「群言堂」の“植物担当” 染料調達・営農・朝食のおもてなし、3足のわらじを履くに至るまで

PROFILE: 鈴木良拓:他郷阿部家 暮らし紡ぎ人兼SUZUKI FARMS代表

鈴木良拓:他郷阿部家 暮らし紡ぎ人兼SUZUKI FARMS代表
PROFILE: (すずき・よしひろ)1988年福島県南会津町生まれ。秋田公立美術工芸短期大学プロダクトデザイン科でデザインの基礎を学び、文化服装学院テキスタイルデザイン科でテキスタイルを学ぶ。2012年に石見銀山生活文化研究所に入社と同時に島根県大田市大森町へ移住。企画担当として主にテキスタイルデザインを手掛ける。19年に独立。「他郷阿部家」での朝食、台所周りの掃除や「阿部家」のメンテナンス業務、お客さまの感動価値を上げるものづくりに取り組みながら、随時里山パレットの染料となる植物の調達を行う

島根県大田市に拠点を置く群言堂グループが運営する宿泊施設「他郷阿部家」で朝食を担当する鈴木良拓さんは、自ら育てた野菜と卵を宿泊客にふるまう。聞けば、もともとは「石見銀山 群言堂」のテキスタイルデザインを担当し、大森町周辺で採取した草花や枝木などから染めた「里山パレット」を開発した人物で、今も「里山パレット」の染料になる植物を採集しながら、「阿部家」の仕事と営農を行う。

WWD:仕事のタイムスケジュールを教えてほしい。

鈴木:朝6時半に「阿部家」に来て8時からの朝食を準備し、朝食後はお客さまに群言堂の関連施設のご案内などを行う。11時のチェックアウト業務後は14時頃まで洗濯や掃除などを行う。お昼休憩後、15時頃からは(群言堂グループの創業者)登美さんからの頼まれごとや畑仕事、「里山パレット」の業務を行っている。18時には帰宅して家族のために夕食を作っている。「里山パレット」の下げ札に描かれた植物画も僕の担当。

WWD:大森町に移住したきっかけは?

鈴木:学生時代に生地の産地を巡り、機屋や染工場を見学させていただく中でインターンを経験した。そこでさまざまなブランドの生地ファイルが並ぶ中で「石見銀山生活文化研究所」というファイルを見つけた。「石見銀山」「研究所」って何だ?と興味を持ちファイルを見るとちゃんとした生地を作っていて惹かれた。調べると島根を拠点に面白い取り組みをしていた。求人は出ていなかったが問い合わせると面接することになり、学生時代に取り組んでいた自生する植物繊維で作った物や植物で染めた衣服などの作品をたくさん持って臨んだ。

WWD:大森町の本社で面接を行った。

鈴木:(創業者の)登美さんと大吉さん(夫妻)はもちろん経営陣がそろい10人に囲まれた面接だった。いろんな質問をされて答える中で大吉さんが盛り上がってきて「この町には手つかずの自然の資源があるが、生かし切れていない。植物資源を使ったものづくりをやってみないか」と言われた。後に登美さんが教えてくれたのは、登美さんは面接の時点では迷いがあって、面接帰りの電車で偶然一緒になりいろんな話をする中で採用を決めたそう。

WWD:12年にデザイナーとして採用され、テキスタイルデザインを担当した。

鈴木:入社後すぐに大森町周辺の植物を生かしたものづくりに取り組みはじめ、今は食堂になっているかやぶき屋根の建物で実験的に染め始め入社して1年が経ったころに「里山パレット」をスタートすることになった。

WWD:「里山パレット」は完全な草木染めではなく化学染料も用いる「ボタニカルダイ」を採用した。

鈴木:流通させるにはある程度の耐久性が必要だった。「ボタニカルダイ」は従来の草木染めで用いるような重金属を使わない自然由来の糊で色を吸着させる。色落ち防止のための化学染料を用いたハイブリッドな染色法で、文化服装学院時代に染め織りのアドバイスを頂いていた有機化学研究者が在籍する染めの会社が取り組んでいた。

WWD:「里山パレット」はどんな植物を用いているのか。また、染料になるかどうかをどう見極めているのか。

鈴木:畦道にある蓬、梅や桜の剪定をするときに出た枝、収穫が間に合わず落ちてしまったブルーベリーの実、山に自生する香りの良い黒文字(クロモジ)や湿気の多いところに生えるシダ植物など、大森の環境で得られるいろんな植物を使っている。大森らしい植物は何かな?という視点で探している。

色に関してはどの植物も色素を持っているので、例えば枝や幹、渋み味が強い植物はタンニンが多いのでブラウン系かな?とか、ブルーベリーやヨウシュヤマゴボウだったらアントシアニン系が多いかな?と大体の予測は立てながら集めている。

WWD:現在何種類くらいの植物から染料を作っているのか。

鈴木:少しずつ増えていて今は100種類以上ある。植物別にデータ化してシーズンごとに選んでいる。人気なのは明るめではっきりとした色。嬉しいのは10年続けると、「今年の黒文字の色が良かったよ」と徐々に色ではなく植物で見比べてくれる人が増えていること。気に入った形の服で10色そろえてくれる方もいる。

WWD:染料をどのように作り、染めているか。

鈴木:大森で染料となる植物を集めて乾燥か冷凍してストックし、それを「ボタニカルダイ」ができる会社に送り染料にしてもらった後に染工場で染めていただいている。1種類50~60kgストックしているものもあれば、集めにくいものは1kg単位でストックしてキロ単位で出荷している。採集しやすい植物も難しい植物も価格は一律で、どれくらい貴重か(採集が難しいか)などは「里山パレット」のページで紹介している。特に貴重なのは冬頃に集めるサカキやヒサカキの実で、小粒の実を寒い冬に集めなきゃいけないので手が冷たくなるし大変だけど、色がいい。

WWD:今は「里山パレット」の材料収集と営農、「阿部家」の運営に携わる。なぜ3足のわらじを履くことに?

鈴木:大森に移住してきてから田畑が荒れていくのが徐々に目立つようになった。もともと植物や森に興味があり「自然と自分の繋がり」を畑で表現してみたくなった。群言堂のお取引先などのお客さまが大森にいらしたときにスタッフたちが採ってきた山菜やイノシシ肉などでおもてなすることもあり、野菜も自分たちの手で育てたものが提供できればと考えた。また、大森町で畑や田んぼをしている人は少なく、1人くらい農業に注力する人がいると面白いいかな?とも思った。独立を選んだのは農家じゃないと農地が借りられないことに加えて、畑を借りるための資金がなかったから。借金をするために独立した。「群言堂」の仕事も引き続き行うことも決まっていたから独立できた。

実態は「群言堂」で稼いで畑に投資、それでも営農する意味

WWD:荒れた畑を野菜が採れる畑にするのは簡単ではない。今ではニホンミツバチが畑にやってくるまでになった。

鈴木:最初の3年は全く野菜ができず、意味があると思って始めたことだったがしんどかった。「群言堂」の仕事をしながら、もともと田んぼだった場所を畑にするなど土木工事から行っていたからとにかく必死だった。4年目からは人参や葉物野菜が採れるようになり、野菜による売り上げはわずかだったが心が安定した。その頃に「阿部家」に合流して、野菜のおもてなしを始めた。自分たちの手で育てた野菜と卵でつくる朝食は納得感があっていい仕事だと感じている。今は手放しでも野菜の花が咲いて種がこぼれ、新しく芽がでて放っておいても自然環境に任せることができるようになった。

育てた野菜は「阿部家」の朝食をメインに大森町にあるドイツパン屋べッカライコンディトライヒダカや近くのジビエ料理屋さんなど、顔が見える数店舗に卸している。そのほか、近所におすそ分けしたり、野菜のある時期に町の人や滞在されている人、保育園や学童の子どもたちに畑に入ってもらって収穫してもらっている。つい先日も保育園の子どもたちがタケノコ堀りに畑に来て、町の中での立ち位置ができて営農する意味を感じている。

WWD:畑で利益を出すのは難しいと聞く。

鈴木:大規模農家や土壌環境がいい畑以外はほぼ赤字なのではないか。僕は経費をかけずにやっていても営農だけでは赤字で、「『群言堂』で稼いで畑に投資」が実態に近い(笑)。今は投資になっているが、教育など何かをきっかけに活用できる可能性があるとも感じている。また群言堂グループとして「生活観光」を打ち出しているので畑が自分を表現できる場所として確立したい。

WWD:自然農法にこだわっている。

鈴木:森のような畑を作りたくて、農薬や肥料を使っていないので結果的に「自然農法」になった。人が支配的に管理するのではなく、自然環境に近い畑を作りたいと思った。というのも、父親が林業に関わっていたこともあり、家族の話題は森や自然のことが多く興味を持つようになった。中学生の頃に出合った植物生態学者の宮脇明さんの本に「本来の自然(森)というは、いろんな生き物がせめぎ合っている場所である。高木の下に亜高木、低木、下草、そして地面の下にもミミズや様々なバクテリアがいる」とあった。空間の中に色んな生き物がせめぎ合っているのが「自然」だという言葉が強く印象に残った。宮脇さんの植樹方法は本来そこにあったであろう植生を神社の鎮守の森などから導き出して何十種類もの木を混生密植させるもので、僕もそれを参考に60種類くらい科の違う野菜の種を混ぜて、はなさかじいさんのように畑に種をばら撒いて「小さな森のような畑」を作っている。農業というよりもものづくりに近い感覚で、生態系が成立する畑をつくっている。

WWD:結果的に「群言堂」の価値を上げる取り組みになった。

鈴木:経済優先の効率重視した農業ではなく、大森の「暮らし」の延長線上にある畑で採れたものをお客さまへのおもてなしとして提供した点がよかったのではないか。「里山パレット」もそうだが、里山の暮らしから環境に負荷をかけずに少しずついただいていることが「群言堂」らしく結果的に価値を高めることになるのではないか。

WWD:「群言堂らしさ」とは。

鈴木:よそのものに価値を見出してありがたがるのではなく、価値あるものは自分の身近にあると「群言堂」は考えている。僕の領域でいうならこの土地にある植物を活用すること。

WWD:大森町の暮らしについて教えてほしい。

鈴木:よそ者に対して壁がないのが第一印象だった。着いて1週間くらい経った頃、男子寮の前に軽トラを乗り付け「港にアジがあふれているから乗れ、いくぞ」と町の人が声をかけてくれた。

大森町は栄えていた時期はIターンで出来上がった町で、それが大森の気質として残っているのではないか。400人の小さな町で1本道に家が並んでいるので、それぞれの暮らしぶりがなんとなくわかるし、外から来た人でも感じられるところがユニークなところ。

WWD:群言堂で働くことについてどんなところが面白いか。

鈴木:単に出勤してから退勤するまでの関係でなく、そこで働くスタッフも(全員ではないが)大森に暮らしがあり、その家族や子どもたちも大森で生活している。働く場と暮らしの場、子育ての場がつながっているところが面白いと感じる。単に仕事の関係だけではなく、みな町民でもあり消防団や町の役割も持っていて町の機能を担い、助け合っている。仕事とプライベートが曖昧でそれが面白いと思う。夫婦、兄弟、親子で働く人もいて家族の延長の雰囲気がある。

WWD:今後取り組みたいことは?

鈴木:大吉さんが旗振りをしている町のコンソーシアムによって500年祭(2027年は石見銀山発見500年)に向けて山の整備が進んでおり、その際に切られる木を活用したい。町では森に関わる勉強会も行っていて、今年の6月頃から本格的に整備が始まる予定だ。例えば暮らしにつながる製品として「阿部家」の食卓に並べる食器を作るのはどうかと試作品を作っている。半年後に登美さんにプレゼンする予定だ。経済的な循環を生まなくても暮らしに溶け込む循環を生みたい。

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元カリスマホスト、年商20億円の社長になる 目指す頂は「ビューティ業界のLVMH」

2010年代に歌舞伎町のトップホスト“神7”に名を連ねた男がいた。源氏名は縁賀希蓮(えんがきれん)。ホストクラブでは誰よりも早く出勤し、誰よりもストイックに努力を重ね、シャンパンタワーの夜を駆け抜けた。

お金、名声、地位ーー欲しいものはすべて手に入れた。だが、心は空っぽだった。ふと蘇ったのは、かつて生死をさまよった交通事故の記憶と、444日かけて歩いた四国八十八箇所、そして“森翔太”(本名)という素の自分だった。

「人に支えられてきた人生だからこそ、恩返しをしたい」。そう決意した森が次に選んだ舞台は、美容業界。2018年、イスラエル発のスキンケアブランド「クリスティーナ」の日本総代理店としてクリスティーナジャパンを創業。またたく間に、年商20億円に迫るまで事業を成長させた。

「美容業界のLVMHを作る。誰も見たことのない景色を見せる」。ビューティビジネスの頂を目指す森は今、その挑戦への意志を自ら証明するかのように、世界最高峰・エベレストへの登頂に挑んでいる。

イスラエルの過酷な環境が生んだ
本物のコスメを“人の手”で届ける

WWD:まず、クリスティーナジャパンという会社について教えてください。

森翔太クリスティーナジャパン社長(以下、森):「クリスティーナ(CHRISTINA)」は、イスラエル発のスキンケアブランドです。砲撃や極度の乾燥といった過酷な環境で傷ついた兵士の肌を治すために生まれた製品には、科学と哲学が詰まっています。僕たちが届けたいのは、単なるスキンケアではありません。肌が変われば、自信が生まれ、未来が変わる。僕らは“人生に自信と希望を持てる未来”を売っているんです。

クリスティーナジャパンは、2018年に日本総代理店として事業をスタートしました。僕らが大切にしているのは、お客さま一人ひとりの悩みに寄り添い、その人生に伴走する存在であること。そのために、僕らは“カウンセリングコスメ”として専門のスタッフによる接客を徹底しています。

生死を分けた事故
「人に恩返しをしたい」

WWD:森社長は元ホストと聞きました。

森:はい。隠すことは何もありません。源氏名は縁賀希蓮(えんが・きれん)。大阪・心斎橋のホストクラブでナンバーワンになり、東京へ進出。“神7”と呼ばれる全国トップホストの一人に選ばれました。

WWD:それまでに、どんな紆余曲折が?

森:実は小学校時代は学級委員を務めるような真面目な子どもだったんです。ただ、中学に入って環境が一変しました。ラグビー部に入部したもののいじめに遭い、家庭でも両親が家庭内別居状態。家にも学校にも、自分の居場所がどこにもないと感じていました。そんなとき、姉の彼氏がヤンキーで、いつも僕を守ってくれた。その姿に憧れ、自分も暴走族に入り、バイクを乗り回すようになりました。

18歳で車の営業職に就いたんですが、超ブラック企業でした。朝7時集合、夜は10時〜12時まで勤務。片道1時間半をバイクで通う日々。ある日、疲労困憊の中で車で帰宅する途中、居眠り運転でトラックと衝突してしまったんです。

車は大破し、顔面にフロントガラスが突き刺さり、20〜30針を縫う大怪我を負いました。意識不明の重体で、警察には「生きているのが奇跡」と言われるほどの事故でした。

WWD:それは……壮絶ですね。

森:この事故で、自分の中に強烈に刻まれたんです。「この命は“生かされている命”なんだ」と。だったら人のため、社会のために使わないといけない。価値観が一気に変わりました。

事故の1カ月後、僕は四国八十八箇所の遍路に出ました。普通は車やバスで回る人が多いのですが、僕はあえて歩くことを選びました。444日かけて、路上やバス停、公園で寝泊まりしながら、自分の罪を償い、自分自身と徹底的に向き合う旅でした。

その旅の中で、やっぱり最後に気づかされたのは“家族”の存在でした。どれだけ反抗しても、どれだけ迷惑をかけても、最終的に自分を支えてくれたのは両親や兄弟でした。この人たちに恩返しがしたい。そのためには、世の中に貢献できる人間にならなければ。そう心に決めました。

“当たり前のこと”を実践
歌舞伎町のトップに

WWD:ホストという仕事を選んだ理由は?

森:当時の僕は、ほぼ中卒同然。社会に出たとき、選べる仕事は限られていました。けれど負けず嫌いな性格もあって、「どうせやるなら、ナンバーワンになってやる」と腹を括ったんです。僕にとってホストは、あくまで経営資金を貯めるための“手段”でした。

大阪・心斎橋でホストとして修行を始めたときは、とにかく“当たり前のこと”を誰よりも徹底しました。誰よりも早く店に入り、キャッチに立ち、トイレ掃除をして。そのスタンスで働き続け、入店からわずか1年でナンバーワンになったんです。大阪でも知らない人がいないほどの知名度を手に入れることができました。

WWD:それほどの短期間に、結果を出すことができたのはなぜ?

森:当時、僕が何度も読み返していたのが「7つの習慣」(スティーブン・R・コヴィー著)という本です。これは今でもクリスティーナジャパンの“バイブル”にしています。

この本に書かれている「求める前に与える」「靴を大事にする」「人が嫌がることを率先してやる」といった価値観は、ホスト時代に徹底的に自分に叩き込みました。先輩たちに「1年以内にナンバーワンになります」と宣言し、それを本当に実現したのも、こうした哲学を実践し続けた結果だと思っています。

大阪でやり切ったあとは、自然と次の舞台が見えてきました。それが東京。ホスト業界において、大阪と東京は「日本のプロ野球とメジャーリーグ」くらいの差がある。全国区で名前を知られるには、東京で結果を出すしかないと覚悟を決めました。

東京でも一つ一つ実績を積み上げ、“神7”と呼ばれる全国トップホスト7人に選ばれるまでになりました。目標としていたのは、ローランドさんや零士さんといった一流のホストたち。彼らの背中を追いながら、自分もストイックに挑戦を続けていました。

“全て”が手に入り
思い出した原点

WWD:ホストをずっと続けるという選択肢もあったのでは。

森:もちろんありました。実際、僕は“ストイックな自分”が大好きだったんです。人が遊んでいるときに働き、人が休んでいるときに努力している。そんな自分に酔っていたし、それが自信にもなっていた。

ホストとして、街を歩けばちやほやされる。お金も、地位も、名誉も手に入った。歌舞伎町では「会えるアイドル」を自称して、自己顕示欲も満たされていました。

でも、それでも心のどこかは満たされなかったんです。夜の世界で競い合い、勝つことだけに夢中になる日々。人生が狂っていくお客さんたちも目の当たりにしていました。自分は何のためにお金を稼ぎたかったんだろう。そんな問いが、ふと頭をよぎるようになりました。

WWD:そのとき、原点を思い出したんですね。

森:はい。交通事故で死にかけ、四国遍路を歩きながら、自分が決めた人生の目的。それは「恩返し」であり、「人の役に立つこと」だったはずだと。ホストとして、女性に支えられ、応援されてきた自分が次に挑戦すべきなのは、女性の人生を豊かにする仕事。そう思ったとき、自然と“美容”という答えにたどり着きました。

ホスト時代の後輩2人と一緒に、3人で会社を立ち上げました。最初は、妻が経営していたクリニック事業を手伝いながら、事業の土台をコツコツとつくっていきました。

その中で出合ったのが「クリスティーナ」でした。製品の背景や理念に共感し、日本でこのブランドを広げたいと強く思った。ちょうど日本総代理店権があると知り、「これを軸に勝負しよう」と決めたんです。

2018年、青山に借りたオフィスは、机もパソコンもない空っぽの部屋。社員は3人だけ。まさにゼロからのスタートでした。でも、届けたいものがある。叶えたい未来がある。そこだけは最初からブレていなかった。

経営に生きたホスト経験
「求める」前に「与える」

WWD:どのように事業を軌道に載せましたか?

森:正直、経営のことなんて何もわからなかった。完全に素人。でも、やりながら学ぶしかないと思って、とにかく行動し続けました。

初年度の売上目標は3億円。走りながらも軌道修正を重ね、結果的に5億円、7億円、10億円と右肩上がりに伸びていった。現在は日本で1000以上のクリニック・サロンで取り扱いがあり、年商20億円に迫る規模になっています。

WWD:成長を支えたものは?

森:間違いなく、製品そのものの力です。創業時に僕らが大きな広告を打ったことは一度もありません。それでも、有名な芸能人やモデルの方たちが「クリスティーナ」を自分で購入し、SNSで自然発信してくれたんです。

これはPRで仕掛けた“演出”ではありません。本当に使って、良いと思ってもらえたからこそ起きた現象でした。だからこそ、製品の説得力が世の中に伝わったのだと思います。

WWD:会社の組織づくりで大切にしていることは?

森:どれだけ商品が良くても、それだけでは限界がある。最終的にブランドを支えるのは“人の力”です。だから僕は、社員教育に特に力を入れています。僕たちは“カウンセリングコスメ”として、専門家による丁寧な接客を徹底しています。単に商品を売るのではなく、お客さまの肌と人生に寄り添う存在でありたいと思っているからです。

WWD:ホスト時代の経験は経営にどう生きていますか?

森:たくさんありますが、まずは「絶対にナンバーワンになる」という意識。大阪でホスト修行をしていたとき、僕は誰よりも早く出勤し、キャッチに立ち、トイレ掃除まで自ら進んでやっていました。当たり前のことを、誰よりも徹底する。これはビジネスの本質でもあるはずです。

もうひとつは、先ほども触れた「求める前に与える」という考え方。お客さまに対しても、社員に対しても、思いを先に読み、先に価値を提供するようにしている。すると信頼が生まれ、関係が育ち、もっと大きいものが返ってくる。

ホスト時代、僕は7年間、無遅刻・無欠勤で働きました。誰かに言われたからじゃない。自分との約束を守るためです。ストイックにやり抜く姿勢は、いま経営者としての僕の“芯”にもなっています。

誰よりもまず先に「自分が」挑戦

WWD:だからこそ、山に登る?

森:そうです。言葉だけで「挑戦しろ」と言っても、説得力はない。僕は“背中で語る”タイプなんです。だからこそ、自ら動き、実践する。昨年には標高8163mのマナスルに登頂しました。

酸欠で何度も吐き気に苦しんで、シャワーなんて数日に一度、ちょろちょろの水でもありがたかった。それでも、Wi-Fiがつながるときは現地から会社のビデオ会議にも参加しました。経営者は、どこにいても責任を果たさなければならないと思っているので。山頂では、「クリスティーナ」の美容液でしっかり肌を整えましたよ。当然のことでしょう。

そして、いよいよ4月15日から、世界最高峰・エベレストへの挑戦をスタートします。

WWD:エベレストの頂の先に、何を見るのでしょう?

森:まず、生きて帰ってきます。その上で、次は“日本一過酷なレース”と呼ばれる「トランスジャパンアルプスレース(TJAR)」への挑戦も考えています。北アルプス・中央アルプス・南アルプスを、8日間以内に自力で縦走するレースです。

WWD:会社としての構想は。

森:美容だけにとらわれない会社をつくっていきます。すでに飲食事業もスタートしていますし、今後はホールディングス体制への移行や、多ブランド展開も視野に入れています。

僕が目指すのは「美容業界のLVMH」です。単なるブランドの集合体ではなく、理念と哲学でつながる本物のグループをつくりたい。美容を軸にしながらも、社会に貢献し、価値を届け続ける会社を、本気でつくっていきます。まだ誰も見たことのない“頂”の景色を、この目で確かめにいく。これからも挑戦をやめることはありません。

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「群言堂」が目指す「地域一体型経営」、衣料品と観光事業から過疎地域を活性化

「石見銀山 群言堂」――島根県大田市大森町を拠点に“根のある暮らし”をコンセプトに衣料品や生活雑貨を手掛ける企業が、過疎地域の再生に一役買っている。「群言堂」は生き方や暮らし方を提案するライフスタイル産業の先駆け的存在でもある。大森町の人口は380人(令和7年3月31日現在)。そのうち小学校児童は24人、保育園児は28人と子どもの数が多く過疎地域としては極めて珍しい。群言堂グループ本社で働く社員は6人がUターン、25人が14の地域からのIターンと若い世代が移住している。同グループは衣料品の製造販売だけではなく、保育園留学や滞在型シェアオフィスを運営しており、中長期滞在者が増えて町の関係人口が増えている。

創業者から子どもへ引き継がれたバトン、「地域一体型経営」を目指して

「群言堂」を手掛ける株式会社石見銀山生活文化研究所は2019年、アパレル・飲食・観光事業を統合した石見銀山群言堂グループを設立し、創業者夫妻が経営を娘婿や娘に引き継いだ。そのときに創業者の一人松場大吉は次の世代に伝えたいこと12ケ条を示した。

一、 里山を離れることなく事業を進める覚悟を持て
二、 業種、業態にしばられるな
三、 改革、チャレンジを恐れるな 勇気こそ力である
四、 常に日常の暮らしに着目せよ
五、 類あって非のない価値を創れ
六、 対峙する人が憧れるスタイルを創れ
七、 常に若者に投票せよ
八、 儲けることは大事だが使い方がもっと大事である
九、 「経済49%、文化50%、崇高な理想1%」のバランスを持て
十、 どんな判断も里山でおこなえ
十一、紡いできた風景と生活文化を相続せよ
十二、根のある暮らしをとことん深く耕せ

同年、「生活観光」をコンセプトにした石見銀山生活観光研究所を設立し、観光業に本格的に乗り出す。町屋や古い建造物を改装し、中長期滞在者向けの宿泊施設や滞在型シェアオフィスをつくり、大成建設や中小企業のDXを支援するスタートアップのスタブロなどの企業を誘致した。

群言堂グループが掲げるのは「地域一体型経営」だ。松場忠社長は「地域を一つの会社のように捉えて地域内の事業者が連携して収益を最大化し、地域全体の発展に繋げる経営モデルだ。観光資源を有効活用し、地域全体の魅力を高めて町の存続を目指す」と意気込む。行政や異業種、町民たちと地域の在り方を探っている。本社のある島根県大田市大森町で「群言堂」の歩みと現在地、描く未来について、松場忠群言堂グループ社長と峰山由紀子石見銀山生活文化研究所所長、創業者の松場登美・群言堂グループ取締役に話を聞いた。

世界遺産でも土地の「暮らし」が残る場所

石見銀山はかつて世界の1/3量の銀を採掘していたとも言われる日本最大の銀山で、お膝元の大森町周辺はピーク時には約20万人が住んでいたという。しかし1923年の閉山後は“取り残された町”となり過疎化が進んだ。他方、開発が入らなかったことで街並みが残り1987年に伝統的建造物群保存地区に指定された。2007年には自然環境に配慮した「自然環境と共存した産業遺跡」であることが評価され世界遺産に登録された。

世界遺産登録後に観光地化が加速して地域の暮らしや生活文化が失われる場所は少なくない。大森町も世界遺産登録時にオーバーツーリズムを経験するが、その時町民たちは住民憲章を制定する。石見銀山遺跡を守り、活かし、未来に引き継ぎたいという願いを示すと同時に自らの暮らしを守るためだ。

住民憲章には「暮らし」という言葉が3回繰り返され、歴史と自然を守りながら大森町での「暮らし」を大事にしたいという住民の総意が示された。経済優先の観光ではなく、大森町ならではの地域づくりを重視した。

大森町に残る「暮らし」は世界に誇る遺産

群言堂グループがこれまで改修した町屋は16軒。「誰かのために景観を作るのではなく、まっとうな生業が行われていればおのずと美しくなる」とは創業者の松場登美取締役の言葉だ。本社やカフェを併設する本店、社員寮、そして武家屋敷を21年かけて修繕した宿泊施設「他郷阿部家」、中長期滞在者向けの宿泊施設など、町屋や建物の状態によって中の構造を残したり、現代風に改修したりと一軒一軒の個性を最大限に生かしている。同グループのシンボルで現在は社員食堂として活用している大きなかやぶき屋根が印象的な建物は1997年に広島県から移築したもの。「引き取り手が見つからないという新聞記事を偶然見つけたのがきっかけだった。今思えば、よくあそこまで多額の借金をして引き取ったなあ」と登美取締役は振り返る。

大森町を拠点に「石見銀山 群言堂」を創業したのは大森町出身の松場大吉と三重県出身の登美夫妻。仕事をつくるためにパッチワークの布小物の販売から始まり、89年に大森町に庄屋屋敷を改修して本店を開いた。

「大森町に戻ったのはバブル全盛期。その価値観の中では取り残された地域だったが、夫の大吉と私はここを選び事業を興した。ビジネスの舵は夫が切り、危機はしょっちゅうだった(笑)」と登美取締役は振り返る。「群言堂」の前進「ブラハウス(BURA HOUSE)」はカントリー調パッチワークの布小物ブランドで、「私たちは石見銀山を愛し、この地に根を下ろしてモノ作りをしたいと考えています」と商品ラベルに書き、広島など近隣地域の百貨店などへ赴き行商した。その「ブラハウス」が徐々に人気を集め、コピー商品が生まれるほどに成長した94年、「町を深く知れば知るほど、カントリー調のものを作る事業がふさわしいのかと考えるようになった。検討を重ねて日本人による日本人のためのものづくりをしようと『石見銀山 群言堂』を立ち上げた。「群言堂は中国人留学生が教えてくれた言葉。仲間が集まっておいしいものを食べお酒を飲みながら語り合う様子を見て『中国ではみんなが目線を一緒にして意見を出し合いながらいい流れをつくっていくことを“群言堂”という』と教えてくれた」。企業理念に造語“復古創新”を掲げた。「ただ古いものを蘇えらせるのではなく過去・現在・未来をつなぎ、未来のために今何をすべきかと暮らしの在り方を考えることを大切にしている」と登美取締役。98年に石見銀山生活文化研究所を設立した。

石見銀山の暮らしを伝える店として百貨店を中心に31店舗出店

群言堂グループの2025年6月期の売上高は25億5000万円を見込む。現在の従業員数は235人。古民家を再生した路面店や百貨店を中心に31店舗を展開し、顧客層のコアは60代後半だ。「石見銀山」を大々的にうたい、地域の暮らしを前面に打ち出し全国各地に31店舗を展開するのは稀有かもしれない。

衣料品は日本の繊維産地の技術力を生かした生地作りから産地と取り組む。近年存続の危機が叫ばれる産地を支えるためにコロナ禍の21年、厚みのある発注に切り替えるために1シーズンの型数を約200型から100~110型に絞った。そのうち20型が定番品だ。

創業者夫妻の娘で石見銀山生活文化研究所の峰山由紀子代表取締役所長は「私たちの強味は大森町という実態があること。大森町の暮らしの中で着たい服を大森町でデザインし、日々目にする景色からこの色が美しいといった感覚を大事にしている。山間にある町ならではの吹き下ろす風や湿度を感じながら正直に服づくりをしている」と語る。大森町の色を取り入れたいと考え、周辺で採取した草花や枝木などから染めた「里山パレット」は人気を集める製品の一つだ。ファッションブランドの多くはブランドとは直接関係のないところにインスピレーションを求め、ある種の夢やフィクションと製品を重ねて提案するところがあるが、「群言堂」は常に大森町の暮らしが中心にある。どちらがいいではなく、町に根差したものづくりが「群言堂」の独自性といえる。

大森町の工房を拡大、中長期滞在者を誘致

「群言堂」は20年からお直し・リメイクサービス「お気に入り相談室」に取り組む。この春、事業を拡大する。「中長期滞在と工房は相性がいい。お直しから仕立てまで相談のために町を訪れることができるよう工房を拡大する」と由紀子所長。現在、「お気に入り相談室」は舞台衣装を手掛けた経験を持つスタッフが全国の顧客の要望に応えているが、専門スタッフを増やして需要の広がりとともに体制を整える予定だ。「ものづくりの現場を大森町に持ちたい。創業期は内職さんを集めて大森で生産しており、本店の半分は工場だった。サプライチェーン構築や人を抱える難しさから大森での生産を断念したが、社会が変わってきているので、大森に工房を再び整えることはブランドとしてあるべき姿なのではないか」と由紀子所長。

ポイントを貯めると登美さんが手掛けた「他郷阿部家」で登美取締役と食事

21年かけて改装した築230年の武家屋敷「暮らす宿 他郷阿部家」は登美取締役の「捨てない暮らし」のアイデアが詰まった場所だ。飾りガラスをパッチワークした戸や和紙を張り合わせた障子、古材を活用した柱や廃校になった小学校のパイプ椅子など。「昔の日本の暮らしは廃材すら捨てず再利用していた。それはとても美しいこと。できるだけごみを出さないことを難しく考えるのではなくて楽しむことを伝えたい」と登美取締役。

「群言堂」には画期的なポイント制度がある。ポイントを貯めると登美取締役が10年間住みながら理想の暮らしの場をつくった「他郷阿部家」に宿泊できる。1日2組限定で、宿泊者は夕食を登美取締役とともにして会話を楽しむ。全国各地から顧客を大森町に招き、「群言堂」が大切にする暮らしを体験できる仕組みが秀逸で、08年にはじまりこれまでのべ1万1900人が宿泊した(一般客の宿泊は1組2人からで1人あたり4万4000円~)。登美取締役は「阿部家」とは「群言堂」にとって暮らしの豊かさや日本の美意識を伝える場だという。「ビジネスを通じて世の中にメッセージを伝えたいと思いながら活動してきた。この暮らしはどうですか?と提案したのが『阿部家』で、実際に感じてもらう場所をつくることが重要だった」。

「阿部家」は訪れた人にとって生活や暮らしを見つめ直すための機会になるだけでなく、群言堂グループが大森町で積み上げてきたことを顧客に見てもらう機会になり、コミュニティーづくりの場になっている。その結果、大森町の関係人口増加に一役買っている。

暮らしを体感する「生活観光」を事業に

石見銀山群言堂グループは「地域一体型経営」を掲げて町にも投資する。娘婿の松場忠社長は「投資額の売上高に対する割合などを決めているわけではないが、地域への投資は大事だと考えている。国や県、市からの補助金を活用しながら持続可能な地域づくりのためにいろいろなことに取り組んでいる」と語る。現在、観光業に力を入れるが経済合理性を優先しない。「観光産業は文化を守るためにあるはずなのに産業モデルによって文化を壊していることも多い。私たちはこの町の暮らしや生き方を感じていただきたいと思っている。町人と他愛のない会話を楽しむような、かつての日本に当たり前にあった豊かな交流がここにはある」と話す。

「地域にとって重要なのはその土地に思いを持つ企業や個人が増えること。大森町の今があるのは当社だけでなく、大森町をなんとかしたいという同じ想いを持った(義肢・装具・人工乳房などの医療器具を扱う)中村グレイスもあったから。人口減少社会が進めば進むほど支えなければいけない割合は増える。そうなったときに町を支える企業は多い方がいいし、対応できる枠組みを作っておく必要がある」。今後は中長期滞在者を増やすための取り組みを強化する。引き続き保育園留学や地域おこし協力隊インターンプログラムを活用した二地域居住推進事業「遊ぶ広報」、大企業との連携を進めていく予定だ。「全ては町の共感者を増やすため。応援者が増え、この地域で新事業を始める企業が増えることを期待している」。

大田市のサポートを受けて24年に開業した滞在型シェアオフィスは、専用個室が3室とフリーアドレスの大部屋を用意していて、運営は順調だ。「私たちの考え方に共感してくれる人たちとのマッチングを重視して誘致している」と忠社長。現在、中小企業のDXを支援する企業や抹茶などを輸出する商社を誘致しており、大成建設とはメタバース事業を協働している。「地域を守っていくためには特定の強い存在だけではなく、多様な企業や団体、個人との連携が重要だ。滞在型シェアオフィスもそのための拠点として活用していく」。

これからの地域づくりは民間主導、ガバナンスが重要に

「地域づくり=行政だったのが、民間の役割が大きくなり民間主導でやらなければいけない時代になっている。大切なのは民間が暴走し過ぎないようにカバナンスを効かせることと、外部資本と組むときは経済的利益だけを目的にしている企業ではなく、地域を一緒に作っていくという意識を共有できるところを選ぶことが大切だ」と忠社長。群言堂グループは文化庁や観光庁、大田市や島根県からの助成金を元に新たな活動を興すことも多い。例えば、キッテ大阪の店舗は島根県、滞在型シェアオフィスは大田市、二地域居住の推進は日本郵政や国土交通省とともに取り組む。「国の政策を理解し、自分たちの強味を生かして地域を盛り上げることが大切だ。事業化するときに大切にしているのは地域に足りないものを補完できるか、そして地域にとってプラスになるかだ。『阿部家』のように補完的な役割を担う事業もある」。オーバーツーリズムの経験が丁寧なまちづくりに生かされている。

群言堂グループの事業と直接関係ないが、創業者の娘で忠社長の妻である奈緒子さんは、地域の子育て支援の必要性を感じ、保育園と学童を運営する社会福祉法人の理事を務める。もともとあった保育園の運営団体がNPO法人から社会福祉法人に変わるタイミングで奈緒子さんが関わるようになった。「町の福祉を考えた時に子どもたちの居場所を優先して作ることが大切だと考えた。その結果子育てがしやすい環境を求めて移住してきた人も増えている。他方、住宅の供給が追い付いていない。現在の課題はすぐに居住できる住宅がないことだ」と忠社長。

構造自体を変える必要がある事柄は行政と連携

群言堂グループは行政とも積極的に連携する。「構造を変えないとうまくいかないことも多い。まず思いや考えを伝えて計画書にする。短期的、中長期的な構想を描き、構造を変えるための実証事業を行いながら改善を進めていく。行政の力による構造変化は丁寧に進めることが大切だ」。例えば、大森町の観光施設の運営を集約し、共通券を発行することで両方の施設に足を運んでもらえるようにするなどだ。運営団体が市であれば条例の改訂も必要になる。

持続可能な町づくりに一役買っているのが創業者の大吉さんだ。大吉さんは群言堂の経営から退いた後に、若い世代とまちの防災・教育・福祉・観光に取り組む地域運営組織「一般社団法人石見銀山みらいコンソーシアム」と地域限定の協同組合型人材派遣業「石見銀山大田ひと・まちづくり事業協同組合」を創設し、地域の在り方を日々検討しているという。

当面の人口目標は500人だ。「大森町には五百羅漢というお地蔵様があって、その中に必ず自分に似た顔があると言われている。500は一つのコミュニティーの目安になると思っている。急速な増加ではなく緩やかに増えていくことが理想」と忠社長。町の将来像については「これまでの500年は銀という資源による発展の歴史だった。これからの500年は小さくても幸せに生きていける社会を作ることが目標で、生き方やライフスタイルを世界に広める町にしたいと考えている」。

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「群言堂」が目指す「地域一体型経営」、衣料品と観光事業から過疎地域を活性化

「石見銀山 群言堂」――島根県大田市大森町を拠点に“根のある暮らし”をコンセプトに衣料品や生活雑貨を手掛ける企業が、過疎地域の再生に一役買っている。「群言堂」は生き方や暮らし方を提案するライフスタイル産業の先駆け的存在でもある。大森町の人口は380人(令和7年3月31日現在)。そのうち小学校児童は24人、保育園児は28人と子どもの数が多く過疎地域としては極めて珍しい。群言堂グループ本社で働く社員は6人がUターン、25人が14の地域からのIターンと若い世代が移住している。同グループは衣料品の製造販売だけではなく、保育園留学や滞在型シェアオフィスを運営しており、中長期滞在者が増えて町の関係人口が増えている。

創業者から子どもへ引き継がれたバトン、「地域一体型経営」を目指して

「群言堂」を手掛ける株式会社石見銀山生活文化研究所は2019年、アパレル・飲食・観光事業を統合した石見銀山群言堂グループを設立し、創業者夫妻が経営を娘婿や娘に引き継いだ。そのときに創業者の一人松場大吉は次の世代に伝えたいこと12ケ条を示した。

一、 里山を離れることなく事業を進める覚悟を持て
二、 業種、業態にしばられるな
三、 改革、チャレンジを恐れるな 勇気こそ力である
四、 常に日常の暮らしに着目せよ
五、 類あって非のない価値を創れ
六、 対峙する人が憧れるスタイルを創れ
七、 常に若者に投票せよ
八、 儲けることは大事だが使い方がもっと大事である
九、 「経済49%、文化50%、崇高な理想1%」のバランスを持て
十、 どんな判断も里山でおこなえ
十一、紡いできた風景と生活文化を相続せよ
十二、根のある暮らしをとことん深く耕せ

同年、「生活観光」をコンセプトにした石見銀山生活観光研究所を設立し、観光業に本格的に乗り出す。町屋や古い建造物を改装し、中長期滞在者向けの宿泊施設や滞在型シェアオフィスをつくり、大成建設や中小企業のDXを支援するスタートアップのスタブロなどの企業を誘致した。

群言堂グループが掲げるのは「地域一体型経営」だ。松場忠社長は「地域を一つの会社のように捉えて地域内の事業者が連携して収益を最大化し、地域全体の発展に繋げる経営モデルだ。観光資源を有効活用し、地域全体の魅力を高めて町の存続を目指す」と意気込む。行政や異業種、町民たちと地域の在り方を探っている。本社のある島根県大田市大森町で「群言堂」の歩みと現在地、描く未来について、松場忠群言堂グループ社長と峰山由紀子石見銀山生活文化研究所所長、創業者の松場登美・群言堂グループ取締役に話を聞いた。

世界遺産でも土地の「暮らし」が残る場所

石見銀山はかつて世界の1/3量の銀を採掘していたとも言われる日本最大の銀山で、お膝元の大森町周辺はピーク時には約20万人が住んでいたという。しかし1923年の閉山後は“取り残された町”となり過疎化が進んだ。他方、開発が入らなかったことで街並みが残り1987年に伝統的建造物群保存地区に指定された。2007年には自然環境に配慮した「自然環境と共存した産業遺跡」であることが評価され世界遺産に登録された。

世界遺産登録後に観光地化が加速して地域の暮らしや生活文化が失われる場所は少なくない。大森町も世界遺産登録時にオーバーツーリズムを経験するが、その時町民たちは住民憲章を制定する。石見銀山遺跡を守り、活かし、未来に引き継ぎたいという願いを示すと同時に自らの暮らしを守るためだ。

住民憲章には「暮らし」という言葉が3回繰り返され、歴史と自然を守りながら大森町での「暮らし」を大事にしたいという住民の総意が示された。経済優先の観光ではなく、大森町ならではの地域づくりを重視した。

大森町に残る「暮らし」は世界に誇る遺産

群言堂グループがこれまで改修した町屋は16軒。「誰かのために景観を作るのではなく、まっとうな生業が行われていればおのずと美しくなる」とは創業者の松場登美取締役の言葉だ。本社やカフェを併設する本店、社員寮、そして武家屋敷を21年かけて修繕した宿泊施設「他郷阿部家」、中長期滞在者向けの宿泊施設など、町屋や建物の状態によって中の構造を残したり、現代風に改修したりと一軒一軒の個性を最大限に生かしている。同グループのシンボルで現在は社員食堂として活用している大きなかやぶき屋根が印象的な建物は1997年に広島県から移築したもの。「引き取り手が見つからないという新聞記事を偶然見つけたのがきっかけだった。今思えば、よくあそこまで多額の借金をして引き取ったなあ」と登美取締役は振り返る。

大森町を拠点に「石見銀山 群言堂」を創業したのは大森町出身の松場大吉と三重県出身の登美夫妻。仕事をつくるためにパッチワークの布小物の販売から始まり、89年に大森町に庄屋屋敷を改修して本店を開いた。

「大森町に戻ったのはバブル全盛期。その価値観の中では取り残された地域だったが、夫の大吉と私はここを選び事業を興した。ビジネスの舵は夫が切り、危機はしょっちゅうだった(笑)」と登美取締役は振り返る。「群言堂」の前進「ブラハウス(BURA HOUSE)」はカントリー調パッチワークの布小物ブランドで、「私たちは石見銀山を愛し、この地に根を下ろしてモノ作りをしたいと考えています」と商品ラベルに書き、広島など近隣地域の百貨店などへ赴き行商した。その「ブラハウス」が徐々に人気を集め、コピー商品が生まれるほどに成長した94年、「町を深く知れば知るほど、カントリー調のものを作る事業がふさわしいのかと考えるようになった。検討を重ねて日本人による日本人のためのものづくりをしようと『石見銀山 群言堂』を立ち上げた。「群言堂は中国人留学生が教えてくれた言葉。仲間が集まっておいしいものを食べお酒を飲みながら語り合う様子を見て『中国ではみんなが目線を一緒にして意見を出し合いながらいい流れをつくっていくことを“群言堂”という』と教えてくれた」。企業理念に造語“復古創新”を掲げた。「ただ古いものを蘇えらせるのではなく過去・現在・未来をつなぎ、未来のために今何をすべきかと暮らしの在り方を考えることを大切にしている」と登美取締役。98年に石見銀山生活文化研究所を設立した。

石見銀山の暮らしを伝える店として百貨店を中心に31店舗出店

群言堂グループの2025年6月期の売上高は25億5000万円を見込む。現在の従業員数は235人。古民家を再生した路面店や百貨店を中心に31店舗を展開し、顧客層のコアは60代後半だ。「石見銀山」を大々的にうたい、地域の暮らしを前面に打ち出し全国各地に31店舗を展開するのは稀有かもしれない。

衣料品は日本の繊維産地の技術力を生かした生地作りから産地と取り組む。近年存続の危機が叫ばれる産地を支えるためにコロナ禍の21年、厚みのある発注に切り替えるために1シーズンの型数を約200型から100~110型に絞った。そのうち20型が定番品だ。

創業者夫妻の娘で石見銀山生活文化研究所の峰山由紀子代表取締役所長は「私たちの強味は大森町という実態があること。大森町の暮らしの中で着たい服を大森町でデザインし、日々目にする景色からこの色が美しいといった感覚を大事にしている。山間にある町ならではの吹き下ろす風や湿度を感じながら正直に服づくりをしている」と語る。大森町の色を取り入れたいと考え、周辺で採取した草花や枝木などから染めた「里山パレット」は人気を集める製品の一つだ。ファッションブランドの多くはブランドとは直接関係のないところにインスピレーションを求め、ある種の夢やフィクションと製品を重ねて提案するところがあるが、「群言堂」は常に大森町の暮らしが中心にある。どちらがいいではなく、町に根差したものづくりが「群言堂」の独自性といえる。

大森町の工房を拡大、中長期滞在者を誘致

「群言堂」は20年からお直し・リメイクサービス「お気に入り相談室」に取り組む。この春、事業を拡大する。「中長期滞在と工房は相性がいい。お直しから仕立てまで相談のために町を訪れることができるよう工房を拡大する」と由紀子所長。現在、「お気に入り相談室」は舞台衣装を手掛けた経験を持つスタッフが全国の顧客の要望に応えているが、専門スタッフを増やして需要の広がりとともに体制を整える予定だ。「ものづくりの現場を大森町に持ちたい。創業期は内職さんを集めて大森で生産しており、本店の半分は工場だった。サプライチェーン構築や人を抱える難しさから大森での生産を断念したが、社会が変わってきているので、大森に工房を再び整えることはブランドとしてあるべき姿なのではないか」と由紀子所長。

ポイントを貯めると登美さんが手掛けた「他郷阿部家」で登美取締役と食事

21年かけて改装した築230年の武家屋敷「暮らす宿 他郷阿部家」は登美取締役の「捨てない暮らし」のアイデアが詰まった場所だ。飾りガラスをパッチワークした戸や和紙を張り合わせた障子、古材を活用した柱や廃校になった小学校のパイプ椅子など。「昔の日本の暮らしは廃材すら捨てず再利用していた。それはとても美しいこと。できるだけごみを出さないことを難しく考えるのではなくて楽しむことを伝えたい」と登美取締役。

「群言堂」には画期的なポイント制度がある。ポイントを貯めると登美取締役が10年間住みながら理想の暮らしの場をつくった「他郷阿部家」に宿泊できる。1日2組限定で、宿泊者は夕食を登美取締役とともにして会話を楽しむ。全国各地から顧客を大森町に招き、「群言堂」が大切にする暮らしを体験できる仕組みが秀逸で、08年にはじまりこれまでのべ1万1900人が宿泊した(一般客の宿泊は1組2人からで1人あたり4万4000円~)。登美取締役は「阿部家」とは「群言堂」にとって暮らしの豊かさや日本の美意識を伝える場だという。「ビジネスを通じて世の中にメッセージを伝えたいと思いながら活動してきた。この暮らしはどうですか?と提案したのが『阿部家』で、実際に感じてもらう場所をつくることが重要だった」。

「阿部家」は訪れた人にとって生活や暮らしを見つめ直すための機会になるだけでなく、群言堂グループが大森町で積み上げてきたことを顧客に見てもらう機会になり、コミュニティーづくりの場になっている。その結果、大森町の関係人口増加に一役買っている。

暮らしを体感する「生活観光」を事業に

石見銀山群言堂グループは「地域一体型経営」を掲げて町にも投資する。娘婿の松場忠社長は「投資額の売上高に対する割合などを決めているわけではないが、地域への投資は大事だと考えている。国や県、市からの補助金を活用しながら持続可能な地域づくりのためにいろいろなことに取り組んでいる」と語る。現在、観光業に力を入れるが経済合理性を優先しない。「観光産業は文化を守るためにあるはずなのに産業モデルによって文化を壊していることも多い。私たちはこの町の暮らしや生き方を感じていただきたいと思っている。町人と他愛のない会話を楽しむような、かつての日本に当たり前にあった豊かな交流がここにはある」と話す。

「地域にとって重要なのはその土地に思いを持つ企業や個人が増えること。大森町の今があるのは当社だけでなく、大森町をなんとかしたいという同じ想いを持った(義肢・装具・人工乳房などの医療器具を扱う)中村グレイスもあったから。人口減少社会が進めば進むほど支えなければいけない割合は増える。そうなったときに町を支える企業は多い方がいいし、対応できる枠組みを作っておく必要がある」。今後は中長期滞在者を増やすための取り組みを強化する。引き続き保育園留学や地域おこし協力隊インターンプログラムを活用した二地域居住推進事業「遊ぶ広報」、大企業との連携を進めていく予定だ。「全ては町の共感者を増やすため。応援者が増え、この地域で新事業を始める企業が増えることを期待している」。

大田市のサポートを受けて24年に開業した滞在型シェアオフィスは、専用個室が3室とフリーアドレスの大部屋を用意していて、運営は順調だ。「私たちの考え方に共感してくれる人たちとのマッチングを重視して誘致している」と忠社長。現在、中小企業のDXを支援する企業や抹茶などを輸出する商社を誘致しており、大成建設とはメタバース事業を協働している。「地域を守っていくためには特定の強い存在だけではなく、多様な企業や団体、個人との連携が重要だ。滞在型シェアオフィスもそのための拠点として活用していく」。

これからの地域づくりは民間主導、ガバナンスが重要に

「地域づくり=行政だったのが、民間の役割が大きくなり民間主導でやらなければいけない時代になっている。大切なのは民間が暴走し過ぎないようにカバナンスを効かせることと、外部資本と組むときは経済的利益だけを目的にしている企業ではなく、地域を一緒に作っていくという意識を共有できるところを選ぶことが大切だ」と忠社長。群言堂グループは文化庁や観光庁、大田市や島根県からの助成金を元に新たな活動を興すことも多い。例えば、キッテ大阪の店舗は島根県、滞在型シェアオフィスは大田市、二地域居住の推進は日本郵政や国土交通省とともに取り組む。「国の政策を理解し、自分たちの強味を生かして地域を盛り上げることが大切だ。事業化するときに大切にしているのは地域に足りないものを補完できるか、そして地域にとってプラスになるかだ。『阿部家』のように補完的な役割を担う事業もある」。オーバーツーリズムの経験が丁寧なまちづくりに生かされている。

群言堂グループの事業と直接関係ないが、創業者の娘で忠社長の妻である奈緒子さんは、地域の子育て支援の必要性を感じ、保育園と学童を運営する社会福祉法人の理事を務める。もともとあった保育園の運営団体がNPO法人から社会福祉法人に変わるタイミングで奈緒子さんが関わるようになった。「町の福祉を考えた時に子どもたちの居場所を優先して作ることが大切だと考えた。その結果子育てがしやすい環境を求めて移住してきた人も増えている。他方、住宅の供給が追い付いていない。現在の課題はすぐに居住できる住宅がないことだ」と忠社長。

構造自体を変える必要がある事柄は行政と連携

群言堂グループは行政とも積極的に連携する。「構造を変えないとうまくいかないことも多い。まず思いや考えを伝えて計画書にする。短期的、中長期的な構想を描き、構造を変えるための実証事業を行いながら改善を進めていく。行政の力による構造変化は丁寧に進めることが大切だ」。例えば、大森町の観光施設の運営を集約し、共通券を発行することで両方の施設に足を運んでもらえるようにするなどだ。運営団体が市であれば条例の改訂も必要になる。

持続可能な町づくりに一役買っているのが創業者の大吉さんだ。大吉さんは群言堂の経営から退いた後に、若い世代とまちの防災・教育・福祉・観光に取り組む地域運営組織「一般社団法人石見銀山みらいコンソーシアム」と地域限定の協同組合型人材派遣業「石見銀山大田ひと・まちづくり事業協同組合」を創設し、地域の在り方を日々検討しているという。

当面の人口目標は500人だ。「大森町には五百羅漢というお地蔵様があって、その中に必ず自分に似た顔があると言われている。500は一つのコミュニティーの目安になると思っている。急速な増加ではなく緩やかに増えていくことが理想」と忠社長。町の将来像については「これまでの500年は銀という資源による発展の歴史だった。これからの500年は小さくても幸せに生きていける社会を作ることが目標で、生き方やライフスタイルを世界に広める町にしたいと考えている」。

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英「ハンター」売上倍増のナゼ 現クリエイティブ・ディレクターに聞く

PROFILE: サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター

サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 1974年生まれ、フランス出身。「アディダス」「リーボック」「アンタ」などで、主にフットウエアのデザインの経験を積む。2022年末に「ハンター」にジョインした PHOTO:KAZUO YOSHIDA

英国の「ハンター(HUNTER)」といえば、レインブーツ。そんなイメージを持つ人が多いだろう。しかし同ブランドは近年、ウエアからバッグまで幅広いラインアップをそろえるライフスタイルブランドに進化している。

この流れを加速させているのが、現「ハンター」クリエイティブ・ディレクターのサンドラ・ロンボリ(Sandra Romboli)だ。彼女の手で生まれた新商品は、25年の現時点で売り上げの75%以上を占めるまでになった。“スノー ブーツ”や“365 デイズ シューズ”といった、レインブーツ以外のシューズやバッグがブランドに新たな魅力を吹き込んでいる。

ロンボリ=クリエイティブ・ディレクターは、商品バラエティーを増やしただけでない。昨年度の売り上げは、彼女がチームに加わった2022年度比で2倍と、業績拡大にも大きく貢献している。直営店と卸先、公式ECがそれぞれ同じ比率で売り上げを上げており、特定の販路に偏ることなく成長を続けている点も特徴の1つだ。彼女は「ハンター」の何を受け継ぎ、何を変えたのか?

WWD:「ハンター」での役割は?

サンドラ・ロンボリ「ハンター」クリエイティブ・ディレクター(以下、ロンボリ):「ハンター」が持つイメージに新たなストーリーを加えることだ。「英国発のブランド」「ロゴ入りのレインブーツ」など、「ハンター」にまつわるイメージは、誰もが似通ったものを持っていると思う。ブランドイメージが確立していることは「ハンター」の強みの1つ。私はそれらを生かしつつ、フレッシュさを加えている。

WWD:具体例を挙げると?

ロンボリ:「ケイト・モス(Kate Moss)が、音楽フェス『グラストンベリー・フェスティバル(Glastonbury Festival)』で着用したレインブーツ」というイメージは今後も守っていきたい。野外という会場の特性上、機能性は大切だが、特別なイベントだからファッションにも気合を入れたい。そんなとき、頭に浮かぶのが「ハンター」のレインブーツでありたい。

私たちは今、このレインブーツの特性を旅行用のシューズに応用している。コロナ禍以降、旅行ニーズは拡大の一途を辿っている。そして、軽さや防水性など、野外フェスと旅行シーンで求められる機能性は同じ。今後は、フェスと同様、旅行というイメージも付けられるよう注力していきたい。

WWD:「ハンター」と言えば、ブラックやミリタリーレッド、ネイビーという印象だったが、パステルカラーのシューズが多い。

ロンボリ:今日もブラックのコーデに身を包んでいるように、私はもともとカラフルな色使いが得意なタイプではない。しかし、これまでの経験から、カラーリングがブランドの売り上げに大きな影響をもたらすことは理解している。

現職に就いてからはまず、コレクションで使用する色をあえて減少させた。ブランドイメージが鮮明になり、世界観を分かりやすく伝えられるようになったように思う。また、市場に合ったトーンを選ぶことも意識した。ここに用意したのは、7色の虹から取ったような単純なカラーではない。ベビーブルーやグリーン、ピンクなど、これまでの「ハンター」にはないパステルなカラーだ。これらは特に日本市場と相性が良い。22年度比で2倍という売り上げがそれを裏付けている。

ロンボリのもう一つの側面

WWD:パリのデザイン学校で教師としても活躍しているとか。

ロンボリ:主に、スポーツやフットウエアを教えている。教鞭を取るということは、今を見つめるだけでなく、「次は何が流行るのか」「未来はどうなるのか」「イノベーションとは何か」など、思考を未来につなげること。ここ1年ほど続けているが、良い刺激をもらっている。

WWD:生徒は若年層が中心だ。彼らに何を伝えているのか?

ロンボリ:若い世代は日々膨大な情報と接している。私が今、10代、20代を送っていたら、インスピレーションにあふれた環境に歓喜していたことだろう。このような環境下で大切なのは、得たインスピレーションから独自のストーリーを作り出すこと。私はいつも「情報リテラシーを最大に、好奇心も最大に」と生徒に伝えている。学校という形式上、専攻を設けているが、興味をそれだけに絞る必要はない。

ときどき、生徒より私の好奇心の方が強いと思うときさえある。私はこれまで、ドイツのアディダス(ADIDAS)から中国のアンタ(ANTA=安踏体育用品有限公司)まで、さまざまな国の企業で働いてきた。その度に新たな人と出会い、新たな学びを得て、モノ作りへ生かしてきたように思う。

WWD:デザインをする上で大切にしていることは?

ロンボリ:大きな企業で働くときは、自己流のデザインを押し付けるのではなく、ブランドストーリーを生かしたモノ作りに励むことが何より大切だ。これをやり続けていると、自分自身のデザインもブラッシュアップされる。これは、前述した通り、現職に就いてからも意識していることだ。

WWD:「ハンター」は、サステナビリティの分野でも存在感を示している。昨年5月に始動した、“リバイタリゼーション(Revitalization)”について教えてほしい。

ロンボリ:“リバイタリゼーション(Revitalization)”は、その名が示す通り、亀裂が入ったラバーブーツにオリジナルパッチを貼り付け“生き返らせる”取り組みだ。「お気に入りのブーツを長く履きたい」という顧客の思いと、「サステナビリティは楽しいもの」という私たちの思いが合わさり実現した。さまざまな組み合わせが可能なパッチは、単にブーツを補強するだけでなく、ブーツに対する愛着すら強めることだろう。

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英「ハンター」売上倍増のナゼ 現クリエイティブ・ディレクターに聞く

PROFILE: サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター

サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 1974年生まれ、フランス出身。「アディダス」「リーボック」「アンタ」などで、主にフットウエアのデザインの経験を積む。2022年末に「ハンター」にジョインした PHOTO:KAZUO YOSHIDA

英国の「ハンター(HUNTER)」といえば、レインブーツ。そんなイメージを持つ人が多いだろう。しかし同ブランドは近年、ウエアからバッグまで幅広いラインアップをそろえるライフスタイルブランドに進化している。

この流れを加速させているのが、現「ハンター」クリエイティブ・ディレクターのサンドラ・ロンボリ(Sandra Romboli)だ。彼女の手で生まれた新商品は、25年の現時点で売り上げの75%以上を占めるまでになった。“スノー ブーツ”や“365 デイズ シューズ”といった、レインブーツ以外のシューズやバッグがブランドに新たな魅力を吹き込んでいる。

ロンボリ=クリエイティブ・ディレクターは、商品バラエティーを増やしただけでない。昨年度の売り上げは、彼女がチームに加わった2022年度比で2倍と、業績拡大にも大きく貢献している。直営店と卸先、公式ECがそれぞれ同じ比率で売り上げを上げており、特定の販路に偏ることなく成長を続けている点も特徴の1つだ。彼女は「ハンター」の何を受け継ぎ、何を変えたのか?

WWD:「ハンター」での役割は?

サンドラ・ロンボリ「ハンター」クリエイティブ・ディレクター(以下、ロンボリ):「ハンター」が持つイメージに新たなストーリーを加えることだ。「英国発のブランド」「ロゴ入りのレインブーツ」など、「ハンター」にまつわるイメージは、誰もが似通ったものを持っていると思う。ブランドイメージが確立していることは「ハンター」の強みの1つ。私はそれらを生かしつつ、フレッシュさを加えている。

WWD:具体例を挙げると?

ロンボリ:「ケイト・モス(Kate Moss)が、音楽フェス『グラストンベリー・フェスティバル(Glastonbury Festival)』で着用したレインブーツ」というイメージは今後も守っていきたい。野外という会場の特性上、機能性は大切だが、特別なイベントだからファッションにも気合を入れたい。そんなとき、頭に浮かぶのが「ハンター」のレインブーツでありたい。

私たちは今、このレインブーツの特性を旅行用のシューズに応用している。コロナ禍以降、旅行ニーズは拡大の一途を辿っている。そして、軽さや防水性など、野外フェスと旅行シーンで求められる機能性は同じ。今後は、フェスと同様、旅行というイメージも付けられるよう注力していきたい。

WWD:「ハンター」と言えば、ブラックやミリタリーレッド、ネイビーという印象だったが、パステルカラーのシューズが多い。

ロンボリ:今日もブラックのコーデに身を包んでいるように、私はもともとカラフルな色使いが得意なタイプではない。しかし、これまでの経験から、カラーリングがブランドの売り上げに大きな影響をもたらすことは理解している。

現職に就いてからはまず、コレクションで使用する色をあえて減少させた。ブランドイメージが鮮明になり、世界観を分かりやすく伝えられるようになったように思う。また、市場に合ったトーンを選ぶことも意識した。ここに用意したのは、7色の虹から取ったような単純なカラーではない。ベビーブルーやグリーン、ピンクなど、これまでの「ハンター」にはないパステルなカラーだ。これらは特に日本市場と相性が良い。22年度比で2倍という売り上げがそれを裏付けている。

ロンボリのもう一つの側面

WWD:パリのデザイン学校で教師としても活躍しているとか。

ロンボリ:主に、スポーツやフットウエアを教えている。教鞭を取るということは、今を見つめるだけでなく、「次は何が流行るのか」「未来はどうなるのか」「イノベーションとは何か」など、思考を未来につなげること。ここ1年ほど続けているが、良い刺激をもらっている。

WWD:生徒は若年層が中心だ。彼らに何を伝えているのか?

ロンボリ:若い世代は日々膨大な情報と接している。私が今、10代、20代を送っていたら、インスピレーションにあふれた環境に歓喜していたことだろう。このような環境下で大切なのは、得たインスピレーションから独自のストーリーを作り出すこと。私はいつも「情報リテラシーを最大に、好奇心も最大に」と生徒に伝えている。学校という形式上、専攻を設けているが、興味をそれだけに絞る必要はない。

ときどき、生徒より私の好奇心の方が強いと思うときさえある。私はこれまで、ドイツのアディダス(ADIDAS)から中国のアンタ(ANTA=安踏体育用品有限公司)まで、さまざまな国の企業で働いてきた。その度に新たな人と出会い、新たな学びを得て、モノ作りへ生かしてきたように思う。

WWD:デザインをする上で大切にしていることは?

ロンボリ:大きな企業で働くときは、自己流のデザインを押し付けるのではなく、ブランドストーリーを生かしたモノ作りに励むことが何より大切だ。これをやり続けていると、自分自身のデザインもブラッシュアップされる。これは、前述した通り、現職に就いてからも意識していることだ。

WWD:「ハンター」は、サステナビリティの分野でも存在感を示している。昨年5月に始動した、“リバイタリゼーション(Revitalization)”について教えてほしい。

ロンボリ:“リバイタリゼーション(Revitalization)”は、その名が示す通り、亀裂が入ったラバーブーツにオリジナルパッチを貼り付け“生き返らせる”取り組みだ。「お気に入りのブーツを長く履きたい」という顧客の思いと、「サステナビリティは楽しいもの」という私たちの思いが合わさり実現した。さまざまな組み合わせが可能なパッチは、単にブーツを補強するだけでなく、ブーツに対する愛着すら強めることだろう。

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杉野遥亮、烏野高校バレー部員に!? 「ハイキュー!!」への愛とコラボ服を語る

PROFILE: 杉野遥亮/俳優

杉野遥亮/俳優
PROFILE: (すぎの・ようすけ)1995年生まれ、千葉県出身。2015年、第12回ファインボーイズ専属モデルオーディションでグランプリを獲得。17年、映画「キセキ -あの日のソビト-」で映画初出演を果たし、劇中の4人組グループ「グリーンボーイズ」のメンバーとしてCDデビューも果たす。「ばらかもん」(22年)、「マウンテンドクター」(24年)、「磯部磯兵衞物語」(24年)では主演も務めた。パーソナリティーを務めていたラジオ番組「杉野遥亮の今夜もオフトーク」(TOKYO FM)では、「ハイキュー!!」への愛を20分間熱弁している

WWDJAPAN4月14日号は、アニメコラボを特集している。表紙を飾ったのは、俳優・杉野遥亮。アニメ「ハイキュー!!」のファンである彼に、「ハイキュー!!」と「レイジブルー(RAGEBLUE)」のコラボ商品を着用してもらった。シャツを腰に巻いたり、襟をクルーネックからのぞかせたり、パンツを重ねばきしたりと、今っぽい小技使いが光る。彼にとって、“アニメをまとう”ことは何を意味するのか?

アニメも演技も世界観に入り込んでこそ

WWD:「ハイキュー!!」の好きなところを教えてください。

杉野遥亮(以下、杉野):青春を体感できる作風が好きです。僕はもともと、青春もののストーリーにハマりがちで。「ハイキュー!!」以外だったら、「あひるの空」(テレビ東京系列)や「黒子のバスケ」(毎日放送ほか)、「スケットダンス」(テレビ東京系列)もお気に入り。「こんな青春を過ごしたかった」「熱い気持ちで何かと向き合えていたら」って、つい感情移入してしまうんですよね。

WWD:憧れの気持ちですか。

杉野:幼いころ読んだ漫画に、キラキラした高校生活が描かれていて、すごく影響を受けました。でも、いざ入学したら全くそんなことなくて(笑)。その理想と現実のギャップを埋めるために青春アニメを見るようになって、今に至るって感じですね。

WWD:好きなキャラクターは?

杉野:烏野高校の日向翔陽と影山飛雄が好きです。2人とも自分と似ているところがあるから。日向は無鉄砲なところ、影山は無骨なところが自分と重なります。チームだったら、星海光来率いる鴎台高校に引かれます。青と白を組み合わせたユニホームカラーがいいですよね。

WWD:表紙でも、烏野高校に着想したスエットの上下を着ていただきました。

杉野:実際に着て、ある意味“危険”だと感じてしまいました。僕自身、「ハイキュー!!」には、家でスパイクの素振りをしてしまうくらい熱中してしまっていて。だから、こんな風にコラボ商品を着たら、ますます現実との境目が分からなくなりそう(笑)。

WWD:俳優も“世界観に入り込む”仕事ですよね。

杉野:そうですね。台本を読んだ瞬間から、作品の世界観に入り込みます。僕の場合、現実の世界に戻るのも少し大変なくらいです。その点、“アニメをまとう”ことと役を演じることは似ているのかもしれません。

WWD:コラボ商品をどのようなシーンで着用したい?

杉野:撮影現場に着ていきたいです。服が自分の「好き」を物語るから、会話のきっかけにもなるだろうし。好きなものを見つけるって、実は結構難しいことだと思っています。だから、好きなものは「好き」と言いたい。「ハイキュー!!」、大好きです!

PHOTO : SAKI OMI(io) HAIR&MAKE : AZUMA(M-rep by MONDO artist-group)
STYLING : MASASHI SHO
MODEL : YOSUKE SUGINO
ART DIRECTION & DESIGN : RYO TOMIZUKA

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広瀬すず × 杉咲花 × 清原果耶 3人だからこそ表現できた映画「片思い世界」の親密な関係

PROFILE: 左から、杉咲花/俳優、広瀬すず/俳優、清原果耶/俳優

PROFILE: (ひろせ・すず)1998年生まれ、静岡県出身。2013年、ドラマ「幽かな彼女」(KTV)で女優としての活動を開始。映画「海街diary」(15/是枝裕和監督)で第39回日本アカデミー賞新人俳優賞ほか、数多くの新人賞を総なめにする。16年、「ちはやふる」シリーズで映画単独初主演を務める。第40回日本アカデミー賞において、「ちはやふる-上の句-」(16/小泉徳宏監督)で優秀主演女優賞、「怒り」(16/李相日監督)で優秀助演女優賞をダブル受賞した。19年には100作目となるNHK連続テレビ小説「なつぞら」でヒロインを熱演。近年の主な映画出演作に「キリエのうた」(23/岩井俊二監督)、「ゆきてかへらぬ」(25/根岸吉太郎監督)など。待機作に「遠い山なみの光」(25/石川慶監督)、「宝島」(25/大友啓史監督)がある。 (すぎさき・はな)1997年生まれ、東京都出身。映画「湯を沸かすほどの熱い愛」(16/中野量太監督)で第40回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞・新人俳優賞はじめ、多くの映画賞を受賞。2018年、「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS)で連続ドラマ初主演を果たす。その後、主役を務めたNHK連続テレビ小説「おちょやん」(20~21)と「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21/NTV)で橋田賞新人賞を受賞。近年の主な出演作に「市子」(23/戸田彬弘監督)、「52ヘルツのクジラたち」(24/成島出監督)、「朽ちないサクラ」(24/原廣利監督)、連続ドラマ「アンメットある脳外科医の日記」(24/KTV)などがある。 (きよはら・かや)2002年生まれ、大阪府出身。15年、NHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優デビュー。映画「護られなかった者たちへ」(21/瀬々敬久監督)で第45回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。21年には、NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」で主演を務めた。23年、「ジャンヌ・ダルク」(演出・白井晃)で舞台初出演にして初主演を務め、第31回読売演劇大賞・杉村春子賞を受賞した。近年の主な映画出演作に「1秒先の彼」(23/山下敦弘監督)、「青春18×2 君へと続く道」(24/藤井道人監督)、「碁盤斬り」(24/白石和彌監督)などがある。

公開中の映画「片思い世界」は、「花束みたいな恋をした」の脚本家・坂元裕二と監督・土井裕泰のタッグによる最新作だ。坂元の「広瀬すずさん、杉咲花さん、清原果耶さんの3人でお話を作れないかな」という思いから生まれた本作は、彼がこれまでの作品に込めた想いや願いが散りばめられた集大成となった。そしてタイプの違う天才女優3人が寄り添い合い、お互いを守り、輝かせながら、“ここではないどこかにある世界”の物語をスクリーンに存在させた。どのようにこの特別な力学が生まれたのかを主演を務めた広瀬、杉咲、清原の3人に聞いた。質問に答える人物を他の2人が愛おしそうに見つめ、その言葉に「うんうん」とうなずく。その光景を見て、彼女たちの関係性が劇中の3人に重なった。

※記事内には映画のストーリーに関する重大な記述が含まれます。

3人の共演

——最初、脚本がない状態でオファーを受けたそうですが、引き受けた理由をお聞かせください。

清原果耶(以下、清原):坂元さんがすずちゃんと花ちゃんと私に脚本を書いてくれるというお話を伺って、「そんなにありがたくぜいたくなことはこの先なかなかないだろうな」と思ったのが、大きな理由の一つです。すずちゃんとは今回3作目の共演で、花ちゃんとは朝ドラのバトンタッチ式のときに一度お会いしていたこともあって、お2人と一緒に作品を作れることが素直にうれしいなと思いました。また、土井監督とは「花束みたいな恋をした」でご一緒させていただいたときに「いつかまた作品でご一緒できたらいいね」と言っていただけたこともあって、「やらない他ないな」と思いました。

広瀬すず(以下、広瀬):もともと坂元さんのファンというのもあり、どういうものであれ絶対やりたいという前向きな気持ちがあるところに、(2人の)お名前を聞いて。これが実現することはもうなかなかないだろうなというか、「本当かな?」と思えるほどうれしいお話でした。清原ちゃんとは共演回数が多く、お互いに高校生ぐらいのときからいろいろなことを一緒にやってきた距離感があるから、「あ! また共演できる! うれしい!」という気持ちです。花ちゃんとは「もう(共演は)ないだろうな」となんとなく思っていたので、10年ぶりに会えて本当にうれしかったです。同世代の2人と切磋琢磨できる現場をお断りする理由は、台本がなかったとしてもなくて。 私も「すごくぜいたくなお話だな」と思いました。

杉咲花(以下、杉咲):私は坂元さん、土井監督とご一緒するのは初めてで、この座組やメンバーを聞いて、「なんてぜいたくな現場なんだろう」と。早く飛び込みたいなという気持ちでお受けしました。

※以下、ネタバレが含まれます。








親密さの演出

——設定のネタバレをすると、周りからは3人が見えていません。ダンスやアクションのように遵守すべき立ち位置や動きがありつつ、段取りっぽくなってはいけないという非常に難易度の高いことを、お三方が軽々とやっているように見えました。特殊なお芝居でしたか?

3人:(顔を見合わせて)特に……?

杉咲:初めて本読みで集まった日、倒れる練習したね。

——雑踏などで、人にぶつかられたときの。

清原:エキストラのみなさんのご協力のおかげだと思います。例えば3人はドアを自分で開けることができないので、他の人が開けたドアの隙間をすり抜けていきます。人と人の間を縫ってコンサートホールに行くシーンでは、前後にいてくださったエキストラの方にちょっと隙間を空けてもらって、「一拍間を置いてもらったらそこに私たちが入ります」といった調整を綿密にしました。簡単にやっているように見えて、みなさんのチームワークがなければ成立しなかったシーンだと思います。

——オーケストラが奏でる交響曲のようでした。

清原:不思議なことをしている3人なので、みんなの力が合わさらないとリアリティーが保たれない。映画作りって面白いなと思いましたし、みなさんへの感謝でいっぱいです。

——3人だけ違う世界線に存在しているというところで、寄り添って生きる3人の親密さみたいなものをどのように出しましたか? 分かりやすいところでいうとスキンシップが多いお芝居でしたが、意識していましたか?

広瀬:肌と肌が触れるとちゃんと温度を感じて距離感が近くなるので、私はとても意識していたかもしれないです。“触れる”ことがすごく大切だなと思っていました。それこそ他の人や物に触れられないからこそ、触れ合うことで自分の存在の仕方を認識できたり、2人の存在を確認できたり。(存在しないものを)“本当(リアル)”にしていく、みたいな。確かに距離は近かったと思います。

——監督から「もうちょっとくっついて」といった演出はありましたか?

広瀬:(2人を見て)なかったよね? みんな自然にやっていました。

杉咲:作品によっては(脚本の)ト書きに“触れる”と書いてあったり、演出によってそうなることもありますが、今回は自分が生理的に反応していたことの方が多かったように思います。それは12年間を共に過ごしてきたこの3人の関係性をどう演じていったらいいのかというところで、それぞれの指針や重要視している部分がきっと離れていなかったからこそ、そういった距離感になっていったのではないかなと。クランクインする前に果耶ちゃんが3人でご飯に行きませんかと声をかけてくれて、そこでいろいろな話ができたことで、お互いに心を許していくことができたのではないかなと思います。

——清原さんが、ご飯の言い出しっぺなんですね。

清原:はい、私が言い出しっぺです(笑)。役を通して深まる距離感もあれば、その人自身の魅力にはまって役と一緒に関係性が見えてくる場合もあるんですけど、私自身は今回の作品においては「2人のことを知りたい」「現場でどんな佇まいをされるんだろう?」と、お2人への興味がすごく大きかったんです。私の場合はその興味がさくらという役を通して、2人への愛情や末っ子らしさにつながったと思います。

——本番中以外もスキンシップは多かったんですか?

清原:普通です(笑)。

杉咲:でも、わりと近い距離にはずっといたかもね。

広瀬:待ち時間やちょっとした合間の時間とか、椅子が3つ、すでにぎゅっと置かれているんです(笑)。そばにいるのが当たり前だったことが、良かったなと思います。

杉咲:私は普段あまり多くスキンシップを取る方ではないのですが、リスペクトしている2人と共演できるうれしさと同じぐらい「足を引っ張ってしまったらどうしよう」と緊張する気持ちが当初は特にあって。もう二歩、三歩、精神的にも踏み込んだところに行きたい気持ちがあったんです。ですが撮影を通して2人とゆっくり関わり合っていく中で、気づいたら触れ合うということに対しても無理がない状態になっていました。それは大きな変化だったのではないかと思います。

広瀬:(しみじみとうなずきながら)分かる。

それぞれの好きな芝居は?

——お互いに好きなお芝居をあげていただきたいです。まずは清原さん(さくら)のシーンからお願いします。

清原:お願いしまーす!(笑)。

杉咲:私はペンギンのシーン!(※さくらが水族館の飼育員として、ペンギンゾーンで働くシーン)

広瀬:分かる!

杉咲:(清原に)あれ、クランクインの日? インしてわりと間もないと思うんですけど。

清原:(インして)すぐだった。

杉咲:撮影が始まったころに、確かそのシーンの映像を見せてもらった気がする。さくらの日常が何気なく切り取られたシーンですが、ただ1人で凛と立っている姿に圧倒されたんです。

広瀬:アルバイトのあのシーンは私もすごく好き。よくしゃべってるよね(笑)。それがすごくかわいいし、「さくらってこういう人なんだろうな」という存在の仕方を見て「お〜! すごい!」と気持ちが高まりました。

——広瀬さん(美咲)のシーンでは?

清原:外の階段で、泣いている優花を抱きしめるお芝居です。

杉咲:分かる。すてきだったよね。

清原:だから彼女は美咲であり、お姉ちゃんであり、大黒柱だということがすごくよく分かるシーンで。私はあの日、出番がなかったけど現場に行って見学しました。現場でもすごく良かったです。

杉咲:眼差しがとても雄弁で。私としても内容的に張り詰めていたシーンだったので、とても緊張していたんです。そんなときにただ目の前に、愛のある眼差しで見つめていてくれる美咲がいて。「この人のことをただ見ていたらいいんだ」と力が緩むような時間でもありました。

——杉咲さん(優花)のシーンでお願いします。

清原:お母さん(西田尚美)と女の子がクッキーを焼いているシーンで、「お母さんはこれだよー」って三日月形のクッキーを指して言うところ。そこの最後の方の花ちゃんの顔は、鳥肌もんです。

杉咲:うれしい。

広瀬:「三日月」の言い方、発音が好きです。3人いたら次女のような、姉でもあり妹にもなる器用さと自由さを持っている優花が、またぜんぜん違う“娘”という色に変わっていて。美咲として「優花のそばにいないとダメだ」と思えるシーンでした。

——では最後に、これからご覧になる方へのメッセージをお願いします。

広瀬:彼女たちなりに生きながら、それぞれが片思いを抱えていて。そこには恋しさや怒りなど、いろいろな色の感情があって。それを(映画を見た人に)知ってもらうだけですごく救われる気がします。きっと「(こことは違うレイヤーの)世界が本当にあったら?」と想像が働く、とても温もりのある、愛のある、優しい映画だと思います。

PHOTOS:MICHI NAKANO
STYLING:[SUZU HIROSE]AKIRA MARUYAMA、[HANA SUGISAKI]SAKI NAKAZAWA、[KAYA KIYOHARA]MEGUMI ISAKA(dynamic)
HAIR&MAKEUP:[SUZU HIROSE]MASAYOSHI OKUDAIRA、[HANA SUGISAKI]ASASHI(ota office)、[KAYA KIYOHARA]YUDAI MAKINO(vierge)

[SUZU HIROSE]パールジャケット 6万6000円/JOSE MOON(JOSE MOON 080-1908-2401)、ワンピース 1万9000円/エステ(バウ インク 070-9199-0913)、フープピアス 44万円、モザイクエクラリング 22万円、シャンデリアレイヤードリング 25万3000円/AHKAH(AHKAH GINZA SIX店 03-6274-6098)、フープピアス(リングとして使用) 5万8000円/LORO(LORO TOKYO info@loro.tokyo)、その他スタイリスト私物、[KAYA KIYOHARA]ジャッケット、パンツ/ジョゼフ(ジョゼフジャパン info@joseph-jp.com)、アクセサリー/ジュエッテ(ジュエッテ 0120-10-6616)

「片思い世界」

TOHO シネマズ 日比谷ほか全国公開中
出演:広瀬すず 杉咲花 清原果耶
横浜流星
小野花梨 伊島空 moonriders 田口トモロヲ 西田尚美
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
配給:東京テアトル、リトルモア
(C)2025「片思い世界」製作委員会
https://kataomoisekai.jp

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広瀬すず × 杉咲花 × 清原果耶 3人だからこそ表現できた映画「片思い世界」の親密な関係

PROFILE: 左から、杉咲花/俳優、広瀬すず/俳優、清原果耶/俳優

PROFILE: (ひろせ・すず)1998年生まれ、静岡県出身。2013年、ドラマ「幽かな彼女」(KTV)で女優としての活動を開始。映画「海街diary」(15/是枝裕和監督)で第39回日本アカデミー賞新人俳優賞ほか、数多くの新人賞を総なめにする。16年、「ちはやふる」シリーズで映画単独初主演を務める。第40回日本アカデミー賞において、「ちはやふる-上の句-」(16/小泉徳宏監督)で優秀主演女優賞、「怒り」(16/李相日監督)で優秀助演女優賞をダブル受賞した。19年には100作目となるNHK連続テレビ小説「なつぞら」でヒロインを熱演。近年の主な映画出演作に「キリエのうた」(23/岩井俊二監督)、「ゆきてかへらぬ」(25/根岸吉太郎監督)など。待機作に「遠い山なみの光」(25/石川慶監督)、「宝島」(25/大友啓史監督)がある。 (すぎさき・はな)1997年生まれ、東京都出身。映画「湯を沸かすほどの熱い愛」(16/中野量太監督)で第40回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞・新人俳優賞はじめ、多くの映画賞を受賞。2018年、「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS)で連続ドラマ初主演を果たす。その後、主役を務めたNHK連続テレビ小説「おちょやん」(20~21)と「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21/NTV)で橋田賞新人賞を受賞。近年の主な出演作に「市子」(23/戸田彬弘監督)、「52ヘルツのクジラたち」(24/成島出監督)、「朽ちないサクラ」(24/原廣利監督)、連続ドラマ「アンメットある脳外科医の日記」(24/KTV)などがある。 (きよはら・かや)2002年生まれ、大阪府出身。15年、NHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優デビュー。映画「護られなかった者たちへ」(21/瀬々敬久監督)で第45回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。21年には、NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」で主演を務めた。23年、「ジャンヌ・ダルク」(演出・白井晃)で舞台初出演にして初主演を務め、第31回読売演劇大賞・杉村春子賞を受賞した。近年の主な映画出演作に「1秒先の彼」(23/山下敦弘監督)、「青春18×2 君へと続く道」(24/藤井道人監督)、「碁盤斬り」(24/白石和彌監督)などがある。

公開中の映画「片思い世界」は、「花束みたいな恋をした」の脚本家・坂元裕二と監督・土井裕泰のタッグによる最新作だ。坂元の「広瀬すずさん、杉咲花さん、清原果耶さんの3人でお話を作れないかな」という思いから生まれた本作は、彼がこれまでの作品に込めた想いや願いが散りばめられた集大成となった。そしてタイプの違う天才女優3人が寄り添い合い、お互いを守り、輝かせながら、“ここではないどこかにある世界”の物語をスクリーンに存在させた。どのようにこの特別な力学が生まれたのかを主演を務めた広瀬、杉咲、清原の3人に聞いた。質問に答える人物を他の2人が愛おしそうに見つめ、その言葉に「うんうん」とうなずく。その光景を見て、彼女たちの関係性が劇中の3人に重なった。

※記事内には映画のストーリーに関する重大な記述が含まれます。

3人の共演

——最初、脚本がない状態でオファーを受けたそうですが、引き受けた理由をお聞かせください。

清原果耶(以下、清原):坂元さんがすずちゃんと花ちゃんと私に脚本を書いてくれるというお話を伺って、「そんなにありがたくぜいたくなことはこの先なかなかないだろうな」と思ったのが、大きな理由の一つです。すずちゃんとは今回3作目の共演で、花ちゃんとは朝ドラのバトンタッチ式のときに一度お会いしていたこともあって、お2人と一緒に作品を作れることが素直にうれしいなと思いました。また、土井監督とは「花束みたいな恋をした」でご一緒させていただいたときに「いつかまた作品でご一緒できたらいいね」と言っていただけたこともあって、「やらない他ないな」と思いました。

広瀬すず(以下、広瀬):もともと坂元さんのファンというのもあり、どういうものであれ絶対やりたいという前向きな気持ちがあるところに、(2人の)お名前を聞いて。これが実現することはもうなかなかないだろうなというか、「本当かな?」と思えるほどうれしいお話でした。清原ちゃんとは共演回数が多く、お互いに高校生ぐらいのときからいろいろなことを一緒にやってきた距離感があるから、「あ! また共演できる! うれしい!」という気持ちです。花ちゃんとは「もう(共演は)ないだろうな」となんとなく思っていたので、10年ぶりに会えて本当にうれしかったです。同世代の2人と切磋琢磨できる現場をお断りする理由は、台本がなかったとしてもなくて。 私も「すごくぜいたくなお話だな」と思いました。

杉咲花(以下、杉咲):私は坂元さん、土井監督とご一緒するのは初めてで、この座組やメンバーを聞いて、「なんてぜいたくな現場なんだろう」と。早く飛び込みたいなという気持ちでお受けしました。

※以下、ネタバレが含まれます。








親密さの演出

——設定のネタバレをすると、周りからは3人が見えていません。ダンスやアクションのように遵守すべき立ち位置や動きがありつつ、段取りっぽくなってはいけないという非常に難易度の高いことを、お三方が軽々とやっているように見えました。特殊なお芝居でしたか?

3人:(顔を見合わせて)特に……?

杉咲:初めて本読みで集まった日、倒れる練習したね。

——雑踏などで、人にぶつかられたときの。

清原:エキストラのみなさんのご協力のおかげだと思います。例えば3人はドアを自分で開けることができないので、他の人が開けたドアの隙間をすり抜けていきます。人と人の間を縫ってコンサートホールに行くシーンでは、前後にいてくださったエキストラの方にちょっと隙間を空けてもらって、「一拍間を置いてもらったらそこに私たちが入ります」といった調整を綿密にしました。簡単にやっているように見えて、みなさんのチームワークがなければ成立しなかったシーンだと思います。

——オーケストラが奏でる交響曲のようでした。

清原:不思議なことをしている3人なので、みんなの力が合わさらないとリアリティーが保たれない。映画作りって面白いなと思いましたし、みなさんへの感謝でいっぱいです。

——3人だけ違う世界線に存在しているというところで、寄り添って生きる3人の親密さみたいなものをどのように出しましたか? 分かりやすいところでいうとスキンシップが多いお芝居でしたが、意識していましたか?

広瀬:肌と肌が触れるとちゃんと温度を感じて距離感が近くなるので、私はとても意識していたかもしれないです。“触れる”ことがすごく大切だなと思っていました。それこそ他の人や物に触れられないからこそ、触れ合うことで自分の存在の仕方を認識できたり、2人の存在を確認できたり。(存在しないものを)“本当(リアル)”にしていく、みたいな。確かに距離は近かったと思います。

——監督から「もうちょっとくっついて」といった演出はありましたか?

広瀬:(2人を見て)なかったよね? みんな自然にやっていました。

杉咲:作品によっては(脚本の)ト書きに“触れる”と書いてあったり、演出によってそうなることもありますが、今回は自分が生理的に反応していたことの方が多かったように思います。それは12年間を共に過ごしてきたこの3人の関係性をどう演じていったらいいのかというところで、それぞれの指針や重要視している部分がきっと離れていなかったからこそ、そういった距離感になっていったのではないかなと。クランクインする前に果耶ちゃんが3人でご飯に行きませんかと声をかけてくれて、そこでいろいろな話ができたことで、お互いに心を許していくことができたのではないかなと思います。

——清原さんが、ご飯の言い出しっぺなんですね。

清原:はい、私が言い出しっぺです(笑)。役を通して深まる距離感もあれば、その人自身の魅力にはまって役と一緒に関係性が見えてくる場合もあるんですけど、私自身は今回の作品においては「2人のことを知りたい」「現場でどんな佇まいをされるんだろう?」と、お2人への興味がすごく大きかったんです。私の場合はその興味がさくらという役を通して、2人への愛情や末っ子らしさにつながったと思います。

——本番中以外もスキンシップは多かったんですか?

清原:普通です(笑)。

杉咲:でも、わりと近い距離にはずっといたかもね。

広瀬:待ち時間やちょっとした合間の時間とか、椅子が3つ、すでにぎゅっと置かれているんです(笑)。そばにいるのが当たり前だったことが、良かったなと思います。

杉咲:私は普段あまり多くスキンシップを取る方ではないのですが、リスペクトしている2人と共演できるうれしさと同じぐらい「足を引っ張ってしまったらどうしよう」と緊張する気持ちが当初は特にあって。もう二歩、三歩、精神的にも踏み込んだところに行きたい気持ちがあったんです。ですが撮影を通して2人とゆっくり関わり合っていく中で、気づいたら触れ合うということに対しても無理がない状態になっていました。それは大きな変化だったのではないかと思います。

広瀬:(しみじみとうなずきながら)分かる。

それぞれの好きな芝居は?

——お互いに好きなお芝居をあげていただきたいです。まずは清原さん(さくら)のシーンからお願いします。

清原:お願いしまーす!(笑)。

杉咲:私はペンギンのシーン!(※さくらが水族館の飼育員として、ペンギンゾーンで働くシーン)

広瀬:分かる!

杉咲:(清原に)あれ、クランクインの日? インしてわりと間もないと思うんですけど。

清原:(インして)すぐだった。

杉咲:撮影が始まったころに、確かそのシーンの映像を見せてもらった気がする。さくらの日常が何気なく切り取られたシーンですが、ただ1人で凛と立っている姿に圧倒されたんです。

広瀬:アルバイトのあのシーンは私もすごく好き。よくしゃべってるよね(笑)。それがすごくかわいいし、「さくらってこういう人なんだろうな」という存在の仕方を見て「お〜! すごい!」と気持ちが高まりました。

——広瀬さん(美咲)のシーンでは?

清原:外の階段で、泣いている優花を抱きしめるお芝居です。

杉咲:分かる。すてきだったよね。

清原:だから彼女は美咲であり、お姉ちゃんであり、大黒柱だということがすごくよく分かるシーンで。私はあの日、出番がなかったけど現場に行って見学しました。現場でもすごく良かったです。

杉咲:眼差しがとても雄弁で。私としても内容的に張り詰めていたシーンだったので、とても緊張していたんです。そんなときにただ目の前に、愛のある眼差しで見つめていてくれる美咲がいて。「この人のことをただ見ていたらいいんだ」と力が緩むような時間でもありました。

——杉咲さん(優花)のシーンでお願いします。

清原:お母さん(西田尚美)と女の子がクッキーを焼いているシーンで、「お母さんはこれだよー」って三日月形のクッキーを指して言うところ。そこの最後の方の花ちゃんの顔は、鳥肌もんです。

杉咲:うれしい。

広瀬:「三日月」の言い方、発音が好きです。3人いたら次女のような、姉でもあり妹にもなる器用さと自由さを持っている優花が、またぜんぜん違う“娘”という色に変わっていて。美咲として「優花のそばにいないとダメだ」と思えるシーンでした。

——では最後に、これからご覧になる方へのメッセージをお願いします。

広瀬:彼女たちなりに生きながら、それぞれが片思いを抱えていて。そこには恋しさや怒りなど、いろいろな色の感情があって。それを(映画を見た人に)知ってもらうだけですごく救われる気がします。きっと「(こことは違うレイヤーの)世界が本当にあったら?」と想像が働く、とても温もりのある、愛のある、優しい映画だと思います。

PHOTOS:MICHI NAKANO
STYLING:[SUZU HIROSE]AKIRA MARUYAMA、[HANA SUGISAKI]SAKI NAKAZAWA、[KAYA KIYOHARA]MEGUMI ISAKA(dynamic)
HAIR&MAKEUP:[SUZU HIROSE]MASAYOSHI OKUDAIRA、[HANA SUGISAKI]ASASHI(ota office)、[KAYA KIYOHARA]YUDAI MAKINO(vierge)

[SUZU HIROSE]パールジャケット 6万6000円/JOSE MOON(JOSE MOON 080-1908-2401)、ワンピース 1万9000円/エステ(バウ インク 070-9199-0913)、フープピアス 44万円、モザイクエクラリング 22万円、シャンデリアレイヤードリング 25万3000円/AHKAH(AHKAH GINZA SIX店 03-6274-6098)、フープピアス(リングとして使用) 5万8000円/LORO(LORO TOKYO info@loro.tokyo)、その他スタイリスト私物、[KAYA KIYOHARA]ジャッケット、パンツ/ジョゼフ(ジョゼフジャパン info@joseph-jp.com)、アクセサリー/ジュエッテ(ジュエッテ 0120-10-6616)

「片思い世界」

TOHO シネマズ 日比谷ほか全国公開中
出演:広瀬すず 杉咲花 清原果耶
横浜流星
小野花梨 伊島空 moonriders 田口トモロヲ 西田尚美
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
配給:東京テアトル、リトルモア
(C)2025「片思い世界」製作委員会
https://kataomoisekai.jp

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「パタゴニア」アンバサダーに6年ぶりに日本人が加入 トレイルランナー木村大志に聞く山の魅力

PROFILE: 木村大志/「パタゴニア」アンバサダー

木村大志/「パタゴニア」アンバサダー
PROFILE: (きむら・ひろし)1993年生まれ、秋田県出身。高校時代から自衛隊在籍中まで、ノルディック複合のスキー選手として競技に打ち込む。21歳で、新潟・妙高にある国際自然環境アウトドア専門学校に入学。野外活動の専門知識を学ぶ過程でトレイルランニングと出会う。現在は長野・木島平を拠点に、北信エリアを中心としたトレイルランニングのツアーや大会運営に関わる。同時に活動エリアの登山道整備にも力を注ぎ、長野の高社山・カヤの平や三登山、新潟の中ノ俣古道などの維持管理に積極的に取り組む。2025年3月から現職

米国発のアウトドアブランド「パタゴニア(PATAGONIA)」のアンバサダーに今春、長野・木島平を拠点とするトレイルランナー、木村大志が加わった。同ブランドの“代弁者”であるアンバサダーは、現在グローバルで125人、日本では18人。日本人の加入は6年ぶりだいう。「ストイックなところもありつつ、アウトドアスポーツを心の底から楽しんでいて、10年前に出会った当時から人柄もすばらしい」と「パタゴニア」担当者がコメントする木村に、トレイルランニングや山の魅力を聞いた。

WWD:トレイルランニングとの出合いを教えてください。

木村大志「パタゴニア」アンバサダー(以下、木村):高校卒業後、自衛隊をへて新潟・妙高のアウトドア専門学校(国際自然環境アウトドア専門学校)に通いました。トレイルランニングというスポーツを初めて知り、挑戦したのはそのころです。ただ、秋田・鹿角にある実家はすぐ裏が山だったので、子供のころから山を駆け回っていました。それが自分にとってのトレイルランニングの原点かもしれません。

WWD:トレイルランニングの魅力はどんなところですか。

木村:いろんな魅力があって、まずは純粋に爽快感がある。山ですばらしい景色を見るのは気持ちがいいですし、少し危険な場所を越えていくときはドキドキと胸が高鳴ります。それに加えて、自分流の楽しみ方ができるのもトレランの魅力。花が好きな人なら山で花を見るのもいいですし、僕は山菜を採るのが好きなので、春になると山菜を探しながら走っています。山菜を探してすぐに立ち止まってしまうので、春は練習になりません(笑)。気づいたらポケットがいっぱいになっていて、トレーニングをしているんだか山菜採りをしているんだか分からない、なんていうことも。速く走れば遠くまで行けて、その分たくさん山菜を収穫できるのがいいですね。そのように個人の趣味嗜好に合わせて、走ることに楽しみをプラスオンできるのがトレランの良さだと思います。

WWD:トレランは“玄人のスポーツ”というイメージもありますが、そんなふうに自分流の楽しみ方を見つけると、挑戦したいと思う人も増えそうです。

木村:専用のギアが必要となることも多いアウトドアスポーツの中では、トレランは割と始めやすく、間口が広いんじゃないでしょうか。ロードランをきっかけにトレランを始める人もいますし、登山の延長で山を走るようになる人もいます。マラソンなどのロードランはタイムやスピードの向上を目指すムードもありますが、トレランはたとえ同じコースを走るのであっても、その日の天候やコースコンディションによって出せるペースが全く異なってきます。それゆえ、「30キロを走るならこのタイムを目指せ」といった基準もあまりない。タイムやスピードではなく、完走を目標として、純粋に走ることを楽しんでいる人が多いという印象です。

「長く使い続けることがかっこいい」

WWD:「パタゴニア」との出合いは。

木村:専門学校時代に、性能に魅力を感じて「パタゴニア」製品を購入するようになりました。アウトドアのウエアやギアは安くはないので、買うなら長く大切に使いたい。「パタゴニア」製品の耐久性や、修理してなるべく長く使い続けるといった考え方に共感したのも、ファンになったきっかけです。初めて買ったのはフリースの“R-1”だったと思います。季節ごとにお気に入りのアイテムがありますが、夏は“リッジ・フロー・シャツ”は走るときはいつも着ています。

WWD:アンバサダーとなったことで、ブランドとの関わり方はどう変わりますか。

木村:これまでも、「パタゴニア」のサポートアスリートといった形で発売後の製品を使わせてもらい、その感想をブランド側にフィードバックしていました。アンバサダーになったことで、今後は発売前のプロトタイプ製品のテストにも参加し、今まで以上にコミットしていくことになると思います。自分が製品開発に参加し、「パタゴニア」の未来に関われるというのはすごく光栄で、とてもうれしく思います。

WWD:アンバサダーとして、ブランドの考え方や思いを代弁していくという役割も期待されています。

木村:自分はギアやウエアが使い込んで汚れていたり、破れた箇所を直した跡があったりする方がむしろかっこいいと思っているふしがあります。ファッションも楽しむおしゃれなランナーの方もいるので、皆がそういう考えであるべきというものではないですが、ギアやウエアを大切に長く使い続けること、長く使い続けることがかっこいいんだという価値観は伝えていきたいと思っています。

WWD:今は新潟に近い長野・北信エリアの木島平村を拠点にしています。

木村:木島平に住んで6、7年になります。その前は3年間東京に住んでいました。トレランと共にスキーも好きなので、東京時代は冬に雪がないのが寂しくて、専門学校時代を過ごした北信エリアに帰ることにしたんです。北信の魅力は四季がはっきりしていること。11月の下旬から5月くらいまではしっかり雪があって、夏もすばらしい。僕はトレランやスキーのほか、自転車も好きなので、季節の変わり目の5月は朝はまずクロスカントリースキーをして、その後山を走って、自転車に乗ってとフルで楽しめる。一日中アクティビティーが堪能できて、木島平は僕にとって本当に夢みたいな場所です。

「大好きなエリアを知ってもらいたい」

WWD:トレランレースなどを企画・主催している宿泊施設のスポーツハイムアルプで働き、アルプの仲間の方たちと古い登山道の整備にも取り組んでいますね。

木村:アルプでは、「奥信濃100」という100キロメートルのトレランレースを21年から開催しています。使われなくなっていた古道を通らないとレースのコースがつながらないということで、登山道の整備を始めました。最初は知識もない中で道を切り開いていったんですが、いろんな方と出会う中で、“近自然工法”という整備手法も知り、今はそれを勉強しながら整備を進めています。“近自然工法”は、言葉通り自然に近い形での整備を目指すもの。ふもとから人工物を持ち込んで整備するのではなく、現場にあるもので保守していきます。たとえば、自然の中に規則正しい木の階段を作ると、その階段の脇を人が歩いたり、雨水が流れたりして、かえって荒廃が進んでしまうんです。

WWD:荒廃していた道を整備し、レースを開催して都会から人を呼び込むことは、インフラ的な面でも、経済的な面でも地域貢献につながりますね。

木村:レースで多くの人が登山道を通ると道が整っていくので、地元の方の整備の負担は減らせているのかもしれません。アルプで登山道の整備ツアーを行ったり、レースを行ったりすることで、自分が大好きなこのエリアを多くの方に知っていただけることが何よりうれしい。整備ツアーに参加された方は、皆さん里親になったような気持ちでこの地域に愛着を持ってくれます。「修復箇所はその後どうなったかな」と、何度もこの地を訪れてくれる。整備をすると自然に対する意識も変わって、山で走るときに木の根を踏まないようにしようとか、山ではこういうことをしたら良くないなというように、意識が向くようにもなります。

WWD:「パタゴニア」の公式サイトには、木村さんが22年に行った、木島平の自宅から信越トレイルを踏破して、また自宅に帰ってくるという総距離175キロメートル、累積標高8000メートルの山行記録も掲載されています。この山行でもそれ以外のレースでも、走っている最中に、辛い、もうやめたいと感じる瞬間もあるのでは。

木村:眠いとか休みたいとかは考えますが、誰かに強制されているわけではなく、自分がやりたくて計画を立てて、ルートや装備を考えてやっていることなので、辛い、やめたいという思いはないです。むしろ、辛いのすら楽しい。ノルディック複合の選手としてスキー競技に明け暮れていた高校時代は、やらされている感じもあって、それが嫌でした。でも、社会に出て働き始めてみると、自分はやっぱり体を動かすことが好きなんだと気づいたんです。今はトレーニングにおいても、「今日は天気がいいから山に行こう」「今の時期は雪があるから、ランニングはさておき滑りに行っちゃおう」というように、山を楽しんでいます。最近子どもが生まれたので、一緒に山に行ったり、スキーに行ったりするのも楽しい。そんな暮らしの中、トレーニングでも、登山道整備でも、薪割りなどの宿の仕事でも「パタゴニア」の服はもうずっと着ていて、欠かせないものです。

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「パタゴニア」アンバサダーに6年ぶりに日本人が加入 トレイルランナー木村大志に聞く山の魅力

PROFILE: 木村大志/「パタゴニア」アンバサダー

木村大志/「パタゴニア」アンバサダー
PROFILE: (きむら・ひろし)1993年生まれ、秋田県出身。高校時代から自衛隊在籍中まで、ノルディック複合のスキー選手として競技に打ち込む。21歳で、新潟・妙高にある国際自然環境アウトドア専門学校に入学。野外活動の専門知識を学ぶ過程でトレイルランニングと出会う。現在は長野・木島平を拠点に、北信エリアを中心としたトレイルランニングのツアーや大会運営に関わる。同時に活動エリアの登山道整備にも力を注ぎ、長野の高社山・カヤの平や三登山、新潟の中ノ俣古道などの維持管理に積極的に取り組む。2025年3月から現職

米国発のアウトドアブランド「パタゴニア(PATAGONIA)」のアンバサダーに今春、長野・木島平を拠点とするトレイルランナー、木村大志が加わった。同ブランドの“代弁者”であるアンバサダーは、現在グローバルで125人、日本では18人。日本人の加入は6年ぶりだいう。「ストイックなところもありつつ、アウトドアスポーツを心の底から楽しんでいて、10年前に出会った当時から人柄もすばらしい」と「パタゴニア」担当者がコメントする木村に、トレイルランニングや山の魅力を聞いた。

WWD:トレイルランニングとの出合いを教えてください。

木村大志「パタゴニア」アンバサダー(以下、木村):高校卒業後、自衛隊をへて新潟・妙高のアウトドア専門学校(国際自然環境アウトドア専門学校)に通いました。トレイルランニングというスポーツを初めて知り、挑戦したのはそのころです。ただ、秋田・鹿角にある実家はすぐ裏が山だったので、子供のころから山を駆け回っていました。それが自分にとってのトレイルランニングの原点かもしれません。

WWD:トレイルランニングの魅力はどんなところですか。

木村:いろんな魅力があって、まずは純粋に爽快感がある。山ですばらしい景色を見るのは気持ちがいいですし、少し危険な場所を越えていくときはドキドキと胸が高鳴ります。それに加えて、自分流の楽しみ方ができるのもトレランの魅力。花が好きな人なら山で花を見るのもいいですし、僕は山菜を採るのが好きなので、春になると山菜を探しながら走っています。山菜を探してすぐに立ち止まってしまうので、春は練習になりません(笑)。気づいたらポケットがいっぱいになっていて、トレーニングをしているんだか山菜採りをしているんだか分からない、なんていうことも。速く走れば遠くまで行けて、その分たくさん山菜を収穫できるのがいいですね。そのように個人の趣味嗜好に合わせて、走ることに楽しみをプラスオンできるのがトレランの良さだと思います。

WWD:トレランは“玄人のスポーツ”というイメージもありますが、そんなふうに自分流の楽しみ方を見つけると、挑戦したいと思う人も増えそうです。

木村:専用のギアが必要となることも多いアウトドアスポーツの中では、トレランは割と始めやすく、間口が広いんじゃないでしょうか。ロードランをきっかけにトレランを始める人もいますし、登山の延長で山を走るようになる人もいます。マラソンなどのロードランはタイムやスピードの向上を目指すムードもありますが、トレランはたとえ同じコースを走るのであっても、その日の天候やコースコンディションによって出せるペースが全く異なってきます。それゆえ、「30キロを走るならこのタイムを目指せ」といった基準もあまりない。タイムやスピードではなく、完走を目標として、純粋に走ることを楽しんでいる人が多いという印象です。

「長く使い続けることがかっこいい」

WWD:「パタゴニア」との出合いは。

木村:専門学校時代に、性能に魅力を感じて「パタゴニア」製品を購入するようになりました。アウトドアのウエアやギアは安くはないので、買うなら長く大切に使いたい。「パタゴニア」製品の耐久性や、修理してなるべく長く使い続けるといった考え方に共感したのも、ファンになったきっかけです。初めて買ったのはフリースの“R-1”だったと思います。季節ごとにお気に入りのアイテムがありますが、夏は“リッジ・フロー・シャツ”は走るときはいつも着ています。

WWD:アンバサダーとなったことで、ブランドとの関わり方はどう変わりますか。

木村:これまでも、「パタゴニア」のサポートアスリートといった形で発売後の製品を使わせてもらい、その感想をブランド側にフィードバックしていました。アンバサダーになったことで、今後は発売前のプロトタイプ製品のテストにも参加し、今まで以上にコミットしていくことになると思います。自分が製品開発に参加し、「パタゴニア」の未来に関われるというのはすごく光栄で、とてもうれしく思います。

WWD:アンバサダーとして、ブランドの考え方や思いを代弁していくという役割も期待されています。

木村:自分はギアやウエアが使い込んで汚れていたり、破れた箇所を直した跡があったりする方がむしろかっこいいと思っているふしがあります。ファッションも楽しむおしゃれなランナーの方もいるので、皆がそういう考えであるべきというものではないですが、ギアやウエアを大切に長く使い続けること、長く使い続けることがかっこいいんだという価値観は伝えていきたいと思っています。

WWD:今は新潟に近い長野・北信エリアの木島平村を拠点にしています。

木村:木島平に住んで6、7年になります。その前は3年間東京に住んでいました。トレランと共にスキーも好きなので、東京時代は冬に雪がないのが寂しくて、専門学校時代を過ごした北信エリアに帰ることにしたんです。北信の魅力は四季がはっきりしていること。11月の下旬から5月くらいまではしっかり雪があって、夏もすばらしい。僕はトレランやスキーのほか、自転車も好きなので、季節の変わり目の5月は朝はまずクロスカントリースキーをして、その後山を走って、自転車に乗ってとフルで楽しめる。一日中アクティビティーが堪能できて、木島平は僕にとって本当に夢みたいな場所です。

「大好きなエリアを知ってもらいたい」

WWD:トレランレースなどを企画・主催している宿泊施設のスポーツハイムアルプで働き、アルプの仲間の方たちと古い登山道の整備にも取り組んでいますね。

木村:アルプでは、「奥信濃100」という100キロメートルのトレランレースを21年から開催しています。使われなくなっていた古道を通らないとレースのコースがつながらないということで、登山道の整備を始めました。最初は知識もない中で道を切り開いていったんですが、いろんな方と出会う中で、“近自然工法”という整備手法も知り、今はそれを勉強しながら整備を進めています。“近自然工法”は、言葉通り自然に近い形での整備を目指すもの。ふもとから人工物を持ち込んで整備するのではなく、現場にあるもので保守していきます。たとえば、自然の中に規則正しい木の階段を作ると、その階段の脇を人が歩いたり、雨水が流れたりして、かえって荒廃が進んでしまうんです。

WWD:荒廃していた道を整備し、レースを開催して都会から人を呼び込むことは、インフラ的な面でも、経済的な面でも地域貢献につながりますね。

木村:レースで多くの人が登山道を通ると道が整っていくので、地元の方の整備の負担は減らせているのかもしれません。アルプで登山道の整備ツアーを行ったり、レースを行ったりすることで、自分が大好きなこのエリアを多くの方に知っていただけることが何よりうれしい。整備ツアーに参加された方は、皆さん里親になったような気持ちでこの地域に愛着を持ってくれます。「修復箇所はその後どうなったかな」と、何度もこの地を訪れてくれる。整備をすると自然に対する意識も変わって、山で走るときに木の根を踏まないようにしようとか、山ではこういうことをしたら良くないなというように、意識が向くようにもなります。

WWD:「パタゴニア」の公式サイトには、木村さんが22年に行った、木島平の自宅から信越トレイルを踏破して、また自宅に帰ってくるという総距離175キロメートル、累積標高8000メートルの山行記録も掲載されています。この山行でもそれ以外のレースでも、走っている最中に、辛い、もうやめたいと感じる瞬間もあるのでは。

木村:眠いとか休みたいとかは考えますが、誰かに強制されているわけではなく、自分がやりたくて計画を立てて、ルートや装備を考えてやっていることなので、辛い、やめたいという思いはないです。むしろ、辛いのすら楽しい。ノルディック複合の選手としてスキー競技に明け暮れていた高校時代は、やらされている感じもあって、それが嫌でした。でも、社会に出て働き始めてみると、自分はやっぱり体を動かすことが好きなんだと気づいたんです。今はトレーニングにおいても、「今日は天気がいいから山に行こう」「今の時期は雪があるから、ランニングはさておき滑りに行っちゃおう」というように、山を楽しんでいます。最近子どもが生まれたので、一緒に山に行ったり、スキーに行ったりするのも楽しい。そんな暮らしの中、トレーニングでも、登山道整備でも、薪割りなどの宿の仕事でも「パタゴニア」の服はもうずっと着ていて、欠かせないものです。

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創業以来毎年3倍成長を継続  LVMHが出資するノンアルコール「フレンチ・ブルーム」創業夫妻に聞くブランディング

PROFILE: 左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者

左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者
PROFILE: ロドルフは、フランス生まれ。シャンパーニュメゾン「テタンジェ」の創業者のひ孫。シャンパーニュ地方で育ち、兄弟のギョーム、リチャードと共にグランクリュとプルミエ・クリュのシャンパーニュ「フレールジャン・フレール」を手掛ける。また、1767年創業のコニャックメゾン「クタンソー・エネ」を復活させた。2019年に妻のマギーと立ち上げた「フレンチ・ブルーム」ではCEOとしてあらゆる製造技術とノウハウを注ぎ込んでいる。マギーは、ニューヨーク生まれ。「ミシュランガイド」でキャリアを積み、妊娠をきっかけに友人のスーパーモデルであるコンスタンス・ジャブロンスキーとフレンチ・ブルームを創業 PHOTO:SHUHEI SHINE

フランス発ノンアルコール・スパークリングワイン「フレンチ・ブルーム(FRENCH BLOOM)」から新作“エクストラ・ブリュット”が登場した。アルコール、糖質、亜硫酸塩はゼロで、わずか1カロリー。オーガニックのシャルドネを使用した酸味とミネラルが融合した複雑な味わいが特徴だ。新作発売を記念し、20周年を迎えた「マンダリン オリエンタル 東京(MANDARIN ORIENTAL TOKYO)」(以下、マンダリン)と協業で24日まで、同ホテルでペアリングコースやピクニックセットなどを提供。「マンダリン」の野坂昭彦ディレクターオブワインは、「ブドウの旨味が感じられ、自信を持って薦められるノンアルコールだ」とコメントしている。

「フレンチ・ブルーム」は2019年に「ミシュランガイド」出身のマギー・フレールジャン・テタンジェ創始者とシャンパン「テタンジェ(TAITTINGER)」の創設者のひ孫であるロドルフ・フレールジャン・テタンジェ最高責任者(CEO)が創業。創業のきっかけは、マギーの妊娠。市場に出回っているノンアルコールワインは糖度が高く食事には不向きだった。そこで、食事とペアリングできる「フレンチ・ブルーム」を考案し、シャンパン造りのノウハウと革新により試行錯誤を重ねて完成させた。その複雑な香りと味わいにより、一流ホテルやレストランが選ぶノンアルコールワイン。「フレンチ・ブルーム」は、昨年10月には、LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON以下、LVMH)が出資する初のノンアルコールのブランドになった。イベントのために来日した、テタンジェ夫妻に今後の戦略について聞いた。

フルコースにペアリングできるノンアルコール

WWD:新作“エクストラ・ブリュット(以下、ブリュット)”の特徴は?

ルドルフ・ フレールジャン・テタンジェ=フレンチ・ブルームCEO(以下、ルドルフ):脱アルコールの試行錯誤を重ね、ラングドック地方のリムーのブドウを採用している。このテロワールの土壌を感じさせる爽やかでミネラル感のある味わいだ。酸化を最小限に抑え、木樽で熟成。製造のレベルを引き上げたので、より複雑かつ余韻が感じられる。ドライで、酸味と塩味があり、食事とのペアリングにふさわしい。ホタテなどの魚介料理にぴったりで、子牛やラムなどのメインコースにも合うワインだ。

WWD:現在の商品のラインアップは?

マギー・ジャンフレール・テタンジェ フレンチ・ブルーム創始者(以下、マギー):4種類。“ル・ロゼ”ル・ブラン”“ラ・キュヴェ・ヴィンテージ2022(以下、ラ・キュヴェ)”に”ブリュット“が加わった。“ル・ブラン”は祝賀を含めた乾杯にふさわしく、“ル・ロゼ”はデザートに合う。“ブリュット”は食事に合うので、スパークリングだが、どちらかというとワイン的な存在、“ラ・キュヴェ”は、熟成した深みのある味わいが特徴。この4つのラインアップがあれば、フルコースにペアリングができる。

WWD:ターゲットと実際の購入層は?

マギー:当初、ターゲットは妊婦や健康的、宗教的理由から飲酒ができない人を想定していた。ところが実際の購入者の8割は、フレキシ・ドリンカー。全体の7割が女性で、年齢は20〜50代と幅広い。ノンアルコールであっても、ふくよかな味わいを求める層に選ばれている。“ラ・キュヴェ”は男性の割合が高く、ワインが好きなシャンパン愛飲家から支持されている。“ブリュット”はあらゆる人に好まれると思う。

ノンアルコール市場の広がりにより毎年3倍成長

WWD:現在何ヵ国で販売しているか?トップ3の市場は?

ルドルフ:50カ国以上。1位がフランス、2位がアメリカ、3位がイギリスと日本。日本はワインの愛好家が多く、大きなポテンシャルがある市場だ。

WWD:創業してからの売上高の推移は?

ルドルフ:創業以来、毎年3倍成長している。大きな要因は、飲酒に対する文化の変化が理由だ。世界中の消費者が節度ある飲酒をするようになり、味に妥協しない洗練されたノンアルコールドリンクの選択肢を求めるようになったのが大きい。また、ワイン同様の香り、味わいの深みを出すためにテロワールから製造までこだわり、高級ホテルやミシュラン星付きレストランなどで選ばれるようになった。ロンドンの「ハロッズ(HARRODS)」やパリの「ギャラリー・ラファイエット(GALERIES LAFAYETTE)」など高級百貨店でも販売されている。それにより、ブランドの魅力や信頼性が高まっている。

WWD:ブランドの認知度アップのために行っていることは?

マギー:パリ・ファッション・ウィークや音楽の祭典「ブリット・アワード(BRIT AWARDS)」、音楽フェスティバル「コーチェラ(COACHELLA)」などに参加している。このような活動を通して、ファッションやスポーツ、文化、ビジネスで影響のある人々とのコミュニティーを築いてきた。「マンダリン」といった素晴らしいパートーナーとのコラボレーションもその一環だ。

LVMHのサポートでノンアルコールのプレミアムメゾンに

WWD:LVMHの出資比率は?初のノンアルコールブランドへの出資だが?

ルドルフ:30%。LVMHはノンアルコールという新しいカテゴリーに可能性を感じたのだと思う。また、「フレンチ・ブルーム」は、単なるシャンパンやワインの代替品を提供するのではなく、リムーのテロワールに根ざし、研究開発を行い独自の製造法(サヴォワフェール)を生み出した。一過性ではなく、長期的視野でメゾンとしての完璧さを求め歩んでいる点に関心を持ってもらえたのだと思う。

WWD:LVMHのパートナーシップに期待することは?

ルドルフ:新市場進出や市場拡大の大きな鍵になる。また、いかに、より良い商品を作るかというサヴォワフェールを深めるための研究開発も積極的にサポートしてもらえると思う。

WWD:今後のノンアルコール市場については?

ルドルフ:ノンアルコール市場は、もはやニッチではなくムーブメントとして捉えるべきだ。あらゆるカテゴリーにおいて、品質や経験を犠牲にしないラグジュアリーが求められる時代。「フレンチ・ブルーム」は、革新的な製造方法により、ノンアルコールでありながら高級ワインと同様に複雑なスパークリングワインを提供している。ノンアルコールのプレミアムブランドとして、味はもちろんのこと、ブランド体験両方を提供していきたい。

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創業以来毎年3倍成長を継続  LVMHが出資するノンアルコール「フレンチ・ブルーム」創業夫妻に聞くブランディング

PROFILE: 左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者

左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者
PROFILE: ロドルフは、フランス生まれ。シャンパーニュメゾン「テタンジェ」の創業者のひ孫。シャンパーニュ地方で育ち、兄弟のギョーム、リチャードと共にグランクリュとプルミエ・クリュのシャンパーニュ「フレールジャン・フレール」を手掛ける。また、1767年創業のコニャックメゾン「クタンソー・エネ」を復活させた。2019年に妻のマギーと立ち上げた「フレンチ・ブルーム」ではCEOとしてあらゆる製造技術とノウハウを注ぎ込んでいる。マギーは、ニューヨーク生まれ。「ミシュランガイド」でキャリアを積み、妊娠をきっかけに友人のスーパーモデルであるコンスタンス・ジャブロンスキーとフレンチ・ブルームを創業 PHOTO:SHUHEI SHINE

フランス発ノンアルコール・スパークリングワイン「フレンチ・ブルーム(FRENCH BLOOM)」から新作“エクストラ・ブリュット”が登場した。アルコール、糖質、亜硫酸塩はゼロで、わずか1カロリー。オーガニックのシャルドネを使用した酸味とミネラルが融合した複雑な味わいが特徴だ。新作発売を記念し、20周年を迎えた「マンダリン オリエンタル 東京(MANDARIN ORIENTAL TOKYO)」(以下、マンダリン)と協業で24日まで、同ホテルでペアリングコースやピクニックセットなどを提供。「マンダリン」の野坂昭彦ディレクターオブワインは、「ブドウの旨味が感じられ、自信を持って薦められるノンアルコールだ」とコメントしている。

「フレンチ・ブルーム」は2019年に「ミシュランガイド」出身のマギー・フレールジャン・テタンジェ創始者とシャンパン「テタンジェ(TAITTINGER)」の創設者のひ孫であるロドルフ・フレールジャン・テタンジェ最高責任者(CEO)が創業。創業のきっかけは、マギーの妊娠。市場に出回っているノンアルコールワインは糖度が高く食事には不向きだった。そこで、食事とペアリングできる「フレンチ・ブルーム」を考案し、シャンパン造りのノウハウと革新により試行錯誤を重ねて完成させた。その複雑な香りと味わいにより、一流ホテルやレストランが選ぶノンアルコールワイン。「フレンチ・ブルーム」は、昨年10月には、LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON以下、LVMH)が出資する初のノンアルコールのブランドになった。イベントのために来日した、テタンジェ夫妻に今後の戦略について聞いた。

フルコースにペアリングできるノンアルコール

WWD:新作“エクストラ・ブリュット(以下、ブリュット)”の特徴は?

ルドルフ・ フレールジャン・テタンジェ=フレンチ・ブルームCEO(以下、ルドルフ):脱アルコールの試行錯誤を重ね、ラングドック地方のリムーのブドウを採用している。このテロワールの土壌を感じさせる爽やかでミネラル感のある味わいだ。酸化を最小限に抑え、木樽で熟成。製造のレベルを引き上げたので、より複雑かつ余韻が感じられる。ドライで、酸味と塩味があり、食事とのペアリングにふさわしい。ホタテなどの魚介料理にぴったりで、子牛やラムなどのメインコースにも合うワインだ。

WWD:現在の商品のラインアップは?

マギー・ジャンフレール・テタンジェ フレンチ・ブルーム創始者(以下、マギー):4種類。“ル・ロゼ”ル・ブラン”“ラ・キュヴェ・ヴィンテージ2022(以下、ラ・キュヴェ)”に”ブリュット“が加わった。“ル・ブラン”は祝賀を含めた乾杯にふさわしく、“ル・ロゼ”はデザートに合う。“ブリュット”は食事に合うので、スパークリングだが、どちらかというとワイン的な存在、“ラ・キュヴェ”は、熟成した深みのある味わいが特徴。この4つのラインアップがあれば、フルコースにペアリングができる。

WWD:ターゲットと実際の購入層は?

マギー:当初、ターゲットは妊婦や健康的、宗教的理由から飲酒ができない人を想定していた。ところが実際の購入者の8割は、フレキシ・ドリンカー。全体の7割が女性で、年齢は20〜50代と幅広い。ノンアルコールであっても、ふくよかな味わいを求める層に選ばれている。“ラ・キュヴェ”は男性の割合が高く、ワインが好きなシャンパン愛飲家から支持されている。“ブリュット”はあらゆる人に好まれると思う。

ノンアルコール市場の広がりにより毎年3倍成長

WWD:現在何ヵ国で販売しているか?トップ3の市場は?

ルドルフ:50カ国以上。1位がフランス、2位がアメリカ、3位がイギリスと日本。日本はワインの愛好家が多く、大きなポテンシャルがある市場だ。

WWD:創業してからの売上高の推移は?

ルドルフ:創業以来、毎年3倍成長している。大きな要因は、飲酒に対する文化の変化が理由だ。世界中の消費者が節度ある飲酒をするようになり、味に妥協しない洗練されたノンアルコールドリンクの選択肢を求めるようになったのが大きい。また、ワイン同様の香り、味わいの深みを出すためにテロワールから製造までこだわり、高級ホテルやミシュラン星付きレストランなどで選ばれるようになった。ロンドンの「ハロッズ(HARRODS)」やパリの「ギャラリー・ラファイエット(GALERIES LAFAYETTE)」など高級百貨店でも販売されている。それにより、ブランドの魅力や信頼性が高まっている。

WWD:ブランドの認知度アップのために行っていることは?

マギー:パリ・ファッション・ウィークや音楽の祭典「ブリット・アワード(BRIT AWARDS)」、音楽フェスティバル「コーチェラ(COACHELLA)」などに参加している。このような活動を通して、ファッションやスポーツ、文化、ビジネスで影響のある人々とのコミュニティーを築いてきた。「マンダリン」といった素晴らしいパートーナーとのコラボレーションもその一環だ。

LVMHのサポートでノンアルコールのプレミアムメゾンに

WWD:LVMHの出資比率は?初のノンアルコールブランドへの出資だが?

ルドルフ:30%。LVMHはノンアルコールという新しいカテゴリーに可能性を感じたのだと思う。また、「フレンチ・ブルーム」は、単なるシャンパンやワインの代替品を提供するのではなく、リムーのテロワールに根ざし、研究開発を行い独自の製造法(サヴォワフェール)を生み出した。一過性ではなく、長期的視野でメゾンとしての完璧さを求め歩んでいる点に関心を持ってもらえたのだと思う。

WWD:LVMHのパートナーシップに期待することは?

ルドルフ:新市場進出や市場拡大の大きな鍵になる。また、いかに、より良い商品を作るかというサヴォワフェールを深めるための研究開発も積極的にサポートしてもらえると思う。

WWD:今後のノンアルコール市場については?

ルドルフ:ノンアルコール市場は、もはやニッチではなくムーブメントとして捉えるべきだ。あらゆるカテゴリーにおいて、品質や経験を犠牲にしないラグジュアリーが求められる時代。「フレンチ・ブルーム」は、革新的な製造方法により、ノンアルコールでありながら高級ワインと同様に複雑なスパークリングワインを提供している。ノンアルコールのプレミアムブランドとして、味はもちろんのこと、ブランド体験両方を提供していきたい。

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【ARISAK Labo vol.4】今夏でデビュー2周年 KID PHENOMENONが目指すもの

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.4となる今回は、2023年8月にデビューした注目の若手グループKID PHENOMENON(キッド フェノメノン)から、夫松健介(以下、KENSUKE)、遠藤翼空(以下、TSUBASA)、山本光汰(以下、KOTA)の3人が登場。1月にファーストアルバムをリリースし、夏にはLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を控える彼らの前進し続ける姿を、ARISAKが自身のフィルターを通じて表現した。

“A new adventure begins!”
KID PHENOMENONが目指すもの

「昨年ファーストアルバムを出し、この夏にツアーに行く彼らにとって、今はまさにどんどん前進していくようなタイミング。彼らのアルバム『PHENOMENON』に収録された前向きな楽曲にインスピレーションを受け、これから冒険に向かう彼らをイメージして撮影しました。撮影の裏設定として、KENSUKE君はエレガント勇者、TSUBASA君は魔法使い、KOTA君は剣士みたいな設定。架空のゲームの世界に迷い込んだ彼らが、最終的に桜舞い散る目的地にたどり着く、というようなストーリーです」。

By ARISAK

PROFILE: KID PHENOMENON

KID PHENOMENON
PROFILE: 7人組ボーカル&ダンスグループとして2023年8月に結成。楽曲"Party Over There""Unstoppable"は共にYouTube再生回数400万回を突破。1月にファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースし、今夏国内10都市を巡るLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を実施。左からKOTA、TSUBASA、KENSUKE

Inside stories of
KID PHENOMENON × ARISAK

WWD:ARISAKとの出会いと、今回の撮影の感想は?

遠藤翼空(以下、TSUBASA):昨年の秋ごろ、僕が偶然行ったイベント会場でARISAKさんを紹介していただいて。以前から作品を見ていたし、いつか撮影してもらいたいなと思っていたので、その場でたくさんお話をさせていただきうれしかったのを覚えています! 未来っぽいムードを感じるARISAKさんの写真は、僕達KID PHENOMENONらしさをより際立たせてくれるんじゃないかと思い、撮影前日は楽しみすぎて眠れないほどでした(笑)。ずっとARISAKさんの作品を見てきたので、大袈裟かもしれないですけど、夢の一つがかなったような気分です。僕達のリクエストをたくさん取り入れてくれて、アーティスト側の意見を反映しながら作ってくれる、リスペクトがあるクリエイターさんなんだと改めて尊敬しました。

山本光汰(以下、KOTA):撮影前に、ARISAKさんとディスカッションする時間を設けてもらい、今の自分達の状態やどんなことをやっていきたいかを伝え合うことができたので、ただ撮ってもらうのではなく一緒に作り上げるような感覚が得られたのがうれしかったです。こういった撮影が初めてだったので新鮮でしたし、僕達自身の新たな可能性を感じられた時間でした。

夫松健介(以下、KENSUKE):今回、衣装やネイルなど、本当に自分がやってみたかったようなことを全てやらせていただけて、本当に楽しかったです。僕自身、奇抜なスタイルが好きなのですが、グループとして全体のバランスを考えた時にあまり自分が思うような理想をかなえられないことが多くて。「数年後にはプライベートでもツノをつけても良いかも」と思いました(笑)。

WWD:ARISAKから見たKID PHENOMENONの印象は?

ARISAK:TSUBASA君に会った後に作品を見せもらい、「自分がずっと見たいと思っていたアーティストに出会えた」と衝撃を受けました。MVでメンバー全員が「ウィンドウセン(WINDOWSEN)」を着ていたりなど、衣装も結構攻めていて、本当にかっこいい。「なんで今まで知らなかったんだろう」と思うほどでした。

今回の撮影でさらに彼らの魅力を知ることができたと思います。KENSUKE君の大胆なメイクやスタイリングもモノにできるカリスマ性や、少ない指示の中でこちらの意図を汲み取り自ら色々な提案をしてくれるTSUBASA君のスマートさ、どの角度で撮影しても必ず絵になるKOTA君の美しさ。みんなそれぞれ違う魅力を持っていて、もっと違う姿も見てみたいと思うようなグループです。今回の撮影に至るまで、彼らから何回も「撮ってもらいたいです」と言ってもらえて、その意欲的な姿勢に私もエンジンがかかり、自らマネージメントに相談に伺いました。

WWD:2023年のメジャーデビューからそろそろ2年が経つが、グループ結成当時と今を比較し感じる変化とは?

TSUBASA:自分の中の軸がしっかりしてきたと思うし、物事に対する解像度がすごく上がって、活動に対しての向き合い方も変わりました。当時と比べて考え方がかなり変わって、目標までの道筋を立てられるようになったことが、自分にとって一番大きな変化だと思います。

KOTA:僕の場合は、何より“人間力”です。デビューしてから自分達で色々なものを作って、何かを形にするという時間がたくさんありました。みんなで話し合って1つのものを作り上げていく経験から、自分1人では気づくことができなかったことにたくさん気づけたと思います。この2年半は7人みんなで切磋琢磨した実感があるし、グループとしての団結力が強まったんじゃないかな。

KENSUKE:僕はリーダーとしての自覚が強くなったと思います。「どうやってみんなと関わればいいのか」「どうすればグループのためになるのか」など、リーダーとして色々なことを考えるようになります。そしてビジュアルもかなり変わった。デビューするタイミングで体を絞って、そこから体作りについて色々勉強して試行錯誤しました。今では目標の体型に対してどのくらいの時間が必要で、どんなことをしなければいけないかとわかるようになりました。

WWD:ファッション感度が高い3人。それぞれ、今気になっているブランドは?

KENSUKE:最近はジェンダーレスっぽいファッションにもっと挑戦したくて、僕が好きなラッパーのエイサップ・ロッキーも着ていた「チョポヴァ・ロウェナ(CHOPOVA LOWENA)」というブランドが気になっています。1枚持っていたらいいアクセントとしてコーデが充実しそう。

KOTA:「マハタマ(MAHATAMA)」というタイのブランドで、日本には店舗がないんです。商品は全てリメイク品なので一点ものばかりで、なかなか見つからずずっと探していた時に、たまたま入った古着屋で見つけることができました。

TASUBASA:個性的なアイテムがたくさんある「エスプリ・デスカリエ(ESPRIT D’ESCALIER)」。一昔前のラフ・シモンズっぽさを感じさせながらも、かわいらしさを感じる組み合わせが気に入っています。

WWD:ファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースして感じた手応えと今後の目標は?

KENSUKE:昔はイベントに出演するにも、自分達が持っている曲が少なすぎて頭を悩ませることが多かったんですが、今ではアルバムを出せるほどに曲数が増えていることに感動しています。特に"Party Over There"と"Unstoppable"は、MVの世界観も含めて「やっとKID PHENOMENONが出来上がってきた」と思える大切な2曲なので、アルバムのどこにこの曲を置くかが一番悩みましたね。メンバーとたくさん考える中で、「曲の流れよりもメッセージを大事にしよう」と決めて曲順を決めました。自分達がオーディションを受けてきた中のストーリーを表現していて、それが今何かに向かって頑張ってる方が夢を叶えるまでのストーリーになったらいいなって思います。そして僕達のグループ名にある“PHENOMENON”には、世の中に現象を起こしたいという意味が込められています。時代の流行を作っていくようなグループになりたいです。

WWD:最後に、今夏控えるLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~についてコメントを!

KENSUKE:今回のツアーは各地のライブハウスで行うもので、僕達のパフォーマンスを近くで見て感じてもらえると思います。ツアー名“D7SCOVER”のロゴにもこだわり、最初は“目”を描こうとも考えていたのですが、将来どんなふうにでも変わっていく“細胞”を描いて僕達らしさを表現しました。今回はライブ&ファンミーティングということもあり、自分達主導で色々なアイデアを出し合い、思っているものを全て詰め込んでいます。演出メインより音楽メインのライブを目指して、とにかく音を楽しめるようにこだわりました。僕達のことを知らない人もきっと楽しめるはず。皆さんに会えるのを楽しみにしています!

◼︎KID PHENOMENON LIVE & FAN MEETING TOUR 2025
日程:7月4日〜8月23日
場所:福岡、新潟、兵庫、三重、東京、岩手、千葉、大阪、静岡、福島
※詳細は公式サイトにて

CREDIT
LOOK1[KENSUKE]ジャケット9万6800円、シャツ1万5400円/ディゼムバイシーク(info@disembysiik.biz)、スカート6万
6000円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、パンツ4万1800円/ドレスアンドレスド(https://dressedundressed.com/)、その他 スタイリスト私物[KOTA]トップス7万9200円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]ジャケット22万円、シャツ7万3700円、パンツ5万5000円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、その他 スタイリスト私物

LOOK2[KENSUKE] トップス3万4100円/ディゼム バイ シーク(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 デニム19万8000円、リュック(参考商品)/以上リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[TSUBASA] シャツ6万8500円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、パンツ5万3900円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、イヤリング6万3000円、リング[右手人差し指]3万1000円/以上、カレワラ(kalevalashop.jp)、シューズ6万3800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[KOTA]フーディ6万500円、デニム6万1600円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、イヤリング[右耳]3万8500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、アームピース/ショーコニシ(https://www.shokonishi-official.com)、その他 スタイリスト私物
LOOK3[KENSUKE]ジャケット7万1500円/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ジャケット13万5300円、パンツ4万1800円/以上、ドレスドアンドレスド( https://dressedundressed.com/) 、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、右耳のイヤリング4万9500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、胸につけたメタルパーツ1500円、ショルダーピース2万790円/以上、レポ トキヨ(lepus-official.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]シアートップス3万2450円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、シーチングトップス(参考商品)/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、 パンツ6万4800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 イヤリング3万3000円/リョウ トミナガ、 ネイルチップ3万8500円/リュウール バイ マユオー(以上すべてザナドゥ トウキョウ 03-6459-2826)、スニーカー5万2800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、その他 スタイリスト私物[KOTA] ジャケット7万5800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 肩からかけたベルト1万3900円/デシグアル(デシグアルストア 銀座中央通り店https://www.desigual.com/)、 ジャケットにつけたチェーンネックレス22万円、リング[左手人差し指]2万5300円、[左手中指]3万800円、[左手薬指]2万7500円、[左手小指]3万1900円、ダブルリング[左手薬指と中指]2万6950円/以上、ヨシコ クリエイション(ピーアールワントーキョーhttps://www.yoshikocreation.com/)、ネックレス5万7200円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 その他 スタイリスト私物


DIRECITON & PHOTOS:ARISAK
MODEL:KENSUKE SOREMATSU, TSUBASA ENDO, KOTA YAMAMOTO
STYLING:CHIE NINOMIYA
HAIR:NOBUKIYO
MAKEUP:JUNA UEHARA
LIGHTING DIRECTION:SOTA SUGIYAMA
3DCG:HIROKIHISAJIMA
POSE DIRECTION:MACOTO(RHT.)

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【ARISAK Labo vol.4】今夏でデビュー2周年 KID PHENOMENONが目指すもの

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.4となる今回は、2023年8月にデビューした注目の若手グループKID PHENOMENON(キッド フェノメノン)から、夫松健介(以下、KENSUKE)、遠藤翼空(以下、TSUBASA)、山本光汰(以下、KOTA)の3人が登場。1月にファーストアルバムをリリースし、夏にはLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を控える彼らの前進し続ける姿を、ARISAKが自身のフィルターを通じて表現した。

“A new adventure begins!”
KID PHENOMENONが目指すもの

「昨年ファーストアルバムを出し、この夏にツアーに行く彼らにとって、今はまさにどんどん前進していくようなタイミング。彼らのアルバム『PHENOMENON』に収録された前向きな楽曲にインスピレーションを受け、これから冒険に向かう彼らをイメージして撮影しました。撮影の裏設定として、KENSUKE君はエレガント勇者、TSUBASA君は魔法使い、KOTA君は剣士みたいな設定。架空のゲームの世界に迷い込んだ彼らが、最終的に桜舞い散る目的地にたどり着く、というようなストーリーです」。

By ARISAK

PROFILE: KID PHENOMENON

KID PHENOMENON
PROFILE: 7人組ボーカル&ダンスグループとして2023年8月に結成。楽曲"Party Over There""Unstoppable"は共にYouTube再生回数400万回を突破。1月にファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースし、今夏国内10都市を巡るLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を実施。左からKOTA、TSUBASA、KENSUKE

Inside stories of
KID PHENOMENON × ARISAK

WWD:ARISAKとの出会いと、今回の撮影の感想は?

遠藤翼空(以下、TSUBASA):昨年の秋ごろ、僕が偶然行ったイベント会場でARISAKさんを紹介していただいて。以前から作品を見ていたし、いつか撮影してもらいたいなと思っていたので、その場でたくさんお話をさせていただきうれしかったのを覚えています! 未来っぽいムードを感じるARISAKさんの写真は、僕達KID PHENOMENONらしさをより際立たせてくれるんじゃないかと思い、撮影前日は楽しみすぎて眠れないほどでした(笑)。ずっとARISAKさんの作品を見てきたので、大袈裟かもしれないですけど、夢の一つがかなったような気分です。僕達のリクエストをたくさん取り入れてくれて、アーティスト側の意見を反映しながら作ってくれる、リスペクトがあるクリエイターさんなんだと改めて尊敬しました。

山本光汰(以下、KOTA):撮影前に、ARISAKさんとディスカッションする時間を設けてもらい、今の自分達の状態やどんなことをやっていきたいかを伝え合うことができたので、ただ撮ってもらうのではなく一緒に作り上げるような感覚が得られたのがうれしかったです。こういった撮影が初めてだったので新鮮でしたし、僕達自身の新たな可能性を感じられた時間でした。

夫松健介(以下、KENSUKE):今回、衣装やネイルなど、本当に自分がやってみたかったようなことを全てやらせていただけて、本当に楽しかったです。僕自身、奇抜なスタイルが好きなのですが、グループとして全体のバランスを考えた時にあまり自分が思うような理想をかなえられないことが多くて。「数年後にはプライベートでもツノをつけても良いかも」と思いました(笑)。

WWD:ARISAKから見たKID PHENOMENONの印象は?

ARISAK:TSUBASA君に会った後に作品を見せもらい、「自分がずっと見たいと思っていたアーティストに出会えた」と衝撃を受けました。MVでメンバー全員が「ウィンドウセン(WINDOWSEN)」を着ていたりなど、衣装も結構攻めていて、本当にかっこいい。「なんで今まで知らなかったんだろう」と思うほどでした。

今回の撮影でさらに彼らの魅力を知ることができたと思います。KENSUKE君の大胆なメイクやスタイリングもモノにできるカリスマ性や、少ない指示の中でこちらの意図を汲み取り自ら色々な提案をしてくれるTSUBASA君のスマートさ、どの角度で撮影しても必ず絵になるKOTA君の美しさ。みんなそれぞれ違う魅力を持っていて、もっと違う姿も見てみたいと思うようなグループです。今回の撮影に至るまで、彼らから何回も「撮ってもらいたいです」と言ってもらえて、その意欲的な姿勢に私もエンジンがかかり、自らマネージメントに相談に伺いました。

WWD:2023年のメジャーデビューからそろそろ2年が経つが、グループ結成当時と今を比較し感じる変化とは?

TSUBASA:自分の中の軸がしっかりしてきたと思うし、物事に対する解像度がすごく上がって、活動に対しての向き合い方も変わりました。当時と比べて考え方がかなり変わって、目標までの道筋を立てられるようになったことが、自分にとって一番大きな変化だと思います。

KOTA:僕の場合は、何より“人間力”です。デビューしてから自分達で色々なものを作って、何かを形にするという時間がたくさんありました。みんなで話し合って1つのものを作り上げていく経験から、自分1人では気づくことができなかったことにたくさん気づけたと思います。この2年半は7人みんなで切磋琢磨した実感があるし、グループとしての団結力が強まったんじゃないかな。

KENSUKE:僕はリーダーとしての自覚が強くなったと思います。「どうやってみんなと関わればいいのか」「どうすればグループのためになるのか」など、リーダーとして色々なことを考えるようになります。そしてビジュアルもかなり変わった。デビューするタイミングで体を絞って、そこから体作りについて色々勉強して試行錯誤しました。今では目標の体型に対してどのくらいの時間が必要で、どんなことをしなければいけないかとわかるようになりました。

WWD:ファッション感度が高い3人。それぞれ、今気になっているブランドは?

KENSUKE:最近はジェンダーレスっぽいファッションにもっと挑戦したくて、僕が好きなラッパーのエイサップ・ロッキーも着ていた「チョポヴァ・ロウェナ(CHOPOVA LOWENA)」というブランドが気になっています。1枚持っていたらいいアクセントとしてコーデが充実しそう。

KOTA:「マハタマ(MAHATAMA)」というタイのブランドで、日本には店舗がないんです。商品は全てリメイク品なので一点ものばかりで、なかなか見つからずずっと探していた時に、たまたま入った古着屋で見つけることができました。

TASUBASA:個性的なアイテムがたくさんある「エスプリ・デスカリエ(ESPRIT D’ESCALIER)」。一昔前のラフ・シモンズっぽさを感じさせながらも、かわいらしさを感じる組み合わせが気に入っています。

WWD:ファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースして感じた手応えと今後の目標は?

KENSUKE:昔はイベントに出演するにも、自分達が持っている曲が少なすぎて頭を悩ませることが多かったんですが、今ではアルバムを出せるほどに曲数が増えていることに感動しています。特に"Party Over There"と"Unstoppable"は、MVの世界観も含めて「やっとKID PHENOMENONが出来上がってきた」と思える大切な2曲なので、アルバムのどこにこの曲を置くかが一番悩みましたね。メンバーとたくさん考える中で、「曲の流れよりもメッセージを大事にしよう」と決めて曲順を決めました。自分達がオーディションを受けてきた中のストーリーを表現していて、それが今何かに向かって頑張ってる方が夢を叶えるまでのストーリーになったらいいなって思います。そして僕達のグループ名にある“PHENOMENON”には、世の中に現象を起こしたいという意味が込められています。時代の流行を作っていくようなグループになりたいです。

WWD:最後に、今夏控えるLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~についてコメントを!

KENSUKE:今回のツアーは各地のライブハウスで行うもので、僕達のパフォーマンスを近くで見て感じてもらえると思います。ツアー名“D7SCOVER”のロゴにもこだわり、最初は“目”を描こうとも考えていたのですが、将来どんなふうにでも変わっていく“細胞”を描いて僕達らしさを表現しました。今回はライブ&ファンミーティングということもあり、自分達主導で色々なアイデアを出し合い、思っているものを全て詰め込んでいます。演出メインより音楽メインのライブを目指して、とにかく音を楽しめるようにこだわりました。僕達のことを知らない人もきっと楽しめるはず。皆さんに会えるのを楽しみにしています!

◼︎KID PHENOMENON LIVE & FAN MEETING TOUR 2025
日程:7月4日〜8月23日
場所:福岡、新潟、兵庫、三重、東京、岩手、千葉、大阪、静岡、福島
※詳細は公式サイトにて

CREDIT
LOOK1[KENSUKE]ジャケット9万6800円、シャツ1万5400円/ディゼムバイシーク(info@disembysiik.biz)、スカート6万
6000円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、パンツ4万1800円/ドレスアンドレスド(https://dressedundressed.com/)、その他 スタイリスト私物[KOTA]トップス7万9200円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]ジャケット22万円、シャツ7万3700円、パンツ5万5000円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、その他 スタイリスト私物

LOOK2[KENSUKE] トップス3万4100円/ディゼム バイ シーク(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 デニム19万8000円、リュック(参考商品)/以上リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[TSUBASA] シャツ6万8500円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、パンツ5万3900円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、イヤリング6万3000円、リング[右手人差し指]3万1000円/以上、カレワラ(kalevalashop.jp)、シューズ6万3800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[KOTA]フーディ6万500円、デニム6万1600円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、イヤリング[右耳]3万8500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、アームピース/ショーコニシ(https://www.shokonishi-official.com)、その他 スタイリスト私物
LOOK3[KENSUKE]ジャケット7万1500円/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ジャケット13万5300円、パンツ4万1800円/以上、ドレスドアンドレスド( https://dressedundressed.com/) 、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、右耳のイヤリング4万9500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、胸につけたメタルパーツ1500円、ショルダーピース2万790円/以上、レポ トキヨ(lepus-official.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]シアートップス3万2450円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、シーチングトップス(参考商品)/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、 パンツ6万4800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 イヤリング3万3000円/リョウ トミナガ、 ネイルチップ3万8500円/リュウール バイ マユオー(以上すべてザナドゥ トウキョウ 03-6459-2826)、スニーカー5万2800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、その他 スタイリスト私物[KOTA] ジャケット7万5800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 肩からかけたベルト1万3900円/デシグアル(デシグアルストア 銀座中央通り店https://www.desigual.com/)、 ジャケットにつけたチェーンネックレス22万円、リング[左手人差し指]2万5300円、[左手中指]3万800円、[左手薬指]2万7500円、[左手小指]3万1900円、ダブルリング[左手薬指と中指]2万6950円/以上、ヨシコ クリエイション(ピーアールワントーキョーhttps://www.yoshikocreation.com/)、ネックレス5万7200円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 その他 スタイリスト私物


DIRECITON & PHOTOS:ARISAK
MODEL:KENSUKE SOREMATSU, TSUBASA ENDO, KOTA YAMAMOTO
STYLING:CHIE NINOMIYA
HAIR:NOBUKIYO
MAKEUP:JUNA UEHARA
LIGHTING DIRECTION:SOTA SUGIYAMA
3DCG:HIROKIHISAJIMA
POSE DIRECTION:MACOTO(RHT.)

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注目の俳優・髙石あかり、初の単独主演作「ゴーストキラー」で得た自信

PROFILE: 髙石あかり/俳優

PROFILE: (たかいし・あかり) 2002年12月19日生まれ、宮崎県出身。19年に俳優活動を本格化。21年の映画初主演作「ベイビーわるきゅーれ」が大ヒット。23年には第15回TAMA映画賞最優秀新進女優賞を受賞。 主な出演作に、映画「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ、「新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる!」「私にふさわしいホテル」「遺書、公開。」、ドラマ「御上先生」「アポロの歌」など。 アニメ映画「たべっ子どうぶつ THE MOVIE」(5月1日公開)や「夏の砂の上」(7月4日公開)にも出演予定。今秋放送予定のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」ではヒロインを務めることが決定している。

俳優・髙石あかりが主演を務めるアクション映画「ゴーストキラー」が4月11日に公開される。同作の監督を務めるのは「ベイビーわるきゅーれ」シリーズなどの作品でアクション監督として活躍し、「HYDRA」(2019)で監督業にも進出した園村健介で、脚本は「ベイビーわるきゅーれ」シリーズで監督を手掛けた阪元裕吾が担当する。

ストーリーは、日々に鬱憤を抱える大学生のふみかに元殺し屋・工藤の幽霊が取り憑き、最初は反発し合っていた2人だったが、少しずつ心を開き始めたふみかは、工藤の成仏のために協力することになるが……。

主人公のふみかを演じる髙石は、「ベイビーわるきゅーれ」で脚光を浴び、近年は「私にふさわしいホテル」(24)や「遺書、公開。」(25)など話題作に次々出演するほか、今秋放送のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインの座を獲得するなど、今最も注目を集める俳優だ。また相棒となる元殺し屋の幽霊・工藤を演じるのは、アクションを得意とし、「HYDRA」で主演を務め高く評価された三元雅芸。本作では髙石と三元がシンクロするようなアクションを披露する。

意外なことに本作が初の映画単独主演作だという髙石に、「ゴーストキラー」の魅力やお気に入りのアクション、大好きだと語る芝居の魅力について語ってもらった。

「ベビわる」とどう差別化するか

——まずは「ゴーストキラー」のオファーがどのような経緯で来たか教えてもらえますか?

髙石あかり(以下、髙石):「ベイビーわるきゅーれ」(以下、「ベビわる」)や他の作品でもお世話になっているプロデューサーからお話を頂いたのが最初でした。その方が次はどんな作品を手掛けるのかすごく楽しみでしたし、その後に監督が園村さんだと聞いてますます期待が膨らみました。それまでアクション監督としての園村さんしか知らなかったので、今作ではどんなお芝居ができるんだろうと撮影前からワクワクしていました。

——阪元裕吾さんの脚本を初めて読んだとき、どのように感じられましたか?

髙石:これがどう映像化されるんだろうという疑問と、これはものすごい作品が生まれるなという確信を同時に抱きました。園村さんが監督で、三元さんが工藤を演じられる時点でアクションは確約されているとは思いましたが、そこに自分のお芝居やアクションがどう説得力を持って付いていけるかという不安もありました。

——本作で髙石さんが演じるふみかは暴力を目の当たりにすると恐怖で泣いてしまうし、殴ると痛みに悶えるしで、とてもリアルな感覚の持ち主ですよね。「ベビわる」を観ていただけにそれが新鮮に映りましたが、どのようにふみかという人物を作り上げていったんでしょうか?

髙石:阪元さんは「ベビわる」の杉本ちさとを当て書きに近い形で作り上げてくれて、私がお芝居で表現する喜怒哀楽もすごく近くで見て知ってくれている方。その土台の上で生まれたであろう今作のふみかもちさとに近しい部分はあるんですが、そこをどう別の人間として見てもらえるかは試行錯誤しました。どうしても「『ベビわる』製作陣が送る……」と謳われる作品だと思うので、私だけじゃなく園村監督やプロデューサーも「ベビわる」とどう差別化するかということは常に意識して話し合いながら進めていきました。

——まったく新しい主人公像だと感じましたが、皆さんの努力の賜物だったんですね。親近感のあるふみかというキャラクターには髙石さんも共感する部分があったのでは?

髙石:共感というより、格好良いなと思う部分が多かったです。襲われることや暴力に対する恐怖がある中で、一歩踏み出していくって相当な覚悟や勇気が必要じゃないですか。それを持っているふみかは自分とは違うし、だからこそすごく格好良くて魅力的な人物だと感じました。

芝居での「聞く力」

——ふみかと(取り憑いた)工藤というまったく違うキャラクターを自分の中につくり、一つのシーンで切り替えて演じるのは相当大変だったかと思います。

髙石:今までだと相手の台詞を聞いて、それを受けて演じるキャラクターはどう感じ、何をするかというやりとりを通して演技やシーンの流れを組み立てていたんです。お芝居では相手の台詞を「聞く力」ってすごく大切だと思っているので。でも今回は対相手のお芝居を自分一人でやらないといけない。例えばふみかと工藤が会話するシーンでは切り替える時間がほんの一瞬しかありませんが、ふみかが喋った後にふみかとしての余韻を持たせすぎると会話っぽさがなくなってしまいます。だからその切り替えと二つの役の見せ方は自分なりにかなり繊細に組み立てていきました。それがこの作品の肝になると思ったので。

——お芝居において「聞く力」が大事だというのはよく聞きますね。

髙石:話をすると相手がどういう気持ちで何を考えているのかってなんとなく感じとれますし、それを受けてこちらもお話ししますよね。お芝居においてもきちんと相手の話を聞いて、そこから生まれた感情を出すことは大切だなと思います。今回はその「聞く力」を自分の台詞に対して使いましたが。

アクションシーンの見どころ

——今まではアクション監督として関わってきた園村さんがメガホンをとる姿を見て、新たに発見したり驚いた面はありましたか?

髙石:むしろあまり変わらないことに驚きました。アクション監督としての園村さんには常に優しさがベースにありましたが、監督として接した今回もその点ではまったく同じで。でも監督のチャーミングな部分は今回一層知れたかなと思います。

——演技のスイッチだけでなくアクションもこなしていて本当にお見事でした。演技面では監督からどのようなディレクションがあったんですか?

髙石:杉本ちさとと明確に差別化したいということで、本読みの段階から喋り方のトーンやテンポなど何度も何度も調整しました。でも撮影に入ってからはそのことをあまり考えず、自然にふみかという人物でいられたんじゃないかなと思います。

——大迫力かつ斬新なアクションが見所ですよね。髙石さんと三元さんがカットの度に入れ替わる格闘シーンはものすごく面白かったです。

髙石:あの入れ替わり方は園村さんの案なんです。柱とかで一瞬私の姿が見えなくなった瞬間に三元さんに変わったり。もちろん現場ではカットがかかっているんですが、映像で観たときに、こんなのどうやって思いついたんだろうって驚きました。

——ふみかの中にいる工藤が闘っているということで、男性の動きや仕草はアクションの中でも意識したのでしょうか?

髙石:三元さんのようなアクションはできるわけがないと思いつつ、少しでも寄せられるようには意識しました。とはいえ自分のアクションに精一杯で、それができていたかは分かりませんが。ちなみに闘う時の手の握り方は三元さんに教えてもらいました。

——トンネルでのローキックが素晴らしいですよね。身体の使い方が変わったことが、あのシーンだけで見事に表現されていて。

髙石:うれしい! 実は阪元さんも「あの蹴りはすごい」って褒めてくれたんですよ。ただ監督から教えてもらった通りにやっただけなので、私としては他のアクションシーンと比べてもそこまで意識はしていないんです。だから阪元さんにそのシーンが好きと言われたときも「そこなんだ!」と思いましたが、そう言ってもらえてうれしかったです。

——髙石さんが気に入っているアクションシーンはどこですか?

髙石:ふみかと工藤が激しく入れ替わりながら闘うシーンは大好きです。あとバーのシーンで連打して殴るシーンも楽しかったです。台本には何発殴るとかじゃなくただ“連打”って書かれていたので好き勝手やらせてもらいました(笑)。

——アクション撮影時のケア体制はいかがでしたか?

髙石:もともとアクション監督ということもあり、園村さんは常に身体的・精神的なケアをしてくれましたし、俳優陣ともしっかりコミュニケーションを取られていてとても安心できる現場でした。どうしても撮影中は体力も使うし大変でしたが、いろいろと監督にサポートしていただき本当にありがたかったです。

初の単独主演映画への想い

——「ベビわる」では敵として登場した三元さんが相棒になるのが面白いですよね。改めて三元さんと共演されていかがでしたか?

髙石:とにかくすごく優しい方なんです。工藤には渋さや深みと同時に純粋さや優しさ、かわいらしさもありますが、それは三元さんが本来持っているもの。役にそれが滲み出ているからこそ、私は工藤というキャラクターが好きなんです。私が工藤を演じるシーンでは、既に自分のシーンを終えた三元さんが自主的に現場に残って工藤の台詞を再現してくれたり、撮影期間中は三元さんの真っ直ぐで優しい部分にすごく救われました。

——今回が初の単独主演映画だというのは意外でした。これまでと感じ方の違いはありましたか?

髙石:撮影期間中は誰が何かを背負うでもなく、全員がまっすぐ熱量をかけてつくり上げたので特に意識はしていませんでした。ただ試写を観る2、3日前から急に“主演”という言葉の重みに怖くなりまして……。これまでプレッシャーという言葉にそれほどピンときていなかったんですが、今回少し分かった気がしました。ただ試写を観たらそんなことどうでもよくなるくらい面白くって「なんだこの作品は」と思いながらずっと笑ってました。自分が「この作品は面白い」って思えることが何よりうれしかったですし、観た後に監督が放った「すごく自信があります」って言葉にもすごく救われました。だから今は早く皆さんにお届けしたいなと思っています。

——そんな自信作ですが、改めて髙石さんの思うおすすめポイントを教えてもらえますか?

髙石:ふみかが感じる日々のモヤモヤや鬱憤って、きっと共感できる部分がたくさんあると思うんです。だからふみかと自分と重ねて観ることで、嫌なことをたくさん発散できる作品になったんじゃないかなと。ぜひ気軽に映画館へ足を運んでいただけるとうれしいです!

俳優としての成長

——映画「遺書、公開。」にドラマ「三上先生」、「アポロの歌」と最近だけでも話題作に次々出演され、2025年ネクストブレイクランキングの女性俳優部門で第一位を獲得するなど大活躍中ですが、ここ1年間で仕事の環境は大きく変わったのでは?

髙石:去年は本当に濃密な1年で、撮った作品を挙げるだけで色が濃すぎてチカチカしそうなぐらいです。そういう作品に出会えたことはすごくありがたいと思いますし、どの作品からもいろんなことを学んで吸収させてもらいました。そこから少しずつ俳優としても広がっている感じが自分の中であるので、今後また新たな作品で広げていって……という感じにもっと貪欲にいろんな役をやってみたいと思います。

——いろんな作品に参加する中で、日々複数の役を演じ分けているのは本当にすごいですよね。役に入って、また別の現場では違う役をしてという切り替えは大変なように思えるんですが、そこはどのように気持ちを切り替えているんでしょうか?

髙石:とにかくカットがかかったらちゃんと自分に戻ってくるということはすごく意識しています。自分の中に役を残さないというか、ちゃんと自分と役の間に距離を置く。もちろんあまり遠すぎるのもよくないので、演じている間以外は適度な距離を保つようにしています。そういうオフになる時間があるからこそ、スタートの合図がかかったときには大きなバネになってより高いところへ行ける気がするんです。撮影時間以外しっかりオフにすれば、毎回気持ちを切り替えられますし。

——髙石さんはインタビューで常々「お芝居が大好き」と仰られていますよね。それが演技にも表れていてすごく素敵だなと感じていますが、その気持ちは大忙しな今も変わらずですか?

髙石:この間は「アポロの歌」の二宮健監督に、「前より一層演技が好きになっているよね」って言われたんです。自分ではそういう実感はなくただずっと好きだったつもりでいたんですが、他の人からそう見えているのがすごくうれしかったです。

——きっと現場ではすごく楽しそうにお芝居をやっているんでしょうね。お芝居のどういった部分にそれほど惹かれるんでしょうか?

髙石:説明できない何かには絶対惹かれていて…。私がお芝居をしていて特にワクワクするのが、感覚的に相手の役者さんと目が合う瞬間。それはただ単に目と目を合わせるだけじゃなく、この人は「聞く力」で私の台詞を聞いてくれているな、私のお芝居が伝わっているなというのが目でわかるんです。それが相手と互いにできている瞬間はすごく楽しいです。

——昨年には連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインに抜擢という大ニュースもありましたが、周りからの反響もすごかったのでは?

髙石:想像の何百倍、何千倍も大きかったです。「こんなにか」と驚きっぱなしでしたし、これから何が起こるかも未知数なのでワクワクしています。

——朝ドラのヒロインが子どもの頃からの夢だったとも語っていましたよね。朝ドラにどのような印象を持たれていたんですか?

髙石:主人公が夢に向かって進むなかで、いろんな苦悩や挫折があって。でもその苦悩や挫折も前向きに捉えて進んでくれるから、観ている私たちもつらいことや苦しいことをポジティブに変えていけるんだって思わせてくれる。そんな作品が多い印象です。だからこそ、その一員になれることがすごく嬉しいです。

——ここ最近だけでもいろんな方と共演されていますが、中でも刺激を受けた方はいましたか?

髙石:映画「夏の砂の上」(7月公開予定)で共演した松たか子さんです。先ほどお話した目のやり取りをしたときにビリビリ感じるものがあって。なんていうか……目があった瞬間、「お芝居を受け取っているよ!」という感覚がダイレクトに伝わってきたんです。とても優しい方でしたし、本当にお芝居がすごすぎて驚きました。とにかく最高でした!

——では最後に、今後トライしてみたい役や演技があれば教えてください。

髙石:私は人間味がある役がすごく好きなんです。不器用だったり、他の人からよく思われてなくても、そこで必死にもがいているキャラクターに惹かれるといいますか。だから今後は、広義的な意味でどこか欠けている役柄に挑戦してみたいなと思っています。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:KENSHI KANEDA
HAIR&MAKEUP:AYA SUMIMOTO

映画「ゴーストキラー」

■「ゴーストキラー」
4月11日公開
出演:髙石あかり
黒羽麻璃/三元雅芸
監督・アクション監督:園村健介
脚本:阪元裕吾
2024年製作/日本
配給:ライツキューブ
©2024「ゴーストキラー」製作委員会
https://ghost-killer.com

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注目の俳優・髙石あかり、初の単独主演作「ゴーストキラー」で得た自信

PROFILE: 髙石あかり/俳優

PROFILE: (たかいし・あかり) 2002年12月19日生まれ、宮崎県出身。19年に俳優活動を本格化。21年の映画初主演作「ベイビーわるきゅーれ」が大ヒット。23年には第15回TAMA映画賞最優秀新進女優賞を受賞。 主な出演作に、映画「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ、「新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる!」「私にふさわしいホテル」「遺書、公開。」、ドラマ「御上先生」「アポロの歌」など。 アニメ映画「たべっ子どうぶつ THE MOVIE」(5月1日公開)や「夏の砂の上」(7月4日公開)にも出演予定。今秋放送予定のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」ではヒロインを務めることが決定している。

俳優・髙石あかりが主演を務めるアクション映画「ゴーストキラー」が4月11日に公開される。同作の監督を務めるのは「ベイビーわるきゅーれ」シリーズなどの作品でアクション監督として活躍し、「HYDRA」(2019)で監督業にも進出した園村健介で、脚本は「ベイビーわるきゅーれ」シリーズで監督を手掛けた阪元裕吾が担当する。

ストーリーは、日々に鬱憤を抱える大学生のふみかに元殺し屋・工藤の幽霊が取り憑き、最初は反発し合っていた2人だったが、少しずつ心を開き始めたふみかは、工藤の成仏のために協力することになるが……。

主人公のふみかを演じる髙石は、「ベイビーわるきゅーれ」で脚光を浴び、近年は「私にふさわしいホテル」(24)や「遺書、公開。」(25)など話題作に次々出演するほか、今秋放送のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインの座を獲得するなど、今最も注目を集める俳優だ。また相棒となる元殺し屋の幽霊・工藤を演じるのは、アクションを得意とし、「HYDRA」で主演を務め高く評価された三元雅芸。本作では髙石と三元がシンクロするようなアクションを披露する。

意外なことに本作が初の映画単独主演作だという髙石に、「ゴーストキラー」の魅力やお気に入りのアクション、大好きだと語る芝居の魅力について語ってもらった。

「ベビわる」とどう差別化するか

——まずは「ゴーストキラー」のオファーがどのような経緯で来たか教えてもらえますか?

髙石あかり(以下、髙石):「ベイビーわるきゅーれ」(以下、「ベビわる」)や他の作品でもお世話になっているプロデューサーからお話を頂いたのが最初でした。その方が次はどんな作品を手掛けるのかすごく楽しみでしたし、その後に監督が園村さんだと聞いてますます期待が膨らみました。それまでアクション監督としての園村さんしか知らなかったので、今作ではどんなお芝居ができるんだろうと撮影前からワクワクしていました。

——阪元裕吾さんの脚本を初めて読んだとき、どのように感じられましたか?

髙石:これがどう映像化されるんだろうという疑問と、これはものすごい作品が生まれるなという確信を同時に抱きました。園村さんが監督で、三元さんが工藤を演じられる時点でアクションは確約されているとは思いましたが、そこに自分のお芝居やアクションがどう説得力を持って付いていけるかという不安もありました。

——本作で髙石さんが演じるふみかは暴力を目の当たりにすると恐怖で泣いてしまうし、殴ると痛みに悶えるしで、とてもリアルな感覚の持ち主ですよね。「ベビわる」を観ていただけにそれが新鮮に映りましたが、どのようにふみかという人物を作り上げていったんでしょうか?

髙石:阪元さんは「ベビわる」の杉本ちさとを当て書きに近い形で作り上げてくれて、私がお芝居で表現する喜怒哀楽もすごく近くで見て知ってくれている方。その土台の上で生まれたであろう今作のふみかもちさとに近しい部分はあるんですが、そこをどう別の人間として見てもらえるかは試行錯誤しました。どうしても「『ベビわる』製作陣が送る……」と謳われる作品だと思うので、私だけじゃなく園村監督やプロデューサーも「ベビわる」とどう差別化するかということは常に意識して話し合いながら進めていきました。

——まったく新しい主人公像だと感じましたが、皆さんの努力の賜物だったんですね。親近感のあるふみかというキャラクターには髙石さんも共感する部分があったのでは?

髙石:共感というより、格好良いなと思う部分が多かったです。襲われることや暴力に対する恐怖がある中で、一歩踏み出していくって相当な覚悟や勇気が必要じゃないですか。それを持っているふみかは自分とは違うし、だからこそすごく格好良くて魅力的な人物だと感じました。

芝居での「聞く力」

——ふみかと(取り憑いた)工藤というまったく違うキャラクターを自分の中につくり、一つのシーンで切り替えて演じるのは相当大変だったかと思います。

髙石:今までだと相手の台詞を聞いて、それを受けて演じるキャラクターはどう感じ、何をするかというやりとりを通して演技やシーンの流れを組み立てていたんです。お芝居では相手の台詞を「聞く力」ってすごく大切だと思っているので。でも今回は対相手のお芝居を自分一人でやらないといけない。例えばふみかと工藤が会話するシーンでは切り替える時間がほんの一瞬しかありませんが、ふみかが喋った後にふみかとしての余韻を持たせすぎると会話っぽさがなくなってしまいます。だからその切り替えと二つの役の見せ方は自分なりにかなり繊細に組み立てていきました。それがこの作品の肝になると思ったので。

——お芝居において「聞く力」が大事だというのはよく聞きますね。

髙石:話をすると相手がどういう気持ちで何を考えているのかってなんとなく感じとれますし、それを受けてこちらもお話ししますよね。お芝居においてもきちんと相手の話を聞いて、そこから生まれた感情を出すことは大切だなと思います。今回はその「聞く力」を自分の台詞に対して使いましたが。

アクションシーンの見どころ

——今まではアクション監督として関わってきた園村さんがメガホンをとる姿を見て、新たに発見したり驚いた面はありましたか?

髙石:むしろあまり変わらないことに驚きました。アクション監督としての園村さんには常に優しさがベースにありましたが、監督として接した今回もその点ではまったく同じで。でも監督のチャーミングな部分は今回一層知れたかなと思います。

——演技のスイッチだけでなくアクションもこなしていて本当にお見事でした。演技面では監督からどのようなディレクションがあったんですか?

髙石:杉本ちさとと明確に差別化したいということで、本読みの段階から喋り方のトーンやテンポなど何度も何度も調整しました。でも撮影に入ってからはそのことをあまり考えず、自然にふみかという人物でいられたんじゃないかなと思います。

——大迫力かつ斬新なアクションが見所ですよね。髙石さんと三元さんがカットの度に入れ替わる格闘シーンはものすごく面白かったです。

髙石:あの入れ替わり方は園村さんの案なんです。柱とかで一瞬私の姿が見えなくなった瞬間に三元さんに変わったり。もちろん現場ではカットがかかっているんですが、映像で観たときに、こんなのどうやって思いついたんだろうって驚きました。

——ふみかの中にいる工藤が闘っているということで、男性の動きや仕草はアクションの中でも意識したのでしょうか?

髙石:三元さんのようなアクションはできるわけがないと思いつつ、少しでも寄せられるようには意識しました。とはいえ自分のアクションに精一杯で、それができていたかは分かりませんが。ちなみに闘う時の手の握り方は三元さんに教えてもらいました。

——トンネルでのローキックが素晴らしいですよね。身体の使い方が変わったことが、あのシーンだけで見事に表現されていて。

髙石:うれしい! 実は阪元さんも「あの蹴りはすごい」って褒めてくれたんですよ。ただ監督から教えてもらった通りにやっただけなので、私としては他のアクションシーンと比べてもそこまで意識はしていないんです。だから阪元さんにそのシーンが好きと言われたときも「そこなんだ!」と思いましたが、そう言ってもらえてうれしかったです。

——髙石さんが気に入っているアクションシーンはどこですか?

髙石:ふみかと工藤が激しく入れ替わりながら闘うシーンは大好きです。あとバーのシーンで連打して殴るシーンも楽しかったです。台本には何発殴るとかじゃなくただ“連打”って書かれていたので好き勝手やらせてもらいました(笑)。

——アクション撮影時のケア体制はいかがでしたか?

髙石:もともとアクション監督ということもあり、園村さんは常に身体的・精神的なケアをしてくれましたし、俳優陣ともしっかりコミュニケーションを取られていてとても安心できる現場でした。どうしても撮影中は体力も使うし大変でしたが、いろいろと監督にサポートしていただき本当にありがたかったです。

初の単独主演映画への想い

——「ベビわる」では敵として登場した三元さんが相棒になるのが面白いですよね。改めて三元さんと共演されていかがでしたか?

髙石:とにかくすごく優しい方なんです。工藤には渋さや深みと同時に純粋さや優しさ、かわいらしさもありますが、それは三元さんが本来持っているもの。役にそれが滲み出ているからこそ、私は工藤というキャラクターが好きなんです。私が工藤を演じるシーンでは、既に自分のシーンを終えた三元さんが自主的に現場に残って工藤の台詞を再現してくれたり、撮影期間中は三元さんの真っ直ぐで優しい部分にすごく救われました。

——今回が初の単独主演映画だというのは意外でした。これまでと感じ方の違いはありましたか?

髙石:撮影期間中は誰が何かを背負うでもなく、全員がまっすぐ熱量をかけてつくり上げたので特に意識はしていませんでした。ただ試写を観る2、3日前から急に“主演”という言葉の重みに怖くなりまして……。これまでプレッシャーという言葉にそれほどピンときていなかったんですが、今回少し分かった気がしました。ただ試写を観たらそんなことどうでもよくなるくらい面白くって「なんだこの作品は」と思いながらずっと笑ってました。自分が「この作品は面白い」って思えることが何よりうれしかったですし、観た後に監督が放った「すごく自信があります」って言葉にもすごく救われました。だから今は早く皆さんにお届けしたいなと思っています。

——そんな自信作ですが、改めて髙石さんの思うおすすめポイントを教えてもらえますか?

髙石:ふみかが感じる日々のモヤモヤや鬱憤って、きっと共感できる部分がたくさんあると思うんです。だからふみかと自分と重ねて観ることで、嫌なことをたくさん発散できる作品になったんじゃないかなと。ぜひ気軽に映画館へ足を運んでいただけるとうれしいです!

俳優としての成長

——映画「遺書、公開。」にドラマ「三上先生」、「アポロの歌」と最近だけでも話題作に次々出演され、2025年ネクストブレイクランキングの女性俳優部門で第一位を獲得するなど大活躍中ですが、ここ1年間で仕事の環境は大きく変わったのでは?

髙石:去年は本当に濃密な1年で、撮った作品を挙げるだけで色が濃すぎてチカチカしそうなぐらいです。そういう作品に出会えたことはすごくありがたいと思いますし、どの作品からもいろんなことを学んで吸収させてもらいました。そこから少しずつ俳優としても広がっている感じが自分の中であるので、今後また新たな作品で広げていって……という感じにもっと貪欲にいろんな役をやってみたいと思います。

——いろんな作品に参加する中で、日々複数の役を演じ分けているのは本当にすごいですよね。役に入って、また別の現場では違う役をしてという切り替えは大変なように思えるんですが、そこはどのように気持ちを切り替えているんでしょうか?

髙石:とにかくカットがかかったらちゃんと自分に戻ってくるということはすごく意識しています。自分の中に役を残さないというか、ちゃんと自分と役の間に距離を置く。もちろんあまり遠すぎるのもよくないので、演じている間以外は適度な距離を保つようにしています。そういうオフになる時間があるからこそ、スタートの合図がかかったときには大きなバネになってより高いところへ行ける気がするんです。撮影時間以外しっかりオフにすれば、毎回気持ちを切り替えられますし。

——髙石さんはインタビューで常々「お芝居が大好き」と仰られていますよね。それが演技にも表れていてすごく素敵だなと感じていますが、その気持ちは大忙しな今も変わらずですか?

髙石:この間は「アポロの歌」の二宮健監督に、「前より一層演技が好きになっているよね」って言われたんです。自分ではそういう実感はなくただずっと好きだったつもりでいたんですが、他の人からそう見えているのがすごくうれしかったです。

——きっと現場ではすごく楽しそうにお芝居をやっているんでしょうね。お芝居のどういった部分にそれほど惹かれるんでしょうか?

髙石:説明できない何かには絶対惹かれていて…。私がお芝居をしていて特にワクワクするのが、感覚的に相手の役者さんと目が合う瞬間。それはただ単に目と目を合わせるだけじゃなく、この人は「聞く力」で私の台詞を聞いてくれているな、私のお芝居が伝わっているなというのが目でわかるんです。それが相手と互いにできている瞬間はすごく楽しいです。

——昨年には連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインに抜擢という大ニュースもありましたが、周りからの反響もすごかったのでは?

髙石:想像の何百倍、何千倍も大きかったです。「こんなにか」と驚きっぱなしでしたし、これから何が起こるかも未知数なのでワクワクしています。

——朝ドラのヒロインが子どもの頃からの夢だったとも語っていましたよね。朝ドラにどのような印象を持たれていたんですか?

髙石:主人公が夢に向かって進むなかで、いろんな苦悩や挫折があって。でもその苦悩や挫折も前向きに捉えて進んでくれるから、観ている私たちもつらいことや苦しいことをポジティブに変えていけるんだって思わせてくれる。そんな作品が多い印象です。だからこそ、その一員になれることがすごく嬉しいです。

——ここ最近だけでもいろんな方と共演されていますが、中でも刺激を受けた方はいましたか?

髙石:映画「夏の砂の上」(7月公開予定)で共演した松たか子さんです。先ほどお話した目のやり取りをしたときにビリビリ感じるものがあって。なんていうか……目があった瞬間、「お芝居を受け取っているよ!」という感覚がダイレクトに伝わってきたんです。とても優しい方でしたし、本当にお芝居がすごすぎて驚きました。とにかく最高でした!

——では最後に、今後トライしてみたい役や演技があれば教えてください。

髙石:私は人間味がある役がすごく好きなんです。不器用だったり、他の人からよく思われてなくても、そこで必死にもがいているキャラクターに惹かれるといいますか。だから今後は、広義的な意味でどこか欠けている役柄に挑戦してみたいなと思っています。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:KENSHI KANEDA
HAIR&MAKEUP:AYA SUMIMOTO

映画「ゴーストキラー」

■「ゴーストキラー」
4月11日公開
出演:髙石あかり
黒羽麻璃/三元雅芸
監督・アクション監督:園村健介
脚本:阪元裕吾
2024年製作/日本
配給:ライツキューブ
©2024「ゴーストキラー」製作委員会
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韓国の新鋭ファッションブランド「ジヨンキム」の魅力とは? ジヨン・キム ×「グレイト」Yoshi

韓国出⾝デザイナーのジヨン・キムによるファッションブランド「ジヨンキム(JIYONGKIM)」。デザイナーのジヨン・キムは、日本の⽂化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins) を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、2021年春夏から自身のメンズブランドをスタートした。

同ブランドの特徴は、⽔や化学薬品を使わずに⽇光で1〜3カ月ほど服を⽇焼けさせる「サンフェード」を行うことでできる独特のデザインで、24年度「LVMH」プライズのセミファイナリストに選ばれるなど、今注目を集める若手デザイナーの一人だ。

3月にはセレクトショップ「グレイト(GR8)」 で、デザイナーのジヨン自らが監修を行ったポップアップを開催した。もともと「グレイト」のYoshi・スペシャルプロジェクトマネージャーとはブランド設立時から親交があったという。今回、ポップアップに合わせて来日したデザイナーのジヨンと「グレイト」Yoshiに、2人の出会いからブランドの成り立ちや特徴、そして最近スタートしたウィメンズについて語ってもらった。

ジヨンキム」創設時からの交流

WWD:Yoshiさんは創設時から「ジヨンキム」のファンだったそうですが、2人はいつごろ知り合ったんですか?

ジヨン・キム(以下、ジヨン):確か2021年ごろだったと思います。私のセントラル・セント・マーチンズの卒業制作をYoshiさんがインスタで見て、「オーダーしたい」と連絡がきたんです。最初は個人オーダーかなと思っていたんですけど、聞いたら「『グレイト』で販売したい」って言われて。当時はまだ学生だったので、値段のつけ方もよく分からなくて、Yoshiさんにいろいろと相談しながら、「グレイト」で販売してもらえることになったんです。

Yoshi:もともと「コマウェア(CMMAWEAR)」っていう韓国ブランドのデザイナーのギズモという2人の共通の友達がいて。彼から「この人やばいかも」っていうメッセージがきて、それがジヨンのインスタのアカウントだったんです。当時は自分の作った服をいっぱい投稿しているわけでもなく、学校の課題の制作過程とかを投稿していたくらいだったんですけど、その感じがめちゃめちゃ良くて。それで、「『グレイト』で販売したい」ってインスタのDMを送りました。

当時はジヨンから「まだ売ってない」って言われたんですけど、社長の久保(光博)に話して、「この人はすごくなるかもしれないから、ちょっとトライしたい」と話して。普通に考えたらセレクトショップの店員がブランドの立ち上げから関わることって多分ないと思うんですけど、チャレンジしたいなと思って。それくらいすごく可能性も感じたんですよね。

それから週に何回も電話しながら、値段のつけ方とかを2人で話し合って。当時はコロナ禍で緊急事態宣言が出ていたこともあって、僕が1人でディスプレーして、その写真をジヨンに送って確認してもらったり、プレスリリースも作ったりして。そこから僕らがつながっている世界中のファッション好きの人たちが気に入って、結構SNSで拡散してくれて、広まっていった感じです。最初の販売はオンラインのみだったんですけど。初日で60〜70%ぐらい売れて。その後、日本のショールームを紹介して、毎シーズンパリでも展示会をやっていて、着実に人気を得ていっている感じです。

WWD:ブランドの立ち上げにも関わっていたんですね。その卒業制作作品では、今のテイストの服を作っていたんですか?

ジヨン:その時から今でも私の服の特徴にもなっている「サンフェード」っていう服を外に置いて自然に日焼けさせる加工方法はやっていました。最初に「グレイト」で販売した時って今よりも高かったんですよね。

Yoshi:全部高単価だったんですけど、ジヨンがやっていることを考えると、それくらいの値段をつけないとマイナスになっちゃうし、最初のコレクションだったので、それでも売れると思ってました。ラフ・シモンズじゃないですけど、歳月が経てば経つほど、すごく価値が付くと思ったので。

ジヨン:全部一点物だったし、「サンフェード」ってすごく時間がかかるので、その値段でも売れたのはうれしかったですね。

ビンテージ好きが買いたい服を作る

WWD:「サンフェード」の手法はいつごろから始めたんですか?

ジヨン:セント・マーチンズの卒業制作を準備する前からです。子供のころからファッションが好きで、特にビンテージが好きでした。日本でも文化(服装学院)に通ってる時にも、友達とよくビンテージショップに行ってました。でもセレクトショップなどに行った時に僕が買いたいと思う服があまりなくて。僕みたいなビンテージ好きが買いたいと思える服ってどんな服なのかって考えていたら、「サンフェード」という手法を思いついたんです。全て微妙に柄が変わるので一点物になるし、サステナブルで持続可能性があるのもいいなと思いました。

あと、僕がプリントがあまり好きじゃないんです。ロゴとかどんなブランドを着ているのか、相手が分かるのがあまり好きじゃなかったんですよね。それでビンテージが好きだったっていうのもあって、そういう趣向が今のブランドにつながったと思います。

WWD:「サンフェード」での日焼けの柄はある程度デザインできるんですか?

ジヨン:厳密にはできないですが、自分たちで想像しながらこういう風にやってみようみたいなのはあります。でも、天気も日々変わるので、思い通りにはいかなかったりして。でも、そういうランダムさも好きなんですよね。

WWD:日焼けというと、服にとってはマイナスなイメージがありますが、それをデザインとして活かすのはいいですね。

ジヨン:その発想の転換がやりたかったんです。ショーウインドウに飾ってあって日焼けした製品って売れなくなるじゃないですか。だから日焼けを美しいデザインとして提案できれば、新しい美学を作れるんじゃないかと思いました。

WWD:サステナブルへの意識はいつごろから?

ジヨン:もともとはサステナブルなファッションをやりたいとかは意識していなくて、自分が好きなのがビンテージの服だったり、素材だったので、自然とサステナブルな志向になっていきました。それでリサイクルされたポリエステルやアップサイクルした素材を使うようになりました。

毎シーズン新しいことに挑戦

WWD :Yoshiさんはジヨンさんの服に対して、どこに魅力を感じていますか?

Yoshi:セレクトショップのスタッフなので、もともとはそのシーズンのはやりのものとか、どっちかというと他の人が着ていないような奇抜なデザインの服を着ることが多かったんですけど、最近は落ち着いたものが好きになってきたりもして。そんな中で、ジヨンの服を見た時に、明らかに他の服と違いがあって、「サンフェード」もですが、色味だったり、素材だったり、パターンの取り方だったり、派手ではないんだけど、感覚として「すごい」って感じたんです。毎シーズン、ジヨンの新しい感覚に刺激を受けるので、そこが魅力ですね。あとはやっぱり、服を作る工程を見ているので、ジヨンの服にはストーリーが詰まっている。

WWD:ジヨンさんと出会って4年ほど経ち、変わったなと感じる部分は?

Yoshi:毎シーズン、コレクションを作っている時に連絡を取り合ってるんです。そこで売り上げの話もしていて、「今シーズンはこれが良かった」とか「これがちょっと動きが悪かった」とかも話すんです。それで、その意見をちゃんと次のシーズンに反映してくれていて。それこそ「サンフェード」が特徴ですけど、全部が「サンフェード」した商品だと単価も高くなってしまうし、時間もかかるから、それ以外のアイテムもあったらいいよねって言ったら、そういうアイテムを作ったりもしているし。そこのバランスの取り方だったりとか、毎シーズン、何かしらの進化を感じます。

WWD:今回のポップアップはどういう経緯でやることになったんですか?

ジヨン:私のブランドは基本的にはランウエイではなく、展示会でプレゼンテーションをやっているんです。韓国では6、7回ぐらいやっていて、結構大きな場所でやらせてもらっていて。そこでは服だけを見せるんじゃなくて、どんなふうに「サンフェード」しているのか、制作過程やインスピレーション源とかも見せているんです。それを韓国以外でもやってみたいと思ってました、最初はやっぱり「グレイト」でやりたいと思って、それでYoshiさんに相談したら、「ぜひやろう」っていうことになりました。

Yoshi:韓国だとすごく大きい場所を借りてやっていて、毎日多くの人が並んでいたり、BTSのような韓国のアーティストも来たりしているんです。そうした韓国での展示会を見ていたので、日本でもやりたいなと思っていたんですけど、なかなかタイミングが合わなくて、今回ようやくタイミングがあってやることになりました。

日本でやるにあたって、ファッション好きな人がデザイナーと触れられる機会を作れたらと思って、2日間店頭にも出てもらったんです。これをきっかけに「ジヨンキム」の制作過程とかを知ってもらうと、若い人たちの服作りの可能性も広がるかなと思って。

新しくウィメンズをスタート

WWD:そもそもジヨンさんが韓国のファッション学校ではなく、日本の文化服装学院を選んだ理由は?

ジヨン:ビンテージが好きで、高校生のころから日本のヤフオクとかで服を探して買っていたんです。日本には、アメリカやヨーロッパのビンテージがたくさん集まっているので、それで日本に行ったら、ビンテージショップにいっぱい行けるなと思って(笑)。

WWD:韓国には古着屋はあまりないんですか?

ジヨン:今はたくさんできてるんですけど、当時はあまりなくて。やっぱり日本の方がたくさんあります。

WWD:文化を卒業して、セントラル・セント・マーチンズに入学しますが、その経緯は?

ジヨン:文化は2年で卒業したんですけど、通ってる時はウィメンズの技術を中心にパターンや服の作り方をすごく勉強して。それでもっとデザインやクリエイティブなことやメンズをしっかりと学びたいと思って、セント・マーチンズに入学しました。それで大学を卒業後に大学院に入学したんですけど、大学在学中にCOVID-19になってしまって、大学院は韓国にいながらオンラインで勉強しつつ、自分のブランドもやって、忙しかったですね。

WWD:ブランドができて4年ほど経ちますが、手応えは感じていますか?

ジヨン:まだまだです。毎シーズン新しいことに挑戦したくて、23年秋冬から「サンフェード」をしていないデザインの服を増やしているんですけど、すごく評判がよくて。あと25年の秋冬シーズンからはウィメンズも始めたんです。

WWD:ウィメンズを始めたのは何かきっかけがあったんですか。

ジヨン:もともと文化に通っている時はウィメンズを学んでいたので、いつかやりたいとは思っていたんです。だから今シーズンのウィメンズはマーケティング的なことを考えずに本当に自分の作りたい服を作りました。自分にとっても新しい挑戦だったので、面白かったですね。でも、次のシーズンからは、もっと着てもらう人の感覚とかも考えながらデザインしていくと思います。

Yoshi:僕もそのウィメンズの展示会に行ったんですけど、リアルクローズでさらっと着る感じではなくて、ちょっとアート寄りの感じの服でした。一緒に行った友達はすごく気に入ってましたね。

ジヨン:自分的にメンズウエアは、ウエアラブルなことを意識して作っているんですが、ウィメンズだともっとクリエイティブなことができるんじゃないかなっていうのもあったんです。僕がやってるメンズウエアって、パンツにはパンツの、シャツにはシャツのルールがあって、そこを守って作っていたんですけど、ウィメンズはドレスだと「サンフェード」の見せ方もまた違ってきたり、もう少し自由に作れるかなと思って。

WWD:今後はメンズ、ウィメンズ両方やっていく?

ジヨン:やっていきたいですね。

WWD :メンズでも服のシルエットも変わったものがありますが、どう考えているんですか?

ジヨン:僕の場合は実際にハンドドレーピングしながらデザインを考えることが多くて。絵を描いて、パタンナーさんにお願いするのではなくて、自分でポケットとかシルエットとかまで組んでから、パタンナーさんと話しながら、もっといい服になるように、作っていく感じです。

WWD:今後のブランドのビジョンは?

ジヨン:今まで作ってきた価値をちゃんと守って、服作りを続けていきたい。あと、4月にはソウルに旗艦店を作るんです。それができると、そこでインストレーションしたり、もっといろんなことができると思うので、楽しみにしていてほしいです。

WWD:Yohiさんがジヨンさんに期待することは?

Yoshi:一番はこのブランドに集中して、ずっと継続してもらうことなんですけど、どこかビッグメゾンのデザイナーになることも期待しています。それぐらいの技術やアイデアは持っていると思うので。

WWD:ランウエイでの発表については?

ジヨン:ランウエイはやりたい気持ちはあるんですけど、自分のブランドの場合は展示会でしっかりとプレゼンテーションをして、じっくりと見てもらう方がストーリーも伝わるので、合っていると思います。でも、機会があればいつかはやってみたいですね。

「ジヨンキム」

「ジヨンキム(JIYONGKIM)」は、韓国出身デザイナージヨン・キム(Jiyong Kim)によるブランド。文化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、アシスタントデザイナーを経験。現状のファッション業界の生産サイクルに疑問を呈し、CSMの卒業コレクションは、ビンテージのベルベットや工場で余ったナイロン生地で構成。無駄のない自然エネルギーに着目し、水や化学薬品を使わずに日光で1〜3カ月ほど服を日焼けさせる「サンフェード」を使用し、サスティナブルに特化しながら全く新しいものを作り上げ、唯一無二のコレクションを発表している。
https://jiyongkim.net/

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韓国の新鋭ファッションブランド「ジヨンキム」の魅力とは? ジヨン・キム ×「グレイト」Yoshi

韓国出⾝デザイナーのジヨン・キムによるファッションブランド「ジヨンキム(JIYONGKIM)」。デザイナーのジヨン・キムは、日本の⽂化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins) を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、2021年春夏から自身のメンズブランドをスタートした。

同ブランドの特徴は、⽔や化学薬品を使わずに⽇光で1〜3カ月ほど服を⽇焼けさせる「サンフェード」を行うことでできる独特のデザインで、24年度「LVMH」プライズのセミファイナリストに選ばれるなど、今注目を集める若手デザイナーの一人だ。

3月にはセレクトショップ「グレイト(GR8)」 で、デザイナーのジヨン自らが監修を行ったポップアップを開催した。もともと「グレイト」のYoshi・スペシャルプロジェクトマネージャーとはブランド設立時から親交があったという。今回、ポップアップに合わせて来日したデザイナーのジヨンと「グレイト」Yoshiに、2人の出会いからブランドの成り立ちや特徴、そして最近スタートしたウィメンズについて語ってもらった。

ジヨンキム」創設時からの交流

WWD:Yoshiさんは創設時から「ジヨンキム」のファンだったそうですが、2人はいつごろ知り合ったんですか?

ジヨン・キム(以下、ジヨン):確か2021年ごろだったと思います。私のセントラル・セント・マーチンズの卒業制作をYoshiさんがインスタで見て、「オーダーしたい」と連絡がきたんです。最初は個人オーダーかなと思っていたんですけど、聞いたら「『グレイト』で販売したい」って言われて。当時はまだ学生だったので、値段のつけ方もよく分からなくて、Yoshiさんにいろいろと相談しながら、「グレイト」で販売してもらえることになったんです。

Yoshi:もともと「コマウェア(CMMAWEAR)」っていう韓国ブランドのデザイナーのギズモという2人の共通の友達がいて。彼から「この人やばいかも」っていうメッセージがきて、それがジヨンのインスタのアカウントだったんです。当時は自分の作った服をいっぱい投稿しているわけでもなく、学校の課題の制作過程とかを投稿していたくらいだったんですけど、その感じがめちゃめちゃ良くて。それで、「『グレイト』で販売したい」ってインスタのDMを送りました。

当時はジヨンから「まだ売ってない」って言われたんですけど、社長の久保(光博)に話して、「この人はすごくなるかもしれないから、ちょっとトライしたい」と話して。普通に考えたらセレクトショップの店員がブランドの立ち上げから関わることって多分ないと思うんですけど、チャレンジしたいなと思って。それくらいすごく可能性も感じたんですよね。

それから週に何回も電話しながら、値段のつけ方とかを2人で話し合って。当時はコロナ禍で緊急事態宣言が出ていたこともあって、僕が1人でディスプレーして、その写真をジヨンに送って確認してもらったり、プレスリリースも作ったりして。そこから僕らがつながっている世界中のファッション好きの人たちが気に入って、結構SNSで拡散してくれて、広まっていった感じです。最初の販売はオンラインのみだったんですけど。初日で60〜70%ぐらい売れて。その後、日本のショールームを紹介して、毎シーズンパリでも展示会をやっていて、着実に人気を得ていっている感じです。

WWD:ブランドの立ち上げにも関わっていたんですね。その卒業制作作品では、今のテイストの服を作っていたんですか?

ジヨン:その時から今でも私の服の特徴にもなっている「サンフェード」っていう服を外に置いて自然に日焼けさせる加工方法はやっていました。最初に「グレイト」で販売した時って今よりも高かったんですよね。

Yoshi:全部高単価だったんですけど、ジヨンがやっていることを考えると、それくらいの値段をつけないとマイナスになっちゃうし、最初のコレクションだったので、それでも売れると思ってました。ラフ・シモンズじゃないですけど、歳月が経てば経つほど、すごく価値が付くと思ったので。

ジヨン:全部一点物だったし、「サンフェード」ってすごく時間がかかるので、その値段でも売れたのはうれしかったですね。

ビンテージ好きが買いたい服を作る

WWD:「サンフェード」の手法はいつごろから始めたんですか?

ジヨン:セント・マーチンズの卒業制作を準備する前からです。子供のころからファッションが好きで、特にビンテージが好きでした。日本でも文化(服装学院)に通ってる時にも、友達とよくビンテージショップに行ってました。でもセレクトショップなどに行った時に僕が買いたいと思う服があまりなくて。僕みたいなビンテージ好きが買いたいと思える服ってどんな服なのかって考えていたら、「サンフェード」という手法を思いついたんです。全て微妙に柄が変わるので一点物になるし、サステナブルで持続可能性があるのもいいなと思いました。

あと、僕がプリントがあまり好きじゃないんです。ロゴとかどんなブランドを着ているのか、相手が分かるのがあまり好きじゃなかったんですよね。それでビンテージが好きだったっていうのもあって、そういう趣向が今のブランドにつながったと思います。

WWD:「サンフェード」での日焼けの柄はある程度デザインできるんですか?

ジヨン:厳密にはできないですが、自分たちで想像しながらこういう風にやってみようみたいなのはあります。でも、天気も日々変わるので、思い通りにはいかなかったりして。でも、そういうランダムさも好きなんですよね。

WWD:日焼けというと、服にとってはマイナスなイメージがありますが、それをデザインとして活かすのはいいですね。

ジヨン:その発想の転換がやりたかったんです。ショーウインドウに飾ってあって日焼けした製品って売れなくなるじゃないですか。だから日焼けを美しいデザインとして提案できれば、新しい美学を作れるんじゃないかと思いました。

WWD:サステナブルへの意識はいつごろから?

ジヨン:もともとはサステナブルなファッションをやりたいとかは意識していなくて、自分が好きなのがビンテージの服だったり、素材だったので、自然とサステナブルな志向になっていきました。それでリサイクルされたポリエステルやアップサイクルした素材を使うようになりました。

毎シーズン新しいことに挑戦

WWD :Yoshiさんはジヨンさんの服に対して、どこに魅力を感じていますか?

Yoshi:セレクトショップのスタッフなので、もともとはそのシーズンのはやりのものとか、どっちかというと他の人が着ていないような奇抜なデザインの服を着ることが多かったんですけど、最近は落ち着いたものが好きになってきたりもして。そんな中で、ジヨンの服を見た時に、明らかに他の服と違いがあって、「サンフェード」もですが、色味だったり、素材だったり、パターンの取り方だったり、派手ではないんだけど、感覚として「すごい」って感じたんです。毎シーズン、ジヨンの新しい感覚に刺激を受けるので、そこが魅力ですね。あとはやっぱり、服を作る工程を見ているので、ジヨンの服にはストーリーが詰まっている。

WWD:ジヨンさんと出会って4年ほど経ち、変わったなと感じる部分は?

Yoshi:毎シーズン、コレクションを作っている時に連絡を取り合ってるんです。そこで売り上げの話もしていて、「今シーズンはこれが良かった」とか「これがちょっと動きが悪かった」とかも話すんです。それで、その意見をちゃんと次のシーズンに反映してくれていて。それこそ「サンフェード」が特徴ですけど、全部が「サンフェード」した商品だと単価も高くなってしまうし、時間もかかるから、それ以外のアイテムもあったらいいよねって言ったら、そういうアイテムを作ったりもしているし。そこのバランスの取り方だったりとか、毎シーズン、何かしらの進化を感じます。

WWD:今回のポップアップはどういう経緯でやることになったんですか?

ジヨン:私のブランドは基本的にはランウエイではなく、展示会でプレゼンテーションをやっているんです。韓国では6、7回ぐらいやっていて、結構大きな場所でやらせてもらっていて。そこでは服だけを見せるんじゃなくて、どんなふうに「サンフェード」しているのか、制作過程やインスピレーション源とかも見せているんです。それを韓国以外でもやってみたいと思ってました、最初はやっぱり「グレイト」でやりたいと思って、それでYoshiさんに相談したら、「ぜひやろう」っていうことになりました。

Yoshi:韓国だとすごく大きい場所を借りてやっていて、毎日多くの人が並んでいたり、BTSのような韓国のアーティストも来たりしているんです。そうした韓国での展示会を見ていたので、日本でもやりたいなと思っていたんですけど、なかなかタイミングが合わなくて、今回ようやくタイミングがあってやることになりました。

日本でやるにあたって、ファッション好きな人がデザイナーと触れられる機会を作れたらと思って、2日間店頭にも出てもらったんです。これをきっかけに「ジヨンキム」の制作過程とかを知ってもらうと、若い人たちの服作りの可能性も広がるかなと思って。

新しくウィメンズをスタート

WWD:そもそもジヨンさんが韓国のファッション学校ではなく、日本の文化服装学院を選んだ理由は?

ジヨン:ビンテージが好きで、高校生のころから日本のヤフオクとかで服を探して買っていたんです。日本には、アメリカやヨーロッパのビンテージがたくさん集まっているので、それで日本に行ったら、ビンテージショップにいっぱい行けるなと思って(笑)。

WWD:韓国には古着屋はあまりないんですか?

ジヨン:今はたくさんできてるんですけど、当時はあまりなくて。やっぱり日本の方がたくさんあります。

WWD:文化を卒業して、セントラル・セント・マーチンズに入学しますが、その経緯は?

ジヨン:文化は2年で卒業したんですけど、通ってる時はウィメンズの技術を中心にパターンや服の作り方をすごく勉強して。それでもっとデザインやクリエイティブなことやメンズをしっかりと学びたいと思って、セント・マーチンズに入学しました。それで大学を卒業後に大学院に入学したんですけど、大学在学中にCOVID-19になってしまって、大学院は韓国にいながらオンラインで勉強しつつ、自分のブランドもやって、忙しかったですね。

WWD:ブランドができて4年ほど経ちますが、手応えは感じていますか?

ジヨン:まだまだです。毎シーズン新しいことに挑戦したくて、23年秋冬から「サンフェード」をしていないデザインの服を増やしているんですけど、すごく評判がよくて。あと25年の秋冬シーズンからはウィメンズも始めたんです。

WWD:ウィメンズを始めたのは何かきっかけがあったんですか。

ジヨン:もともと文化に通っている時はウィメンズを学んでいたので、いつかやりたいとは思っていたんです。だから今シーズンのウィメンズはマーケティング的なことを考えずに本当に自分の作りたい服を作りました。自分にとっても新しい挑戦だったので、面白かったですね。でも、次のシーズンからは、もっと着てもらう人の感覚とかも考えながらデザインしていくと思います。

Yoshi:僕もそのウィメンズの展示会に行ったんですけど、リアルクローズでさらっと着る感じではなくて、ちょっとアート寄りの感じの服でした。一緒に行った友達はすごく気に入ってましたね。

ジヨン:自分的にメンズウエアは、ウエアラブルなことを意識して作っているんですが、ウィメンズだともっとクリエイティブなことができるんじゃないかなっていうのもあったんです。僕がやってるメンズウエアって、パンツにはパンツの、シャツにはシャツのルールがあって、そこを守って作っていたんですけど、ウィメンズはドレスだと「サンフェード」の見せ方もまた違ってきたり、もう少し自由に作れるかなと思って。

WWD:今後はメンズ、ウィメンズ両方やっていく?

ジヨン:やっていきたいですね。

WWD :メンズでも服のシルエットも変わったものがありますが、どう考えているんですか?

ジヨン:僕の場合は実際にハンドドレーピングしながらデザインを考えることが多くて。絵を描いて、パタンナーさんにお願いするのではなくて、自分でポケットとかシルエットとかまで組んでから、パタンナーさんと話しながら、もっといい服になるように、作っていく感じです。

WWD:今後のブランドのビジョンは?

ジヨン:今まで作ってきた価値をちゃんと守って、服作りを続けていきたい。あと、4月にはソウルに旗艦店を作るんです。それができると、そこでインストレーションしたり、もっといろんなことができると思うので、楽しみにしていてほしいです。

WWD:Yohiさんがジヨンさんに期待することは?

Yoshi:一番はこのブランドに集中して、ずっと継続してもらうことなんですけど、どこかビッグメゾンのデザイナーになることも期待しています。それぐらいの技術やアイデアは持っていると思うので。

WWD:ランウエイでの発表については?

ジヨン:ランウエイはやりたい気持ちはあるんですけど、自分のブランドの場合は展示会でしっかりとプレゼンテーションをして、じっくりと見てもらう方がストーリーも伝わるので、合っていると思います。でも、機会があればいつかはやってみたいですね。

「ジヨンキム」

「ジヨンキム(JIYONGKIM)」は、韓国出身デザイナージヨン・キム(Jiyong Kim)によるブランド。文化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、アシスタントデザイナーを経験。現状のファッション業界の生産サイクルに疑問を呈し、CSMの卒業コレクションは、ビンテージのベルベットや工場で余ったナイロン生地で構成。無駄のない自然エネルギーに着目し、水や化学薬品を使わずに日光で1〜3カ月ほど服を日焼けさせる「サンフェード」を使用し、サスティナブルに特化しながら全く新しいものを作り上げ、唯一無二のコレクションを発表している。
https://jiyongkim.net/

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「デニム生地生産量日本一」の新リーダーが同業他社や異業種、行政と連携して目指す「市民の認知度100%」

PROFILE: 篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長

篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長
PROFILE: 1907年創業のデニム生地機屋「篠原テキスタイル」の5代目。大阪工業大学卒業後大正紡績に入社。紡績の製造現場、商品開発室、営業を経て、2012年に篠原テキスタイル入社。新規事業開発リーダーとしてデニム産地内同業他社、異業種、行政、教育機関との連携を深め、デニム産地の発展に取り組む。19年デニム製造工程で発生する残糸やBC反を活用したアップサイクルブランド「シノテックス」を立ち上げる。22年社長に就任。海外展示会への出展や国内他産地とのコラボ素材の開発、デニム・ジーンズの製造工場を回る工場見学ツアーの企画や若手デザイナーの支援を積極的に行う

日本一のデニム生地生産量を誇る広島県福山市。古くから繊維産業が盛んで備後産地として栄えてきたがその認知度は低い。産地継続の危機が叫ばれて久しいが近年、産地をブランディングして産地観光を目指す取り組みが増えている。福山市でも篠原テキスタイルの篠原由起社長がその認知度を高めてシビックプライドを醸成しようと同業他社や異業種、行政と協働しながら産地をけん引する。

篠原テキスタイルは日本三大絣のひとつ「備後絣」の生産から始まり今年で創業118年目。15年前から自社で生地展開をはじめ、旧式のシャトル織機や最新のエアージェット織機を活用してさまざまな風合いのデニム生地を生産する。現在の月産量は2500反(12万5000m)。ラグジュアリーブランドから国内のデザイナーズやデニムブランドに生地を供給する。篠原社長に現在の取り組みと未来の展望を聞く。

WWD:篠原テキスタイルの強味は?

篠原由起社長(以下、篠原):生地の自社展開を始めて15年。生地メーカーとしては後発だったので、アジアの量産型工場が作らないような織りにくいものを織って価値をつくることを目指した。これまで織っていた人工セルロースの「テンセル」に加えて、経糸と緯糸の番手や素材を変えて風合い豊かな生地をつくっている。また、カシミヤやシルクのネップ糸など従来デニムに使われていなかった糸を用いたデニム生地を提案している。特にラグジュアリーブランドから評判が良く、「なんじゃこりゃ」「これはデニムなのか」という触り心地の生地を提案している。

WWD:織りにくい生地を織るのは熟練技が必要だ。どのように技術をつなげているのか。

篠原:当社もちょうど技術を引き継ぐタイミングにある。これまで「見て覚える」「手を動かしてみる」といった感覚的な方法で技術を継承してきたが、動画を撮影してマニュアル化しているところだ。中学卒業後に入社して現在74歳のベテランスタッフが機械を動かす様子や機械のメンテナンスや改造の方法を記録している。現場の技術は日々進化するし、改善が必要になってきているので技術のマニュアル化は必須だ。

WWD:自社の生産工程から生まれる残糸や端材を用いて靴下や手袋、ニットキャップやバブーシュやハンドバッグなどを提案する「シノテックス(SINOTEX)」ブランドを19年に始動した。

篠原:例えば靴下の編立は福山の老舗ニットメーカーに依頼するなど、地元企業と協働することで福山市にさまざまな技術が集積していることを訴求している。人と人がつながり、企業と企業がつながることで新たな価値を生み出したい。自社ECサイトや地元の百貨店、福山や広島の雑貨店などに卸していて、お土産的に販売している。

WWD:残糸や端材の活用以外でのサステナビリティの取り組みと成果は?

篠原:定番のデニム生地をアメリカ産のリジェネラティブコットン糸(環境再生型農業で栽培された綿糸)に変えた。欧州基準で戦うために現在GOTS認証を申請中だ。リサイクルポリエステル糸を用いたデニム生地の開発にも力を入れているが、先日出展した欧州の素材見本市では反応がいまいちで、強味の「テンセル」、カシミヤやシルクなどセルロース系繊維の反応が良かった。

工場の省エネ化も進めており、LEDへの切り替えや太陽光パネルの設置、省エネタイプの機械への切り替えなどで電気使用量は2018年に比べて約30%削減できた。近年特に電気料金も上がってきているのでコストにも効いている。

WWD:異業種・行政・教育機関との連携について、何を目指しどのように連携しているのか。

篠原:目的は福山市がデニムの町だという認知度を高めること。現在の市民の認知度は42.6%で、タオルで知られる今治ならばほぼ100%だろう。認知度を上げるために大学や高校に出向きデニムについて伝えたり小学校の工場見学を受け入れたりしている。結果は10~20年後になるが、地道な活動を重ねることで就職先の選択肢にデニム産業を残したいと考えている。こうした活動を続けると地元でマルシェに出店すると「デニム屋さんだ」となり、やり続けることでデニムファンを増やせていると感じる。

行政とは福山市が「備中備後はデニムの産地」をPRするために16年に始動した「備中備後ジャパンデニムプロジェクト」を軸に、福山の企業の成長や人材確保の取り組みを支援するための「グリーンな企業プラットフォーム事業」に参画したり、福山市と一緒に一般家庭のジーンズの回収リサイクルプロジェクトを行ったりしている。市役所や商業施設、ガソリンスタンドや銀行など市内6カ所で回収したジーンズを反毛(はんもう)して新たな生地にしてバッグにしたりしている。企業から声がかかり、「ネームプレートにしたい」という話もある。

WWD:回収から再生産する事業は手間がかかり事業として成立させるには難易度が高そうだが。

篠原:部分使いであればコストに見合う。例えば企業の制服の一部に使用し回収の取り組みに賛同してもらうなど、デニムを福山市内で循環させることで、地元での認知を高めることが目的にある。回収拠点が町中にあることで福山市がデニムの町であることを訴求できる。また「つくる責任、つかう責任、回収も日本一」になれば、一般の方にもデニムの町だという認知が広がるのではないか。

WWD:工場見学について、地元小学校の受け入れだけでなく多くの事業者も受け入れている。

篠原:バイヤーさんを対象とした工場見学ツアーは昨年30~40回ほど実施した。またスノーピークが日本各地のものづくりや文化を継承することを目的に始めた「ローカル ウエア ツーリズム」とも協働している。

WWD:2023年のG7広島サミットの「サミットバッグ」に採用された。

篠原:広島県織物工業会が製作した。企画はディスカバーリンクせとうち、染色は坂本デニム、撚糸は備後撚糸、織りは当社に加えてカイハラと中国紡績織が行い、縫製は大江被服とC2が手掛けた。福山は市内で生地から製品まで作ることができる。そのほか、福山市内に6軒の医療施設を運営する医療法人徹慈会と制服づくりも始めている。当社とカイハラが素材提供をして縫製はC2が手掛ける予定だ。

また、産婦人科から退院のお祝いに提供するマザーズバッグをデニムでつくりたいという要望があるなど、今まで声がかからなかったところからも依頼があり、地道な活動の成果が見えてきている。

WWD:現在の課題は?

篠原:福山市でデニムを盛り上げるための連携はあるが、サプライチェーン全体の足並みをそろえるのが難しいとも感じている。福山市は素材や技術の町で製品ブランドが少なく、一般の人への訴求が難しい。そんな中で小売店との協働は直接生活者に届けられる一つの方法だと感じている。例えば、松屋銀座が日本のものづくりを紹介する「東京クリエイティブサロン」で紹介いただいたり、広島市拠点のセレクトショップで東京にも店舗を持つアクセが産地デニムブランド「ジャパンデニム」を立ち上げ、販売していただいたり。ただ、地元福山でも盛り上がりを作りたいので、BtoB向けの事業者が多い中でどのような仕組みにするのかを地元の地域商社などと検討しているところだ。

WWD:地域として目指すところは?

篠原:地域指名で来てくれる人が増えること。例えばシャンパーニュのシャンパン、今治のタオルといったように、業界内はもちろん一般での認知度を上げたい。

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「デニム生地生産量日本一」の新リーダーが同業他社や異業種、行政と連携して目指す「市民の認知度100%」

PROFILE: 篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長

篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長
PROFILE: 1907年創業のデニム生地機屋「篠原テキスタイル」の5代目。大阪工業大学卒業後大正紡績に入社。紡績の製造現場、商品開発室、営業を経て、2012年に篠原テキスタイル入社。新規事業開発リーダーとしてデニム産地内同業他社、異業種、行政、教育機関との連携を深め、デニム産地の発展に取り組む。19年デニム製造工程で発生する残糸やBC反を活用したアップサイクルブランド「シノテックス」を立ち上げる。22年社長に就任。海外展示会への出展や国内他産地とのコラボ素材の開発、デニム・ジーンズの製造工場を回る工場見学ツアーの企画や若手デザイナーの支援を積極的に行う

日本一のデニム生地生産量を誇る広島県福山市。古くから繊維産業が盛んで備後産地として栄えてきたがその認知度は低い。産地継続の危機が叫ばれて久しいが近年、産地をブランディングして産地観光を目指す取り組みが増えている。福山市でも篠原テキスタイルの篠原由起社長がその認知度を高めてシビックプライドを醸成しようと同業他社や異業種、行政と協働しながら産地をけん引する。

篠原テキスタイルは日本三大絣のひとつ「備後絣」の生産から始まり今年で創業118年目。15年前から自社で生地展開をはじめ、旧式のシャトル織機や最新のエアージェット織機を活用してさまざまな風合いのデニム生地を生産する。現在の月産量は2500反(12万5000m)。ラグジュアリーブランドから国内のデザイナーズやデニムブランドに生地を供給する。篠原社長に現在の取り組みと未来の展望を聞く。

WWD:篠原テキスタイルの強味は?

篠原由起社長(以下、篠原):生地の自社展開を始めて15年。生地メーカーとしては後発だったので、アジアの量産型工場が作らないような織りにくいものを織って価値をつくることを目指した。これまで織っていた人工セルロースの「テンセル」に加えて、経糸と緯糸の番手や素材を変えて風合い豊かな生地をつくっている。また、カシミヤやシルクのネップ糸など従来デニムに使われていなかった糸を用いたデニム生地を提案している。特にラグジュアリーブランドから評判が良く、「なんじゃこりゃ」「これはデニムなのか」という触り心地の生地を提案している。

WWD:織りにくい生地を織るのは熟練技が必要だ。どのように技術をつなげているのか。

篠原:当社もちょうど技術を引き継ぐタイミングにある。これまで「見て覚える」「手を動かしてみる」といった感覚的な方法で技術を継承してきたが、動画を撮影してマニュアル化しているところだ。中学卒業後に入社して現在74歳のベテランスタッフが機械を動かす様子や機械のメンテナンスや改造の方法を記録している。現場の技術は日々進化するし、改善が必要になってきているので技術のマニュアル化は必須だ。

WWD:自社の生産工程から生まれる残糸や端材を用いて靴下や手袋、ニットキャップやバブーシュやハンドバッグなどを提案する「シノテックス(SINOTEX)」ブランドを19年に始動した。

篠原:例えば靴下の編立は福山の老舗ニットメーカーに依頼するなど、地元企業と協働することで福山市にさまざまな技術が集積していることを訴求している。人と人がつながり、企業と企業がつながることで新たな価値を生み出したい。自社ECサイトや地元の百貨店、福山や広島の雑貨店などに卸していて、お土産的に販売している。

WWD:残糸や端材の活用以外でのサステナビリティの取り組みと成果は?

篠原:定番のデニム生地をアメリカ産のリジェネラティブコットン糸(環境再生型農業で栽培された綿糸)に変えた。欧州基準で戦うために現在GOTS認証を申請中だ。リサイクルポリエステル糸を用いたデニム生地の開発にも力を入れているが、先日出展した欧州の素材見本市では反応がいまいちで、強味の「テンセル」、カシミヤやシルクなどセルロース系繊維の反応が良かった。

工場の省エネ化も進めており、LEDへの切り替えや太陽光パネルの設置、省エネタイプの機械への切り替えなどで電気使用量は2018年に比べて約30%削減できた。近年特に電気料金も上がってきているのでコストにも効いている。

WWD:異業種・行政・教育機関との連携について、何を目指しどのように連携しているのか。

篠原:目的は福山市がデニムの町だという認知度を高めること。現在の市民の認知度は42.6%で、タオルで知られる今治ならばほぼ100%だろう。認知度を上げるために大学や高校に出向きデニムについて伝えたり小学校の工場見学を受け入れたりしている。結果は10~20年後になるが、地道な活動を重ねることで就職先の選択肢にデニム産業を残したいと考えている。こうした活動を続けると地元でマルシェに出店すると「デニム屋さんだ」となり、やり続けることでデニムファンを増やせていると感じる。

行政とは福山市が「備中備後はデニムの産地」をPRするために16年に始動した「備中備後ジャパンデニムプロジェクト」を軸に、福山の企業の成長や人材確保の取り組みを支援するための「グリーンな企業プラットフォーム事業」に参画したり、福山市と一緒に一般家庭のジーンズの回収リサイクルプロジェクトを行ったりしている。市役所や商業施設、ガソリンスタンドや銀行など市内6カ所で回収したジーンズを反毛(はんもう)して新たな生地にしてバッグにしたりしている。企業から声がかかり、「ネームプレートにしたい」という話もある。

WWD:回収から再生産する事業は手間がかかり事業として成立させるには難易度が高そうだが。

篠原:部分使いであればコストに見合う。例えば企業の制服の一部に使用し回収の取り組みに賛同してもらうなど、デニムを福山市内で循環させることで、地元での認知を高めることが目的にある。回収拠点が町中にあることで福山市がデニムの町であることを訴求できる。また「つくる責任、つかう責任、回収も日本一」になれば、一般の方にもデニムの町だという認知が広がるのではないか。

WWD:工場見学について、地元小学校の受け入れだけでなく多くの事業者も受け入れている。

篠原:バイヤーさんを対象とした工場見学ツアーは昨年30~40回ほど実施した。またスノーピークが日本各地のものづくりや文化を継承することを目的に始めた「ローカル ウエア ツーリズム」とも協働している。

WWD:2023年のG7広島サミットの「サミットバッグ」に採用された。

篠原:広島県織物工業会が製作した。企画はディスカバーリンクせとうち、染色は坂本デニム、撚糸は備後撚糸、織りは当社に加えてカイハラと中国紡績織が行い、縫製は大江被服とC2が手掛けた。福山は市内で生地から製品まで作ることができる。そのほか、福山市内に6軒の医療施設を運営する医療法人徹慈会と制服づくりも始めている。当社とカイハラが素材提供をして縫製はC2が手掛ける予定だ。

また、産婦人科から退院のお祝いに提供するマザーズバッグをデニムでつくりたいという要望があるなど、今まで声がかからなかったところからも依頼があり、地道な活動の成果が見えてきている。

WWD:現在の課題は?

篠原:福山市でデニムを盛り上げるための連携はあるが、サプライチェーン全体の足並みをそろえるのが難しいとも感じている。福山市は素材や技術の町で製品ブランドが少なく、一般の人への訴求が難しい。そんな中で小売店との協働は直接生活者に届けられる一つの方法だと感じている。例えば、松屋銀座が日本のものづくりを紹介する「東京クリエイティブサロン」で紹介いただいたり、広島市拠点のセレクトショップで東京にも店舗を持つアクセが産地デニムブランド「ジャパンデニム」を立ち上げ、販売していただいたり。ただ、地元福山でも盛り上がりを作りたいので、BtoB向けの事業者が多い中でどのような仕組みにするのかを地元の地域商社などと検討しているところだ。

WWD:地域として目指すところは?

篠原:地域指名で来てくれる人が増えること。例えばシャンパーニュのシャンパン、今治のタオルといったように、業界内はもちろん一般での認知度を上げたい。

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ポン・ジュノ監督が映画「ミッキー17」で描きたかったこととは? 「この映画はラブストーリーだ」

映画「パラサイト 半地下の家族」から約5年、待望の最新作「ミッキー17」を携えてポン・ジュノ監督とプロデューサーのチェ・ドゥホが来日した。エドワード・アシュトンの小説「ミッキー7」をポン・ジュノが脚色・監督した「ミッキー17」は、ヒューマンプリンティング(人体複製)により何度でも生まれ変われる“使い捨ての労働者”となった青年ミッキー(ロバート・パティンソン)が主人公。人間が宇宙船で入植した惑星を舞台に、17体目のミッキーと手違いで複製された18体目との出会いによって生じる騒動や、先住生物として登場するクリーチャーとの関係などを、VFXを駆使して描く超大作だ。ポン・ジュノと、彼の英語作品(「スノーピアサー」「オクジャ」「ミッキー17」)のプロデューサーを務めてきたチェ・ドゥホへのインタビューから、「ミッキー17」で彼らが試みたこと、そして世界が認めた天才映画作家、ポン・ジュノの現在地を探る。
※記事内にはエンディングに関する記述が含まれています。

タブーである“ヒューマンプリンティング”に惹かれた

「パラサイト 半地下の家族」(2019)がパルムドール(カンヌ国際映画祭)とオスカー(アカデミー賞)を獲得し、ポン・ジュノは名実ともに世界最高峰の映画監督となった。その成功を、ポン・ジュノはどう受け止めていたのだろうか? プレッシャーだったのか、創作の自由を手に入れた喜びなのか。2011年からポン・ジュノと仕事をしてきたチェ・ドゥホの見立てとは。

チェ・ドゥホ(以下、チェ):ポン監督は自身のフィルムメーカーとしての道筋を自分で考えながら、一歩一歩進んでここまで来ています。私から見ても、「スノーピアサー」と「オクジャ」の体験から彼はフィルムメーカーとして学び、変化しました。その結果、韓国を舞台にしながらも普遍性をもった「パラサイト」を作ることができたのだと思います。「ミッキー17」に取り組む上で、「パラサイト」の成功が生み出した大きな影は確かにありましたが、監督は「『パラサイト』の成功に見合う作品を作るにはどうしたらいいのだろう?」と考えるようなタイプではまったくありません。彼はとにかく仕事が好きなので、制作会社Plan Bを通じてワーナーから提案された原作を気に入り、それを映像化することに取りつかれていました。

そう、「ミッキー17」はポン・ジュノにとって初となる、自身のオリジナル脚本でもなければ自身で見つけてきた原作の映画化でもない、外部から与えられた題材の映画化なのだ。本作の主人公ミッキーは、借金取りから逃れるために、植民地となる惑星での過酷な「エクスペンダブルズ(使い捨て)」職に応募する。到着した惑星で、研究室のラットのように扱われるとはつゆ知らず。

ポン・ジュノ(以下、ポン):この原作のストーリーやコンセプトの中で私を最も惹きつけた要因は、絶対的なタブーである“ヒューマンプリンティング=人体複製”です。本来個人個人が尊重されるべき存在である人間が複製されるなんてことは決してあってはいけないのに、紙1枚の人間が何度もプリントされる場面を頭の中で想像していると、悲しくもあり面白おかしくもありました。原作の主人公は歴史学者、つまり知識人でしたが、映画では善良でふびんな労働者に変更しました。そんな彼が書類のように出力される職業に就くという設定そのものが、私の想像力を無限に刺激しました。

ヒューマンプリンティングにより、ミッキーは過酷な任務で命を落としても、ボタン1つで繰り返し生まれ変わる。ポン・ジュノの作品は極上のエンターテインメントでありながら、大きな括りでいうところの“人権”に関する問題提起を内包してきた。今回の主人公の属性の改変も、現代社会が抱える労働問題へのアンチテーゼだと感じた。

ポン:私の好みの問題です。無能で善良なミッキーは、1カ月の間に2回くらい同じ人に詐欺に遭って損をしてしまいそうな人物です。実際に友人のティモ(スティーブン・ユァン)に何度も利用されたことが原因で、このような状況に陥ってしまうわけですし。このように少し抜けたところのある彼がヒューマンプリントされることで、より多くのドラマが生まれるのではないかと思いましたし、私の中にミッキーをふびんに思う気持ち、同情心のようなものが生まれたのです。

「ポン監督は最初からはっきりとビジョンが見えている」

「ミッキー17」でチャレンジしたことを尋ねると、チェは「ポン監督と仕事をするときは、チャレンジという考え方をしないようにしています。彼は毎回『次はもっと(規模の)小さい映画にするから』と言いながら、いざ渡された脚本を読むと『……大きくなってるじゃないか!』の繰り返しなのです。パニックにならないように、平常心を保つようにしています」と笑う。

チェ:プロデューサーとブレストすることで自分が何をやりたいのかが見えてくる監督もいますが、ポン監督には最初からはっきりとビジョンが見えています。ただ、それをそのまま実現することが不可能だったりはします(笑)。プロデューサーとしての私の仕事は、彼がたくさんの最高のおもちゃと遊びながら映画を作れるように、ベストな状況を提供することです。とはいえ金銭的にやれることには限界があります。監督には3つやりたいことがあるけれど、どう考えても1つしか実現できないとなったときに、私はポン監督がやりたいことをちゃんと理解できているので、「3つは実現できないが、Aが一番大事だと思うのでそれをやりつつ、BとCの要素をどうストーリーの中にフィットしていくのか」という話し合いをします。

ポン・ジュノとチェ・ドゥホは2022年5月にロンドンに入り、8月から12月までロンドン北部にあるワーナーのリーブスデン・スタジオで撮影を行った。惑星の先住生物“クリーパー”を筆頭に、17体目のミッキーが死んでいないのに手違いでリプリントされてしまった18体目のミッキーと共演するシーンなど、本作ではVFXが重要な要素となっている。

チェ:私がポン監督ととても良いコラボレーションができているのは、彼が制作費の事情をおもんぱかってくれる映像作家だからだと思います。「グエムル-漢江の怪物-」で「クリーチャーを見せるために100カットしか撮れない」となったときに、彼は「であればここは音でクリーチャーを表現する」と工夫しました。監督はよく「制限や限界があるからこそよりクリエイティブなアイデアや、問題を解決するためのソリューションが出てくる」と言いますが、彼のそのプロセスには非常に興味深いものがあります。

「ミッキー7」を「ミッキー17」にした理由

労働者階級がヒエラルキーから抜け出せない過酷な現実を描いているとも読み取れる本作は、「パラサイト」までのポン・ジュノの作風にならうならば、ダークなトーンで描かれていてもおかしくない。ところが本作は過去作に比べると比較的映像が明るくカラフルで、俳優の演技もコミカルに寄せている。

ポン:クリーチャーが登場する惑星が雪原なので、映像がダークではないという印象を持たれたかもしれませんが、それ以上に全体的に、登場人物の中にある情緒がそのような印象を与えたのではないかと思います。前作までは、過酷な状況に置かれた人物たちが、最後には破滅の道に進んでしまい、暗い結末を迎えることが多かったと思います。この作品において暗くてダークで残酷なのはミッキーを取り巻く環境であって、その真っただ中にいるミッキーは最後まで破壊されることなくエンディングを迎えます。それは私の望みでもありました。彼が破壊されなかったのは、ナーシャ(ナオミ・アッキー)との愛があったからだったと思います。あえて言うと、私はこの映画をラブストーリーだと考えています。だからこの映画が少し明るく感じられるのではないでしょうか。

「監督にとって初めてのラブストーリーですね」と確認すると、日本語で「本当に初めてです」と言って我々を笑わせた。再び韓国語に戻り、ラブストーリーへの思いを少しだけ言い足した。

ポン:この映画は、小説から本当に多くの改変をしました。小説にはいない登場人物もいますし、新たに書き加えられた登場人物もいます。ディテールも多く変わっています。でも原作のチャプター18か19で、ミッキーとナーシャの胸が締めつけられるような愛の描写があったんです。このチャプターはぜひ映画に取り込みたいと思って書きました。原作者もそこの部分を見てとても喜んでくださいました。ただ、ラブストーリーはこれが最初で最後になりそうです(笑)。

改変といえば、原作の「ミッキー7」では、7体目のミッキーと8体目のミッキーが対峙する。ポンはそれを「ミッキー17」に“増殖”させた。チェは「監督が『死ぬシーンをたくさん見たい』と言って増やしました」と、とあるインタビューで冗談めかして答えていたが。

ポン:ハハハハハ!(笑)。ミッキーの職業は死ぬことです。職業というのはルーティーンなので、繰り返されることによってその職業の醍醐味が生まれます。「ミッキー37」や「ミッキー50」にすることもできましたが、いくつかの理由によって数は抑えました。ミッキー17からミッキー18へと変わっていくタイミングを描いたのは、日本でも同じかどうか分かりませんが、韓国では18歳というのは成人に切り替わる年齢でもあるからです。18という数字が持つニュアンスを生かしたいという気持ちもありました。

ポン・ジュノの作家性や独自性とは?

「ミッキー17」はポン・ジュノのフィルモグラフィーにおいて、言語、俳優、キャラクター、文化など、韓国の要素を一切含まない初めての作品となった。これは一つのミッションだったのか、それともネクストステージに進んだのか。

ポン:あえてそうしたというよりも、ストーリー上の理由でそうなりました。本作は宇宙の植民地への移住やヒューマンプリンティングが描かれた物語です。この世界では民族や国籍というものがあまり意味をもたないので、韓国だけでなく全ての人種性や国籍性というものをキャラクターから意図的に消しました。ここで使われている英語のアクセントは、アメリカ式やイギリス式などがないまぜになったものです。主人公がどこの国から来ているのかも明示はしていません。そうすることで人間の本質を描くことに集中したいと思ったのです。

チェ:ご指摘のとおり「ミッキー17」はポン監督にとって、韓国のカルチャーに一切のルーツをもたない初めての作品です。でも実は、「ミッキー17」において監督と私が絶対にやりたいこととして、「スノーピアサー」に出演したスティーブン・パクと「オクジャ」に出演したスティーブン・ユァン、つまり「2人のスティーブンを同じカットに収めること」がありました。スティーブン・パクはアメリカの映画界で韓国系アメリカ人としての道を切り開いたパイオニアであり、スティーブン・ユァンは次世代でもっとも活躍している俳優です。ですので、ガッツリ芝居をさせるというよりは、同じシーンで歩いている2人がフレームの中にさりげなく収まるというカットを撮ることが重要であり、ポン監督の夢だったのです。

作劇においては韓国文化を消しながら、アメリカで活躍する韓国系アメリカ人俳優へのリスペクトを込めたワンカットを忍ばせる。この粋な遊び心を共有するチェが思う、ポン・ジュノの作家性や独自性とは。

チェ:彼にはちょっと「変態的(perversion)」なところがあり、人生や世界の見方が普通の人とは違うのです。数日前にロサンゼルスで俳優組合のイベントがあり、我々の映画が上映されました。モデレーターのエイヴァ・デュヴァーネイ監督がポン監督に「あなたは監督として勇敢だ」と言っていました。私はそれを聞いて「なるほどな」と。彼がアーティストとして何も恐れていないのは、最初から全てがクリアに見えているからなのです。見えているものを撮影し、編集などのポストプロダクションでさらに極めていきます。彫刻を丁寧に削っていくように。恐れがないから、普通の監督だったらハリウッドの大きなスタジオの映画ではやらないようなとんでもないこともやってのけてしまう。そこがポン・ジュノ監督らしさであり、私や彼のファンは彼のそういうところを愛しているのです。

最後に、フィルムメーカーとして、今までで一番うれしかったことをポン監督に質問すると、「たくさんありますねえ〜」と数秒間考えてから、「ミッキー17」の写真集を手に取り、惑星の場面が映った写真を見せながら語り始めた。

ポン:雪原のシーンはイギリス北部のカディントンという場所に作ったセットで、塩を地面に敷き詰めて撮っています。格納庫のような場所だったので、実際にものすごく寒く、ロバート・パティンソンやマーク・ラファロの口から出ている白い息はCGではなく本物です。ある日この場所にケータリングでフードトラックが来てくれて、イギリスで有名なトーストおじさんが作るトーストを食べました。それがものすごくおいしくて、今でも忘れられません。残念ながら、あれから一度もあのトーストを食べる機会がないのです。アメリカ、韓国、日本、どこにもない。イギリスでしか食べられないものなのかもしれません。あのトーストに出会えたことがこの仕事をしていて一番うれしかったことかもしれません。(オスカーやパルムドールよりも?)もちろんそれもうれしかったですよ。もしかしたら私は今、お腹が空いているのかもしれません(笑)。

「ミッキー17」

■「ミッキー17」
⼈⽣失敗だらけの男“ミッキー”が⼿に⼊れたのは、何度でも⽣まれ変われる夢の仕事、のはずが――⁉ それは⾝勝⼿な権⼒者たちの過酷すぎる業務命令で次々と死んでは⽣き返る任務、まさに究極の“死にゲー”だった︕ ブラック企業のどん底で搾取されるミッキーの前にある⽇、⼿違いで⾃分のコピーが同時に現れ、事態は⼀変。使い捨てワーカー代表ミッキーの、予想を超える逆襲がはじまる︕

全国公開中
監督・脚本:ポン・ジュノ(「パラサイト 半地下の家族」)
出演:ロバート・パティンソン、ナオミ・アッキー、スティーブン・ユァン、トニ・コレット、マーク・ラファロ
配給:ワーナー・ブラザース映画 
© 2025 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
https://wwws.warnerbros.co.jp/mickey17/index.html

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三枝こころが導くゴルフブランド「ジュン アンド ロペ」原点回帰 着倒したから言える「これじゃ売れないよ」

ジュンは、ブランド設立15周年を迎えたゴルフウエアブランド「ジュン アンド ロペ(JUN & ROPE)」のディレクターに、モデルの三枝こころを起用した。同ブランドは2024年秋に、メンズで上質&ベーシックを打ち出す新ライン“ノワール”を立ち上げたが、改めて主軸であるウィメンズにも注力。三枝ディレクターはレギュラー77の好記録を持つアマチュアゴルファーであり、クローゼットの中は日常着よりもゴルフウエアの方が多いというほど、ウエアにもこだわりを持っている。これまでは同ブランドのトップアンバサダーを務めてきたが、今後はディレクターとして商品開発により深く携わる。ゴルフ好きとしても知られる佐々木進ジュン社長と三枝ディレクターに、話を聞いた。

WWDJAPAN(以下、WWD):ジュンとして、「ジュン アンド ロペ」を含むゴルフブランド事業は近年どのような状況か。

佐々木進ジュン社長(以下、佐々木):コロナ禍中のゴルフブームで若いゴルファーは急激に増え、ゴルフマーケットでは新規ブランドも多数生まれた。ただ、コロナが明けてレジャーの選択肢が増えた中では、ゴルフ人気はひと段落している。しかし、中高年をはじめとしたコロナ以前からのファンの間では、ゴルフ人気は根強い。そのような、成熟したライフスタイルを送っている方たちに向き合い、ゴルフ業界をしっかり成長させていく。それが当社の役割であると再認識している。

WWD:三枝さんをディレクターに起用した理由は?

佐々木:「ジュン アンド ロペ」では近年はメンズで“ノワール”を立ち上げるなど、メンズも拡充してきた。ただし、もともとはウィメンズから始まったブランドであり、改めてウィメンズにも注力し、再成長を図る。三枝さんはプライベートでも「ジュン アンド ロペ」のウエアを愛用し、着倒していただいている。実際に着た感想やゴルフ仲間からの反響を、良い点も悪い点も事業部にどんどんフィードバックしてくださっている。ブランドを再成長させるためにどうしたらいいか、事業部としては悩んだ部分もあったが、三枝さんから「『ジュン アンド ロペ』は上品で、おしゃれなかわいらしさとスポーツウエアとしてのバランス感が最大の魅力。そこを突き詰めるべき」というコメントをいただいて、改めて自信を持った。事業部を長くやっていると、ブランド本来の良さが分からなくなってしまうこともある。そんなときに、ブランド元来の魅力を思い出すきっかけをいただいた。事業部のメンバー以上に、ブランドの魅力を俯瞰で理解していただいている。そこが三枝さん起用の最大の決め手だ。

「攻めているけど
上品さもある」

WWD:三枝さんと「ジュン アンド ロペ」との出合いは。

三枝こころ「ジュン アンド ロペ」ディレクター(以下三枝):9年間アンバサダーを務めてきた。展示会に初めてお邪魔したのは15年の秋のこと。当時はまだゴルフウエアというとスポーツブランドのイメージが強く、一般アパレルのようなかわいいウエアはあまりなかった。その中で「ジュン アンド ロペ」は、色使いやグラフィックもスポーティーすぎず、攻めているけれど上品さもあって、こんなブランドがあるのかと衝撃を受けた。ピンクという色1つをとっても、ただのピンクではなく絶妙なピンク。しかも機能性もしっかりしており、他にはないゴルフウエアだなと愛用してきた。

コロナ禍のゴルフブームの少し前にも、「#ゴルフ女子」としてインスタグラムでかわいいウエアを着こなす女性ゴルファーに注目が集まった時代があった。「#ゴルフ女子」ブームやコロナ禍のゴルフブームの中で、ブランドアンバサダーを務めさせていただき、ゴルフ本を出版し、ゴルフにフォーカスした自身のyoutubeチャンネルを立ち上げて何百本と動画を出し、女子向けゴルフイベントをやらせてもらった際は何度も満員御礼を出すなど、ゴルフで“魅せる”ことはやり切ってきた自負がある。この9年の間に、母親になるなどの変化もあった。今37歳になって、さてここからどうしようか、どうゴルフと向き合っていこうかと考えていたときに「ジュン アンド ロペ」のディレクター就任の話をいただき、そんな道も開けるのかと非常にありがたく感じているし、責任の大きさに緊張感も持っている。

WWD:ディレクター就任を報告しているYoutubeの中では、事業部のメンバーから、「三枝さんには『こんなんじゃゴルフできない』『なんでこんなデザインにしちゃったの?』など辛口の意見もいただく」と明かされている。

三枝:展示会で見るだけでは分からない点も多いが、ビジュアル撮影時には毎シーズン、全アイテムを着用する。そうすると、ファッション好きのゴルファー目線で気になる点が出てくる。例えば、「ファスナーの位置がここでは邪魔だ」とか、「このトップスはスイングする時に肩周りが動かしにくい」といったことを、撮影時には必ず伝えるようにしてきた。「バックリボン付きのデザインがかわいいから、このトップスはカラーバリエーションをもっと増やすべき」といった提案もしてきた。バックリボン付きのデザインは、一般アパレルだけでなくゴルフウエアでもはやったが、ゴルフブランドの中では「ジュン アンド ロペ」の提案が比較的早かったように思う。

佐々木:直近では、「このニットは重い」というご指摘をいただいている(笑)。

三枝:デザインや色使いはすごくすてきなニットなのに、重さだけが惜しいと強く感じたのでお伝えした。近年はゴルフ用インナーのクオリティーが上がっている。ニットを分厚くしなくても、インナーに保温性があるので不都合はない。私は夏にノースリーブのワンピースなどを着る際も、日焼けを防ぐためにロングスリーブの機能性インナーを合わせるという着こなしを自分流でよくしているが、私のスタイリングを発信源として、そうしたレイヤードが女子のプロゴルファーなどの間にも広がったとゴルフメディアの方に言っていただいたこともある。「ジュン アンド ロペ」のアイテム1つ1つがもともとすてきだからこそ、スタイリングが映える。

「アンバサダー時代とは
プレッシャーの大きさが異なる」

WWD:近年のゴルフマーケットでは、モノトーン中心のストリートテイストのウエアが支持される傾向がある。

佐々木:そうした傾向は確かにあるし、ゴルフ市場の中でさまざまな選択肢があるのはいいこと。本来ゴルフは上品なスポーツで、ゴルフの上品なあり方に共感する人が増えて、ゴルフが発展していくのは当社としても望むところだ。ゴルフはボールを打つというスポーツとしての側面だけでなく、その周囲に旅、仲間とのコミュニケーション、精神を整えるといったさまざまな価値があり、ポテンシャルは大きい。非常にすばらしいスポーツかつ文化であることを、もっと幅広い方に知っていただきたい。

WWD:ディレクターに就任し、三枝さんはアンバサダー時代にはなかったプレッシャーも感じているか。

三枝:出てきたものに対して意見を言うことと、どういうものがいいか、イチから意見を出すのとでは全く異なる。アンバサダー時代にもコラボとして数型の企画に携わったことがあるが、コラボは自分の好きなものだけを作ればよかった。ディレクターとしては、シーズンに数十型ものアイテムに責任を持たなければならない。好きなものだけでなく、シンプルなもの、スポーティーなものなど、全体のバランスを追求していかなければならず、そこが難しい。コラボ商品に反響があった際もすごくうれしかったが、ディレクターになってからの商品がヒットしたときの喜びは、恐らくその何倍にもなりそうだ。

「絶不調もあるのがゴルフの面白さ」

WWD:三枝さんはいつゴルフを始めたのか。

三枝:始めたのは21歳のとき。練習場に初めて行ってハマってしまい、その週にはラウンドに行って、空振りもしたけどパーも取れた。とにかく楽しくて、人に会えば「ゴルフ行きましょう」と声掛けし、すぐに年間100ラウンドを回るようになった。目標スコアを達成したら、次は試合に出てみたい。試合に出たら、成績を残したい。次はゴルフ番組に出たい、自分で番組を持ちたいといったように、ゴルフを通して向上心やネットワークがどんどん広がっていった。

WWD:最後に、佐々木社長と三枝さんの最近のゴルフの成績は。

佐々木:あまり良くない(笑)。でもそんな時期もあるのがゴルフの面白さ。例えばテニスやマラソン、野球は、強い人はいつも強いが、ゴルフはうまい人やプロでさえ絶不調になることがある。同じプレーができる再現性が低く、そこに歯がゆさがある。しかし、毎回変わらずできるようになってしまったらきっとつまらない。繰り返しになるが、スポーツとしてだけでなく、仲間とのコミュニティーやジェントルマンの精神など、文化として受け継がれている面も奥深い。

三枝:私も絶不調で、ディレクターに就任したのにどうしようかと思っている(笑)。これを機に一度リセットして、新しいウエアのデザインを考えながら、技術を磨き直していく。まさかこんなに不調になるとは思っていなかった。上へ上へ頑張らなきゃという意識で、辞めたくてもゴルフは辞められない。ディレクターに就いたことで、どうしてもカジュアルになりがちなゴルフウエアを、もっと女性が楽しめるものに変えていきたい。ゴルフの経験とモデルとしての知見を生かし、他のブランドが真似したくなるようなデザインを考え、「ジュン アンド ロペ」のファンを増やしていきたい。

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北青山のTWO ROOMSがエンターテインメントダイニングとしてリニューアル 帽子職人トム・オブライアンとのコラボルームも

2009年に開業した北青山のTWO ROOMSが4月2日、エンターテイメントダイニングとしてリニューアルオープンする。16年間で築いてきたコンセプトをアップデートし、インテリアや料理、音楽、アートなど、多彩なコンテンツでもてなす新たなホスピタリティー空間を提供する。

まるで世界を旅するような気分にさせるフュージョン料理は、オーストラリア出身のマシュー・クラブ(Matthew Crabbe)シェフが率いるチームによるもの。新メニューには和牛タルタルやウニ、キャビアなどを包み込んだ“海苔ラップ”や鰹の藁焼きを菜の花と合わせて仕立てた“鰹の藁焼きカルパッチョ-菜の花&カラスミ(高知)”などをラインアップ。シグネチャーの“TWO ROOMS シーザーサラダ”や、シェフのこだわりが詰まった“クラブケーキボール”など、長年愛され続けてきたメニューも並ぶ。マシューシェフは「TWO ROOMSはこれまでも洗練されたダイニング体験を提供してきたが、今回のリニューアルで更なる進化を遂げる。日本の美意識や職人技にインスパイアされた新たなコンセプトは、料理の精緻さ、季節感、そして芸術性を大切にしながら最高の食材をシンプルかつ洗練されたスタイルで提供することを目指す」とコメントした。

内装は、テラスや大きな窓から望む外景との調和、上質さと軽やかさのバランスを意識した空間にデザイン。ライトサンドやキャメル、ハンターグリーンなどの柔らかな色彩と、御影石、真鍮、レザーなどの自然素材を融合し、都心の風景と自然光と共に感じられる情調を重視した造りになっている。シーンに合わせ、洗練されたエレガントがテーマの“アトリエ246”、デジタルアクティベーションで現代的なエッセンスを加えた“ヴィスタラウンジ”の2つの空間を楽しめる。さらに“ヴィスタラウンジ”のワインセラーの奥には、創造性、ファッション、クラフツマンシップを讃える新たなプライベートダイニングルームが登場。ここにはオーストラリア出身で、東京を拠点に展開するハットーメーカー「ボナ・カペロ(BONA CAPELLO)」を展開するトム・オブライアンとのコラボレーションにより、世界の帽子文化の進化を表現したインスタレーションが掲示されている。

また毎週金曜日には、ジャズの生伴奏を聴きながらディナーを楽しめるほか、22時以降は世界で活躍するDJを迎えたパフォーマンスも披露。エンターテインメントダイナーとして、よりイマーシブな体験を提供していくという。

◼︎TWO ROOMS
オープン日:4月2日
住所:東京都港区北青山3-11-7 AO ビル 5階
営業時間:月~火曜日11:30~26:00、水~金曜日11:30~27:00、土曜日11:00~27:00、日曜日11:00~24:00

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北青山のTWO ROOMSがエンターテインメントダイニングとしてリニューアル 帽子職人トム・オブライアンとのコラボルームも

2009年に開業した北青山のTWO ROOMSが4月2日、エンターテイメントダイニングとしてリニューアルオープンする。16年間で築いてきたコンセプトをアップデートし、インテリアや料理、音楽、アートなど、多彩なコンテンツでもてなす新たなホスピタリティー空間を提供する。

まるで世界を旅するような気分にさせるフュージョン料理は、オーストラリア出身のマシュー・クラブ(Matthew Crabbe)シェフが率いるチームによるもの。新メニューには和牛タルタルやウニ、キャビアなどを包み込んだ“海苔ラップ”や鰹の藁焼きを菜の花と合わせて仕立てた“鰹の藁焼きカルパッチョ-菜の花&カラスミ(高知)”などをラインアップ。シグネチャーの“TWO ROOMS シーザーサラダ”や、シェフのこだわりが詰まった“クラブケーキボール”など、長年愛され続けてきたメニューも並ぶ。マシューシェフは「TWO ROOMSはこれまでも洗練されたダイニング体験を提供してきたが、今回のリニューアルで更なる進化を遂げる。日本の美意識や職人技にインスパイアされた新たなコンセプトは、料理の精緻さ、季節感、そして芸術性を大切にしながら最高の食材をシンプルかつ洗練されたスタイルで提供することを目指す」とコメントした。

内装は、テラスや大きな窓から望む外景との調和、上質さと軽やかさのバランスを意識した空間にデザイン。ライトサンドやキャメル、ハンターグリーンなどの柔らかな色彩と、御影石、真鍮、レザーなどの自然素材を融合し、都心の風景と自然光と共に感じられる情調を重視した造りになっている。シーンに合わせ、洗練されたエレガントがテーマの“アトリエ246”、デジタルアクティベーションで現代的なエッセンスを加えた“ヴィスタラウンジ”の2つの空間を楽しめる。さらに“ヴィスタラウンジ”のワインセラーの奥には、創造性、ファッション、クラフツマンシップを讃える新たなプライベートダイニングルームが登場。ここにはオーストラリア出身で、東京を拠点に展開するハットーメーカー「ボナ・カペロ(BONA CAPELLO)」を展開するトム・オブライアンとのコラボレーションにより、世界の帽子文化の進化を表現したインスタレーションが掲示されている。

また毎週金曜日には、ジャズの生伴奏を聴きながらディナーを楽しめるほか、22時以降は世界で活躍するDJを迎えたパフォーマンスも披露。エンターテインメントダイナーとして、よりイマーシブな体験を提供していくという。

◼︎TWO ROOMS
オープン日:4月2日
住所:東京都港区北青山3-11-7 AO ビル 5階
営業時間:月~火曜日11:30~26:00、水~金曜日11:30~27:00、土曜日11:00~27:00、日曜日11:00~24:00

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藤田ニコル「遠回りして見つけた、“かわいい”の近道」 100歳になってもギャルマインドで突き進む

PROFILE: 藤田ニコル/モデル・タレント

PROFILE: (ふじた・にこる)1998年2月20日生まれ。オスカープロモーション所属。愛称は「にこるん」。2009年「第13回ニコラモデルオーディション」でグランプリを獲得し、専属モデルとなる。14年からは雑誌「Popteen(ポップティーン)」で活動し、バラエティー番組などでも活躍。17年からは「ViVi」の専属モデルを務める。2023年に結婚。アパレルブランド「カルナムール(CALNAMUR)」、コスメブランド「シーメル(cimer)」などをプロデュースし、24年からはパーソナルジム「スイ(sui)」も経営している。 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

2025年3月、7年半務めた「ViVi(ヴィヴィ)」の専属モデルを卒業する藤田ニコル。同誌との最後の大きな試みとして美容本「私が垢抜けた82の方法」を制作した。これまで、写真集やスタイルブックなどの書籍を出版してきたが、美容をテーマとした1冊は初とのこと。

「私が垢抜けた82の方法」では美容遍歴を振り返り、メイクからスキンケア、ボディーメイクなどに加え、今回初めて語ったという美容医療からSNSで話題をさらった“花嫁メイク”まで、余すことなく出し切った。「あか抜けには必須」と藤田が語るマインド面についても掘り下げ、新しい門出にふさわしい充実の1冊が完成した。藤田にその読みどころと今後の展望を聞く。

本には今まで話してこなかった美容医療や歯のことまで

WWD:「私が垢抜けた82の方法」を出版した背景は?
藤田ニコル(以下、藤田):卒業前に「ViVi」チームと一緒に本を作りたいと思い、美容本「私が垢抜けた82の方法」の制作をスタートしました。これまでの人生を振り返ると、見た目も内面も「あか抜けた」と自分で感じたことから、テーマは美容がいいと提案しました。ファンからも、ファンじゃない方からも「最近かわいくなった」という声をもらうことが増えたんです。

WWD:「82」という数字に何か意味があるのか。
藤田:本を作るために20時間インタビューを受けたのですが……(笑)、美容にまつわることを数えたら82個だったんです。本当は100個と言いたいところですが、82個がリアル。自分が日常でやっていたことが、気付けば美容法になっていて、マインドの部分などは「こういう性格だったんだ」と自分を改めて知れた部分もありました。

WWD:美容本だからこそ明かしたことも?
藤田:今まで話したことがないパートもあります。本なら買って開いてくれる方だけが見てくれるので、全部さらけ出してもいいかもって思ったんです。SNSだといろいろな人が見てるので、何を言われるか分からないですから。これまであえて言っていなかったことも赤裸々に全部書いたし、特に内面について触れている部分は読んでもらいたいな。

WWD:美容医療や審美歯科についても率直な感想が書かれてあり、読者にとっては大変参考になる。
藤田:美容医療のことは友達同士で話したりするけれど、別に隠していたわけじゃない。わざわざ言うことでもないと思って、SNSでは発信していませんでした。でも、自分の美容を振り返ったときに、やっぱり美容医療や審美歯科がターニングポイントになっている。良いことも悪いことも全部みんなに教えた方が、美容本として正直だと思ったので取り上げました。

ちなみに、好きなエピソードは自分の前歯。写真で分かりやすく第1形態から第3形態まで並べているページがあるのですが、歯の印象でどんどんあか抜けていったのが分かると思います。

WWD:最短ルートであか抜けたい人に、おすすめなことを一つ挙げるとしたら。
藤田:まずは、清潔感。これを意識してヘアメイク、身だしなみを整えるだけでも印象が大きく変わると思います。メイクは道具も何も変えなくていいし、明日からできる。いつもの工程を丁寧に、まつ毛は1本でもダマになっていないか、眉毛は左右対称か、ファンデーションはむらなくきれいに塗れているか。細かなことを意識すると、あか抜けて見えるのでトライしてみてほしい。

WWD:あか抜けに直結したことが具体的に書いてある。
藤田:いろいろな失敗や経験を経て、今の私があるんです。別に今も完璧じゃなくて、常にかわいいを更新し続けていきたい。だから「私が垢抜けた82の方法」には、私が遠回りして見つけた“かわいい”の近道を詰め込みました。

モデルは新しい自分を見つける場、テレビはビジュアル研究の場

WWD:モデルとして撮影に臨むときは、自分のアイデアやリクエストもヘアメイクに伝える?
藤田:モデルの仕事はブランドの世界観や商品の魅力を伝えることが一番大切なので、自分の意見は言いません。その企画に合ったファッションやメイクが、私の中では“正解”だと思っています。自分の意見を伝えてしまうとコンセプトとずれてしまったりして、ヘアメイクさんを困らせてしまうので、自分が盛れていなくても気にしないです。

あと、いつもの盛れるスタイルに誘導しちゃうと、新しい自分に出会えないから。モデルの現場は新しい自分を引き出してもらえるチャンスなので、プロに委ねます。「盛れてないな〜」と思う日もありますが(笑)、企画が成り立っているなら問題ないし、それも経験の一つです。

WWD:テレビでは?
藤田:テレビ収録は、ビジュアル研究の場にしています。自分でコスメを持参してヘアメイクさんに使ってもらったり、試してみたいビジュアルに挑戦したりしています。そうすると、SNSでみんなが「盛れてる」「髪形かわいい」とか、「そうでもない」「もっとこうしたらかわいいのに」などの声を投稿してくれるので、「なるほど!」と思って意見を参考にすることもあります。誹謗中傷のコメントはスルーするけどね。

パーソナルカラーは全無視「ときめきでお買い物をしよう」

WWD:コスメはどこで購入している?
藤田:オンラインはもちろん、原宿の「アットコスメトーキョー」やドン・キホーテに行ってお買い物をしています。最新のものやSNSでバズっている商品は絶対にゲットしないと気が済まなくて、メイクやファッションを楽しむには、いかにミーハーであるかが大事だと思っています。本にも書いたのですが、リップの色見本がECサイトとかSNSに載っていると思うんですけど、あの発色は信じないこと。みんなそれぞれ唇の色は違うから、塗っても全く同じにはならないからね!

WWD:最近は自分のパーソナルカラーを認識している人が増えていて、それを基準にショッピングする場合も多いと思いますが。
藤田:私はイエベ春ですが、パーソナルカラーは全無視でコスメを買っています。ほしい!と思ってときめいたコスメが買えないなんてしんどい。だから、合わないとされているカラーでもビビッと来たら買うようにしています。

自分に似合わないかも?と思う色味を取り入れるときはコツがあって、ほかのパーツのメイクでバランスを取るんです。私は青みピンクが好きなんですけど、似合わないとされているので、ブルーの化粧下地で肌色から青み系に寄せてみたり、カラーコンタクトをグレー系にしたりと、統一感を出すんです。似合わないからと諦めるのではなく、自分にハマるように持っていくんです。

SNSの情報が多すぎて、(使う前に)否定された気分になってしまうと思うけれど、みんな「ときめき」でお買い物をしようよ。その気持ちを大切にしてほしい。

WWD:みんな正解を求めすぎている?
藤田:そうだと思います。「私似合わないから」とみんな口癖のように言うけれど、じゃあいつもの顔のままで、新しい自分を発見できなくてもいいの?って。お気に入りの一軍コスメに新しいエッセンスを入れていかなきゃ、つまらないよ。

「100歳になってもギャルマインドでいたい」

WWD:2023年8月に結婚を発表。SNSで発信した花嫁美容は、話題になっていた。
藤田:結婚式のときは、人生史上最高にビジュアルが良かった。たくさんの反響があって、正直「こんなに需要があるのか!」とびっくりしました。コスメや美容が好きなことは公言していたけど、みんなまねしてくれるんだと思ってうれしかったし、自信にもつながりました。

WWD:2月で27歳になりましたが、これまでと変わらない点は?
藤田:(即答で)ギャルマインド!50歳、100歳になってもこの気持ちで突き進みます。自分で考えて行動して、どうにかできるのがギャル。私は仕事でもプライベートでもギャルを経験したことが良かったし、今の自分にも生きていると思います。

WWD:この本の出版のきっかけでもある「ViVi」の卒業について、心境は?
藤田:7年半という長さに私自身もびっくりしています。どの雑誌の専属モデルよりも長く、寂しい気持ちはあるけれど、悔いはないし、やり切ったという気持ちが一番ですね。

WWD:最も印象に残っている撮影は?
藤田:初登場が表紙だったので、プレッシャーで震えましたね。大人になりたいギャルマインド全開の私が、かっこよくて、かわいくて、きれいで、一人一人の個性も立っていた「ViVi」モデルの中に飛び込んで。最初は否定的な声も届いたけれど、結果的に読者の皆さんに認めてもらえて7年半も頑張れました。ちゃんと「ViVi」に貢献できていたと思います。

WWD:ディレクターを務めているファッションブランド「カルナムール」も新宿ルミネエストがオープンして1年が経過。振り返ってみて。
藤田:新宿ルミネエストにお店を構えたことで、たくさんの人に「カルナムール」を知ってもらえた1年だった。だからこそ、これからも皆さんに来たいと思ってもらえるお店作りをもっと頑張りたいです。服作りは本当に大変ですが、それが楽しい。ゆくゆくは、自分の名前がなくても売れるブランドになるよう、まだまだ育てていきたいと思います。

WWD:今後の展望を教えてください。
藤田:ここまで全力疾走で駆け抜けてきたので、まずは充電したいかな。これからも大好きなモデルの仕事は軸にしつつ、まだ考えている途中ですが、皆さんがびっくりするようなプランを練る期間にしたいです。

これまでインスピレーションを得る時間がすごく少なくて、新しい刺激に触れてなかったので、4月からはいろんなものを吸収しに出掛けたり、旅行したりしたい!結果仕事のためなんですけど、さまざまなことをインプットして、もうワンランク成長した藤田ニコルになりたいです。

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藤田ニコル「遠回りして見つけた、“かわいい”の近道」 100歳になってもギャルマインドで突き進む

PROFILE: 藤田ニコル/モデル・タレント

PROFILE: (ふじた・にこる)1998年2月20日生まれ。オスカープロモーション所属。愛称は「にこるん」。2009年「第13回ニコラモデルオーディション」でグランプリを獲得し、専属モデルとなる。14年からは雑誌「Popteen(ポップティーン)」で活動し、バラエティー番組などでも活躍。17年からは「ViVi」の専属モデルを務める。2023年に結婚。アパレルブランド「カルナムール(CALNAMUR)」、コスメブランド「シーメル(cimer)」などをプロデュースし、24年からはパーソナルジム「スイ(sui)」も経営している。 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

2025年3月、7年半務めた「ViVi(ヴィヴィ)」の専属モデルを卒業する藤田ニコル。同誌との最後の大きな試みとして美容本「私が垢抜けた82の方法」を制作した。これまで、写真集やスタイルブックなどの書籍を出版してきたが、美容をテーマとした1冊は初とのこと。

「私が垢抜けた82の方法」では美容遍歴を振り返り、メイクからスキンケア、ボディーメイクなどに加え、今回初めて語ったという美容医療からSNSで話題をさらった“花嫁メイク”まで、余すことなく出し切った。「あか抜けには必須」と藤田が語るマインド面についても掘り下げ、新しい門出にふさわしい充実の1冊が完成した。藤田にその読みどころと今後の展望を聞く。

本には今まで話してこなかった美容医療や歯のことまで

WWD:「私が垢抜けた82の方法」を出版した背景は?
藤田ニコル(以下、藤田):卒業前に「ViVi」チームと一緒に本を作りたいと思い、美容本「私が垢抜けた82の方法」の制作をスタートしました。これまでの人生を振り返ると、見た目も内面も「あか抜けた」と自分で感じたことから、テーマは美容がいいと提案しました。ファンからも、ファンじゃない方からも「最近かわいくなった」という声をもらうことが増えたんです。

WWD:「82」という数字に何か意味があるのか。
藤田:本を作るために20時間インタビューを受けたのですが……(笑)、美容にまつわることを数えたら82個だったんです。本当は100個と言いたいところですが、82個がリアル。自分が日常でやっていたことが、気付けば美容法になっていて、マインドの部分などは「こういう性格だったんだ」と自分を改めて知れた部分もありました。

WWD:美容本だからこそ明かしたことも?
藤田:今まで話したことがないパートもあります。本なら買って開いてくれる方だけが見てくれるので、全部さらけ出してもいいかもって思ったんです。SNSだといろいろな人が見てるので、何を言われるか分からないですから。これまであえて言っていなかったことも赤裸々に全部書いたし、特に内面について触れている部分は読んでもらいたいな。

WWD:美容医療や審美歯科についても率直な感想が書かれてあり、読者にとっては大変参考になる。
藤田:美容医療のことは友達同士で話したりするけれど、別に隠していたわけじゃない。わざわざ言うことでもないと思って、SNSでは発信していませんでした。でも、自分の美容を振り返ったときに、やっぱり美容医療や審美歯科がターニングポイントになっている。良いことも悪いことも全部みんなに教えた方が、美容本として正直だと思ったので取り上げました。

ちなみに、好きなエピソードは自分の前歯。写真で分かりやすく第1形態から第3形態まで並べているページがあるのですが、歯の印象でどんどんあか抜けていったのが分かると思います。

WWD:最短ルートであか抜けたい人に、おすすめなことを一つ挙げるとしたら。
藤田:まずは、清潔感。これを意識してヘアメイク、身だしなみを整えるだけでも印象が大きく変わると思います。メイクは道具も何も変えなくていいし、明日からできる。いつもの工程を丁寧に、まつ毛は1本でもダマになっていないか、眉毛は左右対称か、ファンデーションはむらなくきれいに塗れているか。細かなことを意識すると、あか抜けて見えるのでトライしてみてほしい。

WWD:あか抜けに直結したことが具体的に書いてある。
藤田:いろいろな失敗や経験を経て、今の私があるんです。別に今も完璧じゃなくて、常にかわいいを更新し続けていきたい。だから「私が垢抜けた82の方法」には、私が遠回りして見つけた“かわいい”の近道を詰め込みました。

モデルは新しい自分を見つける場、テレビはビジュアル研究の場

WWD:モデルとして撮影に臨むときは、自分のアイデアやリクエストもヘアメイクに伝える?
藤田:モデルの仕事はブランドの世界観や商品の魅力を伝えることが一番大切なので、自分の意見は言いません。その企画に合ったファッションやメイクが、私の中では“正解”だと思っています。自分の意見を伝えてしまうとコンセプトとずれてしまったりして、ヘアメイクさんを困らせてしまうので、自分が盛れていなくても気にしないです。

あと、いつもの盛れるスタイルに誘導しちゃうと、新しい自分に出会えないから。モデルの現場は新しい自分を引き出してもらえるチャンスなので、プロに委ねます。「盛れてないな〜」と思う日もありますが(笑)、企画が成り立っているなら問題ないし、それも経験の一つです。

WWD:テレビでは?
藤田:テレビ収録は、ビジュアル研究の場にしています。自分でコスメを持参してヘアメイクさんに使ってもらったり、試してみたいビジュアルに挑戦したりしています。そうすると、SNSでみんなが「盛れてる」「髪形かわいい」とか、「そうでもない」「もっとこうしたらかわいいのに」などの声を投稿してくれるので、「なるほど!」と思って意見を参考にすることもあります。誹謗中傷のコメントはスルーするけどね。

パーソナルカラーは全無視「ときめきでお買い物をしよう」

WWD:コスメはどこで購入している?
藤田:オンラインはもちろん、原宿の「アットコスメトーキョー」やドン・キホーテに行ってお買い物をしています。最新のものやSNSでバズっている商品は絶対にゲットしないと気が済まなくて、メイクやファッションを楽しむには、いかにミーハーであるかが大事だと思っています。本にも書いたのですが、リップの色見本がECサイトとかSNSに載っていると思うんですけど、あの発色は信じないこと。みんなそれぞれ唇の色は違うから、塗っても全く同じにはならないからね!

WWD:最近は自分のパーソナルカラーを認識している人が増えていて、それを基準にショッピングする場合も多いと思いますが。
藤田:私はイエベ春ですが、パーソナルカラーは全無視でコスメを買っています。ほしい!と思ってときめいたコスメが買えないなんてしんどい。だから、合わないとされているカラーでもビビッと来たら買うようにしています。

自分に似合わないかも?と思う色味を取り入れるときはコツがあって、ほかのパーツのメイクでバランスを取るんです。私は青みピンクが好きなんですけど、似合わないとされているので、ブルーの化粧下地で肌色から青み系に寄せてみたり、カラーコンタクトをグレー系にしたりと、統一感を出すんです。似合わないからと諦めるのではなく、自分にハマるように持っていくんです。

SNSの情報が多すぎて、(使う前に)否定された気分になってしまうと思うけれど、みんな「ときめき」でお買い物をしようよ。その気持ちを大切にしてほしい。

WWD:みんな正解を求めすぎている?
藤田:そうだと思います。「私似合わないから」とみんな口癖のように言うけれど、じゃあいつもの顔のままで、新しい自分を発見できなくてもいいの?って。お気に入りの一軍コスメに新しいエッセンスを入れていかなきゃ、つまらないよ。

「100歳になってもギャルマインドでいたい」

WWD:2023年8月に結婚を発表。SNSで発信した花嫁美容は、話題になっていた。
藤田:結婚式のときは、人生史上最高にビジュアルが良かった。たくさんの反響があって、正直「こんなに需要があるのか!」とびっくりしました。コスメや美容が好きなことは公言していたけど、みんなまねしてくれるんだと思ってうれしかったし、自信にもつながりました。

WWD:2月で27歳になりましたが、これまでと変わらない点は?
藤田:(即答で)ギャルマインド!50歳、100歳になってもこの気持ちで突き進みます。自分で考えて行動して、どうにかできるのがギャル。私は仕事でもプライベートでもギャルを経験したことが良かったし、今の自分にも生きていると思います。

WWD:この本の出版のきっかけでもある「ViVi」の卒業について、心境は?
藤田:7年半という長さに私自身もびっくりしています。どの雑誌の専属モデルよりも長く、寂しい気持ちはあるけれど、悔いはないし、やり切ったという気持ちが一番ですね。

WWD:最も印象に残っている撮影は?
藤田:初登場が表紙だったので、プレッシャーで震えましたね。大人になりたいギャルマインド全開の私が、かっこよくて、かわいくて、きれいで、一人一人の個性も立っていた「ViVi」モデルの中に飛び込んで。最初は否定的な声も届いたけれど、結果的に読者の皆さんに認めてもらえて7年半も頑張れました。ちゃんと「ViVi」に貢献できていたと思います。

WWD:ディレクターを務めているファッションブランド「カルナムール」も新宿ルミネエストがオープンして1年が経過。振り返ってみて。
藤田:新宿ルミネエストにお店を構えたことで、たくさんの人に「カルナムール」を知ってもらえた1年だった。だからこそ、これからも皆さんに来たいと思ってもらえるお店作りをもっと頑張りたいです。服作りは本当に大変ですが、それが楽しい。ゆくゆくは、自分の名前がなくても売れるブランドになるよう、まだまだ育てていきたいと思います。

WWD:今後の展望を教えてください。
藤田:ここまで全力疾走で駆け抜けてきたので、まずは充電したいかな。これからも大好きなモデルの仕事は軸にしつつ、まだ考えている途中ですが、皆さんがびっくりするようなプランを練る期間にしたいです。

これまでインスピレーションを得る時間がすごく少なくて、新しい刺激に触れてなかったので、4月からはいろんなものを吸収しに出掛けたり、旅行したりしたい!結果仕事のためなんですけど、さまざまなことをインプットして、もうワンランク成長した藤田ニコルになりたいです。

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敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 【PR職の流儀】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。1回目は、ラグジュアリーPRという仕事の流儀について。

華やかなファッション業界の酸いも甘いも噛み分けて

まずは南さんのこれまでのキャリアから。アメリカの大学でマーケティングを専攻し、外資系企業などでキャリアをスタート。その後、フランスを代表するブランドである「クリスチャン・ディオール(CHRISTIAN DIOR)」(当時)から、ファッション業界に飛び込むことに。さらにイタリアの「ダミアーニ(DAMIANI)」や「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」でPRとしての経験を積み、2004年には、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」に入社し、8年間ウィメンズとメンズのPRに。当時2000年頃はラグジュアリー業界でも黄金の時代と呼ばれ、多くのファッションブランドがメガイベントを日本で開催し輝いていた。「ルイ・ヴィトン」もシャンゼリゼのオープンやパリ以外で初めて行う東京夢の島公園でのファッションショー、アーティストとのコラボレーション等、業界でも先駆けとなるさまざまなプロジェクトを実現させ、前人未到の道を突き進んでいた。また、南さんに大きな影響を与えた日本における海外ラグジュアリーブランドPRの第一人者といわれる齋藤牧里さんに出会ったのもこの時。彼女から、本国と日本の架け橋となるPRのあり方やクリエイティブな仕事をする大切さを多く学んだ。

その後、12年に米国ニューヨークの「マイケル・コース(MICHAEL KORS)」でPRのトップに就き、4年で日本での大幅なビジネス拡大およびブランド復活に貢献。17年、「ドルチェ&ガッバーナ」にPR&コミュニケーション ディレクターとして復帰。デザイナー来日による伊勢丹新宿本店やイタリア大使館でのファッションショーやTVアニメ「呪術廻戦」とのコラボレーションを実現し、デジタルキャンペーンをはじめ渋谷のど真ん中にポップアップを展開するマーケティング戦略など話題を呼んだ。TVアニメ「呪術廻戦」のキャラクターたちが「ドルチェ&ガッバーナ」の服を着た広告ビジュアルは、出版社の垣根を超えてオン/オフラインメデイアに掲載され、日本雑誌広告賞の経済産業大臣賞(グランプリ)を受賞した。

と、これまでの経歴を振り返ると華やかできらびやかなファッションシーンにおいて、すばらしいクリエイションに間近で触れながらも、その裏側で時にドキッと時にヒヤッとしながら、酸いも甘いも噛み分け、PRの修行を積んできてかれこれ20年。普段はなかなか知ることのできないラグジュアリーファッションの世界、そしてPRという仕事について南さんのキャリアから紐解いていく。

きらびやかな世界で“黒子”に徹する超多忙な日々

南奈未:フランスの代表的ブランド「ルイ・ヴィトン」は、いわゆる最高峰を指すラグジュアリーブランドと呼ばれていて、世界中に多くのファンを抱え、夢や憧れを今もなお人々に与えていると思います。本国の基盤も大きく、店舗数や顧客数も多い分、企業としてもスケール感が異なり仕事もセグメントされていて上手に組織化されています。一方、規模やスケールが小さいブランドは、プロセスがスピーディーで風通しが良いのが利点ですが、ダブルワークやトリプルワークを担うことはよくあります。なので、これは「私の仕事ではないです」と明確な線引きは難しく、マルチタスクで常にブランドの立場に立って効率よく物事を進めないといけません。あとは信頼できる同じベクトルを持った少数精鋭チームを作ることも必須ですね。

デジタル施策を積極的に取り入れていた「マイケル・コース」では、PRや広告以外にもデジタルマーケティング、ソーシャルやイベントの企画などのさまざまな業務を担っていました。入社した時は「ルイ・ヴィトン」と売り上げも文化も何もかもが違いすぎて苦労しましたが、本社の人たちも聞く耳は持っていて、協力的だったのが救いでした。日本ではまだ珍しかったSNSを使った取り組みを仕掛け、デザイナーのマイケル・コース本人(Michael Kors)や当時日本で女神級に人気だったモデルのミランダ・カー(Miranda Kerr)が来日して、ファッションメディア以外にテレビ局も(NHK以外全部来た気がする……)大々的に取り上げていただきました。当時は会場の確認からメディアやインフルエンサーのアテンド、本国チームやプロダクションとのやりとりまで、全てが終わるまで気が抜けなかったのを今でも鮮明に覚えています。終わった瞬間、ホテルのエレベーターに倒れ込んだこともまだ記憶に新しいほど(笑)。でもそれをキッカケに“王道セレブから注目されているブランド”のイメージが印象づき順調に売れていった気がします。チーム一丸となって同じ方向を向いた結果ですね。

PRは基本的に裏方に徹する存在。華やかな世界の舞台裏で、主役は常にブランドであり、デザイナーのクリエイション。私たちは5分ごとに起こる“事件”に日々葛藤し、対応しなければなりません。そのために日ごろからチーム力を育て、方向性の是非を嗅ぎ分けたり、瞬時に決断が出来るよう判断力を養い、ブランドを良くすることに手間暇を惜しまない。最も大切なのは、自分がそのブランドの一番のファンでいること。下積み時代からそうした黒子の役割を教えられてきましたが、それは今も変わらないこと。多言語を話せて、海外でのマナーを知っていることも大切ですが当たり前のことを、相手の立場になって考えることをプロとしてできること。それこそが、PRとしての何より重要な仕事だと心得ています。

ブランドは街や歴史など人々の暮らしを通して理解する

同じファッションというフィールドとはいえ、国ごとに歴史も文化もトレンドも異なります。PRとして最初のステップは、ブランドを包括的に知ること。直近の業績からプレスリリース、経営陣やデザイナーのインタビュー記事、同僚からの情報まで、ブランドの最新動向を熟知することはもちろん、ブランドの会社や文化をいちはやく体得する、仲間として認めてもらうことが大切なのかもしれません。今向き合うべきブランドがどんな文化や背景で出来上がったのかを知る為に、滞在中に一人で街を散策し、タクシーや地下鉄に乗り、話題のレストランなどに行く。その拠点の空気を吸って、頭と体で体験することは必ず実行しています。

「ドルチェ&ガッバーナ」に移ったときも、世界最大の司教区といわれるミラノのドゥオーモ(大聖堂)を訪れました。隣接している博物館では、ラピス石の顔料を用いた繊細なテクニックを要する絵画や、キラキラの宝石や金をふんだんに使った美しい福音書のカバーを見て、ものすごく感動したんです。デザイナー2人が、イタリアの文化や伝統的なクラフツマンシップの精神に通ずるハンドメードの技術を長年大事にしてきたことに理解を深めることができましたね。

刺激と自由の感性に満ちた街、ニューヨークでもそう。どうしてサラダのためにあんなに並ぶの?じゃあ並んでみよう。って、現地の人と同じことをとにかく体験してみます。ブランドが発祥の地でどのような環境や風土で育ち、どう支持されているのか。その土地の人々や暮らしについて体験し、知識を深めネットで調べても実感できないブランドの魅力を再発見していきます。

やりたいことをただ主張してはダメ。本国チームとの理解と連携が大事

スタッフの仕事の進め方も国によって結構違うんですよね。儀礼的な日本やビジネス文化のアメリカの場合、ミーティングが始まればすぐに本題に入ります。一方でヨーロッパは、まず信頼関係を築くことから。初顔合わせなら自己紹介やこれまでの経歴など、その人のパーソナリティーを知ることを優先にしています。年数回の対面ミーティングでも、メンバーの近況を聞くウォーミングアップの時間をあえて設けることで、仕事を円滑に進めやすいし、パフォーマンス力も高まりやすいなと感じます。信頼関係構築の近道はイベントや大きなプロジェクトで同じ苦労を共にすることですね。大変なことを乗り越える中で互いに思いやること、そして私や日本チームのみんなを仲間として認めてもらうことが、PRディレクターとしても大事な立ち位置になるし、日本の存在感も高めていく重要なアプローチになります。

国によってファッションショーやイベントの枠組、プロモーションの考え方も違います。日本発信の企画について本国チームの了承を得ることは、PRにとって大きなミッション。例えば、渋谷のスクランブル交差点で大型広告を打ち出そうとするなら、ニューヨーカーにとって想像し易いタイムズスクエアを例に説明したりしたことも。どうしてもカルチャーや面白さの捉え方の相違はあるし、前例のないことを提案するので、何らかの壁はあります。私たちの主張やアイデアを一方的に伝えるよりも、分かりやすい例えを交えて相手の立場になりながら、短時間で理解を深めて進めていきます。ただやりたいことを主張してはダメ。各国のカルチャートレンドやマーケティングの観点の違いを念頭に、ブランドを盛り上げたいという思いがつながれば、それまでにないシナジーも生めるはず。経験も必要だけど、同僚に共通したランゲージと感覚を持っている人を見つけられるかが、同じベクトルで仕事をする上ですごく大事なことだと思っているんです。

他国メンバーとの信頼関係の話でいうと、ファッションショーのような緊張と楽しさが入り混じるドタバタの1日は、同僚のサポートのおかげで“命拾い”するようなトラブル回避もたくさんありました。例えば自国のセレブをショーに招待するとき、どうしても本国メンバーが彼らの顔を認知していなくて、ショー会場入り口のセキュリティゲートをなかなか通れないなんてことも。そうした時に、「奈未のゲストだから」とすぐにフォローしてくれて助かった!終始バタバタとしている会場で、少しでもトラブルを増やしたくないのはみんなの願い(笑)。ニューヨークでは、ショーのスタッフにインターン生がつくことも多くて、当時、大御所の元仏「ヴォーグ(VOGUE)」編集長だったカリーヌ・ロワトフェルド(Carine Roitfeld)を認識できない若いスタッフが会場入口で彼女を足止めしているなんてことがあって、さあ大変!それほどの著名人なら、インビテーションを持っていなくても“顔パス”ですぐに通すのが、PRのお作法なんです。UK担当者にトランシーバーで連絡をすると、可哀想に血相を変えて入口に向かって全力疾走してました。ヒヤヒヤしながらも楽しいエピソードもありますよ。それはまた次回に。

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敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 【PR職の流儀】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。1回目は、ラグジュアリーPRという仕事の流儀について。

華やかなファッション業界の酸いも甘いも噛み分けて

まずは南さんのこれまでのキャリアから。アメリカの大学でマーケティングを専攻し、外資系企業などでキャリアをスタート。その後、フランスを代表するブランドである「クリスチャン・ディオール(CHRISTIAN DIOR)」(当時)から、ファッション業界に飛び込むことに。さらにイタリアの「ダミアーニ(DAMIANI)」や「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」でPRとしての経験を積み、2004年には、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」に入社し、8年間ウィメンズとメンズのPRに。当時2000年頃はラグジュアリー業界でも黄金の時代と呼ばれ、多くのファッションブランドがメガイベントを日本で開催し輝いていた。「ルイ・ヴィトン」もシャンゼリゼのオープンやパリ以外で初めて行う東京夢の島公園でのファッションショー、アーティストとのコラボレーション等、業界でも先駆けとなるさまざまなプロジェクトを実現させ、前人未到の道を突き進んでいた。また、南さんに大きな影響を与えた日本における海外ラグジュアリーブランドPRの第一人者といわれる齋藤牧里さんに出会ったのもこの時。彼女から、本国と日本の架け橋となるPRのあり方やクリエイティブな仕事をする大切さを多く学んだ。

その後、12年に米国ニューヨークの「マイケル・コース(MICHAEL KORS)」でPRのトップに就き、4年で日本での大幅なビジネス拡大およびブランド復活に貢献。17年、「ドルチェ&ガッバーナ」にPR&コミュニケーション ディレクターとして復帰。デザイナー来日による伊勢丹新宿本店やイタリア大使館でのファッションショーやTVアニメ「呪術廻戦」とのコラボレーションを実現し、デジタルキャンペーンをはじめ渋谷のど真ん中にポップアップを展開するマーケティング戦略など話題を呼んだ。TVアニメ「呪術廻戦」のキャラクターたちが「ドルチェ&ガッバーナ」の服を着た広告ビジュアルは、出版社の垣根を超えてオン/オフラインメデイアに掲載され、日本雑誌広告賞の経済産業大臣賞(グランプリ)を受賞した。

と、これまでの経歴を振り返ると華やかできらびやかなファッションシーンにおいて、すばらしいクリエイションに間近で触れながらも、その裏側で時にドキッと時にヒヤッとしながら、酸いも甘いも噛み分け、PRの修行を積んできてかれこれ20年。普段はなかなか知ることのできないラグジュアリーファッションの世界、そしてPRという仕事について南さんのキャリアから紐解いていく。

きらびやかな世界で“黒子”に徹する超多忙な日々

南奈未:フランスの代表的ブランド「ルイ・ヴィトン」は、いわゆる最高峰を指すラグジュアリーブランドと呼ばれていて、世界中に多くのファンを抱え、夢や憧れを今もなお人々に与えていると思います。本国の基盤も大きく、店舗数や顧客数も多い分、企業としてもスケール感が異なり仕事もセグメントされていて上手に組織化されています。一方、規模やスケールが小さいブランドは、プロセスがスピーディーで風通しが良いのが利点ですが、ダブルワークやトリプルワークを担うことはよくあります。なので、これは「私の仕事ではないです」と明確な線引きは難しく、マルチタスクで常にブランドの立場に立って効率よく物事を進めないといけません。あとは信頼できる同じベクトルを持った少数精鋭チームを作ることも必須ですね。

デジタル施策を積極的に取り入れていた「マイケル・コース」では、PRや広告以外にもデジタルマーケティング、ソーシャルやイベントの企画などのさまざまな業務を担っていました。入社した時は「ルイ・ヴィトン」と売り上げも文化も何もかもが違いすぎて苦労しましたが、本社の人たちも聞く耳は持っていて、協力的だったのが救いでした。日本ではまだ珍しかったSNSを使った取り組みを仕掛け、デザイナーのマイケル・コース本人(Michael Kors)や当時日本で女神級に人気だったモデルのミランダ・カー(Miranda Kerr)が来日して、ファッションメディア以外にテレビ局も(NHK以外全部来た気がする……)大々的に取り上げていただきました。当時は会場の確認からメディアやインフルエンサーのアテンド、本国チームやプロダクションとのやりとりまで、全てが終わるまで気が抜けなかったのを今でも鮮明に覚えています。終わった瞬間、ホテルのエレベーターに倒れ込んだこともまだ記憶に新しいほど(笑)。でもそれをキッカケに“王道セレブから注目されているブランド”のイメージが印象づき順調に売れていった気がします。チーム一丸となって同じ方向を向いた結果ですね。

PRは基本的に裏方に徹する存在。華やかな世界の舞台裏で、主役は常にブランドであり、デザイナーのクリエイション。私たちは5分ごとに起こる“事件”に日々葛藤し、対応しなければなりません。そのために日ごろからチーム力を育て、方向性の是非を嗅ぎ分けたり、瞬時に決断が出来るよう判断力を養い、ブランドを良くすることに手間暇を惜しまない。最も大切なのは、自分がそのブランドの一番のファンでいること。下積み時代からそうした黒子の役割を教えられてきましたが、それは今も変わらないこと。多言語を話せて、海外でのマナーを知っていることも大切ですが当たり前のことを、相手の立場になって考えることをプロとしてできること。それこそが、PRとしての何より重要な仕事だと心得ています。

ブランドは街や歴史など人々の暮らしを通して理解する

同じファッションというフィールドとはいえ、国ごとに歴史も文化もトレンドも異なります。PRとして最初のステップは、ブランドを包括的に知ること。直近の業績からプレスリリース、経営陣やデザイナーのインタビュー記事、同僚からの情報まで、ブランドの最新動向を熟知することはもちろん、ブランドの会社や文化をいちはやく体得する、仲間として認めてもらうことが大切なのかもしれません。今向き合うべきブランドがどんな文化や背景で出来上がったのかを知る為に、滞在中に一人で街を散策し、タクシーや地下鉄に乗り、話題のレストランなどに行く。その拠点の空気を吸って、頭と体で体験することは必ず実行しています。

「ドルチェ&ガッバーナ」に移ったときも、世界最大の司教区といわれるミラノのドゥオーモ(大聖堂)を訪れました。隣接している博物館では、ラピス石の顔料を用いた繊細なテクニックを要する絵画や、キラキラの宝石や金をふんだんに使った美しい福音書のカバーを見て、ものすごく感動したんです。デザイナー2人が、イタリアの文化や伝統的なクラフツマンシップの精神に通ずるハンドメードの技術を長年大事にしてきたことに理解を深めることができましたね。

刺激と自由の感性に満ちた街、ニューヨークでもそう。どうしてサラダのためにあんなに並ぶの?じゃあ並んでみよう。って、現地の人と同じことをとにかく体験してみます。ブランドが発祥の地でどのような環境や風土で育ち、どう支持されているのか。その土地の人々や暮らしについて体験し、知識を深めネットで調べても実感できないブランドの魅力を再発見していきます。

やりたいことをただ主張してはダメ。本国チームとの理解と連携が大事

スタッフの仕事の進め方も国によって結構違うんですよね。儀礼的な日本やビジネス文化のアメリカの場合、ミーティングが始まればすぐに本題に入ります。一方でヨーロッパは、まず信頼関係を築くことから。初顔合わせなら自己紹介やこれまでの経歴など、その人のパーソナリティーを知ることを優先にしています。年数回の対面ミーティングでも、メンバーの近況を聞くウォーミングアップの時間をあえて設けることで、仕事を円滑に進めやすいし、パフォーマンス力も高まりやすいなと感じます。信頼関係構築の近道はイベントや大きなプロジェクトで同じ苦労を共にすることですね。大変なことを乗り越える中で互いに思いやること、そして私や日本チームのみんなを仲間として認めてもらうことが、PRディレクターとしても大事な立ち位置になるし、日本の存在感も高めていく重要なアプローチになります。

国によってファッションショーやイベントの枠組、プロモーションの考え方も違います。日本発信の企画について本国チームの了承を得ることは、PRにとって大きなミッション。例えば、渋谷のスクランブル交差点で大型広告を打ち出そうとするなら、ニューヨーカーにとって想像し易いタイムズスクエアを例に説明したりしたことも。どうしてもカルチャーや面白さの捉え方の相違はあるし、前例のないことを提案するので、何らかの壁はあります。私たちの主張やアイデアを一方的に伝えるよりも、分かりやすい例えを交えて相手の立場になりながら、短時間で理解を深めて進めていきます。ただやりたいことを主張してはダメ。各国のカルチャートレンドやマーケティングの観点の違いを念頭に、ブランドを盛り上げたいという思いがつながれば、それまでにないシナジーも生めるはず。経験も必要だけど、同僚に共通したランゲージと感覚を持っている人を見つけられるかが、同じベクトルで仕事をする上ですごく大事なことだと思っているんです。

他国メンバーとの信頼関係の話でいうと、ファッションショーのような緊張と楽しさが入り混じるドタバタの1日は、同僚のサポートのおかげで“命拾い”するようなトラブル回避もたくさんありました。例えば自国のセレブをショーに招待するとき、どうしても本国メンバーが彼らの顔を認知していなくて、ショー会場入り口のセキュリティゲートをなかなか通れないなんてことも。そうした時に、「奈未のゲストだから」とすぐにフォローしてくれて助かった!終始バタバタとしている会場で、少しでもトラブルを増やしたくないのはみんなの願い(笑)。ニューヨークでは、ショーのスタッフにインターン生がつくことも多くて、当時、大御所の元仏「ヴォーグ(VOGUE)」編集長だったカリーヌ・ロワトフェルド(Carine Roitfeld)を認識できない若いスタッフが会場入口で彼女を足止めしているなんてことがあって、さあ大変!それほどの著名人なら、インビテーションを持っていなくても“顔パス”ですぐに通すのが、PRのお作法なんです。UK担当者にトランシーバーで連絡をすると、可哀想に血相を変えて入口に向かって全力疾走してました。ヒヤヒヤしながらも楽しいエピソードもありますよ。それはまた次回に。

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「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.1 「コスメのレッドオーシャン市場、どうする?」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:昨年あたりから化粧品のプレス発表会が非常に増えていて、毎日5〜6件というのが当たり前になっています。新ブランドや新製品、あるいは今まで発表会というものをやっていなかったブランドがやり始めたりしていて、まさに化粧品業界のレッドオーシャンを日々体感しています。

小木充(以下、小木):“レッドオーシャン”というのは化粧品業界の人の主観のように思うんですよね。どのブランドもマーケティングの仕方が結構似ているから。例えばR&Dに投資して、幹細胞やレチノールといった話題の成分で注目を集める。それが「ポーラ(POLA)」の“リンクルショット”みたいに大きな生命線につながることもある。他の業界から見ると簡単そうと思って参入して、でもやってみたら難しいという壁にぶち当たっているように見えますね。

――:それは同感ですね。特にファッション業界から参入したブランドの多くはファッション同様に感覚的なアプローチが多くて、こちらから見ると差別化戦略が見えない。キー成分が違うか、アンバサダーが違うかといった程度。

小木:そう思いますよね。前職の場合、マッシュビューティーラボ(以下、MBL)という子会社を作って、経験や知見、チャレンジ精神のあるスタッフをそろえ、大手企業では成し得ないスピード感やエンパワーメントといったなかで作り上げてきました。でもファッション企業の人たちは専門の子会社やチームを作らずになんとなくコンサルだけ入れている。あるいは販売員をブランドの中核に据えたりするんだけど、製品企画・生産管理・営業などの経験がない。その人に才覚があっていろんなディレクションができればいいけれど、そこまでじゃない。社内でコスメに一番詳しいのはこの人と決めて進めていくやり方が多い。あとはアパレルブランドのファッションディレクターが「化粧品はよく分からないけどこんなの作りたいです」という、製品ターゲットを想定した他社ブランドの同ターゲット製品だけを持って打ち合わせして完全に外部に丸投げ、ということが多いように感じます。

――:そうしてうまくいったら3年後ぐらいにブランド売却、という目的が透けて見えたりします。

小木:yutoriというアパレル企業が上場1年を経て、化粧品に詳しいi.Dと組んでプチプラコスメ「ミニュム(MINUM)」を昨春立ち上げました。ドラッグストアを中心に販路を広げ、昨年末にはyutoriが事業を買い取っています。発案から製品発売までほぼほぼ1カ月半というスピード感で出してきているのが面白い。こういう他業種がいろんな発想でスピード感を持って進めるところが出てこないと、レッドオーシャンと思われている硬直化した化粧品業界に刺激がないんじゃないかな。

――:確かに韓国コスメがここまで急速に台頭した理由の一つに“スピード感”はありますね。渋谷ロフトに韓国コスメを入れているディストリビューターが言っていましたが、最初は“韓国コスメコーナー”というポップアップ展開で目立たせる必要があったが、そのうちそんなことをする必要もなくなり、日本のコスメと一緒に棚で展開しても売れていく、今では日本仕様のパッケージに変更せずハングル文字を残したほうが人気ということで、売り方もスピーディに対応しているようです。

小木:ただ、韓国コスメの購買客は高校生、大学生、新社会人あたりが多く、コスメ歴が浅く自分に合うものを知らない世代。成分が自分に合う・合わない、良い・悪いの判断がつかずに使っているから、それによって今、肌荒れ問題が起きていますよね。その揺り戻しが必ずあるだろうと考えたときに、広告施策やミューズの立て方、SNS戦略が韓国コスメほど上手くないがゆえに埋もれている、でもモノがいい国産ブランド、特にスキンケアブランドは闘えるだろうなと思うわけです。Yutoriが展開するブランドははまだメイクアップ中心ですが、これから新ブランドを続々と立ち上げてそこそこの中価格帯のブランドを出したときに、今の韓国コスメに肉薄するような売れ行きのものが出てくるんじゃないかな。ファッションだけでなくインテリア業界などから新規参入が続くと面白いことが起きると思いますね。

――:でも異業種参入やインフルエンサーコスメなどが急増していて業界に活気があるように見えながら、実は売れ残り廃棄ゴミを増やしているように感じるんですよね。成功しているブランドが思いつかないので。

小木:そう思われるブランドに携わっている人たちは、「なんとかなるだろう」と、どこか他人事に考えているのでは。少なくとも、自分ごとになっていないように感じます。化粧品を作るときはまず、こういう女性像を描いているとか、どうやってキレイになってもらいたいか、あるいは自分や家族にこんな悩みがあったからなど、コスメを通じて問題解決や前向きな生き方につながるような、一生かけてやっていこうというビジョンや哲学があるべきでしょう。ところが化粧品会社に入社したときはちょっとはあったかもしれない理想や夢も薄らいでいき、その後の配属以降一つ一つがセクショナリズムの理論優先で組織の歯車と感じるような部門を渡り歩くキャリア形成の中で、部署異動があったとしても年齢を重ねないとブランド全体を見ることができない。全ての化粧品会社とは言わないけれど、ブランド全体をディレクションできるような人間が育たないような人事の仕組みになっているように思います。僕は化粧品ブランドを作ったことはなかったけれど、MBLでは一人でブランドコンセプトからチームビルディングを請け負うほかないという状況で「トーン(to/one)」をつくりスタートすることで、化粧品ブランドにありがちなセクショナリズムに翻弄されずにブランドを成長させることができたと感じています。あるいは「セルヴォーク(CELVOKE)」の立ち上げ時期では、本当に使いたいと思えるファッション性が高くてカッコイイブランドが「スリー(THREE)」しかない、でも「スリー」よりもっとかっこいいブランドができるんじゃないか、とディレクターやチームが信じていたから誕生させることができた。yutoriも今だったら勝てると思うから参入している、でもこれからさらに育つには、強い芯があるかどうか。そんなところに注目したいですね。

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【ARISAK Labo vol.3】アーティスト・CYBER RUIに息づく“青”のDNA

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.3となる今回は、2021年にABEMA「ラップスタア誕生!」で脚光を浴び、スターダムへと駆け上がるアーティスト・CYBER RUI(サイバー・ルイ)をフィーチャー。最近ではABEMA「警視庁麻薬取締課 Mogura」で俳優デビューするなど躍進が止まらない彼女と、自身のキーカラーである“青”をテーマに撮り下ろした。

Paint it Blue
CYBER RUIに息づく“青の”DNA

CYBER RUIといえば、エッジが効いたファッションスタイルとメイクアップ、そしてブルーヘアの印象が強い。彼女がこんなにも“青”にこだわる理由とは。「中学生頃から、気付いたら青のものばかり集めていたんです。優しくて落ち着く色でもあり、尖っている色でもあるというところが自分にフィットしているように感じる。最近気付いたんですが、幼少期の写真を見ても青の服ばっかり着ていて。しかもエンジェルカラーみたいなの調べたら、それも青だったんですよ(笑)。理由はわからないけど、『青に満たされたい』みたいな感じなんだと思います」。

今回の撮影では“Pant it Blue”をテーマに、CYBER RUIが長い間夢見ていた“全身をブルーでペイントする”撮影を実行。顔の中心から少しずつ全身に青が広がっていく様を撮り下ろした。「ずっと全身青で撮影してみたいと思っていて、撮ってもらうなら絶対ARISAKさんだなって。イメージ画像をお互いシェアしたりして、今回のビジュアルへと辿り着きました」。

「あんなに全身を塗ることってこの先もないと思う。もう夢のようで、最初は実感がなさすぎて、自分がどんな気持ちなのかもよくわからないくらいでした(笑)」とCYBER RUI。「エアブラシで徐々に全身が塗られていく、ひんやりした感覚も面白かったです。あとは、普段の撮影ではあまりやらないような表情やポーズもしてみたりして、自分の中にある感覚を表現できた気がしています」。

これまでの連載を振り返ったARISAKは「個人的には前回の作品から今回の作品では心境的変化としてのつながりが表現できたと思っています。フゥジ君と作り上げた愛憎的で赤が際立つVol.2のビジュアル、そこから雨が降ったように静まったような心情を、今回ルイちゃんと青で作ることができました。彼女の中にあるブルーのDNAを映し出せたと思います」と締めくくった。

CREDIT
LOOK1:TOPS & SKIRT / GYOEM, CAP / GNASTY
LOOK2:TOPS / GNASTY, HEAD PIECE / JINKI NAOMATSU, OTHERS / MODEL OWN
LOOK3:TOPS / GYOEM , OTHERS / MODEL OWN

Inside stories of
CYBER RUI × ARISAK

PROFILE: サイバールイ(CYEBR RUI)/ラッパー

サイバールイ(CYEBR RUI)/ラッパー
PROFILE: 2002年11月18日生まれ、大阪府出身。幼少期からバレエを始め、現在はラッパーとして活躍。2021年のABEMA「ラップスタア誕生2021!」ではファイナルまで残り、その実力が認められる。昨年はABEMA「警視庁麻薬取締課 MOGURA」で俳優デビューした

出会いのきっかけはラッパー・OZworld

撮影を終えて、ARISAKとサイバールイ、2人の出会いのきっかけについて尋ねた。「これまでに何度か、ラッパーのOZworld(オズワルド)君のビジュアルを撮影したことがあるのですが、たまたまルイちゃんがそのビジュアルについて『こういう世界観を作ってみたい』って言ってくれている動画を見つけたんです。うれしくて私からDMを送り、その後彼女がライブをするときに誘ってくれて直接会うことになりました」とARISAK。サイバールイも「これまでも思い描くビジュアルはたくさんあっても、なかなかしっくり来る写真家さんに出会える機会がなく。そんな時にDMをもらえたので、これは何か面白いことができそうだと思って」と振り返った。

その後、アルバムのジャケットや雑誌で何度か撮影を共にし、更に意気投合したという2人。ARISAKは「私はフィギュアスケート、ルイちゃんはバレエっていう、近しい世界にいたこともあり、お互いの根底にある感覚が似ていたのかもしません。バレエからラップの世界に行くっていうギャップも素敵だなって思うし、撮影中のポージングにもどこかエレガントさが滲み出たりするのも好きです」と彼女の魅力を語る。

バレエからラップの道へ
サイバールイの次なる挑戦

3歳からバレエに邁進していたというCYBER RUI。なぜ音楽の道に進んだのか。「14歳くらいの時、身の回りで色々なことが起きて、自分の中のバランスが崩れてしまって。バレエもその時に辞めてしまい、息苦しさを感じていた時に癒しになったのが音楽でした。家や地元に居場所を感じられなかった同士の友達とたむろしたり、カラオケに行ったりする中で音楽に興味を持ち始めて、最初はギターを買って弾き語りをしていたこともあります」。

今やアーティストとして活躍しながらも、トラック作りやミュージックビデオの制作までも手掛けている彼女。ABEMA「警視庁麻薬取締課 Mogura」ではラッパー集団“9門”のメンバー・Haruを演じ、俳優デビューを飾った。初の演技の仕事について「めちゃめちゃ楽しかった。緊張したし、セリフはもちろんあるけど、自分らしくいないと違和感が出るだろうと思ってなるべく普段通りの自分らしくいることを心掛けました。過去の映像を使ってくれたのもうれしかったです。演技の中で自分と向き合うことができて、今の自分をもっと許せるようになったと思う」と自身の変化を語る。

俳優業を通じて更にパワーアップした彼女の今後の目標は「全部セルフプロデュースでやること」。「最近、本当に時代が変わる時が来ているんじゃないかって考えたりするんです。そんな中で人間として生きる意味をずっと提示していきたいーーどんな形でも自分を表現することをやめたくない。今もトラックやミュージックビデオを自分で作ることはあるけど、いつか全てにおいて自分でプロデュースしてみたいですね」。

DIRECTION & PHOTOS:ARISAK
MODEL:CYBER RUI
HAIR & MAKEUP:MARI ENDA
STYLING:JINKI
LOGO DESIGN:HIROKIHISAJIMA
SPECIAL THANKS:TIGHT, YUVIE

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注目のミュージシャン、ファビアナ・パラディーノが語る「音楽ルーツ」から「ファッションのこだわり」まで

伝説的ベーシストのピノ・パラディーノを父にもち、兄はイギリスのジャズ・シーンで活躍するロッコ・パラディーノという、音楽一家に育ったファビアナ・パラディーノ(Fabiana Palladino)。彼女が昨年発表したデビュー・アルバム「Fabiana Palladino」は、そんな出自もうなずかせる、タイムレスで洗練された魅力にあふれる作品だった。

幼い頃から彼女が親しんだ1980〜90年代のR&Bやソウル・ミュージックのエッセンスを現代に甦らせ、なめらかなグルーブと情感豊かなメロディーが織りなす奥深いサウンド。そして、アコースティックな楽器と交差するシンセサイザーの鋭いエレクトロニックの響きが、ソングライターであり「プロデューサー」としての彼女の革新性を強く印象づける。SBTRKT(サブトラクト)やサンファ(Sampha)らのセッション・ミュージシャンを務める中で身につけた生演奏のダイナミズムと、共同で制作を手掛けたジェイ・ポール(Jai Paul)との化学反応がもたらした直感的な音づくりのアプローチ。そうしてクラシックなスタイルに新たな息吹が吹き込まれ、枠を超えた自由な創造性が「Fabiana Palladino」には結実している。

コロナ禍の孤独とノスタルジーの中で生まれた「Fabiana Palladino」の楽曲たち。そこには、音楽が持つストーリーテリングの力が、彼女の手によって鮮やかに描き出される瞬間が捉えられている。アルバムのアートワークは、そんな内省的な心情を映し出す鏡であり、自身も制作に携わったミュージック・ビデオは、彼女のクリエイティブな冒険心が癒しへと昇華されるプロセスに視覚的な深みを与えている。そのサウンドや、ファッションも含めたビジュアル表現によって形づくられた彼女の独自のスタイルについて、今年1月に行われた来日公演2日目のステージ前に話を聞いた。

デビューアルバムにみる音楽的影響

——デビューアルバム「Fabiana Palladino」で、1980年代や90年代のR&B、ソウル・ミュージックのエッセンスを取り入れた音楽をつくろうとしたのはどうしてだったのでしょうか。

ファビアナ・パラディーノ(以下、ファビアナ):このアルバムをつくっているとき、子どものころに聴いていた音楽をよく思い出していたんです。特に、成長期から10代、20代にかけて夢中だったソウル・ミュージックやR&Bについて。ああいう音楽はずっと私の身近にあって、いつか自分でもそんな音楽をつくりたいって思っていました。だから私にとってはすごく自然な流れだったし、こういうサウンドこそが私が表現したい音楽そのものだったんです。

——他のインタビューではジャネット・ジャクソンや80年代にジャム&ルイスが手がけた作品からの影響について話されていましたが、例えば、その大好きだったR&Bやソウル・ミュージックの中にはシャーデー(Sade)も入っていたりしますか。

ファビアナ:シャーデーは大好きです。ただ、ちゃんと聴くようになったのはここ2、3年です。彼女の音楽はもちろん、その雰囲気やルックス、そしてミュージシャンとしてのエネルギーにとても惹かれます。彼女からはたくさんの刺激やインスピレーションをもらっているし、私にとって間違いなく大きな存在ですね。

——デビュー・アルバムの「Fabiana Palladino」ではさまざまなアコースティック楽器と並んで、シンセサイザーが効果的に使われているのが印象的です。いわゆるエレクトロニック・ミュージックと呼ばれる音楽とはどのように接してこられたのか、興味があります。

ファビアナ:私はエレクトロニック・ミュージックをそれほどたくさん聴いてきたわけではないけれど、好きなアーティストの中にはエレクトロニック・サウンドを取り入れて“遊んでいた”時期がある人がいます。その代表格がプリンスで、彼は80年代にドラムマシンやシンセサイザーを活用していました。ただ、私がそうした音楽に興味を持つようになったのは、実際に自分で音楽をつくり始めてからで、一緒に仕事をしたアーティストたちからの影響が大きいと思います。

例えばSBTRKTはその一人です。前(2014年)に彼のバンド・メンバーとして「フジロック」に出演したことがあるのですが、その経験を通じて、エレクトロニック・ミュージックへのアプローチの仕方や、ソングライティングと融合させる方法を学びました。さらに、サンファのようなアーティストをフィーチャリングする現場——特にアルバム「Wonder Where We Land」(14年)の制作過程――を間近で見ることで、多くのインスピレーションをもらいました。なので、SBTRKTからは間違いなく大きな影響を受けていますね。

——SBTRKTと制作を共にした中で特に印象的だったことはなんですか。

ファビアナ:彼のライブをつくり上げるアプローチやショーの構成は、本当に刺激的で独特なものでした。というのも、彼の音楽ではたくさんのことが“起こっている”からです。たくさんのドラム、たくさんのシンセ、たくさんのボーカルが織り交ざり、それらをまとめてライブで表現する方法を見つけるのはものすごく複雑な作業でした。でも、彼はそれを驚くほど見事にやってのけた。それも全て生演奏で。バックトラックに頼ることなく、全てのシンセがライブで演奏されていて、とても難易度が高い。成功させるまでには何度も試行錯誤が必要でしたが、彼が最終的につくり上げたものは本当にエキサイティングで、斬新で、大きな影響力があったと思います。

ジェイ・ポールとの協業

——ちなみに、ファビアナさんはクラブに行ったりしますか。

ファビアナ:ノー(笑)。めったに行かないですね。

——今作であなたと共同プロデューサーを務めているジェイ・ポールといえば、アンダーグラウンドなクラブ/エレクトロニック・ミュージックのイメージがありますが、彼とはどのようにして出会ったのでしょうか。

ファビアナ:出会ったのはクラブとは全く関係ない場所でした(笑)。彼からメールが届いたんです。私は彼のことを知らなかったし、共通の友人もいなかったのですが、彼はSoundCloudで私の音楽を聴いたことがあったそうで。彼が制作中の音楽でボーカルを探しているという話を聞いて、なんとなく会うことになったんです。そのころ、彼は次に何をしようか考えていた時期で、兄(A. K.ポール)と一緒にレーベル(「Paul Institute」)を立ち上げることを決めたばかりでした。それで、一緒に仕事をするアーティストを探していて。だから、私にとっては全てが絶妙なタイミングで重なった瞬間だったんです。

私は彼の音楽の大ファンで、彼を通じてアンダーグラウンドな音楽からも影響を受けているのを感じます。彼の音楽はとても折衷的ですが、その中に“ソングライター”としての要素がしっかりあって、単なるアンダーグラウンドにとどまらない音楽性も持ち合わせている。そこが彼の音楽の好きなところだし、私にとって刺激的なんです。

——実際に彼と一緒に作業してみてどうでしたか。

ファビアナ:ジェイってとても本能的な人です。私が彼と一緒にやり始めたころには、すでにほとんどの曲を自分で書いてて、6、7割くらいは自分でプロデュースしてたんです。それで彼に曲を聴かせたら、すぐにドラムマシンをいじり始めたり、ギターを弾いたり、いろんな楽器を次々と演奏しだして。彼って直感でどんどん音を重ねていくタイプなんです。だから私たちの間では特に話し合う必要もなく、自然と何か面白いものが生まれてくる感じでした。

彼のアイデアって、いつも私の音楽を引き上げてくれるんです。彼は私とは違ったアンダーグラウンドなエレクトロニック・ミュージックのアプローチを持っていて、私よりずっと実験的です。私はどちらかというとクラシックなスタイルだから、彼みたいな人と一緒にやることで、すごくいい化学反応が起きてるし、うまくハマってる気がします。

——ちなみに、ジェイ・ポールは素性がミステリアスな印象が強いですが、彼の人となりが分かるようなエピソードはありますか。

ファビアナ:たくさんありますよ(笑)。ジェイはとても愉快で、ユーモアのある人です。彼の音楽には独特な……なんというか、イギリス的なユーモアが詰まっていて。例えば「ハリー・ポッター」のサンプルを使ったり、挑発的で不遜な雰囲気があるんです。だから、一緒に仕事をしていて本当に楽しい。彼は気取らない人で、尊大な態度を取らない。何でも試してみるし、くだらないことだってやってみる。彼にとって音楽はとても大切なものだけど、いつも真面目にやっているわけじゃない。だからこそ、彼の音楽には遊び心が感じられて軽快なんだと思います。

MV、アートワークについて

——アルバム収録曲の「I Can't Dream Anymore」のMVでは、ファビアナさんが「コンセプター」としてクレジットされています。海や船上のシーンと、船内やベッドルームのシーンとの対比がとても印象的ですが、制作の背景について教えてください。

ファビアナ:その曲をつくったのはロックダウン中で、隔離された状態で1人、夜遅くまで作業していました。その時に、ラジオで「Shipping Forecast(船舶気象予報)」を聴いていたんです。昔から続いている番組で、船乗りやボートを持つ人たちに向けて海の情報を放送しているものなんですけど、あの時の私はそれを聴くことが心の癒しになっていて。実は私以外にも、深夜にリラックスするために聴いている人が結構いたみたいなんです。

それで、母がその放送を曲に入れるアイデアを思いついたんです。そして、そのことを母に話したら「船の上でビデオを撮るべきよ」って言われて。すると母は「Radio Caroline」のことを教えてくれました。それは60年代にあったイギリスの伝説的なラジオ局で、海賊ラジオの元祖だったそうです。そこから少し調べてみて、レーベルの人にそのアイデアを話したところ、(ラジオ局が置かれていた)当時の船がまだ一つ残っているのを探し出してくれて、そこで撮影できることになったんです。とても楽しくてエキサイティングな経験でした。視覚的にも曲の世界を表現できた素晴らしい作品になったと思います。

——ビデオでのファビアナさんはとても自然体に見えましたが、実際はどうでしたか。

ファビアナ:いや、とても不自然だったと思います(笑)。そうならざるを得なかったというか、経験がないことだったので難しかったですね。でも、演技の楽しさを味わうためにベストを尽くしました(笑)。

——音楽一家で育ったファビアナさんですが、音楽以外で自分を形づくったアート、映画や小説でも何かあったら教えてください。

ファビアナ:音楽ほどではないけれど、視覚的な要素は間違いなく私にとって重要なものです。例えば、「Paul Institute」からリリースされた最初の3枚のシングルはSFの影響を受けていて、それは彼ら(ジェイとA. K.ポール)との共通の趣味でもあります。私はずっとSFやファンタジーが大好きで、そうした作品に登場する、ちょっと過激で独特なビジュアルに惹かれていたんです。その影響がアルバムに直接的に反映されているわけではないけれど、シンセサイザーを使ってそうした世界観を音でつくり出そうとしたり、間接的な形で反映されている部分はあると思います。

——ちなみに、どんなファンタジーやSF作品が好きなんですか。

ファビアナ:エイリアン・シリーズが大好きなんです。特に「エイリアン」と「エイリアン2」にはとても影響を受けました。他にも好きな作品があって、ここ数年で観た中では、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」や「DUNE/デューン 砂の惑星」が特に印象に残っています。とても衝撃を受けた作品ですね。

——デビュー・アルバムはアートワークもとても印象的です。ベルリン時代のデヴィッド・ボウイや、グレイス・ジョーンズの作品も連想させる、無機質さとセンシュアルな魅力を併せ持ったイメージに惹かれます。

ファビアナ:(アートワークでは)曲の雰囲気や、アルバムをつくっていた当時の気持ちを表現したかったんです。その時期は、COVID-19の影響でかなり孤立していて、それ以外にも個人的な理由があって、内省したり過去を振り返ったりする時間でもありました。だから、アルバムのサウンドを反映したものにしたかったし、ノスタルジックな感じを取り入れながらもモダンな雰囲気を残して、その2つを融合させるようなアプローチを目指したんです。

それで、“孤独な人物像”について考え始めたとき、すぐにフィルム・ノワールや1940年代のミステリアスな深夜の街の映像が頭に浮かびました。それが最初のコンセプトだったんです。そして、グレイス・ジョーンズやデヴィッド・ボウイは間違いなく私のイメージボードにありました。彼らはロールモデルのような存在で、特にボウイの「ロウ(Low)」のような雰囲気は意識していました。とても印象的で大胆でありながら、どこかミステリアスなものにしたかったんです。

ファッションのこだわり

——アートワークと同様に、アーティスト写真やステージでの「ファッション」も、音楽や作品の世界観を形づくる大事な要素ですよね。その辺り、どんなこだわりがありますか?

ファビアナ:ステージで何を着るかは、今も試行錯誤しているところです。自分らしさを保ちつつ、より洗練された、進化した自分を見せたい。でも、コスチュームっぽくなるのは嫌なんです。私はファッションが大好きだから、ファッションとコスチュームをうまくミックスさせたいと思っていて、そういうことをよく考えています。どうやったらうまくまとめられるか、ずっと模索してますね。ただ、快適さも大事で。暑すぎたり寒すぎたりするのはダメで、そのバランスを取るのが難しい。だから、いろんなアーティストを参考にしてきてて、例えばPJハーヴェイはとても素晴らしいと思う。彼女のスタイルは本当にユニークで、ファッションとコスチュームが見事にミックスされている。特に90年代の彼女のスタイルが大好きで、過去にやってきたことや今やっていることにもすごく惹かれます。

——ファビアナさんというと、スーツ姿の印象が強くあります。

ファビアナ:そう、そこについては、ある意味でジェンダーに関係しているんです。私は、すごく女性的でも、すごく男性的でもなくて、ちょうどその中間なんです。アンドロジニー(両性具有)のような感覚にずっと共感してきました。時にはおてんば娘のようになりたいと思うこともあれば、フェミニンでいたい時もある。その2つをミックスするのが好きなんです。スーツは男性的な象徴でありながら、ビジュアル的にも力強くて、ステージ映えする。ステージに立つと、パワフルで強い自分を感じることができる。それが(スーツを着る)理由ですね。

——アンドロジニーという話は、先ほど名前をあげたボウイやグレイス・ジョーンズともつながるところですね。

ファビアナ:そうですね。2人ともインスピレーションを与えてくれるアーティストです。特にボウイは私にとって大きな存在です。

——音楽的な部分でもボウイから受けた影響は大きいですか。

ファビアナ:そうですね。彼は私が13歳か14歳のころからずっと大好きなアーティストの1人だったんですが、この半年くらい、彼のライブ映像を見たり、インタビューや晩年の作品をたくさんチェックして、改めてハマってしまいました。ずっと好きだったのに、今まで聴いたことのない曲や知らなかった一面もたくさんあって、知るたびに本当にすごいなって。これまで以上に彼を深く知ることができて貴重な経験になっているし、インスパイアされてますね。

——ちなみに、オフのファッションのこだわり、最近買ったお気に入りのワードローブを教えてください。

ファビアナ:昨夜のステージでも着た「ガニー(GANNI)」のジャケットを買いました。「ガニー」は好きなブランドで、このジャケットはシンプルで着心地が良くて気に入っています。あと、「ディーゼル(DIESEL)」のブルーのベルベットパンツもお気に入りです。それから靴は……そう、「アディダス(ADIDAS)」のテコンドーシューズ。これが大好きなんです。「アディダス」とかスポーツウエアが好きで、「Paul Institute」のスタイルにも通じる雰囲気があるんです。着心地が良くて生地もいいものが好きで、年齢を重ねるにつれて品質にもこだわるようになりました。だから、少しずつ質の良いブランドのものを集めたいなって思っています(笑)。

坂本龍一の大ファン

——ところで、ファビアナさんにとって「日本の音楽」というとどんなイメージをお持ちですか。「日本」から連想する音楽は?

ファビアナ:坂本龍一さんの大ファンなんです。昨夜のセットでは、彼の「Rain」を少しだけ演奏しました。他に好きなアーティストだと、小さいころから聴いて育った阿川泰子さん。それから、私の友人の何人かが(宇多田)ヒカルさんのツアーで彼女のバンドに参加しているので、最近は彼女の音楽もチェックしています。

——坂本龍一の音楽とはどのように出会ったんですか。

ファビアナ:きっかけは父なんです。父は90年代に坂本龍一さんの「Heartbeat」というアルバムでベースを弾いていて。ミュージシャンの友人たちも坂本龍一さんにすごく影響を受けていて、それで私も改めて彼のことを知るきっかけになりました。昨年公開された坂本龍一さんの最後のパフォーマンスを記録した映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」も観に行きました。本当に素晴らしい映画でした。

——最後に、デビュー・アルバムをセルフタイトルにした理由について改めて教えてください。

ファビアナ:そう……タイトルを決めるのは本当に難しかったですね。いくつか他の候補も考えたんですが、どれもしっくりこなくて、結局セルフ・タイトルに落ち着きました。でも、これが私の初めてのアルバムにふさわしい気がしたんです。完成するまでにとても時間がかかったし、すごく個人的で内省的な作品になったから。なので、自分の名前をつけることに意味があるって思ったんです。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

デビュー・アルバム「Fabiana Palladino」

■ Fabiana Palladino
release: 2024年4月5日
TRACKLISTING:
01. Closer
02. Can You Look In The Mirror?
03. I Can’t Dream Anymore
04. Give Me A Sign
05. I Care
06. Stay With Me Through The Night
07. Shoulda
08. Deeper
09. In The Fire
10. Forever
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13882

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石川に日本最大の「観光できる繊維工場」、カジグループが社運をかけ70億円を投じたワケ

カジグループは4月10日、石川県かほく市に70億円を投じた新工場「カジファクトリーパーク(KAJI FACTORY PARK)」を稼働させる。同社は極薄のナイロン織物で世界でトップクラスの実力を持つ企業だが、企業規模は年商で数百億円の前半と見られる。そう考えると、70億円を投じて工場を新設すること自体が、かなり異例だ。加えてクラフトツーリズム(産業観光)型の工場として位置付け、4.3万㎡の敷地に織物生産工場のほか同社が展開するトラベル雑貨ブランドの「トゥー アンド フロー(TO&FRO)」、ファクトリーブランドの「ケースリービー(K−3B)」の店舗、レストラン、北陸産の漆器や雑貨などを集めたセレクトショップを集積する。敷地内には子ども用の遊具や樹齢1000年のオリーブの木、多数のベンチなども配置する。

大手企業ですら繊維事業から撤退するなど日本の繊維産業自体が苦戦する中、同社はなぜ新工場を新設したのか。梶政隆・社長に聞いた。

繊維では異例の観光できる工場「ファクトリーパーク」
樹齢1000年のオリーブの木も

WWD:「ファクトリーパーク」と銘打って、建物の中にはセレクトショップやレストラン、敷地内には樹齢1000年のオリーブや子どもの遊具、多数のベンチも設置した。

梶政隆カジグループ社長(以下、梶):いいでしょ。とてもワクワクしている。お客用の駐車場の隣には「ウェルカムガーデン」。ここは子ども用の遊具をたくさん作った。夏になるとグルグル動き回る10数個のウォータージェットが出るようになってて、水遊びができる。そのままスロープを上がると、南イタリア産の樹齢1000年とスペイン産の樹齢500年のオリーブの木のある「オリーブガーデン」。晴れた日にはベンチに座ってコーヒーを飲みながら立山連峰を眺めると気持ちいいんだ。

WWD:斜陽と言われる繊維産業の中で、70億円を投じて工場を新設した。投資の原資は?

梶:大半が銀行からの借り入れだ。実は当社はかなり財務体質が良かったが、工場の新設でだいぶ悪化した。

WWD:なのに樹齢1000年のオリーブの木など、繊維工場としては異例づくめの作りだ。なぜこのような工場を?

梶:このオリーブの木一つで織機が3台買えてしまう。だが、工場を観光地のように常に人が集まる場所にしたかった。「なぜファクトリーパークにしたか?」ということへのアンサーは、まさに「斜陽」と言われる繊維産業のイメージを変えたかったからだ。10年先、30年先を考えると、「雇用問題」はまさに経営危機と直結する。ただでさえ人手不足なのに、「斜陽」というイメージがあればさらに人は来ない。当社は2034年で創業100年を迎えるが、このまま何もしなければ人手不足に陥るのは目に見えている。特に当社は極細のナイロンを使って1メートルで10グラム前後という極薄織物が得意で、扱う糸が細いため、目のいい若い人が定期的に入ってこないと、事業自体が立ち行かなくなる。そういった危機感が強い。

WWD:以前からテキスタイルのブランディングに力を入れてきたが。

梶:もう一つの狙いはブランディングだ。当社はグループ内に糸加工や繊維機械の企業を所有しており、細かい工夫を積み重ねて極薄のナイロン生地を製造している。ナイロンの極薄生地に関しては、今なお世界のトップクラスのポジションにいると自負している。ただ、いくら世界でトップレベルのナイロン生地を作れる、と言ってもなかなか売値には跳ね返ってこない。最終消費者へのリーチが足りなていないからだ。2012年からトラベルグッズブランドの「トゥー アンド フロ-
」、19年にはファクトリーブランドの「K−3B」を立ち上げ、20年にはテキスタイルブランド「カジフ(KAJIF)」もスタートした。全てブランドを通じて直接、消費者にテキスタイルの付加価値の高さをアピールしたかったからだ。

WWD:「ファクトリーパーク」の構想はいつから?

梶:工場の新設自体は2017年ごろから考えていたが、当初はサステナブル対応の工場にしようかな、くらいの感じだった。ただ、縁があってこのかほく市の1万坪の敷地を見た瞬間に、ぱっととひらめいた。ずっと頭を悩ませていた人手不足やテキスタイルのブランディング、工場の新設が有機的につながって「パーク構想」が見えた。

WWD:トータルディレクターにはメソッドの山田遊代表、植栽・ガーデンにはプラントハンターの西畠清順氏、内装には佛願忠洋(ぶつがん・ただひろ)ABOUT代表とクリエイターを巻き込んだ。

梶:ファクトリーパーク構想がひらめいてから、一人ひとり個別に私の方から声をかけた。ファクトリーパーク構想を実現する上で、鋳物の能作が仕掛ける富山県の高岡市、スイーツのたねやによる「ラコリーナ近江八幡」、コスメ大手のSHIROの手掛ける北海道の砂川など、日本の産業観光の主だったところにはすべて足を運んで回って、勉強しながら、クリエイターたちと一緒に中身を練った。ブルネロ・クチネリのソロメオ村も直接行ったことはないが、ネットや本など手に入る情報にはすべて目を通した。

WWD:目指すのは?

梶:工場自体は2024年12月に織機が全部入って稼働しており、年明けからはすぐにフル稼働になった。延床面積は工場や店舗、レストランなどを含め2層で1万1219㎡。165台のウォータジェット織機を新たに導入した。ここから車で10分の距離にある高松工場(織機250台)も含めると、年産の織物生産は1000万㎡になる。

梶:新工場の設立を機にDX投資もかなり行った。今は高松工場も含めて織機も1台単位で稼働率をモニタリングできるようになっている。実は生産効率の面でかなり大きく、投資の返済原資はこの部分の粗利の増加分だ。

梶:ビジネスの面で言えば、テキスタイルのブランディングに成功したら、例えば当社の生地の平均単価900円が100円上がれば、年間1000万mの当社からするとそれだけで収益は10億円アップする。借金なんてすぐに返せる(笑)。

梶:これまでずっと、当社に限らず、テキスタイル、あるいは日本の繊維業界のイメージアップのため、何をすればいいのか考え続けてきた。繊維は衣・食・住の一つを担う重要な産業で、しかも日本の繊維は世界的にも高い技術や競争力を持つ。なのに、全然アピールができていない。この新工場は、「斜陽」みたいなイメージを払拭し、重要な産業であることを日本全体にアピールするの試金石だ。ここからいろんなモノ・コトを仕掛けていく。すでにいくつかのブランドとは協業して一緒に展示会やファッションショー、フェスをやろうという話が進んでいる。繊維やファッションだけでなく、エンタメやエレクトロニクスなどこれまで当社として接点のなかった異業種コラボレーションにもぜひ取り組みたい。目指すは、多彩な人が行き交う「イノベーションのハブ」。

こうしたイベントなどを仕掛けるため、新たに10人の専任スタッフで「産業観光部」も発足した。当社は24時間操業だが、正月とお盆などの工場が休みの日には、寿司や焼き肉などのマルシェを開いたっていい。

かほく市自体が実はとても素敵なところだが、宿泊施設などが少ない。工場のすぐ裏が海辺になっていて、とても気持ちのいい場所があり、そこにレストランや小さなホテルを誘致して、かほく市自体をもっと盛り上げたいとも思っている。今回は多彩なクリエイター後からも借りた。そうしたクリエイターも含め、この工場をハブにしてかほく市を盛り上げ、いずれは市全体のGDPを上げる。本気だ。

WWD:今後は?

梶:100年先も生き残るための投資と考えれば、70億円も100で割ったら大したことではない。繊維はまだまだ可能性はある。先ほど異業種交流と言ったが、実は繊維産地同士の交流だってまだまだ少ない。他の繊維産地とも一緒にぜひコラボレーションしたい。まずはぜひ工場を見に来てほしい。当社は何も隠さないオープンファクトリーでもある。これから先、現時点では僕が想像できないことがどんどん起こる。それに本当にワクワクしている。

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ステラ・マッカートニー、サステナに迷い、向き合う次世代に語る責任ある創造

デザイナーのステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がこのほど来日し、三越伊勢丹が主催する「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した。「三越伊勢丹ミライアワード」は、さまざまな企業から集めた残反などを素材に、服飾学校の学生たちが作品づくりに取り組むアワード企画。2023年に続く2回目の開催となった今年は、エスモード東京校、東京モード学園、文化服装学院の学生らが参加した。

ステラは同アワードの審査員を務めたほか、文化服装学院で開催された特別トークショーにも登壇。浅尾慶一郎環境大臣と近藤詔太・伊勢丹新宿本店店長と共に、サステナビリティに取り組む意義などについて語った。イベントを終えたステラに、若手に期待することや今のファッション産業についての考えを聞いた。

WWD:「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した感想は?

ステラ・マッカートニー(以下、ステラ):とても楽しかったわ。学生たちの作品はどれも非常にレベルが高くて、本当に驚いた。彼らがどれだけ真剣に取り組んだのかが、作品を通じてしっかりと伝わってきた。次世代デザイナーの作品を審査する機会はたびたびあるけど、ここまで優秀な作品ばかりのアワードは珍しい。優秀作品を選ぶのが本当に大変だったくらいよ。

WWD:若手のクリエイションを評価する際に大事にしている視点は?

ステラ:創造性とアイデア、パターンカッティングの精度といったテクニック。そしてサステナビリティ。それから、よく学生たちに聞くのは、自分がそれを本当に着たいかどうか。コスチュームではなく、ちゃんと着たいと思うものに仕上げているかは大切だと思う。

責任あるクリエイションこそファッショナブル

WWD:サステナビリティに真面目に取り組もうとするあまり、自分らしいクリエイションを発揮しきれない学生も多い印象だ。

ステラ:サステナビリティがクリエイションの障壁になってはいけないと思う。もちろん、素材のバリエーションには制限があるけど、本来そういう時こそよりクリエイティビティーを発揮するべきだと思う。私でさえいまだに使いたい素材はあっても、デザインを変えなければいけなかったり、欲しい色が実現しなかったり、毎度何かしらの壁にぶつかって奮闘している。でも、どうやったら“マッシュルームレザー“を調達できるか、ペットボトル由来の糸で理想とするボリューミーなニットウエアを作れるか、そういうことを考える工程こそクールでファッショナブルだと思う。

WWD:一方で、サステナビリティを自分ごと化しきれない学生もいる。

ステラ:素材の製造過程で行われていることを知れば、迷いもなくなるんじゃないかしら。たとえば、「こちらのレザーは、牛を殺して人々がガンになるようなリスクのある化学薬品を使いながら作られています。加えて、森林を伐採して作られた穀物は、飢餓に苦しむ人々ではなく、バッグになるための牛の食糧になっています」としか思えない素材と、「こちらの“マッシュルームレザー“は、そうした犠牲がなく作られています」と思える素材。この2つを並べられた状態で前者と後者を迷うなんてありえないと思う。必要なのは、十分な情報と代替素材へのアクセス。そして、サステナブルな選択をしやすくなる法律。昨日環境大臣にお会いした際には、「責任は私でもなく、若手でもなく、行政側にあるのよ」ときちんと伝えたわ。

WWD:トークショーでは、「作る責任との狭間で葛藤しています」と言った悩める学生からの質問が印象的だった。

ステラ:彼らとの交流は楽しかった。私の世代は孤独だったから。今私が実践していることの価値を本当に理解してくれているのは、若い世代の人たちだと感じている。

ショーは見る人が動物と地球への敬意を思い出すきっかけに

WWD:パリで発表したばかりのコレクションでも多くのイノベーティブな代替素材が登場した。

ステラ:スネークレザーのように見える素材は、キノコの菌糸体由来。スパンコールもすべて木材や再生可能なバイオマス原料からできているの。従来のスパンコールは石油やガソリンから作られていて、マイクロプラスチックを発生させるし、分解されないし地球にとっては悪いことばかり。正直、もっと厳しく規制されるべきだと思う。スネークのモチーフを使ったのは、かつて人間が文化の中で、蛇をとても神聖な存在として扱ってきた歴史を祝福する目的もあった。今では残虐に殺されて皮をはがれている蛇もいる。でも昔は蛇を尊敬し、崇拝していた。多くの動物との関係性についても、同じようなことが言える。特に日本人に対して声を大にして言いたいのは、捕鯨は禁止すべきということね。

WWD:近年はショー会場で新聞を配ったり、マルシェを開催したりと、多くの情報を発信しているのは、人々を教育するため?

ステラ:私はただ情報を伝えたいだけなの。動物の命の尊さや、当たり前に使用している素材の環境負荷を少しでも人々に思い出してほしい。そしてそれを美しい形で伝えようと努力している。例えば昨シーズン発表したニットウエアも、誰もあれがペットボトルから作られているなんて分からない。見た人の多くは「すごいデザイン!」って思うだけ。でも、たった一人でもちゃんと読んで、いろんな情報を知ってくれたらそれでいい。誰もやらないのだから、それが私の役割なんだと自覚している。

WWD:特に若い世代には、ステラと考えを共有する人物も多いはず。ファッションや音楽、アートなど今注目している若手はいる?

ステラ:情熱を持って活動している人たちはたくさんいると思う。ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)とかはまさにそうだけど、残念ながらファッション業界の中では本当に少ない。細かくは追えていないけど、若いデザイナーが私と同じような視点を持っていることは知っているし、これからの産業にはそういう人たちにあふれてほしいと願っているわ。

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ステラ・マッカートニー、サステナに迷い、向き合う次世代に語る責任ある創造

デザイナーのステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がこのほど来日し、三越伊勢丹が主催する「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した。「三越伊勢丹ミライアワード」は、さまざまな企業から集めた残反などを素材に、服飾学校の学生たちが作品づくりに取り組むアワード企画。2023年に続く2回目の開催となった今年は、エスモード東京校、東京モード学園、文化服装学院の学生らが参加した。

ステラは同アワードの審査員を務めたほか、文化服装学院で開催された特別トークショーにも登壇。浅尾慶一郎環境大臣と近藤詔太・伊勢丹新宿本店店長と共に、サステナビリティに取り組む意義などについて語った。イベントを終えたステラに、若手に期待することや今のファッション産業についての考えを聞いた。

WWD:「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した感想は?

ステラ・マッカートニー(以下、ステラ):とても楽しかったわ。学生たちの作品はどれも非常にレベルが高くて、本当に驚いた。彼らがどれだけ真剣に取り組んだのかが、作品を通じてしっかりと伝わってきた。次世代デザイナーの作品を審査する機会はたびたびあるけど、ここまで優秀な作品ばかりのアワードは珍しい。優秀作品を選ぶのが本当に大変だったくらいよ。

WWD:若手のクリエイションを評価する際に大事にしている視点は?

ステラ:創造性とアイデア、パターンカッティングの精度といったテクニック。そしてサステナビリティ。それから、よく学生たちに聞くのは、自分がそれを本当に着たいかどうか。コスチュームではなく、ちゃんと着たいと思うものに仕上げているかは大切だと思う。

責任あるクリエイションこそファッショナブル

WWD:サステナビリティに真面目に取り組もうとするあまり、自分らしいクリエイションを発揮しきれない学生も多い印象だ。

ステラ:サステナビリティがクリエイションの障壁になってはいけないと思う。もちろん、素材のバリエーションには制限があるけど、本来そういう時こそよりクリエイティビティーを発揮するべきだと思う。私でさえいまだに使いたい素材はあっても、デザインを変えなければいけなかったり、欲しい色が実現しなかったり、毎度何かしらの壁にぶつかって奮闘している。でも、どうやったら“マッシュルームレザー“を調達できるか、ペットボトル由来の糸で理想とするボリューミーなニットウエアを作れるか、そういうことを考える工程こそクールでファッショナブルだと思う。

WWD:一方で、サステナビリティを自分ごと化しきれない学生もいる。

ステラ:素材の製造過程で行われていることを知れば、迷いもなくなるんじゃないかしら。たとえば、「こちらのレザーは、牛を殺して人々がガンになるようなリスクのある化学薬品を使いながら作られています。加えて、森林を伐採して作られた穀物は、飢餓に苦しむ人々ではなく、バッグになるための牛の食糧になっています」としか思えない素材と、「こちらの“マッシュルームレザー“は、そうした犠牲がなく作られています」と思える素材。この2つを並べられた状態で前者と後者を迷うなんてありえないと思う。必要なのは、十分な情報と代替素材へのアクセス。そして、サステナブルな選択をしやすくなる法律。昨日環境大臣にお会いした際には、「責任は私でもなく、若手でもなく、行政側にあるのよ」ときちんと伝えたわ。

WWD:トークショーでは、「作る責任との狭間で葛藤しています」と言った悩める学生からの質問が印象的だった。

ステラ:彼らとの交流は楽しかった。私の世代は孤独だったから。今私が実践していることの価値を本当に理解してくれているのは、若い世代の人たちだと感じている。

ショーは見る人が動物と地球への敬意を思い出すきっかけに

WWD:パリで発表したばかりのコレクションでも多くのイノベーティブな代替素材が登場した。

ステラ:スネークレザーのように見える素材は、キノコの菌糸体由来。スパンコールもすべて木材や再生可能なバイオマス原料からできているの。従来のスパンコールは石油やガソリンから作られていて、マイクロプラスチックを発生させるし、分解されないし地球にとっては悪いことばかり。正直、もっと厳しく規制されるべきだと思う。スネークのモチーフを使ったのは、かつて人間が文化の中で、蛇をとても神聖な存在として扱ってきた歴史を祝福する目的もあった。今では残虐に殺されて皮をはがれている蛇もいる。でも昔は蛇を尊敬し、崇拝していた。多くの動物との関係性についても、同じようなことが言える。特に日本人に対して声を大にして言いたいのは、捕鯨は禁止すべきということね。

WWD:近年はショー会場で新聞を配ったり、マルシェを開催したりと、多くの情報を発信しているのは、人々を教育するため?

ステラ:私はただ情報を伝えたいだけなの。動物の命の尊さや、当たり前に使用している素材の環境負荷を少しでも人々に思い出してほしい。そしてそれを美しい形で伝えようと努力している。例えば昨シーズン発表したニットウエアも、誰もあれがペットボトルから作られているなんて分からない。見た人の多くは「すごいデザイン!」って思うだけ。でも、たった一人でもちゃんと読んで、いろんな情報を知ってくれたらそれでいい。誰もやらないのだから、それが私の役割なんだと自覚している。

WWD:特に若い世代には、ステラと考えを共有する人物も多いはず。ファッションや音楽、アートなど今注目している若手はいる?

ステラ:情熱を持って活動している人たちはたくさんいると思う。ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)とかはまさにそうだけど、残念ながらファッション業界の中では本当に少ない。細かくは追えていないけど、若いデザイナーが私と同じような視点を持っていることは知っているし、これからの産業にはそういう人たちにあふれてほしいと願っているわ。

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注目のオルタナティブK-POPバンド、Balming Tiger(バーミングタイガー) そのルーツは? 

PROFILE: Balming Tiger(バーミングタイガー)

PROFILE: 韓国で2018年に結成されたオルタナティブK-POPバンド。11人のメンバーで楽曲制作、MV撮影、パフォーマンス、PRなど、全てのプロセスを自分たちで行なっている。デビューシングル「I’m Sick」で注目を集め、19年にリリースされた「Armadillo」では韓国ヒップホップアワードにてMusic Video Of The Yearを受賞し着実に韓国国内の音楽シーンに影響を与えた。そして22年にはBTSのリーダーRMを迎えた「Sexy NUKIM」をリリースし、世界中に新たなK-POP現象の風を吹き込んだ。23年に1stスタジオアルバム「January Never Dies」を、24年11月にEP「Greatest Hits」をリリースした。

2018年に結成されたオルタナティブK-POPバンド、Balming Tiger(バーミングタイガー)。さまざまな才能を持った11人のメンバーで構成されておるオルタナティブ・コレクティブだ。ポップス、ヒップホップ、ロック、エレクトロニカなどさまざまなジャンルを取り入れた音楽で、韓国国内で独自のスタイルを確立している。22年にはBTSのリーダーRMを迎えた「Sexy NUKIM」をリリースし、一躍注目される存在になった。

今年はNHKドラマ「東京サラダボウル」の主題歌を担当したり、坂本龍一トリビュートフェス「RADIO SAKAMOTO Uday」にも出演。「フジロック ’25」への出演も決定するなど、日本での活動も徐々に増えている。今回、Balming Tigerのサンヤン(San Yawn)、オメガサピエン(Omega Sapien)、ソグム(sogumm)、bjウォンジン(bj wnjn)、マッド・ザ・スチューデント(Mudd the student)、イ・スホ(Leesuho)の6人に、メンバーのことや影響を受けた音楽、ファッションのこだわりを聞いた。

「意見の衝突を避けようとはしない」

——Balming Tigerはメンバー構成が流動的なチームですよね。まず、現在はどんな構成で活動しているか教えてください。

イ・スホ:今は構成員が11人います。ライブでステージに上がるのは、ここにいるオメガサピエン、ソグム、bjウォンジン、マッド・ザ・スチューデントとプロデューサー、映像監督の僕、イ・スホの5人。サンヤンさんはリーダー兼クリエイティブディレクター兼プロデューサー。あとは音楽プロデューサーのアンシカブル(Unsinkable)さん、実務を担当する、マーケターのヘンソン・ファン(Henson Hwang)さんとA&Rのアビス(Abyss)さん。映像監督のジャン・クィ(Jan'Qui)さん、ビジュアルアーティストのホン・チャニ(Hong Chanhee)さん。チャニさんはBalming Tiger全体のデザインの他、映像を含む撮影、スタイリングなどマルチに活躍しています。

——さまざまな役割を持つメンバーが集まっていますが、クリエイティブ制作はいつも楽曲から始まるのか、それともパフォーマンスやアートワークが先行することもあるのか……どのように進むのでしょうか?

サンヤン:多くの場合は音楽から始まるのですが、ケースバイケースです。「こういう映像を作りたい」というイメージから出発することもあるし、1枚の写真から曲作りが始まることもある。柔軟にやっています。

——メンバー間で意見がぶつかることはないですか?

オメガサピエン:(日本語で)社長(サンヤン)のリーダーシップがすごいので、大丈夫です!

サンヤン:(笑)。意見の衝突を避けようとはしないですね。それぞれに強いこだわりがあったらしっかり主張して、相手に分かってもらうように言葉を尽くすこともあります。

ソグム:いつも本当にいろんな意見が出るし、その衝突の中から生まれてくるものも多くて。それが私たちの制作において、いいエッセンスになっているんじゃないかな。常にそうしたプロセスを楽しみながら、Balming Tigerのならではの色を探求している感覚。すごく希望に満ちていると思います。

メンバーの音楽ルーツは?

——なるほど。Balming Tigerは“オルタナティブK-POP”を掲げていて、さまざまなジャンルを自由自在に取り込んでいる印象があります。皆さんそれぞれ音楽のルーツも異なるんでしょうか。

オメガサピエン:若い頃の自分にとっては、内面に湧き起こる感情を正直に外に出すことが大事で。そういったところから、ヒップホップに惹かれるようになりました。

イ・スホ:僕も同じで、若い頃はヒップホップやエレクトロニカなど、尖ったものを中心に聴いていました。怒りの感情などを素直に出せるタイプではなかったので、そうした音楽を聴くことで昇華していた部分もあると思います。

マッド・ザ・スチューデント:いつも姉が家でいろいろな音楽をかけていて。ポップにロック、ヒップホップ、エレクトロニカ……ジャンルもさまざまで、大きな影響を受けたと思います。ロックを熱心に聴いていた時期もありました。でも最初に楽曲制作をしたのはヒップホップで、そこが自分の基盤になっています。

ソグム:小6のとき、年下のいとこたちと一緒に、保護者なしで中国旅行に行ったことがあるんです。MP3プレーヤーにほんの数曲を入れて持っていったんですが、旅先でBoAさんの「Tree」という曲を夜に聴いて、音楽の力をすごく感じました。韓国語の歌詞がすごく染み渡ってきたんです。自分もそんなふうに音楽で人々を力づけたいと思い、創作活動を志すようになりました。当時の日記にもその決意が残っています。

bjウォンジン:僕はブラックミュージックをたくさん聴いてきました。特にディアンジェロ(D'Angelo)の自由な表現が大好きです。Balming Tigerとして活動しながら、多様な音楽に触れるようになり、いい影響を受けていると思います。

サンヤン:最初はラッパーや歌手になりたくてラップの歌詞を書き始めたのですが、さまざまな音楽を聴いているうちに、プロデューサーや作曲家など、裏方への関心が高まりました。振り返ってみれば僕は、常にプロデューサー型のアーティストに惹かれていて。そこから自然と、Balming Tigerの活動に行き着いたと思います。

——ちなみに、Balming Tigerの楽曲にはトロットなどのエッセンスも感じるのですが、大衆音楽には影響を受けていますか?

サンヤン:メンバーは皆、ロックやフォークを聴き始める前から、ポップミュージックが当たり前にラジオやテレビ、店先で流れている中で育ってきました。なので、やはり根っこには歌謡曲や大衆音楽があると思います。

オメガサピエン:リリックなどを含めてアメリカのヒップホップが最高だと思っていた時期もありましたが、自分の原点に立ち返った時に自然と、自分にとってのK-POPと向き合うようになりました。そこをBalming Tigerでどう表現するかということは、いつも考えていますね。

ファッションのこだわりと日本での活動

——ライブでは曲をただ披露するだけではなく、ダンスなどのパフォーマンスを盛り込んで、視覚的にも楽しませる工夫を凝らしていますよね。

オメガサピエン:僕らはインディペンデントから始まっているので、正直なところ、最初はセッションミュージシャンを雇ったり、LEDでカッコいい映像を流す余裕がなかったことが起点なのですが(笑)、自分たちでパフォーマンスのアイデアをいろいろ出していくことで、制限の中から創意が生まれたと思います。

——衣装は色味を合わせたり同じジャケットを着用したり、いつも統一感がありますが、どのようなこだわりが?

ソグム:そこも最初は、最小限の予算でやらなければならなくて(笑)。制約がある中で、色を合わせたり、ライブをひと目見たときに飛び込んでくるビジュアルを意識したりするようになりました。今は才能ある友人がデザインしてくれています。

サンヤン:やはりバラバラではなく同じ衣装を着て舞台に立つと、自分たちが1つのチームであるという一体感を感じられるんですよね。

ソグム:私はおそろいの衣装でパフォーマンスしていると、奮い立たせられるような感覚があります。あとは欧米でたくさんツアーをやっていく中で、東洋的な美的感覚も意識するようになりました。

サンヤン:YMOのように、東洋的な美学をうまく生かしたグループにもインスピレーションを受けているし、憧れています。

マッド・ザ・スチューデント:あとはもちろん、衣装にもK-POPの影響が自然に入っている気がします。

オメガサピエン:僕は居心地の悪さを演出したい。小さめのTシャツとかをよく着ます。ちょっと今の時代から外れているけど、レトロとは少し違って……7年前くらいの、中途半端な時代のイメージというか。

ソグム:オメガさんはファッションだけじゃなく、音楽の趣味とかも8年遅れているよね(笑)。

サンヤン:やっぱり生き方や性格がファッションにも表れるんだね。

オメガサピエン:ははは(笑)。

bjウォンジン:僕はオリジナルをアレンジしたようなデザインではなく、オリジナルのアイテムをしっかり着るということにこだわっています。

マッド・ザ・スチューデント:レディオヘッド(Radiohead)など90年代のロックスターに影響を受けています。ナチュラルだけどいろんな要素を持っている雰囲気に惹かれて。ビンテージのバンドTシャツを集めるのが好きですね。

ソグム:私は、お母さんが変わった人で、ファッションにもこだわりを持っていたんです。韓服をモダンに着てみたり。私が幼稚園の頃、奉仕活動や社会科見学で外に出るときに、他の子はジャージなど動きやすい服を着て参加していたんですよ。でも私の母は、私にプリンセスドレスを着せようとして(笑)。そういう独特のセンスがあったので、私も影響を受けて、ファッションへの関心や情熱が高まったと思います。

——昨年は渋谷パルコの館内BGMセレクターを務め、今年はNHKドラマ「東京サラダボウル」に主題歌「Wash Away」を提供したり、「フジロック ’25」への出演も決定するなど、Balming Tigerは日本での活動も活発化していますね。今後日本でやってみたいことや、コラボしたいアーティストはいますか?

サンヤン:これから本格的に日本での活動を行っていく予定で、やりたいことはたくさんあります。アニメのテーマソングなども興味がありますね。日本には尊敬しているアーティストがたくさんいるのですが、特に細野晴臣さんが大好きで。いつか一緒に何かできたらうれしいです。

マッド・ザ・スチューデント:僕はNUMBER GIRLが大好きだったので、ZAZEN BOYSとコラボしてみたいです。

オメガサピエン:あいみょんさん!

ソグム:私はアキツユコさん。あとは双子に見立てたセルフポートレートで知られるアーティストのfumiko imanoさんが大好きで、いつかコラボしてみたいです。

サンヤン:それからホンマタカシさんに是枝裕和さん、広瀬すずさん、奈緒さん……。

ソグム:挙げきれないくらいたくさんいます!

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
HAIR&MAKEUP:MAHITO

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「ジーユー」と協業2シーズン目、「ロク」のデザイナーが語る「コラボから受ける刺激」

PROFILE: 韓国ソウル生まれ、米テキサス・オースティン育ち。英ロンドンのセント・マーチン美術大学でメンズウエアとウィメンズウエアを学ぶ。2010年にフィービー・ファイロによる「セリーヌ」で3年間アシスタントデザイナーを経験後、フリーランスデザイナーとして「ルイ・ヴィトン」や「クロエ」のデザインを手掛ける。16年に自身のブランド「ロク」を立ち上げ、18年度の「LVMHプライズ」で特別賞を受賞。19-20年秋冬に初のランウエイショーをパリで発表、以来パリでの発表を続ける PHOTO:SHUHEI SHINE

「ジーユー」は4月4日、ロック・ファン(Rok Hwang)が手掛ける「ロク(ROKH)」との、2シーズン目となるコラボコレクションを発売する。「ジーユー」は2024年9月に満を持してニューヨークに常設出店し、グローバルな存在感を目指す段階にあるが、足元の業績は良いとは言えず、「確固たるブランドポジションの確立」が喫緊の課題となっている。メンズ軸では「アンダーカバー(UNDERCOVER)」の高橋盾と新ライン「ユージー(UG)」を立ち上げ、デザインアプローチを吸収し、商品精度を高めるべく研鑽を積んでいる。では「ジーユー」がウィメンズで胸を借りる相手は誰かというと、それが「ロク」だ。「このコラボは、ジーユーと私たち、どちらにとっても学びがある」と控えめに、穏やかに話すロク・ファンに、前シーズンに続き話を聞いた。

WWD:「ジーユー」との協業は2シーズン目になるが、今回はどのようにアイデアを組み立てていったのか。

ロク・ファン「ロク」デザイナー(以下、ファン):ファーストシーズンに続き“Play in Style”をコンセプトに、いろんな要素やアイテムを組み合わせていくミックスマッチの考え方でコラボレーションに臨みました。「ジーユー」と「ロク」それぞれが得意とする要素と、今シーズンは“ブリティッシュガーデン”の要素も加えて、それらをミックスして面白いものを作りたい、というのが出発点です。“ブリティッシュガーデン”の要素としては、例えばワンピースに取り入れた小花柄です。リボン付きのハットもまさにガーデニングをするときに被るようなスタイルですよね。また、ショート丈のコートは、庭いじりをするときに日差しから守るといったイメージで、ケープのようなシルエットになりました。

WWD:ガーデニングを意識したということは、ロクさん自身、自然との触れ合いを求めている?

ファン:自然がある環境はもともと好きですし、ガーデニングで土いじりをするのは自分を開放していくようなイメージがあります。自分が好きなように花や植物を植えて、遊びを込めて“自由”に庭を作っていく。それって、「ジーユー」に通じるところがあると感じましたし、ガーデニングという要素が、今回のコラボレーションにリボンをかけるようなアレンジになると考えました。

WWD:「ジーユー」のブランド名の由来が“自由”だということには、コラボのファーストシーズンのインタビューでも言及していた。

ファン:4年前に「ジーユー」チームと初めて軽く話した際、最初の会話がまさに「ジーユー」が意味するのは“自由”だ、という話でしたから(笑)。コラボとしては2シーズン目ですが、やり取りをするようになってからは4年と長いので、「ジーユー」と「ロク」のチームではさまざまな角度から会話を深めることができています。「ジーユー」チームのパタンナーや生地担当者もすばらしく、彼らからクリエイションの“自由”をもらっているので、とても仕事がしやすい状況です。

動きの中の美しさを追求

WWD:コラボ第2弾でロクさんが特に気に入っているのはどんな点か。ペプラムシャツなどの立ち上がるような立体的なフリルのディテールは、「ジーユー」のインライン商品とはやはりちょっと違うなと感じる。

ファン:立体的なパターンもそうですし、人が動いた時に服がどう見えるかということには非常に丁寧に、計算して取り組見ました。それゆえ、フィッティングの回数も多いです。フィッティングというより、お客さまが実際に着たときにどうなるかという研究をするような感じですね。例えばケープの袖は、ボタンを留めるか外すかでシルエットや動きが変わるので検証を重ねました。通常は合わないだろうと思うようなアイテムを組み合わせることで、非常に面白いシルエットができるという点でも、驚きや楽しさを感じていただけると思います。

WWD:「ロクさんはフィッティングの際にとにかくモデルをよく歩かせて、服の動きを見ている」とは、前回のコラボの際に「ジーユー」の海老澤玲子R&D部ウィメンズ部長も話していた。

ファン:動きの中で服が体の一部になっていくというか、動きの中にどう美しさがあるか、という点は自身のクリエイションにおいて非常に意識しています。止まっているときの美しさももちろん考えるんですが、実際にはお客さまが立って座ってと動いたときにどのように服が動久賀、お客さまがどう感じるかが自分にとっては大切ですから。

WWD:素材で注力したポイントはどんなところか。

ファン:小花柄プリントは今回のコラボレーションのキーになっていますが、着るのが難しい柄ではなく、お客さまが持っている服にも合わせやすいバランス感を非常によく考えて作ったものです。ペプラムシャツに採用したコットンポプリンは、着たときの肌あたりにフォーカスし、探っていこうとしたのが「ジーユー」チームとの対話の出発点でした。

WWD:前回のコラボレーションでは、客からどんな反応があったか。

ファン:「ジーユー」チームから、お客さまの着こなし写真や商品に対するコメントをフィードバックしてもらっています。“Play in Style”として、お客さまが自由に楽しめる余白のある提案をしているので、実際に皆さんが自分なりに着こなしてくださっているスタイリング写真を見るのはすごく楽しかったですね。前回はウィメンズのみのコレクションでしたが、それを男性が着こなしてくださっていたり、年齢によって、同じアイテムでもかなり違うイメージで着こなしてくださっていたり。皆さんハッピーに反応してくれて、とてもうれしかったです。今回メンズアイテムを出したことは、男性のお客さまが前回のコレクションを着こなしてくださった点にインスパイアされた部分ももちろんあります。

「お互いに学び合っている」

WWD:先日パリで発表した「ロク」の2025-26年秋冬は、エレガントで華やかなムードがいっそう高まっていた。一方で「ジーユー」とのコラボは、若々しくてフレッシュな感覚。意識的に分けているのか。

ファン:自身のラインと「ジーユー」とのコラボで共通することもありますが、ターゲットとするお客さまやマーケットが違うので、やはりアプローチは違います。自身のラインは彫刻を作るように、体の上での服の美しい動きを探っています。一方で、「ジーユー」との取り組みでは、より自由に、お客さまとのコミュニケーションを意識しながら作っています。前シーズンに続いて、キービジュアルはイタリア人アーティストの方と取り組みましたが、今回は野菜を使って撮影用の小物を作りました。そういう表現の自由さが「ジーユー」とのコラボにはありますね。

WWD:「ロク」では成熟した美しいものを作り、コラボでは楽しくフレッシュなものを作るというのは、ロクさん自身にいい影響をもたらしているか。

ファン:自分の中の異なる分野がお互いインスパイアし合っている感じですね。あと、コラボの仕事で日本にこのようにやってきて、日本の文化に触れるという機会もまた、「ロク」についても、コラボについても刺激をもらっています。どちらか一方にクリエイションが限定されることなく、さまざまな発見があることが自分にとって大きな喜びであり、良い環境だなと感じます。

WWD:今後もこのコラボが続くのだとしたら、挑戦したいことはあるか。

ファン:もし続くなら、カテゴリーを少しずつ広げていければと思っています。絵を描く際のパレットを増やすような感覚ですね。新しいアイデアを提案して、さらに楽しさが広がっていくようなものにしていきたいです。

WWD:「ジーユー」のチームからは、「ロクさんのような才能あるデザイナーとの取り組みの中で吸収するものは多い」という話が出ている。「ジーユー」のチームは、自身との取り組みを通し何を得ていると思うか。

ファン:関係性は一方的なものではなく、「ジーユー」のチームとわれわれはお互いに学び合っています。一緒に新しいものに挑戦すると、学びや発見がある。自分のアトリエでは、それを“スタディー”と呼んでいます。今回のコラボでいえばデニムの洗い加工だったり、カットやパターンの試作を何度も重ねることだったり、その中では失敗もあるんですが、「ジーユー」のチームはポジティブなので、一緒にやっていて楽しいですね。

WWD:最後に、ガーデニングは心を開放するという話が最初の方であったが、ロクさん自身は心を開放するためにどんなことを行っているか。

ファン:正直なところ、ファッション業界はリラックスすることがすごく難しいですね。いつも、何かに瞬発的に反応していないといけない。ただ、自分は旅をしたり、“スタディー”の中で何かが見つかったりすることが心のリラクゼーションになっていると思います。

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スノーボードの「バートン」が“子どもの体験格差”に一石 教えているのは「滑り方ではなく、人生」

ジェイク・バートン(Jake Burton)が1977年に創業したバートン(BURTON)は、北京冬季五輪金メダリストの平野歩夢選手とも契約するスノーボードの大手メーカーであり、スノーボードを世に広めてきたオリジネイターだ。同社は2019年にいち早くBコープ認証を取得するなど、気候変動や持続可能な成長といった社会課題に対する意識の高さでも知られるが、より良い社会を目指し、チル(CHILL)という活動を通じて子どもたちの支援にも力を入れている。児童養護施設などの子どもたちにスノーボードをはじめとしたスポーツの機会を提供し、社会とつながるきっかけを提供するというもの。ジェイクの配偶者であり、バートンのオーナー兼会長ドナ・カーペンター(Donna Carpenter)、チルCEOのベン・クラーク(Ben Clark)、チル ジャパンの小倉一男代表理事に、チルの活動について聞いた。

WWD:1995年にジェイクとドナでチルを立ち上げた。どのような考えからだったのか。

ドナ・カーペンター バートン オーナー兼会長(以下、ドナ):1977年に「バートン」を立ち上げて、以来スノーボードのビジネスをしてきました。その中で、スノーボードに恩返しがしたいと考えるようになったんです。恩返しの方法はいろいろありますが、何より、「バートン」を支えてきてくれた若い人や子どもたちにフォーカスしたかった。スノーボードがこの世にまだ存在しなかった時代に、彼らがわれわれの製品に興味を持ってくれて、裏山に持って行って遊んでくれたことで、スノーボードが始まったわけですから。それで、(金銭面や家庭の事情などの)環境的な要因でスノーボードをすることができなかったり、人生に何か困難を抱えていたりする若い人たちに、スノーボードをする機会を提供できればと思い、チルの活動を始めたんです。

彼らにスノーボードを教える中で、私たちは滑り方を教えているだけじゃない、スノーボードを通して、人生を教えているんだと気付きました。滑っていると転ぶこともありますよね。でも、立ち上がってまた挑戦する。その繰り返しの中で、人生にたとえ何か困難があっても、それを乗り越えて、自分で自分の人生を導いていけると伝えられると感じたんです。活動を始めてすぐ、「このプログラムを是非うちの街でもやってほしい」といった声も舞い込むようになり、ニーズの高さも感じました。現在、チルではスノーボードのほか、スケートボードやサーフィンなどの体験機会も提供しています。それらを通して、彼らの健全な成長を支援するのが目的です。チルの活動は9カ国24都市に広がっています。

WWD:チルの活動もその1つとして、バートンは社会をより良くすることに対する意識が高い企業だと常々感じる。それはどういった考えからか。

ドナ:生前ジェイクとよく、“トリプルボトムライン”について話しました。企業活動を経済、社会、環境の3側面から評価する考え方です。企業の成功とは何かを考えたとき、もちろんその1つは利益率ですが、人や社会に対して良い影響を与え、スノーボードをするコミュニティーや環境を守っていくこと。これら3つがそろって、初めて成功だとわれわれは考えています。バートンは1人1人の人生をより良い方向に変えていくことをミッションの1つに掲げています。アウトドアの業界やコミュニティーをより開かれた、公平なものにしていきたい。例えば米国では、有色人種や先住民の方たちはスノーボードにアクセスしづらいという課題があります。どんな人でも、どんな環境にあってもチャレンジできる環境を整えようとしています。

チル卒業生は世界で3万人

WWD:確かにスノースポーツは欧米の、中でも白人のものというイメージは根強い。

ドナ:開かれたアウトドアコミュニティーを目指し、バートンでは有色人種の方たちを積極的に採用していますし、チルのプログラムでも彼らを支援しています。バートンとして、有色人種や先住民の方たちが、スノーボードコミュニティーに参画する際にどんなハードルを感じるか、どうすればそれを減らせるかといったことを自らディスカッションする“カルチャーシフター”というイベントも行っています。いま、スノーボードでは特に中南米の方の参加率が上がってきていますが、われわれのこうした取り組みも反映されていると思います。

ベン・クラーク チルCEO(以下、ベン):アウトドア業界をより開かれたものにしていくためには、チルに参加した人が成長して、自身のキャリアを考えるようになったときに、アウトドア業界にはどんな仕事があるのかをイメージできることも大事ですよね。それで、チルではアウトドア関連職種の職場見学や、職業体験の機会も設けています。チルの卒業生は世界で既に3万人いて、彼らを組織することも今進めています。卒業生は子どもたちにとってのロールモデルになりますから。人生で目標となるような存在ができれば、勇気がもらえます。卒業生が互いに高め合えたり、仲良くなって余暇に一緒にスノーボードに行ったりできるような環境を整えることが、長い目で見てアウトドアコミュニティーをより良いものにしていくと思っています。

WWD:チル卒業生で、バートンで働いている人もいるのか。

ドナ:店頭でも本社でも、かなりの数の卒業生が働いています。

ベン:バートンのアンバサダーを務めているチル卒業生もいます。彼は11歳でウガンダから母親とアメリカにやってきて、チルでスノーボードを体験して、スノーボードが大好きになった。現在はアンバサダーを務めながら、次の夢としてスノーボーダーを助ける医者を目指し勉強しています。彼もチルのイベントで自身のことを子どもたちに話してくれるんですが、人生にはさまざまな可能性や未来があるんだと子どもたちが気づくきっかけになっています。

WWD:チルでは、子どもたちに無料でスノーボードや各種スポーツの機会を提供しているが、財源はどのように確保しているのか。

ドナ:バートンは利益の中から毎年一定の割合をチルに寄付しています。また、事務などのバックオフィスはバートンとチルとで共有しています。子どもたちにスノーボードを体験してもらう際に使うギアやウエアは、バートンから提供しています。

ベン:補足すると、米国でも日本でも、チルは独立したNPO法人です。財源の30%はバートンから、残りは個人や企業の寄付によって成り立っています。寄付はお金だけでなく、例えば北米ならベイルスキーリゾート、日本なら富士見パノラマリゾートなどは、リフト券やゲレンデでの食事の提供といった形でもサポートしてくれています。チルに年間で集まる寄付額(上記リフト券や食事提供などは含まない金額)は米国で約400万ドル(約5億8800万円)です。スノーボードを教えている点に共感してくださる寄付者もいますし、若者の支援プログラムとして価値を見出してくださる人もいます。イベント当日にボランティアとして関わってくださる支援者もいます。寄付や支援をしてくださる方たちに支えられて、チルがあります。

小倉一男チル ジャパン代表理事(以下、小倉):バートンのスタッフの協力も大きいです。彼らはイベントごとに、参加する子どもたちのサイズに合わせてギアやウエアを準備して、スキー場に送って、イベント後にはウエアやギアをメンテナンスして、といった大変な作業を担ってくれています。

「自分はスノーボーダーだ!
と自信を持ってもらいたい」

WWD:チル ジャパンはどのようにスタートしたのか。小倉代表理事はバートン ジャパンの初代社長でもある。

小倉:日本では、1995年に起こった阪神淡路大震災で被災した子どもたちを2001年に兵庫の六甲山のスキー場に招待して、スノーボードを楽しんでもらったのが始まりでした。NPO法人としてチル ジャパンができたのは03年、これまでに活動に招待してきた子どもたちは2000〜3000人です。日本に限らず、チルの活動は“LTR(Learn To Ride)”という板ができたことで進んだ部分は大きかった。初心者でもターンのきっかけがつかみやすく、逆エッジで転ぶことが少ない板です。自分も“LTR”で滑ってみて、「これなら子どもたちが履いても大丈夫」と思ったのをよく覚えています。

ドナ:子どもたちが使うギアについては、ジェイクが特にこだわった部分でした。最高のギアで子どもたちにスノーボードを体験してもらい、ターンすることを楽しんでほしい。そして、プログラムが終わるころには「自分はスノーボーダーなんだ!」と自信を持って思ってもらいたい。その点をジェイクは非常に大切にしていました。

WWD:子どもの“体験格差”については、日本でも報道されることが増えている。家庭の経済事情や環境に関わらず、誰にとっても子どものころのさまざま体験が必要だという考え方が世の中に浸透しつつある。

小倉:チルの活動をすればするほど、体験機会のない子どもたちがたくさんいるんだと感じます。チル ジャパンでは、もともとは阪神淡路大震災や東日本大震災などで被災した子どもたちにスポーツの機会を提供していましたが、いま特に力を入れているのは、児童養護施設やフリースクールに通う子どもたちを招待することです。児童養護施設は全国に600前後あって、約3万人の子どもが親から離れて暮らしている。虐待や育児放棄を経験した子もいる。チル ジャパンではスノーボードのほか、スケートボードやスラックラインなどの体験機会も彼らに提供していますが、複数のスポーツに挑戦してみると、不得意なものもあるけど、できるものもあると気づく。それはその人の人生にとって、すごくプラスになると思います。

ベン:アメリカでは、より多くの子どもたちに体験機会を提供することを目指して活動してきたため、同じ子を継続して招待するのは長くて2年です。でも、チル ジャパンは3〜5年にわたって継続して同じ子どもたちをさまざまなアクティビティーに招待しています。継続的な関係を築くことで、子どもたちが再び大人を信頼できるようになる。それは彼らの人生にとってすばらしいことだと思います。日本のやり方をアメリカでも生かせないかと、支援者の方たちとも話しています。このように、他地域のやり方から学び合えることは、グローバルな組織の強みですね。

日本はクラウドファンディング実施中

WWD:活動を続けていく上での課題は。

ベン:アメリカはリーダーシップ(大統領)が変わって、国際的な協調も、社会を良くするための活動も、多様性も以前より難しくなっており、これが一番の問題です。公平な社会を目指す活動の多くが、活動を阻害され、気持ちをくじかれている。まるで逆流を泳ぐ魚のようです。今まで活動に賛同してきた人も賛同しづらくなるでしょうし、こうした活動に公的資金が注がれることも減っていく。しかし、今が若者にとって厳しい時代であることは変わりません。SNSの影響もあって、心を病んだり、自ら命を絶ってしまったりという子どもが増えている。自分の価値を疑ってしまいやすい世の中だからこそ、われわれのような活動は大切だと思っています。

小倉:日本の課題は明白で、資金が乏しいことです。チル ジャパンとして必要な費用は年間で約1000万円。その半分を海外からの寄付でまかなっています。欧米のような寄付文化がない日本では、今シーズン初めて(3月31日まで)、クラウドファンディングを実施しています。ただ、近年われわれの活動に賛同してくださるスキー場は増えていて、それは非常にありがたいこと。目先の利益のみを追求するのではなく、未来ある子どもたちのために尽くそうという発想が日本の企業にも広がりつつある。また、スノーボード業界としてはスノーボード人口の減少は問題ですが、業界として子どもたちに投資しない限り、スノーボード人口は増えません。スノーボード関連業界で働く皆さんに、チルの活動は未来への投資となり得ると伝えたい。24-25年シーズンは、チル ジャパンとして7スキー場で計13回のスノーボード体験プログラムを実施します。1回あたりの参加は25〜40人ほど。小さな活動ですが、非常に大きな意味があると思っています。

WWD:最後に、チルの活動の中で印象的だったエピソードを教えてほしい。

ドナ:チルを通して出会う子どもたちのことを考えると、いつも非常にエモーショナルになってしまいます。チルの活動で子どもたちの笑顔を見るのは、私にとって大変大きな喜びです。この取材の前日には富士見パノラマリゾートで行われたチル ジャパンの活動に参加しました。参加する子どもたちは、子どもらしくいられない環境に置かれているケースも多いわけですが、滑走中に彼らの笑顔を見たり、プログラム終了後に「自分はスノーボーダーになったんだ!」という彼らの表情を見たりすると、彼らが得る喜びよりも私が彼らからもらう喜びの方が大きいんじゃないかといつも感じます。

小倉:(つらい出来事があって以降、会話をすることが減り)ずっと筆談をしていた子が、チルでスノーボードをした後に「ありがとう」と話してくれたことがありました。それがわれわれの活動によるものかどうかは分かりませんが、非常に胸をうたれたし、印象に残っています。チルの活動中は子どもたちの目が輝いていて、きっと忘れられない思い出になっていると思う。サンキューレターもたくさんいただきます。卒業生たちには、いつかまたスノーボードもやってもらいたい。

ベン:メキシコ出身で、今はロサンゼルスに住んでいる30代のチル卒業生がいます。彼は児童養護施設を転々として育ったんですが、チルで体験したスノーボードが彼の人生にとって初めてのスポーツでした。そこで彼は「自分にはスノーボードがある」と感じることができ、自信を得て、コミュニティーともつながることもできた。このような活動にアメリカや日本をはじめとした国々で携われていることを、大変うれしく思っています。

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スノーボードの「バートン」が“子どもの体験格差”に一石 教えているのは「滑り方ではなく、人生」

ジェイク・バートン(Jake Burton)が1977年に創業したバートン(BURTON)は、北京冬季五輪金メダリストの平野歩夢選手とも契約するスノーボードの大手メーカーであり、スノーボードを世に広めてきたオリジネイターだ。同社は2019年にいち早くBコープ認証を取得するなど、気候変動や持続可能な成長といった社会課題に対する意識の高さでも知られるが、より良い社会を目指し、チル(CHILL)という活動を通じて子どもたちの支援にも力を入れている。児童養護施設などの子どもたちにスノーボードをはじめとしたスポーツの機会を提供し、社会とつながるきっかけを提供するというもの。ジェイクの配偶者であり、バートンのオーナー兼会長ドナ・カーペンター(Donna Carpenter)、チルCEOのベン・クラーク(Ben Clark)、チル ジャパンの小倉一男代表理事に、チルの活動について聞いた。

WWD:1995年にジェイクとドナでチルを立ち上げた。どのような考えからだったのか。

ドナ・カーペンター バートン オーナー兼会長(以下、ドナ):1977年に「バートン」を立ち上げて、以来スノーボードのビジネスをしてきました。その中で、スノーボードに恩返しがしたいと考えるようになったんです。恩返しの方法はいろいろありますが、何より、「バートン」を支えてきてくれた若い人や子どもたちにフォーカスしたかった。スノーボードがこの世にまだ存在しなかった時代に、彼らがわれわれの製品に興味を持ってくれて、裏山に持って行って遊んでくれたことで、スノーボードが始まったわけですから。それで、(金銭面や家庭の事情などの)環境的な要因でスノーボードをすることができなかったり、人生に何か困難を抱えていたりする若い人たちに、スノーボードをする機会を提供できればと思い、チルの活動を始めたんです。

彼らにスノーボードを教える中で、私たちは滑り方を教えているだけじゃない、スノーボードを通して、人生を教えているんだと気付きました。滑っていると転ぶこともありますよね。でも、立ち上がってまた挑戦する。その繰り返しの中で、人生にたとえ何か困難があっても、それを乗り越えて、自分で自分の人生を導いていけると伝えられると感じたんです。活動を始めてすぐ、「このプログラムを是非うちの街でもやってほしい」といった声も舞い込むようになり、ニーズの高さも感じました。現在、チルではスノーボードのほか、スケートボードやサーフィンなどの体験機会も提供しています。それらを通して、彼らの健全な成長を支援するのが目的です。チルの活動は9カ国24都市に広がっています。

WWD:チルの活動もその1つとして、バートンは社会をより良くすることに対する意識が高い企業だと常々感じる。それはどういった考えからか。

ドナ:生前ジェイクとよく、“トリプルボトムライン”について話しました。企業活動を経済、社会、環境の3側面から評価する考え方です。企業の成功とは何かを考えたとき、もちろんその1つは利益率ですが、人や社会に対して良い影響を与え、スノーボードをするコミュニティーや環境を守っていくこと。これら3つがそろって、初めて成功だとわれわれは考えています。バートンは1人1人の人生をより良い方向に変えていくことをミッションの1つに掲げています。アウトドアの業界やコミュニティーをより開かれた、公平なものにしていきたい。例えば米国では、有色人種や先住民の方たちはスノーボードにアクセスしづらいという課題があります。どんな人でも、どんな環境にあってもチャレンジできる環境を整えようとしています。

チル卒業生は世界で3万人

WWD:確かにスノースポーツは欧米の、中でも白人のものというイメージは根強い。

ドナ:開かれたアウトドアコミュニティーを目指し、バートンでは有色人種の方たちを積極的に採用していますし、チルのプログラムでも彼らを支援しています。バートンとして、有色人種や先住民の方たちが、スノーボードコミュニティーに参画する際にどんなハードルを感じるか、どうすればそれを減らせるかといったことを自らディスカッションする“カルチャーシフター”というイベントも行っています。いま、スノーボードでは特に中南米の方の参加率が上がってきていますが、われわれのこうした取り組みも反映されていると思います。

ベン・クラーク チルCEO(以下、ベン):アウトドア業界をより開かれたものにしていくためには、チルに参加した人が成長して、自身のキャリアを考えるようになったときに、アウトドア業界にはどんな仕事があるのかをイメージできることも大事ですよね。それで、チルではアウトドア関連職種の職場見学や、職業体験の機会も設けています。チルの卒業生は世界で既に3万人いて、彼らを組織することも今進めています。卒業生は子どもたちにとってのロールモデルになりますから。人生で目標となるような存在ができれば、勇気がもらえます。卒業生が互いに高め合えたり、仲良くなって余暇に一緒にスノーボードに行ったりできるような環境を整えることが、長い目で見てアウトドアコミュニティーをより良いものにしていくと思っています。

WWD:チル卒業生で、バートンで働いている人もいるのか。

ドナ:店頭でも本社でも、かなりの数の卒業生が働いています。

ベン:バートンのアンバサダーを務めているチル卒業生もいます。彼は11歳でウガンダから母親とアメリカにやってきて、チルでスノーボードを体験して、スノーボードが大好きになった。現在はアンバサダーを務めながら、次の夢としてスノーボーダーを助ける医者を目指し勉強しています。彼もチルのイベントで自身のことを子どもたちに話してくれるんですが、人生にはさまざまな可能性や未来があるんだと子どもたちが気づくきっかけになっています。

WWD:チルでは、子どもたちに無料でスノーボードや各種スポーツの機会を提供しているが、財源はどのように確保しているのか。

ドナ:バートンは利益の中から毎年一定の割合をチルに寄付しています。また、事務などのバックオフィスはバートンとチルとで共有しています。子どもたちにスノーボードを体験してもらう際に使うギアやウエアは、バートンから提供しています。

ベン:補足すると、米国でも日本でも、チルは独立したNPO法人です。財源の30%はバートンから、残りは個人や企業の寄付によって成り立っています。寄付はお金だけでなく、例えば北米ならベイルスキーリゾート、日本なら富士見パノラマリゾートなどは、リフト券やゲレンデでの食事の提供といった形でもサポートしてくれています。チルに年間で集まる寄付額(上記リフト券や食事提供などは含まない金額)は米国で約400万ドル(約5億8800万円)です。スノーボードを教えている点に共感してくださる寄付者もいますし、若者の支援プログラムとして価値を見出してくださる人もいます。イベント当日にボランティアとして関わってくださる支援者もいます。寄付や支援をしてくださる方たちに支えられて、チルがあります。

小倉一男チル ジャパン代表理事(以下、小倉):バートンのスタッフの協力も大きいです。彼らはイベントごとに、参加する子どもたちのサイズに合わせてギアやウエアを準備して、スキー場に送って、イベント後にはウエアやギアをメンテナンスして、といった大変な作業を担ってくれています。

「自分はスノーボーダーだ!
と自信を持ってもらいたい」

WWD:チル ジャパンはどのようにスタートしたのか。小倉代表理事はバートン ジャパンの初代社長でもある。

小倉:日本では、1995年に起こった阪神淡路大震災で被災した子どもたちを2001年に兵庫の六甲山のスキー場に招待して、スノーボードを楽しんでもらったのが始まりでした。NPO法人としてチル ジャパンができたのは03年、これまでに活動に招待してきた子どもたちは2000〜3000人です。日本に限らず、チルの活動は“LTR(Learn To Ride)”という板ができたことで進んだ部分は大きかった。初心者でもターンのきっかけがつかみやすく、逆エッジで転ぶことが少ない板です。自分も“LTR”で滑ってみて、「これなら子どもたちが履いても大丈夫」と思ったのをよく覚えています。

ドナ:子どもたちが使うギアについては、ジェイクが特にこだわった部分でした。最高のギアで子どもたちにスノーボードを体験してもらい、ターンすることを楽しんでほしい。そして、プログラムが終わるころには「自分はスノーボーダーなんだ!」と自信を持って思ってもらいたい。その点をジェイクは非常に大切にしていました。

WWD:子どもの“体験格差”については、日本でも報道されることが増えている。家庭の経済事情や環境に関わらず、誰にとっても子どものころのさまざま体験が必要だという考え方が世の中に浸透しつつある。

小倉:チルの活動をすればするほど、体験機会のない子どもたちがたくさんいるんだと感じます。チル ジャパンでは、もともとは阪神淡路大震災や東日本大震災などで被災した子どもたちにスポーツの機会を提供していましたが、いま特に力を入れているのは、児童養護施設やフリースクールに通う子どもたちを招待することです。児童養護施設は全国に600前後あって、約3万人の子どもが親から離れて暮らしている。虐待や育児放棄を経験した子もいる。チル ジャパンではスノーボードのほか、スケートボードやスラックラインなどの体験機会も彼らに提供していますが、複数のスポーツに挑戦してみると、不得意なものもあるけど、できるものもあると気づく。それはその人の人生にとって、すごくプラスになると思います。

ベン:アメリカでは、より多くの子どもたちに体験機会を提供することを目指して活動してきたため、同じ子を継続して招待するのは長くて2年です。でも、チル ジャパンは3〜5年にわたって継続して同じ子どもたちをさまざまなアクティビティーに招待しています。継続的な関係を築くことで、子どもたちが再び大人を信頼できるようになる。それは彼らの人生にとってすばらしいことだと思います。日本のやり方をアメリカでも生かせないかと、支援者の方たちとも話しています。このように、他地域のやり方から学び合えることは、グローバルな組織の強みですね。

日本はクラウドファンディング実施中

WWD:活動を続けていく上での課題は。

ベン:アメリカはリーダーシップ(大統領)が変わって、国際的な協調も、社会を良くするための活動も、多様性も以前より難しくなっており、これが一番の問題です。公平な社会を目指す活動の多くが、活動を阻害され、気持ちをくじかれている。まるで逆流を泳ぐ魚のようです。今まで活動に賛同してきた人も賛同しづらくなるでしょうし、こうした活動に公的資金が注がれることも減っていく。しかし、今が若者にとって厳しい時代であることは変わりません。SNSの影響もあって、心を病んだり、自ら命を絶ってしまったりという子どもが増えている。自分の価値を疑ってしまいやすい世の中だからこそ、われわれのような活動は大切だと思っています。

小倉:日本の課題は明白で、資金が乏しいことです。チル ジャパンとして必要な費用は年間で約1000万円。その半分を海外からの寄付でまかなっています。欧米のような寄付文化がない日本では、今シーズン初めて(3月31日まで)、クラウドファンディングを実施しています。ただ、近年われわれの活動に賛同してくださるスキー場は増えていて、それは非常にありがたいこと。目先の利益のみを追求するのではなく、未来ある子どもたちのために尽くそうという発想が日本の企業にも広がりつつある。また、スノーボード業界としてはスノーボード人口の減少は問題ですが、業界として子どもたちに投資しない限り、スノーボード人口は増えません。スノーボード関連業界で働く皆さんに、チルの活動は未来への投資となり得ると伝えたい。24-25年シーズンは、チル ジャパンとして7スキー場で計13回のスノーボード体験プログラムを実施します。1回あたりの参加は25〜40人ほど。小さな活動ですが、非常に大きな意味があると思っています。

WWD:最後に、チルの活動の中で印象的だったエピソードを教えてほしい。

ドナ:チルを通して出会う子どもたちのことを考えると、いつも非常にエモーショナルになってしまいます。チルの活動で子どもたちの笑顔を見るのは、私にとって大変大きな喜びです。この取材の前日には富士見パノラマリゾートで行われたチル ジャパンの活動に参加しました。参加する子どもたちは、子どもらしくいられない環境に置かれているケースも多いわけですが、滑走中に彼らの笑顔を見たり、プログラム終了後に「自分はスノーボーダーになったんだ!」という彼らの表情を見たりすると、彼らが得る喜びよりも私が彼らからもらう喜びの方が大きいんじゃないかといつも感じます。

小倉:(つらい出来事があって以降、会話をすることが減り)ずっと筆談をしていた子が、チルでスノーボードをした後に「ありがとう」と話してくれたことがありました。それがわれわれの活動によるものかどうかは分かりませんが、非常に胸をうたれたし、印象に残っています。チルの活動中は子どもたちの目が輝いていて、きっと忘れられない思い出になっていると思う。サンキューレターもたくさんいただきます。卒業生たちには、いつかまたスノーボードもやってもらいたい。

ベン:メキシコ出身で、今はロサンゼルスに住んでいる30代のチル卒業生がいます。彼は児童養護施設を転々として育ったんですが、チルで体験したスノーボードが彼の人生にとって初めてのスポーツでした。そこで彼は「自分にはスノーボードがある」と感じることができ、自信を得て、コミュニティーともつながることもできた。このような活動にアメリカや日本をはじめとした国々で携われていることを、大変うれしく思っています。

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峯田和伸 × 甫木元空 2人が語る「吉祥寺バウスシアター」と「映画館の魅力」

PROFILE: 左:峯田和伸/音楽家 右:甫木元空/映画監督・音楽家・小説家

PROFILE: (みねた・かずのぶ):1977年12月10日生まれ、山形県出身。96~2003年までロックバンド。GOING STEADYのボーカルとして活動。その後、銀杏BOYZを結成。田口トモロヲ監督「アイデン&ティティ」(03)の主演で映画デビュー。以来、音楽活動の傍ら俳優業もこなし、「少年メリケンサック」(08)、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(09)、「色即ぜねれいしょん」(09)などへ出演。「俺たちに明日はないッス」(08)では銀杏BOYZとして映画主題歌を担当したほか、「ピース オブ ケイク」(15)では主題歌と出演を兼ねた。近年では、映画のみならずテレビドラマや舞台へも活動の場を広げている (ほきもと・そら):1992年埼玉県生まれ。多摩美術大学映像演劇学科卒業。2016年青山真治・仙頭武則共同プロデュース、監督・脚本・音楽を務めた「はるねこ」で長編映画デビュー。第46回ロッテルダム国際映画祭コンペティション部門出品のほか、イタリアやニューヨークなど複数の映画祭に招待された。「はだかのゆめ」(22)は、第35回東京国際映画祭Nippon Cinema Now部門へと選出。23年2月には「新潮」にて同名小説も発表し、9月には単行本化された。19年結成のバンド「Bialystocks」でもボーカルとして活動。映画・音楽・小説といったジャンルを横断した活動を続けている。

東京のカルチャーを代表するスポットだった映画館、吉祥寺バウスシアター。映画の上映だけではなく、音楽のライブ、演劇、落語など、さまざまな催し物が行われて、バウスシアターはアートの発信地として、多くの観客やクリエイターから愛された。そのバウスシアターを守り続けた家族の90年の歴史を描いた映画「BAUS 映画から船出した映画館」が3月21日に公開された。本来は青山真治監督が企画して監督を務める予定だったが青山監督が2022年に急逝。その企画を受け継いだのが、Bialystocks(ビアリストックス)のボーカルとして音楽活動をしつつ、小説も手掛けるなど多彩な才能を発揮している甫木元空(ほきもと・そら)だ。甫木元は青山監督から映画を学んだ愛弟子でもあった。そして、映画に出演しているのがミュージシャンで俳優としても活躍する峯田和伸。生前、青山監督は峯田の出演を熱望していたという。映画と音楽のシーンで活動し、両方の感性を持った2人に本作について話を聞いた。

青山真治監督の企画を引き継いで

——本作は青山真治監督が温めていた企画を映画化したものですが、甫木元さんはどのような想いで企画を受け継がれたのでしょうか。

甫木元空(以下、甫木元):物語の骨格はいじらず、自分ができることは何か、ということを考えました。青山さんの映画言語を使ってモノマネみたいになってしまうのだけはやりたくなかったんです。青山さんの脚本と一番違うのは、青山さんはバウスシアターを通じて吉祥寺という土地を描こうとした。青山さんの脚本は江戸時代から始まるんです。吉祥寺という寺が火事で燃えて、その焼け跡に流れ者たちが集まって共同体が生まれる。そして、時が流れて、その土地に映画館ができる。青山さんが土地に視点を置いたことに対して、僕は映画館で生活する家族に視点を置くことにしたんです。

——1927年に青森から上京してきた兄弟、ハジメとサネオが吉祥寺の映画館、井の頭会館で働き始め、社長になったサネオは映画館を家族で経営して、それがバウスシアターになる。本作には家族の年代史という側面がありますね。

甫木元:いろんな時代のエピソードでできた映画ですが、そのエピソードにどうやって一本筋を通すのか。いろいろ考えて思いついた一つが歌でした。ひとつの童謡が土地によって歌い回しが違ったり、流行歌が時代によって聞こえ方が違ったりすることに以前から興味があったんです。90年という時間を描いた物語ですが、敗戦までの歌のあり方を、峯田さんが演じたハジメを通じて描けたら、そこに一本筋が通るんじゃないかと思いました。

峯田和伸(以下、峯田):僕が歌うシーンではないんですけど、映画館の従業員が夕食を食べ終わった後にみんなで「早春賦(そうしゅんふ ※日本の童謡)」を歌うシーンが良かったですね。子供の頃から知ってる歌だけど、ああいう状況で聴くと聞こえ方が違ってくる。僕はその時代には生きてはいませんでしたが、戦争が終わった直後の日本の情景が伝わってきて、一つの歌でこんなにもいろんなことが伝わるんだなって思いました。

活弁士ハジメを演じて

——この映画では歌が重要な要素だったんですね。だからこそ、ミュージシャンの峯田さんがハジメ役に起用された。

甫木元:青山さんは亡くなる前に峯田さんに声をかけていたんですけど、断られたら映画は撮れないかもしれない、と言っていました。峯田さんはハジメと同じ東北出身なので土地の匂いもするし、当時、映画に携わっていた人たちは、ミュージシャンみたいにハイカラでいろんなアンテナを持っていた人だったんじゃないか、と青山監督は思っていたんじゃないかと思います。生まれたばかりの娯楽だったから今の映画よりもライブ感があって、今よりも演芸っぽい感じだったと思うんですよね。

——劇中でハジメが活弁士に挑戦して、お客さんにヘタクソだと言われるシーンがありましたが、活弁士が生で物語るというのは、まさにライブですよね。それにヘタクソな活弁士ってロックっぽい気がしました(笑)。

峯田:あれ、もっとうまくやりたかったんですけど(笑)。

甫木元:峯田さん、厳しい先生について特訓受けましたからね。でも、あのシーンはヘタという設定だったから(笑)。

——峯田さんから見てハジメはどんな人物でした?

峯田:うさん臭いヤツですね(笑)。戦争が始まったら、すぐに髪型とか格好が変わる。でも、完全に染まってるわけじゃないんですよ。娯楽とか芸術には人一倍敏感なんだけど、それを隠して周りになじもうとする。自分の本当の気持ちは友達や兄弟にも見せないんです。標準語を喋っている人たちから見ると、東北弁ってどこかかわいげがある感じがするみたいで良い印象を持たれやすい。それを利用してズルいことを考えている東北人って多いんですよ。そういうキャラクターを演じる機会はあまりないので。やりがいがありましたね。

虚実入り混じった「バウスシアター物語」

——そんなハジメのうさん臭さが、映画の草創期の混沌とした感じを象徴していました。この映画で面白かったのは、映画の虚構性を意識したような演出です。映画館を書き割りのセットで表現したり、スタジオで野外のシーンを撮影したり。それが不思議な空間を生み出していました。

甫木元:この物語は公園でおじいちゃん(老人になったサネオの息子、タクオ)が回想している話じゃないですか。人間の記憶というのは曖昧で、結構適当だったりする。原作は口伝えで映画館に住む家族の中で語り継がれた物語です。峯田さんが演じたハジメは、青山さんの脚本に登場していた3人くらいのキャラクターを集約させているんですけど、この話が伝えられた時にいろんな人のエピソードがごっちゃになったり、盛られて伝わったりさまざまなことが起きていると思います。そういう回想のいいかげんさを、映像で表現したらどうなるんだろうって思ったんです。

——事実に基づいた「記録」と脳が作り上げた「記憶」の違いですね。記憶を描くことでフィクションとしての表現の幅も広くなる。

甫木元:記憶の曖昧さをそのまま描く、ということに気づいたのは井の頭公園で音を録音している時でした。そこにはいろんな人がいて、いろんな声が聞こえてくる。現実も記憶もカオスなんですよね。この脚本には現実のカオスがそのまま描かれていることに気づいたんです。それにバウスシアターも、映画館でありながらライブをやったりもする混沌とした場所だったし。

——峯田さんは完成した映画をご覧になって、どんな感想を持たれました?

峯田:最初に鈴木慶一さん(タクオ)の背中を映すじゃないですか。それも結構長めに撮っている。そのシーンに青山監督の匂いを感じたんです。でも、それと同時に甫木元さんの色もあるんですよね。

——2人の監督の感性が混じり合っている?

峯田:どちらでもあって、どちらでもないというか……不思議な感じなんですよ。

——峯田さんが感じる甫木元さんの色というのは、どんなものなのでしょうか。

峯田:生と死が全く別のものではなくて、生の裏側に死があるというか。虚実入り混じった世界です。この映画は、いろんな伝承や民話を集めて作られた「遠野物語」みたいな感じがするんですよ。

——確かにいろんな逸話を集めた「バウスシアター伝説」みたいなところがありますね。

峯田:この脚本を初めて読んだ時、映画館が主人公のように思えたんです。90歳の人生を生きた生き物みたいに。だから少しファンタジーっぽいところもあるなって感じました。

——甫木元監督は青山監督の作品の匂いというと、どんなことが思い浮かびますか?

甫木元:一つは映画における時間感覚です。青山さんは映画を音楽のアルバムに例えて講義することもありました。映画と音楽を同じ時間芸術として捉えていて、そういった考え方には影響を受けましたね。この作品では、冒頭の慶一さんを撮影しているパート。敗戦までのパート。子供たちの目線のパートとそれぞれ時間の流れ方を変えたので、プログレみたいな映画になってしまいました(笑)。

——プログレ映画(笑)。映画で使用する音楽については、サントラを手がけた大友良英さんとは、どんな話をされたのでしょうか。

甫木元:最後に楽団が練り歩く、というのを青山さんから生前に伺っていて。(ミュージシャンの)ドクター・ジョン(Dr. John)のお葬式のイメージらしいです。ニューオリンズのお葬式は、陽気な音楽で街の中を練り歩いて、亡くなったことを人々に伝えるそうで、まずそのことを大友さんに伝えて、楽団が演奏する映画のテーマ曲を撮影までに作ってもらいました。あとは出来上がった映像を見てもらって曲を書いてもらったんです。大友さんはノイズからキャッチーなメロディーまで幅広く行ったり来たりできる方なんで曲をはめていくのは面白かったですね。

峯田:映画でニール・ヤングの曲が流れるじゃないですか、ぐわーって。大友さんの劇伴もニール・ヤングみたいでしたね。どっちがニール・ヤングか分からない(笑)。

——劇中の大友さんの演奏シーンもすごかったですね。ギターを爆音でかき鳴らして。

峯田:バウスシアターといえば爆音上映、というイメージが強いので、ニール・ヤングと映画はすごく合ってたな。

思い出に残っている映画

——この映画は映画との出会いの物語でもありましたが、お2人が子供の頃に観て印象に残っている作品があれば教えてください。

峯田:僕は実家が電気屋なんです。でも、家電製品だけではやっていけないということで、80年代に入ってからビデオのレンタルを始めたんですよ。僕は小学校3年生から店でバイトをしていて、ビデオの面出し(オススメのビデオのパッケージを前に出して陳列する)は僕の仕事だったんです。バイトが終わったらビデオをタダで借りられたので、映画をいっぱい観ることができたんですよ。あと、家族みんなが映画好きだったので、夕食を食べ終わったら、家族みんなで砂糖をかけたグレープフルーツを食べながら映画を観る会があって。うちのじいちゃんはマカロニウエスタンが好きで、父親は伊丹十三が好きだったんです。それで「たんぽぽ」を小学4年生で観たんですけど、女の人の胸に塩と胡椒をかけて舐めるシーンがあって、それを小学4年生で観て衝撃を受けたんです。

——性に目覚める前の子供には強烈なシーンですね(笑)。

峯田:今の家庭だったら子供には見せないですよね(笑)。でも、うちの親父は全然気にしなくて。「恥ずかしかったら下向いてろ」って感じだったんです。だから、子供の時に観て印象に残っているのは「たんぽぽ」ですね。

——そういう家庭環境だったら、いろんな映画が観られたんでしょうね。

峯田:子供のころって、友達の家に集まって誕生会とかするじゃないですか。そういう時、僕はビデオを持っていく係なんです。それをみんなで観る。そういう場で男子が集まって盛り上がる映画といえばホラーなんですよ。「死霊のはらわた2」「デモンズ」「バタリアン」……いろいろ観てホラーに詳しくなりました。

——そんなに映画が観られたなんてうらやましいです。監督はいかがですか?

甫木元:父親が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のビデオを借りてきたんですけど、うちのテレビが壊れてて字幕が出なくなっちゃたんです。それで、字幕がないまま「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を何度も観ました。英語だから何を言ってるのかわからないんですけど、音楽と映像だけで面白いんですよね。車がやって来て走り去る。そこに音楽が乗るだけで、なんでこんなに感動するんだろうって思ってました。最近、改めて見返したんですけど、(監督の)ロバート・ゼメキスは、絵で物語を物語る職人だなと改めて思いました。

峯田:俺、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の冒頭の15分間が大好きなんですよ。まだ世界で何も起こっていない15分が。

甫木元:時計がカチカチ鳴って、ギターを爆音で鳴らして吹っ飛んで(笑)。

峯田:もう、最高!(笑)。

——2人とも頭に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が刻み込まれている(笑)。子供のころはビデオの存在が大きいんですね。では、お2人にとって映画館の魅力とはどんなところでしょうか。

峯田:真っ暗な空間で、スマホの電源を切って、外界から遮断された空間で全然知らない人たちと同じ映画を観る。そういう体験が楽しいんですよ。「あ、この人はここで泣くんだ」って思ったり、「俺はなんで泣かないんだろう」と自分のことを考えたり。映画を観終わった後に外に出る時の感じも良いんですよ。「映画の主人公が食べてたラーメンがおいしそうだったから俺も食べよう」って主人公の気分になったりする。3時間くらい経ったら、いつもの自分に戻るんですけど、しばらくは映画の世界にいることができるんです。

——映画館を出た時って世界が変わって見えますね。

甫木元:内容は全然覚えていないのに、映画館を出た時の風景は覚えている映画ってあるんですよ。

——映画館に行って帰ってくる。その往復で見たことや感じたことも含めて映画体験ですよね。

甫木元:そうですね。バウスシアターに関していえば、映画館以上にバウスに行くまでの商店街の風景をすごく覚えていて。いつも「こんなに遠かったっけ?」って思うんですよ(笑)。バウスで観た映画を思い出すと街の風景もセットで浮かび上がってくる。映画で見た風景と実際に見た風景が混ざる。それってすごく異常なことだと思うんですよ。映画館で映画を観るというのは、一つの体験として自分の中に刻まれていくんでしょうね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLIST:[KAZUNOBU MINETA]HIROAKI IRIYAMA、[SORA HOKIMOTO]KAZE MATSUEDA
HAIR & MAKEUP:[KAZUNOBU MINETA& SORA HOKIMOTO]CHIAKI SAGA

「BAUS 映画から船出した映画館」

■「BAUS 映画から船出した映画館」
3月21日からテアトル新宿ほか全国ロードショー
出演:染谷将太 峯田和伸 夏帆
とよた真帆 光石研 橋本愛 鈴木慶一
監督:甫木元空
脚本:青山真治 甫木元空 
音楽:大友良英
撮影:米倉伸
原作:「吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記」(本田拓夫著/文藝春秋企画出版部発行・文藝春秋発売)
企画・製作:本田プロモーションBAUS boid 
制作プロダクション:コギトワークス 
配給:コピアポア・フィルム boid
©︎本田プロモーションBAUS/boid
https://bausmovie.com

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峯田和伸 × 甫木元空 2人が語る「吉祥寺バウスシアター」と「映画館の魅力」

PROFILE: 左:峯田和伸/音楽家 右:甫木元空/映画監督・音楽家・小説家

PROFILE: (みねた・かずのぶ):1977年12月10日生まれ、山形県出身。96~2003年までロックバンド。GOING STEADYのボーカルとして活動。その後、銀杏BOYZを結成。田口トモロヲ監督「アイデン&ティティ」(03)の主演で映画デビュー。以来、音楽活動の傍ら俳優業もこなし、「少年メリケンサック」(08)、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(09)、「色即ぜねれいしょん」(09)などへ出演。「俺たちに明日はないッス」(08)では銀杏BOYZとして映画主題歌を担当したほか、「ピース オブ ケイク」(15)では主題歌と出演を兼ねた。近年では、映画のみならずテレビドラマや舞台へも活動の場を広げている (ほきもと・そら):1992年埼玉県生まれ。多摩美術大学映像演劇学科卒業。2016年青山真治・仙頭武則共同プロデュース、監督・脚本・音楽を務めた「はるねこ」で長編映画デビュー。第46回ロッテルダム国際映画祭コンペティション部門出品のほか、イタリアやニューヨークなど複数の映画祭に招待された。「はだかのゆめ」(22)は、第35回東京国際映画祭Nippon Cinema Now部門へと選出。23年2月には「新潮」にて同名小説も発表し、9月には単行本化された。19年結成のバンド「Bialystocks」でもボーカルとして活動。映画・音楽・小説といったジャンルを横断した活動を続けている。

東京のカルチャーを代表するスポットだった映画館、吉祥寺バウスシアター。映画の上映だけではなく、音楽のライブ、演劇、落語など、さまざまな催し物が行われて、バウスシアターはアートの発信地として、多くの観客やクリエイターから愛された。そのバウスシアターを守り続けた家族の90年の歴史を描いた映画「BAUS 映画から船出した映画館」が3月21日に公開された。本来は青山真治監督が企画して監督を務める予定だったが青山監督が2022年に急逝。その企画を受け継いだのが、Bialystocks(ビアリストックス)のボーカルとして音楽活動をしつつ、小説も手掛けるなど多彩な才能を発揮している甫木元空(ほきもと・そら)だ。甫木元は青山監督から映画を学んだ愛弟子でもあった。そして、映画に出演しているのがミュージシャンで俳優としても活躍する峯田和伸。生前、青山監督は峯田の出演を熱望していたという。映画と音楽のシーンで活動し、両方の感性を持った2人に本作について話を聞いた。

青山真治監督の企画を引き継いで

——本作は青山真治監督が温めていた企画を映画化したものですが、甫木元さんはどのような想いで企画を受け継がれたのでしょうか。

甫木元空(以下、甫木元):物語の骨格はいじらず、自分ができることは何か、ということを考えました。青山さんの映画言語を使ってモノマネみたいになってしまうのだけはやりたくなかったんです。青山さんの脚本と一番違うのは、青山さんはバウスシアターを通じて吉祥寺という土地を描こうとした。青山さんの脚本は江戸時代から始まるんです。吉祥寺という寺が火事で燃えて、その焼け跡に流れ者たちが集まって共同体が生まれる。そして、時が流れて、その土地に映画館ができる。青山さんが土地に視点を置いたことに対して、僕は映画館で生活する家族に視点を置くことにしたんです。

——1927年に青森から上京してきた兄弟、ハジメとサネオが吉祥寺の映画館、井の頭会館で働き始め、社長になったサネオは映画館を家族で経営して、それがバウスシアターになる。本作には家族の年代史という側面がありますね。

甫木元:いろんな時代のエピソードでできた映画ですが、そのエピソードにどうやって一本筋を通すのか。いろいろ考えて思いついた一つが歌でした。ひとつの童謡が土地によって歌い回しが違ったり、流行歌が時代によって聞こえ方が違ったりすることに以前から興味があったんです。90年という時間を描いた物語ですが、敗戦までの歌のあり方を、峯田さんが演じたハジメを通じて描けたら、そこに一本筋が通るんじゃないかと思いました。

峯田和伸(以下、峯田):僕が歌うシーンではないんですけど、映画館の従業員が夕食を食べ終わった後にみんなで「早春賦(そうしゅんふ ※日本の童謡)」を歌うシーンが良かったですね。子供の頃から知ってる歌だけど、ああいう状況で聴くと聞こえ方が違ってくる。僕はその時代には生きてはいませんでしたが、戦争が終わった直後の日本の情景が伝わってきて、一つの歌でこんなにもいろんなことが伝わるんだなって思いました。

活弁士ハジメを演じて

——この映画では歌が重要な要素だったんですね。だからこそ、ミュージシャンの峯田さんがハジメ役に起用された。

甫木元:青山さんは亡くなる前に峯田さんに声をかけていたんですけど、断られたら映画は撮れないかもしれない、と言っていました。峯田さんはハジメと同じ東北出身なので土地の匂いもするし、当時、映画に携わっていた人たちは、ミュージシャンみたいにハイカラでいろんなアンテナを持っていた人だったんじゃないか、と青山監督は思っていたんじゃないかと思います。生まれたばかりの娯楽だったから今の映画よりもライブ感があって、今よりも演芸っぽい感じだったと思うんですよね。

——劇中でハジメが活弁士に挑戦して、お客さんにヘタクソだと言われるシーンがありましたが、活弁士が生で物語るというのは、まさにライブですよね。それにヘタクソな活弁士ってロックっぽい気がしました(笑)。

峯田:あれ、もっとうまくやりたかったんですけど(笑)。

甫木元:峯田さん、厳しい先生について特訓受けましたからね。でも、あのシーンはヘタという設定だったから(笑)。

——峯田さんから見てハジメはどんな人物でした?

峯田:うさん臭いヤツですね(笑)。戦争が始まったら、すぐに髪型とか格好が変わる。でも、完全に染まってるわけじゃないんですよ。娯楽とか芸術には人一倍敏感なんだけど、それを隠して周りになじもうとする。自分の本当の気持ちは友達や兄弟にも見せないんです。標準語を喋っている人たちから見ると、東北弁ってどこかかわいげがある感じがするみたいで良い印象を持たれやすい。それを利用してズルいことを考えている東北人って多いんですよ。そういうキャラクターを演じる機会はあまりないので。やりがいがありましたね。

虚実入り混じった「バウスシアター物語」

——そんなハジメのうさん臭さが、映画の草創期の混沌とした感じを象徴していました。この映画で面白かったのは、映画の虚構性を意識したような演出です。映画館を書き割りのセットで表現したり、スタジオで野外のシーンを撮影したり。それが不思議な空間を生み出していました。

甫木元:この物語は公園でおじいちゃん(老人になったサネオの息子、タクオ)が回想している話じゃないですか。人間の記憶というのは曖昧で、結構適当だったりする。原作は口伝えで映画館に住む家族の中で語り継がれた物語です。峯田さんが演じたハジメは、青山さんの脚本に登場していた3人くらいのキャラクターを集約させているんですけど、この話が伝えられた時にいろんな人のエピソードがごっちゃになったり、盛られて伝わったりさまざまなことが起きていると思います。そういう回想のいいかげんさを、映像で表現したらどうなるんだろうって思ったんです。

——事実に基づいた「記録」と脳が作り上げた「記憶」の違いですね。記憶を描くことでフィクションとしての表現の幅も広くなる。

甫木元:記憶の曖昧さをそのまま描く、ということに気づいたのは井の頭公園で音を録音している時でした。そこにはいろんな人がいて、いろんな声が聞こえてくる。現実も記憶もカオスなんですよね。この脚本には現実のカオスがそのまま描かれていることに気づいたんです。それにバウスシアターも、映画館でありながらライブをやったりもする混沌とした場所だったし。

——峯田さんは完成した映画をご覧になって、どんな感想を持たれました?

峯田:最初に鈴木慶一さん(タクオ)の背中を映すじゃないですか。それも結構長めに撮っている。そのシーンに青山監督の匂いを感じたんです。でも、それと同時に甫木元さんの色もあるんですよね。

——2人の監督の感性が混じり合っている?

峯田:どちらでもあって、どちらでもないというか……不思議な感じなんですよ。

——峯田さんが感じる甫木元さんの色というのは、どんなものなのでしょうか。

峯田:生と死が全く別のものではなくて、生の裏側に死があるというか。虚実入り混じった世界です。この映画は、いろんな伝承や民話を集めて作られた「遠野物語」みたいな感じがするんですよ。

——確かにいろんな逸話を集めた「バウスシアター伝説」みたいなところがありますね。

峯田:この脚本を初めて読んだ時、映画館が主人公のように思えたんです。90歳の人生を生きた生き物みたいに。だから少しファンタジーっぽいところもあるなって感じました。

——甫木元監督は青山監督の作品の匂いというと、どんなことが思い浮かびますか?

甫木元:一つは映画における時間感覚です。青山さんは映画を音楽のアルバムに例えて講義することもありました。映画と音楽を同じ時間芸術として捉えていて、そういった考え方には影響を受けましたね。この作品では、冒頭の慶一さんを撮影しているパート。敗戦までのパート。子供たちの目線のパートとそれぞれ時間の流れ方を変えたので、プログレみたいな映画になってしまいました(笑)。

——プログレ映画(笑)。映画で使用する音楽については、サントラを手がけた大友良英さんとは、どんな話をされたのでしょうか。

甫木元:最後に楽団が練り歩く、というのを青山さんから生前に伺っていて。(ミュージシャンの)ドクター・ジョン(Dr. John)のお葬式のイメージらしいです。ニューオリンズのお葬式は、陽気な音楽で街の中を練り歩いて、亡くなったことを人々に伝えるそうで、まずそのことを大友さんに伝えて、楽団が演奏する映画のテーマ曲を撮影までに作ってもらいました。あとは出来上がった映像を見てもらって曲を書いてもらったんです。大友さんはノイズからキャッチーなメロディーまで幅広く行ったり来たりできる方なんで曲をはめていくのは面白かったですね。

峯田:映画でニール・ヤングの曲が流れるじゃないですか、ぐわーって。大友さんの劇伴もニール・ヤングみたいでしたね。どっちがニール・ヤングか分からない(笑)。

——劇中の大友さんの演奏シーンもすごかったですね。ギターを爆音でかき鳴らして。

峯田:バウスシアターといえば爆音上映、というイメージが強いので、ニール・ヤングと映画はすごく合ってたな。

思い出に残っている映画

——この映画は映画との出会いの物語でもありましたが、お2人が子供の頃に観て印象に残っている作品があれば教えてください。

峯田:僕は実家が電気屋なんです。でも、家電製品だけではやっていけないということで、80年代に入ってからビデオのレンタルを始めたんですよ。僕は小学校3年生から店でバイトをしていて、ビデオの面出し(オススメのビデオのパッケージを前に出して陳列する)は僕の仕事だったんです。バイトが終わったらビデオをタダで借りられたので、映画をいっぱい観ることができたんですよ。あと、家族みんなが映画好きだったので、夕食を食べ終わったら、家族みんなで砂糖をかけたグレープフルーツを食べながら映画を観る会があって。うちのじいちゃんはマカロニウエスタンが好きで、父親は伊丹十三が好きだったんです。それで「たんぽぽ」を小学4年生で観たんですけど、女の人の胸に塩と胡椒をかけて舐めるシーンがあって、それを小学4年生で観て衝撃を受けたんです。

——性に目覚める前の子供には強烈なシーンですね(笑)。

峯田:今の家庭だったら子供には見せないですよね(笑)。でも、うちの親父は全然気にしなくて。「恥ずかしかったら下向いてろ」って感じだったんです。だから、子供の時に観て印象に残っているのは「たんぽぽ」ですね。

——そういう家庭環境だったら、いろんな映画が観られたんでしょうね。

峯田:子供のころって、友達の家に集まって誕生会とかするじゃないですか。そういう時、僕はビデオを持っていく係なんです。それをみんなで観る。そういう場で男子が集まって盛り上がる映画といえばホラーなんですよ。「死霊のはらわた2」「デモンズ」「バタリアン」……いろいろ観てホラーに詳しくなりました。

——そんなに映画が観られたなんてうらやましいです。監督はいかがですか?

甫木元:父親が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のビデオを借りてきたんですけど、うちのテレビが壊れてて字幕が出なくなっちゃたんです。それで、字幕がないまま「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を何度も観ました。英語だから何を言ってるのかわからないんですけど、音楽と映像だけで面白いんですよね。車がやって来て走り去る。そこに音楽が乗るだけで、なんでこんなに感動するんだろうって思ってました。最近、改めて見返したんですけど、(監督の)ロバート・ゼメキスは、絵で物語を物語る職人だなと改めて思いました。

峯田:俺、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の冒頭の15分間が大好きなんですよ。まだ世界で何も起こっていない15分が。

甫木元:時計がカチカチ鳴って、ギターを爆音で鳴らして吹っ飛んで(笑)。

峯田:もう、最高!(笑)。

——2人とも頭に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が刻み込まれている(笑)。子供のころはビデオの存在が大きいんですね。では、お2人にとって映画館の魅力とはどんなところでしょうか。

峯田:真っ暗な空間で、スマホの電源を切って、外界から遮断された空間で全然知らない人たちと同じ映画を観る。そういう体験が楽しいんですよ。「あ、この人はここで泣くんだ」って思ったり、「俺はなんで泣かないんだろう」と自分のことを考えたり。映画を観終わった後に外に出る時の感じも良いんですよ。「映画の主人公が食べてたラーメンがおいしそうだったから俺も食べよう」って主人公の気分になったりする。3時間くらい経ったら、いつもの自分に戻るんですけど、しばらくは映画の世界にいることができるんです。

——映画館を出た時って世界が変わって見えますね。

甫木元:内容は全然覚えていないのに、映画館を出た時の風景は覚えている映画ってあるんですよ。

——映画館に行って帰ってくる。その往復で見たことや感じたことも含めて映画体験ですよね。

甫木元:そうですね。バウスシアターに関していえば、映画館以上にバウスに行くまでの商店街の風景をすごく覚えていて。いつも「こんなに遠かったっけ?」って思うんですよ(笑)。バウスで観た映画を思い出すと街の風景もセットで浮かび上がってくる。映画で見た風景と実際に見た風景が混ざる。それってすごく異常なことだと思うんですよ。映画館で映画を観るというのは、一つの体験として自分の中に刻まれていくんでしょうね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLIST:[KAZUNOBU MINETA]HIROAKI IRIYAMA、[SORA HOKIMOTO]KAZE MATSUEDA
HAIR & MAKEUP:[KAZUNOBU MINETA& SORA HOKIMOTO]CHIAKI SAGA

「BAUS 映画から船出した映画館」

■「BAUS 映画から船出した映画館」
3月21日からテアトル新宿ほか全国ロードショー
出演:染谷将太 峯田和伸 夏帆
とよた真帆 光石研 橋本愛 鈴木慶一
監督:甫木元空
脚本:青山真治 甫木元空 
音楽:大友良英
撮影:米倉伸
原作:「吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記」(本田拓夫著/文藝春秋企画出版部発行・文藝春秋発売)
企画・製作:本田プロモーションBAUS boid 
制作プロダクション:コギトワークス 
配給:コピアポア・フィルム boid
©︎本田プロモーションBAUS/boid
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ルーク・メイヤーが「ゴールドウイン」とのコラボを語る 目指したのは「温かみのあるテックウエア」

 

ルーク・メイヤー(Luke Meier)=クリエイティブ・ディレクターが手がける「OAMC」が、このほど「ゴールドウイン(GOLDWIN)」との2度目のコラボレーションを発表した。テクニカルコットンを用いたパーカやフィールドジャケット、トラウザーなど、テックウエアと天然素材の新たな融合を目指したアイテムがそろう。全国の「ゴールドウイン」店舗で販売中だ。なお、メイヤーは2024年春夏コレクションをもって「OAMC」を退任する意向を表明しており、今回が最後のコラボレーションとなる。節目となるこのコレクションに込めた思いを、メイヤーに聞いた。

WWD:コラボレーションが始まった経緯を教えてほしい。

ルーク・メイヤー(以下、メイヤー):数年前に東京でゴールドウインの渡辺貴生社長にお会いする機会があった。そこで、デザインに対する視点や質の高い製品作りへの目的意識に共通点を感じた。「ゴールドウイン」の可能性はとても広い。コラボレーションを通じて、「OAMC」にとっても新しい表現ができるのではないかと考えた。

WWD:今回のコラボレーションでこだわった点は?

メイヤー:素材と形の新しい表現だ。結果、生地の構造やボンディング、またプリントや仕上げにおいても、とても面白いアウトプットができた。シルエット自体も新しい方向に進化させられたと思う。

WWD:具体的なテーマは?

メイヤー:テクニカルウエアでありながら、ナチュラルな風合いを両立させたいと思った。私は服自体の生きている感覚やモノが持つ強いキャラクターのようなものを感じることを好む。今回のアイテムにも、ポジティブなエネルギーを宿らせることができたと信じている。従来のテクニカルウエアには珍しい、着る人が心地よさや温かみを感じられるものに仕上げられたと思う。

WWD:ゴールドウインはサステナビリティ分野の先進企業としても知られる。彼らの取り組みを見て感じたことは?
メイヤー:渡辺社長は会社をすごく良い方向へ導いていると思った。サプライチェーンの全体を把握することは非常に難しいが、ゴールドウインがその課題に対して真摯に取り組んでいる姿勢には大きな敬意を抱いている。

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ルーク・メイヤーが「ゴールドウイン」とのコラボを語る 目指したのは「温かみのあるテックウエア」

 

ルーク・メイヤー(Luke Meier)=クリエイティブ・ディレクターが手がける「OAMC」が、このほど「ゴールドウイン(GOLDWIN)」との2度目のコラボレーションを発表した。テクニカルコットンを用いたパーカやフィールドジャケット、トラウザーなど、テックウエアと天然素材の新たな融合を目指したアイテムがそろう。全国の「ゴールドウイン」店舗で販売中だ。なお、メイヤーは2024年春夏コレクションをもって「OAMC」を退任する意向を表明しており、今回が最後のコラボレーションとなる。節目となるこのコレクションに込めた思いを、メイヤーに聞いた。

WWD:コラボレーションが始まった経緯を教えてほしい。

ルーク・メイヤー(以下、メイヤー):数年前に東京でゴールドウインの渡辺貴生社長にお会いする機会があった。そこで、デザインに対する視点や質の高い製品作りへの目的意識に共通点を感じた。「ゴールドウイン」の可能性はとても広い。コラボレーションを通じて、「OAMC」にとっても新しい表現ができるのではないかと考えた。

WWD:今回のコラボレーションでこだわった点は?

メイヤー:素材と形の新しい表現だ。結果、生地の構造やボンディング、またプリントや仕上げにおいても、とても面白いアウトプットができた。シルエット自体も新しい方向に進化させられたと思う。

WWD:具体的なテーマは?

メイヤー:テクニカルウエアでありながら、ナチュラルな風合いを両立させたいと思った。私は服自体の生きている感覚やモノが持つ強いキャラクターのようなものを感じることを好む。今回のアイテムにも、ポジティブなエネルギーを宿らせることができたと信じている。従来のテクニカルウエアには珍しい、着る人が心地よさや温かみを感じられるものに仕上げられたと思う。

WWD:ゴールドウインはサステナビリティ分野の先進企業としても知られる。彼らの取り組みを見て感じたことは?
メイヤー:渡辺社長は会社をすごく良い方向へ導いていると思った。サプライチェーンの全体を把握することは非常に難しいが、ゴールドウインがその課題に対して真摯に取り組んでいる姿勢には大きな敬意を抱いている。

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もんぺを年間2万本売る「うなぎの寝床」、地域文化から経済循環を生む

福岡県八女(やめ)市を拠点とするうなぎの寝床は、「もんぺ」を年間約2万本販売する。文化や歴史をひも解いたブランディングとビジネス戦略が巧みだ。日本の農作業着「もんぺ」とアメリカのワークパンツ「ジーンズ」とを重ね、日本のジーンズ「MONPE」として販売を開始。物販の直営店は八女の2店舗に加えて、アクロス福岡やららぽーと福岡、愛媛・大洲、グループ会社と共同運営で下北沢と池袋・千川の7店舗を展開し、もんぺの卸先は100件を超える。グループの売上高は5億5000万円(2025年1月期)。「地域文化商社」と称し、地域文化の「つなぎ手」としてもんぺだけではなく地域のものづくりを紹介する店舗や宿泊施設「Craft Inn手[te]」の運営、ツーリズム事業など、地域文化を編集して伝えている。

うなぎの寝床が町屋を改装して店舗や宿泊施設として運営する八女福島の重要伝統的建造物群保存地区は2002年に指定された場所。これまで約70軒の町家がリノベーションされて新たな店舗や工房、住宅に活用された。そのうち約20人が県外からの移住者だ。うなぎの寝床創業者で現顧問の白水高広氏に地域文化から経済循環を生む方法について聞いた。

PROFILE: 白水高広/うなぎの寝床創業者・顧問

白水高広/うなぎの寝床創業者・顧問
PROFILE: (しらみず・たかひろ)1985年佐賀県小城市生まれ。大分大学工学部福祉環境工学科建築コース卒業。2009年8月厚生労働省の雇用創出事業「九州ちくご元気計画」に関わり2年半プロジェクトの主任推進員として動く。同事業は11年グッドデザイン賞商工会議所会頭賞を受賞。12年7月にアンテナショップうなぎの寝床を立ち上げる。24年、テイクオーバーと資本提携し代表職から外れ顧問に。現在はさまざまな企業のコンサルティングを行う他、2023年テキスタイルデザイナーの光井花と新会社hana material design laboratoryを立ち上げる

機能性を訴求した短期的に消費されないものづくり

WWD:なぜ「もんぺ」だったのか。

白水高広うなぎの寝床創業者・顧問(以下、白水):義母の実家が「久留米絣」の織元で、妻が八女市の伝統工芸館で働いていた時期に「久留米絣をどうにかしたい」と家族で考え始めたことがきっかけだった。物産館で「もんぺ」の展示を見て、日常着として提案してその歴史や機能性が伝われば履いてくれる人が増えるのではと考え、11年に「もんぺ博覧会」を開催した。3日で約1500人が集まり、地元のテレビ局や新聞社は取り上げてくれた。1回きりのつもりが依頼されて翌年も続けることになった。

WWD:それを機にもんぺの製造販売が始まった?

白水:「買いたい」よりも「箪笥の肥やしになっている久留米絣の生地で作りたい」という要望が多かったので、当初は型紙を販売した。型紙は反物幅の布を無駄にしないように設計すると細身になったので12年に「現代風もんぺ」の型紙として販売を始めた。すると現物が欲しいという要望が増え始め、13年に機屋が抱えている縫製の内職さんに頼んでもんぺを作り始めた。それがNHKの情報番組「あさイチ」で取り上げられ、在庫が一瞬でなくなった。内職さんでは追いつかないので織元から生地を買い縫製工場に依頼して作り始めた。全国の店から依頼が増えて卸すようになりファブレス(自社で工場を持たず製品の製造を外部に委託するビジネスモデル)のメーカーになった。

WWD:明確なコンセプトのもとでビジネスを始めたわけではなかった。

白水:思い付きのように聞こえたかもしれないが、物産館で見たときから「いける」感覚はあった。着心地がいいことに加えて「伝統工芸」「ある程度の量が確保できる」「文化的背景がある」など付加価値もあった。「もんぺ」は福岡県南部筑後地方の綿織物「久留米絣」を用いて作られ、戦時中の1943年には婦人標準服として厚生省が活動衣として指定し、「蛍の墓」でも描かれた。戦後も農作業着として着続けられて機能的に実証されている。こうした情報を整えれば価格が1~2万円程度と設定しても売れるのではと仮説を立てた。

WWD:情報を整えるとは?

白水:整える情報は「機能的要素」「文化的要素」「視覚的要素」だと考えた。

「機能的要素」の訴求は一般消費者のリピートや口コミにつながる。「綿100%」「腰ゴム」「膝当てがついている」など機能を分解した。

「文化的要素」は一般の人が興味を持たなくても、メディアが興味を示してくれる。戦時中の厚生省の文献や農業の歴史など古本を集めて歴史をひも解き「日本のジーンズを目指して」というコピーを打ち出すとメディアが取り上げてくれた。

最後に「視覚的要素」はコーディネイト提案をした。ファッション業界は視覚的要素がとても強く、半期や四半期でどれだけ集客できるかというアプローチだが、僕らが重視したのは機能性の訴求。ファッションアイテムではなく生活用品として売るので結果的に短期的に消費されない提案になった。

WWD:情報に複数のレイヤーがある。

白水:「もんぺ」はいろんな情報のタグがあり、見る人によって異なる。たとえば「テレビで見た」という無意識的なタグから「自分が知っている店の人から聞いた」「歴史的な背景」「伝統工芸」「日本製」「かわいい」などさまざまにあるが、重視するタグは人によって違う。人々がタグのどれかに主観的に接触できるように情報を仕組み、結果的に「人は着心地に依存する」という仮説のもと、「機能性」のタグに集約できると考えた。

地域に足りない事業を興して地域の人がやれないことを実現する

WWD:「久留米絣」だけではなく、全国の繊維産地の生地を用いたもんぺをそろえる。

白水:他の産地と比較することで「久留米絣」の特徴はもちろん、全国の繊維産地を知ってもらう機会にもなる。奄美大島の泥染めや福山のデニム、遠州のコーデュロイや会津の木綿、「有松鳴海絞り」など同じフォーマット(型紙)でいろんな産地のもんぺを履き比べることができると、消費者は価格の違いや産地や生地の特性に目が向く。

WWD:それがヒットにつながった。

白水:想い入れがなく淡々と取り組んだのが良かったのではないか。想い入れがあると「これが好きだからこれで作る」となるが、想い入れがないから「柄で作ると高いから、機能性で勝負するために無地で作る」「技術によって値段を分ける」といった判断ができる。「久留米絣」産地だけに興味があるとそういう判断にならない。とはいえ、僕らが博多産地の生地生産量の約1/4を買っていて、もんぺ立ち上げの目的である産地継続にも力を入れている。1年に約7000反を購入して製品化している。

WWD:「もんぺ」はうなぎの寝床のヒット製品だが、ツーリズムや宿泊、メディア、資源活用、特許庁の地域団体商標のPR動画制作までプロジェクトは多岐にわたる。「地域文化商社」として事業を興しているが、そもそも「地域文化商社」のコンセプトが生まれて定義するに至った経緯を教えてほしい。

白水:地域文化が伝わらない理由は、魅力があるのに知られていない、知らなければ消費者は買うことができないことにある。知らせる・買えるようにする地域商社的領域をどれだけやれるかの実験と実行に取り組むことにした。地域文化を研究・解釈して、活用方法を探り、それを商社機能を使って地域に還元することが大切だと考えて活動している。基本的には地域に足りない事業を興して地域の人がやれないことを実現する。

WWD:具体的にどのようなアプローチで事業を興すのか。

白水:地域文化がベースにあり、それを体感できる場所が宿であり、本屋はやめてしまったけれど、まちづくりの中で地域文化拠点を作ったりツーリズムで体感をつくったりする。価値の見立てを行い、当社の見立てと地域の人や世間が思っている価値のギャップを埋め、価値を高めることを目指している。

そのために当社は地域構造の中で「つなぎ手」の領域を目指している。

「つくり手」や「にない手」は自分が地域を担っている意識がないことが多いので、僕らは文脈をひも解いて解釈を一緒に考える。代わりに調査して企画書を作る感じで、それをテレビ局や新聞社などに送ると取り上げてくれる。すると「にない手」に自分たちが担っているという意識が生まれ、意識が育つとシビックプライドが育つ。これだけだとボランティアになるのでこの状況自体を「つかい手」に伝える事業を行う。「つかい手」がアクセスできる店舗やEC、宿やツーリズムというサービスを作っている。

WWD:23年7月に愛媛県・大洲に店を開いたが、八女の事業モデルを全国に広げていくのか。

白水:八女をコンセプトモデルに他地域で応用できるかに興味がある。産地の資源の見立てと商品の仕入れ、地域内での可視化する店を作り、ECや卸先を探す。

大洲は町屋を修繕することを目的にまちづくり会社のキタマネジメントが店舗開発などに取り組んでおり、同社から依頼があった。

WWD:「地域文化を纏った商品やサービスが現代生活において成立したら、地域文化は残って行くし、そうでなければ淘汰されていく」として、さまざまな製品やサービスを提供する。地域で取り組む意義は?

白水:機能性を突き詰めても大手の製品の方が優れているから、そこで戦っても仕方ない。僕らはその地域でしか見つけられない文脈や情報を掘り下げ、地域で行うことでその文脈を引き継ぐことができるし差別化できる。知ってもらう機会が増えれば残る可能性が広がる。ただし、体感的にもいい製品でないと難しい。例えば着物は、文化的要素は脈々とつながってはいるが日常的に着ることは難しい。カットソーなど着心地がいいものがある中で逆行するのは難しい。過去の文脈を踏みながら、現代生活や現代の情報や需要にフィットしていけているか、生き続けているかを模索している。

情報を逆手にフィットし続けないと残らないという点ではファッション的なのかもしれない。うなぎの寝床全体としては生活用品としてもまちづくりとしても提案する情報の設計が重要で、メディアをはじめいろんな人々が許容できるようにしている。

人は印象的な体験によって意識と行動が変わる

WWD:今の生活文化にフィットしないけど残したいものがあるときにはどう取り組むのか?

白水:それこそツーリズム事業を始めたきっかけだ。モノの需要はないが技術をリファレンスできる状態にしておくことが必要で、プロセスを見せることの価値を創出した。もちろんモノはある一定数は流通させる必要はあるが、多くの人に対しては情報として提案する方がいいので、工房見学などを行うことで収益を生むようにしている。

モノの売り買いだけをしているとモノの売り買いだけで終わる。人は印象的な体験によって意識と行動が変わる。だから、モノを通じた地域文化の伝達はうなぎの寝床で行い、体験を通した地域文化の伝達はUNAラボラトリーズが行っている。

「つくり手」は良いものを作ったら売れるという思考で取り組むことが多いが、実際は「つくり手」がどういう思考で取り組んでいるかということにも価値があり、それをサービスに変えることが重要だと考えている。

WWD:白水さんは「地域文化」をある一定の地域における文化「土地と人、人と人が関わりあい生まれる現象の総体」と定義しているが、“ある一定の地域”とは何を指すか。どのくらいの大きさで、都心部や歴史が浅いニュータウンも含むのか。

白水:地域文化は伸び縮みするととらえている。例えば八女ならまちづくりの観点では重要伝統的建造物群保存地区の範囲でとらえる人もいるし、ものづくりの町としてとらえている人もいる。海外からみると日本らしい町屋の街並みととらえる人もいる。どういう範囲やテーマで文化圏を捉えるかによる。行政区は行政区でしかない。

どこの地域でも文化はある。都市部は自然が失われているかもしれないが、人と人が混じりあって生まれる習慣や慣習は必ずある。そこには自然的背景、地理的背景、歴史的文脈がある。地域は都度設定して何の文化かを定義する必要がある。僕はひとつに絞らないような枠組みにして、あらゆることを許容できるようにあいまいな定義をしている。

「知恵は行動しまくったら生まれる」、知識とは別

WWD:「地域文化商社」として活動するときに大切なこととは。

白水:研究や調査をちゃんとして、商品の見立てをしてから行動してみること。売ったり話を聞いたり、流通させたり。うまくいくものいかないものがあるので、とりあえず行動してうまくいったものは仕組化して残し、うまくいかなかったものはやめる。

うまくいかなくてもどうしても残したいものは何かしら価値があるはずで、そのギャップを何かしらの事業で埋められるのではないかと知恵を絞り行動する。知恵は行動しまくったら生まれる。それは知識とは別の話だ。僕らはそんなに知識は深くはないけれど、地域で動いていたら何かしらの知恵が生まれる。

WWD:失敗したことは?

水:そもそも失敗や成功とは何か、から考える必要がある。会社としては、10年間赤字もなく、トライ&エラーをしながらも成長し続けている。例えば自転車事業や反毛(はんもう)事業に取り組んだがうまく回らず事業を畳んだが、今につながっているので失敗ではない。そういうのはたくさんある。

人に依存し続ける仕組みを作ることが必要

WWD: 後継者不足に対して優秀な人材を産地に送り込むのがいいという声もあるが、人に依存する産地経営は難しいのでは?

白水:基本的に人に依存しない会社や産業の仕組みをつくるべきだと考えているが、地域文化を深く理解して広げるために思考して行動できる人を獲得する仕組みをつくらないといけないとも思う。新しい思考や考えを生み出していくのは人だから、ある程度人に依存しつつ、その人がいなくなっても自走できるような仕組みをつくることは必要だ。いかに人を獲得し続け、許容できるか。その状況をどれだけ作れるかが重要だ。そこで僕は今、インキュベーションのようなことを事業化したいと考えている。能力を持った人の人生をずらし、産地にぶち込むのが重要だと思っている。

例えば、当社でツーリズム事業を取り組むのは東京出身でロンドン大学で人類学を学び、「物語を海外に伝えたい」とやって来た人。2年程度で大学に戻る予定だったが、地元の人と結婚して子どもが生まれた。そうすると八女に居続けるし、新たに人類学観点のあるツーリズムが生まれている。それで回る会社も増えている。

現代社会は「価値化は情報化」

WWD:無価値、無意味とされるような文化や歴史、地域から有価値、意味を引き出すには何に着目すべきか。

白水:無価値のものはほぼない。現代はネット上にないもの、つまり情報として拾い上げられないものは価値がないと特に都市部の人が思い込んでいる状態だと感じている。「無価値だけど価値があるもの」とは、知られてないことは無価値だとする情報としての価値の話が中心だ。現代においては、価値化は情報化でもある。地方の人はその流れを見ながら、情報を差し込んでいくための戦略が必要だが、それをひも解ける人が地方には多くいない。

情報化できる人が地域に入り地域がうまくいっているように見えるが、それが良い状態かというと必ずしもイコールではない。経済規模が大きければ豊かとは限らず、そうでなくても豊かな地域はある。経済、暮らし、ファッション、生活用品など、地域事業者はどの尺度に根差した価値創出を目指したいのかを考える必要がある。

WWD:一社だけではなく地域で連携していくために必要なこととは?

白水:みんなでやるとうまくいかないことが多い。これが面白いからやりたいと主観的に始めてそれが広がれば産地に貢献できて残せるものがあるのではないか。メディアが面白がるのは強い情報にひもづいた産地で、個の強い意志や理論がないと難しいし、その人が活動できるフィールドをどう作るかも重要だ。「これをやったらうまくいく」はないが、起点をどこにするかはビジネスのインキュベーションにおいて重要だ。

WWD:産地として、地域として何を目指すがのよいか。

白水:地域の活動で小規模事業者とある程度の規模の企業のレイヤーが交じり合っていないことが多いが、違うレイヤーの人たちがどう対話して議論を生んでいくかが重要だと思っている。それをつなげるのは行政なのかもしれない。地域資源や土地性、文化や歴史と地域産業をつなげるコーディネイト役が必要だが、それは市長であり、行政の役割なのかもしれない。「政治的にどうしていくか」も重要だと思う。

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」

PROFILE: セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師

セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師
PROFILE: フランス・グラース生まれ。幼少時から地元の工場で漂うベチバーやイランイラン、パチョリなどの香りに触れ、香水のミニボトルや香水の広告を集めて育つ。2001年から米香料大手メーカーIFFの調香師として活躍

「イソップ(AESOP)」から、新作フレグランス“オルナー オードパルファム(以下、オルナー)”が登場した。同ブランドは2月、都内で新作発表イベントを開催。フローラルフレグランスの概念を覆す“オルナー”の世界観を表現するインスタレーションやワークショップを開催した。“オルナー”という名前は、古代スカンジナビア語で「装飾される、花々で飾られる」という意味。マグノリアリーフ、ローマンカモミール、シダーハートを組み合わせ、フローラルのハートノートとスパイスやメタリック、ウッディノートが織りなす複雑な香りだ。みずみずしい花弁とたくましい幹、植物と金属、女性性と男性性といった相対する要素を融合している。調香を担当したのは長年「イソップ」と協業するセリーヌ・バレル(Celine Barel)。来日したバレルに、「イソップ」との出合いやクリエイションについて聞いた。

概念を覆す“折れない”フローラル

WWD:“オルナー”はどのような香りか?

セリーヌ・バレル(以下、バレル):静かで反逆的なフローラルの香り。思いがけないコントラストがあり、優美さと強靭さの間にある詩的な張力をテーマにしている。香りの中心はマグノリアで花弁ではなくマグノリアリーフが持つ複雑で繊細さを持つ香りが特徴だ。

WWD:調香の出発点は?

バレル:「イソップ」のクリエイティブチームからのブリーフィングからスタートした“オルナー”は、中国人の詩人である清照李と歌手ニーナ・シモン(Nina Simone)の歌「ライラックワイン」、そして、ヒスイの緑色が着想元になっている。反逆的な恋愛をしていた詩人と恋焦がれる気持ちと怒りを秘めた歌手2人の共通点は、たおやかさと強さ。強さを出すために、「イソップ」の特徴的な香であるウッディを盛り込む必要があると思った。ヒスイからインスパイアされたグリーンノートはマグノリアリーフのフレッシュさに反映している。

WWD:この香りを調香する上でこだわった点は?

バレル:反逆性。フローラルというと優しさや儚さといったものを想像するが、“折れない”フローラルを表現したいと思った。思いがけずエッジの効いた現代的なフローラル。大胆で堂々としている強さのある新しいフローラルを表現したつもりだ。

WWD:“オルナー”はどのように他のフローラルと違う?

バレル:フローラル、アロマティック、フレッシュな要素があり思いがけない香のコントラストが特徴。基本フローラルに分類されるため、 “ローズ”や “グローム”と並ぶ形だが、フローラルとフレッシュ両方の側面を持つ。

創業者との出合いから生まれた香り“タシット”

WWD:イソップと協業を始めたきっかけは?

バレル:2006年に創業者のデニス・パフィティス(Dennis Paphitis)と出会った。文学やアートが好きのデニスとは共通点が多く馬が合った。私は調香の学校を出たばかりで経験がなかったが、ずっと連絡を取り続けて12年に初めて“タシット”を調香した。私が経験を積むのを待ってくれたのだと思う。“タシット”は特別で大切な作品。デニスからのブリーフィングは、イタリア人画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵。キリコの絵はシュールだが、「イソップ」にも常に奇妙な要素があると思った。それで、バジルを大量に使ってエッセンスを作り、ベチバーハートを使用し、奇妙な要素を表現した。

WWD:あなたにとって「イソップ」はどのようなブランド?

バレル:オーストラリア生まれで、全てのクリエイションプロセス全てに意味がある。多種多様なインスピレーション源から始まる香りの創造は、抒情的であると同時に科学に根ざしたものでもある。製品には完璧さが宿っているが、同時に不完全な中の美を内包するブランド日本との親和性が高いと思う。

香水が芝居だとしたら私は役者のようなもの

WWD:クリエイションで最も大切にしていることは?

バレル:美しさをどのように見つけ、表現するかという点。自然から合成まで、全ての香料を知り抜き、組み合わせて新しいものを生み出すのが調香師の仕事。自然香料は混ぜ合わせるとお互いに溶け合って複雑になるが、合成香料は香りがブロック状に重なる。自然香料を太陽の光とすれば、合成香料は人工光という感じで感情に欠ける。自然香料も合成香料も的確な意図を持って配合するが、香料を組み合わせて、1+1=3になる場合もあり、コントロールが非常に難しい。香りのインパクトや持続性、残り香といったさまざまな香りの旅をどのようにデザインするかが難しい。

WWD:自身が調香するフレグランスにあるシグニチャーは?

バレル:シグニチャーは作らない。なぜなら、香りはブランドのもので、私はそれを形にする媒介役だから。香りを芝居に例えると、私は役者のようなもの。いろいろなブランドのために、自分は香りのストーリーの登場人物になるように心がけている。毎回、香りが完成したら、新しい役になりきるのが大切。いろいろな作品でいろいろな役を演じるのが私のモットーだ。

WWD:尊敬する調香師は?

バレル:故エドモンド・ラウドニツカ(Edmond Roudnitsuka)。元祖“ソヴァージュ”など「ディオール(DIOR)」のフレグランスを多く調香した人で、著書も多い。“グルマン”カテゴリーを生み出したオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)も革新的で素晴らしい。「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」の“ポートレイト オブ ア レディー”を手掛けた故ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)は、センシュアルな誘惑する香りを生み出し、尊敬している。

WWD:あなた自身にとってフレグランス=香りとは?

バレル:現実逃避。いろいろな可能性が広がる目に見えないスーパーパワー。香りを通して何かを思い出したり、自然界に訪れたり、魔法のような存在だと思う。

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「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」

PROFILE: セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師

セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師
PROFILE: フランス・グラース生まれ。幼少時から地元の工場で漂うベチバーやイランイラン、パチョリなどの香りに触れ、香水のミニボトルや香水の広告を集めて育つ。2001年から米香料大手メーカーIFFの調香師として活躍

「イソップ(AESOP)」から、新作フレグランス“オルナー オードパルファム(以下、オルナー)”が登場した。同ブランドは2月、都内で新作発表イベントを開催。フローラルフレグランスの概念を覆す“オルナー”の世界観を表現するインスタレーションやワークショップを開催した。“オルナー”という名前は、古代スカンジナビア語で「装飾される、花々で飾られる」という意味。マグノリアリーフ、ローマンカモミール、シダーハートを組み合わせ、フローラルのハートノートとスパイスやメタリック、ウッディノートが織りなす複雑な香りだ。みずみずしい花弁とたくましい幹、植物と金属、女性性と男性性といった相対する要素を融合している。調香を担当したのは長年「イソップ」と協業するセリーヌ・バレル(Celine Barel)。来日したバレルに、「イソップ」との出合いやクリエイションについて聞いた。

概念を覆す“折れない”フローラル

WWD:“オルナー”はどのような香りか?

セリーヌ・バレル(以下、バレル):静かで反逆的なフローラルの香り。思いがけないコントラストがあり、優美さと強靭さの間にある詩的な張力をテーマにしている。香りの中心はマグノリアで花弁ではなくマグノリアリーフが持つ複雑で繊細さを持つ香りが特徴だ。

WWD:調香の出発点は?

バレル:「イソップ」のクリエイティブチームからのブリーフィングからスタートした“オルナー”は、中国人の詩人である清照李と歌手ニーナ・シモン(Nina Simone)の歌「ライラックワイン」、そして、ヒスイの緑色が着想元になっている。反逆的な恋愛をしていた詩人と恋焦がれる気持ちと怒りを秘めた歌手2人の共通点は、たおやかさと強さ。強さを出すために、「イソップ」の特徴的な香であるウッディを盛り込む必要があると思った。ヒスイからインスパイアされたグリーンノートはマグノリアリーフのフレッシュさに反映している。

WWD:この香りを調香する上でこだわった点は?

バレル:反逆性。フローラルというと優しさや儚さといったものを想像するが、“折れない”フローラルを表現したいと思った。思いがけずエッジの効いた現代的なフローラル。大胆で堂々としている強さのある新しいフローラルを表現したつもりだ。

WWD:“オルナー”はどのように他のフローラルと違う?

バレル:フローラル、アロマティック、フレッシュな要素があり思いがけない香のコントラストが特徴。基本フローラルに分類されるため、 “ローズ”や “グローム”と並ぶ形だが、フローラルとフレッシュ両方の側面を持つ。

創業者との出合いから生まれた香り“タシット”

WWD:イソップと協業を始めたきっかけは?

バレル:2006年に創業者のデニス・パフィティス(Dennis Paphitis)と出会った。文学やアートが好きのデニスとは共通点が多く馬が合った。私は調香の学校を出たばかりで経験がなかったが、ずっと連絡を取り続けて12年に初めて“タシット”を調香した。私が経験を積むのを待ってくれたのだと思う。“タシット”は特別で大切な作品。デニスからのブリーフィングは、イタリア人画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵。キリコの絵はシュールだが、「イソップ」にも常に奇妙な要素があると思った。それで、バジルを大量に使ってエッセンスを作り、ベチバーハートを使用し、奇妙な要素を表現した。

WWD:あなたにとって「イソップ」はどのようなブランド?

バレル:オーストラリア生まれで、全てのクリエイションプロセス全てに意味がある。多種多様なインスピレーション源から始まる香りの創造は、抒情的であると同時に科学に根ざしたものでもある。製品には完璧さが宿っているが、同時に不完全な中の美を内包するブランド日本との親和性が高いと思う。

香水が芝居だとしたら私は役者のようなもの

WWD:クリエイションで最も大切にしていることは?

バレル:美しさをどのように見つけ、表現するかという点。自然から合成まで、全ての香料を知り抜き、組み合わせて新しいものを生み出すのが調香師の仕事。自然香料は混ぜ合わせるとお互いに溶け合って複雑になるが、合成香料は香りがブロック状に重なる。自然香料を太陽の光とすれば、合成香料は人工光という感じで感情に欠ける。自然香料も合成香料も的確な意図を持って配合するが、香料を組み合わせて、1+1=3になる場合もあり、コントロールが非常に難しい。香りのインパクトや持続性、残り香といったさまざまな香りの旅をどのようにデザインするかが難しい。

WWD:自身が調香するフレグランスにあるシグニチャーは?

バレル:シグニチャーは作らない。なぜなら、香りはブランドのもので、私はそれを形にする媒介役だから。香りを芝居に例えると、私は役者のようなもの。いろいろなブランドのために、自分は香りのストーリーの登場人物になるように心がけている。毎回、香りが完成したら、新しい役になりきるのが大切。いろいろな作品でいろいろな役を演じるのが私のモットーだ。

WWD:尊敬する調香師は?

バレル:故エドモンド・ラウドニツカ(Edmond Roudnitsuka)。元祖“ソヴァージュ”など「ディオール(DIOR)」のフレグランスを多く調香した人で、著書も多い。“グルマン”カテゴリーを生み出したオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)も革新的で素晴らしい。「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」の“ポートレイト オブ ア レディー”を手掛けた故ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)は、センシュアルな誘惑する香りを生み出し、尊敬している。

WWD:あなた自身にとってフレグランス=香りとは?

バレル:現実逃避。いろいろな可能性が広がる目に見えないスーパーパワー。香りを通して何かを思い出したり、自然界に訪れたり、魔法のような存在だと思う。

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「キス」大阪上陸の理由を創業者ロニー・ファイグが明かす 豊富な限定品についても

「キス(KITH)」の新たな旗艦店「キス オオサカ(KITH OSAKA)」が、3月21日にオープンする。「キス」は、2011年にアメリカ・ニューヨークでスニーカーショップとしてスタートし、現在はファッションからカルチャーまでをピックアップするセレクトショップおよび、同名のライフスタイルブランドも手掛けるまでになった。20年7月には、アメリカ国外初となる旗艦店「キス トウキョウ(KITH TOKYO)」を東京・渋谷のミヤシタパーク(MIYASHITA PARK)にオープンし、直近5年でフランスやイギリス、韓国など海外出店を加速させてきた。

「キス オオサカ」は、3月21日に開業する大阪駅直結の商業施設「うめきたグリーンプレイス」内1階に位置し、総売り場面積は「キス トウキョウ」よりも広い約394平方メートル。通路を挟んだ向かいにはシリアルアイスクリームバー「キス トリーツ(KITH TREATS)」も併設する。店内では、メンズ・ウィメンズからキッズまでを豊富にそろえ、オープンにあわせて同店限定のアイテムも数多く用意する力の入れようだ。

実は、「キス」がアメリカ国外で複数店舗を構えるのは日本が初めて。「キス トウキョウ」が変わらずにぎわう状況とはいえ、他ブランドやショップが日本以外のアジア圏で出店攻勢をかける中、なぜロニー・ファイグ(Ronnie Fieg)クリエイティブ・ディレクター兼最高経営責任者は「キス オオサカ」のオープンを決めたのか。その背景について話を聞いた。

大阪出店の決め手は信頼と愛

ーー「キス」は現在、世界に約20店舗を出店していますが、創業地アメリカ以外で複数店舗を構えるのは日本が初めてです。なぜ、日本に2店舗目となる「キス オオサカ」をオープンすることを決めたのでしょうか?

ロニー・ファイグ(以下ロニー):日本が、アメリカ国外で「キス」と最も深く共鳴している国だと感じているからだ。2017年に初めての海外店舗としてシリアルバー「キス トリーツ」を渋谷にオープンして以来(*現在は閉店し、20年にオープンした「キス トウキョウ」に移転)、「キス」は日本での存在感を示してきた。この間に日本の人々はわれわれの成長と進化を見守り、ある意味で共に歩んできた関係性と言える。そして、東京に限らず日本全国に「キス」を愛してくれているファンがいると実感したからこそ、より多くの人々にブランド体験を届けたいという思いが強くなり、大阪に新たな店舗を構えることを決めたんだ。

ーー「キス トウキョウ」は、オープンから5年が経った今も前を通るたびに行列を目にします。やはり、日本での好調な業績もオープン理由の一つですか?

ロニー:間違いない。日本で築き上げられた「キス」のコミュニティーは本当に素晴らしく、ファンは世界観を心から理解し愛してくれており、その気持ちはわれわれも同じ。日本は“第二の故郷”のような国なのさ。それに、日本チームへの信頼とサポートも「キス オオサカ」のオープンを決めた大きな理由の一つ。「キス トウキョウ」のディレクターであるジュンヤ(俣野純也)は長年の友人で、彼とチームスタッフの存在が、「キス」らしい形で大阪出店を実現できると確信させてくれたんだ。

ーーいつ頃から「キス オオサカ」の構想はあったのでしょうか?また、「うめきたグリーンプレイス」を選んだ理由も教えてください。

ロニー:2年以上前から構想していた。理想的な空間を探していたところ、「うめきたグリーンプレイス」をはじめとした大阪駅地上部開発を知り、「キス オオサカ」が都市に新しく誕生する魅力的なエリアの一部になれる絶好の機会だと感じたんだ。

新店でしか体験できないこと

ーー「キス」は、店舗を訪れた際の「“五感”を刺激する“エクスペリエンス(体験)”の提供」に力を入れています。「キス オオサカ」ではどのような“エクスペリエンス”を用意していますか?

ロニー:「“五感”を刺激する“エクスペリエンス”の提供」は全てのフラッグシップストアの共通哲学で、単なるショッピングの場ではなく、志を同じくする人々が集い、ブランドをより深く体験できる場所であるべきだと考えている。その中で「キス オオサカ」の特徴は、1つの中央エリアに3つの異なるスペースを用意している点だ。1つ目のスペースでメンズとウィメンズコレクションを、2つ目のスペースでキッズコレクションを並べ、3つ目のスペースで「キス トリーツ」が楽しめる。このレイアウトにより、それぞれのスペースが独自の雰囲気を持ちながら、全体としては共通した没入体験ができる、洗練された空間に仕上がっている。

ーーオープンにあたり、何か苦労した点はありますか?

ロニー:新しい店舗をオープンする時は、常に何かしらの課題はあるものさ。でも、それも含めてクリエイティブなプロセスとして楽しんでいる。私にとっての一番の喜びは、完成した店舗に初めて足を踏み入れる瞬間なんだ。

ーーオープンに合わせ、大阪らしい限定アイテムを数多く仕込んだそうですね。

ロニー:「キス オオサカ」でしか購入することができない限定アイテムを数多くそろえている。例えば、背面に大阪を象徴するアートワークと虎の刺しゅうを施したリバーシブルジャケットなどのアパレルコレクションや、「ニューエラ(NEW ERA)」とコラボレーションした阪神タイガースとオリックス・バファローズのキャップ、日本の皇室御用達ブランドとしても知られる茶筒の老舗「開化堂」とのキャニスター(フタ付きの円筒形の保存容器)などだ。また、「ニューバランス(NEW BALANCE)」を象徴するスニーカー“1300”のアイコニックなカラーリングを私なりに再解釈し、“メイド イン USA 992(MADE IN USA 992)”に落とし込んだ1足も用意した。これは「キス」の公式オンラインでも販売するが、実店舗で取り扱うのは「キス オオサカ」だけだ。

ーーここからは、少し話の間口を広げさせてください。「キス」は、もともとスニーカーショップとしてスタートしましたが、現在はセレクトショップやライフスタイルブランド、コラボレーターとしての側面なども強くなっています。これは創業当初から意図した業態だったのか、それとも時代に合わせた変化だったのでしょうか?

ロニー:現在の業態を最初から計画していたわけではない。ただ、立ち上げの段階から「キス」というブランドが持つ可能性を最大限に引き出し、市場に新たなインパクトを与えるビジョンは持っていた。それに、より多くを求めるファンに気付かされたのも事実だ。当初はコラボレーションを中心に展開し、次第にオリジナルのアパレルを少しづつリリースし始めると、即完売するようになっていった。どれだけ増産しても需要が続いたことで「『キス』には無限の可能性がある」と確信したんだ。それからというもの、われわれは振り返ることなく進化を続けている。

「キス」の今後はどうなる

ーーまた、最近の「キス」の動きといえば、初のパフォーマンスライン“ケーテック(K-TECH)”をローンチしていましたね。これまでスポーツブランドやアウトドアブランドとの協業を数多く重ねてきた中で、満を持しての販売だったのでしょうか。

ロニー:私たちは毎年、ブランドを新たなカテゴリーへと広げることを目指し、独自の視点を生かせる領域を模索してきた。“ケーテック”は、アクティブウエアにインスパイアされたラインであり、今後もシーズンごとに進化させていく予定だ。

ーー最後に、スニーカーからファッション、スポーツ、フード、カーまで、さまざまな業界で成功を収めている「キス」の今後を教えてください。

ロニー:どの業界に進出しようと、どんな店舗をオープンしようと、ビジョンは常に変わらないーーそれは“「キス」を戦力的に成長・進化させること”。わたしたちは誰かの作った成功モデルをなぞるのではなく、自分たち自身で道を切り拓き、常に自分たちの限界を越え、正しい理由に基づき、最高のモノを生み出し続けていく。

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「キス」大阪上陸の理由を創業者ロニー・ファイグが明かす 豊富な限定品についても

「キス(KITH)」の新たな旗艦店「キス オオサカ(KITH OSAKA)」が、3月21日にオープンする。「キス」は、2011年にアメリカ・ニューヨークでスニーカーショップとしてスタートし、現在はファッションからカルチャーまでをピックアップするセレクトショップおよび、同名のライフスタイルブランドも手掛けるまでになった。20年7月には、アメリカ国外初となる旗艦店「キス トウキョウ(KITH TOKYO)」を東京・渋谷のミヤシタパーク(MIYASHITA PARK)にオープンし、直近5年でフランスやイギリス、韓国など海外出店を加速させてきた。

「キス オオサカ」は、3月21日に開業する大阪駅直結の商業施設「うめきたグリーンプレイス」内1階に位置し、総売り場面積は「キス トウキョウ」よりも広い約394平方メートル。通路を挟んだ向かいにはシリアルアイスクリームバー「キス トリーツ(KITH TREATS)」も併設する。店内では、メンズ・ウィメンズからキッズまでを豊富にそろえ、オープンにあわせて同店限定のアイテムも数多く用意する力の入れようだ。

実は、「キス」がアメリカ国外で複数店舗を構えるのは日本が初めて。「キス トウキョウ」が変わらずにぎわう状況とはいえ、他ブランドやショップが日本以外のアジア圏で出店攻勢をかける中、なぜロニー・ファイグ(Ronnie Fieg)クリエイティブ・ディレクター兼最高経営責任者は「キス オオサカ」のオープンを決めたのか。その背景について話を聞いた。

大阪出店の決め手は信頼と愛

ーー「キス」は現在、世界に約20店舗を出店していますが、創業地アメリカ以外で複数店舗を構えるのは日本が初めてです。なぜ、日本に2店舗目となる「キス オオサカ」をオープンすることを決めたのでしょうか?

ロニー・ファイグ(以下ロニー):日本が、アメリカ国外で「キス」と最も深く共鳴している国だと感じているからだ。2017年に初めての海外店舗としてシリアルバー「キス トリーツ」を渋谷にオープンして以来(*現在は閉店し、20年にオープンした「キス トウキョウ」に移転)、「キス」は日本での存在感を示してきた。この間に日本の人々はわれわれの成長と進化を見守り、ある意味で共に歩んできた関係性と言える。そして、東京に限らず日本全国に「キス」を愛してくれているファンがいると実感したからこそ、より多くの人々にブランド体験を届けたいという思いが強くなり、大阪に新たな店舗を構えることを決めたんだ。

ーー「キス トウキョウ」は、オープンから5年が経った今も前を通るたびに行列を目にします。やはり、日本での好調な業績もオープン理由の一つですか?

ロニー:間違いない。日本で築き上げられた「キス」のコミュニティーは本当に素晴らしく、ファンは世界観を心から理解し愛してくれており、その気持ちはわれわれも同じ。日本は“第二の故郷”のような国なのさ。それに、日本チームへの信頼とサポートも「キス オオサカ」のオープンを決めた大きな理由の一つ。「キス トウキョウ」のディレクターであるジュンヤ(俣野純也)は長年の友人で、彼とチームスタッフの存在が、「キス」らしい形で大阪出店を実現できると確信させてくれたんだ。

ーーいつ頃から「キス オオサカ」の構想はあったのでしょうか?また、「うめきたグリーンプレイス」を選んだ理由も教えてください。

ロニー:2年以上前から構想していた。理想的な空間を探していたところ、「うめきたグリーンプレイス」をはじめとした大阪駅地上部開発を知り、「キス オオサカ」が都市に新しく誕生する魅力的なエリアの一部になれる絶好の機会だと感じたんだ。

新店でしか体験できないこと

ーー「キス」は、店舗を訪れた際の「“五感”を刺激する“エクスペリエンス(体験)”の提供」に力を入れています。「キス オオサカ」ではどのような“エクスペリエンス”を用意していますか?

ロニー:「“五感”を刺激する“エクスペリエンス”の提供」は全てのフラッグシップストアの共通哲学で、単なるショッピングの場ではなく、志を同じくする人々が集い、ブランドをより深く体験できる場所であるべきだと考えている。その中で「キス オオサカ」の特徴は、1つの中央エリアに3つの異なるスペースを用意している点だ。1つ目のスペースでメンズとウィメンズコレクションを、2つ目のスペースでキッズコレクションを並べ、3つ目のスペースで「キス トリーツ」が楽しめる。このレイアウトにより、それぞれのスペースが独自の雰囲気を持ちながら、全体としては共通した没入体験ができる、洗練された空間に仕上がっている。

ーーオープンにあたり、何か苦労した点はありますか?

ロニー:新しい店舗をオープンする時は、常に何かしらの課題はあるものさ。でも、それも含めてクリエイティブなプロセスとして楽しんでいる。私にとっての一番の喜びは、完成した店舗に初めて足を踏み入れる瞬間なんだ。

ーーオープンに合わせ、大阪らしい限定アイテムを数多く仕込んだそうですね。

ロニー:「キス オオサカ」でしか購入することができない限定アイテムを数多くそろえている。例えば、背面に大阪を象徴するアートワークと虎の刺しゅうを施したリバーシブルジャケットなどのアパレルコレクションや、「ニューエラ(NEW ERA)」とコラボレーションした阪神タイガースとオリックス・バファローズのキャップ、日本の皇室御用達ブランドとしても知られる茶筒の老舗「開化堂」とのキャニスター(フタ付きの円筒形の保存容器)などだ。また、「ニューバランス(NEW BALANCE)」を象徴するスニーカー“1300”のアイコニックなカラーリングを私なりに再解釈し、“メイド イン USA 992(MADE IN USA 992)”に落とし込んだ1足も用意した。これは「キス」の公式オンラインでも販売するが、実店舗で取り扱うのは「キス オオサカ」だけだ。

ーーここからは、少し話の間口を広げさせてください。「キス」は、もともとスニーカーショップとしてスタートしましたが、現在はセレクトショップやライフスタイルブランド、コラボレーターとしての側面なども強くなっています。これは創業当初から意図した業態だったのか、それとも時代に合わせた変化だったのでしょうか?

ロニー:現在の業態を最初から計画していたわけではない。ただ、立ち上げの段階から「キス」というブランドが持つ可能性を最大限に引き出し、市場に新たなインパクトを与えるビジョンは持っていた。それに、より多くを求めるファンに気付かされたのも事実だ。当初はコラボレーションを中心に展開し、次第にオリジナルのアパレルを少しづつリリースし始めると、即完売するようになっていった。どれだけ増産しても需要が続いたことで「『キス』には無限の可能性がある」と確信したんだ。それからというもの、われわれは振り返ることなく進化を続けている。

「キス」の今後はどうなる

ーーまた、最近の「キス」の動きといえば、初のパフォーマンスライン“ケーテック(K-TECH)”をローンチしていましたね。これまでスポーツブランドやアウトドアブランドとの協業を数多く重ねてきた中で、満を持しての販売だったのでしょうか。

ロニー:私たちは毎年、ブランドを新たなカテゴリーへと広げることを目指し、独自の視点を生かせる領域を模索してきた。“ケーテック”は、アクティブウエアにインスパイアされたラインであり、今後もシーズンごとに進化させていく予定だ。

ーー最後に、スニーカーからファッション、スポーツ、フード、カーまで、さまざまな業界で成功を収めている「キス」の今後を教えてください。

ロニー:どの業界に進出しようと、どんな店舗をオープンしようと、ビジョンは常に変わらないーーそれは“「キス」を戦力的に成長・進化させること”。わたしたちは誰かの作った成功モデルをなぞるのではなく、自分たち自身で道を切り拓き、常に自分たちの限界を越え、正しい理由に基づき、最高のモノを生み出し続けていく。

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カナダ発ラグジュアリーEC「エッセンス」バイヤーが語る、ファッションと雑貨のボーダーレス化

カナダ・モントリオール発のECサイト「エッセンス(SSENSE)」はエッジの効いた個性的なブランドの取り扱いや商品構成に定評がある。主軸のウィメンズ、メンズウェアに加えて、最近好調なのがコロナ禍の2020年にローンチした雑貨を取り扱うセクションの「物とモノ」だ。

昨年冬からはウィメンズファッションの買い付けを統括するブリジット・チャートランド氏 が「物とモノ」にのバイイング・ディレクターに就任。ファッションと雑貨の買い付けを一挙に引き受けることとなった。それによりウィメンズファッションと雑貨のバイイングの親和性が増し、雑貨の売り上げが伸長。しのぎを削るファッションEC市場で「エッセンス」は独自の強みをどのように見出しているのか、チャートランド氏に話を聞いた。

ーー今までウィメンズファッションの買い付けを担当されていましたが、雑貨の買い付けの基準は?

ブリジット・チャートランド(以下、チャートランド):雑貨カテゴリーの「物とモノ」の買い付けはウィメンズの買い付けに似ている部分が多いと思っています。私が「物とモノ」を統括するようになってから、平凡なものから離れ、大胆でユニークなデザインへと舵を切りました。とはいえ、目立ちすぎるものだけをそろえることはせず、データに基づいた手堅い商品も従来通り揃えています。要はバランスが重要なのです。

また、「ドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」や「トム ブラウン(THOM BROWNE)」のように、ウィメンズで取り扱う一部のファッションブランドで、ホームプロダクトやセルフケア商品を提供しているブランドにも注目しました。デザイナーのラフ・シモンズ(Raf Simons)とデンマークのテキスタイルブランド「カヴァトラ(KVADRAT)」がコラボレーションしたホーム&ライフスタイル グッズ ブランド「カヴァトラ/ ラフ・シモンズ(KVADRAT/ RAF SIMONS)」のように、ウィメンズですでに関係構築のできているブランドやコミュニティーに焦点を当てています。

新たなブランドを発掘し、
シナジーを生み出す

チャートランド:シモーン・ロシャ(Simone Rocha)の友人でもあるレイラ・ゴハー(Laila Hohar)がローンチした「ゴハー・ワールド(GOHAR WORLD)」がいい例です。すでに関係を築いていたシモーンの友人ということがきっかけで知ることができたブランドです。「エッセンス」にはすでにシモーンのファンたちがいます。その友人やコミュニティーにアクセスすることで、新たなシナジーが生み出せるのです。私たちはこうしたコミュニティーとの結びつきを大切にしています。

「エッセンス」ではエディトリアルのプラットフォームを活用して、デザイナーや業界の重要な人たちと関係を築いていくことも、とても重要だと思っています。限定出版物、たとえばイザベラ・バーリー(Isabella Burley)による「CLIMAX BOOKS」のような希少な商品はエディトリアルでもその魅力を紹介しました。

さらに「エッセンス」が得意とするのは次世代の若手アーティストの発掘です。日本はもちろん、デンマークや韓国などの新興国やローカル市場に目を向けることも重要です。これらの様々な要素が絡み合ったものが「エッセンス」の戦略と言えるでしょう。

ーー2つのカテゴリーを買い付ける上での大きな違いは?

チャートランド:雑貨はファッションと違って、必ずしもシーズンカレンダーに従っているわけではありません。季節性が強いわけではないからこそ、どのタイミングで何をリリースするかなどは細心の注意を払っています。また、家具などはサイズや重量が重いため、配送料を気にしないといけなかったり、収益にもフォーカスしないといけません。ファッションと異なる点は試着をする必要がないので、「フィット感」は気にする必要はなくとも、ファッションと同様、魅力的なデザインが求められます。

ーーウィメンズと雑貨の買い付けを1人で統括することのメリットは?

チャートランド:「エッセンス」がすでに得意としているウィメンズファッションに、雑貨の世界観を一致させることができることです。前述したように既存のシナジーを活用しつつ、ウィメンズファッションのために築いてきたブランドアイデンティティーを強化し、繋がりを作ることもできます。

2024年にシモーン・ロシャとともにビューティーバッグの企画を行いました。ホリデーシーズン向けにシモーンがデザインしたバッグの中に「エッセンス」で取り扱うビューティ商品を詰め込みました。このバッグは即完売したのですが、私たちのウィメンズファッションで培ったコネクションを活用することが成果につながるということを実証できました。

ーーファッションEコマースサイトにおいて、雑貨の存在意義は?

チャートランド:今まで付き合いのあった顧客たちも日々進化し、ライフスタイルが変化をしたり、家を購入したりするようになり、雑貨や家具、美容などのカテゴリーが受け入れられるようになりました。

また、特にパンデミックは人々の視点を家の中に向けました。ファッションブランドもトータルコーディネートという観点から雑貨やホームプロダクトにも目を向けるようになりました。ブランドのアイデンティティーをファッション以外の形で表現したいというブランドが増えたため、パンデミックの時期は雑貨を始めるのに適した時期であり、私たちのサイトでも雑貨を立ち上げる意義が生まれました。

ーーファッションEコマース市場における「エッセンス」の強みは?

チャートランド:ユニークなブランドや商品を取りそれることで唯一無二の視点を維持していることです。ブランドに特別なコラボレーション商品を作ってもらうことでの希少性は私たちのコアバリューになっています。

ーー「物とモノ」の中で注目しているブランドは?

チャートランド:個人的には「ゴハー・ワールド」のデザインアプローチも好きですし、「テクラ(TEKLA)」と「オーラリー(AURALEE)」のコラボが大好きだったのですが、すぐに売り切れてしまいました。メルボルン発の「ゾウゾウ ラグス(ZOUZOU RUGS)」は美しいラグを作っていて、「フェラガモ(FERRAGAMO)」のブティックとも密接な関わりを持っているので、ファッションブランドとの親和性もあります。日本の家庭にも馴染むパターンなので、日本のお客さんにもおすすめしたいですね。ロサンゼルス拠点の韓国系アメリカ人アーティストのラミ・キム(RAMI KIM STUDIO)の花瓶やタンブラーも大好きです。

ーー最近拠点をLAに移したそうですが、ライフスタイルは変わりましたか?

チャートランド:大きく変わりましたね。ただ、年始に起きた山火事では避難を余儀なくされました。モントリオールにいた時は冬の間は移動以外ではほとんど外に出ることはありませんでしたが、今はほとんど外にいてアクティブに過ごしています。今ではフラワーアレンジメントが週末の趣味になっていて、韓国から来たアーティストとワークショップを開催しました。

ーー今年「物とモノ」で予定されているコラボレーションを教えてください。

チャートランド:「エッセンス」では特別な商品をお客さまに届けるための限定商品なども販売しています。今年はロンドンを拠点とするデザイナー、ジェームズ・ショウ(JAMES SHAW)の作品をエクスクルーシブで取り扱うほか、選りすぐりの新規ブランドも多数導入予定です。

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

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アカデミー賞受賞作「ANORA アノーラ」のショーン・ベイカー 「誰かが気分を害することがあっても、リアルに語ることが大事」

PROFILE: ショーン・ベイカー/映画監督

PROFILE: この20年で八本のインディー長編映画を生み出したシナリオライター、監督、製作者、編集者。前作「レッド・ロケット」(21)は第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映。「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」(17)は第70回カンヌ国際映画祭監督週間でプレミア上映、国際的に高い評価を得た。「タンジェリン」(15)は第31回サンダンス国際映画祭でプレミア上映され、インディペンデント・スピリット賞で作品賞、監督賞を含む4部門にノミネート、2つのゴッサム・インディペンデント賞を受賞した。「チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密」(12)は第28回インディペンデント・スピリット賞ロバート・アルトマン賞を受賞、それに先立つ2作品「Take out」(04)、「Prince of Broadway」(08)は共にインディペンデント・スピリット賞のジョン・カサヴェテス賞を受賞している。

ショーン・ベイカー(Sean Baker)はインディペンデントの映画作家として、アメリカ社会に生きる弱者たちに光を当てて、物語を描き続けてきた。最新作「ANORA アノーラ」は、ニューヨークのブルックリンでストリップダンサーをしながら暮らすロシア系アメリカ人・アノーラ(マイキー・マディソン)のシンデレラストーリーと、その先を描く物語だ。2月28日の日本公開直後、第97回アカデミー賞で5部門受賞という最高のお土産を携えて3度目の来日を果たしたベイカー監督に、単独インタビューを行った。

※本インタビューでは物語の結末に触れています。未見の方はご注意ください。

アカデミー賞を受賞して今思うこと

アカデミー賞の数カ月前、「ANORA アノーラ」は第77回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した。「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」や「バービー」などの脚本・監督作でジェンダーロールについての価値観をアップデートし続けるグレタ・ガーウィグが審査委員長なので驚きはなかったが、高齢白人男性が多数を占める投票者たちが、ショーン・ベイカーにオスカーを与えたことはうれしいサプライズだった。こちらの勝手な戸惑いを踏まえて「オスカーを欲しいと思ったことはありますか?」と質問すると、ベイカー監督は「これは今まで一度も話したことがないのですが……」と切り出した。

「今、思い出しました。ニューヨーク大学の入学試験でエッセイの課題があり、私は自分がオスカーを受賞した設定でスピーチを書いて提出したんです。つまり質問に対する答えは『イエス』です。その後、私はインディーズの映画作家としてのキャリアを歩み始めたので、私が作っていたタイプの映画ではオスカー受賞は難しいのかなと思っていましたが、こうしてオスカーは私たちのところに来てくれました。あのエッセイ、探し出さなくては(笑)」(ショーン・ベイカー、以下同)。

やはり自分とは縁遠い賞として認識していたようだが、「ANORA アノーラ」は6部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演女優賞(マイキー・マディソン)、脚本賞、編集賞の5部門でオスカーを獲得した。逃した部門は助演男優賞(ユーリー・ボリソフ)のみという高打率だ。最多ノミネートの「エミリア・ペレス」が、主演女優のSNSにおける過去の発言が問題視されたことで賞レースから脱落したという見立てもあるが、ベイカー監督はアカデミー賞が「ANORA アノーラ」を歓迎したことをどう分析しているのだろうか。

「ここ数日間、私たちはそれを分析しています。そこに数式があるならば、また受賞を狙うために知っておきたいので(笑)。まだ分析は終わっていませんが、潮目が大きく変わったとは思います。ご存知の通りつい最近、投票権を持つアカデミー会員に多くの若い会員が加わりました。その影響もあるのかなと思います。そしておそらく昨今の観客が、映画に、エンターテインメントに求めるものが変わってきている。この作品にどのような要素があったのかというと、現代的なテーマを、今現在起きていることのように描いてはいますが、作り方としてはクラシカルな手法をとっている。それがひとつ功を奏したのかなと思います。特殊効果を使わず、フィルムで撮っている。1970〜80年代の映画に大きな影響とインスピレーションを受けている映画なので、観客に『ああ、こういう映画、昔あったな』と思い出させることができ、観客はこういう映画をもっと見たいと思うのだと思います」。

「お茶を濁すような描写はしたくなかった」

ベイカー監督は、70年代の映画からスタイルと感受性において影響を受けていると発言している。ハリウッドのニュー・シネマだけでなく、同時期のイタリアやスペイン、日本の映画にも。ベイカー監督が主演のマイキー・マディソンに、梶芽衣子主演の「女囚701号 さそり」を参考資料として渡したというエピソードから分かるように、本作における性描写やアクションシーンはストレートでパワフル、そしてエンターテイニングだ。今回の「ANORA アノーラ」にそのエッセンスを採用した理由とは。

「今回のテーマを描くにあたり、お茶を濁すような描写はしたくなかったので、70〜80年代のスタイルを採る必要がありました。『こんなふうに描いたらちょっと反感を買ってしまうだろうか?』という心配をすることなく、真正面から描きたかったんです。最近は映画、そしておそらくメディア自体がとても安全で穏やかになってしまっていて、『誰かのトリガーになりそうだからこういう表現は避けて、もっと優しくマイルドに描こう』という傾向がありますが、私はそういう流れに食傷気味です。いい意味で挑発的なストーリーテリングは、決してヘイトを込めたものではなく、誰かが気分を害することがあっても、リアルなストーリーをリアルに語ることが大事だと思っているので、今回のようなアプローチになりました。『G-rated(一般視聴者向け/全年齢対象)でいこう』というマインドセットにはもう飽き飽きです」。

セックスワーカーに関する映画を作る理由

「ANORA アノーラ」の主人公は、ロシアにルーツを持つアメリカ人女性のアノーラだ。ニューヨークのブルックリンに暮らす彼女は、ストリップダンサーを生業としている。ベイカー監督は、孤独な老婦人と交流する若いポルノ女優(「チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密」)、トランスジェンダーの娼婦(「タンジェリン」)、貧困に追い込まれて売春を始めるシングルマザー(「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」)、落ちぶれた元ポルノスター(「レッド・ロケット」)など、社会の片隅にいるセックスワーカーの人生にフォーカスを当てて物語を生み出してきた。この題材がフィルモグラフィーの半分を占めるとなると、個人的に相当強い思い入れがあるのではないか……? とどうしても思ってしまう。

「正直に言うと、セックスワーカーに関する映画を5本連続で制作することを望んでいたわけではありません。作品を撮っていく中で、彼らの世界をずいぶん時間をかけて広範囲にわたりリサーチしてきたので、1つの映画が有機的に次の映画につながっていった結果、5本の映画になりました。そうは言っても私の意図は、最初に『チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密』を作ったときから変わっていません。この職業に対する偏見はフェアではないという、私のリアクションが映画になっていると言えます。私の意図は、これらのキャラクターに人間味を持たせ、普遍的なテーマにおいて彼らに当てはまる物語を作ること。それを少しずつでも実現したいと思っています」。

「タンジェリン」で来日した際のインタビューで、ベイカー監督は筆者に「まだ語られていない物語を語りたい」とコメントした。今回彼は、ニューヨークの、ロシア系やウクライナ系の住民が多く住むリトル・オデッサと呼ばれるエリアを舞台に、ストリップダンサーのアノーラが孤軍奮闘する物語を生み出した。どんな目にあっても屈することなく、心身ともに強靭なアノーラの勇姿に「いいぞ!」と拍手喝采しながら見ていたら、ラストシーンで彼女が初めて子どものように泣きじゃくったときに、強くなければ生き抜けなかった彼女の半生が伝わってきて号泣せずにはいられなかった。だが筆者は、アノーラがロシア人男性・イゴール(「コンパートメントNo.6」のユーリー・ボリソフ!)の前でようやく自分の感情を解放できたという意味で、ラストシーンをハッピーエンドだと受け取った。片や、恋愛が成就しなかったという意味でアンハッピーエンドだと解釈したという人にも会った。ベイカー監督にそれを伝えた上で「どちらの意図で作りましたか?」と尋ねると、「そのように解釈が分かれたということが非常にうれしいです」とこの日一番の笑顔を見せた。

「なぜならば、オープンエンディング(解釈を観客に委ねる結末)にしたつもりだからです。私自身は、おそらくその中間にいると思います。彼女の人生は明らかに不当に扱われてきたという意味で悲劇的ですが、最後のシーンは一人の人間と人間が真につながった瞬間だと思っているので、私はそこに希望を見いだしています」。

本作のイゴールは、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」でウィレム・デフォーが演じたモーテルの管理人・ボビーにも重なる、主人公である女性を利用も搾取もしない、守護天使のような存在だ。それはそのまま、世界の片隅にいる弱者に対するショーン・ベイカーのスタンスに重なって見えてくる。

「『あの2人を自分の分身だと思っているでしょ』というツイートはよく見かけました(笑)。私はまったくそんなつもりはなくて、あくまでもストーリーの中で観客が最も共感できる、ニュートラルで倫理基準となるキャラクターとして置きました。『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』や『ANORA アノーラ』を見て、『主人公は私だ』と思う人は決して多くないと思うんです。ボビーやイゴールは、そういう観客が物語に入り込むための入り口になってくれるキャラクターであり、彼らの主人公に対する感情を通して、観客は主人公とのつながりを感じると思っています」。

「配信のための作品は、絶対に作りません」

インディーズの映画作家として彼が作るものは、ストーリーやキャラクター、設定は変わっても、その根底に流れるものも、世界に対する彼の眼差しも一貫している。だが、カンヌとアカデミー賞を受賞したことで環境はどうしたって変わるだろう。まず、企画のオファーはたくさん届いているのか? そして、アカデミー賞のスピーチで映画館に対する愛を語っていたベイカー監督が、配信作品を手掛ける可能性は?

「最初の質問への答えとしては、意外とオファーは来ていません。私は自分がインディーズの映画作家であり、自分で脚本を書いて、企画して、プロデューサーも務める監督であるということを声高に言ってきたからか、オファーしても断られると思われているのかもしれません(笑)。もちろん少しはオファーをいただいていて、それはすごくうれしいオファーであったりもします。これからの映画作りの話をすると、パルムドールの受賞と『ANORA アノーラ』の成功により、我々は、我々が作りたい映画を、我々が作りたい方法で作り続けることができるんだ、という自信になりました。なので、今までのやり方を変えるつもりはありません。そして配信のための作品は、絶対に作りません。映画作家たちは劇場で観るための作品を作っているし、少なくとも私は劇場で観るという観賞の形態が、映画にとってベストだと思っています。その価値観は今後も変わりません。劇場公開から6カ月後に配信されて、ホームエンターテインメントとして観られるという副次的な楽しみ方はされても構いません。でも私は映画館で上映するための映画を作りたいし、劇場ならではの共同体験を提供したいと思っているので、その思いをリスペクトしてくれる配給会社とだけ組みたいと思っています」。

PHOTOS:TAKUROH TOYAMA

「ANORA アノーラ」

NYでストリップダンサーをしながら暮らす“アニー”ことアノーラは、職場のクラブでロシア人の御曹司、イヴァンと出会う。彼がロシアに帰るまでの7日間、1万5000ドルで“契約彼女”になったアニー。パーティーにショッピング、贅沢三昧の日々を過ごした2人は休暇の締めくくりにラスベガスの教会で衝動的に結婚。幸せ絶頂の2人だったが、息子が娼婦と結婚したと噂を聞いたロシアの両親は猛反対。結婚を阻止すべく、屈強な男たちを息子の邸宅へと送り込む。ほどなくして、イヴァンの両親がロシアから到着。空から舞い降りてきた厳しい現実を前に、アニーの物語の第2章が幕を開ける――。

■「ANORA アノーラ」
全国公開中
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー 
製作:ショーン・ベイカー、アレックス・ココ、サマンサ・クァン
出演:マイキー・マディソン、マーク・エイデルシュテイン、ユーリー・ボリソフ、カレン・カラグリアン、ヴァチェ・トヴマシアン
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
2024 年/アメリカ/カラー/シネスコ/5.1ch/139分/英語・ロシア語/R18+  
©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
https://www.anora.jp

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始動から1年が経った「サシコギャルズ」 ブランドではなくプロジェクトとした真意

PROFILE: 藤原新/ムーンショット代表

藤原新/ムーンショット代表
PROFILE: (ふじわら・あらた)1978年8月16日、東京都新宿区生まれ。法政大学法学部卒業。法律に携わる仕事をしながら2010年に自身のブランド「イッシン(1sin)」をスタート。2012年4月に「デザインによる社会的課題の解決」を理念にムーンショット(MOONSHOT)を設立。16年に石橋真一郎をデザイナーとした「クオン(KUON)」を立ち上げ。ニューヨーク・ファッション・ウィークなどに参加。24年3月から「サシコギャルズ」を始動し、運営に携わる。

始動から1年が経った「サシコギャルズ(SASHIKO GALS)」は、日本だけでなく海外メディアにも注目され、ジャスティン・ティンバーレイク(Justin Timberlake)から刺し子スニーカーがオーダーされるまでになった。2024年3月11日、存続の危機に陥っていた復興支援事業「大槌刺し子(大槌復興刺し子プロジェクト)」は、「サシコギャルズ」として新たにスタートした。発起人は、「クオン(KUON)」を運営するムーンショット(MOONSHOT)代表の藤原新。クラウドファンディング開始直後にインタビューを行った際、藤原は「ブランド化することが大事」と語っていた。しかし、今は違う思いを抱いている。なぜ世界に認知されたのか、どのような事業がビジネスとして育ってきたのか。立ち上げから現在に至るまで「サシコギャルズ」に何が起きたのか、藤原に聞いた。

「サシコギャルズ」が海を超えて知られるようになった背景

――始動から1年を経て、現在「サシコギャルズ」は「ハイスノバイエティ(HIGHSNOBIETY)」や「エッセンス(SSENSE)」など海外のメディアや企業からも取材されています。海外から注目されるようになったきっかけは?

藤原新ムーンショット代表(以下、藤原):ニューヨークを拠点に、ストリートウエアを中心としたカルチャーを発信する「ヒドゥン ニューヨーク(HIDDEN NY)」が、インスタグラムで「サシコギャルズ」のポストを紹介したことがきっかけだと思います。「ヒドゥン ニューヨーク」からの注目を受け、昨年末から今年にかけて反応が急速に広がり、関心が高まったように感じます。

――海外にまで反響が広がった要因として、刺し子スニーカーのインパクトが大きかったのでしょうか?

藤原:スニーカーは多くの人たちが興味ある分野です。トレンドの写鏡ともいえるアイテムに、日本の伝統技術である刺し子でカスタムしたことは、やはりインパクトが大きかったのではないでしょうか。でも、まずはストーリーです。

――ストーリーとは?

藤原:海外の方たちは、刺し子のスニーカーに興味を持ち、その背景を知ると驚きます。震災を経験した40代から80代の女性たちが手がけていることを知ると、「こんなママたちが?」と驚くんです。ハイプなスニーカーに超絶技巧の刺し子が施され、それを作っているのが彼女たちという意外性が、強いストーリーとなって大きな反響を生んだのだと思います。

――現在、どのような人たちに支持されていますか?

藤原:普通はブランドの支持層は1つだと思いますが、「サシコギャルズ」に関しては、3つの人たちに支持されています。まずはスニーカーなどハイプが好きな人たち。この人たちがおそらく35から40%ほど。同じ割合で、クラフトを好きな人たちが関心を持ってくれています。

――残りの20%から30%は?

藤原:いわゆるソーシャルビジネスやサステナビリティ、SDGsに関心のある人たちが占めています。もちろん、それらがクロスオーバーする層も多くいます。支持母体とまでは言えませんが、多様な層に受け入れられたことが、広がりを生んだ背景の1つではないでしょうか。

――さまざまな人たちが関心を持ち、そこからさらに枝分わかれして広がっていったんですね。

藤原:もう1つの大きな要因は、日本文化へのリスペクトです。海外の人たちは純粋に日本文化が大好きで、刺し子という伝統技術がスニーカーやぬいぐるみに取り入れられたことに、おもしろさを感じているのは間違いありません。ただ、それ以上に日本をもっと知りたい、尊敬しているという気持ちが想像以上に強いです。

――国内ではNHKにも取材されましたが、国内外から注目されている今の状況に職人のみなさんはどんな反応を?

藤原:素直に喜んでいます。ただ、全員が自分たちの状況を完全に把握しているわけではなく、「インスタを見ていると、外国の方からたくさんのコメントがあるな」と感じる職人もいれば、「サシコギャルズ」のマネジメントを担う職人のように、そうした状況を把握している人もいます。職人それぞれが様々に感じながら、多くのメディアに取材される機会が増え、自分たちの仕事が多くの人に喜ばれていることを実感して嬉しく思っていますし、驚いていますね。

――インスタグラム以外で、認知を広げるために行ったアプローチがあれば教えてください。特に効果的だった方法はなんでしょうか?

藤原:現在の職人の人数では刺し子スニーカーをたくさん作ることができないという事情もあったのですが、「ヒドゥン ニューヨーク」などが取り上げてくれた以降は、必要以上に情報を開示しませんでした。これが正しいのかはかわかりませんが、みなさんが興味をもってもらえる状態に維持していた面はあるかもしれません。

――情報が少ないとなると、自分でもどんどん調べたくなります。

藤原:そこで、メディアのみなさんが制作した記事が重要でした。綺麗な写真を撮影し、記事にしていただいたことで、興味を持ってくれた人たちがもっと詳しく知ることができる。そして、震災から始まったストーリーが明らかになります。

――自ら調べて知ることで、さらに興味が強くなります。

藤原:そうだと思います。同時に、フィジカルで会った人に熱意を持って語る。これがやっぱり大事なんですよね。関心を持ってもらえると話題にしてくれて、人から人へとさらに広がっていきます。すごくシンプルなことですが、直接伝えることの大切さを実感しました。

これからの柱になっていく二つの事業

――これまで取り組んできた国内外のプロジェクトで、特に印象的なものやエピソードは?

藤原:「ザ・コンランショップ(THE CONRAN SHOP)」の日本上陸30周年を記念したプロジェクトがおもしろかったです。 「ザ・コンランショップ」は、イギリス発祥の素晴らしい家具やグッズを扱う、世界最高峰のライフスタイルショップだと僕は思っています。そのプロジェクトの一つとして、イタリアの名作ソファ「マレンコ(MARENCO)」に「サシコギャルズ」が刺し子を加え、数量限定の受注生産で展開しました。さらに、ツールで有名な「Yチェア」にも職人たちの刺し子を施し、「ザ・コンランショップ」各店舗で販売するプロジェクトも実施しました。どちらも非常に面白い取り組みでしたね。

――刺し子スニーカーを主役にしたプロジェクトはありましたか?

藤原:昨年10月に香港で、「ニューバランス(NEW BALANCE)」のサポートで開催したエキシビションも印象に残っています。初日に300〜400人ほどの人たちが来られて、みなさんが美術館のように展示された刺し子スニーカーを写真に撮ってくれ、オーダーが一瞬で埋まり抽選になったんです。その光景には、なにか熱狂のようなものを感じました。

――現在、「サシコギャルズ」の事業の柱は何でしょうか?やはりスニーカーのプロジェクトでしょうか?

藤原:「サシコギャルズ」を始めてからまだ1年しか経っていないので、ビジネスの観点から言ったらまだ先行投資の部類だと思います。プロダクト部門、もしくはサービス部門といったらいいのでしょうか、刺し子のカスタムサービスを通じた企業やブランドとのコラボレーション事業が一つの軸です。そしてもう一つの軸が文化発信事業と呼べるもので、刺し子というこの素晴らしい伝統技術を、企業やブランドと一緒にチームアップをして発信する事業になります。

――文化発信事業で現在取り組まれていることは?

藤原:詳細をまだお伝えすることはできないのですが、盛岡の歴史ある企業と、2026年に向けて東北を盛り上げるプロジェクトを進行中です。いわゆる「モノを作らない」という事業は、「サシコギャルズ」にとってこれから重要になってくるだろうと考えています。

――1年前に計画されたビジネスプランがあると思いますが、この1年で想定外だった出来事や驚いたことは?

藤原:もう驚きの連続ですよね。「想定の何倍ですか?」と聞かれたら「10倍」と答えます。現在、「サシコギャルズ」のインスタグラムはフォロワーが約6万7000人ですが、当初は5000人ぐらいになれば、すごいと考えていましたから。まさかジャスティン・ティンバーレイクさんから、刺し子スニーカーのオーダーが来るとは想像もしませんでした(笑)。

現在の課題を解決し、ブランドではなくプロジェクトに

――1年間進めてきた中で、現在課題と感じるものは何でしょうか?その課題に対してどんな解決策を考えていますか?

藤原:課題としては組織です。「サシコギャルズ」はもともと震災を契機に始まったもので、組織だって設立されたものではありません。今からビジネスとして担っていくには、組織運営に力を入れなくてはと考えています。特に大切なことは担い手のところです。

――人材の育成ということですか?

藤原:現在、職人は15人いますが、これがたとえば30人にまで増えれば実現できることも大きく変わってきます。担い手のところをちゃんと整備していきたいと考えていて、その一端が釜石商工高校との取り組みです。

――刺し子を体験した高校生たちはどんな反応を?

藤原:「就職が決まっていなかったら、やってみたかった」、「将来、刺し子をやりたい」と言う子たちもいましたし、学校からは来年以降も続けてほしいと言われています。「サシコギャルズ」に入りたいという人たちも多くて、担い手を育成しながら地場の人たちとも繋がっていきたいですね。今、全国の小学校で朝の5分間読書というものをやっていますが、たとえば朝の5分間に刺し子で手を動かす授業が実現できたら、すごく素敵なことなんじゃないかと思います。

――「サシコギャルズに入りたい」という声は、地元の大槌町から?

藤原:いえ、日本全国からです。ここで、「大槌刺し子」から「サシコギャルズ」に名前を変えたことが初めて活きてくるんです。僕らは大槌だけでやっているわけではありません。刺し子は大槌だけのものではないですし、隣町の釜石市の人たちも参加できるし、東京の人たちも「サシコギャルズ」には入れます。地域を限定しない「サシコギャルズ」という名前にしたことで、全国各地、様々な場所に組織として展開できます。

――広がりの可能性を考えたネーミングだったということですか?

藤原:やはり応援の幅を広げてもらうことは絶対大事だと思うんですよ。

――今後の新しいプロジェクト、新たに計画している刺し子アイテムは?

藤原:直近では、3月中に「東京クリエイティブサロン」でイベントを開催します。このイベントは、地域や民間企業と連携し、ファッションやアートなどのクリエイティブを発信するものです。今回は丸の内エリアで刺し子スニーカーの展示を行うほか、「サシコギャルズ」が実際に来場し、刺し子のワークショップも開催します。

――アイテム面での新プロジェクトはいかがですか?

藤原:当社のブランド「クオン」と「サシコギャルズ」初めての協業ライン「クオン アトリエ バイ エスジー(KUON Atelier by SG)」を3月15日に発表します。東日本大震災から14年間にわたり、「クオン」は大槌刺し子と共にモノづくりに取り組んできました。「サシコギャルズ」がスタートしてちょうど1年の節目になるこのタイミングで、「クオン」との正式な協業ラインを立ち上げられることは、1年間の活動が形になった証でもあり、感慨深いです。

――最後に、前回の取材と同じ質問をさせてください。常に新しさを求めるファッションと伝統技術の大槌刺し子を結びつけ、現代のプロダクトとして制作する際に重要視していることはなんですか?「サシコギャルズ」の始動から1年が経過し、この質問に対して今ならどう答えますか?

藤原:まだ1年しか経ってないという気持ちが正直あります。1年ぐらいで何かを成し遂げたことはないと思いますし、1年前とそんなに変わってないと思う一方で、僕らはやっぱり「モノを売るビジネス」ではないなと。

――1年前は「ブランド化することが大事」とおっしゃっていましたが、活動していく中で新しい発見があったのでしょうか?

藤原:ブランドといえば自分たちでモノを作る存在ですが、「サシコギャルズ」はやはり“人”が中心のプロジェクトだと思うようになりました。モノを作る人やブランドをリスペクトし、「サシコギャルズ」が持つ唯一無二のストーリーと、刺し子という素晴らしい伝統技術の力によって、依頼をくださった企業やブランド、個人の価値を高めていくこと。これこそが、僕たちの役割ではないかと。当社には、「クオン」のように服づくりを行うブランドもあり、モノづくりそのものを大切に思っています。「サシコギャルズ」は、そうしたブランドやクリエイターと共に、新しい価値を生み出していきたいです。

PHOTOS:DAIKI ENDO

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橋本愛、表現者としての覚悟——「自分のままで生きる」 現在地と未来への視線

PROFILE: 橋本愛/俳優

PROFILE: (はしもと・あい)1996年1月12日生まれ、熊本県出身。映画「告白」(2010)に出演し注目を浴び、映画「桐島、部活やめるってよ」(12)では、第36回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。連続テレビ小説「あまちゃん」(13)でも話題となる。主な出演作品は、映画「熱のあとに」(24)、映画「劇場版 アナウンサーたちの戦争」(24)、映画「私にふさわしいホテル」(24)など。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(25)にも出演。独自の感性を生かしてファッション、コラム、書評などの連載を持ち幅広く活躍中。

今回のフォトシューティングでカメラの前に立った橋本愛は、フォトグラファーがシャッターを1回切ると、小走りでモニターの前に移動して一度だけチェックした。彼女が知りたかったのはおそらく、フォトグラファーがどのような世界観を持っているか、どのようなライティングやフレーミングをするか。その後はカメラの前で次々とポージングと表情を変えて、我々ギャラリーを魅了した。続けて行われたインタビューでは、主演映画「早乙女カナコの場合は」について、のんが主演した「私にふさわしいホテル」とのコラボレーションについて、これまでの10年とこれからの10年について、筆者が投げる質問に対して最適な言葉を探りながら感情を乗せて答えてくれた。写真撮影における身体表現と、インタビューにおける言語表現の双方において、この日の彼女の仕事ぶりはまさしくプロフェッショナルな表現者だった。以下のインタビューを読んでいただければ、その原動力が何であるのかを、きっとお分かりいただけるだろう。

「男性社会に対して女性がどう立ち向かっていくか」

——映画「早乙女カナコの場合は」に出演した経緯をお聞かせください。

橋本愛(以下、橋本):オファーをいただいたのはもう5年くらい前になりますが、“女性らしさ”というジェンダーロールにとらわれない、むしろとらわれているからこそ、そこから脱却しようとするカナコの闘志にすごく共感したことを覚えています。(原作者の)柚木麻子さんのファンだったこともあり、やりたいなと思いました。

——カナコが大学に入学した18歳から28歳までの10年間を演じる上で、大切にしたものとは。

橋本:カナコが忌避する“女性らしさ”って何だろう? と考えました。そして、カナコが体現する“男性性を感じるような振る舞い”みたいなものを、あまりステレオタイプな表現にしたくないなという気持ちもどこかにありました。大人になってからは、服装や雰囲気などの見た目が自分の求めていた強い女性像に変化していっても、中身が全く変わらないというところを意識しました。未熟なまま、子どものまま大人になっているというか、大人の“ガワ”をかぶっている感じというか。

——その不器用さや、サイズの合わない服を着ている感じのカナコがすごく好人物でしたし、かわいかったです。

橋本:うれしいです。

——橋本さんのインタビューでの発言や、ご自分で書かれる文章からは、自分自身がこの社会、もっと大きく言うと世界の一員だという自覚と責任が伝わってきます。自分が参加する作品が、それに触れる人にとって何らかのポジティブな影響を及ぼしたらいいなという思いがあるように見えるのですが、今回はいかがでしたか?

橋本:今回私の中には、男社会に対して女性がどう立ち向かっていくか、というテーマがありました。同じように、男社会というものが男性全員にとって生きやすい社会じゃないよねというところを、ある男性キャラクターを通して可視化させることができてすごくうれしかったですし、私にとってはそこが肝でした。矢崎(仁司)監督はそれを作品のメインテーマのように押し出すわけではなく、あくまで自然に、とおっしゃっていたので、心の内にずっと忍ばせながら演じることが個人的なテーマでした。

中川大志やのんとの演技

——共演者の方から得たもの、感じたことをお聞きしたいです。

橋本:ご一緒することが多かった(長津田役の)中川大志さんは、監督と密なやりとりを現場でされていて、それに背中を押される気持ちになりました。私も作品に対して「ちゃんと意見を言おう」といつも思っているけれど、毎回勇気を振り絞らないとなかなか言葉にできなくて。中川さんは割と世間話をするかのような温度感で、「ここ、こう思うんですよねー」というやりとりをされていて、「自分ももっと気負わずにやっていってもいいのかな」と思わせてくれました。お芝居も、「時間をかけて準備してきたんだろうな」というのがすごく伝わってきて。私も時間をかけないと演じられないタイプなので、そういう意味でも同志のように感じられる、心強い存在でした。

——本作にはのんさんが売れっ子作家役で2シーン出演し、のんさん主演の「私にふさわしいホテル」には、橋本さんがカリスマ書店員役で1シーン出演しています。この連動についてどう取り組みましたか?

橋本:当初は、柚木さんの原作をのんちゃんと私(の主演)でそれぞれ映画化して、バトンを渡すようなリレー形式でやろうというお話でした。それは面白い企画だし、柚木さんの作品が大好きですし、(「あまちゃん」から)10年以上が経った今ものんちゃんとの関係性によって何かが生まれるということが本当に奇跡のようで、すごくありがたいなと思いました。その後、カメオ出演みたいな形でお互いの作品に出演することが決まった記憶があって。それは遊び心として捉えていたし、のんちゃんと現場で再会できることもとてもうれしかったです。

——現場はどんな雰囲気で、橋本さんはどんな気分でしたか?

橋本:不思議な気分になりました(笑)。普通に考えたら「何度か共演したことのある共演者」で終わるはずが、周りの目線によって「何か特別な関係なのかも私たち!」という感覚に陥るというか。常にどういう会話をするのか、どういう空気感なのかを見られている感じがしました(笑)。そんなことはないかもしれないけど、「そうかも」という自意識が働くというか。

——お二人が一緒にいたら観察せずにはいられなくなる気持ち、分かります……!

橋本:そんな人はのんちゃん以外にいないので。作品(「あまちゃん」)の影響が本当に大きかったし、そんな作品に出会えることも一生に一度あるかないかだから、面白いな、うれしいな、という気分です。でも本人たちは毎回恥ずかしいというか、照れるというか。お互い(手で額の汗を拭うしぐさで)「汗々(あせあせ)」みたいな(笑)。

——(笑)。お二人は10年以上の関係になりますが、のんさんのお芝居に変化は感じましたか?

橋本:「私にふさわしいホテル」の撮影からこの作品にかけて、すごく変化を感じました。うまく説明できないんですけど、1秒間の24コマ分の感情が見えるというか、すごく細かく、高い解像度で刻まれているような気がしました。のんちゃんとのお芝居は私にとって、大きな感情やパッションがダイレクトに伝わってくるような経験だったんですけど、それは変わらないままに感情の解像度が高まっている気がして、面白いなと思いました。

10年を振り返って

——この映画の中で、カナコの先輩の「10年後の自分を想像する」という台詞が印象的でした。橋本さんは、今の自分を10年前に想像していましたか?

橋本:19歳の頃ですか? 全然です(笑)。

——当時の自分が今の自分を見たらどう思うと思いますか?

橋本:10代の頃は本当にカオスだったので、今の私を見たら「あ、整ったんだな」「整理整頓されたんだな」と思うかもしれないですね。

——整えることができたのはなぜでしょうか。

橋本:言葉をどんどん知って、考えて、ちゃんと行動に移してきたというのはあると思います。あと、あの……ちょっと重い話になるかもしれないですけど、当時は「人を愛する」ということがうまくできなかったんです。だから「こんなに愛せるようになったんだね」と、自分を祝福してあげるべきことかなと思います。

——人をうまく愛せなかったというのは、愛し方を間違っていた?

橋本:そうです。愛情はあったんですけど、人の気持ちが分からなくて、自分の気持ちにばかりフォーカスしてしまっていたんです。それに対して割と無自覚だったので、大きく言うと自分のことをずっと「疫病神」だと思っていましたし、「なんで生まれてきたんだろう」とも思っていました。自分が愛されていなかったわけではないけれど、自分の求める愛が手に入っていない実感がありました。そこで「愛されていないから愛し方が分からない」のではなくて、「愛されていないからこそ、(相手が)何が欲しいかが分かる。それをやればいいんだ」と発想を転換させてから変わりました。

——発想を転換するきっかけはありましたか?

橋本:本や映画には本当に助けられましたが、「エンドレス・ポエトリー」(2016年/アレハンドロ・ホドロフスキー監督)で触れた「与えられなかったからこそ与えるべきものが分かる」という思想は青天の霹靂でした。(息を呑み)「すごい!」と。そこから発想を転換させる癖がついていって、苦境が訪れてもそこから何を得られるのかとポジティブに考えられるようになり、すごく生きやすくなった気がします。

——お仕事にもポジティブな影響がありそうです。

橋本:もちろんあります。ものすごく。このお仕事は全てがプライベートと地続きで切り分けられないので、仕事にいい働きしかしていないと思います。逆にちょっとポジティブになり過ぎて、世界を(俯瞰で)見渡せなくなった瞬間もあったから、今はそれすらコントロールするように頑張っている感じです。

——ドラスティックな変化をした一方で、この10年間、ぶれずに大切にしてきたものはありますか?

橋本:それこそ「愛すること」はずっとテーマにやってきたけれど、それ以外はぶれまくってます(笑)。

海外への意欲と覚悟

——橋本さんはこの映画に描かれている“青春”や“大人”という言葉に対してどんなイメージを持たれていますか? 

橋本:大人に関しては、“責任”と“自由”だと思っています。青春に対しては、私は割りと“喪失”というイメージがすごく強くて。幼い頃から仕事をしてきたことでそういう時間を存分に過ごせなかったことは、一生涯の損失だと思ってしまっているから、その痛みもあります。でもね、大人になっても青春ってできるんですよね。なので、5年くらい前から友人と、毎年一度は旅行に行くようにして、自分で青春を新しく作っていっています。

——旅行=冒険=青春ですか?

橋本:旅行じゃなくてもいいんですけど、非日常や、密度の高い時間を過ごしていれば、それは青春になると思います。 でも、そういう意識で密度の高い日々を過ごすと全部青春になってしまって、逆にちょっと輝きで重たくなる気がして(笑)。私は割と、日々は穏やかにスカスカに過ごしたい人だから(笑)、年に一度のその旅行がメリハリになっています。あえて過ぎ去ってほしくない時間を自分で作って、青春を一個一個手作りしていく感覚です。

——これからの10年に対しては、どんなイメージを持っていますか?

橋本:39歳まで……(と少し考えてから)、基本的にカナコと同じように、将来設計しないタイプなんです。計画的に生きることが本当に苦手で。それでも漠然と、「日本以外の国でお仕事をする」というイメージは抱いています。そこに照準を合わせたら、全てのことに対してスケールが大きくなっていくだろうなと感じてきています。最終的に世界に行けなくても、そういうふうに生きているだけで全てがその方向に向かって進んでいくから、それは利用していいと思いますし、「アカデミー賞で登壇する」くらいのことを考えながら生きると楽しいですよね(笑)。

——いいですね。海外に意識を向け始めたきっかけがあったのでしょうか。

橋本:(24年の第37回)東京国際映画祭で、トニー・レオンさん、キアラ・マストロヤンニさん、ジョニー・トーさん、エニェディ・イルディコーさんといった錚々たる方々と(コンペティション部門の審査委員として)ご一緒したり、海外でドラマの撮影をしたりといった経験がすごく増えてきて、「あ、これ、たぶんそのままいくな」と思いました。自分が嫌だと思ったら止まるけど、行きたいからたぶんこのまま進んでいくと思うので、そこに対してちゃんと準備しなければと思っています。一番(必要なもの)はもちろん語学ですけど、それ以外でも、世界の人たちとの共通言語としてたくさんの作品を知らないといけないし、人権の問題や、社会や世界情勢などいろいろな問題を常にキャッチして生きていかないと会話ができないので、そういうこともずっと意識しています。

——海外ドラマの撮影現場は、日本と違いましたか?

橋本:全く違いました。最高でした。朝食の時間が確実に確保されていて、全部温かいごはんが出てくるんです。1日の最大労働時間が決まっていて、それ以上働いたらちゃんとその対価がみんなに支払われますし。日本との差を感じてちょっと落ち込みながらも、現状を見据えて少しずつでも進んでいかないとな、と思うきっかけになりました。

——語学の勉強は楽しいですか?

橋本:楽しいです。暗記力は全然ないですけど(笑)、言葉が好きなので。発音も楽しいです。ただ、あまり英語を勉強してこなかったので、中学の教科書英語から勉強しています。まだまだなんですけど、まずはやり続けることが大事かなと。

——お芝居以外でやりたいことはありますか?

橋本:たくさんあります! 歌と、踊りと。踊りはコンテンポラリー、ヒップホップ、日本舞踊と、いろいろな習い事に手を出していて。基本的に体を使うことが好きなんです。歌も楽器として体を使うし。そういう身体表現がすごく好きで、それはお芝居にも生かされると思っています。他の表現方法としても、何かクリエイティブなことをやっていけたらいいなあと思います。

——私は橋本さんが小説を発表する日を勝手に待っております。

橋本:えー!? (周りからもそう)言われたことはありますが、自分から物語は……あ! でも、映画を作りたいなとは思っています。なぜかというと、「人が裸にならなくても、キスしなくても、ラブシーンって撮れるよね」ということをやりたいから。「子どもも大人も誰一人として尊厳を傷つけられずに作品って作れるよね」ということを、いつか体現したいと思っています。

——関わり方のイメージは? プロデューサー、監督、それとも主演として引っ張る?

橋本:イメージはプロデューサーです。監督は場合によってはやりたいなと思っていて、主演は考えていないです。

——仕事をする上で大切にしていることはありますか。

橋本:身の回りにいる人たち、現場でご一緒するスタッフさんたちも全員ですけど、皆さんが心地よくいられるように、自分が佇まいとしてそれを体現することは常に意識しています。自分は昔から誤解されやすくて、ただ真剣にやっているだけで怒っているように見えたり、「怖い人」「冷徹な人」と思われることが多かったんです。真剣にやるときはやるんですけど、気が緩む瞬間やみんなで楽しんで面白がれる瞬間を、意識的に作っていくことが大事だなとは、前より強く思っています。

——「誤解されやすい」にもつながるかと思うのですが、橋本さんはキャリアをスタートさせた頃、広義な意味での“おじさんたち”が抱くファンタジーの容れ物にさせられていたように思うんです。

橋本:そういう時期もありました。

——でもここ数年は、今回のようにリアルな女性キャラクターを演じることが増えてきていますし、インタビューや「私の読書日記」(週刊文春)では自分の言葉で、深い部分を発信しています。この変化の背景には、橋本さんのものすごく強い意志があったのではないかなと思うのですが。

橋本:カナコが男社会に迎合しようとして、自分の中の女性らしさを排除しようとして生きていったように、私も自分に求められている「こうあるべき」というイメージに迎合しようと努力していた時期がありました。すぐに気付けなかったから、だいぶ長かったです。男社会に「なじまなきゃ」って。言葉を選ばずに言うと、おじさんたちと会話できるように頑張りました(苦笑)。中学生でも大人として扱われてしまうし、対価をもらっている労働者だから、責任を持ってやらなければいけない。でも、その意識も欠如していたし、自分は未熟だと思っていたから、身の回りの世界観に迎合しようと頑張っていたんです。すると、途中で無理がきてしまったし、それによって失われたものがたくさんありました。それは一番自分の大事な部分、それこそ“尊厳”といっていいところが失われた経験でした。しかも自分でそれに気付けなかったんです。映画は自分の全てを捧げるものだと思っていたから、そのときは失って当然だと思っていたんです。だけど「そうじゃない」と気づかせてくれた出会いもあって、徐々に矯正していったというか。「あ、私は私のままで生きていい」というかむしろ、「私のままで生きないと駄目だ」ということをやってきました。

——お話ししてくれてありがとうございます。ちなみに、ここ数年の作品選びや演じたいものに、自分の意思は反映されていますか?

橋本:それは今、一番改めているところなんです。脚本が出来上がっていないときもあるし、企画書だけでは見えないところもたくさんあるので、以前よりも本当に慎重に考えるようにしています。

PHOTOS:TAKAHIRO OTSUJI
STYLING:NAOMI SHIMIZU
HAIR&MAKEUP:ERI AKAMATSU(ESPER)

映画「早乙女カナコの場合は」

映画「早乙女カナコの場合は」
3月14日から全国公開
出演:橋本愛 
中川大志 山田杏奈
根矢涼香 久保田紗友 平井亜門/吉岡睦雄 草野康太
臼田あさ美
中村蒼
監督:矢崎仁司
原作:柚木麻子「早稲女、女、男」(祥伝社文庫刊)
脚本:朝西真砂 知愛 
音楽:田中拓人 
企画・プロデューサー:登山里紗 
配給: 日活/KDDI 
制作:SS工房 
企画協力:祥伝社 
2024/日本/DCP/2:1/5.1ch/119min 映倫区分:G
(C)2015 柚木麻子/祥伝社 (C)2024「早乙女カナコの場合は」製作委員会
https://www.saotomekanako-movie.com/

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「グッチ」創業者のひ孫が作るバッグ&ジュエリー「AGCF」 “新時代のラグジュアリー”を掲げ堂々上陸

PROFILE: アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者
PROFILE: 英ロンドンのキャベンディッシュ・カレッジでアートとデザイン、米ロサンゼルスのオーティス・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでファッションを学ぶ。2024年、「AGCF」を立ち上げるとともに、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店を出店した

バッグ&ジュエリーブランド「AGCF」が日本に上陸した。手掛けるのは、「グッチ(GUCCI)」の創業者であるグッチオ・グッチ(Guccio Gucci)のひ孫にあたる、アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(Alexandra Gucci Zarini)。タイムレスなデザインを特徴に掲げつつ、“新時代のラグジュアリー”をうたう。

日本では、高島屋の自主編集売り場「サロンルシック」(日本橋店、玉川店、横浜店、大阪店、京都店)のみで取り扱う。小山剛史MD本部 化粧品・特選・宝飾品部バイヤーは、「『AGCF』は、私たちの求める“ネクスト・ラグジュアリーブランド”の可能性を秘めている。価格とクオリティのバランス、タイムレスなデザイン、社会的責任に対する取り組みは、日本のお客さまにも気に入ってもらえる」と期待する。ザリーニ「AGCF」創業者に、バッグやジュエリーへのこだわりやグッチ一族から受けた影響、“新時代のラグジュアリー”の本質、日本市場への洞察などを聞いた。

WWD:まずは、ブランドについて教えてほしい。

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(以下、ザリーニ):「AGCF」は、2024年春夏シーズンに始動し、同年、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店をオープンした。ビバリーヒルズに路面店を構えたのは、祖父アルド・グッチ(Aldo Gucci)の存在が大きい。祖父は1968年、「AGCF」からほど近い場所に「グッチ」を出店しており、私自身「この店を祖父に捧げられたら」という特別な思いを抱えている。バッグは15万〜45万円、ジュエリーは2万〜40万円台と幅広い価格レンジをそろえており、直近ではスカーフコレクションを発表した。今年中にはベルトやアイウエアも拡充する予定だ。

WWD:なぜバッグとアクセサリーなのか?

ザリーニ:バッグやアクセサリーは日常に溶け込むから。「希望を運ぶ」「ポジティブなメッセージを身に付ける」ものとして、女性の毎日に寄り添うブランドでありたい。

WWD:「グッチ」一族からどのような影響を受け、デザインに取り入れているか。

ザリーニ:祖父がうたっていた“時代を超越するエレガンス”は、私、そして「AGCF」の根源にある。クラシックなシルエットやニュートラルカラーなど、「AGCF」が打ち出すタイムレスなデザインは、一過性のトレンドに収まることなく、数十年後も愛され続けていることだろう。実は、祖父へのリスペクトは、ブランド名にも表れている。“AG”は、私のイニシャル、そして祖父のイニシャルから取った。“CF”は“クリエイティブ フレームワーク(Creative Framework)”の頭文字で、「AGCF」が単なるブランドではなく、“変革を推し進める組織”であることを表している。

WWD:変革とは?

ザリーニ:私たちは、パーパスドリブンなラグジュアリーブランドだと自負している。ラグジュアリーとは、単に美しいだけでなく、人を救う存在でもあるべきだ。そしてブランドは、売り上げを上げるだけでなく、社会貢献も果たすべき。現在私たちは、売り上げの20%を女性や子どもの支援に当てており、「希望」「思いやり」「団結」など前向きなメッセージを届けることに注力している。これこそが、今の時代に適応したラグジュアリーのあり方だと思う。

WWD:デザイン以外の特徴を教えてほしい。

ザリーニ:バッグは、伊・フィレンツェのタンナー、スペインの縫製工場と手を組み製作している。使用するレザーは、レザー・ワーキング・グループ(皮革業界の環境保護団体)の認定も取得済み。バッグの重さからストラップの長さ、ポケットの位置まで、とことん実用性に向き合ったモノ作りも特徴だ。ジュエリーもサステナブルな素材にこだわっており、リサイクルした貴金属とラボグロウンダイヤモンド(研究所で育てたダイヤモンド。鉱山で採掘する必要がないため環境へ与える影響が少ない)で製作している。

各アイテムにあしらった「AGCF」のシグネチャー“ユニタール・リンク(UNITA LINK)”は、団結とつながりを表している。祖父の「真のエレガンスは細部に宿る」という言葉を胸に、単に美しいだけでなく、身に付ける人にポジティブな影響を与えられるディテールにこだわっている。

WWD:日本市場をどう見ているか。

ザリーニ:日本は、伝統と革新のバランスが取れている国。タイムレスなデザインを打ち出しながら、変化を追求する「AGCF」とも相性が良いだろう。高島屋とともに、ラグジュアリー分野に革命をもたらすブランドとして地位を確立させたい。

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「グッチ」創業者のひ孫が作るバッグ&ジュエリー「AGCF」 “新時代のラグジュアリー”を掲げ堂々上陸

PROFILE: アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者
PROFILE: 英ロンドンのキャベンディッシュ・カレッジでアートとデザイン、米ロサンゼルスのオーティス・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでファッションを学ぶ。2024年、「AGCF」を立ち上げるとともに、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店を出店した

バッグ&ジュエリーブランド「AGCF」が日本に上陸した。手掛けるのは、「グッチ(GUCCI)」の創業者であるグッチオ・グッチ(Guccio Gucci)のひ孫にあたる、アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(Alexandra Gucci Zarini)。タイムレスなデザインを特徴に掲げつつ、“新時代のラグジュアリー”をうたう。

日本では、高島屋の自主編集売り場「サロンルシック」(日本橋店、玉川店、横浜店、大阪店、京都店)のみで取り扱う。小山剛史MD本部 化粧品・特選・宝飾品部バイヤーは、「『AGCF』は、私たちの求める“ネクスト・ラグジュアリーブランド”の可能性を秘めている。価格とクオリティのバランス、タイムレスなデザイン、社会的責任に対する取り組みは、日本のお客さまにも気に入ってもらえる」と期待する。ザリーニ「AGCF」創業者に、バッグやジュエリーへのこだわりやグッチ一族から受けた影響、“新時代のラグジュアリー”の本質、日本市場への洞察などを聞いた。

WWD:まずは、ブランドについて教えてほしい。

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(以下、ザリーニ):「AGCF」は、2024年春夏シーズンに始動し、同年、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店をオープンした。ビバリーヒルズに路面店を構えたのは、祖父アルド・グッチ(Aldo Gucci)の存在が大きい。祖父は1968年、「AGCF」からほど近い場所に「グッチ」を出店しており、私自身「この店を祖父に捧げられたら」という特別な思いを抱えている。バッグは15万〜45万円、ジュエリーは2万〜40万円台と幅広い価格レンジをそろえており、直近ではスカーフコレクションを発表した。今年中にはベルトやアイウエアも拡充する予定だ。

WWD:なぜバッグとアクセサリーなのか?

ザリーニ:バッグやアクセサリーは日常に溶け込むから。「希望を運ぶ」「ポジティブなメッセージを身に付ける」ものとして、女性の毎日に寄り添うブランドでありたい。

WWD:「グッチ」一族からどのような影響を受け、デザインに取り入れているか。

ザリーニ:祖父がうたっていた“時代を超越するエレガンス”は、私、そして「AGCF」の根源にある。クラシックなシルエットやニュートラルカラーなど、「AGCF」が打ち出すタイムレスなデザインは、一過性のトレンドに収まることなく、数十年後も愛され続けていることだろう。実は、祖父へのリスペクトは、ブランド名にも表れている。“AG”は、私のイニシャル、そして祖父のイニシャルから取った。“CF”は“クリエイティブ フレームワーク(Creative Framework)”の頭文字で、「AGCF」が単なるブランドではなく、“変革を推し進める組織”であることを表している。

WWD:変革とは?

ザリーニ:私たちは、パーパスドリブンなラグジュアリーブランドだと自負している。ラグジュアリーとは、単に美しいだけでなく、人を救う存在でもあるべきだ。そしてブランドは、売り上げを上げるだけでなく、社会貢献も果たすべき。現在私たちは、売り上げの20%を女性や子どもの支援に当てており、「希望」「思いやり」「団結」など前向きなメッセージを届けることに注力している。これこそが、今の時代に適応したラグジュアリーのあり方だと思う。

WWD:デザイン以外の特徴を教えてほしい。

ザリーニ:バッグは、伊・フィレンツェのタンナー、スペインの縫製工場と手を組み製作している。使用するレザーは、レザー・ワーキング・グループ(皮革業界の環境保護団体)の認定も取得済み。バッグの重さからストラップの長さ、ポケットの位置まで、とことん実用性に向き合ったモノ作りも特徴だ。ジュエリーもサステナブルな素材にこだわっており、リサイクルした貴金属とラボグロウンダイヤモンド(研究所で育てたダイヤモンド。鉱山で採掘する必要がないため環境へ与える影響が少ない)で製作している。

各アイテムにあしらった「AGCF」のシグネチャー“ユニタール・リンク(UNITA LINK)”は、団結とつながりを表している。祖父の「真のエレガンスは細部に宿る」という言葉を胸に、単に美しいだけでなく、身に付ける人にポジティブな影響を与えられるディテールにこだわっている。

WWD:日本市場をどう見ているか。

ザリーニ:日本は、伝統と革新のバランスが取れている国。タイムレスなデザインを打ち出しながら、変化を追求する「AGCF」とも相性が良いだろう。高島屋とともに、ラグジュアリー分野に革命をもたらすブランドとして地位を確立させたい。

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クリスマス商戦が記録的売り上げのラゾーナ川崎 セレクトショップを筆頭にファッションが好調【ビジネスリポート2024年下半期】

ラゾーナ川崎は、JR川崎駅西口に直結するアクセスの良さと衣食住が充実した施設を備え、同エリアのランドマークになっている。施設中央のルーファ広場でのイベントも活況を呈している。三井不動産商業マネジメントの荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長に商況を聞いた。(この記事は「WWDJAPAN」2025年2月24日号特別付録「ビジネスリポート2024年下半期」からの抜粋です。)

WWD:2024年下半期の商況は?

荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長(以下、荻島):売上高は前年同月比も予算比もクリアして堅調に推移した。特にファッションが好調。お盆明けの秋物の立ち上がりが良かった。その後、9月から10月は気温が下がらずに苦戦したが、11月に冬物実需が一気に上がって復調。クリスマス商戦が好調だった12月は記録的な売り上げになった。

WWD:好調なショップやカテゴリーは?

荻島:メンズとウィメンズが両方そろうショップは軒並み良かった。「RHCロンハーマン(RHC RON HERMAN)」「ジャーナル スタンダード レリューム(JOURNAL STANDARD RELUME)」などセレクトショップの伸びが顕著。中でも良かったのは「ユナイテッドアローズ グリーンレーベル リラクシング(UNITED ARROWS GREEN LABEL RERAXING)」。店長が交代し、接客力が格段にアップした。接客力は重要なキーワードで、ファンをしっかりつかんでいる「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」、秋に新規出店した「リーバイス(LEVI'S)」も接客が高評価で絶好調。「コーエン(COEN)」はVMDをテコ入れしたことで売り上げが急伸した。「アディダス(ADIDAS)」「ニューエラ(NEW ERA)」「アークテリクス(ARC’HTERYX)」などのスポーツ&ストリートカジュアルも継続人気。メガネショップも引き続き売れており、「ジンズ(JINS)」が突出した。

また、「タグ・ホイヤー(TAG HEUER)」は23年秋にリニューアルし、今季さらに内装を整えたことと、お客さまからも高評価される接客で2ケタ増。顧客がしっかりついている。7月に新規出店した「アグ」は、気温が下がった後に売り上げが急上昇した。館全体としても、この秋冬の傾向として高価格帯商品の動きが良い。上質化とグレード感を高めるブランディングを今後も続ける。

WWD:大型店舗は?

荻島:「ユニクロ(UNIQLO)」「ジーユー(GU)」は手堅く売れている。特に「ユニクロ」はコラボレーション商品が大ヒット。「アニヤ・ハインドマーチ(ANYA HINDMARCH)」コラボや「プラスジェイ」の再販初日は大行列を作った。ほかにも「ラコステ(LACOSTE)」と人気漫画「ワンピース」のコラボレーションが大盛況だった。コスメは「東京小町」がベースメイクを中心に伸ばしている。

WWD:訪日客需要は?

荻島:もともと比率は低いが、昨今の都心のホテル満室の影響で川崎に訪日客が流れ始めている。そこで、近隣の川崎日航ホテルとホテルメトロポリタン川崎に、訪日客限定の割引券付き館内案内パンフレットを配布し始めた。今後は春節に合わせた中国人客向け割引券も配る予定だ。

WWD:特に効果的だった施策は?

荻島:23年夏から紙のカタログを作っているが、館内配布はすぐなくなるし、顧客に送ると反響がある。ショップからも「載せてほしい」という要望が増えている。作るのは大変だが、効果を感じている。また、10月に初めて開催した「ジャパンクラフトフェス」が盛況。お酒と音楽がテーマのゆったり過ごせるイベントとして、ルーファ広場の空間をうまく活用できた。夜までにぎわいを見せていた。DA PUMPや原因は自分にある。といった音楽アーティストのイベントも反響が良く、今後も継続する。

WWD:クリスマス商戦は?

荻島:クリスマスイブが平日だったにもかかわらず土日と変わらない好実績。地下食料品専門店街のグランフードは、過去最高の売り上げを記録した。「新宿高野」と「アンテノール」のケーキが爆発的に売れ、ファッションの売り上げにも波及した。

WWD:今抱えている課題は?

荻島:前述の通り接客力が売り上げに大きく関係するため、さらに強化したい。今年度のSC接客ロールプレイングコンテストに、館のテナントから3人が出場した。関東甲信越地区エリアの優勝者が出たほか、審査員特別賞を受賞したスタッフもいて、かなり手応えを感じている。接客力の向上にますます磨きをかけていく。

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クリスマス商戦が記録的売り上げのラゾーナ川崎 セレクトショップを筆頭にファッションが好調【ビジネスリポート2024年下半期】

ラゾーナ川崎は、JR川崎駅西口に直結するアクセスの良さと衣食住が充実した施設を備え、同エリアのランドマークになっている。施設中央のルーファ広場でのイベントも活況を呈している。三井不動産商業マネジメントの荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長に商況を聞いた。(この記事は「WWDJAPAN」2025年2月24日号特別付録「ビジネスリポート2024年下半期」からの抜粋です。)

WWD:2024年下半期の商況は?

荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長(以下、荻島):売上高は前年同月比も予算比もクリアして堅調に推移した。特にファッションが好調。お盆明けの秋物の立ち上がりが良かった。その後、9月から10月は気温が下がらずに苦戦したが、11月に冬物実需が一気に上がって復調。クリスマス商戦が好調だった12月は記録的な売り上げになった。

WWD:好調なショップやカテゴリーは?

荻島:メンズとウィメンズが両方そろうショップは軒並み良かった。「RHCロンハーマン(RHC RON HERMAN)」「ジャーナル スタンダード レリューム(JOURNAL STANDARD RELUME)」などセレクトショップの伸びが顕著。中でも良かったのは「ユナイテッドアローズ グリーンレーベル リラクシング(UNITED ARROWS GREEN LABEL RERAXING)」。店長が交代し、接客力が格段にアップした。接客力は重要なキーワードで、ファンをしっかりつかんでいる「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」、秋に新規出店した「リーバイス(LEVI'S)」も接客が高評価で絶好調。「コーエン(COEN)」はVMDをテコ入れしたことで売り上げが急伸した。「アディダス(ADIDAS)」「ニューエラ(NEW ERA)」「アークテリクス(ARC’HTERYX)」などのスポーツ&ストリートカジュアルも継続人気。メガネショップも引き続き売れており、「ジンズ(JINS)」が突出した。

また、「タグ・ホイヤー(TAG HEUER)」は23年秋にリニューアルし、今季さらに内装を整えたことと、お客さまからも高評価される接客で2ケタ増。顧客がしっかりついている。7月に新規出店した「アグ」は、気温が下がった後に売り上げが急上昇した。館全体としても、この秋冬の傾向として高価格帯商品の動きが良い。上質化とグレード感を高めるブランディングを今後も続ける。

WWD:大型店舗は?

荻島:「ユニクロ(UNIQLO)」「ジーユー(GU)」は手堅く売れている。特に「ユニクロ」はコラボレーション商品が大ヒット。「アニヤ・ハインドマーチ(ANYA HINDMARCH)」コラボや「プラスジェイ」の再販初日は大行列を作った。ほかにも「ラコステ(LACOSTE)」と人気漫画「ワンピース」のコラボレーションが大盛況だった。コスメは「東京小町」がベースメイクを中心に伸ばしている。

WWD:訪日客需要は?

荻島:もともと比率は低いが、昨今の都心のホテル満室の影響で川崎に訪日客が流れ始めている。そこで、近隣の川崎日航ホテルとホテルメトロポリタン川崎に、訪日客限定の割引券付き館内案内パンフレットを配布し始めた。今後は春節に合わせた中国人客向け割引券も配る予定だ。

WWD:特に効果的だった施策は?

荻島:23年夏から紙のカタログを作っているが、館内配布はすぐなくなるし、顧客に送ると反響がある。ショップからも「載せてほしい」という要望が増えている。作るのは大変だが、効果を感じている。また、10月に初めて開催した「ジャパンクラフトフェス」が盛況。お酒と音楽がテーマのゆったり過ごせるイベントとして、ルーファ広場の空間をうまく活用できた。夜までにぎわいを見せていた。DA PUMPや原因は自分にある。といった音楽アーティストのイベントも反響が良く、今後も継続する。

WWD:クリスマス商戦は?

荻島:クリスマスイブが平日だったにもかかわらず土日と変わらない好実績。地下食料品専門店街のグランフードは、過去最高の売り上げを記録した。「新宿高野」と「アンテノール」のケーキが爆発的に売れ、ファッションの売り上げにも波及した。

WWD:今抱えている課題は?

荻島:前述の通り接客力が売り上げに大きく関係するため、さらに強化したい。今年度のSC接客ロールプレイングコンテストに、館のテナントから3人が出場した。関東甲信越地区エリアの優勝者が出たほか、審査員特別賞を受賞したスタッフもいて、かなり手応えを感じている。接客力の向上にますます磨きをかけていく。

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米国拠点のシューズブランド「ビバイア」 61カ国で「日本が一番売れている」、そのワケ

米国に拠点を構えるグローバルシューズブランド「ビバイア(VIVAIA)」が日本で売れている。主にECで展開する61カ国のうち、日本の売り上げは全体の10%超え。国別で最も大きなシェア率を誇る。マリナ・チェン(Marina Chan)「ビバイア」共同創設者は、「ビバイア」と日本市場の相性の良さを指摘する。

WWD;まずは「ビバイア」について教えてほしい。

マリナ・チェン「ビバイア」共同創設者(以下、チェン):「ビバイア」は2020年に誕生した。「究極の快適さ」「環境に優しい素材」「タイムレスなデザイン」を商品の特徴に掲げる。日本市場に向けては、22年に公式WEBサイトを立ち上げ、同年7月に初のポップアップを開催した。現在、ハラカドと新宿マルイ本館に常設店を構え、3月21日にはグラングリーン大阪に3店舗目を出店する。

WWD:どのような経験を経て、「ビバイア」の創設に至ったのか?

チェン:私は、中国にある「ナイキ(NIKE)」の製造工場でキャリアをスタートさせた。その後、米シューズブランド「ケースイス(K・SWISS)」、「ナインウエスト(NINE WEST)」で商品開発を担当。「ナインウエスト」では、初めてヒール作りに携わった。もう20年以上シューズ業界に身を置いていることになる。

WWD:その経歴が「ビバイア」の商品開発に役立っている、と。

チェン:スニーカーの快適さとヒールの美しさを両立したい。これが「ビバイア」を立ち上げた理由、そして「ビバイア」の商品開発のコアだ。“ランニング シューズ”シリーズはその代表格で、アーチサポートに特化したインソールやつま先部分に入れたクッションパッド、安定感のあるブロックヒールを搭載し、「走れるパンプス」を体現している。

WWD:ビジネスシーンで重宝されそうな商品が目立つ。

チェン:「ビバイア」のメイン顧客は30〜50代の女性。WEBサイトを見ても、大人の女性に向けたシューズブランドだという印象を持つ人が多いと思う。しかし現在、顧客層が拡大している。日本はその傾向が最も顕著で、過去39回実施したポップアップに親子で来店する人が多かったこと、原宿や新宿といった若い世代が集まるエリアに出店したことが要因だと見ている。新たなデザインの必要性を感じている。

WWD:どのように若年層向けのデザインを生み出している?

チェン:常設店に足繁く通い、顧客の声に耳を傾けること。日本チームは、「どのようなデザインが人気か」「どのような素材を求めているのか」といった生の声を1日に何度も送ってくれる。中国のビジネスパーソンの間で、「日本での成功は世界での成功」という言葉がある。私たちも、日本チームからもらったフィードバックを、ブランド全体のモノ作りに生かしている。

WWD:日本で好調なのはなぜか?

チェン:「ビバイア」は、“快適”“スタイリッシュ”“サステナブル”という日本の消費者が求める3拍子がそろっている。常設店がある東京は、“歩く街”であることも理由の一つだろう。近年、履き心地はシューズ選びの大きなポイントになっており、歩きやすさはもはやスタンダードになっている。私は、これまでの経験を生かし、フラットシューズそしてヒールにも快適な履き心地をもたらしたい。たくさんのフィードバックをもらいながら、これからもブラッシュアップしていけたらと思う。

2025年春夏はバレエコアなフラットシューズがメイン

2025年春夏コレクションは、シルクのような肌触りの“ヌード サテン”シリーズ、「ビバイア」の定番“ウォーカー”シリーズをアップデートした“オールデー スタンディング”シリーズ、走れるパンプス“ランニング ヒールズ”シリーズ、デイリーユースにぴったりな“ウォーカー プロ”シリーズ、“ファッション フラット”シリーズで構成。中でも、“ヌード サテン”シリーズのフラットシューズ“クリスティーナ”(全4色、各1万9900円)は、若年層にアプローチするアイテムとして期待をかける。

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「オーバーコート」大丸隆平がNYで向き合い続ける、本当に“その人のもの”になる服作り

PROFILE: 大丸隆平/「オーバーコート」デザイナー

大丸隆平/「オーバーコート」デザイナー
PROFILE: (おおまる・りゅうへい)1977年生まれ。文化服装学院卒業後、日本のデザイナーのもとでキャリアを積み、2006年に渡米。08年に大丸製作所2を設立し、NYを拠点にデザイナーやブランドのクリエイティブコンサルタント、パターンメーカーとして活動。15年に「オーバーコート」を始動し、現在は日本に30の卸先があり、東京・青山とNYに直営店兼アトリエを構える PHOTO:KAZUSHI TOYOTA

メゾンで磨いたパターン技術で生み出される、構築的なシルエットのコート。袖を通したときのみならず、ハンガーに掛けられていても一つの“構造物”として完成された美しさを放つ。

ニューヨークを拠点に展開する大丸隆平「オーバーコート(OVERCOAT)」デザイナーが、ブランドを立ち上げて今年で10年。「僕のモノ作りは、日本の職人やその技術に支えられている」と大丸デザイナーは話す。それでもなお、地球の反対側にあるNYに拠点を置き、クリエイションを続ける理由とは何なのだろうか。(この記事は3月10日号「特集 NY&ロンドンコレ2025-26年秋冬」から抜粋し、加筆しています)

WWD:2月に日本で、2025-26年秋冬の受注会を実施した。反響はどうだったか。

大丸隆平「オーバーコート」デザイナー:特にこれといったPRをしているわけではないが、ブランドの認知がオーガニックに広がっている手応えがある。前回知った方が友達を連れてきて、その友達がまた次の人を連れてくるというふうに。(東京・青山の)ショールームも、キャパシティーがそろそろ限界に近くなっている。ブランドが知られていくことは、ありがたいことではあるが。

WWD: 立ち上げ当初は、日本市場はあまり意識していなかった?

大丸:そうかもしれない。まず、(百貨店の)ボン・マルシェや(セレクトショップの)ディエチ コルソコモ、トトカエロなどで展開を始めた。NYに直営店を作る計画もあったが、コロナの影響で延ばし延ばしになり、昨年末にようやくオープンにこぎつけた。ただ、こう言うと語弊があるかもしれないが、初めはNYに行きたくて行ったわけではない。仕事のオファーがあったから行っただけ、にすぎない。2008年か09年ごろの話だ。色々な事情が重なって、そのまま住むことになった。

WWD:どういった経緯で、NYを拠点にすることに?

大丸:ブルックリンの、アジア人4人くらいでシェアしているタコ部屋で暮らしながら、当時はとにかく、生活のために服を作っていた。偶然、ルームメイトにパーソンズ美術学校卒業生のデザイナー志望の子がいて、その繋がりで色々な仕事が舞い込んできた。

それまでにパリメゾンでがっつり仕事をしていたので、その子や周りの子が多少びっくりするような服が作れた。口コミで僕の存在がちょっとずつ広まって、そのうちに「アレキサンダー ワン(ALEXANDER WANG)」や「トム ブラウン(THOM BROWNE)」、「プロエンザスクーラー (PROENZA SCHOULER)」といったブランドとも関わるようになり、気づいたらニューヨークに根を張っていた。

WWD:日本で展開を広げたきっかけは。

大丸:コロナでそれまでの取引が全て中断し、ニューヨークの街が完全にロックダウンした。「これはまずい」と思い、作りかけのコレクションと定番を抱えて日本に戻った。

すると幸い、日本のギャラリストの知人がギャラリーのスペースを貸してくれることになった。1週間足らずくらいの会期だったが、ポップアップストアを開催したところ、思った以上に人が来てくれた。乃木坂駅からの徒歩11分の場所で炎天下、しかもコロナ第2波か第3波が来ているタイミングだったのに。すごく嬉しかった。今では日本でも徐々に取引先が広がって、今では30アカウントほどになった。

WWD:それでも、やはりNYの空気が合っていると?

大丸:そう思う。ただ僕の場合は「NYという街が好き」というより、「人」の部分が大きいのかもしれない。例えば、グラフィックデザイナーのピーター・マイルズ。彼は「オーバーコート」の名前をつけてくれた人だが、世界で5台限定で作ったテーブルを、「日本のオフィスに持っていけば?」と譲ってくれた。今回(2025-26年秋冬)のルックブックを撮影してくれたリチャード・カーンは、伝説的なフォトグラファーで、僕自身も子供の頃から憧れていた存在だ。そんな彼らと対等に仕事をし、刺激し合える環境があることがありがたいし、心地いい。

NYは、何かを作り続けていないと置いていかれる街。でも、それが逆に自分を奮い立たせてくれる環境でもある。サボり癖がある僕も、周りに優れたクリエイターがいることで、自分も手を動かしたくなる(笑)。突き動かされる感じがある。

日本のモノ作りがあるから
「オーバーコート」が成り立つ

WWD:「オーバーコート」は主に日本製。NYを拠点に、日本の工場や職人と仕事をするのは、非効率にも思える。

大丸:服作りのやり取りでは、もちろん余計に時間がかかってしまう部分はある。色の出し方ひとつとっても、サンプルを送ってもらって「もう少しこうして」と修正をお願いして……と面倒を掛けてしまう。でも、日本の生地メーカーはそういう細かいやりとりにも柔軟に対応してくれる。だから頼りたくなる。

WWD:海外を拠点にして、日本のモノ作りのよさを再確認するデザイナーも多いように思う。

大丸:日本は伝統的に「分業」が発展しているから、それが高品質なものづくりにつながっている。日本の産業は農耕民族的なマインドが強く、みんなで一緒に耕して、育てて、刈り取るという考え方が根底にある。一方で米国は元来、狩猟民族的というか、「獲物を見つけたら一気に仕留める」という発想になる。ビジネスの世界でも、M&Aで成功した会社をまるごと買ってしまうという考え方が主流だったりもする。

それゆえ、日本の職人は「少しでも失敗したら修正して完璧に仕上げる」ことにプライドを持っているし、米国では「とにかく早く作って、仕事が終わったらすぐ帰る」という意識が強い(笑)。真面目で、綿密で、高い技術を持つ日本の職人が作るからこそ、「オーバーコート」の服が成り立っている。

WWD:「オーバーコート」のコレクションは色使いが鮮やかで、NYらしいと感じる部分もある。

大丸:そういった捉えられ方は、僕にとっては意外かもしれない。色に関しては、かなり直感的に決めている。日本の生地を多く使っているから、染色技術の高さはが色選びにも影響していると思う。染色は、川の水質と密接に関係していて、日本の川が綺麗だからこそ、いい発色になる。そういう意味では、直感的に選んでいる色も、やっぱり日本の自然や技術に支えられている部分があるのかもしれない。インスタグラムアカウントは「@overcoat.nyc」だが(笑)。

WWD:“メード・イン・ジャパン”を前面に出さない理由はあるのか?

大丸:もちろん、日本のモノ作りは世界一だと思っている。ブランドネームで「ジャパンメイド」を強調するのではなく、服のシルエットや構造の中に自然に落とし込めるかどうかが、デザイナーである僕の腕の見せ所だ。例えば、「ゆとり」や「バランス」といった考え方は、日本のものづくりに根付いている概念。そういう要素をデザインに取り入れることで、日本らしさを感じさせることはできる。

日本人の服作りには、西洋にはない独自の視点がある。西洋では2000年以上の歴史の中で洋服文化が築かれてきたが、日本人が本格的に洋服を着るようになったのは、まだ100年にも満たない。プレタポルテ(既製服)に限れば、その歴史はせいぜい50~60年ほどだ。それまで日本では、2000年近く着物を着る文化が続いた。そのため、日本人は西洋のように「服はこうあるべき」といった既存のルールに縛られず、独自の解釈を加えている部分があると思う。

WWD:「独自の解釈」とは?

大丸:例えば、川久保玲さんや山本耀司さんがデザインした服には、西洋のファッションにはない視点と発想がある。既存の服のルールを再解釈し、時には大胆に崩す。僕自身も、服の基本構造である「肩」の部分にプリーツを入れたデザインを取り入れている。これは建築でいうと「大黒柱をいじる」ようなもので、通常なら避けるべきこと。でも、日本人の服作りは、そういう「セオリーを崩す」ことに対して比較的柔軟だ。

最近は、特に1980~2000年代に日本のハイブランドのデザイナーたちがやってきたことが、今のヨーロッパのハイブランドにも影響を与えていると感じる。日本人ならではのデザインアプローチは、世界のファッションの進歩に確実に貢献している。

瞬間的なひらめきと
「ちょっとズレた」面白さ

WWD: 「オーバーコート」のモノ作りで大切にしている考え方はあるか。

大丸:僕は16歳の頃から服作りを始めて30年近くになるが、やっていること自体はあまり変わっていないし、そうあり続けたいと思っている。知識や経験は当然増えたが、それにとらわれたくない。

まず、デザインをするときは「瞬間的なひらめき」を大事にしている。形や色もロジカルに考えすぎず、決める。もちろん、プレタポルテの世界では量産性を考えたロジカルなアプローチも必要だが、それとは別に、もっと感覚的な部分が重要だと思う。

もう一つは、「エンジニアの視点」。例えば、エンジンのパーツは、それ自体がオブジェとして美しい。僕はああいう「機能と美しさが共存しているもの」に惹かれる。服もそれと同じで、ただデザインが優れているだけではなく、作る人のプライドや技術が込められていることが大切。

一般的に「最高峰」とされるのは、(英国の)サヴィル・ロウのテーラリングやイタリアのクラシコといったクラシックな技術。確かにすばらしいものだが、僕はそれが唯一の頂点だとは思っていない。服の世界にはさまざまなアプローチがあって、それぞれに最高峰がある。僕が目指したいのは、テーラリングの完璧さだけでなく、もっと自由な発想や新しい技術を取り入れたモノ作りだ。

WWD:近年、物価上昇やコロナの影響もあり、日本人クリエイターが以前より渡米しづらくなっている。クリエイターにとって、NYで活動する意味とは?

大丸:確かに、最近は日本から来るクリエイターは減っているのかもしれない。NYにいることで見えてくる視点もある。一つは、日本という国のよさを、外から俯瞰で見ることができることが大きい。

NYはいろんな国の言語や文化が飛び交う場所。チャイナタウンを歩いていても、英語圏の人にとっては特別じゃないかもしれないが、僕のように第二言語の人種からすると、「あ、こういうカルチャーの混ざり方があるんだ」と面白がれる。かつそれを、ビジュアルとして直感的に捉えられる。日本だけにとどまっていると、どうしても同一の価値観の中に深く入り込みすぎることがある。

あと、NYは「本質とはちょっとズレた面白さ」もたくさん。ここにいると、「ちょっと間違えることの面白さ」とか、「勘違いから生まれるクリエイション」が新しい発見につながることがよくある。

WWD:例えば?

大丸:「オーバーコート」の今季の新作ニットは、遠くから見ると犬の模様に見えるけれど、近づいて見ると迷彩柄だったりする。デザインプロセスとしては、必ずしも意図的にそう作ったわけではなく、「結果的にそうなった」という方が正しい。こういう、偶然やズレが生み出すクリエイションって、日本ではあまり評価されにくい。けれど、NYだと「その不完全さがいい」となる。

日本は職人文化が強いので、「完璧に仕上げること」に価値を置きがちだ。それはすばらしいことだけど、一方で、もっと「ざっくり作る」みたいな感覚もクリエイションには大事なんだろう。さっきは「すぐ帰りたがるやつら」みたいに言ってしまったけれど(笑)。

今季のリチャード・カーンに撮影してもらったルックブックもそう。彼は撮影が終わったら「じゃあね」と言ってサッと帰る。日本の撮影現場だと、みんなで「ありがとうございました」ときっちり挨拶してから終わるけれど、NYではいい写真が撮れたら「じゃあねバイバイ」みたいにあっけなく終わる。それでいて、クオリティーは抜群に高い。

「なぜブランドをやるのか」
自分への問い掛けの答え

WWD:ニューヨークでは、クリエイターが自分のスタイルやリズムを貫くことができると。

大丸:日本では「こうすべき」に縛られがちだけど、NYでは「俺は俺、君は君」というスタンスがある。だから個人のクリエイションが尊重されるし、それがちゃんと認められる。だから、日本のクリエイターももっとニューヨークに来てみたらいい。もちろん物価や環境の問題はあるが、この街でしか得られない視点や経験があるはずだから。

WWD :これから挑戦していきたいこと、変わらずに続けていきたいことは?

大丸:自分のブランドを始めて、「なぜこの服を作るのか?」という自分自身への問い掛けが、より鋭くなったように思う。それで「着る人が自然に受け入れられるけれど、ちょっと意思のある服」を作りたいのだという答えを得た。先ほども言った「肩のプリーツ」のようなディテールは、動きや快適さを生み出すための工夫なんだけれど、知識と技術がないと奇妙な服ができあがってしまう、難度の高いアプローチだ。こうしたこだわりを理解して喜んでくれる人がいるなら、「オーバーコート」をやる意味がある。

それと結局、服はお客さまのクローゼットに収まるもの。作る側の主張が強すぎたら、「本当にその人のものになるのか? 」と考え、立ち止まるようにする。可能な限りお客さんと直接会いたいし、接客もしたい。それで「この人は、本当に気に入ってくれている」と感じられたら、作り手としてすごくうれしい。逆に「この服は合わないな」と思ったら、それも正直に伝える。売ることが目的ではなく、ちゃんと「その人に合うもの」を届けたいと思っている。

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「ビオトープ」事業開始15年で4店目の神戸店 厳選した立地で「オンリーワンの店」を作る秘訣

ジュンは、大型路面店「ビオトープ神戸(BIOTOP KOBE)」をきょう8日に開く。場所は近代建築が点在する旧居留地。歴史を感じさせる空間に、ファッション、コスメ、生活雑貨を豊富にそろえ、さらには飲食店を併設した複合型セレクトショップとなる。ジュンの佐々木進社長と、クリエイティブディレクターである迫村岳・常務取締役の2人の仕掛け人は、どんな店を目指しているのか。神戸で聞いた。

新規出店は「まず物件ありき」で決める

WWD:「ビオトープ」は東京・白金(2010年開店)、大阪・南堀江(14年開店)、福岡(19年開店)に続く4店舗目。神戸を選んだ理由は?

迫村岳クリエイティブディレクター(以下、迫村):「ビオトープ」に関しては物件ありきで決めている。通常の業態であれば、まず東京に数店舗、次に大阪、続いて名古屋となるだろう。これまでの3店舗はいずれも大勢の人が行き交うターミナル立地でもなく、商業施設のテナントでもない。ユニークな建物や空間、周辺環境を重視して厳選してきた。今回の神戸も1958年竣工のビルにたまたま空きが出たため、出店を決めた。

佐々木進社長(以下、佐々木):神戸港に近いこのビルは海運商社のオフィスビルとして建てられたと聞いている。港町らしい独特の匂いがある。これまでの3店舗とは異なる個性があって面白い。

WWD:神戸のマーケットをどう分析しているか?

佐々木:旧居留地で当社は古くは「アーペーセー(A.P.C.)」(現在の運営は別の会社)を運営してきたし、13年からは「サタデーズNYC(SATURDAYS NYC)」を出店しており、エリアの特性は深く理解している。目的意識を持って来店されるお客さまが多く、一度ファンになれば繰り返し来てくださる。商圏には芦屋をはじめ富裕層のお客さまもたくさんいる。「ビオトープ」の世界観に共感してくださるはずだ。

迫村:神戸はもちろん、中・四国を含めて広範囲からお客さんを呼びたい。落ち着いた空間で、じっくり買い物していだけるよう空間設計した。仮に同じ服であっても「ビオトープ」の店内で手に取ると他店よりも魅力的に映る。そんな工夫をこれまでの3店舗で磨いてきた。ていねいに接客して、商品の背景まで伝える。

「物販」と「飲食」を両立する手法

WWD:神戸にもカフェ&レストランを併設した。

迫村:この区画は市民の憩いの場である東遊園地にも近く、休日には家族連れも多い。旧居留地は意外にカフェが少ないので、そんな方たちにも気軽に立ち寄ってもらえる場所になるだろう。メニュー開発は東京・日本橋の「ネキ」や世田谷代田の「ソングブック」を手掛ける西恭平さんにお願いした。ワインも充実しており、昼も夜も楽しめる。

佐々木:同じ店で物販と飲食を両立させるのは、けっこう難しい。「服を買う」と「食事をする」はモチベーションが違うから、無理に一緒にすると失敗する。でも「ビオトープ」は既存の3店舗とも相乗効果を生んでいる。

WWD:コツはあるのか?

佐々木:「ビオトープ」の場合は物販と飲食のゾーニングを一体化しずぎるとダメ、明確に区切りすぎてもダメ。言葉で表現するのは難しいけど、適度なゾーニングの塩梅がある。「サタデーズNYC」や「サロン アダム エ ロペ(SALON ADAM ET ROPE)」、昨年12月に表参道に開いた「V.A.」など、当社は物販と飲食の併設店をいくつか運営しているが、それぞれ業態によってやり方は異なる。

迫村:飲食の併設は「ビオトープ」の強みだ。服だけが目的であれば、来店の頻度が限られてしまう。でも居心地の良い空間で食事をしたりお茶をしたりするため立ち寄れる店であれば、お客さまは頻繁に来店してくれる。ついでに服や生活雑貨を手に取る。

WWD:秋に出店予定の札幌はどんな店になる?

迫村:札幌の円山公園付近になる。広大な緑が広がる円山公園は札幌市民のオアシスであり、周辺は閑静な住宅街だ。ここもいわゆるショッピングエリアではない。既存の店舗とはまた違ったユニークな店になるだろう。

WWD:事業開始から15年で、神戸は4店目。現在の「ビオトープ」の売上高はどれくらいに成長しているのか?

佐々木:具体的には言えないが、神戸を含めた4店舗とEC(ネット通販)で30億円が見えてきた。中長期的には7〜8店舗とECで50億円は見込めるだろう。ただ、迫村が述べた通り「ビオトープ」の出店は物件ありき。性急な成長は求めない。厳選した立地とオンリーワンの店作りで、わざわざ訪れるに値する「ビオトープ」であり続ける。

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「ビオトープ」事業開始15年で4店目の神戸店 厳選した立地で「オンリーワンの店」を作る秘訣

ジュンは、大型路面店「ビオトープ神戸(BIOTOP KOBE)」をきょう8日に開く。場所は近代建築が点在する旧居留地。歴史を感じさせる空間に、ファッション、コスメ、生活雑貨を豊富にそろえ、さらには飲食店を併設した複合型セレクトショップとなる。ジュンの佐々木進社長と、クリエイティブディレクターである迫村岳・常務取締役の2人の仕掛け人は、どんな店を目指しているのか。神戸で聞いた。

新規出店は「まず物件ありき」で決める

WWD:「ビオトープ」は東京・白金(2010年開店)、大阪・南堀江(14年開店)、福岡(19年開店)に続く4店舗目。神戸を選んだ理由は?

迫村岳クリエイティブディレクター(以下、迫村):「ビオトープ」に関しては物件ありきで決めている。通常の業態であれば、まず東京に数店舗、次に大阪、続いて名古屋となるだろう。これまでの3店舗はいずれも大勢の人が行き交うターミナル立地でもなく、商業施設のテナントでもない。ユニークな建物や空間、周辺環境を重視して厳選してきた。今回の神戸も1958年竣工のビルにたまたま空きが出たため、出店を決めた。

佐々木進社長(以下、佐々木):神戸港に近いこのビルは海運商社のオフィスビルとして建てられたと聞いている。港町らしい独特の匂いがある。これまでの3店舗とは異なる個性があって面白い。

WWD:神戸のマーケットをどう分析しているか?

佐々木:旧居留地で当社は古くは「アーペーセー(A.P.C.)」(現在の運営は別の会社)を運営してきたし、13年からは「サタデーズNYC(SATURDAYS NYC)」を出店しており、エリアの特性は深く理解している。目的意識を持って来店されるお客さまが多く、一度ファンになれば繰り返し来てくださる。商圏には芦屋をはじめ富裕層のお客さまもたくさんいる。「ビオトープ」の世界観に共感してくださるはずだ。

迫村:神戸はもちろん、中・四国を含めて広範囲からお客さんを呼びたい。落ち着いた空間で、じっくり買い物していだけるよう空間設計した。仮に同じ服であっても「ビオトープ」の店内で手に取ると他店よりも魅力的に映る。そんな工夫をこれまでの3店舗で磨いてきた。ていねいに接客して、商品の背景まで伝える。

「物販」と「飲食」を両立する手法

WWD:神戸にもカフェ&レストランを併設した。

迫村:この区画は市民の憩いの場である東遊園地にも近く、休日には家族連れも多い。旧居留地は意外にカフェが少ないので、そんな方たちにも気軽に立ち寄ってもらえる場所になるだろう。メニュー開発は東京・日本橋の「ネキ」や世田谷代田の「ソングブック」を手掛ける西恭平さんにお願いした。ワインも充実しており、昼も夜も楽しめる。

佐々木:同じ店で物販と飲食を両立させるのは、けっこう難しい。「服を買う」と「食事をする」はモチベーションが違うから、無理に一緒にすると失敗する。でも「ビオトープ」は既存の3店舗とも相乗効果を生んでいる。

WWD:コツはあるのか?

佐々木:「ビオトープ」の場合は物販と飲食のゾーニングを一体化しずぎるとダメ、明確に区切りすぎてもダメ。言葉で表現するのは難しいけど、適度なゾーニングの塩梅がある。「サタデーズNYC」や「サロン アダム エ ロペ(SALON ADAM ET ROPE)」、昨年12月に表参道に開いた「V.A.」など、当社は物販と飲食の併設店をいくつか運営しているが、それぞれ業態によってやり方は異なる。

迫村:飲食の併設は「ビオトープ」の強みだ。服だけが目的であれば、来店の頻度が限られてしまう。でも居心地の良い空間で食事をしたりお茶をしたりするため立ち寄れる店であれば、お客さまは頻繁に来店してくれる。ついでに服や生活雑貨を手に取る。

WWD:秋に出店予定の札幌はどんな店になる?

迫村:札幌の円山公園付近になる。広大な緑が広がる円山公園は札幌市民のオアシスであり、周辺は閑静な住宅街だ。ここもいわゆるショッピングエリアではない。既存の店舗とはまた違ったユニークな店になるだろう。

WWD:事業開始から15年で、神戸は4店目。現在の「ビオトープ」の売上高はどれくらいに成長しているのか?

佐々木:具体的には言えないが、神戸を含めた4店舗とEC(ネット通販)で30億円が見えてきた。中長期的には7〜8店舗とECで50億円は見込めるだろう。ただ、迫村が述べた通り「ビオトープ」の出店は物件ありき。性急な成長は求めない。厳選した立地とオンリーワンの店作りで、わざわざ訪れるに値する「ビオトープ」であり続ける。

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韓国の“少しお節介”な習慣を届けたい IT企業社員がティーブランド「コーニー」を立ち上げた理由

ティーブランド「コーニー(CORNIE)」が2024年12月にローンチした。手がけるのは、韓国・ソウル生まれ、現在外資IT企業でCXコンサルタントとして勤務するリ・ユンジェ(Lee Younjae)だ。10歳の頃に東京に移住し、慶應義塾大学卒業後は韓国と上海でホテルや飲食店の企画を担当したのち、リクルートを経て現在の職に就いた。日韓の通訳としても活躍するなど、活動は幅広い。

そんな彼女が今回「コーニー」を立ち上げた理由を尋ねると「韓国と日本のバックグランドを持ちながら、スウェーデンに留学。その後上海での駐在生活を経て、あらためて日韓の文化の素晴らしさに気がついた。しかしながら、日本の市場には韓国文化の伸び代はまだある。私が上海にいる時に恋しくなったのは韓国の温かな“情”だったが、その情に価値を置いた発信がされていることはまだ少ないと感じた」とユンジェ。

日韓のルーツを持つ彼女だからこそできる方法で韓国文化を発信したいと考え、自らの韓国の原体験である韓国茶のブランドを手掛けることに。「子どもの頃に一緒に住んでいた祖母は、夏になればとうもろこし茶やオミザ茶を、冬には柚茶や生姜茶、デーツ茶を淹れてくれた。このように、季節や相手の体調に寄り添った、“少しお節介”な穀物茶や果実茶を飲む習慣が、私にとってはとても心地が良いものだった。そしてこの韓国のお節介さを、私は“情”と呼んでいる。ブランドを通じて、誰かを思いやり、お茶を淹れて分かち合う“少しお節介な気持ち=情”を届けていきたい」。

そんな気持ちから生まれた「コーニー」のファースト商品は最高品質のイェチョン産白とうもろこしの粒を100%使用した“粒コーン茶”。ユンジェは「コーン茶はむくみ改善にも効果的だといわれており、身体のコンディションを整えたい時にもおすすめだ。ノンカフェインのため、老若男女問わず生活にとりやすいだろう。日本で緑茶や麦茶を飲むように、韓国でも家庭でお茶を飲む習慣は根付いている」と続ける。

さらに「コーニー」の“粒コーン茶”には、低温真空ロースティング法が用いられ、香ばしさを増しながら栄養素を保つよう作られる。腸内環境を整える食物繊維や貧血予防に欠かせない鉄分、細胞の生成を助ける葉酸のほか、美肌づくりをサポートするビタミンB群、ビタミンC、Eを含む。「『コーニー』の“粒コーン茶”は一般的なティーパックのお茶とは異なり、そのままコーンの実を食べることもできるから、素材の栄養素を惜しみなく得られる。お茶を楽しんだ後のコーンを米と一緒に炊くのもおすすめだ」。

現在「コーニー」は公式サイトで販売しており、今後は粒コーン茶以外にもラインアップを拡充するほか、ギフトセットなどを提案。3月15〜16日には、目黒MEGURO MARCで開催されるマーケット“HAVE A GOOOD MARKET!!! at MEGURO MARC”に出展。試飲と商品の購入も可能だ。

◼︎HAVE A GOOOD MARKET!!! at MEGURO MARC
日程:3月15〜16日
時間:11:00〜17:00
会場:MEGURO MARC
住所:東京都品川区西五反田3-3-2

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ゆりやんレトリィバァがトレーニングウエア「YUR YUR(ユーユー)」をスタート——「あなたをつくるのはあなた自身」

PROFILE: ゆりやんレトリィバァ/芸人

PROFILE: 1990年11月1日生まれ。奈良県吉野郡出身。趣味は映画鑑賞(大学で映画研究をしていた)。特技は英語、ダンス。大学4年生の時に、大阪NSC35期生として入学し、お笑いを学ぶ。翌年行われた「NSC大ライブ2013」で優勝を果たし、NSCを首席で卒業。2017年、第47回NHK上方漫才コンテストで優勝。同年12月「女芸人No.1決定戦 THE W」に出場し、優勝。海外進出を目指し、19年6月には、アメリカのオーディション番組「アメリカズ・ゴット・タレント」にも出場。21年には「R-1グランプリ」で優勝。24年12月にアメリカ・ロサンゼルスに活動の拠点を移している。

昨年12月にアメリカ・ロサンゼルスへ活動拠点を移した芸人・ゆりやんレトリィバァ(以下、ゆりやん)がデザイナーを務めるトレーニングウエアブランド「ユーユー(YURYUR)」がスタートした。第1弾のコレクションは、トップス4型、レギンス5型、5本指ソックスやレッグウォーマーなどの雑貨類3型を含む計12型を展開する。同アイテムは、3月3〜16日の期間限定でECサイト「Re:Circulet(リサーキュレット)」にて受注販売が行われている。さらに、3月7〜13日には「JR京都伊勢丹オンラインストア」での販売と「ルクア大阪」でポップアップストアが展開される。

2018年からトレーニングを始めたゆりやん。日常的にトレーニングをする中で「こんなウエアが欲しい」と感じた細かいこだわりが本ブランドには込められている。一時帰国したゆりやんにその想いを聞いた。

「あなたをつくるのはあなた自身」

WWD:「ユーユー」は、いつ頃から考えていたんですか?

ゆりやんレトリィバァ(以下、ゆりやん):具体的に動き出したのは1年ほど前です。私自身、6年前からトレーニングを始めたんですけど、すごくはまって、それからはほぼ毎日トレーニングするほど、生活に欠かせないものになっていました。その中で「もっと快適な着心地のウエアが欲しい」「こんなデザインがあったらいいのに」と思い始めて、今回、繊維商社の豊島さんの協力を得て、実現することができました。

WWD:今回の第1弾商品のラインアップは?

ゆりやん:最初に考えたのはTバックでした。トレーニングしているとパンツの線が気になって、でも普通のTバックだと、履くのに少し抵抗があったり、フロントも小さくて、トレーニングしていると痛かったりもしたので、もう少しフロントが広いTバックがあったらいいなと思って作りました。

あと私が着ているタンクトップとアームウォーマーはサラサラとした肌触りと伸縮性が特徴です。履いているハイウエストのスパッツはフレアタイプで。トレーニングの時だけではなくて、家着でも使える。トレーニングウエアと言いつつ、トレーニングだけじゃなくて、ハードル低く、普段から履いてもらえるように考えました。

他にもブラトップや短いスパッツもありますし、レッグウォーマーとかリブ素材のトレーニングウエアもあったらいいなと思って。あとは、5本指靴下も実際に使ってみて良かったので、作ってもらいました。

最初はいろんな色のカラフルな展開ができたらいいなと勝手に思ってたんですけど、生地とか素材にこだわっていたら、「そんなにいろんな色を作れません」って言われて。それやったら逆に黒だけの方が使いやすいし、世界観も統一されるからいいかなと思って今回は黒だけで作りました。

WWD:ブランド名の「ユーユー」はどう決めたんですか?

ゆりやん:かわいくて、言いやすい名前がいいなと思って。私の本名がゆりで、自分のことを「ゆりん」って言っているんですよ。それで、最初は「YURIN(ユリン)」がいいかなと思ってたんですけど、英語で「urine(ユリン)」って尿って意味があるみたいで(笑)。だからそれはやめて。字面から考えて、YURYURで「ユーユー」にしました。

あと、これは後付けなんですけど(笑)。トレーニングする前は、好き放題食べて、「これが私です」みたいに言ってたし、当時はそう思ってたんですけど、トレーニングを始めたら、食事にもこだわるようになったし、「自分で自分を作れる」っていうのが分かってきて。そうすると自分のことがめっちゃ大事になってきたんです。それで「こうならないといけない」とか、「こういう体形じゃないといけない」とかにとらわれたらあかんなと思って。当たり前ですけど、自分って人とは違うじゃないですか。だから「自分にとって最高の状態になるだけでいいんや」って思ったんですよ。そこから「MAKE YOU HAPPY」みたいに、「MAKE YOU YOU」で、「あなたをつくるのはあなた自身」という意味を込めています。

WWD:どんな人に着てもらいたい?

ゆりやん:トレーニングが好きな方にはぜひたくさん着てもらいたいですね。もともとジムに行き始めるまで運動する=汚れていい服で行くなイメージだったんですけど、着てみて気持ちいいとか、かわいいからこれ着てちょっとジム行ってみたいとか、運動するきっかけになればうれしいです。家着とか普段使いもできるので、トレーニングしていない人も着てみてほしいです。結局みんなですね(笑)。

WWD:今後はどんなアイテムを考えている?

ゆりやん:今回は運動する時に着るアイテムが多いんですけど、トレーニング前後で着てもらえるような服とかもう少し日常生活でも着られる服とか作りたいですね。あとは男性も着られるものとかあると、多くの人に着てもらえるかなと思っています。

トレーニングは自分を大切にするきっかけ

WWD:ゆりやんさんはずっと岡部友さんとトレーニングを続けていますね。

ゆりやん:そうなんです。ラッキーなことに、2018年の秋にテレビ番組で芸能人がガチでトレーニングするみたいな企画があって、それぞれがいろんなトレーナーさんに振り分けられたんですが、私はたまたま友さんのところで。それがきっかけで、初めてパーソナルトレーニングを受けて、それからずっと友さんにしかパーソナルトレーニングはやってもらってないですね。

WWD:トレーニングって続かない人も多いと思うんですが、続けるコツは?

ゆりやん:性格的なところもあると思うんですけど、自分って一生自分じゃないですか。でも、昔の私もそうでしたけど、自分のことを後回しにするというかも、「自分なんて」とか言ったりするじゃないですか。それってめっちゃもったいないなと思って。自分って一生この体でいるのに、自分を大切にせずにボロボロにしていたらもったいないし、嫌じゃないですか。せっかくだったら、大切にして、かわいい状態にしときたいって思ったらやめる理由ないなって思って。

WWD:本当そうですね。でも、「今日は行くのしんどいな」と思うことはありませんか?

ゆりやん:私はトレーニングを始めてから1回もそう思ったことがなくて。多分運動がもともと好きなのもあると思うんですけど、逆にトレーニングに行けない日とか行けなくなりそうみたいな時は、めっちゃ腹立ってく、なんか対応も雑になってしまったりして。それぐらいトレーニングに行けないっていうのがストレスで。

好きな人と会う前の夜に、ニンニクとかめっちゃ食べて、歯も磨かずに寝て、朝も歯を磨かずに顔がくっつくくらいの距離で喋ってくださいって言われるぐらい(笑)。それぐらい嫌なんです。

WWD:めっちゃ嫌ですね(笑)。ちなみにLA行ってからもトレーニングは続けているんですか?

ゆりやん:パーソナルは受けてなくて、アパートにジムがついているんで、そこで自分でやってますね。最初は1人でできるかなって不安だったんですけど、習い事と一緒で、やっていくうちにどんどんできるようになって。「自分でもできるんや」っていう感動もあるし、やることで気持ちがフレッシュになるので、楽しんでやっています。

私の場合、細いスレンダーな体型になりたいっていうよりは、肉感のある塊みたいな、中にめっちゃ筋肉があるのが一番かっこいいなと思っていて。肉肉しい感じを目指しています。

WWD:LAの生活には慣れましたか?

ゆりやん:慣れた頃に戻ってきた。だからまた忘れちゃいました。どんなんやったかな、みたいな(笑)。

WWD:「ユーユー」の目標は?

ゆりやん:LAは「フィットネスの街」でジムも多く、みんなこういう楽なコージー(cozy)な服を着てる人が多いんですよ。なので、ぜひLAの人達にも着てもらえるようなブランドにしていきたいですね。

PHOTOS:TAMEKI OSHIRO

アイテム一部

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リピーターが5割以上、人気の台湾発“茶香水”「ピーセブン」創業者に聞くブレイクまでの10年とこれから

PROFILE: パン・ユーチン(Pan Yu-Ching)/「ピーセブン」創業者

パン・ユーチン(Pan Yu-Ching)/「ピーセブン」創業者
PROFILE: 台湾・花蓮生まれ。幼少期から敏感な嗅覚を持っていたが、コミュニケーションは苦手。専門学校卒業後、台北で添乗員や貿易事務などさまざまな仕事に就くが長続きせず、配達員や調理員として働いたこともある。故郷に戻り茶師の仕事に出合う。お茶に囲まれ最低限のコミュニケーションですむ仕事に満足し、お茶の香りを閉じ込める商材はないかと独学で香水作りを始め、2012年に「ピーセブン」を創業

台湾発フレグランス「ピーセブン( P.SEVEN)」は2月末に都内で、新作フレグランス“府城香”の発表会を開催した。「ピーセブン」は、調香師であるパン・ユーチン(Pan Yu-Ching)創業者が2012年に設立。台湾の文化を香りで表現するブランドで、お茶をテーマにした“茶香水”のパイオニア的な存在だ。日本では、台湾を訪れた日本人の口コミにより徐々に広まり、19年に都内で台湾発文化を発信する「誠品生活日本橋」内に出店。23年秋伊勢丹新宿本店の「サロン ド パルファン(SALON DE PARFUM)」出展時は行列ができるほどの人気で、一気にブランドの認知度がアップした。日本で着実にファンを増やし、現在日本で販売する製品は、北海道の工場で生産。「日本は第二の故郷」と話すユーチン創業者に、ブランドやビジネスについて聞いた。

プロの方程式とは違う想像力が生み出す心地良い香り

WWD:「ピーセブン」を創業したきっかけは?

パン・ユーチン「ピー セブン」創業者(以下、ユーチン):茶師として働いていたときに青茶の香りを嗅ぐための茶杯“聞香杯”に残る淡いお茶の香りを永遠に閉じ込めたいと思った。そこで、独学で香水を作り始めた。当時はアジアの香水ブランドは珍しく、調香を学んだわけでもないので、大きなチャレンジだった。お茶の香水といえば、欧米ブランドによる紅茶の香水はあったが、香り自体にあまりお茶を感じられなかった。欧米とアジアのお茶の香りは違う。だから、自分が感じた香りを自分の方法で試行錯誤を重ねて台湾茶香水を作った。

WWD:調香を学んでいないが、なぜブランドを立ち上げた?

ユーチン:茶師という仕事は、コミュニケーションが苦手だった私にとって天職のようなもの。お茶とその香りが好きで、それをどうしたら表現できるかと考えた。香りは知覚を魂へ伝達する一つの方法だと強く感じてブランドを立ち上げた。多くのプロの調香師から批判の声もあり、数年間は戸惑いもあった。だが、自分が感じ取った香りをプロのやり方ではなく、想像力を働かせて試行錯誤で表現している。例えば、バラにはハチミツを、クローブにはウイスキーを感じる。私が嗅いで感じとったまま、パズルのように組み合わせて香りとして表現。22年に米の香水コンテストで受賞して自信が持てるようになり、もっと大胆に調香するようになった。

WWD:「ピーセブン」の名前はどこから?コンセプトは?

ユーチン:ピーは私の名前の頭文字からでルーツを忘れないという意味を込めている。セブンは、聖書では新しい始まり、仏教では円満を意味する数字。それらを組み合わせ、ブランドの円満な発展を願う名前にした。コンセプトは、台湾の土地、民族、文化を台湾にしかない素材などを用いて、香りで表現している。情景が浮かび上がるような香り、記憶に残る香りを提案したい。だが、妖精のように軽やかで、誰もが包まれて心地良い香りを目指している。

リピーターが5割以上、B to Bビジネスも展開

WWD:展開している香りは何種類?ベストセラーは?

ユーチン:フレグランスが16種類、ピロースプレーが7種類。ピロースプレーは、台湾の街の香りを表現したもの。コロナ禍に、夢でその街を訪れてもらえればと開発した。日本では、おもてなしのお茶を意味する“奉茶”シリーズの凍頂烏龍茶の香り“沁香”と東方美人茶の香り“玉香”がベストセラーだ。お茶そのものの香りなので、初めての香水として馴染みやすく、場所を問わずに着けられる。「ピーセブン」はアジアの優雅さや謙虚さを体現するブランドだ。だから、多くのアジア人に受け入れられているのだと思う。

WWD:現在何ヵ国で販売している?

ユーチン:台湾、日本、イタリア、ハンガリー、ベトナム。日本には法人、イタリアには事務所がある。韓国や香港から引き合いが来ているので、これから販売予定だ。

WWD:新作の“府城香”は台南市文化資産管理局とのコラボレーションだが?

ユーチン:台南の寺院や古い街並みを表現した。街中に漂う線香の香りや草木や煙など歴史ある台南の街歩きをしているような香りになっている。他にも、スターラックス航空や資生堂プロフェッショナル、台湾のファミリーマート、「ベスパ」などのブランドや動物保護のチャリティー活動の一環として台北動物園と作った香りがある。現在、日本企業と日本茶の香りのプロジェクトが進んでいる。今後は、もっとB to Bも強化していきたい。

WWD:「ピーセブン」とのビジネスの割合は?B to Bビジネスはどのように始まった?

ユーチン:「ピー セブン」が55%、B to Bが45%。ブランドを創業してから、企業向けに台湾の文化や香りを伝えるためのイベント「香り展」を開催してきた。そこで、他のブランドとは違うアプローチに共感してくれた企業と一緒にオリジナルの香りを開発している。

WWD:調香や生産はどこで行う?

ユーチン:調香は台湾。日本で販売する製品は、北海道で生産しているが、それ以外は台湾で生産している。

WWD:なぜ日本で生産するのか?

ユーチン:日本のお客さまの5〜6割がリピーターで、「サロン ド パルファン」に出展してから新規顧客も増えた。日本にはファンが多く、日本は私にとって第二の故郷のようなもの。だから、日本生産にすることで少しでも日本に還元できればと思う。今後、日本で路面店の出店も視野に入れている。

WWD :今後どのようにブランドを育てたいか?

ユーチン:アジアで香りの文化がもっと広まれば嬉しい。茶香水をどこか懐かしいクラシックな存在にできればと思う。

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「コンプレックスコン」日本開催の可能性も? 香港版の主催者に聞く展望

ストリートカルチャーとポップカルチャーの祭典「コンプレックスコン(ComplexCon)」が、3月21〜23日に香港で開催される。香港での開催は、昨年3月に続き2回目。

米国開催の「スニーカーの祭典」とは様相が異なり、香港版の主役はポップカルチャーと現代アートだ。昨年開催時は村上隆とBLACKPINKのコラボグッズなどが話題を呼んだが、今回の「コンプレックスコン香港 2025」でも現代アーティストのダニエル・アーシャム(Daniel Arsham)がグローバル・アーティスティック・ディレクターを務め、韓国の5人組ガールズグループNewJeans改め「NJZ」がライブイベントのヘッドライナーとして出演するなど、すでに期待の熱は高まっている。

香港版の運営を手がけるコンプレックスチャイナのボニー・チャン・ウーCEOに、前回の反響や今後の展望、日本開催の可能性について聞いた。

WWD:昨年初開催された「コンプレックスコン香港」。来場者数や収益は、計画や予想と比べてどうだった?

ボニー・チャン・ウーCEO:開催3日間で来場者は3万人以上にのぼり、収益も当初の想定を上回る結果でした。特に人気ブランドのブースの商品は、初日でソールドアウトするほどの反響でした。2日目に訪れた来場者の中には、希望の商品を手に入れられず、がっかりされた方もいたようです。

これは「グッドプロブレム」、つまり今後の課題として改善したいポイントでもあります。今年は、より多くの商品を用意し、より多くの来場者が満足できる体験を提供したいと考えています。

WWD:チケットは優先入場順に価格が決められ、最高額のものは日本円で10万円近かった。来場者の反応はどうだったか?

ボニー:高価格帯のチケットについては、私たちは決して「攻めすぎた価格」だとは考えていません。というのも、コンプレックスコンのコンセプトは「トップクオリティー」です。最高の体験を提供するために、ゲストのクオリティー、イベントの演出、コンテンツの質を徹底的に高めていたからです。

チケット価格は、「アジア開催」ということも考慮しています。例えば、ラスベガスでのコンプレックスコンに参加するとしたら、飛行機代やホテル代も含めてはるかに高くつくでしょう。それを考えれば、多くの人にとってより手の届きやすい、“お得”なイベントになっていたはずなんです。結果的に、来場者の満足度も高く、チケット価格に見合うだけの価値を提供できたと確信しています。

WWD:米国のコンプレックスコンは「スニーカーの祭典」の印象が強いが、香港版はアートが主役。改めて、その意図は?

ボニー:コンプレックスコンの中心にあるのは「若いエネルギー」です。そして、若い世代の自己表現は近年、スニーカーに限らず、さまざまな形で表れるようになっています。現代アートは、その一つの象徴でしょう。スニーカーもファッションも、映画、デジタルアートなどと密接に関わっています。つまり、コンプレックスコンは単なる「スニーカーフェス」ではなく、より広範なカルチャーの祭典へと進化しているのです。第2回はこのアートの側面を強化し、世界のクリエイターが集うハブとしての存在感をさらに高めていきたいと思っています。

日本開催の可能性は?

WWD:前回、アジアの若者文化について新たな発見や収穫はあった?

ボニー:アジアの若者たちは、やはり強い自己表現の欲求を持っていますね。ファッションや音楽を通じて、自分のスタイルを発信し、ネットワークを広げようとしているのです。

コンプレックスコンは、単なる消費の場ではなく、文化的なプラットフォームとなる可能性を秘めています。アジア各地に点在する、影響力のあるインフルエンサーやラッパー、デザイナーとリアルに対面できる機会は、香港のようなアジアの中心に位置する都市だからこそ実現できるもの。昨年は会場の各所でランダムに出現するKOLやアーティストたちが生み出す熱狂から、それが見て取れました。

今回は、新しい潮流として注目している東南アジアのクリエイターにもスポットを当て、アジア全体のユースカルチャーを盛り上げたいですね。

WWD:日本開催の可能性はあるか。

ボニー:まず、日本はコンプレックスコンにとって非常に重要な市場です。日本のファッション、アート、アニメ、音楽は世界中に影響を与えており、「日本発のカルチャー」はコンプレックスコンのDNAとも深く結びついています。

日本開催について、具体的な開催地や時期を明言することはできません。しかし開催するとしたら、日本のクリエイターやブランドをより多く巻き込み、蓄積してきたレガシーと新しい化学反応を世界に発信できる場にしたいと考えています。

アジア全体を巻き込むムーブメントへ

WWD:その先の展望は。

ボニー:先ほども少し触れた東南アジアは市場が急成長しており、マレーシア、インドネシア、タイ、フィリピンなどからも、「コンプレックスコン」の開催について強い関心が寄せられています。

コンプレックスコンは、単なるイベントではなく、「アジアのカルチャーを世界に発信するハブ」になることを目指しています。アジアの若者たちに「世界に通用する」という自信を持ってもらうためのプラットフォームを作りたいと考えています。

米国がヒップホップや音楽で世界をリードしてきたように、今やK-POPや日本のファッション、アニメが国際的に注目されています。コンプレックスコンが、アジアのクリエイティブな才能を世界に届けるきっかけになることを願っています。

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映画「ケナは韓国が嫌いで」が描く「韓国社会の生きづらさ」 チャン・ゴンジェ監督インタビュー 

韓国で2015年に刊行され、ベストセラーとなった小説「韓国が嫌いで」を原作に、現代の韓国社会を舞台に生まれ育った場所で生きづらさを抱える女性が、海外で人生を模索する姿を描いた映画「ケナは韓国が嫌いで」が3月7日から日本でも公開される。

ストーリーは、ソウル郊外の小さな団地で家族と暮らす28歳の会社員ケナは、生まれ育った韓国に嫌気がさし、一念発起して単身ニュージーランドへと移り住む。そこでかけがえのない友人と出会い、新しい生活を手にしたケナは自分の居場所を見つけていく……というもの。

監督は「第2のホン・サンス」や「韓国の是枝裕和」と称され、奈良県を舞台にした映画「ひと夏のファンタジア」(15年/プロデュース:河瀨直美)でも知られるチャン・ゴンジェが務める。主人公ケナを演じるのは、ポン・ジュノ監督「グエムル-漢江の怪物-」(06年)に中学生の娘役で出演し、天才子役として鮮烈な印象を残したコ・アソン。

今回チャン監督に本作を通して描いた韓国社会の生きづらさや日本と韓国の映画業界の違いについて、話を聞いた。

PROFILE: チャン・ゴンジェ(장건재、Jang Kun-jae)/映画監督

PROFILE: 1977年生まれ。韓国映画アカデミー撮影専攻卒業。長編デビュー作「十八才」(2009年)でバンクーバー国際映画祭、ペサロ国際映画祭、ソウル独立映画祭などで受賞し、その後「眠れぬ夜」(12年)は全州国際映画祭大賞および観客賞、エジンバラ映画祭、ナント三大陸映画祭などで受賞。日本の奈良を舞台に撮影した日韓合作映画「ひと夏のファンタジア」(14年)は、釜山国際映画祭、ムジュ山里映画祭、韓国評論家協会賞、イタリア・アジアティカ映画祭などで受賞し、韓国独立映画協会の「今年の独立映画」に選ばれる。濱口竜介監督の著書「カメラの前で演じること」(22年)の韓国語版出版も手掛ける。

「ケナは韓国が嫌いで」で描きたかったこと

——チャン・ガンミョンさんの「韓国が嫌いで」という小説を映画にしようと思ったきっかけについて教えてください。

チャン・ゴンジェ(以下、チャン):2015年くらいだったんですが、私自身が「こんな状態で仕事をしていたら、いつか死んでしまうのではないか」という思いを抱きながら暮らしていたことがあったんです。そんなとき、この小説を読んで、ここにも同じような人がいたんだと思って、それで映画化したいと思いました。

——映画化にあたって、実際に取材をされながら撮られたそうですが、取材で何を感じられましたか?

チャン:韓国というのは、女性が生きていくには疲れる国だなと感じました。そして、変化を望む人は冒険を試みるんですけれども、変化を望まない人は秩序を守ろうとしているんだなと思いました。

——シナリオを何度も書き直したとも聞きました。どのような部分を書き直したんでしょうか?

チャン:胸の痛む話なんですが、投資してもらうのに時間がかかってしまったんです。その結果、独立映画として制作をすることになり、公共機関に制作費の申請をしました。その審査に受かるために、シナリオを書き直すといった試みを行いました。長い時間がかかってしまいましたが、この作品を必ず作りたいという思いはありました。

——そんな中、ここは絶対に変えられないと思ったところはありますか?

チャン:ニュージーランドでの地震のシーン、キョンユンのシーン、幸せの伝道師チェ・ボクヒのシーン、そしてケナとインドネシアから来た男性との会話のシーンは必ず描きたいなと思いました。

——インドネシアの男性との会話は、各国のアジア人の留学の背景にも、格差があるということが見えて興味深かったです。ケナの友人で、大学を卒業してもまだ試験勉強を続けているキュンユン、「お金より幸せを集めろ」という考え方をメディアで広めている幸福の伝道師チェ・ボクヒ、ニュージーランドで出会う韓国からの移民の家族のシーンについては、どのような狙いがあったのでしょうか。

チャン:幸福の伝道師に関しては、韓国では、ここ数年の間にあの伝道師のように、大衆に向かってなんらかの講演をする市場が大きくなっているんです。あのシーンは、人々がオピニオンリーダーの言葉に従うというような心理を反映しているんですけれども、私はそのような構造について、批判的な姿勢を持っていまして、それでぜひ、このような人物を登場させたいなと思いました。

ニュージーランドでケナが出会う家族、特に父親のサンウに関しては、韓国では中年の男性もケナのように韓国を去る方が多いんですね。ほとんどの方は移民として韓国を出ていくんですけど、なかなか適応することができない。取材を通して、そのような人の存在を知ったことで、このキャラクターが出来上がりました。

いつまでも試験勉強をしているキョンユンなんですけれども、私自身、非常に感情移入をしている人物です。キョンユンという人物は、最後までやれば必ずかなうと思っている人なんですね。そして、現実でも、彼の信じているようなストーリーが韓国社会では支配的なんです。でも私はそのようにできなくてもいいと思っているんです。ケナとキョンユンも、そこまで親しい友人というわけではないんですね。でもときどき思い出すくらいの。

——ときどき思い出す彼は、韓国の競争社会の中で諦めきれず、でも実は疲弊してしまっている人を象徴しているわけですね。ある意味、ケナの次に重要な人物のようにも思えました。監督自身は今の韓国社会をどう見ていますか?

チャン:韓国というのは、多様性というものに対しての包容力が小さいと思います。性別、ジェンダー、性的志向、地域、学歴、人種、そういったものに対しての差別、嫌悪、排除がまん延していると思います。以前よりはおおっぴらに嫌悪することは減ってきているかもしれないけれど、隠密に巧みに今も続いていると思います。

——監督は、表現活動をする上で、ケナのように外に出て行こうという気持ちはありますか?

チャン:そういったものを主張するために作った映画ではないんですが、私もケナのように冒険したい、外に出て行きたいという憧れはあります。僕自身は、行動に移せない人間なので、今回ケナを通して表現したいと思いました。

日本と韓国の映画業界について

——監督は、日本映画や日本人監督がお好きということで、特に濱口竜介監督の映画がお好きだそうですね。

チャン:今、北東アジアにおいて一番重要な方だと思っています。私は彼の「寝ても覚めても」(韓国のタイトルは「아사코、アサコ」」が韓国で公開されてから見始めました。初期の作品も好きで、他の監督とは何かが違うなとずっと感じていました。監督の映画には、異物感や違和感のようなものがあって、あるときに予想もしなかったことが起こるんですけど、そういう要素が好きだなと感じています。最近は、山中瑶子監督のような日本の90年代生まれの監督にも関心を持っています。

――監督が日本映画に感じる特徴とはどんなところでしょうか?

チャン:独立映画については、制作費の調達に違いがあると感じます。韓国では独立映画は公共機関の支援によって作られますが、日本はもっと自主的につくられているなと思います。公共機関の支援なく、資金調達の多様化が存在しているように感じます。

——日本の側からすると、韓国で公共機関が資金を出すということは良い仕組みであるとも感じていたのですが、そうとも言えないところが、それ以外にもあるのでしょうか。

チャン:日本には、黒沢清監督、三宅唱監督、濱口竜介監督などが、同時代に存在していて、その上、新しい監督も次々と出てきているように感じています。韓国では、パク・チャヌク監督やポン・ジュノ監督の後続の世代が力を持っていない、そういう違いがあると思います。また、韓国の投資家が韓国の映画市場に魅力を感じていないと言うこともあると思います。というのも、韓国の観客が今、あまり映画館に足を運んでいなくて、コロナ禍以降の市場がまだ回復していないんです。

――日本からすると、「パラサイト 半地下の家族」が世界を席巻したり、近年も「ソウルの春」のような映画が1000万人を超えてヒットしたりと、韓国映画の発展をまぶしく見ているところはあるんですが、そこだけ見ていたのでは見えない部分があるということなのでしょうか。

チャン:そうなんです。大きくヒットした映画以外の収益はマイナスのものが多いんです。

——そんな中、監督はこれからの韓国映画界で、どのように活動していこうとお考えでしょうか。

チャン:私としては、映画の規模は重要ではなく、どのような映画を作りたいかが重要であると思っていて、今後も規模の大小に関わらず、自分の作りたい映画を作っていければと思います。

——現在、関心のあるテーマというのはありますか?

チャン:先ほども少し申し上げたんですけど、やっぱり多様化に対する包容力不足を感じるし、これが正しいあり方であり、これは正しくないあり方であるとすぐに分けるような社会について考える映画を作ってみたいと思っています。そういった話を、深刻に扱うのではなく、大衆性のある親しみの持てる雰囲気の中に描きたいという思いがあります。

——それは「ケナは韓国が嫌いで」でも感じました。監督は去年、映画祭で、菊地成孔さんとトークイベントをされていました。菊地さんは、監督のことをホン・サンス監督になぞらえらえて語られていましたが、それはどのように受け止められていますか?

チャン:偉大な監督なので、引き合いに出してもらうなんてとんでもないことだと思います。でも、そう言ってもらって、とてもうれしく思いました。先輩の映画を尊敬していますし、継承していかなくてはいけないと思っています。でも、同時に打ち壊してもいかないといけないとも思っています。先輩の映画を超えるものを作ると言うよりも、先輩が作っていないものを作ったり、別の道を模索したり、新しいものを作っていくべきだなと考えています。

——韓国や日本のようなアジアだけでなく、アメリカを見ても、多様性への許容力は弱まっているような気がしています。そんな今、この映画をどのような人に見てほしいと思われますか?

チャン:そういった特定の観客層のことを考えながら作った映画ではないんです。でも、大人世代に何かを感じてほしいとは思いました。私自身もそうなんですけど、大人の世代、中年の世代は、ケナのような若い世代と比べて、そこまで韓国社会に生きづらさを感じていないんじゃないかと思うんです。だから、大人の世代に対して、問いかけていかないといけないと思っています。若い人たちがなぜ韓国を去ろうとしているのかということについて、大人の世代の人たちにもう一度考えてほしいなと思っています。

映画「ケナは韓国が嫌いで」

■「ケナは韓国が嫌いで」
3月7日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
監督・脚本 :チャン・ゴンジェ
原作:チャン・ガンミョン著「韓国が嫌いで」
出演:コ・アソン、チュ・ジョンヒョク、キム・ウギョム、イ・サンヒ、オ・ミンエ、パク・スンヒョン他
韓国劇場公開日:2024年8月28日
配給:アニモプロデュース
2024年/韓国/韓国語・英語/107 分/カラー/DCP/
https://animoproduce.co.jp/bihk/
©︎2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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映画「ケナは韓国が嫌いで」が描く「韓国社会の生きづらさ」 チャン・ゴンジェ監督インタビュー 

韓国で2015年に刊行され、ベストセラーとなった小説「韓国が嫌いで」を原作に、現代の韓国社会を舞台に生まれ育った場所で生きづらさを抱える女性が、海外で人生を模索する姿を描いた映画「ケナは韓国が嫌いで」が3月7日から日本でも公開される。

ストーリーは、ソウル郊外の小さな団地で家族と暮らす28歳の会社員ケナは、生まれ育った韓国に嫌気がさし、一念発起して単身ニュージーランドへと移り住む。そこでかけがえのない友人と出会い、新しい生活を手にしたケナは自分の居場所を見つけていく……というもの。

監督は「第2のホン・サンス」や「韓国の是枝裕和」と称され、奈良県を舞台にした映画「ひと夏のファンタジア」(15年/プロデュース:河瀨直美)でも知られるチャン・ゴンジェが務める。主人公ケナを演じるのは、ポン・ジュノ監督「グエムル-漢江の怪物-」(06年)に中学生の娘役で出演し、天才子役として鮮烈な印象を残したコ・アソン。

今回チャン監督に本作を通して描いた韓国社会の生きづらさや日本と韓国の映画業界の違いについて、話を聞いた。

PROFILE: チャン・ゴンジェ(장건재、Jang Kun-jae)/映画監督

PROFILE: 1977年生まれ。韓国映画アカデミー撮影専攻卒業。長編デビュー作「十八才」(2009年)でバンクーバー国際映画祭、ペサロ国際映画祭、ソウル独立映画祭などで受賞し、その後「眠れぬ夜」(12年)は全州国際映画祭大賞および観客賞、エジンバラ映画祭、ナント三大陸映画祭などで受賞。日本の奈良を舞台に撮影した日韓合作映画「ひと夏のファンタジア」(14年)は、釜山国際映画祭、ムジュ山里映画祭、韓国評論家協会賞、イタリア・アジアティカ映画祭などで受賞し、韓国独立映画協会の「今年の独立映画」に選ばれる。濱口竜介監督の著書「カメラの前で演じること」(22年)の韓国語版出版も手掛ける。

「ケナは韓国が嫌いで」で描きたかったこと

——チャン・ガンミョンさんの「韓国が嫌いで」という小説を映画にしようと思ったきっかけについて教えてください。

チャン・ゴンジェ(以下、チャン):2015年くらいだったんですが、私自身が「こんな状態で仕事をしていたら、いつか死んでしまうのではないか」という思いを抱きながら暮らしていたことがあったんです。そんなとき、この小説を読んで、ここにも同じような人がいたんだと思って、それで映画化したいと思いました。

——映画化にあたって、実際に取材をされながら撮られたそうですが、取材で何を感じられましたか?

チャン:韓国というのは、女性が生きていくには疲れる国だなと感じました。そして、変化を望む人は冒険を試みるんですけれども、変化を望まない人は秩序を守ろうとしているんだなと思いました。

——シナリオを何度も書き直したとも聞きました。どのような部分を書き直したんでしょうか?

チャン:胸の痛む話なんですが、投資してもらうのに時間がかかってしまったんです。その結果、独立映画として制作をすることになり、公共機関に制作費の申請をしました。その審査に受かるために、シナリオを書き直すといった試みを行いました。長い時間がかかってしまいましたが、この作品を必ず作りたいという思いはありました。

——そんな中、ここは絶対に変えられないと思ったところはありますか?

チャン:ニュージーランドでの地震のシーン、キョンユンのシーン、幸せの伝道師チェ・ボクヒのシーン、そしてケナとインドネシアから来た男性との会話のシーンは必ず描きたいなと思いました。

——インドネシアの男性との会話は、各国のアジア人の留学の背景にも、格差があるということが見えて興味深かったです。ケナの友人で、大学を卒業してもまだ試験勉強を続けているキュンユン、「お金より幸せを集めろ」という考え方をメディアで広めている幸福の伝道師チェ・ボクヒ、ニュージーランドで出会う韓国からの移民の家族のシーンについては、どのような狙いがあったのでしょうか。

チャン:幸福の伝道師に関しては、韓国では、ここ数年の間にあの伝道師のように、大衆に向かってなんらかの講演をする市場が大きくなっているんです。あのシーンは、人々がオピニオンリーダーの言葉に従うというような心理を反映しているんですけれども、私はそのような構造について、批判的な姿勢を持っていまして、それでぜひ、このような人物を登場させたいなと思いました。

ニュージーランドでケナが出会う家族、特に父親のサンウに関しては、韓国では中年の男性もケナのように韓国を去る方が多いんですね。ほとんどの方は移民として韓国を出ていくんですけど、なかなか適応することができない。取材を通して、そのような人の存在を知ったことで、このキャラクターが出来上がりました。

いつまでも試験勉強をしているキョンユンなんですけれども、私自身、非常に感情移入をしている人物です。キョンユンという人物は、最後までやれば必ずかなうと思っている人なんですね。そして、現実でも、彼の信じているようなストーリーが韓国社会では支配的なんです。でも私はそのようにできなくてもいいと思っているんです。ケナとキョンユンも、そこまで親しい友人というわけではないんですね。でもときどき思い出すくらいの。

——ときどき思い出す彼は、韓国の競争社会の中で諦めきれず、でも実は疲弊してしまっている人を象徴しているわけですね。ある意味、ケナの次に重要な人物のようにも思えました。監督自身は今の韓国社会をどう見ていますか?

チャン:韓国というのは、多様性というものに対しての包容力が小さいと思います。性別、ジェンダー、性的志向、地域、学歴、人種、そういったものに対しての差別、嫌悪、排除がまん延していると思います。以前よりはおおっぴらに嫌悪することは減ってきているかもしれないけれど、隠密に巧みに今も続いていると思います。

——監督は、表現活動をする上で、ケナのように外に出て行こうという気持ちはありますか?

チャン:そういったものを主張するために作った映画ではないんですが、私もケナのように冒険したい、外に出て行きたいという憧れはあります。僕自身は、行動に移せない人間なので、今回ケナを通して表現したいと思いました。

日本と韓国の映画業界について

——監督は、日本映画や日本人監督がお好きということで、特に濱口竜介監督の映画がお好きだそうですね。

チャン:今、北東アジアにおいて一番重要な方だと思っています。私は彼の「寝ても覚めても」(韓国のタイトルは「아사코、アサコ」」が韓国で公開されてから見始めました。初期の作品も好きで、他の監督とは何かが違うなとずっと感じていました。監督の映画には、異物感や違和感のようなものがあって、あるときに予想もしなかったことが起こるんですけど、そういう要素が好きだなと感じています。最近は、山中瑶子監督のような日本の90年代生まれの監督にも関心を持っています。

――監督が日本映画に感じる特徴とはどんなところでしょうか?

チャン:独立映画については、制作費の調達に違いがあると感じます。韓国では独立映画は公共機関の支援によって作られますが、日本はもっと自主的につくられているなと思います。公共機関の支援なく、資金調達の多様化が存在しているように感じます。

——日本の側からすると、韓国で公共機関が資金を出すということは良い仕組みであるとも感じていたのですが、そうとも言えないところが、それ以外にもあるのでしょうか。

チャン:日本には、黒沢清監督、三宅唱監督、濱口竜介監督などが、同時代に存在していて、その上、新しい監督も次々と出てきているように感じています。韓国では、パク・チャヌク監督やポン・ジュノ監督の後続の世代が力を持っていない、そういう違いがあると思います。また、韓国の投資家が韓国の映画市場に魅力を感じていないと言うこともあると思います。というのも、韓国の観客が今、あまり映画館に足を運んでいなくて、コロナ禍以降の市場がまだ回復していないんです。

――日本からすると、「パラサイト 半地下の家族」が世界を席巻したり、近年も「ソウルの春」のような映画が1000万人を超えてヒットしたりと、韓国映画の発展をまぶしく見ているところはあるんですが、そこだけ見ていたのでは見えない部分があるということなのでしょうか。

チャン:そうなんです。大きくヒットした映画以外の収益はマイナスのものが多いんです。

——そんな中、監督はこれからの韓国映画界で、どのように活動していこうとお考えでしょうか。

チャン:私としては、映画の規模は重要ではなく、どのような映画を作りたいかが重要であると思っていて、今後も規模の大小に関わらず、自分の作りたい映画を作っていければと思います。

——現在、関心のあるテーマというのはありますか?

チャン:先ほども少し申し上げたんですけど、やっぱり多様化に対する包容力不足を感じるし、これが正しいあり方であり、これは正しくないあり方であるとすぐに分けるような社会について考える映画を作ってみたいと思っています。そういった話を、深刻に扱うのではなく、大衆性のある親しみの持てる雰囲気の中に描きたいという思いがあります。

——それは「ケナは韓国が嫌いで」でも感じました。監督は去年、映画祭で、菊地成孔さんとトークイベントをされていました。菊地さんは、監督のことをホン・サンス監督になぞらえらえて語られていましたが、それはどのように受け止められていますか?

チャン:偉大な監督なので、引き合いに出してもらうなんてとんでもないことだと思います。でも、そう言ってもらって、とてもうれしく思いました。先輩の映画を尊敬していますし、継承していかなくてはいけないと思っています。でも、同時に打ち壊してもいかないといけないとも思っています。先輩の映画を超えるものを作ると言うよりも、先輩が作っていないものを作ったり、別の道を模索したり、新しいものを作っていくべきだなと考えています。

——韓国や日本のようなアジアだけでなく、アメリカを見ても、多様性への許容力は弱まっているような気がしています。そんな今、この映画をどのような人に見てほしいと思われますか?

チャン:そういった特定の観客層のことを考えながら作った映画ではないんです。でも、大人世代に何かを感じてほしいとは思いました。私自身もそうなんですけど、大人の世代、中年の世代は、ケナのような若い世代と比べて、そこまで韓国社会に生きづらさを感じていないんじゃないかと思うんです。だから、大人の世代に対して、問いかけていかないといけないと思っています。若い人たちがなぜ韓国を去ろうとしているのかということについて、大人の世代の人たちにもう一度考えてほしいなと思っています。

映画「ケナは韓国が嫌いで」

■「ケナは韓国が嫌いで」
3月7日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
監督・脚本 :チャン・ゴンジェ
原作:チャン・ガンミョン著「韓国が嫌いで」
出演:コ・アソン、チュ・ジョンヒョク、キム・ウギョム、イ・サンヒ、オ・ミンエ、パク・スンヒョン他
韓国劇場公開日:2024年8月28日
配給:アニモプロデュース
2024年/韓国/韓国語・英語/107 分/カラー/DCP/
https://animoproduce.co.jp/bihk/
©︎2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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現代を生きるパリジェンヌ「ビュリー」のブランドディレクターに聞く美容法と愛用品

フランス発「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー(OFFICINE UNIVERSELLE BULY)」(以下、ビュリー)は、ブランドディレクターをヴィクトワール・ドゥ・タイヤック(Victoire de Taillac)が夫のラムダン・トゥアミ(Ramdane Thuami)と2014年に復活させた老舗フランス総合美容専門店だ。フレグランスやスキンケア、ブラシ類まで幅広くそろえ、独特の世界観で人気が高い。ヴィクトワールはアレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の「三銃士」の着想源となった王室衛兵の末裔。5人兄弟の末っ子で、長男のピエールは出版社を運営、長女のソフィーは鈴木陸三サザビーリーグ創業者の妻、3女のマリーエレーヌはジュエリーブランド「マリーエレーヌ ドゥ タイヤック(MARIE-HELLENE DU TAILLAC)」(以下、MHT)のデザイナー、次女ガブリエルは「MHT」のフランス社を運営している。ヴィクトワールは「ビュリー」のディレクターとして活躍する傍ら、3人の子どもの母親としての顔も持つ。「日本は、私にとって特別な場所」と語る彼女の素顔は、自然体でとても気さくな現代のパリジェンヌだ。新著「美しくある秘訣」の発表会で来日したヴィクトワールに、新著やビューティルーティンについて聞いた。

パリジェンヌの起源と19世紀の美容法を紐解く本

WWD:「ビュリー」が、19世紀のフランス文化や嗜みといったものを発信する理由は?

タイヤック:「ビュリー」のルーツは19世紀で、その美意識やアイデアが原動力。それを分かち合いたいと思い、当時の古書の美容法など面白いことをピックアップして書籍にしている。それは、現代女性にとっても魅力的なものだと思うし、小説を読む感覚でも楽しんでもらえると思う。

WWD:新著「美しくある秘訣」のベル・エポック時代におけるパリジェンヌの美容習慣は、現代にどのように生かせると思うか?

タイヤック:一般的に話されている“パリジェンヌ”という言葉はベルエポック時代に始まったと言われている。特定の人物がいるわけではないが、素敵な女性の代名詞のように使われる。「美しくある秘訣」は、パリジェンヌの始まりや当時のパリジェンヌ像を紐解く本。時代が違うから、当時のパリジェンヌの視点を通して、現代を見ることができるので面白いと思う。

美容用品は香りが大切、フレグランスも欠かせない

WWD:自身のビューティ・ルーティンは?

タイヤック:心地良さに気を配り、自分の状態を見ながら必要に応じてルーティンを変える。血行を良くするボディーブラッシングや舌のケアなども大切。スキンケアは、クレンジングは軽めで、水分補給をしっかり。化粧水の後にフェイスクリームを塗ることもあれば、オイルを使うこともある。長時間の移動の後は、シアバターでマスクする。特に、美容用品の香りには気をつかうし、気分を変えたり、アップしたりするのにフレグランスは欠かせない。気分に応じて水性香水やボディーミルクを使い分けている。

WWD:愛用している「ビュリー」の製品は?

タイヤック:化粧水はローズの香りの“オー・スゥーベルフィヌ”を愛用している。バラの蒸留水とアロエベラ配合で控えめなバラの香りが心地いい。この商品は、品切れになる店もあるほど人気だ。フェイスクリームは、“ポマード・ヴィジナル”を使用している。全てのスキンタイプに使えるベーシックなクリームだ。肌が乾燥気味だと感じるときは、“ラズベリーシードオイル”を使う。オイルは自然派美容には大切で、いつも持ち歩いている。長時間のフライトの後は、“シアバター”でマスクする。“シアバター”は水分と油分を補ってくれる万能のアイテムでリップクリームとしても使える。

WWD:香りには気を使うようだが、お気に入りの「ビュリー」の香りは?

タイヤック:水性香水“オー・トリプル”は、控えめで優しくベロアのように肌に馴染むので日本人にもぴったりだと思う。中でもお気に入りは“ミエル・ダングルテール”。ハチミツとシダーウッド、アンバーから構成されたパウダリーでウッディな香り。同じくウッディ系では、“セードル・デュ・リバン”もよく使う。バーベナとピンクペッパー、ベチバーが織りなす落ち着く香り。華やかな気分になりたいときは、“チュベローズ・デュ・メキシク”を選ぶ。チュベローズは白い花の女王と呼ばれ、クローブとバニラがミックスされたうっとりする香りだ。

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アパレルリサイクルのショーイチ、業界課題であるバッグやシューズのリサイクルにも注力

余剰在庫や顧客から回収した衣料品のリサイクルを目指すアパレルメーカーや小売企業は着実に増えているが、次の段階として、いま課題となっているのがバッグやシューズなどの服飾雑貨類のリサイクルだ。服飾雑貨は、レザーや合皮、ゴムなどを組み合わせて使用しているケースが多いため、繊維である服に比べてリサイクルが難しい。大阪を拠点に、アパレル関連のリサイクル事業を手掛けるショーイチ(山本昌一社長)は、まさにこの課題にも取り組んでいる。

2000万円かけて粉砕機を導入

ショーイチがリサイクル事業でタッグを組む、反毛・粉砕工場の同心工業(大阪・泉大津)。同社の工場の一角に、ショーイチが借りている専用の建屋がある。取材で訪ねた際はブーツやパンプスのアッパー、スニーカーやサンダルの厚底ソール、ハンドバッグ、麦わら帽子などをまさにリサイクルしているところだった。それらをまずは粗く裁断した後、粉砕機にかけていく。粉砕機の下からは、すぐに色付きの粒がところどころ混じったグレーのわたが出てきた。レザーも合皮もゴムも全て細かく砕かれて、わたの一部になっている。このわたを圧縮してフェルトにし、自動車用などの工業資材にするのだという。

「困っている人の役に立ちたい」

同心工業のショーイチ専用建屋に、この粉砕機が導入されたのは2024年11月のこと。「導入には2000万円ほどかけた」とショーイチの山本社長は話す。「余剰在庫や古着といった、服のリサイクルを手掛ける企業であっても、バッグやシューズのリサイクルは行っていないというケースは多い。服飾雑貨のリサイクルには、硬い素材にも対応できる粉砕機を導入することが必要で、その分ハードルが高いのだと思う。でも、服の次は必ず雑貨のリサイクルが求められるようになる。雑貨のリサイクルで、どうすればいいか困っている方たちのお役に立ちたい」と山本社長は話す。

化粧品容器のリサイクルも一部を担う

バッグやシューズと共に、化粧品のリサイクルも業界としては課題の一つだ。「化粧品の余剰在庫は基本的に量が多く、常に引き受けられるわけではない」(山本社長)が、ショーイチでは化粧品容器のリサイクル事業も一部を担うようになっている。具体的には、企業在庫である未使用品の回収、ラベルはがし、中身を出して簡易洗浄、素材ごとの分別の工程まで。舞台はショーイチグループで運営する就労支援施設だ。

同就労支援施設を訪れると、プラスチックの化粧水ボトルに貼られた商品名のパッケージやシールをブランドが毀損しないようにはがしてから、容器と中身を分け、容器を簡易洗浄する作業が行われていた。これらは手作業でしか行えないため、化粧品のリサイクルは進んでいないのが現状だ。ショーイチはこの手作業の部分を請け負って、業界の共通課題解決の一端を担い、同時に就労支援施設に仕事を作っている。

簡易洗浄したプラスチック容器は回収業者に渡し、業者のもとで再度ペレットからプラスチック製品に加工される。化粧水の中身は紙などに吸わせて、別途業者のもとでサーマルリサイクル処理を行っているという。

「中小企業だからこそ、
いち早く世の中の課題に対応」

「リサイクルの業界には、専業の大手企業もいくつかある。一方で、ショーイチはリサイクル専業ではないし、規模も中小だ。だからこそ、リサイクル大手がまだあまりやっていない分野にも挑戦して、いち早く世の中の課題に対応していくことが大切だと思っている」と山本社長。「ショーイチに頼めば、ブランドの毀損も防ぎつつ、服だけでなく服飾雑貨や化粧品のリサイクルも可能だということを広く伝えていきたい」。

問い合わせ先
ショーイチ
050-3151-5247

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「肌に気持ちよく、体は自由で、心は柔らかく」 年齢や体形を超えて楽しむ下着「ユンヌフィグ」代表に聞く

PROFILE: 山本千夏/ユンヌフィグ代表

山本千夏/ユンヌフィグ代表
PROFILE: (やまもと・ちなつ)埼玉県生まれ。両親が運営するギャラリーに入社し、ヨーロッパアンティークの家具などを販売する傍ら、展覧会やコンサートの企画運営に携わる。デザイナーの猿山修が主宰するギュメレイアウトスタジオ+さる山で、広報、企画運営などを担当。執筆も行う。2018年から現職 PHOTO:SHUHEI SHINE

ランジェリーを中心に展開する「ユンヌフィグ(UNEFIG.)」はシルクを始め、上質の天然素材を使用したランジェリーやウエアを提案するブランドだ。同ブランドは、ギャラリーに勤務していた山本千夏代表が2018年にスタート。デザインを勉強したことはないが、布帛のシルクを使用したシンプルな下着を約1年かけて開発した。ワイヤーもホックもなくかぶって着用するブラジャーは、パッドの代わりにバストトップに何枚もシルクを重ねている。パンティーも布帛を使用しながらもフィット感を考え抜いて制作した。素材選びから縫製までこだわり、丁寧に作られるランジェリーには、山本代表の「肌には気持ち良く、体は自由で、心は柔らかく」という思いが込められている。自社ECや東京・蔵前のアトリエで販売。現在では、インスタグラムで引き合いのあったセレクトショップを中心に国内外10店舗で販売している。山本代表に、「ユンヌフィグ」について聞いた。

年齢や体形で装う楽しみをあきらめないで

WWD:「ユンヌフィグ」を立ち上げたきっかけは?

山本千夏ユンヌフィグ代表(以下、山本):洋服は選択肢がたくさんあるが、下着は、自分が欲しいと思うものがなかった。友人も同じ意見。ワイヤー入りのブラジャーとなると専門的な知識や技術が必要だが、洋服の延長線にあるようなものであれば作れると思った。

WWD:ブランドのコンセプトは?

山本:下着は必ず身に着ける肌に近いもの。下着=ファンデーション。ファンデーションとは土台や基礎という意味だ。だから、着る人が何度も手に取り、その人の礎になるようなシンプルなランジェリーを提供したい。人が最も美しく見えるのは、何を着ているか忘れて自然体でいるとき。「着けていることを忘れる」くらい肌や体との一体感があり、締め付けない着心地にこだわっている。機能だけでなく着ける楽しみがあり、体も心も自由になれるようなランジェリーを提供したい。

WWD:ターゲットは?

山本:通常は「無印良品(MUJI)」や「ユニクロ(UNIQLO)」で下着を購入しているが、どこか物足りないと感じているお客さまが多い。シルクが好きな人やファッション好きも多い。リラックス用やナイトブラとして購入される場合もある。また、ミニマルなデザインなので、ファッションの一部として透ける洋服の下などに着用する目的で購入する人もいる。日本では、いつまでも若くいることがいいとされるが、そうではない美しさもある。若くないから、体形がこうだからと、装う楽しさをあきらめる必要はない。「ユンヌフィグ」を通して、年齢、体形に関係なく、自然体でいられる快適な着け心地と、下着を着ける楽しさを届けられればと思う。

WWD:商品構成や価格帯は?コレクションは年に何回?

山本:下着は季節感があまりないものなので、コレクションは1年に1回。定番はブラジャー、パンティーがそれぞれ3型、タンクトップが2型。キャミソールやスリップなどを作るときもある。黒、グレー、ベージュが定番色で、年に1回、差し色としてブラウンやホットピンクなどが登場する。価格は2万〜3万円程度。サイズ展開はS、M、L。好みのフィット感は人それぞれ。だから、お客さまにより選ぶサイズはまちまちだ。

WWD:ウエアもあるようだが?

山本:今年初めて本格的にウエアを出した。トレンドに左右されず、3シーズン着用できるものを6型作った。一部ユニセックスで、下着の延長のような感覚で、部屋と外の境がなくパジャマとしても、レストランに行くときにも着用できる。また、1枚でもあらゆる着方ができるデザインにしている。価格は4万〜8万円程度。

妥協ない素材選びと縫製、無駄なく丁寧に届ける

WWD:デザインやモノ作りへのこだわりは?

山本:身に着ける人がきれいに見え、洋服の邪魔をしないデザインを心掛けている。シルクやコットン、シルクカシミヤなど、素材は妥協せずに高くてもいいものを選ぶ。下着は洗濯頻度が多く、ストレッチ素材だとすぐに使用感が出る。だから、作るのは大変だが長持ちする布帛を使用している。また、縫製のクオリティーにもこだわり、職人とコミュニケーションを取りながら生産している。無駄を出したくないので、工場からの納品は個別包装ではなく畳んでまとめて大きなビニールに入れてもらっている。お客さまへ商品を渡すときは、ビニール袋ではなくハンカチに包んでいる。

WWD:伊勢丹新宿本店の下着セレクト売り場マランジェリーでもポップアップしたようだが?

山本:「アンドプレミアム(&PREMIUM)」内の特集でスタイリストの井伊百合子さんが“Yバックブラ”を紹介してくれたのがきっかけで、バイヤーから声が掛かり、百貨店では初のポップアップを開催した。3月末には三越日本橋本店のライフスタイルイベントにも参加する。

WWD:「ユンヌフィグ.」をどのように育てていきたいか?

山本:今まで、特に営業をしてきたわけではないが、地方のお店が継続的に仕入れてくれ、顧客がついている。ショップのオーナーと自分の感性がマッチするだいご味を感じている。それが、ECにつながったり、EC地方のお店につながったりする。そのような草の根的なやり方を続け、少しずつでも広がっていけばと思う。ECでは、夢がありつつも、商品やサイズ感をわかりやすくどのように表現していくかが課題。フォトグラファーと試行錯誤しながらよりよい表現にチャレンジしていくつもりだ。

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研修生としてキャリアをスタートしたクラランスCEOに聞く“ダブル セーラム”を刷新し続ける理由

PROFILE: ジョナサン・ズリエン/クラランス グループ 社長兼最高経営責任者

ジョナサン・ズリエン/クラランス グループ 社長兼最高経営責任者
PROFILE: フランス・トゥールーズ出身。2年ほどのインターンシップを経て1996年にエリアデイレクターとしてクラランスに入社し、オーストラリアに勤務。99年にシンガポールでアジアリージョナル社長に就任し、グローバル展開の強化を推進。2004年クラランス カナダで北米のジェネラルマネージャー、07年クラランス USAで全米リージョナル社長を経て15年2月から現職 PHOTO : SHUNICHI ODA

昨年ブランド設立70周年を迎えた「クラランス(CLARINS)」は、昨年7月にメイクフィックスミスト“フィックス メイクアップ N”(50mL、4950円)を6年ぶりに、8月にはアイコン美容液“ダブル セーラム ADC”(30mL、1万2100円/50mL、1万7380円/75mL、2万3650円)もリニューアルするなど、長い歴史を経てもなお大胆な進化を続けている。ジョナサン・ズリエン(Jonathan Zrihen)=クラランス グループ 社長兼最高経営責任者(CEO)に、同社でのキャリアやクラランスが追求するイノベーションについて聞いた。

WWD:今年で現職に就任して丸10年だ。

ジョナサン・ズリエン(Jonathan Zrihen)=クラランス グループ 社長兼CEO(以下、ズリエン):31年前に研修生としてマーケティング部に配属され、グローバル展開の強化に携わった。特にアジアの拡大を推進し、中国へは2005年に進出。我々の市場は、私が正式に採用された1996年の100カ国から現在は140カ国まで増えた。

WWD:プレステージビューティの世界では転職を繰り返してキャリアアップする人が多い中、「クラランス」一筋の人生を歩んでいる。長年勤め続ける「クラランス」の魅力とは?

ズリエン:70年間ブレない会社のフィロソフィー「女性の声に耳を傾け、そのニーズを理解し、厳選された植物成分を配合した肌に響く製品を開発すること」に共感する社員が集まっているため、勤続年数の長い社員が多い。同族会社で、クラランス一家が全社員への思いやりや尊敬を大事にしているのも特徴だ。また2つのチームが全く異なる2種のイノベーションを追求しており、社員がお客さまに提供する製品の質や効果を信じている。そうすると、仕事は運命になる。私も、毎朝出社するのが幸せだ。意義を見いだせた会社を、大抵の人は辞めようとは思わない。子会社のトップにも、販売員として当社でのキャリアをスタートした人材が多い。

「たゆまざる革新」と「断絶のイノベーション」

WWD:昨年は、“フィックス メイクアップ N”や“ダブル セーラム ADC”など基幹製品を刷新した。大胆に繰り返すイノベーションで追求することは?

ズリエン:「クラランス」は「たゆまざる革新」と「断絶のイノベーション」、2つのタイプのイノベーションを追求している。前者のチームは、新製品をローンチするたびに次の世代の構想を始める。毎月、全世界の30万人のお客さまの声を聞く。植物研究の新たな知見や、お客さまからのフィードバックを生かし、常にアップデートを試みている。

後者のチームはイノベーションのトレンドにアンテナを張り、白紙の状態から研究を始める。皮膚医学や植物学を研究する中で、「クラランス」専属の民族植物学者は世界中を旅して回り、その植物がそれぞれの文化で薬学的にどう用いられているかをひもとく。アマゾンやマダガスカルへ直接足を運んだり、日本の薬の歴史を研究したりする。そこで得た植物の新たな知見を、「クラランス」が目的とする皮膚状態の改善にどう活用できるかを考える。「断絶」とは、通念や通例、既存品からの進化を意味する。

WWD:“ダブル セーラム ADC”のリニューアルについて教えてほしい。

ズリエン:9代目となる“ダブル セーラム ADC”は、エピジェネティクス(後天遺伝学)に着目した。創設者の息子の一人であり、整形外科医のオリヴィエ・クルタン・クラランス(Olivier Courtin Clarins)博士が、規則正しい健康的な生活を送っている人の方が手術後の皮膚の回復が速く、傷跡も残らないと気付いたことが発端だ。そこで「クラランス」は同じ遺伝子を持つ30組60人の一卵性双生児の女性を集め、後天的要因が肌の老化と兆候にどのような影響を与えるのかを研究した。皮膚への影響は35%が遺伝子由来、65%がエピジェネティクスによるものだった。つまり環境や睡眠不足、食生活、タバコなどの生活習慣が皮膚に大きな影響を与えている。

加齢による肌の劣化が顕著だった双子の片方にだけ“ダブル セーラム ADC”を与えたところ、肌の状態がもう一方に近付いてきた。8代目までが対象としていたのは35%に当たる遺伝子の部分だったが、今回のリニューアルによって残りの65%にもアプローチできるようになった。「断絶のイノベーション」チームによりエピジェネティクスに着目できた。

「美しく歳を重ねるためのパートナーでありたい」

WWD:「クラランス」が大切にしていることは?

ズリエン:「クラランス」は3つの大きな誇りを持っている。1つ目は、独立した同族会社の立場を守り続けていること。1980年代には一度上場したが、自由を取り戻すため2008年に上場を廃止した。これにより長期的な視野に立ち運営できるようになり、即座に決断しアクションを起こせるようになった。2つ目は成長率だ。直近の7年間で売上高は倍増し、20億ユーロ(約3120億円)になった。イノベーションを追求した製品の質の高さや、ブランドの存在意義が全世界で高く評価されている。3つ目はジャック・クルタン・クラランス(Jacques Courtin Clarins)=創設者による、社会貢献の理念を継承していること。人生、そして世界をより美しくすることを企業のミッションとしている。

WWD:今後の展望は?

ズリエン:フランス製にこだわる当社は昨年10月に2軒目の工場を建設し、製造力を倍増させた。また4月には、南仏ニーム近郊の農地を新たに取得した。全ての植物を有機栽培し、リジェネラティブ農業(環境再生型農業)としての認定も受けている。新しい工場と農地により、最上質の植物原料の採取とトレーサビリティー(追跡可能性)の担保を実現する。30 年までに、製品に必要な植物原料の3分の1を同農地や、同じく16年に取得したオート・サヴォワの区域から調達する目標だ。トレーサビリティーに関しては、7年かけて開発した「トラスト(T.R.U.S.T.)」というシステムを23年8月に導入した。お客さまは製品の原料がいつどこで採取され、いつ工場で配合され、いつ日本に発送され店頭に並んだのかを確認することができる。カーボンフットプリントも開示できるようシステム開発を進めており、お客さまとの信頼関係をさらに深めていく。

WWD:最終的に、人々にはどうなってほしいのか?

ズリエン:私たちは、自分が美しいと感じるためには至福感が必要だと考えている。毎日肌の手入れをして、肌がきれいになっていく実感は至福感につながる。それは結果として、加齢に対する予防効果もある。自分を愛し、美しいと感じられ、「クラランス」の製品を使うことに喜びを見いだしていただきたい。「クラランス」は奇跡は約束しないが、美しく歳を重ねるためのパートナーでありたい。そして私には、当社に20年、30年勤続している女性たちをいつか広告に出したいという夢がある。皆驚くほど肌がきれいだから。

本文中の円換算レート:1ユーロ=156円

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河村康輔が語る「創作」と「仕事」——パンク・ハードコアからコラージュの世界へ

PROFILE: 河村康輔/アーティスト、グラフィックデザイナー

PROFILE: (かわむら・こうすけ)1979年広島県生まれ。コラージュアーティストとして多くのアーティストとの‬コラボレーションや国内外での個展、グループ展に多数参加。代表作に大友克洋の初の大規模原画展「大友克洋‬ GENGA展」(2012)メインビジュアル制作や「AKIRA」を使用したコラージュ作品「AKIRA ART WALL‬ PROJECT」(19)、個展「TRY SOMETHING BETTER」(21)など。現在もアパレルブランドへ‬のグラフィックワーク、ジャケット、書籍の装丁、広告デザイン、アートディレクションで活躍している。21‬年に「UT」のクリエイティブディレクターに就任。‬24年10月にはロックバンド「オアシス(OASIS)」の公式ロゴをシュレッダーアートの作品として発表した。

「UT」のクリエイティブディレクターやロックバンド、オアシスの公式ロゴを担当するなど、世界的な仕事を手掛けるアーティスト、グラフィックデザイナーの河村康輔。もともとはパンク・ハードコアが好きで、それをきっかけにコラージュでの作品制作を行うようになった。今回、河村の創作のルーツから多くのブランドとのコラボレーションについて、話を聞いた。

影響を受けたウィンストン・スミスと裏原文化

——河村さんの出身は広島ですが、10代の頃からパンク・ハードコアのライブを見るために上京していたとか。

河村康輔(以下、河村):中3から高1になる春休み、だから1994年ですかね、その頃に初めて東京へ行きました。パンク・ハードコアが専門だったので、新宿のライブハウス「アンチノック(ANTIKNOCK)」が多かったかな。お金が貯まると広島から高速バスに乗って、行ける限り行ってました。今ちょうど2月なので、よく覚えているのは、渋谷の「ギグアンティック(GIG-ANTIC)」で、「POGO77 RECORDS」というレーベルが主催する、バレンタインデーにチョコをもらえないパンクス集合みたいな企画があって、当時の彼女に嘘ついてそのライブに行ったら、のちのち嘘がバレてふられました。懐かしいなぁ。

——アメリカのハードコアバンド、デッド・ケネディーズ(DEAD KENNEDYS)のジャケットを手掛けたコラージュ・アーティストのウィンストン・スミス(WINSTON SMITH)との共作もありますが、コラージュとの出会いも、バンドのジャケットやフライヤーですか?

河村:そもそも最初にパンクを知ったのは14歳ぐらい、セックス・ピストルズ(SEX PISTOLS)ですね。今考えると、ピストルズのアートワークにもコラージュが使われていますけど、当時はそんなこと全然意識してなくて。デッド・ケネディーズも初めて先輩から教えてもらって聴いたのがファーストアルバムだったので、ファーストのジャケットはコラージュではないんですよ。なので、ジャケットで「うわ、なにこれ」と思ったのでいうと、ラード(LARD)の「LAST TEMPTATION OF REID」。あれでウィンストン・スミスのコラージュにやられた感じです。

——グラフィックデザインに興味を持ったのもその頃?

河村:僕が思春期だった1990年代の中盤は、いわゆる裏原文化が全盛期で。「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」のヒカルさんやデザイナーのSKATE THING(スケシン)さんが雑誌にめっちゃ出ていたんです。それで、スケシンさんの肩書きに「グラフィックデザイナー」と書いてあって、そういう仕事があるんだと知って、グラフィックデザイナーになりたいって思いました。具体的に何をしているかはよく分からないまま(笑)。

一方でヒカルさんの方は、パンク・ハードコアバンドのTシャツをよく着ていて、なのに本業はおもちゃ屋さんで、ポップなフィギュアとかを雑誌で紹介していたんです。ハードコアのダークでアンダーグラウンドな文化とポップな趣味が両立するんだっていうことに感銘を受けましたね。

——そこから、自分でも何か作ってみたいと?

河村:そういう流れでラードのジャケットを見た時に、まさにハードコアとポップが融合していたんです。しかも、初めて見た時はすっごい絵がうまいんだなと思っていたのが、実は切り貼りのコラージュだと分かって。僕はいまだに絵は全然描けないのですが、当時から手先だけは器用だったので、切り貼りならできるかもって。そこから一気に、見るだけじゃなく、自分がやってみたいこととして興味を持ちました。

ちょうどその頃、高校1年生くらいの時、地元でバンドをやっている友達からフライヤーのデザインを頼まれることが多くて。それこそ、ピストルズのアートワークを手掛けたジェイミー・リード(Jamie Reid)じゃないですけど、雑誌の文字を切り抜いたりして、フライヤーを作っていたんです。ただ、自分で絵は描けないので、メインのビジュアルは写真を切り貼りして。これを極めていけば、ラードのジャケットまでいくのかも、みたいなことは考えていました。

「絶対にこのシーンの一員になると誓った気持ちがいまだに残ってる」

——河村さんの初期の仕事としては、ホラーやスプラッター映画の日本版をリリースする「トラッシュマウンテンビデオ」のジャケットデザインがあります。

河村:ハードコア好きの人たちはトラッシュ系のB級映画好きも多いので、そこは自分が10代からやっていたバンドのフライヤーデザインとも自然とつながっていきました。趣味としては一貫している感じ。当時はそれで成功しようなんてまったく思ってなくて、そもそも「トラッシュマウンテンビデオ」の仕事はほぼノーギャラでしたから(笑)。バイトしないで好きなことをして、なんとか東京で生活できたらいいな、くらいに思ってましたね。

——仕事の幅が広がる転機となったのは?

河村:人との出会いでいうと、最初に大きかったのは根本敬さんですかね。アップリンクがまだ渋谷の消防署の近くのビルにあった頃に、自分で作ったフライヤーを勝手に置いてきたんですよ。そうしたら、次の日にアップリンクの人から電話がかかってきて、これは怒られるだろうなと思ったら、「面白いので一度会いませんか?」って。それで、アップリンクでイベントをやっていた根本敬さんを紹介してもらって、全然仕事がないこととかを話したら、根本さんが「ここに電話してみな」って、デザインの仕事をくれそうな会社を教えてくれたんです。それが、のちに「ERECT Magazine」を一緒に作ることになる福田(亮)の会社でした。

——「ERECT Magazine」は、創刊号からウィンストン・スミスの特集を組んで、本人に会いにサンフランシスコまで行ったり、気合いの入ったハードコア雑誌でした。

河村:もともと福田の会社が業界誌に広告を出す予算が60万円くらいあって、「この金があったら何したい?」って聞かれて、「雑誌作りたい」って言ったんです。そうしたら「じゃあやろう」って。でも僕は雑誌なんて作ったことなかったから、入稿のやり方も知らないし、今考えると、とんでもないデータを作ってましたよ。

——河村さんの対談集「1q7q LOVE AND PEACE」(東京キララ社)を読むと、先ほど名前の挙がった根本敬や、大友克洋、田名網敬一、伊藤桂司といった方々とコラボレーションするに至るまでの経緯が細かく語られていますが、人との出会いがきちんと作品や仕事につながっているのがすごいなと。

河村:僕が気をつかわないからじゃないですかね(笑)。有名とか無名とか興味ないし、どんなに大御所の人であっても、敬意を持って接してはいますが、最初に会った時には一緒に仕事しようとか、仲良くなっておこうとか、一切思ってないんですよ。好きな音楽の話とか趣味の話をしてるだけ。あ、でも、直感は超働くので、合わないなって感じた人とは全然しゃべらないです(笑)。

あと、出会いを大切にするという意味では、まだ広島に住んでいた頃、東京にライブを見に来るたびに、自分は帰らないといけないのに、パンクスのみんなは駅前の路上とかでずっと飲んでるんですよ。それが本当に悔しくて。悔しいというか、もうつらかった。それで、バチバチの鋲ジャン着て夜中に高速バスに乗りながら、絶対東京に来て、このシーンの一員になるんだって誓ったんです。その気持ちがいまだに残っているので、東京で面白い人と出会えるだけでうれしいんですよね。

大企業案件と友達のバンドのジャケットを同時進行で

——その頃と比べて、憧れだったウィンストン・スミスやジェイミー・リードとの共作をはじめ、ユニクロ「UT」のクリエイティブディレクターといった大企業の案件もたくさん手掛けるようになった現在の自分は、どう見えていますか?

河村:それが全然変わらないんですよ。テーマや題材が違うだけで、やってることは友達のバンドのフライヤーを作っている頃からずっと同じ。というか、今でもバンドのジャケットとかバンバン作ってますからね。まさに今も、超大企業とのコラボ案件を進めながら、三重のcontrast attitudeというハードコアバンドのジャケットを同時進行でやってます。テンションもやり方もまったく一緒で、題材が違うだけです。

——新作となる加熱式たばこ“プルーム(Ploom)”とのコラボレーションについても聞かせてください。

河村:商品とのコラボレーションは、当たり前ですが自分の作品ではないので、その商品を使う人のことを第一に考えます。僕は作家脳とは別にグラフィックデザイナー脳もあるので、そっちの脳を働かせているイメージ。特に“プルーム”は喫煙具という常に持ち歩くもので、デザインを乗せられる範囲も小さい。だったら写真や絵のコラージュではなく、かっこいい柄がいいかなと。その上で、僕の熱心なファンとかではない、幅広い層に喜んでもらうために、テイストは出すけど主張はし過ぎない、でもコレクションアイテムとして欲しくなるようなデザインを作りました。

——ご自身の原点にあるハードコアやパンクの作風とは別で、現在進行形のトレンドや人気の傾向は意識しますか?

河村:意識はしないですね。意識はしてないですけど、そういうものは自然と入ってくるじゃないですか。Tシャツでも前までMサイズだったのが、今はLとかXLの方がいいなとか。そういう感じで、無意識に入ってくる感覚はいつの間にか反映されていくと思うので、それ以上に前のめりでチェックしたりとかはしないです。

でも、流行の面白さも分かるので、どうせ乗るなら最先端の超細いところは狙っていきたい。でかい波が来た時に、その真ん中にいるのは二番煎じなんですよ。そうではなく、1年後には定番になるなっていうものを見つけて、流行る1年前には手をつける。そうすれば、表現としての完成度は低くても、最初だから誰も文句を言えないし、結果的にそれが一番目立つ。そもそもコラージュなんて100年前からある手法ですからね。絵画とかもそうですが、古い手法の中でどれだけ新しいことを発見して、続けていけるか。それだけだと思います。

「飽きないために、やりきった先で技術を磨く」

——コラージュという手法・表現を追求していく過程で、ご自身の中で、もうやり切ったとか飽きてきた、みたいなことはないですか。

河村:やり切った感は感じたことありますよ。大友克洋さんとコラボレーションした「大友克洋GENGA展」の時ですね。大友さんのことはずっと大好きだったし、そのご本人から「自分の作品として好きにやっていいよ」と言われていたので、本気出しまくったんです。1つの絵の中に、これ以上はもうどうやっても貼れないくらいの量をぶち込んで、やりたいことも全部やった。それで完成した作品は、大友さんも喜んでくれたし、自分的にも満足できたんです。そうしたら、めっちゃ飽きました。

——でも「大友克洋GENGA展」をきっかけに、仕事は急増したんじゃないですか?

河村:そうなんですよ。せっかく新しいクライアントからオファーをいただけるようになったのに、そのタイミングで飽きてるなんて、意味分かんないですよね。なので、どうにか新しいことをしようと思って発見した1つが、シュレッダーを使った切り貼りだったりします。

——シュレッダーで縦に裁断された紙を素材にコラージュする技法ですね。

河村:思いついたきっかけは、「2ND(ツー・エヌ・ディー)」という1冊目の作品集を作っている時に、もう今日中に全ページ入稿しないと間に合わないって日になって、載せる作品の数が足りないことが発覚したんです。それで、どうしようと焦っている時に、事務所にあったシュレッダーが目に入って、試しに裁断した紙を貼り付けたら、だいぶいい感じになって。時間も1作品20分くらいで完成したので、これで入稿できる、というのが最初でした。

——その場しのぎで思いついた手法が、今では1つの代名詞になり。

河村:ですね。しかも、そのギリギリ入稿した日に、たまたま大友克洋さんから連絡があって、一緒にご飯を食べることになったんですよ。で、持っていたシュレッダーの作品を見せたら、「面白いじゃん。もっと突き詰めた方がいいよ」と言ってくださって、大友さんが言うなら突き詰めてみようって。なので、初めてシュレッダーを使った作品を発表した「2ND」の帯は、大友さんが書いているんです。

——まさに「古い手法の中での新しい発見」ですね。

河村:そう。あと、飽きないためのもう一つは、技術を磨くことですね。技術ならいくらでも伸ばすことができるじゃないですか。それで、手で貼る精度を高めまくって、もはやデジタルとの差が分からないぐらいのところまでもっていくようにしました。で、アナログの手貼りを極めたら、あえてデジタルでもやってみる。そうすると、デジタルに見えるけどアナログだったり、逆に、手で貼ってるかと思えばデジタルだったりして、混乱させることで新鮮さが生まれました。

——企業案件となると、作品とは違い、制約があったり改変を求められたりもしますよね?

河村:オーダーを制約とは思ってないんですよ。お題をもらった、くらいの感覚。改変についても、完成させるまでは本気でやってますけど、作ったものを提出したあとのことについては、こだわりがまったくない。SNS用にリサイズしたいとか言われても、基本的には自由にやっていいですよっていう。でも、そこまでひどいことをされた経験はないので、皆さんの優しさのおかげです。

——コラボレーションする相手の見極めとかは?

河村:そもそも、この人とコラボレーションしたい、というのもないんです。好きなブランドや尊敬する作家はたくさんいますけど、それで一緒に仕事したいっていうふうにはならないんですよ。僕自身が超絶オープンなので、オファーがあればやりますっていう感じで。そもそも僕のコラージュとコラボするっていうのは、エフェクトみたいなもので、素材次第でいろんな方向にいけるし、見え方も変わってくる。なので、切り貼りする素材さえあれば、いくらでも自由自在にコラボができる。そこが一番の楽しみであり、コラージュの魅力だと思います。

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河村康輔が語る「創作」と「仕事」——パンク・ハードコアからコラージュの世界へ

PROFILE: 河村康輔/アーティスト、グラフィックデザイナー

PROFILE: (かわむら・こうすけ)1979年広島県生まれ。コラージュアーティストとして多くのアーティストとの‬コラボレーションや国内外での個展、グループ展に多数参加。代表作に大友克洋の初の大規模原画展「大友克洋‬ GENGA展」(2012)メインビジュアル制作や「AKIRA」を使用したコラージュ作品「AKIRA ART WALL‬ PROJECT」(19)、個展「TRY SOMETHING BETTER」(21)など。現在もアパレルブランドへ‬のグラフィックワーク、ジャケット、書籍の装丁、広告デザイン、アートディレクションで活躍している。21‬年に「UT」のクリエイティブディレクターに就任。‬24年10月にはロックバンド「オアシス(OASIS)」の公式ロゴをシュレッダーアートの作品として発表した。

「UT」のクリエイティブディレクターやロックバンド、オアシスの公式ロゴを担当するなど、世界的な仕事を手掛けるアーティスト、グラフィックデザイナーの河村康輔。もともとはパンク・ハードコアが好きで、それをきっかけにコラージュでの作品制作を行うようになった。今回、河村の創作のルーツから多くのブランドとのコラボレーションについて、話を聞いた。

影響を受けたウィンストン・スミスと裏原文化

——河村さんの出身は広島ですが、10代の頃からパンク・ハードコアのライブを見るために上京していたとか。

河村康輔(以下、河村):中3から高1になる春休み、だから1994年ですかね、その頃に初めて東京へ行きました。パンク・ハードコアが専門だったので、新宿のライブハウス「アンチノック(ANTIKNOCK)」が多かったかな。お金が貯まると広島から高速バスに乗って、行ける限り行ってました。今ちょうど2月なので、よく覚えているのは、渋谷の「ギグアンティック(GIG-ANTIC)」で、「POGO77 RECORDS」というレーベルが主催する、バレンタインデーにチョコをもらえないパンクス集合みたいな企画があって、当時の彼女に嘘ついてそのライブに行ったら、のちのち嘘がバレてふられました。懐かしいなぁ。

——アメリカのハードコアバンド、デッド・ケネディーズ(DEAD KENNEDYS)のジャケットを手掛けたコラージュ・アーティストのウィンストン・スミス(WINSTON SMITH)との共作もありますが、コラージュとの出会いも、バンドのジャケットやフライヤーですか?

河村:そもそも最初にパンクを知ったのは14歳ぐらい、セックス・ピストルズ(SEX PISTOLS)ですね。今考えると、ピストルズのアートワークにもコラージュが使われていますけど、当時はそんなこと全然意識してなくて。デッド・ケネディーズも初めて先輩から教えてもらって聴いたのがファーストアルバムだったので、ファーストのジャケットはコラージュではないんですよ。なので、ジャケットで「うわ、なにこれ」と思ったのでいうと、ラード(LARD)の「LAST TEMPTATION OF REID」。あれでウィンストン・スミスのコラージュにやられた感じです。

——グラフィックデザインに興味を持ったのもその頃?

河村:僕が思春期だった1990年代の中盤は、いわゆる裏原文化が全盛期で。「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」のヒカルさんやデザイナーのSKATE THING(スケシン)さんが雑誌にめっちゃ出ていたんです。それで、スケシンさんの肩書きに「グラフィックデザイナー」と書いてあって、そういう仕事があるんだと知って、グラフィックデザイナーになりたいって思いました。具体的に何をしているかはよく分からないまま(笑)。

一方でヒカルさんの方は、パンク・ハードコアバンドのTシャツをよく着ていて、なのに本業はおもちゃ屋さんで、ポップなフィギュアとかを雑誌で紹介していたんです。ハードコアのダークでアンダーグラウンドな文化とポップな趣味が両立するんだっていうことに感銘を受けましたね。

——そこから、自分でも何か作ってみたいと?

河村:そういう流れでラードのジャケットを見た時に、まさにハードコアとポップが融合していたんです。しかも、初めて見た時はすっごい絵がうまいんだなと思っていたのが、実は切り貼りのコラージュだと分かって。僕はいまだに絵は全然描けないのですが、当時から手先だけは器用だったので、切り貼りならできるかもって。そこから一気に、見るだけじゃなく、自分がやってみたいこととして興味を持ちました。

ちょうどその頃、高校1年生くらいの時、地元でバンドをやっている友達からフライヤーのデザインを頼まれることが多くて。それこそ、ピストルズのアートワークを手掛けたジェイミー・リード(Jamie Reid)じゃないですけど、雑誌の文字を切り抜いたりして、フライヤーを作っていたんです。ただ、自分で絵は描けないので、メインのビジュアルは写真を切り貼りして。これを極めていけば、ラードのジャケットまでいくのかも、みたいなことは考えていました。

「絶対にこのシーンの一員になると誓った気持ちがいまだに残ってる」

——河村さんの初期の仕事としては、ホラーやスプラッター映画の日本版をリリースする「トラッシュマウンテンビデオ」のジャケットデザインがあります。

河村:ハードコア好きの人たちはトラッシュ系のB級映画好きも多いので、そこは自分が10代からやっていたバンドのフライヤーデザインとも自然とつながっていきました。趣味としては一貫している感じ。当時はそれで成功しようなんてまったく思ってなくて、そもそも「トラッシュマウンテンビデオ」の仕事はほぼノーギャラでしたから(笑)。バイトしないで好きなことをして、なんとか東京で生活できたらいいな、くらいに思ってましたね。

——仕事の幅が広がる転機となったのは?

河村:人との出会いでいうと、最初に大きかったのは根本敬さんですかね。アップリンクがまだ渋谷の消防署の近くのビルにあった頃に、自分で作ったフライヤーを勝手に置いてきたんですよ。そうしたら、次の日にアップリンクの人から電話がかかってきて、これは怒られるだろうなと思ったら、「面白いので一度会いませんか?」って。それで、アップリンクでイベントをやっていた根本敬さんを紹介してもらって、全然仕事がないこととかを話したら、根本さんが「ここに電話してみな」って、デザインの仕事をくれそうな会社を教えてくれたんです。それが、のちに「ERECT Magazine」を一緒に作ることになる福田(亮)の会社でした。

——「ERECT Magazine」は、創刊号からウィンストン・スミスの特集を組んで、本人に会いにサンフランシスコまで行ったり、気合いの入ったハードコア雑誌でした。

河村:もともと福田の会社が業界誌に広告を出す予算が60万円くらいあって、「この金があったら何したい?」って聞かれて、「雑誌作りたい」って言ったんです。そうしたら「じゃあやろう」って。でも僕は雑誌なんて作ったことなかったから、入稿のやり方も知らないし、今考えると、とんでもないデータを作ってましたよ。

——河村さんの対談集「1q7q LOVE AND PEACE」(東京キララ社)を読むと、先ほど名前の挙がった根本敬や、大友克洋、田名網敬一、伊藤桂司といった方々とコラボレーションするに至るまでの経緯が細かく語られていますが、人との出会いがきちんと作品や仕事につながっているのがすごいなと。

河村:僕が気をつかわないからじゃないですかね(笑)。有名とか無名とか興味ないし、どんなに大御所の人であっても、敬意を持って接してはいますが、最初に会った時には一緒に仕事しようとか、仲良くなっておこうとか、一切思ってないんですよ。好きな音楽の話とか趣味の話をしてるだけ。あ、でも、直感は超働くので、合わないなって感じた人とは全然しゃべらないです(笑)。

あと、出会いを大切にするという意味では、まだ広島に住んでいた頃、東京にライブを見に来るたびに、自分は帰らないといけないのに、パンクスのみんなは駅前の路上とかでずっと飲んでるんですよ。それが本当に悔しくて。悔しいというか、もうつらかった。それで、バチバチの鋲ジャン着て夜中に高速バスに乗りながら、絶対東京に来て、このシーンの一員になるんだって誓ったんです。その気持ちがいまだに残っているので、東京で面白い人と出会えるだけでうれしいんですよね。

大企業案件と友達のバンドのジャケットを同時進行で

——その頃と比べて、憧れだったウィンストン・スミスやジェイミー・リードとの共作をはじめ、ユニクロ「UT」のクリエイティブディレクターといった大企業の案件もたくさん手掛けるようになった現在の自分は、どう見えていますか?

河村:それが全然変わらないんですよ。テーマや題材が違うだけで、やってることは友達のバンドのフライヤーを作っている頃からずっと同じ。というか、今でもバンドのジャケットとかバンバン作ってますからね。まさに今も、超大企業とのコラボ案件を進めながら、三重のcontrast attitudeというハードコアバンドのジャケットを同時進行でやってます。テンションもやり方もまったく一緒で、題材が違うだけです。

——新作となる加熱式たばこ“プルーム(Ploom)”とのコラボレーションについても聞かせてください。

河村:商品とのコラボレーションは、当たり前ですが自分の作品ではないので、その商品を使う人のことを第一に考えます。僕は作家脳とは別にグラフィックデザイナー脳もあるので、そっちの脳を働かせているイメージ。特に“プルーム”は喫煙具という常に持ち歩くもので、デザインを乗せられる範囲も小さい。だったら写真や絵のコラージュではなく、かっこいい柄がいいかなと。その上で、僕の熱心なファンとかではない、幅広い層に喜んでもらうために、テイストは出すけど主張はし過ぎない、でもコレクションアイテムとして欲しくなるようなデザインを作りました。

——ご自身の原点にあるハードコアやパンクの作風とは別で、現在進行形のトレンドや人気の傾向は意識しますか?

河村:意識はしないですね。意識はしてないですけど、そういうものは自然と入ってくるじゃないですか。Tシャツでも前までMサイズだったのが、今はLとかXLの方がいいなとか。そういう感じで、無意識に入ってくる感覚はいつの間にか反映されていくと思うので、それ以上に前のめりでチェックしたりとかはしないです。

でも、流行の面白さも分かるので、どうせ乗るなら最先端の超細いところは狙っていきたい。でかい波が来た時に、その真ん中にいるのは二番煎じなんですよ。そうではなく、1年後には定番になるなっていうものを見つけて、流行る1年前には手をつける。そうすれば、表現としての完成度は低くても、最初だから誰も文句を言えないし、結果的にそれが一番目立つ。そもそもコラージュなんて100年前からある手法ですからね。絵画とかもそうですが、古い手法の中でどれだけ新しいことを発見して、続けていけるか。それだけだと思います。

「飽きないために、やりきった先で技術を磨く」

——コラージュという手法・表現を追求していく過程で、ご自身の中で、もうやり切ったとか飽きてきた、みたいなことはないですか。

河村:やり切った感は感じたことありますよ。大友克洋さんとコラボレーションした「大友克洋GENGA展」の時ですね。大友さんのことはずっと大好きだったし、そのご本人から「自分の作品として好きにやっていいよ」と言われていたので、本気出しまくったんです。1つの絵の中に、これ以上はもうどうやっても貼れないくらいの量をぶち込んで、やりたいことも全部やった。それで完成した作品は、大友さんも喜んでくれたし、自分的にも満足できたんです。そうしたら、めっちゃ飽きました。

——でも「大友克洋GENGA展」をきっかけに、仕事は急増したんじゃないですか?

河村:そうなんですよ。せっかく新しいクライアントからオファーをいただけるようになったのに、そのタイミングで飽きてるなんて、意味分かんないですよね。なので、どうにか新しいことをしようと思って発見した1つが、シュレッダーを使った切り貼りだったりします。

——シュレッダーで縦に裁断された紙を素材にコラージュする技法ですね。

河村:思いついたきっかけは、「2ND(ツー・エヌ・ディー)」という1冊目の作品集を作っている時に、もう今日中に全ページ入稿しないと間に合わないって日になって、載せる作品の数が足りないことが発覚したんです。それで、どうしようと焦っている時に、事務所にあったシュレッダーが目に入って、試しに裁断した紙を貼り付けたら、だいぶいい感じになって。時間も1作品20分くらいで完成したので、これで入稿できる、というのが最初でした。

——その場しのぎで思いついた手法が、今では1つの代名詞になり。

河村:ですね。しかも、そのギリギリ入稿した日に、たまたま大友克洋さんから連絡があって、一緒にご飯を食べることになったんですよ。で、持っていたシュレッダーの作品を見せたら、「面白いじゃん。もっと突き詰めた方がいいよ」と言ってくださって、大友さんが言うなら突き詰めてみようって。なので、初めてシュレッダーを使った作品を発表した「2ND」の帯は、大友さんが書いているんです。

——まさに「古い手法の中での新しい発見」ですね。

河村:そう。あと、飽きないためのもう一つは、技術を磨くことですね。技術ならいくらでも伸ばすことができるじゃないですか。それで、手で貼る精度を高めまくって、もはやデジタルとの差が分からないぐらいのところまでもっていくようにしました。で、アナログの手貼りを極めたら、あえてデジタルでもやってみる。そうすると、デジタルに見えるけどアナログだったり、逆に、手で貼ってるかと思えばデジタルだったりして、混乱させることで新鮮さが生まれました。

——企業案件となると、作品とは違い、制約があったり改変を求められたりもしますよね?

河村:オーダーを制約とは思ってないんですよ。お題をもらった、くらいの感覚。改変についても、完成させるまでは本気でやってますけど、作ったものを提出したあとのことについては、こだわりがまったくない。SNS用にリサイズしたいとか言われても、基本的には自由にやっていいですよっていう。でも、そこまでひどいことをされた経験はないので、皆さんの優しさのおかげです。

——コラボレーションする相手の見極めとかは?

河村:そもそも、この人とコラボレーションしたい、というのもないんです。好きなブランドや尊敬する作家はたくさんいますけど、それで一緒に仕事したいっていうふうにはならないんですよ。僕自身が超絶オープンなので、オファーがあればやりますっていう感じで。そもそも僕のコラージュとコラボするっていうのは、エフェクトみたいなもので、素材次第でいろんな方向にいけるし、見え方も変わってくる。なので、切り貼りする素材さえあれば、いくらでも自由自在にコラボができる。そこが一番の楽しみであり、コラージュの魅力だと思います。

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スティル・ハウス・プランツ インタビュー 感性と相互研鑽が紡ぐボーダレスな音楽とは

昨年9月、実験音楽、オーディオビジュアルアート、パフォーミングアーツを紹介するプラットフォーム「モード(MODE)」は、実験音楽イベント「モード アット リキッドルーム(MODE AT LIQUIDROOM)」を、恵比寿リキッドルームで開催した。

今回は日野浩志郎率いる5 人編成のリズムアンサンブル、ゴート(goat)と、ロンドンを拠点に活動するエクスペリメンタル・ロックバンド、スティル・ハウス・プランツ(Still House Plants)のダブルビル公演が実現。

スティル・ハウス・プランツは、ボーカルのジェス・ヒッキー・カレンバッハ(Jess Hickie-Kallenbach)、ギターのフィンことフィンレイ・クラーク(Finlay Clark)、ドラムのデヴィッド・ケネディー(David Kennedy)から成るスリーピースバンド。2013 年にスコットランドのグラスゴー美術学校で出会った3人は、それぞれ視覚芸術を専攻するかたわらで音楽制作を始めた。ジャズやソウル、ポストロックのムードが漂うフレキシブルなサウンド、劇的でメロディアスな歌声、リスナーの自由な想像力を誘う詩など、独自の音楽性が世界的に注目を集めており、昨年4月に3作目となるアルバム「If I Don't Make It, I Love U」をリリースした。

多彩な感性のメンバーが織りなす楽曲は、制作からライブを経て何度も演奏するうち、各パートの役割や内包されるイメージ、言葉の意味が変容し進化していく。「モード」の公演のため来日した彼らに、音楽性やクリエイティビティーの背景について話を聞いた。

アートを学びながら自然な流れで始めた音楽活動
感覚的なプレイを生かした制作プロセス

ーーバンドの結成について。3人は同じグラスゴーのアートスクールで出会ったそうですが、それぞれ絵画や写真を専攻しながら、音楽の道へと進んだ経緯について教えてください。

フィンレイ・クラーク(以下、フィン):音楽学校に行きたくて、何校か見学しましたが、いずれもピンと来なかったんです。近い考えを持った人たちと過ごしたいと思っていましたが、音楽学校はそういう場所ではないと感じて、アートスクールに行って楽器をやろうと考えました。絵画コースは絵を描くことが必須ではなく、自由度が高いと聞いていたので、音楽も作れるんじゃないかと。結果的に最適な選択でした。そこでデヴィッドに出会ったんです。

ジェス・ヒッキー・カレンバッハ(以下、ジェス):私は写真や映像を専攻しましたが、フィンに出会って、すぐに一緒に音楽制作を始めました。最初は気軽なノリで自宅で音楽を作っていて、長時間の演奏を通して自分たちのサウンドを探求していました。

フィン:僕は、自宅のベッドルームで制作した音楽作品を、絵画コースの課題として提出していました。CD に録音した音楽の断片や、演奏している様子を撮影したビデオなど。自分にとってこれは絵画でもあると考えていました。

ジェス:ライブ活動を始めてから、演奏の度に次のライブの依頼をもらうようになりました。楽しみながら音楽活動を続けていただけで、音楽の道でキャリアを築こうと、あらためて決意したことは一度もないんです。信頼する友人やコラボレーターと一緒に音楽制作に取り組めて、気がつくと夢中になっていました。

フィン:グラスゴーの音楽シーンのコミュニティーはとても協力的です。僕らが拠点にしていたグリーン・ドア・スタジオには刺激的なミュージシャンが集まっていて、そこで出会った人たちと一緒にツアーをしたり、車でイギリス中を回ったりもしました。アートについて学ぶかたわらで、音楽活動にも意義を見出していました。

デヴィッド・ケネディー(以下、デヴィッド):僕は子供の頃からドラムを演奏していましたが、15 歳の時にドラムとの関わり方が分からなくなってやめたんです。その後アートスクールに進学しましたが、学校ではドラムを演奏するつもりはありませんでした。でもフィンたちと知り合ってからは、自然とまたドラムを叩くように。ここ数年で、自分は本当にドラムが好きなんだと気づきました。一度ドラムから離れて良かったと思います。多くの経験を経て、新しい視点を持ってドラムに戻ってくることができたので。

ーー初期のアルバムでは各人の演奏をサンプリングした音源を使ってコラージュのように制作した作品が印象的です。最新アルバムはどのように制作を進めたのでしょうか。

ジェス:以前はメンバー3人が離れた場所で生活していたので、各々の演奏を録音した音源を細切れに分割して、サンプリングのように切り貼りして作曲せざるを得ませんでした。卒業後、パンデミックの最中に全員別々のタイミングでロンドンに引っ越したんです。3人揃って演奏できるようになると、あらゆる方法での曲作りが可能になりました。ダンスミュージックから着想を得たり、ドラムとギターの関係性について探究したり、ヴォーカルループを使ったり。

以前の作品は過ごした時間の「レシート」のようなものでした。時間もお金もないし、スタジオで作業できるのは1日だけ。でも最新作はアルバム自体がアイデアの集積になっていると思います。

デヴィッド:今回のレコーディングでは、幾度となく演奏を重ねるうちに演奏したフレーズを忘れていってしまうので、あとで振り返って確認できるようにリハーサルをすべて録音していました。結果的にそれが作曲プロセスの一部になったんです。聴き返していると「ああ、ここに拍子の変化があったんだな」などの気付きがありました。

最新のアルバムはソリッドな構成になっていますが、当初から意図したわけではなく、自然に任せてできた音楽を洗練させ、最終的に全体をまとめあげたんです。

ジェス:自然で感覚的な作業方法が、プロセスの重要な一部になる。後になって初めてそのことに気付くんです。

フィン:このアルバムを作っていた時、スタジオの壁に「もう少し余白のある曲が必要か?」とか「もっとスローな曲が必要か?」など、自問自答のメモを大量に貼り付けていました。ギターのパートに関しては、自分が楽しく弾けることや、シンプルさと複雑さのバランスに重点を置いています。

自他の創造性を刺激する、余白を残した表現の探究

ーー詩で表現しようとしている内容について教えてください。

ジェス:歌詞で一番大切にしているのは、自由に解釈できるようオープンであること。詩的な発想や哲学的な概念というより、会話の中でふと口にするような内容が多いです。ストーリーを語ることにはあまり興味がありません。

言葉の断片を切り取り、サンプリングすることで何らかのイメージが構築されたり、同じ言葉を反復するうちに意味が変化していったりすることがあります。勝ち誇ったようなニュアンスの言葉でも、繰り返すことで悲しみや寛大さを帯びていくことも。ベーシックなダンスミュージックをサンプリングするとしても、ロマンティックなフレーズを繰り返すことで月並みな響きから誠実な響きに変化していったりします。サンプリングが好きなのはそのためです。

特定の友人や人間関係についての曲をオープンに書いてきたので、歌詞もロマンチックなものが多いかもしれません。ほかにも魂の探求をするような歌詞や、何気ない会話のような言葉など、あらゆる要素を織り交ぜています。

ーーサウンドからは、ミニマルで独特なリズムを基盤に、3人が調和を探っているような印象を受けます。影響を受けたアートや音楽があれば教えてください。

ジェス:それぞれが好きな音楽は多岐にわたっています。共通点も違いもあるのが面白いところです。楽曲にはドラムンベースの要素を取り入れていますが、デヴィッドは、ソースダイレクト(Source Direct)やオウテカ(Autechre)を引き合いに出し、音楽におけるドラムという要素や、ドラムンベースという音楽形態についてよく話をします。

デヴィッド:ジャングルやドラムンベースなどのUK ダンスミュージックの良さは、ドラムが、単にリズムを刻むだけにとどまらず、時に物語を語り、感情を表現し、ボーカルパートのような役割を果たすところ。私たちのバンドも、ドラム、ギター、ベース、ボーカルが固定的な役割を演じるのではなく、すべてが混ざり合い、入れ替わり立ち替わり異なる役割を演じていきます。

フィン:私たちのバンドは、自分たちが一旦作り上げた曲の形を、引き算のようなプロセスを経て、徐々に変化させていきます。その観点でアプローチが魅力的なのは“オープンな楽譜”を書いていた実験音楽家アンソニー・ブラクストン(Anthony Braxton)や、シンプルな構成の中に非対称の長いフレーズがあり、その上にループ音が重なるフランスの現代音楽作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen)です。

ジェス:特定の楽曲に直接影響を受けるのではなく、インスパイアされるとしたらアーティストの独創的なアプローチや姿勢の部分ですね。

ーー即興的な要素はありますか?

ジェス:即興で曲を書くというよりは、ジャムセッションの要素の方が強いです。お互いの演奏を目の前で見られるのがジャムの良いところ。演奏をすべて録音し、各々のパートを学び、覚えていく。するとそこに存在するパターンや変化、注意すべきポイントが見えてきます。

また、お互いのパートに対して、各自がアイデアを加える余地を常に残しています。ミスや違い、変化を受け入れる余地を作るのは重要で、それが自ずと楽曲や作曲手法に反映されていくと考えています。

フィン:ジャムを何度も繰り返しながら、ライブ本番までに形になっていきます。ひとつの曲が次の曲へと移行するチェックポイントのような部分もフレキシブルにしているんです。

ジェス:セットリストは演奏のベクトルを示す"矢印"のようなものですね。

ーーこれまでにバイソンレコーズ(bison records)やロンドンのカフェ オト(Cafe OTO)、ニューヨークのブランク フォームズ(Blank Forms)など、実験的でインディペンデントな姿勢を貫くレーベルから作品をリリースしています。彼らに共鳴したポイントは?

ジェス:私たちにとって、インディペンデントな人たちと協働するのは重要なこと。一緒に仕事をする相手と対話してお互いをよく知ることができれば、共感性の高いアイデアを持ってきてくれて仕事につながるんです。

フィン:カフェ オトやブランク フォームズも僕らの活動を見て連絡をくれて、素晴らしいリリースの提案をしてくれた。最初に作品をリリースしたバイソンレコーズも良きパートナーです。

ジェス:大切なのは、アーティストとして自分の作品をコントロールできること。私たちは幸運にも、最初のカセットテープをリリースしてくれたグラーク(GLARC)を含むパートナーたちとの仕事を通して、自律性を保ちながらサポートを受けられる基盤を見つけられたんです。アート作品のような見開きジャケットの特別版LPなど、素晴らしい作品をリリースできたのは最高の経験でした。

音楽とファッションの関係性について

ーー「モード」は、「音楽、アート、ファッションが垣根を超えて自由に融合し、成長する」ことを理念のひとつとして掲げています。ジェスさんは「キコ コスタディノフ(KIKO KOSTADINOV)」×「リーバイス(LEVI’S)」のキャンペーンにもモデルとして登場されていますね。

ジェス:「キコ コスタディノフ」×「リーバイス」のキャンペーンは、私たち姉弟のように容姿が似ている2人に同じ服のスタイリングをして、着こなしにどんな違いが出るかを撮りたいというコンセプトで、私と弟にモデルとして声がかかったんです。バンドとは関係なく、あくまでモデルとして参加しただけなので、自分の音楽的なクリエイティビティーを発揮したわけではないですが、コラボコレクションのアイテムが魅力的だったので、関われて嬉しかったです。

人は、音楽やファッションを通してアイデンティティを追い求め、自分がこの世界でどうあるべきかを考え、その方法を築き上げていく。ファッションだけでなく、音楽やアートにおいても、自分の嗜好やスタイルに固執するという点では、ある意味“部族的”なものだと思います。でも「モード」が提唱するように、ファッション、音楽、アートをミックスすることによる相互作用や変化は、そこに新しい意味や発見をもたらすと思います。

ーーミュージシャンにとって、ファッションは自身のプレゼンスを表現する方法のひとつだと思います。ファッションに関する“信条”はありますか?

ジェス:今回のアルバムに「1日に1000回着替える」というニュアンスの歌詞の曲があります。着ているものが少し変わるだけで、自分が強くなったと感じたり、鎧を身にまとって守られているような気分になったりすることってあるなと思うんです。

フィン:以前はカラフルな服を着ていたこともあるけど、最近は基本的にシンプルで作りが良い、色味を抑えた控えめな印象の服を着まわすことが多いです。朝の時間は色々なことを考えずリラックスしたいので、食事も自分が好きなものを繰り返し食べることが多いです。

デヴィッド:ぼくは、自分に合うものを見つけようと努力したり悩んだりしてきましたが、結局、服はあくまで服であり、何を着てもいいんだと考えるようになりました。

ーー楽器についても、サウンドはもちろん、佇まいがそのミュージシャンの印象を左右するという意味で、ファッションの要素を含むように感じます。フィンさんのギターは特に色がユニークですね。

フィン:このギターはイーベイ(eBay)で買って、自分でパーツを探し集めて組み合わせたものです。シルバーの塗装の上にグリーンが塗られ、それをやすりで削ってあり、とても美しい。ペグの形も良いし、ネックの形も60年代のスタイルに近い感じで気に入っています。青と緑の中間の色味が好きで、以前もシーフォームグリーンのフェンダー・デュオソニックを使っていましたが、ネックが折れてしまって。その後に手にした、このトレモロアーム付きのフルサイズのデュオソニックが僕らの音楽を変えたんです。

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スティル・ハウス・プランツ インタビュー 感性と相互研鑽が紡ぐボーダレスな音楽とは

昨年9月、実験音楽、オーディオビジュアルアート、パフォーミングアーツを紹介するプラットフォーム「モード(MODE)」は、実験音楽イベント「モード アット リキッドルーム(MODE AT LIQUIDROOM)」を、恵比寿リキッドルームで開催した。

今回は日野浩志郎率いる5 人編成のリズムアンサンブル、ゴート(goat)と、ロンドンを拠点に活動するエクスペリメンタル・ロックバンド、スティル・ハウス・プランツ(Still House Plants)のダブルビル公演が実現。

スティル・ハウス・プランツは、ボーカルのジェス・ヒッキー・カレンバッハ(Jess Hickie-Kallenbach)、ギターのフィンことフィンレイ・クラーク(Finlay Clark)、ドラムのデヴィッド・ケネディー(David Kennedy)から成るスリーピースバンド。2013 年にスコットランドのグラスゴー美術学校で出会った3人は、それぞれ視覚芸術を専攻するかたわらで音楽制作を始めた。ジャズやソウル、ポストロックのムードが漂うフレキシブルなサウンド、劇的でメロディアスな歌声、リスナーの自由な想像力を誘う詩など、独自の音楽性が世界的に注目を集めており、昨年4月に3作目となるアルバム「If I Don't Make It, I Love U」をリリースした。

多彩な感性のメンバーが織りなす楽曲は、制作からライブを経て何度も演奏するうち、各パートの役割や内包されるイメージ、言葉の意味が変容し進化していく。「モード」の公演のため来日した彼らに、音楽性やクリエイティビティーの背景について話を聞いた。

アートを学びながら自然な流れで始めた音楽活動
感覚的なプレイを生かした制作プロセス

ーーバンドの結成について。3人は同じグラスゴーのアートスクールで出会ったそうですが、それぞれ絵画や写真を専攻しながら、音楽の道へと進んだ経緯について教えてください。

フィンレイ・クラーク(以下、フィン):音楽学校に行きたくて、何校か見学しましたが、いずれもピンと来なかったんです。近い考えを持った人たちと過ごしたいと思っていましたが、音楽学校はそういう場所ではないと感じて、アートスクールに行って楽器をやろうと考えました。絵画コースは絵を描くことが必須ではなく、自由度が高いと聞いていたので、音楽も作れるんじゃないかと。結果的に最適な選択でした。そこでデヴィッドに出会ったんです。

ジェス・ヒッキー・カレンバッハ(以下、ジェス):私は写真や映像を専攻しましたが、フィンに出会って、すぐに一緒に音楽制作を始めました。最初は気軽なノリで自宅で音楽を作っていて、長時間の演奏を通して自分たちのサウンドを探求していました。

フィン:僕は、自宅のベッドルームで制作した音楽作品を、絵画コースの課題として提出していました。CD に録音した音楽の断片や、演奏している様子を撮影したビデオなど。自分にとってこれは絵画でもあると考えていました。

ジェス:ライブ活動を始めてから、演奏の度に次のライブの依頼をもらうようになりました。楽しみながら音楽活動を続けていただけで、音楽の道でキャリアを築こうと、あらためて決意したことは一度もないんです。信頼する友人やコラボレーターと一緒に音楽制作に取り組めて、気がつくと夢中になっていました。

フィン:グラスゴーの音楽シーンのコミュニティーはとても協力的です。僕らが拠点にしていたグリーン・ドア・スタジオには刺激的なミュージシャンが集まっていて、そこで出会った人たちと一緒にツアーをしたり、車でイギリス中を回ったりもしました。アートについて学ぶかたわらで、音楽活動にも意義を見出していました。

デヴィッド・ケネディー(以下、デヴィッド):僕は子供の頃からドラムを演奏していましたが、15 歳の時にドラムとの関わり方が分からなくなってやめたんです。その後アートスクールに進学しましたが、学校ではドラムを演奏するつもりはありませんでした。でもフィンたちと知り合ってからは、自然とまたドラムを叩くように。ここ数年で、自分は本当にドラムが好きなんだと気づきました。一度ドラムから離れて良かったと思います。多くの経験を経て、新しい視点を持ってドラムに戻ってくることができたので。

ーー初期のアルバムでは各人の演奏をサンプリングした音源を使ってコラージュのように制作した作品が印象的です。最新アルバムはどのように制作を進めたのでしょうか。

ジェス:以前はメンバー3人が離れた場所で生活していたので、各々の演奏を録音した音源を細切れに分割して、サンプリングのように切り貼りして作曲せざるを得ませんでした。卒業後、パンデミックの最中に全員別々のタイミングでロンドンに引っ越したんです。3人揃って演奏できるようになると、あらゆる方法での曲作りが可能になりました。ダンスミュージックから着想を得たり、ドラムとギターの関係性について探究したり、ヴォーカルループを使ったり。

以前の作品は過ごした時間の「レシート」のようなものでした。時間もお金もないし、スタジオで作業できるのは1日だけ。でも最新作はアルバム自体がアイデアの集積になっていると思います。

デヴィッド:今回のレコーディングでは、幾度となく演奏を重ねるうちに演奏したフレーズを忘れていってしまうので、あとで振り返って確認できるようにリハーサルをすべて録音していました。結果的にそれが作曲プロセスの一部になったんです。聴き返していると「ああ、ここに拍子の変化があったんだな」などの気付きがありました。

最新のアルバムはソリッドな構成になっていますが、当初から意図したわけではなく、自然に任せてできた音楽を洗練させ、最終的に全体をまとめあげたんです。

ジェス:自然で感覚的な作業方法が、プロセスの重要な一部になる。後になって初めてそのことに気付くんです。

フィン:このアルバムを作っていた時、スタジオの壁に「もう少し余白のある曲が必要か?」とか「もっとスローな曲が必要か?」など、自問自答のメモを大量に貼り付けていました。ギターのパートに関しては、自分が楽しく弾けることや、シンプルさと複雑さのバランスに重点を置いています。

自他の創造性を刺激する、余白を残した表現の探究

ーー詩で表現しようとしている内容について教えてください。

ジェス:歌詞で一番大切にしているのは、自由に解釈できるようオープンであること。詩的な発想や哲学的な概念というより、会話の中でふと口にするような内容が多いです。ストーリーを語ることにはあまり興味がありません。

言葉の断片を切り取り、サンプリングすることで何らかのイメージが構築されたり、同じ言葉を反復するうちに意味が変化していったりすることがあります。勝ち誇ったようなニュアンスの言葉でも、繰り返すことで悲しみや寛大さを帯びていくことも。ベーシックなダンスミュージックをサンプリングするとしても、ロマンティックなフレーズを繰り返すことで月並みな響きから誠実な響きに変化していったりします。サンプリングが好きなのはそのためです。

特定の友人や人間関係についての曲をオープンに書いてきたので、歌詞もロマンチックなものが多いかもしれません。ほかにも魂の探求をするような歌詞や、何気ない会話のような言葉など、あらゆる要素を織り交ぜています。

ーーサウンドからは、ミニマルで独特なリズムを基盤に、3人が調和を探っているような印象を受けます。影響を受けたアートや音楽があれば教えてください。

ジェス:それぞれが好きな音楽は多岐にわたっています。共通点も違いもあるのが面白いところです。楽曲にはドラムンベースの要素を取り入れていますが、デヴィッドは、ソースダイレクト(Source Direct)やオウテカ(Autechre)を引き合いに出し、音楽におけるドラムという要素や、ドラムンベースという音楽形態についてよく話をします。

デヴィッド:ジャングルやドラムンベースなどのUK ダンスミュージックの良さは、ドラムが、単にリズムを刻むだけにとどまらず、時に物語を語り、感情を表現し、ボーカルパートのような役割を果たすところ。私たちのバンドも、ドラム、ギター、ベース、ボーカルが固定的な役割を演じるのではなく、すべてが混ざり合い、入れ替わり立ち替わり異なる役割を演じていきます。

フィン:私たちのバンドは、自分たちが一旦作り上げた曲の形を、引き算のようなプロセスを経て、徐々に変化させていきます。その観点でアプローチが魅力的なのは“オープンな楽譜”を書いていた実験音楽家アンソニー・ブラクストン(Anthony Braxton)や、シンプルな構成の中に非対称の長いフレーズがあり、その上にループ音が重なるフランスの現代音楽作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen)です。

ジェス:特定の楽曲に直接影響を受けるのではなく、インスパイアされるとしたらアーティストの独創的なアプローチや姿勢の部分ですね。

ーー即興的な要素はありますか?

ジェス:即興で曲を書くというよりは、ジャムセッションの要素の方が強いです。お互いの演奏を目の前で見られるのがジャムの良いところ。演奏をすべて録音し、各々のパートを学び、覚えていく。するとそこに存在するパターンや変化、注意すべきポイントが見えてきます。

また、お互いのパートに対して、各自がアイデアを加える余地を常に残しています。ミスや違い、変化を受け入れる余地を作るのは重要で、それが自ずと楽曲や作曲手法に反映されていくと考えています。

フィン:ジャムを何度も繰り返しながら、ライブ本番までに形になっていきます。ひとつの曲が次の曲へと移行するチェックポイントのような部分もフレキシブルにしているんです。

ジェス:セットリストは演奏のベクトルを示す"矢印"のようなものですね。

ーーこれまでにバイソンレコーズ(bison records)やロンドンのカフェ オト(Cafe OTO)、ニューヨークのブランク フォームズ(Blank Forms)など、実験的でインディペンデントな姿勢を貫くレーベルから作品をリリースしています。彼らに共鳴したポイントは?

ジェス:私たちにとって、インディペンデントな人たちと協働するのは重要なこと。一緒に仕事をする相手と対話してお互いをよく知ることができれば、共感性の高いアイデアを持ってきてくれて仕事につながるんです。

フィン:カフェ オトやブランク フォームズも僕らの活動を見て連絡をくれて、素晴らしいリリースの提案をしてくれた。最初に作品をリリースしたバイソンレコーズも良きパートナーです。

ジェス:大切なのは、アーティストとして自分の作品をコントロールできること。私たちは幸運にも、最初のカセットテープをリリースしてくれたグラーク(GLARC)を含むパートナーたちとの仕事を通して、自律性を保ちながらサポートを受けられる基盤を見つけられたんです。アート作品のような見開きジャケットの特別版LPなど、素晴らしい作品をリリースできたのは最高の経験でした。

音楽とファッションの関係性について

ーー「モード」は、「音楽、アート、ファッションが垣根を超えて自由に融合し、成長する」ことを理念のひとつとして掲げています。ジェスさんは「キコ コスタディノフ(KIKO KOSTADINOV)」×「リーバイス(LEVI’S)」のキャンペーンにもモデルとして登場されていますね。

ジェス:「キコ コスタディノフ」×「リーバイス」のキャンペーンは、私たち姉弟のように容姿が似ている2人に同じ服のスタイリングをして、着こなしにどんな違いが出るかを撮りたいというコンセプトで、私と弟にモデルとして声がかかったんです。バンドとは関係なく、あくまでモデルとして参加しただけなので、自分の音楽的なクリエイティビティーを発揮したわけではないですが、コラボコレクションのアイテムが魅力的だったので、関われて嬉しかったです。

人は、音楽やファッションを通してアイデンティティを追い求め、自分がこの世界でどうあるべきかを考え、その方法を築き上げていく。ファッションだけでなく、音楽やアートにおいても、自分の嗜好やスタイルに固執するという点では、ある意味“部族的”なものだと思います。でも「モード」が提唱するように、ファッション、音楽、アートをミックスすることによる相互作用や変化は、そこに新しい意味や発見をもたらすと思います。

ーーミュージシャンにとって、ファッションは自身のプレゼンスを表現する方法のひとつだと思います。ファッションに関する“信条”はありますか?

ジェス:今回のアルバムに「1日に1000回着替える」というニュアンスの歌詞の曲があります。着ているものが少し変わるだけで、自分が強くなったと感じたり、鎧を身にまとって守られているような気分になったりすることってあるなと思うんです。

フィン:以前はカラフルな服を着ていたこともあるけど、最近は基本的にシンプルで作りが良い、色味を抑えた控えめな印象の服を着まわすことが多いです。朝の時間は色々なことを考えずリラックスしたいので、食事も自分が好きなものを繰り返し食べることが多いです。

デヴィッド:ぼくは、自分に合うものを見つけようと努力したり悩んだりしてきましたが、結局、服はあくまで服であり、何を着てもいいんだと考えるようになりました。

ーー楽器についても、サウンドはもちろん、佇まいがそのミュージシャンの印象を左右するという意味で、ファッションの要素を含むように感じます。フィンさんのギターは特に色がユニークですね。

フィン:このギターはイーベイ(eBay)で買って、自分でパーツを探し集めて組み合わせたものです。シルバーの塗装の上にグリーンが塗られ、それをやすりで削ってあり、とても美しい。ペグの形も良いし、ネックの形も60年代のスタイルに近い感じで気に入っています。青と緑の中間の色味が好きで、以前もシーフォームグリーンのフェンダー・デュオソニックを使っていましたが、ネックが折れてしまって。その後に手にした、このトレモロアーム付きのフルサイズのデュオソニックが僕らの音楽を変えたんです。

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渋谷109に凱旋、販売員出身の2人が手掛ける「エシオ」がポップアップ

「エシオ(ESIO)」は3月5日まで、渋谷109の1階でポップアップショップをオープンしている。同ブランドは渋谷109でともに「ムルーア(MURUA)」で販売員をしていた関本香里と才賀果歩の2人が2021年にスタート、24年8月からは再エネ事業者のGXフォースの傘下に入った。再エネ事業者が運営する異色のファッションブランドが目指す先とは?

PROFILE: 才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー

才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー
PROFILE: (さいが・かほ)1995年6月24日生まれ。「ムルーア(MURUA)」で約6年間ショップスタッフとして勤務。大手企業でのマーケティングとデザインを経て、21年に「エシオ」をスタート、(せきもと・かおり)1993年9月16日生まれ。高校卒業後、マークスタイラーの「ムルーア(MURUA)」でショップスタッフ、ディレクターアシスタント兼デザイナーを経て、2021年に「ESIÓ」をスタート。インスタグラム(@kaori_sekimoto_)のフォロワーは4.9万人

2人はともに渋谷109の「ムルーア」販売員

才賀プロデューサーと関本プレスはともに渋谷109の「ムルーア」で販売員をしていた。「渋谷109の『ムルーア』のオープニングスタッフで勤務したときに、ちょうど(関本)香里さんもいて。帰りの電車が一緒だったのが仲良くなったきっかけ(笑)」(才賀プロデューサー)という。才賀プロデューサーは販売員の後に「ムルーア」のプレスに異動。マークスタイラーを退職後は業務委託などでマーケティングやデザインなどを経験し、21年に関本プレスとともに「エシオ」をスタートした。「マークスタイラーを退職後に、ブランドを立ち上げるために必要なことをとにかく業務委託で引き受けた。服のデザインからウェブデザイン、SNSの運用、デジタルマーケティングまで、いろいろな仕事を受けた。場合によっては『できます』と言って引き受けてからいろいろ調べて勉強したことも(笑)」。

そのため「エシオ」は21年のスタート時に、デザイナー経験のある関谷さんがディレクター、才賀さんがプレスという役割だったが、GXフォース傘下に入った段階で役割を逆転させた。「ブランドを始めてみたら、向いている分野が逆だった(笑)」(関谷プレス)。関谷さんは個人のアカウントで4.9万人のフォロワーを抱える一方で、才賀さんは個人アカウントはほぼ放置状態の一方で「発信するよりも服作りが大好き。着て喜んでもらえる服、そのことばかりを考えている」。2人にお互いの印象を聞くと、「ポンコツだけど優しくて頼れるお兄ちゃん」(才賀さん)。「口うるさいしっかりものの妹」(関谷さん)。

とはいえ、ブランド運営に関してはほぼ2人が一体になって回している。「服のデザインや生産、ECとSNSの運営、ポップアップショップでの販売まで、文字通り2人で回しています。札幌の大丸百貨店のポップアップでは、店頭での販売も2人でやりました。販売員出身の2人ということもあって販売が好きだし、なによりも店頭でファンの方と触れ合えるし、ダイレクトにいろいろな情報を受け取れて、デザインにも生かせる。ポップアップではできるだけ店頭にいるようにしています」(才賀さん)。服の生産やデザイン、ECの運営もあるため、「スキマ時間にスマホでメールを返したり。さすがに大変ですが」。

親会社のGXフォースはブランドの実働は2人に完全に委託しているが、「(石破 周一)社長には、こちらが恐縮するほど多くの時間を割いてもらってアドバイスをもらっている。経営面から消費者目線でのアドバイスまで、本当に助かっている」(才賀さん)という。

特殊加工のスカジャンを先行販売

ポップアップでのイチオシは、先行販売のスカジャンのセットアップだ。職人と一緒に絶妙なエージング加工を施したスカジャンの価格は4万7900円。「『エシオ』の商品単価で考えると高くなってしまったけど、顧客は絶対に満足してもらえる自信がある。買った直後よりも、着用するたびに満足度が高まる、そんなブランドを目指している」(才賀さん)。

5日間のポップアップの売り上げ目標は1000万円。「凱旋なので過去最高の基準に設定した。抽選会やコスメサンプルの配布、別注カラーの先行受注など、これまでにやったことのないイベンにも実施する」(関谷さん)。

■「ESIO」POP-UP
場所:SHIBUYA109渋谷店1F Limited POPUP BRIDGE.
期間:2025年3月1-5日
所在地:〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂2丁目29-1
営業時間:10:00~21:00

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渋谷109に凱旋、販売員出身の2人が手掛ける「エシオ」がポップアップ

「エシオ(ESIO)」は3月5日まで、渋谷109の1階でポップアップショップをオープンしている。同ブランドは渋谷109でともに「ムルーア(MURUA)」で販売員をしていた関本香里と才賀果歩の2人が2021年にスタート、24年8月からは再エネ事業者のGXフォースの傘下に入った。再エネ事業者が運営する異色のファッションブランドが目指す先とは?

PROFILE: 才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー

才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー
PROFILE: (さいが・かほ)1995年6月24日生まれ。「ムルーア(MURUA)」で約6年間ショップスタッフとして勤務。大手企業でのマーケティングとデザインを経て、21年に「エシオ」をスタート、(せきもと・かおり)1993年9月16日生まれ。高校卒業後、マークスタイラーの「ムルーア(MURUA)」でショップスタッフ、ディレクターアシスタント兼デザイナーを経て、2021年に「ESIÓ」をスタート。インスタグラム(@kaori_sekimoto_)のフォロワーは4.9万人

2人はともに渋谷109の「ムルーア」販売員

才賀プロデューサーと関本プレスはともに渋谷109の「ムルーア」で販売員をしていた。「渋谷109の『ムルーア』のオープニングスタッフで勤務したときに、ちょうど(関本)香里さんもいて。帰りの電車が一緒だったのが仲良くなったきっかけ(笑)」(才賀プロデューサー)という。才賀プロデューサーは販売員の後に「ムルーア」のプレスに異動。マークスタイラーを退職後は業務委託などでマーケティングやデザインなどを経験し、21年に関本プレスとともに「エシオ」をスタートした。「マークスタイラーを退職後に、ブランドを立ち上げるために必要なことをとにかく業務委託で引き受けた。服のデザインからウェブデザイン、SNSの運用、デジタルマーケティングまで、いろいろな仕事を受けた。場合によっては『できます』と言って引き受けてからいろいろ調べて勉強したことも(笑)」。

そのため「エシオ」は21年のスタート時に、デザイナー経験のある関谷さんがディレクター、才賀さんがプレスという役割だったが、GXフォース傘下に入った段階で役割を逆転させた。「ブランドを始めてみたら、向いている分野が逆だった(笑)」(関谷プレス)。関谷さんは個人のアカウントで4.9万人のフォロワーを抱える一方で、才賀さんは個人アカウントはほぼ放置状態の一方で「発信するよりも服作りが大好き。着て喜んでもらえる服、そのことばかりを考えている」。2人にお互いの印象を聞くと、「ポンコツだけど優しくて頼れるお兄ちゃん」(才賀さん)。「口うるさいしっかりものの妹」(関谷さん)。

とはいえ、ブランド運営に関してはほぼ2人が一体になって回している。「服のデザインや生産、ECとSNSの運営、ポップアップショップでの販売まで、文字通り2人で回しています。札幌の大丸百貨店のポップアップでは、店頭での販売も2人でやりました。販売員出身の2人ということもあって販売が好きだし、なによりも店頭でファンの方と触れ合えるし、ダイレクトにいろいろな情報を受け取れて、デザインにも生かせる。ポップアップではできるだけ店頭にいるようにしています」(才賀さん)。服の生産やデザイン、ECの運営もあるため、「スキマ時間にスマホでメールを返したり。さすがに大変ですが」。

親会社のGXフォースはブランドの実働は2人に完全に委託しているが、「(石破 周一)社長には、こちらが恐縮するほど多くの時間を割いてもらってアドバイスをもらっている。経営面から消費者目線でのアドバイスまで、本当に助かっている」(才賀さん)という。

特殊加工のスカジャンを先行販売

ポップアップでのイチオシは、先行販売のスカジャンのセットアップだ。職人と一緒に絶妙なエージング加工を施したスカジャンの価格は4万7900円。「『エシオ』の商品単価で考えると高くなってしまったけど、顧客は絶対に満足してもらえる自信がある。買った直後よりも、着用するたびに満足度が高まる、そんなブランドを目指している」(才賀さん)。

5日間のポップアップの売り上げ目標は1000万円。「凱旋なので過去最高の基準に設定した。抽選会やコスメサンプルの配布、別注カラーの先行受注など、これまでにやったことのないイベンにも実施する」(関谷さん)。

■「ESIO」POP-UP
場所:SHIBUYA109渋谷店1F Limited POPUP BRIDGE.
期間:2025年3月1-5日
所在地:〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂2丁目29-1
営業時間:10:00~21:00

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主演 石井杏奈×本田響矢 話題のドラマ「私は整形美人」で出演して思うこと

PROFILE: (右)石井杏奈 (左)本田響矢

(右)石井杏奈<br />
(左)本田響矢
PROFILE: (いしい・あんな)1998年7月、東京都生まれ。映画「ガールズステップ」(主演)、映画「ソロモンの偽証」、アマゾンプライムドラマ「推しの子」、フジテレビ「ブルーモーメント」などに出演。@anna_ishii_official (ほんだ・きょうや)1999年6月、福井県生まれ。Netflixシリーズ「恋愛バトルロワイヤル」、NHK連続テレビ小説「虎に翼」、テレビ東京ドラマ25「風のふく島」などに出演。公式サイト https://honda-kyoya.com/ PHOTOS : YOHEI KICHIRAKU

1月からフジテレビで放送されていた話題のドラマ「私は整形美人」。現在FODにて独占見放題配信中、6月25日にはブルーレイがリリースされることが決定した。
原作はLINEマンガのオリジナルwebtoon作品「私は整形美人」で、日本では初実写化。韓国では2018年に「私のIDはカンナム美人」としてドラマ化され、韓国のみならず世界中の視聴者の心を鷲掴みにした。今回の「私は整形美人」で、容姿に強いコンプレックスを抱き、整形で美人女子大生に大変身した主人公・片桐美玲を好演したのは俳優の石井杏奈さん。そんなヒロインと“じれキュン”な恋を展開する、イケメンかつ超クールな同級生・坂口慧を本田響矢さんが演じた。ここでは2人に、作品の見所や撮影の舞台裏、役柄に寄せる思いを聞いた。

WWD:「私は整形美人」の出演依頼が来たときはどう感じた?

石井杏奈(以下、石井):原作を読んで、韓国版のドラマも見て、ルッキズムの今の時代に、すごく影響力を持った作品だと感じました。でもそれをネガティブ方向に寄らずに、ポップに描いている点がポイント。自分のパブリックイメージは“陰”で、「静かそう」と言われることが多いけれど、そのイメージを払拭する挑戦の意味も込めて「受けたい」と思いました。

本田響矢(以下、本田):原作が大ヒットして、韓国版のドラマも配信当時に周りが皆見ていたので、そこに対するプレッシャーはありました。でもそうしたことに惑わされず、自分なりに解釈して演じようと臨みました。

WWD:役作りは?

石井:自分のこれまでの人生に、ヒロイン・美玲を当てはめてみる役作りをしました。自分が辛かったことを思い出して、美玲だったらこう乗り越えるかな、これを選択するかな、などとよく考えましたね。私と美玲には、家族に愛されてきたことや、本当は友だちを大切にしたいと考えているところといった共通点もあるので、それを大切にしながら演じました。容姿に関しては、ヘアメイクさんと相談しながら決めていきました。

本田:慧は、僕とは真逆のキャラクター。寡黙でクール、感情が見えないので「どう思っているの?」などと言われがちなキャラで、自分とのギャップが新鮮でした。

WWD:撮影で大変だったことは?

石井:出演者の多くが同年代で、休み時間にお喋りなどして仲良くなりました。そのためか、撮影の終盤で1、2話のシーンを撮る際、「ちょっと仲良過ぎない?」などと言われてしまったことがあります。心の距離って画面に出てしまうものだなと思い、難しさを感じました。

本田:慧はかっこいいキャラクターなので、セリフの言い回しにもかっこよさが要求されました。自分の名前を聞かれたときにノールックで答えるシーンがあって、そこが余りにも恥ずかし過ぎて焦りました。

WWD:FODにて独占見放題配信中で6月にはブルーレイもリリースされますが、作品のどんな点に注目してほしい?

石井:自分のコンプレックスを受け入れた女の子が、整形によって変わって、人生を新たに歩み始める物語。心にコンプレックスを抱えながらも、理想の自分に近づきたいと日々過ごしている……。そういう人たちの背中を押してくれる作品になっていると思います。自分も演じていて強くなれましたし、自信を持てました。悩みや小さな違和感を、優しく包んでくれるはずです。

本田:ドラマの中に、キーアイテムとして香水が出てくるので、香水好きな人は注目してほしいですね。慧は、過去のトラウマから香水が好きではないのですが。

WWD:本田さん本人、香水は?

本田:大好きですし、匂いフェチです。プライベートでは、休日にお香をたいたり、キャンドルをつけたりしています。ウッディやアンバー、ムスクなど渋めの香りが好きですね。

WWD:石井さんは?

石井:私も好きで、撮影期間中、役に合った香水をつけることにはまっています。作品ごとに変えていて、「私は整形美人」の撮影中は、甘い香りをつけていました。美玲がつけている香水のモデルになった香水があったのですが、それが販売終了してしまったため、似ている甘くて爽やかな香りを、探してつけていました。

WWD:プライベートに関して、日頃の美容のお手入れは?

石井:ビタミンサプリを、朝と夜に飲んでいます。あとは、メイクしたまま寝ないことですかね。

本田:毎晩お風呂上がりに、化粧水をつけた後、パックをやっています。地元の友だちに元野球部の美容男子がいて、彼に影響されて始めました。

WWD:作品に関連して1つ質問。好きになった女性が、過去に大きな整形手術をしていたら?

本田:別に、揺さぶられないです。今好きでいることは、過去に囚われることはないと思います。

WWD:石井さんは、整形に対して思うことは?

石井:とても素敵だと思っています。変わることができて、心が前向きになれて、自分のことを好きになれるなら、絶対にした方がいい。その点は、主人公に共感できますね。この作品には、そうした前向きになれるメッセージが込められています。その一方でラブコメディであり、ポップ&リズミカルでキュンキュンする物語になっているので、明るい気持ちになりつつ、2人の恋愛模様も楽しんでほしいです。

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「ニート」西野大士、パンツ一筋の10年とこれから

西野大士デザイナーのパンツ専業ブランド「ニート(NEAT)」が2015年の立ち上げから10年を迎える。

トータルコーディネート提案が当たり前、他業種コラボも入り乱れる今のファッション業界において、シンプルなスラックスで愚直に勝負し生き残ってきた「ニート」は、ある意味で異質な存在だ。

業界人やインフルエンサーなどがこぞって買い求めたのが5〜6年ほど前。それから一時のブームに終わることもなく、ファッション好きの男性を中心に根強い支持を集めている。

人気が過熱する中でも「自分が欲しいものを作る」ことを貫いたからこそ、今の「ニート」があるのだろう。西野デザイナーにこれまでの歩みと展望を聞いた。

「穿きたいスラックスがない」
から作った2本のサンプル

WWD: ブランドを立ち上げた経緯は。

西野大士「ニート」デザイナー:今から10年前なので、「ニート」を立ち上げたのは31のとき。「ブルックス ブラザーズ」のプレスを辞め、当時はアイウエアブランドのPRをしていた。ブルックス時代は雑誌広告もまだまだ元気で、毎日夜遅くまで働いて、忙しかった。それが転職後はリースや取材対応をしつつも、夜6時には飲みに行けてしまうような生活に。楽しかったけれど、「このままでいいのか」とも思っていた。それで「いつかは自分の店やブランドをやりたい」と思っていたこともあって、とりあえず動き始めた。

WWD:最初から「パンツブランドをやろう」と?

西野: 僕は大の古着フリーク。新品は、インポートを時々買ってはいたものの、ドメスティックブランドにはほとんど縁がなかった。だから自分がブランドをやるとなった時に、「自分が着ないものは作らない」というのがまずあった。で、パンツだけは巷に欲しいものがないな、と。

WWD: どんなパンツが欲しかったのか。

西野:ブルックスをやめてから自転車通勤をするようになって、ライフスタイルが変わった。ネクタイをしなくなったり、革靴を履かなくなったり。でも、もともとクラシックな服が好きだったので、スラックスは穿きたいけれど、ブルックスの「いわゆる」なスラックスで自転車に乗るのは、なんか違う。しっくりくる1本を探したが、意外と選択肢がなかった。インポートブランドなら、コンフォートな着用感でかっこいいものもちょくちょくあったが、そもそも日本人体型の僕にはフィットしなかった。

そこで、「誰が穿いてもシルエットがキレイで、快適なスラックスを作ろう」と。日本人の骨格に合わせて、お尻回りや太ももにゆとりを持たせる。そのために、深いタックを入れる。170〜175cmくらいの人でも裾上げしたときに、1番キレイなシルエットに見える。これが僕の求める条件で、上はTシャツ、足元はスニーカーでも「きちんと見えるように」という意味を込めて、ブランド名は「ニート」に決めた。

WWD:その考えをどうやって形にした?

西野:そこが問題だった(笑)。今思えば、よくそれでブランドやろうと思ったなと。ブルックス時代にパターンができる知り合いがいたので、とりあえず頭を下げた。普通なら無理な頼みだけれど、「2型だけなら」と作ってもらえることになった。ただ空いた時間での作業だったから、修正をお願いすると、次のサンプルが上がってくるのは3カ月後だった。完成までに、1年くらいはかかった。

WWD:最初の展示会(15年秋冬)で反応はどうだったか。

西野:ラックにぽつんと掛けたスラックス2本に、奇跡的にも49本のオーダーが入った。バイヤーのつながりもないので、ほとんどが知り合いからだったが、嬉しかった。ただ、そんなに注文が入るとも思っていなかったから、今度は量産に困った。サンプル用の生地は文化(服装学院)の生協で調達していたが、それじゃダメじゃん!とこのタイミングで気づいたのもアホ。

でも救いの神はいるもので、たまたま同い年のアパレルの飲み友にOEM会社で働いている奴がいた。49本という小ロットだったが、友達のよしみということで特別にやってもらえることになった。マーベルト(腰裏ベルト)仕様にしたいという、個人的なワガママものんでくれて、ファーストシーズンはなんとか完納できた。

WWD:どうやって展開を広げた?

西野:次の16年春夏の展示会に「レショップ」の金子(恵治元バイヤー)さんが来てくれた。当時の「レショップ」の店長とはブルックス時代からの知り合いで、彼が「ブランドを始めたなら、うちのバイヤーに話してみるよ」と取り計らってくれた。

金子さんのオーダーが、ブランドの転機になった。「レショップ」の店頭では1日で完売したらしく、「在庫ないの?」「いや、ないです。作れないです」というやりとりは、今でも覚えている。取引先のアカウントは、2、7、14、25、30とシーズンを追うごとに増えていった。現在は40くらいで安定している。

WWD:パンツからのラインアップの拡大は考えなかった?

西野:もちろん、考えた。トップスに比べればパンツは地味だし、アイキャッチがない。スタイリングで見せることへのジレンマが出てきて、他のものも作りたくなった。一時期は「ドレス(DRESS)」という別ブランドでシャツなども作っていたが、結局「自分では着ないな」とやめてしまい、今はコットンのタートルネックだけ作っている。結局、自分で着たいと思うものしか、作り続けられない性なんだと思う。

WWD:浮き沈みはあった?

西野:最初はすごい勢いでオーダーが付いたし、巷のインフルエンサーもばんばん紹介してくれて、飛ぶように売れた。それが顕著だったのが19年ごろ。別注の依頼が来て、「こんな素材どう?」と提案し、工場に頼み、納品されればすぐ在庫がはける。「商売って簡単じゃん」と思いかけたし、今では天狗になってしまう人の気持ちも身にしみて分かる。

ただその分、人気が少し落ち着いたときに、途端に不安になった。一時期は、パソコンで卸先の売れ行きを四六時中チェックしていたことも。そういう自分が嫌だったこともあって、直営店の「ニート ハウス」を作った。卸先に依存するのではなく、自分たちで発信できる場所を持つことが大事だと考えた。価格が高いもの、攻めた色柄のものなど、なかなかオーダーがつきにくいアイテムも、自分たちの店で売ればいい。卸先の売り上げにも、過剰にこだわらなくなった。

WWD:いい意味で肩の力が抜けた、と。

西野:流行を追いかけている人を、自分たちも追いかけていると、どこかで疲れてしまう。「たまたま引っかかってくれた」ではなく、強いベースを作らないと、ビジネスとして息が長く続かない。最近は、数年前の「はやり」に乗ってうちのパンツ買った人が、「やっぱりいい」とまた買いにきてくれている。こういうファンを増やしていきたい。

全部「中途半端」
だから生き残れた

WWD:10年やってみて。

西野:皆さんが「パンツだけのブランド」をやらない理由が、本当によく分かった。通常、セットアップを作るとしたら、スラックスの販売価格はジャケットの半額か、それに毛が生えたくらいだろう。ただ実は、スラックスを作るのにかかるお金は、ジャケットとそんなに変わらない。スラックスは細かい工程がすごく多いし、使う生地の用尺もあまり変わらない。だから、売る側としてはコスパが悪い。「ニート」のスラックスはまず3万3000円で出したが、当時は「めちゃくちゃ高い」と言われた。今では他が値上げ、値上げなので、むしろ「安い」と言われるようになったけれど。

WWD:トップスに比べ、脇役に見られがちなパンツ。差別化も難しい。

西野: だからこそ、まずはちゃんと公式サイトを作る(笑)。ただそこで、見栄えをよくするつもりはない。あくまで穿き心地やシルエットで選んで欲しいから、オールドファッションかもしれないけれど、店で試着をしてから買っていただきたい。だからECではなく、ホームページ。それぞれの商品ページから、卸先を確認できる仕様を考えている。

WWD:改めて「ニート」の強みとは?

西野:1つはやっぱり、僕自身が欲しいものを作っていること。ブランドを続けているうち「売れるものを作ろう」という、商売人としては至極真っ当な思考に寄ってきてはいるものの、それでも「自分が穿きたいか」というジャッジは、必ずしている。パンツといえど、10年も経てば好みも変わる。最近は定番3型にも手を加えて、テーパードタイプをなくし、スタンダードタイプとワイドタイプをリニューアルした。特に男性は、自分の安心するパンツの形が見つかると、そこに安住しがちだ。だから新型は、最初あまり売れない。でも、焦らないこと。1年半ほど前に出したフレアシルエットは、ここにきて売れ出していて、この秋冬はワイドよりも売れているくらいになった。

2つ目に、「中途半端」なところ。モノ作りのプロでは決してない、プレス畑の人間が中途半端に始めて、「チャリに乗って穿けるスラックス」という、これまた中途半端なコンセプトのパンツを作った。だから、あまり敵がいないポジションなのかなと。直営店ではオーダースーツも売っているが、結婚式の披露宴にはギリギリ大丈夫だけれど、プロのテーラーからしたら「ふざけんな」と言われるくらいの仕様だ。でもこの中途半端なバランスも、若い子には受けていて、オーダーも結構入る。意外と、こういう空気感が求められているんだと感じる部分もある。

WWD:今後の目標は。

西野:まず社会貢献。僕の故郷は淡路島で、やはり震災の経験があるからか、地元の役に立ちたいという気持ちは人一倍強いんだと思う。実は過去に「ニート」の事業売却の持ちかけもあって、正直目が眩むような金額ではあった。ただ奥さんにも相談して、やっぱり僕には「ニート」でやりたいことがまだまだあると思った。

もちろん、「ユニクロ」のヒートテックと違って、被災したときに「ニート」のスラックスを配っても何の役に立たない。でも神戸では母子手帳をファミリアが作っていたりする。こういうことなら、何か貢献できることがあるんじゃないかと思う。淡路島のある市役所の制服を「ニート」にしたい、と市長にも相談したが、「一企業の宣伝になるからダメ」とあえなく頓挫した。でも、めげずにチャンスを探っていきたい。淡路島には「ニート」の直営店もあるが、この周りで飲食店や貸別荘をやれたら、盛り上げられるんじゃないかと思っている。

そして、海外展開。1月にパリで3回目の展示会をした。少しずつ卸売は増えていて、アカウントは現在10件くらい。日本のブランドの作りのよさは十分認知されていて、この円安だから「グッドプライス」と驚かれる。その先に、憧れのアメリカに店を出すことを夢見ている。とはいえビザを取るのはけっこう大変だから、まずは1ヶ月くらい現地で様子見してみようかなと。これもまた、「中途半端」なのかもしれないけれど(笑)。

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サロン発ブランドの世界進出には何が必要? 「ウカ」「ネジュ」の両トップが考える

PROFILE: (左)渡邉弘幸/ウカ代表取締役CEO (右)パク・ネジュ/ヘアスタイリスト・「ビット&ブート」共同創業者兼共同CEO

(左)渡邉弘幸/ウカ代表取締役CEO<br />
(右)パク・ネジュ/ヘアスタイリスト・「ビット&ブート」共同創業者兼共同CEO
PROFILE: 左:(わたなべ・ひろゆき):東京都出身。明治大学卒業後、博報堂に入社。2009年の退社後、夫人でありネイリストとして活躍する渡邉季穂(わたなべ・きほ)の祖父が創業した向原(現・ウカ)に副社長として入社。美容室「エクセル」からトータルビューティサロン「ウカ」へのリブランディングのほか、教育機関「ウカデミー」、オリジナルプロダクト・サロンメニューの開発を担うR&D、「ウカフェ」の立ち上げなどに尽力する。14年から現職 右:EXOやBTS、パク・ボゴムなどを担当するトップヘアスタイリスト。サロン勤務、アシスタントを経てフリーランスに転身し、名だたる芸能人のヘアスタイリングを約20年間手掛けている。 2018年に韓国・清潭洞で美容室「ビット&ブート」をオープンし、清潭洞で売上No.1になるまで成長させた。世界的に活躍する今も、常に新しい技術を研究・提案し、話題のヘアスタイルを作り出している。公式ユーチューブ登録者数は20万人(25年1月現在)

韓国ソウル・清潭洞(チョンダムドン)にある美容室「ビット&ブート(Bit & Boot)」のパク・ネジュ(Park Naejoo)共同創業者兼共同CEOは、BTSやルセラフィム(LE SSERAFIM)、パク・ボゴム(Park Bo-Gum)らのヘアを担当する韓国人ヘアスタイリストだ。2023年には自身のヘアケアブランド「ネジュ(NEJOO)」を立ち上げ、翌年日本で泡タイプのヘアトリートメントの取り扱いを開始すると、1週間で1万本を販売するなど勢いを増し、販路を拡大している。

一方で、日本のトータルビューティサロン発ブランドとして海外進出を本格的に目指すのがトータルビューティカンパニー「ウカ(UKA)」だ。バックグラウンドは違えど、“サロン発”という共通点を持つ両社は、ブランドの世界進出をどのように実現させるのだろうか。ネジュCEOと、渡邉弘幸「ウカ」代表取締役CEOが語り合った。

「ウカ」と「ネジュ」
互いの根底にある考え方

WWD:ネジュCEOが「ウカ」を知ったきっかけは?

パク・ネジュ「ビット&ブート」共同創業者兼共同CEO(以下、ネジュ):私がプロデュースするヘアケアブランド「ネジュ」で働く日本人スタッフが、「ウカ」の製品を紹介してくれた。出張で日本を訪れる機会が多く、百貨店などで見かけることも多々あり、日本的で素敵なブランドだと思っていた。ちなみに、「ウカ」という名前はどういう意味なのかすごく気になっている。

渡邉弘幸「ウカ」代表取締役CEO(以下、渡邉):サナギから蝶へと変わることを日本語では“羽化(うか)”という。一人一人がより美しく輝き、蝶が花から花へと受粉の手伝いをするように、世の中に美を広める存在になっていけたらという思いを込めた。ロゴも蝶をモチーフに、“Excellent Beauty”の頭文字“E”と“B”を一筆描きで表現した。

ネジュ:エコフレンドリーなブランドイメージを持っていたので、無限大のマークに由来するのかと思っていた。製品のことは知っていたが、サロンには今回初めて訪れた。ミニマルで美しいデザインが素敵だった。ヘアケアに留まらず、トータルビューティブランドとして存在価値を高めているのが伝わってくる。

渡邉:創業して79年になるが、理容室から始まり、現在ではヘア、ネイル、ヘッドスパ、アイラッシュ、エステティックを提供している。ビジョンは「うれしいことが、世界でいちばん多いお店」。「ウカ」ではお客さまに、美に関するさまざまなサービスを提案している。東京都港区でビジネスに励みながら、プライベートな時間も大切にするお客さまが、継続的に訪れやすいトータルビューティサロンを目指している。

ネジュ:韓国では、美にまつわるあらゆる機能が集まるサロンはまだない。あったとしても、美容室の片隅にネイルがあるぐらい。エステという肌にまつわる施術に関しては、なおさら別のカテゴリーになる。スカルプケアも同様だ。

WWD:理容室から始まった「ウカ」は、どのようにして今のブランド体系になっていったのか?

渡邉:結局のところ髪は頭皮から生えてくるし、爪も肌と結びついている。土台を整えることを重視する発想から、スカルプケアやスキンケアにまで至った。またお客さまと長く付き合い、美に関してトータルでプロデュースをしたいという気持ちをスタッフ全員が持っている。ホームケアが生まれたのも、サロンワークの中で耳にしたお客さまの要望をかなえ、必要なものを提供するためだった。

ネジュ:サロンを介してお客さまと接点が持てるのは素晴らしいことだ。私は7年ほどフリーランスで仕事をした経験から、ビジネスについては少し慎重な部分がある。「ウカ」を率いてアイデアを具現化する渡邉さんの実行力を見習いたい。

渡邉:サロンを経営しているおかげで、目の前のお客さまが何を求めているかが、技術者を通じてダイレクトに伝わってくる。同じ組織の中に美容師がいるからこそのビジネスモデル。技術者・サロンが「ウカ」のビジネスの源泉だ。

ネジュ:とても共感する。僕はサロンを運営する上で大切にしていることが2つある。1つ目は、お客さまに対して胸を張って製品をおすすめできる場所であること。2つ目は、アシスタント含め、仲間との共同体を作ることだ。

渡邉:その考えは私たちも同じだ。僕は技術者ではなく経営者なので、スタッフがアイデアを共有しやすい雰囲気作りや、やりたいことを実現できる環境作りに取り組むのが役目。皆の意見をできる限り早いスピードで具現化することが仕事の中心だ。僕が「ウカ」に携わるようになって15年経つが、僕を含む経営側と現場の技術者やサロンスタッフの歯車がようやくかみ合ってきた。だからこそ、次のステップとして今年は海外進出に取り掛かりたい。

WWD:まずはどこへ進出する?

渡邉:4月からアメリカでの展開をスタートする。アメリカの全人口のうち、非白人比率は急速に伸びており、中でも人口と所得が伸びているのはアジア人だという。人口が急増しているアジア人に対してアプローチすることはマーケティング的にも正しいと判断し、在米パートナーとともに進出を決めた。数々のスターを顧客に持つネジュさんは、K-POPを通じてそういった変化を目の当たりにしているのでは?

ネジュ:私がアメリカで成功できたのは個人の力ではなく、担当アーティストの人気と相関している。彼、彼女らと一緒に仕事をしながらアメリカを回っていると、有色人種のファンがかなり多いことに気付く。渡邉さんが話していることは一理あると思う。

WWD:韓国でも変化を感じる?

ネジュ:ソウルにある自分のサロン周辺にも、有色人種の観光客が多い。彼、彼女らが韓国に来る理由は主にファッションとビューティの2つ。20代前半〜30代前半の人が多く、ライフスタイルに重きを置き、自分にかける時間とお金に余裕がある、消費が活発な年齢層だ。彼らが旅土産として購入するものにも変化があり、最近はその国を代表するデザインのファッションやビューティアイテムが支持されている。

サロン発ブランドの
to Cアプローチ法

WWD:近年の韓国ビューティブランドの取り組みにはどのような傾向がある?

ネジュ:かつては成長のためにブランド同士がコラボレーションすることが多かったが、最近はポップアップが主流だ。大規模でなくても、短期間で集中的に開催している。バイラルになるようなインフルエンサーを起用したイベントを行うブランドも多い。

WWD:コラボからポップアップにシフトしている要因は?

ネジュ:近年はどのブランドも製品クオリティーが上がり、平均値が高くなっている。クオリティーを担保できているからこそ、その良さを消費者へと直接伝えることに焦点を当てるようになったのではないか。またチャネルが増え、オンラインで消費者と直接コミュニケーションを取る手段も多分にある。あえてコラボをせずとも、ブランドの世界観をしっかりと伝えることができる。

WWD:「ネジュ」のアイテムは、昨年春から日本での販売をスタートした。今後の戦略は?

ネジュ:現在はヘアトリートメント1種のみだが、7年間のサロン運営の経験を生かして、これからは製品開発も進めていきたい。今の販路はサロン向けのto Bがメインで、今後はto Cにも広げたい。

渡邉:日本ではサロン向けの商流が限られていて、販売代理店を介して取引されることがほとんど。さらに、to C向けの製品は美容室では販売したくないという珍しいマーケティング事例がある。そうなると、to Cで拡大しようと考えたときに、サロン流通のビジネスは諦めなければならなくなる。競合のサロン製品を扱うところも少ないため、サロン流通を貫くなら、自分のサロンを大きくするしかない。

当初は、僕もサロン向けの流通でビジネスが成功できると思いアプローチをかけたが、全く相手にされなかった。ならば、自分たちで独自のto C向けの流通を開拓しようとスタートしたのが15年前。サロンを構える港区の消費者が注目しているセレクトショップに卸したり、アーティストとコラボレーションしたり、消費者に興味を持ってもらえるような製品設計とPR活動を地道に積み重ねた。

WWD:「ウカ」がto C路線へとシフトする中で工夫したことは?

渡邉:ターニングポイントになったのは、技術者がお客さまに製品を“サロンで”ではなく、“自宅で”どのように使うかを説明したことだ。話法を変えたことで、消費者は次サロンに来店するまでのセルフケア法を知れるようになり、これが奏功した。それから10年ほど活動を続けていたところ、コロナ禍に直面し、卸していた百貨店やセレクトショップが軒並み休業していった。そこで、自社製品を直接伝えるためECの強化に着手した。ここ5年は直営店に注力している。

ネジュ:なるほど。日本市場で成功している「ウカ」の取り組みは納得することばかりだ。渡邉さんが「ウカ」を育てたように、僕も10年後の「ネジュ」を今より発展させ、さらに進化するであろう「ウカ」の背中を追いかけていきたい。

渡邉:近いうちに一緒に製品を作ったり、また仕事ができたら。

ネジュ:ぜひ!私が美容の道へ進んだ当時、周りは皆ライバルだと思っていた。しかしこうやってキャリアを築いてきて思うのは、ライバルだけではないということ。先輩であり、後輩であり、それぞれから見習うことがたくさんある。「ウカ」ともパートナーのような関係になれたらうれしい。

PHOTOS : YUTA KONO

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熱狂のライブで観客を魅了するバンド、ファット・ドッグ(Fat Dog) その「音楽哲学」とは?

近年、才気あふれる若手バンドが相次いで登場しているロンドンのロック・シーン。中でもとびきりの“個性派”が、このボーカル&ギターのジョー・ラヴ(Joe Love)をフロントマンに擁する5人組、ファット・ドッグ(Fat Dog)だ。

「1曲の中で13曲も盗めば、誰も気づかない」。そううそぶく彼らのサウンドを例えるなら、“ハードコア・パンクのポゴ・ダンスと非合法のレイヴ・パーティーのサイケデリックなミックス”だろうか。さらに、EDMやシンセウェイヴ、インダストリアル・ミュージック、東欧のジプシー音楽などの影響と相まって押し寄せる狂騒感や原始的なエネルギーは、シェイムやブラック・ミディらを送り出した地元のライブハウス「The Windmill」の同輩と比べても際立ってユニークだ。あるいは、彼らの旺盛なクロスオーバーや折衷感覚は、クラクソンズやハドーケン!が活躍したUKインディーのY2K=ニューレイヴの記憶を思い起こさせるかもしれない。

アークティック・モンキーズやザ・ラスト・ディナー・パーティーを手掛けるジェームス・フォードを共同プロデューサーに迎え、昨年9月にリリースされたデビュー・アルバム「WOOF.(ウーフ.)」を携え、昨年12月に初のジャパン・ツアーを行ったファット・ドッグ。フロアも巻き込んで混沌としたうねりを生み出した圧巻のライブ・ショー。そのステージの数時間前、会場となった恵比寿のリキッドルームでジョー・ラブに話を聞いた。

エレクトロニック・ミュージックの影響

——ファット・ドッグの結成は2020年ですが、始めるにあたってはどんなビジョンがあったのでしょうか。

ジョー・ラブ(以下、ジョー):最初はソロでやりたかったんだ。その前にピーピング・ドレクセルってバンドを仲間とやっていて、3年ぐらい続いたのかな? でも、だんだんマンネリを感じてきて、もっと新しい音楽をつくりたいと思って、バンドの練習に行かなくなった。そしたら、ちょうどいいタイミングでお尻を蹴っ飛ばして、僕を追い出してくれて(笑)。

ただ、何もない状態からのスタートだったから、自分で全てをやらなくちゃいけない。それでエレクトロニック・ミュージックをつくり始めたんだ。ちょうどコロナ禍だったのもあったし、エレクトロニック・ミュージックってラップトップさえあればどこでも制作できるから、とても魅力的に感じたんだ。最初は1人で完結できる音楽がやりたくて、「まあ、ドラマーがいたら助かるかな」ぐらいしか思っていなかったんだけど、だんだん人が集まってきて、学生時代の友達がベースを一緒にやるって言ってくれて。初めてのライブは僕1人でやる予定だったんだけど、でもやっぱり誰かと一緒にステージに立つのは楽しいなって思ったよ。だからパンデミックの期間中は、単に自分だけのプロジェクトとして音楽をつくっている感じだったんだ。

——当時のロンドン、それこそ「The Windmill」のバンド・シーンは、ブラック・ミディやスクイッドなど群雄割拠の状況だったと思うんですが、その中で自分たちのカラーを出すためにはどんなことを考えましたか。

ジョー:そういうことは考えなかったかな。特に最初につくる音楽って、自分の人生経験からインスピレーションを得るものだと思うし。それに「The Windmill」みたいなところならどんな実験的なサウンドだって挑戦できると思ったんだ。とんでもなくハードでヘヴィな音楽や、ミュージカルみたいに聴衆を翻弄するような音楽でも、何だってね。

それに、プロモーターのティム(・ペリー)は観客の心をつかむのが本当にうまくて、ステージからステージへとスムーズに流れをつくり出すのが得意なんだ。ブッキングが曲づくりのモチベーションになる。次のライブはこの前よりも長めの時間をもらえるから、「じゃあ、あと3曲くらい新しい曲をつくって、観客をもっと楽しませなくちゃ!」みたいな感じにね。

——そうした「The Windmill」のバンド・シーンでも、ファット・ドッグは特にエレクトロニック・ミュージックの要素が大きなキーになっていますよね。

ジョー:僕の前のバンドは、ポスト・パンクっていうか、ちょっと暗い感じの音楽をやっていて。でもファット・ドッグでは、エレクトロニック・ミュージックとポスト・パンクを融合させたかった——まだそれが完璧に成し遂げられたわけではないんだけどね。

個人的に大好きだったのは、プロディジーやケミカル・ブラザーズ。それにアイ・ヘイト・モデルズ(I Hate Models)。あと、ジェフ・ミルズだね。 ジェフ・ミルズは、リキッドルームでライブをやったアルバム(「Live at The Liquid Room-Tokyo」)を出していて、いつも聴いてたから、まさか自分が同じ場所でライブをやることになるとは思わなかったよ(笑)。

実は、僕がエレクトロニック・ミュージックをつくり始めたのは12歳くらいの時なんだ。自分でなんでもできるし、それを自分で聴いて楽しむのが好きで、Deadmau5(デッドマウス)みたいな人たちにも影響を受けていた。それがきっかけでテクノにハマっていったんだよ。ちなみに、僕の隣人はテクノが大好きで、よく遊びに行ってたんだけど、彼はデトロイト・テクノにハマっていてよくかけてた。ジェフ・ミルズやリッチー・ホゥティン、プラスティックマンみたいなね。だから、ファット・ドッグの音楽は、そういう硬質なテクノとはちょっと違う、もっと柔らかい感じなんだ。でも、どちらも面白い音楽だよね。

——プロディジーについては、他のメンバーもみんな大好きだって言いますよね。

ジョー:ああ、彼らの曲はイギリスではすごく人気で、象徴的な存在なんだ。熱狂的なファンがたくさんいて、まるで教祖のような扱いをされている感じというか。僕は、エレクトロニック・ミュージックにライブ・パフォーマンスを組み合わせるのが大好きなんだ。ライブは、音楽をよりダイナミックに楽しめるから。実は彼らのライブは見たことがないんだけど、YouTubeの動画を見た感じだとすごく楽しそうで、素晴らしかったよ。

——かたや、ジェフ・ミルズに代表されるデトロイト・テクノというと、プロディジーとは対照的にシリアスなイメージが強いですよね。

ジョー:彼らはとてもシリアスだよね。もともとエレクトロニック・ミュージックは好きだったんだけど、そういう超真面目な——ほら、ドイツのテクノ・シーンみたいな、すごく厳格な雰囲気の音楽は、僕にはちょっと合わないところも正直あって。いつも黒ずくめで、笑うことすら憚(はばか)られるような感じというか。確かに、音楽に対して真剣に取り組むことは大切だけど、音楽はもっと楽しむものだと思うんだ。ずっと深刻な顔をしてたら楽しくないだろ? 1年12カ月の間、ずっとツアーを回ってるんだから、ジョークを言ったりして、たまにはリラックスして、面白い視点を持つことも大切だと思う。じゃないとつまらないよ。

——その「楽しむ」という部分も含めて、ファット・ドッグのサウンドの狂騒感、“過剰さ”みたいなものはハイパーポップに通じるところもあるように思うのですが、どうですか。

ジョー:ハイパーポップというよりは、東欧のエレクトロニック・ミュージック、特にポーランドやロシアのもの——スラブ・エレクトロニック・ミュージックが好きなんだ。テンポが速くて、音もでかい。そういうのをやりたくてバンドを始めたんだ。だから、個人的にはハイパーポップのファンではない。好きな要素はたくさんあるし、将来的にハイパーポップに影響を受けた音楽をやるようになることもあるかもしれないけどね。

——ちなみに、100gecs(ワンハンドレッドゲックス)とかは聴きますか。

ジョー:100gecsは好きだよ。僕にとってはいい音。キャッチーで覚えやすく、盛り上がる雰囲気がすごく気に入ってる。でも実際、ハイパーポップがどんな音楽で、どんなふうに曲ができているのか、あまりよく分かっていないんだ(笑)。

ファッションのこだわりは?

——ファット・ドッグというと、特に初めのころは、空手着や犬のマスク、修道女の衣装といった奇抜なコスチュームで話題を集めたところもありましたが、そもそもライブでそうした格好をするようになったきっかけは何だったんですか。

ジョー:最初の頃は、ただ酔っ払いをからかいたいみたいな、そんな悪ノリな感じで始めたんだ。でも、やるうちにだんだん派手な衣装だけが目立つ感じになって、本質を見失ってしまった気がしてきて。今は、空手着にカウボーイハットって、一見すると奇抜な組み合わせだけど、そこには自分たちの“決意”があるというか、正面切ってやれば決して仮装のようには見えないと思うんだ。空手の練習から帰ってきたから空手着を着てる、みたいな単純な理由じゃなくて——そういうのも嫌いじゃないんだけど(笑)、もっと深い意味がある。CraigslistやGumtreeのような地域ごとの情報などが掲載されているコミュニティーサイトでたまたま出会った人たちが、今は強い絆で結ばれて一緒に音楽をつくり始めた、みたいな。

——バンドを始めた頃と今とでは、自分たちの中でコスチュームの意味合いが変わった?

ジョー:派手なステージ衣装を着ていると、それが自分の一部だって錯覚してしまうことがある。まるで、その衣装が自分自身を表す仮面であるみたいな。でも冷静に考えれば、それはあくまで演じているだけで、自分の中でつくり上げたペルソナに没頭し過ぎるのは問題だと思う。だからステージの上の自分は、普段の自分とは別の、ちょっとクレイジーでエキセントリックなキャラクターなんだ。それに衣装があれば、これは分身のようなもので、自分自身である必要はないんだと思える。もしステージの上の自分と同じようにいつも生きていたら、きっと精神的に参ってしまうだろうね(笑)。実際の僕はとても冷静なんだ。

——ちなみに、オフのファッション、ワードローブのこだわりは何かありますか。

ジョー:え!? ないよ。見ての通りって感じで(笑)。香港と中国をツアーで回って来たばかりだから、荷物はできるだけ軽くしたかったし。ギターのペダルやラップトップは全て一つのバッグに詰め込んで、着替えも最低限だけ。セブンイレブンで買った靴下もまだ履けるし――ちょっと汚れてしまったけど(笑)、あと1日くらいは大丈夫かな。だけど、もうちょっとおしゃれな服を持ってくればよかったって、少し後悔してるよ(笑)。

ビジュアルコンセプトについて

——ファット・ドッグは、MVやアートワーク周りのビジュアルもとてもユニークです。SFやゲームの影響、サイバーパンク的なセンスを感じますが、その辺りのコンセプトについて教えてください。

ジョー:正直言うと、今までやってきたことの中には、周囲の期待や流行、プレッシャーに振り回されて、自分のやりたいことを諦めてしまうこともあって。例えば、シングルのアートワークはもっとシンプルでよかったのに、クレイジーなことをやろうとし過ぎてしまったり。でも、MVのシナリオは歌詞のストーリーをそのまま表現したものになっていると思う。ファット・ドッグの曲は架空の世界を描いているから、現実の世界に縛られる必要はない。ロンドンのバンドだからといって、必ずしもロンドンの街並みを背景にする必要はない。例えばブルーマン・グループを見ても、アメリカのバンドだって誰も言わないだろ?(笑)。だから現実味のないものにしたかったし、それは音楽にも役立っていると思う。バカなことをやってもいいし、歌詞もいつも気取ったものである必要はない。どんな意味でもいいし、現実を超えた自由な世界を描きたい。そうすることで、もっと遊び心のあるものになるし、リスナーも自由に解釈できる。何か分かった気になるような、そんな鼻につくようなものは書きたくないんだ。

——例えば、新曲の「Peace Song」のMVには巨大化した「犬」が登場しますよね。あれは強迫観念の象徴みたいな?

ジョー:あれはアルバムのアートワークと同じ犬で、僕とキーボーディストのクリス(・ヒューズ)があのMVのストーリーを書いたんだ。僕らの念頭にあったのは、今回はちょっと高めの予算をもらえそうだってことで(笑)。巨大な犬が人間を襲うSFの世界なんて、ちょっとクレイジーだよね。でも、アイデアを膨らませるうちに、犬にこだわり過ぎるのもなんだかなって気がしてきて。僕たちが表現したいのは、犬そのものじゃなくて、もっと普遍的な何かなんだ。巨大な存在、あるいは未知なる力。そういう抽象的な概念を、犬という象徴を使って表現したかったんだ。

ライブ&レコーディング

——そういえば、ジョーさんはデビュー・アルバムの「WOOF.」のプレスリリースで「俺の頭の中にあるアイデアと比べたら洗練され過ぎてる。俺の想定では、もっとめちゃくちゃなサウンドになるはずだった」とコメントしてましたね。

ジョー:アルバムの制作中は、同じ曲を何度も繰り返し聴き込むことになる。特にライブで演奏してきた曲は、ライブならではの熱量や臨場感を再現するのが難しい。ライブは、観客との一体感やその場の空気感が重要だけど、レコードはあくまで録音された音源だからね。だから、ただ音だけを大きくすればいいってもんじゃない。曲の中にエネルギーがあっても、中身が伴わないことがある。そこに感情やストーリーが込められていないと、いくら音に力強さがあっても、空っぽに聞こえてしまうからね。

——つくり直したい箇所も正直ある?

ジョー:そのことは考えないようにしている(笑)。レコーディングではいつもギリギリまで追い込まれるんだけど、今回は特に完成度の高い作品を目指し過ぎて、かなりの部分で修正を繰り返した。で、締め切りが迫っていることに気づいたのは、あと1日しかないという時で。焦りながらもなんとか完成させたものの、A&Rから「あと1時間半で仕上げろ!」と言われた時は、さすがに心が折れそうになったよ(笑)。でも、おかげで無駄な部分を削ぎ落とすことができて、曲の本質が見えてきた。自分ではよいと思っていた部分も、客観的に見ると、ただの自己満足だったのかもしれない。自分が聴いているものが、“誰にも聴こえない”ことに気づいたんだ。もしあのまま制作を続けていたら、最後には気が狂っていたんじゃないかな。おかげで今の自分には心が残っているんだから(笑)、あれでよかったんだと思うよ。

——もしかしてジョーさんの中では、ライブでめちゃくちゃにされることであのアルバムは本当の意味で完成する、という部分があるのかな、と。

ジョー:そうだね(笑)。今回のアルバムでは、ライブの熱気をそのままスタジオに持ち込もうとしたんだ。僕たちはライブ・バンドとして知られているから、ライブでしか味わえないエネルギーを音源に詰め込みたかった。僕たちが初めて「The Windmill」で演奏した時のことを思い出させるような、生々しく、ダイナミックなサウンドを目指してね。だからこのアルバムは、僕たちの音楽を初めて聴く人にもライブ会場にいるような臨場感を感じてもらえると思う。あの時の200人のお客をイメージしてつくった、ある種の“スモール・アルバム”に仕上がったというか。

——ファット・ドッグの生のエネルギーが凝縮されたアルバム。

ジョー:ただ、ライブとレコーディング、どちらがいいかと言われると、一概にどちらとも言えない。ライブは、アドリブや観客の反応によって生まれる予測不能な瞬間が魅力で、会場全体が一つになって大きな呼吸をしているような感覚がある。バンドとしてエネルギーを得る場所でもあり、それが跳ね返ってきて、さらに曲に磨きがかかる。特にボーカルは、ライブで鍛えられた方がより感情を込めて歌えるようになると思う。一方、レコーディングは、細部までこだわってつくり上げることができる。ライブではどうしても拾えない、繊細なニュアンスや音色を表現できる。

だから次のアルバムでは、もっとじっくりと曲づくりに取り組んでみたい。今はメンバー同士お互いに会い過ぎていると思うから、2カ月ぐらい離れて、それからアルバムをつくろうと思っているんだ。メンバーそれぞれが自分の部屋でじっくりと楽曲制作を行い、完成したものを集めてアルバムをつくる。そうすることで、また違ったタイプのアルバムができると思うんだ。

——さっきのエレクトロニック・ミュージックや歌詞の話ともつながるところだと思いますが、メンバーのクリスさんはアルバムのプレスリリースで「今の多くの音楽は知性に訴え過ぎる。(略)僕たちの音楽は、考える音楽とは正反対だ」と発言していますよね。このコメントにジョーさんが補足することはありますか。

ジョー:まあ、彼が言いたいのは、音楽は単に“聴く”ものではなく、“感じる”ものだってことだと思う。歌詞を聴いて「何を意味するのか?」とか、そういうことをリスナーに考えさせる音楽が多いんじゃないか、っていう。ただ、そうしたくないバンドもたくさんいて、僕たちの音楽ではただ純粋に楽しんでほしい。だってプロディジーのライブに行って、「この歌詞にはどんな意味があるんだろう?」なんて真っ先に考えないだろ? 全身で音楽を感じて、踊り狂いたい。歌詞の意味なんてどうでもいい。僕はただ、1時間のパーティーのように、その場の雰囲気を楽しみ、みんなと一緒に最高の時間を過ごしたいんだ。だから僕たちの音楽は、考え込むような暗い曲ではなく、もっとポジティブでエネルギッシュな曲を目指している。エレクトロニック・ミュージックのように、リズムが身体を自然と動かしてしまうような、そんな音楽をつくりたいんだ。今回のアルバムは、まさにその方向性を追求した作品だと言えると思うよ。

音楽制作において、常に「正しいやり方」があるとは限らない

——ちなみに、「The Windmill」のバンド・シーンが脚光を浴び始めた当時、ブラック・ミディやブラック・カントリー・ニュー・ロードのような、音楽の専門的な教育を受けたミュージシャンが多く活躍していたのが印象的だった記憶があります。例えば、そうした彼らと自分たちは違う、みたいな意識や自負があったりしますか。

ジョー:実は、中学生の頃、ブリット・スクールを訪問したことがあるんだ。入学を検討していたんだけど、さまざまな事情で別の学校に進学することになって。その学校はブリット・スクールとは全く異なる雰囲気で、少し荒れていたけど、音楽科だけは素晴らしかった。先日、香港でその時の先生に偶然会ったんだ、昔を思い出して、とてもシュールな感覚だったよ。

その時、もしブリット・スクールで学んでいたら、今の自分はどうなっていたんだろうって、そんなことを考えさせられたよ。ブリット・スクールでは、どうすれば音楽業界で失敗しないかを教えてくれる。でも、僕は音楽理論よりも、実際に楽器を演奏することや曲をつくることが好きだった。音楽業界で成功するためには、莫大な資金が必要になる場合もある。例えば、ギルドホール(音楽演劇学校)のような名門音楽学校に通うには、かなりの学費がかかる。そして、お金持ちの人たちは時間がある。特に家柄の良い人たちはね。でも、多くの労働者階級の人たちは、バンドに参加して必要な時間をかけて、ギャラなしで延々とギグをするような余裕はない。何もかもがあまりに高過ぎるから。

——ええ。

ジョー:だから、僕は自分のペースで好きな音楽を楽しみながら、音楽活動を続けてきたんだ。音楽は、お金をかけなくても誰でも楽しむことができるものだと思う。ブリット・スクールのように、無料で音楽を学べる機会があれば、もっと多くの人が音楽に触れることができるだろうし。音楽を通してさまざまなバックグラウンドを持つ人々が集まり、交流できる。そんな音楽の世界にこれからも関わっていけたらなって思うよ。

それに、エレクトロニック・ミュージックやハイパーポップのようなジャンルでは、技術的なスキルが高くなくても、誰でも音楽制作を楽しむことができる。むしろ、既存のルールにとらわれず、自由に音楽をつくっている人がたくさんいる。だから、彼らは自分で学んでいるし、自分自身の感覚を信じて、ただそれがいい音だと思うからやっているんだ。音楽制作において、常に「正しいやり方」があるとは限らない。大切なのは、自分が心地よいと感じるサウンドを追求すること。周囲から否定的な意見を言われたとしても、自分の音楽を信じるべきだし、自分にとってそれがいい音なら、それでいいんだ。僕はそう思う。

——ところで、ジョーさんのスクール・ライフはどんな感じだったんですか。

ジョー:音楽の授業は僕にとって特別な場所だった。好きなだけ音楽をつくることができたし、先生たちもそれを応援してくれた。でも、イギリスの学校教育全体で見ると、音楽は重視されていないように思う。みんな数学や英語といった科目ばかりに目が向いていて、自分の才能や興味のあることに目を向けることが難しい。僕は昔から数学や英語が苦手だったから、学校ではいつも苦労していたよ。

僕は、一つのことだけを極めるのではなく、さまざまなことに興味を持つのが大切だと思う。音楽もその一つだ。音楽の才能は、必ずしもビジネスの世界で成功するために必要なものではないかもしれない。でも、音楽は僕の人生を豊かにし、心の支えになっている。音楽業界は厳しい世界かもしれないけれど、自分のペースで音楽をつくり続けたいと思っている。

——そういえば、ジョーさんは前にインタビューで「(自分たちの音楽において)盗みはその大部分を占めている。1曲の中で13曲も盗めば、誰も気づかない」って話していましたね。

ジョー:まあ、僕たちは正直者ってことなんだと思う(笑)。逆に、多くの人たちは正直じゃないって話でね。

いい曲に出会うと、「自分もこんな曲をつくりたい!」って心が揺さぶられる。それは自然なことで、とてもいいことだと思う。でも、いざ実際に自分でつくってみると、全然うまくいかないことが多い。そんなテクニックはないから当然だよね。特に、好きなアーティストの曲を意識し過ぎてしまうと、どうしてもオリジナルな作品をつくることが難しくなる。この前もデヴィッド・ボウイの曲を“盗んで”曲を書いたんだけど、聴き比べてみると「どこが?」って感じで(笑)、全然違う曲だってことに気づかされて。

音楽って、どこかで誰かの影響を受けているものだから、完全にオリジナルな作品なんてないのかもしれない。大切なのは、自分の心を動かした音楽からインスピレーションを得て、それを自分なりに表現することだと思う。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

デビュー・アルバム「WOOF.」

TRACKLISTING:
01. Vigilante
02. Closer to God
03. Wither
04. Clowns
05. King of the Slugs
06. All the Same
07. I am the King
08. Running
09. And so it Came to Pass
10. Land Before Time *Bonus track
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=14050

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TOKYO BASE、原宿で超ドミナント出店の理由 グローバル旗艦店やスーベニアーショップがオープン

TOKYO BASEは、「グローバル旗艦店」と位置付けるインバウンド向け業態「ステュディオス トウキョウ(STUDIOS TOKYO)」の日本初となる店舗と、スーベニアショップの新業態「グッド エディッション(GOOD EDITION)」の1号店を、「ステュディオス(STUDIOUS)」原宿本店の向かいに3月1日にオープンする。

神宮前4丁目の一角には「ステュディオス」からカジュアルブランドを切り出した「ステュディオス セカンド(STUDIOS 2nd)」、ストリートブランドを集めた「ステュディオス サード(STUDIOS 3rd)」、ウィメンズ業態「ステュディオス ウィメンズ(STUDIOS WOMENS)」、昨年9月に始動した若年層に向け業態「コンズ(CONZ)」などの路面店が並ぶ。さらに今秋には「コンズ」のウィメンズ業態も出店する計画で、TOKYO BASE の計8店舗が数十メートルの範囲に集結する。谷正人最高経営責任者(CEO)に出店の狙いを聞いた。

「ステュディオス トウキョウ」はインバウンド比率70%を想定

WWD:「ステュディオス トウキョウ」はこれまで中国、香港、ニューヨークと海外での展開に力を入れてきた。今日本で出店する狙いは?

谷正人CEO(以下、谷):「ステュディオス トウキョウ」は、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「アンダーカバー(UNDERCOVER)」など、日本が誇る老舗ブランドをセレクトしてきた。結果、海外での「ステュディオス トウキョウ」は30〜40代の富裕層に売れている。この層により響く商品を原宿でも強化しようと考えた。現在、原宿地域の店舗において、インバウンド比率は40〜50%程度。今回オープンする「ステュディオス トウキョウ」においては70%を想定する。

WWD:具体的にどのような商品ラインアップになる?

:世界で戦う日本ブランドのチャンピオンリーグのようなイメージ。「ヨウジヤマモト」や「アンダーカバー」「ホワイトマウンテニアリング(WHITE MOUNTAINEERING)」といった厳選した約10ブランドを並べる。バイイングは、海外の店舗を担当するチームに任せる。日本客向けの店舗は客層を思い浮かべながらセレクトする“マーケットイン“の考え方が軸だが、訪日客向けにはスタッフの見せたい商品に重きを置いた“プロダクトアウト型“で勝負する。店舗スタッフも中国語か英語が必ず話せる人員をそろえた。

WWD:TOKYO BASEはLINEを使った接客などをいち早く取り入れてきた。そうした接客で訪日客の顧客化も進んでいる?

:当社がLINEによる接客を始めた当時は、驚かれることもあったが、地方の店では当たり前に行われてきたこと。 そうしたスタッフとお客さまの強いつながりがあったからこそコロナ禍でも業績を大きく落とさずに済んだ。訪日客に対してもその接客スタイルは変わらず、ウィーチャット(微信、WeChat)などの海外アプリを使って顧客管理を徹底している。スタッフがお客さまのクローゼットの中身を把握した上で、より踏み込んだスタイリング提案などができている。

WWD:スーベニアショップ「グッドエディッション」の狙いは?

:日本ブランドのスニーカーやバッグ、アクセサリーといったファッション雑貨を中心にそろえる。大事にしているのは、東京らしさ。さまざまな年代や文化、テイストの入り混じったいい意味でカオスな品ぞろえにこだわる。仕入れブランドの中で小物が充実していても、服が主軸の既存の業態では扱えないことも多々あった。主な狙いは訪日客だが、東京に旅行に来た人や友人にプレゼントを探しに来た人などにも楽しんでもらえるはず。ターゲット層をあえて絞らず、間口を広げる役割もある。6月には京都にも出店予定だ。

創業地は売上高1億円から20億円稼ぐ場所に

WWD:「ステュディオス」原宿本店の通りには7店舗固めた理由は?

:参考にしているのは、地方の店。地方の面白い店は、普通の商店街にどんどんドミナント出店して、そこだけファッション好きが集まるような場所に変えてしまう。僕たちも世界の地方店のような感覚で、原宿でそれを体現したい。

WWD:路面店出店はリスクも大きい。

:自らの退路を断つ意味が大きい。それだけの意気込みを持って出店している。加えて僕たちが大事にしている、マニュアルではない人間味のある接客は路面店の方が生きてくる。社内的にもさまざまなメリットがある。路面店は離職率が圧倒的に低く、人材が育つ傾向にある。商業施設の中の店舗に比べて営業時間が短く、朝から晩まで同じチーム体制で運営できることも大きいだろう。近くに同じ条件で戦う同僚の店があることで、競争原理がうまく働いている。

WWD:原宿にこだわる理由は?

:僕は大学進学を機に静岡県の浜松から上京した。そのときの原宿の衝撃がやっぱり忘れない。藤原ヒロシさんやNIGO®さんたちが作っていた裏原のコミュニティーがファッションを好きになったきっかけで、ストリートから生まれるファッションのかっこよさに感化された。以来、僕にとって原宿は特別な場所。原宿で商売を始めて20年近く経つが、これからもファッションやカルチャーが生まれる街としての原宿の発信力は廃れないと信じている。

「ステュディオス」が今の場所に1号店を出したのは、2007年4月。当時自分はバイイングや店長も務めながら、看板を持って外に出て、汗だくになりながら客の呼び込みもやっていた。原宿店の営業が終わった後に、スタッフみんなに「この通りをうちの店舗で全部埋めてやるから」と冗談のつもりで話していた。当時の売り上げは頑張って年間1億円。それが今や原宿本店だけで4億円を売る店になった。周辺の店舗も合わせればこれから20億円を超えていく。もちろん本気で全部埋めるにはまだまだ時間がかかるが、あのときの言霊があるから、挑戦を続ける使命感がある。

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TOKYO BASE、原宿で超ドミナント出店の理由 グローバル旗艦店やスーベニアーショップがオープン

TOKYO BASEは、「グローバル旗艦店」と位置付けるインバウンド向け業態「ステュディオス トウキョウ(STUDIOS TOKYO)」の日本初となる店舗と、スーベニアショップの新業態「グッド エディッション(GOOD EDITION)」の1号店を、「ステュディオス(STUDIOUS)」原宿本店の向かいに3月1日にオープンする。

神宮前4丁目の一角には「ステュディオス」からカジュアルブランドを切り出した「ステュディオス セカンド(STUDIOS 2nd)」、ストリートブランドを集めた「ステュディオス サード(STUDIOS 3rd)」、ウィメンズ業態「ステュディオス ウィメンズ(STUDIOS WOMENS)」、昨年9月に始動した若年層に向け業態「コンズ(CONZ)」などの路面店が並ぶ。さらに今秋には「コンズ」のウィメンズ業態も出店する計画で、TOKYO BASE の計8店舗が数十メートルの範囲に集結する。谷正人最高経営責任者(CEO)に出店の狙いを聞いた。

「ステュディオス トウキョウ」はインバウンド比率70%を想定

WWD:「ステュディオス トウキョウ」はこれまで中国、香港、ニューヨークと海外での展開に力を入れてきた。今日本で出店する狙いは?

谷正人CEO(以下、谷):「ステュディオス トウキョウ」は、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「アンダーカバー(UNDERCOVER)」など、日本が誇る老舗ブランドをセレクトしてきた。結果、海外での「ステュディオス トウキョウ」は30〜40代の富裕層に売れている。この層により響く商品を原宿でも強化しようと考えた。現在、原宿地域の店舗において、インバウンド比率は40〜50%程度。今回オープンする「ステュディオス トウキョウ」においては70%を想定する。

WWD:具体的にどのような商品ラインアップになる?

:世界で戦う日本ブランドのチャンピオンリーグのようなイメージ。「ヨウジヤマモト」や「アンダーカバー」「ホワイトマウンテニアリング(WHITE MOUNTAINEERING)」といった厳選した約10ブランドを並べる。バイイングは、海外の店舗を担当するチームに任せる。日本客向けの店舗は客層を思い浮かべながらセレクトする“マーケットイン“の考え方が軸だが、訪日客向けにはスタッフの見せたい商品に重きを置いた“プロダクトアウト型“で勝負する。店舗スタッフも中国語か英語が必ず話せる人員をそろえた。

WWD:TOKYO BASEはLINEを使った接客などをいち早く取り入れてきた。そうした接客で訪日客の顧客化も進んでいる?

:当社がLINEによる接客を始めた当時は、驚かれることもあったが、地方の店では当たり前に行われてきたこと。 そうしたスタッフとお客さまの強いつながりがあったからこそコロナ禍でも業績を大きく落とさずに済んだ。訪日客に対してもその接客スタイルは変わらず、ウィーチャット(微信、WeChat)などの海外アプリを使って顧客管理を徹底している。スタッフがお客さまのクローゼットの中身を把握した上で、より踏み込んだスタイリング提案などができている。

WWD:スーベニアショップ「グッドエディッション」の狙いは?

:日本ブランドのスニーカーやバッグ、アクセサリーといったファッション雑貨を中心にそろえる。大事にしているのは、東京らしさ。さまざまな年代や文化、テイストの入り混じったいい意味でカオスな品ぞろえにこだわる。仕入れブランドの中で小物が充実していても、服が主軸の既存の業態では扱えないことも多々あった。主な狙いは訪日客だが、東京に旅行に来た人や友人にプレゼントを探しに来た人などにも楽しんでもらえるはず。ターゲット層をあえて絞らず、間口を広げる役割もある。6月には京都にも出店予定だ。

創業地は売上高1億円から20億円稼ぐ場所に

WWD:「ステュディオス」原宿本店の通りには7店舗固めた理由は?

:参考にしているのは、地方の店。地方の面白い店は、普通の商店街にどんどんドミナント出店して、そこだけファッション好きが集まるような場所に変えてしまう。僕たちも世界の地方店のような感覚で、原宿でそれを体現したい。

WWD:路面店出店はリスクも大きい。

:自らの退路を断つ意味が大きい。それだけの意気込みを持って出店している。加えて僕たちが大事にしている、マニュアルではない人間味のある接客は路面店の方が生きてくる。社内的にもさまざまなメリットがある。路面店は離職率が圧倒的に低く、人材が育つ傾向にある。商業施設の中の店舗に比べて営業時間が短く、朝から晩まで同じチーム体制で運営できることも大きいだろう。近くに同じ条件で戦う同僚の店があることで、競争原理がうまく働いている。

WWD:原宿にこだわる理由は?

:僕は大学進学を機に静岡県の浜松から上京した。そのときの原宿の衝撃がやっぱり忘れない。藤原ヒロシさんやNIGO®さんたちが作っていた裏原のコミュニティーがファッションを好きになったきっかけで、ストリートから生まれるファッションのかっこよさに感化された。以来、僕にとって原宿は特別な場所。原宿で商売を始めて20年近く経つが、これからもファッションやカルチャーが生まれる街としての原宿の発信力は廃れないと信じている。

「ステュディオス」が今の場所に1号店を出したのは、2007年4月。当時自分はバイイングや店長も務めながら、看板を持って外に出て、汗だくになりながら客の呼び込みもやっていた。原宿店の営業が終わった後に、スタッフみんなに「この通りをうちの店舗で全部埋めてやるから」と冗談のつもりで話していた。当時の売り上げは頑張って年間1億円。それが今や原宿本店だけで4億円を売る店になった。周辺の店舗も合わせればこれから20億円を超えていく。もちろん本気で全部埋めるにはまだまだ時間がかかるが、あのときの言霊があるから、挑戦を続ける使命感がある。

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ラグジュアリーの真髄を追求したい 東京・あきる野の1日1組限定ヴィラ「風姿」

昨年末、東京・あきる野の自然に包まれたラグジュアリーヴィラ「風姿」が、建築アワード「ワールド・アーキテクチャー・フェスティバル(WAF)」スモール・プロジェクト部門の最高賞を受賞し、国内外で注目を集めている。

「風姿」の特徴は伝統技術と現代の建築構造を融合させたデザインと、自然と一体化するアウトドアリビングだ。窓や壁、柱をほぼ排した開放的な空間は、自然の中に溶け込むように設計され「内と外の境界が曖昧になる」感覚を生み出している。

地域文化を深く理解した里山料理や風土と革新が融合した体験を提供していることも魅力の1つで、物に頼らずに存在感を際立たせる空間デザインによって、「何も無いラグジュアリー」を五感で感じることができる。

髙水謙二「風姿」オーナーと建築家の手塚貴晴に建築デザインの背後にあるコンセプトと思想、ラグジュアリーやホスピタリティーの真髄について話を聞いた。

PROFILE: (右)髙水謙二/「風姿」オーナー (左)手塚貴晴

(右)髙水謙二/「風姿」オーナー (左)手塚貴晴
PROFILE: 右:東京都あきる野市で2024年3月にオープンした1日1組限定のラグジュアリーヴィラ「風姿(ふうし)」のオーナー。多摩で半世紀以上愛される里山料理「黒茶屋」、古民家を改装した懐石料理&ギャラリー「燈々庵(とうとうあん)」も運営。山の幸を活かした本格料理が自慢で、「風姿」では自然・風土・文化・食を五感で味わえる空間を提供。地域の歴史的建造物を活かし、未来へと受け継ぐことを使命としている 左:手塚建築研究所創設者。OECD(世界経済協力機構)とUNESCOにより世界で最も優れた学校に選ばれた 「ふじようちえん」を始めとして、子供の為の空間設計を多く手がける。 近年ではUNESCOより世界環境建築賞(Global Award for Sustainable Architecture)を受ける。手塚貴晴が行ったTEDトークの再生回数は2015年の世界7位を記録。 国内では日本建築学会賞、日本建築家協会賞、グッドデザイン金賞、子供環境学会賞などを受けている。手塚由比は文部科学省国立教育政策研究所において幼稚園の設計基準の制定に関わった。 現在は建築設計活動に軸足を置きながら、OECDより依頼を受け国内外各地にて子供の環境に関する講演会を行なっている。その子供の環境に関する理論はハーバード大学によりyellowbookとして出版されている

――「風姿」を手掛けるにあたって、どのような対話を重ねていったのでしょうか?

髙水謙二(以下、髙水):長年飲食業にいる中で形や思想を歴史に残したいと考えるようになり、「あきるので何かできないか?」と漠然と思い始めました。最初から綿密な計画があったわけではなく、感覚的に構想を練りあげ手塚さんにご相談しました。

自然と共生して風が吹き抜け、時間とともに美しく変化していく建物。伝統的な和風建築をそのまま再現するのではなく、かといって洋風にも寄らない。奇をてらっていないデザインの新しいかたちを模索しました。

私が自然との調和を常に意識しているのは、そこに人が心地よさを感じるからです。京都や奈良の建築には、経年変化を楽しむことができる素材が使われていて、それが人の心を落ち着かせ、美しさを感じさせます。

手塚貴晴(以下、手塚):和でも洋でもなく、古くも新しくもなく、自然に溶け込む風のような空間。しかし、壊れては困るので、とても難しいプロジェクトでした。核となる考えは「消えること」です。

能の「うつせみ(空蝉)」という概念は人間の存在は現世でも仮の姿であり、死後もまた本質ではないことを示しています。建築もまた、ただ存在するものではなく、人が去りゆく場としての意味を持ちます。

「風姿」は、建物の中にいても外の風を感じられる空間です。人は「内」と「外」のどちらかに留まるのではなく、その間を行き来しながら自分の居場所を探します。

この場で人がどう感じ、どう過ごすかを考えた結果、何度でも訪れたくなる場所を目指しました。

――「表」と「裏」はどのように定義されるでしょうか?

髙水:旅館へ行くと「うちの裏にはきれいな川が流れています」などとよく聞きますが、川のような美しい景観がある側こそ「表」です。

美しい景観の一部である川が多くの旅館では「裏」として扱われ、コンクリートむき出しの壁や時にはビールケースが無造作に置かれていることもあります。

ただ、本来のあり方はどちらが「表」か「裏」かにとらわれず、どの方向から訪れても心地よい空間が広がっていることだと思っています。

手塚:日本には「室礼(しつらい)」という言葉があります。例えば、茶室のように、最小限の仕切りや屏風だけで空間を作る。これは単なるシェルターではなく、人が自然とどう向き合うかを考える場です。快適な空間の高級ホテルは世界中にありますが、本当のぜいたくは、自分の居場所を自然の中で見つけられる場所です。

――「何も無いデザイン」とは、どのようなものでしょうか?

手塚:例えば、軒先を少し下げることでその先の風景が自然と目に入ってくる。多くの人は軒先の存在を意識せず、ある瞬間に気付くかもしれない。それが何も無いデザインの仕掛けの1つです。建築が主役になるのではなく、本来は「そこに存在しないように感じられること」が理想です。人や自然と調和し、場の魅力を引き立てることが大切です。

髙水:でき上がってみると、思いもよらないことが起こる場合があります。手塚さんの頭の中にはあったと思いますが、雨が降ると28mの軒先から一斉に水が滴り落ち、“雨のカーテン“がかかる。

軒先の高さは床面から1.5mなので、人の目線の高さで秋川渓谷を屏風絵のように切り取ることができます。ですので、ここでは雨や雪も風情になります。

――一番困難だったことは何ですか?

手塚:先程お話ししたように、見えないものを作ることはとても難しかったですね。それに、普段は建築基準法や道路の規制などがありますが、そういったことが一切ない。制限がないからこそ生まれる美しさを考えた時、まるで砂漠の真ん中に放り出されて、「さあ、何とかしろ」と言われるような難しさを感じました。

髙水:もし手塚さんが砂漠の真ん中に建物を作るとしたら、きっと砂漠そのものを見せるのではなく、一番美しく夕日が見える場所を切り取って、意図的に制約を作るでしょう。制約のない場所でも、あえて制約を設けてその中に美を作り出すことが大切です。

――ラグジュアリーをどのように定義されますか?

髙水:「ラグジュアリーとは何か?」をよく考えます。豪華なシャンデリアやインテリアのあるホテルは、確かにラグジュアリーかもしれませんが、私たちが目指すのは何百年、何千年前に作られた文化とは具体的になんでしょうか?と特注のベッドやソファを組み合わせ、特別な空間を生みだすこと。

便利さや効率ばかりを求める日常から少し離れ、風とともに歩き、自分のリズムを取り戻すことがラグジュアリーだと思っています。風は目に見えないけれど確かにそこに存在し、私たちの肌に触れ、木々を揺らし、空気を運んでいく。お金があれば何でも手に入る時代だからこそ「何もない」ことに価値がある。何もないからこそ、ここが自分に向き合える場所になるんです。

手塚:この建築は、関わったすべての人の心が込められた本当にぜいたくな場所です。普段の仕事では感じられない充実感から、完成した時に私のアシスタントが感動して涙を流したくらいです。私達のチームが書いた図面は3000枚にも及び、超高層ビルを設計するほど膨大なエネルギーを注ぎました。髙水社長の情熱が皆の心を動かして、誰もが夢中になって取り組んだ結果です。

――手塚さんが、多摩・あきる野に感じた魅力はなんでしょうか?

手塚:一番興味を持ったのは、髙水さんの存在です。何もないところに「黒茶屋」を作り、半世紀以上の歴史を築いてきた。髙水さんは文化を作ろうとしていますし、そういう「ゼロから何かを作る人」に惹かれます。私が仕事をしている「ふじようちえん」の園長先生、やホームレス支援をしている奥田知志さんにも共通するのは1人で始めたこと。そういう人たちは、何か特別な力を持っているんですよね。

私は、髙水さんを“多摩の魯山人“だと思っています。魯山人は、「黄金の茶碗は作ろうと思えば作れる。でも、それよりも土の風合いにこそ価値がある。どんなものにでも意味を持たせることができるかどうかが重要だ」と言っています。そういう視点を持つことが大事です。陶芸家であり、料理家でもあり、さまざまなことに関わった幅広い視野が、彼の作品の魅力につながったのではないかと思います。髙水さんと話していると、庭から建物、食の話まで、次から次へと話題が広がるので専門的に1つを突き詰めるだけではなく、広い視点で物事を見ていくことも重要です。

髙水:私は何の専門家でもありません。何もなかったから、デザインも建築も花もお茶も料理も自分でやるしかなかった。先生もいないから自然を見て学びました。なので、魯山人と呼ばれるのは恐れ多いですね。

いつも考えているのは、装飾を抑えた洗練された美です。お客さまがどんな服装で訪れるか、この空間でどう過ごすかなどを想像し、その上でおもてなしを考えること。例えば、料理では視覚的に余計な要素を取り除くことで、その存在がより引き立ちます。

手塚:あきる野の魅力は定番の観光ではなく、「人に会うこと」です。地元の人々とのつながりや温かさこそが価値であり、このそばにある古い神社も地元の人たちが大切にしてきたからこそ、場所そのものに意味が生まれるのです。

――ホスピタリティーに必要な心構えを次世代にどのように伝えますか?

髙水:ホスピタリティーというと「親切」「思いやり」といった言葉が浮かびますが、本当に大切なのは、もっと小さなこと。先日、風邪をひいてドラッグストアでトローチを買ったとき、店員さんが「喉が痛いんですか? 早く良くなるといいですね」と声をかけてくれて、外まで見送ってくれた。そんな小さな一言に人は感動するものです。

ホスピタリティの真髄は、大きな仕掛けや感動を生むものではなく、小さな心配り。私たちのお客様は一流のサービスを知っているので、さまざまな期待を持っています。その期待を超えて「ここは特別だ」と感じていただけるおもてなしを大切にしています。

――次世代に伝えるべき建築に欠かせない価値は何ですか?

手塚:私は大学教授でもあります。学生には建築をファッション誌を眺めるように見てはいけないと伝えています。なぜなら、建築は少なくとも完成する10年以上も前に建築家が考えたものであり、すでに“過去の姿“だからです。さらに、完成しても嫌なら壊されてしまう可能性もあります。本当の勝負は少なくとも50年後、100年後にどうなっているかです。それは、多くの人が「この建築は素晴らしい」と思い、大切に残されたものです。構造がしっかりしていても意味がなければ残りません。

ルイス・カーン(Louis Kahn)の建築は、今も住居として大切に使われています。彼の設計した家を訪れると、冷蔵庫にはベタベタとポストイットが貼られ、暮らしの気配が溢れている。それを見たとき、「こういう建築を作りたい」と思いました。自分が居なくなった後も、自分の作品が長く愛され続けるほど幸せなことはない。「風姿」は、そんな想いで作っています。建築は、お金をかければ残るものでもありません。それは、髙水さんの仰るホスピタリティーに通じるのかもしれませんね。

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トップモデルと敏腕編集者がアウターを通じて伝えたいこと 岡本多緒&テンジンの「アボード・オブ・スノー」

PROFILE: (左)テンジン・ワイルド/アボード・オブ・スノーCEO兼クリエイティブディレクター、プロデューサー (右)岡本多緒/俳優、モデル、映画監督、アボード・オブ・スノー共同クリエイティブディレクター兼サステナビリティアンバサダー

PROFILE: 左:(Tenzin Wild)スイス生まれ。「ヴィジョネア」や「Vマガジン」でのキャリアを経て、2008年に「ザ・ラスト・マガジン」を共同設立。「ナイキ」「ジバンシィ」「タサキ」「ユニクロ」など多くの著名ブランドの広告も手掛けてきた。2020年には、自身のルーツであるチベット及びヒマラヤにインスパイアされたアウターウエアブランド「アボード・オブ・スノー」を妻の岡本多緒と立ち上げる 右:(おかもと・たお)1985年5月22日生まれ、千葉県出身。14歳でモデルデビュー後、TAOとしてパリやミラノ、ニューヨークのファッション・ウイークで活躍した。2013年に映画「ウルヴァリン:SAMURAI」で俳優デビューを果たし、ハリウッド作品を中心に数々の話題作に出演。23年には映画監督としてこれまで3本の短編作品を手掛ける。多岐にわたる活動の傍ら、環境問題や動物の権利について発信するポッドキャスト番組「エメラルド プラクティシズ」のホストを務める他、「アボード・オブ・スノー」も手掛ける

「アボード・オブ・スノー(ABODE OF SNOW)」は、米ファッション誌「ザ・ラスト・マガジン(The Last Magazine)」の編集長だったテンジン・ワイルド(Tenzin Wild)と、同氏の妻であり、モデル、俳優として活動する岡本多緒が、2020年に立ち上げたアウターウエアブランドだ。ワイルドのルーツであるチベットとヒマラヤの文化や伝統を背景に、岡本がライフワークとして取り組む環境活動を融合したファッションアイテムを提案している。現在、ロンハーマンや伊勢丹新宿本店など20店舗以上で取り扱う。昨年から拠点を東京に移した2人に、モノ作りの哲学などを語ってもらった。

ルーツのチベットへの思い
“責任あるモノ作り”への挑戦

WWDJAPAN(以下、WWD):改めて、ブランドを立ち上げたきっかけを教えてください。

テンジン・ワイルド(以下、ワイルド):私はスイス人の父とチベット人の母の間に生まれました。母はチベットで生まれ、その後スイスに移住した最初の難民の一人です。私自身はスイスで生まれ育ちましたが、2005年に初めてチベットを訪れ、その土地や文化の美しさに深く感銘を受けました。チベットといえば政治的な話題にフォーカスされがちですが、編集者としての経験を生かし、ファッションを通じて私のルーツであるチベットやヒマラヤの文化・伝統を伝えたいと思いました。

※1950年代に中国がチベットを侵略し、多くのチベット人が弾圧を逃れるため、インドやネパール、スイス、アメリカなどに移住した

WWD:ブランド名の由来は?

テンジン:“ヒマラヤ”は古代サンスクリット語で“雪の棲家”という意味で、ヒマラヤ山脈の人々の暮らしを指します。それを英語にし、「アボード・オブ・スノー」と名付けました。

WWD:テンジンさんの思いを聞いて、多緒さんはどのように感じましたか?

岡本多緒(以下、岡本):私自身、環境問題への意識が高まる中で、ブランドを立ち上げることがモノを増やすことにつながるのではないかと悩むこともありました。しかし、チベットの人々や、テンジンのようにルーツを持つ人たちが、自らの文化を消失する危機にひんしていることを知り、それを政治的ではない視点から発信したいという彼の思いに共感するようになりました。一からブランドを立ち上げるのであれば、責任あるモノ作りを徹底したいと話し合い、コロナ禍での新しい挑戦に不安もありましたが、手探りで始めてみようと奮起しました。

素材への徹底したこだわり
ニット以外は全て日本産

WWD:アウターウエアからスタートした理由は?

岡本:チベットは平均標高約4500メートルで、富士山の頂上(3776メートル)にいるような寒冷地です。常に厚着をしている住人たちを見て、アウターウエアとの親和性を感じました。

WWD:生産背景は?

ワイルド:17年頃からリサーチを始め、最初にニューヨークでサンプルを作ってみたのですが、満足できる品質には至りませんでした。ちょうどその頃、私が手掛けていた雑誌「ザ・ラスト・マガジン」で、「マメ クロゴウチ(MAME KUROGOUCHI)」の取材をしていて、デザイナーの黒河内真衣子さんが岡山県の工場を紹介してくれました。その縁で、日本での生産を始めました。

岡本:現在、縫製は日本とネパールの家族経営工場2つにお願いしています。実際に足を運んでみたところ、どちらも一緒に仕事をしたいと思える環境が整っていました。

WWD:素材はどのように選んでいますか?

岡本:ニットにはヒマラヤ山脈に生息するヤクのウールを使用しています。ヤクは換毛期に自然に毛が抜け落ちるため、動物を傷つけることなくウールを収穫できます。また、ヤクは草を根こそぎ食べず、草原が蘇りやすいため、環境にも優しいと言われています。遊牧民の生産者からヤクウールを購入していますが、トレーサビリティーにはまだ課題があり、現状エリアの特定が完全にできていない点がもどかしいです。

ニット以外は日本の素材にこだわっています。リサイクル素材を選んでおり、今シーズン特に気に入っているのは、昆布のようなハリのある手触りが特徴の“コンブ”。私たちのブランドでは“100%再生でき、循環する素材”を選んでいます。

ワイルド:また、オーガニック素材も少しずつ取り入れています。デニムにはオーガニックコットンを使用し、今シーズンはリサイクルウールを使ったアイテムも企画しています。

WWD:リサイクルダウンも使用していますよね。

岡本:全てのダウンアイテムには、羽毛製品を回収し、洗浄・精製加工した日本の“グリーンダウン(Green Down)”を使用しています。従来のバージンダウンは一度しか洗浄していないことが多く、アレルゲンが残ることがありますが、“グリーンダウン”は二度洗浄することで、きれいで軽やかな仕上がりになります。また、ダウンを封入するダウンパックにも通気性のいい素材を使用しているので、クオリティーが非常に高いです。この技術は海外でも驚かれます。

互いのキャリアで得た豊富な人脈
強力メンバーがサポート

WWD:デザインについては?

ワイルド:例えば、アイコンの“チュバ(CHUBA)”シリーズは、チベットの民族衣装であるチュバから着想を得たもので、ベストやトレンチコート、ジャケットのディテールにも取り入れています。最初は「伝統的すぎる」という声もありましたが、実際に袖を通してもらうことで、着回しやすいデザインであることが伝わりました。現在は日本人のデザイナーも一緒に仕事をしているおかげで、商品ラインアップを広げることができています。

WWD:ワイルドさんは編集者、多緒さんはモデルや俳優として活動してきたキャリアがブランド運営にどう生かされていますか?

ワイルド:ファッション業界に広いコネクションがあることですね。幸運なことに、私たちには相談できるデザイナーやCEOが身近にいました。また、私自身アートディレクターとして、多くのブランドに携わってきた経験によって、マーケティングやブランディングを理解しており、現在のブランド運営に役立っていると感じます。

岡本:私もフォトグラファーやスタイリストなど、業界に知人が多くいたことが大きかったです。一方で、モデル時代には気付けなかった生産側の立場も理解できるようになりました。ブランドの大小関係なく、一着一着丁寧に作られていることに気付かされ、今改めてモノ作りに対する感謝の気持ちを大切にしています。

WWD:ブランドのアイコンキャラクター“イエティ”はどのように生まれた?

岡本:私がデザインしたんです。ブランド名にちなんで雪男のイラストをいろいろと描きながら要素をそぎ落としていき、シンプルな “イエティ”が完成しました。

“イエティ”をアニメーション化して、環境問題について伝えるビデオを制作

2人が描く未来のビジョン
モノを作ることへの矛盾を乗り越え

WWD:現在のビジネスについては?

ワイルド:セールスは、ウィメンズはショールーム リンクス(Showroom Links)と、メンズはランヴェール(L'envers)と契約してサポートを受けています。現在はロンハーマン(Ron Herman)やスーパー エー マーケット(SUPER A MARKET)、スティーブン アラン(Steven Alan)をはじめとする20店舗で販売しています。24-25年秋冬シーズンからは、伊勢丹新宿本店での取り扱いもスタートしました。ブランドの認知度を広げる機会をもっと増やしたいです。

WWD:今後挑戦したいことは?

ワイルド:いつか店舗を構えたいですね。「アボード・オブ・スノー」では、商品にとどまらず、チベットをはじめ、ブータンやネパールといったヒマラヤ周辺地域の美しい文化や伝統を伝えていきたいです。旅行や食、アート、レジャーといったエディトリアル的要素を取り入れ、それらが自然につながるようにしたい。構想としては、他社の素晴らしいブランドも店舗で紹介したいと考えています。

岡本:私は、環境問題についてもっと関心を広げてもらえるよう力を入れていきたいです。例えば、ヒマラヤ山脈から採水される水は、アジアの多くの人々にとって重要な水源です。しかし、気候変動の影響で雪が溶け出し、地域の人々の生活や自然環境に深刻な影響を与える恐れがあると言われています。今後は、こういったストーリーも伝えていきたい。商品を通して環境問題を伝えることには矛盾があるかもしれません。でも、衣食住は人間にとって欠かせないもの。より良い選択肢を提示できるように心掛けていたいです。

PHOTOS : IBUKI

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百貨店を食っちゃうぞ 大丸松坂屋の虎の子「アナザーアドレス」 牙磨き5年目

大丸松坂屋百貨店が運営するファッションレンタルのサブスクサービス「アナザーアドレス(ANOTHER ADDRESS)」が3月で5年目を迎える。サービススタート当初は、海外のデザイナーズブランドの服などがレンタルできる点に注目が集まったが、クリエイターに光を当てたり、業界のサステナビリティに一石を投じたりと、ファッションレンタルの枠を超えた広がりを見せている。

「アナザーアドレス」はこのほど、同サービス主催のファッションデザインコンテスト「ループアワード」の表彰式を東京・代々木第一体育館で実施した。レンタルを繰り返し、役目を終えた古着をリメイクした作品のできばえを、プロデザイナー部門と学生/アマチュア部門に分けて審査。総合グランプリと部門賞を表彰した。

表彰式の会場となった代々木第一体育館では、14〜16日にかけ、ファッションやアート、ライフスタイルなどの事業者やクリエイターなど約400組が出展する祭典「ニューエナジートウキョウ」が開催された。「アナザーアドレス」はブース出展も実施し、環境省に採択された衣類のアップサイクルプロジェクト「roop」やその成果のパネル展示、アパレル廃材を使用したアート作品の展示・制作体験コーナーなども設けた。

表彰式の前日、「これほど大掛かりのイベントは初めて。昨日は徹夜だった」と赤い目をこすっていた事業責任者の田端竜也氏。会場でサービスの展望を聞いた。

WWD:今回の取り組みの背景について。

田端竜也「アナザーアドレス」事業責任者(以下、田端):まず、このイベント自体で収益を上げるつもりは毛頭なく、あくまで「アナザーアドレス」の取り組み、その背景にあるパーパスの認知活動が目的です。

今回のイベントは、環境省によるカーボンニュートラルに向けた民間事業との連携プロジェクト「デコ活」の支援を受けています。“デコ活”はこれまでの“クールビズ”みたいにスーツを脱ぎなさい、エアコンの温度を下げなさい、とあれこれ指導するのではなく、「消費者が本当にいいと思って使った商品やサービスが、実は環境にもいいものだった」というような企業の取り組みを、国の補助金を使って支援するものです。

「アナザーアドレス」はその1号案件として採択されました。補助金のおかげで、今回のイベントは当社からの資金の持ち出しはなく開催できています。

WWD:なぜサステナビリティに力を入れるのか。

田端:サステナビリティは「アナザーアドレス」の後付けのコンセプトではなく、サービスの根幹です。僕たちの調査では、概算ではあるものの、「アナザーアドレス」の利用者は服を買う数が年間で13着減ったというデータがあります。もちろん、服の配送やクリーニングにはコストがかかりますが、それを差し引いても、1人あたり年間250kgのCO2排出抑制につながっている計算です。また数字には表れにくいですが、消費者の購買行動にもいい影響を与えているはず。安価な服を買ってすぐに捨てるのではなく、「長く使えるいい服を着る」という意識が広がっていると感じます。2年前には、レンタルで汚れた服を染め直したり、パッチワークしたりして販売する「リアドレス」というオリジナルブランドも始めましたが、お客さまからは非常にいい反応をいただけています。

ファッションレンタルの過渡期に
百貨店のバックボーンが生きる

WWD:ファッションレンタル市場も過渡期にある。

田端:市場の成熟につれ、サービスの選別・淘汰も進んでいるのは事実でしょう。有力レンタルサービスだった「エディスト クローゼット」も昨年サービスを終了してしまいました。その中で、改めて感じるわれわれの強みというのは、大丸松坂屋というバックボーンの存在です。

サービス立ち上げ当初は、ブランド側もファッションレンタルというサービスや仕組みに懐疑的で、「自分たちのブランドの価値が毀損するのでは」と及び腰でした。それでも、「大丸松坂屋さんなら」と信頼感から協力してくれたケースも多かったんです。それから、僕らはブランドから買い取った服をレンタルしているため、事業の拡大に伴う商品在庫・バリエーションの拡充には多額の資金が必要になります。百貨店の潤沢な資本力はすごく心強かったです。

正直、「百貨店のオールドファッションなイメージがサブスクサービスの足枷になるのでは」と懸念していました。「サブスクなんてやってどうなるんだ」と周りからあれこれ言わるだろうなとも。しかし今では会社が一番の理解者であり、応援者だと感じています。今回の「ループアワード」の審査員である宗森(耕ニ・大丸松坂屋百貨店社長)も、開催をとても楽しみにしてくれていました。

「助けられた」百貨店を
いつかは「助ける」存在に

WWD:課題は?

田端:イノベーター層やアーリーアダプター層、いわゆる時代の流れに敏感な人たちには、一定程度浸透してきたと実感しています。ただその先にあるキャズム(市場の溝)を超えて一般層に広げるには、まだまだ認知が足りない。オンライン完結型のサービスとして運営してきましたが、やはり画面越しだけでは伝わりきらない部分もあると感じています。だからこそ、今回のようなリアルイベントもそうですし、僕たち百貨店には「店舗」という強い武器があるのだから、オフラインでのアプローチにも積極的に取り組んでいきたいですね。

また、BtoBの領域にも可能性を感じています。ブライダル会社やイベントの企画会社などと提携し、結婚式場や客船のクルーズパーティなどで衣装のレンタルサービスが提供できれば、新たな利用シーン・顧客層の開拓につながると考えています。

WWD:展望は。

田端:現在の登録者数は25万人。実際の利用者数はこれより少ないですが、これまでに貸し出した服の総数はのべ430万着を超えています。ただ、事業としてはまだ赤字。この中期経営計画の期間(〜27年2月期)に、まずは単月黒字までもっていきたいと思っています。

2030年、あるいは2040年になるかもしれないですが、将来的に服を「買う」と「借りる」を使い分けるのが当たり前になった社会で、「アナザーアドレス」がファッションレンタルサービスの中で真っ先に思い浮かぶでありたい。大丸松坂屋の百貨店事業を「食っちゃうぞ」くらいの意気込みで事業を大きくする。さっきは「助けられた」と言っておいてなのですが(笑)。そしていつか、「アナザーアドレスがあってよかった」と言われるようになって、恩を返したいですね。

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俳優・毎熊克哉が語る「演技の本質」と「心を動かす演技」

PROFILE: 毎熊克哉/俳優

PROFILE: (まいぐま・かつや):1987年生まれ、広島県出身。2016年公開の主演映画「ケンとカズ」で第71回毎日映画コンクール スポニチグランプリ新人賞、おおさかシネマフェスティバル2017 新人男優賞、第31回高崎映画祭 最優秀新進男優賞を受賞。近年は大河ドラマ「どうする家康」(23)、「光る君へ」(24)に出演するほか、映画では、「孤狼の血 LEVEL2」(21)や「愛なのに」(21)、「猫は逃げた」(21)、「妖怪シェアハウス-白馬の王子様じゃないん怪-」(22)、「ビリーバーズ」(22)、「そして僕は途方に暮れる」(23)、「世界の終わりから」(23)などに出演。25年7月4日からは主演作「桐島です」も公開予定。

初主演作「ケンとカズ」(2016年)でさまざまな映画賞の主演男優賞を受賞して脚光を浴びた俳優の毎熊克哉。話題作への出演が続く中、最近では大河ドラマ「光る君」に出演。映画「東京ランドマーク」(24年)のプロデュースと配給を手掛けるなど幅広い分野で活動してきた。そんな中、最新主演作「初級演技レッスン」で演じるのは、廃工場で演技レッスンをする謎の男、蝶野穂積。蝶野からレッスンを受ける少年、野島一晟(岩田奏)。一晟の担任教師の平沢千歌子(大西礼芳)は、レッスンを通じて不思議な体験をする。初長編監督作「写真の女」(20年)が海外でも高い評価を受けた串田壮史監督が独特のタッチで登場人物たちの内面を浮かび上がらせていく。毎熊はこのユニークな作品にどんな風に挑んだのか。そして、演技に対する向き合い方について話を聞いた。

「初級演技レッスン」で蝶野を演じて

——「初級演技レッスン」は不思議な話ですね。現実と虚構、現在と過去、いろんな要素が複雑に絡み合いながら、3人の登場人物が抱えている葛藤を描き出していきます。

毎熊克哉(以下、毎熊):完成した映画を観るより、脚本で読んだ時の方が、もっと分からなかったかもしれません。脚本を読んだだけでは、一体、どういう映画になるのか予測不可能でした。でも、僕は串田監督の作品は前から拝見していて独自の映像表現に惹かれていたので、この物語の予測不可能なところに魅力を感じたんです。串田監督はどんな風に撮るんだろうってワクワクしていました。

——毎熊さんが演じた蝶野穂積は全身黒ずくめで、ロングコートを着て長髪という謎めいたキャラクターです。撮影に入る前に監督と役について何か話はされたのでしょうか。

毎熊:特にはしていないです。変に役作りはせずに謎の存在でいた方がいいと思いました。蝶野は死神かもしれないし、一晟や千歌子を導く存在なのかもしれない。謎があればあるほど観客が謎の部分を想像してくれると思いました。串田監督もそう思ったんじゃないでしょうか。

——蝶野は感情を外に出さず表情を変えません。そんな中で、毎熊さんのちょっとした仕草や歩き方、特に目の演技が印象的でした。

毎熊:隠せば隠すほど、隠しきれない一瞬が浮き立つ気がしていて。だから感情を極力出さない、というのは大事にしていました。僕は役者のくせに表情豊かなタイプではなくて、その代わりに目の変化だったりとか、そういった細かい演技が好きなんです。自分が映画を観ていて感動するのも、そういう一瞬を観た時なんですよね。だから、この作品に限らず、そういう演技は大事にしています。

呼吸の大切さ

——蝶野の演技レッスンを通じて、一晟や千歌子が抱いていた心のわだかまりがときほぐされていきます。まるで心理療法みたいだと思いました。

毎熊:確かにそうですね。「演じる」というのは、「役を作り上げる」というイメージが強いかもしれませんが、僕は自分の奥底に向かっていくことだと思っています。蝶野が2人に「ゆっくり呼吸をしなさい」と言いますが、呼吸というのはすごく大切なんです。日常会話をする時は呼吸が浅い。呼吸が浅いと動きも浅くなるし、集中力も弱い。だから演技をする前に呼吸を整えるのは重要で、発声の練習も滑舌よりも、まずは呼吸からなんです。身体をほぐすときもストレッチより先に呼吸を整える。呼吸を整えることで心と身体が繋がって演技も違ってくるんです。

——毎熊さんは役者をする前にダンスをされていたので、身体感覚に敏感なのかもしれないですね。

毎熊:ダンスでも呼吸のことは言われますね。呼吸がしっかりできていない状態で踊ると胃が痛くなる。身体が無理をしているんですね。ダンス以外の世界、例えば武道や音楽でも呼吸は大切なんじゃないかと思います。

——呼吸は全てに通じているんですね。蝶野、一晟、千歌子は、演技レッスンを通じて不思議な関係で結ばれていきます。そして、途中から素なのか演技なのか分からなくなっていく。そういう状態を毎熊さんをはじめ役者さんたちが実際に演じて、演技が何重にも重なっています。演じていていかがでした?

毎熊:僕以上に共演した2人の方が揺れ動いていたと思います。一晟は父親のことがあるし、千歌子も触れられたくないことがありますからね。特に千歌子とのシーンは難しかったです。映画の途中から蝶野と千歌子繋がりがあることが分かってくるじゃないですか。2人はお互いに自分を演じながらレッスンをしているんです。

——そんな3人が一緒に中華料理屋に入って食事をするシーンが心に残りました。3人それぞれが自分に欠けていたものを補い合っているようでもあり、家族のようにも見えました。

毎熊:僕もあのシーンは好きですね。気がついたら、3人はそれぞれ家族のように演じている。3人が一番いい演技をしている時なんだろうなって気がします。食事をした後、1人で去っていく蝶野の後ろ姿が寂しげなのも良いですよね。

人の心を動かす演技

——この映画は、演じることを通じて自分を発見する物語ですが、毎熊さん自身は、これまで受けた演技レッスンで印象に残っているものはありますか?

毎熊:演技の勉強を始めた時に千本ノック的な練習をやったんです。言われた演技をするんですけど、「違う。もう1回」って何度もやらされる。「こうしてみろ」という風に具体的なことは言ってくれないので、どうしたらいいのか分からなくなってパニックになるんですよ。頭が真っ白になって続けていると、突然、「それだ!」って言われるんです。その時に、これまでとは明らかに違うということが身体を通して分かりました。その経験は役者をやっていく上で大きかったですね。

——何が違ったのでしょうか?

毎熊:その違いを言葉にするのは難しいのですが、誰でも人に隠していること、見られたくないものがあると思うんですよ。それを人に見せるというのは裸になるより恥ずかしいことなんです。でも、演技を通じてそれを観た瞬間、人は感動する。要するに形で演技をするのではなく、心でやれということだと思います。方法を身につけるというか、心の扉を開けるということ。自分が役者を始めたばかりで技術がない時に、それが分かったのは良かったと思いますね。

——それにしても、人に見せたくないものを、毎回見せていくというのは大変なことだと思います。それでも役者を続けるというのは、得るものも大きいということなのでしょうか。

毎熊:そうですね。しんどいこともありますが、自分ではない誰かを演じることで、演技をしていなかったら出会えなかった自分の一面を発見できる。これまで目をそらしていたことにも向き合える。そうすることで自分が成長していくんです。それは演じることの豊かさだと思います。

——そういう話を伺うと、今回の映画のように役者ではない人たちも、演技を通じて自分が抱えていた問題と向き合えるかもしれませんね。

毎熊:演技はいろんなことに活用できると思います。子供たちとか会社勤めの方が演技のワークショップをやってみるのもいいんじゃないでしょうか。演技をというのは、役者に限らずみんな日頃からやっていることなんですよ。会社にいる時、家族といる時、恋人といる時、人はそれぞれ違う自分になっている。僕は役者を目指す人から演技について教えてほしいと頼まれても断っているんですよ。役者が役者に演技を教えるものではないと思うので。でも、別の仕事をしている人たちと一緒に、演技について深掘りしていくのは興味深いし、自分にも還元されるものが多い気がしますね。

——映画の中で思いがけないところでダンスシーンが出てきますが、ダンスを学んでいたことは、演技に何か影響を与えていますか?

毎熊:ダンサーは鏡をめちゃくちゃ見るんですよ。鏡で自分の動きを確認する。そこで大切なのは「フィルターをかけないこと」。人は勝手にフィルターで補正してしまうので、できている風に見えてしまうんですよね。でも、鏡をしっかり見て、そこに写っている自分を客観的に見るようにすることで、「あの人と同じ動きをしているのに、なぜ自分はかっこよくないんだろう」って気づく。それはちょっとした動きや、呼吸の置き方の違いなんですけど、そうやって客観的に自分の身体を見る訓練をしたのは、役者の仕事に役立っているかもしれませんね。

——これから役者を目指そうと思っている人、演技に興味を持った人に、こういうことを大切にした方がいい、というアドバイスはありますか?

毎熊:演技の仕方は人それぞれで、信じるものも違うし、全然違うタイプの演技でも感動する。演技に正解ってないと思うんです。だから、やり方を学ぶよりも、もっと本質的なものを大事にした方がいい。何に感動して、何にイライラして、何に笑うのか。自分の感情をしっかり知っておくことが大切だと思います。

——まず、自分自身としっかり向き合う。

毎熊:そうです。僕は役者をやる前、つまらない映画を何本か撮ったんです。なんで、こんなにつまらないんだろうと思ったら、全部自分が好きな映画のマネなんですよ。自分が本当に撮りたいものをカメラを通して見れていなかった。役者を目指すようになってからも、同じ壁にぶつかってしまって。自分がいいと思う「型」で映画を撮ったり、演技をしても面白いものはできないことに気づきました。「型」っていうのはいろいろとやっているうちに自然にできてくるものなんです。重要なのは自分にしっかり向き合うこと。自分を知ることが、一番感動するし、そうやってできたものが人の心を動かすんじゃないかと思います。

PHOTOS:MASASHI URA
STYLING:TAKAFUMI KAWASAKI
HAIR & MAKEUP:KANAKO HOSHINO

映画「初級演技レッスン」

■映画「初級演技レッスン」
2025年2月22日から渋谷ユーロスペース、MOVIX 川口ほか全国ロードショー
出演:毎熊克哉 大西礼芳 岩田奏
監督・脚本・編集:串田壮史
撮影監督:伴徹
音楽:MATTEO RUPERTO
制作プロダクション:Ippo/デジタル SKIP ステーション
制作協力:ピラミッドフィルム
製作:埼玉県/SKIP シティ彩の国ビジュアルプラザ
配給:インターフィルム
2024年/カラー/5.1ch/ビスタサイズ/90 分
© 2024 埼玉県/SKIP シティ彩の国ビジュアルプラザ
https://act-for-begi.com

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京都独自の藍染め「京藍」の復活と継承に挑む松﨑陸 「ヴァレクストラ」と協業も

偶然ニューヨークで出合った藍染めに惹かれ、染色の修業先で見つけた文献から「歴史をさかのぼると日本で最も品質の高い藍を作っていたのは京都で、その産地が偶然にも地元の洛西であることを知った」という松﨑陸。約100年前に滅びた京藍復活のため900坪の畑を借りて、当時の栽培方法で京都原種の藍の栽培から取り組む。アート作品の販売、工房でのワークショップ、Tシャツなどの製品の制作・販売で生計を立て、2024年には大丸松坂屋百貨店が掲げる地域共栄活動「think LOCAL」の一環として、「ヴァレクストラ(VALEXTRA)」の京都祇園店開店に合わせてコラボレーションを行うなど、活動の場を広げている。

PROFILE: 松﨑陸/京藍染師・アーティスト

松﨑陸/京藍染師・アーティスト
PROFILE: (まつざき・りく)1990年京都市洛西生まれ。大学で経営学を専攻。22歳の時にニューヨークで“ジャパンブルー”に出合い藍染作家を目指すことを決意。2015年野村シルク博物館で養蚕、手織り、和装を学ぶ。17年染司よしおか五代当主吉岡幸雄氏に師事。18年正倉院宝物復元に携わる。20年約900坪の畑を借りて京藍の栽培を開始。21年染司よしおか独立。22年京都市西京区大原野に工房を開く。23年妙心寺桂春院で個展を開催し、作品「京藍壁観図」を奉納。24年「ヴァレクストラ」や「カンサイヤマモト」とのコラボレーション製品を発表

古い文献から「京都の藍染めが最も優れていた」ことを知る

WWD:京都独自の藍染め「京藍」に出合ったきっかけは。

松﨑:染色工房「染司よしおか」で修業中に先生(吉岡幸雄氏)が、歴史を知ることや本物を見ることが大切だと言い続けてくれたことが大きい。工房にある文献を調べ始めると藍の栽培は安土・桃山時代に京都から兵庫、そして淡路、徳島に伝えられたと書かれていた。自分が取り組みたいと思っていた藍染めのルーツが地元京都にあることを知り胸が高鳴った。別の江戸後期の文献では、京都が質の高い藍を作り続けていたと書かれていた。さらに調べると、1700年に松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪が江戸中期に江戸から京都へ上がったときの句に出合った。「嶋原の外も染るや藍畠」。京都の嶋原(洛中)の外は染まるほどに藍畑だらけだったという内容で、1712年発行の日本百科事典には「日本の藍は京都の洛外のものが最も優れていて、次に兵庫県の播磨が良い。次に徳島と淡路産」と記されていた。京都の藍が高品質だったことが歴史から読み解くことができた。

WWD:「京藍」の復活に取り組むに至った経緯は。

松﨑:松﨑家の家紋のルーツが岐阜の土岐氏にあり、土岐氏は水色の旗に家紋を入れて戦に出ていた。当時水色の藍を作れるのは京都だけだったことを考えるともしかしたら先祖は京藍を使っていたのではないか?と考え始めると胸が高鳴った。

また、236年前(1789年)に「京藍」を再興しようと命がけで活動した阿波屋宇兵衛の存在を知り、熱くなった。彼は当時徳島でさかんな藍の栽培方法(肥料に魚を使っていたこと)を口外すると処刑されると知っていたのに、京都に持ち帰り再興を目指してのちに処刑された人。京藍にまつわるさまざまな歴史を知り、復活させたいと強く思うようになった。

WWD:種は残っていたのか。

松﨑:日本の藍には10の品種があり、種は徳島県が保護していた。京都の原種を譲ってもらった。

WWD:「京藍」は他の藍と何が違うのか。

松﨑:栽培方法と色が違う。京都の藍はかつて「水藍」と呼ばれ水田で栽培していて、色も淡い。今の藍染めは紺色が主流だけど、当時の藍染めは淡い色が上品とされていてランクが高かった。淡い藍は染めむらが出やすいため難しいとされていたからではないか。

WWD:職人ではなくアーティストと名乗る理由は。

松﨑:僕の目的は「京藍」を復活させて次世代に残すこと。職人として活動をして「京藍」を残すことができるのか?「京藍」が残る可能性の一つが美術館や博物館に永久保存されること。アートとして京藍の痕跡を残すことができないか考えた。もちろん僕はクラフトマンだけど、職人よりもアーティストと名乗る方が強気で世界と戦えるんじゃないかと。かつては日本の職人の高い技術が安く買われるということもあったと思うから。日本が誇れるものは伝統工芸であり分かりやすいアイデンティティ、これを武器に日本人は世界と戦うべきだと思うし、伝統工芸の職人がこうなったらいいなという成功例になりたい。「わからせますよ」という気持ちだ。

WWD:「ヴァレクストラ」とのコラボはどのようにして始まったか。

松﨑:祇園の新店舗開店の際に京都の伝統工芸職人と協業した製品を作るために、京都の丹後ちりめんや提灯など何軒かの職人の工房を訪ねたうちの1軒だったと聞く。デザインチームが工房に来たときは、活動の説明をしたり「染めた生地が買えるのか」といった質問を受けつつ、その場で結論は出せないのでいったんイタリアに持ち帰るとなった。その時に「ダブルネームならやるスタンスだ」と伝えた。せっかく訪ねてきてくれたのだからと徒歩20分のところにある春日大社の第一の分社で784年に建立された大原野神社に行こうと誘い、境内にあるそば屋「そば切りこごろ」でそばを食べた。「そば切りこごろ」からは出汁がら(魚節)をいただいて藍畑の肥料に使っている。その一カ月後に「ぜひやりたい」とメールが届いた。僕のインスタグラムに公開している作品の中から希望がいくつか上がり、方向性を決めていった。

WWD:コラボ製品は「KYOAI」と発信されていた。

松﨑:実は当初は“ジャパンブルー”“インディゴ”など別の言葉を入れたいと話があったけれど、「KYOAI」にして欲しいとこちらから依頼した。僕は「京藍」を残したくて活動しているからそれがとても重要だった。

WWD:工房開設から3年。活動に広がりが出てきた。

松﨑:計算してやっていない。市場がどうではなく、発表した作品が当たれば市場にマッチしたのかと理解しているところだ。

WWD:現在の課題は。

松﨑:僕自身、お金に興味を持つことが必要だと感じている。その時々で作りたいものを作れたら個人的にはいいと思っているところがあるから。一方で工房が手狭になってきたし、今はアーティストのシェアギャラリー「大原野スタジオギャラリー」を活動拠点にしているが、作品を展示して藍染めができる単独の工房を構えたいと考えている。それには少なくとも3000万円が必要になる。水にこだわりたいから井戸も掘りたい。900坪の藍畑も一人で取り組んでいる。年を取ると畑仕事は難しくなるだろうし、人を雇わなければいけない時期に来たとも感じている。

WWD:洛西地区は京都市内にあっても少し町中から離れて、わざわざ立地でもある。地域文化として「京藍」を打ち出すような取り組みにも力を入れるのか。

松﨑:少しずつ巻き込み始めている。例えば、洛西高校の先生が新聞で紹介された僕の記事に共感してくれ、高校の生徒が「京藍」の畑の手伝いに来てくれるようになった。近所のネギ農家は今年から京藍を育て始める。まずは300坪から始めると聞いた。工房の候補地は近くでいい場所を見つけた。工房ができれば人に来てもらいやすくなるし、知ってもらえる機会が増える。

WWD:今、妙心寺塔頭養徳院の奉納する戸帳の制作に取り組んでいるとか。

松﨑:現在改修工事をしていて来年2月に完成する予定だ。戸帳を作りたいという話をいただき、これまでの養徳院の戸帳について調べた。すると直近では化学染料を使っていたが、260年前のものは藍染めや茜染めを用いた赤黄藍緑白の5色の織物でできていた。この先何百年も色褪せずに残る戸帳になるよう、700年前の藍染めを含め太古の方法を模索しているところだ。

WWD:今後取り組んでいくことは?

松﨑:1300年前の職人と戦いたい。日本で最古の藍染めは正倉院宝物館に所蔵されている縹縷(はなだのる)で、752年の大仏開眼会で用いられたものだった。これが1300年前に染められたのに色褪せていないんですよ。この時代の染色技術が最もすばらしかったのではないかと考えるようになった。江戸時代の技法は試したが色が褪せるし、さらに染色法を掘り下げると、蒅(すくも、藍の葉を乾燥させ発酵・熟成させてたい肥化したもの)が登場したのは約700年前の室町時代で、当時の技法は色がキレイで堅牢度が高かった。今室町からさらに奈良まで遡ろうと取り組んでいる。すると奈良時代はまだ蒅がなかった時代だとわかった。奈良時代の染色方法について仮説を立てて検証を繰り返しているところだ。世界に目を向けると約6500年前の藍染工房の遺跡が見つかっていたり、4000年前のエジプトのミイラには藍染めした布が巻かれていた。藍染めの歴史はとても長くて面白い。

WWD:奈良時代に奈良で藍染めが行われていたということ?

松﨑:飛鳥時代に中国から日本へ藍が運ばれたようで、647年に制定された日本の官位「七色十三階冠」が664年に改定されたときに月草が藍に変わっていた。ということは、藍の国内栽培に成功したのがこの時期なのではないか。であれば厳密には飛鳥、奈良を経てるので日本の藍の始まりは奈良となるが、僕が調べた中では奈良には藍の文献や記述が見当たらない。もちろんこの頃の史料は焼失していることが多いから本当のところはわからないが。また「源氏物語」を読むに色彩豊かな感性と技術が成熟したのは平安時代と予測している。なので僕は"藍の産業としての始まりは京都"と考えている。

藍染めから「京藍」復活に至るまで

WWD:そもそも藍に着目したきっかけは?

松﨑:やりたいことを探しに訪れたニューヨークで“ジャパンブルー”と呼ばれる青い服を見た。帰国後にテレビで見た藍染め特集で、世界では藍染めがジャパンブルーと呼ばれていることを知り、やってみようと思い立った。やるなら日本一のところでやりたいと考えた。京都で200年続く染色工房「染司よしおか」の五代当主の吉岡幸雄氏に弟子入りを志願したけど断られた。何度も足を運んでいるとある日、『愛媛にある野村シルク博物館で2年間学んでくれば考える』と言われて、やるしかないと思い愛媛に向かった。夜間はコンビニでアルバイトをしながら、養蚕から手織り和裁、藍や紅花の栽培までを学び染色の基礎を身に付けた。京都に帰ってくるたびに忘れ去られないように「弟子入りはまだか」と工房を訪ねたが、「2年はがんばれ」と言われ、とにかくがんばった。

2年が経ち『よしおか』での修業が始まるわけだけど、染色技術だけではなく、原稿校正や公演準備など幅広い業務に携わった。けれど、藍染めだけは触らせてもらえなかった。藍染めは藍を発酵させてから染めるので、発酵に失敗すると染められなくなるという理由は理解できるけど、どうしても藍染めがしたかった。だから自宅の風呂場にバケツを突っ込んで始めた。工房の番頭さんに聞いたことを試してみるけどこれがなかなか発酵しない。バケツ1つ分の藍を買うと給料の半分が飛び、発酵しないと捨てるしかないただの茶色い水。半年くらい経った頃、表面が青くなり布を入れたら青く染まった。微生物が働き発酵したら布が染まるというプロセスを目の当たりにしてここからはまった。工房で最初から教えてもらっていたらここまで興味が深くならなかったと思う。生活を賭けて身銭を切り続けたからこそここまではまったんだと思う。

WWD:「染司よしおか」を3年10カ月で辞めて独立した。

松﨑:先生がされていることの歴史の深さを学ぶには5年はかかると思っていたが、3年目に先生が亡くなった。このペースでやっていたら到底先生に追いつくことができないと思い、飛び出すべきだと考えてその一年後に辞めた。その頃には京都の藍を復活させようと決めていた。

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京都独自の藍染め「京藍」の復活と継承に挑む松﨑陸 「ヴァレクストラ」と協業も

偶然ニューヨークで出合った藍染めに惹かれ、染色の修業先で見つけた文献から「歴史をさかのぼると日本で最も品質の高い藍を作っていたのは京都で、その産地が偶然にも地元の洛西であることを知った」という松﨑陸。約100年前に滅びた京藍復活のため900坪の畑を借りて、当時の栽培方法で京都原種の藍の栽培から取り組む。アート作品の販売、工房でのワークショップ、Tシャツなどの製品の制作・販売で生計を立て、2024年には大丸松坂屋百貨店が掲げる地域共栄活動「think LOCAL」の一環として、「ヴァレクストラ(VALEXTRA)」の京都祇園店開店に合わせてコラボレーションを行うなど、活動の場を広げている。

PROFILE: 松﨑陸/京藍染師・アーティスト

松﨑陸/京藍染師・アーティスト
PROFILE: (まつざき・りく)1990年京都市洛西生まれ。大学で経営学を専攻。22歳の時にニューヨークで“ジャパンブルー”に出合い藍染作家を目指すことを決意。2015年野村シルク博物館で養蚕、手織り、和装を学ぶ。17年染司よしおか五代当主吉岡幸雄氏に師事。18年正倉院宝物復元に携わる。20年約900坪の畑を借りて京藍の栽培を開始。21年染司よしおか独立。22年京都市西京区大原野に工房を開く。23年妙心寺桂春院で個展を開催し、作品「京藍壁観図」を奉納。24年「ヴァレクストラ」や「カンサイヤマモト」とのコラボレーション製品を発表

古い文献から「京都の藍染めが最も優れていた」ことを知る

WWD:京都独自の藍染め「京藍」に出合ったきっかけは。

松﨑:染色工房「染司よしおか」で修業中に先生(吉岡幸雄氏)が、歴史を知ることや本物を見ることが大切だと言い続けてくれたことが大きい。工房にある文献を調べ始めると藍の栽培は安土・桃山時代に京都から兵庫、そして淡路、徳島に伝えられたと書かれていた。自分が取り組みたいと思っていた藍染めのルーツが地元京都にあることを知り胸が高鳴った。別の江戸後期の文献では、京都が質の高い藍を作り続けていたと書かれていた。さらに調べると、1700年に松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪が江戸中期に江戸から京都へ上がったときの句に出合った。「嶋原の外も染るや藍畠」。京都の嶋原(洛中)の外は染まるほどに藍畑だらけだったという内容で、1712年発行の日本百科事典には「日本の藍は京都の洛外のものが最も優れていて、次に兵庫県の播磨が良い。次に徳島と淡路産」と記されていた。京都の藍が高品質だったことが歴史から読み解くことができた。

WWD:「京藍」の復活に取り組むに至った経緯は。

松﨑:松﨑家の家紋のルーツが岐阜の土岐氏にあり、土岐氏は水色の旗に家紋を入れて戦に出ていた。当時水色の藍を作れるのは京都だけだったことを考えるともしかしたら先祖は京藍を使っていたのではないか?と考え始めると胸が高鳴った。

また、236年前(1789年)に「京藍」を再興しようと命がけで活動した阿波屋宇兵衛の存在を知り、熱くなった。彼は当時徳島でさかんな藍の栽培方法(肥料に魚を使っていたこと)を口外すると処刑されると知っていたのに、京都に持ち帰り再興を目指してのちに処刑された人。京藍にまつわるさまざまな歴史を知り、復活させたいと強く思うようになった。

WWD:種は残っていたのか。

松﨑:日本の藍には10の品種があり、種は徳島県が保護していた。京都の原種を譲ってもらった。

WWD:「京藍」は他の藍と何が違うのか。

松﨑:栽培方法と色が違う。京都の藍はかつて「水藍」と呼ばれ水田で栽培していて、色も淡い。今の藍染めは紺色が主流だけど、当時の藍染めは淡い色が上品とされていてランクが高かった。淡い藍は染めむらが出やすいため難しいとされていたからではないか。

WWD:職人ではなくアーティストと名乗る理由は。

松﨑:僕の目的は「京藍」を復活させて次世代に残すこと。職人として活動をして「京藍」を残すことができるのか?「京藍」が残る可能性の一つが美術館や博物館に永久保存されること。アートとして京藍の痕跡を残すことができないか考えた。もちろん僕はクラフトマンだけど、職人よりもアーティストと名乗る方が強気で世界と戦えるんじゃないかと。かつては日本の職人の高い技術が安く買われるということもあったと思うから。日本が誇れるものは伝統工芸であり分かりやすいアイデンティティ、これを武器に日本人は世界と戦うべきだと思うし、伝統工芸の職人がこうなったらいいなという成功例になりたい。「わからせますよ」という気持ちだ。

WWD:「ヴァレクストラ」とのコラボはどのようにして始まったか。

松﨑:祇園の新店舗開店の際に京都の伝統工芸職人と協業した製品を作るために、京都の丹後ちりめんや提灯など何軒かの職人の工房を訪ねたうちの1軒だったと聞く。デザインチームが工房に来たときは、活動の説明をしたり「染めた生地が買えるのか」といった質問を受けつつ、その場で結論は出せないのでいったんイタリアに持ち帰るとなった。その時に「ダブルネームならやるスタンスだ」と伝えた。せっかく訪ねてきてくれたのだからと徒歩20分のところにある春日大社の第一の分社で784年に建立された大原野神社に行こうと誘い、境内にあるそば屋「そば切りこごろ」でそばを食べた。「そば切りこごろ」からは出汁がら(魚節)をいただいて藍畑の肥料に使っている。その一カ月後に「ぜひやりたい」とメールが届いた。僕のインスタグラムに公開している作品の中から希望がいくつか上がり、方向性を決めていった。

WWD:コラボ製品は「KYOAI」と発信されていた。

松﨑:実は当初は“ジャパンブルー”“インディゴ”など別の言葉を入れたいと話があったけれど、「KYOAI」にして欲しいとこちらから依頼した。僕は「京藍」を残したくて活動しているからそれがとても重要だった。

WWD:工房開設から3年。活動に広がりが出てきた。

松﨑:計算してやっていない。市場がどうではなく、発表した作品が当たれば市場にマッチしたのかと理解しているところだ。

WWD:現在の課題は。

松﨑:僕自身、お金に興味を持つことが必要だと感じている。その時々で作りたいものを作れたら個人的にはいいと思っているところがあるから。一方で工房が手狭になってきたし、今はアーティストのシェアギャラリー「大原野スタジオギャラリー」を活動拠点にしているが、作品を展示して藍染めができる単独の工房を構えたいと考えている。それには少なくとも3000万円が必要になる。水にこだわりたいから井戸も掘りたい。900坪の藍畑も一人で取り組んでいる。年を取ると畑仕事は難しくなるだろうし、人を雇わなければいけない時期に来たとも感じている。

WWD:洛西地区は京都市内にあっても少し町中から離れて、わざわざ立地でもある。地域文化として「京藍」を打ち出すような取り組みにも力を入れるのか。

松﨑:少しずつ巻き込み始めている。例えば、洛西高校の先生が新聞で紹介された僕の記事に共感してくれ、高校の生徒が「京藍」の畑の手伝いに来てくれるようになった。近所のネギ農家は今年から京藍を育て始める。まずは300坪から始めると聞いた。工房の候補地は近くでいい場所を見つけた。工房ができれば人に来てもらいやすくなるし、知ってもらえる機会が増える。

WWD:今、妙心寺塔頭養徳院の奉納する戸帳の制作に取り組んでいるとか。

松﨑:現在改修工事をしていて来年2月に完成する予定だ。戸帳を作りたいという話をいただき、これまでの養徳院の戸帳について調べた。すると直近では化学染料を使っていたが、260年前のものは藍染めや茜染めを用いた赤黄藍緑白の5色の織物でできていた。この先何百年も色褪せずに残る戸帳になるよう、700年前の藍染めを含め太古の方法を模索しているところだ。

WWD:今後取り組んでいくことは?

松﨑:1300年前の職人と戦いたい。日本で最古の藍染めは正倉院宝物館に所蔵されている縹縷(はなだのる)で、752年の大仏開眼会で用いられたものだった。これが1300年前に染められたのに色褪せていないんですよ。この時代の染色技術が最もすばらしかったのではないかと考えるようになった。江戸時代の技法は試したが色が褪せるし、さらに染色法を掘り下げると、蒅(すくも、藍の葉を乾燥させ発酵・熟成させてたい肥化したもの)が登場したのは約700年前の室町時代で、当時の技法は色がキレイで堅牢度が高かった。今室町からさらに奈良まで遡ろうと取り組んでいる。すると奈良時代はまだ蒅がなかった時代だとわかった。奈良時代の染色方法について仮説を立てて検証を繰り返しているところだ。世界に目を向けると約6500年前の藍染工房の遺跡が見つかっていたり、4000年前のエジプトのミイラには藍染めした布が巻かれていた。藍染めの歴史はとても長くて面白い。

WWD:奈良時代に奈良で藍染めが行われていたということ?

松﨑:飛鳥時代に中国から日本へ藍が運ばれたようで、647年に制定された日本の官位「七色十三階冠」が664年に改定されたときに月草が藍に変わっていた。ということは、藍の国内栽培に成功したのがこの時期なのではないか。であれば厳密には飛鳥、奈良を経てるので日本の藍の始まりは奈良となるが、僕が調べた中では奈良には藍の文献や記述が見当たらない。もちろんこの頃の史料は焼失していることが多いから本当のところはわからないが。また「源氏物語」を読むに色彩豊かな感性と技術が成熟したのは平安時代と予測している。なので僕は"藍の産業としての始まりは京都"と考えている。

藍染めから「京藍」復活に至るまで

WWD:そもそも藍に着目したきっかけは?

松﨑:やりたいことを探しに訪れたニューヨークで“ジャパンブルー”と呼ばれる青い服を見た。帰国後にテレビで見た藍染め特集で、世界では藍染めがジャパンブルーと呼ばれていることを知り、やってみようと思い立った。やるなら日本一のところでやりたいと考えた。京都で200年続く染色工房「染司よしおか」の五代当主の吉岡幸雄氏に弟子入りを志願したけど断られた。何度も足を運んでいるとある日、『愛媛にある野村シルク博物館で2年間学んでくれば考える』と言われて、やるしかないと思い愛媛に向かった。夜間はコンビニでアルバイトをしながら、養蚕から手織り和裁、藍や紅花の栽培までを学び染色の基礎を身に付けた。京都に帰ってくるたびに忘れ去られないように「弟子入りはまだか」と工房を訪ねたが、「2年はがんばれ」と言われ、とにかくがんばった。

2年が経ち『よしおか』での修業が始まるわけだけど、染色技術だけではなく、原稿校正や公演準備など幅広い業務に携わった。けれど、藍染めだけは触らせてもらえなかった。藍染めは藍を発酵させてから染めるので、発酵に失敗すると染められなくなるという理由は理解できるけど、どうしても藍染めがしたかった。だから自宅の風呂場にバケツを突っ込んで始めた。工房の番頭さんに聞いたことを試してみるけどこれがなかなか発酵しない。バケツ1つ分の藍を買うと給料の半分が飛び、発酵しないと捨てるしかないただの茶色い水。半年くらい経った頃、表面が青くなり布を入れたら青く染まった。微生物が働き発酵したら布が染まるというプロセスを目の当たりにしてここからはまった。工房で最初から教えてもらっていたらここまで興味が深くならなかったと思う。生活を賭けて身銭を切り続けたからこそここまではまったんだと思う。

WWD:「染司よしおか」を3年10カ月で辞めて独立した。

松﨑:先生がされていることの歴史の深さを学ぶには5年はかかると思っていたが、3年目に先生が亡くなった。このペースでやっていたら到底先生に追いつくことができないと思い、飛び出すべきだと考えてその一年後に辞めた。その頃には京都の藍を復活させようと決めていた。

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バレエの世界からファッションに転向 「体と筋肉の延長」として服をデザインするアラン・ポール【連載 注目若手デザイナーへの10の質問】

海外ファッション・ウイークを現地取材するWWDJAPANは毎シーズン、今後が楽しみな若手デザイナーに出会う。本連載では毎回、まだベールに包まれた新たな才能1組にフォーカス。10の質問を通して、ブランド設立の背景やクリエイションに対する考えから生い立ち、ファッションに目覚めたきっかけ、現在のライフスタイルといったパーソナルな部分までを掘り下げる。

今回フォーカスするのは、2023年に自身の名を冠したブランドを夫のルイス・フィリップ(Luis Philippe)と共に立ち上げたアラン・ポール(Alain Paul)だ。1989年に香港で生まれたアランは、97年に家族でフランスに移住した後、コンテンポラリーバレエの経験を積みながら育った。新たな自己表現の方法を探るため、18歳からはパリでファッションデザインを学び、2014年から「ヴェトモン(VETEMENTS)」に初期メンバーとして参画。18年から4年間は、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)が率いていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のメンズチームに在籍していた。

そして23年10月、パリ・ファッション・ウイーク期間中に歴史あるシャトレ座で「アランポール(ALAINPAUL)」として初のショーを開催。デビューシーズンから、米百貨店バーグドルフ グッドマン(BERGDORF GOODMAN)や香港のジョイス(JOYCE)など有力店が買い付けた。3シーズン目となる25年春夏にはパリコレの公式スケジュール入りを果たし、卸先も約25アカウントまで増加。今年度の「LVMHプライズ(LVMH PRIZE)」ではセミファイナリストにも残っており、着実な成長を見せている。そのクリエイションの核となるのは、バレエダンサーとしてのバックグラウンド。「服は体と筋肉の延長」という考えからダンサーの着こなしや自由な動きから得たアイデアを現代的なワードローブに落とし込むアランの素顔とは?

1:出身は?どんな幼少期や学生時代を過ごしましたか?

私が生まれたのは香港ですが、父はフランス人、母はデンマーク系ブラジル人。この文化の融合は、私のアイデンティティーとクリエイティブな感性を形成するに大きな影響を与えたと思います。8歳まで香港の活気あふれるカルチャーの中で過ごした後、1997年に家族で南フランスに移住し、著名なマルセイユ国立高等ダンス学校に入りました。そうして幼い頃の自分の原動力になったバレエは、自己表現のための方法をもたらし、そこから芸術的な感性や世界観を作り上げていきました。

幼い頃の私は好奇心旺盛かつクリエイティブで、視覚的あるいは身体的に自分を表現できるもの全てに強い関心を抱いていました。そして学生時代には、スケッチをしたり、想像上のパフォーマンスのために振り付けを考えたりという芸術と動きの相互作用への探求心が強まっていきました。それが、今のクリエイティブな仕事の核になっています。

2:ファッションに関心をもった原体験やデザイナーを志したきっかけは?

ファッションに関する最初の思い出は、バレエの練習に励んでいた学生時代まで遡ります。私が興味を惹かれたのは、衣装がどのようにパフォーマンスを変化させ、動きに深みと感情をもたらすかということ。友人たちとパフォーマンス用の衣装のスタイリングを試し始めたのがきっかけで、服がどのように感覚やムードを形作るかを理解するようになりました。そして、ファッションはアイデンティティーや動き、感情についてのストーリーを語るためのツールだと気づいたとき、私はファッションに夢中になったんです。

3:自分のブランドを立ち上げようと決めた理由は?

自分のブランドを立ち上げることは、パリでファッションを学んでいた頃からの夢でした。設立されたばかりの「ヴェトモン」でデムナ(Demna)と一緒に仕事をする機会に恵まれ、そこで独立系ブランドがどのように機能し、アイデンティティーを構築していくのかなど、多くのことを学びましたね。その後、「ルイ・ヴィトン」のヴァージル・アブローの下でラグジュアリーなコレクションへの理解を深めるとともに、デザイナーとしてどれほど自由かつオープンでいられるかということを目の当たりにしました。クリエイティブ・ディレクターとして自分が表現したいことを何年も考えていた私は、自分に大きな影響を与えた2つの経験を経て、2023年にコマーシャル・ディレクターと務める夫のルイスと一緒にブランドを立ち上げることを決意。「アランポール」は、私自身のバレエの経験とデザインへの情熱を融合させるクリエイティブな自由を与えてくれました。

4:学生時代から過去に働いたブランドまで、これまでの経験で一番心に残っている教えや今に生かされている学びは?

バレエの経験から体得したのは、規律とレジリエンス(困難をしなやかに乗り越え回復する力)の大切さ。デムナと過ごした時間の中では、脱構築の術とデザインを通したストーリーテリングの力を発見しました。そして、ヴァージルからはインクルーシビティー(包摂性)やクリエイションにおいて大胆不敵であること、そして限界を押し広げることの大切さを学びましたね。これら全ての経験が、自分の心の声に忠実でありながら、コンセプチュアルな革新性とウエアラビリティーとのバランスを取ることを教えてくれました。

5:デザイナーとしての自分の強みや、クリエイションにおいて大切にしていることは?

私のアプローチは、まるで人間の体の周りに服を振り付けるかのようにデザインに取り組み、服から感情を生み出すこと。着る人に服を通して自己表現のためのアティチュードを与えられるのが、自分の強みだと思っています。「アランポール」では、全てのアイテムにタイムレスな価値を持たせるとともに丁寧に仕上げることで、クラフツマンシップとサステナビリティを大切にしています。

6:活動拠点として、今暮らしている街は?その中でお気に入りのスポットは?

現在は、ブランドの拠点でもあるパリに住んでいます。歴史と現代性が融合したパリは、私にとって無限のインスピレーション源なんです。なかでもお気に入りの場所は、コンテンポラリーバレエやパフォーマンスアート、インスタレーションなどの素晴らしいプログラムが行われるシャトレ座とシャイヨー宮。落ち着いた庭園と彫刻があるロダン美術館も大好きです。

7:ファッション以外で興味のあることや趣味は?

ライブパフォーマンスを観たり、振り付けを探求したりと、私はダンスと舞台芸術に深いつながりを持っています。自由時間には、新しい展覧会や大好きな書店を訪れることも多いですね。また時間が許せば、異国への旅に出ます。新しい文化を体験することは、私にとっての真の情熱であり、クリエイティブな仕事に欠かせません。

8:理想の休日の過ごし方は?

パリでの休日であれば、朝は家で穏やかに過ごして自分自身を充電し、午後は街を歩き、ギャラリーや展覧会を訪れてインスピレーションを得ます。夜は、マース・カニングハム(Merce Cunningham)やピナ・バウシュ(Pina Bausch)のバレエなど、いつも私に安らぎを与えてくれる素晴らしいパフォーマンスを見るのが理想的。そして、私にとってエネルギーやインスピレーションの源である楽しいパーティーに参加して、最高の気分で1日を締めくくります。

9:自分にとっての1番の宝物は?

最も大切な宝物は、香港での幼少期とマルセイユ国立高等ダンス学校での思い出です。そんな形成期のおかげで、自分が歩む道を築くことができ、今でも毎日私を導き続けている規律を身につけることができたと感じています。

10:これから叶えたい夢は?

私の夢は、「アランポール」がコアバリューに忠実でありながら、グローバルかつサステナブルに発展すること。ファッションを単なる衣服としてだけでなく芸術表現やアイデンティティーの自由として捉えるためのきっかけを人々に与えるようなレガシーを確立することが目標です。

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サウンドアーティストのトモコ・ソヴァージュの人と空間に宿るエネルギーを増幅させる音楽表現 

PROFILE: トモコ・ソヴァージュ

PROFILE: 横浜市出身、2003年からパリ在住。06年以降、南インドの伝統的な楽器であるジャラタランガムからインスピレーションを得て、水という素材の流動性を生かした電子音響楽器、waterbowlsを考案。水と磁器の椀を調律し、それらを振動させ、通常は聞こえないに等しい小さな音を拡大し、水波が音を揺らす独自の手法を生み出す。自身のパフォーマーとしての役割は、制御可能な環境と偶然性との間で調和を探る庭師のようなものと捉えている。ヨーロッパを中心に世界各国でパフォーマンス、録音作品、インスタレーションを発表している

ファッションデザイナーで現代美術作家の髙橋大雅が立ち上げた「タイガタカハシ(TAIGA TAKAHASHI)」の後身である「T.T」は、2024年12月に「T.T I-A 02 遺物の声を聴く 応用考古学の庭」を東京・草月会館で開催した。同年4月京都祇園にオープンした総合芸術「T.T I-A(Taiga Takahashi Institute of Archeology)」に続くプロジェクトだ。

同展は髙橋が最も影響を受けた芸術家の一人であるイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)の作品「天国」を主な展示空間とし、髙橋が収集した過去の遺物や約300点に及ぶビンテージの服飾資料と、それらから着想を得て制作した衣服や彫刻作品を公開した。ノグチが表現した抽象的な時間と空間の交錯や自然との調和を髙橋の視点で「応用考古学の庭」として再構築したものだ。

さらに今回、髙橋の作品の核を成す芸術の要素に“音の次元“を加えることの皮切りとして、水を使った音楽表現で知られるパリ在住のサウンドアーティスト、トモコ・ソヴァージュ(Tomoko Sauvage)のライブパフォーマンスが行われた。

インド音楽から着想を得たという彼女の音楽は、水を張った磁器やガラスのボウルを楽器とし、水中マイクやエフェクターなどを組み合わせ、演奏空間の特性を音響として取り入れ一体化。水や石など自然界の物質から胎内音のようなサウンドを引き出し、アンビエントや電子音楽などのジャンルを超えた新たな音楽表現を生み出した。

今回のイベントでは照明を落とした「天国」の石段をステージとし、「Lunar」シリーズからインスパイアされたという白妙の衣装で、石庭を流れる水の音やつくばい(蹲)内部の水音を増幅させ幻想的な音楽世界を展開した。

空間全体が一つの音響装置のような、静ひつながらも印象深いパフォーマンスを披露した彼女に、現在の音楽表現に至った背景や自身の創造性について、また「T.T」との共通項でもあるイサム・ノグチから受けた影響やクラフトマンシップに対する想いについて話を聞いた。

「インド音楽最古の技法とエレクトロニックを融合し、偶発的な音響効果を新しい次元の楽器へと昇華する」

――音楽活動をはじめた当初はジャズを演奏されていたそうですが、そこから現在の水を使って演奏するという音楽表現に辿り着いた経緯について教えてください。

トモコ・ソヴァージュ(以下、ソヴァージュ):パリに活動拠点を移す前はNYでジャズ・ピアノの勉強をしていたんですが、テリー・ライリー(Terry Riley)やアリス・コルトレーン(Alice Coltrane)など、アメリカの音楽家に大きな影響を与えたインド音楽に興味を持ったんです。ジャズは今でも好きですが、当初からジャズのフィールドでオリジナリティーを追求するのは難しいと感じていて、自分自身のサウンドや音楽と言えるものを模索していました。

パリに移住してからインド音楽の教室でヒンドゥスターニー音楽における即興演奏の勉強をはじめました。フランスはかつてインドに植民地を持っていたこともあり、アジア文化に非常に造詣の深い国で、インド音楽のコンサートも頻繁に行われています。

ある時パリの音楽博物館で、一晩中インド音楽が繰り広げられるイベント『インドの夜』が開催されました。最初の演者が現代音楽アンサンブルのICTUS(イクタス)で、そこにテリー・ライリーがキーボードで参加し「In C」を演奏したりと、非常にゴージャスな夜でしたね(笑)。

そのイベントで、“ジャルタラング“という南インドのカーナティック音楽で使われる古い伝統的な楽器が演奏されたんです。古代インドの性愛論書のカーマ・スートラにも記述があるインド音楽でも最古の楽器で、磁器のお椀に水を張り、その水嵩によって音程を調律しながらお椀のふちを竹の棒で叩くシンプルな打楽器です。この演奏に強いインスピレーションを受けて、次の日には自宅のキッチンで手持ちの器を使って、ジャルタラングの手法を試し始めたんです。

当時は電子音楽については全く頭になかったんですが、試行錯誤する中で偶然“水中マイク“の存在を知り、遊び心で水を張った器の中にマイクを入れてみたら、人生が変わるような衝撃を受けたんです。

――セッティングも色々なバリエーションを編み出せる印象を持ちましたが、楽器の構成なども徐々に発展していったのでしょうか?

ソヴァージュ:基本的なセッティングはオリジナルのジャルタラングに倣い、ピアノと同じように一番低い音を左側に設置します。今回のライブでは6つの器を使用しましたが、音数を増やしたい場合は器を増やすことで調整可能です。伝統的なジャルタラングの演奏では半月状に器をダブルやトリプルにセッティングすることもあります。

現在のセッティングのベースは2010年頃に完成して、基本的に変えません。水滴を使って演奏する時は、上から水滴が落ちるシステムを取り入れることもあります。

器については、最初はチャイナタウンで手に入れた安い磁器を使って演奏していましたが、2009年頃に磁器の産地として有名なリモージュという都市のセラミック研究所から、レジデンシーで磁器を作らないかというオファーがありました。

ヨーロッパにはアートを尊重する文化が根付いており、花瓶や食器など商業的な器の生産に限らず、新しい表現に挑戦しているアーティストとのコラボレーションを非常に重要だと考えているので、私の活動にも興味を持ってもらえたんです。

セラミック研究所は、基本的には著名なデザイナーとコラボレーションしてハイエンドな作品を作っているところで、私のプロジェクトにはあまり予算がつかなかったんですが、担当者のアイディアにより、ちょうど別の企画で制作されていた磁器のベルの型を半分に切り、私のボウルの型として制作を進めることができました。

しかもベルのプロジェクトは大きな予算がついていたので、音の響き方などのリサーチもされていました。それを利用できたのは本当に幸運で、今では私もベルの勉強をしていて、「ボウルは逆さまのべル」というテーマで今後の表現に繋げていきたいと考えています。

こうした経緯からセラミック研究所で様々なサイズのボウルを作ってもらい、現在のセットアップになりました。最近はそこにガラスのボウルを追加しています。

――トモコさんはご自身の楽器をエレクトロ・アコースティックと呼んでいますが、そこに込められた意味について教えてください。

ソヴァージュ:アコースティックの楽器を使っても、ショーでマイクを使った時点でアコースティックではなくなります。ですが私はマイクを楽器の一部と捉えて積極的に取り入れ、エレクトロ・アコースティックと定義しています。サンプリングした音は一切使用せず、その場で鳴らした音を増幅し、エフェクターなどで変容させるなどをして出力します。

音響の中に、スピーカーからの音をマイクが拾う瞬間に生じる“ハウリング“という現象があります。一般的にハウリングは音響上のトラブルと認識されますが、それを逆に効果として音楽に取りいれてしまおうと考えたんです。

私の演奏方法の場合、水中マイクを使用する時点でハウリングの問題がありました。ハウリングを避けるには音量を抑えなければならず、表現の限界を感じていた。ある時、このハウリングの音を美しいと感じる瞬間があり、それをきっかけに考え方を180度方向転換してみたところ、音楽表現の幅が完全に広がりました。

以前から水滴をマイクで拾ってパーカッションのように出力するなど工夫していましたが、フィードバックを取り入れるようにしてからは完全に別次元の楽器にすることができたと思っています。

フィードバックの世界は奥が深くて、部屋の音響やサウンドシステムによって完全に左右されます。演奏する環境によって音が変化するので包括的に考慮した演奏をしなければいけない。コントロールできない現象も多々あるので、逆にそれを活かす姿勢での音作りを大事にしていますね。

――コントロールできないものに対して、ライブや即興の場面で自分自身がいかに柔軟に反応できるかが重要だと感じます。

ソヴァージュ:音響のフィードバックは本番のサウンドシステムがあって初めて確認できるものです。最初は手探り状態で、ショーの最中に新たなテクニックを思いつくことが何度もありました。現在ではコントロールできる割合が高くなっていますが、それでも演奏のたびに発見があるので、やはり経験の積み重ねは大切ですね。

また、音響スタッフの方々から学ぶことも大きいです。私がやりたいことをよく理解してくれるので、アドバイスをもらいながら一緒に音響空間を作り上げていくことができます。

演奏を介し、人々と空間に宿るエネルギーを増幅させる音楽表現

――今回「T.T I-A 02」の会場となった草月会館は歴史的に日本の前衛芸術とゆかりが深い場所です。音響の観点からもインスピレーションの観点からも、演奏する空間が持つ歴史や空気感、建築特性などが重要だと思いますが、これまでショーを行ってきたなかで、特に印象深かったステージについて教えてください。

ソヴァージュ:これまで世界各地の工場跡や教会、図書館やミュージアム、フランスの市が運営するメディアテークなど、実に様々な場所でコンサートを重ねてきました。

中でも印象深かった場所は、ポルトガルのリスボンにある水博物館の一部「アモレイラスの貯水池(Reservatório da Mãe d’Água das Amoreiras)」です。ハンガリー人建築家の設計によるドーム状の天井に覆われた神殿のような建物で、内部は植物に覆われた祭壇から流れ出る水で満たされ、エメラルドグリーンの水面にステージが浮かぶ非常に美しい空間です。

また「Fischgeist」というアルバムをレコーディングしたベルリンのプレンツラウアー・ベルクにある旧地下貯水池も特別な場所です。19世紀に建てられた建物内部にはリング状のフロアが何層も重なる巨大な空間が広がっていて、中は夏でも寒いくらい。東ドイツ時代には魚を市場に卸す前の貯蔵庫として使用されていたようで、演奏している間も巨大な水槽のような建物を魚の幽霊が回遊するイメージが浮かんでいたので、アルバムを「Fischgeist(魚の幽霊)」というタイトルにしたんです。

私の演奏には室内の反響が必要なんですが、イベントのオーガナイザーがある意味クレイジーじゃないと実現できないようなフェスが好きで、何度かマニアックな屋外会場で演奏したこともあります。

イタリアのアルプス山中の廃村で公演したときは、道路が開通していないので車が使えず森を歩いて機材を運びましたし、ウガンダのナイル川源流で開催されたフェス「Nyege Nyege」も会場まで辿り着くのが至難の業でしたね(笑)。

――今回イサム・ノグチの作品「天国」をステージとして演奏されたことで、相互作用を感じたりインスピレーションを受けた要素はありますか?

ソヴァージュ:イサム・ノグチは個人的にも好きで、<彫刻作品や家具は人間と関わってこその存在であり、相関性がドラマを創出する。そのための空間を作りたい>というノグチの思想に共感しています。

私は音楽も空間と人との相関性のドラマではないかと考えていて、自分は演奏を通して空間とそこに存在する人と物を振動させ、エネルギーを循環させている。そう捉えると、私の音楽表現がノグチの考える空間に繋がるかもしれません。

2021年にバービカンセンターでノグチの回顧展が開催された際、キュレーターから依頼をいただいて「Barbican Sessions」に出演したことがあります。その時は金属の彫刻作品「Mountains Forming」と石で製作されたつくばいに直接マイクで触れて、対話するようなイメージで演奏しました。

今回の舞台となった「天国」は、上段から下段へと絶えず水が流れ落ちていく。ノグチが作ったこの水の流れを意識したパフォーマンスにしようと思いました。水路にいくつかマイクを設置し、水中にもマイクを入れる。すると通常は聞こえない隠れた音……つくばいの水たまりから泡が出る音などが増幅されて聞こえてきたんです。結果として今回もノグチの作品と対話できたのではないかと思います。

アート・音楽・ファッションを繋ぐ、伝統工芸や民藝のサスティナブル精神

――今回のショーで着用された曲線的で発光するような白い衣装は、トモコさんの水を用いた音楽表現やノグチの石庭に溶け込み、空間全体がインスタレーションのように一体化していた印象を持ちました。

ソヴァージュ:今回の衣装は「トミー・ジュスカス(Tommy Juskus)」というロンドンのデザイナーが作ってくれました。彼は「ジェイ ダブリュー アンダーソン(JW ANDERSON)」等のメゾンでキャリアを積んだ後、サステナブルなアプローチでの服作り等、自分が本当にやりたいことを模索していました。そして数年前「ミュージシャンの服を作る」というプロジェクトを立ち上げ、私に連絡をくれたんです。先ほどのバービカンセンターでのショーを控えていたタイミングで、彼とアイデアを出し合って、ノグチの世界観や作品にインスパイアされた衣装を制作してもらうことになりました。

私は貝殻等、自然界の流動的な素材を使って音を作っているので、衣装はそういうものを意識したフォルムであると同時に、ノグチの「Lunar」シリーズから着想を得たデザインになっています。

また、ファッションにおいていかにサステナブルであれるか、工芸や民藝、手仕事などの重要性についても議論を重ねました。私は常に自分の手を使って演奏しているので、自身の音作りの手法は、工芸や民藝、手仕事などと親和性がありますし、水や焼き物を使ったパフォーマンスは循環性が一つのテーマであるとも言えます。

今回のイベント「T. T」が“クラフト“というテーマを重視している点にも共感しています。“奄美の泥染“等、衰退しつつある伝統技術や産業に注目して新しい形で提示している。演奏する際に使った座布団も備長炭の墨染で、細部までデザインが行き届いていました。

私はもともと伝統工芸や民藝、クラフトマンシップに関心があって、音楽表現においても非常に影響を受けています。今回は「T. T」からインスパイアされた要素もありますし、ノグチの作品にも工芸の要素があるので、トミーがデザインした衣装をまとって「天国」を舞台に演奏できたのは素晴らしい経験でした。

PHOTOS:MASASHI URA

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岡田将生が語る「小林秀雄」と「映画への想い」 映画「ゆきてかへらぬ」インタビュー

PROFILE: 岡田将生/俳優

PROFILE: (おかだ・まさき):1989年8月15日生まれ、東京都出身。2006年デビュー。近年の主な出演作に、NHK連続テレビ小説「なつぞら」(19)、「ドライブ・マイ・カー」(21)、「大豆田とわ子と三人の元夫」(21)、「1秒先の彼」(23)、「ゆとりですがなにか インターナショナル」(23)、「ラストマイル」(24)、NHK連続テレビ小説「虎に翼」(24)、「ザ・トラベルナース」(24)、「アングリースクワッド 公務員と7人の詐欺師」(24)などがある。現在日曜劇場「御上先生」(TBS)が放送中。

さまざまな役柄を演じながら、そこに不思議な透明感と色気を感じさせる俳優、岡田将生。2月21日から公開される映画「ゆきてかへらぬ」で演じるのは実在の文芸評論家、小林秀雄だ。天才詩人といわれた中原中也、女優の長谷川泰子との濃密な三角関係を描いた本作は、名脚本家、田中陽造が40年以上前に書いた幻の脚本を、巨匠・根岸吉太郎監督が映画化したもの。中原中也を木戸大聖。長谷川泰子を広瀬すずが演じて火花散る競演に引き込まれる。岡田はどんな想いで作品に挑んだのか。そこに潜む映画への熱い想いを聞いた。

小林秀雄を演じて

——本作のどんなところに惹かれて出演を決めたのでしょうか。

岡田将生(以下、岡田):まず、脚本を読ませていただいた時に、読み物としてすごく面白かったんです。登場人物が少ない中で緻密に物語が描かれていて、この作品だったら自分が演じたい役、やりたい芝居ができるかもしれないと思ったのが、この作品に惹かれた理由の一つでした。

——いま岡田さんがやりたいこと、というのは?

岡田:例えば、小林秀雄という役は知的でありながら、どこか色気がある。そして、中原中也と長谷川泰子の間に入って三角関係になるじゃないですか。脚本を読んだ時に、三角関係において小林が受動的なのか能動的なのかが分からなかったんですよ。そこに惹かれるところがあって。自分が何かを求めていながらも、それを求める代わりに何かを失ってしまう、という状況が好きなんですよね。それがどうしてなんだろう、と思っていて。だから、小林を演じることで、自分が好きなこと、やりたいことを見つめ直すことができるのではないかと思ったんです。

——撮影に入る前に、小林秀雄という人物を知るために何か準備されたことはありますか?

岡田:脚本を読んでから撮影に入るまで時間があったので、根岸監督から頂いた資料に目を通したり、小林さんの本を読んだりしました。でも、小林さんがどんな人かは分からないまま撮影に入ったんです。分からないから演じるのが面白いんですよ。小林さんを演じていて大切にしていたことは、泰子を通じて中原を見るということでした。そして、泰子と中原の関係を、ある種、達観したような距離で見ることで小林秀雄というキャラクターが際立つのではないかと思いました。だから(広瀬すずさん、木戸大聖さんと)3人でリハーサルをする時は、自分はどういう立ち位置にいて、2人をどんな風に見ているのが正解なんだろう、ということを一番考えていました。

——広瀬すずさん、木戸大聖さんとの共演はいかがでした?

岡田:広瀬さんとは、以前、朝ドラ(「なつぞら」)で共演させて頂いたので、彼女の集中力や現場の雰囲気はよく分かっていました。だから、現場では必要以上の会話はしませんでしたし、そうなるだろうなと思っていました。大聖とは撮影の合間に話をしていましたけど、彼は無我夢中で中原中也になろうとしていましたね。今回の映画は3人それぞれが役に集中しないと成立しないので、毎日、撮影が終わるとすごい疲労感なんです。この映画は中也と泰子の物語なので、僕は2人を支える柱になれれば、と思っていました。その支えようとする気持ちが小林という役に通じると思ったんです。でも、それは僕が2人より年上だったのも関係あるかもしれないですね。僕は2人とは10歳くらい離れているんですけど、2人の喧嘩のシーンのエネルギーのぶつかり方の激しさを見たら入っていけそうにない。大丈夫? 疲れてない?って思ったりして(笑)。

——中原中也、長谷川泰子、小林秀雄が織りなす濃密な関係についてはどう思われました?

岡田:運命共同体になろうとしている人たち、という気がしました。特に泰子に関しては、そういう関係になろうとする気持ちが強いように思えましたね。それは僕が小林の目線で見ていたからかもしれませんが。最初、中也と泰子が付き合っていて、そこに小林が出てきて空気が変わるじゃないですか。2人だけだとグラグラした関係だけど、小林が入ると妙に安定するんですよね。それがこの映画の面白さだと思います。現場に入った時はどんな風に演じようか不安があったんですけど、3人で初めて本読みをやった時に、すっと腑に落ちたところがあったんです。映画の中で3人がボートに乗るシーンがあるんですけど、3人が座る位置が絶妙なんですよ。少しでも位置がずれるとボートは沈んでしまうかもしれない。3人の関係性が、あのボートのシーンに象徴されていたと思います。

中原中也と小林秀雄の関係

——三角関係で特に興味深いのは中也と小林の関係です。1人の女性をめぐって対立しながらも、相手に対するリスペクトは失われていないし、文学に対する情熱を共有していて絶交するようなことにはならない。

岡田:小林が中也と2人で話をしていて、付き合っている泰子の愚痴を言うシーンがあるんですけど、それが面白くて。これは僕が20代だったら分からなかった感覚でした。30代になったことで小林の人間臭さが分かるようになった気がします。あれは中也と小林の関係性がよく分かるシーンです。

——大正時代という背景も、この物語の重要な要素だと思いました。西洋の影響を受けて日本の文化が大きく変わろうとしている中で、小林と中也は詩人のランボーや海外の文学に刺激を受けていて、そういう開かれた感性や文学に対する一途な思いが2人を結びつけている。

岡田:大正時代は変化の時代で、それを受け入れられる人と受け入れられない人がいたと思います。小林や中也は変化を受け入れた上で、それを自分のものにしようとした。今はいろんな情報が溢れ返っていますけど、当時は情報が限られているぶん、一つのことに対する情熱の注ぎ方がすごいんですよ。ランボーという詩人がヤバい!ということになるとランボーの話ばかり。それって、小学生が学校の休み時間に好きなもの話をしているみたいな感じだなって、小林を演じていて思いました。そういえば、僕は初舞台でランボーの役を演じさせてもらったんですよ。その時にランボーの詩集を初めて読みました。だから、この映画で中也がランボーを読んで感動しているのを見て不思議な感覚になりました。あの舞台をやったことが、こんな形で活きてくるんだなって。

——不思議な縁ですね。岡田さんが根岸監督の作品に出演されるのは初めてでしたが、いかがでした?

岡田:根岸監督は撮影に入る前も入ってからもとても紳士的で、少年のようにまっすぐな眼差しで映画を撮っている姿が輝いて見えました。3人の主人公をとても愛でていることも伝わってきて、それにグッときたんです。小林秀雄は前髪を指でくるくる回す癖があるとか、そういう細かいことも教えてくださって、「このシーンだったら、それがやれるかもしれない」というのを自分で精査してやってみたりしました。そういうことが監督に伝わって僕のこと信頼してくださったのかもしれませんが、演技に関してはほぼ任せてくれましたね。そして、僕の方から監督に「このシーンでの動きは……」など、細かいことを尋ねるのはやめようと思ったんです。

——それはどうしてでしょう。

岡田:監督の視線が中也の視線だということが分かったからです。だから、僕が監督と密に話すより、監督の様子を離れたところから見ている方が小林っぽい気がしたんです。監督が中也に夢中だったので、木戸大聖という役者の底上げがとてつもなかった。監督は大聖に対して熱っぽく、時には厳しく接していて、撮影をしている間に大聖がどんどん中原中也になっていったんです。共演していて、木戸大聖なのか中原中也なのか分からない時が何度もありました。

映画への熱い想い

——この映画では大掛かりなセットも組まれていますが、そういった環境が演技に与えた影響も大きかったのではないでしょうか。

岡田:大きいですね。美術の完成度が高いと芝居がしやすくなるんです。役者は余計なことをしなくても、その場に立っているだけでシーンが成立するというか。今回の撮影では、映画だからこその素晴らしいセットに圧倒されました。この映画に参加したいと思ったのは、もっと映画の現場を体験したいという思いもあったんです。

——映画の現場は特別な何かがあるのでしょうか。

岡田:最近は映画もドラマも現場は変わらなくなってきたと言われますけど、まず時間のかけ方が違うんです。映画は時間をかけて撮影しているので、我々役者が役に向き合う時間も違ってくる。ワンショットワンショットの強度も違うと思います。だから、役者もすごく集中しなくてはいけなくて、そうした一つひとつの積み重ねが2時間前後の映画になっていく。それがすごく尊い作業に思えるんです。

——映画の現場だからこその緊張感があるんですね。

岡田:僕はいちばん最初の仕事が映画だったんです。しかも、フィルム撮影でした。こんな贅沢なことはないぞ、と当時、現場のスタッフさんから言われたんですけど、デビューしたばかりだったのでよく分かっていなかったんです。歳を重ねるにつれて、その大切さが分かるようになってきて。その時のスタッフさんと現場で会うこともあるんですけど、今ではほとんどデジタル撮影になっていて。フィルムはお金も時間もかかってしまうので。だから、自分はとても幸運なスタートを切れたんだなって思いますし、だからこそ映画という現場を大事にしたいと思っています。

——根岸監督が少年のような眼差しで映画を撮っていた、というお話でしたが、岡田さんにとっても映画の現場は初心に返る場所なんですね。

岡田:映画の撮影は時間がかかる分、体力も精神力も消耗しますし、日に日に自分が削られていくように感じますが、完成した作品を観た時に諦めずに撮ったカットが良かったりするとうれしいんです。また頑張ろうと思える。そういうことを経験しているから、どんなに撮影が大変でもワクワクするんです。撮影をしている時は35歳の身体ではなく、10代の身体になっているような気持ちがするんですよね(笑)。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:YUSUKE OISHI
HAIR & MAKEUP:REICO KOBAYASHI

ジャケット 5万5000円、カーディガン3万1900円、パンツ 2万9700円、シューズ 5万2800円/全てニードルズ(ネペンテス 03-3400-7227)、ネックレス 5万3350円/END(アルファPR 03-5413-3546)

映画「ゆきてかへらぬ」

■映画「ゆきてかへらぬ」
2月21日からTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開

京都。まだ芽の出ない女優、長谷川泰子(広瀬すず)は、まだ学生だった中原中也(木戸大聖)と出逢った。20歳の泰子と17歳の中也。どこか虚勢を張るふたりは、互いに惹かれ、一緒に暮らしはじめる。東京。泰子と中也が引っ越した家を、小林秀雄(岡田将生)がふいに訪れる。中也の詩人としての才能を誰よりも知る男。そして、中也も批評の達人である小林に一目置かれることを誇りに思っていた。男たちの仲睦まじい様子を目の当たりにして、泰子は複雑な気持ちになる。しかし、泰子と出逢ってしまった小林もまた彼女の魅力に気づく。本物を求める評論家は新進女優にも本物を見出した。そうして、複雑でシンプルな関係がはじまる。ひとりの女が、ふたりの男に愛されること。それはアーティストたちの青春でもあった。

監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生
田中俊介、トータス松本、瀧内公美、草刈民代、カトウシンスケ、藤間爽子、柄本佑
配給:キノフィルムズ
©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会
https://www.yukitekaheranu.jp/

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BUMP OF CHICKEN・直井由文、「TRIGGER」、「GR8」、「GEEKS RULE」の豪華コラボによるアニメ「キルラキル」Tシャツ制作の裏側を語る

「ギークス ルール(GEEKS RULE)」の最新作として、アニメーション作品「キルラキル」とのTシャツ(3型)とシルクスクリーンポスター(100部限定)が、2月22日から「グレイト(GR8)」で、24日から「ギークス ルール」で販売される。

「キルラキル」は2013年にアニメーションスタジオ「TRIGGER(トリガー)」初のオリジナルTVアニメ作品として制作されたもので、今回放送時から大ファンで、いつかTシャツを作りたかったというBUMP OF CHICKENのベーシスト・直井由文の呼びかけにより、「TRIGGER」「グレイト」「ギークス ルール」がコラボレーションして、企画が実現した。

また、キービジュアルに直井と以前から親交があったというあのを起用し、「キルラキル」の主人公、纏流子(まとい・りゅうこ)の世界観を表現した。

本プロジェクトについて、発起人となったBUMP OF CHICKENの直井由文と、「TRIGGER」の若林広海(クリエイティブプロデューサー)、「グレイト」の高橋善将(スペシャルプロジェクトマネージャー)、「ギークス ルール」の畠中一樹の4人に話を聞いた。

「TRIGGER」「ギークス ルール」「グレイト」とのコラボの裏側

WWD:今回、チャマ(直井)さんが「キルラキル」のTシャツを作ろうと思った経緯から教えてもらえますか。

直井由文(以下、直井):知らない人からしたら、「何でこの組み合わせなの」っていうのがあると思うので、詳しく話しますね。

もともと僕は子どもの頃からアニメ全般が好きだったんですが、中でも「TRIGGER」が制作した「キルラキル」というアニメがすごい好きで、いつかはこの作品のTシャツを作りたいなとずっと思っていたんです。それで「作りたい」って友達に言っていたら、その内の1人から連絡が来て、「キルラキル」でキャラクターデザインを担当したアニメーターのすしおさんを紹介してくれて。実際にすしおさんとお会いした時に、「キルラキル」の話をしたら、「TRIGGER」の若林さんの連絡先を教えてくれて、すぐに連絡をしました。

WWD:それはどれぐらい前だったんですか?

若林広海(以下、若林):確か映画の「プロメア」を作っている時だから2018年ごろだったと思います。

直井:若林さんと最初に会った時に「キルラキル」のTシャツを作らせてほしいと伝えたら、すぐ「いいんじゃないですか」って返事をくれて。そこから「こんな絵柄を使って、できればビンテージみたいなかっこいいTシャツを作りたい」とずっと考えていました。自分もインディーズ時代からBUMP OF CHICKENのグッズ制作を担当していたので、物を作ることは好きだったんですけど、「キルラキル」のTシャツに関しては、満足のいくクオリティーのものは自分だけでは作れないなと思っていて。

そこで「グレイト」の高橋くんの登場で、彼とはかなり付き合いが長くて。最初に会ったのって、10年以上前だよね?

高橋善将(以下、高橋):多分2014年くらいでしたよね。

直井:だから10年以上の付き合いなんですが、その高橋くんが去年の4月に渋谷パルコでやっていた「ギークス ルール」の展示に連れて行ってくれて、(「ギークス ルール」の)畠中さんを紹介してくれたんです。そこからこのプロジェクトが本格的に始まって、今回ようやく念願のTシャツが完成した。

畠中一樹(以下、畠中):「ギークス ルール」は、これまでは1990年代〜2000年代初頭のアニメ作品がメインなので、「キルラキル」はそれらと比べると比較的新しめの作品なんです。だから、なんで今回「ギークス ルール」が「キルラキル」のTシャツを作るのかっていうと、それはチャマさんからのオファーがあったからなんです。

直井:そこは、僕としてもしっかりと伝えておきたいですね。その上で、デザインにもちゃんと「ギークス ルール」のルールを入れていて、ファーストビジュアルを選ぶとか、ファッションとしても楽しめるとかは、しっかりと考えて作りました。

WWD:もともとは5年前からずっと考えていた企画だったんですね。

直井:そうです。ただ自分が「キルラキル」を好きで、このTシャツが欲しかったからっていうだけで、今回3人に協力してもらって、ようやく実現できて、めちゃくちゃ嬉しいですね。だから仕事というよりも趣味に近くて、感覚としては“公式同人誌”を作るみたいなノリでやっているプロジェクトです。

WWD:若林さんは最初にチャマさんから話があって、すぐOKだったんですね。

若林:「キルラキル」は2013年に放送されたアニメなんですが、今このタイミングで、チャマさんがプロデュースしたTシャツを出すのって、意味分からないじゃないですか(笑)。でも、そこが逆に面白いなと思って。チャマさんくらい「キルラキル」愛が強い方が作ったTシャツなら、作品のファンの方々にも受け入れてもらえると思いました。

直井:自分が10代のころは、アニメTシャツを着ていたらすごくバカにされたんですよ。今はそれがビンテージで人気になったりもしていますが、それに大きく貢献してきたのが「グレイト」と「ギークス ルール」だと思っていて。高橋くんとはずっと一緒に何かやりたいねって話していて、それが10年越しくらいでかなう。「キルラキル」は洋服をテーマにしたアニメなんですけど、そのTシャツを今回このスタッフで作れたのは、自分的にはめちゃくちゃ感慨深いんですよね。

3パターンの絵柄について

WWD:チャマさんと「ギークス ルール」の畠中さんが去年の4月に出会って、すぐ制作に入ったんですか?

畠中:そうですね。渋谷パルコの会場でお会いして、すぐ今回のプロジェクトに関わる全員が集まる場をセッティングしてもらって、そこから動き出しました。

直井:みんな集合だって言って(笑)。僕は全員と面識がありましたけど、若林さんは畠中さんや高橋くんとは初対面だったりするので、最初はそれぞれを紹介してっていう感じで。

WWD:今回、3パターンの絵柄が発売されますが、どう決めたんですか?

若林:最初の会議に僕が「キルラキル」のイラストの全データが入っているハードディスクを持っていって、そのイラストを見ながら「どれを使いたいですか?」って聞いて、みんなで話し合いましたね。

直井:メイン(vol.1)となっているのは、「キルラキル」のファーストビジュアルのポスターのイラストなんですけど、これは絶対に作りたいって思っていたので、まずはこれを決めて。あとはみんなでいろんなイラストを見ながら、「これもいいよね」って言いながら楽しんで決めていきました。

直井:でも、この2つ目(vol.2)は確かここの4人が選んでないイラストだよね?

畠中:そうですね。これは雑誌用に描き下ろされたビジュアルなんですが、うちのデザイナーが、「これかっこいいんじゃないか」って選んで作ってきたデザインです。それで皆さんに見せたら、気に入っていただけて。

直井:今回、このTシャツだけバックプリントがあって、唯一日本語で「キルラキル」って書かれているんです。他のTシャツは「KILL la KILL」が英語になっているんですけど、それは海外で配信された時に使っていた英語ロゴで。この英語ロゴのTシャツは日本では見たことがなかったので、これを使いたいって若林さんに話して。でも、このロゴを使うのもまた別の許可が必要で大変だったんだよね。

若林:この英語ロゴは基本的には海外商品用に使用していたもので、国内の商品では日本語ロゴを使うルールになっていました。なので、ライツ担当の方へチャマさんのデザイン意図をお伝えして今回特別に許可を出してもらいました。

直井:英語ロゴを使いたかった理由の一つとして、「キルラキル」を知らない人にも「キルラキル」のTシャツを届けたいという想いがあって、だからファッション好きが着たいと思えるデザインにしたかった。日本語ロゴよりかは着やすいかなと思って。あと日本人の「キルラキル」ファンからすると、この英語ロゴのTシャツがようやく手に入るっていうのがめちゃくちゃ熱い。

若林:3つ目(vol.3)は「月刊ニュータイプ」というアニメ雑誌の表紙に使われたイラストですね。

畠中:確かすしおさんが大好きだった「アキラ(AKIRA)」をオマージュして描いたイラストなんですよね。あのよく見る金田のビジュアルをリスペクトを込めて描いたイラストで、そういう部分も含めていいなと思って。

WWD:なるほど。最初、そのハードディスクにはどれくらい絵柄があったんですか?

若林:多分世に出ている「キルラキル」の公式版権イラストは全て入っていたので、選びたい放題ではありました。でも、特に説明したわけではないですが、結果的に全部すしおさんが描いたイラストになったのが個人的に面白かったですね(笑)。他のアニメーターが描いたイラストもたくさんあったんですけど、やっぱりすしおさんのイラストを選ぶんだなって。

直井:やっぱり自然とすしおさんのイラストを選んでいましたね。

WWD:最近は、アニメのビンテージTシャツってかなり高騰していると思うんですが、「キルラキル」は特にそういうビンテージ市場でも人気なんですか?

直井:どうだろう。「キルラキル」はもともと公式のアパレル商品が少ないんですよね。ブート系も少ないですし。だからそういったビンテージとしての市場価値っていうところは一切考えてないです。最近は原作を知らなくても、アニメTシャツを着る若い人もいるじゃないですか。Tシャツを通して、もしかしたらアニメを見てくれるんじゃないかっていう想いもあるので、別に「キルラキル」を知らない人でも「かっこいい」と思って、着てほしいんです。

「ギークス ルール」初のシルクスクリーンポスター

WWD:今回シルクスクリーンのポスターも100部限定で販売します。「ギークス ルール」では初のシルクスクリーンポスターですよね。

直井:これも僕が作りたいって言ったんです。昔のアニメって意外とポスターがなくて。今回こんな素晴らしいスタッフと一緒に公式でやらせてもらえているので、絶対にポスターも残したいなと思って。

それで「モノクロのドット絵でシルクスクリーンのポスターを作りたい」って言ったら、全部畠中さんが用意してくれて。実物見たんですけど、めちゃくちゃかっこいいんで、ぜひ、「グレイト」で実際のポスターを見てほしいです。

畠中:これは、横尾(忠則)さんや田名網(敬一)さんなどの作品を手掛けてきた版画工房「360°GRAPHICS」で作ってもらったんですが、そこが独自に開発した技法のネオ・シルクスクリーンというシルクスクリーン印刷とジークレー印刷を組み合わせた手法でプリントしています。全部にシリアルナンバーが入っていて、サイズは部屋に飾りやすいB3(横364mm×縦515mm)ですね。

WWD:Tシャツやポスターのデザインが固まったのって大体いつごろでしたか?

畠中:去年の6月にはデザインが固まって。そこからイラストの許可取りやプリントの色の調整とかで時間がかかって。

直井:そんな前だっけ。すごくかかったよね。本当はもっと早く出す予定だったんです。

若林:ちょうど去年の7月から今年の2月17日まで「天元突破グレンラガン対キルラキル展」っていう原画展を、全国を回りながらやっていたんで、そのタイミングに出るといいよねみたいな話でしたよね。

直井:全然間に合わなかった(笑)。でも、それでも若林さんがチームにいてくれたから、実際にサンプルを見ながら「ここは少し違うんじゃないですか」とか話せたのは、本当に良かった。伝言ゲームにはならないし、そこの時間的ロスはなかったので。

畠中:色に関しては、本当に細かいところまでこだわっていて、制服の赤いリボンや「鮮血」の目の色とか、多分遠目で見たら分からないぐらいのところなんですけど、そこを微調整していって。やっぱり作品の根幹に関わるところなんで。

直井:みんなアニメーターさんのことをめっちゃリスペクトしているんで。当たり前の話ですけど、ここまでの絵を描くには、努力プラス才能、あと情熱が必要だと思うので。だから、僕らもそこは妥協できなかったし、自分にとってはこのTシャツ自体、値段がつけられないほど価値があって、アートだと思っています。

キービジュアルには、あのがモデルとして登場

WWD:キービジュアルにはモデルとしてあのさんが出ていますが、起用の理由は?

直井:今回は、すっごい真剣にふざけたくて。だから本当に仲がいい人だけでやりたいっていうのが大前提としてあって、昔から交友があるあのちゃんにお願いしました。そしたら、すぐOKの連絡がきて。あのちゃんからしたら、俺がなんで「キルラキル」のTシャツを作ってるのか意味が分かんなかったと思うけど、本当に忙しい中、1時間だけ撮影の時間をもらえて。あのちゃんは「キルラキル」を知らなかったと思うんですけど、メイクも主人公の纏流子に寄せてくれて、完璧でした。撮影もフォトグラファーはBUMP OF CHICKENでもお世話になっている太田好治(よしはる)さん、スタイリストも普段からBUMP OF CHICKENのスタイリングをやってくれている髙田勇人(はやと)さんにお願いして。みんなで楽しく撮影しました。

「キルラキル」の魅力

WWD:話を聞いているとチャマさんの「キルラキル」愛がすごく伝わってきますが、「キルラキル」のどこにハマったんですか。

直井:纏流子っていうキャラクターがめちゃくちゃ魅力的なのも大きいんですが、内容も「キルラキル」は当時リアルタイムで見ていて、「これをテレビで放送するんだ」っていう衝撃があって。テレビアニメって制作時間も短いだろうし、制限も多い中で、毎回驚きの連続で。なんだろう、大ふざけを真剣にやっている感じなんですが、それでいて、監督を今石(洋之)さん、シリーズ構成・脚本を中島(かずき)さん、キャラクターデザインをすしおさんが担当していて、アニメとしてのクオリティーがめちゃくちゃ高い。ストーリーもふざけた部分もありつつ、最終的に哲学なんです。「服を着るってどういうことなんだろう」っていう。だから今回は「グレイト」での販売は絶対にやりたかったんです。

WWD:販売方法としては、2月22日11時から「グレイト」の店頭で販売して、23日10時から「グレイト」のオンラインで販売、24日12時から「ギークス ルール」のオンラインで抽選販売を行うと?

直井:そうですね。ただ、この“Vol.3”のデザインのTシャツだけは「ギークス ルール」のオンライン限定で販売します。

若林:「キルラキル」は特に北米のファンが多いタイトルなので、海外のファンの方々にはオンラインで手に入れてほしいですね。

畠中:そういや何で北米でも人気があるんですかね?

若林:すごくマニアックな話になっちゃうんですけど、「TRIGGER」が立ち上がったのがちょうどアメリカで日本のアニメが本当に盛り上がり始めたタイミングだったんです。僕らが「GAINAX(ガイナックス)」を出て「TRIGGER」を作って、これから海外でもアニメを盛り上げるぞっていうタイミングで世に出したのがこの「キルラキル」でした。もともと同じ監督と脚本家のチームで制作した「天元突破グレンラガン」という作品が北米ですごく人気あって。それと同じチームが新しいスタジオで新しいアニメを作るっていうので、海外でも注目を浴びていました。今って基本的にアニメ制作はデジタルでの作業がメインなんですけど「キルラキル」はアニメーション作画も背景美術も手描きにこだわっていたんです。キャラクターやストーリーは昭和の少年漫画のカルチャーが入っていたりしてレトロな雰囲気がありつつ、映像自体は当時の最新技術でカッコいいアニメーションが見れる。だから、当時海外のアニメファンからは「これまで見たことないジャンルのアニメだ!」とよく言われてましたね。

「ギークス ルール」は“技術オタク”

WWD:「グレイト」で、アニメTを売る時のお客さんの反応はどんな感じなんですか。

高橋:「ギークス ルール」と一緒に仕事させていただくことで、普段うちで取り扱っているブランドを着ながら、アニメTも着るっていう感じで、ファッションとしてアニメTを着る人が増えましたね。「ギークス ルール」とは最初の「新世紀エヴァンゲリオン」の時から一緒に取り組みをさせてもらっていますが、やる度に反響があって、すごい人気です。

直井:本当にアニメTシャツって、イラストの破壊力がすごくて、それをかっこよく仕上げるって難しいんだよね。でも、それをやっているのが「ギークス ルール」で。「ギークス ルール」は90年代とかの海外のブートの雰囲気を、日本の技術で忠実に表現している。しかも15版も重ねていて、普通汗かいたらベタってなっちゃうんですけど、「ギークス ルール」は重くなくてベタってしないんですよ。それでいて、絶妙な色もしっかりと表現していて、人気の秘訣は技術力なんだと思う。

畠中:本当にチャマさんの言う通りで。「ギークス ルール」の「ギークス」ってみんな「アニメオタク」の意味だと思っているんですけど、実は「技術オタク」の意味でつけたんです。かなり技術にこだわっているので、そこに注目してもらえたのはめちゃくちゃありがたいです。

直井:いつも「ギークス ルール」のTシャツを見て、これはどうやって作ってるんだろう、とずっと思っていて。自分たちでもやろうとしたけど、元のグラフィックのデータを作る時点で印刷のことまで考えて作らないと同じようにはできなくて。それをするにはいろんなことを考慮しながらやらないといけなくて、簡単にはできない。だから実はめちゃくちゃすごいことをやっているんです。本当に今回のプロジェクトに関わっているのは全員、それぞれの業種のオタクなんですよ。まだ「ギークス ルール」のアイテムを見たことない人は、ぜひ「グレイト」の店頭でその技術力を見てみてほしい。

WWD:最後に、今後もこのプロジェクトは継続的にやっていくんですか?

直井:確約はできないんですけど、やりたいことはいろいろあるんで、楽しみにしておいてくださいって感じです。

The post BUMP OF CHICKEN・直井由文、「TRIGGER」、「GR8」、「GEEKS RULE」の豪華コラボによるアニメ「キルラキル」Tシャツ制作の裏側を語る appeared first on WWDJAPAN.

BUMP OF CHICKEN・直井由文、「TRIGGER」、「GR8」、「GEEKS RULE」の豪華コラボによるアニメ「キルラキル」Tシャツ制作の裏側を語る

「ギークス ルール(GEEKS RULE)」の最新作として、アニメーション作品「キルラキル」とのTシャツ(3型)とシルクスクリーンポスター(100部限定)が、2月22日から「グレイト(GR8)」で、24日から「ギークス ルール」で販売される。

「キルラキル」は2013年にアニメーションスタジオ「TRIGGER(トリガー)」初のオリジナルTVアニメ作品として制作されたもので、今回放送時から大ファンで、いつかTシャツを作りたかったというBUMP OF CHICKENのベーシスト・直井由文の呼びかけにより、「TRIGGER」「グレイト」「ギークス ルール」がコラボレーションして、企画が実現した。

また、キービジュアルに直井と以前から親交があったというあのを起用し、「キルラキル」の主人公、纏流子(まとい・りゅうこ)の世界観を表現した。

本プロジェクトについて、発起人となったBUMP OF CHICKENの直井由文と、「TRIGGER」の若林広海(クリエイティブプロデューサー)、「グレイト」の高橋善将(スペシャルプロジェクトマネージャー)、「ギークス ルール」の畠中一樹の4人に話を聞いた。

「TRIGGER」「ギークス ルール」「グレイト」とのコラボの裏側

WWD:今回、チャマ(直井)さんが「キルラキル」のTシャツを作ろうと思った経緯から教えてもらえますか。

直井由文(以下、直井):知らない人からしたら、「何でこの組み合わせなの」っていうのがあると思うので、詳しく話しますね。

もともと僕は子どもの頃からアニメ全般が好きだったんですが、中でも「TRIGGER」が制作した「キルラキル」というアニメがすごい好きで、いつかはこの作品のTシャツを作りたいなとずっと思っていたんです。それで「作りたい」って友達に言っていたら、その内の1人から連絡が来て、「キルラキル」でキャラクターデザインを担当したアニメーターのすしおさんを紹介してくれて。実際にすしおさんとお会いした時に、「キルラキル」の話をしたら、「TRIGGER」の若林さんの連絡先を教えてくれて、すぐに連絡をしました。

WWD:それはどれぐらい前だったんですか?

若林広海(以下、若林):確か映画の「プロメア」を作っている時だから2018年ごろだったと思います。

直井:若林さんと最初に会った時に「キルラキル」のTシャツを作らせてほしいと伝えたら、すぐ「いいんじゃないですか」って返事をくれて。そこから「こんな絵柄を使って、できればビンテージみたいなかっこいいTシャツを作りたい」とずっと考えていました。自分もインディーズ時代からBUMP OF CHICKENのグッズ制作を担当していたので、物を作ることは好きだったんですけど、「キルラキル」のTシャツに関しては、満足のいくクオリティーのものは自分だけでは作れないなと思っていて。

そこで「グレイト」の高橋くんの登場で、彼とはかなり付き合いが長くて。最初に会ったのって、10年以上前だよね?

高橋善将(以下、高橋):多分2014年くらいでしたよね。

直井:だから10年以上の付き合いなんですが、その高橋くんが去年の4月に渋谷パルコでやっていた「ギークス ルール」の展示に連れて行ってくれて、(「ギークス ルール」の)畠中さんを紹介してくれたんです。そこからこのプロジェクトが本格的に始まって、今回ようやく念願のTシャツが完成した。

畠中一樹(以下、畠中):「ギークス ルール」は、これまでは1990年代〜2000年代初頭のアニメ作品がメインなので、「キルラキル」はそれらと比べると比較的新しめの作品なんです。だから、なんで今回「ギークス ルール」が「キルラキル」のTシャツを作るのかっていうと、それはチャマさんからのオファーがあったからなんです。

直井:そこは、僕としてもしっかりと伝えておきたいですね。その上で、デザインにもちゃんと「ギークス ルール」のルールを入れていて、ファーストビジュアルを選ぶとか、ファッションとしても楽しめるとかは、しっかりと考えて作りました。

WWD:もともとは5年前からずっと考えていた企画だったんですね。

直井:そうです。ただ自分が「キルラキル」を好きで、このTシャツが欲しかったからっていうだけで、今回3人に協力してもらって、ようやく実現できて、めちゃくちゃ嬉しいですね。だから仕事というよりも趣味に近くて、感覚としては“公式同人誌”を作るみたいなノリでやっているプロジェクトです。

WWD:若林さんは最初にチャマさんから話があって、すぐOKだったんですね。

若林:「キルラキル」は2013年に放送されたアニメなんですが、今このタイミングで、チャマさんがプロデュースしたTシャツを出すのって、意味分からないじゃないですか(笑)。でも、そこが逆に面白いなと思って。チャマさんくらい「キルラキル」愛が強い方が作ったTシャツなら、作品のファンの方々にも受け入れてもらえると思いました。

直井:自分が10代のころは、アニメTシャツを着ていたらすごくバカにされたんですよ。今はそれがビンテージで人気になったりもしていますが、それに大きく貢献してきたのが「グレイト」と「ギークス ルール」だと思っていて。高橋くんとはずっと一緒に何かやりたいねって話していて、それが10年越しくらいでかなう。「キルラキル」は洋服をテーマにしたアニメなんですけど、そのTシャツを今回このスタッフで作れたのは、自分的にはめちゃくちゃ感慨深いんですよね。

3パターンの絵柄について

WWD:チャマさんと「ギークス ルール」の畠中さんが去年の4月に出会って、すぐ制作に入ったんですか?

畠中:そうですね。渋谷パルコの会場でお会いして、すぐ今回のプロジェクトに関わる全員が集まる場をセッティングしてもらって、そこから動き出しました。

直井:みんな集合だって言って(笑)。僕は全員と面識がありましたけど、若林さんは畠中さんや高橋くんとは初対面だったりするので、最初はそれぞれを紹介してっていう感じで。

WWD:今回、3パターンの絵柄が発売されますが、どう決めたんですか?

若林:最初の会議に僕が「キルラキル」のイラストの全データが入っているハードディスクを持っていって、そのイラストを見ながら「どれを使いたいですか?」って聞いて、みんなで話し合いましたね。

直井:メイン(vol.1)となっているのは、「キルラキル」のファーストビジュアルのポスターのイラストなんですけど、これは絶対に作りたいって思っていたので、まずはこれを決めて。あとはみんなでいろんなイラストを見ながら、「これもいいよね」って言いながら楽しんで決めていきました。

直井:でも、この2つ目(vol.2)は確かここの4人が選んでないイラストだよね?

畠中:そうですね。これは雑誌用に描き下ろされたビジュアルなんですが、うちのデザイナーが、「これかっこいいんじゃないか」って選んで作ってきたデザインです。それで皆さんに見せたら、気に入っていただけて。

直井:今回、このTシャツだけバックプリントがあって、唯一日本語で「キルラキル」って書かれているんです。他のTシャツは「KILL la KILL」が英語になっているんですけど、それは海外で配信された時に使っていた英語ロゴで。この英語ロゴのTシャツは日本では見たことがなかったので、これを使いたいって若林さんに話して。でも、このロゴを使うのもまた別の許可が必要で大変だったんだよね。

若林:この英語ロゴは基本的には海外商品用に使用していたもので、国内の商品では日本語ロゴを使うルールになっていました。なので、ライツ担当の方へチャマさんのデザイン意図をお伝えして今回特別に許可を出してもらいました。

直井:英語ロゴを使いたかった理由の一つとして、「キルラキル」を知らない人にも「キルラキル」のTシャツを届けたいという想いがあって、だからファッション好きが着たいと思えるデザインにしたかった。日本語ロゴよりかは着やすいかなと思って。あと日本人の「キルラキル」ファンからすると、この英語ロゴのTシャツがようやく手に入るっていうのがめちゃくちゃ熱い。

若林:3つ目(vol.3)は「月刊ニュータイプ」というアニメ雑誌の表紙に使われたイラストですね。

畠中:確かすしおさんが大好きだった「アキラ(AKIRA)」をオマージュして描いたイラストなんですよね。あのよく見る金田のビジュアルをリスペクトを込めて描いたイラストで、そういう部分も含めていいなと思って。

WWD:なるほど。最初、そのハードディスクにはどれくらい絵柄があったんですか?

若林:多分世に出ている「キルラキル」の公式版権イラストは全て入っていたので、選びたい放題ではありました。でも、特に説明したわけではないですが、結果的に全部すしおさんが描いたイラストになったのが個人的に面白かったですね(笑)。他のアニメーターが描いたイラストもたくさんあったんですけど、やっぱりすしおさんのイラストを選ぶんだなって。

直井:やっぱり自然とすしおさんのイラストを選んでいましたね。

WWD:最近は、アニメのビンテージTシャツってかなり高騰していると思うんですが、「キルラキル」は特にそういうビンテージ市場でも人気なんですか?

直井:どうだろう。「キルラキル」はもともと公式のアパレル商品が少ないんですよね。ブート系も少ないですし。だからそういったビンテージとしての市場価値っていうところは一切考えてないです。最近は原作を知らなくても、アニメTシャツを着る若い人もいるじゃないですか。Tシャツを通して、もしかしたらアニメを見てくれるんじゃないかっていう想いもあるので、別に「キルラキル」を知らない人でも「かっこいい」と思って、着てほしいんです。

「ギークス ルール」初のシルクスクリーンポスター

WWD:今回シルクスクリーンのポスターも100部限定で販売します。「ギークス ルール」では初のシルクスクリーンポスターですよね。

直井:これも僕が作りたいって言ったんです。昔のアニメって意外とポスターがなくて。今回こんな素晴らしいスタッフと一緒に公式でやらせてもらえているので、絶対にポスターも残したいなと思って。

それで「モノクロのドット絵でシルクスクリーンのポスターを作りたい」って言ったら、全部畠中さんが用意してくれて。実物見たんですけど、めちゃくちゃかっこいいんで、ぜひ、「グレイト」で実際のポスターを見てほしいです。

畠中:これは、横尾(忠則)さんや田名網(敬一)さんなどの作品を手掛けてきた版画工房「360°GRAPHICS」で作ってもらったんですが、そこが独自に開発した技法のネオ・シルクスクリーンというシルクスクリーン印刷とジークレー印刷を組み合わせた手法でプリントしています。全部にシリアルナンバーが入っていて、サイズは部屋に飾りやすいB3(横364mm×縦515mm)ですね。

WWD:Tシャツやポスターのデザインが固まったのって大体いつごろでしたか?

畠中:去年の6月にはデザインが固まって。そこからイラストの許可取りやプリントの色の調整とかで時間がかかって。

直井:そんな前だっけ。すごくかかったよね。本当はもっと早く出す予定だったんです。

若林:ちょうど去年の7月から今年の2月17日まで「天元突破グレンラガン対キルラキル展」っていう原画展を、全国を回りながらやっていたんで、そのタイミングに出るといいよねみたいな話でしたよね。

直井:全然間に合わなかった(笑)。でも、それでも若林さんがチームにいてくれたから、実際にサンプルを見ながら「ここは少し違うんじゃないですか」とか話せたのは、本当に良かった。伝言ゲームにはならないし、そこの時間的ロスはなかったので。

畠中:色に関しては、本当に細かいところまでこだわっていて、制服の赤いリボンや「鮮血」の目の色とか、多分遠目で見たら分からないぐらいのところなんですけど、そこを微調整していって。やっぱり作品の根幹に関わるところなんで。

直井:みんなアニメーターさんのことをめっちゃリスペクトしているんで。当たり前の話ですけど、ここまでの絵を描くには、努力プラス才能、あと情熱が必要だと思うので。だから、僕らもそこは妥協できなかったし、自分にとってはこのTシャツ自体、値段がつけられないほど価値があって、アートだと思っています。

キービジュアルには、あのがモデルとして登場

WWD:キービジュアルにはモデルとしてあのさんが出ていますが、起用の理由は?

直井:今回は、すっごい真剣にふざけたくて。だから本当に仲がいい人だけでやりたいっていうのが大前提としてあって、昔から交友があるあのちゃんにお願いしました。そしたら、すぐOKの連絡がきて。あのちゃんからしたら、俺がなんで「キルラキル」のTシャツを作ってるのか意味が分かんなかったと思うけど、本当に忙しい中、1時間だけ撮影の時間をもらえて。あのちゃんは「キルラキル」を知らなかったと思うんですけど、メイクも主人公の纏流子に寄せてくれて、完璧でした。撮影もフォトグラファーはBUMP OF CHICKENでもお世話になっている太田好治(よしはる)さん、スタイリストも普段からBUMP OF CHICKENのスタイリングをやってくれている髙田勇人(はやと)さんにお願いして。みんなで楽しく撮影しました。

「キルラキル」の魅力

WWD:話を聞いているとチャマさんの「キルラキル」愛がすごく伝わってきますが、「キルラキル」のどこにハマったんですか。

直井:纏流子っていうキャラクターがめちゃくちゃ魅力的なのも大きいんですが、内容も「キルラキル」は当時リアルタイムで見ていて、「これをテレビで放送するんだ」っていう衝撃があって。テレビアニメって制作時間も短いだろうし、制限も多い中で、毎回驚きの連続で。なんだろう、大ふざけを真剣にやっている感じなんですが、それでいて、監督を今石(洋之)さん、シリーズ構成・脚本を中島(かずき)さん、キャラクターデザインをすしおさんが担当していて、アニメとしてのクオリティーがめちゃくちゃ高い。ストーリーもふざけた部分もありつつ、最終的に哲学なんです。「服を着るってどういうことなんだろう」っていう。だから今回は「グレイト」での販売は絶対にやりたかったんです。

WWD:販売方法としては、2月22日11時から「グレイト」の店頭で販売して、23日10時から「グレイト」のオンラインで販売、24日12時から「ギークス ルール」のオンラインで抽選販売を行うと?

直井:そうですね。ただ、この“Vol.3”のデザインのTシャツだけは「ギークス ルール」のオンライン限定で販売します。

若林:「キルラキル」は特に北米のファンが多いタイトルなので、海外のファンの方々にはオンラインで手に入れてほしいですね。

畠中:そういや何で北米でも人気があるんですかね?

若林:すごくマニアックな話になっちゃうんですけど、「TRIGGER」が立ち上がったのがちょうどアメリカで日本のアニメが本当に盛り上がり始めたタイミングだったんです。僕らが「GAINAX(ガイナックス)」を出て「TRIGGER」を作って、これから海外でもアニメを盛り上げるぞっていうタイミングで世に出したのがこの「キルラキル」でした。もともと同じ監督と脚本家のチームで制作した「天元突破グレンラガン」という作品が北米ですごく人気あって。それと同じチームが新しいスタジオで新しいアニメを作るっていうので、海外でも注目を浴びていました。今って基本的にアニメ制作はデジタルでの作業がメインなんですけど「キルラキル」はアニメーション作画も背景美術も手描きにこだわっていたんです。キャラクターやストーリーは昭和の少年漫画のカルチャーが入っていたりしてレトロな雰囲気がありつつ、映像自体は当時の最新技術でカッコいいアニメーションが見れる。だから、当時海外のアニメファンからは「これまで見たことないジャンルのアニメだ!」とよく言われてましたね。

「ギークス ルール」は“技術オタク”

WWD:「グレイト」で、アニメTを売る時のお客さんの反応はどんな感じなんですか。

高橋:「ギークス ルール」と一緒に仕事させていただくことで、普段うちで取り扱っているブランドを着ながら、アニメTも着るっていう感じで、ファッションとしてアニメTを着る人が増えましたね。「ギークス ルール」とは最初の「新世紀エヴァンゲリオン」の時から一緒に取り組みをさせてもらっていますが、やる度に反響があって、すごい人気です。

直井:本当にアニメTシャツって、イラストの破壊力がすごくて、それをかっこよく仕上げるって難しいんだよね。でも、それをやっているのが「ギークス ルール」で。「ギークス ルール」は90年代とかの海外のブートの雰囲気を、日本の技術で忠実に表現している。しかも15版も重ねていて、普通汗かいたらベタってなっちゃうんですけど、「ギークス ルール」は重くなくてベタってしないんですよ。それでいて、絶妙な色もしっかりと表現していて、人気の秘訣は技術力なんだと思う。

畠中:本当にチャマさんの言う通りで。「ギークス ルール」の「ギークス」ってみんな「アニメオタク」の意味だと思っているんですけど、実は「技術オタク」の意味でつけたんです。かなり技術にこだわっているので、そこに注目してもらえたのはめちゃくちゃありがたいです。

直井:いつも「ギークス ルール」のTシャツを見て、これはどうやって作ってるんだろう、とずっと思っていて。自分たちでもやろうとしたけど、元のグラフィックのデータを作る時点で印刷のことまで考えて作らないと同じようにはできなくて。それをするにはいろんなことを考慮しながらやらないといけなくて、簡単にはできない。だから実はめちゃくちゃすごいことをやっているんです。本当に今回のプロジェクトに関わっているのは全員、それぞれの業種のオタクなんですよ。まだ「ギークス ルール」のアイテムを見たことない人は、ぜひ「グレイト」の店頭でその技術力を見てみてほしい。

WWD:最後に、今後もこのプロジェクトは継続的にやっていくんですか?

直井:確約はできないんですけど、やりたいことはいろいろあるんで、楽しみにしておいてくださいって感じです。

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EC拡大で注目度急上昇の「返品DX」、損保ジャパンが外資と組んで本格参入へ

顧客体験の向上により業績を伸ばそうとする企業が増える中、ECの返品にまつわる顧客体験の向上で売り上げ・収益の伸長を支援しようという新しい返品DXサービスが登場した。損保ジャパンが日本エマージェンシーアシスタンス(EAJ)と協業して提供する「リターンプラス(Return+)」だ。

「返品DX」が注目されるワケ

このサービスの最大の特徴は、EC事業者側が負担する返品送料のコストキャップ保証だ。返品をフリー(無料)にする場合、返品率の上昇に伴うコスト増が企業にとって重荷になりがちだ。「リターンプラス」では事前に返品率を予測し、万が一、予測を上回る返品送料負担が発生した場合でも、企業は安心して返品無料化策を導入できることになる。購入者にはECでの購入ハードルを下げ、サイズやイメージが合わなければ返品できるという安心感を、EC事業者にはコストの上振れリスクを回避しながら売り上げ向上や利用者拡大を目指せるという安心感を提供する。

2つ目の特徴は、米国発の返品プラットフォーム「ナーバー(Narvar)」との連携によるユーザーが直感的に操作できる専用の返品用ページと管理システムだ。返品ポリシーの事前設定により、カスタマーサポート部門による顧客対応や返品情報の記入が原則不要になり、売り上げ拡大に比例して増大しがちな人件費やコストを抑制することができるようになる。返品理由の項目を設定することで、マーケティングやモノ作りにも活用できることになる。

3つ目は物流会社と連携して静脈物流網を整備し、お客さまが自身の都合に応じて自宅引き取りやコンビニ持ち込みなど返品手段を選ぶことを可能にしている点だ。事業者は自社で手配する必要がなく、返品先も倉庫、オフィス、店舗などにカスタマイズ設定できるため、コストも時間も削減につなげることが可能になるという。

それにしてもなぜ異業種である損保ジャパンがファッションECを中心とした返品フリーのサービスを開発したのか。その背景や期待される効果などを、損保ジャパンの情報通信産業部開発課で新規事業を担当する曽我純也課長と川上美咲氏、山﨑貴弘氏の3人に聞いた。

3人の担当者が語る、損保ジャパンが「返品DX」に参入する理由

――なぜ損害保険会社がファッション業界のECに着目してサービスを開発することになったのか?

川上美咲(以下、川上):世界でEC市場が年々成長を続けるなかで、国内で特に右肩上がりの高い伸びで拡大しているマーケットがアパレル小売り市場だった。しかもアパレルECにおける物流費のシェアが大きいことに着目。発展を支援できるような商品・サービスの提供ができないかと4 年前から検討してきた。ECの最大の課題は購入前に商品を試すことができないこと。しかも返品の手続きが煩雑であることがECでの買い物を阻害する要因の一つになっていた。EC 化率の高いアメリカや英国ではすでに返品しやすいソリューションが普及し、返品周りの顧客体験の向上が業界や経営のテーマにも上がって来ていた。その流れを鑑みて、日本でも返品関連のソリューションのニーズが高まると考え、昨年8月に「リターンプラス」を発表した。

――損保ジャパンとNarvar、EAJの各々の役割は?

曽我純也課長(以下、曽我):カスタマーサポートに強みがあるEAJが、「リターンプラス」のサービス提供者、事業主体としてEC事業者に返品送料のコストキャップ保証を提供し、損保ジャパンは「リターンプラス」を運営する事業者のビジネスを支援する損害保険を提供する。商品購入後の顧客体験に焦点を当てたポストパーチェス改善のリーディングカンパニーである米国発のナーバーがシステム周り、返品のオンライン化、自動化を担当し、商品購入者が円滑に返品ができるインターフェイスを提供する。グローバルでの導入実績も豊富で、さまざまな環境でECサイトを構築され、システム連携などつなぎの部分でも柔軟に対応いただけ、日本でも安心して多くの事業者にサービスをお届けできることになる。EAJはこれらのナーバーが提供する返品UI、物流、返品送料のコストキャップ保証、カスタマーサポートまでワンパッケージで提供していくことになる。

返品をポジティブに
返品送料無料で顧客満足度を高める

――あらためて、「リターンプラス」のサービスの特徴と、導入した場合、どのようなメリットが創出されるのか?

川上:最大の特徴は「返品送料のコストキャップ保証」にある。返品フリーにした際に返品数や返品コストがどの程度増えるか予測しにくく、上振れするのが不安だという事業者も多い。予算超過のリスクを軽減するための保険サービスとして、企業やブランドごとに返品送料コストキャップ保証サービスを提供していく。

繰り返しになるが、ECの課題は試着できないこと。購入前に買ったり触ったりサイズを確認したことがないものは購入しずらい。とくに買ったことのないお店では躊躇しがちだ。そのうえ、返品に送料がかかる、返品手続きがわかりづらい、といったことがあればなおさらネックになる。返品をフリー(無料)にして、購入者が5ステップで返品の配送手配までシステムで完了できるようにして返品にまつわる顧客体験を改善することで、購入のハードルを下げ、コンバージョンレートを上げ、まとめ買いも誘発し、売り上げアップに寄与できる。平均単価が1万5000円前後のアパレルブランドと行った「返品フリー・自宅で試着キャンペーン」では、売上高が対前年同期比で23%増、コンバージョン率は16%増など、あらゆる指標で効果が確認できました。購入者へのインタビューやアンケートでも、80%のお客さまが返品無料が購買意欲向上につながったと回答。いつもより高い商品の購入や複数の商品購入につながったというコメントもあり、手応えを感じた。キャンペーンだけ、あるいは、優良顧客や会員ランクの上位の方向けのロイヤリティプログラムのメニューとしても活用いただき、LTV(ライフタイムバリュー)を高める施策としても有意義だと思う。

――「リターンプラス」を導入すると返品が増え、コストも上がりそうだが、コスト削減にもつながるという理由は?

山﨑貴弘(山﨑):返品ソリューションを導入する企業が増えつつあるが、今でも返品を電話で受けたり、問い合わせフォームに対応したり、商品に同封した返品用紙の内容を改めて手入力するなど、人手に頼っている企業が多いと聞く。これでは売り上げが上がれば上がるほどコストが増大し続けてしまう。返品をオンライン化・自動化するとともに迷いにくいUIにすることで、問い合わせを極力減し、省力化・省人化することで返品サポートコストが削減できる。また、オンライン化によるデータ連携で、いつ、どこに、どれくらい返品が戻ってくるのかを踏まえてタイムリーに検品・加工し、美品は再販し、それ以外はアウトレットに送るなど、返品在庫のスムーズな運用にもつながる。

――返品をマーケティングにどのように生かしていくことを提案しているのか?

山﨑:ここも非常に重要なポイントだ。商品購入後にお客さまがご意見やご不満などをお持ちだったとしても黙認されがちだ。ストレスのない返品体験によって返品理由を企業にフィードバックしやすくし、商品やサービスの改善に生かし、今後の成長に役立ててもらいたい。また、返品後の確認メールやメッセージの開封率は非常に高い。これをマーケティングや顧客接点の機会ととらえ、代替商品やオススメ商品を提案したり、新たな情報発信も行うことができる。返品先を店舗に設定することで、来店動機につなげることも可能だろう。

また、アパレルの大きな課題が廃棄の削減だ。返品理由を明確化してマーケティングやモノ作りに生かせたら、大量生産・大量消費から脱却して本当に必要なものだけを作ることや、自分たちのブランドを好きで愛してくれる人たちの期待に応え続けることで、ロイヤリティの向上やサステナビリティにもつなげてほしい。返品フリーにすることで、ニーズにフィットした愛着が持てる商品を長く着用してもらえたり、連携先のリバースロジスティクスを活用することでCO2の抑制などにもつながるはずだ。

――今後の導入予定や、推奨ジャンル等は?

曽我:百貨店やアパレル、郊外型チェーンストアやD2Cのインナー企業などと話を進めているところで、本格導入はこれからだ。サイズやフィット感、素材感、コーディネートなどを試着して確かめたいシューズや布帛のシャツやワンピース、ジャケット、コートやデザイン性の高いアイテム、D2Cブランド、価格帯で言うと中価格帯以上の単価の商品を扱うブランドやストアとの相性が良さそうだ。返品はコストという意識から、良い返品体験が売り上げ、収益、ロイヤリティ向上につながると認識が変わり、実感する企業やブランドが増えてほしい。とくに、店舗だけ、ECだけの利用ではなく、両方を利用いただくことで、1人の方の年間買上げ額が3倍近くなるというデータがあるように、OMO(オンラインとオフラインの融合)やユニファイドコマースを進める中で、返品体験は売上げ、ロイヤリティ、LTVなどを伸ばすうえで重要な役割を果たせると思う。

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