NY発インディー・ロックバンド、Hotline TNTが語る「マイブラや90年代オルタナ・ロックからの影響」

アメリカのインディー・ミュージック・シーンでは近年、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(My Bloody Valentine)やスロウダイヴ(Slowdive)にルーツをさかのぼる「シューゲイザー」の新たな担い手たちが再び台頭を見せている。その筆頭にも挙げられるバンドがこのホットラインTNT(Hotline TNT)で、現在は元ザ・ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトが運営するレーベル〈Third Man〉に所属するニューヨークの4人組だ。

フロントマンのウィル・アンダーソン(ボーカル/ギター)を中心につくり上げるサウンドは、ノイジーだがメロディアスでフックの効いた音響的没入感が魅力で、シューゲイザーはもちろん、ハードコアやエモ、フォークからアンビエントまで幅広い音楽的バックグラウンドをその内側にうかがわせる。2年前にリリースした2作目「Cartwheel」は多くのメディアでその年のベスト・アルバムの候補に選ばれるなど、批評的に大きな成功を収めたことも記憶に新しい。

そんなホットラインTNTが、3作目となるニュー・アルバム「Raspberry Moon」を完成させた。初の本格的なバンド・レコーディングとなった今作は、前作「Cartwheel」後に再編されたメンバーで練り上げた演奏に加えて、リズムのアプローチや音響的なプロダクションの面で大きな変化と前進をうかがわせるのが特徴だ。特にリッチな音像で奥行きを増したサウンドスケープは、「シューゲイザー」のテンプレートを超えて“録音芸術”とでも呼びたい洗練された感触を与えるに違いない。「初めて、本当の意味で“バンド”になったと思ってる」——そう語るウィル以下、ラッキー・ハンター(ギター)、ヘイリン・トランメル(ベース)、マイク・ラルストン(ドラム)のメンバー全員に、3月の来日公演のステージ直前、話を聞いた。

メンバーが影響を受けた音楽

——ホットラインTNTはどんな感じで始まったんですか。

ウィル・アンダーソン(以下、ウィル):正直なところ、最初から明確なビジョンがあったわけじゃないんだ。ただ、アートや音楽をつくり続けたいっていう気持ちだけはずっと強くあって。それにぴったりの仲間を見つけるのには時間がかかったけど、何年もかけて、1人また1人と、少しずつメンバーが揃っていった感じだね。今では、全員がしっかりと共通のビジョンを持って活動できていると感じているよ。確かに最初に動き出したのは僕だったかもしれないけど、でも、ホットラインTNTがバンドとして一つにまとまったと感じられたのは、昨年、今の4人が揃ってからだった。そこから初めて、本当の意味で“バンド”になったと思ってる。

——ウィルも含めてメンバーはそれぞれ、ホットラインTNTの前からさまざまなバンドで活動してきた経歴がありますが、音楽的なバックボーンという点ではどうでしょうか。

ラッキー・ハンター(以下、ラッキー):影響を受けた音楽はほんと幅広くて、ヒップホップやラップもあれば、パワーポップもある。よく「シューゲイザーっぽいね」って言われるけど、実際にはちょっと違ってて。影響としてはハードコア・パンクとか、僕たちが長年聴いて育ってきた音楽の方が近いと思う。そういう意味では、ダイナソーJr.やハスカー・ドゥなんかは、自分にとって特に大きな存在だったと思う。

ヘイリン・トランメル(以下、ヘイリン):僕とウィルは、1990年代のオルタナティブ・ロックっていう点で強く共通してるんだ。例えば、映画の「ジム・キャリーはMr.ダマー」(94年)のサウンドトラックみたいな感じとか(笑)。

マイク・ラルストン(以下、マイク):そういえば、僕がこのバンドに入るのを決めた理由の一つが、「Protocol」(前作「Cartwheel」収録)のミックス音源を聴いたことだった。あの曲の最後の方で「うわ、これティーンエイジ・ファンクラブっぽいな!」って思って、それをウィルに言ったら、彼も「……だよね?」って(笑)。

ウィル:あれは大きかったかも(笑)。でも実際のところ、僕たちが影響を受けてるのは、そういうバンドのサウンドそのものというよりも、むしろそのエートス(姿勢)やエネルギーなんだと思う。彼らが音楽を通じて世界に放っていたスピリット——僕たちはその“聖火”を受け継いで、自分たちなりのひねりを加えて表現していこうとしてるんだよ。

シューゲイザーとTikTok

——ホットラインTNTは“シューゲイザー・リバイバル”の文脈で語られることが多いと思いますが、そのことについては正直どう感じていますか。

ラッキー:正直なところ?(笑) まあ、僕たちとしては「シューゲイザー」と呼ばれること自体に特に否定的な感情はないよ。だって、その手の音楽には本当にいいものもあるし、実際、同じようにカテゴライズされている仲間たちの中にも素晴らしい音楽をつくっている人たちがいるからね。でも、テクニカルな意味で言えば、自分たちがいわゆる“シューゲイザー・バンド”だとはあまり思ってない。例えば、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやスロウダイヴのような“パイオニア”と比べてみても、彼らのようには聴こえないと思うんだ。だから「シューゲイザー」という言葉が、僕たちを正確に表しているかというと……ちょっと違うかなって。

ウィル:今“パイオニア”って言葉が出たけど、もし人々が僕たちのことを「シューゲイザー」と呼ぶなら、それはそれでいい。でも僕たちは、そのジャンルの定義をもっと遠くまで押し広げたいと思ってる。つまり、従来のシューゲイザーの枠に収まらないような曲を書いていくってこと。それに……ちょっと変な話だけど、僕たちの音楽における指針の一つって、“耳に残る”ことなんだ。でもそれって、いわゆる“シューゲイザー像”とは真逆かもしれない。

マイク:僕たちのサウンドには確かに、“ラウドなギター”とか“ドリーミーな雰囲気”みたいな要素があると思う。でも同時に、ボーカルの音量がちょっと大きめにミックスされてるんだよね。いわゆるトラディショナルなシューゲイザーとはそこが違うと思う。というか、アルバムを出すたびに、ボーカルのミックスが少しずつ大きくなってきてる気がするよ(笑)。

——一方で、若い世代にとって「シューゲイザー」は、TikTokなどを通じてギター・ミュージックを発見する入り口にもなっていますよね。

ウィル:そうだね。とてもポジティブなことだと思う。僕たちは何でもウェルカムだよ。昔ながらの手づくりファンジンも好きだし、TikTokも好き。音楽やアートに夢中になってる人たちの熱が広がっていくなら、それがどんな形であれ素晴らしいことだと思うよ。

ラッキー:TikTokって、今の若い子たちが音楽に触れる大きなツールになってるよね。実際、僕の友だちのバンドがTikTokをきっかけにすごく注目されて、それまでの何倍もの大きなオーディエンスに届くようになったのを見てきた。だから、それはクールなことだと思うんだ。誰かが音楽と出会えるなら、それでいいじゃん、って。

ウィル:まあ、同時に、TikTokが日常生活とかメンタルに悪影響を及ぼすことがあるっていうのも、身近な人を見ていて感じる部分もあるけどね。でも、ギター・ミュージックに興味を持ってくれる人が増えているなら、それは間違いなく良い方向に進んでるってことだと思う。

マイブラとスマパン

——ところで、ウィルは交換留学生としてヒマラヤ山脈の麓にある学校に通っていたころ、通学の電車で聴いたマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの「Loveless」に衝撃を受けたことが自身の音楽的な基盤をつくった、と記事で読んだのですが。

ウィル:あのころは本当に孤独で、すごく不安だったんだ。15歳で、自分が何に足を踏み入れようとしているのかもよく分かってなくて。そんなとき、「Rolling Stone」誌で「死ぬまでに聴くべき100枚のアルバム」みたいな記事を読んだんだ。その中の1枚に――タイトルだったのか、アートワークだったのか――とにかくすごく惹かれて、「これ、聴いてみたい!」って思ったんだ。それでアマゾンでCDを注文して、インドの自分の家まで届いてさ(笑)。他のみんながどうだったかは分からないけど、自分にとっては、そのアルバムを初めて聴いた瞬間、頭の中で何かがぐにゃっと曲がったような感覚があって。「これが何なのか全然分かんないけど、でも好きだ。もっと聴きたい!」ってなった。自分にとっては、それが全ての始まりだった気がする。

マイク:僕が「Loveless」を初めて聴いたのは、実家で芝刈りしてたときだった。オーバーイヤーのヘッドホンを着けて、草を刈りながら聴いてたんだけど……正直、最初は全然理解できなかった。でも、なぜか惹かれるものがあって。繰り返し聴くうちに、少しずつ分かるようになって、どんどんのめり込んでいったんだよね。

——ええ。

ラッキー:僕が「Loveless」を初めて聴いたのは暑い車の中で、州外への旅行からの帰り道でCDを再生した瞬間、まるで毛布に包まれたみたいな感覚だった。安心感があって、心がふわっと落ち着いて。音はすごく大きくて、全身に音が降りかかってくるような力強さがあるのに、同時にすごく柔らかくて繊細でもあって。あの感覚は、今でも他のどんなレコードにもないと思うし、たぶん再現できるものでもない。

ヘイリン:アルバムの始まりも最高だよね。スネアの音が鳴って、全部が一気に始まるあの瞬間、思わず目を見開くようなインパクトがある。

ウィル:あの作品には、他のシューゲイザー・バンドが持っていないものがあると思う。このジャンルの最高の要素を全部詰め込んでるというか。それは強いリズムであったり、あの異様なまでのドリーム感だったり……まさに、僕たちが目指しているものなんだよね。世の中には「シューゲイザー」って名前を借りて、そこにいろんなものを放り込もうとするバンドがいるけど、ああいうふうにできる人たちは他にいない。ものすごくラウドで、とてもドリーミーで、でもキャッチーでもあって。今でもふとした瞬間に、あの音が頭の中で鳴ってるんだ。

マイク:たぶん、あの作品には“混沌の中に美しさを求める”っていう姿勢があるんだと思う。人生もそうだよね。美しいものって、常に目の前にあるわけじゃない。ちゃんと探さないと見つからない。

——ちなみに、最近のライブではスマッシング・パンプキンズの「Quiet」のカバーをよくやってますよね。スマパンも特別なバンドだったりしますか。

マイク:僕個人としては、同じドラマーとしてジミー・チェンバレンがすごく好きなんだ。ジャズが好きで、彼にはそういうバックグラウンドもあるからね。彼はロックとジャズのスタイルを見事に融合させたドラマーの一人だと思う。それに、90年代に子供だった僕たちにとって、スマッシング・パンプキンズの曲って避けて通れないものなんだよ。人生のどこかに必ず染みついているというか。

ウィル:正直に言うと、僕はあまり好きじゃないんだよね(笑)。4つか5つ、最高のリフはあると思うけど、それ以外はあんまり響かない。でも、「Quiet」を演奏すれば絶対に盛り上がるっていうのは、最初から分かってた。あれはオリヴィア(・ガーナー、元ギター/ベース)のアイデアだったんだ。「あなたの声のレンジに合ってるし、きっとバッチリはまると思う」って言ってくれて。その通りだったし、彼女は正しかったよ。演奏してて楽しいし、うん、すごくいい曲だと思うよ。

転機となった
セカンド・アルバム「Cartwheel」

——2年前にリリースされたセカンド・アルバム「Cartwheel」はブレイクスルーのきっかけとなった作品ですが、振り返っていかがですか。

ウィル:間違いなく、バンドにとって決定的な転機だったと思う。ちゃんとしたブッキング・エージェントがついて、初めてマネージャーも雇って、チーム体制が一気に整ったタイミングでもあった。それに、このメンバーたちがアルバムのリリース直前に加わってくれて、全部の歯車が一気に噛み合った感じだったんだ。今振り返っても、ちょっと信じられないというか、まさかこんな反響があるとは思ってなかったから、不思議な気分になるよ。制作してた当時は、それまでの作品と何か大きく違うことをやってる感覚は全然なかったから。「またつくろう。よし、今回もやろう」って、ほんとにいつも通りの気持ちだったんだよね。

——「Cartwheel」が転機となった背景には、ジャック・ホワイトの〈Third Man〉からリリースされたことも大きかったと思います。

ウィル:〈Third Man〉って、確かに豊かな歴史を持ってるレーベルなんだけど、ただ、「今、どれだけ新しいバンドを積極的に世に送り出しているか?」という意味では、そこまでアクティブじゃない印象もあったんだ。むしろジャック・ホワイト周辺の作品やリイシューに特化してるレーベル、というイメージが強かったから。もちろん僕たちもジャックの音楽にはすごくリスペクトがある。でも、その〈Third Man〉から新しいバンドとして出るっていうことが、世間的にどう受け取られるのか……それは少し読めなかったところがあるんだよね。クールだと思ってもらえるのか、それとも何かズレた選択に見えるのか。でも結果的には、クールなコミュニケーションだっていう反応が多くて、安心したよ。

——ジャック本人とやりとりはあったんですか。

ウィル:うん、ナッシュビルで会ったことがあるよ。でも、彼は僕たちのアルバム制作やプロモーションにはあまり深く関与してない。レーベルのトップとして全体を見てはいるけど、現場の細かいところにはあまり口を出さないスタンスなんだと思う。それでも、僕たち全員で〈Third Man〉に行ったときには、ちゃんと会ってあいさつできたし、とてもクールだった。僕たちの音楽を応援してくれてるっていうのは、そのときの雰囲気からも伝わってきた。実際、ライブにも来てくれたしね。彼はレーベルそのものをすごく誇りに思っているし、アーティストにも“自分の声”を持って、自分のやり方でプロジェクトを進めてほしいと思ってるタイプなんだと思う。あんまり干渉しすぎず、信頼して任せるっていうか。

ラッキー:僕は車の話をしたよ。彼、「フォード」の“ブロンコ”の、90年代の古いモデルを持ってるんだって。それを聞いてテンション上がっちゃってさ(笑)。僕は車が好きで、同じ色のブロンコを買ったんだ。2025年の新しいモデルをね。

ウィル:実はその時、僕の母もたまたまナッシュビルに来てて、〈Third Man〉の見学ツアーに行ってたんだ。僕たちが着く前に、母はジャックと15分くらいお喋りしてたらしくて。で、僕たちがスタジオに着いたら、ジャックが「ああ、君たちか。お母さんから話は聞いたよ」みたいな感じで(笑)。「お母さんに教えてもらえばいいよ。いろいろ知ってるから」って(笑)。

ニュー・アルバム「Raspberry Moon」での新たな試み

——ニュー・アルバムの「Raspberry Moon」ですが、音像がとてもリッチで、“録音芸術”とでも呼びたくなる没入感の深いサウンドスケープに驚かされました。

ラッキー:今回は、スタジオで曲を実験的に仕上げていく準備をして臨んだ。構成をあらかじめざっくり決めていた曲もあれば、スタジオでゼロから書いた曲もあって、その場でどんどんつくり上げていった。ウィル1人で完結していた以前の制作とは違って、今はバンド全体がしっかり機能していて、フル・バンド体制になった強みを活かそうっていう意識があったと思う。普段ならアコースティック・ギターを入れないような曲にも試してみたり、何時間もかけてシンセサイザーやパーカッションを掘り下げてみたりして、バンドのサウンドをどうやって広げていけるかをみんなで模索したんだ。コアな部分はブレさせずに、もっとダイナミックなバンドとしての側面を見せたいっていう意識もあったね。

マイク:サウンド面では、制作環境の影響もすごく大きかったと思う。今回レコーディングしたのは(プロデューサーの)エイモス・ピッチのスタジオなんだけど、彼はもう一生かけて集めてきたような機材や楽器を大量に持っていて、普通のスタジオじゃ絶対に見ないようなものもたくさんあった。そういう環境に身を置いて、曲を書きながらレコーディングもできる自由な空間の中で、目に入るものをどんどん使って曲をつくっていく。そんなオーガニックな流れの中で、自然に音楽が形になっていった感じがするよ。

——曲づくりやサウンド・プロダクションの上でヒントをくれたようなものはありましたか。

マイク:僕のドラムについて言うと、実はエイモスの存在がすごく影響してるんだよね。レコーディング前に、彼が「Cartwheel」のドラムの音について「ちょっとヒップホップっぽくて、ミッドレンジ寄りだね」ってコメントしてくれて、その会話がきっかけでドラムのチューニングを特別に調整したんだ。それに、ライブで使うよりも小さいスティックを使って、もっとナチュラルなトーンが出るように演奏方法も変えた。だから、このレコードにおける自分のプレイは、かなりエイモスの影響を受けてると思う。

ウィル:影響を受けたものを挙げ始めたらキリがないけど、アルバム・タイトルに込めたニュアンスだけでも、いろんな影響が入り交じってるんだ――全部を明かすつもりはないけどね。今回の楽曲に直接関係ないものも含めて、もっと大きな文脈の影響に対するオマージュ的な意味合いもある。

ラッキー:たぶん、メンバーそれぞれが全く違う影響源を持ってるんだと思う。マイクはエイモスやヒップホップ寄りのドラムのアプローチが大きいし、ウィルはティーンエイジ・ファンクラブやメロディックなものの影響を強く受けていると思う。みんな違った引き出しを持ち寄っていて、影響を挙げたら本当に無限に出てくるから、一つに絞るのは難しいね。

——ドラムの話が出ましたが、今回のアルバムでは初めてライブ・ドラムが使われているのもポイントですね。

ウィル:前作の「Cartwheel」やそれ以前の作品は全てプログラムされたコンピューター・ドラムだった。でも、今回は初めて生ドラムでレコーディングしたアルバムで、だからファンにとっても自然に感じられるようにどうスムーズに“移行”するか、すごく考えたよ。つまり、ホットラインTNTらしさは残しつつ、リアルな演奏としても成立するようにね。全く別のバンドに聴こえてしまうのは避けたかったから、そのバランスの“ちょうどいい落としどころ=スウィート・スポット”を見つけたかった。うまくそこにたどりつけていたらうれしいね。

ラッキー:今回のアルバムにはいろんなリズムがある。リズムはすごく重要で、今、同時代で活動してるアーティストたちの中には、すごく“真っすぐ”なリズム・アプローチをとってる人たちが多いと思うんだけど、今回のアルバムではもっとそのあたりを掘り下げてみたかった。楽曲によってはスウィング感があったり、他のシューゲイズ系のバンドとはちょっと違うリズム感が出せたんじゃないかなって思うよ。

——今回のリズムやビートに関して、具体的なリファレンスはありましたか。

マイク:特定のアーティストっていうより、“ドラムに対する考え方”そのものに影響を受けた感じかな。ロック・バンドって、「とにかくデカい音」「派手なフィル」「ソロ」「爆音」みたいなイメージがつきがちだけど、自分はもっとダイナミクスの幅を意識していて、フィルもあまり多用しないようにしてる。あくまで曲に溶け込ませるように叩くことを心がけたつもりんだよね。

それと、たぶんジャズっぽい感覚もどこかにあると思う。ジャズとヒップホップはつながってる部分があるし、そういう感覚も自然と反映されてるかもしれない。エイモスがレコード屋をやってて、彼からジャズのレコード——例えばブロッサム・ディアリーとか――を何枚か買ったことがあるんだけど、そういう会話の流れが演奏の感覚にも影響してる気がする。「これを意識しよう」とかじゃなくて、ただ“感じながら”演奏してたっていうかね。音と音の間の取り方とか、リズムの流れにあるフィーリング。要するに、シンプルに言うなら「グルーヴ」が核になっている。

——一方、ホットラインTNTの持ち味として、アメリカーナと呼ばれるような音楽にも通じるフォーキーでメロディアスなテイストが挙げられると思います。プロデューサーのエイモス・ピッチは、同じウィスコンシン出身のジャスティン・ヴァーノン(ボン・イヴェール)とも関わりがありますが、今回のアルバムではそうした趣向が色濃く増しているようにも感じられます。

ウィル:言われた通り、アメリカーナの影響がこのバンドの大きな部分を占めているのは間違いないと思う。実際、僕たちは全員、アメリカ中西部のウィスコンシン出身の“アメリカン・ボーイズ”だし(笑)、今回のアルバムもそのウィスコンシンで録ったしね。ジェイホークスみたいなバンドとか、クラシックなアメリカーナやオルタナ・カントリーの美学――そのあたりは参考にしたところがあったし、間違いなく反映されてると思うよ。

マイク:アメリカには多くの問題があるけれど、音楽は最良のものの一つだと思うんだ。ブルースやジャズから、ザ・バンドみたいなアーティストに至るまでね。そういう音楽はやっぱり素晴らしいし、誇りに思えるんだよね。で、そういう音楽は全部どこかでつながってる。例えばリヴォン・ヘルム(ザ・バンド)のドラムの叩き方なんて、あのスウィング感とかフィーリングは、今聴くと“ヒップホップっぽい”って言ってもいいくらいなんじゃないかな。

ラッキー:僕たちの国には、そうした豊かな音楽の財産がある。それを活かさないなんて、もったいないよね。テネシーの音楽も、〈Third Man〉も、ビッグ・スターも、全部が“物語”の一部なとしてつながっているんだよ。

アンビエント・ミュージックの影響

——併せて、今回のアルバムでも際立つホットラインTNTのサウンドスケープには、いわゆるアンビエントやニューエイジ系のエレクトロニック・ミュージックとのつながりや影響も感じられます。

ラッキー:自分にとって、アンビエント・ミュージックは日々の生活に欠かせない存在なんだよね。ブライアン・イーノやノース・アメリカンズ、ミック・ターナーとか、いろんなアンビエント系の音楽を聴いてるよ。それに「Music for Nine Post Cards」とか、ああいう日本のアンビエント/環境音楽も大好きで。特に吉村弘は自分にとって特別な存在だよ。

ウイル:そういうアンビエント・ミュージックって、僕にとってもほとんど“デフォルトの音楽”みたいなところがあるんだよね。仕事をしているときも自然とそうした音楽を流してるし、そういう日常がそのままレコーディングにもにじみ出てる部分もあるんじゃないかな。

ラッキー:僕はレコード屋でも働いてるんだけど、店でよくかけるのがharuka nakamuraなんだ。彼のレコードには、椅子のきしむ音や、誰かがピアノの蓋を開け閉めする音とかが録音されていて、そういう“部屋の音”が聴こえるのがすごくいいなって思う。実際に、今回のレコーディングでも、椅子のきしむ音が録れてるテイクがあって、「ああ、これって“空間の音”まで録れてるんだな」ってちょっとうれしくなったり(笑)。

ウィル:「Letter to Heaven」の最後のコードは、個人的にアルバムのハイライトの一つだと思ってる。あとは「Transition Lens」もそうだね。あの曲のシンセのレイヤーは制作中に何度も試行錯誤したポイントで、エレクトロニック・ミュージックやヒップホップからの影響が確実にあると思う。アルバム全体を通して聴いてもらえば、そうした音の層や構成の工夫がきっと感じられると思うよ。

PHOTOS:MICHI NAKANO

◾️Hotline TNT サードアルバム「Raspberry Moon」
2025年6月20日に輸入盤・配信リリース
Tracklist
1. Was I Wrong?
2. Transition Lens
3. The Scene
4. Julia’s War
5. Letter to Heaven
6. Break Right
7. If Time Flies
8. Candle
9. Dance the Night Away
10. Lawnmower
11. Where U Been?
https://ffm.to/hotlinetntraspberrymoon

The post NY発インディー・ロックバンド、Hotline TNTが語る「マイブラや90年代オルタナ・ロックからの影響」 appeared first on WWDJAPAN.

「フジロック2025」に出演 音楽家でありグラフィック・アーティスト、ティコ(Tycho)が語る創作哲学

アメリカ・カリフォルニア州サクラメント出身のスコット・ハンセン(Scott Hansen)によるプロジェクト、ティコ(Tycho)。2020年には5作目「Weather」(2019年)がグラミー賞のノミネーションも受けた、すでに20年以上のキャリアを誇るエレクトロニック・ミュージック界の第一人者の1人だが、彼にはもう一つ知られた顔がある。それが映像クリエイター/グラフィック・デザイナーとしての活動で、近年は主にティコ周りのビジュアル制作を通じて、音楽とともに彼のクリエイションの重要な柱を担ってきた。その仕事は、作品のアートワークからツアー用のポスター作成、さらにはライブで使用する映像監修やステージ演出にまで及ぶ。ニュー・アルバム「Infinite Health」(24年)を携えて行われた今年1月の来日公演は、そんな彼が手掛けるビジュアル・ワークの最新の発表の場でもあったわけだ。

スコットいわく「没入型オーディオ・ビジュアル体験のプラットフォーム」と定義される現在のティコ。音楽制作に先駆けたグラフィック・デザイナーとしての原点。映像と音楽の関係性をめぐる哲学。そして、AIとクリエイションの問題、新たに立ち上げたプロジェクト「Tycho Open Source」について。来月の「フジロック」への出演(7月25日@RED MARQUEE)も控えるスコットに話を聞いた。

音楽と映像による
没入感のあるライブ

——先日のライブですが、非常に没入感のあるステージングで素晴らしかったです。

スコット・ハンセン(以下、スコット):しばらくライブをしない期間があって、その間に「どうすればこれまでとは違った形にできるか?」「どう進化させたり変化させたりできるか?」とずっと考えていたんだ。特に意識したのはビジュアル面のアップデートで、よりダイナミックに、音楽と視覚が結びついたステージにしたいと思っていた。それに、パフォーマンス自体もメンバー全員がもっと楽しめるような環境にしたかったんだ。以前は機材のセッティングがちょっと複雑で、ステージに立つこと自体がストレスになることもあったから、今回は思い切ってシステム全体を再設計した。今では純粋に“演奏すること”に集中できるし、ステージに立つのが心から楽しいと思えるようになったよ。

——映像演出については、どんなコンセプトがありましたか。

スコット:僕はいつも、音楽と映像のあいだに何かしらストーリーや映画的なつながりを持たせるようなアプローチを心がけているんだ。例えば「Devices」の映像——東京で撮影したんだけど、普段はMVを切り貼りしてライブ用に再構成するところを、今回はほとんどそのまま使ってる。いくつか色味を調整したくらいでね。それから、今回初めて取り入れたのが「i/MAG」っていう手法で、ステージ上に小型カメラを設置して、ライブ中のパフォーマンスをリアルタイムで撮影・投影してるんだ。僕のキーボードの上とか、観客からは見えないアングルを映して、そこにエフェクトをかけて加工しながら他のビジュアルと組み合わせていくんだけど、それがすごく楽しかった。自分たちが演奏してる“今”の瞬間が、そのまま視覚的な物語として重なっていく感覚があってね。

——スコットさんはティコについて、「没入型オーディオ・ビジュアル体験のプラットフォーム」とみずから謳(うた)われています。その意味するところを教えていただけますか。

スコット:僕にとって、音楽とビジュアルってすごく近いところから生まれているものなんだ。同じ感情やアイデアを別のかたちで表現してるだけでね。自分の音楽でも他の人の音楽でも、聴くときはいつも視覚的なイメージが頭に浮かぶし、僕にとってそれは自然なことなんだ。音楽と映像の両方を手がけてるのが同じ自分自身だから、それらが自然と統合されて、一体感のあるものになっているんだと思う。特にインストゥルメンタル・ミュージックには、聴く人の心の中に広がる“風景”のようなものがあると思っていて。聴いていると、まるで海や山が見えるかのように、心が自然とさまよっていく。その感覚って、すごく自由で瞑想的な体験だと思う。

一方で、ボーカル・ミュージックはもっと感情や言葉に根ざしたもので、コミュニケーションや人間のつながりについて考えるきっかけになる。だからこそ僕は、音楽とビジュアルをつなぐことで、その両方の感覚を横断できるような体験をつくりたいと思っている。ビジュアルが音楽に“意味”を押しつけるものにはしたくないんだよね。ビジュアルが音楽にもう一つの奥行きや余白を与えて、見る人がそれぞれに“別の次元”を感じられるようなライブにしたい。それが、僕が考える“没入体験”なんだ。

ボーズ・オブ・カナダからの影響

——そうした音楽とビジュアルを横断するアプローチは、これまで作品を重ねる中でどのように進化・変化してきたという手応えがありますか。

スコット:僕にとってこのプロジェクトの大きなモチベーションの一つが、エンジニアリングやプロダクションといった技術的な側面にあるんだ。音も映像も、制作において“どうつくるか”という部分にすごく刺激を受けるし、それを探求することが自分の創作意欲につながってる。

音に関しても、以前よりもずっと効率的に、少ない要素で多くを語れるようになってきたと感じてる。ソングライティングやアレンジの構造もより洗練されたものにしたいし、何より“伝えたいことをいかにシンプルに表現できるか”っていう点に今は強く意識が向いてる。結果として、全体としての表現もどんどん削ぎ落とされて、より凝縮されたものになってきているんじゃないかなって思うよ。

——スコットさんの考える「没入体験」という視点から、例えばラスベガスの「Sphere」のような施設はどのように映るのでしょうか。

スコット:すごく魅力的に思えるよね。実際に行ったことはないけど映像では見たことがあって、本当にすごいなって感じたよ。ああいうコンセプトは大好きだよ。

「Meow Wolf」っていうアートスペースがあって、いくつか拠点があるんだけど、たしかデンバーにある会場だったかな。立方体のような構造で、「Sphere」より規模は全然小さいけど、壁が全部スクリーンになっていて、たしか天井にも何か映っていたと思う。中に入ると、完全に包み込まれるような空間なんだ。そこで一度DJをしたことがあって、すごくクールだったよ。自分としては「Sphere」の中にいるという感覚に最も近い体験だったと思う。「Meow Wolf」って、ちょっと奇妙な場所なんだよね。最近のツアーでも、たしかニューメキシコの別の施設で演奏したんだけど、そこもまた全然違う空間だった。確か今は5カ所以上あると思うけど、どこも独自の美学を持っていて、すごくインスピレーションを受けるよ。

——“没入型のショー”というと、個人的に印象深いのはビョークやワンオートリックス・ポイント・ネヴァーだったりするのですが、スコットさんにとってそういうアーティストとなると誰になりますか。

スコット:例えばボーズ・オブ・カナダ(Boards of Canada)は、ずっと僕にとって大きな存在だった。あの独特な美学はいつも際立っていたし、たしか彼らには映像やビジュアル制作を手がけるコレクティブみたいなチームがいたんじゃないかな。初期の作品には特に強くそれを感じた。タイトルは忘れちゃったけど、あのころのビデオなんかは本当にすごくて、音楽とビジュアルが完全に一体になってたんだ。まるで音楽にぴったり寄り添う完璧なパートナーみたいに感じられて。だから彼らには、音楽面でもビジュアル面でも、本当にたくさんのインスピレーションをもらってきたと思うよ。

グラフィック・デザイナーとしてのキャリア

——ティコのビジュアル・ワークにまつわる話として、スコットさんが「ISO50」名義で活動されたグラフィック・デザイナーとしてのキャリアについて教えてください。

スコット:たぶん1990年代後半から2012年くらいまでの話かな。当時の僕の本業は、インターフェース・アーキテクチャ、つまりソフトウェアやウェブのUXデザインだったんだ。生活のための仕事としてはずっとウェブ・デザインをやっていて、音楽はあくまで趣味というか、サイド・プロジェクトとしてちょこちょこ触っていたくらいだった。

転機が訪れたのは06年ごろで、「ISO50」っていう名前でビジュアルの活動をしていたんだけど、その名前でブログを始めたんだ。最初は主にデザイン中心のブログだったんだけど、次第に音楽も紹介するようになって、それが思いのほか注目されるようになった。そのブログを、自分の音楽プロジェクトの発信の場としてもうまく活用していて、好きなグラフィックや音楽を紹介する合間に“これも聴いてみて”って、自分の曲をさりげなく載せたりしてたんだよね。結果的にそれが大きなきっかけになって、ティコの名前がより多くの人に知られるようになったと思う。当時は広告業界のアート・ディレクターやマーケターなんかもよく見てくれてて、ブログで聴いた曲をCMやキャンペーンに使ってくれたりもしてね。

でも、10年には「Dive」の制作が終わりに近づいて、翌年リリースされるタイミングでツアーを始めたんだ。ライブ・バンドも結成して、本格的に音楽に注力するようになった。そうなると、ブログやデザインに使える時間がどんどんなくなっていって……気づけば、あのブログも自然と終わってしまった。というのも、それまでの15年くらいをデザインにささげてきたから、次の10年は音楽にささげてみようって思ったんだよね。でも、気づいたらもう14年経ってた(笑)。ただ、今もティコのポスターやカバーアート、映像作品の多くは自分で手がけているし、グラフィックの仕事も完全には手放してない。忙しいけど、充実した日々を送れてると思うよ。

——スコットさんの中で、ティコと「ISO50」はどういう関係性にあるのでしょうか。

スコット:僕にとっては完全に一体化してる。同じプロジェクトの異なる側面という感じでね。「ISO50」という名前は、もともと写真にハマっていた時期に使い始めたもので、富士フイルムの「Velvia」っていうポジフィルムの感度に由来しているんだ。そのころはTシャツのデザインとかもやっていて、そのロゴとして「ISO50」を使ったりしてね。でも、結局どっちも自分のプロジェクトで、プロとしての側面を見せるときに名前を分けていただけで、今では全部一つの「ティコ」というプロジェクトの中に統合されている。音楽とビジュアルが完全に一体となった、オーディオ・ビジュアル・プロジェクトとしてね。

——「ISO50」としては、ティコ以外でどんなデザインの仕事をしていたんですか。

スコット:主にやっていたのはウェブのインターフェース・デザインだった。例えばスキューモーフィック(skeuomorphic)な、現実の物体を模したようなウェブサイトをつくることが多かったね。紙っぽく見えるインターフェースとか、本のページをめくるような操作感とか、そういう質感重視のデザインが得意だった。Flash全盛の時代で、リアルなテクスチャや立体感をデジタルで再現するのがクールだったんだ。

でも僕の夢は、いつか音楽の世界とつながって、コンサート・ポスターやアルバムのカバーを手がけることだったんだ。ティコの活動を通じて徐々にそういう機会も増えていって、それがすごくうれしかったよ。ただ、仕事の大半はクライアント・ワークじゃなくて、自分の作品を売ることだった。Tシャツやアート・プリントをつくって、自分で販売してたんだ。大判のエプソンの44インチ・プリンターでジークレープリントを刷って、サイトで直接販売するような形でね。そういう個人制作の発表と流通の場として機能してたんだよ。

——ちなみに、ファッション関係の仕事ってありましたか。

スコット:一度だけ、「ディーゼル(DIESEL)」のキャンペーンでポスターをつくったことがあるよ。たしか20周年か何かの記念企画だったと思う。でも、グラフィックをTシャツにプリントしたりはしてたけど、服そのものをデザインするってことはしていない。服飾って三次元で考えなきゃいけないし、構造も複雑だし、本当に難しい分野だと思うんだよね。だから、そういうことができる人たちにはすごく尊敬の念があるよ。

影響を受けたグラフィック・デザイナー

——新作の「Infinite Health」のアートワークですが、自然の中に人工物が同居したシュールな構図が、マイク・オールドフィールドの「Tubular Bells」や、ヒプノシスが手がけたピンク・フロイドなどのジャケットを連想させるところがありました。サウンドとビジュアルとのつながりという観点で、スコットさんが影響を受けたり好きなデザイナーがいたら教えてください。

スコット:うん、今回は、70年代のアートワーク──ストーム・ソーガソンとか、ピンク・フロイドのジャケットみたいなやつ──そういう感じのものを参考にしたいって思ってて。あの時代の、でっかいプログレのアルバム・カバーを見て育ったんだよね。で、当時のアートワークでクールだと思っていたのは、写真ベースなんだけど、どこかイラストみたいに見えるやつで。コラージュ的に構成されているのに、仕上がりは曖昧で、絵なのか写真なのかよく分からない。そういう中間的な感じが面白いなと思って。それから、有機的なものと人工的なものを対比する構成も意識していた。それって70年代のサイケデリック・アートによく見られるテーマで、そういった感覚を取り入れたかったんだ。

——デザインや映像の道に進む上で、大きな影響を受けた人物はいますか。

スコット:一番影響を受けたのは、アルノー・メルシエ(Arnaud Mercier)というグラフィック・デザイナーだね。フランス系カナダ人で、富士フイルムの「Velvia」を使って写真を撮ってたんだけど、その上にものすごくシンプルなグラフィックを重ねてて、それがとにかく美しかった。今回のジャパン・ツアーのポスターも、実は彼へのオマージュなんだよ。十字のモチーフや、ミニマルな構成なんかは、まさに彼がよく使っていたスタイルなんだ。

僕が本格的にアートやデザインをやり始めるずっと前から彼の作品には惹かれていて、いつかこういうのを自分もつくれたらってずっと思っていて。それで思い切って彼にメールを送ってみたんだ。いろいろ質問してみたら、彼は本当に親切で、丁寧に答えてくれた。それから少しずつやりとりが続くようになって、何年も連絡を取り合ってた。彼が使ってた「Velvia」についても詳しく教えてくれて、そこから自分の「ISO50」っていう名前も生まれたんだ。彼はすごくインスピレーションをくれる存在で、デザインに関する多くのことを教えてくれた。5年くらい前に亡くなってしまったんだけど、今でも彼のデザインが僕の中には残っているよ。

「健康」と音楽

——今回の新作はタイトルにもある通り「健康」がテーマということで、背景にはパンデミックの影響があったと伺っています。サウンドはとてもダンス・フィールに溢れた仕上がりですが、スコットさんにとって今作はヒーリング的な意味合いもあったりしたのでしょうか。

スコット:音楽ってやっぱり、根本的に癒やしの力があるものだと思う。つくるっていう行為自体もそうだし、聴くこともそう。どっちのプロセスにもある種の瞑想的な側面があるし、本当に強い力を持ってる。でも同時に、自分にとって音楽は“仕事”でもある。ハードワークだし、正直ストレスも大きい。放っておくとその波にどんどんとのまれてしまう。しかも、自分はそのストレスを割と許容しすぎてしまうタイプで、だから今回の作品では、改めて自分に「もっとバランスを取らなきゃいけない」と言い聞かせるような気持ちがあった。

今は子どももいるし、家族もいて、人生のいろんな局面を持続可能にしていくフェーズに入ったなと感じてるんだ。全ての要素をより健康的に、よりサステナブルな視点から捉え直していく必要がある。たぶん、それが今回の作品に込めた大きなテーマだったと思う。もちろん、パンデミックの影響もある。あの時期を通じて、誰もが「自分の健康」ってことを改めて考えさせられたと思う。だからこの作品には、自分がこれからも音楽を続けていく上で、それがちゃんと健やかで充実した営みであるように……という願いも込められてるんだ。

——パンデミックの経験が、その後の人生設計やキャリアの計画を見直すきっかけになった、と話すミュージシャンは多いですよね。

スコット:うん、まさにそうだね。あの時間がなければ、たぶん今みたいな形で家族を持つこともできなかったと思う。というのも、それまではツアーとアルバム制作の繰り返しで、とにかく立ち止まる余裕が一切なかったんだ。気がつけば10年くらい一瞬で過ぎてて、「自分は今まで何をしてきたんだろう?」って、ふと我に返る瞬間があった。

だから、一度立ち止まって「これから何を大事にしたいのか」「どう生きていきたいのか」っていうのを考える時間が持てたのは、本当に大きかった。ただ、あの期間も創作自体はずっと続けていて、自分に課していたのは“毎日1曲、もしくは何かしらのアイデアを必ず残す”っていうルールだった。ほんの小さなメロディーの断片でもいいから、とにかく“種”をまいておくという感覚で。その蓄積が今回の作品につながってる。あのときに書いた曲の多くは当時の空気感そのものをまとってて、自分にとってもすごく手応えがあった。4年分のストックの中からじっくり選んで構築していくことができたし、こんなふうに余裕を持って作品をつくる経験は初めてだったから、自分の中でもかなり特別なアルバムになったと思うよ。それに、実はもう一枚分のアルバムがすでにできていて、それも近いうちにリリースしたいと思ってるんだ。

——これは以前ジョン・ホプキンスにインタビューした際にも話題に出たのですが、近年、アンビエントなどのエレクトロニック・ミュージックにおいてAIによる自動生成が大きな話題となっています。それこそセラピーやヒーリングなどさまざまな効果を謳ったプレイリストがストリーミング・サービスでは溢れかえり、莫大な再生数を記録している現状は、音楽における芸術性や作者の独創性の概念に問いを投げかけ、新たな議論を巻き起こしています。スコットさんはこうした状況をどのように捉えていますか。

スコット:その分野については正直、そこまで詳しいわけじゃないから断言はできないんだけど……もし本当に機械が人間からアートを奪うようなことになるなら、それって本当に悲しいことだと思う。一番影響を受けるのは、これから出てこようとしてる若いアーティストたちなんじゃないかな。すでに確立されてる人ならある程度は耐えられるかもしれないけど、それでも今はとにかく飽和状態で、音楽で生計を立てていくことがますます難しくなってきてるし。

僕自身はAIに関して深く調べたわけじゃないけど、ただ、今のところ「これはすごい!」って思えるような音楽には出会ったことがなくて。“曲っぽいもの”はあるけど、それはどちらかというとチープなポップ・ソングのシミュレーションみたいなもので、それ以上のものではなかった。例外として、人間が素材を与えてAIが構成したビジュアル作品で、ちょっと面白いものは見たことはある。でも、完全にAIだけでつくられたもので、心を動かされた経験はまだない。

AIがジョン・ホプキンスみたいな個性的なサウンドを再現できるようになる——って話も、理屈では面白いけど、現実的にはまだ信じられないかな。本当にそんな時代が来たら、そのときに改めて判断すればいいと思ってる。今の段階では、どこか「手品」っぽく見えるんだよね。AIに投資してる人たちは「もうすぐすごいことになるぞ!」って煽ってるけど、実際はまだそこまでじゃない。まぁ、こういうことを言うと、ラッダイト(新しいテクノロジーや機械、作業方法に反対する人)っぽく聞こえるのかもしれないけど(笑)、少なくとも今の自分にとっては、“AIの音楽”がすぐに深刻な脅威になるとは感じていない。もちろん、この先どうなるかは分からないけどね。

——逆に、スコットさん自身が心を落ち着けたいときに自然と手が伸びる音楽って、ありますか。

スコット:その時々の状況によるかな。というのも、僕ってそもそも音楽を“リラックスのため”に聴くタイプじゃないんだ。制作中の音楽は別だけど、普段何かを聴くときは、むしろ“ワクワク感”とか“エネルギー”が欲しいときで。

例えばインターポールは自分の大好きなバンドの一つで、特にデザインとか映像の仕事をしてるときにいつも流している。集中力を保ちたいときとか、細かいデザイン作業をしてるときにぴったりなんだよね。実際、自分たちのアルバムのジャケットもインターポールをループ再生しながらつくったんだ。「Turn on the Bright Lights」なんて、永遠にリピートできると思う(笑)。

それと、今はダンス・ミュージックばっかり聴いてて。DJセットのためのリサーチ目的でね。“この曲はクラブでどう機能するか”とか、そういう視点で聴いてるんだ。だから結局、音楽を制作したりDJセットの準備で音楽を聴く時間が増えるほど、純粋に楽しむためだけに音楽を聴く時間ってどんどん少なくなってきてる気がするよ。

——ところで、3年ほど前に「Tycho Open Source」というプラットフォームを新たに立ち上げられましたね。これはどういった目的で始められたものなのでしょうか。

スコット:もともとのきっかけは、自分がブログをやってたころに遡るんだけど、当時はちゃんと“コミュニティー”と呼べるものが存在していて、そこにいる人たちとも直接つながれてたし、誰がどんなことをしてるのかも見えていた。ちゃんと人と人との感覚があったんだよね。でもSNSが主流になると、それがだんだん失われていった。最初はSNSもその延長線上にあると思ってたんだけど、気づけばアルゴリズムに支配されて、投稿しても届かない、リーチできない。いわば“ゲートキーピング”されてしまった感覚がある。例えば、フォロワーがたくさんいても、実際にはその多くに何も届いていない。1000人が見たって表示されても、それが誰なのかも分からないし、結局ファンとのコミュニケーションの手段が失われてるっていう実感があるんだよね。

だから、今やってる“オープンソース”的な取り組みは、ある意味でファンクラブ的でもあるけど、もっと直接的で、双方向な関係をつくるための実験でもある。参加してる人にとっても“受け身”じゃない体験になるし、互いに交流できる場にもなる。もっと実用的なことを言えば、そこでライブの先行予約ができたり、特典が用意されていたり、アーティストとより深くつながれる手段としても機能する。単に音楽を届けるっていうだけじゃなくて、そこに関わる人たちにちゃんと“場”を提供したいっていう気持ちが大きいかな。

——「没入型オーディオ・ビジュアル体験のプラットフォーム」としてのティコの展望については、どんなことを思い描いていますか。

スコット:僕は常にライブのビジュアル面を進化させていきたいと思ってる。今回のショーでは、ようやく自分がずっと描いていたビジョンにかなり近づけた気がしてるんだ。例えば、いろんな角度に配置したスクリーンやスクリム(半透明の幕、紗幕)を使ったり、ステージ上に複数のパーツを組み込んだりしてね。ただ、残念ながらそういう装置はすごく大きくて、日本公演には持ち込めなかった。アメリカのショーでは、各ステーションに真っ白なプラットフォームやファサード(前面の装飾)を設置して、それら全てにプロジェクションマッピングを施してるんだ。とくに気に入ってるのは、白く塗装したアンプやオブジェクトをステージ上に置いて、それぞれに別々の映像をマッピングしていく方法で。そうすることで、平面のスクリーンに投影するだけじゃなく、映像が空間の中に立体的に“入り込んでいく”ような体験をつくれると思ってる。もっと没入感のある、3D的なビジュアル空間をつくりたいんだ。そういう体験型のプロジェクトとして、ティコをさらに進化させていきたいと思ってるよ。

PHOTOS:TAKUROH TOYAMA
TRANSLATION:EMI AOKI

◾️Tycho「Infinite Health」
2024年8月30日リリース
Label: BEAT RECORDS / Ninja Tune

TRACK LIST:
01. Consciousness Felt
02. Phantom
03. Restraint
04. Devices
05. Infinite Health
06. Green
07. DX Odyssey
08. Totem
09. Epilogue
10. Phantom Prologue *Bonus Track
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=14204

配信リンク:
https://tycho.lnk.to/infinite-healthPR

The post 「フジロック2025」に出演 音楽家でありグラフィック・アーティスト、ティコ(Tycho)が語る創作哲学 appeared first on WWDJAPAN.

アナウンサー平井理央の新たな挑戦は「チョコレート」 フジテレビ時代の同期と挑んだチョコ作りの裏側を聞く

PROFILE: 左:平井理央/フリーアナウンサー・パラスポーツジャーナリスト、右:錦織まゆ/angeles代表取締役

左:平井理央/フリーアナウンサー・パラスポーツジャーナリスト、右:錦織まゆ/angeles代表取締役
PROFILE: 左:(ひらい・りお)2005年フジテレビ入社。同社でアナウンサーとして7年半勤務した後、現在はフリーアナウンサー・パラスポーツ ジャーナリストとして、テレビやラジオ、イベントなどで活動。2023年から錦織とともに設立した会社アンジェルス(angeles)の共同代表を務める  右:(にしきおり・まゆ)2005年フジテレビ入社。報道局、情報局で勤務し退社。その後、教育系出版社のバックオフィスを担当。23年から平井と共に設立した会社アンジェルス(angeles)の代表取締役を務める PHOTO:MICHIKA MOCHIZUKI

フリーアナウンサーの平井理央は昨年10月、チョコレートブランド「ビビッドカカオ(VIVID CACAO)」をフジテレビ時代の同期である錦織まゆとともに立ち上げた。薬剤師・予防医学士の監修のもと、乳酸菌やチョコレートとしては珍しいビタミンを配合した、栄養といおいしさのバランスを追求し、タイ・ランパン産のカカオ豆を使用し、東京・奥沢の工場で手作業で加工しているこだわりのハイカカオチョコレートだ。

チョコレートはタブレットタイプをメーンに展開し、3つのタイプ全てに約1000億個の乳酸菌を配合。カカオ70%のダークチョコレートのベーシックな“001 リラックス”(2160円)、同じく70%のダークチョコレートにレモン42個分のビタミンCを配合した“002 リフレッシュ”(2376円)、カカオ50%のオーツミルクチョコレートにマルチビタミンを加えた“003 ビューティ”(2376円)をそろえる。

なぜチョコレートに挑戦したのか、共に認定予防医学士の資格を取得し、2人にブランド立ち上げた背景とこだわりのチョコレートについて聞いた。

WWD:チョコレートブランドを立ち上げたきっかけを教えてほしい

平井理央(以下、平井):大学時代に家族でベルギーのブルージュを旅行したとき、チョコレート工場の隣にある直売所で作りたてのチョコレートを食べたんです。そのおいしさが衝撃的で、平井家一同「チョコレートってこんなにおいしいの!?」と感動で震えたのを覚えています。それから、チョコレートは私にとって特別な存在になりました。

その後フジテレビに入社して、当時はまだ働き方改革前で、今では「うそでしょ」というぐらい激務でした。私は夜の番組を担当していたので、1時間しか寝ずに朝から沖縄に日帰りで取材に行くような生活。そんなとき、コンビニで買ったチョコレートをポケットに入れてこっそり食べて、また現場に戻るみたいなことをしていて、自分の日常を少しチョコレートに支えてもらっていました。

でも、どんなにチョコレートが好きでも「肌荒れしないかな」「太るかも」と気になって、毎日は食べられなかった。だからむしろ「毎日食べた方がいい」って言えるぐらいの健康や美容に良いチョコレートがあったらいいなと思ってその話を同期入社でもあり、20年来の友人でもある錦織に話したら、錦織もちょうどチョコレートが大好きで作ってみようとなりました。

錦織まゆ(以下、錦織):いつだかの新年会のときに平井から急に「チョコレートを作ってみたいんだよね」と言われて(笑)。「それなら私も!」って言ったのがきっかけです。

グーグル検索から始めた、手探りのチョコ作り

WWD:そこからすぐ行動に?

平井:私たちはチョコレートは好きなものの、専門的な知識は全くなかったので、とにかく勉強しました。ショコラティエさんが開いている講座に参加してみたり、工場を探したり。パッケージやデザインは誰にお願いすればいいのか探したりしました。だんだんやっているうちに、これはもう個人的にやるっていうより、会社にしないと難しいという話になっていきました。

錦織:最初は「ただ仲のいい友だち同士で盛り上がってるだけなんじゃない?」という目で見られていたと思います。もちろん、みなさん優しかったんですけど、どこかに「本当に実現するの?」という空気もあって。だからこそ、「ちゃんと考えてますよ」という姿勢を見せたくて、会社アンジェルス(angeles)を設立することにしました。

WWD:会社の設立後、どのように開発に向かって動き始めたのか?

平井:最初から「ビーントゥーバー」というカカオ豆から板チョコを作る製法で、豆の味を最大限に生かしたチョコレートを作ろうと決めていました。

錦織:とはいえ、私たちは専門家でもなければ製造の経験もゼロ。だからOEM先を探すことから始めて、「ビーントゥーバー OEM」でグーグルで検索して、一番最初に出てきた世田谷区の奥沢にあるフーズカカオさんに電話してみたんです。

平井:一番最初に検索でヒットした工場に、まさかアポイントを取れてその方とパートナーシップを結んでいただけるとは、われわれも思っていなかったです。

錦織:そこからはとにかく足を運びました。工場の社長がつかまらないと聞けば、「じゃあ今から行きます」と(笑)。報道記者時代の突撃精神が生きましたね(笑)。

平井:そしてもう1つ大切にしているのが「誰も嫌な思いをしないチョコレートを届けたい」という想いです。チョコレート業界には、フェアトレードや児童労働など、さまざまな課題があります。だからこそ、生産の最初から最後まで、関わる全ての人にとってフェアであることを大事にしたいと考えました。だからこそ、私たちは実際にカカオ豆の産地にも自分たちの足で訪れることにしたんです。

錦織:ちょうどフーズカカオさんがタイ・ランパンのカカオ農園と直接取引されていたので、現地に連れて行っていただくことができました。

平井:タイの農園でカカオの収穫から発酵、乾燥までの工程を見させていただきました。現地の農園の方も私たちのチョコレートのコンセプトを気に入ってくれて、とても協力してくださっています。デビューのポップアップにもタイからいらしてくれました。

錦織:タイでも最近チョコレートの人気が高まっていて、カカオ豆の取り合いのような状況になってきているそうなんです。市場全体としても流通量が減ってきていて。でも、顔が見える関係だからこそ、「うちのカカオ豆はなんとかお願いします」とお伝えしていて、無理を聞いていただいています。

平井:今振り返るとグーグル検索から始まった手探りのスタートでしたが、素敵なご縁に恵まれて、本当にいい巡り合わせだったなと思います。

カカオのカラフルな色をブランド名とパッケージに

WWD:「ビビッド カカオ」というブランド名の由来は?

平井:タイにカカオ豆の視察に行ったとき、木になっているカカオポッドを初めて見ました。カカオポッドの中には、白くてみずみずしい果肉“パルプ”が詰まっていて、その中のタネがチョコレートになるんです。黄色だったり赤だったりすごくカラフルで、カカオってもともとはこんなに力強くて色鮮やかな南国のフルーツだったんだなと実感して、帰り道の飛行機の中で、“ビビッド”という言葉が浮かびました。

WWD:スタイリッシュなパッケージだがデザインのこだわりは?

平井:デザイナーさんにお願いして、発光するようなネオンカラーのビビッドな色を使ってもらいました。食べた人が内側から輝くような、そんなイメージを込めて制作しました。

WWD:パッケージにチャックがついているのが珍しい

錦織:そうなんです。板チョコって、2口くらい食べて残しておくとボロボロになったり、風味が飛んでしまったりするんですよね。銀紙や箱入りだと、カバンにも入れにくいし。そういう煩わしさをなるべく減らしたくてチャックをつけました。

カップヨーグルト10個分、約1000億個の乳酸菌を1枚のチョコレートに

WWD: 中身のこだわりについても聞きたい。特に「乳酸菌」と「ビタミンC」が入ったチョコレートは珍しいと思うが、どのようにたどり着いたのか?

平井:「毎日食べたほうがいいチョコレート」を目指す中で、薬剤師で予防医学士の坂田武士さんと出会いました。坂田さんに「おいしくて、肌もキレイになるようなチョコレートってできますか?」と聞いたら、「できますよ」と即答されて(笑)。

具体的にどういう成分が適しているのかを知りたくて、坂田さんからいろんな栄養素の話を聞く中で、特に私たちがピンときたのが乳酸菌でした。最近は“腸活”という言葉もよく聞きますが、腸内環境を整えると、脳の状態も良くなるという研究結果も出てきています。もともと私自身、緊張するとお腹を壊すタイプだったので、腸と脳がつながっているという感覚は体験としても分かる部分がありました。

錦織:実はチョコレートそのものが、食物繊維が豊富で腸に良いだけでなく、発酵食品でもあるんです。現地タイの農園で、カカオパルプをバナナの葉で包んで発酵させている工程を見て、「腸活にぴったりかも」と思いました。腸活って、発酵食品を取る、食物繊維を取る、乳酸菌を取る、みたいな要素がありますが、チョコレートはそれら全てを備えているんです。だから乳酸菌を加えることで、より理にかなったチョコレートになると思いました。

WWD:実際どれぐらいの量の乳酸菌が入っているのか?

乳酸菌は全ての製品に配合しています。ただ“入ってます”とうたうだけではなく、しっかり体に届く量を入れたくて、1枚の板チョコに含まれる乳酸菌は約1000億個。カップヨーグルト10個分に相当します。そのうえで、おいしさとのバランスもしっかりとれるように、配合や味の調整にも時間をかけました。

ほとんど前例がないビタミンの配合に挑戦「突き抜けるような酸味」を実現

WWD:では、ビタミンの配合はどうやって実現したのか

平井:ビタミンCは水溶性で体内に蓄積できないので、少量ずつこまめに摂取するのが理想的。そういう意味でも、チョコレートとの相性が良いと思ったんです。ですが、ビタミンの配合は大きな挑戦でした。乳酸菌を入れることはできても、ビタミンをチョコレートに加えるというのは、チョコレート業界でも前例がほとんどなかったんです。また最初は「本当にビタミン入るの?」と懐疑的な声もありました。ですが工場に確認すると、粒子の大きさ的にも製造温度的にも可能だと。ただし、味とのバランスを取るのは試行錯誤の連続でした。

WWD:ビタミンの酸味のある味が印象的だった

平井:タイのランパン産のカカオ豆はもともと酸味があって、その自然な酸味との相乗効果で「突き抜けるような酸味のある味」を目指しました。

錦織:当初は「酸っぱすぎるかな?」と不安もありましたが、好評でうれしかったです。

ヘッドスパサロンとの異色のコラボ

WWD:頭ほぐし専門店「悟空のきもち」とのユニークなコラボレーションも行っている

平井:「悟空のきもち」さんとは、日本橋三越本店で、施術を受けながらチョコレートを楽しむコラボレーションを行いました。施術前には、オーツミルクとマルチビタミンを配合した甘めの“003 ビューティ”を、施術後には、ビタミンCを加えた酸味のある“002 リフレッシュ”を提供する取り組みです。

WWD:今後はどのような場所で展開していきたいか?

錦織:メーンはオンラインストアでの販売ですが、期間限定のポップアップストアやイベントで、実際に手に取っていただける機会を増やしていけたらと思っています。正直、大量生産がまだ難しい状況なので、スーパーマーケットなどに広く展開することはできません。だからこそ、健康や美容に意識のある方々が、忙しい日常の中でふと手に取れるような場所に置けたら理想だと思っています。

WWD:今後挑戦していきたいことは?

平井:まずはチョコレートという形で、マルチタスクを頑張る人たちの日常を支えられるようなものを届けたいという思いがあって、チョコレートをリリースしました。今後も、そうした人たちの背中を少しでも支えられるようなプロダクトや健康に関する情報などを、誠実に届けていけたらと思っています。

錦織:やっぱり、目の前の人が幸せになってくれることが、私たちにとって一番うれしいです。自分たちが学んできた知識をもっともっと伝えていけたらと思いますし、それを実践してもらえたらなおうれしいです。平井にはもっと広い場で発信できる力があると思っているので、目の前の人だけじゃなく、より大きな影響を与えられるようになってくれたらいいなと思っています。

撮影協力:GARDE

The post アナウンサー平井理央の新たな挑戦は「チョコレート」 フジテレビ時代の同期と挑んだチョコ作りの裏側を聞く appeared first on WWDJAPAN.

アーティスト・北山宏光が2ndアルバム「波紋-HAMON-」で見せる表現者としての進化

PROFILE: 北山宏光/アーティスト・俳優

PROFILE: (きたやま・ひろみつ)1985年9月17日生まれ。神奈川県出身。2023年9月17日、TOBEとともに新たなエンターテインメントの道を歩み始め、同年11月にデジタルシングル「乱心-RANSHIN-」をリリース。以来、楽曲制作、ライブ演出、俳優業など多岐にわたり活動を展開。24年8月に1stアルバム「ZOO」をリリースし、全国9都市15公演のライブツアーを成功させた。6月16日には2ndアルバム「波紋-HAMON-」をリリースし、よりパーソナルで革新的な表現に挑戦している。7月2日からは全国11都市17公演のライブツアーを開催する。

アーティスト、俳優として活動する北山宏光の2ndアルバム「波紋-HAMON-」が6月16日にリリースされた。本作は自分自身との対話と覚醒をテーマに、鋭くもエモーショナルなリリックが印象的なリード曲「波紋-HAMON-」をはじめ、先行配信された「Just Like That」や「OMG!!!」など、全方位型の音楽性とジャンルレスな13曲で構成されている。

前作「ZOO」から約10カ月ぶりとなる本作では、内面の葛藤や情熱、そして社会へのメッセージが、多彩なサウンドとともに描かれており、シンガーとしてだけでなく表現者としての北山の進化を感じさせる内容となっている。

今回、アルバム「波紋-HAMON-」に込めた思いや藤家和依との共作、衣装とパフォーマンスの関係、今後についてなど、幅広いテーマで話を聞いた。

波紋を広げ、ジャンルレスに挑戦し続ける

——セカンドアルバム「波紋-HAMON-」の完成、おめでとうございます。今の心境は?

北山宏光(以下、北山):ありがとうございます。今作は、前作(「ZOO」)からほとんど間隔を空けずに短期間で制作しました。その中でしっかりと、自分のメッセージが色濃く伝わる内容になっていると思います。

——アルバムの全体的なコンセプトやテーマを教えてください。

北山:アルバムタイトルでもあり、リード曲でもある「波紋-HAMON-」という言葉はそのままテーマにもなっています。自分が紡いだ言葉や行動が一石となり、それによって波紋が広がるように、聴いてくださる方々に何かが伝わっていくといいなという思いで仕上げました。

——アルバムを通して聴くと、エレクトロ、ロック、ヒップホップ……と非常に幅広いジャンルの楽曲が収録されていると感じました。これは北山さんがやりたいこと全部を詰め込んだ形で作られたのでしょうか?

北山:そうですね。ただ、さまざまなジャンルに挑戦した理由は、普段だったら自分の音楽が届いていない方々に聴いてもらえる可能性を考えたからでもあります。だからこそ、僕のイメージを固定しない楽曲もちりばめました。もちろん僕がやりたいことの中の枠組みで制作していますが、いろんな曲を入り口にして僕の音楽に触れてくれたらいいなと思っています。今作は13曲(※通常盤は14曲)あるので、いろいろとトライができました。

——ファーストアルバムから進化させた部分はありますか?

北山:よりロックサウンドが印象に残るアルバムになってほしいなという漠然とした縦軸がありました。だからアレンジ面でもロックに寄せることが多かったです。

旧知の仲である藤家和依との共作

——リード曲の「波紋-HAMON-」自体が、かなりロックを体現したものだと感じました。

北山:そうですね。そもそもこの楽曲ができたことで、アルバムのコンセプトが固まったところがあります。まずこの曲ができ、それをそのままアルバム名にも採用したんです。アルバム全体の方向性を定めてくれたのが「波紋-HAMON-」です。

——「波紋-HAMON-」は北山さんご自身で作詞されていますが、どういう思いを込められたのでしょうか。

北山:良いニュースも悪いニュースも、世の中いろいろありますよね。誰かが正論を言ったとして、それはもちろん正しいことなんだろうけど、どんな正論にもちゃんと表と裏があると思うんです。裏側でしか成立しない正論もあるだろうし、正論ばかりを振りかざしていると、物事がおかしくなる場合もあるでしょう。ただ、こういう考えは公で言い過ぎると誤解を招く可能性もあります。だから歌にすることで、理解してくれる人に伝わればいいと思って書き始めたのがこの曲です。そうした“届いてほしい”という思いも「波紋」という言葉につながっていきました。自分が抱えるつらさは、なるべくエンタメに昇華しようと努めています。そしてこの曲が誰かに刺さってくれたとしたら、それは同じ気持ちを共有できているということ。歌から何かを読み取ってもらえたらうれしいです。

——この曲の作曲には、旧知の仲である藤家和依さんが参加されています。

北山:藤家君とは、芸能界に入るきっかけになったオーディションが偶然同じ日だったことから仲良くなりました。いつしかそれぞれの歩みは全然違うところに行っていて、またこうして一緒に作っているというのは不思議な縁だと感じています。出会ってからもう23年。同じステージに彼も昔立っていたからこそ、2人で話しているとアイデア出しの段階からすでに、ステージ上での絵を共有できるんですよ。曲のイメージから飛躍して、どんなライブになっているか、その時のファンの皆さんの歓声はどうかとイメージまで膨らむので、話が早くて驚きました。

——今作についてはお2人でどういう話をされましたか?

北山:歌詞の中にもある言葉なのですが、「やってんな!」の曲を作ろうって(笑)。これは嫉妬のようなネガティブな使い方もできるし、羨望のようなポジティブな使い方もできる、汎用性のあるキャッチーな言葉だと感じています。だからこそ、思わず言いたくなるというか。ライブでファンの方々に「やってんな!」と思ってもらえたら成功だなと思っています。これからライブで歌っていくことで、この曲がさらにどう進化していくかが自分でも楽しみなところではあります。

——他の曲についても教えていただけますか。

北山:「アマテラスヒカリ」はかなり歌詞を書き直しましたね。これもライブシーンをイメージしてできた楽曲です。後ろから光が差して、シルエットとして僕が登場して歌えたらカッコいいなと妄想していく中で、「アマテラスヒカリ」という言葉が浮かびました。ちょっと神聖な響きのある言葉ですよね。
 
「OMG!!!」は、もともと自分がメモしていたフレーズをベースに歌詞にしました。結構メモ癖があるんですよ。友達と集まったら、楽しすぎてもうこのあと仕事はできないなと思うことがあるじゃないですか。その思いがメモに残っていて、そこから着想を膨らませました。MVはAIで製作している点も特徴的です。日本の都市文化や宇宙といったまったく違う要素が融合している面白みがあると思っています。

衣装とパフォーマンスの関係

——「波紋-HAMON-」のMV撮影はどうでしたか?

北山:撮影はカメラに向かう動きが多く、わざとブレを入れて躍動感を出したりしているんです。観ている人が圧を感じるくらい、メッセージの波動を伝えることを意識した作品になっています。5つの台を使用している場面では、全てダンサーたちがマンパワーでそれを持ち上げてくれているのですが、そこからも暑苦しいほどの熱量を感じていただきたいですね。演出としても、飽きないものになっているのではないかなと思います。

——MVで着用されている、ボリュームのあるファーとレザーパンツの衣装も印象的です。

北山:「波紋-HAMON-」は「to HEROes ~TOBE 2nd Super Live~」の東京ドーム公演の時が初お披露目で、そのライブでも着用した衣装でした。衣装込みで世界観を作り上げていたので、同じものをMVでも着用しています。裏テーマとして、「赤」をポイントにしています。やはり僕自身の波紋としては、青の水色の波紋ではなく、赤い大きな波紋のイメージがあったので。

——波紋と聞くと静寂なイメージもありますが、熱量みたいなものに変換されているのが面白いと感じました。

北山:そうですね。エネルギー体が落ちた時の広がりを表現する方が、僕が生み出す波紋らしいなと思って。それをどんどん絵に落とし込んでいきました。

——衣装がパフォーマンスに与える影響も考えられていると思ったのですが、パフォーマンス時の衣装について意識していることはありますか?

北山:意識はかなりしています。ただこれは演出によって決める部分が大きいですね。ダンスをするなら動きやすさも必要だし、どれくらいの時間で早替えするのかによっても変わってくる。その計算の中にさらにトレンドも入れたくなってしまうので、衣装は最も悩ましいところですね。実際、踊る曲だったらジャージが一番踊りやすいので、本当はリハ着が一番いいんですよ(笑)。リハ着だと一番、自分が踊れていると感じますから。

——重たいファーだと動きは大変ですよね。

北山:ただ、ステージに立っていると、あれくらいボリュームがある方が存在感があるし、極端な話、そんなに動かなくても絵として成立するという側面もある。本当に衣装の選択は難しいし、面白いなと思います。

——普段はどのようなファッションがお好きですか?

北山:ブランドだと「「セント マイケル(©SAINT MXXXXXX)」などはよく着ます。小物だと「クロムハーツ(CHROME HEARTS)」なども好きです。ですが、テイストは固定していなくて、かなりいろんな服装を楽しんでいるタイプだと思います。行く場所やお店によって変えたりもしますから。ちょっとやんちゃな感じの時もあれば、本当に無地のセーターとデニムという時もあるし。

——最近の気分はなんですか?

北山:シャツをあまり着ないので、シャツが似合う人になりたいなと思っています。夏に麻素材のさらっとした素材のシャツを羽織れるような人って、カッコよくないですか?

ジャンルにとらわれず
さまざまなことに挑戦

——これから新しいアルバムとともに、ライブツアーもスタート。構想はすでに出来上がっていますか?

北山:まだ打ち合わせをしている段階ですが、セットはあまり見たことない形になっているかもしれません。アリーナサイズとホールサイズではできることが異なるのですが、今回はホールサイズの中で最大限に何ができるかを考えているところです。ロックサウンドが多めのアルバムなので、それを会場全体に轟かせられたらいいなと思っています。盛り上がれる楽曲が多いので、男性の方にもぜひ観にきていただきたいです。

——全国各地を回られるのも楽しみですね。

北山:京都、岡山は今回初めて訪れます。全国を回ることで、自分のことを知ってくれる人が増えていくといいなと思います。あとはグルメも楽しみですね。ツアーのメイキングとは別に、各地でグルメの撮影もできたらいいなと思っています。

——これからさらに挑戦してみたいことはありますか?

北山:これは引き続きですが、役者としても活動していきたいですね。さまざまな活動をすることが相乗効果になりますから。僕が今までやってきたことって、そうだと思うんです。これまでもジャンルにとらわれず、いろんなことに取り組んできたわけだから。だから、何かを制限することをせず、求められるところには行こうと思っています。映像作品を観た人からは役者と認識されればいいし、役者の人が歌を歌っているという見方があってもいいし、アイドルという見方だった人がアーティストという見方になってもいいし。見る人が変わるだけで、僕の役職が変わっていくということが、面白いと感じているので。

——最近のマイブームもお伺いしたいです。休みの日は何をされていますか?

北山:休みの日は友達とバーベキューをよくします。今まではただ肉に塩を振って味付けをしていましたが、最近は塩ダレを作るようになりました。最初は後輩が作ってくれたんですけど、食べたらおいしくて驚きました。ちょっとひと手間かけるだけでこんなにおいしくなるなんて、発見でしたね。本当にその場にある材料を混ぜて手早く作るだけなんですけど、それを使って焼くだけでみんな一気に盛り上がるんですよ。今はちゃんと振る舞えるように、レシピを改良中です。

——最後に「WWDJAPAN」の読者にメッセージをお願いします。

北山:「波紋-HAMON-」はタイトルからは想像しづらいアルバムかもしれませんが、曲を聴いたらちょっと驚くような、メッセージの強い楽曲が詰まっています。ぜひ歌詞も読んでいただいて、歌詞に込められたメッセージとともに聴いてくれるとうれしいです。

PHOTOS:TAKAHIRO OTSUJI
STYLING:KEI SHIBATA
HAIR&MAKEUP:CHIEMI OSHIMA

Tシャツ 2万5300円/032c、ジャケット 20万6800円/ALEXANDER DIGENOVA、パンツ 3万8500円/ENTIRE TUDIOS(全てNUBIAN HARAJUKU 03-6447-0207)、その他、スタイリスト私物

北山宏光 2ndアルバム「波紋-HAMON-」

■北山宏光 2ndアルバム「波紋-HAMON-」
6月16日リリース
初回生産限定盤A・B、通常盤の3形態をリリース
収録曲
1.Drippin' Overture
2.波紋-HAMON-
3.ADrenaline
4.Flores STEP
5.EYE Shadow
6.奪還メラメラ
7.アマテラスヒカリ
8.OMG!!!
9.Never Say
10.小さな春
11.Selfish
12.Just Like That
13.Drippin'
ボーナストラック(通常盤のみ):THE BEAST REMIX (to HEROes 2nd ver.)
https://tobe-official.jp/artists/hiromitsukitayama

The post アーティスト・北山宏光が2ndアルバム「波紋-HAMON-」で見せる表現者としての進化 appeared first on WWDJAPAN.

アーティスト・北山宏光が2ndアルバム「波紋-HAMON-」で見せる表現者としての進化

PROFILE: 北山宏光/アーティスト・俳優

PROFILE: (きたやま・ひろみつ)1985年9月17日生まれ。神奈川県出身。2023年9月17日、TOBEとともに新たなエンターテインメントの道を歩み始め、同年11月にデジタルシングル「乱心-RANSHIN-」をリリース。以来、楽曲制作、ライブ演出、俳優業など多岐にわたり活動を展開。24年8月に1stアルバム「ZOO」をリリースし、全国9都市15公演のライブツアーを成功させた。6月16日には2ndアルバム「波紋-HAMON-」をリリースし、よりパーソナルで革新的な表現に挑戦している。7月2日からは全国11都市17公演のライブツアーを開催する。

アーティスト、俳優として活動する北山宏光の2ndアルバム「波紋-HAMON-」が6月16日にリリースされた。本作は自分自身との対話と覚醒をテーマに、鋭くもエモーショナルなリリックが印象的なリード曲「波紋-HAMON-」をはじめ、先行配信された「Just Like That」や「OMG!!!」など、全方位型の音楽性とジャンルレスな13曲で構成されている。

前作「ZOO」から約10カ月ぶりとなる本作では、内面の葛藤や情熱、そして社会へのメッセージが、多彩なサウンドとともに描かれており、シンガーとしてだけでなく表現者としての北山の進化を感じさせる内容となっている。

今回、アルバム「波紋-HAMON-」に込めた思いや藤家和依との共作、衣装とパフォーマンスの関係、今後についてなど、幅広いテーマで話を聞いた。

波紋を広げ、ジャンルレスに挑戦し続ける

——セカンドアルバム「波紋-HAMON-」の完成、おめでとうございます。今の心境は?

北山宏光(以下、北山):ありがとうございます。今作は、前作(「ZOO」)からほとんど間隔を空けずに短期間で制作しました。その中でしっかりと、自分のメッセージが色濃く伝わる内容になっていると思います。

——アルバムの全体的なコンセプトやテーマを教えてください。

北山:アルバムタイトルでもあり、リード曲でもある「波紋-HAMON-」という言葉はそのままテーマにもなっています。自分が紡いだ言葉や行動が一石となり、それによって波紋が広がるように、聴いてくださる方々に何かが伝わっていくといいなという思いで仕上げました。

——アルバムを通して聴くと、エレクトロ、ロック、ヒップホップ……と非常に幅広いジャンルの楽曲が収録されていると感じました。これは北山さんがやりたいこと全部を詰め込んだ形で作られたのでしょうか?

北山:そうですね。ただ、さまざまなジャンルに挑戦した理由は、普段だったら自分の音楽が届いていない方々に聴いてもらえる可能性を考えたからでもあります。だからこそ、僕のイメージを固定しない楽曲もちりばめました。もちろん僕がやりたいことの中の枠組みで制作していますが、いろんな曲を入り口にして僕の音楽に触れてくれたらいいなと思っています。今作は13曲(※通常盤は14曲)あるので、いろいろとトライができました。

——ファーストアルバムから進化させた部分はありますか?

北山:よりロックサウンドが印象に残るアルバムになってほしいなという漠然とした縦軸がありました。だからアレンジ面でもロックに寄せることが多かったです。

旧知の仲である藤家和依との共作

——リード曲の「波紋-HAMON-」自体が、かなりロックを体現したものだと感じました。

北山:そうですね。そもそもこの楽曲ができたことで、アルバムのコンセプトが固まったところがあります。まずこの曲ができ、それをそのままアルバム名にも採用したんです。アルバム全体の方向性を定めてくれたのが「波紋-HAMON-」です。

——「波紋-HAMON-」は北山さんご自身で作詞されていますが、どういう思いを込められたのでしょうか。

北山:良いニュースも悪いニュースも、世の中いろいろありますよね。誰かが正論を言ったとして、それはもちろん正しいことなんだろうけど、どんな正論にもちゃんと表と裏があると思うんです。裏側でしか成立しない正論もあるだろうし、正論ばかりを振りかざしていると、物事がおかしくなる場合もあるでしょう。ただ、こういう考えは公で言い過ぎると誤解を招く可能性もあります。だから歌にすることで、理解してくれる人に伝わればいいと思って書き始めたのがこの曲です。そうした“届いてほしい”という思いも「波紋」という言葉につながっていきました。自分が抱えるつらさは、なるべくエンタメに昇華しようと努めています。そしてこの曲が誰かに刺さってくれたとしたら、それは同じ気持ちを共有できているということ。歌から何かを読み取ってもらえたらうれしいです。

——この曲の作曲には、旧知の仲である藤家和依さんが参加されています。

北山:藤家君とは、芸能界に入るきっかけになったオーディションが偶然同じ日だったことから仲良くなりました。いつしかそれぞれの歩みは全然違うところに行っていて、またこうして一緒に作っているというのは不思議な縁だと感じています。出会ってからもう23年。同じステージに彼も昔立っていたからこそ、2人で話しているとアイデア出しの段階からすでに、ステージ上での絵を共有できるんですよ。曲のイメージから飛躍して、どんなライブになっているか、その時のファンの皆さんの歓声はどうかとイメージまで膨らむので、話が早くて驚きました。

——今作についてはお2人でどういう話をされましたか?

北山:歌詞の中にもある言葉なのですが、「やってんな!」の曲を作ろうって(笑)。これは嫉妬のようなネガティブな使い方もできるし、羨望のようなポジティブな使い方もできる、汎用性のあるキャッチーな言葉だと感じています。だからこそ、思わず言いたくなるというか。ライブでファンの方々に「やってんな!」と思ってもらえたら成功だなと思っています。これからライブで歌っていくことで、この曲がさらにどう進化していくかが自分でも楽しみなところではあります。

——他の曲についても教えていただけますか。

北山:「アマテラスヒカリ」はかなり歌詞を書き直しましたね。これもライブシーンをイメージしてできた楽曲です。後ろから光が差して、シルエットとして僕が登場して歌えたらカッコいいなと妄想していく中で、「アマテラスヒカリ」という言葉が浮かびました。ちょっと神聖な響きのある言葉ですよね。
 
「OMG!!!」は、もともと自分がメモしていたフレーズをベースに歌詞にしました。結構メモ癖があるんですよ。友達と集まったら、楽しすぎてもうこのあと仕事はできないなと思うことがあるじゃないですか。その思いがメモに残っていて、そこから着想を膨らませました。MVはAIで製作している点も特徴的です。日本の都市文化や宇宙といったまったく違う要素が融合している面白みがあると思っています。

衣装とパフォーマンスの関係

——「波紋-HAMON-」のMV撮影はどうでしたか?

北山:撮影はカメラに向かう動きが多く、わざとブレを入れて躍動感を出したりしているんです。観ている人が圧を感じるくらい、メッセージの波動を伝えることを意識した作品になっています。5つの台を使用している場面では、全てダンサーたちがマンパワーでそれを持ち上げてくれているのですが、そこからも暑苦しいほどの熱量を感じていただきたいですね。演出としても、飽きないものになっているのではないかなと思います。

——MVで着用されている、ボリュームのあるファーとレザーパンツの衣装も印象的です。

北山:「波紋-HAMON-」は「to HEROes ~TOBE 2nd Super Live~」の東京ドーム公演の時が初お披露目で、そのライブでも着用した衣装でした。衣装込みで世界観を作り上げていたので、同じものをMVでも着用しています。裏テーマとして、「赤」をポイントにしています。やはり僕自身の波紋としては、青の水色の波紋ではなく、赤い大きな波紋のイメージがあったので。

——波紋と聞くと静寂なイメージもありますが、熱量みたいなものに変換されているのが面白いと感じました。

北山:そうですね。エネルギー体が落ちた時の広がりを表現する方が、僕が生み出す波紋らしいなと思って。それをどんどん絵に落とし込んでいきました。

——衣装がパフォーマンスに与える影響も考えられていると思ったのですが、パフォーマンス時の衣装について意識していることはありますか?

北山:意識はかなりしています。ただこれは演出によって決める部分が大きいですね。ダンスをするなら動きやすさも必要だし、どれくらいの時間で早替えするのかによっても変わってくる。その計算の中にさらにトレンドも入れたくなってしまうので、衣装は最も悩ましいところですね。実際、踊る曲だったらジャージが一番踊りやすいので、本当はリハ着が一番いいんですよ(笑)。リハ着だと一番、自分が踊れていると感じますから。

——重たいファーだと動きは大変ですよね。

北山:ただ、ステージに立っていると、あれくらいボリュームがある方が存在感があるし、極端な話、そんなに動かなくても絵として成立するという側面もある。本当に衣装の選択は難しいし、面白いなと思います。

——普段はどのようなファッションがお好きですか?

北山:ブランドだと「「セント マイケル(©SAINT MXXXXXX)」などはよく着ます。小物だと「クロムハーツ(CHROME HEARTS)」なども好きです。ですが、テイストは固定していなくて、かなりいろんな服装を楽しんでいるタイプだと思います。行く場所やお店によって変えたりもしますから。ちょっとやんちゃな感じの時もあれば、本当に無地のセーターとデニムという時もあるし。

——最近の気分はなんですか?

北山:シャツをあまり着ないので、シャツが似合う人になりたいなと思っています。夏に麻素材のさらっとした素材のシャツを羽織れるような人って、カッコよくないですか?

ジャンルにとらわれず
さまざまなことに挑戦

——これから新しいアルバムとともに、ライブツアーもスタート。構想はすでに出来上がっていますか?

北山:まだ打ち合わせをしている段階ですが、セットはあまり見たことない形になっているかもしれません。アリーナサイズとホールサイズではできることが異なるのですが、今回はホールサイズの中で最大限に何ができるかを考えているところです。ロックサウンドが多めのアルバムなので、それを会場全体に轟かせられたらいいなと思っています。盛り上がれる楽曲が多いので、男性の方にもぜひ観にきていただきたいです。

——全国各地を回られるのも楽しみですね。

北山:京都、岡山は今回初めて訪れます。全国を回ることで、自分のことを知ってくれる人が増えていくといいなと思います。あとはグルメも楽しみですね。ツアーのメイキングとは別に、各地でグルメの撮影もできたらいいなと思っています。

——これからさらに挑戦してみたいことはありますか?

北山:これは引き続きですが、役者としても活動していきたいですね。さまざまな活動をすることが相乗効果になりますから。僕が今までやってきたことって、そうだと思うんです。これまでもジャンルにとらわれず、いろんなことに取り組んできたわけだから。だから、何かを制限することをせず、求められるところには行こうと思っています。映像作品を観た人からは役者と認識されればいいし、役者の人が歌を歌っているという見方があってもいいし、アイドルという見方だった人がアーティストという見方になってもいいし。見る人が変わるだけで、僕の役職が変わっていくということが、面白いと感じているので。

——最近のマイブームもお伺いしたいです。休みの日は何をされていますか?

北山:休みの日は友達とバーベキューをよくします。今まではただ肉に塩を振って味付けをしていましたが、最近は塩ダレを作るようになりました。最初は後輩が作ってくれたんですけど、食べたらおいしくて驚きました。ちょっとひと手間かけるだけでこんなにおいしくなるなんて、発見でしたね。本当にその場にある材料を混ぜて手早く作るだけなんですけど、それを使って焼くだけでみんな一気に盛り上がるんですよ。今はちゃんと振る舞えるように、レシピを改良中です。

——最後に「WWDJAPAN」の読者にメッセージをお願いします。

北山:「波紋-HAMON-」はタイトルからは想像しづらいアルバムかもしれませんが、曲を聴いたらちょっと驚くような、メッセージの強い楽曲が詰まっています。ぜひ歌詞も読んでいただいて、歌詞に込められたメッセージとともに聴いてくれるとうれしいです。

PHOTOS:TAKAHIRO OTSUJI
STYLING:KEI SHIBATA
HAIR&MAKEUP:CHIEMI OSHIMA

Tシャツ 2万5300円/032c、ジャケット 20万6800円/ALEXANDER DIGENOVA、パンツ 3万8500円/ENTIRE TUDIOS(全てNUBIAN HARAJUKU 03-6447-0207)、その他、スタイリスト私物

北山宏光 2ndアルバム「波紋-HAMON-」

■北山宏光 2ndアルバム「波紋-HAMON-」
6月16日リリース
初回生産限定盤A・B、通常盤の3形態をリリース
収録曲
1.Drippin' Overture
2.波紋-HAMON-
3.ADrenaline
4.Flores STEP
5.EYE Shadow
6.奪還メラメラ
7.アマテラスヒカリ
8.OMG!!!
9.Never Say
10.小さな春
11.Selfish
12.Just Like That
13.Drippin'
ボーナストラック(通常盤のみ):THE BEAST REMIX (to HEROes 2nd ver.)
https://tobe-official.jp/artists/hiromitsukitayama

The post アーティスト・北山宏光が2ndアルバム「波紋-HAMON-」で見せる表現者としての進化 appeared first on WWDJAPAN.

ブランド設立10周年の「シュガーヒル」 5人の業界人の言葉で探る現在地

2016年、当時21歳だった林陸也デザイナーが立ち上げたブランド「シュガーヒル(SUGARHILL)」の洋服には、単なるスタイルを超えた文脈が息づいている。その背景には、古着やモーターカルチャーといった無骨なアメリカ由来の価値観と、インディペンデントな音楽シーンをはじめとした日本的な感性や美意識が潜む。さらに素材の質感や色味の探求、シルエットや再構築した独自の構造が重なり、唯一無二のビジュアル言語を生み出してきた。

26年、10周年という節目を迎えた同ブランドは、アニバーサリーランウエイショーを6月17日に東京で開催する。イベント前に「シュガーヒル」の現在地をおさらいすべく、筆者はブランドと林デザイナーの成長を間近で見守ってきた5人にインタビューを敢行した。林デザイナーが文化学園大学、ここのがっこう、ニューヨーク・ファッション工科大学(FIT)を経て入学した武蔵野美術大学で出会った恩師・津村耕佑。公私で支え合うバンド、「踊ってばかりの国」のフロントマン・下津光史。海外セールスを担うパリのエージェンシー、アンタイトルド(Untitled)のトーマス・ティストゥネ(Thomas Tistounet)。ミックスメディア「カーサービス(CarService)」でディレクターを務めるなどマルチに活躍し、同世代で切磋琢磨し続ける関係の Kei Hashimoto。「シュガーヒル」ファンの1人であり、ビームス(BEAMS)の長塚淳。それぞれの視点から語られる言葉を通して、「シュガーヒル」を立体的に探る。

津村耕佑

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーとの出会いを教えてください。

津村耕佑(以下、津村):彼が私のゼミに参加したのがきっかけで出会いました。ファッション専門学校を卒業していたこともあり、洋服の基本スキルが備わっている学生という印象でした。というのも、私は空間演出デザイン学科の教授なので、洋服を作ることを最終ゴールにするのではなく、演出や写真、グラフィック、ウェブデザインをメーンに学ぶゼミ生がほとんどでした。彼は当時、すでに「シュガーヒル」を立ち上げていて、学校の課題とブランドの仕事を完全に別物として分けていた。大学の課題は完成度の高さが求められず自由に取り組めるので、アート寄りのブリコラージュ作品を多く制作していた記憶です。

ーー学生時代の林デザイナーの印象的な思い出やエピソードはありますか?

津村:卒業コレクションのファッションショーは印象的でしたね。武蔵美のファッションショーは、過剰な演出やコスチューム要素が強くて世界観が全面に出がちなのですが、彼はモデルがウォーキングする、オーソドックスなショーを披露したんです。余計な演出をせずとも歩くだけで洋服が魅力的に見え、ウォーキングもスピード感があり、音楽は他の美大生が使わないようなロックテイストで、違う風を感じましたね。

ーー「シュガーヒル」はどんなブランドと認識していましたか?

津村:正直なところ、在学中は本気でやっていると認識していませんでした。美大生のブランドの多くは全てが手仕事で労力と値段が見合わず作るほどに赤字だったり、アーティスティックなクリエイションだったりで、ビジネス以前の課題が目立つもの。ですが、卒業後に開いていた展示会に伺うと、すでに量産体制が整い、ビジネス化の準備ができていましたし、奇抜ではなくリアリティーのある洋服が並んでいたので驚きましたね。また、デニムをメイン素材に使用していたのはクレバーなチョイスだと思いました。その頃の美大では「デニムはダサい」という感覚を引きずる人が少なくなかったのですが、彼はタフで人と共に育つ素材であるデニムの魅力を理解しているように感じて。日本にはデニム産業が根付くうえに、労働着というハイソサエティに対するカウンター的な位置付けや工芸的な要素もある。

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーの魅力とは?

津村:私の世代は、アバンギャルドだったり、無理して派手なことをしたりなど、地に足が付かないスターデザイナーを目指す風潮が強く、ビジネスを考えずに2~3シーズンでダメになるブランドが多い時代でした。私が考えるに、デザイナーが前に出すぎると熱狂が生まれやすい分冷めやすい。デザインは本質的にはアノニマスであるべきで、モノがあれば十分だ。その点、「シュガーヒル」はランウエイショーを不定期にしか開催せず、メディアなどに取り扱われる回数が少ないため、そもそも日本のブランドと認識していない人も多いはず。狙っているのかどうか分かりませんが、世間との適度な距離の取り方が器用ですよね。加えて、ライフスタイルに根差すブランドとして成長している点もいい。例えば、街のパン屋は毎日同じパンしか売らずとも、それを目当てに毎日人が通う。「シュガーヒル」もそれと同様に、一定の固定ファンが生まれていますよね。

下津光史

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーとの出会いを教えてください。

下津光史(以下、下津):僕が6年ほど前に東京のとある場所に引っ越した時、突然「近所に住んでます」とインスタグラムでDMをもらったのが始まりです。もともと共通の知り合いは多く、風の噂で存在は知っていたのですが「シュガーヒル」のことは全く知らず。だから最初は、“音楽やバイクのセンスが良い若い男の子”みたいな認識しか持っていなかった。しばらく遊ぶようになってから徐々にデザイナーであると分かっていったほどです。第一印象は、人懐っこい。「僕が知らなくて、あなたが知ってることを教えてください!」と真っ直ぐにぶつかれるのは才能だと思いますし、いつも何言ってるか分からないであろう関西人と付き合ってくれて感謝しています(笑)。

ーーその後、2022-23年秋冬コレクションのショーでランウエイBGMを担当するなど深い関係になっています。どういった部分で2人は共感していったのでしょうか?

下津:彼は服で、僕は詩が専門。「マス受けのやり方ってどうなの?」と世間を疑う基本スタンスが共鳴していて、彼のことはもはやデザイナーではなくアーティストとして捉えていますね。僕含めてバンドマンは感覚派な分、他分野の方々と関わりを持った際にビジネス的な側面が強いと離れてしまうこともあるんですが、陸也とは友だちとして始まった関係だからこそ、変にビジネス的な空気感もなくて。缶コーヒーとタバコで話が済んでしまうんですよ。22-23年秋冬コレクションの際には、彼からブランドを運営する中で気付いたことやしんどい経験をいろいろと聞いていたので、その話をもとにショーの尺に合わせて作った「知る由もない」という楽曲を演奏しました。「シュガーヒル」の洋服自体も、よくステージ衣装として着ています。

ーー下津さんから見て、「シュガーヒル」の5年、10年を振り返るとどう変化したと感じますか?

下津:悩んでは次の課題に取り組み、また悩んでブランドの世界観を強固にしていく作業の繰り返しだったと思います。シーズンごとにシルエットやディテールが変わったとしても、1つひとつのデザインに潜む“陸也節”が一貫してブレていない。この10年、その意思の強さが世界から信頼されていったことで本人も自信がついたと思います。「自分のやり方は間違っていなかった」と自覚するのが表現者としての飛躍の第一歩ですし、これは誰しもが成し遂げられることではありませんから。

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーの魅力とは?

下津:今、ちゃんと着られる洋服を貫き続けているブランドは本当に少ないし、良い意味でアパレル業界へのビートニクからのアンサーになっていると思う。洋服自体がロック精神を忘れていないんです。

トーマス・ティストゥネ

ーー「シュガーヒル」の印象を教えてください。

トーマス・ティストゥネ(以下、トーマス):日本的な感性とアメリカ文化への理解、そこに音楽的影響をユニークに融合したことで、他に類を見ない力強いビジュアル・アイデンティティーを形成しています。さらに優れたクラフツマンシップとコレクション構成へのこだわりが、一線を画す存在にしている。また、的確なクリエイティブアプローチとディテールへの気配り、日本製ならではのクオリティーといったファッション美学を持ち合わせているため、国外での成功の可能性を存分に秘めています。

ーー「シュガーヒル」との契約の決め手は?

トーマス:以前から「シュガーヒル」の歩みに注目しており、もっと深く知りたいと好奇心がわいていました。そんな中、リクヤさんと直接話してブランドの本質とビジョンの明確さを知る機会があり、深く心を動かされたんです。パートナーシップの必要性を確信させる重要な転機となりましたね。リクヤさんは、感性と芸術的な思考にあふれた先見の名を持つ人で、常に自身の決断と在り方を問い続け、最も洗練された成果を追求する完璧主義者。彼のようなクリエイティブに突き動かされている人と働けることは、私自身にとっても刺激的です。

ーー今後、「シュガーヒル」に期待することは?

トーマス:今まさに、「シュガーヒル」を取り巻く勢いと高揚感は高まっていて、パリを中心とした海外のバイヤーらが強い関心と投資欲を示しています。今回の設立10周年を記念したランウエイショーは、国際的なプレゼンスをさらに高める絶好の機会であり、極めて重要な節目となるに違いありません。今後はパリ・ファッション・ウイーク(Paris Fashion Week)でのプレゼンテーションやランウエイショーの開催も視野に入れながら、われわれはリクヤさんをサポートし、共に成長していければと思います。

Kei Hashimoto

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーとの出会いを教えてください。

Kei Hashimoto(以下、Hashimoto):コロナ禍以前にPR会社の4Kへ入社した際、ちょうどクライアントが「シュガーヒル」で、それが初対面でした。会社として30〜40ブランドを取り扱っている中で、同世代のデザイナーはあまりいなかったから新鮮で。ただしばらくして、2〜3年ほど前に実は出会ってることにお互い気付いて(笑)。そんな巡り合わせもあって話すようになったら、土臭いものが共通の好みであると発覚。僕が「カーサービス」の展示会を開く際には相談に乗りつつ洋服も見てくれて、グッと距離が近づきました。とはいえ、ヒップホップやブラックカルチャー好きが多い俺の界隈とは全く違う人。リクちゃんの周りに俺みたいな人間はいないだろうし、俺の周りにリクちゃんみたいな子はいない。でも、俺自身はアメカジや古着、乗り物など西海岸のカルチャーも好きだから超B-boyってわけでもなく、そこが良い感じにマッチングしたと思います。

ーー「シュガーヒル」のお気に入りのアイテムや印象的な思い出はありますか?

Hashimoto:東京オペラシティで開催された24年春夏コレクションのランウエイショーですね。PRとして人生で初めてランウエイショーに携わらせてもらったので苦戦したことも多かったですが、ゼロから洋服を作っているデザイナーを側で見ながらショーの準備ができたのは、本当に良い経験でしたし、自分も成長できた気がします。何より、リクちゃんの「シュガーヒル」に対する気持ちが一層強く感じ取れて、一生忘れられない思い出です。

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーの魅力とは?

Hashimoto:誰に対してもウェルカムな空気を醸し出しているけど、本気で洋服が好きな人に向けて作っている。全員に洋服を着てほしくてブランドをやっているわけではないのが伝わってきます。この反骨精神がきれいでカッコ良くて、それがリクちゃんのスタイルにも、「シュガーヒル」の洋服にも、全てに反映されている気がします。他ブランドがシーズンごとにランウエイショーを開いたり、モデルに著名人を起用したりする中で、焦らず自分のペースとスタンスを守ってきたからこそ、わずか10年でブランドのイメージをバッチリ固められたのが本当にすごい。僕も周りにいろいろと言われながら、本当にやりたいことや方向性をブラさずに「カーサービス」を10年続けてきました。そういったスタンスをお互いにリスペクトし合えるから友だちになれたし、一緒に仕事もできているんじゃないですかね。

ーーこの先、「シュガーヒル」はどうなると思いますか?

Hashimoto:これまでの10年と全く変わらないと思います。リクちゃんのペースで、リクちゃんがやりたいことを、ちょっとずつ具現化していくことで、「シュガーヒル」はデカくなるというよりも渋みを増す。デニムの色落ちと一緒で、良い味が出てくる。これは俺たちの周りの同世代にも言えることで、有名になるよりもカッコ良さを突き詰めていきたい人が多い気がするんですよ。ひとまず、「シュガーヒル」もカーサービスも10周年を迎えるので、初コラボができたら嬉しいですね。

長塚淳

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーとの出会いを教えてください。

長塚淳(以下、長塚):19年頃にブランドを知り、ルックを見てレザーの風合いが素敵だと思い気になっていたのですが、実は僕の知人がそのライダースジャケット制作に関わっていたんです。当時、僕は原宿店のショップマネジャーを務めていて、ちょうど「シュガーヒル」を取り扱うことが決まったタイミングだった。展示会に伺い、そこで陸也くんと直接出会いましたね。

ーー当時の印象はいかがでしたか?

長塚:僕は陸也くんよりも少し上の世代なのですが、実直かつベージックなデザインや繊細さ、こだわりの強い加工と生地選びなどから、直接会うまでは古着などに精通する同年代の洋服好きが手掛けるブランドかと思っていました。それが、いざデザイナーに会ってみたら24歳だった。センスも才能も感覚も衝撃的で、「シュガーヒル」は同世代のブランドの中では生き残ると確信していましたね。売れる売れないのレベルではなく、同世代のブランドとやろうとしていることが違い過ぎて、敵がいない印象です。

ーー特に印象に残っているアイテムやコレクションはありますか?

長塚:初めて展示会に伺った時から毎シーズン欠かさず洋服を買っており、特に気に入っているのはフレアデニムですね。5〜6本は持っていて、仕事中でも、休日に街中でも、日常的に着ています。

ーー「シュガーヒル」および林デザイナーの魅力とは?

長塚:若い感性を持った陸也くんが普遍的な洋服を作るからこそ、焼き直しではない“新しさ”が見える。コレクションブランドの意思が宿っていると感じます。店では「シュガーヒル」のことを全く知らずに購入するお客さまも多く、具現化も言語化できないけど感じ取れる何かが洋服に現れているのではないでしょうか。

ーーどういった方々に「シュガーヒル」を着て欲しいですか?

長塚:ファッションに精通していない方にも、トレンド好きの若い子にも、洋服好きの同年代にも、海外からのお客様にも、「これがカッコいい洋服です」と心から勧められます。ビームスで取り扱っていることが僕の中では誇らしい。自分の店舗には絶対に置きたい、日本を代表するブランドだと思います。

The post ブランド設立10周年の「シュガーヒル」 5人の業界人の言葉で探る現在地 appeared first on WWDJAPAN.

長澤まさみ × 矢口史靖 映画「ドールハウス」で試みた2人の新境地

PROFILE: 左:長澤まさみ/俳優 右:矢口史靖/映画監督

PROFILE: (ながさわ・まさみ)1987年6月3日生まれ、静岡県出身。2000年に第5回「東宝シンデレラ」オーディションでグランプリを受賞。03年公開「ロボコン」で映画初主演を飾る。翌年の「世界の中心で、愛をさけぶ」では、第28回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞など数々の賞を受賞した。「モテキ」「海街diary」「50回目のファーストキス」「コンフィデンスマンJP」「MOTHER マザー」「すばらしき世界」「マスカレード・ナイト」「シン・ウルトラマン」「百花」「シン・仮面ライダー」「ロストケア」など数々の話題作に出演。24年9月には主演映画「スオミの話をしよう」が公開された。 (やぐち・しのぶ)1967年神奈川生まれ。シンクロナイズドスイミングに挑む男子高校生を描いた「ウォーターボーイズ」(01)で日本アカデミー賞優秀監督賞と脚本賞を受賞。「スウィングガールズ」(04)では同最優秀脚本賞を受賞した。その後も「ハッピーフライト」(08)、「ロボジー」(12)、「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」(14)、「サバイバルファミリー」(17)などコメディー映画をヒットさせている。監督・脚本を務める映画「ドールハウス」は自身初のオリジナル・ミステリー作品。

愛する娘を事故で亡くして悲しみにくれる夫婦。ある日、骨董市で手に入れた、娘によく似た人形を娘同然にかわいがるが、次第に奇妙な出来事が起こり始める。謎めいた人形をめぐる物語、「ドールハウス」はノンストップでゾクゾクさせられる“ドール・ミステリー”だ。脚本・監督を手掛けたのは意外にもコメディーの名手、矢口史靖。そして、ヒロインの鈴木佳恵を演じたのは、脚本を読んで出演を熱望したという長澤まさみ。「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」(2014年)以来の顔合わせとなった2人が、それぞれの新境地を開いた「ドールハウス」の舞台裏について語ってくれた。

最後までドキドキさせられる映画

——監督がこういう“ゾクゾク”する映画を撮られるのは今回が初めてですが、いつか挑戦したいと思われていたのでしょうか。

矢口史靖(以下、矢口):そうなんです。もともとゾクゾク映画は大好きで、サスペンス、ホラー、スプラッターなど、これまでいろいろ観てきて、自分でも作ってみたいと思っていたんですけど、なかなかアイデアがまとまらなくて。そんな中、ドールセラピーというものがあることを知ったんです。本来は人形を通して心のケアをするんですけど、いわくつきの人形を買ってしまった夫婦が恐ろしい体験をする、というアイデアを思いついたら、すぐにストーリーができて脚本を書き上げました。

——長澤さんは脚本を読んで、どんな感想を持たれました?

長澤まさみ(以下、長澤):どんどん物語に引き込まれて、そこから抜け出せなくなってしまいました。子どもの頃に観たゾクゾクする映画って、緊張感から解放される瞬間があるじゃないですか。ホッとさせてくれるような。この映画にはそういうのがなくて、最後までドキドキさせられっぱなし。その容赦ないところがすごいと思いました。

矢口:長澤さんがそういうところを気に入っているのは初めて知りました。

人形ならではの魅力

——監督は人形のどんなところに興味を持たれたのでしょうか。

矢口:大学の頃に山岸凉子さんの「わたしの人形は良い人形」という漫画を読んで、人形というのは見せ方次第で面白い話ができると思ったんです。まず、人と似ているところが気になりますよね。リカちゃんとかバービーくらいのサイズだったらまだしも、この映画に出てくる人形のアヤちゃんは子どもと同じサイズなのがポイントです。このサイズの人形はあまり買わないとは思いますが。

——存在感がありすぎますからね。

矢口:でも、映画に登場する人形は「生き人形」と呼ばれて江戸時代から現在に至るまで作られてきたんです。生き人形が家の椅子に座っていたら人間なのか人形なのか分からない。すごく不気味だし、映画になると思ったんです。

長澤:アヤちゃん、毎日表情が違うんですよ。

——えっ? どういうことですか。

長澤:照明がどう当たるかで表情が変わってくるんです。だからアヤちゃんもお芝居をする。ちゃんと私たちと共演していたんです。現場で一番大御所感がありましたよ。

矢口:アヤちゃんはハードワークだったので、メイク直しも入れてたんです。それで表情が変わることもありました。

——人形は無表情ですけど、だからこそ見る人の気持ち次第でかわいく見えたり怖く見えたりすることもありますよね。

矢口:今回はまず、誰もが愛したくなるようなかわいい人形として撮りました。主人公の夫婦が自分の子どものようにアヤちゃんをかわいがっていたのに、子どもができてからはアヤちゃんへの愛情は薄らいでゆく。そこにもゾクゾクしほしかったんです。夫婦が立ち直っていくのを応援したい気持ちと、アヤちゃんがかわいそうだと思う気持ち。その両方を観客に感じてもらうことで、アヤちゃんが一人のキャラクターとして映画の中で動き始めるので。

——長澤さんはアヤちゃんと共演してみていかがでした?

長澤:佳恵はアヤちゃんのおかげで元気になっていく一方で、アヤちゃんの世界に翻弄されていく。佳恵が体験したことのどこまでが現実で、どこからが非現実なのかが分からないところが難しかったですね。佳恵が自分で選択したつもりでいるだけで、全部アヤちゃんの手の内の物語だったのかもしれない。観客の方々は、私の演技をどんな風に受け止めるんだろうって撮影中に考えたりもしました。

観客の心をつかむ
ファースト・シーン

——確かに気が付いたら異様な世界に入っていますからね。しかも今回、佳恵は鬱になったりハイになったり、感情の起伏が激しい役柄だったのでメンタル的に大変そうですね。

矢口:毎日、撮影に入る前に「今日は一番病んでる日です」とか「健康な日です」とか、長澤さんに伝えていたんです。撮影に入ってからも、もっと病んでください!ってお願いしたり。

長澤:そうでしたね(笑)。

矢口:順撮りではなかったので、今日は暗い日。明日は明るい日。でも、明後日は一番暗い日、という風にアップダウンが激しかったので、日々、(佳恵のテンションに)気をつけるようにしていました

——そんな中で、長澤さんの絶叫シーンがインパクトがあって、長澤さんがこれまで見せたことがないような表情と演技でした。

矢口:長澤さんのゾクゾク演技は100点でした。怖いものを見せることより、それを見てしまった人がどんなリアクションをするかが映画では大切なんです。観客は長澤さんの顔を見ただけで背筋が凍る思いができるんです。特にファースト・シーン。タイトルが出る前なので、あそこでお客さんの心をつかまないとダメなんですよ。お客さんに「この映画は最後まで絶対見逃さないぞ!」っていう気持ちになってもらわないといけないのですが、あのシーンの長澤さんの絶叫顔があるおかげで、誰も映画館から出られなくなるんです。

長澤:うまくいって良かったです(笑)。あそこは重要なシーンだと分かっていたので。

——思えば、長澤さんがこういうゾクゾクする映画に出られたことはあまりなかったですよね。

矢口:以前、長澤さんに「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」という映画に出ていただいたんです。青春コメディーなので軽やかに演じつつ、田舎に住んでいる女性のリアリティも出してください、というこちらのリクエストに見事に応えてくれたんです。その時は出てもらったシーンが多くなかったので、いつか主演で出てほしいなと思っていたんですよね。それで、この映画の台本ができて「誰に出てほしいのか」という話になった時に、僕の方から「長澤さんがいいです」と言ったんです。僕が作るミステリー映画なんで難しいだろうな、と思いつつも、1回、脚本に目を通してもらえたら良いな、ぐらいの感じだったんです。そしたら、結構すぐに「やりたいです」という返事をいただいて、それで企画が一気に進みました。

——長澤さんは、こういうゾクゾクする映画には興味はあったのでしょうか。

長澤:あまり観ていませんでした。お友達は観ていて「面白いよ!」って力説されていたんですけど、まだ踏み込めていなかったんです。でも、「ドールハウス」の撮影に入る前に何作か観たので、これからは大丈夫かもしれないです。

矢口:免疫ができた?

長澤:こういうゾクゾクする作品を観る時は、「全部作り物だから」というのを頭の中に入れておいて見るのがミソだと思ったんです。その上で物語のスリルを楽しむ、ということを、こういう映画が好きな皆さんは大切にされているような気がして。だから、怖いシーンを大爆笑して観ている方もいる。私もそういう感覚で観よう、と思って作品に接していたら、だんだん大丈夫になってきました。

矢口:でも、防衛本能を働かせていたら楽しさが減っちゃうよ。

長澤:監督はどんな風に楽しむんですか?

矢口:全身全霊で物語に浸りきります。死ぬつもりで観る。もう、バラバラにしてもらおうと思って(笑)。

長澤:すごい! 心臓が強いんですね。監督は。

矢口:というより、マゾっ気があるんです。痛めつけられたい(笑)。

長澤:そうなんですか。でも、この仕事は、そういう人が多いかも(笑)。

矢口:「この仕事」って監督のこと?

長澤:監督だけじゃなく、俳優もスタッフもですね。

矢口:現場はいろいろと大変だからね。

——今回の現場も大変でした?

長澤:砂浜で撮影するシーンがあったんですけど、暴風警報が出るくらい風が強くて。機材が止まってしまうんじゃないかって思うような天気の中で撮影して、全員砂まみれになったんです。

矢口:あれはつらかったね。

人形との思い出

——お疲れさまです。ちなみに長澤さんは子どもの頃に人形遊びはされていました?

長澤:大好きでした。でも、子どもなのでかわいくしてあげようと思って髪の毛をグシャグシャにしてしまったりして……今から思うと人形がかわいそうですね。

——今でも捨てられない人形があったりしますか?

長澤:あります。お誕生日にメッセージを添えてもらったぬいぐるみとか。人の思いがこもったものは捨てられませんね。

矢口:僕も捨てられない人形がありますよ。結構大きなアイアンマン。「ロボジー」を撮る時に、参考にしたいからどうしても必要なんだ、とカミさんを説得して買ったんです。それが結構高くて……。自宅に飾ってあるんですけど、横にはメカゴジラとかレギオンもいます。人形というよりフィギュアですけど。

長澤:フィギュアだったら、うちに綾波レイがいますよ。

矢口:えっ!? プラグスーツですか。

長澤:そうです。本広(克行)監督に頂きました。その頃、「エヴァンゲリオン」にはまっていて、本広さんにそういう話をしたら「ウチに綾波の人形があるからあげるよ」って。それで「シン・ウルトラマン」の共演者の皆さんと順番に映像を配信するという企画の時に、その綾波と共演したんです。

矢口:そうなんだ。じゃあ、僕も何かあげなきゃね。アイアンマンはダメだけど(笑)。

——そういえばアヤちゃんは映画公開後はどうなるんですか?

矢口:許されるなら我が家に持ち帰りたいですね。

——アイアンマンの横にアヤちゃんが並んでいるというのもシュールな風景ですが、奥様がおびえたりはしませんか?

矢口:頑張って説得します。

長澤:アヤちゃんの実物はかわいいんですよ〜。

——かわいいからこそ、ゾクゾクさせられるんでしょうね。長澤さんは完成した映画をご覧になっていかがでした?

長澤:ゾクゾクするけど次の展開が気になって引き込まれていく。遊園地のアトラクションに乗っているような映画でした。この世界にどっぷり浸ってほしいですし、ゾクゾクするのが苦手な人も楽しめる作品だと思います。

矢口:この映画を撮って、長澤さんはこういうジャンルもいけるな、と思いました。これからゾクゾク映画に “ぞくぞく”オファーが来るんじゃないですか。

——ゾクゾク尽くし(笑)。

長澤:監督がまたこういう映画を撮られるのであれば、ゾクゾク担当で出演させていただきます(笑)。

PHOTOS:TAKAHIRO OTSUJI
STYLIST:[MASAMI NAGASAWA]MEGUMI YOSHIDA
HAIR & MAKEUP:[MASAMI NAGASAWA]MINAKO SUZUKI

[MASAMI NAGASAWA] ノースリーブトップ 7万7800円、スカート 16万8350円/ともにラバンヌ、ネックレス 7万2600円、イヤカフ・右 3万5200円、左 3万5120円、リング・右手 5万600円・左手 10万9040円(全てオール ブルース/全てエドストローム オフィス 03-6427-5901)、シューズ 12万4300円/ジミー チュウ(ジミー チュウ 0120-013-700)

映画ドールハウス

■映画「ドールハウス」
6月13日公開
出演:長澤まさみ 瀬戸康史
田中哲司
池村碧彩 本田都々花 今野浩喜 西田尚美 品川徹
安田顕 風吹ジュン
原案・脚本・監督:矢口史靖
主題歌:ずっと真夜中でいいのに。「形」(ユニバーサル ミュージック)
配給:東宝
©2025 TOHO CO.,LTD.
https://dollhouse-movie.toho.co.jp/

The post 長澤まさみ × 矢口史靖 映画「ドールハウス」で試みた2人の新境地 appeared first on WWDJAPAN.

森川マサノリが「ベイシックス」を1.5億円でANAPに売却 真意を聞く

森川マサノリが2021年3月に始動した「ベイシックス(BASICKS)」が、新たな局面を迎えている。6月9日にANAPが同ブランドを買収すると発表したのだ。取得総額は1億5000万円を予定しており、7月末までに完了するという。東京デザイナーズブランドのプチプラ衣料品メーカーへの合流は以外にも思えるが、森川はどんな考えから今回の決断に踏み切ったのか。「想像以上に反響が大きくて驚いている」と意外そうな本人に真意を聞いた。

WWD:なぜ売却を?

森川マサノリ「ベイシックス」デザイナー(以下、森川):リテールをさらに強化して利益率を伸ばす必要があるからだ。現在、国内の卸先は約55で、日本での卸販売をやり切った感覚でいる。海外に5ほどある卸先は「クリスチャン ダダ(CHRISTIAN DADA)」時代に付き合いがあった相手がほとんどだから、今後は海外の販路も広げたいし、直販にも着手したい。3カ年計画を立てており、数億円規模の売り上げを十数億円にまで成長させる目標だ。「ベイシックス」を運営しているAtoZは社員が自分を含めて数人しかいない。ブランドを共に成長させてくれるパートナーが必要だった。

WWD:そもそもANAPとの関係はどのように生まれた?

森川:僕はもともと経営者らとのつながりが多い。ANAPからも自分のファッションブランドを営むデザイナーとしてのアドバイスを求められることがあり、MDを調整するために知人を紹介するなど業務提携をしてきた。ANAPも23年10月に事業再生ADR手続きを申請して受理された後に経営陣がガラリと変わり、さまざまな事業を新たに始めながら再生を図ってきた。互いに成長できるシナジーを作りたいとの提案から、タッグを組むことになった。僕はブランドの「アナップ」に関わることはないが、会社が新ブランドを立ち上げる場合、監修という立場で関わることはあり得る。

昨年10月から「ベイシックス」事業譲渡に向けて動いてきた。とはいえ、インディペンデントなクリエイションを最大限尊重してくれるという前提だし、もしもブランドが成長した場合にもバイバック(買い戻し)の話し合いができる関係性でもある。僕はブランドを手放したというより、戦略的パートナーシップを結んだつもりでいる。

WWD:3月には「楽天 ファッション ウィーク東京(Rakuten Fasnion Week TOKYO))で25-26年秋冬コレクションを発表した。この時はすでにANAPとの連携が進んでいた?

森川:ANAPはそのクリエイションには全く関わっていない。ブランド5周年のタイミングだったから、以前から実施することは決めていた。実は、7月に東京で初の直営店をオープンするのだが、ANAPに本格的に資本注入してもらうのはここからだ。EC強化に当たっても、すでに何人かの担当者を採用済み。また、26年2月にはパリで展示会を開く予定であり、それに向けて韓国向けのPR担当者も新たに契約している。パリでコレクションを披露することで、アジア太平洋地域にアピールする流れを作りたい。

3月のショーを節目に、モノ作りの方向性には一旦区切りをつけた。これまではトレンドを汲んでマーケットに広がりやすい洋服を多く発表してきたが、今後はそのようなアイテムと、パリで展示するアイテムの趣向を変える。前者はリテール用で、後者は価格帯を変えずに、「『ベイシックス』はこういうことをやりたいブランドだ」ということを示すコンセプチュアルなものを見せるつもりだ。

WWD:今後のビジョンは?

森川:現在の「ベイシックス」のファンは20代女性が多めだが、特にターゲットの年齢層を限定しているわけでもないから、幅広い層に広げていきたい。海外で僕らのブランドの洋服が知名度をさらに獲得して、街中でも当たり前に「ベイシックス」を着た人を見られる状況を作れたらと思っている。

The post 森川マサノリが「ベイシックス」を1.5億円でANAPに売却 真意を聞く appeared first on WWDJAPAN.

映画「JUNK HEAD」&「JUNK WORLD」監督・堀貴秀の挑戦 映画作りの根源は「観たことがないものを観たい」

PROFILE: 堀貴秀/映画監督

PROFILE: (ほり・たかひで)1990年大分県立芸術緑丘高等学校卒。2000年にアートワーク専門の仕事で独立。09年12月に短編「JUNK HEAD1」(30分版)を自主製作として制作開始。13年10月に短編「JUNK HEAD1」(30分版)完成。14年2月クレルモンフェラン国際映画祭(フランス)アニメーション賞受賞。同年3月ゆうばりファンタスティック映画祭(北海道)短編部門グランプリ受賞。15年1月やみけん設立。長編「JUNK HEAD」制作開始。17年4月長編「JUNK HEAD」完成。海外国際映画祭で入賞入選多数。21年3月26日「JUNK HEAD」劇場公開。22年6月にシリーズ第2弾「JUNK WORLD」制作開始。

一人のクリエイターが独学で制作を始め、7年もの歳月をかけて作り上げたSFストップモーション・アニメ映画「JUNK HEAD」。その執念の一作はアカデミー賞監督ギレルモ・デル・トロから絶賛され、北米最大のジャンル映画祭と称されるファンタジア国際映画祭で最優秀長編アニメーション賞を獲得するという偉業を達成。

2021年、逆輸入的に日本で公開されると瞬く間に話題を呼び、その唯一無二の世界観とユニークな物語に大勢が夢中になった。そして6月13日には、その待望の続編となる「JUNK WORLD」が公開された。全3部作として構成された「JUNK」シリーズの2作目であるが、位置付けは「JUNK HEAD」の前日譚。前作から1042年前の地下世界を舞台に、人類と人工生命体「マリガン」が協力して大冒険を繰り広げる。

メガホンを取るのはもちろん前作に続き堀貴秀監督。「JUNK WORLD」では脚本、照明、撮影、編集、声優なども手掛けているという。本作の特徴はその緻密で複雑な構成であるが、堀監督はどのように「JUNK HEAD」から話を膨らませ、物語として作り上げていったのか。「JUNK HEAD」公開時の体験からクリエイターとしてのこだわり、制作体制の変化から今後の構想まで、堀監督にたっぷり語ってもらった。

前作「JUNK HEAD」の反響

——40歳を目前に衝動に突き動かされ、映画制作経験もないまま作り始めた「JUNK HEAD」が世界中で大旋風を巻き起こす、というとんでもない体験をされたわけですが、今改めて「JUNK HEAD」の反響を振り返ってみていかがですか?

堀貴秀(以下、堀):何の経験もなしにいきなり作り始めた1本の映画がこんなことになるんだ……という驚きはもちろんありましたが、作っている最中は「これが完成すれば世の中が変わるぞ」という謎の自信があったんですよね。ただB級っぽい作品だし好きな人は限られているだろうなと思っていましたが、想像以上に広がって評価されたことは意外でした。

ただ、いざ公開となったときにはコロナ禍の真っ最中で、話題にはなったけど全然儲けにはならなくて……。最初から3部作を謳っていたものの、これで果たして続編は作れるのかという不安もありましたが、クラウドファンディングでも皆さんが応援してくれて、運良く作ることができました。以前は芸術家を目指しながらも日雇いのペンキ屋バイトや内装業で生活していたんですが、今は映画だけで食えるようになったので本当にうれしいし良かったなと思います。

——「JUNK HEAD」を機に、フィル・ティペット監督やギレルモ・デル・トロ監督、ヒグチユウコさんといった一流のクリエイターと関わる機会があったと思います。そのことは堀監督の制作スタイルや考え方に何かしらの影響を与えましたか?

堀:皆さんと交流する中で、それぞれが制作の苦しみを感じていると知って安心感を覚えました。「この苦悩を分かってくれる同志がいた!」というような感覚で(笑)。

「JUNK WORLD」での新たな取り組み

——「JUNK HEAD」公開時には既に「JUNK WORLD」の絵コンテができているというお話をされていたかと思います。前作とは制作環境や規模感、制作機器にも変化があったかと思いますが、想定していたストーリーや展開に変化はありましたか?

堀:基本的にはそのままですね。「時間もの」というセットを使い回せる設定を選んだのは、続編も予算は少ないということを前提としていたから。「JUNK HEAD」もそうですが、「JUNK WORLD」も予算感を見越して逆算して話を組み立てたので、そこはブレずに作っていきました。

——「JUNK HEAD」は脚本なしで、いきなり絵コンテから描き始めたと伺いました。「JUNK WORLD」は非常に複雑なストーリー展開が特徴的ですが、同じく脚本を書かずに進めていったのですか?

堀:確かに前作はいきなり絵コンテから始めたんですが、それは最初に作った30分の短編ありきで構成したからなんです。一方で今回は最初から長編として作ったので、脚本もちゃんとあります。だからこそ構成的な部分は前作より進化しているかなと思います。

——視点や時間軸を自由に行き交い、さまざまなツイストが加えられた全4部の複雑な構成となっていますが、この設定や構成のアイデアはどのように生まれたのでしょうか?

堀:「時間もの」ってSFの中でも定番のアイデアですし、セットも使い回しができるということで挑戦したいジャンルではあったんです。ただよくある単純なタイムループにしたくないなと思って、時間移動にパラドックスと並行世界という要素を組み合わせることにしました。

難解な物語ではあるんですが、流れを理解したときに「そうか!」という発見のような感覚が生まれると思うんです。ぜひ何度でも観て、その感覚を味わってほしいと思いますね。あと自主制作したパンフレットで説明を尽くしているので、ぜひそれも読んでもらえたらうれしいです(笑)。

——登場人物が日本語を話す、というのは前作との大きな違いですよね。

堀:台詞の内容量が「JUNK HEAD」の倍くらいあったので、字幕じゃ追いつかないなと思ったんです。でも声優さんを雇う予算もないので、自分を含むスタッフ3人でアフレコをやってみたらそれっぽくなりました。

——そこも自分たちで⁉︎ 日本語吹替版と同時に、前作同様のゴニョゴニョ版(日本語字幕)も公開されると聞きました。

堀:僕は日本語版のみでいいと思ったんですが、アニプレックスさんから「人気だから」とゴニョゴニョ版も作るように言われたんです。それほど面白くなるとは思えなかったのですが、完成品を観たらめちゃくちゃ面白くって(笑)。ゴニョゴニョと言ってる言葉に遊び心も盛り込まれていて思いもよらぬシーンで笑えたりするんですよ。下手したらそっちの方が面白いかもしれないので、ぜひどちらも観てほしいですね。

——ストップモーションでありながら、カメラが実写映画的なアクション性のある動きをすることも特徴的ですよね。

堀:自分の中に「実写のような画が撮りたい」ということがまず大前提としてあるんです。自分はゼロから自己流で「コマ撮りを実写のように表現するならこうかな」って試行錯誤していった結果こういう表現になりました。コマ撮りで人形を長時間動かそうと思うと歩かせるだけでも大変なんですが、それをできる限り格好良い構図からたくさんカット割りしたことも実写っぽくなった理由の一つかと思います。

——本作での新たな取り組みとして3Dプリンターを導入したことがあります。複製がいくつも作れるというメリットを語っていましたが、実際3Dプリンターを使用して制作を終えた今、表現的・制作的に変わったことを教えてください。

堀:本当に作り方がガラッと変わりました。「JUNK HEAD」のときは3Dプリンターもなく、粘土をこねて1個ずつ人形を作っていったんですが、今回は代理店が安く3Dプリンターを売ってくれたりしてかなり楽に人形を作ることができました。全部で20台くらい購入したんですが、造形における革命的なアイテムでしたね。

3Dプリンターで作った人形は細部まできれいなので、カメラがパッと寄っても画になるんです。同じ人形を作れるので、別の場所で同時に撮影もできるし、あるとないではまったく別物でした。ただ細かいところを作り込もうと思えば際限がないので、時間やストレスは逆に前より増えたかもしれません(笑)。

自動化できない
人形の色付け

——エンドロールでは撮影風景のほかに、人形の動きを決めるために監督が動きをシュミレーションする様子も映りますよね。

堀:それは「JUNK HEAD」からやっていて、基本的にコマ撮りするときはまず動画で人の動きを撮影するんです。その動画をコマ撮りソフトに入れて、同じ動きを人形で再現していくんですよね。

——今回はどれくらいのセットと人形を作成・使用したんですか?

堀:正式な数はまだ算出していないんですが、セット数は20〜30くらいで、人形は動かせるものだけで200体くらいですね。動かない小さなものなどを含めると倍以上あると思います。

——人形の制作は3Dプリンターの導入で楽になったと思うんですが、セットに関しては手作業ですよね。セットの制作風景がエンドロールに流れますが、改めてものすごく手間がかかっているなと。

堀:赤いグニュグニュに覆われた街が一番大きなセットなんですが、それをメインにしたいなと思ったのでスタジオの一部屋まるまる使って作りました。大工のような仕事ができるスタッフがほぼ1人で、4〜5カ月をかけて完成させてくれたんです。

——カット数はトータルで約2750カットと、前作よりも大幅に増えているそうですね。その分手間も増えたと思いますが、その中で特に苦労したことは何でしょうか?

堀:まず苦労したのは導入した3Dプリンターの使い方も覚えること。「JUNK HEAD」のときも映像作りの勉強から始めたんですが、初めのうちは勉強したことがなかなか結果につながらなくて。前回も今回もそういった時期は焦りがすごくて大変でしたが、その経験は3作目に活きてくると思います。

あと作業的に一番大変だったのが人形の色付けです。そこは自動化できないので、ずっと手作業でした。劇中に別の次元からたくさん出てくるキャラクターがいるんですが、実は画面上で複製しているだけで本当は1体しかいないんです。できれば人形を10体くらい作って撮りたかったんですが、色を塗る作業が大変すぎてそこは楽をさせてもらいました。

——3Dプリンター以外に制作面で大きく変わったことはありますか?

堀:今回から明確に変わったのはフル3DCGのシーンが入っているということ。実は造形物がまったくないカットも何カ所かあります。今回は6人くらいのチームだったんですが、CG経験者も特にいなかったので撮影を進めながらスタッフにCGの使い方を勉強してもらって実践していきました。なのでどアップでもリアルなCGを作れるほどの技術はなかったんですが、人形が少し歩く引きのシーンなどは自然なCGに置き換えることができたかなと。コマ撮りせずに済んだので、時間が短縮できましたし、表現の幅がかなり広がりましたね。

「あるのは妥協する苦しみばかり」

——確かにエンドロールでもグリーンバックが使われている様子が出てきますね。それにしても3、4人で作った前作に続き、今作も6人ほどの少ないチーム編成で作られたことに驚きました。

堀:少なすぎますよね(笑)。以前よりかは少し増えたとはいえ、なんとかやりくりしてギリギリ完成させた感じです。たださすがに今回までですね。身体の負担もすごいので、何とか今回稼いで次はもっと人数を増やしてできればなと。

——ただ少人数だからこそイメージが共有しやすく小回りが利くというメリットもありますよね。今回は以前より少し人数が増えたことで、監督として全体を統率する大変さは以前よりもあったのでは?

堀:その大変さはありましたが、そこはもう諦めるしかない。自分が思い描いた通りにいくことなんて絶対にないから、どこまで妥協してそれっぽく近づけるかというストレスとの戦いです。どこまでこだわるか、どこで妥協するかというせめぎ合いは自分の中ではずっとあるんですが、いずれは克服しなきゃいけないことなので。完璧にイメージ通りにしようと思うと全部自分一人でやるしかないけど、そんなことは無理ですから。だからできることは自分と似た感性のスタッフを集めて、みんなでレベルアップしながらベストを尽くすこと。それはこれからも変わらないと思います。

——本作を観ていると妥協があったとは全然感じないのですが……。

堀:基本的に本作の制作過程ですることは全て妥協なんですよ。というのも自分の頭の中には、何百億円レベルの製作費をかけて作るような「JUNK WORLD」のイメージが明確にあるんです。でもそれをいかに少ない予算の中コマ撮りで再現して、どこまでの表現であれば許容できるかと常に葛藤していて。だから映画制作中に「何かを作り出す喜び」は自分にはほとんどないんです。あるのは妥協する苦しみばかりなので(笑)。

——監督の脳内には、それこそ「スター・ウォーズ」並に壮大な“JUNK”シリーズの世界があるということですね。その壮大な世界観のイメージは初期段階から出来上がっていたのですか?

堀:3部作構成自体は頭にありましたが、「JUNK WORLD」の詳細が浮かんだのは「JUNK HEAD」が完成してからですね。完成してからもしばらく公開できなくて、このままでは3部作として作れないかもと思っていた時期がありまして。なら続編は前日譚として作って、それだけでも成り立つ物語にしようと思ったんです。

——ちなみに前作のカメラはCanonのkiss X4を使用していたかと思います。そこは変化なしですか?

堀:モデル名は忘れましたが今回はSonyのカメラを使用しました。前作は初めての映画制作ということもあり、映画の撮影としては比較的安価なカメラを使ったんです。それでも上手くできたのはコマ撮りだからこそですね。

——例えばギレルモ・デル・トロ監督は、ストップモーションについて「アニメーターと人形の絆を感じる最も美しいアニメーション。制作の過程が分かる不完全さこそ魅力」と語っていました。唯一無二の質感と動きを見せるストップモーションの魅力について、監督はどのように考えていますか?

堀:僕の場合、「どうしても映画を作りたい」と考えて手段を探した結果、コマ撮りを選んだので好きというわけではないんですよね。楽しいですけど、たまに「なんでこんな面倒くさいことを……」と思うときもありますし(笑)。ただ、置いてあるだけだとモノにしか見えない人形を、触り動かすことで命が宿る瞬間というのはやはり良いですよね。人形が感情を持ったと感じると、愛着が湧いてもうほっとけなくなっちゃいますから。実は「JUNK WORLD」で制作した人形はほぼほぼオークションで売る予定なんですよ。それも作品の売りにしようかなと思っています(笑)。

SF的な物語に惹かれる理由

——監督は前作に影響を与えた作品を質問された際に「不思議惑星キン・ザ・ザ」と答えていましたが、「JUNK WORLD」ではより色濃くその影響を感じました。それ以外にも、映画に限らずインスピレーション源となった作品はあるんですか?

堀:「不思議惑星キン・ザ・ザ」のシュールなクスッとくる笑いが好きなんですよね。その辺りはクリエイティブ面で影響を受けていると思いますし、映画だと「エイリアン」や「ヘルレイザー」などにも影響を受けたと思います。漫画であれば弐瓶勉さんの「BLAME!」とか。だけど一番大きいのは夢枕獏さんの作品をはじめとする小説だと思います。基本的にあまり文字が読めない体質なんですが、すごく読みやすいと感じる小説がたまにあって。それを読んでいるときに頭の中に浮かんでくる風景が、映画作りをする上で何よりのインスピレーション源になっていると思います。

——本作も最初から鮮明なイメージがあったと仰っていましたが、そうやって頭の中に鮮明な映像が浮かぶのは昔からなんですか?

堀:そうですね。例えば小さくなってこの机にある溝の上を飛んだり、アリ目線で自分を見上げたらどう見えるのか……といった風景をイメージすることは昔からやっています。

——監督がとりわけSF的な物語に惹かれる理由はなんなのでしょうか?

堀:映画はジャンルに限らず好きですが、SFは見たことがないものを見られる興奮があって惹かれるんですよね。ただほとんどが変わった設定やビジュアル頼りで、ヒューマンドラマなどに比べると物語的に面白いとか揺さぶられたと感じるSFはなかなかなくて。だから自分で作る映画では、登場人物に魅力がある物語的にも面白い作品にしたいと思っていますね。あと笑いを交えたSFが少ないので、あえて自分はユーモアを積極的に入れるようにしています。

——前作に続き今作もアクションシーンにこだわりを感じますが、アクション映画も好きなんですか?

堀:先ほどジャンルに限らず好き……と言いましたが、実はアクション映画は嫌いなんですよ。アクションそのものは映画の味付けとして必要だと思いますし好きなんですが、アクション映画ってひたすらアクションしているじゃないですか。それを観てると「いつ終わるんだろう……」となっちゃって(笑)。みんなアクションが好きなのは知っているので動きの参考として観ることはありますが、ジャンルとしては好きになれないんですよね。

——監督自身が面白いと感じた映画を、制作スタッフのみんなで観る会を毎週していると発信されていましたね。

堀:最初の方はやっていたんですが、やはり制作が忙しくなると同時に開催されなくなりました。映画を選ぶのにも時間がかかるしその時間で勉強した方が良いなと思いまして。でも作品のイメージや目指す面白さを共有できたし、「スカーフェイス」や「バグダッド・カフェ」など自分が昔観て影響を受けた作品をみんなで観られたのは良かったですね。

——「JUNK」シリーズ最終章の「JUNK END」の制作はどの段階なのでしょうか?

堀:あらすじはできているんですが、脚本や絵コンテはこれからですね。それを作るために九州の実家にこもってしばらく集中しようかなと思っています。ただキャラのデザインはおおよそできているので、スタジオのスタッフにはそれを基に先行して造形物を進めてもらう予定です。数年後の公開予定で進めているのでご期待ください。

——Xの投稿によれば、実写作品の構想もあるそうですね。

堀:はい。紹介文で「アニメーション監督」って書かれるのが嫌なので、実写映画はなんとしてもやりたいなと思っています。いくつかアイデアはあって、ヒグチユウコさんのキャラクターを登場させる映画や、これまでなかったゾンビ映画なんかを構想中です。あと実家が九州の山奥にあるんですが、そういう山奥で作れる映画もないかなと考えたり。

——「JUNK」シリーズのみならず、監督が作品を作る上で心掛けていることを教えてもらえますか?

堀:映画作りをする上で根源にあるのが「観たことがないものを観たい」という欲求なので、重視しているのは新しい価値観や世界観を描くことですね。さらに観た人には感動もしてほしいので、プラスで魅力的なキャラクターや展開を作っていきたいなと。あと映画は当然ビジネスなので、何回も観たくなるような映画にもしなきゃいけない。でも結局一番大事なのは、自分が観て面白い作品かどうかということですね。だから今後も自分が観て楽しめる映画を作っていきたいと思います。

PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA

「JUNK WORLD」

■「JUNK WORLD」
監督・脚本・撮影・照明・編集:堀貴秀
全国公開中
配給:アニプレックス
©YAMIKEN
https://junkworld-movie.com/

The post 映画「JUNK HEAD」&「JUNK WORLD」監督・堀貴秀の挑戦 映画作りの根源は「観たことがないものを観たい」 appeared first on WWDJAPAN.

映画「JUNK HEAD」&「JUNK WORLD」監督・堀貴秀の挑戦 映画作りの根源は「観たことがないものを観たい」

PROFILE: 堀貴秀/映画監督

PROFILE: (ほり・たかひで)1990年大分県立芸術緑丘高等学校卒。2000年にアートワーク専門の仕事で独立。09年12月に短編「JUNK HEAD1」(30分版)を自主製作として制作開始。13年10月に短編「JUNK HEAD1」(30分版)完成。14年2月クレルモンフェラン国際映画祭(フランス)アニメーション賞受賞。同年3月ゆうばりファンタスティック映画祭(北海道)短編部門グランプリ受賞。15年1月やみけん設立。長編「JUNK HEAD」制作開始。17年4月長編「JUNK HEAD」完成。海外国際映画祭で入賞入選多数。21年3月26日「JUNK HEAD」劇場公開。22年6月にシリーズ第2弾「JUNK WORLD」制作開始。

一人のクリエイターが独学で制作を始め、7年もの歳月をかけて作り上げたSFストップモーション・アニメ映画「JUNK HEAD」。その執念の一作はアカデミー賞監督ギレルモ・デル・トロから絶賛され、北米最大のジャンル映画祭と称されるファンタジア国際映画祭で最優秀長編アニメーション賞を獲得するという偉業を達成。

2021年、逆輸入的に日本で公開されると瞬く間に話題を呼び、その唯一無二の世界観とユニークな物語に大勢が夢中になった。そして6月13日には、その待望の続編となる「JUNK WORLD」が公開された。全3部作として構成された「JUNK」シリーズの2作目であるが、位置付けは「JUNK HEAD」の前日譚。前作から1042年前の地下世界を舞台に、人類と人工生命体「マリガン」が協力して大冒険を繰り広げる。

メガホンを取るのはもちろん前作に続き堀貴秀監督。「JUNK WORLD」では脚本、照明、撮影、編集、声優なども手掛けているという。本作の特徴はその緻密で複雑な構成であるが、堀監督はどのように「JUNK HEAD」から話を膨らませ、物語として作り上げていったのか。「JUNK HEAD」公開時の体験からクリエイターとしてのこだわり、制作体制の変化から今後の構想まで、堀監督にたっぷり語ってもらった。

前作「JUNK HEAD」の反響

——40歳を目前に衝動に突き動かされ、映画制作経験もないまま作り始めた「JUNK HEAD」が世界中で大旋風を巻き起こす、というとんでもない体験をされたわけですが、今改めて「JUNK HEAD」の反響を振り返ってみていかがですか?

堀貴秀(以下、堀):何の経験もなしにいきなり作り始めた1本の映画がこんなことになるんだ……という驚きはもちろんありましたが、作っている最中は「これが完成すれば世の中が変わるぞ」という謎の自信があったんですよね。ただB級っぽい作品だし好きな人は限られているだろうなと思っていましたが、想像以上に広がって評価されたことは意外でした。

ただ、いざ公開となったときにはコロナ禍の真っ最中で、話題にはなったけど全然儲けにはならなくて……。最初から3部作を謳っていたものの、これで果たして続編は作れるのかという不安もありましたが、クラウドファンディングでも皆さんが応援してくれて、運良く作ることができました。以前は芸術家を目指しながらも日雇いのペンキ屋バイトや内装業で生活していたんですが、今は映画だけで食えるようになったので本当にうれしいし良かったなと思います。

——「JUNK HEAD」を機に、フィル・ティペット監督やギレルモ・デル・トロ監督、ヒグチユウコさんといった一流のクリエイターと関わる機会があったと思います。そのことは堀監督の制作スタイルや考え方に何かしらの影響を与えましたか?

堀:皆さんと交流する中で、それぞれが制作の苦しみを感じていると知って安心感を覚えました。「この苦悩を分かってくれる同志がいた!」というような感覚で(笑)。

「JUNK WORLD」での新たな取り組み

——「JUNK HEAD」公開時には既に「JUNK WORLD」の絵コンテができているというお話をされていたかと思います。前作とは制作環境や規模感、制作機器にも変化があったかと思いますが、想定していたストーリーや展開に変化はありましたか?

堀:基本的にはそのままですね。「時間もの」というセットを使い回せる設定を選んだのは、続編も予算は少ないということを前提としていたから。「JUNK HEAD」もそうですが、「JUNK WORLD」も予算感を見越して逆算して話を組み立てたので、そこはブレずに作っていきました。

——「JUNK HEAD」は脚本なしで、いきなり絵コンテから描き始めたと伺いました。「JUNK WORLD」は非常に複雑なストーリー展開が特徴的ですが、同じく脚本を書かずに進めていったのですか?

堀:確かに前作はいきなり絵コンテから始めたんですが、それは最初に作った30分の短編ありきで構成したからなんです。一方で今回は最初から長編として作ったので、脚本もちゃんとあります。だからこそ構成的な部分は前作より進化しているかなと思います。

——視点や時間軸を自由に行き交い、さまざまなツイストが加えられた全4部の複雑な構成となっていますが、この設定や構成のアイデアはどのように生まれたのでしょうか?

堀:「時間もの」ってSFの中でも定番のアイデアですし、セットも使い回しができるということで挑戦したいジャンルではあったんです。ただよくある単純なタイムループにしたくないなと思って、時間移動にパラドックスと並行世界という要素を組み合わせることにしました。

難解な物語ではあるんですが、流れを理解したときに「そうか!」という発見のような感覚が生まれると思うんです。ぜひ何度でも観て、その感覚を味わってほしいと思いますね。あと自主制作したパンフレットで説明を尽くしているので、ぜひそれも読んでもらえたらうれしいです(笑)。

——登場人物が日本語を話す、というのは前作との大きな違いですよね。

堀:台詞の内容量が「JUNK HEAD」の倍くらいあったので、字幕じゃ追いつかないなと思ったんです。でも声優さんを雇う予算もないので、自分を含むスタッフ3人でアフレコをやってみたらそれっぽくなりました。

——そこも自分たちで⁉︎ 日本語吹替版と同時に、前作同様のゴニョゴニョ版(日本語字幕)も公開されると聞きました。

堀:僕は日本語版のみでいいと思ったんですが、アニプレックスさんから「人気だから」とゴニョゴニョ版も作るように言われたんです。それほど面白くなるとは思えなかったのですが、完成品を観たらめちゃくちゃ面白くって(笑)。ゴニョゴニョと言ってる言葉に遊び心も盛り込まれていて思いもよらぬシーンで笑えたりするんですよ。下手したらそっちの方が面白いかもしれないので、ぜひどちらも観てほしいですね。

——ストップモーションでありながら、カメラが実写映画的なアクション性のある動きをすることも特徴的ですよね。

堀:自分の中に「実写のような画が撮りたい」ということがまず大前提としてあるんです。自分はゼロから自己流で「コマ撮りを実写のように表現するならこうかな」って試行錯誤していった結果こういう表現になりました。コマ撮りで人形を長時間動かそうと思うと歩かせるだけでも大変なんですが、それをできる限り格好良い構図からたくさんカット割りしたことも実写っぽくなった理由の一つかと思います。

——本作での新たな取り組みとして3Dプリンターを導入したことがあります。複製がいくつも作れるというメリットを語っていましたが、実際3Dプリンターを使用して制作を終えた今、表現的・制作的に変わったことを教えてください。

堀:本当に作り方がガラッと変わりました。「JUNK HEAD」のときは3Dプリンターもなく、粘土をこねて1個ずつ人形を作っていったんですが、今回は代理店が安く3Dプリンターを売ってくれたりしてかなり楽に人形を作ることができました。全部で20台くらい購入したんですが、造形における革命的なアイテムでしたね。

3Dプリンターで作った人形は細部まできれいなので、カメラがパッと寄っても画になるんです。同じ人形を作れるので、別の場所で同時に撮影もできるし、あるとないではまったく別物でした。ただ細かいところを作り込もうと思えば際限がないので、時間やストレスは逆に前より増えたかもしれません(笑)。

自動化できない
人形の色付け

——エンドロールでは撮影風景のほかに、人形の動きを決めるために監督が動きをシュミレーションする様子も映りますよね。

堀:それは「JUNK HEAD」からやっていて、基本的にコマ撮りするときはまず動画で人の動きを撮影するんです。その動画をコマ撮りソフトに入れて、同じ動きを人形で再現していくんですよね。

——今回はどれくらいのセットと人形を作成・使用したんですか?

堀:正式な数はまだ算出していないんですが、セット数は20〜30くらいで、人形は動かせるものだけで200体くらいですね。動かない小さなものなどを含めると倍以上あると思います。

——人形の制作は3Dプリンターの導入で楽になったと思うんですが、セットに関しては手作業ですよね。セットの制作風景がエンドロールに流れますが、改めてものすごく手間がかかっているなと。

堀:赤いグニュグニュに覆われた街が一番大きなセットなんですが、それをメインにしたいなと思ったのでスタジオの一部屋まるまる使って作りました。大工のような仕事ができるスタッフがほぼ1人で、4〜5カ月をかけて完成させてくれたんです。

——カット数はトータルで約2750カットと、前作よりも大幅に増えているそうですね。その分手間も増えたと思いますが、その中で特に苦労したことは何でしょうか?

堀:まず苦労したのは導入した3Dプリンターの使い方も覚えること。「JUNK HEAD」のときも映像作りの勉強から始めたんですが、初めのうちは勉強したことがなかなか結果につながらなくて。前回も今回もそういった時期は焦りがすごくて大変でしたが、その経験は3作目に活きてくると思います。

あと作業的に一番大変だったのが人形の色付けです。そこは自動化できないので、ずっと手作業でした。劇中に別の次元からたくさん出てくるキャラクターがいるんですが、実は画面上で複製しているだけで本当は1体しかいないんです。できれば人形を10体くらい作って撮りたかったんですが、色を塗る作業が大変すぎてそこは楽をさせてもらいました。

——3Dプリンター以外に制作面で大きく変わったことはありますか?

堀:今回から明確に変わったのはフル3DCGのシーンが入っているということ。実は造形物がまったくないカットも何カ所かあります。今回は6人くらいのチームだったんですが、CG経験者も特にいなかったので撮影を進めながらスタッフにCGの使い方を勉強してもらって実践していきました。なのでどアップでもリアルなCGを作れるほどの技術はなかったんですが、人形が少し歩く引きのシーンなどは自然なCGに置き換えることができたかなと。コマ撮りせずに済んだので、時間が短縮できましたし、表現の幅がかなり広がりましたね。

「あるのは妥協する苦しみばかり」

——確かにエンドロールでもグリーンバックが使われている様子が出てきますね。それにしても3、4人で作った前作に続き、今作も6人ほどの少ないチーム編成で作られたことに驚きました。

堀:少なすぎますよね(笑)。以前よりかは少し増えたとはいえ、なんとかやりくりしてギリギリ完成させた感じです。たださすがに今回までですね。身体の負担もすごいので、何とか今回稼いで次はもっと人数を増やしてできればなと。

——ただ少人数だからこそイメージが共有しやすく小回りが利くというメリットもありますよね。今回は以前より少し人数が増えたことで、監督として全体を統率する大変さは以前よりもあったのでは?

堀:その大変さはありましたが、そこはもう諦めるしかない。自分が思い描いた通りにいくことなんて絶対にないから、どこまで妥協してそれっぽく近づけるかというストレスとの戦いです。どこまでこだわるか、どこで妥協するかというせめぎ合いは自分の中ではずっとあるんですが、いずれは克服しなきゃいけないことなので。完璧にイメージ通りにしようと思うと全部自分一人でやるしかないけど、そんなことは無理ですから。だからできることは自分と似た感性のスタッフを集めて、みんなでレベルアップしながらベストを尽くすこと。それはこれからも変わらないと思います。

——本作を観ていると妥協があったとは全然感じないのですが……。

堀:基本的に本作の制作過程ですることは全て妥協なんですよ。というのも自分の頭の中には、何百億円レベルの製作費をかけて作るような「JUNK WORLD」のイメージが明確にあるんです。でもそれをいかに少ない予算の中コマ撮りで再現して、どこまでの表現であれば許容できるかと常に葛藤していて。だから映画制作中に「何かを作り出す喜び」は自分にはほとんどないんです。あるのは妥協する苦しみばかりなので(笑)。

——監督の脳内には、それこそ「スター・ウォーズ」並に壮大な“JUNK”シリーズの世界があるということですね。その壮大な世界観のイメージは初期段階から出来上がっていたのですか?

堀:3部作構成自体は頭にありましたが、「JUNK WORLD」の詳細が浮かんだのは「JUNK HEAD」が完成してからですね。完成してからもしばらく公開できなくて、このままでは3部作として作れないかもと思っていた時期がありまして。なら続編は前日譚として作って、それだけでも成り立つ物語にしようと思ったんです。

——ちなみに前作のカメラはCanonのkiss X4を使用していたかと思います。そこは変化なしですか?

堀:モデル名は忘れましたが今回はSonyのカメラを使用しました。前作は初めての映画制作ということもあり、映画の撮影としては比較的安価なカメラを使ったんです。それでも上手くできたのはコマ撮りだからこそですね。

——例えばギレルモ・デル・トロ監督は、ストップモーションについて「アニメーターと人形の絆を感じる最も美しいアニメーション。制作の過程が分かる不完全さこそ魅力」と語っていました。唯一無二の質感と動きを見せるストップモーションの魅力について、監督はどのように考えていますか?

堀:僕の場合、「どうしても映画を作りたい」と考えて手段を探した結果、コマ撮りを選んだので好きというわけではないんですよね。楽しいですけど、たまに「なんでこんな面倒くさいことを……」と思うときもありますし(笑)。ただ、置いてあるだけだとモノにしか見えない人形を、触り動かすことで命が宿る瞬間というのはやはり良いですよね。人形が感情を持ったと感じると、愛着が湧いてもうほっとけなくなっちゃいますから。実は「JUNK WORLD」で制作した人形はほぼほぼオークションで売る予定なんですよ。それも作品の売りにしようかなと思っています(笑)。

SF的な物語に惹かれる理由

——監督は前作に影響を与えた作品を質問された際に「不思議惑星キン・ザ・ザ」と答えていましたが、「JUNK WORLD」ではより色濃くその影響を感じました。それ以外にも、映画に限らずインスピレーション源となった作品はあるんですか?

堀:「不思議惑星キン・ザ・ザ」のシュールなクスッとくる笑いが好きなんですよね。その辺りはクリエイティブ面で影響を受けていると思いますし、映画だと「エイリアン」や「ヘルレイザー」などにも影響を受けたと思います。漫画であれば弐瓶勉さんの「BLAME!」とか。だけど一番大きいのは夢枕獏さんの作品をはじめとする小説だと思います。基本的にあまり文字が読めない体質なんですが、すごく読みやすいと感じる小説がたまにあって。それを読んでいるときに頭の中に浮かんでくる風景が、映画作りをする上で何よりのインスピレーション源になっていると思います。

——本作も最初から鮮明なイメージがあったと仰っていましたが、そうやって頭の中に鮮明な映像が浮かぶのは昔からなんですか?

堀:そうですね。例えば小さくなってこの机にある溝の上を飛んだり、アリ目線で自分を見上げたらどう見えるのか……といった風景をイメージすることは昔からやっています。

——監督がとりわけSF的な物語に惹かれる理由はなんなのでしょうか?

堀:映画はジャンルに限らず好きですが、SFは見たことがないものを見られる興奮があって惹かれるんですよね。ただほとんどが変わった設定やビジュアル頼りで、ヒューマンドラマなどに比べると物語的に面白いとか揺さぶられたと感じるSFはなかなかなくて。だから自分で作る映画では、登場人物に魅力がある物語的にも面白い作品にしたいと思っていますね。あと笑いを交えたSFが少ないので、あえて自分はユーモアを積極的に入れるようにしています。

——前作に続き今作もアクションシーンにこだわりを感じますが、アクション映画も好きなんですか?

堀:先ほどジャンルに限らず好き……と言いましたが、実はアクション映画は嫌いなんですよ。アクションそのものは映画の味付けとして必要だと思いますし好きなんですが、アクション映画ってひたすらアクションしているじゃないですか。それを観てると「いつ終わるんだろう……」となっちゃって(笑)。みんなアクションが好きなのは知っているので動きの参考として観ることはありますが、ジャンルとしては好きになれないんですよね。

——監督自身が面白いと感じた映画を、制作スタッフのみんなで観る会を毎週していると発信されていましたね。

堀:最初の方はやっていたんですが、やはり制作が忙しくなると同時に開催されなくなりました。映画を選ぶのにも時間がかかるしその時間で勉強した方が良いなと思いまして。でも作品のイメージや目指す面白さを共有できたし、「スカーフェイス」や「バグダッド・カフェ」など自分が昔観て影響を受けた作品をみんなで観られたのは良かったですね。

——「JUNK」シリーズ最終章の「JUNK END」の制作はどの段階なのでしょうか?

堀:あらすじはできているんですが、脚本や絵コンテはこれからですね。それを作るために九州の実家にこもってしばらく集中しようかなと思っています。ただキャラのデザインはおおよそできているので、スタジオのスタッフにはそれを基に先行して造形物を進めてもらう予定です。数年後の公開予定で進めているのでご期待ください。

——Xの投稿によれば、実写作品の構想もあるそうですね。

堀:はい。紹介文で「アニメーション監督」って書かれるのが嫌なので、実写映画はなんとしてもやりたいなと思っています。いくつかアイデアはあって、ヒグチユウコさんのキャラクターを登場させる映画や、これまでなかったゾンビ映画なんかを構想中です。あと実家が九州の山奥にあるんですが、そういう山奥で作れる映画もないかなと考えたり。

——「JUNK」シリーズのみならず、監督が作品を作る上で心掛けていることを教えてもらえますか?

堀:映画作りをする上で根源にあるのが「観たことがないものを観たい」という欲求なので、重視しているのは新しい価値観や世界観を描くことですね。さらに観た人には感動もしてほしいので、プラスで魅力的なキャラクターや展開を作っていきたいなと。あと映画は当然ビジネスなので、何回も観たくなるような映画にもしなきゃいけない。でも結局一番大事なのは、自分が観て面白い作品かどうかということですね。だから今後も自分が観て楽しめる映画を作っていきたいと思います。

PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA

「JUNK WORLD」

■「JUNK WORLD」
監督・脚本・撮影・照明・編集:堀貴秀
全国公開中
配給:アニプレックス
©YAMIKEN
https://junkworld-movie.com/

The post 映画「JUNK HEAD」&「JUNK WORLD」監督・堀貴秀の挑戦 映画作りの根源は「観たことがないものを観たい」 appeared first on WWDJAPAN.

11月でブランド設立3周年 梨花の「アクニー」からスキンケアが登場

モデル、タレントの梨花が手掛けるトータルセルフケアブランド「アクニー(AKN/R)」から7月24日、新たにスキンケアラインを発売する。ハリ、艶、潤いの効果実感を追求するため、美容医療や科学研究に基づいたアイデアを植物由来成分と融合し開発した。

6月10日に行われた商品発表会では、ファウンダーの梨花が登場。今年11月で迎えるブランド設立3周年を前に、「アクニー」立ち上げ時を振り返る。「年齢を重ねる中で、だんだん美しさから逆行していくような気持ちになり、鏡を見るのが嫌になってしまった40代。今の時代、いろいろな捉え方ができると思いますが、それでも“老いる”ということはネガティブ。人前に出る仕事をしている私にとって、本当に最悪なことなんです。もうすぐ50代になるというタイミングで“そんな自分を払拭したい”“一生懸命ポジティブになれる要素を見つけ出して楽しく生きていきたい”と思い、行き着いたのがセルフケアでした」。

2022年11月のブランド立ち上げ時、第1弾商品として発売したのはヘアケア。1人の女性として抱える悩みに向き合った結果、“薬用ヘアスカルプセラム”(80mL、7800円)にはエキス化したバラ酵母を日本で初めて(リンカーンから採取・抽出したバラ酵母エキスを配合した育毛剤として)育毛剤に配合。持ち前のセンスでパッケージもスタイリッシュに仕上げ、女性でも手に取りやすい育毛剤として消費者の心をつかんだ。

新たに登場するスキンケアラインについて、「元々アパレル業に携わることが多かったこともあり、スキンケアラインを出すことにすごく緊張しています」と語る。「これまでに手掛けた商品は、割といつも“自分軸”で商品開発をしてきましたが、今回のスキンケアに関しては、世の中の声にたくさん耳を傾けてきたつもりです。だからこそちょっと新鮮な気持ち。“植物と科学の力の融合”って、ありがちな言葉に聞こえるかもしれませんが、使ってみると本当に良さを実感できます」。

ラインアップは、肌を守りながらメイクを落とすオリーブ油ベースのクレンジング“バランシングクレンジングオイル”(120mL、4950円)、植物由来成分の独自カプセルが肌の上で弾けるジェル洗顔“バランシングフェイスジェルウォッシュ”(80g、4400円)、皮膚構造に近い分子構造で肌にすっとなじむ化粧水“バランシングブーストオイルローション”(110mL、4950円)、レチノールとパンテノールを配合した夜用集中美容液“バランシングリポナノセラム”(25mL、8690円)、肌補正をかなえるジェルと潤いをキープするクリームを格納した“バランシンググロウデュオクリーム”(60g、5940円)。

「“バランシングブーストオイルローション”はとろみのあるブースター化粧水。とにかくぐんぐん肌に入っていく感じを実感していただけると思います。その後にレチノール入りの美容液“バランシングリポナノセラム”を使うことで、より効果を実感できるはず。仕上げの“バランシングデュオクリーム”は、年齢や肌質によってジェルとクリームを調整しながら使うことができます。使うことで得られる効果実感も大事ですが、“見て”わかりやすく、気分が上がることも大切。発光感があるジェルを使うことで、寝る前にもキラキラするような艶肌に。ちなみに私は毎晩、ジェル→クリーム→ジェル→クリームの後、最後はジェルとクリームを混ぜて肌に塗ってから眠ります」。

期待が高まる新ラインの発売。最後に、今後のブランドの展望を尋ねた。「インナーケアの開発にも興味がありますが、その時の時代の流れでも商品展開は変わってくると思います。それ以前に、もっとブランディングを強化していきたい。『アクニー』はウェブから始まったブランド。さまざまなウェブ広告があふれているからこそ、信用とのバランスはとても難しいと思います。そんな中で『このブランドだったら大丈夫!』と言ってもらえるような絶対的な存在になれるよう、アプローチしていきたいと思います」。

The post 11月でブランド設立3周年 梨花の「アクニー」からスキンケアが登場 appeared first on WWDJAPAN.

11月でブランド設立3周年 梨花の「アクニー」からスキンケアが登場

モデル、タレントの梨花が手掛けるトータルセルフケアブランド「アクニー(AKN/R)」から7月24日、新たにスキンケアラインを発売する。ハリ、艶、潤いの効果実感を追求するため、美容医療や科学研究に基づいたアイデアを植物由来成分と融合し開発した。

6月10日に行われた商品発表会では、ファウンダーの梨花が登場。今年11月で迎えるブランド設立3周年を前に、「アクニー」立ち上げ時を振り返る。「年齢を重ねる中で、だんだん美しさから逆行していくような気持ちになり、鏡を見るのが嫌になってしまった40代。今の時代、いろいろな捉え方ができると思いますが、それでも“老いる”ということはネガティブ。人前に出る仕事をしている私にとって、本当に最悪なことなんです。もうすぐ50代になるというタイミングで“そんな自分を払拭したい”“一生懸命ポジティブになれる要素を見つけ出して楽しく生きていきたい”と思い、行き着いたのがセルフケアでした」。

2022年11月のブランド立ち上げ時、第1弾商品として発売したのはヘアケア。1人の女性として抱える悩みに向き合った結果、“薬用ヘアスカルプセラム”(80mL、7800円)にはエキス化したバラ酵母を日本で初めて(リンカーンから採取・抽出したバラ酵母エキスを配合した育毛剤として)育毛剤に配合。持ち前のセンスでパッケージもスタイリッシュに仕上げ、女性でも手に取りやすい育毛剤として消費者の心をつかんだ。

新たに登場するスキンケアラインについて、「元々アパレル業に携わることが多かったこともあり、スキンケアラインを出すことにすごく緊張しています」と語る。「これまでに手掛けた商品は、割といつも“自分軸”で商品開発をしてきましたが、今回のスキンケアに関しては、世の中の声にたくさん耳を傾けてきたつもりです。だからこそちょっと新鮮な気持ち。“植物と科学の力の融合”って、ありがちな言葉に聞こえるかもしれませんが、使ってみると本当に良さを実感できます」。

ラインアップは、肌を守りながらメイクを落とすオリーブ油ベースのクレンジング“バランシングクレンジングオイル”(120mL、4950円)、植物由来成分の独自カプセルが肌の上で弾けるジェル洗顔“バランシングフェイスジェルウォッシュ”(80g、4400円)、皮膚構造に近い分子構造で肌にすっとなじむ化粧水“バランシングブーストオイルローション”(110mL、4950円)、レチノールとパンテノールを配合した夜用集中美容液“バランシングリポナノセラム”(25mL、8690円)、肌補正をかなえるジェルと潤いをキープするクリームを格納した“バランシンググロウデュオクリーム”(60g、5940円)。

「“バランシングブーストオイルローション”はとろみのあるブースター化粧水。とにかくぐんぐん肌に入っていく感じを実感していただけると思います。その後にレチノール入りの美容液“バランシングリポナノセラム”を使うことで、より効果を実感できるはず。仕上げの“バランシングデュオクリーム”は、年齢や肌質によってジェルとクリームを調整しながら使うことができます。使うことで得られる効果実感も大事ですが、“見て”わかりやすく、気分が上がることも大切。発光感があるジェルを使うことで、寝る前にもキラキラするような艶肌に。ちなみに私は毎晩、ジェル→クリーム→ジェル→クリームの後、最後はジェルとクリームを混ぜて肌に塗ってから眠ります」。

期待が高まる新ラインの発売。最後に、今後のブランドの展望を尋ねた。「インナーケアの開発にも興味がありますが、その時の時代の流れでも商品展開は変わってくると思います。それ以前に、もっとブランディングを強化していきたい。『アクニー』はウェブから始まったブランド。さまざまなウェブ広告があふれているからこそ、信用とのバランスはとても難しいと思います。そんな中で『このブランドだったら大丈夫!』と言ってもらえるような絶対的な存在になれるよう、アプローチしていきたいと思います」。

The post 11月でブランド設立3周年 梨花の「アクニー」からスキンケアが登場 appeared first on WWDJAPAN.

「グッチ」× 横尾忠則 銀座で展示中のインスタレーション作品が瀬戸内と大阪に出現

現在、東京・銀座のグッチ銀座ギャラリーで開催している、横尾忠則の個展「横尾忠則 未完の自画像―私への旅」で展示中の真っ赤な足場のインスタレーション《未完の足場》と一部作品が香川・豊島と大阪のグッチ大阪、心斎橋大丸 グッチ ショップ、心斎橋大丸 グッチ サテライトショップに新たな作品として登場した。
豊島では「グッチ」と横尾のコラボレーション第2弾として、鉄工所を改修したカフェレストラン「Teshima Factory」の向かい側にある倉庫に真っ赤な足場が組まれ、銀座で開催中の個展から新作「椅子だらけの自画像」「赤坂御苑」と、数ある作品の中でも人気の高いY字路のシリーズから「Y字路を描く」「夜の足音」「バルビゾンへ」が、それぞれ圧倒的な存在感を放つスケールのアートウォールとして展示されている。同作は、「Teshima Factory」のメイン入口から見える壁面と家浦港に向いた壁面の2面に展示されていて、赤い足場の上には作業服に身を包んだ赤い人物も見られる。

また、グッチ大阪と心斎橋大丸 グッチショップ、心斎橋大丸 グッチ サテライトショップのポップインでは《未完の足場》が各店内に再現され、今回新たに制作した《キャベツの女》をモチーフにしたグラフィックが展示されている。心斎橋大丸 グッチ サテライト ショップでは、「グッチ」のロゴにカタカナの“グッチ“の文字を大胆に重ねた作品も登場した。銀座と豊島、大阪を《未完の足場》によって結ぶようなイメージで構成された複合的な展示は、展覧会のタイトルにある“旅”を想起させ、“未完“は単なる進行中の作品状態を意味するのではなく、むしろ芸術観そのものに深く根差した、永遠に完成しない“横尾“の創作の基本理念を示しているようでもある。

グッチ銀座で公開されているインタビューで横尾が、建築の観点から足場について「完成がゴールではなく、プロセスの時間のみが建築の生存期間であり創造」と言及しているように、1970年の大阪万博でも注目されたインスタレーションの《せんい館》が、現在に再構築され新たに《未完の足場》が発表された。
2020年にグッチ渋谷 ミヤシタパークがオープンした際のコラボレーションがダイナミックに発展した形で実現した展覧会は、対照的な3つの場をまたがる多層的な美術体験を通して、「未完」というテーマがどのように立ち上がってくるのか、それぞれの展示を通じて理解を深めていく試みのようでもあるので、銀座、豊島、大阪の3ヵ所を巡りながら実際に体験してみてはいかがだろうか。

◼️「横尾忠則 未完の自画像―私への旅」
会期:8月24日まで(予定)
時間:11:00〜20:00(最終入場 19:30)
場所:グッチ銀座 ギャラリー
住所:東京都中央区銀座4-4-10 グッチ銀座 7階
入場料:無料(予約優先制)

◼️豊島アートウォールプロジェクト
会期:8月24日まで(予定)
住所:香川県小豆郡土庄町豊島家浦889 → teshima factoryの住所にしています。

◼️グッチ大阪
住所:大阪府大阪市北区梅田2-2-22 ハービスプラザエント1、2階
営業時間:11:00〜20:00

◼️心斎橋大丸 グッチショップ
住所:大阪市中央区心斎橋筋1-7-1 心斎橋パルコ1、2階
会期:8月24日まで(予定)
営業時間:10:00〜20:00

◼️心斎橋大丸 グッチ サテライトショップ
住所:大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-6-6
会期:8月24日まで(予定)
営業時間:10:00〜20:00

The post 「グッチ」× 横尾忠則 銀座で展示中のインスタレーション作品が瀬戸内と大阪に出現 appeared first on WWDJAPAN.

映画「フロントライン」の関根光才監督が語る「演出のこだわり」と「“疑う”ことの大切さ」

PROFILE: 関根光才/映像作家・映画監督

PROFILE: (せきね・こうさい)造形アーティストの両親のもと東京で生まれる。上智大学哲学科在籍時、アメリカでの留学中に写真に興味を持ち、映像制作を志す。2005年に初監督の短編映画「RIGHT PLACE」を発表、ニューヨーク短編映画祭の最優秀外国映画賞などを受賞。14年に手掛けたHONDA「Ayrton Senna 1989」はカンヌ広告祭チタニウム部門グランプリを受賞。13年、社会的アート制作集団「NOddIN(ノディン)」で活動を始め、社会的イシューを扱った作品を発表する。18年、初の長編劇場映画作品「生きてるだけで、愛。」で、新藤兼人賞・銀賞、フランス、キノタヨ映画祭・審査員賞などを受賞。同年、長編ドキュメンタリー映画「太陽の塔」を公開。24年、「かくしごと」を公開し、ドキュメンタリー映画「燃えるドレスを紡いで」で、ファッションにおけるゴミと環境問題の関係性を見つめ、米・トライベッカ映画祭にて The Human/Nature Awardを受賞する。

2020年2月3日、横浜港の沖合に停泊していた豪華クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の船内で、新型コロナウイルスの感染が明らかになった。未知のウイルスに最前線で対応したDMAT(災害派遣医療チーム)の奮闘を描く映画「フロントライン」が6月13日に公開される。当時、船内で何が起きていたのかを入念にリサーチし、歴史的事実に基づく物語としてオリジナル脚本で映画化した。この意欲的かつ挑戦的な大作に参加したのは、小栗旬、松坂桃李、窪塚洋介、池松壮亮ら主演級の俳優たちだ。監督に抜擢されたのは、映像作家・映画監督として世界的に活躍し、注目を集める関根光才。ドラマ映画とドキュメンタリー映画という2つの領域で創作してきた関根が、骨太ながらも間口の広い社会派のヒューマン作品を完成させた。その創作の視座を探る。

劇映画とドキュメンタリー映画を
自然に行き来する

——映画「フロントライン」の監督は、オファーだったそうですが、やりがいや魅力をどこに感じましたか。

関根光才(以下、関根):新型コロナウイルスについての話で、しかも端緒になった船の事件の映画化は、いずれ誰かがやらなければいけなかったと思います。それを今の日本で、オリジナルの脚本で、しかも社会的なコンテクストを持った映画をこの規模で作るというのはなかなかないことなので、ぜひやらせてもらいたいと思いました。何より増本淳さんの脚本が素晴らしかったんです。「コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命」(フジテレビ)や「THE DAYS」(Netflix)などの社会派ドラマをプロデュースされた増本さんが、丹念なリサーチをして作った脚本の、事実の説得力に心を奪われました。

——関根さんがこれまで監督してきた映画は、小説が原作の劇映画(生きてるだけで、愛。」「かくしごと」)もドキュメンタリー映画(「太陽の塔」「燃えるドレスを紡いで」)も社会性をはらんでいます。「フロントライン」で2つの領域を融合したいという意識はあったのでしょうか。

関根:そこの行き来は自然にしていたので、今回も特別そういう意識はありませんでした。ただ、ドキュメンタリーはそのトピックに興味を持っている人以外、お客さんの幅が広がらないんです。みんな、そこのトピックに興味を持ってほしくてドキュメンタリーを作るんですけど、その層へのアプローチが難しい。なのでこういうエンターテインメントとしての劇映画を作って、「小栗さんが大好きなんです」という動機で映画を見に来ていただけたらむしろありがたくて、その中で当時を振り返って考える端緒があればそれでいいかなと。そういう意味で、実際に起きた事件を扱いつつ、エンターテインメントのレベルみたいなものは意識していました。

——実際に起きた事件を扱う上で、過去のドキュメンタリー映画の経験は役立ちましたか。

関根:役立ったと思います。僕は映像を撮るという行為自体がかなり攻撃的なアクションだと思っています。特に被写体が何かの被害者であったり、すごく困窮している状況にいたりする場合、その人たちに「何があったのかを教えてください」とカメラを向ける行為自体に加害性がある。しかも被写体の方は、それがどう切り取られてどういう映画になるのかが分からないわけですし。今回も事件からまだ5年しか経っていないので、当時を振り返ることがつらい人が結構いると思います。しかも背景にたくさんの人たちがいる。ダイヤモンド・プリンセス号の乗客やクルー、DMAT、引いて見れば僕たち全員の人生と地続きの事件なので、どこかに傷つく人がいるかもしれない。それを乗り越えてでも作りたいと思えるのか、それならばどういう内容をどう撮るのかを非常に考えました。

——その意識があると、実際の演出の仕方や編集は変わってくるのでしょうか。

関根:もともと僕は過剰な演出が非常に苦手なんです。自分がお客さんとして映画を見るときも、事実に基づいたお話を、派手に、ヒロイックにエンターテインメント化するタイプの映画が苦手だったので、そこはかなり抑制的にやっている意識ではいました。今回も引き算しまくったわけではなく、自然にそうなっていった感覚です。

——「未曾有のパンデミックで人命救助に命をかける人々を描くお仕事ドラマ」として、壮大な音楽をつけてエンターテインメント化する方法もありえましたよね。

関根:そうなりがちですよね。日本映画でもハリウッド映画でも映画の定型文みたいなものとして刷り込まれたものがある。それは一回脇に置いて作りたいと思いました。

——キャスティングには関根さんも関わったのでしょうか。

関根:増本さんと話し合っていく中で、まず、この巨大な、とてつもなくいろいろな人間の背景が伴う話を乗せてくれる船(主人公)は小栗旬さんだなと、すぐに合致しました。脚本を読んだ小栗さんから「やりたい」というお返事をいただいて。その後小栗さんから、「仙道役に窪塚(洋介)さんはどうか」という提案をいただいて、「最高ですね」と返しました。メインキャストの4人(小栗旬、松坂桃李、窪塚洋介、池松壮亮)に関しては全員異論なしでスパッと決まった感覚があります。キャスティングに関して、当時はいろいろあったのかもしれませんが、難儀だったことはすっかり忘れてしまっています(笑)。

——重要な才能です(笑)。それにしてもメインの4人の顔ぶれに驚きました。全員主役級で。

関根:すごいですよね。普段だったら主役を張る立場の松坂桃李さんや池松壮亮さんが、ある種のサブキャラクターとして「やりたいです」と言って参加してくれました。本当にありがたいです。

——個人的に、日本の大作映画に出てくる、メインキャラクターではない外国人キャストの芝居に眉をひそめることが多かったのですが、今回は皆さんのお芝居がとても良かったです。

関根:僕も日本映画に出てくる外国人の芝居がすごく気になっていたんです。日本の映画がインターナショナルに行かない大きな原因の一つだとも思っていました。今回のような大作だと予算が潤沢だと思われそうですが、それでも海外からの招聘はできなかったので、日本にいる方でキャスティングすることになり、探して探して探しまくりました。あまりにも僕がオーディションをするので、プロダクションの人たちからは若干「正気か?」と思われたかもしれません(苦笑)。ブラウン夫妻の奥さん役をやってくださった方は映像初出演でしたし、ノアとジャック役の兄弟はそもそも演技が初めてでした。あの兄弟があまりにも泰然としていたから、松坂さんが「この子たちは本当に初めてなんですか?」と驚いていました。

——あの少年たちはリアル兄弟なんですね! 外国人キャストへの演出は、関根さんが通訳を介さずに直接つけたのでしょうか。

関根:基本的に、ある程度は。英語指導の松崎悠希さんがいろいろな面でサポートをしてくれました。特に森七菜さんは非常に難しい英語のセリフがかなりあったので。池松壮亮さんもたくさんの時間を使い、トレーニングをしてくれました。松崎さんも日本の映画を海外に届けたい、日本の作品をインターナショナル・スタンダードに引き上げたいという思いがすごく強い方でした。

関根監督流「引き算」の演出

——関根さんの監督作の中で、今回は最も規模が大きい作品になったと思います。自分の今までのやり方を変える必要はありましたか。それとも自分のやり方を貫いたのでしょうか。

関根:自分のスタイルというものをあまり意識していないというか、自分の刻印を作品に残すことにそこまで興味がないんです。特に今回は話の内容的に、「自分のもの」という意識が全くないので、脚本や企画に対して最適なアプローチが何かを自分なりに考えるというやり方でした。それでも監督やカメラの刻印や味はどうしても出てしまうものなので、それくらいで十分だと思います。

——関根さんはCM出身ですし、過去2作のドキュメンタリー映画を拝見すると、ビジュアリストという印象を受けます。でも、監督した劇映画3本を拝見して、「演出の人」だと思いました。俳優が演じるキャラクターがちゃんとその人物としての意思を持って物語の中で動いているから、観客が違和感なく物語に乗っていける。だからどの作品もあっという間に感じるのかなと。

関根:それはとてもうれしい感想です。僕はどんな配役であっても、役者と役はどこかでクロスオーバーすると思っています。例えば連続殺人鬼の役だったとしても、全部を掘り下げてみると、「父親にこういうことをされたからこうなったのは、ちょっと分かるかもしれない」という引き出しの開け方があると思うんです。そこを引き出して自分として演じると、その人本人になるから演技に嘘がない。今回もその要素を意識しました。とてつもなく経験値がある方たちばかりなので、今みたいな細かいことを言う必要はもちろんなかったですが。

——おっしゃる通り、俳優が優れているとは思います。でも、それを潰してしまう演出家もいます。それがプラスに機能する作品もありますが。関根さんがどうやって彼らの良さを引き出しつつ、キャラクターとの一体化へと導いているのかが気になります。

関根:環境作り、場所作りはすごく大事にしています。あとは目指しているゴールが同じかどうかという確認もしているかもしれません。

——どのように?

関根:普通にたわいもない話をしていくと、お互いが好きな作品や、実際に何が大事なのかを分かり合っていくと思うんです。正直、言語を超えている部分は相当あると思います。ある芝居を見せてくれた後に、「こうだとどうですか」という返し方をすると、皆さん経験値が高いので、それがどういう意味を持っているかを深いところまで理解してくれます。唯一何かあるとすれば、やはり引き算でしょうか。現場でも、「大丈夫です、そんなやらなくても」と言うことは多いかもしれません。なぜかというと、やはりリアルが一番美しいと思うので。映画を見ていると、生活の中で出会った美しいモーメントの記憶や、人間関係がリコール(想起)されることがある。 そこが映画の面白いところだと思うので、そういうアプローチをしているのかもしれません。

——コンテは描きますか?

関根:CMからこの世界に入ったのでコンテを描く人だと思われがちですが、映画では全く描かないです。コンテは役者を制限することでもあるので。VFXが絡むシーンやアクションシーンは描いた方がいいと思いますし、ビジュアルアート的な映画を撮るのであれば、必要性を感じることもあると思います。それ以外では僕はコンテのメリットを感じません。

——役者の演技を制限しないスタンスもそうですが、関根さんは人間のエネルギーを信じているように感じました。ドキュメンタリー作品も人間を通してテーマに迫るものになっていますし。

関根:「人間のエネルギーを信じている」という表現は、非常に近いと思います。自然現象のようなものも大好きですが、でも結局撮りたいものは人間というトピックだったりするんですよね。

——撮影監督の重森豊太郎さんも「人間」を撮る名手ですよね。「生きてるだけで、愛。」以外でも一緒にやられてきている?

関根:はい。同じチームで長いので、500%の信頼をお互い置きながらやっていると僕は思っています。視点の近いところもあるので。重森さんとは「これはこうじゃない」みたいな感じが一切なく、「あ、そうだよね」と進んでいきます。それでも事前のシミュレーションは入念にします。毎回全シーン全カットをシミュレーションした上で、現場でそれを崩すというやり方です。みんなの芝居の動きを見て、「これはこうなるね」と目配せしてやる感じに近いですね。

映画だからこそできること

——いろいろなメディアで映像作品を作ってきましたが、関根さんにとって映画というメディアだからできることとは。

関根:時間軸として、映画は人間が見るに耐え得る長さなんですよね。1時間半から2時間、作品によっては3時間のパッケージの中で人に見てもらおうとしたときに、「消費してください」という作り方もできると思います。でも、せっかく時間を使って見てもらうのだから、面白さとともに、その人にとって何かいいことが起きたらいいなという願いを込めて作っているところはあると思います。「これはすごく甘い飴なんですけど、中にこんな薬を入れました。勝手にすみません」みたいなこともできるのが、映画の面白さだなと思っています。でも結局のところはシンプルで、自分や自分の仲間が映像を撮ることで、見た人たちに面白いと思ってもらえたら、少しでも世の中が面白くなればいいなと思います。

映画は社会や他の人の人生に、「面白い」「楽しい」「感動した」というポジティブな影響を及ぼすこともあり得る一方で、その反作用として、誰かをこちらにとって都合のいい思想や意識、善悪に誘導することもできてしまう諸刃の剣です。それが映画のすごく大事なところであり危ないところであることを、常々かなり意識するようにしています。

——見た人の人生にプラスの何かがあればいいという思いは崇高ですが、それを目的とした映画はプロパガンダや価値観の押し付けになりかねないということですね。

関根:紙一重ですよね。「社会が良くなったらいいな」という思いでいろいろな社会活動をしましたが、途中で「社会が良くならなければいけない」と思うのは非常に危ないことだなと感じるようになりました。映画を作るときは本気で作りますが、最終的に届けるときは「何かいい影響があったらいいな」とふわっと思うくらいのスタンスがいいかなと思っています。

日本でいいものを作って世界に届けていく

——そもそも、映画監督を目指したきっかけは?

関根:映画監督にならなければいけないという思いはあまりなかったです。どの立場でもいいから映画作りに携わってみたいと思っていました。

——そうだったんですね。観客としてはどういう映画が好きですか?

関根:やはり社会的な映画がすごく好きです。例えば、エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」(1995年)では、自分が持ったことのない感情を初めて感じました。ユーゴスラビアについての映画なのですが、僕がアメリカに留学していたときに、ユーゴスラビアから来たダンサーの留学生がいたんです。僕が初めて出会った、政情が不安定な国出身の人でした。この映画の、本土から小島が離れていくラストシーンを見て、泣きました。自分には日本という自分が生まれた国があるし、帰る場所がある。でも、ユーゴスラビアからの留学生のように、そうじゃない人たちの感情がこんなにも強烈だということを、映画から教えてもらった体験でした。

——日本の映画作家からの影響はありますか?

関根:昔の日本映画がはらむ「狂気」みたいなものに惹かれます。新藤兼人さん脚本の「しとやかな獣」(1962年)はすごくフィクショナルな密室劇ですが、どこかで「人間ってこういうものかもしれんな」という本質を感じさせてくれる。箱庭に閉じ込められたような表現も面白いなと感じながら見ていました。

——関根さんはユニバーサルな感覚を持っていて、日本という場所で作品を作って、世界に届けようとしている方なのかなという印象を受けていました。

関根:結局、ある種の芸術に関わって何かを表現するときに、「おしゃれ」だとか「かっこいい」だとか、そういう下衆な考えで海外にある面白いものを真似して作っても、すぐにばれるんです。自分でも昔、海外の撮り方を真似して作ったらどうなるのかなという実験をしてみた結果、これは絶対に長く続かないだろうなという実感がありました。

海外に行くと、「あなたは誰ですか」「あなたは何を思い、何を考え、何をどうしたいんですか」と聞かれるんですね。そこを見つめ続けると、最終的に残るのは自分のアイデンティティーなんです。日本人であることや、日本に生まれ育った環境や家族、自然や葉っぱの香りがすごく好きだったなとか、人間なんて結局はそういうことしかないんだなっていう(笑)。どういう環境で生まれた人も、自分のホームグラウンドに立ち返って、そこから自分のルーツを大事にして地に足のついた表現をすることが必要になってくる。僕も、日本でいいものを作って世界に届けていく人間の1人でありたいなと思っています。そのあたりは、岡本太郎の思想に非常に共感しています。

——ドキュメンタリー映画「太陽の塔」で、岡本太郎の「芸術家は世界の全てを知っていなければいけない」という言葉を引用していました。関根さんはご自身を芸術家と思いますか?

関根:自分のやっていることが芸術かどうかはあまり意識していません。というのも、自分の両親がそう(芸術家)だったので、芸術家であることへの憧れがとてつもなく低くて(笑)。中高生ぐらいで「なんで両親とも家に全くいないのか、何をしているのか」と思っていました。両親の周りのアーティストたちは金を借りて逃げるとか、そういう人たちもいる中で、自分はサラリーマンになって堅実に生きたいと思った時期もありましたが、結局は血を争えなくなってきてしまいました。

——映像作家として、関根さんは今の社会をどう見ているのでしょうか。

関根:この映画「フロントライン」がまさにそうですが、事実だけで劇映画ができてしまうぐらい現実が強烈なんです。現実がフィクションを凌駕してしまっている。その時代に、「あなただったらどうしますか」という問いに答えを出すのは非常に難しいですよね。しかも、捏造された真実がたくさんありますし、正直言うと、映像がそこに加担してしまっています。映像を取り巻く環境が非常に難しい時代に、こちらにできることがあるとしたら、いろいろなことをちゃんと疑ってみる。「疑う」という言葉はネガティブに聞こえますが、何が真実か分からない今の時代には、どうしても必要にならざるを得ないような感覚があって。それが自分にとって、みんなにとって大事なものなのかを、ちゃんと見据える目線をそれぞれが持たないといけなくなってしまった。非常に難しい時代に来ていますが、映像を作るなら、そういう本質を共有できたらいいなと思っています。

——「フロントライン」がまさに、多くの人と共有できる映像作品だと思います。これから作るものもやはり社会性のあるものですか?

関根:今、2つほど準備しています。どちらもある種の社会性はありつつ、どこかでエンターテインメントになっているのですが、今回よりもフィクションの要素がずっと強いので「どうなるのかな」と思っていて。何かしら社会的な事柄がどうしても気になってしまい、そういうモチーフを入れたくなるところはあります。たまにはそうではないやつもやりたいとは常々思っていますが、「結局はあれ? 行き着いちゃった」みたいな(笑)。

——それが「関根光才の刻印」なのかもしれませんね。

PHOTOS:MAYUMI HOSOKURA

映画「フロントライン」

■映画「フロントライン」
6⽉13⽇から全国公開
出演者:⼩栗旬
松坂桃李 池松壮亮
森七菜 桜井ユキ
美村⾥江 吹越満 光⽯研 滝藤賢⼀
窪塚洋介
企画・脚本・プロデュース:増本淳
監督:関根光才
製作:「フロントライン」製作委員会
制作プロダクション:リオネス
配給:ワーナー・ブラザース映画
©2025「フロントライン」製作委員会
https://wwws.warnerbros.co.jp/frontline/

The post 映画「フロントライン」の関根光才監督が語る「演出のこだわり」と「“疑う”ことの大切さ」 appeared first on WWDJAPAN.

池田エライザ × 倉悠貴 映画「リライト」対談——「表現者としての想い」と「ギャルマインドのススメ」

PROFILE: 左:倉悠貴/俳優 右:池田エライザ/俳優

PROFILE: (いけだ・えらいざ)1996年4月16日生まれ、福岡県出身。2011年に「高校デビュー」にて俳優デビュー。主な出演作に「ルームロンダリング」(18)、「貞子」(19)、「FOLLOWERS」(20)、「騙し絵の牙」(21)、「真夜中乙女戦争」(22)、「おまえの罪を自白しろ」(23)、「地面師たち」(24)、「海に眠るダイヤモンド」(24)などがある。映画監督として「夏、至るころ」(20)と、「MIRRORLIAR FILMS」(22)の「Good night PHOENIX」を手掛けた。21年8月より、ELAIZA名義で音楽活動を開始。 (くら・ゆうき)1999年12月19日生まれ、大阪府出身。池田エライザの監督作「夏、至るころ」(20)で映画初出演にして初主演。映画主演作は「スパゲティコード・ラブ」(21)、「衝動」(21)、「こいびとのみつけかた」(23)、「OUT」(23)など。24年の出演作は「傲慢と善良」、「赤羽骨子のボディガード」、「六人の嘘つきな大学生」、「透明なわたしたち」、「SHOGUN 将軍」と多数。25年は「アイシー〜瞬間記憶捜査・柊班〜」、「ガンニバル シーズン2」などのドラマに出演。

映画「ちょっと思い出しただけ」(2022年)や「不死身ラヴァーズ」(24年)などの映画作品や、テレビドラマ、舞台、小説など、メディアを問わず精力的に表現活動を続ける松居大悟監督。彼が「師匠」と尊敬する、ヨーロッパ企画の上田誠と初タッグを組んだ映画「リライト」が6月13日に劇場公開される。

夏の尾道を舞台に繰り広げられる“タイムリープ×青春ミステリ”で、主人公の美雪を演じているのは池田エライザ。クラスメイトの茂を演じる倉悠貴は、池田の初監督映画「夏、至るころ」(20年)で主人公に抜擢されてスクリーンデビューした関係にある。「リライト」で俳優として初共演を果たした2人の対談から、表現者としてのそれぞれの現在地を探る。

映画「夏、至るころ」から
俳優初共演まで

——「リライト」でクラスメイト役を演じると知ったときの、率直な心境を教えてください。

倉悠貴(以下、倉):エライザさんは僕が初めて出た映画(2020年「夏、至るころ」)の監督なので、僕にとって「映画といえば池田エライザ」なんです。言ってしまえば恩師というか、師匠のような存在です。あれから5、6年が経った後に俳優として会うのは緊張しましたし、プレッシャーがありました。まるで「現場に監督が2人いる」ような。でも、実際に(現場に)入ったらそんなことはなくて。

池田エライザ(以下、池田):(俳優で呼ばれた現場で、他の俳優に)演出しないです(笑)。

——倉さんは、松居監督のOKが出ても、つい池田さんの方を見てしまっていたそうですね(笑)。

池田:やりづらいだろうな、かわいそうだな、とは思いました(笑)。でも、こういう形での巡り合わせが不思議だし、いち俳優としても、すてきな形で話題になっている作品に出ている倉君が、「リライト」に出てくれることがうれしかったです。

倉:僕ももちろんうれしかったです。エライザさんは「自由にやりなさい」という感じでいてくれて、すごくやりやすかったです。思い切ってやれました。でも、「成長した姿を見せられるかな」という、役とは別のところでの緊張感がありました。

——池田さんは倉さんの成長を感じましたか?

池田:きっと成長しているだろうなとは感じますけど、私自身が人の成長を語れるほどお芝居が上手じゃないので。(倉に向かって)そもそも、すてきじゃないと抜てきしないから。主演に選ぶって相当な覚悟が必要なことだし。正直、「夏、至るころ」はキャスティングにすごく難航していて。感情の機微や行間を細かく描かなければいけなかったので。きっとみんな上手にやれるだろうけど、誰がハマるだろうかと考えていたときに、倉君の資料を見て。それで、主演にするつもりで倉君を呼んだのに、なぜかオーディションという形になっていて。

倉:はい、そう聞いていました。

池田:そこで初めてお芝居を見させてもらったときから、「やりたいこと」と「やっちゃいけないこと」の判断がすごく上手にできる人だなと思っていました。上手に思われたいけど、素直だから、どうしても素直な表情が出てしまう。そのバランスがすごくよかった。それは素質もあると思うので、最初から「大丈夫っしょ!」と安心していました。

——倉さんにとって「夏、至るころ」はどんな体験でしたか?

倉:初めての映画で、しかも主演ということで、僕の中では「夏、至るころ」の現場が映画なんだな、というのが一つあります。主演だったけど、自分が主演だと思うこともなくやっていました。何も分からなかったので、一生懸命やっていたら、周りの人たちが温かく背中を押してくれて。いい現場だったし、いい作品になりました。俳優として、素直に、真面目に、自分ができることをパーツの一つとしてやる。それを「夏、至るころ」の現場から学びましたし、今でも自分の中で大切にしています。

池田:上手だったよ。倉君は首の関節が柔らかくて、個人的にはそれを見るのがすごく面白かった。首、よく動くよね。

倉:そうなんです。勝手に動いちゃうんです。頷きとかがやたら多くて。今回も松居監督に「不思議な芝居するよね、倉君て」と言われました。同窓会が始まるときのシーンで、茂が盛り上げなきゃというところで、動揺して首が動いちゃってました(苦笑)。

——「夏、至るころ」から今回の再会に至るまで、お互いの動向をどうご覧になっていましたか?

倉:エライザさんは常に第一線で活躍されているので、テレビや映画でお見かけするたびに、「すごい人が監督だったんだな」と思っていました。

池田:私は(倉君が)うらやましかったです。「この子はすぐに波に乗るだろうな」とは思っていたけれど、あまりにも早く海外にドーンと行ったので、「引っ張りだこじゃーん」と思って。私はずっと映画をやってきて、連ドラの勉強もちゃんとしたいなと思って連ドラもやり始めた時期で。でもふと映画畑を振り返ると(映画に出ている俳優が)うらやましくなってしまったり。でも連ドラで勉強になることもたくさんあるし。そういう期間だったので、「いいなあ~」と思っていました。

割と陰キャな2人

——今回の「リライト」の撮影は、2年前の夏に広島県の尾道市で行われました。どのような記憶として残っていますか?

池田:学生(役の俳優)たちがすごくエンジョイしてたよね? 同窓会の2次会の撮影で使ったスナックに飲みに行ったり、自転車を借りたり。その話を聞いて、私と(橋本)愛ちゃんは「いいな~」とうらやましく思っていました。

倉:撮休日にレンタカーを借りて、香川まで行ったりしてました。

池田:そんなに遠出してたの!?

倉:実はしてました(笑)。

池田:でもそうだよね、地方ロケの撮休はどこかへ行くよね。私もアウトレットに行ったし(笑)。

——香川にはどのメンバーで行ったんですか?

倉:僕は香川には行けなかったんですけど、森田想さんと大関れいかさんとよく遊んでいて。尾道の島にみんなでドライブして、夕焼けを見て帰ってきたこともありました。

池田:エモい〜! 私はその頃、旦那(篠原篤)さんとのシーンを撮っていました。旦那と松居さんと私の福岡県民3人で、「福岡あるある」を言い合いながら(笑)。

倉:撮休にシネマ尾道にも行きました。次の主演映画を上映してもらうことになったので、「よろしくお願いします」とあいさつして、てぬぐいを買って帰りました。そうですね、めちゃくちゃエンジョイしました。

池田:それが(映画にとって)よかった。クラスのシーンの段取りが円滑で。多分誰が誰と目を合わせても怖くない状態でした。

倉:そうですね。だからすごくお芝居をやりやすい雰囲気にはなったのかなと思います。チームプレーでした。

——倉さんは茂の役柄に自分を重ねて、クラスメイトの俳優たちを引っ張っていましたか?

倉:初めはそうなろうと思っていました。みんなに積極的に話しかけて、中心人物のようにいたかったんですけど、やっぱり無理でした……。(前田)旺志郎君とかがハイなテンションでくるので、このメンツの中での中心人物はきついです。僕とエライザさんは割と陰キャというか、静かなタイプなので。

池田:私は人がたくさんいる部屋から消えるタイプです。廊下で「今日は風があるね」みたいな(笑)。

倉:(池田が演じた)美雪と同じタイプですよね。

池田:そうそうそう。倉君は頑張ってたね。茂は、倉君のパーソナルとはかけ離れた役だと思うんです。そういう役に対峙するときって、私もそうだけど、「自分は本来そういう人じゃないです」「そんなに体が機敏に動かないし、どうやったらいいんだろう?」と思いがちで。そこで倉くんは「こういう人はこういう動き方をするよね」という偏見も含めて茂という役を理解した上で、役柄に真摯に立ち向かって、自分の役割を全うしようとしていて、相変わらず健気だなと思いました。

——「健気」という表現に愛情を感じます。

池田:そうですね。監督の立場で出会ったから、健気さはずっと感じてしまいます。「頑張ってて偉い! 普段しょんぼりしてるのにね」って。

倉:現場が終わったら反省はします。

池田:いつも反省してるよね。

不定期で、面白い形で会える関係性

——倉さんから見て、池田さんに変化はありましたか?

倉:ないです。

——即答!

池田:(笑)

倉:23歳のときからずっとこうでした。ちょっと浮世離れしている感じ。3つぐらいしか年が離れていないのに、十何個上ぐらいの達観した感じがあって、それが今も続いている感じです。

池田:やっと(自分の年齢に)違和感がなくなってきました。

倉:エライザさんと話すときは、「何を思われてるのかな」とか考えます。

池田:何も考えてないよ。「グミ食べたいな」とかだよ(笑)。私はギャルを目指してるんで。

倉:ギャルですか!

池田:結構ギャルになってきたよ。いいよ、ギャル。

倉:本当ですか。

池田:「ギャルマインド」を心に飼っておくと、正義感が生まれる。全然死なないくせに「死ぬ」とか言ったりするけど、それでいいんだなって。

倉:気持ちがふっと軽くなる感じですか?

池田:考えすぎて苦しくなっちゃう性格だから、そのマインドがあるだけで、すごく人に優しくなれる。だから私は今、ギャルになろうとあがいています(笑)。

——真面目に(笑)。

倉:大切な気がします。「まぁいっか」みたいな心の持ち方。

池田:大切だし、倉君にもおすすめだよ。ギャルマインドか、沖縄の「なんくるないさ」。

倉:ちょっと沖縄行ってきます(笑)。

池田:すっごい楽になる。

——お2人をつなぐものや、共有しているものはありますか?

池田:(倉に)また共演できたらいいね。

倉:はい。

池田:これが、つなぐものだと思います。次はどんな形で会うのかが楽しみ。もしかしたら歌番組に一緒に出ているかもしれないですし。

倉:無理です(笑)。

池田:分かんないじゃん! バンドマンの役が来て、めっちゃ練習して、歌番組に出ることってあるじゃない?

倉:また池田組に参加させてもらうかもしれないし。

池田:そこで助監督をやってるかもしれない(笑)。

倉:確かに(笑)。もしかしたら倉組が発足してるかもしれないし。

池田:そうやって変化していくことを楽しんでいく。過干渉ではなく、不定期で、面白い形で会える関係というのは、いいなと思います。

倉:確かに。いい距離感ですよね。

俳優以外の創作活動

——池田さんは幼い頃に小説を書きたいと思っていたそうですが、倉さんは俳優業以外での表現活動はしていますか?

倉:陶芸をやっています。すごくつらい時期があって。何もしたくなかったんですけど、友人が「北に行こう」と誘ってくれて、何の目的も決めずにドライブに行きました。旅の途中で「何かやってみる?」「陶芸やってみたい」となって、近くにあった陶芸の工房に連絡したら「いいよ」と言ってくれて。今もそこにちょくちょく通って、コップ、茶碗、ちょっとしたお香立てとか、いろいろ作っています。

——陶芸をするとどんな気持ちになるのでしょうか。

倉:初めて工房に行ったとき、土を見て泣きそうになったんです。粘土をこねていると、土と向き合っているようで向き合っていないというか、無心になれる。すごく気持ちが軽くなるので、僕に合っているなと思います。毎回、仕上がりもすごくいいんですよ。あと、先生が怖くて。おじいちゃんが怒ってくるんです。

池田:へえ~!

倉:「違うって言ってるでしょ!」って。大人になってから怒られることが減ったので、心地いいです。愛があって。

池田:大切だね。

——いつか作品展をやってみたいと思いますか?

倉:全然ないです。趣味なので。

——売ろう、とかもない?

倉:ないです! 自分のものにしておきたいです。

——人に見てもらいたい、人に使ってもらいたいとは限らないんですね。

池田:我々の仕事は、趣味や好きでやっていることを追求していくうちに、発信につながっていくことがありますよね。私も幼い頃、文字を書いていたら止まらなかったんです。ノートの白いところを埋めたくて、罫線のところが埋まったら、余白にも文字を書く。「作文を3枚書いてください」と言われたら、止まらなくて30枚ぐらい書いてしまう。ただただ好きで、衝動で書いていたら、周りから「この子は小説家になるんだろうね」と言われるようになって、「小説家になりたい」と思うようになりました。陶芸もやってくうちに、そんなつもりなくても、いつか何かあるかもしれないよね。

倉:はい。

——本人はやりたいからやっているだけで、「小説家」「陶芸家」と肩書きをつけるのは周りかもしれない。

池田:そうですね。タイミングとご縁だと思います。

——池田さんの小説に対する表現欲求は、現状でどうなっていますか?

池田:文章を書くことに関しては、今は「脚本」という形式の心地良さを楽しんでいます。シナハンに行ってト書きを書くという行為が、あまりにも気持ちが良くて。今もちょっとやりたいことがあるので、今年シナハンに行けたらいいなと思っています。その後、プロットを組み立てて、第一稿に取り掛かりたいです。

倉:エライザさんの作品、見たいです。

池田:でも、作品を作るとなるとお芝居を休まなきゃいけなくなるんですよね。来年30歳というところで、もう少し表でお芝居をやってから作る方に行った方がいいのか、すごく葛藤しています。まあでも、やりたいときにやればいいかなとも思います。そうやって生きてきたじゃんって。

倉:これがギャルマインドですか。

——確かに! 倉さんは映画やドラマなどの映像作品に、俳優以外の形で参加したいですか?

倉:僕、友達と自主映画をやったりするんで、それはあります。最近関わったのは「ROPE」という長編映画です(7月25日公開)。主演(樹)と監督(八木伶音)が友達で。2人が100万円ぐらい貯めて、「よし映画撮ろう」となったので、俳優部で参加しました。技術部や俳優部の友達を集めたんですけど、人が少ないので、僕も照明を持ったりしました。やっぱり好きなんです、僕。そういう映画の現場が。仲間内だけで作ることってなかなかないし、いろいろな部署へのリスペクトもどんどん出てくるので、機会があれば俳優部にこだわらず、何かしらの形でやりたいです。

——皆さん衝動で動いているのでしょうか。「こういうエンタメがあったらいいよね」という理屈や計算ではなく。

倉:僕らは本当に、ただやりたいからやっているだけです。そういう作品には「観たい」と思わせるパワーがある気がします。

池田:松居監督にもそれはすごく感じるよね。

倉:創作意欲があふれているなと思います。

池田:どんどん作るから、待機作が多すぎる(笑)。

日本の映画で海外へ挑戦

——今後、「こういう作品を作っていきたい」というビジョンや理想はありますか?

池田:私は母のカトリックと父の仏教という2つの宗教の間で育ってきて、共通する大切な教えは人助けをすることです。でも、この俳優というお仕事が、人助けにはすごく遠回りだなと思うことも多いんです。(映画やドラマで描く)物語によっては、一度傷つけてから相手に学びを与えようとしているのではないかと思うこともありますし。だったら自分から出向いて、直接話を聞いて、助けた方が早いんじゃないかと、長い期間葛藤していました。でも、自分が何のプロフェッショナルなのか、何を積み上げてきたのかを考えると、やっぱり俳優なんですよね。だったらこの仕事の中で、より手っ取り早く人助けにつながることを模索する方が斬新だし、ぶれていないし、いいんじゃないかなという結論に至りました。直接的な支援をするにもお金を稼がなきゃいけないし、もっともっと人の気持ちが理解できるようにならないといけない。人助けと女優の仕事は、それぞれを突き詰めたら合流すると思ったので、既存のやり方にハマろうとせずに、人助けをしようと思いながらこの仕事の中で動いていきたいと思っています。

——ありがとうございます。倉さんはいかがでしょうか。

倉:海外に行く日本映画が少ない状況を、すごくもったいないなと思っています。韓国映画が海外で賞を獲るけれど、制作費はそんなに変わらなくて。変わる作品ももちろんありますけど、オスカーを獲るような作品でも、インディーズ映画は多分30億、40億円で撮っているので、日本もできなくはないはずなんです。でも日本では、国内だけで映画というものを消費して、外に売り出していかない気がしています。そこにいろいろな事情があるのは分かっているんですけど、すごくもったいないと思います。俳優が海外に挑戦するのは最近よくある話ですけど、日本の作品が海外に出ていって、もっと評価されるようになったらうれしいなと思っています。

——自分が海外で顔と名前を売って、その一助になりたいと思いますか?

倉:それをやっているのが真田広之さんなんですけど、これからは若い世代もやっていくことになると思います。そういう考えの人が集まって作品を撮っていくようになればいいんじゃないかなと、僕は思っています。

池田:飲みながら語るだけ、はやめようね。

倉:だめです。ちゃんと企画書を書かないと。

お気に入りの夏映画は
「アフターサン」と「夏の庭 The Friends」

——「リライト」も「夏、至るころ」も夏の映画です。ということで、お2人の好きな夏映画をお聞きしたいです。

倉:僕は「アフターサン」(22年)という映画がすごく好きです。夏休みの娘と父の話です。昨年観た映画で一番心に来ました。家で、DVDで見たんですけど、最初は「なんか退屈な映画だな」と思っていました。 おしゃれで、映像として格好いいけど、割とぼんやり時間が流れるような映画だと思います。でも、最後の方で、気づいたら泣いていて。あまりない経験でした。20代の自分はこう感じたけれど、子供ができてからまた改めて見たら違う感じ方になるんだろうな、と思える映画でした。

池田:私は「夏の庭 The Friends」(94年)が大好きです。相米慎二監督にはものすごく影響を受けています。どう言えばいいか分からないけれど、子供たちの細かい空気感にものすごくこだわるのに、雨降らしの奥で全然雨が降ってないとか、そういう加減に「あ、人が作ってるんだ」ということを感じます。あと、演出の面倒くささ。夕日を待つとか、朝日を待つとか、私は怖いからできないけれど、相米さんは待つんです。段取りだけで1日終わる日もあるんです。私はそれはできないけれど、なぜそれをしようとしたんだろう? と気にしながらメイキングも見ました。

——初めて観たときから、そういう視点でしたか?

池田:「夏の庭」はもともと小説が好きで、小学生のときに図書室で読んでいて。おじいちゃんの家でいけないことをしている感じが好きでした。相米さんの映画を見たのは18歳だったと思います。映画を見ることで、自分のDNAになっていくような喜びがありました。

——「いけないこと」で、相米監督の「台風クラブ」(85年)を思い出しました。あれも夏の映画ですよね。

池田:ですね。相米さんの「お引越し」(93年)も大好きです。

PHOTOS:TAMEKI OSHIRO
STYLING:[ERAIZA IKEDA]MISAKI TAKAHASHI(Sadalsuud)、[YUKI KURA]kawase136 (afnormal)
HAIR&MAKEUP:[ERAIZA IKEDA]KEN NAGASAKA、[YUKI KURA]NOBUKIYO

[ERAIZA IKEDA]ジレ 18万5900円、デニムパンツ 15万円、ボールチェーンネックレス19万9000円、モチーフ付きネックレス 12万7000円/全て アン ドゥムルメステール(M 03-6721-0406)、リング 11万7700円/シャルロット シェネ(エドストローム オフィス03-6427-5901)、キャミソール/スタイリスト私物 [YUKI KURA]レザージャケット 35万5300円、パンツ 6万6000円、靴 12万8700円/全てアワー レガシー(エドストローム オフィス 03-6427-5901)、その他/スタイリスト私物

映画「リライト」

■映画「リライト」
出演:池田エライザ、阿達 慶、久保田紗友、倉 悠貴、山谷花純、大関れいか、森田 想、福永朱梨、若林元太、池田永吉、晃平、八条院蔵人
篠原 篤、前田旺志郎、長田庄平(チョコレートプラネット)、マキタスポーツ、町田マリー、津田寛治、尾美としのり、石田ひかり、橋本 愛
監督:松居大悟
脚本:上田 誠
原作:法条 遥 「リライト」(ハヤカワ文庫)
主題歌:Rin音「scenario」
音楽:森優太
製作・配給:バンダイナムコフィルムワークス
©2025「リライト」製作委員会
https://rewrite-movie.jp

The post 池田エライザ × 倉悠貴 映画「リライト」対談——「表現者としての想い」と「ギャルマインドのススメ」 appeared first on WWDJAPAN.

池田エライザ × 倉悠貴 映画「リライト」対談——「表現者としての想い」と「ギャルマインドのススメ」

PROFILE: 左:倉悠貴/俳優 右:池田エライザ/俳優

PROFILE: (いけだ・えらいざ)1996年4月16日生まれ、福岡県出身。2011年に「高校デビュー」にて俳優デビュー。主な出演作に「ルームロンダリング」(18)、「貞子」(19)、「FOLLOWERS」(20)、「騙し絵の牙」(21)、「真夜中乙女戦争」(22)、「おまえの罪を自白しろ」(23)、「地面師たち」(24)、「海に眠るダイヤモンド」(24)などがある。映画監督として「夏、至るころ」(20)と、「MIRRORLIAR FILMS」(22)の「Good night PHOENIX」を手掛けた。21年8月より、ELAIZA名義で音楽活動を開始。 (くら・ゆうき)1999年12月19日生まれ、大阪府出身。池田エライザの監督作「夏、至るころ」(20)で映画初出演にして初主演。映画主演作は「スパゲティコード・ラブ」(21)、「衝動」(21)、「こいびとのみつけかた」(23)、「OUT」(23)など。24年の出演作は「傲慢と善良」、「赤羽骨子のボディガード」、「六人の嘘つきな大学生」、「透明なわたしたち」、「SHOGUN 将軍」と多数。25年は「アイシー〜瞬間記憶捜査・柊班〜」、「ガンニバル シーズン2」などのドラマに出演。

映画「ちょっと思い出しただけ」(2022年)や「不死身ラヴァーズ」(24年)などの映画作品や、テレビドラマ、舞台、小説など、メディアを問わず精力的に表現活動を続ける松居大悟監督。彼が「師匠」と尊敬する、ヨーロッパ企画の上田誠と初タッグを組んだ映画「リライト」が6月13日に劇場公開される。

夏の尾道を舞台に繰り広げられる“タイムリープ×青春ミステリ”で、主人公の美雪を演じているのは池田エライザ。クラスメイトの茂を演じる倉悠貴は、池田の初監督映画「夏、至るころ」(20年)で主人公に抜擢されてスクリーンデビューした関係にある。「リライト」で俳優として初共演を果たした2人の対談から、表現者としてのそれぞれの現在地を探る。

映画「夏、至るころ」から
俳優初共演まで

——「リライト」でクラスメイト役を演じると知ったときの、率直な心境を教えてください。

倉悠貴(以下、倉):エライザさんは僕が初めて出た映画(2020年「夏、至るころ」)の監督なので、僕にとって「映画といえば池田エライザ」なんです。言ってしまえば恩師というか、師匠のような存在です。あれから5、6年が経った後に俳優として会うのは緊張しましたし、プレッシャーがありました。まるで「現場に監督が2人いる」ような。でも、実際に(現場に)入ったらそんなことはなくて。

池田エライザ(以下、池田):(俳優で呼ばれた現場で、他の俳優に)演出しないです(笑)。

——倉さんは、松居監督のOKが出ても、つい池田さんの方を見てしまっていたそうですね(笑)。

池田:やりづらいだろうな、かわいそうだな、とは思いました(笑)。でも、こういう形での巡り合わせが不思議だし、いち俳優としても、すてきな形で話題になっている作品に出ている倉君が、「リライト」に出てくれることがうれしかったです。

倉:僕ももちろんうれしかったです。エライザさんは「自由にやりなさい」という感じでいてくれて、すごくやりやすかったです。思い切ってやれました。でも、「成長した姿を見せられるかな」という、役とは別のところでの緊張感がありました。

——池田さんは倉さんの成長を感じましたか?

池田:きっと成長しているだろうなとは感じますけど、私自身が人の成長を語れるほどお芝居が上手じゃないので。(倉に向かって)そもそも、すてきじゃないと抜てきしないから。主演に選ぶって相当な覚悟が必要なことだし。正直、「夏、至るころ」はキャスティングにすごく難航していて。感情の機微や行間を細かく描かなければいけなかったので。きっとみんな上手にやれるだろうけど、誰がハマるだろうかと考えていたときに、倉君の資料を見て。それで、主演にするつもりで倉君を呼んだのに、なぜかオーディションという形になっていて。

倉:はい、そう聞いていました。

池田:そこで初めてお芝居を見させてもらったときから、「やりたいこと」と「やっちゃいけないこと」の判断がすごく上手にできる人だなと思っていました。上手に思われたいけど、素直だから、どうしても素直な表情が出てしまう。そのバランスがすごくよかった。それは素質もあると思うので、最初から「大丈夫っしょ!」と安心していました。

——倉さんにとって「夏、至るころ」はどんな体験でしたか?

倉:初めての映画で、しかも主演ということで、僕の中では「夏、至るころ」の現場が映画なんだな、というのが一つあります。主演だったけど、自分が主演だと思うこともなくやっていました。何も分からなかったので、一生懸命やっていたら、周りの人たちが温かく背中を押してくれて。いい現場だったし、いい作品になりました。俳優として、素直に、真面目に、自分ができることをパーツの一つとしてやる。それを「夏、至るころ」の現場から学びましたし、今でも自分の中で大切にしています。

池田:上手だったよ。倉君は首の関節が柔らかくて、個人的にはそれを見るのがすごく面白かった。首、よく動くよね。

倉:そうなんです。勝手に動いちゃうんです。頷きとかがやたら多くて。今回も松居監督に「不思議な芝居するよね、倉君て」と言われました。同窓会が始まるときのシーンで、茂が盛り上げなきゃというところで、動揺して首が動いちゃってました(苦笑)。

——「夏、至るころ」から今回の再会に至るまで、お互いの動向をどうご覧になっていましたか?

倉:エライザさんは常に第一線で活躍されているので、テレビや映画でお見かけするたびに、「すごい人が監督だったんだな」と思っていました。

池田:私は(倉君が)うらやましかったです。「この子はすぐに波に乗るだろうな」とは思っていたけれど、あまりにも早く海外にドーンと行ったので、「引っ張りだこじゃーん」と思って。私はずっと映画をやってきて、連ドラの勉強もちゃんとしたいなと思って連ドラもやり始めた時期で。でもふと映画畑を振り返ると(映画に出ている俳優が)うらやましくなってしまったり。でも連ドラで勉強になることもたくさんあるし。そういう期間だったので、「いいなあ~」と思っていました。

割と陰キャな2人

——今回の「リライト」の撮影は、2年前の夏に広島県の尾道市で行われました。どのような記憶として残っていますか?

池田:学生(役の俳優)たちがすごくエンジョイしてたよね? 同窓会の2次会の撮影で使ったスナックに飲みに行ったり、自転車を借りたり。その話を聞いて、私と(橋本)愛ちゃんは「いいな~」とうらやましく思っていました。

倉:撮休日にレンタカーを借りて、香川まで行ったりしてました。

池田:そんなに遠出してたの!?

倉:実はしてました(笑)。

池田:でもそうだよね、地方ロケの撮休はどこかへ行くよね。私もアウトレットに行ったし(笑)。

——香川にはどのメンバーで行ったんですか?

倉:僕は香川には行けなかったんですけど、森田想さんと大関れいかさんとよく遊んでいて。尾道の島にみんなでドライブして、夕焼けを見て帰ってきたこともありました。

池田:エモい〜! 私はその頃、旦那(篠原篤)さんとのシーンを撮っていました。旦那と松居さんと私の福岡県民3人で、「福岡あるある」を言い合いながら(笑)。

倉:撮休にシネマ尾道にも行きました。次の主演映画を上映してもらうことになったので、「よろしくお願いします」とあいさつして、てぬぐいを買って帰りました。そうですね、めちゃくちゃエンジョイしました。

池田:それが(映画にとって)よかった。クラスのシーンの段取りが円滑で。多分誰が誰と目を合わせても怖くない状態でした。

倉:そうですね。だからすごくお芝居をやりやすい雰囲気にはなったのかなと思います。チームプレーでした。

——倉さんは茂の役柄に自分を重ねて、クラスメイトの俳優たちを引っ張っていましたか?

倉:初めはそうなろうと思っていました。みんなに積極的に話しかけて、中心人物のようにいたかったんですけど、やっぱり無理でした……。(前田)旺志郎君とかがハイなテンションでくるので、このメンツの中での中心人物はきついです。僕とエライザさんは割と陰キャというか、静かなタイプなので。

池田:私は人がたくさんいる部屋から消えるタイプです。廊下で「今日は風があるね」みたいな(笑)。

倉:(池田が演じた)美雪と同じタイプですよね。

池田:そうそうそう。倉君は頑張ってたね。茂は、倉君のパーソナルとはかけ離れた役だと思うんです。そういう役に対峙するときって、私もそうだけど、「自分は本来そういう人じゃないです」「そんなに体が機敏に動かないし、どうやったらいいんだろう?」と思いがちで。そこで倉くんは「こういう人はこういう動き方をするよね」という偏見も含めて茂という役を理解した上で、役柄に真摯に立ち向かって、自分の役割を全うしようとしていて、相変わらず健気だなと思いました。

——「健気」という表現に愛情を感じます。

池田:そうですね。監督の立場で出会ったから、健気さはずっと感じてしまいます。「頑張ってて偉い! 普段しょんぼりしてるのにね」って。

倉:現場が終わったら反省はします。

池田:いつも反省してるよね。

不定期で、面白い形で会える関係性

——倉さんから見て、池田さんに変化はありましたか?

倉:ないです。

——即答!

池田:(笑)

倉:23歳のときからずっとこうでした。ちょっと浮世離れしている感じ。3つぐらいしか年が離れていないのに、十何個上ぐらいの達観した感じがあって、それが今も続いている感じです。

池田:やっと(自分の年齢に)違和感がなくなってきました。

倉:エライザさんと話すときは、「何を思われてるのかな」とか考えます。

池田:何も考えてないよ。「グミ食べたいな」とかだよ(笑)。私はギャルを目指してるんで。

倉:ギャルですか!

池田:結構ギャルになってきたよ。いいよ、ギャル。

倉:本当ですか。

池田:「ギャルマインド」を心に飼っておくと、正義感が生まれる。全然死なないくせに「死ぬ」とか言ったりするけど、それでいいんだなって。

倉:気持ちがふっと軽くなる感じですか?

池田:考えすぎて苦しくなっちゃう性格だから、そのマインドがあるだけで、すごく人に優しくなれる。だから私は今、ギャルになろうとあがいています(笑)。

——真面目に(笑)。

倉:大切な気がします。「まぁいっか」みたいな心の持ち方。

池田:大切だし、倉君にもおすすめだよ。ギャルマインドか、沖縄の「なんくるないさ」。

倉:ちょっと沖縄行ってきます(笑)。

池田:すっごい楽になる。

——お2人をつなぐものや、共有しているものはありますか?

池田:(倉に)また共演できたらいいね。

倉:はい。

池田:これが、つなぐものだと思います。次はどんな形で会うのかが楽しみ。もしかしたら歌番組に一緒に出ているかもしれないですし。

倉:無理です(笑)。

池田:分かんないじゃん! バンドマンの役が来て、めっちゃ練習して、歌番組に出ることってあるじゃない?

倉:また池田組に参加させてもらうかもしれないし。

池田:そこで助監督をやってるかもしれない(笑)。

倉:確かに(笑)。もしかしたら倉組が発足してるかもしれないし。

池田:そうやって変化していくことを楽しんでいく。過干渉ではなく、不定期で、面白い形で会える関係というのは、いいなと思います。

倉:確かに。いい距離感ですよね。

俳優以外の創作活動

——池田さんは幼い頃に小説を書きたいと思っていたそうですが、倉さんは俳優業以外での表現活動はしていますか?

倉:陶芸をやっています。すごくつらい時期があって。何もしたくなかったんですけど、友人が「北に行こう」と誘ってくれて、何の目的も決めずにドライブに行きました。旅の途中で「何かやってみる?」「陶芸やってみたい」となって、近くにあった陶芸の工房に連絡したら「いいよ」と言ってくれて。今もそこにちょくちょく通って、コップ、茶碗、ちょっとしたお香立てとか、いろいろ作っています。

——陶芸をするとどんな気持ちになるのでしょうか。

倉:初めて工房に行ったとき、土を見て泣きそうになったんです。粘土をこねていると、土と向き合っているようで向き合っていないというか、無心になれる。すごく気持ちが軽くなるので、僕に合っているなと思います。毎回、仕上がりもすごくいいんですよ。あと、先生が怖くて。おじいちゃんが怒ってくるんです。

池田:へえ~!

倉:「違うって言ってるでしょ!」って。大人になってから怒られることが減ったので、心地いいです。愛があって。

池田:大切だね。

——いつか作品展をやってみたいと思いますか?

倉:全然ないです。趣味なので。

——売ろう、とかもない?

倉:ないです! 自分のものにしておきたいです。

——人に見てもらいたい、人に使ってもらいたいとは限らないんですね。

池田:我々の仕事は、趣味や好きでやっていることを追求していくうちに、発信につながっていくことがありますよね。私も幼い頃、文字を書いていたら止まらなかったんです。ノートの白いところを埋めたくて、罫線のところが埋まったら、余白にも文字を書く。「作文を3枚書いてください」と言われたら、止まらなくて30枚ぐらい書いてしまう。ただただ好きで、衝動で書いていたら、周りから「この子は小説家になるんだろうね」と言われるようになって、「小説家になりたい」と思うようになりました。陶芸もやってくうちに、そんなつもりなくても、いつか何かあるかもしれないよね。

倉:はい。

——本人はやりたいからやっているだけで、「小説家」「陶芸家」と肩書きをつけるのは周りかもしれない。

池田:そうですね。タイミングとご縁だと思います。

——池田さんの小説に対する表現欲求は、現状でどうなっていますか?

池田:文章を書くことに関しては、今は「脚本」という形式の心地良さを楽しんでいます。シナハンに行ってト書きを書くという行為が、あまりにも気持ちが良くて。今もちょっとやりたいことがあるので、今年シナハンに行けたらいいなと思っています。その後、プロットを組み立てて、第一稿に取り掛かりたいです。

倉:エライザさんの作品、見たいです。

池田:でも、作品を作るとなるとお芝居を休まなきゃいけなくなるんですよね。来年30歳というところで、もう少し表でお芝居をやってから作る方に行った方がいいのか、すごく葛藤しています。まあでも、やりたいときにやればいいかなとも思います。そうやって生きてきたじゃんって。

倉:これがギャルマインドですか。

——確かに! 倉さんは映画やドラマなどの映像作品に、俳優以外の形で参加したいですか?

倉:僕、友達と自主映画をやったりするんで、それはあります。最近関わったのは「ROPE」という長編映画です(7月25日公開)。主演(樹)と監督(八木伶音)が友達で。2人が100万円ぐらい貯めて、「よし映画撮ろう」となったので、俳優部で参加しました。技術部や俳優部の友達を集めたんですけど、人が少ないので、僕も照明を持ったりしました。やっぱり好きなんです、僕。そういう映画の現場が。仲間内だけで作ることってなかなかないし、いろいろな部署へのリスペクトもどんどん出てくるので、機会があれば俳優部にこだわらず、何かしらの形でやりたいです。

——皆さん衝動で動いているのでしょうか。「こういうエンタメがあったらいいよね」という理屈や計算ではなく。

倉:僕らは本当に、ただやりたいからやっているだけです。そういう作品には「観たい」と思わせるパワーがある気がします。

池田:松居監督にもそれはすごく感じるよね。

倉:創作意欲があふれているなと思います。

池田:どんどん作るから、待機作が多すぎる(笑)。

日本の映画で海外へ挑戦

——今後、「こういう作品を作っていきたい」というビジョンや理想はありますか?

池田:私は母のカトリックと父の仏教という2つの宗教の間で育ってきて、共通する大切な教えは人助けをすることです。でも、この俳優というお仕事が、人助けにはすごく遠回りだなと思うことも多いんです。(映画やドラマで描く)物語によっては、一度傷つけてから相手に学びを与えようとしているのではないかと思うこともありますし。だったら自分から出向いて、直接話を聞いて、助けた方が早いんじゃないかと、長い期間葛藤していました。でも、自分が何のプロフェッショナルなのか、何を積み上げてきたのかを考えると、やっぱり俳優なんですよね。だったらこの仕事の中で、より手っ取り早く人助けにつながることを模索する方が斬新だし、ぶれていないし、いいんじゃないかなという結論に至りました。直接的な支援をするにもお金を稼がなきゃいけないし、もっともっと人の気持ちが理解できるようにならないといけない。人助けと女優の仕事は、それぞれを突き詰めたら合流すると思ったので、既存のやり方にハマろうとせずに、人助けをしようと思いながらこの仕事の中で動いていきたいと思っています。

——ありがとうございます。倉さんはいかがでしょうか。

倉:海外に行く日本映画が少ない状況を、すごくもったいないなと思っています。韓国映画が海外で賞を獲るけれど、制作費はそんなに変わらなくて。変わる作品ももちろんありますけど、オスカーを獲るような作品でも、インディーズ映画は多分30億、40億円で撮っているので、日本もできなくはないはずなんです。でも日本では、国内だけで映画というものを消費して、外に売り出していかない気がしています。そこにいろいろな事情があるのは分かっているんですけど、すごくもったいないと思います。俳優が海外に挑戦するのは最近よくある話ですけど、日本の作品が海外に出ていって、もっと評価されるようになったらうれしいなと思っています。

——自分が海外で顔と名前を売って、その一助になりたいと思いますか?

倉:それをやっているのが真田広之さんなんですけど、これからは若い世代もやっていくことになると思います。そういう考えの人が集まって作品を撮っていくようになればいいんじゃないかなと、僕は思っています。

池田:飲みながら語るだけ、はやめようね。

倉:だめです。ちゃんと企画書を書かないと。

お気に入りの夏映画は
「アフターサン」と「夏の庭 The Friends」

——「リライト」も「夏、至るころ」も夏の映画です。ということで、お2人の好きな夏映画をお聞きしたいです。

倉:僕は「アフターサン」(22年)という映画がすごく好きです。夏休みの娘と父の話です。昨年観た映画で一番心に来ました。家で、DVDで見たんですけど、最初は「なんか退屈な映画だな」と思っていました。 おしゃれで、映像として格好いいけど、割とぼんやり時間が流れるような映画だと思います。でも、最後の方で、気づいたら泣いていて。あまりない経験でした。20代の自分はこう感じたけれど、子供ができてからまた改めて見たら違う感じ方になるんだろうな、と思える映画でした。

池田:私は「夏の庭 The Friends」(94年)が大好きです。相米慎二監督にはものすごく影響を受けています。どう言えばいいか分からないけれど、子供たちの細かい空気感にものすごくこだわるのに、雨降らしの奥で全然雨が降ってないとか、そういう加減に「あ、人が作ってるんだ」ということを感じます。あと、演出の面倒くささ。夕日を待つとか、朝日を待つとか、私は怖いからできないけれど、相米さんは待つんです。段取りだけで1日終わる日もあるんです。私はそれはできないけれど、なぜそれをしようとしたんだろう? と気にしながらメイキングも見ました。

——初めて観たときから、そういう視点でしたか?

池田:「夏の庭」はもともと小説が好きで、小学生のときに図書室で読んでいて。おじいちゃんの家でいけないことをしている感じが好きでした。相米さんの映画を見たのは18歳だったと思います。映画を見ることで、自分のDNAになっていくような喜びがありました。

——「いけないこと」で、相米監督の「台風クラブ」(85年)を思い出しました。あれも夏の映画ですよね。

池田:ですね。相米さんの「お引越し」(93年)も大好きです。

PHOTOS:TAMEKI OSHIRO
STYLING:[ERAIZA IKEDA]MISAKI TAKAHASHI(Sadalsuud)、[YUKI KURA]kawase136 (afnormal)
HAIR&MAKEUP:[ERAIZA IKEDA]KEN NAGASAKA、[YUKI KURA]NOBUKIYO

[ERAIZA IKEDA]ジレ 18万5900円、デニムパンツ 15万円、ボールチェーンネックレス19万9000円、モチーフ付きネックレス 12万7000円/全て アン ドゥムルメステール(M 03-6721-0406)、リング 11万7700円/シャルロット シェネ(エドストローム オフィス03-6427-5901)、キャミソール/スタイリスト私物 [YUKI KURA]レザージャケット 35万5300円、パンツ 6万6000円、靴 12万8700円/全てアワー レガシー(エドストローム オフィス 03-6427-5901)、その他/スタイリスト私物

映画「リライト」

■映画「リライト」
出演:池田エライザ、阿達 慶、久保田紗友、倉 悠貴、山谷花純、大関れいか、森田 想、福永朱梨、若林元太、池田永吉、晃平、八条院蔵人
篠原 篤、前田旺志郎、長田庄平(チョコレートプラネット)、マキタスポーツ、町田マリー、津田寛治、尾美としのり、石田ひかり、橋本 愛
監督:松居大悟
脚本:上田 誠
原作:法条 遥 「リライト」(ハヤカワ文庫)
主題歌:Rin音「scenario」
音楽:森優太
製作・配給:バンダイナムコフィルムワークス
©2025「リライト」製作委員会
https://rewrite-movie.jp

The post 池田エライザ × 倉悠貴 映画「リライト」対談——「表現者としての想い」と「ギャルマインドのススメ」 appeared first on WWDJAPAN.

敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 Vol.3 【セレブリティーマーケティングの実情】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。第3回は、ブランドの個性や狙いが表れる「セレブリティーマーケティング」のいまについて。

セレブリティーの起用は戦略的に

南奈未:セレブリティーの起用は、昨今のラグジュアリーマーケティングにおいて戦略の要になっています。プロモーションを推進するブランドの多くが、ハリウッド俳優やK-POPアイドル、韓国や日本の俳優など、幅広い著名人をブランドの“顔”として抜擢するケースがメーンストリームになっていますね。もちろん変わらずインフルエンサーなどにもギフティングして、SNSでの投稿を促すスタイルは続いていますが、ステルスマーケティングへの懸念や各国での広告表示規制が強化されたこともあり、投稿の透明性や信頼性がより重視されるようにもなりました。今は、より世間的な知名度や信頼性がある俳優やアーティストを起用するケースが増えています。ブランドとの結びつきを明確に示せる彼らに最新ウエアをまとってもらい、ショーへの来場や広告への出演などといった戦略的な起用。これもファッションという特別な世界における、特殊なマーケティングの手法です。

私はたまたまラッキーなことに、パリの「ルイ・ヴィトン」やニューヨークの「マイケル・コース(MICHAEL KORS)」や、ミラノの「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」という、もともとセレブリティーとの親和性の高いブランドで経験を積んできたので、タレントをどのように起用し、接していくべきかを各々のブランドで学ぶことができました。当時はセレブ文化が根強い米国ブランドが抜擢するハリウッドセレブは、世界のセレブとして認識され、たった1人だけでも恐るべき反響が期待されます。

2000年前半にヒットしたドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ(SEX AND THE CITY)」の主人公キャリー役、サラ・ジェシカ・パーカー(Sarah Jessica Parker)が数分間着ただけで、爆発的な話題を呼んだことは、ブランド業界にセンセーショナルを起こしました。そう考えると、セレブリティー起用というのは、ファッション業界でもう20年以上続いていて、今はアップデートされ、韓国セレブに完全に奪われてしまっていますね……。個人的にはハリウッドセレブや「ヴィクトリアズ・シークレット(VICTORIA’S SECRET)」の“ヴィクシーモデル”が心底好き。K-POPアイドルも譲れませんが(笑)。ブランドとの親和性がカチッとハマった時のトップタレントの訴求力や影響力って凄まじいんですよね。

“フロントローバトル”は真剣勝負

米国ブランドのファッションショーのフロントローでは、俳優の枠とトップモデルの枠はきっちり分けられています。「マイケル・コース」のハリウッドスターや注目の若手俳優、「ヴィクトリアズ・シークレット」出身のスーパーモデルといった、時代を映す錚々たるメンバーがずらりと並ぶフロントローは、その場にいる私たち関係者も興奮しちゃいます!プライオリティーがはっきり分かるフロントローのシーティングには、みんなの命がかかってます(笑)。

そんなピリピリ感もありつつですが、米国ブランドはヨーロッパに比べると割とカジュアルです。バックステージへ行くエレベーターで、スターモデルのラッキー・ブルー・スミス(Lucky Blue Smith)と乗り合わせたことがあるんですが、笑顔で挨拶なんかもしてくれちゃって、全員がデレッと緩むのがハッキリ分かりましたね。自然とニヤけている自分もいました(笑)。マイケルがインタビューを受けてる間には、ドラマ「ゴシップガール(GOSSIP GIRL)」俳優のブレイク・ライブリー(Blake Lively)が着用するルックを端っこから夢中で見ていたことも。アメリカのセレブは世界的セレブでも、距離感の近さがとても印象的でした。

ショー会場では、米「ヴォーグ(VOGUE)」の編集長アナ・ウィンター(Anna Wintour)の隣に座るセレブもいますし、普段見られないセレブの共演を間近にすることもありました。マイケル自身、世代を問わない彼女たちと親交を深め、厚い信頼を得ていますし、ビジネス以上の関係性を持っていることも成功の背景にあると思います。ちなみに、来場者でごった返すブランドの会場によってはランウエイの幅が狭すぎることもあって、危うくアナ・ウィンターのヒールのつま先を踏みそうになったことがあります……忘れられない奇跡の“南の3ミリ”でした!

そうしたセレブリティーマーケティングの原点とも言えるアメリカ。各国のブランドアンバサダーや一流セレブ、好感度の高いインフルエンサーが勢ぞろいするファッションショーは、「マイケル・コース」以外のショーでも珍しくはありません。どのセレブがショーに招待されるのか、誰がアナの隣に座るのか。セレブにとっても、“誰が呼ばれるか”は大事な勝負どころ。ヨーロッパではなかなか見られないセレブが登場することもあって、ニューヨーク・ファッション・ウイークの見どころの1つでもありますね。

タレント起用に必要なのは、共鳴と戦略

 

そうした昨今のセレブリティーマーケティングでは、主に2つの役割がタレントに期待されるでしょう。1つは、ブランドのイメージを明確に体現すること。もう1つは、20〜30代の若年層へしっかりアプローチできること。

これまで多くのセレブやタレントをファッションショーへアテンドしてきましたが、超多忙な彼らの滞在時間は2泊3日ほど(時には1泊の時も……)。その間にブランドの歴史やストーリーに触れ、ショー本番当日に何時間もかけて準備し、最新ウエアをまとって会場に向かいます。世界中のファンやメディアが駆けつける会場で、1時間程度、360度どこからの声にも応え続けなければいけません。何百人ものカメラマンに英語で声をかけられながらも、笑顔で凛々しくポージング。ある韓国セレブには、カメラ目線やポージングの角度まで指示し、表情を管理するお付きの方がいて、ビックリ!どの角度からも自分らしさを表現できるセンス、そしてブランドに対するリスペクトの精神を持っていることは、アンバサダーの条件でもありますね。ファッションショーというスペシャルなシーンにおいて、彼らにとっても大きな躍進となる自信と覚悟が必要になるでしょう。

これまで自分が担当したブランドに限らず、さまざまなブランドの動向を見てきましたが、このマーケティング戦略の成功の根幹には、ブランドとタレント双方の思いが合致していなければいけません。そのためにもブランドは、最終的にどういう支持層を獲得したいかというターゲティングを明確にする必要がありますし、「なぜこのアンバサダー起用が有効なのか」というエビデンスを示さなければいけません。本国チームにもセレブ担当がいて、デザイナーの意向やイメージと合うかどうかのジャッジがなされます。私たちも、タレントのイメージを崩さないように事務所と密に連携を取りながら、リスクヘッジをして選出していきます。

米国のセレブリティーは国内では“身内感”が満載で、「自国のブランドを応援せずにあなたはどこをサポートするっていうわけ?」という考えが根底にあるように思うんです。元ファーストレディーのミシェル・オバマ(Michelle Obama)さんが公の場でカジュアルな「ギャップ(GAP)」を着用したのもその概念が表れています。日本も他国のセレブにばかりお金を使うのではなく、自国で世界に通用するセレブリティーを育てることに注力してほしいですね。

旬なタレントが新しい客層を導いてくれる、きっかけを与えてくれるという意味では、すごく“今っぽい”マーケティングのあり方だなと思います。でも、ブランドとタレント双方にとってベネフィットがなければ成立しない。そうでなければ、単なる話題作りで終わってしまいます。

だからこそ、成功させるためには、戦略的なアプローチが欠かせない。しっかりと目的を定め、信頼関係を築きながら、ブランドの世界観を伝えていく。また、そのタレントこそがブランドの一番のファンであるべきです。セレブリティーマーケティングは、“誰を選ぶか”がすべてのように見えて、実はお互いに“どう向き合うか”こそが、いちばん大事だったりするんです。そこには、タレントの人間性やブランド側にもどれだけの懐の深さがあるかなど目に見えていない大切な事があるのです。そんな心がほわっとする裏エピソードはまた次回に。

The post 敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 Vol.3 【セレブリティーマーケティングの実情】 appeared first on WWDJAPAN.

「トム ブラウン」直営店強化で“らしさ”再発信   CEOに聞くラグジュアリー逆風下の戦略 

PROFILE: ロドリゴ・バザン/トム ブラウン CEO

ロドリゴ・バザン/トム ブラウン CEO<br />
PROFILE: エクアドル出身。マーク ジェイコブス インターナショナルでヨーロッパ、中東、インド地域のVP兼ジェネラルマネジャーを務めた後、2010年に「アレキサンダー ワン」初の社長に就任。グローバル出店や商品ラインの拡張を牽引し、ブランドの成長を支えた。2016年から「トム ブラウン」のCEOを務め、卸から直営主体への転換、D2C戦略の加速、ブランドのグローバル展開を推進 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

中国需要の減速などラグジュアリービジネス全体に逆風が吹いている。「トム ブラウン(THOM BROWNE)」も2024年12月期の売上高は前期比16.8%減の506億円と、その影響を免れてはいない。

そうした状況下で打ち出したのは、卸売中心の体制から直営主体への大胆な転換だ。世界観を凝縮した直営ストアを軸に、フォーマルの原点とも言えるカスタムメイドを強化し、“らしさ”の再構築を図る。

このほどリニューアルオープンした銀座の旗艦店も、日本市場の今後を占う重要拠点だ。ここにどんな「トム ブラウン」らしさを凝縮し、伝えていくのか。銀座店のオープンに合わせて来日したロドリゴ・バザン(Rodrigo Bazan)CEOに話を聞いた。

WWD:現在の「トム ブラウン」の状況をどう捉えている?

ロドリゴ・バザン トム ブラウンCEO(以下、ロドリゴ):私たちは今、大きな変革の真っ只中にいる。売り上げも一旦は落ち込んでいるものの、必要な痛みだったと捉えている。卸売り主体のビジネスから、直営主体のビジネスにシフトするためだ。北米ではマイアミ・ビーチ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどに直営店をオープンしたが、これらはすべて、D2C(直営店)ビジネス戦略の一環。(現職に就任した)2016年当時、私たちの直営店はわずか9店だったが、今や120店を超えるまでに拡大している。

WWD:D2Cへの移行を進めている理由は?

ロドリゴ:ブランドの世界観を理想的な形で伝えられるからだ。商品の見せ方からメッセージまで、完全にコントロールできるのが直営店の強み。しっかりとした教育を受けた販売スタッフによる、お客さまのライフスタイルに合った提案とサービスで、「なぜこの商品が必要か」を明確に伝えられる。

すべての店舗が大規模である必要はない。青山店や伊勢丹新宿本店のように、規模は小さくても、深くブランドを体感できる店舗は作ることができる。日本市場はこの5年間で、私たちの直営戦略における重要なモデルケースになった。

WWD:「トム ブラウン」に限らず、ラグジュアリーブランド全体が直営店志向。日本でも、代理店を介さないビジネス展開が増えている。

ロドリゴ:ラグジュアリーブランドの多くが「真の直営」へ移行している。「トム ブラウン」もブランドイメージを正確に伝え、長期的にフルプライス(正価)で販売できる体制を確立したいと考えている。D2Cであれば、イメージコントロールも徹底できるし、スタッフの労働時間も最適化して、運営効率を高められる。ブランドとプロダクト、そして顧客。この三者の関係を強固にすることが何より重要だ。

D2Cの本質は「顧客中心」。お客さまにどれだけ良質な体験を提供できるか。驚きや感動を届けられるか。それを常に考え、表現し続けるから、お客さまに支持していただける。北米のパームビーチやメルローズプレイスの店舗の滑り出しには、大きな手応えを感じている。一方ニューヨークや青山など長く続いている店舗も、堅調だ。

卸売についても疎かにはしない。世界中の250のマルチブランド店やラグジュアリーショップとの関係は維持していく。そこではユニット単位で、ボリュームよりもより厳選した展開を重視していく。D2Cと卸、それぞれが異なる顧客接点としての意味と機能を持たせる。

WWD:近年は商品展開の幅も大きく広がっている。このことも関係しているのか。

ロドリゴ:この10年で、バッグ、サングラス、フレグランス、チョコレートなどが新たなカテゴリーが加わった。レディー・トゥ・ウエアではトラディショナルなシルエットだけでなく、最近ではフーディーやオーバーサイズのストリート的なアイテムも強化している。こうした多様性を伝えるには、やはりD2Cが最適なフォーマットだ。

現在のウエアの売上比率は3分の2がメンズ、残りの3分の1がウィメンズ。ウィメンズはメンズより10年後発だが、特定の地域ではメンズに匹敵するか、あるいはそれ以上に売れている。特にパームビーチでは、オープン当初から売り上げの大部分がウィメンズという、想定外の結果になった。自社店舗を構えたから得られた、大きな発見だった。阪急本店や伊勢丹新宿本店でもウィメンズの売場面積を拡大した。

MTO、MTMはブランドの中核
直営店ならではのストーリーテリング

WWD:ここ銀座店では、MTO(メイド・トゥ・オーダー)のニットウエアを提供する。

ロドリゴ:カシミヤ24色、メリノウール15色。いずれも過去6年のコレクションで使用してきたカラーパレットを用意する。お客さまは8つの定番ニットスタイルの中から好きなものを選び、色やサイズ、4本線やボタンディテールまでカスタマイズできる。私たちはそれをオーダーから約7週間で届ける。

20年前からある伝統的なニットに、新しい色を加え、新しい命を吹き込む。こうした取り組みも、直営だからこそ可能なブランドのストーリーテリングだ。

私たちにとって、「一人ひとりに向き合う特別な体験」は強い関係作りと成長を生む。そもそもトム本人がブランド創設時に手掛けていたのは、シャツやカシミヤセーターのメイド・トゥー・メジャーだった。つまり、パーソナライゼーションと顧客との特別な関係性は、ブランドの原点だ。

MTOやMTM(メイド・トゥ・メジャー、顧客の体型などに合わせて洋服を提供するサービス)は、今やメンズだけでなくウィメンズでも非常に好調だ。さらにセレブリティーの衣装やショーピースといった特注アイテムは、今やビジネスの中核となりつつある。

WWD:今年の「メットガラ」は「トム ブラウン」祭りだった。

ロドリゴ:ああいった特別な場でパーソナライズされた衣装を完璧に仕上げられるブランドであるという認知は、「このブランドなら、自分にも特別な提案をしてくれるだろう」という期待につながる。 MTOやMTMは、私たちのベストカスタマーと密につながる手段であり、エンゲージメントの起点にもなっている。

WWD:日本市場や日本の顧客については。

ロドリゴ:「トム ブラウン」と日本の関係は、20年近くにわたる。青山に2つのショップインショップを構えたのが出発点であり、そこから優秀なチームが育った。多くのメンバーが10〜15年にわたってブランドを支えてくれている。

MTM、MTOの事業は、特に日本での反応がいい。デザインや品質、クラフツマンシップへの理解が深く、制服的な美学やカスタムメイドの思想に深く共鳴していただける。私たちにとって、最も成熟したマーケットの一つだ。

WWD:今後の店舗戦略については。

ロドリゴ:現在、世界で120以上の直営店と、10~15のフランチャイズ店舗を展開している。2023年には韓国市場でもフランチャイズから直営に切り替え、現地チームがそのまま運営を担っている。 25年には、売上全体の約3分の2を直営が、残りの3分の1を卸が占める構成になる見込みだ。これが私たちにとって、最も健全で合理的なリテールネットワークだと考えている。大規模な拡大フェーズはすでに終了しており、今後は立地を厳選した出店が中心になる。

WWD:ラグジュアリーブランド全体では急成長のフェーズを終え、成長が鈍化してきている。その中で成長戦略をどう描く?

ロドリゴ:まず、カテゴリーで言えば、今後さらに伸ばせるのがアクセサリーとシューズだ。特にシューズには大きな成長余地があると見ている。アイウエアにも注力しており、日本製の最高品質のプロダクトを自社で製造している。

ブランド全体としては、適切な顧客接点さえ築ければ、今も成長の余地があると確信している。「トム ブラウン」はメンズ、ウィメンズ、キッズまでを展開し、コンセプチュアルなショーピースからポロシャツのようなクラシックアイテムまで、非常に幅広いプロダクトを網羅している。さらに、ベストカスタマープログラムやショー、MTM、MTOといった多様な顧客接点においても高い信頼と実績を築いてきた。

今の時代、「なんとなく買う」という消費は少ない。求められるのは、独自性のあるプロダクトと、深く持続的な顧客接点。その両方を備えるのが、私たちの直営ネットワークだ。

「トム ブラウン」は、ラグジュアリーライフスタイルブランドとして、あらゆる年齢・性別の顧客に応えていく。たとえばポロシャツひとつを買ってもらうにしても、MTMと同じくらい洗練された体験を提供する。それこそがこのブランドの独自性であり、ラグジュアリー市場における存在意義になりうるだろう。

The post 「トム ブラウン」直営店強化で“らしさ”再発信   CEOに聞くラグジュアリー逆風下の戦略  appeared first on WWDJAPAN.

「トム ブラウン」直営店強化で“らしさ”再発信   CEOに聞くラグジュアリー逆風下の戦略 

PROFILE: ロドリゴ・バザン/トム ブラウン CEO

ロドリゴ・バザン/トム ブラウン CEO<br />
PROFILE: エクアドル出身。マーク ジェイコブス インターナショナルでヨーロッパ、中東、インド地域のVP兼ジェネラルマネジャーを務めた後、2010年に「アレキサンダー ワン」初の社長に就任。グローバル出店や商品ラインの拡張を牽引し、ブランドの成長を支えた。2016年から「トム ブラウン」のCEOを務め、卸から直営主体への転換、D2C戦略の加速、ブランドのグローバル展開を推進 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

中国需要の減速などラグジュアリービジネス全体に逆風が吹いている。「トム ブラウン(THOM BROWNE)」も2024年12月期の売上高は前期比16.8%減の506億円と、その影響を免れてはいない。

そうした状況下で打ち出したのは、卸売中心の体制から直営主体への大胆な転換だ。世界観を凝縮した直営ストアを軸に、フォーマルの原点とも言えるカスタムメイドを強化し、“らしさ”の再構築を図る。

このほどリニューアルオープンした銀座の旗艦店も、日本市場の今後を占う重要拠点だ。ここにどんな「トム ブラウン」らしさを凝縮し、伝えていくのか。銀座店のオープンに合わせて来日したロドリゴ・バザン(Rodrigo Bazan)CEOに話を聞いた。

WWD:現在の「トム ブラウン」の状況をどう捉えている?

ロドリゴ・バザン トム ブラウンCEO(以下、ロドリゴ):私たちは今、大きな変革の真っ只中にいる。売り上げも一旦は落ち込んでいるものの、必要な痛みだったと捉えている。卸売り主体のビジネスから、直営主体のビジネスにシフトするためだ。北米ではマイアミ・ビーチ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどに直営店をオープンしたが、これらはすべて、D2C(直営店)ビジネス戦略の一環。(現職に就任した)2016年当時、私たちの直営店はわずか9店だったが、今や120店を超えるまでに拡大している。

WWD:D2Cへの移行を進めている理由は?

ロドリゴ:ブランドの世界観を理想的な形で伝えられるからだ。商品の見せ方からメッセージまで、完全にコントロールできるのが直営店の強み。しっかりとした教育を受けた販売スタッフによる、お客さまのライフスタイルに合った提案とサービスで、「なぜこの商品が必要か」を明確に伝えられる。

すべての店舗が大規模である必要はない。青山店や伊勢丹新宿本店のように、規模は小さくても、深くブランドを体感できる店舗は作ることができる。日本市場はこの5年間で、私たちの直営戦略における重要なモデルケースになった。

WWD:「トム ブラウン」に限らず、ラグジュアリーブランド全体が直営店志向。日本でも、代理店を介さないビジネス展開が増えている。

ロドリゴ:ラグジュアリーブランドの多くが「真の直営」へ移行している。「トム ブラウン」もブランドイメージを正確に伝え、長期的にフルプライス(正価)で販売できる体制を確立したいと考えている。D2Cであれば、イメージコントロールも徹底できるし、スタッフの労働時間も最適化して、運営効率を高められる。ブランドとプロダクト、そして顧客。この三者の関係を強固にすることが何より重要だ。

D2Cの本質は「顧客中心」。お客さまにどれだけ良質な体験を提供できるか。驚きや感動を届けられるか。それを常に考え、表現し続けるから、お客さまに支持していただける。北米のパームビーチやメルローズプレイスの店舗の滑り出しには、大きな手応えを感じている。一方ニューヨークや青山など長く続いている店舗も、堅調だ。

卸売についても疎かにはしない。世界中の250のマルチブランド店やラグジュアリーショップとの関係は維持していく。そこではユニット単位で、ボリュームよりもより厳選した展開を重視していく。D2Cと卸、それぞれが異なる顧客接点としての意味と機能を持たせる。

WWD:近年は商品展開の幅も大きく広がっている。このことも関係しているのか。

ロドリゴ:この10年で、バッグ、サングラス、フレグランス、チョコレートなどが新たなカテゴリーが加わった。レディー・トゥ・ウエアではトラディショナルなシルエットだけでなく、最近ではフーディーやオーバーサイズのストリート的なアイテムも強化している。こうした多様性を伝えるには、やはりD2Cが最適なフォーマットだ。

現在のウエアの売上比率は3分の2がメンズ、残りの3分の1がウィメンズ。ウィメンズはメンズより10年後発だが、特定の地域ではメンズに匹敵するか、あるいはそれ以上に売れている。特にパームビーチでは、オープン当初から売り上げの大部分がウィメンズという、想定外の結果になった。自社店舗を構えたから得られた、大きな発見だった。阪急本店や伊勢丹新宿本店でもウィメンズの売場面積を拡大した。

MTO、MTMはブランドの中核
直営店ならではのストーリーテリング

WWD:ここ銀座店では、MTO(メイド・トゥ・オーダー)のニットウエアを提供する。

ロドリゴ:カシミヤ24色、メリノウール15色。いずれも過去6年のコレクションで使用してきたカラーパレットを用意する。お客さまは8つの定番ニットスタイルの中から好きなものを選び、色やサイズ、4本線やボタンディテールまでカスタマイズできる。私たちはそれをオーダーから約7週間で届ける。

20年前からある伝統的なニットに、新しい色を加え、新しい命を吹き込む。こうした取り組みも、直営だからこそ可能なブランドのストーリーテリングだ。

私たちにとって、「一人ひとりに向き合う特別な体験」は強い関係作りと成長を生む。そもそもトム本人がブランド創設時に手掛けていたのは、シャツやカシミヤセーターのメイド・トゥー・メジャーだった。つまり、パーソナライゼーションと顧客との特別な関係性は、ブランドの原点だ。

MTOやMTM(メイド・トゥ・メジャー、顧客の体型などに合わせて洋服を提供するサービス)は、今やメンズだけでなくウィメンズでも非常に好調だ。さらにセレブリティーの衣装やショーピースといった特注アイテムは、今やビジネスの中核となりつつある。

WWD:今年の「メットガラ」は「トム ブラウン」祭りだった。

ロドリゴ:ああいった特別な場でパーソナライズされた衣装を完璧に仕上げられるブランドであるという認知は、「このブランドなら、自分にも特別な提案をしてくれるだろう」という期待につながる。 MTOやMTMは、私たちのベストカスタマーと密につながる手段であり、エンゲージメントの起点にもなっている。

WWD:日本市場や日本の顧客については。

ロドリゴ:「トム ブラウン」と日本の関係は、20年近くにわたる。青山に2つのショップインショップを構えたのが出発点であり、そこから優秀なチームが育った。多くのメンバーが10〜15年にわたってブランドを支えてくれている。

MTM、MTOの事業は、特に日本での反応がいい。デザインや品質、クラフツマンシップへの理解が深く、制服的な美学やカスタムメイドの思想に深く共鳴していただける。私たちにとって、最も成熟したマーケットの一つだ。

WWD:今後の店舗戦略については。

ロドリゴ:現在、世界で120以上の直営店と、10~15のフランチャイズ店舗を展開している。2023年には韓国市場でもフランチャイズから直営に切り替え、現地チームがそのまま運営を担っている。 25年には、売上全体の約3分の2を直営が、残りの3分の1を卸が占める構成になる見込みだ。これが私たちにとって、最も健全で合理的なリテールネットワークだと考えている。大規模な拡大フェーズはすでに終了しており、今後は立地を厳選した出店が中心になる。

WWD:ラグジュアリーブランド全体では急成長のフェーズを終え、成長が鈍化してきている。その中で成長戦略をどう描く?

ロドリゴ:まず、カテゴリーで言えば、今後さらに伸ばせるのがアクセサリーとシューズだ。特にシューズには大きな成長余地があると見ている。アイウエアにも注力しており、日本製の最高品質のプロダクトを自社で製造している。

ブランド全体としては、適切な顧客接点さえ築ければ、今も成長の余地があると確信している。「トム ブラウン」はメンズ、ウィメンズ、キッズまでを展開し、コンセプチュアルなショーピースからポロシャツのようなクラシックアイテムまで、非常に幅広いプロダクトを網羅している。さらに、ベストカスタマープログラムやショー、MTM、MTOといった多様な顧客接点においても高い信頼と実績を築いてきた。

今の時代、「なんとなく買う」という消費は少ない。求められるのは、独自性のあるプロダクトと、深く持続的な顧客接点。その両方を備えるのが、私たちの直営ネットワークだ。

「トム ブラウン」は、ラグジュアリーライフスタイルブランドとして、あらゆる年齢・性別の顧客に応えていく。たとえばポロシャツひとつを買ってもらうにしても、MTMと同じくらい洗練された体験を提供する。それこそがこのブランドの独自性であり、ラグジュアリー市場における存在意義になりうるだろう。

The post 「トム ブラウン」直営店強化で“らしさ”再発信   CEOに聞くラグジュアリー逆風下の戦略  appeared first on WWDJAPAN.

「シャネル」のビューティに新風をもたらす「コメット コレクティヴ」 2年半にわたる活動を振り返る

「コメット コレクティヴ(COMETES COLLECTIVE)」は、「シャネル(CHANEL)」が2022年10月に創設した新世代のアーティストコミュニティー。スペイン出身のアミィ・ドラマ(Ammy Drammeh)、フランス出身のセシル・パラヴィナ(Cecile Paravina)、中国出身のヴァレンティナ・リー(Valentina Li)が初期メンバーとして選ばれ、シャネル メークアップ クリエイティブ ストゥディオと協業の下でビューティのクリエイションを手掛けている。

「シャネル」は、色彩によって個性を表現する“カラー オブ アリュール(魅力)”を提唱。メゾンのアコードを継承しながら、ビューティに新風をもたらす「コメット コレクティヴ」の3人に、約2年半にわたる「シャネル」での活動を振り返ってもらったほか、それぞれが最も大切にしている色などを聞いた。

モダンでタイムレス、アバンギャルドなブランド

WWD:「シャネル」で活動し始めた当時をどのように振り返る?

アミィ・ドラマ(以下、アミィ):「シャネル」のアーカイブに初めて訪れ、ブランドの歴史に深く触れた時、このブランドに俄然興味を持った。100年ほど前に作られた製品は今見てもモダンで、本当にタイムレスなブランドだと思った。

セシル・パラヴィナ(以下、セシル):初めてアーカイブを訪問した時、私は特にパッケージに引かれた。例えば初代“シャネル N゜5”のボトルは、研究所のボトルをそのまま持ってきて使うというやり方自体が、1900年代にはとても革新的なアプローチだと思った。

ヴァレンティナ・リー(以下、ヴァレンティナ):正直最初は「シャネル」とのつながりがあまり見えていなかったが、アーカイブへ足を運び、ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)の話を聞くうちに、ブランドとのつながりを感じるようになった。また、「シャネル」は当初から私たち3人に敬意を払ってくれて、自由なクリエイションを後押ししてくれた。化粧品を作るということは、ただ色をデザインするのではなく、ストーリー全体をデザインすることなのだと、シャネル メークアップ クリエイティブ ストゥディオとの協業を通して気づいた。

WWD:「シャネル」が掲げる“アリュール”やブランドの歴史、アイデンティティーをどのように捉え、「コメット コレクティヴ」ならではの視点やスタイルをどのように表現しているのか?

アミィ:これまでには存在しなかったが、ブランドと深い部分で共鳴する製品を作り出すことが重要と考えている。最初のコレクションは大きな挑戦だった。今までになかった色を使いながら、なじみのあるテクスチャーと合わせるなど、伝統と新鮮さの理想的なバランスを見つけるのに苦戦した。ブランドの歴史をさかのぼると冒険的な色も多く、必ずしも大衆に受け入れられるような製品ばかりではなかったが、「シャネル」というブランドが提案することで、アイコニックなメッセージ性が生まれてきたのだと思う。

ヴァレンティナ:私にとって“アリュール”とは、自分自身に対して誠実であること。人と違う、ユニークな存在であることを認めること。「シャネル」はクラシックでモダンというイメージがあるかもしれないが、アバンギャルドでもある。昔からアイメイクに赤や、ピンクっぽい黄など奇抜な色を使っていたと知って驚いた。私たちはそんな「シャネル」のDNAに、新たな視点を持ち込むことを使命としている。バックグラウンドも異なれば、「美」の価値観もさまざまな3人の異なる色合いを重ねながら、今後も「シャネル」に貢献していく。

セシル:私は二つのことを大切にしている。一つ目は、ガブリエル・シャネルの歴史に深く潜り込むこと。彼女は実現したいライフスタイルがあり、意図を持って服や香水、化粧品を作ってきた。例えばつま先が黒い靴は、「靴を汚したくないけれど、歩かなければならない」という思いからデザインされた。こういった歴史を知ると、クリエイティブにはさまざまな可能性があることに気づかされる。

二つ目は、メゾンのストーリーをベースに、意外性のある色を採用するなどして、ひねりを加えること。例えば、2月に発売したメイクアップコレクション“カメリア フトゥーラ ブライトニング コレクション”ではメゾンを象徴するカメリアを着想源に、パールグリーンやパールブルーなどを採用した。一方で軽いテクスチャーに仕上げることで、奇抜な色でありながら使いやすさにもこだわった。

多様性を尊重し、高め合う関係

WWD:3人でどのようにお互いに刺激を与え、協力しているのか?

セシル:私たちはいつも、SNSアプリ「ワッツアップ(What’s App)」のグループチャットでアドバイスをし合っている。メイクアップアーティストとして活動することや、ブランドのコンサルティングをすることは、独立した仕事に見えるかもしれないが、3人の間でもそうだし、シャネル メークアップ クリエイティブ ストゥディオとも常に協業している。消費者は非常に多様で、異なるニーズや「美」の価値観、スタイルを持っている。異なるバックグラウンドの3人で意見を交わし合うことで、巨大なマーケットへ向けて新たな価値を提案していけると思う。

ヴァレンティナ:ほかのメイクアップアーティストと協業するのは初めてだったから、最初はうまくやっていけるのか不安だったが、初めて会った日に「美」というテーマで語り合い、すぐに意気投合した。私たちは「コメット コレクティヴ」として、自分のエゴは捨て、同じ目的のために働く。1人で活動していた時は孤独を感じたり、自己不信に陥ったりすることもあった。でも今は、新色を開発していて、暗いスキントーンにも合うかしら?と思った時にはアミィに相談するといったように、意見を交わすことで製品開発に生かしている。私たちはバックグラウンドや肌の色も異なるからこそ、日々お互いから学び合っている。

アミィ:メイクアップアーティストを長く続けていると、自分の「美」のビジョンが固まってきて、いつの間にか自分を周囲から切り離してしまうことがある。3人で意見を交換し合うことで、とても視野が広がったし、新たなアイデアが生まれてきた。セシルはマットな仕上がりを好み、ヴァレンティナは艶っぽさを求めるように、私たちの間でも嗜好は一様ではない。それぞれの感性の違いこそが、より多くの人々に響くプロダクトを生み出す原動力になる。巨大な市場に向けて、多様な価値観に応える製品開発が必要だと感じている。3人、そしてシャネル メークアップ クリエイティブ ストゥディオとの協業はとてもシームレスで、お互いの良さを理解しながら支え合えることがうれしい。

WWD:それぞれが最も大切にしている色と、その色にまつわるエピソードを教えてほしい。

ヴァレンティナ:個人的に一番好きな色は青だが、私がメイクで最も大切にしている色は赤。赤はパッションの色であり、私のメイクに対するパッションを表す色でもあると思っている。赤はとても強い色だが、一方でいろいろな色と相性がいい。

メイクの勉強を始めたころ、雑誌で見た「シャネル」のビンテージ広告が忘れられない。その広告でまぶたを彩っていたのは、赤いアイシャドウ。その赤はただの色ではなく、モデルの目に流れる血のようでもあり、強烈な印象を残した。私にとっての赤は、情熱の象徴であると同時に、メイクという表現を通じて語られるストーリーの一端のようなもの。

アミィ:私の場合は、自分の個性を象徴する、これといった色は特にない。年齢や気分、場所によっても引かれる色は変わってくるから。ただ思い出という点でいえば、ゴールド。実は若いころはゴールドが好きじゃなくて、シルバーばかり身につけていた。ゴールドを身につけるように母に説得されてもダメで、「大人になれば、ゴールドの良さが分かるようになるわよ」と言われていた。真に、今では私のジュエリーのほとんどはゴールドで、メイクをする時もゴールドでちょっとしたアクセントをつけるのを好んでいる。

セシル:私が大切にしている色はグリーン。特に翡翠の色が好きで、「シャネル」ではこういった色をたくさん作った。メイクでは珍しい色だが、赤やピンクといった王道の色も、このグリーンと合わせることでより美しさが際立つ。本当にすてきな組み合わせで、さまざまな肌の色に合うと思う。少し大胆だが、本当に胸がときめく色なので、翡翠の色が大好き。

マルチユースで、多様なニーズに応えられる製品開発

WWD:プロダクトやキャンペーンを通じて、どのような「美」を表現したいと考えているのか?

アミィ:私たち3人は、マルチユースで多面的な製品をもっと作りたいと考えている。軽やかなテクスチャーが特徴の、スティックタイプのフェイスカラー“ボーム エサンシエル スカルプティング”はその一例。頰の高い位置にのせ、フレッシュでデューイな印象を演出したり、クリームタイプのチークを塗る前に頰になじませ、シアーでぬれたようなみずみずしい効果を生み出したりできる。まぶたに塗布すると艶やかな仕上がりに、眉骨の上に添えれば眉のアーチが美しく際立つ。

セシル:マルチユースと一言でいっても、一つの製品で何役もこなすような製品のほか、テクスチャーの妙によって一般的に使いやすいソフトな印象から、よりプロフェッショナルなメイクアップやナイトルックまで仕上げられるような製品があり、その両方を重視している。

ヴァレンティナ:リキッドリップ“ル ルージュ デュオ ウルトラ トゥニュ”は唇にのみ使用する製品だが、ぼかしたような仕上がりや、きっちりと縁取ったボールドなリップなど、多様な表現ができる。リップカラーの反対側に付属する透明のグロスでコーティングすることで、艶のある仕上がりもかなえる。

WWD:今後「シャネル」で挑戦したいことは?

アミィ:開発には時間がかかったとしても、気軽でエフォートレスに感じる製品を作りたい。ビビッドな色合いで、冒険的に見える製品であっても、つけてみると軽やかなテクスチャーで、その人のパーソナリティーの一部と感じてもらえるような製品を目指している。

ヴァレンティナ:私は、アミィの気軽さに遊び心を加えたい。5月に発売した“レ ベージュ 2025 コレクション”のアイシャドウパレット“レ ベージュ パレット ルガール”には、目を引くような鮮やかなオレンジを入れた。メイクは自己愛や自己表現、自己発見の手法だと考えており、ルーティンになりがちな日々のメイクの中でも色で遊び、新たな自分を発見してほしいとの思いから、この色を採用した。私は人々に、色を恐れないでと伝えたい。メイクはただのメイクなんだから、もし気に入らなければ落とせばいいのよ。

セシル:私は、非常にたくさんの製品が市場に溢れる中で、競争力があり、輝くような製品を作りたい。気軽に手に取りやすい製品でありながら、ユニークであることも重要。自分自身を特別に感じられ、日常に刺激を与えられるような製品を届けたい。

The post 「シャネル」のビューティに新風をもたらす「コメット コレクティヴ」 2年半にわたる活動を振り返る appeared first on WWDJAPAN.

創立110周年を迎えた「モスコット」 2人のトップが語る歴史と未来

モスコット,MOSCOT

名作フレームを数多く生み出し、時代のアイコンを魅了し続けるアメリカのアイウエアブランド、「モスコット(MOSCOT)」。創業者のハイマン・モスコット(Hyman Moscot)がNYのオーチャードストリートにて手押し車で眼鏡を販売したことから歴史が始まり、1915年にロウワー・マンハッタンに1号店を構え今年で110年目という節目を迎えた。

ブランドがこれまで守り続けてきたものとは、そしてこの先をどう見据えているのか。4代目の経営者であり、オプトメトリスト(検眼医)の資格をもつハーヴェイ・モスコット(Harvey Moscot、写真右)と、5代目で工業デザイナーのザック・モスコット(Zack Moscot、写真左)のふたりに話を訊いた。

現在も“街の眼鏡店”であり続けるために

ーー「モスコット」がオリジナルフレームを手掛け始めた1930年代からこれまで、大資本のアイウエアグループに統合されることなく独立経営を貫けた秘訣とは?

ハーヴェイ・モスコット(以下、ハーヴェイ):今日に至るまで、我々が家族経営の企業であり続けることを誇りに思っています。それは容易なことではありませんが、おかげで私たちは自社の価値観に忠実であり続け、「モスコット」を象徴するクラフツマンシップとサービスを維持することができているのです。2代目のソル・モスコット(Sol Moscot)は「人々を公平に扱えば、彼らはまた店に戻ってきてくれます」という言葉を残しました。これは非常にシンプルで、正しいことを行い、高品質のアイウエアを提供し、記憶に残る顧客体験を確実に提供することにつきます。こうした姿勢、お客さまとの信頼関係こそが「モスコット」を形作り、手押し車による行商から世界的な存在へと成長させたのです。

定番は我々を支え
新作は我々を前進させる

ーー1950年代に発表されたウェリントン、“レムトッシュ(LEMTOSH)”を筆頭に、「モスコット」の名作は今も人気が高い。

ザック・モスコット(以下、ザック):これら定番の魅力は、時代を超越したデザインであること。ブルージーンズや黒のカクテルドレスのように、いつの時代も流行遅れになることはありません。

ーー過去の名作と新作の棲み分けは。

ザック:“レムトッシュ”は時代を超えた傑作ですが、“ダーベン(DAHVEN)”や“ドルト(DOLT)”といったモデルは、まさにブランドの“今”を反映しています。クラシックは我々を支え、新しいモデルは我々を前進させる。役割は違いますが、共通しているのはブランドのDNAに忠実なものであるということ。つまり、独自のデザイン要素、正確なフィット感、卓越した職人技を感じるものであることです。

ーークラシックデザインがアウトトレンドになっている現状は「モスコット」にとって逆風なのか。

ザック:現在アイウエアは、トレンドよりも“自分の個性を表現するもの”であるかが重要視されています。人々が気分やシーンに合わせ複数本持つようになった今、バランスのいいワードローブには往々にしてクラシックなアセテート、モダンなメタル、そしてその時々のトレンドアイテムが含まれています。この変化は、「モスコット」の時代を超越した魅力を再確認するチャンスでもあります。

100周年からの10年
そしてこれから

ーー2015年の創立100周年以降、この10年間「モスコット」はどんな取り組みをしてきたのか。

ザック:この10年間「モスコット」は先人たちの価値観を尊重しながら、デザイン、テクノロジー、コミュニケーションの革新に注力してきました。才能あるアーティストや写真家とコラボレーションしAIも活用しますが、私たちはAIを使って未来を描くのではなく、「モスコット」110年の歴史を12枚の画像で視覚化しました。NYの街と、街を作ってきた「モスコット」のスタイルの変遷をリアルに感じることができます。

ーー近年は主にアジア、ヨーロッパにおいて店舗を拡大中。なかでも日本はアメリカ国外ではもっとも多い5店舗を展開だが、日本で人気の理由とは。

ハーヴェイ:私たちの目標は、ブランドのストーリーや伝統、クラフツマンシップを評価してくれるファンの方たちとともに、あくまで慎重に成長していくことです。職人技や伝統を重んじる日本の文化は、家族経営の企業として先人に敬意を示す「モスコット」の価値観と親和性があります。そのため、日本市場に自然にフィットするのだと考えています。

最新作にも貫かれている
ブランドの核とは

ーー最新作となる2025年春夏のコレクションは、2代目ソルの知人や親戚のストーリーをもとに作られているのが特徴。

ハーヴェイ:今作に限らず、私たちのデザインのインスピレーションの多くは、2代目である祖父と父が共有していた物語から得ています。私たちはよく「お客さまがフレームを掛けるのであり、フレームがお客さまを掛けるのではない」と言っています。過去のスタイルだけでなく当時の人達がどう掛けていたのかといった、個性や背後にあるストーリーのほうが重要になることもありますね。

ーー今シーズンのイメージビジュアルには、ザック氏本人も登場。「“DESIGNED BY MOSCOT”(モスコットはモスコットによってデザインされている)」と大きなメッセージを掲げている。

ザック:ブランドを運営する5代目として、そしてデザイナーとして、今でも「モスコット」が家族経営のブランドであることを強調することが重要だと考えました。この言葉は、ブランドの核が揺るぎないものであることを改めて認識させてくれます。

ーーでは、時代が変わってもブレることのない「モスコット」らしさとは。

ザック:The “LEMTOSH”(それは、“レムトッシュ”そのものです).

TEXT : MIREI ITO
問い合わせ先
モスコット トウキョウ
03-6434-1070

The post 創立110周年を迎えた「モスコット」 2人のトップが語る歴史と未来 appeared first on WWDJAPAN.

創立110周年を迎えた「モスコット」 2人のトップが語る歴史と未来

モスコット,MOSCOT

名作フレームを数多く生み出し、時代のアイコンを魅了し続けるアメリカのアイウエアブランド、「モスコット(MOSCOT)」。創業者のハイマン・モスコット(Hyman Moscot)がNYのオーチャードストリートにて手押し車で眼鏡を販売したことから歴史が始まり、1915年にロウワー・マンハッタンに1号店を構え今年で110年目という節目を迎えた。

ブランドがこれまで守り続けてきたものとは、そしてこの先をどう見据えているのか。4代目の経営者であり、オプトメトリスト(検眼医)の資格をもつハーヴェイ・モスコット(Harvey Moscot、写真右)と、5代目で工業デザイナーのザック・モスコット(Zack Moscot、写真左)のふたりに話を訊いた。

現在も“街の眼鏡店”であり続けるために

ーー「モスコット」がオリジナルフレームを手掛け始めた1930年代からこれまで、大資本のアイウエアグループに統合されることなく独立経営を貫けた秘訣とは?

ハーヴェイ・モスコット(以下、ハーヴェイ):今日に至るまで、我々が家族経営の企業であり続けることを誇りに思っています。それは容易なことではありませんが、おかげで私たちは自社の価値観に忠実であり続け、「モスコット」を象徴するクラフツマンシップとサービスを維持することができているのです。2代目のソル・モスコット(Sol Moscot)は「人々を公平に扱えば、彼らはまた店に戻ってきてくれます」という言葉を残しました。これは非常にシンプルで、正しいことを行い、高品質のアイウエアを提供し、記憶に残る顧客体験を確実に提供することにつきます。こうした姿勢、お客さまとの信頼関係こそが「モスコット」を形作り、手押し車による行商から世界的な存在へと成長させたのです。

定番は我々を支え
新作は我々を前進させる

ーー1950年代に発表されたウェリントン、“レムトッシュ(LEMTOSH)”を筆頭に、「モスコット」の名作は今も人気が高い。

ザック・モスコット(以下、ザック):これら定番の魅力は、時代を超越したデザインであること。ブルージーンズや黒のカクテルドレスのように、いつの時代も流行遅れになることはありません。

ーー過去の名作と新作の棲み分けは。

ザック:“レムトッシュ”は時代を超えた傑作ですが、“ダーベン(DAHVEN)”や“ドルト(DOLT)”といったモデルは、まさにブランドの“今”を反映しています。クラシックは我々を支え、新しいモデルは我々を前進させる。役割は違いますが、共通しているのはブランドのDNAに忠実なものであるということ。つまり、独自のデザイン要素、正確なフィット感、卓越した職人技を感じるものであることです。

ーークラシックデザインがアウトトレンドになっている現状は「モスコット」にとって逆風なのか。

ザック:現在アイウエアは、トレンドよりも“自分の個性を表現するもの”であるかが重要視されています。人々が気分やシーンに合わせ複数本持つようになった今、バランスのいいワードローブには往々にしてクラシックなアセテート、モダンなメタル、そしてその時々のトレンドアイテムが含まれています。この変化は、「モスコット」の時代を超越した魅力を再確認するチャンスでもあります。

100周年からの10年
そしてこれから

ーー2015年の創立100周年以降、この10年間「モスコット」はどんな取り組みをしてきたのか。

ザック:この10年間「モスコット」は先人たちの価値観を尊重しながら、デザイン、テクノロジー、コミュニケーションの革新に注力してきました。才能あるアーティストや写真家とコラボレーションしAIも活用しますが、私たちはAIを使って未来を描くのではなく、「モスコット」110年の歴史を12枚の画像で視覚化しました。NYの街と、街を作ってきた「モスコット」のスタイルの変遷をリアルに感じることができます。

ーー近年は主にアジア、ヨーロッパにおいて店舗を拡大中。なかでも日本はアメリカ国外ではもっとも多い5店舗を展開だが、日本で人気の理由とは。

ハーヴェイ:私たちの目標は、ブランドのストーリーや伝統、クラフツマンシップを評価してくれるファンの方たちとともに、あくまで慎重に成長していくことです。職人技や伝統を重んじる日本の文化は、家族経営の企業として先人に敬意を示す「モスコット」の価値観と親和性があります。そのため、日本市場に自然にフィットするのだと考えています。

最新作にも貫かれている
ブランドの核とは

ーー最新作となる2025年春夏のコレクションは、2代目ソルの知人や親戚のストーリーをもとに作られているのが特徴。

ハーヴェイ:今作に限らず、私たちのデザインのインスピレーションの多くは、2代目である祖父と父が共有していた物語から得ています。私たちはよく「お客さまがフレームを掛けるのであり、フレームがお客さまを掛けるのではない」と言っています。過去のスタイルだけでなく当時の人達がどう掛けていたのかといった、個性や背後にあるストーリーのほうが重要になることもありますね。

ーー今シーズンのイメージビジュアルには、ザック氏本人も登場。「“DESIGNED BY MOSCOT”(モスコットはモスコットによってデザインされている)」と大きなメッセージを掲げている。

ザック:ブランドを運営する5代目として、そしてデザイナーとして、今でも「モスコット」が家族経営のブランドであることを強調することが重要だと考えました。この言葉は、ブランドの核が揺るぎないものであることを改めて認識させてくれます。

ーーでは、時代が変わってもブレることのない「モスコット」らしさとは。

ザック:The “LEMTOSH”(それは、“レムトッシュ”そのものです).

TEXT : MIREI ITO
問い合わせ先
モスコット トウキョウ
03-6434-1070

The post 創立110周年を迎えた「モスコット」 2人のトップが語る歴史と未来 appeared first on WWDJAPAN.

「肌に触れるもの全てに理由がある」オーガニックコスメ「バンフォード」が日本進出10周年 創業者が語るブランドの核心

英国発ラグジュアリーオーガニックブランド「バンフォード(BAMFORD)」が日本上陸10周年を迎えた。これを機に、ブランド創業者であるキャロル・バンフォード(Carol Bamford)氏が2006年の創業時を振り返ると共に、4月下旬に六本木の東京ミッドタウンから東京・表参道の新商業施設「グリーンテラス 表参道」に移転した旗艦店や、日本市場に期待することなどを語った。

WWD:あらためて2006年にサステナブルなライフスタイルを提案し、「バンフォード」を立ち上げた経緯は?

キャロル・バンフォード「バンフォード」創業者(以下、キャロル):「バンフォード」は、私の人生で起きたいくつかの“出会い”がきっかけで生まれました。はじまりは1976年に新生児だった娘をベビーカーに乗せて散歩していたときのこと。庭のバラがしおれていた原因が、隣家で使われていた除草剤“ラウンドアップ”だったと知った瞬間でした。その強い毒性に衝撃を受けました。その後、農業や家畜、関連産業の総合展示会「ロイヤル・アグリカルチャー・ショー」に訪れ、有機農業の考え方に出合いました。自然との調和を重んじ、農薬や抗生物質を使わずに作物を育てる——それが、私の人生を変える大きな転機になりました。

WWD:1988年に英国・コッツウォルズで有機農業をはじめた頃の印象的な出来事は?

キャロル:忘れられないのは、夫に「従来型の農業はやめる」と伝えた日のことです。当時の農場マネージャーは私を“狂っている”と思ったでしょう(笑)。実際、多くの人から理解を得られませんでした。有機農業は、今も昔も簡単な道ではありません。それでも、私は地球と未来の世代のために、この道を歩み続けています。

食から肌へ、ライフスタイル全体への展開

WWD:2002年にライフスタイルブランド「デイルスフォード(DAYLESFORD)」を開始。「バンフォード」はどう派生して誕生したのか。

キャロル:「デイルスフォード」は“食”の選択を見直す中で、同じ意識をライフスタイル全体に広げたいとはじめました。皮膚は体の中で最大の器官であり、体に取り入れる物に注目するなら、スキンケアも同じくらい重要です。肌に触れるもの全てに理由があるのです。そういった考えの中で化学物質を含まないナチュラルな製品作りを始めたのが「バンフォード」です。食品で避けている化学物質を含まない自然由来の製品を自分で作り、ボディーケアラインが生まれました。その後、アパレルやスキンケア、ホームフレグランスとラインアップを拡大しています。

WWD:スタート時と今では、消費者の意識も大きく変わった。

キャロル:オーガニックやウエルネスがメインストリームになり、市場も大きく拡大しました。私たちは製品をシンプル化し、環境への影響を抑えるために技術革新を取り入れています。たとえば、最近では植物幹細胞を活用した有効成分「ステムセルセラム」を開発しました。これは、自然資源への負荷を最小限にしながら、高品質な有効成分を抽出できる新たな試みです。

WWD:「バンフォード」の転機は?

キャロル:明確な転機はありませんね。直感に従ってきた結果、自然と事業が広がっていったんです。私たちの原則「自然とのつながりと癒やしの力を大切にする姿勢」を貫くことが、ブランドの成長につながったのだと思います。

日本市場を前向きに捉える

WWD:「バンフォード」が日本に進出してから10年が経過。現在の販売規模と店舗展開について、どう感じているのか。

キャロル:期待していたほどのスピードではありませんが、表参道に新店舗をオープンできたこと、そして今秋にはパートナーホテルである「ワンホテルトーキョー(1 HOTEL TOKYO)」が開業する予定で、非常に前向きに捉えています。さらに、キャセイパシフィック航空のファーストクラスおよびビジネスクラスでのアメニティー提供も続いており、日本市場でのブランド認知と売り上げは今後数年で大きく伸びると見ています。また、アパレルコレクションは三喜商事とのパートナーシップを継続中。最新作のアクティブウエアは、日本の消費者にも高く評価されると確信しています。

WWD:新しいフラッグシップストアに期待することは?

キャロル:より多くの人たちに「バンフォード」を体験していただきたいですね。オーガニックコスメブランドが多く集まる表参道に位置し、3つのトリートメントルームを備えた新店舗では、多くの新しい日本のお客さまに、英国のサステナブルでラグジュリーなブランドを体験していただけることを願っています。

WWD:日本市場への期待感は?

キャロル:日本の小売り業者から、当社の総合的なウエルネス製品(バス&ボディー、スキンケア、ホームフレグランス、BGDメンズコレクション、マザー&ベビーライン、アパレルコレクションなど)に関するお問い合わせを多くいただいています。旗艦店では、「バンフォード」の全ての要素を一カ所で体験いただけるよう展示しています。これにより、日本全国での事業拡大につなげたいですね。また、パレスホテル東京を含む日本全国の高級ホテルでの展開もこの取り組みを後押ししてくれています。

WWD:2023年に日本国内のディストリビューターがB Youに変わった。今後の期待することは?

キャロル:B Youは、塗料など流体の供給システムを手がける技術商社、IECのポートフォリオの一員であり、同社のサステナビリティへの情熱とラグジュアリー市場への深い理解には非常に感銘を受けています。これまでにも「バンフォード」のブランドプロモーションにおいて素晴らしい成果を上げており、さらなる成長に向けて強力なチームを構築しています。表参道の新店舗への取り組みと支援も彼らの本気度の表れ。今後数カ月の間に、ブランドがさらに大きく飛躍することを期待しています。

サステナビリティと革新性を追求するブランドへ深化

WWD:個人的にお気に入りの製品は?

キャロル:お気に入りを選ぶのは難しいですが、“ナリシングマスク”( 50mL、1万8700円)は特に大好き。乾燥やくすみが気になる夜に薄く塗って眠ると、翌朝にはふっくら明るい肌に。まるで栄養をたっぷり補給したような感覚です。“ビーサイレント ピローミスト”(10mL、1650円)もお気に入りの一つ。睡眠はウエルネスの鍵。ラベンダーやフランキンセンスの香りが心と体を自然にリラックスさせてくれて、毎晩、そして旅先でも手放せません。

WWD:今後の「バンフォード」製品開発について。

キャロル:“ゼラニウム コレクション”は「バンフォード」のシグネチャーコレクションで、今年後半に20周年を記念してラインアップを拡大する予定です。新製品は、自宅の温室で育てているゼラニウムの多くの品種からインスパイアされたもので、私にとって非常に思い入れのある製品群。アパレルでは自社で育てたメリノウールを使用した第2弾のコレクションも開発中です。25年秋にイギリス国内で一貫して製造されたメリノウールのニットウエアとアクセサリーを発売する予定です。このコレクションは原料から製品化まで完全に追跡可能で、ウールはコッツウォルズの農場での飼育・刈り取りから、イギリスで最も才能あるテキスタイル職人による紡績・編み立てまで一貫して行われています。メリノウールのサプライチェーンを平均1万8000マイルから400マイルに短縮できたことは、大きな成果だと感じています。

WWD:「バンフォード」のビジネスをどう発展させるのか。

キャロル:常により持続可能なビジネスモデルを模索しています。循環型経済はバンフォードの理念と深く結びついており、他の事業との協業も促進しています。たとえば、「デイルスフォード」のカフェで出た有機コーヒーの残渣を“ビー バイブラント トニファイング ボディ ポリッシュ”(日本未発売)に再生。また、南仏レウブのブドウ収穫で出る副産物を、レスベラトロール配合のセラムやベジタブルレザーに転換するプロジェクトも進行中です。今後も革新的で環境に配慮した製品開発を追求していきます。

WWD:2025年に進出を予定している国や、新たな取り組みについては?

キャロル:オーストラリアのお客さまから、キャセイパシフィック航空や香港の店舗、日本各地の店舗を通じて「バンフォード」を知ったという多くのリクエストをいただいたので、 5月にオーストラリアの大手小売りメッカ・ブランズ(MECCA BRANDS)と共同で製品の販売を開始しました。彼らが自国で当社の製品を購入できるようになったことは、私にとっても非常に興奮するニュースです。現在、「バンフォード」は25カ国で事業を展開しており、今年中にさらに10カ国に進出し、グローバルな存在感を拡大する予定です。

The post 「肌に触れるもの全てに理由がある」オーガニックコスメ「バンフォード」が日本進出10周年 創業者が語るブランドの核心 appeared first on WWDJAPAN.

深川麻衣と冨永昌敬が語る映画「ぶぶ漬けどうどす」的ヒロイン論と“京都愛”

PROFILE: 左:深川麻衣/俳優 右:冨永昌敬/映画監督

PROFILE: 左:(ふかがわ・まい)1991年生まれ、静岡県出身。初主演映画「パンとバスと2度目のハツコイ」(2018)で第10回TAMA映画賞最優秀新進女優賞を受賞。以後、「愛がなんだ」(19)、「水曜日が消えた」(20)、「パレード」(24)などに出演するほか、「おもいで写眞」(21)、「人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした」(23)、「嗤う蟲」(25)で主演を務める。その他、ドラマ「特捜9」シリーズ(22~/EX)や、舞台「他と信頼と」、朗読劇「HAROLD AND MAUDE」(共に24)などに出演し、活躍の場を広げている。 右:(とみなが・まさのり)1975年生まれ、愛媛県出身。主な映画作品は「亀虫」(03)、「パビリオン山椒魚」(06)、「コンナオトナノオンナノコ」(07)、「シャーリーの転落人生」(08)、「パンドラの匣」(09)、「乱暴と待機」(10)、「目を閉じてギラギラ」(11)、「ローリング」(15)、「南瓜とマヨネーズ」(17)、「素敵なダイナマイトスキャンダル」(18)。前作「白鍵と黒鍵の間に」(23)は、フランスのKinotayo映画祭コンペティションにて審査員賞を受賞した他、Japan Cuts(ニューヨーク)、台北金馬映画祭や香港国際映画祭などに正式出品され、海外でも高い注目を集めた。

京都を舞台にした映画「ぶぶ漬けどうどす」が6月6日から公開された。同作は、京都の老舗の扇子屋の長男と結婚したフリーライターのまどかが、老舗の舞台裏をコミックエッセイにしようと意気揚々と夫の実家にやって来たものの、本音と建前を使い分ける京都人県民性を甘く見ていたために大失敗。しかし、京都愛に火がついたまどかは、周りを巻き込んで思わぬ事態を引き起こす……といった内容で、個性豊かなキャラクターが入り乱れて、京都の不思議な魅力をシニカルな笑いで描き出す。

監督は「素敵なダイナマイトスキャンダル」「白鍵と黒鍵の間に」など、独自の世界観で人間ドラマを描いてきた冨永昌敬。まどかを演じたのは初主演作「パンとバスと2度目のハツコイ」で高い評価を得てテレビや映画で幅広く活躍する深川麻衣。初顔合わせとなった2人に話を訊いた。

コメディエンヌとしての
深川麻衣

——「ぶぶ漬けどうどす」で深川さんが演じられたまどかは、最初は今時の若い女性のように見えますが、物語が進むに連れて先が読めない行動を取り始める。目が離せないユニークなキャラクターでしたね。

深川麻衣(以下、深川):そうなんですよね。映画の後半からすごいパワーで動き出すんですけど、彼女のパワーの根源がどこにあるのか、撮影に入る前にずっと考えていました。まどかって、すごくピュアなんですよね。映画の前半では言われたことを全部真に受けて周りに迷惑をかけてヘコんでしまうんですけど、物語の後半は「自分が京都を守る!」という純粋な気持ちで暴走する。そういう真っ直ぐさは自分にはないので、いいなあって思いました。

冨永昌敬(以下、冨永):いやいや、深川さんにもそういうところはあると思いますよ(笑)。

深川:ホントですか! あるかなあ。

——そういう共通点があるのが、今回のキャスティングの理由の一つだったんですか?

冨永:そうですね。最近、深川さんはいろんな作品に出られていますが、サスペンスが続いていた中で「完全に詰んだイチ子はもうカリスマになるしかないの」(テレビ東京 2022年)を観た時に、ちょっとヒネくれた役をコメディーのように親しみやすく演じていたんです。深川さんは自分が演じる人物をしっかり把握していた。そういう役に対する理解力と深川さんが本来持っている親しみやすさが、まどかに必要だと思っていたんです。

——まどかのキャラクターについては、どんな話をされたのでしょうか。

冨永:キャラクターの話はそんなにしてないですね。どちらかというと、物語における役割についての話でした。まず、まどかが登場した時は、お客さんに応援してほしい。ちょっとおかしなことをし始めたら「やめた方がいいんじゃないの」って心配してほしい。そして、ある時点からはあきれてほしい。そんな風に物語の時間軸に沿って観客にどう見てほしいかを考えていったんです。

深川:そうでしたね。まどかがただ京都を引っかき回しているだけに見えたらもったいない気がして。お客さんに愛着を感じてもらえるようなキャラクターになればいいなって思ってました。まどかの身にはいろいろ大変なことが起こるんですけど、まどかは全然引きずらない。スーパー・ポジティブなんです。

冨永監督の発想力

——確かにまどかはメンタルが強いですよね。。京都で暮らし始めてすぐに大失敗をして完全なアウェイな状態に置かれてしまうのに、後半の巻き返しがすごい。深川さんは冨永監督の作品は今回が初めてですが、これまでの作品はご覧になっていました?

深川:拝見していました。冨永監督はいろんなジャンルの作品を撮られていますが、独自の世界観が広がっているじゃないですか。だから、今回ご一緒できることを楽しみにしていたんです。

冨永:自分が作った作品が、見る人に素っ気なく映るのが嫌なんですよ、「こんなの作ったんだけど観て!」っていう感じの馴れ馴れしい作品にしたくて。それが特殊な印象を与えているのかもしれないですね。

——気取った作品にしたくない?

冨永:そう。「馴れ馴れしいやつだな」って思われたいんです(笑)。

——深川さんは冨永監督にどんな印象を抱かれました? 「馴れ馴れしいやつ」でした?

深川:そんなことはなかったです(笑)。でもどの作品にも共通して、作り手の監督の人柄からにじみ出る面白さがあって。今回ご一緒して、やっぱり独自の感性をお持ちの方だなって衣装合わせの時から思いました。冨永監督は最初から衣装とか髪型に明確なイメージを持っているように感じて。

冨永:それは僕の方が考えている時間が長いからですよ。それに僕は深川さんからアイデアをもらっているんです。深川さんにまどかをお願いしようと思った時から、まだ返事もいただいていないのに、深川さんだったらどんな衣装がいいのかとか、いろいろ考え始めていたんです。だから現場で出てきたアイデアも、深川さんと一緒にシーンを作っているからこそ出てきたものなんです。

——深川麻衣という人物からインスパイアされて、いろいろとアイデアを思いつくわけですね。

冨永:そうです。みんな深川さんのせいなんです。

深川:「せい」って(笑)。

——監督は現場でいろんなアイデアを出されたということですが、深川さんの印象に残っているものはありますか?

深川:一番びっくりしたのは、最後の小さな鳥居を外して持って帰るところですね。台本にはなかったんですけど、段取りをやっているときに監督が「その鳥居、外して持って帰ってみましょうか」と言って、その場にいた全員がびっくりしていました。でも、その演出を受けてスタッフの皆さんが「だったら、こんな風に……」ってアイデアをいろいろ出してリアルタイムでシーンを作っていったんです。そういうことは他の現場ではあまり体験したことがなかったのですごく刺激的でしたね。

——監督はそういう風に現場でシーンを作っていくことが多いのでしょうか。

冨永:そうですね。みんなが面白がっているのが分かるんで。鳥居を外して持って帰るとおかしいだろうな、と自分では思っているんですけど、現場では笑わずにボソッと言うんです。そうすると、みんなが「えっ? どういうこと」って思う。そして、少し間をおいて「このシーン、変だな」って気づくんです。

深川:そこまで計算されているんですね!

冨永:その場で思いついたことでしたけど、撮った後で、まどかだったら持って帰らないとおかしい、と思いました。普通の人だったら、そんなことは考えないだろうけど。

深川:そうですね。まどかは周りにどう思われても関係ないし。

——その後、まどかが環(室井滋が演じる義理の母)と激しい言い合いをする時に、その鳥居を悪魔と戦う時に使う十字架みたいに使っていたのがおかしかったです。

深川:それに気づいていただいてうれしいです(笑)。お母さんに取り憑いた悪霊を追い払おうとしているみたいな感じで使ったんです。

映画にも活かされた
京都の魅力

——監督が現場で思いついたアイデアを深川さんが演技に発展させた。すごくクリエイティブな現場だったのが伝わってきますね。今回、京都という街も重要な役割を果たしていましたが、今回の撮影で改めて京都と向き合われてどんな感想を持たれました?

深川:これまで観光で何度も京都に行ったことはあったんですけど、今回の撮影ではこれまで行ったことがない場所をいろいろ回らせていただいたんです。銭湯をリノベしたさらさ西陣さんとか、古い建物を改装して若い人に人気のカフェになっていたりして、世代を超えて歴史が受け継がれている。そういうことができるのが京都らしくてすてきだなって思いました。

冨永:深川さんのそういう感性は、まどかに通じるところがありますね。まどかが強烈なエネルギーを発揮できたのは京都が好きだったからなんですけど、なんでそこまで京都が好きなのか、その理由は撮影しながら考えていたんです。それが最近、ようやく分かったんですよ。京都の人のすごいところは修繕。古くからあるものを修繕しながら使い続ける発想と技術なんです。映画の中で「おくどさん」という京都のかまどが出てきますが、いまの時代、炊飯器を買えば手軽においしいご飯が炊けるのに、何世代もおくどさんを修繕して生活している。まどかはそういう京都の歴史につながりたかったんですよね。だから、最初は(夫の実家で扱っている)扇子に興味があるんですけど、途中から家のことばかり言い始めるんです。「この家を守らないと」って。まどかが興味があったのは京都の人の生活なんですよ。京都みたいな街は他にはありませんから。

——歴史は魅力的なコンテンツですもんね。最近は京都に限らず、古い民家をリノベーションしたカフェが日本各地でできているし。

深川:私も歴史を感じるものって好きなんです。時代劇にもロマンを感じて、その時代に暮らしてみたかったなって想像してしまうんです。電話がなかった時代って、どんな感じだったんだろうって。

冨永:そういうところも、ちょっとまどかっぽい(笑)。

——まどかの場合、熱い想いがエスカレートして最終的に京都を守るために戦い始めますよね。誰に頼まれたわけでもないのに(笑)。

冨永:そう(笑)。結局は承認欲求なんだと思います。

——大好きな京都という街に認めてもらいたい、という。この映画では、実は京都の人たちは、そんなに街の歴史に執着していないというところも描かれますね。環が実はマンションで楽に暮らしたいと考えていたり、老舗の和菓子屋がハロウィン向けのお菓子を売っていたり。

深川:この撮影で京都に滞在したり、京都の方にお話を伺ったりして思ったのは、京都のイメージが作られすぎていて、京都に住んでいる人たちは、京都らしさを押し付けられているんじゃないかなっていうことでした。私自身、無意識に京都らしさを京都の町や人々に求めていたかもしれないと気づいてドキッとしました。

冨永:俳優さんもそういう風に見られますからね。ファンの方が一方的に抱いている深川さんのイメージがあって、そういう風に振る舞うことを求められたり。

深川:確かにそういうことはありますね。

2人がハマったもの

——好きになった方が相手のイメージを勝手に膨らませる、というのは、ある意味、片思い状態とも言えますね。この映画はまどかの京都に対するラブストーリーとも言えると思うのですが、お2人はまどかのように恋愛以外で何かを熱烈に愛したことはありますか?

冨永:僕はあります。それは映画です……と言わなきゃいけないとこなんですけど、山椒魚なんです(笑)。

深川:えーっ!

——監督のデビュー作のタイトルが「パビリオン山椒魚」(06年)でしたもんね。どういうきっかけで山椒魚と恋に落ちたんですか?

冨永:井伏鱒二の「山椒魚」という小説を10代の時に読んで感動したんです。あれを読んで感動する平成の高校生というのも珍しいと思うんですけど。

深川:やっぱり、感性が独特ですね(笑)。

冨永:太宰治が山椒魚にどハマりした井伏鱒二をモデルにした短編を書いてるんですよ。そっちもめちゃくちゃ面白くて。太宰が書いた井伏って、まどかのように何かが好きすぎて極端な行動をとってしまう人物なんですよ。山椒魚に狂って大金を投じて地方に出かけていったりする。それで僕も岐阜県の山奥までオオサンショウウオを見に行ったりしたんです

深川:会えました?

冨永:普通にいました(笑)。一度、山椒魚を飼わなきゃいけないな、と思っていたころに、「パビリオン山椒魚」の構想ができたんです。実は京都にある京都水族館は山椒魚が有名なところなんですよね。というのも、台風で鴨川が増水したら山から流されてきた山椒魚が三条(※京都市内の中心部)あたりにいるらしいですよ。だから京都は山椒魚の街でもあるんですよね。そういうエピソードも映画に入れようかと思ったのですが、入れるととっちらかってしまうのでやめました。

——まどかが山椒魚と出会っていたかも知れないんですね(笑)。深川さんは愛さずにはいられないものはありますか?

深川:動物つながりで思いついたんですけど、私は犬が大好きなんです。いま愛犬を飼ってるんですけど、犬っていう存在が尊すぎて。撮影をしてても、犬が通ると絶対目を奪われてしまうんですよ。すごく触りたいんですけど、触ったら飼い主の方に失礼なので、その気持ちをぐっと我慢して観察してます。

——犬のどんなところに惹かれますか?

深川:エゴがなくてピュアでまっすぐなところがかわいいんですよね。

——まどかみたいですね(笑)。

深川:確かに(笑)。もし、私が財力と時間を持て余す大富豪だったら、30匹ぐらい犬を飼って一緒に暮らしたいです。

——ワンコ御殿を建てる(笑)。では、冨永監督は山椒魚御殿を。

冨永:僕も30匹の山椒魚と一緒に暮らします(笑)。

PHOTOS:RIE AMANO
STYLIST:[MAI FUKAGAWA]MIKU HARA
KIMONO DRESSING:[MAI FUKAGAWA]YUKO SEGUCHI
HAIR & MAKEUP:[MAI FUKAGAWA]KAREN SUZUKI

[MAI FUKAGAWA]着物 19万8000円、帯 13万2000(予定価格)、帯揚げ 1万3200円、三分紐 8800円、帯留 8800円、草履 2万7500円、刺しゅう半衿と中に入れた半襟は参考商品/すべてきものやまと(0120-18-8880)

映画「ぶぶ漬けどうどす」

■映画「ぶぶ漬けどうどす」
6月6日公開
出演:深川麻衣、小野寺ずる、片岡礼子、大友律、若葉竜也、山下知子、森レイ子、幸野紘子、守屋えみ、尾本貴史、遠藤隆太、松尾貴史、豊原功補、室井滋
監督:冨永昌敬
企画・脚本:アサダアツシ
配給:東京テアトル
©2025「ぶぶ漬けどうどす」製作委員会
https://bubuduke.jp/index.html

The post 深川麻衣と冨永昌敬が語る映画「ぶぶ漬けどうどす」的ヒロイン論と“京都愛” appeared first on WWDJAPAN.

「演劇や批評はやりたくなかった」 かもめんたる・岩崎う大が語る「不得意な仕事をやる理由」

PROFILE: 岩崎う大/芸人、劇作家、脚本家、演出家、漫画家

PROFILE: (いわさき・うだい) 1978年9月18日生まれ。東京都出身。幼少期を湘南で過ごした後、西東京市で暮らす。中学3年生から高校までオーストラリアへ移住。高校卒業後、帰国子女として早稲田大学政治経済学部政治学科入学。大学でお笑いサークル「WAGE」に参加、在学中の2001年にプロデビュー。05年までWAGEとして活動した後、06年に槙尾ユウスケと「劇団イワサキマキヲ」を結成。10年にコンビ名を「かもめんたる」に改名。その後「キングオブコント2013」で優勝。15年には「劇団かもめんたる」を旗揚げ。20年と21年に2年連続で岸田國士戯曲賞に最終ノミネート。芸人、劇作家、脚本家、演出家、漫画家など、多岐にわたり活動中。

かもめんたるとして、「キングオブコント2013」で優勝し、20年と21年に2年連続で岸田國士戯曲賞に最終ノミネートされるなど、芸人や劇作家、脚本家、演出家、漫画家など、多岐にわたる分野でその才能を発揮する岩崎う大。5月には自身の半生を綴った初の自伝的エッセイ「かもめんたる岩崎う大のお笑いクロニクル 難しすぎる世界が僕を鬼才と呼ぶ」(扶桑社)を出版した。

同書は、幼少期からへ現在に至るまで、岩崎のお笑い・芸人に対する思いとともに、2000年代のお笑いシーンが当事者の視点で書かれており、当時を知る貴重な記録にもなっている。今回、岩崎に出版に至る経緯や相方・槙尾ユウスケ、そして芸人という仕事について語ってもらった。

「神様の采配はすごいな」と改めて感じた

——今回の本は、う大さんの半生を振り返るノンフィクションですが、編集者からの最初のオファーはどのようなものだったのでしょうか?

岩崎う大(以下、岩崎):最初は、僕の半生を振り返りながら、その時代時代のお笑い、特に売れている芸人たちを分析するような本にしようかという話でした。僕の半生と、その時のエピソードに基づいた芸人さんの話を半々で、みたいな。でも、書き進めていくうちに、どんどん自分の半生について書くことが増えていって、結果的にはほとんど自分の話になりました。芸人という、ある意味特殊な職業の体験的な面白さもあるかなと。普通の人間だと思っている自分が芸人の道に進むのは、僕の中では当たり前だったけど、他人から見れば異常なこと。それを追体験してもらえるような形になっていきましたね。

——当初の構想から変わっていったことについて、軌道修正の話はなかったのですか?

岩崎:特に言われなかったですね。言われたらどうしようかな、とは思っていましたけど(笑)。

——読んでいて、う大さんの記憶力、特に感情の移り変わりの記述の克明さに驚きました。

岩崎:昔のことは、特に印象に残っていることを書いているだけなんですけどね。芸人になってからは、自分のブログとか、ネット上にあったライブのレポートとかも参考にしました。そういうのを見ると、当時のことを思い出したりして。意外と賞レースでその時に何のネタをやったかとかは覚えてないんですよね。ネット上の情報を頼りにしながら、本当に覚えていたことも含めて、心に刻まれている部分を書いていった感じです。

——半生を振り返ってみて、新たに気づいたことはありましたか?

岩崎:この本の最後にも書いたんですけど、やっぱり「神様の采配はすごいな」と改めて感じましたね。人生のいろんな関門が、それぞれつながっているんだなと。当時は無我夢中だったけど、振り返るとそう思います。

相方・槙尾ユウスケの存在

——ご自身の創作スタンスを「人間愛」に置いていると書かれていますが、この本もまさに人間愛に溢れていると感じました。ご家族や相方の槙尾(ユウスケ)さんなど、周りの人々が非常に魅力的に描かれています。

岩崎:槙尾のことも、そう感じました? だとしたら、良かったです(笑)。

——ダメな部分も含めて魅力的でした。その槙尾さんを芸人としてどのように評価されていますか?

岩崎:(少し考えて)槙尾は、まず、かもめんたるとしては、僕がやりたいことを忠実に再現しようとしてくれる。そこに驚嘆しますね。普通、もっと自我を出したくなるんじゃないかなって。それは彼の素質なんだと思います。あとは、もしかしたら一般の人の感覚を持っているのかもしれないけど、それが芸人の中では異常なんです。普通の感性を持ったまま芸人界に乗り込んできている感じ。一番人間らしいのかもしれないですね。

——具体的にはどういうところに、それを感じますか?

岩崎:昔、楽屋に誰かがハブ酒を持ってきたことがあったんです。それを見て槙尾が「これ飲んだらもう、こっちとかこうでしょ」みたいな(股間で腕を突き上げる)ジェスチャーをしたんです。それが、ものすごく嫌で(笑)。あんまり芸人がやらない感じというか、彼自身もやりそうにないのに、普通にやる。商店街のおじさんっぽくもあり、嫌な上司っぽくもある。街にいる嫌なサラリーマンみたいなのが濃縮されているんですよね。飲み会で言ったら嫌われるようなことを平気でやっちゃう、そこが奇妙ですね(笑)。

——本書で書かれている槙尾さんがバイト代の25%を、ネタを書いているう大さんに払っていたという話に驚きました。

岩崎:あれもそうかもしれないですね、彼の中のビジネス感覚というか。優しい部分でもあると思うし、僕が一生懸命やっているのを認めてくれていたとも思います。本当にありがたかったし、それによって僕の精神衛生もすごく良くなった。お金にならない仕事に向き合うのって、しんどい時もあるけど、「槙尾も頑張ってるんだし」って思えたことで、1年でやれることが倍ぐらいになった気がします。

——練習でネタを録音するというのも、槙尾さんの提案だったとか。

岩崎:そうなんです。俺は最初、抵抗感があったんですけど、彼は今でも毎回ネタをちゃんと録音して送ってくれる。実際にネタを直す時に聞いたりしてるんで、当たり前のことだけど、芸人は意外とやらない。そういう当たり前をやるのが、槙尾なんですよね。

——コンビ仲が険悪になって一度、コンビの活動をセーブし、個人の活動をメインにされた時期があったそうですね。あの時の決断はどのような考えからだったのでしょう?

岩崎:あの時は、お互いにもう感謝できない状態でした。相手のことをリスペクトできない、大事に思えない。そうなってしまった以上、お互いの責任だから、一度別れて、それぞれに必要な試練が来るだろうと。コンビの問題を相手のせいにしている状態は意味がない。別れて、それぞれが受け取るべきものを受け取ろう、運命に委ねようという感覚でした。本当に瀕死の状態だったんです、精神的に。

——それを経て、現在のかもめんたるの関係性はいかがですか?

岩崎:結局、その終わり方もうやむやな感じだったんです。僕はいろいろと仕事があって忙しくしていたけど、槙尾は本当に何も言ってこなくて。「まだ謝らないのか」「すごい強情だな」とか思ってました(笑)。でも、2021年に「M-1」に挑戦しようってなったのが大きかったかな。結局、俺から軍門に下った形かもしれないけど(笑)。「M-1」っていう大きな目標ができたことで、2人の間のわだかまりはあまり気にならなくなった。もちろん、その過程で「こんなに話が通じないのか」って思うこともあったけど、それも必要な経過だったのかなって。分からないところはやらずに、通じるところで表現する。そうやって、あの漫才が形になったんだと思います。今は、槙尾がカレー屋さんを始めて、生活のリズムが正しくなったのか、だいぶメンタルも回復して、前より接しやすい人になりましたね。

賞レースの意義

——「M-1」への挑戦から「THE SECOND」、今年は「ダブルインパクト」にもエントリーされていますね。

岩崎:「THE SECOND」も普通に出て、やっぱり漫才も面白いなと。「M-1」が終わって、もう漫才はやらないかなと思っていたら、「THE SECOND」が始まった。6分という尺も良くて、面白いものができるなと。今年はスケジュールの都合で出られなかったんですけど、「ダブルインパクト」があると聞いて、もちろんやるっしょ、と。純粋にうれしいです。「俺たちのための大会」ぐらいの気持ちで臨んでます。

——近年、賞レースが増えていますが、この状況をどう思われますか?

岩崎:お笑いが盛り上がってるってことだから、いいことだと思います。チャンスがいっぱいあるのは良いこと。やってる方は大変だけど、それが仕事ですから。全部出る人もいれば、一つに絞る人もいる。それぞれのやり方でいいんじゃないかな。僕らは若手の頃、量産型だったので、いっぱい作れることをアピールできる場があるのは良いことだと思いますね。

——本の中で「キングオブコント」によって「漫才とコントがこの15年間でしっかりと住み分けされた」と書かれていますね。

岩崎:「キングオブコント』は、第1回から割とそこをはっきり打ち出していたんじゃないかなと、今振り返ると思いますね。歴史を歩むごとに、芸人も傾向と対策を練って、よりその方向に進んでいった。決勝に上がるメンバーのチョイスが、その方向性を決定づけていった気がします。特に、2009年に東京03さんがサンドウィッチマンさんに勝った時は、単純な面白さ以上に、「コントってこういうことだよね」っていう方向性が示されたようで、印象的でしたね。

——「キングオブコント」優勝後、バラエティー番組で苦しんだ時期があったそうですが、現在はどうですか?

岩崎:今は、前よりも楽しく臨めるようになりました。10年以上経って、少しずつ自分のキャラクターが浸透してきたし、自分も慣れてきた。優勝直後は「なんだこの若者は」っていう状態だったけど、今は「お笑いにうるさそう」「演劇とかやってるおじさん」みたいなイメージがあるから、自分のスタイルを出しやすくなった。当時は、自分でもどういうことを言う人間か分かってなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。そりゃうまくいくわけないですよね。

——最近では「マツコ&有吉かりそめ天国」(テレビ朝日)でのファイヤーショーのように体を張ることもやられていますね。

岩崎:ああいう仕事はまさにやりたかったことですね。「お笑いにうるさそう」なおじさんが、それとは真逆なことをやっているというのが面白いんだろうなっていうのもありますし、僕の中にはやっぱり人に笑ってもらいたいっていうのがあるんですよね。

お笑い批評とコンプライアンス

——お笑いの批評や審査員の経験は、ネタ作りに影響を与えていますか?

岩崎:批評は、みんなやったらいいと思うぐらい、勉強になりますね。自分のネタ作りにも反映されます。自分ならどうするか、という頭の体操になるし、アイデアの引き出しも鍛えられる。自分の作品を添削する時も、より冷静な目で見られるようになっている気がします。じわじわと底上げされている感じですね。

——昨今、いわゆるコンプライアンスが厳しくなっている状況は、ネタ作りに影響しますか?

岩崎:細かい部分で「こんなに厳しいんだ」と驚くことはありますけど、そもそも笑いって、そういうものをくぐり抜けて表現するから面白いっていう共通認識があると思うんです。ただ、コンプライアンスの基準が、今はまだ人や媒体によってバラバラだから、「常識がなんだか分からない」状態。それが一番難しい。それをどう華麗にクリアするか、という部分で楽しめているところもあります。表現している以上、誰かを傷つけてしまうことはあると思うんですよ。例えば、交通事故を題材にすると、それで身内が亡くなった人は必ずいますから。でも、昔から悲劇や不謹慎と言われるものの周辺に物語や笑いは生まれてきたし、それはある意味しょうがない部分かなと思っています。

——ネタ作りをする上で、譲れない部分はありますか?

岩崎:かもめんたるでやるネタに関しては、「自分たちがやる意味があるのか」ということは常に考えています。面白いのは当たり前として、自分たちの最大限の面白さを出すためには、やっぱり自分たちがやるべきネタであることが重要だと思っています。

——本の中で、小島よしおさんやカンニング竹山さんの助言を素直に聞いているのも印象的でした。普段からそういうスタンスなのですか?

岩崎:僕は、自分でルールを決めるのが苦手なんです。大喜利のお題を考えるのが苦手なのと近いかもしれない。与えられたフィールドの中で笑いを作る方が性に合っている。だから、ネタの中身は自分で決めたいけど、外のことに関しては、「難しそうだけどやってみます」というスタンス。人の意見が入ってないものって、やっぱり弱いと思うし、異物が入ってきて、それを乗り越えようとするところに表現や笑いが生まれる気がするんです。

——批評や演劇も、もともとはやりたくなかったとおっしゃっています。「やりたくないことをやる意義」についてはどうお考えですか?

岩崎:やりたくないことって、結局、よく分からないことや、自分の偏見で「ダサい」と思っていることだったりする。つまり、自分の外にある価値観ですよね。そういうところに飛び込んでみると、意外とちゃんとしたルールがあったり、面白い表現があったりして、自分の本業に返ってくることがある。神様の采配は見事だと思うから、やってみたら自分が思ってもみない展開になるんじゃないか、という興味もありますね。

——よく言われる「好きなことは売れてから」というのは本当だと思いますか?

岩崎:自分はまだそこまで行けてないんだなっていう気はしますね。ただ、そこまで行ける人なんてほぼいないんですよ。だからとっととやるべき。与えられたミッションの中に好きなことを入れていくしかないんだと思いますね。

——今では脚本家や漫画家など、さまざまな肩書きをお持ちですが、やはり呼ばれたい肩書きは「芸人」ですか?

岩崎:そうですね、芸人はやっぱり「憧れ」です。ずっと憧れている人生でもいいのかな、とも思います。今やっていることを突き詰めていっても、自分が最初に憧れた「芸人」という言葉から受ける印象とは、ちょっと違うような気がするんです。みんな、どこかでそういう感覚を持っているんじゃないかな。最初に自分がなりたいと思った芸人になれている人が、どれだけいるのか興味がありますね。

——「自分で作るお笑いが好き」「自分のファンだ」 という言葉が印象的でしたが、その気持ちを持ち続けるために大事にしていることは?

岩崎:過去にやったことをなぞらない、ということですかね。毎回、新しく掘る。枯れたらおしまいだと思っているので、そこは自分を信用して、毎回ちゃんと掘る。枯れるまでやれたら最高ですね。

——今後、やってみたい新しいことはありますか?

岩崎:映画は撮りたいなと。ただ、準備しているわけではないんですが、いずれ撮るんだろうな、逆になんで今まで撮ってないんだろうな、という気もしています。構想はまだまったくないんですけどね。それも神様がいい采配をしてくれるんだろうなと思ってます。

——英語も堪能ですが、海外に向けて何かやりたいという考えは?

岩崎:それも、何か必要に駆られてやりたいですね(笑)。「お願いします、できませんか?」って言われたら、やってみたいです。

家族と芸人

——この本は、奥様へのラブレター的な部分もあると感じました。どういったところに惹かれたのですか?

岩崎:ああ、まあ、明るいところかなあ。かわいいですよ、うちの妻(笑)。楽天主義なところもあるし。あと、うちの母とうまくやってくれてるところ。母の扱いが上手なんです。

——お母さまも強烈なキャラクターのようですね。

岩崎:そうなんですよ。うちの妻じゃないと離婚されてるかもしれないですね。母は優しいんですけど、それが度が過ぎちゃうというか。今は、ドライな関係が多いじゃないですか。うちに来た以上は娘よみたいな感覚だから、それに耐えられない人は多いかもしれないですね。

——奥様は、う大さんのことを面白いと言ってくれますか?

岩崎:俺の前では言ってくれてますし、他の芸人のネタでは笑わないですからね。気を使ってるのかもしれないけど、そこは頭のいい人ですよね(笑)。

——お子さんたちは、芸人としてのお父さんをどう見ていますか?

岩崎:そこは微妙ですね。あんまり評価はしてないんじゃないかなあ。しないでしょうね、子どもですから。長男は今、千鳥さんにめっちゃハマってます。僕と割と感覚は近いと思いますけど、かもめんたるのネタを好んでは見てないですね(笑)。

——ご家族の存在は、芸人をやっていく上でどういう影響がありますか?

岩崎:家族の会話はめちゃくちゃ聞いてますね。本音の会話だから、聞いてて楽しいし、会話劇の勉強にもなる。今、子供が大きくなり始めて、すごく寂しいんですよ。妻が幼かった頃の子供たちの写真を送ってくるんですけど、100%戻れないじゃないですか。これはすごいな、人生って思いますね。家族はめちゃくちゃ大事だし、この本は、僕に何かあった時に「お父さんこういう人だったんだよ」って分かる本になったなと思っています。

PHOTOS:MASASHI URA

芸人コンビ「かもめんたる」として活動する岩崎う大が、その半生を綴った初の自伝的エッセイ。そしてそれは、2000年代のお笑いシーンを当事者の視点で捉えた貴重な記録でもある。
著者:岩崎う大
判型:四六判
定価:1760円
出版社:扶桑社
https://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594100650

The post 「演劇や批評はやりたくなかった」 かもめんたる・岩崎う大が語る「不得意な仕事をやる理由」 appeared first on WWDJAPAN.

「演劇や批評はやりたくなかった」 かもめんたる・岩崎う大が語る「不得意な仕事をやる理由」

PROFILE: 岩崎う大/芸人、劇作家、脚本家、演出家、漫画家

PROFILE: (いわさき・うだい) 1978年9月18日生まれ。東京都出身。幼少期を湘南で過ごした後、西東京市で暮らす。中学3年生から高校までオーストラリアへ移住。高校卒業後、帰国子女として早稲田大学政治経済学部政治学科入学。大学でお笑いサークル「WAGE」に参加、在学中の2001年にプロデビュー。05年までWAGEとして活動した後、06年に槙尾ユウスケと「劇団イワサキマキヲ」を結成。10年にコンビ名を「かもめんたる」に改名。その後「キングオブコント2013」で優勝。15年には「劇団かもめんたる」を旗揚げ。20年と21年に2年連続で岸田國士戯曲賞に最終ノミネート。芸人、劇作家、脚本家、演出家、漫画家など、多岐にわたり活動中。

かもめんたるとして、「キングオブコント2013」で優勝し、20年と21年に2年連続で岸田國士戯曲賞に最終ノミネートされるなど、芸人や劇作家、脚本家、演出家、漫画家など、多岐にわたる分野でその才能を発揮する岩崎う大。5月には自身の半生を綴った初の自伝的エッセイ「かもめんたる岩崎う大のお笑いクロニクル 難しすぎる世界が僕を鬼才と呼ぶ」(扶桑社)を出版した。

同書は、幼少期からへ現在に至るまで、岩崎のお笑い・芸人に対する思いとともに、2000年代のお笑いシーンが当事者の視点で書かれており、当時を知る貴重な記録にもなっている。今回、岩崎に出版に至る経緯や相方・槙尾ユウスケ、そして芸人という仕事について語ってもらった。

「神様の采配はすごいな」と改めて感じた

——今回の本は、う大さんの半生を振り返るノンフィクションですが、編集者からの最初のオファーはどのようなものだったのでしょうか?

岩崎う大(以下、岩崎):最初は、僕の半生を振り返りながら、その時代時代のお笑い、特に売れている芸人たちを分析するような本にしようかという話でした。僕の半生と、その時のエピソードに基づいた芸人さんの話を半々で、みたいな。でも、書き進めていくうちに、どんどん自分の半生について書くことが増えていって、結果的にはほとんど自分の話になりました。芸人という、ある意味特殊な職業の体験的な面白さもあるかなと。普通の人間だと思っている自分が芸人の道に進むのは、僕の中では当たり前だったけど、他人から見れば異常なこと。それを追体験してもらえるような形になっていきましたね。

——当初の構想から変わっていったことについて、軌道修正の話はなかったのですか?

岩崎:特に言われなかったですね。言われたらどうしようかな、とは思っていましたけど(笑)。

——読んでいて、う大さんの記憶力、特に感情の移り変わりの記述の克明さに驚きました。

岩崎:昔のことは、特に印象に残っていることを書いているだけなんですけどね。芸人になってからは、自分のブログとか、ネット上にあったライブのレポートとかも参考にしました。そういうのを見ると、当時のことを思い出したりして。意外と賞レースでその時に何のネタをやったかとかは覚えてないんですよね。ネット上の情報を頼りにしながら、本当に覚えていたことも含めて、心に刻まれている部分を書いていった感じです。

——半生を振り返ってみて、新たに気づいたことはありましたか?

岩崎:この本の最後にも書いたんですけど、やっぱり「神様の采配はすごいな」と改めて感じましたね。人生のいろんな関門が、それぞれつながっているんだなと。当時は無我夢中だったけど、振り返るとそう思います。

相方・槙尾ユウスケの存在

——ご自身の創作スタンスを「人間愛」に置いていると書かれていますが、この本もまさに人間愛に溢れていると感じました。ご家族や相方の槙尾(ユウスケ)さんなど、周りの人々が非常に魅力的に描かれています。

岩崎:槙尾のことも、そう感じました? だとしたら、良かったです(笑)。

——ダメな部分も含めて魅力的でした。その槙尾さんを芸人としてどのように評価されていますか?

岩崎:(少し考えて)槙尾は、まず、かもめんたるとしては、僕がやりたいことを忠実に再現しようとしてくれる。そこに驚嘆しますね。普通、もっと自我を出したくなるんじゃないかなって。それは彼の素質なんだと思います。あとは、もしかしたら一般の人の感覚を持っているのかもしれないけど、それが芸人の中では異常なんです。普通の感性を持ったまま芸人界に乗り込んできている感じ。一番人間らしいのかもしれないですね。

——具体的にはどういうところに、それを感じますか?

岩崎:昔、楽屋に誰かがハブ酒を持ってきたことがあったんです。それを見て槙尾が「これ飲んだらもう、こっちとかこうでしょ」みたいな(股間で腕を突き上げる)ジェスチャーをしたんです。それが、ものすごく嫌で(笑)。あんまり芸人がやらない感じというか、彼自身もやりそうにないのに、普通にやる。商店街のおじさんっぽくもあり、嫌な上司っぽくもある。街にいる嫌なサラリーマンみたいなのが濃縮されているんですよね。飲み会で言ったら嫌われるようなことを平気でやっちゃう、そこが奇妙ですね(笑)。

——本書で書かれている槙尾さんがバイト代の25%を、ネタを書いているう大さんに払っていたという話に驚きました。

岩崎:あれもそうかもしれないですね、彼の中のビジネス感覚というか。優しい部分でもあると思うし、僕が一生懸命やっているのを認めてくれていたとも思います。本当にありがたかったし、それによって僕の精神衛生もすごく良くなった。お金にならない仕事に向き合うのって、しんどい時もあるけど、「槙尾も頑張ってるんだし」って思えたことで、1年でやれることが倍ぐらいになった気がします。

——練習でネタを録音するというのも、槙尾さんの提案だったとか。

岩崎:そうなんです。俺は最初、抵抗感があったんですけど、彼は今でも毎回ネタをちゃんと録音して送ってくれる。実際にネタを直す時に聞いたりしてるんで、当たり前のことだけど、芸人は意外とやらない。そういう当たり前をやるのが、槙尾なんですよね。

——コンビ仲が険悪になって一度、コンビの活動をセーブし、個人の活動をメインにされた時期があったそうですね。あの時の決断はどのような考えからだったのでしょう?

岩崎:あの時は、お互いにもう感謝できない状態でした。相手のことをリスペクトできない、大事に思えない。そうなってしまった以上、お互いの責任だから、一度別れて、それぞれに必要な試練が来るだろうと。コンビの問題を相手のせいにしている状態は意味がない。別れて、それぞれが受け取るべきものを受け取ろう、運命に委ねようという感覚でした。本当に瀕死の状態だったんです、精神的に。

——それを経て、現在のかもめんたるの関係性はいかがですか?

岩崎:結局、その終わり方もうやむやな感じだったんです。僕はいろいろと仕事があって忙しくしていたけど、槙尾は本当に何も言ってこなくて。「まだ謝らないのか」「すごい強情だな」とか思ってました(笑)。でも、2021年に「M-1」に挑戦しようってなったのが大きかったかな。結局、俺から軍門に下った形かもしれないけど(笑)。「M-1」っていう大きな目標ができたことで、2人の間のわだかまりはあまり気にならなくなった。もちろん、その過程で「こんなに話が通じないのか」って思うこともあったけど、それも必要な経過だったのかなって。分からないところはやらずに、通じるところで表現する。そうやって、あの漫才が形になったんだと思います。今は、槙尾がカレー屋さんを始めて、生活のリズムが正しくなったのか、だいぶメンタルも回復して、前より接しやすい人になりましたね。

賞レースの意義

——「M-1」への挑戦から「THE SECOND」、今年は「ダブルインパクト」にもエントリーされていますね。

岩崎:「THE SECOND」も普通に出て、やっぱり漫才も面白いなと。「M-1」が終わって、もう漫才はやらないかなと思っていたら、「THE SECOND」が始まった。6分という尺も良くて、面白いものができるなと。今年はスケジュールの都合で出られなかったんですけど、「ダブルインパクト」があると聞いて、もちろんやるっしょ、と。純粋にうれしいです。「俺たちのための大会」ぐらいの気持ちで臨んでます。

——近年、賞レースが増えていますが、この状況をどう思われますか?

岩崎:お笑いが盛り上がってるってことだから、いいことだと思います。チャンスがいっぱいあるのは良いこと。やってる方は大変だけど、それが仕事ですから。全部出る人もいれば、一つに絞る人もいる。それぞれのやり方でいいんじゃないかな。僕らは若手の頃、量産型だったので、いっぱい作れることをアピールできる場があるのは良いことだと思いますね。

——本の中で「キングオブコント」によって「漫才とコントがこの15年間でしっかりと住み分けされた」と書かれていますね。

岩崎:「キングオブコント』は、第1回から割とそこをはっきり打ち出していたんじゃないかなと、今振り返ると思いますね。歴史を歩むごとに、芸人も傾向と対策を練って、よりその方向に進んでいった。決勝に上がるメンバーのチョイスが、その方向性を決定づけていった気がします。特に、2009年に東京03さんがサンドウィッチマンさんに勝った時は、単純な面白さ以上に、「コントってこういうことだよね」っていう方向性が示されたようで、印象的でしたね。

——「キングオブコント」優勝後、バラエティー番組で苦しんだ時期があったそうですが、現在はどうですか?

岩崎:今は、前よりも楽しく臨めるようになりました。10年以上経って、少しずつ自分のキャラクターが浸透してきたし、自分も慣れてきた。優勝直後は「なんだこの若者は」っていう状態だったけど、今は「お笑いにうるさそう」「演劇とかやってるおじさん」みたいなイメージがあるから、自分のスタイルを出しやすくなった。当時は、自分でもどういうことを言う人間か分かってなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。そりゃうまくいくわけないですよね。

——最近では「マツコ&有吉かりそめ天国」(テレビ朝日)でのファイヤーショーのように体を張ることもやられていますね。

岩崎:ああいう仕事はまさにやりたかったことですね。「お笑いにうるさそう」なおじさんが、それとは真逆なことをやっているというのが面白いんだろうなっていうのもありますし、僕の中にはやっぱり人に笑ってもらいたいっていうのがあるんですよね。

お笑い批評とコンプライアンス

——お笑いの批評や審査員の経験は、ネタ作りに影響を与えていますか?

岩崎:批評は、みんなやったらいいと思うぐらい、勉強になりますね。自分のネタ作りにも反映されます。自分ならどうするか、という頭の体操になるし、アイデアの引き出しも鍛えられる。自分の作品を添削する時も、より冷静な目で見られるようになっている気がします。じわじわと底上げされている感じですね。

——昨今、いわゆるコンプライアンスが厳しくなっている状況は、ネタ作りに影響しますか?

岩崎:細かい部分で「こんなに厳しいんだ」と驚くことはありますけど、そもそも笑いって、そういうものをくぐり抜けて表現するから面白いっていう共通認識があると思うんです。ただ、コンプライアンスの基準が、今はまだ人や媒体によってバラバラだから、「常識がなんだか分からない」状態。それが一番難しい。それをどう華麗にクリアするか、という部分で楽しめているところもあります。表現している以上、誰かを傷つけてしまうことはあると思うんですよ。例えば、交通事故を題材にすると、それで身内が亡くなった人は必ずいますから。でも、昔から悲劇や不謹慎と言われるものの周辺に物語や笑いは生まれてきたし、それはある意味しょうがない部分かなと思っています。

——ネタ作りをする上で、譲れない部分はありますか?

岩崎:かもめんたるでやるネタに関しては、「自分たちがやる意味があるのか」ということは常に考えています。面白いのは当たり前として、自分たちの最大限の面白さを出すためには、やっぱり自分たちがやるべきネタであることが重要だと思っています。

——本の中で、小島よしおさんやカンニング竹山さんの助言を素直に聞いているのも印象的でした。普段からそういうスタンスなのですか?

岩崎:僕は、自分でルールを決めるのが苦手なんです。大喜利のお題を考えるのが苦手なのと近いかもしれない。与えられたフィールドの中で笑いを作る方が性に合っている。だから、ネタの中身は自分で決めたいけど、外のことに関しては、「難しそうだけどやってみます」というスタンス。人の意見が入ってないものって、やっぱり弱いと思うし、異物が入ってきて、それを乗り越えようとするところに表現や笑いが生まれる気がするんです。

——批評や演劇も、もともとはやりたくなかったとおっしゃっています。「やりたくないことをやる意義」についてはどうお考えですか?

岩崎:やりたくないことって、結局、よく分からないことや、自分の偏見で「ダサい」と思っていることだったりする。つまり、自分の外にある価値観ですよね。そういうところに飛び込んでみると、意外とちゃんとしたルールがあったり、面白い表現があったりして、自分の本業に返ってくることがある。神様の采配は見事だと思うから、やってみたら自分が思ってもみない展開になるんじゃないか、という興味もありますね。

——よく言われる「好きなことは売れてから」というのは本当だと思いますか?

岩崎:自分はまだそこまで行けてないんだなっていう気はしますね。ただ、そこまで行ける人なんてほぼいないんですよ。だからとっととやるべき。与えられたミッションの中に好きなことを入れていくしかないんだと思いますね。

——今では脚本家や漫画家など、さまざまな肩書きをお持ちですが、やはり呼ばれたい肩書きは「芸人」ですか?

岩崎:そうですね、芸人はやっぱり「憧れ」です。ずっと憧れている人生でもいいのかな、とも思います。今やっていることを突き詰めていっても、自分が最初に憧れた「芸人」という言葉から受ける印象とは、ちょっと違うような気がするんです。みんな、どこかでそういう感覚を持っているんじゃないかな。最初に自分がなりたいと思った芸人になれている人が、どれだけいるのか興味がありますね。

——「自分で作るお笑いが好き」「自分のファンだ」 という言葉が印象的でしたが、その気持ちを持ち続けるために大事にしていることは?

岩崎:過去にやったことをなぞらない、ということですかね。毎回、新しく掘る。枯れたらおしまいだと思っているので、そこは自分を信用して、毎回ちゃんと掘る。枯れるまでやれたら最高ですね。

——今後、やってみたい新しいことはありますか?

岩崎:映画は撮りたいなと。ただ、準備しているわけではないんですが、いずれ撮るんだろうな、逆になんで今まで撮ってないんだろうな、という気もしています。構想はまだまったくないんですけどね。それも神様がいい采配をしてくれるんだろうなと思ってます。

——英語も堪能ですが、海外に向けて何かやりたいという考えは?

岩崎:それも、何か必要に駆られてやりたいですね(笑)。「お願いします、できませんか?」って言われたら、やってみたいです。

家族と芸人

——この本は、奥様へのラブレター的な部分もあると感じました。どういったところに惹かれたのですか?

岩崎:ああ、まあ、明るいところかなあ。かわいいですよ、うちの妻(笑)。楽天主義なところもあるし。あと、うちの母とうまくやってくれてるところ。母の扱いが上手なんです。

——お母さまも強烈なキャラクターのようですね。

岩崎:そうなんですよ。うちの妻じゃないと離婚されてるかもしれないですね。母は優しいんですけど、それが度が過ぎちゃうというか。今は、ドライな関係が多いじゃないですか。うちに来た以上は娘よみたいな感覚だから、それに耐えられない人は多いかもしれないですね。

——奥様は、う大さんのことを面白いと言ってくれますか?

岩崎:俺の前では言ってくれてますし、他の芸人のネタでは笑わないですからね。気を使ってるのかもしれないけど、そこは頭のいい人ですよね(笑)。

——お子さんたちは、芸人としてのお父さんをどう見ていますか?

岩崎:そこは微妙ですね。あんまり評価はしてないんじゃないかなあ。しないでしょうね、子どもですから。長男は今、千鳥さんにめっちゃハマってます。僕と割と感覚は近いと思いますけど、かもめんたるのネタを好んでは見てないですね(笑)。

——ご家族の存在は、芸人をやっていく上でどういう影響がありますか?

岩崎:家族の会話はめちゃくちゃ聞いてますね。本音の会話だから、聞いてて楽しいし、会話劇の勉強にもなる。今、子供が大きくなり始めて、すごく寂しいんですよ。妻が幼かった頃の子供たちの写真を送ってくるんですけど、100%戻れないじゃないですか。これはすごいな、人生って思いますね。家族はめちゃくちゃ大事だし、この本は、僕に何かあった時に「お父さんこういう人だったんだよ」って分かる本になったなと思っています。

PHOTOS:MASASHI URA

芸人コンビ「かもめんたる」として活動する岩崎う大が、その半生を綴った初の自伝的エッセイ。そしてそれは、2000年代のお笑いシーンを当事者の視点で捉えた貴重な記録でもある。
著者:岩崎う大
判型:四六判
定価:1760円
出版社:扶桑社
https://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594100650

The post 「演劇や批評はやりたくなかった」 かもめんたる・岩崎う大が語る「不得意な仕事をやる理由」 appeared first on WWDJAPAN.

テンシャル、yutori、ハーリップトゥ……  業界の“台風の目”を生み出す石倉壱彦の投資哲学

 
 

PROFILE: 石倉壱彦/アカツキ 取締役 執行役員&CFO、Dawn Capital ジェネラルパートナー

石倉壱彦/アカツキ 取締役 執行役員&CFO、Dawn Capital ジェネラルパートナー
PROFILE: (いしくら・かずひろ)神奈川県出身。KPMGあずさ監査法人を経て、2013年にアカツキに入社し、コーポレート体制の立ち上げや株式上場準備に従事。2015年より株式会社3ミニッツのCFOとして経営管理部門を統括し、資金調達・経営戦略の立案・事業の立ち上げに従事し、同社のM&Aを牽引。2018年にアカツキの執行役員及びHeart Driven Fundのパートナーに就任。2022年4月にAkatsuki Venturesを立ち上げ、同社の代表取締役社長に就任。Dawn Capital代表パートナーとして投資事業に従事する PHOTO:REIKO KONDO
ファッション・ビューティ領域では近年、勢いのあるスタートアップ企業が次々と生まれ、業界に新しい風を吹かせている。
 
リカバリーウエア「バクネ(BAKUNE)」を引っ提げ、約183億円の時価総額で東証グロース市場に上場(6月4日時点で時価総額271億円)を果たしたテンシャル。片石貴展社長率いるアパレル企業のyutori。そんな近年の注目の企業・ブランドの成長支援を手掛けてきたのが、アカツキ傘下のコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)であるDawn Capitalだ。 
 
石倉壱彦氏は同社の代表パートナーとして、ライフスタイル領域を中心に“人々の心を動かすサービスやプロダクト”を投資支援。個人としては「ハーリップトゥ(HER LIP TO)」を展開する小嶋陽菜のheart relationなどにおいて、コーポレートアドバイザーとしてもバックアップしている。ファッション・ビューティ業界でも台風の目となるブランドを生み出してきた立役者だ。そんな彼の投資哲学、次代を作るブランドの目利きについて聞いた。

WWD:まず、Dawn Capitalの出自と事業内容について教えてほしい。
 
石倉壱彦 Dawn Capitalジェネラルパートナー(以下、石倉):Dawn Capitalは、アカツキのコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)として2022年に立ち上げた投資ファンドだ。前身は18年にスタートしたHeart Driven Fundで、当時からエンタメやライフスタイル領域を中心にスタートアップ投資を行ってきた。これまでに累計84社へ投資を行い、うちIPO5社・M&A7社のイグジットを果たしている。
 
WWD:CVCとしての特徴や強みは?
 
石倉:Dawn Capitalは、エンタメ事業を主軸とするアカツキが、ゲームなどで得た事業利益をもとに投資を行っている。我々が重視しているのは、「人の心を動かすプロダクトやサービス」への投資。単に事業計画や数値部分だけを見るだけでなく、その事業がどのような感情を喚起し、どのような新しい価値体験を創出しうるのかといった、“ワクワクするのか?という情緒的な意義”までを評価の対象としている。
 
そうしたアカツキのビジョンに一致するかを前提にしつつ、投資方針はあくまでも財務リターンを重視。CVCの多くが自社との事業シナジーを重視する方向性が強いが、我々は財務リターンを確実に出しながら、事業シナジーを創出する投資を、再現性高く行っていくことを目指している。2025年には過去の投資額を回収する“リクープ”を達成した。
 
我々のスタンスは、投資して終わりではない。投資後はブランド戦略、マーケティング、PR、資金調達、大企業との協業、プロダクト開発に至るまで、本当に手を動かしながら支援する。私自身もスタートアップの経営経験を持っており、単なる“出資者”ではなく、経営チームの一員として並走する姿勢を貫く。それがDawn Capitalのスタイルだ。

 
WWD:投資先の好事例は?
 
石倉:まず挙げたいのが、冷凍ヘルシーミールのD2Cを展開している「グリーンスプーン(GREEN SPOON)」。事業が成長している中で、ファミリーマートとの協業や著名人とのコラボレーションを支援し、メディア露出やブランドの拡張を更に加速し、速いスピードで江崎グリコとのM&Aが実現した。
 
もう一つ印象的な事例が、「ロイブ(LOIVE)」「pilates K」などの女性専用フィットネススタジオを全国で展開するライフクリエイト(LIFE CREATE)。われわれは、彼女たちが上場を目指して店舗を急拡大するタイミングで約7億円の投資を行い、同時に金融機関からの約15億円の融資を主導した。加えて、コロナ禍でスタジオ運営が困難となった時期には、金融機関からの大きな融資が受けられるまでの期間、通常の出資ではなく、約2億の融資を行った。
 
そして単なる資金提供にとどまらず、コーポレート機能、販路開拓、人材の紹介、ファイナンス設計にまで踏み込んで支援を行ってきた。

意見しない投資家に「価値なし」
テンシャルのブレイクを後押し

WWD:アパレル企業にも積極的に投資しているが、たとえば近年では、リカバリーウエア「バクネ」のテンシャルが話題の上場企業となっている。どのような点にポテンシャルを感じたのか。
 
石倉:彼らとの出会いは、もともとスポーツや健康に特化したメディアを運営していた頃にさかのぼる。月間4000万〜5000万円規模のアフィリエイト送客を実現できるほどSEOに強く、「このチームは市場のニーズを正確に捉えている。ユーザーの求めるものにも非常に敏感だ」と感じた。
 
最初に手がけたプロダクトはインソールだった。正直「なぜインソールなのだろうか」とは思ったが、それでもしっかりと売り上げを作っていた。コロナ禍が到来したときも、彼らはいち早くマスクを開発し、月商1億円を突破するまでに至った。
 
そのスピード感と柔軟性に感服した感じた半面、「この波が去った後、何を作れるか?」が真の勝負だと考えた。だから私は「今はボーナスタイムに過ぎない。この間に次の一手を準備すべきだ」と背中を押した。彼らからしたら、“叱咤”に近いトーンだったかもしれないが。
 
WWD:ときに投資先と衝突することもあるのか。
 
石倉:もちろんある。むしろ、意見を言わない投資家に価値はないと考えている。投資先の経営陣にとっては“うるさい存在”かもしれないが、そこまで踏み込むからこそ、信頼関係が構築されると信じている。
 
テンシャルとは、その後も毎週のように新規事業の壁打ちを重ねてきた。そして彼ら自身でたどり着いたのが“リカバリーウェア”という領域だった。SEOで培った知見、コロナ禍で学んだマーケティング、そしてプロダクト開発に対する執念。これらすべてが噛み合い、一気にブレイクスルーを果たした。

yutori片石社長の嗅覚
「次世代の文化を作ろうとしている」

WWD:yutoriの片石社長は、もともとアカツキの新卒社員だった。起業後は、Heart Driven Fundの支援が現在の礎となった。
 
石倉::片石君は、2年間ほど新規事業に従事した後、起業する流れになった。当時、われわれとしても“卒業生の挑戦を後押しする”という意味合いを込め、最初の資金を提供した。もちろん情に流されたわけではない。彼が「古着」という一見地味な領域に、強い嗅覚から独自のマーケティング感覚を持ち込んでいた点に、大きな可能性を感じた。
 
WWD:石倉氏の目から見て、yutoriの卓越した点とは何か。
 
石倉: yutoriは、SNS時代におけるアパレルのあり方を再定義するブランドを次々に生み出し、急成長を遂げている。ZOZOグループに入ったことで、我々の持ち株は売却したが、それ以降も片石君とは継続的に対話を重ねてきた。
 
今ではyutoriは、次の世代のブランドや文化を創出する側に回ろうとしていると感じている。片石君の強みは、「カルチャーを先につくる力」。プロダクトはあくまで手段であり、共感を得る言語、緻密に構築されたコミュニティ、SNS上での温度管理。そうしたソーシャル時代のブランド構築において、極めて高い感覚値を有していると思う。

小嶋陽菜は“先頭に立つ”経営者

 
WWD:「ハーリップトゥ」を展開する小嶋陽菜氏のHeart Relationも石倉氏個人の投資先。いわゆる“芸能人ブランド”の類に見えるが、多くの同類ブランドが短命に終わる中で、「ハーリップトゥ」は頭ひとつ抜けた。違いは何か。
 
石倉:最初に話をもらったときは、正直なところ少し「疑って」いた。芸能人がブランドを立ち上げるのはよくある話で、事務所の延長のようなプロジェクトも少なくない。しかし小嶋氏と直接話して、すぐに「この人は本物だ」と確信した。
 
彼女は、服のデザインはもちろん、ブランドのコンセプト作り、動画撮影や編集、ブランドのSNSを含めた全てのクリエイティブを自らの目で細部まで確認し、納得するまで妥協せずにやり切る。それらは義務としてではなく、ブランド表現の手段として徹底されている。とりわけ印象的だったのが、「ファンに対して自分が一番責任を持つ」という強い自覚だった。
 
そうした“先頭に立つ経営者”がいるブランドは強い。チームも彼女の本気度に引っ張られ、全員がその背中に自発的に付いていっている。これまで数多くのインフルエンサー系ブランドを見てきたが、ここまで自己表現と事業運営が一致しているケースは極めて稀だ。

WWD:こうした勢いのあるスタートアップが“台風の目”となり、既存の大手企業が支配してきた業界の構図や常識も、徐々に変わりつつあるように感じる。
 
石倉:まさにその通り。ファッションやビューティ領域においては、これまでの大手企業の競争優位性に変化が生じている。かつてはマス広告や大手流通網に載せることが成功の絶対条件であったが、今はSNSを中心にデジタル上で、強いコミュニティーが醸成され、「共感」や「体験」を軸にブランドが成立する時代になってきた。
 
その構造変化の波を的確に捉えたのが、テンシャルであり、yutoriであり、「ハーリップトゥ」だった。彼らは大企業が見落としがちな隙間や、供給過多に陥ったマーケットの温度差を見抜き、そこに情熱とストーリーを乗せていった。つまり、経済合理性では説明しきれない価値を創出する力を持っていた。そしてその価値は、確実に社会に浸透し始めている。

大手とスタートアップを橋渡し
業界が変わるうねりを生み出したい

WWD:とはいえ、大企業が保有する研究開発力、物流インフラ、グローバルネットワークといった資源は依然として圧倒的だ。
 
石倉:だからこそ、われわれが注力しているのが、スタートアップと大企業との橋渡し。たとえばテンシャルとANAとの連携、 GREEN SPOONとファミリーマートとの連携、繊維素材を開発するamphicoと繊維商社との連携など、大企業が持つアセットとスタートアップの情熱と勢いを接続することで、価値創出の幅を一気に広げることできる。
 
このとき重要になるのは、スタートアップ自身が、自らの「武器」と「弱点」を正しく理解しているかどうか。大企業と手を組むことで得られるリソースと、場合によっては失われかねない独自性。このバランスをいかに設計するかがカギだ。その設計支援こそが、われわれの重要な役割だと認識している。
 
WWD:そうした“橋渡し”が活発化すれば、ワクワク感を失いつつある業界が、より面白くなっていきそうだ。
 
石倉:まさにそうなってくれることが本望。私自身も、この仕事をしている一番の理由は、「世の中にもっとワクワクを増やしたい」から。Dawn Capitalという名前も、「夜明け」や「始まり」の象徴として名付けたもの。新しい才能や価値観が生まれ、それが波紋のように社会へと広がっていく。その瞬間に立ち会えることこそ投資家の醍醐味だ。
 
ファッションやビューティ等のライフスタイルの世界は、人の感情と強く結びついている。新しい可能性を注ぎ込める起業家がもっと増え、大企業がそれを支える、あるいは巻き込まれれば、業界もいい方向へ変わっていくだろう。そうした動的な推進力が、もっともっと生まれてほしい。
 
WWD:これから業界で事業を立ち上げようとする人々にとって、どのようなマインドセットが求められると考えるか。
 
石倉:最も重要なのは、「時代を読む力」と「自分ごと化する力」の両立。流行をなぞるだけのブランドはすぐに飽きられてしまうし、逆に自分の世界観に酔っているだけでも他者には響かない。社会がどう変化しつつあるのか、その中で何が満たされていないのかを見極める。これは言い換えるなら、市場への共感力にほかならない。先に挙げたテンシャルやyutoriのように、「自分ならこうしたい」という熱意と覚悟を持てるかどうかも、同じくらい重要だろう。
 
そして、柔軟性と粘り強さもだ。最初に描いたプランが、そのままうまくいくことなんてない。そこからどう学び、どう修正し、どう仲間を巻き込んでいくかが大事になる。私は常々、「“型”をつくるのではなく、“物語”を一緒につくっていこう」と起業家に伝えている。プロダクトや売り上げではなく、その事業がいかに人の心を動かすのか。そこに真摯に向き合える人こそが、次の時代を作る存在になるのだと思う。

The post テンシャル、yutori、ハーリップトゥ……  業界の“台風の目”を生み出す石倉壱彦の投資哲学 appeared first on WWDJAPAN.

テンシャル、yutori、ハーリップトゥ……  業界の“台風の目”を生み出す石倉壱彦の投資哲学

 
 

PROFILE: 石倉壱彦/アカツキ 取締役 執行役員&CFO、Dawn Capital ジェネラルパートナー

石倉壱彦/アカツキ 取締役 執行役員&CFO、Dawn Capital ジェネラルパートナー
PROFILE: (いしくら・かずひろ)神奈川県出身。KPMGあずさ監査法人を経て、2013年にアカツキに入社し、コーポレート体制の立ち上げや株式上場準備に従事。2015年より株式会社3ミニッツのCFOとして経営管理部門を統括し、資金調達・経営戦略の立案・事業の立ち上げに従事し、同社のM&Aを牽引。2018年にアカツキの執行役員及びHeart Driven Fundのパートナーに就任。2022年4月にAkatsuki Venturesを立ち上げ、同社の代表取締役社長に就任。Dawn Capital代表パートナーとして投資事業に従事する PHOTO:REIKO KONDO
ファッション・ビューティ領域では近年、勢いのあるスタートアップ企業が次々と生まれ、業界に新しい風を吹かせている。
 
リカバリーウエア「バクネ(BAKUNE)」を引っ提げ、約183億円の時価総額で東証グロース市場に上場(6月4日時点で時価総額271億円)を果たしたテンシャル。片石貴展社長率いるアパレル企業のyutori。そんな近年の注目の企業・ブランドの成長支援を手掛けてきたのが、アカツキ傘下のコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)であるDawn Capitalだ。 
 
石倉壱彦氏は同社の代表パートナーとして、ライフスタイル領域を中心に“人々の心を動かすサービスやプロダクト”を投資支援。個人としては「ハーリップトゥ(HER LIP TO)」を展開する小嶋陽菜のheart relationなどにおいて、コーポレートアドバイザーとしてもバックアップしている。ファッション・ビューティ業界でも台風の目となるブランドを生み出してきた立役者だ。そんな彼の投資哲学、次代を作るブランドの目利きについて聞いた。

WWD:まず、Dawn Capitalの出自と事業内容について教えてほしい。
 
石倉壱彦 Dawn Capitalジェネラルパートナー(以下、石倉):Dawn Capitalは、アカツキのコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)として2022年に立ち上げた投資ファンドだ。前身は18年にスタートしたHeart Driven Fundで、当時からエンタメやライフスタイル領域を中心にスタートアップ投資を行ってきた。これまでに累計84社へ投資を行い、うちIPO5社・M&A7社のイグジットを果たしている。
 
WWD:CVCとしての特徴や強みは?
 
石倉:Dawn Capitalは、エンタメ事業を主軸とするアカツキが、ゲームなどで得た事業利益をもとに投資を行っている。我々が重視しているのは、「人の心を動かすプロダクトやサービス」への投資。単に事業計画や数値部分だけを見るだけでなく、その事業がどのような感情を喚起し、どのような新しい価値体験を創出しうるのかといった、“ワクワクするのか?という情緒的な意義”までを評価の対象としている。
 
そうしたアカツキのビジョンに一致するかを前提にしつつ、投資方針はあくまでも財務リターンを重視。CVCの多くが自社との事業シナジーを重視する方向性が強いが、我々は財務リターンを確実に出しながら、事業シナジーを創出する投資を、再現性高く行っていくことを目指している。2025年には過去の投資額を回収する“リクープ”を達成した。
 
我々のスタンスは、投資して終わりではない。投資後はブランド戦略、マーケティング、PR、資金調達、大企業との協業、プロダクト開発に至るまで、本当に手を動かしながら支援する。私自身もスタートアップの経営経験を持っており、単なる“出資者”ではなく、経営チームの一員として並走する姿勢を貫く。それがDawn Capitalのスタイルだ。

 
WWD:投資先の好事例は?
 
石倉:まず挙げたいのが、冷凍ヘルシーミールのD2Cを展開している「グリーンスプーン(GREEN SPOON)」。事業が成長している中で、ファミリーマートとの協業や著名人とのコラボレーションを支援し、メディア露出やブランドの拡張を更に加速し、速いスピードで江崎グリコとのM&Aが実現した。
 
もう一つ印象的な事例が、「ロイブ(LOIVE)」「pilates K」などの女性専用フィットネススタジオを全国で展開するライフクリエイト(LIFE CREATE)。われわれは、彼女たちが上場を目指して店舗を急拡大するタイミングで約7億円の投資を行い、同時に金融機関からの約15億円の融資を主導した。加えて、コロナ禍でスタジオ運営が困難となった時期には、金融機関からの大きな融資が受けられるまでの期間、通常の出資ではなく、約2億の融資を行った。
 
そして単なる資金提供にとどまらず、コーポレート機能、販路開拓、人材の紹介、ファイナンス設計にまで踏み込んで支援を行ってきた。

意見しない投資家に「価値なし」
テンシャルのブレイクを後押し

WWD:アパレル企業にも積極的に投資しているが、たとえば近年では、リカバリーウエア「バクネ」のテンシャルが話題の上場企業となっている。どのような点にポテンシャルを感じたのか。
 
石倉:彼らとの出会いは、もともとスポーツや健康に特化したメディアを運営していた頃にさかのぼる。月間4000万〜5000万円規模のアフィリエイト送客を実現できるほどSEOに強く、「このチームは市場のニーズを正確に捉えている。ユーザーの求めるものにも非常に敏感だ」と感じた。
 
最初に手がけたプロダクトはインソールだった。正直「なぜインソールなのだろうか」とは思ったが、それでもしっかりと売り上げを作っていた。コロナ禍が到来したときも、彼らはいち早くマスクを開発し、月商1億円を突破するまでに至った。
 
そのスピード感と柔軟性に感服した感じた半面、「この波が去った後、何を作れるか?」が真の勝負だと考えた。だから私は「今はボーナスタイムに過ぎない。この間に次の一手を準備すべきだ」と背中を押した。彼らからしたら、“叱咤”に近いトーンだったかもしれないが。
 
WWD:ときに投資先と衝突することもあるのか。
 
石倉:もちろんある。むしろ、意見を言わない投資家に価値はないと考えている。投資先の経営陣にとっては“うるさい存在”かもしれないが、そこまで踏み込むからこそ、信頼関係が構築されると信じている。
 
テンシャルとは、その後も毎週のように新規事業の壁打ちを重ねてきた。そして彼ら自身でたどり着いたのが“リカバリーウェア”という領域だった。SEOで培った知見、コロナ禍で学んだマーケティング、そしてプロダクト開発に対する執念。これらすべてが噛み合い、一気にブレイクスルーを果たした。

yutori片石社長の嗅覚
「次世代の文化を作ろうとしている」

WWD:yutoriの片石社長は、もともとアカツキの新卒社員だった。起業後は、Heart Driven Fundの支援が現在の礎となった。
 
石倉::片石君は、2年間ほど新規事業に従事した後、起業する流れになった。当時、われわれとしても“卒業生の挑戦を後押しする”という意味合いを込め、最初の資金を提供した。もちろん情に流されたわけではない。彼が「古着」という一見地味な領域に、強い嗅覚から独自のマーケティング感覚を持ち込んでいた点に、大きな可能性を感じた。
 
WWD:石倉氏の目から見て、yutoriの卓越した点とは何か。
 
石倉: yutoriは、SNS時代におけるアパレルのあり方を再定義するブランドを次々に生み出し、急成長を遂げている。ZOZOグループに入ったことで、我々の持ち株は売却したが、それ以降も片石君とは継続的に対話を重ねてきた。
 
今ではyutoriは、次の世代のブランドや文化を創出する側に回ろうとしていると感じている。片石君の強みは、「カルチャーを先につくる力」。プロダクトはあくまで手段であり、共感を得る言語、緻密に構築されたコミュニティ、SNS上での温度管理。そうしたソーシャル時代のブランド構築において、極めて高い感覚値を有していると思う。

小嶋陽菜は“先頭に立つ”経営者

 
WWD:「ハーリップトゥ」を展開する小嶋陽菜氏のHeart Relationも石倉氏個人の投資先。いわゆる“芸能人ブランド”の類に見えるが、多くの同類ブランドが短命に終わる中で、「ハーリップトゥ」は頭ひとつ抜けた。違いは何か。
 
石倉:最初に話をもらったときは、正直なところ少し「疑って」いた。芸能人がブランドを立ち上げるのはよくある話で、事務所の延長のようなプロジェクトも少なくない。しかし小嶋氏と直接話して、すぐに「この人は本物だ」と確信した。
 
彼女は、服のデザインはもちろん、ブランドのコンセプト作り、動画撮影や編集、ブランドのSNSを含めた全てのクリエイティブを自らの目で細部まで確認し、納得するまで妥協せずにやり切る。それらは義務としてではなく、ブランド表現の手段として徹底されている。とりわけ印象的だったのが、「ファンに対して自分が一番責任を持つ」という強い自覚だった。
 
そうした“先頭に立つ経営者”がいるブランドは強い。チームも彼女の本気度に引っ張られ、全員がその背中に自発的に付いていっている。これまで数多くのインフルエンサー系ブランドを見てきたが、ここまで自己表現と事業運営が一致しているケースは極めて稀だ。

WWD:こうした勢いのあるスタートアップが“台風の目”となり、既存の大手企業が支配してきた業界の構図や常識も、徐々に変わりつつあるように感じる。
 
石倉:まさにその通り。ファッションやビューティ領域においては、これまでの大手企業の競争優位性に変化が生じている。かつてはマス広告や大手流通網に載せることが成功の絶対条件であったが、今はSNSを中心にデジタル上で、強いコミュニティーが醸成され、「共感」や「体験」を軸にブランドが成立する時代になってきた。
 
その構造変化の波を的確に捉えたのが、テンシャルであり、yutoriであり、「ハーリップトゥ」だった。彼らは大企業が見落としがちな隙間や、供給過多に陥ったマーケットの温度差を見抜き、そこに情熱とストーリーを乗せていった。つまり、経済合理性では説明しきれない価値を創出する力を持っていた。そしてその価値は、確実に社会に浸透し始めている。

大手とスタートアップを橋渡し
業界が変わるうねりを生み出したい

WWD:とはいえ、大企業が保有する研究開発力、物流インフラ、グローバルネットワークといった資源は依然として圧倒的だ。
 
石倉:だからこそ、われわれが注力しているのが、スタートアップと大企業との橋渡し。たとえばテンシャルとANAとの連携、 GREEN SPOONとファミリーマートとの連携、繊維素材を開発するamphicoと繊維商社との連携など、大企業が持つアセットとスタートアップの情熱と勢いを接続することで、価値創出の幅を一気に広げることできる。
 
このとき重要になるのは、スタートアップ自身が、自らの「武器」と「弱点」を正しく理解しているかどうか。大企業と手を組むことで得られるリソースと、場合によっては失われかねない独自性。このバランスをいかに設計するかがカギだ。その設計支援こそが、われわれの重要な役割だと認識している。
 
WWD:そうした“橋渡し”が活発化すれば、ワクワク感を失いつつある業界が、より面白くなっていきそうだ。
 
石倉:まさにそうなってくれることが本望。私自身も、この仕事をしている一番の理由は、「世の中にもっとワクワクを増やしたい」から。Dawn Capitalという名前も、「夜明け」や「始まり」の象徴として名付けたもの。新しい才能や価値観が生まれ、それが波紋のように社会へと広がっていく。その瞬間に立ち会えることこそ投資家の醍醐味だ。
 
ファッションやビューティ等のライフスタイルの世界は、人の感情と強く結びついている。新しい可能性を注ぎ込める起業家がもっと増え、大企業がそれを支える、あるいは巻き込まれれば、業界もいい方向へ変わっていくだろう。そうした動的な推進力が、もっともっと生まれてほしい。
 
WWD:これから業界で事業を立ち上げようとする人々にとって、どのようなマインドセットが求められると考えるか。
 
石倉:最も重要なのは、「時代を読む力」と「自分ごと化する力」の両立。流行をなぞるだけのブランドはすぐに飽きられてしまうし、逆に自分の世界観に酔っているだけでも他者には響かない。社会がどう変化しつつあるのか、その中で何が満たされていないのかを見極める。これは言い換えるなら、市場への共感力にほかならない。先に挙げたテンシャルやyutoriのように、「自分ならこうしたい」という熱意と覚悟を持てるかどうかも、同じくらい重要だろう。
 
そして、柔軟性と粘り強さもだ。最初に描いたプランが、そのままうまくいくことなんてない。そこからどう学び、どう修正し、どう仲間を巻き込んでいくかが大事になる。私は常々、「“型”をつくるのではなく、“物語”を一緒につくっていこう」と起業家に伝えている。プロダクトや売り上げではなく、その事業がいかに人の心を動かすのか。そこに真摯に向き合える人こそが、次の時代を作る存在になるのだと思う。

The post テンシャル、yutori、ハーリップトゥ……  業界の“台風の目”を生み出す石倉壱彦の投資哲学 appeared first on WWDJAPAN.

【ARISAK Labo vol.5】英バンド・hard lifeのフロントマン・Murrayが巡る東京の街

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.5となる今回は、ロンドン発の気鋭バンドhard lifeのフロントマン・Murray(マレー)が登場。今夏アルバム「オニオン(onion)」をリリースする彼が来日し、東京で夢を模索する姿をARISAKが捉える。

PROFILE: Murray

Murray
PROFILE: イギリス・レスター出身、現在はロンドンを中心に活動するバンドグループ・hard life(元easy life)のフロントマン。7月18日に3rdアルバム「オニオン」をリリース予定。収録曲のプロデュースはTaka Perryが行う

「まるで映画のワンシーンのような撮影だった」
Inside story of Murray × ARISAK
Interviewed by Daniel Takeda

今回の撮影について「東京に来るたびに色々な人と出会い、自身のコミュニティーを広げているMurrayにインスピレーションを受けて、日本に降りたった異星人をイメージした。最初は孤独で悲しい表情から、徐々に愛を取り戻し希望に満ちていくようなストーリーを描きました」とARISAK。その撮影の裏側について、かねてから両者と親交がある竹田ダニエルがインタビューした。

竹田ダニエル(以下、ダニエル):まず、今回の撮影に至った経緯から教えてください

Murray(マレー):日本滞在中、とにかく面白いことがしたくて、いろんなクリエイティブな人に会っていたんです。そんな時、ダニエルが「ARISAKに会ってみて」と言ってくれて。作品を見た瞬間、「これはヤバい、めちゃくちゃかっこいい」と衝撃を受けました。GOAT(Greatest of All Time)だと思ったし、「ロンドンでも一緒にやろうよ、絶対ウケるから!」ってすぐに言ったくらい。彼女の作品って、“ザ・日本”みたいな感じじゃなくて、NYやロンドン、パリでも通用する洗練さがある。それが本当にかっこよかった。

撮影企画の準備をするにあたって、彼女が送ってくれたイメージやリファレンス、衣装のルックブックも全部好みで、もうタイミングも内容も完璧でした。

ダニエル:撮影当日はどうでしたか?

Murray:最高でした。ARISAKは事前にストーリーを丁寧に説明してくれて、「君は地球に来たばかりのエイリアンで、少し寂しいけど、日本にいることでだんだん心が和らいでいく」っていう設定があったんです。その物語に沿って、表情や動きを変えていく。普通のファッション撮影だと「とにかくかっこよく撮れればOK」って感じだけど、今回は全体が一つの映像作品のように作り込まれていて、すごく没入感がありました。

ARISAK:最初にMurrayと話したとき、「日本で仲間を見つけてコミュニティーを広げている」というエピソードが印象的で、それをもとに「異星人が日本に降り立ち、さまよいながらこの国に馴染んでいく」という裏ストーリーを考えました。彼が映画『PERFECT DAYS』の世界観が好きだと聞いて、神社や日本茶のカフェ、竹林といったロケーションを選びました。衣装やメイクも、感情の変化を表現できるように工夫しています。たとえば最初は涙のような表情、後半はハートのシールで少しずつ柔らかく明るい表情になるように構成しました。

ダニエル:東京という街に特別な思い入れがあるようですね?

Murray:本当に特別な場所です。白金では友達のTaka Perry(以下、Taka)とアルバムを一緒に作ったし、また来月戻ってくる予定もあります。何度来ても、“自分はエイリアンだ”って感覚が抜けないんです。でもそれが心地よくて。日本語も少し話せるけど、「これで合ってるのかな?」って不安になることもあって、常に境界にいるような感覚がある。

でも、東京は何かを始めるのに最適な場所。誰も結果を気にせず「とりあえずやってみよう」という空気があって、怖がらずに挑戦できる。ロンドンとはまた違ったクリエイティブな流れがあります。

ダニエル:日本に対する印象や、特に好きなことは?

Murray:日本にはもう何度も来ていますが、今でも自分は“外から来たエイリアン”のような気持ちが消えません。ちょっとだけ日本語が話せても、常に「外側」にいる感覚がある。でも、日本の秋は本当に好き。木の色や空気感、イギリスでは見たことがない景色です。

ARISAK:Murrayさんが「本音と建前」という言葉を知っていた時は驚きました。文化的な背景を理解しようとしているのが伝わってきて、とても嬉しかったです。

ダニエル:Murrayさんは、今回の撮影で日本的なロケーションを多く巡りましたが、それについてどう感じましたか?

Murray:あれは最高だったね。すごく小さなチームで、機動力もあって、何カ所も移動してさ。まるで週末に友達と遊んでるみたいな感覚だった。みんなで神社に行って、一緒にお参りしたのもすごく可愛くて、楽しかった。日本の友達に連れられて、神社やお寺に行くのって、実は何度かあって。拍手を打って、お辞儀して、お祈りするあの一連の流れが、本当に特別に感じるんだよね。すごくいい。

「これはマニフェスト(願望の可視化)だよ」ってダニエルが言ってたけど、それもすごくいい考えだと思う。イギリスには似たような文化がないからなおさらね。僕の世代って、あまり宗教に属してないし、でも日本の同世代の友達は「宗教的」ではなくても、すごくスピリチュアルだと思う。自然と精神性が生活に根付いてる。イギリスではそういうのって希薄なんだよ。

例えば、「いただきます」っていう文化もそう。食べ物に感謝して、自然や神様や命に敬意を払う。それってすごく深いことで、僕たちの文化にはなかなかない。イギリスでは「道は自分のもの」って感覚が強いけど、日本では「共有する」ものなんだよね。電車の中でも、みんな静かにしてて、スペースを“取る”んじゃなくて“譲る”という考え方。あれ、ほんとに好きだな。

ダニエル:今まで何度も日本に来てると思いますが、特に印象に残ってる季節や場所はありますか?

Murray:初めて来たのは4年前で、東京と大阪に行って3週間くらい滞在した。それからまた来て、去年の9月から10月には京都と沖縄にも行った。で、11月から12月末まではずっと東京にいて、それからまた戻ってきた。今度もまた東京に行く予定だし、今度は初めて九州(熊本と大分)にも行くんだ。最終的には夢の地、北海道にも行きたいし、Takaの出身地・仙台にも行って、A5ランクの仙台牛も食べたい(笑)。

季節で言うと、秋が一番好きだな。桜も好きだけど、正直言うと、東京の秋はもっと美しいと思ってる。あの紅葉、池に鯉が泳いでる庭園、全部が信じられないくらい静かで、平和で──世界で一番落ち着ける場所なんじゃないかって思うよ。

ダニエル:日本滞在が、音楽活動にも影響を与えたのでしょうか?

Murray:うん、大きく影響したよ。実は、3度目の日本滞在のとき、僕はイギリスで音楽を続けることにすごく疲れていて、マネージャーとレーベルにも「もう音楽を辞めたい」って宣言してたんだ。ちょうどパートナーとも別れた直後で、人生のどん底にいた。

そんな時に、日本があった。ロンドンから一番遠くて、自分が一番好きな場所だった。誰とも話したくなくて、でもTakaと毎日スタジオ・オニオンにこもって、一緒に曲を作ってた。それが、今のアルバムのタイトルにもなった。

精神的にも本当に辛い時期だったけど、ずっとセラピーも続けてたし、日本での生活が少しずつ自分を立て直してくれたんだ。特に秋の東京で、木々が色づいて、自然が死に向かっていくその移ろいの中で、自分も再生されていった気がする。

そういう背景があるから、東京は僕にとってただの都市じゃなくて、自分自身が変わるきっかけをくれた場所。だからこそ、こんなに大事に思ってるんだと思う。アルバムは完成したけど、僕の中では「まだ日本に来る旅」は終わっていないんだ。

ダニエル:今回の撮影で、キャラクターを演じる感覚があったと?

Murray:まさにそう。普段は「そのままの自分でいてください」って言われることが多いけど、今回は完全に“役を演じる”体験でした。オーバーサイズの衣装も動きやすくて、特にあのバルーンっぽい衣装は完全にエイリアン(笑)。あれ着てると自然にキャラに入り込めた。全体として「写真」というより、「ミュージックビデオ」や「短編映画」のような感覚でした。

ダニエル:演出面ではどうでしたか?

Murray:すごく的確で助かりました。「今はちょっと寂しい気持ちで」「この環境を初めて体験している感じで」と、ARISAKが常にキャラクターの内面に立ち戻らせてくれる。演じる上で、そのガイドがとても心強かったし、表現の幅も自然に広がりました。普通の撮影なら「かっこよく」だけで終わるところが、今回は「このキャラならどう動く? どう表情を作る?」と、すべて一緒に作っていった感覚でした。

ダニエル:ARISAKさんから見たマレーさんの印象は?

ARISAK:本当に表現力がすごくて、「今ちょっと悲しい感じで」と一言伝えるだけで、何パターンもすぐに出してくれるんです。モデルというより俳優のように、キャラクターを掴んで即座に反応してくれるので、撮影していてとても楽でした。アシスタントも「今のすごい!」って感動していて(笑)。とにかく、ただ撮られているというより、一緒に物語を“演じて”くれるのが印象的でした。

ダニエル:撮影中に印象的だったエピソードは?

Murray:撮影後にARISAKが代官山にある「Tea Bucks」のお茶をプレゼントしてくれたんですけど、それを車に置き忘れちゃって。でも、なんと彼女が自宅から恵比寿まで届けに来てくれたんです!それには本当に感動しました。「これが“おもてなし”か!」って。人としてもアーティストとしても、ほんとに素敵な人だと思います。

ダニエル:この撮影は連載の一部でもあるんですよね

ARISAK:
はい。この連載では、ただの「今月のゲスト紹介」にならないように、毎回の企画がつながっていく構成を意識しています。写真だけど、映画のように伏線があったり、世界観が広がっていくようにしたいんです。たとえば前のゲストと今月のゲストの物語が、裏でリンクしていたりもします。

Murray:すごいよね。本当に「一つの映画を観ている」みたいな感じ。しかも東京って、そういう“自然なつながり”が実際に生まれる場所でもあると思う。僕とARISAK、ダニエル、Taka(Perry)、SIRUPとも、全部が偶然から始まって、それが作品になっていく。それが東京の面白さであり、魔法だと思う。

ダニエル:撮影現場の雰囲気はどうでしたか?

ARISAK:日本の撮影現場は基本的に静かで真面目。でも今回は小さなチームでロケ地を移動して、神社でお祈りもしたりして、リラックスしながら楽しく撮れました。Murrayさんが現場の雰囲気を盛り上げてくれたので、チーム全体がいいムードになりました。

Murray:その通りで、撮影というより「週末に友達と遊んでいる」ような感じでした。何よりも、みんなと同じ方向を向いてクリエイティブに取り組めたのが嬉しかったです。

ダニエル:最後に、お互いにメッセージを

ARISAK:また一緒に作品を作れたら嬉しいです! 今回は“写真”の枠を超えたコラボレーションができて、自分にとっても大きな挑戦でした。マレーの表現力には本当に助けられました。

Murray:こちらこそ、本当にありがとう。東京で、こんなに楽しくて意味のある撮影ができたことは奇跡だと思っています。次に来たときも、ぜひまた何か一緒に作りましょう!

CREDIT
LOOK1:JACKET, SHIRT, PANTS / MA-A。, RINGS / MAHANA, OTHERS / STYLIST OWN
LOOK2:JACKET, SHOES / BUNKA FASHION COLLEGE, EYEWEAR / 3DID
LOOK3:SHOES / BUNKA FASHION COLLEGE


DIRECITON & PHOTOS:ARISAK
MODEL:MURRAY FROM HARD LIFE
HAIR & MAKEUP:JUNA UEHARA
STYLING:JINKI
TEXT:DANIEL TAKEDA
SPECIAL THANKS:TeaBucks, 大宮八幡宮, THE TOKYO

The post 【ARISAK Labo vol.5】英バンド・hard lifeのフロントマン・Murrayが巡る東京の街 appeared first on WWDJAPAN.

【ARISAK Labo vol.5】英バンド・hard lifeのフロントマン・Murrayが巡る東京の街

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.5となる今回は、ロンドン発の気鋭バンドhard lifeのフロントマン・Murray(マレー)が登場。今夏アルバム「オニオン(onion)」をリリースする彼が来日し、東京で夢を模索する姿をARISAKが捉える。

PROFILE: Murray

Murray
PROFILE: イギリス・レスター出身、現在はロンドンを中心に活動するバンドグループ・hard life(元easy life)のフロントマン。7月18日に3rdアルバム「オニオン」をリリース予定。収録曲のプロデュースはTaka Perryが行う

「まるで映画のワンシーンのような撮影だった」
Inside story of Murray × ARISAK
Interviewed by Daniel Takeda

今回の撮影について「東京に来るたびに色々な人と出会い、自身のコミュニティーを広げているMurrayにインスピレーションを受けて、日本に降りたった異星人をイメージした。最初は孤独で悲しい表情から、徐々に愛を取り戻し希望に満ちていくようなストーリーを描きました」とARISAK。その撮影の裏側について、かねてから両者と親交がある竹田ダニエルがインタビューした。

竹田ダニエル(以下、ダニエル):まず、今回の撮影に至った経緯から教えてください

Murray(マレー):日本滞在中、とにかく面白いことがしたくて、いろんなクリエイティブな人に会っていたんです。そんな時、ダニエルが「ARISAKに会ってみて」と言ってくれて。作品を見た瞬間、「これはヤバい、めちゃくちゃかっこいい」と衝撃を受けました。GOAT(Greatest of All Time)だと思ったし、「ロンドンでも一緒にやろうよ、絶対ウケるから!」ってすぐに言ったくらい。彼女の作品って、“ザ・日本”みたいな感じじゃなくて、NYやロンドン、パリでも通用する洗練さがある。それが本当にかっこよかった。

撮影企画の準備をするにあたって、彼女が送ってくれたイメージやリファレンス、衣装のルックブックも全部好みで、もうタイミングも内容も完璧でした。

ダニエル:撮影当日はどうでしたか?

Murray:最高でした。ARISAKは事前にストーリーを丁寧に説明してくれて、「君は地球に来たばかりのエイリアンで、少し寂しいけど、日本にいることでだんだん心が和らいでいく」っていう設定があったんです。その物語に沿って、表情や動きを変えていく。普通のファッション撮影だと「とにかくかっこよく撮れればOK」って感じだけど、今回は全体が一つの映像作品のように作り込まれていて、すごく没入感がありました。

ARISAK:最初にMurrayと話したとき、「日本で仲間を見つけてコミュニティーを広げている」というエピソードが印象的で、それをもとに「異星人が日本に降り立ち、さまよいながらこの国に馴染んでいく」という裏ストーリーを考えました。彼が映画『PERFECT DAYS』の世界観が好きだと聞いて、神社や日本茶のカフェ、竹林といったロケーションを選びました。衣装やメイクも、感情の変化を表現できるように工夫しています。たとえば最初は涙のような表情、後半はハートのシールで少しずつ柔らかく明るい表情になるように構成しました。

ダニエル:東京という街に特別な思い入れがあるようですね?

Murray:本当に特別な場所です。白金では友達のTaka Perry(以下、Taka)とアルバムを一緒に作ったし、また来月戻ってくる予定もあります。何度来ても、“自分はエイリアンだ”って感覚が抜けないんです。でもそれが心地よくて。日本語も少し話せるけど、「これで合ってるのかな?」って不安になることもあって、常に境界にいるような感覚がある。

でも、東京は何かを始めるのに最適な場所。誰も結果を気にせず「とりあえずやってみよう」という空気があって、怖がらずに挑戦できる。ロンドンとはまた違ったクリエイティブな流れがあります。

ダニエル:日本に対する印象や、特に好きなことは?

Murray:日本にはもう何度も来ていますが、今でも自分は“外から来たエイリアン”のような気持ちが消えません。ちょっとだけ日本語が話せても、常に「外側」にいる感覚がある。でも、日本の秋は本当に好き。木の色や空気感、イギリスでは見たことがない景色です。

ARISAK:Murrayさんが「本音と建前」という言葉を知っていた時は驚きました。文化的な背景を理解しようとしているのが伝わってきて、とても嬉しかったです。

ダニエル:Murrayさんは、今回の撮影で日本的なロケーションを多く巡りましたが、それについてどう感じましたか?

Murray:あれは最高だったね。すごく小さなチームで、機動力もあって、何カ所も移動してさ。まるで週末に友達と遊んでるみたいな感覚だった。みんなで神社に行って、一緒にお参りしたのもすごく可愛くて、楽しかった。日本の友達に連れられて、神社やお寺に行くのって、実は何度かあって。拍手を打って、お辞儀して、お祈りするあの一連の流れが、本当に特別に感じるんだよね。すごくいい。

「これはマニフェスト(願望の可視化)だよ」ってダニエルが言ってたけど、それもすごくいい考えだと思う。イギリスには似たような文化がないからなおさらね。僕の世代って、あまり宗教に属してないし、でも日本の同世代の友達は「宗教的」ではなくても、すごくスピリチュアルだと思う。自然と精神性が生活に根付いてる。イギリスではそういうのって希薄なんだよ。

例えば、「いただきます」っていう文化もそう。食べ物に感謝して、自然や神様や命に敬意を払う。それってすごく深いことで、僕たちの文化にはなかなかない。イギリスでは「道は自分のもの」って感覚が強いけど、日本では「共有する」ものなんだよね。電車の中でも、みんな静かにしてて、スペースを“取る”んじゃなくて“譲る”という考え方。あれ、ほんとに好きだな。

ダニエル:今まで何度も日本に来てると思いますが、特に印象に残ってる季節や場所はありますか?

Murray:初めて来たのは4年前で、東京と大阪に行って3週間くらい滞在した。それからまた来て、去年の9月から10月には京都と沖縄にも行った。で、11月から12月末まではずっと東京にいて、それからまた戻ってきた。今度もまた東京に行く予定だし、今度は初めて九州(熊本と大分)にも行くんだ。最終的には夢の地、北海道にも行きたいし、Takaの出身地・仙台にも行って、A5ランクの仙台牛も食べたい(笑)。

季節で言うと、秋が一番好きだな。桜も好きだけど、正直言うと、東京の秋はもっと美しいと思ってる。あの紅葉、池に鯉が泳いでる庭園、全部が信じられないくらい静かで、平和で──世界で一番落ち着ける場所なんじゃないかって思うよ。

ダニエル:日本滞在が、音楽活動にも影響を与えたのでしょうか?

Murray:うん、大きく影響したよ。実は、3度目の日本滞在のとき、僕はイギリスで音楽を続けることにすごく疲れていて、マネージャーとレーベルにも「もう音楽を辞めたい」って宣言してたんだ。ちょうどパートナーとも別れた直後で、人生のどん底にいた。

そんな時に、日本があった。ロンドンから一番遠くて、自分が一番好きな場所だった。誰とも話したくなくて、でもTakaと毎日スタジオ・オニオンにこもって、一緒に曲を作ってた。それが、今のアルバムのタイトルにもなった。

精神的にも本当に辛い時期だったけど、ずっとセラピーも続けてたし、日本での生活が少しずつ自分を立て直してくれたんだ。特に秋の東京で、木々が色づいて、自然が死に向かっていくその移ろいの中で、自分も再生されていった気がする。

そういう背景があるから、東京は僕にとってただの都市じゃなくて、自分自身が変わるきっかけをくれた場所。だからこそ、こんなに大事に思ってるんだと思う。アルバムは完成したけど、僕の中では「まだ日本に来る旅」は終わっていないんだ。

ダニエル:今回の撮影で、キャラクターを演じる感覚があったと?

Murray:まさにそう。普段は「そのままの自分でいてください」って言われることが多いけど、今回は完全に“役を演じる”体験でした。オーバーサイズの衣装も動きやすくて、特にあのバルーンっぽい衣装は完全にエイリアン(笑)。あれ着てると自然にキャラに入り込めた。全体として「写真」というより、「ミュージックビデオ」や「短編映画」のような感覚でした。

ダニエル:演出面ではどうでしたか?

Murray:すごく的確で助かりました。「今はちょっと寂しい気持ちで」「この環境を初めて体験している感じで」と、ARISAKが常にキャラクターの内面に立ち戻らせてくれる。演じる上で、そのガイドがとても心強かったし、表現の幅も自然に広がりました。普通の撮影なら「かっこよく」だけで終わるところが、今回は「このキャラならどう動く? どう表情を作る?」と、すべて一緒に作っていった感覚でした。

ダニエル:ARISAKさんから見たマレーさんの印象は?

ARISAK:本当に表現力がすごくて、「今ちょっと悲しい感じで」と一言伝えるだけで、何パターンもすぐに出してくれるんです。モデルというより俳優のように、キャラクターを掴んで即座に反応してくれるので、撮影していてとても楽でした。アシスタントも「今のすごい!」って感動していて(笑)。とにかく、ただ撮られているというより、一緒に物語を“演じて”くれるのが印象的でした。

ダニエル:撮影中に印象的だったエピソードは?

Murray:撮影後にARISAKが代官山にある「Tea Bucks」のお茶をプレゼントしてくれたんですけど、それを車に置き忘れちゃって。でも、なんと彼女が自宅から恵比寿まで届けに来てくれたんです!それには本当に感動しました。「これが“おもてなし”か!」って。人としてもアーティストとしても、ほんとに素敵な人だと思います。

ダニエル:この撮影は連載の一部でもあるんですよね

ARISAK:
はい。この連載では、ただの「今月のゲスト紹介」にならないように、毎回の企画がつながっていく構成を意識しています。写真だけど、映画のように伏線があったり、世界観が広がっていくようにしたいんです。たとえば前のゲストと今月のゲストの物語が、裏でリンクしていたりもします。

Murray:すごいよね。本当に「一つの映画を観ている」みたいな感じ。しかも東京って、そういう“自然なつながり”が実際に生まれる場所でもあると思う。僕とARISAK、ダニエル、Taka(Perry)、SIRUPとも、全部が偶然から始まって、それが作品になっていく。それが東京の面白さであり、魔法だと思う。

ダニエル:撮影現場の雰囲気はどうでしたか?

ARISAK:日本の撮影現場は基本的に静かで真面目。でも今回は小さなチームでロケ地を移動して、神社でお祈りもしたりして、リラックスしながら楽しく撮れました。Murrayさんが現場の雰囲気を盛り上げてくれたので、チーム全体がいいムードになりました。

Murray:その通りで、撮影というより「週末に友達と遊んでいる」ような感じでした。何よりも、みんなと同じ方向を向いてクリエイティブに取り組めたのが嬉しかったです。

ダニエル:最後に、お互いにメッセージを

ARISAK:また一緒に作品を作れたら嬉しいです! 今回は“写真”の枠を超えたコラボレーションができて、自分にとっても大きな挑戦でした。マレーの表現力には本当に助けられました。

Murray:こちらこそ、本当にありがとう。東京で、こんなに楽しくて意味のある撮影ができたことは奇跡だと思っています。次に来たときも、ぜひまた何か一緒に作りましょう!

CREDIT
LOOK1:JACKET, SHIRT, PANTS / MA-A。, RINGS / MAHANA, OTHERS / STYLIST OWN
LOOK2:JACKET, SHOES / BUNKA FASHION COLLEGE, EYEWEAR / 3DID
LOOK3:SHOES / BUNKA FASHION COLLEGE


DIRECITON & PHOTOS:ARISAK
MODEL:MURRAY FROM HARD LIFE
HAIR & MAKEUP:JUNA UEHARA
STYLING:JINKI
TEXT:DANIEL TAKEDA
SPECIAL THANKS:TeaBucks, 大宮八幡宮, THE TOKYO

The post 【ARISAK Labo vol.5】英バンド・hard lifeのフロントマン・Murrayが巡る東京の街 appeared first on WWDJAPAN.

40周年「イネド」の“変わらない”という生存戦略

百貨店の婦人服売り場では、かつて主力だったキャリア・ミセス向けブランドの勢いが衰える中、各社は「若返り」や「エレベーション(価格や品質の引き上げ)」を急いでいる。

その一方、市場には新たな空白も生まれている。高価格帯でもなく、かといってカジュアルすぎない、「ちょうどよくて、きちんとした服」を求める人たちの選択肢が減っているのだ。

そんな中で、「あえて変わらない」ことを選択し、じっくりと商機を見極めるブランドがある。フランドルが展開し、今年で40周年を迎える「イネド(INED)」だ。

40年続いた“認知”という財産

「まず私たちは品質やデザイン以前に、ブランドの“認知”こそ最大の資産だと考えている」。そう語るのは、フランドル副社長執行役員の五味田渉氏。「ブランドの強さは、尖ったデザインや流行性だけで測れるものではない。名前を“なんとなく”知ってもらえているだけで、安心して店に入ってもらえる。その土台があるだけで、十分他のブランドより一歩先を行っている」。

40周年を前に、社内ではブランドのイメージを刷新するような、大胆な改称案も持ち上がったという。最有力候補は「薔薇の姫君」。思い切った案だったが、「ちょっとやりすぎで、自分が止めた」と五味田氏は笑う。

中庸の価格帯に商機あり

ともかく五味田氏は、無理に大胆な改革を行うよりも、上述した「認知」のように、ブランドはすでに持っている強みがあるのだから、それを生かすべきと考える。

「イネド」の顧客層は、40〜60代のいわゆるニューミセス層。パンツは2万円台、ニットは1万円台後半、コートは6〜8万円と、百貨店キャリアブランドとしては“中庸”の価格帯を守り続けている。「百貨店には、『誰かに会うから新しい服を買おう』というような、来店目的がふわっとしたお客さまも多い。そういった方々には、『きちんと見えて』『ちょうどいい価格の服』がいつの時代も求められる」と語る。

一方、百貨店の現場では富裕層消費の高まりから、バイヤーからは高価格帯の商品を要請する声も強まっている。たとえば伊勢丹新宿本店3階の「コンテンポラリー」ゾーンでは、10万〜20万円台のコートが並び、「エブール」や「アナイ」などが支持を得ている。

変化は不可逆的

「ただ、価格帯を上げてしまうと、そう簡単に元のステージには戻れない。そういう不可逆性があって、容易に流されてしまうとドツボにはまる」と五味田氏は語る。

無理に変化しようとして本来の魅力を失い、顧客が離れ、衰退していったブランドを数多く見てきた。「いっとき数字が落ちたからといって無理に勝負に出ないこと。予算を90%、在庫を80%に抑えて利益を確保する。そういう運営でブランドを守っていくべき」。ブランドを持続させるために必要なのは「我慢の経営」であると五味田氏は繰り返す。

「それから顧客が高齢化してくると『若返らなきゃ』とよく言う。ただ婦人服ブランドの若返りでうまくいった例は、実際ほとんどない。なら新しいブランドを立ち上げればいいんだし、無理にやる必要はない」と断言する。

複合業態を強化

「イネド」は「イネド」の軸を守りつつ、カバーしきれないニーズには別ブランドで応える。今後は、複数ブランドを編集・展開する複合業態「スーペリアクローゼット」の出店をより強化していく考えもある。例えば高品質志向の顧客には、高級志向ブランド「コンテッサ」を薦める。25万円以上のカシミヤコートに水牛ボタンを使用するなど、原価率を高めてでも“本物”を届けるという、「イネド」とは異なる考えで差別化する。

「変化しなければ取り残される」とさかんに言われるこの時代において、「イネド」の「変わらない」という選択は一見すると保守的に映る。だが容易には流されず、足元を見失わないことも、ブランドを長く続けるために大事なマインドセットだろう。

The post 40周年「イネド」の“変わらない”という生存戦略 appeared first on WWDJAPAN.

40周年「イネド」の“変わらない”という生存戦略

百貨店の婦人服売り場では、かつて主力だったキャリア・ミセス向けブランドの勢いが衰える中、各社は「若返り」や「エレベーション(価格や品質の引き上げ)」を急いでいる。

その一方、市場には新たな空白も生まれている。高価格帯でもなく、かといってカジュアルすぎない、「ちょうどよくて、きちんとした服」を求める人たちの選択肢が減っているのだ。

そんな中で、「あえて変わらない」ことを選択し、じっくりと商機を見極めるブランドがある。フランドルが展開し、今年で40周年を迎える「イネド(INED)」だ。

40年続いた“認知”という財産

「まず私たちは品質やデザイン以前に、ブランドの“認知”こそ最大の資産だと考えている」。そう語るのは、フランドル副社長執行役員の五味田渉氏。「ブランドの強さは、尖ったデザインや流行性だけで測れるものではない。名前を“なんとなく”知ってもらえているだけで、安心して店に入ってもらえる。その土台があるだけで、十分他のブランドより一歩先を行っている」。

40周年を前に、社内ではブランドのイメージを刷新するような、大胆な改称案も持ち上がったという。最有力候補は「薔薇の姫君」。思い切った案だったが、「ちょっとやりすぎで、自分が止めた」と五味田氏は笑う。

中庸の価格帯に商機あり

ともかく五味田氏は、無理に大胆な改革を行うよりも、上述した「認知」のように、ブランドはすでに持っている強みがあるのだから、それを生かすべきと考える。

「イネド」の顧客層は、40〜60代のいわゆるニューミセス層。パンツは2万円台、ニットは1万円台後半、コートは6〜8万円と、百貨店キャリアブランドとしては“中庸”の価格帯を守り続けている。「百貨店には、『誰かに会うから新しい服を買おう』というような、来店目的がふわっとしたお客さまも多い。そういった方々には、『きちんと見えて』『ちょうどいい価格の服』がいつの時代も求められる」と語る。

一方、百貨店の現場では富裕層消費の高まりから、バイヤーからは高価格帯の商品を要請する声も強まっている。たとえば伊勢丹新宿本店3階の「コンテンポラリー」ゾーンでは、10万〜20万円台のコートが並び、「エブール」や「アナイ」などが支持を得ている。

変化は不可逆的

「ただ、価格帯を上げてしまうと、そう簡単に元のステージには戻れない。そういう不可逆性があって、容易に流されてしまうとドツボにはまる」と五味田氏は語る。

無理に変化しようとして本来の魅力を失い、顧客が離れ、衰退していったブランドを数多く見てきた。「いっとき数字が落ちたからといって無理に勝負に出ないこと。予算を90%、在庫を80%に抑えて利益を確保する。そういう運営でブランドを守っていくべき」。ブランドを持続させるために必要なのは「我慢の経営」であると五味田氏は繰り返す。

「それから顧客が高齢化してくると『若返らなきゃ』とよく言う。ただ婦人服ブランドの若返りでうまくいった例は、実際ほとんどない。なら新しいブランドを立ち上げればいいんだし、無理にやる必要はない」と断言する。

複合業態を強化

「イネド」は「イネド」の軸を守りつつ、カバーしきれないニーズには別ブランドで応える。今後は、複数ブランドを編集・展開する複合業態「スーペリアクローゼット」の出店をより強化していく考えもある。例えば高品質志向の顧客には、高級志向ブランド「コンテッサ」を薦める。25万円以上のカシミヤコートに水牛ボタンを使用するなど、原価率を高めてでも“本物”を届けるという、「イネド」とは異なる考えで差別化する。

「変化しなければ取り残される」とさかんに言われるこの時代において、「イネド」の「変わらない」という選択は一見すると保守的に映る。だが容易には流されず、足元を見失わないことも、ブランドを長く続けるために大事なマインドセットだろう。

The post 40周年「イネド」の“変わらない”という生存戦略 appeared first on WWDJAPAN.

新潟・十日町発 デザイナー兼コメ農家が挑む「着物再生」

着物の産地として知られる新潟県十日町市に移住し、活躍する若手デザイナーがいる。彼が作るのは、タンスの肥やしになっていた着物を仕立て直したワンピースやシャツ、シューズ、ネクタイなど。SDGsや地域おこしの観点で注目を集め、自治体や有力企業からの仕事依頼が相次ぐ。

5月下旬、田植えを終えたばかりの水田が広がる十日町のアトリエで、杉浦充宜さん(34)はたくさんの古い着物を点検していた。自宅1階の農機具置き場を改装したアトリエには、主に市内で回収した古い着物が定期的に届く。鮮やかな柄の振袖、艶やかな友禅や上品な絣(かすり)の訪問着、金糸銀糸を使った帯などさまざまだ。

「十日町はふつうの家庭にも着物が浸透していて、母から娘へと受け継がれる。でも着る機会がなく、廃棄されてしまうケースが多々あり、非常にもったいない。洋服や小物に形を変えて、少しでも継承していきたい」

リメークした商品は主にEC(ネット通販)で売る。新潟伊勢丹ではポップアップストアを出店した。自治体からの依頼でイベントをする機会も多く、今年2月の十日町雪まつりでもランウェイショーを開いた。新潟県からのオファーを受け、7月には大阪・関西万博への出品を控える。

「着物にハサミを入れるのが怖かった」

杉浦さんは静岡県浜松市出身。「ダンヒル」のスーツをダンディに着こなす父を見て、幼い頃からテーラードに関心を持った。高校卒業後の2009年に渡英し、サビルローの職人に話を聞いたり、スーツを解体したり、貪欲に本場の紳士服を吸収した。日本の服飾専門学校で学んだ後、5年間在籍した「ルイ・ヴィトン」ではテーラリングスペシャリストとして各地の百貨店に勤務した。メンズ部門でキム・ジョーンズ、ヴァージル・アブローが活躍していた時期で、杉浦さんは「彼らが作り出すクリエーションに惚れ込んだ。魅力的なコンセプトを打ち立てデザインする手法に強い影響を受けた」と話す。

転機はコロナ禍の21年。妻・美紅さんの故郷、十日町に移住した。十日町は魚沼産コシヒカリの産地としても有名で、美紅さんの実家もコメ農家である。体調を崩した両親に替わって、杉浦さん夫婦が農業を引き継ぐことになったのだ。ファッションの仕事からは離れるつもりだった。しかし美紅さんから「母から譲り受けた着物を着る機会がない」と聞き、同じ課題を持っている人が周囲に多いことを知る。「着物再生プロジェクト」に挑もうと決意する。

葛藤もあった。スーツと着物は全く違う。着物はそれ自体が完成された美である。着物の知識がないよそ者の自分が、地域の宝である着物を洋服に仕立て直して良いのか。「着物にハサミを入れるのが怖かった」と振り返る。

少しでも地元の人たちの理解を得ようと、23年春に公民館でファッションショーを開催した。モデルも地元の人を起用するなど、手作り感あふれるものだった。50人ほどの観客を集めたショーは評判を呼んだ。地元でも着物のショー自体は珍しくなかったが、独自の感性とクオリティーで表現されたステージは若い世代から支持を得た。

市からは「(費用を出すので)ぜひ町おこしのためショーを開いてください」と頼まれた。着物集めや縫製などで協力を名乗り出る人も増えた。地元の着物企業からも「和装を盛り上げてくれてありがとう」「応援したい」といった声が寄せられた。「これほど喜ばれるとは想像していなかった。十日町の皆さんが笑顔になってくれることが一番うれしかった」。

2000年に比べて3割減という深刻な人口減少に直面する十日町市は、移住者の受け入れに積極的だ。杉浦さんは移住者による地域活性化の好例として、地元のテレビや新聞でもたびたび密着取材を受けた。十日町の若い世代によるSDGs発信という文脈で拡散されていった。

24年1月にMitsuyoshi Design Studio(ミツヨシデザインスタジオ)を設立。着物再生プロジェクトだけでなく、得意のテーラードスーツの制作、パッケージやロゴなどのデザイン、イベント企画など幅広い業務を手掛けるようになった。市内・県内だけでなく、東京でもショーを開いた。今年4月にはJR東日本・飯山線の観光列車に、着物を部分的に使った制服が採用された。杉浦さんのもとにはさまざまな案件が舞い込む。

「ようやく十日町の人間になれたかな」

農家としても奮闘する。浜松市の市街地近くで育った杉浦さんにとって農業は未知の世界だった。義理の両親や親戚、近所の人たちが、親切に根気よく教えてくれるので、少しずつ仕事に慣れていった。

今年も5月に田植えを終えた。これから暑くなると草取りや草刈りに汗をかく日が続く。アトリエに籠る時間よりも、田畑で長靴を履いている時間の方が長い。トマトやナスなどの野菜作りではイノシシ対策に頭を悩ませる。

それでも田舎暮らしが気に入っている。「農業はクリエイティブ。天候もそうだし、肥料のやり方一つで出来が変わる。愛情の掛け方で差が出る。服と同じように、僕は魚沼産コシヒカリに誇りを持っている。まだ修行中の身で偉そうなことは言えないけれど」と笑う。

冬になると雪が2m以上積もる豪雪地帯で、過酷な自然と向き合って暮らす。移住前は地元に溶け込めるのか不安だったが、着物のリメークでもコメ作りでも地域の人が手を差し伸べてくれた。着物もコメも厳しい自然とそこで助け合いながら暮らす人たちの営みから生まれる。「ルイ・ヴィトン」で働いていた頃とは何もかも違うが、都市生活では感じられなかった種類の手応えがある。杉浦さんは最近、ふとした時に思う。「僕もようやく十日町の人間になれたかな」。

メディアの取材で目標を聞かれるたび、「パリでショーを開きたい」と答えてきた。これを夢では終わらせない。今年秋に実現のメドをつけた。着物のリメーク品と自身の原点であるスーツを披露すべく、着々と準備を進める。移住先で少しずつ共感の輪を広げてきた着物再生プロジェクト。田んぼに黄金色の稲穂が実って、稲刈りを終えた後、杉浦さんはパリに渡る。

The post 新潟・十日町発 デザイナー兼コメ農家が挑む「着物再生」 appeared first on WWDJAPAN.

新潟・十日町発 デザイナー兼コメ農家が挑む「着物再生」

着物の産地として知られる新潟県十日町市に移住し、活躍する若手デザイナーがいる。彼が作るのは、タンスの肥やしになっていた着物を仕立て直したワンピースやシャツ、シューズ、ネクタイなど。SDGsや地域おこしの観点で注目を集め、自治体や有力企業からの仕事依頼が相次ぐ。

5月下旬、田植えを終えたばかりの水田が広がる十日町のアトリエで、杉浦充宜さん(34)はたくさんの古い着物を点検していた。自宅1階の農機具置き場を改装したアトリエには、主に市内で回収した古い着物が定期的に届く。鮮やかな柄の振袖、艶やかな友禅や上品な絣(かすり)の訪問着、金糸銀糸を使った帯などさまざまだ。

「十日町はふつうの家庭にも着物が浸透していて、母から娘へと受け継がれる。でも着る機会がなく、廃棄されてしまうケースが多々あり、非常にもったいない。洋服や小物に形を変えて、少しでも継承していきたい」

リメークした商品は主にEC(ネット通販)で売る。新潟伊勢丹ではポップアップストアを出店した。自治体からの依頼でイベントをする機会も多く、今年2月の十日町雪まつりでもランウェイショーを開いた。新潟県からのオファーを受け、7月には大阪・関西万博への出品を控える。

「着物にハサミを入れるのが怖かった」

杉浦さんは静岡県浜松市出身。「ダンヒル」のスーツをダンディに着こなす父を見て、幼い頃からテーラードに関心を持った。高校卒業後の2009年に渡英し、サビルローの職人に話を聞いたり、スーツを解体したり、貪欲に本場の紳士服を吸収した。日本の服飾専門学校で学んだ後、5年間在籍した「ルイ・ヴィトン」ではテーラリングスペシャリストとして各地の百貨店に勤務した。メンズ部門でキム・ジョーンズ、ヴァージル・アブローが活躍していた時期で、杉浦さんは「彼らが作り出すクリエーションに惚れ込んだ。魅力的なコンセプトを打ち立てデザインする手法に強い影響を受けた」と話す。

転機はコロナ禍の21年。妻・美紅さんの故郷、十日町に移住した。十日町は魚沼産コシヒカリの産地としても有名で、美紅さんの実家もコメ農家である。体調を崩した両親に替わって、杉浦さん夫婦が農業を引き継ぐことになったのだ。ファッションの仕事からは離れるつもりだった。しかし美紅さんから「母から譲り受けた着物を着る機会がない」と聞き、同じ課題を持っている人が周囲に多いことを知る。「着物再生プロジェクト」に挑もうと決意する。

葛藤もあった。スーツと着物は全く違う。着物はそれ自体が完成された美である。着物の知識がないよそ者の自分が、地域の宝である着物を洋服に仕立て直して良いのか。「着物にハサミを入れるのが怖かった」と振り返る。

少しでも地元の人たちの理解を得ようと、23年春に公民館でファッションショーを開催した。モデルも地元の人を起用するなど、手作り感あふれるものだった。50人ほどの観客を集めたショーは評判を呼んだ。地元でも着物のショー自体は珍しくなかったが、独自の感性とクオリティーで表現されたステージは若い世代から支持を得た。

市からは「(費用を出すので)ぜひ町おこしのためショーを開いてください」と頼まれた。着物集めや縫製などで協力を名乗り出る人も増えた。地元の着物企業からも「和装を盛り上げてくれてありがとう」「応援したい」といった声が寄せられた。「これほど喜ばれるとは想像していなかった。十日町の皆さんが笑顔になってくれることが一番うれしかった」。

2000年に比べて3割減という深刻な人口減少に直面する十日町市は、移住者の受け入れに積極的だ。杉浦さんは移住者による地域活性化の好例として、地元のテレビや新聞でもたびたび密着取材を受けた。十日町の若い世代によるSDGs発信という文脈で拡散されていった。

24年1月にMitsuyoshi Design Studio(ミツヨシデザインスタジオ)を設立。着物再生プロジェクトだけでなく、得意のテーラードスーツの制作、パッケージやロゴなどのデザイン、イベント企画など幅広い業務を手掛けるようになった。市内・県内だけでなく、東京でもショーを開いた。今年4月にはJR東日本・飯山線の観光列車に、着物を部分的に使った制服が採用された。杉浦さんのもとにはさまざまな案件が舞い込む。

「ようやく十日町の人間になれたかな」

農家としても奮闘する。浜松市の市街地近くで育った杉浦さんにとって農業は未知の世界だった。義理の両親や親戚、近所の人たちが、親切に根気よく教えてくれるので、少しずつ仕事に慣れていった。

今年も5月に田植えを終えた。これから暑くなると草取りや草刈りに汗をかく日が続く。アトリエに籠る時間よりも、田畑で長靴を履いている時間の方が長い。トマトやナスなどの野菜作りではイノシシ対策に頭を悩ませる。

それでも田舎暮らしが気に入っている。「農業はクリエイティブ。天候もそうだし、肥料のやり方一つで出来が変わる。愛情の掛け方で差が出る。服と同じように、僕は魚沼産コシヒカリに誇りを持っている。まだ修行中の身で偉そうなことは言えないけれど」と笑う。

冬になると雪が2m以上積もる豪雪地帯で、過酷な自然と向き合って暮らす。移住前は地元に溶け込めるのか不安だったが、着物のリメークでもコメ作りでも地域の人が手を差し伸べてくれた。着物もコメも厳しい自然とそこで助け合いながら暮らす人たちの営みから生まれる。「ルイ・ヴィトン」で働いていた頃とは何もかも違うが、都市生活では感じられなかった種類の手応えがある。杉浦さんは最近、ふとした時に思う。「僕もようやく十日町の人間になれたかな」。

メディアの取材で目標を聞かれるたび、「パリでショーを開きたい」と答えてきた。これを夢では終わらせない。今年秋に実現のメドをつけた。着物のリメーク品と自身の原点であるスーツを披露すべく、着々と準備を進める。移住先で少しずつ共感の輪を広げてきた着物再生プロジェクト。田んぼに黄金色の稲穂が実って、稲刈りを終えた後、杉浦さんはパリに渡る。

The post 新潟・十日町発 デザイナー兼コメ農家が挑む「着物再生」 appeared first on WWDJAPAN.

沖縄コスメLIST.6 「オリオン コスメティクス」 廃棄食材をアップサイクルすることで、“自然派コスメ”へと昇華

「オリオン コスメティクス」 廃棄食材をアップサイクルすることで、“自然派コスメ”へと昇華

県内外で定評のある“沖縄コスメブランド”を紹介する企画の第6弾。今回は沖縄県内の食品加工業者から廃棄されていた材料を採用することで、付加価値の高いコスメへと生まれ変わらせた「オリオン コスメティクス(ORION COSMETICS)」をピックアップ。古波藏利菜「オリオン コスメティクス」代表に取材した。

――:古波藏さんはもともと神奈川県の出身で、東京大学で助教として化学を研究されていたとか。沖縄に移住したきっかけを教えてください。

古波藏利菜「オリオン コスメティクス」代表(以下、古波藏):はい、東京大学では助教として化学を教える一方、研究者としても14年ほど有機化合物全般を研究していました。ただ、もともと植物由来の化合物や原料も研究したいという思いもあったことから、いちど大学を離れてみようと考えまして。その後、自然に恵まれた研究環境を探して石川県、長野県、沖縄県のなかで移住地の候補を探したのですが、沖縄は街並みに自然が溶け込んでいて、人と自然が調和しているなと感じたのです。それが私の目指している社会に近いイメージでもあったことから、2020年に沖縄に移住することになりました。

――:「オリオン コスメティックス」を立ち上げたきっかけは?

古波藏利菜「オリオン コスメティクス」代表

古波藏:もともと化学実験操作の中でも“蒸留”がとても好きでして(笑)。なので、沖縄では身近な植物である月桃の蒸留水から作りはじめて、レモングラスやハーブを混ぜたりなど、鍋の中でいろいろなブレンドを試しました。そのレシピを“手作り化粧品”としてワークショップで紹介していたのが化粧品作りのきっかけです。

その際、化粧品作りで必要な素材は県内の食品加工業者が破棄される素材、たとえば製糖工場のさとうきびの灰やハーブティ農家の規格外茶葉などを譲っていただいていたのですが、沖縄はそういった工場や農家が多いことから、声をかけてみると意外に化粧品の素材となるものが多く集まりまして。そこで、この素材をアップサイクルすることで、もっとたくさんの人に使っていただきたいと考え、「オリオン コスメティクス」の設立に至りました。

――:では、ブランドの代表的なスキンケアについて教えてください。

古波藏:人気製品である“廃棄豆から生まれた珈琲バーム”は、地元農家の未完熟珈コーヒー豆を採用したバームです。もともと県立浦添商業高校の女子高生から「未完熟で廃棄されているコーヒー豆をなんとかアップサイクルできないか」と相談を持ち掛けられたことがきっかけでした。そこで、紫外線防止効果や肌荒れをケアする作用のあるポリフェノール、クロロゲン酸を豊富に含むコーヒー種子エキスを抽出しつつ、そこにバージンセサミオイルやミツロウを加えることで、全身に使えるマルチバームとして完成させました。バームでは珍しく、珈琲のやさしい香りが特長なので、さまざまな世代の人に愛用してもらっています。

――:スキンケアだけでなく、洗濯用洗剤も開発されたとか?

古波藏:はい。洗濯用洗剤「キビ ウォッシュ(KIBI WASH)」は製糖工場で砂糖を生産する過程で生じる“灰”をアップサイクルすることで開発しました。“灰”の成分を水に抽出するとアルカリ性の水溶液になり、これが衣類に付着した皮脂やタンパク質の汚れを落とします。弊社が行った洗浄力調査でも醤油やケチャップなどの落ちにくい汚れも、一般的な洗濯用洗剤と同様のレベルでの汚れ落ちを確認しており、植物由来ながら充分な洗浄効果を発揮します。また、2024年には沖縄県優良県産品としても認定されたこともあり、県内外のお客さまから大変ご好評いただいています。

「オリオン コスメティクス」

――:今後の展開を教えてください。

古波藏:スキンケア、洗剤はもちろん、ドラッグストアで売られているようなパーソナルケアを自然由来の素材で開発していきたいと考えています。たとえば、沖縄には島豆腐を作る工場がたくさんありますが、聞けば大豆のゆで汁やおからは破棄されているとか。大豆にはサポニンという界面活性成分が含まれていて、水に溶かして混ぜると泡がたつ特性があります。こういった特性を生かせば、新しい洗浄ケアを開発できるはず。このようにアップサイクル原料ありきで、新しいパーソナルケアを開発していきたいと考えています。

The post 沖縄コスメLIST.6 「オリオン コスメティクス」 廃棄食材をアップサイクルすることで、“自然派コスメ”へと昇華 appeared first on WWDJAPAN.

人気ヘアサロン「グリコ」が“ヴィンテージ”で新展開 “美容室のお客さまに似合う服”をイメージして海外で買い付け

PROFILE: エザキヨシタカ/「グリコ(grico)」代表

エザキヨシタカ/「グリコ(grico)」代表
PROFILE: 2009年原宿に「グリコ」をオープン。芸能人、コレクションのヘアメイク、TV出演、CM出演、アパレル業、製品開発、コンサルティングなど多方面で活躍。業界を超えて多くのメディアから注目されている。インスタグラムは@grico0221 PHOTOS : YOHEI KICHIRAKU

人気ヘアサロン「グリコ(grico)」は昨年、設立15周年を迎えた。それを機にオープンした新店舗「grico Na ni Yo(グリコ ナ・ニ・ヨ)」は、通常のヘアサロンとして営業しつつも、店舗の一角でヴィンテージ服ブランド「グリコ ヴィンテージ(grico vintage)」の販売も行う新業態だ。ここではエザキヨシタカ「グリコ」代表に、新店舗の狙いと、「グリコ ヴィンテージ」の現在地を聞いた。(この記事は「WWDBEAUTY」2025年2月24日号から抜粋して追記したものです)

WWD:「グリコ ヴィンテージ」を始めたきっかけは?

エザキヨシタカ「グリコ」代表(以下、エザキ):「グリコ ヴィンテージ」は、10年ほど前から取り組み始めたファッションブランド「グリコ クロージング(grico clothing)」の派生系として、昨年にスタートしました。美容の仕事でよく撮影を行うのですが、季節的な兼ね合いで新作を借りられないことも多く、よく古着屋に協力してもらっていました。その中でつながりができていき、自分自身もヴィンテージの魅力にハマっていきました。何より自分に似合う1点ものに出合ったときの喜びは、洋服を好きになった頃の自分を思い出させる感動に通じるものがあり、そうした喜びを美容室のお客さまにも体験してもらいたいと思いスタートしました。

WWD:自身のファッションにも取り入れている?

エザキ:そうですね。以前はハイブランドを着ることが多かったのですが、最近ではヴィンテージのアイテムも取り入れています。「グリコ ヴィンテージ」での提案も、「ファッションをヴィンテージに切り替えましょう」ではなく、「1品でもヴィンテージを取り入れると楽しいですよ」といった提案です。だから全身ハイブランドに身を包んでサロンに来店したお客さまが、「グリコ ヴィンテージ」を購入して着用したため、少し汚くなって帰るケースも多いですね(笑)。

WWD:「グリコ ヴィンテージ」の服はどうそろえている?

エザキ:これが最大の特徴でもあるのですが、大半の服は、僕が海外に行って直接買い付けています。日本の倉庫もチェックしているのですが、テンションがアガらないことが多く……。アメリカ・ロサンゼルスやタイ、シンガポールなどに行き、サロンのおしゃれなお客さまをイメージして「あの人に似合いそう!」といった感じでセレクトしています。ヴィンテージ業界に入って気付いたのですが、この業界では“(レアで)価値のあるもの”を求めているバイヤーが大半です。けれど僕は価値や値段に関係なく、本当にかっこいい服・かわいい服・お客さまに似合いそうな服を買い付けていて、それが美容師である僕が提案するヴィンテージのこだわりです。僕はあくまで美容師なので、価値の追求に過度に深入りすることはせず、適度な距離感で付き合うことが「グリコ ヴィンテージ」のオリジナリティーだと思っています。

WWD:ヴィンテージを購入する顧客は多い?

エザキ:コンスタントに売れています。「グリコ ナ・ニ・ヨ」は「グリコ」のすぐ近くにあるため、「グリコ」のお客さまが、帰りに「グリコ ナ・ニ・ヨ」に立ち寄ってヴィンテージを見ていくパターンも多いです。単価が20〜40万円くらいになるお客さまも結構いるのですが、原価が高いために利益はそれほど高くないです。できる限りお買い得な価格で提供したいのですが、あまり安くしても業界の水準を崩してしまうので、値段決めには気を遣っています。品ぞろえの価格帯は8000円〜35万円くらいで、本当にバラバラですね。

WWD:ポップアップイベントもやっている?

エザキ:2カ月に1回くらい実施しています。1月にも「グリコ」の2フロアを使って2日間に渡って開催し、総額2000万円くらい売り上げました。世界各国からバイヤーが来てくれて盛況でしたね。「東京・原宿のど真ん中でヴィンテージをやっている美容師がいるけど何者?」みたいな感じで、海外でも話題にしてくれているみたいです。

WWD:美容師がヴィンテージをやる意義をどう考える?

エザキ:僕は髪の毛だけではなく、お客さまの人生を潤わすことができるのが美容師だと思っています。そのためにはいろいろな窓口があるのに、誰かが勝手に決めた“美容師像”にとらわれている人が多いですよね。その壁を打ち破るためにも、サロンを“ここに来れば楽しさがいっぱいある場所”“自分自身をまた好きになれる場所”にしたいと思い、その手段の1つとしてヴィンテージに取り組んでいます。あと僕にはお客さまに似合うものを提案し、それがハマったときに興奮する“癖”があるので、毎日楽しくやっています。

WWD:今後、買い付けに行きたい場所は?

エザキ:インドネシアのジャカルタですかね。アジアではタイなどに行ったことがあるのですが、タイは市場が出来上がっている印象でした。けれどジャカルタはそれほどでもないので、掘り出し物が見付かるかなと。あとはヨーロッパの(都市ではなくて)郊外で、ユーロヴィンテージを見たいですね。無骨で男臭いかっこ良さのあるアメリカンヴィンテージと違い、ヨーロッパのワークウエアにはスタイリッシュなイメージがあるので、お客さまに似合う服が見付かりそうなんです。

The post 人気ヘアサロン「グリコ」が“ヴィンテージ”で新展開 “美容室のお客さまに似合う服”をイメージして海外で買い付け appeared first on WWDJAPAN.

話題集めた異色タッグ、ファレル×「モエ・エ・シャンドン」の狙いをCEOが語る


PROFILE: シビレ・シェラー/モエ・エ・シャンドン社長兼CEO

PROFILE: ボストンのシモンズ経営大学院でMBAを取得。ラグジュアリー業界で25年以上にわたり、ヨーロッパ、北米、南米、アジアでキャリアを重ねる。2012年にLVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトンに入社し、DFSグループでマーケティング責任者として業績向上に貢献。18年にシャンドンの社長に就任し、23年7月より現職 PHOTO : KAZUSHI TOYOTA

「モエ・エ・ジャンドン(MOET & CHANDON)」とファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams、以下ファレル)がこの春コラボレーションした限定ボトルは、発売直後から多くの注目を集めた。そのアイコニックなボトルデザインは誕生日をテーマにしたもので、メゾンのアーカイブに残っていた、1892年当時のリボンに着想を得ている。1743年の創業以来、多くの特別な瞬間を共にしてきたシャンパンメゾンは、なぜ稀代のポップスターと手を組んだのか。シビレ・シェラー(Sibylle Schere)=社長兼CEOに、その経緯や狙いを聞いた。

歴史的協業は自然に始まった

WWD:ファレル・ウィリアムスとのコラボレーションはどのように始まったのか。

シビレ・シェラー=モエ・エ・シャンドン社長兼CEO(以下、シェラー):コラボレーションは約1年半前、ファレルが「モエ・エ・シャンドン」のブドウ畑があるシャンパーニュ地方を訪問したことから始まった。彼は「モエ・エ・シャンドン」の製造工程、1本のボトルに込められた情熱や愛、クラフツマンシップを深く理解し、感銘を受けたようだった。その際、つながりや希望、喜びを信じるという彼の価値観とメゾンの理念に親和性を感じ、自然と「一緒に何かをしよう」という流れになった。

WWD:ファレルがデザインしたボトルは、1892年当時にボトルに用いられていたリボンに着想を得ている。制作にあたり「モエ・エ・シャンドン」からリクエストしたことは?

シェラー:特別なリクエストはしていない。ファレルは、282年の歴史を持つわれわれのアーカイブ部門を訪れ、ボトルに巻かれたリボンに着目した。リボンは贈り物の象徴であると同時に、人と人を結びつける“つながり”の象徴でもある。まさに、メゾンが大切にしている“分かち合う喜び”を体現してくれた。

WWD:コラボレーションテーマを「誕生日」にした理由は?

シェラー:シャンパンを開ける瞬間は、常に祝福のシーンであり、その中でも誕生日は最もパーソナルかつ普遍的な祝いの場だ。世界では、毎日約22万人が誕生日を迎えている点にも着目し、ファレルは“誕生日”という祝祭にインスピレーションを得て、今回のデザインに取り組んだ。“誰かと喜びの瞬間を分かち合う”ことの大切さを象徴している。

コラボで拡張するシャンパンの価値

WWD:これまでも多くのファッション業界の重鎮とコラボレーションしてきたが、今回の取り組みの狙いは?

シェラー:「モエ・エ・シャンドン」にとってコラボレーションとはメゾンの魂だ。私たちは、想像力に富んだアーティストとの関係性を重視している。ファレルは音楽やファッション、カルチャーの文脈において強い影響力を持つ人物であり、メゾンの価値観とも深く共鳴する存在だ。彼のクリエイティブな精神と先見の明が、「モエ・エ・シャンドン」の本質を新たな形で表現してくれた。彼とのつながりを今後も大切にし、より長期的なパートナーシップになればうれしい。

WWD:「モエ・エ・シャンドン」CEOに就任して約2年が経つ。改めて感じるメゾンの強さは?

シェラー:まず最初に感じたのは、長い歴史と伝統への深い敬意だ。だからこそ、謙虚な姿勢と誇りを持って取り組んでいる。そして、最も大きな発見は“人”だ。シャンパーニュ地方でブドウ畑を耕す人々、醸造に携わる人々──それら全てのスタッフが、情熱と愛を持ってクラフツマンシップを追求し、その集合体が「モエ・エ・シャンドン」の強さとなっている。また、伝統を重んじる一方で、イノベーションにも絶え間なく挑んでいるのも特徴だ。

WWD:他にも何かある?

シェラー:サステナブルにも注力していること。メゾンはシャンパーニュ地方で最大級のブドウ畑を所有しており、自然との共生に重きを置いている。気候変動の危機の中、持続可能なブドウ栽培に真剣に取り組んでおり、土壌管理から栽培方法に至るまで、全てのプロセスでサステナビリティを実践している。

WWD:日本市場については、どのように捉えている?

シェラー:日本には1903年に上陸し、120年以上の歴史を持つ。日本市場は、文化的にも歴史的にも私たちメゾンと多くの価値観を共有しており、非常に相性がいい。卓越性や伝統、モダニティー、調和といった点で共通している。さらに、日本の消費者は、“体験”に重きを置き、レストランやバーといった場でシャンパンを嗜む文化が根付いている。今後も、喜びや幸せ、楽しさ、そして豊かな時間といった本質を、「モエ・エ・シャンドン」と共に感じてほしい。

The post 話題集めた異色タッグ、ファレル×「モエ・エ・シャンドン」の狙いをCEOが語る appeared first on WWDJAPAN.

石橋英子、7年ぶりの歌のアルバム「Antigone」を語る なぜ今、歌の作品をつくるのか?

濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」や「悪は存在しない」の音楽を手掛け、国内外で注目を集める石橋英子。個人の活動に加えて多岐にわたる共演(星野源、前野健太、坂本慎太郎)でも知られ、近年は海外でのリリースや演奏の機会も増える彼女が、最新アルバム「Antigone」を発表した。件(くだん)のサウンドトラック以後もさまざまな形態の作品を制作している石橋だが、歌入りのアルバムとしては7年ぶり、2018年の「The Dreams My Bones Dream」以来の作品となる。長年制作を共にするジム・オルークと石橋自身が共同でプロデュースを務め、レコーディングには山本達久をはじめマーティ・ホロベック、ermhoi、松丸契ら多彩なミュージシャンが参加。揺らぎをたたえた演奏はジャズやサイケデリック、アンビエント……を交差しながらかたちを変え、幽玄で流れるようなサウンドスケープが彼女の「歌」を余韻豊かに演出している。

ギリシャ神話に登場するオイディプスの娘アンティゴネの悲劇にちなんでタイトルがつけられた「Antigone」。その理由について本人は明言を避けるが、「The Model」で引用された哲学者ミシェル・フーコーのテキスト「18世紀における健康政策」も印象的な今作における彼女の「言葉」は、具体的な場面も想起させる描写(「8月に灰が降る/10月に血が光る」)を交えながら、聴くものの注意を静かに惹きつける。そして、今作が生まれた背景には、“アクチュアル”と言ってもいい直接的で明確な動機が彼女の中にあったことが、以下のインタビューからはうかがえる。

「なぜ今、歌の作品をつくるのか」――彼女が立てたその問いは、「Antigone」のスタート地点にして、作品の基底に流れるテーマとして、それぞれの楽曲を大きく束ねている。今作が制作された背景、そして濱口監督との出会い、その音楽活動と密接に結びついた映画体験について、海外での公演のため日本を立つ直前の彼女に話を聞いた。

アルバムをつくるのは
長い航海に出るような感覚

——先日のLIQUIDROOMで行われたライブを終えられて、いかがでしたか。

石橋英子(以下、石橋):準備はとても大変だったんですけど、すごく楽しかったです。みんな(メンバー)も楽しんで演奏してくれたのが伝わってきましたし、お客さんもすごく温かい雰囲気で、なんだか勇気づけられながら演奏したって感じでした。

——“勇気づけられた”という感覚は、これまでのライブではあまりなかったものでしたか。

石橋:そうですね。あんなに大きいキャパシティーでライブをすること自体、あまり多くはないので。それに、もともと人前で歌うのがそんなに好きじゃないので(笑)、それで緊張するというのもあるんですけど。でも、お客さんが温かい感じで見守ってくださっている感じがあって、それがすごくありがたかったです。

——新作の「Antigone」を聴かせていただいて、とても軽やかで、動きが感じられるバンドの演奏が印象に残りました。今回の曲づくり自体はいつごろから始められたんですか。

石橋:2022年くらいからですね。22年に始めて、23年のはじめくらいにベーシックを録って、それから少しずつオーバーダブしていったり、ストリングスの方にお願いしたり、アレンジを考えたりしていました。

——最初のイメージでは、ジュリー・クルーズ(※「ツイン・ピークス」のテーマ曲で知られるシンガー)が場末のバーで歌っているようなアルバムをつくろうと考えていたとか。

石橋:その時の自分がかなり疲れていたというのもあるんですけど……ただ、どよーんとして漂っていられるようなアルバムをつくりたいと思って。最初はそれだけだったんですけど、だんだんそれが重くなってきてしまって(笑)。でも、ジュリー・クルーズが人のいないバーで歌っているようなイメージは、ずっとありましたね。

——昨年受けたインタビューでは、制作中に「自信をなくすような音が聞こえてくる」とおっしゃっていましたね。曲作りで苦労されている様子もうかがえましたが。

石橋:アルバムをつくるのって厄介な仕事ですね、本当に(笑)。でも、だからといってやりたくないわけではないんです。ただ、長い航海に出るような感覚というか。急いでつくりたくないという気持ちもあるし、それと、自分の中の“サム・サム・センサー”との戦いでもあって(笑)。その分、自分の内面を見つめざるを得ないな、という感覚が強くあります。

——その“長い航海”の中で、道しるべになったものはありましたか。

石橋:普段から映画をよく観るんですが、そういうものが、行き詰まった時に違う角度から物事を見せてくれたりする感じは常にあります。あとはもちろん、ジム(・オルーク)さんに聴いてもらって意見を聞くことも、道しるべになったりします。

「なぜ今、歌の作品をつくるのか」

——久しぶりの歌ものアルバムということで、それゆえの難しさみたいなものもありましたか。

石橋:そういうことよりも、「なぜ今、歌の作品をつくるのか」、そして「どうやって新しい作品にするのか」ということを考えると、どうしても時間がかかってしまうというのはあるかもしれないです。すでに世の中にはいい作品がたくさんある中で、「なぜ自分がつくるのか」ということを考え直す過程でもあるので。

——その問いに対する、答えのようなものは見つかりましたか?

石橋:解決はできてないですけど、“あえて”つくるのであればどういう作品がつくりたいかを、すごく絞って考えられた気はします。自分の中でテーマみたいなものを見つけられたなと。

今って1曲ずつサブスクで聴かれる時代ですけど、私は1曲単位で消費されるような作品はつくりたくないという気持ちがあるので。アルバムというかたちで、自分が表現できるものを考えていたので……その中で、自分なりの落としどころみたいなものができたかなという気がします。

——ちなみに、最初にできたのはどの曲だったんですか。

石橋:最初にできたのは「Mona Lisa」ですね。

——そこからアルバム全体のイメージやストーリーラインが広がっていった感じですか。

石橋:いや、最初はそこまで全体のイメージはなかったんです。その次に「The Model」ができて、それが全体のイメージを形づくるきっかけになった気がします。

——曲順はどんな風に決めていったんですか。

石橋:曲順は、ジムさんがミックスして、その時に並べてくれた順番が良かったので、「じゃあ、それで」って(笑)。ジムさんはたぶん、音のつながりだけで並べたと思うんです。歌詞とか、あまり気にしてないと思うから。

——でも、それが石橋さんの中のイメージと合致していた?

石橋:そうなんです。ジムさんは、もちろん日本語ができる方ですけど、そこまで歌詞の世界について考えてないと思うんですよね。でも、ジムさんがつなげようと思った感じと、私が物語としてつなげたかった感じが一致していて、なんだか不思議なことだなって思いました。でもそれって、歌と歌詞と曲のイメージがあまりかけ離れていないということなのかもしれないと思って、すごくうれしかったですね。

——長年一緒にやってきたからこそ、みたいなところもあるんですかね?

石橋:それもあるかもしれないですね。でも、私たちが洋楽を聴く時って、歌詞の意味が分からなくても、音から受け取る印象と、後から訳を読んだ時の印象があまり変わらなかったりすることってあるじゃないですか。そういうことが今回も起きているのかなって気がします。言葉じゃない何かみたいなものを語るところが、音には確かにあるんだなと感じます。

自分が肌で感じていることを言葉にする

——前回の歌ものアルバムの「The Dream My Bones Dream」は、自身のルーツや歴史を掘り起こすというアプローチで制作された作品でしたが、今回はどういったテーマがあったのでしょうか。

石橋:今回は、最初から前作のように明確なテーマがあったわけではなくて。でも、いま日々の中で強く感じていることや、違和感のようなものを、8曲のアルバムの中で“神話”的な構造と重ね合わせて、一つの物語にしたいという思いはありました。近未来の話とか、フィリップ・K・ディックのSFや(カート・)ヴォネガットみたいな、時間を行き来するような小説からも影響を受けています。それで、ギリシャ神話の「アンティゴネ」に出てくる“埋葬”というテーマと、現代における死体の大量廃棄のような現実が重なったりして、そういうものを一つの話にできたらと思っていました。

——その「日々の中で強く感じていること」や違和感というのは、いまの世の中や社会的な事柄と地続きにあるものでしょうか。

石橋:もう、だんだんと無関係ではいられなくなってきていて。私は、そこまで直接的に表現したいとは思っていないんですけど、でも、日常の中にそういった問題が溶け込んでいて、みんな逃れられなくなってきている。それはどんどんひどくなっているという実感が確かにあります。でも、だからと言って、「あまりネガティブなものはつくりたくなかった」という気持ちもあるんですけどね。ただ、そういう感覚が作品に反映されていると思います。

——「The Model」では、「健康」が国家による管理の対象となったことを指摘したフーコーのテキスト「18世紀における健康政策」が引用されています。

石橋:身近に、同じバンドの山本達久さんという障がいのある方がいるんですけど、ツアーに行くと、やっぱり彼の生きづらさを私もすごく感じざるを得なくて。普段一緒に行動している中でも、怒りのようなものを覚えることがあります。あと、昨年知り合った岡部(宏生)さんというALSの方がいて、ALSの患者さんの生活向上のために全国を飛び回っていた方なんですけど、その方と“安楽死”について話したこともあって。それまで私はどちらかというと安楽死に賛成の立場だったんですけど、岡部さんと知り合って、安楽死というものが現代においてどういう意味を持つのかと考えた時に、優生思想とつながってくるという話を聞いて、改めて考えるようになったんです。そういう経験と、昔読んでいたフーコーのことが自然とつながってきて。「The Model」では、そういう現実の延長線上にある、ちょっとパラレル・ワールド的な場面として、といっても現実そのものでしかないのですが、フーコーの言葉が出てくるのが面白いかなと思って、取り入れました。

——「優生思想」という言葉が出ましたが、日本にもかつて「富国強兵」というスローガンがあって、あれも国民の「健康」を国家の管理の対象にするという側面がありました。そうした価値観が、今また肯定的に語られる風潮がある中で、今回のアルバムはそういう空気とも向き合っているように感じました。

石橋:はい、それもあります。戦争に向かって“強いものが生き残る”みたいな考え方への危機感みたいなものが影響しています。

——そうした危機感を歌わざるを得ないという感情が湧き上がったのは、今回のアルバムが初めてだったのでしょうか。

石橋:でも、前の作品(「The Dream My Bones Dream」)の時にも、そういう、日本がまた戦争に向かっていく予感みたいなものがあって。昔、(祖父が働いていた)満州という国を建てたことだって、そんなに昔の話でもないのに、それがまるでなかったかのようになっている。そういうことをもう一度考察してみたくてつくった部分もあったので、政治的・社会的なものを意識したのは今回が初めてというわけではないですね。

——山本さんのお話もそうですが、そこで歌われていることは、あくまで石橋さん自身の日常や実体験から自然に出てきたものが大事にされているという印象を受けます。

石橋:そうですね。そういう方が、具体的に歌詞にするとなった時に、中身のある言葉になるんじゃないかなと思います。他から持ってきたものとかよりも、やっぱり自分が肌で感じていることを言葉にした方が、アルバムとしても奥行きのあるものになるんじゃないかなという気がします。

——それは先ほどの、「なぜ今、歌の作品をつくるのか」という問いにもつながっているような気がします。

石橋:そうかもしれないですね。もっと考えるべきことがある、という。

濱口監督との仕事

——歌入りのアルバムとしては7年ぶりとなる「Antigone」ですが、この間もさまざまな形態の作品を発表されていて。なかでも「ドライブ・マイ・カー」のサウンドトラックをはじめとした濱口監督との仕事は、石橋さんにとって新たなリスナーと出会うきっかけになったのではないかと思います。そうした実感や手応えのようなものはありますか。

石橋:どうかな……あんまりないかな(笑)。でも確かに、海外で「ドライブ・マイ・カー」のセットをやってくれというリクエストがいくつかあったり、あの映画がいかにいろんな人に愛されているかということが分かりましたね。まさか、あのサウンドトラックだけを演奏するライブをやってほしいというオファーが来るなんて、思いもよらなかったことだったので。それは、映画が広まったからこそのことだったんだなと思いました。

——濱口監督の作品は海外での受賞もありましたが、音楽そのものの力が届いたという感覚もあったのでは?

石橋:どうですかね……でも、やっぱり作品の力というのは、サントラというよりかは、濱口さんがつくった映画と、キャストをはじめとするいろいろな要素が絡まってのことなので。もちろん、すごく恵まれたと思いますし、濱口さんとの作業は本当に楽しくて、幸せな時間でした。だから、なんて言うんだろう……こういう風に“一緒に何かをつくれる人がいる”ってことに感動したし、それがすごくうれしくて。これからも、そうやって作品をつくっていけたらいいなって思いました。

——濱口さんはとてもストイックな作家という印象がありますが、一緒に制作されてご自身の音楽との向き合い方にも変化はありましたか。

石橋:そうですね。濱口さんって、いい意味で“無茶ぶり”をしてくるんですよ(笑)。「名曲をつくってください」みたいに言われると、もう諦めるというか、自分のプライドを抜きにしてでも、大失敗してもいいから大きなものをつくってみよう、って思えるようになるというか。そこは濱口さんのおかげかなって思います。自分1人でやってると、「このくらいが限界かな」ってどこかで思ってしまいがちだけど、そうやって“大きいこと”を言ってもらえると、チャレンジするしかないなと(笑)。それは本当にありがたいことでした。

——例えば、濱口監督との経験が、今作に影響を与えたと感じるところはありますか。

石橋:そうですね。ちょうど時期が重なっていたというのもあって、「悪は存在しない」の音楽をつくったり、ゲント国際映画祭のためのオーケストラ作品をつくったりしていたんですけど、その作業とアルバム制作が行ったり来たりしていたので、すごく相互作用があったと思います。その時の気分みたいなものが自然と反映されていたりして、影響を与え合っていたんじゃないかなって思います。あと、濱口さんの、ゆっくり丁寧に時間をかけて制作していく姿勢にはすごく影響を受けましたね。いつまでに出そうとか、早く急いでつくるよりも、自分が納得できるものをつくることに、ちゃんと時間をかけられたなと思います。

——以前、映画音楽の制作にまつわるインタビューで「観客を特定の方向に誘導するような音楽はつくりたくない」とおっしゃっていたのが印象的でした。それはご自身の音楽にも通じる部分でしょうか。

石橋:どうでしょうね……でも、そうかもしれないです。あまりセンチメンタルなものはつくりたくないっていう気持ちはありますね。

——ちなみに、今作を聴いた濱口監督の第一声は?

石橋:「思っていたのと違った言葉がいっぱいあって、それが面白かった」とおっしゃっていて。最初、歌詞を渡してなかったんですけど、なんか結構聞き間違われていたみたいで。その話がCD版のライナーノーツになっているので、後でお送りします(笑)。

映画と音楽

——ところで、そもそも石橋さんが“音楽”の存在を強く意識するようになった映画体験のルーツって、どういうところにあるのでしょうか。

石橋:やっぱり(ジャン=リュック・)ゴダールの作品ですね。音楽の使い方もそうですけど、映像の編集の仕方もすごく“音楽的”で。音の扱いに対するこだわりとか、編集の感覚とか、すごく影響を受けていると思います。あとは普通にサントラが好きなのは、マイケル・スモールが音楽を手がけている「パララックス・ビュー」とか、「ナイトムーブス」ですね。それともちろん、デヴィッド・リンチの(アンジェロ・)バダラメンティの音楽も印象に残っています。大御所で言うと、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」のエンニオ・モリコーネも本当に素晴らしい。

——ゴダールの音楽の使い方で、特に惹かれるのはどんなところですか。

石橋:音の切り方ですね。スペースのつくり方、音がないところのつくり方がすごい。素晴らしいです。

——最近の映画で、音楽の使い方が印象的だった作品はありますか。

石橋:「けものがいる」ですね。ベルトラン・ボネロというフランスの監督の作品なんですけど、音楽は監督自身がつくっていて、すごく面白い。なんかこう、思考を刺激するようなというか、とても独特で。

——アカデミー賞やゴールデングローブ賞の近年の傾向を見ていると、例えば「TAR/ター」や「ジョーカー」のヒドゥル・グドナドッティルとか、「哀れなるものたち」のイェルスキン・フェンドリックスなど、いわゆる映画音楽専門の作家ではない、インディー・ロック/ミュージック出身の人たちが評価されるようになってきていますよね。こうした傾向について何か思うことはありますか。

石橋:どうでしょうね。でもやっぱり、映画音楽の世界って、まだすごく特殊だなって思いますね。ヒドゥルさんはとてもアカデミックな方ですし、なんだかんだ言ってエージェントに入っているような方はアカデミックな方が多いと思います。一方イェルキンさんはCafe OTO(※ロンドンの音楽ヴェニュー。石橋さんをはじめ、過去にサン・ラ、オノ・ヨーコ、大友良英など多くのアーティストが演奏)で演奏しているような方ですよね。だから、少しずつ変わってきてる感じはあるけれど、でもやっぱり全体の中ではまだ珍しいのかなっていう気がします。

——例えば、「ブルータリスト」で今年のアカデミー賞の作曲賞を受賞したダニエル・ブルンバーグは、インディ・ロック・バンドでソングライターをしていた人で。そういった視点が映画音楽に活かせる部分って、もしかしたらあるのかなと。

石橋:そうかもしれないですね。やっぱり映画というもの自体が総合的なものだったりもするので。音楽の柔軟さみたいなものが必要とされることが多いのだと思います。監督とのコミュニケーションの中で、その人が人生の中でどういう音楽を聴いてきたか、どんな音楽をつくってきたかみたいな“歴史”があると、それと照らし合わせて映画の場面にも合うような音楽が自然と浮かんでくる。人生と音楽が一緒にあるように、映画と音楽も一緒にあるというか、そういう感覚ですね。

——ちなみに、ミュージック・ビデオについては、石橋さん自身どんな感じで関わっているのでしょうか。

石橋:今回の「Mona Lisa」のMVは、私から「こういう映像が撮りたい」というアイデアを伝えて、それを大美賀均さんという「悪は存在しない」で主演をされた方が監督してくださいました。

近所の公民館でやっているカラオケクラブがあって、そこで歌っている90歳のすごく素敵なおばあちゃんがいて。その方が、私の曲を歌っているという設定で……というか、その方が「私」っていう設定で作った映像です。出だしの歌詞(「キャビア シャンパン/コカイン Tバック」)を90歳のおばあちゃんに歌ってもらうのは、ちょっと申し訳ない気持ちもありましたけど(笑)。

——話を伺っていると、石橋さんにとってはやはり、映画体験というものが自身のつくられているもの全てに影響を与えているんだな、と。

石橋:そうですね。たぶん音楽を聴いてる時間よりも、映画を観てる時間の方が長いんじゃないかなと思います。

——学生時代には映画制作を志していた時期もあったそうですが、今でもそういった憧れはありますか。

石橋:うーん……映画はもういいかなって思うんですけど、自分は(笑)。やっぱりお金もかかるし、すごく多くの人と関わらないといけない。そのバイタリティは、自分にはないなって思いますね。

「Antigone」に込めた想い

——今回の「Antigone」というタイトルはギリシャ悲劇にちなんだもので、アルバムには同名の曲も収録されていますが、この言葉を選んだのはどうしてだったのでしょうか。

石橋:うーん、説明するのが難しいんですけど、あの曲(「Antigone」)をつくっている時に「これは『Antigone』にしよう」って思いついたんです。歌詞を書きながら、自然にそう思ったというか。だから、アルバムのタイトルにする以前に、まずその曲のタイトルとして「Antigone」が浮かんで。ただ、そこはあまり詳しくは説明しない方がいいかなって思ってます(笑)。

——ギリシャ悲劇の「アンティゴネ」は、王制という男性性的な社会に翻弄された女性の物語でもありますよね。

石橋:そうですね。でも、女性性というよりも……今って、だんだん世界が“分かりやすさ”を求める方向に進んでいると思うんです。でも、人間って本来、割り切れない葛藤の中で日々を生きているもので、ただ、その複雑さを手放して分かりやすいものを求めていくことが、戦争のような状況にもつながっていく気がするんです。

「アンティゴネ」の物語って、敵国にいた兄を(主人公で妹のアンティゴネが)埋葬するっていう、すごく境界線上の行為じゃないですか。そういう“分かりやすくない”選択の中で、それでも生きていくっていう人間の宿命のようなものを感じて、それが自然と反映されたのかなっていう風には思います。

——例えば、「October」の“10月に血が光る”という歌詞は、最近の事象も想起させるとても差し迫った描写ですよね。

石橋:うん、そうですね……ただあとは作品を聴いた皆さんの想像に任せたいと思います。

「Antigone」

■「Antigone」
Eiko Ishibashi
1.October
2.Coma
3.Trial
4.Nothing As
5.Mona Lisa
6.Continuous Contiguous
7.The Model
8.Antigone
all songs written by Eiko Ishibashi
(Except ‘Nothing As’ written by Jim O'Rourke)
Produced with Jim O'Rourke
Recorded by Jim O’Rourke and Eiko Ishibashi
Mixed by Jim O'Rourke
Strings and Horn Arrangements:Eiko Ishibashi and JJim O'Rourke
Recorded at Hoshi to Niji Recording Studio,Steamroom,Atelier Eiko
https://lnk.to/antigone

The post 石橋英子、7年ぶりの歌のアルバム「Antigone」を語る なぜ今、歌の作品をつくるのか? appeared first on WWDJAPAN.

「北海道の自然と人が原動力」 ナチュラルアイランドの共生するモノ作り

2010年に誕生したナチュラルアイランドは、妊婦や乳幼児向けの製品を主軸に展開するナチュラルサイエンスの「肌に良い製品を作る」という哲学を受け継ぎつつ、大人が植物の恵みや香りを楽しみながら肌を整えることを目指したスキンケアメーカーだ。研究員たちの「良い水で化粧品を作りたい」という思いが北海道・倶多楽湖の湧水との出合いにつながり、17年から白老町の廃校を再生した拠点「ナチュの森」で丁寧なモノ作りに向き合っている。北海道はいわば“偶然”ともいえるつながりだったが、小松正和社長は「今は何よりも地域と共にある気持ちが強い」と話す。

北海道白老町は、南西エリアに位置し、人口約1万5000人の太平洋と山々に囲まれた地域だ。町内にある倶多楽湖は世界でも珍しい真ん丸なカルデラ湖。外輪山に囲まれているため川が流れ込まず、雪解け水と雨水で構成された純度が高い軟水かつ有機物の少ない良質な水質を誇る。

現地で出合った廃校を活用し、工場、農園、ガーデン、カフェなどを備えた複合施設「ナチュの森」を17年に設立。学校という地域の記憶を受け継ぎ、製造拠点としてだけでなく、人が集う文化拠点として再生した。設計の根底にあるのは「好奇心こそがモノ作りの根幹」という考え。五感を通したクイズで香りについての学びを深める“香りのラボ”や蒸留の仕組みが学べる“蒸留実験室”などで、知的好奇心を育む。「地域の人々の文化的な貢献につなげたい」という同社の思いが「ナチュの森」全体で表現されている。

トレーサビリティーと安全性を重視する同社は、「誰がどんな思いで育てているか」を大切に“顔が見える”素材調達を行っている。自社農園に加え、希少な素材であるセントジョーンズワートや和ハッカは生産者と相互理解を深めた上で契約。長期的な関係を重視する姿勢と自分たちが選んだ素材への信頼から、創業当初から15年以上続く取引先も多い。たとえ1つの製品が売れなくても、原料は別の製品に活用するなど関係を持続する努力を惜しまない。農家の厳しさを胸に素材と真摯に向き合う姿勢が、地域農業との継続的な取引や経済への還元にもつながっている。

拠点を北海道白老町に置いた理由に体現されている通り、化粧品作りの全ての過程で良い素材を追求する姿勢を貫いている。自社農園で栽培するカレンデュラは収穫後に花びらを1枚ずつ手で選別するなど、「効率よりも丁寧さ」を重視している。小松社長は「1つの植物といえど、花、葉、枝、根で香りも成分も効能もまったく異なる。効率的とはいえないかもしれないが、こうした作業こそが弊社のモノ作りの根幹」と話す。自然への敬意を込めて素材を扱い、製品の質と安全性を高めることで、顧客に伝わるクオリティーを生み出す。

オーガニックへのこだわりと科学的証明の両立を目指し、部位や抽出法による違いを検証しながら肌への有効性を学術的に裏付けている。ナチュラルサイエンスの研究体制を活用し、年単位・高コストの研究にも取り組む。たとえば、白老町・虎杖浜に自生する「オオイタドリ」は、長年雑草として見過ごされていたが、「旺盛な繁殖力に理由があるはず」と大学との共同研究を開始。7年以上かけて、エキスに頭皮や髪のハリ・コシを高める効果があることを実証し、ヘアケア関連の製品化につなげた。自然を科学で深掘りする姿勢がブランドの革新性を支える。

栽培の過程から植物と向き合って化粧品へと仕立てる同社にとって、“生活を豊かにする力”を持つ香りは重要な要素だ。スキンケアや入浴の時間にリラックスをもたらす香りで、大人が使う時間そのものを楽しめる製品を目指している。また、「ナチュの森」では、香りの魅力を五感で体験できる施設も展開。エステ施設「アクアサロン」では自社製の有機ハーブオイルを使ったトリートメントや湧水スパで癒やしを与える。「森の工舎」内には“香りのラボ”や“香りの図書室”を設置し、香りの文化を伝える学びも提供する。

PHOTOS: MADOKA KOIZUMI
問い合わせ先
ナチュラルアイランド
011-615-7153

The post 「北海道の自然と人が原動力」 ナチュラルアイランドの共生するモノ作り appeared first on WWDJAPAN.

「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言  Vol.3「クリーンビューティはどうなる?〈店舗編〉」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:小木さんはいわゆるナチュラルコスメセレクトショップの仕掛け人といえますが、今までの流れを教えていただけますか?

小木充(以下、小木): まず1999年に伊勢丹の社内で「新宿本店地下2階プロジェクト」というプロジェクトチームができたんですね。24、25歳だったかな、入社3年目くらいで服飾雑貨担当。当時の地下2階のボイラー室を改装し、時代に先駆けた新しいライフスタイルフロアにしよう、価格がこなれていながら伊勢丹の高感度層も納得するものをそろえようというコンセプトで始動し、2000年に「BPQC」が誕生しました。当時はポーラ傘下になる前の「ジュリーク(JURLIQUE)」や、日本法人ができたばかりの「ロクシタン(L'OCCITANE)」や「ラッシュ(LUSH)」などを入れ、数十億円の売り上げを作っていましたが、他店舗展開の構想はなかったんです。

――:当時注目されていた英国のコスメセレクトショップ「スペース NK(SPACE NK)」を参考にしながら、ホワイトニング専門のティースケアサロンなども入れていたところが新鮮でした。

小木:そして04年に「コスメキッチン(COSME KITCHEN)」ができるんだけど、赤字体質からなかなか脱出できない状況でした。僕は07年に伊勢丹を退社していて、08年にコスメキッチン事業を黒字化するためにディレクター委託契約を締結。MDや店舗の見直しをしつつ、フランチャイズ事業を推進し、契約から半年で単月黒字化に転換しました。さらにその頃、吉祥寺に出店をしたんですが、感度が高くて自然でいいものを背景も含めて読み取れる吉祥寺の客層には、ブランドよりも本質的なものが売れるんだな、ということが分かりましたね。その後マッシュグループ(以下、マッシュ)の門を叩き、10年に傘下に入りました。

――:当時のマッシュはコスメ事業をまだスタートしていませんでしたが、なぜマッシュを選んだんですか?

小木:マッシュは複数のファッションブランドを展開していましたが、商業施設側からすれば、マッシュと組むと複数の人気ブランドショップが一気にゾーニングできて、商業施設のプレゼンスが高まります。それまでナチュラル・オーガニックコスメというと百貨店の3階や5階にしか入れなかったけれど、マッシュ傘下によるシナジー効果で1階や2階のいい場所に展開することができるわけです。そこから店舗が増えていき、3年前に僕が退く時には60店舗で年商100億円が射程距離に入ってきていました。現在はコスメキッチン業態としては70店舗くらいで、エキナカの「ビオップ(BIOP)」などさらに進化した業態開発に注力していると感じます。

――:あっという間に店舗が増えた印象があります。世界でも稀有な例ですね。

小木:世界のナチュラルコスメセレクトショップを見てみると、05年に香港で創業した「ビオルグ(BEYOND ORGANIC)」は現在8店舗。創業者はブレンダ・リーという女性で、香港の主要な場所は押さえています。時系列で行くと08年に英国でイメルダ・バークという女性が「コンテント(CONTENT)」を創業しましたが、コロナ禍に店舗を閉め、現在はECのみ。米国では、10年に「デトックスマーケット(DETOX MARKET)」、15年に「クレド ビューティ(CREDO BEAUTY)」が創業。ロマン・ガイヤールがロサンゼルスで立ち上げた前者は現在カナダを含めて6店舗、アニー・ジャクソンとシャシ・バトラがサンフランシスコで立ち上げた後者は米国内に15店舗を展開している。多くても十数店舗といったところで、国土は小さいながらも「コスメキッチン」が店舗数も売り上げ規模も圧倒的に世界一なんです。

――:なぜそういうことになるんでしょう?

小木:世界のナチュラル・オーガニックのセレクトショップは創業者のオーガニック思想や哲学にビジネスが引っ張られることで、成長スピードにブレーキがかかるように感じますね。一方コスメキッチンは、マッシュ傘下に入ったことで一気にドライブできたことが大きいと思います。日本では路面店のみで勝負するのは難しいから、集客力の強い商業施設の中で展開するほうがビジネススピードが速く、トップラインが伸びるという考え方になる。先ほど挙げた海外店は「マネーよりアース」みたいな創業者の哲学が強く、経営方針も含めサステナビリティとは無縁の店と並ぶのを嫌がり、だいたい30〜40坪の路面店が多いです。

――:日本でコスメキッチンの競合が出てこないのはなぜですか?

小木:想定される競合業態を事前に自分たちで作っていったからですね。食と組み合わせた「ビープル(BIOPLE)」、今は縮小傾向にあるメイクアップだけ集めた「メイクアップキッチン(MAKEUP KITCHEN)」など。あらゆる商業施設に全てのマッシュブランドを入れたいと思っていたので、ちょっとずつ業態を変えながら出店するという戦略を取っていました。

――:前回も話に出ましたが、セフォラやブーツが日本にあればクリーンビューティ市場はもっと活性化するだろうに、と残念です。

小木:単純にリテールだけを見た場合、日本でセフォラの代わりは?と考えると、「アットコスメ」がどう見ても今一番勢いがありますね。「プラダ ビューティ(PRADA BEAUTY)」の選んだ先が伊勢丹新宿本店、阪急うめだ本店、そしてアットコスメトーキョー。本国が決定したわけで、雨の日なのに入場規制がかかるぐらいの行列ができる来客数を視察で確認したんだろうなあと思う。アットコスメストアは大阪も売れているし、名古屋にも6月にオープンするし。

――:そしてその知見を生かし、年内には東アジア最大級の「アットコスメホンコン」をオープンします。

小木:一つの空間にラグジュアリー、プチプラ、モデレートラインまで全てをそろえたのは見事。「ディオール(DIOR)」の横とは言わないけれど、目と鼻の先にプチプラがあってもOKで、日本の人はもちろんインバウンドの人が「こんな空間なかったよね」と楽しめる空間ができあがった。

――:1999年創業のたかがクチコミサイトがまさかこんなことになるとは、誰も想像できなかったですね。

小木:昔、「ランキンランキン」というランキングショップがあったじゃないですか。その化粧品版ができただけでしょ、と思っていたら、本当の意味での口コミを背景にお客さまを確保して、出店してくれるブランドも多かったんでしょうね。今ではリテールセクションが重要視されているそうです。

――:でも個人的には見慣れてしまったのか、原宿のリニューアルはあまり面白く感じなかったんですよね。

小木:それはよくブランドを知っているからですよ。一般的にはこんな安いものとハイブランドとフレグランスと、多種多彩なブランドがまるで宝探しのように積み上がっている感じは他にない。一緒に並べていいよとは今まで誰も言わなかったし、むしろ今までは小売り側が価格帯でセクションを分けていました。ネットから出てきて小売りの経験がなかったから、「面白そうじゃん、他と同じことをやってもしょうがないじゃん」と、真の意味でのユーザー目線に立って戦略を立案していると思います。

――:でも今回の目玉とされるフレグランスゾーンは疑問が残ります。何がしたいのかよく分からなかったし、ラインアップも謎。

小木:百貨店や小売業出身者ではなく異業種から参入したキーマンたちによる面白い発想だとは言えるけど。違う切り口で再構成すれば、間違いなくまた話題になりますね。そういう意味ではヘアケア製品もまだまだ伸び代があると思う。カテゴリーで考えた場合、化粧品の中で10〜15%はヘアケアというのがあって、効率やMDのバランスを考えたら「ヘアケアで10%は取れる」と計算するのが一般だけど、売り上げがいいからそういう計算をする必要がなく、「このMDを入れよう」という発想にならないんだと思う。フレグランス市場が伸びているというのはいろんなところで言われているからやってみた、ところが3階であることがネックになったのかもしれない。テコ入れの余地がたくさんありますね。クリーンビューティも同様で、これもアットコスメにはない。セフォラにはコーナーがあるし、新しいところではヒュンダイ ソウルが「ビークリーン(B CLEAN)」という100坪くらいのクリーンビューティコーナーを作ってカッティングエッジ的なことをやり始めている。クリーンビューティにおいてもまだまだやれることはいろいろある、と期待したいですね。

The post 「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言  Vol.3「クリーンビューティはどうなる?〈店舗編〉」 appeared first on WWDJAPAN.

「ケースティファイ」が描く、服のようにスマホケースを“着替える”未来

PROFILE: ゲーリー福元/ケースティファイ ジェネラルマネージャー

ゲーリー福元/ケースティファイ ジェネラルマネージャー
PROFILE: 米国カルフォルニア州出身。これまで、マーク ジェイコブスのジェネラルマネージャーやア ベイシング エイプのCOO、アシックスの執行役員などを歴任してきた。2024年から現職
スマートフォンが現代人の相棒となって久しい。それを守るケースも、今や多種多様なカラーやデザインがあふれ、趣味趣向に合わせてスマホを着せ替えることができる。「スマホケースで人となりが分かる」と言っても過言ではない。「ケースティファイ(CASETIFY)」は、そんな世界が訪れる前から“持ち主を物語る”プロダクトを作り続け、世界的なテックアクセサリーブランドへと成長を遂げた。

「ケースティファイ」は2011年、香港で誕生した。07年のiPhoneの発表から4年。スマートフォンが世に浸透してきた頃だった。

ウェス・ウン(Wes Ng)ケースティファイ共同設立者兼CEOは、当時市場に溢れていた“デバイスを守るだけのケース”につまらなさを感じていたという。「もっと自分らしさをアピールできるスマホケースがあったら」。そう考え、「ケースティファイ」の原点となる、お気に入りの写真を組み合わせてプリントしたスマホケースを発売した。

インフルエンサーを使ったプロモーションが功を奏し、Z世代の間で「ケースティファイ」のスマホケースを片手にセルフィーを撮ることはステータスになった。彼らにとって、1つ1万円前後するスマホケースは決して安くはないが、「むしろ1万円を払ってでも手に入れたいと評価していただいている」(ゲーリー福元 ケースティファイ ジェネラルマネージャー)。Z世代にとって「自己表現」はホットワード。彼らは「スマホケースで自分らしさを表現する」というブランドのアティチュードに強い共感を示している。

その人気ぶりは、福元ジェネラルマネージャーも、「これまで名だたるブランドに携わってきたが、『ケースティファイ』の成長スピードは頭1つ飛び出している」と語るほど。地域別で見ると、アジア圏が強いが米国も好調。今後は、手薄だった欧州のビジネスにも本腰を入れるとし、その足がかりとして、24年に仏パリのルーブル美術館とテュイルリー庭園の間に位置する地下のショッピングセンター「カルーゼル・デュ・ルーヴル」に欧州初となる店舗を構えた。

元々はECからスタートしたが、現在は実店舗に重きを置く。日本では、渋谷パルコや新宿マルイなど、9つの施設や路面に出店している。その意図について、福元ジェネラルマネージャーは、「カスタマージャーニーが何よりも大切。特に、慎重な日本のお客さまは、性能を直接体験することが購入の決め手になることも多い。一方、私たちも商品に自信があるため、手に取ってもらうのが一番という考え」と話す。マンツーマンの接客スタイルも取り入れ、「1万円もするスマホケース」の購入をためらう客の背中を押す。

創業当初から変わらない
「ケースティファイ」の役割

スマホケースから始まったブランドであるが、テックアクセサリー以外にも商機があると考える。24年末に発表したスーツケースコレクションはその一歩だ。「単に旅行ブームに乗じようというわけではない。これまで培ってきた高い保護機能は、さまざまな商材に生かすことができる。そう考え、まず浮かんだのがスーツケースだった」。米国と韓国で先行販売した後、このほど日本に上陸。公式ECではすでに販売しており、5月30日からは新宿マルイ店や渋谷パルコ店、名古屋タカシマヤ ゲートタワーモール店、心斎橋店での取り扱いもスタートする。

「私たちにとって、スマホケースやスーツケースはファッションの一部。毎日服を着替えるように、毎日ケースを変えたって良い。『ケースティファイ』のファンはすでに、そのような楽しみ方を実践している。私たちの使命はこのムーブメントを広げていくこと。セルフエクスプレッション(自己表現)の一助になれたら」。

The post 「ケースティファイ」が描く、服のようにスマホケースを“着替える”未来 appeared first on WWDJAPAN.

「ケースティファイ」が描く、服のようにスマホケースを“着替える”未来

PROFILE: ゲーリー福元/ケースティファイ ジェネラルマネージャー

ゲーリー福元/ケースティファイ ジェネラルマネージャー
PROFILE: 米国カルフォルニア州出身。これまで、マーク ジェイコブスのジェネラルマネージャーやア ベイシング エイプのCOO、アシックスの執行役員などを歴任してきた。2024年から現職
スマートフォンが現代人の相棒となって久しい。それを守るケースも、今や多種多様なカラーやデザインがあふれ、趣味趣向に合わせてスマホを着せ替えることができる。「スマホケースで人となりが分かる」と言っても過言ではない。「ケースティファイ(CASETIFY)」は、そんな世界が訪れる前から“持ち主を物語る”プロダクトを作り続け、世界的なテックアクセサリーブランドへと成長を遂げた。

「ケースティファイ」は2011年、香港で誕生した。07年のiPhoneの発表から4年。スマートフォンが世に浸透してきた頃だった。

ウェス・ウン(Wes Ng)ケースティファイ共同設立者兼CEOは、当時市場に溢れていた“デバイスを守るだけのケース”につまらなさを感じていたという。「もっと自分らしさをアピールできるスマホケースがあったら」。そう考え、「ケースティファイ」の原点となる、お気に入りの写真を組み合わせてプリントしたスマホケースを発売した。

インフルエンサーを使ったプロモーションが功を奏し、Z世代の間で「ケースティファイ」のスマホケースを片手にセルフィーを撮ることはステータスになった。彼らにとって、1つ1万円前後するスマホケースは決して安くはないが、「むしろ1万円を払ってでも手に入れたいと評価していただいている」(ゲーリー福元 ケースティファイ ジェネラルマネージャー)。Z世代にとって「自己表現」はホットワード。彼らは「スマホケースで自分らしさを表現する」というブランドのアティチュードに強い共感を示している。

その人気ぶりは、福元ジェネラルマネージャーも、「これまで名だたるブランドに携わってきたが、『ケースティファイ』の成長スピードは頭1つ飛び出している」と語るほど。地域別で見ると、アジア圏が強いが米国も好調。今後は、手薄だった欧州のビジネスにも本腰を入れるとし、その足がかりとして、24年に仏パリのルーブル美術館とテュイルリー庭園の間に位置する地下のショッピングセンター「カルーゼル・デュ・ルーヴル」に欧州初となる店舗を構えた。

元々はECからスタートしたが、現在は実店舗に重きを置く。日本では、渋谷パルコや新宿マルイなど、9つの施設や路面に出店している。その意図について、福元ジェネラルマネージャーは、「カスタマージャーニーが何よりも大切。特に、慎重な日本のお客さまは、性能を直接体験することが購入の決め手になることも多い。一方、私たちも商品に自信があるため、手に取ってもらうのが一番という考え」と話す。マンツーマンの接客スタイルも取り入れ、「1万円もするスマホケース」の購入をためらう客の背中を押す。

創業当初から変わらない
「ケースティファイ」の役割

スマホケースから始まったブランドであるが、テックアクセサリー以外にも商機があると考える。24年末に発表したスーツケースコレクションはその一歩だ。「単に旅行ブームに乗じようというわけではない。これまで培ってきた高い保護機能は、さまざまな商材に生かすことができる。そう考え、まず浮かんだのがスーツケースだった」。米国と韓国で先行販売した後、このほど日本に上陸。公式ECではすでに販売しており、5月30日からは新宿マルイ店や渋谷パルコ店、名古屋タカシマヤ ゲートタワーモール店、心斎橋店での取り扱いもスタートする。

「私たちにとって、スマホケースやスーツケースはファッションの一部。毎日服を着替えるように、毎日ケースを変えたって良い。『ケースティファイ』のファンはすでに、そのような楽しみ方を実践している。私たちの使命はこのムーブメントを広げていくこと。セルフエクスプレッション(自己表現)の一助になれたら」。

The post 「ケースティファイ」が描く、服のようにスマホケースを“着替える”未来 appeared first on WWDJAPAN.

ビームスがひとり親家庭を対象に衣類の無償提供会 「透明性のある支援に」

ビームスは、ひとり親家庭を支援するNPO法人グッドネーバーズ・ジャパンと連携し、中高生の子どもを持つひとり親家庭を対象に、衣類の無償提供会を2023年から継続的に開催している。今年は、5月24、25日に渋谷区の実践女子大学校内で開催。アパレル5社で構成する「スペシャリティ・ストアーズ・アソシエーション」の会員企業であるアバハウスインターナショナルとノーリーズも初参加し、支援の輪を広げた。

提供会では、キャリー品や売れ残ったアパレル・雑貨を各社240点ずつ持ち寄った。来場した親子は、1人あたりトップス、ボトムス、雑貨それぞれのカテゴリーから1点ずつ無償で持ち帰ることができる。会場は、店舗さながらの空間に仕立て、ラックや什器に丁寧に製品を陳列。試着室やトルソーも用意し、各社の販売経験のある社員がスタッフとして参加して接客を行い、「買い物体験」を再現した。

2日間で、抽選で当選した90世帯が参加した。会場では、「久しぶりに親子で出掛けるいい機会になった」「トータルコーディネートを組めてうれしい。娘と交換しながら、楽しみたい」といった感想が聞かれた。

売れ残り品を廃棄せずに活用したい

発起人は、本間征東・ビームス経営企画本部・サステナビリティ推進部兼ロジスティック本部・戦略部・戦略1課だ。当時、ロジスティックス部門で在庫管理を担当していた本間担当は、売れ残り品を廃棄せずに活用できないかと模索していた。「NPO団体を通じて寄付する方法はあったものの、顔も見ずに一方的に在庫をお渡しするのは、乱暴なのではないかという思いがあった。スタッフの接客を通じて、本当に気に入った服と出合える、透明性のある支援ができればと考えた」と話す。そしてフードバンク「グッドごはん」などを運営するグッドネーバーズ・ジャパンに協力を依頼し、「買い物体験を提供する支援の場」としてスタートした。

23年に第1回を開催し、昨年はグッドネーバーズ・ジャパンの支部がある大阪でも実施した。グッドネーバーズ・ジャパンの綿貫玲子部長は、「私たちが対象としている家庭は、食べる物にも困っているような状況。その中で新しい洋服を買う余裕がないケースも少なくない。過去に参加した方たちからは、このイベントをきっかけに思春期の息子が一緒に出掛けてくれた、帰宅した後も家族で会話が弾んだといった声もあった。すてきな空間でスタッフにコーディネートまで提案してもらえるすばらしい機会になっていると思う」と話す。

今年初めて参加したノーリーズの小島直樹社長も当日会場を訪れ、「ファッションを通じて暮らしを豊かにするというイベントの目的に共感した。『ノーリーズ』は働く女性向けの服が多く、学校行事や仕事の場面でも着られるアイテムがそろう。自分たちにもできる支援があると感じた」とコメントした。

同イベントは現在、ビームスのサステナビリティ推進部が主導する。24年に発足したサステナビリティ推進部では、これまでのCSR活動を引き継ぎながら、環境負荷の低減や従業員の働き方改革など、包括的なサステナビリティに取り組んでいる。経年在庫の活用は、「廃棄衣類ゼロ」に向けた課題の一つであり、これまでにも学校や被災地への寄付、アップサイクル企画などを実施。本取り組みも、そうした活動の柱の一つとして位置づけられている。

本間担当は、「サイズの観点からまだ中高生の子どもを持つ家庭に対象を狭めているが、より対象を広げて衣類にまつわるライフイベントに広げていきたい」と意気込む。今後は、グッドネーバーズ・ジャパンの支部がある全国の地域でも開催を計画している。

The post ビームスがひとり親家庭を対象に衣類の無償提供会 「透明性のある支援に」 appeared first on WWDJAPAN.

“世界で最も美しい店を作る男”、ラムダン・トゥアミが中目黒に新店開業 スイスの山にハマっているワケは?

PROFILE: ラムダン・トゥアミ/アーティスティック・ディレクター

ラムダン・トゥアミ/アーティスティック・ディレクター
PROFILE: PROFILE: 1974年、フランス生まれ。2014年には配偶者のヴィクトワール・ドゥ・タイヤック(Victoire de Taillac)と「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」を復活させ、大きな成功をおさめる。20年にはLVMHに売却したが、以降もアーティスティック・ディレクターとして携わる PHOTO:SATOMI YAMAUCHI

フランスの実業家・デザイナーであり、パリの総合美容専門店「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー(OFFICINE UNIVERSELLE BULY)」復活の立役者であるラムダン・トゥアミ(Ramdane Touhami)が手掛けるコンセプトショップ「ワーズ サウンズ カラーズ アンド シェイプス(WORDS, SOUNDS, COLORS & SHAPES)」が、東京・中目黒にオープンした。日本1号店となる同店は、2024年10月にオープンしたパリ・マレの本店に続く2店舗目だ。

オリジナルの最上級カジュアルブランド「ディ・ドライべーグ(DIE DREI BERGE)」をはじめ、自身が創設した出版レーベル「パーマネント・ファイルズ(PERMANENT FILES)」から刊行するマガジン「USELESS FIGHTERS(ユースレス・ファイターズ)」など、ラムダン・トゥアミの世界観が堪能できる。活動から目が離せない彼に、中目黒の新店について話を聞いた。

ーー今回のショップを含むプロジェクトのテーマは、“山”だと聞いています。

ラムダン・トゥアミ(以下、ラムダン):正しくは、自然がテーマです。山だけではなく、自然にまつわるショップ。正直、山はどうでもいいんです。私の父は農夫でよく山に連れて行ってくれていたので、子供のころから自然に親しんできました。だから地球環境に配慮して、この店ではプラスチックは使わない。私たちの使命でありこだわりは、石油由来の素材を使わないで服を作ること。ゼロ・プラスチックを目指しています。ここに置いてある全てのアイテムはオリジナル。じっくり手にとって見ていただきたいですね。

「何かを作るとき、
最も美しいものを作りたい」

ーー店内にある商品の構成を教えてください。

ラムダン:全てオリジナルで、(パリ店の品ぞろえに)新しいコートを追加しています。加えていくつかの新商品をご用意しています。でも、ファッション業界の一年を大きく2シーズンに分けてコレクションを作るアイデアは好きじゃない。もっと自由にその時の気分で好きなものを選んでほしい。寒ければジャンパーを買って、暑ければTシャツを買う。私は既存のルールを気にしません。ひとつだけ譲れないことは、クオリティーについて。品質がいいものを作ることができる工場を知りたいし、生産者を知りたいと常々思っています。最近は糸から作ることに取り組む必要があるとさえ思うくらい。このダービーシューズを見て。ディテールに夢中なんです。私は何かを作るとき、最も美しいものを作りたいと思っている。この発想こそが、店全体のストーリーだとわかるでしょう?

ーー店名の「ワーズ サウンズ カラーズ アンド シェイプス」に込めた意味は何ですか。

ラムダン:私たちは言葉を使うからWords。自分たちのラジオ番組を持っているのでSounds。Colorsは私たちが色を愛しているから。そしてShapesは、私たちはさまざまな造形をプロデュースしているから。常にこれらの要素で世界を作りたいと思っている。ちなみに、この店名はドナルド・バード(Donald Byrd)というジャズマンのアルバムタイトルからとりました。私は彼の大ファンなんだ。この言葉を知ったとき、「正しい響きだ!」と感じたし、いつか店の名前にしたいと思った。BGMにも彼の曲を流しているし、何より本人が「このタイトルが好きだ」と語っていたんだ。

ーー店内で特に気に入っている箇所はありますか。

ラムダン:とても面白い店になったと思う。私がプロデュースする、スイスの山岳地帯ミューレン村にある「ホテル ドライベーグ(HOTEL DREI BERGE)」に少し似ているんだ。実際にホテルの内装を見れば分かるけれど、同じムードになっている。こういうウッディーなシャレーみたいな感じだけど、同じようにモダンな感じに仕上げているんです。

ーーショップの外観は淡いグリーン。どのような考えでこの色になったのでしょうか。

ラムダン:私の愛車、1940〜50年代のホンダのバモスからとった色です。この車の緑色で全面を塗ったビルが欲しいと思ったんだ。いつか車を変えたら、どうしよう(笑)?僕はクレイジーだからさ、また色を変えることになるかも知れないね。

ーー中目黒を選んだ理由は。

ラムダン:この街が私にとってまるで村のようだから。友達がみんな住んでいるし、自分の家も中目黒にあります。いいコーヒーショップの場所も知っていますしね。それに、ここには登山が好きな仲間がたくさんいるんですよ。例えば、昨日プレオープン前に来てくれた「マウンテンリサーチ(MOUNTAIN RESEACH)」の小林節正さん。それに、他にもアウトドアブランドで働く友人や仲間が大勢駆けつけてくれました。

ーー店内には、スイスの山々の写真や古い電話などがありますね。以前、「WAM」というスイスにまつわる本も出版されています。スイスに何か特別な思いがあるのでしょうか。

ラムダン:いや、スイスという国自体にはあまり興味がなくて、どちらかというと自然が好きなんです。スイスは美しい自然があるし、すごく気に入っている山がある。それに、スイスと日本には興味深い共通点があると前々から思っているよ。スイスの国土の70%は山で、日本は75%が山。そして世界で一番時間通りに電車が来るのは日本、2位はスイス。中立国と戦争を放棄した国だしね。似ている点が多々あるんだ。それはとても奇妙で面白いことだと思う。多分、この2国はもっと世界のために一緒に話をしなければならないと思うよ。

「コストは調べない、本当どうでもいい」

ーー店内には、これまでに行った日本のブランドとのコラボレーションアイテムもそろえています。

ラムダン:「ポーター(PORTER)」とコラボしたバッグだね。ポリシーとしてプラスチック由来の素材は使わない。代わりに100%コットンのキャンバスを使っています。「ポーター」ではダークカラーが好まれるけど、私は白。「ポーター」はあまり明るい色を使わないけれど、私たちはディテールにたくさん色を使っています。「ポーター」は軽いバッグで知られていますが、私たちのバッグはとても重い(笑)。そして、生産コストもとても高い。発売時は「値段が高すぎる」と散々言われたけど、2時間で売り切れたんだ。

ーー原価率やプライシングを度外視するのは、 ビジネス的なノウハウや勝算があってのことですか。

ラムダン:いや、思いついたらすぐに行動に移さないと気がすまないんだ。いいと思ったらやってみて、後々につながっていけばいい。それに、多くのブランドは価格設定を(高くすることを)あきらめているように感じます。みんな絶対に売れるようになるべく安くしようとするんだけど、個人的にそこは全く気にしない。事前にコストは調べないし、本当にどうでもいい。それは、ビジネスよりも趣味に近いからかもしれないね。「理解できない」とよく言われるけど。「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」でも同じことをしました。そして、とてもうまくいった!

ーー日本の職人や工場とのモノ作りの醍醐味を教えてください。

ラムダン:彼らが“ホンモノ”を理解してくれるという点です。だから彼らとは話し合いができる。そしてお互いに信頼しあえれば、ずっと友達でいられる。日本人はたった一つのことを目的に動くと考えています。それが信頼関係を築くことなんだ。これが壊れたら、永遠に相手を失うことになってしまう。

ーーオリジナルブランド「ディ・ドライベーグ」の名前の由来は。

ラムダン:スイスの「ホテル ドライベーグ」に由来した名前にしたんだ。ホテルの目の前には3つの山があるんだけど、いつも見るたびに「ファック」と思うよ。こんな巨大な山を毎度、無料で見ることができるんだから。それが僕のホテルの魅力の一つ。あの山々を前にすると、「ここが好きなんだな」と心から思う。写真を眺めるだけで懐かしく感じるくらい、夢中なんだ。

ーー日本でも山の近くにホテルを作る予定はありますか。

ラムダン:挑戦はしているけれど、かなり難しい。まず、日本人は昔に比べて山に行かなくなりました。とても不思議なことです。日本で一番好きな場所は青森。ほか、長野や五島列島(長崎)も好きですね。北海道は海外からの観光客であふれかえっているから、あまり好きじゃない(笑)。私が日本にいるのは外国人を見るためじゃない。日本人に会いに行くためなんだ。日本の山は好きだけど、やはり圧倒されるのはスイスの山。最高に美しくて想像を絶する。クレイジーなんだ。マッターホルンやユングフラウ、アイガーのようにスイスには有名な山がたくさんある。だけど、それらはあまりにも有名すぎるように感じている。私のホテルがあるスイスのミューレン村の雰囲気を先に知ってしまうと、よく知られた山には拍子抜けしてしまうと思うよ。

ーー山ではどのように過ごすのですか。

ラムダン:ハイキングです。歩いて登って、降りて、登って、降りて、登って、降りて。それしかしない。最高の過ごし方です。

ーーアウトドア製品のアーカイブを収集していますし、パリで手掛ける「ア ヤングハイカー(A YOUNG HIKER)」ではラギッドなテイストのアイテムを扱っていますね。機能性を生かした、テッキーなアイテムが重宝される今のアウトドア市場の流れとは、やや逆行しているようにも感じます。

ラムダン:古いアウトドアギアは、デザインのインスピレーションの資料として買っているわけではありません。正直、自分でも何で買うのかわからない。例えば、私たちは山をモチーフにしたラグを作っています。「ホテル ドライベーグ」の真正面にそびえるスイスの三大名峰をデザインしたものです。日本の富士山をモチーフにしたラグも作りました。こんなデザインのラグ、誰も作らないでしょう。それと同じことかも知れない。

ーーその反骨精神は、「マウンテンリサーチ」の小林さんとも通じますね。

ラムダン:彼のパンクなところが大好きなんだ。本当に気が合うし、お互いに似た雰囲気を持っていると思っている。つまり、友情なんだ。僕がここにいる理由の一つは、彼の近くにいること。「ノンネイティブ(NONNATIVE)」を手掛けるサーフェン智もそんな友人の1人です。

2階にカフェ、3階にギャラリーも
オープン予定

ーーあなたにとって日本とは。

ラムダン:1990年代から日本のことが大好きでした。当時はTシャツを作って売っていました。そのころから、日本特有のカルチャーに興味があったんです。当時、藤原ヒロシさんを始めとする裏原宿の人たちと出会い、友達になりました。私たちはずっと同じ時間を共にしていると感じています。

ーー90年代には東京に住んでいたそうですね。その時代に得たことは何ですか。

ラムダン:東京は大きく変わりました。昔はとても未来的に感じたよ。今はとても古くなって、とても奇妙です。それが悪いとは言わないし、良いとも言わない。でも、今でも東京が大好きです。僕はバブル崩壊の後、97年に初めて日本に来たんだ。覚えてるのは、新宿の路上にいた大勢のホームレス、恵比寿のクラブ「リキッドルーム」や今はなき西麻布の「イエロー」。それらのクラブはすばらしかった!そこでDJをやったこともありますよ。若かったし、すべてがクールに感じた。でも「ああ、前の方が良かった」と思うのは年をとったからだ。過去が現在より優れていたからではなく、自分が年齢を重ねて優れた存在になったのであって、決して周りのものが優れていたからではないと思うよ。

ーーインスタグラムでは、自身のクリエーションについてと共に、世界情勢に対する思いも投稿していますね。

ラムダン:いま、大虐殺が起きている。そこに対してメッセージなんてないよ。ただ、「人間であれ」というだけ。世界はとても奇妙な方向に進んでいる。それについて、誰も気にかけていないことは確かだ。無反応なのは普通じゃないし、若者やファッション業界が何も話題にしないのもおかしい。日本人に「政治的であれ」とは言わないけど、少なくとも僕たちは行動に移している。人々も惨状をSNSで見ているが、誰も動かないじゃないか。正直なところ、僕は今のアメリカに対して何の情熱も持っていないよ。彼らを憎むことはできないけれど、アメリカは解決策というより問題だと思う。世界は8年前と同じことをまた繰り返していると思うよ。

ーー今後控えている、新しいプロジェクトを教えてください。

ラムダン:多くのことが進行中です。まず、「ワーズ サウンズ カラーズ アンド シェイプス」は1階がショップで、この後は2階にカフェ、3階にギャラリーをオープンする予定。あとは、私の雑誌「ユースレス・ファイターズ」の第3号を出すつもり。それから社会風刺的なアートやグラフィックが好きで、1960〜70年代のレジスタンス運動に関連するものなどを20年にわたって収集してきました。このコレクションを基盤にした古書店「ラディカル メディア アーカイブ」を開き、コレクションをまとめた本も刊行しました。この夏には「ラディカル メディア アーカイブ」の美術館もパリに開く予定があります。

ーーたくさんのプロジェクトを、うまく同時進行するコツはありますか。

ラムダン:毎日、本当に本当に忙しいです。でも、とにかくやる、行動するに尽きるよ。私にも家庭があって、3人の子どももいる。大変だよ(笑)。でも子どもたちはリラックスしていて、とてもクールだと思う。自身のデザイン会社も運営しているし、「ザラ(ZARA)」のコーヒーチェーンも作ったばかり。自分のためにいろいろなものを作り続けているんだ。

◼️「WORDS, SOUNDS, COLORS & SHAPES」
住所:東京都目黒区青葉台2-16-7
営業時間:12時-20時
定休日:月曜日
電話:03-6455-1847

The post “世界で最も美しい店を作る男”、ラムダン・トゥアミが中目黒に新店開業 スイスの山にハマっているワケは? appeared first on WWDJAPAN.

“世界で最も美しい店を作る男”、ラムダン・トゥアミが中目黒に新店開業 スイスの山にハマっているワケは?

PROFILE: ラムダン・トゥアミ/アーティスティック・ディレクター

ラムダン・トゥアミ/アーティスティック・ディレクター
PROFILE: PROFILE: 1974年、フランス生まれ。2014年には配偶者のヴィクトワール・ドゥ・タイヤック(Victoire de Taillac)と「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」を復活させ、大きな成功をおさめる。20年にはLVMHに売却したが、以降もアーティスティック・ディレクターとして携わる PHOTO:SATOMI YAMAUCHI

フランスの実業家・デザイナーであり、パリの総合美容専門店「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー(OFFICINE UNIVERSELLE BULY)」復活の立役者であるラムダン・トゥアミ(Ramdane Touhami)が手掛けるコンセプトショップ「ワーズ サウンズ カラーズ アンド シェイプス(WORDS, SOUNDS, COLORS & SHAPES)」が、東京・中目黒にオープンした。日本1号店となる同店は、2024年10月にオープンしたパリ・マレの本店に続く2店舗目だ。

オリジナルの最上級カジュアルブランド「ディ・ドライべーグ(DIE DREI BERGE)」をはじめ、自身が創設した出版レーベル「パーマネント・ファイルズ(PERMANENT FILES)」から刊行するマガジン「USELESS FIGHTERS(ユースレス・ファイターズ)」など、ラムダン・トゥアミの世界観が堪能できる。活動から目が離せない彼に、中目黒の新店について話を聞いた。

ーー今回のショップを含むプロジェクトのテーマは、“山”だと聞いています。

ラムダン・トゥアミ(以下、ラムダン):正しくは、自然がテーマです。山だけではなく、自然にまつわるショップ。正直、山はどうでもいいんです。私の父は農夫でよく山に連れて行ってくれていたので、子供のころから自然に親しんできました。だから地球環境に配慮して、この店ではプラスチックは使わない。私たちの使命でありこだわりは、石油由来の素材を使わないで服を作ること。ゼロ・プラスチックを目指しています。ここに置いてある全てのアイテムはオリジナル。じっくり手にとって見ていただきたいですね。

「何かを作るとき、
最も美しいものを作りたい」

ーー店内にある商品の構成を教えてください。

ラムダン:全てオリジナルで、(パリ店の品ぞろえに)新しいコートを追加しています。加えていくつかの新商品をご用意しています。でも、ファッション業界の一年を大きく2シーズンに分けてコレクションを作るアイデアは好きじゃない。もっと自由にその時の気分で好きなものを選んでほしい。寒ければジャンパーを買って、暑ければTシャツを買う。私は既存のルールを気にしません。ひとつだけ譲れないことは、クオリティーについて。品質がいいものを作ることができる工場を知りたいし、生産者を知りたいと常々思っています。最近は糸から作ることに取り組む必要があるとさえ思うくらい。このダービーシューズを見て。ディテールに夢中なんです。私は何かを作るとき、最も美しいものを作りたいと思っている。この発想こそが、店全体のストーリーだとわかるでしょう?

ーー店名の「ワーズ サウンズ カラーズ アンド シェイプス」に込めた意味は何ですか。

ラムダン:私たちは言葉を使うからWords。自分たちのラジオ番組を持っているのでSounds。Colorsは私たちが色を愛しているから。そしてShapesは、私たちはさまざまな造形をプロデュースしているから。常にこれらの要素で世界を作りたいと思っている。ちなみに、この店名はドナルド・バード(Donald Byrd)というジャズマンのアルバムタイトルからとりました。私は彼の大ファンなんだ。この言葉を知ったとき、「正しい響きだ!」と感じたし、いつか店の名前にしたいと思った。BGMにも彼の曲を流しているし、何より本人が「このタイトルが好きだ」と語っていたんだ。

ーー店内で特に気に入っている箇所はありますか。

ラムダン:とても面白い店になったと思う。私がプロデュースする、スイスの山岳地帯ミューレン村にある「ホテル ドライベーグ(HOTEL DREI BERGE)」に少し似ているんだ。実際にホテルの内装を見れば分かるけれど、同じムードになっている。こういうウッディーなシャレーみたいな感じだけど、同じようにモダンな感じに仕上げているんです。

ーーショップの外観は淡いグリーン。どのような考えでこの色になったのでしょうか。

ラムダン:私の愛車、1940〜50年代のホンダのバモスからとった色です。この車の緑色で全面を塗ったビルが欲しいと思ったんだ。いつか車を変えたら、どうしよう(笑)?僕はクレイジーだからさ、また色を変えることになるかも知れないね。

ーー中目黒を選んだ理由は。

ラムダン:この街が私にとってまるで村のようだから。友達がみんな住んでいるし、自分の家も中目黒にあります。いいコーヒーショップの場所も知っていますしね。それに、ここには登山が好きな仲間がたくさんいるんですよ。例えば、昨日プレオープン前に来てくれた「マウンテンリサーチ(MOUNTAIN RESEACH)」の小林節正さん。それに、他にもアウトドアブランドで働く友人や仲間が大勢駆けつけてくれました。

ーー店内には、スイスの山々の写真や古い電話などがありますね。以前、「WAM」というスイスにまつわる本も出版されています。スイスに何か特別な思いがあるのでしょうか。

ラムダン:いや、スイスという国自体にはあまり興味がなくて、どちらかというと自然が好きなんです。スイスは美しい自然があるし、すごく気に入っている山がある。それに、スイスと日本には興味深い共通点があると前々から思っているよ。スイスの国土の70%は山で、日本は75%が山。そして世界で一番時間通りに電車が来るのは日本、2位はスイス。中立国と戦争を放棄した国だしね。似ている点が多々あるんだ。それはとても奇妙で面白いことだと思う。多分、この2国はもっと世界のために一緒に話をしなければならないと思うよ。

「コストは調べない、本当どうでもいい」

ーー店内には、これまでに行った日本のブランドとのコラボレーションアイテムもそろえています。

ラムダン:「ポーター(PORTER)」とコラボしたバッグだね。ポリシーとしてプラスチック由来の素材は使わない。代わりに100%コットンのキャンバスを使っています。「ポーター」ではダークカラーが好まれるけど、私は白。「ポーター」はあまり明るい色を使わないけれど、私たちはディテールにたくさん色を使っています。「ポーター」は軽いバッグで知られていますが、私たちのバッグはとても重い(笑)。そして、生産コストもとても高い。発売時は「値段が高すぎる」と散々言われたけど、2時間で売り切れたんだ。

ーー原価率やプライシングを度外視するのは、 ビジネス的なノウハウや勝算があってのことですか。

ラムダン:いや、思いついたらすぐに行動に移さないと気がすまないんだ。いいと思ったらやってみて、後々につながっていけばいい。それに、多くのブランドは価格設定を(高くすることを)あきらめているように感じます。みんな絶対に売れるようになるべく安くしようとするんだけど、個人的にそこは全く気にしない。事前にコストは調べないし、本当にどうでもいい。それは、ビジネスよりも趣味に近いからかもしれないね。「理解できない」とよく言われるけど。「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」でも同じことをしました。そして、とてもうまくいった!

ーー日本の職人や工場とのモノ作りの醍醐味を教えてください。

ラムダン:彼らが“ホンモノ”を理解してくれるという点です。だから彼らとは話し合いができる。そしてお互いに信頼しあえれば、ずっと友達でいられる。日本人はたった一つのことを目的に動くと考えています。それが信頼関係を築くことなんだ。これが壊れたら、永遠に相手を失うことになってしまう。

ーーオリジナルブランド「ディ・ドライベーグ」の名前の由来は。

ラムダン:スイスの「ホテル ドライベーグ」に由来した名前にしたんだ。ホテルの目の前には3つの山があるんだけど、いつも見るたびに「ファック」と思うよ。こんな巨大な山を毎度、無料で見ることができるんだから。それが僕のホテルの魅力の一つ。あの山々を前にすると、「ここが好きなんだな」と心から思う。写真を眺めるだけで懐かしく感じるくらい、夢中なんだ。

ーー日本でも山の近くにホテルを作る予定はありますか。

ラムダン:挑戦はしているけれど、かなり難しい。まず、日本人は昔に比べて山に行かなくなりました。とても不思議なことです。日本で一番好きな場所は青森。ほか、長野や五島列島(長崎)も好きですね。北海道は海外からの観光客であふれかえっているから、あまり好きじゃない(笑)。私が日本にいるのは外国人を見るためじゃない。日本人に会いに行くためなんだ。日本の山は好きだけど、やはり圧倒されるのはスイスの山。最高に美しくて想像を絶する。クレイジーなんだ。マッターホルンやユングフラウ、アイガーのようにスイスには有名な山がたくさんある。だけど、それらはあまりにも有名すぎるように感じている。私のホテルがあるスイスのミューレン村の雰囲気を先に知ってしまうと、よく知られた山には拍子抜けしてしまうと思うよ。

ーー山ではどのように過ごすのですか。

ラムダン:ハイキングです。歩いて登って、降りて、登って、降りて、登って、降りて。それしかしない。最高の過ごし方です。

ーーアウトドア製品のアーカイブを収集していますし、パリで手掛ける「ア ヤングハイカー(A YOUNG HIKER)」ではラギッドなテイストのアイテムを扱っていますね。機能性を生かした、テッキーなアイテムが重宝される今のアウトドア市場の流れとは、やや逆行しているようにも感じます。

ラムダン:古いアウトドアギアは、デザインのインスピレーションの資料として買っているわけではありません。正直、自分でも何で買うのかわからない。例えば、私たちは山をモチーフにしたラグを作っています。「ホテル ドライベーグ」の真正面にそびえるスイスの三大名峰をデザインしたものです。日本の富士山をモチーフにしたラグも作りました。こんなデザインのラグ、誰も作らないでしょう。それと同じことかも知れない。

ーーその反骨精神は、「マウンテンリサーチ」の小林さんとも通じますね。

ラムダン:彼のパンクなところが大好きなんだ。本当に気が合うし、お互いに似た雰囲気を持っていると思っている。つまり、友情なんだ。僕がここにいる理由の一つは、彼の近くにいること。「ノンネイティブ(NONNATIVE)」を手掛けるサーフェン智もそんな友人の1人です。

2階にカフェ、3階にギャラリーも
オープン予定

ーーあなたにとって日本とは。

ラムダン:1990年代から日本のことが大好きでした。当時はTシャツを作って売っていました。そのころから、日本特有のカルチャーに興味があったんです。当時、藤原ヒロシさんを始めとする裏原宿の人たちと出会い、友達になりました。私たちはずっと同じ時間を共にしていると感じています。

ーー90年代には東京に住んでいたそうですね。その時代に得たことは何ですか。

ラムダン:東京は大きく変わりました。昔はとても未来的に感じたよ。今はとても古くなって、とても奇妙です。それが悪いとは言わないし、良いとも言わない。でも、今でも東京が大好きです。僕はバブル崩壊の後、97年に初めて日本に来たんだ。覚えてるのは、新宿の路上にいた大勢のホームレス、恵比寿のクラブ「リキッドルーム」や今はなき西麻布の「イエロー」。それらのクラブはすばらしかった!そこでDJをやったこともありますよ。若かったし、すべてがクールに感じた。でも「ああ、前の方が良かった」と思うのは年をとったからだ。過去が現在より優れていたからではなく、自分が年齢を重ねて優れた存在になったのであって、決して周りのものが優れていたからではないと思うよ。

ーーインスタグラムでは、自身のクリエーションについてと共に、世界情勢に対する思いも投稿していますね。

ラムダン:いま、大虐殺が起きている。そこに対してメッセージなんてないよ。ただ、「人間であれ」というだけ。世界はとても奇妙な方向に進んでいる。それについて、誰も気にかけていないことは確かだ。無反応なのは普通じゃないし、若者やファッション業界が何も話題にしないのもおかしい。日本人に「政治的であれ」とは言わないけど、少なくとも僕たちは行動に移している。人々も惨状をSNSで見ているが、誰も動かないじゃないか。正直なところ、僕は今のアメリカに対して何の情熱も持っていないよ。彼らを憎むことはできないけれど、アメリカは解決策というより問題だと思う。世界は8年前と同じことをまた繰り返していると思うよ。

ーー今後控えている、新しいプロジェクトを教えてください。

ラムダン:多くのことが進行中です。まず、「ワーズ サウンズ カラーズ アンド シェイプス」は1階がショップで、この後は2階にカフェ、3階にギャラリーをオープンする予定。あとは、私の雑誌「ユースレス・ファイターズ」の第3号を出すつもり。それから社会風刺的なアートやグラフィックが好きで、1960〜70年代のレジスタンス運動に関連するものなどを20年にわたって収集してきました。このコレクションを基盤にした古書店「ラディカル メディア アーカイブ」を開き、コレクションをまとめた本も刊行しました。この夏には「ラディカル メディア アーカイブ」の美術館もパリに開く予定があります。

ーーたくさんのプロジェクトを、うまく同時進行するコツはありますか。

ラムダン:毎日、本当に本当に忙しいです。でも、とにかくやる、行動するに尽きるよ。私にも家庭があって、3人の子どももいる。大変だよ(笑)。でも子どもたちはリラックスしていて、とてもクールだと思う。自身のデザイン会社も運営しているし、「ザラ(ZARA)」のコーヒーチェーンも作ったばかり。自分のためにいろいろなものを作り続けているんだ。

◼️「WORDS, SOUNDS, COLORS & SHAPES」
住所:東京都目黒区青葉台2-16-7
営業時間:12時-20時
定休日:月曜日
電話:03-6455-1847

The post “世界で最も美しい店を作る男”、ラムダン・トゥアミが中目黒に新店開業 スイスの山にハマっているワケは? appeared first on WWDJAPAN.

桐生の刺繍工場ブランド「トリプル・オゥ」、片倉洋一が糸で縫い込んだ「小さな革命」

PROFILE: 片倉洋一/笠盛取締役「トリプル・オゥ」ディレクター

片倉洋一/笠盛取締役「トリプル・オゥ」ディレクター
PROFILE: 1976年12月13日生まれ、神奈川県秦野市出身。東海大学工学部経営工学科を卒業後、英国のロンドン芸術大学チェルシー校に留学。パリ滞在を経て2003年に帰国。05年4月に笠盛入社。10年に「トリプル・オゥ」をスタート

繊維の街として知られる群馬県桐生市の刺繍工場、笠盛のファクトリーブランドである「OOO(トリプル・オゥ)」。今は同ブランドを率いる片倉洋一取締役がイギリス留学からの帰国後、同社の門を叩いたのは積み重なった偶然の結果だった。

神奈川県秦野市出身の片倉さんは東海大学工学部を卒業後、テキスタイル分野の名門美大であるロンドン芸術大学チェルシー校に留学。在学中にスイスの名門テキスタイルメーカーのヤコブ・シュラエファー(JAKOB SCHLAEPFER)でインターンを経験。卒業後はパリのオートクチュールブランドなどで半年間のインターン経験を積み、03年に帰国。フリーでデザイナーの仕事を請け負う傍ら、不定期に当時桐生に在住していた伝説的なテキスタイルデザイナー新井淳一さんのアトリエに資料整理などを手伝うために通っていた。「これからどうしようかを考えていたときに、新井さんのアトリエに通いながら、フリーやデザイナーとして活動するより自分はもの作りのど真ん中にいたいって思ったんです」。

新井淳一さんと、片倉さんがインターン当時ヤコブ・シュラエファーを率いていたマーティン・ロイトルド(Martin Leuthold)=クリエイティブ・ディレクターの2人は、いずれも世界的に高い評価を得たテキスタイルクリエイターで、テクノロジーとクラフト、この2つを縦横無尽に結びつけた。インターン時代、片倉さんが特に印象的だったのが、レーザーカットと刺繍を同時に行える日本の刺繍ミシンメーカー、タジマのマシンを駆使したテキスタイルだった。マーティンは積み重ねたキルティングをレーザーカットで花形に切り抜き、その上からオーガンジーの上に刺繍で縫い付けた斬新な発想のテキスタイルで、欧州のクチュールブランドを席巻していた。

新井さんに刺激を受けた片倉さんが「あの刺繍ミシンのある日本の工場で働きたい」と、当時普及したてのインターネットで探したときに出てきたのが、偶然にも桐生にある刺繍工場の笠盛だった。「熱心に探したわけではなく、検索してすぐにヒットしたのが笠盛でした。当時社長だった笠原康利さん(現会長)に直談判したら、本当は募集していなかったのに、すぐに『いいよ、ウチで働きなよ』と言ってくれたんです」。

サブタイトル:「刺繍」生産からアクセサリーパーツ生産へ

1877年創業の笠盛は、当時は2001年のインドネシア進出に失敗して撤退したばかり。実は倒産寸前だった。しかも笠盛は当時、大手アパレルや商社の下請けがメーンで、刺繍にしたい絵をオーダーしてもらい、データ化して機械に打ち込み刺繍し、納品するというビジネスモデル。「2005年4月に入社して3カ月間の現場研修後に配属先はなく、社長直轄で『何かする』みたいな立ち位置。レーザーカット刺繍機も新しもの好きの笠原社長(現会長)が買ったはいいもののあまり稼働してなかった(笑)。仕方がないので社内を見渡して必要なことを自分で探して営業支援みたいなことをしていた。入社して最初の仕事は、刺繍サンプルのためのハンガーヘッドのデザインだった」。

片倉さんは営業支援のためのツール作りやアパレル向けの提案サンプル、そのための絵柄などを作る傍らでいつしか行き着いたのが、刺繍だけで完結するプロダクトを開発することだった。「依頼されたデザインや絵をデータに起こしてテキスタイルに刺繍をする、というのが当時の刺繍工場で主流だったビジネスモデル。ただ、これだとテキスタイルがないとそもそもビジネスが成り立たず、下請けになってしまう」。そこで行き着いたのが水溶性ビニロンペーパーの上にレース模様を刺繍して、お湯で溶かしたあとに残った刺繍をレース生地にするケミカルレースの技法だった。ケミカルレースは、レースの最高級品であり、繊細な柄を表現できるリバーレースを模したものであるため、細い糸を使う。片倉さんはあえて太い糸を使い、チェーンステッチのような柄にすることで、ハンドメードのかぎ針レースのように仕上げた。刺繍ミシンならではの幅広い柄行きを持つ自由なデザイン性は、後に「マメ(MAME)」のハンドステッチ柄の付け襟など、笠盛を代表するヒットアイテムの一つになる。「布を必要とせず、それ単体で付け襟やワンポイントの副資材になる。何よりも、『デザイン』が必要になった」。ちょうどその頃、片倉さんから少し遅れて、オランダの名門美大であるアーネム国立芸術工科大学を卒業した高橋裕二さん(現OEM事業部長)も笠盛に入社してきた。片倉さんと高橋さんのコンビは水ビ(=水溶性ビニロン)ペーパーを使った刺繍の新たな可能性に夢中になって取り組んだことで、刺繍工場の笠盛は商材の幅を副資材にまで大きく広げていった。

ありそうでなかった「OOO(トリプルオー)」が変えた刺繍の常識

こうした試行錯誤の先にあったのが、2010年にスタートしたアクセサリーブランド「トリプル・オゥ」だった。「トリプル・オゥ」の代表作である刺繍ミシンで作った大小さまざまな球体が連なった「スフィア」は、片倉さんの生み出した傑作の一つであり、実は刺繍ミシンで作るプロダクトとしても、ワッペンと並ぶ“小さな革命”とも言える。タジマ(愛知県春日井市)やバルダン(愛知県一宮市)といった日本メーカーが世界をリードする刺繍ミシンは、コンピューター制御したミシン針を精緻に動かし、かつデジタル化することで刺繍の可能性を広げていた。デジタル化によって写真やイラストデータを取り込み、まるで絵のような刺繍に起こすことも当たり前にできるようになっていた。

ただ、片倉さんはデジタル刺繍機に、それ以上の可能性を感じていた。水ビ・ペーパーにデザイン性の高い刺繍を行い、溶かすだけで製品にできるため、ロットをそれほど気にしなくていいし、思いついたらすぐに形にできるような手軽さもある。高橋さんと一緒に競うように開発した刺繍の付属パーツを武器に、笠盛は個展を開くようにもなり、デザイナーブランドや新進ブランドなどの新規顧客を開拓。2007年からはパリの世界最高峰のテキスタイル見本市「プルミエール・ヴィジョン」と併催の服飾資材見本市「モーダモン」にも出展し、欧州の有力ブランドから高い評価も得ていた。

そうした中、刺繍で作ったプロダクトをブローチやネックレスのようなアクセサリーとしても売れるはず、という自信を深め、10年に刺繍のアクセサリーブランド「トリプル・オゥ」をスタートした。「ブランドを始めたときは、けっこう行けるんじゃないか、実は少し自信もあった」。だが「トリプル・オゥ」は売れなかった。素材が糸というだけで金属製のアクセサリーよりも安く見られたし、何よりも糸だけで作った刺繍のアクセサリーは、そのウエートと同様に存在感も軽く見られたのだ。

「トリプル・オゥ」の打開策を考える中で、あるときふと「刺繍で球体を作れないか」と思いつく。デジタル化された刺繍ミシンは、確かにデザインの幅は大きいものの、基本的には2次元を想定しており、球体を作れるようには設計されていない。当然、うまくできない。笠盛には社内にベテランのプログラマーがいて、これまでも片倉さんや高橋さんの無理難題に応えてきた。それでも、というよりだからこそ「球体は無理」というのが結論だった。「『あ、まだあのやり方を試してない』と思いついてはやってみて結局は失敗。そんなことを2年間くらいずっと繰り返していました」。それでも片倉さんは諦めなかった。「なぜか、『絶対に諦めない』ということだけは決めていました(笑)。振り返ってみればクリエイターとしての自負とか諦めの悪い性格とかいろいろあったけど、どんな逆境でもいつも笑顔で前向きな笠原会長の存在も大きかったですね」。最終的に活路を開いたのは、英チェルシー大の前に学んだ工学部のときに得た知見だった。数学的な知見をベースに検証を重ね続けたことで球体のプログラムについに成功した。

「スフィア(球体)」の開発成功は、片倉さん自身にも変化をもたらした。「それまでは仮に多くの人に認められなくても新しいものを作れればいい、みたいな変なアーティスト的な気負いがあった。だけどお客さまが『トリプル・オゥ』に求めているのは、オシャレを楽しむこと。極端に言えば僕のこだわりよりも、価値をきちんと伝えていくことだと気づいた」。例えば糸による特徴に関して「トリプル・オゥ」は自社のウェブサイトで軽さに関して「金属に劣らない輝きを持ちながら、とても軽いこと」であったり、素材が糸だからこそ「肌に優しくストレスフリーであること」、糸だから「服のように気軽に自宅で手洗いが可能」であることなどを伝えている。究極のこだわりであった球体の開発に成功できたからこそ、デザインに関するプラスだけではない引き算の美学を手に入れた。「スフィア」も毎日の着けやすさにこだわり、シルクやキュプラなど肌に優しい素材を使っている。

桐生発ファクトリーブランドで産地全体に活気

「トリプル・オゥ」の年商は現在、1億5000万円ほど。百貨店や専門店への卸が7割、自社ECが3割ほど。この5年間は年率10〜15%で売り上げは増えている。生産工場は、コロナ禍中に笠原会長が思い切って取得・新設した1000坪の新工場で生産している。新工場では2000万円もする最新鋭マシンを含む刺繍機5台がフル稼働している。先読んでいるのか、読んでいないのかわからない笠原会長だが、「思い切ってあのときに取得しておいて良かった」と振り返る。笠原会長の自宅と一体化した本社よりもずっと大きい1000坪の新工場は「カサモリパーク」と名付けられ、いつでも見学できる見学用の通路とショールームを併設。2年前からは年に1度、オープンファクトリーと「トリプル・オゥ」の即売会を兼ねたイベント「カサモリパークフェス」も実施している。イベントはブランドのSNSの告知や社員がチラシなどを配り、500〜600人が訪れる。「一番の収穫は、社員がお客と直接触れ合えること。モノ作りをしていると、当然単調な作業の繰り返しのように感じることもある。ただ、実際にユーザーと触れ合うことで、自分たちの仕事の先にお客さまがいる、喜んでくれる人がいるとわかると、単調な作業がやりがいのある仕事に変わる」。

桐生では「トリプル・オゥ」に刺激を受けたかのごとく、桐生整染の「シルッキ(SILKKI)」、井清(いのきよ)織物の「オルン(OLN)」など、新たにファクトリーブランドが相次いで立ち上がっている。「シルッキ」のデザイナー川上由綺さんも片倉さんのように海外で学び桐生に移住した「移住組」だ。こうした動きを受け、高島屋高崎店駐在の中里康宏バイヤー主導による「メゾンドエフ(maison de F)」のような売り場もスタートしている。今年からはこうしたブランドの関係者に加え、桐生市の行政関係者も巻き込み「桐生の未来を考える会」も発足した。「『トリプル・オゥ』を始めたことで、笠盛という会社や刺繍工場を知ってもらうきっかけになった。桐生発のファクトリーブランドが増えれば、外部から人を呼び込むことにもなる。桐生産地全体を盛り上げるきっかけにしたい」。

The post 桐生の刺繍工場ブランド「トリプル・オゥ」、片倉洋一が糸で縫い込んだ「小さな革命」 appeared first on WWDJAPAN.

オランダ発ライフスタイルブランド「リチュアルズ」CEOが語る、「小さな幸せ」

2024年9月に日本に上陸したオランダ発ラグジュアリービューティ&ウェルビーイングブランド「リチュアルズ(RITUALS)」は、今年でブランド誕生25周年を迎える。「毎日のルーティンを幸せなひとときに変える」をコンセプトに、ボディーやバス、ホームケア製品をそろえる。世界36カ国に1300以上の店舗、4000以上のショップインショップ、8つのマインドオアシス※1を展開する。ブランドで人気の製品を紹介するほか、このほど来日したレイモンド・クルースターマン(Raymond Cloosterman)創設者兼最高経営責任者(CEO)が今後の展望について語った。

※1 :古代からの技術と知恵、科学の力を組み合わせた呼吸法や瞑想、深い休息と現代のテクノロジーに浸り、ユニークなセッションを体験できる店舗

お客さまにも社員にも
「小さな幸せ」を提供

WWD:ブランドを設立した経緯は?

レイモンド・クルースターマン創設者兼CEO(以下、クルースターマン):世界を旅しているとき、人々がいかにせわしなく、自分でコントロールのできない生活を送っているかに気付かされ、それを変える方法を探し始めた。古くから伝わる伝統に感銘を受け、「日々のルーティンをリチュアル(儀式)に変える」というフィロソフィーでブランドを設立した。ただ製品を売るのではなく、「『小さな幸せ』を届ける」という精神に基づいている。

WWD:ブランドの特徴は?

クルースターマン:開発においては世界トップレベルのデザイナーや調香師と協業し、構想から販売までには平均1.5〜2年ほどかける。約90%以上自然由来成分を配合し、多くの製品はレフィル可能。サステナビリティの観点でも市場をけん引しており、ボディーからホームケア製品を手ごろな価格で提供し、ラグジュアリービューティを再定義している。調香師には、コレクションのコンセプトやイメージと製品ラインアップを伝え、香料を製作してもらっている。インドや中国、北アフリカ、中東など幅広いストーリーのコレクションを展開している。特にアイコニックな製品は、水に触れるとテクスチャーが変化するボディーウォッシュ“フォーミング シャワー ジェル”だ。

WWD:社員にも「小さな幸せ」を感じてもらえるように取り組んでいる。

クルースターマン:お客さまに「小さな幸せ」を届けるだけでなく、社員にもウェルビーイングを提供したいと考えている。まずは職場がきれいで、安心できる場所であることが重要だ。当社のオフィスは、アムステルダムで最も美しいと自負している。おいしいランチを提供し、自己啓発に関するサポートもしている。

さらに「ファニーデイ」と称し、勤務日を少し面白くする取り組みをしており、例えば「パジャマデー」には役員も受付も全員同じパジャマを着用して働く。社員200人ほどでマラソンにも参加している。こういったイベントでは社員からも寄付金を募り、NGOに寄付している。当社は「Bコープ」認証も取得しており、利益の10%はNGOなどに寄付。再森林化や海洋資源の保全、児童の社会心理的支援をしている。去年はインドのベンガル湾やコロンビアに合計800万本の木を植樹した。プロフィットプレッジを導入したことで、社員は誇りを感じている。サステナビリティの取り組みや意義のある社会貢献ができる機会があることが、「リチュアルズ」で働くモチベーションを高めている。

WWD:現在の課題と対応策は?

クルースターマン:去年アジアに進出し、今日までに50店舗をオープンした。今や世界4000店舗で展開し、ホテルは40万室でアメニティーが採用されている。毎年200以上の製品を発売するが、各市場の消費者を知り、彼らのニーズに合った製品を提供していくことが成功へのカギだろう。アジア市場の開拓はまだ道半ば。チャレンジングだが、新たな旅路として日々学びを得ている。いつまでも創設当初の起業家精神を忘れずに歩んでいきたい。

WWD:今後の展望は?

クルースターマン:過去3年間で売上高は約10億ユーロ(約1620億円)から約20億ユーロ(約3240億円)に成長した。3年以内に30億ユーロ(約4860億円)に到達できると考えている。現在ヨーロッパでは毎日1店舗、新しい店舗をオープンしているが、今後も新規出店と市場拡大に注力する。今後はアジアでの成長やイノベーションに投資する方針で、昨年上陸した日本市場も5〜10年かけて着実に育てていく。新製品を提供するだけでなく、カテゴリーやサービスの新設も視野に入れている。

世界で毎秒1本売れている
“フォーミング シャワー ジェル”

ブランドを象徴する製品は、「特別な入浴体験を届けたい」と開発した空気に触れるとジェルがきめ細かい泡に変化するボディーウォッシュ“フォーミング シャワー ジェル”(全6種、各200g、1990〜2190円)。1プッシュで全身を洗うことができ、のびの良い泡と豊かなアロマで包み込む。世界で毎秒1本売れている(2023年1月1日〜12月31日累計販売本数、「リチュアルズ」調べ)人気製品だ。

人気No.1のコレクション

日本でも出店を強化

「リチュアルズ」は現在、日本国内では青山のほか有楽町マルイ、テラスモール湘南、東京ミッドタウン日比谷に出店している。「まずは製品を試してほしい」との思いから、全店舗にウォーターアイランド(水を使って製品を試せるシンク)を設置。ギフト需要が高く、通年でギフトカテゴリーを用意している。また、8000円以上の購入でプレゼントするノベルティーはシーズンごとに変更。現在は、“リチュアル オブ サクラ ミニキャンドル”(140g)をプレゼントしている。

本文中の円換算レート:1ユーロ=162円

問い合わせ先
リチュアルズ
0120-950-449

The post オランダ発ライフスタイルブランド「リチュアルズ」CEOが語る、「小さな幸せ」 appeared first on WWDJAPAN.

オランダ発ライフスタイルブランド「リチュアルズ」CEOが語る、「小さな幸せ」

2024年9月に日本に上陸したオランダ発ラグジュアリービューティ&ウェルビーイングブランド「リチュアルズ(RITUALS)」は、今年でブランド誕生25周年を迎える。「毎日のルーティンを幸せなひとときに変える」をコンセプトに、ボディーやバス、ホームケア製品をそろえる。世界36カ国に1300以上の店舗、4000以上のショップインショップ、8つのマインドオアシス※1を展開する。ブランドで人気の製品を紹介するほか、このほど来日したレイモンド・クルースターマン(Raymond Cloosterman)創設者兼最高経営責任者(CEO)が今後の展望について語った。

※1 :古代からの技術と知恵、科学の力を組み合わせた呼吸法や瞑想、深い休息と現代のテクノロジーに浸り、ユニークなセッションを体験できる店舗

お客さまにも社員にも
「小さな幸せ」を提供

WWD:ブランドを設立した経緯は?

レイモンド・クルースターマン創設者兼CEO(以下、クルースターマン):世界を旅しているとき、人々がいかにせわしなく、自分でコントロールのできない生活を送っているかに気付かされ、それを変える方法を探し始めた。古くから伝わる伝統に感銘を受け、「日々のルーティンをリチュアル(儀式)に変える」というフィロソフィーでブランドを設立した。ただ製品を売るのではなく、「『小さな幸せ』を届ける」という精神に基づいている。

WWD:ブランドの特徴は?

クルースターマン:開発においては世界トップレベルのデザイナーや調香師と協業し、構想から販売までには平均1.5〜2年ほどかける。約90%以上自然由来成分を配合し、多くの製品はレフィル可能。サステナビリティの観点でも市場をけん引しており、ボディーからホームケア製品を手ごろな価格で提供し、ラグジュアリービューティを再定義している。調香師には、コレクションのコンセプトやイメージと製品ラインアップを伝え、香料を製作してもらっている。インドや中国、北アフリカ、中東など幅広いストーリーのコレクションを展開している。特にアイコニックな製品は、水に触れるとテクスチャーが変化するボディーウォッシュ“フォーミング シャワー ジェル”だ。

WWD:社員にも「小さな幸せ」を感じてもらえるように取り組んでいる。

クルースターマン:お客さまに「小さな幸せ」を届けるだけでなく、社員にもウェルビーイングを提供したいと考えている。まずは職場がきれいで、安心できる場所であることが重要だ。当社のオフィスは、アムステルダムで最も美しいと自負している。おいしいランチを提供し、自己啓発に関するサポートもしている。

さらに「ファニーデイ」と称し、勤務日を少し面白くする取り組みをしており、例えば「パジャマデー」には役員も受付も全員同じパジャマを着用して働く。社員200人ほどでマラソンにも参加している。こういったイベントでは社員からも寄付金を募り、NGOに寄付している。当社は「Bコープ」認証も取得しており、利益の10%はNGOなどに寄付。再森林化や海洋資源の保全、児童の社会心理的支援をしている。去年はインドのベンガル湾やコロンビアに合計800万本の木を植樹した。プロフィットプレッジを導入したことで、社員は誇りを感じている。サステナビリティの取り組みや意義のある社会貢献ができる機会があることが、「リチュアルズ」で働くモチベーションを高めている。

WWD:現在の課題と対応策は?

クルースターマン:去年アジアに進出し、今日までに50店舗をオープンした。今や世界4000店舗で展開し、ホテルは40万室でアメニティーが採用されている。毎年200以上の製品を発売するが、各市場の消費者を知り、彼らのニーズに合った製品を提供していくことが成功へのカギだろう。アジア市場の開拓はまだ道半ば。チャレンジングだが、新たな旅路として日々学びを得ている。いつまでも創設当初の起業家精神を忘れずに歩んでいきたい。

WWD:今後の展望は?

クルースターマン:過去3年間で売上高は約10億ユーロ(約1620億円)から約20億ユーロ(約3240億円)に成長した。3年以内に30億ユーロ(約4860億円)に到達できると考えている。現在ヨーロッパでは毎日1店舗、新しい店舗をオープンしているが、今後も新規出店と市場拡大に注力する。今後はアジアでの成長やイノベーションに投資する方針で、昨年上陸した日本市場も5〜10年かけて着実に育てていく。新製品を提供するだけでなく、カテゴリーやサービスの新設も視野に入れている。

世界で毎秒1本売れている
“フォーミング シャワー ジェル”

ブランドを象徴する製品は、「特別な入浴体験を届けたい」と開発した空気に触れるとジェルがきめ細かい泡に変化するボディーウォッシュ“フォーミング シャワー ジェル”(全6種、各200g、1990〜2190円)。1プッシュで全身を洗うことができ、のびの良い泡と豊かなアロマで包み込む。世界で毎秒1本売れている(2023年1月1日〜12月31日累計販売本数、「リチュアルズ」調べ)人気製品だ。

人気No.1のコレクション

日本でも出店を強化

「リチュアルズ」は現在、日本国内では青山のほか有楽町マルイ、テラスモール湘南、東京ミッドタウン日比谷に出店している。「まずは製品を試してほしい」との思いから、全店舗にウォーターアイランド(水を使って製品を試せるシンク)を設置。ギフト需要が高く、通年でギフトカテゴリーを用意している。また、8000円以上の購入でプレゼントするノベルティーはシーズンごとに変更。現在は、“リチュアル オブ サクラ ミニキャンドル”(140g)をプレゼントしている。

本文中の円換算レート:1ユーロ=162円

問い合わせ先
リチュアルズ
0120-950-449

The post オランダ発ライフスタイルブランド「リチュアルズ」CEOが語る、「小さな幸せ」 appeared first on WWDJAPAN.

サトウキビから生まれたデニム “紙の糸”が切り開く地域創生の新たな扉

観光地として大きく発展を遂げた沖縄。しかしその一方で、地域資源や一次産業への負荷といった深刻な課題も浮かび上がっている。そうした現実に向き合い、地域創生の視点から新たな価値を生み出そうと立ち上がったのが、キュアラボ(Curelabo)山本直人代表だ。彼は活動の起点として、沖縄の基幹作物であるサトウキビの副産物“バガス”に着目。その成分を活用し、試行錯誤を重ねて“紙糸”を開発した。素材開発の背景や、地域をつなぐ構想、そこに込めた思いを聞いた。

“バガス”に見いだした可能性

PROFILE: 山本直人/キュアラボCEO

山本直人/キュアラボCEO
PROFILE: (やまもと・なおと)広告代理店で地域活性化に携わった後、2018年に独立。地域創生とアップサイクルによる循環型ビジネスを展開するリノベーションを設立し、“バガス”を活用した製品を扱う「シマデニムワークス」を開業。21年には、サステナブル素材の研究・製造・販売を行うキュアラボを設立し、現職 PHOTO:NAOKI MURAMATSU

WWD:プロジェクトを立ち上げた経緯を教えてほしい。

山本直人キュアラボCEO(以下、山本):前職では観光業に特化した広告代理店に勤務し、20年ほど前から沖縄に関わるようになった。当時、年間約500万人だった観光客数は、(コロナ禍前の数値で)現在では1000万人を超える規模に達し、ハワイを上回る観光地へと成長している。

一方で、地域が抱える課題も見えてきた。観光産業が急成長すると、地域資源に負担がかかる。その影響を最も大きく受けたのが一次産業だ。沖縄の基幹作物であるサトウキビは、現在でも耕地面積の約47%を占めるが、収穫量はピーク時の約3分の1にまで減少している。とはいえ、国内で製糖用のサトウキビを生産しているのは沖縄と奄美大島のみであり、国内で砂糖を自給するにはこの2地域での栽培は不可欠。残すべき重要な産業だ。地域の魅力を生かしながら、残すべきものを守りたいという思いから、地域創生に貢献する事業を立ち上げた。

WWD:そこから、なぜサトウキビの残渣“バガス”に注目を?

山本:製糖工場を訪れた際、山積みになったバガスを目にし、それがボイラー燃料として使われていることを知った。だが、収穫時期が限られているため、余剰バガスは使い切れず、燃やすことでCO2を排出するという課題も抱えていた。

バガスの成分は約90%が食物繊維で、主に不溶性繊維だ。そのままでは発酵する可能性があり、肥料や飼料に活用するにも輸送面の問題がある。そこで、この食物繊維(セルロース)を利用して、付加価値のある新しい製品を作れないかと模索した結果、“紙の糸”という発想にたどり着いた。バガスを使って紙糸を作ることで、サトウキビという沖縄の原風景を守りながら、産業としての可能性を広げたいと考えた。

軽さと機能性を兼ね備えた紙糸の魅力

WWD:紙糸の特徴は?

山本:紙糸は、和紙を細く裂いて撚(よ)って作るので、繊維構造としては一般的な糸とそれほど大きな違いはなく、番手(糸の太さ)で管理もできる。最も異なる点は、軽さだ。同じ太さの糸で比較すると、綿糸の半分以下と非常に軽い。また、紙は多孔質なので、顕微鏡で拡大すると小さな穴が開いていて、その構造が吸水性と速乾性を生み出す。さらに、植物由来のポリフェノール系成分の効果で、消臭性や抗菌性も非常に高い。軽くて機能性も備え、かつ日本でしか作れない、ユニークな糸だ。

WWD:相性のいい組み合わせは?

山本:紙糸の軽さや、多孔質による吸水・速乾性、消臭・抗菌性といった機能性は、天然繊維と相性がいい。紙糸100%での使用も可能だが、衣類だと着心地の観点でコットンなどとの混紡が主流だ。カシミヤやウール、丹後ちりめんなどシルクとの組み合わせも、高い評価をいただいている。中でも、日本のシルクと紙糸の組み合わせは、海外での反応が非常に良い。

WWD:海外でも手応えを感じている?

山本:日本の紙糸自体が珍しく、ストーリー性にも富んでいる点が評価され、ハイブランドを含むさまざまなブランドから注目を集めている。デニムよりも、糸として卸すケースが多く、糸やテープの状態で提供し、海外でテキスタイルに加工して使用されるのが主だ。現在では、70種類以上あるサンプルから「この糸・生地を使いたい」とオーダーを受ける機会も増えている。

WWD:開発でこだわった点は?

山本:一番のこだわりは、「国内で製造したい」という思いだ。「サトウキビの残渣は東南アジアでも採れるのだから、沖縄産にこだわる必要はないのでは?」と言われることもあるが、僕たちは地域創生を目的に取り組んでいる。コストなどの課題もあるが、それでも“価値”として残すべきだと考えている。「この素材を通して何をしたいのか」という思いに強くこだわってきたからこそ、「こういうものができた」と沖縄の人々に伝えると、とても喜んでもらえる。そういう姿を見ると、やってよかったと心から思う。

WWD:サトウキビの“バガス”から紙糸を作ろうと考えた後、なぜ「シマデニムワークス(SHIMA DENIM WORKS)」を立ち上げたのか?

山本:デニムは、アパレルの中でも製品寿命が長いアイテムだ。素材にこだわると同時に、できるだけ環境負荷を抑えたいと考えた。さらに、プロジェクトの出発点が沖縄であったことも大きい。沖縄とアメリカの歴史的な関係性を踏まえると、ジーンズというアイテムは象徴的だと思った。

WWD:一般的なコットンデニムとはどんな違いがある?

山本:まず、軽さは明らかに違う。私たちのデニム生地では、紙糸を50%ほど混ぜているので、コットン100%の従来のデニムと比較するとかなり軽い。また、通常のデニムは横糸に白のコットン糸を使うことが多いが、私たちのデニムは横糸に紙糸を採用しているので、裏返すとその色味がよく分かる。少し生成りがかった独特の色なので、それによって経年変化や風合いが少し違ってくる。

沖縄から全国へ
30種類の未利用資源が紙糸に

WWD:現在では、バガス以外も扱っていると聞く。

山本:パイナップルやトマトの葉っぱや米のもみ殻、麦茶やワインの搾りかす、サクランボの剪定枝など、全国21エリア以上で、約30種類の素材を展開している。試作も含めるともっと多い。将来的には、全国47都道府県全てで取り組みたい。

WWD:どういうものが紙糸の原料に向いている?

山本:紙にする上での結合率でいうと、食物繊維を多く含む植物由来のものが適している。ただ、糖度が高かったり、油分が多かったりするものは、工程を追加しなければならず、少し手間がかかる。

WWD:国内製造はどこで?

山本:北海道や岐阜で製造した紙に、静岡・浜松や広島・福山でスリット加工や撚糸を施し、用途に応じて異なる工程を経て仕上げている。例えば、山形のサクランボの枝は、宮城の提携先で乾燥・粉砕処理を行い、その後北海道で紙に加工する。愛知で出る残渣であれば、岐阜で紙にするなど、可能な限り素材の産地に近い場所で完結できるようにしている。

私たちは、サプライチェーンの構築を重視している。自社で全てを抱え込むのではなく、“発注すれば回る体制”を整える。それが実現すれば、全体のバランスが取れて、関わる全ての人がハッピーになれる。デニム製品に関しては、広島・福山を拠点に体制を整えている。製織は篠原テキスタイル、染色は坂本デニムにお願いしている。

WWD:自社の規模を拡大していくより、連携を軸に動いていく、と。

山本:その通りだ。全国の職人や産地にしっかりと還元できるよう、提示された金額のままで依頼しており、価値を下げるような量産はしない。客観的な視点で地域を観察し、そこにある課題を見つけ出し、それをいかに新たな価値へと変換できるかを常に考えている。各地域が自らアップサイクルを実現できる仕組みを、一緒に作っていきたい。

地域、企業と生み出すモノ作り

WWD:なぜ地方創生にこだわるのか?

山本:日本のモノづくりは、私たちが世界と戦える“武器(強み)”だと思うから。日本製の価値は、いまだにすごく高い。だからこそ、昔からある素材や技術に新たな価値を加えて“創生”する発想は、今とても重要だと感じている。それを47都道府県にまで広げていけるような仕組みができたら──。日本のモノ作りの価値と可能性を、今一度提示していきたい。

WWD:今、特に注力している地域連携があれば教えてほしい。

山本:地域軸と企業軸でそれぞれある。地域軸でいうと、100万本のバラが咲く“ばらのまち”として知られる広島・福山では、これまで剪定された枝は全て焼却処分されていた。そこで、福山市役所と篠原テキスタイルと連携し、それらの枝を再利用してデニムを作っている。

また、今年は山形でフルーツ栽培が始まって150周年という節目の年。これに合わせ、山形県庁やJRと連携し、サクランボの剪定枝をアップサイクルした糸を用いて、佐藤繊維をはじめとする県内のニット工場で製品化するプロジェクトを進めている。

京都では、北山杉を活用したプロジェクトも進行中だ。約600年の歴史を持つ北山杉は、かつて茶室や数寄屋建築、寺院などに使用されていたが、洋風化とともに需要が減少している。こうした状況を受け、京都芸術大学と連携し、廃材となった北山杉を糸や布に加工して、林業用の作業着や法被として再生する取り組みを行っている。

WWD:企業軸では?

山本:「サッポロビール」黒ラベルの搾りかすを活用したプロジェクトは、かれこれ4年ほど継続しており、毎年新たな素材や製品を販売している。「明治」チョコレートの原料であるカカオ豆の皮を活用したプロジェクトでは、私たちが作った生地を「エドウイン(EDWIN)」が製品化・販売している。

目指すは“産業がある地域”

WWD:今後は、海外の未利用資源を活用した動きも考えている?

山本:すでに挑戦を始めている。例えば、タイは世界第4位のサトウキビ生産国で、日本をはるかに上回る生産量を誇る。もしタイ国内に紙糸を製造する技術を導入できれば、現地で新たな産業を創出することが可能になる。地域ごとの残渣を生かしたアップサイクルが実現すれば、それこそ地域創生のグローバルモデルとなり得る。

WWD:日本と海外で需要に違いは感じる?

山本:ヨーロッパの方が意識は高いと感じている。日本のマーケットでは、サステナブルやエシカルという観点からの購買意識がまだ根付いていない。もちろん、感度の高い一部の層からは反応があり、メディアを通じて知ってもらえる機会も増えた。ただし、紙糸の吸水性や消臭・抗菌性といった“機能的価値”がなかなか評価されず、最終的には価格で比較されて終わるケースも少なくない。

一方で、若い世代を中心に変化の兆しも見えてきた。現在、全国約20の小中学校と連携し、ワークショップやオンライン授業を実施している。サステナブルな考え方を若い世代に伝えることは、長期的視点で“持続可能な社会”を実現するための布石になる。こういう取り組みこそ真のサステナブルだ。

WWD:今後の目標は?

山本:1つの大きな目標としては、沖縄で繊維産業を生み出すこと。沖縄には縫製業はあるが、繊維産業は存在していない。現在、われわれは、バガスのパウダー化までの工程を沖縄で行っており、それ以降の紙や糸にする工程は、弊社の特許をそれぞれの加工パートナーに委託している状況だ。沖縄本島に唯一ある製糖工場「ゆがふ製糖」に新しい設備を導入できれば、沖縄でも原料から紙、糸、生地、製品までを一貫して行えるようになる。内閣府「沖縄総合事務局」とプロジェクトについて意見を交わしているところだ。

WWD:最後に、この活動を通じてどんな未来を作っていきたい?

山本:“産業がある地域”を実現したい。白川郷のような、観光地としてだけでなく、人が住み、働き、経済が循環している地域。そこに“本当の意味での創生”があると信じている。この紙糸という素材が、地域と世界をつなぐ架け橋になればうれしい。

The post サトウキビから生まれたデニム “紙の糸”が切り開く地域創生の新たな扉 appeared first on WWDJAPAN.

「バウム」が切り拓くアップサイクルの未来──「カリモク家具」「ハスナ」と語る可能性

「バウム(BAUM)」は“樹木との共生”をテーマに2020年に誕生し、今年で5周年を迎えるスキン&マインドブランドだ。“樹木”を意味するブランド名の通り、全化粧品の90%以上を自然由来の成分で構成。パッケージにおいても樹木の循環にこだわり、特徴的な木製パーツは、木製家具の老舗メーカー「カリモク家具」の製造過程で出た国産ナラ材の端材を再利用している。インテリアとしてライフスタイルに溶け込むデザインは、デビュー当時から注目を集めた。

「バウム」「カリモク家具」「ハスナ」
それぞれが目指した資源の循環

“樹木の恵みを受け取るだけでなく、自然に還していく”姿勢を貫き、化粧品成分やパッケージなど、全てにおいて樹木の循環を目指しながら、ブランドを成長させてきた「バウム」。カリモク家具の伊串直恭・事業開発部部長は、「バウム」が切り開いた“化粧品×木材”という挑戦を、誕生当初からサポートしてきた人物である。

「ハスナ」は、白木夏子が2008年に立ち上げたジュエリーブランドだ。誕生当初からリサイクルゴールドや、リサイクル地金のプラチナ、また児童労働や環境破壊がないことを証明する「フェアマインド認証」を受けた金属のみを世界各地から調達し、“プレシャスジュエリー”としての価値を吹き込んできた。

扱うプロダクトは違えど、再活用した資源を新たなデザインにアップサイクルしてきた点で共通している「カリモク家具」と「ハスナ」。伊串事業開発部部長、白木社長、そして村上要「WWDJAPAN」編集長が、アップサイクルにおける現在地を語り合った。

「バウム」と「カリモク家具」の出合い

村上要「WWDJAPAN」編集長(以下、WWD):まずは、「バウム」と「カリモク家具」の取り組みがスタートした経緯を教えてください。

伊串直恭カリモク家具事業開発部部長(以下、伊串):最初にお話をいただいたのは、19年1月ごろでした。プロダクトデザイナーの熊野亘さんから、「バウム」が商品パッケージに木を使うことを検討していると、相談を受けたことがきっかけです。

WWD:端材を利用するケースはそれまではなかった?

伊串:家具の外側から見えない部分や、工場のボイラー燃料として活用はしていましたが、端材にフォーカスを当てて有効活用した例はあまりなかった。「バウム」との取り組みで端材に新しい命を吹き込むことができました。

WWD:実際に取り組んでみて、どうでしたか?

伊串:設計さえできてしまえば、難しい作りではないのですが、「端材を使う」という絶対命題がある中、不ぞろいで小さな端材を大量生産に乗せることが最初の課題でした。

WWD:どのように解決を?

伊串:不定形な端材をジョイントして大きな板を作り、それをパッケージにしていきました。「カリモク家具」では、これまで、明らかなつなぎ目はプロダクトに対してうるさく感じられるので、表面に露出することを極力避けてきました。とはいえ、端材を生かすにはその方法しかない。ひとまず、この形で「バウム」へ提案したところ、「1個1個違っていて、アップサイクルしていることが伝わっていい」と喜んでくれて。われわれの常識が全てではなく、見方を変えれば魅力につながると、新たな視点を教えてもらいました。

「ハスナ」誕生のきっかけ

WWD:白木さんが「ハスナ」を立ち上げたきっかけは?

白木夏子ハスナ社長兼CEO(以下、白木):一番のきっかけは、インドの村で見た光景です。イギリスの大学時代にフィールドトリップで南インド・チェンナイからさらにバスで5、6時間ほど行った村に、2カ月ほど滞在しました。そこでは、インドのカースト制度にも入らないような最下層とされる身分の人々が、鉱山で強制労働をさせられていました。学校にも行けず、1日1ドル以下の生活を強いられながら、化粧品の材料や電化製品に使われるレアアース、金や宝石を採掘していて──。私たちの便利で豊かな生活のために、彼らの生活が犠牲になっているのはおかしいと思ったんです。そして、そのゆがみは中間搾取している企業に原因があると考えました。エシカルという概念を多くの企業が守っていけば、世の中はきっと良くなるし、貧困・環境問題も解決できるはず、と安心かつ安全な素材で作るジュエリーブランド「ハスナ」を立ち上げました。

WWD:素材のアップサイクルには、どのように行き着いたのでしょう?

白木:人や社会、自然との関係に配慮したものを作る方法はいろいろあることに気付き、その一つがアップサイクルでした。例えば、石でネックレスを作る際、ネックレスを作る分だけを仕入れることはできないので、数百個単位で買い付けます。すると、ネックレスになりきらない石が残るので、それをピアスにする。端数で作るため量産も難しいし、形が1つ1つ違うのも魅力だと思うんです。そういった一期一会の機会を楽しんでほしいというメッセージを込めて、“チャンス”コレクションを作りました。

今日着けているピアスもその1つ。カリブ海に面したベリーズという国でしか採れない食用の貝殻をアップサイクルしています。現地では、食べ終えた貝殻は捨てられるのですが、貝殻は磨くととても美しいので、安価な民芸品として売られています。「ハスナ」では、その貝殻をジュエリーにしました。現地より高く買い付けているので彼らの生活もサポートできるし、取引はかれこれ17年ほど継続しています。

高いデザイン性で価値を吹き込む

1点ずつ表情の違う美しさ

WWD:廃棄されるような貝殻に新たな価値を付けるには、相当なクリエイションが必要だと思いますが、どのような工夫をしていますか?

白木:日本の職人が、手作業で貝殻を18金でフレーミングしたり、ダイヤモンドを埋め込んだりし、デザインや加工で新たな価値を吹き込んでいます。貝殻も形や柄が1つずつ違うので、ダイヤモンドを入れる場所によって、デザインも変わってくる。オーダーメードのようにぜいたくなモノづくりも支持されているところだと思います。

WWD:これまでの社会では、均一なものがいつでも買えることが美徳で、メーカーもそこを目指して量産を頑張ってきた側面があります。一方で、「バウム」のパッケージや、「ハスナ」のジュエリーの根底には異なる考え方がうかがえますが、その路線を進んでいけると覚悟を持てたのは、どのような気持ちから?

白木:「ハスナ」を立ち上げた08年ごろは、ジュエリーといえばラウンドブリリアントカットのダイヤモンドや18金で、統一されたデザインがスタンダードでした。ただ、私個人は、他の人とかぶらないもの、1個ずつ違うものに美しさを感じていました。

WWD:だからこそ、「バウム」のつなぎ目が分かるようなパッケージに共感し、琴線に触れるわけですね。

白木:そうですね。木製であることは誰でも分かるけれど、環境への関心が高い人が見ると、端材を用いたコンセプトであることは、すぐに伝わると思います。パッケージでブランドのコンセプトを体現されていて素晴らしいですよね。

無駄をそぎ落とした飽きのこないたたずまい

WWD:伊串さんは、「カリモク家具」と「バウム」の取り組みを振り返り、良かったと思うのはどういう点ですか?

伊串:端材を活用したことへの共感と、同じような取り組みをしたいというお話をたくさんいただくようになったことですね。端材に限らず、ライフスタイルの中に木の温かみを取り入れたいと考える企業がたくさんあることを知り、さまざまなコラボレーションのきっかけにもなりました。

WWD:洗練されたパッケージですが、苦労した点は?

伊串:「バウム」のボトルが木枠にカチッとはまるようにする仕組みですね。内側にリブを付けたり、ケース上部の窪みの内側を少し厚めにしたり、細部を調整することで緩衝材など余分なものを付加することなく完成させることができました。

アップサイクルを実現する
技術力と挑戦する心

WWD:これまで培ってきたノウハウと新たな挑戦がうまく融合した、と。

伊串:そうですね。木材の取り扱いに関しては長年の家具製造によるノウハウがあるので、その知識をパッケージにも生かせました。例えば、木材は湿度によって伸縮しますが、繊維の方向に対して横方向には伸縮しやすく、縦方向にはあまり伸縮しないという特性がある。そうした木材の特性を理解した上で設計を行うことで、どのような環境でもカチッと収まるケースを完成させることができました。

私たちは、デーブルや椅子といった体に触れる家具を長年作ってきました。「バウム」のパッケージにおいても、家具作りと同じ技法を用いて生産しています。従来のモノづくりを貫いた上で、「バウム」のパッケージに家具と同じクオリティーを感じてもらえるのは、これまでの家具作りを褒められているようでうれしいです。

白木:「ハスナ」の場合、難しいオーダーをすることが多いので、まずは私たちのモノづくりに共感してくれる職人と巡り会うことから始まります。お客さまは、アップサイクルだから購入するのではなく、デザインに美しさや魅力を感じてこそ手に取っていただける。最終的にはそこが重要で、1つ1つ状態が異なる素材を、デザイン性を持った高品質なジュエリーに生まれ変わらせるには、長年のノウハウや職人技術が基盤にあり、社会貢献やアップサイクルには欠かせないと思います。

アップサイクルが切り開く未来

WWD:社会や自然環境に配慮したアップサイクルを通じて、ポジティブなムードは広がっていると感じますか?

白木:「ハスナ」を立ち上げた17年前は、「サステナブルって何?」という時代でした。この十数年で当たり前に語られるようになり、環境負荷を軽減するだけではなく、自然を再興しながら活動しようという目標を掲げた企業も出てきています。人々や社会の意識の変化を目の当たりにしているので、希望しかないです。

伊串:私たちも、端材を活用した製品依頼が増えています。素材に関係なく、良いデザイン、良い品質のものを送り出すことは当たり前。09年から取り組んでいる「カリモクニュースタンダード(Karimoku New Standard)」での小径木など低利用材の有効利用をはじめ、端材や虫食いのある材など通常家具では使用されない材料を使った家具を作ってほしいといったオーダーもあります。木材の使い方、生かし方について、さまざまな企業が注目しているのを日々感じています。

左 : 「カリモク家具」では、端材を使ったワークショップ「アニマルカリモク」も開催している
右 : 虫食いナラ材を脚部に採用したファクトリエ限定モデルのスツール。三菱鉛筆との協業では、“ジェットストリーム多機能ペン”のグリップに端材を使用
WWD:今後アップサイクルにおいて挑戦したいことは?

白木:サステナブルって“制限”として捉えられがちですが、実はとてもクリエイティブなことだと思っていて。例えば、「バウム」が“化粧品×木材のアップサイクル”という、これまで誰もやったこなかった試みでイノベーションを起こしたように、 “社会にちょっといいこと”を掛け合わせることで、新しい価値を生み出すブランドやプロダクトが増えていってほしい。“ジュエリー×アップサイクル”でここまできた私も、アイデアは無限にあるので、実現のために試行錯誤するのが楽しいです。

伊串:木材のアップサイクルについては、「バウム」との取り組みで意識も深まりましたし、われわれが培ってきた技術を家具以外の分野でも提供できることが自信につながりました。自然の恵みを上手に活用していくことは、わが社の永遠の課題であり、同時に「カリモク家具」は椅子やソファなどの張り地などで布やレザーなども扱っているので、それらの端材も再利用していきたい。今後も試行錯誤を続けていきたいです。

木製パッケージの製造過程を公開

PHOTOS: KAZUSHI TOYOTA
TEXT:AYA SASAKI
HAIR & MAKEUP:FUYUMI KUBO[ROI]

BAUM LINE公式アカウント友達追加で
森林浴美容®体験スキンケアサンプルプレゼント

問い合わせ先
BAUM お客さま窓口
0120-332-133

The post 「バウム」が切り拓くアップサイクルの未来──「カリモク家具」「ハスナ」と語る可能性 appeared first on WWDJAPAN.

オープンから1年足らずでミシュラン一つ星 「ゴ・エ・ミヨ」にも選出されたフレンチ「アポテオーズ」が届ける“記憶に残るレストラン体験”

森ビルが運営する「東京ノード(TOKYO NODE)」内のフレンチレストラン「アポテオーズ(APOTHEOSE)」の北村啓太シェフは今年、フランス発のレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ」で“明日のグランシェフ賞”を受賞した。同賞は、確固たる基本技術の上に独自の料理世界を築き、優れた才能として日本の料理界をけん引することが期待される料理人へ贈られるもの。「アポテオーズ」はフランス語で「最高の賞賛」を意味し、“日本の風土をフレンチで表現する”をテーマに掲げ、2023年11月にオープンした。オープンから1年足らずでミシュラン一つ星を獲得するなど、注目を集めている。北村シェフに店舗作りのこだわりや、ターニングポイントを聞いた。

ヒノキの香りや温かみのある店舗デザイン

「東京ノード」の最上階に位置する「アポテオーズ」の店内へ入ると、ヒノキを中心にベルガモットやシナモンリーフ、パチュリを加えた香りが鼻腔をくすぐる。北村シェフは、「料理がおいしいのは当たり前。一つのレストラン体験として記憶に残るアプローチを考えた」と、アロナチュラ(ARONATURA)のアロマセラピスト山内みよ氏に依頼してオリジナルの香りを作ったことを明らかにした。落ち着く香りは、大都会の喧騒から離れるきっかけになる。日本には、「フランス料理は堅苦しい」というイメージを持っている人も多いが、「肩肘張らずに食事をしてほしい」という思いから、空間は北欧デザインを採用。木や石などの多様な素材を用い、ナチュラルで温かい空気感を作り出した。特注の食器は、石川県金沢市を拠点に活動するクリエイティブ集団「セッカ(SECCA)」が手掛けた。

コースのメニューはその日入荷した食材に応じて変化させ、3カ月に1回フルモデルチェンジする。北村シェフは、「自分は野菜が大好き。季節を表現するのにも野菜が一番適しているためふんだんに使う」といい、メニューの約80%は野菜で構成する。「日本の野菜や野草は面白い。森にある木の実や、その瞬間にしか採れないような新芽なども取り入れている。レシピ通りに何かを作ることはしない。作りたい料理は素材が教えてくれるので、素材が到着してから調理方法を考える。修行時代に培った料理の技術を生かし、自分が今素直に感じるもの・ことをお皿の上で表現したい」と語り、色とりどりの野菜・野草を使った美しい料理を披露する。

全11品ほど(食材によって微動)で3万円のコースは基本的に、アミューズ3品にメインを含む5品、デザート3品で構成する。「メインは出すが、それ以外は全て前菜と考えている」という。5月は明石鯛とモンゴウイカ、6月は希少価値の高い北海道積丹のウニなどを打ち出す(仕入れによって変動の可能性あり)。「日本でフランスの食材を輸入すると、価格は4〜5倍もするのに質があまりよくない。日本にある、おいしくて鮮度のよい食材を採用している」。

「オープン当初は食材がなかなかそろわなかったこともあり、あまり料理としてまとめきれていなかった」と振り返る。「フランス料理は濃厚な味わいのものも多いので、秋冬は特においしく感じる。去年の秋に、パリ時代に作っていたテイストを強めた料理を提供してみたらお客さまの反応がよかった。日本の風土をフレンチで表現したいと思いつつも、お客さまが求めているものはやはりフランス料理。フランスで修行をした自分にとっては当たり前の味でも、日本のお客さまにとってはそうでないと再確認した。変に“日本らしさ”にこだわりすぎず、素直に表現してみるのもありだと思った」と発想の転換があったことを明らかにした。

「秋には必ずミシュラン二つ星を獲る」

「スペシャリテは自分で打ち出すものではないと思う」と話す北村シェフは、「顧客の反応がよいものは万人受けするもの」と考え、スペシャリテとして確立させているという。“キャベツのパイ包み”は、スペシャリテに発展したメニューの一例だ。北海道産の熟成させた紫キャベツとサボイキャベツ、寒玉キャベツによる紫と黄のコントラストが特徴の一品。「数回食べに来てくれている、師匠の成澤由浩シェフが初めて『これはいい』と言ってくれたので自信を持てた」という。

パリで経験を積んだ北村シェフは、「日本である程度技術を習得し、28歳で渡仏した。最初に働き始めたビストロでは、毎日食材に応じてメニューを変えるため臨機応変な対応力が身についた。その後ミシュラン三つ星のレストランで働く中で感性を刺激されつつも、一方で日本の仕事の精度の高さを再発見することもあった。修行する側から表現する側にシフトチェンジしようと考えていたので、『アポテオーズ』として新たな挑戦ができてうれしい」と語った。

「ゴ・エ・ミヨ」で“明日のグランシェフ賞”を受賞したことについては、「今年同賞を受賞したのは、フレンチでは自分だけだった。全国で選ばれるのは難しいこと。素直にうれしかった」と話した。ミシュラン一つ星を獲得したときは、「二つ星を獲るつもりだったので悔しかった。フレンチでどこがおいしいかと考えたときに、一番に思い浮かぶ店へ成長させたい。海外の二つ星や三つ星のレストランを常に見ており、世界で戦える三つ星レストランを目指している。秋には必ず二つ星を獲る」とコメントした。

「ゴ・エ・ミヨ」とは

「ゴ・エ・ミヨ」とは、フランス人ジャーナリストのアンリ・ゴ(Henri Gault)とクリスチャン・ミヨ(Christian Millau)が1972年にパリで創刊したレストランガイド。日本版は2017年に発刊し、現在世界15カ国で展開する。同レストランガイドは、単に料理だけでなく、「予約の電話から見送りまで」を総合的に評価し、レストランという舞台全体を支えるプロフェッショナルに注目する独自の姿勢を貫いている。

「東京ノード」とは

「東京ノード」は、23年に開業した「虎ノ門ヒルズ ステーションタワー」の最上部に位置する情報発信拠点。約1万㎡の複合施設には、イベントホールやギャラリー、レストラン、ルーフトップガーデンなどが集積する。施設内には、レストランやイノベーティブなプレーヤーが集まる研究開発チーム「東京ノードラボ(TOKYO NODE LAB)」の活動拠点も併設。「NODE=結節点」という名の通り、テクノロジーやアート、エンターテインメントなど、あらゆる領域を超えて、最先端の体験コンテンツやサービス、ビジネスを生み出し、世界に発信する。

The post オープンから1年足らずでミシュラン一つ星 「ゴ・エ・ミヨ」にも選出されたフレンチ「アポテオーズ」が届ける“記憶に残るレストラン体験” appeared first on WWDJAPAN.

好調の「リーバイス」、名古屋に大型店出店 ノースアジアトップが語る“体験”の重要性

「リーバイス(LEVI'S)」はこのほど、東海地区初の大型店舗リーバイス ストア 名古屋ゼロゲートをオープンした。売り場面積は約364平方メートルで、国内最大級を誇る。「リーバイス」製品のカスタマイズやリペア、アップサイクルができる「リーバイス テーラーショップ」も併設し、従来の小売りにとどまらない、最新のブランド体験を提供する戦略店舗だ。

ビンテージコレクションや
「ブルータブ」まで
東海地方最大の品ぞろえ

ワンフロアの店内には、東海地方最大の商品数を取りそろえる。デニムジャケット、ジーンズ、シャツといった定番から、デニムに似合うトップスやアウター、またはノンデニムの商品までシーズンごとの限定商品まで幅広く展開し、さまざまな年代やスタイルニーズに応える商品をラインアップ。こだわりの日本製を中心としたプレミアムライン「リーバイス ブルータブ(Levi’s Blue Tab)」や1890年代からのビンテージを忠実に再現した「リーバイス ビンテージ クロージング(LEVI'S VINTAGE CLOTHING)」コレクションなど、150年以上の歴史を誇るヘリテージと進化が感じられる空間だ。

パーソナライズを楽しめる
テーラーショップ

店内奥の「リーバイス テーラーショップ」では、「リーバイス」の製品を対象に、簡単な丈直しやボタンの付け替えといった修繕はもちろん、よりクリエイティブなカスタマイズが楽しめる。例えば、手持ちの異なるデニムジャケットを組み合わせたり、ジーンズをエプロンやクッションカバーに仕立て直したりすることも可能だ。刺しゅうやパッチ、リベット、ペイントなどの装飾を施し、自分だけの1着を作ることもできるため、世界に一つのアイテムが完成する。

ディビッド・ハマティ=リーバイ・ストラウスジャパン ノースアジア ジェネラルマネージャーに同店の狙いや今後の戦略について聞いた。

体験を届ける
“エンゲージメント・ストア”

WWD:同店に期待することは?

ディビッド・ハマティ=リーバイ・ストラウスジャパン ノースアジア ジェネラルマネージャー(以下、ハマティ):同店は現在の「リーバイス」を象徴する店舗であり、顧客のエンゲージメントを高める重要な拠点だ。特にコロナ以降、人々はただ商品を買う以上に体験を求めに買い物に出かける傾向が強まっていると感じる。そうした需要に応える“エンゲージメント・ストア”と位置付けたい。そして、名古屋は、東京、大阪に次ぐ市場規模を持つだけでなく、「リーバイス」のクラフトマンシップとヘリテージに精通した非常にロイヤルティーの高い顧客が多い地域でもある。ここを出発点に、日本全国にこうした店舗を広めていきたいと考えている。

WWD:“現在の「リーバイス」”とは?

ハマティ:例えば、同店に並ぶプレミアムラインの“ブルータブ”は、さまざまなオケージョンで着られるアイテムをそろえる。人々のライフスタイルを見ていると、デニムの着用シーンは明らかに広がった。つまり、汎用性が重要なキーワードになっている。“ブルータブ”のラインアップを見れば、私たちもカジュアルなジーンズブランドではなく、上から下までトータルファッションを提案するブランドに進化していることを理解してもらえると思う。それから、私たちが注力している、パーソナライゼーションのサービスも体験いただける。日本には特にビンテージデニムのファンが多く、そうした人たちの間ではカスタマイゼーションが次なる付加価値として重要になってくるとみている。私たちはもうお客さまを“カスタマー”とは呼ばない。代わりに“ファン”という言葉を意識的に選んでいる。これからは商品だけでなく、経験でつながるファンコミュニティーを広げていく方針だ。

日本のカルチャーシーンとつながり、
ファンを増やす

WWD:コロナ禍以降業績は堅調に推移しているが、日本での商況は?

ハマティ:日本も非常に好調だ。グローバルと比較すると、特にプレミアムラインがよく売れる。日本のお客さまは、「リーバイス」の150年以上の歴史をすごくよく理解しているからなのだろう。ウィメンズアイテムもよく売れているが、まだまだ伸び代を感じている。去年から「フジロックフェスティバル」へのスポンサードも復活しているが、日本でもカルチャーシーンとの結びつきを強める取り組みが奏功し、若年層との接点も増えている。ローカルブランドとのパートナーシップや店内イベントも引き続き強化する。

WWD:一方、課題は?

ハマティ:日本の経済状況は順調とは言えない。GDPの伸び悩み、高齢化、インフレといった課題を抱えている。ただ、私たちは自社の強みを最大限に生かすことが重要だと考えている。強みとはつまり、ヘリテージ、カルチャー、ブランドのオーセンティシティー、そして日本のクラフトマンシップとの結び付き。人々が求めているのは、共感できる価値であり、かつ自分らしさを表現できるパーソナライズ性、そして信頼できるブランドだと考えている。すでにこれらが市場でしっかり響いている手応えがあり、ゆえにこれまで好調を維持できている。今後も適切な立地での出店を検討しつつ、アートや音楽、スケート、ダンスといったライフスタイル領域でお客さまとのエンゲージメントを高めていく。そしてヘリテージを生かしながら、カルチャーの中心であり続けることが私たちの目標だ。

■リーバイス ストア 名古屋ゼロゲート店

時間:11:00〜20:00
住所:愛知県名古屋市中区栄3-28-11

PHOTO:TETSUO OGINO(SUISAI)
問い合わせ先
リーバイ・ストラウス ジャパン
0120-099-501

The post 好調の「リーバイス」、名古屋に大型店出店 ノースアジアトップが語る“体験”の重要性 appeared first on WWDJAPAN.

西田有志が語る「ファッションへの美意識」 バレーボール選手の枠を超える自己表現

PROFILE: 西田有志/バレーボール選手

PROFILE: (にしだ・ゆうじ)2000年1月30日生まれ。数々の世界的な大会でも目覚ましい活躍を遂げているプロバレーボール選手。「怪物サウスポー」とも呼ばれており、パワフルなジャンプサーブと跳躍力を生かしたスパイクが武器だ。 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

「ニッポンが誇る左の大砲」「怪物サウスポー」――そんな異名を持ち、日本のバレーボール界をけん引している大阪ブルテオンの西田有志選手。19歳という若さで日本代表入りを果たし、世界トップクラスのスパイカーとして活躍するまで成長した。左利きの彼が繰り出す強烈なサーブと、驚異的な跳躍力を誇るスパイクは、世界中のファンを虜にしている。

西田選手は、5月8日に開催されたバレーボールの国内トップリーグ「2024-25 大同生命SVリーグ」の表彰式に出席。同リーグの認知や集客を押し上げる影響力や、発信力を発揮した人に贈られる賞「アタック・ザ・トップ賞」を受賞した。

今回は式典の合間を縫い、「WWDJAPAN」の取材に応じてくれた西田選手にファッションへのこだわりを聞いた。

ストライプスーツ×蝶ネクタイでエレガントに

表彰式に洗練されたスーツスタイルで登場した西田選手。ファッションには強いこだわりがあるそうで、他の選手とは一線を画すスタイルを披露した。ネクタイを身に付ける選手が多い中、あえて蝶ネクタイをセレクト。身にまとっていたのは、「ブルネロ クチネリ(BRUNELLO CUCINELLI)」のストライプスーツだ。

「今回は、頼れる専属のスタイリストにコーディネートを組んでもらいました。授賞式などの華やかなイベントは、個人的に蝶ネクタイを身につけるイメージが強くて。初めて着けてみたんですけど、とても気に入りました。『ブルネロ クチネロ』のアイテムは、クラシックだけど遊び心があるところが好きなんです」。

西田選手は、「エルメス(HERMES)」2024年秋冬メンズコレクションショーでランウエイモデルとして起用された経験もある。「なんで俺はここにおるんやろう?と何回も思いました(笑)」と、率直に当時を振り返る。「『エルメス』の広報の方に理由を聞いたら、メンズのデザインを担当している方が僕をモデルに指名してくださったそうで。とても光栄でしたし、貴重な機会でしたね」。バレーボール選手の枠にとらわれず、さまざまなことに積極的にチャレンジしている。

自身のブランドはリニューアルに向けて歩みを進める

ファッションへの関心は着こなしだけにとどまらず、アパレルブランド「クレイジージャンプ(CRAZY JUMP)」のプロデューサーも務めている西田選手。現在はロゴTシャツやスポーツタオル、トートバッグといった親しみやすいアイテムが中心だが、今後はブランドの方向性に変化を加えていくという。

「アイテムが少しグッズ寄りになってしまっているので、もう少しファッションブランドとしての存在感を出していきたいと考えています。専属のスタイリストに素材の選び方やブランディングについても相談していて、少しずつ進化させていく予定です」と語る。

アスリートとしての存在感だけでなく、ファッションへの感度と発信力も兼ね備える西田選手。自身のスタイルを体現するその姿勢は、ファッション業界からも一層注目を集めそうだ。

The post 西田有志が語る「ファッションへの美意識」 バレーボール選手の枠を超える自己表現 appeared first on WWDJAPAN.

ユナイテッドアローズの「コンテ」が丸ビルに4号店 辺見えみりの感性響き好調

ユナイテッドアローズは5月17日、辺見えみりがディレクターを務める「コンテ(CONTE)」の新店を丸ビル1階にオープンした。路面の青山店、ルミネ新宿店、アミュプラザ博多店に続く4店舗目。東京駅を臨む立地にちなみ、「旅」をストアコンセプトに据え、ホテルのような空間に仕上げた。店舗面積は約85平方メートル。

同ブランドは、40代女性の”新大人マーケット”の開拓をミッションに2024年秋に始動した。年齢を重ねる中で似合う服が変化してきたという辺見自身の経験をもとに、「モード感」と「ほどよい抜け感」のバランスを意識したデザインが好評で、初年度は計画の1.5倍の売り上げで進捗している。今年3月にオープンした九州初の店舗アミュプラザ博多では、初日に50人の行列ができたといい、辺見のファンを中心に支持を広げている。

25年春夏シーズンは、特に人気のジャンプスーツやジャケット、ニットを中心にテイスト幅を広げ、デビューシーズンの70型から100型にバリエーションを拡充した。新たな挑戦として、ペムラムシルエットのブラウスなど甘さのある商品も企画した。

丸の内店では、旅のワードローブを意識しながら商品を陳列。辺見は「旅行ではオンオフのシーンを選ばす、一枚で様になる服を重宝する。今回企画したジャンプスーツはまさにそれが叶う。かさばらずシワになりにくい素材を採用している点もポイント。ジャケット類は、ハンサムになりすぎずどこかに艶っぽさを残すよう工夫した」と説明する。

コンシェルジュカウンターをイメージしたという什器には、同店限定で「カルティエ(CARTIER)」の時計や「エルメス(HERMES)」のベルトなどのビンテージ品や一点物のアクセサリー類を並べた。辺見は、「私自身もこの店で働きたいと思えるほど素敵な空間に仕上がった。実際に商品に触れてもらい、この空間での買い物を楽しんでいただきたい」とコメントした。

神永和洋ブランドビジネス本部SBU部コンテ課課長は、「ファーストシーズンから、コート、ジャケット、シャツなどブランドの顔となる商品を作り上げられたことが好調の要因だろう」と分析し、「UA社の中でも主力ブランドになれるよう育てていきたい」と意気込む。9月には1周年を記念した店頭イベントを実施予定している。

■conte 丸の内店

オープン日:5月17日
時間:平日・土曜 11:00~21:00/日曜・祝日 11:00~20:00
住所:東京都千代田区丸の内2-4-1 丸ビル 1階

The post ユナイテッドアローズの「コンテ」が丸ビルに4号店 辺見えみりの感性響き好調 appeared first on WWDJAPAN.

ユナイテッドアローズの「コンテ」が丸ビルに4号店 辺見えみりの感性響き好調

ユナイテッドアローズは5月17日、辺見えみりがディレクターを務める「コンテ(CONTE)」の新店を丸ビル1階にオープンした。路面の青山店、ルミネ新宿店、アミュプラザ博多店に続く4店舗目。東京駅を臨む立地にちなみ、「旅」をストアコンセプトに据え、ホテルのような空間に仕上げた。店舗面積は約85平方メートル。

同ブランドは、40代女性の”新大人マーケット”の開拓をミッションに2024年秋に始動した。年齢を重ねる中で似合う服が変化してきたという辺見自身の経験をもとに、「モード感」と「ほどよい抜け感」のバランスを意識したデザインが好評で、初年度は計画の1.5倍の売り上げで進捗している。今年3月にオープンした九州初の店舗アミュプラザ博多では、初日に50人の行列ができたといい、辺見のファンを中心に支持を広げている。

25年春夏シーズンは、特に人気のジャンプスーツやジャケット、ニットを中心にテイスト幅を広げ、デビューシーズンの70型から100型にバリエーションを拡充した。新たな挑戦として、ペムラムシルエットのブラウスなど甘さのある商品も企画した。

丸の内店では、旅のワードローブを意識しながら商品を陳列。辺見は「旅行ではオンオフのシーンを選ばす、一枚で様になる服を重宝する。今回企画したジャンプスーツはまさにそれが叶う。かさばらずシワになりにくい素材を採用している点もポイント。ジャケット類は、ハンサムになりすぎずどこかに艶っぽさを残すよう工夫した」と説明する。

コンシェルジュカウンターをイメージしたという什器には、同店限定で「カルティエ(CARTIER)」の時計や「エルメス(HERMES)」のベルトなどのビンテージ品や一点物のアクセサリー類を並べた。辺見は、「私自身もこの店で働きたいと思えるほど素敵な空間に仕上がった。実際に商品に触れてもらい、この空間での買い物を楽しんでいただきたい」とコメントした。

神永和洋ブランドビジネス本部SBU部コンテ課課長は、「ファーストシーズンから、コート、ジャケット、シャツなどブランドの顔となる商品を作り上げられたことが好調の要因だろう」と分析し、「UA社の中でも主力ブランドになれるよう育てていきたい」と意気込む。9月には1周年を記念した店頭イベントを実施予定している。

■conte 丸の内店

オープン日:5月17日
時間:平日・土曜 11:00~21:00/日曜・祝日 11:00~20:00
住所:東京都千代田区丸の内2-4-1 丸ビル 1階

The post ユナイテッドアローズの「コンテ」が丸ビルに4号店 辺見えみりの感性響き好調 appeared first on WWDJAPAN.

LVMH メティエ ダール 盛岡氏に聞く、産地との共生モデル ラグジュアリーの次の役割

PROFILE: 盛岡笑奈/LVMH メティエ ダール ジャパン ディレクター

盛岡笑奈/LVMH メティエ ダール ジャパン ディレクター
PROFILE: 2011年ラグジュアリー業界を牽引するLVMHグループに入社。以降、ウォッチ・ジュエリー部、本社勤務を通じマーケティングや経営戦略の経験を重ね、22年より卓越した職人のノウハウの継承と発展を掲げるLVMHメティエ ダールの日本支部の設立と共にディレクターに就任。工芸から工業に渡り、日本の優れたものづくりの潜在力を発揮し、伝統と革新の対話を通じ、卓越したクラフトマンシップの活性化と職人に対する持続性のある事業の開拓と展開を志す。PHOTO:KAZUO YOSHIDA
LVMHグループが推進する伝統産業継承プロジェクト「LVMH メティエ ダール」。フランスをはじめとする欧州各地で築かれてきた産地連携モデルは、いま日本市場へと本格的に拡張されつつある。なぜ、いま日本なのか。グローバルなラグジュアリービジネスの文脈において、日本のクラフト技術はどのような位置づけにあるのか。そして、急速に進む産地の衰退と向き合いながら、どのような持続可能なモデルを構築しようとしているのか。LVMHモエ ヘネシー・ルイ ヴィトン・ジャパンの盛岡笑奈LVMH メティエ ダール ディレクターへのインタビューを通じ、現場でのリサーチ活動、職人ネットワーク構築の現状、地域エコシステム形成への展望、そしてグローバル市場における日本産クラフトの可能性を探る。

伝統と革新をつなぐ、日本展開のミッション

WWD:LVMH メティエ ダール ジャパンは2022年に設立され、伝統産業の継承と発展を掲げています。はじめに、盛岡さんのミッションや、現在どのような役割で活動されているのか教えてください。

盛岡笑奈LVMHモエヘネシー・ルイヴィトン・ジャパン、LVMH メティエ ダール ディレクター(以下、盛岡):LVMH メティエ ダールは2015年に立ち上がった事業で、今年でちょうど10年を迎えます。ラグジュアリー業界では、多くのブランドがヨーロッパの伝統産業を支えにビジネスを展開してきましたが、近年は世界的にそうした産業の衰退が顕著になってきました。

その中で「優れたものづくりを守り、未来へつなぐ」という姿勢が、私たちの中核的な価値観として根づいています。ルイ・ヴィトンをはじめとするフランス発祥のメゾンであっても、いまやフランスや欧州にとどまらず、最良の素材や技術、クラフトマンシップを取り入れて製品を生み出すことが重要視されています。

日本は、伝統技術や素材、品質、そしてクリエイティビティにおいて世界的にも高く評価されています。さらに、まだ十分に発掘・活用されていないものづくりが、各地に数多く残されています。それらを再発見し、世界に発信していくことが、私のミッションです。

WWD:盛岡さんがこの任務に選ばれた背景には、どのような経緯があったのでしょうか?

盛岡:もともと日本のものづくりに強い関心があり、それをどうブランドビジネスに生かすかを考え続けてきました。ですので、自然な流れで現在の役割を担うことになったと感じています。

ビジネスとしての共生と産地連携

WWD:対象となる技術や産業については、どのような基準で取り組みを進めているのでしょうか?

盛岡:LVMH メティエ ダールはCSR活動ではありません。ビジネスとして成立させることを前提としたプロジェクトです。つまり、企業やブランドの成長と並行して、パートナーである職人や工房の持続的成長を支える「共生モデル」を目指しています。伝統的価値を単に保存するのではなく、それを経済活動として活かしていくことが求められているのです。

WWD:2020年にはベルナール・アルノー(Bernard Arnault)LVMHモエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON)会長兼最高経営責任者(CEO)が日本を訪問し、日本のクラフトや繊維産業に高い価値を見出す発言もありました。こうした動きは、LVMH メティエ ダールの展開と連動しているのでしょうか?

> LVMHアルノー会長が松野官房長官を訪問 商品に日本産地表示など提案

盛岡:はい、グループ内でも以前からラグジュアリーの未来を考える上で、素材の定義や重要性を再確認する必要性が議論されてきました。従来は欧州の産地や職人たちが中心でしたが、すでに失われた技術も少なくありません。

一方、日本はフェーズが少し遅れていることもあり技術や素材がいまだ豊富に残されています。この「最後のチャンス」を逃さず、日本で残る技術や素材を再発見し、活性化していくことが今、重要だと考えています。

WWD:LVMH傘下のブランドはこれまでも日本の伝統産業と協業してきましたね。

盛岡:1953年にデザインされた「クリスチャン ディオール」の“ジャルダン ジャポネ(日本庭園)”と名付けられたドレスが象徴するように、多くのメゾンはかつてより日本をインスピレーションの源にしていて、日本の素材や職人技術を高く評価し、制作にも採用しています。ただ、活用の面ではまだ伸びしろは十分あると感じています。

地理的距離や言語の違い以上に、価値観や仕事観の隔たりがあったことも否めません。本質的な対話の欠如が、これまでの限界だったと感じています。単なる商取引ではなく、長期的な関係性を築く「かけ橋」となることが、私の使命だと考えています。

日本でしかできないものを見極める

WWD:特に、日本の繊維産業の、どのような点に注目されていますか?

盛岡:日本の繊維技術は世界的に見ても非常に高水準ですが、物理的な距離のために欧州ブランドと連携するハードルが高いという課題がありました。サンプル確認のスピードや物流コストが大きく影響します。

だからこそ、「日本でしかできないこと」から始めるべきだと考えました。たとえば、デニムや日常着で使われる絹織物など、唯一無二の技術にフォーカスしています。

WWD:実際の産地リサーチは、どのように進めているのでしょうか?

盛岡:資料や文献も大切ですが、最も重要なのは現場に足を運ぶことです。職人の工房で、ものづくりの現場を自分の目で確かめることが不可欠だと考えています。

注目している地域にはほぼすべて訪問しており、将来的には全都道府県を回りたいと思っています。訪問の際は、事前に関係者との打ち合わせを行い、それぞれの得意分野や技術の特性を理解したうえで現地に向かいます。

日本のものづくりには、分業制に基づく緻密な工程が多く見られます。たとえば同じ織物でも、染めに特化した工房や、糸づくりに強みを持つ地域などがあり、それぞれに独自の技術が根づいています。単発の訪問では見えにくい本質的な価値を見極めるため、何度も足を運びながら信頼関係を築いています。

WWD:軸として「日本でしかできないもの」を重視されているとのことですが、具体的には?

盛岡:はい、その軸は絶対にぶらさないようにしています。とくに繊維産業では、各工程が極めて高度に専門化されているのが特徴です。素材の品質に加えて、糸づくり、染め、織り、仕上げといった各段階で、それぞれ独立した高い技術が存在します。しかし現実には、たとえば糸づくりの工程では担い手が急速に減少しています。糸がなければ織物も成り立たないように、ひとつの工程が消えることで、全体の持続可能性が脅かされる可能性があるのです。だからこそ、今ある技術をどのように未来につなぐかを、慎重かつ戦略的に考える必要があります。

WWD:産地での出会いの中で、特に印象に残ったことはありますか?

盛岡:すべての出会いが印象的ですが、特に強く心に残っているのは、優れた技術を持ちながらも後継者がいない、あるいは高齢で引退間近という職人の方々との出会いです。「この方が最後かもしれない」と思う瞬間があり、そのたびに胸が締めつけられる思いになります。この貴重な技術を何としても次代へつなぎたい、という気持ちが自然と湧き上がります。

また、伝統技術というと「守るべきもの」というイメージが先行しがちですが、実際には多くの職人たちが日々挑戦を続けています。単に受け継ぐだけでなく、自らの手でアップデートしていこうとする意志にあふれています。まさに伝統と革新の両立を体現されているとつくづく感じています。年齢を問わず、そうした未来志向を持つ職人に出会うと、私たちも大きな力をもらいます。

エコシステム構築と地域への還元

WWD:パートナーシップの締結はどのように進められていか?

盛岡:パートナーシップの形態は一様ではありません。事業者の状況に応じて、資本提携、優先取引による戦略的連携、あるいは新事業立ち上げに向けたジョイントベンチャーなど、さまざまな選択肢を用意しています。重要なのは、一方的に「これをしてください」と求めるのではなく、相手の現状や可能性を十分に理解し、対等な立場で課題をともに乗り越えていくことです。

たとえば、欧州基準への対応トレーニングやサプライチェーンの透明化など、即時対応が求められる項目と中長期的に取り組むべきテーマを整理し、段階的に支援を行っています。最終的には、各事業者が自立してグローバル市場で戦えるスキルと自信を身につけ、新たなチャレンジを自ら始められる状態を目指しています。その橋渡しを担うことが、私たちの重要な役割だと考えています。

WWD:「クロキ」のデニム生地や西陣織「細尾」との取り組みも注目を集めました。

盛岡:いずれの事例も、単なるパートナー契約にとどまらず、「どう生かしていくか」に重点を置いています。たとえばクロキさんのデニムが、ラグジュアリー業界で広く認知され、世界に展開されていくこと。それ自体が一つの成果であると考えています。デニム産業は地域全体で支えるものです。ですから、単に一社が生地を供給するのではなく、地域全体の魅力を紹介し、「メイド・イン・ジャパン」の価値をグローバルに伝えるエコシステムを構築していきたいと考えています。

細尾さんの西陣織についても同様です。京都が持つ技術力や文化の奥深さを、ラグジュアリーの世界に改めて発信していく取り組みです。

WWD:伝統を大切にしながら、地域への還元も意識したエコシステムづくりですね。

盛岡:地域産業を真に守るためには、一部の工房や企業だけが恩恵を受けるのではなく、地域全体に利益が波及する循環を構築する必要があります。たとえば「ルイ・ヴィトン」や「ディオール(DIOR)」の製品が、ある地域の素材によって生まれていると広く知られるようになれば、その地域で働きたいと思う若い人も増えるかもしれません。

そうした流れができれば、地域内に小さな経済圏が生まれ、持続可能なエコシステムが構築されていきます。また、日本のものづくりは自然環境との結びつきが深く、地場産業は土地の特性と切り離せない存在です。たとえば、織物産地の近くに清らかな水があるように、風土と技術は一体です。

だからこそ、観光だけが先行し、地域に還元されないような形では本質的な価値は生まれません。本当に地域の人々に価値が戻ってくる仕組みづくりが、何よりも重要だと考えています。

課題は世界との比較や客観的な視点

WWD:日本の産地やクラフトの課題について、どのように捉えていますか?

盛岡:最大の課題は、世界との比較や客観的な視点が不足していることだと感じています。地域の中では「素晴らしい」と評価されているニットや織物であっても、同様に優れた技術や製品が世界の他の地域にも存在する可能性があります。そこを知らなければ、自分たちの強みも、どこで勝負すべきかも見えてこない。

世界に出ていくためには、すべてを守ろうとするのではなく、ある程度フォーカスを絞り、「これが私たちの核です」と明確に打ち出す必要があります。

WWD:最近、日本でもアーティスト・イン・レジデンス(AIR)のプログラムを始められたと伺いました。その意図を教えてください。

盛岡:もともとこのAIRプログラムはヨーロッパで展開していた取り組みで、毎年一社ずつ、パートナー企業の現場にアーティストを派遣し、工業や工芸のプロセスをアートの視点で表現してもらうというプロジェクトです。

工業の現場というと、どうしても機械的な作業に見えがちですが、そこにも繊細なクラフトマンシップが息づいています。アーティストがその現場に入り込むことで、職人たち自身が自らの技術の価値を再認識するきっかけになるのです。「なぜその手の動きなのか」「なぜこの作業順なのか」——当たり前と思っていた所作に対して、アーティストが新しい視点から問いを投げかけてくれる。それが職人たちにとっても大きな刺激になります。このプログラムを日本でも展開することで、改めてクラフトの価値を内側から見つめ直し、未来への革新につなげるきっかけになればと考えています。

The post LVMH メティエ ダール 盛岡氏に聞く、産地との共生モデル ラグジュアリーの次の役割 appeared first on WWDJAPAN.

LVMH メティエ ダール 盛岡氏に聞く、産地との共生モデル ラグジュアリーの次の役割

PROFILE: 盛岡笑奈/LVMH メティエ ダール ジャパン ディレクター

盛岡笑奈/LVMH メティエ ダール ジャパン ディレクター
PROFILE: 2011年ラグジュアリー業界を牽引するLVMHグループに入社。以降、ウォッチ・ジュエリー部、本社勤務を通じマーケティングや経営戦略の経験を重ね、22年より卓越した職人のノウハウの継承と発展を掲げるLVMHメティエ ダールの日本支部の設立と共にディレクターに就任。工芸から工業に渡り、日本の優れたものづくりの潜在力を発揮し、伝統と革新の対話を通じ、卓越したクラフトマンシップの活性化と職人に対する持続性のある事業の開拓と展開を志す。PHOTO:KAZUO YOSHIDA
LVMHグループが推進する伝統産業継承プロジェクト「LVMH メティエ ダール」。フランスをはじめとする欧州各地で築かれてきた産地連携モデルは、いま日本市場へと本格的に拡張されつつある。なぜ、いま日本なのか。グローバルなラグジュアリービジネスの文脈において、日本のクラフト技術はどのような位置づけにあるのか。そして、急速に進む産地の衰退と向き合いながら、どのような持続可能なモデルを構築しようとしているのか。LVMHモエ ヘネシー・ルイ ヴィトン・ジャパンの盛岡笑奈LVMH メティエ ダール ディレクターへのインタビューを通じ、現場でのリサーチ活動、職人ネットワーク構築の現状、地域エコシステム形成への展望、そしてグローバル市場における日本産クラフトの可能性を探る。

伝統と革新をつなぐ、日本展開のミッション

WWD:LVMH メティエ ダール ジャパンは2022年に設立され、伝統産業の継承と発展を掲げています。はじめに、盛岡さんのミッションや、現在どのような役割で活動されているのか教えてください。

盛岡笑奈LVMHモエヘネシー・ルイヴィトン・ジャパン、LVMH メティエ ダール ディレクター(以下、盛岡):LVMH メティエ ダールは2015年に立ち上がった事業で、今年でちょうど10年を迎えます。ラグジュアリー業界では、多くのブランドがヨーロッパの伝統産業を支えにビジネスを展開してきましたが、近年は世界的にそうした産業の衰退が顕著になってきました。

その中で「優れたものづくりを守り、未来へつなぐ」という姿勢が、私たちの中核的な価値観として根づいています。ルイ・ヴィトンをはじめとするフランス発祥のメゾンであっても、いまやフランスや欧州にとどまらず、最良の素材や技術、クラフトマンシップを取り入れて製品を生み出すことが重要視されています。

日本は、伝統技術や素材、品質、そしてクリエイティビティにおいて世界的にも高く評価されています。さらに、まだ十分に発掘・活用されていないものづくりが、各地に数多く残されています。それらを再発見し、世界に発信していくことが、私のミッションです。

WWD:盛岡さんがこの任務に選ばれた背景には、どのような経緯があったのでしょうか?

盛岡:もともと日本のものづくりに強い関心があり、それをどうブランドビジネスに生かすかを考え続けてきました。ですので、自然な流れで現在の役割を担うことになったと感じています。

ビジネスとしての共生と産地連携

WWD:対象となる技術や産業については、どのような基準で取り組みを進めているのでしょうか?

盛岡:LVMH メティエ ダールはCSR活動ではありません。ビジネスとして成立させることを前提としたプロジェクトです。つまり、企業やブランドの成長と並行して、パートナーである職人や工房の持続的成長を支える「共生モデル」を目指しています。伝統的価値を単に保存するのではなく、それを経済活動として活かしていくことが求められているのです。

WWD:2020年にはベルナール・アルノー(Bernard Arnault)LVMHモエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON)会長兼最高経営責任者(CEO)が日本を訪問し、日本のクラフトや繊維産業に高い価値を見出す発言もありました。こうした動きは、LVMH メティエ ダールの展開と連動しているのでしょうか?

> LVMHアルノー会長が松野官房長官を訪問 商品に日本産地表示など提案

盛岡:はい、グループ内でも以前からラグジュアリーの未来を考える上で、素材の定義や重要性を再確認する必要性が議論されてきました。従来は欧州の産地や職人たちが中心でしたが、すでに失われた技術も少なくありません。

一方、日本はフェーズが少し遅れていることもあり技術や素材がいまだ豊富に残されています。この「最後のチャンス」を逃さず、日本で残る技術や素材を再発見し、活性化していくことが今、重要だと考えています。

WWD:LVMH傘下のブランドはこれまでも日本の伝統産業と協業してきましたね。

盛岡:1953年にデザインされた「クリスチャン ディオール」の“ジャルダン ジャポネ(日本庭園)”と名付けられたドレスが象徴するように、多くのメゾンはかつてより日本をインスピレーションの源にしていて、日本の素材や職人技術を高く評価し、制作にも採用しています。ただ、活用の面ではまだ伸びしろは十分あると感じています。

地理的距離や言語の違い以上に、価値観や仕事観の隔たりがあったことも否めません。本質的な対話の欠如が、これまでの限界だったと感じています。単なる商取引ではなく、長期的な関係性を築く「かけ橋」となることが、私の使命だと考えています。

日本でしかできないものを見極める

WWD:特に、日本の繊維産業の、どのような点に注目されていますか?

盛岡:日本の繊維技術は世界的に見ても非常に高水準ですが、物理的な距離のために欧州ブランドと連携するハードルが高いという課題がありました。サンプル確認のスピードや物流コストが大きく影響します。

だからこそ、「日本でしかできないこと」から始めるべきだと考えました。たとえば、デニムや日常着で使われる絹織物など、唯一無二の技術にフォーカスしています。

WWD:実際の産地リサーチは、どのように進めているのでしょうか?

盛岡:資料や文献も大切ですが、最も重要なのは現場に足を運ぶことです。職人の工房で、ものづくりの現場を自分の目で確かめることが不可欠だと考えています。

注目している地域にはほぼすべて訪問しており、将来的には全都道府県を回りたいと思っています。訪問の際は、事前に関係者との打ち合わせを行い、それぞれの得意分野や技術の特性を理解したうえで現地に向かいます。

日本のものづくりには、分業制に基づく緻密な工程が多く見られます。たとえば同じ織物でも、染めに特化した工房や、糸づくりに強みを持つ地域などがあり、それぞれに独自の技術が根づいています。単発の訪問では見えにくい本質的な価値を見極めるため、何度も足を運びながら信頼関係を築いています。

WWD:軸として「日本でしかできないもの」を重視されているとのことですが、具体的には?

盛岡:はい、その軸は絶対にぶらさないようにしています。とくに繊維産業では、各工程が極めて高度に専門化されているのが特徴です。素材の品質に加えて、糸づくり、染め、織り、仕上げといった各段階で、それぞれ独立した高い技術が存在します。しかし現実には、たとえば糸づくりの工程では担い手が急速に減少しています。糸がなければ織物も成り立たないように、ひとつの工程が消えることで、全体の持続可能性が脅かされる可能性があるのです。だからこそ、今ある技術をどのように未来につなぐかを、慎重かつ戦略的に考える必要があります。

WWD:産地での出会いの中で、特に印象に残ったことはありますか?

盛岡:すべての出会いが印象的ですが、特に強く心に残っているのは、優れた技術を持ちながらも後継者がいない、あるいは高齢で引退間近という職人の方々との出会いです。「この方が最後かもしれない」と思う瞬間があり、そのたびに胸が締めつけられる思いになります。この貴重な技術を何としても次代へつなぎたい、という気持ちが自然と湧き上がります。

また、伝統技術というと「守るべきもの」というイメージが先行しがちですが、実際には多くの職人たちが日々挑戦を続けています。単に受け継ぐだけでなく、自らの手でアップデートしていこうとする意志にあふれています。まさに伝統と革新の両立を体現されているとつくづく感じています。年齢を問わず、そうした未来志向を持つ職人に出会うと、私たちも大きな力をもらいます。

エコシステム構築と地域への還元

WWD:パートナーシップの締結はどのように進められていか?

盛岡:パートナーシップの形態は一様ではありません。事業者の状況に応じて、資本提携、優先取引による戦略的連携、あるいは新事業立ち上げに向けたジョイントベンチャーなど、さまざまな選択肢を用意しています。重要なのは、一方的に「これをしてください」と求めるのではなく、相手の現状や可能性を十分に理解し、対等な立場で課題をともに乗り越えていくことです。

たとえば、欧州基準への対応トレーニングやサプライチェーンの透明化など、即時対応が求められる項目と中長期的に取り組むべきテーマを整理し、段階的に支援を行っています。最終的には、各事業者が自立してグローバル市場で戦えるスキルと自信を身につけ、新たなチャレンジを自ら始められる状態を目指しています。その橋渡しを担うことが、私たちの重要な役割だと考えています。

WWD:「クロキ」のデニム生地や西陣織「細尾」との取り組みも注目を集めました。

盛岡:いずれの事例も、単なるパートナー契約にとどまらず、「どう生かしていくか」に重点を置いています。たとえばクロキさんのデニムが、ラグジュアリー業界で広く認知され、世界に展開されていくこと。それ自体が一つの成果であると考えています。デニム産業は地域全体で支えるものです。ですから、単に一社が生地を供給するのではなく、地域全体の魅力を紹介し、「メイド・イン・ジャパン」の価値をグローバルに伝えるエコシステムを構築していきたいと考えています。

細尾さんの西陣織についても同様です。京都が持つ技術力や文化の奥深さを、ラグジュアリーの世界に改めて発信していく取り組みです。

WWD:伝統を大切にしながら、地域への還元も意識したエコシステムづくりですね。

盛岡:地域産業を真に守るためには、一部の工房や企業だけが恩恵を受けるのではなく、地域全体に利益が波及する循環を構築する必要があります。たとえば「ルイ・ヴィトン」や「ディオール(DIOR)」の製品が、ある地域の素材によって生まれていると広く知られるようになれば、その地域で働きたいと思う若い人も増えるかもしれません。

そうした流れができれば、地域内に小さな経済圏が生まれ、持続可能なエコシステムが構築されていきます。また、日本のものづくりは自然環境との結びつきが深く、地場産業は土地の特性と切り離せない存在です。たとえば、織物産地の近くに清らかな水があるように、風土と技術は一体です。

だからこそ、観光だけが先行し、地域に還元されないような形では本質的な価値は生まれません。本当に地域の人々に価値が戻ってくる仕組みづくりが、何よりも重要だと考えています。

課題は世界との比較や客観的な視点

WWD:日本の産地やクラフトの課題について、どのように捉えていますか?

盛岡:最大の課題は、世界との比較や客観的な視点が不足していることだと感じています。地域の中では「素晴らしい」と評価されているニットや織物であっても、同様に優れた技術や製品が世界の他の地域にも存在する可能性があります。そこを知らなければ、自分たちの強みも、どこで勝負すべきかも見えてこない。

世界に出ていくためには、すべてを守ろうとするのではなく、ある程度フォーカスを絞り、「これが私たちの核です」と明確に打ち出す必要があります。

WWD:最近、日本でもアーティスト・イン・レジデンス(AIR)のプログラムを始められたと伺いました。その意図を教えてください。

盛岡:もともとこのAIRプログラムはヨーロッパで展開していた取り組みで、毎年一社ずつ、パートナー企業の現場にアーティストを派遣し、工業や工芸のプロセスをアートの視点で表現してもらうというプロジェクトです。

工業の現場というと、どうしても機械的な作業に見えがちですが、そこにも繊細なクラフトマンシップが息づいています。アーティストがその現場に入り込むことで、職人たち自身が自らの技術の価値を再認識するきっかけになるのです。「なぜその手の動きなのか」「なぜこの作業順なのか」——当たり前と思っていた所作に対して、アーティストが新しい視点から問いを投げかけてくれる。それが職人たちにとっても大きな刺激になります。このプログラムを日本でも展開することで、改めてクラフトの価値を内側から見つめ直し、未来への革新につなげるきっかけになればと考えています。

The post LVMH メティエ ダール 盛岡氏に聞く、産地との共生モデル ラグジュアリーの次の役割 appeared first on WWDJAPAN.

ジャンヴィト・ロッシが語る靴作り、エゴのないデザインが生むエレガンス

リシュモン・グループ傘下のラグジュアリーシューズブランド「ジャンヴィト ロッシ(GIANVITO ROSSI)」は、エレガンスとフェミニンを軸に据えながら、時代の感性に寄り添うかたちで進化しようとしている。その根底にあるのは、創業者ジャンヴィト・ロッシ(Gianvito Rossi)の「履く人を主役にする」デザイン哲学だ。父セルジオ・ロッシ(Sergio Rossi)から靴作りを学んだ彼は、シューズに足を入れる瞬間の心の機微までも丁寧に想像しながら、その人の個性を引き立てる靴づくりを続けてきた。

人々のライフスタイルがよりカジュアルへと傾く今、ジャンヴィトのデザイナーとしてのエゴを排した柔軟なアプローチは、履く人のエレガンスを引き出すブランドの強さとなっている。パンデミック後、久しぶりの来日となった同氏が、靴作りにかける思いを語った。

WWD:新作コレクションに込めたメッセージは?

ジャンヴィト・ロッシ(以下、ジャンヴィト):今回のコレクションのキーとなるのは、「フェミニン」の象徴としてのパンプスだ。フェミニニティーを引き立てるカラーを、色の表現力に優れているスエードに乗せた。プラットフォームなどにもあしらったパイピングにはすごくこだわった。形を際立たせたり、リズムを出したり、シルエットをなぞるような繊細な要素として取り入れている。決して主張しすぎず、でも印象に残る、そのバランスを意識した。手に取る人に伝えたいのは、「あなたには、想像力を駆使して考え抜かれたものを身につける価値がある」ということ。表面的なアイデアを元に作られたものではなく、時間をかけて磨き上げられたデザインを味わってほしい。私は常に履く人のパーソナリティーが輝くことを意識している。私のシューズを選ぶという行為自体が、自分自身を誇りに思うきっかけに感じてもらいたい。

WWD:特にカジュアルなシューズに傾倒している市場の流れは、クラシックなエレガンスを追求する「ジャンヴィト ロッシ」にとってどんな影響があったか。

ジャンヴィト:今のファッションは、カジュアルにもなれるし、エレガントにもなれるという自由を私たちに与えてくれた。シーンや気分によって、異なるスタイルやアティチュードを自分なりにミックスする方法を見つけられる時代になったのだと思う。ファッションの歴史を振り返れば、これは非常に新しいことだ。以前は「こうした服装でなければいけない」というルールが明確だったから。私にとっても、この自由を楽しむデザインはまだまだ実験的な段階だが、その“遊び“を楽しんでいる。たとえば、ある日は思いきりカジュアルに過ごしたくなるし、別の日にはもっとエレガントに装いたくなる。そうして、日常の中で異なるテイストを自由に行き来するのが今のファッションやデザインの面白さだと捉えている。

WWD:具体的によりカジュアルシーンに沿った商品カテゴリーを拡充する方向性なのか?

ジャンヴィト:確かにカテゴリーは増えている。ただ強調したいのは、こちらからシーンを限定するのではなく、そのシューズをどう履きこなすかは、あくまで履く人の感性に委ねているということ。例えば、今季のプラットフォームシューズは、シーンによって表情を変える。お客さまの解釈に委ねるというのは、チャレンジでもあり、楽しみでもあるんだ。

WWD:ここ数年で、人々がラグジュアリーシューズに求めるものに変化はあるか。

ジャンヴィト:ライフスタイルがさまざまに変化する中で、特に顕著なのはファッション・ビクティム的な消費は減り、もっと慎重に、背景やストーリーを重視して選ぶようになっている点だと思う。

WWD:多くの人が「本当に自分に合うもの」や「心地よさ」を重視し、製品の背景やストーリーに敏感になったマインドセットの変化は、あなた自身のデザインアプローチに影響を与えた?

ジャンヴィト:いいえ。というのも、むしろこれまでの私の靴作りがより生きる時代になった気がしている。私のお客さまは、流行に振り回されるようなタイプではなく、自分が何を身に着けるかを強い意志を持って選択している。大切にしているのは、決して私自身の個性を押しつけるのではなく、そういう人たちの人の個性を引き立て、履く人の魅力が自然に表れるようなものを作ること。自分の世界観を表現したい、自分を認識されたいという思いを強く持っているデザイナーもいる。でも私は、私の靴を通して「お客さま自身が認識される」ことの方が大切だと考えている。

WWD:「人の声に耳を傾けること」を大切にする姿勢は、生まれ持った性格から?それとも、経験を通じて身につけたもの?

ジャンヴィト:生まれ持ったものが大きいかもしれない。私にとって一番のご褒美は、お客さまが私の靴を履いて幸せそうにしてくれている瞬間に尽きる。それだけで本当に十分なんだ。

「ただ紙にスケッチするのとは違う」 専業ブランドとしての靴作りにかける思い

WWD:マルチカテゴリーなラグジュアリーブランドもシューズを提供する中で、専業ブランドとしての優位性を今後どのように発揮していく?

ジャンヴィト:私は人生をかけて靴作りに専念してきた。そこから得られる大きな違いは、“本物のクオリティー“だろう。これに到達するには360度の視点が必要だ。私はデザイナーであるだけでなく、シューメーカーである。つまり、デザインだけでなく、どのように作られているか構造を深く理解している。今はブランド名さえあれば、車だって、ビルだって、靴だって、何にでも名前をつけて売ることができる。でも、そのプロダクトを本当に理解しているかどうかは別の話だ。

靴は、シャツやバッグのようなアイテムとは違う。歩き方や健康、気分、ひいては人生にまで影響するもので、身に着けるものの中でも特別な存在だと思う。だからこそ、「どう作るか」を深く知ることが大切。私は父から学んだ知識と技術を大切にし、細部にまでこだわり抜いて、誠実にものづくりを続けている。“本物のクオリティー“を理解していなければ、ただ紙にスケッチしているのと変わらない。もちろん、バッグやアクセサリーなどを手がけることもあるが、やっぱり私にとっての本業は靴。これが私の専門であり、自信を持って提供できる分野だ。

WWD:これからさらに挑戦したいことは?

ジャンヴィト:もっと世界中の方々に私たちの靴を届けられるよう、ブランドの認知を高めていきたい。そのために、直営店のネットワークを少しずつ広げているところで、毎年確実に新しいお客さまを迎えることができている。引き続き、グローバルにブランドを広げていく方針だ。

The post ジャンヴィト・ロッシが語る靴作り、エゴのないデザインが生むエレガンス appeared first on WWDJAPAN.

今、スナックが熱い──現在にアップデートした「スナック水中」のつながりの新常識

PROFILE: 坂根千里/「スナック水中」オーナー

坂根千里/「スナック水中」オーナー
PROFILE: 1998年生まれ。一橋大卒業後、東京都国立市谷保で老舗スナック「すなっくせつこ」を継承し、2022年「スナック水中」を開業。「これからの街の社交場をつくる」をミッションに、スナック・バーに特化した事業承継支援も行っている。スナックのママ、一児の母・社会的自立を果たす女性として新たな価値を生み出している

最近、第三の場所として注目を集めているスナック。かつては昭和の“夜の社交場“としてのイメージだったが、Z世代のクリエイターや起業家、地元の常連まで幅広い顔ぶれが集い再びその灯りが人々を引き寄せている。

東京・谷保にある「スナック水中」のオーナー坂根千里は、どこか懐かしい空間を現代にアップデートし続けてきた。オリンピック景気に沸いた1960年代前半、スナックは当時の最先端のスタイルの若者たちが集まる場所だった。そして、ファッションが時代を映す鏡だとすれば、現在のスナックは「自分らしさを投影する場」なのかもしれない。スナックの魅力の一つは、その場に偶然居合わせた人と他愛もない会話を楽しめること。誰もが「自分らしさ」や「正解」を求められる日常から解放されるような場として、再び注目を集めている。

懐かしいスナックのイメージを刷新した坂根は、大学卒業後に老舗スナックを引き継ぎ、現在は起業家として、一児の母として新たな対話の場を提供している。そんな坂根に若者の価値観やファッション観、語らいの本質を聞いた。

SNSで常につながれる時代だからこその一期一会の重要性

WWD:デジタルの時代に求められる“リアル“の意味は何でしょう?

坂根千里(以下、坂根):誰かと一緒に飲む、話す、笑う、カラオケを歌う、そうした身体性を伴う時間はかけがえのないもので、喜びに直結するものだと強く感じています。デジタルは、どこにいても誰とでもコミュニケーションが取れ、趣味や考え方の近い人たちとつながれることが素晴らしい。

一方で、リアルに誰かと一緒に過ごす、時間の愛おしさを大切にするような感覚の若者たちが「スナック水中」に集まっています。お客さまは40、50代のミドル層も多く、世代を超えて「リアルなつながり」が求められているように感じます。

WWD:最近「どうしてここに来てくれているのか?」とアンケートを取ったそうですね

坂根:はい、その返答で共通していたのは主に2つの気持ちでした。1つは、「誰かと気軽に団らんの時間を持ちたい」という思い。仕事では気を遣うことも多いし、家でも家の顔がある。だからこそ、利害関係のない人と、ただ気楽に話したいということ。もう1つは、「外出したい」ということ。家にいるとどうしてもスマホを見てしまい、溶けるようにダラダラしてしまう。だからこそ、意識的に外出することで、能動的に休息を取りたいと感じている。スマホから少し離れて、自分の時間を大切にしたい思いが、ここに足を運ぶ理由になっているんだと、最近改めて感じています。

WWD:学生でも社会人でも「利害関係のない人と、ただ気楽に話したい」ってなかなか難しいですよね。でもスナックであれば、それが叶う?

坂根:そうですね、お客さま同士の自然な会話の流れで「どんなお仕事されてるんですか?」という話になることもありますが、うちのお店では、通常あまり聞きません。聞いてしまうと、無意識に相手が普段の肩書きや社会的役割を意識するからなのだと思います。

以前、子育て中の女性のお客さまがいらした時、最初は少し緊張している様子でしたがお酒が進むにつれ場の空気もやわらぎ、いつの間にか最近の出来事や他愛のもない話で笑っていました。最初とは表情も違っていたので、とても印象に残っています。私自身でもそういう瞬間がありますし、誰でもいろんな自分をもっていて、無意識に「今日は別の自分でいたい」と思う瞬間があるように感じます。

WWD:“マッチング“じゃなく“偶然の出会い“は、今の人に対してどう作用していると思いますか?

坂根:マッチングのように目的ありきで出会うと、期待とのギャップに意識が向かいやすい気がします。「実際に行ったら違った」というように考えがち。一方、偶然の出会いはそもそもの期待がないから「思ってもみなかったけど、なんか良かった」という気持ちが生まれやすい。共通の話題や、話が合ったことへの嬉しさに目が向く気がします。「あの話題、共感できた」「おもしろい人に会えた」とか、そういう瞬間に心が揺れる。そういう“揺れ“が、ワクワクや胸を熱くさせる感覚につながっていきます。

もう1つ大事なのは、「後腐れがない」こと。関係性や責任に縛られず、ただその場を楽しむための今夜限りの会話がちょうどいいんです。この前、別のスナックに行ったときに、ほんの一言、二言だけすごくおもしろい会話をした方がいて。そのまま何も起こりませんでしたが、距離感がとても心地良くって、「これでいいんだよな」と思いました。つながり続けたいわけでもなく、ただその場の楽しさだけで十分。SNSで常につながれる時代だからこそ、一期一会の重要性がいっそう響くのかもしれませんね。

若者から親の世代まで一緒に盛り上がるための橋渡し的な存在

WWD:「スナック水中」で働きたいという応募が多く寄せられると聞きます。どんな理由でこの場所に惹かれてくるのでしょう?

坂根:「本業とは違う顔が欲しい」とか「普段は会えない人と会いたい」という動機が多いと感じます。今はスタッフのほとんどがお店周辺に在住していますが、1時間くらいかけて通う人もいます。多くのスタッフが長く続けてくれているのでありがたいです。スナックはマニュアルが少なく個人裁量が大きいので、自分だから作れる空気と仲良くなれるお客様がいます。だからこそスナックで働くことに魅力を感じていると思います。

WWD:スタッフのファッションに関して、何かしらのルールがあるのでしょうか?

坂根:制服がある店もありますが、「スナック水中」はお客さまをもてなすための一定のマナーや露出が多すぎないことを前提として、「テンションが上がる服」を来てほしいと伝えています。ほぼスタッフに委ねています。ルールが少ないからこそ、スタッフの個性が光ると思ってそうしています。

渋谷から通うスタッフは、密かにうちの“ファッションリーダー“だと思っています。アニメをミックスしたスタイルが特にかわいいですし、お客さまとの会話のきっかけにしていて感心します。男性のマネジャーは、スーツで空間を引き締めてくれる存在。私自身は、その日のスタッフに合わせてスタイルを変えています。例えば、女性スタッフが多い日はマニッシュに、男性スタッフが多い日はフェミニン寄りにしたり。自由な場だからこそ、私は「スナック水中」全体のトーンを整える役に徹するように意識しています。

先代の「すなっくせつこ」時代からある「デニム禁止」ルールは、今はほぼ形骸化しています(笑)。今のスタッフは、デニムをおしゃれに着こなしているし。1人ひとりのファッションが自然に全体的なルールを作り上げて、結果的に「スナック水中」らしさが生まれています。

「スナック」がもつ色気を残しながら、多くの人にも楽しんでもらえるように洗練させていく。その試行錯誤が「スナック水中」の規範になっていると思います。

WWD:「スナック水中」のロゴやポスターのデザインにはシティポップ感があります。どのような意図があるのでしょうか?

坂根:「スナック水中」としてやりたいことを音楽で例えるなら、シティポップ。自分が好きでよく聴いていたこともありますが、昔の音楽が再評価されて、世代も国も超えて愛されているおもしろさもあるし、若者から親の世代まで一緒に盛り上がれるって、すごくいい橋渡し的な存在ですよね。「スナック水中」がやりたいことも同じで、世代や文化を越えて“いいね“を一緒に共有できるような空気をつくりたいと思っています。

PHOTOS:SEIJI KONDO

The post 今、スナックが熱い──現在にアップデートした「スナック水中」のつながりの新常識 appeared first on WWDJAPAN.

今、スナックが熱い──現在にアップデートした「スナック水中」のつながりの新常識

PROFILE: 坂根千里/「スナック水中」オーナー

坂根千里/「スナック水中」オーナー
PROFILE: 1998年生まれ。一橋大卒業後、東京都国立市谷保で老舗スナック「すなっくせつこ」を継承し、2022年「スナック水中」を開業。「これからの街の社交場をつくる」をミッションに、スナック・バーに特化した事業承継支援も行っている。スナックのママ、一児の母・社会的自立を果たす女性として新たな価値を生み出している

最近、第三の場所として注目を集めているスナック。かつては昭和の“夜の社交場“としてのイメージだったが、Z世代のクリエイターや起業家、地元の常連まで幅広い顔ぶれが集い再びその灯りが人々を引き寄せている。

東京・谷保にある「スナック水中」のオーナー坂根千里は、どこか懐かしい空間を現代にアップデートし続けてきた。オリンピック景気に沸いた1960年代前半、スナックは当時の最先端のスタイルの若者たちが集まる場所だった。そして、ファッションが時代を映す鏡だとすれば、現在のスナックは「自分らしさを投影する場」なのかもしれない。スナックの魅力の一つは、その場に偶然居合わせた人と他愛もない会話を楽しめること。誰もが「自分らしさ」や「正解」を求められる日常から解放されるような場として、再び注目を集めている。

懐かしいスナックのイメージを刷新した坂根は、大学卒業後に老舗スナックを引き継ぎ、現在は起業家として、一児の母として新たな対話の場を提供している。そんな坂根に若者の価値観やファッション観、語らいの本質を聞いた。

SNSで常につながれる時代だからこその一期一会の重要性

WWD:デジタルの時代に求められる“リアル“の意味は何でしょう?

坂根千里(以下、坂根):誰かと一緒に飲む、話す、笑う、カラオケを歌う、そうした身体性を伴う時間はかけがえのないもので、喜びに直結するものだと強く感じています。デジタルは、どこにいても誰とでもコミュニケーションが取れ、趣味や考え方の近い人たちとつながれることが素晴らしい。

一方で、リアルに誰かと一緒に過ごす、時間の愛おしさを大切にするような感覚の若者たちが「スナック水中」に集まっています。お客さまは40、50代のミドル層も多く、世代を超えて「リアルなつながり」が求められているように感じます。

WWD:最近「どうしてここに来てくれているのか?」とアンケートを取ったそうですね

坂根:はい、その返答で共通していたのは主に2つの気持ちでした。1つは、「誰かと気軽に団らんの時間を持ちたい」という思い。仕事では気を遣うことも多いし、家でも家の顔がある。だからこそ、利害関係のない人と、ただ気楽に話したいということ。もう1つは、「外出したい」ということ。家にいるとどうしてもスマホを見てしまい、溶けるようにダラダラしてしまう。だからこそ、意識的に外出することで、能動的に休息を取りたいと感じている。スマホから少し離れて、自分の時間を大切にしたい思いが、ここに足を運ぶ理由になっているんだと、最近改めて感じています。

WWD:学生でも社会人でも「利害関係のない人と、ただ気楽に話したい」ってなかなか難しいですよね。でもスナックであれば、それが叶う?

坂根:そうですね、お客さま同士の自然な会話の流れで「どんなお仕事されてるんですか?」という話になることもありますが、うちのお店では、通常あまり聞きません。聞いてしまうと、無意識に相手が普段の肩書きや社会的役割を意識するからなのだと思います。

以前、子育て中の女性のお客さまがいらした時、最初は少し緊張している様子でしたがお酒が進むにつれ場の空気もやわらぎ、いつの間にか最近の出来事や他愛のもない話で笑っていました。最初とは表情も違っていたので、とても印象に残っています。私自身でもそういう瞬間がありますし、誰でもいろんな自分をもっていて、無意識に「今日は別の自分でいたい」と思う瞬間があるように感じます。

WWD:“マッチング“じゃなく“偶然の出会い“は、今の人に対してどう作用していると思いますか?

坂根:マッチングのように目的ありきで出会うと、期待とのギャップに意識が向かいやすい気がします。「実際に行ったら違った」というように考えがち。一方、偶然の出会いはそもそもの期待がないから「思ってもみなかったけど、なんか良かった」という気持ちが生まれやすい。共通の話題や、話が合ったことへの嬉しさに目が向く気がします。「あの話題、共感できた」「おもしろい人に会えた」とか、そういう瞬間に心が揺れる。そういう“揺れ“が、ワクワクや胸を熱くさせる感覚につながっていきます。

もう1つ大事なのは、「後腐れがない」こと。関係性や責任に縛られず、ただその場を楽しむための今夜限りの会話がちょうどいいんです。この前、別のスナックに行ったときに、ほんの一言、二言だけすごくおもしろい会話をした方がいて。そのまま何も起こりませんでしたが、距離感がとても心地良くって、「これでいいんだよな」と思いました。つながり続けたいわけでもなく、ただその場の楽しさだけで十分。SNSで常につながれる時代だからこそ、一期一会の重要性がいっそう響くのかもしれませんね。

若者から親の世代まで一緒に盛り上がるための橋渡し的な存在

WWD:「スナック水中」で働きたいという応募が多く寄せられると聞きます。どんな理由でこの場所に惹かれてくるのでしょう?

坂根:「本業とは違う顔が欲しい」とか「普段は会えない人と会いたい」という動機が多いと感じます。今はスタッフのほとんどがお店周辺に在住していますが、1時間くらいかけて通う人もいます。多くのスタッフが長く続けてくれているのでありがたいです。スナックはマニュアルが少なく個人裁量が大きいので、自分だから作れる空気と仲良くなれるお客様がいます。だからこそスナックで働くことに魅力を感じていると思います。

WWD:スタッフのファッションに関して、何かしらのルールがあるのでしょうか?

坂根:制服がある店もありますが、「スナック水中」はお客さまをもてなすための一定のマナーや露出が多すぎないことを前提として、「テンションが上がる服」を来てほしいと伝えています。ほぼスタッフに委ねています。ルールが少ないからこそ、スタッフの個性が光ると思ってそうしています。

渋谷から通うスタッフは、密かにうちの“ファッションリーダー“だと思っています。アニメをミックスしたスタイルが特にかわいいですし、お客さまとの会話のきっかけにしていて感心します。男性のマネジャーは、スーツで空間を引き締めてくれる存在。私自身は、その日のスタッフに合わせてスタイルを変えています。例えば、女性スタッフが多い日はマニッシュに、男性スタッフが多い日はフェミニン寄りにしたり。自由な場だからこそ、私は「スナック水中」全体のトーンを整える役に徹するように意識しています。

先代の「すなっくせつこ」時代からある「デニム禁止」ルールは、今はほぼ形骸化しています(笑)。今のスタッフは、デニムをおしゃれに着こなしているし。1人ひとりのファッションが自然に全体的なルールを作り上げて、結果的に「スナック水中」らしさが生まれています。

「スナック」がもつ色気を残しながら、多くの人にも楽しんでもらえるように洗練させていく。その試行錯誤が「スナック水中」の規範になっていると思います。

WWD:「スナック水中」のロゴやポスターのデザインにはシティポップ感があります。どのような意図があるのでしょうか?

坂根:「スナック水中」としてやりたいことを音楽で例えるなら、シティポップ。自分が好きでよく聴いていたこともありますが、昔の音楽が再評価されて、世代も国も超えて愛されているおもしろさもあるし、若者から親の世代まで一緒に盛り上がれるって、すごくいい橋渡し的な存在ですよね。「スナック水中」がやりたいことも同じで、世代や文化を越えて“いいね“を一緒に共有できるような空気をつくりたいと思っています。

PHOTOS:SEIJI KONDO

The post 今、スナックが熱い──現在にアップデートした「スナック水中」のつながりの新常識 appeared first on WWDJAPAN.

期待の新星、ブランデー戦記 1stアルバムに込めた想い——“自分のため”に鳴らした音が世界に届くまで

PROFILE: ブランデー戦記

PROFILE: 2022年8月結成、蓮月(Gt,Vo)、みのり(Ba,Cho)、ボリ(Dr)からなる大阪発の3ピースバンド。23年1月に本格的に活動をスタートさせると、8月に1st EP「人類滅亡ワンダーランド」をリリースし、8月から9月にかけて初の全国ツアー「ブランデー戦記 pre.1st EP『人類滅亡ワンダーランド』release tour」を開催。24年1月には日本テレビ「バズリズム02」の恒例企画「これがバズるぞ! 2024」で2位を獲得し大きな話題に。8月には2nd EP「悪夢のような1週間」をリリース。収録曲の「Coming-of-age Story」はあらゆる著名人がファンを公言し話題に。5月14日には1stアルバム「BRANDY SENKI」をリリース。6月からは全国ツアーを行う。

メンバー自ら撮影と編集を手がけたデビュー曲「Musica」(2022年)のMVが公開1カ月で100万回再生を突破。その後も楽曲を発表するたびに話題を呼び、昨年のEP「悪夢のような1週間」に収録された「Coming-of-age Story」がNJZ(NewJeans)のミンジに拡散されて大きなバズを巻き起こすなど、結成からわずか数年で瞬く間に頭角を現した大阪発のスリーピース・バンド、ブランデー戦記。

そんな彼女たちがメジャー・デビュー・アルバムとなる「BRANDY SENKI」をリリースした。上記のナンバーに加えて新曲の「Fix」を含む13曲を収録したアルバムは、ブランデー戦記の魅力――グランジ・ロックからポップ・パンク、フォーキーなアコースティックやファンク風のダンス・フィールまで多彩に振れるミクスチャーな音楽スタイルと、“ポップス”を意識したフックのあるソングライティングが詰まった作品。そして、飾らない言葉で綴られたパーソナルでストーリー性のあるリリック。国内外から注目が集まる中、ブランデー戦記の「今」を知ることができる名刺がわりの1枚と言えそうだ。

ジャンルにとらわれない音楽的ルーツと「スリーピース」へのこだわり、そしてファッションにも垣間見えるさまざまなカルチャーからの影響が混じり合って生まれたブランデー戦記の世界。その秘密について、アルバムを携えて来月6月から全国ツアーをスタートさせるメンバーの3人――蓮月(ギター、ボーカル)、みのり(ベース)、ボリ(ドラム)に話を聞いた。

「希望を持ちながら活動できている」

——メジャー・デビュー・アルバムのリリースを控えた今の気持ちを聞かせてください。

蓮月:まず、レコーディングが終わってホッとしてます(笑)。本当にやりたかったことやアイデアをたくさん音にできたので、すごく楽しかったです。つくってる間もずっとワクワクしてました。

ボリ:曲によってレコーディングの方法が違ったりしたのが面白かったです。順番通りに録らなかったり、毎回アプローチが違ったりして、「こんなに自由にやっていいんだ」って驚きもありました。縛られずにいろんな方法でつくったぶん、本当に幅のあるアルバムになったと思います。

——結成からわずか2年でメジャー・デビューまで駆け上がってきた、このスピード感についてはいかがですか。

ボリ:リリースするたびにいろんなリアクションをもらえるのがうれしくて。「こんなに応援してくれる人がいるんだ」って、実感する機会が増えました。直接声をかけてくれる人も多いし、SNSでも広がっていく感じがあって。

蓮月:本当に日々たくさんの方に支えられてここまできたんだなと感じています。そのおかげで未来の想像がどんどん明るい方に広がっていくので、希望を持ちながら活動できているのがありがたいですね。

——3人がどんなふうに出会ってブランデー戦記が生まれたのか、教えてもらえますか。

蓮月:私とみのりんは中学校・高校が同じなんです。ただ学年が違っていて、私が後輩、みのりんが1年先輩で。音楽好きな子があまりいなかったので、学年を超えて知り合って、一緒にライブに行ったりしてました。

みのり:お互いギターとベースをやっていたんですけど、私たちの学校には軽音楽部がなかったので、高校時代は外部の団体に混ぜてもらったりして活動していました。

蓮月:大阪はコピーバンド文化が盛んで、大学生になってからもいろいろとメンバー探しもしてたんですけど、なかなかいいドラマーに出会えなくて。そんな時に、滋賀からバンドをやりたくて大阪に出てきてたボリくんを見つけて、ニルヴァーナのコピーを一緒にやったんです。みのりんはその時はいなかったんですけど、私とボリくんの2人で。その時のボリくんのドラムがすごくかっこよくて、その日か次の日ぐらいにすぐに誘って。それで3人がそろったという感じですね。

——じゃあ、ボリさんはデイヴ・グロールのような存在だったと。

ボリ:いやいや、そんな恐縮です(笑)。でも、デイヴ・グロールに直接影響を受けたというよりは、デイヴ・グロールから影響を受けたバンドから間接的に影響を受けた感じですね。遠くまで響くようなでかい音を出したいなと思って、ずっとそういうプレースタイルを目指しています。

蓮月:重いドラム、ね。私が思い描いていた理想のドラムを叩く人を探していたので、まさに「捕まえた!」って感じでした。

好きなジャンルがバラバラだからこそ
いい化学反応が生まれる

——ニルヴァーナの名前が出ましたが、今のブランデー戦記のサウンドにつながるルーツとなると、3人それぞれどのあたりになるのでしょうか。

蓮月:ニルヴァーナはやっぱり大きいですね。あと、ザ・ストロークスとか。日本のバンドで言うと、andymoriも好きです。バンドならスリーピースが好きで、必要最低限の音でしっかりと音をつくり出す、そういうスタイルに惹かれます。あとは、歌メロがきれいな音楽が好きですね。K-POPも大好きだし、いろんな音楽から影響やインスピレーションを受けてます。

みのり:私はJ-POPがめっちゃ好きで、分かりやすく言うと、すごくミーハーなんです。日本のヒットチャートを頭から全部聴くようなタイプで、中2まで嵐の曲を聴いて育ってきました。あとは、星野源さんとか吉澤嘉代子さんも好きですね。

ボリ:僕はヘヴィー系とかミクスチャー系の音楽がすごく好きで。例えばDragon Ashとか、バンドでありながらいろいろな要素をごちゃ混ぜにしたような感じがすごく好きなんです。今までの自分たちの曲も、バンド・サウンド以外の要素がいっぱい入ってるじゃないですか。それを自然に“いいね”って思えるのは、そういうミクスチャーな感覚が好きだからかもしれないです。

——話を聞くと音楽の趣味はバラバラな感じですけど、いざ一緒にバンドを始めるにあたって、3人で出し合ったアイデアみたいなものはありましたか。

蓮月:最初は“ロック・バンドだから、まずロックをやろう”っていう感じでした。でも、“ポップスの枠からはそんなに外れない”というか、それくらいのゆるい感じで始まって。それぞれ好きなアイデアを出し合って、ワクワクするものをつくっていく。なので、最初から「こうしよう!」って決めることはなくて。作詞作曲は基本的に私がやっていて、土台をつくってからみんなに投げて、そこから一緒にアレンジや編曲を進めていく感じですね。

ボリ:最近はやっとDAWとかロジックとか、パソコンを使った打ち込みができるようになったので、一度データ上でつくってみて、「ここをこう変えよう」ってやりとりすることも増えました。でもやっぱり、根底にあるのは全員で1回セッションすることですね。スタジオで音を出していろいろ試しながら、そこで生まれる感覚を大事にしていて。

例えば、アルバムに入っている「27:00」なんかは、まさにその流れでできた曲でした。誰かが「こういうサウンドがいい」とか、「このパーカッションを入れてみたい」とか、「ここに叫び声がほしい」とか、どんどんアイデアを出し合って詰め込んだ感じですね。

みのり:私たちは好きなものがバラバラで、でも、それが逆にいい化学反応になったんじゃないかなって思います。思いついたものは全部試してみて、それをシンプルに“いいか悪いか”で判断する。だから、好きなものがバラバラでもあんまり問題にならないんです。

——以前のインタビューで、みのりさんが、洋楽っぽいサウンドを日本のリスナーにも聴きやすいように落とし込むことを考えている、みたいな発言をされていて。そこは常に意識しているポイントだったりしますか。

みのり:J-POPとして売れるためにはやっぱり差別化が必要だと思うんです。その一環として洋楽の要素を取り入れるのは大事かなって。とはいえ、“ポップスの枠から外れないもの”というのは大事にしたい。蓮月ちゃんはそれが上手な人だし、自分にとってもそこは大事なポイントかなと思ってます。

——“ポップス”であることは、ブランデー戦記にとって大切な軸なんですね。

のり:はい。“みんなに届く音楽”っていうのは意識しています。より多くの人に聴いてもらえるにはどうしたらいいか――それを考えることが私にとっての“ポップス”なんだと思います。もちろん、何が正解かは人それぞれだけど、私はそこに価値を感じてやっています。

自分のためにつくる曲

——フルアルバムの制作は今回が初めてになりますが、何かテーマやコンセプトのようなものはありましたか。

蓮月:今回はテーマを先に決めていたわけじゃなくて、結成してからこれまでにつくってきた曲を、“ブランデー戦記ってこういうバンドです”っていうふうに提示できるようにまとめた感じのアルバムになってます。

ボリ:いろんな時期につくった曲が入ってるんですけど、ジャンルに縛られずいろんなチャレンジをしてきたものを、惜しみなく詰め込んだって感じですね。曲ごとにジャンルはバラバラに見えるかもしれないけど、どの曲にも“ブランデー戦記っぽさ”がちゃんとある。全然違うようでいて、共通する何かがどこかにあるなって思ってます。

——その“ブランデー戦記っぽさ”というのをあえて説明するとしたら?

蓮月:そうですね……でも、それこそ楽器の音だけでも分かるというか。ボリくんのドラムを聴いたら「ボリくんが叩いてるな」って分かると思うし。

ボリ:みのりんのベースがめっちゃ動きまくってる、とかね。もうあっちこっちに(笑)。

みのり:ベースに関しては、私の癖がすごく出てると思います。

ボリ:蓮月のギターもすごく出てる。たぶん、スリーピースだから、それぞれの音がすごく強くて。その3つが重なって、独特な色になるというか。

——先ほど「27:00」の話も出ましたが、今回のアルバムの中で、3人それぞれにとって思い入れがある曲、手応えを感じている曲を教えてください。

ボリ:「Coming-of-age Story」は、このアルバムの中では特に自由に叩かせてもらえた曲で。あと、YouTubeなどで海外の人からのコメントをたくさん見かけて、こんなに世界に届くんだなって実感しました。リアルタイムで世界中とつながれるんだなって。これをきっかけに海外のことをもっと意識するようになったし、海外でライブやったらどんな感じなんやろうって、すごく思うようになりましたね。

みのり:私は「水鏡」かな。これは蓮月ちゃんから曲が送られてきて、私が初めてベースをつけた曲なんです。まだボリくんがいないころで、私が高校生か大学生くらいの時につくったんですけど、その時につけたベースラインを今回の収録でもほとんど変えずに使っていて。曲にベースを乗せる楽しさとか、そのワクワク感を教えてもらった曲なので、すごく思い入れのある1曲です。

——蓮月さんはどうですか。

蓮月:悩ましいんですけど……私も「Coming-of-age Story」かなって思っていて。最初に私ひとりでつくったときは、「もう誰にも分かってもらえなくていいや」って、本当に自分のためだけに書いた曲なんです。でも、シングルとしてリリースしたら、想像していたよりも「好き」って言ってもらえることが多くて、いろんな場所に届いていることをすごく実感して――いまだにその感覚は不思議だなって思うんですけど。

私が「曲をつくる」っていう行為自体、そういうことの繰り返しなんだなって。この曲を通して改めて強く感じさせられました。だから、特別な思い入れがあります。

——自分のために書いた曲が、結果的に多くの人に届いて、ブランデー戦記を知ってもらうきっかけになった、と。

蓮月:はい。でも、自分のためにつくるというのは、全ての曲で心がけています。誰かのために書こうとすると、どこかリアルさが減ってしまう気がしていて。だから、まずは自分のために歌詞を書く。それを大事にしてきてよかったなって思います。

NJZのミンジとの邂逅

——ちなみに、「Coming-of-age Story」はNJZのミンジがリコメンドしたことでも話題になりましたよね。反響はどうでしたか。

ボリ:結構、騒ぎました(笑)。大阪のFM802で収録の合間にスマホを見ていたら、NJZのファンアカウントがまとめてくれていて。「え、なにこれ?」って。「ほんまや!」ってなって(笑)。

蓮月:最初、コラ画像かな、みたいな(笑)。

ボリ:ね。ファンの人が「好き」って言ってくれてるだけかと思ってたら、本当に本人がリコメンドしてくれてて。

蓮月:しかも、それ以降も新曲を出すたびに聴いてくれてるみたいで、コメントもしてくれるんです。私ももともとNewJeans(NJZ)が大好きで、日々インスピレーションをもらっているので、本当にうれしかったです。

ボリ:昨年末の「COUNTDOWN JAPAN 24/25」に出演した際、NewJeans(NJZ)と出演日が同じで、僕らは早めに出番が終わったんですけど、「どうにか会えないか」ってスタッフさんたちにもお願いして。出演後もメンバー全員、酒も飲まず、衣装もそのまま、きれいな状態で待機していたら奇跡的にお話しできたんです。ミンジさんと。

——どんな話をしたんですか。

蓮月:ミンジは日本語がペラペラで、全部日本語で話してくれたんです。私も韓国語を3つぐらい覚えて、頑張って伝えました(笑)。まず、「ミンジたちのステージ、とても良かったよ」って。そしたら、ミンジも「さっき時間的には見れなかったけど、モニターで見ていたよ」みたいなことを言ってくれて。

ボリ:たぶん、みんな頭が真っ白になってて(笑)。お互い「大好きです!」って言い合うみたいな。

蓮月:ミンジとは誕生日が2カ月違いなんです。それを話したら「お友達ですね!」って言ってくれて。

みのり:友達になっちゃった(笑)。

蓮月:そのあと、サイン入りのアルバムをいただいて、私たちのCDと交換もして。それは宝物としてお家に飾ってあります(笑)。

ビジュアルイメージについて

——今回のアルバムに合わせたバンドのビジュアルは、どんなイメージでスタイリングしていったのでしょうか。3人から具体的に提案したことはありましたか。

蓮月:今回は、普段のライブのときに着ている衣装や、ライブの雰囲気を残したまま撮りたいねっていう話になって。例えば、みのりは黒を基調にした服を選んだり。

みのり:あと、チョーカーね。チョーカーはよくつけてるアイテムで、服は基本的に黒い服を着ています。ライブでもそういうテイストのスタイリングにしていただくことが多いので。

蓮月:写真選びも、ガチっと決まった感じより、ちょっと抜け感のあるものにしようって話していました。動きのある表情とか、自然な雰囲気を大事にしたいなって。

私自身も、ライブでは目元を少し黒くしたり、ミニ丈のスカートを履いたりすることが多いので、その延長線上の感覚で衣装を選びました。で、ボリくんは、ちょっと変わったアイテムを取り入れても似合うんじゃないかっていう話になって。

ボリ:いつもスタイリングをお願いしている島田(辰哉)さんから「こういうの似合うんじゃないかと思って」と言われて。全員「何これ?」ってなりながら(笑)、でも実際に合わせてみたら、なんか悪くないなと。

みのり:ちゃんと似合っちゃうのがボリくんのすごいところ。

ボリ:最近、ライブでは髪を刈り上げたりしているんですけど、そういうスタイルに合わせてもらえたというか、2017年か18年くらいの(Dragon Ashの)Kjさんがこんな感じで。それに影響を受けて、昨年くらいからこのスタイルを始めました。

——ちなみに、オフのファッションはどんなスタイルが多いですか。

蓮月:ブーツが好きですね。トップスは体にフィットするタイプが好みで、パンツスタイルが多いです。この前も古着屋さんでめっちゃかわいいボーダーのトップスを見つけたんです。私、「トワイライト」って映画の主人公の女の子の雰囲気やファッションがすごく好きなんですけど、「その子みたいやな」って思って。それでブランドタグを見たら全然知らない名前だったんですけど、家に帰って調べたら、実際に「トワイライト」の中でそのブランドの別のアイテムを着ている写真が出てきて! 偶然だったんですけど、そういう発見がすごくうれしくて、今ではお気に入りの一着になってます。

みのり:私はシャツが大好きで、普段からフォーマルっぽいスタイルが多いです。シャツにベストとか、ニット、カーディガン、ジャケットを重ねたり。

ボリ:僕は結構インドア派で、スタジオに行くことも多いので、ドラムを叩きやすいジーパンとか、機能性重視の服が多いですね。パーカーとか、革ジャンを羽織ったりする感じで。とにかく動きやすいものを選んでます。最近だと、裏原宿で買ったセットアップが好きで。ジャージーっていうか、ウインドブレーカーみたいなアイテムで、上下色がそろってると安心感があるっていうか。

常にワクワクしながら活動していきたい

——アルバムの1曲目にも収録された「The End of the F***ing World」は、「このサイテーな世界の終わり」という海外のドラマにインスパイアされて書かれた曲だそうですが、音楽以外のところで、ブランデー戦記の世界を形づくる上でインスピレーション源になっているものはありますか。

蓮月:私は映画を観るのが本当に好きで、休みの日だと1日に3本とか4本とか観たり。MVをつくるときも、アイデアを出す時に映画をレファレンスにすることがよくあります。映画って、映像だけじゃなくて、音楽やファッションの面でもインスピレーションをもらえるから、アイデアが生まれることが多いんです。あと、小説もよく読みます。同じ本を何度も読むタイプで、村上春樹さんや又吉直樹さんの作品が好きです。

——ちなみに、映画だと好きな監督や作品は?

蓮月:デヴィッド・フィンチャー監督の映画は全部大好きで、何回も観直してます。

——ライブの出囃子がピクシーズの「Where Is My Mind?」なのは、そこにつながるんですね。

蓮月:そうです! 「ファイト・クラブ」がめっちゃ好きなんです。あとは、「トワイライト」とか、「ハリー・ポッター」とか。「トワイライト」はイギリスの森が舞台のシーンが出てくるんですけど、そういう世界観がすごく好きです。

——みのりさんとボリさんはどうですか。

みのり:あんまりないんですけど……鉄道と野球観戦と相撲観戦が好きです。

ボリ:僕はラジオがすごく好きで。

みのり:私も好き。

ボリ:みのりんともラジオの話をよくするんですけど、今ってYouTubeとかSpotifyとか、音楽の聴き方っていろいろあるじゃないですか。でも、ラジオってちょっと特殊だなって思っていて。人が「これいいよね」って紹介してくれるというか、「愛」がある気がするんですよね。ラジオを聴いてる人たちって、いろんなメディアが出てきても、なんていうんですかね……“変えがたい”ところがあるというか。そこが特殊で、すごく魅力的だなと思ってます。

だから、そんなラジオで自分たちの曲が流れたらどんな感じなんやろうって、たまに考えたりもして。昔からある聴き方だけど、今もなお残ってて、しかも“愛されてる”聴き方なんじゃないかな。そういうところがすごく好きです。

——6月には、全国を回る大きなツアーが控えています。どんなツアーにしたいですか。

みのり:今回は、自分たちにとって過去最大キャパのワンマンになるんです。今年の1月から2月にかけて初めてのワンマンライブをやったんですけど、それはもっと小さなライブハウスを回るツアーで。そのとき、お客さん全員が自分たちに興味を持って来てくれてるっていう状況が新鮮で、すごく楽しかったんです。

今回はその規模がさらに大きくなって、もっといろんな人に見てもらえる。だから、その楽しみがまだ続いてるというか。せっかく大きな会場でやるからこそ、来てくれた人にちゃんと自分たちの魅力とか良さを届けて、「来る前よりブランデー戦記のことがもっと好きになった」と思ってくれる人が1人でも増えたらうれしいです。

ボリ:僕は「無理なく観てほしいな」って思っていて。ツアーを回っていると、キャパの小さい会場もあれば、大きい会場もある。どんな会場でも、お客さんには自由に、のびのびと楽しんでほしいなって思ってます。

ライブに来るのって、簡単なことではないですよね。人混みが苦手な人もいれば、いろんな得意・不得意があると思うので。だからこそ、来てくれた人それぞれの自分にとっての楽しい見方、聴き方を尊重できるような空間にしたい。

蓮月:これからもっとたくさんの人に私たちの音楽を届けていきたいし、聴いてもらいたい。そのためにも、まずは自分たちがいちばん、自分たちの曲のことを好きでいたい。常にワクワクしながら活動していきたいなって思ってます。

PHOTOS:HIDETOSHI NARITA

1stアルバム「BRANDY SENKI」

The End of the F***ing World
Coming-of-age Story

ラストライブ
⽔鏡
悪夢のような
27:00
メメント・ワルツ
Kids
Musica
ストックホルムの箱
Fix
Untitled
https://brandysenki.com/

The post 期待の新星、ブランデー戦記 1stアルバムに込めた想い——“自分のため”に鳴らした音が世界に届くまで appeared first on WWDJAPAN.

服作りに無制限でこだわれる! アパレルデザイナーから転身のLYRAに聞くバーチャルファッションの魅力

リアルからバーチャルへ。アパレル業界での経験を持ちながら、独学で3Dモデリングを習得。ブランド「レーヨン(LAYON)」を立ち上げたLYRA(リラ)は、バーチャルならではの制約のない表現と、現場感覚に裏打ちされた緻密な服作りで注目を集めている。「リアルでも着たい」と思わせるような“今っぽさ”と“気分”をシルエットや質感、ディテールに落とし込み、アバターのファッションにもこだわりたい層から強い支持を得ている。アパレルのデザイナーからバーチャルファッションデザイナーに転身したLYRAに、その経緯とモノ作りの魅力について聞いた。

WWD:もともとはリアルのアパレル業界で働いていたと聞きました。

LYRA:はい。大学でプロデュースデザインと服飾のモノ作りを学び、卒業後は大阪のアパレルメーカーで5年間、ウィメンズブランドの企画・デザイン・生産管理を担当していました。ODM案件もあれば、自社ブランドの立ち上げに関わったこともあります。布帛もカットソーもニットもオールアイテムを手掛けました。27歳くらいでキャリアアップを考えるようになり、直営で店舗を運営するようなブランドで働けたらいいなと転職活動を始めました。

WWD:そこからどうバーチャルの世界へ?

LYRA:何社か面接も受け、企画職やブランドのディレクター職の内定ももらったのですが、自分としてはまだ現場の第一線にいたいと思いつつ、これまでの延長の先が見える感じではないことがやりたいと考えるようになりました。これまでの経験を生かしながらも何か新しいことに挑戦したいという思いがわき上がってきて、就職活動自体を一旦保留して、ファッションに関わらないよう分野でも興味がわいた本を片っ端から読み漁ってみたんです。ちょうどWeb3が盛り上がっていた時期で、「ディセントラランド」というメタバースプラットフォームで、デジタルファッションの売買が経済圏として成り立っているという話を読んで、「デジタルファッションってビジネスになるんだ」と初めて知りました。今までアパレルでやってきたことも生かせそうだし、ちょっと新しい世界というか、また違った分野でいろいろできる世界がまだあるんだと思いました。

リアルに近いスタイルが注目の的に

WWD:本から入るというのは珍しいパターンですね。デジタルファッションはどのように作り始めましたか?

LYRA:最初は「VRoid」という3Dキャラクターメイキングソフトを使ってアバターの服を作って、22年12月に「レーヨン」として売り始めました。3Dモデル自体はベースがあるので、モデリングの知識がなくても、デジタルのイラストさえ描ければ形にできる感じで、比較的入りやすかったです。私自身、モノは作りたいけれど、アバターで何かがしたいわけではなかったのですが、クラスターという日本発のプラットフォームで、音楽イベントのような人が多くいるようなところへ自作の衣装を着て行ったら、「可愛いね」ってすごく声をかけてもらえたり、私の服を複数人がおそろいや色違いで着てイベントに参加しているのを見たりして。こういうつながり方があるんだ、面白いと思いました。

WWD:ちょっと変わったデザインのものを作っていたんですか?

LYRA:いえ、今と同じくリアルファッションに近いものを作っていたのですが、メタバースの中ではゲームやアニメっぽいものが多かったので、逆に新鮮にとらえられました。この時すでに退社していましたが、まだ道を探している最中で、「副業としてはいいかも」くらいの気持ちでした。

WWD:そこからソーシャルVRプラットフォームのVRChatへ?

LYRA:はい、半年ほどクラスターで過ごして、しっかり生活できるくらいアバター衣装が売れる状態になり、23年春にVRChat向けにモデリングからがっつり作り始めました。6月に3Dモデルの1作目を発売してしばらくして、バーチャルファッションショー「ボヤージュ」を主宰するゆいぴさんに「ボヤージュに出ませんか?」と声をかけてもらい、驚きつつ、「しばらくやれるところまでやってみよう」と今に至ります。就職せず、まさかの個人事業主です。

WWD:夢のある話ですね。モデリングは独学ですか?すごく大変ではなかったですか?

LYRA:もう根性というか。アパレルの仕様書を作って、工場さんとやり取りしてという作り方も好きでしたし、サンプルとして上がってくる楽しさもありましたが、根っこがめちゃくちゃモノ作りが好きで。服以外にも、絵を描いたり工作を作ったりが好きだったので、全く分からない状態から始めましたが、「とにかく理想の服が作りたい!」と1カ月ぐらい、ひたすらパソコンの前に張り付いて、いろいろ調べまくって、1作目を作りました。自分で言うのも何ですが、割といいクオリテイーのものができたと思っています。

独学で3Dモデルを制作 理想をとことん追求

 

WWD:その1作目について教えてください。

LYRA:透け感のあるトップスとレイヤードパンツのセットです。少し韓国っぽさがある感じですが、当時3Dモデルにはこういうデザインのものがなかったので新鮮に感じてもえらえたのだろうと思います。

WWD:確かに1作目にして完成されていますね。トップスの透け感も軽やかさも素敵ですし、ウエストのドローストリングのひもがめちゃくちゃ可愛いです。こういうの、リアルアパレルでもなかなかできないですよね。パンツも動きに合わせて、すごくいい陰影が出ています。

LYRA:リアルだったら考えなければならないコストを度外視できるので、リアルだったらできないディテールを詰め込んでいます。影の出方も全部こちらで設定しています。どうやったら質感が出るのか、マテリアルを研究しまくりました。

WWD:3Dモデル制作には時間と労力がかかりますが、1日何時間くらいかけていましたか?

LYRA:1日10時間とか12時間とか……。でも、苦ではなかったんです。とにかく「完成が見たい!」という気持ちしかなかったので。気づいたらご飯を食べるのも忘れていた、というくらい没頭していました。

WWD:やはりリアルの服に対する理解度が高いので、テクスチャーや布の動きなど、こだわりが詰まっています。

LYRA:元々アパレルをやっていたこともあり、こういう部分にはこういうおち感の生地を使うよね、と無意識に分かっていることが多いので、服への解像度も、求める基準もすごく高かったように思います。お客さま(ユーザー)からは、納得感が違うと言ってもらえることが多いです。

リアルもバーチャルも作りたいものは本質的には一緒

WWD:ブランド名の「レーヨン」の由来とブランドコンセプトは?

LYRA:もし自分のブランドを持つならと、昔から勝手に妄想していて、「LAYON」という名前はだいぶ前から頭の中にありました。フランス語で光線とかビームという意味があり、豊かな闇の中に射す一筋の光のような、月明かりくらいの華やかさがあるデザインが、ブランドコンセプトです。特別目立つわけではないけれど、同じ空間にいると目が引きつけられるような魅力があるみたいな。勢いでバーチャルファッションを始めましたが、作りたいと考えるファッションは、自分が着たいものが起点。リアルもバーチャルも本質的には一緒です。でも、最近はVRChatで過ごす人たちが、どんなものがあったらうれしいかを意識することが増えてきています。

WWD:バーチャルファッションならではの面白さはどこにありますか?

LYRA:生地の用尺もコストの制限も、在庫も気にせず、無制限に自分作りたいものが作れるというところです。始めてもうすぐ2年ですが、飽きずにずっと続けられているのは、好きなだけ作りこめるからだと思います。そして、販売後すぐにその服をアバターに着せて、ワールドで写真を撮ってXに投稿してくれる方がたくさんいて。皆さんがどういうワールドで、どんな時間を過ごしているのかを見ながら、こういう服があるといいんだろうな、といった企画につながったりします。

WWD:逆に難しさはありますか?

LYRA:着るのがアバターなので、リアルの人間と体のバランスが違うんですよね。体はすごく華奢だけれど、頭は大きめみたいな。リアルファッションをそっくりそのままモデリングしてアバターに着せても、なんか違うなということがすごく多いです。バランス感を調節して作ることが肝で、そこが難しいと感じています。また、1点作るのに何日もかかるので、ブランドとしての色が出せる型数にするまでに数カ月かかってしまい、立ち位置を確立するまでにさらに時間がかかるのは、バーチャルの特徴かもしれません。

バーチャルならではの表現にも挑戦

WWD:今後の計画や目標は?

LYRA:「レーヨン タイトル」という別ラインも充実させていきます。こちらは、ガラスの素材でできたような服など、バーチャルでしか作れないような服を作っています。まだ1型のみしか作っていませんが、26年に新作を発表予定です。「レーヨン」の方も、リアルクローズではありつつ、ギミックを搭載してバーチャルならではの表現ができるようにしていきたいと考えています。

WWD:やりたいことが盛りだくさんですね。

LYRA:もう尽きないです。むしろ体があと何体か欲しいぐらいの勢いで。マーベラスデザイナーなど、さまざまなソフトも駆使し、カットできるところはなるべくカットすることを意識して、作品の型数を増やしていくことに今全力を注いでいます。事業として継続していくために法人化も予定しています。これまでアバターの衣装というと戦闘服やメイドっぽいものなどアニメやゲームのキャラクターのイメージが強かったと思いますが、バーチャルでもリアルファッションと同じぐらいの感度を求める人が増えてきています。バーチャルはむしろ、自分でアバターを選んでそれに合わせて着せたり、改変したりできるし、服に合わせてアバターを選ぶこともできます。作る方も、それを買って楽しむ方も、チャレンジが無限にできる環境を作りやすい。それがバーチャルファッションの魅力だと思います。

The post 服作りに無制限でこだわれる! アパレルデザイナーから転身のLYRAに聞くバーチャルファッションの魅力 appeared first on WWDJAPAN.

ジャクソン・ワンが語る「Number_iの魅力」と「新作アルバムに込めた想い」

SNSの総フォロワー数は1億人を超え、2ndアルバム「MAGIC MAN」は全米アルバムチャート15位を獲得するなど、世界的アーティスのジャクソン・ワン(Jackson Wang)。世界最大規模の音楽フェス「コーチェラ」には2022年から3年連続で出場。昨年のNumber_iとのコラボも大きな話題となった。

7月にリリース予定のニューアルバム「MAGIC MAN 2」に先駆けて発表された「GBAD」のミュージックビデオは3100万再生を超え、4月16日に全世界で配信開始となったNumber_iとのコラボ曲「GBAD (Number_i Remix)」は、SNSでも大きなトレンドに。5月9日にはインド出身のアーティスト、ディルジット・ドサンジ(Diljit Dosanjh)と共作した新曲「BUCK (feat. Diljit Dosanjh)」もリリースするなど、新作アルバムへの期待が高まる中、来日したジャクソンにインタビューを実施。Number_iとのコラボや、「MAGIC MAN 2」について、そして大事にしている信念など、時折日本語を交えながらユーモアたっぷりに語ってくれた。

Number_iの印象

——先日、Number_iとのコラボ曲「GBAD (Number_i Remix)」のリリースが発表されると、かなりの話題を集めましたが……。

ジャクソン・ワン(以下、ジャクソン):本当ですか!? 僕はまだ、あまり実感がないんですよ(笑)。

——本当にとても注目されていますよ!(笑)。Number_iとジャクソンさんは昨年の「コーチェラ」でコラボステージを披露しましたが、今回の「GBAD」でのタッグはどのように実現したのでしょうか?

ジャクソン:「コーチェラ」を機に関係性ができてから、ずっと連絡を取ってはいて。僕はもともと日本でも活発に活動していきたいという思いがあって、Number_iとコラボ楽曲をリリースしたいと考えていたのですが、新曲を作ろうとすると時間がかかってしまうので、まずはリミックスから始めることにしたんです。レコーディングは、Number_iは日本、僕は上海から参加して、リモートで行いました。いろいろと尽力してくれた88risingにも感謝しています。

——3人が書いたリリックを初めて見たときはどう感じましたか。

ジャクソン:僕はもちろん日本語を完全に理解できないので、最初は「え? これって僕について歌ってる?」と思い込んでしまいました(笑)。彼らのリリックはとても興味深かったし、声のトーンがそれぞれ違うのも魅力だなと。(平野)紫耀は重低音が効いていて厚みがあり、岸(優太)は軽やかでリズミカル。そしてジン(神宮寺勇太)はメロディアスで、3人の声が混ざり合うことで、さらにレベルアップしていると感じます。

——3人それぞれに対して、パーソナルな面での印象も教えてもらえますか?

ジャクソン:「コーチェラ」のときは初対面で一度リハーサルをして、次の日にすぐ本番だったので、まだ距離感があったんです。今は一緒にパーティもする仲になり、本当に仲良くなりました。岸は、本当に怒らない人。もし明日が世界の終わりだと伝えても、理解してくれそうな人だと思います(笑)。ジンは自己表現がとても上手で、友達になってからは、僕とエネルギーがすごく似ている人だと感じていますね。そして紫耀と一緒にいるときは、常に笑いが絶えない。何について話していたのか思い出せないくらい、ささいなことでもずっと2人で笑っています。

——Number_iの音楽性の魅力については、どう感じていますか?

ジャクソン:それぞれの個性やキャラクターがはっきりしていて、とてもエッジの効いた音楽だと思います。実験的で、どんどん追求していく姿勢も感じますね。他と違うことに挑戦しているし、個人的には彼らの音楽が大好きです。

——ちなみに3人とのパーティーではどんなことをしたんですか?

ジャクソン:ハイボールをかなりたくさん飲んだし、テキーラや、Awichちゃんからいただいたハブ酒も……。“スーパーハードナイト”でした。

——とても盛り上がったんですね(笑)。

ジャクソン:3時間だけ寝て、翌朝はまた仕事に戻りました(笑)。Number_iだけではなく僕のダンスチームなども一緒だったので、親戚一同で集まったような、とても和やかなムードでしたね。たくさんお酒を飲みつつも、踊って汗をかくことですぐ発散して。バランスの取れたパーティでした(笑)。

愛と信頼、そして信念

——今年先行リリースされた新曲「High Alone」「GBAD」に続いて、ニューアルバム「MAGIC MAN 2」が7月にリリースされる予定です。どのような作品か教えてください。

ジャクソン:昨年1年間、オフを取ったんです。僕はまだ社会に踏み込む準備が十分にできていないまま若いころにデビューして、タイトなスケジュールの中でループのような毎日を繰り返しました。その結果、20代はいろんなものを失った感覚があって。昨年のオフは、自分自身と向き合う時間になりましたね。日記を書くようになり、自分がこれまで経験してきたこと、人生について考えていること、業界や社会に対して思うことを綴っているんです。今まではある意味自分と向き合うことを避けてきて、自分自身を表現するような曲を書いてこなかったけど、今回はそうして日記に書いたことを楽曲に昇華していきました。

——1人の人間として言いたいことを詰め込んだアルバムなんですね。「High Alone」「GBAD」も、ご自身をさらけ出したような作品だと感じました。

ジャクソン:はい。自分の人生観を込めています。「High Alone」では自分にとっての現実とは何かを比喩的に打ち出していて、ミュージックビデオではビデオの中の自分を見ているような世界観を描いたのですが、「GBAD」でも比喩を用いています。ビジュアル的には「High Alone」の方がダークで、「GBAD」は明るく軽やかでエンタテインメント性があるけど、ステートメント的には似ていると思いますね。

——ジャクソンさんが、1人の人間として大事にしている価値観とはなんでしょうか。

ジャクソン:そうですね……愛と信頼、そして自分の中にある信念でしょうか。愛を与えて、愛を受け取れるくらい自分の心を開くこと。そしてお互いに信頼すること。自分自身をなくさないための信念を持ちつつ、他人の領域も侵さないこと。それらを大切にしています。僕はアーティストになる前も若くしてプロのアスリートとして活動していたので、ずっとシャボン玉の中で生きてきたような部分があるけど、そうしたことは変わらずに大事にしていますね。

——世界を飛び回って活動する中では、気持ちのバランスを保つことが大変になることもあると思います。どういうふうにご自身を鼓舞していますか。

ジャクソン:僕はいつも“ハングリー”なんです。……あ、お腹が空いているということではないですよ?

——(笑)。ハングリー精神があるということですよね。

ジャクソン:はい(笑)。情熱を持っているから、自分の心を突き動かすものが自然に生まれてくる。僕は本当に幸運だと思うし、常に感謝しているんです。こうして自分が愛することを仕事にできていることが、本当にうれしくて。とても大変なときもあるけれど、好きなことをやっているから、大変だと感じない。それだけ情熱と愛を持って取り組めているのだと思います。

日本は自分がクリエイティブでいられる空間

——すてきです。ファッションにまつわるお話も聞かせてください。ご自身が手掛けるファッションブランド「TEAM WANG design」には、どんな思いを込めていますか?

ジャクソン:「TEAM WANG design」は4年前に始めましたが、当初は一般向けに販売する想定ではなく、自分のチームのみんなが着用するものをデザインしたいという思いからスタートしました。「COOKIES」と「SPARCLES」という2つのラインがあって、それぞれコンセプトが異なります。「COOKIES」で表現しているのは、ジャクソン自身の人生。ローンチのたびに、人生の学びのようなものを込めています。昨年12月に発表した前回のコレクションのテーマは、“CHOICES”。さまざまなことを選択する上でリスクを負いたくない人も多いと思うけど、「あまり考えすぎずに決めていい。それはただ単純なチョイスなときもあるよ」という思いを伝えたかったです。

——そうしたジャクソンさんの思いを、コレクションのたびに表現しているんですね。

ジャクソン:はい。今後ブランドのディレクターとして僕も成長していくと思いますが、年齢とともに感じ方も変わっていくので、その時々で抱いたことを、「COOKIES」では自分の哲学として打ち出したいと思っています。これは「MAGIC MAN 2」につながる感覚でもありますね。そして「SPARCLES」のコンセプトは、ジャクソンと友人たち。例えば、今この瞬間であれば、その対象が平野紫耀になるのかもしれませんが、着てくれる人がその2人と一緒に、参加できるような気持ちになるアイテムをコンセプトとしています。

——ジャクソンさんのプライベートなファッションにおける定番アイテムや、こだわりはありますか。

ジャクソン:僕は、もし法律違反にならないならば、常に素っ裸でいたい人間なんです(笑)。強いて言えば、歳をとっていくうちに、シンプルで着心地のいいスタイルを重視するようになってきました。MVでもあまりハイファッションは着ないんですよ。MVにはストーリーがあり、その登場人物を表現しているので、ハイファッションを着てしまうと世界観を壊してしまう気がするんです。

——なるほど。冒頭で「日本でも活発に活動していきたい」とお話ししていましたが、今後日本でやってみたいことがあれば、最後に教えてください。

ジャクソン:もっと長く、日本に滞在してみたいですね。日本語も学びたいし、時間をかけて日本の皆さんと一緒に過ごしたい。実は「MAGIC MAN 2」の中にも、日本で作った楽曲がいくつかあるんです。両親について描いた楽曲もそうですね。日本は自分がクリエイティブでいられる空間であると感じるんです。日本の友人や、音楽やファッションを通じて知り合った人たちの中にいると、とても安心する。それがまた僕にインスピレーションを与えてくれます。僕は予定調和より、予想外のことで衝撃を受けたいという思いが常にあるのですが、東京はそれがかなう環境だと思いますね。

PHOTOS:MAYUMI HOSOKURA

■ジャクソン・ワン ニューアルバム「MAGICMAN 2」
1. High Alone
2. Not For Me
3. Access
4. BUCK (feat. Diljit Dosanjh)
5. GBAD
6. Hate to Love
7. One Time
8. Everything
9. Dear:
10. Sophie Ricky
11. Made Me a Man
https://teamwang.lnk.to/MAGICMAN2

The post ジャクソン・ワンが語る「Number_iの魅力」と「新作アルバムに込めた想い」 appeared first on WWDJAPAN.

街の価値は“人と物語”で育てる 行政の現場から見た「ハタオリマチフェス」と富士吉田の10年

いま、「地域活性」という言葉が産業のみならず、カルチャーやライフスタイルの文脈でも語られるようになっている。そのなかで、必ずと言っていいほど名前が挙がるのが、山梨県・富士吉田市の「ハタオリマチフェスティバル」だ。織物の産地としての歴史に、観光やデザインを掛け合わせ、街の空気ごとアップデートしてきたこのプロジェクトは、9年目となる2024年、2日間で全国から2万6000人を集めた。その立ち上げと成長の背景には、行政と民間クリエイターによる柔軟な連携があったという。今回は、行政側の視点にフォーカスし、同フェスティバルを主導してきた富士吉田市富士山課・勝俣美香観光担当課長に、プロジェクト誕生から現在に至るまでの道のり、そして行政の立場から見た地域連携の可能性について聞いた。

WWD:「ハタオリマチフェスティバル(以下、ハタフェス)」は富士山課所属の勝俣さんと、山梨にU・Iターンした3人のクリエイターのつながりで生まれ、拡大してきました。その一人であるBEEK DESIGNの土屋誠代代表が甲府で2016年に開いた、富士吉田の織物の魅力を伝えるフリーマガジン「LOOM」の音楽会に足を運び、“ピンときた”のがきっかけだとか。どんな直感が働いたのでしょうか。

勝俣美香 富士吉田市富士山課観光担当課長(以下、勝俣):実は、私自身も「なぜあの時あんなに惹かれたのか」、今でもはっきりとは分かりません。知り合いがいるわけでもない場所に、自分から飛び込むというのは、当時の私としては珍しいことでした。「なぜ隣町である甲府で富士吉田のイベントをやるんだろう?」と疑問に思いつつも、とにかくその場を自分の目で見てみたくなったんです。その日は東京出張でしたが、東京から直接甲府に向かうほど、なぜか惹かれました。そして実際にイベントを見て「この空間は温かい」と感じました。

WWD:富士吉田の街に響く機織り工場の音をコンセプトにした音楽だったと聞きます。

勝俣:ええ。ただ、当時、富士吉田の機織りに携わる方々が、自分たちの織物をもっと広めていきたいという思いでブランディングを行い、立川のエコキュートを皮切りに、東京の百貨店などでポップアップイベントを開催していましたが、それを知ったのは後のことです。

WWD:本来であれば富士山に関する施策に注力すべきタイミングですよね。

勝俣:当時は2013年に富士山が世界文化遺産に登録された直後でした。ただ、街中には富士山をベースに商売をしている方が少なく、「やりたいけれど、担い手がいない」という状況でした。観光は、お金を落とす場所や動かす人がいなければ成立しません。

そんな中で、織物業界の方々は「全国的には右肩下がり」と言われている中でも、「もう一度盛り上げたい」とチームを作り、冊子を発行するなど、自発的に動いていらっしゃいました。その活動に観光としても何か一緒にできないかと心を動かされました。観光は結局、「プレーヤー」がいなければ成り立ちません。

WWD:織物に関わる人たちを“プレーヤー”と位置付けるのがユニークです。

勝俣:プレーヤーがいる、ということがとても心強く、だったら「機織りの町を見に来てもらう環境」を作ることが重要だと思いました。中心市街地には飲み屋街などレトロな雰囲気が残っていて、当時の観光ガイドブックにも、吉田のうどんや富士急ハイランド、神社などと並んで1ページだけですが、昭和レトロな街並みが紹介されていました。

「そのレトロなエリアを中心に富士吉田のまちに響くハタオリ工場の音をコンセプトにした心温まる音楽会のようなイベントを開催してほしい」と思い、音楽会を開いた土屋さんに相談しました。この街の物語を描き、イベントとして形にしていただけたら、温かみのある街づくりができ、観光的にも人が訪れてくれるのではないかと考えたんです。

富士吉田には、大きなホテルもありませんし、40人以上が同時に食事できる飲食店も少なく、団体バスツアーには向かない街です。では、どうやって個人旅行者に愛着を持って訪れてもらうか? その答えは、まさに“物語”と“体験”だと思いました。最初は限られた予算でしたが、土屋さんに相談したところ、「機織りの街に来てもらいたい」という私の思いを汲んでいただき、「織物フェスティバル」ではなく、「ハタオリマチ(機織り街)フェスティバル」という名称をご提案いただきました。もし織物だけにフォーカスしていたら、単に「機織りフェスティバル」になっていたかもしれません。

> 山梨を“伝える”インタウンデザイナー土屋誠 “ハタフェス”やワイナリーをブランディング

最初から「産業の活性化」を目的としたわけではない

WWD:確かに、「街」という言葉が入っていることで、場所や人のぬくもりが伝わってきますね。

勝俣:そうなんです。これは“街を表現し、街に来てもらい、街を楽しんでもらう”ためのもので、織物はあくまでそのためのコンテンツのひとつです。最初から「産業の活性化」を目的としたわけではなく、「観光」を起点としたプロジェクトとして始まり、結果として街の活性化につながる形で「ハタフェス」がスタートしました。

WWD:なるほど。「ストーリーを作る」ことが最初から重要だったのですね。そのためには登場人物が必要で、まるで脚本のように展開していくという発想が、勝俣さんの中にあったのでしょうか?

勝俣:当時の私は富士山課に来たばかりで、それ以前にロードレースのようなイベントの運営経験はありましたが、地域活性化を目的とした街づくりイベントの経験はほとんどありませんでした。なので、最初はそこまで深く考えていたわけではなかったんです。ただ、よくある“ラーメン祭り”的なイベントは、終わったらそれで終わってしまう。その場限りの盛り上がりで終わるイベントではなく、この街の歩みや人の思いが伝わるような、長く記憶に残るイベントを作れたらとは思っていました。

そういう意味で、土屋さんに「この街を好きになってもらえるようなイベントを作れないか」とご相談したところ、土屋さんは本当にプロフェッショナルで、しっかりとした“ストーリー”を描いてくださった。そのおかげで、「街への思い」が形になったと感じています。

富士山課が街の中心地に人を呼び込む

WWD::富士山課に異動した際のミッションが“街の再生”だったとのことですが、具体的にはどのような指示があったのでしょうか?

勝俣:「女性の視点で、街中に人を呼び込むことを考えなさい」というのが私に与えられたミッションでした。

WWD:富士山課という名称からは、富士山関連の業務が中心のように思えますが。

勝俣:はい、富士山課では観光だけでなく、それまでは登山事業などを主に行ってはいましたが、“街の中心地に人を呼び込む”という観点からの取り組みは、当時の富士山課長や私が異動してきたタイミングで初めてミッションとして掲げられたと思います。

WWD:現在は商工振興課と連携して取り組んでいるのですか?

勝俣:商工振興課としての取り組みである「ハタオリマチのハタ印」というプロジェクトと連携しています。「ハタオリマチのハタ印」として生地販売や「BTAN」事業として傷あり生地の販売や織物屋さんの廃棄される生地などを使ったワークショップなどもやっています。

「行政らしくないイベント」を目指して

WWD:「ハタフェス」の参加者数の推移を教えてください。

勝俣:初回の2016年は約2000人でした。19年は台風で中止、20年はコロナで開催できませんでしたが、21年以降は徐々に回復し、22年に1万2000人、23年に2万4000人、そして24年に2万6000人と増加しています。22年からは、富士山への登山道でもある中心市街地の「本町通り」を、日曜日だけ歩行者天国にする施策を取り入れたことも来場者数の増加に寄与したと思います。

WWD:2万6000人という数字について、どのように受け止めていますか? 観光客は地元だけでなく、かなり広範囲から来ている印象があります。

勝俣:沖縄など遠方からも来場があります。フェスの大きな特徴のひとつが「他地域とのコラボレーション」です。たとえば、魅力的なパン屋さんや雑貨店、デザイン会社など、他の地域の出店者と組んでイベントを盛り上げています。こうした出店者たちが、それぞれの地域に戻ってフェスをPRしてくださることで、さらに認知が広がるという好循環が生まれています。最近では他の自治体からの視察も増え、出店者からも「ハタフェス」は売り上げがいいという声を多くいただいています。本当に、最初に想像していた以上に、このイベントは大きく育ちました。

WWD:行政の仕事は異動が多いですが、勝俣さんは今年で10年ですね。

勝俣:珍しいですよね。正直、自治体の職員というのは、いろんな部署を数年ごとに異動するため、専門性を深めるのが難しい面があります。観光やイベントのように「答えが一つではない」領域では、なおさら判断が難しくなります。だからこそ、信頼できるパートナーとともに進めることが非常に重要だと感じました。3人のクリエイターたちは、行政が何を求めているかを感じ取りながら、自分たちに求められる役割を的確に理解し、常に魅力的なイベントを意識してくれました。

WWD:行政らしくないイベントに思うのですが、気を使っていることはありますか?

勝俣:専門的なデザインを入れて、魅力的なチラシやHP、SNSを作成したり、フェスでの魅力あるプログラムや出展者を募りました。市のイベントなのに、なぜ市内の事業者が少ないのか?という声もありました。でも、私たちが目指しているのは、各地域の魅力ある出展者に来ていただき、その出展者のファンを富士吉田市に呼び込む。そして、この街の良さを感じてもらい、何度も訪れてもらうことが何よりも大切なんです。

もし市制祭(市民向けイベント)であれば、市内事業者中心でいいと思います。でも富士山課の事業としては、「この街にどう人を呼び込み、リピーターになってもらうか」を重視しているので、観光客がハタフェスのあとも「また行きたい」と思ってくれるような設計をしています。

WWD:つまり、来場者2万6000人という数字よりも、その後1年を通して訪れる人がいて、街でお金を使い、街が元気になるという流れを生むことが、本当の満足につながっているのですね?

勝俣:その通りです。「ハタフェスがきっかけでこの街に来てみました」「フェスで出会った織物ブランドを東京で見かけて嬉しかった」などの声をいただくこともあり、本当にうれしいです。イベントを通じてこの街を知り、好きになってくれる人が増えていると実感しています。

WWD:一年を通じた来訪者数など、データは取っていますか?

勝俣:感覚的には明らかに人の流れが増えていると感じています。「ハタフェス以降、いろいろと声をかけられることが増えた」といった話は聞こえてきます。山梨県が調査しているデータでは2023年319万人、コロナ前の2019年では627万人です。

移住者が増え、空き家問題解決の一助にも

WWD:空き家の活用も進んでいるようです。

勝俣::はい、空き家が減ってきているという話も聞きます。私たちが行っているもう一つの取り組みに、今年で4回目になる「フジテキスタイルウィーク」というアートイベントがあり、こちらも中心市街地活性化事業の一環です。イベントでは、普段閉まっている空き家を活用し「ここで商売ができるかもしれない」と思ってもらえる場づくりをしています。「ハタフェス」が終わった後、その空き家が案内所やカフェとして再活用される例も出ています。

WWD:富士吉田は、もともと空き家率が高かったのですか?

勝俣:はい。山梨県は全国でも空き家率が高い地域で、その中でも富士吉田は特に多いと言われています。

WWD:移住者も増えているのでしょうか?

勝俣:増えています。「ハタフェス」や「フジテキスタイルウィーク」に関わるクリエイターの活動を見たり、富士山が近く、ふもとの豊かな自然に恵まれ、水や空気がおいしいといったこの富士吉田市の環境を感じて移住した方もいらっしゃいます。その方の影響で、さらに別の方が移住してくるという“連鎖”も起きています。

「この街の織物業には力がある」

WWD:勝俣さんご自身は、もともと織物にはそれほど関わってこられなかったと思いますが、ハタフェスを通じて見えてきた織物の魅力について、どう感じていますか?

勝俣:富士吉田はもともと「裏地」の産地でした。東京から山を越えて来るような立地なので、軽くて質が良い織物が求められ、江戸時代の庶民が「表ではおしゃれできないから裏地でおしゃれを楽しむ」という時代に提案していたのがこの街でした。

ただその後、羽織を着る人が減り、海外から安価な素材が入ってきたこともあり、日本全体の繊維業と同じように衰退してきました。それでも富士吉田ではリネン生地やネクタイ、オーガニックコットン、カーテンなどのインテリア用の織物など、個性ある製品を作る方々が頑張っていて、「この街の織物業には力がある」と思っていました。

たとえば、渡辺竜康さんという若手の織物職人がいらっしゃいます。ハタフェスの初回には参加していなかったのですが、第2回から出展し、自分が想像した織物を発表したところ高評価を得ました。以来、彼の織物は即完売が続き、BtoBの依頼も増えたそうです。彼は使う人の声を聞きながら、どうすれば喜んでもらえるかを常に考えてものづくりをしています。彼のような存在を通じて、今の富士吉田の織物業の力強さを実感しています。

異動が多い、行政関係者だからこそできること

WWD:「行政だからこそできること」があれば、教えてください。

勝俣:他の自治体にも共通することだと思いますが、まず制度として、職員が2~3年で異動してしまう仕組みに課題を感じています。せっかく立ち上げた事業が、後任の方の思いとずれると、続かなくなるケースが多くあります。行政が本来持つ力というのは、「民間のやる気ある人をどう応援するか」だと私は思っています。そして、最も分かりやすい支援の形が補助金です。ただし、行政職員が主導してしまうと、その人が異動した途端にプロジェクトが止まってしまうリスクがあるんです。

職員がやりたくないのではなく「その後の責任を取れないからやれない」という人も多い。ですから、行政として事業を立ち上げたなら、しっかり責任を持ち、そのプロジェクトが自走するまで見届ける体制が必要です。

WWD:街づくりは、感覚的にはどれくらいのスパンで取り組むべきですか?

勝俣:10年は必要だと考えます。ハタフェスも3回目くらいからようやく市民の方々に「面白いイベントが始まった」と認識していただけるようになりました。それまでは模索の連続でしたが定着しつつあります。

WWD:行政が3〜5年支援して、その後民間が主体となり社団法人を立ち上げ、自走型へ移行していく例も増えています。

勝俣:マネタイズの視点を持てる方々であれば、3〜5年ほど行政が支援することで、その後は自立していくケースもあると思います。ただ、地域型のイベントでマネタイズを成立させるのは本当に難しい。たとえば体育館などのクローズドな空間であれば入場料を設定しやすいですが、まち全体で行うフェスでは、通行人から料金を徴収するわけにもいきません。「どうやって収益を得るか」という課題は常に頭にあります。

WWD:行政と民間が協業するうえで、成長につながる大事なポイントとは?

勝俣:一番大切なのはやはり信頼関係だと思います。これはどの事業にも共通していますが、プレイヤーとの信頼が築けていなければ、協業は難しいと考えます。

WWD:勝俣さんはどのように信頼関係を築いたのでしょうか?

勝俣:私は、行政として「これをしてはいけない」「あれはやめてほしい」といった制約をあまり設けないようにしてきました。ハタフェスを担う3人の企画を尊重してきたことが成功に繋がってきていると感じています。

「愛されるイベントを作る」

WWD:目標設定はしていますか?

勝俣:「富士吉田を愛してくれて、リピートしてくれるような雰囲気のあるイベントにしたい」が第一です。

WWD:「愛されるイベントを作る」というのが目標だったのですね。静岡など、他の産地からも出店があり繊維産地の合同展示会のような趣もありましたが、それは狙いでしたか?

勝俣:地域と産業を盛り上げようと思った時に、地元の人だけでやるのではなく、同じ志をもった仲間といっしょにどう取り組めるかが大事だと思って、他の産地の人も呼んでいます。
外の人にみてもらうことで、織物も街も、地元の人では気づきにくい新しい魅力を見つけてもらえているのがハタフェスの盛り上がりの一因だと思っています。

WWD:なるほど。全国の産地の職人たちが自然に引き寄せられているわけですね。

勝俣:そうですね。出店者がそれぞれの地域の魅力を背負ってきてくださることで、富士吉田という場所を知っていただく機会にもなっていると感じます。

WWD:イベントが産業全体ともう少しつながっていけば、より広がりが生まれそうですね。

勝俣:まさにその通りで、私たちも空き家対策や移住促進など、さまざまな分野でこのイベントを活かせればと思っています。そうした広がりを持たせていくことも、今後の課題であり、可能性です。

The post 街の価値は“人と物語”で育てる 行政の現場から見た「ハタオリマチフェス」と富士吉田の10年 appeared first on WWDJAPAN.

ラッパー・ACE COOL × 映像作家・鈴木竜也 異色のタッグが挑んだアニメ映画「無名の人生」制作秘話

PROFILE: 左:ACE COOL/ラッパー、右:鈴木竜也/映像作家

PROFILE: 左:(エースクール)1992年3月17日生まれ。広島県呉市出身。卓越したスキルで抒情的・哲学的なラップを放ち、聴く者を魅了する。2020年、自身の半生をつづったコンセプトアルバム「GUNJO」を発表。続く2ndアルバム「明暗」にはプロデューサーにJJJ、Miru Shinodaらを迎え、その作品のテーマ、実験性に満ち溢れた音楽性がシーンを越えて多くの反響を呼んでいる。25年3月には渋谷WWW Xで東京2度目のワンマンライブ「明暗白日」を開催した。 右:(すずき・りゅうや)1994年12月3日生まれ。宮城県仙台市出身。東北芸術工科大学映像学科を卒業後、実写監督を志すも流れ流れて歌舞伎町のオイスターバーの雇われ店長に。コロナ禍を機に独学で作り始めた短編アニメが、国内の自主映画祭で数多の賞を受賞。2022年には「鈴木竜也短篇集三人の男」が劇場公開。令和5年度宮城県芸術選奨メディア芸術部門新人賞受賞。今作は、クラウドファンディングで制作費を集め、仙台の実家にこもり、1年半をかけて全て1人で描き上げた。

東北の団地に暮らすいじめられっ子の寡黙な少年が、転校生との出会いをきっかけに父親と同じアイドルの道を歩みはじめる。それは波乱に満ちた彼の人生の始まりにすぎなかった——。いくつもの名前を獲得しながら数奇な運命を辿る男の生涯を、芸能界の闇や高齢者ドライバーによる事故、格差に戦争など、現実に起こる社会問題を反映させながら描いた長編アニメーション「無名の人生」が、5月16日から公開される。

監督はコロナ禍にアニメーション制作を始め、個人製作した短編作品「MAHOROBA」、「無法の愛」が国内の映画祭で数々の賞を受賞した鈴木竜也。そんな彼が単独で、先の展開を決めないまま1年半かけて描き上げた満を持しての長編デビュー作が本作である。作画だけでなく、音楽や編集なども自ら担当。国内外を席巻した「音楽」の岩井澤健治監督がプロデューサーとして、劇場用の仕上げから宣伝体制まで全面的なバックアップを行ったという。

いろんな名前を持つ主人公を演じるのは、日本屈指のラップスキルと抒情的なリリックで聴く者を圧倒する孤高のラッパー・ACE COOL。少ない台詞で、つかみどころがない男が変化していく模様を見事に体現する。ほかにも田中偉登や宇野祥平、猫背椿に鄭玲美など、錚々たる実力派俳優が声優として集結。一寸先も読めない規格外の物語に、説得力を宿すことに成功している。

なぜ主人公に声優初挑戦のACE COOLが抜擢されたのか。キャスティングの理由から、予想もつかない物語の制作プロセス、声優の難しさなどについて鈴木竜也監督とACE COOLに語り合ってもらった。

ACE COOL抜擢の理由

——鈴木監督が初めてアニメ製作を行ったのが、ちょうどパンデミックで自粛期間中だった5年前の春ですよね。インスタグラムにアップされていますが、最初はGIFスタンプでつくったんだとか。そこから5年で、劇場公開される長編アニメーション映画を製作したというのは本当に驚きです。アヌシー国際アニメーション映画祭の長編コントルシャン部門にノミネートという快挙も果たしたわけですが、「無名の人生」という作品に対するお2人の自信はいかがですか?

鈴木竜也(以下、鈴木):全国の皆さんにどう受け入れてもらえるか不安がないといえば嘘になりますが、僕は「これが一番面白い」と思いながらつくったので自信はあります。

ACE COOL(以下、ACE):あまり映画に詳しいというわけではないんですが、完成品を観たときにすごく面白いと感じました。先行上映会に来てくれた自分の周りにいる信頼の置ける人たちにも絶賛してもらえたので、いろいろ観ている人にも届いてくれる作品じゃないかなと思います。

——リリックにマイケル・マンが出てきたり、音源を聴いているかぎりACEさんはかなり映画好きという印象があったのですが。

ACE:好きではありますが自分はかなり偏っているので。監督と映画の話をすると全然だなと思いますし。

——本作の冒頭をはじめ、監督は台詞を使わず物語を伝えることに長けた映像作家である一方、ACEさんはラップだけで情景を浮かばせる言葉のプロですよね。とても対照的なお2人が組んだことがある種の化学変化となったのかなとも思うのですが、本作の主役に声優未経験のACEさんを抜擢した経緯を教えてもらえますか?

鈴木:本作の主人公は、主人公だけど一番異物感があっていいキャラクターというイメージだったんです。最初は寡黙そうな役者さんが良いのかなとも考えていたんですが、ちょうどキャスティングを考えていたのは、リリースされたばかりのACEさんのアルバム「明暗」をずっと聴いていた時期で。この映画自体がACEさんの楽曲にインスピレーションを受けながらつくったという部分もありますし、ラッパーの方って楽曲にたくさんの言葉を詰め込みますが、逆に寡黙なこのキャラクターをACEさんにお願いしたらどんなことが起こるんだろうって想像したんですよね。それで字幕が載った途中までの無音の映像と企画書をACEさんの公式HP経由でお送りしてオファーさせていただきました。でも2日くらい返事が来なかっただけで僕はブルっちゃって。

ACE:(笑)。

鈴木:「もうダメかも、終わりだ……」と思いながら今度はSNSでDMしたんですよ。ただDMだと相手に承認されないと長文が送れないんですよ。でもテンパってたからそれに気付かず途中まで書いた短い文章だけ送っちゃって。「ヤバい……」と思ってたら承認してくれて、きちんとお送りしましたが(笑)。そういうことがあった後に、承諾いただきました。

——ACEさんとしては思ってもいなかったオファーだったと思いますが、挑戦しようと思ったのはなぜでしょうか?

ACE:やっぱり最初はびっくりしましたよね。連絡をもらった最初の2日間で送ってくれた映像を観て、脇役とかならまだしも、初めての声優で主人公なんてできるのか……という葛藤はありました。そしたら監督から「僕のアルバムを聴いて原画を描いた」といった熱い思いが詰まったDMが来て、オファーをくれた理由が腑に落ちたんです。ならそれに応えよう、と思って受けさせて頂きました。

——でも「明暗」って昨年の5月末にリリースされた楽曲ですよね。聴きながら描いてたとなるとかなり最近の話ですね。

鈴木:まず先行で配信されていた楽曲でACEさんを知って、そこから過去作を聴いていたらアルバムが出たらしいということで「明暗」を聴くようになったんです。中でも「虚無主義」という楽曲にすごくシンパシーを感じながらこの作品に取り組んでいました。だからファン歴は短いんですが。

ACE:確かに「虚無主義」の空気感が映画にありますね。

鈴木:そうなんですよ。それを聴いて、ACEさんに「くだらねぇ」って言ってほしいなって思って(笑)。出演者でありインスピレーションもとでもある唯一の存在なんです。

鈴木監督作品の作家性

——監督は実写監督作である「バッド、フロム、トゥモロー」(2016)からその後のショートアニメまで、一貫して「思わぬ方向に転がっていく人生」を描いていますよね。またACEさんも自伝的な1stアルバム「群青」で人生の変遷をラップで表現していましたし、作品づくりに対する態度は似ているのではないかと感じました。ACEさんは監督の過去作はご覧になられたんでしょうか?

ACE:最初にお話をいただいたときにYouTubeにアップされている「無法の愛」を観ました。

鈴木:「観なくていいです」って言って逃げたんですけどね(笑)。作品を重ねる中で絵がだんだん上手くなってくると、過去作が観れなくなるんですよ。「下手くそだな〜」って。

ACE:アニメーションが独特すぎてめちゃくちゃ印象に残りました。観たことのないタイプで「こういうのもあるんだ。面白いな」って。

鈴木:ACEさんの楽曲は内に迫ってくるような感覚が魅力だと思うんですが、僕はできるかぎり私情を挟まないようにしてるんです。キャラクターに投影しすぎないように意識しているけど、自然と部分的に投影されてしまうくらいがちょうどいいのかなと。だからある意味対照的だとも思うのですが、姿勢が似ていると言ってもらえるのはとてもうれしいですね。

——キャラクターに投影しすぎないけれど、序盤の舞台となる東北や主人公の男性アイドル好きというのは監督の地元や過去がベースとなっているんですよね。

鈴木:アニメだけど、知ってる場所や好きなことを入れ込んでリアリティーが出ると、作品の重心が取れるし観たことがないものが生まれるんじゃないかと思ったんですよね。そういう意味で知っているものを描きつつも、キャラクターに肩入れしない中立の立場でつくっていきました。

——中盤で主人公が完全にACEさんの見た目になりますよね。あれはオファーをしてから描いたんですか?

鈴木:そのときACEさんを聴いてはいたんですが、実はオファーするという発想はまったくない段階で……。ただ楽曲からインスピレーションを受けて、格好良いファッションとしてACEさんのサングラスを参考にしました。その後、オファーを受けてもらったので結果オーライということで。

ACE:予告編を観た周りの人から、「本人役で出てるの?」って言われるんですよ(笑)。

鈴木:あれが主人公像の中で一番気に入っているんですよ。そのパートを描いてたころの自分に言ってあげたいですよね。「バレるぞ」って(笑)。

脚本を書かずつくり上げた作品

——あはは。ACEさんは今回が声優初挑戦ですが、どういう話し方や声でいくかなど、どのように準備されたんでしょうか?

ACE:アフレコする前に、自分が使っているスタジオに監督が打ち合わせで来てくれたんです。それまで「どういう声でいけばいいんだろう」と不安だったんですが、監督に「普段のしゃべり方で良い」と言われてイメージを固めることができました。

鈴木:まさに今の感じですよね。ACEさんのインタビュー動画を見て、普段のしゃべり声も素敵だなと思っていたのでそれをお伝えさせていただきました。

——脚本を書かずつくり上げた作品と伺いましたが、後に書き起こしたんですか?

鈴木:演者さん用に台詞だけ書き起こした簡易的な台本はつくりましたが、ト書きがあるものは未だ存在しないです。だからクレジットにも脚本ってのは書いてないんですよ。1年半1人で描き続けておいて説得力がないかもしれないんですが、僕は基本的に飽き性で面倒くさがりなのでなるべく早く取り掛かりたい。だから脚本も絵コンテもキャラクターデザインも根こそぎカットして、いきなり本番として原画を描き進めていきました。謎の自信に満ち溢れていたんですが、もしちょっとでも分岐を間違っていたら大変なことになっていたんだろうなと今では思いますよね。

ACE:どういう方向に進むか分からずつくっていったのが、作品の中身にも反映されていますよね。それが面白く作用して、展開が予測できない。

鈴木:予測できないほうを常に選択していきましたからね。

——全編通して観ると緻密につくられた雰囲気も感じますよね。

鈴木:元も子もない発言なんですが、「伏線って結構後からでもつくれるんだな」という気付きはありました。だから緻密さって何だろうって考えるきっかけにもなったし。でもこのつくり方は1人じゃないと無理だなと思いましたね。

——でも従来の作品と異なり、撮影や録音、音響といったスタッフも参加されていますよね。アニメ部分ができてからの話だと思いますが、そこはこれまでとも違ったのでは?

鈴木:「ダイ・ハード」をやっていたつもりが「アベンジャーズ」みたいに仲間が増えた感じでしたからね。それはプロデューサーの岩井澤さんが「これは劇場でやれるクオリティーですが、そのためには音を作り込む必要があります」と指南してくれて。それでスタッフだけでなくキャストも有名な方を呼んで、スタジオで録ってというように進めていきました。途中からチームで製作できたのもとても良い経験でしたね。仙台から東京で作業するという冒険感も楽しかったです。

——仙台といえば、ロケーションは結構現実にある場所を忠実に再現していますよね。

鈴木:場所はいろいろと探しました。オーディション会場として描いた「せんだいメディアテーク」なんかは一応許可をもらっています。個人的に良い場所を見つけたなと思ったのは仙台駅の屋上です。

初めてのアフレコ体験

——主人公は台詞が少ないぶん、言葉1つひとつの重みもあったと思うのですが、アフレコの際に意識したことはありますか?

ACE:幼少期の台詞はかなり少なくて、後半に長めの台詞が増えてくるんですよね。冒頭の独白以外は順番にアフレコをしていったので、基本的には物語の流れに沿った内面を少しだけ意識していきました。ただ基本的には感情を入れない無機質なトーン。でも最後の最後だけ少し感情を入れる、というふうに調整しました。監督からも「淡々と、ガッとしゃべるというよりはボソッとつぶやくくらい」と言われていたので、監督がほしいのはこれかなと僕の中でビートたけしをイメージしながらやっていました。

鈴木:絵柄が基本的に真顔なので、声優の皆さんも自動的に淡々としたトーンに持ってきてくれたんですよね。あとスタジオに入るときに最初に「声をもっと低く」といった調整だけして、あとはポンポンと録っていきました。だからACEさんとキン役の田中偉登さんの2人でアフレコしたのに、一時間くらいで全部終わって(笑)。早く終わらせたいというわけでもなかったし、普通映画監督ってもっと粘るよな……と思いつつもどのテイクもOKだったんで。サブキャストの方に至るまで全員見事にハマっていたので、そこはすごく自信があります。

——田中さんと一緒にアフレコした経験はいかがでした?

ACE:収録といってもラップとは全然違うので体験として緊張しましたよね。スタジオの雰囲気も違うし、ブースもめっちゃ広い。マイクが複数あって映像が流れる中録るのを、ガラスの向こうに監督やエンジニアとかいろんな人がいるんです。ラップを録るときは狭いブースに一人で、エンジニアは声だけがつながっているくらい。だからラップだったらもっと自信を持ってできるんですけど、今回は何もかも違うから「これでいいのかな?」ってなっちゃったんですよね。田中さんとの掛け合いもなかなか難しくて。

鈴木:田中さんは声優っぽいセンスの持ち主で、ACEさんと対照的な声の方にあえて1番近い役をやってもらったんです。

ACE:田中さんは自主的に何度もやり直しをされるんですよね。監督がOKって言っても納得するまでやるのを見ていると、やっぱり役者ってすごいんだなと思いました。僕は監督にOKって言われたらそれに納得してたので。

——アフレコを経た上で、監督はACEさんにどんな魅力があると思いますか?

鈴木:心情がすごく伝わるリリックでラップしている人なのに、普段のしゃべり声からは心情が読めない印象は最初からあって。HIP HOPシーンにおいてもカリスマ性があるじゃないですか。みんな外と闘っている人が多い中、ACEさんは1人自分と闘っている感じが魅力だと思いますし、それは本作の主人公に通じるところがあるなと思いました。

——声優としての経験は今後の音楽活動に活かせそうですか?

ACE:普段の活動でポエトリーリーディングのようなことはしないんですが、アフレコの経験を経て「そういうことをやってみるのもアリかもな?」って思いました。

——————————以下、物語のラストに言及する記述があります——————————

タイトルに込めた想い

——監督は本作に限らず、毎回音楽を自分でつくられていますよね。作品ごとにソウルフルだったりオーセンティックだったりビートのテイストが変わりますが、本作はその集大成的なサウンドだと個人的には感じました。

鈴木:最初の構成段階から、物語を10章に分けて、章ごとに色彩や音楽も変えようと決めていたんです。制作終盤で音を考える際には、スプライス(サンプル音源サービス)にある音源を聴きまくって、楽器から各章に落とし込む音の方向を決めていきました。例えば前半は弦楽器多めで、後半にかけてドラムが増えていくというように。決して明るいだけの作品ではないので、音楽でテンポやグルーヴを出すことが作品のエンターテインメント性を引き出すことにつながるかなと思ってそこはこだわりましたね。いろいろ実験しながらやってたのですごく楽しかったです。

ACE:音楽もめっちゃ良いですよね。作曲も自分でやってるって聞いてすごいなって思いました。いろんなジャンルの音楽が、この音以外には考えられないって場面に入れられていて。映画とかを観ているとたまに思う「この音は違うな」というのがなかった。

鈴木:邦画を観てると「ここで泣いてください」みたいなBGMが流れてくるときがあるじゃないですか。本作でも主人公が偽の父親と会うときに流しているんですが、それをぶった切るというのがやりたかった(笑)。

——エンディングの主題歌はてっきりACEさんが歌うものと思っていたので、少し懐かしい感じのアイドルソングが来て仰天しました。あれも監督が作詞・作曲ですよね。

鈴木:終盤になると僕もどうかしてて、とにかくぶっ飛ぶような展開で終わりたいなと考えたんです。それで最後のカットでキレよく物語を終わらせたあとに、これも邦画あるあるの「企業が選んだ絶妙に合っていない主題歌」で締めたいなと(笑)。物語的にもアイドルソングは重要ですし、あの主題歌のピアノバージョンを前編で伏線のように組み込んでおいて、最後に流すと観ている人も唖然としながら終わっていくんじゃないかなと思いました。

作曲する際には僕の鼻歌を原夕輝さんに送って、イントロなどのリクエストをしながらつくってもらいました。だから実質作曲はほぼ原さんです。「シェイク」や「青いイナズマ」をイメージしつつ、そこに「マツケンサンバ」の要素も加えてくれたので最高でしたね。

——終盤のぶっ飛んだ展開をACEさんはどう観られたんですか?

ACE:観たことのない展開で面白かったです。ただ簡単に咀嚼できなくて、監督にいろいろ質問しました。「あの被り物はなんなんですか?」って聞いて「被ったらなんでも見えて長生きできる装置です」って教えてもらったり。終盤の中でも、ずっと主人公の後頭部が映って時間が経過していくモンタージュがすごく好きでした。いろんな時代が過ぎていって、最後に自分の名前を呼ばれる部分にすごくグッと来たんですよね。

鈴木:自分の記憶を振り返ったときに、そこに自分の姿も映っていることってありませんか? あのパートではそういう感覚を呼び起こさせたかったんですよね。

——監督はこれまでも作品の中に現実で起きたことを反映してきましたよね。本作では自動車事故や男性アイドルの性被害が描かれていますが、あえてアニメで現実社会を映す理由を教えてもらえますか?

鈴木:アニメだからこそ残酷な現実のことを描いても輪郭が丸くなって観られると言いますか、自分がそれまでもやってきた風刺的な作風がアニメに結構マッチするということに気付いたんですよね。最初から男性アイドルを出すことを決めて2023年の初めごろに本作をつくり始めたんですが、その前後にアイドル事務所の問題が報じられて。当初は普通にアイドルを描くつもりだったんですが、これは避けて通れないなと思って描くことを変えていきました。僕は無名だし好きにやらせてもらおうと。ただ僕自身アイドルは好きですし、その人たちの2次加害になるような描写は避けるように意識はしました。

——タイトルにもある「名前」が本作では非常に重要な要素となってきますよね。主人公はいろんな名前を獲得しながら人生の旅を経験していくわけですが、この「名前」というものに何を見出し、物語を展開させたんでしょうか?

鈴木:一番最初に浮かんだのが「無名の人生」というタイトルなんですよね。そこから「じゃあ名前と人生の映画をつくればいいんだな」と物語を膨らませていったんです。名前ってみんないろいろあるじゃないですか。SNSのニックネームや職場や家族での呼び名とか。それが変わっていくという展開にすれば面白いんじゃないかなと。それで最終的に「名前なんてなくてもいいんじゃないか」というところまで到達するという。

——最後に、お2人が本作で特に好きなポイントを教えてもらえますか?

ACE:やはり絵作りが良いですよね。特に好きだったのは車が固定されたまま景色がどんどん変わっていく冒頭。すこし北野映画っぽいし、音楽もピアノとストリングスがきれいですごく良いなと思いました。

鈴木:あの音楽がラストの主題歌のバラードバージョンなんですよね(笑)。本作は脚本も書かずアドリブで制作を進めて、物語を制限しなかったことによって狙ってた以上に暴走してくれました。だからこそナルシシズムのない他人事のような作品になってくれたことが僕は好きですね。

PHOTOS:MASASHI URA

映画「無名の人生」

■映画「無名の人生」
5月16日から新宿武蔵野館 他 全国順次公開
監督・原案・作画監督・美術監督・撮影監督・色彩設計・キャラクターデザイン・音楽・編集:鈴木竜也
声の出演:ACE COOL
田中偉登 宇野祥平
猫背椿 鄭玲美 鎌滝恵利 西野諒太郎(シンクロニシティ)、
中島歩 毎熊克哉 大橋未歩 津田寛治
プロデューサー:岩井澤健治(「音楽」「ひゃくえむ。」)
配給:ロックンロール・マウンテン
配給協力:インターフィルム
2024年/日本/カラー/93分/2.35:1/5.1ch /DCP ©鈴木竜也
https://mumei-no-jinsei.jp

The post ラッパー・ACE COOL × 映像作家・鈴木竜也 異色のタッグが挑んだアニメ映画「無名の人生」制作秘話 appeared first on WWDJAPAN.

「ニューバランス」とも協業 「ディストリクト ヴィジョン」がマインドフルなランナーへおくる、日本製アイウエア

PROFILE: トム・デイリー(左)、マックス・ヴァロット/「ディストリクト ビジョン」共同創業者

トム・デイリー(左)、マックス・ヴァロット/「ディストリクト ビジョン」共同創業者
PROFILE: トムは英アスコット出身、マックスは独ケルン出身。2016年、2人で米ロサンゼルスを拠点に「ディストリクト ビジョン」を設立。アイウエアを中心にマインドフルなアスリートのためのツールを研究・開発し、機能第一でパフォーマンスを向上させる製品を生み出している。アスリートに対する包括的なアプローチと精神的なウェルビーイングがあらゆる身体運動の基礎であるという考えを信条としている PHOTO:MARISA SUDA

昨今のランニング人気を背景に、インディペンデントなスポーツブランドの台頭に注目が集まっている。米ロサンゼルスが拠点の「ディストリクト ビジョン(DISTRICT VISION)」は、アスリートへ向けたアイウエアブランド。ブランドは昨年10周年を迎え、アパレルやランニングシューズも展開するほどに成長し、この度、5度目となる「ニューバランス(NEW BALANCE)」とのコラボレーションシューズ“エム ティ テン オー(MT10O)”をローンチした。それを記念し、東京でドーバー ストリート マーケット ギンザから皇居までを往復するランニングイベントを開催。来日したブランド創設者のトム・デイリー(Tom Daly)とマックス・ヴァロット(Max Vallot)に話を聞いた。

ーーランニングとの出合いを教えてください。

マックス・ヴァロット「ディストリクト ビジョン」共同創業者(以下、マックス):私たちふたりは15年以上前に、ロンドンで出会った友人同士です。ともに人生について好奇心が旺盛で、夢中になったことは何でも追求してきました。10代でロンドンからニューヨークに移り住んだころは、パーティー三昧で徹夜続きの毎日。そんな生活を続けて、25、6歳になったとき、私たちは自分自身を心身ともに健康だと思えなくなっていたんです。もっといい気分、いい健康状態になれる方法を考えなければならない。そうしてまずは、トムがランニングに夢中になり、ニューヨークのダウンタウンで仲間と一緒に走るように。決まって夜に走っていましたね。クラブキッズだった私たちにとって、ランニングはとても刺激的でした。

私自身は瞑想とヨガにのめり込み、神経系を落ち着かせ、より穏やかに内なる平和を見つけることを学びました。その流れで、ランナーたちに瞑想を教えるようになり、マインドフルなアスリートたちの小さなコミュニティーができました。マインドフルネスとランニング、パフォーマンス、スポーツの統合、橋渡し役になれたんです。そして私たちはいつもアイウエア、特に日本製の製品を愛用していました。本当に世界最高の技術ですよね。当時は既存のスポーツ用アイウエアで適切なレベルとデザイン性のものを見つけることができずにいました。機能的でラグジュアリー感があるものがなかったんです。

ーー「ディストリクト ビジョン」の立ち上げ経緯は。

マックス:最初の試みとして、2014年にダウンタウンのランナーたちとスポーツ用アイウエアの技術的なテストを始めました。そして、2年間かけて実生活で使用したフィードバックと日本のエンジニアリングを組み合わせ、最初のモデルの土台となる“ケイイチ(Keiichi)”ランニング・サングラス・システムが誕生しました。チタン製で軽量で着け心地がいい、さらに低アレルギー性の素材でできた、調整可能なノーズ、イアパッドが付属したスポーツフレームのサングラスです。

ーー日本のアイウエア工場や職人とはどのようにつながったのですか。

トム・デイリー「ディストリクト ビジョン」共同創業者(以下、トム):ロンドンで一緒に暮らしていた17歳のころ、よくワーダーストリート(Wardour Street)にある眼鏡屋へ行っていたんです。そこにはすばらしいメイド・イン・ジャパンの眼鏡が置いてあって、店員の男性はいつもその眼鏡を手に取って「これが最高だ」「これが傑作だ」と見せてくれました。そのときから日本製品の魅力は、私たちの心をつかんでいました。それから11年、私たちが会社を立ち上げようとしたとき、そのアイウエアを作っていた人たちとコンタクトを取ることができたんです。福井・鯖江に住む中西ファミリーは優れたアイウエア工場を所有しています。福井には何度も足を運び、さまざまな素材や先端技術などをテストしています。サングラスを専門にしている人と会うことは楽しく、日本の様子に心躍ります。私たちのやり方で、職人技を守り、モノ作りを健全に保ち、自分たちの役割を果たしたいと考えています。

「追求し続けることで、
結果として精神的な次元に達する」

ーー「ディストリクト ビジョン」のアイウエアのこだわりを聞かせてください。

マックス:サングラスの場合、フレームは主にナイロンとチタンを使うことが多く、その2つの相互作用にこだわっています。パフォーマンスやコンディションに対応するために、さまざまなレンズ技術も用意していて、度付きレンズもあります。 科学と東洋哲学を融合させ、眼筋を保護し、解放することで身体能力を向上させるための包括的なアプローチを研究しています。

トム:私たちはナイロンとベータチタンを組み合わせ、特殊な仕上げを施し、レンズ技術、調整機能などを駆使した軽量なアイウエアからブランドをスタートしました。同じモノ作りを続けて、ようやく11年目。フレームのために開発した小さな機能も、基本的な構造はずっと同じ。それを何度も何度も繰り返し改良することで、さらなる面白さが生まれ、ある種の精神的な次元に達することができるんです。

マックス:「何かにおいて好奇心とこだわりを持ち続けて追求していれば、結果的に精神的なものになる」ということは、日本人が私たちに教えてくれたことです。お寿司でもアイウエアでも、アートでもいい。常に探究心を持って自らに問い続け、一つ一つ発展させられれば、それはスピリチュアルな次元にまで昇華できる。だから、必ずしもスピリチュアルなテーマを製品に押し付けるのではなく、私たちのアプローチや姿勢、そしてプロセスの中にこそスピリチュアルな側面があると考えています。

ーーランニングもフィジカルな側面と精神性を追求する側面がありますね。

マックス:ランニングが興味深いのは反復練習だから。同じ動きを何度も何度も繰り返すことで、人生においてある種の技術を身につけられる。さらにその技に磨きをかけていく。だからランニングをしていると、走ることそのものを超えて、もっと大きな意味を見出した人にたくさん出会います。「ディストリクト ヴィジョン」は、そういったランニングの新しい解釈に興味を持っているランナーたちを対象にしたブランドだと言えるでしょう。

ーー最初の製品となった“ケイイチ”というモデルは、鯖江のアイウエア職人から名前を取っています。

トム:この仕事を始めたとき、私たちはデザインから開発まで、とても長いプロセスが必要だと理解しました。最初の開発には非常に長い時間をかけました。 幸運なことに、非常に優秀な工場と出合い、スポーツサングラスのアイデアを極限まで洗練させる機会を得ました。 11年前にサポートしてくれた(PRやセールスを手掛ける)エドストローム オフィスのヨシコ・エドストロームさんや鯖江のみなさんとの出会いが全ての始まりです。 それを形に残したいと思い、すべてのオリジナルフレームには関わってくれた人の名前をつけています。 中にはエンジニアの名前がついたフレームもある。今日、私たちが何かを購入するとき、誰の手によって作られているのかがわかりづらいですよね。そんな中、私たちなりに作り手への最大限のリスペクトを表しているんです。

「ランニングは、
誰もが自分なりに楽しめる」

ーーマックスは「サンローラン(SAINT LAURENT)」、トムは「アクネ ストゥディオズ(ACNE STUDIOS)」で働いていた過去があります。ファッション業界での経験は、新たにブランドを作るにあたって役立ちましたか。

マックス:ファッションは、ある種の終わりのないクリエイティブ・プロセス。作り手の多様なアイデアや人々がどのような世界でどんな生き方をしたいのか、さまざまな側面を製品を通して表現することができます。 例えば、サブカルチャーから素材とのさまざまな相互作用などまで。それを知ることができました。

トム:いつも「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」からインスピレーションを受けています。 ファッションが教えてくれたことは、枠にとらわれずにスポーツウエアの基本的な考えや基本的なルール、あるべき姿に疑問を投げかけること。そう問い続ける自信も私たちに与えてくれたと思います。 新しいスポーツウエアの開発には、限りない自由なアプローチが必要なのです。

ーーいま、世界中でランニングブームだと言われます。実感はありますか。

トム:スポーツの分野には常に何かしらのサイクルがあるものですが、ランニングは現在、ある種の成熟期にあると言えるのかもしれません。世界中の国や地域にランニングチームやコミュニティーができています。ランニングはどんな服装でも楽しめるし、それが人々のアイデンティティーの一部になってきています。街でコーヒーを飲んでいても、散歩していても、ランニンググッズを身につけている人が本当に増えました。ある意味、カテゴリーを超越した大きな流れだと思っています。

マックス:ブームになっている最も大きな理由は、誰もが自分なりにランニングを楽しめるからだと思います。人によってはレースに傾倒して競争に夢中になるかもしれないですが、ほとんどの人は、より健康に、より幸せになりたいと思ってランニングを始めます。きっかけは「流行っているからやってみよう」という無邪気なものでいいですし、それからどう自分のスタイルに合わせて進化させいくかはランニングを続ける楽しみの一つ。ランニングは民主的なものだと思うんです。 例えば、東京マラソンで優勝した人は当然プロのアスリートですが、一般ランナーも同じコースを走ることができますよね。F1のように、10人のドライバーのうちの1人になる必要はありません。

トム:かつてはパーティーをしたり、お酒を飲んだり、タバコを吸ったりすることこそがクールだという考え方もありました。でも今の時代は、人々がさまざまな生き方を選択できます。たとえばニューヨーカーも、以前より健康志向で若々しくなっていると感じます。アメリカでは、学校で走ることも流行っています。学生たちは大学を卒業してからも、そのまま移り住んだニューヨークの友人たちと趣味として走り続けている。 それもあの街にランナーが増えた理由だと思います。17時や18時にウェストサイド・ハイウェイに行くと、ランナーの多さに驚きます。ニューヨークはマンハッタンをぐるっと一周走れるので、交通量が多い東京よりも少し走りやすいかもしれないですね。

LAやNYに出店の考えも

ーー「ニューバランス」との第5弾となるコラボコレクションも先日発売しました。

マックス:ミニマムなベアフットランニングシューズです。 足を地面に近づけるように設計されています。最近のランニングシューズの多くは、エネルギー効率を重視し、衝撃から関節を保護するために、非常に厚いソールを採用している しかし、このシューズはシンプルさを追求しています。 もともとは2000年代初頭に開発され、大流行したシルエットをベースにしています。

トム:昨今のシューズと比較すると、クッション性は低く、ソールはかなり薄くなっています。クッション性が高くなればなるほど、地面から足が遠くなるため安定性が損なわれてしまいます。安定性を高め、地面に近い感覚を得られるように設計し、それを天然繊維で実現しました。

ーーワン・ダイレクションのハリー・スタイルズ(Harry Styles)が3月の東京マラソンで、「ディストリクト ヴィジョン」のアイウエアを着用しました。その影響を教えてもらえますか。

マックス:このニュースは日本で大きなインパクトがあったようですね。彼が出場することは、ちょっとした秘密でした。 彼らにとって、おそらく7回目か8回目のマラソン・レースだったと思います。彼はかなり多くのことを経験しているランナーで、「ディストリクト・ヴィジョン」を愛用してくれています。

ーー今後の展望を聞かせてください。

マックス:成長が最優先に考えられる昨今では、多くのブランドができるだけ大きな影響力を持とうとします。それに対し、私たちはできる限り本物でありたい。もちろん成長はしたいし、ビジネスをしてお金も稼ぐでしょう。しかし、常に問題に感じているのは、どうすれば自分自身に忠実でありながらビジネスで成功できるのかということ。表現者として正直であり続けながら、ブランドを新しい水準にまで引き上げ、製品を最高のものにしたい。そして次のステップとしてそれを世界に広めること、これが「ディストリクト ビジョン」の大きな次のステップになると感じています。そう、常に自分たちが持っているものすべてに疑問を持ち続けながら。

トム:あとは、ロサンゼルスやニューヨーク、そしていつか東京にも店舗をオープンする予定です。

The post 「ニューバランス」とも協業 「ディストリクト ヴィジョン」がマインドフルなランナーへおくる、日本製アイウエア appeared first on WWDJAPAN.

「ゴールドウイン0」クリエイティブ・ディレクター OK-RMに聞く 個々の創造性を結びつけ、化学反応を生むブランド作り

ゴールドウインは、日本のバイオベンチャー・スパイバー社が開発したブリュードプロテインをはじめとした新テクノロジーの導入、国立公園の保全や活用、気候変動問題への取り組みなど、環境保護に対するアクションと未来へ向けた創造性の強化を掲げる。この理念をもとに、ファッションを通して循環型社会の実現を目指すプロジェクトとして2022年に立ち上げられたのが「ゴールドウイン0(GOLDWIN 0)」だ。

「ゴールドウイン0」は機能性を備えた衣服で構成される実験的かつテクニカルなプラットフォーム。現在、ウエアのデザインはイギリス出身、オレゴン州ポートランド在住のヌー・アバス(Nur Abbas)が務める。従来の服作りの常識を超え、広範なリサーチを通じて「ゴールドウイン」ブランドの可能性を拡張することを使命に、カプセルコレクションやコラボレーションの発表にとどまらず、自然や科学、技術に根ざした最高の品質と時代を超えた美しさを追求している。

このプロジェクト全体のクリエイティブ・ディレクターを務めるのが、オリヴァー・ナイト(Oliver Knight)とローリー・マクグラス(Rory McGrath)によるOK-RM。プロジェクトの根底にある哲学を探求し、ユニークなコミュニケーション構築によって異なる分野のエキスパートを繋ぎ、書籍、ブランドアイデンティティー、映画、展示会など越境的なデザインに落とし込むロンドンのデザインユニットだ。これまでに「JW アンダーソン(JW ANDERSON)」やヴァージル・アブロー、グッゲンハイム美術館、メトロポリタン美術館などのクライアントとのコラボレーションの経験を持つ。

そんな「ゴールドウイン0」は、24-25年秋冬コレクションで自然界にある螺旋状の構造体や、植物、岩、水といった自然現象から着想した曲線やパターン、テクスチャを反映させたアイテムを展開。合わせてプロジェクト開始からの3年間にわたる探求的な研究成果についての展覧会 「Goldwin 0 1 2 3 4 5 0」を、昨年10月に東京・青山のスパイラルホールで開催した。本展のタイトルは、0から1へ、そして再び0に戻る深遠な旅を表現したものだ。

インスタレーションとライブパフォーマンスで構成された本展では、音楽家、建築家、詩人、作家、デザイナーが協力し「ゴールドウイン0」コレクションと共に公開された美しいメディアの融合を創り上げる5つの異なる探求を反映した作品を発表。テーマ探求の過程を分析し、コラボレーターたちの芸術的なプロセスを理解できる没入型の体験を来場者に提供した。本展のために来日したOK-RMのローリー・マクグラスに、今回の「ゴールドウイン0」におけるプラットフォーム創造の経緯やアイデア、背景的思念について話を聞いた。

団結・協働がもたらす可能性の拡張
それを支えるカルチャーの重要性

ーークリエイティブ・ディレクターとして参画している「ゴールドウイン 0」での具体的なミッションとは?

ローリー・マクグラス(以下、ローリー):クリエイティブ・ディレクション、アート・ディレクション、アーティストの選定、振付など、すべてに関わっている。私たちにとって、これらは等しく「デザイン」の仕事。そういう意味で私たちは「ゴールドウイン 0」の根源的なデザイナーと言えるだろう。プロジェクトやブランド・アイデンティティーのデザインとは、すなわちコミュニケーション。私たちの仕事は多くアーティスト、振付師、建築家、作家、詩人、映像作家…あらゆる専門家と協働することだ。

プロジェクト始動時にゴールドウィンCEOの渡辺社長がかかげたテーマは「このプロジェクトを通して世界と愛を分かち合い、芸術、科学、自然のストーリーを伝えたい」というもの。これほど自由でアーティスティックなプロジェクトに携われる機会は滅多にない。

ーー「循環」や「可能性の拡張」といった「ゴールドウイン 0」のテーマから、どのようにイメージの構築を図ったのか?

ローリー:「Circulation(循環)」とは、自然そのもの。プロジェクトの目的の一つは、西洋的な個人主義やリニア(直線的)思考から私たちを解き放ち、かわりにサークル(円環)的な発想に接近すること。人が集まり、結束することで、個人では成し遂げられない可能性の拡張が生まれる。ひるがえって、科学的な視点から見た自然においても、万物の本質は「円環」をベースにしていると考えている。

このプロジェクトに携わったことで、団結して物事を進めることの重要性、人々が共存し協働するためには、皆で作り上げるカルチャーが必要不可欠だということを再認識した。

ーー今回の「ゴールドウイン0」のキャンペーンでは、建築家・振付家・詩人・ミュージシャンたちとのコラボレーションを実現した。多様な分野との協働のために工夫したことは?

ローリー:本プロジェクトのコラボレーションの主題は「探究することの探究」、いわば集合知が機能することの実証だ。今回はまずアーティスト・イン・レジデンスのような空間を作り、コラボレーターたちと「ゴールドウイン0」 の本質的な哲学を共有した上でアイデアを追求した。

これは映画や本、ファッションショーなどの制作とはまた違った種類の創造的行為だ。私たちは保守的なものや予定調和的なアイデアに可能性は見出さない。本当のカルチャーというものは常に開かれ、優れた音楽のように広がり、クリエイティブな人々を包み込んでエネルギーを与えるものだ。

ーーコラボレーターの選定で重要視していることは?

ローリー:活躍する分野や技術などの細かな部分より、個々が持っている哲学が重要だ。実際に協働した人たちは、同じような価値観や考え方の人が多い。写真家のダニエル・シーはその最たる例で、まるで同時代に同じ文化の中で共に過ごしてきたような存在。我々にとって大切なコラボレーターだ。

「ゴールドウイン0」には、クリエイティブな人々にとって必要不可欠な、ある種のカルチャーが存在する。言語的なコミュニケーションがなくても、カルチャーを通じてお互いに理解しあい、信頼をベースにしたつながりがあり、それが共鳴をもたらす。

今回のプロジェクトで最後の撮影が終わった時、みんなで抱き合って泣きそうになった。こんなことは初めてだ。全員がプロジェクトに対し主体的に関わっていたことを実感したからではないかと思う。

--イベントを継続的に開催する中で「ゴールドウイン 0」の世界観やアートディレクションのアウトプットはどのように発展してきたか?

ローリー:あらゆる要素を吸収して劇的に発展してきた。このプロジェクトを通じて、他のメンバーから何か良い影響を受け、それをクリエイションに込めてチームに報いるという良い相互作用が生まれた。この好循環を繰り返しながら一連のプロジェクトが進行した。

ーーOK-RMにとっての「デザイン」とは、今の話にもあった「人々の相互作用」の痕跡ともいうべき、創作プロセスのドキュメンタリーのような印象を受ける。

ローリー:「デザイン」とは人間が行うものであり、究極的には「人間」そのものだ。デザイン上の課題を明らかにするための問題提起と解決手段の模索。探求とはこのサイクルを積み重ねる行為だ。身体と音楽、身体と動作、詩人と着想…こういった関係性について深掘りしていく、純粋で創造的な問題提起だ。

ーーOK-RMはデザインにおいて、コンセプトの本質の再考、探究や対話、コラボレーションを重視している。こうしたアプローチの重要性を意識したきっかけや影響を受けたものはあるか?

ローリー:特定の人物を挙げるのは難しいが、私たちは職業的デザイナー以外にも多くの人たちをデザイナーととらえ、彼らから影響を受けている。一貫した姿勢で本質を追求し、職人技術を駆使してそれらを可視化し他者に示すことができる人は、みなデザイナーであると考えている。伝統的な日本庭園の庭師などがまさにそうだ。

「ゴールドウイン0 」プロジェクトの冒頭で、渡辺CEOが語った「完璧なデザインは、哲学や物事の本質、アイデアを擁し、それらが自然の中での生活において表現されるものだ」という言葉にも感化されている。

機能性を備えた実験的なウエアを生み出し、創造性を刺激する存在でありたい

ーー「ゴールドウイン0 」プロジェクトを通して、顧客やファッションシーン、現代社会にどのような影響をもたらしたいと考えているのか?

ローリー:人々にインスピレーションをもたらしたい。実際に私たちは多くの若手デザイナーやクリエイター、シネマトグラファーたちにチャンスを提供しており、それが少しでも彼らにとっての希望になればと願っている。

クリエイティブな仕事をしていると、ただ誰かに何かを与えるだけの垂直的なあり方ではなく、好循環を創り出したいと望むようになる。若い世代のクリエイターの多くは、この先困難な道のりを歩むことになるだろうから、彼らに良い刺激を与える存在になれたら嬉しい。

ーー「ゴールドウイン 0」における最終的なアウトプットはウエア。服についての価値観が多様化している現在において、OK-ROMは衣服をどのようにとらえているか?

ローリー:一般的に、衣服は商品だ。でも「ゴールドウイン0」はそうした営利目的ではなく、コミュニケーションについてのプロジェクト。この視点を持つと「ゴールドウィン 0」がもたらす本質的な恩恵について考察しやすいだろう。実際のところ「ゴールドウイン0」の製品は非常に実用的だ。厳しい環境から身体を保護するためにデザインされているし、パフォーマンス・ウエアのようでもある。

私たちが作る服は、それぞれ別個に存在するクリエイティビティを結びつけるような媒介のようなもの。化学反応を生み出す存在でありたい。

「ゴールドウイン0」では3人のデザイナーと仕事をしてきた。彼らに共通しているのは「実験的な姿勢」。彼らはリサーチやデザインのプロセス、素材の検討などにおいて非常に実験的だ。パフォーマンス・ウエアにおいて重要な機能性を持ちながら、実験性を兼ね備えた衣服を作れたら最高だ。

The post 「ゴールドウイン0」クリエイティブ・ディレクター OK-RMに聞く 個々の創造性を結びつけ、化学反応を生むブランド作り appeared first on WWDJAPAN.

「シンゾーン」が女子少年院と協業 少女たちの社会復帰を制作活動で支援

セレクトショップのシンゾーン(SHINZONE)はこのほど、女性に対する暴力や権利について意識を高めることを目的としたプロジェクト「ウィメンズ・ファッション・エデュケーション(Woman’s Fashion Education)」を始動した。第1弾として、法務省の機関である女子少年院の愛光女子学園(狛江市)と協働し、同学園の職業指導で制作されたレース編みを用いた商品3点を制作・販売した。今回の取り組みに至った経緯や想いを染谷裕之社長に聞いた。

今回のコレクションは、園生が編んだクロッシェ・レースを用いたキッズドレスと雑貨の計3点。キッズドレスはレース68枚を繋ぎ合わせた華やかなサーキュラーシルエットで、オートクチュールの一点物だ。参考価格は税込 41万2500円。小花モチーフのレースを散りばめたキッズキャップには、手描き風の「LOVE」ロゴを刺しゅうし、レッド生地には白レース、デニム生地には生成りレースをあしらった。スタイは中央に「LOVE」ロゴ刺しゅうを施し、小花モチーフのレースをランダムに配したデザインで、ホワイト、エクリュ、ネイビーの3色を企画した。

シンゾーンはファッションと福祉の架け橋となることをミッションの一つに掲げ、これまでに児童養護施設や乳児院で暮らす子どもたちを支援してきた。その活動の中で出合ったのが愛光女子学園だ。家庭環境に恵まれない子どもたちへの支援と、加害者の更生支援という女子少年院との協業は、根本的に異なる立場ゆえ社内には反対の声もあったが、染谷社長は迷わず支援を決定したという。

「シンゾーンのモットーは、“役に立とう、感謝されよう、心を満たそう”。社会の役に立てること、何より力を必要としている人の役に立つことで、私たち自身も心が満たされることがある。(本取り組みを通じて)少女たちが社会とつながる希望を見つけてもらいたいと思った」と染谷社長は語る。

このプロジェクトは、シンゾーンがこれまで手掛けた取り組みの中でも特に実現が難しかったという。一つ目の課題は、愛光女子学園が国の機関であることを踏まえ、プロジェクトから利益を出すことを避けることだった。そのため、生産を外部工場に依頼できず、製品はすべて社員が手作業で制作した。今回の製品の売り上げは全額、少女たちの支援に活用し、内訳も公開していく。

二つ目の課題は被害者感情への配慮だ。少女たちの更生を目的とした活動とはいえ、犯罪行為を犯した事実があり、被害者やその家族等への説明責任や、加害者が制作した製品をシンゾーンが販売することで顧客が離れる可能性もあった。その点について染谷社長は「今後もいただいた声は真摯に受け止めながら進めていく」と述べた。

学園での限られた授業時間で制作される上、個々の技量に差があるため、生産計画通りに数を確保するのは困難だったが、完成品を見た園生たちは、自らの手で作り出したものに価値が生まれたことに感動とやりがいを感じていたという。「自分の行動に価値が付くことで、社会とつながる希望を持つきっかけになったと感じる」と染谷社長。

さらに染谷社長は「ゆくゆくは就労支援にまでつなげたい」と語り、レース編みの職人や生産工場への就職など、学園での経験が社会での仕事につながるような展開を構想している。「すでに来年度の第2回プロジェクト実施も決まった。シンゾーンだからこそできる支援の形を模索し、継続していきたい」。

The post 「シンゾーン」が女子少年院と協業 少女たちの社会復帰を制作活動で支援 appeared first on WWDJAPAN.

「シンゾーン」が女子少年院と協業 少女たちの社会復帰を制作活動で支援

セレクトショップのシンゾーン(SHINZONE)はこのほど、女性に対する暴力や権利について意識を高めることを目的としたプロジェクト「ウィメンズ・ファッション・エデュケーション(Woman’s Fashion Education)」を始動した。第1弾として、法務省の機関である女子少年院の愛光女子学園(狛江市)と協働し、同学園の職業指導で制作されたレース編みを用いた商品3点を制作・販売した。今回の取り組みに至った経緯や想いを染谷裕之社長に聞いた。

今回のコレクションは、園生が編んだクロッシェ・レースを用いたキッズドレスと雑貨の計3点。キッズドレスはレース68枚を繋ぎ合わせた華やかなサーキュラーシルエットで、オートクチュールの一点物だ。参考価格は税込 41万2500円。小花モチーフのレースを散りばめたキッズキャップには、手描き風の「LOVE」ロゴを刺しゅうし、レッド生地には白レース、デニム生地には生成りレースをあしらった。スタイは中央に「LOVE」ロゴ刺しゅうを施し、小花モチーフのレースをランダムに配したデザインで、ホワイト、エクリュ、ネイビーの3色を企画した。

シンゾーンはファッションと福祉の架け橋となることをミッションの一つに掲げ、これまでに児童養護施設や乳児院で暮らす子どもたちを支援してきた。その活動の中で出合ったのが愛光女子学園だ。家庭環境に恵まれない子どもたちへの支援と、加害者の更生支援という女子少年院との協業は、根本的に異なる立場ゆえ社内には反対の声もあったが、染谷社長は迷わず支援を決定したという。

「シンゾーンのモットーは、“役に立とう、感謝されよう、心を満たそう”。社会の役に立てること、何より力を必要としている人の役に立つことで、私たち自身も心が満たされることがある。(本取り組みを通じて)少女たちが社会とつながる希望を見つけてもらいたいと思った」と染谷社長は語る。

このプロジェクトは、シンゾーンがこれまで手掛けた取り組みの中でも特に実現が難しかったという。一つ目の課題は、愛光女子学園が国の機関であることを踏まえ、プロジェクトから利益を出すことを避けることだった。そのため、生産を外部工場に依頼できず、製品はすべて社員が手作業で制作した。今回の製品の売り上げは全額、少女たちの支援に活用し、内訳も公開していく。

二つ目の課題は被害者感情への配慮だ。少女たちの更生を目的とした活動とはいえ、犯罪行為を犯した事実があり、被害者やその家族等への説明責任や、加害者が制作した製品をシンゾーンが販売することで顧客が離れる可能性もあった。その点について染谷社長は「今後もいただいた声は真摯に受け止めながら進めていく」と述べた。

学園での限られた授業時間で制作される上、個々の技量に差があるため、生産計画通りに数を確保するのは困難だったが、完成品を見た園生たちは、自らの手で作り出したものに価値が生まれたことに感動とやりがいを感じていたという。「自分の行動に価値が付くことで、社会とつながる希望を持つきっかけになったと感じる」と染谷社長。

さらに染谷社長は「ゆくゆくは就労支援にまでつなげたい」と語り、レース編みの職人や生産工場への就職など、学園での経験が社会での仕事につながるような展開を構想している。「すでに来年度の第2回プロジェクト実施も決まった。シンゾーンだからこそできる支援の形を模索し、継続していきたい」。

The post 「シンゾーン」が女子少年院と協業 少女たちの社会復帰を制作活動で支援 appeared first on WWDJAPAN.

現代アーティスト、ネイト・ロウマンが語る日本初個展、そして「シュプリーム」との関係

PROFILE: ネイト・ロウマン/現代アーティスト

PROFILE: 1979年ラスベガス生まれ、ニューヨーク在住。2000年代初頭より絵画、彫刻、インスタレーション作品を発表し活動を開始。ニューヨークを中心に注目を集めたアーティスト世代の一人であり、05年に初の個展を開催。ハートやスマイリーフェイス、ピザ、雪だるまなど、ポップカルチャーのアイコンを用いてユーモラスかつ鋭い社会批評を表現することで知られる一方、弾痕や銃乱射事件の現場、原爆を描いた作品では、より暗くも痛烈な形で批評的視線が表現されている。ロウマンの作品はニューヨーク近代美術館、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ポンピドゥー・センターなど、世界的美術館で展示されている。

2000年代アメリカのアートシーンに新しい潮流を生み出したネイト・ロウマン(Nate Lowman)。彼の日本初個展「This Neighborhood's Changed(Curated by Matt Black)」が5月25日まで、東京・神宮前のギャラリーコモンで開催中だ。

本展では「シュプリーム(SUPREME)」とのコラボレーションにも採用された弾痕モチーフの作品や、ネイトの真骨頂である、現代社会で複製され消費されている美術史の名作や現代社会のアイコンを引用し再構築した作品群。また、昨年、メガギャラリーの一つデイヴィッド・ツヴィルナーでの個展「PARKING」で発表した、(人工的なランドスケープである)ゴルフコースを題材にしたペインティング作品の新たな展開も見せている。その多くが新作だ。

取材当日、去る4月26日に発売されたばかりの「シュプリーム」と「ヴァンズ(VANS)」、そしてネイトとのトリプルコラボによるスニーカーを履いてギャラリーに現れたネイト。本展の展示作品の創作秘話から、「シュプリーム」との関係性、AIなどについて話を聞いた。

「シュプリーム」との関わり

——今回、日本では初めての個展ですが、すでに国内でも「シュプリーム」渋谷がオープンした際の限定Tシャツ、それ以降の「シュプリーム」とのコラボレーションで、ネイトさんの作品を知っている方も多い。まず、「シュプリーム」との関わりはどう始まったのか教えてください。

ネイト・ロウマン(以下、ネイト):2006年、「シュプリーム」からスケートボードを作ろうと誘われたのがきっかけです。その時に05年ごろに作っていた「弾痕」の作品のイメージで構成したボードを2枚リリースしたのですが、実は他に「シュプリーム」のデザイナーとTシャツもデザインしていて。それが、12年に「シュプリーム」渋谷店ができる時に限定Tシャツとして発売されることになりました。

渋谷店ではショップの入り口にも、そのアートワークが採用されたり、その前もNYのラファエットストリートのショップで何かやらないかと連絡をもらったり。また4月10日にオープンしたマイアミ店でも、アートワークを置いたり。昨年はもっとたくさん一緒に仕事をしましたが、そうやって何年かに1回、一緒にプロジェクトを行うような感じですね。それは私にとって、サーカスの旅回りのようで、すごくいい関係、面白い距離感だと思っています。

——その「シュプリーム」とのコラボに採用されたり、店舗にも飾られていたりする弾痕モチーフの作品は、今回の個展でも展示されていますね?

ネイト:今回の展覧会はNYを拠点にしているマット・ブラック(Matt Black)がキュレーションしているのですが、彼は日本でも展覧会を行った経験があり、「日本の来場者が身近に感じている作品、知っている作品も展示した方がいい」とアドバイスをもらいました。弾痕モチーフの作品は、彼や今回の展覧会を企画してくれたCommonとの会話の中で、置くことを決めました。

また、今回は、スケッチなど、作品ができるまでのプロセスも見せています。これもマットからのアドバイスで、彼いわく「日本の人はこうしたものにも興味を持つだろう」と。こういったことは普段はやらないので、とてもエキサイティングでした。

——弾痕の作品は、アメリカで販売されている車用のバンパーステッカーが着想源になっていますね? アメリカでは銃の乱射事件などがある一方で、そうしたイメージがドライブという楽しい時間の装飾物にもなりうるといったアイコンや記号の特異性、あるいはそれを無意識に受け入れている現代社会への皮肉がテーマだということでしょうか?

ネイト:いや、そういった皮肉はありません。この作品が生まれた経緯を話せば、テキサス州パリス出身で、NYでずっと仲良くしているアーティストがいて、彼が実家に帰った時にガソリンスタンドにあったバンパーステッカーを買ってきてくれたんです。「絶対に気にいるよ」って。というのも、彼とはお互いに作品やアイデアについてよく話していて、私が、当時バンパーステッカーを集めていたことを知っていたんです。

こういうステッカーは、騙し絵や言葉遊びのようなジョーク的なものもあり、アメリカでは車に貼ってみんな楽しんでいるんですね。それを当時、私はキャンパスに接着剤で貼った作品を作ろうと考えていたところでした。リアルとフェイク、冗談とそうでないもの、詩的なものと詩的でないものに対するアプローチとして。

実際に、私がその弾痕のステッカーに惹かれたのも、ステッカーの大きさに対して、弾の穴自体がものすごく小さく描かれていたから、ジョークのような面白さがあったからです。

また、ある時、その小さい穴を拡大して見てみたんですね。そうしたらそれが抽象的なイメージになって、作品へのアイデアになっていったのです。こうした抽象化こそが、リアルとフェイク、冗談とそうでないもの、またすごくナイーブな社会の諸問題も含めて、みんなが関心を寄せ、語り合うための方法になると考えたからです。

だから作品の背景には、そうした皮肉はありません。多少のユーモアを交えていますが。

「同じような展覧会を繰り返してやりたくない」

——今回の展示作品は多くが新作。中には、昨年デイヴィッド・ツヴィルナーで発表したゴルフコースの作品などを引用したものも見られます。もともと「モナ・リザ」やムンクの「叫び」などの美術史の作品、マリリン・モンローなど現代社会における記号など、最もよく複製されるイメージを引用する作品を作られていたと思いますが、その関心が、自身の作品をアプロプリエーションするところにシフトしたのかなと思いましたが。

ネイト:この展示が決まった時、すでにデイヴィッド・ツヴィルナーでの展覧会の準備が始まっていました。そこで、マットと話したのは「同じような展覧会を繰り返してやりたくないよね」ということです。そして、その時思いついたのが、デイヴィッド・ツヴィルナーでみせる作品の要素を出発点に、別の作品を作っていくという方法でした。

例えば、今回の展示作品に見られるヤシの木は、デイヴィッド・ツヴィルナーで展示したゴルフコースの作品に偶然描いていたもの。この木を比喩的な要素として抜き出して描くことで、ゴルフコースの作品の新しい物語の主人公になるのではないかと考えたのです。

シェイプドキャンバスも、ゴルフコースの作品の砂のバンカーやパッティンググリーンの形状を引用していて、一つの絵のカーブが、近くに置かれた絵のカーブとつながるようにもなっています。

——今回、スケッチなどの制作プロセスを見せているものの中に、木をモチーフにしたものがありますね? ムンクの「叫び」のオマージュのようにも見える作品です。

ネイト:これは、私が大好きなアルゼンチン人の作家セサル・アイラに一緒に本を作ろうと誘われたのがきっかけで、彼の書いた短編小説の一つで、、雨の日に巣作りに苦悩するアルゼンチンの国鳥にまつわる物語が、着想源になりました。

それはその鳥のある日の様子を描いているのですが、すごく大変な1日で、まさに、ムンクの「叫び」のように、パニックになって叫んでいるような感じで。そこからムンクのその有名な作品へのオマージュとしてパロティとして使ってみました。

そうやって遊びながら1回やってみたら、結構好きなイメージになったんですね。ちなみに、この人間を私は「ロンリーマン」と呼んでいるのですが、今回のゴルフコースを模したシェイプドキャンバスの作品にも書き加えています。

——作品が並んだこの会場で、改めて思ったことはありますか? また会場作りで印象的だった出来事などあれば。

ネイト:そうですね、作品を展示した会場を見る時は、いつも純粋にうれしいです。普段、私は展覧会を構成するにあたり、作品同士のつながりのようなものを自分なりに考えて構築していきます。今回もそういった私なりのストーリーはあるのですが、日本での初個展だったので、いろいろな種類の作品を集めながら、私がまだ知らない鑑賞者にとって最も興味深い展覧会はどうのようなものか考える必要もあり、編集作業に時間を費やしました。

具体的には、キュレーターのマットやギャラリーコモンと話し合いながら、「こういった作品は日本人は好きじゃないと思う」と、今回スタジオに置いてきた作品も結構あります。そうやってみんなで決めてエディットしていきました。

実際の展示は、そういったパズルを組み合わせるような感覚で、また違った楽しさもありましたね。作品が「この場所に置いてほしい」「この作品の隣がいい」みたいに語りかけてくる。その感覚に任せたところもあります。

SNSやAIについて

——今回のインタビューにあたり、SNSでネイトさんのアカウントを探しましたが見つかりませんでした。SNSはやっていないのですか?

ネイト:ええ、アカウントを持っていませんし、好きではありません。ソーシャルメディアは、人間のネガティブな行動を引き出すものだと考えているからです。メンタルヘルスのために、ソーシャルメディアはやらない。それは、私の人生で唯一良い習慣かもしれません。

——ここ数年、AIの進歩には驚かされます。AIがさらに進歩することで、アートにはどんな影響が起こると思いますか?

ネイト:どうでしょう。私はどちらかというと人間に興味があって、AIにはあまり関心を寄せてきませんでした。ただ、少し前に作家ベンジャミン・ラバトゥのAIに関するとても興味深い本を読んだんですね。そこではAIは、第二次世界大戦中の原子爆弾の開発で行われた計算に根ざして誕生しているといったことが記されていました。この視点から考えると、とても恐ろしいことです。

ただAIに関心がないといったものの、オープンな気持ちでいようとはしています。アメリカのおじいさんたちのように、自分の感性に合わないからといって、閉鎖的になりたくはないので。

——最後に、好きな日本人アーティストがいたら教えてください。また日本のアートに対してどんな印象を持っていますか?

ネイト:1人挙げれば、1990年に没した作家の工藤哲巳さんですね。何年か前にロンドンのギャラリーでエキシビションを見たことがあるのですが、一番好きな展覧会でした。

また日本のアートについては、それを語れるほど熟知していないというのが正直なところです。初めて日本を訪れた際も、美術館などで日本の美術に触れることはあまりせず、寺院や墓地などに行き、歴史や文化を楽しみました。日本のアート云々より、そういった伝統文化や歴史、ライフスタイルの違いに圧倒されたというか。

ただ、日本に来て私が思ったのは、そうして出会う人の多くが純粋にアートに興味を持っていること。NYではビジネス志向の人が多いので。そういう意味で、日本での個展にワクワクしているし、いいエネルギーを感じています。

PHOTOS:TAKUROH TOYAMA

◾️Nate Lowman「This Neighborhood's Changed(Curated by Matt Black)」
会期:4月26日~5月25日
休館日:月・火曜日 
会場:ギャラリーコモン
住所:東京都渋谷区神宮前5-39-6 B1F
www.gallerycommon.com

The post 現代アーティスト、ネイト・ロウマンが語る日本初個展、そして「シュプリーム」との関係 appeared first on WWDJAPAN.

現代アーティスト、ネイト・ロウマンが語る日本初個展、そして「シュプリーム」との関係

PROFILE: ネイト・ロウマン/現代アーティスト

PROFILE: 1979年ラスベガス生まれ、ニューヨーク在住。2000年代初頭より絵画、彫刻、インスタレーション作品を発表し活動を開始。ニューヨークを中心に注目を集めたアーティスト世代の一人であり、05年に初の個展を開催。ハートやスマイリーフェイス、ピザ、雪だるまなど、ポップカルチャーのアイコンを用いてユーモラスかつ鋭い社会批評を表現することで知られる一方、弾痕や銃乱射事件の現場、原爆を描いた作品では、より暗くも痛烈な形で批評的視線が表現されている。ロウマンの作品はニューヨーク近代美術館、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ポンピドゥー・センターなど、世界的美術館で展示されている。

2000年代アメリカのアートシーンに新しい潮流を生み出したネイト・ロウマン(Nate Lowman)。彼の日本初個展「This Neighborhood's Changed(Curated by Matt Black)」が5月25日まで、東京・神宮前のギャラリーコモンで開催中だ。

本展では「シュプリーム(SUPREME)」とのコラボレーションにも採用された弾痕モチーフの作品や、ネイトの真骨頂である、現代社会で複製され消費されている美術史の名作や現代社会のアイコンを引用し再構築した作品群。また、昨年、メガギャラリーの一つデイヴィッド・ツヴィルナーでの個展「PARKING」で発表した、(人工的なランドスケープである)ゴルフコースを題材にしたペインティング作品の新たな展開も見せている。その多くが新作だ。

取材当日、去る4月26日に発売されたばかりの「シュプリーム」と「ヴァンズ(VANS)」、そしてネイトとのトリプルコラボによるスニーカーを履いてギャラリーに現れたネイト。本展の展示作品の創作秘話から、「シュプリーム」との関係性、AIなどについて話を聞いた。

「シュプリーム」との関わり

——今回、日本では初めての個展ですが、すでに国内でも「シュプリーム」渋谷がオープンした際の限定Tシャツ、それ以降の「シュプリーム」とのコラボレーションで、ネイトさんの作品を知っている方も多い。まず、「シュプリーム」との関わりはどう始まったのか教えてください。

ネイト・ロウマン(以下、ネイト):2006年、「シュプリーム」からスケートボードを作ろうと誘われたのがきっかけです。その時に05年ごろに作っていた「弾痕」の作品のイメージで構成したボードを2枚リリースしたのですが、実は他に「シュプリーム」のデザイナーとTシャツもデザインしていて。それが、12年に「シュプリーム」渋谷店ができる時に限定Tシャツとして発売されることになりました。

渋谷店ではショップの入り口にも、そのアートワークが採用されたり、その前もNYのラファエットストリートのショップで何かやらないかと連絡をもらったり。また4月10日にオープンしたマイアミ店でも、アートワークを置いたり。昨年はもっとたくさん一緒に仕事をしましたが、そうやって何年かに1回、一緒にプロジェクトを行うような感じですね。それは私にとって、サーカスの旅回りのようで、すごくいい関係、面白い距離感だと思っています。

——その「シュプリーム」とのコラボに採用されたり、店舗にも飾られていたりする弾痕モチーフの作品は、今回の個展でも展示されていますね?

ネイト:今回の展覧会はNYを拠点にしているマット・ブラック(Matt Black)がキュレーションしているのですが、彼は日本でも展覧会を行った経験があり、「日本の来場者が身近に感じている作品、知っている作品も展示した方がいい」とアドバイスをもらいました。弾痕モチーフの作品は、彼や今回の展覧会を企画してくれたCommonとの会話の中で、置くことを決めました。

また、今回は、スケッチなど、作品ができるまでのプロセスも見せています。これもマットからのアドバイスで、彼いわく「日本の人はこうしたものにも興味を持つだろう」と。こういったことは普段はやらないので、とてもエキサイティングでした。

——弾痕の作品は、アメリカで販売されている車用のバンパーステッカーが着想源になっていますね? アメリカでは銃の乱射事件などがある一方で、そうしたイメージがドライブという楽しい時間の装飾物にもなりうるといったアイコンや記号の特異性、あるいはそれを無意識に受け入れている現代社会への皮肉がテーマだということでしょうか?

ネイト:いや、そういった皮肉はありません。この作品が生まれた経緯を話せば、テキサス州パリス出身で、NYでずっと仲良くしているアーティストがいて、彼が実家に帰った時にガソリンスタンドにあったバンパーステッカーを買ってきてくれたんです。「絶対に気にいるよ」って。というのも、彼とはお互いに作品やアイデアについてよく話していて、私が、当時バンパーステッカーを集めていたことを知っていたんです。

こういうステッカーは、騙し絵や言葉遊びのようなジョーク的なものもあり、アメリカでは車に貼ってみんな楽しんでいるんですね。それを当時、私はキャンパスに接着剤で貼った作品を作ろうと考えていたところでした。リアルとフェイク、冗談とそうでないもの、詩的なものと詩的でないものに対するアプローチとして。

実際に、私がその弾痕のステッカーに惹かれたのも、ステッカーの大きさに対して、弾の穴自体がものすごく小さく描かれていたから、ジョークのような面白さがあったからです。

また、ある時、その小さい穴を拡大して見てみたんですね。そうしたらそれが抽象的なイメージになって、作品へのアイデアになっていったのです。こうした抽象化こそが、リアルとフェイク、冗談とそうでないもの、またすごくナイーブな社会の諸問題も含めて、みんなが関心を寄せ、語り合うための方法になると考えたからです。

だから作品の背景には、そうした皮肉はありません。多少のユーモアを交えていますが。

「同じような展覧会を繰り返してやりたくない」

——今回の展示作品は多くが新作。中には、昨年デイヴィッド・ツヴィルナーで発表したゴルフコースの作品などを引用したものも見られます。もともと「モナ・リザ」やムンクの「叫び」などの美術史の作品、マリリン・モンローなど現代社会における記号など、最もよく複製されるイメージを引用する作品を作られていたと思いますが、その関心が、自身の作品をアプロプリエーションするところにシフトしたのかなと思いましたが。

ネイト:この展示が決まった時、すでにデイヴィッド・ツヴィルナーでの展覧会の準備が始まっていました。そこで、マットと話したのは「同じような展覧会を繰り返してやりたくないよね」ということです。そして、その時思いついたのが、デイヴィッド・ツヴィルナーでみせる作品の要素を出発点に、別の作品を作っていくという方法でした。

例えば、今回の展示作品に見られるヤシの木は、デイヴィッド・ツヴィルナーで展示したゴルフコースの作品に偶然描いていたもの。この木を比喩的な要素として抜き出して描くことで、ゴルフコースの作品の新しい物語の主人公になるのではないかと考えたのです。

シェイプドキャンバスも、ゴルフコースの作品の砂のバンカーやパッティンググリーンの形状を引用していて、一つの絵のカーブが、近くに置かれた絵のカーブとつながるようにもなっています。

——今回、スケッチなどの制作プロセスを見せているものの中に、木をモチーフにしたものがありますね? ムンクの「叫び」のオマージュのようにも見える作品です。

ネイト:これは、私が大好きなアルゼンチン人の作家セサル・アイラに一緒に本を作ろうと誘われたのがきっかけで、彼の書いた短編小説の一つで、、雨の日に巣作りに苦悩するアルゼンチンの国鳥にまつわる物語が、着想源になりました。

それはその鳥のある日の様子を描いているのですが、すごく大変な1日で、まさに、ムンクの「叫び」のように、パニックになって叫んでいるような感じで。そこからムンクのその有名な作品へのオマージュとしてパロティとして使ってみました。

そうやって遊びながら1回やってみたら、結構好きなイメージになったんですね。ちなみに、この人間を私は「ロンリーマン」と呼んでいるのですが、今回のゴルフコースを模したシェイプドキャンバスの作品にも書き加えています。

——作品が並んだこの会場で、改めて思ったことはありますか? また会場作りで印象的だった出来事などあれば。

ネイト:そうですね、作品を展示した会場を見る時は、いつも純粋にうれしいです。普段、私は展覧会を構成するにあたり、作品同士のつながりのようなものを自分なりに考えて構築していきます。今回もそういった私なりのストーリーはあるのですが、日本での初個展だったので、いろいろな種類の作品を集めながら、私がまだ知らない鑑賞者にとって最も興味深い展覧会はどうのようなものか考える必要もあり、編集作業に時間を費やしました。

具体的には、キュレーターのマットやギャラリーコモンと話し合いながら、「こういった作品は日本人は好きじゃないと思う」と、今回スタジオに置いてきた作品も結構あります。そうやってみんなで決めてエディットしていきました。

実際の展示は、そういったパズルを組み合わせるような感覚で、また違った楽しさもありましたね。作品が「この場所に置いてほしい」「この作品の隣がいい」みたいに語りかけてくる。その感覚に任せたところもあります。

SNSやAIについて

——今回のインタビューにあたり、SNSでネイトさんのアカウントを探しましたが見つかりませんでした。SNSはやっていないのですか?

ネイト:ええ、アカウントを持っていませんし、好きではありません。ソーシャルメディアは、人間のネガティブな行動を引き出すものだと考えているからです。メンタルヘルスのために、ソーシャルメディアはやらない。それは、私の人生で唯一良い習慣かもしれません。

——ここ数年、AIの進歩には驚かされます。AIがさらに進歩することで、アートにはどんな影響が起こると思いますか?

ネイト:どうでしょう。私はどちらかというと人間に興味があって、AIにはあまり関心を寄せてきませんでした。ただ、少し前に作家ベンジャミン・ラバトゥのAIに関するとても興味深い本を読んだんですね。そこではAIは、第二次世界大戦中の原子爆弾の開発で行われた計算に根ざして誕生しているといったことが記されていました。この視点から考えると、とても恐ろしいことです。

ただAIに関心がないといったものの、オープンな気持ちでいようとはしています。アメリカのおじいさんたちのように、自分の感性に合わないからといって、閉鎖的になりたくはないので。

——最後に、好きな日本人アーティストがいたら教えてください。また日本のアートに対してどんな印象を持っていますか?

ネイト:1人挙げれば、1990年に没した作家の工藤哲巳さんですね。何年か前にロンドンのギャラリーでエキシビションを見たことがあるのですが、一番好きな展覧会でした。

また日本のアートについては、それを語れるほど熟知していないというのが正直なところです。初めて日本を訪れた際も、美術館などで日本の美術に触れることはあまりせず、寺院や墓地などに行き、歴史や文化を楽しみました。日本のアート云々より、そういった伝統文化や歴史、ライフスタイルの違いに圧倒されたというか。

ただ、日本に来て私が思ったのは、そうして出会う人の多くが純粋にアートに興味を持っていること。NYではビジネス志向の人が多いので。そういう意味で、日本での個展にワクワクしているし、いいエネルギーを感じています。

PHOTOS:TAKUROH TOYAMA

◾️Nate Lowman「This Neighborhood's Changed(Curated by Matt Black)」
会期:4月26日~5月25日
休館日:月・火曜日 
会場:ギャラリーコモン
住所:東京都渋谷区神宮前5-39-6 B1F
www.gallerycommon.com

The post 現代アーティスト、ネイト・ロウマンが語る日本初個展、そして「シュプリーム」との関係 appeared first on WWDJAPAN.

「中国不況」「トランプリスク」 バロック村井社長が考える難局打破の“非常識力”

バロックジャパンリミテッドが中国ビジネスの再構築に動いている。現地の不動産不況と景気低迷が続く中、ビジネスパートナーであるベル・インターナショナルに連結子会社2社の全株式を譲渡し、直営ビジネスから手を引く。これまで成長ドライバーだった中国ビジネスのスキームを転換する決断は重かったはずだが、村井博之社長の表情に悲観の色は見えない。中国ビジネスの再設計と今後の戦略について聞いた。

WWD :中国事業を、これまでの直営型からロイヤリティー+卸型へ移行する。この判断に至った背景は。

村井博之バロックジャパンリミテッド社長(以下、村井):まず最初に伝えておきたいのは、「中国から撤退するわけではない」ということ。あくまでビジネススキームを変更しただけで、現地での事業運営自体は何も変わっていない。

これまではベル・インターナショナルとの合弁会社を通じて直営店舗を展開していたが、今後はベルグループによる一括直営方式に切り替える。ベルに株式の持ち分を譲渡することで我々は資本リスクを外す一方、商品開発や監修、ブランディングにはこれまで通り関与し続ける。ビジネススキームをシンプルにし、より効率的に中国市場に携わっていく。

WWD:店舗スタッフなど、現場の運営体制に変化は?

村井:全く変わらない。現場のオペレーションにも支障はない。スタッフやエリアマネージャー、事業部長といった中核メンバーは、バロックが独資で展開していた頃から採用し、一緒に戦ってきた人材たちだ。資本的には手を引いたが、事業的にはむしろ継続性が強化されたと考えている。中国ビジネスはここ数年、コロナや景気後退の影響で赤字が続いていた。将来的にさらに悪化した際の備えとしてリスクをあらかじめヘッジした。

WWD:ビジネススキームの変更により、バロックの利益は減るのか。

村井:むしろ逆だ。以前は中国での利益が厚かったが、ここ数年は赤字が続き、持分法損失が発生していた。今回のスキーム変更により、持分法損失のリスクを回避しつつ、売上高に応じたロイヤリティー収入を得ることができるようになる。

WWD:ベル主導で強化していくポイントは。

村井:EC販売は、ノウハウの厚いベルグループに期待できるだろう。我々も意見はさせてもらうが、基本的には(ベルに)任せる。

トランプ影響は「メリットが大きい」

WWD:グローバルで、今後の成長ドライバーになる地域は?

村井:北米だ。中国と比較すれば規模は大きくないが、比較的ビジネスは安定している。米国では「マウジー ビンテージ(MOUSSY VINTAGE)」の日本製高級デニムが好評だ。ただ、為替の影響が大きかった。円安が進んだことで国内の生産ラインが他ブランドに占有され、供給が追いつかない事態もあった。しかし最近は円高に転じて追い風が吹きつつある。

現地のチームを仕切っているのは、もともと当社にいた社員。コロンビア大学のMBAを取得した後、米国のアパレル企業に就職し、永住権を取得した女性だ。マーケティングやセールスも、純粋な米国人メンバーが担っている。米国市場で勝負するためには、彼らの嗜好や文化を理解した人材が動かすのが一番。日本からの過干渉を避け、現地のメンバーに任せられる体制を作りたい。

WWD :ドナルド・トランプ大統領の再登板によるリスクはどう見ている?

村井:それほど大きな懸念はない。1985年、私が当時キヤノンのサラリーマンだった頃、レーガン政権がやったのとまったく同じ手法だった。強いアメリカを掲げて輸入品に関税をかけ、円高に誘導する。スーパー301条(アメリカの通商法の一部で、他国の不公正な貿易慣行に対して、報復的な貿易制裁を発動できる権限をアメリカ政府に与える規定)でキヤノンも大打撃を受けた。

今回も同様のシナリオになる可能性は高い。ただ、われわれアパレルにとってはメリットが大きい。ここ数年、原材料費の高騰に苦しんできたが、円高によってそれが緩和される可能性がある。ドル通貨圏からのインバウンドには多少のマイナス影響が出るだろうが、トータルで見ればプラスになると見ている。

大人向け新ブランドを始動

WWD:国内市場について。「マウジ(MOUSSY)」「スライ(SLY)」といったヤングカジュアルに強いブランドポートフォリオを、今後どう拡げていくのか。

村井:今年度中に、大人世代(40〜50代)をターゲットにした新ブランドを立ち上げる予定だ。この世代には、かつて「マウジー」を愛用していた人も多い。今はお子さんの学費負担も終わり、自分のためにお金を使えるようになった層が増えている。

WWD:この春で休止した「ブラックバイマウジー(BLACK BY MOUSSY)」の延長線上にある?

村井:完全にそうというわけではないが、「ブラックバイマウジー」を好きだった方々にも響く要素は取り入れる。特にジーンズのカッティングやシルエットにはこだわる。マウジーを立ち上げ期から愛してくれていた世代にもう一度、自分の服と感じてもらえるような商品を作っていく。

WWD:“バロックらしさ”に立ち返ると。

村井:それさえできれば、既存ブランドもまだまだ伸び代を作れる。私たちは、“非常識”を受け入れる度量を持たなければならない。「アズールバイマウジー(AZUL BY MOUSSY)」を立ち上げた当初は、商品がろくに見えないような暗い店内で、エッジーなデザインの服を並べるという、普通なら「あり得ない」と思われるようなことでファンを夢中にさせた。

これは自戒を込めて言うことでもあるが、今はどのリアルクローズブランドも、分析やデータに頼ってばかり。結果、ショッピングセンターやファッションビルはどこも似た店構えで、似た商品ばかり並ぶようになった。私たちもそこに迎合していたのでは、ビジネスをしている意味がない。創業時の「自分たちが着たい服を、自分たちで作る」という原点をもう一度見つめ直す。

WWD:長期的な展望は。

村井:次世代を担う人たちに残していく会社を作るため、「100年企業とは何か」を考えるようになった。短期的に収益を上げろと言われれば、それはある意味簡単だ。儲かるブランドだけ残し、他は畳めばいいだけなのだから。ただ、それでは持続可能な企業にはならない。

一見無駄に見えるブランドやプロジェクトが、いつか花開くことがある。そこから、時代を変えるような商品やサービスが生まれる。すべてを合理化してしまえば、そういった“奇跡”は起きない。今の決算は「お見苦しい」部分があることは自覚している。ただ経営者として、次世代を担う人材とともに、この局面をどう乗り越えていくかを考えたい。

The post 「中国不況」「トランプリスク」 バロック村井社長が考える難局打破の“非常識力” appeared first on WWDJAPAN.

「ANDAM」ファイナリストにも 世界で評価高まる中国人デザイナー、ルオハン・ニー【連載 注目若手デザイナーへの10の質問】

海外ファッション・ウイークを現地取材するWWDJAPANは毎シーズン、今後が楽しみな若手デザイナーに出会う。本連載では毎回、まだベールに包まれた新たな才能1組にフォーカス。10の質問を通して、ブランド設立の背景やクリエイションに対する考えから生い立ち、ファッションに目覚めたきっかけ、現在のライフスタイルといったパーソナルな部分までを掘り下げる。

今回はピックアップする中国人デザイナーのルオハン・ニー(Ruohan Nie)は、2020年にパーソンズ美術大学を卒業後、21年3月に自身のブランド「ルオハン(RUOHAN)」を立ち上げた。在学中に「ザ・ロウ(THE ROW)」などでインターンシップで経験を積んだ彼女は、ミニマルながら繊細なディテールや構築的なデザインが強み。22年9月からパリ・ファッション・ウイークの公式スケジュールでコレクションを発表している。

24年、フランス国立モード芸術開発協会が主催する「ANDAMファッション・アワード」のファイナリストに選出されたほか、25年に初開催された上海ファッションデザイン協会と上海のエージェンシーYehyehyehによるアジア全域を対象としたサステナブル・ファッションアワード「Sustasia Fashion Prize」を受賞するなど、国際的な評価を高めている。日本では、24年秋冬シーズンから伊勢丹やユナイテッドアローズなどで取り扱われている。

1:出身は?どんな幼少期や学生時代を過ごしましたか?

私は中国の天津で育ちました。幼少期はさまざまな「練習」に集中していました。4歳からピアノ、8歳からフルート、12歳からチェロを習い、放課後は毎日、楽器の練習に励んでいました。当時の目標は、オーケストラでソロを取ることでした。音楽以外では、典型的なアジア人の学生らしく、良い成績を取り、良い学校に進学するために、一生懸命勉強していました。両親は多忙で不在がちだったため、12歳から大学入学までは寄宿学校で過ごし、幼い頃から一人の時間を楽しむ術を身につけていました。

2:ファッションに関心をもった原体験やデザイナーを志したきっかけは?

小さい頃から美しいものが好きで、いつも母のクローゼットに夢中でした。特に音楽の発表会は絶好の言い訳でした。本格的にファッションに興味を持ったのは、大学進学の時。進路を決めるのにとても苦労したんです。音楽を練習してきたものの、美術史にも強い関心がありました。特に記憶に残っているのは、2015年頃、中国の著名な画家・陳丹青が中国絵画の歴史やルネサンスのフレスコ画などについて語るアート番組を見たことです。大学出願を控えた夏、初めてその番組を見て、アートの世界に恋をしました。それはまるで遠い別世界のようでありながら、少し理解し始めるととても近く感じられるものでした。そこから、「美術を学び、オークショニア(競売人)になりたい」と思うようになったのです。

その後、パリの大学に進学しました。ファッションの世界に向かったのは偶然でした。パリにいながらファッションの存在を避けることは不可能ですから。デザイナーになると明確に決めたのは、あらゆる芸術が相互に結びついていることに気づいた時です。建築、家具、絵画、ファッション──それらはすべて独自の論理を構築し、実践する手段なのだと理解しました。中でもファッションは、ある種の型が明確に存在する、とても具体的な実践の手段だと感じました。

3:自分のブランドを立ち上げようと決めた理由は?

自分のブランドを始められたことは、本当に幸運でした。そもそも、キャリア初期に重要なメンターたちと出会えたことが大きな転機で、彼らの指導のもと自分でブランドを手掛ける自信を得ることができました。大学卒業後1年働き、上海ファッションウィークの出場権を懸けた賞を獲得して、ブランドを立ち上げました。

4:学生時代から過去に働いたブランドまで、これまでの経験で一番心に残っている教えや今に生かされている学びは?

常に好奇心を持ち、新しいことを学び続けること。

5:デザイナーとしての自分の強みや、クリエイションにおいて大切にしていることは?

一番の強みは、一貫性です。ドローイング、建築、ビジュアル、何においても、常に一貫したビジョンを心がけています。ここ数年で、私はこの“連続性“という感覚を大切にするようになりました。それは、自分自身が何者であるかを反映し、つながりや意図を感じられる作品を生み出すことです。デザインとは、媒体を問わず、孤立したアウトプットではなく、真の言語とアイデンティティーを築くことだと思っています。

6:活動拠点として、今暮らしている街は?その中でお気に入りのスポットは?

現在は上海に住んでおり、ブランドもここを拠点にしています。お気に入りは永嘉路にある「voyage coffee」。光の入り方がなんとも言えず、心を落ち着かせたい時に行きたくなる場所です。

7:ファッション以外で興味のあることや趣味は?

読書です。テーマにかかわらず、読書中は別の自分に出会える気がします。また、油絵もよく描きます。私にとっては、瞑想のようなものです。1色から始め、少しずつ茶、青、黄、白を混ぜて日常では見られない色を作り、パレットの調和を楽しむのが大好きです。

8:理想の休日の過ごし方は?

テラスで読書からスタートし、時間を気にせず感覚を研ぎ澄ませる。彼氏と犬と散歩し、部屋を片付け、夕食を作る。そんな日が理想です。長い休暇の場合は、美術館や建築が豊富な場所に出かけること。インプットを大事にします。

9:自分にとっての1番の宝物は?

高価なものや特別な意味を持つモノは、実はありません。服を作ってはいますが、自分のワードローブは非常にシンプルです。もし何かを挙げるなら、「創作への情熱」でしょう。毎年誕生日には、この情熱を失わないよう祈っています。

10:これから叶えたい夢は?

少し気恥ずかしいですが、将来的に国際的に高く評価される初の中国人デザイナーになりたいと思っています。生涯を通じて、自身のブランドか否かを問わず、コレクションを作り続けることが夢です。

The post 「ANDAM」ファイナリストにも 世界で評価高まる中国人デザイナー、ルオハン・ニー【連載 注目若手デザイナーへの10の質問】 appeared first on WWDJAPAN.

クリストフ・ルメールが見つめる「新しいラグジュアリー」の輪郭

パリブランドらしいエレガンスとミニマリズムを湛えたコレクションで、日韓を中心にアジア圏でも確かな支持を得る「ルメール(LEMAIRE)」。

デザイナーのクリストフ・ルメール(Christophe Lemaire)は「エルメス(HERMES)」「ラコステ(LACOSTE)」のクリエイティブ・ディレクターを歴任した後、自身のブランドを2010年に再始動。以来、ファッション業界の喧騒には迎合せず、創作を続けてきた。

ブランド再始動から15年。パンデミックを経て、ラグジュアリーコングロマリットが動かすファッション業界は、ますますめまぐるしさを増している。クリストフはその静かで一貫しているように見えるコレクション制作の裏側で、何を守り、何を拒み、表現し続けてきたのか。

このほどクリストフが来日し、恵比寿の住宅街に昨年オープンしたブランド初の国内直営店を訪れるとともに、 「WWDJAPAN」のインタビューに答えた。

WWD:恵比寿の店ができてから、訪問は初めてと聞いた。

クリストフ・ルメール「ルメール」デザイナー(以下、クリストフ):ある日、(日本のPRとセールスを担う)エドストローム オフィス(EDSTRÖM OFFICE)のヨシコ(代表)が電話してきて、「すごくいい物件があるの」と教えてくれた。それで日本に来たのが、1年半ほど前だったかな。

一目惚れだったね。伝統的な1960年代の建物で、できるだけ手を加えることなく、そのままの佇まいを生かそうと決めた。この物件に出合えて、私たちはとても幸運だと思う。

WWD:来客があると、台所に見立てたスペースでは、茶や和菓子を振る舞うとか。

クリストフ:私たちは、服やスタイルを日常の一部として捉えているし、それを売る場所も“日常的”であるべきだと思っている。だから店が家のような空間であることは、とても理にかなっているんだ。訪れた方々が自分自身と再び向き合い、親密な雰囲気の中で過ごせるような場所にしたいと考えていた。

店舗は哲学と思想を体現する場

WWD:この辺りは、きらびやかなショッピングストリートではない。

クリストフ:私自身、実はここにたどり着くまでに、少し迷ってしまった(笑)。地下鉄の駅からも少し距離がある。でも、すごく美しい場所だったし、何か特別な体験を提供できると直感した。だから最終的には、やってみようと決めた。

WWD:韓国・ハンナムドンでも同じように、喧騒から離れた住宅街に店舗を作った。

クリストフ:自分たちが、やりたい場所で、やりたいことをやる。それで気に入ってもらえたらいいが、そうでなければ、仕方がない。ストア運営も同じ考えでやっている。

ストアは、ブランドとの出会いの場。“ムード”や“空気感”がとても大事だ。私たちの作品を最良の形で見せる場であると同時に、精神や哲学を表現する場所でもある。「ルメール」は“クオリティー・オブ・ライフ”、つまり日常の中にアートや質の高いものを取り入れることを大切にしている。ストアに飾ってあるアートやオブジェも、私たちのチームで選び抜いたものだ。

恵比寿のストアはビジネス的には想定以上の結果が出ている。これは、今の人たちが“買い物”が単なる商品購入ではなく、特別な体験や物語を求めていることの表れかもしれない。

WWD:「ルメール」は日本や韓国などアジアでも人気がある。その理由をどう考える?

クリストフ:正直、わからない。ただ、私や(共同デザイナーの)サラ=リン・トラン(Sarah-Linh Tran)を含め、日本や中国といったアジアの文化に対し、深い敬意を抱いているのは確かだ。

私が初めて日本に来たのは90年代だった。建築、空気、人々の所作やスタイル、洗練された感性。すべてが美しく感じられ、深く心に響いた。日本人は、日常の中に“洗練”や“スタイル”を取り入れる感覚を、本当によく理解している。若い頃の私がとても気に入った一冊が、三宅一生の「三宅一生の発想と展開 Issey Miyake East Meets West」という70年代後半に著された本。川久保玲や山本耀司にも夢中になった。

日本では「何を」するかはなく、「どのように」するかが大切にされている。強く印象に残ったのは、買い物をしたときの包装や手つきといった、細部へのこだわり。一つ一つの所作に込められた気遣いが本当に美しかった。私は若い頃から、こうした感性にとても惹かれていた。

私はこれまで、ファッションの実験性とかコンセプト性、あるいは派手さみたいなものに、あまり興味が持てなかった。実用性のあるものに、どれだけ美意識を込められるかをずっと考えてきた。そうした姿勢や考え方は、日本の文化と自然に共鳴しているのかもしれない。

アジア、日本の美意識が
“自然と”宿っている

WWD:「ルメール」のコレクションには、袴のようなシルエットや“チャイニーズスリッポン”のような、日本や中国を着想源にしたデザインも多く見受けられる。パリを拠点としながら、アジアの美意識を、どのようにクリエイションに織り込んでいるのか。

クリストフ:パリという都市は、多くの文化が混ざり合う場所だ。アフリカ、中東、ロシアだけでなくアジアの要素もたくさん流れ込んでくる。ファッションの文脈において、パリは昔からそういった“交差点”の役割を果たしてきた。

私が好む表現は、あからさまに「身体を見せる」ことではなく、しなやかに「示唆する」ことで滲むエレガンスや官能性。そうした発想や美意識は、アジアの文化や衣服のあり方から深い影響を受けてきた。1920年代の欧州は日本のキモノや日本の美意識に強く影響を受けていて、着るものに対する意識が大きく変化した。それまでのようなボディコンシャスなコルセットから解き放たれ、垂直的なシルエット、ゆるやかさのある装いが生まれた。

このような文化の交換は、19世紀後半からずっと続いている。私自身もその流れの中で育った。だから、西洋とアジアを意識的に折衷させているというより、私の創作の中には、自然とそうした要素が宿っているんだ。

WWD:2010年 に自身のブランドを再始動し、15年以上。その間に、社会とファッション業界は大きく変わった。だが「ルメール」はその間も、一定のスタイルを保ち続けているように思える。

クリストフ:そう見えているのならうれしい。もう20年以上も前のことだが、私は親しい仲間と共に“ノーマリティ(普通さ)”というテーマについてよく語り合った。たとえば朝、急いで家を出るとき。食事をとって、着替えて、もう時間がない。そんなとき、複雑すぎる服は着たくない。そんな日常の中で、役に立ち、寄り添ってくれる“よき友”のような服。それが私にとっての、理想のデザインの出発点だった。

私が服作りを始めた頃のヨーロッパでは、こうした考え方はあまり理解されなかった。もっと突飛なデザインや目を引く服を求める空気があった。80年代後半から90年代にかけて、“イメージ”と“スペクタクル”の時代が始まった。雑誌文化の隆盛と共に、ビジュアルで見せることへの偏重が進んだ。

そういったイメージ消費が加速する中で、西洋人の日常の服装が、どんどん貧しくなっているとも感じていた。スタイルが陳腐化する中で、日常的なアイテムの中にクオリティーと創造性を注ぎ込むことの意義をより強く感じるようになったし、それ以来変わっていない。

WWD:近年のファッション業界は巨大コングロマリット企業が支配し、クリエイティブディレクターの交代劇が繰り広げられている。そうした状況をどう見ているか。

クリストフ:個人的な考えではあるが、私はブランドにとって大事なのは誠実さだと思っている。消費者ももう、ばかばかしいほど高い価格や、品質の伴わない商品には、少しずつ疲れてきている。ブランディングだけでは、もう通用しない。そもそも“ブランド”という概念そのものが空っぽになりつつある。

私の目には、多くのラグジュアリーブランドは、その名前が本来持っていた意味やDNAへの配慮がまるでないように映る。ブランドとデザイナーの「ちぐはぐで」「奇妙な」組み合わせがまかり通っている。単に話題性を作るためにデザイナーを入れ替えて、バズを狙う。でもそれは、あまりにも表面的で短期的な発想だ。

今、多くの人が品質の良し悪しを敏感に感じ取るようになっている。そして、「馬鹿にされたくない」とも思っている。それは当たり前の感覚で、自然なことだ。私たちはニッチなブランドなので、彼ら(巨大なラグジュアリーブランド)と比較するつもりはない。だが少なくとも、誠実な品質を届けようとしている。

WWD:パンデミックを経て消費者が本質思考に傾く中、「ルメール」はそのムードと共鳴した部分もあったのでは。

クリストフ:“クワイエット・ラグジュアリー”という言葉に私たちが紐づけられることもあるが、正直あまりしっくりきていない。日常性、良識、静けさ。それは確かに私たちの中心にある哲学だ。けれども、その傍らで遊び心や驚き、進化があっていい。私たちは、毎シーズンのコレクションにおいて、スタイリングであれアクセサリーであれ、何か新しいものを試している。

私たちが大切にする日常は、絶えず形を変えていて、私たちはそれを楽しみたい。だからブランドもまた絶えず探求し、前に進んでいくべきだと思っている。

実用性と通ずるエレガンス

WWD:2025年春夏コレクションで新たに取り入れた、あるいは継続したエッセンスは?

クリストフ:ここ数シーズン、私たちが探求しているのはソフト・テーラリングのアイデア。レザーのアイテムをより多く取り入れている。やわらかさがありながらも、どこか構築的であること。ユーザーからはとても好評で、私たちもそのバランスの追求に夢中になっている。

それから、私たちが好んで使っているのが、“イン&アウト”というコンセプト。つまり、家の中でも外でも着られる服。イージーウェアだからといって、だらしなく見える必要はない。心地よさを持ちながら、洗練されたスタイル。そう、まるで高級なルームウエアのような服だ。これはブランドの核として、ずっと大事にしてきた。さらに今回は、テクニカルな要素も取り入れた。プロテクション(防護性)を持たせたディテールや、防水性のある素材など。撥水、あるいは防水性も取り入れた、

WWD:実用性も重要であると。

クリストフ:やはり誰しもが、最終的には「動きやすい服」を求めている。エレガンスとは、 dignité(品位)であり、動作の美しさと通じている。私たちデザイナーは、スタイルの“半分”しか作れない。あとの半分は、それを着る人が完成させる。その人の所作、歩き方、話し方が、その人をスタイリッシュにする。だからこそ私たちは、着る人が自信を持てる服を作ろうとしている。

パリのスタジオの女性スタッフたちともよく話す。「どんな服を着たら、自分が力強く感じられるか?」と。“力強さ”と“威圧感”はまるで違う。そのはざまにある“抑制”とは何なのだろう。そんな問いを繰り返すことも、デザインの面白さだ。

WWD:ブランドの今後については。

クリストフ:私たちは“新しいラグジュアリー”の形を提案していきたい。今、世の中ではラグジュアリーという言葉があまりにも軽く使われている。本当のラグジュアリーとは何か。それは、あるモノと出会い、触れた瞬間に感じる高揚感そのもの。心がふっと持ち上がるような、あの一瞬の感覚。そして日本の文化には、その高揚感を理解する素地がある。

金ぴかの装飾や大理石ではない。人を圧倒するのではなく、日常の中でふと感じる静かな美しさ。喧騒から少し離れて、ゆっくりと自分自身に向き合い、再接続できるような場所。この(恵比寿の)店もまた、そんな静かな贅沢を体験できる場所でありたい。そういう質のいい時間が過ごせたとき、人はほんの少しだけ、心が変わるだろうから。

The post クリストフ・ルメールが見つめる「新しいラグジュアリー」の輪郭 appeared first on WWDJAPAN.

フランス版人間国宝、日爪ノブキが作りたい帽子とは 「消費されないクリエイション」の裏側

PROFILE: 日爪ノブキ(ひづめ・のぶき)

日爪ノブキ(ひづめ・のぶき)
PROFILE: 1979年生まれ、滋賀県出身。2004年に文化服装学院を主席で卒業後、イタリアでアンダーウエアデザイナーとして自身のブランドを運営。帰国後にミュージカル「ボーイ・フロム・オズ」でヘッドピースや装身具のデザインを手掛けたことから、帽子デザイナーの道を歩み始めた。これまで数多くのオートクチュールメゾンの帽子制作を担当し、2019年5月、日本人として初めて帽子職人部門で「MEILLEUR OUVRIER DE FRANC(フランス国家最優秀職人章)を受賞した。22年春夏シーズンに「ヒヅメ」をスタート

2019年、フランスの「国家最優秀職人章(M.O.F.)」を、日本人として初めて帽子職人の分野で受章した男がいる。この称号はある道の技能を極めた職人に贈られ、フランス版“人間国宝”とも呼ばれる存在だ。

その男の名は、日爪ノブキ。庭、ワイルドフラワー、お盆、包む、折る、カビ、発酵……自然や構造物、人の所作など、縦横無尽なモチーフから生み出される彼の帽子は、さながら頭の上に載せる小宇宙。「最高の料理には、最高の技術が要る。僕はその感覚でやっている」。分業が当たり前のファッションの世界で、デザインから仕上げまで、自らの手で行うことにこだわり続けている。

日爪の技を求めるラブコールは後を絶たない。これまでに「ロエベ」など数々のラグジュアリーブランドのプロトタイプを手がけ、「コム・デ・ギャルソン・オム プリュス(COMME DES GARÇONS HOMME PLUS)」「キディル(KIDILL)」といったブランドとのコラボレーションも実現してきた。「M.O.F.」を獲得して以降、名声はさらに広がり、オーダーメードの依頼もひっきりなしに舞い込む。

ファッションデザイナーを目指した過去
なぜ帽子を選んだか?

キャリアの初めから帽子作りを志していたわけではない。文化服装学院に入学後、ファッションデザイナーを目指して、デザインコンテストへの応募活動を続けていた。巨大な革のコルセットで人間をブーケのように包んだ作品「人間花束」で「装苑賞」にノミネートされるなど実績を積む中で、イタリアのアンダーウエアメーカーから声がかかり、現地で自身のブランドを始める。念願叶ったのも束の間、ビザの都合で帰国を余儀なくされた。心機一転し、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「イッセイミヤケ(ISSEY MIYAKE)」など日本のデザイナーズブランドに就職を試みたが、個性が強すぎることを理由に不採用通告を受けてしまう。日爪は当時を振り返り、「企業ではチームワークが大事。確かに、俺が経営者でも同じ判断をするかもしれないと思った」と話す。

そんな折に、ミュージカル「ボーイ・フロム・オズ(原題:THE BOY FROM OZ)」のプロデューサーからヘッドピースをはじめとする装身具の制作を依頼された。日爪は「文化服装学院1年生の時に、モダンコンテンポラリーダンスカンパニーの衣装を制作していたし、色んなデザインコンテストで入賞してきたから、僕の変遷を追いかけていてくれたんじゃないか」と推測する。これまでウエア以外のアイテムを手掛けたことはなかったが、何の気なしに快諾したところ、日爪の作品は関係者らから絶賛されることになった。「なぜだか分からないけど、学んだこともないのに帽子の作り方が自然に頭に浮かんできて、作ってみたら周囲が喜んでくれた。ファッションデザイナーを目指していた頃とは異なり、自分が作りたいものと予算の関係で悩むことも少なく、帽子なら“三方よし”を叶えられると思った」。これが日爪の帽子デザイナーとしての道を切り開く転機となった。

帽子という小さなプラットフォームに込める
クリエイションの大きな可能性

冒頭で述べた通り、日爪の帽子は異彩を放っている。自身のブランド「ヒヅメ(HIZUME)」には、縫い目を作らずドレープだけでフォルムを構築するキャップや、ベルクロで自在に折り畳んでシルエットを歪ませられるストローハット、キノコのひだのように内側にファーでボリュームを持たせたバケットハットなど、「こんな帽子見たことない」と思わせる作品が並ぶ。そこに、男らしさや女らしさといった既成概念を彷彿させる余地はない。人の想像力を掻き立てるクリエイションの秘訣を尋ねると、「いつも中庸を目指して作っているからかも」と一言。「例えば、カビをテーマにした2023-24年秋冬コレクションは、一般的に嫌われているものも角度を変えてみたら美しく見えるのでは?という思いから始まった。マイナスをゼロに、ゼロをプラスにできるのがクリエイションの力だから」。デザイン案は描くが、ゴールを決めないのも日爪に特有のスタイルだ。「制作途中で得た気づきを元に、次々とデザインを発展させていけば、唯一無二な帽子に仕上がる」。

人間には寿命がある一方で、作品は生き長らえることができるからこそ、消費されないモノづくりをしたい、と日爪は言う。「〜〜っぽい」と言葉で表現可能な分かりやすいものは、瞬間風速的に人気を生むかもしれないが、対抗馬が登場すれば淘汰されかねない。「自分の作品には、必ず“違和感”や“揺らぎ”、“間”といった未完成の要素を含めている。時代が進んでも、その時々で人が余白を補い、新たな意味を見出してくれるはず」。そう言いながら、ロイヤルブルーのバケットハットのエッジを指し、「これは、あえて生地を断ち落としたままで完成品とした。一般的な職人であれば、きれいに見せようと端を包む処理をするが、僕はデザイナーだから別の角度から美しさを提案したかった」。

世界に出た日本人として
帽子で戦う“人間国宝”の人間味

ファッション業界には、デザイン哲学を口に出さない寡黙なデザイナーも少なくないが、日爪は滋賀県出身ならではの関西弁と軽妙なトークで、惜しげもなく自身の考えを語ってくれる人物だ。「僕の話を聞いて、皆がもっと帽子のことを考えるようになってほしいし、世界を目指す服飾学生のロールモデルになりたいから」と温かい。取材中、話題は数学者のラマヌジャンから、自身の身体で生物の毒性を試す実験系YouTuber、モータースポーツへと次々と切り替わり、筆者はこれが人間国宝である「M.O.F.」の取材だと忘れてしまう瞬間もあったほどだ。「自分の固定観念がフラットになるような雑学を知れると、まっさらな状態でクリエイションに臨める気がする。『ヒヅメ』の帽子も、手に取る人にとってそんな存在になってほしい」。一つの道を突き詰めるため、相当な努力を積んできた者だからこそ、何気ない話の隅々にまで哲学が満ちていた。

The post フランス版人間国宝、日爪ノブキが作りたい帽子とは 「消費されないクリエイション」の裏側 appeared first on WWDJAPAN.

「ザ・ノース・フェイス」が気候変動に新提案 アウトドアの技術で“暑く長い夏”を快適に

ゴールドウインの「ザ・ノース・フェイス(THE NORTH FACE)」は2025年春夏、山岳アウトドア領域でつちかった機能性を生かし、気候変動の中でもより快適に過ごせることを追求したウエア群“Climate Adaptation Products(クライメット アダプテーション プロダクツ)”を始動した。パフォーマンスウエアだけでなく、ライフスタイル、キッズとカテゴリー横断で春夏製品型数の3割以上を企画。その背景や狙いを聞いた。

「環境変化へ
プロダクトとしての解決策」

WWD:気候変動による“暑く長い夏”は、世の中全体の課題となっている。

西野美加ザ・ノース・フェイス アパレル事業部長(以下、西野):年間365日のうち、150日近くが25度以上だといった話もある。こうした、“暑く長い夏”という環境変化に、「ザ・ノース・フェイス」のプロダクトとして解決できることはないかと考えたのが、“Climate Adaptation Products”の原点だ。「ザ・ノース・フェイス」では、トレッキングやトレイルランニングなど、さまざまなアクティビティーに向けた製品を開発している。アスリート用製品を企画する中で生まれた機能性を日常生活の普段着にまで落とし込めば、多くの人がより快適に、楽しく過ごせるようになると考えた。「ザ・ノース・フェイス」はダウンアウターがアイコンになっていることもあって、秋冬向けのブランドというイメージが強い。“Climate Adaptation Products”を確立すれば、春夏もお客さまの暮らしにもっと寄り添うことができ、それによってブランドとしてもさらに成長できるはずだ。

WWD:具体的に“Climate Adaptation Products”ではどのような機能性を持つ製品をそろえるのか。

西野:“FLASHDRY(フラッシュドライ)”“BREEZERANGE(ブリーズレンジ)”という2つの機能性を、パフォーマンスウエア、ライフスタイルウエア、キッズウエアのカテゴリー横断で打ち出す。“FLASHDRY”は吸汗速乾性で肌をドライに保つ機能であり、これまでも一部はブランドの中で展開してきた。“FLASHDRY”の中に4つの基準を設けており、特に注目してほしいのは、今季初登場の“FLASHDRY NATURE(フラッシュドライ ネイチャー)”のカテゴリー。天然繊維100%ながら、合繊並みの速乾性を追求している。見た目や肌触り、厚みは一般的なコットンTシャツなのに、洗濯後の乾きが早いというのは、日常生活や旅行時にも便利だと感じていただけるはずだ。また、“FLASHDRY PRO(フラッシュドライ プロ)”では、凹凸のある生地が発汗量の多いランニングシーンで高い吸汗速乾性を発揮し、肌をドライに保つことができる。

「暑さにためらわず、外で遊んでほしい」

“Climate Adaptation Products”のキャンペーンムービーから

WWD:もう1つの“BREEZERANGE”は、それ自体が今季初登場となる。

西野:“BREEZERANGE”では、高通気性とUVカットといった相反する機能が両立している。日傘を差しているのと同じくらいのUVカットを服として実現できないか、と考えて企画しており、サブカテゴリーの“BREEZERANGE PRO(ブリーズレンジ プロ)”では、遮熱性も備えた。キャンプやフェス、子どもの野外活動などに適している。高通気性のためにメッシュなどの組織を採用しているが、日常着としては素材が透けすぎても着用しづらい。日常着としても着こなせて、同時に機能性も備えているという点にはこだわった。

WWD:メンズ、ウィメンズアイテムだけでなく、キッズも企画している意図は。

西野:背丈の低いお子さんは、真夏に高温となる地面からの距離も近く、通気性、遮熱性などの機能が生きてくる。ブランドとして、アウトドアから日常着に広がり、キッズウエアにも領域を広げてきた「ザ・ノース・フェイス」だからこそできる提案だ。暑すぎると外出を控えようと考える親御さんもいるだろうが、われわれはアウトドアが原点であるブランドとして、“Climate Adaptation Products”のウエアを着ることでためらわずに外に遊びに出てもらいたい。大人と子どもとでリンクしたコーディネートも可能だ。

WWD:“Climate Adaptation Products”製品群の今後の展開予定は。

西野:7〜8月といった秋の立ち上がり時期は、今後はカットソーアイテムが中心となる。“FLASHDRY”“BREEZERANGE”製品の構成を通年で高めていくが、カットソーばかり売るというのでは商売として難しくなる部分もある。MDカレンダーの刷新も進めるし、われわれが得意とするアクティビティーと紐づけながら、事業としてどういった提案ができるかを今再考している。冬は冬として、インサレーションアイテムを組み合わせてどう温度調整に対応するかといった、冬の“Climate Adaptation Products”に挑戦していく。

吸汗速乾の“FLASHDRY”

“FLASHDRY”は、高水準で汗をすばやく吸い上げ、発散し、肌をドライに保つ「ザ・ノース・フェイス」独自基準の吸汗速乾素材。糸や風合いはさまざまながら、それぞれのシーンにおける最適な吸汗速乾性を発揮する4つの基準を設定。多様な活動を快適に行うことをサポートする。

高通気&UVカットの
“BREEZERANGE”

“BREEZERANGEジ”は「ザ・ノース・フェイス」独自基準の高通気、UVカット素材。特殊な生地組織や加工で両立が難しいとされる高い。通気性とUPF値(紫外線保護指数)を確保。気温や太陽光からの紫外線などで、過酷な気候となっている今日の外でのアクティビティーをサポートする。

問い合わせ先
ゴールドウイン カスタマーサービスセンター
0120-307-560

The post 「ザ・ノース・フェイス」が気候変動に新提案 アウトドアの技術で“暑く長い夏”を快適に appeared first on WWDJAPAN.

「ヴァジック」が10周年 クリエイティブ・ディレクターがメディアに初めて語るブランドの軌跡

PROFILE: カノコ・ミズオ/「ヴァジック」クリエイティブ・ディレクター

カノコ・ミズオ/「ヴァジック」クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 東京都出身。2000年に渡仏し、世界的ヘアアーティストのジュリアン・ディスに師事。05年、ニューヨークへ移住。ヘアスタイリストとして活躍する傍ら、09年にキャンドルブランド「ランドバイランド」、15年にバッグブランド「ヴァジック」を立ち上げる。21年、上質な素材にこだわったプレミアムライン「メゾン ヴァジック」も始動 PHOTO:DAISUKE TAKEDA
NY発のバッグブランド「ヴァジック(VASIC)」が10周年を迎えた。カノコ・ミズオ=クリエイティブ・ディレクターは10年間、「ヴァジック」ほか、プライベートヘアサロン、キャンドルブランド「ランド バイ ランド(LAND BY LAND)」の運営と活動の幅を広く保ちながらも、歩みを止めることはなかった。メディアから初めてインタビューを受けるというミズオ=クリエイティブ・ディレクターに、「ヴァジック」のこれまでを振り返ってもらった。

WWD:ヘアスタイリストからキャリアをスタートさせたと聞いた。

カノコ・ミズオ「ヴァジック」クリエイティブ・ディレクター(以下、ミズオ):私はもともと、パリでジュリアン・ディス(Julien D’ys)に師事していた。彼は、「ディオール(DIOR)」や「サンローラン(SAINT LAURENT)」、「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」など、名だたるブランドに関わってきた世界的なヘアアーティストだ。私の妥協を許さないモノ作りは、彼からの譲り受けだと言って良い。ニューヨークに移住した後も、しばらくはヘアスタイリスト1本で活動していた。

WWD:そこから、なぜバッグブランドのクリエイティブ・ディレクターに?

ミズオ:顧客と「バッグブランドを立ち上げよう」と意気投合したのがきっかけ。ニューヨーク時代のお客さまは、ファッションに関わる仕事をしている人が多かった。ブランドを作ることにハードルの高さを感じる環境ではなかったように思う。

WWD:これまでどのようなバッグに引かれてきた?

ミズオ:大きめのサイズが好き。ブランドにこだわるタイプではないが、分かりやすいところだと「エルメス(HERMES)」の“バーキン”とか。私はもともと無類のハンドバッグ好きで、「買い漁っていた」という表現が正しいくらい、お金の使いどころはいつもバッグだった。

WWD:一方、「ヴァジック」の主力商品は小さめのバッグだ。

ミズオ:私は、ヘアもバッグも、自分の「なりたい」や「欲しい」をもとに作ることはない。ヘアはお客さまのご要望が第一。バッグも、「トレンドを作りたい」より「ファンが欲しいものを作りたい」という気持ちが強い。「お客さまは神様」は行き過ぎだと思うが、「お客さまありき」のクリエイションからはぶれずにいたいと思う。

WWD:ヘアとバッグ、クリエイション面で異なるところはあるか?

ミズオ:ヘアは1対1の商売。顧客の喜ぶ姿を見る度に、ヘアスタイリストとしての冥利に尽きる。実は、今も1年間の半分以上はニューヨークで過ごし、馴染みの客の髪を切っている。顧客を第一に置く私にとって、なくてはならない時間だ。

一方、バッグは1対大勢の商売。「ヴァジック」の顧客といえど、私とバッグを結び付ける人は多くはない。だからその分、「伝え方」にこだわりたい。展示会に合わせて年に4回来日しているが、それも自分の言葉でコレクションを説明するため。顧客と会えない分、顧客と関わる社員や卸先とのコミュニケーションを大切にしている。

10周年を迎えて

WWD:改めて、「ヴァジック」とは?

ミズオ:ベーシックを打ち出すブランドだ。私たちが考えるベーシックは2通りある。1つは、どんな人のスタイルにも合うこと。もう1つは、その人のどのような服にも合うこと。私たちはこれを“Various Basis”と呼んでいる。

WWD:10年を振り返って印象に残る出来事は?

ミズオ:やはり、“ボンド”がアイコンに育ったこと。と言いつつ、出来上がったときに売れるという確信があった。“ボンド”と言えば特徴的なノット(紐の結び目)だが、これはロサンゼルスで偶然見かけた、紐をベルトの代わりに身に付けていた人に着想している。見た瞬間に「これだ!」と思った。

WWD:10周年の“ボンド”はそのノットがリボンになっている。

ミズオ:ノットをアレンジしたのは、今回が初めて。結び目を立たせ、10周年をお祝いしているようなデザインにした。ずっと見ていると、ノットが手を挙げて喜んでいるように見えてくるだろう。

WWD:バッグだけでなくチャームも登場した。

ミズオ:10周年を盛り上げるため、キッチュでプレイフルなチャームを用意した。でも、どれも大人も身に付けやすい程度の遊び心。同時に発売した新型バッグ“ビビ”(3万3000円)と“ループ ミニミニ”(3万3000円)とのセット買いもおすすめだ。シンプルなデザインと手が届きやすい価格帯にこだわり、チャームとの合わせを前提にしている。

WWD:東京ミッドタウンにはエクスクルーシブライン「メゾン ヴァジック(MAISON VASIC)」の初の店舗をオープンし、10周年に華を添えた。

ミズオ:広々としたスペースに緩やかな曲線を描くインテリアを配置し、リラックスしたムードを演出している。来店した際は、店内奥のブランド初のアパレルとなるホワイトシャツに注目してほしい。シャツを選んだのは、バッグを引き立たせるシンプルなアイテムだから。「メゾン ヴァジック」は、このシャツを含め、一部のハンドバッグやジュエリーも日本で作っている。今後もメ―ドインジャパンにこだわりながら、ブランドのモノ作りを発展させていきたい。

The post 「ヴァジック」が10周年 クリエイティブ・ディレクターがメディアに初めて語るブランドの軌跡 appeared first on WWDJAPAN.

“ガラスのおもちゃ”へのときめきを閉じ込めた宝石 「アメリ・チバ」が提案する心が動くジュエリー

PROFILE: (ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー

(ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー
PROFILE: ベルギー人の父親と日本人の母の間に生まれる。日本で育ち、ベルギーへ渡り、ラ・カンブルでファッションデザインを専攻。フランスモード研究所でラグジュアリービジネスについて学ぶ。「バレンシアガ」「ニナ リッチ」「スワロフスキー」などで、コスチュームジュエリーのデザイナーとして活躍。帰国後、自身のジュエリースタジオを立ち上げ、国内外のブランドのジュエリーデザインを手掛ける。2025年に自身のブランドをスタート PHOTO:TSUKASA NAKAGAWA

パリのファッションメゾンでデザイナーとして活動した千葉愛芽里が自身のジュエリーブランドをスタートした。「アメリ・チバ(AMELIE CHIBA)」のファーストコレクションは、合成クオーツと染色アゲートを張り合わせた模造石“エコー”が主役。アゲートとはメノウのことで、カラフルに染められたものがアクセサリーやコースターなどとして販売されている。“エコー”は、高価な宝石にみせるために素材を貼り合わせるダブレットやトリプレットの技法を応用したものだが、一般的にイミテーションと呼ばれるそれらとは違う。本物に見せかけたり、本来の素材の色や輝きを高めたりするのではなく、光学的な意図によりデザインされたものだ。“エコー(共鳴)”は、その名の通り、透明なクオーツのファセットに鮮やかなカラーのアゲートが響き合い、ちょっとしたモダンアートのよう。不思議なカラーニュアンスが生まれ、ついつい見入ってしまう。“エコー”の誕生について千葉に話を聞いた。

純粋に“創る喜び”を見出したオリジナルの宝石

千葉は、ベルギーのラ・カンブル(La Cambre)でファッションを学んだ後、パリのメゾンでコスチュームジュエリーのデザインを担当。「バレンシアガ(BALENCIAGA)」では、シャルロット・シェネ(Charlotte Chesnais)のアシスタントとして、「ニナ リッチ(NINA RICCI)」では、当時のクリエイティブ・ディレクター、ピーター・コッピング(Peter Copping)の指揮の下、ショーピースからライセンスのジュエリーデザインまで手掛けた。「スワロフスキー(SWAROVSKI)」でもデザイナーとして活躍。だが、次々と新作が出て過去のものになっていくファッション業界のペースの速さに疑問を抱くようになる。彼女は、「作り手として、一つ一つのジュエリーに心を込めて制作していたが、作って、消費され、忘れさられてしまうサイクルに違和感を感じ、クリエイションが苦痛になった」と話す。

そして、仕事を辞め、夫と2019年に帰国。「一度でいいから、できる限りの時間とお金を使って純粋に“創る喜び”を思い出したい」と挑戦したのが“エコー”の開発だった。「スワロフスキー」では、クリスタルという素材を突き詰めてデザインしていたという千葉。クリスタルのファセットに色を塗って、色がどのように反射するか試すうちに、輝きや色を高める張り合わせの技法に興味を持つようになった。「宝石は光の芸術。光が入って反射して輝く。張り合わせの技法を使って自分でも宝石を作ってみたいと思った」。クリスタルを使って試行錯誤を重ね、光の通り道を可視化したのが“エコー”だ。

“エコー”は“美しい”と思う素直な気持ちの結晶

宝石とは、ダイヤモンドやトルマリンなどの貴石や半貴石のことだが、千葉にとって、“宝石”とは物質的な価値はなくても“美しい”と心が動くものだ。「ガラスのおもちゃが大好きだった。デザイナーになってからもラインストーンを集めている。人は、美に対する追求心からさまざまな方法で美しいと思うものを作り続けてきた」と千葉。子どものころには誰もが、キラキラ輝くガラスに心を奪われたり、海辺で拾った貝殻を持ち帰ってみたりした経験があるはずだ。その素直な気持ちを込めたのが“エコー”だった。

千葉は、「道端の石であっても、触れる人の思いがあればモノに命が宿る。そのモノに支えられ、導かれることだってあるかもしれない」と話す。モノの価値を決めるのはモノ自体ではなく“人”というのが、彼女の考えだ。“エコー”は模造石だが、枠に彼女が選んだのはシルバーではなく18金だ。「シルバーが妥当という人もいるだろう。だが、コスチュームジュエリーでは表現が不可能なディテールにこだわりたかった。また、職人と一緒に作りあげる“エコー”にも採掘された宝石と同様の価値があるので金がふさわしいと考えた」。

“心のオブジェ”としてのジュエリー

「アメリ・チバ」のコンセプトは、“ジュエリーを通して人とモノの関係を考える”。ジュエリーは、人類の歴史の中で富の象徴であり、愛や絆といった人々の思いと深く結びつくものだ。千葉は、単なる装飾品以上の意味を持ち続けるジュエリーを“心のオブジェ”と捉えている。「デザイナー、職人、鑑賞者、持ち主とそれを引き継ぐ人、それぞれの思いや記憶が積み重なることでジュエリーは“心のオブジェ”になる」。彼女が提案するジュエリーは、“所有するもの”ではなく、“関係を築くもの”だという。ジュエリーの価値は、素材の希少性や市場価値だけでは測れない。持ち主との間に特別な意味がなければ“単なるモノ”でしかない。「“エコー”は、持ち主と共に光を受けて変化し続けるジュエリーであってほしい」。

ジュエリーが持つ精神性にフォーカスし、独自で作り上げた“エコー”を使用した「アメリ・チバ」のジュエリー。アート作品のような佇まいと斬新な色の反射や輝き、ファインとコスチュームのハイブリッドなど、いろいろな意味での新しさがある。今後は、サロン形式で発表会を開き、自社ECなどでも注文を受け付けるという。

The post “ガラスのおもちゃ”へのときめきを閉じ込めた宝石 「アメリ・チバ」が提案する心が動くジュエリー appeared first on WWDJAPAN.

“ガラスのおもちゃ”へのときめきを閉じ込めた宝石 「アメリ・チバ」が提案する心が動くジュエリー

PROFILE: (ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー

(ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー
PROFILE: ベルギー人の父親と日本人の母の間に生まれる。日本で育ち、ベルギーへ渡り、ラ・カンブルでファッションデザインを専攻。フランスモード研究所でラグジュアリービジネスについて学ぶ。「バレンシアガ」「ニナ リッチ」「スワロフスキー」などで、コスチュームジュエリーのデザイナーとして活躍。帰国後、自身のジュエリースタジオを立ち上げ、国内外のブランドのジュエリーデザインを手掛ける。2025年に自身のブランドをスタート PHOTO:TSUKASA NAKAGAWA

パリのファッションメゾンでデザイナーとして活動した千葉愛芽里が自身のジュエリーブランドをスタートした。「アメリ・チバ(AMELIE CHIBA)」のファーストコレクションは、合成クオーツと染色アゲートを張り合わせた模造石“エコー”が主役。アゲートとはメノウのことで、カラフルに染められたものがアクセサリーやコースターなどとして販売されている。“エコー”は、高価な宝石にみせるために素材を貼り合わせるダブレットやトリプレットの技法を応用したものだが、一般的にイミテーションと呼ばれるそれらとは違う。本物に見せかけたり、本来の素材の色や輝きを高めたりするのではなく、光学的な意図によりデザインされたものだ。“エコー(共鳴)”は、その名の通り、透明なクオーツのファセットに鮮やかなカラーのアゲートが響き合い、ちょっとしたモダンアートのよう。不思議なカラーニュアンスが生まれ、ついつい見入ってしまう。“エコー”の誕生について千葉に話を聞いた。

純粋に“創る喜び”を見出したオリジナルの宝石

千葉は、ベルギーのラ・カンブル(La Cambre)でファッションを学んだ後、パリのメゾンでコスチュームジュエリーのデザインを担当。「バレンシアガ(BALENCIAGA)」では、シャルロット・シェネ(Charlotte Chesnais)のアシスタントとして、「ニナ リッチ(NINA RICCI)」では、当時のクリエイティブ・ディレクター、ピーター・コッピング(Peter Copping)の指揮の下、ショーピースからライセンスのジュエリーデザインまで手掛けた。「スワロフスキー(SWAROVSKI)」でもデザイナーとして活躍。だが、次々と新作が出て過去のものになっていくファッション業界のペースの速さに疑問を抱くようになる。彼女は、「作り手として、一つ一つのジュエリーに心を込めて制作していたが、作って、消費され、忘れさられてしまうサイクルに違和感を感じ、クリエイションが苦痛になった」と話す。

そして、仕事を辞め、夫と2019年に帰国。「一度でいいから、できる限りの時間とお金を使って純粋に“創る喜び”を思い出したい」と挑戦したのが“エコー”の開発だった。「スワロフスキー」では、クリスタルという素材を突き詰めてデザインしていたという千葉。クリスタルのファセットに色を塗って、色がどのように反射するか試すうちに、輝きや色を高める張り合わせの技法に興味を持つようになった。「宝石は光の芸術。光が入って反射して輝く。張り合わせの技法を使って自分でも宝石を作ってみたいと思った」。クリスタルを使って試行錯誤を重ね、光の通り道を可視化したのが“エコー”だ。

“エコー”は“美しい”と思う素直な気持ちの結晶

宝石とは、ダイヤモンドやトルマリンなどの貴石や半貴石のことだが、千葉にとって、“宝石”とは物質的な価値はなくても“美しい”と心が動くものだ。「ガラスのおもちゃが大好きだった。デザイナーになってからもラインストーンを集めている。人は、美に対する追求心からさまざまな方法で美しいと思うものを作り続けてきた」と千葉。子どものころには誰もが、キラキラ輝くガラスに心を奪われたり、海辺で拾った貝殻を持ち帰ってみたりした経験があるはずだ。その素直な気持ちを込めたのが“エコー”だった。

千葉は、「道端の石であっても、触れる人の思いがあればモノに命が宿る。そのモノに支えられ、導かれることだってあるかもしれない」と話す。モノの価値を決めるのはモノ自体ではなく“人”というのが、彼女の考えだ。“エコー”は模造石だが、枠に彼女が選んだのはシルバーではなく18金だ。「シルバーが妥当という人もいるだろう。だが、コスチュームジュエリーでは表現が不可能なディテールにこだわりたかった。また、職人と一緒に作りあげる“エコー”にも採掘された宝石と同様の価値があるので金がふさわしいと考えた」。

“心のオブジェ”としてのジュエリー

「アメリ・チバ」のコンセプトは、“ジュエリーを通して人とモノの関係を考える”。ジュエリーは、人類の歴史の中で富の象徴であり、愛や絆といった人々の思いと深く結びつくものだ。千葉は、単なる装飾品以上の意味を持ち続けるジュエリーを“心のオブジェ”と捉えている。「デザイナー、職人、鑑賞者、持ち主とそれを引き継ぐ人、それぞれの思いや記憶が積み重なることでジュエリーは“心のオブジェ”になる」。彼女が提案するジュエリーは、“所有するもの”ではなく、“関係を築くもの”だという。ジュエリーの価値は、素材の希少性や市場価値だけでは測れない。持ち主との間に特別な意味がなければ“単なるモノ”でしかない。「“エコー”は、持ち主と共に光を受けて変化し続けるジュエリーであってほしい」。

ジュエリーが持つ精神性にフォーカスし、独自で作り上げた“エコー”を使用した「アメリ・チバ」のジュエリー。アート作品のような佇まいと斬新な色の反射や輝き、ファインとコスチュームのハイブリッドなど、いろいろな意味での新しさがある。今後は、サロン形式で発表会を開き、自社ECなどでも注文を受け付けるという。

The post “ガラスのおもちゃ”へのときめきを閉じ込めた宝石 「アメリ・チバ」が提案する心が動くジュエリー appeared first on WWDJAPAN.

メンズクロージングの哲人、鴨志田康人の「現代紳士カバン考」

伊バッグブランド「フェリージ(FELISI)」は、ファッションディレクターの鴨志田康人と協業した新ライン“フェラレージ(FERRARESI)”をこのほどスタートした。

同ブランドが正式にコラボレーションを実施するのは、創業以来これが初めてだ。日本のドレスクロージングに精通し、ユナイテッドアローズ時代はバイヤーとして数多くのバッグを見てきた鴨志田氏。「フェリージ」も、そんな同氏の経験と審美眼に信頼を寄せたのだろう。

「フェリージ」は2000年代に日本に上陸。当時の野暮ったいビジネスバッグとは一線を画す、軽やかなナイロン素材のブリーフバッグで、おしゃれなビジネスマンたちを虜にした。

ただ20年が経ち、働く男性の価値観も装いも大きく様変わりした。現代の男性がバッグに求める条件とは何か。“フェラレージ”のプレス展で鴨志田氏に話を聞いた。

スタイリングを引き立てるバッグを

WWD:“フェラレージ”について教えてほしい。

鴨志田康人(以下、鴨志田):フェリージが本社を構えるイタリア・フェラーラの街並みや人々からインスパイアされたレザーバッグを作った。実は本社を訪れるのは今回が初めてだったが、街の温かみやこじんまりとした美しさ、石やレンガの色味などに惹かれ、ナチュラルでモダンなカラーリングのバッグを作ろうと思った。構想から完成まで2年ほど要したが、いいバッグができたと思っている。

WWD:「フェリージ」はこれまで、他のブランドや人物とはコラボしてこなかった。初めての協業のプロセスはどうだったか。

鴨志田:確かにフェリージはファミリー企業で、保守的な一面もある。でも今回は「新しいフェリージを作って欲しい」という言葉をもらったし、前向きな意思をすごく感じた。都度こちらの意見を柔軟に受け入れてくれ、スムーズでいいコラボができた。僕自身、バイヤーとしてバッグを見てきた経験はあるけれど、バッグを作るのは初めて。そこをプロの彼らがしっかり形にしてくれた。

WWD:「フェリージ」の既存商品とは、何が違うのか。

鴨志田:「フェリージ」はすでにバッグカテゴリーでは“オーセンティック”なイメージかもしれないが、自分たちが使い始めた2000年代初頭は、むしろ革新的なブランドだった。革の重たいブリーフケースが主流だったところに、ナイロン素材でカラーバリエーションも豊富な「フェリージ」が登場し、若いビジネスマンの装いにぴったりとはまった。

“フェラレージ”では、そうしたブランドの過去の文脈を踏まえつつ、今の時代のライフスタイルに合わせてアップデートした。今の人たちはワードローブにあまり色を使わず、黒やベージュ、グレーなどが主流。そこに少しだけ色を足すことで、全体のスタイリングが一気に引き立つ。そんな「さりげない主張」ができるバッグを目指した。

WWD:実用の面では、どうか。

鴨志田:今はデジタル化で書類もずいぶん減った。20年前と比べても、求められるバッグ像が変わっている。ポーチ1つで出勤する人も増えた。僕自身も仕事の必需品はiPadと生地のスワッチくらい。昔のような「いかにもビジネスマン」なバッグは、今はむしろ敬遠される。

一方で、用途によっていくつもバッグを持つのは、今の若い人にとってはリーズナブルじゃない。オフの日に旅行に行くときも使えたり、何でも放り込めるような使い勝手のよさがあったりと、自由度の高さも求められる。余計なコンパートメントを廃したのもそのためだ。

飽きずに愛用できるものが
自分だけのクラシックになる

WWD:「フェリージ」といえばナイロン素材だが、“フェラレージ”はレザー素材を採用している。その理由は?

鴨志田:いま街には機能性を前面に押し出したバッグがあふれているが、そこに少しだけエレガンスを加えたいと思った。たとえばTシャツ姿が少しかっこよく見えるような、そんなバッグだ。クラシック好きやモード好き、あらゆるジャンルの人に似合うバッグを意識した結果、やはり使いたいのはレザーだった。

“フェラレージ”のバッグはとても軽い。芯材を使わず、カッティングと組み立てでフォルムを作っている。素材そのものはしっかりとした厚みのあるバケッタレザーだから、形状を保ちつつ、耐久性も十分。美しさと実用が共存するバッグに仕上がった。

WWD:インポートのレザーバッグの価格が軒並み高騰する今、“フェラレージの”20万円を切る価格は“お値打ち”に映る。

鴨志田:ハイブランドのバッグが100万円を超える中で、この品質とデザイン、耐久性を考えれば、むしろ投資価値があると思う。長く使えば味が出てくるし、実際に1年使った僕のバッグは、とても良い雰囲気になってきている。そうやって「飽きずに愛用できるもの」は、やがて自分だけの“クラシック”になっていく。

WWD:バイヤーたちの反応はどうか。

鴨志田:すでにアジア圏のセレクトショップなどが高い関心を寄せてくれている。特に香港やバンコクなどでは、昔からの知人のバイヤーたちが「これはいい」と即決でオーダーを入れてくれた。

個人的に、メンズファッションにおいて、東南アジア市場はますます重要になるエリア。ファッションへの関心が高まっていて、モノの良さを理解する若い世代も増えてきている。彼らは東京にも頻繁に来ていて、感度が高いし購買力もある。だからこそ、クラフトマンシップに裏打ちされたプロダクトにはいいリアクションを示してくれる。

The post メンズクロージングの哲人、鴨志田康人の「現代紳士カバン考」 appeared first on WWDJAPAN.

メンズクロージングの哲人、鴨志田康人の「現代紳士カバン考」

伊バッグブランド「フェリージ(FELISI)」は、ファッションディレクターの鴨志田康人と協業した新ライン“フェラレージ(FERRARESI)”をこのほどスタートした。

同ブランドが正式にコラボレーションを実施するのは、創業以来これが初めてだ。日本のドレスクロージングに精通し、ユナイテッドアローズ時代はバイヤーとして数多くのバッグを見てきた鴨志田氏。「フェリージ」も、そんな同氏の経験と審美眼に信頼を寄せたのだろう。

「フェリージ」は2000年代に日本に上陸。当時の野暮ったいビジネスバッグとは一線を画す、軽やかなナイロン素材のブリーフバッグで、おしゃれなビジネスマンたちを虜にした。

ただ20年が経ち、働く男性の価値観も装いも大きく様変わりした。現代の男性がバッグに求める条件とは何か。“フェラレージ”のプレス展で鴨志田氏に話を聞いた。

スタイリングを引き立てるバッグを

WWD:“フェラレージ”について教えてほしい。

鴨志田康人(以下、鴨志田):フェリージが本社を構えるイタリア・フェラーラの街並みや人々からインスパイアされたレザーバッグを作った。実は本社を訪れるのは今回が初めてだったが、街の温かみやこじんまりとした美しさ、石やレンガの色味などに惹かれ、ナチュラルでモダンなカラーリングのバッグを作ろうと思った。構想から完成まで2年ほど要したが、いいバッグができたと思っている。

WWD:「フェリージ」はこれまで、他のブランドや人物とはコラボしてこなかった。初めての協業のプロセスはどうだったか。

鴨志田:確かにフェリージはファミリー企業で、保守的な一面もある。でも今回は「新しいフェリージを作って欲しい」という言葉をもらったし、前向きな意思をすごく感じた。都度こちらの意見を柔軟に受け入れてくれ、スムーズでいいコラボができた。僕自身、バイヤーとしてバッグを見てきた経験はあるけれど、バッグを作るのは初めて。そこをプロの彼らがしっかり形にしてくれた。

WWD:「フェリージ」の既存商品とは、何が違うのか。

鴨志田:「フェリージ」はすでにバッグカテゴリーでは“オーセンティック”なイメージかもしれないが、自分たちが使い始めた2000年代初頭は、むしろ革新的なブランドだった。革の重たいブリーフケースが主流だったところに、ナイロン素材でカラーバリエーションも豊富な「フェリージ」が登場し、若いビジネスマンの装いにぴったりとはまった。

“フェラレージ”では、そうしたブランドの過去の文脈を踏まえつつ、今の時代のライフスタイルに合わせてアップデートした。今の人たちはワードローブにあまり色を使わず、黒やベージュ、グレーなどが主流。そこに少しだけ色を足すことで、全体のスタイリングが一気に引き立つ。そんな「さりげない主張」ができるバッグを目指した。

WWD:実用の面では、どうか。

鴨志田:今はデジタル化で書類もずいぶん減った。20年前と比べても、求められるバッグ像が変わっている。ポーチ1つで出勤する人も増えた。僕自身も仕事の必需品はiPadと生地のスワッチくらい。昔のような「いかにもビジネスマン」なバッグは、今はむしろ敬遠される。

一方で、用途によっていくつもバッグを持つのは、今の若い人にとってはリーズナブルじゃない。オフの日に旅行に行くときも使えたり、何でも放り込めるような使い勝手のよさがあったりと、自由度の高さも求められる。余計なコンパートメントを廃したのもそのためだ。

飽きずに愛用できるものが
自分だけのクラシックになる

WWD:「フェリージ」といえばナイロン素材だが、“フェラレージ”はレザー素材を採用している。その理由は?

鴨志田:いま街には機能性を前面に押し出したバッグがあふれているが、そこに少しだけエレガンスを加えたいと思った。たとえばTシャツ姿が少しかっこよく見えるような、そんなバッグだ。クラシック好きやモード好き、あらゆるジャンルの人に似合うバッグを意識した結果、やはり使いたいのはレザーだった。

“フェラレージ”のバッグはとても軽い。芯材を使わず、カッティングと組み立てでフォルムを作っている。素材そのものはしっかりとした厚みのあるバケッタレザーだから、形状を保ちつつ、耐久性も十分。美しさと実用が共存するバッグに仕上がった。

WWD:インポートのレザーバッグの価格が軒並み高騰する今、“フェラレージの”20万円を切る価格は“お値打ち”に映る。

鴨志田:ハイブランドのバッグが100万円を超える中で、この品質とデザイン、耐久性を考えれば、むしろ投資価値があると思う。長く使えば味が出てくるし、実際に1年使った僕のバッグは、とても良い雰囲気になってきている。そうやって「飽きずに愛用できるもの」は、やがて自分だけの“クラシック”になっていく。

WWD:バイヤーたちの反応はどうか。

鴨志田:すでにアジア圏のセレクトショップなどが高い関心を寄せてくれている。特に香港やバンコクなどでは、昔からの知人のバイヤーたちが「これはいい」と即決でオーダーを入れてくれた。

個人的に、メンズファッションにおいて、東南アジア市場はますます重要になるエリア。ファッションへの関心が高まっていて、モノの良さを理解する若い世代も増えてきている。彼らは東京にも頻繁に来ていて、感度が高いし購買力もある。だからこそ、クラフトマンシップに裏打ちされたプロダクトにはいいリアクションを示してくれる。

The post メンズクロージングの哲人、鴨志田康人の「現代紳士カバン考」 appeared first on WWDJAPAN.

ガブリエラ・ハーストが語る、自然と社会を見据えたサステナブルデザイナーとしての哲学

PROFILE: ガブリエラ・ハースト

ガブリエラ・ハースト
PROFILE: ウルグアイにある家族経営の牧場で育つ。2015年秋に自身の名を冠した「ガブリエラ ハースト」を設立。「長年愛用できること」と「サステナビリティ」の価値観をコアに持つ。20年春夏コレクションでは、史上初のカーボンニュートラルなランウェイショーを実施。 16/17年のインターナショナル・ウールマーク・プライズのレディースウェア部門ほか、20年にはCFDAの「アメリカン・ウィメンズウェア・ デザイナー・オブ・ザ・イヤー」など多数のアワードを受賞。20年12月、「クロエ」のクリエイティブ・ディレクターに就任し、24年春夏シーズンをもって同職を退任。現在は「ガブリエラ ハースト」に専念 PHOTO:YOW TAKAHASHI

サステナビリティは、現代のデザイナーにとって大きなテーマのひとつだ。しかし、どの視点から持続可能性を語り、どのようにデザインに落とし込むかは人それぞれであり、その難しさゆえに語ること自体を避けるデザイナーも少なくない。そんな中、ガブリエラ・ハースト(Gabriela Hearst)は自らを「サステナブルデザイナー」と呼び、ウルグアイの田舎の牧場で育ったルーツから生まれた、自然との共生という揺るぎない信念を貫いてきた。ブランド設立10周年の節目を迎えた彼女に、そのデザイン哲学を聞いた。

WWD:「サステナビリティ」という言葉は、現在さまざまに解釈されている。あなた自身はどう定義している?

ガブリエラ・ハースト(以下、ガブリエラ):サステナビリティとは、その言葉が示す通り、「持続可能であること」。つまり、命を支え、製品を支え、長く存続するためのもので、人工的なものとは対局に位置する言葉だと理解している。私の考え方の根底には、「人間は自然の一部であり、自然を支配するものではない」という信念が深く刻まれている。これは牧場で育った幼少期に培った大事な価値観で、「ガブリエラ ハースト(GABRIELA HEARST)」を立ち上げた時から今に至るまで変わらない、ブランドのコアバリューでもある。一方、取り組み方に目を向ければ、私たちがブランドを始めた頃と比べて確実に進化し多様になった。私が関心を寄せている核融合エネルギーなど、気候危機を乗り越えるための頼もしい技術も多く誕生している。世界は混沌としているように見えるかもしれないが、私の見方はポジティブだ。

WWD:最近は多くのデザイナーが、現代を不安や混沌の時代と語る。あなたは今の時代をどう捉えている?

ガブリエラ:私のビジョンはいつも希望に溢れているし、デザイナーとしてそうでなければいけないと思う。母親でもある自分にとって、世界を今より少しでも良い場所にして次世代に渡す責任を感じているからだ。もちろん現状は厳しい側面もあるが、それでも私は未来に希望を持ち続けている。

人類の歴史の原点に持続可能性の解はある

WWD:“サステナブル素材“とされるものの基準も変化している。「ガブリエラ ハースト」では現在どのような基準で素材を採用している?

ガブリエラ:私は常に人類の服飾史に立ち返り、基本的に天然繊維100%の素材を優先している。もしその中でも「最もサステナブルな素材は何か」と聞かれたら、迷わずウールと答えるだろう。ウールは最も古くから使われてきた素材の一つで、温度調整など天然の機能性にも優れ、耐久性も高い。抗菌性もあり、結果長く着られる。

WWD:市場ではレザーに代わる代替素材も多く出てきている。

ガブリエラ:私はサステナブルデザイナーであって、ビーガンデザイナーとは違う。食肉の副産物である動物の革は使うのが基本的な考え方だ。ポリエステル製の人工皮革と天然レザーがあれば、必ず天然レザーを選択する。イタリアのタンナーは、水の使用量など環境対策にも非常に優れており、適切な水処理や認証取得も進んでいるため、安心して使用している。一方、新しいサステナブル素材にも挑戦している。最近注目している革新素材は、「インヴェルサ(INVERSA)」。これは、フロリダなどで繁殖しすぎて生態系を脅かしている外来種の蛇などから作られる革で、前回のパリで発表したショーにも採用した。とても機能的で素材としての美しさにも惹かれた。

WWD:そうしたサステナビリティへの考え方は顧客にはどの程度伝わっていると感じる?

ガブリエラ:これまではとにかく製品作りに集中していて、サステナブルにまつわる部分を積極的に発信することはしていなかった。顧客もサステナブルな背景よりもデザインに惹かれて購入していると考えていたから。でもブランド設立から10年経った今、環境に配慮したものであることがお客さまの重要な購入動機の1つになっていると感じる。先日うれしかったのは、あるお客さまが店で商品を購入した時のこと。スタッフが用意したパッケージングを見てお客さまは、「ガビー(ガブリエラ)は望まないと思う」とそれを断ったそう。ブランドの哲学が浸透しているんだと思った瞬間だった。最近では「この製品はどのように作られているのか」といった質問をするお客さまも増えてきた。それに応えられるスタッフが店にいてくれていることで実現できたことね。

WWD:2025-26年秋冬コレクションに込めたメッセージは?

ガブリエラ:コレクションは毎回、歴史の中で見過ごされてきた女性の物語からインスパイアされている。私の創造活動は、それらを掘り起こす意義もある。多くの場合、アイコンとなる女性たちとの出会いはとても偶然で、スピリチュアルと言っていいくらい。私がたまたま描いた絵とある作品がリンクしたりね。

今回はリトアニア出身の考古学者マリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)の研究にインスパイアされた。彼女はヨーロッパの遺跡で数多くの女性を象った土偶を発掘し、そこから母性や女性神の文化を読み解いた人物。多くの女性の偶像が発見された当時の祭祀の場では、武器も要塞も見つからなかったそう。つまり、数千年前の人々は女性を崇拝し、自然と調和して平和に暮らしていた。長い歴史の中でそうした感覚は忘れ去られ、女性は抑圧されている。今回のコレクションでは、この母性の力や自然のサイクルを敬う文化をテーマにして、特に「蛇の女神」という生命創造を象徴する存在をモチーフとして取り入れた。スネークスキンは、カシミアのジャカードニットや「インヴェルサ」、レザーを編み込んで表現した。3つのビンテージのミンクコートを650枚のパーツにカットし、ヘリンボーン柄のコートに仕立て直したピースや、ビンテージバッグと合わせたレザージャケットのルックもお気に入り。洗練されているけど、生々しい。この「洗練された生々しさ」に、自然美を敬愛する私たちの感覚がよく表現されていると思う。

「クロエ」での学びは、サステナブルとビジネスは両立すること

WWD:「クロエ(CHLOE)」での経験を経て、現在は自身のブランドに専念しているが、デザインアプローチに変化はあったか。

ガブリエラ:大きな変化はない。ただ私が100%ブランドに集中するようになった分、チームのみんなは仕事が大変になったんじゃないかしら(笑)。「クロエ」での経験は本当に素晴らしいもので、今はそこで学んだことを活かしてブランド全体の成長につなげることができている。よくサステナビリティはコストがかかると言うけど、それは違う。実際に20年以降私たちのブランドの売り上げは倍増しているし、「クロエ」も短期間で大きく成長した。サステナブルとビジネスが両立することを「クロエ」でも実感できたのは大きい。

WWD:今後のブランドの展望は?

ガブリエラ:日本ではいまショップ・イン・ショップがメインだけど、将来的には直営店を出してブランドの世界観をより強く表現していきたい。ヨーロッパでも出店を進めると同時に、オンラインも強化していく。私たちは、一時期のロゴブームのような難しい時期もたくさん乗り越えてきた。今も社会は混沌としているけれど、私たちが貫いてきたことの価値は間違っていないと確信しているし、成長の道筋は明確に見えている。サステナビリティの面では、循環型のビジネスモデルにしていくための青写真を描いているところ。「より良い選択は何か」を追求することが、私自身のクリエイティビティーの発揮どころ。ラグジュアリーファッションを求める顧客の要望に応えつつ、よりサステナブルな商品を提供していきたい。

WWD:サステナブルデザイナーとして挑戦を続ける理由は?

ガブリエラ:私が常日頃自分に問いかけているのは、「自分は他者のために何ができるか」。非営利団体との協業であれ、別の形であれ、私の仕事には必ず社会的な要素が含まれてきた。なぜ私は人の役に立つことを続けるのか、続けなければいけないのか――。行き着いた答えは、この世界に存在する苦しみや痛みを認識せずに作るものは、「本物」にはなり得ないということ。デザイナーとして、創造する喜びを享受できることは大きな特権だと思う。だからこそ、創造の中に、他者のためになる要素を組み込むことで、より本質的なデザインになり得るのだと思う。

The post ガブリエラ・ハーストが語る、自然と社会を見据えたサステナブルデザイナーとしての哲学 appeared first on WWDJAPAN.

韓国の人気バッグ「オソイ」は「あえてコンセプトを作らない」 狙いを創業者に聞く

PROFILE: ヒージン・カン/「オソイ」創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクター

ヒージン・カン/「オソイ」創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 1982年生まれ、韓国・ソウル出身。2016年、バッグ&シューズブランド「オソイ」を創業する。現在は、CEOを務めつつ、デザインとクリエイティブを監修している PHOTO:DAISUKE TAKEDA
韓国発のバッグ&シューズブランド「オソイ(OSOI)」が、昨年同ブランドの国内独占販売権を取得したユナイテッドアローズとともに、日本での事業を拡大している。ブランド名は、日本語の「遅い」に由来。「自分たちのペースでモノ作りをしたい」というヒージン・カン(Hee Jin Kang)創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクターの思いが込もるが、それとは裏腹に、ブランドの人気は急速な高まりを見せている。このほど来日したヒージン=クリエイティブ・ディレクターに、「オソイ」のブランド作りについて聞いた。

WWD:改めて、「オソイ」について教えてほしい。

ヒージン・カン「オソイ」創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクター(以下、カン):「オソイ」は2016年、ウィメンズバッグ&シューズブランドとしてスタートした。当時は、30〜40代の女性がメインターゲットだったが、現在は20代まで裾野が広がっている。海外展開も進めている。日本ではユナイテッドアローズ、その他の国はタイのセントラル・グループが流通のパートナーだ。聖水(ソンス)の本店を拠点に、アジアから欧米まで全世界30ヵ所以上に卸している。

WWD:ブランドコンセプトは?

カン:あえて作らない。クリエイションの限界を定めたくないから。むしろさまざまなコンセプトを取り入れながら、ブランドを育てていきたい。その集積こそが、私たちのブランドコンセプトだと言い換えられる。

WWD:それだと、ブランドイメージを構築しにくくないか?

カン:私たちには、特徴的なシルエットがある。「オソイ」にとって、コンセプト以上にブランドを物語る存在だ。

WWD:「オソイ」のシルエットとは?

カン:曲線で描かれた、ボリューミーで遊び心のあるシルエット。ハイブランドのバッグで目が肥えてきた人の目にも留まることだろう。

WWD:代表的なバッグは?

カン:あえて選ぶなら、16年に発売した“ブロート”シリーズ。着想源は、古典映画の主人公が使っていたドクターズバッグだ。ローンチ時からあるバッグだが、今も売り上げのトップ5に入るほど継続的な人気を誇る。ちなみに、“ブロート”はドイツ語でパンを意味する。ずっと見ていると、ふっくらとしたシルエットが焼きたてのパンに見えてくるだろう。

WWD:カラーリングへのこだわりは?

カン:私たちが作っているのは、服ではなくバッグ。クリームやブラウンなど、服に合わせやすいカラーを意識している。

WWD:洗練されたビジュアルも印象的だ。

カン:バッグは、スタイルを作るものではなく、スタイルに溶け込むもの。だからこそ、ビジュアルで「どのようにスタイリングすべきか?」まで丁寧に伝える必要がある。20代までファンが広がっているのも、ビジュアル作りにこだわっているから。感度の高い見せ方が、新客流入のフックになっている。

ユナイテッドアローズと目指すもの

WWD:ユナイテッドアローズと組んだのはなぜか?

カン:私たちにとって、日本は最も重要なマーケット。23年の時点で、日本の売り上げは全体の20%を超え、旗艦店のソンス店も日本人の顧客が一番多い。それゆえ、日本でのパートナー選びは慎重にすべきと考えていた。ユナイテッドアローズは、卸先の中でも特段売れ行きが良かった。中には、立ち上がりから1カ月で売り切れるコレクションもあったほどだ。反応の良さは相性の良さ。私たちが日本で事業を広げていくにあたり、ユナイテッドアローズほど頼りになる企業はない。そう思い、力を貸してもらうことにした。

WWD:日本での戦略は?

カン:日本でしっかりと根を張り、ブランドを育てていきたい。2月中旬には、公式ブランドサイトを「ユナイテッドアローズ オンライン」内に開設し、「ユナイテッドアローズ」の一部店舗に常設コーナーを構えた。今年中には、東京に単独店もオープンする予定だ。内装にこだわり、「オソイ」の世界観をより立体的に伝えられる場所に仕上げたい。

The post 韓国の人気バッグ「オソイ」は「あえてコンセプトを作らない」 狙いを創業者に聞く appeared first on WWDJAPAN.

「インバウンド富裕層のスペシャリスト」を名乗るWIZって一体、何者!?

 

海外からのインバウンド富裕層の存在感が増す昨今は、彼らならではのニーズを掴み、商品をアレンジしたり新しいサービスを開発したりが必要だ。そんな中、WIZと名乗る金髪の男性は、自らを「インバウンド富裕層のスペシャリスト」と名乗り、こと中華圏の富裕層とのコミュニティーを拡大しながら、そこで得た知識や人脈を活かし、インバウンド富裕層向けのプロモーションやイベント企画、ブランディングに取り組んでいるという。この男は何者で、日本のファッション業界や富裕層ビジネスに何をもたらしてくれるのか?彼のレジデンスで話を聞いた。

WWDJAPAN:そもそも、あなたは一体何者?

WIZ:台湾で芸能活動をした後、ダンスのインストラクターや振付師、そして男性グループのプロデュースなどを手掛けた。その頃から日本語を学んで2015年、25歳の時に来日。今はアジアの芸能人が日本で、逆に日本の芸能人がアジアで活躍するサポートを行いながら、顧問としてインバウンド富裕層向けのプロモーションや、彼らに向けたブランディング活動などに参画しています。

WWDJAPAN:「インバウンド富裕層のスペシャリスト」としての活動は、どのように始まった?

WIZ:来日後はまず、ナイトクラブで働き始めました。そこで来日したVIPの対応や彼らに向けたプロモーションの必要性を感じたんです。当時は、中国人の“爆買い”が騒がれていた頃。中華圏の人たちは買い物だけではなくナイトライフも楽しみたいと思っていたけれど、「中国語が通じない」や「騙されないか不安」などの問題があり、安心して遊べてはいなかった。彼らに向けたプロモーションやサービス開発は大成功して、クチコミで広がるようになりました。そこで「同じことが、ファッションの世界でも通用するのではないか?」と思ったんです。まずは日本のセレクトショップと一緒に、中華圏からのインバウンド富裕層の来店促進施策をスタート。今は都内のラグジュアリー・レジデンスのプライベートセールスにも携わっています。

WWDJAPAN:今は、どのくらいのインバウンド富裕層と繋がっている?

WIZ:例えば中国ではビザの発給が厳しくなっているなどの理由で、各国から来日する人の流れにはトレンドがあります。だから具体的な数字を言うことは難しいけれど、「数千」と言うところでしょうか?いずれにしても、日本はやっぱり人気の国。これまでの円安はもちろんですが、日本には四季があり、夏の花火や冬のイルミネーションなど、それぞれの季節にイベントが存在しています。食事は、間違いなくアジアで一番。ホテルも都内からリゾートまで、5つ星が多いですよね?安全だから、買い物も楽しい。もちろん政治や訪日施策、各国の状況により流動的ですが、私がアプローチする人や繋がっているコミュニティーはますます増えています。

WWDJAPAN:インバウンド富裕層と繋がる秘訣は?

WIZ:インバウンドへのプロモーションなら、デジタル・マーケティングだと思います。でもインバウンド富裕層へのプロモーションなら、古臭いかもしれないけれど汗をかくことが大事。直接話を聞いて、センスとアイデア、コミュニティの力で楽しんでいただくことを繰り返すのが重要です。

WWDJAPAN:ケースバイケースだと思うが、繋がっているインバウンド富裕層は、日本で何を楽しんで、どのくらいのお金を落としていく?

WIZ:ニセコで雪を見て、京都を楽しんでから羽田や成田から帰国する2〜3週間の間に、宿泊や食事とは別に数百万円の買い物を楽しまれる方は、決して珍しい存在ではありません。確かに中国の経済状況は芳しくはありませんが、それでも大きな国だから富裕層の数は多く、お金を持っている人は今もたくさん持っています。

WWDJAPAN:そんな人たちは、日本での買い物をどう楽しみたいと思っている?販売する側が気をつけるべきポイントは?

WIZ:好みはそれぞれですが、共通するのは、「皆、時間を気にしている」。例えば、もちろんみんな高額品を買ったら素敵にラッピングして欲しいとは思っているけれど、免税手続きも含めて5分なら待てるけれど、20分なら省いてほしい人は大勢います。「ラッピングは?」「免税は?」と、先に聞いておくのがベター。売る側も、買う側もハッピーになれますからね。日本のサービスは丁寧な一方、特に時間がかかり、逆にストレスを感じる人もいるように思います。

WWDJAPAN:今は、セレクトショップのヌビアンと共に、インバウンド富裕層も興味を持ちそうな商品やイベントを企画している。例えば、インバウンド富裕層に向けたヌビアンのブランディングは、日本のファンや潜在顧客に向けたブランディングと何が違う?

WIZ:日本の業界やファンと、インバウンド富裕層では、そもそもヌビアンの捉え方や見方が根本的に異なっています。おそらく日本人は、ヌビアンを「ストリートで、ヒップホップなカンジのセレクトショップ」と捉えているのではないでしょうか?そして「ヒップホップなカンジだから、少し敷居が高い」と思っている人もいるでしょう。でも、インバウンド富裕層にとってのヌビアンは、「ジャストクール(ただカッコいい)」。「ヒップホップだから入りづらい」などの感覚もありません。こうした微妙な感覚、見方や捉え方の違いを把握することが重要です。

WWDJAPAN:そこで2月には、台湾のアーティスト羅志祥(ショウ・ルオ)が手掛ける「ゴットノーフィアーズ(GOTNOFEARS)」のポップアップストアを原宿店で開催した。正直、「ストリート」なヌビアンで芸能人イベントは意外な印象だった。

WIZ:来日コンサートの翌日、当初はインバウンド向けのイベントとして企画しました。インバウンド富裕層にとってのヌビアンは「ジャストクール」だから、同じく「ジャストクール」なアーティストとブランドを招待したカンジ。確かにヌビアンでは前例のないイベントでしたが、オープン前から大勢のファンに並んでいただき、商品は2時間で完売。ミート&グリート含め、大盛況でした。イベントとしては決して珍しいものではないかもしれないけれど、誰を思い浮かべ、実際コラボ商品を企画した上で来店してもらえるか?については、肌感覚やコミュニティが大事。ネットやAIでも調べられるけれど、言語が違えばニュアンスも違う。そこに私の価値があると思っています。

The post 「インバウンド富裕層のスペシャリスト」を名乗るWIZって一体、何者!? appeared first on WWDJAPAN.

「インバウンド富裕層のスペシャリスト」を名乗るWIZって一体、何者!?

 

海外からのインバウンド富裕層の存在感が増す昨今は、彼らならではのニーズを掴み、商品をアレンジしたり新しいサービスを開発したりが必要だ。そんな中、WIZと名乗る金髪の男性は、自らを「インバウンド富裕層のスペシャリスト」と名乗り、こと中華圏の富裕層とのコミュニティーを拡大しながら、そこで得た知識や人脈を活かし、インバウンド富裕層向けのプロモーションやイベント企画、ブランディングに取り組んでいるという。この男は何者で、日本のファッション業界や富裕層ビジネスに何をもたらしてくれるのか?彼のレジデンスで話を聞いた。

WWDJAPAN:そもそも、あなたは一体何者?

WIZ:台湾で芸能活動をした後、ダンスのインストラクターや振付師、そして男性グループのプロデュースなどを手掛けた。その頃から日本語を学んで2015年、25歳の時に来日。今はアジアの芸能人が日本で、逆に日本の芸能人がアジアで活躍するサポートを行いながら、顧問としてインバウンド富裕層向けのプロモーションや、彼らに向けたブランディング活動などに参画しています。

WWDJAPAN:「インバウンド富裕層のスペシャリスト」としての活動は、どのように始まった?

WIZ:来日後はまず、ナイトクラブで働き始めました。そこで来日したVIPの対応や彼らに向けたプロモーションの必要性を感じたんです。当時は、中国人の“爆買い”が騒がれていた頃。中華圏の人たちは買い物だけではなくナイトライフも楽しみたいと思っていたけれど、「中国語が通じない」や「騙されないか不安」などの問題があり、安心して遊べてはいなかった。彼らに向けたプロモーションやサービス開発は大成功して、クチコミで広がるようになりました。そこで「同じことが、ファッションの世界でも通用するのではないか?」と思ったんです。まずは日本のセレクトショップと一緒に、中華圏からのインバウンド富裕層の来店促進施策をスタート。今は都内のラグジュアリー・レジデンスのプライベートセールスにも携わっています。

WWDJAPAN:今は、どのくらいのインバウンド富裕層と繋がっている?

WIZ:例えば中国ではビザの発給が厳しくなっているなどの理由で、各国から来日する人の流れにはトレンドがあります。だから具体的な数字を言うことは難しいけれど、「数千」と言うところでしょうか?いずれにしても、日本はやっぱり人気の国。これまでの円安はもちろんですが、日本には四季があり、夏の花火や冬のイルミネーションなど、それぞれの季節にイベントが存在しています。食事は、間違いなくアジアで一番。ホテルも都内からリゾートまで、5つ星が多いですよね?安全だから、買い物も楽しい。もちろん政治や訪日施策、各国の状況により流動的ですが、私がアプローチする人や繋がっているコミュニティーはますます増えています。

WWDJAPAN:インバウンド富裕層と繋がる秘訣は?

WIZ:インバウンドへのプロモーションなら、デジタル・マーケティングだと思います。でもインバウンド富裕層へのプロモーションなら、古臭いかもしれないけれど汗をかくことが大事。直接話を聞いて、センスとアイデア、コミュニティの力で楽しんでいただくことを繰り返すのが重要です。

WWDJAPAN:ケースバイケースだと思うが、繋がっているインバウンド富裕層は、日本で何を楽しんで、どのくらいのお金を落としていく?

WIZ:ニセコで雪を見て、京都を楽しんでから羽田や成田から帰国する2〜3週間の間に、宿泊や食事とは別に数百万円の買い物を楽しまれる方は、決して珍しい存在ではありません。確かに中国の経済状況は芳しくはありませんが、それでも大きな国だから富裕層の数は多く、お金を持っている人は今もたくさん持っています。

WWDJAPAN:そんな人たちは、日本での買い物をどう楽しみたいと思っている?販売する側が気をつけるべきポイントは?

WIZ:好みはそれぞれですが、共通するのは、「皆、時間を気にしている」。例えば、もちろんみんな高額品を買ったら素敵にラッピングして欲しいとは思っているけれど、免税手続きも含めて5分なら待てるけれど、20分なら省いてほしい人は大勢います。「ラッピングは?」「免税は?」と、先に聞いておくのがベター。売る側も、買う側もハッピーになれますからね。日本のサービスは丁寧な一方、特に時間がかかり、逆にストレスを感じる人もいるように思います。

WWDJAPAN:今は、セレクトショップのヌビアンと共に、インバウンド富裕層も興味を持ちそうな商品やイベントを企画している。例えば、インバウンド富裕層に向けたヌビアンのブランディングは、日本のファンや潜在顧客に向けたブランディングと何が違う?

WIZ:日本の業界やファンと、インバウンド富裕層では、そもそもヌビアンの捉え方や見方が根本的に異なっています。おそらく日本人は、ヌビアンを「ストリートで、ヒップホップなカンジのセレクトショップ」と捉えているのではないでしょうか?そして「ヒップホップなカンジだから、少し敷居が高い」と思っている人もいるでしょう。でも、インバウンド富裕層にとってのヌビアンは、「ジャストクール(ただカッコいい)」。「ヒップホップだから入りづらい」などの感覚もありません。こうした微妙な感覚、見方や捉え方の違いを把握することが重要です。

WWDJAPAN:そこで2月には、台湾のアーティスト羅志祥(ショウ・ルオ)が手掛ける「ゴットノーフィアーズ(GOTNOFEARS)」のポップアップストアを原宿店で開催した。正直、「ストリート」なヌビアンで芸能人イベントは意外な印象だった。

WIZ:来日コンサートの翌日、当初はインバウンド向けのイベントとして企画しました。インバウンド富裕層にとってのヌビアンは「ジャストクール」だから、同じく「ジャストクール」なアーティストとブランドを招待したカンジ。確かにヌビアンでは前例のないイベントでしたが、オープン前から大勢のファンに並んでいただき、商品は2時間で完売。ミート&グリート含め、大盛況でした。イベントとしては決して珍しいものではないかもしれないけれど、誰を思い浮かべ、実際コラボ商品を企画した上で来店してもらえるか?については、肌感覚やコミュニティが大事。ネットやAIでも調べられるけれど、言語が違えばニュアンスも違う。そこに私の価値があると思っています。

The post 「インバウンド富裕層のスペシャリスト」を名乗るWIZって一体、何者!? appeared first on WWDJAPAN.

沖縄コスメLIST.5 「ヴィランジェ」 亜熱帯地域・特有のカイコから採れる‟美肌シルク“を化粧品に応用

県内外で定評のある“沖縄コスメブランド”を紹介する企画の第5弾。今回取り上げるブランドは、亜熱帯地域に生息する野生種の蚕、エリ蚕(さん)から採れる、しなやかで吸湿性に富んだシルクを用いたコスメブランド「ヴィランジェ(VIRANJE)」。岡松滋美「ヴィランジェ」ブランドディレクターに取材した。

――:ブランドを立ち上げたきっかけを教えてください。

岡松滋美「ヴィランジェ」ブランドディレクター(以下、岡松):弊社の代表は沖縄出身で、「シルク」が主力事業であるカネボウに在籍していたのですが、ある時、野蚕(やさん・天然の蚕のこと)学会の会長から、沖縄で基幹産業になりうる素材がある、それは亜熱帯地域に生息している“エリ蚕”だ、と教えていただいたことがありました。しかも、エリ蚕はキャッサバを餌とするのですが、キャッサバの露地栽培が沖縄では可能だったこともわかり、カネボウから独立した後、沖縄産エリ蚕を使ったシルク事業を立ち上げました。当初は繊維会社としてスタートしたのですが、エリ蚕は化粧品の素材としても非常に適していることがわかり、2018年にコスメブランド「ヴィランジェ」を設立しました。

――:どんな点が化粧品に適しているのでしょうか?

岡松:エリ蚕由来のシルクを私たちは「エリシルク」と称しているのですが、「エリシルク」は一般のシルクとは異なり、スポンジのような細かな穴をもつ多孔質形状が特徴です。肌に負担をかけずに汚れを落せたり、肌の保湿バランスを快適な状態に保ったりするといった機能性があることから、この特性を生かすべく、まずは象徴的な2品を開発しました。

――:それが“プレミアム シルクスポンジ”と“シルクパウダー”ですね。

岡松:はい。“プレミアム シルクスポンジ”は、デリケートな肌に負担をかけず、赤ちゃんや敏感肌のかたでもお使いいただけるスポンジです。こちらは繭の毛羽を活用して、肌あたりを考慮してハンドメイドで成型しています。敏感肌の人の中には、洗浄料を使わずに、こちらを肌に滑らせて顔やボディーを洗うかたもいらっしゃるほどでロングセラーの製品です。

もうひとつ、“シルクパウダー”は18種のアミノ酸が含まれるシルクなのでスキンケア効果に優れているのはもちろん、「エリシルク」特有の多孔質形状が肌のべたつきを吸着してくれるので肌のさらさら感が持続します。メイクのお仕上げはもちろん、就寝前、保湿ケアを施した後、肌にべたつきが残るときにこちらのパウダーを重ねていただくと、さらさらで快適な肌状態でお休みいただけます。100%天然素材なので、このようにスキンケアパウダーとしてお使いいただくことも可能です。

――:“シルクパウダー”は湿度の高いときも重宝しそうですね。沖縄産シルクだけあり、湿度が高く、肌がべたつきがちな沖縄にぴったり。身土不二のスキンケア版と言いますか(笑)。気候温暖化の影響で、全国的に湿度が高い日が増えていることから、多くの人に使っていただきたいアイテムといえますね。

岡松:ありがとうございます。こちらのパウダーは肌を覆う感じがしない、という声もあり、ファンデーションが苦手な人にも人気です。さまざまなシーンで活用いただけると考えています。

――:そのほか、シートマスクや保湿クリーム、固形ソープがラインナップされていますが、特に、固形ソープはキャラメルのような小さいサイズでかわいらしいですね。100円均一ショップで買えるイヤホンケースなどに入れれば携帯できますし、外出先で手洗いする時に重宝しそうです。

岡松:ぜひおすすめしたい使い方ですね! 固形ソープは湿度の高いバスルームなどに置くと、形状が崩れてしまうことがあり、このような小さいサイズに加工しました。保湿成分として食品グレードのオリーブ果実オイル、ヤシオイル、カカオ脂などを配合していまして、手肌はもちろん、顔もボディーもしっとり柔らかに洗い上げてくれます。

――:では、最後に「ヴィランジェ」の今後についてお聞かせください。

岡松:繭は紫外線から蚕の身体を守るために、天然の“UV効果”があります。なので、日焼け止めをはじめとするUVケアを充実させたいと考えています。また、“プレミアム シルクスポンジ”は天然素材への注目からフランスで大きな反響があったこともあり、さまざまなブランドとコラボすることで、世界発信もしていきたいと考えています。

The post 沖縄コスメLIST.5 「ヴィランジェ」 亜熱帯地域・特有のカイコから採れる‟美肌シルク“を化粧品に応用 appeared first on WWDJAPAN.

三宅健が写真集「THE iDOL」で見せた“虚像とリアルの狭間”“——制作背景を語る

PROFILE: 三宅健/アイドル

PROFILE: (みやけ・けん)1979年7月2日生まれ。神奈川県出身。2023年7月、表現者として、新たなエンターテインメントの形に挑戦していくこと、そして新たな「アイドル像」を描いていくことを表明した。24年6月5日にリリースしたアルバム「THE iDOL」は豪華アーティストによる提供楽曲と進化し続ける三宅健の表現力をKEN MIYAKEの表現力を詰め込んだ表情豊かなアルバムとなっている。

デビューから30年。常に“アイドル”という存在を体現し続けてきた三宅健が、自身の原点をテーマに掲げ、自らクリエイティブディレクションを手がけた写真集「THE iDOL 三宅 健 写真集」(パルコ出版)が発売された。さらに写真集の刊行を記念して、渋谷パルコの「PARCO MUSEUM TOKYO」で、写真展「KEN MIYAKE PHOTO EXHIBITION “THE iDOL”」が開催中だ。

写真集は、写真家・小見山峻と草野庸子、スタイリスト・TEPPEIとともに、「虚像とリアルの狭間」をテーマに制作。展示では、写真集未収録のカットや展示限定のコラージュ作品、オリジナルグッズの販売なども展開する。

“被写体・三宅健”が浮かび上がらせる、新しいアイドル像。その裏側にある想いや制作背景を、三宅とスタイリングを手掛けたTEPPEIにじっくり語ってもらった。

「虚像とリアルの狭間」を捉える

WWD:今回の写真集は、いつ頃から構想していたのでしょうか?

三宅健(以下、三宅):写真集については、2年ほど前から考えていました。ちょうど「三宅健」として、新たな活動を始めるタイミングでもあって。長年、親交のあるスタイリストのTEPPEI君とお寿司屋さんで食事をしているとき、「自分自身を作品にできたらいいな」って話をしていて。その中で「虚像とリアルの狭間」をテーマにしたいと伝えたら、TEPPEI君が「やりましょう」と即答してくれて。そこから、今回撮影をしてくれた小見山さんの名前がTEPPEI君から挙がりました。

TEPPEI:お寿司屋さんで健さんと話していて、僕が知っている健さんはここにはいるんだけど、皆さんが知っているのは表に出ている三宅健さん。それで、この方どこの世界線で生きてるんだろうっていうのは常にあって。実際に彼が常にアイドルとして人生を歩み続ける中で、本当の健さんっていうのはどこにいるのか。そんな話からこの「虚像とリアルの狭間」というワードが出てきたんです。それで、実際に現実世界を少しファンタジックに撮影できる写真家として、小見山さんを提案しました。

WWD:それまで、三宅さんは小見山さんとはお仕事をされたことは?

三宅:僕自身は仕事をしたことはありませんでした。TEPPEI君から、「虚像とリアルの狭間」を捉えられる写真家として紹介を受け、「それならお願いしてみよう」という流れになりました。

WWD:もう1人、草野庸子さんも撮影を担当されていますよね?

三宅:草野さんは小見山さんからの提案でした。小見山さんが“虚像”を撮影し、草野さんが“リアル”、つまり撮影の裏側を記録するという形で進めました。本当は最初にTEEPI君と話してすぐに撮影を始めたかったのですが、準備や各所の調整などもあって、実際に撮影を開始したのは昨年7月でした。

TEPPEI:理想を言えば、本当は毎月とか毎週とか、定期的に撮影できるのがベストだったんですよね。でも、現実的にはなかなか難しくて……。このプロジェクトが始まった時は、ちょうど健さんの誕生日(7月2日)を起点に、1年かけて撮影する構想もあったんです。

三宅:もともとは、7月2日の僕の誕生日から日付を入れて撮影していくというアイデアがあって。でも、いろいろな事情があってスケジュール通りにはいかなくて。それでもようやく、去年の夏にプロジェクトが動き出した感じです。

WWD:小見山さんに撮影をお願いする際、何かリクエストはしたんですか?

三宅:タイトルは最初からアルバムと同タイトルである「THE iDOL」と決めていて、30年間アイドルをやってきた自分が、改めて “被写体”になることに意義を話しました。その上で、「虚像とリアルの狭間」というコンセプトも共有しつつ、これは僕の楽曲「悲しいほどにアイドル」の一節ともリンクしているテーマであることや、写真集のタイトルが過去にリリースした同名のアルバムとも一緒で、それとも繋がっているとか、そういう話はしましたね。

WWD:写真展の構想は、写真集の企画段階からあったのでしょうか?

三宅:いえ、最初はまったく予定していませんでした。当初は自社出版でオンライン販売だけで完結させるつもりでした。でも、アートディレクターのYARの横山さんという方が「三宅さんが普段話していることや考えていることは、もっと多くの人に知ってもらうべき」と言ってくださって。

それで、自社だけで完結せず、もっと広く展開できる方法を探る中で、パルコ出版さんから出版のお話をいただいて。それで横山さんが「写真展という形で多くの人に見てもらった方がいい」と背中を押してくれて、写真展も開催することになりました。

WWD:写真展で展示される作品は、三宅さんご自身でセレクトされたんですか?

三宅:全体の監修は僕がしていますが、2人の写真家の作品でもあるので、写真のセレクトは小見山さんと草野さんが中心にやっています。もともと写真集は148ページで構成する予定でしたが、最終的に128ページに落ち着いたので、掲載しきれなかった未公開写真も展示しています。

あと、このコラージュ作品は展示限定です。写真集は写真集で完結しているものなので、違う形で、より広がりを感じられる見せ方ができないかと考えて、このような展示構成にしました。

コンセプチュアルなスタイリング

WWD:TEPPEIさんは、今回の写真集のスタイリングで特に意識したことはありますか?

TEPPEI:写真集とは言っていますが、僕らの感覚としては「作品集」に近いです。健さんが“被写体”であることはもちろん、彼の生き方そのものを映し出す作品だと捉えていましたし、健さんが細いところまでディレクションをしている。そこに写真家の2人の考えもあって。その中で、ファッションがどういう役割を果たすかっていうことを考えてスタイリングは構成しました。

それで、普段のファッション撮影とは違って、かなりコンセプチュアルにスタイリングしました。皆さんが知っている“アイドル三宅健”というイメージを少し超えて、彼のあり方そのものが見えるようなスタイリングを目指しました。

この写真集では、彼がどこに存在しているか、ロケーションも結構重要なんです。例えば、あのカット(三宅さんの後ろのカット)は、渋谷パルコの下で突発的に撮影したものなんですが、健さんが寝起きのようなラフな雰囲気で行列に並んでいるんです。ちょっとファンタジーっぽさもありつつ、実際に起きているリアルな状況なんです。

三宅:そう、これは本当に偶然のショットでした。撮影時にたまたま人がたくさん並んでいて、皆さん他の目的があるから僕の存在には一切気づかない。ほとんどの人が前を向いている中で撮影することは、なかなか貴重なんです。だから「今しかない」と思って、そのまま列に並んで撮影しました。

TEPPEI:他にも、広場で寝転がっているカットなんかもあるんですが、そんなこと実際にはあり得ない。でも、あえて架空のストーリーをリアルに落とし込んで、小見山さんがその世界観を切り取っている。そういう“虚構と現実の狭間”をどう表現するかは、今回すごく大事なテーマでした。

三宅:現実をちょっとだけファンタジックに演出する。非現実をどうリアルに捉えるか。そういうことを、みんなで試行錯誤しながら撮影していました。

WWD:ちなみに、この場面(渋谷パルコの下)で撮影していても気づかれなかったんですか?

三宅:まったく気づかれなかったですね。

TEPPEI:周囲の人たちは完全に別のことに集中していて(笑)。だからこそ、ファッションの存在感が立っていないと意味がない。今回はいろんなブランドさんにもご協力いただいて、一部は僕の持っているアーカイブなどもミックスして、成立させています。

写真展の見どころは?

WWD:今回の展示で、三宅さんのお気に入りのカットはありますか?

三宅:一番は難しいですね……。でも、さっきも話したコラージュ作品はすごく気に入っています。なので、展示でも奥のスペースに配置しています。

TEPPEI:あのコラージュは、小見山さんと草野さん、2人の写真を組み合わせて作られているんですよ。モノクロ部分が草野さん、カラー部分が小見山さんという構成です。

三宅:今回の展示は、僕の写真展であると同時に、小見山さんと草野さん、そしてTEPPEI君の写真展でもある。そういう意味を込めて、コラボレーション感のある構成にしました。

WWD:小見山さんや草野さんと実際に一緒にお仕事をしてみてどうでしたか?

三宅:2人ともフィルムで撮っているので、現場ではどんな写真が撮れているのか全然分からないんですよね。それが逆に面白くて。仕上がりを見るまでドキドキしてました。実際に大きく出力された2人の写真はとても素敵でした。

TEPPEI:当たり前ですけど、同じ空間にいて、同じ時間に撮影しているのに、2人が撮る写真の“切り取り方”がまったく違っていたのも興味深かったですね。

三宅:当初考えていた小見山さんが“虚像”、草野さんが“リアル”を撮影するという構想の通りの仕上がりになりました。だからこそ、写真集では写真の並べ方のバランスをすごく考えました、何度も並びを変えてみて、やっと今の形になった感じです。実際は、2冊分くらいの写真のレイアウトが存在して。本当はもう1冊出してもいいくらいのボリュームなんです。

それで写真集の表紙も両A面のような作りにしています。表側が小見山さん、裏側が草野さんの作品。どちらから読んでもいいし、どちらも“表紙”っていう感覚で作っています。

WWD:今回のグッズもかなり充実している印象ですが、おすすめは?

三宅:アクリルキーホルダーのガチャガチャですね。全10種類あるので、集めてみてほしいです。あと、今回初めて展示作品の写真販売もしています。僕の写真が販売されるのは初めてなので、かなり貴重な機会だと思います。

TEPPEI:三宅さんの写真が販売されるって、本当に特別ですよね。ファンにとっては絶対に見逃せないと思います。

「アイドル」として活動する

WWD:タイトルに「アイドル」と入っている今回の写真集。昨年のアルバムと同じタイトルですが、三宅さんが考える“理想のアイドル”とは?

三宅:アルバムのリリース時にもお話ししましたが、グループを離れた時点で、アイドルとしての活動を終えるという選択肢もありました。でも僕は、もう一度“アイドル”と向き合おうと思ったんです。活動を再開する前に、「アイドルってそもそも何だろう」と考えて、辞書で調べたんです。そしたら、出てきた言葉が“幻想”と“偶像”でした。その時、僕はその言葉を「アイドルは、何者でなく、何者にでもなれる存在だ」と解釈しました。「アイドルって、何にでもなれる存在だな」って。

“幻想”や“偶像”って、何層にもイメージが重なっていくものですよね。それってまさに、アイドルという存在を象徴していると思います。だから僕は、「表現者」や「アーティスト」としてではなく、あえて「アイドル」でいたいと思った。その言葉が、僕にとって一番しっくりくるんです。

WWD:今後、やってみたいことはありますか?

三宅:「アイドル」という題材は、一つのコンセプトとしてまだまだ掘り下げられると思っています。だから、もう少し探求していきたいですね。アイドルという存在が持つ奥行きや可能性を、もっと表現してみたいんです。

WWD:三宅さんはアートがお好きですよね。ご自身がアーティストとして作品を発表したいという思いはありますか?

三宅:今回の写真展は、ある意味“アート作品”だと思っています。なので、そういった活動につながっていけたら面白いなと思っています。もちろん興味はありますよ。

WWD:ご自身で写真を撮ったり、絵を描いたり、そういった創作活動も視野に?

三宅:写真も好きですし、絵を描くのも好きです。でも、まだ具体的に「自分が手を動かし作品を発表する」とまでは考えていません。僕が撮った写真なんて、世の中に出せるレベルじゃないですし(笑)。

TEPPEI:でも、三宅さんの写真、きっと面白いと思いますよ。僕はぜひ見てみたいです。

PHOTOS:MIKAKO KOZAI(L MANAGEMENT)

「KEN MIYAKE PHOTO EXHIBITION “THE iDOL”」

■「KEN MIYAKE PHOTO EXHIBITION “THE iDOL”」
会期:2025年4月11日〜5月6日
会場:パルコミュージアム トーキョー
住所:東京都渋谷区宇田川町15-1 渋谷パルコ4F
入場料:1000円(入場特典付)
時間: 11:00〜21:00 (最終日は11:00〜18:00)
※入場は閉場時間の30分まで(20:30に入場締切。最終日は17:30に入場締切)
※事前予約・日時指定制。詳細は「入場券情報」で要確認。未就学児入場無料。大人1人につき未就学児1人まで無料入場可能。小学生以下の子どもは必ず保護者同伴(18歳以上)で入場(同伴の保護者有料)。
https://art.parco.jp/museumtokyo/detail/?id=1678

The post 三宅健が写真集「THE iDOL」で見せた“虚像とリアルの狭間”“——制作背景を語る appeared first on WWDJAPAN.

「産地はひとつ」 補助金に頼らない「ひつじサミット尾州」の仕掛け人が描く道筋

PROFILE: 岩田真吾/三星グループ代表

岩田真吾/三星グループ代表
PROFILE: 1887年創業の素材メーカー「三星グループ」の五代目アトツギ。慶應大学を卒業後、三菱商事、ボストンコンサルティング グループ(BCG)を経て2010年より現職。欧州展開や自社ブランド立ち上げ、ウール再生循環プロジェクトReBirth WOOL、産業観光イベント「ひつじサミット尾州」、アトツギ×スタートアップ共創基地「タキビコ(TAKIBI & Co. )」などを進める。2019年ジャパン・テキスタイル・コンテスト経済産業大臣賞(グランプリ)を、2022年「フォーブス ジャパン」 起業家ランキング特別賞をそれぞれ受賞。個人としてAB&Company(東証GRT9251)社外取締役、認定NPO法人Homedoor理事、神山まるごと高専起業家講師、フィンランド政府公認サウナ・アンバサダー等も務める。PHOTO:KANA KURATA

「ひつじサミット尾州」立ち上げのきっかけと背景

WWD:オープンファクトリーを軸とした産業観光イベント「ひつじサミット尾州」を企画した背景は?

岩田:きっかけはコロナ禍です。それまでも「産地のみんなが協力した方がいい」ということは頭では理解していましたが、心の奥では、それぞれの企業が自己責任で経営し、自社の収益最大化を目指すものだと考えていたため、産地全体ではバラバラな状態でした。僕自身も例外ではありません。ただ、コロナ禍で産地全体の売り上げが半減し、危機感が現実のものになりました。たとえ自社が生き残っても、糸屋がなくなればモノづくりはできない。染工所がなくなれば、やはり製品は作れない。他の機屋(はたや)が減れば、糸屋や染工所の仕事も減って共倒れしてしまう。産地全体がつながっていることを、初めて心理的にも実感しました。

しかし、百年以上別々に存在してきた会社同士が、いきなり合併して共同事業を始めるのは現実的ではありません。だからこそ、まずはお互いをもっとよく知る機会を作ろうと考えました。せっかくなら内輪だけで終わらせず、実際に生地を使ってくださるお客様、つまり「使い手」と「作り手」がつながる場にしたいと考え、「オープンファクトリーを開こう」という話に至りました。

WWD:関係を取り戻す、“ほぐし”の感覚があったのでしょうか?

岩田:それは非常に重要だったと考えています。遠回りに見えるかもしれませんが、産地を一つにまとめ、DX(デジタルトランスフォーメーション)を進めるうえでも不可欠なプロセスでした。振り返れば、この取り組みが最短ルートだったと思います。

WWD:なぜそう思えたのですか?

岩田:2015年に自社ブランドを始めたことがきっかけです。海外のラグジュアリーブランドに生地を使ってもらう中で、「自分たちの生地には価値がある」と手応えを感じていましたが、同時に「使い手はどんな思いで使っているのか」を知りたくなり、工場を案内するようになりました。すると、自社工場だけを見てもらうのはもったいないと感じ、協力してくれている糸屋にも声をかけるようになりました。

点ではなく面で見てもらう方が使い手にとって良いと気がつき、お客さんを自社に囲い込むのではなく、「他の機屋に行ったとしても三星のファンが減るわけではない」、「産地全体への関心が広がるはずだ」と考えが変わりました。そのタイミングで、コロナの直撃です。

三星毛糸の生産体制、元食堂で社内での織りを再開

WWD:オープンファクトリーにより提供できる価値がある、とまずは自社のビジネスを通じて実感があったのですね。その三星毛糸のモノづくりについて教えてください。

岩田:三星毛糸はその名の通り、もともと紡績の会社でした。そこから織りに進出し、自社で全量を織るようになりましたが、時代とともに専属の協力工場に織ってもらうスタイルに移行し、企画に特化する体制を築きました。僕が社長に就いた2010年頃には、すでに100%が業界用語で言うところの出機(でばた)さん、つまり協力工場での生産となっており、高齢化が進み、小規模なところが多いため自社で若手を採用・育成するのは難しい状況でした。

弊社で雇用した社員を協力工場に派遣して支援する取り組みも行いましたが、コロナ禍で一段と厳しくなり、協力工場だけに頼るのは限界が見え始めました。この状況を受け、空いていた元食堂スペースを活用して社内での織りを再開する決断をしました。最初はサンプル工場程度の規模で考えていました。織れるか不安だったので、試しに織機を3台だけ導入しましたが、生産計画を見直し、現場でコミュニケーションを密に取ることで、意外と量産が可能だという手応えを得ました。

たった3台から始めた取り組みが、今では主力工場の一つとなり、欧州ラグジュアリー向けの生地も織るレベルに成長しています。今後はこの社内工場をさらに強化していく方針です。

WWD:スタッフはどのように採用したのでしょうか。

岩田:協力工場から来てもらう場合もあれば、自社採用して育てる場合もあります。

WWD:使用しているレピア織機は高速織りが可能ですが、作業風景からは職人による手作業のように見えました。

岩田:レピア織機はションヘルやシャトルに比べれば高速ですが、実際はほとんど手織りに近いスピードで織っています。ウールの糸はそのくらい丁寧に織った方が風合いが良くなる。尾州にはションヘルのイメージを持つ方も多いですが、レピアを丁寧に使って生地を織るのも非常に良いやり方だと考えています。

WWD:製品の何パーセントを自社内で織っていますか?

岩田:今は生地の3割ほどと、増えてきました。これは現場のメンバーが機械の知識を熱心に学び、生産効率向上に精力的に取り組んでくれた結果です。さらに、長年支えてくれた協力工場の方々も協力してくれていて、工場を辞めた方が技術を教えに来てくれるなど、支え合いによって自社生産比率がここまで伸びています。

「ひつじサミット尾州」の成果

WWD:持続可能な産地をめざして2021年にスタートした「ひつじサミット尾州」ですが、昨年の成果を振り返ると?

岩田:集客人数は少し減り、約1万2000人でしたが、売り上げは2000万円近くまで伸びました。人数が減ったのは天候不良で駅前イベントが中止になった影響ですが、各工場を訪れた人の数は増え、本気で生地や糸、製品を求めてくれる方が確実に増えました。ファンが着実に増えていると実感しています。4年続けてきて本当に良かったです。

WWD:YouTubeで公開している振り返りムービーが印象的でした。参加企業の言葉をつなぐ中、岩田さんは登場していませんでしたね。そこがまた良かったです。

岩田:成果物を通して消費者に親近感を持ってもらうことが大切です。同時に、当初から掲げていた「産地内をつなぐ」という目標にも確実に貢献できたと思っています。

WWD:「つないだ」成果はどこに出ていますか?

岩田:たとえば今年の「ひつじサミット尾州」の実行委員長を務める伴染工の伴昌宗社長とは、これまで取り引きがありませんでしたが、今回新たに取り引きが始まりました。

WWD:今までなかったことが、外から見ると意外です。

岩田:産地内でも全員が知り合いというわけではなく、名前は知っていても話したことがない相手は多くいますよ。競合関係というより、互いに話しかけるきっかけがなかっただけで、心理的なハードルがあったのが実情。「ひつじサミット尾州」のような場があることで、雑談ベースで「実はこんなことを考えている」と気軽に相談できるようになり、そこから具体的なビジネスの話が生まれやすくなっています。

また、経済的な効果に加えて、最近は企業が社会課題に向き合うこともますます重要になっていますが、産地でもこうした動きが進んでいます。今年6月6日には「ひつじサミット尾州」として産地全体の勉強会を開催する予定です。テーマはサステナビリティ認証で、オーガニック繊維の国際基準であるGOTSや、ウールのRWS(レスポンシブル・ウール・スタンダード)などについて、認証取得の窓口担当者を招き、学び合います。これらの認証は機屋だけでは取得できず、糸屋や染屋との連携が不可欠なため、産地全体で取り組む意義があります。イベントを賑やかに開催するだけではなく、こうした実践的なアクションを積み重ねることで、経済的な価値にも確実につなげています。

WWD:勉強会の対象は?

岩田:「ひつじサミット尾州」参加企業が中心ですが、産地に関わる人なら誰でも参加できるようにします。他地域の参加も歓迎です。カジグループの梶政隆社長とは、北陸と尾州で連携して総合的な勉強会をやろうと話しています。こうして産地間のつながりが広がってきているのを実感しています。

WWD:産地の課題である後継者不足にもイベントは生かせそうですか?

岩田:最近は採用にも各社で少しずつ効果が出てきています。ただ、3年経つと入社した若手が辞めてしまうケースも出てきており、産地全体で課題意識が高まっています。一社で採れる人数が少ないため、同期がいないことで孤立感が生まれやすく、また小規模なため十分な研修制度も整えにくい状況です。そこで、たとえば繊維品質管理士の資格取得を目指し、産地内で横断的に教え合う仕組みを作ろうとしています。

また、実際の製品づくりだけでなく、働き方の面でも総務や人事といった管理部門の強化にも力を入れ、勉強会を開くなど地道な取り組みを続けています。まだ土曜日勤務が多い現状を見直し、TOYOTAカレンダーのような土日休みを基本とする形に近づけようとしています。今年のひつじサミット実行委員会を務めている企業とも、そうした取り組みを共有しながら進めています。

補助金に頼らない運営による自由度と課題

WWD:補助金はどのように活用していますか?

岩田:「ひつじサミット尾州」はボランティア組織でして、初年度の一宮市100周年の補助金をのぞき、現在は補助金に頼らず運営しています。僕らが“マジックタイム”を使っていて時々「これ、部活かな?」みたいな冗談を言っています。

毎年予算500万円の規模で開催していますが、同規模のイベントは通常800万〜1000万円ほどの補助金を受けて運営しているものが多い中で、僕たちは参加企業からの参加費と、一部企業からの協賛金だけでやりくりしています。参加費は企業規模に応じて5万〜15万円で、協賛は豊島、瀧定名古屋、モリリン、今年はタキヒヨーも加わり、さらに地銀からも支援を受け、ようやく成り立っている状態です。

WWD:地域活性は補助金ありき、と思い込んでいました。

岩田:普通、そう考えますよね。最初に立ち上げた時は、コロナ禍で「お金をかけずにつながろう」という想いが強く、プロジェクトを通して産地内の仲間をつなぐことを重視したので、代理店に依頼する形にはしたくありませんでした。最初のプレ開催のときは経産省や愛知県、岐阜県、一宮市から後援は受けていて、それは公式な後ろ盾があることで参加者や工場側が安心できるだろうと考えたためです。

もし補助金をもらっていたら、コロナの緊急事態宣言下で開催を中止せざるを得なかったかもしれませんし、今のようにオープンファクトリーからデジタル支援や認証取得支援などに自由に発展させることも難しかったと思います。自由度の高い現在の運営形式は、結果的に良かったと考えています。ただ、回を重ねるごとに運営メンバーの疲労も見えてきており、今後サステナブルな形にするにはどうすべきかをみんなで議論しているところです。

WWD:福井県鯖江市で15年に始まったオープンファクトリーイベント「RENEW(リニュー)」は、実行委員会形式から社団法人化する流れがありますよね。

岩田:そういった形も参考にしながら検討していく必要があります。

WWD:官と民の連携についてどう考えますか?

岩田:行政との連携も重要だと考えています。例えば富士吉田市の成功事例を見ると、官の側にもメリットを作り出し、自然に巻き込んでいくことが必要です。僕たちも、たとえばFDC(ファッションデザインセンター)との連携を通じて、一宮市、羽島市から参加費を、地銀からも協賛金をいただくなど、少しずつ官側との関係を築いてきました。ただ、全体を運営する補助金はもらっていないので、自由度の高い活動ができています。

これからも無理に税金を使うのではなく、地域にとって本当にメリットがあると認められるような活動を続けることが大切だと考えています。

WWD:山梨県富士吉田市の「ハタオリマチフェスティバル」は観光課である富士山課がリードしています。産業観光としての可能性は?

岩田:特に尾州の場合は観光誘致よりも、地域産業の活性化と雇用創出の方が重要で、働く人口を増やし、地域の税収に貢献することが本質的な目標だと思っています。強い地域産業があることはシビックプライドにもつながる。だからこそ、今後は観光だけでなく、地域産業全体を巻き込む総合連携をさらに強めていきたい。

アトツギとして。コンサルでの経験が生かされる

WWD:岩田さんご自身のリーダーシップについて伺います。三菱商事やボストンコンサルティンググループでの経験は、今回の地域プロジェクトにどう生きていますか?

岩田:コンサルやビジネスの現場で培ったスキルは確実に役立っています。たとえば、資料作成やプレゼンテーション、プロジェクトマネジメント、目標設定、タスク割り振り、定例ミーティングの運営、議事録作成といった基本スキルです。「ひつじサミット尾州」の初年度はコロナ禍で時間もあったため、しっかりと運営の「型」を作ることができました。これらは過去の経験を活かした結果です。

「ひつじサミット尾州」を立ち上げるにあたって、富士吉田「ハタオリマチフェスティバル」や鯖江「リニュー」や新潟・燕三条「工場の祭典」、大阪・八尾「ファクトリズム」、京都・五条坂など、他地域のオープンファクトリー事例を事前に徹底的に調査しました。各地でどのくらいの人数を動員し、どのくらいコストをかけ、どんな運営体制を敷いているかをインタビューし、情報を整理してから立ち上げに臨みました。何もないところから始めたわけではなく、成功事例をベンチマークしたうえで、自分たちに合ったやり方を抽出して進めたプロジェクトです。

跡継ぎとしての覚悟と物語の継承

WWD:「アトツギ」について、どのように考えていますか?三星の跡継ぎとしての覚悟や希望を教えてください。

岩田:僕がカタカナで「アトツギ」と書くのは意図的です。昔ながらの「跡継ぎ」というと、親の七光りやボンボンというイメージ、あるいは借金を引き継ぐかわいそうな存在というネガティブな印象がありました。でも今、カタカナの跡継ぎは、積極的に家業や地域の資産を新しい視点で再編集し、新たな価値を生み出していく存在だと思っています。偶然この立場にいるなら、それをポジティブに捉え、明るく堂々と発信していきたい。

正直、悩みながらやってきました。僕は社長になって15年になりますが、その間に事業の一部撤退も経験しました。いろいろなことがありましたが、仲間たちと話していると、事業が変わること自体はむしろ正しいアクションだと思うようになりました。時代の変化に応じて事業を変えていかなければ、逆に生き残ることはできない。例えばトヨタも、もともとは織機の会社だったのが、自動車産業に進出し、今ではまちづくりにも取り組もうとしています。僕たちも、繊維という軸そのものは変わらないかもしれませんが、大量生産・大量消費型のものづくりから、適時適量のものづくりへとシフトしていく必要があります。事業とは変わり続けるものだと考えています。

僕は、事業や社員、資本そのものではなく、「物語」を継ぐことが跡継ぎの本質だと考えています。事業は時代に合わせて変わるし、社員も変わる。会社の名前や株主も変わるかもしれない。でも、創業から続く精神や価値観、積み重ねてきた歴史や文化こそが継ぐべきものです。1887年創業の三星毛糸の場合、創業者が女性だったことは、今でいうダイバーシティの精神につながっているし、上皇陛下が来訪されたことは、開かれた姿勢を象徴しています。そうした物語を未来につなぎ、さらに豊かにしていくことが、跡継ぎとしての自分の役割だと考えています。もちろん、残せるものは残したいですが、変わること自体を恐れるべきではない。

業界の若い世代がプライベートで行きたくなるイベントに

WWD:業界関係者の多くが週末にプライベートで参加していたのが印象的でした。

岩田:「ひつじサミット尾州」はアパレル業界の人たちにまだまだその存在を知られていません。BtoBの産地なので、商売につなげたい気持ちは当然ありますが、それ以上にまずは見て欲しい。昔は尾州にも多くのアパレル関係者が訪れていました。父親の時代には、頻繁に足を運んでいたと聞きますが、消費の縮小とともに来訪者が減ってしまいました。

しかし、実際に来てもらうと違います。例えば、テキスタイル展示会に行っても生地サンプルは数百点しか触れませんが、三星毛糸のテキスタイルライブラリーには6000点以上もの生地が揃っていて、じっくり話をしながらアイデアを広げることができる。染色工場に行けば「こんな加工ができるならこうしてみよう」という新たな発想も生まれます。

出張費を増やすのは難しいかもしれません。それもありアパレル業界の若い世代がプライベートでも行きたくなるようなイベントを目指しています。BtoCで評価されるなら、アパレルの人にも自然と足を運んでもらえるはず。そういう時の方が、学びも深くなると感じています。

WWD:産地に足を運んだことがないアパレル関係者の方が今は多い。

岩田:そもそも普段から国内の生地を使っていなければ、わざわざ見に行こうとはならない。だからこそ、国内生地への関心そのものを増やしていかないといけない。現状、多くのアパレルは商社や卸を通して尾州の生地を仕入れていますが、アパレルの担当者が直接工場を見に来て、現場で指名買いする流れが生まれれば、尾州の地位はもっと上がっていくはずです。

潜在的には「尾州の生地を使ってみたい」と思っているアパレルやデザイナーはかなりいる感触です。ただしアポを取って工場訪問するのは心理的なハードルが高い。だからこそ、公式ホームページなどを見て直感的に「ここに行ってみたい」と思ってもらい、気軽に見学できるような仕組みを用意するべきです。

名刺交換ができる場も設ければ、初めての人でも自然に関係を築ける。そもそも尾州の生地を使っていない人たちにとって、そうしたカジュアルなきっかけをつくることが重要です。

WWD:潜在的なニーズは感じている?

岩田:はい。「オーラリー(AURALEE)」のようなブランドが海外バイヤーからも評価されていることで、尾州の認知度も着実に高まっています。まだまだ尾州が役立てる余地は多い。とはいえ、普通にしているだけではメーカーが急に生地を買ってくれるわけではないので、きっかけづくりを意図的に設計することが必要です。

WWD:若い人たちが働き場所として尾州に来て得られることとは?

岩田:ウールの生地を作りたいなら、尾州ほど環境が整った場所はありません。もちろん、シルクなら桐生ほか、コットンなら遠州や泉州、デニムなら福山など、それぞれ適した産地はありますが、ウールへの愛着があるなら尾州は最適です。アクセスも良く、日本のほぼ中央に位置しているので、全国の産地とのつながりも作りやすい。もちろん東京に住んでいれば情報量は多いかもしれませんが、さまざまな地域とつながる拠点として、尾州はとても有利な立地で産地の結節点になりつつあります。繊維の道を志す若い人たちにとって、尾州はキャリアを築くうえで非常に良い場所です。

まず日にちを決めてイベント実施を宣言してしまおう

WWD:これから同じような取り組みを目指したいと思っている他の産地に向けたアドバイスは?

岩田:まずは現状を正しく把握して理解すること。そして、もう一つ必要なのは強いリーダーシップです。この二つは欠かせません。そのうえで、僕はとにかく一度やってみることが大事だと思う。難しいことは考えず、まず日にちを決めて「この日にオープンファクトリーをやります」と宣言してしまうのがいい。ホームページを一つ作るだけでもいいし、インスタグラムでアカウントを立ち上げるだけでもいい。工場は一つよりも複数で参加した方が来場者にとっても魅力的になるので、できれば何工場かで連携してオープンにすると効果的です。

動いてみて初めて「何が足りなかったのか」「何を整えればよかったのか」が具体的に見えてきます。もしもう一歩踏み込むなら、既存のオープンファクトリーイベントを一度訪れてみることを勧めます。異業種の事例でも十分学びがあります。とにかく一度、実際に足を運んでみること。そして、一度やってみること。コロナ禍は、そうした行動のハードルを一段下げてくれたと思っています。

The post 「産地はひとつ」 補助金に頼らない「ひつじサミット尾州」の仕掛け人が描く道筋 appeared first on WWDJAPAN.

敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 Vol.2 【イマドキの“ラグジュアリーマーケティング”】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。2回目は、時代とともに変化する“ラグジュアリーマーケティング”について。

ラグジュアリーを伝えるPRのあり方

南奈未:ファッション業界に長く携わってきましたが、デジタルファーストの現代におけて、ラグジュアリーファッションのマーケティングの考え方は大きく変化しています。そもそも“マーケティング”とは、消費者のニーズをブランドの商品やサービスに反映させ、自然に売れる流れを設計すること。ですが、これがラグジュアリーファッションだと顧客のニーズだけではなく、デザイナーのクリエイションが土台にあるので、一般的な量産型商品とは異なります。すべてではないですが、矢印がボトムアップというよりトップダウンの時もよくあります。例えば、ファッション・ウイーク中に発表されるものはデザイナーの個性やメッセージ性が色濃く表れていることが多く(昨今は消費者の顔色を伺ったコマーシャル寄りのものを発表しているコレクションも多くなりましたが)、そこから時代やトレンドを創造していき、消費者にぶつけていく。また、メディアがさまざまな切り取りをしていますね。

商品が店頭に並ぶ約半年前に行われるファッションショーは、最新コレクションを初披露する重要な場。20年前は主に百貨店バイヤーやモード誌編集長、VIP顧客など、世界中の限られた人数だけを招待するものでした。彼らの反応や意見を聞いては実際に販売するもの、しないものを取捨選択する場合もありました。だから、発表まで情報解禁されることはタブー。今のように、会場からのSNSを通じたリアルタイムの配信や投稿なんて全く想像もしなかったですよね。われわれPRもコンセプトなんて直前までまったく共有なんてされないから、よくショー終了後のバックステージに入り込んで、ジャーナリストたちのインタビューに応えるデザイナーの言葉をこっそり聞いて理解を深めたものです。思えばスッと気配を消す術を習得したのはそのころから(笑)。目立たなければ摘み出されることもないでしょ?

“ラグジュアリーファッションのマーケティング”は別格の概念

最近は、猫も杓子も「マーケティング」。果たして本来の意味を理解している人がどれほどいるのかと疑問に思うことがあります。商品もサービスもラグジュアリーブランドにおいては、仕組みや概念も別ものです。デザイナーがアーティスティック・ディレクターやクリエイティブ・ディレクターと呼ばれるようになったこの20年。ファッションだけじゃなく、アートやカルチャーに精通した多才なデザイナーがクリエイティブチームのトップとして、広告ビジュアルやショーの見せ方、コラボレーションなどを指揮することが主流になってきました。ブランドの世界観を伝えるには、洋服やバッグをデザインするだけでは不十分なのでしょう。ブランド間の競争が激化するほど、より多くの引き出しを獲得してどう魅せるのかがポイントになってきています。ラグジュアリーブランドは売り物が商品だけではありません。クリエイティブ・ディレクターはメゾンの歴史やアーカイブ、熟練の職人技を理解し、モダンに再解釈していきます。今のライフスタイルには、何が必要なのか。どんなウエアやバッグがスタイルを輝かせるか。それらのクリエイティビティーに見合う価格やサービスは、やはり従来のマーケティングとは違う特別な考えだと思います。常に変化する時代に沿って2歩、3歩先を行かなければならないので大変ですね。今は2歩、3歩じゃ足りないかも!

ただし、その“ラグジュアリーマーケティング”もまた変化を遂げています。ソーシャルメディアが普及してからは、世代を問わず、消費者の審美眼はどんどん鍛えられています。ここ5年ほどはラグジュアリーブランドもその世界に消費者を誘おうと、展覧会やポップアップストアといった一般の方も入れる間口の広い体験型イベントでブランドの新しい価値観や魅力を提供してきました。ただ、選択肢やSNS上のトレンドがあまりに多様化した今、従来の手法では物足りなさを感じる人も出てきているかもしれませんね。5月11日まで開催中の「ロエベ(LOEWE)」初の大展覧会(“ロエベ クラフテッド・ワールド展 クラフトが紡ぐ世界”)は、ブランドのヘリテージやクラフツマンシップを今っぽくモダンに仕上げていて一見の価値あり。ジブリファンの心も鷲掴みです!

最近はクリエイティブ・ディレクターの交代劇が盛んですね。ブランドの次なる価値を示す新しいマーケティングへの転換期に差し掛かっているかもしれません。

The post 敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 Vol.2 【イマドキの“ラグジュアリーマーケティング”】 appeared first on WWDJAPAN.

BeReal CEOエメリック・ロフェが来日 関西コレクションのメディアパートナーとして参加

2020年にフランスで生まれたBeReal(ビーリアル)は、ユーザーの8割以上がZ世代であり、昨年6月にゲーム会社Voodooに買収された。現在CEOとして舵を切るのは、VoodooでSNS関連サービスをけん引してきたエメリック・ロフェ(Aymeric Roffe)だ。3月にファッションイベント、KANSAI COLLECTION 2025 SPRING & SUMMERとのパートナーシップを結び、更なる日本市場での強化を目的に初の来日を果たしたエメリックCEOに話を聞いた。

PROFILE: エメリック・ロフェ/BeReal CEO

エメリック・ロフェ/BeReal CEO
PROFILE: 幼少期からテクノロジーに関心を持ち、14才の時にプログラミングを学び始める。Voodooの子会社Wizzを立ち上げた。2024年6月にVoodooが買収したBeRealの新CEOに就任

WWD:昨年CEOに就任して以来、ユーザー数や広告機能についてどのような変化が見られたか

エメリック・ロフェCEO(以下、エメリック):昨年は日本でのユーザー数が40%増と大きく伸びた。また、昨年7月に新たに追加した広告機能は、予想を超えるほどの需要があった。特に良い広告パフォーマンスが得られたのは、Z世代向けにリーチしたいという広告主だ。ファッションやコスメ、そしてゲームなどのエンタメ、アルバイト募集なども含まれる。現在のユーザーの83%はZ世代だが、徐々にユーザーの年齢幅は広がっている。美容やスポーツアパレル、エンターテインメント分野は、グローバルとして今後も特に注力したい分野だ。

特にランダムな時間に通知が届き投稿するBeRealでは、時にすっぴんの姿やおしゃれをしていないタイミングに投稿をしなければいけないことも多い。その点において、昨今のファッションやビューティー業界では、“ありのままの美しさ”に注目していることを考えると、非常に相性が良いと考えている。

WWD:今回の市場調査ではどのような収穫が得られたか。

エメリック:今回は主に高校生、大学生のユーザーに話を聞いた。大前提として、日本のユーザーはエンゲージメントがとても高い。通知の時に写真を撮るだけではなく、その時以外でもたくさん撮影をしていることが分かっている。そして世界的に見てセルフィーを撮影する人はすごく多いが、特に日本のユーザーは友達などとグループショットを撮っている印象を受けた。またメモリー機能を使用し、これまでに自分が投稿した写真をよく見返している。また印象的だったのは、日本のユーザーがすごくクリエイティブにBeRealを使用している点だ。フロントカメラとバックカメラ、それぞれが起動する間には1秒ほどの時間があるが、その1秒の間に色々な工夫を加えていることがわかった。

WWD:3月には、KANSAI COLLECTION 2025 SPRING & SUMMERとBeRealのパートナーシップを発表した

エメリック:グローバル全体で見て、BeRealとイベントのコラボレーションは非常に相性が良いと考えている。KANSAI COLLECTIONではイベント中に12分間のBeRealステージを作り、Z世代に支持されるインフルエンサーらがランウエイを歩いた。彼女達には、BeRealらしく“ありのまま”の姿を見せるため、私服を着用してもらった。そしてアジア領域一体でBeRealの通知は同時に行われているが、ランウエイ中にBeRealの通知が届いたのだ。その瞬間、たくさんの来場者がBeRealで撮影をし、投稿を行った。とてつもない熱狂が起きた瞬間だった。こんなにも多くのユーザーが同時に撮影をしているのを目の当たりにでき、これまでにない手応えを感じられた。今後もKANSAI COLLECTIONとのパートナーシップは継続していく予定だ。

WWD:今後、Voodoo傘下のゲームとBeRealでの直接的な連携を行う予定はあるのか?

エメリック:現時点では予定していない。Voodooのサービスとの直接的な連携を行うというよりも、Voodooが10 年以上培ってきた開発やスケール、マネタイズなどの知見をシェアしていきたいと考えている。

WWD:今後の目標とは?

エメリック:主に3つある。1つはプロダクトの改良、改善。それによってユーザーのエンゲージメントを高め、ユーザーがBeRealをもっと楽しめるように注力したい。2つ目はユーザーの更なるグロース。一般ユーザーだけではなく、ブランドや著名人などの公式アカウントを増やし、彼らのファンコミュニティー層をBeRealに引き込んでいきたいと考えている。そして3つ目は広告機能。より使いやすく、手が届きやすい広告システムへと改善していけるよう努めていく。

The post BeReal CEOエメリック・ロフェが来日 関西コレクションのメディアパートナーとして参加 appeared first on WWDJAPAN.

「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.2  「海外コスメブランド短観」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:3月、東京・代官山に「ノンフィクション(NONFICTION)」が日本初の路面店をオープンしましたが、まさかあの場所にあの規模感で出してくるとは思っていなかったので驚きました。

小木充(以下、小木):「タンバリンズ(TAMBURINS)」と同じ発想ですよね。「ジェントルモンスター(GENTLE MONSTER)」というアイウエアブランドを元金融マンのCEOが2011年に立ち上げ、売り上げが3桁ぐらいに乗ってきた時に「タンバリンズ」を17年にスタート。そしてハンドクリーム、フェイスクリーム、化粧水、フレグランスの4アイテムで韓国のカロスキル(新沙洞街路樹通り)に2階建ての旗艦店をオープン。CEOによると、既存の化粧品業界は製品は頑張っているけれど、世界観を表現できているブランドが少ないので、まだまだ商機はあると思っていたそうです。

――:韓国発フレグランスブランド「ボーン トゥ スタンドアウト(BORNTOSTANDOUT)」の創業者にインタビューした時も同様の印象を受けました。フレグランスコレクターの元金融マンは、ラグジュアリーフレグランスの自国ブランド立ち上げと自国の現代アーティスト支援にこだわっていて、漢南洞(ハンナムドン)にまるでアートギャラリーのような旗艦店をオープンしました。

小木:「タンバリンズ」青山店ができた時も行列でしたが、それは世界観への共感だと思いますね。あれが欲しいこれが欲しいというよりも、そこの世界観で何か欲しいと思わせる買い方になっている。ただこれらのブランドが “デパコス”として旗艦店のような面積で展開できるかといったら、百貨店の常識からはかけ離れているので難しいでしょう。

――:百貨店の常識は坪効率だから。

小木:そう、そこには余白がない。今は円安だからいいけれど、金利が当然上がり、日本での買い物のメリットがなくなったときには、訪日客にしてみれば自国に全てあるわけで。インバウンド需要減少の対応策は必須です。3月に上海を視察してきたんですが、あらゆる店舗に人が本当にいない。定点観測してもいない。10店舗回って6人ほどの来店客がいたのが唯一「エルメス(HERMES)」のみ。“バーキン”しかり“ケリー”しかり、本当に欲しいものがあるから。中国は24年上半期で百貨店13店舗を閉鎖しています。バブル崩壊のうえ、7〜8割がEC購入という背景からですね。

――:打開策として考えられることは?

小木:一つは、3月に大規模改装した「アットコスメトーキョー(@COSME TOKYO)」のようにドラッグ〜バラエティ〜デパコスを横断して買い物体験ができる業態。もう一つは、現在世界で約3000店舗と言われる「セフォラ(SEPHORA)」。1999年に日本に上陸した当時は、消費者がセルフ業態に慣れていなかったのでなかなかフィットせず、わずか2年で撤退しましたが、今の時代だったらうまくいく可能性もあるかと。

――:同時期にオープンして撤退した英国の「ブーツ(BOOTS)」も併せて、今こそ入ってきてほしいですね。百貨店とドラッグストアの間を埋めてくれるショップとして若者のニーズは高いように思います。

小木:当時の日本への参入障壁とはだいぶ変わっているだろうし。セフォラが入ることで、ラグジュアリーが中心にはなるけれど、化粧品業界が盛り上がりますよね。3000店舗あるということは日本にあってもおかしくない。ところでセフォラに入っているクリーンビューティブランドで、個人的にずっと注目しているのが「タタハーパー(TATA HERPER)」と「イリア(ILIA)」。前者はコロンビア出身の夫婦が米国バーモント州に移り住んで2010年に創業し、22年にアモーレパシフィックが買収。後者はカナダ・バンクーバー出身の女性が11年に創業し、クラランス創業家が22年に買収しています。どちらも高価格帯だけど、欧米で人気。しかも資本がついたので、日本の百貨店売り場の一角をこういうインディーズから始まったブランドが担っていったら面白いと思う。

――:今後も増えていくクチュールコスメは服飾品と一緒に派手に展開してもらって、こういうニューフェイスはニューフェイスで固めてくれればすごく楽しい売り場になると思いますね。秋にはいよいよ「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のコスメも誕生するので、ぜひそれを機に。

小木:僕もそう思っていて、新たに目が出てきそうな資本がついたブランドを入れるというのが僕の予想図。アメリカのベンチャー系ブランドにとって、セフォラで成功するというのが一つのルート。ここで失敗すると返品・買収・民事再生などブランドがスクラップされるというのがこの10年の流れですが、この2つはそれを乗り切った。こういうブランドがさらに資本をつけて日本に上陸するというのは、いろんな意味で業界を活性化すると思う。日本でも信念を持って、哲学を持って、いろんな業界のバックグラウンドがあって、化粧品業界を俯瞰した際に、自社ならではの特徴やAI的な発想で新たなマーケット開拓にチャレンジするブランドが出てきて欲しいですね。

――:そのためには小売り業界の変化も必要です。今はどこもこじんまりした感じが拭えません。

小木:僕が伊勢丹に勤めていた時代は2カ月に1回くらいのペースで海外出張に行かせてもらっていたけれど、今は百貨店の部長もバイヤーもほとんど行っていないようです。首脳陣から見たら、化粧品は全て効率だけの話。何が売れてどうするのが効率がいいのか? 僕の時代もそういう節はあったけれど、例えば1〜2店舗くらいしかなかった「ロクシタン(L'OCCITANE)」や「ラッシュ(LUSH)」に火をつけたのはBPQC(現ビューティアポセカリー)だったと思っています。お客さまの本音を具現化したいと思ってやっていたので。とはいえ、今の効率重視の売り場作りをドラスティックに変えるのは難しい。変えられないまま円高に振れてくると訪日客分がマイナスになる。そうなると増えたものがシュリンクし始めるので、余計に今のブランドでせめぎ合いが起こり始め、参入障壁はより高くなるでしょうね。遠い先は分からないけれど。今、ファッションのハイブランド品がかなり高額になっていて売れにくくなってきている。中国では前年比2桁マイナスと言われていて、これが化粧品にもくるんじゃないかと思う。訪日客を除いた売り上げは落ちているだろうし、この3年で内外価格差はなくなると想定されるから、3年後を見据えて日本の消費者に対してどうするか、今から考えておくことが喫緊の課題ですね。

The post 「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.2  「海外コスメブランド短観」 appeared first on WWDJAPAN.

「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.2  「海外コスメブランド短観」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:3月、東京・代官山に「ノンフィクション(NONFICTION)」が日本初の路面店をオープンしましたが、まさかあの場所にあの規模感で出してくるとは思っていなかったので驚きました。

小木充(以下、小木):「タンバリンズ(TAMBURINS)」と同じ発想ですよね。「ジェントルモンスター(GENTLE MONSTER)」というアイウエアブランドを元金融マンのCEOが2011年に立ち上げ、売り上げが3桁ぐらいに乗ってきた時に「タンバリンズ」を17年にスタート。そしてハンドクリーム、フェイスクリーム、化粧水、フレグランスの4アイテムで韓国のカロスキル(新沙洞街路樹通り)に2階建ての旗艦店をオープン。CEOによると、既存の化粧品業界は製品は頑張っているけれど、世界観を表現できているブランドが少ないので、まだまだ商機はあると思っていたそうです。

――:韓国発フレグランスブランド「ボーン トゥ スタンドアウト(BORNTOSTANDOUT)」の創業者にインタビューした時も同様の印象を受けました。フレグランスコレクターの元金融マンは、ラグジュアリーフレグランスの自国ブランド立ち上げと自国の現代アーティスト支援にこだわっていて、漢南洞(ハンナムドン)にまるでアートギャラリーのような旗艦店をオープンしました。

小木:「タンバリンズ」青山店ができた時も行列でしたが、それは世界観への共感だと思いますね。あれが欲しいこれが欲しいというよりも、そこの世界観で何か欲しいと思わせる買い方になっている。ただこれらのブランドが “デパコス”として旗艦店のような面積で展開できるかといったら、百貨店の常識からはかけ離れているので難しいでしょう。

――:百貨店の常識は坪効率だから。

小木:そう、そこには余白がない。今は円安だからいいけれど、金利が当然上がり、日本での買い物のメリットがなくなったときには、訪日客にしてみれば自国に全てあるわけで。インバウンド需要減少の対応策は必須です。3月に上海を視察してきたんですが、あらゆる店舗に人が本当にいない。定点観測してもいない。10店舗回って6人ほどの来店客がいたのが唯一「エルメス(HERMES)」のみ。“バーキン”しかり“ケリー”しかり、本当に欲しいものがあるから。中国は24年上半期で百貨店13店舗を閉鎖しています。バブル崩壊のうえ、7〜8割がEC購入という背景からですね。

――:打開策として考えられることは?

小木:一つは、3月に大規模改装した「アットコスメトーキョー(@COSME TOKYO)」のようにドラッグ〜バラエティ〜デパコスを横断して買い物体験ができる業態。もう一つは、現在世界で約3000店舗と言われる「セフォラ(SEPHORA)」。1999年に日本に上陸した当時は、消費者がセルフ業態に慣れていなかったのでなかなかフィットせず、わずか2年で撤退しましたが、今の時代だったらうまくいく可能性もあるかと。

――:同時期にオープンして撤退した英国の「ブーツ(BOOTS)」も併せて、今こそ入ってきてほしいですね。百貨店とドラッグストアの間を埋めてくれるショップとして若者のニーズは高いように思います。

小木:当時の日本への参入障壁とはだいぶ変わっているだろうし。セフォラが入ることで、ラグジュアリーが中心にはなるけれど、化粧品業界が盛り上がりますよね。3000店舗あるということは日本にあってもおかしくない。ところでセフォラに入っているクリーンビューティブランドで、個人的にずっと注目しているのが「タタハーパー(TATA HERPER)」と「イリア(ILIA)」。前者はコロンビア出身の夫婦が米国バーモント州に移り住んで2010年に創業し、22年にアモーレパシフィックが買収。後者はカナダ・バンクーバー出身の女性が11年に創業し、クラランス創業家が22年に買収しています。どちらも高価格帯だけど、欧米で人気。しかも資本がついたので、日本の百貨店売り場の一角をこういうインディーズから始まったブランドが担っていったら面白いと思う。

――:今後も増えていくクチュールコスメは服飾品と一緒に派手に展開してもらって、こういうニューフェイスはニューフェイスで固めてくれればすごく楽しい売り場になると思いますね。秋にはいよいよ「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のコスメも誕生するので、ぜひそれを機に。

小木:僕もそう思っていて、新たに目が出てきそうな資本がついたブランドを入れるというのが僕の予想図。アメリカのベンチャー系ブランドにとって、セフォラで成功するというのが一つのルート。ここで失敗すると返品・買収・民事再生などブランドがスクラップされるというのがこの10年の流れですが、この2つはそれを乗り切った。こういうブランドがさらに資本をつけて日本に上陸するというのは、いろんな意味で業界を活性化すると思う。日本でも信念を持って、哲学を持って、いろんな業界のバックグラウンドがあって、化粧品業界を俯瞰した際に、自社ならではの特徴やAI的な発想で新たなマーケット開拓にチャレンジするブランドが出てきて欲しいですね。

――:そのためには小売り業界の変化も必要です。今はどこもこじんまりした感じが拭えません。

小木:僕が伊勢丹に勤めていた時代は2カ月に1回くらいのペースで海外出張に行かせてもらっていたけれど、今は百貨店の部長もバイヤーもほとんど行っていないようです。首脳陣から見たら、化粧品は全て効率だけの話。何が売れてどうするのが効率がいいのか? 僕の時代もそういう節はあったけれど、例えば1〜2店舗くらいしかなかった「ロクシタン(L'OCCITANE)」や「ラッシュ(LUSH)」に火をつけたのはBPQC(現ビューティアポセカリー)だったと思っています。お客さまの本音を具現化したいと思ってやっていたので。とはいえ、今の効率重視の売り場作りをドラスティックに変えるのは難しい。変えられないまま円高に振れてくると訪日客分がマイナスになる。そうなると増えたものがシュリンクし始めるので、余計に今のブランドでせめぎ合いが起こり始め、参入障壁はより高くなるでしょうね。遠い先は分からないけれど。今、ファッションのハイブランド品がかなり高額になっていて売れにくくなってきている。中国では前年比2桁マイナスと言われていて、これが化粧品にもくるんじゃないかと思う。訪日客を除いた売り上げは落ちているだろうし、この3年で内外価格差はなくなると想定されるから、3年後を見据えて日本の消費者に対してどうするか、今から考えておくことが喫緊の課題ですね。

The post 「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.2  「海外コスメブランド短観」 appeared first on WWDJAPAN.

UKバンド、アイドルズ(IDLES)が語る最新アルバム「Tangk」 LCDサウンドシステムやコールドプレイとの関係性も

PROFILE: アイドルズ(IDLES)

PROFILE: 英ブリストルで結成。メンバーはジョー・タルボット(vocals)、ダム・デヴォンシャー(bass)、マーク・ボーウェン(guitars)、リー・キアナン(guitars)、ジョン・ビーヴィス(drums)の5人で、2017年にデビュー・アルバム「Brutalism」をリリース。18年にはセカンド・アルバム「Joy As An Act Of Resistance」を、20年にはサード・アルバム「Ultra Mono」をリリース。サードアルバムはUKチャートの1位を獲得した。21年には、ケニー・ビーツとギタリスト、マーク・ボーウェンの共同プロデュースによる4枚目のアルバム「Crawler」を、24年2月に5枚目のアルバム「Tangk」をリリースした。

昨年2月にリリースした最新アルバム「Tangk」が、先日のグラミー賞で「Best Rock Album」にノミネートされたアイドルズ(IDLES)。かれらのアルバムが同賞の候補に選ばれるのは前作「Crawler」(2021年)に続いて2作連続で、英国出身でこれほど世界的な評価を獲得しているバンドは、近年では稀有な存在と言えるだろう。2000年代の終わりにブリストルで結成され、硬質なパンク・サウンドでインパクトを残したデビュー・アルバム「Brutalism」(17年)から8年。フロントマンのジョー・タルボット(Joe Talbot)が率いるこの5人組は、聴く者の感情に深く訴えかける音楽をつくり続けることで支持を広げ、フー・ファイターズやメタリカからも一目置かれるワールド・クラスのバンドへと飛躍を遂げた。そして、レディオヘッドやベックを手がけるナイジェル・ゴドリッチを共同プロデューサーに迎えた5作目の「Tangk」は、これまで以上に多様な音楽的要素が交錯する、アイドルズの新たな局面を示した作品だった。

アイドルズを始める前はDJとして活動し、熱心なヒップホップ・ヘッズだったというジョー。前作、前々作「Ultra Mono」(20年)に続いてケニー・ビーツ(ヴィンス・ステイプルズ、リコ・ナスティ)がプロダクションに関わる「Tangk」は、そんなジョーが近年のヒップホップやグライムに寄せる共感が色濃く投影された作品でもある。昨年末には、ラッパーのダニー・ブラウンをフィーチャーしたシングルも大きな話題を呼んだ。「イギリスの白人中流階級のガキだった僕に、ヒップホップは真の目的意識を与えてくれた」——そう語るジョーに、1月に行われた来日公演の後日、そのヒップホップとの出会いや「Tangk」の制作の裏側、そして彼が貫く「スタイル」の核心を聞いた。

アルバム「Tangk」について

——新作「Tangk」でプロデュースを依頼したナイジェル・ゴドリッチとの作業はどうでしたか。

ジョー・タルボット(以下、ジョー):本当に素晴らしかったよ。特にレコーディングのプロセスがね。彼は事前に用意されたものではなく、その瞬間に生まれるものを捉えようとしていた。瞬間のマジック――意図しないミスやグリッチ(不具合)、いろんな偶然をテープ・ループで取り込んでいくことで、楽曲そのものより演奏することに集中できた。それは僕たちにとってかなり異例なアプローチだったよ。

普通なら、曲をしっかりつくり込んで、ヴァース、コーラス、ブリッジといった構成を練り上げるんだけど、ナイジェルはそんなことに興味がなかった。彼は僕たちがその瞬間に集中し、目の前の音にまるで瞑想するみたいに意識を向けることを大切にした。だからすごく斬新で、一緒にやるのはかなりチャレンジングだったよ。

——「Tangk」はダンス・フィールにあふれたアルバムで、特にLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーとナンシー・ワンが参加した「Dancer」は象徴的なナンバーだと思います。これはどういう経緯で実現したコラボレーションだったのでしょうか。

ジョー:あれは確か(ギタリストのマーク・)ボーエンが書いた曲だったと思う。このアルバムで僕が目指していたのは、人々を踊らせて、心から音楽を感じてもらい、何か普遍的な感情を呼び起こすような音楽をつくることだった。幻滅の時代だからこそ、聴く人の感情に寄り添って、頭で考えるよりも人間の根源的な感覚を呼び覚まし、自分自身の存在を肯定できるような音楽が必要だと思ったんだ。それで曲を書いて、レコーディングして、アメリカでLCDサウンドシステムと一緒にツアーを始めた時に、ナイジェルから電話がかかってきたんだ。「バッキング・ボーカルがこの曲に合ってない」って。

バッキング・ボーカルは僕が書いたんだけど、メロディとハーモニーはジェームスとナンシーをイメージして書いたものだった。男性の力強いファルセットと、女性の物憂げなハーモニーの組み合わせをね。ちょうど一緒にツアー中だったからお願いしてみたら、ニューヨークにある彼らのスタジオに連れて行ってくれて、そこで一日一緒に過ごすことができた。本当にクレイジーで最高な体験だったよ。

——ジェームスはどんな人でした?

ジョー:ジェームスはとてもミステリアスな人だよ。知的で、強い意志を持っていて、仕事にも家族にも友だちにも全力で全てを捧げるタイプなんだ。そんな献身的な男だからこそ、周りのみんなも自然と彼に惹きつけられて、同じくらい献身的に動くんだと思う。ツアー・チームも、バンドも、クルーも、彼に関わる人たちみんなが素晴らしい人間ばっかりでさ。お互いのために一生懸命やっていて、自分の仕事に誇りを持っている。それがツアー・バンドとして参加している僕らにとってもすごく刺激的だった。それに、ジェームスってとても的確なんだ。彼のスタジオは信じられないくらい素晴らしくて、機材もすべて揃ってる。彼って本当に全てを捧げる人なんだよ。

——エレクトロニック・ミュージックの影響を反映した現代的なロック・ミュージックの先駆であるLCDサウンドシステム、そしてDJとしての顔を持ちハードコア・パンクをルーツとするジェームス・マーフィーは、アイドルズというバンドやあなた自身にとってもロールモデルと言える存在であり、共感を寄せる対象だったのではないかと思います。

ジョー:つまりさ、僕たちの共通点って結局、音楽が大好きってことだと思うんだ。僕もジェームスも、心の底から良いと思える音楽や芸術でなければ本気でやろうとは思わない。自分たちの音楽やアート、ライブに情熱と生命力を求めていて、そのエネルギーってソウル・ミュージックやパンク、ハードコア、そしてテクノみたいなジャンルから湧き上がってくるものなんだ。そのエネルギーこそが僕たちが追い求めるもので、そのために懸命に努力している。僕らは2人とも、くだらないことには絶対に手を出さないよ。

——コラボレーションといえば、昨年末にリリースされた「Pop Pop Pop」のリミックスでダニー・ブラウンがフィーチャーされていたのもサプライズでした。

ジョー:ラッパーとコラボしたいと思っていて、それでグラストンベリーのステージで「Pop Pop Pop」をやるときにラッパーをフィーチャーするアイデアが浮かんだんだ。ダニー・ブラウンは僕が大好きなラッパーの一人で、彼はすでにグラストンベリーでパフォーマンスした経験もあったからさ。それで彼と知り合いのケニー・ビーツを通じてお願いしたら、すごく乗り気でね。本当に最高だったよ。そこからダニーと意気投合して、ボーエンと僕でケニーや他のラッパーたちと一緒に何か新しい音楽をつくろうって動き出したんだ。

それでダニーと話してたら、グラストンベリーの後で「Pop Pop Pop」に彼がヴァースを入れてくれることになった。本当に嬉しかったよ。これからもダニーと一緒に仕事ができるのが楽しみで仕方ないね。

ジョーが見るヒッピホップ・シーン

——今名前の出たケニー・ビーツは、ヴィンス・テイプルズやリコ・ナスティのプロダクションを手がけるなど今のヒップホップ・シーンと関わりの深い人物ですが(※「Tangk」にはナイジェル・ゴドリッチと共に共同プロデューサーとして参加)、ジョー自身は最近のヒップホップ・シーンをどう見ていますか。

ジョー:2013年頃から、エイサップ(・ロッキー)やケンドリック(・ラマー)、ダニー・ブラウンみたいな新しいラッパーが出てきて、デンゼル・カリーのような新しいスタイルも加わって、ヒップホップは大きく進化したと思う。僕がその頃、ヒップホップのDJをやっていて、リリックや姿勢に新しい息吹を感じて、限界を押し広げようとする勢いがすごかったんだ。それで、90年代初頭を振り返ってみたんだけど、あの頃って音楽に対する熱意と倫理観があって、情熱のためにやってるって感覚が強かったと思うんだ。

でも、90年代半ばから2010年ぐらいにかけては、資本主義のグロテスクな美学——金、女、車とか、大衆向けの退屈なクソみたいな音楽が溢れていた時期もあった。そんな中から、本物のカルチャーを求める新しいラッパーたちが現れてきたんだ。だから、今のヒップホップは本当に素晴らしいと思うよ。

——そもそものヒップホップとの出会いはどんな感じだったんですか。

ジョー:僕がヒップホップと出会ったのは10歳くらいの時で、ファーサイドの「Bizarre Ride II the Pharcyde」ってアルバムを聴いたんだ。いい曲がたくさん入っていて、次の「Labcabincalifornia」ってアルバムも最高だった。ミュージック・ビデオもすごくて、特にスパイク・ジョーンズが監督した「Drop」は逆再生とか斬新な演出で本当にヤバかった。とにかく、それまで聴いたことのない斬新なサウンドで、ヒップホップは僕にある種の“目標”を与えてくれたんだ。夢中だったよ。もっとも、イギリスの白人中流階級のガキにとっては完全に異質な文化だったけど、そこには真の“目的意識”があった。僕は昔から、そういう本物の目的意識を持った人や物事に惹かれるタイプでさ。で、それまで長い間ギター・ミュージックばかり聴いてたんだけど、ヒップホップと出会って、再びギター・ミュージックとの繋がりを発見した――そんな感じだね。

——ちなみに、バンドを始める前にDJをしていた頃は、どんな音楽をかけていたんですか。

ジョー:ロンドンのゴス・ナイトにちなんで「バット・ケイブ」って自分のイベントをやっていたんだ。最初はポスト・パンクやインディー・パンク、クラウト・ロックなんかをかけてたんだけど、そこからハウス・ミュージックやテクノ、ヒップホップにも手を出して、だんだん幅が広がっていった。それから7年間はヒップホップ中心のイベントもやってて、グライム、ガラージ、ジャングルとか、いろんなジャンルをかけていたよ。

——先ほど話に出た「Pop Pop Pop」は、グライムなどUKのクラブ・ミュージックを吸収したダンス・ロック・ナンバーでしたが、最近のグライムについてはどうですか。

ジョー:いいMCはたくさんいるよ。今はドリルの方が人気だけど、地球上で最高のMCたちは何人か現役で活躍している。イギリスだとスケプタは今でもすごいし、ディー ダブル イー(D Double E)はずっと最高だよ。いいものがどんどん出てきてるね。フリスコってやつがいて、彼は昔からやってるんだけど、音楽のクオリティがずっと一貫している。本当にいいよ。もっとたくさんの人に聴いてほしいけど、UKってとても小さな場所で、文化的に不安定だから流行が目まぐるしく変わるんだ。特定の都市に人口が集中してる小さな国だから、常に物事が動いてて、みんなある週末にはある方向を見て、次の週末には違う服を着ているー―そんなふうに何かが始まったり終わったりを繰り返している。でも、グライムはいつだって最高だよ。

ブリストルの音楽シーン

——地元のブリストルの音楽シーンはどうですか。

ジョー:ブリストルの音楽シーンってほんと独特で、イギリスで一番、人口あたりのミュージシャンが多い街なんじゃないかな。でも、ブリストル特有のサウンドってのがなくて、最後に「ブリストル・サウンド」って呼ばれたのはトリップホップの時代くらいだね。それ以来、ブリストルは多様性を尊重して、みんなが好きなことを自由にやっている。本当の意味でのコミュニティはあるけど、特定のシーンやそれを象徴する音はないんだ。ただみんなが楽しんで、音楽をつくってるだけで。

それってある意味、流動性や危機感がないっていうか、ミュージシャンに前に進もうっていう野心が薄いということなのかもしれないね。ブリストルはパーティーの街だから、みんな居心地がいいんだろう。でも、ほんといい街だよ。

——最近のブリストルは? 

ジョー:ここ一年くらいブリストルには行ってなくてさ。世界中をツアーで飛び回ってたから。実は、スクイッドは僕らの隣の部屋で練習してたんだよ。だから彼らに聞けば今のブリストルのことがわかるんじゃないかな(笑)。ブリストルには僕が大好きなヘヴィー・ラングスっていう素晴らしいバンドがいて、今も最高だよ。ただ、もうしばらくブリストルの音楽をちゃんと聴けてなくて。最近、家にいるときは娘を追いかけ回したり(笑)、サイクリングしたり、ボクシングしたりして過ごしてるからね。

アイドルズとファッション

——ところで、今回の「Tangk」のアーティスト写真でギタリストのマークがドレスを着ていたのが目を引きました。

ジョー:(ドレスを着た理由は)分からない。ただ、その方が快適だからドレスを着るようになったんじゃないかな。以前はいつもパンツ一丁で演奏してたから(笑)、自分を表現できるような服装にしたかったんだと思う。彼にとってはドレスを着て演奏する方がずっと快適なんだ。それだけのことだよ。彼に直接聞いたわけじゃないけどね。

——マークはいつもあんな感じで自由なんですか。

ジョー:時々ドレスを着るんだ。メンバーみんなそれぞれのスタイルがあるけど、まあ、確かに彼の感性が独特だね(笑)。

——例えば、作品をリリースするごとにアーティスト写真も刷新されると思いますが、そうしたビジュアル的な部分も含めてバンドのプレゼンスをどのように打ち出していくかについて、何か考えられていることはありますか。

ジョー:まあ、ステージでは、ファッションで自分を表現することはないんだ。観客には服じゃなくて、僕の目をじっと見てほしい。僕の痛み、美しさ、愛、喜びを感じてほしい。これは劇場だけど、本物の劇場だから。僕が感じていることをそのまま伝えるために、できるだけ真っ白なキャンバスでいたいと思っている。そうすれば、観客も僕が感じていることを感じることができるからね。

でも、普段の生活ではファッションが大好きだし、服で自分を表現するのは楽しいよ。素敵な服を着られる余裕があることは、人生を楽しく豊かにしてくれると思う。今は日本にいるから、日本のファッションにも興味があるよ。実は、ボーエンのお気に入りのドレスはミヤケ(「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」)のものなんだ。僕もそのドレスが大好きだよ。でも、ボーエンと僕はファッションにすごく興味があるけど、他の3人はそうでもなくて。アルバムとは関係ない話だけど、僕とボーエンにとっては大事なことなんだ。だからできれば、他の3人にも素敵な服を着せてあげたいくらいだよ。力づくでね(笑)。

——最近買ったお気に入りのワードローブを教えてください。

ジョー:コートを買ったばかりなんだ。ブランドは……「スティル・バイ・ハンド(STILL BY HAND」だね。僕はビンテージの服を集めるのが好きで、靴は「ジャック・ソロヴィエール(Jacques Solovière)」がお気に入り。履き心地がいいし、美しいからね。僕の理想のスタイルは、折衷的(eclectic)で、いかにも「分かってる」感じに見せつつ、普通のスタイルの枠を壊すこと。でも、クラシックなセンスは絶対に忘れない。だから、クレイジーに見せるんじゃなくて、例えば「ラングラー(WRANGLER)」のジーンズに「ラコステ(LACOSTE)」のベストを合わせるみたいな感じで、普通に快適に見えるようしてる。

音楽も同じで、折衷的な自分を表現するのが大好きだよ。アルバムにはグライムの曲もあれば、バラードもハードロックもある。僕はただ、美しいものすべてから借りたり盗んだりしたいだけなんだ。いつもそうとは限らないけれど、それがしっくりくるんだ。

——ちなみに、今回の日本滞在で何か素敵な出会いはありましたか。

ジョー:昨夜は本当に特別な夜だったよ。ビートカフェのKatomanのところに遊びに行って、彼のお気に入りの居酒屋に連れてってもらったんだ。その後、ゴールデン街の「ナイチンゲール」っていうノイズ・ミュージック・バーに行ったんだけど、74歳のおじいさんがサバの頭を料理してくれたりして、日本文化の美しいコントラストが最高だった。こじんまりとした静かで落ち着いた居酒屋から、一気にノイズ・ミュージックと刺激的なビジュアルが溢れるバーに移動するっていうギャップがね(笑)。街に活気があって、ほんと最高だったよ。

この1年を振り返って

——前回(2023年の「フジロック」出演時)インタビューした際※に、制作中だった「Tangk」について「僕たちが大事にしているものを祝福するようなアルバムをつくりたい」と話していたのが印象に残っています。そうした作品を携えてツアーで世界中を旅してきたこの1年間は、振り返ってどんな時間でしたか。
※前回のインタビューはこちら

ジョー:とても濃密で実りの多い時間だったと思う。僕がこのアルバムに求めていたのは、祝福の感覚と一体感、そして愛を感じられるシンプルなものだった。僕たちはこのアルバムを持って世界中をツアーで回るつもりでいた。日本、ヨーロッパ、ギリシャ、イギリス、アメリカ――どこもかしこも政治的に不安定な状況が続いているのは明らかだよ。この先に何が起こるか考えると、不安になるし、時には恐ろしくもある。でも、僕は愛と情熱を持ってこの時代に立ち向かいたかった。それが一番大切なことだと思う。人と人とのつながりって本来とてもシンプルなものなのに、強欲や恐怖が複雑に絡み合って難しくしてしまっている。

アーティストとして大事なのは、人々が自分自身と再びつながる手助けをすることだと思う。自分自身とのつながりを感じられれば、他者に心を開くことも自然とできるからね。音楽や芸術は、そのために僕たちが提供できるものだと思う。政治やお金、成功は与えられないけど、つながりや表現する場——それが鏡であれ、何かの枠組みであれ——そういう意図を提供したいんだ。

——先日のライブでは「Viva Palestina!」と叫ぶ場面もありました。

ジョー:世界はますます混沌としてきてる。でも、僕はそのことを深く考えすぎないようにしてる。ただ、僕には発言できるプラットフォームがあって、何か考えたときはすぐにその場で発信するんだ。パレスチナで起こったこと、そして今も続いてること――それは戦争犯罪だよ。ボスニアやルワンダで起きたことと同じだ。イギリスが残虐行為に目を背けたのはこれが初めてじゃない。もしボスニア紛争のときに僕が今くらい大人だったら、立ち上がっていたと思う。イラク戦争のときは16歳で、街頭に出て抗議したよ。足があって、自分が信じるモラルがある限り、行進するし、ステージからも発言する。それは僕にとって難しいことじゃない。ただ、それで大きな変化が起こせるとは思ってないよ。

ちょっとした祈りとか、捧げ物みたいなものなんだ。神様がいるわけじゃない。それは信仰心みたいなもので、自分が信じたことをやるしかない。そうでないなら、やるべきじゃないよ。すべてのミュージシャンが「これをやめろ、あれをやれ」って言う必要はないと思う。そういうことじゃない。ただ、これが僕のやり方というだけでね。自分が誰かより優れてるとも劣ってるとも思わない。音楽家としての義務というよりも、人としての義務だと思うんだ。自分がされたいように人を扱う――それが大事なんだ。だから、僕はステージに立っている。

——最後に、あのミュージック・ビデオについて教えてください。AIでコールドプレイのクリス・マーティンが歌っているかのように加工した、「Grace」のミュージック・ビデオについて。

ジョー:(日本語で)ハイ(笑)。レコーディングの前にロンドンのナイジェルのスタジオでその曲を書いたんだけど、彼がすごく気に入ってくれて。ただ、僕にはちょっとコールドプレイっぽく感じられて、面白いなって思ったけど、僕自身も気に入ったんだ。僕は特に初期のコールドプレイが大好きでさ。それで、スタジオにいる時にすぐにそのアイデアが浮かんだんだ。「A Iでクリス・マーティンに僕の歌詞を歌ってもらえたら最高だな」って。すぐにクリエイティブ・カンパニーに依頼したよ。時間がかかるのは分かってたからね。クリス・マーティンかコールドプレイのマネージメントの許可が必要だったから、僕のマネージャーがクリスを知ってる人に電話してくれて、そしたらクリス本人から僕に電話がかかってきたんだ。

彼はそのことを僕と話したかったみたいで、とても親切でいい人だったよ。「面白そうだね、全然OKだよ」って言ってくれて。それで、出来たものを彼に送ったんだけど、彼はそれに満足してなかったみたいでさ。そしたら、実際にクリスが僕の歌詞を歌っているビデオ録画して送ってくれて、僕たちを助けてくれたんだ。本当に素晴らしかったよ。とても親切で、いい人だね。

——コールドプレイのファンに怒られなかった?

ジョー:大丈夫だったよ(笑)。彼には自分の文化的な背景と僕たちの文化的な背景がちゃんと理解できている。それで、「どうぞからかって、楽しんでくれ」って言ってくれたんだ。

——ちなみに、首からも覗いているタトゥーにまつわるエピソードについて、何か教えてもらえますか。

ジョー:パパは首のタトゥーが嫌いだから、「ポップス」って入れてやったんだよ、パパって意味さ。いろいろあるけど……これって、間違った決断のタペストリーみたいなもんだね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

The post UKバンド、アイドルズ(IDLES)が語る最新アルバム「Tangk」 LCDサウンドシステムやコールドプレイとの関係性も appeared first on WWDJAPAN.

UKバンド、アイドルズ(IDLES)が語る最新アルバム「Tangk」 LCDサウンドシステムやコールドプレイとの関係性も

PROFILE: アイドルズ(IDLES)

PROFILE: 英ブリストルで結成。メンバーはジョー・タルボット(vocals)、ダム・デヴォンシャー(bass)、マーク・ボーウェン(guitars)、リー・キアナン(guitars)、ジョン・ビーヴィス(drums)の5人で、2017年にデビュー・アルバム「Brutalism」をリリース。18年にはセカンド・アルバム「Joy As An Act Of Resistance」を、20年にはサード・アルバム「Ultra Mono」をリリース。サードアルバムはUKチャートの1位を獲得した。21年には、ケニー・ビーツとギタリスト、マーク・ボーウェンの共同プロデュースによる4枚目のアルバム「Crawler」を、24年2月に5枚目のアルバム「Tangk」をリリースした。

昨年2月にリリースした最新アルバム「Tangk」が、先日のグラミー賞で「Best Rock Album」にノミネートされたアイドルズ(IDLES)。かれらのアルバムが同賞の候補に選ばれるのは前作「Crawler」(2021年)に続いて2作連続で、英国出身でこれほど世界的な評価を獲得しているバンドは、近年では稀有な存在と言えるだろう。2000年代の終わりにブリストルで結成され、硬質なパンク・サウンドでインパクトを残したデビュー・アルバム「Brutalism」(17年)から8年。フロントマンのジョー・タルボット(Joe Talbot)が率いるこの5人組は、聴く者の感情に深く訴えかける音楽をつくり続けることで支持を広げ、フー・ファイターズやメタリカからも一目置かれるワールド・クラスのバンドへと飛躍を遂げた。そして、レディオヘッドやベックを手がけるナイジェル・ゴドリッチを共同プロデューサーに迎えた5作目の「Tangk」は、これまで以上に多様な音楽的要素が交錯する、アイドルズの新たな局面を示した作品だった。

アイドルズを始める前はDJとして活動し、熱心なヒップホップ・ヘッズだったというジョー。前作、前々作「Ultra Mono」(20年)に続いてケニー・ビーツ(ヴィンス・ステイプルズ、リコ・ナスティ)がプロダクションに関わる「Tangk」は、そんなジョーが近年のヒップホップやグライムに寄せる共感が色濃く投影された作品でもある。昨年末には、ラッパーのダニー・ブラウンをフィーチャーしたシングルも大きな話題を呼んだ。「イギリスの白人中流階級のガキだった僕に、ヒップホップは真の目的意識を与えてくれた」——そう語るジョーに、1月に行われた来日公演の後日、そのヒップホップとの出会いや「Tangk」の制作の裏側、そして彼が貫く「スタイル」の核心を聞いた。

アルバム「Tangk」について

——新作「Tangk」でプロデュースを依頼したナイジェル・ゴドリッチとの作業はどうでしたか。

ジョー・タルボット(以下、ジョー):本当に素晴らしかったよ。特にレコーディングのプロセスがね。彼は事前に用意されたものではなく、その瞬間に生まれるものを捉えようとしていた。瞬間のマジック――意図しないミスやグリッチ(不具合)、いろんな偶然をテープ・ループで取り込んでいくことで、楽曲そのものより演奏することに集中できた。それは僕たちにとってかなり異例なアプローチだったよ。

普通なら、曲をしっかりつくり込んで、ヴァース、コーラス、ブリッジといった構成を練り上げるんだけど、ナイジェルはそんなことに興味がなかった。彼は僕たちがその瞬間に集中し、目の前の音にまるで瞑想するみたいに意識を向けることを大切にした。だからすごく斬新で、一緒にやるのはかなりチャレンジングだったよ。

——「Tangk」はダンス・フィールにあふれたアルバムで、特にLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーとナンシー・ワンが参加した「Dancer」は象徴的なナンバーだと思います。これはどういう経緯で実現したコラボレーションだったのでしょうか。

ジョー:あれは確か(ギタリストのマーク・)ボーエンが書いた曲だったと思う。このアルバムで僕が目指していたのは、人々を踊らせて、心から音楽を感じてもらい、何か普遍的な感情を呼び起こすような音楽をつくることだった。幻滅の時代だからこそ、聴く人の感情に寄り添って、頭で考えるよりも人間の根源的な感覚を呼び覚まし、自分自身の存在を肯定できるような音楽が必要だと思ったんだ。それで曲を書いて、レコーディングして、アメリカでLCDサウンドシステムと一緒にツアーを始めた時に、ナイジェルから電話がかかってきたんだ。「バッキング・ボーカルがこの曲に合ってない」って。

バッキング・ボーカルは僕が書いたんだけど、メロディとハーモニーはジェームスとナンシーをイメージして書いたものだった。男性の力強いファルセットと、女性の物憂げなハーモニーの組み合わせをね。ちょうど一緒にツアー中だったからお願いしてみたら、ニューヨークにある彼らのスタジオに連れて行ってくれて、そこで一日一緒に過ごすことができた。本当にクレイジーで最高な体験だったよ。

——ジェームスはどんな人でした?

ジョー:ジェームスはとてもミステリアスな人だよ。知的で、強い意志を持っていて、仕事にも家族にも友だちにも全力で全てを捧げるタイプなんだ。そんな献身的な男だからこそ、周りのみんなも自然と彼に惹きつけられて、同じくらい献身的に動くんだと思う。ツアー・チームも、バンドも、クルーも、彼に関わる人たちみんなが素晴らしい人間ばっかりでさ。お互いのために一生懸命やっていて、自分の仕事に誇りを持っている。それがツアー・バンドとして参加している僕らにとってもすごく刺激的だった。それに、ジェームスってとても的確なんだ。彼のスタジオは信じられないくらい素晴らしくて、機材もすべて揃ってる。彼って本当に全てを捧げる人なんだよ。

——エレクトロニック・ミュージックの影響を反映した現代的なロック・ミュージックの先駆であるLCDサウンドシステム、そしてDJとしての顔を持ちハードコア・パンクをルーツとするジェームス・マーフィーは、アイドルズというバンドやあなた自身にとってもロールモデルと言える存在であり、共感を寄せる対象だったのではないかと思います。

ジョー:つまりさ、僕たちの共通点って結局、音楽が大好きってことだと思うんだ。僕もジェームスも、心の底から良いと思える音楽や芸術でなければ本気でやろうとは思わない。自分たちの音楽やアート、ライブに情熱と生命力を求めていて、そのエネルギーってソウル・ミュージックやパンク、ハードコア、そしてテクノみたいなジャンルから湧き上がってくるものなんだ。そのエネルギーこそが僕たちが追い求めるもので、そのために懸命に努力している。僕らは2人とも、くだらないことには絶対に手を出さないよ。

——コラボレーションといえば、昨年末にリリースされた「Pop Pop Pop」のリミックスでダニー・ブラウンがフィーチャーされていたのもサプライズでした。

ジョー:ラッパーとコラボしたいと思っていて、それでグラストンベリーのステージで「Pop Pop Pop」をやるときにラッパーをフィーチャーするアイデアが浮かんだんだ。ダニー・ブラウンは僕が大好きなラッパーの一人で、彼はすでにグラストンベリーでパフォーマンスした経験もあったからさ。それで彼と知り合いのケニー・ビーツを通じてお願いしたら、すごく乗り気でね。本当に最高だったよ。そこからダニーと意気投合して、ボーエンと僕でケニーや他のラッパーたちと一緒に何か新しい音楽をつくろうって動き出したんだ。

それでダニーと話してたら、グラストンベリーの後で「Pop Pop Pop」に彼がヴァースを入れてくれることになった。本当に嬉しかったよ。これからもダニーと一緒に仕事ができるのが楽しみで仕方ないね。

ジョーが見るヒッピホップ・シーン

——今名前の出たケニー・ビーツは、ヴィンス・テイプルズやリコ・ナスティのプロダクションを手がけるなど今のヒップホップ・シーンと関わりの深い人物ですが(※「Tangk」にはナイジェル・ゴドリッチと共に共同プロデューサーとして参加)、ジョー自身は最近のヒップホップ・シーンをどう見ていますか。

ジョー:2013年頃から、エイサップ(・ロッキー)やケンドリック(・ラマー)、ダニー・ブラウンみたいな新しいラッパーが出てきて、デンゼル・カリーのような新しいスタイルも加わって、ヒップホップは大きく進化したと思う。僕がその頃、ヒップホップのDJをやっていて、リリックや姿勢に新しい息吹を感じて、限界を押し広げようとする勢いがすごかったんだ。それで、90年代初頭を振り返ってみたんだけど、あの頃って音楽に対する熱意と倫理観があって、情熱のためにやってるって感覚が強かったと思うんだ。

でも、90年代半ばから2010年ぐらいにかけては、資本主義のグロテスクな美学——金、女、車とか、大衆向けの退屈なクソみたいな音楽が溢れていた時期もあった。そんな中から、本物のカルチャーを求める新しいラッパーたちが現れてきたんだ。だから、今のヒップホップは本当に素晴らしいと思うよ。

——そもそものヒップホップとの出会いはどんな感じだったんですか。

ジョー:僕がヒップホップと出会ったのは10歳くらいの時で、ファーサイドの「Bizarre Ride II the Pharcyde」ってアルバムを聴いたんだ。いい曲がたくさん入っていて、次の「Labcabincalifornia」ってアルバムも最高だった。ミュージック・ビデオもすごくて、特にスパイク・ジョーンズが監督した「Drop」は逆再生とか斬新な演出で本当にヤバかった。とにかく、それまで聴いたことのない斬新なサウンドで、ヒップホップは僕にある種の“目標”を与えてくれたんだ。夢中だったよ。もっとも、イギリスの白人中流階級のガキにとっては完全に異質な文化だったけど、そこには真の“目的意識”があった。僕は昔から、そういう本物の目的意識を持った人や物事に惹かれるタイプでさ。で、それまで長い間ギター・ミュージックばかり聴いてたんだけど、ヒップホップと出会って、再びギター・ミュージックとの繋がりを発見した――そんな感じだね。

——ちなみに、バンドを始める前にDJをしていた頃は、どんな音楽をかけていたんですか。

ジョー:ロンドンのゴス・ナイトにちなんで「バット・ケイブ」って自分のイベントをやっていたんだ。最初はポスト・パンクやインディー・パンク、クラウト・ロックなんかをかけてたんだけど、そこからハウス・ミュージックやテクノ、ヒップホップにも手を出して、だんだん幅が広がっていった。それから7年間はヒップホップ中心のイベントもやってて、グライム、ガラージ、ジャングルとか、いろんなジャンルをかけていたよ。

——先ほど話に出た「Pop Pop Pop」は、グライムなどUKのクラブ・ミュージックを吸収したダンス・ロック・ナンバーでしたが、最近のグライムについてはどうですか。

ジョー:いいMCはたくさんいるよ。今はドリルの方が人気だけど、地球上で最高のMCたちは何人か現役で活躍している。イギリスだとスケプタは今でもすごいし、ディー ダブル イー(D Double E)はずっと最高だよ。いいものがどんどん出てきてるね。フリスコってやつがいて、彼は昔からやってるんだけど、音楽のクオリティがずっと一貫している。本当にいいよ。もっとたくさんの人に聴いてほしいけど、UKってとても小さな場所で、文化的に不安定だから流行が目まぐるしく変わるんだ。特定の都市に人口が集中してる小さな国だから、常に物事が動いてて、みんなある週末にはある方向を見て、次の週末には違う服を着ているー―そんなふうに何かが始まったり終わったりを繰り返している。でも、グライムはいつだって最高だよ。

ブリストルの音楽シーン

——地元のブリストルの音楽シーンはどうですか。

ジョー:ブリストルの音楽シーンってほんと独特で、イギリスで一番、人口あたりのミュージシャンが多い街なんじゃないかな。でも、ブリストル特有のサウンドってのがなくて、最後に「ブリストル・サウンド」って呼ばれたのはトリップホップの時代くらいだね。それ以来、ブリストルは多様性を尊重して、みんなが好きなことを自由にやっている。本当の意味でのコミュニティはあるけど、特定のシーンやそれを象徴する音はないんだ。ただみんなが楽しんで、音楽をつくってるだけで。

それってある意味、流動性や危機感がないっていうか、ミュージシャンに前に進もうっていう野心が薄いということなのかもしれないね。ブリストルはパーティーの街だから、みんな居心地がいいんだろう。でも、ほんといい街だよ。

——最近のブリストルは? 

ジョー:ここ一年くらいブリストルには行ってなくてさ。世界中をツアーで飛び回ってたから。実は、スクイッドは僕らの隣の部屋で練習してたんだよ。だから彼らに聞けば今のブリストルのことがわかるんじゃないかな(笑)。ブリストルには僕が大好きなヘヴィー・ラングスっていう素晴らしいバンドがいて、今も最高だよ。ただ、もうしばらくブリストルの音楽をちゃんと聴けてなくて。最近、家にいるときは娘を追いかけ回したり(笑)、サイクリングしたり、ボクシングしたりして過ごしてるからね。

アイドルズとファッション

——ところで、今回の「Tangk」のアーティスト写真でギタリストのマークがドレスを着ていたのが目を引きました。

ジョー:(ドレスを着た理由は)分からない。ただ、その方が快適だからドレスを着るようになったんじゃないかな。以前はいつもパンツ一丁で演奏してたから(笑)、自分を表現できるような服装にしたかったんだと思う。彼にとってはドレスを着て演奏する方がずっと快適なんだ。それだけのことだよ。彼に直接聞いたわけじゃないけどね。

——マークはいつもあんな感じで自由なんですか。

ジョー:時々ドレスを着るんだ。メンバーみんなそれぞれのスタイルがあるけど、まあ、確かに彼の感性が独特だね(笑)。

——例えば、作品をリリースするごとにアーティスト写真も刷新されると思いますが、そうしたビジュアル的な部分も含めてバンドのプレゼンスをどのように打ち出していくかについて、何か考えられていることはありますか。

ジョー:まあ、ステージでは、ファッションで自分を表現することはないんだ。観客には服じゃなくて、僕の目をじっと見てほしい。僕の痛み、美しさ、愛、喜びを感じてほしい。これは劇場だけど、本物の劇場だから。僕が感じていることをそのまま伝えるために、できるだけ真っ白なキャンバスでいたいと思っている。そうすれば、観客も僕が感じていることを感じることができるからね。

でも、普段の生活ではファッションが大好きだし、服で自分を表現するのは楽しいよ。素敵な服を着られる余裕があることは、人生を楽しく豊かにしてくれると思う。今は日本にいるから、日本のファッションにも興味があるよ。実は、ボーエンのお気に入りのドレスはミヤケ(「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」)のものなんだ。僕もそのドレスが大好きだよ。でも、ボーエンと僕はファッションにすごく興味があるけど、他の3人はそうでもなくて。アルバムとは関係ない話だけど、僕とボーエンにとっては大事なことなんだ。だからできれば、他の3人にも素敵な服を着せてあげたいくらいだよ。力づくでね(笑)。

——最近買ったお気に入りのワードローブを教えてください。

ジョー:コートを買ったばかりなんだ。ブランドは……「スティル・バイ・ハンド(STILL BY HAND」だね。僕はビンテージの服を集めるのが好きで、靴は「ジャック・ソロヴィエール(Jacques Solovière)」がお気に入り。履き心地がいいし、美しいからね。僕の理想のスタイルは、折衷的(eclectic)で、いかにも「分かってる」感じに見せつつ、普通のスタイルの枠を壊すこと。でも、クラシックなセンスは絶対に忘れない。だから、クレイジーに見せるんじゃなくて、例えば「ラングラー(WRANGLER)」のジーンズに「ラコステ(LACOSTE)」のベストを合わせるみたいな感じで、普通に快適に見えるようしてる。

音楽も同じで、折衷的な自分を表現するのが大好きだよ。アルバムにはグライムの曲もあれば、バラードもハードロックもある。僕はただ、美しいものすべてから借りたり盗んだりしたいだけなんだ。いつもそうとは限らないけれど、それがしっくりくるんだ。

——ちなみに、今回の日本滞在で何か素敵な出会いはありましたか。

ジョー:昨夜は本当に特別な夜だったよ。ビートカフェのKatomanのところに遊びに行って、彼のお気に入りの居酒屋に連れてってもらったんだ。その後、ゴールデン街の「ナイチンゲール」っていうノイズ・ミュージック・バーに行ったんだけど、74歳のおじいさんがサバの頭を料理してくれたりして、日本文化の美しいコントラストが最高だった。こじんまりとした静かで落ち着いた居酒屋から、一気にノイズ・ミュージックと刺激的なビジュアルが溢れるバーに移動するっていうギャップがね(笑)。街に活気があって、ほんと最高だったよ。

この1年を振り返って

——前回(2023年の「フジロック」出演時)インタビューした際※に、制作中だった「Tangk」について「僕たちが大事にしているものを祝福するようなアルバムをつくりたい」と話していたのが印象に残っています。そうした作品を携えてツアーで世界中を旅してきたこの1年間は、振り返ってどんな時間でしたか。
※前回のインタビューはこちら

ジョー:とても濃密で実りの多い時間だったと思う。僕がこのアルバムに求めていたのは、祝福の感覚と一体感、そして愛を感じられるシンプルなものだった。僕たちはこのアルバムを持って世界中をツアーで回るつもりでいた。日本、ヨーロッパ、ギリシャ、イギリス、アメリカ――どこもかしこも政治的に不安定な状況が続いているのは明らかだよ。この先に何が起こるか考えると、不安になるし、時には恐ろしくもある。でも、僕は愛と情熱を持ってこの時代に立ち向かいたかった。それが一番大切なことだと思う。人と人とのつながりって本来とてもシンプルなものなのに、強欲や恐怖が複雑に絡み合って難しくしてしまっている。

アーティストとして大事なのは、人々が自分自身と再びつながる手助けをすることだと思う。自分自身とのつながりを感じられれば、他者に心を開くことも自然とできるからね。音楽や芸術は、そのために僕たちが提供できるものだと思う。政治やお金、成功は与えられないけど、つながりや表現する場——それが鏡であれ、何かの枠組みであれ——そういう意図を提供したいんだ。

——先日のライブでは「Viva Palestina!」と叫ぶ場面もありました。

ジョー:世界はますます混沌としてきてる。でも、僕はそのことを深く考えすぎないようにしてる。ただ、僕には発言できるプラットフォームがあって、何か考えたときはすぐにその場で発信するんだ。パレスチナで起こったこと、そして今も続いてること――それは戦争犯罪だよ。ボスニアやルワンダで起きたことと同じだ。イギリスが残虐行為に目を背けたのはこれが初めてじゃない。もしボスニア紛争のときに僕が今くらい大人だったら、立ち上がっていたと思う。イラク戦争のときは16歳で、街頭に出て抗議したよ。足があって、自分が信じるモラルがある限り、行進するし、ステージからも発言する。それは僕にとって難しいことじゃない。ただ、それで大きな変化が起こせるとは思ってないよ。

ちょっとした祈りとか、捧げ物みたいなものなんだ。神様がいるわけじゃない。それは信仰心みたいなもので、自分が信じたことをやるしかない。そうでないなら、やるべきじゃないよ。すべてのミュージシャンが「これをやめろ、あれをやれ」って言う必要はないと思う。そういうことじゃない。ただ、これが僕のやり方というだけでね。自分が誰かより優れてるとも劣ってるとも思わない。音楽家としての義務というよりも、人としての義務だと思うんだ。自分がされたいように人を扱う――それが大事なんだ。だから、僕はステージに立っている。

——最後に、あのミュージック・ビデオについて教えてください。AIでコールドプレイのクリス・マーティンが歌っているかのように加工した、「Grace」のミュージック・ビデオについて。

ジョー:(日本語で)ハイ(笑)。レコーディングの前にロンドンのナイジェルのスタジオでその曲を書いたんだけど、彼がすごく気に入ってくれて。ただ、僕にはちょっとコールドプレイっぽく感じられて、面白いなって思ったけど、僕自身も気に入ったんだ。僕は特に初期のコールドプレイが大好きでさ。それで、スタジオにいる時にすぐにそのアイデアが浮かんだんだ。「A Iでクリス・マーティンに僕の歌詞を歌ってもらえたら最高だな」って。すぐにクリエイティブ・カンパニーに依頼したよ。時間がかかるのは分かってたからね。クリス・マーティンかコールドプレイのマネージメントの許可が必要だったから、僕のマネージャーがクリスを知ってる人に電話してくれて、そしたらクリス本人から僕に電話がかかってきたんだ。

彼はそのことを僕と話したかったみたいで、とても親切でいい人だったよ。「面白そうだね、全然OKだよ」って言ってくれて。それで、出来たものを彼に送ったんだけど、彼はそれに満足してなかったみたいでさ。そしたら、実際にクリスが僕の歌詞を歌っているビデオ録画して送ってくれて、僕たちを助けてくれたんだ。本当に素晴らしかったよ。とても親切で、いい人だね。

——コールドプレイのファンに怒られなかった?

ジョー:大丈夫だったよ(笑)。彼には自分の文化的な背景と僕たちの文化的な背景がちゃんと理解できている。それで、「どうぞからかって、楽しんでくれ」って言ってくれたんだ。

——ちなみに、首からも覗いているタトゥーにまつわるエピソードについて、何か教えてもらえますか。

ジョー:パパは首のタトゥーが嫌いだから、「ポップス」って入れてやったんだよ、パパって意味さ。いろいろあるけど……これって、間違った決断のタペストリーみたいなもんだね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

The post UKバンド、アイドルズ(IDLES)が語る最新アルバム「Tangk」 LCDサウンドシステムやコールドプレイとの関係性も appeared first on WWDJAPAN.

萩原利久 × 福徳秀介 × 大九明子 3人が語る映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」の舞台裏

PROFILE: (中央)萩原利久/俳優、(右)福徳秀介/ジャルジャル、(左)大九明子/映画監督

PROFILE: (はぎわら・りく)1999年2月28日生まれ、埼玉県出身。2008年にデビュー。ドラマ「美しい彼」(21/MBS)で注目を浴び、以降、映画・ドラマに多数出演。近年の主な出演作に、映画「ミステリと言う勿れ」(23)、「朽ちないサクラ」(24)、「キングダム 大将軍の帰還」(24)、「世界征服やめた」(25)、連続テレビ小説「おむすび」(24-25/NHK)、「リラの花咲くけものみち」(25/NHK)など。待機作に「花緑青が明ける日に」(声の出演)がある。 (ふくとく・しゅうすけ)1983年生まれ、兵庫県出身。関西大学文学部卒。同じ高校の後藤淳平と2003年にお笑いコンビ「ジャルジャル」を結成。TV・ラジオ・舞台・YouTubeなどで活躍。キングオブコント2020優勝。著書に、絵本「まくらのまーくん」(タリーズピクチャーブックアワード大賞受賞)、絵本「なかよしっぱな」、長編小説「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」、短編小説集「しっぽの殻破り」、最新作に恋愛短編小説「耳たぷ」がある。 (おおく・あきこ)横浜市出身。1997年に映画美学校第1期生となり、「恋するマドリ」(07)で長編映画監督デビュー。2017年「勝手にふるえてろ」で第30回東京国際映画祭コンペティション部門・観客賞、第27回日本映画プロフェッショナル大賞・作品賞を受賞。「私をくいとめて」(20)が第33回東京国際映画祭・TOKYOプレミア2020にて史上初2度目の観客賞、第30回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

お笑いコンビ、ジャルジャルの福徳秀介の小説家デビュー作「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」が映画化され、4月25日から公開された。監督は「勝手にふるえてろ」「私をくいとめて」などで個性的なヒロインを描いてきた大九明子(おおく・あきこ)。主人公の小西徹を演じるのはドラマ「美しい彼」で注目を集めた萩原利久。そして、小西をめぐる女性たち、桜田花を河合優美、さっちゃんを伊東蒼が演じている。大阪の大学でさえない日々を送っている小西。友達といえば、バイトで知り合ったさっちゃんと同じ大学に通う山根くらい。特に何かに熱中することもなく、淡々とした日々を送る小西は、いつも一人で飄々と学校に通っている桜田のことが気になり始める、というラブストーリーだ。自意識過剰でナイーブ、そんな若者たちの恋愛模様をみずみずしいタッチで描いた本作について、萩原、福徳、大九の3人に話を聞いた。

大九監督が惹かれた、映画化の決め手

——小説「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」は芸人とは違った福徳さんの一面を知ることができました。福徳さんはなぜ恋愛小説を書こうと思われたのでしょうか。

福徳秀介(以下、福徳):恋愛小説が好きだったので、恋愛ものしか書くつもりはなかったんです。なんやかんや言って、ほとんどの人が恋愛をしているわけで、そこら辺にいるおじさんも好きな人を想って寝る前に胸を痛めたりしてるよな、と思ったら面白くて仕方ないんですよ。

——きっと、ここにいるほとんどの人が恋愛体験してますもんね。大九監督は福徳さんの小説を読んで、どんなところに映画化の魅力を感じられたのでしょうか。

大九明子(以下、大九):プロデューサーから「これを映画化したい」と言われて小説を受け取って読み始めたんです。そして、さっちゃんの長台詞が出たあたりで「自分だったら、ここをどう撮るかな」って、映画を撮る目線で本にのめり込みました。

——小説を読まれて、福徳さんらしさを感じた箇所はありますか?

大九:やっぱりセリフですね。あと、小説を読んでいて、この人何か隠しているな、と思いました。

——というと?

大九:服装や街並みやいろんなことが丁寧に書かれているんですけど、急に端折ったような感じがするところがあるんです。そういうところに、何か言いたいけど隠しているんじゃないか、という気がして。シナハン(シナリオ・ハンティング)で関大(関西大学)にお邪魔した時に、小説に書かれている「プーケ」という店が「ケープ・コッド」として実在してたり、小説に書かれていることの中にリアルなものが隠されていることを知ったんです。シナハンをしながら、今誰も知らない福徳さんのことを発見しているんだ!と思うとジャルジャルの一ファンとしてゾクゾクしました。それで全部暴いてやれ!と思って、映画ではシナハンで発見した実在の店名や地名を使うことにしたんです。

福徳:最初は架空の大学を舞台にして書いていたんですけど、編集の人に「どこまでキャンパスを想像できてるの?」って言われたんです。「どこに何があるのか全部わかってないとダメだよ」って。それで関大を舞台にしようと思いました。

——それで舞台が母校になったんですね。主人公の小西にはご自分が投影されていたりするのでしょうか。

福徳:小西というより、桜田のほうに自分を注入したところがありますね。

——桜田のどんなところに?

福徳:佇まいというか。強いふりをする感じが、学生時代の自分みたいなところがあるな、と思います。

大九:知らなかった!

萩原利久が語る、小西というキャラクター

——意外ですね! 萩原さんが演じた小西は、ひとことでは言い表せないような複雑な内面を持ったキャラクターでした。萩原さんは小西という人物について、どんな風に感じていましたか?

萩原利久(以下、萩原):確かにひとことで言い表すのは難しいキャラクターでした。雨が降っていないのに傘をさして学校を歩いている、という外見上の特徴から変わったやつだということがわかるんですけど、そのイメージが先行してしまうと桜田やさっちゃんとの感情のやりとりが見えなくなってしまうような気がして。だから、一人の人間として小西に向き合いました。

——監督とは役について撮影前に話をされたりはしたのでしょうか。

萩原:撮影をしながら現場で作っていった部分が多かった気がします。脚本の段階でいろんな情報はありましたが、小西って自分主動で何かをやるというより、いろんな人との関わりの結果、それが行動に繋がっていく。小西を取り巻くキャラクターはみんな個性的で素敵なので、そういうキャラクターとのやりとりを通じて小西の芝居が生まれるんじゃないかと思ったんです。もちろん、自分なりにイメージはしていくんですけど、現場で感じること。関大のキャンパスの空気や共演者の方々のお芝居を受けることを大切にしようと思っていました。関大でロケできたのも大きかったです。撮影しながら関大生の声が聞こえてきたり、目の前の風景とか匂いからも刺激を受けました。

大九:今の萩原さんの話を聞いて思い出したんですけど、最初もうちょっと弱いというか、繊細で怯えた感じの小西を1回見せてくれたんです。そこに私がちょっとずつずるさみたいなものを足していきました。というのは、この映画は被害者が加害者に変わることがあることを描いている。だから小西が弱いだけではなく、その弱さゆえに人を傷つけてしまうところを匂わせるようにズルさみたいなものを出したかったんです。だからちょっと卑屈に笑ってもらったりして、萩原さんと一緒に小西を作っていきました。

萩原:監督は段取り(リハーサル)で自由に演技をさせてくれるんです。そのうえで、ここはもう少しこうしましょうか、とか、こういう要素を入れましょうか、とかいろいろと提案をしてくれる。それは細かく芝居を見てくれているということなんです。だから段取りでいろいろやってみたくなるんですよね。段取りの時って、大勢のスタッフの前で演技を見せる発表会みたいな場なんです。だから結構、緊張したりもする。でも、今回の現場では段取りが怖くなかった。それは監督をはじめすべてのスタッフが、作品をより良いものにしよう、という気持ちを共有しているからだと思います。すごく素敵な現場でした。

——映画を見ると役者の演技が皆さん活き活きしていますね。福徳さんは映画をご覧になって、どんな感想を持たれました?

福徳:映画の後半、桜田が一人で喋り出すシーンで急にアップになるじゃないですか。しかも、くそドアップ。あれはびっくりしましたね。しかも、それに耐えうる芝居が続いているのがすごい。映画を観ているうちに桜田の頭の中に入っていくような気がしました。あと、山根と小西が喧嘩するシーン。ケンカしなれてない奴らのケンカの感じがよく出てた(笑)。

——いろいろあって落ち込んだ小西が山根に八つ当たりするところですね。

福徳:小西が「ミキちゃん(山根が付き合っているという恋人)なんて本当はいないんじゃないの?」って言うじゃないですか。小説にはないセリフなんですけど、「うわあ、たまらんなあ」と思って観てました。小西はペットボトルいじりながら話してるし(笑)

大九:山根が買ってきてくれたのを飲まずに、自分の冷蔵庫から出してきたのを飲むんですよね(笑)。

萩原:そして、ラベルの水の原産地をずーっと見てる(笑)。

大九:こんな話どうでもいい、ということを表現するために、ラベルでも読みましょうかって萩原さんに伝えたんです。「ミキちゃんなんて本当はいないんじゃないの?」というセリフは、最初、荻原さんは怒った感じでやってくださったんですけど、本番では半笑いでやってもらいました。その方がイラつくので。そうやって、誰もが持っているズルさを小西にしっかり出したかったんです。きっと、この2人は初めて喧嘩したんだと思うんですよね。お互いに心を許しているから本音も吐ける。この喧嘩は、もう一段仲良くなるための儀式だったんじゃないかなって思います。

映画で描かれた“さっちゃん”の告白

——喧嘩のシーンや告白のシーンなど、登場人物の感情がマックスになるシーンは生々しい痛みを感じて胸に刺さりました。中でも、監督が小説で惹かれたさっちゃんの告白シーンは圧巻です。

萩原:今回、あのシーンのことを聞かれることが多いんですよ。「萩原さんはあのシーンについてどう思われますか?」って。

大九:「小西はどういうつもりなんだ」って?(笑)

萩原:そうです(苦笑)。取材で話をしているうちに、だんだん、僕だけでも小西の味方になってあげたいと思うようになってきました。小西は決して悪いやつじゃない。ただ、さっちゃんの告白を聞いて、その内容をしっかり理解しながらも、それに対して自分がどう返していいのかわからなくて頭の中がバグった状態になっていたんだと思うんです。小西なりに向き合おうとするだけど、どうしたらいいかわからないし、返せるだけのエネルギーもない。人としてすごく難しい局面だったと思います。

大九:今の萩原さんの話を聞いて、しめしめと思いました(笑)。この小説を読ませていただいた時に、完全なるボーイ・ミーツ・ガールの作品だと思ったんです。少年の視点を通じて女性たちが描かれていたので、これを私がお預かりして映画にする場合は、女性側の視点が盛り込めるところはどんどんやっていこうと思いました。そして、小西が見えてないところのさっちゃんや桜田の生き生きとした様を描いて、映画を観ている人がみんなさっちゃんの虜になるようにする。そして、最後は小西をギッタギタに泣かしてやる!っていうつもりでシナリオを書かせて頂いたんです。

——男性が書いた恋愛小説を女性の視線で映画化する、という構図が面白いですね。福徳さんは映画で描かれたさっちゃんや桜田に関しては、どんな感想を持たれました?

福徳:可愛らしいな、というのが第一印象でした。こんなに可愛らしく描くんやって思いました。だから、どんどんさっちゃんに感情移入していくし、「小西、何してんねん!」と思うんですよね。

——小説でさっちゃんの告白シーンを書いている時は、どんな気持ちだったのでしょうか。

福徳:「さっちゃん、早く言い終わってくれ!」という小西の気持ちになりつつ、ペンが止まりませんでした。でも、さっちゃんも悪いんですよ。あんなに長いこと喋ったらあかん。

大九:あははは

福徳:小西が100パーセント悪いように見えるけど、さっちゃんも悪い。つまり、2人の相性があかんかった、というのを、あのシーンで書きたかったんです。

不器用な若者たちが紡ぐ、等身大の青春

——クライマックスには小西が渾身の告白をするシーンがありますが、あのシーンはいかがでした?

萩原:あれだけの長台詞はこれまで経験したことがなかったんです。対話のシーンだったら日常の延長のようにお芝居ができるんですけど、あれだけの長台詞になると最終的には気合でやるしかない。現場の空気も緊迫感がありましたし、ここは俺がなんとかしないといけない!という覚悟で撮影に挑みました。

福徳:あのシーンは観ててすごく気持ちよかったです。小西がさっちゃんを見習って頑張った! でも冷静に考えたら、小西は自分の気持ちをぶつけてるだけなんですけどね。小西が変わってない感じが良いな、と思いました。この映画に出てくる人たちはみんな好きですね。

——そうですね。みんな不器用で、傷ついたり傷つけられたりしながら一生懸命生きている。恋愛映画としてはもちろん、青春映画としても魅力的な作品だと思いました。

大九:登場人物全員が未熟な若者であるっていうことを丁寧に撮りたいなと思ったんです。だから一人一人が壊れ物みたいなつもりで繊細に撮るようにしました。物語をドライブさせるためだけに人が傷ついたりすることがないようにして生の痛みを描きたいと思ったんです。

萩原:登場人物、一人一人が真面目に生きていて、相手と真剣に会話している。だからいろんな想いがぶつかって、傷ついたり傷つけられたりするんです。だからエンターテイメントとしての面白さもありつつ、心の底からいろんな感情が湧いてくる作品だと思います。同じシーンを観ていても人によって感想は違うと思うので、映画をご覧になった方々の感想を早く伺いたいです。

PHOTOS:RIE AMANO
STYLING:[RIKU HAGIWARA]TOKITA
HAIR&MAKEUP:[RIKU HAGIWARA]Emiy(Three Gateee LLC.)

[RIKU HAGIWARA]ジャケット 23万7600円、トップス 14万9600円、パンツ 14万6300円、 シューズ 参考商品/全てマルニ(マルニ ジャパン クライアントサービス 0120-374-708)

映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」

■映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」
4月25日からテアトル新宿ほか、全国ロードショー
原作:福徳秀介(「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」小学館刊)
監督・脚本:大九明子
出演:萩原利久 
河合優実 伊東蒼 黒崎煌代
安齋肇 浅香航大 松本穂香/古田 新太
製作:吉本興業 NTTドコモ・スタジオ&ライブ 日活 ザフール プロジェクトドーン
製作幹事:吉本興業 
制作プロダクション:ザフール 
配給:日活
©️2025「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」製作委員会
https://kyosora-movie.jp/

The post 萩原利久 × 福徳秀介 × 大九明子 3人が語る映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」の舞台裏 appeared first on WWDJAPAN.

「スタジオニコルソン」創業者、「POTR」とのコラボは「ただ一言、完璧」

PROFILE: ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター

ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: イギリス・ノッティンガム生まれ。ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツでテキスタイルの学士号を取得する。その後20年間、数多くの英国ブランドで経験を積み、2010年に「スタジオニコルソン」を創業。メンズウエアやテーラードからインスパイアした、ジェンダーフリーなデザインを得意とする PHOTO:DAISUKE TAKEDA
吉田カバンは、コラボ相手が“吉田カバンのファン”であることが多い。5月1日に発売する「ピー・オー・ティー・アール(POTR)」の最新コラボも例に漏れず、「スタジオニコルソン(STUDIO NICHOLSON)」のニック・ウェイクマン(Nick Wakeman)創業者兼クリエイティブ・ディレクターは、開口一番で吉田カバンへの愛を語った。同氏に、コラボコレクションへのこだわりを聞いた。

WWD:吉田カバンとは個人的な思い出があるとか。

ニック・ウェイクマン「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター(以下、ウェイクマン):1999年に初めて東京を訪れた際、街ですれ違う吉田カバンのバッグを持つ人たちに目が釘付けだったことを覚えている。自然と足先が東急ハンズに向き、代表作“タンカー”シリーズのヘルメットバッグを買っていた。その後も熱は冷めず、何度か購入している。

WWD:どのようにしてコラボが実現した?

ウェイクマン:「スタジオニコルソン」のコラボ担当者が、「POTR」を提案してきた。正直胸が高鳴った。前述した通り、私は吉田カバンのファンだから。加えて、吉田カバンと「スタジオニコルソン」のモノ作りには共通点が多い。これまでさまざまなブランドとコラボしてきたが、特別なものになると確認があった。

WWD:共通点とは?

ウェイクマン:機能性の追求や素材へのこだわり、汎用性あるデザインなど、枚挙にいとまがない。しかもお互い、それらに同じ熱量で取り組んでいる。(コラボとなるとブランドのこだわりがぶつかることもあるが、)スムーズに発売までもっていけた。

出来は「完璧」

WWD:コラボアイテムを初めて見たときの感想は?

ウェイクマン:ただ一言、「完璧」だと思った。

WWD:コラボコレクションを改めて説明してほしい。

ウェイクマン:“ボンサック”、ショルダーバッグ、キーウォレットの3型を用意した。中でもお気に入りは、“ボンサック”。数年前にこの型を「ポーター(PORTER)」の表参道店で購入して以来、平面に置いたときと実際に身に付けたときで変わるシルエットに夢中だ。

どのバッグも、マットな質感の100%リサイクルナイロン生地を使い、「スタジオニコルソン」のシグネチャーカラー“ダーケスト ネイビー”で染めた。ステッチを表に出さないようにしたのも、この色合いを存分に楽しんでもらうため。

「スタジオニコルソン」らしさは随所に散りばめた。例えば、ファスナーは、「スタジオニコルソン」のパンツのサイドファスナーを模したもの。ナイロンテープや付属のレザー部分には、通常の“四角バッテン”の代わりに、「スタジオニコルソン」のイニシャル“N”をあしらった。

WWD:一緒に働いたこそ気付いた吉田カバンの一面はあるか?

ウェイクマン:さまざまな装飾をあしらっても、ごちゃごちゃ感が一切ないこと。私も昨年からバッグコレクションを発表しており、作り手として学びが多かった。

The post 「スタジオニコルソン」創業者、「POTR」とのコラボは「ただ一言、完璧」 appeared first on WWDJAPAN.

「スタジオニコルソン」創業者、「POTR」とのコラボは「ただ一言、完璧」

PROFILE: ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター

ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: イギリス・ノッティンガム生まれ。ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツでテキスタイルの学士号を取得する。その後20年間、数多くの英国ブランドで経験を積み、2010年に「スタジオニコルソン」を創業。メンズウエアやテーラードからインスパイアした、ジェンダーフリーなデザインを得意とする PHOTO:DAISUKE TAKEDA
吉田カバンは、コラボ相手が“吉田カバンのファン”であることが多い。5月1日に発売する「ピー・オー・ティー・アール(POTR)」の最新コラボも例に漏れず、「スタジオニコルソン(STUDIO NICHOLSON)」のニック・ウェイクマン(Nick Wakeman)創業者兼クリエイティブ・ディレクターは、開口一番で吉田カバンへの愛を語った。同氏に、コラボコレクションへのこだわりを聞いた。

WWD:吉田カバンとは個人的な思い出があるとか。

ニック・ウェイクマン「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター(以下、ウェイクマン):1999年に初めて東京を訪れた際、街ですれ違う吉田カバンのバッグを持つ人たちに目が釘付けだったことを覚えている。自然と足先が東急ハンズに向き、代表作“タンカー”シリーズのヘルメットバッグを買っていた。その後も熱は冷めず、何度か購入している。

WWD:どのようにしてコラボが実現した?

ウェイクマン:「スタジオニコルソン」のコラボ担当者が、「POTR」を提案してきた。正直胸が高鳴った。前述した通り、私は吉田カバンのファンだから。加えて、吉田カバンと「スタジオニコルソン」のモノ作りには共通点が多い。これまでさまざまなブランドとコラボしてきたが、特別なものになると確認があった。

WWD:共通点とは?

ウェイクマン:機能性の追求や素材へのこだわり、汎用性あるデザインなど、枚挙にいとまがない。しかもお互い、それらに同じ熱量で取り組んでいる。(コラボとなるとブランドのこだわりがぶつかることもあるが、)スムーズに発売までもっていけた。

出来は「完璧」

WWD:コラボアイテムを初めて見たときの感想は?

ウェイクマン:ただ一言、「完璧」だと思った。

WWD:コラボコレクションを改めて説明してほしい。

ウェイクマン:“ボンサック”、ショルダーバッグ、キーウォレットの3型を用意した。中でもお気に入りは、“ボンサック”。数年前にこの型を「ポーター(PORTER)」の表参道店で購入して以来、平面に置いたときと実際に身に付けたときで変わるシルエットに夢中だ。

どのバッグも、マットな質感の100%リサイクルナイロン生地を使い、「スタジオニコルソン」のシグネチャーカラー“ダーケスト ネイビー”で染めた。ステッチを表に出さないようにしたのも、この色合いを存分に楽しんでもらうため。

「スタジオニコルソン」らしさは随所に散りばめた。例えば、ファスナーは、「スタジオニコルソン」のパンツのサイドファスナーを模したもの。ナイロンテープや付属のレザー部分には、通常の“四角バッテン”の代わりに、「スタジオニコルソン」のイニシャル“N”をあしらった。

WWD:一緒に働いたこそ気付いた吉田カバンの一面はあるか?

ウェイクマン:さまざまな装飾をあしらっても、ごちゃごちゃ感が一切ないこと。私も昨年からバッグコレクションを発表しており、作り手として学びが多かった。

The post 「スタジオニコルソン」創業者、「POTR」とのコラボは「ただ一言、完璧」 appeared first on WWDJAPAN.

お酒と香りのペアリングで東京のモンマルトルを盛り上げろ  神楽坂に登場した日本発香水「エディット」旗艦店の誕生秘話

日本発フレグランス「エディット(EDIT(H))」初の旗艦店が東京・神楽坂にオープンした。「エディット」は2018年に誕生。1905年創業の煉朱肉「日光印」6代目である葛和健太郎モリヤマ社長が、朱肉をルーツにした香水ブランドとしてスタートした。フランスのインテリア見本市「メゾン エ オブジェ(MAISON ET OBJET)」でデビューした当時は、日本発香水は少なかったが、ヨーロッパで認められ、現在10カ国で展開。日本国内では伊勢丹新宿本店や阪急メンズ東京など約20店舗で販売している。4月に初の旗艦店をバー併設で神楽坂に出店。葛和社長に、バー併設および神楽坂を選んだ理由を聞いた。

ハンコも香りもアイデンティティー

WWD:「エディット」を立ち上げた理由は?

葛和健太郎モリヤマ社長(以下、葛和):「日光印」6代目として、朱肉の技術を他の商品にどう反映するか考えた。ハンコは日本におけるアイデンティティーを示すもの、香水も同じく個人のアイデンティティーだと思う。朱肉には香りがある。粉末の香料を使うのだが、それをフレグランスにできないかと調香師と一緒に制作した。

WWD:ターゲットは?

葛和:自分らしい個性を意識する 20~40代のファッション感度の高い層に支持されている。

WWD:旗艦店では「エディット」以外も販売するようだが?

葛和:香港発「トバ(TOBBA)」やリトアニア発「ファム(FEMME)」を販売する。海外出張で色々なニッチフレグランスを制作している人々と出合う。輸入代理店は主要業務ではないが、業界の仲間の中からヨーロッパで注目されているが未上陸で日本市場に合いそうなものをピックアップして紹介している。

香りとお酒で神楽坂に新しいムーブメントを

WWD:神楽坂を初の旗艦店の場所に選んだ理由は?

葛和:表参道や銀座は、海外フレグランスのビッグネームの店がたくさんある。埋もれてしまうと思った。背伸びしてそのような場所に出店しなくても、日本発のブランドとして、思想に合う神楽坂に決めた。神楽坂は、皇居が近く伝統があり、日仏学院やフレンチのお店も多く、東京のモンマルトルと言われる街。和洋がうまくミックスされ「エディット」にぴったりだと思った。地元なので、ブランドを始めたときから、不動産屋を回って物件を探していてこの物件に出合った。ただ、神楽坂はミシュラン星付きの店が多い飲食の街。物販の街ではないが、ファーストペンギンとしてフレグランスの旗艦店を出店することで、新しいムーブメントを生み出せたらと考えた。そこで、香りだけでなく、お酒やお茶のペアリングができる店にした。ランチの後に紅茶が楽しめるし、夕食の前後にバーとしても楽しめる。街の人と共存しながら運営できればと思っている。

WWD:お茶とお酒のペアリングを考えたのは?

葛和:最初のコレクションで、ユニセックスなローズの香りを作りたいと思った。そこでできたのが“ローズモヒート”。それをリミックスさせて発展した香りが“カクテルレーン”だ。このようにしてお酒の香りが生まれた。それと同じように、お茶の香り“アールグレイ”が“スーチョンジャーニー”に発展。そして、これら香りの紅茶も作った。香水の香りを元にした紅茶やお酒が楽しめたら面白いと考えた。バーでは、バーテンダーが、香水のイメージのカクテルを即興で作って提供するし、日本のフレグランス市場は、まだ小さい。もっと、香水の楽しさを知ってもらう活動の一環として、香水とは違う入り口を作った。お茶やバーを飲みにきて、香りに出合う場になれば。だから、旗艦店限定の7.5mLのサイズをそろえて、気に入れば購入してもらえるようにしている。

WWD:フレグランス市場の盛り上がりについては?

葛和:香りは皆、関心があるものだと思う。香りの情報や提案が増えて、興味を持つ人が増えているが、楽しみ方を知るのが大切だ。ちゃんとした知識がないとブームで終わるので、香水の付け方などをちゃんと伝えていきたい。香りを文化的に育むような楽しみ方を発信していく。

The post お酒と香りのペアリングで東京のモンマルトルを盛り上げろ  神楽坂に登場した日本発香水「エディット」旗艦店の誕生秘話 appeared first on WWDJAPAN.

創業130周年「スワロフスキー」がグローバル成長する理由 CEOに聞く唯一無二のブランディングとリーダーシップ

PROFILE: アレクシ・ナザール(Alexis Nazare)スワロフスキーCEO

アレクシ・ナザール(Alexis Nazare)スワロフスキーCEO
PROFILE: レバノン生まれ。カリフォルニア大学バークレー校でMBAを取得。プロクター・アンド・ギャンブルやハイネケンなどで活躍。約30年、消費財・小売業界でさまざまな要職を歴任後、22年7月から現職

オーストリア発「スワロフスキー(SWAROVSKI)」は今年、130周年を迎えた。同ブランドは、ダニエル・スワロフスキーが1895年に“誰もが手にできるダイヤモンド”というビジョンを元に創業。革新的な研磨技術でカットしたクリスタルを開発し、高品質のクリスタルジュエリーやクリスタルパーツで世界的なリーダーになった。創業一族が長年ブランドを率いてきたが2022年に体制を一新。一時期厳しい時期もあったが、近年に黒字化し、グローバルで業績を伸ばしている。22年からスワロフスキーを率いるアレクシ・ナザール最高経営責任者(CEO)にビジネスについて聞いた。

WWD:リブランディングの具体的な内容は?

アレクシ・ナザール=スワロフスキーCEO(以下、ナザール): 初の一族ではないCEOとして革新をスタートした。「スワロフスキー」には、ヘリテージ、クリエイティビティー、クラフツマンシップ、クオリティーというラグジュアリー・ブランドが必要とする基盤がある。私の役目は、ブランドのDNAを理解して明確に全社員に伝えることだった。 “ジョイフル・エウストラバガンス(楽しい贅沢)”をテーマに、商品を手に取った全ての人が笑顔になるトレンドに左右されない独自のポジショニングを築いている。

WWD:業界で独自のポジショニングとは?

ナザール:時代が求めるラグジュアリーは、必要以上に高額であることでも、希少性でもない。「スワロフスキー」の一番の強みは、あらゆる消費者が手にすることのできるラグジュアリーを提案できる点。価格や商品レンジの広さでは唯一無二だ。1万円台〜4000万円台という幅広い価格帯において、複雑で精緻なジュエリーを提供している。カラフルでキラキラ輝くジュエリーは、高揚感や喜びをもたらすもの。ワクワクするジュエリーを、あらゆる消費者の予算やテイストに合わせてスケール感を持って展開している。誰もが欲しいと思うものがあるはずだ。

WWD:リブランディングで掲げる“ポップ・ラグジュアリー”とは?

ナザール:あらゆる消費者にアピールするブランドであると同時に、メットガラやウィーン・オペラ座舞踏会への協賛をはじめ、ラグジュアリー・ブランドに欠かせない文化的な活動に力を入れている。また、グローバル・ブランドアンバサダーにアリアナ・グランデ(Ariana Grande)を起用したコラボレーションジュエリーを発売し、話題になっている。

地道な戦略実践でジュエリー市場の成長率の3倍に

WWD:リブランディングしてからの業績の変化は?

ナザール:コロナ禍、インフレなど不安要素が多かったが、改革をスタートして3年連続で、ジュエリー市場の3倍の成長率を記録し、グローバルで成長している。

WWD:成長の理由をどのように分析する?

ナザール:予算、ターゲット、ガバナンス、リーダーシップアドあらゆる戦略が噛み合った結果だ。そのために、全てのスタッフに戦略を浸透させる努力をした。また、継続的に成長するには、謙虚に学ぶ姿勢が大事だ。日々の分析や学びをきちんと実践していけば結果は出る。

WWD:今後のグローバル戦略や強化点は?

ナザール:ジュエリー市場はまだ成長の余地があるので、数年、この戦略を継続する。コレクションをはじめ、店舗やコラボレーション、コミュニケーションなど全方位で具体性を持って強化していくつもりだ。

WWD:日本市場については?

ナザール:24年度の売上高、利益共に2ケタ成長している。訪日客よりも日本人客による売上高が大きい。グローバル戦略はもちろんだが、ローカル戦略が奏功している。日本は、われわれにとって重要な市場。規模だけでなく、文化的影響を与えるプラットフォームとしての役割を持つ。

The post 創業130周年「スワロフスキー」がグローバル成長する理由 CEOに聞く唯一無二のブランディングとリーダーシップ appeared first on WWDJAPAN.

「バウンティーハンター」30周年 ヒカル × タカ 「90年代裏原ブーム」と「変わらない気持ち」

1995年、東京・原宿の竹下通りを抜けた住宅街の奥に、のちに伝説となる1軒のショップが誕生する。アメリカントイを中心に扱うおもちゃ屋さんでありながら、オリジナルTシャツなどのアパレルやオリジナルのフィギュアも展開し、どのアイテムも即完する爆発的な人気を博した。それが当時若者だった2人、ヒカルとタカが立ち上げた「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」である。近くには93年にオープンしたJONIO(高橋盾)とNIGO®の店「NOWHERE」があり、やがて周辺に次々と新進気鋭のストリートブランドが店を構えるようになると、一帯は「裏原宿」と呼ばれ、そこから生まれるざまざまな文化が一世を風靡。特にヒカルは、90年代後半から「smart」や「warp」といった雑誌に連載を持ちながら、独特のファッションが毎号のように誌面で紹介され、若者のカリスマとして絶大な支持を集めた。そんな裏原宿文化の象徴的存在だった「バウンティーハンター」の30周年を記念するアート展「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」が東京・神保町の「New Gallery」で現在開催中だ。30年間、2人で「バウンティーハンター」を守り続けてきたヒカルとタカに、当時の様子やこれまでの歩みを聞いた。

家賃が安ければ場所は
どこでもよかった

——「バウンティーハンター」がオープンした当時(1995年)の裏原宿は、どんな様子でしたか。

ヒカル:人なんか全然いなかったよね?

タカ:住んでる人しかいない、ほんと住宅街でした。

ヒカル:周りに店なんかも全然ないし、地元の人がいるだけ。

——そんな場所に出店を決めたのは?

ヒカル:たまたま物件が空いて、人が来ない場所だから家賃も安かったし。ほんと安ければ場所はどこでもいいと思ってたの。俺だって欲しいものがあれば、どこへでも買いに行くから。場所は関係ない。

——おもちゃ屋さんをやろうと思ったのは?

ヒカル:それもたまたま。おもちゃは子供の頃から大好きで、タカに「おもちゃ屋やりませんか?」って言われたから「いいよ」って。

タカ:僕もずっとおもちゃは好きだったし、当時はおもちゃ屋をやってる人がほとんどいなかったんですよ。90年代だと、渋谷に「ZAAP!」と恵比寿に「FLIP FLOP」があったくらいで。

ヒカル:もちろん新品で現行のおもちゃを売ってる店はあったけど、古いものとかジャンクっぽいものを扱ってる店はなかったね。

——もともと、ヒカルさんは文化服装学院の出身ですよね。

ヒカル:そう。生まれは長崎の佐世保なんだけど、ずっとパンクが好きで、地元にはパンクの服を売ってる店なんかないから、自分でファスナー付けたりカスタムしてたの。その流れで、将来はパンクの洋服屋さんになりたいと思って、文化(服装学院)に入ったんです。

——その文化服装学院で、高橋盾(「アンダーカバー(UNDERCOVER)」デザイナー)さんと出会い、セックスピストルズのカバーバンド・東京セックスピストルズを結成したり。

ヒカル:文化の2年になったときに、1年にジョニー・ロットンそっくりなやつが入ってきて。「なんだこいつ!」と思ってたら、俺が手伝ってたロンドンナイト(音楽評論家の大貫憲章が主催するパンク・ロックDJイベント)で会うようになって、そこから毎日つるんでよく遊んでたの。そんな時に、大貫さんのイベントで、盾と一緒に六本木の「ピカソ」にいたら、THE MODSの森山(達也)さんが来て「お前らバンド組め」って。それで組んだのが東京セックスピストルズ。解散したのが91年だから、組んだのは89年くらいじゃないかな。

——東京セックスピストルズとしては、どんなライブに出ていたんですか。

ヒカル:鈴江の「インクスティック」で、TINY PANX(藤原ヒロシと高木完によって結成されたヒップホップユニット)のイベントがあって、初めはザ・タイマーズに出演のオファーを出したんだけどダメで。次にCOBRAにオファーしたけどダメで。さらにチェッカーズにオファーしてもダメだった。で、バンドに出てほしいのにどうしようってなってた時に、「ヒカル達バンドやってるよな」って言われて、最終的に東京セックスピストルズが出ることになったの。それが最初のライブです。

ブームの頃に金儲けに走っていたら、ここまで続いてない

——お2人は、どのように出会ったのでしょうか。

タカ:僕がスニーカーショップで働いてた頃に、知り合いの紹介ですね。

ヒカル:そうだ。当時ニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」で、「カーハート(CARHARTT)」とコラボした限定のジャケットがリリースされたんだけど、それは買えなくて。次にニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」限定で“M65ジャケット”が出るっていうので、それがどうしても欲しくて、誰かニューヨークに行くやついないか探してたら、スニーカーの買い付けで行くやつがいるって。それがタカだった。

タカ:それまで話したこともなかったのに、急にお願いされて。結果ちゃんと買ってきました。

ヒカル:それでタカに誘われておもちゃ屋やろうってことになっていくんだよね。

——裏原ブームが起きたことで、どんどんビジネスを広げていこう、みたいなことは考えなかった?

ヒカル:経営的なことは全てタカなので。タカ、どうなの?

タカ:オリジナルのアイテムを作ったりとか、多少は広がりましたけど、あんまり手広くやっていくのは自分のキャパ的にも無理なので、やれる範囲で、という感じですね。

ヒカル:いわゆるブームの頃は、楽しかった。ただそれだけですよ。

タカ:本当にそうですね。楽しかった、それに尽きる。

ヒカル:ど真ん中にいたから盛り上がりは当然感じてたけど、それでチャンスだ金儲けだ、とはならなかったね。それがよくなかったのかな(笑)。

タカ:いやいや、十分ですよ。

ヒカル:でも実際、金儲けに走っていたら、ここまで長くは続かなかったと思いますよ。分かんないけど。

タカ:短期的には儲かったとしても、30周年は迎えられなかったでしょうね。

——お2人の役割分担としては、タカさんが経営者で、ヒカルさんは?

ヒカル:かませ犬。はははは(笑)。

タカ:僕は人前に出るのも苦手だし、メディアに出てしゃべったりとかもできないので、この2人が組むのがちょうどいいバランスなんです。

ヒカル:店番もずっと2人でやってたもんね。

タカ:買い付けでどっちかがアメリカとかに行った時は、残った方が1人で店番してました。

ヒカル:そうなんだよ、1人で店番。でも、みんな遊びに来てくれた。

タカ:うちの店が1階にあって、上の階にいろんな事務所があったんです。ロゴのデザインもやってくれた7STARS DESIGNもそうだし、「ヘクティク(HECTIC)」や「ネイバーフッド(NEIGHBORHOOD)」の事務所も同じマンションでした。

——当時10代だった若者にとっては、「バウンティーハンター」は店の入り口に界隈の大人たちがたむろしていて、入りづらかったんですよね。

ヒカル:でもそれがいいでしょ(笑)。俺たちが若い時だって、パンクの店とか入りづらかった。同じ思いをしてきてるんですよ。で、それがカッコよかった。

——原宿の「ア ストア ロボット(A STORE ROBOT)」とかも入りづらかったです。

ヒカル:それそれ! 俺たちも「ア ストア ロボット」の影響だよ。

——当時の裏原宿シーンは、ブランドやショップは別だけれど、デザイナーも店員もみんな友達で、フックアップしたりされたり、全体としてのつながりがありましたよね。

ヒカル:ほんとにそう。「バウンティーハンター」もみんなのおかげ。周りの友達が全部やってくれた。それぞれが努力をした結果でもあるけど、みんなの力だよ。

タカ:今回30周年のコラボ作品も、まさに周りの人たちが快く参加してくれたおかげですから。

ヒカル:俺はずっと変わらずこんな感じだけど、周りの友達はどんどんビッグになっていったでしょう。なのに、いまだに変わらず付き合ってくれる。それがうれしい。いくらでも断れるのに、絶対に断らないからね。正直、俺としては周年とかあんまりやりたくないんですよ。だけど、みんながやってくれるから、それならやろうかっていう感じで。

俺はずっと変わってない、
好きなことをやるだけ

——ヒカルさんが雑誌に出まくっていた90年代後半、街に自分を真似した同じ格好の人たちがあふれていることは、どう感じていたのでしょうか。

ヒカル:気持ちわる、とは思いつつ、それよりも、びっくりしたかな。だって、全然流行ってもないし、むしろ誰も身につけてないから着てたものなのに、みんな着てるんだもん。

——一方で、ブームが落ち着いて、やがて去っていくのは、どう見ていましたか。

ヒカル:そりゃあそうでしょう、ってだけですよ。別に自分たちで仕掛けたわけでもないし、ただ勝手に盛り上がっていっただけだから。ブームだろうがなんだろうが、俺は変わらない。流行りでやってたわけじゃないからね。ずっと好きなことをやるだけ。だから、別に当時を否定する気持ちもないし、あの盛り上がりがあったから今でも続けていられることもあるし。

——本当に趣味がずっと変わらないんですね。

ヒカル:変わらないね。最初の衝撃が忘れられないです。子供の頃に見たアメリカのおもちゃとか、お菓子のおまけとか、そういうの全部が衝撃だったんですよ。同じように、パンクも衝撃だった。どっちも衝撃で、どっちも大好きになった。それが今も続いてる、それだけですよ。

——「バウンティーハンター」のデザインは、パンクやハードコアバンドをはじめとした、元ネタありきのオマージュもたくさんありましたけど、そういった元ネタを知ってほしい、みたいな気持ちは?

ヒカル:まったくないですね。かっこいい! 真似しよう! それだけ。人がどうとか関係ないですよ。好きなものは好き、好きだから真似したい。

タカ:ブートとかもそうで、好きじゃなかったらわざわざ金かけて作らないですよね。愛情があるかどうかは、真似されたりブートを作られた方にも伝わると思うので、怒られたこともないですし。1回だけかな、怒られたのは。プレイボーイのバニーを勝手に使った時は、とんでもなく分厚い書類が届いて、かなりビビりました。

ヒカル:映画「The Warriors」に出てくるフューリーズの3体セットを作った時も、監督が喜んでくれたよね。

タカ:そう、サンフランシスコでお店やってる友達がいて、店に「バウンティーハンター」で作ったフューリーズのフィギュアを置いてたら、「The Warriors」のウォルター・ヒル監督がたまたま店に来たようで、それを見て「スーパークール!」とかって言ってくれたみたいです。

30周年記念ビジュアルの元ネタに隠された、いい話

——30年たって、「バウンティーハンター」に影響を受けた世代が、今はクリエイターになり、今回のようにコラボレーションする、というのもいいですよね。

ヒカル:河村(康輔)君とかVERDYとかね。今回30周年のビジュアルは河村君がデザインしてくれたんだけど、これも元ネタがあって、いい話なのよ。

タカ:あれはしびれましたね。

ヒカル:97年か98年かな、ニューヨークに買い付けに行った時に、シリアルのマニアが勝手に作った「Freaky Magnet」っていうファンジンが売っていて、3冊買って帰って、1冊は自分用に、1冊はスケシン(SKATE THING)ちゃんにあげて、残り1冊は誰も買わないだろうと思いつつも店に置いたの。そうしたら、その1冊を買ったのが当時まだ10代だった河村君だったんです。それを河村君と初めて会った時に聞いたの。

タカ:ほんとはおもちゃが欲しかったけど、お金がなくて、店にある中で「Freaky Magnet」しか買えなかったって。

ヒカル:それで、今回の30周年のビジュアルは、その「Freaky Magnet」の表紙のオマージュになってるの! だからあえて当時の質感を出して!! 刻まずにデザインしてあります!!!

——いくらでも簡単に情報が手に入る今の状況は、どう見ていますか。

ヒカル:それはそれで便利でいいと思うよ。ただ、ワクワクする感じは減ったかな。だって昔はヤバいおもちゃを見つけても、それが何なのか分かんなかった。お菓子のおまけなのか、なんかのキャラクターなのか、何も分からない。だからこそ、宝探しだったんだよね。音楽もそう。音だけ聴いてヤバいと思っても、どこのバンドが分からなかったから、こっちは必死で探すしかない。

——ヒカルさんはバンドTシャツのコレクターでもありますが、昨今のバンドTシャツがビンテージとして高値になっていることについては?

ヒカル:意味分かんない。別にレアだから欲しいわけじゃなくて、そのバンドが好きだから着るもんでしょ、バンドTシャツって。だったら、現行のクオリティーが良い新品のバンドTシャツ買えば良いと思ってます。

——SST RECORDSとか、今でもちゃんとレコードもTシャツも出し続けてますからね。

ヒカル:マイナー・スレット(MINOR THREAT)とかもそうだよね。あれはプレミアがついて値段が高くならないように、レーベルがリリースを続けてるんですよ。素晴らしいです。この前、現行のマイナー・スレットの「Out Of Step」のTシャツ買いました。

PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA

「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」

■「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」
監修:Supervised by TAKA+HIKARU、BOUNTY HUNTER
会場:New Gallery
住所:東京都千代田区神田神保町1-28-1 mirio神保町 1階
会期:2025年4月3日〜5月6日
休日:月曜日(5月5日を除く)
時間:12:00〜20:00
入場料:無料
https://newgallery-tokyo.com/bountyhunter30th

The post 「バウンティーハンター」30周年 ヒカル × タカ 「90年代裏原ブーム」と「変わらない気持ち」 appeared first on WWDJAPAN.