海外ブランドに学ぶ、ジーンズの格上げスタイル【2022-23年秋冬トレンド】

 デニムの勢いが増しています。さまざまなシルエットや加工デニムが登場して選択肢が広がっていますが、大人が取り入れやすいのはビンテージ風のタイプ。デニムにありがちな“普段着感”“ストリート系”とはひと味違うスタイリングで格上げしたいところ。そんな着こなしのお手本として、ハイブランドの2022-23年秋冬ルックが新発想のコーディネートに導いてくれそうです。

 例えば、「バレンシアガ(BALENCIAGA)」は、ハイライズのゆったりしたジーンズをランウエイに送り出しました。ジーンズをタンクトップにした異形のトップスと合わせて、見慣れたデニムの上下コンビネーションにサプライズを仕掛けました。今回は、残暑のうちから取り入れたくなるような、意外性のあるデニムコーデをピックアップしました。

すっきりセンシュアルな
“ダメージ加工×セカンドスキン”

 ダメージ加工を施したジーンズは、ストリートなムードが出やすいボトムスです。大人っぽく着こなす鍵は、トップスで上品テイストを添えること。“ダメージ×きれいめ”のミックスが効果的です。

 「ジバンシィ(GIVENCHY)」は、ダメージ加工をしっかり施したジーンズに、コンパクトな白トップスをチョイス。ポイントは、タイトなシルエットのトップスを選んだ点。体にぴったり沿う“セカンドスキン”のトップスが、センシュアルなムードを醸し出しています。どこか近未来的なサングラスもデニムの格上げに効果的です。

デニム on デニムは
ボリュームのコントラストを強調

 上下デニムのセットアップは、まとまりが出やすく、支持の高いスタイリングのひとつ。上下のボリュームをずらすと、見た目の印象に新しさを添えてくれます。

 「ディーゼル(DIESEL)」のデニムonデニムは、裾がほつれたディテールが目を引きます。ほつれ具合が、切りっぱなしより変化に富んでいます。ショート丈のジャケットの裾下からのチラ腹見せでトレンドを演出。コンパクトなジャケットと、ゆったりしたジーンズが醸し出すボリュームのコントラストが動きを加えています。上下のアンバランスさが、鮮度を加えてくれました。

ワイドジーンズとレイヤードで
ボヘミアンスタイルに

 たっぷりしたシルエットのワイドジーンズは締め付けられないので、気楽にまとえます。全体をボヘミアンテイストに整えれば、のどかな見え具合になり、コージーなスタイリングにぴったりです。

 ヒッピーとハイストリートのミックスに仕上げたのは、「ディースクエアード(DSQUARED2)」。キーアイテムは、ワイドジーンズ。ローブ風のロング丈のアウターを重ねて、落ち感を引き出しました。主張の強いネックレスも合わせて、ボヘミアン気分を濃厚に。ヘルシーなチラ腹見せを生かした、往年のロックスターを思わせるたたずまいに仕上がりました。

シンプル×個性派は
デニムルックでも鉄板

 シンプルなジーンズは、主張が強いトップスと合わせてインパクトを加えれば、個性を帯びた着こなしにまとまります。

 「ミッソーニ(MISSONI)」は、さわやかな表情の色落ちジーンズを披露。適度なビンテージ感があり、きれいめに着こなしたい人向きのボトムスです。「ミッソーニ」ならではのジグザグ模様のニットトップスをウエストインして、すっきりとコーディネート。ハートバックルのベルトも相まり、どこか70年代を思わせるムードに。足元からのぞくウエスタンブーツでさりげなく強さも主張しています。

グラマラスな大人ストリートは
ビジュー使いがポイント

 ジーンズ特有の見慣れた印象を変えるには、リッチなアクセサリーやビジューを生かす手があります。デニムとキラキラしたディテールが響き合い、意外な表情を生み出します。

 「MSGM」は、ビンテージ風ジーンズの前面にビジューをたっぷりあしらいました。流れ落ちるようなキラキラしたパーツがリュクスな雰囲気を際立たせ、ボトムス1着でストリートラグジュアリーを表現できます。さらに、スエットパーカを合わせることで、気負わないリラックスしたムードも投入。黄色のポインテッドトーのシューズも、差し色効果を発揮しています。

 ビンテージ風ジーンズの新しい着こなしでは、これまでとはひと味違う相性を試すスタイリングが決め手に。ボリュームやレイヤード、ビジュー使いなどのバリエーションが、ジーンズから別の表情を引き出します。デニムブームが続いているだけに、愛着の1本に新しいスタイルを楽しんでみませんか。


その他のコーデもチェック!

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30〜40代の関心高まるグレイヘアの売れ筋&トレンド

 30代、40代の女性を中心に、白髪を暗く染めるのではなく、白髪の周りの髪をブリーチで明るくして白髪と同化させる「脱白髪染め(白髪ぼかし)」が人気を集めている。また、セルフカラーリングをできるカラートリートメント、ヘアマニキュアの売れ筋も好調のようだ。「サイオス(SYOSS)」を展開するヘンケルジャパン、「ルプルプ(LPLP)」を展開するスタ―ジュ、「綺和美(KIWABI)」を展開するスリーエムに商況を聞いた。

―――6月のカラートリートメントカテゴリーの売れ行きは?

ヘンケルジャパン:「サイオス」“カラートリートメント”(180g、税込877円※編集部調べ)は、今年春レディースの新色追加、並びにフォーメンシリーズの新発売も功を奏し、前年比を上回る売り上げとなっている。(PR緒方亜希氏回答、以下同)

スタージュ:6月は、弊社の定めた目標値に対して約120%を達成した。(PR植田佳代子氏回答、以下同)

スリーエム:2022年上半期の売り上げは、昨対比91%増と好調に推移している。(田村尚久スリーエム代表取締役回答、以下同)

――― いちばん人気のカラーは?

スタージュ:“ルプルプ エッセンス カラートリートメント アッシュブラウン”(170g、税込3630円)が販売と同時に、カラー別売り上げ構成比1位となった。

スリーエム:“ROOT VANISH 白髪染めカラートリートメント ダークブラウン”(150g、税込5478円)は、22種類の天然植物由来エキスを使用し、ヘアケアしながら白髪染めができると好評だ。ダークブラウンは肌に馴染みがよく、失敗しにくいと言える。また、白髪染め初心者にオススメのカラーだ。

ヘンケルジャパン:「サイオス」“カラートリートメント ダークブラウン”(180g、税込877円※編集部調べ)だ。女性の約7割の方がヘアカラーをしているというデータもあり、根元のリタッチとして使用する場合、最もなじみやすい色。全体的にカラーリングする場合でも、少しブラウンがかった色味の方が、自然な仕上がりになるところも人気の要因だ。

――― グレイヘアへの関心の高まりから、30〜40代のカラートリートメント購入者も増えていると聞く。顧客は、世代別ではどのような分布になっている?

ヘンケルジャパン:2021年12月末 SOO ID POSデータによれば、“サイオス カラートリートメント”購入者のうち、30代、40代が約40%を占めている。ちなみに50代は約37%だ。30代、40代は白髪染めとファッションカラーのはざまで悩む年代だと思う。また、白髪悩みは顕在化しているものの、「美容室で白髪染めするほどでもない」「美容室で白髪染めするのは恥ずかしい」「美容室の次回来店までに、白髪に対応処置しなければ」という気持ちも持ち合わせており、ホームケアで何とかしようという心理が働いているのも一因だと考えている。

スタージュ:30代は5.4%、40代は32.3%だ。

スリーエム:“白髪染めカラートリートメント”の購入者は、20代は2.5%、30代が22%、40代が42%、50代は25%、60代は8.5%だ。また、男女比は男性27%、女性73%となっている。

――― グレイヘアにまつわるトレンドの兆候は?

ヘンケルジャパン:男性の美容意識の向上から、白髪ケアに対する意識も上がっている。3月にブランド初となる男性向けの「サイオス」“カラートリートメントFORMEN”(180g、税込935円※編集部調べ)を発売し、発売から3か月で年間の配荷目標を達成し売り上げも順調に伸びている。“FORMEN”はもともと高めの目標設定だったにも関わらず、6月時点で前年比12.7%増の達成率、「サイオス」全体では前年同月比24.9%増となっている。

スタージュ: “ルプルプ エッセンス カラートリートメント アッシュブラウン”(170g、税込3630円)の特徴は、従来の白髪染め=暗いという概念を覆す、白髪を活かす抜け感のある色合いだ。この人気ぶりから、ただ白髪を染めるのではなく、染めると同時にグレイヘアを前向きに楽しむものへと変化しているのではないかと思う。

スリーエム:日本でも、頭皮・髪の毛の痛みを気にしてナチュラルなケアに移行する人、「白髪=老い」という固定概念に縛られることなく、自分らしさの一つとして受け入れる人が増えている印象だ。ただし、ナチュラル=グレイヘア=ほったからし、と誤解している顧客もいるので、美しいグレイヘアを保つには適切なケアが必要だと伝えたい。

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30〜40代の関心高まるグレイヘアの売れ筋&トレンド

 30代、40代の女性を中心に、白髪を暗く染めるのではなく、白髪の周りの髪をブリーチで明るくして白髪と同化させる「脱白髪染め(白髪ぼかし)」が人気を集めている。また、セルフカラーリングをできるカラートリートメント、ヘアマニキュアの売れ筋も好調のようだ。「サイオス(SYOSS)」を展開するヘンケルジャパン、「ルプルプ(LPLP)」を展開するスタ―ジュ、「綺和美(KIWABI)」を展開するスリーエムに商況を聞いた。

―――6月のカラートリートメントカテゴリーの売れ行きは?

ヘンケルジャパン:「サイオス」“カラートリートメント”(180g、税込877円※編集部調べ)は、今年春レディースの新色追加、並びにフォーメンシリーズの新発売も功を奏し、前年比を上回る売り上げとなっている。(PR緒方亜希氏回答、以下同)

スタージュ:6月は、弊社の定めた目標値に対して約120%を達成した。(PR植田佳代子氏回答、以下同)

スリーエム:2022年上半期の売り上げは、昨対比91%増と好調に推移している。(田村尚久スリーエム代表取締役回答、以下同)

――― いちばん人気のカラーは?

スタージュ:“ルプルプ エッセンス カラートリートメント アッシュブラウン”(170g、税込3630円)が販売と同時に、カラー別売り上げ構成比1位となった。

スリーエム:“ROOT VANISH 白髪染めカラートリートメント ダークブラウン”(150g、税込5478円)は、22種類の天然植物由来エキスを使用し、ヘアケアしながら白髪染めができると好評だ。ダークブラウンは肌に馴染みがよく、失敗しにくいと言える。また、白髪染め初心者にオススメのカラーだ。

ヘンケルジャパン:「サイオス」“カラートリートメント ダークブラウン”(180g、税込877円※編集部調べ)だ。女性の約7割の方がヘアカラーをしているというデータもあり、根元のリタッチとして使用する場合、最もなじみやすい色。全体的にカラーリングする場合でも、少しブラウンがかった色味の方が、自然な仕上がりになるところも人気の要因だ。

――― グレイヘアへの関心の高まりから、30〜40代のカラートリートメント購入者も増えていると聞く。顧客は、世代別ではどのような分布になっている?

ヘンケルジャパン:2021年12月末 SOO ID POSデータによれば、“サイオス カラートリートメント”購入者のうち、30代、40代が約40%を占めている。ちなみに50代は約37%だ。30代、40代は白髪染めとファッションカラーのはざまで悩む年代だと思う。また、白髪悩みは顕在化しているものの、「美容室で白髪染めするほどでもない」「美容室で白髪染めするのは恥ずかしい」「美容室の次回来店までに、白髪に対応処置しなければ」という気持ちも持ち合わせており、ホームケアで何とかしようという心理が働いているのも一因だと考えている。

スタージュ:30代は5.4%、40代は32.3%だ。

スリーエム:“白髪染めカラートリートメント”の購入者は、20代は2.5%、30代が22%、40代が42%、50代は25%、60代は8.5%だ。また、男女比は男性27%、女性73%となっている。

――― グレイヘアにまつわるトレンドの兆候は?

ヘンケルジャパン:男性の美容意識の向上から、白髪ケアに対する意識も上がっている。3月にブランド初となる男性向けの「サイオス」“カラートリートメントFORMEN”(180g、税込935円※編集部調べ)を発売し、発売から3か月で年間の配荷目標を達成し売り上げも順調に伸びている。“FORMEN”はもともと高めの目標設定だったにも関わらず、6月時点で前年比12.7%増の達成率、「サイオス」全体では前年同月比24.9%増となっている。

スタージュ: “ルプルプ エッセンス カラートリートメント アッシュブラウン”(170g、税込3630円)の特徴は、従来の白髪染め=暗いという概念を覆す、白髪を活かす抜け感のある色合いだ。この人気ぶりから、ただ白髪を染めるのではなく、染めると同時にグレイヘアを前向きに楽しむものへと変化しているのではないかと思う。

スリーエム:日本でも、頭皮・髪の毛の痛みを気にしてナチュラルなケアに移行する人、「白髪=老い」という固定概念に縛られることなく、自分らしさの一つとして受け入れる人が増えている印象だ。ただし、ナチュラル=グレイヘア=ほったからし、と誤解している顧客もいるので、美しいグレイヘアを保つには適切なケアが必要だと伝えたい。

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【追悼 三宅一生】「イッセイ ミヤケ」のパリコレでの立ち位置は特異だった 技術革新とクラフト、身体性。そのデザイン哲学を振り返る

 デザイナー三宅一生の訃報を受け、世界中の人がSNSなどで哀悼のメッセージを発信している。フランスの元文化大臣ジャック・ラング(Jack Lang)氏はインスタグラムで即日、「イッセイは神聖な宝物だった。今朝、私は永遠にやるせない気持ちでいっぱいだ」と哀悼の意を表した。三宅が、日本のみならず世界において、時代を代表するデザイナーの一人であったことを改めて知る言葉だ。彼の物づくりに対する姿勢、哲学は、ファッション業界のみならずデザイン、アートの世界に広く影響を与えてきた。

プレタポルテ黎明期に始まったキャリア

 若き三宅一生はグラフィックデザイナーとして多摩美術大学を卒業後、1965年にパリに渡りオートクチュールを学び、ギ・ラロッシュ(Guy Laroche)やユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)の元でキャリアをスタートした。それは、ファッションの主流がオートクチュールからプレタポルテへと移行する転換期のこと。三宅は森英恵と並びオートクチュールの文化を肌で知る数少ない日本のファッションデザイナーであり、髙田賢三と並び日本発プレタポルテの道を世界へ開く開拓者となった。その転換期に立ち会ったことは彼のデザイナー人生に大きな影響を与えた。

 2007年のインタビューで、三宅は米国版WWDに「私はオートクチュールを学び、それは私にとって非常に良い教育だったが、彼らはすでにそれを完成させており、私はそれを超えることができなかった。何か、ヨーロッパのファッションとは違う新しい何かを考えなければならなかった」と語っている。「服を作るにはスケッチをして、布があって、切って、縫って、それで服になると思われている。それはいい方法だけど、伝統的な方法だ。少し反抗的かもしれないけれど、“別の方法”を見つけるのは楽しいよ」とも。「新しい何か」。それは三宅が一生をかけて追いかけるもの作りのテーマとなっていった。

技術革新が生む“新しさ”

 イッセイミヤケ社は自社の考え方を説明する際にたびたび“1本の糸、一枚の布”という言葉を使う。“1本の糸、一枚の布”から始まる服作りは、従来のオートクチュール型とは根底から発想が異なる“別の方法”。それを初期から支えたのが日本の合繊の技術革新だ。

 1970~80年代の日本は合繊メーカーの飛躍の時にあり、三宅も東レなどをパートナーに最新技術を用いたポリエステルやナイロンといった素材を用い、天然素材が主流だったマーケットに“新”を投げかけた。それが後の大ヒット商品「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)」誕生へとつながる。「1枚の布を切らずに形を作る」そんな無理難題をあえて自らに課し、イノベーションの力を借りたことでポリエステルの製品プリーツの服が生まれたと言っても過言ではない。プリーツにより、どんな体型であっても体にピッタリで、しかも体の凹凸を強調することもない。いわば万人のためのオートクチュールの誕生だ。

 技術革新は“新”を生み出すためのパートナー。その姿勢は生涯続き、後進にも受け継がれている。2000年に藤原大と誕生させた工業用編み機にコンピューター技術を組み合わせて生み出される「エイポック (A-POC)」、10年に「再生・再創造」という考え方を集約し、改良を重ねて開発した再生ポリエステル生地などを用いて立ち上げた「132 5. イッセイ ミヤケ(132 5. ISSEY MIYAKE)」、21年に始動した「エイポック エイブル イッセイ ミヤケ(A-POC ABLE ISSEY MIYAKE)」。次々送り出す新ラインの多くがモノづくりの技術革新と研究者、職人たちの切磋琢磨で生まれてきた。

クラフトへの情熱、東北への思い

 訃報に寄せて英国のデザイナー、ジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)がインスタグラムに投稿した写真と言葉がとても印象的だ。彼は英国を代表する陶芸家ルーシー・リィ( Lucie Rie)と三宅の2ショット写真をあげ「彼のクラフトとテクノロジーへの取り組みは、私たちのファッションの見方を変えた」とコメントしている。クラフトに造詣が深いジョナサンのこの発言は、三宅の仕事にクラフト、生活工芸という重要な要素があったことを改めて教えてくれる。ルーシーは三宅にとって憧れの存在であり、84年に彼女を訪れて以降交流を深め、「イッセイ ミヤケ」1989-90年秋冬コレクションでは彼女のボタンを使った服を発表し、同年日本で「現代イギリス陶芸家 ルゥーシー・リィー展」を企画・監修し96点の作品を紹介している。

 三宅のクラフトへの着目は、キャリアの早い段階から始まっており、襤褸(ぼろ)や割烹着といった日本の民衆の仕事着からヒントを得てデザインを展開することがよくあった。特に東方地方の伝統技術や民藝への思いは深かった。そこには一般の人々の日常生活、労働に対する静かで深い畏敬の念のようなものが見てとれる。

 2011年夏、3月11日の東日本大震災からわずか4ヶ月後に三宅は「東北の底力、心と光」と題した展覧会を東京・六本木の21_21デザインサイト(21_21 DESIGN SIGHT)で開催する。「厳しい自然と共存し、長い歴史に磨かれた手仕事で力強い日用品を生み出してきた東北の人々」のために立ち上がったのだ。会場には、白石和紙、シナ布、津軽こぎん刺し、裂織(さきおり)、ホームスパン、草木染め、ニット技術といった手仕事の数々をそろえた。「東北へ、デザインの旅」と題したメッセージの中で三宅は、「東北各地に息づくものづくりの奥深い伝統と優秀な技術は、日本と世界をリードする質の高さを誇っている」と語っている。

 震災とそれに続く原発事故は多くの人にとって日常を、そして粘り強く受け継いできた技術や文化を一瞬にして「無」としかねない絶望であり恐怖であった。被爆者でもある三宅の心の内を知る術はないが、長い年月をかけて育まれ、土着してきた手仕事を「無」にすることは三宅にとっては到底耐え難いことだったに違いない。「絶やすまい」。同展のスピード開催からは三宅の強い思いが受け取れる。

 クラフトへの関心はもちろん、単なる懐古主義などではない。そして美術館に飾られるアートでもない。生活に根ざすものだ。1968年にパリで5月革命と遭遇し、既存の権威主義に抗議する若者の情熱に触れ「Tシャツやジーンズのような普遍的な服を作りたい」と心に決めたという三宅は、その後も一貫して生活の中の衣服、その進化を追い求めた。1980年代初めのインタビューの中に「僕の家の近くにコインランドリーがあり、一日中動いている。これからはあそこで洗われていく服も作っていく」という一言が見つかる。洗濯機で洗える、時代に即して進化した生活者の服。そこには、襤褸(ぼろ)と技術革新という一見すると相反する2つを一本の線上につなげるデザイナーの哲学を見る。

パリコレの中で独特のポジション。身体性と多様性

 三宅の仕事を振り返ると、随所に彼をインスパイアし、彼にインスパイアされる写真家、建築家、アートディレクター、そして芸術家の名前があがる。イサムノグチ、安藤忠雄、横尾忠則、村越襄、田中一光、そしてアーヴィング・ペン(Irving Penn)。あくまでビジネスに立脚しつつ次の時代を見据えて新しい服作りを模索してきた三宅にとって芸術家の存在は羅針盤であり同志だったのではないだろうか。

 その模索を具現化して見せるのがパリコレだが、「イッセイ ミヤケ」のショーは、パリコレの中でも独特のポジションにあった。モデルはいるがランウエイショーというよりもモダンアートのパフォーマンスのようであり、穏やかで、清潔な美術館で過ごす時間に似ていた。それは後進の滝沢直己、藤原大、宮前義之、近藤悟史、 「イッセイ ミヤケ メン(ISSEY MIYAKE MEN)」の高橋悠介が引き継いだときも変わらなかった。

 三宅にとってモデルを起用してのファッションショーという形式が大切だったのは、ステータス感の演出といった理由ではなく、「身体性」「多様性」を伝えるのに有効な手段だったからではないだろうか。

 「プリーツ プリーズ」誕生のひとつのきっかけは、91年にウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)率いるフランクフルト・バレエ団の衣装をニットでデザインしたことだと聞く。93年には、同バレエ団のダンサーをモデルに起用し、プリーツの服を披露した(文頭写真)。ダンサーの動きを制約することなく、そのパフォーマンスの魅力を引き出す服。衣服により体をパッケージするのではなく、その逆、解放し自然と対話する服だ。男女のモデルが飛び跳ね踊るその場に立ち会ったならきっと、命があり身体があり動けること、生への喜びを受け取ったに違いない。

 多様性については、それが声高に言われるようになるずっと前から、ごく自然にクリエイションと一体だった。様々な肌の色のモデルを起用し、彼らが手をつなぎ笑顔で歩くシーンもよく見られた。1976年に「三宅一生と12人の黒い女たち」と題したファッションショーを西武劇場で開いていたことには驚かされる。石岡瑛子がアートディレクションを手がけ、モデルには12人の黒人女性だけを起用している。また、日本の婦人・労働運動の草分け的存在である市川房江が「アサヒグラフ」1974年10月1日号の表紙を飾ったとき、彼女が着ていた服が「イッセイ ミヤケ」だったことも付け加えておきたい。

 パリコレというビジネスの場所は権威主義的な側面も強いが、同時に“新しいデザイン”に対しては、無条件で賞賛を送る。「イッセイ ミヤケ」がパリコレの中で特異だったのは、“新しいデザイン”を送り出し続けたからに他ならない。

 半世紀近いキャリアの中で、三宅と関わった人は、何千人、何万人といるだろう。彼らは自らを「ガキ大将」と称した三宅から薫陶を受けつつ、多くの苦悩、苦々しい瞬間もあったに違いない。ビジネス的には何度か困窮しその都度「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」や「バオ バオ イッセイ ミヤケ(BAO BAO ISSEY MIYAKE)」といったヒット商品が生まれ続いてきたと聞く。ファッションビジネスは結局水物、である。同時に執念を持って自身の哲学を貫き周囲を巻き込むことで続いてゆくもの、でもある。三宅の哲学を引き継いだ後進たちが時代の中で立ち止まることなく、未来の物づくりを模索し続けることで“イッセイさん”の意志を未来へつなげることを願う。

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【追悼 三宅一生】「イッセイ ミヤケ」のパリコレでの立ち位置は特異だった 技術革新とクラフト、身体性。そのデザイン哲学を振り返る

 デザイナー三宅一生の訃報を受け、世界中の人がSNSなどで哀悼のメッセージを発信している。フランスの元文化大臣ジャック・ラング(Jack Lang)氏はインスタグラムで即日、「イッセイは神聖な宝物だった。今朝、私は永遠にやるせない気持ちでいっぱいだ」と哀悼の意を表した。三宅が、日本のみならず世界において、時代を代表するデザイナーの一人であったことを改めて知る言葉だ。彼の物づくりに対する姿勢、哲学は、ファッション業界のみならずデザイン、アートの世界に広く影響を与えてきた。

プレタポルテ黎明期に始まったキャリア

 若き三宅一生はグラフィックデザイナーとして多摩美術大学を卒業後、1965年にパリに渡りオートクチュールを学び、ギ・ラロッシュ(Guy Laroche)やユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)の元でキャリアをスタートした。それは、ファッションの主流がオートクチュールからプレタポルテへと移行する転換期のこと。三宅は森英恵と並びオートクチュールの文化を肌で知る数少ない日本のファッションデザイナーであり、髙田賢三と並び日本発プレタポルテの道を世界へ開く開拓者となった。その転換期に立ち会ったことは彼のデザイナー人生に大きな影響を与えた。

 2007年のインタビューで、三宅は米国版WWDに「私はオートクチュールを学び、それは私にとって非常に良い教育だったが、彼らはすでにそれを完成させており、私はそれを超えることができなかった。何か、ヨーロッパのファッションとは違う新しい何かを考えなければならなかった」と語っている。「服を作るにはスケッチをして、布があって、切って、縫って、それで服になると思われている。それはいい方法だけど、伝統的な方法だ。少し反抗的かもしれないけれど、“別の方法”を見つけるのは楽しいよ」とも。「新しい何か」。それは三宅が一生をかけて追いかけるもの作りのテーマとなっていった。

技術革新が生む“新しさ”

 イッセイミヤケ社は自社の考え方を説明する際にたびたび“1本の糸、一枚の布”という言葉を使う。“1本の糸、一枚の布”から始まる服作りは、従来のオートクチュール型とは根底から発想が異なる“別の方法”。それを初期から支えたのが日本の合繊の技術革新だ。

 1970~80年代の日本は合繊メーカーの飛躍の時にあり、三宅も東レなどをパートナーに最新技術を用いたポリエステルやナイロンといった素材を用い、天然素材が主流だったマーケットに“新”を投げかけた。それが後の大ヒット商品「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)」誕生へとつながる。「1枚の布を切らずに形を作る」そんな無理難題をあえて自らに課し、イノベーションの力を借りたことでポリエステルの製品プリーツの服が生まれたと言っても過言ではない。プリーツにより、どんな体型であっても体にピッタリで、しかも体の凹凸を強調することもない。いわば万人のためのオートクチュールの誕生だ。

 技術革新は“新”を生み出すためのパートナー。その姿勢は生涯続き、後進にも受け継がれている。2000年に藤原大と誕生させた工業用編み機にコンピューター技術を組み合わせて生み出される「エイポック (A-POC)」、10年に「再生・再創造」という考え方を集約し、改良を重ねて開発した再生ポリエステル生地などを用いて立ち上げた「132 5. イッセイ ミヤケ(132 5. ISSEY MIYAKE)」、21年に始動した「エイポック エイブル イッセイ ミヤケ(A-POC ABLE ISSEY MIYAKE)」。次々送り出す新ラインの多くがモノづくりの技術革新と研究者、職人たちの切磋琢磨で生まれてきた。

クラフトへの情熱、東北への思い

 訃報に寄せて英国のデザイナー、ジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)がインスタグラムに投稿した写真と言葉がとても印象的だ。彼は英国を代表する陶芸家ルーシー・リィ( Lucie Rie)と三宅の2ショット写真をあげ「彼のクラフトとテクノロジーへの取り組みは、私たちのファッションの見方を変えた」とコメントしている。クラフトに造詣が深いジョナサンのこの発言は、三宅の仕事にクラフト、生活工芸という重要な要素があったことを改めて教えてくれる。ルーシーは三宅にとって憧れの存在であり、84年に彼女を訪れて以降交流を深め、「イッセイ ミヤケ」1989-90年秋冬コレクションでは彼女のボタンを使った服を発表し、同年日本で「現代イギリス陶芸家 ルゥーシー・リィー展」を企画・監修し96点の作品を紹介している。

 三宅のクラフトへの着目は、キャリアの早い段階から始まっており、襤褸(ぼろ)や割烹着といった日本の民衆の仕事着からヒントを得てデザインを展開することがよくあった。特に東方地方の伝統技術や民藝への思いは深かった。そこには一般の人々の日常生活、労働に対する静かで深い畏敬の念のようなものが見てとれる。

 2011年夏、3月11日の東日本大震災からわずか4ヶ月後に三宅は「東北の底力、心と光」と題した展覧会を東京・六本木の21_21デザインサイト(21_21 DESIGN SIGHT)で開催する。「厳しい自然と共存し、長い歴史に磨かれた手仕事で力強い日用品を生み出してきた東北の人々」のために立ち上がったのだ。会場には、白石和紙、シナ布、津軽こぎん刺し、裂織(さきおり)、ホームスパン、草木染め、ニット技術といった手仕事の数々をそろえた。「東北へ、デザインの旅」と題したメッセージの中で三宅は、「東北各地に息づくものづくりの奥深い伝統と優秀な技術は、日本と世界をリードする質の高さを誇っている」と語っている。

 震災とそれに続く原発事故は多くの人にとって日常を、そして粘り強く受け継いできた技術や文化を一瞬にして「無」としかねない絶望であり恐怖であった。被爆者でもある三宅の心の内を知る術はないが、長い年月をかけて育まれ、土着してきた手仕事を「無」にすることは三宅にとっては到底耐え難いことだったに違いない。「絶やすまい」。同展のスピード開催からは三宅の強い思いが受け取れる。

 クラフトへの関心はもちろん、単なる懐古主義などではない。そして美術館に飾られるアートでもない。生活に根ざすものだ。1968年にパリで5月革命と遭遇し、既存の権威主義に抗議する若者の情熱に触れ「Tシャツやジーンズのような普遍的な服を作りたい」と心に決めたという三宅は、その後も一貫して生活の中の衣服、その進化を追い求めた。1980年代初めのインタビューの中に「僕の家の近くにコインランドリーがあり、一日中動いている。これからはあそこで洗われていく服も作っていく」という一言が見つかる。洗濯機で洗える、時代に即して進化した生活者の服。そこには、襤褸(ぼろ)と技術革新という一見すると相反する2つを一本の線上につなげるデザイナーの哲学を見る。

パリコレの中で独特のポジション。身体性と多様性

 三宅の仕事を振り返ると、随所に彼をインスパイアし、彼にインスパイアされる写真家、建築家、アートディレクター、そして芸術家の名前があがる。イサムノグチ、安藤忠雄、横尾忠則、村越襄、田中一光、そしてアーヴィング・ペン(Irving Penn)。あくまでビジネスに立脚しつつ次の時代を見据えて新しい服作りを模索してきた三宅にとって芸術家の存在は羅針盤であり同志だったのではないだろうか。

 その模索を具現化して見せるのがパリコレだが、「イッセイ ミヤケ」のショーは、パリコレの中でも独特のポジションにあった。モデルはいるがランウエイショーというよりもモダンアートのパフォーマンスのようであり、穏やかで、清潔な美術館で過ごす時間に似ていた。それは後進の滝沢直己、藤原大、宮前義之、近藤悟史、 「イッセイ ミヤケ メン(ISSEY MIYAKE MEN)」の高橋悠介が引き継いだときも変わらなかった。

 三宅にとってモデルを起用してのファッションショーという形式が大切だったのは、ステータス感の演出といった理由ではなく、「身体性」「多様性」を伝えるのに有効な手段だったからではないだろうか。

 「プリーツ プリーズ」誕生のひとつのきっかけは、91年にウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)率いるフランクフルト・バレエ団の衣装をニットでデザインしたことだと聞く。93年には、同バレエ団のダンサーをモデルに起用し、プリーツの服を披露した(文頭写真)。ダンサーの動きを制約することなく、そのパフォーマンスの魅力を引き出す服。衣服により体をパッケージするのではなく、その逆、解放し自然と対話する服だ。男女のモデルが飛び跳ね踊るその場に立ち会ったならきっと、命があり身体があり動けること、生への喜びを受け取ったに違いない。

 多様性については、それが声高に言われるようになるずっと前から、ごく自然にクリエイションと一体だった。様々な肌の色のモデルを起用し、彼らが手をつなぎ笑顔で歩くシーンもよく見られた。1976年に「三宅一生と12人の黒い女たち」と題したファッションショーを西武劇場で開いていたことには驚かされる。石岡瑛子がアートディレクションを手がけ、モデルには12人の黒人女性だけを起用している。また、日本の婦人・労働運動の草分け的存在である市川房江が「アサヒグラフ」1974年10月1日号の表紙を飾ったとき、彼女が着ていた服が「イッセイ ミヤケ」だったことも付け加えておきたい。

 パリコレというビジネスの場所は権威主義的な側面も強いが、同時に“新しいデザイン”に対しては、無条件で賞賛を送る。「イッセイ ミヤケ」がパリコレの中で特異だったのは、“新しいデザイン”を送り出し続けたからに他ならない。

 半世紀近いキャリアの中で、三宅と関わった人は、何千人、何万人といるだろう。彼らは自らを「ガキ大将」と称した三宅から薫陶を受けつつ、多くの苦悩、苦々しい瞬間もあったに違いない。ビジネス的には何度か困窮しその都度「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」や「バオ バオ イッセイ ミヤケ(BAO BAO ISSEY MIYAKE)」といったヒット商品が生まれ続いてきたと聞く。ファッションビジネスは結局水物、である。同時に執念を持って自身の哲学を貫き周囲を巻き込むことで続いてゆくもの、でもある。三宅の哲学を引き継いだ後進たちが時代の中で立ち止まることなく、未来の物づくりを模索し続けることで“イッセイさん”の意志を未来へつなげることを願う。

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