
ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)の友人であり、共にグレイ(Gray)のバンドメンバーとして活動したギタリストで、DJ ハイ・プリースト(High Priest)ことアーティストのニコラス・テイラー(Nicholas Taylor)。ニコラスによる新作ミクストメディア展「AREALISM」が、2月21〜3月9日に東京・大岡山のアートギャラリー「ロウ(LOWW)」で開催する。
当時のニューヨークの音楽シーンに多大な影響を与えたバンド「グレイ」は、現在もオリジナルメンバーのマイケル・ホルマン(Michael Holman)とニコラスで活動を続けている。さらにニコラスはヴィンセント・ギャロとのバンド、ジェネレイション(The Generation)のプロデュースといった音楽活動に加えて、バスキアの鮮烈な瞬間を収めたフォトグラファーとしても活動してきた。“夭折の天才画家“というイメージが強いバスキアの原点である1970年代のニューヨークのシーンを撮り下ろしたニコラスの写真は、彼とのフォトセッションを中心に世界中の美術館で紹介されてきたが、同展は新作として取り組んでいるミクスト・メディアシリーズで国内初の展示となる。
同展にさきがけ、ニコラスがバスキアとの思い出を振り返る連載がスタート。カルチャーが激動する1970年代後半のニューヨークでは何が起きていたのか。第1回は、ニューヨークへ拠点を移した1978年、2人の出会いから回想してもらった。
PROFILE: ニコラス・テイラー

PROFILE: 1953年、イリノイ州ベルヴィル生まれ。77年にニューヨークに移住。79年1月、友人のジャン=ミシェル・バスキアと初期のヘッドショット・シリーズを撮影。同年、バスキアのバンド「グレイ」にギターとして参加。「グレイ」はラウンジ・リザーズやDNAといったバンドの前座を務めた。82年、バスキアはニューヨークのスクワット・シアターのコラボレーションで、ニコラスをDJ ハイ・プリーストと名付けた。また、82年には「テープ・ループ・DJ」として、イースト・ヴィレッジのクラブ・ネグリルで開催されたマイケル・ホルマンのウィークリー・ヒップホップ・イベントで、アフリカ・バンバッタ、クール・ハーク、ジャジー・Jとともにオープニングを飾った。83年ソーホーの「ザ・キッチン」で、マックス・ローチをドラムに迎えたバンド「エステート・フレッシュ」のDJとして、ファブ・ファイブのフレディに抜擢。「Sounds of...」を共同プロデュースした。2010年にマイケル・ホルマンとのレーベル「Plush Safe Records」から「グレイ」のファーストLPをリリースした。
マッドクラブでのバスキアとの夜
自分にとって1970年代のニューヨークのダウンタウンは、アーティストやミュージシャンが逃げ込むような場所だった。それに比べると、他のエリアはクリエイティブなエネルギーに欠けているように思えた。当時のアメリカ政府は財政危機だったしね。10代の僕はそんなアメリカに幻滅していた若者で、ニューヨークの暗いフィルム・ノワールのようなドラッグにまみれたストリートに美しさを感じていた。テレビでニューヨークのドキュメンタリーを見たことがあったけど、写真家として、アーティストとして、自分の目で確かめなければならなかったんだ。
そして、1977年にセントルイスから引っ越してきたんだけど、大家が物件を手放したタイミングで幸運にもアパートに引っ越すことができた。家賃はタダだし、望み通りの場所だった。それからダウンタウンのパンクのクラブに通い始めた。CBGBとかMax’s Kansas City、Tier 3……何よりもマッドクラブだ。一番のお気に入りだった。毎晩、新しい友人と出会ったし、ベルベットの入口の奥のフロアにすぐに連れていかれたよ。サウンドシステムはとても素晴らしくて、ニューウェーブやソウルも鮮明だったな。低音はレゲエにぴったりだった。床はフローリングで踊るときに足を滑らせやすかったから、みんなでツイストのバージョンを踊った。
ある夜、僕はマッド・クラブで通りすがりの若い男と一緒に踊り始めた。騒々しくて楽しかった思い出がある。お互い自己紹介をすると、彼は「ジャン=ミシェル・バスキアだ」と言った。グラフィティ・ライターのSAMOだともね。彼のグラフィティはストリートで見たことがあったし大好きだったので本当に驚いた。それまでのグラフィティよりもっと知的でコミカルで、風刺の効いた政治的な作品だった。
バスキアのエキセントリックなポートレイト
1978年から79年頃、ジャンはまだ有名ではなかったが、カリスマ的なオーラがあってすぐに引き込まれた。僕たちは踊ったり、バーのカウンターから互いにビールを盗んだりして絆を深めていった。
ある夜、彼が「アパートがないから家に泊めてもらえないか」と頼んできた。僕はイエスと答えた。マッドクラブが午前4時に閉まった後、僕たちは角を曲がったところにある「デイブズ・ランチョネット」に行った。1950年代風のダイナーはマッド・クラブのメンバーでいっぱいだった。朝食の1ドルスペシャルは、卵が2個でフレンチフライかホームフライ、トーストにコーヒーだった。とんでもなく得なセットだよ!それから、マッドクラブに出かけた後はいつも「デイブ」に行くことになった。ちなみに、その日の朝に地下鉄に乗ってアパートに向かっている時、ジャンが僕のために車内外のいたるところにある、ヤバいタグを解読してくれたことは忘れられない思い出だ。
僕とジャンはアパートで長い時間のほとんどを音楽の話をして過ごした。それから僕のカメラでお互いを撮り始めた。彼は撮るたびにいろいろなポーズをして、表情を変えていた。一瞬でエネルギーを変えられる俳優のようで、とても感動したよ。そして、彼は僕の頭にマスキングテープとサングラスをつけて、パチリ。10枚を撮影したんだ。
現在まで、バスキアが撮影した35ミリのネガフィルムは他に見つかっていない。マスキングテープを顔に貼られた僕の写真は、数年後に彼が描いた有名なドクロの絵に似ていた。僕が撮影したジャンのイメージは世界中でも知られているだろう。素晴らしい夜と朝だった。僕にとって、ジャン=ミシェル・バスキアは最も重要なアメリカ人アーティストだね。
COOPERATION:YUKITOMO HAMASAKI(LOWW)
■Nicholas Taylor AREALISM
会期:2月21日〜3月9日
会場:LOWW GALLERY
住所:東京都目黒区大岡山1-6-6
時間:12:00〜20:00
休日:水曜、木曜
入場料:無料
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