
長野県の松本パルコが2月28日で閉店した。北信越唯一のパルコとして1984年にオープンし、“松本でおしゃれを買える”店として地元住民に親しまれてきた。
最終日は、開店前の午前10時には約300人が列をなし、かつての日常のように店の扉が開くのを待った。「最後のパルコ」を惜しむ声が交差し、館内は別れを惜しむ買い物客で終日賑わった。その光景は、松本の街に40年間息づいてきたパルコの存在の大きさを物語っていた。
松本市出身で、2階にセレクトショップ「トーカ バイ リファート(TOCA by lifart...)」を構えていた西牧隆行代表は、かつて高校生の頃、「学校帰りに『とりあえずパルコ』に立ち寄るのがルーティンだった」と振り返る。「買い物だけでなく、立ち読みをしたり音楽を聴いたりと、青春の思い出が詰まった憧れの場所でもあった。街の文化的な側面でも、僕らの世代はもちろん、今の若い人たちにとっても新たな世界への扉を開く場所が一つ失われるのは寂しい」と語った。
6階では、市民有志による「ありがとう松本パルコ実行委員会」や、市・松本商工会議所による「商都松本にぎわい発信プロジェクト実行委員会」がイベントを自主的に開催し、来館者と最後の思い出を作った。
津田沼パルコで店長を務めた経歴を持つ野口香苗・広報担当業務部長も、松本パルコの閉店を見届けようと駆けつけた。これまで数々の店舗の閉店に立ち会ってきたが、「ここは特別な雰囲気がある」と語る。他の店舗でもパルコへの愛着は感じられたが、「松本パルコは、地域の人々にとって誇りの存在だったことが伝わってきた」。最終営業日に6階で開かれたイベントもパルコ主催ではなく、市民が自主的に企画したものだった。「このような形で最後を迎えられるのは、松本ならではかもしれない」と、店を見守る視線は温かかった。
午後6時に松本パルコ前の公園通りの一部が歩行者天国となり、多くの来店客が足を運んだ。店の姿を目に焼き付けようとする人々の表情には、それぞれの思いが滲んでいた。午後8時の閉店が近づくと、正面入り口前には多くの人が集まり、最終営業の瞬間を見届けた。閉店セレモニーでは、松本市出身の写真家・白鳥真太郎氏がパルコの建物と来店客の集合写真を撮影。その歴史的瞬間を記録に残した。
斉藤博一・松本パルコ店長は、「パルコにとって、松本は特に地域の皆さまやお客さまとの絆が深い場所だった。これほどまでに愛していただいたパルコは他にないと感じている。この40年間の思い出はかけがえのないものであり、大切な財産でもある」と振り返りった。そして最後に「長年にわたるご支援に、心より感謝申し上げます。40年間、本当にありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。
閉店の瞬間、松本パルコを包み込むように大きな拍手が響き渡り、どこからともなく「ありがとう」という声が幾重にも重なった。地域に愛され続けたこの場所は、温かな別れの言葉とともにその40年の歴史に静かに幕を下ろした。
松本パルコは1984年8月23日に開業した。当時、松本市の人口は20万人に満たなかったものの、民藝や音楽教育法「スズキ・メソード」発祥の地として知られ、多様な文化が息づく地域であった。こうした文化的背景はカルチャーを発信するパルコとも親和性が高く、地元青年会議所などによる積極的な誘致活動が展開された。松本市への出店には特別な縁もあった。パルコの社長・会長を歴任した増田通二氏の父であり、日本画家の増田正宗氏が松本市の出身であったことも、開業実現の一因となったともいわれている。
同店は松本市の中心街に位置し、56年に開業したはやしや百貨店(74年に信州ジャスコに転換)の跡地にオープンした。地上5階・地下1階の6フロアで、店舗面積は約2万2000㎡。22年2月期のテナント取扱高は39億8600万円で、コロナ禍の影響含め苦戦が続いていた。営業力の強化や、運営の効率化を進めてきたが、競争環境の変化や今後の投資負担を考慮し、閉店を決断した。
地元の一部メディアによると、松本パルコの閉店後は建物の活用をめぐり、関係者による協議が進められているという。新たな複合商業施設としての再生が検討されているが、市中心部の活性化に向けた具体策が問われている。
近隣エリアでは、1885年に呉服店として創業した井上百貨店も3月31日に閉店する。これら地域を盛り上げてきた商業施設の撤退が続き、地方都市の商業環境の厳しさを浮き彫りにするとともに、その施設や跡地の利用が課題となっている。
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