「アイコニー(IKONIH)」のひのき木球やエッセンシャルひのきミスト(2750円)や、インドの刺しゅう工房の職人と共にハンドメードで製作している「タマオワールド(TAMAOWORLD)」のポーチ(各8800円)、ミニブローチ(各7150円)も用意。「クラシクス ザ スモールラグジュアリー(CLASSICS THE SMALL LUXURY)」は定番の草むらシリーズ、マイクロファイバーを使用したものなど色々な種類のハンカチーフをそろえ、「ザ スキップス(THE SKIPS)」は名入れが可能なカスタムモーテルキーホルダー(3080〜3410円)を販売する。
「ニュージェン」は1993年に英国ファッション協議会(British Fashion Council、BFC)が設立。これまで支援を受けたデザイナーは300人を超える。故リー・アレキサンダー・マックイーン(Lee Alexander McQueen)やキム・ジョーンズ(Kim Jones)、ジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)やシモーン・ロシャ(Simone Rocha)、「アーデム(ERDEM)」のアーデム・モラリオグル(Erdem Moralioglu)、グレース・ウェールズ・ボナー(Grace Wales Bonner)や「アルワリア(AHLUWALIA)」のプリヤ・アルワリア(Priya Ahluwalia)、「エスエスデイリー(S.S. DALEY)」の(スティーヴン・ストーキー・デイリー(Steven Stokey-Daley)などがいる。
ジョナサン・アンダーソンはラグジュアリー(ロエベ)、デザイナーズ(JWアンダーソン)、グローバルSPA(ユニクロ)を継続的に手掛ける。2024年春夏の「JWアンダーソン」ではフーディやショートパンツといってありふれた日常着を粘土で提案 PHOTO : JASON LLOYD-EVANS2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから
彼女は現在ロンドンのデザイン・ミュージアムで開催中の「ニュージェン」の設立30周年を記念した企画展「REBEL: 30 Years of London Fashion」のゲスト・キュレーターを務め、その歴史を紹介している。
「REBEL: 30 Years of London Fashion」の展示の様子「アレキサンダー マックイーン」の初期の作品「アレキサンダー マックイーン」の初期の作品クラブカルチャーと関連付けた展示。「ガレス ピュー」(中央)や「マラヤン ペジョスキー」のドレスもクラブカルチャーと関連付けた展示クラブカルチャーと関連付けた展示30年を振り返る年表も見どころの一つビョークが2001年のアカデミー賞で着用して話題になった「マラヤン ペジョスキー」のドレス「クリストファー ケイン」の卒業コレクション。デビューコレクションは卒コレにルックを加える形で発表した「クレイグ グリーン」の卒業コレクション「クリストファー ケイン」のデビューコレクション「JWアンダーソン」のデビューコレクション。アンドロジナスやジェンダーレスという言葉が多用される中で“シェアドワードローブ”という新しい感覚を提案した
「若者たちは私たち業界の長老たちに、私たちが彼らに教えるのと同じか、それ以上のこと、特にこれからのことを教えてくれます。例えば、クリストファー・レイバーン(Christopher Raeburn)は2009年、軍用パラシュートのデッドストックからコレクションをアップサイクルした最初の人物です。オルソラデ・カストロ(Orsola De Castro)は10年、ロンドンで初のエシカルファッションの展示会“Esthetica”を立ち上げました。15年前といえば、気候変動に関する会議や環境に関するファッション協定がまだなかった頃です。当初、彼らが理想主義者で世間知らず、さらには業界を批判するトラブルメーカーだと見下されたり、軽蔑されたりしていたことを鮮明に覚えています」。今でこそ、サステナビリティはデザインやビジネスの根底に据えるべきことになっているが、当時はまだまだ否定的だったことがわかる。「ニュージェンに参加したデザイナーたちは、スローガンTシャツを着ているというよりも、彼らは常に建設的です。問題を解決するために創造的に新しいシステムを考案し、自分たちの仕事のやり方を透明化し始めた最初のデザイナーたちでした。また、サプライチェーンにおける労働者の待遇や、グローバル・ノースによるグローバル・サウスへの繊維廃棄物の投棄をめぐる問題を提起しました」。
「REBEL: 30 Years of London Fashion」の最後の展示室ではサステナビリティに取り組むデザイナーを紹介した。「クリストファー レイバーン」のジャケット「REBEL: 30 Years of London Fashion」の展示の様子。「フィービー イングリッシュ」のドレス「REBEL: 30 Years of London Fashion」の展示の様子。「ヘレン カーカム」のスニーカー
「ニュージェン」は1993年に英国ファッション協議会(British Fashion Council、BFC)が設立。これまで支援を受けたデザイナーは300人を超える。故リー・アレキサンダー・マックイーン(Lee Alexander McQueen)やキム・ジョーンズ(Kim Jones)、ジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)やシモーン・ロシャ(Simone Rocha)、「アーデム(ERDEM)」のアーデム・モラリオグル(Erdem Moralioglu)、グレース・ウェールズ・ボナー(Grace Wales Bonner)や「アルワリア(AHLUWALIA)」のプリヤ・アルワリア(Priya Ahluwalia)、「エスエスデイリー(S.S. DALEY)」の(スティーヴン・ストーキー・デイリー(Steven Stokey-Daley)などがいる。
ジョナサン・アンダーソンはラグジュアリー(ロエベ)、デザイナーズ(JWアンダーソン)、グローバルSPA(ユニクロ)を継続的に手掛ける。2024年春夏の「JWアンダーソン」ではフーディやショートパンツといってありふれた日常着を粘土で提案 PHOTO : JASON LLOYD-EVANS2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから2024年春夏「JWアンダーソン」のバックステージから
彼女は現在ロンドンのデザイン・ミュージアムで開催中の「ニュージェン」の設立30周年を記念した企画展「REBEL: 30 Years of London Fashion」のゲスト・キュレーターを務め、その歴史を紹介している。
「REBEL: 30 Years of London Fashion」の展示の様子「アレキサンダー マックイーン」の初期の作品「アレキサンダー マックイーン」の初期の作品クラブカルチャーと関連付けた展示。「ガレス ピュー」(中央)や「マラヤン ペジョスキー」のドレスもクラブカルチャーと関連付けた展示クラブカルチャーと関連付けた展示30年を振り返る年表も見どころの一つビョークが2001年のアカデミー賞で着用して話題になった「マラヤン ペジョスキー」のドレス「クリストファー ケイン」の卒業コレクション。デビューコレクションは卒コレにルックを加える形で発表した「クレイグ グリーン」の卒業コレクション「クリストファー ケイン」のデビューコレクション「JWアンダーソン」のデビューコレクション。アンドロジナスやジェンダーレスという言葉が多用される中で“シェアドワードローブ”という新しい感覚を提案した
「若者たちは私たち業界の長老たちに、私たちが彼らに教えるのと同じか、それ以上のこと、特にこれからのことを教えてくれます。例えば、クリストファー・レイバーン(Christopher Raeburn)は2009年、軍用パラシュートのデッドストックからコレクションをアップサイクルした最初の人物です。オルソラデ・カストロ(Orsola De Castro)は10年、ロンドンで初のエシカルファッションの展示会“Esthetica”を立ち上げました。15年前といえば、気候変動に関する会議や環境に関するファッション協定がまだなかった頃です。当初、彼らが理想主義者で世間知らず、さらには業界を批判するトラブルメーカーだと見下されたり、軽蔑されたりしていたことを鮮明に覚えています」。今でこそ、サステナビリティはデザインやビジネスの根底に据えるべきことになっているが、当時はまだまだ否定的だったことがわかる。「ニュージェンに参加したデザイナーたちは、スローガンTシャツを着ているというよりも、彼らは常に建設的です。問題を解決するために創造的に新しいシステムを考案し、自分たちの仕事のやり方を透明化し始めた最初のデザイナーたちでした。また、サプライチェーンにおける労働者の待遇や、グローバル・ノースによるグローバル・サウスへの繊維廃棄物の投棄をめぐる問題を提起しました」。
「REBEL: 30 Years of London Fashion」の最後の展示室ではサステナビリティに取り組むデザイナーを紹介した。「クリストファー レイバーン」のジャケット「REBEL: 30 Years of London Fashion」の展示の様子。「フィービー イングリッシュ」のドレス「REBEL: 30 Years of London Fashion」の展示の様子。「ヘレン カーカム」のスニーカー
コティのスー・Y・ナビ(Sue Y. Nabi)最高経営責任者(CEO)は、「『マルニ』はファッション業界で高く評価されており、特にアジアとヨーロッパでブランド力が高い。このライセンス契約はマルチカテゴリー展開の可能性があるファッションブランドにフォーカスする当社の戦略に沿ったものだ」とコメント。マルニのバーバラ・カロ(Barbara Calo)CEOは、「『マルニ』の進化における極めて重要な瞬間だ。ブランドの世界観にシームレスに融合するフレグランスとビューティ製品を通じて新たな機会を切りひらく」と述べた。
また、シャネルは個人的にも英国と強いつながりを持っていた。その背景には、英海運商のアーサー・エドワード・“ボーイ”・カペル(Arthur Edward 'Boy' Capel)や第2ヒュー・グロスヴェナー(Hugh Grosvenor)といった、彼女と恋仲にあった男性の影響がある。前者は、シャネルがパリやドーヴィルに店を開く際に資金援助したことでも知られる人物であり、彼女が愛しメゾンのアイコンの一つとなった白いカメリアも彼が贈った花に由来すると言われている。一方、後者との交際によりシャネルは英国で過ごす時間が増え、英国の上流階級との交流を深めた。そして、公爵が着ていたツイードジャケットは、彼女が女性用のツイードスーツを生み出すきっかけにもなった。
39年に第二次世界大戦が始まった後、「シャネル」はクチュールメゾンを閉鎖。カンボン通りにあった5つのブティックのうち、31番地の店でフレグランスとアクセサリーの販売のみを継続した。そしてナチス・ドイツ占領下になったパリで、 ドイツ将校のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)と関係を持ったシャネルは、その諜報活動に関与したとされる。44年にパリが解放されると、男爵との関係を理由に拘束された彼女は数時間の尋問を経て釈放されたが、スイスに亡命。約10年間ファッションの表舞台から姿を消した。同展では「戦時中のシャネルの活動は彼女のレガシーに影を落とし続け、過去70年間多くの記事や出版物のテーマとされてきた」と解説。諸説あるものの、“美談”以外のエピソードも取り上げることは、彼女の波乱万丈な人生を伝える上でも重要だろう。
また、シャネルは個人的にも英国と強いつながりを持っていた。その背景には、英海運商のアーサー・エドワード・“ボーイ”・カペル(Arthur Edward 'Boy' Capel)や第2ヒュー・グロスヴェナー(Hugh Grosvenor)といった、彼女と恋仲にあった男性の影響がある。前者は、シャネルがパリやドーヴィルに店を開く際に資金援助したことでも知られる人物であり、彼女が愛しメゾンのアイコンの一つとなった白いカメリアも彼が贈った花に由来すると言われている。一方、後者との交際によりシャネルは英国で過ごす時間が増え、英国の上流階級との交流を深めた。そして、公爵が着ていたツイードジャケットは、彼女が女性用のツイードスーツを生み出すきっかけにもなった。
39年に第二次世界大戦が始まった後、「シャネル」はクチュールメゾンを閉鎖。カンボン通りにあった5つのブティックのうち、31番地の店でフレグランスとアクセサリーの販売のみを継続した。そしてナチス・ドイツ占領下になったパリで、 ドイツ将校のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)と関係を持ったシャネルは、その諜報活動に関与したとされる。44年にパリが解放されると、男爵との関係を理由に拘束された彼女は数時間の尋問を経て釈放されたが、スイスに亡命。約10年間ファッションの表舞台から姿を消した。同展では「戦時中のシャネルの活動は彼女のレガシーに影を落とし続け、過去70年間多くの記事や出版物のテーマとされてきた」と解説。諸説あるものの、“美談”以外のエピソードも取り上げることは、彼女の波乱万丈な人生を伝える上でも重要だろう。
また、シャネルは個人的にも英国と強いつながりを持っていた。その背景には、英海運商のアーサー・エドワード・“ボーイ”・カペル(Arthur Edward 'Boy' Capel)や第2ヒュー・グロスヴェナー(Hugh Grosvenor)といった、彼女と恋仲にあった男性の影響がある。前者は、シャネルがパリやドーヴィルに店を開く際に資金援助したことでも知られる人物であり、彼女が愛しメゾンのアイコンの一つとなった白いカメリアも彼が贈った花に由来すると言われている。一方、後者との交際によりシャネルは英国で過ごす時間が増え、英国の上流階級との交流を深めた。そして、公爵が着ていたツイードジャケットは、彼女が女性用のツイードスーツを生み出すきっかけにもなった。
39年に第二次世界大戦が始まった後、「シャネル」はクチュールメゾンを閉鎖。カンボン通りにあった5つのブティックのうち、31番地の店でフレグランスとアクセサリーの販売のみを継続した。そしてナチス・ドイツ占領下になったパリで、 ドイツ将校のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)と関係を持ったシャネルは、その諜報活動に関与したとされる。44年にパリが解放されると、男爵との関係を理由に拘束された彼女は数時間の尋問を経て釈放されたが、スイスに亡命。約10年間ファッションの表舞台から姿を消した。同展では「戦時中のシャネルの活動は彼女のレガシーに影を落とし続け、過去70年間多くの記事や出版物のテーマとされてきた」と解説。諸説あるものの、“美談”以外のエピソードも取り上げることは、彼女の波乱万丈な人生を伝える上でも重要だろう。
デイトナ・インターナショナルが渋谷パルコで運営するツージー ポップアップ スタジオ(2G POP UP STUDIO)は2⽉9⽇から11⽇まで、ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)が最⾼ブランド責任者を務めるNFTプロジェクト「ドゥードゥルズ(DOODLES)」のイベントを行う。
PROFILE: (やまざき・きみよ)大学卒業後、ヤーマンに入社。マーケティング部門や海外部門を経て、1999年に社長に就任。日本で初めてミネラルコスメを市場に投入し、化粧品市場の新カテゴリーを開拓した。美顔器をはじめ、ヘアケアやオーラルケアなど幅広く美容機器を展開し、美容機器市場をリードするヒット商品を世に送り出す。メーカーとしてモノ作りに真摯に取り組み、効果実感を生み出すテクノロジーの開発を使命に掲げる PHOTO:SHUNICHI ODA
スローガンに「美しくを、変えていく。」を掲げるヤーマンは、美容機器を日常的に使用するという新しい美容習慣を提案し、ヒット商品を世に生み出してきた。世界40の国と地域で展開し市場を拡大する中、グローバルブランドとしてさらに成長するための拠点として、初の旗艦店「ヤーマン ザ ストア ギンザ(YA-MAN the store GINZA)」を2023年11月にオープンした。(この記事は「WWDJAPAN」2024年1月29日号からの抜粋です)
1977年設立。アパレル、家具、飲食、フィットネス事業を展開。2016年に売上高1000億円を突破。17年に本社オフィスを渋谷キャストに移転。21年にベイクルーズとファッション事業のジョイントワークス、フレームワークス、JS.ワークス、ルドーム、ラクラス、家具事業のアクメ、飲食事業のフレーバーワークスを統合。他にラデュレジャポン、ウィルワークス、台湾ベイクルーズ、ル・プチメック、Foodies USA. Incを傘下に持つ。23年8月期の連結売上高は1389億円、期末店舗数は409店舗
1977年設立。アパレル、家具、飲食、フィットネス事業を展開。2016年に売上高1000億円を突破。17年に本社オフィスを渋谷キャストに移転。21年にベイクルーズとファッション事業のジョイントワークス、フレームワークス、JS.ワークス、ルドーム、ラクラス、家具事業のアクメ、飲食事業のフレーバーワークスを統合。他にラデュレジャポン、ウィルワークス、台湾ベイクルーズ、ル・プチメック、Foodies USA. Incを傘下に持つ。23年8月期の連結売上高は1389億円、期末店舗数は409店舗