつてこの場所が沼だったこと、今から40年ほど前から地域で梨生産に乗り出したこと、土作り、畑作り、剪定、品種特性、旬……。様々な話を興味深げに聞き入る参加者たち。
ちなみに、完熟してから収穫する彦根梨は日持ちしないため、ほぼ県外には出回らないという希少な梨。さっぱりとした幸水、酸味がありジューシーな豊水の2種を食べ比べながら、次なるメニューのアイデアを練ります。

滋賀県西部にある高島市今津町では、名産品である柿の畑を訪ねました。取材時の9月初頭は、柿の収穫には少し早い季節。それでもJA今津町柿部会の部会長・岡本義治氏は、色づいた柿を探し、その場で食べさせてくれることで、柿を使ったスイーツ作りのアイデアをくれました。
岡本氏の柿園がある深清水(ふかしみず)という地区は扇状地であり、豊富な伏流水が湧き出す地。その水と、長い日照時間を利用して10品種の柿を育てているのだといいます。広大な柿園を歩きながら、そんな説明を受ける一行。試食した柿の味はもちろん、この地で見た景色や聞いた物語が、パティシエのインスピレーションを刺激するのでしょう。

黒蜜葡萄を作る愛東ぶどう生産出荷組合青年部の皆さん。若い世代の力で新たなブランドの認知に挑む。

黒蜜葡萄の品種・マスカットベリーAはワインでおなじみ。デラウェアに近い適度な酸味と上品な甘さが特徴。

美味しさだけでなく、生産者の思いやストーリーも伝えたいと話す小出氏。

彦根梨は出荷の真っ最中。瑞々しく、糖度が高い幸水のもぎたてを皮ごと試食した。

彦根梨を生産する吉田保夫氏。「糖度は計測できるが、食感や香りには生産者の個性が表れる」と言う。

JA今津町柿部会の部会長を務める岡本氏。大正初期から続く柿の名産地・深清水の誇りを伝えてくれた。

色づき始めたばかりの晩夏の柿園にて。焼酎とドライアイスで渋を抜くさわし柿もこの地域の名物。

西村早生(にしむらわせ)、太秋、さわし柿が今回のフェア用の品種。甘み、食感、香りなどそれぞれに際立った個性がある。

ローカルファインフードフェア滋賀ジューシーさと、上質な香り。お菓子作りの肝となる滋賀の食材。

上質なお茶と多彩なフルーツを巡った今回の視察。続いて訪れたのは、甲賀市のイチジク生産者でした。そしてこのイチジクが、参加者に大きな衝撃を与えたのです。

約900坪の敷地でおよそ160本のイチジクの木を育てる『浅野ファーム』の浅野正明氏は、元大手電機メーカー勤務。14年前に脱サラして、露地栽培主体でイチジク生産に乗り出しました。前職の経験からか、園は非常に美しく整備され、生産もロジカル。大きく、甘く育てる日照と水の関係を緻密に計算したイチジクは、品評会でも高い評価を得ています。
採れたてのイチジクを試食した参加者たちも、その美味しさに驚いた様子。更に話は、イチジクそのものの美味しさを超え、この品質を生かすお菓子についてまで広がります。お菓子などに調理する際、熟したイチジクの実は熱を加えることで水分が生地に染みて食感が悪くなってしまうのです。だからといって、洋梨のようにあらかじめソテーすると食感が生きず、コンフィチュールにすると香りが飛んでしまいます。そこで金井氏が提案したのが、ドライフルーツの要領で事前に実の水分を減らすこと。「縦半分に切ったらどうだろう? 」「穴を開けてみては?」「半乾燥なら使用量も増え生産者にもメリットがあるのではないか?」。様々なアイデアを出しながら、具体的に話し合う浅野氏と参加者たち。
「美味しい果実を育てることに尽力しますが、それがどのような形になって使用されるか、最終形のイメージが生産の現場にはあまりありません。パティシエの方々に直接具体的な話を聞けて良かった」。浅野氏は今回の訪問をそう振り返りました。

全ての視察を終えた帰り道、金井氏は滋賀の食材を「瑞々しく、香りが良い」と評しました。「香りを通して記憶に残るお菓子を作ること」を信条とする金井氏だけに、これは最上級の賛辞。生産者と交わした具体的な話から、すでにフェアに向けたアイデアも固まりつつある様子でした。「まずは箱を開けた時の香り、見た目、そして口に近づけた時の香り。そして口どけのスピード感に差をつけることで主張したい香りをどこに持ってくるか」と、自身のお菓子作りの理念を語る金井氏。「甘さは足すことができますが、香りや食感には素材の特徴が出てきます。そういう点で滋賀の魅力を伝えられるメニューを作りたい」と、金井氏は『Local Fine Food Fair SHIGA』への決意を語ってくれました。

傷がついたもの、粒の揃わないもの、捨てられる部位。日頃から食材を無駄なく使用することを意識する小出氏は、そんな値のつかない素材を、正規品と変わらぬ値段で買い求め、加工することを大切にしています。「大げさに言えば、未来への投資。農業が潤わなければ洋菓子はなくなってしまいますから。ただ単純に、捨てられるものに価値を見出すのが面白い、というのもあります」と話す小出氏。それだけに今回の視察で生産者と直接話せたことは、『Local Fine Food Fair SHIGA』に向けての構想だけでなく、今後の自身のクリエイションにも大きく役立ったといいます。そして「例えば若手生産者がブランディングを進める黒蜜葡萄。誰が、なぜ、この場所でそれを作るのか。そういう物語の部分まで伝えられるメニューを作りたい」と決意を語ってくれました。

今回の視察第二弾ではお茶とフルーツの生産者を巡りましたが、『Local Fine Food Fair SHIGA』では、これら以外にも滋賀の食材をふんだんに取り入れた料理が登場します。10月末まで、東京の7つのレストランにて開催していますので、ぜひ、この機会に滋賀の旬の恵みを味わってみてください。

『浅野ファーム』の浅野氏は、就農14年。品評会で高い評価を得る今でも「毎年がチャレンジです」と語る。

品種は桝井ドーフィン。例年、お盆前から10月半ばまで出荷される。

浅野氏が手がけるドライイチジク。パティシエたちはこれをセミドライで試作するよう依頼した。

産地を巡り、生産者の話を聞くことで、これまでにない様々なアイデアが浮かんだという。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by 滋賀県)

「くし」でつながる仲間の声! Part.1 建築家・インテリアデザイナー・左官職人[でんくしふろり/東京都港区]

空間デザインを手がけるのは、「株式会社エスキス」代表の建築家・インテリアデザイナーの甲斐晋介氏。「川手さんとのお仕事は、今回で4店目。注文が少ない分、緊張します(汗)」。

でんくしふろり川手さんとの出会いは 20年前。独立後、ずっと見続けてきた。

そう話すのは、『でんくしふろり』の空間を手がける、「株式会社エスキス」代表の建築家・インテリアデザイナーの甲斐晋介氏です。
「今回、ご縁をいただいたのは川手さんとの関係からです。最初の出会いは、自分が空間デザインを手がけた西麻布のフレンチ『OHARA ET CIE』だったと思います。まだ、大原正彦さんのもとで修行されている時代でした。その後、独立して開業した青山の『Florilege』と移転した今の神宮前の店舗、台湾に展開した『logy』を手がけさせて頂きました」。

甲斐氏は、『OHARA ET CIE』や『Florilege』をはじめ、日本の名だたるレストランの空間をデザインしています。千駄ヶ谷『Sincere』、代官山『abysse』、外苑前『L’EAU』、有楽町『TexturA』、京都『VEL ROSIER』など、どれも洗練された人気店ばかり。そのほか、虎ノ門『mement mori』と日比谷『Mixology Heritage』のバーや新潟『WineryStay TRAVIGNE』のホテルなど、活躍の場はさまざま。しかし、『でんくしふろり』のようなスタイルは初かもしれません。
「最初にお話を伺った時の印象は、絶対楽しい店になる! そう思いました。世界で活躍されているおふたりのお店なので、国内外からゲストが多くいらっしゃると思いますし、きっと期待値も高い。でも、最初の打ち合わせ段階では、ざっくりと串のお店……としか聞かせてもらえなかったのですが(笑)」。

今回で4店目となる川手氏とのプロジェクトですが、「いつも川手さんからは多くの注文はありません」と言います。
今回のオーダーはひとつだけ。「『傳』と『Florilege』の要素を取り入れてほしい」でした。
「一番難しい……(笑)」。

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『でんくしふろり』の図面。おくどさんを主役にコの字型にカウンターを配す。『傳』や『Florilege』同様、オープンキッチンのスタイルは、ライブ感を生む。

でんくしふろりそのプレッシャーは半端じゃない。自分はいつも試されている。

前述の通り、川手氏は多くは語りません。
「プレゼンの時は、汗が止まりません(笑)。そのプレッシャーはもちろん、常に自分が試されているような気がしています」。

しかし、一方で「その期待に応えるため、いつも全力で取り組ませてもらえるので、ありがたい存在です」と言葉を続けます。また、意外だったのは、甲斐氏と長谷川氏は初対面だったこと。
「長谷川さんのお名前は、もちろん存じ上げていました。お会いするまでどんな人かわからず、また川手さんとは違った緊張がありました。ですが、打ち合わせの大半が川手さんとの釣りの話だったので、直ぐに緊張は解けました(笑)」。

とはいえ、長谷川氏も川手氏も世界で活躍する名シェフ。
「プレッシャーも自分が試されている感も2倍です(汗)」。
甲斐氏は、厨房を含む平面レイアウトから動線計画、距離感、使い勝手、見え方、魅せ方など、空間のさまざまに携わります。
「動きやすいオペレーションは設計段階で決まると思っているので、特にこの段階が重要と思っております」。

そんな『でんくしふろり』の空間の主役は、「おくどさん」です。
「コミュニケーションを重ねる中、“おくどさん”というアイデアが出てきました。空間の全体的な印象は、『傳』の日本料理の要素、『Florilege』のフレンチの要素、どちらにもイノベーティブなので、純和や強いフレンチの要素を出しすぎないように心がけました。デザイン的にはカウンターは重要なファクターなので、和を感じられる木の無垢材を採用。ただ、材種はイロコと呼ばれる原産国がアフリカのアフリカンチークを使うことで、純和に寄らず、洋の要素を加味しました」。
そして、「おくどさん」を作るということで、直ぐに思い浮かんだ造り手がいたと言います。
それは、大橋左官の大橋和彰氏です。

「大橋さんとは、神宮前『Florilege』の工事の際に大きなコの字カウンターを作ってもらった時からのお付き合いです。いつも自分の難しいリクエストを軽々と超えて施工してくれる頼もしい仲間です。通常の“おくどさん”を作るのであれば、普通の左官屋さんでも良いのですが、今回は誰も見たことがないイノベーティブな“おくどさん”を作り上げようと思い、大橋さんと試行錯誤して完成させました。ぜひ、カウンターの中心に据えられるおくどさんにも注目してもらいたいです」。

大橋氏は、世界を放浪後、左官の道へ歩んだ一風変わった経歴を持ちます。
「放浪している時、土の建築やヴァナキュラー建築に感動を覚えました。自分もそんな感動を表現したい。そう思った時、身近な素材で作る左官に興味を抱き、この道を志ました」。

今回、大橋氏は、「おくどさん」以外にも入り口の壁、蹲、通路正面の壁、カウンター横の壁も手がけます。
「全てに共通して素材の力と可能性を引き出すことを意識しています。長谷川さんとは、初対面でしたが、気さくに話してくださり魅力的な方だと思いました。川手さんは、美しい料理を作る人」。
言葉数の少なさは、やはり職人気質だが、「今回、『でんくしふろり』に携わらせていただき、本当に光栄です。ふたりのエネルギーに負けないようなおくどさんと壁を作ります!」と意欲も見せる。

「くし」でつながるのは、料理だけではありません。建築、空間、職人もつなぎます。
「常に新しい食と体験を期待してます! 串に何が刺さって出てくるのか? 何を串で繋ぐのか楽しみです」と大橋氏。
「和食、フレンチ、串……。今後の可能性や拡がりを考えても楽しそう!の一言です。これからもずっと進化していく可能性を秘めたお店になると思います!」と甲斐氏。

携わる周囲までも期待が膨らむ『でんくしふろり』。
次回は何をつなぐのか!? 乞うご期待!

※『でんくしふろり』の住所も公開! 予約も開始しました!

大橋左官の大橋和彰氏。『でんくしふろり』では、メインとなるおくどさんのほか、様々な壁面も手がける。お店に訪れたらそんなテクスチャーにも注目したい。

珪藻土や漆喰、砂壁など、自然素材を使用する左官同様、大橋氏のライフスタイルもまた、自然と共存する。

Text:YUICHI KURAMOCHI

Vol.2 シャンパーニュととくべつな一ページ。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・フロリレージュ/東京都渋谷区神宮前]

「ミシュランガイド」二つ星の「フロリレージュ」オーナーシェフの川手寛康シェフと小説家の角田光代さん。「今回の料理の内容を事前にうかがっていたのですが、全く想像がつきませんでした! その答え合せを楽しみにうかがいました!」と角田さん。その結果はいかに!?

フロリレージュ × 角田光代

 廊下を歩いて店内に入ると、オープンキッチンが舞台のセットみたいにうつくしく広がっている。シックでありながら華やかなそのキッチンに入るのに、ちょっとした勇気がいる。
 今日いただく料理はアンディーブのミルフィーユとアイスクリームの二部構成だと聞いていて、事前にレシピも説明してもらっていたのだが、じつは何も思い描けずにいた。川手寛康シェフが発酵したアンディーブの芯を取り除き、葉、一枚一枚のあいだにトリュフを挟んでいく。手際よく進めているけれど、ものすごく細かい作業だ。それを蒸して半分にカットし、皿に盛る。一枚の絵画のように印象的なうつくしさだ。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/作家・角田光代が体験する「食べるシャンパン。」の特別連載エッセイ!

川手シェフが「テタンジェ」のトップキュヴェ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」に合わせるために考案した料理は「発酵させたアンディーブのミルフィーユ 2部構成」。2部構成の意味は下記にてお楽しみに! 「今回のテーマは“複雑さ”です。味の複雑さ、香りの複雑さ。それを足し算するのではなく、かけ算し、更に、どうアクセントを加えられるかが重要だと思っています」と川手シェフ。

発酵したアンディーブを蒸し、一度その発酵を止めることによってベストな味わいに。「独特な香りですよ」と言う川手シェフに勧めれ、香りを嗅ぐ角田さんは、思わず「おー!」っと唸る。しかし、「この時点では、味の想像がつきません(笑)」と言葉を続ける。

発酵したアンディーブの葉を一枚一枚丁寧にめくり、たっぷりとトリュフを挟んでいく川手シェフ。その仕事を見ながら「まるでキムチみたいですね!」と角田さん。挟むことによってトリュフはアンディーブに香りを纏わせ、同時に余分な水分を吸う役目も果たす。

アンディーブの芯を切り落とし、2つに切った断面。それを見て「すごく綺麗!」と角田さん。トリュフと形成する黄・緑・白・黒の層が美しいそれは、まるで植物のような不思議な雰囲気が漂う。「ちなみに、芯はまた別の料理にしますのでお楽しみに!」と川手シェフ。

開放的なキッチンにて、今回のメニューのポイントを角田さんに説明する川手シェフ。「複雑さ」をテーマにしたそれは、調理過程もまた複雑だ。

アンディーブを漬物のように発酵させ、味わいも香りも複雑に。「その複雑さがテタンジェのトップキュヴェ、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランに合う」と川手シェフ。この時点で発酵は5日目。「漬け込みすぎず、まだまだ菌が元気な状態で発酵を止めるのが良い」。

フロリレージュ × 角田光代

 アンディーブにはゴルゴンゾーラチーズのソースをかけ、薄い輪切りのレモン、酢漬けにしたフェンネルの花、コリアンダーの花、ハーブをあしらう。この花は、よくよく見ないとわからないくらいちいさい。もう一品が、さっき取り除いたアンディーブの芯とヨーグルトをピュレ状にしたアイスクリームだ。
 けっこうたくさんのトリュフが使われているのに、香りは控えめで、アンディーブのほろ苦さとうっすらとした甘みを引き立てる。そしてこの料理、切り分けた一口に、ソースをどのくらいつけるか、酢漬けの花をいっしょに食べるか否か、皿の端の塩をつけるか否かで、一口一口の味がまったく異なる。トリュフのかぐわしさはシャンパーニュの香りをけっして消さない。一口食べたあとにシャンパーニュを飲むと、キリリとした強さを感じる。ふたたびアンディーブを食べると、さっきとは違う奥深さが生じる。アイスクリームはやわらかい酸味があって、これもまたシャンパーニュと合う。

合わせるのは、ブルーチーズと白ワインのソース。「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランは、香りの中にハチミツのような甘さがあると思います。ブルーチーズとハチミツは相性が良いので、そこも感じて頂ければ」。ソムリエの資格も持つ川手シェフらしい考察の妙。

フェンネルの花、ディルの花、人参の花、コリアンダーの花と種を自家製ピクルスにし、料理のアクセントに。「酢漬けにすることによってそれぞれの個性を引き出します」と川手シェフ。

そのうちのひとつ、コリアンダーの種のピクルスを試食する角田さん。「こんなに小さいのに味の個性がしっかり! しかも、ちゃんとその奥にコリアンダーの存在と香りが残っているのがすごいですね!」。

一見、何の素材を使用してどんな料理なのかが全くわからない容姿もまた、川手シェフの表現の特徴。ナイフを入れながら「料理にドキドキする……」と角田さん。

「アンディーブの芯はまた別の料理に」と言っていたそれは、アイスクリームに! ペースト状にしてヨーグルトと合わせ、アカシアとニセアカシアの花をシロップとともに発酵させ、アカシアのハチミツを混ぜ合わせたソースを添えて提供。料理名にもある「2部構成」の2部目の品。「これもまた変わった味!」と角田さんも驚愕。「料理をしていると端材が出てしまうことがあります。2部構成にする手法を取り入れてからは、食材を無駄なく使用でき、かつ味の広がりを演出できるようにもなりました」と川手シェフ。

「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランは、独創的な料理の味に落ち着きを与えてくれると思います。これまで体験したことのないペアリング」と角田さん。

「通常、シャンパーニュの温度は8℃か9℃。しかし、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランの場合は、10℃〜13℃の方が味と香りが開き、料理とのバランスも良いと思います」と川手シェフ。

フロリレージュ × 角田光代

 テタンジェの個性は「複雑さ」だと川手さんは言う。だから、複雑さに複雑さをかける料理として、このアンディーブを選んだ。足すのではなく、かける。たしかに、ペアリングすることで未知なる世界が広がっていく感覚になる。
 それにしても、この味を説明するのはむずかしい。味も香りも食感も独特で、比喩として使える料理が思いつかないのだ。しかも、食べ進めるごとに、シャンパーニュと合わせるごとに、変化していっていっこうに固定されないので、「こういう味だ」と言い切ることができない。

おいしい料理とシャンパーニュは2人を笑顔に。「どうやったらあんなに美しくて食べたことのないような味を創造できるのですか?」という角田さんの問いに対し、「パッとひらめくようなことはありません。何度も考えて、何度も試作して。ひとつの料理のために何十時間と費やし、ようやく完成するような地道な作業です」と川手シェフ。

今回の料理は、主役から脇役までの演者が多いメニューですが、ちゃんとひとつにまとめて、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランにピタリと合わせるのは、さすが」と角田さん。更には、「アンディーブに添えたピクルスやブルーチーズのソース、アイスにかかるアカシアのソースの具合によって味が様々に変化するので、この感覚を言語化するのは難しい」と話す。

料理の複雑な味を何とか言葉として手繰り寄せようとする角田さん。川手シェフの解説にも真剣に耳を傾け、気になる言葉は全てメモを取る。

フロリレージュ × 角田光代

 フロリレージュはフランス料理店ではあるが、川手さんはクラシックなフランス料理にはこだわっていない。クラシックなフランス料理とは、たとえてみると、たくさんの食材をぐっと煮詰めて作るソース。けれど自分の目指すのはそれではなくて、たくさんの食材のもっともおいしい部分を少しずつ使った料理なのだと川手さんは説明する。煮詰めるのではなく、それぞれの持ち味を生かす料理。さらに、食材のもっともおいしい部分以外、ほかの料理店では破棄してしまうような部分も、きちんと生かしたい、というのが川手さんの考えだ。今日の、アンディーブと、取り除いた芯で作るアイスクリーム、という二部構成がまさにその思想そのものである。

「川手さんのように何かひとつのものを極める人は輝いている。例え、100のうち90つらいことがあっても10やりがいを得られたらまた次に進める活力になるのではないでしょうか」と角田さん。「その10のために僕は料理を作り続けています」と川手シェフ。料理と小説、モノは違えど、同じ道をひたすら歩み続ける職人同士。2人は近しい感性を持つのかもしれない

「僕の料理は、お客様をハラハラさせてしまう(笑)。料理を見て“何これ!?”という驚く姿を見るのも密かな楽しみです」と川手シェフ。そんな想定外の味を求める「フロリレージュ」のファンは世界中に多く、ゆえに「たまに手堅い料理を出すと、ものたりない! もっとチャレンジして!とおっしゃる方もいます(笑)」。

フロリレージュ × 角田光代

 店名の、フロリレージュの意味を尋ねると、「詩歌集」だという。ひとつの本に綴じられたうつくしい詩の数々。食材を作る人たち、扱う人たち、料理人、このお店にかかわる人々、支えてくれる人々、それらすべてが集まって完成するものという意味合いでつけた店名なのだという。
 それを聞いて思った。川手さんの世界では、食材、酒類、飲料、食器や家具や調度品、照明や花瓶の花、そして人、それらは隔たりなく等しく存在していて、すべての持ち味を最大限に生かすことを川手さんは目指しているのに違いない。店内に一歩足を踏み入れたとき、舞台みたいだと思ったけれど、ここでのランチタイムなりディナータイムなりはたしかに一日かぎりの舞台なのかもしれない。セットとキャストと音楽、何が登場するのかと、わくわくと席に着く私やあなたも含めて、フロリレージュの幸福な一ページとなる。

「今度は是非コースで楽しみたいです!」と話す角田さんに対し、「よろしければ、ハラハラコースをご用意します!」と川手シェフ。「そのペアリングにはもちろん、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランで!」とふたり。

住所:東京都渋谷区神宮前2-5-4 SEIZAN外苑B1F  MAP
電話:03-6440-0878
https://www.aoyama-florilege.jp

1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。'90年『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。'96年『まどろむ夜のUFO』で第18回野間文芸新人賞、'98年『ぼくはきみのおにいさん』で第13回坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で'99年第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年第22回路傍の石文学賞、'03年『空中庭園』で第3回婦人公論文芸賞、'05年『対岸の彼女』で第132回直木賞。'06年『ロック母』で第32回川端康成文学賞、'07年『八日目の蝉』で第2回中央公論文芸賞、'11年『ツリーハウス』で第22回伊藤整文学賞、'12年『紙の月』で第25回柴田錬三郎賞を受賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞受賞。'14年『私の中の彼女』で河合隼雄物語賞を受賞。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/


Photographs:KOH AKAZAWA

(Supported by TAITTINGER)

Vol.2 シャンパーニュととくべつな一ページ。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・フロリレージュ/東京都渋谷区神宮前]

「ミシュランガイド」二つ星の「フロリレージュ」オーナーシェフの川手寛康シェフと小説家の角田光代さん。「今回の料理の内容を事前にうかがっていたのですが、全く想像がつきませんでした! その答え合せを楽しみにうかがいました!」と角田さん。その結果はいかに!?

フロリレージュ × 角田光代

 廊下を歩いて店内に入ると、オープンキッチンが舞台のセットみたいにうつくしく広がっている。シックでありながら華やかなそのキッチンに入るのに、ちょっとした勇気がいる。
 今日いただく料理はアンディーブのミルフィーユとアイスクリームの二部構成だと聞いていて、事前にレシピも説明してもらっていたのだが、じつは何も思い描けずにいた。川手寛康シェフが発酵したアンディーブの芯を取り除き、葉、一枚一枚のあいだにトリュフを挟んでいく。手際よく進めているけれど、ものすごく細かい作業だ。それを蒸して半分にカットし、皿に盛る。一枚の絵画のように印象的なうつくしさだ。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/作家・角田光代が体験する「食べるシャンパン。」の特別連載エッセイ!

川手シェフが「テタンジェ」のトップキュヴェ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」に合わせるために考案した料理は「発酵させたアンディーブのミルフィーユ 2部構成」。2部構成の意味は下記にてお楽しみに! 「今回のテーマは“複雑さ”です。味の複雑さ、香りの複雑さ。それを足し算するのではなく、かけ算し、更に、どうアクセントを加えられるかが重要だと思っています」と川手シェフ。

発酵したアンディーブを蒸し、一度その発酵を止めることによってベストな味わいに。「独特な香りですよ」と言う川手シェフに勧めれ、香りを嗅ぐ角田さんは、思わず「おー!」っと唸る。しかし、「この時点では、味の想像がつきません(笑)」と言葉を続ける。

発酵したアンディーブの葉を一枚一枚丁寧にめくり、たっぷりとトリュフを挟んでいく川手シェフ。その仕事を見ながら「まるでキムチみたいですね!」と角田さん。挟むことによってトリュフはアンディーブに香りを纏わせ、同時に余分な水分を吸う役目も果たす。

アンディーブの芯を切り落とし、2つに切った断面。それを見て「すごく綺麗!」と角田さん。トリュフと形成する黄・緑・白・黒の層が美しいそれは、まるで植物のような不思議な雰囲気が漂う。「ちなみに、芯はまた別の料理にしますのでお楽しみに!」と川手シェフ。

開放的なキッチンにて、今回のメニューのポイントを角田さんに説明する川手シェフ。「複雑さ」をテーマにしたそれは、調理過程もまた複雑だ。

アンディーブを漬物のように発酵させ、味わいも香りも複雑に。「その複雑さがテタンジェのトップキュヴェ、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランに合う」と川手シェフ。この時点で発酵は5日目。「漬け込みすぎず、まだまだ菌が元気な状態で発酵を止めるのが良い」。

フロリレージュ × 角田光代

 アンディーブにはゴルゴンゾーラチーズのソースをかけ、薄い輪切りのレモン、酢漬けにしたフェンネルの花、コリアンダーの花、ハーブをあしらう。この花は、よくよく見ないとわからないくらいちいさい。もう一品が、さっき取り除いたアンディーブの芯とヨーグルトをピュレ状にしたアイスクリームだ。
 けっこうたくさんのトリュフが使われているのに、香りは控えめで、アンディーブのほろ苦さとうっすらとした甘みを引き立てる。そしてこの料理、切り分けた一口に、ソースをどのくらいつけるか、酢漬けの花をいっしょに食べるか否か、皿の端の塩をつけるか否かで、一口一口の味がまったく異なる。トリュフのかぐわしさはシャンパーニュの香りをけっして消さない。一口食べたあとにシャンパーニュを飲むと、キリリとした強さを感じる。ふたたびアンディーブを食べると、さっきとは違う奥深さが生じる。アイスクリームはやわらかい酸味があって、これもまたシャンパーニュと合う。

合わせるのは、ブルーチーズと白ワインのソース。「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランは、香りの中にハチミツのような甘さがあると思います。ブルーチーズとハチミツは相性が良いので、そこも感じて頂ければ」。ソムリエの資格も持つ川手シェフらしい考察の妙。

フェンネルの花、ディルの花、人参の花、コリアンダーの花と種を自家製ピクルスにし、料理のアクセントに。「酢漬けにすることによってそれぞれの個性を引き出します」と川手シェフ。

そのうちのひとつ、コリアンダーの種のピクルスを試食する角田さん。「こんなに小さいのに味の個性がしっかり! しかも、ちゃんとその奥にコリアンダーの存在と香りが残っているのがすごいですね!」。

一見、何の素材を使用してどんな料理なのかが全くわからない容姿もまた、川手シェフの表現の特徴。ナイフを入れながら「料理にドキドキする……」と角田さん。

「アンディーブの芯はまた別の料理に」と言っていたそれは、アイスクリームに! ペースト状にしてヨーグルトと合わせ、アカシアとニセアカシアの花をシロップとともに発酵させ、アカシアのハチミツを混ぜ合わせたソースを添えて提供。料理名にもある「2部構成」の2部目の品。「これもまた変わった味!」と角田さんも驚愕。「料理をしていると端材が出てしまうことがあります。2部構成にする手法を取り入れてからは、食材を無駄なく使用でき、かつ味の広がりを演出できるようにもなりました」と川手シェフ。

「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランは、独創的な料理の味に落ち着きを与えてくれると思います。これまで体験したことのないペアリング」と角田さん。

「通常、シャンパーニュの温度は8℃か9℃。しかし、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランの場合は、10℃〜13℃の方が味と香りが開き、料理とのバランスも良いと思います」と川手シェフ。

フロリレージュ × 角田光代

 テタンジェの個性は「複雑さ」だと川手さんは言う。だから、複雑さに複雑さをかける料理として、このアンディーブを選んだ。足すのではなく、かける。たしかに、ペアリングすることで未知なる世界が広がっていく感覚になる。
 それにしても、この味を説明するのはむずかしい。味も香りも食感も独特で、比喩として使える料理が思いつかないのだ。しかも、食べ進めるごとに、シャンパーニュと合わせるごとに、変化していっていっこうに固定されないので、「こういう味だ」と言い切ることができない。

おいしい料理とシャンパーニュは2人を笑顔に。「どうやったらあんなに美しくて食べたことのないような味を創造できるのですか?」という角田さんの問いに対し、「パッとひらめくようなことはありません。何度も考えて、何度も試作して。ひとつの料理のために何十時間と費やし、ようやく完成するような地道な作業です」と川手シェフ。

今回の料理は、主役から脇役までの演者が多いメニューですが、ちゃんとひとつにまとめて、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランにピタリと合わせるのは、さすが」と角田さん。更には、「アンディーブに添えたピクルスやブルーチーズのソース、アイスにかかるアカシアのソースの具合によって味が様々に変化するので、この感覚を言語化するのは難しい」と話す。

料理の複雑な味を何とか言葉として手繰り寄せようとする角田さん。川手シェフの解説にも真剣に耳を傾け、気になる言葉は全てメモを取る。

フロリレージュ × 角田光代

 フロリレージュはフランス料理店ではあるが、川手さんはクラシックなフランス料理にはこだわっていない。クラシックなフランス料理とは、たとえてみると、たくさんの食材をぐっと煮詰めて作るソース。けれど自分の目指すのはそれではなくて、たくさんの食材のもっともおいしい部分を少しずつ使った料理なのだと川手さんは説明する。煮詰めるのではなく、それぞれの持ち味を生かす料理。さらに、食材のもっともおいしい部分以外、ほかの料理店では破棄してしまうような部分も、きちんと生かしたい、というのが川手さんの考えだ。今日の、アンディーブと、取り除いた芯で作るアイスクリーム、という二部構成がまさにその思想そのものである。

「川手さんのように何かひとつのものを極める人は輝いている。例え、100のうち90つらいことがあっても10やりがいを得られたらまた次に進める活力になるのではないでしょうか」と角田さん。「その10のために僕は料理を作り続けています」と川手シェフ。料理と小説、モノは違えど、同じ道をひたすら歩み続ける職人同士。2人は近しい感性を持つのかもしれない

「僕の料理は、お客様をハラハラさせてしまう(笑)。料理を見て“何これ!?”という驚く姿を見るのも密かな楽しみです」と川手シェフ。そんな想定外の味を求める「フロリレージュ」のファンは世界中に多く、ゆえに「たまに手堅い料理を出すと、ものたりない! もっとチャレンジして!とおっしゃる方もいます(笑)」。

フロリレージュ × 角田光代

 店名の、フロリレージュの意味を尋ねると、「詩歌集」だという。ひとつの本に綴じられたうつくしい詩の数々。食材を作る人たち、扱う人たち、料理人、このお店にかかわる人々、支えてくれる人々、それらすべてが集まって完成するものという意味合いでつけた店名なのだという。
 それを聞いて思った。川手さんの世界では、食材、酒類、飲料、食器や家具や調度品、照明や花瓶の花、そして人、それらは隔たりなく等しく存在していて、すべての持ち味を最大限に生かすことを川手さんは目指しているのに違いない。店内に一歩足を踏み入れたとき、舞台みたいだと思ったけれど、ここでのランチタイムなりディナータイムなりはたしかに一日かぎりの舞台なのかもしれない。セットとキャストと音楽、何が登場するのかと、わくわくと席に着く私やあなたも含めて、フロリレージュの幸福な一ページとなる。

「今度は是非コースで楽しみたいです!」と話す角田さんに対し、「よろしければ、ハラハラコースをご用意します!」と川手シェフ。「そのペアリングにはもちろん、コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブランで!」とふたり。

住所:東京都渋谷区神宮前2-5-4 SEIZAN外苑B1F  MAP
電話:03-6440-0878
https://www.aoyama-florilege.jp

1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。'90年『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。'96年『まどろむ夜のUFO』で第18回野間文芸新人賞、'98年『ぼくはきみのおにいさん』で第13回坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で'99年第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年第22回路傍の石文学賞、'03年『空中庭園』で第3回婦人公論文芸賞、'05年『対岸の彼女』で第132回直木賞。'06年『ロック母』で第32回川端康成文学賞、'07年『八日目の蝉』で第2回中央公論文芸賞、'11年『ツリーハウス』で第22回伊藤整文学賞、'12年『紙の月』で第25回柴田錬三郎賞を受賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞受賞。'14年『私の中の彼女』で河合隼雄物語賞を受賞。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/


Photographs:KOH AKAZAWA

(Supported by TAITTINGER)

降雪のち快晴。シェフたちが目の当たりにした豊かな自然、そして滋賀県の素晴らしき食材。[Local Fine Food Fair SHIGA/滋賀県、東京都]

ローカルファインフードフェア滋賀滋賀の多彩な食材が、料理人の感性を刺激する。

滋賀県は日本最大の湖・琵琶湖の豊富な水資源で育まれる素晴らしい食材の宝庫。古くから食材の研究、生産が続けられ、近江米や近江牛、湖魚をはじめ、近江の茶、野菜、果物、この地ならではのブランド食材も数多く誕生しています。

そんな滋賀県産食材の美味しさや生産者の思いを東京の人々に伝えるのが『Local Fine Food Fair SHIGA』です。東京都内で活躍する料理人やパティシエが、まずは滋賀県へ視察に赴き、生産地を自分の目で見て、生産者と話し、食材の背景にあるストーリーを知る。そして、東京に戻り、滋賀県産食材を使った料理をそれぞれの店で提供するフェアを行います。一流の料理人たちが腕によりをかけて滋賀県産食材の魅力を引き出すのはもちろんのこと、自分の目で見て、耳で聞いてきたものをお客様に語ります。

今回料理人たちが訪れたのは、冬の滋賀。広大な琵琶湖を中心に、雪に覆われた北部から、滋賀県内では比較的温暖な東部から南部にかけてぐるりと巡り、生産者を尋ねました。雪の下で甘みを増す大根、寒い時期にしか出合えない琵琶湖の氷魚(ひうお)、冬に旬を迎えるいちご。冬だからこそ堪能できる美味しい食材が、滋賀にはたくさんあります。
そんな現地視察の様子を、レポートでお伝えします。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:AYANO YOSHIDA

(supported by 滋賀県)

産地を巡り、生産者と語り、本質を知る。滋賀県の食材の魅力を伝える都内レストランフェア開催。[Local Fine Food Fair SHIGA/滋賀県、東京都]

ローカルファインドフードフェア滋賀OVERVIEW

水、大地、気候、そして人。
良い食材を生み出すには、これらの条件が必要です。広い大地があっても水がなければ、穏やかな気候でも土が悪ければ、あるいはすべての自然条件を満たしてもそこに熱意ある生産者がいなければ、本当に素晴らしい食材は生まれません。
この条件を満たす食材を我々は「Local Fine Food」と呼んでいます。

今回舞台となった滋賀県には、言わずと知れた日本一の湖・琵琶湖があります。琵琶湖の水は周辺だけでなく関西の広域を潤します。県の半分を占める山のミネラルを、琵琶湖に流れ込む460本もの河川が運び、周囲の大地を豊かにします。穏やかな沿岸部と、雪の積もる山間部、メリハリのある気候は、それぞれの土地にあった作物を育みます。そして古くから食の都・京の食卓を支えてきただけに、生産者たちは蓄積された技術と、高い誇りを持って生産にあたります。

だから滋賀県の食材には、水と大地のパワーと、生産者の心が宿っているのです。心を動かすような力強さが潜んでいるのです。「Local Fine Food」を発掘するのにもってこいの地域と言えます。

今回は、名だたる料理人たちがそんな滋賀県の食材を視察。その土地に足を運び、生産者の声に耳を傾け、風土を知り、郷土料理を食したうえで、滋賀の食材を自らの店で特別な料理へと昇華させ提供する、都内レストランフェアを期間限定で開催します。


題して「Local Fine Food Fair SHIGA」。

『ONESTORY』取材班は、そんな料理人たちの食材探索に密着し、滋賀県の食材の魅力を紐解きます。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by 滋賀県)

ひと皿以上、ふた皿未満の方程式。1.5皿という哲学。[東京都港区]

『傳』のキッチンにて試作をスタート。「予定はないです! ゼロベースで始めます!」とふたり。

でんくしふろり打ち合わせは常にキッチンで。テーブルから生まれる料理はない。

8月某日、『傳』のキッチンにて『でんくしふろり』の試作はスタート。
と言っても、ふたりの中では昼夜問わず、常にやり取りを重ねているため、この日が初日という認識はありません。
「今日は、いくつか試してみたいものを用意してきました!」。そう話すのは、『フロリレージュ』の川手寛康氏です。
手際良く、もといガサガサとせわしなくそれらを並べ、中にはラー油と書かれたケースも!?(のちにこれはハリッサだと判明。後述参照)

「まずはこれを試してみたいんです」と川手氏が取り出したのは、三角に形状したブータンノワール。「これにフルーツとか合わせても良いと思うんですけど、長谷川さんどう思います?」というアイデアに被せ気味で「りんごのガリを作ってみたんですけど、合わせてみませんか?」と長谷川氏。
漬けておいた輪切りのリンゴを「これなら千切りの方が合うな」とつぶやきながらサクサクと包丁を入れ、串に刺したブータンノワールに盛り、お互いにひと口。ふたりの声が揃います。

「合う!」。

続けて、「これならもっとガリをガバっと盛っても良いかも」と長谷川氏が言えば、「あとは辛子を添えてもアクセントになりそう」と言う川手氏に対し、再度、被せ気味に「種から挽いた自家製の辛子もあります!」と長谷川氏。
それらを試し、またひと口。もう一度、ふたりの声が揃います。

「合う!」。

「僕には、りんごのガリという発想はありませんでした。こうゆうところは、ふたりでやるおもしろさですよね」と川手氏。「これだけガリを盛るなら、ブータンノワールのサイズがもっと大きくても良いかも」と長谷川氏。ふたりの手と会話が休まることはありません。
「僕らは、じっくりテーブルで顔を付け合わせながら考えることはありません。もちろん、事前にアイデアやイメージを出し合うことはありますが、基本的にはキッチンで全て行います」とふたり。

型にはめすぎず、ゴールを決めすぎず、その日のセッションから生まれるのは、余白によるサプライズや想像を超えた化学反応。
ふたりの共通点は、自分らしさにどう相手らしさをどう足し算できるか、はたまたその逆も然り。互いを尊重し合っているところにあります。

この日、ふたりが用意したものがピタリと合点するのは、相手の料理やその特徴を知っているからこそ。まだまだ試作は続きます。

【関連記事】東京都港区/「でん」と「くし」と「ふろり」の関係。

川手氏のブータンノワールに長谷川氏のリンゴのガリを盛り付け、種から挽いた自家製の辛子も添えて。

上記の料理にリンゴのガリを盛り付ける長谷川氏。味だけでなく食感もまたアクセントに。

この日のために川手氏は色々用意。色々記される中、気になるのはフレンチシェフが作るラー油!?の文字。

でんくしふろり『傳』と『フロリレージュ』の食材は使わない。高級食材や希少食材も使わない。

次に登場したのはナス。
「これはナスにフォアグラ、穴子を詰めたものになります。フレンチだとビネガーをかけて食べたりしますが、長谷川さんのエッセンスを加えたらどうなるんだろう?と僕も楽しみな料理です」と川手氏。
「だったら、これとか合うと思います。葛粉で溶いた酸味のあるタレです。ちょっと味見してもらえますか?」と長谷川氏。
ひと口含み、「これは合いそう!」と川手氏が言うとさっそく試作。
「ナスがうまく串にささらないなぁ」と川手氏が言えば、「くるっと巻いてみましょうか?」と長谷川氏。タレをかけて、互いにひと口。
ふたりの声が揃います。

「合う!」。

「なんだろう、これは。ナスだけで食べると『フロリレージュ』の味なんだけど、このタレをかけると全く別の料理になる!」と川手氏が目を丸くすれば、長谷川氏もまた「わっ! なんだこれは!? 一体、何料理なんだ!?」と笑います。続けて、これを添えたらおもしろいかもと川手氏が取り出したのは紫のシート。
「これは先ほどのナスの皮で作ったペーパーシートです。これがあることによって、味の重層をより楽しめるかもしれません」と川手氏。「であれば、このシートも串に挟んでみますか? 刺すだけじゃなくて挟める串もあるので!」と言い、実際に試してみると「いや、これはないな(笑)。何か変だし、食べづらい(笑)」。
良き時もあれば、悪き時もある。試作はトライ&エラーの繰り返しです。


そのほか、川手氏は、レモンを丸々焦がした自家製パウダーやフランス料理で使われる唐辛子をベースにしたペースト状の調味料のハリッサを日本風にアレンジしたもの、そして、長谷川氏も絶賛した海老の頭に赤味噌をほんの少し隠し味に加えた濃厚ソースを用意。
「これはすごい! 野菜とかイカとかの串にドバッと漬けて食べても合いそう」と長谷川氏が言えば、「それは良い! でも、そうであれば、この味噌の風味を弱くして、ビスク風にした方がもっと合いそうな気がします!」と川手氏。

一方、長谷川氏は、出汁と昆布を効かせた自家製醤油やカツオの漬け、イワシを用意。更に、「塩麹と醤油麹も今作っている最中なので、それを使った川手さんの料理も見てみたいです」と長谷川氏。
「『でんくしふろり』では、僕らがキッチンに立たないので、まずは基本をしっかり作りたいと思っています。今はまだ、基本の“き”の段階」とふたり。
「『DINING OUT』のご縁がきかっけで、今でも静岡の『サスエ前田魚店』を『傳』は仕入れていますが、その日獲れた良い魚をお任せで送っていただいています。届いたものを見て、どんな料理にするのが良いか考えてメニューを構成していくのですが、最初の『でんくしふろり』にはハードルが高すぎます。まずは、決まった食材でしっかり体制を作ることが大事。その分、僕らがバックアップしたいと思っています」と長谷川氏。

そう話したと思えば、いきなり「あと、チーズを使った料理も作りたいね」とふたり。「そうそう、デザートも試作してみたんです」と川手氏。会話があっちに行ったりこっちに行ったり。
「メレンゲで挟んだ大福です」。
ひと口、長谷川氏が食べると「大福だけど軽くておいしい! あぁ、お茶が飲みたくなってきた……」。
「『でんくしふろり』では、最後にお茶を出すのもいいですね!」と川手氏が言えば、「絶対良いと思う! ほうじ茶とか絶対欲しくなる!」と長谷川氏。そして、「デザートだったらプリンも良いと思います! うちにベースになるプリンがあるので食べてみてください」と言葉を続けます。それを食べた川手氏は「これはシンプルに出してもおいしいけど、キャビアとも合うと思う!」。
「やっぱり、これもお茶に合いそう!」とふたり。しかし、「あ、でも……、お茶を出すっていうことは……」と川手氏が言えば、「ゆのみがない!(汗)」と長谷川氏。

まるで漫才。ふたりの掛け合いは止まりません。

川手氏作のフォアグラ、穴子を詰めたナスに長谷川氏作の葛粉で溶いた酸味のあるタレをかけ、ナスの皮で作ったペーパーシートを添えて。

「長谷川さんの作るタレやソースは、真似できそうでできない」と川手氏。

川手氏が用意した海老の頭を丸々使った濃厚ソース。「牛乳を入れたり、とろみをつけるとまた違った味に変化します」。

川手氏が作るハリッサを試食。「あー、これは何か絶対合わせられる! 万能調味料!」と長谷川氏。

 漬けにしたカツオに塩をひと振り。「焼きのものだけでなく、生のものも構成に入れていくとおもしろい」と長谷川氏。

メレンゲに挟んだ大福。「ありそうでなかった組み合わせのデザートを表現してみたかった」と川手氏。

川手氏が用意した大福をひと口。「大福なんだけど、軽く、最後はお茶が欲しい!」と長谷川氏。

長谷川氏が用意したプリンを食べ、「これはシンプルにおいしいですね。あまりアレンジしなくて良い気もしますが、キャビアとかを合わせてもおもしろい」と川手氏。

それぞれが用意した料理やその場で繰り広げられる技術、情報の開示は、ふたりにとって刺激になる。

でんくしふろり自ずと引き寄せられたイワシとレバー。僕らの原点はここにある。

前述に用意した長谷川氏のイワシ。このイワシにはふたりの原点が隠されています。
振り返ること約10年前、まだレストラン界でコラボレーションが主流でない時にふたりはそういった試みを実践していました。
「一番思い出に残っているメニューは、イワシのなめろうにフォアグラアを組み合わせたひと品」とふたりは言います。
「僕は川手さんの料理と発想力に毎回驚かされていました。この時もそうです。なめろうにフォアグラを入れるなんて! しかもそれがおいしい。日本料理にはない発想ですし、本当に勉強になりました」と長谷川氏。
「僕だってそうですよ。さっき長谷川さんが作った酸味を効かせた葛粉のタレありましたよね。実は自分でも作ってみたことがあるのですが、何となく違う。コピーした味になってしまうんです。真似できそうでできない。ある人に伺ったのですが、旨味の視点で見れば、フランス料理は日本料理には勝てないそうです。それだけ奥が深い」と川手氏。
隠れたところに手数が多いのは、日本料理の特徴であり、美徳。陰翳礼讃のごとく、見えないところに本質や技術は潜んでいるのかもしれません。

今回は、同じ内蔵でもフォアグラをレバーに変えてイワシと合わせるイメージをふたりは持っています。しかし、まだ形になる一歩手前。
「例えば、イワシのタルタルとレバーのタルタルを合わせるとか、色々考えています」と川手氏。「あとは、つくねなんですが、最初はイワシで徐々にレバーの味わいに、和から洋へグラデーションしていくような仕掛けがあったり。もちろん、いくつかの玉を串で刺して、ひとつずつ変化するのもおもしろい」と長谷川氏。
「原点に返るという意味では、もうひとつ。長谷川さんとコラボレーションした時に鳩を使った料理を作ったんです。最初はそのまま食べて、最後は長谷川さんが鳩に合うように作った生姜で炊いたお米と出汁のスープをかけてひと皿が完成するという内容でした。ひと皿なんですが、おいしさと楽しさはひと皿以上。この考え方は『でんくしふろり』でも取り入れたいですし、そうゆうお店にしたい」と川手氏。

ふたりだからできる、ひと皿以上、ふた皿未満の方程式。1.5皿という世界が『でんくしふろり』の哲学なのかもしれません。

とはいえ、試作の段階。はたしてどうなるのかは、乞うご期待!

長谷川氏が仕込んだイワシ。「川手さんとイワシを使って料理を考えると約10年前のコラボレーションを思い出します」。

長谷川氏が用意したイワシをたたきに。「イワシを使った串はメニューに取り入れたい」と話すふたり。

上記のたたいたイワシをバーナーで炙り、様々な手法で味を確認する。

キッチンでは笑顔が絶えないふたり。今回の試作を経て、また次の課題に向けて、料理を考案していく。

Photographs:JIRO OTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

「でん」と「くし」と「ふろり」の関係。[東京都港区]

でんくしふろり「傳」長谷川在佑と「フロリレージュ」川手寛康を密着する短期連載スタート!!

2020年8月、青山某所の工事現場から密着はスタート。

その内容は、ともに神宮前を拠点におく『傳』の長谷川在佑氏と『フロリレージュ』の川手寛康氏が創造するふたりのレストランです。

奇しくも共通点の多い長谷川氏と川手氏は、年齢も同じであり、ともに料理人の親に影響を受け、この道を志した歩みを持ちます。

更には、自店をオープンさせた年や「ミシュランガイド東京」にて星を獲得した年から落とした年、「アジアのベストレストラン50」にランクインした年なども同時期。

趣味の釣りまで同じという奇跡は、何のいたずらか。

長谷川氏と川手氏は、「DINING OUT」出演シェフでもあり、長谷川氏は2015年に静岡県清水区の日本平にて、川手氏は2017年宮崎県宮崎市の青島にて、腕を振るいました。

また、長谷川氏は2017年「JAPAN PRESENTATION in PARIS」も担い、料理、器、桜など、日本の文化と歴史を表現・演出した体験は、パリジェンヌの感動を呼びました。

話を冒頭に戻し、そんなふたりが新たなレストランの準備を進めているのです。

『でんくしふろり』。

この店名もしかり、突っ込みどころと謎の多い本件。

どこでやるのか? どんな経緯だったのか? ふたりはお店にいるのか? 既存のお店はどうなるのか? くし屋なのか?

唯一分かっていること、それは2020年10月オープン。

今回は、そんな『でんくしふろり』ができるまでを短期密着します。

Photographs:KOH AKAZAWA
Text:YUICHI KURAMOCHI

津軽といえばりんご? いえ、“山”もです! 日常でも霊域でもある、岩木山の不思議。[TSUGARU Le Bon Marché・特別対談/青森県弘前市]

左から『のみものやわんど』坂爪梓さん、『She/shock/cheese』相澤隆司氏、『RandBEAN』佐藤孝充氏、『GARUTSU』久保茜さん。津軽で活躍する若手に集まってもらった。

津軽ボンマルシェ全津軽人に愛される地域のシンボル・岩木山を語る。

「津軽ボンマルシェ」の取材中、よく話題にのぼるテーマのひとつが“山”。津軽で山といえば、多くの場合、ある特定の山のことを指します。津軽平野の真ん中にそびえる標高1,625メートルの岩木山。その美しい姿から津軽富士とも呼ばれ、古くから山岳信仰の聖地として知られている霊山です。第一回目の対談時は、津軽各地の市町村で「うちから見る岩木山が一番きれい」と喧嘩になる話が登場。第四回目では、りんごに次ぐ津軽名物として名が挙げられ、「富士山は“よその偉い人”って感じだけど、岩木山は“うちの親方”」という問題発言(?)が。以前紹介したハンバーガー店『ユイットデュボワ』の井上信平氏は、兵庫県出身ながら岩木山との出合いにより人生が一変、現在では飲食店とデザイン事務所を経営する傍ら、岩木山だけを描く画家としても人気に。岩木山のことになるとつい熱くなる、そんな津軽人の本音をもっと聞きたいと、今回は地域に根差した活動を続ける若手のみなさんに声を掛け、対談を行いました。しょっぱなから「岩木山、そんなに思い入れあったかなぁ」と口にするなど、やや不安な雰囲気で始まった仲良し4人の対談でしたが、蓋を開けてみればエピソードが次々と。岩木山に見守られた高台で、チーズとコーヒーを味わいつつのおしゃべりに花が咲きました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

会場は『RandBEAN』の店舗の外にあるテラス。岩木山を正面に眺める最高のロケーションにある。

相澤氏は元々『RandBEAN』のスタッフで、坂爪さん、久保さんは共に相澤氏、佐藤氏と以前からの知り合い。リラックスした雰囲気で対談が進んだ。

津軽ボンマルシェ高尾山とはスケールが違う。都会の真横にあるビッグなシンボル。

ONESTROY編集部(以下編集部):本日は岩木山を眺めながら、津軽エリアで活躍する移動式カフェ『のみものやわんど』の坂爪さんが淹れてくださるコーヒーを飲みつつ、本音でお話していただきたいと思います。チーズ専門店『She/shock/cheese』相澤さんには、コーヒーに合うチーズをセレクトしていただきました。本当は『GARUTSU』のシードルも飲みたいところですが、お仕事ということで我慢です。

坂爪梓さん(以下坂爪):チーズとコーヒーって合うんですよね。ワインに合わせるものだと思っていたけど、相澤さんと会ってそのイメージが変わった!

相澤隆司氏(以下相澤):チーズの色々な楽しみ方を提案したくてお店をやっているんですよ。今日は知ってる顔ばかりなので、全然緊張しないですね。でも自分、考えてみたらそこまで岩木山について語れないかも……。昨日必死で話すことを考えました(笑)。

佐藤孝充氏(以下佐藤):この中だと、相澤くんだけ住んでいるのが黒石市だよね。あとのみんなは弘前市。その違いってある?

相澤:ありますよ。黒石だと、岩木山より八甲田山の方が身近なんです。でも弘前に岩木山というシンボルがあるのはいいなと思いますね。うちの辺りからすると、昔から弘前は上品でおしゃれな都会のイメージ。岩木山の佇まいもきれいで上品だから、街の雰囲気が形に出ているというか。都会の中にこういう山があるって、東京にはないじゃないですか。高尾山とはスケールが違うし。

佐藤:確かに。裏の畑にりんごがあるくらい岩木山が見えることが普通で、特別感も感じず育ったけど、一度東京に出て戻ったら見方が変わったかも。弘前だと「山」といえば岩木山のことだよね。「山行ってくる」って。

相澤:そうそう。「ちょっと自転車で山超えてきた」とか話すと、こっちでは「あー岩木山行ったんだ、いいね」ってなるけど、東京の友達から「そういう感覚で行く場所じゃないでしょ!」って突っ込まれる。

久保茜さん(以下久保):それ、ありますよね。私は群馬県出身の移住組なんですけど、弘前の人に「みんな山行くよ、スニーカーで登れるよ」と勧められて登山して、最後死ぬかと思いました(笑)。「嘘つき! 騙された~」って。登山靴じゃないと無理です! ちょっと感覚が違う。

相澤:あとは違う場所から津軽に戻ってきたとき、まずすぐ岩木山が見えてきて「いいなぁ、帰ってきたな」ってなります。「山以外に何もねえ! でもそれが最高!」みたいな。

久保:それも分かる! 私の場合は、初めて岩木山を見たのが大学のオープンキャンパスで弘前に来たときで。電車の窓から、開けた平野にだんだんと岩木山が見えてきて、それが本当にきれいで驚きました。何だか「いらっしゃい」といってもらった感じがして、弘前の街も居心地がいいし、もう「ここに住む」と決めて弘前大学しか受けませんでした。

一同:おお~。

坂爪:私は出身が弘前なんだけど、3歳からは東京で育ったのね。一時期転勤で仙台に住んでいたとき、車で弘前のおばあちゃんの家まで行く途中に大鰐インターから岩木山が見えると「いつも『ただいま』っていってるね」って旦那さんにいわれて。弘前で育ったわけじゃないのに、無意識のうちにそういってた。弘前に引っ越すときも、岩木山が見える家がいいって決めてて、以前住んでいたところでも今のアパートでも、毎朝岩木山に「おはようございます」って挨拶してる。

佐藤:身近過ぎて特別感はそれほどないと思っていたけど、やっぱり好きな人は多いし、結構それぞれ感じることがあるんだねー。

相澤氏の元上司でもある『RandBEAN』佐藤氏。弘前に生まれ育ち、東京で楽器製作の専門学校へ通ったあと帰郷。現在は家具製作やリメイク、販売を手掛ける。

RandBEAN』店内。ヴィンテージ家具や人気ブランドの新品家具、セレクト雑貨を扱う他、オリジナルの家具のショールームと工房も兼ねる。最近フロアを拡充したばかり。

津軽産のりんごやぶどうからシードル・ワインを製造する『GARUTSU』の広報、久保さん。今回唯一の県外出身者ながら津軽愛は人一倍。公私ともにアクティブで顔が広い。

以前、チーズとのマリアージュイベントも開催したという『GARUTSU』の「白神ピュアシードル」シリーズ。「お客さんにも大好評のイベントでした」と久保さん。

津軽ボンマルシェポニー、クラフト、犬、湧き水。三者三様の津軽人・岩木山あるある。

相澤:子どもの頃よく行ったのが、岩木山の麓の「弥生いこいの広場」っていう公園。小さい動物園みたいなところでポニーに乗って、従弟とセブンティーンアイス食べて、アイスの棒を剣にして戦う。それが岩木山の原体験。当時は岩木山に対して、わくわく感みたいなものがありましたね。

佐藤:アイスと剣とセットだからね(笑)。自分も「弥生いこいの広場」は行ってた。岩木山は結構イベントも多い。クラフトイベントの『津軽森』が一番大きいかな。

相澤:あれは自分もつめさん(注:坂爪さんの愛称)も出店経験がありますが、本当に気持ちのいいイベント。なんだか癒されるというか、それこそ岩木山の力みたいなものを感じます。会場の桜林公園は、キャンプもできていいですよ。あと「DOG FES IWAKI」という犬が1000頭くらい集まるイベントがあって、それもすごく楽しい。出店用のテントを設営してると、わんちゃんがどんどん入ってきちゃって(笑)。そういえば、車で岩木山に行くとあんまり“山に行った感”ないんですよ。ドライブしてたら、気が付けばいつの間にか岩木山にいるというか、弘前の街と地続き。

佐藤:そうそう。ドライブする道もすごく景色がよくて気持ちいい。

久保:道、気持ちいいですよね~。青森は全体的に信号が少ないし、道もまっすぐだし、一時期関東に住んでいたときは運転する気にならなかったけど、こっちに来てドライブ大好きになりました。

相澤:子どもが生まれてからは特に、とりあえず山行っとけば楽しめるかなという感覚で岩木山に来ちゃいますね。岩木山や地元の山でキャンプして自転車乗って、近くの海でサーフィンして、山も海もある津軽は最高!

編集部:相澤さん、ちゃんと岩木山エピソードあるじゃないですか! ちなみに坂爪さんは、何か思い出深い体験はありますか?

坂爪:岩木山に行くと色々起こるんです。でもちょっと変というか、あんまり信じてもらえないかもしれないんだけど。たとえば、昔おばあちゃんと岩木山の麓の岩木山神社に初詣でに行ったとき、手水舎の龍神さまの口からあふれ出る湧き水が虹色に輝いて見えて、「すごい!」と思ったことがあって。『のみものやわんど』でコーヒーを淹れることになった際、水道水を使うのはなんだかピンと来なかったんだけど、そのことを思い出して、自宅やみんなでコーヒーを楽しむとき、水を汲みにいくようになりました。今日も今朝岩木山で汲んだ水を使っています。

一同:そうなんだ!

坂爪:おばあちゃんから、弘前は岩木山のおかげで大きい災害がないっていわれて育ったし、岩木山がいつも守ってくれるから安心できる。毎朝、岩木山に挨拶するのも、仏壇とか神棚に「今日もよろしくお願いします」っていうのと似てるかな。そういえば昨日、うちのインコが亡くなっちゃったんだけど。仕事にいく車から岩木山を見ていたら、「大丈夫だよ」っていわれた気がして元気が出ました。神さまみたいな存在に近いかも。

久保:うんうん、私も大学を卒業して弘前から出るときは岩木山から「いってらっしゃい」、また戻ってきたときは「おかえり」といわれた気がしました。岩木山に見守ってもらう感じ、分かります。

佐藤:確かにおばあちゃん世代は岩木山への想いが強いよね。うちは違ったけど、小さい頃からそういう感覚が身に付いてる人もいると思う。

『She/shock/cheese』相澤氏の実家は黒石市の牛乳店。東京で高級スーパーの乳製品の仕入れ・販売に携わったあと、『RandBEAN』で店舗設営や経営を学び独立した。

コーヒーに合わせ9種のチーズを持参してくれた相澤氏。チーズの薫香や塩味、甘みが意外なマリアージュを生む。「チーズの原料はミルク。コーヒーとの相性はいいんです」。

看護師として働くかたわら、移動式の3輪自転車を改造したカフェで、イベント出店を中心に活動する『のみものやわんど』の坂爪さん。「わんど」は津軽で「私たち」の意味。

取手の取れたカップも「思い入れがあるから」と使い続けるのが、自然体の坂爪さんらしい。東ティモール産のフェアトレードのオーガニックコーヒーが現在の定番。

津軽ボンマルシェ思い立ったらお詣りへ。日常の中に信仰がある津軽の暮らし。

編集部:岩木山はやっぱり山岳信仰の山なので、宗教的な捉え方をしている人も多いのかなと思います。よく津軽人の心の拠り所という表現も聞きますし。

佐藤:あ、そういえばこの場所をお店にするときに、岩木山神社の宮司さんにご祈祷してもらいました。弘前界隈で商売をしている人は結構やっていますね。特に意識してなかったけど、普通にそういう信仰は根付いている。

坂爪:私もご祈祷してもらいに岩木山神社まで行ったよ。2年くらい前、『パン屋 といとい』の志乃ちゃんとかと一緒に。あとはお正月とか時期的なものに関係なく、お詣りに行く。何だか呼ばれてる気がするときがあって。

相澤:お詣りは日常ですよね。自分も小さい頃からお母さんに「山行くよ」って誘われて、「何でよー」とかいいながらも一緒に行くのが普通でした。

佐藤:お詣りついでに温泉に行ったり、生活の一部。お詣りが特別じゃないっていう時点で、日常に信仰があるってことだもんね。僕はお山参詣(注:毎年旧暦8月1日に行われる行事で、国の重要無形民俗文化財。岩木山神社から登山囃子に合わせて山頂の奥の院を目指し、御来光を拝む)にも参加しました。自分は登山用の格好で行ったけど、本来は白装束だし、奥の院に登る前はお囃子が演奏されたり円になって踊ったり。ある意味トランス状態になって、神さまに近づくっていうことなんだろうと思います。

坂爪:私も2回参加した! 昔は女人禁制の山だったみたいで、こうも時代が変わると女性としてはありがたいよね。

久保:ね。こっちはお祭りも多い。地元の群馬では、小さい頃から県の名物や歴史が盛り込まれた「上毛かるた」をやって育つので、郷土のことは詳しいんです。でも信仰に根付いたイベントはあまりなくて。個人的にはお祭りや行事が好きなので、弘前に来て居心地のよさを感じます。あと、私は迷ったり悩んだりすることがあると、岩木山神社までおみくじを引きに行きます。気持ちを改めたり、答えを導いたりする感じで。家からも近いし、何だか強力そうな感じもするし(笑)。

坂爪:分かる~。私の場合おみくじは一年に一回、お正月って決めてるけど。岩木山神社のおみくじ、厳しめだよね。

久保:そうなんです! 厳しい! 「〇〇は改めよ」とか、ほんとにこれ大吉? って思う。でも当たり障りがないことより、厳しくいってもらえる方がいいかなって。

佐藤・相澤:大吉でも厳しいなら、凶だとどうなっちゃうのか気になる……。

坂爪:そういえば、今朝岩木山神社で、お土産の手ぬぐいを買ってきたんですー。

編集部:なんと、ありがとうございます! お山参詣のお囃子の唱文が染め抜かれていて、ご利益がありそうですね。津軽に来ると感じるのは、この世とあの世の境界線があいまいなこと。第一回の対談のときも、津軽に昔から存在するイタコのような“カミサマ”という女性の話がありました。

相澤:僕、カミサマに見てもらったことありますよ。色々うまくいかなくて絶不調だった23歳のとき、「25歳で結婚する」っていわれて。自分こう見えてすっごくリアリストなんで「絶対嘘だろ」と思ってたら、本当に25歳で結婚したし、その後もいわれた通りになってる。今は信じてます。

一同:えー! すごい。そんなこともあるんだね。

坂爪さんからのお土産、岩木山神社の参拝記念手ぬぐい。岩木山神社は創建約1200年の津軽の一の宮。ヒバ材で造られた本殿などの建造物は、国の重要文化財にも指定される。

RandBEAN』の2階から眺める景色。「岩木山が見えるように、この場所に窓を作りました」と佐藤氏。“山”という字に似ているといわれるシルエットが、くっきりと。

津軽ボンマルシェ季節ごとに衣替えする姿も美しい、フォトジェニックな山。

坂爪:今日みたいに、曇りで小雨も降る日に岩木山が見えるのは珍しくない?

佐藤:確かに。普段、曇りの日は絶対見えないもん。

坂爪:実はね、朝に岩木山神社でお祈りしてきました! 昨日まではすごくいい天気だったのに、対談の日程、私の都合で今日にずらしてもらったでしょ。来るとき「あれ? 見えてる!」って。これが岩木山の力です!

一同:おお~。

編集部:祈りが通じたんですね。ちなみにみなさん、どの場所から見える岩木山がお気に入りですか?

一同:『RandBEAN』のこの場所、ベストじゃない?

佐藤:横の道を通る人から、よく「山の写真撮りたいんで車停めていいですか?」って聞かれますね。おじいちゃんおばあちゃんとか、長年岩木山を見てきた世代の方からもいわれるから、いい場所なんだと思います。ここに来るまでは見えない岩木山が、そこの坂を曲がるとバーン! と登場する。つめさんが岩木山見て元気が出たといってたけど、それと似てて、自分のスイッチが入る感じがします。ここで店を始めたのも、景色に惹かれたことが理由のひとつです。

坂爪:生まれた場所や住んでいる場所から見える岩木山が一番っていう人、結構いますよね。何年か前に、弘前の職場で岩木山の話になって。「ここから見る岩木山いいよね」ってぽろっといったら、同僚に「鶴田(青森県鶴田町)の方がきれい」と返されてびっくりした。観光パンフレットには、だいたい弘前から見る岩木山の写真が使われるし、こっちが正面と信じて疑わなかったんだけど。静岡と山梨から見る富士山の違いみたいなことが、津軽にもあるんだなと思った。

久保:私は弘前から見るのも好きだけど、県外から弘前に戻るとき、電車から眺める岩木山の姿に毎回感動します。写真撮ってる人も多くて。

相澤:みんな岩木山の写真よく撮るよね。雪の残り具合で見え方が変わったり、季節によって変化するからですかね。

佐藤:今の時期は街中から見ても、青々とした山肌まで見える。

坂爪:そうそう、肉眼で見えるのがまたいい! 緑のもこもこと雪とか、緑とオレンジのグラデーションとか、山が衣替えする感じ。

相澤:時間帯でいえば夕方、マジックアワーのときの岩木山も好きですね。黒石に浅瀬石川という川があって、そこから眺めると川と山以外に何もない。コントラストがすごいし、赤と青の空が幻想的で、海外に来たみたいな雰囲気なんですよ。「岩木山いいなあ」って思う瞬間です。

久保:見てみたい。私は朝の岩木山も好きです。頑張ろうって気分になりますし。

坂爪:あと何だっけ、ライジング岩木山? サムシング岩木山? あ、ダイヤモンド岩木山か。5月末にちょうど岩木山のてっぺんに夕日が沈むのがきれいで、最近人気みたいよ。いろんなところで宣伝されてる。

相澤:……あ! 突然ですが、今思い出した話をしてもいいですか? 昨日、対談で何を話そうか考えてたとき、これは絶対いおうと思ってたんです。うちの母方のおばあちゃんの名前が「ふじ」というんですけど、津軽富士と呼ばれる岩木山から命名されたそうなんですよ。おばあちゃんの名前が岩木山だったという。いきなりすみません(笑)。

坂爪:いい話。対談も終盤のタイミングで思い出せてよかったね~。

佐藤:そうそう、実は今、会社の手前側の土地を購入しようと思っていて。元々農業用の土地なので建物は建てられないんですけど、イベントができるようなスペースにしたいなと。岩木山が本当にきれいに見えると思うので、たくさんの人に来てほしいです。

一同:えー! いいですね。

坂爪:みんなでイベントに出店しよう。とにかく、この対談を読んだり、何かで岩木山のことを耳にして気になったりした県外の人は、一度津軽に来てみるといいと思う。岩木山に呼ばれてるんだと思います。私も呼ばれた気がして岩木山に行くと、だいたい何か次に繋がることが起こるので。『RandBEAN』のイベントはいいタイミングになるかも! ぜひ遊びに来てくださいね。

対談当日はときどき小雨が降る曇天。が、坂爪さんのお詣りのおかげか、4人を見守るように常に岩木山が見えていた。その雄大な姿には、津軽人でなくとも心動かされるはず。

場所協力:RandBEAN
住所:青森県弘前市小沢山崎83-4
電話:0172-55-9564

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

温暖な気候、肥沃な大地、豊富な水。年間60種以上の野菜が育つ、日本屈指の野菜王国。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM/茨城県行方市]

行方 ベジタブルキングダムOVERVIEW

茨城県行方市。
茨城県南東部、霞ヶ浦と北浦の間に広がる面積約166平方キロメートルのこの市のことをご存知でしょうか。
起伏の少ない広大な平地、豊富な水を湛える霞ヶ浦、関東ローム層の豊穣な大地、そして湖の保温効果による温暖な気候。そんな地理条件を聞いて何が思い浮かぶでしょうか。

そう、この行方市は日本でも指折りの野菜王国なのです。
さまざまな農業に適した条件が重なり、さらに首都圏から70kmという利便性まで加わることで、行方市では各地の食卓に並ぶ多彩な野菜が育てられているのです。
その種類は年間60種以上。全国有数の生産量を誇るサツマイモ、同じく全国有数の出荷量を誇るセリ、ミネラル豊富な大地で甘く育つイチゴ、先進的な生産者により作られる西洋野菜やハーブ。

だからきっと誰もが、行方市の野菜を食べたことがあるのです。食卓を彩る常備菜も、レストランで食べたあの野菜も、もしかしたら行方市で作られたものかもしれません。そしてこれからも口にする行方市の野菜がもっとおいしく、楽しく感じられるように、我々ONESTORYでは、それぞれの野菜に隠された物語をお伝えしていきます。

今回フォーカスするのは、四季それぞれの野菜。夏のトマトと大葉、秋のサツマイモと米、冬のレンコンとチンゲン菜、そして春のイチゴとセリ。春夏秋冬それぞれの季節の行方市を代表する野菜を通して、生産者の思いと、行方市の今を伝えます。

さらにそれぞれの野菜は、野菜料理のスペシャリストであり、いばらき食のアンバサダーも務める『HATAKE AOYAMA』の神保佳永シェフが試食し、その味わいを活かすレシピも考案。

野菜を知り、物語を知り、生産者を知り、調理法を知れば、行方市の野菜がいっそう味わい深く感じられることでしょう。

ではそろそろ「NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM」、その王国を支える、真摯で誇り高い生産者たちと、その思いが詰まった野菜の世界へ旅立ってみましょう。

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

人と物が繋がる森、津軽の夏の始まりを告げるクラフト市。[TSUGARU Le Bon Marché・津軽森/青森県弘前市]

『津軽森』会場の岩木山桜林公園にて、実行委員の武田孝三氏。ここは約3.8ヘクタールの敷地におよそ1000本もの桜が咲く、市民に愛される桜の名所。若葉の季節も美しい。

津軽ボンマルシェ岩木山の麓、新緑に包まれた公園で開催されるクラフトの祭典。

新型コロナウイルスの感染拡大により、多くのイベントが中止や延期となった今年の春。津軽でも、毎年数万人の動員数を誇る一大イベントの延期がアナウンスされました。霊峰・岩木山の登山道の入口にある岩木山桜林公園で、毎年5月末の2日間に渡り開催される『津軽森』。約130人の作家と20店舗以上の飲食店が出店する、界隈随一の規模のクラフトイベントです。

実は、「今年こそ『津軽森』の取材を!」とかなり前から意気込んでいたONESTORY取材班。その理由はいくつかありました。ひとつは、これまで「津軽ボンマルシェ」で紹介してきた多くの作家や生産者、たとえば陶芸家夫妻による『陶工房ゆきふらし』、リネン雑貨の『KOMO』、ドライフラワー作品を手掛ける『Flower Atelier Eika』、草木染製品の『Snow hand made』、キャンドル作家『YOAKE no AKARI』、放牧で豚を育てる『おおわに自然村』などが出店する、津軽中のいいものが集まるイベントだと確信していたこと。もうひとつは、津軽塗やこぎん刺し、津軽打刃物といった伝統工芸のみならず、多種多様な作品が集まる場所、つまり、今の津軽のリアルなクラフトシーンが垣間見える場所だと期待していたこと。そしてなにより、これまで取材してきた先々で「本当に気持ちがいい場所だから、一度行ってみて!」とおすすめされる、地元に愛されるイベントであることを実感していたからです。

残念ながら開催は1年の延期、来年5月までお預けとなりましたが、今回、実行委員の武田孝三氏に話を伺うことができました。ちなみに、ONESTORY取材班に武田氏を紹介してくれたのは、クラフト繋がりでもある『木村木品製作所』の代表・木村崇之氏。なんでも木村氏からは、「武田さんはムーミンに出てくる、スナフキンみたいな魅力がある人」で「無人島で暮らすなど、おもしろいエピソードがたっぷりある」との前情報が……。クラフト市のスナフキン!? 一体どんな話を聞けるのか、どきどきしながら取材がスタートしたのでした。

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『弘前工芸協会』の理事長も務める武田氏。活動分野は、陶芸や木工、グラフィックデザイン、店舗設計などジャンルレス。この日は自ら設計した自宅にて取材に応じてくれた。

会場の岩木山桜林公園までは、JR弘前駅から車で30分ほど。毎年『津軽森』の開催期間中は、岩木山を眺めるこの道が来場者の車で埋まる。(写真提供:津軽森実行委員会)

5月頭に桜が満開を迎え、11月には初雪が降る津軽。5月末は、ちょうど短い夏の始まりの頃。県名通りの青々とした森が美しい。(写真提供:津軽森実行委員会)

津軽ボンマルシェそれまでの青森にはなかった、伝説的クラフトイベントがルーツに。

以前「津軽のクラフト」をテーマにした対談で話題となったのは、津軽人にクラフト好きが多いこと。城下町だった弘前を中心に芸術・工芸文化が成熟した歴史ゆえでしょうか、若手作家たちは、「ほかの県のクラフトフェアより、津軽のイベントの方が人も多いし売り上げもいい」と口を揃えます。しかし、津軽でさまざまなクラフトフェアが誕生したのはここ10年ほどのこと。急速なクラフト人気の高まりの裏には、『C-POINT』というイベントの存在がありました。

『C-POINT』は今から20年前、安田修平氏と安田美代さんという津軽在住の陶芸家夫婦とその作家仲間により始まりました。『津軽森』実行委員の武田氏もそのひとりでした。「自分たちで作家を募って、ちゃんと選別して、いい作家を集めたクラフトフェアをやりたいと思ってね」と武田氏は当時を振り返ります。伝統工芸の文化が色濃い津軽エリアにあり、ジャンルも作家の年代も多様なこのイベントは、大きな挑戦でもありました。「ひと口に“作り手”といっても、ひとつのものを突き詰めて作る人や、思うがまま自由に作る人など、色々なタイプがいるでしょう」と話す武田氏は、歴史も知名度もある伝統工芸を三ツ星レストラン、それ以外を大衆食堂に例えて続けます。「三ツ星レストランはもちろんたいしたものだけれど、だからといって大衆食堂が違うかといえばそうじゃない。安くて美味しい大衆食堂も、地元でしか知られていないけれど頑張っている大衆食堂も、たいしたものなんですよ」。

その会場となったのは、日本海に面した鰺ヶ沢町の風光明媚な海浜公園。公募で選ばれた全国各地64名の作家が、自らテントを立てて販売するフリーマーケット形式のイベントでした。たくさんの作品から宝物を見つけ出すわくわく感、作家との会話から生まれる共感や感動……。会場を満たしたのは、参加者の笑顔と楽しげな雰囲気です。年々規模を広げ、作家の参加人数が150人を超える一大イベントになっても、守り続けたのがそうした空気感。純粋な“クラフトの楽しさ”にこだわり、行政や自治体の援助も受けずに10年間続いた『C-POINT』は、今も津軽のクラフトシーンで伝説的に語り継がれています。

『C-POINT』終了後、旗振り役だった安田夫妻は海外協力隊の活動でタイへ。しかし各方面から再開を求める声があがります。そして2013年、安田夫妻とともに『C-POINT』を立ち上げた武田氏と、グラフィックデザイナーの相馬仁氏のふたりに新たなメンバーが加わり、『津軽森』が発足。「弘前市や会場周辺の施設も協力的でしたし、初回から数万人のお客さんが来てくれて。みんな、待っていてくれたんだという実感がありました」。県内最大級のイベントである『津軽森』が、今と変わらない規模でスタートを切り成功をおさめたのは、既に津軽エリアの人々に“クラフトの楽しさ”が浸透していたからにほかなりません。

2013年の初回から、約130店の参加枠に対し応募が300店を超えていたという『津軽森』。個性豊かなクラフト作家が集結する。(写真提供:津軽森実行委員会)

全国から陶芸、ガラス、木工、染織、金属、皮革、漆などの作品が集結。県内作家はそのうち2割ほど。まだ見ぬ津軽の工芸にも触れられる。(写真提供:津軽森実行委員会)

初夏の新緑の木漏れ日が作品を美しく演出する。屋内のイベントでは味わえない開放的なロケーションの中、宝探しのような楽しさが。(写真提供:Flower Atelier Eika

ひとつ数百円の雑貨から高価な大型作品までが揃う。作家と会話しながら買い回れるこの機会を楽しみに待っているクラフトファンも多数。(写真提供:津軽森実行委員会)

津軽ボンマルシェ作家目線の心地よさこそ、ほかならぬ『津軽森』の魅力?

「『C-POINT』のよさを継承しようという想いは、ずっと変わらない。『津軽森』も、割とずれないでやって来たと思っています」と武田氏。「期間中の道路渋滞など、改善すべきところはもちろんある。でも僕は、ベストは目指しても、完璧は目指していないんですよ、楽しいよりも辛くなっちゃうから。相馬さんやほかのメンバーが完璧主義だから、ストッパー役なのかもしれないね」。現在70歳の武田氏ですが、話していてもその年齢を感じさせないばかりか、『弘前工芸協会』理事長の肩書や展覧会での多数の受賞歴などをふと忘れてしまうほど、フラットで穏やかな雰囲気の持ち主です。
そもそも生まれも育ちも弘前市の武田氏の半生はかなりユニーク。20歳から数年間かけて全国を放浪して帰郷、「体力も根気もない自分でも、ものづくりならできるかも」と、まずは興味のあった陶芸を始めたそう。「ところが、いざ工房に弟子入りすると全然だめで、すぐ辞めちゃった。向こうも、来るからには技術を教えようとなるでしょ。僕は、ものづくりは技じゃない、作りたいものがあるから技が生まれる、と思っているから(笑)。仕事は自分で生み出す方がおもしろいですよ」。

自ら陶芸を始めるにはお金も設備もなかった武田氏は、山に自生するあけびの蔓を使った作品を制作し始めます。それも、工芸店で見かけるあけび細工とはまったく異なる風情のもの。生きたあけびの姿があまりにも美しく、武田氏はその光沢を再現するため塗料も研究。もちろんすべて独学です。あけびの作品は「日本クラフト展」で新人賞を受賞、その後もブナ材や炭板を使った作品、最初はできなかった陶器など、「何か作って応募するとなぜか受賞する」ように。それから数十年が経ち、什器デザインや内装デザイン、グラフィックデザインを手掛けるようになっても、ものづくりへの向き合い方は少しも変わらないそう。自由な創作を続け「作品や活動を通じ、世間に伝えたいことはひとつもない」という武田氏。「『津軽森』にしても、『若手作家にも活躍の場を提供したい』とか『伝統工芸以外の作品も発表できる場を作りたい』という志を主体にしてきたわけではないんです。でも今、結果としてそういう場になったのはうれしいことですね」と心の内を話してくれます。

『津軽森』は、武田氏にとって「体力的にはきついけど、楽しいから続けちゃう」活動。曰く、「主催する自分たちもものづくりをしているから、出店作家に『実行委員も楽しんでいるのが分かる』といわれることが喜び。ほかの実行委員がどう思っているか分からないけど、僕はいい意味で“緩い”イベントだと思ってる(笑)」。『津軽森』がお客さんだけでなく作家陣からも人気を博す大きな理由は、武田氏はじめ主催側が作り出す、会場を包み込むような心地よさにあるのだろうと感じました。

無職で放浪……その半生は、確かにスナフキン的。「無人島で暮らしたことはないけど、鹿児島県の浜辺で生活したことはあったよ。ウミガメの卵ってまずいんだよね」。

武田氏の作品は、津軽のあちこちに。JR弘前駅構内にあるオブジェ「弘前な記憶」は『弘前工芸協会』メンバーで制作したもの。弘前市民会館や青森空港にも作品が置かれる。

以前紹介した『二唐刃物鋳造所』がパリの国際展示会「メゾン・エ・オブジェ」に出展した際は、武田氏が商品デザインを担当。こちらは独自の「暗紋」模様が美しい花器。

閑静な住宅街で異彩を放つ黒い家が、武田氏の住居兼事務所。設計も独学でこなすというから驚き。「ものづくりの失敗から次のアイデアが出てくる」という生粋の作り手だ。

津軽ボンマルシェ新芽が枝となり、木となり、森となる。津軽のクラフト文化の成長。

『津軽森』というイベント名は「物と人、人と人が繋がる森」という意味から命名されたといいます。まさに名は体を表す、「毎年この公園でお気に入りの作家に会えるのが楽しみ」と語るお客さんのなんと多いこと。ところが、繋がるのはお客さんと作家だけではありません。全国から集まる作家たちの中には、会場に併設されたキャンプ場でテントや車に寝泊まりする人も多く、夜には大々的な交流会が行われ、親睦を深めるのだとか。ただ物を販売するだけでなく、物を媒体にコミュニケーションが生まれ、さらにそれが広がっていく……、イベントの理想的な姿がここにあります。

「自分たちがするのは、あくまで場を作ること」と語る武田氏。「ベストを目指したいと話したけれど、みんなのベストはそれぞれ個人差があって違う。だからもっと高いレベルを目指す人が出てくればそれでいいし、一緒に今の"緩さ"を楽しんでくれる人も大歓迎。個人的には、『津軽森』でやりたいことはかなり達成していると思うんです。これ以上を望むなら、別の場所で新しくやってもらう方がいい。そのときはどんどん『津軽森』を利用してもらえれば」と続けます。

20年前に『C-POINT』で芽吹いた津軽のクラフトの芽は、『津軽森』のみならず、たくさんのクラフトイベントが生まれるきっかけを作りました。今や県内のあちこちで大小さまざまなイベントが催されていますが、中でも代表的なのが、『津軽森』と並ぶ屈指の規模を誇る青森市の『A-line』と、昨年まで板柳町の遊歩道「アップルロード」で開催されていた『クラフト小径』。前者は『C-POINT』に出店していた作家とその仲間たちが立ち上げ、後者はあの安田夫妻がタイから帰国後に立ち上げたイベントです。そして昨年、安田夫妻により『クラフト小径』の終了と、『C-POINT』の復活が宣言されました。今年予定されていた開催は残念ながら1年延期となりましたが、来年は弘前市、青森市、鰺ヶ沢町という津軽の3エリアで、大規模なクラフトイベントが控えているのです。

小さな芽が20年を経て根を張り、枝を広げて木となるように、新しいクラフト文化が着々と育つ津軽。木々が集まり、森となるのももうすぐです。この森がどう成長し成熟していくのか。あなたも繋がりの輪に加わり、楽しみながら見守ってみてはいかがでしょう。

実行委員6名とサポーター10数名で活動する『津軽森』。出店者の選定も、幅広い年代の全員で行う。「雑多でいい、それが楽しい」と武田氏。(写真提供:津軽森実行委員会)

住所:弘前市大字百沢字東岩木山3168 (岩木山桜林公園) MAP
http://tsugarumori.com/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

津軽のアートの未来を担う美術館。場所に息づく100年の物語をひも解く。[TSUGARU Le Bon Marché・弘前れんが倉庫美術館/青森県弘前市]

取材当日、勤務中だったスタッフに集まってもらい記念撮影。この記事の主役は、彼らのような関係者、そしてこれまでこの場を作り育ててきた弘前の市民や文化人だ。

津軽ボンマルシェ市民に愛された「レンガ倉庫」の記憶を、美術館として継承する。

つい先日の7月11日、弘前市に新たなスポットがグランドオープンしました。本来は今年の春に開館予定だった『弘前れんが倉庫美術館』。新型コロナウイルスの影響で開館延期となり、6月のプレオープンを経てからの全面オープンは、津軽にとって明るいビッグニュースとなりました。印象的なのは、味のある赤色のレンガ造りの建物。完成したばかりにもかかわらず、昔からあるような落ち着いた佇まいで周囲に馴染む理由には、元々この場所が弘前市民から赤壁の「レンガ倉庫」と呼ばれ親しまれてきた歴史があります。

建築設計者は、次世代を担う若手建築家として、世界各国でプロジェクトを手掛ける田根剛氏。代表作の『エストニア国立博物館』では、旧ソ連時代の負の遺産であった軍用滑走路を美しい文化施設に生まれ変わらせ、国際的な評価を受けています。その土地に代々積もり重なってきた「場所の記憶」を掘り起こし、その精神性を未来へ繋げていく──。そんな田根氏の手法は、今回の『弘前れんが倉庫美術館』でも一番大切にされたことでした。たとえば、この建物のアイデンティティともいえるレンガ。温かみのある赤い外壁は残され、蛇腹状に積んだ新しいレンガ壁を付け加えることで、建物の顔となるエントランスのアーチが作られました。また、通常はいわゆるホワイトキューブ=白い立方体で構成される展示空間も、ここでは一部、白ではなく黒に。タールが塗られた黒い壁をあえて残し、美術館としては異色の“ブラックキューブ”をメインの展示室としています。

建物に残され、継承された「場所の記憶」。そのルーツは100年以上も前の明治・大正期まで遡ります。歴史を紐解くと現れるのが、りんごやシードルといった現代の津軽を象徴するキーワードの数々。そしてこの建物に関わってきたたくさんの人々の想いです。

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弘前市初の公立美術館。レンガ壁を保存すべきという田根氏の意志により、元々の壁に長さ9メートルの鋼棒(こうぼう)を打つ高度な耐震補強が施された。

美術館のシンボルが、シードルをイメージした“シードル・ゴールド”の屋根。1万3000枚もの特注チタン製プレートは、天気や時間によりさまざまな色合いに変化する。

田根氏により「弘前積みレンガ工法」と名付けられた独特なレンガ使いのエントランス。古いレンガ壁に合わせ、新しく付け加えた部分にもあえて色むらやゆがみを出した。

黒い壁と天井高が圧倒的な吹き抜けの展示室。奥はタイ出身ナウィン・ラワンチャイクンによる大型作品《いのっちへの手紙》2020年。手前は尹秀珍《Weapon》2003-2007年。

津軽ボンマルシェ津軽のものづくりの歴史の真っただ中に、この倉庫があった。

レンガ造りの建物が建てられる前、ここ弘前市吉野町はりんご園が広がる土地でした。今でこそ津軽の名産品であるりんごですが、当時は栽培が始まったばかり。園主の楠美冬次郎は、りんごの普及に努めたレジェンドとして知られています。その後、土地を譲り受けた実業家・福島藤助により、日本酒醸造のためのレンガ倉庫群が建設されたのは1910年代から1920年代にかけて。当時、最先端の技術や設備を備えた醸造所は県随一の製造量を誇ったそう。「この時代に一番頑丈とされた建材がレンガでしたが、費用も相当なもの。安価な木造にすればいいと止めた人もいたといわれています」。当時の逸話についてそう教えてくれたのは、現在美術館の運営統括を務める小杉在良氏。「それでも福島さんは『これは自分の子孫のために造るのではない。もし事業が失敗しても建物が残れば、街の将来のための遺産になる』といって聞き入れなかったそうです」。

関東大震災や太平洋戦争といった激動の時代を経て、レンガ倉庫に活気が戻ったのは1950年代。酒造会社の代表だった吉井勇が『朝日麦酒』(現アサヒビール)との連携により、日本初の大規模なシードル工場として操業を開始。りんご産業を活性化させ、地元に貢献したいとの想いから生まれた「朝日シードル」は、大きな話題を呼びました。1960年には『ニッカウヰスキー』にシードル事業が譲渡され、「ニッカウヰスキー弘前工場」として操業をスタート。しかし、1965年の工場の移転に伴い稼働が止められると、一時的に政府米の保管用倉庫に。長く“ものづくりの場”として認知されてきたこの場所には、静かな時間が流れるようになります。

街のシンボルであるレンガ倉庫に再びものづくりの火が灯ったのは、弘前市民の働きかけがきっかけでした。1980年代には美術家を中心としたグループにより、倉庫を美術館にする働きかけが起こるなど、その活用方法が議論され始めます。そして大きな転機となったのが2002年。弘前市出身の現代アーティスト、奈良美智氏による個展「IDON’T MIND,IF YOU FORGET ME.」の開催です。

福島藤助の時代に形成されたレンガ壁には、絶妙な趣が。当時はこの壁のため、専用のレンガ工場を建設。数年がかりで建物を作る、大がかりな事業だったといわれる。

受付スタッフの制服にも、津軽のものづくりの技術が。襟元には「弘前こぎん研究所」によるこぎん刺しのブローチ。胸元のロゴは市内の刺繍店「東北シシュー」が手掛けた。

エントランスに鎮座する奈良美智《A to Z Memorial Dog》2007年。 2006年の個展後、展覧会をサポートした地域のボランティアのために制作、奈良氏から弘前市に寄贈された。

運営統括の小杉氏。弘前大学在学中、奈良氏の個展の運営に参加したことがきっかけでNPO法人『harappa』メンバーに。その後も津軽のアートシーンに関わってきた。

津軽ボンマルシェ“奇跡の展覧会”が築いた、弘前のアートの地盤。

大型の美術展としては規格外のことだらけだったこの個展は、今も弘前で伝説的に語り継がれています。始まりは、レンガ倉庫を管理していた『吉井酒造』の社長(当時)・吉井千代子さんが書店で見かけた奈良美智氏の作品集でした。吉井さんと奈良氏の出会いにより、このレンガ倉庫で奈良氏の個展が開催されることが決まります。ゼロの状態からスタートを切った個展でしたが、吉井さんから相談を受けた青森県立美術館の学芸員(当時は準備室)や弘前大学の教授の働きかけにより、市の商工会議所や商店会が始動。ボランティアの市民で組織する実行委員会を立ち上げ、運営が行われました。蓋を開けてみれば、集まったボランティアの数は450人以上。当時の人口が17万人程度だった弘前市において、51日間の開催期間中5万8000人以上の入場客を集めたほか、公的な助成を受けずに運営され、展覧会は異例の成功をおさめたのです。

弘前のアートの灯を繋ぐべく翌年誕生したのが、アート系NPO法人『harappa』。その後も2005年の「From the Depth of My Drawer」展、2006年の「YOSHITOMO NARA + graf A to Z」展と2度に渡り奈良氏の個展の開催をサポートします。現職の前に『harappa』事務局員を務めていた小杉氏は「倉庫オーナー・吉井さんの活動から始まり、市民が関わって実現させた最初の展覧会では、美術専門家の参加はほんのひとにぎりでした。自分たちで作った新しいアートの場、そういう市民の想いがこの場所の根幹となり、今の『弘前れんが倉庫美術館』のスタートになったのだと思います」と語ります。

奈良氏の個展終了後も、展覧会や映画上映会、ワークショップなどを開催しつつ、活動を続けてきた『harappa』。美術館の開館準備期間には市民を巻き込んで「れんが倉庫部」なるグループを立ち上げ、レンガ倉庫の歴史やエピソードを探って成果展示を行いました。ちなみに以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した『蟻塚学建築設計事務所』の蟻塚学氏や、家具工房『イージーリビング』の葛西康人氏、『弘前シードル工房kimori』の高橋哲史氏は、家具やプロダクトの開発など、これまでさまざまな企画を共同で行っていますが、そのきっかけとなったのも『harappa』での出会いだったと聞いています。『harappa』は津軽のアートシーンのパイオニアとして、今もものづくりに関わる人々を支える組織となっています。

美術に関する書籍、展示に参加している作家の作品集のほか、津軽の歴史や文化について書かれた書籍が並ぶ美術館2階のライブラリー。どれも自由に閲覧が可能だ。

『CAFE & RESTAURANT BRICK』はシードル工房も併設。『弘前シードル工房kimori』や『ガルツ』、『もりやま園』などのさまざまなシードルの飲み比べもできる。

『CAFE & RESTAURANT BRICK』のテーマは、幅広い年代が集う“弘前のファミリーレストラン”。特別感のある料理を目当てに、ここを目指して訪れる市民も多い。

美術館のオリジナルグッズのほか、『ヨアケノアカリ』や『スノーハンドメイド』の雑貨、『岩木山の見えるぶどう畑』や『おぐら農園』のジュースなど津軽の良品を揃える。

カフェ併設の『A-FACTORY 弘前吉野町シードル工房』は、青森市『A-FACTORY』の2つめの醸造所。今後は順次ラインナップを増やしていく予定だそう。

津軽ボンマルシェ未来の弘前市民へバトンを繋ぐ。それがこの美術館の役割だから。

2015年に弘前市が買い取った「レンガ倉庫」は、2017年に市民のための芸術文化施設とされることが発表され、翌年には正式に『弘前れんが倉庫美術館』という名称が決定。ものづくりの場として受け継がれ、津軽にアートの火を灯し、数々のエポックメイキングな出来事とともに存在してきたこの場所は、田根氏の設計によってその記憶を宿したまま、未来へ開いた新たなスポットに生まれ変わりました。

「実際に人が入ると館内の雰囲気が明るくなって、建物に息が吹き込まれたような感覚に。『初めて来たのに懐かしい』、そんな感想も多くいただきます」と感慨深く話すのは、広報の大澤美菜さん。“不要不急”が叫ばれた新型コロナ渦では、「美術には何の意味があるのか」を問う日々だったと語ります。6月頭から弘前市民のみを対象とするプレオープンを決めた際も、万人に開かれるべき美術館という場で対象を制限することに、スタッフ内で議論が起こったそう。「でも、ずっとこの建物に向き合ってきた田根さんから『市民のための美術館でもあるので、まず市民から観ていただきましょう』と言っていただき、少しホッとしました」と小杉氏。「オープンしてみたら、みなさんが美術館の完成を自分ごとのように喜んでくれて。とてもうれしかったです」と続けます。

開館を記念した最初の展覧会のタイトルは「Thank You Memory ―醸造から創造へ―」。建築同様、記憶の継承に焦点をあてたこの企画には、弘前市民が制作に協力した作品や、倉庫に残されていた古い建具や資材を取り入れた作品、倉庫の改修工事の過程を記録した作品など、8人のアーティストと弘前の街のさまざまな要素が交錯します。吹き抜けの展示室にあるナウィン・ラワンチャイクン氏の作品《いのっちへの手紙》は、弘前のねぷたを模した全長13メートルの扇形の大型絵画。登場人物は過去と現在の弘前市民たちです。りんごの普及に努めた楠美冬次郎やレンガ倉庫を建てた福島藤助、シードル造りを始めた『吉井酒造』の人々……。「ここは彼らのように、私利私欲よりも人のためを想い、行動した人たちが作り上げた場所なんです」と小杉氏。「開館を延期中、ドイツのメルケル首相が『新型コロナ禍でも多彩な文化が存在し続けることが大事』と話しているのを見て、それこそが我々の役割なのだと。ちょうどこの建物ができた頃も、スペイン風邪が大流行した時代でしたが、バトンは今に繋がっている。それを途絶えさせないようにしていきたいと思います」。

今から100年前、ここが津軽の芸術文化の中心地となると予想できた人はいなかったでしょう。歴史をたどると、静かに積もり重なった多くの人々の想いが、美術館の実現を引き寄せたようにも思えます。さて、あなたがここに立つときは、どんな想いに包まれるでしょうか。そのとき、あなたもまた弘前の時間軸、土地の記憶の一部となり、未来を作る一部となるのです。

畠山直哉×服部一成《Thank You Memory》2020年の一部。コラージュされた田根氏のスケッチには、この建築の目指す姿が「MORE HISTORY」と表現されている。

「ここには、誰でも気軽に入れる緑地やライブラリーもあります。刺激を受ける場、クリエーションの場として使っていただけたら」と広報の大澤美菜さん。

ショップでは奈良美智氏のグッズも期間限定で販売、人気を博す。過去に3度個展を開いたこの場所と奈良氏の繋がりは、やはり特別なもの。

住所:青森県弘前市吉野町2-1 MAP
電話:0172-32-8950
https://www.hirosaki-moca.jp/
※開館記念プログラム「Thank You Memory ―醸造から創造へ―」は2020年9月22日までの開催。

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

“ヨソモノ”店主が営む津軽のカフェが、住宅街の拠り所となるまで。[TSUGARU Le Bon Marché・Coffeeshop Hachicafe/青森県弘前市]

13年前、県外から弘前に移住した店主の佐藤智子さん。好きだったコーヒーを生業とすることを決め、『Coffeeshop Hachicafe』をオープンさせた。

津軽ボンマルシェ目指した人だけが辿り着く? 住宅街に佇む、赤壁の北欧風カフェ。

その店があるのは、津軽エリアの中心・弘前市の繁華街から車で10分以上かかる場所。周囲には鉄道の駅もなく、正直アクセスがいいとはいえません。取材当日も、送ってくれたタクシー運転手の方が「本当にこんなところにカフェがあるの!?」と驚いたほど。そう、わざわざここに来ることを目的にしないと辿り着けない店、それが今回ご紹介する『Coffeeshop Hachicafe』。スウェーデンやフィンランドの伝統家屋のような赤い壁と三角屋根がトレードマークです。

静かな店内は、席数も少なめでゆったり。テーブル、カウンター、隠れ家のような店内奥の個室のほか、円卓が置かれた小上がり席も。さらには、さりげなくリクライニングチェアがあったり、子どもが座ってお絵かきできる小さなテーブルセットがあったり。さまざまな工夫からは、“おひとりさまもグループも、年齢問わず大歓迎。どうぞ長居してください!”、そんな店の姿勢が見てとれるようです。「この店の店主は、きっと気配り上手に違いない」。その予感は、付かず離れずの接客が心地よい店主・佐藤智子さんと話し、すぐに確信に変わりました。

以前は、まさか自分がカフェ店主になるとは思ってもみなかったという佐藤さん。秋田県秋田市の出身で、結婚を機に夫の故郷である弘前市へ移住してきたという過去があります。「ちょうどこっちへ来た頃は、色々と大変で。秋田の父が亡くなったり、子どもを授かったりが重なったうえ、なかなかこちらの生活に馴染めず体調を崩してしまいました。鬱々としていたとき、夫が『好きなことをやってみたら?』といってくれたんです」。元々、カフェ巡りをするほどのコーヒー好き。奇しくも、移住してきた弘前は知る人ぞ知る“コーヒーの街”でした。以前「津軽ボンマルシェ」で紹介したコーヒー焙煎所『白神焙煎舎』の代表、成田志穂さんの父である成田専蔵氏は弘前のコーヒー文化の担い手で、『弘前コーヒースクール』を主宰する人物。そして佐藤さんが夫から「通ってみたら?」と紹介された場所も、このスクールだったのです。『弘前コーヒースクール』に通い始めたことで、佐藤さんの人生は再び動き出しました。そしてその後、多くの人を支える場所が生まれるきっかけとなったのでした。

コーヒーを学ぶうち、佐藤さんはいつしか前向きな気持ちになっていることに気付いたといいます。「いつか自分もコーヒーにまつわる仕事がしたい。そう考えていたら、ちょっと破天荒な夫が、業務用のエスプレッソマシンを買ってきて(笑)。水道工事までして繋いでくれたんです。飲料関係の仕事をしているから、組み立てもメンテナンスもお手の物。私の精神状態を見て、なんとか励ましたかったんでしょうね。開業もぐいぐい後押ししてくれました」。開業場所は、自宅の敷地内。家族の応援もあり、住宅ローンを組んでカフェ用の一軒家を新築しました。スクール卒業後は、市内の喫茶店のアルバイトとして働き勉強した佐藤さんは、2014年11月、晴れて『Coffeeshop Hachicafe』をオープンさせます。

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住宅街に突然現れる、かわいい北欧風の一軒家。家族のサポートを受けながら自宅の敷地内に作り上げた、佐藤さんの理想の空間だ。

カフェ巡りの経験を活かし工夫を凝らした店内。「隣の人が近いと落ち着かないから」と、席の間隔は相当広め。自分の居心地のいい場所を見つけるのも楽しみに。

注文が入ってから豆を挽き、ネルドリップでゆっくり抽出。佐藤さんのコーヒーの味にほれ込み通う常連客も多い。

コーヒーは充実のラインナップ。佐藤さんの故郷である秋田市の名店『08COFFEE』による「Hachicafe ブレンド」450円など、9種ほどが揃う。

津軽ボンマルシェ「仕方なく」津軽へ。世間の“移住者”とのイメージギャップ。

実は「津軽ボンマルシェ」取材チームが佐藤さんの存在を知ったのは、これまで何度も記事に登場してもらっている弘前の人気店『パン屋といとい』の成田志乃さんから、「おもしろいイベントをやっているカフェがありますよ」と聞いたのが始まり。「『ヨソモノカフェ』というイベントで、テーマの視点がすばらしいんです」と成田さん。“よそ者”というインパクトの強い言葉を冠したこのイベントこそ、個人営業の街はずれのカフェが多くの人の拠り所となる所以。この記事の本題でもあります。

イベントの発端は2017年頃。佐藤さんと、店の常連客であり、現在共に「ヨソモノカフェ」を主催する増田華子さんとの会話からでした。増田さんは北海道出身。同じく道産子の夫の仕事の関係で弘前に移り住んだ経歴を持つ移住者です。「一般的に移住者というと、自らその場所を選び、目的を作って前向きに移り住むイメージがあると思うんです。でも増田さんも私も、自分で望んで弘前に来た訳ではなくて。ずっと悶々としていたけれど、増田さんと移住当時の苦労話をしていたら、『あ、自分の落としどころはこれだ』と気付きました。転勤とか結婚とか、私たちみたいな理由で仕方なく移住した人も結構いる。そういう人が集まって何でも話せる場所を作りたい、店でイベントをやりたいと、増田さんに声を掛けたんです」と佐藤さん。

ちなみに佐藤さんが移住したとき、もっとも悩んだのは言葉の問題。ご存知の通り津軽地方の共通言語は津軽弁で、年齢や地域によっては、県外からの訪問者の理解がほとんど追いつかないほど強い方言が残っています。隣県秋田生まれの佐藤さんでも当時は「ほぼ異国」状態。家族の会話についていけない、アルバイト先で仕事内容を説明されても分からない……。「弱音を吐いたら津軽に嫁に来る覚悟がないと思われる、何度聞いても理解できない自分がだめなんだと、絶望感満載でした」と佐藤さん。「自分は夫も同郷だから、夫婦で悩みを共有できた」という増田さんも「でも実際は、夫が津軽人だから悩みを伝えられない、友人も作れないという人が多いことに気付いて。だから佐藤さんがイベントに誘ってくれたときは、すぐ乗りました」と話します。

「ヨソモノ」という言葉選びは、増田さんの発案。「周りからそう思われている自覚があったから」と笑います。これを「逆にインパクトがあっていいと思った」と佐藤さん。「私たちは世間が考える“移住者”じゃない、所詮はヨソモノだって想いを共有していたから。自虐ですよね(笑)。そうそう、開催前に地域のニュース媒体に取り上げていただいたとき、コメント欄に『イベント名がマイナスイメージで嫌』って書かれていたんです。でもそれを見たとき、不思議と『しめしめ……』ってわくわくしちゃって。同じ想いを持つ人だけ来てもらえればいいイベントですから」と続けます。こうして2018年、初めての「ヨソモノカフェ」が開催されました。

増田華子さん(左)と佐藤さん。話上手な増田さんは、イベントのムードメーカー。津軽エリアの情報を紹介するサイト『いるへぼん雑貨店』も運営する。

現在、フードメニューはパンメニューなどの軽食と、チーズケーキなどの定番ケーキがメイン。この日は市内の焼き菓子店『スロウ』のマフィンも入荷。

店内の物販コーナーでは、『08COFFEE』のコーヒー豆や青森市『コノハト茶葉店』の紅茶、こぎん刺し雑貨などを販売。ちょっとした手土産に人気。

カフェ内装は、ディスプレイなども手掛ける弘前市内の『古道具ミヤマコ』が手掛けた。ちょっと気になるおしゃれな調度品もあちこちに。

津軽ボンマルシェ「大丈夫、弘前を好きになれるよ」。悩みを共有して、そう伝えたい。

初回の「ヨソモノカフェ」はまさに手探り状態。通常営業をしながら、店の小上がりスペースのみを参加者の語らいの場として設定しました。が、蓋を開けてみれば、お客さんが絶えない盛況ぶり。「話がしたい“ヨソモノ”さんはたくさんいる」。二人はそう確信します。2回目は、初回の反省をふまえて内容を更新。店は貸し切り営業にし、それまでUターン経験者などもOKだった参加条件を“ヨソモノ=県外出身者であること”に変更。参加者には好きな席で自由に過ごしてもらいました。「やっぱり、地元の人がいると話しづらいこともあるんです。『弘前に来たとき辛かったよね』、『本当は来たくなかったよね』と、そこまで話して発散できる場所にしたかったから」と増田さんは話します。

やがて認知も広まり、参加者が増えていった「ヨソモノカフェ」。しかし同時に、近隣の地元民から反発の声があがることもあったそう。「自分たちを締め出し悪口をいっているんだろうと思われて。後は『困っているなら、なんでも地元の人に聞いてくれればいいのに』ともいわれました。でも私たちヨソモノは、答えよりも共感が欲しいんです。自分だけじゃないと思えることが大事」と増田さん。佐藤さんは、「ネガティブな意見は想定内。とにかく回を重ねなければと、不思議な自信がありました」といいます。「これは悪口大会ではないから。同じ立場の人に自分たちの経験を話して、大丈夫だよ、弘前を好きになれるよといいたいんです。今なら、長く住んだから分かる弘前のよさも伝えられる。ここで話して明日から前向きになれたら、とてもいいことですよね」。

イベントを続けて丸2年。最近では地元客から「楽しそうでうらやましい」、「Uターン者版もぜひ」といった声も。「でも私たちは地元出身でもUターンでもないから、それはできなくて。単なる賑やかしでやっても、絶対に続かないし」と増田さん。多くのヨソモノさんたちが信頼し、今も安心して通い続けているのは、当事者目線を何よりも大切にするふたりの信念があってこそ。世間一般のイメージや行政のサポートからはこぼれ落ちてしまう、いうなれば“消極的移住者”である県外出身者の存在をすくい出す「ヨソモノカフェ」。この活動は私たちに、ひとくくりにされがちな移住者の多様性を気付かせてくれます。

久しぶりの開催となった今年6月の「ヨソモノカフェ」当日、初参加という20代の女性の言葉が印象に残りました。「結婚を機に移住して、こっちで頼れる人はパートナーだけ。普段から、弘前で通える“拠り所”のような場所を探していたんです」。イベント終了間際、その日知り合った“ヨソモノ仲間”と連絡先を交換し、「家、近いね!」と一緒に帰っていきました。拠り所と友を得た今、「津軽の自然はすごい。これから色々な場所を開拓したいです」と話してくれた彼女のこと、新たな地元・津軽の魅力をたくさん発見していくに違いありません。

取材当日は、新型コロナによる緊急事態宣言が解除され、久々に開催された「ヨソモノカフェ」の日。楽しみ待っていたヨソモノさんが、マスク姿で続々と集まった。

ヨソモノさんで満席の店内。参加3回目という女性が「移住当時は専業主婦。気候や言葉の違いに悩みましたが、ここでやっと同年代の友人ができました」と話してくれた。

明るく話上手な増田さんが場を盛り上げる。この日は初参加の人も5名いたが、それを感じさせないほど、にぎやかでアットホームな席に。とにかくみんな楽しそう。

津軽ボンマルシェオープンから5年。ヨソモノにとっても地元民にとっても、かけがえのない場所に。

「ヨソモノカフェ」開催時はフードメニューも絞り、なるべくお客さんとコミュニケーションを取る佐藤さん。「通常営業時と違い、私もお客さんと対等のヨソモノになれる。このイベントは自分が欲しかった場所、なくてはならないアイデンティティのような場所でもあるんです」と語ります。しかし現在「ヨソモノカフェ」が開催されるのは2~3ヵ月に一日程度。それ以外の通常営業の『Coffeeshop Hachicafe』は、佐藤さんにとってどんな存在なのでしょうか。

「もはや生活の一部だから、こうありたいとかこうでなきゃというのが、あまりないんです」。一見無欲にも思える佐藤さんの返事。が、そこに至るまでには5年以上の年月を要しました。元々器用ではなく、細かなことが気になり、臨機応変に立ち回るのが苦手な気質の佐藤さんは、無理がたたって倒れたことも数度。「最初は万人に喜ばれる店にしなきゃと必死でした。自分のキャパを超えてもすぐ気付かず、二度三度ダウンして初めて理解して。そこから自分に負荷をかけないよう、少しずつ改善しながらやってきました。やっぱり原点はコーヒー。それを柱にして、フードメニューも数を減らして厳選しました。ようやく最近、無理せず美味しいものを出せるようになった気がします」。そんな佐藤さんの言葉を受け、増田さんが続けます。「佐藤さんのコーヒーは、何か盛られているわけじゃない、見た目も普通の一杯でしょう。でも彼女のコーヒーの美味しさと想いは、きちんとお客さんに届いてるんです。出入りの業者さんが仕事を辞めた後も来てくれたり、体調不良で休む時期があっても、待っているお客さんがたくさんいたり。やれることをやってきた結果、普段から地元の方とヨソモノさん両方が来てくれる、地域に根差した店になっている。だからこそ、ああいうイベントが続けられるんですよ」。

話を聞いて思い出したのは、イベント時に参加者から聞いた「拠り所」という言葉でした。人に言えない悩みがあること。その悩みを抱えてしまうこと。精神的、体力的に揺らぎやすいこと。きっと多くの人が感じ、でも声高にいえないようなあれこれを、店主とお客さんが互いに認め合い開放できる拠り所、それが『Coffeeshop Hachicafe』なのです。

ヨソモノの佐藤さんが、新天地・弘前でもがきながら作り上げてきた住宅街のカフェは、今や街にとってかけがえのない場所となりました。店は今日も、そんなストーリーをひっそりと隠しながら、ただただ美味しいコーヒーを提供し続けることでしょう。

コーヒーと並んで人気のメニューは「ガトーショコラ」と「ベイクドチーズケーキ」。「ここに来たらこれがある、そんな安心感のあるメニューに」と佐藤さん。

「『ヨソモノカフェ』でうれしいのは、午前中から夕方までいてくれる人が多いこと」とふたり。「自分たちが無理のない範囲でできるように」と、開催は3ヵ月に一度ほど。

「夫の後押しや増田さんとの出会いがなければ、店は始められなかった。色々なご縁に感謝したい」と佐藤さん。店にはときどき、夫や子どもたちも顔をのぞかせる。

住所:青森県弘前市藤代2-14-5 MAP
電話:0172-35-3873
https://www.instagram.com/hachicafe/
※営業日や「ヨソモノカフェ」開催日についてはInstagramを参照

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ずっと変わらぬ思いで、江戸時代からの文化とともに、伝統の手仕事を受け継ぐ。[TSUGARU Le Bon Marché・御菓子司 大阪屋/青森県弘前市]

大阪屋の13代目・福井清氏。仕込みの際は凛とした職人の風格を漂わせながらも穏やかな物腰で、菓子にもその人柄が表れている。

津軽ボンマルシェたくさんの菓子屋が軒を連ねる城下町、弘前。

城下町と呼ばれるところには、昔ながらの和菓子屋が変わらぬ姿で残っていることがよくありますが、ここ弘前もそんな町のひとつです。城あるところ、銘菓あり。今や弘前はお菓子の町と言ってもいいくらいに、古き良き素朴な餅菓子を売る和菓子店はもちろんのこと、津軽のりんごをふんだんに使ったモダンなアップルパイを出すパティスリーまで、新旧、和洋、様々なタイプの店が、町中に無数にひしめいています。それでいて、どの店にもさり気ない中に個性があり、それぞれの良さが感じられるのです。弘前城の裏鬼門といわれる南西方向には、全国的にも珍しい、禅林街と呼ばれる33もの寺院が一同に集まるエリアがあり、そういったことも弘前の菓子文化が発達したひとつの所以ではないのでしょうか。お菓子好きにとっては、これ以上ワクワクする場所もなかなかありません。

寛永7年(1630年)に創業した、東北でも特に古い歴史を持つ『御菓子司 大阪屋』は、そんな弘前という町を代表する和菓子店のひとつ。弘前城のある弘前公園から、徒歩4、5分のところにある店は、蔵造りの風格ある門構えが老舗の重みを感じさせます。
店には、冠婚葬祭や様々な行事のおつかいものにと由緒ある菓子を求める客がいる一方で、日常のおやつとして、気軽に1個、2個と買いに来る、ご近所さんもいます。以前に紹介した『カネタ玉田酒造店』の玉田宏造氏も御用達だそうで、「歴史を感じるどっしりとした店構えで、弘前を代表する大店です。全てにおいて感嘆するばかり」と称賛しています。弘前の和菓子文化の重鎮的存在ともいえるこの店から、一体どんなお菓子が生まれてきたのでしょうか。

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店舗外観。弘前には古い建物が多く残り、町歩きが楽しい。『大阪屋』は昭和28(1953)年頃の建築で、弘前市の「趣のある建物」に認定されている。

店内の漆塗りのカウンターも建物ができた当時のまま。奥の壁をよく見ると、青森出身の板画家、棟方志功の直筆画がさりげなく飾られている。

息を呑むような繊細な模様が美しい螺鈿(らでん)細工の引き出しは、もともと津軽藩へお菓子を納める為に使われた「飾り蒸篭」だったものをリメイクしたという。

津軽家の牡丹の家紋が刻まれた引き出しの中には、お菓子が大切に仕舞われており、客から注文があると、ここから取り出す。

ショーケースに並ぶ上生菓子は季節で変わる。器は陶芸家・河井寛次郎の弟子でもあった、弘前出身の陶芸家・高橋一智の作品を使っている。

津軽ボンマルシェ京都で修業し、300年を超える伝統の技を受け継ぐ。

言い伝えによると、『大阪屋』の先祖はかつて豊臣家の家臣だったそうで、大坂夏の陣、冬の陣に敗れた際に、縁を辿って弘前までやってきました。その後は津軽藩2代目藩主・津軽信枚(のぶひら)の命で、藩御用達の菓子司として仕えたといわれます。初代・福井三郎右衛門から現在までのおよそ390年、その味と技は受け継がれています。

13代目として生まれた福井清氏は、子供の頃から菓子作りの現場を身近に見て育ちました。
「昔から甘いものは大好きでしたよ。子供の頃は、羊羹の切れ端をよくもらって食べていました。枠に流して固めた羊羹を切るときに、両サイドから細い切れ端が出るんですね。それをたくさんまとめて厚くしてパクッと。味は一緒ですからね」と笑いながら話してくれます。小さな頃から祖父母には「おめえはここを継ぐんだよ」と耳にタコができるほど言われていたそうですが、実際にお菓子を作ったのは、大学を卒業し、修業に出てから。4年間修業した、京都の老舗『亀屋清永』でのことです。
「私らの時代は丁稚奉公で、“昔は見て覚えろ”の世界。『菓子屋のせがれが餡玉(練り切りなどの芯になる部分、和菓子のベース)も作れないのか!』なんて怒られましたが、本当に何にも知らなくてね。1度に200、300とたくさん作るんですけど、均一の大きさでつるっときれいに丸くならないといけない。時間はかかるわ、凸凹になってしまうわで、何度も『やり直し!』と叱られて。だから、人が見ていないところで必死に練習しました。でも作ることは基本的に嫌いじゃなく、苦ではなかったですね。むしろ、お菓子作りは性に合っていたのか、楽しかったですよ。修業先の旦那さんには本当に良くして頂き、感謝しています」

京都では様々な経験をさせてもらったことが良い思い出として残っている、という福井氏。菓子だけに偏らず、幅広くいろんなものの世界を見ることで勉強させてもらったそう。例えば着物の新作発表会に出かければ、その絵柄や図案が、菓子作りのアイデアのヒントとして役立ったのだそうです。祇園の祭りに参加したり、神社の手伝いをしたり、京都の文化を肌で感じることも多く経験しました。それらの学びは、『大阪屋』の菓子に通じるどこか優美で気品ある風情と、芯の強い職人気質なものづくりのベースとなっているのかもしれません。

江戸時代の菓子の図案帖がいくつか残っており、今見てもそのデザインの美しさに圧倒される。「昔の職人は絵心もないといけない。大したもんだと思います」と福井氏。

1m以上ある巨大な鯉の菓子型。「これで菓子を作るときは落雁の下に雷おこしのような生地を敷いて壊れないようにしたのではないか」とのこと。

床に模様のように埋め込まれているのは、かつて使われていた石臼。昔は砂糖も藩から氷砂糖で支給され、自分たちで臼を挽いて上白糖にしていたという。

津軽ボンマルシェ江戸時代の伝統菓子を今に伝える「竹流し」と「冬夏」。

元は砂糖蔵だったという建物を改装し、現在は菓子作りの工房として活用している『大阪屋』。中へ入ると数人の職人たちが黙々と作業を行なっていました。この日作られていたのは、『大阪屋』を代表する銘菓の一つといわれる「竹流し」。薄く繊細な短冊状で、パリパリとした軽い食感、噛むほどにふわりと蕎麦粉の香ばしい風味が感じられる上品な味わいの焼き菓子です。その名の由来は、4代目の福井三郎右衛門包純(かねずみ)が、いまはなき西目屋村の金属鉱山・尾太(おっぷ)鉱山で行われていた、青竹の節に金を流す様子からヒントを得て創作したといわれます。うっすらと焦げ目の付いたベージュの焼き色は、磨く前のくすんだ金の姿を表しているとか。時の津軽藩主へ献上し、大変喜ばれたと伝えられており、この土地らしい歴史を感じさせます。

「竹流しは、実は一番手間のかかるお菓子なんです」と福井氏。材料は小麦粉と砂糖蜜、そして蕎麦粉だけ。ごく限られた材料だけに職人の腕が頼り。作り方は昔からほとんど変わっていません。
「西目屋は古くから蕎麦の産地で、昔の菓子屋は蕎麦も打って藩に献上していたそうです。めん棒一つでなんでも作るんですね。でも蕎麦粉と砂糖蜜をこね、めん棒で伸ばして竹流しを作ろうとしても、なかなかうまくいかなかった。4代目は随分と研究したようです。そこで小麦粉を入れて薄く伸ばし、最後に蕎麦粉を手粉で振って焼くことで良い香りを出しています」
伸ばした生地は小さな短冊状に切りそろえ、鉄板に並べてオーブンで焼きます。この作業がまた気を抜けません。薄い生地はあっという間に焼けていきますから、オーブンからいっときも目を離さず、火加減とにらめっこしながら、一番いいタイミングで火から下ろすのです。季節、天候や生地の状態によって焼き具合は変わってくるし、オーブンの癖もあるため、毎回一斉に焼きあがるわけではありません。鉄板にずらりと並んだ短冊生地から、ちょうど良く焼けた順に、微妙な時間差で1枚1枚選び取っているのです。職人の経験と勘がものをいう作業だからこそ、機械化が難しいのです。
「焦げ過ぎや、焼きむらのあるものは商品にできないので外すのですが、実はこのちょっと焦げ過ぎのものも結構おいしいんですよ。外には出回らない、職人だけのおやつです」と手渡してくれたのは焦げ目の付いた熱々の一枚。パリッとかじってみると、焼きたて独特のコクと深い香ばしさに包まれ、確かにこれはついつい手が伸びてしまいそうです。

江戸時代の技術を引き継いでいる菓子のもう一つに、「冬夏(とうか)」があります。名前の由来は、大坂夏・冬の陣で戦に敗れたことを忘れてはならない、という戒めの意味があるとか。和三盆に包まれた繭のような形をしており、ほんのり甘くサクッとした食感の軽焼で、かつて4代目が江戸で習い、覚えてきた菓子だそうです。当時は全国的に流行っていたらしいのですが、何分長い時間と手間を要する製法のため、現在作っている店もごく僅かで、ほとんど廃れてしまったといいます。
「だいたい出来上がるまで3〜5ヶ月くらいかかります。餅米に砂糖を入れたタネを仕込んでから数ヶ月かけて乾燥させ、じっくり熟成させる必要があるのです。タネを作ってすぐ焼くと、中がスカスカのがらんどうになってしまうんです。時間をかけて良い具合に乾燥させたものは、中がみっしり詰まって、ふわふわの心地よい食感になります」
その年の気候や米の品質、熟成具合でタネの様子が変わるので、ひとつは失敗してもいいよう1回につきふたつのタネを仕込まないといけません。福井氏は子供の頃、冬夏の失敗作を離乳食にして食べていたという、思い出があるそうです。

「手間のかかる菓子ですが、作り続けていかないと職人の腕が衰えてしまう。ご先祖様が習い覚えてきた技術を途絶えさせたくはありません。私たちが続けていくことで、江戸時代から伝わる和菓子の文化に少しでも興味を持ってもらえれば」と控えめな口調ながら、思いを込めて語ってくれました。

竹流しの生地をめん棒で伸ばす作業は、この道40年以上のベテランである職長の米谷繁則氏が行う。均一で繊細な厚みは、覚えた指の感覚で調整しているのだとか。

オーブンの中で、ほんのりと焦げ目が付き始めた竹流し。オーブンのない時代は直接火を焚いて作っていたため、夏場は暑くて大変だったという。

竹流し作りは段取りよく手早い作業が求められるため、スタッフのチームワークが重要。焼きあがったら熱いうちに木の重しで軽く押して平たく整え、どんどん木箱に詰める。

ずらりと並んだ竹流し。商品は一つの箱に60枚くらいが、きっちりと隙間なく詰められた状態で入っている。

津軽ボンマルシェ目新しさでなく、他では真似できない唯一無二を追求。

2019年11月より翌年3月まで、弘前市誕生130周年記念として、市立博物館で「殿さまのくらし―五感で味わう大名文化―」という企画展が行われました。実は弘前藩9代目藩主、津軽寧親(やすちか)は菓子に関心が高く、本人お手製の菓子を周りに振る舞っていた、という記録もあるそうで、藩主と菓子の関わりが紹介されました。福井氏も、江戸時代の菓子の再現や、その解説を行うために登壇するなど、この企画に協力したそうです。
「殿様がカステラや饅頭を作って配っていたそうなんですが、昔のカステラの配合表を見ると、今のようにしっとりしていなくて、パンみたいに硬いんです。この時代の菓子文化を改めて深く知ることができて、私もすごくいい勉強になりました。大勢の人の前で話をするのは、どうなることかと冷や汗をかきましたがね」

時に古い時代の菓子を復元することはあるけれど、『大阪屋』では新商品と呼ばれるような目新しい菓子はそうそう作りません。見ればホッとするような、馴染みの菓子が店に並び、ずっと変わらない様子が、『大阪屋』らしい魅力でもあります。それらはシンプルな素材で一見地味ですが、伝統を受け継ぎ、昔ながらの手法で、職人の丁寧な手仕事が細部まで行き届いた、他では食べられない唯一無二の菓子なのです。竹流しや冬夏は、かつては代々跡を継ぐ長男だけに製法を伝えられる秘伝だったそうですが、現在は若いスタッフの誰にでも作り方を教えているとのこと。伝統の味を次の時代へ残していくためにはそうする必要があるという福井氏の思いがあります。
「新しいものを作るのも手だとは思うのですが、菓子屋には、その店の味というものがありますので、私たちは長く受け継がれてきたうちの味を大切にしたいのです。お客さんには『おいしかった』とか、『綺麗だね』と言われたら、もうそれだけで十分に嬉しい。割と単純ですよ。いつもご先祖様に感謝して、この店を守り、地道に続けていくことで、和菓子業界に少しでも貢献できればありがたいと思っています」
終始穏やかな優しい口調で話す福井氏。しかし、そこにはお菓子への深い愛情と職人の誇り、そして先人への感謝の気持ちが一言一言に深く重く滲み出ていました。

竹流し(手前)と冬夏(奥)。弘前を代表する伝統的な和菓子として知られ、観光客も多く買いにくる。お茶はもちろん、コーヒーやお酒にも合う。

笑顔の福井氏。時代劇の好きだった祖母の影響で、子供の頃から神社仏閣や古いものが好きで、和菓子の歴史を辿ることもその延長だという。

住所:青森県弘前市本町20  MAP
電話:0172-32-6191

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コロナ禍によって見えてきた人類と自然の断絶。再び地球は蘇る。

今回の取材場所は「SHIBUYA SKY」。地上229mの所から見える景色からも「街や環境の微細な変化を感じますね」と石川直樹氏。

石川直樹 インタビュー悪いことばかりではなかった。立ち止まって向き合えた思考の広がり。

世界的にロックダウンや自粛を余儀なくされた数ヵ月間、様々なことが一変してしまいました。

そんな中、「悪いことばかりではなかった」と語るのは、写真家の石川直樹氏です。写真家として作品を発表し続けてきましたが、登山家、冒険家、作家など、ひとつの肩書きに留まらない横断的な活動をしています。

「今回のコロナ禍によって国内やブラジルのサンパウロで行う予定だった写真展、パキスタンへのヒマラヤ遠征など、全て延期になりました。これまで1年の大半を旅に費やしてきた自分にとって、こんなに長い間、同じ場所(東京の自宅)にいるのは初めてかもしれません。でも、これまでずっと振り返らずに走り続けてきたので、改めて自分自身と向き合い、色々なことを考え直す時間にもなりましたね」と石川氏。

一日は24時間、一年は365日。当然、アウトプットが増えればインプットは減ってしまいます。国内外を旅し、移動に次ぐ移動をしていると、先のことを「考える」にはちょうどいい時間になりますが、振り返って「考え直す」時間にはなりにくいのかもしれません。

「旅をすることはできませんが、映画を観たり本を読んだりして想像力の旅に出ることはできる。頭の中でイメージを巡らせ、今まで到達することのできなかった目的地に意識を飛ばし、ひとところにいながら新しいこと、今までやれなかったことに着手することができました」と石川氏は語ります。

読書による想像力の旅は、石川氏の原点でもあります。幼少期に通った学校は電車で約30分の場所にあり、手にはいつも本を持っていました。そのタイトルは、『トム・ソーヤーの冒険』、『ロビンソン・クルーソー』、『十五少年漂流記』など、冒険をテーマにしたものばかり。

石川氏は「通学中に本を読む時間が僕にとって旅の始まりでした」と言います。同時に「実際に移動し、旅をすることがどれだけ自分にとって大切なことかも改めて認識することができました」と話します。

活動は止まってしまっても、思考は止めない。

ネガティブなニュースや悄然(しょうぜん)とする記事がはびこる社会ではありますが、己との向き合い方や視点次第で、日常が戻ってきた時に備え、未来を描くことはできるのです。

そして、石川氏の活動の場でもある山など自然環境は、この時間をどう生きているのでしょうか。

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「自分にとって富士山は“見る山”ではなく“登る山”」。登るからこそ、その都度、新しい世界と出合うことができるのだという。

2009年に出版された石川氏にとって初の写真絵本「富士山にのぼる」。2020年に8ページを追加した増補版をアリス館より刊行。

石川直樹 インタビュー日本が誇る名峰・富士山は、孤独を得たことによって本来の姿を取り戻す。

世界中を旅する石川氏は、日本の中で特別な場所がいくつかあるといいます。そのひとつが「富士山」です。

「富士山は、これまで30回以上は登頂したと思います。富士山は“見る山”だと言う方もいますが、僕にとっては完全に“登る山”ですね」と石川氏。

その価値観は、石川氏の写真絵本「富士山にのぼる」のタイトルが物語っています。

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「みんながしっている富士山。とおくから何度も見ていた富士山。でも、そこに登れば、かならず、新しい世界にであうことができる。見なれた姿の中に知らないことがたくさんあることに、ぼくは気がついた」と。
それは富士山にのぼることにとどまらない、人生の真実を伝える言葉だ。
この絵本を通して、一歩、一歩、読者にも、前に進んでほしいと著者は願う。
どんな事でも、一歩、一歩、足を前に出すことしか、たどり着く方法はない。
この絵本は未来へ歩きだす子どもたちに差し出された、力強いバトンである。
(写真絵本「富士山にのぼる」作品紹介より抜粋)
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そんな富士山は、コロナ禍によって夏のシーズンは全ての登山道が閉鎖。人間との関係が遮断され、ゆったりした時間が流れています。

「富士山の全道閉鎖は、僕の知る限り初めてのことです。大勢の登山者によって絶えず登山道は踏まれ続け、どんなにその山が野生の力を備えていてもダメージは少しずつ蓄積されていきます。富士山のような人気のある山は特にそうでしょう。でも、これほどまで人が立ち入らない期間が長いと、富士山の自然はある程度再生されるはず。2021年の夏はよりいっそう鮮やかな自然に触れられるのでは」と石川氏は話します。

石川氏同様、富士山にとっても「悪いことばかりではなかった」のかもしれません。

「登山者のいないこの数ヵ月によって、自然環境は野生を取り戻すきっかけになったと思います」と石川氏。

例えば、大気汚染の度合いの変化が挙げられます。
ネパールの首都カトマンドゥから世界最高峰のエベレストが近代史上初めて目視できるようになったことは、その好例でした。

「ネパールは深刻な大気汚染に悩まされていて、中でも首都のカトマンドゥの公害はひどい。舗装されていない道から舞い上がる砂埃は、瞬きするだけで涙が出ることも。ゴミが原因のダスト公害や排気ガスなど、環境問題が深刻なカトマンドゥで、ヒマラヤ山脈の白い峰々やエベレストさえもが目視できたなんて、明らかに空気が澄んだ証拠。人間の活動がどれだけ大気に影響を及ぼしているかよくわかりますよね」と石川氏は言います。

空気の変化は、都心でも感じることができました。

今回、石川氏の取材先となった「渋谷SKY」は、地上229m。
(2020年8月31日まで、「渋谷SKY」にて石川直樹写真展「EXHIBITION SERIES vol.1 -EVEREST 都市と極地の高みへ-」開催中)
「渋谷から奥多摩や奥秩父の山まで見えたりして、奥行きのあるこのような景色を望むことができるのは、都心もまた空気が少しは浄化されたからではないでしょうか」と石川氏は言います。

緊急事態宣言とそれに伴う外出自粛によって、車の移動による排気ガスは抑えられ、店舗や商業施設などの一時閉店は、深刻な地球温暖化問題の一因となる室外機の排熱低減にもつながったと思います。

「外国の自然と日本の自然を比べると、日本では“機微”が感じられます。四季を通じた環境の繊細な変化が、多様な風景をもたらしてくれる。時の流れとともに表情の変化がきちんとあって、春夏秋冬で色彩も豊か。ヒマラヤだったら、春と秋の乾季と夏のモンスーン、そして雪に閉ざされる冬が繰り返され、日本の四季ほどの変化は当然感じられません。ちなみに、遠征でヒマラヤに行くと2~3ヵ月は現地にいることになります。その間、氷河の氷を溶かしたものが飲み水になるわけですが、砂なども混じっていて、意外と綺麗じゃない。そんな経験を経て久しぶりに帰国すると、日本の蛇口から出る綺麗な水が本当にありがたく思える」と石川氏は話します。

水もまた自然からの恵み。昨今、各界において「サスティナブル」という言葉に重きを置くようになりましたが、「水」はその原点なのではないでしょうか。

標高8,848m、世界最高峰のエベレスト。石川氏は2001年にチベット側から登頂。当時は世界最年少で七大陸最高峰登頂を記録。2011年にはネパール側からの登頂も果たす。

上記と同じ写真をモノクロームにしたものが表紙になっている「EVEREST」(2019年出版)。エベレストの他、ローツェやマカルーへの遠征で撮影された写真も含めて構成された一冊だ。

石川氏が2度挑戦したが、いまだ登頂できていない「K2」。2020年に再訪する予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大により、パキスタンに入国できず断念。

石川直樹 インタビュー約20年、世界中を旅してきた。その中でも通いたい場所と通わなければならない場所がある。

これまで世界中を旅してきた石川氏ですが、国内では定期的に訪れる場所があるといいます。それは、北海道の「知床半島」です。

「ただ美しい場所であれば、これまでたくさん見てきました。“通いたい”と思うようになるのは、やはり人との出会いがあったからです」と石川氏は話します。

もともとは仕事で訪れた知床ですが、地元の人々と交流を深め、現在では「知床写真ゼロ番地」というプロジェクトを立ち上げて、定期的に展覧会などを開催しています。

「このプロジェクトは2016年にスタートしました。以降、写真展やワークショップ、地元の人たちとの共同制作など、様々な活動をしています」と石川氏。

特筆すべきは、地域と一体になって活動していること。結果としてプロフェッショナルな写真とはまた別の、地元から発信される新しい知床の側面を伝える写真が生まれています。

知床では、漁業や農業、そして観光業が盛んです。
「コロナ禍の中にあっても、作物は育つ。特に第一次産業はこうした状況下に強いな、と改めて思いました」と石川氏は言います。

知床といえば、北海道の東部に位置する最果ての地。オホーツク海に約70km突き出たそこは冬になると流氷に覆われます。やはり石川氏は、雪に取り憑かれているのか、はたまた過酷な地に惹かれるのか……。

「僕は、端っこが好きなんです(笑)。北だけでなく南の沖縄にも頻繁に行っていますね」と石川氏。

そして、通わなければならない場所。それは「ヒマラヤ」です。

その理由は「自分自身を一度自然な状態に戻すため」だと言います。

「一年に一度、ヒマラヤに行くようにしています。デジタル化が急速に進んで、何もかもスピードが増すばかりですよね。何かを調べたり、探したりするのも、スマートフォンがあればすぐにできてしまう。そして、それだけで知っているつもり、行ったつもりになってしまいますが、そんなのはもちろん錯覚です。インターネットの数百文字から読み取れる情報と、その場所に行って全身で感じることとは、情報量も、その質も全く異なる。日々、インターネットで検索しているだけでは、人が持つ感受性が減退していくばかりだと思います。体験から得られる豊かさや多様性に勝るものはないでしょう。僕は、自身の目で見て、耳で聞いて、身体で感じたい。そういうごくごく当たり前のことをちゃんと気付かせてくれるのが、自分にとっては、ヒマラヤでの数ヵ月間の旅なんです」と石川氏は語ります。

石川氏にとってヒマラヤは、気付きの装置。

他の生き物同様、人もまたこの地球(ほし)の生き物。特別な存在ではありません。大地を踏みしめ、胸いっぱいに空気を吸い込み、胸の鼓動に耳を傾ける。

― 僕はちゃんと生きている ―

「ヒマラヤで、毎回、僕は生まれ変わっているような感覚を持っています」と石川氏。

2005年、世界自然遺産に登録された知床。石川氏は、地元の人々とともに「写真ゼロ番地 知床」プロジェクトを2016年に立ち上げた。これまで注目されなかった知床の新たな一面を、ワークショップなどを通して発信している。

石川直樹 インタビュー
大切なのは頂上の景色ではない。そこにいたるプロセスにこそ、物語はある。

「エベレストの頂上に行きたいけれど、ヘリコプターで行ったら意味がありません。頂上はたくさんあるうちのひとつのゴールでしかなく、そこにたどりつくまでのプロセスが大切。もちろんたどりつけなかったとしても」と石川氏は語ります。

そのプロセスの中には、想像を超える出来事や新しい自分自身の発見もあるそうです。

「自分はこういう状況ではこんなに弱かったのか」と思うこともあれば、「こんな場面では自分は踏ん張ることができるんだ」など、知らなかった自分の一面との出会いがあって、石川氏にとって旅が「思考を活性化させる」と言います。

効率よりも非効率、便利よりも不便、近道よりも回り道。時にはそんな選択も必要で、石川氏が選ぶカメラにも、それが表れています。

「プラウベルマキナという中判のフィルムカメラを使用しています。普通の35mmのカメラよりも重いのですが、僕にとってはこれが一番身体にフィットしています」と石川氏。

少しでも荷物を軽くしたいと思うのが登山者の心理ですが、それとは真逆の発想です。更に驚くべきは、1本のフィルムで10枚しか撮れないこと。過酷な雪山であれば、デジタルカメラにSDカードを入れて何千枚も撮る方が効率的で便利ですが、石川氏が選択したのは非効率と不便。

「でも、そのカメラでしか撮れない写真があるんですよ。僕は、とりあえず撮っておく、みたいな撮り方をしていないし、できないんです。デジタルカメラであれば、たくさん撮っておいて失敗したら消せばいいですが、僕のカメラではそういう撮り方はできない。人生も同じですよね。失敗したからといって、簡単に消すことはできない」と石川氏は言います。

「同じカメラを4台所有しています」と言う石川氏が使用するカメラは、プラウベルマキナ。傷や凹みもまた、ともに過酷な旅をしてきた証。

石川氏のエベレストの写真は、現在開催中の「EXHIBITION SERIES vol.1 ―EVEREST 都市と極地の高みへ―」にも展示。その迫力を自身の目で見て、体感してほしい。

石川直樹 インタビュー人は自然に抗えないということを再認識すべき。我々はこれからどう生きるべきなのか。

地球規模で巻き起こる今回の難局によって、色々なことがゼロ化されるのかもしれません。

「わずか0.1ミクロン以下の新型コロナウイルスによって、あれだけ揺るぎなかった日々が、政治が、経済が、根底から揺さぶられています。人間は自然の領域に踏み入りすぎてしまった。ウイルスは打ち克つための存在ではありません。環境を変えるのではなく、自分たちがこの環境に順応していかなくてはならない。ヒマラヤ登山において最も重要な“高所順応”とも似ています。周りを変えるのではなく、自分を変える。自然に抗ったり、侵したりするのではなく、自然への敬意を持ち、謙虚に生きていきたいですね」と石川氏は語ります。

この難局もまた人生のプロセス。世界に暗い影が落ちている今をどう生きるかによって、希望の光は見えてくるのではないでしょうか。

1977年東京生まれ。写真家。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。2008年「NEW DIMENSION」(赤々舎)、「POLAR」(リトルモア)により日本写真協会賞新人賞、講談社出版文化賞。2011年「CORONA」(青土社)により土門拳賞を受賞。2020年「EVEREST」(CCCメディアハウス)、「まれびと」(小学館)により写真協会賞作家賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した「最後の冒険家」(集英社)ほか多数。2016年に水戸芸術館ではじまった大規模な個展「この星の光の地図を写す」は、新潟市美術館、市原湖畔美術館、高知県立美術館、北九州市立美術館、東京オペラシティアートギャラリーなどへ巡回。同名の写真集も刊行された。2020年には「アラスカで一番高い山」(福音館書店)、「富士山にのぼる」(アリス館)を出版し、写真絵本の制作にも力を入れている。
http://www.straightree.com/

鬼神様に捧げられた青森にんにく発祥の地。物語があり、公共性があり、ビジョンがある、にんにくの話。[TSUGARU Le Bon Marché・鬼丸農園/青森県弘前市]

岩木山の裾野に広がる鬼丸農園のにんにく畑。かつてりんご園だった耕作放棄地に手を入れて、広大なにんにく畑を作っている。

津軽ボンマルシェ作るだけではなく、これからの農園は売り方も考える。

農業というフィールドで革新を打ち出す人は、大きく2つのタイプに分けられます。ひとつは、手間暇、採算を二の次に考え、ひたすら農産物の質を掘り下げる職人タイプ。もうひとつが、産物の質だけでなく販売ルートや加工品なども含めて戦略を練る経営者タイプ。もちろん、どちらのタイプも地域振興や農業の未来を考える上で、必要な存在です。
そして今回お会いした『鬼丸農園』の奈良慎太郎氏は、後者のタイプでした。

ひろさきマーケット』の高橋信勝氏は「意欲的な若手農家として期待している存在」と評し、『パン屋といとい』の成田志乃さんは、『鬼丸農園』のにんにくをふんだんに使用したおいしいパンを仕立てます。『おおわに自然村』三浦隆史氏や『岩木山の見えるぶどう畑』伊東竜太氏とは、同じ若手生産者同士、地域の農業を牽引していく仲間。
地域でも存在感を発揮しながら、『鬼丸農園』の名はいま全国でも知られつつあります。

“青森のにんにく”という一般名詞ではなく、“鬼丸農園のにんにく”という固有名詞での指名買いを目指す。奈良氏が思い描く、その戦略と内に潜む思いを伺いました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

生産、加工、流通、販売などを全体的に手掛ける6次産業(現在、販売は分社化)として、農業の未来を模索する『鬼丸農園』。

若き経営者・奈良慎太郎氏の目線は、いつも遠い先まで見越している。

津軽ボンマルシェいくつもの偶然が重なって、やがて紡がれるストーリー。

奈良慎太郎氏は昭和57年8月、弘前市北部の鬼沢という地区に生まれました。鬼沢は岩木山の山裾に広がる標高200mほどのエリアで、弘前の鬼伝説の中心部である「鬼神社」を擁する歴史ある地。そして、そこは寒暖差のある高地というロケーションを活かしたリンゴ園が多くある地区でもあります。

はじめは農業とは無縁の職に就いていた奈良氏。成人すると、その鬼沢地区で父親とともに建設業を営みはじめました。しかし、28歳の頃、最初の転機が訪れます。りんご園を営んでいた親戚が農地を譲りたい、と伝えてきたのです。
当時は、ちょうど建設業が軌道に乗りはじめたときでもありました。農業は未経験の奈良氏でしたが、会社の人手も増えてきたことから、この話を受けることにしました。奈良氏は28歳にして、異業種からの農業デビューを果たすことになるのです。タイミングもあったのでしょう、奈良氏は「ちょっとやってみようかな、という漠然とした気持ちでした」と当時を振り返ります。

ところがはじめて見ると、これがたやすくできるほど農業は簡単な話ではありませんでした。とくにりんごは一年通して何かしらの作業が必要になる作物。建築業との二足のわらじでは手が回らなかったのです。軌道にのった建設業をないがしろにはできない。一方で、このままでは譲り受けた農地が無駄になる。奈良氏は試行錯誤の末、青森産のブランドが確立されつつあったにんにくの栽培に目をつけます。「秋に作付けして、夏に収穫。建設業の繁忙期とも重ならない。これなら効率的にできる、と思いました」

偶然は続きます。りんごに変わって作り始めたにんにくを収穫してみると、その質が明らかに高いのです。にんにくの糖度は一般的に39度〜40度。ところがここで育ったにんにくはそれよりも、平均2度ほど高かったのです。

「『なぜだろう?』といろいろ考えてみました。寒暖の差が大きい気候や岩木山由来の火山灰土は関係しているとはすぐに分かりました。しかし、それよりも大きいのが土の状態だったのです」

というのも通常は水田の転作として作付けされることが多いにんにくですが、こちらはりんごが実をつけていた豊かな土壌。露地栽培でその栄養をたっぷりと吸ったにんにくが甘く育つのは必然のことだったのです。
「りんごの力に助けられて育つにんにく。弘前らしいですよね」

『鬼丸農園』のにんにく栽培で使用するのは、りんご園の耕作放棄地。豊かな栄養が糖度の高いにんにくを育てる。

重機で慣らした奈良氏はフォークリフトの操縦もお手の物。広い倉庫を自在に走り回る。

新規就農だからこそ、人以上に熱心に学んだという奈良氏。にんにく栽培を開始する際には、一年に渡り産地に修業に出た。

津軽ボンマルシェ弘前の鬼伝説の舞台となった、青森にんにく発祥の地。

偶然はそれだけではありませんでした。
鬼沢地区の鬼神社を舞台とした鬼伝説。これも奈良氏の仕事に大きく関わってきます。

弘前の鬼伝説、それはかつて岩木山に住んでいた鬼が農民と親しくなり、困った農民のために一夜にして堰を作り、畑を拓いたという逸話。優しく、農民の敬愛を集める鬼、ゆえにこの神社の「鬼」の字の上には、角にあたる「ノ」がなく、この地区では節分に豆まきをすることもないといいます。

さて、そんな鬼神社で宵宮が開かれたときのこと。奈良氏は、弘前の歴史を研究する先生と同席することになります。そして、その先生の口から、この地が青森にんにくの発祥の地であることを聞かされたのです。

「鬼の好物がにんにくだったということで、神社ににんにくが奉納されることは知っていました。しかし、この地が青森のにんにく栽培発祥の地ということまでは知りませんでした」

りんご園の土が作る甘いにんにく、にんにくが好きだった鬼の伝説、そしてここが青森のにんにくの発祥の地という事実。さまざまな要素が絡み合う、鬼沢のにんにく作り。

「これでストーリーが繋がった、と思いました」

奈良氏は、この偶然が紡いだ物語を軸にブランディングに乗り出しました。

静謐な空気が印象的な鬼神社の境内。角である「ノ」のない「鬼」の文字が、この地に伝わる鬼の善性を表す。

鬼神社にお参りする奈良氏。ここで毎年開かれる「鬼沢のハダカ参り」は、奈良氏の大切なライフワーク。褌一丁で水を浴びる奇祭で、近年全国的に知られつつある。

鬼沢という地名、鬼神社、そして『鬼丸農園』。「鬼」という印象的なワードが、ブランディングの中軸をなしている。

津軽ボンマルシェ耕作放棄地を利用することで、地域の問題も解決する。

奈良さんへの追い風は、地区の状況にもありました。
それは高齢化をはじめとしたさまざまな理由で引退、廃業するりんご農園の存在でした。耕作放棄地は持っているだけで維持費がかかる、所有者にとってはいわば負債でもあります。りんご園だった土地を、『無償で構わないから使ってほしい』と奈良氏に申し出る人が数多くいたのは当然のことでもあります。

奈良氏には、元りんご園の土地でにんにくを育てた実績があったことも大きな要因だったのでしょう。奈良氏の元には、そんな依頼がいくつも飛び込んできたといいます。
一般的には、耕作放棄地であったりんご園を畑として使えるようにするには、根の排除などを業者に依頼する必要があります。しかし、奈良氏の本業は建設業。自前の重機で障害物を取り除くのもお手の物です。
こうして地域の環境を守り、地域住民の悩みを解決し、そして初期投資なしで農地を拡大するというwin-winの関係ができあがりました。

現在、奈良氏が借りている耕作放棄地は約15箇所、広さは約10ヘクタール。気づけば『鬼丸農園』は、弘前市内で最大のにんにく農家になっていました。建設業との二足のわらじではなく、農業に本腰を入れる農事組合法人も立ち上げました。

鬼沢地区にはりんご園が多く、耕作放棄地も増加傾向。『鬼丸農園』の存在は、農地の有効活用として地域の役に立っている。

「結果論ですが、水はけの良い火山灰土が、にんにく栽培に適していました」と奈良氏。古くからにんにく栽培の歴史があるのは、この土壌のためかもしれない。

『鬼丸農園』は露地栽培が中心。収穫時の降雨量が多いとダメになってしまうなど、リスクはあるが、土壌と気候の恩恵を最大限に受けることもできる。

津軽ボンマルシェ販売経路まで考えることが、これからの農業のブランディング。

この土地ならではの物語に支えられた『鬼丸農園』のにんにく生産は、右肩上がりで増加しました。同時に『鬼丸』というインパクトある名前のにんにくは、首都圏や関西でも少しずつ知名度を増しています。

しかし奈良氏の目は、さらに先を見つめています。これこそ、奈良氏が経営者タイプと書いた故由。農業の未来を作る第一歩は、労力に見合う収入をしっかりと得られること。ブランディングだけではなく、経営者タイプにはより具体的な販売戦略も必要とされるのです。

「極端にいえば農作物は、収穫した瞬間から劣化が始まります。つまり、それは他の産業に比べて、買い手の存在がより重要になるということ。ただ良いものをたくさん作れば良いというのではなく、売り方、つまり出口の部分まで見極めた上で作付けしていくことが重要です」

先行投資としてマイナス2度の貯蔵用冷蔵庫を導入したのは、収穫期だけでなく通年一定量のにんにくを出荷するため。生産者としての情報はSNSで発信し、反対に消費者の声はイベントなどで丁寧に拾い集めます。その声をもとに、ニーズを捉えた加工品も次々と開発。近隣農家からの買い付けも行うなど、地域生産者の応援する体制も整えています。
また、近年では「作ることと売ることには別の能力が必要」との思いから、営業のプロフェッショナルをヘッドハンティングし、販売部門を分社化しました。すべては売り方、つまりアウトプットを見定めるための戦略。

育てる、加工する、売る。そのすべてを計算した『鬼丸農園』の存在が、おいしいにんにくを消費者に届け、耕作放棄地の再利用により地域を支え、そして青森の農業の未来も切り開いていくのです。

先を見越した投資も経営者の資質。この大型冷蔵庫は80tのにんにくを貯蔵できるが、収穫時には満杯になるという。

撮影時に通りかかったリンゴ農園『ちかげの林檎』石岡千景氏とともに。同級生でもある石岡氏とは、刺激を受け合う仲間。

小分けパック、二段熟成の黒にんにく、にんにく麹たれなど、ニーズを捉えた加工品も展開し、好評を博している。首都圏、関西圏の大型スーパーでも取り扱いがある。

住所:青森県弘前市鬼沢276-23  MAP
電話:0172-98-2485
http://onimarunouen.com/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

アレックス・カーが耳打ちする「本当は教えたくない」祖谷の旅ツアー開催![徳島県三好市]

推定樹齢1100年ともいわれる五所神社の大スギ。ダイナミックな祖谷の自然の中でもさらに「奥」の魅力を開拓する、それが今回の旅のテーマのひとつ。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷「千年のかくれんぼ」と称される秘境・祖谷を巡る旅。

東洋文化研究家、作家として活躍するアレックス・カー氏が、徳島・祖谷の地に魅せられ、住居を構えたのは40年以上前のこと。深緑の山あいに佇む別世界は桃源郷さながら、悠久の時を閉じ込めたかのようにひっそりと人々が暮らすこの地は「千年のかくれんぼ」とも称され、古き良き原風景は訪れる人に感動を与え続けています。

2020年9月、アレックス氏自らがナビゲーターとなり、知られざる祖谷の風景や魅力をご紹介する「祖谷の旅」が幕を開けます。これまでに数多くの『DINING OUT』のホストを務め、『ONESTORY』とも親交の深い彼が、今だからこそ伝えたい祖谷の姿、そして、今だからこそ追求したい観光の意味に触れる旅とは、どのようなものなのでしょうか。

山肌に沿うように霧が立ち込める景色が幻想的な祖谷地区。険しい山々と深い峡谷に遮られた陸の孤島には、独自の生活習慣や習俗、口承文芸などが残される。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷知られざる祖谷の魅力が、心に深く浸透する旅を届けたい。

「第一は、古くからの景観を美しく維持していることです」
心から素晴らしいと感じる地域の条件とは?との問いに、こう答えたアレックス氏。

中でも祖谷は一般的な日本の風景と大きく異なり、田んぼがほとんどなく、山の傾斜地に住居が建つ、全国でもあまり例がない場所だといいます。

「茅葺きの家が点々と建ち、畑が斜面に流れ、遠く眼下に川を眺められるという別世界――険しい山々が創る雲の上の「秘境」という言葉がふさわしい、世間からかけ離れた雰囲気を持ちあわせています」

傾斜地に人が住んでいる村はイタリアなどにもあるといいますが、深い渓谷に沿って密集するジャングルのような木や苔、川といった自然に囲まれた祖谷の風景は、日本特有の自然環境だからこそもたらされたもの。その深緑こそが、世界でも類を見ない神秘性を感じさせるのです。

山あいにひっそりと佇む有宮神社に続く石畳の参道。『onestory』でも初めての紹介となる、アレックス氏のお気に入りの場所だ。

有宮神社に隣接する森。澄んだ空気に包まれ、巡るほどに心身が浄化するような感覚に。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷「奥」にこそ、本当に美しい場所がある。

第二の故郷として、長く祖谷と関わりを持ってきたアレックス氏。自然農業や古民家、風習の保存といった事業にユニークかつ前進的に取り組んだ結果、祖谷は知る人ぞ知る名地として知名度を上げていきました。

「祖谷を特徴付けるもののひとつが、保存された古民家の数々です。古材を活かしながらも水回りなどは整備し、快適に滞在できるようにしています」

アレックス氏が語るように、落合の8つの古民家は比較的モダンなスタイルで修復した一方で、彼の心を強烈に揺さぶり、自身で購入するに至った「篪庵(ちいおり)」は、時代の古さをそのままに、ディープで古典的な感覚が残されています。

「今回のツアーの目的は、まず旅行者に祖谷のありのままを知っていただくこと。観光名所を回るのではなく、茅葺きの家、山、霧が、深く心の中に浸透する旅になってほしいと考えています。

発見こそが旅の本来の目的であるはずなのに、決まったルートばかりを歩み、「奥」の魅力的な場所を追求しない……そうならないように、今回は一般的に知られている祖谷を敢えて紹介せず、奥に秘められた美しい場所にみなさまをお連れします」

アレックス氏が約50年前に購入し、2012年に改修を行った滞在施設「篪庵(ちいおり)」は、もちろん今回の旅の行程にも含まれる。美しく保存された古民家の素晴らしさをこの目で確かめたい。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷幻の味をもう一度。ツアーのハイライトは「祖谷ヌーヴェルランチ」。

祖谷の旅をさらなる高みへと昇華させるのが、地域の美味を知り尽くした地元の料理人が作るコース料理です。

供されるのは、郷土の歴史や文化を表現した「祖谷ヌーヴェルランチ」。世界農業遺産認定の、急傾斜地の畑で穫れる食材を贅沢に使用した料理の数々は、この場所でしか味わうことはできません。

「2013年に開催された『DINING OUT IYA』、その革新的な取り組みから7年の間に進化を重ねたプレミアムな祖谷の味覚を、どうぞお楽しみください」

2日目の昼食に供される「祖谷ヌーヴェルランチ」は、7年前の『DINING OUT IYA』に携わったスタッフが手がける。命名はアレックス氏によるもの。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷コロナ禍で気付いた観光の本質。心を揺さぶる未知の体験を。

近年は「観光(ツーリズム)」そのものが自身における重要なテーマだと語るアレックス氏。過疎と高齢化に苦しむ祖谷は観光こそが命綱であり、だからこそ篪庵(ちいおり)と落合の家の修復を通じて、地域の活性化を目指してきたという背景があります。

「お客様をどこにお連れすれば、祖谷の自然が静かに吟味できるのか。どう説明すれば祖谷の美しさが伝わるのか。料理もとても大事で、だからこそどこでも食べられる『温泉懐石』ではなく、地元の素材を使った新しい料理に力を入れています。

コロナ禍により大勢の人が集まるような場所を避けたくなるご時世ですが、それがきっかけとなり、これまでに当たり前に思っていた観光の意味を考え直す機会になりました。特別感こそが旅の醍醐味だと、今はそう考えています」

古民家を「快適で美しく直した」と同時に、観光も快適で美しく立て直したい、それがアレックス氏の思いです。

古民家「徳善屋敷」の近隣から渓谷を望む。重要文化財に指定されながら今も人が住まう家は深緑に囲まれている。

西祖谷に位置する五所神社の社。このすぐ横には、冒頭で紹介した五所神社の大スギがのびのびと枝を伸ばして立つ。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷未知の自然環境と出合うことによって、人生の発見が待っている。

「交通や通信が発展し、身近になった現代人にとって、旅行は簡単なものになりました。そのために特別感は失われ、SNSで知り得た有名な観光スポットで写真を撮れればそれでお終い、という旅が一般化していることを憂慮しています。

祖谷を訪れるということは、全くの別世界、未知の自然環境と出会うということです。下から湧きあがる幻想的な霧は、本当に美しく心揺さぶられるもの。日常から離れ、自然の静けさ、済んだ空気の中に、旅の魅力、ひいては人生の新たな発見が待っているかもしれません」

未知の秘境に立ち、その風景を眺める時、何を感じ、何を思うのか。
この旅でしか出合うことのできない祖谷に、ぜひ身を委ねてみてはいかがでしょうか。


※2020年7月16日時点では実施を予定しておりますが、今後、更なる新型コロナウイルスの感染拡大や災害の危険性などにより、本ツアーが延期及び中止の可能性もございます。参加申し込みをされるお客さまには、事前にご連絡をさせて頂きますが、あらかじめご了承のほど何卒宜しくお願い致します。
 

▼ ツアー参加はこちらから

1952年にアメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の葺き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社を設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

創業350年の伝統を誇る津軽打刃物を、次の世代へ伝え、世界に広げていく。[TSUGARU Le Bon Marché・二唐刃物鍛造所/青森県弘前市]

鉄を叩く、7代目の吉澤俊寿氏。職人仕事はあまり得意ではなかったそうだが、「津軽打刃物」の歴史と伝統を守るために東奔西走。若い世代へと繋ぐために現在も奮闘中。

津軽ボンマルシェ津軽の歴史とともに歩んだ製鉄業。

「鬼に金棒」といったら、怖いもの無しの強さを表す言葉ですが、鬼と金棒は、思った以上に深く結びついている、と津軽の地に来て知ることになりました。

名峰・岩木山の麓には、製鉄遺跡が多数発掘された一大地帯があります。大半は平安時代からのものといわれていますが、同時代の日本の他の地域とは異なる、独自の形式を有する遺跡もあり、もっと古くから製鉄が行われていたのではないかと考えられています。

この地域に多く伝わるのが「鬼伝説」。点在する小さな神社の鳥居には、全国的にも珍しい「鳥居の鬼コ」と呼ばれる小さな鬼の彫り物がちょこんと鎮座している姿を時々見かけます。鬼コは悪者、怖い鬼というよりも、ちょっとユーモラスな明るい風貌で、地域を守る強く頼もしい神様のような存在として親しまれています。この辺りでは節分の時も「福は内、鬼も内」と言うそうです。この鬼というのが、鉄を扱う民だったのではないか、と伝えられているのです。炉の炎で顔を真っ赤にしながら、一心不乱で熱い鉄を打つ様子に、まるで鬼のようなパワーを感じたのかもしれません。

岩木山麓には「鬼沢」という地名もあり、そこには「鬼神社」という名の通り、鬼を祀った神社があります。「村人たちが水不足で困っていると、山から降りて来た鬼が一夜にして水路を作り上げ、田畑の開墾を助けた」という伝説が残っています。鬼神社の御神体はなんと鉄の鍬。拝殿には古い農耕具が飾られ、製鉄の技術が村人たちにとって大切なものだったことを物語っています。鬼(鉄の民)と金棒が村人たちの暮らしを支える、ありがたい存在だったのです。

一方で、弘前市内には「鍛冶町」という地名があります。弘前っ子にはお馴染みの、市内最大の繁華街。現在は飲食店が無数に軒を連ねる楽しいエリアですが、ここはかつての城下町であり、江戸時代初期には100軒以上の鍛冶屋が建ち並んでいたといわれています。当時、藩お抱えの鍛治職人たちは、戦となれば鎧や刀などの武器を製造。やがて農耕具や日用品なども作るようになり、明治時代になると軍用品などの注文を受け繁栄していたそうです。

こうした津軽の長い歴史の中に深く根付いている製鉄の技術や文化を、今に伝えている会社があります。それが、津軽藩政時代から350年以上続く伝統の鍛造技術を誇り、「津軽打刃物(つがるうちはもの)」を作り続けている『二唐(にがら)刃物鍛造所』です。以前に紹介した『カネタ玉田酒造店』も創業330年、同じ歴史ある老舗の職人同士だからか、玉田宏造氏も予てより吉澤氏と親しくしているとのこと。老舗酒蔵お墨付きの刃物となれば、一層興味は深まります。

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工場に掲げられた書は、吉澤氏の母である書道家・吉澤秀香さん作。「和衷共済」には「一つの目的に向かってみんなで力を合わせ、笑顔で頑張ろう」という思いを込めた。

津軽打刃物の制作を担うメンバー。左端は三男の周氏、隣は長男・剛氏、右の二人は地域おこし協力隊として修業中の静岡出身・花村英悟氏と東京出身・丸山敦史氏。

津軽ボンマルシェ苦手だったものづくり、努力と信念で受け継ぐ。

工場に一歩足を踏み入れると、轟々燃え盛る炎と、カーンカーンと響く音。ハンマーを打ち下ろすたびに、赤い火花が勢いよく飛び散り、そこには昔ながらの手仕事の姿がありました。職人たちはそれぞれの持ち場で黙々と手を動かしています。制作されているのは、主に包丁などの刃物。1200℃の炉で熱した鉄と鋼を叩いて接合する「鍛接」、鉄を叩きながら刃物の形を整えていく「荒延ばし」など、包丁作りには23もの製造工程があり、どれも神経を集中して行う、気の抜けない作業。精巧な、高い技術が求められます。

「私は手先が不器用で、実はものづくりはあんまり好きじゃないんです」と意外な一言を告げたのは、7代目代表の吉澤俊寿氏。青森県伝統工芸士であり、弘前市が創設した優れた技術者に認定される「弘前マイスター」にも選ばれていますが、寡黙な職人というより、明るく陽気でおしゃべり好きなイタリア紳士といった風情。ファッションにも関心が高く、昔は“ロン毛”だったとか。お洒落なメガネをコレクションしたり、その日の気分や服に合わせたり。読書が趣味で、さらにアート好きというのですから、こちらが勝手に想像していた鍛冶屋の印象がガラリと変わりました。

吉澤氏の祖父である5代目の故・二唐国俊は、日本刀作りの技術で数々の賞を受賞し、県無形文化財保持者である、優れた名工だったそう。叔父である6代目の故・二唐国次に後継ぎがなかったため、吉澤氏は中学生になると家業を継ぐ者として、夏休みには工場の手伝いをし、大学を卒業すると、22歳で本格的な厳しい修業に入ることになりました。
「先代は頭の切れる人で、みっちり仕込まれました。自分は苦手と思いながらも、一番長く苦楽を共にした人。今の自分があるのは、先代が厳しくやってくれたおかげです。本当に感謝しています」と吉澤氏は当時を振り返ります。

『二唐刃物鍛造所』のもう一つの大きな柱となっているのが鉄構事業。

城ごと移動させる曳屋工事で話題にもなった弘前城。移動時の基礎部分や、石垣の解体・補修工事のために組まれた鉄骨の製造を請け負った。(写真提供:二唐刃物鍛造所)

弘前城天守内部。2020年現在、城の耐震補強目的で組まれた仮置き中の鉄骨も、『二唐刃物鍛造所』で製造されたもの。

津軽ボンマルシェ鉄構事業がもう一つの柱となり、津軽打刃物は世界へ進出。

吉澤氏の修業時代は平坦な道ではありませんでした。時代と共に、世の中のニーズは刻々と変化し、代々伝わる刀づくりの技術を継承していきたい一方で、それだけでは売上は下がるばかり。吉澤氏は製造の傍ら、店頭に立って刃物販売のノウハウを身につけたり、飛び込みで営業したり。ありとあらゆることを実践し、会社を支え続けました。そうして鍛冶屋が衰退の一途を辿っていた頃、6代目が立ち上げたのは鉄構事業でした。長年受け継がれてきた金属加工技術を鉄骨製造に応用し、やがて事業の大きな柱となっていきます。建設現場の鉄骨から住宅用の防雪フェンスまで、多岐にわたる製造を請け負い、その仕事は弘前城をはじめとする文化財建造物の耐震補強や、ねぷた祭りの骨組み製作などイベント関連にも波及。近年では、東京の商業施設「GINZA SIX」の天井からぶら下がるアート作品の骨組みを製作したこともありました。吉澤氏も溶接管理技術者一級の資格を取り、自ら鉄構事業に関わるようになっていきました。
「現在のうちの売り上げの90%は鉄構事業なんです。この大きな支えがあるおかげで経営が安定し、歴史ある打刃物を途絶えさせることなく継承していける。一方で、津軽の伝統工芸である打刃物が広告塔となって、うちの事業に注目してもらえるのだからありがたいことです」

2008年より、弘前商工会議所による津軽打刃物のブランド化プロジェクトがスタートし、再び脚光を浴びることになりました。日本だけでなく、フランスのインテリア・デザイン系国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」やドイツで開催される世界最大級の消費財見本市「アンビエンテ」など国際的なイベントに刃物を出展する機会に恵まれ、海外からも高い評価を得ました。切れ味の良さやデザイン性の高さは、プロの料理人に支持されています。
常に外部へ情報発信することに努力を厭わず、自分たちでオリジナル商品を生み出していることも強みだという吉澤氏。特に「暗門(あんもん)」と呼ばれる独特の模様が入った包丁は自信作で、世界遺産である白神山地の麓にある「暗門の滝」をイメージし、揺らめく波紋の繊細で神秘的な美しさを表現しています。他にはない個性的なデザインが、海外でも大きな反響を呼びました。
「でも実はこれ、最初のインスピレーションはアンディ・ウォーホルが描いた、ジョン・レノンの絵がヒントなんですよ。僕はどっちも大好きで。ジョンのメガネの部分が波のような不思議な模様になっていて、そこからピンと来たんです」とお茶目に笑う吉澤氏。アートや音楽など幅広い分野に興味を持ち、あちこちにアンテナを巡らせて常に感性を磨いてきたことが、制作にも大いに反映されているようです。ストイックに技術を高めることももちろん大事ですが、幅広い視野を持つことが、新たな扉を開くと吉澤氏は説きます。
「ものづくりは苦手だけれど楽しいですし、すごく面白くてやりがいがありますよ」

制作中の「暗門」の包丁が並ぶ。鉄と鋼を何層にも重ねて磨き上げる特殊な技術を必要とする。

海外にも出品した包丁やペーパーナイフ。同じく青森の伝統工芸である津軽塗やこぎん刺しともコラボ。椅子やテーブルもオリジナルで、看板や土木に使う鉄材をリメイク。

吉澤氏の直筆デザインノート。普段からいろんなものを見るように意識していると、ある時ふとアイデアが湧いてくるのだとか。思い浮かんだらどんどん描き溜める。

津軽ボンマルシェ次の若い担い手へと引き継がれていく未来に向かって。

現在、刃物部門を牽引しているのは、いずれ8代目となる、吉澤氏の長男・剛氏。吉澤氏と嗜好が似ているのか、実は映画や小説が好きで、かつては小説家や脚本家に憧れていたこともあったそう。しかし6代目が亡くなる時、吉澤氏は病床に呼ばれこう遺言を授かったそうです。「剛を手元に置いて育って欲しい」。最初は興味がなかった剛氏でしたが、「3年目くらいから少しずつものづくりの魅力に気付き、面白くなっていった」といいます。転機が訪れたのは5年目のとき。頼りにしていた兄弟子が抜け、自分で全てを背負わなければならなくなり、納期に間に合わせるために夜中の3時まで必死で制作、納品したにも関わらず、ほとんど返品されてしまった、という苦い経験がありました。
「その時の気持ちは今も肝に銘じています。ものの品質を見る目、お客様の厳しさ。あの時は心折れそうになりましたが、ものすごく勉強させてもらいました。正直未だに自分のことは鍛冶屋だと思っていなくて、『これでいい』と思ったことはありません。まだまだ未熟者です」

一方で三男の周氏は「兄貴が大変そうだったので、助けになればと思って入りました。高校時代にインターンシップで試しにやってみたら『腕がいい』と言われ、やる気が出たんです。自分の成長を楽しみながら続けていきたい」と明るく話します。地域おこし協力隊として、20代で県外からIターンでやって来た花村氏と丸山氏は、13名の応募者から選ばれたという精鋭。花村氏は以前より趣味で金属加工や刃物などをつくっていたそうで、実用刃物をもっと追求していきたいと職人魂をみせています。手先が器用で時計修理技能士の資格も持つ丸山氏は東京から家族みんなで引っ越して来たそうで、仕事への強い思いと覚悟を感じます。
「彼ら3人が来なかったら、自分はもっと未熟だったと思いますし、お互いに刺激を受けています。自分が教えるなんてまだまだおこがましい立場ですが、先輩として負けてはいられないという気持ちです」と剛氏は話します。

剛氏の次なる目標は、日本刀をつくる「刀匠」を目指すこと。そして「津軽の刃物の知名度をあげ、その魅力をもっと広く世界へ伝えていきたい」と真摯に語ります。吉澤氏は、剛氏を中心とした若手世代が安心して前に進みやすいように、「後ろから後押しすることが自分の役目」だといいます。そして、「一生懸命やっているならそれを認め、見守り、口出しはせず、経済的なサポート体制を整えることが私の仕事です」と続けてくれました。
先祖代々が苦労して続けて来た永きに渡る伝統の炎を決して絶やしてはならない。その言葉には、ひたむきな思いとともに、次の担い手へと手渡され、さらにその先の未来へ続いていくことへの揺るぎない決意が感じられるのでした。

鉄と向き合う剛氏。「息子が刀匠として刀鍛冶を復活させたら自分は一つの役目を終える」と吉澤氏。剛氏に任せたことで販路も良い意味でガラリと変わり、社は改革された。

剛氏が壁に貼った紙。近代建築の巨匠の一人といわれるドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエの言葉を心に刻む。

伝統の刀を握る吉澤氏。手に持つとずっしり重いが、繊細でするりと滑らかな刃先が精巧な技術を物語る。

「人っこがいい」とは津軽弁で人がいいことを表す言葉。「心良く、一生懸命やっていれば、それでいい」と朗らかに話す吉澤氏。「和衷共済」の思いを若い世代に伝える。

住所:〒036-8245 青森県弘前市金属町4-1  MAP
電話:0172-88-2881
https://www.nigara.jp

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台湾の美食家たちを魅了した、全く新しいコンセプトの輪島塗と名店の料理のコラボレーション。[DESIGNING OUT Vol.2×祥雲龍吟/台湾台北市]

互いを高め合う料理と器。光の反射まで計算する稗田シェフの技も光る。

デザイニングアウト Vol.2伝統を再解釈して誕生した現代の新たな輪島塗。

日本の伝統工芸や産業に現代のクリエイションを加え、新たな価値を創出するプロジェクト『DESIGNING OUT』。世界的建築家・隈研吾氏をプロデューサーに迎え、「輪島塗」をテーマにした『DESIGNING OUT Vol.2』は、1年以上の準備、製作期間を経て過去前例の無い輪島塗の器を『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』(2019年10月開催)にてお披露目しました。

それは124あるといわれる輪島塗の工程そのものを表現した、全く新しいアプローチでデザインされた6枚1セットの器。
作業工程は完全に分業され、多数の職人の手を介す事でできあがる輪島塗のプロセスはこれまで仕上げの漆塗や加飾以外、表面上は全く見えなかった部分。その途中工程の器を製品にするチャレンジは輪島塗史上初めての試みです。
工程を6つに分解し、これまで可視化されていなかった職人たちの技術力がひと目でわかるよう、独立した6枚の器として完成させました。隈氏らしい、緻密な計算を経て6枚を重ねた時も美しい見事な「輪島塗」です。

この取り組みは、世界的に知名度が高い隈研吾氏を迎えることにより、日本が誇る輪島塗の素晴らしさを改めて世界に発信するために企画されたもの。

とりわけ台湾は、リサイクル輸送コンテナを使用した花蓮市のスターバックスの設計、勤美術館で開催された個展『隈研吾的材料公園』の成功など、近年、隈氏の話題が高まる地。さらに日本の漆器文化も取り入れながら発展してきた漆工芸の歴史、茶器や食器に縁の深い台湾茶道の存在、そして日本文化への深い理解などから、この輪島塗を自然に受け入れてもらえるはず。
そんな思いのもと、まず台湾で実験的に輪島塗を主役にしたレストランイベントを開くことになったのです。
今回、日本を飛び出した輪島塗は、どのような料理と出合い、世界の人々の目に、どう映ったのでしょうか?

【関連記事】DESIGNING OUT Vol.2

124に及ぶともいわれる輪島塗の製造工程を6枚の皿で表現した今回の作品。

台中市・逢甲大学の新キャンパス設計も隈氏が担当するというニュースも。台湾での隈氏の人気がうかがえる。

デザイニングアウト Vol.2イベントの主役は、日本が誇る重要無形文化財・輪島塗。

2020年2月。
台湾でも知名度が高い隈研吾氏プロデュースの器と、台湾ミシュラン2ツ星『祥雲龍吟』の料理がコラボレーションするイベントが開かれる旨がアナウンスされました。

ビッグネーム・隈研吾氏の名が呼び水となったのか、あるいは日本国指定の重要無形文化財である輪島塗が興味を呼んだのか。用意された席は、発売からわずか2時間で完売。『祥雲龍吟』のある台北からも遠いはずの台中や台南からのゲストも、こぞって限られた席を押さえました。

台湾の食材で、日本の技と心を表現する。そんな『祥雲龍吟』の持ち味ですが、今回はさらに器が生まれた輪島の地も大きなテーマ。稗田良平シェフはイベントに先立って輪島に足を運び、そこで景色や伝統、特産に触れました。

「能登空港に着陸する時、窓から景色を眺めていたのですが、山が深く高低差もあり、ここで生活することの大変さを感じました。きっと昔、冬の間は完全に雪で閉ざされていたのだろう、と」稗田シェフは輪島の第一印象をそう語りました。
しかしそれは、決して僻地へのマイナスのイメージばかりではありません。
「過酷な状況の中だからこそ、輪島塗を始めとした工芸品や、さまざまな郷土料理が生まれたのでしょう」そんな能登への敬意を胸に、地元生産者や工芸品に触れた稗田シェフ。そこからすでに、料理の着想は始まっていました。

輪島塗と能登の食材を起点に発想し、現地の体験でイメージを膨らませ、名店の技で仕上げる。果たしてどんな料理が生み出されたのでしょうか?

日本を代表する名店『日本料理 龍吟』の支店であり、台湾ミシュラン二つ星も獲得する『祥雲龍吟』。

輪島を視察で訪れ「海に森があるような、豊富な海藻がある海」に感銘を受けたという稗田シェフが、その思いを料理で描く。

食材、景色、伝統工芸。輪島視察のあらゆる情報からインスピレーションを得た稗田シェフ。

デザイニングアウト Vol.2寡黙な料理人・稗田良平が、皿というキャンパスに独自の世界観を描く。

「私自身の輪島での経験を起点に、輪島と台湾の食材を組み合わせ、それを器のストーリーに繋げ、お客様に体験して頂くこと」稗田シェフは、今回の料理のコンセプトをそう語りました。それは料理や土地の食材と同様に、器への深い理解も求められる難しい工程。しかし輪島を体験した稗田シェフに迷いはありませんでした。

「今回のお客様はすべて台湾人。もし日本通の方が来られても知らないような輪島のローカルを届けたいと思ったのです」つまり稗田シェフが目指したのは、単においしい料理を提供するのではなく、料理という“メディア”を通して知られざる文化を発信すること。

「能登牛や鮑、赤ムツ、ホタルイカをといった有名な食材だけを使っても面白くありません。だからたとえば“鬼姫”と呼ばれる波の荒い場所でしか育たない海苔や、鯖と塩のみで作るという魚醤、藁で巻いて塩蔵した巻鰤など、ローカルなものを取り入れたかった。そして、そんな食材を、それにまつわる話も含め料理として提供したら、より輪島のことを知っていただけると思いました」

そして稗田シェフが仕立てたのは、輪島塗の工程を伝える6枚の皿、そのそれぞれを掘り下げるような料理。色や質感だけではなく、器の制作工程や受け継がれてきた伝統も考慮した内容。そこに現地に受け継がれてきた伝統的食材を合わせることで、時代を越えた能登の情景を皿の上に描き出したのです。

「木目と色合いに深みがある“木地の器”を、これから最盛期を迎える蓮の池に見立てました」
稗田シェフがそう説明する最初の皿。料理はドライエイジングした真鯛を台湾のレモンでマリネした海鮮。キャビア、海ブドウとともにナスタチュームの葉で包んで味わう仕掛けです。

続く“布きせの器”からは、能登の冬をイメージ。能登の厳しい冬を越すために生まれた伝統の塩鰤を取り入れ、柔らかい羽カツオを合わせました。

さらにゴツゴツとした質感とマットな黒の色合いに能登の磯場の情景を重ねた“下地の器“には能登の磯場で暮らす魚介類のお造りを、「光沢があり、水に触れるとまた違う美しさが見える」という“中塗りの器”には波をイメージし、台湾で旬を迎えている鰆の炭火焼を合わせた稗田シェフ。木を使った器に海や水のイメージを重ね、独自の世界観を構築します。

そして5枚目の皿は、稗田シェフをして「こんなに美しい塗りの器には出合ったことがない」と言わしめた“上塗りの器”。シェフはその驚きを表現すべく、油分のある液体を使って光を反射させることで、その赤い色合いを際立たせます。タタキのように仕上げた赤むつに台湾の馬告(マーガオ)という胡椒と一緒に発酵させたキャベツを合わせ、能登の伝統調味料である“いしる”で仕上げた一皿です。

最後の“加飾の器”は、輪島の餅と栗を使った甘味。シンプルな色彩の料理が、重厚な光沢ある器を彩ります。6枚の皿すべてにストーリーがあり、皿の上に広がる世界がある。料理が卓に届き、シェフが説明するたびに会場からは拍手と歓声があがり、ゲストたちは一皿一皿を写真に収めていました。
それはまるで、皿の上に能登の情景が浮かび上がるような料理たち。料理はできたてを味わうべき、と知る美食家のゲストたちですが、それを知ってもなお写真に収めずにはいられない美しさを感じ取ったのでしょう。

木目と緑の美しさが目を引く「木地の器」の料理。燻製した真鯛にレモンや海藻を合わせた。

「布着せの器」の料理は色ではなく、フォルムから着想。日本と台湾の食材を取り合わせたサラダに。

力強い器のイメージを能登の磯場に重ねた「下地の器」の料理。磯場の魚を中心としたお造り。

波をイメージした「中塗りの器」の一品。海藻を波に見立て、鰆の炭火焼きを合わせた。

稗田シェフがその美しさに感動した「上塗の皿」には、赤むつの炭火焼きを盛った。

「加飾の器」ではデザートを提供。少し塩の入った輪島の餅をアイスクリームと合わせた。

デザイニングアウト Vol.2日本の伝統を深く理解し、愛でる台湾の美食家たち。

稗田シェフが仕立てた料理にはどれも、器そのものへの深い理解が垣間見えました。そして使用する食材や構成には台湾と能登への敬意が。
「輪島で出合った食材や工芸品はどれも素晴らしいものでしたが、それ以上に生産者の方々が印象的でした。みなさんご自身の扱う食材や商品に愛情を持って接し、それを通して能登の良さを多くの人に知ってもらいたい、という情熱があったのです」

食材や器のほか、テーブルセッティングに使用されたのは、輪島仁行和紙という海藻を練り込んだ輪島の伝統的な和紙。稗田シェフ自らが輪島の地で生産者と話し、その思いを汲み取ったこの和紙は、すべてのゲストが終演後にお持ち帰りになりました。この事実ひとつからも、ゲストがこの日を存分に楽しんだ様子が伝わります。

輪島塗を幾つも所有する蒐集家の方や食器好きのゲストは、事前にこの日の器について調べ、大きな期待とともに訪れたといいます。そしてもちろん『祥雲龍吟』と稗田シェフに惹かれた方々は、見事な料理に心打たれたことでしょう。

訪れた誰もが「大満足です」という言葉を残して会場を後にしたこのイベント。
稗田シェフも「台湾の人たちに輪島塗はとても人気です。しかし今回は、輪島塗の美しさだけでなく、工程や職人さんの思いにまで興味を持って頂けました。日本人としてとてもうれしい」と手応えを伝えてくれました。

そして稗田シェフ自身にとっても、今回の試みは大きな糧となったよう。イベントのあと、稗田シェフはこんなことを話しました。
「輪島塗は、これ以上進化の余地がないほど完成されています。それはこれまで輪島塗の歴史に関わってきた方々が、日々さらなる高みを目指してきたことの結果です。私も料理人として、毎日なにかひとつでもアップデートして、翌日を迎えたいと思っています。だからこの輪島塗には、とても共感できる部分が多くありました」

稗田シェフの料理を起点に、輪島塗の素晴らしさを伝えることができた今回のイベントは、輪島塗という日本文化のさらなる可能性を示しました。
海を越え、時代を越えてもなお人々を魅了する、美しき漆器。その確かな存在感は、食という舞台で、これからも価値を高めていくことでしょう。

イベント当日の食卓を彩った輪島仁行和紙。稗田シェフも手漉きに挑戦し、その伝統を体感した。

器と料理の相乗効果をテーマとした今回のイベントは、台湾の美食家たちに日本文化の素晴らしさを改めて伝えた。

美しい景観を100年先に繋げるために。弘前公園の桜を守る、桜守という仕事。[TSUGARU Le Bon Marché・桜守/青森県弘前市]

「大好きな植物を仕事にできてうれしい」と橋場さん。プロの樹木医としての厳しい視線と、植物への純粋な愛着を兼ね備えている。

津軽ボンマルシェ例年200万人以上が眺める弘前公園の桜。

毎年ゴールデンウィーク頃に開かれる日本一の桜まつり・弘前さくらまつり。人口約17万人の弘前市に、まつりの期間だけで例年200万人以上の人が訪れると聞けば、その盛り上がりようが窺えます。

残念ながら2020年の弘前さくらまつりは中止となってしまいましたが、お濠の向こうに咲き誇る桜が市民の心の支えとなったことは想像に難くありません。そしてさらに想像してみれば、遠くに見える桜の陰に、その美しさを守り続ける縁の下の力持ちが居ることもわかります。

それが今回の主役、桜守(さくらもり)です。弘前市の職員として弘前公園の桜を手入れする「チーム桜守」は約45名。そのひとりで樹木医である橋場真紀子さんに話を伺いました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

同じ種類の桜でも、日当たりや地面の傾斜、人に踏まれやすい場所など、環境により生育具合が変わってくるという。

約45人のメンバーで構成されるチーム桜守。「ひとりだとできないことも、チームならできる」と橋場さん。

桜の状態を調査、管理する桜守。その仕事は開花調査や土壌の改良から枝の雪下ろしまで多岐にわたる。

津軽ボンマルシェ弘前市民と桜の深い繋がり。

弘前城を中心とした弘前公園には、52品種、約2600本。例年4月下旬から5月上旬に見頃を迎える桜は、弘前のシンボルとなっています。この桜は、単なる春の風物詩として以上に、市民と深いかかわりがあります。

たとえば「不定期ですが、雪や寿命で倒れた弘前公園の桜を木材として使用しています」と話すのは、弘前市に工房を構えるオーダーメイド家具工房『木村木品製作所』の木村崇之さん。「桜の木自体は古くから家具造りに使われ、珍しいわけではありません。でもこれが弘前公園の桜になると、意味が変わってきますよね。楽しませてくれた桜を最後まで大切にしよう、というメッセージにもなります」と、桜への愛着を語ります。

開花の時期以外も、毎日弘前公園を散歩する人もいます。桜の景色を名物にするカフェやレストランもあります。「桜との繋がりが非常に強い市民。市職員に桜の管理をする係があること自体が、市民の理解があることの証明です」と橋場さんは話しました。

「桜を見に来た方には綺麗だな、すごいな、と思って頂ければ良いのですが、私たちは仕事ですから、葉の出方や樹勢、土壌の状態など、さまざまな点を注視しなくてはなりません」とプロの目で桜を見守る橋場さん。
「それでも満開の時期にはやっぱり圧倒されてしまいますが」と笑う橋場さんの物語を少しだけ紐解いてみましょう。

樹齢100年を越す桜が密集して咲き誇るのが弘前公園の桜の特徴。開花密度は国内屈指で、圧倒的な存在感の桜が楽しめる。

通年開放される弘前公園は市民の憩いの場。「桜の四季を見てもらいたい」という意識が、チーム桜守のモチベーションに繋がる。

津軽ボンマルシェ開花調査から雪下ろしまで。桜を支える桜守の仕事。

橋場さんは1973年、青森県大鰐町に生まれました。
「自然が当たり前にある環境で育ったからでしょうか」と、小さい頃から植物が好きで、成人後は弘前公園内にある植物園に就職。そこで経験を積み樹木医の資格を取り、やがて弘前市の職員となり、公園緑地課に配属されました。
「弘前公園が自分のフィールド。恵まれた環境だと思います」と自身の仕事への愛を語ります。

桜守の仕事は、一年中続きます。4月と5月は開花調査。花の咲き方、散り方を見て、今後に繋げる計画を立てるのです。「少し調子の悪いエリアがあれば、肥料の与え方などを変える。そして翌年以降に効果を調査する。地道な作業です」

6月になると土壌を調査するほか、新しい品種を作るための種の採取。夏には枝や葉をチェックし、病虫害の部分を剪定します。秋には極端に弱った木の土の入れ替えをし、冬は枝の雪下ろし。古い枝を落とし、若い枝を育てるための冬の剪定も大切な仕事です。そして1月には枝を加温して人工的に開花させることで、その年の開花量を調査し、3月からは開花を予想。どの作業も桜のために欠かすことのできない、大切な仕事です。

ハサミとノコギリとコテが仕事の三種の神器。特注で角の部分に刃を入れたコテは、土壌を調べたり、樹皮を削ったりと万能。

夏の剪定は、春から伸びた枝で病気や虫害が被害枝を落とす作業。細かいチェックが後の生育に繋がる。

公園内の桜は約2600本。状態を調査するだけでも膨大な時間がかかる。

津軽ボンマルシェその目が見据えるのは、100年先の弘前公園。

橋場さんに仕事で辛かったことを聞くと「ありませんね」ときっぱり。それでも「今年はさくらまつりが中止になって、改めて大勢の方がこの桜に関わり、待ち望んでいたのだとわかりました。早くまたみんなで楽しめたら良いですね」と思いを聞かせてくれました。
反対に仕事でうれしいことは「今年の桜は良いね、といわれること。市民の方は桜との思い出が多く、大切に見守っていますから、その言葉は重いですね」といいます。弘前の桜を守る、責任と誇りが垣間見える言葉です。

弘前市で桜が管理されはじめたのは昭和30年代から。手入れの方法や桜への思いを、脈々と引き継ぎながら現在に至ります。

その甲斐あって、通常は60〜80年といわれるソメイヨシノの寿命ですが、弘前公園には樹齢100年を越える木が400本以上。開花量も豊かな古木の存在が、日本屈指といわれる弘前公園の桜景色を生み出しているのです。

「弘前の桜を守るために仕事をしています。だから今の夢は、この景色を100年先まで繋げること」
桜を守るため日々努力する桜守の存在を思えば、来年の桜はいっそう美しく感じられるかもしれません。

昭和30年代から受け継がれる管理方法だが、資材や機械の入れ替わりに合わせ、時代に沿った方法が日々模索されている。

古い枝が若い枝と入れ替わることを繰り返しながら、毎年美しい花を見せる桜。その陰には桜守たちの仕事がある。

住所:青森県弘前市大字下白銀町1 MAP
電話:0172-33-8739(弘前市公園緑地課)
https://www.hirosakipark.jp

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

人にも自然にも限りなく優しい気持ちが、知の探求と津軽の未来を繋ぐ原動力に。[TSUGARU Le Bon Marché・医果同源りんご機能研究所/青森県弘前市]

左端の佐藤悠平氏は安幸氏の元教え子で、学生時代のりんごの機能性研究で培った知識と技術でみんなを助ける心強いスタッフ。

津軽ボンマルシェひたすらりんごの研究を続けた、農学博士が作る自然のお茶。

弘前市内から出発して、もう一時間近く経っていました。車はどんどん森の奥へと進んで行きます。木々の生い茂る鬱蒼とした狭い山道が続き、やがて舗装されていないガタガタ道に差し掛かった頃、ハンドルを握る城田創氏がポツリと語り始めました。「僕、熊に会ったことあるんですよ」。悪路で体を上下左右に不規則に揺らしながら彼は続けます。「子熊を2頭連れた母熊に遭遇しちゃいまして。最初は僕を見つけた子熊が、無邪気にパーッとこっちに走って来たんです。そしたら今度は気を荒げた母熊がグワッと向かってきました。もう体が氷のように固まって動けなくて。自分との距離は10mもなかったです。とっさに、たまたま持っていたチェーンソーのエンジンをかけたら、音が響いて、驚いた母熊は逃げてくれた。それでどうにか九死に一生を得たんです」。
そんな話を聞いた後、農園で見たりんごの木には、熊の爪痕がしっかり残っていました。ばったり熊と出会ってもおかしくないほどの深い山の奥地に、彼らのりんご農園はあります。

『医果同源りんご機能研究所』という会社が、無農薬無化学肥料のりんごの葉でお茶を作っている、という噂を耳にした時は興味が募りました。りんごの葉がお茶になるなんて今まで聞いたことがなく、どんな味なのか想像もつきません。そのお茶が販売されていることを最初に発見したのは、以前紹介したbambooforestにて。店主の竹森幹氏も一押しの商品でした。実際に味わってみると、焙じ茶のような穏やかな香ばしさの中に、ほんのりと優しい甘みがあり、クセのないまろやかなお茶で、お菓子との相性も良いものでした。
この会社では、お茶の他に、未熟りんごの入ったりんごジュースや、りんごの発泡酒など、一風変わったりんごの加工品を手掛けています。所長の城田安幸氏は農学博士で、かつては弘前大学農学生命科学部准教授として20年以上りんごの機能研究を続けてきたという専門家。その博士が作るりんご製品というのならば、ただのジュースやお茶ではないはずです。これはどうしても、城田博士に会ってみたくなりました。

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農園へ向かう道中「車が5秒で真っ黒に汚れるので、ここに来る時は洗車しません」と笑う創氏。冬は雪に覆われるのでスノーモービルで移動する。

「アップルバレー」と彼らが親しみを込めて呼んでいる、標高400m、18haの広大な農園。晴れた日には津軽のシンボル、岩木山が雄大にそびえる姿を拝むことができる。

津軽ボンマルシェ生き物への興味と好奇心、そして優しい気持ちが新しい扉を開く。

「おーい。みんなで畑に行こう!」と明るく人懐こい笑顔で迎えてくれた安幸氏は研究者というより、これからジャングルへ向かう探検隊長のようでした。そして研究していたのは、りんごだけではありません。子供の頃から昆虫が大好きだったという安幸氏。高校の同級生だった妻のあい子さんに言わせると「今も昔も本当に、アリもゴキブリも殺さない」のだとか。安幸氏の父親は沖縄の生まれで「虫はご先祖様であり、お盆には虫に姿を変えて会いにきている」と教えられたそうです。弘前大学では進化生態学という、生物の進化の研究をする中で、蝶や蛾の羽などに目玉模様があることに疑問を持ち、カイコにも目玉模様を付けられないか遺伝子実験を行ったり、化石の中に閉じ込められた何千万年も前のハエのDNAを取り出して蘇らせるという「ジュラシック・パーク」のようなプロジェクトを行ったりもしていたそうです。昆虫少年・安幸氏の活動は、当時放映されていたNHKのテレビ番組「むしむしQ」「あにまるQ」などの監修にも広がり、子供たちに虫や動物のことを面白く楽しく伝えることに情熱を注いでいました。

そしてカイコの実験をきっかけに開発したのがなんと「目玉かかし」。田んぼや畑へ行くと、目玉の模様が付いた鳥避けの風船のようなものを見かけることはないでしょうか? これを最初に発案したのは、実は安幸氏だったのです。目玉模様のあるカイコを鳥に餌として与えると避ける傾向にあったことを発端に、「鳥は目玉に怯えるのでは?」という仮説を立て、鳥が怖がる目玉のサンプルをいくつも試作して、鳥の行動観察実験を繰り返し、目玉かかしが誕生したのでした。実験の様子は「目玉かかしの秘密」という書籍にまとめられ、課題図書にもなっています。

このように安幸氏の研究活動は一つには収まらず、次々と湧き上がる疑問と興味が多様に広がり、とてもここでは書ききれないほど膨大なものでした。「父の話は1つ引き出しを開けると、あっちもこっちも開いちゃうので、1話が100話分くらいになっちゃうんですよ」と笑う創氏の言葉も納得です。
しかしどれも一貫して、人を含めた生き物、そして自然への底抜けに温かく優しい眼差しが根底にあるのです。目玉かかしは鳥をむやみに殺さず傷付けず、人間とうまく共存するために考え抜いた策。そこに安幸氏が安幸氏たる所以があります。

そんな安幸氏は、カイコの研究でひとつの発見をしました。というのも、大量に出るサナギを使い、冬虫夏草の一種であるサナギタケを育て、抗腫瘍効果の研究も行っていたのです(冬虫夏草は蛾の幼虫やサナギなどに寄生するキノコの一種で、漢方の生薬や薬膳料理にも用いられる)。ただ、冬虫夏草はかなり高価な稀少品。そのほかに試しに地域の特産物であるりんごを使い、同様の実験をしたところ、未熟りんごと成熟りんごを混ぜたジュースに抗腫瘍効果があることが分かったのです。

自家農園で育てた有機未熟りんごを25%混ぜたりんごジュース。甘みの中に酸味がスッキリと爽やかで透明感のある味。パッケージデザインは2020年にリニューアル。

左から城田家長男の妻の城田文香さん、次男・創氏の妻の城田沙織さん。そして福士友実さんは家族以外で初めて採用された、勤続12年のベテラン社員。

無農薬のりんご栽培はほぼ不可能と言われるほど難しいが、「それは本当なのか、どこまでできるのか、実証してみせる必要がある」と安幸氏。農園は2014年に有機JAS認証を取得。

津軽ボンマルシェ大切な人を失い、癌の研究から無農薬のりんご栽培へ。

通常、摘果時に捨てられてしまう未熟りんごは、一般的なりんごの3分の1ほどの大きさですが、紫外線や害虫から身を守り、元気に成長するために、成熟りんごの5〜10倍ものポリフェノールが含まれています。未熟りんごの果汁は、それだけでは渋くて飲めませんが、さらに研究を重ね、砂糖や香料などは使わず、成熟りんごを混ぜたベストな配合を編み出したのです。
こうして完成したジュースをもっと世に役立たせたい、と考えた安幸氏はあい子さんと二人で会社を設立。食は医療の根本であり、病を治す薬と、健康な暮らしを保つための日常の食は本来一緒である、という意味を表す「医食同源」から発想を得て、「医果同源」とネーミング、ジュースの商品名として名付け、販売を開始。2005年には「リンゴやナシの、未熟果実と未成熟果実の両方用いることで得られる免疫賦活剤」の特許を日本特許庁より取得しました。さらに中国特許庁より「免疫賦活剤」「健康飲料や健康食品」の特許も取得。「リンゴの抗腫瘍効果」と題して、日本癌学会学術総会でも発表されました。

このように安幸氏が癌研究を始めたきっかけは、過去の辛い出来事にあります。というのは、安幸氏は、癌と誤診され、高齢で手術に踏み切った父親をなくしています。しかも、その手術を勧めたのが安幸氏本人だったのです。安幸氏は自責の念に苛まれました。とことろが、父親が解剖された翌日、安幸氏の夢の中に父親が出てきて、こう告げるのです。
「手術と抗癌剤と放射線治療に代わる方法を考えなさい。それが、残されたお前の人生を賭けてやるべきことだ!」
もうひとつ大きな要因もありました。社会人入学で大学院に進学した、将来有望だった同世代の大切な友を癌で亡くしたことも安幸氏に大きな影響を与えていたそうです。その友との約束が「免疫力を高めることで癌を予防する方法を確立する」ことだったといいます。

2010年より自分たちでりんごの無農薬栽培を始め、2013年に大学を退職すると、退職金で広大な土地を購入。安幸氏は「退職後の事業、また生涯の研究課題として続けて行く」と覚悟を決めました。しかし、実際にりんご栽培はそう簡単なものではなかったといいます。たとえ花がたくさん咲いても、実が少ない年が続いたり、病気や害虫で木がどんどん枯れてしまったり……。ただ、通常、病気になった木は菌を保持しているので切り倒してしまうのですが、安幸氏は病気だからと見捨てることはありません。まだ生きているのなら大事に育てよう、と最後まで残したのです。剪定もしないためグイッと空高く伸びる枝。ようやく実ったりんごは形の悪いものも多かったそうですが、自然を大切にするという一貫した志が消費者の心を掴むのでした。首都圏の百貨店で販売したところ、瞬時に売れてしまったそうです。

そして10年間継続してきた無農薬栽培ですが、現実にはほとんどの木が枯れてしまいました。ただ、結果的には悪いことばかりではありませんでした。以前、『津軽ボンマルシェ』で紹介した『岩木山の見えるぶどう畑』の伊東竜太氏は、かつては農場での酢の散布やりんごの収穫を、アルバイトとして手伝ってもらっていました。『白神アグリサービス』の木村才樹氏は安幸氏の教え子で、収穫時に重機によるりんごの運搬や人手の紹介などでお世話になっていたのです。比較的近くにある『おおわに自然村』は豚ぷんを堆肥として分けてもらっているという長年のお付き合い。『津軽ボンマルシェ』に登場の面々を始め、地域の人々との繋がりによって助けられ、『医果同源りんご機能研究所』はここまで育てられてきたのでした。たとえ多くの木を失ってしまったとしても、それ以上に得るものはたくさんあったのではないでしょうか。

2020年の春、安幸氏は新たに414本のりんごの苗を植えました。
「これで良い悪いではなく、10年やった結果として受け止め、今後に生かしていければ。植えた苗のうち214本は、12年間試みた完全無農薬栽培で元気に生き残った木の枝を接木した苗です。昨年から有機栽培も開始しました。有機といっても色々あり、認証を受けた農薬なら予防目的で使うこともできるのですが、自分たちは引き続き極力農薬は使わず、病気が出たときだけ、例えば木の幹に菜種油を塗るなど、なるべく自然に近い形で対応していく方針です」

植えられたばかりのりんごの苗。自分たちのやり方で有機栽培を行い、どんな果実が実るのか挑戦は続く。いずれは様々な品種のりんごの葉をお茶にすることも研究したいそう。

「りんご葉の茶」の原料になる湖北海棠(コホクカイドウ)の葉。よく見ると縁の部分がほんのり赤いのが特徴。

湖北海棠の葉の状態をチェックする創・沙織夫妻。収穫は夏と秋の2回行い、二つの季節の葉をブレンドして商品にしている。

満開の湖北海棠の花。“海棠”といえば、ほろ酔いでうたた寝姿の楊貴妃をたとえた話を思い出すが、その仲間だろうか。上品で可憐なピンク色にハッと目が引き寄せられる。

津軽ボンマルシェ津軽を思い、りんごの新しい可能性を探る、探求は生きがい。

2020年から本格的な販売が始まった「りんご葉の茶」も、長年のりんご研究の中から生まれました。りんごの葉でお茶を作れないか、という構想自体は安幸氏のなかで10年前からあったそうです。実際に調べてみると、中国では昔から、湖北海棠(コホクカイドウ)という品種のりんごの葉をお茶にして飲んでいたようで、効能に関する研究論文があり、apple leaf teaという言葉も記録されていました。湖北海棠は日本でもかつて九州地方に自生していましたが、現在は絶滅状態。そこで安幸氏は、様々な種類のりんご栽培研究を行なっている「青森県産業技術センター りんご研究所」で研究用として保存されていた木の枝を譲ってもらい、接ぎ木で増やすことに。現在は177本の湖北海棠が畑で育っているのだとか。生の葉を少しかじってみると、ほのかに柔らかな甘さ。秋にはもっとりんごらしい香りと深みのある味になるのだそうです。

りんごの葉にはポリフェノールの一種であるフロリジンという成分が豊富に含まれています。これには血糖値の上昇を抑え、抗加齢効果のあることが分かってきており、注目の成分として、世界で様々な研究が行われているそうです。「お茶として製品化するのは、実はうちが日本で初めてなんです」と安幸氏。収穫した茶葉は、きれいに洗浄して5日〜1週間乾燥させた後、静岡にある有機JAS認証の茶製造業者にて焙煎し、お茶に加工されます。ティーバッグは自然に還すことのできる、地球に優しい素材として、植物由来のフィルターを使用しました。

青森県は短命県と言われ、平均寿命は日本最下位が続いていますが、安幸氏はその改善に少しでも役立つことができないか、と以前から考えていたそうです。また、りんご農家は高齢化が進み、後継者不足と経営難で生産者が激減しています。りんご栽培の新たな可能性を多方面から探り、「付加価値を生み出すことで農業を支えることができたら」という思いが、この研究の大きな原動力になっています。終始温かい目で安幸氏を見つめていたあい子さんは、「ジュースができて15年、お茶が発案から10年目で発売など、2020年はいろんな意味で節目の年なんです。振り返ってみると、私たちがずっと大切にしてきたのは“優しさ”でした。人にも自然にも優しいということが全ての根本にあり、これからもずっと続けていきたいと願っていることです」と静かに語ってくれました。

さて、みんなが農園から引き上げようとすると、「僕はまだここに残るから」と安幸氏。実は毎日午後から農園に出向くと、夜の9時10時まで居残り、新たな研究に勤しんでいるのだそうです。農園の一角に定点カメラを設置し、夜間にどんな動物がここを訪れるのか、りんごを置いて観察しています。「これは父の生きがいだから、誰にも止められません」と創氏。テンやアナグマ、ハクビシンなど、様々な動物たちの写真をまるで自分の友達のように見せる安幸氏の目はキラキラと輝き、優しさに溢れていました。そして安幸氏の意志を受け、生き生きとした姿勢で全面的に支え、地道に丁寧に形にしていく家族やスタッフたちが、今後も共に地域の希望を照らしていくのだと強く感じられたのでした。

「りんご葉の茶」。左の立体のパッケージは、あい子さんが湖北海棠の葉を押し花にしたものを見た地元のデザイナーがアイディアを巡らし、葉の形としてデザインした。

こちらは水を一切使わず、オーガニックのりんごと麦芽だけで作られた発泡酒。19歳の時の安幸氏の写真がトレードマークのようにラベルにデザインされている。

3年前から設置している手作り巣箱に、ようやく棲みついたフクロウが卵を産み、二羽の雛が孵った。フクロウはネズミをたくさん食べるため、畑にとって幸運の鳥といわれる。

この日は巣箱に入ったフクロウを初めて見る日だった。ちょっとはしゃぎ気味で嬉しそうに巣箱を覗こうとする城田ファミリー。

住所:〒036-8252 青森県弘前市旭ヶ丘2-4-13 MAP
電話:0172-35-5931
https://www.ikadogen.com

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第一弾のレシピ動画が公開! 続く第二弾は7月中旬に公開予定。

第一弾のレシピ動画は6月25日公開、続く第二弾は7月中旬に公開予定。

ダイニングインサイドあの名シェフがレシピを直伝。家庭で気軽に、一流の味を楽しめる。

遠方への旅行や頻繁な外食から少し足が遠のいた昨今。家庭での食事の機会も増え、毎日の料理のレパートリーに悩む方も多いことでしょう。

そんな今、レクサスが、名だたるシェフたちの手によるレシピ動画を公開します。

なぜモビリティ・ブランドのレクサスが、レシピ動画なのか? それは、レクサスがプレミアム野外レストラン『DINING OUT』のパートナーとして、数々の地域で一流シェフや真摯な生産者と繋がってきたから。こんな時代だからこそ、各地の食材を使ったレシピ動画「DINING INSIDE」を通し、改めて地域の豊かさを感じてほしい。そんな思いが形になった、オリジナルレシピです。

第一弾は6月25日に4名のシェフのレシピを公開。いまや世界的人気を誇る和食店のあの人、福岡を代表するあの店、星付きフレンチの巨匠、魚介フレンチの若きスペシャリスト。個性豊かな4名のシェフが、個性豊かなレシピを紹介してくれます!

下ごしらえや盛り付けなど、一流シェフたちのテクニックを一挙に公開。

使用する食材は基本的に、手軽に手に入るもの。家庭で簡単に再現できる。

動画はすべてシェフたちが自ら撮影してくれたもの。名店の雰囲気も伝わる。

ダイニングインサイド鍵となる食材は、ECサイトでお取り寄せ可能。

今回のレシピのテーマは、家庭で手軽に再現できること。使用する食材も、基本はスーパーで購入できるものばかりです。
しかし実は使用食材の中にはそれぞれのシェフごとに数品ずつ、特別な食材が含まれています。そしてこれこそが、地元応援の軸となるのです。

これまでレクサスは、地域生産者の協力を得ながら、ONESTORYとともに「DINING OUT」を開催してきました。そして今回のレシピ動画は、その地、その食材に縁の深いシェフが心を込めて作り上げたもの。食材を通して地域の魅力が伝わり、その土地に思いを馳せることができるもの。いつか再びその地を訪れられるようになる日まで、思いを繋ぐことができるもの。そんな地元応援の気持ちがレシピに込められているのです。

そこでシェフたちが紹介する、レシピの鍵となる各食材は、記事内のリンクにあるECサイトで購入できるようになっています。鍵となる土地の食材があることで、シェフの伝える料理もいっそう郷土色豊かなものになるのです。

各地の食材を取り寄せ、その食材を知り尽くしたシェフのレシピで調理する。家にいながら、その土地に思いを馳せ、その土地の魅力を味わう。だから名前は、「DINING OUT」ならぬ、「DINING INSIDE」。各地を旅するように味わう、名シェフのレシピ。ぜひお楽しみください。

日本各地でこれまでに18回開催された「DINING OUT」。その魅力を自宅で再現することが今回のテーマ。

「DINING OUT」を陰で支えたのは、数々の生産者たちの存在。地元応援レシピは、シェフから生産者への恩返し。

盛り付けや器選びなど、レシピ以外にも参考になる情報がもりだくさん。

農業を知的産業に。革新を打ち出すりんご農園が描く、農業の未来。[TSUGARU Le Bon Marché・もりやま園/青森県弘前市]

2015年に会社化し、シードルの醸造も自社で行う『もりやま園』。労働環境や賃金の問題にも積極的に取り組む。

津軽ボンマルシェ青森のりんごの故郷近くで、注目を集めるりんご農園。

明治時代初期、3本の樹からはじまった弘前のりんご作り。その発祥の地の石碑にもほど近い場所に、一軒のりんご農園があります。名は『もりやま園』。広さ9.7ヘクタール、りんご農家としての歴史は100年以上、そして前事務所の所在地はりんご栽培に由来する「弘前市樹木」。規模も歴史も、りんごの街・弘前を代表するような農園です。しかしこの農園が注目を集めるのは、出荷量の多さや伝統を脈々と引き継いでいるという事だけではありません。

『もりやま園』を「革新的なことに捨て身で取り組んでいる」と評したのは、『カネタ玉田酒造店』の玉田宏造氏。同じくりんご作りに取り組む『おぐら農園』の小倉慎吾氏も「考え方が非常に合理的で、多大な影響を受けています」と話します。業種を問わず注目を集めるのは、伝統ではなく、むしろその革新性にあるようです。

そこで100年続くりんご農園が打ち出す革新性、そして描く未来を探りに、『もりやま園』代表の森山聡彦氏を訪ねました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

岩木山を望む9.7ヘクタールのりんご畑。敷地には明治築の貯蔵蔵が残されるなど、青森におけるりんご草創期から続く歴史ある農園。

前事務所の住所は、青森県弘前市樹木。りんご作りに因んで名付けられた、由緒ある地名。

津軽ボンマルシェ自転車競技に没頭した学生時代。

出迎えてくれた聡彦氏は、少し寡黙な印象。心の距離を縮めるべく、まずは聡彦氏自身について尋ねてみました。

「自分は森山家の11代目、りんご園としては4代目。だから家を継ぐのは当たり前。小学生の頃から農園の手伝いをしながら、いつか自分がやることを考えていました」と聡彦氏。それから「トラクターに憧れもあったかな」と笑いました。幼い頃から家を手伝い、りんご作りの基本を両親から学ぶ聡彦氏。やがてこの経験は活かされますが、それは少し先の話。成長した聡彦氏は、やがて弘前大学の農学部に進学します。

りんご農園に生まれたからと言って、四六時中りんごのことばかり考えていたわけではありません。学生時代は自転車競技に没頭。とりわけ自転車のクロスカントリー競技は、「畑に出てたから足腰が強かったのかな」と、初めて出た大会でいきなり優勝。卒業後も「寝ても覚めても自転車」というほど熱中していました。

そんな自転車競技に「十分やらせてもらった」と、自身で区切りをつけたのは、35歳の頃。その前後から本格的に農園に入り、さまざまな手を打ち出す聡彦氏。革新の物語が、ようやく動き出します。

ちなみに最初は寡黙な印象でしたが、一度打ち解けるとさまざまな思いを打ち明けてくれる聡彦氏。「強情ばりで人情深い」といわれる津軽の男・津軽衆のイメージそのままの人物です。  

パソコン知識やシステム開発は独学。子供の頃から、好きなことはとことん追求するタイプだったという聡彦氏。

自転車のキャリアハイは、ジャパンシリーズ・エキスパートクラスでの準優勝。表彰台に立つほどの実力だった。

事務所の薪ストーブで燃えていたのは、りんごの樹。「捨てる時点で負け」という聡彦氏の言葉の証明。

幼い頃の聡彦氏を惹きつけたトラクターは現在も健在。いかにも少年の心をくすぐるメカニカルな造りが印象的だ。

津軽ボンマルシェデータベース化により可視化されたりんご作りの課題。

『もりやま園』の畑は9.7ヘクタール。弘前の一般的なりんご農園が1.0〜1.4ヘクタールであることと比べれば、かなり大規模であることが伝わります。一方で働き手は、基本的に家族のみ。それぞれに長年作業に従事する“慣れ”があるからこそ、可能なことでした。幼い頃から農園を手伝っていた聡彦氏には、漠然とした疑問がくすぶっていました。

「どの品種が何本あって、どういった収益があるか、そのためにどういう順序で作業をするか。そのすべては父の頭の中だけにありました。何かを変えたいと思っても、現状が何もわからない状態だったんです」

2008年、聡彦氏が最初に手をつけたのは、すべての樹に番号を振り、データベースにする作業でした。数はおよそ1300本。気の遠くなるような作業です。書き終える前に初期に振った番号が雨で消えてしまうこともありました。しかし地道に、一本ずつデータを取る聡彦氏。データベースのシステムは独学。スマートフォンのない当時、オークションでPDAを買い漁りました。そうしてようやく農園の様子が俯瞰でみえるようになると、問題点が浮き彫りになりました。

「収益が上がらない品種に手間ばかり取られ、上がる品種に手が回っていなかったんです」

データにすることで見えてきた実像。以後も聡彦氏はこのデータベースを基本に、栽培の管理を進めていきます。

データベース化で見えてきたのは、安祈世(あきよ)という手間のかかる品種が2割もあり、フジなどの主力品種の作業を圧迫していたこと。

1300本のりんごの樹だが、現在は1本ずつ作業記録をつけることで、無駄なく効率的な作業が可能に。

津軽ボンマルシェ当たり前の作業に疑問を抱かせた、ひとつの災害。

りんごの樹のデータベース化に成功した2008年、もうひとつの転機が訪れました。きっかけは、6月13日の降雹。摘果作業が始まったばかりの小さな果実がほぼ全て陥没だらけになったのです。傷は元には戻りません。
今振り返ればこの時期は、まだ年間作業の20%程度の進捗。その年のりんごに見切りをつけて残り80%の投資を打ち切れば、経済的な傷口をそれ以上広げずに済んだでしょう。しかし「諦めずに頑張ろう」と呼びかける業界のキャンペーンに流され、結局『もりやま園』だけでなく、他の農家も皆、例年通りの管理を続けたのです。その結果、秋に採れたりんごはおいしく食べられるにも関わらず、見た目は傷だらけで大半がジュース向けの加工用に仕分けられました。
加工場には処理能力を超えるりんごがうず高く積まれ、買い取りをストップし、行き場のなくなったりんごが大量に廃棄されたのです。

雹や台風といった自然災害は人の力では防ぎようがない、しかし、経済的な損失はコントロールすることができる。もっと素直に自然と向き合えば、自然災害のリスクをリスクとせず、チャンスに変えられるのではないか。聡彦氏はこの経験をもとに、そう考え始めたのです。

「そんな時、鰺ヶ沢の方で、加工専用栽培をやられている人がいると耳にしました」

その人物こそが、40年以上も前から加工専用りんごの栽培を続けるパイオニア『白神アグリサービス』の木村才樹氏。現在は友人でもあり、ともに挑戦を続ける人物です。

「当時は加工用のりんごは“ジャムりんご”といって見下されるような価値観。しかし可能性として無視したくありませんでした」

そう振り返る聡彦氏。というのもデータベース化により見えてきたのは、品種別の収益のことだけではなかったのです。

「摘果に年間3000時間、着色管理に3000時間、選定にも膨大な時間。収穫する時間は年間の15%だけ。つまり残りの85%は、捨てるためだけのマイナスの作業だったんです」

多大な作業時間は、家族といういわば無償の労働力があってはじめて成り立つもの。このマイナスを、なんとかプラスに変えなくてはいけない。しかし加工用のりんごの取引価格は、普通のりんごの半額以下。「何かもうひとつ、アイデアが欲しかった」あれこれ考え続けていた聡彦氏に、またしても転機が訪れます。2013年のことでした。

ひとつを残して未熟な実を摘む摘果。すべての樹の、すべての花に対して手作業で行われる。

聡彦氏の摘果は、目にも止まらぬ早業。長年続けてきたからこその熟練度だ。

津軽ボンマルシェマイナスをプラスに変える、未熟りんごのシードル。

2013年、弘前市で発足した「弘前シードル研究会」の研修でフランスを訪れた聡彦氏は、ノルマンディーで開かれたシードル祭りで、原料のりんごを齧りました。その味は、苦い、渋い、酸っぱい。しかしこれがシードルになると、途端においしくなる。そして聡彦氏は、このりんごに似た味を知っていました。それが摘果の未熟りんごです。

摘果とは、ひとつの株に星型に5つほど成るりんごの幼果を、中心のひとつを残して摘む作業のこと。養分を分散させず、りんごの実を大きく育てるために必須の作業ですが、摘んだ未熟な果実は、ただ捨てるだけ。手間はもちろん、廃棄自体にもコストがかかります。しかしこれがりんご栽培の常識でした。

ノルマンディーでの体験により「摘果がビジネスになる」ことは確信しました。その着地点は、シードル。ジュースを使ったシードル作りは以前から続けていました。ここに摘果が入ることで、革新性が生まれます。

「7月に摘果、秋にりんごの収穫。年に2回の収穫があるわけです。これはマイナスをプラスに変えること」もちろん、シードル作りも簡単な道ではありません。シードルにするには無農薬でなければならず、一般流通にすると周辺農家に迷惑がかかるから、と、自社加工の設備を整えました。そして何度も試作を繰り返し、ノウハウを積み重ねます。そうして生まれたシードルは、すっきりとして、ビールのように爽快な味わい。いまや『もりやま園』の代名詞ともなった『テキカカシードル』の誕生です。

課題を見つけ、仮説を立て、実証する。聡彦氏の革新性の背景には、そんな研究者的な思考がありました。そしてその研究は、いまも止まることなく続けられています。

販路を拓くこと、価格決定権を自身で持つこと、知的財産、特許、商標の活用、ブランディング。さまざまな思考が聡彦氏の頭の中を駆け巡ります。そしてそれらをまとめ、聡彦氏は未来の夢を語ります。

「農業を知的産業にしたい」

作る側が主導権を握り、未来を描ける農業。その実現までの道程で、聡彦氏は今後もきっとさまざまな革新を、私達に見せてくれることでしょう。

りんごのデータベース化とスマートフォン管理のシステムなどが、ビジネスコンテストで受賞。摘果を使ったシードルは、農林水産大臣賞も受賞している。

テキカカシードルは甘くなく、食中酒として料理に合わせやすい。ビールのようにシードルを普及させることも聡彦氏の課題。

自社農園の天然酵母と彩香(さいか)という品種のりんごで作った「えんシードル」は、2020年5月に新発売。

住所:青森県弘前市緑ヶ丘1-10-4 MAP
電話:0172-78-3395
https://moriyamaen.jp/

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作らない工芸作家。大好きな津軽塗を守るために選んだのは「伝える」という戦い方。[TSUGARU Le Bon Marche・CASAICO/青森県弘前市]

漆の技術のひとつである金継ぎの技法で器を修理するのも彩子さんの仕事。丁寧な仕事で、ひとつにつき数週間はかかる。

津軽ボンマルシェ無限のバリエーションを持つ、青森県唯一の国指定伝統工芸品。

花柄、カモフラージュ柄、アニマル柄。見ようによってさまざまな柄に捉えられる、複雑で、どこかモダンでさえある模様。これも津軽塗なんですか、と問うと「津軽塗の表現は、無限なんです」と誇らしげな答えが返ってきました。

声の主は、セレクトショップ、ギャラリー、工芸教室、漆工房が複合した施設『CASAICO』の店主・葛西彩子さん。店先には陶器、漆器、金属工芸などの雑貨が並び、奥のギャラリーはゆったりとした空間がゲストを迎えます。そして教室に置かれた津軽塗の色見本「手板」には、たしかに無限と思える無数の色、柄。多くの観光客にとって、美術館や土産物店で出会うだけだった津軽塗、その歴史やバリエーションも含め、より深く親しむことができるのがこの『CASAICO』なのです。

そもそも津軽塗とは、青森県で唯一の経済産業大臣指定伝統工芸品。江戸時代からこの地に受け継がれてきた漆器が、明治6年のウィーン万博出展を機に、正式に津軽塗と呼ばれ始めたことが起源です。その姿はさまざまですが、とりわけ印象的なのは「研ぎ出し変わり塗り」。凹凸をつけて何度も重ね塗りした漆の表面を研ぐことで複雑な模様が浮かび上がる、津軽塗独特の手法です。

そんな青森を代表する工芸品・津軽塗ですが、課題がないわけではありません。とくに後継者不足による産業自体の衰退は、喫緊の課題です。しかし困難があれば、それに立ち向かう人もいる。そこで『CASAICO』の葛西彩子さんの、津軽塗の未来のための物語をお伝えします。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

『CASAICO』があるのは、弘前駅東側、長四郎公園の近く。観光客がふらりと来るエリアではないが、こだわりのある小さな店が点在する。

何層も塗り重ねた後に、表面を削って模様を浮き上がらせる研ぎ出し変わり塗り。これにより複雑で立体的な模様となる。

制作や教室で使う道具は自作。これにより「職人の数だけ模様がある」という多様性が生まれる。

津軽ボンマルシェ錫に魅せられた少女が、津軽塗と出会うまで。

宮城県仙台市に生まれた彩子さん。小さい頃からどちらかといえばインドア派で、工芸品などに興味を示す子供だったといいます。そんな彩子さんがとりわけ興味を持ったのは金属。独特の光沢と重厚な存在感、そして金属を加工して生まれる工芸品の美しさに惹かれました。

高校卒業後は、東北芸術工科大学工芸コースに進学。そこで転機が訪れます。金属のなかでもとくに錫に没頭していた彩子さんですが、大学の金属コースの定員はごく少数で、当時は需要の面からも錫作家の道は狭き門だったのです。そんな折に本当に偶然に、津軽塗を目にしましたといいます。いままで触れたこともない漆は、まったく未知の世界。しかし生で見る津軽塗は、大好きな金属のような輝きを放っていました。「これなら金属表現ができる」そう直感した彩子さんは、金属コースを諦め、漆コースに進学、大学院まで修了しました。

津軽塗に惹かれ、恩師も津軽塗産業技術センター出身ではありましたが、卒業後の彩子さんはまず、地元仙台で工房を開きました。同時に誰でも気軽に漆芸が体験できる教室もスタート。この教室で「教える」という体験も、彩子さんの視野を広げました。それから2年後、大学院の先輩であった葛西将人さんと結婚し、将人さんの故郷の弘前へ。2011年に念願だった『CASAICO』のオープンに至ります。そしてここでも中心となるのは、教室の存在でした。

しかし結婚を機に弘前にやってきた彩子さんは、いわば無からのスタート。友達もいない土地で、ゼロからすべてを築き上げなくてはなりませんでした。『CASAICO』をオープンするまでの4年間は悶々とした日々を過ごしたといいます。だからこそ、『CASAICO』での漆と金継ぎの教室は、地元の人を繋げる役割も果たしました。ギャラリーでは漆器にこだわらず、地元作家の個展も多く開きました。工房エリアを広くしたのも「津軽塗をやりたいけれど拠点のない若い世代の職人とともにやれれば」との思いから。そうして少しずつ、彩子さんの弘前での存在感は高まってきました。

近所でチャレンジしている人たちにも熱い視線を注ぎます。歩いて2分とかからぬ場所にある『パン屋といとい』の成田さんには『CASAICO』のオープニングパーティで料理の準備を頼みました。セレクトショップの『green』に対しては「刺激にもなるし、憧れもあります」と。互いに意識しながらエリアを盛り上げることで「雑貨と食べ物で人の流れが生まれれば良い」といいます。

注目の木工作家とコラボレーションし、生粋のねぷた祭り好きである将人さんの繋がりで知り合ったねぷた絵師とも交流を深める。そうして少しずつ弘前に根を張りながら、彩子さんは歩み続けてきました。

明るく、よく笑い、話しやすい彩子さん。この人柄も、地元で人の繋がりを作る原動力になったのだろう。

現在でも彩子さんの作品は、どこかに金属の輝きがあるものがメイン。錫への思いはいまも変わらずに胸にある。

陶器、ガラス、アクセサリーなどがセンス良くならぶショップエリア。売れ筋は実際に運行したねぷた絵で作るオリジナルポチ袋(その年分は無くなり次第終了)。

漆教室の生徒は約60名。津軽塗の変わり塗コースもあり評判を呼んでいる。写真は生徒の製作中作品。

3~4名が作業できる工房エリア。シェア工房にすることで、津軽塗の若い職人をサポートすることが目標。

津軽ボンマルシェ夢は津軽塗を広め、職人を守ること。決意を胸に新たな一歩を踏み出す。

時々、芸術や工芸に関わる人は、その内面にある抽象的な情熱と、言葉という表現手段の乖離によって、頑固、偏屈というイメージを持たれてしまいます。しかし彩子さんは違いました。真摯に言葉を探し、丁寧に話を重ね、その胸の内をなんとか伝えようと一生懸命なのです。そんな彩子さんに、モノ作りのモチベーションについて質問してみました。すると想定外の答えが返ってきたのです。

「今思うのは、自分でモノを作ることが好きじゃないってこと」

津軽塗を仕事にする人の、まさかの爆弾発言。しかしさらに話を聞いてみると、その思いが垣間見えます。

「16年間漆に関わってきて思うのは、これからもずっと漆を続けたいということ。津軽塗は大好きですし、教室も生涯の仕事にしたい。でもたぶんそれだけじゃダメなんです。今の自分にできること、自分にしかできないことを考えていかなくては」

そうして考え抜いた末に彩子さんがたどり着いた結論。それは自身が手を動かして制作することではなく、スピーカーとなって津軽塗を広げること、そして足並みの揃わぬことが多い職人たちの目線を揃えること。「県外から来た、漆に詳しい女。地元の職人さんたちにとっては怪しい存在ですよね、私。でもそんな立場だからこそできることがあります」

たとえば先述の津軽塗の課題。実は後継者不足以外にも、クライアントとのやりとり、配色や模様のレシピ考案、事務的な仕事も含めて作る以外の仕事は実は多いもの。そしてそれらをまとめる「ウルシディレクター」「職人のマネージャー」のような仕事は、今までにありそうでなかったのだといいます。

「弘前に来て12年、同年代の職人との信頼関係ができて、職人それぞれの得意や個性もわかってきた今だから、私にできることをやっていきたい」それが彩子さんの現在の思い。

さらに「産業と職人を守るためには、今はとにかく売れる商品をつくること」と、新たな津軽塗ブランド『KABA』のメンバーのひとりとして、より身近なアイテムの開発に乗り出しました。忙しい合間を縫って、次々に舞い込む器の修理の依頼もこなします。もちろん教室も大事。さらに職人同士の橋渡しにも邁進します。その中心となる『CASAICO』は「津軽塗が見える、買える、学べる場」。地元の人にとっても遠い世界のものだった津軽塗を、より身近な存在に変えてくれる場所なのです。

作ることではなく、伝えることで守る伝統工芸。もちろんそれは簡単な道ではありません。それでも彩子さんは清々しい笑顔で「これから5年間は、津軽塗のためだけに生きるつもり」と言い切りました。

 新ブランド『KABA』の第一弾は、箸置きとしても利用できるナプキンリング。地元ホテルなどに広め、津軽塗と出合うきっかけにしたいという。第二弾の装身具も製作中。

この日、ギャラリーに展示されていたのは、津軽塗の見本。滑らかな光沢があり、それ自体が芸術品として見惚れるような美しさ。

「ものづくりは好きではない」との爆弾発言はあったが、制作や修理に集中する彩子さんは、やはり職人の顔だ。

「大好きな津軽塗のために」と決意を新たにする彩子さん。今後はPRのほか、さまざまなコラボレーションなどの道も探していきたいという。

住所:〒036-8093 青森県弘前市大字城東中央4丁目2-11 MAP
電話:0172-88-7574
http://www.casaico.com/

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伝統工芸が生き続けるために。今こそ、本来の時間軸を取り戻したい。

永田宙郷インタビュー伝統工芸に向き合い、繋ぐが仕事。

「本当は職人になりたかったのだと思う」。
そう話すのは、伝統工芸の世界に従事するプランニングディレクター・永田宙郷氏です。少し遠回りをしながら辿り着いたのは、伝統工芸を作るのではなく支えるという仕事の方法でした。

各地の伝統工芸の商品や産地のプロデュースに関わる永田氏は、作り手と使い手と伝え手を繋ぐ場として「ててて商談会(2019年まで見本市)」を主宰する人物でもあります。デザイナー、ディストリビューター、デザインプロデューサーとともに発足したそれは、2012年にスタート。当時の参加は約20社でしたが、現在は100社以上集い (応募は200社以上)、そのオファーは増える一方です。
しかし、2020年秋の開催は中止。その理由は、周知の通り、新型コロナウイルスによるものです。

そこで新たに立ち上げたのが、オンラインショップ&メディア「4649商店街」。
一見、ふざけているようなネーミングですが、永田氏は大真面目。
「イベントや催事が次々と中止になり、接点を作る場を失ってしまいました。今の世の中で、何とか伝統工芸の火を絶やさないようにしなければいけないと思い、急遽、立ち上げました」。
出店は、何と150社以上。国が指定した伝統工芸品は235品(経済産業省HP参照。2019年11月20日時点)のため、その数の充実度は言うまでもありません。

「みなさま、どうかで日本の地域のもの作りと伝統工芸を“よろしく”お願い致します」。

新型コロナウイルス後に急遽立ち上げたオンラインショップ&メディア「4649商店街」。

「ててて見本市」の風景。日本全国の伝統工芸が一同に集い、もの、人、ことがエネルギッシュに交錯する。

永田宙郷インタビュー「売る」、「買う」を通して、伝統工芸を考える。

「現状、伝統工芸の世界では、“まだ”難局を迎えていないと思います。発注から納品までに時間がかかる特殊な業種なので、本当に怖いのは“これから”。新型コロナウイルス後の発注がなくなるのではと危惧しています」。

永田氏は、このように不安視しています。
「ものに関しての伝統工芸は、主に4つの部類に分かれると思います。美術工芸、生活工芸、手工芸、量産工芸がそれです」。
端的に解説すると、美術工芸は芸術品、生活工芸は作家が提案する日用品、手工業はメーカーが提案する日用品、量産工芸は大量生産にも近い日用雑器などです。

今回は、主に生活工芸や手工業を中心に考えていきたいと思います。
「元々、右肩上がりの業種ではないことは皆さまご存知の通りかと思います。そんな中、“売る”、“買う”という視点で考えると、主にそれをつなぐのは百貨店などの小売業になります。その販路が今回の新型コロナウイルスによって絶たれてしまったことは大打撃です。更には、新生活の始まる4月という繁忙期だったことも多大な影響を及ぼしています」と永田氏は言います。

ここで改めて浮き彫りになったことがあります。それは「依存」です。
「伝統工芸は、伝統工芸が好きなファンを増やしてきましたが、そうでない人たちにももっと声を掛けねばならなかった。ここ数十年で、ものは売り場以外でも買えるようになり、インターネットやSNSの普及が急速に時代を変化させました。特別な人だけに支えられる時代は終わったのです」。
「そうでない人たち」にも声を掛けた好例に「中川政七商店」を挙げます。
「中川さんは、伝統工芸の民主的な入り口を作ったと思います」。

しかし、丁寧に時間をかけて作られたものであればあるほど、デジタルと相性は解離してしまう難もまたあり。永田氏も頭を悩ませます。
「例えば、ある器があったとします。その手触りや口当たりが特徴であれば、やはり体感しないと伝わりません。それをオンライン上で理解してもらうのはとても難しいです」と言うも、「リアルな場にも改善の余地はある」と言葉を続けます。
「例えば、以前の呉服屋さんでは、数時間、時には数日かけて品定めをしてきたと思います。本来は、伝統工芸品もじっくり品定めをする時間が必要な類。しかし、小売業に見る陳列は、隣にカワイイかどうか瞬間で判断するような雑貨が置かれてしまうこともしばしば。ものと向き合う時間軸が異なる商品と並べられてしまうことがあります。それではものの良さは伝わりませんし、判断に必要な時間も提供できません。作る側もわかりやすいものを作ろうと考えが寄ってしまいます。分かりづらさを紐解いいて余裕を重ねていけるような商品や購入機会は生まれません」。

それは、いわゆるジャンルごとに切り分けてしまう売り場の改善。ものと向き合う時間が異なるということは、横並びにある価格の高低差も発生します。時には数十万、数百万する美術工芸であれば別ですが、手が届きやすい生活工芸や手工業の品であれば、切実な件になります。
「ものの価値を伝えるのは至難の業だと思います。伝統工芸が含む、素材、技術、精神、文化の蓄積の全てをリアルな店舗だけで補うのも難しいですし、オンラインだけで補うのも難しい。特にこの新型コロナウイルス後には、それを適材適所に伝える努力と工夫が必要だと思っています。伝統工芸だからすごい!ではなく、そのすごい!の可視化と言語化を再度するべきだと考えます」。

なぜなら、「伝統」と謳うには、その理由があるから。

上記写真は、全て2020年2月に開催された「ててて商談会」より。

永田宙郷インタビュー欧米の伝統工芸は、日本の伝統工芸に憧れを持っている。

そう永田氏は言います。
欧米の工芸は、その価値基準として社会的に芸術と並ぶクラスを日本よりも感じますが、その「憧れ」とは何なのでしょうか。
「様々な国を見ても、日本のように街角に工房があるところは特殊だと思うからです」。

街角にあることによって、地域の文化を感じることができる。
街角にあることによって、手仕事を覗くことができる。
街角にあることによって、人に触れることができる。

その全ては、ものの用途を超えた価値と言えます。その価値を得られるのは、街角にあるからこそ可能にできる体験によるもの。さらには、旅というフィルターを通すことによって、より愛着も沸き、それは特別な存在になるでしょう。
「地域と過ごす時間、手仕事を覗く時間、人に触れる時間。そんな時間の共有に国外の工芸士は憧れを持っている」。

その憧れとは、作り手と使い手の関係の深さ。それは、他国では真似できない日本独特の文化なのかもしれません。

上記写真は、全て2020年2月に開催された「ててて商談会」より。

永田宙郷インタビュー「作る」だけではいけない。「直す」までを伝えたい。

永田氏は、現在の活動以外に、実は「金継ぎ」にも力を注いでいます。その拠点は京都に置き、「ホテル カンラ京都」本館1階に「金継工房リウム」を構えます。
「例えばお皿や器を買った時、その中には産地や装飾の説明があったとしても割れた時の連絡先や修理の方法が記されているものは極めて少ないです。僕自身は漆器以外では見たことがないです。販売店は“長くお付き合い頂ける逸品です”、“これは一生ものです”と勧める方もいらっしゃると思いますが、その修理の方法を聞いた時に即答できる方は少ないのではないでしょうか。それは売り手にも問題ありますが、作り手の責任もあると思います。なぜなら、“大切に使って欲しい”、“長く使って欲しい”という意思表示は、必要だと考えるからです」。

その件に関し、フランスの某有名ブランドを例に話を続けます。
「フランスの某有名ブランドの革製品は、高額にも関わらず数年待ってでも手に入れたい方々がいます。もちろんステータスやクラスを装いたいのかもしれませんが、使い続けるという視点でも相当優れています。直せる品は、原則として必ず分解できます。革製品であれば、手縫いで仕上げ、ボンドなどを使用しないことも特徴のひとつです。更に分解した革の裏側には作り手の名も記され、世界中でそれが管理されています」。

つまり、誰がどんな風に作ったのかがアーカイブ化され、技術の足跡が永遠に残されるのです。ゆえに、そのブランドのブティックで修理の質問をしても世界中で同じ応えが即答されるのです。“お直しは可能です”と。

だからこそ、“長くお付き合い頂ける逸品です”、“これは一生ものです”という言葉の説得力が生まれるのです。
「日本の伝統工芸品もそれに負けないくらい一流だと思いますし、当然、直せるのです。しかし、この“直せる”という大切なメッセージのピースを埋めないまま、次から次への売るビジネスに傾倒していったのかも知れません。買い手は、壊れたら嫌だからと購入から遠のき、傷がついたら勿体ないからと使わない人もいます。ですが、ナイロンでなくセルロースのスポンジであれば漆器も傷つかず洗えます。鉄の包丁も研ぎ方を教えてくれる人はいても洗い方まで教えてくれる人は少ないです。油物を切っても油脂は約70℃で溶けるので、例えばコーヒーを沸かす前に少しだけお湯を多く沸かしてそれで洗い流せば綺麗に手入れもできるのです」。

今に始まったことではない話かもしれませんが、このコロナ禍によって課題が浮き彫りになったのかもしれません。
「直せることが分かれば長く使えることを前提に買えますし、手入れの仕方を知れば尚更に長く使うこともでき、一層愛着が湧きます」。
直し続けられるものの命は、人の命よりもはるかに長い。だからこそ、時代を超えて文化や歴史は継承され、伝統が生き続けるのです。

使い続けながら伝統工芸を残すことは、これから画一化されていくであろう世界に対し、大きな意味をもたらすでしょう。
それは、多様性を保つために必要な情報が埋め込まれたものや技のかたちをした生きるデータベースづくりとも言えるからです。
我々は、失ってしまったものと向き合う時間軸を取り戻せるのか。作るの先の世界へシフトできるのか。今こそ、改めて、伝統工芸と向き合うべきなのかもしれません。

1978年、福岡県出身。TIMELESS LLC.代表・プラニングディレクター。「ててて協働組合」共同代表、「DESIGNART」Co-Founder、「金継工房リウム」代表、「京都造形大学」伝統文化イノベーションセンター研究員、「京都精華大学」伝統産業イノベーションセンター客員研究員。「金沢21世紀美術館」(非常勤)、「t.c.k.w」、「EXS Inc」を経て現職。「LINKAGE DESIGN」を掲げ、数多くの事業戦略策定と商品開発に従事。特許庁窓口支援事業ブランディング専門家、関東経済産業局CREATIVE KANTOプロデューサー(2014年〜2016年)、京都職人工房講師(2014年〜2019年春)、越前ものづくり塾ディレクター(2015年〜2018年)を始め、各地でのものづくりや作り手のプロデュース事業にも多く関わる。伝統工芸から最先技術まで必要に応じた再構築やプランニングを多く手掛け、2020年5月には、日本の伝統工芸品を集めたオンラインメディアショップ「4649商店街」を立ち上げる。著書は「販路の教科書」。
https://nagataokisato.themedia.jp
https://tetete.jp/4649/

今こそ、日本の伝統工芸を考える。僕の原点は、世界の名匠から学んだ。

立川裕大インタビュー日本のアイデンティティを生かすために、改めて足元を掘りたい。

そう話すのは、伝統技術ディレクター/プランナーの第一人者、立川裕大氏です。

立川氏といえば、日本各地の伝統的な技術を有する職人と建築家やインテリアデザイナーの間を取りなし 、その領域を拡張している人物です。
それぞれの空間に応じて表現し、 家具、照明器具、アートオブジェなどをオートクチュールで製作 。ものづくりプロジェクト「ubushina」として活動しています。

「ubushina」 とは「産品(うぶしな)」であり、「産土(うぶすな)」という古語の同義語です。その意味は、「その人が産まれた場所」というアイデンティティを指しています。

「その地域でしかできないこと、その職人でなければできないことを重要視しています。効率の良いやり方ではないかもしれませんが、今までにそうした産地や職人の持ち味を発掘し、多彩なネットワークを構築してきました。個々の多様性を尊重し、手と頭がよく働く職人たちと創意工夫しながら、これからの社会にとって希望あるものづくりの文化を探求することが自分の信念です」。

手がけた作品は「東京スカイツリー」、「八芳園 (はっぽうえん)」、「CLASKA」、「ザ・ペニンシュラ東京」、「伊勢丹新宿店」など、多数あります。

長年にわたって高岡の鋳物メーカー「能作」のブランディングディレクションなども手がけており、高岡鋳物、波佐見焼、大川家具などの産地との関わりも深いです。

そんな立川氏は、今の伝統工芸についてどう考えているのか。

立川氏がブランディングディレクションを行う高岡の鋳物メーカー「能作」の新社屋・工場。

2017年に竣工した「能作」の新社屋・工場のコンセプトは産業観光。毎月約1万人の見学者が来場する。Architectural Design:Archivision Hirotani Studio

波佐見焼のエキシビション「あいもこいも」をディレクション。Space Design:DO.DO. Graphic Design:DEJIMA GRAPH Photograph:Kazutaka Fujimoto

立川氏のものづくりプロジェクト「ubushina」の代表作ともなった「東京スカイツリー」の伝統工芸アートワーク。Design:HASHIMOTO YUKIO DESIGN STUDIO Photograph:Nacasa & Partners

「ubushina」の初作品ともいえる2003年の「CLASKA」。漆や鋳物などの伝統技術をふんだんに採用した作品。Design:INTENTIONALIES

立川裕大インタビュー伝統工芸の世界は、基本的に3つの関係で成り立っている。

「3つとは、職人・デザイナー・そして、我々のように場を作って管理するディレクターです。コンピュータ の世界にたとえれば、ハードウェア、ソフトウェア、ミドルウェアの関係にも似ています」と立川氏は話します。

「日本の伝統工芸の“職人”と“デザイナー”は、かなりハイレベルだと思います。台頭できない問題はミドルウェアのポジションである我々にあると思います。ここのスキルアップが急務」だと言葉を続けます。

現在、国が認めている日本の伝統工芸は、235品(経済産業省HPより参照)もあり、「この数字を取っても世界的にトップクラス。しかし、マネタイズの仕組みの悪さもトップクラス」と言います。

「例えば、フランスやイタリアはその逆。産地や生産数が少なくても、高価格帯で取引されるものを生み出しています。伝統工芸の高い技術力も美意識も日本にはある。しかし、ビジネスという点、ブランドづくりという点が劣ってしまっています」。
極論、10個売れてもひとつ売れても、同じ利益を生む仕組み と価値化が必要ということです。

「ヨーロッパでは、伝統工芸も職人もリスペクトされています。更には、職業としての地位も高く、ビジネスを司るミドルウェアのポジションにはMBA取得者などの優秀な人材が携わることもしばしば。そのくらい格別ですし、外貨もしっかり稼ぎだす産業なんです」。
日本においてビジネスとブランドをコントロールするミドルウェアの育成が喫緊の課題のようです。

新型コロナウイルスの感染拡大は伝統工芸界もダメージを避けられません。これがきっかけになって産地の生態系 が崩れていくことを恐れているともいいます。

「多くの産地は分業制で成り立っていて、ひとつの商品を作るのにも何人も何社もの職人が関わることになります。全ての工程を一企業が賄いきれることは滅多にありません。ブランドを携えて産地をリードするメーカーも、様々な工程を担う、多くは家族経営の外部 の職人たちに支えられているのです。彼らの多くは経済的な基盤が弱く、コロナで多大な影響を受けていることが予想されます。そもそもからして後継者の問題も抱えていたため、今後の産地の生態系 の維持がリアルに問題視されることになるでしょう。ヨーロッパのブランドではそういった優秀な職人たちを自社へ招聘し、社内で後継者を育成していたりするようですが、そういった取り組みを産地として模索する必要性がありそうです」。

「パレスホテル東京」のために製作 した銀粉漆塗りのカウンターと真鍮網代編みの天井。Design:A.N.D Photograph:Nacasa & Partners

「八芳園」の日本料理店「槐樹 (えんじゅ)」では、七宝文様をモチーフに手技と機械技術の融合を実現させた建具を採用。Design:HASHIMOTO YUKIO DESIGN STUDIO   Photograph:Nacasa & Partners

「檜タワーレジデンス」の銀箔ドットアートウォール(左)。Design:k/o design studio   Photograph:Nacasa & Partners
「東京スカイツリー」の江戸切子ガラスで装飾したエレベーター(右)。Design:NOMURA   Photograph:Satoshi Asakawa 

「三井寺」の宿坊「妙厳院」のために誂えた和紙の特注壁紙。Design:INTENTIONALIES Photograph:Toshiyuki Yano

「セイコーウオッチ株式会社」の創業130周年記念に竹細工の伝統技術を用いたオブジェを製作 。海外の見本展示会「BASELWORLD2011 SEIKO Stand」にて発表。Design:TANSEISYA

「日本は素材と技術の宝庫」とは立川氏の言葉。各地に特性と個性があり、土地に根付いた文化が宿る 。

立川氏の事務所「工藝素材一目部屋」には、全国から集められたマテリアルのサンプルで 溢れている 。

立川裕大インタビュー僕には英雄がふたりいる。それは、エンツォ・マーリとアキッレ・カスティリオーニ。

実はあまり知られていませんが、伝統工芸の世界に入る前の立川氏は「カッシーナ(現カッシーナ・イクスシー)」に在籍していました。

「僕は、もともと学生時代からイタリアのデザインが大好きで、1988年に“カッシーナ”に就職しました。当時 の日本ではまだ海外の家具の認知度は低かったです。働くにつれ、ミラノサローネなどにも足を運ぶようになり、あるふたりのデザイナーと出会い、僕はその虜になったのです。それは、エンツォ・マーリさん とアキッレ・カスティリオーニさんでした」。

のちに、このデザインの巨匠たちの自宅やアトリエにも招かれるほどの幸運に恵まれた立川氏は、彼らが日本を敬愛していることを知ります。そして同時に、デザインやビジネスに関して様々な 学びも得たのです。

「ある時、エンツォ・マーリさんから“龍安寺の石庭に佇んだことはあるか?”と聞かれました。“いいえ”と答えると“日本人ならば必ず体験するべきだ”と言われました。その時の自分は海外ばかりに目を向け、日本のことをあまり知りませんでした。日本の美徳について学ぼうと思ったのはそれがきかっけでした」と立川氏はその当時を振り返ります。

エンツォ・マーリ 氏は、飛騨高山とのプロジェクトも過去に行っており、日本を愛したデザイナーのひとりです。

「アキッレ・カスティリオーニさんからは、“消費経済の奴隷になるような仕事をしてはいけません”と言われました」。

つまり、あくまで我々の仕事の土台は社会や文化にあって、経済とは折り合いをつけるにしても短期的な数字だけを追い求めた 先に未来はないということを意味します。

日本に魅了されたのは、立川氏が出会ったふたりだけではありません。

世界的に著名な建築家であるブルーノ・タウト氏は「桂離宮」を見て「日本建築の世界的奇跡」と言葉を残し、シャルロット・ペリアン氏は「修学院離宮」の霞棚や日本の竹を自らのデザインソースに生かしています。チャールズ&レイ・イームズ氏もまた民藝を愛し、宮城県のこけしが自宅に飾られていたことは有名なエピソードとして残っています。

1999年、立川氏は日本にフォーカスして独立。
「独立して早々、富山県高岡市のセミナーにお声がけをいただきました。その時に参加者が、ほぼ伝統工芸に携わる方々だったのです。“能作”との出会いもそれがきっかけでした」。

英雄の言葉を胸に、伝統工芸の道へと歩みだした立川氏の始まりです。

「今、日本文化の礎になっている美意識は、主に室町時代あたりにできたものだと思います。そして、我々も令和のこの時代に未来の文化の苗床を作り出さなければならないと思っています」。
そうなれるかなれないか、生かすも殺すも「ミドルウェア次第」だが、「勝算はある」と立川氏は言います。

「幸いなことに伝統技術は残っていますし、それとともに育まれてきた美意識も健在です。職人もデザイナーもそうですが、とりわけミドルウェアの立ち居振る舞い次第では、伝統工芸は大きく躍如する可能性を秘めた成長産業なのです。そのためには日本文化の深層に眠るものを、最適な方法で表に引っ張り出すことが必要だと思っています」。

そう、日本には間違いなく資産はあるのです。

「新型コロナウイルスの収束後、需要や生産などを含め、伝統工芸の世界も落ち込むでしょう。しかし日本人は縮むことを得意とする国民性を持っています。団扇を扇子にしたり、提灯を畳んだり。お茶の世界でも最初は大広間で楽しんでいたものが、いつの間にか小さくなり、千利休にいたっては一畳半ににじり口です」。
かの有名な建築家、ル・コルビュジエのカップマルタンの休暇小屋は、日本の茶室ともいわれています。

「好んで小さくしながら新しい価値を加えていくんですね。バブル後に産地の売上規模は5分の1にまで縮小したといわれていますが、それなりに生産体制を作り直して新しい市場も創造してきた。コロナウイルスの収束後 は何ごとも縮まざるをえない状況ですが、今こそ日本ならではの美意識や付加価値を纏ったビジネスへの転換を図る〝逆転の時〟にしたいと思っています」。

大切なことは、世界が認めた日本ではなく、日本が認めた日本の創造。立川氏と伝統工芸の二人三脚は、まだまだ続きます。その日が来るまで。

1997年、立川氏が初めてアキッレ・カスティリオーニ氏と会った時の1枚。「カスティリオーニさんとの出会いは、仕事に対する向き合い方と、僕の人生を変えました」。 

1965年、長崎県生まれ。株式会社t.c.k.w 代表。日本各地の伝統的な素材や技術を有する職人と建築家やインテリアデザイナーの間を取りなし 、空間に応じた家具・照明器具・アートオブジェなどをオートクチュールで製作するプロジェクト「ubushina」を実践し伝統技術の領域を拡張。主な作品は、「東京スカイツリー」、「八芳園」、「CLASKA」、「ザ・ペニンシュラ東京」、「伊勢丹新宿店」など多数。長年にわたって高岡の鋳物メーカー「能作」のブランディングディレクションなども手がけ、高岡鋳物・波佐見焼・長崎べっ甲細工・甲州印伝・因州和紙・福島刺子織などの産地との関わりも深い。2016年、伝統工芸の世界で革新的な試みをする個人団体に贈られる「三井ゴールデン匠賞」を受賞。自ら主宰する特定非営利活動法人地球職人では、東日本大震災復興支援プロジェクト「F+」を主導し、寄付つきブランドの仕組みを構築し3年にわたって約900万円 を被災地に送り続けた。
http://www.ubushina.com

日本人としてパリを愛し、パリに尽くす。僕は、これからもこの街で生き続ける。

Photograph:Restaurant MAISON

MAISON/渥美創太インタビュー

自身初のレストラン「MAISON」開業1年目に訪れた難局。そして、渥美創太シェフの今。

「実は3月の1週目にバカンスに出かけており、新型コロナウイルスの危機感を覚えたのはその旅から戻ってきた直後でした。満席だった予約がすごい数のキャンセルに。明らかに異変を感じました」。
そう話すのは、パリを活動の拠点におく渥美創太シェフです。

渥美シェフといえば、2019年9月に自身初のレストラン「MAISON」をオープンしたばかりであり、世界中から注目を集めています。パリでは珍しい一軒家のそこは、三角屋根の外観も手伝い、その名の通り、まるで「家」のよう。
建築を手がけるのは、同じくパリで活躍する田根 剛氏です。そして、ロゴデザインには映画監督のデビッド・リンチ、カトラリーデザインにはフィリップ・ワイズベッカーなど、驚異的な面々が、その「家」を取り巻きます。

渥美シェフは19歳で渡仏し、「メゾン・トロワグロ」、「ステラ・マリス」、「ラボラトワール・ドゥ・ジョエル・ ロブション」、「TOYO」などの名店にて研鑽を積み、26歳の若さで「ヴィヴァン・ターブル」のシェフに就任。2014年には「クラウン・バー」のシェフに抜擢され、2015年にはフランスのレストランガイド「ル・フーディング」にて最優秀賞ビストロ賞を受賞する快挙を成し遂げます。これは真の意味でパリジャンから愛されたことの証であり、ある種、「星」よりも名誉ある賞賛と言っていいでしょう。

そんな様々を経て、パリ在住14年。その集大成が「MAISON」なのです。

パリがロックダウンになったのは、3月17日。開業1年目、早々に訪れた難局にどう立ち向かうのか。

しかし、渥美シェフは変わらない。

厳密に言えば、今回の件に関わらず、常に不安と戦い、それを払拭するためにはどうしたら良いか不断の努力を続けているため「変わらない」のです。ゆえに、良い時も「変わらない」。

良い時も悪い時も表裏一体。

「最悪の事態は常に想定している。そのための準備と備えはしている」。

パリでは珍しい一軒家の「MAISON」。三角屋根が特徴的であり、その名の通り、まるで家のよう。Photograph:Restaurant MAISON

控えめに配されたレストラン外観のサイン。映画監督のデビッド・リンチによるデザイン。Photograph:Restaurant MAISON

レストラン2階部分。オープンキッチンに8mある長いカウンターが印象的。Photograph:11h45

レストラン1階部分。建築・デザインは、田根 剛氏が手がける。Photograph:11h45

自分にとって大切なことは嘘をつかないこと。見栄を張らず、見て見ぬ振りもしたくない。

「MAISON」は、渥美シェフがオーナーを務めるレストランです。つまり、経営も担います。

「オーナーシェフになると、責任感はもちろん、好きなように料理ができなくなるとかスタッフのケア、お金の管理が大変とか、色々な話を言われました。それはもちろんありますが、幸いにもシェフに抜擢してくれた“ヴィヴァン・ターブル”のオーナーや、“クラウン・バー”のオーナーたちは厳しくも優しく、全てをさらけ出して共有してくれていました。そしてその一部を任せてくれていたお陰で僕にとっては全て当たり前のこととして“MAISON”のオープンに臨めたと思います」。

失礼ながら、二足の草鞋が履けるバランスの取れたシェフなのかといえば、それも違うように見えます。その答えは、渥美シェフと話すに連れ、全てキッチンから学んだのかもしれないと思うのです。

「料理人にあることは、高級食材や希少部位も使いたいという欲求です。それは当然の心理だと思いますし、誰でもそうしたいのは山々。それをお客様においしいを届けたいという善意を盾に“何とかやれるだろう”、“何かで帳尻を合わせれば大丈夫だろう”など、数字と向き合わずに騙しだましやってしまい、自分に嘘をついてしまうのが一番良くない」と言います。

そして、振り返れば、修行時代にも結果として数字と向き合う現場がありました。

「例えば、アラカルトが数の多いレストランがあったとします。お客様は嬉しいかもしれませんが、種類の多さは食材のロスにもつながるのです。昔のシェフは怖い人も多かったので、食材が余ったことを言い出せない若いシェフをたくさん見てきました。僕はそれを見て見ぬふりをしたくなかったので、“これだけ余ってしまうのでメニューを減らした方がいいと思います”と言いましたが、“何で余らせるんだ!”と叱られました。食材のロスは生産者への思いを裏切ることになりますし、お店の経営も悪化させてしまいますから。そんな経験も全て“MAISON”で活かしたいと考えています」。

レストランという大きな組織の現実。それは、名を馳せれば馳せるほど起こりうる可能性を秘めているのかもしれません。結果、そのような環境に違和感を感じ、名店を離れてスタイルの異なる「クラウン・バー」に携わった経緯にもつながります。

「とはいえ、昔のレストランはすごかったと思います。種類豊富な皿数はもちろん、コースの方程式も多種多様。現在のようにお任せ一本でやれるなんてありえませんでした。そういう意味で、今は恵まれている時代だと思います」。
この「恵まれている」とは、料理を作りやすい、食材の量を読みやすいこともしかり、堅実に行えば経営的な体力も自ずと付いてくるという意味も含みます。

「お客様にも、スタッフにも、料理にも、僕は見栄を張らない」。
それは、内に秘めた確固たる自信を感じた瞬間でもありました。

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高級食材だけに頼ることはない。
その季節、その日に生産者から直接届く最高の食材に全てを注ぎ込む。
その日の「MAISON」だから食べられるお皿を作り上げる。
簡単なようですごく難しいそれを毎日実現する。
それだけのことはやってきた。
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嘘をつかない。見栄を張らない。見て見ぬ振りをしない。

この3つを基本に、経営者としての自分とシェフとしての自分の合点を探し続け、体力の備えをしたのちに「MAISON」をオープン。本当のガストロノミーをやるためにレストランへ還ってきたのです。

「まさか新型コロナウイルスのような件でレストランを一時閉めることになるとは思いませんでしたが、2015年の大規模なテロなども経験していて最悪の事態は常にイメージしてきましたし、その不安と向き合う心構えはしてきました。今のお店では、スタッフとのコミュニケーションをより大切にし、改善点はないか、無駄はないかなど、見えないところにもちゃん目を向けるように心がけています。全てを把握することが、レストランも経営も良い世界を創造すると思っているから」。

オープンキッチンのレストラン同様、風通しの良い環境の「MAISON」スタッフは、現在10名。約30席のレストランには少ない人数です。

「レストランを経営するには、料理やワインのコストだけではなく、家賃、人件費など様々あります。今のチームで最高のパフォーマンスを発揮するため、みんな死に物狂いでやっています」と苦笑い。「本当にスタッフには助けられています」と言葉を続けます。

「経営に関しては、妻の存在が大きいです。妻は僕よりもっとシビアだし、政治にも明るい。だから、今回のような一件であれば、より助けられている感はあります。あとは、“クラウン・バー”時代の経理担当者なども親身にサポートしてくれているので、そういった昔の仲間の支援もあっての今だと思っています」と渥美シェフ。

「ただひとつわかることは、近道はない。コツコツやることが大事だと思っています。堅実にやれば体力は付くし、体力が付けはステップアップもできます。経営も現場も料理もうまく機能しないとみんなを不幸にしてしまう。僕は器用ではないので、レストラン内外の多くの仲間たちの助けを借りてオーナーシェフとして進んでいます」。

 

保証のあるフランス、保証のない日本。ロックダウンのフランス、自粛の日本。

この両国を渥美シェフはどう捉えるか。

「フランスの対応は早く、ロックダウン当日に政府が人件費を補償するとの発表がありました。現在は、給与が短期失業保険として84%保証されています。ただ、家賃などその他はその制度には含まれていません。政府は保険会社に保険が適応されるように要請していますが、今なお協議中です」。

今回、一時閉店を余儀なくされた渥美シェフは、医療従事者やホームレスの方々へ食事提供を行うボランティアにも参加しました。それは「MAISON」としてではなく、渥美創太としての活動です。
「この活動を知った時、参加したいと強く思いました。医療従事者の方々には、週2日、1日100食を提供していました。病院の数にして3ヶ所ほどになります。ホームレスの方々には週1日、食事の提供をしていました。パリには、ホームレスに無償で食事を提供しているレストランがあります。その発起人たちがスーパーの賞味期限の迫る食材を集まる場所を郊外に作って、そこから仕入れるものでホームレスの人たちには食事を作っていました。それ以外だと家族や子供と過ごしたり、レシピ開発や新しいプロジェクトの構想などにも取り組んでいました」。

日本に目を向けてみたいと思います。

ロックダウンはせず、自粛という“お願い”と“自己判断”に委ねられ、保証はありません。補助金などが導入され始めているものの、すぐ手元にキャッシュが入るわけではないのが現状です。もし自粛であれば渥美シェフはどうしたのか。

「僕は、お店を閉めます。現状だけで言えば、すごく苦しむと思います。でも、そこで閉める判断ができるような店づくりをしたい」。
それは、「感染拡大の抑制に勤めたいと思いますし、何より人を死に追いやる治療法のない伝染病だから」です。

現在、9月半ばまでは従業員の給与が保証されていますが、それ以外は5月末に発表されます。その間、デリバリーやテイクアウトのような手法があるも、「それをやる時はレストランだからこそできることが何なのかを考えて実現させたい」と渥美シェフは言います。

なぜなら、前述の通り、本当のガストロノミーをやるためにレストランへ還ってきたからです。

「僕は、レストランにこだわりたい」。

支給される食材に加え、「MAISON」で提供しているパン用の小麦粉でパンを焼き、ボリューム満点の食事を作る。

チョコを食べる風習があるイースター(復活祭)の日に提供した食事には、「MAISON」のレシピで作ったチョコレートケーキも添える。その優しさは、おいしい先にある心に響く。

1度に作る数は100食。「MAISON」にある8mのテーブルにずらりと並ぶ。

医療従事者へ届ける料理の箱には、感謝の気持ちを込めて「Merci beaucoup! Super hèros!(本当にありがとう。あなたたちはヒーローだ!)」とメッセージを添える。

ボランティア活動が早く終わった日には、再開後に使える調味料などを仕込む。この日はこの時期にしか取れないニワトコやアカシアの花などを漬けた。

食材を届ける人間も食事を届ける人間もボランティア。様々の人々が参加する本プロジェクトの多くは20代後半から30代後半。若い人たちが積極的に参加している。

医療従事者へ食事を届けるボランティア活動を総括するアソシエーションを立ち上げたアドリアン(中央・マスクの人物)と自主的に参加をしてくれた「MAISON」のスタッフ。

自宅にて子供とうどんを打つ様子。この難の中、渥美シェフがホッとするひと時かもしれない。

フランスと日本の違い。制度、文化、そして、我々は誰かのために尽くせるか。

今回に関していえば、一見「日本と比べてフランスは保証制度が手厚い」と思う人もいるかもしれませんが、それが補えているのは税金です。
標準税率で比べてもフランスは20%に対し、日本はその半分10%。今後、国として備えを得るべく、日本の税金を20%に引き上げるとなった場合、すぐに国民は首を縦にふるのでしょうか。

「自分たちではありませんが、政府から発表されるレストラン再開の合図を待たずにお店を営業しようとしているところがいくつかあります。その理由のひとつに、これ以上の税金を使うと、今後、さらに税率が上がってしまうのではという懸念があります。更には、新型コロナウイルス終息後、本当に困った人たちの保証が出なくなってしまうのではという危惧も耳にします。そのためにも早く経済を再開させようという動きです」。

見切り発車とも思えるそれは、後世や市民、街を守るためなのか、その真意は定かではありません。政府のルールもあるため、一概に正解と位置付けられませんが、これが法律でないということも厄介です。

「実際にお店を再開させたとしても、そのルールをどれだけの人が守るのかもわかりません。誰かが取り締まるのかといっても、それもまた難しいのではないでしょうか。もちろん事態の収束が最優先ですが、”MAISON"も早く開けたい気持ちはあります」。

人類初の難のため、正解を導くのもまた難。

しかし、何があっても、パリがパリたる所以のエスプリは宿ります。それは忘れもしない2019年の事件にもありました。「ノートルダム大聖堂」の大火です。

この時も周囲の動きが早かったことは記憶に新しいです。その好例として、「LVMH」は多額な寄付をした企業のひとつです。さらに同企業は現代アートをフランス国内外において推奨・振興することを目的とした「ルイ・ヴィトン ファウンデーション」も2014年に開館し、芸術活動にも力を注いでいます。そのほか、社会貢献に向けた活動も精力的に行ない、今回も約4,000枚のマスクと香水工場を稼働させて製造した消毒用アルコールジェルをフランス保険当局へ供給しています。

芸術、建築、ファッション、デザイン、そしてレストランなど、それぞれが文化的価値として同様に肩を並べていることは、パリが持つ最大の特徴かもしれません。

今回もパリはパリのやり方で街を守り、きっとこの難を乗り越えるのではないでしょうか。

 

パリはレストランが一番の宝だと思っている。「MAISON」は、その一部になりたい。

これは渥美シェフの言葉です。

「この街で僕は外人ですが、心からパリを愛しています。そして、多くの日本人がパリで活動していますが、みんなパリに尽くしていると思います。だから僕はフランス料理にこだわりたいし、その一心でこれまでやってきました」。

ゆえに、自身初となるレストラン「MAISON」には、並並ならぬ想いが込められています。その価値とは何か?

「“MAISON”は、フランスでやっているフランス料理です。だから、お客様には、フランスの食材をどれだけ伝えられるかを大事にしたいと思っています。そして、理想は“温かい場所”でありたい。そして“ひとつのものを全員で共有できる場所”でありたい」。
その例として、デンマークのレストラン「noma」を挙げます。

「世界で一番好きなレストランかもしれません。人が作る空間が温かく、同じ時間をそこに集う全員が共有するような関係性がいつの間にか生まれている。正直、料理は僕の好みではありませんが、それを度外視するくらいレストランの魅力に引き込まれる」。
そんな「noma」を牽引するヘッドシェフ、レネ・レゼピですら、新型コロナウイルス後は「これからのレストランの在り方は全て変わる」と語っています。

そういう意味でも、時間という体験の総合芸術は、唯一無二の価値を生むかもしれません。しかし、料理や技術を習得するよりも時間を創造することは難儀です。

「レストランは料理だけでなく時間やサービス、空間やそこにあるヒストリー、そこで起こるストーリー全てに対価を払ってくれていると思っています。スタッフの笑顔や会話によって、流れている音楽や居合わせた隣のお客様全てがその時間を一緒に作ります。だからこそ僕は、お客様や僕を含めたスタッフ全員と“MAISON”で過ごす時間を分かち合いたい。そのためにもスタッフが思い切り楽しんで打ち込める環境作りをすることも僕の役目。その全てが結実した“MAISON”を楽しみに来てもらえたら嬉しいです」。

今後の「MAISON」はどうなっていくのか。
「まずは、今週の政府の発表を待ち、その中で自分たちに何ができるのか最善を考えたいです。やっぱりこのレストランを一番知っているのは自分なので、周りに流されずに“MAISON”にとって一番良いルールを見つけて再開に臨みたいと思います」。

開業の決意、閉める決意、再開の決意。
その都度、覚悟を持って臨んできたオーナーシェフ、渥美創太。

「MAISON」の再開を待ち望むファンは、世界中にいます。
それが訪れた時、より魅力に溢れた「MAISON」時間を体感できるはずです。

なぜなら、「そのための準備と備えをしている」から。

Photograph:Restaurant MAISON

 Photograph:Restaurant MAISON

1986年千葉県生まれ。19歳で渡仏し「メゾン・トロワグロ」、「ステラ・マリス」、「ラボラトワール・ドゥ・ジョエル・ロブション」などを経て、26歳で「ヴィヴァン・ターブル」シェフに就任。2014年、100年以上続く「クラウン・バー」のリニューアルに伴いオープニング・シェフを勤め、2015年、フランスで最も人気のあるレストランガイド「ル・フーディング」のベストビストロ賞を受賞。2019年、自身初となるオーナー・シェフを務めるレストラン「MAISON」を開業。また、「ONESTORY」が主催するレストランイベント「DINING OUT」には、過去2回(「DINING OUT ONOMICHI」、「DINING OUT ARITA」)出演。
http://sotaatsumi.wixsite.com/mysite-1

「なにもない場所だけど、僕の欲しかったすべてがある。」目指すは鳥取だからこそのイタリアン。[AL MARE/鳥取県岩美郡岩美町]

大学卒業後、長野県の水産会社に就職。勤務先であった築地で魚の買付などを担当していた飯田直史氏。料理の世界は30歳からという遅咲きの料理人。

アル マーレ3月取材の現場を、ようやく記事として出せるという現実。

今回ご紹介するレストランの取材は2020年3月某日のこと。今なお世界を震撼させている新型コロナウイルスが、日本ではまだそこまで逼迫した状況にないときでした。ですが、その後政府による緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出は控えることに。そういった中、各地の飲食店も自粛を余儀なくされ、外出を助長するレストランの紹介記事は、今は出すべきときではないと我々ONESTORYでは、記事掲載の時期を見合わせることにしました。

そして今回、約2ヶ月の時を経て取材をしたレストランの紹介をさせていただきます。それは、いつの日かまたこの場所を笑顔で訪れてほしいから。そして、今現在も、日々歯を食いしばり頑張っている飲食店が数多くあるから。
日本の各地でがんばる飲食店の皆様にエールを送ります。

のりきろう日本、つながろう日本。

3月某日の取材は快晴ながら風が強く、日本海の荒波が打ち寄せていた。

店の窓からは山陰海岸国立公園に指定される海の絶景が広がる。天気が良ければテラス席へ出ることも可能。

アル マーレ鳥取の海沿いで根を張る、イタリアンの新星がここに。

「作りたいものは溢れるほどあるんです。後は、いつかそんな料理を楽しみに訪れる人で店を埋めるのが目標です」
今回、お話を伺ったシェフの飯田直史氏はそう笑いました。

ONESTORYの読者であるならば、上記のコメントは「あれ?」と思うかもしれません。日本各地に眠る、愉しみを探し求め、伝え続けてきたONESTORY。中でもレストラン記事では、誰も人が来ないような僻地でも、その店を訪れるだけでも旅の目的となり得る、訪れるべきレストランをご紹介してきました。誤解を恐れずに言うならば、今回ご紹介する『AL MARE』は、そんな訪れるべきレストランに今後なりえる原石なのです。

その立地、食材、シェフの仕事と、どれをとってもこの場所でこそ、なし得る味。そのひとつひとつを体験すれば、きっとこう思うのです「また、違う季節に訪れたい」と。

場所は鳥取県岩美町の海岸線。JR山陰線東浜駅からならば徒歩3分と好立地ながら、山陰海岸国立公園に指定される辺り一帯は、自然以外はなにもないを地で行く場所なのです。店名『AL MARE』とは、イタリア語の海岸を意味する言葉。まさに目の前に広がる東浜の絶景こそが、醍醐味のオーシャンフロントレストランです。潮騒とともに移りゆく情景、寄せては返す波音に浸っていると、気がつけば驚くほど時間が経過している心地よい場所でもあります。

「夏は海水浴客も多く訪れる場所ですが、人が少なくなった秋が好き。さらには日本海の荒波を感じる冬もいい。春はまだ体験していないから、今後が楽しみで仕方ないんです」とシェフの飯田氏。

聞けば店のオープンは3年ほど前ながら、飯田氏がシェフに就任したのは9ヶ月前のことだったと言います。

「食材もまだ3シーズンのみの体験ですが、この地は本当に豊かな場所なんです」

目の前に広がる海の恩恵は、地元の漁師や市場の人々と仲良くすることで、今まで知らなかった魚介も果敢に挑戦でき、この地だからこその味を追求。ベースは本場仕込みのイタリアンながら、〆鯖をアレンジしたかと思えば、足の早いモサエビを鳥取の郷土グルメの牛骨スープでパスタに仕上げるなど、枠に囚われることなく自由奔放。さらには海の幸と同様、この地は海を背にすれば山の幸の宝庫でもあるのです。地元の野菜はもちろん、季節ごとに山菜やわさびなど、山の幸がとにかく豊富。それらを趣味でもある釣りを通し、地元の人に貪欲に溶け込むことで、驚くほどの吸収力で飯田氏は自らの料理に生かしてきたのです。

「料理人としてのスタートが30歳からでしたから。人と同じやり方では追いつけないですし、店もとにかく早く軌道に乗せたいと思いまして」

料理人としての人生も型破りならば、鳥取の食材はおろか目の前に広がる海と山の幸を中心に構成するコースも型破り。それが違和感なくイタリア料理に落とし込めているのが、飯田氏がこの地で目指すイタリア料理の形なのです。

境港で水揚げされた鯖を白ワインビネガーを使い〆鯖に。きよみオレンジ、ハマダイコンの花などでサラダ仕立てに。

お隣・浜坂漁港で水揚げのホタルイカを温かいサラダに。山菜とルッコラのペーストとボッタルガで味付け。

活きモサエビと殻で取ったビスクで作ったパスタ。牛骨のスープで旨味をプラス。

鰆のソテーとバターソース。裏山で採れたふきのとうのほろ苦さがアクセントに。

アル マーレ夢ではなく目標。人のいない場所にゲストを呼ぶ店を目指す。

「イタリアは、日本に似ていました。僕が修業したピエモンテとシチリアでは、料理はまったく別物ですし、師でもある徳吉洋二さんと出会ったミラノもまた、独自性が光っていた。南北に長いところも類似性がありますよね。その土地その土地の良さを活かすのがイタリア料理ならば、鳥取には鳥取のイタリアンがあるはずと思っています」

飯田氏が師と仰ぎ、鳥取を郷土に持つ徳吉洋二氏。実はこの『AL MARE』は、徳吉氏が監修を務めることでも話題であり、徳吉氏がミラノで一ツ星を獲得する『Ristorante TOKUYOSHI』で氏の右腕として活躍したのが実は飯田氏なのです。イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン三ツ星獲得に大きく貢献。さらに自らの店『Ristorante TOKUYOSHI』もオープンわずか10ヶ月で星を獲得したスターシェフの徳吉氏。そんな日本を代表するシェフが、地元・鳥取の何もない場所に作ったのが海沿いの『AL MARE』なのです。

イタリア時代からの腹心・飯田氏をシェフに据え、地元の食材で魅せるイタリアン。季節季節で変わりゆく、景色、食材、そして飯田氏の感性。どうですか? 一度訪れたならば、「また、違う季節に訪れたい」。そう思わせる、可能性に満ちた一軒が、周囲になにもない『AL MARE』という訳なのです。

豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス瑞風」が立ち寄る、美しい海辺のレストランとしても話題に。

釣りの話となるとすぐに笑顔になる釣りキチでもある飯田氏。海が目前のこの場所は氏の理想郷なのかもしれない。

住所:鳥取県岩美郡岩美町大字陸上34  MAP
電話:0857-73-5055
https://www.al-mare.jp/

(supported by 鳥取県)

“醸造”から“創造”の場へ。過去と現在と未来、ローカルとグローバルが交錯する。[弘前れんが倉庫美術館/青森県弘前市]

上空から見たシードル・ゴールドの屋根。ⒸAtelier Tsuyoshi Tane Architects

弘前れんが倉庫美術館およそ100年の時を経て美術館に生まれ変わった弘前の歴史的建造物。

来る6月1日(月)、青森県弘前市としては初となる公立美術館がプレオープンします。その名も『弘前れんが倉庫美術館』。舞台となるのは、日本で初めてシードルが大々的に生産された場所としても知られる酒造工場。弘前市を象徴する、煉瓦造りの歴史的建造物が、およそ100年の時を経て、“醸造”から“創造”の場へと生まれ変わります。
醸造場だった煉瓦造りの建物は、貯蔵室や搾汁室、濾過室、瓶詰室として使われていた場所が、5つの展示室やスタジオ、ライブラリー、市民ギャラリーなどに。これらの建築設計を担当したのが、考古学的な(Archaeological)考察を重ね、場所の記憶を掘り起こし、さらには未来をつくる建築「Archaeology of the Future」を追求する建築家・田根剛氏です。その哲学は、まさに『弘前れんが倉庫美術館』の根幹と共鳴するものといってもいいでしょう。
そもそもミュージアム(美術館)の語源は、古代ギリシャ神話に登場する「記憶の女神」の娘である「学問・芸術の女神」たちの神殿の名に由来しています。つまり、記憶と芸術は不可分。美術館を過去、現在、未来をつなげる「記憶」をめぐる装置とも捉えられるでしょう。

吉野町煉瓦倉庫 外観。©Naoya Hatakeyama

吉野町煉瓦倉庫の改修風景、2017 年。©Naoya Hatakeyama

煉瓦壁を内外無傷で保存する設計によって、『弘前れんが倉庫美術館』へと新しく生まれ変わった建物。

弘前れんが倉庫美術館場所と建物の「記憶」に焦点をあて、8名のアーティストの作品を展示。

それを物語るように、開館を記念する春夏プログラムも「Thank You Memory ―醸造から創造へ―」と命名。場所と建物の「記憶」に焦点をあて、煉瓦倉庫や弘前の歴史に新たな息吹を浮きこむ8名のアーティストによる、新作を中心とした作品を展示します。
たとえば、畠山直哉氏や藤井光氏は、煉瓦倉庫の改修過程を記録した写真作品や映像作品を展示し、笹本晃氏は、煉瓦倉庫の建材や資材を取り入れたインスタレーション作品を発表。海外アーティストでは、中国の尹秀珍(イン・シウジェン)氏が弘前市民より譲り受けた古着を使い、弘前の街をモチーフにした立体作品を、フランスのジャン=ミシェル・オトニエル氏がりんごにインスピレーションを受けたガラス彫刻とドローイングなどを展示します。そのほか、地域に広く愛されてきた、弘前出身のアーティスト奈良美智氏による《A to Z Memorial Dog》もおよそ2年ぶりに再展示。
過去と現在と未来、ローカルとグローバル、作り手と地域の人々と鑑賞者が交錯する地域の創造的な魅力を再発見できる施設として、『弘前れんが倉庫美術館』は弘前の新たなる象徴となっていくことでしょう。

尹秀珍 《Weapon》 2003-2007 年 ©Yin Xiuzhen, courtesy of Beijing Commune and the artist

笹本晃 《random memo random》2016 年 ©Aki Sasamoto, courtesy of Take Ninagawa, Tokyo

住所:青森県弘前市吉野町2-1 MAP
観覧料:
「Thank You Memory ―醸造から創造へ―」
一般 1,300円(1,200円)、大学生・専門学校生 1,000円(900円)
https://www.hirosaki-moca.jp/

■期間1. 弘前市民対象(事前予約制)
開館期間:6/1(月)~ 6/15(月)※休館日 6/4(木)、6/9(火)
開館時間:9:00~17:00※入館は、9:30~16:00の30分ごと
予約期間:5/23(土) ~6/14(日)※初日は9:00より受付開始
電話:0172-32-8950(9:00~16:30 ※6/4・6/9を除く)
定員:30分ごとに20名まで※先着順

■期間2. 青森県民対象(事前予約制)
開館期間:6/17(水)~終了未定※毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日に振替)
開館時間:9:00~17:00※入館は、9:30~16:00の30分ごと
予約期間:来館希望日の14日前の9:00より予約可能
電話:0172-32-8950(9:00~16:30 ※休館日を除く)
定員:30分ごとに20名まで※先着順
※予約はHPからも申し込み可能

歩みは止めない。創作し続けることで伝統工芸と生きてゆく。

© NORITAKA TATEHANA K.K. Photograph: GION

舘鼻則孝インタビュー花魁の高下駄から着想を得た作品は、世界のディーバを虜にした。

世界で活躍する日本の芸術家・舘鼻則孝氏。

一躍その名を轟かせたのは約10年前。音楽界の歌姫、レディー・ガガが舘鼻氏のヒールレスシューズを採用したことがきっかけでした。その着想の源は、花魁の高下駄から得た現代の日本の靴です。
「明治維新以降、開国した日本は西洋化という経済政策を選択し、日本独自の文化が置き去りになってしまったと思います。もともと私は日本の伝統的な染織技法を学んでいたのですが、江戸時代の前衛的なファッションとも言える花魁の装いに魅力を感じていました。ライフスタイルや服装が西洋化された現代において、日本独自の文化・ファッションとして、古来の日本文化の延長線上に、現代の日本文化として世界に発信できるようなものを生み出したかったのです」と話します。
 

その後、海外での活動はもちろん、近年では日本でも精力的に表現を行い、歴史ある建築物「旧山口萬吉邸」にて異例の開催をした「舘鼻則孝と香りの日本文化」や「ポーラ ミュージアム アネックス」にて開催された「It’s always the others who die」などは記憶に新しいです。
作品の特徴は、何と言っても日本の伝統文化や工芸と密接に関わっていることにあると思います。

各界に猛威を振るう新型コロナウイルスは、舘鼻氏やその手法の主となる伝統工芸の類にどのような影響を及ぼしたのか。

2018年に九段下の旧山口萬吉邸で開催された個展「舘鼻則孝と香りの日本文化」 © NORITAKA TATEHANA K.K. Photograph: GION

2019年にPOLA MUSEUM ANNEXで開催された個展「It’s always the others who die」 © NORITAKA TATEHANA K.K. Photograph: GION

舘鼻則孝インタビュー日本の伝統工芸の雑貨化を危惧している。品格を取り戻したい。

舘鼻氏は、自らの芸術表現において、「あえて伝統工芸という手法の選択したわけではありません。それはごく自然に、私にとっては至極真っ当な道筋だった」と話します。

出身は日本芸術の登竜門「東京藝術大学」であり、専攻は美術学部工芸科染織。前出のヒールレスシューズも卒業制作として発表したものです。その時の経験が今の礎を築いています。
「在学中には、課題を通して過去の伝統文化を模倣するようなかたちで技法研究をしていましたが、日本文化を見直し現代に再構築することで生まれた“ヒールレスシューズ”は、私の作家活動の出発点になりました。ファッションデザイナーという職業を目指していた私が、作家(美術家)という生き方を選択した瞬間でもあります」。
舘鼻氏の目指していたものづくりには、常に新しくアヴァンギャルドな要素が必要だったのです。

「自分の手を使い専門的に学んだ工芸技法は染織技法のみでしたが、現在では様々な伝統工芸技法を用いて作品を制作しています。そのような制作の工程では私が手を動かすのではなく、日本各地の伝統工芸士と呼ばれる技術保持者の方々に協力を仰ぎ作品化しています」。
つまり、舘鼻氏の芸術は、ひとりの作品ではなく、チームの作品でもあるのです。
「私はひとりの芸術家として、美術家として、チームで活動をしています。自らの手でものづくりをする作家であろうと、ひとりでは完結する仕事はありません。常にチームで前進することが大切だと考えます」。

そのチームは、プロジェクトごとによって様々です。
「作品に対してどのような技法や素材を用いるかということに対しては、極力制約を設けないようにしています。その作品の主題を表現すべく最も有用な選択肢を都度選んでいるつもりです。伝統工芸技法を用いていることに関しては、昨今における“日本の伝統工芸の雑貨化を危惧し、品格を取り戻したい”という思いもあるためです。自ら実践することがお互いに最も触発されるイベントだと思っています。実際に用いている技法は、漆芸や金工、螺鈿細工などの加飾技法まで様々ですが、富山や石川などの北陸地方が多いと感じています。加賀藩のもとで栄えた工芸文化が今まで育まれてきたことの証かもしれません」。

Heel-less Shoes, 2018 © NORITAKA TATEHANA K.K. Courtesy of KOSAKU KANECHIKA

石川県輪島市で制作した蒔絵細工の施された香炉。個展「舘鼻則孝と香りの日本文化」で初公開された。源氏香図蒔絵香炉, 2018  ©️NORITAKA TATEHANA K.K. Courtesy of KOSAKU KANECHIKA  Photograph:GION

富山県高岡市で制作した花魁の簪をモチーフとした彫刻作品。片仮名の意匠が螺鈿細工で施されている。Hairpin Series, 2014  © NORITAKA TATEHANA K.K. Courtesy of KOSAKU KANECHIKA  Photograph:GION

舘鼻則孝インタビュー日本から見る伝統工芸と世界から見る日本の伝統工芸の違いと在り方を考える。

伝統工芸とは、日本の文化のひとつであり、古きより代々受け継がれてきた技法によって手作業から生まれてきた品の総称になります。その内容は下記になります。

・主として日常生活の用に供されるもの
・その製造過程の主要部分が手工業的
・伝統的な技術又は技法により製造されるもの
・伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるもの
・一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、又はその製造に従事しているもの

項目は全5つ。
その全て満たし、伝統的工芸品産業の振興に関する法律(昭和49年法律第57号、以下「伝産法」という)に基づく経済産業大臣の指定を受けたもののみ認められています。(経済産業省HPより参照) 

現在、その産業を行う企業は2,000社以上、数にして1,000品以上あると言われており、そのうち国が認定したものは、235品(経産省による2019年11月20日時点)。もちろん、地域と種類は多岐に渡ります。
なぜここで数字にズレが生じるかは、産地から申請されないものは対象外になってしまうため、上記の条件を満たしていても指定されない工芸品も存在しているからです。

「日本の文化はとてもハイコンテクストなコミュニケーションによるものが多いと感じています。外から見た時には、そのようなスタイルがミステリアスに感じる要素なのかもしれない。島国であり大陸からの文化流入の終着地点とも捉えられるので、大陸からの潮流はあるものの非常に独特な育まれ方をしたものも多いと感じています。仏教文化なども大陸の隣国と比べて独特な要素が多いのも特徴のひとつかもしれません」と舘鼻氏は話します。

世界にも目を向けてみます。

その国や品は数あれど、一例として、数百万円するものを数年待ってまでも手に入れたいという需要があります。これは、価値としてのクラス感や国や周囲に認知されている最たる例といっていいでしょう。
そして、先述の「日本の伝統工芸の雑貨化を危惧し、品格を取り戻したい」という言葉にもつながるかもしれません。舘鼻氏の活動は、自身の創作はもちろん、そこに伝統工芸という手法を取り入れることで産業の価値化も含んでいるのです。

では、産業や企業、職人らが単体で何かできることはあるのか? 舘鼻氏は、そのヒントを、ある日本の伝統的な企業の代表の言葉に見たと言います。

その人物とは、創業500年以上の老舗和菓子店「虎屋」黒川光博氏です。

埼玉県の塗装工房で仕上げられた溜塗(ためぬり)と呼ばれる漆芸技法で制作された彫刻作品。Woodcuts, 2018  © NORITAKA TATEHANA K.K. Courtesy of KOSAKU KANECHIKA  Photograph:GION

舘鼻則孝インタビュー
無理に延命して”残す”ことが正解だとは思っていない。

一見、冷酷な文脈にも見えるかもしれませんが、舘鼻氏が考察するこの言葉の裏には様々な解が潜んでいます。
「個人的には、無理に延命して”残す”ことが正解だとは思ってはいません。現代に合ったかたちで育まれているかどうかということが最も重要な在り方であり、昔のものを今に復刻することでは前進しているとは言い難い現実があるためです。歴史ある伝統をどう捉えるかということに関しては、“虎屋”の黒川光博社長が十数年前に提言されていた“伝統は革新の積み重ね”という言葉があります。正に“虎屋”の500年以上の歴史を体現していると感銘を受けましたが、黒川社長が昨今おっしゃっている“革新ではなく必然が必要だ”という言葉には目から鱗が落ちました。現代のお客様にどのように楽しんでいただくか、とにかく今の時代を生きる人に寄り添うことができるかどうかということが重要だと感じています。そのような観点では、ある意味で過ぎ去ってしまった日本文化や伝統工芸を今の時代に新しいものとして提案することもできると考えています。むしろ、日本人も新鮮に感じるほどに日本文化との距離は開いてしまっているのかもしれません。“文化”という言葉の響きからも過去のものしか連想されることがないように感じますが、現代に過去の日本文化を投影した時に新しい道筋が見えてくると思っています」。

これは伝統工芸に限った話ではありません。

まさに今がその狭間であり、新型コロナウイルス前と後では世界は一変するでしょう。日常への向き合い方はもちろん、消費に対する思考や働き方、何が必要で何が不必要か、価値観や道徳心、さらには人生まで変わってしまうかもしれません。

それでも人は生きていかねばならぬ、時代に呼応することが必要なのです。
 

展覧会の開催は断念したが、命に変わるものはない。

実は、3月上旬に大規模展覧会を予定していた舘鼻氏。
「東京都主催の“江戸東京リシンク展”の展覧会ディレクターを務めていたので、様々な準備を多数のメンバーと進めていました。東京の伝統産業事業者と私のコラボレーション作品を中心に構成された展覧会で、江戸東京の伝統産業の過去から未来までを往来するような内容を企画していました。主催者である東京都とも協議の上、感染拡大防止の観点から展覧会は直前のタイミングで中止とすることにしました」。

この展覧会では、きっと伝統工芸の新たな可能性とその表現力を体感できたでしょう。しかし、人の命に変わるものはありません。
「期待してくださっていたお客様や発表を待ち望んでいた事業者の方々はもちろんのこと、我々も協力企業の方々とも肩を落とすことになりましたが、健やかな世の中で未来をみつめて開催するからこそ意義のあることだと思っていましたので、無理に決行しなかったのは正解だったと今は思っています。また、今後のスケジュールで開催を検討したいと東京都とも話し合いを進めています」。

チームでの制作風景。各自の専門技術を生かして舘鼻をアシストする。© NORITAKA TATEHANA K.K. Photograph: GION

作品の設置作業も素材や技法を熟知した制作担当の専任チームが行う。© NORITAKA TATEHANA K.K. Photograph: GION

舘鼻則孝インタビュー創作活動を継続することで雇用を継続することも自分の役目。

舘鼻氏が活動のベースとしている現代アートの世界は、マーケットを主導とした大きな経済の渦にあります。
「伝統工芸に限らず、芸術界もコロナ禍の影響は甚大です。かつて、ファッション業界がそうであったように、アート業界はまだまだオンラインでの取引は主流ではありません。特に作品を鑑賞するという目線で考えてみれば容易に想像できることかと思いますが、質量をともなったビジネスから抜け出すことは容易ではないでしょう。ただ、今回の騒動をきっかけにオンライン上でも様々な動きが加速しています。自分のことで置き換えても、卒業制作で発表した“ヒールレスシューズ”をメールでアプローチし、レディー・ガガの専属シューメイカーになったという話は、10年前のその当時、ひどく驚かれるような事柄でした。それはEメールという手段についての話です。今やYouTuberのように独自メディアを持つことも当たり前の世の中になり、クリエイターの成功体験も十数年で大きく変わったのではないでしょうか。アートの世界でも作家自らが発信をし、ギャラリーなどのアートディーラーの在り方も大きく変わってくるかもしれません」。

表現の根本は普遍ですが、確かに届け方や伝え方はここ十数年でめまぐるしい変化をしています。
「私はひとりの美術家として、チームで活動をしています。私が代表を務める会社のスタッフとともにテレワークにおけるクリエーションのあり方を模索しています。在宅勤務中の離れた各自の部屋からでも繋がりを持ち、コミュニケーションを醸成し、創作活動を絶やすことなく前進しています。まだ詳細はお話しできませんが、実際に在宅勤務を開始した4月上旬から約1ヶ月で100点以上の作品を完成させました。当然のことですが、会社組織の代表である私の立場であれば、創作活動を継続させることが内外の雇用を継続させることにもなり、生み出された作品をお客様のもとへ届けることが私たちの仕事です。私のように自分の手でものづくりをする作家であろうとひとりで完結する仕事はありません。常にチームで前進することが、芸術の世界でもこれからの在り方だと感じています。アーティストや伝統工芸のような才能を支える専任スタッフもまた、プロフェッショナル。全ての関係が結実しなければ、どの界も大成を得ることはできないと思っています」。

絵画やヒールレスシューズ などの作品は、舘鼻のアトリエの手仕事で全工程が行われている。© NORITAKA TATEHANA K.K. Photograph: GION

1985年、東京都生まれ。東京藝術大学美術学部工芸科染織専攻卒。卒業制作として発表したヒールレスシューズは、花魁の高下駄から着想を得た作品として、レディー・ガガが愛用していることでも知られている。現在は現代美術家として、国内外の展覧会へ参加する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んでいる。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館などに永久収蔵されている。
http://www.noritakatatehana.com

ワールド バリスタ チャンピオン・井崎英典のクラウドカフェ「#BrewHome」誕生!

#ブリューホームコーヒーを通して、みんなで語ろう。みんなでつながろう。

ワールド バリスタ チャンピオンの井崎英典氏が中心となって手掛けるクラウドカフェ「#BrewHome」が誕生しました。

新型コロナウイルスの被害拡大を防ぐために緊急事態宣言が発令された2020年4月7日、あるSNS上では「疲」、「鬱」、「ストレス」といったネガティブワードが通常の3倍もアップされたそうです。
自宅待機やリモートワーク、先行きが見えない経済……。一変してしまった生活による精神的ダメージは想像以上に大きく、その影響を受けた人も少なくありません。

「#BrewHome」は、それらによって引き起こされる様々な不安や孤独を感じる人たちの支えとして、幸せなひと時を参加者と共に過ごすクラウドカフェであり、コーヒーでつながるソーシャルプロジェクトです。

その時間は、まるで皆とひとつのテーブルを囲むようです。

コーヒーに含まれる香りやカフェインは、高いリラックス効果があると言われ、ストレスなどの軽減や心身を安定させる飲み物として再び評価が高まっています。

同プロジェクトは、毎日13時30分から14時までの30分間、「ZOOM」上で井崎氏がファシリテーターとなり、時にゲストを招いて開催。

世界中から集まった参加者と共に、コーヒーを片手に読みたい本、おすすめのコーヒーカップ、著名バリスタのおうちコーヒーなど、様々な話題をテーマにお楽しみ頂けます。

#ブリューホーム僕はコーヒーを通して何ができるのか。それが「#BrewHome」だった。

「自粛から緊急事態宣言を受け、コーヒーを通して今何をすべきか自問自答し、私が運営するチームでも議論を重ねました」と井崎氏は話します。

実は、予定していた新規事業のローンチも控えていたそうですが、それを延期し、本企画を優先してスタートしたそうです。

「周知の通り、世界中の方々が新型コロナウイルスによって甚大な被害と精神的苦痛を体感していると思います。そんな中、僕が信じるコーヒーを通して何か役に立てることもあるはずだと思い、“#BrewHome”を立ち上げました。私たちの仕事は一貫して“人とコーヒーの素敵な出会いをプロデュースすること”です。そしてコーヒーが創り出す“ ホッ”とする感情の連鎖をつなぐことで、多くの人に安らぎや幸せを届けたいと願う“Brew Peace”という理念のもと活動しています」。
 
5月14日、一部の地域では緊急事態宣言が解除されたとはいえ、不安が払拭されたわけではありません。

「ほんのひと時……。オンライン上のカフェ“#BrewHome”にて、安らぎや癒しをご提供できればと思っています。ぜひご来店のほど、お待ちしております」。

1990年生まれ。高校中退後、父が経営するコーヒー屋「ハニー珈琲」 を手伝いながらバリスタに。法政大学国際文化学部への入学を機に、(株)丸山珈琲に入社。2012年、史上最年少で「ジャパン・バリスタ・チャンピオンシップ」にて優勝し、2連覇を成し遂げた後、2014年の「ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ」にてアジア人初の世界チャンピオンとなり、以後独立。現在は年間200日以上を海外で過ごしつつ、コーヒーコンサルタントとしてグローバルに活動。ヨーロッパやアジアを中心に、コーヒー関連機器の研究開発、小規模店から大手チェーンまで幅広く商品開発や人材育成を行う。日本マクドナルドの「プレミアムローストコーヒー」、「プレミアムローストアイス コーヒー」、「新生ラテ」の監修、中国最大のコーヒーチェーン「luckin coffee」の商品開発や品質管理なども担当。NHK「逆転人生」ほか、テレビ・雑誌・WEBなどメディア出演多数。

・おうちで淹れたコーヒーやテイクアウト、デリバリー、インスタントのコーヒーでも、みなさん思い思いのコーヒーを準備する。
ZOOMに入れるように、PC、スマートフォン、タブレットなどを用意する。
・13:30〜14:00の間に「#BrewHome」オフィシャルサイトから「参加する」ボタンをクリックする。
会話に参加するも良し、ビデオは停止して音声だけをラジオのように聞き流すのも良し、のんびりと自由にご参加ください。

期間:2020年4月10日より毎日13:30〜14:00(30分)
http://brewhome.qahwa.co.jp/
発起人:第15代ワールド バリスタ チャンピオン井崎英典(QAHWA)
企画・クリエイティブディレクター・コピーライター:川嵜鋼平
オペレーションマネージャー・ファシリテーター:広田 聡 a.k.a“サミー” (QAHWA)
プロデューサー:ソ・ヨンボン(PEAK)
アートディレクター:橘 友希(Shed)

僕は僕なりに本気で向き合いたかった。イタリアで奮闘する徳吉洋二シェフの今。

Ristorante TOKUYOSHI/徳吉洋二インタビュー

見えない敵との邂逅。徳吉洋二シェフの数ヵ月を振り返る。

周知のとおり、新型コロナウイルスは日本だけの問題ではなく、世界的に猛威を振るっています。中でもイタリアは死者が3万人を超え、その数は世界3位であり、EU加盟国では最多。(2020年5月20日現在)

イタリアの中心地、ミラノを拠点にする「Ristorante TOKUYOSHI」の徳吉洋二シェフは、現在、医療従事者に食事を提供する活動を行っています。
徳吉シェフは、2度、「DINING OUT」参加を果たしている『ONESTORY』にとってはゆかりのある人物です。2017年の北海道ニセコ、そして、2018年の地元・鳥取県八頭町での開催がそれでした。

そんな徳吉シェフの日常が非日常に変わったのは、忘れもしない2020年2月24日からでした。
「その日を境にキャンセルの電話が鳴り止みませんでした。その数は250名以上はあったと思います。この時期のイタリアは、まだ自粛要請だけだったのですが、ここまで大きな問題になると、やはり脳裏に浮かぶのは“もし感染者を出してしまったら”ということでした。お客様を第一に考え、お店を閉めようかと思った矢先、3月9日にロックダウンになりました」。
約2週間の怒涛を徳吉シェフはこのように振り返ります。「Ristorante TOKUYOSHI」は改装したばかりであり、さあこれからという矢先のことでした。

「のちに休業補償の制度が決まりましたが、それまでは不安でした。スタッフの生活を守らないといけませんし、家賃やその他諸々、営業しなければ回していけないのが正直な現状。改装したばかりで体力的にもちょうど弱い時期だったので、悩みに悩みました」。
とはいえ、その保証金がすぐに納付されるわけではありません。「再び銀行に借り入れもしましたし、各所に交渉もしました」。
現在、イタリアの保証内容は、給与80%、家賃も対象予定ではありますが、いまだ決定にはいたっていません。

本気で活動する人がいるのに家でじっとしていられなかった。

ロックダウン後、約1ヵ月は自宅で過ごしていた徳吉シェフ。
「こんなに自宅で家族と過ごすのは初めてかもしれません。映画を見たり、一緒に食事を作ったり……。ある意味ゆっくりできたのかもしれません。しかし、テレビでは医療従事者を鼓舞する活動や医療崩壊のニュースが目まぐるしく報道され、医者や看護師は、本気でそれと戦っていました。僕は僕にできることで本気になりたい、そんな思いが芽生え始めました」。

その後、制限付きの外出許可が下りると、徳吉シェフは動き出します。4月15日のことでした。
「医療従事者の方に食事を提供する活動を始めました。本気で活動する人を見た時、僕も本気になりたい、僕の本気を届けたい、そう思ったのです。実は、社会貢献が目的ではありませんでした。ただ、本気の人を本気で支援したかった、僕なりの本気で応えたかっただけなんです」。
とはいえ、前出のとおり、資金はギリギリ。それでも食材は自らの持ち出しで始め、最初は4人からプロジェクトをスタート。続けることによって、その活動は少しずつ認知されるようになり、現在では食材提供を支援してくれる生産者も出てきたそうです。

実は医療従事者の方々に食事を提供するという活動は、イタリアでは非常に難しいそうです。感染拡大を受ける同国の病院は、外からの介入を徹底的に拒むためです。現状、おそらくミラノでは徳吉シェフ以外、このような活動をしている人物はいないのではないでしょうか。しかし、今回、なぜそれを成すことができたのか? それは、「レストランと病院に信頼関係があったからでした」。

更には、「Ristorante TOKUYOSHI」の弁護士による病院との交渉や社労士、税理士などの助けもあったといいます。
「今、食事を届けている病院は、僕のお店から徒歩10分くらいのところ。実はそこの院長様が顧客で、“徳吉さんなら”とおっしゃってくれて。とはいえ、実現するまでにはそれなりのプロセスが必要で、それを周囲が助けてくれました。現在は、4名のスタッフから8名になり、毎日1日60食提供し続けています。全員“Ristorante TOKUYOSHI”のメンバーです」。

そして、こんな時期ではありますが、さすが人生を謳歌するイタリア! ただ食事を提供するだけではありません。「KEEP(╹◡╹)」とメッセージを添えるのはもちろん、患者の気持ちを少しでも和らげるように病室に飾れる花や医療従事者の方が合間に飲めるコーヒーもセットで届けているのです。
「妻がフラワーデザイナーなので、花は彼女にお願いしています。コーヒーは何度も試作を重ね、ブレンドにこだわったオリジナル。満たしたいのはお腹だけではありません。ほんの一瞬かもしれませんが、心も豊かにしたいと思っています」。

食事も本気、遊び心も本気。それが徳吉スタイル。
「この活動は、レストラン再開後も新型コロナウイルスの問題が収束するまで続けたいと思っています」。

全てが想定外。しかし、アクションを起こしたからこそ発見もあった。

とにかく前例がない今回の問題。情報過多の時代も手伝い、何をどう判断し、どんな行動や活動をするのかが今後を左右するといっても過言ではありません。

「今回、医療従事者の方々に食事を提供する活動を行うことによって、これまでになかった思想も湧いてきています」と徳吉シェフは話します。その具体は、レストランにこだわらない「TOKUYOSHI」の食体験です。

「僕はずっとレストランにこだわってきました。でも、今回のように医療従事者の方々に食事を提供させていただくことによって、こういう体験もありだと思ったのです」。
こういう体験とは、「デリバリー」や「お弁当」といういたってシンプルな手法です。しかし、この両者はイタリアではポピュラーではないそうです。

「新型コロナウイルスは、きっと一時的に収束しても第2波、第3波は必ずやってくると思います。それに、この先同じような事態が起きた時にレストランだけで勝負するのではなく、他の選択肢も必要だと思いました。今はそのお弁当の内容も構想中です。レストラン以外で“TOKUYOSHI”体験ができるような鴨とフォアグラや牛のタルタルなど、色々、試行錯誤しています。
一方、全てイタリア食材だけで作る焼き鳥や鰻も考えています。ナチュラルワインを一緒にするのも現地では需要がありそうな気がしています。それと……」と、そのアイデアは溢れ出てきます。たかが弁当、されど弁当。たかがデリバリー、されどデリバリー。「高い安いではなく、届けたいのは価値。そこはレストランと変わりません」。

そして、「不謹慎かもしれませんが、この活動をしていなければ、僕の進歩はなかったと思います」と言葉を続けます。
苦境の時こそ、歩むべき道の正確さが必要とされます。それは、シェフとしても、経営者としても、社会の一員としても。
「経営的には苦しいですが、将来のスキルになればそれでいい。時にプライドを捨て、リスクを恐れず新たな挑戦をすることや環境に順応する能力も必要。今の努力は、きっと将来返ってくると信じています」。
 
そんな「Ristorante TOKUYOSHI」は、5月22日より「BENTOTECA MILANO」と題して期間限定でテイクアウトメニューの提供をスタート。うどん、唐揚げ、お弁当などの日本食とナチュラルワインを供する新業態です

自粛、ロックダウン。営業するか閉めるか。何が正解で何が不正解か。

2020年6月1日、イタリアではレストランの営業再開が決まっています。
しかし、「営業再開するところは少ないと思います」と徳吉シェフは言います。
現状、再開をするにあたり、ゲスト同士の間隔は1m、テーブル同士の間隔は2mなど、いくつかの規則が定められています。
「小さなお店なら、ほとんどお客様をお迎えすることができませんので、すぐには再開しないと思います。厳密には、再開できないと思います」。

ご存知の方も多いとは思いますが、徳吉シェフは東京にもレストラン「アルテレーゴ」を構えます。イタリアとは異なる日本の制度には、どのように対応しているのでしょうか。
「すごく難しい問題です……」と前置きし、「自粛要請であれば、営業します」と徳吉シェフ。
「まず、語弊を恐れずに言えば、僕は自粛には賛成でロックダウンには反対です。もちろん補償の問題もありますが、たとえ数ヵ月とはいえ、経済をストップさせるということは格差社会が生まれてしまうと思うからです。解除されたとしても、消費に対する考えはまるで変わってしまうだろうし、経済を動かしながら感染を防ぐという意味では、イタリアよりも日本の方が良いと思います。制度に関しての再考は必要ですが、平和だった日本の国民性であれば、ロックダウンという現象にパニックになったかもしれませんし、その後、経済回復には数年を有する可能性もあったのではないでしょうか」と自論を話します。

「イタリアでは、ミラノとローマにレストラン協会があり、今後、協会と国が定めたレストラン営業に関する法律が定められることになっています。“アルテレーゴ”では、その内容を参考に、レストランマニュアルを設け、スタッフには歩いて通えるように一人暮らしもしてもらいました。当然、その分、資金はかかりますが、国が守ってくれないならば、僕が彼らを守るしかありませんから。それでも、危険を回避できているかというとそうではないのも理解しています。無症状感染者がいるくらいなので」。

今、世界中に「安全」はありません。しかし、レストランを開ける以上、ゲストへ「安心」を提供するという意味では真摯的な策のひとつかもしれません。もちろん、危険を回避できないのはレストランだけではありません。スーパーやコンビニ、電車など、人が集まる場所の全てが例外ではないでしょう。それに関して徳吉シェフは、「そこと比べても一般的には受け入れてもらえません」と冷静に話します。
「例えば、電車でクラスターが発生した事例とレストランでクラスターが発生した事例があったとします。どちらが非難されるかはいうまでもありません。中には、あっちがいいのにこっちがダメなのはなぜ?などと発言する方もいますが、他所と比べることなどできないのだと思います。必要なのは、場所に応じた適切なガイドラインではないでしょうか。飲食業ではこの決まったマスクと手袋をして、平米数に対してゲストは何人で間隔は○○mで……。そのオフィシャルが日本にはないので、先ほどのとおり“アルテレーゴ”では独自で作りましたが、理想は僕らなりのマニュアルを作るのではなく、専門家を交えた業界のマニュアルがあるのが理想。例えば、そんなマニュアルを作りたいという協会が発足され、だから、その制度のためにかかる費用や活動にかかる資金を補償してほしいというのが僕の考える理想の補償です。感染を防ぐために自らお店を閉めた方もいると思いますが、その前にできる何かを僕は追求したい。自己主張ではなく、ちゃんと業界が協力し合って社会と交わることが今の日本のレストランには必要なのではないでしょうか」。

「Ristorante TOKUYOSHI」オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店「オステリア・フランチェスカーナ」でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された「THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS」では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで「Ristorante TOKUYOSHI」を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。
https://www.ristorantetokuyoshi.com/it/

ガラスと革。ふたつの素材が交わる時、夫婦ユニットならではの個性が生まれる。[ko-ma/鳥取県東泊郡湯梨浜町]

自宅兼アトリエがあるのは、鳥取県の保養地・はわい温泉の近郊。のんびりとした田舎時間がふたりを創作に没入させる。

コーマ自分が追い求める、革のカバンを作るため鳥取へ。

カバンを中心にした革職人の朝倉綱大氏と、オブジェやモビール(動く彫刻)を創作するガラス作家の柳原麻衣さん。夫婦ふたりの名前の頭文字をとったユニット名だから「ko-ma(コーマ)」。それが今回、ご紹介するユニークなおふたりです。多摩美術大学時代の同級生だったというふたり。活動の拠点は、鳥取県の中央に位置する湯梨浜町です。もともとは東京都と神奈川県の出身のおふたりは、なぜ鳥取に身を置き、創作活動を行うのか? そして、のどかな田園風景や日本海が広がるこの場所だからこそ生まれる作品についても伺いました。

まずは朝倉氏の創作の源について。
「現在のアトリエ兼住まいは僕の曽祖父の家なんです。4年ほど前に空き家になっていることを知り、安く借りられたことが移住の動機です。前の会社を退社するタイミングで、どこかないかなぁと考えていたんですよ」と朝倉氏。穏やかに話すその口ぶりと、のんびりと時が流れるこの場所、さらには後ほど紹介する独特な革製品が、妙にしっくりはまるように感じたのが第一印象でした。

革へのこだわりを伺えば、大学在学中に革という素材に興味を抱き、カバン職人を目指したのがその第一歩。ですが、思うように希望の就職が叶わず美大卒業後、渋谷にある専門学校『ヒコ・みづのジュエリーカレッジ』のカバンコースの門を叩きます。そこで一からカバン作りの基礎を学び、2年後、朝倉氏はカバンの町といわれる兵庫県豊岡市のカバンメーカーへの就職を果たすのです。

「念願叶い、やりたいことに近づいたのですが、自分の作りたいものとお客さまのニーズや会社の方針に温度差があり、すぐに煮詰まってしまったんです。これは作りたかったものじゃないって」。そう朝倉氏は過去を振り返ります。豊岡での生活は、社会と歩調を合わせつつまずは3年。その後、メーカー内に工房を立ち上げるプロジェクトのメンバーに選ばれ、大量生産ではできない少ロッドのカバンを作る部署に移動し約2年。徐々にやりたかったことを、自らの実力で手繰り寄せていったのです。
「やりたかったことに近づけば近づくほど、制約が多く、煮詰まってしまい……。やっぱり、縛られずに表現したいことがあるなって独立を決意したんです。そう、やりたいことを表現するために」

穏やかな口調とは裏腹に、創作への衝動は強く、欲求を抑えきれず動き出したのが30歳の目前。最初のお子様がまだ奥様のお腹の中にいる頃だったそうです。そうして見つかったのが、現在の鳥取という場所であり、この土地でオーダーメイドのカバン職人として、歩みをすすめることになるのです。

「でも、実は今は7:3の割合で、カバンは3割位。こっちに来て、作りたいもの、自分らしく表現できるものがようやく見えてきたんです」

そうなのです。現在、朝倉氏が精力的に創作に時間を費やしているのは、革を素材に使った人形やピン・ブローチ。そのモチーフがユニークで、日本遺産でもある鳥取の伝統芸能の麒麟獅子や森の精霊など。その妖しくもどこか可愛げのある、キャラクターは奥様である柳原さんの作風と、そして鳥取という場所があったからこそ生まれたのだと朝倉さんは教えてくれました。

父も姉も親戚も美大卒という美術一家に育った朝倉氏。なんと奥様の柳原さんも美術家系なのだそう。

鳥取市の柳屋さんで作られていた鳥取の郷土玩具のお面や獅子頭を革でピン・ブローチに。ほかにも精霊や動物などのシリーズがある。

鹿の精霊をモチーフにした人形。世界で伝承されている精霊も朝倉さんのモチーフに。

オーダーメイドのカバンはもちろん、最近では細かい手作業で生み出すピン・ブローチや人形の割合が増えてきた。

コーマガラスを素材に描き出すミクロの世界へ。

一方、奥様でありガラス作家の柳原麻衣さんは、幼少期を過ごした山形県新庄市の記憶が、創作の原風景にあるそうです。
「昔から虫や植物の絵を書くのが好きで、ひとりで原っぱや雪原で遊んでいた記憶があります。あとは近所の夏祭りの夜店で買った動物のガラス細工が宝物でした」
その楽しかった想い出は、今の柳原さんの作風そのものに。酸素とガスを融合させて約1400度の高温を生み出すガスバーナーを使い、ガラス棒をどんどん変化させていくバーナーワーク。多摩美術大学時代にこのバーナーワークという細かい技法に出会い、オリジナリティあふれる不思議な世界を作り出すのが柳原さんなのです。

「虫と植物の間のような生き物を作品に。言葉にすると分かりづらいですよね。例えば、胞子だったり、きのこだったり、雪の結晶、苔、深海など、目には見えないようなミクロの世界を想像してガラス棒で生み出していくのです」

大学時代に辿り着いたその世界観を今なおぶれずに追求する柳原さん。鳥取在住後は、ふたりのこどもを育てながら、年に5〜6回行う展示会に向けて、テーマを決めて作品を作り上げていくといいます。

「なんというか、芯がぶれずに突き進める強い気持ちを持っているのが彼女。大学時代からずっと自分の作品の世界を作り上げてきて、長年のファンも多い。彼女の影響で、僕の作品も大きく変わったと思います」

ご主人の朝倉さんを持ってして、芯が強い女性と言わしめる柳原さん。ただし朝倉さんに輪をかけたように振る舞いはおだやかで、口調もおっとり。その柳原さんの存在そのものが、ある種、作品の世界観とリンクしているようなのです。

透明感あふれるガラスを素材に、ミクロの世界を描き出す柳原さんの世界。繊細で壊れやすい作品の中に、妖艶で未知なる存在を生み出すのが、彼女のユニークな表現なのです。

高温のバーナーの炎によってガラスを熔融し、成形する技法がバーナーワーク。

作業中は紫外線、赤外線をカットする特殊なサングラスを着用して創作する柳原さん。

柳原さんが表現するミクロの世界。虫や植物を独自の視点で表現する。

動く彫刻ともいわれるモビールも柳原さんの作品のひとつ。独特の世界はインテリアとして人気。

コーマふたりだから、そして鳥取だから生まれる作品を。

最近では、ko-maとしての作品も多いという朝倉氏と柳原さん。例えば森の精霊の体躯はガラス細工で生み出し、顔の部分を革の面で表現するなど、革とガラスの融合した世界観を作り出し、高い評価を得ています。

「鳥取に来てから作風がすごく変わった。創作に没頭できる場所なんですかね。COCOROSTOREさんなど、すぐ近くにアドバイスをくれる人もいて、作品を通して鳥取と繋がれた気もします」と朝倉氏。
そうなのです。今では朝倉氏の代表作のひとつ、鳥取ピン・ブローチはCOCOROSTOREの田中氏から現在休業されている柳屋さんが作っていた郷土玩具をどうにか復活させたいと提案されピンに仕立てた。いわば郷土の伝統を、地元民を媒介に、朝倉氏が作品として融合させ、生まれたものなのです。

一方、美大時代から作風にブレのなかった柳原さんも鳥取に来て変化が出てきたと教えてくれました。
「ずっと今のまま好きな作品を続けたいです。でも、ファンの方へは新しい見せ方もしていきたい。進化ではないですがゆっくり考えていきたい。いつでも主人がアイデアをくれますし、素材が違うから面白いんですよね」

六畳の和室をアトリエとして共有するおふたり。芸術家としてぶつかることもあるというが、それも革とガラスを融合させた稀有なるユニットの醍醐味なのでしょう。柳原さんと朝倉さん、ガラスとレザーを融合させた夫婦ユニット。ふたりとも想いの強さは妥協なし。鳥取の静かな田舎町で、本日もまた妖艶でいて美しい、その独特のアートは生み出されてるのです。

創作前のラフスケッチ。お互いの世界観を大切に、融合した新たな作品が生まれる。

鹿の精霊。顔は革のお面、体はバーナーワーク作るガラス。異なる素材が違和感なく融合する。

毎年各地で行う展示会ではテーマを決め、それに沿った作品を展示販売している。

倉吉市にある山陰の民芸を扱う『COCOROSTORE』でも、ふたりの作品は購入可能。店主の田中信宏氏(写真右)もふたりのサポーターのひとり。

E-mail:komacraft.jp@gmail.com
https://www.ko-macraft.jp/
取扱い店:COCOROSTORE
https://cocoro.stores.jp/

(supported by 鳥取県)

ガラスと革。ふたつの素材が交わる時、夫婦ユニットならではの個性が生まれる。[ko-ma/鳥取県東泊郡湯梨浜町]

自宅兼アトリエがあるのは、鳥取県の保養地・はわい温泉の近郊。のんびりとした田舎時間がふたりを創作に没入させる。

コーマ自分が追い求める、革のカバンを作るため鳥取へ。

カバンを中心にした革職人の朝倉綱大氏と、オブジェやモビール(動く彫刻)を創作するガラス作家の柳原麻衣さん。夫婦ふたりの名前の頭文字をとったユニット名だから「ko-ma(コーマ)」。それが今回、ご紹介するユニークなおふたりです。多摩美術大学時代の同級生だったというふたり。活動の拠点は、鳥取県の中央に位置する湯梨浜町です。もともとは東京都と神奈川県の出身のおふたりは、なぜ鳥取に身を置き、創作活動を行うのか? そして、のどかな田園風景や日本海が広がるこの場所だからこそ生まれる作品についても伺いました。

まずは朝倉氏の創作の源について。
「現在のアトリエ兼住まいは僕の曽祖父の家なんです。4年ほど前に空き家になっていることを知り、安く借りられたことが移住の動機です。前の会社を退社するタイミングで、どこかないかなぁと考えていたんですよ」と朝倉氏。穏やかに話すその口ぶりと、のんびりと時が流れるこの場所、さらには後ほど紹介する独特な革製品が、妙にしっくりはまるように感じたのが第一印象でした。

革へのこだわりを伺えば、大学在学中に革という素材に興味を抱き、カバン職人を目指したのがその第一歩。ですが、思うように希望の就職が叶わず美大卒業後、渋谷にある専門学校『ヒコ・みづのジュエリーカレッジ』のカバンコースの門を叩きます。そこで一からカバン作りの基礎を学び、2年後、朝倉氏はカバンの町といわれる兵庫県豊岡市のカバンメーカーへの就職を果たすのです。

「念願叶い、やりたいことに近づいたのですが、自分の作りたいものとお客さまのニーズや会社の方針に温度差があり、すぐに煮詰まってしまったんです。これは作りたかったものじゃないって」。そう朝倉氏は過去を振り返ります。豊岡での生活は、社会と歩調を合わせつつまずは3年。その後、メーカー内に工房を立ち上げるプロジェクトのメンバーに選ばれ、大量生産ではできない少ロッドのカバンを作る部署に移動し約2年。徐々にやりたかったことを、自らの実力で手繰り寄せていったのです。
「やりたかったことに近づけば近づくほど、制約が多く、煮詰まってしまい……。やっぱり、縛られずに表現したいことがあるなって独立を決意したんです。そう、やりたいことを表現するために」

穏やかな口調とは裏腹に、創作への衝動は強く、欲求を抑えきれず動き出したのが30歳の目前。最初のお子様がまだ奥様のお腹の中にいる頃だったそうです。そうして見つかったのが、現在の鳥取という場所であり、この土地でオーダーメイドのカバン職人として、歩みをすすめることになるのです。

「でも、実は今は7:3の割合で、カバンは3割位。こっちに来て、作りたいもの、自分らしく表現できるものがようやく見えてきたんです」

そうなのです。現在、朝倉氏が精力的に創作に時間を費やしているのは、革を素材に使った人形やピン・ブローチ。そのモチーフがユニークで、日本遺産でもある鳥取の伝統芸能の麒麟獅子や森の精霊など。その妖しくもどこか可愛げのある、キャラクターは奥様である柳原さんの作風と、そして鳥取という場所があったからこそ生まれたのだと朝倉さんは教えてくれました。

父も姉も親戚も美大卒という美術一家に育った朝倉氏。なんと奥様の柳原さんも美術家系なのだそう。

鳥取市の柳屋さんで作られていた鳥取の郷土玩具のお面や獅子頭を革でピン・ブローチに。ほかにも精霊や動物などのシリーズがある。

鹿の精霊をモチーフにした人形。世界で伝承されている精霊も朝倉さんのモチーフに。

オーダーメイドのカバンはもちろん、最近では細かい手作業で生み出すピン・ブローチや人形の割合が増えてきた。

コーマガラスを素材に描き出すミクロの世界へ。

一方、奥様でありガラス作家の柳原麻衣さんは、幼少期を過ごした山形県新庄市の記憶が、創作の原風景にあるそうです。
「昔から虫や植物の絵を書くのが好きで、ひとりで原っぱや雪原で遊んでいた記憶があります。あとは近所の夏祭りの夜店で買った動物のガラス細工が宝物でした」
その楽しかった想い出は、今の柳原さんの作風そのものに。酸素とガスを融合させて約1400度の高温を生み出すガスバーナーを使い、ガラス棒をどんどん変化させていくバーナーワーク。多摩美術大学時代にこのバーナーワークという細かい技法に出会い、オリジナリティあふれる不思議な世界を作り出すのが柳原さんなのです。

「虫と植物の間のような生き物を作品に。言葉にすると分かりづらいですよね。例えば、胞子だったり、きのこだったり、雪の結晶、苔、深海など、目には見えないようなミクロの世界を想像してガラス棒で生み出していくのです」

大学時代に辿り着いたその世界観を今なおぶれずに追求する柳原さん。鳥取在住後は、ふたりのこどもを育てながら、年に5〜6回行う展示会に向けて、テーマを決めて作品を作り上げていくといいます。

「なんというか、芯がぶれずに突き進める強い気持ちを持っているのが彼女。大学時代からずっと自分の作品の世界を作り上げてきて、長年のファンも多い。彼女の影響で、僕の作品も大きく変わったと思います」

ご主人の朝倉さんを持ってして、芯が強い女性と言わしめる柳原さん。ただし朝倉さんに輪をかけたように振る舞いはおだやかで、口調もおっとり。その柳原さんの存在そのものが、ある種、作品の世界観とリンクしているようなのです。

透明感あふれるガラスを素材に、ミクロの世界を描き出す柳原さんの世界。繊細で壊れやすい作品の中に、妖艶で未知なる存在を生み出すのが、彼女のユニークな表現なのです。

高温のバーナーの炎によってガラスを熔融し、成形する技法がバーナーワーク。

作業中は紫外線、赤外線をカットする特殊なサングラスを着用して創作する柳原さん。

柳原さんが表現するミクロの世界。虫や植物を独自の視点で表現する。

動く彫刻ともいわれるモビールも柳原さんの作品のひとつ。独特の世界はインテリアとして人気。

コーマふたりだから、そして鳥取だから生まれる作品を。

最近では、ko-maとしての作品も多いという朝倉氏と柳原さん。例えば森の精霊の体躯はガラス細工で生み出し、顔の部分を革の面で表現するなど、革とガラスの融合した世界観を作り出し、高い評価を得ています。

「鳥取に来てから作風がすごく変わった。創作に没頭できる場所なんですかね。COCOROSTOREさんなど、すぐ近くにアドバイスをくれる人もいて、作品を通して鳥取と繋がれた気もします」と朝倉氏。
そうなのです。今では朝倉氏の代表作のひとつ、鳥取ピン・ブローチはCOCOROSTOREの田中氏から現在休業されている柳屋さんが作っていた郷土玩具をどうにか復活させたいと提案されピンに仕立てた。いわば郷土の伝統を、地元民を媒介に、朝倉氏が作品として融合させ、生まれたものなのです。

一方、美大時代から作風にブレのなかった柳原さんも鳥取に来て変化が出てきたと教えてくれました。
「ずっと今のまま好きな作品を続けたいです。でも、ファンの方へは新しい見せ方もしていきたい。進化ではないですがゆっくり考えていきたい。いつでも主人がアイデアをくれますし、素材が違うから面白いんですよね」

六畳の和室をアトリエとして共有するおふたり。芸術家としてぶつかることもあるというが、それも革とガラスを融合させた稀有なるユニットの醍醐味なのでしょう。柳原さんと朝倉さん、ガラスとレザーを融合させた夫婦ユニット。ふたりとも想いの強さは妥協なし。鳥取の静かな田舎町で、本日もまた妖艶でいて美しい、その独特のアートは生み出されてるのです。

創作前のラフスケッチ。お互いの世界観を大切に、融合した新たな作品が生まれる。

鹿の精霊。顔は革のお面、体はバーナーワーク作るガラス。異なる素材が違和感なく融合する。

毎年各地で行う展示会ではテーマを決め、それに沿った作品を展示販売している。

倉吉市にある山陰の民芸を扱う『COCOROSTORE』でも、ふたりの作品は購入可能。店主の田中信宏氏(写真右)もふたりのサポーターのひとり。

E-mail:komacraft.jp@gmail.com
https://www.ko-macraft.jp/
取扱い店:COCOROSTORE
https://cocoro.stores.jp/

(supported by 鳥取県)

命を守る人の命を守りたい。それが「レストレ」の使命。

スマイルフードプロジェクト

共通の想いを持ったシェフとの邂逅。きっかけは、あるSNSの言葉だった。

「想像も絶する状態にあるフランスで、現地の日本人シェフ達が医療機関に差し入れしたとの事。誇らしいです! 僕たちもやりたい!! だって今日本でも感染が1番広がっているのって医療機関従事者ですよね? 命がけで働いてくれている人達に何かしたい!」。
これは、フレンチの名店『シンシア』の石井真介シェフが、2020年4月6日(月)の午前7時47分にFacebookで発信したメッセージ(一部抜粋)です。そして、同じ思いを持っていた人物の目にこれは留まり、あるプロジェクトが始まるきっかけになります。

その人物とは『サイタブリア』代表・石田聡氏であり、あるプロジェクトとは、のちに生まれた日本の医療機関へお弁当を無償で提供する『Smile Food Project』の活動です。
「石井シェフが投稿した瞬間に僕もちょうど携帯を触っていて、この内容を見た時に“同じことを考えている!”と思い、すぐに連絡しました」と、石田氏はその時を振り返ります。

『サイタブリア』は、『レフェルヴェソンス』を始め、『ラ・ボンヌ・ターブル』や『サイタブリア・バー』、そしてケータリングサービス『サイタブリア・フード・ラボ』を展開しており、新型コロナウイルスによる営業自粛などのあおりを受ける渦中にいます。

ここで素朴な疑問が生まれます。
なぜそのような状況において外に目を向けられる活動ができたのでしょうか? その大きくは、石田氏の経営的手腕にあると言っていいでしょう。「いえいえ、そんなことはございません……」と謙遜するも、それは間違いありません。そしてもうひとつ。それは、「レストランの力を信じたいから」です。

「レストランの原語は、気力・体力を回復させるという意味があり、フランス語の“レストレ”(restaurer)から来ていると言われています。石井シェフのメッセージにもありましたが、今一番気力と体力を回復させなければいけないのは、我々の命を守ってくれている医療従事者の方々です。食べることは、体を作るだけでなく、心も豊かにします。僕たち“レストレ”にできることで何か役に立ちたいと思いました」。


「サイタブリア」だから得られた早期の危機感とその後の行動力の速さ。

石田氏のここ数ヶ月を少しだけ振り返ってみたいと思います。
「確か1月か2月くらいだったと思います。新型コロナウイルスという言葉が世間に多用され始めたのは。しかし、日常に変化はなく、正直“対岸の火事”くらいの印象でした。その中で自分ごと化するようになったのは、経済的な打撃でした。インバウンドが激減し、イベントが続々と中止になっていったのです」。
イベントが中止になるとどんな現象が起こるのか。石田氏にとって、その火事の火の粉が降りかかります。

「ケータリングのキャンセル」です。

しかし、一方でレストランは満席状態。同じ『サイタブリア』の中でも、「両者の時差があった」と言います。
「イベントの中止が相次ぎ、僕らのケータリングにもキャンセルが続きました。それに伴い、経営的な危機を感じ始めました」と石田氏は話します。
幸いにも早期の危機感によって今後の経営対策を素早く進めることができ、先述の「なぜ外に目を向けられる活動ができたのか」という「素朴な疑問」の答えにつながります。

それは、資金的に会社の体力を備えるということです。

「2月からは急速に色々なことが変化していきました。ケータリング業態の悪化に始まり、経営対策、3月には外出自粛になり、レストランにも影響が出てきました。そして、4月7日には緊急事態宣言の発令……」。
一時は、「ロックダウン」という言語も飛び交い、それに対する「保証」はされるのか!?という不安の中、ともにその両者が採用されることはありませんでした。そこから石田氏の行動にある変化が生まれます。

「自分で判断するしかない」。そう思ったと言います。

「3月末でお店は休業させ、まずスタッフの安全に徹しました。幸か不幸か、ケータリングの一件があっため、その時には経営的な工面もなんとかなりそうだったので、ちゃんと給与の保証もした上での対応だという説明もでき、社員やスタッフには理解をしていただきました」。

そして、このように迅速な対応ができたことは、『レフェルヴェソンス』の生江史伸シェフを始め、「各店に任せられる優秀な人物がいたおかげ」だと言います。
「彼らがそれぞれに価値を創造してくれているから、僕は経営に専念できる。しかし、昔はそうではない時もありました。レストランも見て、経営もやって……。現場を見ると何か言いたくなってしまうし、二足の草鞋を履くことによって疎かになってしまったこともありました。仲間に恵まれたおかげで、まず最悪の事態を凌ぐことができたと思っています」。

そんな準備と備えがあったため、2020年4月6日(月)の午前7時47分を境に『Smile Food Project』が動き出したのです。


僕らは今の社会にどんな貢献ができるのか。立ち上がった「Smile Food Project」。

「一刻も早く形にしたい……」。3月から石田氏はそう思っていました。
なぜなら、医療崩壊は既に世界では現実になり、それによって医師や看護師は疲弊する日々。ウイルスと闘う最前線にいながらも満足に食事も取れない環境にありました。
「すぐにでも日本に同じ事態は訪れると思っていました」。

そんな矢先に石井シェフのメッセージだったため、実現に向けスタートします。その後、石田氏以外にも賛同者や協力者は集い、2日後の2020年4月8日(水)に『Smile Food Project』は発足されます。石井シェフは、水産資源の未来を考えるトップシェフのグループ『一般社団法人 Chefs for the Blue(シェフス・フォー・ザ・ブルー)』のリードシェフだったことも手伝い、同社も参画し、プロジェクトは加速していきます。

「とにかく走り始めましたが、どうやって医療現場に届けるのか? アポイントを取るのか? まずそこからでした。実際、会ったこともない人間がいきなり食事を提供したいと申し出ても“好意はありがたいのですが……”と困惑する病院もありました。なるほど、ここのハードルは高いんだな、と認識しました。その時に助けられたのがホームページです。プロジェクト発足から数日で素晴らしいものに仕上げていただき、ここにも一流メンバーの方々にお力添いをいただきました。それがあったおかげで安心を可視化することができ、『Smile Food Project』の活動を相手に知ってもらうことができました。そして同時に、今度は医療関係の友人・知人に相談をし、間口を広げることもできました」。

作れるシェフはいる、その環境もある。そして、医療機関へのつながりもできました。いよいよです。キッチンの舞台には、『サイタブリア・フード・ラボ』を起用。江東区豊洲の運河前に建つそこは、風通しも良く、一括調理を行えるため、衛生面にも適しています。
「スタート時は、1週間に2〜3日、200食を医療機関にご提供させていただいておりました。現在は、ほぼ毎日400食できるまでになり、6月末までには20,000食を目指しています。お弁当スタイルなのですが、このシンプルな形に行き着くまでにも右往左往ありました。僕ら作り手は、温かいものを食べてもらいたいのでキッチンカーで伺おうと思いましたが、対面や手渡しはできず、いつ食べられるかも分からない現場のため、それは不可能に。諸々を踏まえた結果、冷めてもおいしいお弁当スタイルになりました」。

スタートした後に待っているのは、どう継続していくかの問題です。
「一部の食材に関しては、このプロジェクトに賛同いただけた生産者さんたちから無償でご提供していただいております。現在は、携わるシェフの方々含め、全員がボランティアです。今では、医療機関からの問い合わせをいただくこともあり、今後、ひとつでも多くの場所に、ひとりでも多くの方に、おいしいを届けたいですが、それでも今の人数と体制には限界があります。これからは、続けるためにはどうすればいいか。みんなにもどうしたら還元できるか。そんな仕組みも考えていきたいと思っています」。

※「#医療現場へ食事のエールを贈ろう コロナ最前線ではたらく病院関係者支援プロジェクト」と題し、『Smile Food Project』の活動を支援する募金が始まりました。ご賛同いただける方がいらっしゃいましたら、是非、ご支援のほど、何卒宜しくお願い致します。詳しくは、下記のバナーもご覧ください。

上記は、全て写真家の福尾さんが撮影。福尾さんもまたボランティアとして『Smile Food Project』を支えるメンバーのひとり。


あの時にはできなかったことが今ならできるかもしれない、そう思った。

実は様々な悔しさが石田氏の礎を築いたと言います。中でも特に忘れられなかったことは2011年3月11日の東日本大震災だったと言います。
「当時、自分にどんな社会貢献ができるのかを今と同じように考えていました。その根本は変わらず、やはり“レストレ”の精神です。その時に一番気力と体力を回復させなければいけないのは被災地の方々であり、そのために炊き出しにも行きました。ですが、あの時の自分には、まだ会社としての体力もなく、経営者としても未熟だったため、スタッフやお店を守ることだけで精一杯でした。ゆえに、炊き出しも数回しか伺えず、継続した活動ができなかったのです。それが悔しくて……」。

そんな教訓が石田氏の日々を培い、いざという時のための準備と心構えを養ってきたのかもしれません。
「あの時にはできなかったことが今ならできるかもしれない。そう思いました。同時に、やらなければいけないとう使命感もありました。だから、この『Smile Food Project』は、継続しなければ意味がないと考えています。難局の中、おいしいを通して少しでも誰かの心身を豊かにできるのであれば、ひとりでも多くの人にそれを届けたいと思います」。


「純粋」と「黒子」。このふたつの言葉がチームの心身を支える。

今回、話を伺ったのは『サイタブリア』代表の石田氏のほか、この日のお弁当を担当する『恵比寿 えんどう』の鮨職人・遠藤記史氏と和食料理店『HIGASHIYA-Tokyo』の総料理長・梅原陣之輔氏、そして、フードジャーナリストであり、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の代表理事も務める佐々木ひろこさんです。
皆それぞれの役割は違いますが、共通して発する言語があったことが印象的でした。

それは、「純粋」と「黒子」です。

今回、この『Smile Food Project』のプロジェクトリーダーを『シンシア』の石井シェフとともに務める『サイタブリア』の石田氏ですが、「今回のプロジェクトは、『Chefs for the Blue』の多くの一流シェフの方々にご賛同していただけました。その思いはみんな一緒で、医療従事者の方々のことを思い、ただただ“純粋”な気持ちで日々料理を作っています。おいしいものであることは間違いないので、それに対して僕は仕組みを作る“黒子”です」と言います。

そして、遠藤氏も「僕らがこうして料理を作れるのは、その環境を作ってくれた石田さんのおかげです。石田さんの“純粋”な気持ちから生まれたこのプロジェクトを支えるために“黒子”として貢献したい」と話せば、梅原氏も「『Smile Food Project』も『一般社団法人 Chefs for the Blue』も本当に“純粋”なんです。自分のためではなく誰かのために活動し、より良い未来と社会を形成するために一生懸命。僕はそのプロジェクトを成功させるために参加させてもらった“黒子”ですから」と続けます。

そして、佐々木さんもまた「プロジェクトの事務局として、シェフたちの熱い思いがひとりでも多くの方に届くことを願っています。医療従事者の方々に十分に栄養を取ってほしい、おいしいもの食べてもらいたい。本当に“純粋”な一心で料理を作っています。そして、それを支えてくださっている石田さんや『サイタブリア』のスタッフの方々、また資金調達などを担当してくださっている『NKB』の方々には感謝しかありません。私は私にできることを“黒子”としてサポートし、このチームの一員として役に立てればと思っています」と話します。

その「純粋」と「黒子」が支える主役は誰か? もちろんそれは、医療従事者の方々です。『Smile Food Project』のチームは、今日もまた、その主役のためにお弁当を作り、届けに走ります。


星を獲るためでもなければランキングを目指すわけでもない、夢の饗宴。

フレンチや中華を始め、『Smile Food Project』のお弁当は、日毎、数種のジャンルよって構成されています。本日のスタイルは、和食。携わる料理人は、先述の通り、『恵比寿 えんどう』の鮨職人・遠藤記史氏と和食料理店『HIGASHIYA-Tokyo』の総料理長・梅原陣之輔氏です。
「今回、すごい自分自身がおいしそう!と唸ったのは、遠藤さんの太巻き。中には車海老が入ってるんですよ! すごい!」と興奮するのは、梅原氏です。そして、「普段は、自分のお店で太巻きなんて巻くことないので、遠藤さんの手元を見ながら一緒に巻けるなんて貴重な経験でした! 車海老も一緒に湯がかせていただき、そうゆう時間もまた嬉しかったです!」と話を続けます。

一方で遠藤氏も「梅原さんが、ガリに甘夏を混ぜる提案をいただきビックリしました! 僕ら鮨職人にはガリに柑橘を合わせる発想なんてなく、非常に斬新なアイデア!」と話します。
「遠藤さんの太巻きに合うかと思って考えてみました!」と言う梅原氏に対して、遠藤氏は「これは一品料理として成立するくらいおいしい!」と、会話は盛り上がります。

そして、改めて両者が再確認したことは、和食が持つ「文化」と「始末」の良さ。
「お弁当に歴史と文化を持っているのが和食だと改めて感じました。日持ちもできたり、保存食にもなったり。それは、先人たちの知恵があったからこそ」と遠藤氏。
「生産者さんたちの思いも活かしたいので、より一層、無駄なくシンプルに食材を大切に使うことを心がけました。例えば、メザシの焼き浸しで使ったお出汁でかぼちゃを炊いたり、車麩を炊いたお出汁でレンコンを炊くなど、同じお出汁を回しながら始末していきました。そんな文化も日本ならではですよね」と梅原氏。
「結局、僕らは食を通してしか社会に貢献できませんから」と、ふたりは笑顔で言います。

しかし、自店の経営も担う遠藤氏は、今の率直な心理も話します。
「当たり前ですが、お店では対価をいただき、お客さまへ料理を提供させていただいております。今回のような活動で料理を提供することは、作り手と食べ手の関係こそ変わりませんが、それとイコールにはなりません。やはり、ちゃんとそろばんを弾いて大切な従業員の人生も守らないといけませんから」。

だからと言って、この活動に手抜きは一切ありません。むしろ、より気持ちが入っているようにも見えます。なぜでしょう?
「ここにいる僕は、経営者・遠藤でも鮨職人・遠藤でもありません。人間・遠藤が作った料理です。身を呈して国を支えてくださっている医療従事者の方々には感謝しかありません。とにかく何かしたかった。今、やらないといけない。今、動かないと後悔すると思った」。
そんな思いが遠藤氏の心を動かしたのです。

『Smile Food Project』には、『シンシア』の石井真介シェフを始め、『THE BURN』の米澤文雄シェフ、『茶禅華』の川田智也シェフ、『後楽寿司やす秀』の綿貫安秀氏など、錚々たる面々が参加しています。各シェフは、自身の料理をレシピ化し、継続したお弁当を再現できる監修まで行う責務も担います。また、こだわりは料理以外にも光ります。お弁当には、中身をイラスト化したものとメッセージが添えられますが、そのクオリティの高いビジュアルにも驚かされます。そして、何と言っても縁の下の力持ちは『サイタブリア』のスタッフたちです。皆が口を揃えて「『サイタブリア』の方々がいなければ何もできなかったです」と言います。

ここには星もなければランキングもありません。ただ、日本を救ってくれる医療従事者の方々においしい食事を届けたい。その思いだけで活動するメンバーだけが集結したチームなのです。

上記は、全て写真家の鈴木泰介氏が撮影。鈴木氏もまたボランティアとして『Smile Food Project』を支えるメンバーのひとり。


いつの日かレストランでお迎えできる日が訪れたら、そんな幸せなことはない。

対面、接触を許されないため、『Smile Food Project』のチームは、直接、医師や看護師と会ったことはありません。
「僕たちは、おいしいお弁当をお届けするのが役目。ただ、それだけでいいんです」と石田氏は話します。

以前、ある医療従事者の思いが綴られている記事を見たことがあります。そこには“自分たちにとって一番のストレスは、労働時間の長さでもなければ、過酷な現場でもありません。救える命を救えないことです”とありました。
つまりは医療崩壊であり、今まさに医療従事者の方々は、それに直面しようとしています。『Smile Food Project』の料理人は人の命こそ救えないものの、食事を通して心身の安定を提供し、命を救う方々を支えています。日頃より調理を通して命に関わる舞台には立つシェフたちは、食材を通してその尊さを誰よりも理解しているつもりです。
「レストランは、命を預かっている場所だと思っています。食材の命に感謝し、安心安全をもってお客様にご提供させていただきます。だから、その先においしい物語が生まれているのだと思っています」。

『Smile Food Project』は、これからどんな道を歩んでいくのか。

「繰り返しですが、継続を目指します。しかし、継続しなくて済むような世の中になることが一番です」と石田氏。
「僕らがこうして活動ができているのは、実は見えない方々の存在も大きい。例えば、『HAJIME』の米田 肇シェフの活動や同じ業界の諸先輩方の様々な働きや訴えがあったからこそ、僕は僕の役割として今自分にできることを始めることができました。それぞれ離れた場所にいますが、心は繋がっていると思っています」。

この日々は、まだ序盤か中盤か。はたまた終盤か。それは誰にもわからない……。
「きっと、色々な価値観が変わってしまうと思います。当然、レストランの価値も変わると思います。この問題が終息しても、レストランとして生き残っていける体力が残っているかも正直わかりません。ただ、レストランは世の中には絶対必要だと信じています。そんな社会に必要とされるレストランを僕はまた仲間と作っていきたいです」。

最後に。
これは、『Smile Food Project』のお弁当の提供を受けたある看護師からのメッセージです。。
「感染予防の面から、食事の際にはみな離れて違う方向を向かって座り、会話はせずに黙って食べなければなりません。仕事が忙しいだけでなく、職場の人と食事をしながらのコミュニケーションは一切取れない状況です。ですから、本日は、メッセージの温かさと、その味の美味しさに思わず涙してしまいました。これで、明日からも頑張れそうです。私共に送っていただいたお弁当を作ってくださった皆さま、この企画を立ち上げてくださった皆様に心より感謝申し上げます」。(一部抜粋)

明るい未来は、必ずやってくると信じています。

いつか世界中に平穏な日々が戻る時、今回の医療従事者の方々がレストランで楽しそうに食事をしている姿に夢を馳せたい。賑やかな空間には、温かい料理においしいお酒……。そして、次こそは互いの顔を見ながら笑顔で会話に花を咲かせてほしいと思います。

一刻も早く、そんな日が訪れることを心から願います。

『Smile Food Project』の詳細はこちらへ。

『Smile Food Project』へのご支援はこちらへ。

一本のワインで救える人がいる、つながるお店がある。「ボトルキープ」が叶える、未来の約束。

「ボトルキープ/未来の約束」プロジェクト「ボトルキープ/未来の約束」プロジェクトを実施!!

新型コロナウイルスの猛威は、今なお止まりません。

東京だけでなく、日本だけでなく、世界中が窮状に陥っています。それに伴い、各界が悲鳴を上げていることは言うまでもありません。

現状、特に一般の利用者を顧客として商う業種が逼迫しています。その代表例が飲食店だと思います。緊急事態宣言や外出自粛要請によって人々は街から消え、活気あった夜の灯も闇に姿を変えてしまいました。

もちろん、この至上最大の難局を乗り越えるには必要なことです。

しかし、それによって今まで築き上げてきたものが一気に崩されてしまうかもしれない人がいるのも事実。

それは、これまで18回にもわたり「ONESTORY」が開催してきた「DINING OUT」出演のトップシェフや開催地域にて協力いただいたレストランも例外ではありません。

「ONESTORY」は、「ボトルキープ/未来の約束」プロジェクトをスタートします。

補償が明確にならない中、経営の維持・継続が難しくなるお店は相次ぎ、苦渋の選択を迫られています。更には、この危機が増すスピードは加速するばかりです。

一本のワインで、救える人がいます。
一本のワインで、つながるお店があります。
一本のワインで、未来を描くことができます。

いつの日か訪れる、そのワインで杯を交わす時。きっと、特別以上の想いが込み上げてくるでしょう。
それは、どんな高級ワインにも勝る歓喜を得るに違いありません。
この「ボトルキープ」は、ただボトルをキープ(=維持)する行為だけではありません。何より、レストランをキープすることにつながり、彼らの心身をキープすることにつながります。

一本から始まる、ひとつの物語。
その物語は永遠にあなたとお店の心に刻まれ、生涯を通して互いに大切な存在になるはずです。

ぜひ、「ボトルキープ/未来の約束」プロジェクトを通して、皆さまのお力添いをいただけますよう、何卒宜しくお願い致します。

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「ボトルキープ/未来の約束」プロジェクトは、株式会社ONESTORYが展開する「のりきろう日本、つながろう日本 #onenippon」と株式会社キッチハイクが展開する「#勝手に応援プロジェクト」の連動企画です。内容は、日本全国に発出した緊急事態宣言に伴う飲食店利用自粛要請の緩和・解除後に利用できるワイン(ほか酒類)のボトル販売になります。

Vol.1 春とシャンパーニュ。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・茶禅華/東京都港区南麻布]

『茶禅華』の川田智也シェフと作家・角田光代さん。川田シェフのペアリングを角田さんはどのように感じ取り、言葉に紡ぐのか!?

茶禅華 × 角田光代

ずっと前、わが家に友人たちを呼んでシャンパーニュ会をしたことがある。乾杯から最後の一杯までシャンパーニュを飲み続ける、というのが趣旨の集まり。難しかったのが料理だ。シャンパーニュに合う料理が何か、みんなわからなかったので、マリアージュなどと考えずに、ともかく持ち寄ったものをシャンパーニュを飲みながら食べた。シャンパーニュには何が合うのか、未だにわからない。

中国料理と、中国茶・お酒をペアリングして提供している『茶禅華』で、シャンパーニュ・メゾン「テタンジェ」に合う一品を作っていただくことになり、いったいどんな料理が登場するだろう? と思いながら、住宅街の一角にあるお店に向かう。

蛤とふきのとうの春巻だという。春巻がシャンパーニュに合うか否か考えたこともないが、それ以上に、蛤とふきのとうを春巻の具にしようと思いついたこともない。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/作家・角田光代が体験する「食べるシャンパン。」の特別連載エッセイ!

「テタンジェ」のトップキュヴェ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」に合わせるために川田シェフが考案した料理は、文蛤春捲(蛤・ふきのとうの春巻)。一口、二口、三口と、食べる位置によって味が変わる細工がペアリングの妙。

茶禅華 × 角田光代

厨房に入れてもらって、春巻作りを見せてもらう。自家製の薄い皮の中央に、こまかく叩いて半ばペースト状にした蛤を置き、その両端に、ふきのとうのあんを置く。シェフの川田智也さんはまず下部分の皮を折り、左右両方を折り、くるりと巻く。もう一度巻くときに、本体と皮のあいだに少し空間を作ると、食感がさっくりするという。かんたんそうに言うけれど、実際やるとなると手の掛かる作業だ。一本の春巻をたっぷりの油に入れる。茶色ではなく、黄金色が理想的な春巻の色だと言われて、いつも自分の揚げる茶色い物体をつい思い浮かべてしまう。そうか、黄金色……。油から引き上げられた春巻きは、たしかに、うつくしい黄金色だ。

調理場にもお邪魔させていただいた角田さん。川田シェフから、皮面の特徴を丁寧に教わる。

巻き方にも一工夫。最後の一巻きにふわっと隙間を設けることが、噛んだ瞬間のパリッとした食感を生む。

「温度は130℃。3分くらいゆっくり揚げ、テタンジェと同じゴールドに皮の色が変化したら頃合い」と川田シェフ。

春巻きは、中央から左右にかけて味が変化するように具材を詰める。その変化は、「テタンジェ」の一口目、二口目、三口目の味わいの変化とパラレルワールドを生む。

「色だけではなく、味も呼応しあって変化していく」と角田さん。食べる度、蛤の味わいからふきのとうのほろ苦さも訪れ、「海の光景が野原に変わっていく」と言葉を続ける。

茶禅華 × 角田光代

淡いゴールドの「テタンジェ」と、黄金色の春巻がテーブルに並ぶと、その色味が呼応しあうかのようだ。半分にカットされた春巻を口に含むと、さっくりした皮のなかから蛤のうまみがあふれ、潮の香りが広がって、目の前に海が広がっていくようだ。シャンパーニュを飲む。うまみと香り、ふくよかさが、まろやかに、さらに大きく広がっていく。

薄い皮の歯応えも気持ちいい。あの隙間が本当に活きている! この軽やかさも「テタンジェ」に合う。蛤を咀嚼していると、奥から生姜の味と香りがピリッと効いて、味を引き締める……。

春巻の端っこを口に入れると、今度はふきのとうの香りとほろ苦さがひろがって、さっきの海の光景が野原に変わっていく。すごい。半分にカットされた春巻に、春の海と野、両方がある。「テタンジェ」を飲むと、ふきのとうのほろ苦さのせいか、辛口のシャンパーニュの上品な甘さが引き立つ。色だけでなく、味も呼応しあって変化していく。

ハマグリは90度くらいに優しく蒸し、3ミリ角に。しんじょうじゆばで柔らかく合わせ、お出汁で仕上げ。ふきのとうは細かく刻み、餡と絡め、それらをオブラードで包み、春巻の皮で巻く。

一口、二口と春巻の味わいをじっくり確認しながら、「テタンジェ」も口に含んではペアリングを体感していた角田さん。

「テタンジェ」の中でも、しっかりしたコクとリッチな味わいは、「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」ならでは。

「テタンジェを最初に口に含んだ時は清らか。そこから徐々に膨らみが出てくる。その味の重層についていけるように料理も考案しました」と川田シェフ。

「皮との香ばしさ、蛤のミネラル感、そしてふきのとうのほろ苦さ。春巻の味の変化がシャンパーニュの味わいの変化と見事に合わさり、食べることによってテタンジェの広がりも感じます」と角田さん。

茶禅華 × 角田光代

川田さんは、「テタンジェ」の味を「繊細で力強い」と言う。それはまさに川田さんが料理で目指していることだ。川田さんがいつも心に置いている「淡」——薄い、はかないという意味だけではなく、さんずいに炎という文字があらわすとおり、清らかさと力強さの同居——を、「テタンジェ」にも感じたとのこと。だから中国料理とシャンパーニュの可能性について考えるきっかけになった、と川田さんは話す。

料理と飲みもののマリアージュとは、ただ「合う」ことだと私は思っていた。川田さんによれば、マリアージュとは融合ではなくて、調和、とのこと。混ざり合うのではなく、バランスをとること。なるほど、私には難問すぎる。かつてのホームパーティで私が答えを見つけられなかったのも当然だ。

川田シェフは、料理だけではなく、中国の文化や伝統、歴史にも造詣が深い。メモを取り出し、熟語などを例に、その哲学を語る。

川田シェフの言葉に聞き入る角田さんは、常にノートとペンを手に持ち、大切なことを書き留める。良く見ると、歴史感、自然の産物、シルクロード……。気になる言葉が並ぶ。

「“テタンジェ”を漢字で表すならば“淡”」と川田シェフは話す。さんずいに炎の文字通り、清らかさと力強さが同居するシャンパーニュについて熱弁する言葉もメモ。

「テタンジェ」の「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」の感想を「きめ細かい泡に繊細な味。だけど、徐々にふくよかな膨らみが出てくる」と話す川田シェフ。

今回の料理、文蛤春捲の文字の隣には、真味只是淡(しんみはただこれたん)。これは『茶禅華』の哲学でもある。「濃厚な酒、脂っこいもの、辛いもの、甘いものは本当の味ではない。本物の味は淡い味の中にある」という意味(下記も参照)が含まれる。上記の太極図においても「光と陰の摂理は、生き方や料理にも似る」と川田シェフ。

店内にも飾る「真味只是淡」の文字。「醸肥辛甘(じょうひしんかん)は真味(しんみ)にあらず 真味はただこれ淡(たん)なり 神奇卓異(しんきたくい)は至人(しじん)にあらず 至人はただこれ常(じょう)なり。つまり、道を極めた人は、ごく平凡に生きているように見える人であるということであり、本物であれば過剰な演出は不要」と川田シェフ。

茶禅華 × 角田光代

シャンパーニュと春を包んだ春巻。たしかに、混ざり合い同化してしまったら、たがいがたがいを変化させることはない。川田さんの哲学に深く納得しつつ、でも、食べて飲む時間はただひたすらにおもしろかった。味の変化がこんなにたのしい食事って、はじめて体験したかもしれない。

新体験だった「食べるシャンパン。」を堪能した角田さん。最後は「今度は、フルコースでゆっくりペアリングをいただきたいです」と川田シェフに話す。

住所:東京都港区南麻布4-7-5 MAP
電話:03-6874-0970
予約専用電話:050-3188-8819
https://sazenka.com

1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。90年「幸福な遊戯」で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。96年「まどろむ夜のUFO」で第18回野間文芸新人賞、98年「ぼくはきみのおにいさん」で第13回坪田譲治文学賞、「キッドナップ・ツアー」で99年第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年第22回路傍の石文学賞、03年「空中庭園」で第3回婦人公論文芸賞、05年「対岸の彼女」で第132回直木賞。06年「ロック母」で第32回川端康成文学賞、07年「八日目の蝉」で第2回中央公論文芸賞、11年「ツリーハウス」で第22回伊藤整文学賞、12年「紙の月」で第25回柴田錬三郎賞を受賞、「かなたの子」で泉鏡花文学賞受賞。14年「私の中の彼女」で河合隼雄物語賞を受賞。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。

http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/


(supported by TAITTINGER)

作家・角田光代が体験する「食べるシャンパン。」の特別連載エッセイ![NEW PAIRING OF CHAMPAGNE]

茶禅華 × 角田光代OVERVIEW

ファミリーの名をブランドに冠する今日では数少ない家族経営のシャンパーニュ・メゾン「テタンジェ」。

創業は1734年、長きにわたりテタンジェ家が培ってきた伝統と品質は、フランス大統領の主催する公式レセプションにも用いられるほどです。
そんな「テタンジェ」は、もちろん単体で飲むだけでもそのクラスを感じることをできますが、料理と合わせることによって、更にその味の奥行きやポテンシャルを発揮します。

今回は、「テタンジェ」の中でも至宝とも言えるトップキュヴェ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン」に合わせ、珠玉の逸品を5人のトップシェフが考案。
フレッシュで洗練された果実味、熟した果実の香り。そして、滑らかで生き生きとした躍動感……。グレープフルーツとスパイスのニュアンスを感じる洗練された味わいは、料理とペアリングことで、おいしさが何倍にも増幅します。

いわば「食べるシャンパン」。

今回は、それをあるひとりの人物に全て体験してもらいます。

日本を代表する作家・角田光代さんです。

直木賞を始め、数々の賞を受賞する角田さんには、5人のシェフのペアリングをどう感じるのでしょうか。
自ら足を運び、飲み、食べ、そしてシェフの思想に耳を傾け、それを自らの言葉で紡ぐ特別連載エッセイ(計5回)は、まるでひとつの物語のようでもあります。
ひとつでは完結しないシャンパーニュは、その相手次第で変幻自在に美食へと昇華します。

「合わせる」ことで生まれる「1+1=2」以上の可能性。

今回は、その魅力を角田光代さんと共に綴っていきたいと思います。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・茶禅華/Vol.1 春とシャンパーニュ。

1967年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。90年「幸福な遊戯」で第9回海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。1996年「まどろむ夜のUFO」で第18回野間文芸新人賞、1998年「ぼくはきみのおにいさん」で第13回坪田譲治文学賞、「キッドナップ・ツアー」で1999年第46回産経児童出版文学賞フジテレビ賞、2000年第22回路傍の石文学賞、2003年「空中庭園」で第3回婦人公論文芸賞、2005年「対岸の彼女」で第132回直木賞。2006年「ロック母」で第32回川端康成文学賞、2007年「八日目の蝉」で第2回中央公論文芸賞、2011年「ツリーハウス」で第22回伊藤整文学賞、2012年「紙の月」で第25回柴田錬三郎賞を受賞、「かなたの子」で泉鏡花文学賞受賞。2014年「私の中の彼女」で河合隼雄物語賞を受賞。

時間がない。甦った山里が失われる前に。アレックス・カーが愛した日本の故郷を守る。

アレックス・カー × 徳島県・祖谷再び「徳島県・祖谷」を救うべく、アレックス・カーが立ち上がる。

今、新型コロナウイルスの猛威によって、世界中が悲鳴をあげています。その難境は日本も例外ではなく、被害は全国の各界に及んでいます。
外出自粛に始まり、緊急事態宣言。感染者の増加を食い止めるには当然の施策ですが、一方それによって生きる術をなくし、破綻してしまう人々がいるのも事実。
一体、何が正解で、何が不正解なのか……。
事態は、刻一刻と深刻になるばかりです。

そんな中、ある地域を救うべく始まった活動があります。その地域とは、日本のチベットとも言われる秘境「徳島県・祖谷」。
発起人は、数多「DINING OUT」のホストとしても参加し、「ONESTORY」とも親交の深い東洋文化研究者であり作家のアレックス・カー氏です。
アレックス氏と「祖谷」の関係は、40年以上も前に遡ります。親日のアレックス氏は、若かりし頃にこの街へ訪れ、地域の自然、環境、原風景に魅了され、初めて日本で住まいを構えます。日本人すら知る人も少ない「祖谷」ですが、実は天然記念物や世界農業遺産など、世界と比較しても旧き良き文化と歴史が色濃く残されている場所なのです。

しかし、いつしか高齢化や過疎化が進み、一時はその景観を維持することも困難な時代があったと言います。
そんな時に息吹を吹き込んだのがアレックス氏だったのです。空き家の再利用をきっかけに、ほとんど観光客が足を踏み入れることのなかった集落には、国内外から年間延べ3,000人ほどの人々が訪れるようになりました。活気を得た「祖谷」は、知る人ぞ知る名地として飛躍したのです。

アレックス氏にとって「祖谷」は、思い出の地であり、第2の故郷。そんな「祖谷」が、冒頭の理由により、窮地に立たされています。
蘇った山里は、失われてしまう寸前であり、危機的状況に貧しています。
「祖谷」には時間がありません。
再びこの地を救うべく、アレックス氏は立ち上がります。

詳しくはこちらへ。

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の葺き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社を設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

森と山と水と海と。繋がり、循環し、織りなされる御蔵島の自然。[東京“真”宝島/東京都 御蔵島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

巨樹、滝、イルカが作り出す御蔵島独特の美しさ。

御蔵島は、しっとりと濡れていました。

地中で濾過された水はあちこちから溢れ出し、ときには滝となって流れ出しています。伊豆諸島の多くは水はけの良い火山灰性の土壌で水が非常に貴重だったことを思えば、御蔵島独特の美しさといえるでしょう。

山に目を移してみても、御蔵島の魅力が見つかります。それは深い山と、そこに悠然と立つ巨樹です。御蔵島には幹周り5mを越える巨樹が、650本以上あるといわれています。この木々は手つかずのまま、どれほどの時代を越えてきたのか。悠久の歴史を思わせる圧倒的な景観です。

そして海にはイルカがいます。御蔵島沿岸域に生息するミナミハンドウイルカは、およそ150頭。これは世界的に見ても高い生息密度だといわれています。

水、森、山、海、イルカ。御蔵島の個性を織りなすそれぞれの要素は、もちろん独立して存在しているわけではありません。森が水を守り、水が山の栄養を海に運び、山の栄養で海が豊かになる。自然が自然のままで成り立つサイクルが、きっとこの小さな島の周囲にできあがっているのでしょう。

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「お椀を伏せたような」と形容される御蔵島。面積約20㎢の小さな島の中に、豊かな自然が凝縮されている。

 里周辺では南方系の植物も旺盛に育ち、山には高山植物が繁茂。植生の幅が広いことも御蔵島の特徴。

御蔵島の代名詞となったイルカ。世界的に見ても高いといわれる生息密度は、映像を通しても伝わる。

周囲約400m、5000~6000年前の噴火でできたといわれる御代ケ池。池の周囲にも無数の巨樹がそびえる。

東京"真"宝島見守るのではなく、共存することで守る自然。

お椀を伏せたような形で、周囲を急峻な崖に囲まれる御蔵島は、定期船の就航率は夏で8割、冬で3割強。かつては「月より遠い御蔵島」などと言われた時代もあったそうです。いつでも、誰でも簡単に行けるわけではないことが、自然を守ることに繋がったのかもしれません。

今回、映像に収められたのは、そんな御蔵島の自然。

300人の島民たちにとってその自然はごく身近なものであり、自然保護を声高に主張せずとも、当たり前のように守るべき存在。だから御蔵島では人々の生活のすぐ近くでも、自然を感じることができるのです。
険しい道を抜けて、限られた人だけが出会える光景ではなく、人の生活の近くで共存している自然。山を歩けば巨樹があり、海に潜ればイルカがいる。それこそが御蔵島らしさなのでしょう。

「人との距離が近く、時間帯により刻々と姿を変える御蔵島の自然。映像に収められなかった時間にも、さまざまな素晴らしい景色がありました。」

定期船の就航率を上げるため、現在新たな桟橋が建設されている。

水は御蔵島の誇りであり宝。過去にはこの水源を守るため、島を一周する道路の計画も変更したという。

御蔵島に点在するスダジイの巨樹は、根の一部でさえ成人の胴回りほど。この伊奈佐のオオジイは道路脇にあり、比較的手軽に訪れることができる。

海辺から急峻な崖が立ち上がる。船やヘリコプターからは、山肌から海に流れる滝も見ることができる。

届け、米田 肇の声。届け、料理人の声。届け、日本の声。

米田 肇

僕だけでは何も変えられない。みんなの力が何かを大きく変える。

「本当に素晴らしいレストランを造る」をテーマに掲げる大阪のレストラン「HAJIME」のシェフ、米田 肇氏。緻密に計算された高い技術、革新性、妥協なき探究心をもとに細部までこだわったコンセプチュアルな料理は、国内外を問わず、人々に感動を与えています。しかし、今回はスポットを当てるのは、シェフ・米田 肇ではなく、人間・米田 肇です。

周知の通り、現在、地球上に猛威を振るう新型コロナウイルスによって、世界中が窮地に立たされています。誰もが不安にかられる中、米田氏の活動がひとつの光を見出そうとしています。FacebookやSNSを通して、ひとりの声は、みんなの声に輪を広げ、何かが動き出そうとしているのです。


まさかこんなことになるなんて。数ヶ月で全てが変わってしまた。

「2月某日、僕は“2025年 大阪万博”に向けてどのように世界の方々を誘致すべきかの相談を受けていました。そして、その時くらいからでした。新型コロナウイルスが日本中の話題を占め始めていたのは。その後、都内のイベントに参加した時にも東京のシェフたちから“今、街は閑散としており、予約のキャンセルも出始めている”と聞き、何か嫌な心理的変化が芽生え始めました」と米田氏は話します。しかし、当時もまだ「HAJIME」の影響はなく、常に満席状態。「正直、実感はなかった」と振り返ります。

その後、京都の料亭や友人知人のお店のシェフと連絡を取るも、「ゲストは激減」と聞き、自体のひっ迫さと危機感を覚えるようになります。
「そんな状況を踏まえ、関西の方でも感染症に関する対策チームを発足しました。メンバーは、大阪商工会議所や辻調グループ、大阪市立大学の感染症対策に長けた先生、観光局、そして、自分を含めた5人の料理人です。より安全に、より安心してお食事を楽しんでいただこうと共通のガイドラインを作り、そのまとめ役も僕が担っていました」。
では、次の会合はいついつに。そんな時に新たな言語が飛び出します。

それが、「ロックダウン」です。
「ロックダウンってなんだ? 正直、そこからです」と米田氏。
「調べると、つまり“都市封鎖”。そうなってしまったら、売り上げはどうなってしまうのだろう? 従業員に給与は払えるのだろうか? 家賃は払えるのだろうか? 一気に不安が広がりました」。
発令こそ出ないものの、日に日に感染者は広がるばかり。語弊を恐れずに言えば、先述の感染症対策の場合ではない状況に。なぜなら、「感染症対策を行ってもゲストが来ないことには意味がない」からです。自体は一転し、感染症対策の前に、レストランの存続対策を練ることが早急に必要と米田氏は考えます。
「その時でした。海外のシェフが署名活動を行い、大統領に提出した実例を目にしたのです。内容は、家賃や給与の保証などでした」と話します。

「何とかしないといけない」。
その一心で米田氏の戦いは始まります。


レストランを守りたい。飲食店を守りたい。日本の文化を守りたい。ただそれだけ。

世の中に促される自粛も手伝い、日に日にレストランや飲食店のキャンセルは相次ぎます。業界の事態はより深刻になっていきます。
「ある程度の名店ならば、もしかしたら(金銭的に)体力があるかもしれない。しかし、例えばコストパフォーマンスの良い街の定食屋さんや小さな個人店は、今日の売り上げを明日の食材費や原材料に回して経営しているところも多いです。そのようなお店は、どうなるのか? 誰も手を差し伸べてくれないのか? 弱いものは生き残れないのか? 日本の食文化が崩れてしまうと思いました」。

とにかく急がないといけないと始めたのが、前例を見た「署名活動」です。なぜ急がなければいけなかったのか。危機的状況に貧していることはもちろんですが、もっと大きな理由は、10日間で補正予算案を組むと国が発表したからです。
米田氏が第一歩を踏み出したのは、3月29日のことでした。
「補正予算案を組まれてしまう前に、改めて、日本のレストランや飲食店の資産価値を伝えたい。そして、経営構造の実情や現状を正しく理解してほしい。まずは、それを把握していただかないことには、何も好転しないと思いました」。

時をやや前に戻し、米田氏はある創設のメンバーにも招聘されていました。それは「一般社団法人 食文化ルネッサンス」です。
「その中心にいた料理人は、『レフェルベソンス』の生江史伸シェフと『シンシア』の石井真介シェフ、そして僕でした。もちろん、この3名以外にも様々な人が名を連ねるのですが、その中に国会議員の方もいらっしゃって。生江シェフは政治にも明るく、関心を持っている人なので、両人をきっかけに糸口が見つかりました」。
ちなみに、「一般社団法人 食文化ルネッサンス」は、まだ発足されてはいませんが、奇跡的にチャンスはすぐに訪れます。
「すぐに霞ヶ関へ足を運べる機会を頂きました。実は、指定された日にお店は予約で満席でしたが、お客様一人ひとりに事情をお伝えし、お店を閉めて東京へ向かいました」。
今、行動しないと、飲食店が危ない。日本が危ない。とにかく急がないと間に合わない。そんな気持ちが米田氏の心を動かします。
「思いの丈を伝え、その後も大阪府や農水省、文化庁にも周り、できる限り真摯に理解を求めました」。

FacebookやSNSを通して、米田氏の活動を目にした人も少なくないと思います。しかし、そこには綴られていない大切なことを加筆したいと思います。米田氏は、飲食店だけを救おうとしているわけではないのです。今回は、「飲食店倒産防止対策」を求める声を提出していますが、対面の場では、今、米田氏が声を上げているレストランや飲食店への対策だけではなく、伝統工芸や芸術家、様々なところで同じようなことが起こっている実情の理解も求めています。何とか救ってもらえないだろうか、と。何度も、何度も、何度もお願いをしています。
「老舗と言われているところを始め、伝統あるそれぞれは、うん十年、うん百年と、歴史を守り続け、継承してきました。積み重ねるのにはそれだけの歳月を有するも、消えてなくなるのは一瞬。そうなるかもしれない状況に見て見ぬ振りはできません。そんなことは、決してあってはならない」。


料理の技術を磨くことも大切だが、政治に関わることも大切だと気付かされた。

「この短期間で色々な活動をしてきましたが、自分たちも良くなかったと思うこともあります」。米田氏は、そう話します。
「僕たち料理人は、美味しい料理さえ作っていれば良いと思っていました。それが正義であり、答えだとも思っていた。しかし、今回のようなことになってしまい、僕らはもっと政治に関心を持つべきだったと思います。なぜなら、この規模の問題に立ち向かうには、ひとりの力ではどうにもならないからです」。

美味しい料理で人の心を豊かにすることができても、その美味しい料理でこの危機的状況を乗り越えることも救うこともできません。もっと言えば、主戦場が異なるため、戦い方も違います。もしかしたら負けるかもしれない戦いであっても、米田氏は勝ち筋を見つけようと走り続けます。
「署名活動なんてやったことありません。右も左もわからない状況からスタートしています。ただ誰かが動かないと手遅れになってしまう。僕は、レストランを守りたい。飲食店を守りたい。日本の文化を守りたい。ただそれだけ。ゴールさえできればあとはそれを目指すだけ。遠回りもすると思いますが、そのプロセスは無限にあるはずです」と言います。そして、この状況を客観視し、「日本には海外で活躍するシェフも世界的に評価されているシェフも多くいます。星を獲るために技術を磨くのも良いでしょう。大会で好順位を狙うのも良いでしょう。コラボレーションディナーをして、認知度を上げるのも良いでしょう。しかし、それは本当に大切なことですか? メディアも同じです。本当に良質な記事とは何ですか? 改めて問いたいと思います。良いレストランって何ですか」。


一番の理想。それは今の活動が「忘れ去られる」こと。

この新型コロナウイルスの難局は、100年に一度という声も出ています。米田氏の活動は、現代だけでなく、きっと未来へのモデルケースとなるでしょう。もちろん、このモデルケースが生きる場面がないことを願いつつ、間違いなく、過去の好例として刻まれるに違いないでしょう。
「署名活動を通して思ったことは、同じ飲食業界がつながったことです。例えば、レストランはレストラン、居酒屋は居酒屋、バーはバー……。横のつながりはもちろんあると思いますが、縦のつながりも形成できた気がします。まさにひとつになれた。更には、この活動に共感してくださった異業種の方も含め、署名に参加してくださった一人ひとりには感謝しかありません」。

そんな署名は、10万人を超え、更に増え続けています。そして、その署名活動は、ただの署名だけにとどまらず、不安だった個々に行き場を与え、参加するという行動にも結びつけたと思います。「この署名ひとつだって政治への関心の一歩」とは、米田氏の言葉。米田氏の声は、日本全国に届き、出会ったこともない地域の農家の人々にまで届いています。
「日本全国から郵送で毎日届きます。一人ひとりの筆跡に想いを感じ、胸が熱くなります」。
そんな声を聞くと、米田氏自身も「決してひとりではない」と思い、勇気をもらいます。
「政治に関して素人の僕だってできるんですから、きっとみんなもできるはず。声を上げましょう」。
そう米田氏が語るも、その行動に移せた裏側には日々の危機管理があったから。
「常にレストランには予測不能なことが起こります。それはどんなに用意周到にしたとしても起こりうるものなのです。その先々を読み、何が起こっても対応できる能力を“HAJIME”では大切にしています」。

予測不能なそれにケーススタディはありません。繰り返し対応する能力をつけることによってベストな方程式は広がり、数多の対応能力が身に付くのです。
「急に対応するのは無理。常に最悪のケースをイメージし、現場に立ち続けなければなりません」。そんな対応力の素早さが、今回に生きていると思います。厨房から生まれた能力が政治への原動力につながったのです。
「急に非常事態が起こっても対応はできない。政治もそう。願いたくはありませんが、もし次に何か起こった時にすぐ対応できるよう、この一件が去った後も政治には関心を持ち続けたいと思いました。日々の過ごし方、向き合い方、関わり方が、いざという時に未来を変えると思うから。料理も本気で取り組まないとゲストには届かないように、政治も本気でないと人に届きませんから。料理も政治も同じ」。

悩んで、苦しんで、悔しくて。米田氏のもとには、この活動の答えが出る前に「泣く泣く店を閉める決断をしたという報告を頂くこともある」と言います。
まさに待ったなし。そういった人たちのためにも「みんなの想いは、必ず届けます」。
届け、米田 肇の声。届け、料理人の声。届け、日本の声。
その声が届いたあかつきには「みんなで笑いたい」。
そして、「この活動が忘れ去られてほしい。忘れてくれるということは、それだけレストランに笑顔と活気が戻っているということですから!」。

そのゴールのテープを切るまで、米田 肇はまだ走り続ける。

全ての価値は一度リセットされる。だけど、僕たちには料理しかない。[ASIA’S 50 BEST RESTAURANT]

歴代『DINIG OUT』で活躍してきたシェフたち。左から『フロリレージュ』川手寛康シェフ、『ラ・メゾン・ドゥ・ナチュール・ゴウ』福山剛シェフ、『傳』長谷川在佑シェフ、『ラ・シーム』髙田裕介シェフ、『茶禅華』川田智也シェフ。

アジアのベストレストラン50世界的に危機的状況なレストラン業界。その事実から目をそらすわけにはいかない。

ランクインしたレストランの数で、日本が国別最多数を記録した2020年の「アジアのベストレストラン50」。東京、大阪、福岡から12店がランクインし、世界中にアジアを代表するガストロノミー大国の実力を示した華々しい結果となりました。一方で、多くのシェフたちが「ランキング以上に、料理人の国を超えた連携が生まれるのがこのアワードの魅力」と、口を揃えます。世界中でレストラン業界が危機的な状況にさらされている、その事実からも目をそらすわけには行かなかった2020年春。結果発表を受け、授賞したシェフたちが今、思うことについて話してくれました。

【関連記事】ASIA’S 50 BEST RESTAURANT/速報! 2020年、幻となった「アジアのベストレストラン50」初の日本開催。

『INUA』とともに初のランクインを果たした『Ode』生井祐介シェフ。

激戦の2020年を振り返る日本評議会のチェアマンを務める中村孝則氏。

アジアのベストレストラン50世界を視野に入れた店づくりで、激戦の年にニューエントリーを果たした『Ode』。

「世界のベストレストラン50」の日本評議会のチェアマンを務める中村孝則氏が、「例年にない熾烈さを極めた」と、評した2020年。日本からの2店を含む7店のレストランがニューエントリーした点も、話題を呼びました。35位の『Ode』は2017年9月の開業から2年半でのランクイン。生井祐介シェフは店を開いた時から、正確にいえば、独立前『シック・プッテートル』(現在は業態を変更)でシェフを務めていた頃から、「このアワードを目標にしていた」と言います。
「同世代のシェフたちが続々と評価を受けていたことに刺激を受け、いつかは自分も必ず、という気持ちが芽生えた。加えて、異なる文化背景、価値観を持つゲストに、自分の“おいしい”がどう理解されるか知りたいという思いが強くあって。ランキングは1年やってきたことに対するひとつの評価。素直に喜びたいです」。

晴れやかな表情で、そう話してくれました。日本人のフランス料理人である自分が、東京から発信する料理を、世界のゲストがどう受け止め、評価するか。そこに挑むべく、『Ode』開業後はさらに国内の生産者と密に連携しながら、料理の精度を高め、進化、深化させてきたといいます。また、多様な価値観をゲストの属性だけに求めるのではなく、店の中からも、という思いで、常時、ひとりからふたりの外国人スタッフをスタジエとして厨房に招き入れていたとも話します。
「自分が、自分の店が海外の同業者にはどう見えて、どう評価されているか。ゲストとは違う視点で教えてくれるのが彼ら。海外での修業経験がない若い日本人スタッフにとっても、様々な価値観を学ぶ上でとても意味があるので」。

世界を視野に入れた店づくりを意識的に行ってきた生井シェフは、今回の新型コロナウイルス感染拡大の事態を、冷静に受け止めています。
「ひとつの店で何かが変えられるという事態ではない。毎日料理を作れる間は、来てくださった方に満足頂けるよう努めるだけです。料理はクリエイティブな仕事であり、時に今回のようなアワードがその部分に光を当ててくれるけれど、実はレストランでの仕事は日々の繰り返しが大半。ルーティーンをいかに、気持ちと精度を落とさずにやり続けられるか。店を続けていくための基本を、今こそ僕自身がスタッフに示していきたいです」。

生井シェフ(中央)。同志であり目標でもあったシェフたちとともに評価され、喜びの表情。

2年目のランクイン。穏やかな表情で、今までと、これからについて話す川田シェフ。

アジアのベストレストラン50「健やかなる食」「新しい絆」。今だから見えた、これからの店のあり方。

昨年の初登場から、2年連続のランクインで29位に輝いた『茶禅華』。2位の香港『ザ・チェアマン』を筆頭に中華圏の店が数多くランクインする中で、東京発モダンチャイニーズの旗手として存在感を示しました。
「中国料理のポテンシャルはとてつもない。師匠からはもちろん、日本に伝え広めた先人の仕事から、そして中国全土で厨房に立つ料理人から学んだことです。それを自分なりに一歩、先に進めたいという気持ちで毎日料理をつくっています。中国料理のダイナミックさと、日本の食材や和食の技法が持つ繊細さを掛け合わせた“和魂漢才”の味を磨いていきたいという思いは、開業時から変わらず持ち続けています」。

穏やかな表情でそう話す川田智也シェフ。「こんな時代だからこそ、料理人として“食べる”の価値を今一度見直し、伝えていきたい」と言います。
「“食べること”イコール“生きること”。食事は、心身の健康の真ん中にあると考えています。まずは日々の衛生管理をこれまでにも増して徹底すること。そして、レストランですから、“おいしい”と感じることで生まれる喜びをご提供することが一番。その上で、薬膳や漢方を今一度学び、免疫力や自然治癒力を上げる“健やかな食”を楽しんで頂けるよう努めていきたいです。医食同源もまた、中国が誇る思想、文化なのですから」。

今年1月に開催された『DINING OUT URUMA with LEXUS』でも活躍した福岡『ラ・メゾン・ドゥ・ナチュール・ゴウ』の福山剛シェフは、今の状況について「レストラン業界は一度、立ち止まって考える時が来ている」と、話します。
「諸外国を見ていると、まだ毎日店を開けられることが、とてもありがたく思えます。一方で、ここ数年のフードバブル的な空気に、自分も含め業界全体が少し浮かれていた感が否めない。今は原点に立ち返って、料理人は改めてゲストのことを考え、ゲストの方々には自分にとってレストランがどういうものかを今一度考えて頂く時期なのかな、と。その先に、作り手と食べ手の、新しい絆が生まれると信じています」。

アジアトップレベルのガストロノミー大国・日本で、東京以外からのランクインは大阪『ラ・シーム』と2軒のみ。2021年以降の新店舗のオープンを進めている福山シェフとしては『ラ・メゾン・ドゥ・ナチュール・ゴウ』としての授賞が最後という意味でも思い出深い年になったはずです。
「そうですね、順位はともかく、『ゴウ』での最後の年に授賞できて良かった。『アジア50』で出会ったシェフたちは、ライバルという以上に、尊敬できる仲間であり同志。来年は例年通り、華やかな授賞セレモニーが開かれる世の中であることを祈りつつ、僕自身は、その場で皆とまた再会できるよう前進します」。

福山シェフ。『ラ・メゾン・ドゥ・ナチュール・ゴウ』としては最後の「アジアン50」となった。

川手シェフ。オンラインストリームによるランキング発表が映し出されるスクリーンを見つめる。

アジアのベストレストラン50業界全体で、国を超えて、レストランの文化を次代につないて行く。

2020年、日本のレストランとしては3位の『傳』に次ぐ7位にランクインした『フロリレージュ』。2019年の5位からは2ランクダウンとなったものの『傳』と並び「日本を代表するレストラン」という、アジアの評価は変わることがありません。川手寛康シェフにランキング結果について尋ねると「普段は全く意識しません。でも発表当日とその前日、1年に2日間だけは、やっぱり、気にしてますかね」と、笑いながら率直に話してくれました。
2015年3月の移転リニューアルから、丸5年。1皿ごとにメッセージを込められたストーリーのあるコース作り、日本酒、カクテルを取り入れたドリンクのペアリングコースなどを他に先駆け、東京のレストランシーンを革新してきた川手シェフ。地方の料理人とも協同し産地や生産者に光を当てる活動にも注力しつつ、世界の舞台で評価されることで、日本のトップシェフのあり方を海外にも伝えてきました。裏を返せば、あらゆる場面で、料理人としての意見を、そして、アクションを起こすことを求められてきた節があります。
「自分では何かを発信しているつもりは、そんなにないんですけどね。発信以上に、人としての責任を果たすことが第一。ゲストやスタッフ、生産者の方々、そして家族に対しても。あとは料理人なんだから、やっぱり美味しい料理を作って喜んでもらいたいと思っている。シンプルですよ」。
話す表情にも、気負いはまったく感じられません。

どんな評価を受けても、店の内外で責任ある仕事を任されても「料理を作り、食べてもらう」ことこそが喜び。そう話す川手シェフは、世界のレストランが置かれている厳しい状況に心を痛めていると話します。
「ここ数週間は、朝起きて一番にフランスを始めとする諸外国のニュースに目を通すことが習慣になっています。営業停止を余儀なくされている国のシェフたちを思うと、本当につらい。経営のことももちろん深刻なのですが、僕も含め料理人の多くは“料理しかない”人間。食べたいという人がいるのに、料理をつくれない状況の辛さは想像を絶するものがあります」。

現代に生きる誰もが経験したことのない、未曾有の事態。収束後の世界は、すべての価値観がリセットされ、再構築されることが予想されます。「レストラン業界も、変わらざるを得ない」と、川手シェフ。
「ひとりの力は弱い。これからは国内外の料理人同士の連帯が問われる時代が来ると思います。自分の店がよければいいという考えではなく、レストラン業界全体として、国を超えてどう動いていけるかが、レストランの文化を未来に継承するために不可欠になってくるかと」。

困難な状況下だからこそ、改めて見えたものも少なくないといいます。
「非常時こそ、人と人の絆が可視化される。この先まだどうなるかわかりませんが、今は毎日、本当にいいゲストに恵まれていると感謝するばかりです。この性格だから“頑張ろうよ”と、口に出していうことはないけれど、少なくとも僕が下を向くわけにはいかない。スタッフが下を向くのが恐いから。医師でも政治家でもないから、今の災難を直接解決する手立てはないけれど、医師や政治家にできないことが僕らにはできる。おいしい料理で、人々の心を震わせ、勇気付けることが。食が、レストランができることは必ずある。料理人という仕事を改めて誇りに思っています」。

「下を向かずに」。ポスト・コロナのレストラン業界について話す川手シェフ。

のりきろう日本、つながろう日本。#onenippon

つながろう日本 #onenippon

「ONESTORY」が大切にしていること、それは「ONE=1ヵ所」を求めて日本を旅し、そこから生まれる「STORY=物語」の感動を表現することです。

しかし、今、地球上を恐怖に落とし入れている新型コロナウイルスによって、世界中に感染者は拡大し、旅はおろか、外出すら規制や自粛の要請が出るような状況になってしまいました。
日本でいえば「東京オリンピック」の延期はもちろん、各国の情勢と死者の人数を見れば当然のことだと思います。

結果、「ONESTORY」がこれまで出合ってきたホテルやレストラン、ショップ、伝統工芸から農業や漁業、生産者、そしてエンターテインメントも含め、多くの人々は、需要と供給が崩壊し、危機的状況に貧しています。
中には、一時休業や閉店を強いられているところも少なくありません。

しかし、それでも各所は「できること」をアクションしています。
例えば、全国の飲食業では一流店も含め、テイクアウトを実施し、地域のそれぞれもONLINEを積極的に取り入れ、各界では映像や情報の配信なども行なっています。
ここでは、そんな活動をしているところをご案内し、少しでもつながっていただければと思います。

潰したくないお店がある。
なくなってほしくない場所がある。
応援したい人がいる。

「ONESTORY」にできること。自分たちにできること。
何ができるかわかりません。もしかしたら何もできないかもしれません。
それでも今、我々にできる「日本に眠る愉しみをもっと」伝えていければと思っています。

のりきろう日本、つながろう日本。
#onenippon

一刻も早く、世界中に平穏な日々が戻る願いを込めて。

※「#onenippon」は、Facebookにて上記の活動を共有する「ONESTORY」が管理するグループになります。また、そのほか、各SNSでも展開致します。ぜひ、そちらもご覧いただけますと幸いです。(現在は、準備中になります。開設後、「ONESTORY」公式Facebookにてご案内致します)
※情報は不定期に更新していきます。更新時は、「ONESTORY」公式Facebook及び、上記の「#onenippon」にて発信させていただきます。また、「我々もこのような活動をしています」という方々は、是非、info@onestory-inc.jpまでご連絡いただければ幸いです。


株式会社ONESTORY代表取締役社長・DINING OUT総合プロデューサー 大類知樹
ONESTORYメディア統括編集長 倉持裕一

日本はふたつの特別賞を得るも、見えない敵と戦う難局のサヴァイヴ。 [ASIA’S 50 BEST RESTAURANT]

「シェフズ・チョイス賞」を受賞した髙田裕介シェフ(手前)。「同志が自分の仕事を評価してくれた」と語る一方、「今は個人店が生き残れるかの瀬戸際」とも。

アジアのベストレストラン50

3月24日、オンラインストリームによるバーチャル・イベントとして、前例のない形での発表になった202年の「アジアのベストレストラン50」。レストラン業界がかつてない困難にさらされる状況下で、授賞したシェフたちの表情、コメントも祝祭ムード一色ではなかったのが印象に残りました。そんな中、ランキング結果以上に日本のシェフたちを沸かせたのがふたつの特別賞。大阪『ラ・シーム』髙田裕介シェフの「シェフズ・チョイス賞」と、恵比寿『エテ』庄司夏子シェフの「アジアのベストパティシエ賞」です。

【関連記事】ASIA’S 50 BEST RESTAURANT/速報! 2020年、幻となった「アジアのベストレストラン50」初の日本開催。

授賞を受け、今の思いを話す『ラ・シーム』の髙田シェフ。

庄司シェフ。日本の女性シェフとして初の授賞を誰よりも喜んだ中村孝則チェアマンと。

アジアのベストレストラン50大阪発世界へ。都市の食文化の多様性の意味を、発信し続ける。

「料理人仲間、同志が自分の仕事を見てくれていて、評価してくれた。今までやってきたことは間違いじゃなかったんだなと。非常に光栄です」。
「シェフズ・チョイス賞」の授賞について、そう感想を述べる髙田シェフ。料理人たちの間で「ランキング以上の価値がある」といわれる同賞ですが、ランキングにおいても、2019年の14位から4位ランクアップで10位にランクインし、初めてのベスト10入りを果たしました。2010年の開業から、ちょうど10周年の年に当たる年の快挙です。

「10年前に大阪に店を開いて以来、大阪に人を呼びたいという気持ちで仕事を続けてきました。首都圏の方々も、京都までは来るけれど、大阪には距離を感じている。これは物理的ではなく、心理的な距離なんですよね。大阪はニューヨークやバンコクのように、ストリートフードから高級店まで飲食店の層が厚く、素晴らしいレストランもたくさんある。ただ、食の町としてのブランディングが今ひとつ。自分がこのような賞を頂くことで、大阪という都市に多くの方の目が向けてくれたらと思います」。

2007年から2年間のフランス修業時代、当時、欧州全体にその名を轟かせていた『noma』に影響を受けたという髙田シェフ。過度な装飾や様式美を排除し、フラットでモダンな空間をしつらえたのは、「フランス料理に抱くハードルの高さ」を払拭する店にしたかったからだといいます。「オープンから3~4年は全然、理解されませんでしたけどね」と、笑いますが、関西一帯、加えて故郷である九州の食材を丁寧に発掘しながら「フランス料理の技法でアウトプットする」というブレない軸を貫き、現在は、クラシックの世界からもイノベーティブ志向の食べ手からも、高い評価を受けるに至っています。気付けば“ベテラン”世代。今年43歳、知識も経験も体力も充実したアジアを代表するトップシェフは、今の世に何を思うのでしょうか。

髙田シェフ。ランキングの発表後は、国内外のシェフとメッセージのやりとりも。

困難な状況下でも、「この日1日は」と、授賞の喜びをかみしめた。

アジアのベストレストラン50「職人の仕事」が育まれる、評価される土壌を、食べ手とともに作っていく。

「ほんのわずかな時間で、世の中が一変してしまった。僕らも1カ月前までは、佐賀で会いましょう、なんて話していたのですから」。
「佐賀」とは、武雄で開催される予定だった2020年の授賞セレモニーのこと。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて中止になったのは、周知の通りです。
「多くの店がギリギリの状態で踏みとどまっている。もちろん、うちの店もそうです。わずか20席の店ですが、8人の従業員がいる。都市部は家賃も高い。まずはこの状況をどう乗り越えるか、そして収束後に何ができるのか。真剣に考えなければなりません」。

各国の政府がそれぞれの支援策を打ち出す中、日本の政府の無策についても声を上げます。
「海外から日本へ訪れる観光客をもてなす上で、日本の食文化を伝える飲食店は重要な役割を担ってきたはずです。鮨や天ぷら、割烹などの日本料理はもちろん、今日ランクインしたレストランのように、世界の食べ手の情報交換の場に名前が上がる店もそう。これまでインバウンド需要を支えてきた食の担い手たちを、今、守らずにどうするんだ、と」。

レストランが、街の、国の「資産」であるという認識が欠落していると感じざるを得ない国の無策に、厳しい視線を向けつつ、言葉を続けます。
「今は個人店が生き残れるかの瀬戸際。このような喜ばしい賞を頂いても、店がなくなってしまえば元も子もありません。これは現在の危機的状況下に限った話ではないですが、一軒の店がつぶれても、代わりに新しい店ができればいいという市場では、真の食文化は継承されない。僕は食文化の核は、職人の仕事にあると思っていますから。職人仕事は、インスタントな食文化の下で育まれることはありません。僕自身は店を開いて以来、まずは職人として仕事を認めて頂きたいという気持ちでやってきました。経営の安定や、評価は後から付いてくると」。

ポスト・コロナの時代は、料理界のあり方も変わっていくだろうと話します。
「先の職人の話にも繋がりますが、ここ数年、レストラン文化の過度な情報化、スピードの速さに、危機感を覚えていたのも事実です。SNSが大きな役割を果たしていて、集客という意味ではうちの店も恩恵に預かった部分もあるのですが、とかく“右へならえ”となりがちな日本では、一極集中も起こりやすく、爆発的な人気はいともたやすく“消費”されてしまう。レストランとは、そういうものでしょうか。僕にとっていい店が、ほかの誰かにとっても100%いい店である必要はないはずですよね。この難局をサヴァイヴできたら、まずは職人が安心して技を磨き、ものづくりに専念できる環境を整えることに力を注ぎたい。そして公平で自由なご自身の判断力、価値観を持つ食べ手の方と一緒に、次代のレストラン業界をじっくり、より良いものにしていきたいです」。

「頑張っている女性シェフ、そして若い料理人志望者に夢を」と、庄司シェフ。

アジアのベストレストラン50若くても、女性でもチャンスはある。顧客に向き合いながら戦略的であることの意味。

日本の女性シェフとして初めての授賞、しかも30歳という若さで。『エテ』庄司夏子シェフの「アジアのベストパティシエ賞」授賞は、重い空気に沈みがちな今のレストラン業界に、ひと際、明るく華やかなインパクトを与えてくれました。

「キャリアのスタートは料理人。レストランを始めるに当たってつくったケーキで、この賞を頂けたのは本当に驚きです。レストラン業界は、男性に比べて女性が圧倒的に少ない業界。女性でも、若くても、チャンスがあることを今回の授賞で示せたらとても嬉しいです」。

プリザーブド・フラワーのようなマンゴーケーキをアイコンに、一躍世に名を轟かせた庄司シェフ。完全予約制のケーキ販売と、1日1組、4席のみのレストラン営業を軸とした『エテ』をオープンしたのは2014年、24歳の時です。
「自己資金はわずか、国から融資を受ける際も、若いというだけで、女性というだけで、こんなにもハードルが上がるのかと、愕然としました。そんな小さな個人でも、一つひとつ目標をクリアしていけば、評価して頂ける。店の規模とは関係なく世界の舞台に立てる。料理人を志望する若い人が減り続ける今、次の世代に希望を与えられる存在になりたい」。

高校卒業後、10代で料理の道を志した庄司シェフは、30歳という若さながら、レストラン業界の全体に目を向けます。

「日本国内においてレストランを取り巻く環境は、年々、変化しています。東京でも、素晴らしい空間、完璧な料理とサービスがそろった高級店が、閉店を余儀なくされることもある。いい料理をつくることはもちろん、今の時代を料理人として生き抜くには、戦略的であることも必要だと考えます」。

小さなプライベートレストランというスタイルを選んだのも、「低コストで開業でき、顧客満足と利益の確保を両立できる形だったから」と話します。

「以前、海外の有名店に食事に出掛けたとき、サービスの方にシェフに会いたいと伝えたんです。私ミーハーだから、一緒に写真撮ってもらおうと思って(笑)。で、“今日は休みです”といわれ、とてもがっかりしたんですよね。日本のお客様はレベルが高く、サービスに対しても非常に敏感で、シェフが厨房にいない店からは離れてしまう。今日までも様々な場で店やケーキを取り上げて頂き、店舗の拡大などありがたいお話を頂く機会はあったのですが、私は“私自身が厨房に立つ店”の価値を高めて行きたい。一人ひとりのお客様によりフォーカスしたサービスを提供することで。そのことに注力できるのも、つまり小さなレストランを安心して続けていけているのも、ケーキというもうひとつの軸があるからなんです」。

1日1組、4席のみの店は、現在、レストラン業界を襲っている厳しい事態に巻き込まれることなく営業を続けていけていると話します。
「今の時代を料理人として生き抜くには、戦略的であることも必要」。
ディスアドバンテージを跳ねのけて小さな店を開き、がむしゃらに努力を重ねて世界の舞台へ躍り出た若き女性シェフの確固たる思想は、ガストロノミーのこれからに一筋の光を投げかけているように見えます。

日本人の女性シェフとして初めて「アジアン50」のトロフィーに名が刻まれた。

ファッションからインスピレーションを受けてケーキをつくるという庄司シェフ。この日は「ADEAM(アディアム)」のスーツで。

神のエネルギーを導く花。利島が誇る日本一の宝・椿。[東京”真”宝島/東京都 利島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島椿を撮るためにもう一度訪れた。空からもその赤色は輝いていた。

「利島(としま)には、2回上陸しました」。
そう語るのは、映像作家の中野裕之監督です。そんな中野監督が利島でどうしても撮りたかったもの、それは椿。
古くから日本の椿は魔除けの花としても知られ、神のエネルギーを導く花として親しまれてきたといわれています。
「1回目は、緑が鮮やかなうちに島全体と海を撮り、雰囲気も知るために上陸しました。2回目は椿。撮影を分けたのは、開花時期もそうだったのですが、それよりも椿を撮ることに集中したかったから」と語るよう、映像冒頭には、椿の美しきピンクが画面を彩ります。「チャッ、チャッ」と鳴くメジロの声は、まるで鳥たちもその開花を喜んでいるかのよう。
「島の約80%が椿林で覆われている利島は、日本で一、二を争う椿油の生産量を誇ります。椿の数は、約20万本! 早いものは11月ごろから咲き出し、長いもので4月下旬まで残ります。利島と言えば椿! 椿と言えば利島!」。

利島の椿の歴史は、江戸時代まで遡り、200年以上にわたって椿油を生産されていると言われています。初夏から秋にかけて十分に油を貯め、冬に花を咲かせる椿は、「ワックスがかかったように葉が艶々しており、太陽が当たると撮影時にハレーションを起こしてしまうほど!」。
また、椿は常緑のため、風景で四季を感じることが難しく、開花を持って季節の訪れを知らせる役目も果たしています。
「椿を撮影している時に、空からもその風景を覗いてみたのですが、そのカットが一番気に入っています。深い緑にヴィヴィッドに点在する椿は、本当に美しかったです」。
その椿を育てるために畑が段々になっているのも、落ちた実が雨などで流されないで収穫できるように考えられた先人たちの工夫からなるもの。
利島の椿は、島のシンボルであり、古くから島を支えてきた宝でもあるのです。


【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

冬の時季に花を咲かせるヤブツバキは島のシンボル的存在。初夏から秋にかけ、たっぷり油を蓄えた実になる。

島内には、約20万本のヤブツバキがひしめき合う。椿油の生産量は、日本で一、二を争う。

ヤブツバキをはじめ、自然豊かな利島には、ウグイスやメジロ、キジも生息する。

宮塚⼭の裾野に広がるヤブツバキ。冬になると島全体を艶やかに彩る。

都心から南に約140km離れた場所に位置する利島の人口は、約300人。島の魅力に魅かれ、移住する人も多い。

東京"真"宝島色々な人に島のことを聞いたが、誰も答えられなかった謎の島・利島。

「僕も今回の撮影で初めて利島へ行きました」。
そう語る中野監督。
「行く前に色々な人に“どんな島か知っていますか?”“行ったことありますか?”など聞いたのですが、誰も島のことを答えられる友人知人はいませんでした。しかし、きっとそれが普通なのだと思います。だから利島は謎の島であり、秘密の島。それが魅力的なのだと思います」。
先述の通り、利島へ2回訪れた中野監督は、まず1回目の撮影でイルカに虜になりました。
「利島には、約20頭のイルカの生息が確認されており、ドルフィンスイムとダイビングと両方楽しめる珍しい島だということが分かりました」。

そして2回目は、椿。
「繰り返しですが、利島と言えば椿。どうしてもカメラに収めたかったので、開花に合わせ再訪しました。花の数は想像以上で圧巻! そして、その時にもうひとつ感じたことは、美しい鳥の鳴き声が多いということ。僕はメジロに出合ったのですが、キジやウグイスもいるそうです。あくまで持論ですが、鳥のいる場所は良い生態系が形成されていると思っています。利島にもそれを感じました」。
ゆっくりと椿を眺め、鳥のさえずりに耳を傾ける。海に足を向ければイルカとの出合い。
利島は都会の喧騒とは対極の世界。朝日が1日の始まりを告げ、そのバトンを夕日が受け取り、1日の幕を閉じる。当たり前の日常の全てが美しい。時計や携帯を見る時間は忘れ、島の時間にその身を委ねたい。
「もしまた訪れる機会があれば、3回目の利島では釣りを楽しんでみたいです!」。

島の周囲には、野生のイルカが20頭ほど群れで生息している。利島のイルカは、高確率で合うことができる。

利島村の夕日展望台からの景色。周囲に遮るものがない利島では、美しい夕日を望めるスポットが多い。

東京"真"宝島断崖絶壁に囲まれた小さな島は、ひとつの山から成る。

都心から南に約140km、島の周囲は約8km、面積は4.12㎢。
利島は、他の島と比べてもその形状が特異であり、珍しくもその周囲は砂浜ではなく、断崖絶壁です。
「島と一体化する宮塚山は、山頂はもちろんですが、道中そのものが展望台のように絶景が広がります。散策中、僕のライフワークとも言える神社探しもまたそこで出合いました。島民から一番神様と呼ばれる阿豆佐和気命神社に始まり、二番神様の大山小山神社、三番神様の下上神社などを巡りました。そして、この島の特徴は、山だって事。だから坂が多い! 特に人が住む地域は、坂が急です」。
そんな利島は、島を周遊するにしても車で20分もあればできてしまうほどコンパクトなサイズ感。
「人が住まう地域は島の北側に集中し、宿や飲食店も少ない。そこが暮らしの全て。一見、これを不便と感じる人もいると思いますが、この現代離れした世界が今の時代に必要だと思います。いや、もしかしたら、人として生きる正しい世界は、こっちの方なのかもしれません」。
椿以外、何も事前情報がなかった中野監督は、利島をそんな風に感じたそうです。

最後に中野監督は、「何で利島っていう名前(読み方)なんだろう?」と素朴な疑問を抱きますが、その由来については今なおはっきりとはしていません。以前は、外島や戸島と書かれていた説もあるそうです。
「その謎めいたところもまた歴史ある島の魅力。全てを知ることが必ずしも美徳とは限りませんね」。

改めて問いたい。
利島は“どんな島ですか?”“行ったことありますか?”
「誰かにそう聞かれたら、その魅力を存分に伝えてあげたいです!」。

島の周囲はわずか約8km。その輪郭を断崖絶壁が囲む。

利島から南側の伊豆諸島の島々を望むことができる南ヶ山園地。新東京百景にも選ばれる名所。

利島村にある夕日展望台は、島民からも愛されているスポット。夕日から夜の帳まで楽しめる。

標高507mの宮塚山。中腹に登山道が数カ所あり、展望台も用意されている。 

正月三が日は、山廻りの日としてお米とお酒を持って一番神様、二番神様、三番神様と参拝。阿豆佐和気命神社は一番神様。

上記の阿豆佐和気命神社から少し歩いたところにある大山小山神社は、二番神様。

三番神様である下上神社はウスイゴウ園地の下にあり、阿豆佐和気命の妃を祀っている。

集落内で一番山よりの都道沿い位置する堂山神社。創建については不詳であり、明治初期にそれぞれ私宅に祭ってあった神々を合祀して設立。

利島の集落は、北斜面に位置する。坂道の先に海が見えるというふたつの関係は、長崎やサンフランシスコにも似る。

宮塚山登山の終着地。利島で発掘された銅鏡を模った池や当時の住居をモデルにしたあずまやなど、古代太陽信仰をテーマにした場所。

島全体がひとつの山のような形状をした利島。その頂点となるのが宮塚山。

(supported by 東京宝島)

大見得を切るような造形美。その姿は、まるで島が歌舞いていた。[東京”真”宝島/東京都 三宅島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 空撮:遠藤祐紀 音楽:木下伸司

東京"真"宝島睨みを利かされた僕は、島に撮らされていたのかもしれない。

「とにかくこれまで回った島の中でも、一番“ジオ”を感じました」。
そう語るのは、映像作家の中野裕之監督です。
この「ジオ(=地球・土地)」をもう少し紐解くと、島の輪郭にそれを感じる風景が広がっていたと言います。
「例えば、赤場暁(あかばっきょう)。海岸側には大小の石が集積され、もっと陸に目を向ければ朱色に染まる岩場や赤土、更にそれを空から望めば、現在の大地があって。異物同士の地層は火山活動によってできたのは理解できるのですが、その歴史の一片が可視化される場所を目の当たりにした時、すごくジオを感じました。この島は、生きているのだ、と」。

また、中野監督の目には、そんな三宅島の姿がこう映ったそうです。

「三宅島は、歌舞いていた」。

「かぶくとは、ご存知の通り、 歌舞伎の語源であり、古語です。本来の意味は、かたむく、自由奔放にふるまう、異様な身なりをする、など、色々ありますが、島を奇抜だという見方をしているわけではありません。歌舞伎の醍醐味でもある、大見得を切ったように島が見えるのです、三宅島は」。
そして、ひと言でいえば「格好良い」。

しかし、時折走る緊張感。心身を解放してくれる包容感のある一方、無意識に体が感じる厳威。その刹那は、「島の睨み」かもしれません。
この邂逅は「言葉で表せない感覚」ではありますが、長年積み重なって築き上げられた歴史ある島、そう容易いわけがありません。
「三宅島は、僕が格好良く撮ったのではなく、島にそう撮らされたのかもしれません。ですが、余所者の僕にそういうチャンスを頂けたことに感謝したいと思っています。海、風、空など、撮影に恵まれた環境もまた、島の天佑だったのかもしれません」。

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三宅島は富士火山帯に含まれる活火山。生きる島、生きる地球を身体中で感じることができる。

島の北東に位置する赤場暁。「地層を見れば、過酷な時代を生き抜いてきたことが想像できる。それでも自然が生み出した光景は美しい」。

近年では2000年に噴火した標高約775mの雄山。島内では、ダイナミックな火山島の景観を望むことができる。※特別に許可を得て撮影しております。

東京"真"宝島足元の植物から林、森、山。蘇る力と絶えない生命力。三宅島は、随一、緑が美しかった。

冒頭、三宅島に「一番“ジオ”を感じた」理由は、ほかにもあります。
それは「緑」です。
「荒涼とするひょうたん山で必死に自生する植物から迷子椎のような巨木、更には全体を見渡せば、サタドー岬を手前に海側から見た島の景色は、一面が緑です」。

その土地に根付いた木々は、生きる島に力強さを纏わせます。
「椎取神社に訪れた時に広がっていた白木にも驚きを隠せませんでした。見た目も似るそれは、綺麗に胴吹きされ、その佇まいは、まるで自らを持って時代の足跡を残しているかのようでした。2000年の噴火によって鬱蒼とあった森は飲み込まれてしまいましたが、約20年でここまで蘇ったのかと思うと感慨深い気持ちにもなりました」。
また、そんな植物の力強い生命力に安らぎを与えてくれるのもまた植物。花好きの中野監督の心を癒したのは、仙人草でした。
「樹齢うん十年、うん百年などという樹木はもちろん“大好物”なのですが、花の美しさにもちゃんと目をやりたいです。三宅島の花といえばガクアジサイを思い浮かべますが、僕は仙人草に惹かれました。島を離れてしまっても、どこかでこの香りと出合えば、島の余韻を呼び覚ませてくれるかもしれませんね」。

ふたつの噴石丘が並んでいたが、長い年月をかけ、海側の一つが波風に削り取られてしまったといわれる「ひょうたん山」。

手前に見えるのは、海面から約20mの高さにそびえる絶壁の岬「サタドー岬」。流れ出た溶岩と火山弾が見られる。

古代より、噴火を司る神が宿る神木と伝えられる。また、密林に迷い込んでもこの大木を目印にすれば助かると言われ、「迷子椎」と呼ばれるように。

「椎取神社」周辺は、2000年の噴火により森の大半がなくなってしまったが、現在は蘇りつつある。立ち枯れた白木も立ち並ぶ。

三宅島の撮影中に出合った仙人草。濃厚で甘く、繊細な花の香りが特徴。

東京"真"宝島水中の建築と芸術。そこにはもうひとつの三宅島の世界があった。

「三宅島には、柱状節理を形成する風景があります。陸でのそれは、ある意味想像できるのですが、水中にも存在していることが島の魅力を一層引き立てます」。
溶岩やマグマが冷えて固まる時、その体積は小さくなって縮みます。その縮みが生じる際に割れ目が発生し、5角形や6角形の柱状になるのです。これを柱状節理と言います。

中野監督曰く、「水中の建築」。
「それ以外にも、巨大な岩のアーチや地形が生んだドロップオフなど、水中にも“ジオ”を感じずにはいられません。そして、もうひとつ忘れてはならないのが、テーブルサンゴの群集です。三宅島のテーブルサンゴは、世界最北端としても知られるダイビングの聖地。広がるそれは、自然が創造する芸術。もちろん、悠々と泳ぐウミガメや様々な魚との出合もあります。陸の三宅、海の三宅。双方の表情をぜひ体感してほしいと思います」。

水中にも見られる噴火の足跡。しかし、この「柱状節理」は、火山からの贈りものと言って良いくらい、形状が美しい。

溶岩が生み出した海底アーチ。独特の地形が海の中を幻想的な世界に演出する。

世界中のダイバーを虜にするのは「テーブルサンゴ」。サンゴの群集が見事に広がる。

透明度の高い三宅島の美しい海では、ウミガメに至近距離で遭遇することも。

三宅島は、島周辺の海域が全てダイビングスポットと言って良いくらい様々な魚たちと出逢え、海が美しい。

東京"真"宝島鳥のさえずり、沈む夕日。三宅島の1日は、儚くも美しい。

中野監督は、島の生命体や自然の生態系を感じ取る上で欠かせないことがあると言います。それは、「鳥のさえずり」です。
「三宅島には、美しい鳥の声が鳴っていました。聞けば三宅島は、野鳥の生息密度が非常に高く、通称バードアイランドと呼ばれるほどだそうです。中でも、“日本一のさえずり小径”と称される大路池やその周辺の原生林には200種以上の野鳥が生息しているそうです。国の天然記念物であり絶滅危惧種として指定されている希少な鳥アカコッコは、一目見るために国内外から訪れる観光客も少なくないそうです。鳥が気持ちよく過ごしている島は、正しい自然の島。この島は、鳥にとって楽園だと思いますよ」。

鳥に魅了される中野監督ならではの映像よろしく、本編の冒頭は、無音の境地の中、優雅に鳴く鳥のさえずりから始まり、次のシーンでは良く見ると心地良く空を舞う鳥の姿を採用する細かい演出も。
「雄山中腹には展望台もあるのですが、ここから見る朝日は本当に綺麗です。遊歩道も整備されているのでアクセスも良いため、必見の景色です。そして、この遊歩道しかり、人の手を加えるバランスが絶妙だなと思うのが、迷子椎。巨木を支える支柱も島への敬意。決してあらがえない自然との共存を選んだ島民がこの島で暮らすことの覚悟や意義を、そんなところで少し感じました」。

人と自然の領域、人と自然の境界線。
様々な試練を経て、なぜ今なお島民はこの島で暮らすのか。それは三宅島への愛。全てを受け入れ、人と自然が共存する島、それが三宅島なのです。

「大路池」は三宅島を代表する野鳥観察スポット。希少なアカコッコからイイジマムシクイ、 カラスバトなど多くの野鳥を見ることができる。

雄山中腹を通る環状道路を七島展望台から坪田方面に進んだ先にある「大路池展望台」。天気の良い日は、「御蔵島」や「八丈島」まで見える。

「三宅島は、地球の生命力を感じることができた島でした。生きる島ゆえ困難もあるとは思いますが、この島の今を後世に残したいという思いで撮りました」と中野監督。

(supported by 東京宝島)

80代にして未だ現役!右手で回し、左手で器を生む。[因久山焼/鳥取県八頭町]

「ちょっと見せてあげるよ」と、手回しのろくろを使い、こともなげに器を作ってしまう芦澤氏。

因久山焼鳥取・八頭町に伝わる伝統の焼物・因久山焼とは?

ろくろに空いた小さな穴に棒を挿し、右手でぐるぐると勢いよく回し始めたかと思えば、ろくろに遠心力があるうちに左手のみで土を成形。あれよあれよと言う間に、みるみる器の形ができていきます。ですが、しばらくするとろくろの勢いは弱まり、また右手でぐるぐる。すぐさま左手一本で成形。その作業を数度繰り返すと、齢80を超えた陶芸家・芦澤良憲(あしざわよしのり)氏は、ようやく右手も使い仕上げ作業に入っていくのです。

「たぶん現時点で、この棒を挿して使う手回しのろくろで器を作っているのは、日本で自分ひとりかもしれない。電動ろくろはもちろん、普通は足踏みや蹴りろくろが主流ですから。今使っているこのろくろは、もしかしたら300年近い歴史があるんです。同じ型の手回しのろくろは江戸時代に京都などでよく使われた、ろくろだと言われています」

鳥取藩御用窯である因久山焼(いんきゅうざんやき)の歴史は古く、1688年(元禄元年)に出版された『因幡民談記』の中に久能寺焼として記載されていることから、300年以上前には陶器を産出していたといわれ、代々鳥取藩の御用窯として保護されてきたと言います。

九代目である芦澤氏もまた、その歴史を脈々と受け継ぐ陶芸家。300年以上に亘り、先祖が大切に守り続けた因久山焼を、今なお現役で守り続けているのです。

300年近く使い続けられているという檜を使ったろくろ。右手で回し、左手で成形する。

「右利きだから、最初は左手だけで成形するのに難儀しました」と笑う芦澤氏はこの道60年のベテラン。

冬でも冷たい水を使い作陶。温かいお湯を使うと土に油分が吸い取られてしまい荒れてしまうそう。

ろくろを回し生み出された器はまずは日陰で十分に乾燥させ、焼きの工程へ進む。

因久山焼因久山焼の特徴は、芦澤氏の生き様そのもの。

「因久山焼とは、果たしてどんな焼き物ですか?」と芦澤氏にその特徴を問えば、とても難しい質問だと氏は笑います。

因久山焼自体は、鉄分を多く含む地元八頭の土と藁灰釉(わらばいゆう)や緑釉(りょくゆう)、海鼠釉(なまこゆう)、辰砂(しんしゃ)など、さまざまな釉薬を用いた素朴かつ格調高い焼き物に仕上げます。ですが300年以上の歴史を紐解けば、時代時代の流行りや、作風があり、これが正解ということはないのかもしれません。

「300年の歴史があるとまことしやかに言われる中で、古文書や江戸時代からの資料を読み解くのも自分の仕事。本当に300年以上の歴史があるのかは、自分の見聞ではわからないので、文献を頼りに調べるしかないのです」

そうなのです。芦澤氏は作陶の傍ら50年以上に亘り、不透明であった因久山焼の実態を調べ続けているのです。焼きの実態、窯のあった場所、製作の状況など、立証するものが限りなく少ない中で、当時の状況を紐解き、それを自らの作陶に活かす。そうして生まれるのが、現在の因久山焼。現在、因久山焼の名を掲げているのは、9代の芦澤良憲氏と息子であり10代目の保憲氏のみ。

まさにその特徴とは、良憲氏が長年探し続け、追い求めるもの。「特徴は?」と問われれば、それは氏が追求する理想であり、自らが人生をかけて作陶した器そのものなのかもしれません。

茶道具を作陶するために、若かりし頃には裏千家での勉強から始めたと芦澤氏。

長年のファンはもちろん、海外からの買付などもあるという因久山焼。

鳥取市の南に位置する八頭町で育まれた鳥取城御庭焼が因久山焼。

因久山焼3日をかけて焼きあげる登り窯こそが、作品の良し悪しを左右する。

「あ、そうだ。因久山焼の特徴をひとつ思い出しました。それが外にある登り窯。これも300年以上の歴史があると言われております」

そう言ってろくろで汚れた手を洗うのも早々に案内してくれたのが、7室の窯が段々に連なる登り窯。土とレンガで造られた本窯と、それを覆う瓦屋根で作られた登り窯は、修繕しては使い、また修繕することで歴史を紡いできたと言いいます。

「薪に火をつけて高温で焼くのですが、2昼夜寝ずの番。毎回3日をかけて焼いていくのですが、窯の中は1300度にもなる高温で、その前で薪をくべ続けるのですがこれが熱いし、眠い。スタッフが10人がかりで順番に番をして焼き上げるのです」

今では年に1〜2回しか火入れをしない登り窯。聞けばその火入れの際、10人のスタッフがサポートしてくれるものの、基本、芦澤氏はずっと窯の前で火の状態を見続けるというのです。

「どんなにいい形ができても、乾燥させ、釉薬をつけ、火入れするまで、良し悪しがわからないのが面白いところ。だからだろうね、毎年が楽しみなんだよ」

そう笑う芦澤氏は少年のように無邪気。80を過ぎても、まだまだ現役。その姿勢こそが、因久山焼の特徴なのかもしれません。

300年以上使い続けられているという、風格漂う因久山焼の登り窯。

茶道具を得意とするのが、9代目・芦澤氏の作風のひとつ。

「やってもやっても上手くいかないから面白いんだよ。もうすぐ春がまた来るね」と3月中旬、まだ肌寒さの残る登窯前で笑顔。

住所:鳥取県八頭郡八頭町久能寺649 MAP
電話:0858-72-0278
http://inkyuuzan.ftw.jp/

(supported by 鳥取県)

子供達の学び舎を保存継承したホテルで、ノスタルジックな旅を。[The Hotel Seiryu Kyoto Kiyomizu/京都府京都市]

昭和8年に現在の地に移転新築された小学校は、装飾や内装デザインにおいて唯一無二の特徴をもつ建築として当時評価された。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水昭和初期築の歴史的小学校がハイグレードなホテルに。

2020年3月22日、京都・清水の地に、新たな歴史を紡ぐホテル「The Hotel Seiryu Kyoto Kiyomizu」が誕生しました。その名は、この土地で古来より東山の護り神として信じられてきた「青龍」に由来。客室数48室、レストラン、プライベートバス、フィットネスジムなどを有するラグジュアリーな空間。築80年以上の元清水小学校をコンバージョン(用途変換)しました。

客室から京都を一望。山腹の傾斜地に位置する建物は、低い建物の多い東山地区でシンボル的な存在。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水京都の小学校は、地域自治の拠点や伝統的コミュニティの中心施設だった。

はじめに、京都における小学校の歴史の話から。京都は小学校発祥の地であり、他の地域とは成り立ちが違います。明治になってから、京都には住民自治組織の「番組」をもとに64校の「番組小学校」が作られました。これはのちに国が整備した小学校制度に先駆けたものですが、大きな特徴は、地元の住民が資金や意見を出し合って建てられたということ。そのため各校の佇まいやデザインも異なり、それぞれの地域の財政力や思想、教育への想いなどが個性として表れていました。

異なる階層の3棟をコの字型に配置し中央の大階段でつなぐ棟配置など、傾斜地の特性を巧みに生かした印象的な建物。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水西洋建築の意匠を凝らし、京都を一望する場所に建てられた清水小学校。

元清水小学校は、明治2年に開校した「下京第27番組小学校」が前身。この学校も、未来の京都の輝かしい街づくりを目指した清水地域の住民の寄付により創設されたものです。東大路通から清水寺に向う清水坂の途中、京都の町並みが一望できる高台にあり、この地に移転新築されたのは昭和8年のこと。京都市営繕課設計の鉄筋コンクリート造り3階建てで、アーチ型の窓や軒下の腕木装飾といった特徴ある外観、スパニッシュ瓦葺き屋根やスクラッチタイルなど、細やかな意匠が凝らされています。

ロビーは2つのレセプションデスクとコンシェルジュデスクにより、宿泊客とスタッフが「つながる」空間を演出。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水閉校後も、その貴重な建物の歴史と価値を繋ぐためプロジェクトが始動。

残念ながら小学校統合により2011年に閉校しましたが、この貴重な建築と多くの生徒・市民に親しまれてきた歴史を次世代に繋ぐべく、開発計画が進められてきました。そして2016年からNTT都市開発による計画が進められ、ホテルとしてだけでなく、地域の集会やイベントに利用できるよう、さらには避難所として活用できるような場を作るプロジェクトが始動。ホテルでありながら、かつての清水小学校のように、人々の学びや地域のコミュニティ創出に貢献できる場を目指しました。

ジュニアスイート。校舎のクラシカルな建築を引き立てるため、敢えてデザインをシンプルにまとめた。

ザ・ホテル青龍 京都清水クリエイティブチームにより、時空を超えた心地よさを体験をできるホテルに。

今回完成したホテルの内装含む総合デザインを監修したのは、乃村工藝社のクリエイティブディレクター小坂竜氏。約90年の歴史を持ち、廃校になった清水小学校のホテルへのコンバージョンプロジェクトを担ったことについて、小坂氏は次のように話しています。

「歴史的な趣を持つ西洋建築とその内部空間に最大限の敬意を払い、そこに新しい機能としての建築と内部空間を附加するデザインを行い、懐かしさと新しさの融合を試みました。建築、ランドスケープ、インテリア、グラフィック、ユニフォーム、アートワーク、FFEと細部に至るまでクリエイターとの協業を行い、全く新しいここだけの空間を創出しました」。

この地にまつわる”桜”、”山鳩”、”清水”と名付けたプライベートバス全3室を用意。1室6,000円(90分)で4名まで利用可能。

ザ・ホテル青龍 京都清水館内の「レストラン ライブラリー ザ・ホテル青龍」で京の旬の食を。

和×洋・モダン×アンティークなど違った要素を掛け合わせたデザインにより、この地の特徴を活かした、ここにしかない建物に。かつて講堂だった建物は、天井の高さを活かした開放的な44席のレストランrestaurant library the hotel seiryu(レストラン ライブラリー ザ・ホテル青龍)に生まれ変わりました。多くの書籍に囲まれたインテリアはかつての学校であった頃を彷彿とさせます。“養生ブレックファスト”がテーマの「京の朝食」は、選べるメインディッシュに本日のスープ、サラダ、お粥など日替わりのブッフェが味わえる贅沢な朝御飯。宿泊者以外も入店できるほか、多目的スペースとしてさまざまな用途に利用することも可能です。

レストランは高さのある本棚に多数の書物が並び、アカデミックな空間に。©️Forward Stroke inc.

ザ・ホテル青龍 京都清水デュカス・パリ監修の「ブノワ 京都」もオープン。

注目すべきは、別棟に「ブノワ」京都一号店が登場したこと。アラン・デュカスが設立したミシュラン星付きレストラン監修の「ブノワ」は、100年以上世界中の食通に愛され続けるビストロ。京都では、ブノワならではの定番料理に加え、京都の季節やテロワールを感じるビストロ料理を展開。ランチタイムは、旬の食材を取り入れたメニューをプリフィクススタイルで提供し、ディナータイムは、ワインとともに楽しめる前菜、メインディッシュ、デザートなどをアラカルトで味わえます。エグゼクティブシェフには、ミシュラン星付きレストランで経験を積んだフランス人シェフ、アントニー・バークル氏を迎えました。

「ブノワ  京都」も、宿泊者以外の利用が可能。店内68席ほか、テラス20席を設ける。

メインの一例は、「本日の魚のグルノブロワーズほうれん草のソテー」や、「京都牛のロッシーニ」など。

ザ・ホテル青龍 京都清水京都を代表する名店がプロデュースしたルーフトップバー&レストランも。

また、屋上には京都を代表する「K6」のバーテンダー西田稔氏がプロデュースに参画したバー「K36」も。オーセンティックな空間のメインバー「K36 The Bar」(屋内)と、京都の街並みを一望できるルーフトップバー&レストラン「K36 Rooftop」(屋上)の2つのエリアで、希少なウイスキーやワインを用意。さらに、本格的なフードメニューも提供しているので、幅広い使い方ができそうです。

ルーフトップバーやゲストラウンジからは「八坂の塔」を間近に望むことができる。

ザ・ホテル青龍 京都清水過去と現在が交差する空間で、アートや知と出会う。

かつて小学生が走り回っていた廊下や階段は敢えてそのまま残したという小坂氏。子供たちが学んでいた教室の扉を開けると、コンテンポラリーな全くの別世界が広がります。また、部屋やエントランス、レストランなどホテル内各所にはアート作品を展示。その多くが京都にゆかりのある作家の作品です。滞在中には、多彩なアートとの出会いも楽しめます。

人々が街の発展を願い、子供の未来を紡ぐ場所であった小学校跡が、次のバトンを受け取って世界と地域を繋ぐ場所へ。これまでになかったスタイルの、古くて新しいラグジュアリーな空間で、歴史を旅する上質な一夜を過ごしてみてはいかがでしょう。

クラシカルな廊下を歩けば、幼き頃の記憶が呼び起こされる。

住所:京都府京都市東山区清水二丁目204-2 MAP
電話:075-532-1111
料金:スタンダードキング1泊朝食付き ¥64,687~¥131,100
アクセス:
[タクシー] 京都駅より約20分
[市営バス] 京都駅より約15分「清水道」バス停下車 徒歩約5分、「五条坂」バス停下車 徒歩約10分
[京阪電車] 「清水五条」駅下車 徒歩約20分
https://www.seiryukiyomizu.com/
(写真提供:NTT都市開発株式会社)

今を乗り越えられたら、僕たち料理人は、もっと強くなれる。[ASIA’S 50 BEST RESTAURANT]

長谷川シェフ。第3位の発表を受けた直後の表情。

アジアのベストレストラン50

3月24日に発表された2020年版「アジアのベストレストラン50」。日本の最高位「日本のベストレストラン」には、長谷川在佑シェフ率いる『傳』が3位にランクインし、3年連続で3冠を達成しました。この評価をどう受け止めているか、次の1年に思うこととは。長谷川シェフにインタビューしました。

今年の特異な開催形式によるものなのか、あるいは結果についてなのか。すべての発表が終わった後、真っ先に長谷川シェフに話を聞きに行ったところ「満面の笑み」とはいえない微妙な表情が印象に残りました。ランキングについて率直に尋ねると「ううん、まあ、いろんな思いはありますよね」と、前置いてから、次のように話してくれました。
「1位の『オデット』も2位の『チェアマン』も、本当に素晴らしいレストラン。シェフのこともよく知っていて、2人とはすでに祝福のメールのやりとりをしています。自分の店のことはさておき、毎年ベスト10にランクインされた店は、どこが1位を取ってもおかしくないくらい実力が拮抗していると感じていて、そういう意味では結果を誇りに思っています」

新型コロナウイルスの感染拡大で急遽、オンラインストリームによるバーチャルイベントという形で発表された本年度のランキング。当初は、佐賀県武雄でセレモニーの開催が予定されていました。日本初開催ということもあり、日本の運営スタッフ及び関係者、メディアやシェフたちの間からも、過去2年連続で「日本のベストレストラン」に輝いている『傳』の1位獲得を期待する気運が高まっていたのは事実です。
「そうですね、日本を元気にしたいという気持ちは常にあり、今の状況がその思いをより強くしていることは確かです。ただ、1位が目標かといわれると、それも違う。昨日より今日、今日より明日、よりよいパフォーマンスを、という気持ちは開業したときから変わりません。料理人というのはゴールがない仕事。このランキングは、お客様やスタッフなど、自分を常に支えてくれている人々に改めて感謝し、次の1年も頑張ろうというといういい節目になっているように感じます」

【関連記事】ASIA’S 50 BEST RESTAURANT/速報! 2020年、幻となった「アジアのベストレストラン50」初の日本開催。

ランキングの発表を待つ長谷川シェフ(写真右)。

トロフィーを手に。日本評議会のチェアマンを務める中村孝則氏と。

アジアのベストレストラン50逆境下で試される真価と、「アジアのベストレストラン50」の意義。

例年、ランクインしたアジアのスターシェフが集結し、1000人規模で開催される華やかなセレモニー。いまだ収束の目途が立たないパンデミックは、2020年の授賞式の形を変えた以上に、今、世界のレストラン業界を危機的な状況に追い込んでいます。
「アジアン50をはじめさまざまな評価を頂いたことをきっかけに、ここ数年で海外からのお客様が非常に増えた。とてもありがたいことです。日本料理を通じ、日本の素晴らしい食文化を海外のお客様にも知って頂く機会になると思っていたので。ですが、現在の状況ですべては一旦リセットされた。とても残念に思います」

『傳』をはじめ、国内外で高い評価を受け、海外から食べ手を呼んでいたレストランは、インバウンド需要において、大きな役割を果たしてきたといえます。それが、誰もが予想だにできなかった形で、窮地に追い込まれています。
「今こそ、大事なものは何か今一度考えるとき」
そう話す長谷川シェフの表情に、悲壮感はありません。

「お客様が来て下さるということは“当たり前”ではない。そしてレストランとは“人間関係”、つまり人と人とのつながりそのものなんだということを改めて深く考えているところです。常連のお客様が大丈夫か、と心配して連絡を下さる。3カ月に1回のペースでご来店下さっていた方が、毎月予約をして下さる。これまでお断りをせざるを得なかった方々が、今ならとばとお問い合わせ下さりご来店下さる。感謝しかないです。私は料理人にとっての最高の評価は、“お客様の次回のご予約”だと思っています。これは開業時から変わらず、スタッフにも、次のご予約を頂くにはどうしたらいいか考えて仕事をするように話しています。それを今いちど徹底していこうと」

「世界のベストレストラン50」の日本評議会のチェアマンを務める中村孝則氏は、「アジアのベストレストラン50」の2020年のランキング及び変則的なイベントを振り返り「単なるランキングではない。“競う”こと以上に“分かち合う”賞」と、講評しました。授賞シェフの一人である長谷川シェフも、まさに同じように感じているようです。

「毎年セレモニーでアジア各国のシェフと一斉に顔を合わせ、近況を語り合いながら1年の健闘をたたえ合う、というのがこのランキング発表の最大の楽しみでした。今年初ランクインしたシェフたち、日本のシェフならば『ode』の生井さんらに、その興奮、熱気を味わってもらえなかったのは残念だったな、と思います。同時に、回を重ねることで、店や国を超えた料理人同士のつながりが深まっていることも確か。今を乗り越えられたら、僕たち料理人は、もっと強くなれる。もっとお互いを敬い、いざとなったら助け合い、これまで以上に料理で、食で何ができるかを真剣に考えるようになる。アジアン50のおかげで生まれた連帯が、この先のレストラン業界に必ず役に立つと信じています」

一言ずつ、言葉を選ぶように現在の状況について話す。