LEXUSを駆って旅に出た、ある料理人の物語。高原を駆け抜け、自然の声に耳を澄まし、やがて一皿の料理が生まれる。[The Vision/大分県竹田市]

Lionel Beccat × LEXUS LC Convertible

フランス人料理人リオネル・ベカ氏がLEXUS LC Convertibleで九州を駆ける。

銀座のフランス料理店『ESqUISSE』のエグゼクティブシェフを務めるリオネル・ベカ氏。“唯一無二”と評される氏の料理は、自然と人との繋がりを大切にし、食材それぞれが語りかけるような存在感を放ちます。

そんなリオネル氏にとって、九州、とりわけ大分県竹田市は特別な場所です。2014年に開催された『DINING OUT TAKETA with LEXUS』でこの地を訪れたリオネル氏。豊かな自然、ここで生きる人々と触れ合うことで「主張すべきは料理人の個性ではなく、素材そのもの」という現在の料理哲学に至ったのです。

「自分を変えてくれた場所」リオネル氏は竹田市をそう評します。

そして2021年春、リオネル氏は再び九州を訪れます。
旅の相棒に選んだのはLC Convertible。オープンエアで風を感じ、自然の力をダイレクトに感じるこの車。優れた運動性能とエレガンスを兼ね備えた唯一無二の存在感。「最初からその姿だったような自然で流麗なデザイン」リオネル氏はLC Convertibleの美しさに、自身の料理との共通項を見出します。

LC Convertibleのハンドルを握り、高原を走り出すリオネル氏。ルーフをオープンにして、山の風を肌で感じます。「車と一体になるようなフィーリング」そんなドライビング体験はやがて、リオネル氏に料理のインスピレーションを与えます。

東京に戻り、厨房に入ると、リオネル氏は一皿の料理を仕上げました。それはあのとき心に浮かんだ風景を、そのまま落とし込んだような美しい一皿。九州の自然を駆け抜けた経験なくしては生まれ得なかったその料理を通し、リオネル・ベカという稀代の料理人の心の内側が少しだけ覗けるかもしれません。

※LEXUS公式サイトにてスペシャルコンテンツ公開中

くじゅう高原を駆け抜けるLC Convertible。そのドライビング体験が、料理人にインスピレーションを与えた。

LC Convertibleとリオネル氏。その流れるようなデザイン性も、リオネル氏の創造力を刺激する。

旅の経験を、一皿の料理に昇華。そこには深いメッセージが込められていた。
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玄界灘に突出した半島で醸す。人生初、松本日出彦は「槽」に乗る。

『田中六五』で知られる『白糸酒造』へ。江戸時代から続く酒造りの技法「槽搾り」を体験する松本日出彦氏。

HIDEHIKO MATSUMOTO『田中六五』の本気。その情熱に食らいつく。

「槽(ふね)」に乗る。

聞き慣れない言葉の意味は、江戸時代の伝統的な酒造り「上槽(じょうそう)」という工程にある槽搾りとハネ木搾りにあります。これは、『田中六五』を造る福岡県糸島市の『白糸酒造』が創業した安政2年(1855年)より守り続けている技法です。

「上槽」とは、発酵を終えた醪を搾り、濾過する作業のことを指します。その工程にある酒と酒粕に分離するために用いる道具の形が舟に似ているところから、搾ることを「槽に乗る」と呼ぶのです。

この日、松本日出彦氏は、人生初の槽に乗ります。

「4月5日に仕込んだ醪を今日(5月1日)は搾ります。通常、横型の油圧圧搾機を採用しますが、『白糸酒造』は昔ながらの搾り方の槽搾り。更には、全てハネ木搾りというこだわり。特に時間と労力を費やします。これまで酒造りをしてきた自分も初めて経験する搾り方です。」と松本氏。

この日、搾る醪は、1,900ℓ。それを酒袋に一つひとつ詰め、槽に積んでいきます。交互に並べることによって不安定な袋同士が支え合う姿は、まるで長屋の構造のよう。更にそれを積み上げることによって自然の圧がかかり、濾過されるのです。袋の数は、370枚。同じ作業をひたすら繰り返すそれは、見た目以上に過酷です。

松本氏の額には汗が滲み、徐々に息が荒くなります。震える腕と指先、背中や腰の乳酸の疲労は限界を迎え、筋肉も悲鳴を上げるが、必死に食らいつくしかありません。

約2時間を有し、作業を終えるも「やや遅い」と隣で囁くのは、『白糸酒造』8代目の杜氏であり、『田中六五』の生みの親、田中克典氏。

「しかし、早ければ良いわけではありません。醪の溶け具合によって搾られる量を想定しながら積んでいくため、早過ぎて重ねた袋が崩れてしまったり、中から醪が溢れてしまっては意味がありません。そういった視点で見れば、日出彦さんは勘が良い」と言葉を続けます。

自然の圧に身を任せた搾りを待つこと約3時間。その後、一滴残らず搾り切るために行うのは、『白糸酒造』が誇る伝統「ハネ木搾り」です。

原始的な手法のそれは、数々の改革を起こしてきた田中氏が唯一守り続けていることでもあります。

「ハネ木搾り」を知らずして、『田中六五』を飲むべからず。

温故知新とも言える「ハネ木搾り」は「故」であり「個」。『白糸酒造』の「故」から生まれた『白糸酒造』の「個」こそ、『田中六五』なのです。

『白糸酒造』8代目杜氏・田中克典氏とともに松本氏が仕込んだ醪。「数値、経過など、自分の思い通りに仕込ませていただきました」と松本氏。

ホースから出てくる醪を一つひとつ酒袋に詰め、槽と呼ばれる箱に並べ、積み、仕込んでいく。

この日は、1,900ℓの醪を370枚の酒袋に詰める作業を行う。一袋に入れる量は、約5ℓ。それを体感で行う。

酒袋に詰めた醪を、槽の中へ交互に並べ、積み重ねていく。少しでもバランスを崩してしまうと醪が溢れてしまうため、「慎重に、丁寧に、かつスピーディに」と田中氏。

槽にひたすら醪を詰めた酒袋を並べ、積み上げる松本氏。その頭上には、堂々たるハネ木がそびえる。

創業は安政2年(1855年)。歴史ある『白糸酒造』の酒蔵には、「ハネ木による手しぼり」と記される。それは、令和3年(2021年)になった今なお、変わらない。

『白糸酒造』のシンボルとも言える煙突。現在はその役目を終えたが、風景としてその姿を残す。「変えてはいけないものは、技術や伝統だけでない」と田中氏。

「杜氏になってから唯一変えなかったことがハネ木搾りです。逆を言えば、それ以外は全て変えました」と田中氏。

「『田中六五』は、土地の原料が活かされた糸島にしかできない日本酒。味は革新的ですが、造りは伝統的なのは、田中さんだから成せる業だとおもいます」と松本氏。

HIDEHIKO MATSUMOTO現代とは真逆の世界。「ハネ木搾り」は、時短ではなく長時の酒造り。

「槽」の上を見上げれば、梁のような大木が天に浮き、その出番を待っています。

「槽とハネ木を備える旧蔵は、約100年前に建てられたのですが、このハネ木はその時からあると聞いています。素材はカシの木でとても丈夫ですが、さすがに今はひび割れも多く、鉄で補強しながら現役で使っています」と田中氏。

この大木をテコの原理で槽に圧をかけ、最後の一滴まで搾ります。その調整を測るのは、十数個の石。小さいもので約20kg、大きいもので約80kgある石を槽とは逆側に吊るし、徐々にその数を増やしていきます。最終的には、約1.2tに及ぶも、更に驚くべきは、それにかける日数。3日間かけて、「ハネ木搾り」は行われるのです。

昨今、圧搾機などを用いて「ハネ木搾り」と謳う蔵も少なくありませんが、正真正銘の全量「ハネ木搾り」は、日本全国の中でも『白糸酒造』のみと言って良いでしょう。逆を言えば、それだけ現代の技術は発達しているため、機械に頼ることもできますが、あえて手造り、手作業にこだわっているのです。

3日間かけて搾られた酒は、サーマルタンクに移され、−3.5度まで冷やし、一週間寝かせます。その後、生の状態で瓶詰めし、まるでプールのように水を張った釜にそれを並べ、徐々に65度まで温度を上げ、瓶燗火入れを行います。

「生酒を除くお酒は、通常、“火入れ”という工程を経て店頭に並びます。香りや味を安定させるだけでなく、雑菌を死滅させ、おいしいまま長期保存をできるようにするためです。しかし、『白糸酒造』では、急激な温度変化で風味を崩さないよう、あえて時間と手間のかかる“瓶燗火入れ”を採用しているのです」と松本氏。

「それによってお酒のストレスも軽減でき、味がおいしくなる(はず)」と田中氏。

『田中六五』の酒造りには、現代における時短の世界はありません。むしろ、1時間のことに3時間費やし、1日のことに3日費やすような長時の世界。しかし、「時間をかければおいしくなるわけではないことも、伝統を守り続ければおいしくなるわけでもないことも理解しています」と田中氏。

2014年より杜氏に就任以降、既存の方針を変えてばかりいた田中氏だっただけに、変えなかったことへの想いは一入。「結果が全て」と言葉を続ける田中氏は、変えなかった造りを持って『田中六五』を創造したのです。

「六五」とは、その名の通り、糸島産の山田錦を65%精米して仕上げた純米酒です。そのきっかけになったのは、佐賀県姫野市が誇る『東一』の勝木慶一郎氏が手がけた65%精米して仕上げた純米酒との出合いでした。奇しくも、勝木氏は、松本氏の前蔵の顧問であった人物であり、今後は『白糸酒造』の顧問を務めます。

「原料に勝る技術はない」とは、勝木氏が師から得た言葉であり、松本氏にも残した言葉。

今、松本氏が最も重要視する原料、それは「水」です。

「そう感じることができたのは、今、ご一緒している『冨田酒造』、『花の香酒造』、『白糸酒造』、『仙禽』、『新政酒造』の五蔵と同時に酒造りをさせていただいているからこそ、改めて気づくことができたのだと思います。各蔵、発酵のさせ方や醪の数値など、自分なりに味のイメージを持って仕込ませていただいており、最初の口当たりや印象もその通りにできていると感じています。しかし、後味や奥行き、旨味の重心は、必ず各蔵が持つ美点が活かされた味になっている。ここで搾った荒走り(搾りの最初に出てくる酒)を飲んだ時にそう確信しました。そして、その理由は、原料の水にあると思ったのです」。

ハネ木に石を吊るす作業も人力。3日間かけ、大小の石を数十個吊るし、搾る。石の総重量は、最終的に1tを超える。

ハネ木に吊るす大小の石たち。結んだロープは、舟で漁師が使用しているものと同様。「実は、以前の杜氏が漁師町に住んでおり、そこから分けていただいています。上槽、櫂入れなど、海にまつわる文言が酒造りに多いのも不思議ですね」と田中氏。

ハネ木の重さで沈んでいく酒袋との間を微調整していくのは、大小の木の板と角材。これもまた、古くから使用され、素材はイチョウの木。

 左側に石を吊るし、テコの原理で右側の槽に積んだ酒袋に圧をかけ、搾る。鉄で補強しながら使い続けて約100年。

醪による自然の圧、ハネ木搾りで搾りきった酒は、サーマルタンクへ。−3.5度まで冷やす。

酒袋に醪を積み重ね終わった後、荒走りをひと口。「自分が介在した味は感じるも、しっかり『田中六五』になっている」と松本氏。

HIDEHIKO MATSUMOTO原料に勝る技術はない。水に触れ、水を知り、水について考える。

たかが水、されど水。水を表現することは難しい。

水を化学式で表すとH2O。つまり、ふたつのH(水素)とひとつのO(酸素)が結びついてできている化合物です。しかし、学式だけでは表せないことが味や風土にあると思います」と松本氏。

田中氏とともに向かった先は、糸島の水源とも言える「白糸の滝」。

約24mある滝の高さは、水しぶきが飛ぶほど近くまで足を運ぶことができます。ふたりは、流れる水をひと掬い。

「ミネラルが適度に含まれる中硬水。蔵の井戸水とは若干違う味とテクスチャー。うちのは、もう少しもったりしているというか、とろみがあるというか。ウエットな感じ」と田中氏。

「きっと、ここから流れ落ちる間に水質も変わるのではないでしょうか。岩肌から滲み出るのか、冬に溜まった雪解け水なのか。地形によって同じ水源でも異なる素材になるのだと思います」と松本氏。

「そういう意味では、このあたりは岩盤が近く、それに付着していれば鉄分も含まれているかもしれません。滝は上から流れ落ちる水ですが、井戸は下から汲み上げる水。地下水が帯水する地層に含まれる成分も関係しているのかもしれません」と田中氏。

例えば、ここ「白糸の滝」を内包する「羽金山」の雨水の行方を検証してみると、地中への染み込みは約50%、蒸発は約25%、地表面への流れは約25%(全て、裸地を除いた数字)。森林は、水の命を蓄えているのです。

さらに水について追求を進めれば、「羽金山」を始め、周囲の山々から流れ落ちる水から育った米で『田中六五』は造られています。水は酒造りだけでなく、米作りから重要な役割を果たしているのです。『田中六五』の原料となる山田錦もまた、糸島の山北地区の田んぼで育てられています。

「標高は約80mの低山。面積が確保され、程良くゆるやかに傾斜もあり、水の通りも良い。海に抜ける風道もあるため、寒暖の差もあり、米作りには非常に適した環境だと思います」と松本氏。

糸島は、全国的にも有名な山田錦の産地であり、福岡全域は、地域の酒造組合を中心にお米が管理されています。全量米、つまり昔の配給米の仕組みです。ゆえに、田中氏が直接農家とやりとりすることはありません。今では珍しい仕組みであり、ある意味、健全な地域の証拠ではありますが、一方で変化を生みにくい面も備えます。

「いつか米作りから農家さんとご一緒したいと思っています。そのために、農家さんの信頼を得られる酒造りをしたい」と田中氏。

信頼を得られる酒造りとは、生産数を上げ、たくさんのお米を仕入れることにあります。直接、関係を持てなくとも『白糸酒造』と『田中六五』の勢いを仕入れる量の多さで認知させ、いつかのための準備をしているのです。

「歴史ある日本酒業界の方針を変えるのは難しいですが、選択肢は増やすべきだと思います。自分たちも既存の仕組みに否定的ではありません。しかし、年々減っている酒蔵の数や低下している日本酒の摂取量という結果を真摯に受け入れた時、新しい仕組みも必要なのではないかと考えています。なぜなら、日本酒は、間違いなく日本のお米を支えているから。日本酒の数が減れば、田んぼも減り、農家さんもいなくなってしまいます。そうなる前に何とかしなければいけません」とふたり。

酒造りは蔵から始まるのではありません。原料が生まれる蔵の外から始まっているのです。

「レストランやお客様はもちろん、世の中は常に進化している。日本酒においても時代に応じた進化が必要。当たり前を見直し、変化を恐れてはいけない」とふたりは言葉を続けます。

伝統や歴史があるものは、時代との呼応を相容れないことがあるのかもしれません。

本当に大切なことは変えない。しかし、変えるべきことは変える。

『白糸酒造』のように。『ハネ木搾り』のように。『田中六五』のように。

全てにおいて、「守破離」を繰り返すことによって、物事は卓越していくのです。

 羽金山の中腹530mに位置する「白糸の滝」。文字通り、岩肌を白い糸のように流れる。その美しい景観は、県指定名勝にも選ばれる。しばし、滝の景色と音に癒される松本氏と田中氏。

「白糸の滝」から流れる清流は透き通るほど美しく、ヤマメも泳ぐ。

「酒を知るには土地を知ることが大事。土地を知るには水を知ることが大事。水が酒を決める」と松本氏。

『白糸酒造』から湧き出る井戸の水。「うちの水は少しとろみがあります。実は、最初はこの水があまり好きではありませんでした。しかし、この水によって馴染んでいく味がうちの日本酒であり、個性。大事な原料であり、自然からの大切な恵みです」と田中氏。

『田中六五』のお米は、糸島の山北地区で育った山田錦。「水が豊か、広く平らな土地、土の水はけも良い、昼夜の温度差もある。米作りには最適な環境だと思います」と松本氏。「農家も田んぼを守らなければいけない。誰に預けるのか、どの蔵に預けるのか。そういった問題にも一緒に向き合いたい」と田中氏。

上記よりも更に上空から望んだ糸島らしい景色。山があり、海があり、田園風景が広がる。

HIDEHIKO MATSUMOTO決して人助けではない。頼まれたわけでもない。ただ、一緒に酒造りをしようぜ。

実は、松本氏と田中氏の付き合いは長く、共通点も多い。

「最初の出会いは大学時代。ただ、その時は別に仲が良かったわけではない(笑)」とふたり。

卒業後、松本氏は『九平次』を造る名古屋『萬乗醸造』と『東一』を造る佐賀『五町田酒造』へ。田中氏は、広島『酒類総合研究所』を経た後、松本氏同様、佐賀『五町田酒造』へ。

同じ大学、同じ修業先。そして、前述の通り、ふたりを結ぶ勝木氏の存在。しかし、何より一番の共通点は、「お互い社交性が低い……。だから、仲良くなれなかった(笑)」とふたり。

では、いつからその距離は縮まったのか?「最近(2020年)ですかね(笑)」とふたり。

加えて、年齢が近い職人同士の輪は広がり、会えば夜な夜な熱い話をする日々。そんな矢先に起こった出来事が松本氏の蔵問題だったのです。

「過去は変えることはできない。変えることができるのは未来だけ。ですから、不謹慎かもしれませんが、変化と進化するチャンスだと思いました。助けようだなんて思っていません。そんな大それたことは自分にできませんから。ただ、日出彦さんは、大好きな友達だから。遊びも一緒にしたいし、勉強も一緒にしたい。だから……、ただ、一緒に酒造りをしようぜ」。田中氏は、そう振り返ります。

一方、そんな誘いを受けた松本氏でしたが、「当時の自分は、すぐに気持ちの切り替えはできず、うちに篭っていました」と話します。

「“それでもいいから、待ってるよ。酒造りがしたくなったら、一緒にやろうぜ”。田中さんは、そう言ってくれました」。

「他の友達が同じ状況になっても同じことをしたと思います。日出彦さんだって、逆の立場だったらそうしたんじゃないですかね。一緒に酒造りをしてみて感じたことは、攻めの数値。醪の経過も強気ですし、これは性格ですかね?(笑)」と田中氏。

「確かに、バランス良く酒造りをしている田中さんから見たら、そう映るかもしれませんね(笑)。吟醸酒作りではなかった自分にとっては、いつも通りなのですが……」と松本氏。

「日出彦さんの造っていた日本酒は、ガスを効かせ、熟成にも勝るフレッシュさもありました。その製法に関して話には聞いていましたが、あくまで口頭から得た想像の世界。今回、一緒に酒造りをすることによって、色々、理解できたことも多かったです」と田中氏。

一方、酒造りをさせてもらうことによって、松本氏は多くの発見を得ることができました。

「自分の魂はどこにあるのか。自分の酒造りは何だ。生きる営みこそ酒造りであり、それを表現するために、自分は再び酒造りの世界へ戻りたい。そう思いました。田中さんは、審美眼に長け、感度も高い。有言実行、変えるところはとことん変え、守るところはとことん守る」と松本氏。

事実、以前の『白糸酒造』は、難局を迎えていましたが、田中氏の杜氏就任後、さまざまな改革によって蔵は持ち直します。

「でも、新しい蔵を作る時には、反対されましたけどね(笑)」と田中氏。

酒造りはチーム。『白糸酒造』が守り続ける「上槽」のごとく、杜氏は言わば船頭。

「船頭(杜氏)は、一番強い風を受けなければいけません。その後ろで櫂を漕ぐ人間(職人)に同じ風当たりを理解してもらうのは難しい。どんな舵を切るのか、どんな海に向かうのか、それは穏やかなのか、荒波なのか。全ては田中さんにかかっている。『白糸酒造』は、みんな田中さんを信じて航海している素晴らしいチームだと感じました」と松本氏。

そんな航海の仕方は、日本酒業界においても同様かもしれません。

これがうまいとされる味をなぞれば、造りも原料も似てしまう。ある意味、安心安定の穏やかな海への航海ですが、結果、各々が持つ地域性や蔵の個性は失われてしまいます。特性を活かすためには、群から外れた荒波への航海の選択をしなければいけません。しかし、群が生んだ味の正解、造りの正解、原料の正解ではない、新しい正解を受け入れてもらうのは至難の業です。

「味を決めるのはあくまで消費者ですが、その責任を果たす義務が我々にはあると思います。自分たちの都合で変わらないのは良くない。逆にそれによって守れないものも出てくる。もはや、自分たちだけの問題ではありません」とふたり。

その問題はさまざま。解決するためには、どんな航海をするべきなのか。これからの松本氏の人生も例外ではありません。むしろ、波風のない平穏な海への航海はないでしょう。

「心を燃やして酒造りをするしかない。その種火は、他所から持ってきては意味がない。自分で起こすしかない」とは田中氏の言葉。

自分の正しいと思うコンパスを信じて、舟に乗る。

田中克典と過ごした時間から松本日出彦が学んだことは、酒造りだけではありません。そんな情熱を学んだのです。

「初めて一緒に酒造りができて、お互い良い経験になった」と田中氏。「今回、お世話に立っている5蔵の中で一番自由に酒造りをさせていただきました。仕上がりが楽しみです」と松本氏。

2016年に田中氏が建てた新たな蔵(手前)。モダンなコンクリート建築は、まるで美術館のよう。伝統的な「ハネ木搾り」を行う旧蔵(奥)とは対象に、ここではテクノロジーを駆使し、味の数値化やデータ管理する機能を備える。「変えないところはかえない。変えるところは変える。このバランス感覚と行動力に田中さんは長けている」と松本氏。

新旧の建物が並ぶ『白糸酒造』。「田中」とは田中家の姓であるとともに、「“田”んぼの“中”にある酒蔵で醸された」という意味も込められている。まさにそれを可視化した風景。

糸島産山田錦のみを65%精米して仕上げた純米酒『田中六五』。「『田中六五』が目指すは、オンリーワンでもナンバーワンでもありません。本当に伝えたいお酒を作り続けることによって、定番になることを目指したい」と田中氏。

住所:福岡県糸島市本1986 MAP
TEL:092-322-2901
http://www.shiraito.com

1982年生まれ、京都市出身。高校時代はラグビー全国制覇を果たす。4年制大学卒業後、『東京農業大学短期大学』醸造学科へ進学。卒業後、名古屋市の『萬乗醸造』にて修業。以降、家業に戻り、寛政3年(1791年)に創業した老舗酒造『松本酒造』にて酒造りに携わる。2009年、28歳の若さで杜氏に抜擢。以来、従来の酒造りを大きく変え、「澤屋まつもと守破離」などの日本酒を世に繰り出し、幅広い層に人気を高める。2020年12月31日、退任。第2の酒職人としての人生を歩む。

Photographs&Movie Direction:JIRO OHTANI
Text&Movie Produce:YUICHI KURAMOCHI

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間伐材、竹林に続き、カカオ廃材! 食べることが地球のためになるサステナブルスイーツ。[LIFULL Table Earth Cuisine/東京都千代田区]

江藤氏が手掛けた「ECOLATE CARE」。こちらは“廃材らしさ”をいかに残して美味しさを追求するかに身を粉にした。Photograph:株式会社LIFULL

上妻氏が考案した「ECOLATE TABLETTE」。廃材を使いながらチョコレートらしい食感を追求した。Photograph:株式会社LIFULL

ライフルテーブル/アースキュイジーヌ「地球料理 -Earth Cuisine」第三弾のテーマはカカオ廃材。

食べることが地球のためになる。いままで目を向けられていなかった、社会問題や環境問題の要因となる素材にフォーカスし、「食べる」という新たな可能性を見出す。そして、持続可能な社会を叶える未来へ……。

そんな理念のもと2018年に動き出したのが、「地球料理 -Earth Cuisine- (アース・キュイジーヌ)」。 「あらゆるLIFEを、FULLに。」を掲げ、住生活情報サービスなどを運営する企業、株式会社LIFULLの飲食事業  「LIFULL Table」が手掛けるプロジェクトです。  2018年10月、その第一弾として「Eatree Plates」が始動し、2019年3月には間伐材を食材として使用したパウンドケーキ「Eatree Cake 〜木から生まれたケーキ〜」を発売。続く2019年9月には放置竹林をテーマにした「Bamboo Sweets -竹害から生まれた和菓子-」を発表すると、2020年2月には放置竹林の竹と笹を使用した「Bamboo Galette(バンブー ガレット) -竹害から生まれたガレット-」を世に送り出したのです。
そして、今回がその第3弾。間伐材、竹に続き、「地球料理 -Earth Cuisine-」が目を向けたのは“カカオ”でした。

イベントでは、試食に先立ち株式会社LIFULLのCCOである川嵜剛平氏が挨拶。今回のプロジェクトへの想いを語った。

フーズカカオ株式会社代表取締役の福村 瑛氏。数々の現場を見てきた福村氏の言葉にカカオが抱える問題の深刻さを思い知らされた。

会場は、虎ノ門にある『Social Kitchen』。イベントは密にならぬよう、細心の注意を払い開催された。

ライフルテーブル/アースキュイジーヌ差し迫るチョコレート危機。カカオは絶滅の危機にある!

カカオといえば、誰もが知っているようにチョコレートの原材料になる植物です。では、なぜそのカカオに今回焦点が当てたのか。日本人において一番身近にあるスイーツのひとつといっても過言ではないカカオ。事実、日本におけるチョコレート市場はここ10年で35%成長したというデータもあります。しかし、その一方で、問題とされているのが、原料であるカカオ生産における社会問題。大量生産・大量消費にともなう価格低迷を背景に、カカオ農家の貧困問題や児童労働といった問題が浮き彫りになり、さらには需要増による生産地拡大が環境破壊を引き起こしているといいます。それだけではなく50年ほどで収穫力が低下するというカカオ樹の高齢化、昨今の気候変動によるカカオ樹が罹る病気の脅威もあったりと、深刻なカカオ不足が叫ばれ、このままでは2050年までにチョコレートづくりに使われているカカオ豆が絶滅する可能性すらあるといわれ、いずれチョコレートが食べられなくなってしまう恐れまであるというのです。

だからこそ、「地球料理 -Earth Cuisine-」はカカオに目を向けたのです。無論、使うのは一般的にチョコレート製造に用いられるカカオマスやココアバターといったものではありません。使うのはなんと「カカオの廃材」。これまで食材として見向きもされなかった、カカオ豆の殻であり、カカオ樹の葉であり、枝なのです。
名付けて「ECOLATE」。

“カカオの廃材”を食べることで、差し迫る“チョコレート危機”に対して、カカオが抱える問題について、今一度考えてもらおうというのです。

消費者が普段見ることのない生産の現場。カカオ生産における社会的、環境的問題はいまだ多い。Photograph:株式会社LIFULL

一般的にチョコレートに使われるのはカカオマス。それ以外のおよそ70%のカカオ部位は廃棄されるという。Photograph:株式会社LIFULL

ライフルテーブル/アースキュイジーヌカカオ廃材を使ったスイーツづくりにふたりのパティシエが挑む!

今回、「ECOLATE」を開発するにあたって、その大事なファクターを担ったのが、インドネシアの農園により今回の廃材を仕入れ、東南アジア各国のカカオ豆および製菓材料の提供などを行うフーズカカオ株式会社。代表の福村 瑛氏はこう話します。
「話を聞いて、カカオの木を食べることで未来のカカオ生態系をつくれるこのプロジェクトの可能性にとてもワクワクしました。農家さんが木や葉っぱも食品として扱い、農薬を使わずに育ててくれるとカカオ豆自体の農薬問題解決の一助にもなります。これをきっかけに『カカオの木を食べる文化』が発展することを期待しています」。

そして、今回のプロジェクトで最も大切な2人が、カカオの廃材でスイーツを開発したパティシエの江藤英樹氏と、上妻正治氏でしょう。江藤氏は『DOMINIQUE BOUCHET TOKYO』『SUGALABO』といった名店でシェフパティシエを務めた後、現在は虎ノ門『unis』でシェフパティシエを『Social Kitchen』でプロデューサーを務める人物。一方で上妻氏は『Social Kitchen』ディレクターであり、「ジャパンケーキショー」にて3度の金賞を受賞した経歴の持ち主です。
とはいえ、消費者への問題提起、さらにはサステナブルな未来を築くための一助になるという使命があるにせよ、「ECOLATE」が食品である以上、大前提に“美味しい”ことが大切であることは言うまでもありません。カカオの廃材を活かし、江藤氏、上妻氏が考案した「ECOLATE」。いったいどんなスイーツに仕上がっているでしょうか。

「ECOLATE CARRE」を手掛けた江藤氏。殻だけでなく、葉、枝を使いながらスイーツにすることに苦心した。

ひと口サイズの3種のチョコレートが楽しめる「ECOLATE CARRE」。農園の雰囲気まで目に浮かぶ味わい。Photograph:株式会社LIFULL

ライフルテーブル/アースキュイジーヌまずは美味しいありき、江藤氏と上妻氏考案の「ECOLATE」。

まず、江藤氏が考案したのは、「ECOLATE CARRE」という3種のひと口チョコレート。茶色のキャレは、カカオ豆の殻を50%使用し、ビターな香ばしさを引き出したさっくりとした食感。江藤氏曰く「殻を細かくしすぎず、あえて粗めに残すことで、“廃材っぽさ”を感じてほしかった」といいます。キャメル色のキャレに使ったのはカカオの枝。20%の含有量で、独特の食感に“木の質感”を感じとることができます。そして、印象的だったのはモスグリーンのキャレ。こちらは、カカオ豆の殻、枝、葉を30%ほど混ぜたもの。実は、カカオの葉は伐採してそのまま地面に放っておくと、湿気がたまりカカオ樹の病害の原因にもなるそう。サクサクとしたなかにもしっとりした“やや湿度を感じる食感”には、そんなカカオ農園の姿までもイメージさせてくれました。しかも、これらのキャレには、廃材と糖分、油脂分しか使われていないというから驚きです。江藤氏も「現場には本当に殻、枝、葉そのものの状態で届くんです。それをいかにスイーツにするか。難題でしたが、『廃材でここまでできるんだ』ということを少しでも表現できれば」と話します。

次に上妻氏の「ECOLATE TABLETTE」。こちらはカカオ豆の殻の使用率を33%にまで高めながらも、チョコレートらしい滑らかな質感にこだわったと上妻氏はいいます。
「最大限のハスク(殻)の量を入れてどこに着地させるかが難しかったですね。「ECOLATE TABLETTE」には33%のハスクを使用しましたが、形状、テクスチャーは問題ありませんでした。しかし、問題は渋さだったんです」。
そこで上妻氏は、一般的な砂糖に比べ甘味の強い果糖やキビ糖などをブレンドして加え、その“渋さ”とのバランスを取ったそう。カカオとココナッツが織り成す豊かな風味、ほろ苦さと甘さのなかに、感じる絶妙な酸味のバランスに、チョコレート好きは目を白黒させることでしょう。

いずれにせよ、すごいのはカカオの廃材を使ったチョコレートながら、コンセプト重視にならず、食べてしっかりと美味しく、それでいてカカオの新たな一面をしっかりと食べ手に訴えかけてくる点。よもや廃材として捨てられていた素材が、このような素晴らしきチョコレートになろうとは思いもよらなかったのではないでしょうか。
「ECOLATE CARRE」と「ECOLATE TABLETTE」は、下記にて限定販売中。そして、ぜひ食べることで、カカオという食材の裏に隠れる社会問題に考えを巡らせてみてください。それがカカオの生産者が抱える問題を解決する一助となり、はたまた地球の未来をも守ることにもなるのですから。

上妻氏。江藤氏とともに試食中は、イベント参加者に作り手としての想いを熱心に語っていた。

「ECOLATE TABLETTE」。甘味、苦味、酸味がまさに三位一体となった味わい。テクスチャーも絶妙だ。Photograph:株式会社LIFULL

住所:東京都千代田区麹町1-4-4 1F MAP
電話:03-6774-1700
LIFULL Table HP:https://table.lifull.com/
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辻調グループフランス校卒業。フランス・ラナプール「L’OASIS」カンヌ「villa des Lys」にて修行。「BEIGE Alain Ducasse TOKYO」にて経験を積み、「DOMINIQUE BOUCHET TOKYO」「SUGALABO」「THIERRY MARX」等、数々の名店でシェフパティシエを歴任し、2020年「unis」のシェフパティシエ「Social Kitchen」プロデューサーに就任。

東京都製菓専門学校卒業後、パティスリーキャロリーヌ、クリオロでチョコレート部門責任者を務め「Social Kitchen」ディレクターに就任。ジャパンケーキショーにて計3度の金賞受賞、World Chocolate Masters国内予選チョコレート部門1位、総合3位など受賞多数。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:SHINJI YOSHIDA

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コンセプトの破綻、料理長交代、リニューアル……。オープン10ヶ月の、激動を経て……。[美会/東京都中央区銀座]

個室に設けられたカウンターから、ビア氏が料理のプレゼンテーションを行う。リニューアル後の新しい試みのひとつだ。

美会コロナ禍のオープン。すべてが変わった『美会』の10ヶ月。

2020年6月、銀座7丁目の路地裏に一軒のワインバーがオープンしました。店の名は『美会(びあ)』。銀座の中心にあって、夜中でも人が集えて美味しい料理と酒に出会える店。そんなコンセプトを店名に込めた店は、実に前途多難の船出となりました。オープンしたのは1回目の緊急事態宣言が解除された直後。どの飲食店にも苦しい状況は変わりませんが、こと『美会』に関しては、新型コロナウイルスの影響で店のコンセプトすら崩壊しかねない状況でした。

それでも『美会』は、確実に前を向いて進んでいきます。日本を代表する名店とのコラボ弁当の販売、アラカルトを止めコースの一本化。さらに、料理長の交代、オープン半年にして店の大胆なリニューアル、日本一予約が取れない焼鳥店として知られる『鳥しき』とのコラボランチの開始……。あらゆる手を打ち、店を存続させてきた店が、2021年3月にひとつの決断を下します。

「こんなときだからこそ、飲食店として、『美会』としてやらないといけないことがある、やるべきことがある」。

それがコンセプトの一新でした。オープンよりおよそ10ヶ月。激動の時を経て、コロナ禍だからこそ自分たちがやるべきことを突き詰めた『美会』のいまに迫ります。

ビア氏と『鳥しき』の店主・池川義輝氏。「カオマンガイ」の試作・試食を重ね、アイデアをひねり出す。

1階入り口には、オープン時に全国のレストランから届いたお祝いの札。ビア氏の愛され具合が分かる。

美会料理人の間でも愛される美食家が『美会』を開くまで。

『美会』という店を紐解くにあたり、まずこの店のオーナーの存在を知る必要があります。その人物こそ通称ビア、本名をピーラゲート・チャロンパーニッチといいます。料理人の間ではその名の知れた美食家でもあるビア氏は、タイ・バンコクの出身。幼い頃から日本の文化に興味を持ち、2006年に来日すると立命館アジア太平洋大学に入学、卒業後は日本の貿易会社、トリップ・アドバイザーでの勤務を経て、通訳や翻訳業のフリーランスとして活躍するようになります。そのビア氏に転機が訪れたのはおよそ10年前。あの『すきやばし次郎』の映画『二郎は鮨の夢をみる』がきっかけでした。ビア氏は、アメリカでも極めて高い評価を得たその映画を見た海外の友人から、こんな依頼をされたそうです。

「『すきやばし次郎』の予約をとってくれないか」

ビア氏は朝一番で並んで『すきやばし次郎』のプラチナシートを予約したといいます。すると、今度は「『鮨さいとう』が食べてみたい」「『すし匠』も行ってみたい」「『都寿司』も(移転前の『日本橋蛎殻町すぎた』)」とオファーが舞い込むようになったといいます。

「もともと自分は日本の文化が大好きで来日したんですが、いろんな店に一緒に食べにいくようになって、職人の仕事そのもの、特に寿司や日本料理の料理人の仕事に惹かれるようになったんです。自分のなかでは、はじめは“食べに行く”というより、職人さんに“会いに行く”ようなイメージ。僕のレストラン巡りはここから始まりました」。

それからおよそ10年、現在では全国の名店をめぐり、日本を代表する美食家となったビア氏。ではなぜ、そのビア氏が『美会』をオープンしたのかといえば、「それは本当に偶然だった」といいます。

ビア氏が、現在の『美会』のある物件と出会ったのは2019年12月のこと。知人から「銀座にいい物件があるんだけど、何かやってみない?」との何気ないひとことが引き金となりました。銀座といえば、ビア氏にとっても憧れの地。銀座に空いた物件の話が表に出てくること自体が珍しく、しかも、7丁目の路地裏にある一軒家という奇跡的な条件。ビア氏は考え抜いた末、この話を引き受けることにしました。

銀座といえば日本の一流の店が集まる美食街ながら、ビア氏が納得できるような、夜中まで美味しいものに出会える店は少なかった。ビア氏はそこに目をつけました。

「銀座には一流の料理人さんの友達がいっぱいいます。そんな料理人が仕事帰りに美味しい料理とお酒にありつける店にしたかったんです。夜な夜な料理人が集まってきて、みんなと一緒になってワイワイ楽しめる店にしたかった」

料理は、ビア氏ががこれまでに全国を食べ歩いて築き上げてきた、料理人や生産者とのパイプを活かし、全国の名だたる食材を使用したアラカルト。深夜でもワイン一杯から楽しむことができ、誰もが気軽に通える。いわゆる古臭い言葉ですが、味を知る大人の社交場のような店にしたかったのだそう。

2階の店内。2020年11月にリニューアルされ、よりゆったりと寛げる空間に生まれ変わった。

『美会』があるのは、コリドー街の一本裏手の路地裏。銀座の一軒家という奇跡的なロケーション。

『鳥しき』とのコラボで誕生した限定ランチメニュー「カオマンガイ」。現在は終売したが、復活を望む声も多い。

美会前途多難。皮肉にもオープン予定日は、緊急事態宣言発令日。

しかし、新型コロナウイルスがすべてを台無しにしたのです。そもそも当初予定していたオープン日が2020年4月7日。皮肉なことに、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言が発令された日でした。当然オープンは先延ばしになります。それでもビア氏には「オープンしたらなんとか客がやってきてくれるだろう」という気持ちもあったといいます。ところが蓋を開ければ、緊急事態宣言解除後も元には戻りませんでした。とりわけ、日本の他のエリアに比べても夜の銀座は、劇的に人通りが少なくなったのですから当然のことでした。それだけではありません。当初掲げたコンセプトからして、withコロナの時代には逆行するものになってしまいました。銀座の料理人が仕事終わりにワイワイ楽しめる店、深夜でも美味しい料理と酒にありつける店というコンセプトは、時短営業が余儀なくされ、密が避けられる状況では破綻しています。

さらに追い打ちをかけたのは、『美会』が新店であること。営業自粛、時短営業をしても、前年の売上実績がない『美会』には国からの協力金が支払われないのです。かさむ人件費、大きな負担になる家賃。オープン直後の6~7月は、店を開ければ開けるほど赤字になりました。迎えた9月には、今度は料理長の持病が悪化し、新たな料理長に交代することになります。当然ながらそこで料理も変更せざるを得ませんでした。

ところがこのあたりから、少しずつ『美会』の巻き返しが始まります。料理長の交代を機に、日本料理の王道をリスペクトしながら、日本全国の最高級の食材をかけ合わせた、ここでしか味わえない料理を提供するように。11月には店舗を思い切ってリニューアルすると、徐々に客足も戻ってくるようになります。そして、ビア氏は次なる一手を打ちます。

日本一予約が取れない焼き鳥店『鳥しき』とのコラボランチを始めるのです。それこそが現在の『美会』のコンセプトにも通じる「カオマンガイ」の提供でした。これがスマッシュヒットとなり、『美会』の大きな道標となりました。

「カオマンガイ自体はタイ料理ですが、『鳥しき』さんや日本料理の技術、食材を活かすとすごく洗練された味になり、人気が出た。だったら僕の目線でほかのタイ料理も、『日本の食材を使った日本でしか食べられない料理にしたらどうだろうか』と考えたんです」。

ビア氏が巡るのはレストランだけにあらず。生産者のもとへも足を運ぶ。写真は、兵庫県西脇市の『川岸牧場』にて。

「生春巻」は鴨肉の旨み、野菜のフレッシュさと食感に、ジュレ仕立ての爽やかなタレが絡み合う。

「トムヤムクン」は、香り、酸味、辛味は抑えられているものの、出汁による優しくも力強い旨みが印象的。

美会日本の食材を活かした新しいタイ料理のあり方。

そして、『美会』は新たな道を進むことになります。

夜遅くになっても美味しい料理と酒にありつける店ではなく、『美会』でしか味わうことができないタイ料理を追求すること。岐阜のジビエ、気仙沼の鱶鰭、豊洲『やま幸』のマグロや、『旭水産』の白身魚、『川岸牧場』の神戸牛……。これまでビア氏が全国を食べ歩いてきたなかで築き上げた料理人や生産者とのパイプ・ネットワークを活かして仕入れる、日本全国の最高級の食材をタイ料理に。取材日、『美会』で供されたのは、まさにここでしか味わえないタイ料理になっていました。

たとえば、コースの幕開けとなる生春巻き。つけダレは、和の出汁にわずかにナンプラーを加え、コブミカンの葉で香りをのせてジュレ仕立てにしています。巻かれているのは黄色人参、新生姜、キュウリ、鴨肉など。しかも、この鴨肉がただの鴨ではありません。ミシュランの星付きフレンチなども使う、岐阜のハンターから直接仕入れる極上の鴨肉だというのです。「トムヤンクン」に使われる魚介類も、日本を代表する名店のものと同じ。豊洲『旭水産』より仕入れる天然蛤や車海老、鯛が、丁寧に取られた魚と蛤の出汁に。レモングラスやガランガル(タイの生姜)、コブミカンの葉といったハーブのニュアンスを感じさせながら、実に優しいトムヤムクンに仕上がっています。

「タイは暑い国だから、日本のようによい食材がとれない。だから、ハーブやスパイス、辛さや甘さを重ねた料理ができたとぼくは思っています。それを日本の本当にいい食材を使うと、まったく料理に対するアプローチが変わってきます」。

これでもかという素材を活かしつつ、香草を加えたり、スパイスでアクセントを足したり、和の調味料や技法を交えたり、緩急自在に『美会』の料理にタイのエッセンスを纏わせる。ありそうでなかった新しいタイ料理の形。『美会』でしか楽しむことができない味がそこには確かにありました。

「キンメダイ」は、細かくしたタイの香草を取り入れ、食感と香りのアクセントに。銀餡で和のニュアンスも出した。

店内に飾られた写真の中には、生産者や職人とのツーショットも。『日本橋蛎殻町 すぎ田』の杉田氏とは、前身となる『都寿司』時代からの付き合いで、ビア氏に仕入先を紹介するほどの仲。

美会雨降って地固まる。激動の10ヶ月がビア氏の心を変えた。

オープンから激動の10ヶ月。コロナ禍でコンセプトが変わり、人が変わり、料理が変わった『美会』。そして、コロナが変えたもうひとつのことがありました。

「生産者さんを助けないといけないという思いも芽生えました。そのためにも店をやっている自分こそ、この状況を乗り越えないといけない。そして、タイ料理を通してタイという国を知ってもらうことで、自分の故郷にも恩返ししていければいいですね。いろんな料理人さんが気遣ってくれてアドバイスしてくれて手を差し伸べてくれました。そんな方々のためにも頑張らないといけません」。

最後に、コロナが落ち着いたら、またもとの『美会』のコンセプトに戻るのか? と尋ねると、きっぱりとビア氏は答えてくれました。

「この店をもとのようにすることはありません。この料理でタイ料理の素晴らしさを知ってもらえたらいいですね」。

コロナ禍でコンセプトが覆され、絶体絶命の危機を迎えた『美会』。もちろん、料理、サービス、プレゼンテーションなど、完成度でいえばまだまだ改善の余地があります。それはビア氏自身が一番感じているところ。しかし、進むべき道が見えたいま、裏を返せばそれは前進していくしかないことを意味します。

雨降って地固まる。新生『美会』がこれからどんな形でタイ料理を昇華していくのか、期待は高まるばかりです。

『やま幸』の山口幸隆氏との一枚。この愛されキャラがビア氏の真骨頂。多くの料理人、生産者、仲買人などに愛される所以だ。

住所:東京都中央区銀座7-3-16 MAP
電話:03-3572-5599
営業時間:11:30〜22:30(23:00)
定休日:日曜・祝日

Photographs:JIRO OHTANI
Text:SHINJI YOSHIDA

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深まる郷土への想い。コロナ禍で見出した、宮古島で料理をつくる本当の意味。[Restaurant État d’esprit/沖縄県宮古島市]

Restaurant État d'esprit  宮古島OVERVIEW

われわれONESTORYが沖縄に面白いレストランがあると聞き、取材のための情報収集を始めたのがおよそ2年前のことでした。
その店は宮古島の北西に浮かぶ伊良部島の片隅にあり、『紺碧 ザ・ヴィラオールスイート』のメインダイニング。シェフは生まれも育ちも地元・宮古島。東京やフランスの名店で修業し、さらにはバスク地方のレストランで研鑽を積んだ人物だといいます。そんなシェフがつくるのは、フレンチの技法を駆使して沖縄の食材を昇華させる「琉球フレンチ」……。
きっとそこにはこの店でしか楽しめない体験が待っているに違いない。
そんな確信を胸に、ONESTORYはその店への取材に挑むことになりました。
店の名は『Restaurant État d'esprit』。フーディなら一度は耳にしたことがある名前かもしれません。

ONESTORYが『Restaurant État d'esprit』を取材したのは2020年2月。新型コロナウイルスの脅威が日本各地に広がりはじめた頃でした。
しかし、取材は済ませたものの、3月~4月に設定していた記事公開は先延ばしになります。当然ながら取材した情報の鮮度は公開が遅れるほど落ちていきます。
そんななかで2020年11月、われわれは記事の公開時期を相談、宮古島の現状を聞くべく、シェフの渡真利泰洋氏にコンタクトを取ると……。
初めての取材からおよそ10ヶ月後。よもやONESTORYが再び宮古島を訪ねることになろうとは!

コロナ前とwithコロナの時代。観光産業が主軸となる宮古島という場所で、揺れ動く世の中でもがくレストランが見つけた答え。そして、2回の取材を通して見えてきた『Restaurant État d'esprit』の魅力とは一体何か? 
決して大げさではなく、そこには沖縄料理の未来がありました。

住所:沖縄県宮古島市伊良部字池間添1195-1 MAP
電話:0980-78-6000
営業時間:18:00〜22:00
定休日:不定休
http://www.konpeki.okinawa/

Photographs:YASUFUMI MANDA
Text:TAKETOSHI ONISHI

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歴史深い桑名の魅力を垂直方向に掘り下げた宿の決意。[MARUYO HOTEL Semba/三重県桑名市]

『MARUYO HOTEL Semba』の外観。白地の暖簾に踊るは、ここが材木商「丸与木材」だった頃の屋号。

マルヨホテル東海道唯一の海上路・桑名に生まれた一棟貸しの宿。

東海道五十三次の42番目の宿場にあたる桑名宿。かつて多くの旅人を癒してきたこの場所は、東海道唯一の海上路・七里の渡しで宮宿(現在の名古屋市熱田区)と結ばれ、伊勢参りの玄関口として栄えてきました。また、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が合流する桑名には流通の拠点として発展してきた側面や、米相場(江戸期の先物相場)が置かれたことで相場師が集まり、経済の拠点として発達してきた側面もあります。

そんな歴史を刻んできた桑名市船馬町にこのほど誕生したのは、明治創業の材木商の建物をリノベ―ションした1日1組(4名まで)限定の1棟貸しホテル『MARUYO HOTEL Semba』。オーナーは、先の材木商・丸与木材創業者の玄孫にあたる『MIWA Holdings』代表の佐藤武司氏です。

「9年ほど前からパリで日本文化をご紹介する『Pavillion MIWA』という会員制倶楽部を運営しているのですが、そこで出会った方々が日本にいらした時に泊まれる場所をということで、2018年に京都の北区に『The Lodge MIWA』という長期滞在型の宿泊施設を造りました。自然に恵まれた長閑な場所なのですが、過疎化が進んでいて、そこへ旅行者が来るようになったことで村の方が自信を取り戻していくのを間近で感じたんです。一方、桑名には私の実家があり、曾祖父から受け継いできた場所が空いていて、父から『(桑名も)京都のようにできないか?』と相談されたことがきっかけです」。

オーナーの佐藤武司氏と、妻でギャラリストの正木なおさん。夫妻の美意識が貫かれた宿になっている。

マルヨホテルアートと滞在の場が自然に溶け合う空間作り。

最初は長期滞在者向けの宿を考えていた佐藤氏でしたが、3年前にギャラリストの正木なおさんと結婚したことで、1泊だけで特別な体験ができる宿へとプロジェクトは変化していきました。

現代アートと工芸を扱うギャラリー『Gallery NAO MASAKI』を営むなおさんは、「生活とアートがどういうところで接点を持ってくるのか?」を十数年に渡って追求してきた人物。そんな奥様と二人三脚で手掛けた宿は、現在と過去、東洋と西洋、アートと工芸の境を超越し、全てが滑らかに融合した空間になったのです。

「桑名は伊勢の入口であり、経済の拠点となってきた時代や明治以降に多くの西洋文化が流入してきた歴史があります。そんな土地が持っているイメージを感覚的に味わっていただきたくて、アンティークの要素を強く持ってくることを意識しました。まず建物自体が古い木造建築で、中に入ると西洋風の格子が表れます。ラウンジは和室なのに石張りという他にはない内装になっていて、この宿を象徴する空間になっています」となおさん。

興味深いのは、具体の堀尾貞治氏の作品や城所右文次氏のバンブーチェアと並列して飾られた江戸時代の蔵に使われていた引き戸。経年による風合いはまるで現代アートのよう。「ここに訪れたゲストからも“この作品の作家はどなたですか?”といった質問をされます」となおさんは言います。古いものがアートに見え、いつしか空間そのものがアートになっていく……。本来、自分から出て来ようもない感覚が引き出され、新しい自分を発見したような気分になれるのは、この宿ならではかもしれません。

「“〇〇の作品がある宿”といったマーケティング的視点ではなく、自分たちが居る空間に自然にアートが在るようにするには、元の建物をどのように改修していくかも重要。例えば、予算ありきで工務店に丸投げする方法では、“予算内に収めるためクロス張りにしましょう”というように、本来自分たちがやりたかったこととのズレが生じてしまいます。そこで、工務店を入れずに現場を直接見ながら、“ここにはアンティークの桧の扉を使いたいので、それに合わせて開口部を仕上げてください”というように、僕と大工さんとで少しずつ改修を進めていきました」と佐藤氏。

通常ではありえない現場は、20歳で宮大工に弟子入り後、数寄屋建築の名門・中村外二工務店で研鑽を積んで独立した相良工務店の相良昌義氏が担当。土壁や漆喰の質感ひとつからも古の息遣いが聞こえてきそうな空間が誕生しました。また、電気工事など専門知識が必要な部分はその都度、佐藤氏自ら専門の職人を手配。調度はもちろん照明の碍子ひとつまでこだわった空間にいると、まるで美の胎内にいるかのような心地よさを感じることができます。

白い漆喰と黒漆喰の対比、オーナー自ら買い付けた照明、選び抜かれたリネン……。非日常のスイッチが入る「room1」の主寝室。

墨を混ぜて作る夜の海の色のような黒漆喰、一輪差しの花、工芸品の棚の配置の妙が、アートな空間を作り出す。

珍しい網代の扉は、佐藤氏自らアンティーク家具店で買い付けてきたもの。「この扉が使えるように開口部を設計してもらいました」。

ジョサイア・コンドルをオマージュした洋室「room 0」。フランスのアンティークの扉から中庭に出るのもいい。デスクに飾られているのはアート作品ではなく、蔵の窓。

マルヨホテル往時の宿場町の面影を残す老舗・名店で夕食を。

名古屋からわずか1駅とアクセスのよい桑名ですが、あえてお勧めしたいルートがあります。それは、名古屋の熱田から桑名まで「七里の渡し」を船で渡るクルーズプランです。

『熱田神宮』をお参りし、湾内のゆったりした波に2時間ほど揺られれば、伊勢の玄関口を象徴する「一の鳥居」が見えてきます。海から伊勢の国に入る体験は、江戸期の旅人と共鳴する特別な体験になることでしょう。

川沿いに佇む築70年以上の古民家の敷居を跨げば、しっとりとした和の美を纏った空間。1階は読書やお茶など、ゆるりとした時間を過ごせるラウンジ。2室ある客室の1室は、黒漆喰の床の間が夜の海を彷彿させる空間で、戸外には桧の露天風呂が設えられています。もう1室は、近隣にある明治時代の洋館「六華苑」を手掛けたジョサイア・コンドルをオマージュした美しい洋室になっています。

また、こちらの宿はB&B(ベッド&ブレックファスト)方式なので、夕食は桑名や名古屋の名店で好みの食事をいただくスタイル。

「宿場町として栄えたきた桑名には、老舗や名店がとにかく多いんです」と佐藤氏が語るように、宿の近辺には蛤料理の『日の出』に松坂牛の鉄板焼き、しゃぶしゃぶの『柿安 料亭本店』、明治10年創業のうどん店『歌行燈』が。こだわりのご夫婦が営まれている『朔』は1日6名限定でランチのみ営業の日本料理店で、店で出す器は全て奥様が手掛けていらっしゃいます。名古屋方面へクルマで30分もいけば、ミシュラン一つ星のフレンチ『壺中天』や、デザートをコース仕立てにしていただける一軒家レストラン『Le Dessert』といった名店も。旅先で美味を堪能したい向きは、希望を伝えつつ、行先を相談してみるのもよいでしょう。

長閑な景色、昔ながらの設えが旅の疲れを癒してくれる2階のダイニングルーム。語らいや食事の場として利用することができる。

宿の近所にある船溜まり。その昔、東海道を船で渡った旅人を思いながら、近場を散策するのも楽しい。

マルヨホテル街の魅力ひとつ一つにスポットが当たることによって、街は底上げされてゆく。

旅先で目覚めた朝は、本当においしいシンプルな食事で胃を満たしたいもの。『MARUYO HOTEL Semba』では、全てにおいてこだわった朝食を提供しています。搾りたてのオレンジジュースは、近隣にある大正時代創業の青果店からとったものを使用。そのお店は創業時バナナ屋だったそうで、当時のバナナがどれほど高級品だったかを考えると、桑名という街の豊かさが感じられます。また、豆乳ヨーグルトにかける蜂蜜は、転地養蜂を営む4代目が採取した桑名にある天然記念物のモチの木の単花蜂蜜。さらりとした優しい味わいです。

「パンは焼きたてのクロワッサンとパン・オ・ショコラをお出ししています。これも宿を始めることでお付き合いのできた街のパン屋さんに“チョコレートはもう少し甘さを控えてください”など、細かいお願いをして今のカタチになりました。先方からも、“やりがいがあります”とおっしゃっていただいて、グラノーラもこちらにお願いしています。グラノーラに使う米油はそもそも桑名が発祥で、400年ぐらいの歴史がある油屋さんのものを使っています。こだわり始めたら、地元のよいものに目がいくようになりました。そこから新たな出会いやプロジェクトが生まれ、自分も楽しみながらこの仕事をやらせてもらっていますし、お客様にも桑名の凝縮された魅力や歴史を感じ取っていただけるはずです。いまは気軽に海外に行けない時期。そんな時だからこそ、水平方向ではなく垂直方向へ、その地域の時間を遡っていくような旅を楽しんでいただけたらと思います」と佐藤氏。

また、「ミニバーに置く水ひとつやタオル1枚にも最良を追求し、新たなプロジェクトが幾つも進行中」と言葉を続けます。

街が持つあらゆる場所や店にスポットを当て、その魅力を我々に伝えてくれる『MARUYO HOTEL Semba』は、桑名という街にとって灯台のような存在なのかもしれません。

全て桑名産か桑名の名店で仕入れた朝食。搾りたてのオレンジジュース、曳きたてコーヒー、焼きたてのクロワッサン、豆乳ヨーグルトとグラノーラにはもちの木のはちみつをかけて。

数ある海苔の品種のなかでも希少なアサクサノリを長い月日をかけて復活させ、90%以上使用した「幻の海苔」は風味抜群。パッケージの題字は陶芸家の内田鋼一氏。桑名発祥の米油を使ったオリジナルグラノーラ、天然記念物のモチノキの蜂蜜も合わせて旅のお土産に。

住所:三重県桑名市船馬町23 MAP
料金:1泊朝食付き33,000円〜 (1室2名の一人あたりの税抜料金。1室2〜4名)
アクセス:名古屋駅より近鉄特急で16分、桑名駅からタクシーにて5分。名古屋駅からタクシーにて30分。
撮影:志摩大介(adhoc)
https://www.maruyohotel.com/
 

Text:MAO YAMAWAKI

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ビジョンがなければ地域創生はできない。前橋から日本を元気にしたい。[白井屋ホテル/群馬県前橋市]

「『白井屋ホテル』は、想いの塊。地元をはじめ、国内外のみんながこの場所のために協力してくれました。感謝しかありません」と田中 仁氏。

白井屋ホテルなくしてはいけない風景があった。誰かが守らないといけないと思った。

創業は江戸時代。群馬・前橋にある老舗旅館『白井屋』は、2008年に300年以上続いた歴史に幕を閉じました。以降、廃業していましたが、2020年12月に『白井屋ホテル』として再生。

その救世主は、アイウエアブランドブランド『JINS』の創業者、田中 仁氏です。

田中氏は前橋出身であり、地域創生に取り組むため、2013年より自ら代表理事を務める『一般社団法人 田中仁財団』を設立。本プロジェクトは、その活動の一環です。

「財団設立の目的は、地元・前橋の活性化です。『群馬イノベーションアワード』と『群馬イノベーションスクール』を立ち上げ、文化・芸術の振興と起業支援などを行ってきました。そんな時、『白井屋』が東京のマンション業者に売りに出されてしまうかもしれないという話を伺いました。街の中心地にそれができてしまったら、風景が失われるだけでなく、前橋の街が廃れてしまうのではと危惧しました」と田中氏は話します。

何とかしなければいけない。

一般社団法人 前橋まちなかエージェンシー』の代表理事・橋本 薫氏や『アーツ前橋』の館長・住友文彦氏もまた、田中氏と同じ思いを抱いていた人物です。

「2013年に開館した『アーツ前橋』のシンポジウムに登壇させていただいたのですが、そこで橋本さんとお会いしました。館長の住友さん含め、ほか数人にも今回の件を相談されました。“田中さん、何とかしてもらえませんか……”と。それならば!と自分も意を固め、『白井屋』を残すための活動を始め、元オーナーより譲っていただきました」。

とはいえ、田中氏は、ホテル業は素人。専門業者や大手ゼネコンに委託を打診するも「ほとんどの方々にお断りされてしまいました」と言います。なぜか?

「田中さんの“ビジョン”では難しい。皆にそう言われました。前橋でホテルを運営するのであれば、低単価・高回転のビジネスホテル以外は無理というのが理由でした。しかし、そこに“ビジョン”はないと思ったのです。自分でやるしかない。そう思いました」。

ここから全てが始まります。

【関連記事】群馬・前橋から世界へ。創業300年の老舗旅館『白井屋』が新たにめぶく。[白井屋ホテル/群馬県前橋市]

「僕は、前橋の“点”だけでなく、“面”を活性化させたいと思っています」と田中氏。『白井屋ホテル』周辺には様々な点がめぶき、面になりはじめている。街の芸術・文化活動の支援・振興施設として2013年に出来た芸術文化施設「アーツ前橋」もそのひとつ。館長・住友文彦氏とも親交が深い。Photograph:前橋観光コンベンション協会

「何かを創造する時、街との共存は大前提」と田中氏。前橋には「水と緑と詩のまち」という、まちづくりのキャッチフレーズが存在する。『白井屋ホテル』が位置するエリアのすぐ隣にも利根川が流れるなど、豊かな水源によって育まれたものは多い。街中にも川は点在し、特に「広瀬川」は住民から愛されている。

「広瀬川」を歩き進めると萩原朔太郎の記念館などもあり、「水」「緑」「詩」のすべてが広瀬川を歩けば体感できる。そして、記念館をぬけて、間も無くすると目に見えてくるのが「太陽の鐘」。「世界的な芸術家・岡本太郎さんによる作品です。元は静岡県内のレジャー施設に設置されていましたが、同施設閉園後、姿を消した幻の作品と言われていました。2018年に官民連携事業により、市民の新たな活動のシンボルとして、市の中心部を流れる広瀬川河畔に移設し、新たなシンボルとして親しまれています」と田中氏。Photograph:MMA+SHINYA KIGURE

白井屋ホテル前橋はめぶく。『白井屋ホテル』もめぶく。そう信じている。

めぶく。

この言葉は、行政と民間によって生まれた前橋ビジョンです。

「前橋ビジョンは、民間の視点から前橋市の特徴を調査・分析し、本市の将来像を見据え、“前橋市はどのようなまちを目指すのか?”を示す街作りに関するビジョンを共通認識できるよう言語化したものです」。

このビジョン策定にあたり、前橋市は『一般財団法人 田中仁財団』からの提案を受け入れ、都市魅力アップ共創(民間協働)推進事業として連携を諮ります。 策定に向けた具体的な作業は、前橋に偏見のない外部の視点で分析してもらうため、同財団が『ポルシェ』や『アディダス』などのブランド戦略を手掛けるドイツのコンサルティング会社『KMS TEAM』に依頼。2016年2月には「Where good things grow(良いものが育つまち)」という分析が成されました。

この英文を同じく前橋出身の糸井重里氏が新しい解釈に基付き、日本語で表現したものが「めぶく。」です。

「『白井屋ホテル』は、ビジョンを第一優先に考えたホテルです。そこには“めぶく”があるのか? ないのか? “めぶく”ためには、自分は何をしたらよいのか? そんなことから創造された場所です」。

とはいえ、最初から足並みが揃っていたわけではありません。大きなことから小さなことまで摩擦と反発は日常茶飯事。理解してもらえないことも多々ありました。市長と築いた関係も任期が変わってしまえばゼロからのやりなおしもしばしば。一貫性を保つことすら困難をきたします。

「それでもめげずにやってきました」。

田中氏は、本件以前より、商店街の活性化にも注力しています。ポートランドからパスタ屋を展開させるほか、地元住民が始める店舗の支援など、徐々に輪を広げ、地域との関係性、信頼を築いてきました。

「信頼を得るには時間がかかります。そこは丁寧にじっくりと積み重ねていくしかありません。『白井屋ホテル』完成後、まず最初に『白井屋』の元オーナーさんにいらしていただきました。この場所を残したことや屋号をそのまま採用したことをとても喜んでくれて。それが何より嬉しかったです」。

再生による創生。歴史を分断せず、引き継ぐために“めぶく”場所。
それが『白井屋ホテル』なのです。

創業当時の『白井屋』。「街のシンボルでもあった『白井屋』の歴史を途絶えさせてはいけないと思いました」と田中氏。

「多様な人やモノ、活動を受け入れ、巻き込み、巻き込まれながら、前橋の街とともに『白井屋』がこれからも変化し、成長していくことを願っている」と『白井屋ホテル』の再生を手がけた建築家・藤本壮介氏。Photograph:SHINYA KIGURE

白井屋ホテル藤本壮介からジャスパー・モリソン、群馬の芸術家まで。連鎖した想いの集結。

『白井屋ホテル』の再生は、建築家の藤本壮介氏が担います。その作りはもちろん、注目すべきは、4つの客室と様々に配されたアート、レストランのクリエイティビティです。

「客室には、元々あった建物をリノベーションしたヘリテージタワーと隣に新設したグリーンタワーから成り、全25室あります。中でも是非体験していただきたいのは、ジャスパー・モリソン、ミケーレ・デ・ルッキ、レアンドロ・エルリッヒ、藤本壮介が手がけたスペシャル・ルームです。それぞれに個性があり、ほかにはないホテルライフをお過ごしいただけると思います」。

錚々たる面々の空間は、まさに泊まるアート。

「実は、彼らはみんな僕の知り合いなのですが、ほぼボランティアで参画してくれています。ジャスパーに限っては、“自分が客室を手がけるのはこれが最初で最後”と言っていました。本当に感謝しかありません。また、25室中8室には群馬出身のアーティスト牛嶋直子、小野田賢三、木暮伸也、鬼頭健吾、竹村 京、白川昌生、村田峰紀、八木隆行の作品が飾られています。世界の一流と肩を並べる環境は良い共鳴を生むと思っています。彼らはこれがきっかけで東京『フィリップス東京』でも個展を開きました(すでに終了)。そうやって派生していくのも良いモデルケースになったと思います」。

国内外の一流は、田中氏の情熱に引き寄せられ、『白井屋ホテル』を起点に広がりも見せています。

そのほか、外観をローレンス・ウィナー氏のメッセージが彩り、パブリックスペースには、杉本博司氏、ライアン・ガンダー氏、宮島達男氏などの作品がそこかしこに点在。美術館級のオリジナル作品が贅沢なまでに配されています。

内包される『the RESTAURANT』は、『ミシュラン東京ガイド』二つ星を獲得する『フロリレージュ』の川手寛康氏が監修。

「『フロリレージュ』は、自分が大好きなレストラン。是非ご一緒したく、川手さんにご相談したところ、快く引き受けてくださり、『the RESTAURANT』の片山シェフの研修もさせていただき、川手さんの人脈でほかのレストランでも学ばせていただく環境も整えてくれました。ゆかりのない前橋にも足を運んでくださり、生産者の元へも巡り、どうすれば前橋の食をより良く表現できるのかを熟考してくださいました」。

片山シェフは、『群馬イノベーションスクール』出身の人物でもあります。川手シェフとともに地域食材を独自の解釈で再構築させ、上州キュイジーヌとして提供します。

「世界の一流を前橋で体験できるということは、この街にとって価値あることだと思っています。地域には雇用を生み、住民にはコミュニティを生みます。“前橋のリビング”だと思って、老若男女いつでも遊びに来ていただきたいです。僕は、小さなころから建築が好きなのですが、それは実家が100年以上続いた建物に住んでいたからだと思っています。小さなころから本物に触れることは、未来の感性を養うことにつながるのではないでしょうか。そういう意味では、小さなお子さま連れも是非。また、今回はホテルを作りましたが、自分が目指すべきは“点”が“めぶく”ことによって“面”が“めぶく”こと。前橋は人口34万人の中核都市です。この中核都市は、日本に85ヶ所あると言われています。きっと同じような悩みをかかえている街も多いのではないでしょうか。前橋がひとつのロールモデルになれれば良いなと思っています」。

前橋の“めぶく”芽、才能、人は、大地に眠っています。それを開花させるための地均しと水やりこそ、田中氏の使命であり、活動の核なのかもしれません。

「古今東西、どの地域を見ても一番大切だと思うことは“学育”ではないでしょうか教育は教えて育むものですが、学育は学んで育むもの。学ぶ場を作りたくて『群馬イノベーションスクール』も立ち上げました。個が養われていけば、地域はもっと良くなると思いますし、きっと強くなるとも思います。前橋から日本を元気にしたい」。

「『白井屋ホテル』の中で自分が一番好きな景色は、ジャスパー・モリソンが手がけた客室から見る景色」と田中氏。Photograph:SHINYA KIGURE

「ヘリテージタワー1階の吹き抜けにある螺旋階段も好きな景色です。支柱なく作れる技術は非常に高度なのです。是非、館内を色々回遊して多角的な景色をお楽しみいただければと思います」と田中氏。

1963年、群馬県前橋市生まれ。アイウエアブランド『JINS(ジンズ)』代表取締役社長。1981年『前橋信用金庫(現・しののめ信用金庫)』に入庫。1986年、服飾雑貨製造卸会社に転職し、1987年、個人にて服飾雑貨製造卸業の『ジンプロダクツ』を創業。1988年、『有限会社ジェイアイエヌ(現・株式会社ジンズ)』を設立。2001年より、アイウエアブランド『JINS』を展開。2006年、ヘラクレス市場(現・JASDAQ市場)に上場、2013年、東京証券取引所 市場第一部に上場。2014年、慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程を修了。故郷・群馬県内での地域活性化活動を目的に田中仁財団を設立し、代表理事に就任。

住所:群馬県前橋市本町2-2-15 MAP
電話:027-231-4618
https://www.shiroiya.com

Photograph:KENTA YOSHIZAWA
Text:YUICHI KURAMOCHI

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日出彦さんのお酒を一年でも市場からなくしてはいけない。そう思った。

切り返しをする『花の香酒造』6代目、神田清隆氏(右)と松本日出彦氏(左)。一緒にお米に触れ、酒造りをすることによって、より絆は強固に。

HIDEHIKO MATSUMOTO心と体が同時に動いた。すぐ熊本から京都に向かった。一緒に酒造りをするために。

「“守破離”は、本当に好きなお酒だった」。

そう感慨深く話すのは、熊本県北の『花の香酒造』6代目、神田清隆氏です。

「2020年12月、SNSで(松本)日出彦さんが『松本酒造』を辞することを知り、衝撃を受けました。同時に涙が止まりませんでした」と言葉を詰まらせます。

『花の香酒造』もまた、1902年創業の老舗酒造。伝統を背負う自身と重なり合う部分があったのかもしれません。

もし逆の立場だったら……。そう考えるも、あまりに想像を絶するため、「第三者の自分ですら全くその事実を受け入れることができませんでした」。

神田氏は、すぐに松本氏に連絡。想いを伝えるために京都へ向かいます。

「日出彦さんが造る日本酒のファンは多い。自分もそのひとり。日出彦さんのお酒を一年でも市場からなくしてはいけない。そう思いました。酒造りを辞めてはいけない。いや、辞めないでほしい。だから、一緒に酒造りをしよう」。

驚くべきは、当時のふたりの関係。「互いの存在は知るも、面識がある程度でした」と神田氏。それでも「遠慮している場合ではない。心と体が同時に動いた」と言葉を続けます。

「神田さんからご連絡をいただいた時にはびっくりしました。本当に皆さんに支えられて今があります。感謝しかありません」と松本氏。

同じ酒造りをする職人同士は、あっという間にその距離を縮め、2021年3月には同じ現場に立っています。

「蔵も免許も失った自分は、進むも地獄退くも地獄。どちらも地獄ならば、進むしかない。その背中を押してくれたのは、昔からお世話になっている方々や仲間、家族の存在でした。もちろん、神田さんもそのひとり」。

地獄の先にはどんな景色が待っているのか。

「それを確かめるために、今できる酒造りを精一杯やらせていただきます」。

午前10時。もくもくとした湯気が酒蔵を包み、お米の香りが充満していきます。

「お米の香りを吸い込んだ時、胸に色々なことが込み上げてきた。涙が出そうになった」。そう話す松本氏は、日々の武者修業を通じて鍛錬を積み重ね、身体を覚醒してきます。

蒸しあがりと同時に神田氏が叫びます。

「日出彦さん、今日の仕込みを始めましょう!」。

蒸しあがった釜の蓋が上がる瞬間、濃い湯気が立ち込め、同時にお米の香りが広がる。

「地域が変わればお米も変わる。例え同じ品種だったとしても同じ味、同じ香りはありません」と松本氏。

種麹ひとつ取っても、それぞれの蔵のスタイルがある。『花の香酒造』が使用するのは、『樋口松之助商店』の吟醸用種麹ヒグチモヤシ。100kgのお米に対して40gを推奨。

 シャッ、シャッ、シャッ、シャッとリズム良く種切りをする神田氏と松本氏。息の合った音は、まるで錫杖のように心地良い響き。

手際良く蒸したお米の熱を下げていく『花の香酒造』のスタッフたち。松本氏も『花の香酒造』の一員として、ひとつ一つの工程に携わる。

生酛場にてお米を冷やす。室温は5℃に設定され、お米も同様の温度まで下げる。

この日は、お米を34℃に設定。蒸し立てのお米に空気を含ませ、温度を下げていく。

HIDEHIKO MATSUMOTO酒造りは酒造りだけにあらず。『花の香酒造』が目指すは、産土の精神。

この日の仕込みは、朝から麹米を蒸し、引き込み、切り返し、種切り、床もみ、盛り上げ。『花の香酒造』では、昔ながらの生酛造りを大切にしています。

野性味溢れる味わいは、酒母の力強さゆえ。自然が成す深い厚み、複雑さ、コクは、その手法の好例でもあります。時間と手間がかかる生酛造りは、続けている酒蔵も少なく、そう言った意味でも『花の香酒造』は貴重な存在です。

しかし、「一番のこだわりは“香り”。飲んだ瞬間、お米が持つ本来の香りを大事にしたい」と神田氏は話します。

そんな酒造りにおいて欠かせない原料、水とお米にも『花の香酒造』らしい哲学があります。

日本酒のテロワールとなる「産土」です。
(ウブ・産、ス・土、ナ・地の統合したもの。生まれた土地、生地、本居/広辞苑より)

「今回の武者修業で大切にしていることは、地域の環境を知ることです。この土地だから、この原料が生まれ、この酒ができる。余所者の自分は、まず学ぶことが始まり。それを理解しなければ、酒造りに参加する資格はないと思っています。技術云々は、その後」と松本氏。

熊本県玉名郡和水町にある『花の香酒造』は、丘陵地に囲まれた盆地と周囲の田園に流れる川沿いにあります。しかし、自然と寄り添うゆえ、避けて通れないのは天災。2016年の熊本地震や2020年の熊本豪雨では、酒蔵前に流れる川壁を大きく抉り、その傷跡は、今も残っています。熊本のシンボル、阿蘇山もまた、美しさの中に脅威を孕んだ自然の産物。

「熊本と言えば、阿蘇山。約9万年前に噴火した地盤の下には幾十も層が重なり、そこから染み出している岩清水を使って酒造りをしている。それだけで特別だと思います。そして、何より素晴らしいのはお米。これには神田さんの並々ならぬ努力と熱量を感じます」と松本氏。

それは、熊本在来品種「穂増(ほませ)」です。

「以前、お米の勉強をしようと、佐賀県唐津市にある『菜畑遺跡』に伺ったのです。日本最古の稲作発祥地として知られるそこには資料館も併設され、発掘された遺跡からは炭化したお米が発見されたとありました。それは、山形の“亀ノ尾”、静岡の“愛国”、滋賀の“旭”、兵庫の“神力”、岡山の“雄町”、そして熊本の“穂増”の6種。熊本にこんなお米があったのか!? 恥ずかしながら、初めて知りました。しかし、“穂増”だけ子孫が途絶えてしまい、詳細が不明でした。その後、調べを続けると、江戸時代に天下一のお米と言われた名米だったことがわかったのです。これは熊本の宝だと思い、 “穂増”をもう一度育て、それで酒造りをする決心をしたのです」と神田氏。

そこから「穂増」の復刻劇が始まります。まず、熊本の農家複数によってプロジェクトは立ち上がり、あらゆる手を尽くして種子を手に入れるも一筋縄にはいきませんでした。神田氏は3年目から加わり、そのための田んぼを作るべく山林も購入。環境ごと作ってしまったのです。前出の松本氏が言う「神田さんの並々ならぬ努力と熱量」とは、このことを指しています。もちろん、「穂増」で酒造りをしているのは、『花の香酒造』のみ。

2017年から苗を植え、収穫し、「穂増」のお米で酒造りを始めるも「まだ特徴を掴みきれていない」と神田氏。2020年は作付けから携わり、酒蔵の前段階より酒造りに勤しみます。2014年より杜氏に就任した神田氏の経歴から考えれば、スピード感に長けた脅威の行動力。

この土地唯一の造り酒屋『花の香酒造』は、神田角次、茂作親子が妙見神社所有の神田を譲り受けてお米を作り、神社から湧き出る岩清水で酒造りを始めたのが原点です。『神田酒造』として誕生した蔵が『花の香酒造』へと名前を変えたのは1992年のことでした。歴史を振り返っても、大きな決断をした年だと思います。そして、酒造りから100年の節目を迎えた2014年には、日本の伝統酒としてだけでなく、世界へ羽ばたく“Sake”を目指すべく、私たちにとって新しい酒造りの幕が開けました。何かを成すには常に判断と決断が迫られます。いつの時代にも挑戦、イノベーションが『花の香酒造』にはあり、その精神も自分は受け継がなくてはいけないと思っています」と神田氏。

「今、まさに挑戦とイノベーションの渦中にいるので、より勉強になります。以前、日本酒業界は、高度成長期のように、みんな同じようなものを作って、同じように売っている時代もありました。当時の流れでは自然だったのかもしれませんが、今は違う。いかに地に根差しているかはとても重要」と松本氏。

「実は、新型コロナウイルスの影響によって2021年に酒造りをしない蔵が結構あります。理由のひとつは、在庫過多です。緊急事態宣言や自粛によってレストランをはじめとした飲食店の休業、時短は私たちにとって死活問題。決して、『花の香酒造』も余裕があるわけではありませんが、酒造りをしなければ農家さんの生活を守れない。田んぼを維持できない。色々な問題が発生してしまいます。だから、酒造りを続けています」と神田氏。

酒造りは、雇用を始め、自然環境や生態系を循環する一部なのです。また、迎えてしまった難局においても前を向き、「田んぼの不耕起栽培の下地作りやスタッフとのコミュニケーションを強固にする時間に費やした」と言葉を続けます。

「次に必要なことは、その熱量と取り組みをどう可視化と言語化をして社会と共有していくか。日本酒を飲んでみたいけど、どんな味がわからない方々は、是非、背景を飲んでほしい」と松本氏。

その背景を伝えるためにはどうしたらよいのか。それをシェアしていくことが、これからの日本酒業界には必要なのかもしれません。

それ以外にも、蔵の構造の質疑、道具、機械設備、米の検査基準の現状まで、会話が尽きません。

「こうやって議論をしたり、情報交換をできるのは、現場にいるから。一緒に酒造りをしているから」とふたり。

「それにしても、端正込めて育てたお米で酒造りをしていると、お米の表情も喜んでいるように見える。そう思いますよね、日出彦さん!」。

視線の先には、笑顔で頷く汗だくの松本氏の姿がありました。

 酒造りだけでなく、蔵の中をくまなく回遊する松本氏。「日出彦さんには、酒蔵の改装の相談にも乗ってもらおうと思っています」と神田氏。

「酒造りの流れを効率良く作業するためには、機械や道具の配置も重要」と松本氏。神田氏にヒアリングしながら、『花の香酒造』にとっての最適をイメージする。

 「お米の等級検査の機械って…」、「あれはお米が表か裏かによって…」、「なるほど、じゃあ数回通してチェックして…」。立ち話の時間も常に酒造りの話。「お米の格付けをする制度の話をしていました。非常にマニアックな内容ですね(笑)」と松本氏。「日出彦さんは、知識が豊富」と神田氏。

 お米の肌触り、温度、香り。「手の感覚も徐々に戻ってきた」と松本氏。

切り返し、種切り、そして、盛り上げを行う松本氏に「日出彦さん、お米が喜んでるでしょ!」と神田氏。目で微笑み返す松本氏を見た神田氏は、「日出彦さんは、やっぱり現場が似合う」とこっそり呟く。

熊本地震で崩れ、復旧するも2020年の豪雨で再び崩壊した川壁の跡。豊かな自然環境に身を置くゆえ、その恩恵を受けられるも、天災とも運命共同体。

手前の川沿いに連なる建物が『花の香酒造』。その右手にある中央の円形の山が新規に購入した土地。田んぼを作り、「穂増」を育てる。

HIDEHIKO MATSUMOTO目の前の問題に背を向けてはいけない。日本の宝が失われる前に何とかしなければいけない。

「酒造り以外も議論させていただいているのですが、やはり田んぼの環境問題、維持問題、後継者問題、資金問題は深刻。それは、前回お世話になった『冨田酒造』でも感じたことです。幸い両蔵は、ちゃんと地域と繋がり、関係性を構築できていますが、全蔵がそうゆうわけではありません。廃業してしまったり、枯れ果ててしまったりと、深刻化されています。しかし、そんなことを報道やニュースで取り上げるメディアは中々ありません。きっと自分ごと化している人が少ないのかもしれません」と松本氏。

しかし、「もし日本から田んぼがなくなったら? もし日本からお米がなくなったら?」と考えてみれば、全国民で向き合うべき問題だという意識が芽生えるのではないでしょうか。

「世界的に見ても、これほどまでに良いお米ができる国は稀有だと思います。しかも、日本は大陸から少し離れた島国。外国人にとっては、まるで秘境のように映っているのではないでしょうか。そんな秘境の中にある地域。そして、地域ごとに生まれる日本の国酒・日本酒。地域性があればあるほど、きっと魅力的に感じるのではないでしょうか。そんなふうに物事を俯瞰して客観視できるようになったことも外に出たから。この感覚を大事にし、業界と共有し、社会と共有し、日本酒を取り巻く全てに貢献したい」と松本氏。

「酒造りに費やしてきた時間は、自分とは比べものにならないくらい向き合ってきた人。それが日出彦さん。酒造りも含め、一緒に過ごす時間は非常に勉強になっています」と神田氏。

「これまでは、自分の考えをもとに酒造りに没頭してきましたが、今は誰かのために酒造りをすることに喜びを感じています。それは、自分のこと以上に力が漲る。人の生き様を享受できるのは本当にありがたい。日本酒は生き様ですから。『花の香酒造』に対しても、これから一生をかけて恩返しをしていきたいと思っています」と松本氏。

皮肉なことに、「一生」という言葉の重みは、新型コロナウイルスによって増したかもしれません。

「今なお猛威を振るう新型コロナウイルスによって、医療従事者の方々は本当に大変な立場で国民を救ってくださっていると思います。これは日本だけの問題ではなく、世界の問題。未だロックダウンを繰り返す国や地域も少なくありません。ではなぜ、人類は、このウイルスを恐れるのか。それは、人を死に追いやる感染症だからです。それによって、人は“生きる”ことと“死ぬこと”を現実として受け入れるようになりました。生きていることは、当たり前ではない。今、生かされていることに感謝し、今、酒造りをさせていただけることに感謝し、これからの道を探していきたいと思います」。

前述、地獄はもう見た。あとは這い上がるだけ。

今、松本氏が歩んでいる道は、進化ではなく、深化。

酒職人として、人として、深く、より深く、必死に生きる。

熊本県玉名郡和水町の蔵元『花の香酒造』。明治時代に神田角次と神田茂作の親子で始めた酒造りは、内に梅の香りが漂うことから「花の香」という酒名が付いた。1992年には『神田酒造』から『花の香酒造』に社名も変更。

『花の香酒造』の中庭と蔵の建つ川沿いには、美しい梅の花が咲く。世界が新型コロナウイルスに翻弄される中、季節は変わらず訪れ、花は咲く。改めて、自然の偉大さを感じる。

「自分はもちろん、『花の香酒造』全体で日出彦さんをバックアップするつもりです」と神田氏。「神田さんをはじめ、『花の香酒造』の皆さんには感謝しかありません。自分はここでどんな貢献がでいるのか、精一杯考えてご一緒させていただきます」と松本氏。

「日出彦さん、初めて仕込んだ木桶のしぼりです。ちょっと試飲してみてください」と神田氏。「うん、うん……。もろみ23、アルコール15、酸1.46、アミノ酸0.56……」。味と数値を確認する松本氏。「なるほど。柔らかい岩清水の特徴とミネラルの香りも出ていていいですね」。

住所:熊本県玉名郡和水町西吉地2226-2 MAP
TEL:0968-34-2055
https://www.hananoka.co.jp

1982年生まれ、京都市出身。高校時代はラグビー全国制覇を果たす。4年制大学卒業後、『東京農業大学短期大学』醸造学科へ進学。卒業後、名古屋市の『萬乗醸造』にて修業。以降、家業に戻り、寛政3年(1791年)に創業した老舗酒造『松本酒造』にて酒造りに携わる。2009年、28歳の若さで杜氏に抜擢。以来、従来の酒造りを大きく変え、「澤屋まつもと守破離」などの日本酒を世に繰り出し、幅広い層に人気を高める。2020年12月31日、退任。第2の酒職人としての人生を歩む。

Photographs&Movie Direction:JIRO OHTANI
Text&Movie Produce:YUICHI KURAMOCHI

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霞ヶ浦と北浦の豊かな水が育む、爽やかな初春の香り。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・セリ/茨城県行方市]

なめがた ベジタブルキングダムOVERVIEW

春の七草のひとつとして知られるセリ。

川に生える野ゼリは初春の風物詩ですが、ここ行方市での出荷時期は10月中旬から4月下旬まで。12月から2月のセリは葉が柔らかく爽やかな香り、以降は食感も香りも強くインパクトのある味わい、と季節による違いが楽しめます。

そんな長期にわたる収穫を可能にしている要因が、水の豊かさです。

霞ヶ浦と北浦に挟まれ、豊富な地下水を湛える行方市で主に水稲との二毛作栽培で育てられるセリは全国有数の出荷量。

さらに首都圏から約70kmというアクセスの良さ、収穫後に急速に冷やして鮮度を保つ予冷の徹底などで、食卓に新鮮なままのセリが届くのです。

鼻に抜ける爽やかな香りで、春の訪れを告げるセリ。

その栽培の様子を探るため、行方市を訪れます。

【関連記事】NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM/温暖な気候、肥沃な大地、豊富な水。年間60種以上の野菜が育つ、日本屈指の野菜王国


Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

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霞ヶ浦と北浦の豊かな水が育む、爽やかな初春の香り。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・セリ/茨城県行方市]

なめがた ベジタブルキングダムOVERVIEW

春の七草のひとつとして知られるセリ。

川に生える野ゼリは初春の風物詩ですが、ここ行方市での出荷時期は10月中旬から4月下旬まで。12月から2月のセリは葉が柔らかく爽やかな香り、以降は食感も香りも強くインパクトのある味わい、と季節による違いが楽しめます。

そんな長期にわたる収穫を可能にしている要因が、水の豊かさです。

霞ヶ浦と北浦に挟まれ、豊富な地下水を湛える行方市で主に水稲との二毛作栽培で育てられるセリは全国有数の出荷量。

さらに首都圏から約70kmというアクセスの良さ、収穫後に急速に冷やして鮮度を保つ予冷の徹底などで、食卓に新鮮なままのセリが届くのです。

鼻に抜ける爽やかな香りで、春の訪れを告げるセリ。

その栽培の様子を探るため、行方市を訪れます。

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Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

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300種に及ぶ品種は、先人たちの努力の結晶。小さなイチゴに潜む、たくさんの物語。[NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM・イチゴ/茨城県行方市]

なめがた ベジタブルキングダムOVERVIEW

赤く色づく小さなイチゴ。

その甘酸っぱいおいしさから一般的にはフルーツに分類されますが、樹木ではなく茎に実がなる草本性であることから、性質上は野菜とされることも。これほど老若男女誰しもに愛される野菜というのも珍しいかもしれません。

そしてもうひとつイチゴならではの特徴が、その品種の多さにあります。

とちおとめ、女峰、とよのか、紅ほっぺ、あまおう、章姫……。少し考えるだけでも10や20の品種がすぐに思い浮かびます。

一説には日本国内にあるイチゴの品種は300種以上といわれています。

そしてこの種類こそ、イチゴ栽培の歴史。「もっと甘いイチゴを」「もっとおいしいイチゴを」という先人たちの努力の結果にほかなりません。

イチゴ栽培面積全国7位の茨城県にも、そんなストーリーが潜んでいました。小さなイチゴに潜む、大きな夢。今回はそんな物語を探しに、行方市『森作いちご園』に向かいます。

【関連記事】NAMEGATA VEGETABLE KINGDOM/温暖な気候、肥沃な大地、豊富な水。年間60種以上の野菜が育つ、日本屈指の野菜王国


Photographs:TSUTOMU HARA
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by なめがたブランド戦略会議(茨城県行方市))

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味の決め手は内包する水分の透明度。フードキュレーターと『茶禅華』川田智也シェフがめぐる浜松の食材。[静岡県浜松市]

山間にある古刹・大福寺にて。この寺に伝わる納豆が、川田氏の心を捉えた。

ファインド アウト 静岡山間の古寺に受け継がれる門外不出の納豆。

食材のプロフェッショナルであるフードキュレーター・吉岡隆幸と宮内隼人が静岡県の食材を徹底リサーチし、それをトップシェフにプレゼンする。そんな二段構えの構成でお届けしている今回の企画『FIND OUT SHIZUOKA』。

プレゼンする相手は、中華料理で国内唯一のミシュラン三つ星を獲得する『茶禅華』の川田智也シェフ。そしてフードキュレーターが対象エリアとして選んだのは、中華に適した食材が数々眠る浜松エリアです。

視察の1日目では静岡の歴史を起点に、この土地ならではの食材をプレゼン。2日目となるこの日は、果たしてどんな食材との出合いが待っているのでしょうか。

この日、一行がまず向かったのは三ヶ日町の山間にある大福寺。創建平安前期、鎌倉時代に建立された山門が出迎える古刹です。宝物館に収蔵される貴重な古文書や室町時代に作られた庭園も見どころですが、この日の目的は、この寺に代々伝わる大福寺納豆。およそ400年前から門外不出の製法で作られる名物です。

「いまから400〜500年ほど前、中国(明)の高僧が禅寺に持ち込み、植物性のタンパク質しか摂れない寺での栄養源として広がったのが寺納豆の起源です」

そんなご住職の話に耳を傾ける一行。

かつては徳川将軍家にも献上されていたが、あるとき納期が遅れ、家康が「浜名の納豆はまだ来ぬか」と催促したことから“浜名納豆”の呼び名が定着。それが縮まり“浜納豆”となり、戦後は大福寺の名を冠し“大福寺納豆”の名を正式に採用した。そんな名前の変遷からも、悠久の歴史を感じます。

フードキュレーターのふたりは、2015年に静岡県日本平で開催された『DINING OUT NIHONDAIRA』でこの大福寺納豆と出合い、ぜひ川田氏にご紹介したい、と考えていたといいます。一方の川田氏も、その名は聞き及んでいました。

「中華で豆鼓(トウチ)というと京都の大徳寺納豆やこの大福寺納豆のようなもの、とまず教わります。浜納豆をみるのは初めてですが、まさに豆鼓に近いですね」

その後、ご住職の好意で大福寺納豆を試食させて頂く一行。

川田氏は「やさしい、柔らかい味わい。口に入れた瞬間はやさしいけれど、そこから広がり、奥行きが出て立体的になります。とてもきれいなおいしさですね」と、噛みしめるように味わいます。そしてしみじみと「中国で生まれたものが海を越えて伝わって、大切に守り続けられている。感慨深いものがありますね」とつぶやきました。

ご住職が画像付きで解説する納豆の製法を、身を乗り出して見る3名。

大福寺納豆。粘りはなく、やさしい味の後に、複雑な広がりがある。

製法は門外不出だが、できる限り詳細に大福寺納豆の作り方を教えてくれたご住職。

開創は875年、1207年に現在地に移ったと伝わる由緒正しき寺。

ファインド アウト 静岡

天然か養殖かではなく、調理法との相性で食材を考える。

次の目的地に向かう前に、昼食の時間。浜松といえば、やはりウナギが外せません。浜名湖は100年以上前から続く日本のウナギ養殖発祥の地。そのため人口あたりのウナギ料理屋の軒数は静岡県が日本トップ。浜松をはじめとした近隣エリアでも、無数の専門店がしのぎを削っています。

一行が訪れたのは、そのなかでもナンバーワンとの呼び声高い『あつみ』。明治40年の創業以来、浜名湖産のウナギにこだわる名店です。
川田氏が『茶禅華』で出すウナギは、身は焼き、皮は蒸してから揚げる中国式。別物なのかと思いきや「皮目の香ばしさ、身の柔らかさなど勉強になることばかり」とか。そして「やっぱりおいしいですね」と感嘆のような感想を漏らしていました。

昼食を済ませた一行の続いての目的地は、浜名湖畔でスッポンの養殖を営む『服部中村養鼈場』。ここはフードキュレーターのふたりが、日頃からスッポン料理を手掛ける川田氏にぜひ紹介したかったという施設。

そして実は川田氏自身も、かねてから訪れたかったという場所でもあります。

「以前、和食の料理人さんから、“焼きスッポンをやるなら服部中村養鼈場”と伺ったことがあります。煮る、揚げるという調理には身の締まった天然物が最適ですが、焼くなら適度な脂がある方が良いのです」と川田氏。服部征二社長の案内で養殖池を見学しながら、早くも料理のイメージを考えているようです。

服部社長によれば、こちらの創業は1879年(明治12年)。除草剤や抗生物質を使用せず、餌は魚のミンチ。自然に近い状態で3〜4年かけてじっくり育てることで、旨味濃いスッポンになるのだといいます。

「日照時間が長く甲羅干しも含めて天然の環境に近づけやすいことが、浜松がスッポン養殖に適している理由です。ストレスなく育つことで、天然と比べて身が柔らかく、臭みなどが一切ないスッポンになります」と服部社長。

冬眠をして脂を蓄える10月から3月が旬、4月以降は動き回るため身が締まってくる、との話も興味深く聞きながら川田氏は「ぜひここのスッポンで焼きスッポンをやってみたい」とすでに決意している様子でした。

浜名湖産のウナギを備長炭で焼き上げる『あつみ』のウナギ。平日でも行列必至の人気店。

中華料理と日本料理。異なるジャンルであろうと、常に何かを学び取ろうとする姿勢の川田氏。

訪問時はスッポンは冬眠中だったが、養殖場の環境などをつぶさに見学。

服部社長がこだわりを持って育てるスッポンは、京都の名門料亭をはじめ、各地にファンが多い。

脂が乗り、身が柔らかい旬のスッポン。川田氏はすでに料理のアイデアまで考案していた。

ファインド アウト 静岡噛むごとに旨味があふれ出す、フランス原産の上質な鶏。

最後の目的地は『フォレストファーム恵里』。ここは全国でも珍しいフランス原産の鶏・プレノワールを飼育する農場。代表の中安政敏氏が丹精込めて鶏を育てています。

実はフードキュレーターのふたりは、先の事前視察で訪れた浜松駅前商店街のマーケットイベント『浜松サザンクロスほしの市』で、プレノワールの焼き鳥屋台を出店する中安氏と出会い、再訪を約束していました。

一行を快く迎える中安氏。さっそく鶏舎を案内しながら、自慢のプレノワールの解説を聞かせてくれます。

フランス農水省が優良品質の品目を認定する「ラベルルージュ」に選ばれるプレノワール。独特の歯ごたえがあり、コクと旨味のある肉質は高級レストランでも重宝される名品ですが、飼育に手間がかかるため全国でも生産者は数えるほど。「おそらく静岡県ではうちだけです」という希少な鶏です。

開け放たれた鶏舎では200羽ほどのプレノワールが、のびのびと育っていました。さらに中安氏は、自家配合の飼料など、独自の工夫でさらにプーレノワールの魅力を引き出しています。「飼料は湯葉カスや地元ブリュワリーからもらうビールの麦汁、米、大麦、小麦、糠。そこに玄米の乳酸菌と酵母菌を加えます。化学飼料はもちろん、動物性タンパク質も一切入れないことで、臭みを抑えています」と中安氏。さらにその場で炭を起こし、焼き鳥にして試食をさせてくれました。

「独特の食感ですね。決して固いわけではないのですが、旨味が出てくるのでずっと噛みたくなる味です」と川田氏。さまざまな鶏を食べて比べてきた川田氏にしても、さらなる発見があったようです。

「本当に良い経験をさせてもらいました」

東京への帰路、川田氏はそう話し始めます。「東京にいても多くの食材は手に入りますが、やはり現地に赴かないとわからないことがある」といいます。そして今回、浜松で感じ取ったことを次のように語ってくれました。

「中国料理は火の料理、日本料理は水の料理です。そしてその両者を現在という時間軸を考えた上で取り入れる“和魂漢才”が私の料理のテーマ。静岡の食材は、野菜も魚も肉もお茶も、本当においしかった。そのおいしさを紐解いていくと、中にある水分のクリアさに行き着きます。水分がクリアだから味に透明感があり、立体感があります」

コロナ禍で、ライフワークとしていた中国訪問ができない分、日本に目が向いているという昨今。改めて“水の料理”たる食材に触れ、その素晴らしさを再確認しているのだという川田氏。
「静岡の食材、それも植物性だけのXO醤を作ってみたらおもしろいかもしれませんね。根菜やネギ、豆、それにお茶の油。静岡の豊かさをうまく表現できそうです」

行く先々で、食材が発する小さな声に耳を澄ますように、真摯に食材と向き合っていた川田氏。その心の中に、浜松の素晴らしい食材たちは確かな足跡を残したようです。

開放的な環境でストレスなく育てることもプレノワールのおいしさの一因。

竹炭作りで全国に弟子も持つ中安氏。プレノワールの飼育でも、独自のおいしさを追求する。

シンプルな塩味の焼き鳥で、肉のおいしさが際立った。

住所:静岡県浜松市北区三ヶ日町福長220-3 MAP
TEL:053-525-0278
https://hamamatsu-daisuki.net/

住所:静岡県浜松市中区千歳町70 MAP
TEL:053-455-1460
定休日:火曜、水曜
http://unagi-atsumi.com/

1982年埼玉県生まれ。19歳のときに障害を持っている子どもたちと農業をする団体を立ち上げたことをキッカケに、農業・地域・食の世界へ。26歳のときに大手旅行会社を辞め、千葉県九十九里に移住し、地域支援や農業体験の受入を事業化するNPO団体のスタッフとして活動。東日本大震災をキッカケに、もっと地域の素晴らしさを伝えたいという想いで2012年に「合同会社SOZO(ソウゾウ)」を設立。2015年に静岡県日本平で開催されたプレミアム野外レストラン「DINING OUT NIHONDAIRA」から、「DINNG OUT」食材調達チームに参画。2019年に全国各地のこだわり食材を仕入れ、レストランやスーパーをメインに卸す会社「株式会社eff(エフ)」を立ち上げ、地域の商品開発プロデュースから実際の販売まで幅広い食の領域で活動している。

1977年東京都生まれ。18歳から料理の道に入り「ラ・ビュット・ボワゼ」「ダズル」を経て2010年、大阪の三ツ星レストラン「HAJIME」に入る。5年半の経験を積み2013年に徳島県祖谷で開催されたプレミアムな野外レストラン「DINING OUT IYA」に参加。生鮮食材の物流に関する知識習得のため大阪の特殊青果卸「野木屋」を経て、2016年より現職。現在「DINNG OUT」では、開催地域の食材(生産者)の魅力を言語化し、トップシェフの思考、哲学に合わせて伝える翻訳者として活動。また、ラグジュアリーブランドとコラボレーションした食品開発、ブランディングまで「食」領域のプロデューサーとして活動の幅を広げている。


Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA
協力:しずおかコンシェルジュ株式会社

(supported by 静岡県)

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フードキュレーターが『茶禅華』川田智也シェフを誘う浜松食材探求。産地を訪れ、生産者と対面する、という意味。[FIND OUT SHIZUOKA/静岡県浜松市]

食材の表面ではなく、背後に潜む歴史や生産者の思いにまで意識を向けるのが、川田智也シェフの食材の接し方。

ファインド アウト 静岡歴史を紐解き食材の本質を探る、浜松エリアの食材探求。

ONESTORYのフードキュレーター・吉岡隆幸と宮内隼人が静岡県の食材を徹底リサーチし、その魅力をシェフに伝える今回の企画『FIND OUT SHIZUOKA』。

前回の視察で、浜松にフォーカスして食材を徹底的に掘り起こしたふたりが、今回、『茶禅華』の川田智也シェフを迎え、いよいよプレゼンに臨みます。

川田氏が腕を振るった『DINING OUT KUNISAKI』の開催は2018年5月。それから3年近い月日が流れ、ミシュランガイド3つ星獲得、数々のメディアへの登場など、川田氏を取り巻く状況も変わりました。しかし久々にお会いする川田氏は、かつてと変わらぬ穏やかな笑顔。物静かなのに存在感がある、凪いだ湖面のような人柄はまったく同じです。

「浜松は旅行で数回訪れたことがありますが、食材探しという視点では初。非常に楽しみです」と川田氏。事前のイメージは「首都圏に近く、汎用性の高い食材が多い一方で、個性的な、尖った食材も多い印象」といいます。果たして、ふたりのフードキュレーターのプレゼンは、川田氏にどのような爪痕を残すのでしょうか。

しかし、最初にふたりのフードキュレーターが案内したのは、浜松のシンボル・浜松城。もちろん、ただの観光ではありません。

食材の味や香りだけではなく、そこに潜む歴史や物語を紐解き、深く理解するのが、川田氏の食材との接し方。そこで、この地の歴史を肌で感じてもらうことを目的に、まずはここを目的地としたのです。

さらにここは歴史好きな川田氏が「もっとも好きな戦国武将」という徳川家康ゆかりの城。
「家康は中国から伝来したさまざまな物や制度を、日本という土地に合わせて再構築しました。禅の教えや静岡に縁の深いお茶もそうですね。ただ模倣するのではなく、本質を読み解いた上で、場所や時代にあわせて再現する。それは私の料理の目指すところでもあります」
実際、川田氏は資料館となっている城の内部で歴史地図を見ながら、こんな話を聞かせてくれました。

「いまフグを扱っているのですが、外皮と身の間にある部分を“遠江(とおとうみ)”と呼ぶんです。この地図を見てください。三河地方の隣にあるのが遠江地方。身と皮(=三河)の隣だから遠江。洒落がきいた名前ですよね」

知識として知っていても、その場に立つことで新たな発見がある。ここからはじまる浜松の旅は、幸先が良さそうです。

浜松城を望む川田氏とふたりのフードキュレーター。在りし日の家康に思いを馳せる。

ファインド アウト 静岡

中国を起源とする豚が、静岡の地で新たな魅力を放つ

今回の視察に同行するふたりのフードキュレーターは、川田氏に食材をプレゼンするため、数日前にも浜松を訪問済み。さまざまな情報のインプットも済ませているだけに、移動中の道中も食材の話は尽きません。

立ち寄った『ファーマーズマーケット三方原』で川田氏がメロンに興味を示せば「通年でメロンが出るのは、静岡や熊本などごく限られた産地。なかでもダントツが静岡です」と返し、川田氏が国産の良いキウイを探しているといえば「静岡は日本におけるキウイ栽培発祥の地。ちょうど先週訪問したキウイパークでは、そこにしかない品種もあります。サンプルを送りますね」と打てば響くような反応。

続いてランチを兼ねて訪れたのは、豚肉料理『とんきい』。ふたりのフードキュレーターが推薦する、自社牧場で生産した豚肉の料理が楽しめるレストランです。

三和畜産が運営する『とんきい牧場』は、1968年に母豚5頭で養豚業をスタート。トウモロコシ、米、大豆などオール穀物の自社配合飼料で育てる豚は、臭みがなくドリップが少ないのが特徴。さらにこちらでは、浙江省の金華豚を起源とする「プレミアム金華バニラ豚」も飼育されています。

三和畜産の鈴木芳雄社長の話を聞き、レストランでトンカツを試食する川田氏。

「弾力があり旨味もあるのに、脂は澄んだ味わい。どうしてこれほど脂がキレイなんでしょう?」そんな川田氏の疑問に「飼料のためだと思います。とくに米を混ぜるようになってから、目に見えて脂が良くなりました」と鈴木社長。

さらに豚舎近くを見学させてもらいつつ、豚糞を利用するバイオガス発電施設の話なども伺う川田氏。

「豚への愛情が伝わってくる方ですね」

しみじみとつぶやく川田氏の言葉が印象的でした。

道中で立ち寄った『ファーマーズマーケット三方原』にて。ふたりのフードキュレーターの深い知識が川田氏に披露される。

豚コレラの懸念で豚舎の見学はできなかったが、鈴木社長の話に耳を傾ける3人。

『とんきい』には精肉店も併設。きめ細かい肉質が、川田氏の興味を惹いた。

『とんきい』のトンカツ。豪快な厚切りでありながら、脂のしつこさとは無縁。

ファインド アウト 静岡生産者の人柄が品質に表れる。お茶という農産物の不思議。

そこでふたりのフードキュレーターは、まず川田シェフを『ふじのくに茶の都ミュージアム』にご案内しました。ここは静岡県のお茶栽培の歴史から、世界のお茶事情まで、幅広く体験できる施設。家族で楽しめるスポットではありますが、食材のプロたちも多くを学べる本格的な展示資料もいろいろ。とくに世界の茶葉が一堂に会するコーナーでは川田氏も熱心に見入っていました。

続いて前回の視察でもお世話になった製茶問屋『マルモ森商店』の森宣樹社長にご案内を頼み向かったのは、島田市のお茶農家『永田農園』です。
ここは、国内のお茶の審査でもっとも権威のある「全国茶品評会」で、親子二代で最高賞の農林水産大臣賞を受賞する農園。それは、森社長によれば「お茶農家の分母からいえば、甲子園で優勝するよりも難しいこと」という快挙です。

代表の永田英樹氏の案内で茶畑を歩く川田氏。日本茶にも強い興味がある川田氏だけに、その表情も真剣です。

「物腰柔らかく、穏やかな人柄。まさにお茶に相通じる方」後に尋ねると、川田氏はそう話しました。「畑も手入れが行き届いている。いまは時期ではありませんでしたが、生産者の顔と畑の様子をみればどれほど丁寧に、愛情を持ってやられているかがわかります」

これもまた、産地を訪れて得られる収穫のひとつなのかもしれません。

フードキュレーターのふたりは事前リサーチでも『ふじのくに茶の都ミュージアム』を訪れ、静岡の茶の歴史をインプットした。

『ふじのくに茶の都ミュージアム』では、世界の茶葉を実際に手に取り、香りを感じることができる展示も。

作地面積日本一を誇る静岡の茶畑。この風景に川田智也シェフは何を見出すのか。

『永田農園』の茶畑で永田氏の話を伺う。収穫期でなくとも、現地で聞くことには大きな意味がある。

土に手を伸ばし、香りを嗅ぎ、自身が納得するまで深く学ぶ。それが川田氏の食材探求。

『永田農園』は自社製茶場も併設する自製自園。ここでも手順やこだわりの話を永田氏に伺う。『chagama』の森社長も同席してくれた。

『永田農園』の深蒸し煎茶を試飲する川田氏。

ファインド アウト 静岡若き日本料理人に学ぶ、産地ならではの料理表現。

この日の夕食は浜松の日本料理店『勢麟』へ。こちらの店主・長谷部敦成氏と共通の知人がいることから「ぜひ来てみたかった店」という川田氏。ゆえにその顔には、ただ夕食を楽しむというより、一切を見逃さずに吸収しようという真剣味が宿ります。

コースは御前崎の漁港や、地元浜松の舞阪漁港に長谷部氏自ら赴いて目利きした魚や在来種の野菜など、静岡ならではの食材が主役。それを長谷部氏の日本料理の技で、クリアでありながら奥行きがある引き算の料理に仕立てます。

長谷部氏が自身の店を「料理屋ではなく、食べ物屋です」と標榜するのは、この食材自身に調理法を尋ねるような、素材重視の料理に起因するのかもしれません。

川田氏も「素材の水分が擦れていない、水が生きている。ここまでクリアさを追求するのは、中国料理にはない視点です」と、早々に何かを掴み取った様子。コースを食べ終えた後には「全部食べてひとつのお料理を頂いたような気分です。伝統、現在、未来という3つの時間軸がキレイに整った料理という印象。本当に素晴らしい」と手放しの称賛を寄せていました。
試食の際は、食材の声に耳を傾けるように深く味わい、生産者と話す際はまっすぐ目を見つめる。川田氏のストイックな修行僧のようなその姿勢は、産地の情報を余さず吸収しようという思いの現れなのかもしれません。

こうして『茶禅華』川田智也シェフにより浜松食材視察の1日目は終了しました。次回は2日目の様子をお伝えします。

食材に魅せられてこの地に移り住んだ『勢麟』の長谷部氏。

水と醤油だけで炊いた『勢麟』のオコゼ。鰹も昆布も使わず、素材の持ち味だけで勝負する。

1品ごとに交わされる会話は、ときに深い食材談義に発展した。

えぼ鯛は味噌漬けにして炙り、地元で採れたからし菜と合わせた。

メジは地元で“ひっさげ”と呼ばれるサイズ。朝採りの大根おろし、長谷部氏が山で採取した柚子と合わせて。

住所:浜松市中区元城町100-2 MAP
TEL:053-453-3872
https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/

住所:静岡県浜松市北区細江町中川1190-1 MAP
TEL:053-522-2969
https://www.tonkii.com/

住所:静岡県島田市金谷富士見町3053-2 MAP
TEL:0547-46-5588
https://tea-museum.jp/

住所:静岡県浜松市中区元城町222-25 MAP
TEL:053-450-1024
http://seirin-hamamatsu.com/

1982年埼玉県生まれ。19歳のときに障害を持っている子どもたちと農業をする団体を立ち上げたことをキッカケに、農業・地域・食の世界へ。26歳のときに大手旅行会社を辞め、千葉県九十九里に移住し、地域支援や農業体験の受入を事業化するNPO団体のスタッフとして活動。東日本大震災をキッカケに、もっと地域の素晴らしさを伝えたいという想いで2012年に「合同会社SOZO(ソウゾウ)」を設立。2015年に静岡県日本平で開催されたプレミアム野外レストラン「DINING OUT NIHONDAIRA」から、「DINNG OUT」食材調達チームに参画。2019年に全国各地のこだわり食材を仕入れ、レストランやスーパーをメインに卸す会社「株式会社eff(エフ)」を立ち上げ、地域の商品開発プロデュースから実際の販売まで幅広い食の領域で活動している。

1977年東京都生まれ。18歳から料理の道に入り「ラ・ビュット・ボワゼ」「ダズル」を経て2010年、大阪の三ツ星レストラン「HAJIME」に入る。5年半の経験を積み2013年に徳島県祖谷で開催されたプレミアムな野外レストラン「DINING OUT IYA」に参加。生鮮食材の物流に関する知識習得のため大阪の特殊青果卸「野木屋」を経て、2016年より現職。現在「DINNG OUT」では、開催地域の食材(生産者)の魅力を言語化し、トップシェフの思考、哲学に合わせて伝える翻訳者として活動。また、ラグジュアリーブランドとコラボレーションした食品開発、ブランディングまで「食」領域のプロデューサーとして活動の幅を広げている。


Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA
協力:しずおかコンシェルジュ株式会社

(supported by 静岡県)

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滋賀県木ノ本『冨田酒造』へ。額に汗かき、己を鍛え直す。

 お米をほぐし、かき混ぜることで酸素を送り込む。高温な室内に加え、重労働な切り返しは、酒造りにおいて重要な作業。

HIDEHIKO MATSUMOTO再び酒職人として生きるために。松本日出彦の武者修業が今、始まる。

まるで蒸気機関車のような煙を吐き出している現場では、衛生管理上、身につけているヘアキャップと新型コロナウイルスによるマスク着用も手伝い、個人を認識するのは難しい。

そんな中、まるで雲の切れ間から射す光のごとく、煙の切れ間から声が射します。

「あと何分!」、「蒸しあがりの具合は!」、「量は!」、「今、何度!」。

その主は、『七本鎗』で知られる『冨田酒造』15代目蔵元の冨田泰伸(やすのぶ)氏です。

対して、スタッフたちは間髪入れずに的確な数値を返します。

「温度が全て」とは、冨田氏の言葉。

この日の仕込みは、2種。麹米と醪(もろみ)を木桶で仕込むための掛米。

「この木桶は、日出彦君と一緒に仕込んでいます」。

木桶に目を移すと、かい入れ(もろみを混ぜる作業)をしている松本氏の姿がありました。

ここでの会話も「今、何度?」、「7.5℃です」、「氷入れる?」など、温度確認。この日の気温は15℃。通常よりもやや高めだったため、木桶の温度をより冷やすか否かの議論を繰り返します。

「日本酒の温度管理にはいくつかの法則があります。例えば、今回、もろみの温度を7℃にしたいとします。もし、木桶の中が5℃であれば、2℃の差があります。その差異である2℃×4=8℃に5℃を足し、13℃のお米を入れれば7℃になります。当然、その逆も然り。お米の温度に合わせて木桶の中の温度も調整します」と冨田氏。

麹においてもそれは同様。種切りの温度は各蔵によって様々ですが、この日『冨田酒造』が合わせたのは32℃。もちろん、麹米の量に対し、種麹の量をどうするかも重要です。「お米100kgに対して種麹80gを推奨しており、今日はお米94kgなので、種麹80g×0.94=75.2gの量で種切りをします」。

この方式を瞬時に弾き出し、1℃、いや0.5℃、1g、いや0.5gの微調整を数十秒ごとに確認し合います。それを成せるのは、松本氏が見習いではないから。

「今の日出彦君には、蔵も免許もありませんが、技術や経験を失ったわけではありません。同じ酒職人としての学びも多いです。これまでの『冨田酒造』にはなかった発想の提案や一緒に酒造りをすることによって生まれる化学反応にも期待しています」と冨田氏。

「酒造りはあくまでチーム。自分のような余所者を受け入れてくださり、感謝しかありません。冨田さんとは、これまでも酒造りに関して会話することはありましたが、一緒に酒造りをすることは今回がはじめて。それが実現できたのは、今の自分に蔵がないからということと『冨田酒造』が自分にチャンスを与えてくださったから。同じ現場をご一緒させて思うことは、ただお米を洗ったり、触ったりするだけでも、その感覚をリアルタイムで意見交換できることは非常に貴重。何気ない会話の中にもみんなの考えや哲学があります。それぞれの蔵が持つ当たり前も他では当たり前でないこともしばしば。違いを共有することによって生まれる発見もあります。酒造りは、工夫の連続。当然、『冨田酒造』には『冨田酒造』のやり方があり、その酒造りに則りながら、自分は何を貢献できるのか。日々、そんなことを考えながら取り組ませていただいています」と松本氏。

引き込み、切り返し、種切り、床もみ。そして、かい入れ。額や腕には汗が滲み、体で酒造りの感覚を取り戻していきます。とはいえ、息切れや二の腕の震え、時折、天を仰ぐ姿には、ブランクを感じざるを得ません。そんな今の自分を全身全霊に受け入れているのは、松本氏自身だということは言うまでもなく、それだけ酒造りは甘くない。

そして、そんな松本氏をチームに受け入れる決断をした冨田氏をはじめ、『冨田酒造』の職人たちの懐の大きさを感じた瞬間でもありました。

「今、酒造りができないのならば、うちに来ればいい」。ただ、それだけ。

理由はひとつ。仲間だから。

熱々のお米を手でひねりつぶし、蒸し具合と温度を確認する松本氏。その行為のごとく、「ひねりもち」と呼ぶ。

この日は、木桶の温度を7℃にすべく、かい入れをするたび、温度を計り、小まめに調整をする。

松本氏と仕込む木桶。「まだ仕込みの段階ですが、これからのもろみの育て方によってどんな化学反応が起きるのか、楽しみです」と冨田氏。

「今は温度計で計れる時代ですが、昔は米の中に手を入れて肌感覚で温度を計っていた。そんな感覚は圧倒的に先人たちの方が研ぎ澄まされている」と冨田氏。「切り返しひとつ取っても酒蔵によって様々。全ての作業が勉強になります」と松本氏。

「日出彦君、お願いします」と冨田氏。シャッ、シャッとリズム良く種切りをする松本氏。

 某名言「考えるな、感じろ」よろしく、『冨田酒造』の酒造りのひとつ一つを体に刻み込む松本氏。その目は、酒職人。

HIDEHIKO MATSUMOTO本当の意味で地酒を愛する人に愛される日本酒、それが『七本鎗』。

酒造りにおいて大切な素材、それは、水と米です。

うまい地酒を作りたいのか? うまい日本酒を作りたいのか?

作り手によって味の個性は大きく変わるも、素材だけにフォーカスすれば、このどちらを目指すのかは大きな分かれ道と言ってよいでしょう。

『冨田酒造』は前者であり、『七本鎗』はその好例です。

「『冨田酒造』では、滋賀県産のお米を4種使用していますが、中でもメインは“玉栄”。全体の75%を占めています。水は、古くから蔵にある井戸水を汲み上げています。奥伊吹山系の伏流水の水質は中軟水で、我々の酒造りには欠かせない自然からの恵みです」と冨田氏。

前述、木桶の氷のくだりは、この井戸水を冷やしたものになります。

「この関係性が素晴らしい。できそうでできている蔵は少なく、本来、日本酒はそうあるべきだとも思います」と松本氏は言います。

特にお米に関しては、山田錦や五百万石などのメジャー級な酒米があるため、他府県の良質な作り手から仕入れ、うまい日本酒を作ることは可能です。しかし、『冨田酒造』が目指すのは、うまい地酒。地元のお米、地元の農家、地元のお水を使い、地元の蔵で作るからこそ意味があるのです。

「自分が蔵に戻ってきた時、実は、県産ではないお米に頼っていました。しかし、これは間違っていると思い、地酒の“地”に根ざすことをコンセプトに大きく舵を切りました。その後、ご縁をいただいた篤(とく)農家さんと今もお付き合いさせていただいています」と冨田氏。

しかし、「玉栄」は、酒造りにおいてはやや難しい品種。例えば、雑味の原因にもなってしまうタンパク質が少ない酒米にとって、「玉栄」はやや多く、一般的には好まれません。それでも「僕らの技術で補えば良い」と2001年から契約。酒造りと米作りを行う長浜市を通して、「湖北」としての地酒を発信することに務めています。

「これは、一見簡単そうに感じますが、実は非常に難しく、覚悟がないとできません。お米、農家、地域。真っ向から向き合う精神が必要とされます」と松本氏。それは、冨田氏が今にたどり着くまで何年もかかった過去を振り返れば理解できます。

「最初は、全然“玉栄”を活かせなくて。寝かせないと味が乗らなく、在庫過多の時もありました。その当時は、華やかな日本酒が流行だったので、自分の酒造りは極めて稀有で地味でした。今は勘所も掴め、早出しもできるようになりました」と冨田氏。これは、冨田氏のたゆまぬ研鑽もしかり、品質向上のために二人三脚で歩んできた農家との絆が生んだ賜物。時間と労力は、ほかの日本酒よりも何倍もかかりましたが、「湖北」でしかできない日本酒を追求し続けたからこそ生まれたのが今の『七本鎗』なのです。

「ここに来て感じたことは、まず何と言っても日本一大きな湖の琵琶湖があるということです。滋賀県のほぼ中央に位置し、約1/6の面積を占めているほど水の宝庫。標高においても120mありますが、旧街道のため、昔から水と人が密接に関わってきたことがわかります。この環境の中で育ったお米を22ヘクタールも『冨田酒造』は使っている。それは、地酒を作ることにこだわるだけでなく、田んぼを守り、それによって生態系を維持し、更には農家の雇用も生んでいます。地域の人が地域を諦めてしまったらお終いです。正しい循環のもと、正しく作られている地酒が『七本鎗』なのだと思います。それは冨田さんだからできたこと。事実、“玉栄”をメインに使用する酒蔵は、『冨田酒造』ただひとつ」と松本氏。

日本には、約1,300社(国税庁・清酒製造業の状況・平成30年度調査分)の酒蔵があると言われています。

「各蔵がそれぞれ地酒に特化すれば、日本酒はもっとおもしろくなる」とふたり。

そんな同じ未来に向かって熱く語ることができるのは、同じ蔵で同じ時間を過ごしながら酒造りをできたからかもしれません。

同じ時間、同じ場所で酒造りを共有するからこそ発見できることも多い。「今この状況をどうするかなどの議論は、一緒に酒造りをしているからこそ」とふたり。

 蒸しあがったばかりのお米。香りも豊かで艶もある。同時に、ここからスピード勝負と温度調整の戦いが始まる。「飲んだ時、グッと力強い当たりがあるも、輪郭がはっきりしているので、綺麗にサッと抜ける。それは、“玉栄”だからできる」と冨田氏。

「今も変わらず井戸から水が沸き続けている。本当に自然は偉大です。水は酒造りにおける生命線。この水が『冨田酒造』を支えているんですね」と松本氏。

「日本酒はただの液体だけではありません。環境、作り手、想いなど、酒造りを取り巻く全てがこのボトルの中には凝縮されています。酒造りの出所は、狭ければ狭い方が濃く、おもしろい。しかし、表現は広く。地域は移動できませんが、ボトルは世界中に移動できる。様々な想いがひとりでも多くの方に届けられるよう、これからも精進していきたいです」と冨田氏。

HIDEHIKO MATSUMOTOこれから何を目指すのか。何をすべきか。同士だから語り合えた。

前出の通り、日本には、約1,300社の酒蔵があると言われています。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれですが、約1,800社あった平成15年から比べると、減少傾向にある業界であることは言うまでもありません。

「言わずもがな、日本酒業界は狭い世界です。まず、蔵元でないと蔵がないことや免許取得の難しさなどもあり、新規参入のハードルが高いのです。自分は、今まさに新規参入しようとしている最中ゆえ、それを肌で感じています。ありがたいことに伝統も経験させてもらっているので、両側面から客観視し、これからの日本酒業界にとって何ができるのかを考えていければと思っています」と松本氏。

「日出彦君と話して一番印象的だったのは、外に出たからこそ分かったことや見えたことがあったということでした。ハッとさせられました。伝統はバイアスにもなりかねない。そう思いました。これは、伝統を持った人間と失った人間にしか理解できないこと」と冨田氏。

『冨田酒造』もまた、460年余年の歴史を刻む伝統的な酒蔵。その15代目蔵元の冨田氏は、家業を継ぐ前に東京のメーカーに勤務し、その後、フランスのワイナリーやスコットランドを巡った経験も持ちます。各地域で得た世界の酒造りは、今の『七本鎗』に大きな作用をもたらせたに違いありません。

そんなふたりは、これからの日本酒業界に何が必要だと感じているのか? そのひとつにタッチポイントをあげます。

 作業終了後、酒職人の表情から友人の表情に。酒造りや日本酒業界の未来についてなど、真剣な話から他愛もない話ができるのは、ふたりの関係だから。

 江戸期に建てられた酒蔵は、登録有形文化財でもある。「守るべき部分は変えず、変革する部分は果敢に挑戦している冨田さんは素晴らしいです」と松本氏。「守るべき部分で言えば、まさにこの酒蔵。建物を守ることも酒造りのひとつだと思っています」と冨田氏。

HIDEHIKO MATSUMOTO全ての難局を今後に生かすために。新型コロナウイルスと青天の霹靂から得たもの。

「新型コロナウイルスによって、『冨田酒造』も大きな打撃を追いました。いかに、飲食店に寄りかかっていたのかも如実に出ました。これは反省として生かし、これまで届けられなかった場所や人にどうすれば届けられるのかを考えるきっかけにもなりました。しかし、ただ消費量を増やしたいわけでもありません。本質の伝え方を今一度考える必要があると思いました」と冨田氏。

「そんな広げ方の工夫は、これからの自分の課題のひとつだと思っています。タッチポイントを増やすということは、我々が伝える言語を相手に理解してもらえるように合わせなければいけません。自分目線ではなく相手目線になるコミュケーション能力は、これからの日本酒業界には必要だと感じています」と松本氏。

「そんな新しいポジションの確立もまた、日出彦君ならできると思います」と冨田氏。

新しいポジションの確立……。もしそれを成すことができれば、前述にある新規参入の難しさの改善にもつながるかもしれません。

また、新型コロナウイルスによる影響によって好転したことも。

「個人的には、色々立ち止まって考えるきっかけになりました。『冨田酒造』では、よりチームの結束を強くするために、様々を見える化し、コミュニケーションを深く取るようにしました。それは今なお続けており、以前以後と比べても格段に現場の空気が良くなりました。周辺環境においても美点はあり、中でも琵琶湖では数年ぶりに全層循環が確認されました」と冨田氏。

全層循環とは、湖面と湖底の水が混ざり合い、水温と酸素濃度がほぼ同じになる現象を指します。「琵琶湖の深呼吸」とも呼ばれるそれは、近年において発生しなかった冬もありましたが、2021年は、1月22日に確認されており、これは過去10年の中で最も早い日でもありました。

「湖底の酸素濃度が低くなると生物が生息しにくくなり、生態系にも好ましくない影響が及ぶと危惧されます。2020年より難局を迎え、各々が様々な苦悩を迎えていると思います。しかし、唯一、自然界にとっては本来の姿を取り戻したのではないでしょうか」と言う松本氏に続き、「今冬は、本当に雪がすごく降りました。自分が生まれてからこんなに寒い冬は初めてかもしれません。その豊富な雪解け水が全層循環にもつながったと思います」と冨田氏。

「地酒」にこだわる『冨田酒造』ゆえ、地域の環境問題も切実。好転を喜ぶだけでなく、今後、持続していくことも課題になっていきます。しかし、「好転したことは自然だけでありませんでした」と冨田氏は話します。

「2020年末、青天の霹靂のような知らせを日出彦君から受けました。想像を超える苦しみも味わったと思います。でも、今(2021年3月)こうして、一緒に酒造りをしている。このスピード感は、新型コロナウイルスによって、より結束力が増した時期でもあったからだと思います」。

「冨田さんをはじめ、『冨田酒造』の皆さんは、自分に生きる場所を与えてくれました。こんな自分でも、また酒造りをしていいんだと立ち上がる勇気を与えてくださいました」と松本氏。

「よしっ! では午後の仕込みを始めましょう!」。

冨田氏の号令に皆が動きます。もちろん、その群の中には松本氏の背中も。

武者修業は、まだ始まったばかり。さぁ、これからだ。

酒蔵内を右往左往。歩きながらも細かい確認作業を欠かさないふたり。どんな日本酒が生まれるのか、これから期待が高まる。

『冨田酒造』のタンクに書き込まれた松本氏のサイン。「いつの日か、こんなこともあったなぁと笑い話にできればいいな」とふたり。

住所:滋賀県長浜市木之本町木ノ本1107  MAP
TEL:0479-82-2013
http://www.7yari.co.jp/index2.html

1982年生まれ、京都市出身。高校時代はラグビー全国制覇を果たす。4年制大学卒業後、『東京農業大学短期大学』醸造学科へ進学。卒業後、名古屋市の『萬乗醸造』にて修業。以降、家業に戻り、寛政3年(1791年)に創業した老舗酒造『松本酒造』にて酒造りに携わる。2009年、28歳の若さで杜氏に抜擢。以来、従来の酒造りを大きく変え、「澤屋まつもと守破離」などの日本酒を世に繰り出し、幅広い層に人気を高める。2020年12月31日、退任。第2の酒職人としての人生を歩む。

Photographs&Movie Direction:JIRO OHTANI
Text&Movie Produce:YUICHI KURAMOCHI

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食べて、知り、伝える仕事。食材のプロたるフードキュレーターが浜松を味わい尽くす。[FIND OUT SHIZUOKA/静岡県]

フードキュレーター2人が『茶禅華』の川田シェフに食材を提案する為に選んだのは浜松エリア。写真は浜松のシンボル・浜名湖。ここにもさまざまな食材が眠っている。

ファインド アウト静岡浜松が誇る美味を駆け足でめぐる旅

まだ見ぬ素晴らしい食材を探し、日々全国を飛び回るONESTORYのフードキュレーター・宮内隼人と吉岡隆幸。2人が静岡県の食材を掘り起こし、トップシェフにプレゼンテーションする今回の企画。
プレゼンテーションする相手は、ミシュラン・ガイド三つ星を獲得し、いまや日本を代表する中華料理のシェフとなった『茶禅華』の川田智也シェフ。事前にリサーチを重ねた結果、最初の目的地は浜松エリアに決定。海、山、平地、湖が揃い、中華料理にふさわしい食材が見つかるであろうこのエリアへ、すでに繋がりがある生産者や地元料理人から情報をかき集めた上で、リサーチに向かいます。

フードキュレーターの大事な役割のひとつが、地域に眠る食材を見つけ出し、伝えていくこと。だから最初のアプローチは、とにかく食べることとなります。まず食べて、生産者と話し、そこに潜む思いやこだわりを聞き取り、一遍の物語を紡ぐ。そのために食べて、食べまくるのです。
畑で、港で、店で、イベントで。食材のプロたるフードキュレーターは、何を食べ、何を話し、何を感じたのでしょうか。

とにかく食材なら何でも口に運び、体験してインプットしていくフードキュレーター吉岡(左)、宮内(右)。浜松エリアではどんな食材と巡り合えるのか。

ファインド アウト静岡フードキュレーターを驚かせた、農園レストランの野菜たち。

「このあたりは赤土ですね。今は新タマネギの時期。土が良いから大きく育っています」

浜松の車窓を流れる景色を見ながら、吉岡が言いました。野菜に造詣が深い吉岡にとって、ただのどかな風景も宝の山に見えているのでしょう。だからランチに訪れてみた農園レストラン『農+ ノーティス』でも、吉岡のテンションは上がりきりです。

「野菜が本来の形のまま出せるのは、農園レストランならでは。きっとまず野菜が中心にあって、そこからどう料理をするか考えられているのでしょう」

それが吉岡が野菜が主役のランチコースを味わった感想。食材卸売会社も経営する吉岡ならではの視点です。

一方で料理人の経験もある宮内は「野菜愛があり、ただの料理人とは違うアプローチ。しかしシンプルだけどしっかりと構成が考えられている印象です。そしてとんでもなくリーズナブルですね」とこちらも絶賛。

食事後、急な訪問を侘びながら、店主の今津亮氏に話を伺うふたり。聞けば埼玉県に生まれた今津氏は、高校生の頃から農業に興味を持ち始め、東京農大、農業開発の企業を経て2017年にこの店を開いたのだといいます。

浜松を選んだ理由は「狭いエリアの中に赤土と黒土があり、そしてさまざまな野菜の栽培南限と北限に位置することから、より多彩な野菜を育てられます。今は年間120種ほどを育てています」と今津氏。

土の話、品種の話、流通の話。短い時間の中で有意義な会話を交わす今津氏とフードキュレーターのふたり。帰り際、畑で採れたばかりの大根をもらったふたりは、今津氏と再会を約束して店を後にしました。

この日の前菜は駿河軍鶏とロマネスコ 柑橘オランデーズソース。力強い野菜の存在感が際立つ。

店に隣接する畑にはさまざまな野菜が育っていた。

今津氏が惚れ込んだ浜松の土。吉岡氏もその質に強い興味を示した。

突然の来訪でも快く畑を案内してくれた今津氏。野菜への強い思いが言葉の端々に潜む。

今津氏と奥様が営む小さな店だが、いまや予約必須の人気店。

ファインド アウト静岡キウイの奥深い世界に触れる、キウイテーマパーク

続いての目的地は『キウイフルーツカントリーJAPAN』。ここは1978年にアメリカに渡った先代が、現地で出会ったキウイの種を譲り受けて持ち帰り、独学で築き上げた日本最大のキウイ農園。現在は62品種1200本のキウイの木が育つほか、観光農園としてBBQやクラフト体験など、さまざまな楽しみを提供しています。

ここでは食べ頃を迎えた8品種を試食しながら、平野氏の話に耳を傾けるふたり。
化学肥料を入れず、魚カスや堆肥を使用すること、天然の傾斜と暗渠(あんきょ)排水設備を利用して排水性を高めていること、雑草は一度長く伸ばして土の中に空気を入れてから刈り取ることなど、栽培の秘密を伺います。
「途方もない手間をかけて、自然に近い状態を作っている。おいしさの秘密が垣間見えました」と感しきりの宮内。
以前から平野氏とつきあいのある吉岡も、改めて農園に足を運んだことで、さまざまな新発見があったといいます。

様々な種類のキウイを育てるキウイフルーツJAPANで、この日は9種のキウイを食べ比べ。見た目も様々でこんなに違いがある事も発見。今回頂いたのはどれも完熟のキウイ達で、酸味、甘み、旨味、それぞれ異なる個性が光った。

宮内の資料には品種特性や感想が細かく書き込まれていく。

味わうことがふたりの仕事。深く考えながら、じっくりと味わう姿が印象的。

羊、茶畑、BBQ広場。さまざまな見どころがある観光農園。この丘からはキウイ畑全体が見渡せるが取材時は収穫後、また実りの季節に再開する事を約束した。食材だけでなく、生産者とのつながりを築くことも大切。

昼食は浜名湖名産のうなぎ。ここでも真剣に味を確かめるふたりの姿があった。

途中で立ち寄った『ファーマーズマーケット浜北店』では、種類豊富な柑橘に注目。

ファインド アウト静岡街の活気を創出する、浜松唯一のクラフトビール

夜になっても食の探求は終わりません。ディナーを兼ねてふたりが出かけたのは、浜松唯一のクラフトビールパブ『OCTAGON BREWING』。ここで代表の平野啓介氏と醸造責任者の千葉恭広氏の話を伺います。

平野氏の夢は、浜松をもっと盛り上げること。千葉氏の夢は雑味がなくクリアな味わいの、独自のビールを造ること。ふたりの思いが合致して生まれた醸造所兼ビアパブのこの店は、連日多くの客で賑わいます。そんな心地よい賑わいをBGMに、千葉氏の言葉を聞くフードキュレーターのふたり。

千葉氏は大阪生まれで、学生時代からビール造りを夢見て、ドイツに渡りました。そしてミュンヘン工科大学ビール醸造工学部で学び、実地研修を経てディプロム・ブラウマイスターの資格を取得。帰国後は若手醸造家の技術指導にあたってきたといいます。

しかしその華々しいキャリアよりもなお印象的なのは、千葉氏の輝く目。「とにかくビールが好きでたまらない」という千葉氏の言葉は、ときに専門的な領域にまで及びますが、フードキュレーターのふたりもまた食の専門家。ときに鋭い質問を飛ばしながら、白熱した講義は続きました。

千葉氏に醸造のこだわりを伺うふたり。その評定は真剣そのもの。

色、香り、テクスチャ。宮内の興味は、食の深い部分にまで及ぶ。

シトラス、マンゴー、パインなど華やかに香る「ブレイクアウェイIPA」など、オリジナルの地ビールが常時数種類楽しめるビアバー。

平野氏(左)と千葉氏(右)。ふたりの夢が形をなしたブリュワリーは、いまや浜松になくてはならない店。

ファインド アウト静岡少しずつ見えてきたフードキュレーターふたりの個性。

2月14日、日曜日。この日は月に1回、毎月第2日曜日に開催される『浜松サザンクロスほしの市』の日でした。
もちろん“市”と聞けば、フードキュレーターのふたりがじっとしているはずはありません。

そもそもこの市は、浜松駅南口のシャッター商店街に賑わいを取り戻すことを目的に、2018年から開かれているマーケットイベント。出店店舗は公募型ではなくスカウト型で、浜松に縁があるハイクオリティなショップやアーティストが揃うことで話題を集めました。現在の出店数は35店舗。はじめた当初は800人ほどの人出でしたが、徐々に知名度を高め、コロナ禍前のピーク時には2000〜2500人もの人で賑わいました。

「少しずつ商店街の方にも認めてもらえ、先日はようやくシャッター街に一軒新しい店も開きました」そううれしそうに語るのは、『浜松サザンクロスほしの市』を主催する(株)浜松家守舎CONの 鈴木友美子氏。大勢の人で賑わい、目に見える効果も出る、地方創生イベントの成功例を前に、ショップで次々と食べ物を試食していたフードキュレーターのふたりも強く興味を惹かれた様子でした。


旅はまだまだ続きます。
名物料理を食べ、養鶏場を見学し、農産物直売所の品揃えをチェックし、ハーブティーを試飲する。
食べて、話し、考え、また食べて、考える。そうしているうちに少しずつ、ふたりのフードキュレーターの個性もみえてきます。

食材卸売会社も経営している吉岡は、とくに野菜の知識が豊富。土壌の質や成分、野菜の品種、作柄、旬など、生産者と同じ目線での会話を通し、その魅力を引き出します。そして仲卸として、流通や価格にも気を配ります。

料理人の経験がある宮内は、ジビエも含めた肉、魚から加工品まで総合的な深い知識を有します。そして元料理人らしく、意識するのは口に入る瞬間のこと。加熱するとどうなるか、保存する方法はどうか、味の成分はどうか。料理としての完成形をイメージした食材探求が持ち味です。

それぞれ得意分野を持つフードキュレーター宮内隼人と吉岡隆幸。ふたりが意見を交わしながら食材を見つめることで、より立体的にその魅力が際立ってきます。

次回はいよいよ、今回のリサーチの経験を元に、川田智也シェフにふたりのフードキュレーターが浜松の食材をプレゼンします。
食材ひとつひとつとまっすぐ向き合い、まるで語り合うように食材の本質を読み解く川田シェフ。果たしてふたりのフードキュレーターは、そんな名シェフにどんな食材を、どう見せるのか。次回の記事をぜひお楽しみに。

『浜松サザンクロスほしの市』にはパンやスイーツから蜂蜜、チーズ、焼き鳥まで多彩なグルメも出店。

午前中から大勢の客が詰めかける。コロナ禍を乗り越え、再び活気が戻り始めた。

鈴木氏(中央)をはじめとした『浜松サザンクロスほしの市』実行委員会の3人。

静岡の地鶏・一黒しゃもを育てる『鳥工房かわもり』にて、代表・河守康博氏の解説を受ける。日本古来の黒しゃもの系統であるしずおか食セレクション認定地鶏・一黒しゃも。上質な脂と力強い弾力が魅力。

新鮮な一黒しゃもをその場で塩焼きにする河守氏。「コクがあるのに、臭みがない」(宮内)、「脂がすっきりとしている」(吉岡氏)とともに高評価。

ハーブティーやアロマを扱う『チムグスイ』にて。香りもまた、美味を司る大切な要素。

住所:静岡県浜松市浜北区四大地9-1178 MAP
電話:053-548-4227
定休日:月曜・水曜
https://notice-vegetable.storeinfo.jp/

住所:静岡県掛川市上内田2040 MAP
電話:0537-22-6543 (9:00~17:00)
定休日:木曜日 (1/10~3/20は水・木)
https://kiwicountry.jp

住所:静岡県浜松市中区田町315-25 MAP
電話:053-401-2007
定休日:火曜日
https://octagonbrewing.com/

住所:静岡県浜松市中区砂山町 砂山銀座商店街 MAP
開催日:毎月第2日曜日
開催時間:10:00~15:00 (8月のみ16:00~20:00)
https://hoshinoichi.com

住所:静岡県浜松市浜北区新原6677 MAP
電話:053-586-5633
営業時間:8:30~16:30
https://life.ja-group.jp

電話:0537-86-2538 (9:00~18:00)
http://torikoubou-kawamori.com/

1982年埼玉県生まれ。19歳のときに障害を持っている子どもたちと農業をする団体を立ち上げたことをキッカケに、農業・地域・食の世界へ。26歳のときに大手旅行会社を辞め、千葉県九十九里に移住し、地域支援や農業体験の受入を事業化するNPO団体のスタッフとして活動。東日本大震災をキッカケに、もっと地域の素晴らしさを伝えたいという想いで2012年に「合同会社SOZO(ソウゾウ)」を設立。2015年に静岡県日本平で開催されたプレミアム野外レストラン「DINING OUT NIHONDAIRA」から、「DINNG OUT」食材調達チームに参画。2019年に全国各地のこだわり食材を仕入れ、レストランやスーパーをメインに卸す会社「株式会社eff(エフ)」を立ち上げ、地域の商品開発プロデュースから実際の販売まで幅広い食の領域で活動している。

1977年東京都生まれ。18歳から料理の道に入り「ラ・ビュット・ボワゼ」「ダズル」を経て2010年、大阪の三ツ星レストラン「HAJIME」に入る。5年半の経験を積み2013年に徳島県祖谷で開催されたプレミアムな野外レストラン「DINING OUT IYA」に参加。生鮮食材の物流に関する知識習得のため大阪の特殊青果卸「野木屋」を経て、2016年より現職。現在「DINNG OUT」では、開催地域の食材(生産者)の魅力を言語化し、トップシェフの思考、哲学に合わせて伝える翻訳者として活動。また、ラグジュアリーブランドとコラボレーションした食品開発、ブランディングまで「食」領域のプロデューサーとして活動の幅を広げている。


Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by 静岡県)

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軽やかに、しなやかに。新たな時代の「食」の可能性を広げるキュレーションの力[FOOD CURATION ACADEMY]

料理通信社・編集主幹の君島佐和子さん(左)と、日本におけるフードキュレーターの一人として君島さんが名前を挙げる『H3 Food Design』代表の菊池博文氏(右)。

君島佐和子 × 菊池博文 インタビュー「フードキュレーション」は、食の未来に何をもたらすか。

「食」の総合プロデューサーを目指す、すべての人に向けて『ONESTORY』が提案する学びの場『FOOD CURATION ACADEMY』。

2020年末の開講以来、多くの方にご視聴いただいている本講座を、より深く楽しんでいただくための特別インタビュー。

2回目となる今回は、講座にも登壇いただいた料理通信社・編集主幹の君島佐和子さんと、全国でさまざまな「食」のプロデュースを行っている『H3 Food Design』代表の菊池博文氏にお話を伺いました。

長年にわたり「食」を取り巻く世界の動きを間近で見つめ、その最前線を伝え続けてきた君島さん。そして、国内外のトップシェフとローカルを結ぶなど、早くからフードキュレーションを実践されてきた菊池氏。おふたりはいま、「食」の未来をどのように見据えているのでしょうか。

地球環境、テクノロジー、価値観、あらゆることが急速な変化にさらされる中、これからの社会に対してフードキュレーションが貢献できることとはいったい何なのか。その可能性を探っていきます。

君島佐和子 × 菊池博文 インタビュー社会が期待する「食」の推進力。ビジョンを持った指南役が求められている。

『FOOD CURATION ACADEMY』講座 #1で、「食」に対する社会の目線の変化を的確な分析で提示した君島さん。

人口爆発や気候変動による食糧危機など、地球全体が直面する大きな社会課題に対して、その解決の推進力を「食」が担うことが期待されるようになってきた、と君島さんは言います。

「“推進力”というとかなりポジティブで、その中に“意図”とか“意思”とかが含まれてきますよね。でも、そもそも人間がものを食べるということ自体が、意図せずともさまざまなことに影響をしていく作用があります。意図とは関係なく、“食”がどういう作用を及ぼすのかというところまで意識を向けることがすごく重要」。

生産から消費まで、どこかの部分だけを切り取るのではなく、一連の流れとして人間の「食べる」という行為が及ぼす影響を把握すること。動植物の循環、地球規模での循環として「食」を考えることが大前提になっています。そんな複雑な社会状況の中で、人間が「食」とどう向き合うべきか、何をどう食べたらいいのか、どう生産したらいいのか。私たちの向かうべき未来へのビジョンを提示する指南役が求められています。

「”食”を俯瞰して全体を見えていないとビジョンは描けない。そういう意味においても、フードキュレーションというのは本当に必要な概念だなと思います」。

「食」への目線の変化は、新たな「食」へのアプローチももたらします。

「昨年、東京・上野の国立科学博物館で『和食~日本の自然、人々の知恵』が企画されましたが(新型コロナウイルスの影響で開催中止)、そもそも博物館で食の展覧会を開くこと自体がこれまでなかったこと。日本各地の地質と水の硬度の関係を示す展示から始まっていたのもとても面白かったです。食と自然との関係はいまさら言うまでもありませんが、食と地域という論点も当たり前になってきて、より深く入ろうとすると、地理・地形・地質と食との関係の探求が必要になってくる。時代がそういう食への探求に向かっているのを感じます。まさに、講座 #3 の地質と食の対談のテーマですね。この対談は、ぜひ私もご一緒したかった(笑)! PCに張り付いて聞き入りました」。

『FOOD CURATION ACADEMY』講座の第1回「フードキュレーションとは何か」に登壇した君島さん。『フロリレージュ』オーナーシェフの川手寛康氏、『楽農研究所』代表の菊池義一氏、『ONESTORY』のフードキュレーター宮内隼人とともに、「食」業界のいまとこれからを掘り下げた。

君島佐和子 × 菊池博文 インタビューフードキュレーションは「食」のリベラルアーツ。自らを起点に学びの枝葉を広げていく。

刻々と変化する地球規模での社会課題に対し、いつも感覚を研ぎ澄まし、広範な視野を持って知識をブラッシュアップし続けていくということは並大抵のことではありません。

「私たち取材する側も一緒で、知らなければならないことがたくさんありすぎて、“こういうことを知らないといけないんだよね”って思うと同時に、息苦しさみたいなもの感じていました。課題解決の推進力である”食”という面ばかりが強調されると、タイトで寛容さがなくて。正しさばかりが求められていくことはむしろ怖かったりもします。そう考えると、講座 #1で『ONESTORY』として提案されていた、“フードキュレーションは食のリベラルアーツである”という捉え方がとてもしっくりきます」。

人文科学、自然科学、社会科学。それぞれの分野と「食」との関わりをもっと広く深く理解していこう、考えていこうというフードキュレーションの学び。それは、確固たるフードキュレーションという概念を掲げ、その下に自分を当てはめていくのではなく、「自分にとってのフードキュレーションって何?」と自身を起点として学びを広げていくことではないかと君島さん。

「自分は何のために”食”の仕事をしているのか。その問い直しをしていくことで、自ずと、個々の人のフードキュレーター像が見えてくるのだと思います。目的に対して、より充実させるべきこと、補完すべきことは何なのか、自分が知らなければいけない領域が恐ろしく広がっているということに気付き、視野が広がり、活動の世界も広がっていきます」。

自分はどんな目的意識を持っているのか、何ができるのか、何がしたいのか。そのために、自分の持っている力をどう機能させていくか。そんな自分起点の発想が、領域を超えて活躍するマルチプレイヤーを生み出していくのです。

「『H3 Food Design』の菊池さんはご自身のお店を持たないからこそ、活動がより社会的になっているように思いますし、一方でお店を持っている方には、お店があるからこそできることがあります。目黒でイタリア料理店『Antica Braceria Bell'italia』を営む井上裕一シェフが不動前に開いたワインショップ『ワインマンストア』はワインだけでなく、井上シェフの人脈で、チーズもジェラートも、消毒液も置いてある都市のキオスクみたいなお店。お店もありながらオリジナルのワインも作っていて、5月末にはワイナリー付きの新店舗に移転される予定です。それぞれの立場で、自身が持っている機能を360度全方位で生かそうって考えていくと、自然と領域を超えてさまざまな分野とつながっていく。皆さんの取り組みをみていると、それを強く実感します」。

フードロス、海洋資源の枯渇、そして新型コロナウイルス。地球規模での様々な課題を前に、「この数年で、日本においても料理を作る人の思考が自然に広がっているのを実感する」と、君島さん。

君島佐和子 × 菊池博文 インタビュー地方、食、生産者を軸に活動したい。ターニングポイントとなった震災。

君島氏が講座#1の中で、日本で活躍するフードキュレーターの一人として名前を挙げた、『H3 Food Design』の菊池博文氏。菊池氏は自身の仕事を、どのように位置付けているのでしょうか。

立場や関わり方は違えど、根本的にはずっと同じことをやっているなと思っています」と菊池氏。いまに繋がる菊池氏の仕事の原点は、「星野リゾート」に在籍していた2009年ごろから取り組んだ『軽井沢ブレストンコート』の『ブレストンコート・ユカワタン』のプロジェクトでした。

「日本を代表するローカルガストロノミーを真剣につくろうということで、コンセプト設計から開業、そして運営までマネージャーとして担当しました。器やカトラリーも日本の伝統工芸品で揃えたいという思いから、食材よりも工芸品をキュレーションするプロジェクトが先行したのですが、その中でも福井県の龍泉刃物さんとの出会いは、ボキューズ・ドール用のカトラリーの開発にもつながり大成功しました。この経験は僕の中で一つの自信にもつながりました。産地と一緒になって何かを生み出していくことは、今も変わらず続けていることですね」。

2011年3月『ユカワタン』がオープンして数日後、東日本大震災が発生。岩手県の三陸沿岸は菊池氏の故郷でした。「地方とガストロノミーと経済の様々な効果を探っていくことは、むしろ自分自身の故郷が必要としていること、この頃から考えるようになりました」と菊池氏。そんな思いを抱きつつも、2014年にはフランスの三つ星シェフ、レジス・マルコン氏を招き1泊2日の『ユカワタン』のバックステージツアー。ローカルガストロノミーの最前線を学ぶとともに、地域の伝統の食文化や食材を紹介するプログラムは、その後テーマを変えながら全3回行われました。

「食はディスティネーションの目的です。その魅力は、まるで宝物の様に足元に眠っていると思います」。

2016 年、地方と食と生産者という軸でもっと仕事を深めていきたい、そして三陸に特化した仕事に携わりたいという思いから独立。日常の食にフォーカスした拠点として、東京・池袋『もうひとつのdaidokoro』を立ち上げたほか、2019年には念願の三陸での取り組みとなる、『三陸国際ガストロノミー会議2019 立ち上げに参画し、講演プログラムのキュレーションを行いました。

君島さん曰く「社会が菊池さんを共有している」。

その言葉のとおり、菊池氏の視点や感覚が、人と人、人と地域を縦横無尽に結び、地域に新しい風を吹き込んでいくのです。

現在は長野県に暮らす菊池氏。日本各地の「食」における課題解決を実践するギルド的集団『H3 Food Design』の代表として、生産者と国内外のトップシェフ、食のジャーナリストをつないでいる。

君島佐和子 × 菊池博文 インタビュー土地の文化を発信しながら文化を再解釈する。「よそ者」が拓く、これからのガストロノミー

そして2021年。いま、菊池氏はどのようなことに取り組んでいるのか。

「今は地方のホテルを変えたいと思っています。ホテルがもっと地元と密着して行ったらどんなことができるんだろうと考えていた時、ちょうど『旧軽井沢KIKYOキュリオ・コレクション・バイ・ヒルトン』の相談を受けたのがはじまりです」。

粉やパティからすべて地元産の食材を使ったハンバーガーを企画して、四季折々の食材を使ったガストロノミーレストランをプロデュース。食材の仕入れ先のほとんどを、地元産に変更しました。

「レストランでの提供に限らず、加工品などのECやイベントやツーリズムなど、ホテルが地元のハブ的な存在になることで、大きな経済効果や雇用をもたらす事が可能です。また、災害時にはダイナミックな購買力やマンパワーを発揮する事が可能です」。

いま、新たに菊池氏が手掛けているホテルは長野県の「松本十帖」と滋賀県「ロテル・デュ・ラク」の2つ。

「地元に新しい風を吹かせるためには、むしろよそ者の方がいいんじゃないかなって思うんです。風土という言葉を分解した時に、"土"は伝統、その土地にずっと受け継がれてきたもの。でもきっとこれまでの歴史の中で、地域のさまざまな街道で、旅人や商人が行き交うことで、その土地に新しい"風"が入って変化が起きていた。革新の"風"と伝統の"土"。新しいガストロノミーの進化を作れるのは"風"を吹かせる旅人なんだっていうのが、僕の中の"風土"の解釈です。『DINING OUT』もまさにそうですよね。今、日本もいろいろな意味で閉塞感から脱しようとしている時期。ガストロノミーの世界も同じです。僕のアプローチは風をもう一度吹かせるというところです。地元の生産者さんと一緒にやっていくのは言わずもがな。一緒に取り組みながら成長して、価値を高めていくということがキュレーションの意味でもあると思います。それが結局のところサステナビリティなんじゃないかなというのが、僕の軸になっています」。

よそ者がもたらす「風」の力を信じながら、もう一つ大切にしているのが「健康」というテーマだという。

「文化から文明に変わり、大量生産、工業生産になっていろいろな食の危機が起こっている。でも日本の地方には、まだまだ大切な食文化がたくさん残っています。そのあたりを紐解くことが次のガストロノミーのヒントになるんじゃないかなと思っています。命を守るとか、家族を大切にするとか、健康を一番に思う”母性”に、ガストロノミーが戻ってきている。文化を発信しながら文化を再解釈していくことが、これからのガストロノミーの中心になってくるんじゃないかなと思っています」。

軽やかに、しなやかに。寛容さを失わない風のような存在が、「食」の未来を切り拓いています。

スペイン・ガリシア地方でシェフのコラボレーションイベントを企画した際に、サンチアゴのシェフの案内で生産者を訪問した時の様子。離れている価値をつなげ、新しい風を吹かせていく。

『信州ガストロノミーツアー(主催:長野県)』を企画運営した際、地元のお母さん世代や招待シェフと共に野沢菜漬けを体験。「これからのガストロノミーのヒントは、地方の食文化にある」と菊池氏。

栃木県生まれ。早稲田大学第一文学部演劇専攻卒。株式会社パルコ、フリーライターを経て、1995年『料理王国』編集部へ。2002年より編集長を務める。2006年6月、国内外の食の最前線の情報を独自の視点で提示するフードマガジン『料理通信』を創刊(2021年1月号をもって休刊)。編集長を経て、2017年7月から編集主幹に。“食で未来をつくる・食の未来を考える”をテーマとする「The Cuisine Press」(Web料理通信)では、時代に消費されない本質的な「食の知」を目指して様々なコンテンツを届ける。辻静雄食文化賞専門技術者賞の選考委員。日経新聞の日曜朝刊「NIKKEI The STYLE/」に寄稿。デザイン専門誌『AXIS』、マガジンハウス『アンド プレミアム』でコラムを連載。著書に『外食2.0』。

岩手県・山田町出身。軽井沢を拠点に、「地方から地方へ」をテーマにローカル× ガストロノミーの各種イベント企画等を展開中。 ANAホテル 東京、フォーシーズンズホテル東京、グッチ・ジャパンを経て、2001年に星野リゾート参画。デンマーク 『NOMA』のレネ氏が来日した際『NOMA TOKYO Mandarin oriental Tokyo⻑野ツアー』を担当。星野リゾート料飲統括ユニットへ参画後、2016年に独立。『H3 Food Design』として日本各地においてガストロノミーを起点とし たソーシャルデザインを行っている。J.S.A認定ソムリエ、 調理師免許、フードツーリズムマイスター取得。

 

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シェフとフードキュレーターがめぐる静岡。食のプロたちを驚かせる、海、山、畑の宝物。[FIND OUT SHIZUOKA/静岡県]

ファインド アウト 静岡OVERVIEW

静岡県。ここは日本一高い山と日本一深い海を持ち、肥沃な大地と豊富な水と温暖な気候に恵まれた地。関東と関西の中間に位置し、多彩な食文化が行き交い、混ざり合う地。そして東西長約155kmという広さの中に驚くべき多様性を秘めた地。

伊豆、静岡、焼津、藤枝、浜松、それに富士山の麓や海沿いの港町。エリアが変わる度にまったく異なる様相を呈する静岡県の食材たち。

今回は、まず徹底的に食材や食文化をリサーチして掘り起こし、そして見つけ出した食材を一流料理人にプレゼンテーションして評価していただく、という二段構えの構成で、静岡県の食材の豊かさをお伝えします。

題して「FIND OUT SHIZUOKA」知られざる静岡の一級食材をフードキュレーターが探し出す。

食材リサーチを担当するのは、宮内隼人と吉岡隆幸というONESTORYの2名のフードキュレーター。
フードキュレーターとは、まだ見ぬ素晴らしい食材を探し日本中を飛び回る食材のプロフェッショナル。ある食材の製法の科学的根拠や土地柄、歴史背景までを紐解きながら、その内に潜む物語を探る探究家。食材と人、食材と食材、人と人を結び、新たな価値を創出する食のプロデューサー。
そして2名とも、過去開催された『DINING OUT』で一流のシェフと食材生産者の間に入り、食材の価値を料理人にわかりやすく伝えていく、いわば翻訳者的な役割もこなしてきました。

そして今回参加する料理人は、昨年末にミシュラン三ツ星を獲得、今もっとも注目を集める『茶禅華』川田智也氏。過去『DINING OUT KUNISAKI』のシェフも担当。食材を徹底的に吟味し、研ぎ澄まされた感性でかつてない中華料理を生み出す川田氏に提案するとあって、2名のフードキュレーターも気合十分です。

さて、2名が今回向かったのは、浜松を含む静岡県中西部エリア。浜名湖の恵み、海の幸、こだわりの豚や鳥など、中華料理に役立ちそうな食材が多い事が予測された為、まずはこのエリアが選定されました。
この食材の宝庫でふたりはどんな生産者と出会い、どんな食材を見つけ出すのでしょうか。そして、発掘した食材を川田シェフはどう見つめ、何を感じ取るのでしょうか。その様子をお伝えします。

Photographs:JIRO OHTANI
Text:NATSUKI SHIGIHARA

(supported by 静岡県)

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「このままでは地域から希望の光が消えてしまう。それはあってはならない」Zenagi/岡部統行

オーナーの岡部統行氏はホテル業界とは無縁の人だが、人の縁に導かれ『Zenagi』を開業。新型コロナウイルスによって苦しい状況が続くも、自らの理念である“100年後の日本を作る”ことに向け、前を向く。

旅の再開は、再会の旅へ。100年後の日本を作ることを考えれば、これも必要なステップなのかもしれない。

長野県木曽郡南木曽町(なぎそまち)。ほぼ岐阜との県境に位置し、人口はわずか4,000人あまり。奥深い山中にあるそこは、「日本で最も美しい村」連合にも認定されており、中山道妻籠宿(つまごじゅく)という江戸時代の風情を色濃く残す古い宿場町でもあります。

そんな日本人すら知る人が少ないこの町へ、実は感度の高い外国人が足繁く訪れていました。
しかし、新型コロナウイルスによって海外の行き来はなくなり、国内の移動においても困難に。自粛や緊急事態宣言によって、人と人のコミュニケーションは遮断され、日常は奪われてしまいました。

「何とか耐えている状況です」。そう切実に語るのは、『Zenagi』の岡部統行氏です。

2019年4月、突如誕生したそこは、世界基準とも言えるハイクラスなホテル。これは高価格という意味だけでなく、文化的な感度の高さを表します。

「オープン以降、世界中の旅行代理店や海外メディアにたくさん来ていただき 何とか“種播き”の1年目を越え、“収穫”の2年目へと向かおうとしている中、新型コロナウイルスの問題が起きました。お客様の7割が欧米からのインバウンドだったこともあり、言葉にできないほど大きな打撃を受けました。自分たちの力ではどうしようもない事態を前に、ただただ無力でした。しかし、そんな中でホテルを支えてくださったのは、日本人のお客様たちでした。今は、リピーターやファンの皆さまに応援をいただきながら、なんとか“耐えている”状況です」。

南木曽町田立(ただち)という、和紙の里でもある棚田の最上部に立つホテルの部屋数は、わずか3室。12名が宿泊人数の上限です。江戸時代後期から明治初期に建てられたという古民家を改装して開業したそこは、単なる古民家ではありません。材木取引などで大きな財を成した豪農が所有していた建物は、内部空間の梁を見るだけで、その贅を尽くした造りに圧倒されます。新設した開口部からは広大な自然を望み、空間には、木曽地方の木材やそれを使用した家具、漆器などの伝統工芸が配されます。上質と文化が交錯する時間は、ここだから体験できる特別。

「新型コロナウイルスの前から考えていた計画なのですが、ホテルを“1日1組限定のプライベート・リゾート”にすることにしました。もともと1組のお客様のために10名近いスタッフが力を合わせて、“最高の休日”を演出することに魅力を感じていました。ご家族やパートナー、友人たちとの“一生の思い出”をご提供差し上げることが我々の仕事だと思っています。先日もリピーターのご家族が来た際、“ここにだけは、新型コロナウイルスでも変わらない素敵な世界がある”と笑顔をいただいたことが心に残っています。また、お客様がホテルやレストランに来られない間にも“お客様とつながる方法”がないか思案する中、わたしたち自身のことを発信できる自社メディアを立ち上げる計画をしています。そこで地元の生産者さんの食材や職人さんの工芸作品などの販売もしていく予定です。いつもお世話になっている地域の方に、わたしたちにできることです」。

苦しい時こそ、自分たちは地域にどんな貢献ができるのか。それは、開業前より、町や人とのつながりを常に大切にしてきた岡部氏だからこそ思うことでもあります。それでも、歯止めなく押し寄せる様々な問題に不安を募らせます。

地域の皆さんが希望を失いかけていると思います。新型コロナウイルス前から地方の衰退はとても激しいものがありました。人口4,000人の消滅可能性都市で毎年50〜100人ずつ人口が減っていくのは、本当に恐ろしいことです。そこに、突然、今回の難局が降りかかり、町の唯一の希望だった観光業が壊滅的な被害を受けています。このままでは、地域から希望の光が消えてしまいそうで、不安でなりません」。

地域にもよりますが、自粛や緊急事態宣言は、人々の生活を大きく変えました。飲食業は時短営業を強いられ、保証や支援があるも、抱えている問題はそれぞれ異なり、一律で解決できない現状もあります。

「ホテルやレストランは、新型コロナウイルスによって一番被害を受けている業界と言われています。私自身、その通りだと実感をしています。しかし、こんな時だからこそ“ホテルやレストランにできること”もあると考えています。ホテルやレストランは、夢や価値観を皆さんと共有できる場所です。コロナ禍によってライフスタイルや価値観が大きく変化する時だからこそ、“新しい夢”、“新しい価値観”を皆さまと共有できる時なのだとも思います。我々の会社の理念は、“100年後の日本を作る”ことにあります。地方の衰退も人口減少もコロナの危機も乗り越え、どんな100年後の日本を夢見るのか? 自分たちが考えていることや日々取り組んでいることを、今後、少しずつでもお伝えしていきたいと思っています」。

100歳時代と謳われる昨今、100年後は近いか遠いか。しかし、ひとつわかることがあるとすれば、その未来のために今何ができるのかを真摯に向き合い、この難局をただの過去で終わらせてはいけないということではないでしょうか。様々な難局を先人たちが生き抜いてきたように。

「こういう時は、近くだけでなく遠くを見ることが大事だと思っています。例え、今は辛くても、100年後の日本を作ることを考えれば、これも必要なステップなのかもしれません。我々は、遠くを夢見て、今日も一歩一歩進んでいきます。一緒に乗り越えましょう! そして、皆様と再会できることを楽しみにしています」。

ライトアップされた『Zenagi』の全景。シルエットになっている山が伊勢山だ。インバウンドへの火付け役とされているのは、2016年にイギリスBBCで放送された『ジョアンナ・ラムレイが見た日本』という番組だった。

現代では到底採れないような材木の柱や梁が巡らされたロビー空間。天井には見飽きることのない静岡の竹細工職人による照明の「光と陰」。

元はお蚕場だった2階が客室に改装されている。眺めが一番良い「松」の間。

妻籠に迫る夕闇。妻籠の風景に欠かせない伊勢山が遠く霞む。『Zenagi』は、山の反対側に位置する17時にはほとんどの店が閉まってしまうが、そこから江戸の風情が湧き上がる。

住所:長野県木曽郡南木曽町田立222  MAP
https://zen-resorts.com/

Text:YUICHI KURAMOCHI

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「自分ではない誰かのために」人を思う心こそが、ものづくりの原動力。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・Restaurant MOTOÏ/京都府京都市]

面識はあったが語り合うのは初めてのふたり。話は深く、心の内にまで及んだ。

MOTOÏ × 堀木エリ子町家、フレンチ、シャンパーニュ。複雑に絡み合う3つの要素。

和紙デザイナー・堀木エリ子さんが『テタンジェ』のトップキュベ「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」のペアリングを体験する「食べるシャンパン」。

今回の舞台は、京都の路地に暖簾を掲げる『Restaurant MOTOÏ』です。

築100年の町家をリノベートした重厚な空間で供される、前田 元シェフのモダンフレンチ。それは空間の品格から想像するよりも自由奔放で、ときにフレンチという枠にさえ収まりきらない独自のスタイル。2012年のオープンから1年を待たずしてミシュランの星を獲得した事実は、このスタイルが単に奇をてらうのではなく、確かな技術とロジックに裏付けられていることの証明かもしれません。

堀木さんの事務所からもほど近く、過去にも何度か訪れたことがあるというこのレストラン。前田シェフは「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」にどのような料理を合わせ、堀木さんはそこに何を見出すのか。

未知なるマリアージュが始まります。

【関連記事】NEW PAIRING OF CHAMPAGNE/深まる「ご縁」、湧き上がる「パッション」。和紙デザイナー・堀木エリ子が体験する「食べるシャンパン」。

窒息させて血をとどめるエトフェという技法で、濃厚な旨味を湛える七谷鴨(ななたにかも)が主役のひと皿。

フレンチのほか、10年に渡る中華料理の経験も持つ前田シェフ。その技法は随所に活かされる。

温度を確かめるのは手。「熱いのですが、集中していると不思議と熱くないんです」と前田シェフ。

MOTOÏ × 堀木エリ子特別な時間を彩る、特別なレストラン。

「以前、友人にこの店で誕生日を祝ってもらったことがあります。その印象もありますが、私にとってここは特別な時に利用する、特別なお店です」。

中庭を臨むテーブルに着き、堀木さんはそう話しはじめました。そして口をつぐみ、しばし店内を見回します。

築100年超、かつて呉服商の邸宅だったというこの空間。庭木がもっとも美しく見えるよう一段下げられた床、重厚な天井を支えるように整然と並ぶ梁、いまや希少な大正ガラスを通し少し波打って見える木々。

京都を拠点に活躍する堀木さんにとって、この新旧が違和感なく調和する空間はきっと馴染み深いものなのでしょう。しばしの無言は決して居心地の悪いものではなく、むしろこの空間に浸っている時間だったのかもしれません。

やがて前田シェフの手で料理が運ばれてきました。

「京都・亀岡の七谷鴨です」という前田シェフの言葉通り、それは上質な鴨肉を余すところなく盛り込んだ一皿。胸肉はロースト、内臓はパテ、モモ肉はミンチにしてコンソメを取り聖護院大根に染み込ませています。添えられたクレソンは、シェフが早朝に清流の中から摘んできたもの。

このコンセプチュアルな料理は、果たしてどのように「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」と響き合うのでしょうか。

中華の技法で取ったコンソメなど、随所に中華料理の経験も持つ前田シェフらしさが光る。

店の考え方を出さず、自由に楽しんでもらうことが前田シェフの信条。

料理に潜ませた山椒や胡椒が「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」と響き合う。

MOTOÏ × 堀木エリ子食べる順序で味わいが変わるひと皿は、「まるで魔法」。

運ばれてきた鴨を口に運んだ堀木さんは、しばし咀嚼し、「おいしい。って当たり前ですけど、やっぱりその言葉が出てしまいますね」と笑います。それから「甘みがあり、臭みははく、鴨の旨味が凝縮されています。つまり、おいしいんです」と付け加えました。

次いで「大根はいわばソース代わりです」という前田シェフの説明を聞き、大根をひと口。

「上品でふくよかな“ソース”ですね。最初に山椒が香り、最後に胡椒の余韻が残る。鴨の旨味がいっそう引き立ちます」と称えました。

そして待ちわびたようにグラスに手を伸ばし、「本当にぴったり。料理の余韻をシャンパーニュが優しく包んでくれるような印象です」と堀木さん。さらに今度はパテを味わい、再びシャンパーニュをひと口。

「今度はシャンパーニュが口の中で弾けます。鴨、大根、パテ。食べる順番を変えるだけで味の感じ方が一変し、続くシャンパーニュの印象も違ってきます。一皿の料理とは思えない、まるで魔法です!」と驚きの表情を浮かべます。

前田シェフは我が意を得たりと微笑み、料理の種明かし。

「“コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008”は、エレガントかつスパイシーという複雑な味わい。そのさまざまな要素を引き出せるよう、料理も皿の中で多様性を持たせました。クレソンは水温が低い今の時期は、ワサビのような辛味がありますので、これで口の中をリセットして多彩な味わい方をお楽しみ頂けます」と複雑な計算が潜んでいることを教えてくれました。

「フランス料理には型があるが、ここにはそれがない。それこそ前田シェフの本質」と堀木さん。

「自分が行かないと嘘になる」と毎朝5時過ぎに市場に通う前田シェフ。

料理と和紙。ジャンルは違うが、ものづくりに挑む姿勢は驚くほど共通していたふたり。

MOTOÏ × 堀木エリ子誰かを思う心が、思いがけない力を生む。

これまでに何度か堀木さんが店を訪れ、互いに面識はあったふたり。実はそれ以前にも、ふたりが交差したタイミングがありました。それは前田シェフがかつて働いた期間限定レストランでのこと。

「レストランとして使っていた空間に、堀木さんの作品が飾られていたんです。光の加減によって見え方が変わる和紙。こんな美しいものを見ながら仕事ができるなんて、と幸せに思っていたことを覚えています」そう振り返る前田シェフ。

「誰かに見てもらうこと、誰かを喜ばせること、それがものづくりの基本ですから、そのお言葉はとてもうれしいです。そして前田シェフもきっと同じなのだと思います。先日“餃子”を食べて確信しました」。

堀木さんが話す「餃子」とは前田シェフが手掛け、2020年11月にオープンしたばかりの新店、その名も『モトイギョーザ』のこと。

「はじめはフレンチの前田シェフが餃子と聞いて驚いたのですが、お話を聞いて納得しました。家族のために家で作っていた餃子が起点なんですね」。

「その通りです。この社会情勢のなかで何かできることはないか、と考えていたときに、前から娘のために作っていた餃子を思い出しました。いつも早朝から仕入れに出かけ、帰るのは深夜。もっと娘の笑顔が見たいと、毎晩、娘の好きな餃子を試作しました。ニンニクを使わず、好物のパクチーとエビを入れて、もちろん無添加で。それが形になったのが『モトイギョーザ』です」と前田シェフ。

誰かのためになら、もっとがんばれる。そんな堀木さんの思いは、目の前のグラスを満たすシャンパーニュにも及びます。

「シャンパーニュも同じですね。十字軍で遠征したエルサレムで兵士が口にしたブドウ酒。それがおいしくて、故郷の皆にも伝えたい、と苗木を持ち帰ったのがシャンパーニュのはじまりですから。自分のためではなく誰かのため。それが思わぬ力を生むのかもしれませんね」。

「京都でやる、イコール京都の文化を伝えていくこと。その部分は大切にしたい」と前田シェフは語った。

空間設計にデザイナーは入れず、すべて前田シェフの思い描いた通りに設えたという。

フランス料理、和紙、シャンパーニュ、町家。どれも伝統を守り、今の時代に合わせて表現し、伝えていくもの。

MOTOÏ × 堀木エリ子なぜ? を考え続けることが次へのステップに。

偶然も必然も含め、幾度も互いの歩みが交差した前田シェフと堀木さん。同じ京都を拠点とし、そしてものづくりに向き合う姿勢にも多くの共通点がありました。

たとえば、今回堀木さんが手掛けた「コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン 2008」のギフトパッケージは、熨斗のように箱を包む形。これは「紙で包むことにより物を浄化して人に差し上げる」という日本古来の文化を取り入れた表現です。

一方、前田シェフのコースに箸を使う料理が登場する際、箸はゲストの正面に横向きに置かれます。これも結界を意味する日本古来の作法。「なぜそうするのか、を常に考えます。他のレストランに行くときも、食材の組み合わせやソースを“なぜ”使っているのか、と考えます」という前田シェフの言葉に、堀木さんも深くうなずきます。

「例えば、居心地の悪い喫茶店があったとして、普通ならもう行かなければ良いだけのことですよね。でも私は友人と話しながら頭の片隅で、“なぜ居心地が悪いのか”を考えてしまうんです。そして“自分だったらこうしてみよう”というアイデアが生まれる。常に考え続けること、それが思いの深さなのでしょう」と堀木さん。

京都という特別な地を舞台にする理由。受け継がれる伝統の捉え方と、その上に成り立つ革新の意味。今の時代を反映し、未来につなげるものづくり。

深く深く掘り下げていく似た者同士のふたりの会話は、まるで自分自身に問いかけているようでもありました。

愛情、おもてなし、思いやり。ふたりの間で多くの言葉が語られたが、その本質はどれも「誰かを思う心」で共通していた。

住所:京都市中京区富小路二条下ル俵屋町186 MAP
TEL:075-231-0709
https://kyoto-motoi.com/

1962年京都生まれ。高校卒業後、4年間の銀行勤務を経て、京都の和紙関連会社に転職。これを機に和紙の世界へと足を踏み入れる。以後、「成田国際空港第一ターミナル」到着ロビーや「東京ミッドタウン」などのパブリックスペース、さらには、旧「そごう心斎橋本店」や「ザ・ペニンシュラ東京」など、デパートやホテルの建築空間に作品を展開。また、「カーネギーホール」(ニューヨーク)での「YO-YOMAチェロコンサート」舞台美術や、「ハノーバー国際博覧会」(ドイツ)に出展した和紙で制作された車「ランタンカー‘螢’」など、様々な分野においても和紙の新しい表現に取り組む。「日本建築美術工芸協会賞」、「インテリアプランニング国土交通大臣賞」、「日本現代藝術奨励賞」、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2003」、「女性起業家大賞」など、受賞歴も多数。近著に『和紙のある空間-堀木エリ子作品集』(エーアンドユー)がある。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけておかけください。
お客様から頂きましたお電話は、内容確認のため録音させて頂いております。
http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/

Photographs:JIRO OHTANI
Text:YUICHI KURAMOCHI

(supported by TAITTINGER)

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「人類は地球を制御できない。今こそ、人類のサイクルから地球のサイクルへ」デザイナー・皆川 明

「コロナ禍において、日常は奪われてしまいましたが、一方で何気ない日常の有り難さを再考できました」と皆川 明氏。Photograph:Shoji Onuma

皆川 明 インタビュー不思議な時間の中、もの作りは進んでいった。

「このシーズンは、私たちにとって不思議な時間の中でものづくりが進んでいきました。今在る不安はどこまで続くのか、それはどのように晴れていくのか。その中で浮かぶ風景は雲の合間から、刺す光の景色や生き物が微かに、しかし途切れることのない繋がりを持つようなイメージでした。そして過去の様々な困難を乗り越えてきたこと、それが次の世界へと繋がる扉であることを信じる気持ちが湧いてきました。デザインは、マイナスの要因がある時こそ大切な拠り所になりたいと思います。このシーズンが皆さまの日々の暮らしの新しい喜びのひとかけらとなることを願いながら」。

この言葉は、『minä perhonen(ミナ ペルホネン)』が「2021 Spring/Summer Collection after rainを発表した際に添えられたメッセージでデザイナーの皆川明氏が書いたものです。

その「不思議な時間」を指す主は、新型コロナウイルスによる様々な変化。

今なお、その渦中にありますが、この難局をただの難局だったという過去にしてはいけません。

「after rain」……、止まない雨はない。雨上がりの先には、一体どんな景色が待っているのか。

皆川氏と共に、考えていきたいと思います。

「2021 Spring/Summer Collection after rain」より。自然に溶け込むテキスタイルやデザイン、柔らかな質感が美しい。Photographs:Hua Wang Hair & Make-up:Yoshikazu Miyamoto Model left:Marianna Seki Model right:Kamimila

皆川 明 インタビューゼロイチだけではない。イチ以降も蓄積されるデザイン。

『ミナ ペルホネン』の特徴は、オリジナルの図案によるファブリックを作るところから服作りを進めることにあり、その表現はファッションの領域を超え、多岐にわたります。

インテリアでは、アルヴァ・アアルトやハンス J・ウェグナー、アルネ・ヤコブセンなどが手がける名作家具とのコラボレーションを発表。坂倉準三や柳宗理、剣持勇などで知られる『天童木工』やジョージ・ナカシマで知られる『桜製作所』では、椅子などのデザインを自ら手掛けます。そのほか、デンマークの『Kvadrat(クヴァドラ)』、スウェーデンの『KLIPPAN(クリッパン)』といったテキスタイルブランドやイタリアの陶磁器ブランド『GINORI 1735 (リジノ1735)』へのデザイン提供、テーブルウェアや雑貨のデザイン、新聞や雑誌の挿画の制作、更には、香川県豊島の一日一組の宿『UMITOTA(ウミトタ)』ではディレクションを担います。

その全てのデザインを可能にするのは、前述にある「ファブリックを作るところから服作りを進める」哲学にあると思います。つまり、ゼロからの創造です。しかし、それだけではないのが『ミナ ペルホネン』。

例えば、一般的なファッションブランドは、各年の春夏・秋冬の発表からシーズン後のセールという定常に対し、『ミナ ペルホネン』は同じデザインの服を何年も作り続けています。また、皆川氏が手掛けた『金沢21世紀美術館』のスタッフユニフォームにはパッチワークを採用。その理由に「穴が空いたり破れたりしても補修が目立たず、長く着ることができるデザインを考えました」と話します。ゼロイチから創造されたものは、イチ以降も蓄積を重ね、歳と共に生きていきます。いや、それ以上かもしれません。なぜなら、「ものは人の命よりも遥かに長く生き続けるから」です。

昨今、サスティナブルという言葉が市民権を得ましたが、皆川氏は、もっと以前より、その思考を持って『ミナ ペルホネン』をスタートしていたのです。

『Fritz Hansen(フリッツ・ハンセン)』社により作られている「Series 7」の60周年を記念して誕生したラインナップ。アルネ・ヤコブセンが「Series 7」のために選んだ色から皆川氏がインスピレーションを得て、経年変化を楽しめるテキスタイル「-dop-」から6色を選択。パッチワークにて仕上げた作品。Photograph:Kotaro Tanaka

桜製作所と共に製作した「lotus stool」。「公園の池に揺られる背の高い蓮からインスピレーションを受け作りました」と皆川氏。Photograph:Koji Honda

デンマークの『クヴァドラ』(左)やスウェーデンの『クリッパン』(右)にもテキスタイルデザインを提供。Photograph left:Patricia Parinejad

香川県豊島の一日一組の宿『ウミトタ』では、ディレクションを担う。『ミナ ペルホネン』のテキスタイルに囲まれて過ごす時間は、より一層特別な宿泊体験となるだろう。設計は、『シンプリティ』の緒方慎一郎氏が手がける。Photograph:L . A . TOMARI

皆川 明 インタビュー
天然資源には限りがある。地球の循環を理解し、100年先も「つづく」社会へ。

『ミナ ペルホネン』の前身となる『ミナ』を創設したのは1995年。「せめて100年つづくブランドに」という思いから始まったその歩みは、2020年に25周年を迎えました。2019年11月16日から2020年2月16日まで『東京都現代美術館』にて開催された『ミナ ペルホネン/皆川明 つづく』は、その集大成と言って良いでしょう。

その会期終了間際に世界を震撼させたのが新型コロナウイルスだったのです。「まさかこんなことになるなんて……」。今なお「つづく」誰もが予想しなかった難局と同年に周年を迎えた『ミナ ペルホネン』は、今後、どう「つづく」のか。

同展覧会にはこれまでの歩みも年表として描かれ、その最後は、創設から100年先の2095年という未来に向けられています。その項目には、「過ぎた100年を根としてこれからの100年を続けたい」というメッセージが綴られていました。

人類は、新型コロナウイルスから何かを学び、それを根にできるのか。そして、100年後には、どんな世界が続いているのか。

「ものを作るということは、それを伝えるということまでを含んでおり、その伝えるという方法が新型コロナウイルス後は大きく変化したと思います。それについては、新たな方法を考える喜びになっています。生活は、海外への渡航がなくなり、未知の土地や文化の体験ができないようにも感じていましたが、身近な人との新たな関係や日々の小さな要素からの気づきが増えたと思います。どんなに世界が変わってしまっても、大切なことは変わりません。デザインによって暮らしの喜びは生まれ、そこから更に生まれる記憶が人生に幸福感をもたらすと信じています」。

消費するものではなく、生産するもの。
作る先にある、直すことまで目を向ける。

ある意味、人類は地球を支配してしまったのかもしれません。いや、支配できたと勘違いしてしまったのかもしれません。

それに気づきを与えたのが、新型コロナウイルスだったのではないでしょうか。

これから人類は、どう生きるべきか。

「地球の変化に耳を傾け、人間の作ったサイクルを地球全体のサイクルと整合させていく必要があると思います。それには、肥大した欲の制御と本質的な幸福感への理解が必要されるのではないでしょうか」。

2019年11月16日から2020年2月16日まで『東京都現代美術館』にて開催された『ミナ ペルホネン/皆川明 つづく』は、『ミナ ペルホネン』と皆川氏の集大成とも言える展覧会。テキスタイル、ファッション、インテリアなど、ありとあらゆる作品が一堂に会した。写真は、2020年7月30日から11月8日まで『兵庫県立美術館』にて開催された特別展『ミナ ペルホネン/皆川明 つづく』の「雲セクション」展示風景。Photograph:L . A . TOMARI

産地、手仕事、職人を大切にしている『ミナ ペルホネン』。どんなにテクノロジーが発達しても、丁寧なもの作りに勝るものはない。Photograph:L . A . TOMARI

皆川 明 インタビュー
全世界が同時に恐怖を知った。その真実を人類は生かさなければいけない。

新型コロナウイルスの特徴は数あれど、人類が迎えた難局の特徴はひとつ。それは、この問題が世界同時に発生したということです。日本のみ、アジアのみ、アメリカのみ、ヨーロッパのみなど、ある特定の国や地域で発生する件であれば、これまでもしかり、今後も可能性としてはありうると思います。しかし、全世界が同時に恐怖を知る難局は、これからの事例としても稀有なのではないでしょうか。

「全世界、同時に問題が発生したことを人類は未来に生かさなければいけないと思います。人類は地球をコントロールできるという認識を改め、経済性グローバリズムの次の世界を見つける機会と捉えるべきだと思います」。

地球環境は、ファッションとは切り離せない世界。コットンやリネン、ウールなど、原料となるほとんどは、自然から生まれます。

「多くの天然素材が使われるファッションは、その原料となる自然物を保護し、その環境を守りながら利用させていただかなければいけません。それは量だけではなく、生態系のバランスへの配慮も必要です。生産量は、許容される範囲に絞り、経済合理性による環境破壊をしてはいけません」。

人の活動停止により、自然は生命力が漲りました。澄んだ空気、透き通る海や運河、希少な生き物における繁殖率の増加など、世界各地で好転現象は見られています。皮肉なことに、新型コロナウイルスによって窮地に立たされているのは、人類のみ。

一方、コミュニケーションのためにテクノロジーの進化を加速させました。SNSやオンラインなどは、その好例ですが、同時に進化するスピードに使い手は追いつけず、モラルや道徳心も必要とされます。

「テクノロジーを正しく取り入れることにより、人と人をつなぎ、互いのプラスをつなぎ、より良い社会は創造できると思います。例えば、デザイナー、製造業、職人を適正にするシステムを世界的につなぐことができれば、人の特性をより生かし、テクノロジーが人を生かす社会も作れると思います」。

もちろん、そこには想いや心、愛は必要不可欠であり、いつの時代においても普遍的な価値は命から生まれます。

「デザインとは、作り手において作るという喜びを、使い手において使うという喜びを、同時に創造する行為だと思います。それが自分にとってのデザインです。コロナ禍において、日常は奪われてしまいましたが、一方で何気ない日常の有り難さを再考できました。何のために活動し続けるのか、表現し続けるのか、その先にあるものは何か……。色々、考えるきっかけにもなりました。自分は、喜びの循環と物質的循環の両輪を思考し、具体化することをデザインで表現したい。その先には、経済的価値から生きることの意味に向き合う未来があると信じているからです」。

1967年生まれ。1995年に『minä perhonen(ミナ ペルホネン)』の前身である『minä』を設立。ハンドドローイングを主とする手作業の図案によるテキスタイルデザインを中心に、衣服をはじめ、家具や器、店舗や宿の空間ディレクションなど、日常に寄り添うデザイン活動を行っている。デンマークの『Kvadrat(クヴァドラ)』、スウェーデン『KLIPPAN(クリッパン)』などのテキスタイルブランド、イタリアの陶磁器ブランド『GINORI 1735 (リジノ1735)』へのデザイン提供、新聞・雑誌の挿画なども手掛ける。
https://www.mina-perhonen.jp
 
Text:YUICHI KIRAMOCHI

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