家で「グリーン車気分」が味わえるかも⁉「新幹線 E5系」車両の座席シートを使用した鉄道クッション

JR東日本東北総合サービスは、新幹線E5系の座席シートを使用した鉄道クッションを、2025年3月1日から一般販売しています。受注期間は3月17日まで。JRE MALL ショッピング内「東北 MONO WEB SHOP」にて購入可能です。

 

記事のポイント

もとは東日本旅客鉄道株式会社東北本部と、宮城県利府町とのコラボによる、JRE MALL ふるさと納税のオリジナル返礼品。置くと、「新幹線感」がにわかに出そうなクッションです。

 
本商品は、「新幹線 E5系」車両の補修用の新品座席シートを使用しています。「JR東日本 新幹線総合車両センター」がある、宮城県利府町のPR商品として企画されました。
 
ラインナップは2種類あり、それぞれ普通車とグリーン車の座席シートを使用しています。
 

鉄道クッション E5系 グリーン車 アシェント
価格:1万1000円(税込・送料別)
サイズ:縦400mm×横400mm
素材 クッションカバー:表地 難燃性ポリエステル100%、裏地:ポリエステル100%(樹脂コーティング)、中身:表生地 綿100%、中材 ポリエステル100%

 

普通車タイプは、色が異なる背面部と座席部の2種類の座席シートを、片面ずつ使用したデザインです。

ライン1

 

ライン2

鉄道クッション E5系 普通車 ライン1×ライン2
価格:1万円(税込・送料別)
サイズ:縦400mm×横400mm
素材:クッションカバー:表地 難燃性ポリエステル100%、裏地:ポリエステル100%(樹脂コーティング)、中身:表生地 綿100%、中材 ポリエステル100%

 

新幹線 E5系 外観

 

E5系 グリーン車 内観

 

E5系 普通車 内観

東京駅の駅弁屋「祭」で必食の弁当はコレだ! 売上ナンバーワンを含む、厳選6品を紹介

駅弁は鉄道旅を盛り上げる名脇役。旅先で選ぶのも楽しいが、東京駅の「祭」なら日本各地の名物駅弁が手に入る。人気の駅弁を持って出発!

【ここで買えます!】駅弁屋 祭 グランスタ東京

毎日、日本各地から届く約150種類を超える駅弁が並び、朝から祭りのように賑やか。定番から季節限定まで種類は豊富だが、目当ての駅弁があるなら早めにゲット!

所在地:東京駅 グランスタ東京内 1F 中央通路エリア(改札内)
営業時間:5時30分〜22時

 

【「祭」売上No.1】甘辛の牛そぼろと牛肉煮が米と絡む、贅沢な牛丼風弁当

【山形】牛肉どまん中

新杵屋/1480円

山形新幹線開通にあわせて発売された大人気駅弁。名称の由来になった山形県産米「どまんなか」に、甘辛いタレで煮込んだ牛そぼろと牛肉をたっぷりのせた。小芋煮や昆布巻きなどのおかずも上質。

 

【ここが絶品!】
代々職人に伝わるキレの良い特製ダレ

牛肉を煮込む秘伝のタレは、山形の醤油を使い、もともと和菓子屋だった新杵屋ならではの独自の製法で作られている。

 

【「祭」売上No.2】発売60周年の定番弁当は1000円を切る値段も魅力

【東京】チキン弁当

(株)JR東日本クロスステーション/900円

昭和39年の東海道新幹線開通とともに発売されたレトロなパッケージのロングセラー。トマト風味のライスと、しっかり下味がついた柔らかな唐揚げの組み合わせで、子どもにも大人にもファンが多い。

 

【ここが絶品!】
トマト風味のライスは濃すぎない上品な味

トマト風味のライスはあっさり味で、スクランブルエッグとドライトマトのオイル漬けを一緒に食べるとオムライス感あり!

 

蓋を開けると磯の香り漂う、海の幸たっぷりの名物弁当

【北海道】氏家かきめし

厚岸駅前氏家待合所/1250円

根室本線厚岸駅の前にある氏家待合所で販売している厚岸名物。牡蠣などの煮汁とひじきで炊いたご飯に、じっくり煮込んだ牡蠣やツブ貝、アサリ、フキ、シイタケなどを盛り付けている。

 

【ここが絶品!】
濃厚なうま味を秘めたぷりぷりの牡蠣

特製のたれで煮込んだ大ぶりの牡蠣は、名産地、厚岸ならではのおいしさ。牡蠣のうま味が染み込んだひじきご飯も絶品!

 

売り切れ必至の肉厚えんがわ寿司

【新潟】えんがわ押し寿司

神尾弁当/1480円

いま駅弁業界で最も話題なのがえんがわ寿司。創業30周年の押尾弁当の商品は、特製の甘酢で締めたカレイのえんがわを酢飯と合わせて押し寿司に仕上げた。甘味のあるえんがわの脂は酢飯と相性抜群。

 

【ここが絶品!】
脂ののったえんがわをストレートに味わう

甘酢で締めているため、えんがわの脂が口に残らず、いくつでも食べられる。そのまま食べておも良いし、わさび醤油も◎。

 

明治31年創業の老舗が守り続ける伝統の味

【神奈川】鯵の押寿し

大船軒/1150円

100年以上にわたり愛されている鎌倉名物。伝統の合わせ酢で締めた鯵は肉厚で食べ応え十分。握り寿しを箱に詰めてから専用の型で押す、独自の製法で食べやすくおいしい押し寿司に仕上げた。

 

【ここが絶品!】
鯵と米で使い分けるこだわりの合わせ酢

酢飯には芳醇な赤酢入りの合わせ酢を使用。鯵は清水、醸造酢、砂糖を配合した専用の酢で締めており風味の違いも楽しめる。

 

希少なカニを敷き詰めた山陰の冬を代表する味覚

【鳥取】元祖 かに寿し

アベ鳥取堂/1480円

新鮮なカニをボイルして、1本ずつ手作業で取り出す本物の味。専用の酢を数種類ブレンドし、甘酸っぱく調味している。カニの下に敷き詰めた錦糸卵も、鳥取産の卵を使ったオリジナルだ。

 

【ここが絶品!】
独自の保存技術により全国で通年販売が可能に

昭和27年の開発当初は冬季限定だったが、昭和33年にカニの身のフレッシュ保存技術を開発し、一年を通して食べられるように。

 

※「GetNavi」2025月2・3月合併号に掲載された記事を再編集したものです

【ギャラリー】

ぬくぬくこたつで美食三昧、ストーブ列車で雪見酒! 冬だから乗りたい名物列車7選

冬の鉄道旅は、春や秋とはひと味違う崇高な美しさにあふれている。立春を過ぎても、まだまだ冬景色が残っている場所は日本のあちこちにある。

 

旅の途中には、秘湯や冬ならではの味覚も満載だ。今回は食べ鉄ライター・澄田直子さんに、本州・四国・九州の魅力いっぱいな鉄道旅を紹介してもらう。

 

今こそ行きたい北海道の鉄道旅!冬の釧路湿原やオホーツク海岸線を走る、絶景&味覚体験

 

【青森・津軽鉄道ストーブ列車】ダルマストーブが温めるレトロな車内で雪見酒

↑ストーブは1両に2台。譲り合って座ろう

 

90年以上愛され続ける、津軽鉄道の名物列車

昭和5年の津軽鉄道全線開業時から現在に至るまで、戦時中の物資欠乏による運行中止を除き、冬の津軽の雪原を運行する人気列車。津軽五所川原駅から津軽中里駅までの約45分の区間を1日3往復する。竹かごに地元の食材を使ったお総菜が詰まったストーブ弁当は予約での販売。ダルマストーブで炙ったスルメや日本酒を片手にノスタルジックな鉄道旅を満喫しよう。

↑地吹雪のなかを進むDD352ディーゼル機関車

 

↑石炭が燃える匂いも郷愁をそそる

 

↑現在は4代目の客車が活躍する

 

↑ストーブ弁当は3日前までに予約(2個〜)

 

<ここに注目!>
名物のスルメはもちろん、車内販売が楽しみ!

「この列車のハイライトはダルマストーブの上で炙るスルメ。車内で販売されているのでぜひ購入して炙ってもらってください。日本酒やリンゴのスナック菓子、石炭クッキーもありますよ」(澄田さん)

↑炙りスルメと日本酒で乾杯

 

DATA
運行区間:津軽五所川原駅〜津軽中里駅
運行日:2025年3月31日まで1日3往復運行(12月中は本数が異なる)
問い合わせ:津軽鉄道
URL:https://tsutetsu.com/

 

【岩手・三陸鉄道こたつ列車】冬の三陸鉄道リアス線の旅は、ぬくぬくこたつで美食三昧

↑ビューポイントのひとつ、大沢橋梁では速度を落としてくれる

 

車内イベントも満載の景色と味覚を楽しむ列車

3月23日までの土日と祝日に、三陸鉄道リアス線の久慈駅〜宮古駅間を1日1往復する観光列車。4人掛けのこたつが12台設置され、風光明媚な海岸線を眺めながら暖かな鉄道旅が楽しめる。予約で味わえるウニやアワビ、ホタテなど海の幸をふんだんに使用したお弁当やスイーツも美味。車内では、岩手北部の小正月の行事に現れる“なもみ”が登場するイベントも。

↑全席指定。人気なので予約は早めに

 

↑突如現れる“なもみ”に車内は騒然

 

↑大漁舟唄御膳3500円(要予約)

 

↑宮古駅発便はスイーツが予約できる

 

<ここに注目!>
洋風こたつ列車に乗って釜石〜久慈間を制覇

「釜石駅からの『洋風こたつ列車』に乗車すると宮古駅で『こたつ列車』に乗り継ぐことができます。両方のこたつ列車に乗ってのんびり1日かけてリアス線を満喫するのもイイですね」(澄田さん)

↑洋風こたつ列車にも予約販売のお弁当がある

 

DATA
運行区間:久慈駅 〜 宮古駅(洋風こたつ列車は宮古駅〜釜石駅)
運行日:2025年3月23日(洋風こたつ列車は24日)までの土・日曜、祝日
問い合わせ:三陸鉄道
URL:https://www.sanrikutetsudou.com/

 

【青森〜秋田・リゾートしらかみ】荒々しい日本海の絶景を望む、冬の五能線を走る観光列車

↑雪景色のなかを走るリゾートしらかみ「青池」

 

雪と氷が彩る、冬の東北の魅力を満喫できる列車

日本海の絶景ポイントが集中する五能線を走る列車。青森駅~秋田駅間を「橅」「青池」「くまげら」と名付けられた3つの車両が運行する。車内では津軽三味線の演奏や津軽弁の語り部による実演、特産品販売も。沿線には十二湖、千畳敷、青池などの見どころが多く、冬ならではの神秘的な風景やアクティビティも魅力。冬の北東北の魅力を味わい尽くせる路線だ。

↑雪と氷に覆われた千畳敷駅

 

↑岩館から陸奥赤石まで絶景が続く

 

↑「橅」に設置された展望室

 

↑個室感がある「橅」のボックス席

 

<ここに注目!>
途中下車して入りたい海辺の絶景露天風呂

「見どころの多い路線ですが黄金崎不老ふ死温泉は特にオススメ。日本海の波打ち際に露天風呂があり、潮騒を聞きながら湯浴みが楽しめます。ウェスパ椿山駅から送迎もあって便利です」(澄田さん)

↑混浴と女性専用の露天風呂があり日帰り利用も可
↑混浴と女性専用の露天風呂があり日帰り利用も可

 

DATA
運行区間:青森駅〜秋田駅
運行日:運行日はHPで確認
問い合わせ:JR東日本
URL:www.jreast.co.jp/railway/joyful/shirakami.html

 

【山形〜新潟・海里】新潟と庄内の食を味わい、日本海の景観を楽しむ

↑1、2号車はお弁当を事前にウェブで予約できる

 

夕日や新雪、車窓の景色を楽しむスタイリッシュな観光列車

新潟〜酒田間を運行する、美食と日本海の景観が楽しめる列車。4両編成のハイブリッドディーゼル車両は、日本海の夕日のオレンジと新雪の白を、グラデーションカラーで表現した車体が印象的。1、2号車は乗車券と指定席券をみどりの窓口などで購入する。3号車は売店、4号車は食事、ドリンクがセットになったダイニング車両で、旅行会社が扱うチケットが必要となる。

↑4号車の最後尾にある展望スペース

 

↑1号車は2人掛けのシート

 

↑新潟駅で人気の雪だるま弁当

 

↑モノクロームの世界を走り抜ける

 

<ここに注目!>
日本海に打ち寄せる笹川流れの波の花は必見

「日本海の荒波が岩にぶつかり、白い泡が空中に舞う現象を『波の花』といい、新潟の海岸沿いの冬の風物詩になっています。海里では『波の花』が見られるスポットで停車してくれるので、観賞できるかもしれませんよ」(澄田さん)

↑波の花は笹川流れあたりでよく発生する

 

DATA
運行区間:酒田駅〜新潟駅
運行日:金〜日曜、祝日を中心に運行
問い合わせ:JR東日本
URL:http://www.jreast.co.jp/railway/joyful/kairi.html

 

【兵庫〜島根・あめつち】日本文化のルーツをたずねて神話のふるさと、山陰地方へ

↑山陰の山並みとたたら製鉄の日本刀の刃文を表した車体

 

自然や神話を彷彿させるメタリックブルーが美しい列車

城崎温泉駅から鳥取駅、鳥取駅から出雲市駅、米子駅から出雲横田駅と3つの路線を走る観光列車。神社、酒、歌舞伎、相撲など、さまざまな文化のルーツがあると言われる山陰地方の美しい風景を巡る。風光明媚なポイントでは徐行運転を行い、車窓の景観が堪能できる。山陰の味覚が楽しめるお弁当やスイーツが予約できるほか、車内アテンダントによる解説も。

↑2号車の車内。カウンター席も人気

 

↑車内を地元の工芸品が彩る

 

↑名湯、城崎温泉に立ち寄るのも良い

 

↑鳥取県のブランド米「星空舞」を使用したスイーツセット

 

<ここに注目!>
予約制のお弁当は必須!麗しい料理が旅を彩る

「列車を予約したら、ぜひお弁当やスイーツも予約してみてください。区間によって予約できるアイテムは異なりますが、どれも地元の食材や名物を盛り込んだ充実の内容です。4日前までに専用のサイトから予約できます」(澄田さん)

↑鳥取〜出雲市区間でオーダーできる「山陰の酒と肴」※下りの出雲市駅行きの場合「山陰の酒と肴」の提供は松江駅発車後になる

 

DATA
運行区間:鳥取駅〜出雲市駅、米子駅〜出雲横田駅、城崎温泉駅〜鳥取駅
運行日:運行日はHPで確認
問い合わせ:JR西日本
URL: http://www.jr-odekake.net/railroad/kankoutrain/ametuchi/

写真提供:JR西日本

 

【愛媛・伊予灘ものがたり】たおやかな伊予灘を走る、美食と絶景の特別な鉄道旅

↑海岸線に映えるあかね色の車両

 

沿線のおもてなしに心温まる!景色と味覚を楽しむ列車

松山駅から八幡浜駅までを時間帯ごとに、4つのルートで運行する観光列車。それぞれ趣向を凝らした食事を用意しており、予約すれば風光明媚な車窓の景色を眺めながら車内で味わうことができる。3両編成で、カウンター席や4名利用のボックス席、2名にちょうど良いペアシートとさまざまなシートタイプがあり、どの席からも大きな窓からの眺望が美しい。

↑1号車「茜の章」。伊予灘に沈む夕日をイメージした

 

↑「双海編」でオーダーできる食事

 

↑下灘駅で停車して伊予灘の美しい景色を撮影できる

 

↑旅の後は道後温泉で疲れを癒やして

 

<ここに注目!>
鉄道旅の憧れの最終形1両丸ごと貸し切り!

「伊予灘ものがたりの3号車はなんと1両丸ごと貸切車両となっています。定員は2〜8名で、利用料金は人数分の乗車券、特急券プラス個室料金3万3600円。記念日などに最高ですね」(澄田さん)

↑専属アテンダントやウェルカムドリンクのサービスも

 

DATA
運行区間:松山駅〜伊予大須駅、松山駅〜八幡浜駅
運行日:土〜日曜、祝日を中心に運行
問い合わせ:JR四国
URL:https://iyonadamonogatari.com/

 

【福岡〜大分・或る列車】100年の時を越え蘇る、唯一無二の豪華列車で粋を知る

↑故・原 信太郎氏の模型を元に設計された車両

食と空間、もてなしを楽しむ至福のトレイン・ジャーニー

↑2号車は落ち着いた雰囲気の個室

 

明治39年、当時の九州鉄道がアメリカのブリル社に発注したものの、活躍する機会のなかった豪華列車、通称「或る列車」。その幻の列車が、100年の時を経て2015年に九州の地に復活した。黒を基調にゴールドで彩られた優美な車両は、内装もクラシカルで格調高い。博多駅から由布院駅までの約3時間の車内ではコース料理を提供。本格的な豪華列車の旅が楽しめる。

↑1号車には2人席、4人席を用意

 

↑雪を抱いた由布岳が美しい

 

↑冬の早朝、金鱗湖に立ち上る朝霧

 

<ここに注目!>
九州各地の食材を用い地元の器を使って提供

「乗車料金に含まれるコース料理は南青山の『NARISAWA』のオーナシェフ成澤由浩氏が監修したもの。九州各地の食材を中心に、オリジナルの器で提供される料理は美食家にも絶賛される味わいが楽しめます」(澄田さん)

↑料理に合わせて地元のワインや焼酎も用意する

 

DATA
運行区間:博多駅〜由布院駅
運行日:土〜月曜の運行
問い合わせ:JR九州
URL:https://www.jrkyushu-aruressha.jp/

※「GetNavi」2025月2・3月合併号に掲載された記事を再編集したものです

【ギャラリー】

↑混浴と女性専用の露天風呂があり日帰り利用も可

今こそ行きたい北海道の鉄道旅!冬の釧路湿原やオホーツク海岸線を走る、絶景&味覚体験

澄み渡る空気、見渡す限りの白銀の景色、荒々しく打ち寄せる波……。立春を過ぎても厳しい寒さが続き、まだまだ冬景色を楽しめる北海道の鉄道旅は、崇高な美しさにあふれている。旅の途中には、秘湯や冬ならではの味覚も満載。

 

今回は食べ鉄ライター・澄田直子さんに、冬の北海道ならではの鉄道旅を紹介してもらう。

 

鉄道マニアでなくても楽しい!冬の鉄道旅は魅力がいっぱい

鉄道旅というと、桜や菜の花、新緑や紅葉をイメージする人が多いかもしれない。しかし冬こそ鉄道旅が楽しい季節と語るのは、鉄道ライターの澄田直子さんだ。

 

「観光列車の多くは夏場に運行しています。そのなかであえて運行するのには、それだけの魅力があるからです。例えば『SL冬の湿原号』は、北海道の希少な自然が残る釧路湿原をSLに乗って旅するという夢のような体験ができる列車。全国でも動態保存されているSLはごくわずかですが、その貴重な列車に乗って白銀の世界が見られるのです。汽笛と蒸気を上げながらゆっくり進む列車の車窓からは雪原に遊ぶタンチョウヅルの姿が拝めることも。車内販売や停車駅でのイベントなど、旅路を楽しくしてくれる仕掛けも満載で、鉄道マニアでなくても十分に楽しめますよ」(澄田さん)

 

車内に置かれたストーブでスルメを炙れる「津軽鉄道ストーブ列車」や、こたつが設置された「三陸鉄道こたつ列車」など、冬ならではの体験ができる列車も魅力的。

 

「楽しむコツはあえて寒いところに行くことでしょうか。荒々しい日本海の景色を眺めたあとは、温泉が身に染みます。冬は魚介がおいしいので食事も楽しみ。日本の美しい景色を見つけに、冬の観光列車で出かけてみてください」

 

【SL 冬の湿原号】雪原を行く漆黒の車体は風物詩。レトロなSLに乗って出発!

齢80を超えるSLで古き良き汽車旅を満喫

1940年に製造され、1975年に引退した蒸気機関車C11形171号機を復元し2000年から運行開始。釧路〜標茶間を冬の間だけ運行する人気鉄道路線だ。釧路を出発した列車は1時間30分かけて釧網本線の標茶駅に到着。そこでしばらく停車し、釧路駅に引き返す。車窓には雪に覆われた釧路湿原が広がり、運が良ければ、タンチョウやエゾシカなどを見ることができる。

 

【ここに注目!】北海道唯一のSLでのんびりと景色を楽しむ

「製造から80年以上が経とうとするSLは、メンテナンスにも運行にも多大な労力がかかるため廃止路線が増えています。北海道唯一にして冬の湿原を行くこの路線は貴重!」(澄田さん)

↑2000年から運行を続ける人気路線

 

↑客車内のダルマストーブでスルメなどを炙ることができる

 

↑レトロモダンな客車。川に面したカウンター席が人気

 

DATA
運行区間:釧路〜標茶
運行日:2025年1月18日〜3月23日の週末を中心とした特定日
問い合わせ:JR北海道
URL:www.jrhokkaido.co.jp/travel/sl

 

【流氷物語号】流氷押し寄せる海を眺めながら、冬のオホーツク海岸線を旅する

↑海側の並び席と海側ボックス席は指定席となっている

 

流氷を車内から楽しむ北海道随一の絶景路線!

網走駅から知床斜里駅までのオホーツク海の海岸線を走る冬限定の列車。1月下旬から3月上旬にかけて流れ着く流氷の季節に合わせてディーゼルの2両編成の列車が運行され、タイミングが合えば車窓から流氷を見ることができる。乗車時間はおよそ1時間で1日2往復。「流氷物語3号」では絶景が楽しめるよう一部区間で減速運転する計らいもウレシイ。

↑北海道の自然が描かれた車体

 

↑海側のボックス席は要予約の指定席

 

【ここに注目!】“海の見える”駅、北浜駅は期間限定“流氷の見える”駅に

「とても風光明媚な路線です。下り(1号・3号)はオホーツク海に面した北浜駅で10分間停車するので写真撮影ができます。流氷の押し寄せる海や遠くに連なる知床連山など、圧巻の景色が魅力です」(澄田さん)

↑雪に覆われた北浜駅のホーム

 

↑網走駅の名物「モリヤのかにめし」もお忘れなく!

 

↑網走から出航する流氷観光船も合わせて楽しみたい

 

DATA
運行区間:網走駅〜知床斜里駅
運行日:2025年2月1日〜2月28日と、3月1日、2日、8日、9日
問い合わせ:JR北海道
URL:https://www.jrhokkaido.co.jp/travel/ryuhyo/

 

※「GetNavi」2025月2・3月合併号に掲載された記事を再編集したものです

 

【ギャラリー】

 

 

 

プラレールと「星のカービィ」が初コラボ! 「星のカービィ ラッピングトレイン」

タカラトミーは、プラレール「星のカービィ ラッピングトレイン」を2025年2月15日に発売します。全国の玩具専門店をはじめ、プラレール専門店「プラレールショップ」、インターネットショップ、「タカラトミーモール」などで購入できます。

 

記事のポイント

車掌に扮したカービィや、“でんしゃごっこ”で遊ぶかわいらしいキャラクターたちが描かれた、ピンク色のプラレールです。連結・切り離しができる3両編成で、飾って楽しめるのはもちろん、単3電池1本で動きます(電池は別売)。1スピードで電動走行、スイッチOFFで手転がし遊びもできます。

 

同商品は、「星のカービィ」とコラボレーションしたプラレールのラッピングトレイン。車両全体に車掌に扮したカービィと、“でんしゃごっこ”をするワドルディたちをはじめ、人気キャラクターが描かれています。

 

車両は3両編成でそれぞれ連結・切り離しが可能。飾って楽しむだけでなく、別売のレールと組み合わせて1スピードでの電動走行もできます。

 

タカラトミー
プラレール「星のカービィ ラッピングトレイン
希望小売価格 : 2420円(税込)

推しぬいとのお出かけにぴったり! Suicaの「ペンギン推し活ポーチ」

JR東日本商事は、Suicaのペンギン推し活ポーチを2025年2月7日に販売します。

※ぬいぐるみは本商品に含まれません。

 

記事のポイント
推し(=イチオシ)のSuicaのペンギンぬいぐるみとのお出かけをもっと楽しく、かわいくサポートしたいという想いから作られた、Suicaのペンギンデザインのポーチ。推しをしっかり見せたい時にはカーテンをオープンさせ、恥ずかしがり屋の子や、細々としたグッズを収納したい時にはカーテンを閉じるのも良し!

 
推しのぬいぐるみとのお出かけにぴったりな「推し活」ポーチ。Suicaのペンギンのフェイスデザインのカーテンは、シーンごとに使い分けられる2WAYタイプです。

 

カラビナ付きで、バッグにつけて持ち運べるのもポイント。

 

JR東日本商事
Suicaのペンギン 推し活ポーチ
サイズ:縦15×横10×高さ6cm
価格 :1990円(税込)

「電話」から「AIカメラ」になって何が変わった? 武蔵野線「大雨のポンプ異常」通知システムの進化をレポート

東京、埼玉、千葉を結ぶJR武蔵野線。首都圏の外環状を走り、多くのJR線・私鉄に接続するこの路線は、通勤・通学をはじめとした市民の足として欠かせないものになっています。

 

武蔵野線について語るうえで欠かせないのが、地下水の問題です。この路線はトンネルや窪みが多いエリアを走るため、沿線の下に地下水が溜まりやすく、大雨が降ったときにはそれが線路上に溢れる恐れがあるのです。府中本町〜新座駅間で武蔵野線の運行を管轄するJR東日本 八王子支社では、地下水を汲み上げるポンプ施設を同路線沿線に8か所設置し、万一の事態に備えています。

↑新小平駅付近に設置されたポンプ施設

 

今回取り上げるのは、このポンプ施設のハイテク化の試みです。大雨が降っても列車の運行を止めないための取り組みについて取材しました。

 

AIカメラの導入で、障害対応時間が3分の1に

地下水は常に湧き出ているため、ポンプ施設は常時稼働しています。しかし、ポンプの能力を上回る地下水が湧き出ると排水が追いつかなくなり、線路上に水が溢れ出てしまいます。実際、2020年の6月6日には大雨により線路が冠水、列車46本が運休、最大316分の遅延が発生する事態が起きました。

↑JR武蔵野線の新小平駅。半地下構造になっており、1991年10月には駅が水没する事故が発生したこともあります

 

従来のシステムでは、こういった大雨の際、ポンプに何らかの異常が起きたことが判明してから、現場にスタッフが向かって状況を診断する体制をとっていました。しかしこれでは、スタッフが排水ポンプ施設に到着するまで、異常の原因が特定できません。原因を特定し、対策をとるという2段階の措置が必要で、迅速な対応が困難でした。

↑新小平駅付近のポンプ施設脇にある「沿線電話」。従来は、この電話でポンプの異常の発生を知らせていました

 

そこで導入されたのが、パナソニック製のAIカメラです。ポンプの運転状況を示すランプの点灯状況と、汲み上げた地下水を溜める排水槽の水量を2台のAIカメラで監視し、遠隔地から現場の状況を把握できるようにしました。これの導入によって、異常の原因がすぐにわかるようになり、仮設ポンプの設置などの対応策を素早く判断し、実施できるようになりました。

↑ポンプ施設内に設置されたAIカメラ。AIカメラのシステムを開発・納入したパナソニックによると、今後導入先を拡大し、2026年の事業化を目指しているそうです

 

排水槽が満水になったり、ポンプの動作に異常が起きたりした場合、ランプの表示が変化します。異常や満水を示すランプが点灯した際には、AIカメラがどのランプが点いているか判定し、メールでその状況を知らせます。そのメールにはランプの画像が添付されるため、目視での確認も可能。なお、一度異常が発生した場合、事態が収まったあとも1週間程度は継続して状況を監視する必要がありますが、AIカメラのおかげで、それも遠隔でできるようになりました。

↑ポンプ施設内の様子。左側に見えるのが2台のポンプで、右にあるのがその稼働状況を表示するランプです。現在は運転中であることを示す2つのランプのみ点灯していますが、異常が発生するとそれ以外のランプが点灯します

 

↑ランプの対面の壁面に、AIカメラが設置されています

 

↑ポンプ下の排水槽にも、水量を監視するためのAIカメラが設置されています(写真右上)。この排水槽が「満水」になっても、すぐに線路に水が溢れるわけではないため、満水をすぐに検知できれば、仮設ポンプの設置による対策が間に合うそうです

 

またポンプ施設には、2台のAIカメラに加えて、ポンプの使用電力量を監視する多回路エネルギーモニタ、ポンプを制御するポンプ盤と接続して設備の異常検知を行うマルチ監視ユニットも設置されています。AIカメラはランプや排水槽のビジュアルから異常を検知しますが、これらの機器があることでハードウェアの面からもポンプの稼働状況を確認できます。

↑左上がマルチ監視ユニット

 

マルチ監視ユニット、多回路エネルギーモニタから取得したデータは、管理ソフトによって可視化されます。電力使用量、電流、電圧、電力などの計測データと、機器の運転状況をあわせて可視化することで、異常の発生そのものを予防する監視体制を構築できます。

 

AIカメラの導入効果は高く、障害対応時間が従来の3分の1程度まで短縮されたそうです。また、2022年のAIカメラ実運用開始以降、地下水の湧出による武蔵野線の遅延・運休は発生していません。

 

予知保全による万全の体制を構築

JR東日本 八王子支社の担当者は、武蔵野線のポンプ施設について、「AIカメラの導入によって、従来型の予防保全ではなく、予知保全ができる体制を作りたい」としています。予防保全では、「使用期間を考えると、そろそろ機械が故障しやすくなるころだから修理しよう」といったように、自らの経験や知識によって故障を防ぎます。一方の予知保全は、「機械が壊れそう」という予兆が出た段階で保全を行います。

 

予防保全の場合、機器の寿命が想定よりも早めに来てしまったら、故障が発生してしまいます。ですが予知保全であれば、故障の予兆が検出された段階で早めに対処できるので、万一の事態を防ぎやすくなるというわけです。

 

現在、AIカメラはJR東日本 八王子支社が管轄する武蔵野線沿線のポンプ施設8か所のうち、3か所に導入されています。担当者は「ほかの支社からも取り組みへの興味を持ってもらっており、今後さらに導入を拡大していきたいと考えています」とのこと。なお、AIカメラの導入ペースがそこまで早くはない理由は、ポンプの老朽化に対応する更新作業のタイミングにあわせて1か所ずつ設置しているからだそうです。

 

私たちの移動の足となる電車。その安定運行は、AIカメラなど最新の技術によって支えられていることがよくわかりました。

「弘南鉄道6000系」に泊まれる!? 備品や機器類で装飾し、車内を再現したコンセプトルーム

津軽の鉄道文化にひたれるコンセプトルームが、青森県・弘前市の宿泊施設「GOOD OLD HOTEL」内に登場!

 

Clan PEONY津軽は、津軽地域で営業する私鉄・弘南鉄道大鰐線でかつて運行されていた、弘南鉄道6000系車両をテーマにした「弘南鉄道コンセプトルーム」の予約受付を、12月11日に開始しました。一般向けの宿泊は、12月17日にスタートします。

 

記事のポイント

弘南鉄道6000系は、1960年から約30年間、東京急行電鉄(現:東急電鉄)で運用され、弘南鉄道が譲り受けたのち2006年まで定期運行していた車両です。その6000系の車内を細部に渡って再現するために、弘南鉄道が監修したコンセプトルーム。机の中に至るまで、鉄道ファンの心をくすぐるアイテムがふんだんに詰まった客室になっています。

 

今回のコンセプトルームでは、実際の運行時に車内で使用していた座席や荷物棚、看板などの備品、計器やヘッドライトなどの機器類を室内装飾に用いています。ホテルでありながら、弘南鉄道の歴史に浸りつつ往年の車両に乗車しているような気分を味わえます。

↑室内に再現された座席。※写真は工事中のものです

 

↑入り口付近に、年表や社訓、スイッチ類などが据え付けられています ※写真は工事中のものです

 

↑机のなかにも備品類が盛りだくさん ※写真は工事中のものです

 

↑昔懐かしいつり革も、運行当時のまま設置 ※写真は工事中のものです

 

コンセプトルームが開設される「GOOD OLD HOTEL」は、繁華街の集合ビルをリノベーションした“泊まれるスナック街”として話題の宿泊施設。鉄道ファンはもとより、昭和レトロの雰囲気を満喫したい人や、古き良き時代の思い出に浸りたい人にとっても見どころ満載では。

 

Clan PEONY津軽
弘南鉄道コンセプトルーム
販売価格 :1部屋2万円(通常時)※時期によって変動あり
部屋タイプ:洋室ツイン(ベッド2台、最大定員2人、バス・トイレ付、禁煙)

 

顔認証改札にAI 音声案内まで! 65周年のプラレールに登場した“大型駅”が最新技術てんこもりで大人の“鉄”もビックリのクオリティ

玩具メーカーのタカラトミーは、レバーで車両や乗客を操作できる駅、プラレール「レバーでアクション&サウンド!ビッグステーション」を9月28日から発売することを発表。

 

本商品は都会の大型駅をイメージしたプラレールで、レバーやボタンで車両の停発車ができるほか、シーンに合わせたアクションに連動する90種以上のサウンドや、駅の組み換えなどを楽しめます。3路線が駅に入線するダイナミックさや、トミカとの連動遊びといった子どもが夢中になる要素が詰まっているとのことですが、電車を好む大人もテンションが上がるかも!?

↑3路線が入り込む図

 

大きな特徴は、鉄道各社で導入が進められている「顔認証改札」や「AI 音声案内」などの最先端技術をプラレールの世界にも取り入れ、疑似体験できる点です。

・顔認証改札……改札機をチケットレスにすることで、ストレスフリーな移動を実現し、車イス利用者や高齢者、小さな子どもを連れた人でもスムーズに通行できることを目指した最新の改札。

・AI 音声案内……人工知能を活用し、音声を自動生成する「音声合成技術」を使った駅のアナウンス。近年、駅構内の案内放送として活用されている。

 

触る・動く部分がたくさん盛り込まれている本商品。駅をカスタマイズする発想力にくわえ、鉄道の進化にも学びや発見を見出せそうです。

 

タカラトミー
プラレール
レバーでアクション&サウンド!ビッグステーション
8800円(税込)

2023年は「星空×列車旅」がアツかった!「レジャー部門」ヒットセレクション

コロナによる制限が緩和して、賑わいが戻ってきた2023年は、アウトドア・アクティビティに関連するツアーやアイテムが人気を呼んだ。GetNaviヒットセレクションのレジャー部門から、本記事ではネイティブアメリカンの文様が美しい「焚き火台」と星空観賞列車を紹介しよう。

※こちらは「GetNavi」 2024年1月号に掲載された記事を再編集したものです

 

私たちが解説します

トラベルライター 澄田直子さん
国内外のガイドブックを中心に取材・編集を行うトラベルライター。最近は北から南まで日本の島を中心に活動。念願叶って初上陸した秘島、青ヶ島はやはりすごかったです!

 

本誌乗り物担当 上岡 篤
2023年は撮影絡みのキャンプしかできず残念。仮にデリカミニを所有したらどんな体験ができるのだろうと想像を膨らませて、2024年こそはキャンプに出かけようと計画中。

【オシャレ系焚き火台】機能+美しさを備えて人気上昇!

軽さや収納性などの機能性は研究され尽くし、飽和状態かと思われていた焚き火台に、影を楽しむといった新たな視点を加え大ヒット。発売以来人気が衰えず、現在も1日10台以上コンスタントに売れている。

売上:8/影響:8/市場開拓:8

 

ネイティブアメリカンの文様が地面に美しく影を落とす

FUTURE FOX
ナバホ柄 焚き火台
1万9800円
2021年10月発売

本体側面にネイティブアメリカンのナバホ族が用いた伝統柄をあしらった焚き火台。火を灯すと柄が浮かび上がり、眺めながらゆったりとした時間を過ごせる。焚き火台の直径は40cmあり、薪をガンガンくべられる。

↑炎が灯るとナバホ柄が美しく浮かび上がる。炭が落ち着いてから見える柄の美しさも良いが、地面に映し出される影を眺めるのも楽しい

 

↑蹄鉄を使用したオリジナルの五徳が付属。馬に乗るネイティブアメリカンを想像して仕上げられている。質量は7kgあるが耐久性は抜群

 

新たな楽しみを付加した焚き火界の異端児

「焚き火の炎の作り出す影を楽しむなんて目からウロコ! 焚き火の新たな魅力に気づかせてくれました。五徳があれば料理ができるのも実用性が高いですね」(澄田さん)

 

オリジナルの五徳には調理器具を載せられる

「付属の蹄鉄をモチーフにした五徳は厚さ7mmと頑丈。重いですが、ケトルやスキレット、ダッチオーブンも載せられます。美しい柄を見ながら調理するのも風流です」(上岡)

 

【星空×列車旅】人気の星空観賞と鉄道の旅をマッチング

通常は車窓を楽しむ観光列車が、星を楽しむために夜間、星空列車として運行。各地でイベント的に開催されているが、運行回数が多いのはこの2つ。人気シーズンはほぼ満席になる人気ぶりだ。

売上:8/影響:9/市場開拓:9

 

JR線標高最高地点1375mで星空を眺めながらゆったり走行

JR東日本
HIGH RAIL 1375
840円(指定席料金)+乗車券代
2017年7月運行開始

小海線の小淵沢駅から小諸駅の間を、星空を見ながらゆったりと走る観光列車。車内は四季折々の星をモチーフにしたシートを配置する。途中停車の野辺山駅では沿線の星空案内人による星空観察会(約50分)も開催。

↑途中の野辺山駅では約50分の停車時間に、沿線の星空案内人による星空観察会を実施。季節の星座にまつわる話を楽しめる

 

↑2号車の「ギャラリーHIGH RAIL」では天文関連のことを学べる書籍を用意。プラネタリウムも設置され、非日常感を味わえる

 

光源がほとんどない湖上駅で星空をじっくり観察できる

大井川鐵道
大井川鐵道星空列車
星空列車特別乗車券1940円(大人)/小人970円
2018年12月運行開始

線路間に歯形レールを敷設し急こう配を登る、日本唯一のアプト式列車で楽しむ星空観賞列車。同鉄道井川線の千頭駅を出発したのち奥大井湖上駅で星空観賞、再び千頭駅まで戻るという運行だ。列車は定員制なので要注意。

↑急こう配区間では線路間の歯形レールと列車搭載の歯車がかみ合い走行するアプト式を採用。日中は四季折々の景色が楽しめると人気だ

 

↑星空観賞のために停車する奥大井湖上駅。光景の不思議さから「クールジャパンアワード」に認定された

 

秘境星空スポットでの鑑賞時間がたっぷり!

「標高の高い野辺山駅や鉄道でしか行けない奥大井湖上駅で星を眺められるのが魅力。途中の駅では1時間弱停車するので、思う存分、美しい星空を堪能できますよ」(澄田さん)

 

列車そのものだけではない人が作るサービスも魅力

「HIGH RAIL1375はJR東日本長野支社の社員発案のアイデアも魅力。今夏行われた特製弁当と軽井沢ブルワリーのクラフトビールとのコラボレーションもそのひとつです」(上岡)

首都東京のメガ物量拠点「東京貨物ターミナル駅」を解剖する【後編】

〜〜開業50周年を迎えた東京貨物ターミナル駅(東京都)〜〜

 

東京都品川区八潮に設けられた東京貨物ターミナル駅は、首都東京を代表する貨物駅として今年で開業50周年を迎えた。

 

前回は主に同駅の歴史やその機能、貨物列車の動きなどを紹介したが、今回は駅構内で行われる貨物列車や荷役機械の動き、そして最もよく使われている12ftコンテナの最新機能などに迫っていきたい。

*取材協力:日本貨物鉄道株式会社、株式会社丸和通運。2023(令和5)年3月22日の現地取材を元にまとめました。

 

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【関連記事】
首都東京のメガ物量拠点「東京貨物ターミナル駅」を解剖する【前編】

 

【巨大貨物駅を解剖⑥】隅田川駅発72列車の動きを追う

前回の紹介で、尻手短絡線で目撃した隅田川駅発の〝シャトル便〟はその後、南武支線、東海道貨物線の羽田トンネルをくぐって、東京貨物ターミナル駅(以下「東京(タ)」と略)へ向かう。列車を引いているのはEF66形式直流電気機関車だ。

 

このEF66形式は、かつて寝台特急ブルートレイン列車を牽引した〝国鉄形機関車〟だ。残念ながら基本番代のEF66形式27号機は昨年に引退となったが、今活躍する100番代は形やスタイルこそ多少違えども、そのDNAを引き継いでいる。ちなみに、同100番代は車両数が減少し、ここ数年での引退が予想されている。JR貨物では環境にやさしく、省エネルギーに役立つ新型車両を徐々に導入し、古くなりつつある電気機関車の置換えを進めているのだ。

↑東京(タ)の構内図。左側(北側)に着発線があり、右側(南側)がコンテナホームという構成になる

 

東京(タ)の場内を走る上り本線の構内踏切が鳴り始め、重厚な面持ちがあるEF66形式が牽引する72列車が勢いよく上り本線を入ってきた。同列車は一度、北側にある着発線へ入っていく。

↑隅田川駅発72列車が上り本線を入ってきた。取材した日は休日明けということもありコンテナの積み荷は少なめだった

 

入線した列車の撮影が終了してちょっと一息……と思ったら、72列車はすぐに折り返し、コンテナホームに入ってくることに気がつき、慌てて移動した。

 

【巨大貨物駅を解剖⑦】わずか7分で荷役線に進入してきた!

東京(タ)に入線してくる列車には2タイプがある。1つは着発線に到着したら、機関車を変更せず、そのまま後進してコンテナホームへ入ってくるもの。もう1つは、着発線で構内入換え用のHD300形式ハイブリッド機関車に引き継がれ、同機関車の後押しでコンテナホームに入ってくるものだ。

 

72列車の場合は前者で、休む間もなくコンテナホームへ後進して入ってくる。上り本線を通過したのが13時4分だったのだが、13時10分過ぎに構内踏切が鳴り出して列車の接近を知らせる。そして列車はコンテナ貨車を先頭にコンテナ8番線へ静かに滑り込んできた。先ほど我々の目の前を通り過ぎて、わずか7分後にコンテナホームに入線したのだった。

 

↑東京(タ)の構内踏切を通り過ぎる72列車。勢い良く後進してきた

 

このコンテナホームの構造を改めて見てみると、旅客用とは異なりホームといってもコンクリートの床面は低床だ。広々した平面ホームでフォークリフトなどの荷役機械や大型トラックが動きやすい造りとなっている。少し視線を上げてみると架線が構内踏切付近までしかないことに気がついた。

↑EF66形式がバックで列車を押してホームへ入線する。この構内踏切の場所までしか架線が設けられていない

 

架線のあるところまでは電気機関車が走れるわけで、その先は機関車が進入することがないため、コンテナホーム上に架線は設けられていないのだ。

 

荷役を行うフォークリフトは貨車の上でコンテナを持ち上げて運ぶことが必要になるため、架線があっては危険という理由もある。よって貨物駅の荷役ホームには架線がないところが多い。

 

ただし例外もあって、着発線で荷役が行えるように「E&S方式」を導入している貨物駅がある。「E&S方式」とは「着発線荷役」とも呼ばれ、このような駅の場合は、高さ制限を備えたフォークリフトを導入するなど工夫されている。

↑架線が設けられていないコンテナホームへの発着はHD300形式が北側に連結され、到着した貨物列車の後進運転を行う

 

【巨大貨物駅を解剖⑧】フォークリフトが素早く動き始める

取材班が密着した72列車はコンテナホームへ入ると、ホーム上に待機していた作業員が、積んでいたコンテナを固定する緊締装置(きんていそうち)の固定レバーを解錠して回る。片面でなく両面でこの解錠作業は行われる。

 

作業員が貨物列車の両側を、指さししつつ何かを確認している様子を貨物駅の外から見たことがないだろうか。これは先ほど見た解錠作業とは逆で、出発前にコンテナの緊締装置のレバーがコンテナをロックする位置になっているかを確認しているところだ。このコンテナを固定する緊締装置の確認作業が非常に重要になる。

 

長いホームいっぱいに停まった貨車20両に積まれたコンテナの緊締装置の解錠が終わると、フォークリフトが貨車に近寄り、該当するコンテナを持ち上げ移動させ、ホームの所定位置にコンテナを積み、近づいてきたトラックに載せていく。

↑72列車が到着して間もなく、フォークリフトを使ってのコンテナの積み下ろし作業が始められた

 

12ftのコンテナであれば、下にフォークリフトのフォーク部分を差す箇所が開いていて、そこへずれることなくフォークを差し込み、持ち上げて移動させていく。実に手際のよい作業だと感心させられる。

 

ちなみに、コンテナ貨車のすみには上部に突起が出ていて、積む場合には突起にコンテナ下部にある穴を合わせて降ろしていく。

 

そう簡単な作業とは思えないが、作業員に聞いてみると、フォークリフトの運転席は高い位置にあり四方はよく見えるが、前方はフォークを持ち上げる柱があり、コンテナをフォークで持ち上げてしまうと前が見えなくなって、視界はよくないらしい。積み下ろし作業には熟練の技が生かされているわけだ。

↑東京(タ)のコンテナホームでは大型トラックが多く走り、コンテナを受け取り、所定場所まで運ぶ作業も同時に行われている

さらに、該当するコンテナを素早く間違いなく貨車から降ろし、また出発に向けてコンテナを貨車に積み込んでいく。そのスピーディな動きには何か秘密があるのではと思った。

 

【巨大貨物駅を解剖⑨】JR貨物の12ftコンテナの秘密に迫る

かつてコンテナには荷票という行き先を記した紙が差し込まれていて、目の前を通る列車のコンテナがどこへ行くものか推測ができた。最近は荷票がないようだが、どのようにコンテナを動かしているのだろう。

 

この日、撮影できたのはJR貨物の最新型20G形式12ftコンテナ。従来の19G形式よりも高さを100mmほど高くして、〝かさ高品〟にも対応できるようにしている。

↑JR貨物の最新コンテナ20G形式を見る。開け閉めするレバーほか、RFIDタグと呼ばれるICタグがドアの左下隅に取り付けられる

 

20G形式は「側妻二方開き有蓋(ゆうがい)」と呼ぶ構造のコンテナで、正面と横の開け閉めが可能な形になっている。開ける時にはまず中央のロックピンを外し、開閉テコと呼ばれるレバーを上げる。

 

右の開閉テコの右下に荷票入れがあるが、撮影時にはコンテナ内は空で、どこかへ運ぶものでもないので荷票も差し込まれていないと推測したのだが、スタッフに聞いてみると、荷票は現在、ほぼ使われないそうで、代わりにRFIDタグと呼ばれるパーツが使われていた。このIDタグ(無線ICタグ)が優れものだった。

↑20G形式は鋼製の箱の中に木製の板が貼られた、5トン積み側妻二方開き有蓋タイプだ。室内には「偏積注意」の注意書きが貼られる

 

調べてみると2005(平成17)年8月に導入された「IT FRENTS & TRACEシステム」と呼ばれるシステムに組み込まれたもので、GPSとIDタグにより貨物駅構内で、コンテナがどこに置かれているか、その位置が数10センチ単位で把握できるそうだ。IDタグは貨車にも付けられている。

 

このシステムにより、コンテナの位置の把握だけでなく、積み下ろしてどこに置くか、どこへ運べばよいか、フォークリフトなどの荷役機械に搭載した装置が指示を出す。作業員はこの指示に合わせたコンテナを動かし、所定の貨車やトラックへの積み込みを行う。

 

【巨大貨物駅を解剖⑩】遠隔で監視を行う12tクールコンテナ

今回の東京(タ)の取材では、12ftコンテナとともに最新12ftクールコンテナを撮影する機会を得た。こちらも優れた機能を持っている。

↑桃太郎マークが付いた12ftクールコンテナ。右側にエンジン付き冷凍機が取り付けられている

 

株式会社丸和通運の12ftクールコンテナで、UF16Aという形式名が付く。コンテナはJR貨物のコンテナと、私企業が用意した私有コンテナに分けられるが、このコンテナは私有コンテナにあたる。

 

JR貨物の12ftコンテナと大きさはほぼ同じだが、端にエンジン付き冷凍機が装着されている。温度設定は+20度〜−25度の範囲、0.5度刻みで設定が可能だ。このコンテナで生鮮産品、冷蔵冷凍品などを温度管理しつつ輸送できるというわけである。

 

丸和通運では152台を所有、全コンテナに通信機能が搭載されていて、温度設定、庫内温度の確認、変更ができる。コンテナの場所はもちろん、エンジン燃料の残量まで分かるそうだ。もちろんJR貨物のIDタグも装着されている。

 

鉄道輸送用のコンテナは、ここまでハイテク化されていたわけだ。

↑12ftクールコンテナの内部。左上に冷風口が付けられている。細かい温度設定(左円内)も可能で、しかも遠隔操作できる

 

【巨大貨物駅を解剖⑪】31ftコンテナの積み込み作業は?

コンテナ貨車には12ftコンテナを5個積むことができる。12ftコンテナより大きなコンテナを積んでいる姿を見ることもあるが、こちらは31ftが多い。ちなみに、31ftコンテナはコンテナ貨車に2個積むことができる。今回の東京(タ)の取材では最後に31ftコンテナの積み下ろし作業を見ることができた。

 

撮影したのはJR貨物の31ftコンテナ49A形式で、ウィング片妻開き有蓋という機能を持つ。このコンテナの移動にはフォークリフトよりも一回り大きな、トップリフターが使われている。

↑トップリフターがJR貨物の31ftコンテナを貨車の所定位置への積み込みを行う

 

トップリフターの上部リフトが31ftコンテナ上部の四つ角にある窪みに、ツメを絡ませて持ち上げて運んでいく。コンテナ貨車の所定位置に積み込み、わずかな時間で作業が完了となる。見守っていると、あっという間なのだが、これも熟練の技なのであろう。

 

もちろん31ftコンテナにもコンテナ貨車にもIDタグが付けられ、間違いなく貨車の所定位置に積まれていく。そして、作業員が貨車に付いた緊締装置のレバーを操作し、固定されていることを指さし確認して作業は終了したのだった。

↑JR貨物の31ftコンテナはウィングコンテナと呼ばれる機能を持ち、積んだ荷物を積み下ろししやすい構造となっている

 

↑コンテナ貨車のコキ107形式の上部を見ると、このようなツメが設けられている。その横には緊締装置に解錠レバー、IDタグが付く

 

改めて東京(タ)を取材撮影してみて、現在の貨物列車の動き、またコンテナの移動作業などに触れらたことで、スムーズに行われる作業の裏でコンピュータ管理された物流の今を知ることができた。

 

その一方で、荷役機械によるコンテナの移動では熟練の技が生かされ、コンテナが輸送中にトラブルに遭わないように、緊締装置の解錠レバーを指さし確認する姿を目にした。ハイテク化しつつも、大切なのは人が磨いた技や、常日ごろから怠りなく行う確認作業なのかもしれない。そう感じた東京貨物ターミナル駅の取材撮影だった。

東武鉄道フラッグシップ特急「スペーシアX」がお披露目! 独自の車体・豪華な車内を詳細レポート

〜〜南栗橋車両管区でN100系「スペーシア X」を公開(埼玉県)〜〜

 

今年の7月15日に運転を開始する東武新特急「SPACIA X(スペーシア エックス)」。100系スペーシア以来、約33年ぶりに東武のフラッグシップ特急として登場する。2023年度までに6両×4編成が導入される予定だ。

 

先日、東武鉄道の南栗橋車両管区でN100系スペーシア Xが報道陣にお披露目された。新しい特急電車らしく魅力はふんだんにあり、さらにとっておきの秘密を見つけることができた。

*取材協力:東武鉄道株式会社

 

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【関連記事】
乗ってみてわかった東武鉄道「リバティ」のすごさ!新型特急の快適さに鉄道マニアも脱帽

 

【新型特急の秘密①】1号&6号車の窓はXのデザイン!

まずは新特急の外観をじっくり見ることにしよう。

 

車体カラーは日光東照宮陽明門に塗られた「胡粉(ごふん)」に着想を得たとされる青みのかかった「白」。訪れた日は晴天に恵まれ、大空の下、空の色が反射しているのか、薄い水色に見えた。雲が多少かかると、薄い紫色といったイメージに。高級感あふれる美しい車体だった。

 

外観では窓枠の造りがおもしろい。1号車と6号車は六角形のガラス窓が並び、窓周りのデザインはXに見える。

↑浅草側の先頭車・6号車。正面にかけて流れるような曲線と運転席周りの造作が良くマッチしている

 

この窓枠は東武スカイツリーラインや東武日光線沿線の鹿沼組子、江戸の竹編み細工を連想させるもの、と東武鉄道では解説している。これまでにないおしゃれなデザインだ。この模様は車内にも多く組み込まれている。

↑1・6号車の側面窓は六角形。加えられたX模様がユニークだ。運転席の横と後ろの窓は〝不等辺な〟三角形、五角形なのが目を引く

 

↑スペーシア X のロゴが5〜6号車の間に入る。5号車から先の窓部分を見ると、パンダの黒白模様にも見えてしまった

 

2号車から5号車は四角い小さめの窓で、これには実は理由があった(詳細後述)。

 

正面のライトのデザインもユニークだ。運転席のガラス窓の下に装着されたLEDライトは39のドットで構成されている。ロービームの場合は光が台形の形をしているが、ハイビームにすると「T」字型になる。これは東武の「T」をイメージしたもの。ライト一つにしてもお洒落心が加えられているわけだ。

↑LEDライト39個で構成された正面ライト。左がハイビーム状態で「T」の字に見える。右はロービームの状態で台形の形だ

 

↑真正面からヘッドライトとテールライトを写す。左のハイビーム状態は意外に明るい。右はテールライト点灯時のもの

 

車外表示器はスペーシア X の列車番号、行き先等が表示されていた。実はこちらはLCDディスプレイ(東武鉄道ではLCD搭載ガラスサイネージと表現)が使われる。一般的な電車にはLED表示器がよく使われているが、どこが違うのだろう。

 

LCDとは液晶ディスプレイのこと。つまりこの車外表示器は私たちが日常的に使っているものに近い。文字がくっきり見やすいだけでなく多彩な映像演出もできる。このLCDディスプレイがスペーシア X 車内の意外なところで使われていた。

↑側面の車外表示器にはLCDディスプレイが使われている。映像なども流すことが可能だ

 

【新型特急の秘密②】1号車の運転席後ろの席は超激戦となる!?

ここからは車内の紹介をしていこう。まずは1号車「コックピットラウンジ」から。東武日光側の運転席の後ろに設けられた指定席で、1人、2人、4人用に各種ソファとテーブルが用意される。

↑2人用ソファと4人用ソファが通路をはさんで設けられる。運転席の後ろには1人用のソファを左右に備えている

 

1号車の「コックピットラウンジ」は、日光の老舗リゾートホテル「日光金谷ホテル」や大使館の別荘などがモチーフにされたそうだ。

 

デッキ側にはカフェカウンターもある。カウンター内にはコーヒーの豆を挽くコーヒーミルに、ドリップ式のコーヒーメーカーを設置。さらにビールサーバーが設けられている。こちらでは挽きたて入れたてのクラフトコーヒー「日光珈琲」に、クリーミーな泡が楽しめるクラフトビール(日光地元産に加えて全国各地の厳選クラフトビールを用意)を味わいつつ、運転室の背後からの展望や、移り行く景色を楽しむことができるわけだ。

 

同列車では特急券+座席を指定しての着席となる(料金は後述)。ちなみに1号車運転席のすぐ後ろ左右には1人用のソファが2つある。東武日光側の先頭車とあって、この2席は高倍率の人気席となりそうだ。

 

ちなみに4月現在、カフェカウンターの細かなサービス内容は決まっていない。1号車以外への車内サービスもお願いしたいところだ。

↑什器備品が調えられたカフェカウンター。コーヒーミルも設置されていた。またビールサーバーも備えている(右下)

 

【新型特急の秘密③】デッキ&通路といえども侮れない!

1号車から移動しようとデッキに出て驚いた。天井部分に42インチLCDガラスサイネージ「天窓表示器」(LCDディスプレイ)が付けられている。車体側面に付いたディスプレイよりもかなり大きい。そこには青空、雲の流れ、樹林、星空の映像が流されている。列車のデッキにもかかわらず、まるでオープンカーから空を眺めるような映像が楽しめるわけだ。

↑東武沿線の林間を走るような映像がディスプレイに映される。まるで木漏れ日を受けて走るような感覚だ

 

加えてデッキにはアロマディフューザーが設置され、心地よさが感じられる。デッキの車内案内の上に細かい穴が設けられていたが、ここから香りが放たれていたのだ。

 

【新型特急の秘密④】シンプル&快適に旅が楽しめる2号車

2号車はグリーン席にあたる「プレミアムシート」となる。1列と2列並びのシートがダークグレーのじゅうたんの上に配置されていた。

 

シートピッチは1200mmと広く、横幅もゆったりしている。さらに、バックシェル構造の座席を採用したこともあり、後ろに座る人へ配慮せずとも、席をリクライニングさせることができる。

↑通路をはさみ1席と2席が並ぶプレミアムシート。足を置くスペース、シートピッチもたっぷりしたサイズが確保される

 

↑プレミアムシートのシートを目一杯に倒してみた様子。バックシェル構造のため、後ろの席を気にせず利用できる。右下はボタン類

 

↑ひじ掛け内にインアームテーブルが内装され、開くとこの形に。ほかボトルスペースとコンセント(右下)、読書灯が付く(右上)

 

【新型特急の秘密⑤】スタンダードシートで粋なデザインを発見!

3号車から5号車は普通車にあたる「スタンダードシート」が設けられる。中央の通路の左右に2席ずつ連なる形だ。淡いグレーの座席で座り心地はなかなか上質だった。

↑2席が横並びに並ぶスタンダードシート。3・4号車と5号車の半室がスタンダードシートとなる

 

シートを倒してみると意外に倒すことができる。例えば、4人グループが利用する時に対面する位置に向きを変え、シートを倒しても後ろの席にぶつかることのないスペースが確保されている。東武鉄道の特急「500系Revaty(リバティ)」と比較してシートピッチは100mmも広がっているそうだ。さらに秘密が隠されていた。

↑スタンダードシートには2つの折畳みテーブルがある。前のイスの背面と、さらにひじ掛け部分には折畳み小テーブル(左下)を内装

 

車外から見ると、スタンダードシートの車両の窓が意外に小さめに見えたのだが、実は、これが座席にぴったり合わせたサイズになっていた。広い窓は景色がよくみえる長所があるものの、シェードやカーテンを閉めるとき、前後に座る人への配慮が必要になる。個々に合わせたサイズならば気遣いをせずにすむわけだ。

 

スタンダードシートにはまだ秘密が隠されていた。それはテーブルだ。前の座席の背面に折り畳まれた大きめのテーブルが1個設けらていれる。さらにひじ掛け部分に小テーブルが収納されているおり、使い分けができるわけだ。小テーブルのデザインは六角形で、スペーシア X の多くの箇所で見られる鹿沼組子の紋様が使われていた。

 

取材当日、3号車では技術スタッフが乗車して、座面を取り除き座席のベース部分を見せて解説をしていた。座面を外したベース部分はメッシュ状の造り。ベースに金属ではなくこうしたメッシュ状の素材を使うことにより、座り心地を改善しているそうだ。

↑座席の向きを変えてシートを倒しても、後ろに触れないスペースを確保。座席のベース部分にはメッシュ状の素材が使われる(左下)

 

↑ボトルケースは折り畳んだ上下の支え部分が一緒に出る仕組み。ボトルケースの上にはコンセントが設けられている

 

【新型特急の秘密⑥】テレワークにもぴったりなボックスシート

次の5号車の連結器側には「ボックスシート」がある。東武鉄道では「向かい合う2シートにより構成した半個室仕様」と解説している。このシートへ入ってしまうと、個室のように他人の目を気にせずに済む。1人、もしくは2人連れにぴったりの席と言っていいだろう。

 

ちなみに、コンセントが装着されているので、東武鉄道では「車窓を眺めながらのテレワークにも対応します」としている。朝晩、通勤・通学で利用する人も多いことを意識してのPRなのかもしれない。

↑ボックスシート部分に合わせたサイズの窓も設けられている。テーブルもあり、テレワークにも使えそうだ

 

↑5号車に設けられた車いすスペース。「新移動等円滑化基準」に準拠したスペースを備える

 

【新型特急の秘密⑦】デッキや通路とはいえお役立ち感が満載!

最終6号車へ移る前に、通路・デッキ部分を見ておこう。5号車の通路部分にはバリアフリートイレ、洗面設備などに加えて東武鉄道初の多目的室が備えられた。多目的室は体調が悪くなった利用者、授乳する人などが自由に使えるスペースとなっている。

 

また来日訪問客の乗車に備え、大型荷物置場が設けられた(車内5か所用意)。こちらは交通系ICカードを利用して盗難防止用のワイヤロックができる仕組みだ。

↑5号車の通路部分に設けられた洗面設備、隣に多目的室(右上)、バリアフリートイレ(右下)が並ぶ

 

↑大型荷物置場用のバゲッジポート。交通系ICカードを利用すれば盗難防止用のワイヤロックを使っての施錠が可能になる

 

【新型特急の秘密⑧】6号車に東武特急定番の〝特上〟個室を用意

浅草駅側の6号車には個室とスイートルームがある。個室の「コンパートメント」は全4室。コの字型にソファーを配置し、大人4人がくつろげる。

 

さらに運転室側は「コックピットスイート」。7名までの利用が可能で大小ソファと、テーブルが用意され、グループや家族向けのスペースとなる。運転室とはガラスで仕切られていて、室内から前面および後方の景色を楽しむことができる贅沢な部屋だ。

↑通路の横に個室「コンパートメント」が4室並ぶ。一番奥がコックピットスイートとなる

 

↑こちらはコンパートメント。4名用にソファとテーブルを備えている

 

↑運転室のすぐ後ろにある「コックピットスイート」。最大7名用で面積は11平方メートルと私鉄では最大級の個室の広さだ

 

最後に料金を確認しておこう。

 

◇特急料金1名(料金は浅草〜東武日光・鬼怒川温泉間の場合・乗車運賃を除く)
スタンダードシート:1940円
プレミアムシート:2520円

◇特別座席料金(スタンダードシート料金にプラス以下の料金が必要)
1号車【コックピットラウンジ】1人用:200円、2人用:400円、4人用:800円
5号車【ボックスシート】(2人定員)1室:400円
6号車【コンパートメント】(4人定員)1室:6040円
6号車【コックピットスイート】(7人定員)1室:1万2180円

 

7月15日からの運転開始ながら、早くも旅行代理店の商品としてスペーシア X のプレミアムシート、コンパートメント、コックピットスイートと旅館・ホテルの宿泊を組み合わせた旅行プランの販売が開始されている。

 

個室はなかなか高額だが、一方でコックピットラウンジは割安感がある。運転開始当初は指定券の購入が難しいプレミアムチケットになりそうだ。沿線をさっそうと駆けるスペーシア X の姿を楽しみにしたい。

↑スペーシア X の運転室。運転台左にL型ワンハンドル式主幹制御器がある。前面ガラスに2次曲線ガラスを採用し、十分な前方視界を確保

 

首都東京のメガ物量拠点「東京貨物ターミナル駅」を解剖する【前編】

〜〜開業50周年を迎えた東京貨物ターミナル駅(東京都)〜〜

 

今年2023(令和5)年は新橋と横浜の間を貨物列車が走り始めて150周年の記念の年にあたる。さらに首都東京の物流拠点「東京貨物ターミナル駅」が生まれてちょうど50年を迎えた。

 

東京貨物ターミナル駅と言われても、何をしているところなのかよく分からないという方が多いのではないだろうか。そこで同駅の取材撮影を試みた。貨物列車が日々どのように走り、また荷物が動いているのか、今週と来週の2回に分けて巨大貨物駅を解剖してみたい。

*取材協力:日本貨物鉄道株式会社。2023(令和5)年3月22日の現地取材を元にまとめました。参考資料:「写真でみる貨物鉄道百三十年」(日本貨物鉄道株式会社刊)など

 

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【フォトギャラリー(画像をタップすると閲覧できます)】

 

【巨大貨物駅を解剖①】50年前に開業した東京貨物ターミナル

旅客列車の運行開始の翌年にあたる1873(明治6)年9月15日に、新橋〜横浜間を有蓋車7両、無蓋車8両の計15両の貨車を引き、1日2往復(不定期便も含む)の貨物列車が走り始めた。

 

その後、日本の貨物輸送は急速に発展。戦後の高度成長期には輸送量が急増し、既存の設備だけではさばききれなくなる。首都東京の貨物駅は鉄道創始のころから汐留駅(現在の汐留駅とは異なる)と、隅田川駅の2大拠点で行われてきたが、そのうち汐留駅および東海道本線が扱う輸送量は限界を迎えつつあった。

 

そこで1973(昭和48)年10月1日に生まれたのが東京貨物ターミナル駅だ。同駅を通る新線、東海道貨物線(「東海道貨物別線」「東海道貨物支線」とも呼ばれる)も設けられた。

↑1975(昭和50)年当時の東京貨物ターミナル駅全景 写真:株式会社ジェイアール貨物・不動産開発 「写真でみる貨物鉄道百三十年」から引用

 

掲載の写真は東京貨物ターミナル駅(以下一部「東京(タ)」と略)が開設されて2年後のころの航空写真だ。敷地内は平屋建ての建物が多く、また周辺部にも倉庫などがなかったことが分かる。

 

東京(タ)が開業後も、汐留駅の貨物駅としての機能は残されていたが1986(昭和61)年11月1日に廃止となった。その後も浜松町駅〜東京(タ)を結ぶ東海道貨物線の路線は残され、カートレイン九州などの運行に使われていたが、こうした列車も廃止され、東京(タ)より北の線路は「休止」という形で使われなくなった。

↑東京貨物ターミナル駅の北側を望む。同駅と浜松町駅間の東海道貨物線は現在、休止中という扱いになっている

 

実は東京(タ)を開業させるにあたり、当時の国鉄は同駅を最大限に生かすプランを持っていた。東京(タ)に千葉方面、京葉線から直接アクセスする路線計画を描いていたのである。京葉線は元々、貨物線として計画されたもので、京葉線から武蔵野線経由で常磐線方面、東北本線方面へのアクセルをスムーズにし、全方向から東京(タ)へスムーズにアクセスするルートが考えられていた。全国からの貨物列車を受け入れ、東京(タ)をそれこそ首都の物流拠点として使おうと考えたわけだ。ところが、浜松町駅からの路線は休止となり、京葉線からの路線も開業に至らなかった。

 

ちなみに、東京高速りんかい線の線路は東京(タ)の東隣まで到達していて検修庫が設けられている。さらに東京高速りんかい線の線路は京葉線と結びついている。これらの路線を結びつけようと思えば可能だったわけだが、JRが分割民営化してしまった以上、見果てぬ夢に終わってしまった。

 

【巨大貨物駅を解剖②】北・中央・南上空から貨物駅を眺める

東京貨物ターミナル駅は貨車個々の荷物の積み下ろしに対応した駅でなく、コンテナ輸送の専用駅として生まれた。その規模はとにかく大きい。南北に長く、その長さは3600m、東西も最長600m、総面積は75万平米にも及ぶ。よく大きさの比較に用いられる東京ドームだが、東京ドームが16個入る大きさとなる。まったく予測が付かない大きさだ。

 

東京(タ)を構内図と写真でその姿を見ていこう。まずは北側に機待線があり、連なるように貨物列車が発着する着発線がある。西隣には留置線があり、こちらにはすぐ動くことのない貨車や時間待ちする貨物列車などが留め置かれる。

↑東京貨物ターミナル駅の構内図。北から留置線、着発線、中央部に機留線、南側に荷役線、コンテナホームがある(本図は略図)

 

↑都道316号線、北部陸橋から望む東京貨物ターミナル。このあたりが北限で、ちょうどHD300牽引の貨車が入換え作業を行っていた

 

中央部には機留線があり、大井機関区という車両基地で検査・修繕され、出番を待つ電気機関車、入換え用のハイブリッド機関車HD300形式が留められる。このすぐ上には公道の大井中央陸橋が東西を結んでいて、東京モノレールの大井競馬場前駅から徒歩圏内ということもあり、同駅や、隣接するJR東海の大井車両基地を陸橋の上から眺めようと訪れる人の姿をよく見かける。

 

このエリアにはJR貨物の研修施設もあり、乗務員育成のための運転シミュレータ施設なども設けられている。つまり東京貨物ターミナルは貨物駅機能だけでなく、JR貨物にとって大事な諸施設が併設されているわけだ。

↑機留線にはJR貨物のEF210形式やEF65形式、入れ替え専用機のHD300形式が停められている。みな同エリアで出番を待っているわけだ

 

大井中央陸橋の南側には荷役スペースにあたるコンテナホームが広がっている。荷役線が多く設けられコンテナホームへ線路が続き、ホームは6番線から21番線(一部通し番号に抜けあり)がある。

 

このコンテナホームへはひっきりなしに発着列車があり、フォークリフトなどの荷役機械や大型トラックが動き回る様子が見てとれる。

 

↑東京貨物ターミナル駅の南側に設けられたコンテナホーム。膨大な数のコンテナが置かれている様子が見える

 

最近、コンテナホームがある南エリアで大きな変化があった。都道316号線に沿ったところに「東京レールゲート」という大きな建物が2棟建ったのである。この施設は何なのだろうか。

 

【巨大貨物駅を解剖③】新たに誕生したレールゲートとは?

2020(令和2)年3月にまず「東京レールゲートWEST」が誕生。さらに2022(令和4)年7月15日に「東京レールゲートEAST」が完成した。「東京レールゲートEAST」はWESTの約3倍の賃貸面積だというから、東京(タ)の規模とともに想像が付きにくい。

 

レールゲートとはJR貨物初の「マルチテナント型物流施設」で、フロアごとにテナント賃貸を行い、借りた側はここで集荷、配達、保管、荷役、梱包、流通加工などに使うことができる。大型トラックの出入りができることもあり、企業の物流拠点としてこの施設を使えるというわけだ。

 

東京(タ)は貨物列車の発着地点であるだけでなく、東京港、羽田空港にも近い。企業にとって利便性が高く利用価値が高いこともあり、早くも名の知られた企業が入居し、拠点として生かし始めている。

↑東京貨物ターミナル駅のメインゲート横に建つ東京レールゲートWEST。大型トラック出入り用のスロープが裏手にある

 

【巨大貨物駅を解剖④】西日本方面への貨物列車が圧倒的に多い

東京(タ)は国内の貨物駅として最大の発着トン数を誇る。その量は1日平均7127トンにも及ぶ(2021年度)。年間に直すと約260万トンとなる。成田国際空港が扱う国際線貨物便の貨物量が235.6万トン(2022年)とされているので、1つの貨物駅で成田国際空港の国際便の貨物量を凌いでいるわけだ。

 

ちなみに国内の貨物駅では2位が札幌貨物ターミナル駅で6464トン、同じ都内にある隅田川駅は8位となり3355トンとなる。

 

東京(タ)の貨物列車の発着は1日に80本ほど(定期便・臨時便を含む)。発着する貨物列車はどこからやってきて、どこへ発車していくのだろう。時刻表を元に発車する定期列車(臨時列車を除く)全33列車の行き先をチェックしてみた。東京(タ)を発車する貨物列車は次のとおりだ(2023年3月18日現在)。

↑東京貨物ターミナル駅の上り本線を入線する貨物列車。このあと着発線へ向かい、コンテナホームへ入線していく

 

首都圏 隅田川駅行4本、宇都宮貨物ターミナル駅行2本、相模貨物駅行など6本
東北地方 酒田駅行1本、泉(小名浜)駅行1本
東海中部地方 名古屋貨物ターミナル駅行1本
近畿地方 安治川口駅行2本、大阪貨物ターミナル駅行2本、百済貨物ターミナル駅行など2本
中国・四国地方 広島貨物ターミナル駅行2本、東福山駅行2本、新居浜駅行1本
九州地方 福岡貨物ターミナル駅行7本、鹿児島貨物ターミナル駅行1本

 

↑東京貨物ターミナル駅発の東福山駅行5061列車が川崎市内を走る。東福山駅行は1日に2本が発車している

 

この数字を見ると東京(タ)から発車する列車は福岡貨物ターミナル駅行の7本をトップに、近畿地方、そして中国地方、九州地方へ向かう列車が多いことが分かる。また同じ東京都内の隅田川駅が4本と多い。

 

一方で東日本、北海道への貨物列車が少ない。東北、日本海方面、北海道行の列車は隅田川駅を起点に発着する列車が多い。東京(タ)は西日本行、隅田川駅は東日本と棲み分けが行われているわけだ。こうした棲み分けをしている理由は東京(タ)を取り巻く路線網にある。

↑東京都荒川区にある隅田川駅。開業は1896(明治29)年のことで東北や北海道、日本海方面への列車が多い

 

【巨大貨物駅を解剖⑤】東海道貨物線を南にたどっていくと

東京(タ)がある東海道貨物線は現在、浜松町駅間との路線が閉ざされている。そのため東京(タ)を発着する列車は南側の路線から出入りせざるを得ない。東京(タ)からは、まず大田市場、羽田空港の西側地下を羽田トンネル(6472m)で抜けていく。

↑東京貨物ターミナル駅を発車した貨物列車は東京港野鳥公園、そして大田市場の下を通る羽田トンネルへ入線する

 

↑東京(タ)を取り巻く路線網。東京(タ)と北を結ぶ路線が無いことがわかる 地図提供:日本貨物鉄道株式会社

 

地図を見て分かるように、貨物列車が走ることができる路線は東京(タ)の北側にない。東京(タ)を発着する貨物列車は必ず、川崎貨物駅の横を通り、浜川崎駅から南武支線の八丁畷駅(はっちょうなわてえき)方面へ走らなければいけない。

 

西日本方面へは東海道貨物線から東海道本線へスムーズに走ることができるが、北へ向かおうとすると思いのほか厄介だ。

↑南武支線の川崎新町駅付近を走る東京(タ)発の貨物列車。ここから八丁畷駅を通過して東海道へ、また新鶴見信号場へ向かう

 

東京(タ)から北へ向かう列車は、南武支線の八丁畷駅から南武線の尻手駅(しってえき)へ向かい、通称尻手短絡線という単線ルートをたどり、品鶴線(ひんかくせん/現在は横須賀線などの列車が通る)の新鶴見信号場へ向かう。そこから東北本線、高崎線方面への列車は武蔵野線を通って、大宮操車場経由で走る。常磐線や隅田川駅、千葉方面へは武蔵野線をそのまま走る。

 

こうした手間が生じるため、東北方面や北関東、日本海方面への貨物列車は隅田川駅発着便が多くなっている。隅田川駅からは田端信号場を経て東北本線方面へ、スムーズに出入りできるからだ。

 

同じ都内の貨物駅とはいうものの東京(タ)と隅田川駅の間を結ぶ直線ルートがないため、武蔵野線経由で輸送が行われる。両駅間の輸送量は多く、両駅を結ぶ〝シャトル便〟が1日に4往復している。

 

次回は隅田川駅発、東京(タ)着の〝シャトル便〟の動きから、到着列車の動きを追うとともに、東京(タ)の場内の模様をレポートしたい。

↑品鶴線の新鶴見信号場と南武線の尻手駅を結ぶ尻手短絡線。ちょうど東京(タ)へ向かう隅田川駅発72列車が通過していった

 

正式な線名より通称で親しまれる「宇野線」のちょっと切ない現実

おもしろローカル線の旅112〜〜JR西日本・宇野線(岡山県)〜〜

 

瀬戸大橋線と聞けば、瀬戸内海を渡り岡山県と香川県を結ぶ路線と多くの方がご存知だろう。では、宇野線はどうだろう? 実は、瀬戸大橋線は路線の通称で、岡山県側の岡山駅と茶屋町駅(ちゃやまちえき)間の正式な路線名は宇野線なのだ。

 

ここまで通称が一般化してしまい、正式名称があまり知られていない路線も珍しい。今回はそんな宇野線の旅を楽しんだ。

*2014(平成26)年9月1日〜2023(令和5)年3月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【宇野線の旅①】瀬戸大橋線は通称で本当の路線名は宇野線

宇野線の歴史は古い。今から113年前の1910(明治43)年に路線の歴史が始まった。まずはその概要を見ておこう。

路線と距離 JR西日本・宇野線:岡山駅〜宇野駅間32.8km、全線電化単線および複線
開業 鉄道省官設の宇野線として岡山駅〜宇野駅間が1910(明治43)6月12日に開業
駅数 15駅(起終点駅を含む)

 

山陽本線を開業させた山陽鉄道が、鉄道国有法により1906(明治39)年に国有化。4年後の1910(明治43)6月12日に山陽本線の岡山駅〜宇野駅間に官設の路線を敷かれた。この開業日に合わせて宇野港と四国、高松港を結ぶ連絡船の運航も開始。宇高連絡船の始まりである。

 

78年後の1988(昭和63)年の瀬戸大橋開通にともない、茶屋町駅〜宇多津駅間を結ぶ本四備讃線(ほんしびさんせん)も開業、本州・四国間を列車が走るようになった。この本四備讃線と宇野線の一部を合わせて「瀬戸大橋線」と呼ぶようになる。一方、宇高連絡船は長年にわたる役目を追え、宇野線も連絡船へのアクセス線としての使命を終えた。

 

瀬戸大橋の開通以降、宇野線の茶屋町駅〜宇野駅間17.9kmは瀬戸大橋線の支線の扱いとなり、ローカル色の強い区間となっている。

 

【宇野線の旅②】国鉄形のほかバラエティに富む走行車両

次に宇野線を走る車両を見ていこう。岡山駅〜茶屋町駅間はJR四国の車両が乗入れていることもあり、車両はバラエティに富んでいる。一方、茶屋町駅〜宇野駅間は普通列車が大半で、走る車両の種類も少ない。まず岡山駅〜宇野駅間を通して走る車両から紹介したい。

 

◆113系・115系電車

↑早島駅付近を走る115系電車。113系とともに大半が濃黄色で塗られている。JR西日本の車両は側面窓などリメイクしているものが多い

 

113系、115系ともに国鉄時代に製造された近郊形電車で、115系は山岳路線を走れるように電動機などが強化されている。岡山地区を走る両形式は一部を除き濃黄色で、全車が下関総合車両所岡山電車支所に配置され、宇野線の全区間を走る。

 

今後、広島地区に先に導入された227系が色を変更して岡山地区に投入される予定だが、岡山地区の113系・115系は車両数が昨年春の段階で209両と多いこともあり、まだまだ走り続けそうだ。

 

◆213系電車

↑宇野駅のホームに停車する213系。写真は中間車を改造した先頭車で、車両の縁が角張った個性的な姿をしている

 

国鉄時代の末期に造られた211系近郊形電車の側面の乗降ドア3つを2つに改めた車両で、JR移行後にもJR東海、JR西日本で製造が進められた。JR西日本の車両は213系の基本番台で、本四備讃線用に先行して導入され、当初は「快速マリンライナー」としても運用された。宇野線では現在2両編成の車両が中心に使われていて、特に茶屋町駅〜宇野駅間を往復する列車に使われることが多い。

 

宇野線の観光列車として親しまれる「ラ・マル・ド・ボァ」も213系を改造した車両で、同線の各駅のデザインや塗装は、この観光列車とイメージに合わせて変更されている。

↑213系を改造した観光列車「ラ・マル・ド・ボア」。白をベースにマリンイメージ+黒文字入り電車2両が宇野線を走る

 

ほかにも宇野線の岡山駅〜茶屋町駅間では多くの車両が走っているので、書き出してみよう。

 

◆JR西日本の車両

・285系 特急「サンライズ瀬戸」:JR東海との共同運行により東京駅〜高松駅間を走る。日本で唯一の定期運行される寝台特急でもある。

・223系:快速「マリンライナー」として岡山駅〜高松駅間を走行、JR四国の5000系と編成を組んで走る。

 

◆JR四国の車両

・8000系 特急「しおかぜ」:岡山駅〜松山駅間を走る電車特急。四国内では高松発着の特急「いしづち」と連結して走る。

・8600系 特急「しおかぜ」:一部列車はより新しい8600系で運行されている。

・2700系 特急「南風(なんぷう)」:岡山駅〜高知駅を走るディーゼル特急。一部はアンパンマン列車として運行される。同じ2700系を利用した徳島駅行、特急「うずしお」も一部列車が岡山駅へ乗入れている。

・5000系 快速「マリンライナー」:「マリンライナー」は岡山駅〜高松駅間を走る快速列車で、高松駅側に連結される2階建て車両が5000系となる。JR西日本の223系と編成を組んで走る。

 

ほかにJR四国の観光列車「瀬戸大橋アンパンマントロッコ」なども運行している。

↑宇野線を走る代表的な4車両。JR西日本の車両に加えてJR四国の車両が多く乗入れている

 

◆JR貨物の車両

EF210形式・EF65形式電気機関車+コンテナ貨車:宇野線(瀬戸大橋線)は貨物列車にとっても重要な路線で、岡山と高松を結ぶ貨物列車が1日に5往復(臨時列車を含む)走っている。貨車には目一杯にコンテナが積まれていることも多く、本州と四国を結ぶ大動脈として、活かされていることが分かる。

↑早島駅付近を通過する高松貨物ターミナル駅行き貨物列車。牽引するのはEF210-300番代エコパワー桃太郎だ

 

【宇野線の旅③】岡山駅から出発後、単線で山陽本線を越える

それでは岡山駅から宇野線の旅をスタートさせよう。岡山駅は中国地方最大のターミナル駅で、在来線のホームだけで1〜10番線まである。宇野線(瀬戸大橋線)方面への列車は5〜8番線から発車する。ホームの表示は「瀬戸大橋線」「宇野みなと線」といった具合で、宇野線の表示はほぼない。

 

5番線から発着の列車は少なく、6番線・8番線が特急列車や快速「マリンライナー」の発着で賑わう。両ホームの西側に行き止まり式ホームの7番線があり、ここから普通列車が発着する。宇野駅まで走る直通普通列車は、昼の運行列車(観光列車を除く)がほぼないものの、本数は1日に12本と多く幹線の趣なのだが、乗車すると様子が一変する。

 

本州と四国を結ぶ大動脈・瀬戸大橋線なのだから、岡山駅からのルートは全線が複線だろうと思いがちだが、岡山駅からは単線区間で始まる。

↑桃太郎の銅像が駅前に立つ岡山駅(左下)。山陽本線をまたぐ宇野線の単線ルートを快速「マリンライナー」が走る

 

【宇野線の旅④】宇野まで大きく迂回して走った理由は?

宇野線の単線区間は、まず山陽本線を高架橋で立体交差し、その後山陽新幹線の路線をくぐり高架線を走る。岡山市街を走る途中からようやく複線となり最初の駅の大元駅へ到着。この先も複線が続くのかなと思っていると再び単線区間へ入る。こうした複線区間と単線区間の繰り返しが茶屋町駅まで続く。走る列車が途中で信号待ちして、すれ違う列車を待つということも同線では珍しくない。

 

ここでちょっと寄り道。宇野線は連絡船が出港する宇野を目指して明治期に路線が計画された。地図を見ると疑問に感じるのだが、岡山駅から宇野を直接目指した路線にしては、西へ大きく迂回して走っていることが分かる。今でこそ瀬戸大橋へのアクセス線としては相応しいルートなのだが、宇野を目指したルートとしては遠回りになる。

 

これには理由があった。計画時、岡山市街の南に広がる児島湾は現在よりもずっと西へ入り込んでいたのである。そのため宇野線の線路敷設も西へ回り込むしかなかった。この児島湾は古くは奈良時代から干拓の歴史が始まる(後述)が、明治期に干拓事業が本格化、太平洋戦争をはさみ1956(昭和31)年に干拓事業が終了している。本稿でも最初に掲載した地図で、明治期の海岸線を記したが、明治時代の海岸線は宇野線の路線ぎりぎりまで入り込んでいたことが分かる。

 

このルートでは当然、時間も余計にかかるわけで、太平洋戦争後には短絡線の計画も持ち上がった。現在、国道30号が児島湾を突っ切って走るように、宇野線も児島湾を横切って走らせようとしたのである。具体的には岡山臨港鉄道の路線を活用し、児島湾締切堤防に沿って走る計画まで具体化された。実際に鉄道線用のスペースが現在も残っているそうだ。

 

ところが、この短絡線計画は頓挫してしまう。その理由は伝えられていないが、予算面での問題が浮上したのであろう。瀬戸大橋の計画は具体化する前だったが、結局、短絡線に切り替わらず児島湾を遠回りするルートのままとなったことが、後の瀬戸大橋線の開通に役立ったわけだ。

↑岡山から南へ敷かれていた岡山臨港鉄道(廃線)を活用して短絡線を造る案があった。写真は旧岡南新保(こうなんしんほ)駅跡

 

【宇野線の旅⑤】複線&単線区間、高架区間と複雑な路線が続く

予算面での問題は、実は複線と単線区間が入り交じる岡山駅〜茶屋町駅間でも起こっている。前述した大元駅付近では複線だったが、再び単線区間となり備前西市駅付近で複線となる。備前西市駅を通り過ぎると単線に戻り、妹尾駅(せのおえき)付近でまた複線になる。このように代わる代わる単線、複線区間が続いている。

↑備中箕島駅付近は単線区間が続く。この南側、早島駅〜久々原駅間でようやく複線区間が続くようになる

 

実は過去に岡山駅〜茶屋町駅間の複線化事業が具体化した時があった。2003(平成15)年には複線化を進めるために「瀬戸大橋高速鉄道保有株式会社」という第三セクター方式の会社まで設立された。複線化を推し進め、曲線改良工事の実施が計画された。会社設立には国と岡山県、香川県、愛媛県とJR西日本が関わったが、関係する自治体の温度差があったとされる。

 

香川県、愛媛県は列車の運行をスムーズにし、本数も増やしたい思惑が強かった。ところが岡山県側は、沿線住民の通勤・通学の足がより快適になれば良いわけで、最終的に事業費が削減され、早島駅付近の複線化を進めたのみで事業は終了してしまった。その結果、早島駅等での列車待ちは減少したものの、瀬戸大橋線を通過する特急や快速列車の所要時間が1〜2分短縮されたのみだったそうである。

↑早島駅付近の複線区間を走る8600系。早島駅付近は複線区間が続くものの曲線区間が連なる

 

こうした結果を見ると、各自治体の思惑が入り交じる公共事業は難しいことが良く分かる。また資金を投じても結果が現れにくいようだ。つい最近も西九州新幹線開業で佐賀県と長崎県の温度差が感じられるように、どの時代どの場所でも起こる問題なのだろう。

 

宇野線を南下すると岡山市街の街並みが途切れ、周囲に水田風景が広がり始める。早島駅、久々原駅(くぐはらえき)といった駅を過ぎると間もなく、本四備讃線と宇野線の分岐駅、茶屋町駅に到着する。

 

【宇野線の旅⑥】本四備讃線と離れローカル色が強まる

さまざまな車両が走り賑やかだった茶屋町駅までの区間だが、茶屋町駅の先は一転してローカル色が強まる。

 

前述したように岡山駅から宇野駅への直通列車は日中にほぼなく、茶屋町駅での乗換えが必要となる。岡山駅からの列車は4番線、また児島・四国方面からの列車は1番線に到着する。ドアが開いた向かいに宇野駅行き列車が停っていて、2番・3番線の両側のドアから乗車が可能な駅の造りになっている。

↑高架駅の茶屋町駅で宇野駅行への乗換えが必要。ホームには宇野への乗換えはこちらと分かりやすく表示される(左下)

 

訪れた日に乗車したのは115系の3両編成だった。乗車率はそれほど高くはなかったものの、訪日外国人の姿がちらほら見られた。宇野駅から上り列車にも乗車したが、地元の高校生たちの乗車が目立ち、ローカル線としては利用する人が多い路線のように見うけられた。

 

高松行、岡山行の両列車からの乗り換え客が乗車し、宇野行列車が発車。しばらくは本四備讃線の高架線を走ったのち、倉敷川を渡った先で分岐して高架を下りていく。高架をくぐり東へ向かうと、進行方向の左手には旧児島湾の干拓地が広がり、右手には小高い山が連なる。この山の麓を縁取るように列車は走っていく。前述したように、この沿線左側にはかつて海岸線がつらなっていたが、今は児島湾の湾岸ははるか先で、長い年月をかけて築かれた干拓平野が目の前に広がっている。

↑本四備讃線(瀬戸大橋線)の高架下を走る宇野駅〜茶屋町駅間を走る普通列車。この左側で線路は本四備讃線に合流する

 

ローカル色の強い宇野線区間に入って気がついたのは、多くの駅のホームが長いということだ。現在は2〜3両の列車ばかりで、持て余し気味の長さだ。つまり、宇高連絡船が使われた時代に造られたホームがそのまま残り使われているわけだ。栄光の時代を偲ばせる宇野線の各駅でもある。

 

【宇野線の旅⑦】かつて島だった山を越えて終点の宇野駅へ

茶屋町駅の南側には小高い山々が連なり、また宇野線自体もこの山の麓を宇野へ向けて走っていく。今は児島半島と呼ばれる半島部になっているが、歴史をふり返ると、かつて児島半島は吉備児島(きびこじま)と呼ばれた島だったそうだ。

 

この吉備児島と本州の間は浅い海で隔てられていて、奈良時代から少しずつ干拓が進められた。さらに室町後期になると大規模な干拓が行われるようになり、江戸時代には本州側と陸地がつながった。

 

宇野線が走る多くの区間はかつて海だった。茶屋町駅の南側には小高い山が連なって見えていたが、ここは吉備児島という島の中心部だったわけだ。平野が広がるエリアのすぐ南側に山が連なり不思議に感じたが、かつての島がこの変化に富む地形を生み出していたのだ。

↑宇野駅のある地区は昔、吉備児島と呼ばれる島だったとされる。駅の北は小高い山々が取り囲んでいる

 

児島湾側の最後の駅、八浜駅(はちはまえき)を過ぎると宇野線は右カーブを描いて山中へ。そして峠をトンネルで抜けると宇野の市街が進行方向左手に広がり始める。茶屋町駅からは約30分で終点の宇野駅に到着した。

↑カーブした路線に長いホームが残る宇野駅。駅舎は観光列車「ラ・マル・ド・ボァ」のデザインに合わせた白地に黒ライン入り(右下)

 

宇野駅は現在、海岸からやや内陸側に設けられているが、この駅は1994(平成6)年に移転した新しい駅だ。宇高連絡船が運航されていたころには100mほど港側に駅があり、東京・大阪方面からの直通列車が頻繁に発着していた。

 

引込線も多く、連絡船へのアクセス駅だったころは発着する列車に加えて貨物列車の入換えも行われていたとされる。しかし、いまではそんな華やかさはすっかり消え去り、駅前には大手家電店などの建物が立つ他の都市の駅前と同じ趣となっている。ホームは1本のみで1・2番線から茶屋町駅行、岡山駅行が折り返していく。

 

【宇野線の旅⑧】僅かに残る連絡船の遺構が寂寥感を誘う

宇野駅がやや北側に移動したこともあり、宇野港のフェリー乗り場、旅客船乗り場へは約400mの距離がある。散策にはちょうどよい距離なので、波止場まで歩いてみた。列車の発着にあわせてちょうど直島行、高松行フェリーが出港するところだった。

 

宇野線の列車に訪日外国人の姿がちらほら見られたのは、宇野港から直島へフェリーを利用して渡るためだったのだろう。直島は現代アートが楽しめる島として人気があり、島内に複数の美術館がある。宇野港から直島までは片道約20分と近く、運賃も片道300円と手ごろだ。

↑宇野港を出港する四国汽船新造船の「あさひ」。乗り場を離岸すると意外に早く沖合に出ていった。直島までは約20分と近い

 

直島行のフェリーを見送ったあと、港内をぶらぶら巡る。宇高連絡船の歴史につながる遺構を探していると、駐車場内にコンクリート製の大きな固まりがぽつんと残されていた。連絡船の発着に使われた埠頭の一部、連絡船の係留箇所だったところだ。

 

案内板には当時の写真付きで「宇高連絡船の遺構」という解説が記されていた。しかし、案内板は立てられてだいぶ経つせいなのかすっかり色あせていた。ここから宇高連絡船が出ていた歴史を知る人も徐々に減り、関心を寄せる人もあまりいないのかもしれない。

 

宇高連絡船が消えて早くも35年、宇野線は残されたものの、旅の終わりにこうした現実を知って、やや寂しい気持ちになったのだった。

↑宇野港を望む駐車場内に宇高連絡船の係留箇所が残る。案内板(左上)が立つが、掲載した写真や文字が色あせて読みづらくなっていた

阿武隈川流域の美しさ&険しさ魅力をたっぷり味わう「阿武隈急行」の旅

おもしろローカル線の旅111〜〜阿武隈急行・阿武隈急行線(福島県・宮城県)〜〜

 

起点は東北新幹線の福島駅がアクセスが良く、気軽に〝秘境線〟気分が味わえる阿武隈急行線。春は車窓から花々や吾妻連峰を眺め、秋は赤いリンゴが実る風景を走り抜ける。やや無骨な面持ちの電車に揺られ福島から宮城へ美景探訪とともに、意外な歴史に触れる旅を楽しんだ。

*2014(平成26)年8月3日〜2023(令和5)年2月26日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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奥州三名湯・飯坂温泉へ走る福島交通の「いい電」10の秘密

 

【阿武隈の旅①】かつて軌道線が走っていた福島県・宮城県沿線

まずは大正期の絵葉書を見ていただきたい。こちらは福島駅前の大通りの様子だ。絵葉書には写真撮影を見にきた子どもたちとともに、道の真ん中をのんびり走る路面電車が写り込んでいる。

↑「本町十字路通りより大町方面を望む」と記された古い絵葉書。現在の福島市街とはかなり様子が違う

 

阿武隈線沿線にはかつて、福島交通飯坂東線、福島交通保原線(ほばらせん)、福島交通梁川線(やながわせん)といった路面電車の路線網が張り巡らされていた。しかし、モータリゼーションの高まりとともに、それらの軌道線は1971(昭和46)年4月12日に一斉に廃止されてしまう。

 

一方、宮城県側では1968(昭和43)年に国鉄丸森線が造られたが、終点の丸森駅が町の中心から離れていたことから、開業後も利用者が伸びなかった。丸森線は福島まで路線を延ばす工事が続けられ、東北本線と接続する矢野目信号場まであと一歩という箇所まで工事が進んだが、国鉄の財政がひっ迫し、国鉄は同線を開通させても黒字化は無理と判断、工事を中断させた。

 

戦前には福島交通の軌道線が多く走っていたこともあり、地元の人たちの鉄道への思いは強かったようだ。せっかく工事が進んだのだからと、結局、福島県、宮城県と地元企業が出資。こうして第三セクター鉄道の阿武隈急行線ができ上がったのだった。

 

ちなみに同線の主要な株主は福島県、宮城県、福島交通とされる。路線開業まで福島交通のバスが走っていた地域で、主要な株主になったのは補償の意味があるとされている。また福島交通の多くの社員も阿武隈急行へ移っている。阿武隈急行の福島駅ホームが福島交通と共同利用している理由の裏には、こうした〝近い関係〟もあったわけだ。

路線と距離 阿武隈急行・阿武隈急行線:福島駅〜槻木駅(つきのきえき)間54.9km(福島駅〜矢野目信号所間はJR東北本線を走行)、全線交流電化単線
開業 国鉄丸森線、槻木駅〜丸森駅間が1968(昭和43)4月1日に開業
福島駅〜丸森駅間が1988(昭和63)年7月1日に開業
駅数 24駅(起終点駅を含む)

 

【阿武隈の旅②】35年走り続けた車両から新型車両へ切り替え中

次に阿武隈急行を走る車両を見ておこう。長年、走り続けてきた車両に代わり新型車両が徐々に増えつつある。

 

◇8100形電車

↑丸森駅近くを走る8100形電車。側面の2つの扉は前方が片開き、連結器側が両開きと珍しい姿をしている

 

阿武隈急行が1988(昭和63)年から導入した交流型電車で、JR九州の713系電車を元に2両×9編成が造られ、現在も主力として活用されている。車内はセミクロスシートで、トイレも装備。2両の貫通幌部分はキノコのような形に大きく開き、乗降扉は両開き、片開きの両方があり、側面から見ると不思議な形をしている。

 

すでに導入されてから35年たち、搭載する機器類も古くなりつつあり、部品に事欠くようになったことから、古い編成を廃車して部品取り用に使うなどしている。そのため新型車AB900系の導入が急がれている。

 

◇AB900系

JR東日本のE721系を元に造られた車両で、2018(平成30)年度に1編成が導入され、徐々に増備され将来的には2両×10編成を導入する予定だ。

 

槻木駅の先、阿武隈急行線の列車は仙台駅まで1日に2往復乗り入れているが、東北本線乗入れ車両はJR東日本の車両と同形式のAB900系が使われることが多くなっているようだ。

 

ちなみに形式名の頭にABが付くのは「あぶ急」という阿武隈急行の通称から取ったもので、車両正面のアクセントカラーは編成ごとに異なり、沿線自治体の自然や花をテーマに5色が設定されている。またアニメキャラクターをラッピングした車両も走るようになっている。

↑AB900系のうち最初に導入されたAB-1編成と、後ろはAB-2編成。正面のアクセントカラーが編成ごとに変わる

 

【阿武隈の旅③】列車は福島交通と共通ホームから発車する

ここからは阿武隈急行線の旅を始めたい。起点となる阿武隈急行線の福島駅はJR福島駅の北東側に位置し、JR線構内側に設けられた連絡口と、福島駅東口側の通常口がある。東口の入口にはゲートが設けられ、上に「電車のりば」そして阿武隈急行線、福島交通飯坂線の名が掲げられている。

↑福島駅ホームに停車する阿武隈急行線の8100形と駅入口(左上)。阿武隈急行線用ホームはJR線側が使われている

 

ホームは1面2線で、何番線とは付けられず、改札口から入って左が阿武隈急行線、右が福島交通飯坂線となっている。なお交通系ICカードの利用はできない。

 

乗車する時にあまり気にしなかったが、飯坂線は直流電化、阿武隈急行線は交流電化されている。このように1つのホームで対向する電車の電化方式が違うというのは、国内でこの福島駅ホームだけだそうだ。電化方式が違うので、線路幅は同じだが、当然ながらお互いの線路に入線できない。

↑福島交通飯坂線の美術館図書館前駅までは、並走して線路が設けられる。JR線を走る阿武隈急行の電車と飯坂線がすれ違うことも

 

阿武隈急行の乗車券は福島駅の窓口および自販機で販売され、お得な「阿武急全線コロプラ★乗り放題切符」(大人2000円)も発売されている。曜日および日付によってはもっと安いフリー切符もある。

 

全線を通して走る列車はなく、途中の梁川駅(やながわえき)行、または富野駅行の列車に乗って乗継ぎが必要になる。列車本数は1時間に1〜2本とローカル線にしては多めだ。

 

【阿武隈の旅④】福島市内でまず阿武隈川橋梁を渡る

福島駅を出発した列車は東北本線の線路に入り北へ向けて走る。かつて国鉄が計画した路線だけに、今もその歴史を引き継ぎ、阿武隈急行線もJR東日本の一部区間を走っている。最初の駅、卸町駅(おろしまちえき)までは5.6kmと離れていて、東北本線から分岐する矢野目信号場の先に同駅がある。卸町駅から先、阿武隈急行線の沿線に入ると駅間が狭まり、各駅の距離は1km程度と短くなる。

 

JR東日本と共用する東北本線の区間には踏切があるが、1980年代に新しく生まれた路線ということもあり、阿武隈急行線に入ると踏切は旧丸森線の区間まで行かないとない(駅構内踏切を除く)。市街は高架線区間が多く、その先は交差する道路が線路をくぐるか陸橋で越えていく。

 

そんな踏切のない路線を快適に列車は走り、福島市の郊外線らしい沿線風景が続いていく。

↑福島市の郊外を流れる阿武隈川を渡る。その先の向瀬上駅周辺は5月上旬ともなると、リンゴの白い花が美しく咲きほこる(左下)

 

瀬野駅(せのうええき)を過ぎると間もなく阿武隈橋梁を渡る。福島県南部を水源にした一級河川で、水量が豊富だ。この阿武隈川橋梁を渡ると、次の向瀬上駅(むかいせのうええき)の駅周辺には丘陵部が連なり、リンゴ畑が広がる。

↑阿武隈橋梁を渡り向瀬上駅へ近づく富野駅行の列車。背景の吾妻連峰の雪が消えるのは意外に早い。写真は5月初旬の撮影

 

【阿武隈の旅⑤】福島市から伊達市へ郊外住宅地が続く

向瀬上駅までは福島市内の駅だが、丘陵を抜けるトンネルを過ぎると伊達市(だてし)へ入る。次の高子駅(たかこえき)付近は新しい住宅街として整備され、近年、福島市のベッドタウンとして賑わいをみせている。

↑伊達市内の大泉駅を発車する富野駅行列車。こちらの駅前にも住宅地が連なる

 

大泉駅付近からは少しずつ水田が連なるようになる。福島県の米の作付面積は全国6位で、特に福島市、伊達市がある中通り地方での米づくりが盛んだ。作付けされる品種はコシヒカリがトップで5割以上を占めている。

 

このあたりも踏切はなく、快調に列車は走る。そうした風景を見るうちに梁川駅へ到着する。駅に到着する前、進行方向右手に阿武隈急行線の車庫があるので、車両好きな方は注目していただきたい。

↑梁川駅(左上)に近い阿武隈急行の車両基地。8100形とともに右にAB900系が停められている

 

梁川駅でこの先の槻木駅方面への列車に接続することが多い。接続時間は1〜2分と非常に短く、便利なものの乗り遅れに注意したい。

 

【阿武隈の旅⑥】梁川は伊達家のふるさと

梁川駅の次の駅は、やながわ希望の森公園前駅で仮名書き16文字は全国で5番目の長さだ。駅に設けられた駅名標も通常の駅のものよりも横に長い。これだけ長いと覚えたり話すのも大変そうで、利用する人にとって不便なことがないのか心配してしまう。

 

やながわ希望の森公園前駅の近くに梁川城址がある。梁川城は鎌倉時代初期に生まれた城で、築城したのは戦国武将、伊達政宗を輩出した伊達氏である。元は関東武士だったが、奥州征伐の功績により源頼朝から伊達郡(現在の福島県北部)を賜り、伊達を名乗るようになった。

 

梁川城は伊達家が米沢へ本拠を移した後も重要な拠点として治められ、伊達政宗の初陣も梁川城を拠点にしたそうだ。

↑やながわ希望の森公園前駅の駅名標は横長だ(右上)。近くには伊達家ゆかりの施設が多い。写真は「政宗にぎわい広場」

 

興味深いのは梁川城の南側を広瀬川という川が流れていることだ。伊達政宗が生み出した仙台の町にも広瀬川が流れているが、場所がだいぶ離れているため同じ川の流れではない。偶然の一致か伊達氏が仙台に入って川の名前を命名したのか、今後の宿題にしたい謎である。

↑富野駅で福島駅方面へ折り返す列車も多い。この駅の先に県境があり、険しい区間となる

 

【阿武隈の旅⑦】県境の厳しさを体感する車窓風景

富野駅を発車、次の駅は兜駅(かぶとえき)だ。進行方向左手には阿武隈川が眼下に望める。福島市内で渡った阿武隈川と同じ川とは思えないぐらい両岸が切り立つような地形になりつつある。

 

兜駅を過ぎて、福島県と宮城県の県境部へ入っていく。そして阿武隈急行線では最も長い羽出庭(はでにわ)トンネル2281mに進入する。このトンネルを出るとすぐ宮城県の最初の駅、あぶくま駅に到着する。

 

あぶくま駅は近隣に民家もなく秘境駅の趣がある。川へ下りる遊歩道は川下り船の運航時(夏期など季節運航)の時以外、閉鎖されているのが残念だが、あぶくま駅前に天狗の宮産業伝承館があるので、有意義な時間を過ごすことができる。

↑羽出庭トンネルを抜けてあぶくま駅へ。県境越えの山道(左側)はかなり険しい

 

この県境部は阿武隈川の左岸(下流に向かって左側)を国道349号が通り右岸を阿武隈急行線が走っている。線路沿いに設けられた山道は狭く険しくカーブ道が続く。険しい川沿いを阿武隈急行線は複数のトンネルで通り抜ける。

 

トンネルが多い路線区間であるものの、近年の豪雨で大きな被害を受け、特に2019(令和元)年10月12日「令和元年東日本台風(台風19号)」の影響は大きかった。あぶくま駅ではホームが流失、駅に隣接する丸森フォレストラウンジ天狗の宮産業伝承館の建物も天井近くまで水が達したとされる。駅付近では線路に土砂が流入、一部で道床が流失してしまう。富野~丸森間は長期にわたり運転がストップし、ホームの再整備、阿武隈川川岸の壁面などの修復作業が行われ1年後の10月31日に全線運転再開を果たした。

↑あぶくま駅に隣接した天狗の宮産業伝承館。台風被害の時にはこの施設も上部まで水に浸ったという話を聞いた

 

筆者は路線復旧を遂げた1年後に、あぶくま駅に降りてみたが、はるか下を阿武隈川が流れ、駅のそばは渓流が流れるのみで、なぜ駅が大きな被害を受けたか想像が付かなかった。地元丸森町の雨量計では総雨量427mmで阿武隈川の水位は8m以上も上昇し、複数個所で氾濫、犠牲者も出している。今年の2月下旬に同線に乗車した時も、対岸の国道349号沿いで修復工事が続けられていた。豪雨災害というのはとてつもなく厳しいものだと感じる。

 

↑現在、夏期などに同船着き場から阿武隈川の川下り船が運行。河原は立入禁止で、川下り船運行の時のみ降りることができる

 

【阿武隈の旅⑧】急流域を抜けて平野が開ける丸森へ

兜駅からあぶくま駅、次の丸森駅にかけての12.3km間は進行方向左側に注目したい。眼下に阿武隈川が流れ、四季を通じて素晴らしい景観が楽しめる。険しい風景を見せていた阿武隈川を橋梁で渡ると丸森駅も近い。このあたりまで走ってくると険しさも薄れ、駅周辺には平野部も広がるようになる。

↑丸森駅構内に進入する下り列車。後ろには山々が望める。この険しい山の麓を阿武隈川が流れている

 

丸森町は阿武隈川の川港として町が形成された。阿武隈川の南側が町の中心部で豪商屋敷などの古い家並みが残り、歴史散歩が楽しめる。阿武隈川ラインの舟下りの拠点も川沿いに設けられる。町の中心部が阿武隈急行線の丸森駅から約2.5kmと離れているのが残念だが、丸森町は阿武隈川と縁が深い町なのである。

↑1968(昭和43)年に誕生した丸森駅(左上)。槻木駅発、丸森駅止まりという列車も日中の時間帯は多い

 

【阿武隈の旅⑨】国鉄が戦後に整備した旧丸森線の沿線

丸森駅からは1960年代に整備された旧国鉄丸森線の区間となる。次の北丸森駅から先は見渡す限りの水田地帯が広がるようになる。このあたりまでは、丸森駅構内などを除き踏切がない区間が続くが、南角田駅まで走ってきて初めて車が通る踏切が駅そばにある。

 

在来線では当たり前のように設けられる踏切だが、阿武隈急行線では非常に数が少なく、安全に配慮した路線であることが良く分かる。

↑ホーム1つの小さな南角田駅。御当地アニメラッピング電車がこの南角田駅を発車していった(左上)

 

南角田駅の次の角田駅は角田市の表玄関にあたる駅で、駅舎はオークプラザと名付けられている。駅の跨線橋などの窓は円形が多く「宇宙に拓かれた町の、未来的なフォルムの駅」という解説がされている。

 

実は角田市には宇宙開発機構角田宇宙センターがあり、ロケットの心臓部となるエンジンの開発を行っている。駅舎を未来的なフォルムにした理由もこうした施設があるためだったのだ。

 

【阿武隈の旅⑩】JR東北本線の中央の線路を走って終点駅へ

阿武隈急行線の旅も終盤にさしかかってきた。終点の槻木駅の手前が東船岡駅だ。船岡という地名で山本周五郎の小説『樅の木は残った』を思い出される方もいるかと思う。同小説の主人公、原田甲斐が居住した船岡城址跡(柴田町)がある町だ。原田甲斐は伊達家のお家騒動で身を張って逆臣となり藩を守るため働いたとされる。船岡城址はJR船岡駅が最寄りで東船岡駅からやや遠いものの、一度は訪れてみたい地でもある。東船岡駅の先で、東北本線と立体交差して並行に走り始めるが、東北本線の線路に入ることなく北上する。

↑東北本線の上り下り両線の間の線路が阿武隈急行線の専用路線となる

 

阿武隈川の支流、白石川を越えれば間もなく槻木駅へ。到着するのは2番線で、向かいの3番線からは仙台駅方面への列車が発着していて便利だ。途中での乗り継ぎはあったものの福島駅から槻木駅まで約1時間15分の道のり、乗って楽しめる〝阿武急〟だった。

↑終点、槻木駅2番線に到着した阿武隈急行線の列車。向かい側に仙台方面行の列車が停車して乗換えに便利だ

 

↑近代的な造りの槻木駅舎。土曜・休日には仙台駅発梁川行「ホリデー宮城おとぎ街道号」も運転される(右上)

 

鉄道好きのあの人が忘れられない本とは? 石破 茂、泉 麻人……などが語る鉄道本の名著~注目の新書紹介~

こんにちは、書評家の卯月 鮎です。よく「包容力のある人」という言い方をしますが、鉄道ほど包容力のある存在もなかなかないでしょう。乗り鉄、撮り鉄、スジ鉄、車両鉄……それぞれの思いを受け止めてくれますし、それほど“鉄道オタク”でなくとも、車窓に旅情をそそられたり、駅舎での人との触れ合いに心温まったり、轟音を立てて力強く走る姿に圧倒されたり。“鉄”はいかようにも人の心を動かします。

 

私はというと、このレールがどこか別の場所にずっとつながっているという空間の連結性と、何十年も前から地域の人々の足であるという時間の連続性、そうした時空の結びつきに惹かれ、ファンタジー的な妄想が止みません。鉄道はエモーションの塊ですね。

 

鉄道好きが熱く語る鉄道関連本

さて、今回紹介する新書は忘れられない鉄道の本』(『鉄道ダイヤ情報』編集部・編/交通新聞社新書)。泉 麻人さん、石破 茂さん、久野 知美さん、屋鋪 要さん、前原 誠司さん……。鉄道好きの著名人や鉄道メディアで活躍する書き手など20名が、鉄道愛と思い出の鉄道関連本を語っています。

 

創刊50周年を超えた、JRグループ協力の月刊誌『鉄道ダイヤ情報』の企画で、自分で原稿を書く人もいれば、インタビューで鉄道への思い入れを披露する人もいて、それぞれ個性が出ています。鉄道愛を深めてくれたバイブルとは? 大いに気になりませんか。

『阿房列車』『真鶴』……鉄道本の魅力

最初に登場するのはコラムニストの泉 麻人さん。泉さんが愛するのはかつて東京を走っていた路面電車・都電。小学5年生だった1967年の師走に、銀座通りの都電など9路線が一気に廃止されたのが、都電に興味を抱くきっかけだったそうです。

 

挙げられている本は都電関連が多め。中学生のときに熟読したという随筆集『都電春秋』(野尻 泰彦・著/1969年)は、読ませる文章に加えて、各路線のどこでナイスショット写真が撮れるかの略地図がついていて、泉さんは撮影ポイントの手引にしたとか。少年時代に消えゆく都電に心掴まれたというのは、何気ない日常にノスタルジーを感じ取る泉さんのセンスですね。

 

政界きっての鉄道好きとして知られ、「乗り鉄」兼「呑み鉄」を自称している石破茂さんが挙げる一冊のなかには『阿房列車』シリーズ(内田百閒・著)がありました。このシリーズは私も通学の電車で読んだのを覚えています。

 

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」というゆるい書き出しから、あっという間に内田百閒ワールドにハマってしまいます。同行する国鉄職員のあだ名「ヒマラヤ山系」君との噛み合わない掛け合いも、まったりとした時間が流れる旅情にマッチするのです。

 

紀行文ライターの蜂谷あす美さんが忘れられないのは『真鶴』(川上弘美・著/2006年)。この『真鶴』も“鉄旅”ファンにオススメしたい一冊です。日記に「真鶴」という単語を残して突然失踪した夫。その言葉に導かれるかのように、主人公の女性は電車で真鶴へ通う……。喪失感と再生の予感が漂う美しい幻想文学。蜂谷あす美さんが言う通り、日常とそうでない場所を結ぶ存在として鉄道がキーになる小説です。

 

登場する20名それぞれの鉄道への想いが明かされ、鉄道を透かして人となりも伝わってくるのが面白いところ。20の視点から多角的に鉄道の魅力にライトを当て、鉄道とは何かを浮かび上がらせる新書でもあります。もちろん紀行文、小説、写真集、マンガ……と鉄道関連の名著が満載。本書から気になった一冊を選んで、各駅停車に乗って読みふける、“読み鉄”の旅もいいかもしれません。

 

 

【書籍紹介】

忘れられない鉄道の本

編:鉄道ダイヤ情報編集部
発行:交通新聞社

やはり、みんな本を読んでいた!政治家やアナウンサーほか、鉄道好きの著名人や鉄道メディアで活躍する人などに、「忘れられない、鉄道の本」をテーマに、ご自身のエピソードをまとめた一冊。インターネットやSNSが全盛時代と言いながら、やはり本の存在は大きいもの。本書に書かれているのは、手で覚える紙の感触があったからこその、貴重な人生訓集でもある。

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【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。

「水戸線」なのに水戸は通過しない!? 意外と知らない北関東ローカル線深掘りの旅

おもしろローカル線の旅110〜〜JR東日本・水戸線(栃木県・茨城県)〜〜

 

あまり目立たないローカル線でも、実際に乗ってみると予想外の発見があるもの。関東平野の北東部を走る水戸線はそんなローカル線の1本だ。

 

実は水戸線、名前に水戸という地名が入るものの水戸市は走っていない。なぜなのだろう? そんな疑問から水戸線の旅が始まった。

*2017(平成29)年8月13日〜2023(令和5)年2月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
SL列車だけではない!「真岡鐵道」貴重なお宝発見の旅

 

【水戸線の旅①】常磐線よりも先に開業した水戸線の歴史

まず、水戸線の概要や歴史から見ていこう。

 

路線と距離 JR東日本・水戸線:小山駅(おやまえき)〜友部駅(ともべえき)間50.2km、全線電化単線
開業 水戸鉄道が1889(明治22)年1月16日、小山駅〜水戸駅間を開業、友部駅は1895(明治28)年7月1日に開設
駅数 16駅(起終点駅を含む)

 

水戸線の歴史は古く、今年で開業134年を迎えた。最初は水戸鉄道という私鉄の会社が、起点となる小山駅から水戸駅まで路線を開業。ところが、水戸鉄道として走ったのはわずか3年ばかりと短く、1892(明治25)年には日本鉄道に譲渡され、水戸線という路線名になった。

 

さらに日本鉄道が常磐線の一部区間を開業、1895(明治28)年に水戸線と接続する地点に友部駅を開設した。友部駅が開設された翌年の1896(明治29)年には常磐線の田端駅と土浦駅間の路線が開業し、東京と水戸が鉄道で直接結ばれるようになった。

 

明治期に北関東の鉄道網は目まぐるしく変化していく。常磐線が開業してから10年後の1906(明治39)年に日本鉄道は官設鉄道に編入。国営化された後に友部駅〜水戸駅間は常磐線に編入され、残された小山駅〜友部駅間のみ、水戸線という名称が残された。その後、名称の変更が行われることはなく、水戸市は通らないのに水戸線という路線名が今もそのまま使われ続けている。

 

1987(昭和62)年に国鉄民営化でJR東日本の一路線となったが、その時も長らく親しまれてきた路線名ということもあり、改称などの話は持ちが上がることもなかったそうだ。

 

【水戸線の旅②】E531系ひと形式が走るのみだが

次に水戸線を走る車両を見ておこう。現在は臨時列車や甲種輸送列車などを除き1形式のみが走っている。

 

◇E531系電車

↑水戸線の顔となっているE531系。5両編成での運行が行われている。座席はセミクロスシートで、トイレを備える

 

JR東日本の交直流電車で常磐線のほか水戸線、東北本線の一部区間で運用されている。定期運用が開始されたのは2015(平成27)年2月1日から。常磐線での運用はグリーン車を交えた10両編成が主力だが、水戸線では併結用に造られた付属5両編成の車両が単独で使われている。

 

ちなみに1編成(K451編成)のみ、かつて交流区間を走っていた401系の塗装をイメージした〝赤電塗装〟のラッピング車となっている。なかなか出会えないものの、この車両を見られることが旅の楽しみの一つになっている。

 

E531系導入まで水戸線では長らくE501系および415系が走っていたが、415系は引退、E501系は水戸線内でたびたび故障が起きたこともあり、今は常磐線での運用に限られるようになっている。

↑1編成5両のみ走る赤電ラッピング車。水戸線内と常磐線一部区間を走ることが多い

 

【水戸線の旅③】小山駅を出発してすぐの気になる分岐跡は?

ここからは水戸線の旅を進めたい。起点となる小山駅は東北本線の接続駅で、水戸線は15・16番線ホームから発車する。朝夕は30分間隔、昼前後の時間帯も1時間おきとローカル線としては列車本数が多めだ。昼間の時間帯は大半が友部駅どまりだが、朝夕は水戸駅や、その先の勝田駅へ走る列車もある。

↑東北新幹線の停車駅でもある小山駅。水戸線の列車は水戸駅地上駅の一番東側の15・16番線から発車する

 

小山駅のホームを離れた水戸線の列車は、すぐに左にカーブして次の小田林駅(おたばやしえき)へ向かう。乗車していると気づきにくいが、進行方向右側からカーブして水戸線に近づいてくる廃線跡がある。今は空き地となっているのだが、並行する道路が緩やかにカーブしていて、いかにもかつて列車が走っていた雰囲気が残る。

 

この廃線跡は、水戸線と東北本線を結んでいた短絡線の跡で、東北本線の間々田駅(ままだえき)と水戸線を直接に結ぶために1950(昭和25)年に敷設された。入線すると折り返す必要があった小山駅を通らず、東北本線から直接、貨物列車が走ることができた便利な路線だったが、1980年代に貨物列車の運用が消滅したため、2006(平成18)年に線路設備も撤去されて今に至る。

↑小山駅の最寄りにある東北本線との短絡線の跡。左手に延びる空き地にかつて線路が敷かれ貨物列車が通過していた

 

【水戸線の旅④】気になるデッドセクション箇所の走り

水戸線は16ある駅のうち、15駅が茨城県内の駅で、小山駅1駅のみが栃木県の駅だ。小山駅が栃木県の県東南部の端にあるという事情もあるが、2県をまたいで走る路線は数多くあるものの、このように1つの県で停車駅が1駅のみという路線も珍しい。この県境部に鉄道好きが気になるポイントがある。

 

小山駅を発車すると次の小田林駅との間、県境のやや手前で列車の運転士は運転台で一つの切り替え作業を行う。小山駅は直流電化区間なのだが、次の小田林駅への途中で交流電化区間に切り替わる。この切り替え作業を行うのである。

 

以前、筆者が水戸線の415系に乗車した時には、この区間で車内の照明が消え、モーター音が途絶えて一瞬静かになるということがあり驚いたものだった。現在走っているE531系の車内照明は消えることはなく、走行音もほぼ変わることはない。外から見ても変化がないのか、興味を持ったので直流から交流へ変更を行う「デッドセクション」区間を訪れてみた。

 

上部に張られた架線にはいろいろな装置が付けられていて、ここで直流と交流が変わることが分かる。また架線ポールに「交直切替」の看板が付けられ、運転士にデッドセクション区間であることを伝えている。

↑交流直流の切替区間には他と異なり碍子(がいし)を含めさまざまな設備が装着されている

 

小山駅から向かってきたE531系を見ると、ほぼスピードを落とさず通過していった。今では技術力も高まり、運転士が切替えスイッチの操作を行えば、問題なく通過できてしまう。通常の走行と異なる点といえば、車両先頭の案内表示用のLED表示器が消灯しているぐらいだった。

↑デッドセクション区間を走る友部方面行列車。架線柱には「交直切替」の案内がある(左下)。LED表示器のみ消灯していた

 

ところで、なぜ直流電化、交流電化の切り替え区間が県境付近にあるのか。その理由は茨城県石岡市に「気象庁地磁気観測所」があるからだ。地磁気観測所は地球の磁気や地球電気の観測を行っている。この観測地点から半径30km圏内で電化をする場合、電気事業法の省令で観測に影響がでない方式での電化が義務づけられている。従来の直流電化は、漏えい電流が遠くまで伝わる特長があり、そのため観測に影響が出にくい交流で電化されているのだ。

 

「気象庁地磁気観測所」の半径30km圏内に路線がある水戸線では小山駅〜小田林駅間で、また友部駅で合流する常磐線も取手駅〜藤代駅(ふじしろえき)間にデッドセクションを設けている。

 

【水戸線の旅⑤】川島駅の構内には広大な貨物線跡が残る

小田林駅の次の結城駅は、結城つむぎの生産地でもある結城市の表玄関となるのだが、今回は下車せずに先を急ぐ。東結城駅〜川島駅間で550mの長さを持つ鬼怒川橋梁を渡った。

↑鬼怒川橋梁を渡る水戸線の列車。現役の橋の横には開業当時に造られたレンガ造りの橋台跡が今も残されている(左上)

 

この鬼怒川橋梁を渡った地点から川島駅の構内に向けて、側線が設けられていた。今は一部が保線用に利用されているが、その先にあたる川島駅の北側の広々した空き地には今も錆びた線路が一部残り、側線の跡であることがよく分かる。

 

現在、川島駅の北側にはNC工基の工場がある。NC工基は土木、建築工事に関する各種基礎工事を施工する企業で、駅から工場内を望むと資材などを運ぶ大型クレーン類が良く見える。さらに、駅の北西側にはNC東日本コンクリート工業川島第四工場(旧太平洋セメント川島サービスステーション)があり専用線が設けられていた。

↑川島駅を発車した友部行列車。駅の北側に広々した側線の跡地と、大規模な工場が広がっている

 

今もこうした工場へ向けての専用線の跡地が残っている。かつては電気機関車などによる貨車の入換え作業が行われていたわけだ。筆者は、こうした引き込み線跡に興味があり、この場所には複数回訪れたが、駅の北西側の工場内に伸びていた専用線の跡は、つい最近ソーラー発電所に再整備された。徐々に川島駅周辺の廃線跡も消えていくことになるのだろう。

↑かつて使われていた専用線には今も一部に線路、また架線柱や架線も残されている

 

ちなみに、小山駅近くの東北本線への短絡線は、この川島駅と秩父鉄道の武州原谷駅(ぶしゅうはらやえき)という貨物専用駅との間を結んでいた貨物列車運行用に使われたものだった。1997(平成9)年3月22日にこの運行は終了してしまい、川島駅付近の専用線も荒れるままとなっている。貨物列車の運行も永遠に続くわけではなく、このように企業の活動に左右されるわけだ。

 

【水戸線の旅⑥】気になる関東鉄道・真岡鐵道の接続駅、下館駅

川島駅付近から先は好天の日、進行方向の右手に注目したい。関東平野の広大な田園畑地が広がるなか、筑波山が見えてくる。

 

そして列車は下館駅(しもだてえき)へ到着する。この駅は関東鉄道常総線、真岡鐵道の乗換駅となる。真岡鐵道のSLは牽引機のC12形が検査を終えたばかりで3月4日(土曜日)から運行されている。今年も行楽シーズンには多くの乗客で賑わいそうだ。さらにGW期間中には益子陶器市が開かれ、水戸線、真岡鐵道の利用者の増加が見込まれている。

 

筆者がよく訪れる下館駅だが、訪れるたびに賑わいが薄れていくように感じる。駅前の元ショッピングセンターは市役所となり、昼間に開く食事処も少なく、駅のコンビニも営業日と営業時間が限られている。このように駅の周辺が寂しくなるのは、地方都市では鉄道よりも車の利用者が圧倒的に多くなってきているせいなのだろう。

↑筑西市の表玄関にあたる下館駅の北口。真岡鐵道のSLもおか(左下)は土日休日の運行で下り列車は下館駅発10時35分発だ

 

下館駅の次の新治駅(にいはりえき)にかけて、もっとも筑波山の姿が楽しめる区間となる。標高877mとそれほど高い山ではないものの、関東平野の中にそびえ立つ山容は、昔から「西の富士、東の筑波」と称されてきた。

 

筑波山には男体山と女体山の2つの峰がある。以前に本稿で日光線の紹介した時に男体山、女体山が対になる山と記述したが、この筑波山も同じ名称の峰があり、古くから信仰の山として尊ばれてきたわけだ。

 

水戸線側から望むと単独峰に見えるのだが、実は標高が一番高い筑波山をピークに300mから700mの複数の山々が東西に連なっていて、この峰々を筑波連山、筑波連峰と呼ぶ。

↑新治駅近くの沿線から眺めた筑波山。単独峰のようにみえるが、筑波山の東側に複数の山々が連なり見る角度によって印象が変わる

 

【水戸線の旅⑦】岩瀬駅から発着した筑波線の跡は?

現在、水戸線に接続する鉄道路線は下館駅の関東鉄道常総線と真岡鐵道の2路線しかないが、かつては貨物輸送用、また観光用に複数の路線が設けられていて、それらの駅も接続駅として賑わっていた。

 

下館駅から3つめの岩瀬駅もそうした駅の一つだ。この岩瀬駅からはかつて、筑波鉄道筑波線が常磐線の土浦駅まで走っていた。筑波山観光の利用者が多く、最盛期の1960年代には上野駅などから列車が直接に筑波駅まで乗り入れた。モータリゼーションの高まりの中で、利用者の減少に歯止めがかからず、筑波鉄道筑波線は1987(昭和62)年4月1日に廃線となっている。

 

美しい筑波山麓の田園地帯をディーゼルカーが走る当時の写真をサイトで見ることができるが、長閑な趣を持つローカル線だったようだ。

↑旧筑波鉄道の廃線跡を利用した「つくばりんりんロード」。岩瀬駅に隣接して駐車場や休憩所が設けられる

 

現在、岩瀬駅から伸びていた筑波鉄道の廃線跡は、サイクリングロード「つくばりんりんロード」として整備されている。岩瀬駅の南側には駐車場が整備され、サイクリングのベースとして利用する人も多い。サイクリングロードの終点、土浦までは40kmという案内板も設けられている。途中、一里塚のようにに休憩所が複数設けられているので、のんびりとペダルをこぐのに最適な廃線跡となっている。

↑廃線線跡を利用した「つくばりんりんロード」。しっかり整備されていて自転車を漕ぐのに最適な専用道となっている

 

【水戸線の旅⑧】稲田石の産地、稲田駅で降りてみた

小山駅から岩瀬駅まで田畑を左右に見て平坦な地形を走ってきた水戸線だが、羽黒駅を過ぎると地形も一転して丘陵部を走り始める。そんな風景を眺めつつ稲田駅に到着した。

 

地元・笠間市稲田は稲田石と呼ばれる良質の御影石の産地で、切り出した砕石の輸送のため駅が開設され、また駅と砕石場を結ぶ稲田人車軌道という鉄道も敷設された。駅は水戸鉄道開業後の1898(明治31)年に造られた。地元の石材業者が中心になって、用地を提供するなど駅の開設に協力したそうだ。

 

地元が稲田石の産地であることにちなみ駅前には立派な石燈籠が立ち、「石の百年館」(入館無料)という展示館が設けられている。

↑稲田駅の駅前に立つ巨大な石燈籠。向かい側に「石の百年館」という稲田石を紹介する施設がある

 

「石の百年館」に入り、展示内容を見て驚かされた。稲田石は地元笠間市で採掘される花崗岩だが、白御影と呼ばれその白さが特長になっている。明治神宮など様々な施設に使われ、1914(大正3)年に建造された東京駅丸の内駅舎にも使われていた。窓周り、柱頭の飾りに稲田石の白い岩肌が活かされたそうだ。

 

さらに東京市電の敷石にも、材質に優れ、採掘量が安定した稲田石が大量に使われた。すでに東京都内の路面電車の路線は多くが廃止となったものの、今も道路工事のために旧路線を掘ると、敷き詰められた稲田石が大量に見つかるそうだ。

↑稲田駅に隣接して稲田石の積み下ろしに使った貨物ホームも残る。1906(明治39)年には4万4千トンの稲田石が東京方面へ出荷された

 

【水戸線の旅⑨】常磐線と合流、そして終着友部駅へ

起点の小山駅から乗車1時間弱、進行方向右手から常磐線が近づいてくると、その先が水戸線終点の友部駅となる。水戸線の列車は3〜5番線に到着し、一部列車はそのまま水戸駅または勝田駅へ向かう。

 

友部駅は2007(平成19)年にリニューアルされた橋上駅舎で、南口と北口を結ぶ自由通路が設けられている。

↑手前の2本が常磐線の線路で、水戸線の列車は写真の左側から坂を登り合流する

 

↑友部駅は3面あるホームへ上り下りする3本のエレベータ棟がアクセントになっている。水戸線の折返し列車は3番線発が多い(右上)

 

友部駅は地元笠間市の常磐線側の玄関口にあたるものの、水戸線の開業時には駅がなかった。笠間の市街地は他にあったからで、水戸線笠間駅の北側が笠間市の中心部にあたる。

 

笠間は日本三大稲荷にあたる笠間稲荷神社の鳥居前町であり、笠間城が築かれ笠間藩の城下町として栄えた。春秋に行われる陶器市で賑わう町でもある。

 

今回は訪れそこねたものの、次は笠間駅で下車してゆっくりと古い城下町巡りをしてみたいと思った。

 

【水戸線の旅⑩】最近気になる特急の模様替え車両

さて友部駅で接続する常磐線だが、停車する特急「ひたち」「ときわ」の一部編成が模様替えされ、鉄道ファンにとっては気になる列車となっている。水戸線を走る車両ではないものの、水戸線を訪れる際に利用してはいかがだろうか。

↑友部駅付近を走る特急「ひたち」グリーンレイク塗装車。今後、5編成がフレッシュひたち塗装になる予定だ

 

以前、常磐線を走っていたE653系は、各編成で色が異なり鮮やかな印象を放っていた。現在走るE657系の塗装は1パターンのみだったが、かつての「フレッシュひたち」をイメージした特別塗装車が走るようになっている。

 

茨城デスティネーションキャンペーンに合わせての塗装変更で、まずはK17編成がグリーンと白の「グリーンレイク(緑の湖)塗装」に。さらにK12編成が「スカーレットブロッサム(紅梅色)塗装」に変更されている。合計で5編成が模様替えされる予定で、水戸線を旅する時の、もう一つの楽しみになりそうだ。

「水戸線」なのに水戸は通過しない!? 意外と知らない北関東ローカル線深掘りの旅

おもしろローカル線の旅110〜〜JR東日本・水戸線(栃木県・茨城県)〜〜

 

あまり目立たないローカル線でも、実際に乗ってみると予想外の発見があるもの。関東平野の北東部を走る水戸線はそんなローカル線の1本だ。

 

実は水戸線、名前に水戸という地名が入るものの水戸市は走っていない。なぜなのだろう? そんな疑問から水戸線の旅が始まった。

*2017(平成29)年8月13日〜2023(令和5)年2月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
SL列車だけではない!「真岡鐵道」貴重なお宝発見の旅

 

【水戸線の旅①】常磐線よりも先に開業した水戸線の歴史

まず、水戸線の概要や歴史から見ていこう。

 

路線と距離 JR東日本・水戸線:小山駅(おやまえき)〜友部駅(ともべえき)間50.2km、全線電化単線
開業 水戸鉄道が1889(明治22)年1月16日、小山駅〜水戸駅間を開業、友部駅は1895(明治28)年7月1日に開設
駅数 16駅(起終点駅を含む)

 

水戸線の歴史は古く、今年で開業134年を迎えた。最初は水戸鉄道という私鉄の会社が、起点となる小山駅から水戸駅まで路線を開業。ところが、水戸鉄道として走ったのはわずか3年ばかりと短く、1892(明治25)年には日本鉄道に譲渡され、水戸線という路線名になった。

 

さらに日本鉄道が常磐線の一部区間を開業、1895(明治28)年に水戸線と接続する地点に友部駅を開設した。友部駅が開設された翌年の1896(明治29)年には常磐線の田端駅と土浦駅間の路線が開業し、東京と水戸が鉄道で直接結ばれるようになった。

 

明治期に北関東の鉄道網は目まぐるしく変化していく。常磐線が開業してから10年後の1906(明治39)年に日本鉄道は官設鉄道に編入。国営化された後に友部駅〜水戸駅間は常磐線に編入され、残された小山駅〜友部駅間のみ、水戸線という名称が残された。その後、名称の変更が行われることはなく、水戸市は通らないのに水戸線という路線名が今もそのまま使われ続けている。

 

1987(昭和62)年に国鉄民営化でJR東日本の一路線となったが、その時も長らく親しまれてきた路線名ということもあり、改称などの話は持ちが上がることもなかったそうだ。

 

【水戸線の旅②】E531系ひと形式が走るのみだが

次に水戸線を走る車両を見ておこう。現在は臨時列車や甲種輸送列車などを除き1形式のみが走っている。

 

◇E531系電車

↑水戸線の顔となっているE531系。5両編成での運行が行われている。座席はセミクロスシートで、トイレを備える

 

JR東日本の交直流電車で常磐線のほか水戸線、東北本線の一部区間で運用されている。定期運用が開始されたのは2015(平成27)年2月1日から。常磐線での運用はグリーン車を交えた10両編成が主力だが、水戸線では併結用に造られた付属5両編成の車両が単独で使われている。

 

ちなみに1編成(K451編成)のみ、かつて交流区間を走っていた401系の塗装をイメージした〝赤電塗装〟のラッピング車となっている。なかなか出会えないものの、この車両を見られることが旅の楽しみの一つになっている。

 

E531系導入まで水戸線では長らくE501系および415系が走っていたが、415系は引退、E501系は水戸線内でたびたび故障が起きたこともあり、今は常磐線での運用に限られるようになっている。

↑1編成5両のみ走る赤電ラッピング車。水戸線内と常磐線一部区間を走ることが多い

 

【水戸線の旅③】小山駅を出発してすぐの気になる分岐跡は?

ここからは水戸線の旅を進めたい。起点となる小山駅は東北本線の接続駅で、水戸線は15・16番線ホームから発車する。朝夕は30分間隔、昼前後の時間帯も1時間おきとローカル線としては列車本数が多めだ。昼間の時間帯は大半が友部駅どまりだが、朝夕は水戸駅や、その先の勝田駅へ走る列車もある。

↑東北新幹線の停車駅でもある小山駅。水戸線の列車は水戸駅地上駅の一番東側の15・16番線から発車する

 

小山駅のホームを離れた水戸線の列車は、すぐに左にカーブして次の小田林駅(おたばやしえき)へ向かう。乗車していると気づきにくいが、進行方向右側からカーブして水戸線に近づいてくる廃線跡がある。今は空き地となっているのだが、並行する道路が緩やかにカーブしていて、いかにもかつて列車が走っていた雰囲気が残る。

 

この廃線跡は、水戸線と東北本線を結んでいた短絡線の跡で、東北本線の間々田駅(ままだえき)と水戸線を直接に結ぶために1950(昭和25)年に敷設された。入線すると折り返す必要があった小山駅を通らず、東北本線から直接、貨物列車が走ることができた便利な路線だったが、1980年代に貨物列車の運用が消滅したため、2006(平成18)年に線路設備も撤去されて今に至る。

↑小山駅の最寄りにある東北本線との短絡線の跡。左手に延びる空き地にかつて線路が敷かれ貨物列車が通過していた

 

【水戸線の旅④】気になるデッドセクション箇所の走り

水戸線は16ある駅のうち、15駅が茨城県内の駅で、小山駅1駅のみが栃木県の駅だ。小山駅が栃木県の県東南部の端にあるという事情もあるが、2県をまたいで走る路線は数多くあるものの、このように1つの県で停車駅が1駅のみという路線も珍しい。この県境部に鉄道好きが気になるポイントがある。

 

小山駅を発車すると次の小田林駅との間、県境のやや手前で列車の運転士は運転台で一つの切り替え作業を行う。小山駅は直流電化区間なのだが、次の小田林駅への途中で交流電化区間に切り替わる。この切り替え作業を行うのである。

 

以前、筆者が水戸線の415系に乗車した時には、この区間で車内の照明が消え、モーター音が途絶えて一瞬静かになるということがあり驚いたものだった。現在走っているE531系の車内照明は消えることはなく、走行音もほぼ変わることはない。外から見ても変化がないのか、興味を持ったので直流から交流へ変更を行う「デッドセクション」区間を訪れてみた。

 

上部に張られた架線にはいろいろな装置が付けられていて、ここで直流と交流が変わることが分かる。また架線ポールに「交直切替」の看板が付けられ、運転士にデッドセクション区間であることを伝えている。

↑交流直流の切替区間には他と異なり碍子(がいし)を含めさまざまな設備が装着されている

 

小山駅から向かってきたE531系を見ると、ほぼスピードを落とさず通過していった。今では技術力も高まり、運転士が切替えスイッチの操作を行えば、問題なく通過できてしまう。通常の走行と異なる点といえば、車両先頭の案内表示用のLED表示器が消灯しているぐらいだった。

↑デッドセクション区間を走る友部方面行列車。架線柱には「交直切替」の案内がある(左下)。LED表示器のみ消灯していた

 

ところで、なぜ直流電化、交流電化の切り替え区間が県境付近にあるのか。その理由は茨城県石岡市に「気象庁地磁気観測所」があるからだ。地磁気観測所は地球の磁気や地球電気の観測を行っている。この観測地点から半径30km圏内で電化をする場合、電気事業法の省令で観測に影響がでない方式での電化が義務づけられている。従来の直流電化は、漏えい電流が遠くまで伝わる特長があり、そのため観測に影響が出にくい交流で電化されているのだ。

 

「気象庁地磁気観測所」の半径30km圏内に路線がある水戸線では小山駅〜小田林駅間で、また友部駅で合流する常磐線も取手駅〜藤代駅(ふじしろえき)間にデッドセクションを設けている。

 

【水戸線の旅⑤】川島駅の構内には広大な貨物線跡が残る

小田林駅の次の結城駅は、結城つむぎの生産地でもある結城市の表玄関となるのだが、今回は下車せずに先を急ぐ。東結城駅〜川島駅間で550mの長さを持つ鬼怒川橋梁を渡った。

↑鬼怒川橋梁を渡る水戸線の列車。現役の橋の横には開業当時に造られたレンガ造りの橋台跡が今も残されている(左上)

 

この鬼怒川橋梁を渡った地点から川島駅の構内に向けて、側線が設けられていた。今は一部が保線用に利用されているが、その先にあたる川島駅の北側の広々した空き地には今も錆びた線路が一部残り、側線の跡であることがよく分かる。

 

現在、川島駅の北側にはNC工基の工場がある。NC工基は土木、建築工事に関する各種基礎工事を施工する企業で、駅から工場内を望むと資材などを運ぶ大型クレーン類が良く見える。さらに、駅の北西側にはNC東日本コンクリート工業川島第四工場(旧太平洋セメント川島サービスステーション)があり専用線が設けられていた。

↑川島駅を発車した友部行列車。駅の北側に広々した側線の跡地と、大規模な工場が広がっている

 

今もこうした工場へ向けての専用線の跡地が残っている。かつては電気機関車などによる貨車の入換え作業が行われていたわけだ。筆者は、こうした引き込み線跡に興味があり、この場所には複数回訪れたが、駅の北西側の工場内に伸びていた専用線の跡は、つい最近ソーラー発電所に再整備された。徐々に川島駅周辺の廃線跡も消えていくことになるのだろう。

↑かつて使われていた専用線には今も一部に線路、また架線柱や架線も残されている

 

ちなみに、小山駅近くの東北本線への短絡線は、この川島駅と秩父鉄道の武州原谷駅(ぶしゅうはらやえき)という貨物専用駅との間を結んでいた貨物列車運行用に使われたものだった。1997(平成9)年3月22日にこの運行は終了してしまい、川島駅付近の専用線も荒れるままとなっている。貨物列車の運行も永遠に続くわけではなく、このように企業の活動に左右されるわけだ。

 

【水戸線の旅⑥】気になる関東鉄道・真岡鐵道の接続駅、下館駅

川島駅付近から先は好天の日、進行方向の右手に注目したい。関東平野の広大な田園畑地が広がるなか、筑波山が見えてくる。

 

そして列車は下館駅(しもだてえき)へ到着する。この駅は関東鉄道常総線、真岡鐵道の乗換駅となる。真岡鐵道のSLは牽引機のC12形が検査を終えたばかりで3月4日(土曜日)から運行されている。今年も行楽シーズンには多くの乗客で賑わいそうだ。さらにGW期間中には益子陶器市が開かれ、水戸線、真岡鐵道の利用者の増加が見込まれている。

 

筆者がよく訪れる下館駅だが、訪れるたびに賑わいが薄れていくように感じる。駅前の元ショッピングセンターは市役所となり、昼間に開く食事処も少なく、駅のコンビニも営業日と営業時間が限られている。このように駅の周辺が寂しくなるのは、地方都市では鉄道よりも車の利用者が圧倒的に多くなってきているせいなのだろう。

↑筑西市の表玄関にあたる下館駅の北口。真岡鐵道のSLもおか(左下)は土日休日の運行で下り列車は下館駅発10時35分発だ

 

下館駅の次の新治駅(にいはりえき)にかけて、もっとも筑波山の姿が楽しめる区間となる。標高877mとそれほど高い山ではないものの、関東平野の中にそびえ立つ山容は、昔から「西の富士、東の筑波」と称されてきた。

 

筑波山には男体山と女体山の2つの峰がある。以前に本稿で日光線の紹介した時に男体山、女体山が対になる山と記述したが、この筑波山も同じ名称の峰があり、古くから信仰の山として尊ばれてきたわけだ。

 

水戸線側から望むと単独峰に見えるのだが、実は標高が一番高い筑波山をピークに300mから700mの複数の山々が東西に連なっていて、この峰々を筑波連山、筑波連峰と呼ぶ。

↑新治駅近くの沿線から眺めた筑波山。単独峰のようにみえるが、筑波山の東側に複数の山々が連なり見る角度によって印象が変わる

 

【水戸線の旅⑦】岩瀬駅から発着した筑波線の跡は?

現在、水戸線に接続する鉄道路線は下館駅の関東鉄道常総線と真岡鐵道の2路線しかないが、かつては貨物輸送用、また観光用に複数の路線が設けられていて、それらの駅も接続駅として賑わっていた。

 

下館駅から3つめの岩瀬駅もそうした駅の一つだ。この岩瀬駅からはかつて、筑波鉄道筑波線が常磐線の土浦駅まで走っていた。筑波山観光の利用者が多く、最盛期の1960年代には上野駅などから列車が直接に筑波駅まで乗り入れた。モータリゼーションの高まりの中で、利用者の減少に歯止めがかからず、筑波鉄道筑波線は1987(昭和62)年4月1日に廃線となっている。

 

美しい筑波山麓の田園地帯をディーゼルカーが走る当時の写真をサイトで見ることができるが、長閑な趣を持つローカル線だったようだ。

↑旧筑波鉄道の廃線跡を利用した「つくばりんりんロード」。岩瀬駅に隣接して駐車場や休憩所が設けられる

 

現在、岩瀬駅から伸びていた筑波鉄道の廃線跡は、サイクリングロード「つくばりんりんロード」として整備されている。岩瀬駅の南側には駐車場が整備され、サイクリングのベースとして利用する人も多い。サイクリングロードの終点、土浦までは40kmという案内板も設けられている。途中、一里塚のようにに休憩所が複数設けられているので、のんびりとペダルをこぐのに最適な廃線跡となっている。

↑廃線線跡を利用した「つくばりんりんロード」。しっかり整備されていて自転車を漕ぐのに最適な専用道となっている

 

【水戸線の旅⑧】稲田石の産地、稲田駅で降りてみた

小山駅から岩瀬駅まで田畑を左右に見て平坦な地形を走ってきた水戸線だが、羽黒駅を過ぎると地形も一転して丘陵部を走り始める。そんな風景を眺めつつ稲田駅に到着した。

 

地元・笠間市稲田は稲田石と呼ばれる良質の御影石の産地で、切り出した砕石の輸送のため駅が開設され、また駅と砕石場を結ぶ稲田人車軌道という鉄道も敷設された。駅は水戸鉄道開業後の1898(明治31)年に造られた。地元の石材業者が中心になって、用地を提供するなど駅の開設に協力したそうだ。

 

地元が稲田石の産地であることにちなみ駅前には立派な石燈籠が立ち、「石の百年館」(入館無料)という展示館が設けられている。

↑稲田駅の駅前に立つ巨大な石燈籠。向かい側に「石の百年館」という稲田石を紹介する施設がある

 

「石の百年館」に入り、展示内容を見て驚かされた。稲田石は地元笠間市で採掘される花崗岩だが、白御影と呼ばれその白さが特長になっている。明治神宮など様々な施設に使われ、1914(大正3)年に建造された東京駅丸の内駅舎にも使われていた。窓周り、柱頭の飾りに稲田石の白い岩肌が活かされたそうだ。

 

さらに東京市電の敷石にも、材質に優れ、採掘量が安定した稲田石が大量に使われた。すでに東京都内の路面電車の路線は多くが廃止となったものの、今も道路工事のために旧路線を掘ると、敷き詰められた稲田石が大量に見つかるそうだ。

↑稲田駅に隣接して稲田石の積み下ろしに使った貨物ホームも残る。1906(明治39)年には4万4千トンの稲田石が東京方面へ出荷された

 

【水戸線の旅⑨】常磐線と合流、そして終着友部駅へ

起点の小山駅から乗車1時間弱、進行方向右手から常磐線が近づいてくると、その先が水戸線終点の友部駅となる。水戸線の列車は3〜5番線に到着し、一部列車はそのまま水戸駅または勝田駅へ向かう。

 

友部駅は2007(平成19)年にリニューアルされた橋上駅舎で、南口と北口を結ぶ自由通路が設けられている。

↑手前の2本が常磐線の線路で、水戸線の列車は写真の左側から坂を登り合流する

 

↑友部駅は3面あるホームへ上り下りする3本のエレベータ棟がアクセントになっている。水戸線の折返し列車は3番線発が多い(右上)

 

友部駅は地元笠間市の常磐線側の玄関口にあたるものの、水戸線の開業時には駅がなかった。笠間の市街地は他にあったからで、水戸線笠間駅の北側が笠間市の中心部にあたる。

 

笠間は日本三大稲荷にあたる笠間稲荷神社の鳥居前町であり、笠間城が築かれ笠間藩の城下町として栄えた。春秋に行われる陶器市で賑わう町でもある。

 

今回は訪れそこねたものの、次は笠間駅で下車してゆっくりと古い城下町巡りをしてみたいと思った。

 

【水戸線の旅⑩】最近気になる特急の模様替え車両

さて友部駅で接続する常磐線だが、停車する特急「ひたち」「ときわ」の一部編成が模様替えされ、鉄道ファンにとっては気になる列車となっている。水戸線を走る車両ではないものの、水戸線を訪れる際に利用してはいかがだろうか。

↑友部駅付近を走る特急「ひたち」グリーンレイク塗装車。今後、5編成がフレッシュひたち塗装になる予定だ

 

以前、常磐線を走っていたE653系は、各編成で色が異なり鮮やかな印象を放っていた。現在走るE657系の塗装は1パターンのみだったが、かつての「フレッシュひたち」をイメージした特別塗装車が走るようになっている。

 

茨城デスティネーションキャンペーンに合わせての塗装変更で、まずはK17編成がグリーンと白の「グリーンレイク(緑の湖)塗装」に。さらにK12編成が「スカーレットブロッサム(紅梅色)塗装」に変更されている。合計で5編成が模様替えされる予定で、水戸線を旅する時の、もう一つの楽しみになりそうだ。

祝・総延長250kmの鉄道ネットワーク完成! 3.18開業「相鉄・東急直通線」のお洒落な新駅探訪レポート

〜〜相鉄・東急直通線しゅん功開業式典・新綱島駅見学会(神奈川県)〜〜

 

3月18日、いよいよ相鉄本線と東急東横線を結ぶ「相鉄・東急直通線」が開業する。相模鉄道沿線から東京都心へのアクセスが便利になり、東急沿線からも東海道新幹線・新横浜駅へ行きやすくなる。

 

開業日が間近に迫る3月5日に「相鉄・東急直通線」しゅん功開業式典および試乗会、途中駅となる新綱島駅の見学会が開かれた。ここでは試乗会と新駅見学会の話題を中心にお届け。さらに同時期に開業を迎える大阪市と福岡市の新駅と新線の話題に触れてみたい。

 

【関連記事】
開業前の巨大地下駅ってどんな感じ?「人流を変える」と期待大の相鉄・東急直通線「新横浜駅」を探検!

 

【新線レポート①】計画から38年!いよいよ開業する直通線

3月18日に開業するのは「相鉄・東急直通線」の営業キロ10kmの路線だ。内訳は相鉄新横浜線・羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間(営業キロ:4.2km)と、東急新横浜線・新横浜駅〜日吉駅間(営業キロ:5.8km)。新横浜駅が2社の境界駅となり、列車の相互乗り入れが行われる。

↑開業するのは東急東横線の日吉駅と相鉄・JR直通線の羽沢横浜国大駅を結ぶ区間で、途中、新横浜駅と新綱島駅の新駅が開業する

 

この相鉄・東急新横浜線は「神奈川東部方面線」の一部区間として計画された。「神奈川東部方面線」のこれまでの経緯に関して触れておこう。

1985(昭和60)年 運輸政策審議会答申第7号で東京圏の交通網整備について答申が行われ、その中で「二俣川から新横浜を経て大倉山・川崎方面へ至る路線」が検討路線として盛り込まれた
2000(平成12)年 運輸政策審議会の第18号答申で「神奈川東部方面線(仮称)」の名で路線計画がより具体化
2005(平成17)年 都市鉄道等利便増進法が成立、上下分離方式の導入により、円滑に路線開業を行えるようシステムが整備
2007(平成19)年 国土交通省が相鉄・東急直通線の速達性向上計画を認定
2012(平成24)年 国土交通省から相鉄・東急直通線の工事施工認可を受け、工事を開始
2019(令和元)年11月30日 相鉄・JR直通線の相互直通運転を開始、羽沢横浜国大駅が開業
2023(令和5)年3月18日 相鉄・東急直通線開業予定、新横浜駅、新綱島駅が開業の予定

 

最初の計画が立てられたのは38年前の1985(昭和60)年。改めて相鉄・東急直通線の誕生には非常に長い期間が必要だったことが分かる。

 

計画の進行を促進したのは2005(平成17)年に生まれた「都市鉄道等利便増進法」の成立が大きかった。それまで、JRグループと多くの民間の鉄道事業者が並び立ち、成長を遂げた日本の都市の鉄道網だが、増進法成立後は、各会社間の乗り入れを密にして、乗換えの手間を解消するなどの基本方針が打ち出された。さらに新線の開業を促進するために、鉄道事業者だけに建設を任せることなく、整備主体と営業本体(鉄道事業者)を分離する、いわゆる「上下分離方式」が利用しやすいように法の整備が行われた。

 

今回の相鉄・東急直通線では、整備主体は「鉄道・運輸機構(JRTT)」が行い、営業主体の相模鉄道・東急電鉄に路線を貸付し、施設使用料(受益相当額)を受け取る仕組みとなっている。

 

【新線レポート②】新横浜駅に「祝!新線開業」の垂れ幕がかかる

開業が間近に迫る3月5日に、来賓を招いて「しゅん功開業式典および新綱島駅見学会」が行われた。まずその模様をレポートしたい。

 

筆者が早朝に向かった新横浜駅の西口。駅前の歩道橋から円形ペデストリアンデッキ(円形歩道橋)への途中、「キュービックプラザ新横浜」には「相鉄・東急 新横浜線 開業おめでとう」という垂れ幕が掲げられていた。地元でも新線、新駅開業のお祝いムードが高まっていることがわかる。

↑JR新横浜駅の北西側にある円形ペデストリアンデッキ付近に新駅ができる。地上の工事箇所もかなり縮小されつつあった

 

新横浜駅は地下4層構造になっている。横浜市営地下鉄ブルーラインの新横浜駅ホームが地下2階、東西方向に設けられ、新しい駅のホームはさらに2階ほど掘り下げた地下4階部分の南北方向にクロスして設けられた。

 

筆者は昨年の11月24日にも建設中の新横浜駅を訪れたが、このときは諸施設が設置間もない状況で、地上と地下4階にあるホームへの上り下りは階段を使わざるをえない状況だった。しかし、今回はエスカレーターが作動していてスムーズに下りていくことができた。開業のほぼ2週間前ということもあって、自動改札機などの防護カバーも外され、開業に向けてあとは利用者を待つばかりとなっていた。

↑地下1階に改札階があり、B2階フロア(写真)を経て地下4階のホームへ下りて行く。すでにエスカレーターが稼働していた

 

【新線レポート③】新横浜駅構内でしゅん功開業式典を開催

新横浜駅の地下3階のフロアで「相鉄・東急直通線 しゅん功開業式典」が開かれた。相模鉄道・東急電鉄の関係者だけでなく、相互乗り入れを行う鉄道事業者の代表、横浜市長と横浜18区の区長、神奈川県知事、また国からも斉藤鉄夫国土交通大臣、菅義偉前内閣総理大臣といった錚々たる錚々たる来賓が参加。祝辞の後に、紅白のテープカット、くす玉割りが行われた。

↑新横浜駅地下3階フロアで催されたしゅん功開業式典。来賓が集まり開業を祝い、紅白テープカットとくす玉割が行われた

 

祝辞で印象に残ったのは「首都圏で総延長250kmにも及ぶ広域な鉄道ネットワークが完成する」という言葉だった。相鉄・東急直通線が完成することにより、両鉄道会社だけでなく、東武鉄道、西武鉄道、東京メトロ、都営地下鉄、横浜高速鉄道、埼玉高速鉄道の会社線が線路で結びつく。さらに、相鉄・JR直通線でつながるJR東日本の路線網を加えれば、首都圏の主要鉄道会社の多くが結びついたことになり、このネットワーク効果は大きいように思う。あとは利用者がいかに、この路線網を役立てていけるかということなのだろう。

↑新横浜駅構内のホームのラインカラー入り案内板。1・2番線は相鉄新横浜線、3・4番線は東急新横浜線という区分けになる

 

【新線レポート④】試運転列車で新綱島駅へ向かう

しゅん功式典が終了した後には、来場者は1フロア下りて地下4階のホーム階へ。そこに待っていた試乗会用の試運転列車の運転士に花束贈呈、および記念撮影が行われた。新横浜駅での式典がすべて無事に終了すると、列車は次の駅、新綱島駅へ向けて11時4分に出発した。

↑新横浜駅構内で運転席越しに新綱島駅方向を眺める。トンネル内は真っ暗ではなく、右手に青いランプが連なっていることが分かる

 

新横浜駅〜新綱島駅間は、東急電鉄の路線で最も駅間が長い区間(約3.6km)で、列車は同駅間を約3〜4分で走ることになる。進行方向、右手には青いランプが点灯、左手には黄色いランプが点滅していて、暗いトンネルの中も意外に明るい印象だった。

 

【新線レポート⑤】新開業する新綱島駅に到着

東急電鉄で最も長い駅間とはいえ、乗車時間は3分ちょっとなので、あっという間に電車は新綱島駅へ到着した。新綱島駅はホーム1面に上下2線というシンプルな造りで、試乗した列車の相鉄20000系はその2番線に到着した。

 

駅構内の案内や、3月18日から使われる東急の路線図などの写真を掲載したので参考にしてほしい。

↑試乗会に使われた相鉄20000系20103編成。運転台には式典で贈呈された花束が置かれていた

 

↑新綱島駅の駅名案内。相鉄・東急直通線の東急側のラインカラーはパープルで、駅のナンバリングは「SH02」となった

 

↑新綱島駅1・2番線両ホームの案内。1番線がシンプルなのに対して、2番線の渋谷側は電車の行き先が多いこともあり複数の駅名が入る

 

駅の案内ボードには東急の新しい路線図も掲示された。東急東横線の日吉駅までつながる目黒線の延長線上に「東急新横浜線」として紫色のラインが加えられていた。また東急新横浜線からも東急東横線に向けて細いラインも入る。

 

相模鉄道方面からの電車は開業後に目黒線と、東横線に乗入れる。一方、東急東横線から相模鉄道へ向かう電車は、新横浜駅止まり、および相鉄本線、相鉄いずみ野線へ向かう電車が運行される。間違わずに行き先へ向かうためには、乗車した電車がどこの会社の何線を走る電車なのか注意を払う必要がありそうだ。

↑新綱島駅に掲示された東急電鉄の新しい路線図

 

【新線レポート⑥】東急電鉄の車両が1番線に入線した

11時24分、新綱島駅の1番線ホームに東急電鉄の5050系が入線してきた。来賓や来場者が新横浜駅へ戻るために用意された列車だ(報道陣を除く)。5050系は東急東横線の主力車両で、10両編成のグループが5050系4000番台に区分けされている。入ってきたのは4000番台にあたる5050系4108編成だった。前面の表示器は「TEST RUN」と記され、正面と側面の表示に東急電鉄のキャラクター「のるるん」のイラストが添えられていた。

 

「のるるん」のイラストは「回送列車」「試運転列車」などに入っているイラストのようで、通常の走行時には表示器に入ることはあまりないレアな表示だった。

↑日吉方面から走ってきた東急5050系4108編成。正面と側面(右下)の表示はキャラクター「のるるん」のイラスト入りだった

 

今回は新綱島駅までの試乗会だったが、この先、日吉駅方面には1356.51mの「綱島トンネル」が延びている。このトンネル内で気になることがあった。列車の接近時、下り新横浜方面線では一定間隔で設けられた青いライトが点滅し、上り日吉方面線では、こちらも一定間隔で設置された黄色いライトが点滅する。このライトが暗いトンネル内で〝一筋の光明〟のように鮮やかに感じられた。

 

この青と黄色のライトは東急電鉄の路線の地上部にも一定間隔に設置された保安装置(列車接近警報器などと呼ばれる)で、列車が接近すると点灯して沿線を巡回する保線係員に知らせている。東急電鉄は大手私鉄の中でもこうした安全装置の導入に積極的で、沿線の地上部で車両の撮影をする場合にも、この装置が目安になり便利だ。トンネル内にも同じ装置が設置されていたわけだ。

↑新綱島駅のホームから日吉駅へ約1.3kmの綱島トンネルが延びる。上り線は黄色、下り線(右下)は青色の保安装置が設置されている

 

ちなみに相鉄・東急直通線では羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間の羽沢トンネルを掘り進める時に、シールド機を利用しての掘削に加えて「セグメント」と呼ぶ覆工部材を利用した。セグメント区間に加えてSENS(場所打ちライニング/支保システム)区間を連続させる技術が多用されている。この方法は従来の方法に比べてより経済的だそうで、2020(令和2)年度には優れた技術に贈られる土木学会賞技術賞(Iグループ)を授賞している。そんな先進技術が詰まったトンネルというわけだ。

 

【新線レポート⑦】改札階のデザインウォールがお洒落

試運転列車が到着した新綱島駅は地下駅構内の幅が13.7〜25m、長さ約240mで、約35mの深さにある。ホーム階から2階上がった改札フロアにきて驚いた。

 

改札口の目の前の壁一面にデザインウォールと呼ばれるガラスパネルが設置され、このパネルの上部がピンク色・青紫色と交互に変化を繰り返しながら、美しく輝いていたのだ。

↑新綱島駅の改札フロアに設けられたデザインウォール。上部がピンクから青紫(右上)に鮮やかに変わっていく

 

解説板には「様々な色の光により移ろう季節に彩られた桃の木をデザイン」とあった。横浜市の綱島地区は戦前まで鶴見川の水を生かし、桃の栽培の町として栄えたそうだ。デザインウォールはこの桃をイメージしてピンクや青紫に発色する。今はすっかり住宅街となった綱島だが、桃の花が咲いていた時代を彷彿とさせるこのデザインウォールは美しく〝映える〟設備だと感じた。

↑地上部へは、ホームから改札口(右上)をへてエスカレーターを乗り継いで上がる。自動改札機には防護シートが付けられていた

 

【新線レポート⑧】エスカレータを乗り継いで地上へ

地下の改札口から地上部へ上がる。地上へ上がるには、ホームの地下4階フロアからエスカレーターを合計4つ乗り継ぐ必要がある。ホームまで下りて行くのも、時間がかかりそうだと感じた。

 

新綱島駅の出口は3月18日開業時には南口のみの設置となる。南口は港北区綱島東1丁目にあり、既存の東急東横線の綱島駅まで県道2号線の綱島交差点を横切れば約200m、徒歩2分と近い。新駅周辺では再開発事業が進んでいて、南口出口の隣接地では新水ビル(仮称)の建設が進み、新綱島駅の綱島方面出入口(仮称)が整備中だった。こちらはビル完成後に第2出口(新綱島駅構内の地図での表記による)となりそうだ。

↑新綱島駅の地上出口として整備された南口。エレベーターの入口(右下)は訪れた時はまだ利用できない状態だった

 

相鉄・東急直通線が3月18日に開業した後には、相鉄本線の二俣川駅から目黒駅まで約38分、さらに渋谷駅から新横浜駅まで東急東横線経由で約25分と所要時間が大幅に短縮される。東京の山の手地区からも新横浜駅へのアクセスが格段に向上する。今後、東海道新幹線を利用する時にどのルートでアクセスしたらより便利か、うれしい悩みとなりそうである。

 

【3月開業の路線①】大阪駅新地下ホームも3月18日に開業

この3月には、相鉄・東急直通線以外にも注目されている新線・新駅の開業がある。大阪市と福岡市という2つの大都市での新線開業だけに、注目度も高い。以下ではこの新たな路線の情報を加えておこう。

 

まず、大阪駅周辺の鉄道網が3月18日に大きく変わる。「東海道線支線地下化・新駅設置」で、大阪駅の北西部に新地下駅(通称うめきた地下ホーム)が誕生する。

↑大阪駅のメイン口として賑わう御堂筋南口。今後は御堂筋側だけでなく新駅ができる北西部も大きく変わっていきそうだ

 

元々、大阪駅の北西部(うめきたエリア)には梅田駅という貨物専用駅があり、広大なヤードが広がり多くの貨物列車の発着があった。この梅田駅の機能を吹田貨物ターミナル駅などに分散し、再開発が行われた。その一環として誕生するのが大阪駅の新地下ホームで、新大阪駅と大阪環状線の福島駅付近を結んでいた梅田貨物線を地下化、さらに大阪駅側に路線をカーブさせて接近させ、大阪駅の隣接地の地下に新ホームを建設した。

 

このうめきた地下ホームが誕生することにより、関西空港と大阪・京都を結ぶ特急「はるか」や和歌山や紀伊半島へ向かう特急「くろしお」の両特急が大阪駅での発着が可能になる。さらに新大阪駅止まりだった「おおさか東線」の電車も大阪駅へ乗入れることになるのも便利だ。

↑大阪駅の北西部を通り抜けていた旧梅田貨物線。同路線はすでに地下へ移行済みで、うめきた(右上)の再開発も進む

 

新ホーム開業後も、地上部では新ビル建設など地区の開発が進められる。うめきたは、この春の新線・新駅開業だけでなく大阪の新たな注目エリアとして大きく変わっていきそうである。

 

【3月開業の路線②】福岡市・七隈線が3月27日に延伸開業

福岡市の橋本駅と天神南駅を結ぶ福岡市地下鉄七隈線(ななくません)が、3月27日に博多駅まで延伸される。延伸される距離は1.6kmで、途中の櫛田神社前駅(くしだじんじゃまえき)もこの日に開業となる。

 

建設が始まったのは2013(平成25)年と今から10年前のこと。当初は2020(令和2)年度に完成予定としていたが、2016(平成28)年に大規模な道路陥没事故が起き、その後に施工方法などの見直しが行われ、開業が遅れていた。

↑橋本駅近くにある橋本車両基地に並ぶ七隈線の車両3000系と3000A車両。同線はミニサイズの鉄輪式リニアモーター車両が使われる

 

これまで多くの利用者が天神駅と天神南駅を結ぶ地下道を歩いての乗り換えを強いられていたものの、新線延長でこの乗り換えが不要となる。七隈線が走る福岡市の西南地区へのアクセスが劇的に改善されそうだ。

 

なお途中駅の櫛田神社前駅は、駅名どおり櫛田神社近くに設けられ、商業施設として人気のキャナルシティにも近く便利になりそうだ。また博多駅の七隈線ホームは博多駅博多口(西口にあたる)直下の地下5階に設けられる。福岡市の東西を結ぶ福岡市地下鉄空港線とは改札口を出ずに約150mの専用通路で乗換えが可能になる。七隈線の延伸は福岡市内の通勤・通学だけでなく観光にも大きく役立ちそうである。

↑JR博多シティを中心に賑わう博多駅博多口の地下5階に新駅が誕生。延伸開業を告知するポスターも市内で見かけるように(右上)

 

あれから12年! 変貌する「仙石線」で謎解きと震災の記憶をたどった

おもしろローカル線の旅109〜〜JR東日本・仙石線(宮城県)〜〜

 

東日本大震災が起きた2011(平成23)年3月11日から早くも12年を迎える。複数の鉄道路線が復旧を諦めバス路線に変更された一方で、一部区間の線路を敷き直して復旧を果たした路線がある。

 

仙石線(せんせきせん)もそうした路線の1つだ。震災から復旧したのみならず、歴史をたどると荒波にもまれた過去があることも分かった。路線に関わる謎解きと、あの日の記憶を改めて見つめ直した。

*2015(平成27)年9月5日〜2023(令和5)年2月26日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
今や希少!国鉄形機関車がひく「石巻線」貨物列車&美景を旅する

 

【仙石線の旅①】仙石線と東北本線はなぜ並行して走るのか?

仙石線の旅を始めるにあたって昭和初期の絵葉書の謎から解いていきたい。下記は昭和初期の仙石線の絵葉書だ。仙石線の電車がクロスする線路は何線だろうか。現在、JR東日本の仙石線と東北本線は塩釜〜松島間を並行して走っていて、クロスする箇所があるものの、絵葉書の風景とはだいぶ異なる。調べたところ、下の線路は国鉄塩釜線と推測された。塩釜線は東北本線の岩切駅から塩釜港まで延びていた路線で、港湾部の区間は廃線となったが一部はその後の東北本線に流用された。

↑昭和初期発行の宮城電気鉄道の絵葉書。下を走るのは旧国鉄塩釜線で現在の塩釜港まで線路が延びていた 筆者所蔵

 

現在、塩釜〜松島間で東北本線と仙石線は並行して走っている。なぜ同じ企業の2本の路線がすぐ近くをほぼ同じルートで走ることになったのだろう。

 

実は太平洋戦争前まで東北本線は官設の路線で、仙石線は私鉄の路線だったのだ。並行する路線には両線の過去が隠されていた。まずは仙石線の概要を含め歴史を追ってみたい。

 

【仙石線の旅②】宮城電気鉄道により98年前に開業した仙石線

仙石線は宮城県の仙台と石巻を結ぶことから名付けられた。その概要は次のとおりだ。

路線と距離 JR東日本・仙石線:あおば通駅(あおばどおりえき)〜石巻駅間49.0km、陸前山下駅〜石巻港駅1.8km(貨物支線)、全線電化(支線は非電化)複線および単線
開業 宮城電気鉄道が1925(大正14)年6月5日、仙台〜西塩釜間を開業、1928(昭和3)年11月22日に石巻駅まで延伸され全通
駅数 33駅(起終点駅・貨物駅を含む)

 

宮城電気鉄道により設けられた仙石線は、社名のとおり当時の最先端を行く直流1500ボルトに対応した新型電車が運行。仙台の郊外電車として、また観光地・松島が沿線にあるため利用客が多く、昭和初期には15分〜30分間隔で列車が走っていた。沿線の陸海軍の施設に向けての貨物輸送も盛んで、こうした背景のもと1944(昭和19)年5月1日に戦時買収され、国有化された。

 

一方、東北本線は現在、塩釜駅から松島駅まで仙石線とほぼ並行して走っているが、古くは利府支線の利府駅と品井沼駅(しないぬまえき)間21.2kmを結び走っていた。ちょうど現在の三陸沿岸道路が通る地域に重なる。旧線は山中を通るため勾配がきつく輸送のネックとなっていたために戦時下の1944(昭和19)年11月15日に、旧塩釜線の一部区間を利用した現在の海沿いの路線に改められた。なお旧線は1962(昭和37)年4月20日に廃止されている。

 

仙石線は、海沿いの東北本線の新線が開業した年に国営化された。戦時下とはいえ国に計画性がなかったことが透けてみえる。もし並行する仙石線と東北本線を直結させて列車を走らせたのならば、問題は一挙に解決し、無駄もないようだが、なぜそうした解決策を図らなかったのか謎である。

 

その後、1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化により仙石線はJR東日本に引き継がれ現在に至る。そして2011(平成23)年3月11日を迎えるわけだが、震災前後の様子は沿線めぐりの中で触れていきたい。

 

【仙石線の旅③】JR東日本では希少な205系が今も主力

仙石線を走る車両を見ておこう。現在、旅客用車両は下記の2形式だ。

 

◇205系電車

↑仙石線を走る205系3100番台。仙石線のラインカラーのスカイブルーの帯が入る

 

205系は国鉄が1985(昭和60)年に投入した直流通勤形電車で、国鉄分割民営化した後にはJR東日本、JR西日本に引き継がれた。

 

仙石線を走る205系は旧型の103系の置換え用に2002(平成14)年〜2004(平成16)年に導入された車両だ。新製車両ではなく、元山手線・埼京線を走った205系の車体や機器を流用している。4両編成で冬の寒さに対応するために耐寒設備も装着された。JR東日本の205系は徐々に減りつつあり、現在は仙石線と、鶴見線、南武支線のみと希少な車両になっている。

 

なお、ロングシートがクロスシートに変わる2WAYシートを装備した車両も走っている。こちらはスカイブルーの帯を巻く主力の車両と異なり、沿線の観光イメージのアップを図るため多彩なラインカラーが車体に入っている。また沿線の石巻に縁が深い漫画家、石ノ森章太郎氏のマンガ作品がラッピングされた車両も走る。

 

◇HB-E210系気動車

↑仙石線内を走行するHB-E210系気動車。車体正面に「HYBRID(ハイブリッド)」の文字が入る

 

HB-E210系気動車はディーゼルハイブリッドシステムを搭載した一般形気動車で、仙台駅〜石巻駅間を走る仙石東北ライン用に2015(平成27)年に導入された。JR東日本の東北地域の電化方式は交流電化で、一方の仙石線は直流電化方式のため、両路線の間で行き来するため気動車が採用された。

 

ちなみに、仙石東北ラインは、仙台駅〜塩釜駅間は東北本線を走り、高城町駅(たかぎまちえき)〜石巻駅間は仙石線を走る。塩釜駅と高城町駅の間には連絡線があり、その連絡線を利用して東北本線、仙石線を行き来している。

 

そのほかにJR貨物のDD200形式・DE10形式ディーゼル機関車牽引の貨物列車も一部区間を走っている(詳細後述)。

 

【仙石線の旅④】日本初の地下路線&地下駅だった旧仙台駅

ここからは仙石線の旅を始めよう。現在の起点は地下駅のあおば通駅となる。ここから陸前原ノ町駅間の約3.2km間が地下鉄区間となっている。この仙台市街地区間の歴史も紆余曲折があり、謎も秘めている。

↑仙台駅の西側に位置する起点駅のあおば通駅。地上からの入口(右上)は市営地地下鉄との共用で、入口には仙台駅と記されている

 

路線が誕生した宮城電気鉄道時代、仙台駅から東七番丁駅間で地下路線が設けられた。東北本線と立体交差し、仙台駅西口に駅の出口を設けるためだった。

 

日本の地下鉄道は浅草駅〜上野駅間を走った東京地下鉄道(現・銀座線)が最初だとされるが、仙石線はその開業より2年半も早く設けられた地下鉄道および地下駅だったのだ。しかし、単線で使い勝手が悪く1952(昭和27)年に廃止、その歴史はすっかり忘れられてしまった。宮城電気鉄道が消滅したため、当時の地下駅がどうなったかも謎のままである。

 

地下ホームが廃止された後、仙石線のホームは200メートルほど東に移され、地上ホームとなった。東口から市街を走る時代が長く続いたのだが、市街地には踏切が多く、開かずの踏切ばかりで不評だった。そこで連続立体交差事業が進められ2000(平成12)年3月11日に工事が完成し、今の仙石線の地下を走る区間ができあがった。

↑現在の仙台駅の東側に仙石線の地上ホームがあった。旧路線の東七番丁踏切跡には記念碑(右下)が歩道上に設けられている

 

【仙石線の旅⑤】地下駅の一つ宮城野原駅で途中下車した

仙台市街の地下駅の一つ、宮城野原駅(みやぎのはらえき)で途中下車してみた。この駅は楽天ゴールデンイーグルスの本拠地、楽天モバイルパーク宮城の最寄り駅。発車ベルは応援歌の「羽ばたけ楽天イーグルス」だったり、駅の2番出口にはヘルメットが乗ってるなど、なかなか凝っている。

 

この球場に隣接して仙台貨物ターミナル駅が広がる。仙台貨物ターミナル駅は東北地方を代表する貨物駅で、路線は仙台駅を通らず東北本線のバイパス線、東北本線支線(通称・宮城野貨物線)にある。貨物駅上には跨線橋がかかり、橋の上から貨物列車の入換えや、コンテナを積む様子を見ることができる。

↑宮城野原駅の一つの2番出口は楽天カラーでまとめられている(左下)。その出口から徒歩約10分の場所に仙台貨物ターミナル駅がある

 

仙石線は宮城野原駅の次の陸前原ノ町駅を過ぎると宮城野貨物線の下をクロスして走り、苦竹駅(にがたけえき)手前から地上部へ出る。

 

【仙石線の旅⑥】本塩釜駅までは大都市の郊外線の趣が強い

仙石線は起点のあおば通駅から本塩釜駅までは複線区間で列車本数も多い。北側を東北本線が沿うように走っているが、東北本線は駅間が長いのに対して、仙石線は駅間が短い。例えば東北本線の仙台駅〜塩釜駅間13.4kmに途中駅は4駅で所要時間が16分、対して仙石線は仙台駅〜本塩釜駅間15.5kmに途中駅が11駅で所要時間は約30分かかる。

 

東北本線の駅周辺よりも仙石線の駅周辺のほうが賑わっていて、沿線の住宅開発やマンション建設も進んでいる。列車本数が多く便利ということもあるのだろう。

↑複線区間が本塩釜駅まで続く。仙台市の郊外区間ということもあり、マンションも多く建ち並ぶ

 

仙台駅から約30分、本塩釜駅を過ぎると進行方向右手に塩釜港が見えてくる。筆者は震災前に訪れたことがあったが、今は港を取り囲むように背の高い堤防が築かれ、だいぶ趣が変わっていた。

↑塩釜港の西側を高架線で走る仙石線の下り列車。車窓からも港の様子を望むことができる

 

【仙石線の旅⑦】芭蕉も発句に懊悩した松島はやはりすごい!?

次の東塩釜駅からは海岸沿いを走る区間が多くなる。仙石線の線路に寄り添うように左手から近づいてくるのが東北本線の線路だ。しばらく並走するのだが、接続駅がなく両線の駅も遠く離れているのが不思議なところ。やはり私鉄路線と官設路線だった名残が今も続いているわけだ。

 

仙石線の車窓から大小の島々が浮かぶ海が眺められるようになると、間もなく松島海岸駅だ。この駅では多くの観光客が下車していく。

↑新装した仙石線の松島海岸駅。駅から景勝地、瑞巌寺五大堂(左上)も徒歩圏内にある

 

冬にもかかわらず、松島海岸駅は賑わいをみせていた。駅前から遊覧船の呼び込みが盛んで、松島名物のカキの殻焼きも香る。そんななかを歩くこと8分、瑞巌寺五大堂を訪れ、松島湾を見渡した。260余の島々が浮かぶ日本三景の松島には、かの俳聖、松尾芭蕉すら美しさに発句できなかったと伝わるが、観光客が訪れる魅力は醒めないようだ。

 

松島には瑞巌寺(ずいがんじ)、瑞巌寺五大堂といった古刹や景勝地が集う。海岸に近い瑞巌寺だが、杉並木が枯れたりしたものの津波の影響もあまりなく、震災後は避難所として活かされた。松島湾に浮かぶ島々が津波から施設を守り、この場所ならば安全という長年の経験と知恵が役立っているようだ。

↑仙石線と東北本線との連絡線付近を走る仙石東北ラインの列車。松島の瑞巌寺のちょうど裏手にこの連絡線がある

 

【仙石線の旅⑧】丘陵部の野蒜駅の新駅から海へ散策してみた

仙石線は路線の68%が海岸部の近くを走ることもあり、震災時には津波の被害を受けた箇所も多かった。松島海岸駅周辺のように被害が軽微だった地域もあれば、大きな被害を受けた地域もあった。ここからはより海岸近くを走る区間の震災前後の状況を見て行きたい。

↑復旧した陸前富山駅。背の高い防波堤(右上)が設けられた。現在防波堤は入場禁止となっている 2015(平成27)年9月5日撮影

 

 

仙石線の沿岸で最も海岸に近いのは陸前富山駅(りくぜんとみやまえき)から陸前大塚駅付近。この区間は海が近いだけに風景が素晴らしい。一方で津波の被害を受けたため路線をかさ上げし、堤防を増強するなどした上で、2015(平成27)年5月30日に復旧に至っている。

↑陸前富山駅〜陸前大塚駅間を県道27号線から松島湾と仙石線を眺める。近くの古浦農村公園では5月、菜の花畑も楽しめる(左上)

 

陸前大塚駅から東名駅(とうなえき)、野蒜駅(のびるえき)間の津波の被害は特に際立った。野蒜駅から東名駅へ向かっていた仙石線の上り列車が津波に押し流されて大破している。幸いにも乗客は近くの小学校へ避難して無事だった。

 

震災前の地図を見るとこの区間は海岸からだいぶ離れていた。そして海の先には宮戸島(みやとじま)という松島湾最大の島がせり出している。2つの駅は海岸から離れていたものの標高が低く平坦地が連なっていたこともあり、津波の被害が大きかったようだ。

 

仙石線の路線は震災後に丘陵部に移され、東名駅と野蒜駅の北側は野蒜北部丘陵団地として新たに整備された。この新しい野蒜駅から津波の被害が甚大だった旧野蒜駅方面へ歩いてみた。

↑現在の野蒜駅の駅舎。野蒜ヶ丘という丘陵部に造成された住宅地に面して、新しい駅が設けられた。右上は旧駅方面へ向かう連絡通路

 

 

駅前から「野蒜駅連絡通路」を抜けて旧駅方面へ降りていく。徒歩10分ほどで着く旧野蒜駅周辺は「東松島市東日本大震災復興祈念公園」として整備されていた。中心となる施設が旧野蒜駅の駅舎だ。

 

旧駅舎は「東松島市 震災復興伝承館」として開放されている(入館無料)。館内には被災前の東松島市と、3月11日の同地の様子、そして津波、避難の記録などが展示され、映像でもふり返ることができる。2階の入口には旧駅で使われた自動券売機が展示され、その壊れ方が津波のすごさを物語っている。

↑駅名案内などもそのままに残る旧野蒜駅の駅舎。建物に津波が3.7mの高さまで来たことを示す案内看板が付いている

 

階段の上部には津波がここまで来たことを示す案内看板が。この場所での津波の高さは3.7mだった。数字だけだとその高さが実感できないが、実際に見上げると、この津波が目の前に差し迫ったとしたら、とても逃げられない高さであることが実感できた。

 

旧野蒜駅と裏手に残るホームからは今も電車が発着しそうな趣が残るだけに、震災および津波の恐ろしさを改めて感じた。

↑旧野蒜駅「東松島市 震災復興伝承館」の裏手にはレールが敷かれたまま残るホームも保存されている。

 

【仙石線の旅⑨】航空自衛隊の練習機が駅前に

丘陵に設けられた野蒜駅から陸前小野駅、鹿妻駅(かづまえき)と、水田風景が広がる平野部へ下りていく。この鹿妻駅前には航空自衛隊で使われたジェット機が保存展示されている。

↑鹿妻駅の駅前で展示保存される航空自衛隊のT-2練習機。ブルーインパルスの基地上空訓練は平日の午前中に行われている

 

鹿妻駅の駅前に展示保存されるのは、航空自衛隊で1995(平成7)年12月まで地元の松島基地を拠点に活動する曲技飛行隊・ブルーインパルスで使われていたT-2超音速高等練習機(69-5128機)であることが分かった。なお、現在のブルーインパルスはT-4練習機を使っている。

 

航空自衛隊の松島基地は鹿妻駅から次の矢本駅の海岸側に滑走路がある。ちなみに松島基地も被災し、基地内の駐機していた28機がすべて水没してしまった。幸いブルーインパルスの乗務機は福岡県の芦屋基地を訪れていて水没を免れ、隊員たちは機体を残し、東松島へ急ぎ戻り被災した人たちの支援にあたったそうだ。

 

【仙石線の旅⑩】石巻市内では貨物専用線を訪ねてみた

起点のあおば通駅から約1時間30分で終点の石巻駅へ到着した。石巻駅の駅構内や駅舎には、石ノ森章太郎氏が生み出したマンガのキャラクター像が飾られている。石ノ森章太郎氏は宮城県登米市生まれだが、学生時代に石巻の映画館に通った縁もあり、石ノ森萬画館(駅から徒歩12分)が市内に設けられている。

↑仙石線の石巻駅。1・2番線(左下)が仙石線、仙石東北ラインのホームで、石巻線との乗換えも便利だ

 

石巻駅で鉄道好きが気になることといえば、駅構内に停まるコンテナ貨車だろう。この列車はどこへ向かう列車なのだろう。

 

貨物列車は石巻駅のとなり、仙石線陸前山下駅から分岐する仙石線貨物支線の先にある石巻港駅へ向かう。この貨物駅に隣接して日本製紙石巻工場があり、紙製品がコンテナに積まれて、石巻線経由で小牛田駅(こごたえき)へ運ばれる。

↑陸前山下駅から住宅街を抜けて石巻港に面した石巻港駅を目指すDE10形式牽引の貨物列車。同機関車牽引の列車も減り気味だ

 

石巻港にほぼ面した石巻港駅も津波により壊滅的な被害を追った。駅構内に停まっていたDE10形式ディーゼル機関車の1199号機と3503号機が被害を受けて現地で廃車、解体されている。

 

仙石線貨物支線の撮影から戻る陸前山下駅近くの街中で、ここまで津波が到達したことを示す案内が貼られていた。海岸からかなり遠い住宅地まで津波がやってきたがわけだ。仙石線沿線の「東松島市東日本大震災復興祈念公園」の案内には「あの日を忘れず 共に未来へ」という見出しが付く。時間がたつとともに忘れがちだが、時あるごとに震災の記憶を未来への教訓として役立てていくべきだと切に感じた。

黄色い電車に揺られ「宇部線」を巡る。炭鉱の町の歴史と郷愁を感じる旅

おもしろローカル線の旅108〜〜JR西日本・宇部線(山口県)〜〜

 

重工業で栄えてきた宇部市は人口16万人と地方の中核都市だ。そんな市内を走る宇部線だが、駅周辺の賑わいは消えていた。車社会への移行によって駅前の風景が大きく変わっていく−−そんな地方ローカル線の現状を、宇部線の旅から見ていきたい。

*2017(平成29)年9月30日、2022(令和4)年11月26日、2023(令和5)年1月21日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
電車も駅も昭和の趣が色濃く残る「小野田線」超レトロ旅

 

【宇部線の旅①】宇部軽便鉄道として宇部線の歴史が始まった

まず、宇部線の概要や歴史を見ていこう。宇部線は軽便鉄道が起源となっている。

路線と距離 JR西日本・宇部線:新山口駅〜宇部駅間33.2km、全線電化単線
開業 宇部軽便鉄道が1914(大正3)年1月9日、宇部駅〜宇部新川駅間を開業。
宇部鉄道が1925(大正14)年3月26日に小郡駅(現・新山口駅)まで延伸し、宇部線が全通。
駅数 18駅(起終点駅を含む)

 

今から109年前に宇部軽便鉄道により路線が開設された宇部線だが、「軽便」と名が付くものの官設路線との鉄道貨物の輸送が見込まれたこともあり、在来線と同じ1067mmの線路幅で路線が造られた。1921(大正10)年には宇部鉄道と会社名を変更、1941(昭和16)年には宇部電気鉄道(現・小野田線の一部区間を開業)と合併し、旧宇部鉄道は解散、新たな宇部鉄道が設立された。この〝新〟宇部鉄道だった期間は短く、その後の戦時買収により1943(昭和18)年5月1日、宇部鉄道の全線は国有化。1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化によりJR西日本に引き継がれ現在に至っている。

 

ローカル線の利用状況の悪化が目立つJR西日本の路線網だが、2021(令和3)年度における宇部線の1日の平均通過人員は1927人。居能駅(いのうえき)で接続する小野田線の346人と比べれば多いものの、赤字ローカル線の目安となる2000人をやや下回る状況になっている。

 

【宇部線の旅②】国鉄形105系とクモハ123形の2形式が走る

次に宇部線を走る車両を見ておこう。現在は下記の2形式が走る。

↑宇部新川駅を発車する濃黄色の105系。宇部線の105系は2両編成のみだがクモハ123形と連結して走る列車もある

 

◇105系電車

105系は国鉄が地方電化ローカル線向けに開発し、1981(昭和56)年に導入した直流電車で、宇部線には同年の3月19日から走り始めている。誕生して42年となる古い車両で、他の路線では後継車両に置き換えが進めれ、JR西日本管内で残るのは福塩線(ふくえんせん)および、宇部線、小野田線と山陽本線の一部となっている。なお、宇部線を走る105系の車体カラーは濃黄色1色と、クリーム地に青と赤の帯を巻いた2タイプがある。

 

◇クモハ123形電車

クモハ123形電車は、1986(昭和61)年に鉄道手荷物・郵便輸送が廃止されたことで、使用されなくなった荷物電車を地方電化ローカル線用に改造したもの。JR東日本、JR東海のクモハ123形はすでに全車が引退となり、JR西日本に5両のみが残る。5両全車が宇部線、小野田線で走っていることもあり、貴重な電車を一度見ておこうと訪れる鉄道ファンの姿も目立つ。

↑宇部新川駅構内に留置中のクモハ123形。トイレが付く側の側面は窓がわずかしかない。それぞれの車両は細部が微妙に異なっている

 

宇部線、小野田線を走るクモハ123形は1両のみで走る列車が大半だが、105系2両と連結し、3両で走る珍しい列車も見られる。こちらは朝夕のラッシュ時のみ、新山口駅と山陽本線の下関駅を往復(宇部駅を経由)している。

↑2両の105系の後ろに連結されたクモハ123形。同じ車体色のため違和感はないが、ドアの数が異なる不思議な編成となっている

 

【宇部線の旅③】やや離れた0番線から宇部線の旅が始まった

ここからは宇部線の旅を楽しみたい。路線の起点は新山口駅なのだが、路線の3分の2にあたる12駅が市内にあり、路線名ともなっている宇部市の宇部駅から乗車することにした。

 

筆者は宇部駅7時28分着の山陽本線の下り列車を利用したが、ホームを降りると連絡跨線橋を走り出す中学生がいた。接続する宇部線の列車が7時31分と、3分の乗り換え時間しかないのだ。しかも、宇部線の電車が停車しているのが、0番線と連絡跨線橋から遠いことが、中学生が走り出した理由だった。

 

通常、宇部線の列車は1番線からの発車が多いのだが、早朝はこうした接続時間に余裕のない列車がある。走り出す中学生がいたから分かったものの、のんびりしていたら乗り遅れていただろう。こうした例はいかにもローカル線らしい現実だ。ワンマン運転のため、運転士がホームを確認して乗り遅れがないかを確認して発車していたが、慌ただしいことに変わりはない。

↑小規模ながら瀟洒な造りの宇部駅駅舎。とはいえ駅前通り(右下)を見ると閑散としていた

 

宇部駅は1910(明治43)年7月1日に開業した古い駅だが、宇部鉄道が国有化した後に、宇部線の宇部新川駅が宇部駅と改称。1943(昭和18)年5月1日から1964(昭和39)年10月1日までは西宇部駅を名乗った。後に再改称されて宇部駅を名乗っているが、宇部市の中心は宇部新川駅付近である。

 

宇部駅は名前の通り宇部市の表玄関にあたるが、駅前に商店はほとんどなく閑散としてい理由はこのあたりにあるのかもしれない。

↑宇部駅の0番線ホームに停まるクモハ123形。0番線は連絡跨線橋から離れていて山陽本線からの乗り継ぎに時間を要する

 

【宇部線の旅④】厚東川の上をカーブしつつ105系が走る

宇部駅を発車した宇部線の列車は、進行方向左手に山陽本線の線路を見ながら右へカーブして宇部線に入ると、わずかの距離だが複線区間に入る。ここは際波信号場(きわなみしんごうじょう)と呼ばれるところで、朝夕に宇部方面行き列車との行き違いに使われることがある。

 

現在の宇部線は列車本数が少なめで、上り下り列車の行き違いのための信号場は不要に思える。しかし、石炭・石灰石輸送が活発だったころは、美祢(みね)線の美祢駅と宇部港駅(現在は廃駅)間を貨物列車が1日に33往復も走っていたそうだ。際波信号場はそんな貨物輸送が盛んだったころの名残というわけである。ちなみに現在、貨物輸送は全廃されている。

↑厚東川橋梁を渡る宇部新川方面行の列車。橋の途中からカーブして次の岩鼻駅へ向かう

 

信号場を通り過ぎると間もなく列車は厚東川(ことうがわ)橋梁にさしかかる。車窓からは上流・下流方向とも眺望が良い。二級河川の厚東川だが水量豊富で宇部線が渡る付近は川幅も広い。橋梁上で列車は右カーブを描きつつ次の岩鼻駅へ向かう。

 

【宇部線の旅⑤】開業当初、岩鼻駅から先は異なる路線を走った

宇部線の開業当初の岩鼻駅付近の地図を見ると、次の居能駅方面への路線はつながっておらず藤山駅(その後に藤曲駅と改称)、助田駅(すけだえき)という2つの駅を通って宇部新川駅へ走っていた。現在のように路線が変更されたのは国有化以降で、それ以前は現在の小野田線のルーツとなる、宇部電気鉄道の路線が居能駅を通り、宇部港方面へ線路を延ばしていた。

 

国有化されて路線が整理された形だが、宇部市内の狭いエリアで宇部鉄道、宇部電気鉄道という2つの会社がそれぞれの路線を並行して走らせていたわけである。

↑レトロな趣の岩鼻駅(右上)から居能駅へ線路が右カーブしている。戦後しばらくこの先、異なる路線が設けられていた

 

岩鼻駅から右にカーブした宇部線は小野田線と合流して居能駅へ至る。この岩鼻駅〜居能駅間は路線名がたびたび変わっていて複雑なので整理してみよう。

 

【宇部線の旅⑥】レトロな居能駅の先に貨物線が走っていた

国有化まもなく宇部駅(当時の駅名は西宇部駅)〜宇部新川駅(当時の駅名は宇部駅)〜小郡駅(現・新山口駅)は宇部東線と呼ばれた。一方、居能駅から延びる宇部港駅、さらに港湾部に延びる路線は宇部西線と呼ばれた。岩鼻駅と居能駅間は1945(昭和20)年6月20日に宇部西線貨物支線として開業している。終戦間近のころに岩鼻駅と居能駅間の路線がまず貨物線として結ばれたわけである。

 

その後の1948(昭和23)年に宇部東線が宇部線に、宇部西線が小野田線と名が改められた。岩鼻駅から藤曲駅(旧・藤山駅)、助田駅経由の宇部駅(現・宇部新川駅)まで路線が結ばれていたが、この路線は1952(昭和27)年4月20日に廃止され、岩鼻駅〜宇部新川駅間は現在、旧宇部西線経由の路線に変更されている。

↑居能駅(左下)を発車した下関駅行列車。居能駅の裏手(写真右側)には今も貨物列車用の側線が多く残されている

 

何とも複雑な経緯を持つ宇部市内の路線区間だが、貨物線を重用したことが影響しているようだ。宇部市の港湾部の地図を見ると、港内に陸地が大きくせり出しており、この付近まで引込線が敷かれていた。当時のことを知る地元のタクシードライバーは次のように話してくれた。

 

「今の宇部興産のプラント工場がある付近は、かつて炭鉱で働く人たちが暮らした炭住が多く建っていたところなんです。沖ノ山炭鉱という炭鉱があったのですが、私が小さかった当時、町はそれこそ賑やかなものでした」

 

宇部炭鉱は江戸時代に山口藩が開発を始めた炭鉱だった。中でも宇部港の港湾部にあった沖ノ山炭鉱は規模も大きかった。宇部炭鉱は瀬戸内海の海底炭鉱で、品質がやや劣っており、海水流入事故などもあったことから、全国の炭鉱よりも早い1967(昭和42)年にはすべての炭鉱が閉山された。一方で、出炭した石炭を化学肥料の原料に利用するなど、歴史のなかで培ってきた技術が、後の宇部市の化学コンビナートの基礎として活かされている。

↑沖ノ山炭鉱の炭住が建ち並んだ港湾部は現在コンビナートに変貌している。写真は宇部伊佐専用道路のトレーラー用の踏切

 

【宇部線の旅⑦】郷愁を誘う現在の宇部新川駅

炭鉱の町から化学コンビナートの町に変貌した宇部市だが、人口の推移からもそうした産業の変化が見て取れる。炭鉱が閉山した当時は一度人口が減少したものの、その後に増加に転じ、1995(平成7)年の国勢調査時にピークの18万2771人を記録している。今年の1月末で16万183人と減少しているものの、豊富なマンパワーが沖ノ山炭坑を起源とする宇部興産(現・UBE)などの大手総合化学メーカーの働き手として役立てられた。

 

宇部市の繁華街がある宇部新川駅に降りてみた。山陽本線の宇部駅に比べると駅周辺にシティホテルが建ち、また飲食店も点在している。駅前の宇部新川バスセンターから発着する路線バス、高速バスも多い。

↑宇部新川駅の駅舎。宇部市の表玄関にあたる駅で規模も大きい。とはいえ人の少なさが気になった

 

だが、立派な造りに反して駅は閑散としていた。跨線橋は幅広く以前は多くの人が渡っていたであろうことが想像できるのだが、階段の踏み板は今どき珍しい木製で、改札口の横に設けられた小さな池も水が張られず、白鳥の形をした噴水の吹出し口が寂しげに感じられた。

 

一方、駅構内の側線には宇部線・小野田線用の105系、クモハ123形が数両停められていた。駅構内には宇部新川鉄道部と呼ばれる車両支所(車両基地)があったが、それぞれの電車は現在、下関総合車両所運用検修センターの配置となっていて、宇部新川駅の構内は一時的な留置場所として車庫代わりに利用されている。

↑宇部新川駅構内に止められる宇部線、小野田線の車両。同駅の車両基地は廃止されたが現在も車庫代わりに利用されている

 

宇部新川駅前の賑わいがあまり感じられないこともあり、再びタクシードライバー氏に聞いてみた。

 

「若い世代は地元であまり買物をしないし、遊ばないからね。下関までなら電車で1時間、車を使えば北九州小倉へ約1時間ちょっとで行けるから、皆そちらへ行ってしまう……」と悲しげな様子だった。

 

車で移動する人が大半となり、さらに他所へ出かけてしまう。それがこうした駅周辺の寂しさの原因となっているようだ。

 

【宇部線の旅⑧】バスの利用者が大半の山口宇部空港の現状

宇部線の沿線には重要な公共施設もある。例えば宇部線草江駅のそばには山口宇部空港がある。駅から徒歩7分、距離にして600mほどだ。山口県には広島県境に岩国飛行場もあるが、山口宇部空港は山口県内の主要都市に近いこともあり年間100万人を上回る利用者がある。とはいうものの草江駅で降りて空港へ向かう人の姿はちらほら見かけるだけだった。

 

これは、空港へはバスの利用が便利なためと推察する。現在、空港の公式ホームページでも同駅利用のアクセス方法を紹介しているものの、飛行機の発着に列車のダイヤが合っておらず、不便なのだろう。

↑利用者が少ない草江駅。ホームからも空港が見える。山口宇部空港(左上)は県道220号線をはさんで7分の距離にある

 

その点、山口宇部空港が1966(昭和41)年に開設されたときに、駅を少しでも空港近づけるなり方法があったのではと感じてしまう。ちなみに、JR西日本管内の路線では、鳥取県を走る境線では米子空港の改修時に、より近くに駅を移転させて利用者を増やした例がある。それだけに、少し残念に感じた。

 

【宇部線の旅⑨】瀬戸内海の眺望が楽しめる常盤駅

山口県の瀬戸内海沿岸地方を走る宇部線だが、車窓から海景色が楽しめる区間が意外に少ない。唯一見えるのが草江駅の次の駅、常盤駅(ときわえき)だ。

↑常盤駅のホームからは瀬戸内海が目の前に見える。レジャー施設が集う常盤池も徒歩15分ほどの距離にある

 

この駅で下車する観光客を多く見かけた。その大半が海方面とは逆の北側を目指す。北には常盤池という湖沼があり、この湖畔に「ときわ公園」(徒歩15分)が広がる。園内には動物園や遊園地や植物園もあり宇部市のレジャースポットとなっている。また宇部市発展の基礎を作った石炭産業の歴史を伝える「石炭記念館」もあり、併設された展望台からは瀬戸内海が一望できる。

 

筆者は時間の余裕がなかったこともあり、公園を訪れることなく、海へ出て常盤海岸を散策するにとどめた。駅から海岸へは徒歩3分で、瀬戸内海と九州が海越しに望める。山口宇部空港の滑走路が右手に見えて、発着時はきっと迫力あるシーンが楽しめるだろうと思ったが、残念ながら次の列車を待つ間に飛行機の発着を眺めることはできなかった。

↑常盤駅のすぐそばに広がる常盤海岸。今は波消しブロックが並んでいるが、1999(平成11)年までは海水浴場として開放されていた

 

【宇部線の旅⑩】宇部市から山口市へ入ると景色が大きく変わる

宇部市内の宇部線の駅は岐波駅(きわえき)まで続く。宇部線の18駅中、岐波駅までの12駅が宇部市内の駅で、この先の阿知須駅(あじすえき)からの6駅が山口市内の駅となる。宇部市は山口県内でも人口密度が県内3番目ということもあるのか、宇部市内の駅や沿線に民家が多く建つ。一方、阿知須駅を過ぎたころから沿線に緑が目立つようになり、特に深溝駅から先は田畑が沿線の左右に広がるようになる。

↑上嘉川駅〜深溝駅間は水田地帯が広がる。山陽本線は左手に見える民家付近を通っている

 

こうした民家が途絶える山口市内は宇部線の列車を撮影するのに最適なこともあり、深溝駅〜上嘉川駅(かみかがわえき)間で撮影した写真がSNS等に投稿されることも多い。そんな田園の中を走り、上嘉川駅を過ぎると、左側から山陽本線が近づいてきて並走し、今回の旅の終点、新山口駅へ到着する。

 

宇部駅からは1時間15分〜20分ほど、変化に富んだ車窓風景が楽しめる旅となった。

 

【宇部線の旅⑪】かつて小郡駅の名で親しまれた新山口駅

最後に新山口駅の駅名に関して。同駅は1900(明治33)年の駅の開設時に小郡駅(おごおりえき)と名付けられた。小郡村に駅が設けられたためで、その後に小郡町となり山口市と合併した。1975(昭和50)年、山陽新幹線が開業した後もしばらく小郡駅のままだったが、紆余曲折あった後、2003(平成15)年10月1日に山陽新幹線ののぞみ停車駅になったことを機に、小郡駅から新山口駅へ駅名を改めた。

↑新山口駅の新幹線ホーム側にある南口。在来線は北口側近くに改札口があり宇部線のホーム(右上)はそちらの8番線となっている

 

小郡駅といえば、駅弁ファンは「ふく寿司」を製造していた小郡駅弁当という会社を思い出す方もあるかと思う。筆者も安価でふく(地元下関ではフグと濁らずフクと呼ぶことが多い)が味わえるので、駅を訪れた際は欠かさず購入していたのだが、2015年に小郡駅弁当は駅弁から撤退してしまった。

 

しかし、この味を別会社の広島駅弁当が引き継ぎ販売を開始していた。パッケージのフクのイラストも健在で、懐かしの味が復活。新山口駅の「おみやげ街道」で金・土・日曜日のみ限定販売(1200円)するとのこと。次回に訪れた際は必ず購入しようと誓うのだった。

鉄道&街道に歴史が感じられる「日光線」で美景を堪能する

おもしろローカル線の旅107〜〜JR東日本・日光線(栃木県)〜〜

 

日光といえば徳川家康を祀る日光東照宮がある町として知られている。この日光と栃木県の県庁所在地・宇都宮を結ぶのが日光線だ。

 

日光線に沿って日光詣でに使われた古道が残り、野山には四季の草花が美しく咲き誇る。そんな日光線の歴史探訪と美景探勝の旅を楽しんだ。

*2017(平成29)年1月29日〜2023(令和5)年1月19日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【日光線の旅①】116年前に日本鉄道が敷設した日光線

まずは日光線の概要に触れたい。加えて日光線の歴史を見る上で避けて通れない、ライバル路線の東武日光線の歴史も見ておこう。

路線と距離 JR東日本・日光線:宇都宮駅〜日光駅間40.5km、全線電化単線
開業 日本鉄道により1890(明治23)年6月1日、宇都宮駅〜今市駅間が開業、同年8月1日に日光駅まで延伸された
駅数 7駅(起点駅を含む)

 

今から133年前に、東北本線を建設した日本鉄道により日光線が造られた。その後、1906(明治39)年11月1日に日本鉄道が買収され日光線も国有化、官営の鉄道路線となった。1987(昭和62)年の国鉄分割民営化以降はJR東日本に引き継がれている。

 

日光線の歴史を大きく変えたのが、並行して走る東武日光線の存在だった。日光線が開業してから39年後の1929(昭和4)年に東武日光線が東武日光駅まで路線が延伸されると、熾烈なライバル争いが繰り広げられた。

 

1959(昭和34)年に国鉄が特急並みの充実度を誇る157系電車を導入したのに対して、東武鉄道は翌年に1720系「デラックスロマンスカー」を投入して対抗。国鉄の路線は東武に比べて所要時間が長いなど弱点があり、利用者の伸び悩みから優等列車の運転は消滅し、現在、日光線は普通列車のみの運行となっている(臨時列車を除く)。一方で、JR新宿駅発の特急が、途中の東北本線栗橋駅から東武日光線に乗入れ、東武日光駅着で走らせるなど、今や呉越同舟といった状態になっている。

 

【日光線の旅②】新型E131系電車に置換え完了

次に日光線を走る車両を見ておこう。現在は下記の1形式のみとなっている。

↑鹿沼駅近郊を走るE131系電車。先頭の車両はこの日は未使用ながら霜取り用のパンタグラフを備えている

 

◇E131系電車

2022(令和4)年3月のダイヤ改正時から、E131系600番台、680番台がそれまでの205系電車に代わり走り始めた。ステンレス製の拡幅車体を使用し、黄色と茶色の2色の帯をまとう。宇都宮線(東北本線)との共通の仕様で、関東地方の寒冷地を走ることから、先頭車に霜取り用のパンタグラフを装着し、加えてドアレールヒーターが装着されている。

 

昨年春まで走っていた205系は、日光線仕様の車両に加えてオリジナルな姿を残した車両や、改造した観光車両「いろは」も走っていただけに、鉄道ファンとしては残念だった。とはいえ、秋の修学旅行向け団体臨時列車の運行や、観光シーズンには臨時列車の運行も予想されるので、楽しみにしたい。

↑秋にE257系5500番台で運行された修学旅行用の団体臨時列車。2021(令和3)年11月14日撮影

 

【日光線の旅③】レトロな趣の宇都宮駅5番線ホームから発車

ここからは日光線の旅を楽しもう。日光線の列車は宇都宮駅5番ホームから発着する。このホームは宇都宮線用の7〜10番線とは趣がかなり異なる。ホームへの降り口に設けられる案内表示が、えんじ色ベースに明朝体の白い文字で表記、凝った金色の装飾が施される。レトロな駅名表示などは路線全駅共通で、歴史ある路線という演出が施されている。

↑宇都宮駅を発車してしばらくは宇都宮線や、高架の東北新幹線と並走して走る。駅名表示などもレトロな造りになっている(左下)

 

日光線の列車は朝夕30分おきに宇都宮駅を発車(一部は途中、鹿沼駅どまり)し、日中もほぼ1時間おきに運転される。観光シーズンは快速臨時列車も運行され、ローカル線としては本数も多めだ。

 

日光駅までの所要時間は45分弱と短めだが、個々の駅や沿線には観光地や鉄道ファンが気になる箇所が多数点在し、濃密な旅が楽しめる。本稿ではそうした気になるポイントを中心に紹介したい。

 

【日光線の旅④】鶴田駅到着までに目にする謎の引込線跡は?

宇都宮駅から所要約6分で次の鶴田駅に到着する。到着する前に進行方向左手に気になるポイントがある。雑草が生い茂って確認しにくいが、一部に線路が残っている。この線路は何なのだろう?

↑鶴田駅の宇都宮駅側には線路の左右に広い空き地が残る。写真右手にはかつて近隣の工場までの専用線が敷かれていた

 

宇都宮駅〜鶴田駅間に一部残る線路は、かつて富士重工(現・SUBARU)宇都宮製作所まで延びる専用線だった。旧・富士重工宇都宮製作所は鉄道事業部門で、気動車を中心に特急形からローカル線用まで多くの車両を製作していた。今も走るJR北海道のキハ283系や智頭急行のHOT7000系といった振子式気動車など優秀な車両も多かったが、2002(平成14)年度に鉄道事業は採算が取れないと撤退。同時に宇都宮製作所と鶴田駅間に設けられていた専用線も廃止され、日光線を使っての新車の甲種輸送も中止されてしまったのである。

 

鶴田駅から旧・富士重工宇都宮製作所の間を歩くと、雑草の生い茂るなか、線路の一部や信号施設も残されていて、一抹の寂しさを感じる。

↑東武宇都宮線と立体交差していた富士重工宇都宮製作所への引込線跡。線路や信号設備(右上)も公道のすぐ横に残されていた

 

ちなみに、鶴田駅からはかつて東武大谷線《1964(昭和39)年廃止》や、大谷軌道線《1932(昭和7)年廃止》、専売公社宇都宮工場専用線《1977(昭和52)年廃止》といった複数の線路があった。これらの線路は富士重工業の引込線に比べて廃止時期が古いため、残念ながらあまり痕跡が残っていない。

 

【日光線の旅⑤】鶴田駅の跨線橋は非常に興味深い歴史を持つ

工場への専用線が設けられていたため駅構内に側線の跡が残る鶴田駅には、歴史的な建造物が残され今も現役として使われている。

↑鶴田駅の現在の跨線橋は明治後期に造られたもので、支える柱や骨組みなどもかなり凝ったデザインとなっている

 

駅舎とホームを結ぶ跨線橋の上り口の右の柱には「明治四十四年 鉄道院」と刻印されている。今から112年前の1911(明治44)年に設けられたもので、左側の柱には「浦賀船渠(せんきょ)株式会社」とあった。調べてみるとこの会社、江戸幕府が設けた浦賀ドックだった。日本海軍の駆逐艦の製造を得意にした会社で、今は合併して住友重機械工業浦賀造船所となり、浦賀ドック自体は横須賀市に寄付されている。鶴田の跨線橋は現在、経済産業省により近代化産業遺産に認定されていて、歴史上かなり貴重な鉄道遺産といって良いだろう。

 

【日光線の旅⑥】秋にはそばの白い花が咲く鹿沼駅近く

日光線は駅と駅の間がかなり離れている区間が多い。特に鶴田駅から次の鹿沼駅までは9.5kmもある。鶴田駅近くまでは民家が建ち並んでいたものの、すぐに田畑が広がり始め、鹿沼駅が近づいてくると再び民家が連なるようになる。こうした移り変わる車窓風景が日光線らしい。日光線の沿線は近年、宇都宮市の通勤・通学路線としての役割が強まっているが、一方で沿線に緑が色濃く残っている。例えば鹿沼駅は西側のみしか駅の入口がないが、反対の東側にはうっそうとした竹林が広がっているのだ。

↑宇都宮駅から2つ目の鹿沼駅。裏手には竹林が広がりホームからも良く見える。ちなみに東武鉄道の新鹿沼駅とは約2.4km離れている

 

鹿沼駅を発車して間もなくのそば畑は、秋になると白い花が広がる。車窓からもそばの花と背景に古賀志山(こがしやま)などの低山を望むことができる。日光線では、鹿沼市の北隣の日光市にある100店以上の手打ちそば店により「日光手打ちそばの会」というグループを作りPR活動をしている。鹿沼市から日光市にかけて広がる畑で育ったそばが実る晩秋(夏に刈る品種もあり)からは新そばが提供される時期ということもあり、日光線を訪れたら昼時はぜひそばを賞味したい。

↑鹿沼駅を発車して間もなく、花咲くそば畑が望めた。左上は畑の目の前を走る日光線の下り列車。2022(令和4)年9月16日撮影

 

【日光線の旅⑦】文挟駅の裏手に続く例幣使街道とは?

沿線の風景を楽しむうちに次の文挟駅(ふばさみえき)に到着する。文挟駅という珍しい駅名だが、調べると駅の近くに台地にはさまれた低地があり、そちらをフ・ハザマ(狭間)と言われたことが転化して文挟となったそうだ。この文挟駅の西口駅前には古い杉並木が連なり見事だ。

↑文挟駅の東口からを望むと背景に杉並木が南北に連なる様子が見える

 

文挟駅の西口の前には杉並木にはさまれ国道121号が通っている。この道は例幣使街道(れいへいしかいどう)とも呼ばれ、南は鹿沼市と日光市の市境、小倉から北は日光市今市まで13.17kmにわたり美しい杉並木が残っている。

 

例幣使街道とは、江戸時代に主に日光例幣使が日光例祭に訪れ、例幣を納めるため用に設けられた脇街道のひとつ。京都から中山道を通り江戸に寄らず日光へ向かうアクセス路でもあった。江戸を通れば幕府に挨拶が必要になるわけで、例幣使街道を使えば面倒さが省けたわけだ。朝廷が遣わした例幣使の場合、帰りに江戸を通ることをしきたりにしたが、行き帰りとも例幣使街道を利用することもあったようだ。

 

江戸時代、朝廷の幕府への気遣いは大変なものだったようだが、その反面、挨拶を受ける側の幕府も用意が必要になるわけで、そのあたりの両者の気遣いがこのような街道を造った裏事情だったのかもしれない。

↑文挟駅近くに残る例幣使街道の杉並木。杉の大木は今や樹齢400年という大木になり街道を覆い続けている

 

現在、例幣使街道を含む日光杉並木は、植樹してから400年ほどの約1万2500本の杉並木が見事に残り、日本の史跡の中で唯一、国の特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。

 

【日光線の旅⑧】二宮尊徳が亡くなった地でもある今市の町

文挟駅の次の駅、下野大沢駅(しもつけおおさわえき)と今市駅の間で日光線と東武日光線と交差する。下を日光線の列車が、上を東武鉄道の電車が走るが、「特急日光」や「特急きぬがわ」として走るJR東日本の特急形電車が交差する姿も見ることができる。ここから日光までは、両路線がほぼ並行して走る区間となる。

↑日光線と東武日光線(右)は日光市の室瀬地区で立体交差する。東武日光線を走るのは500系リバティ ※本写真は合成したもの

 

さて、東武日光線の路線を上に見ながら着いたのが今市駅だ。駅は日光市今市の南の玄関口にあたる。同駅の北側700mほどに東武日光線の下今市駅があり、ここから鬼怒川温泉駅方面へ、また野岩鉄道(やがんてつどう)、会津鉄道を経て会津若松まで線路が延びている。

 

対してJR今市駅のにぎわいはそれこそ〝いまいち〟なのだが、この駅は閑散としている反面、駅前から日光駅方面には雄大な山々を望むことができる。この先からは山景色が美しい区間となる。

 

その前に今市の歴史に関して一つ触れておきたい。同町内には二宮尊徳記念館が設けられている。二宮尊徳といえば多くの小学校に薪の束を背負って本を読みながら歩く姿の銅像が残るが、この尊徳は70歳でこの今市で亡くなった。尊徳は今で言うところの篤志家で、晩年は災害や飢饉で苦しむ関東各地を巡り農村復興政策を指導している。それこそ八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍で貧しい農民たちの暮らしを助ける役目に献身した。今市では日光の神領で農村復興への道筋を立てるべくさまざまな施策をおしすすめていたが、病に倒れ今市の報徳役所で亡くなった(現・二宮尊徳記念館内)。

↑今市駅の駅舎からは天気に恵まれると男体山など日光連山を望むことができる

 

二宮尊徳も歩いたであろう日光杉並木が今市から日光方面へ延びている。この西側に並行するように日光線の線路が延びている。

↑今市から日光方面へ延びる日光杉並木。日光街道(現・国道119号)に並行して残る杉並木は、江戸期の様子が非常に良く保たれている

 

【日光線の旅⑨】男体山と女峰山の姿見たさに通ってしまった

今市駅を発車すると間もなく広々とした田園風景が車窓左側に広がる。進行方向、右手には日光杉並木と日光街道が望むことができる。

 

今市駅から日光駅までの最後の一駅区間は、天気に恵まれると前方に山々が連なる景色が楽しめる。日光連山を代表する山々で、左手から男体山(なんたいさん)、中央に大真名子山(おおまなこさん)に小真名子山(こまなこさん)、右手に女峰山(にょほうさん)と連なって見える。

 

山景色は平野部が晴れていても山頂部に雲がかかることがあり撮影が難しい。筆者は同じポイントを3回訪れたが、最初の時は雲一つなかったが、2回目は山に雲がかかり断念、3回目は少し雲が出ていたものの山景色が無事に拝めた。この区間の眺めは日光線を代表する美景だと思う。

↑21.7パーミルの急勾配を登る日光線の列車。同じ箇所でふり返ると下記のような山景色が広がっている

 

↑日光駅〜今市駅間を走る上り列車。左から男体山、大真名子山、女峰山の日光連山が連なり美しく眺められる

 

お気付きかも知れないが男体山は男、女峰山は女の文字が含まれる。男体山、女峰山は関東を代表する高山で、古くから神が宿る山として尊ばれ男女一対の名が付けられたとされる。女峰山は日光連山では最もとがった外観を持つそうだ。中間部にそびえる大真名子山、小真名子山は男体山、女峰山という両親の子どもにあたる山とされ、そのために両峰ともに「まなこ(愛子)」という名が付く。両山は「まなご」と濁って読まれる場合もある。昔の人は巧みで粋な名前を4つの山に付けたものだと感心させられる。

 

【日光線の旅⑩】美しい駅舎が〝映える〟JR日光駅

美しい山々を眺めつつ日光駅に到着した。初めて訪れた時には、この駅の建物の美しさに驚かされた。和洋折衷の建築で厳かな趣が感じられる。

↑左右対称の造りをもつJR日光駅。写真映えするせいか記念撮影を行う観光客の姿も目立つ

 

駅にはホーム側に貴賓室(非公開)、階段を上ると建設当時の一等車利用者用待合室「ホワイトルーム」があり(見学可能)、年代物のシャンデリアがつり下げられる。開業のころのものかと調べると、1912(大正元)年8月に建てられた2代目駅舎だった。2代目とはいえ、111年前に建てられたものと古い。ネオ・ルネサンス様式の木造2階建て洋風のたたずまいの駅舎で、栃木産の大谷石を多用している。

 

2007(平成19)年に発見された棟札から鉄道院技手・明石虎雄(あかしとらお)の設計したものと判明した。建築後に何度か改装されているものの、貴重な駅舎建築ということもあり、国の近代化産業遺産に認定され、関東の駅百選に選ばれている。

 

日光駅を訪れ、駅構内が撮影できないかと探し歩いたら南側にうってつけの跨線橋が見つかった。そこにはファミリーらしき先客があった。橋の名称は明らかでないが、スリリングなレトロ跨線橋としてSNS等で発信されているようだ。今の時代にはあまり見かけない古いレールで組まれたもので、橋の上からは天気に恵まれれば日光連山を望むことができる。昭和中期に設けられたものとのことで現代の跨線橋よりも幅が狭く、覆いも無く風が吹き抜けるつくりで渡るのもやや怖い。高所恐怖症の筆者は撮影を終えて早々に引き上げたのだった。

↑日光駅の南側にかかる古い跨線橋(右上)から日光駅を発車した列車を撮影。留置線として使われた広い敷地が残されている

 

【日光線の旅⑪】かつて路面電車が走っていた日光市内

最後に日光駅前から日光東照宮方面に走っていた路面電車に関して触れておこう。路面電車が消えたのは1968(昭和43)年2月25日のことと古い。廃止当時は東武日光軌道線という名前だったが、開業は東武鉄道の東武日光線が開業するずっと前のことだった。

↑大正初期の手彩色絵葉書に残された日光軌道線。場所は日光東照宮の先、田母沢川橋で今も路面電車の橋の遺構が同地にある 筆者所蔵

 

開業は1910(明治43)年8月10日のことで日光電気軌道により路線が造られた。路線は日光駅を起点に馬返駅(うまがえしえき)までで、終点では日光鋼索鉄道線と接続、同線のケーブルカーを利用すれば明智平ロープウェイの明智平駅へ行くことができた。

 

日光軌道線は一般観光客の輸送だけでなく、沿線にあった古河電気工業の日光事業所まで貨物列車が走っていた。国鉄日光駅から貨車を引き継ぎ電気機関車が牽引したそうで、日光東照宮近くの神橋付近までは最大58パーミルというとんでもない急勾配を上り下りしたそうだ。

 

もし、日光に路面電車が残っていたら便利だったろう。貨物列車が急勾配を走る様子は観光客が賑やかに闊歩する今の街道筋から想像できないが、この目で見たかったものである。

↑2020(令和2)年3月から東武日光駅前で保存されている東武日光軌道線100形電車。日光駅前から馬返駅まで9.6km間を走った

 

電車も駅も昭和の趣が色濃く残る「小野田線」超レトロ旅

おもしろローカル線の旅106〜〜JR西日本・小野田線(山口県)〜〜

 

かつて小野田セメントという会社があった。誰もが良く知る大企業だったが、会社名の元になった小野田は果たして何県にあるのか、知る人は少なかったのでなかろうか。

 

小野田は山口県の山陽小野田市の合併前の市の名前で、この街と宇部市を走るのが小野田線だ。セメント製造と石炭の採掘で栄えた街は、産業構造の変化の影響を受けて。やや寂しくなってはいるが、小野田線は昭和の趣が色濃く残り鉄道好きにぜひおすすめしたい路線だった。

*2013(平成25)年9月14日〜2023(令和5)年1月20日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【小野田線の旅①】セメントと石炭の輸送のため設けられた路線

小野田線は2本の路線区間によって構成される。居能駅(いのうえき)と小野田駅を結ぶのが小野田線(本線)で、途中の雀田駅(すずめだえき)と長門本山駅(ながともとやまえき)を結ぶのが小野田線(本山支線)となる。2本の路線の概要を見ていこう。

 

路線と距離 JR西日本・小野田線(本線):居能駅〜小野田駅間11.6km 、小野田線(本山支線):雀田駅〜長門本山駅間2.3km、全線電化単線
開業 小野田軽便鉄道(後の小野田鉄道)が1915(大正4)年11月25日にセメント町駅(現・南小野田駅)〜小野田駅間を開業。
宇部電気鉄道が1929(昭和4)年5月16日に居能駅〜雀田駅間を開業、1937(昭和12)年1月21日に雀田駅〜長門本山駅が開業。
1947(昭和22)年10月1日、雀田駅〜小野田港駅(当時は南小野田駅)間が延伸され小野田線が全通
駅数  11駅(起点駅を含む)

 

小野田線の歴史は複雑だ。ここでは大まかな路線の成り立ちに触れておこう。まず、小野田駅側から小野田軽便鉄道が路線を造り、居能駅側からは宇部電気鉄道(後に宇部鉄道と合併)が路線を延ばした。それぞれセメントの材料や、石炭を運ぶ貨物輸送が盛んだったこともあり、軍需産業強化を図る国が戦時下に国有化し、戦後に一部区間が延長され現在の小野田線となった。さらに、1987(昭和62)年には国鉄分割民営化に伴いJR西日本の路線となっている。

 

JR西日本が発表した「経営状況に関する情報開示」によると、2021(令和3)年度の輸送密度は1日あたり346人、2019(平成31・令和1)〜2021(令和3)年度の輸送密度は8.5%とかなり厳しい。路線を廃止することなく活かせないかと、地元では接続する宇部線を含めてBRT(バス・ラピッド・トランジット)化構想を掲げるなどしているものの、廃止か存続か結論が出ていない。

 

【小野田線の旅②】今も主力は1両で走る希少なクモハ123形

次に小野田線を走る車両を見ていこう。2形式が走るが、いずれも国鉄形と呼ばれる車両だ。

 

◇クモハ123形

小野田線を走る列車の大半が、クモハ123形1両で運行されている。クモハ123形は国鉄が手荷物・郵便輸送用に造った荷物電車を、1986(昭和61)年〜1988(昭和63)年にかけて改造した電車だ。荷物電車だった時代も含めると40年以上の長い車歴を持つ。JR東日本、JR東海に引き継がれた車両はすでに全車が廃車され、残るのはJR西日本に引き継がれた5両のみとなる。そんな希少な電車が今も小野田線と宇部線、山陽本線の一部を走っている。

 

クモハ123形は左右非対称で、側面窓の形状など車両ごとに異なり鉄道ファンには興味深い車両でもある。

↑国鉄が造った車両らしくごつい姿が特長のクモハ123形。現在5両のみ残存、小野田線の主力車両として活用されている

 

↑妻崎駅を発車するクモハ123形。トイレが増設され側面窓が一部ないなど左右非対称で、車両ごとに窓の形など細部が異なっている

 

◇105系

国鉄が1981(昭和56)年に導入した直流通勤形電車で、国鉄分割民営化後はJR東日本とJR西日本に引き継がれた。すでにJR東日本の105系は消滅し、JR西日本のみに残っている。JR西日本の105系も近年は急速に車両数を減らし、福塩線(ふくえんせん)と山陽本線の一部区間、宇部線、小野田線のみでの運行が続けられている。なお、小野田線での105系の運行は朝の1往復のみと限定されている。

↑朝1往復のみ小野田線を走る105系。写真の濃黄色1色以外に新広島色と呼ばれるクリーム色に赤と青帯の105系も走っている

 

【小野田線の旅③】山陽本線の小野田駅3番線ホームから発車

小野田線の起点は居能駅だが、山陽本線の小野田駅で乗換えて乗車する人が多いので、本稿でも小野田駅から話を始めたい。

 

山陽本線との乗換駅となる小野田駅は駅舎、跨線橋、ホームなどすべてがかなりレトロな造りだ。平屋の駅舎は1951(昭和26)年に改築されたもので、改札口にはかつて駅員が立った旧型のステンレス製のボックスが残されていた。そんな昭和の時代を感じさせた改札口だが、1月に訪れるとICカード対応の改札機の工事が始まるとの掲示が張り出されていた。この春からは小野田駅でも交通系ICカードの利用ができるようになる。

↑昭和中期に立てられた小野田駅の駅舎。改札口はボックス形(左上)だったが、この春から交通系ICカード対応の改札機に変更となる

 

山陽小野田市の表玄関にあたる小野田駅だが、通勤・通学客は多く見られたものの、かつての賑わいは薄れているように感じた。

 

山陽小野田市の人口は1955(昭和30)年の国勢調査で8万2784人とピークを迎えたが、昨年12月末現在で6万209人に減少している。市の看板企業でもあった小野田セメントは太平洋セメントと名を変え、市内にあったセメント工場も1985(昭和60)年に閉鎖された。小野田線の南小野田駅の東側には「セメント町」という町名が残っており、その名がかつての繁栄ぶりを示す証しとなっている。

 

セメントとともに街を潤したのが石炭採掘だった。小野田線・長門本山駅の近くにあった本山炭鉱では、江戸後期に石炭が発見され明治期に採掘が本格化。1963(昭和38)年まで採掘が続けられた。本山炭坑を含む旧・小野田市・宇部市に点在した炭鉱群はみな海底炭田で、出水事故などトラブルが目立った。石炭といえば燃料としての使用が思い浮かぶが、出炭した石炭の品質が劣っていたこともあり、多くがセメント製造の燃料や化学肥料の原材料として利用された。

 

いずれにしてもセメント産業や炭田で地域は栄え、鉄道も両産業の影響もあり延ばされていった。セメント工場は現在、石油基地などに変貌し、マンパワーを必要としない産業構造の変化が、人口減少の一つの要因になっているようだ。

↑小野田駅3番線を発車する小野田線の列車。跨線橋や階段は骨組みがむき出しの構造で時代を感じさせる

 

小野田駅には1番線と2番線はなく、3番線が小野田線専用、4番・6番線が山陽本線のホームとなっている。小野田駅の長いホームにやや無骨な形のクモハ123形が1両ぽつんと停車する様子は何ともユーモラスで旅心をくすぐる。

 

【小野田線の旅④】駅および用地、電車がみな小さめに感じる

小野田駅発着の列車は1日に9往復。小野田駅発の列車の大半が宇部線・宇部新川駅行きで、朝の1本の列車のみが宇部線の新山口駅まで走っている。列車本数は朝夕が1時間に1本の割合だが、昼前後10時16分発、13時54分発、16時14分発と時間が空くので利用の際は注意したい。

 

沿線は、1両および2両編成の電車にあわせたコンパクトな造りの駅や用地、レールの敷設のされ方が目立つ。小野田駅の次の目出駅(めでえき)はその典型だ。急カーブの途中に短いホームが設けられ、駅舎も小さくかわいらしい。

↑目出駅を発車する旧塗装当時のクモハ123形。駅のホームがカーブしていることが分かる。駅舎はシンプルそのもの(左下)

 

小野田線は切符の自動販売機のない駅が大半だが、かつて切符販売が行われていたころには「目出たい」駅ということで多くの入場券が売れたそうだ。

 

次の南中川駅も駅はコンパクトそのもの。その次の南小野田駅もホーム一つの駅だ。南小野田駅は小野田軽便鉄道が開業させた駅。小野田セメントの工場に近かったこともあり当初、駅名は「セメント町駅」と名付けられた。後に小野田港駅、小野田港北口となり、そして現在、南小野田駅と名を改めている。駅周辺には商店や民家が集い小野田線で最も賑わいが感じられる。

 

次の小野田港駅は1947(昭和22)年10月1日に生まれた駅で、西側の小野田港に面して大規模な工場が集まる。小野田線の駅では大きめの駅で、待合室に円柱が立つなどお洒落な駅だった。しかし、残念ながら2021(令和3)年に老朽化のため閉鎖され、現在は旧駅舎の横からホームに入る造りとなっている。

 

【小野田線の旅⑤】本山支線の起点は三角ホームの雀田駅

小野田港駅の次、雀田駅は本山支線の起点駅だ。雀田駅はホームに何番線といった数字がなく、南側ホームが小野田線(本山支線)の長門本山駅方面、北側ホームが小野田線(本線)の小野田駅・居能駅方面行きに使われている。

↑雀田駅に停車する小野田駅行き列車。同ホームがカーブ途中にあることが分かる。写真は新広島色と呼ばれる塗装の105系電車

 

ホームは三角形の形をしていて、不思議なのが小野田線(本線)の側の電車がカーブ途中にあるホームに停まることだ。一方、本山支線用のホームは居能駅側から延びる直線路の上にある。

 

これは本山支線が先に開業し、雀田駅から先は戦後に設けられた〝後付け区間〟だったため、こうした不思議な形になってしまったようである。

↑雀田駅に停まる本山支線の列車。小野田線(本線)のホームがカーブ上にあるのに対して支線のホームがまっすぐな線路上にある

 

【小野田線の旅⑥】1日に3本という本数少なめの本山支線

本山支線を走る列車本数は極端に少ない。朝7時台に2往復、夜18時台に1往復、計3往復しか走らない。

 

本数が少なく朝早いため、旅人がこの本山支線の朝の列車に乗車するためには、山口県内に宿泊しないと難しい。筆者も山口県内に宿泊し、小野田駅発の始発電車で雀田駅へ着いた。そして始発の6時58分に乗車した。

↑雀田駅を発車した宇部新川駅行きの列車。本山支線は起点終点含めて3駅の短い路線で、5〜6分で終点の長門本山駅へ到着する

 

訪れたのは土曜日だったせいか、始発列車の乗客は筆者を含めて3人あまり。1人は地元の人、もう1人は鉄道ファンのようだった。雀田駅から発車して唯一の途中駅・浜河内駅(はまごうちえき)で1人が下車し、終点の長門本山駅に降り立ったのは2人のみだった。

 

【小野田線の旅⑦】寂しさが感じられた終着の長門本山駅

到着した長門本山駅はホーム一つに屋根付き待合スペースがある小さな駅だった。朝2本目の列車の乗降客を見ても旅行者が多く、地元の人たちがどのぐらい利用しているのか推測しづらかった。

↑本山支線の終点、長門本山駅のホームに停車するクモハ123形。屋根付きの待合スペースがあるが、電車を待つ人は1人もいなかった

 

長門本山駅のホームから外に出ると、駅前には広場(空き地といった趣)があって小さな花壇が設けられている。駅前に商店はなく、周囲に民家がちらほらあるぐらいだった。

 

駅の南には1963(昭和38)年まで本山炭鉱があり、今は閉鎖された斜坑坑口が残されている。駅の車止めの先に、かつて引込線が延びていて採炭された石炭が大量に運ばれていたのだろうか。今は海岸沿いにソーラー発電所が広がっているが、この一体が貨車を停める引込線の跡だと思われる。曇天の朝に訪れたこともあり、寂しさが感じられた。

↑空き地が広がる長門本山駅前。写真の手前を県道345号線が通るものの、民家が点在するのみでかなり寂しい

 

長門本山駅のすぐ目の前には路線バスの停留所があり、その時刻表を見るとほぼ1時間おきに小野田駅方面へのバスが出ていた。バス便の多さ見てしまうと、鉄道を利用しない理由が少し理解できた。

 

【小野田線の旅⑧】妻崎駅では駅舎の軒先をかすめるように走る

長門本山駅から雀田駅へ折り返し、次に小野田線の起点となる居能駅を目指した。

 

長門本山駅を発車する列車のうち朝夜の2本はそのまま居能駅、宇部新川駅を目指すので便利だ。小野田線にはホーム一つのシンプルな駅が多いが、雀田駅から2つ目の妻崎駅(つまざきえき)には上り下り交換施設がある。

 

ホームから駅舎へ線路を渡る構内踏切がある地方の典型的な駅の趣で、駅舎のすぐ横を電車が走っていることも気になった。駅や電車がコンパクトにまとまり、鉄道模型のジオラマのように感じられる。

↑妻崎駅に停車する宇部新川駅行き列車。右が駅舎で軒先をかすめるように電車が走る。右下は妻崎駅の入口

 

【小野田線の旅⑨】厚東川の河口側に見える大きな橋は?

妻崎駅を発車した列車は間もなく厚東川(ことうがわ)を渡る。山口県の名勝、秋吉台(あきよしだい)を流れる川で、二級河川ながら川幅が広い。河口部には河原がなく、滔々と流れる様子が車内からよく見える。

↑厚東川を渡る小野田線の105系電車。背後には宇部湾岸道路と、宇部伊佐専用道路の興産大橋が見える。九州の島陰もうっすら見えた

 

上記の写真は上流に架かる橋から小野田線の列車を写したものだ。手前に国道190号、後ろに宇部湾岸道路が並行して架かる。さらに奥に立派なトラス橋が見えているが、こちらは宇部伊佐専用道路(旧・宇部興産専用道路)の興産大橋だ。この専用道路は1982(昭和57)年に造られた31.94kmにおよぶ企業の私道で、美祢市と宇部市を結んでいる。運ぶのは石灰石とセメントの半製品で、専用の大型トレーラー(ダブルストレーラーと呼ぶ)が輸送に使われている。

 

この専用道路ができるまでは、美祢線の美祢駅と宇部線・宇部新川駅近くの宇部港駅(後述)間を貨物列車が走り、1978(昭和53)年度には770万トンの輸送量があったとされる。専用道路完成後には鉄道貨物輸送が激減し、1998(平成10)年に宇部港駅を利用しての貨物輸送は消滅した。

 

【小野田線の旅⑩】起点・居能駅には始発終着する列車がない

興産大橋を進行方向右手に眺め、厚東川を渡った小野田線の電車は、間もなく左手から走ってきた宇部線と合流して居能駅へ到着した。

↑小野田線のクモハ123形は居能駅の手前で右に大きくカーブして宇部線と合流する

 

小野田線の起点は居能駅となっているが、あくまで起点駅というだけで、列車の運転は宇部新川駅を始発終着としている。居能駅で宇部駅方面へ乗り換える客がいるものの、駅で下車する人は見かけなかった。

 

ちなみに、宇部市の市街地は宇部新川駅周辺で、山陽本線の宇部駅に代わり、かつて宇部新川駅が宇部駅を名乗っていた時期があったほど栄えていた。シティホテルも宇部新川駅近くに多く設けられている。

 

宇部新川駅の詳細は宇部線の紹介をするとき(2月25日ごろ公開予定)に詳しく紹介するとして、ここでは小野田線の起点、居能駅を紹介しよう。ホームは小野田駅と同じく1・2番線がなく、跨線橋で連絡する3番線が宇部駅・小野田線方面、駅舎側のホームが4番線で宇部新川駅、新山口駅方面の列車が発車する。

↑小野田線の起点となる居能駅の駅舎。改札口の上には列車の接近をランプで知らせる表示板が吊られていた(右上)

 

列車が発車した後、人気(ひとけ)が絶えた居能駅前に立ってみた。駅舎の建築・改築年の詳しい資料がないが、今建っている駅舎は1938(昭和13)年11月6日に移転した時に建てられたままのようだ。レトロといえば聞こえはいいが、何とも説明しにくい状態の駅だった。

↑居能駅の裏手には側線が残されていた。宇部線、小野田線ともに引込線や側線の遺構は工場近くの駅に多く残されている

 

駅の北にある玉川踏切へ行ってみると駅の裏手が望め、複数の線路やポイントが残されていた。この駅からはかつて近くの工場や、宇部市の港湾部、旧宇部港駅などへの貨物線が分岐していた。居能駅は現在、寂しい姿となっているものの、線路が何本も敷かれ、そこを頻繁に貨物列車が通り過ぎた華やかな時代もあったのである。

 

【小野田線の旅⑪】かつて路線が延びていた沿岸部を訪れる

小野田線の創始期に路線を敷設した宇部電気鉄道は居能駅の先、宇部市の港湾部に向けて路線を延伸させていた(掲載地図を参照)。沖ノ山旧鉱(後の宇部港駅の近くにあった)、さらに港へ線路が延び、沖ノ山新鉱という駅まで線路が延びていた。旧鉱、新鉱と名が付けられたように、海岸部には沖ノ山炭鉱との坑口が設けられ、多くの炭鉱住宅が建ち並んでいた。

 

居能駅から港湾部まで走った路線(古くは宇部西線と呼ばれた)の先にあった宇部港駅は1999(平成11)年に貨物列車の運行が廃止となり、駅自体も2006(平成18)年5月1日に廃止となった。

 

宇部伊佐専用道路の開設により石灰石輸送貨物列車が廃止され、他の工場への貨物列車の輸送も消滅。時代が進み、産業構造そのものが変わっていくことは、街の姿や鉄道、輸送体系も変えてしまうことを痛感した。最後に沖ノ山新鉱駅があった付近を訪れたが、一抹の寂しさを感じた旅となった。

↑かつて沖ノ山新鉱駅があった付近を今、宇部伊佐専用道路が走る。大型トレーラーが走る時は踏切が鳴り一般車が遮断される

 

祝開業100周年!珍しい蓄電池駆動電車で巡る「烏山線」深掘りの旅

おもしろローカル線の旅105〜〜JR東日本・烏山線(栃木県)〜〜

 

烏山線は栃木県の宝積寺駅(ほうしゃくじえき)〜烏山駅(からすやまえき)間を結ぶ。今年で開業100周年を迎えるこのローカル線は、日本で初めて蓄電池駆動電車が営業運転に使われた路線でもある。

 

20.4kmの路線はのどかそのもので、田園地帯を走り列車と滝が一緒に撮影できる観光スポットもある。冬の一日、烏山線でのんびり旅を満喫した。

*2011(平成23)年9月8日〜2022(令和4)年12月25日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【烏山線の旅①】紆余曲折あった開業までの歴史

烏山線は東北本線と接続する高根沢町の宝積寺駅を起点に那須烏山市の烏山駅が終点となる〝盲腸線〟だ。まず路線の概略を見ておこう。

路線と距離 JR東日本・烏山線:宝積寺駅〜烏山駅間20.4km 全線非電化(一部に電化設備あり)単線
開業 鉄道省の官設路線として1923(大正12)年4月15日、宝積寺駅〜烏山駅間が全通
駅数 8駅(起点駅を含む)

 

今年の4月で100周年を迎える烏山線だが、路線を巡る歴史には紆余曲折があった。ポイントを簡単に触れておこう。

 

路線の歴史をたどるにあたっては、まず烏山(現・那須烏山市)の歴史に触れておかなければいけない。烏山は烏山城が15世紀前半に築城されたことから歴史に登場するようになる。城主はたびたび替わったが、江戸時代に烏山藩が設けられ、1725(享保10)年に譜代の大久保常春が3万石に加増され城主となり、その後、幕末まで大久保家の城下町として栄えた。町の東側に那珂川が流れていて、この川が交易に使われたことも大きい。

 

鉄道開業を求める運動は明治時代の終わりから高まりを見せたが、なかなか成就しなかった。地元資本により1921(大正10)年にようやく工事に着手し、その後に鉄道省が引き継ぎ1923(大正12)年4月15日に路線開業となったものの、皇族が亡くなられたこともあり開通式は5月1日と半月ほど引き伸ばされている。

 

その後、国鉄烏山線となり、1987(昭和62)年に国鉄分割民営化によりJR東日本に引き継がれ現在に至る。昨年11月にJR東日本から発表された経営情報によると、2021(令和3)年度の収支データは運輸収入が5900万円に対して営業費用は6億6300万円とマイナス6億300万円の赤字。1kmあたりの平均通過人員は1140人と、1987(昭和62)年度の2559人に比べて55%減少といった具合で状況は厳しい。ただ、JR東日本の路線には烏山線よりも経営状態が悪い路線区間が多いので、今すぐ廃止とはならないように思われる。

 

【烏山線の旅②】実用蓄電池駆動電車EV-301系の導入

次に走る車両に関して見ておこう。現在は下記の車両が走っている。

 

◇EV-E301系

EV-E301系電車は直流用蓄電池駆動電車で「ACCUM(アキュム)」という愛称が付けられている。日本初の営業用の蓄電池駆動電車として2014(平成26)年に導入された。電化区間ではパンタグラフを上げて架線から電気を取り入れて走る一方、非電化区間ではリチウムイオン電池に貯めた電気を使って走行する。

↑蓄電池駆動電車初の営業用車両として誕生したEV-E301系。非電化の烏山線ではパンタグラフを降ろして走行する

 

導入当初、1編成でテスト運転を兼ねての営業運転が行われ、順調な成果をあげたことから2017(平成29)年2月まで3編成が増備されている。烏山線の営業運転以降、JR九州で2016(平成28)年10月19日から交流電化用蓄電池駆動電車BEC819系が筑豊本線(若松線)に、2017(平成29)年3月4日からJR東日本の交流用蓄電池駆動電車EV-E801系が男鹿線(秋田県)に導入されている。

 

画期的なシステムの電車でもあり、環境への負荷が少ないことから車両数の増備が期待されているが、蓄電池の容量が限られていて充電に時間が必要なこともあり、現在は短い路線での運用に限定されている。

↑烏山線を走ったキハ40形はカラーも多彩で人気があった。左上が首都圏色、右上が烏山線カラー、下がキハ40一般色

 

新型蓄電池電車の導入が行われた一方で、それまで走っていたキハ40形1000番台は2017(平成29)年3月3日をもって運用が終了となった。関東地方で最後のキハ40系が運用された区間であっただけに、鉄道ファンの間では惜しむ声が強まったが、山口県を走る錦川鉄道へ1両が譲渡され観光列車として運用され、また3両は「那珂川清流鉄道保存会」(栃木県那須烏山市白久218-1)で保存されている。

 

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【烏丸線の旅③】夕方を除きほとんどの列車が宇都宮駅発に

ここからは烏山線の旅を楽しみたい。烏山線の列車は1日に14往復が走っている。そのうち夕方の3往復を除き、11往復が宇都宮駅の発着となる。宇都宮市と周囲の市町を結ぶ郊外電車という役割も担っているわけだ。

↑宇都宮駅を発車した烏山線用EV-E301系電車。東北本線の電化区間ではパンタグラフを上げて走行する

 

列車の運行間隔は朝夕ほぼ1時間に1本で、日中の10時から14時までは2時間おきとやや時間が空くので注意したい。なお宝積寺駅以外は交通系ICカードが使えない区間で、ワンマン運転のため運転席後ろにある精算機での現金清算となる。

 

宇都宮駅から烏山線の起点となる宝積寺駅までは約11〜14分と近いが、駅前に気になる建物を見つけたので降りてみた。

 

【烏山線の旅④】起点となる宝積寺駅はお洒落そのもの

宝積寺駅(高根沢町)の歴史は古く、1899(明治32)年10月に日本鉄道の駅として開業。駅舎と東西口を結ぶ自由通路は、2008(平成20)年に建て替えられた。隈研吾建築都市設計事務所の設計で、自由通路の外観、内装、特に天井部など、時代の先端を行くデザインのように感じる。ちなみに、この駅のデザインは国際的な鉄道デザインコンペティション「ブルネル賞」で奨励賞を受賞した。

↑宝積寺駅の駅舎と自由通路は隈研吾建築都市設計事務所がデザインしたもの。国際的なデザイン賞も受賞した名建築でもある

 

筆者は駅舎だけでなく東口前の「ちょっ蔵広場」も気になった。こちらも隈研吾氏が「光と風が通り抜けるイメージ」として設計した広場で、壁に大谷石が波状に組み込まれていてる古い米蔵が目を引く。広場にはカフェもあり、元米蔵の「ちょっ蔵ホール」ではライブも開催されている。路面は籾殻(もみがら)を使用して舗装されたそうで、足に優しい感触が伝わってくる。非常に手間をかけて造られた広場ということがよく分かった。

↑宝積寺の東口駅前には古い米蔵を改造した「ちょっ蔵ホール」が建つ。広場の舗装方法も興味を引いた

 

【烏山線の旅⑤】パンタグラフを下げて烏山線へ入線していく

宝積寺という駅名は高根沢町大字宝積寺という字名が元になっているが、木曽義仲の御台所(みだいどころ)だった清子姫が開山した宝積寺に由来するとの説もある。なお宝積寺という寺はすでに現存していないそうだ。

 

宝積寺駅へ到着した烏山線の電車はここで一つの作業を行う。ホームに到着したらパンタグラフを下げるのだ。架線はこの先の烏山線が分岐するポイントまで敷設されているのだが、走行中にパンタグラフの上げ下げはできないため、烏山行き列車は駅でパンタグラフを下げることになる。運転士は下がったことを目視で確認してから列車を出発させる。

↑宝積寺駅に停車する烏山線EV-E301系。ホームに着いた後にパンタグラフの上げ下げの作業が行われる(左上)

 

宝積寺駅を発車した烏山線の列車は、しばらく東北本線の線路を進行方向左手に見ながら走る。右カーブを描き分岐していくが、この先で列車は急な坂を下っていく。左右はのり面(人工的な斜面)となっていて、路線が設けられた際に線路を通すために切り通しにされたことが予測できる。

 

坂を下りると広い平坦な田園風景が目の前に広がっており、この極端な地形の変化が興味深い。調べてみると、宝積寺駅付近は宝積寺段丘という舟状の形をした台地の上にある町ということが分かった。この段丘は現在、宝積寺駅の西側を流れる鬼怒川の流れが造ったと予測されている。太古の鬼怒川は宝積寺段丘の東側を流れていたそうで、烏山線が走る平坦な平野は太古の鬼怒川の流れが造り出したものだったわけだ。

↑東北本線から分岐した烏山線は切り通し部分を走る。この先に下りていくと間もなく平坦な田園地帯が広がる

 

宝積寺駅を発車して5分あまりで下野花岡駅(しもつけはなおかえき)へ着いた。この駅とその先、仁井田駅(にいたえき)の間の広大な空き地が気になった。

 

【烏山線の旅⑥】下野花岡駅〜仁井田駅間の不思議な空間

下野花岡駅を発車するとすぐ右手に見えてくる空き地は、烏山線の南に並行する県道10号線(宇都宮那須烏山線)まで広がっている。古い地図などを見ると大きな建物が何棟も建っていたことが記されているが、この空き地は何なのだろう?

 

ここにはかつてキリンビールの栃木工場があった。31年にわたりビールの生産を続け、今も空き地の西にはキリン運動場という施設が残っている。周囲は木々に囲まれて緑豊かな工場だったようだ。かつて烏山線に沿うように木々が立ち並び、烏山線の車両を撮るのに最適な場所でもあったのだが、1年ほど前に訪れると木々は伐採され、工場の跡地が整地されていた。

↑下野花岡駅のすぐ近くで撮影したEV-E301系。背後の木々は最近、伐採され広大な工場跡地が見渡せるようになった(左下)

 

ビール工場の跡地は長い間そのままになっていたが、この跡地に栃木県に本社を持つ医療機器製造販売メーカーが関連施設の移転を発表している。2024(令和6)年度を目標にしているとされ、烏山線の沿線も大きく変わりそうだ。

 

鉄道ファンとして気になるのは、次の仁井田駅までの区間、右手に残る引込線の跡であろう。これはキリンビール栃木工場の製品出荷用に設けられたもので、工場から仁井田駅近くまで側線が設けられ、1979(昭和54)年から1984(昭和59)年にかけて宝積寺駅〜仁井田駅間の鉄道貨物輸送が行われていた。今は線路も取り外されているが、古い橋梁の跡や車止めなどの施設がわずかに残されている。

↑キリンビール栃木工場の出荷用に設けられた側線の跡。橋の一部や車止め(左下)も烏山線の線路横に残っている

 

【烏山線の旅⑦】北関東の緑に包まれて走る烏山線

朝の列車に乗車すると仁井田駅で驚かされることがある。下車する高校生が非常に多いのだ。駅の北側にある栃木県立高根沢高等学校の生徒たちだ。降り口は先頭のドアのみなので、都会の電車のように効率的な乗降とは言えないが、通学する高校生たちにとって烏山線が欠かせないことがよく分かる。降車にだいぶ時間がかかるが、乗客や運転士にも焦る様子はうかがえない。ローカル線らしい日常の風景に感じた。

 

烏山線はほとんどが平野と丘陵部を走り険しい区間がないものの、仁井田駅を発車すると、この線では数少ない勾配区間にさしかかる。次の鴻野山駅(こうのやまえき)まで最大25パーミルの上り下りがあるのだ。キハ40形が走っていた当時、勾配のピーク区間で列車を待ち受けると、エンジン音を野山に響かせ、スピードを落として坂を上る様子が見うけられた。キハ40形はそれほど非力ではない気動車だったが、やはり勾配は苦手だったようだ。

↑仁井田駅〜鴻野山駅間の勾配区間を走るキハ40形。重厚なエンジン音を奏でて上り坂に挑んだ 2017(平成29)年1月29日撮影

 

現在運行しているEV-E301系の最高時速は65kmだが、速度を落とさずに勾配をあっさりとクリアしていく。蓄電池駆動電車とはいえ、登坂力は強力で電車の強みが遺憾なく発揮されているわけだ。

 

鴻野山駅から大金駅(おおがねえき)まで、田園と木々に囲まれての走りとなる。このあたりは烏丸線の人気撮影地でもあり、訪れる人が多いところだ。

 

到着した大金駅は烏丸線で唯一、上り下り列車の交換施設があるところで、朝夕には列車の行き違いが行われる。金に縁がありそうな駅名のため、以前は乗車券を求めて訪れた人もいたそうだ。今は乗車券の自動販売機がなくなったこともあり、大金駅の名入りの乗車券を購入できない。なお駅の横には、JR東日本宇都宮地区社員が建立し、出雲大社から大黒様をお迎えした大金神社がある。

↑鴻野山駅〜大金駅間を走るEV-E301系。田園風景と森を背景に電車がのんびり走る姿を撮影することができる

 

【信濃路の旅⑧】途中下車するならば滝駅で

烏山線はホーム一つという小さな駅が続く。宝積寺駅、烏山駅以外は駅員不在の無人駅で駅も含めて人気(ひとけ)のない駅が目立つ。滝駅(たきえき)もそんな駅の一つだ。烏山線の6つある途中駅の中で、途中下車するならばこの駅をおすすめしたい。

↑ホーム一つの小さな滝駅。屋根などがきれいに改装されているが、栃木県らしく大谷石を使った古いホームの一部が残る

 

滝駅という駅名のとおりに、駅から徒歩5分、約450mという距離に滝がある。滝の名前は「龍門の滝」。那珂川に流れ込む江川にある滝だ。高さは約20m、幅は約65mという規模を誇る。おもしろいのは、烏山線の列車が滝の上を通る様子が展望台から眺められ、また撮影できること。春には桜、秋には紅葉を入れての写真撮影が楽しめる。

 

この龍門の滝という名前は、大蛇伝説にちなむものとされる。展望台の入口にある太平寺は、作家・川口松太郎の小説「蛇姫(へびひめ)様」のモデルとなった藩主大久保佐渡守の娘、琴姫の墓もある。琴姫を亡きものにしようとした悪い家老から姫を守る黒蛇(琴姫を守り殺された侍女の化身とされる)にまつわる逸話も、地元那須烏山市に残っている。

↑龍門の滝の上部を走る烏山線の列車。展望台には列車が通過する時間の掲示もある(時刻は変わる可能性あるので注意)

 

【烏山線の旅⑨】宝積寺駅から約30分で終着の烏山駅へ到着する

そんな龍門の滝近くを通り過ぎ、列車は大きく左カーブし、烏山の街へ入っていく。起点の宝積寺駅を出発して約30分、終点の烏山駅へ列車は到着した。

 

烏山駅からは路線バス便が市内区間のみと限られていて、他エリアへ足を延ばすことが難しい。そのせいか列車で訪れた観光客は、そのまま折り返し列車を利用して宇都宮方面へ戻る人が多いようだ。列車の折り返し時間はたっぷりとられていて、最短16分から最長で48分という具合だ。筆者は折返し時間を利用して駅周辺を歩いてみた。

↑2014(平成26)年3月に新装された烏山駅。線路は敷かれていないが元線路用地が残されている(左上)

 

今は電気施設が設置されているため、ホームの先20mほどで線路は途切れているが、以前は200m先付近まで線路が延びていた。その線路の跡地らしき空き地が確認できる。昭和中期までは、烏山駅の先を真岡鐵道の茂木駅や水郡線の沿線まで延伸する計画もあったとされる。駅の先に残る跡地は、鉄道最盛期だった時代の夢物語の残照と言ってよいだろう。

 

【烏山線の旅⑩】帰路のための充電をして発車準備を整える

列車の折り返しまで少なくとも16分の時間を設けている烏丸線の列車だが、これには理由がある。蓄電池電車EV-E301系の充電時間なのだ。烏山駅に到着したEV-301系はすぐにパンタグラフを上げて、駅の設備を使って充電を行う。ホームに設けられた充電設備を「充電用剛体架線」と呼ぶ。

 

運転台には「剛体架線」と記された画面がモニターに映し出され、蓄電池にどのぐらいの電気が充電できたか表示される。充電中にモニターには95%という数字が記されていた。この数値は蓄電池への充電の割合を示す値で、発車待ちをする運転士に尋ねると75%以上の値を示せば走行に問題はないそうだ。

↑烏山駅に設けられた充電用剛体架線装置。パンタグラフを上げて、非電化区間を走行するための電気を蓄電池にため込む

 

帰りの非電化区間を走るための充電が完了したEV-E301系。烏山駅のホームに地元のお祭りのお囃子「山あげ祭り」の発車メロディが鳴り終わると、間もなく列車は静かに走り出した。

 

帰りの非電化区間を走るための充電が完了したEV-E301系は、烏山駅のホームに地元のお祭りのお囃子「山あげ祭り」の発車メロディが鳴り終わると、静かに走り出した。

 

ちなみに、烏山線の7駅(宝積寺駅を除く)には、それぞれ縁起のよい「七福神」が割り当てられている。烏山駅は毘沙門天(びしゃもんてん)、滝駅は弁財天という具合で、各駅にはそうした七福神の案内板が掲げられている。この七福神の割り当ては宝積寺、大金という縁起の良い駅名があることから行われた。次に烏山線を訪れたときには大黒天が割り当てられた大金駅に下車して、駅に隣接する大金神社に参拝し、金に縁のある神との良縁を願おうと誓った筆者であった。

↑烏山駅に設けられた毘沙門天の案内看板。烏山線の7駅には縁起のよい七福神の名前が割り当てられ、イラスト入りで紹介される

「しなの鉄道線」沿線の興味深い発見&謎解きの旅〈後編〉

おもしろローカル線の旅104〜〜しなの鉄道・しなの鉄道線(長野県)〜〜

 

東日本で希少になった国鉄近郊形電車の115系が走る「しなの鉄道しなの鉄道線」。沿線には旅情豊かな宿場町や史跡が点在し、興味深い発見や謎に巡りあえる。前回に続き、しなの鉄道線の小諸駅から篠ノ井駅までのんびり旅を楽しみたい。

*2015(平成27)年1月10日〜2023(令和5)年1月2日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
「しなの鉄道線」115系との出会い&歴史探訪の旅〈前編〉

 

【信濃路の旅⑪】眼下に千曲川を眺めつつ鉄道旅を再開

 

小諸は千曲川が長年にわたり造り上げた河岸段丘に広がる町だ。小諸市街と千曲川の流れの高低差は30m〜50mもあるとされる。

 

河岸段丘の上にある小諸駅を発車した列車は、まもなく左右の視界が大きく開ける箇所にさしかかる。左手のはるか眼下には千曲川が流れており、列車から隠れて見通せないが、布引渓谷と呼ばれる美しい渓谷付近にあたる。また、進行方向右手を見れば浅間連峰の烏帽子岳(えぼしだけ)などの峰々を望むことができる。

↑小諸駅近くを走る初代長野色の115系。背景に浅間連峰の山々が連なって見える

 

千曲川の流れに導かれるように、しなの鉄道線は西に向かって走り、その線路に沿って北国街道(現在の旧北国街道)が付かず離れず通っている。北国街道は江戸幕府によって整備された脇街道の一つで、小諸駅の先はやや北を、田中駅からは線路のすぐそばを並走する。

 

【信濃路の旅⑫】宿場町「海野宿」の古い町並みはなぜ残った?

田中駅から徒歩約20分、約1.9km離れたところに、海野宿(うんのじゅく)という北国街道の宿場町がある。細い道沿いに旅籠屋(はたごや)造りや茅葺き屋根の建物、そして蚕(かいこ)を育てた時代の名残である蚕室(さんしつ)造りの建物が連なる。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていて、よくこれだけの町並みがきれいに残ったものだと驚かされる。

↑掘割(左下)と細い道筋の両側に古い家が建ち並ぶ海野宿。「海野格子」などの伝統様式を残した家が多い

 

歴史をひも解くと海野宿は1625(寛永2)年に北国街道の宿として開設された。

 

それ以前は、現在の田中駅近くに田中宿という宿場町があったが、大洪水により被害を受けて本陣や多くの宿が海野宿へ移転したそうだ。千曲川は当時からこの地に住む人を苦しめていたわけだ。海野宿へ移った後は伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と大いに賑わったそうである。海野宿は今も650mに渡って古い家が連なり、宿や飲食店などもあって訪れる観光客が絶えない。

↑田中駅(右上)から海野宿を目指し西へ。しなの鉄道線に沿って遊歩道が整備されている。同歩道は旧信越本線の廃線跡を利用したもの

 

ところで、しなの鉄道線は海野宿のすぐ北を通り抜けているが、信越本線が開業したときに、最寄りになぜ駅が生まれなかったのだろうか。

 

史料は残っていないが、駅の開業を反対する声が上がったのだろう。当時は、蒸気機関車が排出する煙や煤(すす)、火の粉が好まれず、路線開設にあたり各地で反対運動が起こりがちだった。海野宿では蒸気機関車の煙が蚕の害になるといった声も出たようで、こうした反対運動により駅の建設は中止となった。

 

全国に残された古い町並みの共通点として、大規模な開発が行われなかったことがある。駅が開業すれば開発も進むわけで、駅ができなかったことが、海野宿の町並みを残したとも言えるだろう。

 

なお、海野宿から西にある大屋駅(おおやえき)まで徒歩で約18分、約1.4kmと距離がある。しなの鉄道線を利用して海野宿へ行く場合、田中駅、大屋駅の両駅からもかなり歩かなければいけない。

↑海野宿のすぐ北を走るしなの鉄道線。宿場町は田中駅〜大屋駅間のちょうど中間にあり、観光で訪れるのにはやや不便な立地だ

 

【信濃路の旅⑬】千曲川の濁流がすぐ近くまで押し寄せた

江戸時代に洪水が海野宿という宿場町を生み、繁栄させるきっかけになったというが、今も千曲川の豪雨災害は人々を苦しめている。

 

最近では2019(令和元)年10月12日に長野県を襲った台風19号の被害が大きかった。しなの鉄道線の北側を走る国道18号から海野宿まで、線路を立体交差する海野宿橋が架かっていたが、台風19号による豪雨災害で、橋付近の護岸が約400mに渡って崩れ、海野宿橋と東御市(とうみし)の市道部分が崩落。橋が使えなくなってしまった。この台風による影響で、しなの鉄道線も上田駅〜田中駅間が1か月にわたり運休となった。

↑海野宿橋から望む、しなの鉄道線と千曲川(右側)。ふだんは静かな流れだが、豪雨時には周辺地区が氾濫の脅威にさらされる

 

↑海野宿橋と千曲川護岸の復旧工事が進められた2021(令和3)年1月2日の模様。右上は復旧された海野宿橋の現在

 

その後、海野宿橋の復旧工事は2022(令和4)年3月1日に完了。橋が復旧してから海野宿へ訪れる人も徐々に回復しつつあるようだ。

 

ちなみに、台風19号は海野宿の下流でも大きな被害を出している。しなの鉄道線の沿線では、上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線の千曲川橋梁の橋げたの一部が崩落。そのため長期にわたり不通となり、代行バスが運転された。不通となってから約1年半後、2021(令和3)年3月28日に全線の運行再開を果たしたが、台風19号による千曲川の氾濫被害は深刻なものだった。

 

↑上田電鉄の千曲川橋梁は台風19号による千曲川の増水により橋梁が崩落した。左下は復旧後の千曲川橋梁

 

たび重なる豪雨災害で苦しめられてきた千曲川の流域だが、一方で川の恵みもあったことを忘れてはならない。古代から千曲川は水運に使われてきた。木材の運搬だけでなく、川舟による人の行き来も盛んに行われ、この地の文化や歴史を育んできた。ゆえに、しなの鉄道線の沿線では、古くからの人々の足跡を残す史跡も多い。

 

【信濃路の旅⑭】真田家が造った難攻不落の上田城

大屋駅の一つ先、信濃国分寺駅(上田市)の近くには信濃国分寺がある。現在残る信濃国分寺は室町時代以降に再建されたものだが、しなの鉄道線の線路の南北には奈良時代に建立された僧寺跡と尼寺跡があったことが発掘調査で明らかになった。遺跡が発掘された土地は史跡公園として整備され、園内に信濃国分寺資料館(入館有料)が設けられている。

 

奈良時代に聖武天皇が中心となり、各地に国分寺建立を推し進めたが、中央政権はこの上田を信濃の中心にしようと考えていたのだろう。

↑しなの鉄道線の南北に広がる史跡公園。同地で旧国分寺の遺跡が発掘されている

 

一方、上田で今も市民が誇りにしているのが戦国時代の真田家の活躍である。上田駅の北西に残る上田城は真田信繁(幸村)の父、真田昌幸が築城し、攻防の拠点として役立てた。第二次上田合戦と呼ばれる1600(慶長5)年の戦いでは、兵の数で劣る真田軍が上田周辺の地形を巧みに利用して徳川秀忠(後の徳川2代将軍)軍を翻弄。これにより、秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わなかったことがよく知られている。

 

その後、真田家は松代(まつしろ・長野市)に領地を移されたが、今でもその活躍ぶりは上田市民の誇りとなっている。

↑上田城址本丸跡の入り口に立つ東虎口櫓門と南櫓(左側)。この櫓門の下には真田石という巨石が今も残る

 

しなの鉄道線の上田駅から上田城の入口までは駅から徒歩で約12分。900mほどの距離だ。この上田城の入口には二の丸橋が架かっており、橋の下には二の丸をかぎの手状に囲んだ二の丸堀跡が残っている。堀の長さは1163mあり、難攻不落の城の守りの要として役立てられた。

 

二の丸堀跡は現在、「けやき並木遊歩道」として整備されているが、この堀をかつて上田温泉電軌(現在の上田電鉄の前身)の真田傍陽線(さなだそえひせん)が走っていた。二の丸橋のアーチ下には、当時に電車が走っていたことを示す碍子(がいし)が残されている。

↑上田城の二の丸堀跡と二の丸橋。ここに1972(昭和47)年まで電車が走っていた。現在は「けやき並木遊歩道」として整備される

 

【信濃路の旅⑮】坂城駅の駅前に止まる湘南色の電車は?

上田駅から先を目指そう。一つ先の駅は西上田駅で、ホームの横に多くの側線があることに気がつく。この駅から先の篠ノ井駅までJR貨物の「第二種鉄道事業」の区間になっており、2011(平成23)年3月まで石油タンク列車が乗入れていたが、今は西上田駅の2つ先の坂城駅(さかきえき)までしか走らない。西上田駅構内にある側線はそうした名残なのだ。

↑石油タンク車が多く停車する坂城駅構内。ホームから入換え作業を見ることができる

 

石油輸送列車が走る坂城駅に隣接してENEOSの北信油槽所がある。この駅まで石油類が輸送され、ここからタンクローリーに積み換えが行われ北信・東信地方各地へガソリンや灯油が運ばれていく。

 

石油輸送列は、神奈川県の根岸駅に隣接する根岸製油所から1日2便(臨時1便もあり)が運行されているが、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間が途切れて遠回りせざるをえず、輸送ルートは複雑になっている。根岸駅から根岸線、高島線(貨物専用線)、東海道本線、武蔵野線(南武線)、中央本線、篠ノ井線、しなの鉄道線を通って運ばれてくる。それこそ遠路はるばるというわけだ。

 

ちなみに、坂城駅の北信油槽所と線路を挟んだ反対側には、湘南色の電車が3両保存されている。これは1968(昭和43)年に製造された169系で、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間の急勾配区間で、EF62形電気機関車との協調運転が始まったときに導入された。信越本線では急行「信州」「妙高」「志賀」として運行。そのうち「志賀」は現在のしなの鉄道線の屋代駅から先、長野電鉄屋代線(詳細後述)へ乗入れ、湯田中駅まで走っていた列車だ。

↑坂城駅の隣接地で保存される169系S51編成。写真は2018(平成30)年7月14日時のもので塗装もきれいな状態に保たれていた

 

坂城駅の隣接地に静態保存されるのは169系のS51編成で、JR東日本からしなの鉄道に譲渡後に2013(平成25)年4月まで走っていた。ラストラン後に地元の坂城町が譲り受け、ボランティア団体の169系電車保存会会員の手で守られている。3両のうち、「クモハ169-1」と「モハ168-1」は169系のトップナンバーという歴史的な車両でもある。風雨にさらされて保存されているため、車体の状態や塗装が年を追うごとに悪化しがちだが、保存会のメンバーが塗り直しをするなど懸命な保存活動が続けられている。

 

【信濃路の旅⑯】戸倉駅の車両留置線がなぜこんな所に?

坂城駅の一つ先が戸倉駅(とぐらえき)で戸倉上山田温泉の玄関口となる。しなの鉄道線の車両基地がある駅でもあり、鉄道ファンにとっては気になるところだ。

↑しなの鉄道線の車両基地がある戸倉駅。駅前に戸倉上山田温泉の名が入ったアーチが立つ。訪れた日は後ろの山が冠雪して美しかった

 

戸倉駅の車両基地には115系やSR1系が多く留置されていて、周囲を歩くとこうした車両を間近で見ることができる。この車両基地はちょっと不思議な構造になっていて、荒々しい地肌が見える山のすぐ下に電車が留置されているのが興味深い。駅に隣接した留置線から、かなり離れているように見える。

↑戸倉駅構内にある車両基地。周囲を囲む道路から間近に電車が見える。この日は「台鉄自強号」塗装の115系(右側)も停車していた

 

レールの先をたどると車両基地の裏から400mほど2本の線路が延びていて、その先に複数の電車が止められていた。歴史を調べると、この線路は元は駅と戸倉砕石工業の砕石場を結ぶ引込線として使われていたことが分かった。この引込線の跡が今も車両基地の一部として使われていたのだ。

↑旧砕石場への元引込線を利用した線路に115系が停車中。線路のすぐ上の山中では今も砕石事業が続けられている

 

【信濃路の旅⑰】屋代駅に残る長野電鉄屋代線の遺構

戸倉駅の次の駅は千曲駅(ちくまえき)で、この駅はしなの鉄道線となった後に開業した駅だ。しなの鉄道線には西上田駅〜坂城駅にあるテクノさかき駅のように、第三セクター鉄道となってからできた駅が複数ある。なぜ国鉄時代やJR東日本当時に、駅を新たな開設しなかったのか不思議だ。

 

↑屋代駅の年代物の跨線橋。奥までは入れないが、元ホームに向かう跨線橋は台形の形をしていてレトロな趣満点の造りだ(左下)

千曲駅の次が屋代駅(やしろえき)で、地元・千曲市の玄関口でもあり規模の大きな駅舎が建つ。駅舎側1番線ホームと2・3番線ホームの間にかかる跨線橋は、使われていない東側の元ホームまで延びている。

 

この元ホームは2012(平成24)年3月末まで長野電鉄屋代線の電車が発着していた。屋代線は屋代駅と長野電鉄長野線の須坂駅(すざかえき)を結んでいた路線で、スキー列車が多く走った時代には上野駅と志賀高原スキー場の玄関口、湯田中駅を直通運転する急行「志賀」が走った。ちなみに、この列車には坂城駅に保存された169系が使われていた。屋代駅の跨線橋はそんな歴史が刻まれていたわけである。

 

屋代線は屋代駅から先、しなの鉄道線と並行して次の屋代高校前駅方面へ延びていた。今は駅付近のみしか線路が残っていない。なぜ屋代駅構内の屋代線の線路のみが残されているのだろう。

 

これは、屋代駅の隣接地に車両工場があるためだ。長電テクニカルサービスという長野電鉄の別会社の屋代工場があり、屋代線が通っていたときには長野電鉄の車両整備などに使われていた。現在は長野電鉄の路線と離れてしまったために、長野電鉄の車両整備ではなく、線路がつながるしなの鉄道の車両の整備や検査などを主に行っている。そのため、しなの鉄道線との連絡用に元屋代線の線路が生かされていたというわけだ。なお、長野電鉄の車両は、須坂駅に隣接した長電テクニカルサービスの須坂工場で整備が行われている。

 

【信濃路の旅⑱】篠ノ井駅から長野駅までは信越本線となる

屋代駅から北へ向けて走るしなの鉄道線は、次の屋代高校前駅を過ぎると千曲川を渡る。橋の長さは460mあり、列車から千曲川の流れと信州の山々を望むことができる。橋を渡れば間もなく左からJR篠ノ井線の線路が近づいてきて、篠ノ井駅の手前でしなの鉄道線に合流する。

↑篠ノ井駅へ近づくしなの鉄道線の長野駅行き列車。名古屋駅行き特急「しなの」は同位置から分岐して篠ノ井線へ入っていく(右下)

 

しなの鉄道線の下り列車はここから先の長野駅まで走るが、篠ノ井駅〜長野駅間の営業距離9.3kmは今もJR東日本の信越本線のままで、しなの鉄道の電車、JR東日本の電車、JR東海の電車が共用している。長野駅から先の妙高高原駅までは再びしなの鉄道の北しなの線となり、妙高高原駅から先はえちごトキめき鉄道の妙高はねうまラインとなっている。

 

信越本線は高崎駅〜横川駅と、篠ノ井駅〜長野駅、さらに直江津駅〜新潟駅間に3分割されたままの状態で生き続けているわけだ。

 

【信濃路の旅⑲】篠ノ井駅の橋上広場にある〝お立ち台〟

しなの鉄道線の列車は小諸駅から篠ノ井駅まで約40分、長野駅まで約1時間で到着する(快速列車を除く)。

 

しなの鉄道線は篠ノ井駅までということもあり、旅は同駅で終了としたい。改札口から自由通路に出ると、橋上広場のフェンスの前に親子連れの姿があり、手作りの階段に上り、下を通り過ぎる北陸新幹線のE7系、W7系電車を見続けていた。この手作りの階段は、新幹線を楽しむのにはまさに最適な〝お立ち台〟となっている。

↑しなの鉄道線の終点でもある篠ノ井駅。橋上にある広場には新幹線の姿が楽しめる〝お立ち台〟が設けられている。

 

しなの鉄道の路線は長野駅の先にも続いている。また機会があれば長野駅〜妙高高原駅間を走る北しなの線も紹介したい。こちらもしなの鉄道線に負けず劣らず、風光明媚で乗って楽しい路線である。

「しなの鉄道線」115系との出会い&歴史探訪の旅〈前編〉

おもしろローカル線の旅103〜〜しなの鉄道・しなの鉄道線(長野県)〜〜

 

北陸新幹線の開業にあわせ、並行する信越本線は第三セクター鉄道の「しなの鉄道」に変わった。長野県の東信地方、軽井沢駅と篠ノ井駅(しののいえき)を結ぶしなの鉄道線は、中山道(なかせんどう)と北国街道沿いに敷かれた路線だけに残る史跡も多い。

 

のんびり散策してみると、史跡以外にも発見が尽きない路線でもある。そんなしなの鉄道線の旅を2回に分けて楽しんでいきたい。

 

*2015(平成27)年1月10日〜2023(令和5)年1月2日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。写真・絵葉書は筆者撮影および所蔵、禁無断転載

 

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乗って歩けば魅力がいっぱい!「上田電鉄別所線」で見つけた11の発見

 

【信濃路の旅①】開業から135年間!東信地方を支える

しなの鉄道の路線は軽井沢駅〜篠ノ井駅を結ぶ「しなの鉄道線」と、長野駅〜妙高高原駅を結ぶ「北しなの線」の2本がある。今回は「しなの鉄道線」を紹介したい。まずは概要を見ておこう。

↑浅間山を見上げるようにして走るしなの鉄道線。軽井沢駅〜御代田駅(みよたえき)間の車窓の楽しみともなっている

 

路線と距離 しなの鉄道・しなの鉄道線:軽井沢駅〜篠ノ井駅間65.1km 全線電化複線
開業 鉄道局の官設路線として1888(明治21)年8月15日、上田駅〜篠ノ井駅間が開業、同年12月1日、軽井沢駅〜上田駅間が延伸開業し、現在のしなの鉄道線が全通
駅数 19駅(起終点駅を含む)

 

前身となる信越本線は、明治政府の威信をかけて建設した関東と信越地方を結ぶ幹線ルートで、軽井沢駅〜篠ノ井駅の区間(開業当時は長野駅まで開通)は路線開業から今年で135年を迎える。

 

同区間は北陸新幹線(当時は長野新幹線)が開業した1997(平成9)年10月1日に、第三セクター経営のしなの鉄道に移管された。

 

現在、しなの鉄道線にほぼ沿うように北陸新幹線が走っており、軽井沢駅、上田駅で乗換えできる。しなの鉄道線の路線は篠ノ井駅までだが、ほとんどの列車(区間運転列車を除く)が篠ノ井駅の先の長野駅まで乗入れ、長野県内、特に東信地方に住む人々の大切な足として活用されている。

 

【信濃路の旅②】横川〜軽井沢間の輸送の歴史と現状は?

群馬県と長野県の県境部分にあたる信越本線の横川駅〜軽井沢駅間は、長野新幹線開業時に廃線となっている。この区間は、しなの鉄道線でないものの、信越本線の成り立ちを語る上で欠かせない区間でもあり触れておきたい。

 

軽井沢駅が誕生した5年後の1893(明治26)年4月1日に横川駅までの区間が開業している。横川駅の標高は386m、対して軽井沢駅の標高は939mで、標高差は約553m、両駅間の距離は11.2kmある。数字だけを見ると険しさが予想できないものの、かつてないほどの非常に厳しい急勾配区間が路線計画の前に立ちふさがった。

 

この急勾配を克服するために導入されたのがアプト式鉄道だった。最大66.7パーミルという急勾配に列車を走らせるために、線路の中央に凹凸のあるラックレールを敷いて、機関車が持つ歯車とかみ合わせて列車を上り下りさせた。当初は専用の蒸気機関車で運行していたが事故やトラブルが目立ち、1912(明治45)年にEC40形という電気機関車が導入された。

↑軽井沢駅に停車する列車を写した大正期発行の絵葉書。先頭に連結されるのがEC40形電気機関車。当時の駅舎が復元され今も使われる

 

EC40形は国有鉄道初の電気機関車だった。電気機関車に変更したものの、アプト式では運行に時間がかかり過ぎるため、1963(昭和38)年に新ルートに変更し、EF63形電気機関車を導入。横川駅側に連結して運転する方式に変更され、1997(平成9)年9月30日まで使われた。

 

横川駅〜軽井沢駅間の急勾配区間の列車運行に活躍したEC40形とEF63形は、現在しなの鉄道線の軽井沢駅構内で静態保存されている。両機関車とも日本の鉄道史を大きく変えた車両と言ってよいだろう。

↑横川駅〜軽井沢駅間で活躍したEF63形電気機関車。横川側に2両が連結され列車の上り下りに活用された 1997(平成9)年9月14日撮影

 

横川駅〜軽井沢駅間の旧路線のアプト区間のうち、群馬県側は遊歩道として整備され、また旧路線の線路も残されている区間が多く、観光用のトロッコ列車などに活用されている。一方、軽井沢側の旧信越本線の路線は、観光用に生かされることなく、北陸新幹線の保線基地や、駐車場などに使われている。

↑しなの鉄道線の軽井沢駅ホームの先の線路は駐車場などの施設で途切れている

 

【信濃路の旅③】国鉄形の115系も徐々に新型電車と置換え

ここからは、しなの鉄道線を走る車両を紹介しておきたい。同線ではちょうど新旧電車の入換え時期にあたっている。まずは古い国鉄形車両から。

 

◇115系

国鉄が1963(昭和38)年に導入した近郊形電車で、同時代に生まれた113系に比べて勾配区間に強い性能を持つ。JR東日本から路線および車両を引き継いだしなの鉄道線では長年にわたり走り続けてきた。

 

115系が生まれてから60年あまり。車歴が比較的浅い車両にしても40年とかなりの古豪になりつつあった。譲渡した側のJR東日本では全車が引退し、東日本で残るのはしなの鉄道のみとなる。

 

しなの鉄道の115系も後継車両が導入され始めたこともあり、すでに多くが廃車となりつつあり、残るのは車内をリニューアルした車両のみとなった。今後リニューアル車両も、徐々に減っていくことが確実視されている。

↑赤色をベースにしたしなの鉄道標準色の115系。開業時は3両編成のみが譲渡され、その後は2両編成も多く導入された

 

◇SR1系100番台・200番台・300番台

しなの鉄道が2020(令和2)年から導入を始めた新型車両で100番台〜300番台まである。100番台はロイヤルブルーをベースにした車両で、ロングシート、クロスシートに座席の向きが変更できるデュアルシートを採用、有料座席指定制の快速「軽井沢リゾート」「しなのサンセット」といった列車に利用されている。

 

車体はJR東日本の新潟地区を走る総合車両製作所製のE129系電車とほぼ同じで、車両製造も総合車両製作所が行っている。車体カラーや内装設備を除き、ほぼE129系と同じというわけである。

↑快速列車として走るSR1系100番台。この車両は2本のパンタグラフがあるが、前側は「霜取りパンタグラフ」として使われる

 

200番台・300番台は赤色ベースの車両で、座席はロングシート部分とセミクロスシート部分が連なる造りで、一般列車用に導入された。番台の数字は2種類あるが、大きな変更点はなく正面に入る番台の数字が変わるぐらいだ。

 

余談ながらSR1系の写真を撮る場合には注意が必要になる。正面上部に付いたLED表示器が速いシャッター速度で撮ると文字が読めなくなるのだ。シャッター速度を100分の1まで遅くしてようやく文字が読めるようになるので、走行中の車両をLED表示器まできれいに撮る場合は「ズーム流し」といったテクニックが必要となる。

 

一方、115系はLED表示器が搭載されていないこともあり、撮影の時に気を使わずに済むのがうれしい。

↑車体の色が赤ベースのSR1形200番台。写真は125分の1のシャッター速度で撮影したもの。かろうじて表示器の「小諸」の文字が読める

 

【信濃路の旅④】人気の懐かしの車体カラー・ラッピング列車は?

しなの鉄道の車両で見逃せないのが、115系「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」だ。数年前までは標準色に加えて、複数の国鉄カラーの115系が走り、沿線を訪れる鉄道ファンを楽しませていた。

 

最新の「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」は下記の通りだ。純粋な国鉄カラーは、初代長野色と湘南色のみとなっている。残念ながらしなの鉄道に唯一残っていた青とクリームの「スカ色(横須賀色)」や、白と水色の「新長野色」の車両は引退となってしまった。

 

現在走っている列車も、新型車両の投入の速さを見ると、数年で乗り納め、撮り納めとなるのかもしれない。

↑4色残る「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」。同車両の運行はしなの鉄道のホームページで毎月詳しく発表されている

 

標準色以外の115系といえば、観光列車の「ろくもん」も忘れてはいけない。2014(平成26)年7月から運行が開始された観光列車で、その名は沿線の上田に城を構えた真田家の家紋「六文銭」に由来している。デザインは水戸岡鋭治氏だ。しなの鉄道と水戸岡氏の縁は深く、軽井沢駅などの諸施設のプロデュースやデザインなども担当している。

 

「ろくもん」の車体カラーは真田家の「赤備え」とされる濃い赤。金土日祝日を中心に軽井沢駅〜長野駅間を1日1往復し、食事付き、軽食付きといったプランもあり、車窓とともに地元の食が楽しめる列車となっている。

↑真田家の家紋にちなむ六文銭をモチーフとした観光列車「ろくもん」。軽井沢駅〜長野駅間を約2時間かけてゆっくり走る

 

【信濃路の旅⑤】復元された旧軽井沢駅前に保存される車両は?

ここからはしなの鉄道線の旅を楽しもう。始発駅の軽井沢は、古くから避暑地として知られ、現在は南口に「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」があり、四季を通して多くの観光客が訪れる。

 

本稿では、旧駅舎と駅舎前に保存された小さな電気機関車にスポットを当てたい。軽井沢駅は北口と南口を結ぶ橋上の自由通路があり、しなの鉄道線の改札も自由通路内に設けられている。一方、北口には古い駅舎が建つ。実はこちらは復元された駅舎であり、現在はしなの鉄道線の改札口としても利用されている。

 

旧軽井沢駅には1910(明治43)年築の古い駅舎が残っていたが、新幹線の開業にあわせて解体されてしまった。その後の2000(平成12)年に「(旧)軽井沢駅舎記念館」として復元。その後、しなの鉄道の軽井沢駅としてリニューアルされた。館内にはイタリア料理店もある。自由通路にある改札口に比べて利用する人が圧倒的に少なく、落ち着ける静かな空間となっている。

↑新幹線開業時に一度解体されたが、隣接地に復元された現・しなの鉄道軽井沢駅。近代化産業遺産にも指定されている

 

この古い駅舎のすぐ目の前に三角屋根に囲われ、黒い小さな電気機関車が保存されている。案内板が立っているが、長年の風雨にさらされ文字が消えかかっていて、一見すると何の機関車か分からないのが至極残念である。

 

この機関車は草軽電気鉄道で使われたデキ12形と呼ばれる車両で、アメリカ・ジェフリー社が1920(大正9)年に製造し、発電所建設工事用に日本へ輸入されたものだとされる。その後に同線が電化される時に譲渡されたものだ。草軽電気鉄道の歴史は古く、1915(大正4)年に一部区間が草津軽便鉄道として開業。1926(大正15)年に新軽井沢駅(軽井沢駅前に設けられた)〜草津温泉間55.5kmが全線開業し、その後に草軽電気鉄道と改名している。

↑軽井沢の駅舎前に保存される草軽電気鉄道の古い電気機関車。L字型のユニークなスタイルで1〜2両の客車や貨車を引いて走った

 

当時の資料を見ると、草軽電気鉄道の路線はスイッチバック区間が多い。残された電気機関車を見ても貧弱さは否めず、新軽井沢〜草津温泉間はなんと3時間半ほど要した。ここまで時間がかかると乗る人も少なく経営に行き詰まった。さらに、1950(昭和25)年前後の台風災害で橋梁が流されるなどで一部区間が廃止され、1962(昭和37)年に全線廃止されている。

 

それこそモータリゼーションの高まる前に廃止されてしまったが、大資本が路線を敷設し、高性能な車両を導入したらどのような結果になっていたのだろうか。草軽電気鉄道は現在、草軽交通というバス会社として残り、軽井沢駅北口〜草津温泉間のバスを運行している。現在、急行バスに乗れば同区間は1時間16分で草津温泉へ行くことができる。

↑戦後間もなく発行された草軽電気鉄道の絵葉書。噴煙をあげる浅間山を眺めつつ走る高原列車だった

 

【信濃路の旅⑥】浅間山を右手に見て旧中山道をたどるルート

しなの鉄道線の軽井沢駅発の列車は30〜40分おきと本数が多いものの、日中は長野駅まで走る直通列車よりも、途中の小諸駅止まりの列車が多くなる。しなの鉄道線内のみのフリー切符はなく、軽井沢駅〜長野駅間で使える「軽井沢・長野フリーきっぷ」が大人2390円で販売されている。ちなみに、軽井沢駅〜篠ノ井駅間は片道1470円、軽井沢駅〜長野駅間は片道1670円で、どちらの区間も往復乗車すれば十分に元が取れる割安なフリー切符である。

 

しなの鉄道線は車窓から見える風景が変化に富む。軽井沢から乗車してすぐに目に入ってくるのは雄大な浅間山の眺めだ。3つ先の御代田駅(みよたえき)付近まで浅間山の姿が進行方向右手に楽しめる。

↑軽井沢駅〜中軽井沢駅間から見た浅間山の眺め。右の峰が標高2568mの浅間山だ。写真の新長野色115系はすでに引退となっている

 

景色とともに沿線は史跡が魅力だ。官設の信越本線として線路が敷かれたエリアが、中山道、北国街道と重なっていたせいもあるのだろう。東と西、また日本海を結ぶ重要な陸路だったこともあり、戦国時代には甲州の武田家、上田の真田家といった武将が群雄割拠する地域でもあった。

 

中軽井沢駅、信濃追分駅と軽井沢町内の駅が続く。軽井沢駅から2つ目の信濃追分駅はぜひとも下車したい駅である。

 

駅の北、約1.5km、徒歩20分ほどのところに中山道と北国街道が分岐する追分宿(おいわけじゅく)がある。追分という地名は、街道の分岐点を指す言葉でもあり、この追分宿から佐久市方面へ中山道が、北国街道が小諸市方面に分かれる。現在の追分宿をたどると国道18号から外れた旧中山道の細い道沿いにそば店や老舗宿が点在し、風情ある宿場町の趣を保っている。

↑旧中山道が通り抜ける追分宿。沿道にはそば店(左上)や飲食店が数軒あり、訪れる観光客も多い

 

【信濃路の旅⑦】かつてスイッチバックがあった御代田駅

追分宿に近い信濃追分駅は標高が955mある。標高939mの軽井沢駅よりも高い位置にあるわけだ。信濃追分駅がしなの鉄道線で最も高い標高にある駅とされていて、駅舎にも「当駅海抜九五五メートル」と記した小さな案内がある。ちなみに信濃追分駅はJRの駅以外では最高地点にある駅でもある。

 

信濃追分駅まで坂を上ってきたしなの鉄道線だが、駅から先は右・左へカーブを描きながら坂を下っていく。

↑信濃追分駅〜御代田駅間は浅間山が最もきれいに見える区間として知られる。列車は右カーブを描きながら坂を下っていく

 

次の御代田駅は標高約820mで、わずか6kmの駅間で135mも下っていく。現代の電車ならば上り下りもスムーズに走るが、蒸気機関車が列車を引いた時代は楽な行程ではなかった。

 

横川駅〜軽井沢駅間はアプト式という特殊な運転方法を採用していたために、明治の終わりに早くも電気機関車が導入されたが、軽井沢駅〜長野駅間の電化はかなり遅れ、導入されたのは1963(昭和38)年6月21日のことだった。それまで蒸気機関車が列車の牽引に活躍したわけだが、信濃追分駅〜御代田駅間の急勾配を少しでも緩和しようと、御代田駅はスイッチバック構造となっていた。

 

上り列車はこの駅へバックで入線、釜に石炭を投入して、ボイラーの圧力を高め、煙をもうもうとはきだしつつ軽井沢を目指した。旧御代田駅の構内にはSLが保存されているが、60年前まではSLが走っていたわけである。

↑御代田駅の東側にはスイッチバック構造の旧駅があった。旧駅内の「御代田町交通記念館」にはD51-787号機が保存されている(右下)

 

【信濃路の旅⑧】駅の入口は車掌車のデッキという平原駅

列車は御代田駅を発車すると、ひたすら下り坂を走っていく。水田風景が広がる土地を走り始めると、不思議な地形が見えてくる。

 

進行方向の両側に高くはないが崖が連なり、その上には平たい台地状の土地が広がり住宅地となっている。この付近を流れる小河川によって河岸段丘が造られていたわけである。

 

そんな崖地の間にあるのが無人駅の平原駅で、駅前に民家が一軒のみの〝秘境駅〟の趣がある駅だ。閑散としているが、駅から北東1kmほどのところに旧北国街道の平原宿がある。

↑平原駅の駅舎兼待合室として使われる旧車掌車(緩急車)。元車内は待合室に整備されベンチが置かれる(左下)

 

平原駅はユニークな造りの駅だ。駅の入口には旧車掌車(緩急車)が駅舎兼待合室として置かれている。車掌車が駅舎の駅は北海道ではよく見かけるが、本州ではここのみと言われている。さらに車掌車の前後にあるデッキ部分がホームへの入口として使われているのも興味深い。

 

使われている車掌車は元ヨ5000形で、コンテナ特急「たから号」にも連結された車両だ。今は駅舎となった車両にも輝かしい過去があったのかもしれない。

 

【信濃路の旅⑨】やや寂しさが感じられる小海線接続の小諸駅

水田が広がっていた平原駅を過ぎると、間もなく左手から線路が近づいてくる。この線路はJR小海線のもので、しなの鉄道線に合流した地点に小海線の乙女駅のホームがある。

↑しなの鉄道線に合流するように小海線の列車が近づいてくる。まもなく列車は乙女駅へ到着する

 

乙女駅から並走する小海線は次の東小諸駅に停車するのに対して、しなの鉄道線はこの2駅は止まらない。左右に民家が増え、しばらく走ると小諸駅へ到着する。

 

筆者はこれまでたびたび小諸駅を訪ねたが、かつての賑わいはやや薄れたように感じる。やはり北陸新幹線の駅が、南隣の佐久市の佐久平駅に設けられたからのかもしれない。

↑小諸駅は小海線(右側列車)との接続駅となる。小諸駅の駅舎にはしなの鉄道の社章が付けられている(左上)

 

軽井沢駅発の列車は日中、小諸駅止まりが多いが、到着したホームの向かい側に長野駅行き列車が停まっていて乗り継ぎしやすい(接続しない列車もあり)。

 

小諸駅の駅前を出ると左手に自由通路があり、この通路を渡れば、名勝小諸城址(懐古園・かいこえん)へ行くことができる。元々、信越本線は小諸城址の一部を利用して線路が敷かれたこともあり、駅の目の前に城址があると言ってもよい。

↑小諸城址(左下)で保存されるC56-144号機は小海線で活躍した蒸気機関車。小諸城址は桜や紅葉の名所としても知られる

 

小諸城の起源は古く、平安時代に最初の城が築かれたとされる。戦国時代は武田氏の城代が支配し、その後の豊臣秀吉の天下統一後は小田原攻めで軍功があった仙石秀久5万石の城下となった。徳川幕府となった後は、仙石家は近くの上田藩へ移り、以来歴代藩主には譜代大名が配置された。

 

現在、小諸城址は公園として整備され、小諸市動物園、児童遊園地などの施設がある。さてこの小諸城址、駅の側でなく、西を流れる千曲川を見下ろす側に回ると驚かされることになる。

 

【信濃路の旅⑩】小諸は険しい河岸段丘の上にある街だった

駅付近は至極平坦だった地形が裏手に回ると断崖絶壁になるのだ。小諸は河岸段丘の険しい地形がよく分かる土地だったのだ。

 

明治の文豪、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』で小諸を次のように描いている。

 

「この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ」。

↑藤村も上った御牧ヶ原から市街方面を望む。浅間山、黒班山、高嶺山(右から)がそびえる。御牧ヶ原と市街の間に千曲川が流れる

 

藤村は信越本線がすでに開通していた1899(明治32)年から1905(明治38)年の6年間にわたり小諸で英語教師を勤めた。30歳前後を小諸で暮らしたことが大きな転機になったとされている。そして今も多くの人に記憶される詩を詠んだ。

 

「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ……」

 

遊子とは、小諸城址に立った藤村その人だとされる。藤村が詠んだ歌は「濁り酒 濁れる飲みて 草枕しばし慰む」と結ばれている。若い藤村は宿で濁り酒をひとり飲みながら、旅愁を慰めたとされる。藤村にとって小諸はふと寂しさを感じてしまう土地だったのかもしれない。藤村が現在の小諸を見たらどう感じるのだろうか。

 

次回は小諸駅〜篠ノ井駅の沿線模様を紹介していきたい。

岩国市の名所旧跡と美景を探勝。清流沿いを走る「錦川鉄道」のんびり旅

おもしろローカル線の旅102〜〜錦川鉄道・錦川清流線(山口県)〜〜

 

本州最西端、山口県を走る第三セクター鉄道の錦川鉄道(にしきがわてつどう)錦川清流線。澄んだ錦川沿いを走るローカル線である。この錦川は岩国市の名勝、錦帯橋(きんたいきょう)が架かる川でもある。清流を望む路線を往復乗車し、史跡探訪と錦川の美景を存分に楽しんだ。

 

*2014(平成26)年8月31日、2017(平成29)年9月29日、2022(令和4)年11月26日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【清流線の旅①】全通して60周年となる錦川清流線

まずは錦川清流線の概要を見ておこう。

路線と距離 錦川鉄道・錦川清流線:川西駅〜錦町駅(にしきちょうえき)間32.7km
全線非電化単線
開業 1960(昭和35)年11月1日、日本国有鉄道・岩日線(がんにちせん)川西駅〜河山駅(かわやまえき)間が開業。
1963(昭和38)年10月1日、錦町駅まで延伸開業し、岩日線(現・錦川清流線)が全通
駅数 13駅(起終点駅を含む)

 

元となった国鉄岩日線は、岩国駅と山口線の日原駅(にちはらえき)を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画された。錦町駅までは路線が開業されたものの、錦町駅から先の工事はその後に凍結されている。

↑山陽新幹線・新岩国駅付近を走る錦川清流線。新幹線の駅近くにもこのような里山風景が広がっている

 

その後の国鉄民営化に伴いJR西日本の路線となり、1987(昭和62)年7月25日に第三セクター経営の錦川鉄道へ移管、錦川清流線として開業した。今年は、岩日線の川西駅〜錦町駅が全通開業してから60周年という節目の年にあたる。

全線32.7kmとそれなりの距離のある路線だが、全線が岩国市内を走る路線ということもあり、岩国市が株の半数近くを所有する主要株主となっている。これは全国を走る第三セクター鉄道としては珍しい。それだけ地元の人たちの〝マイレール〟への思いが強い。

 

さらに沿線を路線バスが走らないこともあり、住民の大切な足として活用されている。同社が鉄道事業以外にも市内の公共事業に関わっているという事情もあり、廃止問題とは無縁のローカル線となっている。

 

【清流線の旅②】清流ラッピング車両とキハ40系が走る

次に錦川清流線を走る車両を紹介しよう。2形式の車両が導入されている。

 

◇NT3000形気動車

2007(平成19)年から2008(平成20)年にかけて、新潟トランシス社で4両が新製され導入された。錦川清流線の主力車両で4両ともに色と愛称が異なる。NT3001はブルーの車体「せせらぎ号」、NT3002はピンクの車体「ひだまり号」、NT3003はグリーンの車体「こもれび号」、NT3004はイエローの車体「きらめき号」といった具合だ。4両ともラッピング車両で、錦川にちなんだ草花や、魚や動物たちのイラストが車体に描かれている。

 

車内は転換クロスシートと一部ロングシートの組み合わせで、トイレも付く。運転席の周りには運賃箱と整理券発行機に加えて、消毒液が出る足踏み式の装置が取り付けられていて手が消毒できる。筆者も初めて見る珍しい装置だった。

↑錦川にすむ魚たちの絵が描かれたNT3001「せせらぎ号」。運賃箱の後ろには手が消毒できる装置が付けられている(左下)

 

◇キハ40形

2017(平成29)年に1両のみJR東日本から購入した車両で、元はJR烏山線を走っていた。毎月運行される「清流みはらし列車」といったイベント列車として走ることが多い。ちなみに同社の列車が乗入れる岩徳線(がんとくせん)にはJR西日本のキハ40系が走っているが、こちらは側面窓などの造りが大きく変更されている。錦川鉄道のキハ40形は、国鉄時代のデザインを残すもので、中国地方の鉄道ではレア度が高い車両とも言えるだろう。

↑錦町駅の車庫に停まるキハ40形1009号車。クリーム地にグリーンライン、JRマーク入りと烏山線当時(左上)のままの姿で走る

 

【清流線の旅③】岩国駅0番線ホームから列車は発車する

それでは錦川清流線の旅を始めよう。錦川清流線の路線の起点は川西駅からとなっているが、全列車がJR岩徳線の起点駅、岩国駅に乗入れている。この岩国駅0番線ホームから発車する。

↑2017(平成29)年に新築された岩国駅の駅舎(西口)。駅前から錦帯橋方面への路線バスなども発車している

 

列車の本数は1日に10往復で、全列車が岩国駅から錦川清流線の終点駅、錦町駅間を走る。岩国駅から発車する下り列車は約1時間30分おきに1本の発車だが、11時10分発の次の列車は3時間10分後の14時20分発と、かなり空く。一方、上り列車は錦町駅発が9時54分の次の列車は2時間37分後の12時31分発といった具合だ。日中は本数が少ないダイヤが組まれているので注意して旅を楽しみたい。岩国駅〜錦町駅間の所要時間は1時間5分前後となっている。

 

錦川清流線の川西駅〜錦町駅間の運賃は980円で、岩国駅から乗車すると190円が加算される。錦川清流線内のみ限定ながら、昼の列車の利用時のみ有効な「昼得きっぷ」が往復1200円で、また「錦川清流線1日フリーきっぷ」も2000円で販売されている。「昼得きっぷ」は終点駅の錦町駅で、「錦川清流線1日フリーきっぷ」は車内および錦町駅で購入できる。

↑岩国駅の西口駅舎側にある錦川清流線専用の0番線ホーム。岩国駅の切符自販機でも錦川清流線内行きの切符が購入できる

 

【清流線の旅④】まず因縁ありの岩徳線区間を走る

0番線から発車した錦川清流線の列車は岩徳線の線路へ入っていく。ちなみに岩徳線のホームは1番線なので誤乗車の心配がない。間もなく最初の駅、西岩国駅へ到着する。

 

この西岩国駅は1929(昭和4)年に開設され、当時は岩国駅を名乗った[それまでの岩国駅は麻里布駅(まりふえき)と改名]。西岩国駅は当時の古い駅舎が残っているのだが、筆者が訪れた時はちょうど改修中で、ネットで覆われていたためにその姿を見ることができなかった。改修工事は今年の1月いっぱいで終了するそうだ。ぜひ見ていただきたい味わいのある古い駅舎である。

↑岩国駅を発車後、まもなく岩徳線へ入る。岩徳線のキハ40系が走る同じ線路を錦川鉄道の主力車両NT3000形も走る(左下)

 

岩徳線の歴史がなかなか興味深いので触れておきたい。岩徳線は岩国駅の「岩」と徳山駅の「徳」(路線は櫛ケ浜駅・くしがはまえき まで)を組み合わせた路線名で、山陽本線の短絡線として計画された。距離は岩徳線経由の岩国駅〜徳山駅間の路線距離が47.1kmなのに対して、山陽本線の同区間の路線距離は68.8kmmと21.7kmも長い。

 

麻里布駅(現・岩国駅)〜岩国駅(現・西岩国駅)間の開業が1929(昭和4)年4月5日で、全線開通は1934(昭和9)年12月1日だった。一時は岩徳線を山陽本線にしようとしたために、岩国駅の場所を移し、改名したほどだったが、岩徳線の本線化計画は頓挫する。当時の建設技術では複線化が難しかったのが理由だった。そのため麻里布駅は1942(昭和17)年に岩国駅と再び名を変えている。要は本線になりそこねたわけである。

 

西岩国駅の次が川西駅で、錦川清流線の列車はここまでJR岩徳線を走る。

↑川西駅を発車する岩徳線のキハ40系。同駅は錦川清流線の起点駅であり、また錦帯橋の最寄り駅でもある

 

【清流線の旅⑤】清流線起点の川西駅は錦帯橋の最寄り駅

ホーム一つの小さな川西駅には、ホーム上に錦川清流線の起点を示す「0キロポスト」が立つ。ここが正真正銘の路線の始まりである。

 

錦川清流線の旅を始める前に、すこし寄り道をしておきたい。川西駅は岩国の名勝でもある錦帯橋の最寄り駅だからだ。錦帯橋まで1.3km、徒歩17分で、散策に最適な距離だが、観光客はマイカー利用以外は岩国駅からバス利用が多く川西駅をほぼ利用しない。歩いていたのは筆者ぐらいのものだった。

↑階段を上がった上に川西駅がある。ホーム上には錦川清流線の起点を示す0キロポストが立っている(右下)

 

錦帯橋の歴史と概略を簡単に触れておこう。架けられたのは1673(延宝元)年のことで、今から350年前のことになる。当時の岩国藩主、吉川広嘉(きっかわひろよし)によって現在の橋の原型となる木造橋が架けられた。5連の構造(中央の3連はアーチ橋)で、日本三名橋や、日本三大奇橋とされる名勝だ。何度も改良を重ねた末に、錦川の氾濫に耐えうる構造の橋が築かれた。

 

2代目の橋は276年にわたり流失をまぬがれてきたが、1950(昭和25)年9月14日に襲った台風の影響で橋が流されてしまう。その後の工事で復旧したが、2005(平成17)年9月6日〜7日の台風でも橋が流されている。いずれも複合的な要因が指摘されているが、1950(昭和25)年の流失の原因としては、特に太平洋戦争中に上流域の森林伐採が急速に進み、保水力が落ちたことが指摘されている。

↑岩国藩三代当主・吉川広嘉により原型が造られた錦帯橋。橋を見下ろす山の上に岩国城が立つ

 

山の保水力が落ち、さらに地球温暖化の影響もあるのだろう。錦川清流線は錦川沿いを走っている区間が多いが、この路線もたびたび、錦川の氾濫により影響を受けている。

 

【清流線の旅⑥】山中で岩徳線と分岐して錦川清流線の路線へ

川西駅が錦川清流線の起点駅となっているが、岩徳線としばらく重複して走る。川西駅から眼下に岩国の市街をながめながら山中へ入っていき、道祖峠トンネルを通り抜けて1.9kmあまり、森ヶ原信号場(もりがはらしんごうじょう)で、進行方向右手に分岐していく線路が錦川清流線となる。

↑川西駅から山すそを通り、685mの道祖峠トンネルを過ぎて、岩徳線との分岐ポイント森ヶ原信号場(右上)へ向かう

 

森ヶ原信号場を過ぎると、間もなく一つの橋梁を渡る。こちらは御庄川(みしょうがわ)という錦川の支流にあたる河川だ。このあたりの錦川は岩国城がある山の尾根で流れを阻まれるように北へ大きく蛇行しており、錦川清流線とは離れて走る区間となっている。

 

御庄川橋梁を渡ると、はるか上空に山陽自動車道の高架橋がかかり、まもなく山陽新幹線の高架線も見えてくる。

↑御庄川に架かるガーダー橋を渡る錦川清流線の下り列車。この区間は錦川とかなり離れている

 

【清流線の旅⑦】山陽新幹線の乗換駅ながら質素さに驚く

山陽新幹線の高架線のほぼ下にあるのが清流新岩国駅だ。新岩国駅の最寄り駅となる。JR山陽本線の岩国駅が海岸に近い市街地にあるのに対して、新岩国駅は山の中に開かれ駅だ。今は岩国駅と新岩国駅の両駅が岩国市の玄関口とされているが、駅舎を出るとだいぶ印象が異なる。

 

新岩国駅の駅前には路線バスやタクシーが多くとまり、また近隣の駐車場も入り切れないぐらいの車が駐停車していた。行き交う人も多く、現在は新岩国駅の方がより賑わっているように感じられた。同駅からも前述した錦帯橋行きの路線バスが走っている。

 

新岩国駅から錦川清流線に乗換える人も多いが、最寄り駅とはいえやや離れている。時刻表誌にも「距離300m、徒歩7分」離れているという注釈が入っている。

↑山陽新幹線の新岩国駅駅舎。駅の横に清流新岩国駅へ向かう専用通路がある(左上)。上の案内には200mとあるが実際は300mほどある

 

新岩国駅の駅舎を出ると、山陽新幹線の高架下にそって通路があり、300m進むと清流新岩国駅がある。意外に距離があり、列車に遅れまいと小走りする利用者が多く見うけられた。

 

清流新岩国駅はホーム一つの小さな駅で、待合室は元緩急車の車掌室を改造したものだ。錦川清流線を利用する多くの観光客はこの駅から乗車するが、初めて訪れた人はその質素さに驚かされるに違いない。

 

なお清流新岩国駅は2013(平成25)年までは御庄駅(みしょうえき)という名だった。待合室の上部にはペンキ書きされた古い駅名が残っていて郷愁を誘う。

↑錦川鉄道の清流新岩国駅のホーム。待合室は元緩急車の車掌室を利用、上の高架は山陽新幹線で、新岩国駅はこの左手にある

 

【清流線の旅⑧】路線は錦川に沿ってひたすら走る

清流新岩国駅を発車して間もなく、進行方向右手に錦川が見え始める。岩徳線の西岩国駅〜川西駅間で錦川を渡るが、ここから錦川清流線は錦川沿いを走る区間に入る。守内かさ神駅(しゅうちかさがみ)駅、南河内駅(みなみごうちえき)にかけては、錦川をはさんで対岸に国道2号が走り、南河内駅近くで錦川清流線とクロスする。国道2号をさらに先へ行くと、岩徳線の路線と出会い並行して走り徳山方面へ向かう。

 

国道2号(旧山陽道)がこの地を通るように、錦川清流線および岩徳線が通るルートは、古くから重要な陸路として開かれ活用されてきた。大正昭和期の人たちが岩徳線を山陽本線としようとした理由もここにあった。

 

錦川清流線は行波駅(ゆかばえき)、北河内駅(きたごうちえき)、椋野駅(むくのえき)、南桑駅(なぐわえき)と進むにつれて、蛇行する錦川にぴったりと寄り添うように走る。進行方向の右下は川岸ぎりぎりという区間も多くなる。

↑錦川沿いを走る錦川清流線。写真のように川岸ぎりぎりを走る区間も多い。椋野駅〜南桑駅間で

 

盛土された上や、コンクリートの壁面を作りその上を列車が走るため川面よりもだいぶ上を走る。錦川ははるか下に見下ろす箇所が大半だが、数年ごとに豪雨災害の影響も受けている。

 

錦川清流線は、2018(平成30)年7月にこの地方を襲った「平成30年7月豪雨」により全線不通となり、8月27日に復旧した。昨年の9月18日には台風14号の影響で路線に並走する市道が崩れ落ちたために岩国駅〜北河内駅間が運休、11月14日にようやく復旧を終えたばかりである。

 

【清流線の旅⑨】観光列車でしか行けない錦川沿いの秘境駅

川が近くを流れるということは、列車からの景色が美しいということにもなる。それが錦川清流線の魅力にもなっている。

 

錦川側の風景ばかりではない。北河内駅〜椋野駅間には「錦川みはらしの滝」、椋野駅〜南桑駅間には「かじかの滝」と2本の滝が山から流れ出している。両スポットでは列車がスピードダウンして、それぞれの滝の解説が車内に流れる。観光客が多く乗車することを意識してのことだろう。

↑南桑駅付近を走る上り列車。このように線路のすぐ下を錦川が流れる区間が多い

 

さらに南桑駅〜根笠駅(ねがさえき)間にはとっておきの駅がある。清流みはらし駅と名付けられた臨時駅だ。清流みはらし駅は川沿いにホームのみがある臨時駅で、道は通じていない。錦川のパノラマ風景を楽しむために造られた駅で、キハ40形で運行される観光列車「清流みはらし列車」のみこの駅へ行くことができる。

↑南桑駅を発車する下り列車。次の駅が観光列車しか停らない清流みはらし駅(左上)だ

 

同列車は昨年秋、災害により路線が不通となり運転されなかったが、次回は2月4日(土曜日)に走る予定だ。往復運賃+昼食お弁当を含み5000円で1日30名のみ限定だが、機会があればぜひとも乗ってみたい、そして訪れてみたい川の上の臨時駅である。

 

【清流線の旅⑩】終点・錦川駅の先には未成線の路線が延びる

河山駅(かわやまえき)、柳瀬駅(やなぜえき)と錦川を見下ろす駅を通り、錦川橋梁を越えれば終点の錦川駅に到着、三角屋根の駅舎が旅人を出迎える。

 

錦川鉄道が発行する「鉄印」はこの駅のみの取り扱いで、スタンプ+キャラクター「ニシキー」(岩国市特産品を食べる絵)や書き置き印といったバラエティに富んだ「鉄印」を用意している。

↑錦川鉄道の本社がある錦町駅舎。2階には観光・鉄道資料館があり、古い岩日線の写真などが展示されている

 

錦町駅の構内には車庫があり、乗車したNT3000形以外のカラー車両とキハ40形が停車している姿を見ることができる。戻る列車の発車時間まで余裕がある場合には、ぐるりと駅を一回りするのも良いだろう。車庫や検修庫を裏側から見ることができる。

↑錦町駅隣接の車庫と検修庫。乗車できなかった車両もここで確認することができる

 

錦町駅から先には岩日線の未成線区間を利用した観光用トロッコ遊覧車両が運転されている。「とことこトレイン」と名付けられた列車で錦町駅と、そうづ峡温泉駅間の約6kmを走る。

 

てんとう虫を見立てたデザインの「ゴトくん」、「ガタくん」というかわいらしいネーミングの車両を利用し、路線内には蛍光石で装飾された「きらら夢トンネル」という装飾トンネルを走るなど、親子連れにぴったりな乗り物だ。片道40〜50分で、基本は週末と特定日の運行、往復1200円だが、錦川清流線の利用者は割引となる。そうづ峡温泉には日帰り温泉施設「SOZU温泉」もある。「とことこトレイン」は冬期(12月〜翌3月下旬)運休で、4月以降に運転が再開される予定だ。

↑錦川清流線の線路の先に設けられたとことこトレインの錦町駅。電動の動力車+客車2両で運行される(左上)

 

乗車した錦川清流線では錦川の清涼感が感じられ、錦帯橋を含め爽やかな気持ちになった。次回に訪れた時には、観光列車に乗車しなければ下車できない「清流みはらし駅」や、改修された「西岩国駅」にも訪れてみたいものである。

2023年の鉄道はどうなる? 惜別の路線と車両、話題の新線・新車ほか11大トピックをお届け!

〜〜2023年に予定される鉄道のさまざまな出来事〜〜

 

神奈川県と大阪での新しい路線や駅の開業や大きな災害で傷ついた路線の復旧、おなじみの車両の引退などが予定されている2023(令和5)年。1月から予定されている鉄道をめぐる出来事を追っていきたいと思う。

 

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【その1】48年間走った東急の名物車両の引退(1月予定)

年始早々、首都圏でおなじみの車両が消えていく予定だ。

 

◇東急電鉄8500系電車

東急電鉄の8500系が1月で運行終了の予定とされている。8500系の特徴でもある甲高いモーター音も1月で聞き納めになりそうだ。

 

東急電鉄の8500系は田園都市線をメインに、東京メトロ半蔵門線、東武スカイツリーラインを長年走り続けてきた。登場したのは1975(昭和50)年と古く、1991(平成3)年までに東急車両製造によって400両と大量の車両が生み出された。

 

製造当初のステンレス車体は米バッド社が提供する技術を元に造られていたが、1981(昭和56)年から東急車両製造が独自に開発したステンレス車体を使い軽量化が図られた。その後にステンレス車体を持つ電車が多く新造されたが、同社の技術が活かされた車両が多い。8500系が鉄道車両史で果たした役割は大きいのである。

↑最後の一編成となった8500系37編成。おなじみだった赤帯でなく、青帯が37編成の目印となっていた

 

最後の一編成となったのは8500系37編成で長年「青帯Bunkamura号」と親しまれてきた。最後の時が近づきつつある現在は「ありがとうハチゴー」のヘッドマークを付けて走っている。

 

◇長野電鉄3500系電車

東急電鉄8500系は本家、東急電鉄でこそ引退となるが、実は国内の多くの鉄道会社に譲渡され、今も主力として活躍し続けている。中でも多くが活躍しているのが長野電鉄だ。

 

長野電鉄では元東急8500系が主力として活躍する一方で、1月19日で消えていく車両がある。それが長野電鉄3500系だ。この車両も元は営団3000系で、日比谷線を走り続けた首都圏で長く活躍した地下鉄電車である。営団3000系の登場は1961(昭和36)年春のこと。当時のセミステンレスの車体らしく、コルゲート板と呼ばれる波板が特徴だった。

↑長野電鉄の最後の3500系となったN8編成。営団地下鉄では1963(昭和38)年度に製造された電車だった

 

1994(平成6)年に営団地下鉄では引退となったが、1992(平成4)年から長野電鉄へ徐々に譲渡が始まりすでに30年。営団地下鉄当時を加えれば半世紀以上運行していたが、徐々に引退していき、ついに、最後のN8編成も運行終了の予定となった。60歳の〝ご長寿〟電車には本当にお疲れさまでしたと声をかけたい。

 

【その2】長年親しまれた特急形車両が消える(3月17日)

2023(令和5)年3月18日、JRグループや、多くの大手私鉄でダイヤ改正が行われる。その前日に運行終了となり、引退となる車両形式が複数ある。

 

◇JR北海道 キハ183系特急形気動車

キハ183系特急形気動車は、国鉄時代の1980(昭和55)年に導入された。北海道用に開発された車両で、国鉄時代に製造された車両に加えてJR北海道に継承以降も新たに増産された。道内の特急列車に長らく使われ続けてきたが、初期のスラントノーズと呼ばれた高運転台の車両はすでに引退となり、後期タイプの車両が残され、特急「オホーツク」と「大雪」として走ってきた。

↑札幌駅と網走駅を結んできたキハ183系運行の特急「オホーツク」。3月18日からはキハ283系に置換えられる

 

3月18日からは、キハ283系特急形気動車に置換えの予定となっている。ちなみにキハ283系は特急「おおぞら」などの列車に使われてきたが、すでに「おおぞら」の運用からは離脱、転用され「オホーツク」「大雪」での運用となる。残るキハ183系は、前後に展望席がある1000番台のみで、こちらは現在、JR九州の特急「あそぼーい!」として活躍している。

 

◇JR東日本651系特急形電車

JR東日本の651系は、常磐線用に1989(平成元)年春に導入された交直流特急形電車で、主に特急「スーパーひたち」として運用された。デビュー当時は「タキシードボディのすごいヤツ」というキャッチコピーがつけられ、高運転台の車両ながら国鉄形特急電車とは異なるユニークな姿で目立った。

↑菜の花が咲くなか上野駅に向けて走る651系特急「スワローあかぎ」。この春はこうした情景を見ることができるのだろうか

 

後継のE657系の導入で、常磐線から高崎線などを走る特急「草津」「あかぎ」「スワローあかぎ」に転用され走り続けてきたが、3月17日が651系の最終運行日になる予定で、翌日からはE257系に置換えられる。同時に「スワローあかぎ」という特急名は消滅し、「草津・四万」「あかぎ」という特急名で運行されることになる。

 

【その3】新横浜線開業で新横浜駅がより身近に(3月18日)

3月18日には、JR全社とともに大手私鉄などの鉄道会社も一斉にダイヤ改正が行われる。それに合わせて東西の新線が開業する。

 

まず、相鉄・東急新横浜線から見ていこう。3月18日に運行が始まるのは東急東横線の日吉駅と羽沢横浜国大駅間の営業距離10kmの区間だ。内訳は相鉄新横浜線の羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間(営業キロ4.2km)と、東急新横浜線の新横浜駅〜日吉駅間(営業キロ5.8km)で、新横浜駅を境にして相模鉄道、東急電鉄それぞれの電車の相互乗り入れが行われることになる。

↑すでに新横浜駅への習熟運転が始められている。報道公開日に乗入れて来たのは東急5050系の「Shibuya Hikarie号」だった

 

↑報道陣に公開された相鉄・東急新横浜線の新横浜駅。東海道新幹線・新横浜駅の接続駅として利用する人も多くなりそうだ

 

東京メトロ南北線、都営三田線の両路線の電車も相鉄・東急新横浜線へ相互乗入れ予定で、中でも都営三田線の乗入れ本数が多くなることが発表されている。来春からは都営三田線、相鉄線内で両線の電車と出会う機会も増えそうだ。

 

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【その4】大阪駅(地下ホーム)開業でより便利に(3月18日)

現在、近畿圏を走る特急「はるか」と特急「くろしお」は、大阪駅に停まらず、新大阪駅と大阪環状線の間を行き来して走る。やや不便を強いられてきたが、3月18日に大阪駅に停まるようになり、環境が大きく変わることになる。

↑大阪駅(地下ホーム)は現在の大阪駅とは最短50mの近さ。駅前広場や連絡デッキも2年後に完成予定 2022(令和4)年2月22日撮影

 

特急「はるか」「くろしお」は長い間、大阪駅の西側にある梅田貨物線の路線を走ってきた。この梅田貨物線を東側に移設し、「うめきた」の地下に通して地下ホームを設ける工事が春に完了し、大阪駅(地下ホーム)としてオープンする。

 

新駅開業後には特急2列車だけでなく、これまで新大阪駅〜久宝寺駅(きゅうほうじえき)間で運転されてきた「おおさか東線」の電車が大阪駅(地下ホーム)に乗入れ予定だ。これにより、大阪圏の電車利用がかなり変わることになる。

 

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↑梅田貨物線を走る特急「パンダくろしお」。写真の線路の先に地下新線と大阪駅(地下ホーム)が造られ同特急も新駅停車となる

 

【その5】留萌本線一部区間が廃線に(4月1日)

昨年は赤字ローカル線の廃線論議が高まりをみせた。年々路線の維持が全国規模で厳しくなっていくなかで、今年はまず、北海道内の複数のローカル線の廃止が予定、あるいは予想されている。

 

1本は留萌本線(るもいほんせん)で、石狩沼田駅〜留萌駅間35.7kmが4月1日に廃止となる。留萌本線は2016(平成28)年12月5日に留萌駅〜増毛駅(ましけえき)間16.7kmが廃止されており、徐々に路線自体が短くなっている。残る深川駅〜石狩沼田駅間14.4kmも2026(令和8)年には廃止の予定とされる。留萌本線自体も3年後には全線が廃線となるわけだ。

↑1910(明治43)年に開業した留萌駅。この春に113年にわたる歴史を閉じることになる

 

なお、石狩沼田駅〜留萌駅間の営業終了日は当初の予定が9月だったが、繰り上がり3月31日となった。国土交通省北海道運輸局が急転直下昨年12月1日に発表したもので、「公衆の利便を阻害するおそれがないと認める」ことが廃止予定を早めた理由だった。国土交通省およびJR北海道としては、廃止が近づいてくると起こりがちなトラブルを少しでも避けたいという思いが見え隠れする。消えていく路線を訪れて乗りたい、見たい気持ちも分からないでもないが、トラブルを避けるためにも最後は静かに見送りたいと思う。

 

北海道の鉄道は開拓、および石炭の輸送のために敷設された路線が多い。そうした使命を終えたこともあり、幹線を除いて消えていく路線が多くなっている。さらに最近は自然災害で路線が寸断され、そのまま廃線となるところも出てきている。

 

根室本線の富良野駅〜新得駅(しんとくえき)間81.7kmは、2016(平成28)年8月31日に同地を襲った台風10号による降雨災害で、東鹿越駅(ひがししかごええき)〜新得駅間が不通となり代行バスが運転されてきた。昨年初冬には、富良野駅〜新得駅間のバス転換を地元自治体が容認し、あとは廃止日をいつにするか、決定を待つのみとなっている。いつ廃止になるのか、気になるところだ。

 

↑根室本線の下金山駅(しもかなやまえき)付近を走る下り列車。ルピナスの花に囲まれた走行風景も過去のものとなりそうだ

 

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【その6】人気の観光列車「SL銀河」が運行終了(春の予定)

JR東日本の人気観光列車「SL銀河」は、2014(平成26)年4月12日から岩手県の釜石線の花巻駅〜釜石駅間を土日中心に走り続けてきた。牽引機はC58形蒸気機関車239号機で、客車はキハ141系気動車という組み合わせで、機関車と気動車の協調運転という形で運転されてきた。

 

キハ141系気動車は元JR北海道の車両で、50系客車を気動車に改造した珍しい車両だ。余剰となっていたJR北海道の気動車を購入し、協調運転することで、蒸気機関車の負担をなるべく減らすべく投入された車両だった。

 

最終運転日は明確にされておらず、この春までの運転とされているが、運行終了の理由としてあげられたのは客車の老朽化だった。本家のJR北海道でも新型電車の導入により、室蘭本線などを走るキハ141系の引退が予定されている。キハ141系という形式自体が消滅ということになりそうだ。

↑釜石線の名所ともされる宮守川橋梁(みやもりがわきょうりょう)を渡る「SL銀河」。こうした光景も春かぎりで見納めとなりそうだ

 

【その7】東武特急スペーシアの新型車両が登場!(7月15日)

今年も鉄道各社から新型車両が登場の予定だ。そんな新型車両の中で最も注目されているのが、東武鉄道の新型特急電車だ。

 

「SPACIA X(スペーシア X)」と名付けられた特急形電車で、発表されたイメージパースを見てもその斬新なデザインに驚かされる。特に先頭1号車と6号車が目をひく。運転席周りは丸みを帯びたスタイルで、下部の排障器(スカート)部分は100系スペーシアの形をよりアップデートさせた。さらに窓枠は江戸文化として伝えられてきた組子や竹編み細工を現代流にアレンジしたという。

↑「スペーシア X」の前面照明は39のドットで構成されたLEDライト、側面窓は沿線・鹿沼の伝統工芸・組子をイメージ 写真提供:東武鉄道

 

東武鉄道の特急といえば100系スペーシア、500系リバティのイメージが強い。そこに7月15日に新たな特急電車が加わり、浅草駅〜東武日光駅・鬼怒川温泉駅を走るようになる。ちなみに100系スペーシアが登場したのが1990(平成2)年6月1日のこと。すでに30年以上の年月がたっている。「スペーシア X」の導入が進むにつれて、100系の置換えが進むのだろう。東武特急にも新旧交代の時期が近づいている。

↑先頭車に設けられる「コクピットラウンジ」。ドリンクやスナックを楽しめるスペースとされる 写真提供:東武鉄道

 

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【その8】熊本地震で傷ついた南阿蘇鉄道が全線復旧(夏の予定)

毎年のように列島を襲う自然災害により鉄道路線が傷き、豪雨災害とともに地震による路線の不通も起こる。

 

熊本県の立野駅(たてのえき)〜高森駅(たかもりえき)間17.7kmを走る南阿蘇鉄道高森線は雄大な阿蘇カルデラを走る風光明媚な路線だった。2016(平成28)年4月16日に起きた熊本地震の本震により多大な被害を受け、全線で運休になった。3か月後の7月31日に一部区間の中松駅〜高森駅間で運行再開は果たしたものの、立野駅〜中松駅間が長期にわたり不通となった。

↑不通となった南阿蘇鉄道の路線。右上は被害が大きかった阿蘇下田城ふれあい温泉駅の駅舎 2017(平成29)年5月29日撮影

 

立野駅で接続するJR豊肥本線(ほうひほんせん)は2020(令和2)年8月8日に全線が運転再開したが、南阿蘇鉄道の路線は橋梁などの被害がより深刻で、復旧工事が長期化していた。難工事もようやく目処がつき、夏ごろに全線が復旧予定だ。不通だった一部区間ではすでに確認運転も始まっており、この夏、7年ぶりに南阿蘇の鉄道旅が楽しめることになりそうだ。

↑立野駅の近くにかかる立野橋梁を名物トロッコ列車が渡る。同橋梁も大きな被害をうけた 2015(平成27)年7月23日撮影

 

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【その9】新しいLRT「宇都宮ライトレール」が開業(8月の予定)

8月には新たなLRT((ライト・レール・トランジット/次世代型路面電車システム))の路線が栃木県で開業の予定となっている。運行は宇都宮ライトレール株式会社で、地元自治体や民間企業が出資する第三セクター方式で運営される。開業する路線は、宇都宮市の宇都宮駅東口停留場と芳賀町(はがまち)の芳賀・高根沢工業団地停留場間の14.6kmで、JR宇都宮駅と、宇都宮市東部および隣接する芳賀町にある工業団地などを結ぶ路線となる。

 

全国の路面電車の路線の中で、既存の在来線を活かしてLRT路線とする例はあったものの、すべての区間が新しく建設されるのは初めてのこと。マイカーに頼りがちな地方都市の、新たな移動手段として期待されている。

↑JR宇都宮駅(左側)に隣接して設けられる宇都宮駅東口停留場。すでに線路も敷き終わっている 2022(令和4)年12月25日撮影

 

すでに停留場づくりやレール敷設は終わっていて、試運転も徐々に進められている。昨年11月19日には宇都宮駅東口で試運転電車が脱線するトラブルもあったが、運転開始までには不具合が修正されるだろう。

 

宇都宮ライトレールは将来、宇都宮駅の西側へ延長され、JR宇都宮駅と東武宇都宮駅を結ぶ計画もある。路線バスの利用を余儀なくされてきた市内交通だけに、延長されればより便利になり、利用者も増えていきそうだ。新しいLRT路線がどのように活かされていくか注目したい。

 

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↑平石車両基地に搬入された新車HU300形。オレンジと黒というおしゃれな車両が宇都宮市内を走ることになる

 

【その10】小田急の看板車両「VSE」が消えていく(秋ごろの予定)

小田急電鉄のVSE(50000形)といえば、小田急のフラッグシップモデルとされ、先頭に展望席が付く人気のロマンスカー車両だ。登場は2005(平成17)年3月19日のことで、まだ18年目と、車歴は比較的浅い。鉄道車両は約30年のサイクルを目処に置換えられることが多いが、昨年の3月11日に定期運行が終了となり、その後に臨時の団体列車などで走ってきたが、いよいよ秋には引退となるとされている。

↑独特なフォルムで走り続けてきたVSE(50000形)。車体を微妙に傾けカーブする姿も見納めに 2022(令和4)年11月12日撮影

 

早めの引退となった理由としては、車体に使われたダブルスキン構造の車体の補修や修正が難しいことと、車両と車両の間に台車をはく連接構造や、車体傾斜制御など取り入れた構造の維持、更新が難しいことなどがあったとされる。

 

同じ前面展望席を持つGSE(70000形)では連接構造が採用されなかった。小田急電鉄ではロマンスカーに連接構造を採用した車両が使われてきたが、VSE(50000形)が連接構造を持つ最後のロマンスカーとなったわけである。将来VSE(50000形)は海老名駅前にある「ロマンスカーミュージアム」内で、歴代ロマンスカーと並んで展示保存されることになりそうだ。

 

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【その11】木次線名物「奥出雲おろち号」が運転終了(11月下旬?)

「奥出雲おろち号」は木次線(きすきせん)の名物列車である。DE10形ディーゼル機関車と12系客車の組み合わせで、春から秋まで週末や観光シーズンを中心に走り続けてきた。

↑スイッチバック駅・出雲坂根駅を発車する「奥出雲おろち号」。終点の備後落合駅まで行く数少ない列車としても活かされてきた

 

木次線といえば、出雲坂根駅の3段スイッチバックと、さらに三井野原駅(みいのはらえき)まで至る風景が秀逸で、「奥出雲おろち号」は木次駅〜備後落合駅(びんごおちあいえき)間の片道が下り約2時間30分、上り3時間と長丁場にもかかわらず人気となっていた列車だった。

 

この名物列車も車両の老朽化で2023年度いっぱいでの運行終了が発表されている。年度いっぱいと言っても、木次線は雪深い路線ということもあり、来年3月中の運行はできないと思われる。年内11月下旬までの運行で見納めとなりそうだ。ちなみに、来年春以降には観光列車の快速「あめつち」が木次線の出雲横田駅まで乗入れる予定だ。しかし、終点の備後落合駅までの運転予定はないそうで残念である。

 

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【その12】日本で唯一のスカイレールが消えていく(年末の予定)

最後のトピックも廃線の話題となる。広島市の安芸区(あきく)に「スカイレール」という珍しい乗り物がある。

↑広島市安芸区内を走るスカイレール。車両はゴンドラリフトに近い(右下)。モノレールに近い構造で鉄道の仲間とされている

 

スカイレールが走るのは、山陽本線瀬野駅最寄りの、みどり口駅とみどり中央駅間1.3kmの区間で、路線は「スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線」と名付けられている。瀬野駅と駅の北側にある丘陵地の住宅団地を結ぶために1998(平成10)年8月28日に造られた。

 

スカイレールは懸垂式モノレールの構造に近く、車両はロープウェイやゴンドラリフトの乗車する四角い部分(客車と呼ぶ)に似たものが使われている。形が近いロープウエイやゴンドラリフトは、急傾斜の登坂に強いものの、強風が吹くと運行できない弱点があった。その弱点を克服したのがスカイレールだった。最急勾配は263パーミル(1000メートルの距離で263メートル登る)と、ケーブルカーを除き国内で最も険しい斜面を上り下りする鉄道施設でもあった。

 

日本初の乗り物として開発されたスカイレールだったが、導入を追随する企業はなく、同路線のみとなってしまった。維持費や採算面から継続することが難しいと判断され、2023年末での廃止が予定されている。代わって電気バスが導入される予定だ。革新的な技術だったが一般化しなかったわけである。

 

これまで見てきたように、2023年も鉄道に関わるニュースは盛りだくさんとなりそうだ。一方で予測がつかないのが自然災害である。今年こそ穏やかな一年になることを祈りたい。

鉄道ゆく年くる年…新幹線開業、災害、車両引退ほか2022年の10大トピックをふり返る

〜〜2022年 鉄道のさまざまな話題を追う〜〜

 

2022(令和4)年もあとわずかになった。今年は1872(明治5)年に新橋〜横浜間に鉄道が開業して150周年という節目の年にあたる。西九州新幹線の開業というおめでたい話題があった一方で、毎年のように起こる自然災害により複数の路線が被害を受けた。登場した新車、引退していく車両などの情報も含め、どのようなことが起きた年だったのかをふり返ってみよう。

 

【その1】北海道内の複数の駅が廃止される(3月12日)

今年も各地で新駅が誕生する一方で、廃止される駅が目立った。特に多かったのは北海道内である。3月12日に函館本線の池田園駅、流山温泉駅(ながれやまおんせんえき)、銚子口駅(ちょうしぐちえき)、石谷駅(いしやえき)、本石倉駅、さらに根室本線の糸魚沢駅(いといざわえき)、宗谷本線の歌内駅(うたないえき)と7つの駅が廃止となった。

↑函館本線の砂原支線にあった池田園駅。跨線橋が架かる駅で、周辺の風景が北海道らしく絵になった(左上)

 

筆者が訪れたことのある駅も多く残念に思う。廃止になった池田園駅、流山温泉駅、銚子口駅はいずれも函館本線の通称・砂原支線の駅となる。函館本線は大沼駅と森駅の間で、北海道駒ヶ岳の西側を走る本線と、東側を走る砂原支線に分かれている。砂原支線は戦時下、輸送量を増強するために設けられた迂回路線だった。

 

池田園駅にはかつて大沼電鉄(鹿部駅〜大沼公園駅間)という私鉄路線が走っていたが、砂原支線が開業した同時期に運転終了している。

 

函館本線に並行して、北海道新幹線の札幌への延伸工事が進んでおり、新線は2030(令和12)年度末に開業予定とされている。並行する函館本線の長万部駅〜小樽駅間はほぼ廃止の予定となっており、函館駅〜長万部駅間を第三セクター化するかどうかの目処は立っていない。

 

同区間は北海道内と本州を結ぶ鉄道貨物輸送のメインルートであり、北海道駒ヶ岳の西を通る本線は残されると思われる。だが、砂原支線の沿線は一部に民家が建つものの、乗車する地元の利用者が少ないため存続が難しいように思われる。複数の駅の廃止はその伏線なのかもしれない。

 

【その2】福島県沖地震の影響で東北新幹線が脱線(3月16日

3月16日23時36分、マグニチュード7.4の「福島県沖地震」により、宮城県と福島県で最大震度6強の揺れを記録した。この地震により200名以上の死傷者とともに、5万棟近くの住宅が被害を受けた。鉄道にも大きな被害を出ている。なかでも東北新幹線の被害は深刻で、福島駅〜白石蔵王駅間を走行していた下り「やまびこ223号」が脱線してしまった。負傷者は若干名だったものの、新幹線としては2例目の脱線事故となった。この地震により高架橋の損傷、架線柱の傾きなどの被害が多く見つかり、東北新幹線は不通となった。

 

1か月以上にわたる復旧工事が必要と見られていたが、工事は順調に進み4月14日に全線運転再開を果たした。一部の徐行運転を続けていたが、5月13日には通常ダイヤの運転に戻っている。

 

一方で、脱線したH5系第2編成とE6系Z9編成はいずれも「高速走行に耐えられない」「営業列車への使用には適さない」ということで廃車されることになった。H5系はJR北海道が北海道新幹線、新函館北斗駅開業に合わせて新製した車両で、4編成(計40両)しか配置されていない。希少だった車両が運悪く地震の被害にあってしまったわけだ。後に同編成の一部は北海道へ海上輸送され、今後、函館総合車両基地で教習用に使われることになっている。

↑古川駅〜仙台駅間を走るH5系+E6系の編成。写真のH5系第2編成が運悪く地震の影響を受け廃車となることに

 

在来線への被害も大きかった。なかでも第三セクター・阿武隈急行線では計94か所の被害を受け、3か月以上にもおよぶ復旧作業により6月27日に全線の運転再開を果たしている。ちなみに阿武隈急行線は2019(令和元)年10月12日、「令和元年東日本台風」により大きな被害を受けていて、この時には翌年の10月31日にようやく全線復旧を果たしていた。一部の路線に度重なる自然災害が襲いかかる厳しい現状には、痛ましさを禁じ得ない。

 

【その3】ローカル線の廃止論議がより高まることに(7月25日)

7月25日、国土交通省の「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」からいくつかの〝提言〟が発表された。ローカル線の今後に大きな波紋をもたらした同提言をふり返ってみよう。

 

提言ではまず、「JR各社は、大臣指針を遵守し、『国鉄改革の実施後の輸送需要の動向その他の新たな事情の変化を踏まえて現に営業する路線の適切な維持に努める』ことが前提」と〝廃止ありき〟の提言ではないとしている。

 

一方で、ここ数年の利用者減少に対しては「危機的状況にある線区については、鉄道事業者と沿線自治体は相互に協働して、地域住民の移動手段の確保や観光振興等の観点から、鉄道の地域における役割や公共政策的意義を再認識した上で、必要な対策に取り組むことが急務」とする。また「守るものは鉄道そのものではなく、地域の足であるとの認識のもと、廃止ありき、存続ありきという前提を置かずに協議」と地元自治体と鉄道会社間の協議を進めるように提言した。

 

要はなかなか進まないローカル線の廃止に向けて、より協議しやすくなるように道筋が示されたわけだ。

↑芸備線と木次線の接続駅、備前落合駅。両線とも輸入密度が低く、JR西日本でワーストの路線区間となりつつある

 

こうした提言に応えるように、これまで路線ごとの収支を発表してこなかったJR東日本も「ご利用の少ない線区の経営情報を開示します」として、赤字ローカル線の状況を発表した。JR東海をのぞくJR各社がこうした状況を発表しているが、1987(昭和62)年に国鉄が民営化してJRとなった当時と比べても、地方の〝鉄道離れ〟は深刻になっている。コロナ禍の影響を受けてここ数年、状況がさらに悪化したこともあり、国土交通省がローカル線の廃止に向けての道筋をスムーズにすべく乗り出したと見るべきなのだろう。

 

毎年のようにローカル線の廃止という話題が出てきているが、今後はさらに増えることが予想される。

 

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【その4】複数の路線が大雨で大きな被害を受ける(8月3日〜)

地球温暖化のせいなのか、毎年のように起こる自然災害のなかで豪雨災害の影響が深刻になりつつある。一部の地域に降り続く大雨による川の氾濫、地滑りなどで鉄道路線も傷ついていく。

 

「令和4年8月3日からの大雨」と名付けられた大雨災害では、今も東北地方を中心に複数の路線が不通となっている。一部の路線は復旧工事が進み、12月に入ってようやく復旧を遂げた路線もある。

 

12月12日に復旧を果たしたのが秋田内陸縦貫鉄道で、8月12日に不通になって以降、ちょうど4か月後に復旧を果たした。筆者は7月末に現地を訪れ、本サイトで同路線を紹介したすぐ後に不通となっただけに心苦しく感じていた。風光明媚な路線が復旧したことをうれしく思う。

 

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↑針葉樹林帯の中を走る秋田内陸縦貫鉄道の列車。森と渓谷に囲まれて走る美しい路線でもある

 

次に8月の大雨の影響を受けて、今も不通となっている区間を見ていこう。下記はすべてJR東日本の路線だ。

不通区間 復旧予定
津軽線 蟹田駅〜三厩駅(みんまやえき)間 復旧を含め路線の今後を協議する予定
花輪線 鹿角花輪駅(かづのはなわえき)〜大館駅間 2023年4〜5月頃復旧の見込み
米坂線 今泉駅〜坂町駅間 復旧方法検討中
磐越西線 喜多方駅〜山都駅(やまとえき)間 2023年春ごろ復旧見込み

 

被害を受けた路線は河川沿いに線路を敷設したところが多く、増水による影響で路盤の流失、橋梁の被害が目立った。協議予定または検討中の津軽線、米坂線は利用者が少ない路線だけに、そのまま廃線となる可能性も出てきた。

↑米坂線今泉駅に取り残された気動車。路線が不通となり車両基地まで戻ることができず郡山まで11月下旬に陸送された 11月6日撮影

 

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【その5】西九州新幹線開業&新D&S列車が誕生(9月23日)

暗い話題が続くなかで今年の明るい出来事といえば、西九州新幹線の開業であろう。九州新幹線の西九州ルートとして建設が進められていた西九州新幹線の武雄温泉駅〜長崎駅間が、9月23日に開業を果たした。5駅66.0kmと国内で最も短い新幹線路線となったが、福岡市方面からの到達時間の短縮により、長崎県の観光客の増加が期待されている。

↑大村市内を走る西九州新幹線「かもめ」。大村湾を遠望しながら走る。同線内で最も車窓が楽しめる区間だ

 

西九州新幹線の開業に合わせて嬉野温泉駅(うれしのおんせんえき)と新大村駅が新しく誕生した。嬉野温泉駅は嬉野市にとって初の鉄道駅となる。駅名となった嬉野温泉は駅の西側1.5kmと距離があるが、「日本三大美肌の湯」とされる嬉野温泉にとってありがたい新駅誕生となったようだ。また、諌早駅(いさはやえき)、長崎駅も新しい駅舎が設けられ、新幹線の開業に合わせた街造りが進められている。

 

だが、新幹線開業を歓迎する声ばかりではない。九州新幹線の新鳥栖駅から武雄温泉駅間の新設区間は、今も敷設計画がまとまっていない状態で、博多駅〜武雄温泉駅間は特急「リレーかもめ」などの連絡列車の運行で対応する状況となっている。

 

西九州新幹線の建設が進まない理由としては、佐賀県の多くの人たちが新幹線を必要としていないからにほかならない。佐賀市に住む市民の多くが、長崎本線を走る特急列車や高速バスを使う。新幹線の建設では地元自治体が応分の負担を強いられることもあり、この先、建設を進められない状況が続きそうだ。

↑西九州新幹線の開業に合わせて新たに開業した嬉野温泉駅。温泉街までやや距離があるため、路線バスの利用が必要となる

 

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西九州新幹線の開業とともに、新たなD&S(デザイン&ストーリー)列車が登場した。「ふたつ星4047」と名付けられた観光列車で、武雄温泉駅から有明海沿いを走る長崎本線を通り長崎駅へ。長崎駅からは大村湾沿いを走り、ハウステンボス駅を経て武雄温泉へ戻る。海景色がきれいな路線を走るとあって、運転開始以来、観光客に人気の列車となっている。

 

ちなみに「ふたつ星」は、走る佐賀県と長崎県をふたつの「星」にたとえ、「4047」は列車の元になったキハ40形とキハ47形の形式名の数字の組み合わせと、凝った列車名となっている。

↑有明湾を背景に走る「ふたつ星4047」。長崎本線の同区間は電化が取りやめられ非電化区間となっている

 

【その6】只見線が11年ぶりに運転再開(10月1日)

西九州新幹線と並ぶ明るいニュースといえば、只見線の運転再開のニュースであろう。2011(平成23)年7月の豪雨災害の影響で、長年にわたり不通となっていた福島県の会津川口駅〜只見駅間の復旧工事が完了し、10月1日から運転が再開された。

 

不通区間に列車が走ったのは実に11年ぶりのことだった。会津川口駅〜只見駅間は只見川に架かる複数の鉄橋の崩落があって特に被害状況が深刻で、JR東日本も復旧工事を見合わせていた。2017(平成29)年に上下分離方式により只見線を復活させる話し合いがまとまり、ようやく工事が始められたのだった。上下分離方式とは、福島県が第三種鉄道事業者となって線路や施設を保有し、JR東日本が第二種鉄道事業者となって、列車の運行を行うというもの。線路の使用料は福島県に払うものの、赤字にならないように減免される。

↑豪雨被害を受け崩壊した第七只見川橋梁も復旧した。臨時快速「只見線満喫号」が橋上を走る

 

復旧した区間を走る列車は1日に3往復と少ないものの、当初は秋の行楽時期と重なり列車は予想を上回る利用客で賑わった。臨時観光列車を走らせたこともあり、沿線を訪れる観光客が増えた。

 

一方、只見地方は豪雪地帯でもあり、雪に閉ざされる冬期以降もブームが続くか気がかりである。とはいえ只見線の復旧が新たな観光需要を掘り起こし、観光客が絶えることなく訪れるようになれば、廃線が取りざたされる全国のローカル線の維持に一石を投じるかもしれない。只見線の今後に注目したいところである。

 

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↑只見駅9時7分着の下り列車が到着。ホームには多くの人が降り立った 10月15日撮影

 

【その7】鉄道150周年の記念列車も走った(10月14日)

今年は新橋駅〜横浜間に列車が走り始めて150周年にあたる。10月14日の記念日に合わせて記念切手や、記念硬貨、記念の交通系ICカードなどが発売されたのだが、筆者は盛り上がりをあまり感じなかった。鉄道ファン以外は意識しないままに記念日が過ぎ去ったように思う。

 

今から50年前、鉄道100周年だった1972(昭和47)年10月14日を少しふり返ると、まずC57形2号蒸気機関車が牽引する記念列車が汐留駅〜東横浜駅間を走って大きな話題を集めた。テープカットには当時の人気歌手も加わり、催しを盛り上げたほか、記念切手も販売され郵便局前に長蛇の列ができた。他の地域でもこうしたSL列車が運行され、それぞれが注目を浴びた。ちょうどSLが消えつつある時期と重なったことも大きかったのかもしれない。

↑旧新橋停車場の復元駅舎(右下)には、ここから線路が始まったとされる「0哩標識」がある。双頭レール呼ばれる線路も敷かれている

 

実は今年の記念日に、JR東日本の「鉄道開業150周年記念列車」号をはじめ、JRや複数の鉄道会社でこうした記念列車を走らせていたが、多くが注目されなかったようだ。ふだんから観光列車が全国を走っているだけに、鉄道150周年をうたっても、一部の鉄道ファンしか知らなかったということもあるだろう。むしろローカル線廃止問題のほうが注目を浴び、素直に喜べなかったのかもしれない。

 

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↑山手線を12月末まで走る予定の「黒い山手線」は、1号機関車をイメージしたラッピングで、正面に鉄道150周年のヘッドマークが付く

 

【その8】JR東海で目立った新車両の投入

ここからは、今年導入された新型車両、そして引退していった車両を見ていくことにしよう。JRグループが発足してから35年が経つ。国鉄時代に生まれた車両とともに、JR移行直後に導入された車両の引退が多くなり、それに合わせて新型車両の導入も増えている。新車両の導入に積極的なのがJR東海で、今年2タイプの新型車両を導入した。

 

◇JR東海315系電車 

3月5日に登場したのが315系で、中央本線の名古屋駅〜中津川駅間で営業運転が開始された。315系の車体はステンレス鋼製、先頭部分のみ鋼製となっている。カラーはJR東海のコーポレートカラーでもあるオレンジ色を正面と側面に大胆に入れたスタイルで、鮮やかさを印象づける。315系は352両が製造され、JR移行期前後に造られた211系、213系、そして311系の置き換えが図られる予定だ。

↑中央本線を走る315系。導入に合わせて211系0番台の引退と旧ホームライナー用313系が静岡地区へ移動が行われた

 

◇JR東海HC85系気動車

HC85系気動車は、JR東海が初めて導入したハイブリッド式特急形気動車で、既存のキハ85系特急形気動車の置き換え用に開発された。特急「ひだ」として走るキハ85系の一部列車を置き換える形で、7月1日から走り始めている。

 

車両の増備も進み12月1日からは当初の1日に6本から8本に増やされ、高山駅から富山駅まで走る列車にも使用されている。なお高山本線の北側、猪谷駅(いのたにえき)〜富山駅間はJR西日本が管理する区間となっていて、HC85系の初の他社への乗り入れとなった。

 

来年3月18日のダイヤ改正後には、特急「ひだ」の全列車がHC85系で運行されることが発表された。特急「ひだ」の下り25号と、上り36号は大阪駅まで走っており、岐阜駅〜大阪駅間でもHC85系の走行が始まることになる。

 

このようにJR東海は、新車両の導入スピードが迅速である。数年後には特急「南紀」もキハ85系からHC85系へ置換えが行われることになりそうだ。

↑東海道本線を走るHC85系特急「ひだ」。外装は「漆器の持つまろやかさや艶のある質感」をテーマにしている

 

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【その9】公営地下鉄の新車両の投入

今年は公営地下鉄の路線でも新型車両を導入する動きが目立った。まずは東京都交通局の新型車両から。

 

◇東京都交通局6500形電車

東京都交通局が都営三田線用に導入した6500形。既存の6300形以来、22年ぶりに導入される新車両となった。登場は5月14日、8両編成で東急目黒線への乗入れも行われている。

 

車両はアルミニウム合金を使用、ダブルスキン構造で、強度を高めるために「レーザー・MIGハイブリッド溶接」という技術を使って組み立てられている。カラーは正面が黒に路線のラインカラーでもある明るめの青色の縁取り、側面の窓部分にも同色のカラーが施された。

↑東急目黒線を走る6500形。正面が黒に青い縁取りでかなり目立つ。来年3月18日から東急新横浜線にも乗入れる予定だ

 

◇横浜市営地下鉄4000形電車

横浜市営地下鉄ブルーラインに導入された新型電車で、5月2日から走り始めている。ブルーラインを走る電車は4000形以外、みな3000形で、3000A形、3000N形、3000R形、3000S形、3000V形の5種類が使われてきた。このうち3000A形の置き換え用として新造されたのが4000形である。既存の3000形とは外観を大きく変更したこともあり、4000と数字を改めている。来年度までに8編成48両が導入の予定で、3000A形の置き換えが完了する。

↑地下鉄ブルーラインの新車4000形。正面に「4000DEBUT」とラッピングが施されて走り始めた

 

◇京都市交通局20系電車

京都市を南北に走る地下鉄烏丸線(からすません)の新型車両として、3月26日にデビューしたのが20系である。同線が開業した1981(昭和56)年から走り続ける10系初期型9編成の置き換え用として開発された。10系が平面的な正面デザインなのに対して、20系は「前面の造形に曲面を多用」「近未来的なイメージのデザイン」とされた。確かに10系に比べて柔らかい印象となった。

 

烏丸線の竹田駅からは近鉄京都線に乗入れ、京都府内だけでなく、奈良県内でも京都地下鉄の新しい車両を見かけるようになっている。

↑近鉄奈良線を走る烏丸線20系電車。近鉄奈良駅まで走る急行電車にも利用されている

 

【その10】国鉄形車両が徐々に姿を消していく

今年は一時代を彩った名車両の引退が目立った。やはりJRとなって35年という年月がたてば、それ以前に造られた車両の引退も仕方ないことなのだろう。まずは旅客用車両から見ていこう。

 

◇485系「リゾートやまどり」

485系電車といえば交直流特急形電車として一世を風靡した名車両である。走り始めたのは1964(昭和39)年12月25日とかなり古い。当初は東海道本線を走った特急「こだま」と同じくボンネット型の車両として登場し、交流50Hz/60Hz対応の485系以外にも、交流60Hz対応の481系、50Hz対応の483系、信越本線の横川〜軽井沢間でEF63形電気機関車と協調運転が可能な489系も登場し、全国の路線で活躍し続けてきた。

 

近年は485系で運用される特急列車が次々に姿を消し、残るのはジョイフルトレインとして改造されたJR東日本の485系のみとなっていた。今年の10月30日にジョイフルトレインの「華」が運行終了、最後の一編成となっていた「リゾートやまどり」が12月11日で運行が終了し、引退。これで485系は形式自体が消滅することになった。

 

485系の引退で、残る国鉄形特急電車は岡山駅〜出雲市駅を結ぶ381系特急「やくも」のみとなった。同列車も273系という新車両が2024年春以降に導入とのことで、国鉄形特急電車の終焉がいよいよ近づいてきた。

↑2011(平成23)年にジョイフルトレインとして改造された「リゾートやまどり」。群馬地区を中心に走り続けてきたが引退となった

 

◇JR東日本115系電車

国鉄が1963(昭和38)年1月に近郊用電車として投入した115系電車。111系をベースに電動機を強化し、勾配区間などの運転に対応した形式だった。今年引退したのはJR東日本の115系のみで、最近まで群馬地区、中央本線などの主力車両だったが、次々に廃車になり、新潟県内の越後線、弥彦線などでの運用となっていた。新潟地区の115系も今年の3月11日をもって定期運用から離脱した。

↑定期運用最終日まで走った湘南色の115系N38編成。同編成は、信越本線からえちごトキめき鉄道乗入れ列車として運用された

 

ちなみに115系はJR西日本に多く残存していて、岡山県や山口県などを走り続けている。JR西日本では国鉄時代に生まれた近郊形電車がまだ多く残っているが、まず岡山地区に新型車両227系が導入されることが発表された。この流れに合わせて岡山地区に残る115系、そして113系、117系が引退していくことになりそうだ。

 

◇東京地下鉄(東京メトロ)7000系電車

1974(昭和49)年の有楽町線開業に合わせて登場したのが、東京メトロ7000系だった。千代田線用に造られた6000系が、当時の帝都高速度交通営団(東京メトロの前身)の標準車両とされたことから、スタイルや装備も6000系とほぼ同じ仕様で造られた。前面が平面的なスタイルで、前面非常口にガラス窓がない個性的な姿で親しまれてきた。

 

1989(平成元)年までに34編成340両と大量の車両が製造されたが、製造から30年以上の年月がたち、10000系、17000系が新造されたことから、今年の4月で営業運転終了となった。同じスタイルの車両で残るのは半蔵門線の8000系のみとなっている。2018(平成30)年に引退した千代田線6000系の「さよなら列車」が混乱を招いた苦い経験から、運転終了日が公表されず静かに消えていったのが残念なところである。

↑7000系は有楽町線・副都心線のほか西武池袋線や東武東上線、東急東横線と乗入れ路線が多く、首都圏ではなじみの電車だった

 

最後に貨物用機関車で今年引退した車両について触れておこう。

 

◇EF66形式基本番台 直流電気機関車

EF66形式基本番台は、国鉄が1968(昭和43)年から1974(昭和49)年まで製造した直流電気機関車で、貨物列車だけでなく、ブルートレイン寝台列車を牽いた機関車として長年、活躍してきた。高性能に加えて汎用性の高さからJR移行後もJR貨物によって100番台が33両増備されている。今年、消えていったのは基本番台で、製造された55両中の残り1両となっていた。

 

最後の車両はEF66の27号機で、鉄道ファンからは「ニーナ」という愛称で親しまれてきた。製造されたのは1973(昭和48)年、49年間走り続けてきた車両で、地球を約230周分にあたる距離を走ったとされる。最後の本線運用は7月31日で、10月に検査切れとなり正式に引退となった。

↑武蔵野線でコンテナ列車を牽くEF66-27号機。49年にわたり活躍してきた古参だが最後まで力強い姿が見られた 2月17日撮影

 

◇EF67形式電気機関車

EF67形式と聞いても一部の鉄道ファン以外はぴんとこないかもしれない。非常に限られた区間しか走らなかった機関車だった。山陽本線の広島地区には、通称「瀬野八(せのはち)」の22.6パーミルという上り急勾配区間がある。1200トン以上の重量の貨車をつないだ貨物列車にとって、この勾配は1両の機関車のみでの牽引は難しく、古くから後ろに補機を連結し、押してもらって勾配をクリアしてきた。

 

この後押し用の機関車として生まれたのがEF67形式だった。1982(昭和57)年に導入された基本番台と、1990(平成2)年に導入された100番台が使われた。その後にEF210形式300番台が同区間の補機用に開発され、また列車の牽引も可能なことから増備が進み、EF67は徐々に引退となり105号機のみが残っていた。この最後の1両も2月13日で定期運用を離脱し、この形式が消滅となった。国鉄形機関車は毎年のように減り続けている。あと数年で消滅ということになるのかもしれない。

↑「瀬野八」の上り貨物列車の後押しを行ったEF67形式。100番台はEF65形式を改造したもので5両が製造された

想像を絶する秘境!『砂の器』の舞台「木次線」を巡る旅でローカル線の現実を見た

おもしろローカル線の旅101〜〜JR西日本・木次線(島根県・広島県)〜〜

 

作家・松本清張は小説『砂の器』で木次線の亀嵩駅(かめだけえき)を「島根県の奥の方だ。すごい山の中でね」と表現した。実際のところ亀嵩駅はまだ序の口で、先はさらに山深い。

 

風光明媚な中国山地を縦断するJR西日本の木次線(きすきせん)。普通列車で味わった約3時間の道中は、赤字路線ならではの厳しい現実も見えてきた。

*2011(平成23)年8月2日、2022(令和4)年10月28日・29日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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いったいどうなる…!? 赤字「ローカル線」の廃止問題に迫る

 

【ぶらり木次線①】85年前の12月12日に全通した木次線

木次線は山陰本線と接続する島根県の宍道駅(しんじえき)と、広島県の備後落合駅(びんごおちあいえき)を結ぶ。まずは路線の概要を見ておこう。

 

路線と距離 JR西日本・木次線:宍道駅〜備後落合駅間81.9km 全線非電化単線
開業 1916(大正5)年10月11日、簸上鉄道(ひかみてつどう)により宍道駅〜木次駅間が開業。
1932(昭和7)年12月18日、木次駅〜出雲三成駅(いずもみなりえき)間が開業。
1937(昭和12)年12月12日、備後落合駅まで延伸開業し、木次線が全通。
駅数 18駅(起終点駅を含む)

 

簸上鉄道という民間の鉄道会社によって歴史が始まった木次線。1934(昭和9)年に同鉄道が国有化され、路線が広島県へ延伸された。全通したのは今から85年前のことになる。山間部を走る路線で、木材、木炭などの貨物輸送で当初は活況を見せていたが、これらの需要が減り1980年代に貨物輸送が廃止されている。

↑木次線の起点駅・宍道。今は使われていない旧4番線ホームの横に木次線の起点を示す0キロポストが立っている

 

国鉄分割民営化により木次線は1987(昭和62)年4月1日から西日本旅客鉄道(JR西日本)に引き継がれた。2018(平成30)年4月1日に三江線(さんこうせん)が廃止されたことにより、木次線は島根県と広島県を結ぶ唯一の鉄道路線となっている。

 

そんな木次線の存続を危ぶむ声が出始めている。この夏に開かれた国土交通省の有識者会議の提言で、平均乗客数1000人に満たない地方ローカル線は、存続またはバス転換などに向け、鉄道会社と自治体との協議を促すとされたのである。

 

JR西日本が発表した2021(令和3)年の木次線の1日の平均通過人員を見ると宍道駅〜出雲横田駅間は220人、出雲横田駅〜備後落合駅間に至っては35人しかない。収支率は宍道駅〜出雲横田駅間が6.6%、出雲横田駅〜備後落合駅間は1.3%となる。1.3%という数値は、つまり100円の収入を得るのに約7692円かかるということになる。

 

この数字は木次線と備後落合駅で接続する、芸備線(げいびせん)の東城駅(とうじょうえき)〜備後落合駅間に次ぐワースト記録となっている。ちなみに東城駅〜備後落合駅間の平均通過人員は13人、収支率は0.4%となっている。備後落合駅へ走る2路線とも利用者が非常に少ないというわけだ。島根県〜広島県の県境部は冬の降雪量も多く、今年の1月13日〜3月25日には木次線の出雲横田駅〜備後落合駅間が長期運休となったほどで、状況は厳しい。

 

【ぶらり木次線②】観光列車の「奥出雲おろち号」が人気だが……

次に木次線を走る車両を紹介しよう。

 

◇キハ120形

JR西日本のローカル専用の小型気動車で、全長16.3mとやや小ぶりの車体が特徴だ。木次線を走るキハ120形は、後藤総合車両所出雲支所に配置された0番台と200番台で、全車にトイレが設置されワンマン運転に対応している。

↑木次線の主力車両キハ120形。車体塗装は黄色ベースと朱色塗装の2タイプが走っている

 

◇DE10形ディーゼル機関車+12系客車

1998(平成10)年4月25日から運行を開始した観光用トロッコ列車「奥出雲おろち号」用の車両で、DE10形ディーゼル機関車と12系客車2両の組み合わせで運行されている。塗装は白、青、灰色地の星模様という組み合わせで、客車だけでなく、機関車も含めた揃いのカラーで走る。

↑出雲坂根駅を発車する「奥出雲おろち号」。ディーゼル機関車と客車編成で前後におろちをイメージしたヘッドマークを掲げる

 

12系客車の内訳はスハフ12-801とスハフ13-801で、備後落合駅側に連結されたスハフ13はガラス窓のないトロッコ車両で、運転室が付き同客車を先頭にした運転が可能なように改造されている。

 

毎年4月から11月下旬にかけて、木次駅(宍道駅発着もあり)〜備後落合駅間を24年、年間150日にわたり走り続けてきた「奥出雲おろち号」だが、古い車両とあって補修部品が手に入らないなどの問題もあり、2023年度での運行終了と発表された。冬期は運行されないこともあり、年度と発表されたものの、実際は来年の11月で運行終了と見てもよさそうだ。

 

【ぶらり木次線③】備前落合駅へ行くルートがまず大きな難関に

筆者は木次線の旅をするにあたって、どのようなルートをたどるか迷った。木次線を往復するにしても、備後落合駅まで行く列車は1日にわずか3本(奥出雲おろち号を除く)しかない。しかも日中の時間帯に到着する列車は1本である。所要時間は3時間14分もかかる。折返しの列車は2時間56分と、やや短縮されるものの、計6時間の長旅はさすがに飽きそうだ。

 

そこで、米子駅から伯備線(はくびせん)で備中神代駅(びっちゅうこうじろえき)へ向かい、芸備線に乗り換え、備後落合駅を目指した。このルートならば3時間25分で木次線の終点、備後落合駅へ到着できる。JR西日本の路線の中で、もっとも平均通過人員が少ない芸備線の東城駅〜備後落合駅の状況も気になった。

 

次に、山陽本線の主要駅から備後落合駅への到達時間を見ておこう。岡山駅からは伯備線、芸備線経由で3時間13分。広島駅からは芸備線の乗り継ぎで3時間16分かかる。いずれも木次線の列車に乗継げる列車で計算したが、便利とは言いかねる所要時間である。

 

さて、木次線の旅をするにあたって芸備線の起点、備中神代駅へ向かったのだが、この駅に下車して驚いた。乗り換え駅なのだが駅に人が筆者を除き誰一人いない。しかも工事中で、駅舎もなくトイレも閉鎖された状態だった。

↑芸備線の起点でもある伯備線の備中神代駅。ちょうど工事中で簡易的な入口が設けられていた。駅に停まるのは115系

 

備中神代駅で列車を待つこと20分。筆者のみが待つ3番線ホームに新見駅発の芸備線キハ120形1両が入ってきた。芸備線の列車ということで空いているだろうと思ったが、意外に混んでいて座席はほぼ埋まり、立ち客すらいた。

 

乗車した日は金曜日の昼過ぎで、帰宅する中高生らしき姿が目立った。備中神代駅の2つ手前の新見駅(岡山県)近くの学校に通う中高生なのだろう。だが、その混雑も岡山県内の野馳(のち)という駅までで、中高生はこの駅までに全員が降りてしまった。地元の人たちも県を越えた東城駅までで、その後に車内に残ったのはほぼ観光客のみとなった。東城駅周辺までは繁華な町が広がるのだが、その先は山間部に入る。東城駅から備後落合駅まで、途中に4駅あったが、乗降客はおらず、駅周辺もわずかな民家があるのみと寂しい。

 

備中神代駅〜東城駅間までは並行して中国自動車道が通り、民家が連なり賑わいを見せるが、東城駅から先は高速道路とも離れ、人口がより少なくなる地域であることが分かる。

 

やがて、勾配がきつくなり制限時速25kmという低速区間が多くなる。低速で所要時間がかかることも、営業面で厳しくなる要因なのだろう。

 

【ぶらり木次線④】ほんの一時、賑わいを見せる備後落合駅

備後落合駅は四方を山に囲まれた駅で、列車は3番線ホームへ到着した。対向する2番線ホームにはすでに芸備線の三次駅(みよしえき)行き列車が停まっている。構内踏切を渡った1番線には木次線の列車が入線してきた。この1番線に隣接して駅舎がある。芸備線、木次線の列車が入線するときは観光客で賑わうのだが、乗り換え駅とは思えないほど鄙びている。

 

構内には今は使っていない側線が何本か残り、側線の先には転車台跡も確認できた。蒸気機関車が客車や貨車を引いて走った時代には、駅の周辺に国鉄の職員宿舎が建ち並び、民家も多く賑わっていたそうだ。

↑備後落合駅の小さな駅舎。駅舎内には駅の歴史を記した史料などが多く掲示され、小さな博物館のようだ(左上)

 

駅舎の外に出て坂道を下り小鳥原川(ひととばらがわ)に架かる橋を渡ると、国道183号(314号も兼ねる)に突き当たる。この国道沿いも今は民家がまばらに建つぐらいで、往時の賑わいが想像できない。

 

かなり寂しい備後落合駅だが、1日に1回、賑わうときがある。芸備線の新見、三次両方面からと、木次線の列車が集う時間である。木次線の列車は14時33分着(折り返し14時41分発)、芸備線の新見方面からは14時27分着(折返し14時37分発)、三次方面からは14時21分着(折返し14時43分発)と3列車が集う。

 

筆者が訪れた日は、駅に降りたほぼ100%が鉄道の旅が好きな観光客のようだった。10分〜20分という短い滞在時間に、写真撮影に興じる人が多い。

 

駅の入口には記念品を販売するスタッフや、元国鉄機関士という名物ガイドさんが案内にあたっている。とはいえ普通列車利用の停車時間が意外に短いこともあり、のんびりできないのが残念である。なお、週末や観光シーズンに運行する「奥出雲おろち号」の場合には、20分ほどの折返しの休憩時間が設けられているので、ゆっくりできそうだ。

↑備後落合駅構内の様子。手前が木次線の列車で、向かい側に芸備線三次駅行き列車が停る。その先を走るのが新見駅行きの列車

 

【ぶらり木次線⑤】時速25km制限の徐行区間が続く

ようやく備後落合駅から木次線の列車に乗り込む。14時41分発の宍道駅行き上り列車に乗車したのはわずか8人だった。観光客と、鉄道ファンのみで、地元の人の姿はない。木次線に興味があって乗りにきた人たちなのだろう。

 

備後落合駅を発車した上り列車は芸備線の線路から分かれて北へ。小鳥原川、国道183号(314号も兼ねる)をまたぎ、第二梶谷トンネルをはじめ何本かのトンネルを越えて、最初の停車駅、油木駅(ゆきえき)に向かう。スピードは時速25km程度と遅い。線路に並走する国道314号を走る車が列車を追い越していく。路線の左右ともに山が続き、線路が通るわずかな平地に田畑が切り開かれている。

↑油木駅〜備後落合駅間の山あいを「奥出雲おろち号」が渓流に沿って走る。同列車の1両は写真のようにトロッコ客車が使われる

 

油木駅は広島県内最後の駅で、この先の山中で島根県へ入る。県境を越えると景色ががらりと変わり開けた景色が広がるようになる。そして間もなく三井野原駅(みいのはらえき)へ。この駅はJR西日本で最も標高が高い727mにある。戦中戦後に馬鈴薯(ばれいしょ)を植えるため開かれた土地でもある。

↑JR西日本で最も高い位置にある三井野原駅。徒歩で5分のところにスキー場がある。写真の駅舎は最近、きれいに改装された

 

冬は降雪が多く、駅近くに三井野原スキー場がオープンする。2021年度からリフト施設が外され、スキーヤーはロープ塔につかまって坂を登るという小規模のスキー場だ。昨冬は木次線が長期にわたり列車が運行できなかったこともあり、同スキー場にとって痛手となったことだろう。

 

三井野原駅を発車すると、間もなく木次線最大のポイントを迎える。三井野原の高原地帯から徐々に列車は高度を落とし、山の中腹部をゆっくりと下ると、前方に見えるのは国道314号の三井野大橋。赤い鉄橋が列車からもよく見える。さらに眼下には国道が円を描き「奥出雲おろちループ」と名付けられたループ橋があり、下っていく様子が見える。この橋の造りを見ると、いかに三井野原駅と次の出雲坂根駅間で高低差があり険しいのかがよく分かる。

↑三井野原駅〜出雲坂根駅間の山中を走る「奥出雲おろち号」。走る列車の中から国道314号の三井野大橋(右下)が見える

 

【ぶらり木次線⑥】一度は体験したい出雲坂根3段スイッチバック

三井野原駅の標高は727m、次の駅の出雲坂根駅は標高565mで、一気に162mも下る。鉄道には厳しい標高差である。

 

そうした標高差をクリアするため、三井野原駅と出雲坂根駅間には3段スイッチバック区間が設けられている。三井野原駅方面から下ってきた列車は、出雲坂根駅の上部に設けられたスイッチバック線に入っていく。そこで折返し、出雲坂根駅へ下っていきホームへ到着する。このホームでさらに降り返ししてまた急坂を下っていくのだ。

 

普通列車では、折返し区間で運転士が先頭から車内を通り抜けて後ろの運転席へ。進行方向を変えて駅へ降りていく。駅に着いたら、再び運転士は前へ移動して発車となる。普通列車の場合には、駅の停車時間は3分程度だが、「奥出雲おろち号」の場合には下り列車が5分停車。上り列車は18分停車と駅で下車できるようダイヤを組んでいる。「奥出雲おろち号」が運転される日は出雲坂根駅構内に売店なども開かれ賑わいを見せている。

↑出雲坂根駅附近の3段スイッチバックを下り「奥出雲おろち号」を例に追う。①〜④という順で急坂を登っていく

 

出雲坂根駅は国道314号沿いにあり、観光名所にもなっている。車で訪れた人たちが列車の動きを写真に収めようとする姿も。駅構内には「延命水(えんめいすい)」と名付けられた名水が涌き出している。国道の向かい側にも湧水の蛇口が設けられ、この水を汲む観光客も多い。

 

列車は出雲坂根駅からさらに下っていく。次の八川駅(やかえき)付近からは山間部ながら、だいぶ開けてきて田畑も広がるようになる。

 

↑出雲坂根駅の駅舎には「延命水の館」という看板が立つ。駐車場も設けられ立ち寄るドライバーの姿も多い

 

【ぶらり木次線⑦】出雲らしい古風な駅舎の出雲横田駅

八川駅を発車し、次の出雲横田駅が近づくにつれ平野部が広がるようになり、列車も徐々にスピードを上げていく。

 

出雲横田駅の駅舎は入母屋造(いりもやづくり)、壁は校倉造(あぜくらづくり)という神社を模した荘厳な建物で、1934(昭和9)年に木次線開業時の駅舎がそのまま残っている。なぜこうした造りにしたのかは理由があって、駅から徒歩20分ほどのところに稲田神社があるからだという。

 

同神社はヤマタノオロチ退治に登場するスサノオノミコトの妻、稲田姫(イナタヒメ)生誕の地。稲田姫は奇稲田姫(クシナダヒメ)とも呼ばれ、神社の主祭神として祀られている。

↑神社を模した造りの出雲横田駅。駅の入口に出雲大社のような太いはしめ縄も架けられている

 

出雲横田駅より先は列車の本数も増える。中高生、地元の人たちも何人か乗り込んできた。

↑出雲横田駅〜亀嵩駅間を走る上り列車。沿線には田畑を包み込むように山々が広がる

 

【ぶらり木次線⑧】小説の舞台「亀嵩駅」は山の中

出雲横田駅を発車した列車は、宍道湖へ流れ込む斐伊川(ひいがわ)沿いを走り、山を越えて小説の舞台となった亀嵩駅へ向かう。再び松本清張の小説『砂の器』の一節を引用してみよう。

 

「道は絶えず線路に沿っている。両方から谷が迫って、ほとんど田畑というものはなかった」。

 

この表現どおりの山中の風景が続く。亀嵩駅の目の前には国道432号が走り、道沿いに数軒の家が建つものの、中心となる集落は駅からやや離れている。小説『砂の器』にも登場する名産品「亀嵩算盤」の工場も駅から離れた集落内にある。

↑山に囲まれた亀嵩駅。右から書いた古い駅名標が入口にかかげられている

 

亀嵩駅の駅舎には1973(昭和48)年創業のそば屋が営業している。国産そば粉を使い、石臼でそば粉をひき、奥出雲の天然水を利用した手打ちそばで、立ち寄る観光客も多い。

 

乗車した備後落合駅から亀嵩駅までは約1時間20分かかったが、まだ先は長い。松本清張が書いたように「すごい山の中でね」を実感する。亀嵩駅と出雲三成駅(いずもみなりえき)の間で、上り列車の進行方向左手に黄緑色と白色の貨車らしき構造物が見える。今から10年以上前に現地を訪れたときに撮影したのが下記の写真だ。その正体は、ワキ10000形という形式の有蓋貨車で、貨物列車の運行速度を向上させるべく開発された車両だった。

↑亀嵩駅〜出雲三成駅間に停められたワキ10000形。高速化を目指して造られた貨車で、台車まで残る。今は車両の一部が見える状態に

 

この車両は1965(昭和40)年に試作された後に191両が導入され、主に東海道・山陽本線の貨物列車として利用された。その後、コンテナ貨車が増えるにしたがって車両数が減少し、2007(平成19)年に形式が消滅している。以前に訪れたときは、周囲に何もなく無造作に置かれたままだったが、その後、リサイクル企業によりこの地が整備されたことで、今は木次線からは車両の全景が見えなくなっている。その点が少々残念だ。

 

こうした希少な貨車の横を走りつつ出雲三成駅へ。この駅で町の姿がちらっと見えたものの、また山間部に入り出雲八代駅(いずもやしろえき)、さらに2241mと木次線で最も長いの下久野(しもくの)トンネルを通過し下久野駅へ。その先も4本のトンネルを通り抜け、ようやく山中の風景が途切れるのが木次駅の一つ手前、日登駅(ひのぼりえき)付近からだった。

 

【ぶらり木次線⑨】木次駅まで来て、ようやく町の景色が広がる

こうした複雑な地形は木次線の速度にも大きく影響している。駅での停車時間まで含めた平均速度を、平野部が多い宍道駅〜木次駅間と、山間部の木次駅〜備後落合駅間で比べてみた。

 

・宍道駅〜木次駅間:営業距離21.1kmで所要時間34〜35分→平均時速36.171km

・木次駅〜備後落合駅間:営業距離60.8kmで所要時間2時間21分〜33分→平均時速24.986km

 

この数字だけ見ても木次線の平均時速は、木次駅〜備後落合駅間が極端に遅いことが分かる。それだけ地形が険しいわけだ。

↑木次駅の駅舎には「桜とトロッコの町 雲南市」と記される。構内には「奥出雲おろち号」に使われる客車が停まっている(左上)

 

備後落合駅から木次駅まで2時間以上の道のりだった。木次駅は木次線で唯一のJR西日本の直営駅(民間委託駅ではないという意味)であり、みどりの窓口もこの駅にある。構内には木次線鉄道部があり、「奥出雲おろち号」の客車なども停められていた。

 

駅前には大型ショッピングモールがあるなど、ようやく都会に出てきた印象がある木次駅だが、そのまま平野部を走るわけではない。南大東駅(みなみだいとうえき)、出雲大東駅(いずもだいとうえき)、幡屋駅(はたやえき)、加茂中駅(かもなかえき)と平野部に設けられた駅が続くが、再びひと山を越えることになるのだ。中国山地の山の深さは想像を超えるものがある。

 

【ぶらり木次線⑩】最後の急勾配を越えて宍道駅にようやく到着

宍道駅の一つ手前の駅、南宍道駅は駅自体が10パーミルという斜面上にホームがある。駅前に民家が点在するのみで、この駅自体も秘境駅のようだ。南宍道駅の前後には25パーミルの急勾配があり、列車にとって最後の頑張りをする区間でもある。なぜここまで山深い区間に列車を通したのか、簸上鉄道時代の路線計画をひも解かないと分からないが、不思議な路線であることが実感できた。

 

そして、約3時間という長い時間をかけて宍道駅3番線ホームにようやく列車が到着したのだった。

↑南宍道駅前後の急勾配を越えて、ようやく終点の宍道駅に近づく上り列車。このカーブを抜ければ宍道駅が目の前に見えてくる

 

↑終点の宍道駅構内に入る上り列車。左側に山陰本線のホームがあり、跨線橋が南北の入口を結んでいる

 

木次線の旅を終えて実感したことがある。宍道駅〜木次駅、さらに出雲横田駅までは地元の利用者も乗車していたが、それよりも広島県側は、あまりの乗客の少なさに驚いた。利用者が減り列車本数が少なくなる。不便になるからさらに利用者が減っていく。また、線路保守や保線作業などの頻度が減り、制限速度を落として安全を確保せざるを得ない。降雪期は不通になりがちだ。まさに赤字ローカル線の負の連鎖が確認できた。

↑木次線の列車が発着する宍道駅3番線に入線した列車。対向する2番線ホームは出雲市駅方面の列車が発車していて便利だ

 

名物の観光列車「奥出雲おろち号」は来年度で運転終了と発表されている。同列車は途中駅で長時間の停車があり、そうした駅では物品販売もあり人気も高かった。また地元業者にとってはまたとない販売チャンスになっていた。

 

来年以降は「奥出雲おろち号」に代わって、鳥取駅〜出雲市駅間を走る観光列車・快速「あめつち」の運転区間が延び、出雲横田駅まで運転される予定だ。しかし、出雲横田駅から先の運行はないそうだ。木次線の人気はやはり、出雲坂根駅〜三井野原駅間の3段スイッチバックだと思う。しかし、この区間を走るのは普通列車のみとなってしまうわけだ。来年度以降、木次線はどうなっていくのだろうか。さらに利用者が減ると、おのずと一部区間の廃止論議が高まっていくのだろう。

 

各地のローカル線は、木次線と同様の問題を抱えている。地方のローカル線が今後、どのような方法で再生を図り、未来に何を活かしていけばよいのか。単に路線バスを変更するだけで本当に良いのか……?我々に問われているように感じた。

 

レア車両から車両工場までじっくり堪能! 300名限定の「都営フェスタ」大満足レポート

〜〜馬込車両検修場「都営フェスタ2022」(東京都)〜〜

 

ここ数年、鉄道各社の行事がコロナ禍で自粛されてきたなか、最近ようやくイベントも開かれるようになってきた。12月3日(土)には「東京交通局馬込車両検修場」(大田区)で、東京都交通局「都営フェスタ2022」が開催された。3年ぶりに開かれた同イベントでは参加者を300人に絞り、密にならないよう少人数に分けてのツアー方式が取り入れられた。引退間近の車両も並び、鉄道ファンにとって気になる催しとなった。見どころ満載だったイベントに迫ってみよう。

 

【関連記事】
大江戸線と浅草線は全然違う乗り物だった

 

【都営フェスタ2022①】会場となった馬込車両検修場とは?

「都営フェスタ2022」が開かれたのは東京都大田区南馬込にある「東京交通局馬込車両検修場」。都営浅草線の車両の検修施設があり、また都営浅草線と都営大江戸線の車両の重要部検査や全般検査が行われる。車でいえば定期検査や車検にあたる検査が行われる、東京都交通局にとって重要な施設である。

↑西馬込駅から徒歩5分ほどの陸橋から望む馬込車両検修場。入口には「東京都交通局馬込車両基地」と掲示されている

 

場所は都営浅草線の西馬込駅の南側で、西馬込駅から延びる引込線が車両検修場内の線路につながっている。車両基地も兼ねているために、運行を終えた車両が朝夕を中心に入庫、出庫をしている。

 

通常、車両検修場のなかへは入れないが、車両検修場の上に「道々め木橋(どどめきはし)」という名の陸橋が架かり、その上から全景を見ることができ、この陸橋を訪れる鉄道ファンも多い。

 

【都営フェスタ2022②】33倍の難関を突破した300名が見学

今年で誕生111年目を迎えた東京都交通局の成り立ちを簡単に振りかえっておこう。東京都交通局は1911(明治44)年8月1日に東京市(当時)が東京鉄道株式会社を買収し、東京市電気局が創設されたことに始まる。同局により路面電車の運行と電気供給事業が開始され、その後、市電(後の都電)は東京市民の欠かせない足となった。

 

111年の歴史の中には関東大震災や、東京大空襲などの想定を上回る災害があったものの早々に復旧を果たし、増強され戦後の高度経済成長を支えた。高まるモータリゼーションの中で、都電は1線のみとなったが、都営バスの路線網に加えて、1960(昭和35)年12月4日には地下鉄事業を開始、押上駅〜浅草橋駅間が開業し、以降、浅草線の延伸に加えて三田線、新宿線、大江戸線が開業し、東京都民にとって必要不可欠な公共交通機関となっている。

↑今年はツアー1組30名と限定されたため余裕をもって見学できた。左上はホームページで公開されたスペシャルムービー

 

今回の「都営フェスタ2022」は3年ぶりの公開行事となった。密を避けるために参加者は300名に限定され、WEBサイトで応募・抽選する方式で来場者を選んだ。入場無料の人気イベントでもあり、今回も9800名を超える応募があったとされ、33倍の超難関のなか幸運を手にした300名が、30名ごと10組に分けられ、10時から16時にかけて検修場内で60分のツアーを楽しんだ。

 

来場できなかった人向けに「都営フェスタ2022」(12月12日まで公開予定)のホームページ上でスペシャルムービー「馬込車両検修場に潜入!」と題した映像を公開。検修場内の仕事の様子を紹介したり、またPC用の壁紙を提供するなど、オンライン上でのイベントとのハイブリッド開催が行われた。

 

筆者は2017(平成29)年12月9日に馬込車両検修場で開かれた「都営フェスタin浅草線」も訪れたことがあるが、当時の写真は下記のような状態で、入口付近は長蛇の列ができたのだった。

↑2017(平成29)年12月9日に開かれたイベント当日の検修場入口の様子。この日に新型5500形がお披露目された(左下)

 

5年前の都営フェスタの時に公開されたのが、浅草線の現在のエースとして活躍する5500形だった。そして今年の都営フェスタでは、最後の姿になるかもしれない浅草線の旧主役が登場した。両車両の詳細は後述したい。

 

【都営フェスタ2022③】親子連れにはキャラクターが大人気

「都営フェスタ2022」で目立ったのが親子連れの姿だった。2017(平成29)年の時には一般の鉄道ファンの姿が多かったが、将来、鉄道ファンになるであろう世代が保護者に引きつれられて電車に見入る姿がほほ笑ましく感じられた。こうした世代の目を引きつけたのは東京都交通局のキャラクターや、レールが緻密に組まれたプラレールだったことは言うまでもない。

↑東京都交通局のマスコットキャラクター「みんくる」(右)と「とあらん」(左)。記念撮影をと並ぶ親子連れの姿が目立った

 

会場を訪れていた小学3年生の男児と母親の2人連れに話を聞いてみた。抽選に運良く当たったそうだ。以前に父親と検修場が見渡せる陸橋「道々め木橋」に来て検修場内を眺めたことがあるそうで、かなりの鉄道好きのようである。男児は普通の線路幅(1067mm)よりも広い浅草線の線路幅(1435mm)を体感しようと、線路をまたぎ、ようやく足が開いたようでご満悦の様子だった。

 

「車庫基地に入れてうれしい?」と聞いてみると、「うん。本当は地下鉄よりJRの方が好きかな」との答え。さらに「お父さんとよく遠くに行くんだ。この間は青春18きっぷを使って中津川駅(岐阜県)まで行ったよ」と誇らしげに話してくれた。

 

小学校3年生ともなると好みがはっきりしてくるようだが、車庫内に入れたことはきっと良い思い出になったことだろう。

↑プラレールのブースも設けられ、じっと見入る男の子もいた。都営車両のプラレールの販売も行われていた

 

【都営フェスタ2022④】浅草線のエースとして活躍した5300形

ここからは「都営フェスタ2022」に集合した車両を見ていこう。車両撮影用に並べられた車両は7編成で、うち5編成は浅草線の主力車両5500形だった。5500形にはさまれ5300形5320編成が並ぶ。5320編成は5300形最後の8両で、この編成以外はすべて引退となっている。5320編成は今回のフェスタ以降も走っていることが確認されているものの、いつまで運行されるかは発表されておらず、気になるところである。

↑車両撮影コーナーの前にずらりと並ぶ浅草線の車両。大半は5500形だったが5300形(左から4両目)の最後の車両が混じっていた

 

浅草線5300形とはどのような車両なのか見ておこう。

 

1960(昭和35)年に開業した都営浅草線で最初に導入された車両が5000形だった。通勤型電車のサイクルは約30年を目安にしている鉄道会社が多い。浅草線開業からちょうど30年後の1990(平成2)年に5300形の製造が開始され、1991(平成3)年3月31日から走り始めた。正面は当時一般的だった平面ではなく、ガラス窓がなだらかに傾斜した造りで、これは浅草線が走る銀座など都会的なセンスをイメージしたものとされている。浅草線には京成電鉄、京浜急行電鉄、北総鉄道などの車両が乗り入れているが、他社とは一線を画すデザインだったと言っていいだろう。1997(平成9)年まで8両×27編成、計216両が製造された。

↑後輩の5500形に囲まれた5300形最後の5320編成。この日は2年前まで使われた「新逗子」行きの表示が掲げられた

 

浅草線のエースとして活躍してきた5300形だったが、後進となる5500形が2017(平成29)年の「都営フェスタ」で初公開され、翌年の6月30日から走り始めた。その後に5500形の増産は続き、すでに5300形の最盛期の車両数である8両×27編成、計216両まで増備されている。5300形はそれに合わせて徐々に引退となり、最後の5320編成もいつ運用から外れてもおかしくない状況になっているわけである。

 

「都営フェスタ2022」で5300形5320編成の、正面の表示は「快速急行・新逗子」行きとなっていた。すでに2020(令和2)年3月14日から新逗子駅は逗子・葉山駅と駅名が改称されている。今はない駅名を掲げての〝最後の晴れ姿〟となったのかもしれない。

 

この記事が公開される日まで走り続けているかどうかは定かではないものの、もし走っていたら今のうちに乗り納め、撮り納めしておきたい貴重な編成となっている。

↑京浜急行電鉄本線を走る5300形5320編成。この編成が最後の5300形となった。12月7日現在も運行が確認されている

 

【都営フェスタ2022⑤】5500形の洗車シーン&レアな表示も

5300形に代わり、浅草線の主力車両となり「都営フェスタ2022」でも5編成が並んだのが5500形だ。5年前の都営フェスタでは1編成のみだったものが、27編成に増備された。

 

正面デザインは、歌舞伎の隈取りをイメージ。車内各所に東京の伝統工芸品である江戸切子のデザインが施されている。性能面では5300形の設計最高速度が110km/hだったのに対して5500形は130km/hまでスピードアップが図られた。このスピードを生かして、5300形では乗り入れできなかった成田スカイアクセス線での運用が可能になり、成田空港駅まで走るようになっている。

 

「都営フェスタ2022」では車両撮影スペースに5編成が並び壮観だった。さらに。フェスタに合わせた演出ではなく、偶然、検修場に入庫してきた5500形の洗車シーンを見ることもできた。

↑検修場内にある洗車装置を5500形が通る。走り続け汚れた車体もすっかりきれいに

 

今回の「都営フェスタ2022」では事前に公表されていなかったのだが、隠れた演出をいくつか発見することができた。まず、5500形の並び方だ。5300形5320編成の右隣には、最初につくられた5501編成、その右隣には2編成目の5502編成が並んでいた。5500形の1編成目と2編成目が、5300形と並べられて配置されていたのである。

 

さらに、行き先を示すLED表示器にもなかなか粋な演出を見ることができた。5501編成の表示は「急行・東成田」行きとなっていたのである。

 

東成田駅は京成電鉄東成田線の終点駅で、その先は芝山鉄道線の芝山千代田駅まで線路が延びている。現在は京成成田駅〜芝山千代田駅間を走る電車が停まる駅となっている。開業当時は成田空港駅と呼ばれた駅だった。今はこの駅始発、終着する列車はなく、ふだん見ることができない貴重な「東成田」行き表示だったわけである。

↑5500形の最初に導入された5501編成のLED表示は、これからも走ることが無いと思われる「東成田」の駅名が表示されていた

 

5500形の他の車両の表示は「特急・京成上野」、「快特・金沢文庫」といった具合。こちらも5500形の行き先としては、あまり表示されることのないレアな駅名といって良いだろう。こんな細かいところにも来場者を楽しませようという気づかいが見られた。

 

【都営フェスタ2022⑥】一番端の謎の赤い電気機関車は?

今回の「都営フェスタ2022」でずらりと並んだ右端には、大きなパンタグラフの赤い電気機関車が停められていた。都営線沿線ではまず見かけない機関車だ。

 

この車両はE5000形電気機関車で、車両を牽引する役目を担う東京都交通局の事業用車両だ。馬込車両検修場は、都営浅草線以外にも都営大江戸線の車両の重要部検査、全般検査を行っている。しかし、浅草線と大江戸線は線路幅こそ1435mmで同じだが、大江戸線は鉄輪式リニアモーター駆動によって動いており、回転式電気モーター駆動を採用する浅草線とは方式が異なる。ゆえに大江戸線の電車は、浅草線を走ることができず、それを牽引する車両が必要になるというわけだ。

↑「都営フェスタ2022」の車両撮影コーナーでは一番右に停車していたE5000形電気機関車。大江戸線の車両を牽引する役目を持つ

 

浅草線と大江戸線との間には通称「汐留連絡線」と呼ばれる連絡線があり、同路線をE5000形電気機関車が通り、大江戸線の電車と連結し、浅草線の馬込車両検修場まで牽引してくる。

 

E5000形電気機関車は正面から見ると分かりにくいが、JR貨物のEH500形式電気機関車、EH200形式電気機関車などと同じように2車体連結の8軸駆動方式が採用されている。この駆動方式を採用している理由は、汐留連絡線に半径80mといった急カーブがあることや、48パーミルといった通常の鉄道にはない急勾配をクリアするためで、実は外見からは予想もつかない高性能な車両なのだ。日本の地下鉄史上初の地下鉄専用の電気機関車であり、2編成、計4両のみという珍しい車両でもある。

 

【都営フェスタ2022⑦】車両工場の中には台車や幌がずらり並ぶ

来訪者が車両撮影コーナーの次にめぐったのが東隣にある「車両工場」だった。ここでは電車の重要部検査と全般検査が行われる。

↑車両工場の南側入口。都営フェスタの来訪者は約20分にわたり工場内の見学ができた。庫内に停まるのは5500形5509編成(左)

 

庫内には5500形5509編成が入っており、ブレーキなどの重要部検査が行われているようだった。

 

この車両に並んで、複数の車両移動機が停車していた。車両移動機とは重要部検査や全般検査などのため、車両工場へ電車を移動させる際に利用するもの。大小の車両移動機が留め置かれていたが、小型のほうはアント工業製で、編成から切り離された電車の移動などに用いられているようだった。

↑検修場内の電車の移動に使われる車両移動機。小型の車両移動機も展示されていた(右下)

 

車両工場内を進んでいくと天井まで達するようなラックが設けられていた。緑に塗られた鉄柵のラック内にあるのは電車の台車だ。ここには重要部検査や全般検査のために工場内に入ってきた電車の台車を新しいものに取り換えるため、部品類も格納されている。

↑工場内では電車の新旧台車の付け替えが行われる。台車は別工場で整備されトラックで工場に運ばれ、このラック内に収納される

 

「都営フェスタ2022」が行われていた日は工場が稼働していなかったものの、コーナーには解説ボードがあり、このラックからエレベーターで降ろされ、横に動く作動装置に載せられて、台車の付け替えが行われることが推測できた。こうした作業内容はホームページ内のスペシャルムービー「馬込車両検修場に潜入!」で公開されている。

 

車両工場で気になるコーナーを発見した。角が丸いスチールの骨組みをグレーの部材が包み込んでいる。電車の連結部分に使われる幌だった。単体の部品として見ると意外に大きく感じられた。そこには次のような貼り紙が。

 

「補修用の部材として一部切り取り済みです」。

↑電車の連結部の幌がずらりと並んでいた。一部は補修用に使われていることを示す貼り紙があった

 

幌は長い間走ると擦れて劣化するものなのだろう。時には穴が開き、雨漏りも起こるのかもしれない。そうしたときの補修用として使ったようだ。そうした細かい補修作業もここで行われていることがよく分かる。少人数グループで、急かされることなく見ることができ、車両検修場内をじっくりと見学して回れた〝成果〟は大きかった。

 

【都営フェスタ2022⑧】主催者の鉄道愛が伝わる意外な展示物

車両工場を出た先には展示・グッズコーナーが。都営交通の歴史を伝える展示や多彩な写真が貼り付けられており、興味をそそられた。

↑テント内に展示されていた、時代ごとの交通局の路面電車の路線図や地下鉄路線図。右下は交通局開局当時の路面電車路線図

 

特に気になったのは、東京都交通局の昔の路線図だ。最も古い路線図は1911(明治44)年8月1日と記されていた。8月1日は東京都交通局が生まれた日である。シンプルに線が記されているだけで、途中の停留場の案内はないが、ここから始まったということで資料的な価値は高いように感じた。

 

筆者も市電時代の路面電車の路線図を数枚所有しているが、さすがに同資料を見たことはなかった。戦後のものには、今はないトロリーバスの路線が記されたものもあった。今となっては〝お宝〟の資料と言ってもよいだろう。開局111年の歴史がここに詰まっていた。

 

さらに目を引いたのは都営浅草線の5000形から5500形にいたる20枚の写真。車両工場の荷物用エレベーターの扉に貼られていたが、浅草線最初の電車5000形の現役時代から、引退が近づいた5300形導入されたころ、さらに最新の5500形がトレーラーを使って車両基地まで運ばれる写真などがきれいに展示されていた。

↑車両工場の1階と2階を結ぶ荷物用エレベータの扉には、都営浅草線の新旧車両の写真が貼られ、浅草線の車両史を見るかのようだった

 

今回の「都営フェスタ2022」のように、ゆっくりと会場を見て回るイベントは、いろいろな発見ができておもしろい。来訪者も、東京都交通局の担当者の人たちから、興味深い話を聞くことができ、さらに来場記念カードや、電車のイラスト入りクリアファイルなどの土産を手にし、満足した様子で帰って行く姿が見受けられた。

開業前の巨大地下駅ってどんな感じ?「人流を変える」と期待大の相鉄・東急直通線「新横浜駅」を探検!

〜〜相鉄・東急新横浜線「新横浜駅」を報道公開(神奈川県)〜〜

 

来年3月に神奈川東部方面線最後の未開通区間「相鉄・東急新横浜線」が開業する。先日、ほぼ完成した新横浜駅が報道陣に公開された。

 

開業4か月前にもかかわらず、すでに新横浜駅への車両の乗り入れ試験が始められていた。この日に発表された運行の詳細をレポート、さらに期待高まる新横浜駅を探検気分でめぐってみた。

 

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バラエティ満載!? 来春開業予定の「相鉄・東急新横浜線」を走る車両たち

↑来春に開業するのは東急東横線の日吉駅と相鉄・JR直通線の羽沢横浜国大駅間で、神奈川東部方面がより便利になりそうだ

 

【新駅探訪レポート①】神奈川東部方面線のこれまでの経緯

来春3月に開業するのは「相鉄・東急新横浜線」の営業キロ10kmの路線だ。内訳は相鉄新横浜線・羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間(営業キロ:4.2km)と、東急新横浜線・新横浜駅〜日吉駅間(営業キロ:5.8km)で、新横浜駅が2社の境界駅となり、列車の相互乗り入れが行われる。

 

この相鉄・東急新横浜線は「神奈川東部方面線」の一部区間として計画された。「神奈川東部方面線」の概要を見ておこう。

 

「神奈川東部方面線」は2000(平成12)年に運輸政策審議会で、相模鉄道の二俣川駅〜新横浜駅〜東急東横線の大倉山駅間の路線計画が発表されたことに始まる。2006(平成18)年6月には国土交通省が「相鉄・JR直通線」を、ついで「相鉄・東急直通線(相鉄・東急新横浜線)」の営業構想を認定する。2010(平成22)年3月25日には神奈川東部方面線の「相鉄・JR直通線」の起工式が行われ、2013(平成25)年2月には「相鉄・東急直通線」の土木工事が着手された。

 

「相鉄・JR直通線」の工事が先に進められたこともあり、2019(令和元)年11月30日に、相鉄の西谷駅とJR東海道貨物線の横浜羽沢駅(貨物駅)附近を結ぶ路線が開業し、JR線と相鉄線との間で相互乗り入れ運転が開始された。

↑2019(令和元)年「相鉄・JR直通線」開業後からJR線への乗り入れが開始された相鉄12000系。写真は恵比寿駅〜渋谷駅間

 

「相鉄・JR直通線」の開通時に、JR貨物の横浜羽沢駅に隣接して羽沢横浜国大駅が開業。同駅の先に分岐ポイントが設けられ、新横浜駅方面へ「相鉄・東急新横浜線」の延伸工事が進められた。

 

ちなみに、「神奈川東部方面線」は都市鉄道の利便性をより高めようと設けられた『都市鉄道等利便増進法』に基づく整備路線として計画された。『都市鉄道等利便増進法』では「受益活用型上下分離方式」というシステムが取り入れられ、鉄道事業者のみに大きな負担がかかることのないように考慮されている。

 

今回の新路線建設では、国と地方自治体がそれぞれ総事業費の3分の1を補助、残り3分の1を整備主体(「神奈川東部方面線」の場合は『鉄道建設・運輸施設整備支援機構』)が資金調達して鉄道施設の整備を行った。完成後に列車運行を行う鉄道事業者は、整備主体(『鉄道建設・運輸施設整備支援機構』)に、受益相当額の施設使用料を支払うシステムで、都市鉄道をより造りやすくし、また利便性を高めるため取り入れられた制度だ。

 

一見すると難しく感じるシステムだが、要は鉄道を建設し設備を所有する持ち主と、運行する鉄道事業者が異なるということ。鉄道事業者は、持ち主に施設使用料を払って列車を運行するわけである。

↑羽沢横浜国大駅(左上)の北東側で、相鉄・JR直通線と相鉄・東急新横浜線の線路が分岐する。中央の2線が相鉄・東急新横浜線の路線だ

 

上の写真は羽沢横浜国大駅が開業する前の2019(令和元)年3月28日の報道陣に公開された時のもの。現在は同位置に施設が建ち撮影できないが、分岐ポイントがよく分かる。4本の線路のうち、「相鉄・JR直通線」は左右両端の線路で、分岐して中央のトンネルへ入る2本の線路が、来春に開業する「相鉄・東急新横浜線」の線路だ。

 

新線の工事は、2021(令和3)年4月にまず土木構造物がつながり、今年の7月に新横浜駅でレール締結式が行われた。さらに工事は進められ、工事の着手からちょうど10年となる来春3月(開業日は未発表)に相鉄・東急新横浜線が開業することになる。

 

【新駅探訪レポート②】西口の円形歩道橋下に開業する新横浜駅

11月24日に報道公開されたのは相鉄・東急新横浜線の新横浜駅だ。地下駅のため地上からは新しい駅がどこに設けられているか分かりづらい。

 

筆者は何度か工事中に新横浜駅前に足を運んだが、道路上で工事が行われていたものの、どのあたりが駅になるのか見当がつかなかった。今回の公開でそうした道路下の駅の姿が明らかになった。

↑JR新横浜駅の北西側にあたる環状2号線と宮内新横浜線が交差する(円形歩道橋の下)地下に新駅が設けられる

 

駅が設けられるのは、新横浜駅の西側に並行して走る環状2号線(主要地方道)と宮内新横浜線(都市計画道路)が交差する「新横浜駅交差点」附近。JR新横浜駅の新幹線側駅前広場の2階部分につながる歩行者デッキ(ペデストリアンデッキ)の「円形歩道橋」が目印となる。「円形歩道橋」を下りると、新横浜駅への入り口がいくつか設けられていた。今回は交差点の北西側にある7番出口から地下へ入る。エレベーター、エスカレーターの稼働前ということもあり、地下駅へ階段をひたすら降りて行くことになった。

↑今回の報道公開では、地上部から地下駅へは7番出口から入ることに。すでにエスカレーターなどの設置工事が終了していた

 

「相鉄・東急新横浜線」の新横浜駅は地下4層構造になっている。ちょうど横浜市営地下鉄ブルーラインの新横浜駅ホームが地下2階にあるため、新しい駅のホームはさらに2階ほど掘り下げた深さ35mの地下4階部分に設けられた。

 

環状2号線の中央部などから掘り進め、地上を走る車などの走行に影響のないように、徐々に地下4層の新駅造りが行われていたわけである。

 

【新駅探訪レポート③】新幹線・横浜線の乗換えは南改札から

地上から入ると地下1階に改札口がある。新駅の改札口は北と南にあり、北改札が東急、南改札が相鉄の管理運営スペースに分けられている。報道陣はまず東急側の北改札から入ることになった。案内板などを含めてほとんどの内装工事が終了していたが、自動改札機の設置はこれからとなる。

↑羽沢横浜国大側の南改札口。こちらが東海道新幹線、横浜線との乗り換え改札口となる。左手前に自動改札機を設置の予定

 

新横浜駅で東海道新幹線やJR横浜線に乗り換える時は、相鉄線側の南改札口の利用が便利で、地上部に出て歩行者デッキを上がって行き来することになる。また、横浜市営地下鉄との乗り換え用に新しい改札口も設けられた。

 

ちなみに、南改札と北改札では内装が異なる。羽沢横浜国大側の南改札は「レンガ+ダークグレー」。日吉側の改札口、北改札は「ライン照明+白色基調のデザイン」で表現されていて、それぞれお洒落な造りとなっている。

↑日吉側に設けられる北改札は東急が管理運営する。構内の案内は相鉄が青で、東急が紫色での表示となる

 

【新駅探訪レポート④】相鉄・東急の直通運転ルートが発表される

報道陣はまず北改札から地下2階に降りた。ここには機械室や配電室、空調室等が設けられていて、エスカレーター、エレベーターで通り抜けるフロアだ。

 

さらに地下3階へ。やや広い空間となっていて、このフロアで新線、新駅の工事概要、および開業後の運転計画などが発表された。

↑新横浜駅構内で行われた報道公開の際には、相鉄「そうにゃん」、東急「のるるん」と各社のキャラクターも合流した

 

発表された新線の運行ポイントをあげておこう。

 

◇1時間あたりの最多本数

・相鉄11本(各線の本数:相鉄本線4本、いずみ野線7本)
・東急16本(各線の本数:東横線4本、目黒線12本)

 

相鉄ではいずみ野線、東急では目黒線からの新線乗り入れが多くなることが明らかになった。相鉄線からは新横浜駅行き、新横浜駅発の相鉄線行きの列車も設定される。また東急目黒線へ直通する12本のうち最大5本が新横浜駅始発と発表された。

 

◇相鉄・東急間の乗り入れパターン

相互乗り入れは相鉄本線と東急目黒線、相鉄いずみ野線と東急東横線を基本とする。ただし、このパターンは朝の通勤時間帯の一部列車は除くとされた。

↑相鉄と東急直通列車の運転系統は相鉄本線〜東急目黒線、相鉄いずみ野線〜東急東横線間の相互乗り入れが基本となる

 

◇西谷駅始発列車を設定

相鉄本線と新線が分岐する西谷駅での接続をスムーズにするため、西谷駅始発の横浜駅行き、また横浜駅発の西谷駅行き列車を設定する。

 

相鉄本線、相鉄いずみ野線では、これまで横浜駅との間を走る列車がメインだったものの、横浜駅方面へ行く場合には、西谷駅で乗り換えが必要な列車が多くなることに。どのぐらいの本数になるか発表はなかったが、ふだん横浜駅を通勤・通学で利用する人にとって気になるポイントになりそうだ。

 

◇主な駅間の所要時間(最速列車の場合)

・相鉄線内から新線方面:二俣川駅〜新横浜駅11分、海老名駅〜目黒駅53分、湘南台駅〜渋谷駅51分。
・新線〜東急方面:新横浜駅〜目黒駅23分、新横浜駅〜渋谷駅25分、新横浜駅〜自由が丘駅15分

 

新線を使えば、相鉄線から新横浜駅への行き来がかなり便利になる。また山手線沿線、東急沿線から新横浜駅へ行きやすくなる。東海道新幹線の新横浜駅の乗降客は今でも多いが、さらに増えることになるのだろう。

 

◇他社からの乗り入れ列車

相鉄・東急間はこのように乗り入れに関して基本方針がまとまったが、東急東横線、東急目黒線には他社からの乗り入れる列車が多く走っている。この他社の車両の乗り入れ列車がどのくらいになるのかは最終調整中だそうだ。

 

【新駅探訪レポート⑤】ホーム2面に線路3本という駅の構成

さて、新線の運行形態などが発表された後に、新駅で最も気になるエリア、地下4階のホーム階へ降りてきた。ホーム延長は205m、幅は最大約30mと巨大な駅空間が広がる。

↑新横浜駅のホームは2面で線路は3線。中央の線路は2番線、3番線の両ホームで乗降できる。ちょうど4番線に相鉄20000系が停車中

 

ホームは島式で2面3線構造だ。つまり中央の1線は左右にホームがある構造となっている。2番・3番線の間の線路は、折返しおよび始発列車用なのであろう。ホームの長さは205mということなので、最長10両編成の列車の着発が可能となっている。相鉄および東急の車両の最長編成10両に対応しているわけだ。ちなみに相鉄の車両は20000系が10両で、21000系が8両。東急の車両は東横線が8両か10両、目黒線の車両は6両か8両となっている。

↑ホーム上の案内表示もすでにでき上がっていた。取材班はヘルメット着用、床を傷つけないようフットカバーを装着して新駅を巡った

 

↑1番線、4番線は大きくカーブしている新横浜駅。ホーム上に設けられたモニター3面で前から後ろまで良く確認できる仕組みだ

 

【新駅探訪レポート⑥】トンネルの先の光とポイントが気になる

日吉駅側と羽沢横浜国大駅側の両方のトンネルがどのように延びているのか気になるので、ホーム先端部まで行ってみた。

 

新横浜駅から先、東急電鉄の路線となる日吉駅側はポイントが複雑に交差しており、中央の線路から左右の路線へ切り替わるポイントでは信号機が青、赤、黄色に光っていた。線路は次の新綱島駅へ向けて、坂をあがっていく。

 

一方の相鉄、羽沢横浜国大駅方面は駅の先で大きくカーブしており、トンネル内には均等に照明が設置されているが、こちらには信号機がないせいかモノトーンな世界だった。

 

↑ホーム先端から見た東急側のトンネルとポイント。信号機およびトンネル内の照明が均等に並び、〝映え〟空間に

 

↑相鉄側のトンネルは右に大きくカーブしていることが分かる。ちょうど相鉄の20000系電車が近づいてきた

 

ちなみに、「相鉄・東急新横浜線」の工事では新技術が用いられている。新横浜駅〜羽沢横浜国大駅間の羽沢トンネルで用いられた手法と、新横浜駅の工事で使われた道路・地下鉄直下での施工方法が土木学会技術賞に輝いたそうだ。それだけの最新技術が用いられて新線と新駅が造られているわけだ。

 

羽沢横浜国大駅側のトンネルを望遠撮影していたところ、暗い中、ヨコハマネイビーブルーのお洒落な相鉄20000系が近づいてきた。20000系は10両編成で東急東横線への乗り入れが可能な車両である。

 

【新駅探訪レポート⑦】この日入線した東急・相鉄線の車両は?

↑新横浜駅の2・3番線ホームに入線した相鉄20000系。来春からは東急沿線で日常的に見ることができる車両となりそうだ

 

筆者は知らなかったが、すでに新横浜駅への車両の入線が始まっていた。最初の駅への入線は10月10日の深夜のことだったそうだ。11月3日からは乗務員訓練などのために「習熟運転」が始められていた。

 

地上駅、地上路線ならば、鉄道ファンがSNS等でアップして、一般の人たちにも広く知られることになるのだが、立ち入ることが出来ない未公開の地下の路線、地下の駅ともなるとそうした情報も流れない。試運転の開始から営業開始に至る5か月間、長い期間をかけてさまざまな運転確認が行われている。新線の開業まで地道な作業が続けられているというわけである。

 

報道公開があった日、報道陣の前に姿を現した車両を見ておこう。1時間ほどの間に3編成の入線があった。まずは相鉄20000系。

 

さらに東急の5050系4000番台。5050系は東急東横線用の車両で、10両編成の場合には4000番台となり4000〜という数字が正面に記される。この日に入線してきたのは5050系4000番台の中の4110編成「Shibuya Hikarie号」。渋谷ヒカリエの開業に合わせた1編成のみのラッピング車両で、ゴールドカラーが特長の編成だ。レアな車両で鉄道ファンの人気も高いが、報道公開にあわせて東急電鉄が車両選択をしたような粋な計らいだったように思う。

↑東急5050系でもレアな「Shibuya Hikarie号」4110編成が1番線に入線した。報道公開に合わせたかのような車両選択だった

 

↑ホームドアに車両の号車番号とドアの番号の案内が付けられる。6両、8両、10両と多様な車両が使われるため表示もこのように

 

【新駅探訪レポート⑧】それぞれ新線入線に向け準備が進む

「Shibuya Hikarie号」が東急線側に戻った後に入ってきたのは東急3000系。東急目黒線から東京メトロ南北線や都営三田線へ乗り入れ用の車両だ。入線してきた3000系はこれまでの車両とやや異なる編成だった。

↑東急3000系が新横浜駅の1番線に入線した。正面に「8cars」とあるように8両編成の3000系も登場し始めた

 

東急目黒線を走る東急車両は3000系、3020系、5080系の3タイプがある。このうち3020系、5080系(すべて8両化済み)は新線開業に向けて6両から8両化する工事が順調に進められてきた。3000系の8両化は他の2タイプに比べてやや遅れ気味だったが、この日に入線してきた3109編成をはじめ徐々に8両化が進められようとしている。

 

8両化にあたり4号車と5号車が新製されたのだが、在来車は座席がえんじ色、新しい車両は座席が明るい緑色に変更され、床も木目調の2色とお洒落な姿に変更されている。

↑報道公開では車両内への立入は禁止。ドア外から3000系の新旧車両を撮影した。新車両は座席が緑色、従来の車両はえんじ色だ(左下)

 

【新駅探訪レポート⑨】新線開業日は3月のいつになるのか?

さて、新しい新横浜駅を訪れて気になったことが2つある。

 

1つは3月開業予定とは言われているものの、正式な開業日が発表されなかった。4か月前とすぐ先のように感じるのだが、改めて広報担当者に聞いてみると「詳細が決まりましたら改めて」という話だった。

 

これはJRグループの春のダイヤ改正日と同じ日にしているためと考えてよいのだろう。例年12月中旬(第3金曜日が多い)にダイヤ改正日が発表される。その前には各社間の〝協定〟によって発表ができない。例年3月の第2・第3土曜日が通例のため、来年の3月11日(土曜日)もしくは3月18日(土曜日)ということになりそうだ。

 

もう1つは、相鉄、東急車両以外の会社の車両がどのぐらい新線に乗り入れるかであろう。今年の3月31日に東急電鉄の元住吉運転区で「鉄道7社局の車両撮影会」が報道陣に向けて行われたが、そこにずらりと並んだ車両が、乗り入れる車両のヒントになりそうだ。

↑今年3月に元住吉運転区で行われた「鉄道7社局の車両撮影会」で新線に乗り入れると思われる車両がずらり並んだ

 

この日に集まったのは埼玉高速鉄道2000系、都営三田線6500形、東京メトロ9000系(上記写真の左から)。そして東急電鉄3020系、相模鉄道20000系、東武鉄道50070型と西武鉄道40000系が並んだ。このうち西武鉄道の車両はこの時点で乗り入れはないと発表されており、となると相鉄、東急以外の4社局の車両が、少なくとも新横浜駅までは乗り入れることになりそうだ。

 

ちなみに新横浜駅の報道公開の時、撮影時間終了後に東京メトロ南北線の9000系が入線してきた。車内では機器の調整などをする様子がうかがえた。この東京メトロ南北線の車両も間違いなく新線に入線してきそうである。

 

いずれにしても、「相鉄・東急新横浜線」の開業は、東京、神奈川東部の人の流れを大きく変えそうだ。東海道新幹線の新横浜駅を利用する時にも非常に便利になる。さらに相鉄と東急両沿線で目新しい車両が走り出しそうで、鉄道好きにとっては楽しみな春3月となりそうだ。

路線は「鉄道文化財」だらけ!「区間は町のみ」で頑張る「若桜鉄道」にローカル線の光明を見た

おもしろローカル線の旅100〜〜若桜鉄道若桜線(鳥取県)〜〜

 

鳥取県の東部を走る若桜鉄道(わかさてつどう)。走る区間は2つの町のみという地方ローカル線だが、筆者が訪れた日は多くの来訪者で賑わっていた。人気イベントが開かれた日に重なったこともあったが、路線を応援しようという沿線の熱意が感じられた。そんな山陰の〝元気印〟の路線をめぐった。

 

*2014(平成26)年9月1日、2016(平成28)年4月16日、2018(平成30)年4月20日、2022(令和4)年10月30日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【若桜の鉄旅①】市は通らずとも〝頑張っている〟という印象

第三セクター方式で経営される若桜鉄道若桜線は、八頭町(やずちょう)と若桜町の2つの町のみを走る。鳥取市などの市は通っていない。走るのが町村のみの第三セクター鉄道はほかに四国を走る阿佐海岸鉄道、熊本県を走る南阿蘇鉄道などあるが非常に稀だ。人口が少ない地域を走る路線はそれだけ存続が難しいわけである。若桜鉄道若桜線の概要を見ておこう。

路線と距離 若桜鉄道若桜線:郡家駅(こおげえき)〜若桜駅間19.2km 全線非電化単線
開業 1930(昭和5)年1月20日、郡家駅〜隼駅(はやぶさえき)間が開業、12月1日、若桜駅まで延伸開業
駅数 9駅(起終点駅を含む)

 

若桜線はちょうど今から100年前の1922(大正11)年に「鳥取県郡家ヨリ若桜ヲ経テ兵庫県八鹿(ようか)附近ニ至ル鉄道」として計画された。八鹿は山陰本線の豊岡駅〜和田山駅の中間部にある駅で、鳥取県、兵庫県の山間部を越えて両県を結ぶ路線として計画されたわけである。

 

この若桜線が造られた当時は、戦時色が強まる中で山陰本線が敵から攻撃を受けた時に備えて計画されたバイパス線の一部だった。しかし、若桜駅までの路線は開業したものの、路線は延ばされず典型的な行き止まりの〝盲腸線〟となった。

 

1981(昭和56)年に第一次廃止対象特定地方交通線として廃止が承認されたが、地元の熱心な存続運動が実り、1987(昭和62)年に第三セクター鉄道の若桜鉄道への転換が行われた。2009(平成21)年には上下分離方式による運営に変更され、現在は若桜町、八頭町の2つの町が若桜線を所有する第三種鉄道事業者となり、若桜鉄道は列車の維持、運行を行う第二種鉄道事業者となる。要は鉄道会社の負担をなるべく減らすように工夫されたわけである。

↑若桜駅で配布されていた印刷物。鉄道文化財、マップ、さらに隼車両の紹介などと豊富。下は「1日フリー切符(760円)」など

 

こうした仕組みのせいか、他の第三セクター鉄道に比べると〝自分たちの鉄道〟という意識、地元の熱意がより感じられる。例えば上記の写真のように、さまざまなPR用の印刷物などが駅で提供されている。ローカル線は、こうしたPR用の印刷物まではなかなか手が回らないところも多いが、少しでも鉄道のことを知ってもらうために、こうした活動は大切だと思う。

 

【若桜の鉄旅②】車両はリニューアルされ新しい印象だが

次に走る車両に関して紹介しよう。筆者は若桜鉄道に4度訪れているが、そのつど車両が新しくなったと感じる。同社の積極性が感じられる一面だ。

 

◇WT3000形

若桜鉄道の車両形式は頭に「WT」が付いている。「W」は若桜、「T」は鳥取を意味している。4両の車両が在籍しているが、うち3両はWT3000形となる。

↑郡家駅を発車するWT3000形。写真の車両はWT3004「若桜」で、車内は木を多用したお洒落な造りに改造されている(右上)

 

このWT3000形は若桜鉄道が開業した当時に導入したWT2500形のエンジン、変速機、台車など主要部品を変更した車両だ。WT2500形が導入されたのが1987(昭和62)年のことで、WT3000形への改造は2002(平成14)年から翌年にかけて行われた。

 

さらに、WT3000形は2018(平成30)年から2020(令和2)年にかけて、3両すべてが観光列車にリニューアル工事が行われた。デザインは水戸岡鋭治氏で、車内には木を多用、座席も赤青緑とカラフルなシートに変更され、お洒落な車両となった。WT3001は「八頭(やず)、WT3003は「昭和」、WT3004「若桜」と沿線の町名などが付けられている。なお、改造されたWT2500形のうち2502号車はすでに引退し、その車両番号を引き継ぐWT3002は欠番となっている。

↑WT3000形はそれぞれ色変更、名前の違う観光列車として改造された。左はWT3001「八頭」、右はWT3003「昭和」

 

第三セクターの鉄道において、路線が誕生したころの車両が2度も改造され、今も活躍しているというのは珍しい。新車両を導入するのではなく、改造により経費を浮かしているわけだ。

 

◇WT3300形

2001(平成13)年にWT2500形の予備車両として導入された車両で、イベント対応のためカラオケ設備などが取り付けられている。一部座席は回転式で、車内に会議スペースが設けられるように工夫もされている。

 

現在はスズキの大型バイク「隼(ハヤブサ)」のラッピングが施されており、隼ファンに人気となっている。

↑郡家駅に停車するWT3300形、車両全体に大型バイク「隼」のラッピングが施されている

 

【若桜の鉄旅③】さまざまな会社の車両が走る起点の郡家駅

若桜線の起点となる郡家駅(こおげえき)から沿線模様を見ていこう。「郡家」はかなりの難読駅名だ。どのような理由からこのような名前が付いたのだろう。2005年(平成17)年に周辺町村と合併したことで、現在は八頭町となっているが、それ以前には郡家町(こおげちょう)だったことからこの駅名が付けられた。郡家は元々、高下(こおげ)と書いたそうだ。律令制の時代に郡司が政務を行う郡家(ぐんけ)が置かれていたため、高下がいつしか郡家(こおげ)となったと考えられている。

↑三角屋根のJR郡家駅。駅前には「神ウサギ」の石像が立つ。地元に伝わる神話時代の恋のキューピット「白兎伝説」にちなむ(右上)

 

郡家駅を通るのはJR因美線(いんびせん)だ。旅行者にとって読みにくい郡家駅だが、因美線もなかなか読みにくい路線名である。しかも運転体系が分かりづらいので簡単に触れておこう。

 

因美線は鳥取駅を起点に、岡山県の東津山駅まで走る70.8kmの路線である。近畿地方や岡山から鳥取へのメインルートとして使われる路線だが、幹線として機能しているのは鳥取駅〜智頭駅(ちずえき)間31.9kmのみ。残りの路線は、列車本数が非常に少ない超閑散路線となる。その理由は智頭駅から先、山陽本線の上郡駅(かみごおりえき)までの間を智頭急行智頭線が走るため。この路線が1994(平成6)年12月3日に開業したことにより、鳥取方面行きの特急列車の大半が同線を通るようになり、幹線として機能するようになった。

 

よって、因美線を走る車両も鳥取駅〜智頭駅間と、智頭駅〜東津山駅間では大きく異なる。鳥取駅と智頭駅間では複数の会社の車両が走り華やかだ。鳥取駅〜智頭駅のちょうど中間にある郡家駅も例外ではない。

 

まず、JR西日本の車両はキハ187系・特急「スーパーいなば」、普通列車にはキハ47形やキハ121形・キハ126形が使われる。JR西日本の車両を利用した列車は非常に少なく、郡家駅では第三セクター鉄道の智頭急行の車両を良く見かける。特急「スーパーはくと」として走るHOT7000系、普通列車として走るHOT3500形だ。普通列車はみな鳥取駅まで、特急列車はその先の倉吉駅(鳥取県)まで走っている。

↑郡家駅始発の若桜線の列車は1番線から発車。3番線はキハ121形・126形で因美線では1往復のみの運用と希少な存在だ

 

若桜鉄道の列車は1日に14往復の列車が郡家駅〜若桜駅間を走っている(土曜・休日は13往復)。そのうち6往復がJR因美線を走り、鳥取駅まで乗り入れをしている。つまり、若桜線は鳥取市の郊外ネットワークに組み込まれている路線というわけだ。沿線の2つの町だけでなく、鳥取県と鳥取市が出資を行う若桜鉄道だからこそ、可能な運用ということもできるだろう。

↑智頭急行のHOT3500形が郡家駅に入線する。同じ線路を若桜鉄道のWT3000形も利用、鳥取駅まで乗り入れる(右上)

 

【若桜の鉄旅④】鉄道文化財が盛りだくさんの若桜鉄道沿線

筆者は朝6時54分に郡家駅を発車する始発列車で、まず若桜駅へ向かった。ちなみに郡家駅舎内にあるコミュニティ施設「ぷらっとぴあ・やず」の観光案内所(9時15分〜18時)で「1日フリー切符(760円)の購入が可能だ。営業時間外は終点の若桜駅まで行っての購入が必要となる。

 

若桜鉄道の見どころの中でまず注目したいところは、若桜鉄道に多く残る「鉄道文化財」であろう。若桜鉄道では2008(平成20)年7月に沿線の23関連施設が一括して国の登録有形文化財に登録されている。一括登録という形は珍しく全国初だったそうだ。開業時に設置されたものが大事に使われてきたものも多い。「若桜鉄道の鉄道文化財」というパンフレットが駅などで配付されているので、それを見ながら列車に乗車するのも楽しい。

 

郡家駅の一番線を発車した若桜駅行きの列車は、JR因美線の線路から別れ、左にカーブして最初の駅、八頭高校前駅(やずこうこうまええき)に停車する。この日は休日、しかも始発ということで学生の乗車はなかったものの、駅のすぐ上に校舎があり通学に便利なことがよく分かる。同駅は1996(平成8)年10月1日の開業で、国鉄時代にはなかった駅だった。

↑第一八東川橋梁を渡る下り列車。撮影スポットとして人気の橋だ。写真は「さくら1号」と呼ばれていた頃のWT3001号車

 

八頭高校前駅を発車すると左右に水田や畑が見られるようになる。そして最初の鉄橋、第一八東川(はっとうがわ)橋梁を渡る。この橋梁は若桜鉄道では最長(139m)の鉄橋で、路線開業の1929(昭和4)年に架けられたものだ。橋げたはシンプルなプレートガーダー橋だ。この橋も国の登録有形文化財に登録されている。ちなみに八東川は鳥取南東部を流れる千代川(せんだいがわ)水系の最大の支流で、若桜鉄道はほぼこの川に沿って走り、第一から第三まで3つの橋梁が架けられ、いずれも国の登録有形文化財となっている。

 

【若桜の鉄旅⑤】早朝から隼駅には時ならぬカメラの放列が……

川を渡ると間もなく因幡船岡駅(いなばふなおかえき)へ。ホーム一つの小さな駅だ。因幡船岡駅を過ぎると線路の左右には水田や畑が連なる。

 

隼駅のホームが近づく。列車が7時2分到着と早朝にもかかわらず、ホームにはカメラの放列が。鉄道ファンではなく、ライダースーツを着た一団だった。

↑木造駅舎の隼駅も本屋とプラットホームが国の有形登録文化財に登録されている。バイクライダーに人気の高い駅でもある

 

隼駅はスズキの大型バイク「隼」と名前が同じということもあり全国からライダーが集う駅でもある。いわば〝聖地巡礼〟の地。訪れた日は朝早くからホームは賑わっていた。筆者が乗車していた隼ラッピングの車両と、隼駅を一緒に撮ろうとしていたようである。筆者はこの隼駅には降りず、終点の若桜駅を目指した。

 

こも隼駅に加え、安部駅、八東駅(はっとうえき)は平屋の木造駅舎が残っており本屋とプラットホームがいずれも国の登録有形文化財だ。

↑質素な造りの安部駅の本屋。同駅には2つ集落に対応するように2つの出入り口が設けられている

 

3駅の中では安部駅の名前の由来と本屋の構造が興味深い。本屋には2つの玄関口がある。これは「安井宿」と「日下部」という駅近くの2つの集落に配慮したものだという。「安井宿」は駅の北、八東川を渡った国道29号沿いにある宿場町の名であり、「日下部」は駅近くの国道482号沿いにある集落の名だ。駅名の安部も「安井宿」の「安」と「日下部」の「部」を合わせたもの。集落に均等に対応しようという配慮が駅の開業当時にあったわけだ。

 

【若桜の鉄旅⑥】いくつかの鉄橋をわたって終点の若桜駅へ

安部駅の次の八東駅は同路線内で唯一の上り下り列車の交換機能を持つ駅となっている。列車増発のために2020(令和2)年3月14日にホームを2面に、線路も2本に拡張された。加えて同駅の1番線ホームに隣接して古い貨車が置かれ、今では非常に珍しくなった貨物用ホームがある。この貨物用ホームは若桜線SL遺産保存会が再整備、復活した施設である。引込線のレールも新たに敷設され、ワフ35000形有蓋緩急車(列車のブレーキ装置を備えた車両)が停められている。

 

八東駅では今年の11月13日に動態保存されている排雪モーターカーのTMC100BS形と緩急車を連結して走らせるという試みが行われた。TMC100BS形は兵庫県の加悦(かや)SL広場で保存されていたもので、同SL広場が2020(令和2)年に閉園した時に無償譲渡されていたものだった。今後、八東駅構内では排雪モーターカーと緩急車の運行を定期的に行っていきたいとのことだ。

↑八東駅の貨物用引込線と貨物用ホーム。車掌車としても使われた有蓋緩急車が保存されている。案内板も設置されている

 

八東駅を発車すると間もなく長さ128mの第二八東川橋梁を渡る。この橋も国の登録有形文化財に登録されている鉄橋で、第一八東川橋梁と構造はほぼ同じだが、当時の標準設計だった「達540号型」だそうだ。ちなみに同橋梁の下流には「徳丸どんど」という名前の小さな滝がある。川の流れの途中に自然にできた滝(規模的には段差に近い)で非常に珍しいものだ。

↑徳丸駅近くの第二八東川橋梁を渡るのはWT3300形+WT3000形連結の下り列車。WT3300形の隼ラッピングは旧デザインのもの

 

徳丸駅の次が丹比駅(たんぴえき)で、この駅も本屋とプラットホームが国の有形登録文化財に登録されている。屋根の支柱にはアメリカの鉄鋼王カーネギーが創始したカーネギー社の輸入レールが今も残っている。

 

平野部をゆったり走ってきた若桜線だが、丹比駅を過ぎると南から山がせりだし、その山肌に合わせるかのように若桜線、国道29号、八東川が揃って右カーブを描いていく。そして列車は八頭町から若桜町へ入る。若桜町は山あいの町ながら、工場も建ち繁華な趣だ。間もなく町並みが見え始め、郡家駅から所要35分で終点、若桜駅へ到着した。

 

【若桜の鉄旅⑦】給水塔や転車台&SLと見どころ満載の若桜駅

木造平屋建ての若桜駅も本屋とプラットホームが国の登録有形文化財に登録されている。筆者は4年ぶりに訪れたが、外観は変わらないものの待合室などがすっかりきれいになっていた。WT3000形と同じ水戸岡鋭治氏のデザインで改修されたことが分かる。

↑若桜鉄道の終点・若桜駅。木造平屋建ての本屋の外観は変わりないものの、待合室(右上)に加えてカフェも設けられた

 

若桜駅の構内にはC12形蒸気機関車やDD16形ディーゼル機関車が動態保存され、古い給水塔、転車台、複数の倉庫がならぶ。これらの施設のほか、保線用車両の諸車庫、線路隅に設けられた流雪溝なども国の登録有形文化財に登録されている。このスペースの見学には入場券300円が必要となるが、若桜駅へ訪れた時には立ち寄って見学しておきたい。

 

このように若桜駅にある施設のほとんどが国の登録文化財であり〝お宝〟というわけ。博物館でしか見ることができないような鉄道施設が、今も大事に残されている。

↑若桜駅構内で保存されるC12形蒸気機関車とDD16形ディーゼル機関車。この右側に転車台(左上)や倉庫、諸車庫などがある

 

【若桜の鉄旅⑧】若桜を散策すると気になる光景に出合った

若桜駅に到着したのが朝の7時29分のこと。8時25分発の上り列車で戻ろうと計画していたこともあり、列車の待ち時間を有効活用し、転車台や、給水塔などを見て回る。さらに駅周辺を探索してみた。

 

若桜町は古い街道町でもある。若桜鉄道に並行して走るのが国道29号で、鳥取と姫路を結ぶ主要国道でもある。明治時代の初期に整備された陰陽連絡国道の1本でもあり、鳥取県側では若桜街道、播州街道とも呼ばれてきた。国道29号を若桜町の先へ向かうと、戸倉峠の下、新戸倉トンネルを越えて兵庫県宍粟市(しそうし)へ至る。若桜町は県境の町でもあるのだ。古い町並みとともに木材輸送の拠点でもあり、切り出された木材の集積場なども街中にある。

↑若桜駅の近くには木材の集積基地が点在している。駅の南側には蔵通り、陣屋跡、昭和おもちゃ館(右上)などがある

 

若桜駅の先に伸びる線路がどうなっているか、気になって歩いてみた。線路は「道の駅若桜 桜ん坊」の裏手で途切れていたが、ここに気になる車両が停められていた。

 

国鉄12系客車と呼ばれる3両の客車で、若桜鉄道へはJR四国から2011(平成23)年に4両が譲渡されたのだが、そのうちの3両が停められていた。若桜駅構内でC12形が保存されているが、この車両は圧縮空気を動力にして走らせることができる。この機関車と12系客車を連結して2015(平成27)年に「走行社会実験」が行われていた。筆者はその翌年に同客車を若桜駅で見かけたが、当時は塗り直されたばかりで今にもSLにひかれ走り出しそうな装いとなっていた。しかし、SLを本線で運転させる計画は実現せず、当時の客車が塗装状態も悪くなりつつも、線路の奥で保存されていたわけだ。全国でSL列車の運行が活発になり、若桜線SL遺産保存会といった団体を中心に復活運動を続けてきたが、SLの運行はなかなか難しかったようである。

↑若桜駅の先、線路の終端部に停められている12系客車3両。ほか1両の12系客車は隼駅構内に停められている

 

【若桜の鉄旅⑨】帰路は隼駅でイベント風景を見学する

若桜駅から8時25分発の上り列車で隼駅へ戻る。9時ごろ駅に到着したのだが、駅前は非常に賑わっていた。

 

2008(平成20)年、あるバイク専門誌が「8月8日ハヤブサの日」に隼駅に集まろうと呼びかけた。徐々に全国の「隼」愛好家たちが集まるようになり、2018(平成30)年8月8日には2000台もの「隼」が終結したという。その後、コロナ禍でイベントを開催できないようになっていたが、ようやく制限も解除されて今年は10月30日に「ハヤブサの日」が開催されたのだった。この日に集まったのは約1200台。ナンバーを見ると近畿地方、中国地方はもちろん、遠く九州、東北地方のナンバーを付けた隼が終結していた。

↑朝早くから隼駅前で記念撮影をしようと並ぶライダーたち。駅前には「ようこそ!隼駅へ!」という案内もあり人気だった(右下)

 

鉄道ファンも熱心だと思うが、バイク好きの人たちの熱意もすごいと感じる。取材しようと訪れたメディアも多かった。また、駅前には記念品販売のブースも設けられ、元駅の事務室にも「若桜鉄道隼駅を守る会」の売店(土日祝日のみ営業)がある。こちらでも土産品や、隼駅のみで販売している鉄道グッズなどがあり多くの人が立ち寄っていた。

↑隼駅の元事務室を利用した「隼駅を守る会」の売店。入口には古い秤などが置かれ趣がある

 

↑隼駅構内には元北陸鉄道のED301電気機関車と元JR四国で夜行列車に利用されていた12系客車が保存されている

 

【若桜の鉄旅⑩】鉄道好きには「隼駅鐵道展示館」がおすすめ

隼駅の構内にはかつての備品倉庫を利用した「隼駅鐵道展示館」もある。同展示館の開館は4〜11月の第三日曜日の10〜16時のみだが、この日は催しに合わせて開いていた。

 

「隼駅鐵道展示館」には大きな鉄道ジオラマが設けられ、また古い鉄道用品などが保存展示されている。筆者はこの日の催しを撮り終えた後、「隼駅鐵道展示館」で古い若桜線をよく知る地元の方との鉄道談義を楽しんだ。

↑隼駅の駅舎に隣接した「隼駅鐵道展示館」。大型ジオラマ(左下)を設置、ほか多くの貴重な鉄道資料などが展示保存されている

 

その方によると「若桜駅に保存されるC12よりもC11がよく走っていた」とのこと。季節によっては「客車と貨車を連結した混合列車が多く走った」そうだ。「隼駅でも米俵の積み込み作業をしていた」と懐かしい話をふんだんに話していただいた。転車台を利用せずに、C11がバック運転で引いた列車もあったそうだ。貨物輸送が行われた当時はさぞや若桜線も賑わっていたことだろう。「その賑わいが今は消えてしまって……」と、その方もやや悲しげな表情に。外国からの木材輸入が増えて、若桜の木材の需要も減ったことに伴い、若桜線の貨物輸送も消滅してしまった。

 

さらに木材の輸送は鉄道からトラックへ移行していく。そんな時代の流れが若桜線を飲み込んだわけだが、一方で、若桜線沿線に住む人たちの鉄道存続への熱意は消えていなかったと言えるだろう。隼イベントなどの多くの催しを開くことにより、沿線の活気は一時とはいえ蘇っているのである。こうした催し物は、地元の人たちの協力と熱意があってこそ成り立っているように思える。

 

若桜線の乗客増加にはすぐには結びつかないかも知れないが、認知度は確実にあがるだろう。ローカル線の廃線が全国で続き、存続が危ぶまれる路線も多いなか、現在の若桜線の姿にはローカル線の一筋の光明を見るようだった。

↑隼駅に到着する隼ラッピングのWT3300形。ライダーたちに大人気の車両だ。若桜線内だけでなく鳥取駅にも乗り入れている

 

サッカーW杯を支えるカタール初の鉄道路線「ドーハメトロ」に大注目!

4年に一度の祭典、サッカーW杯2022が11月20日に開幕しました。今年はカタールが開催国となり、史上初の中東開催として注目を集めています。カタールの首都ドーハは以前日本代表が1994年W杯本大会への出場を逃した「ドーハの悲劇」の場所でもありますが、今大会は無事に予選を通過して本大会に出場。前回ロシア大会で惜しくもベスト8入りを果たせなかった日本代表ですが、今回はどうなるか注目です。

↑レッド・ライン最北端のルサイル駅を最寄りとするルサイル・アイコニック・スタジアム。12月18日のW杯決勝試合がここで開催されます。訪問時の2022年4月時点ではまだ工事中の部分がありました

 

試合に使用される8つのスタジアムのうち7つがドーハ市内かその近郊に位置し、コンパクトなW杯開催となりますが、市内での公共交通の要となるのが2019年に開通したドーハの地下鉄こと「ドーハメトロ」です。今回のW杯で観戦客の重要な足となるであろうドーハメトロを解説していきます。

↑メトロの車内から眺めるドーハ郊外の様子。建設中のビルが多くあり、経済成長が感じられます

 

カタール初の鉄道路線開業への道

ペルシャ湾に囲まれ、サウジアラビアと隣接するカタールは人口260万人と小さい国ですが、20世紀半ばに石油の輸出が始まってから急速な経済成長を遂げました。首都ドーハでは人口の過半数が在住し、バスはあるものの基本的には車社会を前提としていました。しかしながら増加する人口と慢性化する渋滞に対応するため、2000年代後半から都市鉄道整備の構想が立ち上がりました。そして何より2010年12月に発表されたカタールの2022年W杯開催決定が公共交通機関として必要性が確固たるものとなり、プロジェクトが積極的に進められました。

 

2012年10月には地下鉄ネットワークの中核となるムシュレイブ駅が着工され、ドーハメトロの建設が始まりました。メトロの建設は2つのプロジェクトに分かれており、現在完了している第1部ではレッド・ライン、グリーン・ライン、そしてゴールド・ラインの3路線が2019年に開業しています。旅行者に一番馴染みがあるのはカタールの空の玄関口であるハマド国際空港と都心のアクセスを担っているレッド・ラインかもしれませんが、3路線とも沿線にスタジアムがあります。建設プロジェクトの第2部は4つ目の路線となるブルー・ラインの建設を視野に入れており、2027年に開業予定となっています。

↑レッド・ラインの一番南側の終点であるアル・ワクラ駅。駅舎の全体が船をイメージしています

 

メイド・イン・ジャパン:近畿車両製の地下鉄車両

あまり日本には馴染みのないカタールの地下鉄ですが、使用されている車両は三菱商事と近畿車両が共同製造したものになります。合計で3両編成の車両が75本発注され、2017年8月に最初の4本が納品されました(後に35本が追加発注されて合計110本に増備されています)。車両のデザインは近畿車両デザイン室とドイツのデザイン企業であるトリコンデザインAGが共同で設計しており、アラビアの馬をモチーフとした流線形が採用されています。ちなみに近畿車両は同じアラビア首長国連邦のドバイメトロ向け車両も製造しており、中東の都市鉄道システムでは2回目の受注となりました。

↑日本の近畿車両製のドーハメトロ向け車両。3両編成となっており、最大2本繋げて6両編成で運転されます

 

3両編成はA・B・C号車と振り分けられており、A号車が半室ゴールドクラブ、半室ファミリークラス、そしてB・C号車がスタンダードクラスとなっています。A号車の先頭寄り半室のゴールドクラスはいわゆる一等車の扱いで、普通運賃と比較して値段が高く設定されています。ひじ掛け付きの個別座席がロングシート風に並べられており、後ろのファミリークラスとの仕切りがあります。特徴的なのは一番先頭に配置されているクロスシート部分です。ドーハメトロは全線自動運転で運転席もないため、ここで前方(または後方)の景色が「被りつき」で楽しむことができます。

↑無人運転を行うドーハメトロに運転席はなく、乗客が最前列で景色を楽しめます。写真はゴールドクラブの座席ですが、反対側のスタンダードクラスでも同様の座席があります

 

↑ゴールドクラブの車内。孤立してゆったりとした座席が特徴。スタンダードクラスと比べて3倍の値段がかかりますが、W杯開催期間中は一般開放されます

 

ファミリークラスのほうはその名の通り家族連れや女性専用車両となっており、男性が一人で乗車することはできません。イスラム国では公共の場で男性と女性の場を分ける国もあり、それを反映したルールとなっています。ファミリークラスの内装はセミクロスシートになっていて、子供用座席など家族連れに優しい仕様になっています。

↑ファミリークラスは家族連れと女性向けの車両。半室には少し高さが低い子供用座席も備わっています

 

B・C号車のスタンダードクラスは日本でもよく見られるようなロングシート形式になっており、先頭車側にはゴールドクラブと同様に「被りつき」用の座席があります。車内にトイレの設備はないですが、充電用のUSBポートがあったり、荷物置き場、車いす・ベビーカー向けのスペースや車内Wi-fiなど充実しています。

↑スタンダードクラスのロングシートの様子

 

ドーハメトロは駅舎にも拘りがあり、カタールの伝統的な文化と近未来感を融合したデザインとなっています。伝統的なイスラム建築で使用されるヴォールト天井のデザインを元にモダンデザインを取り込み、駅舎内を牡蠣の貝の中にいるような居心地を目指して作られました(ヴォールト天井は聞きなれない言葉ですが、小田急ロマンスカーのVSEの略称にもなり、アーチを平行に押し出した形状を特徴とする建築様式です)。

↑メトロの駅にはヴォールト様式が積極的に取り入れられ、開放的な空間となっています

 

ドーハメトロを利用してみよう

ドーハメトロを利用するにあたって気になるのが運賃設定ですが、スタンダード・ファミリークラスは1乗車で2リヤル(2022年11月の為替では1カタールリヤル≒40円、約80円)、一日料金は6リヤル(約240円)となっています。一方でゴールドクラブのほうは1乗車10リヤル(約400円)、一日料金は30リヤル(約1200円)とスタンダードと比較して5倍です。為替の影響を受けることもありますが、基本的にはかなり良心的な値段設定となっています。

↑ ICカードを購入できる各駅に備わっている券売機

 

現在、紙の切符の発売は中止されており、SuicaやPASMOと同様のICカードの購入が必要となってきます。スタンダード用のカードは本体が10リヤル(約400円)で、駅の券売機や街中の店舗で販売されており、残額のチャージは券売機、またはオンライン・アプリで行うことができます。こちらのカードはドーハメトロと後述のルサイルトラム共通で使用できます。ゴールドクラブカード本体は100リヤル(約4000円)で購入はメトロ駅に併設されているゴールドクラブ専用オフィスのみで購入でき、特別感が増しています。

 

ICカード使用時に自動改札機でタッチする必要がありますが、自動的に各座席クラス分の運賃が差し引かれるような仕組みになっているので、乗車したいクラスのICカードを事前に購入しておく必要があります(例えばスタンダードのカードを持っている中、一回だけアップグレードしてゴールドクラブに乗車することはできません)。また、一回の乗車での制限時間が設けられており、最大90分となっています。入場と出場との間の時間が90分を超える場合、再度一回乗車分の運賃が引き落とされるので気をつけてください。最後に一日乗車料金に関してですが、別途そのような切符があるわけではなく、一日での請求額が一日料金に達するとそれ以降は自動で運賃が請求されなくなる便利なシステムとなっていますので、何回も気軽に乗ることができます。

 

通常のメトロの営業時間は土曜日~水曜日で午前6時~午後11時、木曜日には終電が午前0時までと営業時間が延び、金曜日の午前は運休となっており、午後2時~午前0時まで運行されています。イスラム教では金曜日の正午に「ジュマ」という特別な礼拝を行うことが義務付けられいて、金曜日の一見変則的な営業時間はこれを反映しています。

 

ワールドカップ中の利用に関して

今までドーハメトロの概要を説明してきましたが、カタール、そしてドーハに世界中から人が集まるW杯期間中は特別ルールが適用されるので、使用される際は注意が必要です。まず車内のクラス設定に関してですが、11月11日から12月22日の間は全ての列車でクラス分けがなくなり、全車スタンダードクラス扱いとなります。ですので、わざわざゴールドクラブ用カードを購入する意味はなくなります。恐らく混雑でそれどころではないかもしれませんが、スタンダードクラスの料金でゴールドクラブを体験できるいい機会かもしれません。

 

また、営業時間も変更となり、土曜日~木曜日は午前6時~午前3時まで、金曜日に関しても午前9時~午前3時と大幅に営業運転時間が拡大され、サッカーの試合が終わった後の遅い時間帯でも人が移動できるようになりました。W杯開催中は一日70万人の利用が見込まれており、通常時の6倍もの利用客が予想されています。

 

ルサイルトラム

ドーハの都市交通システムとしてもう一つ整備されているのがルサイルトラムです。こちらはドーハの北部のルサイル地区を中心に整備されており、2022年11月現在では同年1月に先行開業したオレンジ・ラインのレグタイフィヤ~エナジー・シティ・サウス間のみが営業運転しています。今後はオレンジ・ラインの全線開業、そしてピンク・ライン、ターコイズ・ライン、パープル・ラインと続けてトラムの路線網が増えていく予定です(現在開業しているオレンジ・ラインの区間は全て地下区間です)。ルサイルトラムの運賃体系や営業時間はドーハメトロと一緒で、同じICカードで使用できます。

↑ルサイル駅付近でパープル・ラインの試運転を行っているルサイルトラム。この区間はアルストムのAPS技術を使用していて、架線ではなく地面に埋め込まれた第三軌条の線路から集電します

 

ルサイルトラムの使用車両は仏アルストムの「シタディス」モデルを導入しており、35編成が配備されています。通常は電気を上空に張られた架線からパンタグラフを使用して集電しますが、一部区間ではアルストム独自のAPSという技術を使用して、地上に設置された第三軌条のレールから集電する区間もあります。こちらの特徴としては車両が給電レールを覆っているところしか通電しておらず、路面で使用しても安全なところが特徴となっています。

↑ルサイルトラムが使用している「シタディス」モデル車両の車内

 

今回はドーハの新しい都市鉄道であるドーハメトロを紹介させていただきました。筆者は開業前の2014年にドーハに訪れたことがありましたが、その時と比べて格段に空港からドーハ市内へのアクセス、そして市内での移動が便利になったと感じました。今回のW杯でも大活躍することでしょう。

サッカーW杯を支えるカタール初の鉄道路線「ドーハメトロ」に大注目!

4年に一度の祭典、サッカーW杯2022が11月20日に開幕しました。今年はカタールが開催国となり、史上初の中東開催として注目を集めています。カタールの首都ドーハは以前日本代表が1994年W杯本大会への出場を逃した「ドーハの悲劇」の場所でもありますが、今大会は無事に予選を通過して本大会に出場。前回ロシア大会で惜しくもベスト8入りを果たせなかった日本代表ですが、今回はどうなるか注目です。

↑レッド・ライン最北端のルサイル駅を最寄りとするルサイル・アイコニック・スタジアム。12月18日のW杯決勝試合がここで開催されます。訪問時の2022年4月時点ではまだ工事中の部分がありました

 

試合に使用される8つのスタジアムのうち7つがドーハ市内かその近郊に位置し、コンパクトなW杯開催となりますが、市内での公共交通の要となるのが2019年に開通したドーハの地下鉄こと「ドーハメトロ」です。今回のW杯で観戦客の重要な足となるであろうドーハメトロを解説していきます。

↑メトロの車内から眺めるドーハ郊外の様子。建設中のビルが多くあり、経済成長が感じられます

 

カタール初の鉄道路線開業への道

ペルシャ湾に囲まれ、サウジアラビアと隣接するカタールは人口260万人と小さい国ですが、20世紀半ばに石油の輸出が始まってから急速な経済成長を遂げました。首都ドーハでは人口の過半数が在住し、バスはあるものの基本的には車社会を前提としていました。しかしながら増加する人口と慢性化する渋滞に対応するため、2000年代後半から都市鉄道整備の構想が立ち上がりました。そして何より2010年12月に発表されたカタールの2022年W杯開催決定が公共交通機関として必要性が確固たるものとなり、プロジェクトが積極的に進められました。

 

2012年10月には地下鉄ネットワークの中核となるムシュレイブ駅が着工され、ドーハメトロの建設が始まりました。メトロの建設は2つのプロジェクトに分かれており、現在完了している第1部ではレッド・ライン、グリーン・ライン、そしてゴールド・ラインの3路線が2019年に開業しています。旅行者に一番馴染みがあるのはカタールの空の玄関口であるハマド国際空港と都心のアクセスを担っているレッド・ラインかもしれませんが、3路線とも沿線にスタジアムがあります。建設プロジェクトの第2部は4つ目の路線となるブルー・ラインの建設を視野に入れており、2027年に開業予定となっています。

↑レッド・ラインの一番南側の終点であるアル・ワクラ駅。駅舎の全体が船をイメージしています

 

メイド・イン・ジャパン:近畿車両製の地下鉄車両

あまり日本には馴染みのないカタールの地下鉄ですが、使用されている車両は三菱商事と近畿車両が共同製造したものになります。合計で3両編成の車両が75本発注され、2017年8月に最初の4本が納品されました(後に35本が追加発注されて合計110本に増備されています)。車両のデザインは近畿車両デザイン室とドイツのデザイン企業であるトリコンデザインAGが共同で設計しており、アラビアの馬をモチーフとした流線形が採用されています。ちなみに近畿車両は同じアラビア首長国連邦のドバイメトロ向け車両も製造しており、中東の都市鉄道システムでは2回目の受注となりました。

↑日本の近畿車両製のドーハメトロ向け車両。3両編成となっており、最大2本繋げて6両編成で運転されます

 

3両編成はA・B・C号車と振り分けられており、A号車が半室ゴールドクラブ、半室ファミリークラス、そしてB・C号車がスタンダードクラスとなっています。A号車の先頭寄り半室のゴールドクラスはいわゆる一等車の扱いで、普通運賃と比較して値段が高く設定されています。ひじ掛け付きの個別座席がロングシート風に並べられており、後ろのファミリークラスとの仕切りがあります。特徴的なのは一番先頭に配置されているクロスシート部分です。ドーハメトロは全線自動運転で運転席もないため、ここで前方(または後方)の景色が「被りつき」で楽しむことができます。

↑無人運転を行うドーハメトロに運転席はなく、乗客が最前列で景色を楽しめます。写真はゴールドクラブの座席ですが、反対側のスタンダードクラスでも同様の座席があります

 

↑ゴールドクラブの車内。孤立してゆったりとした座席が特徴。スタンダードクラスと比べて3倍の値段がかかりますが、W杯開催期間中は一般開放されます

 

ファミリークラスのほうはその名の通り家族連れや女性専用車両となっており、男性が一人で乗車することはできません。イスラム国では公共の場で男性と女性の場を分ける国もあり、それを反映したルールとなっています。ファミリークラスの内装はセミクロスシートになっていて、子供用座席など家族連れに優しい仕様になっています。

↑ファミリークラスは家族連れと女性向けの車両。半室には少し高さが低い子供用座席も備わっています

 

B・C号車のスタンダードクラスは日本でもよく見られるようなロングシート形式になっており、先頭車側にはゴールドクラブと同様に「被りつき」用の座席があります。車内にトイレの設備はないですが、充電用のUSBポートがあったり、荷物置き場、車いす・ベビーカー向けのスペースや車内Wi-fiなど充実しています。

↑スタンダードクラスのロングシートの様子

 

ドーハメトロは駅舎にも拘りがあり、カタールの伝統的な文化と近未来感を融合したデザインとなっています。伝統的なイスラム建築で使用されるヴォールト天井のデザインを元にモダンデザインを取り込み、駅舎内を牡蠣の貝の中にいるような居心地を目指して作られました(ヴォールト天井は聞きなれない言葉ですが、小田急ロマンスカーのVSEの略称にもなり、アーチを平行に押し出した形状を特徴とする建築様式です)。

↑メトロの駅にはヴォールト様式が積極的に取り入れられ、開放的な空間となっています

 

ドーハメトロを利用してみよう

ドーハメトロを利用するにあたって気になるのが運賃設定ですが、スタンダード・ファミリークラスは1乗車で2リヤル(2022年11月の為替では1カタールリヤル≒40円、約80円)、一日料金は6リヤル(約240円)となっています。一方でゴールドクラブのほうは1乗車10リヤル(約400円)、一日料金は30リヤル(約1200円)とスタンダードと比較して5倍です。為替の影響を受けることもありますが、基本的にはかなり良心的な値段設定となっています。

↑ ICカードを購入できる各駅に備わっている券売機

 

現在、紙の切符の発売は中止されており、SuicaやPASMOと同様のICカードの購入が必要となってきます。スタンダード用のカードは本体が10リヤル(約400円)で、駅の券売機や街中の店舗で販売されており、残額のチャージは券売機、またはオンライン・アプリで行うことができます。こちらのカードはドーハメトロと後述のルサイルトラム共通で使用できます。ゴールドクラブカード本体は100リヤル(約4000円)で購入はメトロ駅に併設されているゴールドクラブ専用オフィスのみで購入でき、特別感が増しています。

 

ICカード使用時に自動改札機でタッチする必要がありますが、自動的に各座席クラス分の運賃が差し引かれるような仕組みになっているので、乗車したいクラスのICカードを事前に購入しておく必要があります(例えばスタンダードのカードを持っている中、一回だけアップグレードしてゴールドクラブに乗車することはできません)。また、一回の乗車での制限時間が設けられており、最大90分となっています。入場と出場との間の時間が90分を超える場合、再度一回乗車分の運賃が引き落とされるので気をつけてください。最後に一日乗車料金に関してですが、別途そのような切符があるわけではなく、一日での請求額が一日料金に達するとそれ以降は自動で運賃が請求されなくなる便利なシステムとなっていますので、何回も気軽に乗ることができます。

 

通常のメトロの営業時間は土曜日~水曜日で午前6時~午後11時、木曜日には終電が午前0時までと営業時間が延び、金曜日の午前は運休となっており、午後2時~午前0時まで運行されています。イスラム教では金曜日の正午に「ジュマ」という特別な礼拝を行うことが義務付けられいて、金曜日の一見変則的な営業時間はこれを反映しています。

 

ワールドカップ中の利用に関して

今までドーハメトロの概要を説明してきましたが、カタール、そしてドーハに世界中から人が集まるW杯期間中は特別ルールが適用されるので、使用される際は注意が必要です。まず車内のクラス設定に関してですが、11月11日から12月22日の間は全ての列車でクラス分けがなくなり、全車スタンダードクラス扱いとなります。ですので、わざわざゴールドクラブ用カードを購入する意味はなくなります。恐らく混雑でそれどころではないかもしれませんが、スタンダードクラスの料金でゴールドクラブを体験できるいい機会かもしれません。

 

また、営業時間も変更となり、土曜日~木曜日は午前6時~午前3時まで、金曜日に関しても午前9時~午前3時と大幅に営業運転時間が拡大され、サッカーの試合が終わった後の遅い時間帯でも人が移動できるようになりました。W杯開催中は一日70万人の利用が見込まれており、通常時の6倍もの利用客が予想されています。

 

ルサイルトラム

ドーハの都市交通システムとしてもう一つ整備されているのがルサイルトラムです。こちらはドーハの北部のルサイル地区を中心に整備されており、2022年11月現在では同年1月に先行開業したオレンジ・ラインのレグタイフィヤ~エナジー・シティ・サウス間のみが営業運転しています。今後はオレンジ・ラインの全線開業、そしてピンク・ライン、ターコイズ・ライン、パープル・ラインと続けてトラムの路線網が増えていく予定です(現在開業しているオレンジ・ラインの区間は全て地下区間です)。ルサイルトラムの運賃体系や営業時間はドーハメトロと一緒で、同じICカードで使用できます。

↑ルサイル駅付近でパープル・ラインの試運転を行っているルサイルトラム。この区間はアルストムのAPS技術を使用していて、架線ではなく地面に埋め込まれた第三軌条の線路から集電します

 

ルサイルトラムの使用車両は仏アルストムの「シタディス」モデルを導入しており、35編成が配備されています。通常は電気を上空に張られた架線からパンタグラフを使用して集電しますが、一部区間ではアルストム独自のAPSという技術を使用して、地上に設置された第三軌条のレールから集電する区間もあります。こちらの特徴としては車両が給電レールを覆っているところしか通電しておらず、路面で使用しても安全なところが特徴となっています。

↑ルサイルトラムが使用している「シタディス」モデル車両の車内

 

今回はドーハの新しい都市鉄道であるドーハメトロを紹介させていただきました。筆者は開業前の2014年にドーハに訪れたことがありましたが、その時と比べて格段に空港からドーハ市内へのアクセス、そして市内での移動が便利になったと感じました。今回のW杯でも大活躍することでしょう。

連なる鳥居に宍道湖の眺め、そして出雲大社−−“映える”「ばたでん」歴史&美景散歩

おもしろローカル線の旅99〜〜一畑電車(島根県)〜〜

 

連なる赤い鳥居の先を横切る電車、背景には低山と青空が写り込む。ばたでんこと島根県を走る一畑電車らしい光景である。こうした〝映える〟光景が点在する一畑電車の沿線。今回は北松江線の一畑口駅から終点の松江しんじ湖温泉駅までの区間と、大社線の川跡駅(かわとえき)から出雲大社前駅間の注目ポイントをめぐってみたい。

*2011(平成23)年8月1日、2015(平成27)年8月23日、2017(平成29)年10月2日、2022(令和4)年10月29日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
この時代に増便?平地なのにスイッチバック?ナゾ多き出雲の私鉄「ばたでん」こと一畑電車の背景を探る

 

【ばたでん旅が続く①】斬新な券売機に悪戦苦闘!

一畑口駅は前回紹介したように、平地なのにスイッチバックする珍しい駅である。この駅から松江しんじ湖温泉方面への電車に乗ろうと駅舎へ。筆者は「1日フリー乗車券」を購入したので、切符を新たに買う必要がなかったが、高齢の女性が券売機の前で困り果てていたので手助けすることに。

 

一畑電車の主要駅には最新型の券売機が取り付けられている。筆者も初めて目にした券売機だったが、手助けしようとしてスムーズいかずにまごついてしまった。一畑口駅へやってくる前にも、電鉄出雲市駅でも切符が購入できず駅員に聞いている女性を見かけたのだが、なぜだろう。

 

考えられるのは、切符を買うまでの選択が多いことだ。まずは片道か往復かのボタン選択。次に行先の駅にタッチすると何枚必要か画面に表示されるので、1人ならば「1」を押す。筆者もここまではできたのだが、今度はコイン投入口にお金が入らない。この後に現金かカードかの選択ボタンを押す必要があったのだ。

 

さらに、この券売機は指で画面に触れずとも近づけるだけで感知する。これもとまどう理由だろう。慣れればそう難しくなさそうだが、この券売機が初めての人や高齢者はややてこずる可能性があると思った。

↑趣ある木造駅舎の一畑口駅。一畑薬師の最寄り駅でもある。駅舎内には最新式の券売機が設置されていた(左)

 

さて、無事に切符購入の手伝いも終えて松江しんじ湖温泉駅の電車に乗り込む。電鉄出雲市駅方面からやってきた電車は前後が変わり、この駅からは後ろが先頭になって走り始める。駅からは左に大きくカーブしてまずは宍道湖を進行方向右手に見ながら、次の伊野灘駅(いのなだえき)に向かった。

↑一畑口駅(手前)を発車すると左カーブして松江しんじ湖温泉駅方面へ向かう。民家の間から宍道湖のきらめく湖面が見通せた

 

【ばたでん旅が続く②】映画の舞台になった趣満点の伊野灘駅

ホームが一つの伊野灘駅は映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』(以下『RAILWAYS』と略)で主要な舞台として登場した駅だった。駅の入口は国道431号とは逆側にあり、細い道をたどりレトロな石段を上がる。小さな待合室の手前には桜の木が1本あって、春先はさぞや絵になるだろう。

 

映画『RAILWAYS』の主人公の故郷の駅という設定で、映画の舞台としてもぴったりの駅だ。国道側から見ると草が生い茂りホームが良く見えないが、裏に回ってみるとこの駅の魅力が分かるはずである。

↑伊野灘駅に近づく3000系(すでに引退)。写真の左下から駅ホームに入る。右側には国道431号が並行して走っている

 

【ばたでん旅が続く③】北松江線のハイライト!宍道湖の美景

一畑口駅から伊野灘駅を過ぎてしばらくは、右手に宍道湖を横に見ての行程となる。あくまで国道431号越しだが、国道よりも線路が高い位置を通っている区間からは、湖の眺望がよりきれいに見える。

 

周囲約45kmの宍道湖は全国で7番目に大きな湖とされる。淡水湖ではなく、わずかに塩分を含む汽水湖で、他では見られない魚介類が生息している。収穫されるのはスズキ、シラウオ、コイ、ウナギ、モロゲエビ、アマサギ、シジミ。この7つの魚介類は「宍道湖七珍(しんじこしっちん)」と呼ばれ、珍重されている。

 

一畑電車の車内からも、小船が係留されている港が見える。見る場所によって宍道湖の景色が微妙に異なり、湖ならではの穏やかな風景が続く。

↑宍道湖の風景は場所ごとに趣が異なる。写真は津ノ森駅〜高ノ宮駅間で、湖畔に小船が一隻のみ引き上げられていた

 

北松江線は伊野灘駅〜津ノ森駅間で出雲市から松江市へ入る。津ノ森駅近くには「ワカサギふ化場」もあり、小船が何艘も係留されている様子が車内から見えた。

 

宍道湖を見ながら進むと、松江フォーゲルパーク駅に到着した。駅の向かいに「松江フォーゲルパーク」の入口があり、駅前が同パークの駐車場になっている。“湖畔に広がる花と鳥の楽園”がPR文句で、国内最大級の大温室には一年を通して花が満開で、約90種類の世界中の鳥たちともふれあうことができる。入園料は大人1500円で、開園は9時〜17時(4/1〜9/30は17時30分まで)、年中無休で営業している。何より駅前というのがうれしい。

 

松江フォーゲルパーク駅、秋鹿町駅(あいかまちえき)、長江駅と、宍道湖の眺めを楽しみながらの旅が続くが、長江駅を過ぎると車窓風景が変わっていく。

↑秋鹿町を発車して長江駅へ向かう5000系。宍道湖側から国道431号、一畑電車、そして民家が並ぶ風景がしばらく続く

 

長江駅を過ぎると北松江線は湖畔から離れ、朝日ヶ丘駅へ到着する。駅の北側には新興住宅地が連なり、南には家庭菜園が楽しめる湖北ファミリー農園という施設も広がる。

 

【ばたでん旅が続く④】最後の一駅間に沿線の魅力が凝縮される

朝日ヶ丘駅の次は松江イングリッシュガーデン駅という、観光施設の駅名となっている。当初、庭園美術館が設けられたが、後に日本有数のイングリッシュガーデンに模様替えされた。だが、現在は同ガーデンが休園となり再開の目処はたっていない。同沿線では「松江フォーゲルパーク」があり、なかなか営業面での難しさがあったのかもしれない。なおガーデンに隣接するカフェレストランなどは営業している。

 

松江イングリッシュガーデン駅から、終点の松江しんじ湖温泉駅まで4.3kmとやや距離がある。松江イングリッシュガーデン駅付近に建ち並んでいた民家は途切れ、再び国道431号と並行して北松江線が走るようになる。宍道湖が南西側に位置し、天気の良い日中は光が順光になるため、湖面と湖を挟んだ対岸が良く見渡せる区間となる。この駅間は変化に富み、北松江線の魅力が凝縮されているようだ。

↑松江イングリッシュガーデン駅〜松江しんじ湖温泉駅間を走る2100系(色変更前のもの)。宍道湖の風景もこのあたりが見納めとなる

 

再び住宅地が見え始めると、間もなく湖側に大型の温泉ホテルが建ち並び始め、電車は終点の松江しんじ湖温泉駅のホームに滑り込んだ。始発の電鉄出雲市駅からは約1時間、一畑口駅からは約30分だった。

 

【ばたでん旅が続く⑤】駅前に足湯がある松江しんじ湖温泉駅

松江しんじ湖温泉駅はJR山陰本線の松江駅に比べて、市内の主な観光スポットに近い。まずは松江しんじ湖温泉街がすぐそばだ。加えて宍道湖畔の千鳥南公園までは徒歩3分あまり。同公園内には「耳なし芳一」像や、松江と縁が深い小泉八雲文学碑などが立つ。

 

松江のシンボルでもある、現存天守が残る国宝「松江城」には駅から市営バスの利用で約5分(徒歩で17分ほど)、松江城を囲う堀をめぐる「堀川遊覧船」の大手前広場乗船場までは徒歩で約15分ほどだ。

↑北松江線の終点、松江しんじ湖温泉駅。駅前に足湯も設けられている。適温の程よい温泉が楽しめる(右上)

 

観光よりも鉄道に乗る旅を中心に楽しみたいという方には、次の電車が折り返すまでの約15〜30分の時間を利用して、松江しんじ湖温泉駅のすぐ目の前にある無料足湯を利用してはいかがだろう。「お湯かけ地蔵足湯」と名付けられた湯で、泉質は低張性弱アルカリ性高温泉で浴後には肌がすべすべになるだろう。毎週、月・火・木・土曜の朝6〜8時までが清掃時間の足湯で、清掃日であっても朝10時ごろには湯が満ちて使えるようになる。

↑松江しんじ湖温泉駅から徒歩約3分の千鳥南公園から眺めた宍道湖。同公園への途中に温泉ホテルが建ち並ぶ(右上)

 

↑松江しんじ湖温泉駅からは堀川遊覧船や松江城(左上)といった観光スポットも近い。松江城天守は1611年に築城され国宝に指定される

 

【ばたでん旅が続く⑥】大社線高浜駅近くで見つけた赤い鳥居群

ここからは川跡駅に戻って大社線の沿線模様を見ていこう。大社線を走る電車は土日祝日と平日でかなり異なるので注意が必要になる。土日祝日の日中は、松江しんじ湖温泉駅と電鉄出雲市駅から出雲大社前駅行きの直通電車が多くなる。一方、電鉄出雲市駅から松江しんじ湖温泉駅へ、また松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲市駅へ向かう場合には、川跡駅での乗換えが必要になる。平日は川跡駅〜出雲大社前駅間を往復する電車が大半となる。

↑川跡駅を出発、出雲大社前駅方面へ向かう7000系。観光シーズンを除く平日の日中は一両で運転される電車が多くなる

 

川跡駅を発車した大社線の電車は、北松江線と分かれ西へ向かうと、広がる水田と点在する集落が連なる。次の駅は高浜駅だ。電車好きは高浜駅に到着する前、進行方向左手に注目したい。ここに一畑電車の往年の名車、デハニ50形2両が停まっている。保育園内で静態保存されているもので、一両はオレンジ色に白帯、もう一両はクリーム色に水色帯という、それぞれ出雲路を飾ったデハニ50形カラーで残されている。

 

高浜駅を発車したら進行方向左手に注目したい。小さめの赤い鳥居が並ぶ一角がある。筆者も気になり帰りに訪ねてみた。最寄りの高浜駅から徒歩10分、距離で800mほどある粟津稲生神社(あわづいなりじんじゃ)の赤い鳥居だった。

↑粟津稲生神社の赤鳥居と7000系を写してみた。鳥居の先の踏切は警報器がないが、最寄りの踏切の警報音で電車の接近が分かる

 

参道には赤い鳥居が20数本連なっている。その先に警報器・遮断器のない踏切があり、踏切を渡って社殿へ向かう。この赤い鳥居越しの写真が“映える”と話題になり、筆者が訪れた時にも写真を撮りに来た人たちが見受けられた。ちなみに、粟津稲生神社は京都にある伏見稲荷神社の分社として建立されたと伝えられる。伏見稲荷神社も境内に多くの赤い鳥居が立つことで知られるが、こちらもそうした歴史が息づいているわけだ。稲荷神社は全国に多く設けられるが、稲生と書いて「いなり」と読ませる神社は全国で約20社しかないそうである。

 

なお、粟津稲生神社の赤い鳥居は今年の6月15日に建て直された。本数も増え赤さが増し、より“映える”と思う。

 

【ばたでん旅が続く⑦】出雲大社前駅近く背景の山地が気になる

赤い鳥居が見えた次の駅が遙堪駅(ようかんえき)だ。難読駅名で、語源はどこにあるのか調べてみた。このあたりは、進行方向右側に山地が連なって見えてくるようになる。北山山地と呼ばれる低山帯で、そこにかつて菱根池という大きな池があった。“遙かに水を湛(たた)える”が変化して遥堪となったそう。駅名はこの地名に由来する。ちなみに駅は現在、出雲市常松町にある。

 

遥堪駅の次は浜山公園北口駅で、駅名どおり南側に競技場、野球場などが設けられた浜山公園がある。遥堪駅の駅名の元になった北山山地が北側に連なっている。この山地の特長として麓まで平地が広がり、すそ野から急に盛り上がるように急斜面の山々がそびえ立っているところである。

 

この独特な地形はどこかで見た記憶があると思ったのだが、新潟県を走る越後線でも同じような地形を見ることができた。山の麓には彌彦神社(やひこじんじゃ)という古社があった。一畑電車大社線でも同じようにこの先、出雲大社という古社がある。

↑出雲大社前駅の手前に流れる堀川を渡る1000系。この橋梁の先に弥山(みせん)標高506mが見えている

 

神が造りあげたような神々しい山の造形美があり、その麓には古社が設けられているのである。ご神体との絡みもあり、後ほど山と古社の関係を明かしてみたい。

 

連なる北山山地のなかで大社線からも良く見える山が、弥山(みせん)だ。出雲大社の東側に弥山登山口がありハイキングに訪れる人も多い。

 

【ばたでん旅が続く⑧】登録有形文化財でもある出雲大社前駅

川跡駅から11分で出雲大社前駅に到着する。1930(昭和5)年2月2日に開業した駅で、当時の名前は大社神門駅(たいしゃしんもんえき)だった。駅舎は当時のままの洋風な造りで、待合室は上部の明かり取り用のステンドグラスが取り付けられている。こうした姿が歴史的・文化的にも貴重とされ、1996(平成8)年12月20日には国の登録有形文化財に登録された。

↑大社線の終点駅・出雲大社前駅。趣ある建物を記念撮影する人も多い。登録有形文化財を示すプレートが入口右側に付けられている

 

出雲大社前という駅名どおり、出雲大社の最寄り駅だ。神門通りに面していて、この通りを北に徒歩で5分ほどのところに、出雲大社の正門にあたる「勢溜の大鳥居(せいだまりのおおとりい)」が立つ。

↑出雲大社前駅の駅舎内。ドーム形の屋根がおもしろい。ステンドグラス越しに明かりが差し込むお洒落な造りだ

 

【ばたでん旅が続く⑨】旅の定番といえば出雲大社に出雲そば

出雲大社は「神々の国」ともいわれる出雲の象徴である神社だ。「古事記」「日本書紀」などでも触れられ、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀る。まるで大社を守るように周囲は北山山地の緑におおわれている。

 

背景を山に囲まれた古社は、他にも新潟県の彌彦神社、広島県の宮島・厳島神社などが挙げられる。厳島神社は弥山(みせん)、彌彦神社は弥彦山である。出雲大社の北東側にも弥山という山がある。

 

みな「弥」が付く山に守られ鎮座していた。神社は神が降臨して宿る物が「ご神体」とされ、欠かすことができない大切なものとされる。彌彦神社のご神体は弥彦山(神体山とも呼ばれる)、厳島神社は宮島自体、とりわけ弥山がご神体とされる。すると、出雲大社のご神体は弥山かと思いきや、こちらはご神体は明らかにされていない。

 

古くから偉人英傑たちが出雲大社を訪れ、ご神体を見せて欲しいと願ったが、これまで明らかにされなかった。出雲大社のご神体は剣やアワビ、蛇、鏡という説が伝わる一方で、山や木といった森羅万象自体がご神体とも言われている。神社の裏手には八雲山という名の山がそびえ、ここは神職すら入ることができない禁足地となっていて、こちらがご神体なのではとも言われている。いずれにしても、古社を取り囲む山との関係はより緊密であることは間違いない。

 

そしてご神体が明らかにされないことも出雲大社を神秘的にさせている一つの要素なのかもしれない。

↑神門通りの突き当たりにある勢溜の大鳥居。この大鳥居から拝殿までは約500mの距離がある

 

出雲大社の門前町にあたる神門通りは700mほどの通り沿いに老舗宿や食事処が建ち並ぶ。食事処で人気なのはやはり出雲そばだろう。出雲大社の門前町のみに限らず、出雲地方で親しまれる郷土料理で、日本三大そばの一つとされる。

 

出雲でそばが広まった理由としては、松江藩の初代藩主の松平直政(まつだいらなおまさ)が、三代将軍家光の時代に国替えされたことに起因するとされる。直政はもと信州松本藩の藩主だったこともあり、蕎麦好きが高じて信濃からそば職人を連れてきた。もともと奥出雲(出雲の南側一帯)は痩せた土地が多かったことも、そば栽培を盛んにさせた理由だとされる。

 

出雲そばでは割子そば、釜揚げそばといった独特な食べ方が広まり、もみじおろしや、辛味大根の大根おろしを薬味にして楽しまれる。

↑出雲そばは割子そばという食べ方が一般的。いろいろな薬味をのせ、つゆをかけてそれぞれ食べる 写真は一例

【ばたでん旅が続く⑩】鉄道好きならば寄りたい旧大社駅だが……

今回の出雲への旅で、どうしても訪ねてみたいところがあった。旧国鉄大社線の終点、旧大社駅である。大社駅は1912(明治45)年6月1日、大社線の開通とともに開業した。その後1924(大正13)年2月13日に2代目駅舎が竣工した。現在残るのは98年前に建築された2代目駅舎で、出雲大社を模した寺社づくりとされる。賓客をもてなすために荘厳な造りの2代目が建てられたように思われる。1990(平成2)年4月1日に路線が廃線となった後に、駅はJR西日本から旧大社町に無償貸与された。2004(平成16)年には重要文化財に指定、また2009(平成21)年には近代化産業遺産に認定された。

 

2021(令和3)年2月1日からは保存修理(仮設・解体)工事を開始したと聞いていた。筆者は修理以前に訪れたことがあり、現在どのようになっているのか確かめておきかった。

 

旧大社駅は出雲大社前駅から神門通りを南へ約11分900mの距離にある。駅舎は全体がすっぽりとカバーに覆われていて、残念ながら中をみることができなかった。前回撮影した写真があるので掲載しておきたい。左右対称の寺社建築で、駅舎内も素晴らしい出来だった。保存修理工事は2025(令和7)年12月20日までかかるとされる。

↑重要文化財の指定を受けた駅舎は東京駅丸の内駅舎と門司港駅舎、そして旧大社駅のみ。現在は工事中で全体が覆われている(左上)

 

なお、駅舎部分のみ覆われているが裏の一部残されているホームと線路へは、裏手から立ち入ることができる。駅舎側のホームは工事が行われおり、見学の際には工事関係者の指示に従って欲しいとのことである。構内にはD51形774号機も保存されていた。このD51形も出雲市では駅の保存修理に合わせて大規模修繕を進める予定と発表している。

 

保存修理にはだいぶ時間を要するようだが、修理が終わったらぜひまた訪ねたいと思う。

↑旧大社駅駅舎は高い天井で漆喰壁、乗車券売り場など、大正期の駅の様子が残っている 2011(平成23)年8月1日撮影

 

この旧大社駅から出雲大社の勢溜の大鳥居まで16分、約1.2kmと距離がある。一畑電車の出雲大社前駅のように近いところになぜ駅を造らなかったのか疑問に感じるところだ。出雲大社からの遠さも大社線がいち早く廃止になった一因だったように思う。

 

最後に出雲路からの帰路の鉄道利用に関して、注意したいことがあるので触れておきたい。

 

電鉄出雲市駅に接続するJR山陰本線の出雲市駅だが、同駅では「みどりの窓口」が廃止された。近距離区間の券売機と新幹線・在来線特急・乗車券券売機と、みどりの窓口に代わり「みどりの券売機プラス」が設置されている。複雑な経路の乗車券の購入や券売機を扱い慣れない場合には「みどりの券売機プラス」を利用してのオペレーターとの会話が必要になる。(営業時間4時〜23時・オペレータ対応時間5時30分〜23時)。

 

「みどりの券売機プラス」を利用してスムーズに購入できれば良いが、混みあう時間帯は待たされることも多い。出雲市駅は特急「やくも」や特急「サンライズ出雲」といった長距離旅客列車の始発駅だけに「みどりの窓口」が必須と思われ、残念に思う。

 

筆者は出雲市駅から、やや複雑な行程をたどって東京へと考えていたので、旅程を変更して松江駅へ立ち寄り、こちらの「みどりの窓口」で購入をしたが、手間がかかった。事前に他の駅で購入しておくか、あらかじめJR西日本ネット予約「e5489」等で列車の予約しておき、受取だけを出雲市駅の券売機で済ませるなど、事前に対策をしておいたほうが良さそうに感じた。

 

東武の福袋&ブラックフライデーは、新型特急「スペーシア X」初日のプレミアム乗車体験!

東武鉄道は、2023年7月15日に運行を開始する新型特急「スペーシア X」の運行初日に乗車できるプレミアムな旅行商品を、東武トップツアーズの企画・実施のもと、「東武百貨店 池袋店」と「東武ストア」で抽選販売を行ないます。

↑新型特急「スペーシア X」

 

東武百貨店 池袋店では12月1日~2023年1月3日までの期間に福袋として、東武ストアでは11月25日までの期間にブラックフライデーの商品として販売。いずれも抽選で当選者を決定します。

↑スペーシア X「コックピットスイート」

 

「東武百貨店 池袋店の福袋」は、スペーシア Xの運行初日に、一番列車に乗車できるだけでなく、一番列車の中に一つしかない最高級個室「コックピットスイート」に乗車できるという福袋で、2泊3日「ザ・リッツ・カールトン日光」の中禅寺湖ビュースイートルーム宿泊付きプランです。価格は1組2名分で80万円。同プランには東武百貨店の商品券5万円分のほか、日光旅行を贅沢に堪能できるプレミアム特典も予定しているとのこと。

↑「ザ・リッツ・カールトン日光」中禅寺湖ビュースイートルーム

 

「東武ストアのブラックフライデー商品」は、「スペーシア Xの運行初日に乗車できる」というプレミアムな商品。個室の「コンパートメント」に乗車し、「日光金谷ホテル」などに宿泊できる2泊3日のプランで、価格は1名あたり18万円です。

↑スペーシア X「コンパートメント」

この時代に増便?平地なのにスイッチバック? ナゾ多き出雲の私鉄「ばたでん」こと一畑電車の背景を探る

おもしろローカル線の旅98〜〜一畑電車(島根県)〜〜

 

全国の鉄道会社が3年間にわたるコロナ禍で苦しみ、列車本数を減らすなか、逆に増発を行った地方鉄道がある。それは島根県の一畑電車(いちばたでんしゃ)だ。

 

ハロウィン期間中にはヒゲ付き電車を走らせるなど、ウィットに富んだ元気印の鉄道でもある。そんな一畑電車の歴史や車両、路線にこだわってめぐってみた。

*2011(平成23)年8月21日、2015(平成27)年8月23日、2017(平成29)年10月2日、2022(令和4)年10月29日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
今も各地を走り続ける東急「譲渡車両」9選〈東海・中部・西日本版〉

 

【一畑電車の旅①】ユーモラスな出雲の電車「ばたでん」

全国旅行支援の効果もあるかも知れないが、一畑電車は毎週末、かなりの賑わいをみせている。一畑電車の会社の愛称は「ばたでん」。会社ホームページにも「ばたでん」の名前がトップに入り、地元の人たちも「ばたでん」と親しげに呼ぶ。そんな一畑電車の概要をまず見ておこう。

 

路線と距離 一畑電車・北松江線:電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間33.9km
大社線:川跡駅(かわとえき)〜出雲大社前駅間8.3km 全線電化単線
開業 1914(大正3)年4月29日、出雲今市駅(現・電鉄出雲市駅)〜雲州平田駅(うんしゅうひらたえき)間が開業。
1928(昭和3)年4月5日、小境灘駅(現・一畑口駅)〜北松江駅(現・松江しんじ湖温泉駅)の開業で北松江線が全通。
1930(昭和5)年2月2日、川跡駅〜大社神門駅(現・出雲大社前駅)が開業、大社線が全通
駅数 北松江線22駅、大社線5駅(起終点駅を含む)

 

一畑電車は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を結ぶ北松江線と、川跡駅〜出雲大社前駅間を結ぶ大社線の2本の路線で構成されている。2本の路線は以前、ほぼ路線別に電車の運転が行われていたのだが、現在は北松江線から大社線への乗り入れが多く行われている。曜日によってその運用が大きく変わるので、利用の際は注意したい(詳細後述)。

 

【一畑電車の旅②】中国地方で唯一! 老舗の私鉄鉄道会社

一畑電車は、路面電車の岡山電気軌道や広島電鉄、第三セクター鉄道の路線を除けば中国地方で唯一の私鉄の鉄道路線である。その歴史は古く、今から108年前に一部路線が開業している。会社の創設は1912(明治45)年4月6日のことで、その時の会社の名前が一畑軽便鉄道株式会社だった。1925(大正14)年7月10日には一畑電気鉄道株式会社と会社名を改称している。

↑1928(昭和3)年、一畑電気鉄道発行の路線図。横長に広がる鳥瞰図で出雲大社、一畑薬師が大きく描かれている 筆者所蔵

 

2006(平成18)年4月1日に鉄道部門を分社化して一畑電車株式会社となったが、今も一畑電気鉄道という会社名は残り、一畑グループを統括する事業持株会社となっている。

 

掲載した古い路線図は昭和初頭のもので、当時人気があった金子常光という絵師の鳥瞰図が使われている。当時からPR活動にも熱心だった。鳥瞰図には出雲大社と共に一畑薬師(一畑寺)がかなりデフォルメされて大きく掲載されており、出雲大社とともに一畑薬師を訪れる人が多かったことをうかがわせる。

 

【一畑電車の旅③】なぜ“一畑”なのか? 会社名の謎に迫る

一畑電車はなぜ“一畑”を名乗るのだろうか。松江、出雲という都市があり、また出雲大社という観光地がありながら、あえて一畑を名乗った。これにはいくつかの理由があった。

 

かつて、北松江線の路線に一畑薬師(一畑寺)参詣用に設けられた一畑駅という駅があった。場所は現在の一畑口駅の北側、3.3kmの位置。ちなみに、以前は一畑口駅(当時は小境灘駅)から一畑駅まで電車が乗り入れており、一畑口駅が平地にもかかわらず進行方向が変わるスイッチバック駅となっているのはその時の名残である。

 

一畑口駅〜一畑駅間の路線は時代に翻弄される。戦時下、鉄資源に困った政府が乗車率の低い路線、時世にあわないと思われる全国の多くの路線を「不要不急線」として強制的に休止させ、線路の供出が行った。一畑口駅〜一畑駅も不要不急線の指定を受けて1944(昭和19)年12月10日に休止。路線が復活することはなく、1960(昭和35)年4月26日に正式に廃止となった。会社名が一畑となった理由のひとつには、この一畑駅があったことがあげられる。

↑昭和初期に発行された一畑駅の古い絵葉書。すでにこの一畑駅はない。停車する電車は今も残るデハニ50形だと思われる 筆者所蔵

 

しかし、調べてみると他にも理由があった。

 

一畑電車(一畑電気鉄道)の前身となる一畑軽便鉄道は、創設当時の大口出資者が経営する会社が破綻し、路線の開業計画が頓挫しかけた。そこで当時、鉄道敷設により参拝客を増やしたいと考えていた一畑薬師(一畑寺)が会社創設の資本金25%を負担して手助けした。また、出雲大社へ伸びる路線計画を国に提出した際、一度は官設の大社線が敷設されていたことから、競合路線として許可がおりなかった。しかし、一畑薬師に行くことを目的とした鉄道だということを強調したことで申請が通ったとされる。つまり一畑薬師(一畑寺)に、たびたび助けられていたわけである。 こうした要因が会社名に大きく影響したのだった。

 

一畑駅は廃止されたものの、会社創設期の縁もあり、長年親しまれてきた会社名は一畑のままになったわけである。

【一畑電車の旅④】86年ぶりの新車導入。古参車両も保存される

次に一畑電車を走る車両を紹介しておこう。一畑電車の車両はここ10年で刷新され快適になってきている。86年ぶりに自社発注の新車も導入された。4タイプが走っているが、まずは数字順にあげていこう。

↑一畑電車を走る4タイプの電車。2100系はヒゲらしき模様が付いているが、これはハロウィン期間中だったため

 

◇1000系

1000系はオレンジに白帯のカラーで2両×3編成が走る。このカラーはデハニ50形という古い車両のカラーがベースになっている。1000系は元東急電鉄の1000系で、東横線、乗り入れる東京メトロ日比谷線で活躍した車両だ。正面の形が当時と異なっているが、それは中間車を改造したため。中間車を先頭車とするため新たに運転席が取り付けられ、ワンマン化されて2014(平成26)年に入線した。

 

◇2100系

元京王5000系(初代)で、京王電鉄では初の冷房車両だった。一畑へはワンマン改造や台車の履き替えなどを行い、1994(平成6)年に導入された。現在はオレンジ一色に白帯を巻いた姿で走る。元京王5000系の導入車両のうち、一部の電車はリニューアルされ5000系となっている。

 

◇5000系

元京王5000系だが、正面のデザインや乗降扉を3つから2つに変更、また座席をクロスシートに変更している。車体のカラーは青色ベースの車両と、オレンジ色に白帯塗装の「しまねの木」という愛称の車両が走る。「しまねの木」は1席+2席のクロスシートが横に並び、対面する座席ごとに他のスペースと仕切るウッド柄のボックスで囲まれる構造となっていて、カップルやグループ客に人気が高い。

 

◇7000系

一畑電車としてデハニ50形以来、86年ぶりとなる新車で2016(平成28)年から導入された。1両の単行運転ができるほか、貫通扉を利用して2両連結で走ることができる。ベースはJR四国7000系で、電気機器はJR西日本225系のものを流用し、コスト削減が図られている。車体の色は白がベース、「出雲の風景」をデザインテーマにしたフルラッピング車両となっている。

 

ほかに静態保存および動態保存の車両について触れておこう。

 

◇デハニ50形

1928(昭和3)年〜1930(昭和5)年に導入された車両で、荷物室を持つために「ニ」が形式名に付いている。当時の新製車両で、2009(平成21)年3月まで現役車両として働いた。

 

今は一畑電車で2両が保存されている。1両は出雲大社前駅構内に保存されたデハニ52。デハニ50形の2号車で、駅に隣接した出雲大社前駅縁結びスクエアから保存スペースへ入ることができる。もう1両は雲州平田駅構内に動態保存されているデハニ53で、体験運転用の車両として活用されている。また大社線の高浜駅近くの保育園にはデハニ50形が2両保存されていて、子どもたちに囲まれ静かに余生を送っている。

 

デハニ50形は映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』(以下『RAILWAYS』と略)にも”出演”したこともあり、今も人気の高い車両となっている。

↑出雲大社前駅で静態保存されるデハニ52。隣接する縁結びスクエアから入ることができる。車内も乗車可能だ

 

ちなみに、遠く離れたところながら一畑軽便鉄道時代の車両も残されているので触れておこう。

 

静岡県の大井川鐵道の新金谷駅に隣接した「プラザロコ」で保存される蒸気機関車は元一畑軽便鉄道時代に活躍した車両だ。ドイツのコッペル社製のCタンク機で、一畑へは1922(大正11)年に4号機として導入された。その後に複数の工場の入れ換え機として使われ、大井川鐵道へわたり「いずも」と名付けられ大切にされている。

 

一畑電車の古い車両は場所が異なるものの、複数の車両が残っていること自体が奇跡のように思う。デハニも多く残っているように、車両を大切にしてきた同社の思いが、今も伝わってくるようだ。

↑大井川鐵道の施設で保存されている元一畑軽便鉄道のドイツ製蒸気機関車。一畑導入当時は4号機で、大井川鐵道では「いずも」と改称

 

【一畑電車の旅⑤】この時代に増便?画期的なダイヤ改正を行う

一畑電車を利用にあたって注意したいのは電車の時刻だ。土日祝日と平日ダイヤが大きく異なり、行先も異なる。土日祝日のダイヤは昨年の10月1日に改正されたものだが、平日のダイヤは今年の10月3日に大きく変更された。

 

改正された平日ダイヤでは、乗客を乗せずに動かしていた回送列車4本を急行列車に変更、さらに電鉄出雲市駅〜松江宍道湖温泉間の昼間帯普通列車3往復を急行列車に変更した。一方で、急行列車前後の普通列車のダイヤを調整し、急行通過駅の利用客の利便性に配慮した。

 

回送列車を旅客列車に変更する増便方法は画期的な方策のように思う。今の時代に増便すること自体が珍しく、加えて急行を走らせ時間短縮を図るなど積極姿勢が感じられ、同社のダイヤ改正が新聞紙上やネットニュースにも取り上げられたほどだった。

 

ここで一畑電車の土日祝日と平日の列車の傾向を見ておこう。

↑出雲科学館パークタウン前駅付近を走る7000系。土日祝日は出雲大社前駅から電鉄出雲市駅行き直通特急が運行される(右下はその表示)

 

〔土日祝日のダイヤ〕

朝夕は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を往復する普通列車がすべてだが、日中はがらりと変わり、電鉄出雲市駅発と松江しんじ湖温泉駅発の電車すべてが出雲大社前駅行きとなる。電鉄出雲市駅〜出雲大社前駅間は複数の途中駅を通過する特急も数本ある。

 

日中は、電鉄出雲市駅から松江しんじ湖温泉駅へ、また松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲市駅へ行きたい時には、途中の川跡駅での乗換えが必要になる。

 

〔平日のダイヤ〕

大半の列車は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を走る。そのうち日中は急行列車が4往復、また朝には電鉄出雲市駅発、松江しんじ湖温泉駅行きの「スーパーライナー」という列車が設けられている。この列車は同駅間45分(各駅停車利用時は約60分)と最短時間で着けるようにダイヤが設定されている。

 

一方、出雲大社駅行きの直通電車は電鉄出雲市駅発が2本、雲州平田駅発の電車は朝6時台の1本のみと少ない。

 

ここまで平日と土日祝日で運転の傾向が変わる鉄道会社も少ないのではないのだろうか。一畑電車の利用客は半分以上、観光客が占めているという。さらに、平日日中の主要駅以外での乗降は0.4%しかいないそうだ。平日の日中は観光客とビジネス客が主体となる利用状況を考えて、少しでも早く目的駅に着けるように急行列車を新たに走らせ、より便利になるように増便したのだとされる。とにかく思い切ったダイヤの組み方をしているわけだ。

 

だが、一般利用者にそのことが周知されているわけではないようで、週末に筆者が乗車した電車では、乗換えるべき川跡駅で降りずにそのまま乗ってしまい、数駅いったところで慌てて降りるという乗客を数人、見かけることになった。土日祝日は、出雲大社前へ行きやすくなったものの、誤乗車する人も現れているので注意したい。

【一畑電車の旅⑥】電鉄出雲市駅はJR駅と近いようなのだが

前置きが長くなったが、ここから一畑電車の旅を始めたい。北松江線の起点となる電鉄出雲市駅からスタートとなる。JR山陰本線の出雲市駅からの乗換えとなるが、筆者はここで最初から失敗しかけてしまった。

 

JRの特急列車から降りて駅の北口を出る。電鉄出雲市駅が目の前だから5分もあれば十分だろうと思っていた。まず荷物をコインロッカーに預けた。だが、コインロッカーは電鉄出雲市駅からだいぶ離れた場所にあった。電鉄出雲市駅はJR出雲市駅の北口を出て右手に見えていて分かりやすいのだが、150メートルほど離れていたのだった。結局、小走りで移動することに。改札でフリー乗車券を購入、階段を駆けのぼり、発車にぎりぎり間に合ったのだった。一畑電車は何度か来て乗っていたのだが、預ける荷物がある場合には、余裕を見て乗換えした方が良いことが分かった。

 

↑JR山陰本線の高架橋に並ぶように設けられた電鉄出雲市駅。ホームは高架上にある(左下)。窓口でフリー乗車券が販売される(左上)

 

一畑電車全線を乗り降りする場合には「一畑電車フリー乗車券」(1600円)が得だ。各路線の起点終点駅と川跡駅、雲州平田駅で販売している。また65歳以上のシルバー世代には「一畑電車シルバーきっぷ」(1500円)も用意されている。

 

【一畑電車の旅⑦】映画『RAILWAYS』にも登場した大津町駅

電鉄出雲市駅のホームに止まっていたのは5000系「しまねの木」号だった。2席、4席が囲われたボックス席がユニークな電車だ。ちょうど乗り合わせた女子高校生らしきグループは初めて乗車したようで「この電車いい! ここで宿題ができそう」と話していた。落ち着くボックス席には、窓側に折畳みテーブルが付けられていて、確かに勉強にはぴったりかも知れない。

↑5000系「しまねの木」号は座席がボックス構造だ(右上)。出雲科学館パークタウン前駅付近ではJR山陰本線の線路と並行して走る

 

そんな楽しそうなおしゃべりを聞きながら、松江しんじ湖温泉行きが出発した。高架ホームを発車した電車はJR山陰本線の高架路線と並走し、次の出雲科学館パークタウン前駅を発車後も、進行方向右にJR山陰本線を見ながら走る。途中で左へカーブして、次の大津町駅へ向かう。出雲市の町並みを見ながら到着した大津町駅は、どこかで見た駅だと思ったのだが、実は映画『RAILWAYS』のワンシーンの撮影に使われていた駅だと知り、なるほどと思った。沿線には同映画の舞台として登場した駅も多い。

 

大津町駅の西側にはかつて、山陰道の28番目の宿場「今市宿」が設けられていた。大津町駅の西側、出雲市駅の北側にかけての通り沿いで、今も情緒ある町並みが高瀬川沿いにわずかに残っている。ちなみに、出雲市駅はかつて出雲今市駅という駅名で、この今市宿の名前を元にしている。出雲今市駅は1957(昭和32)年に出雲市駅と改称された。

↑電鉄出雲市駅から2つ目の大津町駅。1914(大正3)年に開業した駅だが、2003(平成15)年に現駅舎となった

 

【一畑電車の旅⑧】川跡駅での乗換えには要注意

今市宿にも近い大津町駅を発車して国道184号、続いて国道9号の立体交差をくぐる。国道が連なることでも、このあたりが山陰道の要衝であったことが分かる。国道9号を越えると沿線には徐々に水田風景が広がるようになる。

↑川跡駅に近づく北松江線2100系電車。この2104+2114の編成は3年前まで「ご縁電車しまねっこ号」(写真)として走った

 

次の武志駅(たけしえき)を過ぎると右カーブをえがき大社線の乗換駅、川跡駅に到着する。川跡駅の先の松江しんじ湖温泉駅方面へ行く時には、平日はほぼそのままの乗車で良いのだが、土日祝日は朝夕を除き、川跡駅での乗換えが必要になる。

 

川跡駅ではほとんどの北松江線、大社線の電車が待ち時間もなく接続していて便利だ。ただし乗換えによっては西側に設けられた構内踏切を渡っての移動が必要になる。駅舎側の1番線、2番線、3番線と並び、出雲大社前行き、電鉄出雲市行き、松江しんじ湖温泉行きの電車がそれぞれホームに到着する。

 

何番線が○○行きといった傾向が曜日、時間帯で異なるため、乗換えの際には、川跡駅に着く前に行われる車内案内とともに、駅のスタッフのアナウンスによる行先案内と、電車の正面に掲げた行先案内表示をしっかり確認して、間違えないようにしたい。

↑駅舎側(左)から4番線(通常は使用しない)と1番線、構内踏切で渡ったホームが2番線、3番線とならぶ。乗換え時は注意が必要

 

【一畑電車の旅⑨】余裕があればぜひ立ち寄りたい雲州平田駅

筆者は土曜日の朝の電車に乗車したこともあり、川跡駅で乗り換えずにそのまま乗車して松江しんじ湖温泉駅を目指した。

 

川跡駅を発車すると左右に水田が広がり、進行方向右手には斐伊川(ひいがわ)の堤防が見えてくる。斐伊川が流れ込むのが宍道湖(しんじこ)だ。なお宍道湖自体も一級河川の斐伊川の一部に含まれている。

 

途中、大寺駅(おおてらえき)、美談駅(みだみえき)、旅伏駅(たぶしえき)とホーム一つの小さな駅が続く。そして雲州平田駅に到着した。同駅は一畑電車の本社がある駅で、同鉄道会社の中心駅でもある。単線区間が続く北松江線では、この駅で対向列車との行き違いもあり、時間待ちすることが多い。

 

時間に余裕があれば下車して駅の周囲を回りたい。車庫に停まる電車もホーム上から、また周囲からも良く見える。筆者も訪れた際には、どのような車両が停まっているかと確認するようにしている。

↑雲州平田駅に近い寺町踏切から臨む車庫。検修庫内に3000系(廃車)、2100系や5000系が見える 2015年8月23日撮影

 

以前に訪れた時には、車庫の裏手に設けられた150メートルの専用線路でちょうど体験運転(有料)が行われていた。デハニ53形を使っての運転体験で、毎週金・土・日曜祝日に開催されている(年末年始および祭事日を除く)。運転体験は本格的で、まず電車の仕組みと操作方法を講習で学び、ベテラン運転士の手本を見学し、最終的には実際に運転席に座っての体験運転が可能だ。終了後には体験運転修了証や、フリー乗車券がもらえるなどの特典もある。

 

鉄道好きならば、一度は体験したい催しといっていいだろう。筆者は羨ましい思いを抱きながら写真を撮るのみだった。

↑専用線路を使っての「デハニ50形体験運転」。今年の6月8日から制限がなくなり全国の利用者が楽しめるシステムに戻った

 

【一畑電車の旅⑩】田園風景が広がる雲州平田駅〜園駅間

雲州平田駅を出発すると美田が続く一帯が広がる。筆者は車庫周りを巡るとともに、この沿線では車両の撮影によく訪れる。

 

次の布崎駅付近までは、きれいな単線区間が続く。北側に架線柱が立ち邪魔になるものが少なく車両がきれいに撮影できる。背景には宍道湖の西側にそびえる北山山地の東端にある旅伏山があり絵になる。

↑雲州平田駅〜布崎駅間を走る1000系。周りは水田、後ろには北山山地が見える。同線で見られる架線柱もなかなかレトロなものだ

 

平田船川を渡り布崎駅に到着、そして次は「湖遊館新駅」駅へ。「駅」という文字が最初から入る全国的にも珍しい駅名で、「駅」を駅名表示の後に付ける本原稿のような場合には、駅が重複することになる。

 

同駅は1995(平成7)年10月1日に開業した請願駅で、駅から徒で10分ほどの宍道湖湖畔に「湖遊館」が開設され、新しい駅だったことから今の駅名が付けられた。ちなみに湖遊館には現在、「島根県立宍道湖自然館ゴビウス」という名の水族館がある。ゴビウスとはラテン語でハゼなど小さな魚を表す言葉だそうで、同館では宍道湖で暮らす汽水域の魚たちを中心に展示紹介している。

↑小さなホームと駅舎の「湖遊館新駅」駅に到着した7000系。島根県立宍道湖自然館ゴビウスが同駅の南側にある

 

【一畑電車の旅⑪】一畑口駅での電車の発着にこだわって見ると

湖遊館新駅駅を発車して園駅(そのえき)へ、この駅を過ぎると、右手に宍道湖が国道431号越しに見えてくる。とはいえ園駅〜一畑口駅間で見える宍道湖の風景はまだ序章に過ぎない。

 

北松江線のちょうど中間駅でもある一畑口駅へ到着した。この駅は前述したように、平地なのにもかかわらずスイッチバックを行う駅で、すべての電車が折り返す。運転士も前から後ろへ移動して進行方向が変わる。この駅での電車の動きを一枚の写真にまとめてみたので、見ていただきたい。2本の構内線にそれぞれの電車が入場し、そして折り返していく。

↑一畑口駅9時42分発の出雲大社前行きが入線、9時43分発の松江しんじ湖温泉行きが入線、それぞれ出発までの様子をまとめた

 

土日祝日のダイヤでは一畑口駅で両方向へ向かう電車が並ぶのは1日に2回のみというレアケースであることが後で分かった(平日には7回ある)。こんな偶然の出会いというのも、旅のおもしろさだと感じた。

 

ところで一畑口駅の線路の先、旧一畑駅方面は今、どうなっているのだろうか。

 

一畑口駅の先には200メートルほどの線路が伸びているが、その先は行き止まりで、車止めの先には一般道が直線となって延びている。実はこの道路にも逸話があった。旧路線跡には一畑口駅〜一畑駅間が正式に廃止された後の1961(昭和36)8月に「一畑自動車道」という有料道路が一畑電気鉄道により開設されていたのである。この道路は一畑に設けられた遊園地「一畑パーク」のために開設されたものだった。一畑パークはピーク時には年間12万人もの来園者があった遊園地だったが、人気は長続きせずに1979(昭和54)年に閉園、有料道路は1975(昭和50)年に廃止された。この後に一畑薬師(一畑寺)が同有料道路を買収、出雲市に無償譲渡していた。

↑一畑口駅の先には200mほど線路が残る。車止めの先に戦前までは線路が一畑口駅まで延びていた。現在は一般道となっている(左上)

 

一畑をレジャータウン化する計画は10余年で頓挫し、会社創設時のように再び一畑薬師により助けられた形になったわけである。ちなみに一畑薬師へは一畑口駅からバスまたはタクシーの利用で約10分と案内されている。

 

一畑口駅から先の美しい沿線模様と、大社線の興味深い路線案内はまた次週に紹介することにしたい。

↑一畑口駅から松江しんじ湖温泉駅かけては、宍道湖の風景が進行方向、右手に続く

 

ありがとうキハ28形!別れを噛みしめる「いすみ鉄道」乗り納めの旅

おもしろローカル線の旅97〜〜いすみ鉄道いすみ線(千葉県)〜〜

 

千葉県のあるローカル線がこの秋、大変な賑わいを見せている。その路線とは、いすみ鉄道いすみ線。名物だったキハ28形が11月27日で定期運行を終了するため、今のうちに〝乗り納め〟をしようと、多くの人たちが訪れているのだ。

 

今回は、古参車両の歴史もふり返りつつ、いすみ鉄道の旅を始めていきたい。

*2010(平成22)3月12日から2022(令和4)年10月23日に撮影取材した現地材料を中心にまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
懐かしの気動車に乗りたい!旅したい!「小湊鐵道」「いすみ鉄道」

 

【いすみ鉄道の旅①】人気のキハ28形とはどんな車両なのか?

11月で定期運行が終わるいすみ鉄道のキハ28形とはどのような車両なのか、歴史やバリエーションを含めて触れておこう。

 

年齢によってこの車両への思いは違ってくるだろう。50代以上にとっては小さいころから青春時代まで急行用車両として利用したリアルな体験があり、それ以降の世代は観光列車や地方ローカル線で乗車した経験があるかと思う。また、若い世代の中には、いすみ鉄道で初めて出会った、乗ったという人もいるのではないだろうか。

 

いずれにしても国鉄形と言われる代表的な車両であり、多くのファンを惹き付けてきた車両のように思う。筆者もその1人であり、いろいろな記憶が蘇る。

↑中央本線の国分寺付近を走る急行「アルプス」。長大編成の気動車急行が全国を走っていた 1968(昭和43)年ごろ筆者撮影

 

キハ28形は急行形気動車のキハ58系がベースとなる。非電化路線の無煙化を進める国鉄が1961(昭和36)年から積極的に導入を進めた車両で、1969(昭和44)年までに1823両と大量の車両が製造された。寒冷地仕様のキハ56系まで含めれば2000両を越える。

 

バリエーションは豊富だが、ここでの解説はキハ28形のみに留めておく。キハ28形は片運転台、本州以南向けにつくられた一般形2等車両(現・普通車)で、キハ58形がエンジンを2基積むのに対して、キハ28形は1基だった。

 

1800両以上も造られたキハ58系は、国鉄民営化後もJR北海道を除く全国のJR旅客会社に引き継がれ使われ続けた。そんな多くのキハ58系車両も、すでに製造されてから60年近くとなり、次々に引退となっていった。そして、いすみ鉄道のキハ28 2346号車がキハ58系最後の1両となったのである。

↑キハ28 2346号車は2000(平成12)〜2003(平成15)年に小浜線を走った。そしてキハ58系と編成を組み走った 小浜駅近くで筆者撮影

 

このキハ28 2346号車の経歴を見ておこう。まずは1964(昭和39)年4月15日に鳥取県の米子機関区(現・後藤総合車両所)に配置された。その後に各地を転々とする。新潟機関区(現・新潟車両センター)、千葉気動車区を経て米子機関区に戻り、さらに石川県の七尾機関区、富山運転所、高岡鉄道部、福井県の小浜鉄道部から再び高岡鉄道部へ戻る。JR西日本では高山本線での運用が最後になった。その後、廃車が検討され保留車になったが、越前大野鉄道部へ移り災害復旧に役立てられた。

 

要は非常に〝転勤〟が多かった車両なのだが、千葉気動車区では急行「房総」、急行「京葉」といった列車に使われていた。キハ28 2346号車にとって、外房線の大原駅はかつて日常的に通っていた路線であり駅だったのである。その後、金沢総合車両所で整備された上でいすみ鉄道へ譲渡され、2012(平成24)年10月11日に搬入、再整備した上で、翌年の3月9日から運用が開始された。生まれてから58年、いすみ鉄道へやってきてから10年たった。そんな古参車両も、ついに11月27日(日)で定期運用が終了となる。

 

引退の理由としては、キハ58系の最後の一両で、走行用エンジンや冷房エンジンなどの部品調達が困難となり、また車両維持に多額の資金が必要になるためとのこと。引退後の車両の処遇は検討中で、来年2月ごろまではイベント列車としての運行計画も検討されているようだ。

 

【いすみ鉄道の旅②】国鉄木原線として誕生したいすみ線

キハ28形が走るいすみ線の概要を見ておこう。

路線と距離 いすみ鉄道いすみ線:大原駅〜上総中野駅(かずさなかのえき)間26.8km 全線非電化単線
開業 1930(昭和5)年4月1日、木原線の大原駅〜大多喜駅間が開業、
1934(昭和9)年8月26日、総元駅(ふさもとえき)〜上総中野駅間が開業、現在の路線が全通
駅数 14駅(起終点駅を含む)

 

いすみ線の歴史は官設の木原線により始まる。木原の「木」は木更津のことで、当初は木更津と大原を結ぶ路線として計画された。これより以前に大原〜大多喜間には県営人車軌道、さらに夷隅軌道が走っていたが、赤字続きで経営が成り立たなくなり、木原線の開業前に会社が解散してしまった。地元の人々の陳情が実り、代わりに木原線が開業したのだった。

 

戦後は国鉄木原線として運行され、1987(昭和62)年にJR東日本に継承されたものの、1988(昭和63)年3月24日に第三セクター鉄道のいすみ鉄道に引き継がれ、現在に至る。

 

【いすみ鉄道の旅③】車両は国鉄形の新車などユニーク

いすみ線を走る車両の紹介をしておこう。現在、車両は5タイプが走る。

 

◇キハ28 2346号車

↑大多喜駅を出発する急行運用のキハ28 2346号車。後ろはキハ52。キハ28は国鉄時代の一般色、急行形気動車色で塗られている

 

前述したようにキハ58系のエンジン1基タイプで、いすみ鉄道ではキハ52と連結して運行されている。急行列車、レストラン車両としても運用されてきた。座席はボックス+ロングで計32席。定員は77人となっている。塗装は急行形気動車色とも呼ばれ、地色はベージュ「クリーム4号」(国鉄時代に決められた塗装色および呼び名=以下同)で、窓周りはややオレンジがかった「赤11号」で塗られる。

 

ほか4車両は製造された順番に紹介していこう。

◇キハ52形

キハ28形と同じように国鉄時代生まれで、JR西日本経由で入線した。ベースはキハ20系と呼ばれる一般形気動車で、各地の非電化区間の普通列車に利用された。キハ52形は、キハ20系の勾配線区向けの形式で、エンジンが2基搭載されている。座席はボックス+ロングシートで61席、127人が乗車可能人数となる。

 

いすみ鉄道で走るキハ52 125号車は、かつてJR大糸線を走っていた車両で、当時は黄褐色がベースで青3号と呼ばれるブルーで塗られていた。2010(平成22)年にいすみ鉄道へ譲渡され、国鉄一般色と呼ばれるクリーム4号+朱色4号に塗り替えられ、翌年の4月29日から走り始めている。ちなみに、2014(平成26)年3月〜2019(令和元年)6月の間は首都圏色と呼ばれるオレンジ色一色に塗り替えられたが、現在は国鉄一般色に戻されている。

 

このキハ52とキハ28がコンビを組んで走り続けている。最新のキハ52形+キハ28形列車のダイヤを見ておこう。運行は土日祝のみで下記のダイヤで走っている。

 

下り101D:大多喜駅11時18分発 → 上総中野駅11時42分着

上り102D:上総中野駅11時52分発 → 大多喜駅12時16分

上り102D急行:大多喜駅12時20分発 → 大原駅12時53分着

下り103D急行:大原駅13時20分発 → 大多喜駅13時52分着

 

なお、下り列車はキハ52形を先頭に、上り列車はキハ28形を先頭にして走る。急行列車の乗車の際には乗車券の他に急行券(大人300円)が必要だ。

 

◇いすみ300形

いすみ300形は、いすみ鉄道創設当時から走り続けた「いすみ200形」の代わりに2012(平成24)年から2両が導入された。製造は新潟トランシスで、座席はボックス席43席、乗車可能人数は113人だ。

 

◇いすみ350形

2013(平成25)年に2両が導入された車両で、基本的な造りや、カラーはいすみ300形と同じだが、正面の形が国鉄のキハ20系気動車の形を彷彿させる姿となっている。こちらの座席はロングシートで44席、乗車可能人数は125人と、いすみ300形に比べて多くなっている。

 

◇キハ20

2015(平成27)年6月に導入された車両で、いすみ350形と同様にキハ20系気動車を似せた形となっている。一方で、塗装はキハ52形と同じ国鉄一般色で塗り分けられた。座席はボックス席でいすみ300形と同じ座席数、乗車可能人数となっている。

 

↑キハ28形を除く現在のいすみ鉄道の車両。こうして見るといすみ鉄道の気動車はかつての国鉄形デザインの車両が多いことが分かる

 

ほかには、国吉駅構内に保存車両も停められている。一両は国鉄形通勤用気動車のキハ30 62号車で、動態保存され、運転体験を楽しむことができる。もう一車両は、いつみ鉄道創業当時に導入されたいすみ200形で、こちらは静態保存されている。

↑国吉駅構内に停められるキハ30 62号車(右)は元久留里線や国鉄木原線を走った。左はいすみ200形206号車

 

【いすみ鉄道の旅④】大原駅の売店はキハ28グッズ形がいっぱい

今回のローカル線の旅は、路線の紹介も行いつつ、キハ28形にまつわる話、撮影場所などにも触れていきたい。

 

起点となる駅は外房線の大原駅。JRの駅舎につながるように、いすみ鉄道の駅舎がある。玄関口はJRのほうが大きいが、北側にいすみ鉄道の入口も設けられている。

↑JR外房線の大原駅に並び、左手の自販機の横にいすみ鉄道の入口がある。駅内の売店ではキハ28形グッズが大集合していた(左上)

 

いすみ鉄道の駅舎内には切符の券売機があり、1日フリー乗車券は、平日(大人1200円)、土休日用(大人1500円)で販売される。自社線内だけでなく、上総中野駅から小湊鐵道を利用して五井駅まで乗車可能な「房総横断乗車券」(大人1730円)も販売している。なお、同横断乗車券は途中下車・片道乗車のみ有効となっている。

 

大原駅の構内には売店があり、お弁当、菓子類のほか、いすみ鉄道のグッズも多数取り扱っている。ここ最近ではキハ28形関連グッズの人気が上々のようで、多数販売されていた。

↑大原駅の2番線に到着のキハ28形急行列車。1番線にはキハ20が停車。風景だけを見るとまるで昭和の駅に迷いこんだよう

 

切符を購入して構内へ。ホームは1面で、通常は1番線に列車が停車しているが、急行列車運行の際には2番線も利用されている。駅に停まっている発車待ちしていた列車内に、駅のスタッフが乗り込み、次のような呼びかけをしていた。

 

「『特急わかしお』が到着しますと混みあうと思われます。途中駅で下車される方はなるべく前に乗車することをおすすめします」とのことだった。つまり、キハ28形引退発表後には混みあうことが多くなり、車内の移動が難しくなる。「後のり前おり」のワンマン運転で、おりる時に運転席後ろにある料金箱に料金を入れるシステムのため、途中下車する場合には前に乗ったほうがいいですよ、というアドバイスだったのだ。

 

筆者が乗車したのは朝9時1分発の55D列車で車両はいすみ350形だったが、キハ28形の引退人気は予想をはるかに上回るものだった。

 

【いすみ鉄道の旅⑤】西大原駅付近の草刈りに頭が下る思い

発車時間が近づき、立って乗車する利用者も多い。観光客に加えて三脚、脚立などを持った鉄道ファンが多く見受けられた。列車は外房線の線路を離れ、左カーブをきって走っていく。大原の街中から次第に郊外の風景となり次の停車駅、西大原駅へ到着する。この西大原駅から上総東駅(かずさあずまえき)までは左右に水田が広がる。

 

いすみ鉄道の路線は専門スタッフや、地元の農家の方々が線路沿いの雑草を除去しているところが多く、車両を撮る立場として非常にありがたい。10月末に乗車した時に、意識的に窓の下の雑草の伸び具合をチェックしたのだが、雑草が生い茂る場所は、あまり見かけなかった。

↑上総東駅〜西大原駅間を走るキハ28+キハ52列車。同区間では草刈りされる風景に出会ったことも(右上)

 

上の写真は7年前に撮影した模様だ。この西大原駅〜上総東駅間は、朝8時台に通過するキハ28形の撮影に向いていた区間だったのだが、ダイヤが変更となり上り列車の通過が12時台となってしまった。そのために西大原駅近くでは正面に光が当たらなくなったのがちょっと残念だ。逆に下り列車のキハ52形を先頭にして撮るのには、うってつけの光線状態となっている。

 

【いすみ鉄道の旅⑥】順光にひかれて新田野駅付近は大賑わい

いすみ鉄道は地図を見ると分かるように、意外に線路がカーブしている。そのため天気の良い日ほど、撮影場所の選択は難しくなる。特にキハ28形を先頭にして走る上り列車の人気が高い。現在は上総中野駅11時52分発、大多喜駅12時20分発、大原駅12時53分着の列車に限られている。

 

いま、この列車を狙おうと多くの人が集まるのが新田野駅(にったのえき)周辺である。この新田野駅からしばらくの間、列車は南東に向いて走る。昼過ぎにこの地区を走るキハ28形を撮るのに最適の区間なのだ。

 

筆者も何度かこの区間を訪れたが、背景は水田で、やや盛り上がった直線路を走ってくるため、誰が撮っても間違いなくキハ28+キハ52(以下、「キハ28列車」と略)をきれいに写せるだろう。そのために、この地区は大変な人気となっていて、国道465号から線路へ入るわき道沿いには三脚がひな壇状に並び壮観だ。駐車違反となりそうな車も多いので、なるべく列車利用で訪問したいところ。11月中は駐車の取り締まりも厳しくなると思われる。

 

こだわるタイプの鉄道ファンがいすみ鉄道を訪れる理由の一つに、ヘッドマークが挙げられる。今年の1月中旬〜3月下旬にはかつて四国を走った「うわじま」「いよ」というヘッドマークを、所蔵する松山運転所からわざわざ借り受けて装着し、さらに正面に通称「赤ひげ」と呼ばれる赤帯のアクセントを入れて走らせた。まるで、かつて四国を走っていたような姿だったため、多くの撮影者で沿線が賑わったのはいうまでもない。

↑新田野駅〜上総東駅間の定番スポットで。この時は四国の急行「うわじま」のヘッドマークと「赤ひげ」塗装で走行した。左上は新田野駅

 

【いすみ鉄道の旅⑦】名物となった国吉駅のたこめし駅弁

話がキハ28形に寄り過ぎたが、沿線の観光要素にも触れておきたい。新田野駅の次は国吉駅となる。ここでは週末ともなると、「たこめし弁当」(1000円)の販売が、ホームだけでなく車内にもスタッフが乗車して行われている。最近はキハ車両のかぶりものをするなど〝のり〟が非常にいい。この名物弁当を購入する人も多いようだ。

↑国吉駅名物のたこめし弁当。立ち売り以外にも駅構内でも販売。最近はかぶりものをしたスタッフも頑張っている(右下)

 

同駅での停車時間は列車により1分から5分とまちまち。短い停車時間の列車は残念にも感じる。ちなみに、駅弁販売を行うスタッフは「いすみ鉄道応援団」というボランティア団体。いすみ鉄道は、地元の多くの人たちに支えられて走っているわけである。

 

国吉駅付近も水田が広がり好適地だが、キハ28列車の発車が12時37分発とやや遅くなり、正面の光がやや陰ってくる。

 

国吉駅構内に停まるキハ30は9月まで有料での運転体験が行われていた。たこめし弁当付きで、机上講習を受けたうえで、1人4回、実車講習・運転体験が楽しめたそうだ。

 

↑国吉駅を発車したキハ28列車。駅構内にはキハ30(右)が動態保存されている

 

国吉駅から上総中川駅の前後までは国道465号が平行して通っている。途中、菜の花スポットなどの人気ポイントがあり、また光の状態が良い南東方向へ向けて走る区間もあり撮影者も多い。さらに城見ヶ丘駅(しろみがおかえき)から大多喜駅の間は桜並木が続き、第三夷隅川橋梁などの人気スポットが続く。

 

10月末に訪れた時には人気ポイントに三脚を立てた撮影者たちの姿が多く見受けられた。この付近をキハ28列車が通過するのが12時半ごろなので、約3時間も気長に待つ予定なのだろう。

↑大多喜駅〜城見ヶ丘駅間の第三夷隅川橋梁で。網棚などキハ28形の車内設備はみな郷愁を誘うものばかり(右下・詳細は本文参照)

 

【いすみ鉄道の旅⑧】大多喜駅ではキハ28列車を待つ行列も

筆者が乗車した列車は大多喜駅に10時56分に到着した。ホームにはなぜか多くの人たちがいる。これまで何度か訪れた大多喜駅だが、この人の多さは何だろう? 駅スタッフが「キハ28に乗車する方は、こちらへ並んでください」と声がけをしているので、このあと11時18分発の上総中野駅行きキハ28列車を待つ人たちだと分かった。筆者も慌ててその列に並んだが、11月に入ったらもっと大変な行列になるだろうと思った。

↑いすみ鉄道の中心駅となっている大多喜駅。同駅で鉄印が販売されている。鉄印帖入れに便利な「キハ52ポーチ」(1530円)も用意

 

大多喜駅にはいすみ鉄道の車庫もあり、車両の出入りが駅の内外から見ることができる。10時56分着の大多喜駅止まりの列車が1番線から離れると、代わって車庫からキハ28の列車が入線してくる。この列車は11時18分発の上総中野駅行きとなる。

↑大多喜駅の車庫を出庫するキハ52+キハ28(右)。ちょうど下り列車キハ20(左)と並んだ。キハ20は新車だが、まるで同世代の車両のようだった

 

大多喜は江戸時代には大多喜藩があったところで、現在も「房総の小江戸」と呼ばれている。駅の西側に大多喜城が建ち、東側には城下町も残っている。「県立中央博物館大多喜城分館」(現在施設改修のため休館)や、商い資料館等の施設もあり、時間に余裕がある時には散策にうってつけの町なのだ。ただ、キハ28形が走っている間は、そちらに注目が集まりそうだが……。

 

ちなみに、鉄道好きには「房総中央鉄道館」(日曜のみ開館/有料)もあり、館内には多くの鉄道部品が展示され、広大なNゲージやHOゲージのジオラマも用意されている。

 

 

↑19世紀中ごろに建った大多喜町の渡邊家住宅。渡邊家は大多喜藩御用達を務めた商家だった。列車内から大多喜城も見える(右上)

 

【いすみ鉄道の旅⑨】名物の桜や菜の花とも永遠のお別れに

大多喜駅でキハ28列車の乗車の行列に並び、無事に乗車することができた。キハ52形との編成ながら、やはり引退するキハ28形のほうに乗車する人が圧倒的に多かった。筆者にとって、沿線で撮影することが多いキハ28列車だったが、いすみ鉄道のキハ28形に実際に乗車するのは初めて。キハ58系の列車に乗車するのは、いつ以来のことになるのだろう。

 

自由席のサボが付いた乗降口から乗り、まずは年季の入った車内を眺める。床は長年、多くの人が歩いて使い込んだ古さが感じられる。

 

青い座面の下に貼られたヒーターの暖気が吹き出る小さな穴が開いた金属板。グレーの肘当ての角の丸み。窓上には座席指定の1A・1Bなどを示した小さなプレート、その横にある上着をかける金属の無骨なフック。網棚は太い緑の糸を網状に編んだ、それこそ本来の言葉そのものの「網棚」。天井には蛍光灯むき出しの照明、角張った大きなクーラーのふきだし口……見るものすべてが懐かしい。

 

乗り心地は新しい車両のようにはいかず揺れる。継ぎ目の多い線路を走るジョイント音が聞こえてくる。一基ながらエンジン音も独特の音を奏でている。これは最新車両ではなかなか体験できない味わいだろう。

 

大多喜駅を出たキハ28+キハ52の組み合わせは、上総中野駅までキハ52が先頭となり走っていく。第四夷隅川橋梁では、右に大多喜城を眺め、第五夷隅川橋梁を渡り小谷松駅(こやまつえき)へ。さらに東総元駅(ひがしふさもとえき)と、桜や菜の花がきれいな区間が続く。とはいえ今は秋。名物の桜や菜の花が咲くころには、もうキハ28形とのコラボを見ることができないのが残念である。

↑東総元駅付近は、春先の桜と菜の花畑が名物だ。写真は引退してしまったいすみ200形

 

ホーム一つの小さな久我原駅(くがはらえき)を発車すると、列車は第六夷隅川橋梁、第七夷隅川橋梁を渡って、総元駅(ふさもとえき)へ。こうして見ると蛇行する夷隅川を、いすみ線の列車は多数の橋梁で渡っていることが分かる。総元駅を過ぎれば夷隅川に架かる最後の第八夷隅川橋梁を渡る。

 

【いすみ鉄道の旅⑩】上総中野駅近くで最後の撮影を行う

西畑駅からは山中を抜けてやや登っていく。大多喜駅からわずか24分の道のり。駅が近づいてくると、終点の上総中野駅が近づいたというアナウンスとともにBGMにはオルゴール音が流される。かなりテンポが遅くぎくしゃく感があるオルゴール音が妙に懐かしく郷愁を誘う。これぞキハ28形の極め付けの音だと思った。

 

キハ28列車は上総中野駅に到着した。この列車を待ち受けるようにホームには折返し列車に乗ろうとする人であふれていた。また、到着した列車の乗客のなかには、再び大多喜駅を、さらに大原駅までを目指す人が多いようだ。折返し列車に乗車するのは不可とのことなので、一度ホームに出て並ぶ人たちも多い。

↑上総中野駅でいすみ300形と小湊鐵道のキハ200形が並ぶ。キハ28列車の到着後にはホーム上は人であふれた(上写真)

 

乗車していた人の年代はさまざま。男性だけでなく若い女性が意外に多い。老若男女にキハ28形は絶大な支持を得ていたのだった。

 

筆者はキハ28の乗車は大多喜駅〜上総中野駅のみとして、終点駅近くの堀切興津踏切で折返し列車を待った。そして通過、思わず「お疲れさまキハ28!」と心の中でつぶやいていた。これが現役キハ28形との最後の別れとなりそうだ。

↑上総中野駅で折返したキハ28列車が大原駅を目指す。この日には「くまがわ」というヘッドマークを装着して走った

 

【いすみ鉄道の旅⑪】〝名優キハ28形〟のこんなシーンも!

キハ28形と長年、名コンビを組んでいたキハ52形は、今後は1両で走ることになるのだろうか。キハ28形を導入した当時のいすみ鉄道の社長は、国吉駅で保存されるキハ30形は、キハ52形との組みあわせを考えて導入したと鉄道趣味誌の誌上で述べていた。今後どのようなコンビが組まれるのか興味深いところである。

 

最後は筆者が出合った過去のキハ28列車の勇姿を掲載させていただき、キハ28形への感謝の気持ちを伝えたい。キハ28形という素晴らしい被写体があったからこそ、下手ながら少しは映える写真が撮れたように思う。

 

ありがとうキハ28形!

↑新田野駅付近で撮影した菜の花とキハ28形。この時には朝8時台に上り列車が走っていたため同撮影が可能だった 2014年3月29日撮影

 

↑この日は日通カラーのマツダオート三輪が走った日に偶然に出合うことができた。沿線に昭和の風景がよみがえった 2015年10月3日撮影

11年ぶり全区間で運転再開!「只見線」各駅の「喜びの声」と「興味深い変化」をレポート

〜〜JR只見線 各駅と沿線スポット情報(福島県)〜〜

 

2011(平成23)年7月の豪雨災害の影響で、福島県の一部区間が不通となっていたJR只見線。復旧工事が完了し、10月1日に運転再開を果たした。

 

本サイトでは前回、被害を受けた橋梁の工事中と運転再開後の姿を中心に紹介したが、今回は再開を祝う駅を中心にレポートしたい。やはり線路が結ばれることによる効果は大きかったようだ。

*取材は2019(令和元)5月31日、6月1日、2022(令和4)10月15日に行いました。

 

【関連記事】
人気路線が11年ぶりに全区間の運転再開!「只見線」復旧区間を再訪し、工事前後を比較してみた

【再開後の駅めぐり①】お祝いムード一色の只見駅と只見町

只見町は福島県の南会津郡の南西部に位置し、北および西は新潟県に接する。日本有数の豪雪地帯とされ、年間降雪量は平均で1233cm(1991〜2020年の平均)にも達する。町内には田子倉ダム、只見ダムという水力発電用の大きなダムがあり、発電した電気は、東北や首都圏へ供給されている。人口は3854人(2022年9月1日現在)で、産業別就業者の割合は建設業、製造業、農業を主体にしている。

 

豊かな自然に囲まれる只見地域は2014(平成26)年6月にユネスコエコパークに指定された。ユネスコエコパークとは、自然保護と地域の人々の生活とが両立し持続的な発展を目指しているモデル地域で、日本国内では10か所が指定されている。只見地域のブナの天然林は国内最大規模とされ、豪雪地帯が育んだ自然と文化が共存する地域として、世界的にも貴重と評価された。

 

そうした只見町は町の名前が付いた只見線への思い入れが強い。運転再開後に訪れてみると、一部区間が不通だった頃とは様子がだいぶ変わり、活気が感じられた。

↑駅前通りには大きな横断幕がかかる。朝の会津若松駅始発列車が到着するころには駅前駐車場も満杯に

 

駅前通りには「祝 JR只見線全線運転再開!」の横断幕がかかる。只見駅周辺には「全線運転再開」の幟(のぼり)が数多く立ち、華やかな印象に変わっていた。

 

福島県の会津川口駅、さらに会津若松駅からの直通列車の再開が大きいのだろう。列車の到着時間が近づくと駅前の駐車場も満車になっていた。以前は、駅舎内に只見町の観光問い合わせ窓口「只見町インフォメーションセンター」があり観光客に対応していたのだが、全線運転再開に合わせて移転していた。

↑只見駅前には「おかえり10.1」の案内や幟が立つ。再開日まであと何日と表示したデジタルは再開から何日目かに切り替えられた(右上)

 

「只見町インフォメーションセンター」は、10月1日の運転再開日から、駅のすぐ目の前へ移っていた。前は駅舎内ということで、やや手狭な印象だったが、全面ガラス張りの明るい建物となり広くなっていた。ちなみに只見町ではすでに観光協会が解散しており、その業務は只見町インフォメーションセンターに引き継がれている。

 

「只見町インフォメーションセンター」の菅家(かんけ)智則さんは、「運転再開後はそれまでとは大違い。いらっしゃる方が増えて只見も変わりました」と明るい表情で話す。話をうかがう間にも、問い合わせ電話が鳴りやまず、多くの観光客が入館する。只見の観光案内だけでなく、センター内では地場産品や、新鮮な採れたて野菜なども販売しているので、かなり忙しそうだった。

 

「鉄道ファンの方には只見線グッスが人気ですよ」とのこと。只見線グッズのコーナーが設けられ、そこには只見線キャラクターの「キハちゃん」のイラストが掲げられている。ポストカードやカレンダー、気動車のイラスト入り菓子などの商品が置かれ、鉄道好きならばつい手に取りたくなるようなものも多かった。

↑移転した「只見町インフォメーションセンター」。センターには一休みできるコーナーや駐車場もある。右下は只見線グッズコーナー

 

会津若松駅発の始発列車は朝9時7分着で、この時間は同センターが混みがちだ。この列車が9時30分に小出駅へ向けて出てしまうと少し落ち着くのだが、週末の臨時列車(不定期)が走る日は同センターに立ち寄る人も多く、只見駅の周辺は賑わいを見せる(臨時列車は只見駅12時36分・もしくは40分着、折返し会津若松駅行きは13時40分発)。

 

開通したばかりに加えて紅葉時期ということもあり、列車で訪れる人に加え、車を利用する観光客も増えていて、只見の町はかなり賑わっていた。

 

【再開後の駅めぐり②】会津蒲生駅では黄色いハンカチで歓迎

只見駅の賑わいをあとに、復旧した区間の各駅をまわってみた。只見駅と会津川口駅の間には6つの駅があり、只見町内の駅が2駅、東隣の金山町内の駅が残り4駅となる。各駅では住民の熱い思いが伝わるような飾り付けが見られた。本稿では駅近くのおすすめ施設や、只見線の撮影スポットにも注目した。

 

まずは只見駅の隣りの駅、会津蒲生駅(あいづがもうえき)から。

↑会津蒲生駅前には黄色いハンカチがはためく。住民の思いが伝わるようだ。なお同駅周辺は道が狭く車進入禁止なので注意

 

写真を見るとおり、駅前広場には黄色いハンカチの飾り付けが行われ、穏やかな風にハンカチが揺れていた。ここで念のため黄色いハンカチのいわれを少し。黄色いハンカチは、山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』にちなんだものだろう。映画は1977(昭和52)年10月公開で、「自分を待っていてくれるなら、家の前に黄色いハンカチを揚げておいて欲しい」という主人公の思いに応え、妻が家の前に黄色いハンカチを揚げるというあらすじ。映画では何十枚もの黄色いハンカチが風にたなびくシーンが感動的だった。

 

会津蒲生駅の駅前で風にたなびく黄色いハンカチ。ようやく再開された列車でやってきた人たちを祝福する住民の熱い思いが感じられた。

 

会津蒲生駅と次の会津塩沢駅の間の撮影ポイント情報を一つ。両駅間には第八只見川橋梁がかかる。国道252号の寄岩橋から遠望できて美しいのだが、橋上での駐車はもちろん禁止、また橋の上は横幅が狭く歩道もなく、さらに大型車も頻繁に通行するので、長居の撮影はおすすめできない。

 

【再開後の駅めぐり③】感謝の言葉が目立った会津塩沢駅

国道252号の寄岩橋の近くに次の会津塩沢駅がある。会津蒲生駅と同じくホーム一つの小さな駅だが、ホームの目の前には、幟が多く立っていた。そこには赤い丸の中に白い文字で「感謝」そして「只見線全線再開通 塩沢老人会」とある。地元の老人会の会長を中心に、開通する前の工事の期間から長い間、只見線に関わってきた思いと、路線復旧に携わってきたあらゆる人々(鉄道ファンを含め)へ感謝の気持ちに込めたそうだ。

↑会津塩沢駅の前には数多くの幟が立つ。近くの河井継之助記念館紹介の幟の他に「感謝」という文字が入る幟が立つ(左上)

 

駅前の農機具を入れる倉庫の壁には「祝 おかえり只見線 万歳」とあり、下に「塩沢十島住民一同」と大きく掲げられていた。「感謝」「万歳」と、長年この地に住んできた方々のあふれる思いが伝わってくるようだった。

↑会津塩沢駅の目の前の農家の倉庫には「祝 おかえり只見線 万歳」とあった

 

【再開後の駅めぐり④】只見町で注目の観光施設といえば

この会津塩沢駅から徒歩10分ほどの場所に「只見町河井継之助記念館」があり、只見町で最もおすすめの観光施設としてPRしている。

 

河井継之助(かわいつぐのすけ)と言われても、ぴんとこない方も多いと思うので、紹介しておきたい。河井継之助は幕末の越後長岡藩の家老を務めていた人物である。卓越した先見性があり、他藩に先駆け西欧の軍備を積極的に導入した。中でも注目された銃器にガトリング砲が挙げられる。ガトリング砲とは今の機関銃に近い装備で、戊辰戦争のさなか奥羽越列藩同盟に加わった越後長岡藩に相対した官軍を大いに苦しめた。

 

とはいえ、圧倒的な物量を誇る官軍には太刀打ちできず、長岡城は落城し、継之助ほか残る藩兵は会津に落ち延びようとした。しかし、継之助は戦闘中の傷を負い、長岡から峠の八十里越(詳細後述)はしたものの、只見川沿いの集落で治療にあたる。傷の治療むなしく、破傷風のため42歳で、塩沢地区の民家で亡くなった(同民家はダム湖下に水没、今は「河井継之助記念館」内に移築)。

↑只見線の線路のそばに建つ「只見町河井継之助記念館」。継之助の人となりや、この地で亡くなるに至るまでを紹介している。入館料350円

 

河井継之助の一生は小説や映画でも描かれている。筆者は継之助に以前から興味があり、展示内容をじっくり見た。すると、そこに従者の藩士・外山脩造(とやましゅうぞう)に関しての紹介が。この外山脩造は後に衆議院議員、実業家になった人物で、阪神電鉄の初代社長でもあった。幼名は寅太で阪神タイガースの愛称はこの名にあやかったという説がある。継之助は只見で亡くなったが、偉才は後に生きる人々に引き継がれ、新たな時代を創造していったわけである。

↑只見町河井継之助記念館の駐車場前に只見川が流れる。ダムで水位が上がったが、以前はこの川の下に塩沢集落があった

 

【再開後の駅めぐり⑤】会津大塩駅は再開前のほうがきれいだった

会津塩沢駅までは只見町内の駅で、次の会津大塩駅からは金山町へ入る。会津大塩駅でもなかなか興味深い変化があった。下記は列車が不通だったころと、運転再開した後の会津大塩駅の様子だ。待合室はきれいに作り直されていて、ホーム上の白線も引き直されていた。しかし線路内は列車が不通だった時のほうが、雑草が刈り取られてきれいだった。

 

地元には「会津大塩駅をきれいにしたい会」というグループがあり、ボランティアで列車が不通だった時にも、駅の掃除を続けていた。筆者も不通だった時に訪れると、線路端の雑草取りに励む方を見かけたのだが、こうした地元の人たちが駅をきれいに守り続けていたのだろう。

 

しかし、さすがに列車が動き出すと線路内に立ち入って雑草を取るわけにはいかない。そのためこうして、逆に雑草が目立つことになったようだ。

↑会津大塩駅の3年前(左上)と復旧後(右下)。復旧後の待合室はきれいに整備された一方で、不通だったころの方が線路上の雑草が無くきれいに見えた

 

この会津大塩駅の近くには「滝沢天然炭酸水」と「大塩天然炭酸場」と2か所の炭酸泉が涌き出し、井戸も設けられている。近くの住民だけでなく、他県から汲みに訪れる人もいるそうだ。駅近くには滝沢温泉、大塩温泉の宿や共同浴場もあり、「天然サイダー温泉」が楽しめる湯として親しまれている。

 

鉄道ファンには会津大塩駅から約1kmの第七只見川橋梁がおすすめだ。

 

この第七只見川橋梁に平行して四季彩橋が架かっていて、その橋上から鉄橋の撮影ができる。この四季彩橋の下流側に第七只見川橋梁が架かり、また反対の上流方面の眺めも良く、紅葉の名所ともなっている。橋を通る車も少ない。

↑四季彩橋から望む只見線第七只見川橋梁。ちょうど臨時列車が走る。同写真の右側奥の道路上も撮影スポットとして人気

 

【再開後の駅めぐり⑥】会津横田駅も黄色いハンカチの飾り付け

第七只見川橋梁が望める四季彩橋から約1.5kmで会津横田駅へ着く。この駅も他の中間駅と同じホーム一つで、ホーム上に待合室がある造りだ。

↑会津横田駅近くにはかつて鉱山があり貨物輸送に使われた側線が残る。ホーム前には再開を祝した手作りの立て看板が立つ(左上)

 

まずはホームの前に手製の「祝 只見線」「おかえりなさい只見線全線再開通」の立て看板が立つ。さらに集落内には国旗を掲げる柱に、黄色いハンカチが結ばれていた。柱の元には「祝おかえり10.1」の看板と、幟が立ち並ぶ。駅からはコスモスと黄色いハンカチ、背景に青い屋根の家が見える。映画のような風景がそこに再現されていたのだった。

↑会津横田駅近くに建てられた黄色いハンカチ。ちょうどコスモスの花が咲いていた

 

会津横田駅は1963(昭和38)年8月20日に開業した。この開業は只見線の会津川口駅〜只見駅間の延伸開業に合わせたものだった。ところが次の会津越川駅(あいづこすがわえき)の開業は1965(昭和40)年2月1日だった。この時、他に本名駅、会津大塩駅、会津塩沢駅も、合わせて開業している。

 

会津越川駅の入口にはそうした経緯が記された案内板が立てられている。そこには「当時の国鉄に陳情を重ね、昭和40(1965)年2月に新設された請願駅です。会津越川駅の建設費は越川区と金山町で負担して造られました」とあった。住民の願いと資金を出しあって造られた駅だったのだ。

 

会津越川駅のホームの前には全線再開を祝う幟が立てられていた。掃除が行きとどいたホーム上には植物のプランターが並ぶ。越川地区の人たちが、会津越川駅を自分たちの駅と捉えている思いが伝わるようだった。

↑会津越川駅のホームと待合室。駅の入口には只見線と会津越川駅の誕生の経緯を記した案内板が立っている(右上)

 

【只見線を再訪した⑦】迫力の第六只見川橋梁近くの本名駅

会津越川駅周辺までは集落が連なるエリアだが、この先、民家がない地区が続き、只見川沿いを只見線と国道252号が寄り添うように走っていく。第六只見川橋梁を渡れば本名駅(ほんなえき)だ。本名駅では運転再開を祝う幟がホーム前に立てられ、植木がきれいに整えられていた。他の駅に比べればささやかなお祝いに感じられたが、それでも再開を祝す人々の気持ちが十分に感じられた。

↑10月1日に再開した駅のなかで、最も会津川口駅側にある本名駅。ホーム前の植木がきれいに整えられ開通を祝う幟が立てられていた

 

本名駅の近くには第六只見川橋梁が架かる。ここは撮影スポットとしても人気だ。ダムの下とダムの上、両方から撮影ができる。

 

まずダムの下へは駅から徒歩450mほどで、国道252号を渡り川への道を下りて行く。一方、本名ダムのダム上へは徒歩10分ほどだ。ダムの上を旧国道が通るが、やや道幅が狭く車の往来もあるので注意が必要となる。一方、下から見上げる側の道は工事車両と農作業の車が通るぐらいで、道にも余裕があり安心してカメラを構えやすい。とはいえ好天日は午後になると逆光になりがちなので注意したい。

 

 

↑本名ダムの前に架けられた第六只見川橋梁を渡る下り列車。同写真はダム下から撮影したもの、ダム上から撮る人も多い

 

【再開後の駅めぐり⑧】会津川口駅にも立ち寄る人が増加傾向に

10月1日に再開した区間の中で、最も会津若松側の駅となる会津川口駅。こちらは駅舎に「再開!只見線」の幟などがささやかに掲げられるなど、お祝いの様子も静かなものだった。

↑金山町の玄関口でもある会津川口駅。駅前の飾りは再開を祝した幟や垂れ幕(左楕円)を含めて控えめな様子だった

 

とはいえ、駅前の駐車場スペースは満杯だった。駅には公共トイレもあり、全線運転が再開されたことと紅葉時期が重なったこともあって、立ち寄る観光客が多く見かけられた。駅内には金山町観光情報センターもある。週末ということもあり、問い合わせの電話が途切れることなくかかってきていた。

 

【再開後の駅めぐり⑨】この秋、盛況だった臨時列車の運行

運転再開後、只見線には毎週末のように臨時列車が運転されている。この臨時列車の運行は只見線を活気づける一つの要因になっているように見えた。只見線をこれまで走った臨時列車と今後の予定を見ておこう。

 

まず運転再開日の10月1日(土)、2日(日)に企画されたのが団体臨時列車「再会、只見線号」で、DE10形ディーゼル機関車+旧型客車3両で運行された。

 

10月8日(土)〜10日(月祝)、15日(土)・16日(日)、22日(土)・23日(日)にはキハ110系の快速「只見線満喫号」が運行された。また29日(土)・30日(日)にトロッコタイプ(只見線運転時は窓閉め予定)の「風っこ只見線紅葉号」が、キハ48形観光車両「びゅうコースター風っこ」により運転が予定されている。

 

さらに、会津鉄道の観光列車「お座トロ展望列車」も走る。ガラス窓がオープンするトロッコ車両と、展望車両が連結され、通常は週末を中心に会津若松駅〜会津田島駅間を定期的に走っている。この列車が10月7日(金)、14日(金)、21日(金)、28日(金)、11月4日(金)、11日(金)、18日(金)、26日(土)に団体ツアー列車「お座トロ展望列車で行く!只見線秋の旅」として運行されている。会津鉄道は福島県の資本も入る第三セクター経営の鉄道会社で、只見線も上下分離方式(福島県が線路を保有し、JR東日本が車両を走らせる)で再建されたこともあり、福島県のバックアップの色あいが強くなっている。

↑11月26日まで只見線に乗り入れ予定の会津鉄道「お座トロ展望列車」。写真は会津鉄道内を走っている時に撮影したもの

 

ちなみに「只見Shu*Kura」という列車名で、観光列車のキハ40系の「越乃Shu*Kura」が10月22日(土)・23日(日)に小出駅経由で、新潟駅〜只見駅間を走っている。

 

こうした臨時列車は、雪が降り観光のオフシーズンとなる前、ほぼ毎週のように運転されている。定期列車は1日に3往復しか走らない線区なだけに、日中はダイヤに余裕がある。地元としても来春以降は臨時列車に期待したいところだろう。

 

今のところは他社の車両、他エリアを走る車両が〝出張〟してきて走るだけに、将来は定期的に走り、名物となるような観光列車が造れないものだろうか。例えば、2010年代まで走っていた「SL会津只見号」を復活させることができないのだろうか、そのあたりも気になるところだ。

 

【再開後の駅めぐり⑩】車利用の観光客を惹き付けるためには

今は開通景気と紅葉時期のため賑わいをみせる只見線だが、先々どのようにすれば、継続的な誘客が可能となるのか、筆者なりに考えてみた。只見線は〝乗り鉄〟にとっては魅力的な路線であることに違いない。とはいえ、全線を巡るとなると1日必要になる。途中下車して過ごすとなれば、なおさら時間がかかる。臨時列車はどれも賑わっていたが、今後の定期運行が決まっていないだけに、これからが大切なように思われた。

 

只見線沿線を訪れる観光客、撮影に訪れる人はクルマの利用が圧倒的に多いように思われる。とすれば誘客に加えて、現地で物品を購入してもらうことが肝心になるだろう。一つの好例がある。

 

それは只見線の絶景の代表としてPRされることが多いのが第一只見川橋梁である。只見川に架かる橋をゆっくり走る気動車。風がなければ川面が水面鏡となり、列車が写り込んで絵になる。四季折々、晴天日だけでなく、霧の立つ日なども訪れる人が多い。

 

こうした絶景が写せるビューポイント(JRで紹介された絶景ポイント)と遊歩道が整備されており、そこに行く観光客が多い。すぐ近くには「道の駅 尾瀬街道みしま宿」(福島県三島町)があり、週末ともなると駐車場スペースも満杯で物販も好調のようである。

↑第一只見川橋梁の一番低い位置の撮影スポットB地点から撮影したもの。さらに上がったC地点、D地点まで遊歩道が整備される

 

ちなみに第一只見川橋梁のビューポイントはB・C・Dの3カ所ある(Aは遊歩道の入口でビューポイントではない)。道の駅から最短のビューポイントB地点までは徒歩で5分もかからない。Bの上にあるC地点、さらに奥のD地点まで行けば、広大な景色が楽しめる。また、各地点には列車が橋を渡る時間が掲示されていてありがたい。ただし行きは上り坂、帰りは下り坂となるので注意して歩きたい。

 

↑国道252号沿いの「道の駅 尾瀬街道みしま宿」(三島町)。第一只見川橋梁のビューポイントは右奥の山の傾斜部にある

 

↑道の駅にある只見川ビューポイント遊歩道の案内図。Aから入りB、C、Dの順にポイントがある。各場所から写真も掲載される

 

筆者が訪れた時はビューポイントへ向かう人も絶え間なかった。訪れる人は、こうした只見線の絶景を一度はカメラやスマホで撮っておきたいという人ばかり。ただし道の駅のPRサイトなどの記事はあまり分かりやすいとは言えず、少し残念に感じている。

 

只見線には他にも絶景ポイントがあるので、そちらも第一只見川橋梁のように、撮影ポイントを整備すればよいのではないかと思った。

 

少し先になるが2026(令和8)年には只見への新ルートが開通する予定だ。新潟県の三条市と只見町を結ぶ国道289号の県境部が全通する予定になっている。この国道が八十里越(前述の河井継之助が越えた道)とも呼ばれる峠道で、このルートを使うと三条市〜只見町が79分で結ばれる。冬期も通行が可能との情報もあり、新たなルート誕生にも期待したい。

 

【再開後の駅めぐり⑪】実は豪雨災害の後に廃止された駅があった

「平成23年7月新潟・福島豪雨」後、只見線で唯一、営業休止のままとなり、10月1日の全線開通時にも再開しなかった駅がある。田子倉(たごくら)という駅だ。

 

田子倉駅は只見駅〜大白川駅間の駅で、県境となる六十里越の福島県側、只見町内の田子倉湖畔にあった。1971(昭和46)年8月29日に只見駅〜大白川駅間の開通に伴い開業した。

 

利用者が1日に0〜3人だったこともあり、2001(平成13)年12月1日からは3月まで冬期休業となり、普通列車が停まらない臨時駅となっていた。2011年(平成23)年7月30日、豪雨災害の影響を受けたその日に営業休止、後に只見駅〜大白川駅間が復旧したものの、2013(平成25)年3月16日に正式に廃駅となった。

 

旧田子倉駅の入口棟は国道252号に面していたものの、駅のホームは入口を下りた湖畔のスノーシェッドの中にあり、今は入口も閉鎖されホームの様子を見ることはできない。なお、駅の周辺に民家は一軒もない。近くに田子倉無料休憩所があり、ここをベースに奥只見の山々へ登る人も見られるほか、釣り客も訪れる。

↑旧田子倉駅の入口棟の様子。国道252号沿いにあり、この建物から下のホームへ下りていった

 

↑入口を塞ぐネットから中をのぞくと階段などがきれいに残されていた。右にわずかに見える階段から下に降りたようだ

 

もし「平成23年7月新潟・福島豪雨」により路線が不通になることがなかったら、駅はどのような運命をたどっていただろうか。〝秘境駅〟を訪れる人は今も意外に多いし、ユネスコエコパークのベースとしても利用されていたかも知れず、少し残念なところである。

11年ぶりに運転再開!「只見線」の復旧区間を再訪してみた〈前編〉

〜〜JR只見線 復旧工事前後を比較レポート(福島県)〜〜

 

福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶJR只見線。2011(平成23)年7月の豪雨災害の影響で、福島県の一部区間が不通となっていたが、復旧工事がようやく完了し、10月1日に11年ぶりの運転再開を果たした。

 

複数の鉄橋が崩落するなど、大規模な復旧工事が必要となった只見線。工事着工1年後と、運転再開後に再訪し、変わった只見線を比べてみた。観光客の来訪の様子も含め、復旧の悲願を達成した沿線を2回にわたりレポートしたい。

*取材は2019(令和元)5月31日、6月1日、2022(令和4)10月15日に行いました。

 

【関連記事】
夏こそ乗りたい! 秘境を走る「只見線」じっくり探訪記〈その2〉

 

【只見線を再訪した①】満員の列車到着で賑わっていた只見駅

只見線の起点は会津若松市の玄関口、会津若松駅。会津若松市は福島県会津地方の中心都市であり、旧会津藩の城下町としても良く知られている。起点の会津若松駅から終点の小出駅まで、全線135.2kmとその距離は長い。所要時間も4時間半ほどだ。全線を走る列車は1日にわずか3往復といった具合だ。それにもかかわらず只見線は鉄道雑誌などのローカル線の人気投票で、常にベスト3位に入る人気路線となっている。

 

そんな只見線を悲劇が襲った。2011(平成23)年、全線開通40周年のお祝いが行われたわずか数日後の7月26日から30日にかけて「平成23年7月新潟・福島豪雨」により、大きな被害を受けた。一部区間の復旧は果たしたものの、会津川口駅〜只見駅27.6km(営業キロ)間では複数の橋梁が流されるなど被害が大きく、長期間の不通を余儀なくされる。4年にわたる復旧工事が進められ、この10月1日に運行再開となった。

↑会津若松駅発、只見駅9時7分着の〝始発列車〟が到着した。駅のそばの水田ではかかしたちが「お帰り只見線」とお出迎え(上)

 

筆者は復旧してから2週間後の只見駅を訪れた。そして9時7分着、会津若松発〝始発列車〟の到着を待った。この列車は会津若松駅6時8分発だ。

 

1両編成のキハ110系、小出駅行きがホームに入ってくる。見ると車内は立って乗車する人が多いことが分かる。只見駅に到着すると、多くの人たちが下車してきた。乗客は老若男女、先生が付き添う小学生の一団も見られた。運転再開して2週間がたつのに、その乗車率の高さに驚いた。

 

この小出駅行き列車は、只見駅で23分間の休憩時間を取る。この駅で乗務員が交代、乗客たちもホームで、また駅舎の外へ出て一休みしている。このあたりローカル線ならでは、のんびりぶりである。

 

乗客のうち只見駅で下車する人は1割ぐらいだったろうか。次の小出駅行きが16時31分発までなく(まれに臨時列車が走る日も)、また会津若松方面に戻るにしても、次の列車は14時35分(臨時列車運行日は13時40分)といった具合なので、日中に只見の町で過ごそうという人は見かけなかった。

 

出発時間が近づくと列車に戻り、また只見駅から乗車する人も加わり、多くの人たちがそのまま終点の小出駅を目指して行ったのだった。

 

【只見線を再訪した②】只見線の宝物といえば渓谷美と鉄橋

復旧後に全線を通して走る列車3往復の時刻を見ておこう。

 

〈下り〉会津若松駅→小出駅

423D列車:会津若松6時8分発→只見9時7分着・9時30分発→小出10時41分着

427D列車:会津若松13時5分発→只見16時21分着・16時31分発→小出17時47分着

431D列車:会津若松17時00分発→只見19時52分着・20時2分発→小出21時26分着

 

〈上り〉小出駅→会津若松駅

426D列車:小出5時36分発→只見7時1分着・7時11分発→会津若松10時32分着

430D列車:小出13時12分発→只見14時25分着・14時35分発→会津若松17時24分着

434D列車:小出16時12分発→只見17時30分着・18時00分発→会津若松20時55分着

 

ほかに区間限定で運転される列車と、ごく一部の週末に運転される臨時列車が走る。ダイヤを見ると夜間に運転される列車を除き、日中に走る列車は2往復のみで、なかなか利用しづらいというのが現実だ。ちなみに、不通となる前も全線を走る列車は1日に3往復しか走っていなかった。

↑第一只見川橋梁を渡る下り427D列車。会津桧原駅〜会津西方駅間にある橋梁を望む展望台は紅葉期ともなれば大変な人出に

 

あらためて只見線の魅力はと問えば、列車の本数が少なく貴重な体験が楽しめること。また第一只見川橋梁のように、只見川に架かった橋と、周囲の山々が織りなす景観の素晴らしさが挙げられるだろう。第一只見川橋梁は国道252号沿いに展望台が設けられていて、近くにある「道の駅 尾瀬街道みしま宿」から徒歩で5分程度と近い。ただし展望台へは若干、山の上り下りが必要となる。

↑本MAPは只見線の不通区間だった会津川口駅〜只見駅間を中心に紹介。人気の第一只見川橋梁と、第五〜第八橋梁の位置を図示した

 

【只見線を再訪した③】希少車やラッピング車両に注目したい!

ここで只見線を走る車両を紹介しておこう。只見線といえば長年キハ40系が走っていたが、残念ながら2020(令和2)年7月に運用終了となっている。現在走っている車両は以下の2タイプだ。

 

◇キハ110系

↑紅葉期に合わせて10月の連休や週末に運転された「只見線満喫号」。150年前の客車をイメージしたレトロラッピング車両が走った

 

JR東日本を代表する気動車で、只見線を走る車両は新津運輸区に配置される。筆者が訪れた日には、臨時列車(快速「只見線満喫号))の増結用として、「東北デスティネーションキャンペーン」にあわせ「東北のまつり」のレトロラッピングを施した「キハ110系リクライニングシート車」も走っていた。こうした臨時列車の運行時は増結車両に注目したい。

 

◇キハE120形

↑越後須原駅〜魚沼田中駅間を走るキハE120系。同車両は前後2扉が特長となっている。全線復旧後は小出駅まで乗り入れている

 

キハE120形は新津運輸区に配置されていた車両で、郡山総合車両センター会津若松派出所属に配置替え、2020(令和2)年3月14日から只見線で運用を開始した。

 

関東地方の久留里線や水郡線を走るキハE130系と形は似ているが、キハE130系の乗降扉が3扉あるのに対して、キハE120系は2扉で、両側に運転台を持ち、1両での運行も可能となっている。またキハ110系との併結運転も可能だ。製造されたのが8両という希少車両でもある。

 

只見線の全線運転再開に合わせて10月1日から1両のみ(キハE120-2)が「旧国鉄カラー」色のクリーム色と朱色の組み合わせラッピングで走り始めたが、運転開始日の始発列車で運用された時に、只見線内で車両故障のトラブルが起き、立ち往生してしまった。筆者が訪れた日にも残念ながらお目にかかることができなかった。

 

【只見線を再訪した④】只見川はふだん穏やかな川だが

ここからは、只見線と関係が深い只見川の話に触れておきたい。只見川は日本海へ流れ込む阿賀野川(福島県内では阿賀川)の支流にあたる。只見線は会津若松駅から会津坂下までは会津若松の郊外線の趣だが、会津坂本駅からほぼ只見川に沿って走る。只見駅の先、六十里越トンネルへ入るまで8つの橋梁を渡る。

 

戦前に会津宮下駅まで延伸開業していた只見線(当時はまだ「会津線」と呼ばれた)だが、戦後はまず、1956(昭和31)年9月20日に会津川口駅まで延伸。会津川口駅〜只見駅間は、当初は只見川に設けたダム建設用の資材を運ぶための路線として設けられ、1961(昭和36)年までは電源開発株式会社の専用線として貨物輸送が行われた。その後、1963(昭和38)年8月20日に同区間は旅客路線として延伸開業している。全通したのはその8年後で、1971(昭和46)年8月29日、只見駅と新潟県側の大白川駅間が開業し、全線を只見線と呼ぶようになった。

↑只見ダムによってせき止められた只見湖の上流には田子倉ダムがそびえる。このダムの先には巨大な人造湖・田子倉湖が広がる

 

只見線の車窓からも見えるが、只見川は上流にかけて計10のダムが連なっている。上流部のダムはひときわ大きく、田子倉ダム、さらに上流の奥只見ダムは全国屈指の規模とされている。水力発電により生み出された電気は、東北県内、また只見幹線と呼ばれる送電線により首都圏方面へ送られている。つまり、只見川でつくられた電気が広域の電気需給に役立っているわけだ。

 

ダムにより治水も行われ、ふだんは穏やかな只見川を暴れ川にしたのが、2011(平成23)年7月26日から30日にかけて降り続いた「平成23年7月新潟・福島豪雨」だった。その降り方は尋常ではなかった。筆者の従兄弟が、この地方の学校にちょうど赴任していたのだが、当時のことを聞くと、それこそ「バケツをひっくり返した」という表現がふさわしい降り方だったと話している。この時は本当に「降る雨が怖かった」そうだ。1時間に100ミリ前後の雨が降り続き、只見町では72時間の間に最大700mmの降雨を記録している。要は大人の腰近くまで浸かるぐらいの雨が、短時間に降ったのだから、その降り方は想像が付かない。只見川に多く設けられたダムも、この予想外の雨には無力だった。ダムの崩壊を防ぐためにやむなく緊急放水を行うことになる。

 

降水および放水により、急激に水かさを増した只見川の濁流が住宅や水田、そして橋を襲う。只見線では只見川にかかる第五、第六、第七、第八只見川橋梁が崩落し、また冠水して復旧工事が必要となった。

 

今、ふり返れば、雨が降る前から少しずつ放流していればと思うのだが、最近の豪雨災害は予想がまったくつかない。裁判も開かれたが、今の豪雨災害はダム管理者にとっても管理が非常に難しいというのが現実なのだろう。

 

【只見線を再訪した⑤】2018年に復旧工事が始まった

被害を受けてからその後の鉄道会社と自治体の対応は、詳細は省くとして、結論としては復旧した後は福島県が線路を保有し、JR東日本が車両を走らせ上下分離方式で運用されることが決定。復旧費用は約90億円とされ、そのうち3分の2は福島県と会津地方の17市町村、3分の1をJR東日本が負担する。線路の保有・管理費用は毎年約3億円とされ、これらは自治体の負担となる。

 

そうした負担や、今後の管理運営方針がはっきりしたところで、2018(平成30)年6月15日から復旧工事が開始された。

↑被害の軽微なところでは写真のように線路上も走れる油圧ショベルを使っての作業が行われた

 

復旧工事が始まって約1年後に現地を巡ったが、第六只見川橋梁の工事が特に大規模な工事に見受けられた。

 

第六只見川橋梁は、東北電力の本名(ほんな)ダムの下流部に架かっていた。この橋を復旧させるために、ダムの下に強靭な足場を造り、そこに大型クローラークレーンを入れ込んだ。新しい橋脚を造り上げるためだった。川の流れのすぐそばに持ち込まれた重機が動く様子を見ただけでも、難工事になることが容易に想像できたのだった。

↑第六只見川橋梁の復旧工事現場には、写真のような大型クローラークレーンが据え置かれて、橋脚の新設に使われていた

 

【只見線を再訪した⑥】それぞれの橋梁の復旧前後を見比べると

ここからは被害を受けた鉄橋が架かる箇所の、復旧前後の変化を見ていきたい。橋が濁流に飲まれたところでは、なぜ流されたのかが想像できないところもある。それほどまでに水かさが増し、流れが激しかったということなのだろう。

 

ちなみに、2021(令和3)年に只見線の橋梁や諸施設は「只見線鉄道施設群」として土木学会選奨土木遺産に認定されている。日本の土木技術を高めたとして、土木工学の世界でも大切とされているわけだ。

 

まずは第五只見川橋梁(橋長193.28m)から。この橋梁は中央部が曲弦ワーレントラスという構造になっていて、前後はシンプルな形のプレートガーダーで結ばれている。この第五只見川橋梁が架かるところは、川がちょうどカーブしているところで、流れがそのカーブに集中したようで、下流側のプレートガーダー部分が流されてしまった。第五只見川橋梁の復旧費用は約3億円とされているが、被害を受けた4本の橋梁のうち、もっとも少ない費用で復旧することができたとされる。

↑国道252号から望む第五只見川橋梁。穏やかな川面には橋を写しこむ水面鏡が見られた。会津川口駅側の一部分が被害を受けた(右上)

 

【只見線を再訪した⑦】水面上昇を考慮した新第六・七只見川橋梁

本名駅(ほんなえき)〜会津越川駅(あいづこすがわえき)間に架かるのが第六只見川橋梁(橋長169.821m)で、会津横田駅〜会津大塩駅間に架かるのが第七橋梁(橋長164.75m)となる。どちらの橋も迫力があり、渡る列車の車窓からの眺めも素晴らしい。

 

このうち第六只見川橋梁は本名ダムに平行するようにかかり、放流の際にも影響を受けないように、離れて設置され、水面からの高さも確保されていたのだが、それでも被害を受けてしまった。

 

構造は第六、第七只見川橋梁ともに橋げたはプレートガーダーだったが、ボルチモアトラスという構造物(上路式トラス橋とも呼ばれる)が下に付く形をしていた。橋を強化するための構造だったが、水面が上昇した際に流木などが引っ掛かり、さらに当時はより橋脚も川の流れに近かったことも災いした。

↑第六只見川橋梁の架橋工事が進む。正面が本名ダムで手前の高い位置に橋が架かっていたが流されてしまった

 

↑復旧した第六只見川橋梁。川の流れに影響されないように橋脚は両岸の高い位置に設けられた。ちょうど下り列車が通過中

 

第六、第七只見川橋梁ともに流れの影響を受けないように、橋台・橋脚が強化され、また流れが届かない位置に設けられた。橋げたも長く延ばされている。また以前は線路部分の下に構造物が付いたボルチモアトラス(上路式トラス橋)だったが、上部に構造物がある下路式トラス橋に変更されていて、水面上昇に被害を受けにくい構造が採用されている。

 

第六只見川橋梁の工事は、地質条件が想定よりも悪かったなどの悪条件が重なり、工法を再検討するなど困難を極めた。工事の進捗にも影響し、復旧見込みの日程もずれることになった。復旧費用は第六只見川橋梁が約16億円とされる。

↑第七只見川橋梁の復旧工事の模様。橋脚・橋げたを含めすべて除去した後に、新たな橋脚工事から進められた

 

↑第七只見川橋梁を渡る快速「只見線満喫号」。水面が上昇しても影響を受けない下路式トラス橋という構造が使われる

 

この2本の橋梁の再建方法を見ると、水面が上昇し、水圧を受けたとしても、被害が受けにくいような構造および技術が採用されている。素人目に見てもタフな構造に強化されているように感じた。

↑磐越西線の開業当時の古い絵葉書。中央部がボルチモアトラス(上路式トラス橋)で今では国内4箇所のみに残る珍しい構造だ

 

【只見線を再訪した⑧】道路が平行しない場所の復旧工事では

被害を受けた4本の橋の中で予想を上回る復旧費用がかかったのが第八只見川橋梁(橋長371.10m)だった。この区間のみで約25億円がかかったとされている。この橋梁前後は盛り土が崩壊し、また橋梁が冠水した。上部にトラス構造が付く橋だったせいか、橋自体の流出は免れているが、さらなる被害をふせぐために、一部のレールの高さが最大5mにまで引き上げられた。

↑ダム湖の左岸にある第八只見川橋梁の復旧工事の模様。湖面上に重機を積んだ船が浮かぶ様子が見える(左)

 

↑復旧した第八只見川橋梁を遠望する。その先、路盤のかさ上げ工事が行われたようで、その部分が白く見えている

 

被害を受けた橋梁前後の路線距離があり、さらに国道252号の対岸で、線路に平行する道もない。そのため重機の持ち込みが難しく、対岸に船着き場を設けて、そこから船を使って重機を復旧現場に運び込む様子も窺えた。

 

もちろん重機を運ぶような船が当初からあるわけでなく、他所から運んできて組み立てたものだ。川岸での作業、またダム湖の水を放流しての河畔で作業を行うことが必要な時もあり、雨天の作業の際には慎重にならざるをえないような場所だった。ここが最も費用がかかったことも推測できる。

 

【只見線を再訪した⑨】列車が走ってこその駅だと痛感する

今回のレポートは最後に一駅のみ復旧前、運転再開後の姿を見ておこう。田んぼの中にある小さな駅、会津大塩駅の、〝ビフォーアフター〟である。3年前に訪れた時にはホーム一つに小さな待合室らしき建物があったが、中には入れないように板が打ち付けてあった。雑草が生い茂り寂寥感が漂った。運転再開後は、ホーム上の白線がきれいに引かれ、待合室も開放感あふれるきれいな造りになっていた。

 

訪れた時は人がいなかったものの、駅は列車が発着してこそ、駅として成り立つことを物語っていた。

↑列車が走っていない時の会津大塩駅。右は待合室の建物だが、板が打ち付けられて入室できない状態に

 

↑運転再開後の会津大塩駅。塗装し直されたばかりで小さいながらも清潔な装いに。近所の人たちが育てた植物のプランターも見られた

 

復旧した会津川口駅〜只見駅間では全駅を巡ってみた。そこには列車再開を祝う手作りの飾りが多く見られた。地元の人たちの心待ちにしていた思いが込められているようだった。変わる駅の様子、人々の歓迎ぶりや、今後への思いは次週にまたレポートしたい。

 

鉄道開業150年! 古色豊かな絵葉書でよみがえる明治の鉄道〜鉄道草創期の幹線の開業史を追う〜

明治5(1872)年10月14日に新橋(旧・汐留駅)〜横浜(現・桜木町駅)間の開業により始まった日本の鉄道史。今年でちょうど150年になることから、各地で多くの記念行事が催されている。

 

本稿では鉄道草創期の歴史を古い絵葉書を中心にふり返ってみた。鉄道開業からほぼ20年で、日本の骨格をなす幹線ルートが設けられていった。同時代の人たちの近代化にかける熱い思いが改めて感じられる。

*絵葉書はすべて筆者所蔵。禁無断転載

 

【関連記事】
今は珍しい「鉄道絵葉書」で蘇る明治〜昭和初期の東京の姿

 

〔はじめに〕

明治政府は維新からほんの数年の間に近代化に向けて数多くの改革を行った。その一つが鉄道事業であり、郵政事業だった。

 

明治4(1871)年には鉄道事業よりも1年早く郵便事業が始まり、東京と京都・大阪間の郵便の取り扱いが始められた。翌年には全国規模まで広げられている。さらに明治6(1873)年には郵便葉書(官製)の発行を開始、明治10(1877)年には万国郵便連合に加盟して海外への郵便物の発送や授受ができるようになった。

 

近代化にどん欲に取り組んだ成果といえるだろう。しかし、官製葉書、普通切手のみの発行が長く続いた。最初の記念切手が売り出されたのは明治27(1894)年のことであり、絵葉書にあたる私製葉書の使用に許可が出たのは明治33(1900)年のことだった。以降、多くの絵葉書も発行され、人々に利用されるようになっていった。

↑明治35(1902)年11月とサインされた絵葉書。訪日外国人がお土産にしたもので、裏面の上部には「萬国郵便総合端書」とある

 

特に明治38(1905)年、日露戦争を題材にした絵葉書が多数発行されたことが大きかった。絵葉書収集熱が高まり多くの人が熱中し、ブームとなっていく。

 

今回の記事では、鉄道開業のころは私製葉書がまだ発行されなかったこともあり、新橋駅〜横浜駅間の開業当初のものは錦絵とともに紹介する。後に開業したころの駅の様子や列車の姿を写した絵葉書が多く発行されていく。各地の鉄道が開業したその後を追うように発行された絵葉書は、古い車両の姿を知ることができるとともに、街の移り変わりや当時の暮らしぶりを克明に伝えていて、とても興味深い。

 

〈1〉明治5年 新橋〜横浜開業日は9月12日だった!?

今からちょうど150年前の明治5(1872)年10月14日に新橋(旧・汐留駅)〜横浜(現・桜木町駅)間が開業によって、日本の鉄道は産声を上げた。

↑新橋停車場を描いた錦絵。列車とともに洋和装の人々が多く描かれている(東京汐留鉄道舘汽車待合之図・立斎広重画/明治6年発行)

 

当時、日本は太陰暦を利用しており、10月14日は太陰暦では9月12日にあたる。太陽暦を採用したのはこの年の12月からで、鉄道開業日は、まだ旧暦を使っていた。よって当時は9月12日の出来事として伝えられていた。

 

列車の仮営業運転は、6月12日に始まっていた。要は試運転期間があったことになる。この時の運転区間は品川〜横浜(現・桜木町駅)で、1日に2往復、所要時間は35分、途中駅は停車しなかった。

 

10月14日の正式開業後には1日9往復の列車が運転され、品川、川崎、鶴見、神奈川の途中駅が設けられた。全線の所要時間は仮運転の時よりも路線が延びたこともあり、53分だった。

↑新橋停車場(後の汐留駅)の古い絵葉書。駅舎の横には「キリンビール」と記された大きな看板が立てられていた

 

上記の絵葉書は鉄道が最初に走った新橋停車場(旧・汐留駅)の駅舎だ。この新橋停車場の駅舎は再現されて「鉄道歴史展示室」として公開されている。

 

ちなみに絵葉書は色つきだが、明治期には写真のカラー印刷技術はまだ一般化されておらず、モノクロ絵葉書への色付けが行われた。その色付けは主に家庭の主婦が行った内職仕事で、一枚ごとに筆で色付けしていた。手彩色絵葉書(てさいしきえはがき)と呼ばれ、訪日外国人たちに大人気だった。お土産として購入し、切手を貼って海外へ送付した人も多かった。

 

しかし、手彩色は技術差があり、しかも現場を実際に見て作業をしたわけではない。また同じ絵葉書なのに、彩色する人によって色が異なった。写真のカラー印刷が行われる時代まで、こうした手作業が続けられたのであった。

↑開業当時の横浜停車場の手彩色絵葉書。すでに駅前に照明も付き、人力車が客待ちをしている様子が写されている

 

〈2〉明治6年 翌年には貨物列車も新橋〜横浜間を走り始めた

鉄道開業後、間もなく鉄道貨物輸送も始まる。明治6(1873)年9月15日から新橋〜横浜間を鉄道貨物輸送が行われた。貨物列車の本数は1日、定期・不定期列車合わせて2往復だった。1列車が連結する貨車は有蓋車7両、無蓋車8両で、計15両で走ったと伝わる。

 

これは貨車を利用した鉄道貨物輸送だが、手荷物輸送という少量かつ軽量な荷物を運ぶサービスは、開業した年の6月12日、品川〜横浜間を走った仮営業列車から始められている。さらに、郵便輸送を7月18日に同区間で開始。つまり、旅客用列車の正式運行日よりも前に、すでに手荷物輸送や郵便輸送が行われていたのである。

↑明治期の貨物列車。有蓋車、無蓋車が蒸気機関車の後ろに連結されている。写真の23号機は明治初期に英国から輸入された車両

 

ちなみに古い絵葉書に写り込む明治時代の貨物列車の牽引機だが、当時の機関車は輸入された順に番号が付けられていた。明確な記録が残されていないものの、23号機は明治7(1874)年に英国から輸入されたシャープスチュアート製のB形タンク機だと思われる。同社の蒸気機関車は優秀だったとされ、重い貨物列車の牽引にぴったりだったのかもしれない。

 

〈3〉明治7年 2番目の開業は大阪〜神戸間だった

東京とともに、鉄道の敷設工事が早く行われたのが京阪神だった。特に大阪〜神戸間の鉄道は明治3(1870)年11月に着工され、明治7(1874)年5月11日に完成した。開業時の中間駅は、三ノ宮、西ノ宮、また翌年に住吉、神崎が開業したことにより、4駅が設けられた。明治8(1875)年の5月1日には大阪から安治川口まで支線が開業し、貨物輸送が行われている。

↑テンダー式蒸気機関車が牽引する旅客列車が神戸三ノ宮を走る。線路端には商店が連なり、洋服店や綿屋の看板が写り込む

 

大阪と京都間の鉄道開業は、政府の財政が厳しかったこともあり、着工が遅れ、開業は明治10(1877)年2月5日となった。とはいえ京都〜神戸間の鉄道は明治初頭には完成していたわけだ。ちなみに首都圏の鉄道は、新橋〜横浜間以降は、なかなか進まず、横浜以西の路線開業は、京阪神から遅れること10年後になる。それだけ当時の京都〜神戸間は人口も多く都会だったということなのだろう。

 

京阪神と同時期に生まれた「その他の鉄道」もここで見ておこう。新橋〜横浜、京都〜神戸の開業後、国内3番目に誕生した鉄道は意外な所の鉄道だった。岩手県釜石市内の釜石桟橋〜大橋間に造られた「釜石鉄道」がそれで、明治13(1880)年2月に試運転が始められている。当初は鉱石運搬のみだったが、2年後からは旅客輸送も行われた。

 

〈4〉明治13年 開発と防備のため進められた北海道の鉄道事業

「釜石鉄道」の開業と同じ年に北海道内の鉄道も開業している。明治13(1880)年11月28日に開業した手宮(廃駅)〜札幌間の路線で、官営幌内鉄道が敷設を行った。

↑小樽港に面して設けられた手宮駅構内を望む。港には海上桟橋が延びていた。絵葉書の桟橋は高架桟橋(本文参照)と思われる

 

当時の政府は北海道内の開発にも力を入れており、北方防衛の要とすべく開発を急いだ。開拓民の移住が進められ、寒冷地の農業・酪農の発展が進められた。さらに、道内で石炭が採炭されたこともあり、その輸送が課題となっていた。そんな中、進められた鉄道開発だった。

 

手宮は小樽港に面しており、駅には石炭船積み込み用の海上桟橋450mも同じ年に設けられ、桟橋への引込線も敷設された。同路線は貨物輸送列車が主流だったとされる。桟橋は、その後に強化されて明治44(1911)年には長さ391mの高架桟橋になり、道内の石炭の積み出しに活かされた。

↑小樽市内・花園橋付近を走る貨物列車。南小樽駅から先は明治30年台から延伸が始まり小樽駅は明治36(1903)年に開業した

 

道内の路線延伸は急ピッチで進められ明治15(1882)年には札幌駅〜岩見沢駅間が開業、さらに炭鉱に近い幌内(廃駅)まで延伸された。この時に敷かれた小樽南駅(手宮駅の一つ手前の駅)〜岩見沢駅間はその後の函館本線の元となる。とはいえ函館駅〜旭川駅間の開業は明治38(1905)年8月1日とかなり後のことになった。

 

当時は同路線の運営が北海道官設鉄道、北海道炭鉱鉄道、北海道鉄道と細かく分かれていた。3つの鉄道会社間を通して運行が行われておらず不便だったが、全通後には連絡輸送も開始された。その後、間もなく全線が国有化、一部区間の複線化が進められ、輸送力の強化が図られた。

 

〈5〉明治15年 長浜から敦賀まで北陸線の路線が延びる

西日本では京阪神を走った幹線の次に整備されたのが、現在の北陸本線にあたるルートだった。明治15(1882)年3月10日に、当時の起点となった長浜駅〜金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)間が開業している。

 

現在、北陸本線の起点は米原駅となるが、当時は現在の東海道本線の路線である大津駅〜米原駅間が開業しておらず、鉄道の代わりに、大津〜長浜間は琵琶湖を渡る鉄道連絡船が利用された。そのため長浜駅が当時の起点とされたのだった。

 

京阪神地方から初めて北陸地方へ入る鉄道だったが、険しい県境越えは当時の鉄道敷設技術では難しく、現在のルートとは異なり、木ノ本駅と鳩原(はつはら)信号場(敦賀駅〜新疋田駅間にあった)間を、別ルート(旧線・柳ヶ瀬線/廃線)でたどった。しかも県境にあった旧柳ヶ瀬駅と旧洞道口駅(きゅうどうどうぐちえき)の間は徒歩連絡という状態だった。この徒歩連絡区間は明治17(1884)年4月16日に柳ヶ瀬トンネルが開通により解消されたが、それほど開業を急いだ理由は、やはり日本海の物資を京阪神にいち早く届けたいという意図だったのだろう。

 

北陸本線の最初の開業区間を記録した古い絵葉書は入手できなかったため、ここは当時の起点終点駅の写真を掲載した。旧長浜駅舎(現・長浜鉄道スクエア)も、旧敦賀港駅舎(現・敦賀鉄道資料館)も古い駅舎を偲ぶ施設が残されている。

 

敦賀まで早々に通じた北陸本線だったが、敦賀以北の工事は非常に時間がかかった。大正2(1913)年に青海駅〜糸魚川駅間が開業し、ようやく米原駅〜直江津駅間が全通した。最初の区間が開業してから実に31年の年月がたっていた。

↑起点・終点とも開業当初の駅舎が残されている。旧長浜駅は長浜鉄道スクエアとして、旧敦賀駅は敦賀鉄道資料館として開館している

 

↑敦賀まで通じた北陸本線は徐々に延ばされていた。絵葉書は富山県の石動駅(いするぎえき)で明治31(1898)年11月1日に開業した

 

北陸本線が一部開業した同じ年、東京では「東京馬車鉄道」が開業している。客車を馬で牽かせて線路上を走った鉄道交通で、明治15(1882)年6月25日に新橋〜日本橋間が開業し、10月1日には日本橋〜上野〜浅草〜日本橋という環状路線も開業している。営業は至極好調で、当初の馬の頭数47頭から後に226頭まで増やしている。とはいえ、糞尿問題は避けられず社会問題化。すでに他市では電車導入が始まり、明治36(1903)年には東京でも電車運行が始まった。「東京馬車鉄道」は「東京電車鉄道」と社名変更、その後に東京市電、都電として整備され、都内の大事な公共交通機関として発展していった。

 

〈6〉明治16年 日本鉄道により造られた東北本線・高崎線

明治政府はいろいろな改革を一気にすすめたこともあり、資金不足に陥っていた。本来は鉄道建設も自らの力でやりたかったところだが、路線延伸が思うようにはいかず、全国にいち早く広げるためには民間の力を借りなければならなかった。

 

そのため、明治14年(1881)年にまず日本鉄道会社の設立を許可する。日本鉄道会社は日本初の私鉄にあたる。当時、建設・運営は政府に委託する形で、今でいうところの上下分離方式で路線が延ばされていった。国としても建設・運営費が懐に入るわけで、有効と考えたのだろう。

 

日本鉄道が誕生した後、山陽鉄道、九州鉄道と私設鉄道会社が誕生していき、次々に各地へ路線が延ばされていった。いわば官設のみの鉄道路線から私鉄まで巻き込み、幹線網の延伸、拡大を急いだわけだ。後の明治39(1906)年3月31日に「鉄道国有法」が公布され、この年から翌年にかけて、私設路線は国有化されていく。国として民間資本を上手く使った形になり、また幹線の延伸も官設のみだった時に比べて非常にスムーズに進んでいった(詳細後述)。

↑上野駅の初代駅舎。ターミナル駅として開設されたものの現在の駅舎よりだいぶ小さめ。和装の家族が急ぎ足で歩く様子が写る

 

最初に生まれた私鉄・日本鉄道が手がけたのは、東京以北の路線だった。明治16(1883)年7月28日に、上野駅〜熊谷駅間が開通。上野駅〜大宮駅間は現在の東北本線、さらに高崎線の熊谷駅までの路線が創設された。

 

路線開業のスピードは早く、高崎線は翌年には前橋まで延伸される。一方、大宮駅から先は利根川橋梁の工事に時間がかかったものの、明治19(1886)年6月17日には上野駅〜宇都宮駅間が全通した。さらにその年に黒磯駅まで延伸、翌年には塩竈駅(宮城県)まで路線をのばした。

 

最後となった盛岡駅〜青森駅間は明治24(1891)年9月1日に開業し、東北本線が全通した。上野駅〜大宮駅が開業してわずかに8年後のことで、猛烈なスピードで路線の延伸を進めていった。当時の路線開設は、現代の技術をもってしてでも考えられない早さで、突貫工事が進められたことは容易に想像できる。

↑水戸偕楽園のすぐそばを走る常磐線の列車。日本鉄道が当時の水戸鉄道を買収し、後に常磐線の延伸工事が進められていった

 

日本鉄道の勢いは止まらず、他の私鉄も積極的に買収を進める。例えば、東北本線の小山駅と水戸駅を結んでいた水戸鉄道を明治25(1892)年に買収した。当時は水戸に通じる唯一の鉄道路線で、東京から北側の主な路線は日本鉄道が傘下に収めることになる。

 

水戸につながった路線は、その後に常磐線の元となっていく。明治28(1895)年からは常磐線の延伸を始め、明治31(1898)年には田端駅〜岩沼駅(宮城県)間の全線を開業させてしまった。そんな日本鉄道も明治39(1906)11月1日に国に買収され、すべての路線が官営路線となったのだった。

 

〈7〉明治21年 山陽鉄道が神戸〜下関間の開業を目指す

一方、近畿地方から中国地方へ至る瀬戸内海沿いは、山陽鉄道が路線の新設を進めた。山陽鉄道は、まず兵庫駅〜明石駅間の路線を明治21(1888)年11月1日に開業させる。同年には姫路駅へ路線を延伸させた。神戸駅までは官営の路線が早くに通じていたが、翌年に神戸駅〜兵庫駅間を開業させ、官営鉄道との接続が完了した。

 

その後、年を追って路線が延伸されていき、明治24(1891)年3月18日には岡山駅まで、明治27(1894)年6月10日には広島駅まで、明治34(1901)年5月27日には馬関駅(ばかんえき/現・下関駅)まで延伸、現在の山陽本線が全通したのである。

 

東北本線の全通まで8年という早さには敵わないが、それでも13年で全線を開業させている。いかに当時の私鉄の路線延伸のスピードが早いかが分かる。

↑山陽本線の景勝地として知られる須磨海岸付近を写した絵葉書は数多く残る。同区間は列車からも美しい海岸線がよく見えた

 

 

〈8〉明治22年(1)甲武鉄道が中央本線の一部区間を開業

東京の中心から東海・近畿地方へ向かう路線の開設は意外に手間取った。中央本線も東海道本線も、同じ明治22(1889)年に一部路線の開設が始まった。中央本線の一部となる路線は甲武鉄道という私鉄会社によって造られていく。明治22(1889)年4月11日に新宿駅〜立川駅の路線が開業。当時の武蔵野台地は住む人も少なかったのか、同区間は定規で引いたように直線ルートが続く。今では考えられないルート選定である。同年の8月11日には八王子駅まで延伸される。

 

新宿駅から東京の中心部へ向かう線路の開設は郊外路線よりも遅れ、まず1894(明治27)年に新宿駅と牛込駅間に路線が敷かれた。牛込駅とは現在の飯田橋駅のやや西側にあった駅だ。この東南側に飯田町駅(現在は廃駅)という駅が翌年に生まれ、同線の終点駅となる。

↑現在の四谷見附から見た中央本線を走るSL列車。明治中期に新宿駅から東に路線が徐々に延伸されていった

 

飯田町駅がしばらく終点駅となっていたが、明治37(1904)年に飯田町駅〜御茶ノ水駅間が開業する。甲武鉄道としての活動は明治30年代までで、明治39(1906)年10月1日に国有化された。

 

中央本線は名古屋駅側からの官設路線の工事も進められ、明治33(1900)年7月25日に名古屋駅〜多治見駅間が開業。翌年には工事を進めていた八王子駅〜上野原駅間が開業、明治39(1906)年6月11日には塩尻駅まで路線が延び、いわゆる中央東線が開業した。塩尻駅から先の中央西線部分は、明治44(1911)年5月1日の宮ノ越駅〜木曽福島駅間の開業で、中央本線が全通となった。高低差があり、また険しい列島の中央部を貫く路線だけに、工事にも時間がかかったのだった。

 

〈9〉明治22年(2)横浜〜熱田間の延伸で東海道本線が全通

日本で最初に路線が開設された新橋〜横浜間、そして2番目に設けられた大阪〜神戸間も、後の東海道本線の一部となる区間である。その後の日本の鉄道交通・物流の大動脈ともなる東海道本線の開業は意外に手間取った。

↑東海道本線の由比付近を走る列車。線路沿いには幼子をおんぶした姉妹らしき姿も。機関車は英国ダブス社が製作した6270形

 

近畿地方の路線の延伸は関東と比べれば早く、明治13(1880)年7月15日に琵琶湖畔の大津駅まで延伸、神戸駅〜大津駅が全通した。その後、東海・中部地方での路線の敷設工事が活発化していく。明治17(1884)年5月25日に岐阜県内の関ヶ原駅〜大垣駅間が開業、明治19(1886)年3月1日に建設資材を運ぶために武豊駅〜熱田駅間(一部は現・武豊線)を開業させて、東海道本線の延伸工事が活発化。同年には熱田駅〜木曽川駅間が開業した。この時に現在の名古屋駅(当時は名護屋駅)も開業している。明治20(1887)年4月25日には武豊駅〜長浜駅間が全通し、愛知県・岐阜県の主要区間の路線開業が完了している。

 

一方で、横浜駅からの延伸工事は進まず、明治20(1887)年7月11日にようやく横浜駅(初代)〜国府津駅間が開業している。また翌年には愛知県の大府駅〜浜松駅間が延伸開業。国府津駅からは現在の御殿場線を経由して静岡駅、浜松駅に至るルートが明治22(1889)年4月16日に開業した。

 

4月16日の時点では、長浜駅〜大津駅間は琵琶湖を渡る鉄道連絡船が使われていたが、7月1日に湖東を通る路線が開業して、正式に新橋駅〜神戸駅間が全通した。新橋〜横浜の路線開業から実に17年の歳月をかけて、東海道本線がようやくつながったのだった。

↑浜名湖の弁天島を渡る東海道本線の旅客列車。同区間は明治21(1888)年に路線が延伸された。牽引の機関車は6250形

 

〈10〉明治22年(3) 九州鉄道により開設された鹿児島本線

明治22(1889)年という年は列島の各地でいくつかの新線の開業があった年だった。九州でもその後に幹線となる新線が開業していた。

 

九州の鉄道開設は九州鉄道という私鉄会社により行われた。まず明治22(1889)年12月11日に博多駅〜千歳川仮停車場間に線路が敷かれる。千歳川仮停車場は今の肥前旭駅と久留米駅間にあった仮の停車場で、翌年に筑後川(千歳川)に橋梁が架けられ、路線は久留米駅まで延ばされている。博多駅から北も、明治24(1891)年中に遠賀川駅(おんががわえき)まで延ばされ、翌年には門司駅(現・門司港駅)、南は熊本駅まで延長され、門司駅と熊本駅が一本の線路で結びついた。

↑福岡市内を流れる多々良川を渡る列車。同橋梁は現在、横を西鉄貝塚線や貨物線が平行する。景色も大きく変わってしまった

 

今の鹿児島本線にあたる路線だ。新線建設の準備は前もってされていたのだろうが、最初に誕生した区間からわずか2年後に門司駅〜熊本駅間が結ばれたのだから、工事の進捗具合はかなり早い。

↑現在の小倉駅〜門司駅間にある赤坂海岸を走る石炭列車。海岸部分は埋め立てられ、現在は路線から海を見渡すことができない

 

明治29(1896)年11月21日には八代駅(後の球磨川駅・廃駅、現在の八代駅と場所が異なる)まで延伸された。その後の明治40(1907)年に九州鉄道の路線は国有化され、鹿児島本線は現在の肥薩線経由で延伸され、鹿児島駅まで延伸されたのは明治42(1909)11月21日のことだった。

 

さらに現在の鹿児島本線(一部は肥薩おれんじ鉄道線)となるが八代駅〜鹿児島駅間が開業したのは昭和2(1927)年10月17日のことだった。

 

肥薩線周りルートをたどり、その後に東シナ海側の路線とルートが変わったものの、最初の区間の開業から実に38年の年月がかかった。

 

鹿児島本線が九州鉄道によって一部区間が開業した同じ年、他にも私鉄により開設された後に幹線になったルートがある。四国の予讃線・土讃線の元になった一部区間で、明治22(1889)年5月23日、讃岐鉄道という私鉄により丸亀駅〜琴平駅間が開業した。明治30(1897)年には高松駅〜丸亀駅間が開業し、高松駅〜琴平駅間の運行が行われる。

 

讃岐鉄道はその後に山陽鉄道に買収され、またその山陽鉄道も1906(明治39)年に国有化される。以降予讃線は官営鉄道の手で整備、延伸されていくが、松山駅まで路線が延びたのは昭和2(1927)年のことだった。現在の予讃線の終点となる宇和島駅までの延伸は昭和20(1945)年6月20日だった。

 

政府の官営鉄道の路線造りを見ると、どこもかなり時間がかかっている。明治初頭に政府が財政難に陥り、私鉄に路線造りを任せたのが草創期の幹線整備を進める上で大正解だったのかも知れない。

 

※参考資料:「日本国有鉄道百年写真史」、「写真でみる貨物鉄道百三十年」ほか

祝開業「西九州新幹線」! 新風が吹き込む沿線模様を追う

〜〜日本一短い新幹線「西九州新幹線」最新レポート〜〜

 

武雄温泉駅(佐賀県)と長崎駅を結ぶ西九州新幹線が9月23日に開業した。新しい路線の誕生に地元の期待は高まる。開業した1週間後に実際に駅を訪ね、列車に乗車してみると、現状がより見えてきた。新幹線開業でどのように変わったのか、また在来線を含め沿線はどのように変わろうとしているのか迫ってみたい。

*取材は2022(令和4)7月1日と、9月30日・10月1日に行いました。

 

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百聞は一見にしかず!?「西九州新幹線」開業で沿線はどう変わるのか?

↑従来の長崎本線が有明海に沿って走ったのに対して、西九州新幹線は多良岳の西側、大村湾に沿って走っている

 

【変貌する西九州①】建設予定からこれまでを整理してみる

まずは西九州新幹線が計画された当初から、現在に至るまでを見ておこう。

 

西九州新幹線が計画されたのは今から50年前の1972(昭和47)年12月12日にさかのぼる。全国新幹線鉄道整備法の中で「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」に告示され、翌年に九州新幹線(西九州ルート)として整備計画が決定された。さらにその35年後にあたる2008(平成20)年に武雄温泉〜諌早間の工事が着工、2022(令和4)年9月23日に武雄温泉駅と長崎駅間66.0kn(営業キロ69.6km)が完成し、暫定開業に至った。

 

今回、新幹線の未開業区間となっている武雄温泉駅〜新鳥栖駅間は、当初フリーゲージトレイン(軌間可変電車)が導入される計画だった。しかし、技術的な問題が解決できず、新幹線の一般車両に比べて割高かつ維持経費がかかることが予想され、また高速化が不向きといった諸問題が重なり導入が断念された。その後に全線フル規格での建設を求める方針が国から示された。こちらのフル規格での新線建設も、佐賀県の建設費負担や、ルート選定などの問題で、佐賀県の同意が得られない状況となっている。

↑終着駅の長崎を目指す西九州新幹線。長崎市内は写真のように山が多い地形で、トンネルを出たらまたトンネルという区間が続く

 

さらに、莫大な建設費に対しての貸付料(=施設使用料)のバランスが取れていない課題も明らかになった。武雄温泉駅〜長崎駅の建設費は総額6197億円に及んだ。対してJR九州から施設の使用料が支払われるが、一年間で5億1000万円になることが明らかになった。開業してから30年間で総額153億円になると試算されている。

 

当初に予想していた貸付料(=施設使用料)は年間約20億円と算出されていたのだが、九州新幹線と結ばれていないなど、収入増とはなりにくい要素も見込まれ、想定を大幅に下回ることになった。支払われる建設費のうち3分の2は国が、3分の1は自治体の負担になると報道されている。

 

西九州新幹線の66.0km区間も着工してから14年という長い年月がかかった。残り武雄温泉駅〜新鳥栖駅間(現在の営業キロは50.4km)の着工は目処がたっていない状況で、いつになったら全線が結ばれるのか、現状では次世代に夢を託すしかなさそうだ。

 

【変貌する西九州②】新幹線で平均26分の所要時間短縮に

9月23日の西九州新幹線の暫定開業では、博多駅〜武雄温泉駅間を走る特急「リレーかもめ」と、西九州新幹線「かもめ」が佐世保線の武雄温泉駅で乗継ぎ可能な形で運転される。両列車は同じホームで対面して停車し、スムーズに乗り継げるように調整された。

 

西九州新幹線が開業する前と開業後の所要時間、運賃+特急料金などの変化を見ておこう。まずは博多駅〜長崎駅間の所要時間がどのぐらい短縮されたかを見ていこう。

 

◇長崎本線・下り特急「かもめ」を利用の場合(9月22日まで)
所要時間:1時間50分〜2時間11分(平均2時間2分)/列車本数22本

 

◇長崎本線/佐世保線・下り特急「リレーかもめ」+西九州新幹線「かもめ」を利用の場合(9月23日以降)
所要時間1時間20分〜1時間50分(平均1時間36分)/列車本数26本(臨時列車も含む+乗り継ぎ時間3分を含む)

 

全列車の所要時間の平均を計算してみると在来線利用の特急「かもめ」は博多駅から長崎駅まで平均2時間2分で走った。一方、「リレーかもめ」+西九州新幹線「かもめ」を利用すると平均1時間36分で、新幹線の利用効果は26分早く着くと算出できた。

↑諌早駅近くを走る武雄温泉駅行き「かもめ」。指定券を購入すると「かもめ」と「リレーかもめ」の特急券が1枚で発券される(左下)

 

ちなみに、新幹線利用時の最速列車の所要時間と、時間がかかる列車の所要時間には30分の差が出た。この差に関しては、まず新幹線の途中駅を何駅停まるかによる。最速の列車は途中の嬉野温泉駅と新大村駅の2駅を通過する。一方、所要時間がかかる列車は途中3駅すべてを停車して走る。

 

加えて時間がかかる列車の場合は、佐世保線の単線区間の影響も受けている。佐世保線の江北駅〜武雄温泉駅間には単線区間があり、途中駅で行き違う列車との待ち合わせが必要となる。これらの要素により、列車の所要時間に差が出てしまうわけだ。

 

さて、特急料金の変化に目を転じてみよう。ここでは、博多駅〜長崎駅に加えて、一つ手前の諌早駅までの金額も記した。( )内は新幹線開業前の特急料金だ。両駅間とも運賃の変更はなかった。

 

博多駅〜諌早駅:運賃2530円、特急料金2740円(1780円)

博多駅〜長崎駅:運賃2860円、特急料金3190円(1940円)

 

特急料金は博多駅〜諌早駅間の場合に960円、博多駅〜長崎駅間の特急料金は1250円高くなった。ちなみに自由席の場合は530円引き(嬉野温泉駅のみ880円引き)となる。

 

【変貌する西九州③】最短1時間20分で走る列車は?

ここからは西九州新幹線「かもめ」の車両と列車の概要を見ていこう。

↑大村市内を走る西九州新幹線。奥に大村市街と大村湾が広がる。このあたりの車窓風景が最も美しい

 

西九州新幹線で使用される車両は東海道・山陽新幹線用に導入されたN700Sの西九州新幹線用8000番台。西九州新幹線開業時に6両×4編成が導入された。デザインはJR九州の車両制作に大きく関わってきた水戸岡鋭治氏が担当した。車体カラーは白を基調にJR九州のコーポレートカラーの赤が配色された。

 

編成は長崎駅側3両が指定席で2席×2席の座席配置、武雄温泉駅側3両が自由席で、2席×3席の座席配置となっている。なお、グリーン車は連結されていない。新型車両らしく全席ともにひじ掛け部分にコンセントが付いている。最高時速は260kmだ。

 

列車本数は下り(長崎方面への列車)が計28本で、26本が武雄温泉駅〜長崎駅間を走る列車となる。そのうち4本は金・土曜・休日に運転される臨時列車だ。朝に走る2本のみ新大村駅→長崎駅間の列車で、新大村駅近くにある車両基地から出庫し、長崎駅へ向かう。対して上り(武雄温泉駅方面への列車)は計27本で、1本のみ深夜に長崎駅→新大村駅間を走る列車がある。金・土曜・休日に走る臨時列車は下りと同じく4本だ。なお武雄温泉駅〜長崎駅を走る下り・上り全列車が武雄温泉駅で特急「リレーかもめ」と連絡する。

 

西九州新幹線のみの所要時間は、各駅に停車する列車が30分もしくは31分、途中駅の嬉野温泉駅や新大村駅を通過する列車は23分〜28分となっている。

 

ちなみに、博多駅〜長崎駅間を最も早い所要時間1時間20分で走る下り列車は、博多駅10時4分の「リレーかもめ」17号で、武雄温泉駅で「かもめ」17号に乗り継げば長崎駅へは11時24分に到着する。また最速の上り列車は長崎駅9時50分発の「かもめ」16号で、武雄温泉駅で「リレーかもめ」16号に乗り継ぐことで博多駅には11時10分に到着する。こちらの所要時間も1時間20分となる。

 

【変貌する西九州④】3形式の「リレーかもめ」が使われる

ここで「リレーかもめ」の車両も触れておこう。

 

博多駅(一部は門司港駅発)発の特急「リレーかもめ」に使われる車両の多くが885系で、武雄温泉駅側の1号車は半分がグリーン車と指定席、2・3号車が指定席で、博多駅側3両が自由席となっている。

↑「リレーかもめ」885系。側面の表示では下りは武雄温泉駅での接続の注意書き付き(左側)、博多行きも「リレーかもめ」の名が入る

 

車体がグレーの787系も「リレーかもめ」として走っていて、こちらは8両編成。武雄温泉駅側の1号車はグリーン車でDXグリーンも付く。2〜4号車が指定席、5〜8号車が自由席だ。

 

一部の博多駅〜佐世保駅間を走る885系、もしくは783系使用の特急「みどり」の一部も、新幹線開業後は特急「みどり(リレーかもめ)」を名乗り接続列車として走る。885系「みどり」は6両編成で「リレーかもめ」と同編成、783系での運行の「みどり(リレーかもめ)」は4両(特急「ハウステンボス」車両を連結しない場合)、もしくは8両で運転される。

 

乗り継ぐ武雄温泉駅では、対面するホームに西九州新幹線N700S「かもめ」が停車し、武雄温泉駅側3両が指定席、長崎駅側3両が自由席となる。885系が「リレーかもめ」ならば同じ6両で、同じ号車がほぼ目の前(やや1号車側はずれる)に停まっているので、同じ号車の指定席を購入すれば、スムーズに乗継げるようになっている。

↑博多駅〜武雄温泉駅間は783系の特急「みどり(リレーかもめ)」、787系の特急「リレーかもめ」も走っている

 

【変貌する西九州⑤】3分という乗り継ぎ時間は短い&長い?

ここからは西九州新幹線のそれぞれの駅の様子を見ていこう。

 

駅は計5駅で、武雄温泉駅が起点となる。各駅停車の列車ならば嬉野温泉駅、新大村駅、諌早駅の順に停まり、終点は長崎駅となる。そのうち、嬉野温泉駅と新大村駅が、新幹線の開業に合わせて誕生した新駅となる。

 

筆者が訪れた日は開業してまだ1週間ということもあり、乗客以外にも新幹線を見学しようとする地元の人たちの姿が多く見受けられた。関心度は高いようだ。ちなみに入場券は各駅とも大人170円となっている。

 

まずは武雄温泉駅。これまでは佐世保線の途中駅だったが、この駅が「リレーかもめ」と「かもめ」の乗継ぎ駅となり利用者も増え、注目度も高まっている。

↑武雄温泉の御船山口(南口)。温泉最寄り駅とあって、駅前には湯煙が立ちのぼる噴水も。10番・11番線で乗り継ぎを行う(右上)

 

武雄温泉駅は従来の正面玄関だった楼門口(北口)と、再開発された御船山口(南口)がある。それぞれの名前は地元、武雄市の名所にちなむもので、楼門口は武雄温泉街にある朱塗りの楼門にちなむ。楼門は東京駅を設計したことで知られる辰野金吾の設計により1915(大正4)年に完成した。また御船山口は、佐賀藩の武雄領主が造営した御船山楽園にちなむ。

 

ホームは4面で、北側の1・2番線は在来線ホーム、また中間部に10・11番線ホームがある。そのうち10番線が特急「リレーかもめ」が発着するホームで、目の前の11番線が西九州新幹線「かもめ」の発着ホームとなる。1・2番線と10・11番線の改札口は異なっていて、10・11番線へ入るには新幹線および特急用の乗車券+特急券(入場券でも可)の購入が必要となる。

 

この武雄温泉駅では特急「リレーかもめ」が到着すると、乗り継ぐ新幹線「かもめ」が3分後に発車する。実際に見て、また自分も乗り継ぎを体験してみた。博多方面から「リレーかもめ」が到着すると、物珍しさもあり、まずはホームで写真を撮ろうとする観光客の姿が多い。特に先頭部1号車側で、乗換え前に写真を撮っておこうという人の姿が目についた。写真撮影を楽しんでいたのは鉄道ファンよりも、ごく普通の利用者が多い。とはいえ3分間は短く、撮影していた人たちもあわてて乗り込む姿が目立った。

 

一方、新幹線「かもめ」から特急「リレーかもめ」への乗り継ぎ時間も同じく3分。筆者が実際に体験した時には、のんびり乗り降りする人もいて、下車するまでに1〜2分かかってしまう。リレーかもめが885系ならば乗ってきた号車の、ほぼ目の前に同一号車が停車しているので迷わずに済むが、意外に慌ただしいようにも感じた。

 

「リレーかもめ」「かもめ」の自由席は、観光シーズンならば着席するのも大変そうに感じた。高齢の利用者や、親子連れはなるべく指定席の利用をおすすめしたい。

 

【変貌する西九州⑥】地元の観光関連産業はまだ様子見?

武雄温泉駅の次の駅は嬉野温泉駅となる。嬉野温泉駅は嬉野市内にできた初めての鉄道駅だ。嬉野温泉は「日本三大美肌の湯・嬉野温泉」と商標登録されている温泉で、美肌の湯に定評がある。

 

嬉野温泉駅から温泉街の中心にある公衆浴場「シーボルトの湯」までは西へ約1.8kmの距離があり、駅からはバスやタクシーの利用が賢明だ。これまで嬉野温泉へのアクセスは、武雄温泉駅からバス利用、もしくは高速バスを利用して、長崎自動車道の嬉野インターチェンジバス停からタクシー利用者が多かっただけに、新駅開業でどのように人の流れが変わるか注目される。

↑新駅の嬉野温泉駅の塩田川口(東口)。逆が温泉口(西口)となる。新幹線全駅の中で唯一、駅前駐車場の料金が無料だった

 

嬉野温泉駅を訪れたのは平日の日中だっただけに人もまばら。駅構内に売店等はまだなく、温泉口(西口)の野外に臨時の出店(弁当などを販売)が1軒あるのみで、駅前広場の整備工事は完了していない状態だった。

 

武雄温泉駅から嬉野温泉駅までは10.9kmで、新幹線の場合、出発したらあっという間についてしまう。上り列車ならば、嬉野温泉駅を出発したら、すぐに武雄温泉駅到着のアナウンスが流れるほどだった。一方、嬉野温泉駅から次の新大村駅間は21.3km(諌早駅〜長崎駅間も同じ21.3km=実キロ)とやや離れている。それだけにこの駅間は列車も加速した様子がうかがえた。

 

新大村駅も新駅となるが、大村線の線路上に設けられたこともあり、大村線の新大村駅も同時に開業した。場所は大村市の中心街がある大村駅から北へ2駅めで、距離は約2.7kmと離れている。観光案内所が設けられているものの、駅周辺の開発はまだこれからといったところだ。

↑新大村駅で大村線(左上)と接続する。在来線の駅も新設され乗換えに便利だ。写真は海側に設けられたさざなみ口(西口)

 

ちなみに、筆者は今回の行程では一部レンタカーを利用した。多くの観光客が到着する長崎空港は大村市内にある。空港は大村湾の海上に埋め立て地に設けられている。大手レンタカー会社の事務所は、みな空港内にデスクを設け、大村市街に営業所が設けられているのだが、新大村駅までの送り迎えを始めたかどうか尋ねてみた。しかし、送迎はないと回答。話を聞くと今後は利用状況を見ながら送迎を始めるかどうか検討中とのことだった。

 

バス事業者も新大村駅の駅開業に合わせて立ち寄る路線バス便を設けたもののまだ本数は少なめ。新大村駅への地元の公共交通機関の本格的なアクセスは、まだ先のことになりそうだ。

 

【変貌する西九州⑦】大きく変わった諌早駅。乗換えも便利に

↑諌早駅の東口。西口との間には自由通路が設けられている。駅に隣接するホテルなども新たに設けられた

 

西九州新幹線の開業で大きくリニューアルしたのが諌早駅だ。諌早駅は在来線の長崎本線、大村線と接続、さらに島原半島へ向かう島原鉄道の起点駅でもある。ホームは1〜4番線がJRの在来線、11・12番線が新幹線ホームとなった。改札を出ると東西自由通路があり、そこにはスターバックスコーヒーやコンビニエンスストアが設けられ、利用者も多く賑わいを見せていた。

 

東口には駅前ホテルが新設され、高層マンションも建てられた。駅前のバスロータリーが大きく整備され、拠点駅として機能していることを窺わせる。諌早市は長崎県内のほぼ中央部にあり、もともと交通の要衝として栄えてきたが、今回の新幹線開通での駅リニューアルにより、より活気が増したように見えた。

 

【変貌する西九州⑧】長崎駅の150m移動で流れが変わるか?

最後は終点の長崎駅だ。長崎市内は周囲を山に囲まれたところが多く、平地が少なめだ。長崎駅周辺も例外ではない。西九州新幹線は市街の東側で新長崎トンネル7460mを出ると、すぐに長崎駅へ到着する。

 

長崎駅はここ数年で大きく変わった。元は駅前に国道202号が通り繁華な印象が強かった。一方で、在来線の長崎本線は地上部を走るため、市内の踏切が混雑しがちで、高架化が必要とされていた。そこで旧駅の西側にあった車両センターの場所へ駅自体を移動し、まず2020(令和2)年3月28日に在来線用の新しい長崎駅が設けられた。西九州新幹線の長崎駅はこの東側に平行して造られた。

 

在来線は1〜5番線、新幹線ホームは11〜14番線ホームとなる。駅下には総合観光案内所や「長崎街道かもめ市場」という大きな土産売り場が設けられた。

↑駅近くの高台から望む新しい長崎駅。手前が新幹線の高架、奥が在来線の高架駅だ。駅の奥には長崎港が遠望できる

 

150mほど駅の位置を西へ移動したことにより新たな問題も出てきている。踏切対策のため移動、高架化した長崎駅だが、市内の公共交通機関は、長崎電気軌道が運行する路面電車と路線バスの利用者が多い。だが路面電車と路線バスの駅前にある停留所は、移動工事は行われていない。なぜだったのだろう?

 

【変貌する西九州⑨】電停の移動を断念した長崎の路面電車

長崎駅周辺の地形は特殊だ。長崎駅の西側は浦上川が迫り、東側は国道202号が南北に通り抜ける。国道の東側はすぐに傾斜地が迫っている。平地が限られていて国道202号以外に広い通りがない。この国道の中央部を路面電車が走り、長崎駅前電停がある。さらに多くの路線バスも路面電車の左右を走っている。長崎駅前にある交差点では国道202号から桜町通りという幹線道路が分岐している。他に道がないだけに国道202号は車で混みあっている。

↑新しい長崎駅のかもめ口(東口)から延々続くプレハブの仮通路が設けられている。路線バスの駅前バス停はやや北側に移動した

 

路面電車を新駅の側に移動するプランも検討されたのだが断念。そこには長崎ならではの事情があった。

 

長崎電気軌道の路面電車の利用者は、市内の南北の移動に電車を利用する人が多い。長崎駅前電停の乗降客はそれほど多くないそうだ。つまり駅前電停をスルーしてしまう利用者が多い。そういった事情もあり、150mほどずらした新駅へ迂回するルートを設けてしまうと、より時間がかかることになり逆に不便になるという。渋滞しやすい国道202号を横切るのも、さらなる渋滞を招く。路線バスも同様の事情がある。

 

さらに、これまで路面電車を利用する場合には国道をわたる歩道がないため、国道202号上に設けられた高架広場へいったん階段を上がり、さらに電停への階段を下る必要があった。この上り下りは40段以上にもなっていた。今回の駅前再開発で多少は改善され、駅前電停の専用エレベーターが9月20日に設置された。だが、駅側から高架広場に上るエレベーターの位置が分かりにくく、新駅から仮通路を歩き、面倒とばかり高架広場の階段を上り下りする人が目についた。

↑国道202号の中間部にある長崎電気軌道の長崎駅前電停。高架広場への階段の上り下りが必要だったがエレベーターが新設された

 

将来的には旧駅前に多目的広場と、新駅からの通路がつくられ、エスカレーターも設けられるという。ただし、どう改良されても150m歩くことに変わりはない。西九州新幹線から路面電車に乗継ぐ場合、最低でも10分以上の余裕は見ておくことが必要なようだ。

 

【変貌する西九州⑩】新長崎駅ビルが誕生すればさらに賑やかに

長崎駅の周辺の再開発も進みつつある。かもめ口(東口)に加えて、いなさ口(西口)が整備された。いなさ口の駅前にはバス・タクシーの乗り場も設けられたが、人の姿もまばらで、これからといった印象だった。

↑長崎駅の西側、いなさ口側の状況。高架駅に沿ってバス停、タクシー乗り場などが整備されたが、利用者はまだ少なめだった

 

新駅と以前の駅があった、その中間部の開発も急ピッチで進む。駅の東隣には「新長崎駅ビル」が建てられている。こちらは2023年秋に開業予定で、1〜3階は商業施設が入居、さらに上部は高級ホテルやオフィスが入居する予定となっている。

 

連なるように既存の駅ビル「アミュプラザ長崎」が建っている。こちらには1階から5階まで全国の有名店などの商業施設や、映画施設が入っている。新駅ビルの誕生で、ますます駅周辺は華やかになっていきそうだ。

↑駅ビル「アミュプラザ長崎」。この北側に旧長崎駅があった。西隣では新駅ビル建設が行われている

 

【変貌する西九州の⑪】長崎本線の肥前浜〜諌早間が非電化に

西九州新幹線の開業にあわせて、取り巻く在来線もかなり変わりつつある。

 

まず長崎本線と佐世保線が分岐していた肥前山口駅(ひぜんやまぐちえき)が江北駅(こうほくえき)と名を改めた。地元・江北町(こうほくまち)の要望による変更で、駅名改名の関連費用も町のお金でまかなわれた。

 

佐世保線は「リレーかもめ」が走ることにより、より幹線として列車本数が増えることになった。一方で、従来の長崎本線の江北駅〜長崎駅間が大きく変わることになった。

 

これまで全線が電化されていたが(喜々津駅〜浦上間の長与支線を除く)、肥前浜駅〜長崎駅間は非電化となり、走る車両が電車から気動車へ変更された。江北駅〜肥前浜駅間のみ電化区間として残され、博多駅(一部は門司港駅発)〜肥前鹿島駅間を結ぶ特急「かささぎ」が1日7往復することになった。肥前鹿島駅はこれまで30分〜1時間間隔で走る特急「かもめ」の停車駅として便利だっただけに、新幹線の開業でやや不便になった。

↑肥前鹿島駅に入線するキハ47形気動車。塗装変更された気動車が長崎本線の一部区間を走り始めている

 

西九州新幹線開業後の大村線の変更点も触れておこう。新大村駅が誕生したことにより、大村線沿線は大きく変わりつつある。大村市内には、新大村駅の先、2つめに大村車両基地駅という新駅が誕生した。駅名通り、西九州新幹線の大村車両基地に併設された在来線の新駅だ。

 

大村線は長崎市と長崎県第二の都市・佐世保市を結ぶ路線として機能してきた。ローカル線ながら、乗車率も高い。その路線が西九州新幹線と接続したことで、新たな利用者も増えていきそうだ。さらに観光要素も見逃せない。新大村駅から4つめの千綿駅(ちわたえき)は、ホームの目の前に大村湾が迫る駅で、〝映える駅〟として知られてきた。その駅へのアクセスが便利になった。この千綿駅に停車する観光列車も新たに誕生した。

↑9月23日に新たに開業した大村車両基地駅。新幹線の車両基地に隣接した駅だが、残念ながら基地の中を望むことはできない

 

【変貌する西九州⑫】早くも人気に!沿線を走る新たなD&S列車

西九州新幹線の開業と合わせて9月23日から走り始めた新たな観光列車が、「ふたつ星4047(ふたつぼしよんまるよんなな)」である。

↑有明海を背景に走る「ふたつ星4047」。長崎本線の同区間は架線柱が残るものの、非電化区間に変更された

 

「ふたつ星4047」はキハ40形、キハ140形を改造したJR九州のD&S(デザイン&ストーリー)列車の1本として誕生したもので、デザインは西九州新幹線N700Sも制作した水戸岡鋭治氏が担当した。外装は光るパールメタリックで、ゴールドのロゴとラインがあしらわれる。1号車と3号車は普通車指定席で、中間車はビュッフェ・ラウンジ車。こちらは物販用のカウンターなどが設けられた。

 

運行ルートは、西九州新幹線の周囲を走る長崎本線と大村線、佐世保線をぐるりとめぐる行程で、主に金曜日〜月曜日と祝日などに運行される。午前便と午後便があり、午前便は武雄温泉駅から江北駅へ、さらに長崎本線の肥前浜駅、多良駅、諌早駅を巡り長崎駅へ至る。

 

午後便は、長崎駅から諌早駅へ。そこから大村線へ入り、新大村駅、千綿駅、ハウステンボス駅、早岐駅(はいきえき)と走り、武雄温泉駅へ至る。長崎本線、大村線とも海景色が楽しめる路線で人気列車となりそうだ。

↑大村湾に面した千綿駅に停車する「ふたつ星4047」。同駅で10分間停車するためホームに出て記念撮影する乗客が目立った

 

西九州新幹線の開業でその途中駅だけでなく、街や沿線も変わりつつある姿が見て取れた。また新しい観光列車の運行により、新たな魅力も加わった。あくまで暫定開業という一面もあるが、せっかくの新線開業で変わる沿線の魅力を満喫したいものである。

 

人情味あふれる南秋田!ほのぼの「由利高原鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅96〜〜由利高原鉄道・鳥海山ろく線(秋田県)〜〜

 

秋田県の県南、由利本荘市内を走る「由利高原鉄道」。鳥海山ろく線を名乗るように、沿線から鳥海山を望める風光明媚な路線である。この鳥海山ろく線に乗ったところ、他の路線にはないいくつかの出会いがあった。人情味あふれるほのぼの路線だったのである。

*取材は2014(平成26)9月、2015(平成27)9月、2022(令和4)年7月31日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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田んぼ&歴史+景勝地「秋田内陸縦貫鉄道」の魅力にとことん迫る

 

【鳥海山ろく線の旅①】横手と路線を結ぼうとした横荘鉄道

鳥海山ろく線の概要をまず見ておこう。

 

路線と距離 由利高原鉄道・鳥海山ろく線:羽後本荘駅(うごほんじょうえき)〜矢島駅間23.0km 全線非電化単線
開業 1922(大正11)年8月1日、横荘鉄道(おうしょうてつどう)により羽後本荘駅〜前郷駅(まえごうえき)間11.7kmが開業、1938(昭和13)年10月21日、羽後矢島駅(現・矢島駅)まで延伸
駅数 12駅(起終点駅を含む)

 

始点駅となる羽後本荘駅と前郷駅の間の路線は誕生して今年でちょうど100周年になる。当時、横荘鉄道という民間の鉄道会社により路線が開設された。

↑鳥海山ろく線の終点駅の・矢島駅。過去には横手と路線を結ぶ計画があった

 

横荘鉄道という鉄道会社は、今ふりかえると少し不思議な鉄道会社だった。横荘の「荘」は由利本荘市(当時は「本荘町」)を元にしていると分かるが、「横」はどこだったのだろう。この「横」は由利本荘市の東側に隣接する横手のことだった。つまり今から100年以上前の人々が、奥羽本線が通る横手と本荘を鉄道で結ぼうと計画した路線だったのである。横荘鉄道は、本荘側の一部区間を1922(大正11)年に開業させたが、横手側では、これよりも早く1918(大正7)年に横手駅〜沼館駅(ぬまだてえき)間を開業させている。

 

その後、本荘側と横手側の路線は違う歴史をたどる。横手側は1930(昭和5)年に老方駅(おいかたえき)まで延伸させた。本荘側では、横荘鉄道が延伸工事を進めていたが、1937(昭和12)年9月1日に国有化され国鉄矢島線となり、1938(昭和13)に矢島駅まで延伸され、現在の鳥海山ろく線にあたる路線が全通している。

 

一方の横手側は戦時中の1944(昭和19)年に羽後鉄道横荘線となり、1952(昭和27)年に羽後交通横荘線に名称変更したが、1971(昭和46)年7月20日に全線が廃線となった。横荘鉄道が企画した路線の夢はついえたわけだ。地図を見ると矢島駅から、羽後交通の老方駅へは山間部が続き、路線が開業できたかどうか疑問に感じるようなところだ。

 

ただ興味深いことに、羽後交通横荘線の終点、老方駅は現在の由利本荘市東由利(旧東由利町)にあった。旧老方駅は由利本荘市と横手市をストレートに東西に結ぶ現在の国道107号上にあった。対して、現在の鳥海山ろく線は、羽後本荘駅から南東に走る国道108号にほぼ沿って走っている。このあたりどのようなルートを夢見たのか、当時の人たちに話を聞いてみたいところだ。

 

現在の鳥海山ろく線は、国鉄矢島線として長い間走ってきたが、1981(昭和56)年9月11日に第1次廃止対象特定地方交通線として廃止が承認された。その後、同線は当時の本荘市を中心とした地方自治体が出資する第三セクター経営の由利高原鉄道に転換し、1985(昭和60)年10月1日からは鳥海山ろく線として走り始めたのである。2005(平成17)年3月22日に本荘市と周辺の由利郡の7つの町が合併し、鳥海山ろく線は現在、全線が由利本荘市内を走る路線となっている。

 

【鳥海山ろく線の旅②】由利高原の名が付くものの標高は低い

鉄道会社の名前は由利高原鉄道となっている。乗車して分かるのだが、山の中を上り下りするのは子吉駅〜鮎川駅間ぐらいのものだ。始発駅の羽後本荘駅は標高7m弱、終点駅の矢島駅も標高53mぐらいとそれほど高くない(国土地理院標高地図で計測)。

 

第三セクターの路線では、他に滋賀県の信楽高原鐵道(しがらきこうげんてつどう)という路線があるが、こちらも高原は走っていないが、山間部は走っている。このあたりは、鉄道会社名を命名するにあたっての〝イメージ戦略〟ということもあるのだろう。

 

ちなみに路線の南西部、鳥海山麓には由利原高原と呼ばれる高原エリアがあって、そちらにはゆり高原ふれあい農場など「由利(または『ゆり』)高原」を名乗る施設が複数ある。

↑曲沢駅(左上)付近から見た鳥海山。鳥海山山麓の北側の高原地帯の一部が由利原高原、または由利高原と呼ばれている

 

由利高原と鳥海山麓が出てきたので、この高原地帯の頂点にある鳥海山の解説をしておきたい。鳥海山は山形県と秋田県のまたがる標高2236mの活火山で、日本百名山の一つとして上げられている。

 

独立峰ということもあり、四方から美しい山容が楽しめる。秋田県側には一番古い歴史を持つ登山道として「矢島口(祓川・はらいがわ)ルート」があり、矢島駅から鳥海山5合目であり山への登り口にあたる「祓川」まで、夏山シーズンにはシャトルバスも運行されている。

 

【鳥海山ろく線の旅③】おもちゃ列車という観光列車も走る

ここで鳥海山ろく線を走る車両の紹介をしておこう。現在、車両は2タイプが走る。

 

◇YR-2000形

↑「おもちゃ列車」として走るYR-2001。車内にはキッズスペース(右上)があり、木のおもちゃなども用意されている

 

2000(平成12)年と2003(平成15)年に2両が製造された。新潟鐵工所(現・新潟トランシス社)製の地方交通線用のNDCタイプの気動車で、由利高原鉄道としては初の全長18m車両の導入となった。

 

2両のうちYR-2001は、沿線に「鳥海山 木のおもちゃ美術館」が2018(平成30)年7月に開設されたことに合わせてリニューアルされた。車両の名前は「鳥海おもちゃ列車『なかよしこよし』」で、アテンダントが乗車する「まごころ列車・おもちゃ列車」などとして運行されている。客室内には木材を多用、キッズスペース、サロン席などが設けられた楽しい車両だ。

 

◇YR-3000形

↑YR-3000形の最初の車両YR-3001。車体横に車両の愛称「おばこ」と鳥海山が描かれている。「おばこ」とは方言で娘さんの意味

 

YR-3000形は2012(平成24)年から2014(平成26)年にかけて3両が製造された。製造は日本車輌製造で、長崎県を走る松浦鉄道のMR-600形をベースにしている。3両とも車体色が異なり、1両目のYR-3001は緑色、2両目のYR3002は赤色、3両目のYR-3003は青色をベースにした塗り分けが行われている。

 

YR-3000形は1両編成で走ることが多いが、イベント開催時などには3両編成といった姿も見ることができる。ただし、YR-2000形との併結運転はできない。この車両の導入により由利高原鉄道が開業した時に導入したYR-1500形(旧YR-1000形)がすべて廃車となっている。

 

【鳥海山ろく線の旅④】始発駅は、由利本荘市の羽後本荘駅

鳥海山ろく線の始発駅、羽後本荘駅から旅を始めよう。由利本荘市の玄関口だ。由利本荘市なのに、駅の名前は羽後本荘駅なので注意したい。

 

鉄道省の陸羽西線(当時)の駅として羽後本荘駅が誕生したのは1922(大正11)年6月30日のことだった。現在の鳥海山ろく線の羽後本荘駅はその1か月ちょっと後の開設で、両線の駅が同じ年に生まれたことになる。ちょうど100年前と、幹線の駅としてはそれほど古くない。これには理由がある。

 

当初、日本海沿いを走る羽越本線の工事が手間取り、南と北から徐々に路線が延ばされていった。最後の区間として残ったのが新潟県の村上駅と山形県の鼠ケ関駅(ねずがせきえき)間で、この駅間の開業が1924(大正13)年7月31日のことだった。これで、日本海沿いに新潟県と秋田県を結ぶ羽越本線がようやく全通したのだった。

 

東北地方を南北に貫く路線の中で、羽越本線よりも前に開通していたのが、奥羽本線だった。1905(明治38)年に湯沢駅〜横手駅間の開業で、福島駅〜青森駅間が全通している。奥羽本線が20年近くも前に全通していた経緯もあり、横荘鉄道が横手駅から羽後本荘駅への鉄道路線を計画したようだ。

↑昨年8月に橋上駅舎が完成した羽後本荘駅。写真は東口で、橋上にある自由通路から鳥海山が遠望できる(左上)

 

羽越本線の羽後本荘駅は秋田駅から特急「いなほ」を利用すれば30分、普通列車ならば約50分で到着する。1番線〜3番線が羽越本線のホームで、3番線と同じホームの4番線が鳥海山ろく線の始発ホームとなる。鳥海山ろく線の羽後本荘駅発の列車は朝6時50分が始発で、以降、ほぼ1時間に1本の割合で列車が走っている。

 

【鳥海山ろく線の旅⑤】乗務員の気配りにびっくり!

鳥海山ろく線を土日祝日に旅する場合には「楽楽遊遊(らくらくゆうゆう)」乗車券1100円を購入するとおトクだ。羽後本荘駅〜矢島駅間の運賃が610円なので、往復するだけで十分に元が取れる。しかし、筆者は一つミスをしてしまった。羽後本荘駅の窓口が開き、その乗車券が購入できるのは7時30分以降のこと。その前の列車に乗ろうとすると、有人駅の前郷駅、矢島駅まで行って乗車券を買わなければいけない。

↑羽後本荘駅の4番線に停車する矢島駅行き列車。週末の利用には「楽楽遊遊」乗車券(右上)がおトクになる

 

ワンマン運転を行う乗務員からは購入できないのである。筆者は朝一番の列車に乗って、鳥海山が良く見える曲沢駅で降りて撮影をと考えていた。

 

そのことを乗務員に伝えると、「前郷駅で行き違う上り列車の運転士に『楽楽遊遊(らくらくゆうゆう)』乗車券を託しますから曲沢駅で受け取ってください」とのこと。

 

さすがにそこまでやっていただくのは申し訳ないと思い、手配してもらうことは遠慮し、有人駅の前郷駅を目指すことにした。こうした手配は、乗車した乗務員個人の配慮だとは思われるが、1人の旅人に向けての気遣いがとてもうれしかった。実はこの乗務員とは、帰りにも出会い、再び細かい心配りをしていただいたのである。

 

こうした乗客のことを考えた姿勢は、由利高原鉄道全体の社風なのかもしれない。前郷駅で「楽楽遊遊」乗車券を購入したら、2023(令和5)年3月31日まで有効の「楽楽遊遊」乗車券をもう1枚プレゼントされたのである。同乗車券は沿線の食堂や公共施設などの割引優待券も兼ねており、旅する時に便利だ。

 

同社の思いきった施策は定期券の販売にも見られる。2021年度と2022年度の一時期、通学定期券の金額を半額程度まで引き下げたのである。さらに定期券を購入すると、カレーや中華そばといった同社のオリジナル商品もプレゼントされた(時期限定)。そのことで前年に比べて利用者が約2倍に増えたそうだ。割引をしたとはいえ、隠れた需要の掘り起こしに結びついたわけで、何とも思いきったことをする会社でもある。これも乗客への心配りの一環と言えるだろう。

 

さて、前置きが長くなったが鳥海山ろく線の旅を始めよう。羽後本荘駅の次の駅は薬師堂駅。この駅までは羽越本線に平行して走る。複線の羽越本線の東側に平行して鳥海山ろく線の線路が延びている。薬師堂駅から左にカーブ、進行方向右手に鳥海山や山々が見えるようになる。

↑羽後本荘駅から薬師堂駅(左上)までは羽越本線と平行して走る。訪れた日には珍しいYR3000形が3両で走るシーンが目撃できた

 

このあたり、進行方向左手に国道108号が並走する。左右に水田が広がるが、南側に鉄の柵が線路に連なるように立てられている。この柵は防雪柵といって、冬に発生しがちな吹雪から列車を守る装置だ。春から秋までは柵となる鉄板は外されているため、車窓の眺めに影響はない。

 

ちなみに、同社ホームページには「各駅・駅周辺みどころ案内」として駅の案内がアップされている。駅周辺を見渡す「全画面パノラマ」といった試みも行われる。こうした例は他社では見たことがない。これも同社の心配りのように思う。旅する前に一度、見ておくことをおすすめしたい。

 

薬師堂駅の次は子吉駅。ホーム前に水田が広がるものの、駅舎は郵便局も兼ねている。子吉駅を過ぎると国道108号から離れ山の中を走る。15パーミルの坂を下りて鮎川を渡れば鮎川駅へ到着する。この鮎川を渡る手前、右手にあゆの森公園があり、沿線で一番の人気スポット「鳥海山 木のおもちゃ美術館」が隣接している。

 

【鳥海山ろく線の旅⑥】鮎川駅前のかわいらしい待合室は?

↑鮎川駅の駅舎。ホーム上にはかわいらしい「世界一小さな待合室」(左下)が設けられている

 

鮎川駅のホーム上には「世界一小さな待合室」がある。中に入ろうとすると、大人では頭がつかえてしまう高さの待合室だ。この駅からは前述した「鳥海山 木のおもちゃ美術館」行きシャトルバスが出ている。駅舎を出ると左にふしぎな建物が。こちらは「あゆかわこどもハウス」と呼ばれるこども待合室で、室内にはバスや列車を待つ間に遊べるように、木のおもちゃなどが置かれている。

 

興味深いのはこの待合室がクラウドファンディングによるプロジェクトにより建てられたこと。528万5000円の支援が集まったそうだ。

↑鮎川駅前に設けられたこども向け待合室。室内には木の椅子や、木のおもちゃ(右上)なども置かれて時間待ちに最適だ

 

なお、鮎川駅から「鳥海山 木のおもちゃ美術館」までは直線距離にすれば近いのだが、鮎川を渡る橋がないため、国道108号を経由しなければならずに、歩くと大人の足で22分ほど、約1.7kmの距離がある。

 

【鳥海山ろく線の旅⑦】子吉川を渡り、川に沿って南下する

鳥海山ろく線の各駅はみな個性的で、地元の方たちが掃除したり、花を植えたり手間をかけているのできれいだ。地元の方々に「自分たちの鉄道を守る」という思いが強いのであろう。

 

次の黒沢駅からは広がる水田の中、カーブを描いて駅に近づいてくる列車が絵になる。同社パンフレットにも「撮り鉄に大人気」とあった。筆者は7年前に花々と列車を撮影したいと、黒沢駅を訪れたことがある。ちょうどホーム上にキバナコスモスが咲き乱れ、停車する列車と駅が美しく撮影できた。

 

そんな黒沢駅で新発見。ホームの集落側に階段が設けられていた。ホームの柵も強化されていた。これまでホームには中央部の階段からしか入れない構造だったが、階段の新設は利用者の使いやすさを考えたものなのだろう。残念ながら花壇は小さめのプランターとなっていたが、安全性を高めるためにこれらの配慮をしているように感じた

↑2015(平成27)年9月初頭の黒沢駅。左上は今年の夏の黒沢駅。ホームが整備され、手前に階段が設けられていた

 

黒沢駅を出発すると、すぐに川を渡る。子吉川と呼ばれる一級河川だ。鳥海山麓を源流にして日本海へ流れ込む。秋田県内では雄物川、米代川に次ぐ第三の流域面積を持つ。

↑黒沢駅〜曲沢駅間で子吉川を渡る。橋の名前は滝沢川橋梁となっている。上流部では路線と並走して流れる区間もある

 

鳥海山ろく線は黒沢駅〜曲沢駅間に架けられた滝沢川橋梁で子吉川を渡った後に、子吉川とほぼ並走するようになる。西滝沢駅〜吉沢駅間で再び子吉川を渡るが、こちらは子吉川橋梁と名付けられている。

 

【鳥海山ろく線の旅⑧】前郷駅で今も行われるタブレット交換

鳥海山が望める駅・曲沢駅を過ぎたら次は前郷駅だ。鳥海山ろく線の場合には、前郷駅のみで上り下り列車の行き違いが行われる。この駅では、全国でも珍しい「タブレット・スタフ交換」作業が今も続けられている。専門用語では「閉塞」と呼ばれる信号保安システムの一種類で、この前郷駅で「タブレット・スタフ交換」をすることにより、羽後本荘駅〜前郷駅間と、前郷駅〜矢島駅間のそれぞれの駅間で2本の列車が同時に走らないように制御しているわけだ。

 

羽後本荘駅〜前郷駅間が小さめのスタフで、前郷駅〜矢島駅間では大きめのタブレットが使われる。それぞれには、金属製の円盤が通行証として入っている。こうしたタブレットとスタフの2種類の交換で運用されている鉄道会社は、全国の路線でもここのみだ。各地で残るこの交換作業は、大きめのタブレットのみか、小さめのスタフのみが使われていることが多い。安全運転を行う上でなかなか興味深いルールだと思った。

↑前郷駅で上り下り列車が行き違う。その際に、大きなタブレットと、小さめのスタフの交換作業が行われている(左上)

 

なお前郷駅での交換作業は、上り下りの列車行き違いが行われる時のみ。全列車ではないので時刻表を確認してから訪ねることをおすすめしたい。

 

前郷駅前には集落が広がっていたものの、その先は水田風景が広がる。前郷駅の一つ先、久保田駅は青いトタン屋根の小さな家が駅舎として使われている。この久保田駅から先はほぼ子吉川沿いに列車は走る。

↑青いトタン屋根の久保田駅の駅舎。ホーム一本で、下に駅舎があるのだが、民家のような造りが楽しい

 

次の西滝沢駅の先、子吉川橋梁で子吉川を渡る。ややカーブした橋でやや高い位置を列車が走ることもあり左右の眺望が開けて爽快だ。次の吉沢駅は、田んぼの中にぽつんと設けられた無人駅だ。最寄りの集落は国道108号を渡った先にあり、駅から最短で300mほど歩かなければならない。なかなかの〝秘境駅〟である。

 

吉沢駅と川辺駅の間は、進行方向左手に注目したい。この駅間で、もっとも子吉川の流れが良く見える。川とともに周囲の山々が美しく、撮影したくなるような区間だ。

↑川辺駅〜矢島駅間にある鳥海山ろく線唯一のトンネル・前杉沢トンネル。トンネルを抜けると終着駅の矢島駅も近い

 

↑水田と集落に囲まれて走る「おもちゃ列車」。この堤を駆け上がれば終点の矢島駅に到着となる

 

川辺駅を発車したらあと一駅。国道108号を立体交差で越えて、鳥海山ろく線で唯一のトンネル・前杉沢トンネル520mへ入る。トンネルを抜けたら間もなく目の前に広がるのは、由利本荘市矢島地区の町並みだ。

 

【鳥海山ろく線の旅⑨】矢島駅では手書き鉄印が名物に

羽後本荘駅から約40分で終点の矢島駅へ到着した。駅前に出ると、建物の間から鳥海山を望むことができる。沿線の各所で鳥海山は眺望できたが、矢島まで来ると、鳥海山がくっきり見えるようになる。

↑鳥海山ろく線の終点・矢島駅。開設当時は羽後矢島駅という駅名だったが、由利高原鉄道に転換時に矢島駅に改名された

 

↑矢島駅の構内には車庫があり、給油や車両の整備などが行われる。転てつ機などの古い機器が検修庫の横に置かれていた

 

訪れた日はちょうど自転車のロードレース大会が矢島を起点に開かれていて、全国から多くの人が訪れていた。どのような大会なのかと見て回る。このぶらぶら散策したことが小さな失敗に。

 

全国の第三セクター鉄道を乗り歩く際に記念となる「鉄印」だが、由利高原鉄道の鉄印は「由利鉄社員」の直筆鉄印(300円)と、「売店のまつ子さん」直筆の鉄印(500円)など複数の鉄印を用意している(9時〜17時の営業時間内)。そのうち名物となっているのが「売店のまつ子さん」の鉄印だ。だが、駅に戻ってきたのが列車の発車5分前と時間がない。筆者はどうも行き当たりばったりで旅することが多くよく失敗する。書いていただく時間を計算していなかったのである。

 

受付の人は渋い顔だったが、まつ子さんは快く「大丈夫よ!」と言い、時間が無いなかさらさらと書いていただけたのである。

 

「売店のまつ子さん」の店で書いてもらうと、しおりや、200円分の菓子が鉄印代に含まれる恩恵もある。まつ子さんはメディアなどでも紹介されているが、まさに心配りの人だった。

↑「売店のまつ子さん」が記帳した鉄印。にじみを防ぐために右下のしおりまで付けてくれた。右上のように、目の前で書いてもらえる

 

慌ただしい一時ながら無事に鉄印も書いていただき、帰りの列車に乗り込む。乗車したのは「おもちゃ列車」だった。かすりを着た「秋田おばこ」姿の列車アテンダントも同乗している。

 

矢島駅を出発する時にホームを見ると、列車の見送りに「売店のまつ子さん」が出ていらっしゃったではないか。「愛知からありがとう、伏見からありがとう……皆様ありがとう」の墨書きを持ちつつ、手を振るのであった。まつ子さんとの再会を願いつつ手を振り返し、矢島駅を後にしたのであった。

 

【鳥海山ろく線の旅⑩】帰りの列車の降車時にも小さなドラマが

筆者は「楽楽遊遊」乗車券を購入したこともあり、途中下車して、列車や景色を撮影しながら帰ることにした。まずは曲沢駅で下車しようと、乗務員に乗車券を見せて降りようとすると、朝に細かい心配りをしていただいた乗務員だった。「朝は、心配りありがとうございます」と告げると、覚えていたようで、「こちらこそ、いい写真が撮れましたか?」と話す。

 

そして思い出したように、筆者を呼び止め、「今日は特別にYR3000形の3両編成が走るんですよ」とひとこと。矢島で行われたイベントの参加者向けに3両編成という特別列車が運行されることを教えてくれたのだった。

 

わずかな時間の交流だが、それだけで十分だった。教えてもらえなければ、3両編成の運行は知らずにそのまま帰っていたところだった。

↑黒沢駅を発車して子吉川の堤防にさしかかる「おもちゃ列車」。軽く警笛を鳴らして、通り過ぎていった

 

曲沢駅で降りた後に、子吉川の堤防上で、羽後本荘駅で折り返す列車を待ち受けた。親切に対応していただいた乗務員が運転する列車だった。撮影にあたり、こちらは〝いろいろとありがとう〟という気持ちを込めて列車に片手をあげて合図を送った。すると列車も軽く警笛を鳴らして通り過ぎた。筆者が撮影していたことを確認しての警笛の〝返礼〟だったように思う。

 

子吉川の堤防の上に爽やかな風が吹き抜けたように感じたのである。

繰り返される甚大な「自然災害」−−不通になった鉄道を総チェック

〜〜「8月3日からの大雨災害」+全国の「鉄道不通区間」〜〜

 

地球規模の温暖化が取りざたされ、毎年のように豪雨が各地を襲う。先週末も台風14号が列島を縦断し、各地にその爪痕を残した。この台風14号とともに鉄道に深刻な影響をもたらしたのが、今年の「8月3日からの大雨災害」だった。今も複数の鉄道路線が影響を受け不通となっている。

 

豪雨により不通が続く路線(9月22日現在)を見るとともに、過去に起きた自然災害と台風14号により、不通となっている路線の現状を見ていこう。

 

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【8月の大雨災害①】大雨が東北地方に甚大な被害をもたらした

この夏、8月3日から断続的に降り続けた大雨が多大な被害を各地にもたらした。まずは降り続いた日々をふり返っておこう。なお、情報は主に今年の9月2日に国土交通省から発表された「災害情報」を元にした。まずは、雨の経緯から。数日のみで終わらなかったことが、災害の拡大につながった。

 

8月3日〜5日:低気圧が8月3日に東北地方を通過、低気圧に伴う前線が4日にかけて停滞。5日にかけて東北地方と北陸地方を中心に断続的に猛烈な雨が降り、記録的な大雨となった。

 

8月8日〜13日:6日〜7日の局地的な大雨に続くように、再び前線が北日本にのびて停滞し、13日にかけて北海道地方や東北北部で大雨となり、北海道地方や青森県では記録的な大雨となった。

↑奥羽本線、花輪線にほぼ沿って流れる一級河川の米代川(よねしろがわ)。4か所で氾濫が起こり、浸水被害を生み出した

 

8月15日〜22日:前線や低気圧の影響により、北日本から西日本で大雨となった。その後の24日〜26日にも東日本、西日本で局地的に大雨となった。

 

このように数日で終わらず、複数回にわたり、北海道・東北地方で大雨が降り続いた。当時のテレビ報道などで、当地に住む人々から「こんなひどい大雨、浸水被害は初めて」という声が多数聞かれた。今まで氾濫被害などがほとんど起きなかった地区に、猛烈な雨が降り続き多くの河川で氾濫が起きた。国土交通省の調べでは51水系132河川が氾濫したというから尋常ではない。

↑8月3日からの大雨災害により不通になった鉄道路線を地図にまとめた。北東北と新潟県と山形県、福島県に被害が集中した

 

8月3日からの大雨災害により、公共交通機関にも大きな被害をもたらした。降り続いた豪雨は、短期間で終わらなかったことが、さらに被害を悪化させる要因となっていく。道路は国道5路線6区間、道道・県道も10道県32区間が通行止めとなった。そして鉄道は、2事業者7路線が被害を受け、今も不通となっている。7路線は東北地方を走る路線が大半で、一部、新潟県にまたがる路線も影響を受けた。9月16日現在も続く、不通区間とその被害状況を確認しておこう。

 

【8月の大雨災害②】青森県内では2本のローカル線が被害に

まずは青森県の北側から。

 

◇津軽線・蟹田駅(かにたえき)〜三厩駅(みんまやえき)間が不通

津軽半島を走るJR津軽線。大平駅(おおだいえき)〜津軽二股駅間で路盤が流出、復旧工事が進められている。この影響で非電化区間の蟹田駅〜三厩駅間の列車がストップしている。ちなみに津軽二股駅は、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅の接続駅だ。同駅の駅舎の浸水被害はあったものの、北海道新幹線は高架を走っている区間が多く、被害は出なかった。

↑津軽線の三厩駅。通常時の列車は1日に5本のみで蟹田駅まで所要36分ほど、ひなびた雰囲気がただよう終着駅だ

 

◇五能線・岩館駅(いわだてえき)〜鯵ケ沢駅(あじがさわえき)間が不通

五能線は青森県の川部駅と秋田県の東能代駅(ひがしのしろえき)を結ぶ。この五能線では青森県内の複数箇所で被害が出てしまった。各区間の被害状況を記しておこう。

 

・大間越駅(おおまごしえき)〜白神岳登山口駅間、橋梁被害→復旧工事中

・千畳敷駅(せんじょうじきえき)〜北金ケ沢駅(きたかねがさわえき)間、土砂流入→復旧工事中

・風合瀬駅(かそせえき)〜大戸瀬駅(おおどせえき)間、路盤流出→復旧工事中

・陸奥赤石駅〜鯵ケ沢駅間、橋梁傾斜→詳細調査中

↑五能線を走る観光列車「リゾートしらかみ」の橅(ぶな)編成。同観光列車は現在、一部区間のみの運行となっている

 

五能線は日本海の海景色と白神山地の山景色が美しい路線。特に千畳敷駅付近は、駅前に日本海が広がる風光明媚な場所で、被害の様子が気になる。通年、人気の観光列車「リゾートしらかみ」が走っているが、路線不通の影響で鯵ケ沢駅〜青森駅間(川部駅〜青森駅間は奥羽本線を走行)のみの運転となっている。詳細調査中の区間があり、また複数箇所が被害にあっていることもあり、路線復旧まではかなりの日数がかかると思われる。

 

【8月の大雨災害③】秋田県内の被害で貨物輸送に影響も

次は秋田県の不通区間に目を移そう。県北で不通になった区間が目立つ。

 

◇奥羽本線・鷹ノ巣駅(たかのすえき)〜大館駅(おおだてえき)間が不通

↑大館駅は奥羽本線と花輪線の接続駅。秋田県北の主要駅で奥羽本線の鷹ノ巣駅間が不通となっている。2022年7月30日撮影

 

東北4県を南北に結ぶ奥羽本線は、秋田県北で不通となっている。被害が出たのは糠沢駅(ぬかざわえき)〜早口駅(はやぐちえき)間で、路盤流出が確認され、復旧工事が進められている。被害が出た同区間はちょうど米代川沿いに奥羽本線と国道7号が平行して走る区間で、JR東日本では「運転再開には時間を要する見通し」としている。

 

今回、不通となった鉄道路線のうち、奥羽本線は唯一、鉄道貨物輸送が行われる区間で、JR貨物の列車が1日に臨時列車を含めて9往復している。

↑奥羽本線を含めた路線は日本海縦貫線と呼ばれる貨物ルート。不通の大館駅(貨物駅/左上)へはトラックによる代行輸送が行われる

 

日本海側を通る羽越本線、奥羽本線などの路線は日本海縦貫線と呼ばれる貨物輸送の重要なルートで、日本一長い区間を走る福岡貨物ターミナル駅と札幌貨物ターミナル駅間を結ぶ貨物列車も運行されている。奥羽本線の一部区間の不通により、8月6日から東北本線・東海道本線を迂回しての輸送を行う。さらに秋田貨物駅〜東青森駅間のトラックによる代行輸送を実施している。こうした重要な輸送ルートの不通により、貨物列車の運行遅延も多く発生している。

 

◇花輪線・鹿角花輪駅(かづのはなわえき)〜大館駅間が不通

秋田県北では花輪線の一部区間も不通となっている。被害が出たのは十和田南駅(とわだみなみえき)〜土深井駅(どぶかいえき)間で、路盤が流出した。ちょうど同区間も米代川に沿って走っているため、川の氾濫などによる影響が深刻だったようで、詳細調査中とされる。

↑大館駅に停車する花輪線の列車。大館駅と鹿角花輪駅間が不通となっている。被害は十和田南駅(左下)〜土深井駅間が深刻だった

 

ちなみに花輪線の鹿角花輪駅〜大館駅間の利用率の指標となる平均通過人員は2020年度の場合に524人だった。花輪線内では鹿角花輪駅〜荒屋新町駅間の岩手県境の区間の60人に比べれば良好だが、被害状況によっては今後の路線維持に関して問題視される可能性もありそうだ。

 

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【8月の大雨災害④】秋田の第三セクター路線にも被害が

8月3日からの大雨災害で被害が出た線区はほとんどがJR東日本の路線だったが、第三セクター鉄道の1線のみ不通区間が出ている。

 

◇秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線・鷹巣駅(たかのすえき)〜阿仁合駅(あにあいえき)間が不通

秋田内陸縦貫鉄道は秋田県の鷹巣駅(たかのすえき)と角館駅を結ぶ。この路線では米内沢駅(よないざわえき)〜前田南駅間で土砂流入等があり、復旧工事が行われている。同区間は、米代川の支流、阿仁川沿いに走る区間で、この川沿いの区間に被害が出てしまった。そのために鷹巣駅〜阿仁合駅(あにあいえき)間が不通となっている。

↑米内沢駅〜前田南駅間は阿仁川に沿って列車は走る。現在、阿仁合駅から北側の路線区間が運休となっている(左上)

 

秋田内陸縦貫鉄道はその路線の名前のとおり、秋田の内陸部を走る。筆者は仕事柄、各地の鉄道路線を乗り歩くことが多い。秋田内陸縦貫鉄道には大雨災害が起こる直前の7月30日に訪れた。当日は天気が良く快適な旅を楽しんだが、そのちょうど2週間後の8月13日の大雨災害による被害が出てしまった。さらに記事を紹介した直後だっただけに心苦しい思い出となった。少しでも早い同線の復旧を願うばかりである。

 

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【8月の大雨災害⑤】山形・新潟を走る米坂線の被害が目立つ

◇米坂線・坂町駅〜今泉駅間が不通

「8月3日からの大雨災害」は北東北だけでなく、新潟県・山形県の山間部と、福島県の会津地方にも被害をもたらした。大きな被害を受けたのが米坂線(よねさかせん)だった。

↑朝日岳などの山々を望み走る米坂線。写真は今泉駅近郊の白川橋梁で、同橋梁も米坂線の不通区間となってしまった

 

米坂線は山形県の米沢駅と新潟県の坂町駅の間を結ぶ。そのうち、かなりの区間に被害にあってしまった。

 

・山形県内、羽前椿駅〜手ノ子駅(てのこえき)間で橋梁倒壊

・今泉駅〜坂町駅間の複数個所で路盤流出・土砂流入等

 

現在、不通となっているのは山形県の今泉駅と坂町駅の間で90.7kmの路線のうち、3分の2の区間67.7km間となる。この3分の2にあたる今泉駅〜坂町駅間の複数個所で路盤流出・土砂流入等があった。被害箇所の把握に関してはすでに終了しているが、その後の被害程度に関しては詳細調査を実施中とされる。

 

2020年度の平均通過人員は米坂線の米沢駅〜今泉駅間は641人と多めながら、その先の今泉駅〜小国駅間は248人、小国駅〜坂町駅間は山形、新潟の県境区間で、121人と乗車率が低めとなっている。

 

山中の路線で、利用するのは地元高校生が多く、今後の路線維持を危ぶむ声が早くも出てきている。

 

ちなみに今泉駅〜萩生駅(はぎゅうえき)間は、山形鉄道フラワー長井線の路線と共用しているが、同区間には被害が出ておらず、山形鉄道は通常通りの運行が行われている。

 

【8月の大雨災害⑥】磐越西線も長期の不通を余儀なくされる

◇磐越西線・喜多方駅(きたかたえき)〜山都駅(やまとえき)間が不通

磐越西線は福島県の郡山駅と、新潟県の新津駅を結ぶ175.6kmの長大な路線。そのうち、喜多方駅と新津駅間が非電化区間となっている。不通となっているのは喜多方駅〜山都駅間といずれの駅も喜多方市内で、この一駅区間のみが被害を受け、喜多方駅〜野沢駅間で代行バスの運行が行われている。

 

大雨により喜多方駅〜山都駅間の阿賀川の支流・濁川橋梁が倒壊してしまった。詳細調査中で当分の間は運転見合わせすることが発表されている。

↑不通となった喜多方駅〜山都駅間を走る「SLばんえつ物語」。この線路の先に倒壊した濁川橋梁が架かる

 

磐越西線といえば、「SLばんえつ物語」といった観光列車や、豪華寝台クルーズ列車「TRAIN SUITE四季島」の定番ルートにもなっている。11年前のことながら東日本大震災の際には、不通になった東北本線の石油タンク輸送の迂回ルートにも活用された。いわば準幹線にもあたるような路線でもある。

 

福島県〜新潟県の県境区間の野沢駅〜津川駅間の平均通過人員は69人と少なめながら、被害を受けた橋梁が1か所ということもあって、時間がかかっても復旧されると思われる。

↑不通になった喜多方駅〜山都駅間を走るJR東日本の「TRAIN SUITE四季島」。早朝に同区間を通過して喜多方駅到着となる

 

この夏の大雨の被害のため不通になった区間を見てきた。いかに長雨が被害を大きくするかがよく分かる。

 

ここからは過去に自然災害にあい、不通となっていた区間のその後を見ていこう。災害が路線廃止のきっかけになりそうな路線もあれば、さまざまな延命方法を探ったことにより、路線復旧が適った路線もある。

 

【今も不通が続く①】廃止が決定した路線と運行再開される路線

◇JR北海道 根室線・富良野駅〜東鹿越駅間 災害により不通→廃線へ

廃止がほぼ決まったのがJR北海道の根室線、富良野駅〜東鹿越駅(ひがししかごええき)間。2016(平成28)年8月31日の台風10号による豪雨災害の影響で、幾寅駅前後で斜面崩壊、土砂流入などの被害を受け東鹿越駅〜新得駅が不通となっている。

 

列車の運行が続く富良野駅〜東鹿越駅間は2021年の輸送密度が50人といった状態で、JR北海道内ではワーストを記録していた。同じ北海道内では、日高線の鵡川駅(むかわえき)〜様似駅(さまにえき)間が、災害の被害を受け2021(令和3)年4月1日に廃止となったが、それに続いての廃止の予定がほぼ決定していて、あとは廃止日の発表が行われるだけの状態になっている。

↑富良野駅〜東鹿越駅間は、原生林に包まれて走る区間が多い。風景は素晴らしいが、乗車数の低さが路線存続を阻んだ形となった

 

◇JR東日本 只見線・会津川口駅〜只見駅間 不通→10月1日路線再開

一方で、路線の存続が危ぶまれたものの運転再開に向けて試運転が進むのが只見線の会津川口駅〜只見駅間だ。

 

被害にあったのは11年前の2011(平成23)年7月30日のこと。「平成23年7月新潟・福島豪雨」と名付けられた豪雨により、阿賀川の支流、只見川にかかる複数の橋梁が流失してしまった。以来、代行バスの運行が続いていたが、2018(平成30)年から復旧工事が始められ、4年の歳月を経て、この10月1日から運行が再開される。

 

この路線では運転再開に向けて上下分離方式が採用された。上下分離方式とは鉄道路線の線路保有と、列車運行を異なる事業者が行う。会津川口駅〜只見駅間は福島県が第三種鉄道事業者となり、今後の鉄道路線を整備・保有する。JR東日本が第二種鉄道事業者となり、列車の運行および営業を行う。

 

この上下分離方式により、復旧費用および列車を運行するJR東日本の負担を減らして、路線復活を図った。とはいえ、復旧する会津川口駅〜只見駅間で予定される列車の本数は1日に3往復ほどと少ない。どのような成果を生み出すのか興味深いところだ。

↑路線再開に向けて復旧工事が進む只見線。只見川沿いの山深い区間だけに、復旧費用もかかり福島県が3分の2を負担したとされる

 

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【今も不通が続く②】BRT化工事が進む日田彦山線

北海道・東北に目立つ自然災害による路線の不通。残りの不通路線が集中するのが九州である。九州地方には線状降水帯の予報が出ることが多い。台風14号のように九州を縦断するような台風も表れる。年ごとに被害の度合いは異なるものの、不通区間も出がちで、列車運行の難しさが感じられる地域となっている。ここからは九州の不通区間とその後を見ていこう。

 

◇日田彦山線・添田駅〜夜明駅(よあけえき)間 不通→BRT化へ

↑日田彦山線の名物だったアーチ橋。写真は栗木野橋梁で長さ71mあり絵になったが 2013年7月21日撮影

 

今から5年前の2017(平成29)年7月5日に「平成29年7月九州北部豪雨」により、不通となった区間の被害は深刻で63か所の線路被災が確認された。その後にバス代行輸送が始まり、現在にいたる。

 

数年にわたる地元自治体との話し合いにより、路線復旧を諦め、一部の路線跡を専用道路として利用するBRT(バス・ラピッド・トランジット)による復旧が進められている。

 

ちなみにJR九州はすでにJR九州バスの分社化を2001(平成13)年にしており、今回の日田彦山線はJR九州バスに任せずに、自らバス事業者としてバスの運行をすることになっている。実に22年ぶりにバス事業者に復帰することになる。

 

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【今も不通が続く③】今後の方針が定まらない肥薩線の現状

◇肥薩線・八代駅〜吉松駅間が不通

↑球磨川を眺めつつ走った「SL人吉」。同列車をはじめ多くの人気観光列車が走った路線は今後、復活するのだろうか

 

明治の終わりに鹿児島本線として開業、1927(昭和2)年に肥薩線に名を改めた。当時の鉄道遺産も多く残している。

 

路線は八代駅〜隼人駅(はやとえき)間124.2kmで、そのうち八代駅〜人吉駅間は、球磨川沿いを走り通称〝川線〟と呼ばれる。人吉駅〜吉松駅間には複数のスイッチバック駅、ループ線が連なる〝山線〟で、それぞれ特長のある風光明媚な路線で、訪れる人も多かった。

 

そんな名物路線を2020(令和2)年7月4日、「令和2年7月豪雨」が襲う。球磨川の氾濫により球磨川第一、第二橋梁が流失、また路盤も多数箇所で冠水するなどで、肥薩線124.2kmの区間中の約7割にあたる86.8kmの区間が不通となってしまった。

 

複数の橋梁が流されてしまったこともあり、復旧には膨大な費用がかかることが見込まれ、試算によって異なるものの235億円規模の復旧費用が見込まれている。復旧したとしても、毎年、慢性的な赤字が見込まれていて、営業収支は年間約9億円の赤字が出るとされる。

 

現在、国、県、地元自治体とJR九州の間で復興に関しての話し合いが持たれているが、国は只見線のように上下分離方式も視野に入れているようだ。肥薩線が通る人吉市などでは再開された後の観光需要増が見込めるとあって期待しているが、復旧への道筋はまだ明確に描けていない。

 

【今も不通が続く④】九州の第三セクター2線は復旧工事が進む

民間企業となったJRグループに対して自治体が経営主体となっている第三セクター鉄道に関しては、不通区間の復旧工事も進み、あとは工事完了を待つのみとなっている。いずれも九州内の路線だが、現状を見ておこう。

 

◇南阿蘇鉄道・立野駅〜中松駅間が不通

立野駅〜高森駅間を走る高森線を運行していた南阿蘇鉄道。2016(平成28)年4月に発生した熊本地震による被害で、不通となり、その後に中松駅〜高森駅間は復旧した。トレッスル橋として貴重な立野橋梁や、高さ約60mと完成当時は日本一の高さを誇った第一白河橋梁など、構造物としても貴重な橋梁などの復旧工事が進み、2023年夏には路線が復旧する見込みだ。路線復旧後にはJR九州の豊肥本線の肥後大津駅まで列車乗り入れを計画するなど、新たな南阿蘇鉄道づくりを目指している。

↑立野駅〜長陽駅間にかかる立野橋梁を渡るトロッコ列車。昭和初期に建造されたトレッスル橋として国内最大規模を誇っている

 

◇くま川鉄道湯前線(ゆのまえせん)・人吉温泉駅〜肥後西村駅(ひごにしのむらえき)間が不通

くま川鉄道も、肥薩線と同じく「令和2年7月豪雨」で被害を受けた。人吉温泉駅(JR九州・人吉駅に隣接)の車庫が水没。所有する5両が潅水被害を受け、さらに川村駅〜肥後西村駅間に架かる球磨川第四橋梁が流出してしまった。その後に肥後西村駅〜湯前駅間の運転は再開された。

 

現在、不通区間の復旧工事を進めており2025年度には全線運転再開が見込まれている。

 

一方の人吉駅が通る肥薩線の復旧は現在のところ、見込みは立っておらず、復旧しても接続する鉄道がない路線になる可能性も考えられる。

↑現在は列車が不通となっている川村駅〜肥後西村駅間を走るくま川鉄道の列車。この先に球磨川第四橋梁が架かっていた

 

この夏に不通となった路線区間と、今も不通になっている区間の現状を見てきた。こうして見ると地域差がはっきりしていることが分かる。最近の豪雨災害の傾向は、地域差が偏る傾向が多く見られる。豪雨災害が出たものの、鉄道路線に大きな影響が出ない地方もあった。自然相手だけに運・不運がつきまとう。

 

最後に9月18日から20日にかけて列島を縦断した台風14号により被害を受けた路線区間を見ておこう。台風14号は勢力を弱めずに9月18日に鹿児島に上陸し、九州を南から北へ通り抜けた。そして複数の路線が被害を受けた。不通となっているのは下記の通りだ(9月21日、22時50分時点のもの)。

 

◇久大本線・豊後森駅(ぶんごもりえき)〜由布院間が不通
野矢駅〜由布院駅間で道床流出等が発生→10月上旬に運転再開を目指して復旧工事を進める。

◇指宿枕崎線・指宿駅〜枕崎駅間が不通
複数個所で倒木等が発生→9月下旬の運転再開を目指して復旧工事を進める。

◇肥薩線・吉松駅〜隼人駅が不通(肥薩線全線が不通となる)
吉松駅〜栗野駅(くりのえき)間で築堤崩壊等が発生、9月下旬の運転再開を目指して復旧工事を進める。

◇吉都線(きっとせん)・都城駅〜吉松駅間が不通
西小林駅〜えびの飯野駅間で築堤崩壊等が発生、10月上旬の運転再開を目指して復旧工事を進める。

◇日南線・南郷駅〜志布志駅(しぶしえき)間が不通
大隅夏井駅〜志布志駅間で大規模な築堤崩壊が発生、復旧には時間を要する見込み。

 

このうち、より大きな被害が出たのは日南線である。実は昨年の9月16日、接近した台風14号の影響による大雨被害により日南線の青島駅〜志布志駅間が不通となった。復旧したのは12月11日のことだった。昨年も「台風14号」で、さらに被害を受けたのが9月中旬と同時期のこと。2年続きで路線が不通となっているから深刻だ。

 

自然災害は一筋縄ではいかない問題をはらむ。今後、さらなる被害が出ないことを願うばかりである。

アドベンチャー気分を満喫!「青梅線」ワイルドな旅〈後編〉

おもしろローカル線の旅95〜〜JR東日本・青梅線(東京都)その2〜〜

 

先週に引き続き青梅線の旅をご紹介。今回は青梅駅から終点の奥多摩駅を目指して旅を続けたい。「東京アドベンチャーライン」という愛称を持つ青梅駅〜奥多摩駅間は、全線が多摩川沿いで、自然に囲まれて走る。山景色、渓谷美とともにアウトドアレジャーも楽しめるワイルドな路線だ。

*取材は2019(令和元)9月〜2022(令和4)年7月10日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【青梅線はワイルド①】レトロな青梅駅の雰囲気を楽しみつつ

路線距離37.2kmの青梅線のちょうど中間にあるのが青梅駅。今週は残り18.7kmの青梅駅〜奥多摩駅間を中心に紹介したい。

 

青梅線を敷設した青梅鉄道(後に青梅電気鉄道と改称)の元本社ビルがある青梅駅。同駅は17年前に「レトロステーション」としてリニューアルした。駅の案内や待合室など、レトロな造りがアクセントとなっている。

 

この青梅駅までは、立川駅もしくは中央線からの乗り入れ電車があるが、奥多摩駅方面へは青梅駅での乗換えが一般的となる。なお平日朝は立川駅〜奥多摩駅間を、また週末には東京駅や新宿駅と奥多摩駅を結ぶ上り下り「ホリデー快速おくたま」が本数は少なめながらも運行されている。

 

青梅駅は1・2番線ホームがあり、立川駅方面から到着する電車のちょうど向かい側ホームから奥多摩駅行きの電車が発車する(2番線ホームからの発車が多い)。奥多摩駅行き電車の発車まで時間があるようならば、駅地下道の映画看板をじっくり見て、レトロな待合室で時間を過ごすのもいいだろう。

↑98年前に建てられた青梅駅の駅舎。ホームの待合室は「待合室」の文字が右から書かれレトロな雰囲気(右上)

 

青梅駅から奥多摩駅方面行き電車の時刻は平日と週末でかなり異なっている。平日は1時間に1〜2本の列車本数。一方、週末は本数が増え、朝6〜8時台は1時間に3〜4本で、日中は約30分おきに発車する。その一方で15時以降は列車の間隔がやや空くようになる。ハイキング客やレジャー客に合わせたダイヤ設定なのである。

 

ちなみに、奥多摩駅発の電車は平日が1時間に1〜2本で、週末は6時台と15・16時台が1時間に3本と列車の運行が増える。増える列車の一部が快速電車で、そのうち「ホリデー快速おくたま」は奥多摩駅〜青梅駅間の停車駅が、御嶽駅のみになるので注意したい。

 

【青梅線はワイルド②】青梅丘陵の自然林を見ながら宮ノ平駅へ

青梅駅から青梅線の旅を始めよう。青梅駅を発車すると間もなく北側、進行方向右手に丘陵地帯が連なり、電車は樹林を眺めて走るようになる。この丘陵は青梅丘陵と呼ばれ、先週取り上げた青梅鉄道公園から先、尾根をたどるようにハイキングロード(栗平林道)が続いている。ちょうど青梅線に平行した丘の上部には、複数の休憩所やトイレも設けられ、青梅線の軍畑駅(いくさばたえき)に降りるコースが設けられている。

↑青梅駅を発車、次の宮ノ平駅(右下)を目指す奥多摩駅行き電車。線路の北側は自然林が連なっている

 

そして次の駅、宮ノ平駅へ。北側は丘陵が続くが、南側は青梅街道、そして蛇行して流れる多摩川沿いまで民家が広がっている。

 

宮ノ平駅の次は日向和田駅(ひなたわだえき)で、ここは吉野梅郷(よしのばいごう)の最寄り駅だ。駅の南、多摩川を渡った徒歩15分ほどのところに梅の公園がある。残念ながら2014(平成26)年に公園内の梅がウィルスに感染、園内の梅が全部伐採された。その後にNPO法人が立ち上げられ梅の再生を目指す活動が行われている。見ごろは東京都内の梅よりは遅く2月下旬〜3月中旬とされている。

 

【青梅線はワイルド③】誰が利用するの?不思議な石神沢踏切

日向和田駅の次は石神前駅(いしがみまええき)だ。この駅、名前がこれまで3回変わっている。駅が開業した1928(昭和3)年10月13日の名前は楽々園停留場だった。楽々園とは青梅鉄道が設けた遊園地で、東京の西多摩唯一の遊園地だったとされる。現在、遊園地跡は大手企業の保養施設となっている。

↑石神前駅のすぐそばにある石神社。境内の大銀杏(右手に立つ)が知られる。石神駅前のモミジの葉は晩秋に色づく(左上)

 

1944(昭和19)年に青梅鉄道から国鉄の路線となった時に三田村駅となり、さらに3年後の1947(昭和22)年3月1日に、現在の石神前駅と名が変更された。

 

現在の石神前駅は、駅の東側100mにある石神社(いしがみしゃ)の名前にちなむ。創建時期は不明という古社で、境内に立つ大銀杏は幹周りが6.6mもあり、乳信仰の対象になっている。樹皮を煎じて飲むと母乳がよく出るようになると言い伝えられる。

 

この石神社の目の前を青梅街道が通る。この街道沿いを青梅側に行くこと数分。ちょっと不思議な踏切がある。踏切の名前は「石神沢踏切」。森に包まれていて、この踏切を通る人はほぼいない。踏切を渡った山の入口には「通行禁止・青梅市森林組合」とあり鎖錠(さじょう)されている。林業関係者の車しか走ることのできない踏切なのである。

↑森の中の石神沢踏切。青梅街道から石神入林道へ入る入口にある。林道の先には「通行禁止」の立て札があり鎖錠されている(右上)

 

青梅線沿線には警報器の付かない第四種踏切がある。対して石神沢踏切には警報器+遮断器が付いている。森林組合の関係者もあまり使っていないようで、ちょっと過分な設備に感じた。ちなみに、踏切があるのは石神入林道と呼ばれる林道で、先に進むと前述した青梅丘陵ハイキングコースにつながっている。そのためハイカーなどの利用がごくわずかにあるようだ。

 

【青梅線はワイルド④】軍畑はやはり古戦場との縁が深かった

石神沢踏切付近では青梅丘陵がせり出し、青梅線は多摩川のすぐ間近を走るが、次の二俣尾駅付近は平地となり住宅地が広がる。多摩川の両岸に住宅が建つのはこの二俣尾駅付近まで。この先、急に山深くなっていく。

 

次の駅が軍畑駅だ。「いくさばた」という名前は、やはり戦いに関係が深いのだろうか。駅名案内にそのヒントがあった。

↑軍畑駅の駅舎と駅名案内(左上)。駅舎に記された駅名の上にはこの地を治めた三田氏の家紋が付けられている

 

駅名案内には駅の名前とともに、兜のイラストの下に「辛垣(からかい)の合戦」の文字。調べてみると、戦国時代の合戦であることが分かった。簡単に触れておこう。戦国時代初頭に青梅から現在の飯能にかけて治めていたのが三田氏だった。当初は小田原の北条氏の傘下に入っていたが、その後に上杉謙信の側につく。二俣尾駅と軍畑駅間の北側に築かれた山城「辛垣城」で北条軍を迎え撃った。

 

その時に戦場となったのが軍畑駅付近だったという。北条軍は多摩川を渡り攻め入り辛垣城は落城、三田氏は滅んだとされる。軍畑駅の駅名の上に丸い「三つ巴(みつどもえ)」のデザインが描かれるが、このデザインこそ、戦国の世に青梅を治めた三田氏の家紋だったのである。

↑軍畑駅の近くには茅葺きの民家も残る。奥に見える山付近に三田氏の居城、辛垣城があったと思われる

 

軍畑駅付近では、ぜひとも見ておきたい構造物がある。軍畑駅の東側を流れる平溝川にかかる鉄橋で、奥澤橋梁と呼ばれる。橋脚が末広がりで組まれ、鉄骨で強化されている。この構造の橋はトレッスル橋と呼ばれる。アメリカから導入された技術で、国内では山陰本線の余部橋梁(あまるべきょうりょう)が代表的な橋だったが、老朽化などへの対応のため余部橋梁は2010(平成22)年に新しい橋に架け替えられている。

↑日本では数少ないトレッスル橋の奥澤橋梁。青空を背景にした赤い鉄橋が絵になる

 

国内のトレッスル橋は現在、道路橋を含め11か所しかなく貴重になりつつある。多くが大正末期から昭和初期にかけて造られた橋で使用部材量が少なくて済むことが長所だとされる。青梅線ではこの奥澤橋梁がトレッスル橋だが、御嶽駅から先、戦時中に造られた橋とは構造が大きく異なるところがおもしろい(詳細後述)。

 

【青梅線はワイルド⑤】駅から徒歩3分でカヌーが楽しめる

軍畑駅の一つ先が沢井駅。こちらはお酒好きにお勧めの駅だ。駅の南側を多摩川方面に降りて行くと、小澤酒造という蔵元がある。創業300年以上の歴史がある酒蔵で、生酛造りという伝統的な製法で日本酒を製造している。代表的な銘柄「澤乃井」は東京の地酒としても良く知られている。「澤乃井園」という多摩川を見下ろす軽食・売店コーナー、きき酒処もあり、土産購入にも最適な施設だ。

 

沢井駅の次の駅が御嶽駅(みたけえき)だ。この駅で下車する観光客やハイカーも多い。御岳山へ登るケーブルカー・御岳登山鉄道の山麓駅近く、ケーブル下行のバスが発車するほか、駅近くに玉堂(ぎょくどう)美術館などの観光施設がある。

↑唐破風(からはふ)の玄関屋根が特長の御嶽駅。ホームの屋根の骨組みには1900年代初頭の古いレールが使われる(左下)

 

御嶽駅をおりて、駅前を散歩してみる。ちょうど駅を降りた下の交差点がT字路になっていて、青梅街道と都道201号線が合流する。この都道側を行くとすぐのところに多摩川が流れ、御岳橋が架かる。

 

橋の上から川面を見下ろすと、カヌーを楽しむ人たちが複数人いた。駅のすぐそばにカヌー、カヤック、ラフティング、SUP(ハワイ生まれのStand Up Paddle boardの略)が楽しめる「コンセプト・リバーハウス」という施設があり、そちらで楽しんでいる人たちだった。駅から徒歩3分で、アウトドアスポーツが楽しめるというのだから、東京都内とは思えない。橋の上から見るだけだったが、すっかり涼味をいただいた。

↑御嶽駅から徒歩3分の多摩川のポイントでカヌーに興じる人たち。スクール指導も行われ、安全に楽しむことができる

 

御嶽駅で忘れてはいけないのは御岳山であろう。駅前を通る青梅街道沿いに西東京バスの御岳駅バス停があり、そこから10分でケーブル下停留所へ。そこから徒歩で5分ほど歩けば山麓駅にあたる御岳登山鉄道の滝本駅がある。ケーブルカーに乗車して6分で御岳山駅に到着する。

 

御岳山は山岳信仰の対象となっている山で標高は929m。山上には武蔵御嶽神社がある。御岳登山鉄道の終点、御岳山駅から神社までは徒歩で25分ほどかかる。御岳山を起点にして、周りの大岳山などを巡るハイカーも多い。ちなみに御岳山の中を都道201号線が通っているが、こちらの道は許可を受けた人のみしか通行ができない。

 

東京都内では高尾山とならぶ山岳信仰の霊場とされ、中心となる武蔵御嶽神社の創建は紀元前とされる。ちなみに、御岳登山鉄道も高尾山でケーブルカーやリフトを運行する高尾登山電鉄も京王グループの一員である。都内でケーブルカーはこの2社のみだが、両社とも京王の関連会社というところも興味深い。

↑青梅街道沿いにある西東京バスの御岳駅バス停(左上)。バスが着くケーブル下から御岳登山鉄道の滝本駅まで5分ほど歩く

 

多くのスポットがある御嶽駅だが、筆者が訪れた時には、駅近くで地元の農家が山葵(わさび)の販売をしていた。御岳付近は山葵栽培が盛んな地域。筆者が訪れたのは7月だったが、1本100円から大きさいろいろの山葵を何本か購入できた。

 

清流で育てられた風味豊かな御岳の山葵。御嶽駅のそばで収穫体験もできるスポットもある。旬は初夏だが、山の中での山葵収穫も楽しそうだ。

 

【青梅線はワイルド⑥】川井駅近くのワイルドなアーチ橋

御嶽駅からさらに奥を目指そう。御嶽駅から先の開業は1944(昭和19)年7月1日と戦時中のことだった。物資が乏しい時代に開業となったわけは、前回に触れたように、沿線で産出される石灰石の輸送を早急に進めたかったからである。こうした時期に開業した路線だけに、施設にも資源の節約傾向が見て取れる。

 

例えば、御嶽駅の次の駅の川井駅(かわいえき)。駅のすぐそばに青梅線のアーチ橋が架かる。アーチ橋は、橋梁の建設方法として古くから用いられてきた構造の一つで、アーチ構造により荷重を上手く支えることができるとされる。昭和10年代になると鋼材を節約するために、全国でコンクリートアーチ橋(鉄筋コンクリート構造)が普及した。

↑川井駅(中上)近くの大丹波川橋梁。左上はその西側に架かる川井沢橋と呼ばれるアーチ橋。こちらは補強工事が完了していた

 

青梅線でも御嶽駅から先に架かる橋の大半がコンクリートアーチ構造の橋が用いられている。中でも川井駅の西側に架かる大丹波川(おおたばがわ)橋梁75.4mは並走する青梅街道(国道411号)から見上げると迫力がある。橋の構造は電車の中から見ることができないため、興味のある方はぜひ降りて上空を眺めていただきたい。それこそワイルドな姿を拝むことができる。

 

大丹波川橋梁は、開業したころの姿を残しているが、その西隣の川井沢橋(または川井沢ガード)と呼ばれるアーチ橋を見上げると、橋の下部の曲線部分の補修工事が行われていることが見て取れた。竣工(1941年)してから81年たち、こうした補強も徐々に進められているのだろう。

 

川井駅から先、古里駅(こりえき)〜鳩ノ巣駅(はとのすえき)間には入川橋梁が架かる。さらに鳩ノ巣駅〜白丸駅(しろまるえき)間には西川橋梁がかかる。大半がアーチ一つ(一連)で下から見ると美しく感じる構造物である。

 

下からはアーチ橋の構造が見て取れるが、上空高い位置に架けられたアーチ橋を渡る電車の車窓からは、多摩川の景観が楽しめる。特にアーチ橋が連続する川井駅付近では、並行して走る青梅街道よりもかなり上を走るため多摩川の渓谷のパノラマがしっかりと楽しめる。これが青梅線「東京アドベンチャーライン」最大の魅力と言っても良いだろう。

 

【青梅線はワイルド⑦】都内で最も標高が高い駅・奥多摩駅

白丸駅の先には青梅線最長の氷川トンネル1270mがあり、抜けると終点の奥多摩駅がもうすぐだ。

↑ロッジ風山小屋がシンボルの奥多摩駅。駅前から奥多摩湖方面などへ路線バスが多く発車する。写真はコロナ禍前の賑わっていたころ

 

青梅駅から約35分で、終点の奥多摩駅に到着した。この駅は都内で最西端の鉄道駅で、標高は都内の鉄道駅でトップだ。といっても海抜343mで、東京タワー(海抜高351m)よりも低いのだが。

 

奥多摩駅は開業当時、氷川駅と呼ばれた。当時は駅があったのが氷川町だったからである。その後に1955(昭和30)年に氷川町はじめ3町村が合併して奥多摩町となった。駅名の変更はそれから遅れること16年、1971(昭和46)年に現在の奥多摩駅に改称している。駅舎は「ロッジ風の山小屋駅」で、この駅舎が「自然ゆたかな奥多摩に似合っている」として関東の駅百選にも選ばれている。

 

駅舎の1階には奥多摩観光協会が運営する売店、そして2階にはカフェがある。また駅前には飲食店が数軒あり、山中の終点駅ながら開けたイメージだ。奥多摩駅のおもしろいのはトイレに登山靴やトレッキングシューズを洗うためのシャワーが設置されているところ。ここで靴を洗ってからお帰りくださいということなのだ。ハイカーの利用者が多いことをうかがわせる施設である。

 

駅のすぐ近くには奥多摩工業氷川工場がある。この奥多摩工業こそ、実は御嶽駅〜氷川駅(現・奥多摩駅)の鉄道敷設免許を出願し、工事を進めていた「奥多摩電気鉄道」の今の会社名である。結局、自社での鉄道開業は適わず、鉄道敷設免許および建設中の路線は1944(昭和19)年4月に国有化され、この年の12月に会社名を奥多摩工業と変更した。当時、同社の社員は悔しくやるせない思いをしたに違いない。

↑奥多摩駅の北隣りにある奥多摩工業氷川工場。コンクリートの粉体を積んだ大型バルク車の出入りが見られた

 

【青梅線はワイルド⑧】かつては奥多摩湖まで線路が伸びていた

ここで青梅線の旅は終了とならない。かつて線路が奥多摩駅の先まで延びていたのである。線路は奥多摩駅の北隣の奥多摩工業氷川工場内に延び、石灰石の輸送が行われた。

 

さらにその先、6.7kmの貨物専用線が敷かれていた。この貨物専用線は「東京都水道局小河内線(おごうちせん)」と呼ばれる路線で、多摩川の上流に小河内ダム(奥多摩湖)を建設するために造られた。玉川上水や江戸川からの水だけでは将来、都内の水不足は深刻になると予想されたために〝東京の水がめ〟が必要と考えられた。この路線はダム造りのために設けられた専用線だった。

 

当時、トラック輸送の能力は心もとなく、ダム造りといった大型プロジェクトには、こうした専用線が欠かせなかったわけである。

↑東京都水道局小河内線の休線跡。今も一部に線路が敷かれたままになっている。その横をハイキング道が通る

 

そして旧氷川駅から水根駅(みずねえき)に至る専用線が1952(昭和27)年に造られた。多摩川上流部の険しい山を切り開いて造られた路線とあって、橋梁23か所・計1.121km、トンネル25か所・計2.285kmにも達した。非電化でSLが牽引に使われたが、勾配も最大30パーミル(1000m走る間に30mのぼる)あり、非力なSLでの輸送は、かなり手間がかかったと伝えられる。

 

さらに、青梅線の路線もこの貨車輸送を進めるために強化費用が出されて路線改良を行っている。こうした大変な手間をかけて路線を造ったことにより、1957(昭和32)11月26日に小河内ダムは竣工した。一方で、東京都水道局小河内線は同年の5月10日に資材輸送が完了、お役ごめんとなった。同線にはまだ後日談がある。

↑奥多摩駅から徒歩6分ほどの「奥多摩むかしみち」の入口(右下)。そこから登った先に小河内線の休線がある。トンネル跡も望める

 

資材輸送は完了して路線は休止となったが、正式な廃線にはなっていない。路線はまず1963(昭和38)年9月21日に西武鉄道へ譲渡された。西武鉄道では奥多摩湖を観光地化し、拝島線から青梅線への乗り入れ列車を走らせようと計画した。ところがさまざまな理由から整備計画は頓挫する。15年にわたり、西武鉄道が保有していたが、1978(昭和53)年3月31日に奥多摩工業に譲渡された。

 

そして今も奥多摩工業が保有する鉄道用地となり「水根貨物線」という名前も持つ。奥多摩電気鉄道として創始した同社が計画し、工事を始めた路線は青梅線として国有化されたが、そこにつながる路線の用地を今も保有しているというわけである。何とも不思議な縁である。

 

「奥多摩むかしみち」と名付けられたハイキングコースは、この休線を横切り(休線内は立入禁止)、国道411号に平行する橋なども見ることができる。残る線路を一部利用して、トロッコを走らせようというプランも持ち込まれたが、成就していない。

 

筆者は奥多摩駅を訪れるたびに気になってこの休線を訪れているが、年々、覆う緑が深まっているように感じる。そして何度か訪ねているにもかかわらず、見落とした箇所がまだあった。

↑奥多摩工業氷川工場の下を流れる日原川。上流は木々に覆われて見えないが、「水根貨物線」の巨大なアーチ橋が残されている

 

奥多摩駅のすぐ近くを流れる多摩川の支流・日原川(にっぱらがわ)。この日原川を渡るアーチ橋が残っていることに地図を見ていて気がついたのである。カーブしつつ川を渡った日原川橋梁と呼ばれるアーチ橋で、列車が運行していたころに撮影した絵葉書や写真を見て、その大きさ、ダイナミックな路線造りに驚かされた。この橋がまだ残っているとは知らなかった。次に訪れる時はぜひ日原川橋梁の姿を確認したいと思った。

意外に知らない「青梅線」10の謎解きの旅〈前編〉

おもしろローカル線の旅94〜〜JR東日本・青梅線(東京都)その1〜〜

 

東京の郊外を走る青梅線。立川駅から青梅駅までは住宅地や畑が連なり、その先、奥多摩駅まで「東京アドベンチャーライン」の愛称で親しまれている。130年近い歴史を持つ青梅線には、不思議な短絡線や、謎の引き込み線もある。意外に知られていない一面を持つ青梅線の謎解きの旅を楽しんでみた。

*取材は2019(令和元)9月〜2022(令和4)年7月10日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

 

【青梅線の謎を解く①】戦前発行の路線ガイドに隠された秘密

青梅線の概要をまず見ておこう。

路線と距離 JR東日本・青梅線:立川駅〜奥多摩駅間37.2km 全線電化、
立川駅〜西立川駅間は三線、西立川駅〜東青梅駅は複線、ほか単線
開業 1894(明治27)年11月19日、青梅鉄道により立川駅〜青梅駅間18.5kmが開業
1944(昭和19)年7月1日、氷川駅(現・奥多摩駅)まで延伸
駅数 25駅(起終点駅を含む)

 

今から128年前に誕生した青梅線は、青梅鉄道により路線が造られた。開業当時は軽便鉄道で線路幅は762mmだった。拝島駅から分岐する五日市線がそうだったように、東京郊外で産出される石灰石やセメントの貨物輸送を主な目的に造られた。青梅駅から先は多摩川沿いに延ばされていった。

 

1895(明治28)年12月28日には日向和田駅(ひなたわだえき)まで、1920(大正9)年1月1日に二俣尾駅(ふたまたおえき)まで路線が伸びている。軌間は1908(明治41)年に1067mmに改軌され、また1923(大正12)年に全線が電化されている。

 

そんな時につくられたのが下記の青梅鉄道の路線ガイドである。当時の人気絵師であり、鳥瞰図作りの作家でもあった吉田初三郎が制作したもので、当時の沿線の様子が非常に分かりやすく描かれている。

↑開くと横に76cmほどの「青梅鉄道名所図絵」。大正末期のもので、沿線の様子が克明に記されていて非常に分かりやすい。筆者所蔵

 

今も人気の吉野梅郷(よしのばいごう)が大きく描かれるとともに、終点の二俣尾駅周辺にあった浅野セメントの石灰石採掘所が詳しく描かれている。吉田初三郎は、鳥瞰図を作る場合に、必ず現地を訪れて書いたとされる(本人が行けない場合は弟子が訪れた)。小型カメラなどがなかった時代、大変だったと思われるが、鳥瞰図により当時の様子が再現され、今見てもおもしろい。

 

青梅鉄道は1929(昭和4)年5月3日に青梅鉄道から青梅電気鉄道と社名を変更。さらに、その年の9月1日に御嶽駅(みたけえき)まで路線を延伸している。そんな青梅電気鉄道時代の春用、秋用のパンフレットが下記のものだ。

↑上が春のもの、下が秋のもの。秋のパンフレットの方が、制作が古いと思われ、お洒落な雰囲気が感じられる。筆者所蔵

 

吉田初三郎作のパンフレットほど豪華さはないが、それぞれ広げると横幅30cmほどで持ちやすいサイズに作られている。細かさは初三郎の鳥瞰図には劣るものの、秋の紅葉や春の新緑などの表現がしっかり描かれている。

 

おもしろいのは時代背景が感じられること。秋のパンフレットは表紙が背広姿の男性と和装の女性の2人が川沿いを散策する姿。対して春のパンフレットは景色のみのシンプルなものになっている。秋のパンフレットは、昭和5年〜10年ぐらいのもの、春のパンフレットは昭和10年代以降のものだと思われる。昭和初期の作のほうがデザインもお洒落で、まだ余裕があった時代らしい作りだ。青梅鉄道のパンフレットは、本稿で以前に取り上げた五日市鉄道(現・五日市線)に比べて多く残されている。それだけ観光路線としても、人気が高かったのだろう。

 

その後、太平洋戦争に突入すると、青梅電気鉄道も軍国主義の荒波にのまれていく。御嶽駅から先は奥多摩電気鉄道という会社が鉄道路線の延伸工事を進めていたが、青梅電気鉄道とこの奥多摩電気鉄道が1944(昭和19)年4月1日に国有化され青梅線になる。当時の国有化は半ば強制で、支払いは戦時国債で行われた。戦時国債の現金化は難しく、戦後は超インフレで紙切れ同然となっている。太平洋戦争後も元の会社に戻されることはなかった。

 

青梅線の延伸は1944(昭和19)年7月1日に氷川駅までの工事が完了し、全通している。戦時下の物資乏しい中にもかかわらず、軍部がセメントを重要視していたこともあり、路線はいち早く延ばされた。多摩川の上流部に石灰石が多く眠っていたためである。

 

【青梅線の謎を解く②】50年前に青梅線を走った電車は謎だらけ

戦後、落ち着きを取り戻した昭和30年代となると、青梅線は東京から気軽に行くことができる行楽地として脚光を浴びる。週末は御岳山などに登るハイキング客で賑わった。筆者の父もハイキングが好きで、やや無理やりに連れていかれたが、そんな時には、沿線で電車や機関車を撮ることを楽しみにしていた。そんな写真が下記のものだ。

↑1970(昭和45)年ごろの青梅線で撮影した写真。旧型国電とともに電気機関車や蒸気機関車の姿も見ることができた

 

今から半世紀前のものになるが、青梅線にはまだオレンジの101系などは走っておらず、こげ茶色の「旧型国電」と呼ばれる電車だった。当時の青梅線は、古い電車の宝庫だったわけである。

 

この旧型電車は、今調べると非常に分かりにくい。現在のように、体系化されておらず、昭和一桁から戦後間もなくの物資がない時代に、車両数を増やすことを主眼に製造された。整理してみると青梅駅〜立川駅では20m車両の72系(73系と呼ばれることも)や40系が多く走り、それより先は17m車の50系が多く見られたように記憶している。何しろ、異なる形の車両が〝ごちゃまぜ〟で走っていることもあり、車両形式をメモするなどしていないこともあり、筆者の記憶もやや怪しい。

 

青梅線ではこれらの旧型国電が1978(昭和53)年まで走り続けた。他線に比べてもかなり長く生き続けたわけである。旧型国電の姿とともに、青梅線全線で見られたのはED16形電気機関車が牽引する鉱石運搬列車、さらに拝島駅では八高線にSLが走っていたこともありD51やC58の姿を見ることができた。

 

現在、青梅線を走る電車も見ておこう。主力はE233系基本番台で、区間ごとに6両(一部は4両)、10両の電車が走る。2024年度末以降にはグリーン車付き電車も運行予定で、立川駅〜青梅駅のホーム延伸工事も進められている。

 

ほか定期列車として走るのがE353系特急形電車で、平日の朝と夜に特急「おうめ」として東京駅〜青梅駅間が運転されている。

↑通常の電車はE233系0番台だが、一編成のみ「東京アドベンチャーラインラッピング」車両も青梅線内を走る(左上)

 

青梅線には貨物列車が今も走っている(詳細後述)。石油タンク車はEF210形式直流電気機関車が牽引する。これまではEF65形式直流電気機関車で運転されていたが、最近の運用を見るとEF210に引き継がれたようだ。

 

また、拝島駅の入れ替えや引き込み線での牽引はDD200形式ディーゼル機関車が使われている。青梅駅までさまざまな臨時列車が入線することもあり、画一化されがちな通勤路線に比べるとバラエティに富んでいて、それが青梅線ならではの楽しみの一つになっている。

↑石油タンク車を牽引するDD200形式。2022(令和4)年3月のダイヤ改正以降、同車両が入線するようになった

 

【青梅線の謎を解く③】立川駅から分岐する謎の単線は?

前置きが長くなったが、青梅線の謎をひも解いていこう。起点の立川駅から早くも謎の路線を走る。通常の青梅線の発着は立川駅の北側にある1・2番ホームとなる。このホームに停まる電車は主に青梅線(一部は五日市線)の折返し電車だ。

 

中央線から青梅線に直接乗り入れる電車は、どのように走っているのだろう。乗り入れる電車は5・6番線からの発車となる。青梅線の折り返し電車とは異なるホームだ。ここから発車する電車は「青梅短絡線」と呼ばれるルートをたどる。

 

「青梅短絡線」は中央線から分岐し、立体交差で越えて西立川駅まで走る単線ルートで、民家の裏手、垣根に囲まれて走るような、ちょっと不思議な路線だ。

↑緑に包まれるように走る青梅短絡線。西立川駅の手前で青梅線の本線に合流する(左下)

 

この短絡線は青梅電気鉄道と南武鉄道(現・南武線)との間で、国鉄の路線を通過せずに、貨物列車などを通すために設けた路線だった(国鉄の路線を通すと通過料が必要となるため)。その後に国鉄路線となったため、本来の役割は消滅したが、今は青梅線への直通電車の運行に役立っているわけである。さらに拝島駅と、鶴見線の安善駅とを結ぶ石油タンク輸送列車の運行にも役立てられている。

 

青梅短絡線は1.9kmの距離がある。元々の立川駅〜西立川駅間の青梅線の距離は1.7kmで、青梅短絡線を回ると0.2km長く走ることになる。青梅短絡線は実は少し長く走る〝迂回線〟だったというのがおもしろい。ちなみに、長く走るがその分の運賃の加算はない。

 

【青梅線の謎を解く④】アウトドアヴィレッジのかつての姿は?

立川駅から拝島駅の間にはレジャー施設が多くある。たとえば、西立川駅の北側には国営昭和記念公園がある。広大な公共公園で、「花・自然」「遊ぶ・スポーツ」など四季を通じて楽しめるエリアに分かれている。西立川駅の次の駅、東中神駅の南側には昭島市民球場や陸上競技場、テニスコートなどがある。

 

拝島駅の一つ手前、昭島駅近くには大規模ショッピングセンターに加えて、商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」がある。テナントはアウトドア関連のショップのみで、さらにパーク内に、クライミングジムやヨガスタジオ、ミニトレッキングコースなどがあり、多彩なアウトドアイベントも開かれる。まさにアウトドア好きにぴったりの施設だ。

 

このアウトドアヴィレッジ、かつては何だったのかご存じだろうか?

↑昭島駅から徒歩3分にある「モリパークアウトドアヴィレッジ」。アウトドアショップやレストランなどがある

 

ここには、かつて昭和飛行機工業という飛行機を造る工場があった。戦前にはプロペラ機のダグラスDC-3のライセンス生産を開始、終戦までDC-3/零式輸送機の大量生産を続けていた。戦時下には紫電改などの戦闘機もライセンス生産していたとされる。終戦後には国産旅客機のYS-11、輸送機C-1の分担生産を行ったほか、特殊車両の製造などを続けた。飛行機工場のため、飛行場を併設するなど広大な敷地を備えていたこともあり、敷地を活かしてアウトドアヴィレッジが生まれたわけである。

 

ちなみに、昭島駅(開業時は「昭和前駅」)も、昭和飛行機工業が駅舎用地を提供、建設費も一部負担したとされる。同工場との縁が深いわけである。

 

前述した国営昭和記念公園は旧立川飛行場の跡地が利用された。この沿線は、広大な武蔵野台地を利用して造られた飛行場や飛行機工場など、飛行機に縁が深い土地である。飛行機との縁は拝島駅ではさらに濃くなる。

 

【青梅線の謎を解く⑤】拝島駅の東口を通る謎の線路はどこへ?

青梅線は拝島駅で八高線と五日市線、そして西武拝島線と接続している。拝島駅の東口駅前には、引き込み線が設けられている。

 

この引き込み線は横田基地線と呼ばれる。伸びる先には現在、在日米軍が所有・使用する横田基地がある。元は1940(昭和15)年に当時の大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、太平洋戦争末期には首都圏防衛の戦闘基地になっている。

↑空になった石油タンク貨車を牽き拝島駅へ向けて走るDD200牽引の貨物列車。線路端には「防衛」という境界杭が立つ

 

飛行場は終戦後には米軍に接収された。その後、長く米軍の燃料輸送が行われている。石油タンク車を利用した燃料輸送は鶴見線の安善駅との間を走り、拝島駅でディーゼル機関車に付け替えられる。そして拝島駅の東口駅前を通り、横田基地の入り口フェンスまで約500m走り、そして基地内へ運び込まれている。

 

なお、青梅線の線路から拝島駅東口に向かう際に、西武拝島線を平面交差して横切っている。そのため、西武鉄道の電車も、このタンク輸送に合わせて、電車のダイヤ調整が行われている。

↑横田基地の入口から外へ出てきた石油タンク列車。ウクライナ侵攻が始まった時には輸送機の離発着が目立った(左上)

 

↑拝島駅からは青梅線などを経由して鶴見線の安善駅まで走る専用列車。以前はEF65の牽引だったが今はEF210が牽引する日が多い

 

日本には在日米軍の基地が多くあるが、鉄道による石油輸送が行われているのは、横田基地のみとなっている。輸送は主に火曜日および木曜日に行われている(臨時列車のため確実ではない)。珍しい米軍向けのタンク車輸送ということもあり、鉄道愛好家の間では〝米タン輸送〟の愛称で呼ばれている。

 

横田基地線の線路には日本語と英語で書かれた「立入禁止区域」の立て札が各所に立てられ、ものものしい雰囲気だ。基地内は日本の中のアメリカで、世界で戦争や紛争などが起こっている時は、張りつめた緊張感が感じられる。ロシアのウクライナ侵攻が始まったころには、通常時に比べて輸送機が数多く離発着していた。

 

【青梅線の謎を解く⑥】福生駅から伸びる廃線、その開業の謎

↑拝島駅〜牛浜駅間を流れる玉川上水。民家が迫り、玉川上水らしさは薄れる箇所だが、上水沿いの多くの区間で散歩道が整備されている

 

現在は、拝島駅〜立川駅間の貨物輸送しか行われていないが、かつては、全線で貨物輸送が行われ、複数の引き込み線が設けられていた。

 

福生駅から福生河原まで1.8kmに渡り伸びていた貨物支線もその一つである。この路線が造られた経緯も興味深い。福生河原での多摩川の砂利採取のために1927(昭和2)年2月9日、路線が造られた。この砂利は八王子市に計画された大正天皇陵所の造営に必要な多摩川の石を運搬するために造られたものだった。廃線跡を歩いてみると、貨物支線の痕跡が残されている

 

江戸時代に設けられた玉川上水には加美上水橋が架かる。今は歩道橋として使われるが、以前は貨物支線用につくられた橋だった。橋の入口には歴史を記した碑があり、そこには「日に二回電気機関車が四、五両の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた」とあった。

↑玉川上水(右上)に架かる加美上水橋は、かつての貨物支線の橋梁を使ったもの。橋の幅が狭く車の利用はできない

 

この橋をさらに多摩川方面に歩くと、堤がカーブして河原へ続いている。サイクリングに最適な川沿いの道だが、かつて貨物列車が走っていたとは、利用者の大半が知らないだろう。

 

この貨物支線は1959(昭和34)年12月に砂利運搬停止、路線を廃止、さらに1961(昭和36)年3月に線路や架線が撤去された、と碑にはあった。

↑多摩川沿いを堤防のように伸びる旧貨物支線跡。今は歩道およびサイクリングロードとして利用されている

 

【青梅線の謎を解く⑦】青梅駅の手前で急に単線になる謎

青梅線の運行形態は立川駅〜青梅駅間と、青梅駅〜奥多摩駅間では大きく異なる。青梅駅までは東京の郊外幹線の趣があるが、青梅駅から先は、途端に閑散路線となる。ところが、線路の造りを見ると、こうした運転形態とは、少し異なる。青梅駅の一つ手前、東青梅駅までは複線区間で、郊外線そのものだが、その先で単線となり、そのまま青梅駅へ電車は入っていく。電車の本数が青梅駅までは多いのにかかわらずである。

↑東青梅駅〜青梅駅間を走る立川駅行き電車。写真のように同区間で急に山景色が広がり単線区間となる

 

東青梅駅までは平野が広がる地形で、その先で、急に進行方向右手に山並みが迫ってくる。青梅駅が近づく進行方向左手にも丘陵があり、電車は窪地をなぞるように走り青梅駅へ入っていく。

 

東青梅駅までは1962(昭和37)年5月7日に複線化された。ところが、その先は複線化工事が行われなかった。山が急に迫る地形が、複線化を拒んだということなのかもしれない。

 

【青梅線の謎を解く⑧】青梅駅の風格ある駅舎の起源は?

青梅駅へ到着して駅を降りる。駅の地下道には、昔の映画館で良く見かけた映画看板が左右に掲げられいる。改札口までの通路には青梅線の古い写真などの掲示もある。駅の案内表示はレトロ風と、昭和の装いがそこかしこにある。ちょっと不思議な駅の装いだが、青梅駅は2005(平成17)年に「レトロステーション」としてリニューアルしている。映画看板もそうしたイメージ戦略による。

↑旧青梅鉄道の本社だった青梅駅の駅舎。郊外の駅としては他に無い重厚な趣だ

 

青梅駅の駅舎は1924(大正13)年に青梅鉄道の本社として建てられた。青梅鉄道が開業30周年を迎えたことに伴い改築されたもので、すでに改築してから100年近い歴史を持つ。そうした経緯の建物のせいか、重厚感が感じられる。建物の1階部分のみしか見ることができないが、地上3階、地下1階建てだそうだ。

 

こうしたレトロステーションにあわせて、青梅市内には〝昭和レトロ〟の趣があちこちに。今年の4月末からは駅の隣に「まちの駅 青梅」という青梅市の地場産品を販売する店舗も誕生した。外装には昔のホーロー看板(メーカーそのものの看板ではなく似せてある)が飾られ、昭和期の町の商店のよう。青梅わさびや、地酒、スイーツも販売され、楽しめる店舗となっている。

↑青梅駅に隣接する「まちの駅 青梅」。懐かしいホーロー看板が数多く付けられた外装で、思わず見入ってしまう

 

青梅市街にはほかに映画看板が飾られた施設や店も多く昭和レトロ好きにはたまらない町となっている。

 

【青梅線の謎を解く⑨】西武鉄道沿線まで走る路線バスの謎

青梅駅からバス好きの人たちには良く知られた名物都営バスが発車している。西武新宿線の小平駅や花小金井駅へ向けて走る路線バスだ。青梅駅と花小金井駅間の走行距離は約30kmもある。この都営バスは「梅70」系統とよぶ路線バスで、都営バスが走る路線の中では最長距離路線とされる。所要時間100分前後で、道が混めば2時間かかることも。

 

走行する区間は青梅駅近くの、青梅車庫と花小金井駅北口間で、停留所数81もある。ほぼ青梅街道に沿って走り、青梅線の河辺駅(かべえき)、八高線の箱根ヶ崎駅、西武拝島線の東大和市駅、武蔵野線の新小平駅、西武多摩湖線の青梅街道駅を経由して、花小金井駅へ走る。

 

電車が走らない武蔵村山市や、公共交通機関の乏しい青梅街道沿いを走るとあって、意外に利用者が多い路線である。

↑青梅駅を発車する「梅70」系統の都営バス。写真のバスは小平駅行きだが、花小金井駅行きも走っている。

 

この「梅70」系統、1949(昭和24)年に301系統として生まれ、その時には荻窪駅〜青梅(現・青梅車庫)間を走っていた。1960(昭和35)年には阿佐ケ谷駅まで延伸されている。当時は約39.1kmで今よりも長い距離を走った。その後に荻窪駅まで、2015(平成27)年に、現在の花小金井駅北口まで短縮された。

 

全線乗車するには、かなり忍耐強くなければ難しい路線だが、次回は途中まででも良いので、試してみようかと思った。

 

【青梅線の謎を解く⑩】青梅鉄道公園に残る悲劇の機関車とは?

鉄道好きならば、青梅駅を訪れたら、ぜひとも寄っておきたい施設がある。鉄道好きご用達「青梅鉄道公園」だ。国鉄が鉄道90周年記念事業として開設した鉄道公園で、明治時代から昭和期まで活躍した10車両が保存展示されている。鉄道好きの子どもたちが安心して遊べる遊具や、古い車両に出合え、鉄道模型などもあり親子揃って楽しめる施設となっている。

↑青梅駅の北側、徒歩15分ほどの青梅鉄道公園。珍しいE10形蒸気機関車(右上)も展示保存される

 

鉄道公園だから駅や線路近くかと思うと、これが意外にも青梅駅の北側、永山公園という山の一角にある。駅からは徒歩で15分ほどだ。ハイキング気分で訪れるのに最適と言えるだろう。

 

展示保存される中で最も珍しいのは動輪5軸というE10形蒸気機関車ではないだろうか。国鉄が最後に新製した蒸気機関車で、奥羽本線の板谷峠越え用に造られた。1948(昭和23)年に5両が造られた機関車で、青梅鉄道公園に残る車両はその2号機が保存される。このE10、高性能だったのだが、技術的な問題が多々あり、製造翌年には、板谷峠が電化され、肥薩線や北陸本線へ転用された。他の路線でも性能は活かされずに1962(昭和37)年には全車が廃車となっている。稼働14年と短く〝悲劇の機関車〟とも呼ばれる。

 

そのほか青梅線で走った車両も見ておこう。まずはED16形電気機関車1号機。こちらは1931(昭和6)年に鉄道省(その後の国鉄)が製造した電気機関車で、中央本線や上越線用に開発された。青梅線との縁も深く、西立川にあった機関区に数両が配置された。博物館に保存される1号機も、西立川や八王子の機関区に配置されていた期間が長い。同1号機は、国産電気機関車が生まれた当時の歴史的な車両ということもあり重要文化財に指定されている。

 

こげ茶色の旧型国電クモハ40054という車両も保存されている。この電車の形式名はクモハ40形電車で、車体長20m、国鉄40系のひと形式に含まれている。同車両は青梅駅にあった青梅電車区に一時期、配置され、その後は日光線などで活躍した後に、記念イベントで青梅線を走行した経歴を持つ。

 

旧型国電は、青梅線などの全国のローカル線を走り、さらに全国の私鉄に払い下げられ長い間、走り続けた。戦中・戦後の日本を支え、さらに昭和期の輸送に役立てられた。このこげ茶色の角張った車両を見ると、お疲れ様と言いたくなるような愛おしさが感じられるのである。

“鉄分”豊富なイベントが各地で催される!鉄道開業150年日本全国 鉄イベMAP

明治5(1872)年に日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開業して今年で150年。そのアニバーサリーイヤーに合わせてJR各社が様々なイベントを企画している。鉄道ファン以外も必見だ!

※こちらは「GetNavi」 2022年10月号に掲載された記事を再編集したものです。

モノ知りインフルエンサー

鉄道写真家

久保田 敦さん

鉄道雑誌をはじめ、旅行誌などで幅広く活躍中。鉄道の躍動感にこだわった作品に定評があり、写真展も開催する。

 

開催・開業・開通と注目トピックが盛りだくさん

鉄道ファンなら身体がいくつあっても足りない。今年はそんな年になっている。鉄道開業150年を記念してJR各社が趣向を凝らしたイベントを企画。記念ツアーの実施や、貴重な資料の展示など、矢継ぎ早にイベントを開催中だ。

同じく、各新幹線も周年イヤーラッシュで盛り上がっている。

「まずは、初代東北新幹線の車両である200系を模したカラーで運行するE2系に注目を。外観はもちろん、駅ごとに異なる車内のチャイムも懐かしく、見ても乗っても楽しめます。また、西九州新幹線は東海道新幹線のN700Sと同じ車両とは思えない雰囲気ある車内が見どころ。異国情緒あふれる長崎への旅を盛り上げます。同時に開通する観光列車『ふたつ星4047』も期待大!」(久保田さん)

 

画像提供:JRグループ

 

【キャンペーン】

実施中〜2023年3月31日

鉄道開業150年キャンペーン

JRグループの総力を結集したキャンペーンが開催中。JR各社のシンボルカラー6色のラインが印象的なポスターが各所に掲出されているので、ご存じの方も多いだろう。150年記念旅行商品の販売、特定の18駅でだけ聴ける音声コンテンツの配信など、内容盛りだくさんなので特設サイトをチェック!

 

↑対象となる駅にデジタル版スタンプを用意。歴史を感じられるJR各社の駅舎や観光地などをモチーフにしており、季節ごとに新スタンプが追加される

 

秋田新幹線 25周年

 

東北新幹線 40周年

 

山形新幹線 30周年

 

上越新幹線 40周年

 

北陸新幹線 25周年

 

東海道新幹線のぞみ号 30周年

 

山陽新幹線 50周年

 

特急しぽかぜ・南風 50周年

 

 

ヒットアナリティックス

新型車両の導入ラッシュで鉄道熱は引き続き上昇傾向

ここで挙げたトピック以外にも話題が目白押し。7月1日には高山本線に新型特急のHC85系が登場。また10月1日に只見線が全線復旧するのは今秋一番のニュースだ。全線を通して乗って、車窓いっぱいに紅葉を楽しもうと計画している人も多いのでは。

 

【その1】 北の大地における鉄道の過去現在未来がひと目で分かる

 

【イベント】

開催中〜2022年10月31日(予定)

JR札幌駅 「鉄道開業150年のあゆみ」パネル展

鉄道開業150年の歩みを、当時の社会情勢と合わせて紹介するパネル展。札幌駅西コンコースに会場を設け、貴重な鉄道備品や資料映像を見られる。2030年度末に予定されている北海道新幹線札幌延伸(※1)時の予想図も興味深い。

※1:2015年1月14日開催 政府・与党整備新幹線検討委員会より

 

【その2】 3日間乗り放題で秋の小旅行にピッタリ!

【フリーきっぷ】

2022年9月発売開始

鉄道開業150年記念 JR東日本パス

2万2150円

JR東日本全線と、その他の鉄道路線7社の列車が3日間乗り放題で2万2150円というおトクなきっぷをえきねっと限定で販売。新幹線の普通車指定席も乗れて、レンタカーの利用特典もあるのがうれしい。

 

【その3】 日本人の琴線に触れる鉄道旅の追憶を関係資料で辿る

画像提供:鉄道博物館

【イベント】

開催中〜2023年1月30日

鉄道博物館

鉄道の作った日本の旅150年

入館料1330円(※2)

長距離移動を“旅”ととらえ、日本人の旅と鉄道との関わり、その変遷を振り返る。10月24日までの前期は鉄道開業前〜1940年代、10月29日からの後期は1950年代〜現在までの旅の姿を貴重な資料ともに紹介。写真は明治時代に新橋〜下関を走った特別急行列車。

※2:指定のコンビニエンスストアで事前購入制

 

【その4】 現役E2系をアレンジし緑と白の名車が蘇る!

 

【鉄道】

2022年6月運行開始

200系新幹線カラーが復活

1982年にデビューし、2013年まで運用された上越・東北新幹線200系車両のカラーリングが期間限定で復刻。鉄道ファンからいまなお高く評価される懐かしの名車の雰囲気を楽しみたい。

 

【その5】 JR系ホテルだからこそ実現できるホテル客室での運転体験

画像提供:JR東日本

【体験プラン】

実施中〜2022年9月30日

JR東日本

トレインシミュレータルーム

宿泊料は施設により異なる

池袋、丸の内、川崎、さいたま新都心のメトロポリタンホテルズに、1日1室限定のトレインシミュレータを設置。本物を忠実に再現したマスコンユニットで京浜東北線と八高線の運転体験ができる。

 

【その6】 アテンダントの案内とともに贅沢な観光列車の旅へ

 

【鉄道】

2022年7月運行開始

SAKU美SAKU楽

5200〜6000円(岡山〜津山)

岡山県北エリアを巡る観光列車。沿線に点在する桜の名所をイメージしたピンクの車体が緑豊かな街に“花”を添える。沿線案内をしてくれる車内アテンダントが同乗。地元食材を使った特製弁当やスイーツ付きなのもうれしい。

 

↑国鉄時代のキハ40系を改装し、レトロな雰囲気は残しつつ、内装を一新。グリーン×ブラウンの車内は岡山の自然をイメージ

 

【その7】 親子で楽しめるワークショップも充実

 

【イベント】

開催中〜2022年12月26日

リニア・鉄道館

鉄道開業150年特別展 〜日本の鉄道誕生と東海道本線の高速化〜

入館料1000円

特別展では、東海道新幹線に至るまでの高速化の歴史を紹介。また、技術展示ではベアリングのしくみや歴史を解説するほか、夏の間は超電導リニアの模型制作などを体験できるワークショップ、鉄道模型での運転操作体験など子ども向けの催しも。

 

【その8】 新幹線「かもめ」の登場で長崎観光がグッと身近に

 

【鉄道】

2022年9月開業

西九州新幹線

5520円(博多〜長崎)※自由席

武雄温泉〜長崎間の約66kmが新幹線でつながり、長崎〜博多の所要時間が約30分短縮。車両は東海道新幹線と同じ最新型のN700Sだが、インテリアは和洋折衷のオリジナルデザイン。開業に合わせて整備が進む新しい長崎駅も注目だ。

 

↑指定席は2+2シートのゆったり設計。車両ごとに菊大柄、獅子柄、唐草とファブリックデザインが異なっている。6両編成で1〜3号車が指定席

 

【その9】 食、景色、インテリア……オール愛媛の観光列車

 

【鉄道】

2022年4月リニューアル

伊予灘ものがたり

3670円〜(松山〜伊予大洲・八幡浜)

JR四国初の本格観光列車として2014年から運行する同列車が、新車両となって生まれ変わった。レトロモダンな車両で風光明媚な伊予灘の景色を眺めながら豪華食事を楽しめる。砥部焼の洗面台など車内設備もこだわり満載。

 

↑キロ185系車両の3両編成。客室デザインは車両ごとに異なり、海向き展望のペアシートも用意される

風光明媚な能登路を走る「のと鉄道」とっておき10の逸話

おもしろローカル線の旅93〜〜のと鉄道・七尾線(石川県)〜〜

 

石川県の能登地方を走る「のと鉄道」。車窓からは青く輝く能登の海が楽しめる。「のと里山里海号」という人気の観光列車も走っている。そんな、のと鉄道の気になる10の逸話に迫ってみた。

*取材は2015(平成27)4月、2022(令和4)年6月19日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

【のと鉄道の逸話①】2000年代初頭に80km区間を廃止へ

のと鉄道の路線の概要をまず見ておこう。

 

路線と距離 のと鉄道・七尾線:七尾駅(ななおえき)〜穴水駅(あなみずえき)間33.1km
七尾駅〜和倉温泉駅間は直流電化ほか非電化、全線単線
開業 1928(昭和3)年10月31日、七尾駅〜能登中島駅間16.3kmが開業、
1932(昭和7)年8月27日、穴水駅まで延伸開業
駅数 8駅(起終点駅を含む)

 

1932(昭和7)年まで現在の終点、穴水駅まで延びた国鉄七尾線。路線はさらに延伸され、北は1935(昭和10)年7月30日に穴水駅から輪島駅間20.4km、さらに東は国鉄能登線として1964(昭和39)年9月21日に蛸島駅(たこじまえき)まで61.0kmが延ばされた。

↑のと鉄道の旧路線図。七尾線は輪島駅まで、能登線は蛸島駅まで走っていた。当時に走ったNT800形が今も穴水駅で保存される(右下)

 

国鉄がJR化された時にはJR西日本に継承されたが、1988(昭和63)年3月25日に能登線が第三セクター経営の「のと鉄道」に引き継がれた。さらに1991(平成3)年9月1日に、のと鉄道七尾線の七尾〜輪島間が開業している。

 

七尾線、能登線は昭和中期まですでに輪島へ、蛸島へそれぞれ延ばされていたものの、所要時間がかかり不便だった。

 

石川県内では日本海に突き出た能登半島の地域格差が特に著しく、県庁のある金沢市まで出るのも1日がかりだった。そうした格差解消のため道路網の整備が進められていった。中でも大きかったのが、県庁のある金沢市から、穴水町を結ぶ能登有料道路(現・のと里山海道)の開通だった。1982(昭和57)年に全通し、この道路につながる県道の整備が続いた。現在、のと里山海道の穴水ICから輪島市内へは50分、また珠洲市内まで1時間ほどでアクセス可能になっている。

 

こうした道路整備の影響もあり、七尾線、能登線の利用者は急激に減少していった。将来の乗客減少を見越して、のと鉄道七尾線の穴水駅〜輪島駅間は2001(平成13)年4月1日に、能登線の穴水駅〜蛸島駅間は2005(平成17)年4月1日に廃止となった。JRおよび国鉄から移管された第三セクター鉄道の中では、廃止が非常に早かった例と言えるだろう。

 

【のと鉄道の秘話②】のと鉄道は路線を保有していない……?

第三セクター経営の鉄道路線は、鉄道会社自体が路線を所有し、列車を運行する形態が大半である。ところが、のと鉄道は異なる。現在、列車は七尾駅〜穴水駅間を走っているが、のと鉄道は「第二種鉄道事業者」として車両を保有し、線路を借用して列車の運行を行う。路線は保有していない。

 

七尾駅〜穴水駅間の路線を保有しているのはJR西日本である。まず七尾駅〜和倉温泉駅間はJR西日本が第一種鉄道事業者となっている。第一種鉄道事業者とは、鉄道施設・車両一式を保有し、列車の運行を行う事業者のことだ。

 

その先の和倉温泉駅〜穴水駅間は形態が異なりJR西日本は第三種鉄道事業者となる。第三種鉄道事業者とは線路を敷設、保有するだけで、列車の保有、運行は行わない事業者を指す。

 

なぜ、こうした複雑な運行スタイルを取っているのだろう。これには裏がある。

 

かつて七尾線は、津幡駅〜輪島駅間全線が非電化だった。沿線では和倉温泉が人気観光地として集客に熱心で、電化して特急電車を走らせて欲しいという願いが強かった。そこで国鉄を引き継いだJR西日本では、電化する見返りに、和倉温泉駅から先の区間の営業を石川県に引き継いでもらいたい、という条件を出した。そして1991(平成3)年9月1日に津幡駅〜和倉温泉駅間での電化が完了し、さらに、のと鉄道七尾線が生まれたわけである。

 

のと鉄道が生まれるまで、第三セクター鉄道に移管された路線はすべて特定地方交通線の指定を受けた路線で、経営が成り立たず、地方自治体が経営を引き継いだ形だった。

 

ところが、七尾線は特定地方交通線には指定されていない路線だった。特定地方交通線の場合には、国から転換時に交付金等の支援が得られるが、七尾線を受け継ぐにあたり、買い上げよりも借用の方が有利と判断された。こうして、のと鉄道が第二種鉄道事業者になったのである。七尾線は特定地方交通線以外で初の第三セクター路線として生まれたのだった。

 

やや複雑だが、鉄道路線の経営もいろいろな思惑が交錯していたわけである。

 

【のと鉄道の逸話③】七尾駅〜和倉温泉駅はJRの車両も走る

次に七尾線を走る車両を見てみよう。まずは七尾駅〜和倉温泉駅間から。

↑七尾駅〜和倉温泉駅間を走る観光列車「のと里山里海」。同区間のみJR西日本の特急「能登かがり火」などの列車も走る(左上)

 

同区間はJR西日本が第一種鉄道事業者となっていることもあり、JR西日本の車両も走る。とはいえJR西日本の列車は特急のみで、JR西日本の普通列車は入線しない。七尾駅から先を走る普通列車は、のと鉄道の列車だけになる。

 

◆681系・683系 特急「サンダーバード」「能登かがり火」

現在、金沢駅〜和倉温泉駅間を特急「能登かがり火」が4往復、大阪駅〜和倉温泉駅間を特急「サンダーバード」が1往復走っている。使われる車両は681系・683系交直両用特急形電車だ。

 

◆キハ48形 特急「花嫁のれん」

金沢駅〜和倉温泉駅間を走る観光特急列車で、金土日を中心に走る。キハ48形気動車を改造した車両を利用、北陸の和と美が満喫できることを売りにしている。

↑キハ48形を改造した特急「花嫁のれん」。外観は北陸の伝統工芸・輪島塗や加賀友禅をイメージした華やかな造り

 

次にのと鉄道の車両を見ていこう。

 

◆のと鉄道NT200形

のと鉄道の普通列車用気動車NT200形。新潟トランシス製で、2005(平成17)年に7両が造られた。座席はセミクロスシートで、車体の色は能登の海をイメージした明るい青色をベースにしている。車両番号は3月導入の車両がNT201〜204まで、2次車の10月に製造されたNT211〜213と2パターン用意されている。人気アニメのラッピング車両も走る。

↑のと里山里海号を後部に連結して走るNT203。NT204は「花咲くいろは」ラッピング車両として走る(左下)

 

◆のと鉄道NT300形

北陸新幹線が金沢駅へ延伸した2015(平成27)年3月に合わせて導入されたのがNT300形で、観光列車「のと里山里海号」用に2両が製造された。外観は能登の海をイメージした青色「日本海ブルー」で鏡面仕上げされている。内装も凝っていて、沿線の伝統工芸品を車内各所で使用、また七尾寄りの座席は海側に向き、ひな壇状としたこともあり、後ろ側の席でも能登の海が見える造りとなっている。

↑NT300形2両で運転される「のと里山里海号」。日本海ブルーと呼ばれる青い塗装が能登半島の緑にも似合う

 

運行は七尾駅〜穴水駅間で土日祝日(当面の間)を中心に上り2本、下り3本を運行、運賃に加えて500円の乗車整理券が必要となる(一部列車は普通運賃で利用可能な車両も増結)。和倉温泉駅で特急「花嫁のれん」と接続して運転している列車もあり、金沢駅から2社の異なる観光列車に乗車することも可能だ。

 

一部の便では飲食付きプランも用意している。アテンダントの沿線案内もあり、ビュースポットでは徐行運転が行われ、車窓風景が楽しめる。

↑七尾寄りの座席は海側が見える仕様となっている。乗車するとポストカードや鉄道グッズなど乗車記念のプレゼントも(左上)

 

【のと鉄道の逸話④】七尾駅の「のとホーム」から列車が発車

ここからは、のと鉄道七尾線の旅を始めよう。

 

列車は各駅停車の普通列車と、臨時列車扱いの観光列車「のと里山里海号」が走る。普通列車は朝7時〜8時台と夕方19時台が1時間に2本、その他の時間帯は1時間〜1時間半に1本の割合でローカル線としては多めで使いやすい。七尾駅から穴水駅まで所要時間が約40分、運賃は850円となる。

 

ちなみに「つこうてくだしフリーきっぷ」が土日祝日のみ有効で大人1000円で販売されている。販売は穴水駅、能登中島駅、田鶴浜駅、七尾駅(のと鉄道ホーム改札前に係員がいる時間帯のみ)と、車内でも購入できる。「つこうてくだし」とは能登の方言で「使ってください」という意味だそうだ。

 

沿線の観光施設の特別優待券も兼ねているので、お得。ぜひ利用したい。

 

筆者はJR七尾線の列車に乗車し、JR七尾駅に降り立った。七尾駅周辺は駅前に大型ディスカウントストアがあるなど、非常に賑やかだ。七尾は能登半島の中心都市であることが良く分かる。JRの改札口に並ぶように、のと鉄道の改札が設けられていて、その奥にある「のとホーム」に1両編成の穴水行きNT200形普通列車が停車していた。

↑のと鉄道七尾線の起点となる七尾駅。駅の北側にのと鉄道の専用ホームが設けられている(右上)

 

筆者が乗車したのは10時33分発の穴水行き列車NT211、客席が5割ぐらい埋まって発車した。七尾駅を出てすぐにJR線と合流し、単線区間を北へ走る。七尾駅から次の和倉温泉駅間まで5kmほどと、やや離れており、続く直線区間を快適に走る。

 

和倉温泉駅へ到着した。金沢方面から特急列車が到着する時には、おそろいの法被を着た宿のスタッフの〝お迎え〟でホーム上は賑わうが、普通列車となるとお迎えもなく静かだった。

↑和倉温泉駅はJR西日本と、のと鉄道の共用駅。特急「花嫁のれん」と「のと里山里海号」が並ぶのもこの駅のみ(右上)

 

やや寂しさを感じた和倉温泉駅のホームを眺めつつ、のと鉄道の列車のみが走る区間へ入っていく。駅を過ぎて間もなく電化区間が終了して非電化区間へ入った。

 

【のと鉄道の逸話⑤】田鶴浜駅の先で右手に見えてくる海は?

和倉温泉を発車して間もなく左カーブ、列車は西へ向けて走り始める。進行方向右手には水田風景が広がる。そして次の駅、田鶴浜駅(たつるはまえき)へ到着した。このあたりは、まだ七尾市の郊外という印象が強い。この駅を発車すると、国道249号と並走するようになる。

↑大津川が流れ込む大津潟。このあたりはカキの養殖が盛んな地域だ。この大津潟を越えると間もなく笠師保駅(左上)に到着する

 

海と山に包まれた能登らしい風景が車窓から見えるようになる。水田越しに海が見えてくる。こちらは七尾西湾と呼ばれる内海だ。さらに走ると大津川を越える鉄橋を渡る。この左右に見えるのが大津潟と呼ばれる湖沼で、長年かけて埋め立てられていき、潟になったとのこと。弘法の霊泉が流れ込む潟で、今は天然うなぎの漁やカキの養殖も行われている。

 

【のと鉄道の逸話⑥】能登中島駅に停まる青い車両は?

海や入り江の風景を見ながら列車は笠師保駅から先、北へ向けて走る。丘陵を越えて、水田が広がる能登中島駅へ到着した。

↑能登中島駅に保存される鉄道郵便車「オユ10」。のと里山里海号の運転時には車内の見学も可能だ(左上)

 

同駅では上り下り列車の交換をすることが多い。対向列車を待つため、やや停車時間が長くなることもある。例えば穴水駅14時15分発の列車は「のと里山里海号」を連結しているが、能登中島駅で10余分の停車時間を用意している。この駅には駅マルシェ「わんだらぁず」があり、地元産品の販売も行う(臨時休業あり注意)。購入にちょうど良い停車時間だ。

 

駅構内に青い車両が停められていた。この車両は鉄道郵便車のオユ10で、昭和の中期に計72両が製造された。全国の客車列車に連結され、郵便物の配送が行われた。鉄道郵便が終了した1986(昭和61)年に全車が廃車となったが、少しでも誘客に役立てようと、のと鉄道発足時に譲り受けたそうだ。雨風で傷んでいたが、有志の人たちにより整備され、この能登中島駅で保存されている。

 

車内は「のと里山里海号」の停車に合わせて公開されている。中で郵便物を仕分けした様子を再現するために、封書類が棚に置かれていたが、中には良く知られた有名人宛の手紙もあったりして楽しい。車内にはポストもあり、手紙を投函することもできる。

↑能登中島駅(左下)の前後はカーブしていて、駅で行き違った車両が走る姿を乗車した列車から遠望することができる

 

 

【のと鉄道の逸話⑦】能登にはなぜ黒瓦の家が多いのか?

能登中島駅を出るとしばらく山中へ入っていく。そんな山中で、やや視界が開ける箇所があり、眼下に漁港と集落が見える。ここは七尾市の深浦漁港だ。小さな漁港だが、家の前に漁船が係留できるような造りとなっている。ここで気がつくのは、ほとんどの民家が黒い瓦屋根であること。なぜ黒い瓦なのだろう。

↑眼下に見える深浦漁港。港は整備され民家の前に漁船が係留されている。黒い瓦屋根の民家が多い

 

当初、この地方の瓦は赤だったそう。金沢の家の瓦や漆喰に使われることが多いベンガラ色といわれる色だった。ところが明治に入ってマンガンの釉薬を使った瓦が開発された。それが黒だった。黒い瓦は屋根に積もった雪を早く溶かす特長もあり、能登の家に使われることが多くなったそうだ。瓦一つにしても、その土地の気候風土に影響されることが分かりおもしろい。

 

【のと鉄道の逸話⑧】西岸駅にある「ゆのさぎ」という駅名標の謎

深浦漁港を見下ろす山中から平地へ降りて行くと、間もなく西岸駅(にしぎしえき)へ到着する。この駅から穴水駅までが、のと鉄道の車窓のハイライト区間だ。

 

西岸駅で不思議な駅名標を発見した。西岸駅なのに「ゆのさぎ(湯乃鷺)」駅という駅名標が立てられていたのである。さてこの駅名標は何だろう。

↑西岸駅に到着するラッピング車両「花咲くいろは」。ホームには「ゆのさぎ」駅という架空の駅名標が立つ

 

実はこの「ゆのさぎ」駅という駅名標は架空のもの。2011(平成23)年に放送されたアニメ「花咲くいろは」と関係がある。同アニメは西岸駅近くの温泉街の宿を舞台にして描かれた物語で、放送開始まもなく、西岸駅に「ゆのさぎ」という駅名標が立てられた。この駅名標、凝っていて、わざわざ赤錆が浮き出るような造りにされているそうだ。

 

西岸駅の駅舎には〝聖地巡礼(舞台探訪)〟を行うファンの訪問も多いようで、アニメのパネルや、ファン向けのノートが常備されていた。こうした舞台設定に合わせた駅づくりも楽しい。

 

【のと鉄道の逸話⑨】列車からも見える海岸に立つ櫓は何?

西岸駅を過ぎたら、進行方向右手に注目したい。山中を抜けると右手に海景色が広がるようになる。ここは七浦北湾で、列車は高台を走ることもあり、海の景色が堪能できる。

↑西岸駅を発車したら進行右手に注目。眼下に黒瓦の民家、そして国道249号、その先が能登北湾と呼ばれる海が広がる

 

黒瓦の民家と海岸線、さらに能登島が遠望できる。能登島と能登半島との間に架かるのが「ツインブリッジのと」と呼ばれる現代風な釣り橋で、こうした光景が絵になる。

 

観光列車の「のと里山里海号」に乗車すると、この付近では徐行運転が行われ、ゆっくり景色が楽しめる。

↑右前方に見えるのが「ツインブリッジのと」で、線路端にはこうした風景の案内板も立つ。通常列車はスピードを落とさず通過する

 

次の能登鹿島駅(のとかしまえき)は春に訪れたい駅だ。のと鉄道のすべての駅には、愛称が付けられているが、能登鹿島駅は「能登さくら駅」。春は上り下り両ホームの桜が満開となり「桜のトンネル」とも呼ばれている。

 

夜にはライトアップが行われ、また4月上旬には駅前で「さくら祭り」も行われる。筆者も春に訪れたことがあるが、それは見事なものだった。

↑上り下りホームの数十本の桜が満開となった能登鹿島駅。「能登さくら駅」という駅の看板も立つ(左上)。2015年4月15日撮影

 

能登鹿島駅の次は終点の穴水駅。この駅間に、車内から気になる櫓が見える。三角形の櫓が立つのだが、こちらは何だろう。

 

この櫓は「ボラ待ちやぐら(または『ぼら待ちやぐら』)」とよばれる櫓で、櫓の上からボラの群れを見張って、仕掛けた網をたぐる〝原始的な漁法〟とされる。最盛期には穴水町で40基を越える櫓が立ったが、継ぐ人が居なくなり、一時期は途絶えていた。2012(平成24)年から再開され、同地方の秋の風物詩となっている。波穏やかな内海だからできる漁なのだろう。

↑国道249号から見た「ぼら待ちやぐら」。日本最古の漁法とあるように、ボラの群れを見張る櫓で秋のボラ漁に使われている

 

終点の穴水駅の近くまで、気が抜けない〟。ボラ待ちやぐらが立つ海を眺め、さらに志ヶ浦という小さな湾を右手に眺めた後に、最後の山越えの区間に入る。

 

この山の中で2本のトンネルをくぐる。志ヶ浦隧道194mと乙ヶ崎隧道105mの2本だ。2本目のトンネルに注目したい。トンネルイルミネーションが楽しめるのである。なかなか速く通過してしまうので、見逃してしまうのだが、電飾で絵や文字が書かれている。

↑穴水駅側に近い乙ヶ崎隧道ではトンネルイルミネーションが楽しめる。トンネル全体を染める電飾に加えて、多彩な絵が彩られる

 

よく見るとさまざまな絵とともに「ようこそ のとへ」という文字が光っていた。33.1kmという短めの路線ながら、訪れた人を飽きさせない工夫があちこちにある。頑張っている印象が強く感じられるローカル線だった。

 

【のと鉄道の逸話⑩】穴水駅の愛称「まいもんの里駅」とは?

海景色、人々の暮らしぶりなど、この鉄道ならではの工夫を楽しみつつ終点の穴水駅が近づいてくる。進行方向右手に穴水の町が見え始め、穴水駅の1番線ホームに列車は到着した。

 

穴水駅の愛称は「まいもんの里駅」。まいもんとは、能登の方言で美味しいものを指すそうだ。町では「まいもんまつり」が四季それぞれ行われている。春の陣(3月中旬〜4月中旬)は「いさざまつり」、夏の陣(6月中旬〜7月中旬)は「さざえまつり」、秋の陣(10月)は「牛まつり」、冬の陣(1月〜5月)は「カキまつり」といった具合だ。

 

駅に隣接して穴水町物産館「四季彩々」があり、土産や伝統工芸品、鉄道グッズなどが販売されている。お弁当や寿司もあり、寿司はテイクアウトと思えないほど、ネタが新鮮で美味だった。やはり海に面した能登ならではの魅力と言って良いだろう。

↑終点の穴水駅の駅舎。並んで穴水町物産館「四季彩々」があり、能登の土産や、弁当も用意され充実している

 

鉄道好きとしては穴水駅の周辺の様子も気になり、ぶらぶらしてみた。線路が穴水駅構内だけでなく、先に300mほど伸びている。この終端部の車止めから先の線路はすでに外されているが、この先、七尾線の輪島や、能登線の蛸島へ延びていたわけである。

 

この300mの余白区間には保線用の事業用車がおかれている。駅の西側にある側線や、検修庫へ入る車両が、ここで引き返す形で走っていた。

↑穴水駅の先に延びる終端部。ここで気動車が折返して(右上)側線や検修庫に入っていく *県道50号線大町踏切から撮影

 

のと鉄道をじっくり旅する前は、ここまで濃密な路線だとは知らなかった。実際に乗車してみて、旅をして、また帰ってきて調べ直してみると、なんとも楽しい逸話がふんだんな路線だった。

 

帰ってきてまだ間もないが、また乗りに行きたくなる、そんな魅力が詰まった路線だった。

のどかな東京郊外を走る「JR五日市線」の10の秘密

おもしろローカル線の旅92〜〜JR東日本・五日市線(東京都)〜〜

 

東京の郊外を走るJR五日市線(いつかいちせん)。わずか11.1kmと短い路線ながら、路線の歴史、車窓の変化、廃線巡り、レジャーなど多彩な楽しみ方ができる路線だ。そんな路線に潜む10の秘密に迫ってみた。

 

*取材は2020(令和2)1月、12月、2022(令和4)年7月24日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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始まりは砂利鉄道だった!今や活況路線「南武線」10の意外すぎる歴史と謎に迫る

【五日市線の秘密①】五日市鉄道という会社が開業させた路線

五日市線の概要をまずは見ておこう。

路線と距離 JR東日本・五日市線:拝島駅(はいじまえき)〜武蔵五日市駅間11.1km
全線直流電化単線
開業 1925(大正14)年4月21日、五日市鉄道が拝島仮停車場〜五日市駅(現・武蔵五日市駅)間10.62kmが開業、同年5月15日に青梅電気鉄道・拝島駅へ路線を延伸、6月1日に五日市駅を武蔵五日市駅と改称、9月20日、武蔵五日市駅〜武蔵岩井駅間が延伸開業
駅数 7駅(起終点駅を含む)

 

今から97年前に五日市鉄道という鉄道会社により開業した五日市線は、終点の武蔵岩井駅の最寄りに石灰石の採掘場とセメント工場があり、貨物輸送を念頭に路線が敷かれた。開業してわずか1か月半で五日市駅を武蔵五日市駅と改称しているが、これは山陽本線にすでに五日市駅(広島県広島市)があり、同じ駅名の重複を避けたからである。

 

拝島駅〜武蔵五日市駅間の開業で始まった五日市鉄道の歴史だが、1930(昭和5)年7月13日には立川駅まで延伸開業している(詳細後述)。下記は昭和10年前後の五日市鉄道の路線図だが、当時は立川駅〜武蔵岩井駅間の路線だったことが分かる。

↑昭和10年前後に発行された五日市鉄道の路線図。秋川渓谷の景勝地を紹介するパンフとしてつくられたもの。筆者所蔵:禁無断転載

 

五日市鉄道が立川駅まで延伸した当時、東京郊外の鉄道は、私鉄の路線が多かった。立川駅を走る路線の中では、中央本線こそ官営だったが、青梅線は青梅電気鉄道、南武線は南武鉄道の路線だった。五日市鉄道を含めこれらの路線は旅客営業も行っていたが、採掘される石灰石やセメント、砂利などの貨物輸送が非常に多い路線でもあった。

 

日中戦争、太平洋戦争と戦禍が続く中、国は軍需産業の強化に乗り出す。セメント需要も高まっていき、輸送を行う路線の国営化が徐々に進められていった。五日市鉄道を巡る状況も慌ただしく変化していく。まず、1940(昭和15)年10月3日、南武鉄道と合併する。さらに1943(昭和18)年9月には南武鉄道、青梅電気鉄道、奥多摩電気鉄道との合併の仮調印が進められた。さらに1944(昭和19)年4月1日には、買収、国有化されて五日市線となった。

 

これらはほぼ国の指導で進められた。当時の国有化は半ば強制であり、支払いも戦時国債で行われた。戦時国債の現金化は難しく、戦後は超インフレで紙切れ同然となっている。戦時下とはいえ、無謀な形で〝買収〟されたが、戦後にこれらの路線が元の所有者に戻されることはなかった。鉄道会社の経営に関わっていたセメント会社が、大手財閥と関係が深い会社だったからだとされる。こちらはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示だったと今に伝わる。

 

【五日市線の秘密②】電化されたのは昭和30年代と遅かった

国有化された五日市線は、終戦前の1944(昭和19)年10月11日にまず立川駅〜拝島駅間の路線が〝不要不急路線〟に指定され、レールの供出などのため廃線となる。そして1949(昭和24)年6月1日に日本国有鉄道が発足し、国鉄五日市線となった。

↑戦前発行の五日市鉄道の絵葉書。旅客列車を牽き多摩川橋梁を渡るのはドイツ・コッペル社製1号蒸気機関車。筆者所蔵:禁無断転載

 

その後、大きな変化はなかったが、1961(昭和36)年4月17日に直流1500Vでの全線電化を果たす。青梅線(開業時は青梅鉄道)が昭和初期に電化されたのに対して、五日市鉄道は長年、非電化で、蒸気機関車が客車および貨車を牽く形での運行が続いていた。東京都内の路線としては、電化されるのが遅かった。

 

五日市線は長い間、拝島駅〜武蔵岩井駅間の営業が行われていたが、1971(昭和46)年に大久野駅(おおぐのえき)〜武蔵岩井駅間が廃止され、武蔵五日市駅〜大久野駅間の旅客営業は終了、貨物列車のみの運行区間となった。この貨物列車の運行も1982(昭和57)年には終了となり、武蔵五日市駅〜大久野駅間が廃止された。

 

11.1kmと短い路線ながら、歴史の荒波に揉まれた逸話が残る路線なのである。

 

【五日市線の秘密③】意外? 市の名前が付いた駅名が一つもない

現在、五日市線は昭島市、福生市、あきる野市の3つの市をまたいで走る。大概の鉄道路線では一駅ぐらい、地元の市町村名が付いている駅があるものだが、五日市線にはそうした駅名がない。複数の駅がありながら、こうした路線も珍しい。

 

始発駅の拝島は昭島市と福生市の境界上にある駅で、多摩川までは福生市を、多摩川の先であきる野市へ入る。実は前は町名と同じ名の駅があった。それは秋川駅で、以前は秋川市内の駅だった。ところが、隣の五日市町と1995(平成7)年に合併、秋川市の名前が消え、あきる野市となった。

 

一方で、拝島駅で接続する青梅線には市の名前がそのまま付いた駅が多い。福生市にある福生駅、昭島市にある昭島駅、青梅市にある青梅駅といった具合である。

↑拝島駅(右下)北の分岐点。右から八高線、中央が青梅線、一番奥が五日市線となっている。五日市線はこの分岐の先ですぐ単線となる

 

ここからは五日市線11.1kmの旅を始めよう。

 

五日市線の電車は、朝夕は立川駅まで直通運転し、日中は拝島駅〜武蔵五日市駅間を往復する電車が多い。使われる電車は豊田車両センターに配置されるE233系0番台で、6両編成で運転される。ちなみに2022(令和4)年3月12日のダイヤ改正以前は、中央線へ乗り入れる電車があったが、今は消滅している。青梅線には中央線の快速電車が直通運転しているのに対して、五日市線は立川駅または拝島駅での乗り換えが必要となる。

 

拝島駅を発車した電車は、駅の北側で平行して走る青梅線、八高線と分かれ、左に分岐する。線路はすぐに単線となり、住宅街の中を次の熊川駅へ走る。

 

次の熊川駅は左カーブする線路上にあるホーム一つの小さな無人駅だ。ここまでが福生市内の駅となる。駅を過ぎると間もなく前面に多摩川が見えてくる。

 

【五日市線の秘密④】5階建てビルの高さがある多摩川の河岸段丘

多摩川はこのあたりでは河岸段丘の地形を造り流れている。特に熊川駅側は段丘の地形がより良く分かる。五日市線は熊川駅の先から多摩川橋梁まで、築堤を走る。熊川駅の標高は119.6m、河岸段丘の下部は104.5m(国土地理院標高地図により計測)と15mほどの標高差がある。ビルにして約5階分の高低差がある。段丘の上に立ってみると、もっと高いように感じるのだが。

↑多摩川の河岸段丘を築堤で越える五日市線。その高低差は約15mあり線路のすぐそばに階段も設けられている(左下)

 

この巨大な築堤が生まれた逸話がある。実は五日市鉄道は建設当初、熊川駅付近は鉄道と歩行者共用のトンネルを掘り、河岸段丘の下まで通す予定だった。ところが資金難となり、現在の築堤の構造となる。約束を反故にしたこともあり、五日市鉄道は当時の地元・熊川村へ補償金を支払ったそうである。

 

今は立派な築堤が目立つ五日市線。車窓から見る風景も素晴らしく奥多摩などの山々が一望できる。春先は多摩川の堤防の桜並木も美しい。

↑五日市線の多摩川橋梁459.78m。前掲した戦前の絵葉書に比べると河原は草木に覆われている

 

【五日市線の秘密⑤】武蔵引田駅の乗降客が多い理由は?

多摩川を渡りあきる野市へ入る。沿線は工場や民家が次の東秋留駅(ひがしあきるえき)まで続く。この東秋留駅を過ぎると急に郊外の趣が強まり、進行方向右手には、畑地が広がるようになる。この付近は秋留台地と呼ばれる地域で、古くから畑作が盛んだった。

 

名産品としては初夏に収穫されるとうもろこしが良く知られている。あきる野市のとうもろこしは「秋川とうもろこし」と呼ばれ、甘味が強く一つ一つの粒が大きいのが特長だそうだ。東秋留駅から徒歩8分にはこうした地場産品を扱う「秋川ファーマーズセンター」もある。

 

東秋留駅から畑の風景を見ながら進むと、再び民家が多くなり秋川駅へ到着する。この駅は五日市線の中で最も賑やかな駅で、シティホテルなども駅前に建つ。この秋川駅を発車して間もなく、進行方向左右ともに畑地が広がる風景が続く。

 

ホームの前に畑が広がるのが次の武蔵引田駅(むさしひきだえき)だ。駅から農作業を行う様子が見えるのどかな駅だが、乗降客の多さが目立つ。多くが駅の北、徒歩10分ほどにある「イオンモール日の出」の利用者で、近くには大学のキャンパスもある。

↑畑の中にある武蔵引田駅。やや離れるものの南側を秋川が流れ、バーベキュー場もある(左上)

 

南には秋川が流れ、河畔にはバーベキュー場「リバーサイドパーク 一の谷」(徒歩18分)もある。秋川の対岸には「東京サマーランド」もあり、東京郊外を走る路線らしく、沿線にレジャー施設が多い。

 

武蔵引田駅の近くは畑地と五日市線の電車を絡めて撮影するのに最適なところだ。東京都内の鉄道路線で、これほど障害物がなく畑と電車が撮影できる場所は希少といって良いだろう。

↑ネギ畑の先を五日市線が走る。武蔵引田駅付近では、そば、のらぼう菜など多彩な作物が育てられている

 

農業体験が楽しめる畑地など一般の人たちにも畑が開放されているところもある。ちなみに、この武蔵引田駅から武蔵五日市駅にかけては、前述したとうもろこし以外に、「のらぼう菜」というこの地で江戸時代から栽培されてきた野菜も育てられている。胡麻和えやおひたしとして食べられるほか、そばやうどんに混ぜた商品も販売されている。

 

【五日市線の秘密⑥】武蔵五日市駅の手前にある信号場跡は何?

武蔵引田駅から先に進むと、正面に見えていた山が次第に近くに迫ってくる。風景が変わるなか、武蔵増戸駅(むさしますこえき)に到着する。平地が続くのはこの駅までで、ここまでほぼ直線で伸びてきた路線も、武蔵増戸駅から先は、近づく山の形に合わせて、右へ左へカーブしつつ走る。山景色が迫ってくるといつしか、電車は台地の縁部分を走り、眼下に五日市の町と秋川の流れが見えるようになる。

 

終点の武蔵五日市駅が近づき、到着の車内アナウンスが聞こえるころに、左に側線が分岐する地点にさしかかる。この場所が三内(さんない)信号扱所と呼ばれるポイントで、ここから武蔵五日市駅への路線と、武蔵岩井駅へ向かう路線(通称・岩井支線)が分かれていた。

↑かつて三内信号扱所と呼ばれたポイント。今は側線が1本あり、保線用の車両などが止められている。右は現在の武蔵五日市駅行き電車の路線

 

現在、三内信号扱所には側線が残り、保線用の車両が停められている。岩井支線が通っていた時代は、旅客列車は複雑な運転が行われていた。拝島駅を発車した列車は信号場を通過して武蔵五日市駅へ向かい、駅から三内信号扱所へスイッチバックで戻り、ここから大久野駅や武蔵岩井駅へ走った。貨物列車は武蔵五日市駅には立ち寄らず、直接、この信号扱所から大久野駅、武蔵岩井駅へ走っていた。

↑旧三内信号扱所から勾配をあがり、秋川街道の上空を高架橋で渡る電車。終点の武蔵五日市駅はこの橋を渡った先にある

 

武蔵岩井駅方面への分岐があった当時は、地上部を走り、武蔵五日市駅へ入っていた電車だが、1996(平成8)年7月6日に高架化され、同区間にある都道31号線・通称「秋川街道」をまたいで終点の武蔵五日市駅へ到着する。

 

【五日市線の秘密⑦】終点・武蔵五日市駅の高架構造も気になる

背後は山、前面には秋川が流れる武蔵五日市駅へ電車が到着した。拝島駅から所要17〜20分ほどと乗車時間は短い。山と川がすぐ近くにあるものの、高架上にホームがある近代的な造りとなっている。

 

階段を降りると駅の玄関があり、駅前には大きなロータリーが設けられ、秋川渓谷上流の檜原村(ひのはらむら)や、北隣の日の出町方面へ行くバスなどのターミナルとして利用されている。

↑五日市線の終点、武蔵五日市駅の駅舎。駅構内にはコンビニエンスストアや観光案内所などのほか、テラス席付きカフェもある

 

この武蔵五日市駅だが、ちょっと気になる構造をしている。終点の駅なのだが、ホーム端から線路がやや先に延びている。ホーム内に行き止まりの車止めがある構造を専門的には「頭端駅構造」と呼ぶ。この駅は先に路線を延ばすことができる「中間駅構造」として造られている。

 

秋川上流部にある檜原村から線路を延ばして欲しいという要望がかつてあったとされる。その後、延伸計画は具体化していないが、一応、延伸にも対応できる構造にしたようだ。

↑武蔵五日市駅の高架は電車ぎりぎりの駅の長さではなく、先に線路が延びた中間駅構造で造られている

 

【五日市線の秘密⑧】不思議なトレーラーバスと出会う!

五日市線の終点、武蔵五日市駅で興味深い乗物に出会った。SLの形をしたバスが駅のロータリーを発着、秋川街道方面へ走っていったのである。

 

小改造したバスは国内観光地で良く目にするが、ここまで姿を変えたバスも珍しい。このバス、日本で唯一の貨物用のトレーラーを改造して造られた「トレーラーバス」と呼ばれる車両で、武蔵五日市駅と日の出町にある日帰り温泉施設「つるつる温泉」を結ぶ。武蔵五日市駅が高架化された1996(平成8)年に導入されたバスで、愛称は「青春号」。日の出町が西東京バスに運行を委託している路線バスだ。

↑武蔵五日市駅を発車したトレーラーバス青春号。日の出町大久野にある「生涯青春の湯 つるつる温泉」へ約20分かけて走る

 

車内はレトロな造りで凝っている。トレーラー部分の客車には乗務員が乗り、マイクで行先案内が行われる。このバス乗りたさに、日の出町の観光施設をわざわざ訪れる人もいるそうだ。

 

【五日市線の秘密⑨】旧大久野駅へ向かう廃線跡で意外な発見!

トレーラーバス青春号が走る日の出町の秋川街道。ここにはかつて、武蔵五日市駅からも電車が走っていた。せっかく武蔵五日市駅までやってきたこともあり、廃線跡を少し歩いてみようと思った。

 

実は筆者は学生時代にロードレース用の自転車を乗っていたことがあり、トレーニングがてらに、アップダウンが続く秋川街道を好んで走った。当時、坂道の横をこげ茶色の電気機関車と黒い貨車が行き来していた様子を覚えている。そんな路線跡は今、どうなっているのだろう。

 

武蔵五日市駅から秋川街道沿いに歩くことわずかに500m、早くも廃線跡を示す遺構を見つけた。

↑秋川街道沿いに残る五日市線岩井支線の「鉄道柵」と頭が赤く塗られた「境界杭」、右上遠くに五日市線の路線が見える

 

道路と鉄道線路を仕切る古いコンクリート製の「鉄道柵」が200mほど連なっていた。その柵の下には、小さなコンクリート製の「境界杭」と呼ばれる杭が打たれていた。鉄道用地と、道路用地の境界を示す杭だ。頭の部分にわずかに赤い塗装が残っている。今は雑草が生え、新たにフェンスも建ち、柵の内側を見ることができないが、ここを岩井支線の列車が走っていたことが分かる。

↑遊具などが備えられた「語らいとふれあい公園」が旧大久野駅の跡地だ

 

秋川街道をさらに北上していく。老人介護施設や太平洋マテリアルの工場が街道筋にあり、途中、あきる野市から日の出町へ入る。日の出町の最初の集落が「大久野(おおぐの)」だ。この西側に岩井支線の大久野駅があったはずで、地図を見つつ進むと「語らいとふれあい公園」という名前の公園があり、幼児向けの遊具とともに、屋根付きのゲートボール場があった。

 

公園の看板を確認したが、ここが旧大久野駅であることを示す案内はなかった。40年前に廃駅となり、旅客駅だったのはすでに半世紀以上前のことであり、住む人の多くが駅があった当時を知らない世代にかわっていると思われる。廃駅のすぐ裏手には「たばこ」の古めかしい看板が残る廃屋や、レトロな建物の美容院もあり、このあたりが駅前であったことが確認できた。

 

旧駅跡の北側にはかつて線路が敷かれていた細い未舗装の道が、平井川という小さな川沿いに伸びていた。この先は私有地で無断立入禁止の立て札があり、先に進むのを諦めた。平井川の上流には太平洋セメントの日の出工場があり、武蔵岩井駅跡は現在、工場の駐車場として利用されている。

 

廃線跡を歩くと寂寥感におそわれる。特にこの岩井支線は山間部の路線のせいか、徐々にその跡が森に包まれて消えていくように感じられた。

↑旧大久野駅の北側から太平洋セメント工場内の武蔵岩井駅へと線路が延びていた。入口には「無断立入禁止」の立て札が建つ(左上)

 

【五日市線の秘密⑩】五日市鉄道が走った拝島〜立川間の路線跡

五日市線には岩井支線と同じように廃線となった区間がある。それは拝島駅〜立川駅間の路線である。

 

こちらは岩井支線よりも前、今から78年前の戦時中に姿を消している。下記の地図を見ていただくと分かるように、拝島駅〜立川駅間は青梅線の路線がすでにあり、南を迂回するようにして走っていた。戦時下の当時は、とにかく鉄資源が不足していて、不用と判断された鉄道路線は〝不要不急線〟とされ次々に廃止されていった。五日市線のこの区間は青梅線もあり、不用と判断されたのだった。直ちに線路は剥がされ軍事物資の生産へ転用されていった。

↑拝島駅〜立川駅間の廃線地図。途中駅から多摩川の砂利採取用の貨物支線も延びていた

 

↑拝島駅近くの旧五日市線が走っていた線路跡は「五鉄通り」として整備されている。五日市鉄道がここを走っていた案内板も立つ

 

この旧五日市線の廃線跡をたどると、そこに鉄道が走っていたことがあちこちで確認できる。例えば、拝島駅から徒歩3分ほど。「江戸街道」を渡った先から「五鉄通り」と呼ぶ遊歩道が延びている。五鉄とは、五日市鉄道の略称で、廃線跡にこうした通り名がつけられていた。さらに「五日市鉄道の線路跡」という案内板も道路の入り口に立てられている。

 

この地に鉄道の路線があったことを伝える車止めや転てつ機、さらに旧大神駅には鉄道関係の機器を使ったモニュメントが設けられている。また、この路線を造った五日市鉄道のDNAを受け継ぐ会社が実は今も存在している。この地に多くのバス路線を持つ立川バスこそ、五日市鉄道の歴史を受け継ぐバス会社なのである。今は小田急グループの一員となっているものの、五日市鉄道が走った当時よりも、そのバス路線は拡大され、地元の大切な足となっている。

↑旧大神駅には貨車の台車や信号機などのモニュメントが設けられている。近くを立川バスも走る(左上)

 

40年前に消えた岩井支線は廃線をたどってみても、駅や廃線跡に鉄道が走ったことを示す証がほぼなかった。一方で、拝島駅〜立川駅間の廃線跡は、通り名やモニュメントに、かつて鉄道が走っていたことを示す証が多く残されていた。この差は何なのだろう。戦時中、日常的に使っていた鉄道が半ば強制的に廃止された。しかし当時は国の政策に文句を言うことができなかった。だが、沿線には廃線を惜しむ人がそれだけ多くいたということを示しているのかも知れない。実際に旧沿線には住宅が建ち並び、もしこの路線が残っていたら今も利用する人が多かったことが予測できる。

 

とはいえ、元五日市鉄道の伝統を受け継ぐ、立川バスの路線網がこのエリアに広がっている。路線が残っていれば良かったのか、また廃止されて良かったのかは判断がつかないが、なかなか興味深い歴史の移り変わりである。

 

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田んぼ&歴史+景勝地「秋田内陸縦貫鉄道」の魅力にとことん迫る

おもしろローカル線の旅91〜〜秋田内陸縦貫鉄道(秋田県)〜〜

 

秋田県の内陸を南北に縦断する「秋田内陸縦貫鉄道」。車窓からは秋田らしいのどかな田園風景と田んぼアート、美林、景勝地が楽しめて飽きさせない。94kmの路線距離を2時間〜2時間半ほどで、乗り甲斐たっぷりの路線だ。そんな秋田内陸縦貫鉄道の魅力に迫ってみたい。

 

※取材は2014(平成26)9月、2016(平成28)年9月、2022(令和4)年7月30日に行いました。一部写真は現在と異なっています。
8月15日現在、豪雨災害の影響で鷹巣駅〜阿仁合駅間が不通となっています。運行状況をご確認のうえ、お訪ねください。

 

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【内陸線の旅①】国鉄阿仁合線として始まった路線の歴史

東北地方の中央部を南北に貫く奥羽山脈、その西側を秋田内陸縦貫鉄道が走る。その概要を見ておこう。

 

路線と距離 秋田内陸縦貫鉄道・秋田内陸線:鷹巣駅〜角館駅間94.2km
全線非電化単線
開業 1934(昭和9)年12月10日、阿仁合線(あにあいせん)鷹ノ巣駅〜米内沢駅(よないざわえき)間が開業、1989(平成元)年4月1日、比立内駅(ひたちないえき)〜松葉駅間が延伸開業し、秋田内陸線が全通
駅数 29駅(起終点駅を含む)

 

今から88年前に鷹ノ巣(現・鷹巣)駅から米内沢駅まで開業した阿仁合線は、その後に延伸されていき、1936(昭和11)年9月25日に阿仁合駅(あにあいえき)まで開業する。太平洋戦争の後に、再び延伸工事が続けられ1963(昭和38)年10月15日には比立内駅まで路線が延びた。

 

一方の角館駅側の路線の歴史は浅く、国鉄角館線として1970(昭和45)年11月1日に角館駅〜松葉駅間が開通した。

↑阿仁合駅前に建つ「内陸線資料館」。秋田内陸線の歴史紹介だけでなく、阿仁鉱山や林業に関しても紹介する。入館無料

 

阿仁合線は沿線で産出された木材の運搬と、旧阿仁町内(現・北秋田市)にあった日本の代表的な銅山・阿仁鉱山からの鉱石輸送を行うために路線が建設された。しかし、比立内駅まで延伸された時代には、すでに鉱山の操業も、林業も衰退しつつあり、貨物営業は1980年代初頭で廃止されてしまう。後から造られた角館線も、当初から旅客営業のみの路線だったこともあり、角館線は1981(昭和56)年に、阿仁合線は1984(昭和59)年と次々に路線の廃止承認された。

 

すでに日本鉄道建設公団では、比立内駅〜松葉駅間の鷹角線(ようかくせん)の建設を進めており、廃止承認された阿仁合線と、角館線と、未成線だった鷹角線を引き継いだのが第三セクター経営の秋田内陸縦貫鉄道だった。1986(昭和61)年に阿仁合線と、角館線を暫定的に開業、1989(平成元)年4月1日に完成した鷹角線を結んだ秋田内陸線(以降「内陸線」と略)の営業が始められたのだった。

 

【内陸線の旅②】車両はすべて色違い!特別車両も用意される

秋田内陸縦貫鉄道は3タイプ、計11両の気動車が使われる。みな色違いということもありバラエティに富んで見える。車両形式をここで見ておこう。

↑秋田内陸線のAN-8800形は現在9両が在籍。そのうち6両をならべてみた。写真のようにみな車体の色が異なる

 

◆AN-8800形

↑AN-8808の愛称は「秋田マタギ号」。内装などかなり凝った造りになっている。訪れたこの日も急行「もりよし号」として走る

 

1988(昭和63)年、秋田内陸縦貫鉄道の全線開業時に9両導入されたのがAN-8800形で、新潟鐵工所が開発したローカル線用の軽快気動車NDCシリーズの車両が採用された。他社の軽快気動車とほぼ同様ながら、寒冷地向けに乗降扉が引き戸式とされている。

 

導入された当時は白地にエンジ色の帯という塗装だったが、その後に全車両が異なる塗装に変更された。車内はヒマワリのイラストや、かわいい秋田犬の写真がラッピングされた内装で、楽しめるように工夫されている。またAN-8808のみは「秋田マタギ号」としてレトロな木の内装に変更され、有料急行列車の「もりよし号」に使われることが多い。

 

◆AN-8900形

↑AN-8900形はAN-8905の1両のみ残り「笑EMI」として走る。側面の窓が大きいのが特長となっている

 

秋田内陸線の全通にあわせて設けられた急行列車用に用意された車両で、5両が新潟鐵工所で造られた。そのうち4両は前面が非貫通の造りで、一時期は奥羽本線に乗り入れる臨時列車にも使われた。非貫通の車両は、片側にしか運転席がなく、2両での運行が必要だったために、非効率ということもあり、4両すべてが廃車に。AN-8905のみ両運転台だっため、その後も活かされ、2020(令和2)年に2月にリニューアルされ、愛称も「笑EMI(えみ)」に。主に急行列車用車両として使われている。

 

◆AN-2000形

↑前面に展望席があるAN-2000形。「秋田縄文号」のヘッドマークも付く。側面の窓も広く眺望に優れている

 

1両のみ2000(平成12)年に導入された非貫通タイプの車両で、当初は団体専用車として使われた。2021(令和3)年12月には「秋田縄文号」に改造され、主に急行列車の増結用に利用されている。

 

秋田内陸線の沿線には縄文遺跡、伊勢堂岱(いせどうたい)がある。遺跡をイメージした縄文土器や土偶などのイラストが室内を飾る。先頭部の展望席からは前面展望が、また側面の窓も大きく風景を楽しむのに最適な造りとなっている。

 

なお、特別仕様の車両は運行日が決められている。それぞれの運行は次のとおりだ。

 

AN-8808「秋田マタギ号」:第1・2・4・5土曜日

AN-8905「笑EMI」:第1・2・4・5日曜日

AN-2000「秋田縄文号」(普通車両と2両編成):第3土・日曜日に運行されている。

*検査などで変更されることがあり注意。
↑秋田犬の模様付きのクロスシートを使った車両も(左上)。小さなテーブルには、イラストの路線図がつけられ便利だ

 

【内陸線の旅③】旧町名を残す起点の鷹巣駅

内陸線の旅をする時、首都圏や仙台方面から便利な角館駅から乗車する人が多いかと思う。だが、本稿では路線の起点でもある鷹巣駅から旅を楽しみたい。鷹巣側のほうが路線の歴史も古く、エピソードも事欠かない。

 

起点の鷹巣駅は、JR奥羽本線の鷹ノ巣駅と接続している。JR東日本と内陸線の駅舎は別々になっているが、ホームはつながっていて、駅舎を出なくとも、内陸線の列車に乗車することができる。

 

余談ながらJR奥羽本線の鷹ノ巣駅の1番ホームにはレンガ建築の「ランプ小屋」がある。明治32年築と建物に「建物財産標」のプレートが付けられてあり、同駅が1900(明治33)年に開業していることから開業前に建ったようだ。ランプ小屋は、当時の客車の照明用ランプに、補充する灯油を保管していた。歴史ある鉄道遺産が今も残されていたのである。そんな駅舎を出て、右手に回ると、内陸線の鷹巣駅舎がある。

↑JR奥羽本線の鷹ノ巣駅の駅舎。この駅舎裏に明治期建築のランプ小屋(右上)が残る。ランプ小屋が残る駅は非常に希少だ

 

JR東日本の駅は鷹ノ巣駅、内陸線の駅は鷹巣駅となっている。なぜ駅の表記が異なるのだろうか。

 

国鉄阿仁合線と呼ばれていたころは、国鉄の同一駅だったので鷹ノ巣駅という表記だった。当時、駅があったのは鷹巣町(たかのすまち)で、1989(平成元)年4月1日の秋田内陸縦貫鉄道の全線開通に合わせて、同線の駅は町名に合わせて鷹巣駅と改称された。後の2005(平成17)年に鷹巣町は北秋田市となった。そのため鷹巣の名前は、旧鷹巣町を示す地元の大字名と駅名に残るのみになっている。

 

北秋田市は4つの町が合併したこともあり、その面積は広く、内陸線の路線も、鷹巣駅から18駅先の阿仁マタギ駅まで北秋田市に含まれる。その南側は仙北市(せんぼくし)となる。29の駅が北秋田市と仙北市の2つの市内に、すべてあるというのもおもしろい。

↑ロッジ風の駅舎の秋田内陸縦貫鉄道の鷹巣駅。この日、駅に入線してきた車両はAN-8801だった(右上)

 

JR東日本の秋田方面行き1番線ホームの西側に内陸線のホームがある。ホームに停車していたのはAN-8801黄色の車両だった。「秋田内陸ワンデーパス全線タイプ(有料急行も乗車可能)」2500円を購入したかったのだが、朝6時59分発の始発列車に乗車しようとしたこともあり、鷹巣駅の窓口は閉まっていた(窓口は7時20分から営業開始)。なお、車内ではこのワンデーパスは発売していない。

 

週末、しかも朝一番の列車ということで乗客も6人ほどと少なめだった。ディーゼル音を響かせつつ、鷹巣駅を発車する。しばらくは奥羽本線と平行して走り、間もなく左カーブを描く。広々した田園風景に包まれるように走り、西鷹巣駅を過ぎたら大きな川を渡る。こちらは米代川(よねしろがわ)だ。

 

【内陸線の旅④】早速、名物「田んぼアート」が乗客を歓迎!

川を越えて間もなく、テープの車内アナウンスではなく、運転士によるアナウンスがある。何かと思って耳を傾けると、次の縄文小ヶ田駅(じょうもんおがたえき)で、「田んぼアート」が楽しめることを伝えるものだった。

 

田んぼアートとは、田んぼをキャンバス代わりに色の異なる稲を植え、巨大な絵や文字を作るアートで、全国で行われているが、特に北東北各県で盛んだ。

 

多くが道の駅や観光施設などに隣接した田んぼで披露される。内陸線では鉄道車両からこの田んぼアートが楽しめる。しかも5か所で。こうした試みは珍しい。内陸線では沿線の有志が協力し、列車の乗車率を高めようと田んぼアートで協力しているわけである。

↑この夏の内陸線の4か所の田んぼアートを紹介したい。鷹巣駅から2つめの縄文小ヶ田駅の田んぼアートは左上のもの

 

縄文小ヶ田駅から見えたのは「秋田犬といせどうくんと笑う岩偶」と名付けられた作品だ。内陸線沿線は秋田犬の故郷らしく、秋田犬が登場するアートが多かった。

 

ちなみにいせどうくんとは、縄文小ヶ田駅近くの伊勢堂岱遺跡から出た土偶をモチーフにしたキャラクター。岩偶(がんぐう)は縄文時代後期の石製の人形のことだ。田に描かれたどの作品も、植えられた色違いの稲が作り出したとは思えないほど、見事なものだった。内陸線の田んぼアートは6月上旬から9月上旬まで楽しむことができる。

 

【内陸線の旅⑤】路線そばに縄文遺跡さらに防風雪林にも注目!

縄文小ヶ田駅付近から少しずつ上り始めるが、このあたりは米代川の河岸段丘の地形にあたる。駅を過ぎるとすぐに木々が生い茂った森林の中へ列車は入っていく。

 

このあたり、古い歴史を持つエリアだ。路線の進行左手すぐのところに田んぼアートでもテーマになった伊勢堂岱遺跡がある。内陸線(当時は阿仁合線)の新設工事でも縄文時代の土器などが出土したそうだ。ここは縄文時代の葬祭場だったと推測される遺跡で、国内でも珍しいそうだ。

 

次の大野台駅まで秋田杉やブナの林が続く。こちらも古い歴史を持つ森林だ。この付近は秋田藩の御留山(おとめやま)と呼ばれる場所で、秋田杉を計画生産していた地域だった。藩の重要な財源でもあった秋田杉は大事に育てられ、御留山ではみだりに伐採できないとされた。そうした藩政時代の歴史が残る森林なのである。

 

大野台駅もホームが森林に面している。背の高い秋田杉を中心にした森林で、前述したエリアと同じように古い時代に防風雪林として植えられたもののようだ。

↑大野台駅の周辺は写真のように木々が生い茂る一帯が続く。この付近には秋田藩の藩政時代に植えられた秋田杉やブナ林が残る

 

そんな樹林帯が大野台駅から合川駅(あいかわえき)付近まで続く。合川駅から先、上杉駅、米内沢駅と列車の進行方向左手に森林、路線に平行して集落とケヤキ並木、阿仁街道(現在の県道3号線)が続く。そして右手に田園が続く。

 

調べると、この地域の北側に大野台台地があり、台地の南縁に総延長4〜5kmにわたる防風雪林が設けられていた。街道筋に連なる集落は「並木集落保存地区」、田園は「農地保存地区」として保存地区とすることが市により検討されていることも分かった。要は古くに植えられた防風雪林により、長い間、集落と街道、農地が守られてきた一帯だったのである。

 

並木集落保存地区の南端にあたる米内沢駅は、阿仁合線が誕生した最初の終端駅で、この駅から路線が徐々に延ばされていった。

↑旧阿仁合線は最初に鷹ノ巣駅から米内沢駅まで線路が敷かれた。今は使われていない屋根付きホームがぽつんと残る(右上)

 

【内陸線の旅⑥】鉄道&歴史好きならば阿仁合駅での下車は必須

米内沢駅を過ぎると、左右の山が急にせまり始める。狭隘な土地を阿仁川(あにがわ)が蛇行して流れ、狭い土地に田が広がる。そんな一帯を、路線は川に沿って走り続ける。米内沢駅までは駅と駅の間があまり離れていなかったが、以降の桂瀬駅、阿仁前田温泉駅は駅間が5km以上あり、それだけ沿線に民家が少なくなったことがわかる。前田南駅、小渕駅とさらに阿仁川が迫って走るようになり、ややスピードを落としつつ列車は上り坂を進んでいく。

 

そして内陸線の中心駅でもある阿仁合駅へ到着する。鷹巣発の列車は阿仁合止まりが多い。急行列車や夕方以降の列車を除き、この駅で10分程度の〝小休止〟を取る列車や、燃料の給油のため、車両交換になる列車も目立つ。逆に角館発の上り列車は、この〝小休止〟の時間が短いので注意が必要だ。

 

この阿仁合駅には前述した内陸線資料館や車庫がある。さらに「鉄印」もこの駅で扱っている。売店や休憩スペース、レストランなどもあるので、小休止にぴったりの駅である。ちなみに、筆者は途中の大野台駅で下車、次の列車に乗車して9時10分、阿仁合駅に到着した。9時15分発の急行列車に乗り継げたのだが、同駅でぶらぶらしたいこともあり、その後の列車を待つことにした。

↑三角屋根の阿仁合駅駅舎。1階にはトレインビューカウンターや洋食レストラン、お土産売り場などが設けられ、小休止にも最適

 

とは言っても次は11時30分発と、2時間以上の時間をつぶすことが必要となる。駅周辺をぶらつくものの、時間が余ってしまう。そこで駅舎内2階にある「北秋田森吉山ウェルカムステーション」へ。そこには駅ホームと車庫が見渡せる休憩スペースがあった。

 

この休憩スペースからは車庫で入れ替えを行う車両が一望できて飽きない。

↑阿仁合駅の2階の休憩室から望む内陸線の車庫。次の列車の準備のため、間断なく車両の出入りが行われていた

 

歴史好きには、町歩きもお勧めだ。阿仁合の駅周辺は市が「鉱山街保存地区」の指定を検討しているエリア。駅から徒歩5分のところには1879(明治12)年築の煉瓦造り平屋建ての「阿仁異人館・伝承館」がある。阿仁鉱山の近代化のために来山した鉱山技師メツゲルの居宅として建築された建物で、県と国の重要文化財に指定されている。筆者も本稿を書くために調べていて、この情報に触れたのだが、次回は訪れてみたいと思う。開館時間は9時〜17時までで入館料400円、毎週月曜日休館(祝祭日の場合は翌日休)となる。

 

阿仁合駅に降りてたっぷりの休憩時間を過ごし、11時30分発の列車に乗車する。とはいっても、次は2つ先の萱草駅(かやくさえき)で降りる予定。路線に平行して走るバス便もほぼなく移動に苦労する。

 

【内陸線の旅⑦】萱草駅近くの名物鉄橋の撮影はスリル満点!

阿仁合駅を発車し、荒瀬駅、萱草駅とホーム一つの小さな駅が続く。萱草駅で下車すると、徒歩12分ほどのところに景勝地、大又川橋梁がある。駅に掲げられた貼り紙やポスターには日本語以外の橋のガイドもあり、訪日外国人も、多く訪れていたことがわかる。猛暑となったこの日はさすがに降りる人がいなかった。

 

内陸線を代表する風景として阿仁川に架かる大又川橋梁の写真がPRに使われることが多い。多くが平行して架かる国道105号の萱草大橋の歩道から撮影したものだ。筆者も川の流れが見える定番の位置を目指したのだが、国道に平行して架かる電線が垂れ下ってきていて断念。やや駅側の位置で列車を待つ。

↑大又川橋梁156mを渡るAN-8808「秋田またぎ号」。列車も同橋梁を渡る時はスピードを落としてゆっくりと渡る

 

大又川橋梁と同じように国道の萱草大橋は川底からかなり高い位置に架かる。手すりなどもしっかりしているものの、見下ろすとスリル満点。極度の高所恐怖症の筆者は、1本の列車を撮影しただけで腰が引けてしまい、早々と引き上げるのだった。ちなみに国道の萱草大橋の下に旧道の橋が架かるのだが、そちらへ向かう道は閉鎖となっていた。下から見上げるアングルならば、高所恐怖症を感じることなく、撮影できただろうにと思うと残念である。

 

【内陸線の旅⑧】笑内の読みは「おかしない」。その語源は?

萱草駅でまた2時間ほど次の列車を待つ。内陸線は朝夕がおよそ1時間に1本の列車本数だが、日中は次の列車が1時間半から2時間、空いてしまう時間帯が多く途中下車がつらい。もし途中下車する場合には、綿密なスケジュールをたててからの行動をおすすめしたい。さて萱草駅の次は笑内駅だ。笑内と書いて、「おかしない」と読む。

 

アイヌ語の「オ・カシ・ナイ」が語源とされ、意味は「川下に小屋のある川」という意味だそうだ。この駅の近くに流れる阿仁川にちなんだ言葉だったわけだ。オ・カシ・ナイにどうして「笑」と「内」をあてたのか、昔の人が当て字を考えたのだろうがなかなかのセンスと思う。

↑笑内駅(左上)のすぐ目の前には「ひまわり迷路」が設けられている。「どこでもドア」風にピンクの出入り口があった

 

ちなみに笑内駅には8月中旬までの限定で「ひまわり迷路」が設けられている。今年、楽しめるのはあとわずかな期間だが、お好きな方はチャレンジしてみてはいかがだろう。

 

【内陸線の旅⑨】比立内駅の近くには転車台の跡があった

筆者は行程の最後の下車駅に比立内駅を選んだ。この駅は阿仁合線だった当時、終点だった駅で何か残っているのでは、と思ったからである。比立内駅ができたのは1963(昭和38)年10月15日のこと。当時はSLで列車牽引が行われていた。阿仁合線ではC11形蒸気機関車が走っていて、タンク機関車のため帰りはバックのままの運転も可能だったが、距離が鷹ノ巣駅まで46kmあったため、この駅に転車台が設けられた。

↑比立内駅の近くに設けられた転車台の跡地。左手奥の道の先に比立内駅がある。右下は比立内駅の駅舎

 

その転車台の跡が比立内駅の近くに残されていた。転車台そのものは残って無いが、跡地は空き地となり全面アスファルト舗装されていた。何も使われていない、ただの空き地だが、SLの運転のためにこうして敷地を用意して機械を導入して、と大変だったことが分かる。

 

阿仁合線のSLは1974(昭和49)年3月に運転が終了している。わずか10年しか使われずに転車台は不用になったわけで、何とももったいない話である。転車台跡を見た後は、多少の時間があったので、近くの「道の駅あに・マタギの里」で小休止、上り列車を撮影して駅へ戻る。

 

道の駅の名前になっているように、北秋田のこの付近は「マタギの里」である。マタギとは、伝統的な方法を使い集団で狩猟を行う人たちを指す。現在、猟を行う人たちは減っているものの、この北秋田の阿仁地方では、マタギ文化が今も伝承され、また地域おこしとして活かす取り組みが行われている。

↑「道の駅あに・マタギの里」近く、ヒメジョオンが咲く畑を横に見ながら上り列車が走る

 

【内陸線の旅⑩】トンネルを抜けると快適にスピードアップ

比立内駅から先の旅を続けよう。乗車したのは急行「もりよし3号」で車両は「秋田マタギ号」だった。急行列車にはアテンダントが同乗していて、沿線の案内が行われる。比立内駅から先は新しく造られた路線区間ということもあり、直線路が続き、また道路との立体交差か所も多い。直線区間にはロングレールが敷かれていて、列車も快適に走る。とはいえ、奥阿仁駅、阿仁マタギ駅と走っていくにつれ、上り坂となり列車のスピードも落ちる。

 

阿仁マタギ駅を発車して阿仁川を渡るとすぐに、同路線で最長のトンネルに入る。十二段トンネルと名付けられた5697mのトンネルで、途中までは勾配区間で、そこまで列車は重厚なエンジン音を響かせながら走っていく。

↑十二段トンネルを抜け、次のトンネルへ。この区間は直線区間でロングレールが使われていることもあり快適に走る

 

トンネル内のピークを越えると列車はスピードを上げて走る。直線路で、レールも継ぎ目が無いためにスムーズだ。トンネル内で、仙北市へ入る。仙北市内最初の駅は戸沢駅だが、急行列車は同駅を通過、次に上桧木内駅(かみひのきないえき)に停車する。このあたりの駅はホーム一つの小さな駅が多い。

 

戸沢駅から先は、渓流の桧木内川が路線と平行して流れるが、新しく造られた路線ということもあり、蛇行する川には複数の鉄橋が架けられ、スピードを落とさずに走っていく。車窓から渓流釣りを楽しむ人たちを眺めつつ、松葉駅(まつばえき)に到着した。

↑角館駅へ向かう急行列車。この先で、秋田新幹線(田沢湖線)の線路に合流する。左上は角館線の終点駅だった松葉駅

 

松葉駅は角館線の終点として1970(昭和45)年11月1日に誕生した。駅周辺には田園風景が広がり、ホーム一面で、短い側線があるぐらいの駅だ。田沢湖西岸まで最短で10km弱とそう遠くないが、今は公共交通機関がない。

 

【内陸線の旅⑪】秋田新幹線の線路が近づき並走、終点の角館へ

松葉駅付近でも桧木内川が流れるが、徐々に平野部が広がりを見せていく。

 

羽後長戸呂駅(うごながとろえき)〜八津駅間はこの路線の最後のトンネルと橋が連続する区間だが、ここを越えると田園風景が広がる区間に入る、民家が多く建ち並ぶ西明寺駅に停車したのち、羽後太田駅を通り過ぎれば、間もなく左手から1本の線路が近づいてくる。秋田新幹線(田沢湖線)の線路で、しばらく並走の後、終点の角館駅へ到着する。

↑角館駅を発車した普通列車の上り「秋田マタギ号」。この先、しばらく秋田新幹線の線路と並走して走る

 

仙北市角館は小京都とも呼ばれる町並みが残るところ。内陸線の駅もレトロな趣で造られている。JR東日本の駅舎とは別棟になるが、目の前に隣接しているので、乗換えに支障は無い。

 

時間に余裕がある時には、駅から1.5kmほどの武家屋敷通りを訪ねてみたい。徒歩で約20分の道のりながら、現在は、角館オンデマンド交通「よぶのる角館」(8時30分〜17時30分まで利用可能/運賃は300円)と呼ばれる交通サービスがある。

 

内陸線は列車本数が少ないだけに、どこで時間を過ごすか、事前に決めて乗ることをお勧めしたい。鉄道好きならば阿仁合駅へ。歴史好きの方は縄文遺跡の伊勢堂岱遺跡、もしくは角館の武家屋敷通りを訪れてみてはいかが。のんびり旅にぴったりの内陸線の旅となるだろう。

↑秋田内陸縦貫鉄道の角館駅。秋田内陸線の列車は専用の行きどまりホームに止まる(右下)。JR角館駅は、写真の右側に設けられている

甲子園球場100周年を記念して世代を超えた野球マンガのラッピング列車が登場! あなたはどのくらいわかる?

2024年12月に100周年を迎える阪神甲子園球場。それを記念して、運営する阪神電気鉄道が「100周年記念事業」を開始した。「KOSHIEN CLASSIC ~感謝を、伝統を、次の100年へ~」をコンセプトにキービジュアルとなったのが、甲子園にゆかりのある野球マンガ9作品だ。

 

すでに野球ファンやマンガファン、そして鉄道ファンに話題となっているのが「阪神甲子園球場100周年記念ラッピングトレイン」。各作品のキャラクターを描いた列車が、8月1日から運行を開始した。

 

 

100周年を幅広い世代のファンと共有していこうと、各年代で愛された作品の主人公たちを通じて、思い出の中にある甲子園を呼び起こしてもらいたいという思いから、「記憶のどこかに、その聖地はある。」というフレーズも書かれている。

 

気になる作品は、「ドカベン」(水島新司)、「巨人の星」(梶原一騎、川崎のぼる)、「タッチ」「H2」「MIX」(あだち充)、「ダイヤのA」「ダイヤのA actII」(寺嶋裕二)、「プレイボール」(ちばあきお)、「ROOKIES」(森田まさのり)の全9作品。車内も、マンガコラボ企画をポスターにした特別なギャラリー仕様となっている。

 

 

1編成(6両・8000系車両)だけの特別仕様で、ダイヤは非公開。運行区間は阪神本線(大阪梅田~元町)、神戸高速線(元町~西代)と相互直通運転により山陽電鉄線(西代~山陽姫路)でも運行する予定で、期間は100周年となる2024年12月頃まで。

 

目にするだけでもラッキーだが、いざ乗車するとなるとどの車両に乗るか迷ってしまいそうだ。あなたならどの車両を選ぶ?

いったいどうなる…!? 赤字「ローカル線」の廃止問題に迫る

〜〜JR各社の輸送密度ワースト5路線をリストアップ〜〜

 

新橋〜横浜の間に鉄道が通じて今年でちょうど150周年を迎えた。記念行事もいろいろと企画されている。そんな記念の年に、鉄道の将来をゆるがすような問題が浮かんできた。

 

JR各社の赤字路線を今後どうしたら良いのか、国土交通省で有識者による検討会が開かれ、さまざまな提言が行われた。赤字路線の廃止をよりスムーズにする今回の提言内容は、コロナ禍で急激な利用者減少に悩む鉄道各社にとって一助となる可能性がある。

 

その一方で、公共財でもある鉄道路線を簡単に廃止してしまっていいの、という声も根強い。JR東日本から初めて赤字路線の報告も出された。各社どの路線が赤字なのか、どのように問題を捉えたら良いのかも含めて考えてみたい。

 

【はじめに】国土交通省の有識者会議が問題を提起

今年の2月から国土交通省で「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」が開かれた。そして7月25日にいくつかの〝提言〟がまとめられた。「今後の方向性」として挙げられたポイントを見てみよう。

 

まず前提として、「JR各社は、大臣指針を遵守し、『国鉄改革の実施後の輸送需要の動向その他の新たな事情の変化を踏まえて現に営業する路線の適切な維持に努める』ことが前提」であるとしている。

 

一方で、ここ数年の利用者減少に対しては「危機的状況にある線区については、鉄道事業者と沿線自治体は相互に協働して、地域住民の移動手段の確保や観光振興等の観点から、鉄道の地域における役割や公共政策的意義を再認識した上で、必要な対策に取り組むことが急務」とする。

 

また「守るものは鉄道そのものではなく、地域の足であるとの認識のもと、廃止ありき、存続ありきという前提を置かずに協議」と、〝廃止ありき〟の提言ではないとしている。とはいうものの廃止に向けての道筋が示された形だ。

↑廃止が予定されている根室本線の富良野駅〜新得駅間。災害で一部区間が不通となりその後に廃線という例が増えている

 

今後の具体的な策としては

 

・国は、より厳しい状況にあり、広域的調整が必要な線区については、鉄道事業者・沿線自治体間の協議が円滑に進むよう、新たな協議の場を設置

・鉄道を維持する場合は、運賃・経費の適正化を行いつつ、必要な投資を行って鉄道の徹底的な活用と競争力の回復に努め、BRTやバスへ転換する場合には、鉄道と同等又はそれ以上の利便性と持続可能性を確保するなど、人口減少時代に相応しい、コンパクトでしなやかな地域公共交通に再構築

・関係者間の合意に基づき、JR各社はその実現に最大限協力。自治体も必要な関与を強め、国も頑張る地域を支援

 

とある。あくまで有識者による提言ということもあり、実効性はなく、具体的な道筋を示したものではない。とはいえ、これまでよりも一歩踏み込んでいる。鉄道はここまで追い込まれ、待ったなしの状況なのだということを示し、進みにくかった鉄道会社と路線が通る自治体との話し合いの場を国が設け、「特定線区再構築協議会(仮称)」を設置する。この協議開始から3年以内に結論を出したいとしている。

↑東日本大震災の後に路線復旧をあきらめBRT路線となった気仙沼線。BRT化される路線は今後増えていくのだろうか

 

この提言では、代替策であるBRT(バス・ラピッド・トランジット)やバスへの転換を挙げた一方で、自治体の関与を求め、国は前述した「新たな協議の場を設置」「頑張る地域を支援」と、一歩引いた立ち位置を示した。また、「必要な投資を行って」とあるが、国が維持のための費用を出すとは明言していない。いったい、誰が投資を行うのだろうか。

 

結論としては国が補助して延命を図るよりも、第三者的な立場に立って、あとは自治体と鉄道会社の間で取り決めを、という〝お任せ〟姿勢が見えてくるのである。

 

本コーナーでは、少しでも全国の赤字ローカル線に乗車していただこうと、4年にわたり「おもしろローカル線の旅」という企画を続けてきた。筆者としても現状の赤字路線を憂う気持ちが強い。

 

今回は、まずJR各社から出された輸送密度が低い路線、いわば赤字ワースト路線を紹介し、何らかの道筋を模索していきたい。

 

本稿では路線ごとの営業損益ではなく、どのぐらいの利用者があるのかの目安になる「輸送密度」で各路線の差を見ていきたい。ちなみに「輸送密度」とは、旅客営業キロ1km当たりの1日平均旅客輸送人員を指す。会社により「平均通過人数」とする場合もあるが、基本的な計算式は変わらない。

 

まずはJR各社の輸送密度の低い路線のランキングを見ていこう。人数は各社が発表した輸送密度もしくは平均通過人数だ。まずはJR北海道から。

 

【JR北海道】幹線でさえ収益性が低い北海道の路線

JR北海道では、すでに根室線の富良野駅〜新得駅間と、留萠線の深川駅〜留萌駅間は廃止が決まっているので、この2区間は除きたい。その他の路線では輸送密度がワースト5位までの路線は以下の通りだ。数字は2021年度のもの。

 

1.宗谷線・名寄駅〜稚内駅間 174人

2.根室線・釧路駅〜根室駅間 174人

3.根室線・滝川駅〜富良野駅間 201人

4.釧網線・東釧路駅〜網走駅間 245人

5.室蘭線・沼ノ端駅(ぬまのはたえき)〜岩見沢駅間 300人

 

JR北海道内の路線の中で輸送密度が低かったのは、宗谷線と根室線でともに174人という数値だった。営業損益では、宗谷線が年間27億7500万円の赤字、根室線が11億6000万円の赤字のため宗谷線がよりワーストとなった。いずれも最北端、最東端へ行く路線で、末端への路線の維持をどうしていくか、国も含めて熟考しなければいけない時期なのかもしれない。

↑根室線の最東端区間の釧路駅〜根室駅間の輸送密度は174。最果ての路線に乗車しようという人も多いが、輸送密度は少なめだ

 

ちなみに、根室線は2020年度と比べると赤字額は3300万円圧縮されている。先日、筆者が根室駅を訪れた時にも意外に観光客が多くいた。〝花咲線〟という通称名が付けられ、最果ての路線として訪れる人が増えていることは歓迎すべきことなのだろう。

 

一方で、根室線の滝川駅〜富良野駅間の輸送密度がワースト3位の201人となっている。札幌駅から臨時特急「フラノラベンダーエクスプレス」が運行され、富良野線では人気観光列車「富良野・美瑛ノロッコ号」が走っているものの、富良野・美瑛といった観光地へいかに鉄道に乗ってもらうか、また観光シーズン以外の利用者をいかに誘致するか、難しい問題といえそうだ。

↑根室線の富良野駅近郊の様子。富良野市内でもこうした緑が広がる。鉄道運行には難しい地区であることが容易に想像できた

 

JR北海道ではすべての線区別の収支と利用状況を発表しているが、その中では利用者が比較的多いと思われる札幌市周辺の路線や、北海道新幹線ですら赤字となっている。冬期には降雪への対応もあり、鉄道維持も容易でないエリアであることがうかがえる。

 

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【JR東日本】県を越える路線と盲腸線の難しさが現れる

JR東日本からは7月28日、「ご利用の少ない線区の経営状況を開示します」として、平均通過人員が2000人/日未満の線区の経営情報の開示が行われた。発表された数字は2019年度と2020年度のもの。ほぼすべての路線が1年で悪化している。その理由としては新型コロナウィルス感染症の蔓延が2020年の春から急速に広まったためで、外出を控える動きの高まりが影響している。とはいえ、赤字額が大きい路線の目安にはなるので、他社と同じようにワースト線区を見ていきたい。数字は2020年度のもの。

↑正面に「奥の細道」と記された陸羽東線の列車。陸羽東線の鳴子温泉駅〜最上駅間の平均通過人員は41人とJR東日本一少なめ

 

1.陸羽東線・鳴子温泉駅〜最上駅間 41人

2.久留里線・久留里駅〜上総亀山駅間 62人

3.花輪線・荒屋新町駅〜鹿角花輪駅(かづのはなわえき)間 60人

4.磐越西線・野沢駅〜津川駅間 69人

5.北上線・ほっとゆだ駅〜横手駅間 72人

 

JR東日本の発表では、JR北海道に比べると1つの路線をより細かく区切った線区別の数値を発表している。そのため、JR北海道の輸送密度よりも、より悪い数字が出ている。ワースト1位となった陸羽東線の鳴子温泉駅〜最上駅間では2019年度の79人という数値が、2020年度には41人と極端に減っている。コロナ禍の影響が深刻だったことがうかがえる。

↑久留里線の終点駅、上総亀山駅(かずさかめやまえき)。君津市内の駅だが、民家も少なく年々、乗車人員が減少傾向に

 

ワースト5位までの路線中、久留里線を除きすべてが県境をまたいだ線区となっている。陸羽東線の鳴子温泉駅と最上駅間は、宮城県と山形県の県境があり、花輪線の荒屋新町駅〜鹿角花輪駅間には、岩手県と秋田県の県境がある。つまり県境をまたいでの移動は、明確に少ないわけだ。その理由は全国のローカル線の利用者の多くは地元の学校に通う高校生たちだからだ。県を越えて通学する高校生は非常に少ない。

 

久留里線は千葉県内を走る盲腸線だが、ここでも同じような傾向がみられる。木更津駅〜久留里駅は平均通過人員が1023人と多めだが、これは木更津駅〜久留里駅間の高校生の利用が多いため。一方で、久留里駅から先の上総亀山駅までの3駅区間は、久留里駅と同じく君津市内にあるものの駅周辺の民家が少なくなり乗車する人も減る。このあたりが差となってはっきり現れている。

↑大館駅に停車する花輪線の列車。花輪線は岩手県の好摩駅(こうまえき)と秋田県の大館駅を結ぶ。県を越えての利用者が少なめだ

 

JR東日本の発表では、国鉄からJRに移行した年の数字とも比較している。例えば陸羽東線の鳴子温泉駅〜最上駅間は1987年度が456人、2020年度が41人だった。リストアップされた他の線区でも 10分の1近くになっているところもある。JRとなってから30数年の間に、鉄道を利用する人がそれだけ減ってしまったことがよくわかった。

 

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【JR西日本】中国地方の山間部を走る路線の難しさ

JR東日本と同様に広域な沿線網を持つJR西日本。同線が管轄する中国地方の山あいを走る路線は、かなり輸送密度が悪化している。ワースト5位は以下の通りだ。数字はJR東日本と同じく2020年度のものである。

 

1.芸備線(げいびせん)・東城駅(とうじょうえき)〜備後落合駅(びんごおちあいえき)間 9人

2.木次線(きすきせん)・出雲横田駅〜備後落合駅間 18人

3.大糸線・南小谷駅(みなみおたりえき)〜糸魚川駅間 50人

4.芸備線・備後落合駅〜備後庄原駅間 63人

5.芸備線・備中神代駅(びっちゅうこうじろえき)〜東城駅間 80人

 

JR西日本の輸送密度が低い路線5本を見ていくと、芸備線の3区間が含まれていることがわかる。芸備線は広島駅と岡山県の備中神代駅を結ぶ159.1kmの路線で駅の数は44駅と多い。

↑芸備線と木次線の接続駅・備後落合駅。かつて機関車庫があり、鉄道職員も多く栄えていた。今は日に数本の列車が発着するのみに

 

そのうち広島駅〜下深川駅(しもふかわえき)間は、広島と往復する列車もあり、広島市の近郊路線として機能している。その先、三次駅(みよしえき)から先の乗客がぐっと減ってしまう。ちなみに、三次駅からは日本海側、山陰本線の江津駅(ごうつえき)まで三江線(さんこうせん)という路線が走っていたが、2018(平成30)年4月1日に廃止されている。

 

芸備線で一番のワースト区間である東城駅〜備後落合駅間はわずか9人。他社でもこのような数字はない。この区間を走る列車の本数は1日に3往復のみだ。ちなみに2019年度の同区間の輸送密度は11人だった。この区間だけで年間2.2億円の赤字が出ている。

↑木次線・出雲坂根駅(いずもさかねえき)のスイッチバック区間を走る「奥出雲おろち号」。急斜面(左上)を上り広島県を目指す

 

芸備線の備後落合駅は、現在、山陰本線の宍道駅(しんじえき)まで走る木次線が接続しているが、この木次線も苦境にあえいでいるのが実情だ。

 

木次線を走る人気の観光列車「奥出雲おろち号」も2023年度で運転終了となることが発表されている。こうした中国地方の赤字路線は、今後どうなってしまうのか。廃止以外に道はないのだろか。

↑糸魚川駅に到着した大糸線の列車。気動車が1両で走る。右下の南小谷駅でJR東日本の列車と接続している

 

中国地方の芸備線、木次線に続き輸送密度が低いのが大糸線の南小谷駅〜糸魚川駅間。南小谷駅から以南は電化され、運行もJR東日本が行っている。一方の南小谷駅から北側は非電化区間でJR西日本の運行区間となっている。同路線も国鉄からJRに移管される1987年度の輸送密度が出されているが、当時は987人、そして2020年度が50人と5%に落ち込んでいる。2020年度の営業損益は6.1億円の赤字とされる。

 

筆者も最近、全線を通して乗車したが、その地形の険しさには驚かされた。そびえ立つ山と深い谷が連なるフォッサマグナ地帯そのものの地形をぬって走る。姫川に沿って走る車窓風景が素晴らしい。この区間の北陸新幹線の開業で、北陸本線はJR西日本から、第三セクター経営に移管された。それに伴い大糸線は、JR西日本の他の路線から遠く離れた〝孤立〟路線となっている。同社としては運行そのものが不効率になっていることもあり、廃止やむなしの意向が強くなっている。地元の糸魚川市は反対を唱えるが、今回の国土交通省の提言もあり、なかなか難しい状況になってきた。

 

【JR四国】観光列車の運行で健闘が目立つものの

JR四国はJR旅客6社の中で路線の総距離数が最も少ない。高速道路網が発達している四国4県だが、他社に比べると、意外な健闘ぶりが目立つ。ワースト5路線を上げてみる。

↑阿波海南駅に近づく牟岐線の列車。終点の阿波海南駅では阿佐海岸鉄道のDMV列車と接続する

 

1.牟岐線(むぎせん)・牟岐駅〜阿波海南駅間 146人

2.予土線(よどせん)・北宇和島駅〜若井駅間 195人

3.予讃線・向井原駅(むかいばらえき)〜伊予大洲駅(いよおおずえき)間 274人

4.牟岐線・阿南駅〜牟岐駅間 423人

5.土讃線・須崎駅(すざきえき)〜窪川駅間 786人

 

徳島県内を走る牟岐線は徳島駅と阿波海南駅間を結ぶ。徳島駅と阿南駅(あなんえき)の間は輸送密度3574人と、徳島市の近郊路線として機能している。阿南駅から南へ行くにしたがい地形が険しくなり乗客も減っていく。

 

終着駅はこれまで海部駅(かいふえき)だったが、接続する阿佐海岸鉄道にDMV(デュアル・モード・ビークル)が導入されたことにあわせて1つ手前の阿波海南駅に牟岐線の路線が短縮された。牟岐駅〜阿波海南駅間がワースト路線となったが、徳島県の主導により接続する阿佐海岸鉄道に新たな乗物DMVが導入され、赤字ローカル線の1つの延命策を示した形となっている。

↑蛇行する四万十川を渡る予土線の普通列車。下に沈下橋も見える。こうした風景の良さも予土線の魅力となっている

 

ワースト2位は予土線が入った。この予土線には普通列車以外に〝予土線3兄弟〟の「しまんトロッコ」「鉄道ホビートレイン」「海洋堂ホビートレイン」という3種類の観光列車が走っている。これらの列車を乗りに訪れる観光客も多い。こうした観光路線化はローカル線の生き残り策と言えるだろう。

 

ランクインしている予土線の向井原駅〜伊予大洲駅間は内子線という予土線のバイパス線があり、特急はこの内子線を通る。一方、迂回した海沿いの路線が向井原駅〜伊予大洲駅間で、こちらには観光特急「伊予灘ものがたり」が走っている。途中に〝海の見える駅〟として人気の下灘駅(しもなだえき)があり、観光列車の運行とともに、こうした人気駅にわざわざ足を運ぶ観光客も多い。

↑瀬戸内海を眺めて走る予土線の観光列車「伊予灘ものがたり」。この先で、海の見える駅として人気の下灘駅に停車する

 

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【JR九州】盲腸線の先端区間の苦闘が目立つ

JR九州では平均通過人員2000人以下の「線区別収支」を発表している。ワースト5路線は次の通りだ。

 

1.日南線・油津駅(あぶらつえき)〜志布志駅(しぶしえき)間 171人

2.筑肥線(ちくひせん)・伊万里駅〜唐津駅間 180人

3.指宿枕崎線・指宿駅〜枕崎駅間 255人

4.筑豊本線・桂川駅〜原田駅(はるだえき)間 297人

5.日豊本線・佐伯駅(さいきえき)〜延岡駅間 353人

↑ワースト1位となった日南線の油津駅〜志布志駅間。写真は細田川を渡る特急「海幸山幸」。橋梁から海が望める絶景区間だ

 

JR九州の路線の中では盲腸線の先端部区間の輸送密度が低いことがわかる。ワーストとなった日南線の油津駅〜志布志駅間は、宮崎県日南市と、鹿児島県志布志市を結ぶ県をまたぐ弱点を持つ区間でもある。

 

ワースト2位は筑肥線の伊万里駅〜唐津駅間。筑肥線は唐津駅までは福岡市と結ぶ電車が走るものの、唐津駅でスイッチバックするように伊万里へ向かう路線は非電化区間で、途中の山本駅までは唐津線を走り、その先、また筑肥線になるという複雑な路線形態をとる。

↑伊万里駅(写真)に停車する筑肥線の列車。筑肥線といえば福岡近郊路線の印象が強いが、唐津駅〜伊万里駅間は主に山間部を走る

 

ワースト3位となったのが指宿枕崎線の指宿駅〜枕崎駅間。開聞岳を望む景色の美しい路線で、JR最南端の駅、西大山駅がある。同線の鹿児島中央駅〜指宿駅間は、人気の温泉地・指宿があるため利用者が多いものの、指宿駅より先となると極端に利用者が減る。西大山駅や、終点の枕崎へは、高速バスや、マイカーの利用者が多いこともあり、圧倒的に鉄道利用者が少なめとなっている。

↑開聞岳を望み走る指宿枕崎線。写真はJR最南端の駅・西大山駅の近くでの撮影。同駅に訪れる人は多いが大半が車利用者だ

 

JR九州管内は、毎年のように自然災害による路線被害を受けている。被害が甚大だったのは肥薩線で、2020(令和2)年7月豪雨の影響で、球磨川(くまがわ)にかかる橋梁などが流されるなどの被害を受け、八代駅〜吉松駅間の列車運行がストップしている。回復には235億円が必要とする試算もある。また復旧させ、不通区間に列車を運行させたとしても、年間の赤字額は9億円が出るとされる。

 

JR九州では日田彦山線が災害により不通となったが、すでに鉄道による復旧を諦め、一部区間のBRT路線化が進められている。毎年のように災害の影響を受け、復旧にあたることの多い九州の鉄道路線。JR九州一社に責任を押し付けるのは酷になっているようだ。

 

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【JR東海】発表はないがこれらの路線運行が難しい

JR旅客6社の中で唯一、赤字路線の発表を行っていないのがJR東海だ。現在のところ、ドル箱の東海道新幹線を運営していることもあり、赤字路線も安泰といえるのかもしれない。とはいえ、JR東海もコロナ禍で利用者は減少、さらにリニア中央新幹線の工事では静岡県との話し合いが上手く進んでおらず、開業は遅れそうだ。リニア中央新幹線の建設経費は難工事や人手不足などもあり予想よりも増えつつあり、JR東海自らの債務も今後、増えていきそうな気配だ。

 

今のところ、同社から赤字路線を廃線にしたい等の話は聞こえてこないものの、さらに債務が増えていけば、しわ寄せが出ないとは言い切れないだろう。

↑三重県内を走る名松線。2009(平成21)年から2016(平成28)年にかけて台風災害により一部区間の列車運行を休止していた

 

JR東海の中で、赤字が想定される線区は、三重県を走る名松線(めいしょうせん)で、松阪駅〜伊勢奥津駅間の43.5kmを走る盲腸線だ。さらに愛知県と長野県を走る飯田線も路線距離が195.7kmと長く特急列車は一部区間のみの運行となる。自然災害の影響を受けやすい路線だけに、営業はなかなか厳しそうだ。山間部の路線など経費のかかる路線も多い。これまで赤字線区の発表を行ってこなかったJR東海ではあるものの、今後は経営環境も厳しくなっていきそうに感じられる。

 

【ローカル線問題1】こんな形で赤字路線が役立った過去も

ここからは一部のローカル線の歴史および、実情を見ながら、赤字線区を今後どうしていったら良いのか、考えてみたい。

 

筆者は、すべての赤字路線の廃止反対を唱える気持ちはない。やはり輸送密度が1ケタ、2ケタともなると、JRが民間企業である以上は、営利追求のため、他線区の利益による補完、維持は難しいように思う。それぞれの路線の実情があり是々非々ではないだろうか。またバス代行という転換方法もあるかと思う。ただバス転換も長所短所があり、今の時代ならではの問題もある(詳細後述)。

 

ここではまず、赤字路線で輸送密度が低いからと言って、一律廃止にしないほうが良いのではという例を見ていきたい。例として挙げたいのはJR東日本の磐越西線である。

 

磐越西線は福島県の郡山駅から会津若松駅を経て、新潟県の新津駅へ向かう175.6kmの路線だ。郡山駅〜喜多方駅間は電化され、会津若松市、喜多方市という地方都市もあり、東北新幹線の郡山駅を利用する人も多く輸送密度も高めだ。問題になるのが、喜多方駅〜五泉駅(ごせんえき)間の山間部の路線だ。中でも野沢駅〜津川駅間は県境区間で輸送密度も69人と低い。これはJR東日本のワースト4位の数字でもある。

↑輸送密度が低い磐越西線の福島県と新潟県の県境区間。飯豊山を背景に「SLばんえつ物語」が走る

 

実はこの区間、筆者の母の郷里である県境の町を通ることもあり、幼いころから何度も訪ねた。半世紀にわたる変化を見ていて寂しい思いが募る。母の実家は住む人もいない。親戚にあたる人たちも、少なくなっている。他の家も似たり寄ったりの状況だ。過疎化が激しい。県をまたいで列車通勤する人もあったが、今は県をまたいだ移動をする人は大概がマイカーの利用者だ。

 

観光列車の「SLばんえつ物語」が走るぐらいが〝売り物〟の路線となっている。では廃止すれば良いのでは、という声も聞こえて来そうだ。

 

この磐越西線が非常に役立った時があった。今から11年前の東日本大震災の時である。磐越西線も2011(平成23)年3月11日から26日にかけて不通となったが、早めの復旧を遂げている。この時に大きく貢献したのが、臨時石油輸送だった。東北本線が長期にわたり不通になるなか、首都圏から郡山へ向けて磐越西線を利用しての迂回輸送が行われた。3月25日から4月16日までの短い期間だったが、臨時石油輸送により、どれだけ震災復興に役立ち人々を勇気づけたか計り知れない。

 

東日本大震災のような大きな災害は今後、ないかも知れない。だが、その時の磐越西線のように役立つこともあるのだ。現在、貨物列車の定期運行はないものの、磐越西線はJR貨物が第二種鉄道事業者として名を連ねている。こうした、もしもの時に役立つ可能性がある路線は、国の力で何とか保つべきだと思う。

 

このような原稿を書いているさなかの8月4日に、喜多方駅〜山都駅(やまとえき)間の濁川橋梁が豪雨により大きな被害を受けた。落ち着いた後に、今後の磐越西線の復旧に向けての方針が示されると思う。また同じように被害を受けた米坂線(よねさかせん)がどのようになるのか、注目したい。

 

*8月4日未明の豪雨による橋梁崩落により磐越西線は一部区間が不通となっています。ご注意ください。

 

【ローカル線問題2】上下分離方式で再開を果たす只見線

磐越西線と同じ福島県内で、長い間、災害により不通になっていたものの、この秋に復旧を果たすローカル線がある。JR東日本の只見線だ。只見線は福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶ135.2kmの路線。山深い只見川にそって走り、福島県と新潟県の県境を六十里越(ろくじゅうりごえ)トンネルで越える。

↑第八只見川橋梁では只見川上に作業船が浮かび路線のかさ上げ工事が行われた。このように険しい区間が多いのが只見線の特長

 

2011(平成23)年7月30日にこの地方を襲った豪雨により、複数の橋が流失、路盤も影響を受け、路線不通となった。その後に一部区間は復旧したものの、長年にわたり福島県内の会津川口駅〜只見駅間が不通となり代行バスが運行されてきた。

 

その後に復旧に向けて福島県とJR東日本の間で交渉が行われ、2018(平成30)年から復旧工事に着手、今年の10月1日には全線が復旧する。

 

同線の復旧区間の場合には上下分離方式を採用、線路の保有管理は福島県が行い、列車の運行はJR東日本が受け持つ。只見地区は福島県の会津地方でも雪深さが際立つところで、新潟県へ越える国道252号は冬期閉鎖となる。福島県内の交通は冬でも何とか国道の通行は維持されているが、大雪が続くと心もとない。地方の中心都市、会津若松への公共交通機関を何とか確保しておきたいという県の思いがあった。

 

只見線での線路保有は福島県が第三種鉄道事業者、運行者となるJR東日本は第二種鉄道事業者となる。鉄道の場合、こうした免許制度の名前が付きややこしいが、要は道路を走るバスを考えれば良い。国道や県道は国や自治体が管理運営、補修を行う。バスはその上を走っているわけだ。上下分離方式とはそれの鉄道版というわけだ。近年、他線でもこの上下分離方式を採用するところが出てきている。自治体の負担は増えるものの、どうしても赤字路線を維持させていきたい場合には、こうした方式がベターということが言えそうだ。

 

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【ローカル線問題3】BRT路線化も長短ありなかなか難しい

7月に行われた国土交通省の赤字路線に関する提言には、鉄道路線のバス路線化、BRT化に関しても触れている。バス路線化、BRT路線化に関してどのようなところが長所で、どのようなところが短所なのか、そして立ちふさがる問題に関しても触れておきたい。

 

東日本大震災の後には三陸沿岸の一部路線はBRT路線となった。気仙沼線の柳津駅〜気仙沼駅間と、大船渡線の気仙沼駅〜盛駅(さかりえき)間である。

↑三陸鉄道の盛駅付近を走る大船渡線BRT。この区間はかつての大船渡線の線路跡を専用道路に変更、その道路をBRTバスが走る

 

両BRT路線は、旧線路跡をバス専用道路に変更して利用し、復旧が敵わなかった区間は、一般道路を利用してバスが走る。

 

BRTの長所は「運行本数が増やしやすいこと」「運行経費が鉄道に比べて抑えられること」「旧駅以外に停留所が設けやすいこと」「専用道路区間は渋滞に巻き込まれず時間通りに走れること」などが挙げられる。

 

一方、短所は「鉄道に比べて定員数が少なめ」「一般道では渋滞に巻き込まれる」といったことがあげられる。

 

実際にこれらの路線では、役場や病院、ショッピングセンターに立ち寄るルートになり、地元の人たちにとって便利なルート設定が可能になっている。その一方でバスの乗車人員には限界があり、朝夕の混雑する時間帯や、観光シーズンともなると満員で乗れないといったこともある。鉄道に比べると遅延も起こりやすい。増便が容易という長所もあるものの、現実にはそう簡単ではないようだ。

 

昨今は、バス運転手の人出不足も深刻になっている。燃料費も高騰が見られる。これらの事柄を見ると、バス化、BRT化が絶対とは言い切れない。

 

【ローカル線問題4】少なくとも鉄道好きの人は乗って欲しい

いろいろな問題をはらむ鉄道の廃止論議ではある。主要路線以外の赤字路線の将来は、その路線が走る自治体がどう考え、どう対応するかが、大きな鍵となってくる。では、鉄道の旅が好きな人、鉄道を愛する人はこの状況下で、何かできることはないのだろうか。

↑千葉県の房総半島を走るいすみ鉄道。希少な車両を走らせていることもあり人気路線となっている。写真のように利用する人も多い

 

一つ方法がある。それはとにかく鉄道に乗ることである。

 

雑誌編集者でもある筆者は寝台列車の本を作っていた時には、早朝深夜の撮影取材が多いこともあり車利用にせざるをえなかった。その後の取材撮影はよほどの閑散路線を除き、なるべく車利用を控え、鉄道に乗って最寄り駅まで行きそこから撮影地へ歩くことにしている。日常はデスクワークが多いだけに、歩くことは健康面でもプラスのように思う。カメラバックを抱えて歩くため、極力機材を減らしている。

 

先日、首都圏近郊のローカル線でのことだ。珍しいヘッドマークと、塗装を一部変更した希少車両が走る機会があった。筆者はいつもどおりに、列車で最寄り駅に行って歩いてポイントへ向かった。そしてカメラを構えていたら、車利用の撮影者グループが撮影地へどどっとやってきた。そのため付近の道路や空き地は駐車する車でいっぱいに。先に構えていた鉄道利用の人たちは、あまり愉快ではなかったのは言うまでもない。

 

車利用は荷物の持ち運びもラクで便利である。列車の〝追っかけ〟もしやすい。だが、列車を走らせる鉄道会社にとっては利点がない。地元に住む人たちにも無断駐車などで迷惑がかかる。車利用で撮影のためのみに訪れるファンを批難する鉄道会社も出てきている。

 

少なくとも鉄道好きを自認し、なるべく路線廃止をしないで、と願うのであれば、列車に乗って鉄道会社へ少しでも運賃を還元して欲しいと思うのだが、いかがだろうか。そうした1人1人の行為は、路線維持のために決して無駄にならないように思う。

筑豊をのんびり走る「田川線・糸田線」の意外な発見づくしの旅

おもしろローカル線の旅90〜〜平成筑豊鉄道・田川線・糸田線(福岡県)〜〜

 

平成筑豊鉄道には、先週紹介した伊田線(いたせん)のほか、田川線(たがわせん)と糸田線(いとだせん)という2本の路線がある。全線複線の伊田線とは対照的に、全線単線の田川線と糸田線。両線の旅では予想外の発見もあった。かつて炭鉱が点在した筑豊を走るローカル線の旅を楽しんでみたい。

*取材は2013(平成25)年7月、2022(令和4)年4月3日と7月2日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【田川・糸田線の旅①】豊州鉄道という会社が造った2本の路線

まずは2線のうち、田川線の概要を見ておこう。

路線と距離 平成筑豊鉄道・田川線:行橋駅(ゆくはしえき)〜田川伊田駅(たがわいたえき)間26.3km 全線非電化単線
開業 1895(明治28)年8月15日、豊州鉄道(ほうしゅう)により行橋駅〜伊田駅(1982年に田川伊田に駅名改称)間が開業
駅数 17駅(起終点駅を含む)

 

2本目の糸田線の概要は次の通りだ。

路線と距離 平成筑豊鉄道・糸田線:金田駅(かなだえき)〜田川後藤寺駅(たがわごとうじえき)間6.8km 全線非電化単線
開業 1897(明治30)年10月20日、豊州鉄道(ほうしゅう)により後藤寺駅(1982年に田川後藤寺に駅名改称)〜宮床駅(現在の糸田駅)〜豊国駅(貨物駅)間が開業。
1929(昭和4)年2月1日、金宮鉄道(きんぐうてつどう)により糸田〜金田駅間が開業
駅数 6駅(起終点駅を含む)

 

平成筑豊鉄道の伊田線は今から129年前の1893(明治26)年に部分開業した。その2年後に田川線が、さらにその2年後に糸田線の一部が開業している。当時は筑豊の炭鉱数、出炭量も急速に増え、増大する輸送量にあわせるかのように次々と新たな路線が設けられていった。

 

【田川・糸田線の旅②】豊州鉄道を創立した人となりに注目したい

田川線、糸田線ともに、路線を敷いたのは豊州鉄道(初代)という鉄道会社だった。この会社が開業させた複数の路線が、今もJR九州の路線として活かされている。

 

豊州鉄道が開業させたのは平成筑豊鉄道の田川線、糸田線のほかに、現在の日豊本線となった行橋駅〜柳ケ浦駅(やなぎがうらえき)間、日田彦山線の田川伊田駅〜川崎駅(現・豊前川崎駅)間と多い。同社が開業した路線の総延長は85.2kmに及ぶ。ところが現・田川線を開業させた後、わずか6年で九州鉄道と合併し、豊州鉄道の名前は消滅した。短期間に積極的な路線敷設を行い、さらに九州最古の鉄道トンネル(詳細は後述)を設けるといった当時としては新しい試みも行っていた。

 

豊州鉄道の創設者は村野山人(むらの さんじん)と呼ばれる人物だ。なかなか豪快な人生を送っているので触れておきたい。村野が生まれたのは現在の鹿児島県鹿児島市城山町で、父は島津斉彬(しまづなりあきら)の奥小姓役だったが、お由羅騒動(おゆらそうどう)と呼ばれたお家騒動に連座、遠島となる。のちに赦免されたものの帰藩する船の中で亡くなってしまった。そのため村野家は家財を没収され、山人は悲惨な幼少時代を送ったとされる。その後に嫌疑が晴れ、村野家の家督を相続する。

 

明治維新後の動きがすごい。教師、志願兵として台湾出兵に従軍、警部、兵庫県職員などを務めた後、鉄道実業家となる。鉄道との関わりもかなりのものだ。まずは山陽鉄道の副社長を勤める。その後、豊州鉄道の総支配人、阪鶴鉄道(はんかくてつどう/現・福知山線、舞鶴線)の発起人、ほか門司鉄道、九州鉄道、南海鉄道、豊川鉄道、京阪電気鉄道、神戸電気鉄道などの鉄道経営に参画。衆議院議員を2期つとめ、最初の鉄道会議議員となり、さらに私財を投じて、工業高等学校まで創立している。

 

この足跡をたどるだけでも実にバイタリティをあふれる人物に見える。こうした草創期の鉄道路線網の整備に功績をあげた人物により田川線、糸田線は造られたのである。

↑日田彦山線の彦山駅(ひこさんえき)。田川線の駅として1942(昭和17)年に誕生した。豪雨により路線休止となり同駅舎も解体された

 

田川線は現在、行橋駅〜田川伊田駅間となっているが、古くは田川伊田駅から先、現在の日田彦山線にあたる一部区間も田川線として造られた路線だった。田川線は次のように延伸された。九州鉄道との合併も含め見ていこう。

1895(明治28)年8月15日 行橋駅〜伊田駅(現・田川伊田駅)間を開業
1896(明治29)年2月5日 伊田駅〜後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)間を開業
1899(明治32)年7月10日 後藤寺駅〜川崎駅(現・豊前川崎駅)間を開業
1901(明治34)年 豊州鉄道が九州鉄道と合併
1903(明治36)年12月21日 川崎駅〜添田駅(現・西添田駅)間を開業
1907(明治40)年7月1日 九州鉄道が官設鉄道に買収される
1942(昭和17)年8月25日 西添田駅〜彦山駅間を開業

 

ここで記したのは旅客営業を行った路線のみで、貨物支線まで含めると膨大な路線が田川線として開設された。その後、田川線は1960(昭和35)年に行橋駅〜田川伊田駅(当時の駅名は伊田駅)間の区間のみとなり、田川伊田駅から南は日田彦山線となった。日田彦山線は2017(平成29)年7月に同路線を襲った「平成29年7月九州北部豪雨」により多大な被害を受けて添田駅〜夜明駅(日田駅)間の列車運行が休止されてしまう。鉄道路線としての復旧は困難と判断され、JR九州と地元自治体との話し合いを経てBRT化することに合意。2023(令和5)年度のBRT転換を目指して工事が進められる。かつて田川線だった彦山駅もこの不通区間に含まれ、モダンな駅舎もすでに解体されている。

 

一方の平成筑豊鉄道・田川線も2012(平成24)年の豪雨など度重なる災害で多大な被害を受け、長期間不通となってきたが、そのつど復旧工事が行われ運転再開を果たしている。私企業となったJR九州と、第三セクター経営の平成筑豊鉄道との違いがこうした差に出ているようにも感じる。

 

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【田川・糸田線の旅③】一駅区間はJRと共用区間を走る

歴史の話が少し長くなったがここからは路線の紹介に話を進めたい。田川線の起点は行橋駅だが、前回に伊田線の紹介をしたこともあり、田川伊田駅から話を進めよう。田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続している。

 

日田彦山線の一部区間が、かつて田川線として開業されたこともあり、今も両線は縁が深い。

↑田川市の玄関口・田川伊田駅。田川線は1・2番線ホームから、日田彦山線の列車は3・4番線ホームから発車する(右上)

 

実は平成筑豊鉄道・田川線の田川伊田駅と次の上伊田駅(かみいたえき)間は単線区間で、日田彦山線と線路を共用しているのである。このあたり、路線紹介を行うガイドや、Webにも解説がないこともあり、筆者も現地で実際に列車に乗ってみてはじめて気が付いた。

 

ちなみに、国土交通省鉄道局が監修している「鉄道要覧」にも田川伊田駅〜上伊田駅間はJR九州・日田彦山線と平成筑豊鉄道・田川線2社のどちらの路線か明記されていない。

 

さて、田川伊田駅から平成筑豊鉄道の列車は田川線へ入っていく。伊田線の直方駅(のおがたえき)から走ってきた列車の大半は、列車番号が変わるものの、そのまま田川線を走り終点の行橋駅を目指す。そうした列車の中で一部が、田川伊田駅で時間調整をして次の上伊田駅へ向かうのだが、路線を共用する日田彦山線の列車とかち合うため時間調整をしていたのだ。

↑彦山川橋梁を渡る田川線の列車。JR九州の日田彦山線の列車も同橋梁を共用している(右上)。複線分の橋脚が設けられている

 

田川伊田駅の東側で田川線の線路と日田彦山線の線路が合流し、彦山川(ひこさんがわ)橋梁を渡る。この彦山川は遠賀川(おんががわ)の支流となる。

 

この橋梁、現在は単線が通るのみだが、興味深いのは橋脚部分に線路1本を通せる余分なスペースがあること。かつては複線だったのを橋げたを外したのか、複線にするために橋脚をひろげたのか、資料がなくはっきりしないが、推測するに太平洋戦争前後に橋げたを外す、もしくは複線化を図ろうとしたのかも知れない。

 

田川伊田駅を発車する田川線の列車は朝の6時、8時、18時に1時間に2本で、あとは1時間に1本の列車本数。日田彦山線もほぼ同様と列車本数は少なめなので、前述したように一部の列車に時間調整が必要なものの、複線にしなくとも運転に支障はないようだ。

 

【田川・糸田線の旅④】上伊田駅前後の線路配置がおもしろい

田川伊田駅から彦山川橋梁を渡り約1.4km、上伊田駅の手前にある分岐ポイントで、両線の線路が分かれる。田川線の列車は右手へ、そして上伊田駅のホームへ到着する。一方、日田彦山線の列車は上伊田駅手前の分岐ポイントを左へ入る。上伊田駅では両線の線路がほぼ並行しているのだが、日田彦山線の上伊田駅のホームは設けられていないので、列車は上伊田駅を横目に見て走り抜けていく。

↑「神田商店上伊田駅」と駅名が記される田川線・上伊田駅。駅のすぐ西に日田彦山線との分岐ポイントがある(左上)

 

上伊田駅の手前で分岐した田川線と日田彦山線の線路は、上伊田駅の東側にある猫迫1踏切を通り抜けてすぐに、線路が離れていく。田川線は直線で次の勾金駅(まがりかねえき)へ向かい、日田彦山線は、左に大きくカーブして一本松駅へ向かう。このあたりの線路の分岐、合流の様子が興味深い。

 

上伊田駅付近には、かつてもう一本の線路が通っていた。添田線と呼ばれ、現在の駅名と同じ上伊田駅があった。日田彦山線の一本松駅付近から現在の上伊田駅へ至る途中に分岐があり、田川線とクロスして日田彦山線の添田駅へ向かっていた。添田線は田川伊田駅を通らない日田彦山線のバイパス的な路線で、貨物列車の走行には便利だったが、田川伊田駅を通らないことで旅客路線としては営業的に芳しくなく1985(昭和60)年4月1日に廃止されている。ちなみに上伊田駅は場所を移し、田川線の新駅として2001(平成13)年3月3日に開業した。

↑上伊田駅へ近づく田川線(右)と日田彦山線(左)。本写真は合成したもので、実際には同時間にこうして走ることはない

 

田川伊田駅周辺は、調べてみると多くの路線が走っていたことに驚かされる。だが、石炭輸送がなくなり、いわば〝無用の長物〟になってしまったのだ。

 

【田川・糸田線の旅⑤】油須原駅など途中駅もなかなか興味深い

上伊田駅を発車すると列車は田川市から香春町(かわらまち)へ入る。間もなく着くのが勾金駅。同駅から北に設けられた旧・夏吉駅まで貨物線が設けられ、セメント列車が走っていたが、すでに廃線となっている。かつての路線は、道路となり廃線跡として偲ぶことができる。

 

勾金駅の次の駅が柿下温泉口駅。その名前の温泉が近いのかと思ったら、肝心の柿下温泉は徒歩15分と遠めで、しかも長期休業中となっていた。高濃度の天然ラドン泉で泉質は人気があっただけに残念だ。柿下温泉口駅から先は、山景色が間近に見えるようになる。次の内田駅からは赤村へ入る。

 

内田駅の次は赤村の村名そのものを付けた赤駅に到着する。この赤駅には、「赤村トロッコ油須原線(ゆすばるせん)」という観光トロッコが走っていたのだが、コロナ禍もあり、現在運転休止となっている。

 

赤駅の次は、油須原駅となる。この駅の読み方は「ゆすばる」。九州には「原」を「はる」または「ばる」と読ませる地名が多い。油須原駅は鉄道ファンとしては必見の駅である。まずは築127年という九州一古いと言われる木造駅舎が今年の2月に復元改装され、きれいに整備されている。駅舎内には「鉄道作業体験室」や「ギャラリー」が設けられた。将来的には出札口の復元も目指すそうだ。

↑復元改装された油須原駅の駅舎は内外装もきれいに。ホームには古い腕木式信号機(左上)やタブレットの受け器(左下)もある

 

ホームには古い腕木式信号機や、タブレットの受け器も保存されている。油須原駅はさながら鉄道資料館のようになっていた。

 

この油須原駅で触れておかなければいけないことがある。かつてこの駅に至る「油須原線」という路線計画があったのだ。1950年代半ばから工事が始まり、油須原線のうち、漆生駅(うるしおえき/現・嘉麻市 かまし)と、日田彦山線の豊前川崎駅までの路線は1966(昭和41)年3月10日に開業した。豊前川崎駅と油須原駅間の工事も着工したが、その後に、工事中断、再開が繰り返された末に1980(昭和55)年、正式に工事が凍結。開通した漆生駅〜豊前川崎駅間も1986(昭和61)年4月1日に廃止されてしまった。

 

開通からわずか20年で廃線となった油須原線。さらに工事が完了した区間もあったが、放棄されてしまった。石炭輸送のためにこうした計画が立てられ、エネルギー源が著しく変わり、輸送目的が消滅することが見えていたのにもかかわらず、工事が続けられ、無駄になったわけである。こうした歴史をたどるたびに、進められた公共工事の見通しの甘さを痛感する。時代が変わろうとも、進められる公共工事が本当に将来に必要なものかどうか、見極める術と、止める決断も大事なのだろうと思う。

 

【田川・糸田線の旅⑥】源じいの森で気がついた意外なこと

田川伊田駅から乗車20分で源じいの森駅へ到着した。「源じいの森」とは珍しい駅名だが、これは駅に隣接する自然公園「源じいの森」に由来する。源じいという、おじいさんが住んでいたのかなと、勝手に想像していたのだが、まったく違った。「源」はこの付近に生息する源氏蛍の「源」で、「じい」は赤村の村の花・春蘭の方言名である「じいばば」の「じい」、そして赤村の7割以上を占めている森林の「森」を組み合わせたものだそうだ。

↑源じいの森駅に停車する金田行き上り列車。駅の近くには源氏蛍が生息する渓流・今川が流れ、自然公園「源じいの森」がある

 

駅のすぐそばに「源じいの森」の受付がある建物があり、その周囲にキャンプ場などのレクリエーション施設が広がる。ちなみに、平成筑豊鉄道の1日フリー乗車券「ちくまるキップ」(大人1000円)を購入すると源じいの森温泉の入湯料が無料となる。

↑源じいの森の受付や宿泊施設などがある建物。この目の前に車掌車が保存されていた(右上)

 

受付や宿泊施設が入る建物の道路をはさんだ向かいに、塗装がやや薄まっていたが、青い車掌車が保存されていた。ヨ9001という形式名の車両で、時速100km運転を目指して国鉄が開発した試験車両だった。実際には100kmでの運転は不可能ということが分かり、2両しか製造されなかった。その後に筑豊地方を走る貨物列車に連結して使われたとされる。筑豊がらみということで、この地に保存されているのであろう。

 

車掌車の横には田川線に関わる案内が建てられていた。源じいの森の下をくぐるように走る田川線。その先にある「石坂トンネル」に関する案内だった。

↑第二石坂トンネルを出て源じいの森駅を目指す列車。トンネルは複線用のサイズで造られていた

 

源じいの森駅の先には「第二石坂トンネル(延長74.2m)」と「第一石坂トンネル(延長33.2m)」の2本の「石坂トンネル」が連なる。このトンネルは1895(明治28)年に完成したもので、九州最古の鉄道トンネルとされている。レンガ構造で、外から見た入口はやや楕円形で、現在は単線の線路となっているが、将来的に複線化も可能な造りとなっている。複線化はかなわなかったが、当時の鉄道会社の資金力を見る思いだ。

 

この石坂トンネルは、九州最古であるとともに、ドイツ人技師・ヘルマン・ルムシュッテルの指導を受けた工学博士・野辺地久記(のべちひさき)が設計したトンネルとしても歴史的な価値が高く、国の登録有形文化財に指定されている。

 

田川線では今回、駅から遠く立ち寄ることができなかったが、内田駅〜赤駅間にある内田三連橋梁も当時の貴重な橋梁技術を後世に伝えるものとして国の登録有形文化財の指定を受けている。127年前に開業した田川線には、こうした貴重な鉄道史跡が残されているのである。

 

【田川・糸田線の旅⑦】古さが目立つ崎山駅などに停車しつつ

森に包まれた源じいの森駅を発車して2本の石坂トンネルを越え、赤村からみやこ町へ入る。車窓からは田畑が広がる景色が見えてくる。この風景の移り変わりを見ていると、源じいの森駅が、田川線の最も標高の高い駅だったことが分かる。車窓からは田園風景とともに源氏蛍が生息するとされる今川が眼下に見えてくる。

 

列車は崎山駅へ到着。この駅は1954(昭和29)年4月20日に信号場として造られ、2年後に駅として開業した。この崎山駅には10年ほど前にも一度訪れたことがあるのだが、駅施設は以前のままだった。手付かず、整備が行き届かずといった様子で、形容しづらい状況だ。

↑崎山駅の駅舎。駅が造られた当時に信号所だったこともあり、駅務員用に建物が設けられた。建物自体は昭和中盤の建築とされる

 

今、駅の屋根の一部には青いビニールシートがかかる。屋根瓦の落下が予測されることもあり、建物とその周囲が立ち入り禁止となっている。

 

崎山駅から犀川駅(さいがわえき)、東犀川三四郎駅、新豊津駅と進むにしたがい水田風景が広がっていく。豊津駅からは行橋市(ゆくはしし)に入り、沿線に民家も点在するようになる。そして今川河童駅(いまがわかっぱえき)へ。風変わりな駅名だが、地元の今川に伝わるかっぱ伝説にちなむとされる。駅に河童の銅像も立っている。

 

平成時代に生まれた美夜古泉駅(みやこいずみえき)、令和時代に生まれた令和コスタ行橋駅と停車し、今回の田川線の旅の終点駅・行橋駅に到着する。田川伊田駅から乗車約55分、源じいの森駅など、豊かな自然に包まれた車窓風景が記憶に残った。

↑日豊本線と連絡する行橋駅。田川線の乗り場は3・4番線ホームの南端、5番線(右上)にある。乗換え用の専用口も設けられる

 

【田川・糸田線の旅⑧】金田駅近郊で伊田線と別れる糸田線

ここからは、もう一本の糸田線の路線紹介に移ろう。糸田線は金田駅と田川後藤寺駅を結ぶ路線で、伊田線の支線の趣が強い。列車の運行は朝夕の糸田線内のみを往復する列車に加えて、9時〜16時台の列車は直方駅から伊田線内を走り、金田駅から糸田線へ乗り入れる列車が多くなる。列車の本数は上り下りともに1時間に1本。路線距離が6.8kmと短いこともあり、所要14分と乗車時間も短い。

↑田川後藤寺行きの下り列車。写真のように水田と民家が点在する風景が連なる

 

金田駅の先、伊田線の複線に加え糸田線用の線路が進行方向右手に延びている。1kmほど3本の線路が並んで走った後、東金田踏切の先で、糸田線は進行方向右手に分岐、次の豊前大熊駅を目指す。この駅は、前回紹介した田川伊田駅と同じく「MrMax」というディスカウントストアがネーミングライツを取得していて、その名が駅名標に記されている。糸田線の駅は単線ということもあり、ホーム1つの小さな駅が大半だ。

 

糸田線ではこの豊前大熊駅から松山駅、糸田駅が糸田町内の駅となる。路線名は、この土地名に由来しているわけだ。車窓風景に変化は少なく、豊前大熊駅から糸田駅の先までは県道420号線と遠賀川の支流、中元寺川を進行方向右に見て列車は進む。

↑全線複線の伊田線(左)に並ぶ糸田線の線路(一番右)。東金田踏切の先で、糸田線の線路が右に分岐している

 

糸田町の玄関口でもある糸田駅。1897(明治30)年10月20日の路線の開業時は宮床駅(みやとこえき)という名前だった。この糸田線、短いながら路線の開業から、紆余曲折の歴史が隠されている。開業させた豊州鉄道は後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)と宮床駅間を結ぶ路線に加えて、宮床駅の0.5km先に豊国駅(ほうこくえき)という貨物駅を造った。この豊国駅は石炭を積むための駅だった。

 

糸田駅(旧・宮床駅)の北側は豊州鉄道とは異なる会社が線路を敷設した。金田と宮床を結んだ路線で金宮鉄道と名付けられた鉄道会社だった。この会社は後に産業セメント鉄道という名の会社になる。そして現在の糸田駅から北0.7km地点に糸田駅(後に廃駅)を設けた。この産業セメント鉄道は1943(昭和18)年に買収され国有化された。

 

要は6.8kmの短い路線にも関わらず、開業には2つの会社が関わり、太平洋戦争中に国鉄の糸田線に。産業セメント鉄道が造った糸田駅は、国有化された時に宮床駅に吸収され、旧宮床駅が糸田駅となった。

 

【田川・糸田線の旅⑨】田川後藤寺駅では古い跨線橋が気になる

糸田駅の南で糸田町から田川市へ入る。列車は中元寺川から離れ大薮駅(おおやぶえき)へ。同駅は路線開業時、貨物駅として誕生したが、一度廃止された後の1990(平成2)年に現在の駅が再開している。糸田線にはこのようにいろいろな経緯を持つ駅が多い。こちらも「MrMax大藪」というネーミングライツされた駅名が付く。

 

大薮駅を過ぎると緑が多くなり、左手から線路が近づいてくる。JR日田彦山線の線路で、田川伊田駅方面からの列車がこの線路を走る。さらに右手からJR後藤寺線の線路が近づいてきて、田川後藤寺駅の構内に入る。

↑田川後藤寺駅の駅舎。西側のみに駅入口がある。駅構内は広くJR九州のキハ40系などの気動車が多く留置されている

 

糸田線の列車は田川後藤寺駅の2番線に到着する。同駅のホームは4番線まで並んでいるが、後藤寺線は0番線と1番線を利用。一方、日田彦山線は1番、3・4番線のホームを利用する。2番線は糸田線単独のホームで、跨線橋を渡って他線への乗換えが必要となる。

↑日田彦山線の列車が停る1番線ホーム。糸田線(左)は2番線ホームからの発着となる

 

駅舎の改札はJR九州の管理となっているが、糸田線の乗車券の購入もできる。駅舎は1997(平成9)年に建てかえられたが、駅構内には骨組みにレールを使用した木製の跨線橋が残る。使われたレールは最も古いもので1900(明治33)年、新しいもので1911(明治44)年という刻印がある。記録では1916(大正5)年に駅舎改築とあることから、この時か、また昭和初期にかけて架けられた跨線橋が残っていることになる(糸田線の階段部分は後に付け加えられたもの)。

 

田川後藤寺駅を訪れ、田川線、糸田線が設けられた同時代の資材が、こうして跨線橋として残されていることが分かった。

↑田川後藤寺駅のレトロな跨線橋。骨組みのレールには1900年代の序盤に造られたアメリカ製のものなども含まれる

 

【田川・糸田線の旅⑩】もう1本、忘れてはいけない路線がある

平成筑豊鉄道の紹介で、もう1本、忘れてはいけない路線がある。それは福岡県北九州市を走る門司港レトロ観光線である。

 

JR門司港駅に隣接する九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅間2.1kmを結ぶ観光路線で、かわいらしいトロッコ列車が走る。運営方式は上下分離方式で、北九州市が第三種鉄道事業者で路線を所有管理、平成筑豊鉄道は第二種鉄道事業者として、車両を保有し、運行を行っている。

↑平成筑豊鉄道が運行する「潮風号」。終点の関門海峡めかり駅では、海峡を行き来する大型船が間近に見え楽しめる

 

同路線は元々、鹿児島本線の貨物支線であり、後に田野浦公共臨港鉄道の路線として貨物列車が走っていた。そこをディーゼル機関車2両にトロッコ客車2両を連結した観光列車「潮風号」が時速15kmというのんびりしたスピードで走る(冬期は運休)。

 

同列車の名称は「北九州銀行レトロライン潮風号」。こちらの路線もネーミングライツによる企業の名前を付けている。厳しさが増す鉄道事業、平成筑豊鉄道は駅名だけでなく、こうした路線名にまで企業の名前を入れるなど、涙ぐましい営業努力を続けているわけである。

 

栄華の跡が色濃く残る「へいちく伊田線」非電化複線の旅を楽しむ

おもしろローカル線の旅89〜〜平成筑豊鉄道・伊田線(福岡県)〜〜

 

1950年代から1960年代にかけて起こった「エネルギー革命」。国内のエネルギー源が石炭から石油へ短期間で変わった。日本一の出炭量を誇り、栄華を極めた福岡県の筑豊地方はその大きな影響を受けたのだった。

 

筑豊を走る平成筑豊鉄道の伊田線(いたせん)。現在も華やかだった時代の残り香が味わえる沿線である。過去の栄光を感じつつ鉄道旅を楽しんだ。

 

*取材は2013(平成25)年7月、2017(平成29)年5月、2022(令和4)年4月3日と7月2日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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↑直方駅近くを走る伊田線の列車。伊田線の複線と、筑豊本線の複線が並んで走る区間だ。右上に直方市石炭記念館が見える

 

【伊田線の旅①】129年前に設けられた石炭運搬路線

30年以上前に筆者は筑豊の直方市(のおがたし)を訪れ、複々線の線路が連なる様子と、華やかで大きなアーチが出迎える商店街に驚かされた。その記憶が今も頭の片隅に残っている。訪れた当時はとうに炭田は閉鎖されていたはずだが、賑わった時代の余韻のような華やかさが感じられたのである。

 

あの華やかな町の面影は今も残っているのだろうか、そんな疑問から今回の旅は始まった。地元の人たちから〝へいちく〟の名で親しまれる平成筑豊鉄道。その伊田線の概略をまず見ておこう。

路線と距離 平成筑豊鉄道・伊田線:直方駅〜田川伊田駅(たがわいたえき)間16.1km 全線非電化複線
開業 1893(明治26)年2月11日、筑豊興業鉄道により直方駅〜金田駅(かなだえき)間が開業。
1899(明治32)年3月25日、金田駅〜伊田駅(1982年に田川伊田に駅名改称)間が延伸開業
駅数 15駅(起終点駅を含む)

 

今から129年前に部分開業した伊田線は、1897(明治30)年に鹿児島本線などを運行する九州鉄道と合併。さらに1907(明治40)年には国が九州鉄道を買収し、官設鉄道の路線となる。終戦前の1943(昭和18)年に印刷された地図が下記だ。この地図を見ると筑豊地方の鉄道網は実に多くの路線があり、支線も多く伸びていたことが分かる。

↑「鐵道路線地図」1943(昭和18)年5月改正版。当時、鉄道職員に配られた地図で伊田線は2本線=複線として描かれている

 

伊田線は直方駅で筑豊本線に接続する。筑豊本線の終点は北九州の若松駅だ。この若松駅の目の前には若松港があり、この港から筑豊炭田で産出された石炭が各地へ輸送された。さらに富国強兵策を進める明治政府が官営八幡製鐵所を北九州・八幡に造り1901(明治34)年に操業を始めた。

 

この製鐵所では大量の石炭が必要となった。伊田線の輸送力を確保したい思惑もあり1911(明治44)年には全線が複線化されている。

 

筑豊炭田は福岡県の北九州市、中間市(なかまし)、直方市、田川市、など6市4郡にまたがって広がっていた。日本一の石炭産出量を誇った筑豊炭田。その採炭量が全国の産出量の半分を占めた時期もあったとされる。そのピーク時は太平洋戦争前後で、筑豊には最盛期、265鉱(1951年度)があった。

 

【伊田線の旅②】全線が非電化複線という路線が今も残る

ところがエネルギー革命が急速に進む。1960年代になると大手企業が採炭から撤退していき、筑豊炭田は1976(昭和51)年の宮田町にある貝島炭礦の閉山により姿を消した。

伊田線の沿線の中で直方市と、田川市が大きな街だが、その人口にもそうした影響が明確に現れている。直方市の人口は1955(昭和30)年には6万3319人で、6万4479人(1985年)まで膨らんだが、2022(令和4年)年6月には5万5735人に減っている。田川市の人口の推移は顕著で、1955(昭和30)年には10万71人を記録したが、2022(令和4年)年7月1日現在で4万5881人と半分以下になっている。

 

炭坑が閉山されたことで、伊田線も大きな影響を受けた。まずは沿線の途中駅から炭田に向けて多くの貨物支線が分岐していたが、1960年から1970年代にかけて貨物支線が次々に廃止され、支線の先にあった貨物駅も閉鎖された。

 

伊田線を走る貨物列車は減少どころか運転すらなくなり、さらに急激な人口減少で利用者も減っていった。1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化により路線は九州旅客鉄道(JR九州)に引き継がれ、2年後の1989(平成元)年10月1日には第三セクター経営の平成筑豊鉄道に転換されて現在に至る。

↑伊田線は全線が複線のまま残されている。そこをほとんどの列車が1両で走っている

 

平成筑豊鉄道には今回紹介の伊田線と、田川線(行橋駅・ゆくはしえき〜田川伊田駅間)と糸田線(いとだせん/金田駅〜田川後藤寺駅間)の3路線が移管された。

 

平成筑豊鉄道の田川線、糸田線は全線単線だが、伊田線のみ全線が複線のままで引き継がれ、今も残されている。60年以上も前に多くの炭坑は消えてしまったが、栄華の跡を沿線各地で確認することができ、筑豊炭田が生み出した〝財力〟を偲ぶことができて興味深い。

 

【伊田線の旅③】走る気動車は400形と500形の2タイプ

ここで平成筑豊鉄道を走る車両を見ておこう。平成筑豊鉄道を走る車両は2タイプある。

 

◆400形

↑平成筑豊鉄道の400形。写真は標準タイプで多くがこの塗装が施されている。ベース色の黄色は菜の花をイメージしている

 

平成筑豊鉄道が2007(平成19)年から導入した気動車で、製造は新潟トランシスが担当した。車両は地方鉄道向けの軽快気動車NDCと呼ばれる。全国の多くの路線で見ることができるタイプだ。平成筑豊鉄道の400形は大半が菜の花を意味する黄色ベースに青色、緑色、空色の斜めのストライプが入る。

 

400形には黄色ベースの車両以外に企業の広告ラッピング車両、マスコットキャラクター「ちくまる」をテーマにしたラッピング車などのほかに、「ことこと列車」という名前の観光列車2両が走っている(詳細後述)。

 

◆500形

↑1両のみの500形。外装はレトロ調で、車内も通常の400形とは異なる転換クロスシートが導入された

 

1両のみ2008(平成20)年に製造された車両で、基本構造は400形と同じだが、内外装をレトロ調にした。愛称は「へいちく浪漫号」で、通常の列車に利用されるほか、貸し切り列車として走ることもある。

 

【伊田線の旅④】休日には人気のレストラン列車が走る

400形の401号車と402号車は「ことこと列車」という名前の観光列車に改造されている。同社では「レストラン列車 ゆっくり・おいしい・楽しい列車」としてPRしている。デザインはJR九州などの多くの車両を手がけた水戸岡鋭治氏で、木を多用した内装に変更、外観もお洒落な深紅のメタリック塗装となっている。

 

「ことこと列車」の運転は土日・祝日で、今年は11月27日までの運転の予定だ。1日1便の運行で、直方駅を11時32分に発車、田川伊田駅で折返し、直方駅へ12時35分に戻る。これで終了ではなく、再び直方駅12時57分発、田川線へ乗り入れ、行橋駅14時52分で運転終了となる。

↑今年は4月2日から運転が開始された「ことこと列車」。写真は今年の4月3日に撮影したもので、車内から花見が楽しめた

 

車内では筑豊、京築(けいちく)地方の素材を贅沢に使ったフレンチコース料理6品が提供される。福岡市の「La Maison de la Nature Goh」を展開する料理人・福山剛氏が料理を監修した。旅行代金は1万7800円とちょっと贅沢な観光列車に仕上がっている。

↑水戸岡鋭治氏デザインの「ことこと列車」。内装は木を多用した造り(左上)で、2019(平成31)年3月から運行が始まった

 

【伊田線の旅⑤】直方駅近く複々線の上にかかる跨線橋だがさて?

ここからは伊田線の旅をはじめたい。その前に、30年以上前の脳裏に刻まれた風景をまず確認しておきたい。筑豊本線と伊田線の2本の路線が並び、複々線で走る区間だ。

 

筑豊本線と伊田線の2線が並んで走るのだから複々線でも不思議ではないのだが、30年以上前に訪れたときは線路がなぜ複々線なのか良くわからず、その規模に圧倒されたのだった。当時は4線すべてが非電化で、それも驚かされる要因の1つだったのだろう。筑豊本線(折尾〜桂川間)の電化は2001年(平成13)年のことだった。

 

直方駅から線路に沿って500mほど、石の鳥居が立つ跨線橋の入り口へ到着する。線路を挟んだ高台に多賀神社があり、その参道として設けられた跨線橋が2本ある。この跨線橋は参道跨線橋の2本めにあたり(正式名は「多賀第3跨線人道橋」)、ここで新たな発見をしたのだった。

↑直方駅の東口には力士の銅像が立つ。これは地元出身の魁皇の銅像だ。伊田線の乗り場はこの駅舎の南側に設けられる(左下)

 

跨線橋からは眼下に伊田線の複線と、並んで筑豊本線の複線が見える。複々線だから、列車が頻繁に走ると思うのだが、本数はそれほど多くない。現状の列車本数を考えれば過分にも感じる線路の数である。

 

この跨線橋を越えると「直方市石炭記念館」がある。外には石炭列車の牽引で活躍した複数のSLと、炭坑で使われた小さな電気機関車、さらに「救助訓練坑道」が残されていた。

 

「救助訓練坑道」は救護隊員の養成訓練用に設けられたものだとされる。幼いころに炭坑事故の痛ましいニュースをたびたび見た記憶があるが、こうした事故が起きた時のために救護隊員がいて、さらに養成訓練用の坑道まで設けられたとは、当時の炭鉱の資金力を改めて知ることになった。

↑多賀神社の南側の跨線橋の入り口。跨線橋からは筑豊本線と伊田線を行き来する列車が見える(左上)。架かる橋は不思議な形をしている

 

「直方市石炭記念館」の開館時間は9〜17時(月休)で、掘削、採炭、運搬などの炭鉱に関する貴重な資料が納められている(入館料は100円)。筆者の世代でも知らないことが多い石炭採掘の歴史に触れることができて勉強になる。

 

帰りは複々線を眼下に見て、跨線橋を越えて階段を降りた。振り返ると跨線橋が風変わりな形をしている。下から見上げると跨線橋自体が山形をしていて、中央部が盛り上がっているのが分かった。

 

実はこの跨線橋、転車台の台部分を転用したものだそうだ。上下逆にしてこの跨線橋として使ったそうである。どこの駅の転車台を転用したかは資料がなく定かでないが、中央部がどうりで山形をしていたわけである。ちなみにかつて直方駅構内にも転車台があったそうだ。

↑直方市石炭記念館の正面には貝島大之浦炭坑で半世紀にわたり働き続けたコペル32号が飾られる。右下は救護訓練坑道と使われた機関車

 

複々線区間と石炭記念館、アーケードを通り直方駅に戻る。そして2番線に停車していた田川伊田駅行き下り列車に乗車したのだった。

 

【伊田線の旅⑥】構内が非常に広い途中駅が目立つ

直方駅を発車する列車は1時間に2本が基本で、朝の7時台は3本出ている。列車の半分は伊田線の終点・田川伊田駅まで走り、田川線に乗り入れて行橋駅まで走る。また一部列車は金田駅から糸田線へ乗り入れる。第三セクター経営の路線としては本数が多いといって良いだろう。複線であることが活かされているわけである。ただし、大概の列車は1両編成なのだが。

 

列車はみなワンマン運転で、交通系ICカードは使えない。乗車する駅で整理券を受け取り、下車駅で現金での支払いとなる。1日全線が乗り放題の「ちくまるキップ」は大人1000円、沿線の日帰り湯の入湯料が無料になるなどの特典が付く。車内で販売されているが、有効日を運転士が書き込む手間がかかるために、下車時よりも直方駅(平成筑豊鉄道の改札は無人)などの始発駅で、乗車時にあらかじめ購入しておくことをお勧めしたい。

 

沿線の様子を見ていこう。

 

直方駅を出発した列車は次の南直方御殿口駅(みなみのおがたごてんぐちえき)までは筑豊本線と並行して走る。直方駅から南直方御殿口駅の先まで筑豊本線との並走区間が約1.7kmあり、つまり複々線区間がそれだけ続いていることになる。そして筑豊本線と離れて、左にカーブする。カーブするとすぐに遠賀川(おんががわ)を渡る。

↑直方駅から4つ目の駅、中泉駅は上下線の間が非常に開いていることが分かる。遠賀川を渡る伊田線の橋梁(右上)。

 

遠賀川とボタ山は、筑豊地方のシンボルとして五木寛之氏の小説「青春の門」やリリー・フランキー氏の小説「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」で描かれている。そんな遠賀川だが、明治20年代までは嘉麻川(かまがわ)と地図に記されていた。伊田線は1893(明治26)年2月11日開業ということもあり、遠賀川に架かる鉄橋の名前は「嘉麻川橋梁」と名付けられ今に至る。架けられた後に遠賀川という名前が定着していき、一般にもその名で呼ばれたそうである。

 

南直方御殿口駅、あかぢ駅、藤棚駅、市場駅、ふれいあい正力駅、人見駅と、みな平成筑豊鉄道になって設けられた駅である。直方駅〜金田駅間で、古くからある駅は中泉駅と赤池駅のみだ。国鉄もしくはJRから第三セクター鉄道へ移行した後にできた駅は各地に多いが、なぜ国鉄時代に、利用者を考えた駅を設けなかったのか、いつも疑問である。

 

伊田線の古くからある駅は、構内の大きさが目立つ駅が多い。例えば中泉駅。上り下り線用のホームがそれぞれあり、上り下り線の線路の間がとてもあいている。明らかにこの間に線路が昔あり、使われていたと推測できる。調べると中泉駅の近辺には大城(だいじょう)第一駅・第二駅という貨物駅があり、そちらへ向けての支線も設けられていた。中泉駅が集約駅だったようだ。ひと昔前にはこの駅構内は貨車がいっぱい停まっていたのだろう。

 

【伊田線の旅⑦】早春ならば桜がきれいな人見駅がおすすめ

中泉駅と共に古い赤池駅は、かつて近くに赤池炭坑駅があり、赤池駅のすぐ近くには信号場が設けられ、貨物支線がのびていた。このように伊田線には複数の信号場があり、貨物支線が設けられていたが、今はそれらの貨物支線は廃線となり、一方で多くの新駅が設けられていたのである。

 

金田駅の1つ手前の人見駅は開業が1990(平成2)年と、平成筑豊鉄道になって間もなく設けられたが、筆者が好む駅である。春先に訪れたがホームの裏手に桜並木があり、列車と駅と桜の組み合わせが美しかった。

 

美しい桜を目当てに撮影者が複数人訪れていたが、平成筑豊鉄道は、こうした絵になる駅が複数あることも魅力の1つといって良いだろう。

↑4月初旬に桜が満開となった人見駅。番線名は付いていないが、下りホームの裏手に桜が連なっていた

 

【伊田線の旅⑧】車庫がある金田駅で驚いたこと

伊田線の金田駅は平成筑豊鉄道の中心駅と言って良い。同駅構内に本社や車庫がある。運行している列車がみな気動車ということもあり、給油のためこの駅止まりとなる列車もある。平成筑豊鉄道を訪れるたびに途中下車する駅だが、この春に訪れて驚いた。

 

窓口は平日のみの営業となっていて、休日は無人駅となっていた。同社の「鉄印」は、この金田駅のみでの販売となっているのだが、無人の窓口の前になんと、鉄印の販売機が設置されていたのである。鉄印は全国の第三セクター鉄道を中心に40社が、御朱印を集めるように乗りまわろうと始めた企画だ。大半が有人駅で窓口販売となっているが、平成筑豊鉄道の場合、有人駅は平日を除きない。そこで苦肉の策として販売機での配布を始めたわけである。こうした鉄印の配り方ははじめてだった。ここまで省力化が徹底しているとむしろ気持ちが良いぐらいである。

↑平成筑豊鉄道の本社と車庫がある金田駅。休日には窓口に人が不在となるため「鉄印」も販売機での扱いとなる(右上)

 

無事に鉄印を手に入れ、駅の周辺を回ってみる。車庫に停車している車両が良く見えるが、そこに気になる車両が停車している。

 

キハ2004形という形式名の車両だ。この車両は、茨城県のひたちなか海浜鉄道を走っていた車両で、クリーム地に赤帯に塗装されている。これは、かつて九州で走っていたキハ55系の「準急色」であり、形式は違えど、準急「ひかり」のイメージに近かった。ということで有志が平成筑豊鉄道の路線を走らせようとクラウドファンディングで資金を募り、金田駅へ運ばれた車両なのである。

 

2016(平成28)年10月に運ばれた後に、有志の団体「キハ2004号を守る会」が中心となり、きれいに塗装し直して、動態保存されている。守る会により年に数回、運転体験が実施されている。

↑金田駅の車庫で保存されるキハ2004形(今年4月の状態)。左上は搬入され塗装し直した頃の2017(平成29)年5月27日の姿

 

今年の4月に訪れた際には薄い色のせいもあったのか、塗装状態が悪化していて心配したのだが、7月初旬には塗装の一部補修が進められたことが確認できた。

 

車両の保存活動というのは何かと困難がつきまとうと思われるが、なんとか成就していただきたいと願うばかりである。

 

この金田駅からもかつて貨物支線が設けられていた。車庫の西南側、今は立体交差する道路がある付近から三井鉱山セメント(現・麻生セメント)の専用線があった。2004(平成16)年3月25日に同線は廃止されている。ほかの貨物支線よりも長く保たれたが、この廃線により、平成筑豊鉄道での貨物列車の運行が終了している。

↑金田駅の車庫の奥にある検修庫と洗車機。その奥には2010(平成22)年に引退した300形304も保存されている(右下)

 

【伊田線の旅⑨】田川伊田駅の裏手に残る名物二本煙突

金田駅から先の旅を続けよう。金田駅からは1kmほど3本の線路が並行して走る。

 

進行方向左手の2本は伊田線の線路、右の1本は糸田線の線路で、田川後藤寺駅まで向かう。この糸田線の線路が金田駅の南にある東金田踏切の先で、進行方向右手に分岐していく。

↑左2本が伊田線の線路、右にカーブするのが糸田線の線路となる。ちょうど「スーパーハッピー号」403号車が通過した

 

こうした造りを見ると、かつて整備された線路網がそのまま活かされていることが良く分かる。ここまで過分な線路配置は必要ないようにも思えるのだが、大都市に比べて土地に余裕があることも大きいのだろう。

 

金田駅と田川伊田駅の間に、上金田駅、糒駅(ほしいえき)、田川市立病院駅、下伊田駅がある。糒駅を除き平成筑豊鉄道が生まれた後に造られた新しい駅だ。糒駅は前に紹介した中泉駅のように、上り下りの線路の間が離れている。かつてこの駅でも石炭貨物列車の運行が盛んで、引き込み線もあり、貨車の入れ換え作業が頻繁に行われた。

 

糒駅を過ぎると進行方向左手に彦山川が見えてくる。彦山川は前述した遠賀川の支流だ。筑豊本線、伊田線が開業する前は、これらの河川で石炭が運ばれていたそうだ。こうした船運に代わって、鉄道路線が設けられ、徐々に広げられていったわけである。

 

この彦山川が見えてきたら左カーブして終点の田川伊田駅へ入っていく。田川伊田駅止まりの列車は朝夕のみで、大半の列車は平成筑豊鉄道の田川線へ乗り入れて、行橋駅まで走る。

↑お洒落に改装された田川伊田駅。駅内にはホテルなどが設けられる。JRの通路などに一部、古い造りが残される(右上)

 

直方駅から田川伊田駅まで乗車時間が40分弱と短いが、全線複線非電化の旅は終わる。田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続し、田川伊田駅の先でなかなか興味深い運転体系が見られるが、今週はここまで。最後に田川伊田駅の話を締めくくろう。

 

田川伊田駅が近づくと「MrMax田川伊田駅」と車内アナウンスが流される。駅名標にもこの名前が記されている。これはネーミングライツの一環によるもので、MrMaxというディスカウントストアが田川伊田駅の権利を購入したことにより、この駅名が案内されている。平成筑豊鉄道では、ほとんどの駅に冠となる施設名がつけられている。その駅名は大企業のみならず、中小企業も名を連ねる。ネーミングライツにより、少しでも営業収益が上げられればという、それこそ涙ぐましい努力がうかがえる。

↑田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続する。入線する列車の後ろには2本の煙突が見えているが、この施設は?

 

田川伊田駅の駅舎はここ数年で装いを新たにしていた。3階建ての駅ビルが1990(平成2)年に建てられ、2016(平成28)年に田川市がJR九州から駅舎を購入し、きれいに改装され2019(令和元)年に駅舎ホテルなどがグランドオープンしていた。駅の1階には手作りのパン屋や、うどん屋があり、それぞれ賑わっていた。

 

1950年から1960年代、日本のエネルギーの劇的な変化があった。その変化の大きな影響を受けたのが筑豊だった。炭鉱は消滅したものの、鉄道路線は残され、多くの人々が今も暮らしている。かつての栄華の跡は、そこかしこに残され確認できるものの寂れた印象が感じられた。一方で田川伊田駅の駅名や駅舎などで見られるように、町の玄関口を少しでも活気を持たせようという取り組みも垣間見えてきて、頼もしくも感じたのだった。

↑田川伊田駅の裏手には三井田川鉱業の炭鉱があった。現在は「田川市石炭・歴史博物館」となっている。二本煙突が名物に

 

百聞は一見にしかず!?「西九州新幹線」開業で沿線はどう変わるのか?

〜〜JR九州・西九州新幹線9月23日開業(佐賀県・長崎県)〜〜

 

佐賀県の武雄温泉駅と長崎県の長崎駅を結ぶ西九州新幹線の開業が、9月23日とほぼ2か月後に迫った。すでに試運転列車も走るようになり、新駅の工事も最終段階を迎えている。西九州新幹線の開業で沿線はどのように変わるのか、百聞は一見にしかず、写真を中心に西九州新幹線の今を見ていきたい。

 

*取材は2022(令和4)年7月1日に行いました。2017(平成29)年5月〜2020(令和2)年12月に取材撮影したものも加えています。

 

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進む全国の「鉄道新線計画」−−新幹線をはじめ初のLRT新線計画も

 

【西九州新幹線開業①】武雄温泉駅〜長崎駅間を最速23分で走る

まずはJR九州が発表した西九州新幹線の概要を見ておこう。

 

路線と営業キロ JR九州 西九州新幹線・武雄温泉駅〜長崎駅間69.6km
開業 2022(令和4)年9月23日開業を予定
駅数 5駅(起終点駅を含む)
運転本数 上下47本(武雄温泉駅〜長崎駅間は44本、新大村駅〜長崎駅間が3本)。
朝夕の通勤時間帯は1時間あたり2本、日中の時間帯は1本
所要時間 武雄温泉駅〜長崎駅間は最速で23分

 

路線は上記の地図を見ていただくと分かるように、これまで佐賀〜長崎間を結ぶ長崎本線が有明海沿いに走っていたのに対して、西九州新幹線の路線は、武雄温泉駅から直線的に南西にある大村を目指していることが分かる。そして大村湾に沿うように、諌早駅、長崎駅を目指す。

 

【西九州新幹線開業②】JR九州らしさ満開のN700Sかもめ

走る車両はN700S8000番台で、車両の内外装のデザインはJR九州の多くの車両のデザインを手かけてきた水戸岡鋭治氏が担当した。

 

N700Sのベースとなった車両は、東海道・山陽新幹線用にJR東海が開発した車両で、2018(平成30)年に先行試作車が造られ、長期にわたる試運転を重ねた上に2020(令和2)年に量産車が完成。以降、車両の増備が進められている。

↑西九州新幹線を試験走行するN700S8000番台。白と赤のコントラストが鮮やかな印象で、車体に「かもめ」などの文字も入る

 

西九州新幹線を走る車両は、「九州らしいオンリーワンの車両」をデザインコンセプトとし、東海道・山陽新幹線用が16両編成であるのに対して、短い6両編成となっている。外観のデザインおよび座席などの内装も東海道・山陽新幹線を走るN700Sとはだいぶ異なった印象に仕上げられている。

↑東海道・山陽新幹線を走るN700S。西九州新幹線を走るN700Sと見比べるとかなり異なることが分かる

 

今回の開業に合わせて6両×4編成、計24両が導入された。ベースとなる白い車体に、下部にはJR九州のコーポレートカラーである「赤」を配色。6両のうち長崎駅側が1号車、武雄温泉駅側が6号車となる。1〜3号車が指定席で2席×2席の配置、各車両、唐草(ベージュ)、獅子柄(グリーン)、菊大柄(グレー)と異なった仕様の座席色となる。4〜6号車は2席×3席の配置で、基本の座席カラーはイエローだ。

 

東海道・山陽新幹線を走るN700Sと見比べても、西九州新幹線用の車両は運転席の窓周りが大きくアクセントになっている。また正面にエンブレムが配置されている。帯はJR九州らしく細く赤いラインが入る。最高運転速度は路線の規格に合わせて260km/hと、従来のN700Sの東海道新幹線285km/h、山陽新幹線300km/hの最高運転速度よりも抑え目ながら、水戸岡流の味付けがなされ、乗車時にどのような印象を受けるか楽しみな車両に仕上がっている。

 

【西九州新幹線開業③】武雄温泉駅で「リレーかもめ」から乗換え

ここからは西九州新幹線の新しい駅の姿を見ていこう。撮影は7月初頭のもので、駅の内外観はほぼ完成し、主に駅前の整備工事などが進められていた。まずは西九州新幹線の起点駅となる武雄温泉駅から。

↑博多駅〜武雄温泉駅間は従来の特急「かもめ」に使われた885系が「リレーかもめ」などの特急で運行される予定だ

 

武雄温泉駅は2008(平成20)年にすでに高架化されていて、南側に西九州新幹線の線路が設けられ、さらに駅前の整備工事が進められた。新幹線開業後には博多発の特急と新幹線の乗換えが便利なように、「対面乗換方式」を導入。在来線のホームに「リレーかもめ」などの特急列車が到着、同じホームの向かい側から西九州新幹線の「かもめ」が発着する形となる。

 

訪れた時に、この対面ホームへの入場はかなわなかったが、駅舎入口には「在来線」と、「西九州新幹線」と「リレー特急」は異なる改札口が設けられていた。新幹線と対面乗換え方式で運転される特急は、「リレーかもめ」「みどり(リレーかもめ)」「ハウステンボス(リレーかもめ)」を名乗る予定で、車両は885系6両編成、783系8両編成(もしくは4両編成)が使われる。

↑新幹線側の駅舎・御船山口(南口)の駅前整備工事が進められていた。駅舎内には西九州新幹線・リレー特急のりばもある(右上)

 

駅名どおり、武雄温泉の玄関口にあたる。そこで武雄温泉の観光案内もしておこう。

 

武雄温泉の歴史は古く約1300年の歴史を誇る。温泉街の中心となるのが「武雄温泉楼門」で、ここまで駅から徒歩950m、約12分だ。竜宮城を思わせる朱塗りの楼門が名物で、東京駅のデザインで知られる辰野金吾により設計され、1915(大正4)年に落成した。現在、楼門は国の重要文化財に指定されている。同楼門に隣接して共同浴場があるほか、多くの温泉宿もあり保温性に富んだ弱アルカリ性の湯が楽しめる。

↑楼門口と呼ばれる北口の駅舎。在来線はこの駅舎側の高架上にある。武雄温泉の中心までは1km弱ほど

 

武雄温泉駅の南口は御船山口とも呼ばれる。駅から車で5分ほどの距離にある御船山楽園(みふねやまらくえん)にちなむ。御船山楽園は佐賀藩の領主によって造られた庭園で、ツツジやモミジの名所としてよく知られている。

 

【西九州新幹線開業④】嬉野温泉に初の鉄道駅が誕生する

武雄温泉駅から10.9km、列車は武雄トンネル(1380m)、三坂トンネル(1400m)などのトンネルを抜けて次の駅の嬉野温泉駅(うれしのおんせんえき/住所:佐賀県嬉野市嬉野町大字下宿甲)へ到着する。

 

新しい駅は嬉野温泉の北東にあたる場所に設けられ、嬉野市初の鉄道駅になる。

↑嬉野温泉駅の駅舎は駅前ロータリーの整備が進む。嬉野温泉の中心部からは約1.7kmの距離があり歩くのはちょっと厳しそうだ

 

嬉野温泉は日本三大美肌の湯にも上げられ、佐賀県内では武雄温泉とともに県を代表する温泉地として人気が高い。これまで武雄温泉駅からバスで約30分と、鉄道+バスの乗り継ぎが必要だったが、鉄道駅の新設で晴れて嬉野温泉の玄関口が誕生する。とはいえ、新駅から温泉の中心地にある「シーボルトの湯」までは徒歩で22分、約1.7kmと、やはりバスかタクシーの利用が一般的になりそうだ。

 

【西九州新幹線開業⑤】最も展望が楽しめる新大村駅付近

嬉野温泉駅から次の新大村駅の間で列車は佐賀県から長崎県へ入る。両駅の間で山越えをすることもあり、新設されたトンネルも多い。

 

俵坂トンネル(5705m)、彼杵(そのぎ)トンネル(2075m)、千綿(ちわた)トンネル(1632m)、江ノ串トンネル(1351m)といった具合にトンネルが連なる。最後のトンネルを抜ければ、眼下に青い大村湾が進行方向右手に見えてくる。新幹線はしばらく大村市内の平野部を走る。右手に大村車両基地を見たら間もなく新大村駅へ到着となる。

↑眼下に大村湾が見えるエリア。同路線で最も眺望の良いポイントとなりそうだ。大村湾上には長崎空港を離発着する飛行機も望める

 

新大村駅(住所:長崎県大村市植松3丁目)の開業とともに、並走する大村線にも新駅が設けられる。新大村駅は既存の大村線の諏訪駅の北側1.2kmほどの距離に生まれる。新幹線開業後は新大村駅と、その北に造られた新幹線の大村車両基地付近にも「大村車両基地駅」が設けられる予定で、大村線の諏訪駅〜松原駅の間に既存の竹松駅以外に新駅が2駅できてより便利になる。

 

ちなみに、従来の大村駅は新大村駅から南へ約3kmの距離にあり、また大村湾上にある長崎空港も、約5kmの距離となる。どちらへも新大村駅前から路線バスが走ることになるのだろう。

↑国道444号沿いにできる新大村駅。同駅舎は東側を向いているが、西側を大村線が並走、ホームも設けられる

 

新大村駅で連絡する大村線は大村湾沿いに走る風光明媚な路線だ。新大村駅から北へ4つめの駅は千綿駅(ちわたえき)で、ホームの目の前が大村湾という風景が素晴らしい駅だ。新幹線開業後にはより便利になりそうで、同駅を訪れる観光客も増えそうだ。

↑大村線の新大村駅から4つめの駅・千綿駅。夕暮れ時は、大村湾越しに夕日が見え美しい

 

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波穏やかな大村湾を眺めて走るローカル線「JR大村線」10の秘密

 

【西九州新幹線開業⑥】駅ホテルの開業で大きく変わる諌早駅

新幹線は新大村駅を発車すると左にカーブ、木場トンネル(2885m)、鈴田トンネル(1756m)を越え右カーブして諌早駅へ入っていく。

 

諌早駅では在来線の大村線、長崎本線と連絡する。さらに島原半島へ向かう島原鉄道の起点駅でもある。新幹線の開業に向けて諌早駅は、橋上駅舎となり、新幹線口にもなる西口に新たな駅舎が設けられ、さらに諌早市の玄関口となる東口の造りも大きく変わった。東口には駅舎とならびホテル、マンションが建ち並び、賑やかに。駅前ロータリーも整備されて、長崎駅とならぶ県内交通の拠点となる。

↑諌早駅の東口。駅の入口は写真の左下となる。駅舎と並び新しいホテルや、マンションが建てられた

 

一方、接続する長崎本線は同駅の区間では非電化となる予定で、ちょっと寂しい一面も(詳細は後述)。新幹線開業という華やかな話題ばかりとはいかない難しさも垣間見える。

 

諌早駅の先で、新幹線と長崎本線とわずかな区間ながら並走する。このあたりは、西九州新幹線も国道207号から良く見える。現在は885系特急形電車で特急「かもめ」が運行されているが、その姿も、新幹線開業日前日の9月22日が見納めとなる。以降、同区間は、非電化区間となりディーゼルカーが走る予定だ。

↑諌早駅の0番線行き止まりホームから発車する島原鉄道線。路線を開設して111年という老舗の鉄道会社でもある

 

↑長崎駅〜諌早駅間を走る試運転列車。諌早駅近くでは長崎本線が高架下を走る(※同写真は分かりやすくするため合成しました)

 

【西九州新幹線開業⑦】西へ大きく移動した新しい長崎駅

諌早駅〜長崎駅間は西九州新幹線の中で最も険しい区間となる。そのため長いトンネルが続く。諌早駅側から久山トンネル(4990m)、経ヶ岳トンネル(1930m)、新長崎トンネル(7460m)といった具合で、新長崎トンネルを抜ければ、間もなく長崎駅へ到着となる。

↑高架化された長崎駅。西口側に在来線の長崎本線の線路がある。長崎本線、大村線を走るYC1系が並ぶ様子が見えた

 

長崎駅へ5年ぶりに訪れて驚いた。これまでの長崎駅は地上駅で、駅前を出ると、長崎電気軌道の長崎駅前電停があったのだが、新たな駅は2020(令和2)年3月28日に西へ150mほど移動し、在来線も高架となっていた。この高架化により在来線の長崎本線の4か所の踏切も閉鎖された。

↑2020年3月まで使われた旧長崎駅。駅の改札口は地上部にあった(左上)。併設のショッピングモールなども再整備が進められていた

 

すでに高架化された駅の下には在来線と新幹線の改札口が用意され、さらに「長崎街道かもめ市場」という名称の大きな土産物街が営業を始めていた。

 

博多駅から長崎駅へはリレー列車+西九州新幹線で、最速1時間20分(武雄温泉駅での乗換え時間も含め)で到着する。現在よりも30分短縮となる。また新大阪〜長崎駅間は3時間59分と30分短くなる。途中の新大村駅や諌早駅、長崎駅と長崎県内の主要駅は新幹線開業の恩恵を受けることになりそうだ。

↑整備が進められる長崎駅東口。これまで駅があった付近の再開発が進められている。路面電車の駅前電停からは右の仮設通路を利用する

 

【西九州新幹線開業⑧】並行する在来線も大きく変わる

西九州新幹線の開業により変わる在来線の変更点もチェックしておきたい。変わるのは長崎本線で、路線の中でも大きく変わるのが肥前浜駅(ひぜんはまえき)〜長崎駅間67.7kmだ。同区間は非電化区間となる。同区間は現在、特急「かもめ」が走っているが、同列車は廃止となる。一方で、肥前浜駅の隣駅、肥前鹿島駅と博多駅を結ぶ特急「かささぎ」が運転される。

 

佐賀と長崎を結ぶ鉄道路線は当初、大村経由で設けられた。開業は1905(明治38)年4月5日までさかのぼる。肥前山口駅〜長崎駅の現在の長崎本線が開業したのは1934(昭和9)年12月1日と、かなり後のことだった。

 

地図を見ると分かるが、沿線には有明海に面した鹿島市以外に大きな町はない。よってJR九州としては、長崎へのメインルートの役目を終わらせ、同区間の路線を非電化にし、気動車を走らせるという選択をした。

↑2018(平成30)年にリニューアルされた肥前浜駅。新幹線開業後は電化・非電化の境界駅になる

 

博多〜佐賀・肥前鹿島間を走る特急「かささぎ」は上り9本、下り8本を運転の予定で、一部の「かささぎ」は門司港・小倉まで走る。また電化・非電化の境界駅となる肥前浜駅では、同一ホームでの電車と気動車列車の対面乗換えが行われるとしている。

 

さらに、佐世保線を走る特急列車の変更も行われる。現在、783系で運行している特急「みどり」は上下32本中、10本が885系で運行となり、時間も短縮され博多〜佐世保間を最速1時間34分で結ばれるようになる。

 

【西九州新幹線開業⑨】沿線からN700S「かもめ」を撮った印象

訪れた7月1日は試運転電車が1時間に1本の割合で運転されていた(日により異なるので注意)。

 

ここではN700S「かもめ」の写真撮影のポイントに関しても触れておきたい。筆者は駆け足で巡ったため、ベストポイントで抑えられたかは疑問である。開業後に再び訪れ、落ち着いて撮影できたらと思う。一応、駆け足ながらと前置きをしつつ、撮影地の印象に関して触れておきたい。

↑武雄温泉駅〜嬉野温泉駅間で。俯瞰するポイントでは、写真のように架線が車体を遮る場所も多く、なかなか撮影が難しい路線と感じた

 

巡った感想としては、同じ九州を走る九州新幹線の印象に近いように感じた。九州新幹線では、線路よりも高い位置に立って見下ろす俯瞰(ふかん)するポイントが多い。西九州新幹線も同様で、撮影可能な場所は、トンネルの出入り口の左右が大半となる。西九州新幹線でトンネルの外に出る高架部分は地上よりもかなり高い位置を走る区間が多い。トンネルの出入り口付近は傾斜地が大半で、近づける場所が限られる。私有地にはもちろん入るわけにはいかず、大概が公道からの撮影となる。

 

他の区間と比べて平坦な地形で、地上を走る区間が長い大村市内には撮影できる場所がいくつかあった。しかし、一部は民家に近い場所があり、そのようなポイントでは同線を造った「鉄道・運輸機構」の名で「この場所で撮影禁止」といった貼り紙もされていた。

 

北海道新幹線のように、民家も少なく観光スポットとして新幹線が見える展望台を造っている例もあるが、西九州新幹線の沿線は人里離れた場所がないだけに、撮影する難しさも感じた。

 

【西九州新幹線開業⑩】帰りは特急「みどり」に乗車してみた

長崎本線の特急「かもめ」は廃止されるものの、博多駅から同じ長崎県内の佐世保駅まで走る特急「みどり」は、新幹線開業後も「みどり(リレーかもめ)」および、博多駅〜早岐駅(はいきえき)間は特急「ハウステンボス(リレーかもめ)」と連結して走る。

 

西九州新幹線の取材ルポの帰り道、佐世保駅から特急「みどり」を利用した。乗車したのは17時42分発の博多駅行き。平日の金曜日夕方発ということもあり、どの駅からどのぐらい乗降客があるか気になった。一部は西九州新幹線の開業後の新幹線「かもめ」や「リレーかもめ」の乗客とかぶると思う。

 

783系は西九州新幹線開業後も走るとされている。車両中央に乗降口がある独特のデザインもなかなかユニークだ。さて、佐世保駅から筆者は指定席の確保を目指したものの、窓側はとれず、通路側の席に座った。ちなみに783系特急「みどり」は4両編成で、7・8号車の2両が自由席、6号車が指定席、5号車が半室グリーン席、半室が指定席となる。自由席は佐世保駅から混みあっていて、ほぼ満席となった。一方、佐世保駅からの指定席の乗車率は3割ぐらいだった。

 

早岐駅では特急「ハウステンボス」の連結作業はなかったものの、進行方向を変えて折り返すこともあり8分間停車する。以降、磁器の町・有田に近い有田駅、武雄温泉駅と停車するが、指定席の乗客は1〜2割増えた程度。乗客の増減よりも気になったのは、佐世保線は単線区間が多く、特急列車でも途中駅で行き違い列車の待ち合わせのために、たびたび停車することだ。

↑博多駅〜佐世保駅間を走る特急「みどり」。「ハウステンボス」と連結せず、「みどり」単独で走る列車も多い

 

特急「リレーかもめ」が走る佐世保線の区間は肥前山口駅(新幹線開業後は「江北駅」と改名予定)〜武雄温泉駅間の5駅(起終点駅を含む)区間のみだが、本数の増加に合わせて途中の大町駅〜高橋駅間の複線化工事が進められ、2月27日から複線の利用が始まった。だが、同5駅区間すべて、複線化されていない。肥前山口駅から先は長崎本線と合流、複線区間となり列車もスピードアップした。

 

乗降客の増減だが、肥前山口駅まで特急「みどり」の指定席は5割埋まるぐらいだったが、佐賀駅に到着して、乗客が急に増えた。筆者が座った席の窓側も佐賀駅で着席がある。この日に乗車した「みどり」の佐賀駅発車は18時56分、博多駅には19時34分に到着する。佐賀駅から特急に乗れば40分かからず博多に着いてしまう。要は佐賀県の県庁所在地である佐賀市は、福岡方面からの通勤・通学圏でもあったのだ。

↑佐賀市の玄関口、佐賀駅。福岡の博多駅までは特急で40分弱の距離で、通勤・通学で長崎本線を利用する人も多い

 

九州新幹線と長崎本線は新鳥栖駅(しんとすえき)で連絡する。西九州新幹線は、車輪の幅が調整できるフリーゲージトレイン(軌間可変電車/FGT)を、狭軌の長崎本線と標準軌の西九州新幹線を通して走らせる計画で始まった。ところが試作車で、技術的な問題点が見つかり、頓挫してしまった。

 

武雄温泉駅〜長崎駅は西九州新幹線としてフル規格の新幹線が走る。新鳥栖駅〜武雄温泉駅間はどのような規格で新幹線を走らせるか、結論は出ておらず工事も進められていない。佐賀県は元々、フリーゲージトレインを走らせることで肥前山口駅〜武雄温泉駅間全線の複線化を希望していた。ところが計画が頓挫し、将来が見通せないこともあり、一部区間の複線化工事のみで工事が停止してしまっている。

 

国としては西九州新幹線の全線フル規格化という思惑がある。一方の佐賀県としては現状の特急で十分で、フル規格化により県内の在来線を不便にしたくない、という思いもあるのだろう。応分の費用負担を求められていることもあり、佐賀県は賛成する気配を見せていない。

 

西九州新幹線の沿線を訪ね、帰りに特急「みどり」に乗車してみて、難しい問題が山積し、結論が出しにくいように感じたのだった。

鉄路が大自然に還っていく!?「根室本線」廃線予定区間を旅する

おもしろローカル線の旅88〈特別編〉〜〜JR北海道・根室本線(北海道)〜〜

 

言い古された言葉ながら「でっかいどお。北海道」地平線まで原野が広がり、サイロがある農家がぽつんと1軒建つ……そんな光景を朝日や夕日が染めていく。北海道のだいご味である素晴らしい景色に出会い感動し、癒される。雄大な北海道のほぼ中央を走る根室本線の一部区間が、いま消えていこうとしている。どのような場所を列車が走っているのか訪れてみた。

 

*取材は2004(平成16)年8月、2009(平成21)年5月、2014(平成26)年7月、2022(令和4)年6月25日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【根室本線の旅①】明治期、路線開業は大自然との戦いだった

JR北海道が2022(令和4)年4月1日に発表した「令和4年度事業計画」の中で次のような一文があった。

 

「持続可能な交通体系の構築については、留萌線(深川〜留萌間)、根室線(富良野〜新得間)の早期の鉄道事業廃止及びバス転換を目指す」とあった。根室本線は「利用が少なく鉄道を持続的に維持する仕組みの構築が必要な線区」としている。

 

根室本線は現在、東鹿越駅(ひがししかごええき)〜新得駅(しんとくえき)41.5kmの間で列車運行が行われておらず、代行バスでの運行が行われている。JR北海道では、不通区間をさらに延長し、富良野駅〜新得駅(路線は上落合信号場まで)81.7km区間の廃止を目指している。富良野駅〜新得駅間はどのような区間なのか、写真を中心に追ってみたい。

 

まずは、根室本線の歴史をひも解いてみよう。廃止が予定されている区間は、大変な苦労の末に先人たちが築いた路線だった。

 

根室本線の起点は函館本線と接続する滝川駅、そして終点は北海道の東端、根室駅へ至る443.8kmの路線である。北海道の鉄道開発は開拓の進行とともに進んでいった。根室本線は道央と道東を結ぶメインルートとして計画され、道東エリアを開発する上で欠かせないルートとされた。同線の計画でネックとなったのが北海道の中央部にそびえる狩勝峠(かりかちとうげ)だった。当時はこの地域は、まさに人跡未踏で探検ルートにされるようなエリアだった。ヒグマやオオカミが多く生息する危険と隣り合わせの場所で、路線造りは困難を極めたとされる。

 

当初の根室本線は、十勝線の名前で旭川駅から路線敷設が進められた。まず富良野駅(当初は下富良野駅)へ到達したのが1900(明治33)8月1日のこと。同年の12月2日まで鹿越駅(しかごええき/廃駅)まで到達。その後に徐々に延ばされ、落合駅まで通じたのが1901(明治34)年9月3日のことだった。この落合駅の東に狩勝峠がある。この狩勝峠の下を通るトンネル工事が岩盤の硬さゆえに困難を極める。苦労の末に狩勝トンネルが開通し、新得駅まで路線が通じたのは1907(明治40)年9月8日のことだった。

↑旧狩勝峠を越える9600形蒸気機関車牽引の貨物列車。長大な編成が根室本線を行き交った(昭和初期の絵葉書/筆者所蔵)

 

さらに滝川駅〜下富良野駅間が1913(大正2)年11月10日に開業した。東端にあたる根室駅まで線路が伸びたのは1921(大正10)年8月5日のこととなる。明治から大正にかけての鉄道工事は、危険をいとわない突貫作業で進められたが、それでも滝川駅〜根室駅間の開業には、20年以上の年月を要したことが分かる。難工事の末に完成した、いわば先人たちの苦労が実った一大路線だったわけである。

 

【根室本線の旅②】ルート変更と石勝線開業で変化が現れる

400kmを越える長大な根室本線を少しでも便利に快適に、また到達時間を短くする工事がその後も進められた。そのひとつが狩勝峠を越える新ルートの建設だった。地図を見ると、旧線は今の国道38号に沿って走っていた。このルートは勾配もきつく、最小180mという半径のカーブが連続する難しい線形で、列車で越えるのは一苦労だった。列車のブレーキが利かなくなり暴走するなどの事故も起きたとされる。

 

この路線を少しでもなだらかに、カーブも緩くした新ルートが1966(昭和41)年10月1日に造られている。峠は新狩勝トンネルで越えた。

 

この新ルートにより列車の運行がスムーズになった。旧狩勝峠の路線は廃線後に、そのカーブや勾配を活かし、狩勝実験線として利用され、その後の車両開発に役立てられている。

 

狩勝峠の新ルートに加えて根室本線を大きく変えたのが1981(昭和56)年10月1日に開業した石勝線(せきしょうせん)だった。石勝線は千歳線の南千歳駅と根室本線の新得駅を結ぶ132.4kmのルートで、北海道の中央部をほぼストレートに通り抜ける。

 

石勝線の開業までは富良野経由で大回りしなければいけなかったが、石勝線に完成により43.4kmものショートカットが可能となった。道央の札幌と、道東の釧路間の特急の到達時間も約1時間短縮された。特急列車の運行だけでなく、貨物列車も石勝線経由の運行に変更されている。

↑旧狩勝峠のルートの途中駅だった新内駅(にいないえき)は、路線廃止後、駅構内には9600形蒸気機関車などが保存されている

 

石勝線が一躍、幹線ルートとなる一方で、富良野を経由した優等列車は一部を除き消滅し、富良野駅〜新得駅間を利用する人は徐々に減っていく。さらに追い討ちをかけるような大きな災害が路線を襲ったのである。

 

【根室本線の旅③】台風により南富良野町内の路線が運転休止に

2016(平成28)年8月31日に列島に上陸した台風10号による豪雨災害は甚大なものとなった。根室本線では富良野駅〜新得駅〜音別駅(おんべつえき)間が不通となった。その年の暮れまでに石勝線トマム駅〜根室本線の音別駅との間は復旧工事が進み、特急の運転が可能となった。ところが、東鹿越駅〜上落合信号場(新狩勝トンネル内の信号場)間では多数の被害箇所が生じてしまい、とてもJR北海道一社では復旧できないと判断され、工事は手付かずの状態になった。そして列車の運行が休止した東鹿越駅〜新得駅の間には2017(平成29)年3月28日から代行バスが運行されるようになった。

↑落合駅〜上落合信号場間の線路の状況。列車が走らなくなり、線路が隠れるほど草木が生え放題に。2022年6月25日撮影

 

JR北海道では「線区別の収支状況」を毎年発表しているが、運行休止後の状況悪化が目立つ。富良野駅〜新得駅間の輸送密度(旅客営業キロ1kmあたりの1日の平均旅客輸送人員)を見ると、運行休止前の2015(平成27)年度の輸送密度が152だったのに対して、2019(令和元)年度が82、最も新しい発表の2021(令和3)年度になると50まで落ち込んでいる。2021(令和3)年度の同区間の営業損益は6億6100万円の赤字と発表された。

 

東鹿越駅〜新得駅間の復旧に関しては、地元自治体との話し合いの場がたびたび持たれた。廃止が予定されている富良野駅〜新得駅(上落合信号場)間の路線と駅は、ほぼ富良野市と南富良野町の2市町の中にある。

 

富良野市、南富良野町の両市町とも、人口減少にあえでいる。富良野市の場合、2000(平成12)年には2万6112人だったのに対して、今年の4月末の人口は2万397人と2万人を割り込みそうだ。一方、南富良野町は2000(平成12)年が3236人だった人口が今年4月には2337人と大幅に減ってきている。過疎化が進み自治体の財政状況も厳しさを増している。昨年11月にJR北海道は、地元自治体に対して鉄道を残す場合には、維持管理費として年間11億円の負担を要請したものの、自治体からは今年の1月に「負担は困難」と回答、鉄道存続が断念されることになった。

 

富良野市、南富良野町ともに、住む人たちの移動はマイカーが基本で、鉄道・バスを利用するのは、中・高校生ら学生がメインとなる。人口減少が著しいこともあり、学生数の増加は見込めない。地方鉄道の難しさが凝縮されたような根室本線の一部廃線化の道筋であった。

 

【根室本線の旅④】たびたび訪れた映画の舞台・幾寅駅はいま?

すでに列車が走らなくなった駅で筆者が良く立ち寄る駅がある。それは幾寅駅(いくとらえき)だ。この幾寅駅は幌舞駅(ほろまいえき)の〝別名〟でも知られている。

 

幾寅駅は1999(平成11)年6月に公開された映画「鉄道員(ぽっぽや)」の舞台として使われた。監督は降旗康男氏、主演は高倉健である。仕事一筋で無骨な鉄道員・佐藤乙松を高倉健が好演した。

 

映画の中で幾寅駅は幌舞駅とされ、行き止まり式のホーム(実際の駅は行き止まりではない)にキハ40形が到着する姿が描かれた。懐中時計を見つつ遅れを気にする健さん演じる幌舞駅長。列車が駅へ到着すると「ほろまい、ほろまい」と駅名を連呼する姿が筆者の記憶にも残っている。

↑幾寅駅の駅舎には幌舞駅という駅名標がかかる。駅舎内には映画「鉄道員(ぽっぽや)」の記念パネルなどが展示されている(右上)

 

↑幾寅駅前には撮影で使われた「だるま食堂」とキハ40形が保存されている。20年以上月日が経ち食堂はだいぶくたびれた趣に

 

幾寅駅は、すでに列車が走らない。今年6月、10年以上ぶりに訪れたが、走らないことにより周囲の自然が駅を飲み込んでいくような印象があった。ちょうど地元の方が草刈りをしていたものの、駅のホームなどの施設も劣化が進んでいた。代行バスが通り、映画ファンたちが多く訪れ、駅は末長く〝幌舞駅〟として残るであろう。だが、幾寅駅としての姿は徐々に消えていき、ホームの案内板などは、見る人もなく風化していくことになりそうだ。

↑2009年に訪れたときと同じ場所で今年撮影、対比してみる。名所案内(左)の表示はすでに文字が消え線路端まで草が忍び寄る

 

【根室本線の旅⑤】富良野駅は観光拠点として活気があるものの

ここからは、現在列車が走るものの、廃線となる予定の区間の沿線や駅を訪ねてみたい。まずは富良野駅から。北海道のほぼ中央にある富良野は、〝北海道のへそ〟とも呼ばれている。富良野、そして北にある美瑛(びえい)にかけては、道内でもトップを争うほどの人気観光地となっていて、6月から7月にかけて、名物のラベンダーが咲くエリアは観光客で賑わう。

 

根室本線の滝川駅〜富良野駅間では、札幌駅から直通で運転される特急「フラノラベンダーエクスプレス」が今年の8月28日まで走る(詳細は後述)。運転にはラベンダーのイメージにあわせたキハ261系5000番台ラベンダー編成が使われている。

↑富良野市の表玄関、富良野駅。根室本線と富良野線の連絡駅でもあり、夏期と冬期の観光時期にはかなりの賑わいを見せる

 

↑ラベンダーの花の色に合わせラベンダー塗装が施されたキハ261系5000番台。夏期は札幌駅〜富良野駅間を1日1往復走っている

 

↑富良野駅で「フラノラベンダーエクスプレス」と「富良野・美瑛ノロッコ号」が並ぶ。列車が到着するとホーム上は観光客で賑わう

 

特急「フラノラベンダーエクスプレス」の運転に合わせて、富良野駅と美瑛駅、旭川駅間を走る「富良野・美瑛ノロッコ号」も8月28日までほぼ毎日に運転されている。詳細は後述するとして、北海道の宝物はやはり観光資源ということがよく分かる両列車である。

 

さて、富良野駅からは根室本線の下り列車が東鹿越駅まで走っている。現在の列車本数は少ない。下り東鹿越駅行きが1日に4本、東鹿越駅発の上り列車は1日に5本だ。すべての列車が東鹿越駅〜新得駅の間で代行バスに連絡している。走るのは朝と、学生たちの帰宅時間に合わせるかのように14時台〜19時台という運転体系となっている。ちなみに同列車は富良野駅〜東鹿越駅間を約45分で走る。

 

【根室本線の旅⑥】人気ドラマの最初の舞台となった布部駅

↑富良野駅の隣の駅、布部駅。駅前の一本松の前に倉本聰さんの「北の国 此処に始る」の案内がかかる

 

富良野駅〜東鹿越駅間を走る列車は、JR北海道のキハ40形で、ほぼ1両で往復している。途中駅の様子を見ていこう。なかなか魅力的な駅が連なる。

 

富良野駅を発車した東鹿越駅行きの列車は、富良野盆地の水田を左右に見て進む。走り始めて約7分、最初の駅、布部駅(ぬのべえき)に到着する。ホーム一面、線路2本の小さな駅だ。駅前に立つ1本の松、その前に木の看板がある。そこには「北の国 此処に始まる」倉本聡とあった。

 

連続ドラマ『北の国から』の主人公らがこの駅に降り立つことから、このドラマが始まった。初回放送は1981(昭和58)年10月9日のことになる。41年前に放送された『北の国から』のドラマが始まった駅がここだったとは、すっかり忘れていた。現地を訪れて改めて駅前に立つと、さだまさしさんが作られた「あ〜ぁ、あぁ……」という歌詞のないドラマの主題歌をつい口ずさんでしまうのだった。

 

ドラマの舞台となった、麓郷(ろくごう)に向けて、かつて東京帝国大学(現・東京大学)の北海道演習林用の森林軌道線が走っていたとされる。1927(昭和2)年から1947(昭和22)年まで走ったそうだが、今はその面影はない。だが、地元を走る道道544号線が「麓郷山部停車場線」の通称名があるように、この道が森林軌道線の走っていた跡と思われる。

 

【根室本線の旅⑦】ルピナスの群生に大感動の新金山駅

布部駅の先、国道237号がより近づいて走るようになる。国道が根室本線をまたいだら、まもなく山部駅(やまべえき)だ。富良野駅〜東鹿越駅の間では駅周辺に最も民家がある駅だ。それでも駅前通りに商店はなく閑散としている。北海道では都市部の主要駅を除いて駅前商店のない駅が目立つ。やはり列車で通勤する人がほぼいないせいなのであろう。

 

さて、山部駅から南下した根室本線の車窓から川の流れが見えてくる。こちらは空知川(そらちがわ)で、この川と国道に沿って山間部を抜ければ南富良野町へ入る。そして最初の駅が下金山駅(しもかなやまえき)だ。この駅、初夏は花の名所になっている。

↑線路沿いに咲くルピナス。7月上旬までが見ごろだとされる。ルピナスの群生地が道内各所にあるが線路端に咲く所は珍しい

 

下金山には誰が植えたのかルピナスが群生していて、6月下旬から7月上旬にかけてピンクや紫色の花を咲かせる。廃線になったら、二度と見ることができなくなる列車とルピナスの花を見て、良い思い出ができたように感じた。

 

下金山駅にも布部駅と同じように、1952(昭和27)まで東京大学農学部北海道演習林用の森林鉄道が設けられていた。駅の北側には貯木場があったそうである。予想以上に駅構内が広いのはそうした森林鉄道があった名残なのだろう。ただし駅構内が広いだけで、森林鉄道の痕跡は何も残っていない。

 

撮影に訪れた日の17時11分着の下り列車から降りた乗客は学生1人。森林鉄道が原野の中に消えていったように、根室本線の思い出も、廃線になって時がたてば、風化していってしまうものかもしれない。

↑ルピナスの花畑の中を走る根室本線の下り列車。こうした美しい光景も近いうちに見られなくなりそうだ

 

【根室本線の旅⑧】金山駅はすでに駅名標が無かったものの

下金山駅を発車した列車は国道237号沿いに走り、空知川を2本の橋梁で渡る。2本の橋梁とも赤く塗られたガーダー橋で、渡る列車が絵になる。このあたりになると建ち並ぶ民家も減っていき、山の中に入ってきたことが強く感じられる。

 

国道沿いにある金山の集落を過ぎたところに金山駅がある。こちらにも他にない〝お宝〟があった。まず駅舎の入口にあるはずの金山駅という駅名標がもうなかった。ホーム側には付いているのだが、駅名標を掲げていないのは、駅名を知っている人しかふだんは乗降しないからなのだろう。

↑表に駅名標がない金山駅。駅舎横にはレンガ造りの「ランプ小屋」が残される。廃駅となった後、このランプ小屋はどうなるのだろう

 

駅舎の近くにレンガ建ての古い「ランプ小屋」が残されていた。ランプ小屋とは灯油などを保管した危険物収納倉庫のこと。電気照明がなかった客車には室内灯としてランプが天井からつるされていた。1900(明治33)年12月2日と富良野駅(開設当時の「下富良野駅」)と並び根室本線の中で最も古い時代に開設された金山駅には、ランプ用の灯油などを保管する施設が必要だったということが分かる。

 

こちらにも1958(昭和33)年まで金山森林鉄道という森林鉄道が走っていたそうだ。場内に上り下り交換設備などもある広い金山駅だが、まったく人の気配がない駅で、かつての栄光の時代を考えると、かなり寂しく感じられた。

↑現在の終着駅、東鹿越駅は民家もない静かな湖畔の駅。ここから先は、新得駅まで代行バス(右)が運行されている

 

金山駅を過ぎると路線は山中へ入る。今、運転される金山駅〜東鹿越駅間は、路線の開設当初とは異なっている。路線と並行して流れる空知川に金山ダムという多目的ダムが造られたためで、現在は「かなやま湖」の湖底に沈んだところに鹿越駅(しかごええき)という駅があった。ダムが造られたことによる水没した地区には261世帯700人が住んでいたというから、現在の「かなやま湖」の湖底には、大規模な集落が広がっていたわけだ。

 

かなやま湖を見下ろす高台に路線は移され、現在の終着駅である東鹿越駅が設けられた。今、駅を取り巻く施設は木材関係のプラント工場のみで民家はない。終着駅というにはあまりに寂しい駅である。

 

かなやま湖畔のレジャー施設は、駅の対岸エリアにあり、駅からはかなり遠い。この1つ先の駅が前述した幾寅駅で、こちらのほうが南富良野町の中心部にあたる。2016(平成28)年8月末の台風災害により大規模な土砂崩れが起こり、路線は寸断されてしまった。幾寅駅まで通じていれば、まだ救いがあったのかも知れない。現在の東鹿越駅の静けさを思うと、残念でしかたがない。

 

【根室本線の旅⑨】末端の〝花咲線〟は乗車客も多めだった

根室本線の富良野駅〜新得駅間は一部が代行バスによって運行され、かろうじて存続されている。しかし、近いうちに廃止される。ところで、根室本線の他の線区の存続は大丈夫なのだろうか。

 

石勝線を含め、新得駅〜釧路駅間は特急列車が走る幹線として機能している。釧路駅〜根室駅間はどうなのだろう。筆者は最東端区間への興味もあり、別名・花咲線とも呼ばれる釧路駅〜根室駅間を訪れてみた。

 

釧路駅〜根室駅間は135.4kmある。特急列車は走っていない。現在は釧路駅発列車が1日に8本、うち夜に走る列車2本は、途中の厚岸駅(あっけしえき)止まり。上りは同じく8本で、朝と夜の2本は厚岸駅〜釧路駅間を走る。要は釧路駅〜根室駅間を走る列車は1日に6往復ということになる。往復6往復のうち一部駅を通過する快速列車「はまさき」と「ノサップ」(下りのみ)が走る。釧路駅〜根室駅間は約2時間半弱とかなりかかる。

 

この路線には、列島の最東端にあたる鉄道の駅・東根室駅と、最東端の有人駅である終着駅の根室駅がある。ともに最果ての駅である。この花咲線の列車はどのような具合なのだろうか。

 

訪れてみると、意外に週末の列車の乗車率が高めだった。例えば、釧路駅始発の下り列車の乗車率は7割ぐらい、さらに根室駅折返し8時24分発の発車時間が近づくと、改札口には30人近くの乗客の列ができていた。とはいえ、1両のみの運行が主なので、乗る人が多いとはいっても延べ乗客数ともなると限りがあるのだが。

↑日本最東端の駅・東根室駅付近を走る花咲線の列車。キハ54形が一両で運行されている。写真は朝一番に走る「快速はなさき」

 

終点の根室駅の駅スタッフに聞いてみると、「週末はいつもこんな感じです」とのことだった。多くが鉄道ファンらしき様子。ただし、釧路駅から始発列車でやってきて、そのままの折返し列車に乗って戻る人の姿が多かった。

 

花咲線の〝盛況〟ぶりは、鉄道ファン効果が大きいように思えた。でも、せっかく根室駅まで乗ってきているのだから、根室駅から東端の納沙布岬をバスで目指すなり、根室市の観光をしても良いのではないだろうかと思った。乗車するのは路線存続のために良いことだと思うのだが、どうも鉄道ファン(筆者も含めてだが)は、一般の観光に興味を示さない人が多いようである。

↑日本列島の最東端にあたる根室本線の東根室駅。住宅地が周囲に建ち並び、最果て感はあまり感じない駅だった

 

前述したJR北海道が発表した2021(令和3)年度の「線区別の収支状況」を見ると花咲線の輸送密度は174で、富良野駅〜新得駅間に比べると3倍の数字が出ている。とはいえ路線距離が長いためか、営業損益は11億6000万円の赤字となる。

 

赤字にはなっているものの、根室という東端の町まで通じる路線ということで、国防という意味合いでも路線を存続させる意味は大きいのであろう。富良野駅〜新得駅間とはちょっと状況が異なるようにも感じた

 

【根室本線の旅⑩】北海道の宝物を見事に生かす2本の観光列車

根室本線の富良野駅〜新得駅の現地を訪れてみて、乗客も少なく、また住む人も徐々に減ってきていて、廃止は致し方ないように感じた。国や道が支援をしない限り、JR北海道一社や地元自治体の力ではどうにもならないように思う。こうした北海道の閑散地区の鉄道はどう残していけば良いのだろうか。好例を、富良野および釧路で見ることができた。

 

富良野や釧路では人気の観光列車が走っている。まずは、富良野線の旭川駅〜美瑛駅〜富良野駅を走る「富良野・美瑛ノロッコ号」。今年は6月11日(土)から走り始め、6月18日(土)〜8月14日(日)までは毎日、8月20日(土)〜8月28日までの土日に走る。運賃プラス840円の指定席料金で利用できる(乗車証明書付き)。列車は旭川駅〜富良野駅間が1往復、美瑛駅〜富良野駅間を2往復走る。運行中にはラベンダー畑で有名な「ファーム富田」の最寄りに「ラベンダー畑」という臨時駅も開設される。

 

ラベンダー畑駅で乗車する利用者の様子を見ていたところ、個人客よりも団体客の乗車が目立った。ラベンダー畑駅から美瑛駅までの乗車時間は約30分、富良野駅までは約25分。美瑛駅や富良野駅へ観光バスが先回りし、団体客を乗せてパッチワークの丘等の人気スポットを巡るのであろう。

↑人気の観光農園のラベンダー畑越しに「富良野・美瑛ノロッコ号」(右下は先頭機関車)と十勝岳を望む

 

一方の釧路では釧網本線の釧路駅〜塘路駅(とうろえき)間を「くしろ湿原ノロッコ号」が走っている。こちらの今年の運行は4月29日から始まり、5月のGW期間中、さらに5月28日(土)からはほぼ毎日、10月10日(祝日)に1往復、夏休みなどは2往復が運転される。一部の日は川湯温泉駅まで延長しての運転もある。この列車も運賃プラス指定席券840円が必要となる。

 

釧路駅から塘路駅までは約45分で、クルマでは入ることができない釧路湿原の魅力が観光列車の車内から楽しむことができる。運転日に塘路駅に訪れると、駅前で観光バスが数台、観光列車の到着を待っていた。これから先の道東観光の続きを、観光バスで楽しもうということなのだろう。

↑根室本線の釧路川橋梁を渡る「くしろ湿原ノロッコ号」。列車はDE10形(左上)と510系客車との組み合わせで走る

 

両列車の運行で良く分かったのは、観光バスとのコラボがより効率的で好まれているということ。さらに一般の利用者は長時間の乗車ではなく、最大45分ぐらいまでの乗車が飽きずに手軽ということなのだろう。さすがに花咲線のように2時間半の乗車となると、かなりの鉄道好きでないとつらいということなのかもしれない。

 

これらの観光列車は、北海道の最大のお宝である観光資源を上手く生かしている列車のように感じた。コロナ禍前に「富良野・美瑛ノロッコ号」は訪日外国人たちでかなりの賑わいをみせていた。今後、どのような人気観光列車を造り、活かしていくかが北海道の路線存続にとって大きいと思われた。

 

JR北海道では近年、廃止路線が毎年のように出てきている。2019(平成31)年4月1日には夕張支線が、2020(令和2)年4月には札沼線(さっしょうせん)の北海道医療大学駅〜新十津川駅間が廃止となった。2021(令和3)年4月1日には、日高本線の鵡川駅(むかわえき)〜様似駅(さまにえき)間が、根室本線と同じように災害による土砂流出による路線不通のまま、復旧することなく廃止に追いやられた。

↑キハ40形で運行される富良野駅発、東鹿越駅行き列車。北海道の自然に包まれ静かに走り去る。寂寥感に身が包まれる思いだった

 

さて根室本線の廃止はいつになるのだろう。札沼線廃止の時に、コロナ禍もあり、残念なことに混乱が起きてしまった。沿線は消えて行く列車に乗ろうとファンが殺到した。こうした前例があるせいなのか、今回巡った根室本線の富良野駅〜新得駅は廃止が決まっているものの、JR北海道からは運行終了日が発表されていない。

 

とはいえ、それほど先のことではないようだ。廃線となると札沼線であったように、最後の乗車をしよう、と訪れる人が極端に増える。札沼線の場合には、混乱を避けるために最終運転日を切り上げることになり、予定通りの最終日までの運行が敵わなかった。コロナ禍も引き続いているため、鉄道会社としては密を避けたいという思いが強いであろう。

 

鉄道ファンが集中すると、日ごろ乗車してきた利用者に迷惑がかかることになる。同じファンとして乗りたい気持ちも分からないわけではないが、長年の列車運行を感謝するとともに、静かに見守ることこそ、鉄道好きの〝使命〟なのではないだろうか。

 

120年以上前に先人たちによって作られた鉄路は、北海道の大自然のなかに静かにのみ込まれ、深い緑の中に再び還っていくことになる。

SL列車だけではない!「真岡鐵道」貴重なお宝発見の旅

おもしろローカル線の旅87〜〜真岡鐵道真岡線(茨城県・栃木県)〜〜

 

茨城県の下館(しもだて)駅と栃木県の茂木(もてぎ)駅を結ぶ真岡(もおか)鐵道真岡線。28年にわたりSL列車が走り、沿線に陶器の町、益子(ましこ)があり訪れる観光客も多い。

 

これまで真岡線に乗った経験があり、良く知っているという方も多いのではないだろうか。筆者も似たような思いを持っていた。だが、細かく乗り歩いて見聞きすると、多くのお宝が眠っていたことが良く分かったのだった。

 

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【真岡線に乗る①】開業したころの真岡線の絵葉書を見ると

最初に真岡線の概要を見ておこう。

路線と距離 真岡鐵道・真岡線/下館駅〜茂木駅間41.9km
開業 1912(明治45)4月1日、官営鉄道の真岡軽便線として下館駅〜真岡(もうか/1988年「もおか」に読み変更)駅間が開業。
1920(大正9)年12月15日、茂木駅まで延伸開業。
駅数 17駅(起終点駅を含む)

 

現在の真岡鐵道の元となった真岡線の歴史は古い。明治の終わりには一部区間ではあるものの下館駅〜真岡駅間が開業している。筆者の手元に古い絵葉書がある。真岡線の七井駅の絵葉書で、古い機関車と駅舎が写り込んでいる。

↑七井駅の大正時代の絵葉書。ホームに停車するのは600形蒸気機関車。絵葉書は筆者所蔵(禁無断転載)

 

七井駅が開業したのは1913(大正2)年7月11日のことなので、絵葉書はそれ以降ののものだと思われる。目を凝らしてみると駅舎の手前に撮影を見守る鈴なりの子どもたちの姿が写り込んでいる。汽車が珍しいのか、写真撮影が珍しいのだろうか。絵葉書に写る汽車や駅舎の形も気になるものの、むしろこの時代の子どもたちが何を見物に来ていたのか興味深い。

 

ちなみに、写っているのは600形機関車と呼ばれる車両で、その612号機。導入したのは東北本線などを建設した日本鉄道で、1890(明治23)年にイギリスのナスミス・ウィルソンという会社が製造したものだった。612号機は真岡線などを走った後、現在の湖西線の前身である江若鉄道(こうじゃくてつどう)に引き取られたとされる。

 

【真岡線に乗る②】2県をまたがる路線ゆえの難しい問題も

真岡軽便線は1922(大正11)9月2日に真岡線と改称される。最盛期は1960年代前半で、上野駅から真岡線へ直通で走る準急「つくばね」が運転された。その後に急行に格上げされたが、1968(昭和43)年に乗り入れが終了となっている。国鉄の路線だった当時から「地域の流動に合わない線形」が問題視された。

通勤や通学は、住んでいる県内で動く傾向が強い。真岡線は下館駅からひぐち駅は茨城県内、久下田駅(くげたえき)から終点の茂木駅までは栃木県内に駅がある。沿線では真岡市が最大の都市となるが、市の調査でも栃木県内での通勤・通学が多く、県をまたいで下館へ出る人は少ない。

 

要は県内での移動が主流で、県をまたいで移動する人は多くないということだ。そのため国鉄当時には、県庁のある宇都宮市との路線新設も計画されたこともあったが実ることはなかった。

 

この線形の問題が国鉄時代に収益悪化にもつながる。真岡線は国鉄時代に特定地方交通線に指定され、JR民営化でJR東日本・真岡線になった1年後の1988(昭和63)年4月11日に真岡鐵道に転換された。

 

現在、真岡鐵道は栃木県と真岡市、茨城県筑西市(ちくせいし)などが主要株主となり第三セクター経営の鉄道会社として運営が続けられている。

 

【真岡線に乗る③】モオカ14形とC12形に加えて

真岡鐵道の車両をここで見ておこう。ここならではのお宝もある。まずはSLもおかの牽引機が欠かせないだろう。

 

◆C12形蒸気機関車66号機

C12形は後ろに石炭や水を積んだテンダーを連結しないタンク式蒸気機関車で、主にローカル線で使われた。真岡鐵道を走るC12形の66号機は1933(昭和8)年11月29日、日立製作所笠戸工場(山口県)で製造された。当初は指宿線(現・指宿枕崎線)で走った後に、東北の小牛田、宮古、釜石、弘前機関区と移る。その後、信州、東北の会津若松と移った引っ越しの多い機関車であった。最後は福島県の川俣線(廃線)の岩代川俣駅(廃駅)まで走り、近隣の団地内で保存された。

↑タンク式蒸気機関車C12形が牽引する「SLもおか」。国内で唯一のC12形の動態保存車両でもある

 

その後に真岡鐵道がSL観光列車の運転を企画していたことから1993(平成5)年から動態復元工事が行われ、翌年の3月27日から「SLもおか」の牽引機として走り始めた。いま、実際にボイラーが生きていて、列車を牽引することができるC12形蒸気機関車は真岡鐵道の66号機のみとなっている。

 

◆50系客車

SLもおかの運行に使われる50系客車はJR東日本から譲りうけたもので、形式名オハ50形2両、オハフ50形1両が使われる。

 

50系は旧型客車と呼ばれた戦前戦後から残る古いタイプの客車を、安全性や居住性という面から刷新した車両で、1977(昭和52)年から1982(昭和57)年にかけて900両以上が製造された。その後に客車列車が淘汰されたことと、一部残った車両は観光列車用に、大幅に改造されて使われたものが多かったこともあり、50系の原形をとどめた車両は今や貴重となっている。つまり、SLもおかに使われる蒸気機関車と客車は、すでに〝お宝〟級の珍しい車両なのだ。

↑SLもおかの客車は国鉄形50系。こげ茶色の塗装で、赤い帯を巻いている。50系の原形をとどめた車両で今や貴重になっている

 

◆モオカ14形

2002(平成14)年から導入が始められた気動車で、現在の列車はこの車両が1両、もしくは2両での運行が行われている。

 

製造は当初は富士重工業だったものの、同社が鉄道車両事業から撤退したことから3号車以降は日本車輌製造が行っている。ちなみに14形の「14」は平成14年から導入されたことによる。座席はロングシート仕様が多いが、一部の車輌はセミクロスシート仕様となっている。

↑モオカ14形は9両が製造された。富士重工業社製は前照灯が中央上部に(左上)。日本車輌製造製は前照灯が上部左右に付く

 

◆DE10形ディーゼル機関車

SLもおかの運転時に、車庫がある真岡駅から下館駅へ客車と蒸気機関車を牽引。またSLもおかの運転終了時に下館駅から真岡駅へ戻る列車(通常列車として営業運行)の牽引を行う。このDE10形1535号機はJR東日本から2004(平成16)年8月に譲り受けたもの。JR貨物やJR旅客各社で今も使われているDE10形だが、急激に車両数が減ってきている。真岡鐵道のDE10も近いうち、希少車両となっていきそうだ。

↑SLもおかの運転終了後、真岡駅の基地へ戻る列車を牽引するDE10形1535号機。国鉄の原色塗装が保たれている

 

他に触れておかなければいけないのは蒸気機関車C11形325号機のことだろう。1998(平成10)年9月に動態復元工事が行われ、その年から真岡鐵道をSLもおかとして走っただけでなく、JR東日本にも貸し出された。SL列車の利用者の減少などの理由から、真岡鐵道での維持が難しくなり、2020(令和2)年に東武鉄道へ譲渡された。東武鉄道では鬼怒川線を走るSL大樹の牽引機となり、早速、2機体制で走り始めている。

 

C11形とC12形の2両で列車を牽引する姿は人気だっただけに、手放さざるを得なかった同社の苦悩を思うとつらいところである。

↑真岡鐵道の所有機だった当時のC11形325号機。C12形との重連運転が行われる日はかなりの賑わいを見せた

 

【真岡線に乗る④】起点の下館駅は水戸線と関東鉄道の連絡駅

さて、ここからは真岡線の旅を始めてみたい。真岡線の起点は下館駅となる。下館駅は茨城県の筑西市の表玄関で、JR水戸線と、関東鉄道常総線との連絡駅となる。

 

列車は朝と夕方を除き1時間に1本の割合で、ほとんどが終点の茂木駅行き。所要時間は下館駅から真岡駅まで約30分、茂木駅までは約1時間15分ほどかかる。なお、SLもおかの運転日は土日祝日が中心で、2022年は12月25日まで運転の予定だ。SLもおかの乗車には運賃に加えて整理券(大人500円、小人250円)が必要となる。

 

真岡線の旅で注意したいことがある。ランチをどこで食べるか、また弁当などをどこで購入するかである。特に親子づれなどでは切実な問題となりそうだ。

↑下館駅の北口。JR水戸線の改札がある。同改札から入り西側にある1番線が真岡線の乗り場となる(右下)

 

駅前にコンビニなどの売店がある駅は限られる。起点となる下館駅も例外ではない。駅のコンビニは平日の朝方のみ、土日・祝日は休業となる。北口駅前には大規模商業施設の建物があるのだが、10年ほど前にショッピングセンターが退店してしまい、現在は筑西市役所となっている。日中に営業の飲食店もほぼない。駅近くに飲食店があるのは真岡駅と茂木駅ぐらいなので注意したい。

 

下館駅を発車する真岡線のみならず、水戸線を含め鉄道の利用者が減少していることを痛感してしまうのである。

 

真岡線の乗車券は、下館駅の窓口でも購入可能だが、SLもおかが走る日には真岡線が発車する1番ホームに真岡鐵道のスタッフが配置されているので、こちらでの購入も可能だ。ただ、益子などでのイベント開催日は、混みあうことがあり、事前に乗車券を購入しておいた方が賢明だ。また、土・日曜、祝日、年末年始などに有効な関東鉄道と真岡鐵道(下館駅〜益子駅間のみ)の共通1日自由きっぷ(大人2300円)が用意されている。関東鉄道と真岡線を通して利用する場合に便利だ。

 

行き止まりの1番線ホームに停車しているのはモオカ14形。訪れた日は益子でイベントの開催があり、早朝から立ち客が出るほどの盛況ぶりだった。ディーゼルカーらしいエンジン音を奏でつつ出発する。水戸線と並行して西へ。そして右へカーブして、水戸線から離れて行く。

↑ひぐち駅へ進入する普通列車モオカ14形。この駅の北側でまもなく栃木県へと入る

 

しばらくは筑西市の住宅街を見ての走行となる。水田風景が見えてきたら、下館二高前駅へ。こちらは真岡鐵道に転換された日にできた駅だ。駅のすぐ近くに中学校と高等学校がある。通学での利用者が予測できたのに、なぜ国鉄の時代に駅を造らなかったのか疑問である。こうした事実を知ると、国鉄時代にもっと利用者のことを考えた細かな鉄道営業をしておけば、まったく違った道が描けたのではないのだろうかと思ってしまう。

 

下館二高前駅を発車すると左手に大きな通りが見えてくる。こちらは国道294号で、真岡鐵道とほぼ並行して走る通りで、付かず離れず茂木近くまでほぼ並行して走る。国道294号は千葉県柏市から福島県の会津若松を結ぶ主要国道だ。この国道沿いに町が発達してきた。

 

次の折本駅も国道の横にあり、その次のひぐち駅も国道にほど近い。このひぐち駅だが、こちらも真岡鐵道となった後の1992(平成4)年開業と比較的新しい駅だ。駅開設時に秩父鉄道の樋口駅と混同を避けるためにひらがな表記とされた。

 

【真岡線に乗る⑤】茨城と栃木の県境にある久下田駅

ひぐち駅の次は久下田駅で、ここから栃木県内の駅となる。真岡線の茨城県の駅は4駅のみで、残り13駅は栃木県内の駅となる。国鉄時代に宇都宮と結びつけるプランも提案されたというから、こうした2県をまたがる路線の難しさというのは、当時から頭が痛い問題だったのだろう。

↑久下田駅から栃木県内の駅となる。1996(平成8)年に現在の立派な造りの駅に建替えられたが、現在は無人駅となっている

 

地図で見ると、久下田駅から栃木県に入るのだが、路線が県境上にあることがわかる。西側の駅出口は栃木県真岡市、線路の東側は茨城県筑西市樋口で、駅舎は西口にあたる栃木県側にある。駅の東側・茨城県側に入口はない。そのために筑西市に住む人たちは、真岡線利用の際にはぐるりと北に回って踏切を渡り、栃木県に入って列車に乗車することなる。茨城県内に住む人たちにとっては厄介な駅の造りとなっているわけだ。

 

【真岡線に乗る⑥】路線で最も賑わう真岡駅とSLキューロク館

真岡市内へ入った真岡線。寺内駅を過ぎれば民家も徐々に増えていき、沿線で一番大きな町の真岡市の玄関駅でもある真岡駅へ到着する。この駅は初めて降りるとややビックリする。駅舎は大きなSLの姿で、入口付近は車輪のデザイン、屋上には前照灯まで付けられる凝りようだ。

↑真岡駅の駅舎。SLの姿が再現されている。真岡鐵道の本社も同駅舎内にある

 

駅の構内に真岡線の車庫があり、モオカ14形が多く停車していたり、SL列車が走らない平日は、蒸気機関車が休息していたりする。車庫には検修庫があり、転車台もあって車両の方向転換が可能になっている。

 

駅舎の南側に隣接して設けられているのが「SLキューロク館」で2013(平成25)年に〝SLが走る町の拠点施設〟として開設された。

 

〝キューロク〟とは大正時代に造られた9600形の愛称で、同館にもその1両である49671号機とD51形蒸気機関車146号機の2両が保存されていて、両機とも圧縮空気により自走できるように整備されている。ほかにも、ここにはお宝車両が多く保存されている。

↑真岡駅(左)と「SLキューロク館」を並べて撮ると、巨大なSLが並ぶように見える。中央に見えるのがD51形146号機

 

圧縮空気により動く9600形とD51形、9600形は車掌車ヨ8000形貨車と連結して運行し、この車掌車への乗車体験や、またD51形は運転体験会も行われる(現在、運転体験会は休止中)。こうした〝イベント〟やグッズなどを除き、無料で入場できるのもうれしい。そのせいもあるのか、週末は多くの親子連れで賑わっている。

 

鉄道好きには、屋内外に珍しい車両が保存されているところも見逃せない。まずは館内に青い客車。こちらは「スハフ44形」で、急行「ニセコ」などの客車として活躍したもの。屋外には無蓋車や木造の有蓋貨物車などが保存される。中でも「ワ11形木造有蓋貨物車」が珍しい。戦前に地方私鉄向けに造られた有蓋の木造貨車で、現存する最も古い車両の1両となっている。車掌が乗り貨物も積めた「ワフ15形貨物緩急車」も他で見ることができない車両である。

↑車掌車ヨ8000形貨車(左端)と連結した9600形蒸気機関車。車掌車との連結走行への乗車も楽しめる(有料)

 

貴重な車両が多く保存されるキューロク館だが、同じ真岡駅構内で気になったことがあった。線路を挟んで、西側にディーゼル機関車や気動車、貨車など何台か留置されている。そこに今やあまり見かけることのない車掌車が3両おかれている。こちらは長らく、屋外に置かれているせいか、一部は天井が抜け落ちていた。こうした車両の保存というのは、非常にお金がかかるし、手間がかかるもの。キューロク館に保存されている車両で精いっぱいというところなのかもしれない。

 

【真岡線に乗る⑦】のどかさが半端ない西田井駅周辺

真岡駅で、つい時間をかけすぎてしまった。先を急ごう。この先、益子駅までは15分、終点の茂木駅までは約40分かかる。ただし、つい立ち寄りたくなる駅も多い。

 

真岡駅の1つ先が北真岡駅。こちらは春先には菜の花と桜が一緒に撮影できるポイントがあり賑わう。数年前に地元の人たちが丹精込めて植えた菜の花が踏みつけられ、無断駐車も問題視された。地元の観光PRの一環であるのに、トラブルが出てしまうところが、非常に残念である。2022年にはコロナ禍で桜の時期に開かれる「一万本さくら祭り」も中止になった。2023年以降の動向が気になるところだ。

 

さて北真岡駅を過ぎると、一面の田園風景が広がる。次の西田井駅(にしだいえき)まで絵になる所が多い。

↑北真岡駅〜西田井駅間は田園風景のなか線路がまっすぐに延びていて絵になる

 

次の西田井駅は筆者がよく途中下車する駅である。とにかくのどかだ。北真岡駅方面へ徒歩5分あまり歩いたエリアには、広々した田園地帯が広がり、路線の両側を細い道が並行するため撮影もしやすい。田園地帯まで行く途中に気になる古い鉄橋を見つけた。その話は後ほどということで、駅に戻る。

↑西田井駅のホームそばに広がる西田井駅前公園。大きな池ではないが、釣り人も複数人訪れている姿が見られた

 

写真撮影を済ませ駅で次の列車を待つ。ホーム横に西田井駅前公園という池のある公園が広がり、つい気になってしまう。釣り糸をたれている人がちらほら。イヌとのんびり散歩する人も見かける。とてものどかで、癒される風景が広がっているのである。

 

【真岡線に乗る⑧】焼き物の町ながら駅から離れるのが難点

西田井駅を過ぎたら益子駅ももうすぐだ。陶器市などのイベントがある日には、この駅まで乗車する人が非常に多くなる。

 

残念なのは駅から陶器専門店が多くある城内坂(じょうないざか)まで約1.5kmの距離があること。筆者はいつもこの距離でめげてしまうのだった。ちなみに、陶器市は春と秋に開催されている。春はGW前後で、秋の陶器市は2022(令和4)年の場合11月3日〜7日の予定となっている。同期間、手ごろな価格で陶器が販売されるので、お好きな方は訪ねてみてはいかがだろう。

↑益子駅を発車する茂木駅行き列車。駅舎はツインタワーが建つ造り(右上)。関東の駅百選にも選ばれた

 

【真岡線に乗る⑨】茂木駅の先の未成線跡が整備されていた

益子駅を発車した列車は、左手に広がる田畑風景を見ながら北上する。七井駅、多田羅駅(たたらえき)と進むうちに、徐々に車窓風景がかわっていき屋敷林や丘陵が見えるようになる。市塙駅(いちはなえき)の先で、路線は大きく右カーブを描く。左右に丘陵が連なり、はさまれるように水田が広がる。進行方向、右側の丘の麓を真岡線がたどり、左の丘の麓を県道宇都宮茂木線がたどる。

 

笹原田駅(ささはらだえき)、天矢場駅(てんやばえき)といずれも1992(平成4)年3月14日に誕生したホーム1つの小さな駅で、駅周辺に民家はあまりない静かな駅である。天矢場駅からは国道123号が真岡線と並行して走るようになる。国道を陸橋で越えると右に見えてくるのが「道の駅もてぎ」。ここは週末になると駐車場がほぼいっぱいになる人気の道の駅で、この近くで、SLもおかの姿を撮影しようとカメラを構える人も多い。

↑道の駅もてぎの緑を背景に走るSLもおか。ここを通過すれば、終点の茂木駅も近い

 

余談ながら、栃木県の自動車の普及率は例年97%前後をしめし、この数字は全国トップクラスとなる。茨城県も同県と似た数字が出ている。世帯当たりの台数は茨城県が全国2位の1.565台、栃木県が全国3位の1.581台となる(2021年、自動車検査登録情報協会調べ)。ちなみに1位は群馬県だ。北関東3県では通勤・通学でマイカーを使う世帯が多いことを物語る。

 

マイカーに慣れてしまうと、あえて鉄道に……とはなりにくいのであろう。さらに県の中心の宇都宮市方面に真岡線の路線は通じていない。このあたりの路線営業の難しさが感じられてしまう。せめて首都圏から真岡線を楽しみに訪れる方は真岡線に少しでも乗っていただけるようお勧めしたい。道の駅の駐車場の混雑ぶりを見ながら、そんなことをふと思うのだった。

↑茂木駅の駅構内にはSLが方向転換するための転車台(左下)がある。駅前からは本数は少ないが宇都宮方面行きバスも出ている

 

列車は終点の茂木駅へ到着。この茂木は、明治期にたばこ産業の発展した町で、最盛期には7つの葉たばこの委託工場があり4000人に上る従業員が勤めたとされる。当時に造られた土蔵造りの商家も残る。駅の近辺には飲食店もありランチ時に便利だ。

 

さて、茂木駅で気になるパンフレットを見つけた。「未成線の旅へようこそ!」というタイトルが付けられたパンフレットで、地元の茂木町役場商工観光課と茂木町観光協会が制作していた。茂木駅の先には、蒸気機関車が転車台で方向転換するために、わずかだが線路が延びている。その先は今どうなっているのだろう。足を向けてみた。

↑茂木駅の北側に延びた線路の先は未成線跡として一部、整備されていた。「未成線へようこそ」という案内も立つ(右上)

 

真岡線の線路の車止めの先に、元線路跡らしき敷地がきれいに整備されていた。真岡線の先は路線計画が戦前に立てられていた。国によって1922(大正11)年4月11日に公布・施行された「鉄道敷設法」には、第38号として茂木駅と水戸を結ぶ路線計画が立てられていた。この路線は長倉線という名前で呼ばれ、実際に1937(昭和12)年3月に着工されていた。1940(昭和15)年にはレール敷設も始められていたとされる。ところが太平洋戦争が始まり工事は中断、敷設されたレールも外されてしまったのである。

 

前述したパンフレットでは、那珂川に近い下野中川駅(しもつけなかがわえき/栃木県茂木町河井)まで建設された5.7km区間が〝未成線ハイキングコース〟として紹介されていた。茂木駅に近いところは、あくまで出発地点にあたるポイントだが、一部が整備されていたというわけである。茂木駅からは、JR烏山線の終点、烏山駅まで線路を延ばす計画もあったとされる。たらればながら、これらの未成線ができていたら、真岡線も異なる姿になっていたかもしれない。

 

【真岡線に乗る⑩】花と絡めて列車を撮影しておきたい

さて、ここからは真岡線沿線のお宝を改めて確認しておきたい。前述したようにまずはC12形蒸気機関車と50系客車が挙げられるであろう。真岡駅の「SLキューロク館」で保存される車両群は希少なものが多い。また西田井駅近くなどの田園風景などもお宝に加えて良いかも知れない。

 

さらに筆者があげておきたいのは、花景色だ。本原稿では写真に含めなかったが、早春の北真岡駅近くの桜と菜の花は人気が高い。ほかにも規模は小さいものの花々を絡めて写真撮影できるところが多々ある。早秋ならば沿線の秋桜が見事だ。みな地元の方が丹精込めて植えたものが多いので、大事にして撮影したいと思う。

↑多田羅駅近くの秋桜畑は人気のスポット。写真は9月末撮影のもの。こうした花々は年によって様子が変わることがあり注意したい

 

↑西田井駅のそばで線路端の草花と絡めてみた。緑豊かな真岡線はこうした構図づくりに困らない路線でもある

 

【真岡線に乗る⑪】鉄橋など古い施設こそ真岡鐵道のお宝

真岡線のお宝という視点で欠かせないのは、古い橋梁であろう。真岡線には鉄橋が46橋梁かかるとされる。さらに明治末期から大正時代にかけて架けられた鉄橋が手付かずのまま残っているところが多い。

 

例えば、益子駅に近い小貝川(こかいがわ)橋梁がある。この橋梁は鋼ワーレントラス(またはポニーワーレントラス)と呼ばれる構造で、日本の鉄道技術の普及に大きな役割を果たしたイギリス人技師のC.A.W.ポーナルの影響が強く見られる。ワーレントラスのなかでも、技師の名前を付けたポーナル型ピントラスと呼ばれ、鉄道草創期の姿を今に残している。

 

小貝川橋梁の骨格をなす橋げた部分は1894(明治27)年製のイギリス、パテントシャフト&アクスルトゥリー社(「Patent Shaft & Axletree」と刻印/現在、同社は消滅)製のものだった。かつて本原稿で樽見鉄道を紹介した時に旧東海道本線の鉄橋を紹介したが、この鉄橋もパテントシャフト&アクスルトゥリー社製のものだった。土木学会選奨土木遺産に2011(平成23)年に認定されている。この小貝川橋梁とともに、真岡線の北真岡駅〜西田井駅間にかかる五行川(ごぎょうがわ)橋梁も同じ会社で橋梁部が製造されたものだった。

 

テーム川の源流にあるイギリス・ウェンズベリーという町で製造された橋梁の鉄骨材料が、海を越えて運ばれ各地で使われていたことが分かった。

 

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↑益子駅に近い小貝川橋梁を渡る列車。右手の橋の構造がポニーワーレントラスと呼ばれ現役最古の同構造の橋と言われている

 

小貝川橋梁や五行川橋梁だけでなく、小さな橋も実は見逃せないものがあった。例えば、西田井駅近くの赤堀川に架かる小さな橋梁。線路端の道からもレンガ積みの橋脚が良く見える。鉄道草創期の技術を残すもので、緻密さが感じられる。さらに橋げたのガーダー橋梁が気になった。刻印はさびつき見づらかったものの……。

↑西田井駅の近く、赤堀川にかかるガーダー橋。鉄橋の刻印(右上)には、小貝川橋梁と同じくイギリス製であることが分かった

 

枕木の下にちょうど刻印があり、それを拡大して見ると小貝川の橋げたを造った会社と同じ「Patent Shaft & Axletree」とあった。さらに製造年は1900(明治33)年だった。赤堀川を渡る路線区間は1913(大正2)年の開業なので、製造され13年後に使われたこと分かる。どこかの路線で使われた後に、真岡線に転用されたのか不明なものの、一世紀以上前にイギリス・ウェンズベリーで製造された鉄橋が今もこうして役立ち、使われていることが良く分かった。

 

こうした橋梁は真岡線のお宝であり、大事にされてきた鉄橋にはるか昔の刻印を発見できた。真岡線の歴史の奥深さを感じたのである。

高知の山中を巡った「森林鉄道」その栄光の足跡を追う

〜〜魚梁瀬森林鉄道 魚梁瀬線・奈半利川線(高知県)〜〜

 

木材の切り出しに使われた森林鉄道。かつて国内には1000以上もの森林鉄道網が設けられていた。昭和中期にほぼ淘汰されてしまったが、その橋やトンネルといった施設が道路整備に活かされ、多くが今も使われている。

 

高知県内の中芸地域を走った魚梁瀬(やなせ)森林鉄道。現在も橋やトンネルの跡が数多く残り、林業基地として栄えた魚梁瀬には動態保存された機関車などが残る。美しい景色の中に残る森林鉄道の足跡を追ってみた。

 

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【森林鉄道を追う①】日本三大杉の生産地を巡った森林鉄道線

高知県中芸地域で切り出された杉は「魚梁瀬杉」と呼ばれ、秋田杉、奈良県の吉野杉とならび日本三大杉の1つ(諸説あり)にあげられ尊ばれてきた。中芸地域には、安田川と奈半利川(なはりがわ)が流れている。森林鉄道は、この2本の川沿いに設けられ、最盛期にはその距離が250kmにも達した。

 

魚梁瀬森林鉄道の歴史を見ておこう。森林鉄道が誕生する前、切られた杉材はいかだに組まれ、安田川と奈半利川の流れを利用して運ばれた。両河川とも急流域があり、危険な作業だったことは容易に想像できる。木材搬入に川の流れを利用するとともに、川沿いには牛馬道が設けられ物資が上流部に運ばれていた。

↑安田川に架かる旧魚梁瀬森林鉄道の明神口橋。現在も軽車両のみ渡ることができる。入口には日本遺産の構成文化財の案内が立つ(左下)

 

中芸地域に森林鉄道が設けられたのは明治末期の1911(明治44)年。まずは田野(田野町)と馬路(馬路村)間に当初、安田川林道本線の名前で線路が敷かれ、トロリー運搬が始められた。トロリー運搬とは、木材を載せたトロッコを使った運搬方法で、トロッコに人が同乗・操作して山を下った。ブレーキにあたる制御器が付くとはいえ、危険と隣り合わせの運搬だった。

 

その後に安田川沿いの路線は徐々に奥へ延びていく。馬路〜魚梁瀬(馬路村)間が1915(大正4)年に、さらに魚梁瀬の上部にある石仙(こくせん)まで延びる。後に魚梁瀬森林鉄道本線の安田川線と名付けられた路線で、田野〜石仙間は41.598kmに及んだ。同年には牽引用にシェー式と呼ばれる蒸気機関車も導入されている。

 

1923(大正12)年にはアメリカH.K.ポーター社製の2両の蒸気機関車が導入され、台車をはいたボギー式貨車も使われ、本格的な森林鉄道の体裁を整えていった。同時期に新たな制御器も導入され、事故が減ったと伝わるが、そのことがわざわざ記されるほどに、当時の森林鉄道は危険と隣り合わせだったようである。

↑魚梁瀬森林鉄道の路線図。点線部が本線にあたり、支線はさらに多く巡っていた。写真で紹介の旧施設は数字番号で紹介した

 

【森林鉄道を追う②】昭和期には奈半利川沿いの路線も開業

昭和期に入りますます林業は盛況となり、安田川沿いの木材の運搬に加えて奈半利川沿いにも路線が敷設される。まずは奈半利川線の田野(田野町)と二股(現在の二股橋付近/北川村)間24.3kmの工事が完了。また、海岸部の路線も土佐湾に面した奈半利貯木場まで延びる。さらに、二股〜釈迦ヶ生(しゃかがうえ/北川村)の路線が延び、既存の安田川線と釈迦ヶ生付近で連絡した。この路線延長で、上流部の魚梁瀬や石仙からは、安田川線および、奈半利川線の両線での運び出しが可能となった。

 

大正期に開業した安田川線と、昭和初期に開業した奈半利川線では、橋やトンネルの造作がだいぶ異なる。今、訪れてもその違いが良く分かる。たとえば、奈半利川線の二股橋は、典型的なコンクリート製のアーチ橋で、当時の流行および、資源不足を補うべく配慮されたことがうかがえる(詳細は後述)。

↑奈半利川に架かる二股橋。2連のコンクリート製のアーチ橋で、現在は道路橋として使われている

 

魚梁瀬森林鉄道は木材の搬出だけでなく客車も連結した。最初の客車は馬路村営連絡車と名付けられ1936(昭和11)年に導入され、田野〜馬路間を有料で乗車できた。当時の魚梁瀬森林鉄道は規模が大きく、かつ資金力もあり自前の機関車修理工場や、枕木を製造するための製材所を持つほどだった。

 

しかし、その繁栄は長く続かなかった。1957(昭和32)年に魚梁瀬ダムの建設が行われることになり森林鉄道の廃止が決定する。1958(昭和33)年には奈半利川線の線路の撤去がはじまり、1963(昭和38)年には安田川線が廃止、約半世紀にわたる魚梁瀬森林鉄道の歴史に幕を閉じたのだった。

 

現在、文化庁が選定した日本遺産に、中芸地域の魚梁瀬森林鉄道跡が「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」として2017(平成29)年4月28日に認定されている。半世紀にわたって魚梁瀬杉の輸送を続けた森林鉄道の存在が今も伝えられ、線路跡は「ゆずロード」に変貌し、ゆずの出荷と関連商品の輸送に活かされている。日本遺産の1つのストーリーとして、その歴史を語り継ぐ活動が精力的に行われている。

 

【森林鉄道を追う③】安田駅を起点に安田川を上流へ

ここから安田川沿いと奈半利川沿いに設けられた魚梁瀬森林鉄道の元施設のうち、日本遺産に認定された施設を中心に巡ってみたい。多くの施設が国の重要文化財にも指定されている。

 

旧森林鉄道跡はかなり長い距離で、さらに路線バスの本数が非常に少なく、レンタカーを使って巡るのが賢明だ。高知駅や高知空港、最寄りでは土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安芸駅にも駅レンタカーがある。旧森林鉄道の遺構ばかりでなく、森林鉄道をテーマにした観光施設もあり、遺構巡りにプラスして立ち寄っても楽しい。なお、山道はカーブの連続で、道幅も狭いところが目立つ。運転に慣れた人にお勧めのルートで、慣れていても十分に注意して走行したい。

 

ここでは、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安田駅を起点にして、安田町から旧魚梁瀬森林鉄道の安田川線沿いに馬路村へ向かう旅を進めたい。

↑土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の安田駅。同線にはデッキ付き車両も運行されていて、潮風を感じながらの鉄道旅が楽しめる

 

まず、安田駅からスタートし、県道12号線・安田東洋線(別名:馬路道)を北へ向かう。ほんの数分で右手に安田川が見えてくる。旧森林鉄道は、安田川の東側を走っていたが、県道は川の西岸をたどる。中の川橋という小さな橋を渡ったT字路右に「旧魚梁瀬森林鉄道施設『エヤ隧道』」という立て札があるので、その案内に従い右折する。すると細い道沿いに古めかしい小さな「エヤ隧道」があった。

 

日本遺産の構成文化財に認定された施設は、同じデザインの案内が道の分岐などに立つので見つけやすい。施設近くに解説板が立つのもありがたい。

 

本原稿では、魚梁瀬森林鉄道関連の施設に番号をつけ、地図でも見つけやすいようにした。まず起点の安田駅から「(1)エヤ隧道」までは6.3km、車で約10分の距離だ。エヤ隧道の先は隧道がある細い道を進んでも良いが、途中から軽自動車のみの進入禁止の道となる。この道が森林鉄道が走った線路の跡でもあるのだ。

 

安田川を囲む左右の山々が迫ってきたところに、赤い鉄橋が印象的な「(2)明神口橋」「(3)オオムカエ隧道」「バンダ島隧道」が連なる。そして旧森林鉄道の線路跡が、明神口橋付近で県道12号線と合流する。なお県道は上記3か所の最寄り区間で、トンネルで抜ける新道の工事が進められている。森林鉄道の遺構は旧道沿いにあるので注意したい。

↑安田川沿いに下流から上流に至る主要な森林鉄道の遺構。(2)と(3)の区間は軽自動車のみ通行可能となっている

 

「(2)明神口橋」と「(3)オオムカエ隧道」の近くにはキャンプ場もあった。かつての杉の産地は、最近はキャンプ場などの施設も多くなり、アウトドア好きにはうってつけのエリアとなりつつある。キャンプを楽しみながら旧路線跡を巡るのも楽しそうだ。

 

【森林鉄道を追う④】馬路村内に観光用の森林鉄道を再現

安田川沿いを上流へ向かって県道を走ると、安田町から馬路村(うまじむら)へ入る。この馬路村はかつて林業で栄えた村でもある。馬路村の中心にあたる馬路地区は、安田川の両岸に民家が建つ。ここは森林鉄道の拠点でもあり、この地区内に遺構も多い。

 

まずは集落の入口、馬路橋のすぐそば、渓流沿いにトンネルの出入口がある。こちらは「(5)五味隧道」で、1911(明治44)年開業時に造られたもの。石組みのトンネルが古さを物語る。渓流沿いに線路も敷かれているがこちらは復元されたものだ。線路端に下りることはできないが、上を通る村道から見ることができる。

↑馬路村に残る森林鉄道開業時に造られた五味隧道。線路も復元されている。写真は12月末の撮影したもので、寒い冬は雪も舞う

 

馬路村の中心部では森林鉄道は安田川の西側に沿って通っていた。今は「ゆずの森 加工場」や、馬路村農業協同組合(旧・馬路営林署)が建つ。このあたりには、森林鉄道の操車施設もあり、支線から本線に集まった貨車などの編成替えなどが行われたようだ。

 

さらに、安田川の西岸を通る村道(線路跡)の先には「(6)馬路森林鉄道」や「(7)インクライン」がある。こちらは森林鉄道時代の線路や施設を再現した観光施設で、気軽にレトロな森林鉄道の趣が体験できる。

 

観光施設といっても侮ってはいけない。渓流沿いをぐるりと1周する観光列車を引くのは、大正時代に魚梁瀬森林鉄道に導入されたポーター社製の蒸気機関車を精密にスケールダウンしたディーゼル機関車だった。

↑安田川の支流を森林鉄道のように一周する馬路森林鉄道。使われる機関車(左上)は大正時代に輸入された米国製を再現した

 

馬路森林鉄道の隣には「(7)インクライン」がある。インクラインとは水の重みを動力として利用し、木材を高いところから低いところへ降ろした仕組みだ。今は観光客が乗車できるケーブルカーとして再現されている。ちなみに「(6)馬路森林鉄道」や「(7)インクライン」は8月を除き日曜・祝日のみの有料営業となる。

↑観光用のケーブルカーとして再現されたインクライン。この装置で山上に集められた木材を下へ降ろした

 

【森林鉄道を追う⑤】安田川最上流で進められる鉄橋の補修作業

民家が建ち並ぶ馬路地区内の「(4)落合橋」は1925(大正14)年に架けられた鋼製の橋梁で、現在は村道に使われている。この橋で安田川とお別れ、旧森林鉄道の線路跡を利用した村道は県道12号線に合流し、支流の東川に沿って進む。民家はほぼ途絶えるが、まだ先に旧森林鉄道安田川線が延びていた。東川に沿って、取り巻く山々も徐々に険しさを増していく。県道は右に左に渓流に沿ってカーブする。旧森林鉄道もこうしてカーブを描き設けられていた。

 

馬路村から北川村へ入ると、村境を越えた県道脇で重機を使った大掛かりな工事が行われていた。

↑犬吠橋の現況。谷に架けられていた鉄橋は損壊してしまい現在、保存工事が進む。県道は迂回しているが将来は新しい橋が架かる予定だ

 

工事現場の先に朱色の橋の鉄骨部のみが残っている。1924(大正13)年に造られた「(8)犬吠橋」だ。国の重要文化財に指定され、また日本遺産の構成文化財となっている。橋の長さは41m、幅は4.4mで、構造は鋼単純上路式トラス橋とされ、上を森林鉄道が走っていた。鉄道廃止後は道路橋として使われていた。2016(平成28)年の点検で、鋼材の破断、および変形が著しいことが確認された。現在は鉄骨部のみとなっているが、損壊が進み橋の中央部が落ち込んでいた。点検後に大きく迂回する仮設路を設け、犬吠橋自体の補修を進める作業が行われている。並行して新しい橋を設ける工事も進められている。

 

この犬吠橋からさらに奥へ向かうと魚梁瀬なのだが、こちらの紹介は後述したい。本原稿での紹介は、海岸部にもどり、奈半利川に沿って造られた魚梁瀬森林鉄道奈半利川線の線路跡を見ていきたい。こちらは林業の最盛期だった昭和初期から戦前にかけて造られた施設が多いせいか、安田川沿いの施設とは異なる姿を目にすることができる。

 

【森林鉄道を追う⑥】奈半利の街中にあるモダンな跨線橋

奈半利川沿いの施設は平野部にも一部が残され、山間部まで入らなくとも、気軽に立ち寄れる遺構もある。現在、土佐湾に面した奈半利町には土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線の終点駅・奈半利駅がある。駅のほど近くに、モダンな造りの跨線橋が残されていた。

↑土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の終点、奈半利駅。この先、室戸市方面へは鉄道路線は無く、バスでの移動が必要になる

 

かつての森林鉄道の奈半利川線は奈半利の街中を通り、土佐湾に面した奈半利貯木場まで線路がつながっていた。現在の奈半利駅から距離にして1.3km、細い路地に古い跨線橋がある。橋の片側は急斜面で、上には現在、三光院 観音堂がある。丘の麓に線路が沿って走っていたために、線路をまたぐように跨線橋が設けられた。跨線橋の名前は「(9)法恩寺(ほうおんじ)跨線橋」。法恩寺という寺が路線建設当時にあったことから、この名になった(現在は廃寺)。森林鉄道がなくなった今も通行はできるが、階段部分はかなりの急傾斜で、足を踏み外しそうな造り。上り下りしたもののかなり危うく感じた。

↑きれいに石組みされた法恩寺跨線橋。右手の町中の道から、鉄道線を越えて左側の丘の上へ行き来できるように設けられた

 

【森林鉄道を追う⑦】水田を通る近代的なコンクリート橋の跡

奈半利の貯木場から法恩寺跨線橋の下をくぐり、北川村や馬路村を目指した魚梁瀬森林鉄道の奈半利川線。奈半利の街中の旧路線跡のほとんどが舗装され車道として使われている。

 

この道をたどると奈半利川に突き当たるが、かつては鉄橋があった。すでに鉄橋は取り外され橋脚のみが残されていて「旧鉄橋跡」の看板が掲げられている。この奈半利川を越えた西側に奈半利川線の最も大規模な施設が姿を残している。

 

それが「(10)立岡二号桟道」だ。石積みの高架線跡に連なりコンクリート製のガーダー橋が延びる。コンクリート製の橋脚の上に橋けたがカーブして連なっている。橋の幅は狭いが、この上を木材を満載した貨物列車が走っていたわけだ。

↑水田をの中に立つ立岡二号桟橋。コンクリートの橋脚の上に橋けたがかかる。橋自体がカーブしていて面白い

 

奈半利川の西側に渡った路線はこのガーダー橋から川の上流部を目指して進んだ。奈半利川の中流部はかなり蛇行している。田野町から先は森林鉄道の路盤跡がほぼ国道493号に転用されている。途中、1932(昭和7)年に架けられた鉄橋「(11)小島橋(こしまはし)」で国道493号から分かれ、川の東岸を走るものの、再び旧森林鉄道路線は国道493号に合流するように上流を目指して進んでいた。

 

奈半利川の支流の小川川に架けられた「(12)二股橋」から線路は北を目指した。ここから国道493号に分かれ県道12号線へ入る。この県道12号線は「安田東洋線(馬路道)」の名もついているが、安田川沿いを走った県道が、釈迦ヶ生付近を通り、この二股橋へ通じていたわけである。

 

【森林鉄道を追う⑧】無筋のコンクリート製のアーチ橋は珍しい

1940(昭和15)年に建設された二股橋。資材が乏しくなっていた時期の建設だけに鉄筋などを使わない無筋コンクリート造りの橋となっている。形はアーチ構造で、各地の鉄道橋には、今も無筋コンクリートアーチ橋が残る(一部は竹を使った)。戦前戦中の資材不足が著しい時代、鉄筋などは使わず、アーチ形の橋の構造によって耐久性を保持しようとしたのだ。

↑架けられた時代で構造が異なる奈半利川沿いの旧森林鉄道の橋梁。みな道路橋に転用されている。元線路の利用なので、道幅は狭い(右下)

 

当時、技師はどのような思いでこの橋を設計したのだろうか。無筋のアーチ橋は鉄道の幹線ではなく支線や廃線区間に残るのみなので、その耐久性のほどはさだかではないが、崩壊などの例はないようなので、アーチという構造で一定の強さは保たれていたのかもしれない。

 

二股橋と上流部にある堀ヶ生橋(ほりがをばし)は、どちらも無筋コンクリート製のアーチ橋だった。上流部の堀ヶ生橋は1941(昭和16)年に建設されたもので、「近代に建造された充複式単アーチ橋で我が国最大級を誇る」と資料にある。こちらも国の重要文化財に指定されているように、土木建築の分野では珍しいのだろう。充複式のアーチ橋は、今も架橋に使われる技法で、管理の手間が省ける素晴らしい技術のようだ。

 

ちなみに、堀ヶ生橋は橋の途中に退避コーナーが設けられているが、デザインも凝っていてモダンに感じた。材料が乏しい時代なのにさまざまな工夫を施した様子がうかがえる。

↑奈半利川に架かる堀ヶ生橋。途中に退避場所らしきコーナー(左上)がせり出す。眼下に見える奈半利川が澄んでいて美しかった

 

両橋とも今は県道に転用されているが、道幅が狭く普通車でも渡るのに心細く感じた。構造的には素晴らしくとも、車の通行は考えて造っていなかっただろう。木材を積んだ大型トラックが今も通行しているが、ドライバーはかなり気を使って通っているのだろうと思われた。

 

【森林鉄道を追う⑨】動態保存された機関車牽引の列車が走る

本原稿では馬路村の奥にある魚梁瀬の地をゴールとしたい。魚梁瀬は魚梁瀬ダム湖のほとりにある集落で、かつては林業基地として栄えた。最盛期は1500人ほどの人が住んでいたが、現在は200人ほどに減少しているとされる。現在のダム湖に沈んだ場所に集落があったが、50年ほど前に現在の地に移っている。

 

魚梁瀬へは安田駅から車の利用ならば、県道12号、県道54号を利用して約33.9km、46分の道のりとなる。奈半利駅からは二股橋経由の場合には、国道493号、県道12号、県道54号を利用して約44.1km、57分かかる。

 

所要時間はそれほどかからないようにも思えるのだが、前述したように山道で、道幅は細くカーブが連なるために気を使う。往復にゆとりを見て最低3時間はかかると考えたい。

 

到着したのは魚梁瀬の「(14)魚梁瀬森林鉄道 森の駅やなせ」。ここには森林鉄道時代の最晩年に使われた機関車類などが動態保存されている。日曜日・祝日の営業のみだが、公園内を一周する列車も運行されている(有料)。列車の運行時間は特に決まっているわけでなく、営業時間内に利用者が訪れたら運行するといったのんびり具合だ。

↑魚梁瀬集落の入口にある「森の駅やなせ」。公園を一周する列車に乗車できる。古い写真なども展示され往時の様子が良く分かる

 

「(14)魚梁瀬森林鉄道 森の駅やなせ」には現在、機関車に加えてトロッコ客車、木造客車が備えられている。機関車のうち野村式(L-69型チェーン式)と呼ばれるディーゼル機関車は、奈半利の工場で製造されたもので、実際に森林鉄道で貨車を牽引して走ったもの。日本遺産の構成文化財にも指定されている。

 

そのほかにも、谷村式(3tサイドロッド式)ディーゼル機関車、酒井工作所製(C-16型3.5t)ガソリン機関車、岩手富士製 特殊軽量機関車の計4両が動態保存されている。50年も前に消滅した森林鉄道を走った機関車を動態保存する取組みには敬意を評したい。山の中の施設のため、行く機会がなかなかないものの、もう一度、余裕を持って楽しみたいと思った。なお同施設に隣接してレストランもある。

↑訪れた日には谷村式のディーゼル機関車が客車を牽いて走った。トロッコ客車の後ろには木製の客車(右上)も連結されていた

 

↑木造車庫の中に納まる野村式(右)と酒井工作所製のそれぞれディーゼル機関車。どちらも動くように整備されている

 

帰りには奈半利川沿いを走り奈半利へ向けて走る。途中にどうしても寄ってみたい施設があったのだ。

 

【森林鉄道を追う⑩】中岡慎太郎も推奨した〝ゆず〟の地に変貌

寄ってみたかった施設とは中岡慎太郎の宅跡と、中岡慎太郎遺髪埋葬墓地。ともに現在の北川村の国道493号からやや入った柏木地区にある。

↑北川村の山景色の中に立つ「中岡慎太郎像」。この下に中岡慎太郎宅跡(左下)がある。近くには遺髪を埋葬した墓もある

 

中岡慎太郎は江戸末期に生まれ、同じ土佐藩出身で盟友の坂本龍馬とともに、江戸幕府討幕に向けて大きく世の中を動かした1人である。土佐藩と薩摩藩、長州藩との間で盟約を結ぶために奔走し、討幕への道筋を作った。明治維新のを見ることなしに1967(慶応3)年11月に龍馬とともに京都で倒れたことは良く知られている。享年わずかに29歳だった。

 

北川村の柏木には生家を復元した「中岡慎太郎宅跡」とともに、裏手にある松林寺(廃寺)の境内には妻の墓と並び遺髪墓地が設けられている。

↑中岡慎太郎宅跡のそばには柚子の木があり黄色い果実が多く実っていた。中岡慎太郎はこのゆず栽培を奨励したとされる

 

中岡慎太郎が活動したのは20代のみと短かったが、活動範囲は広く農業にも通じていた。ゆず栽培も奨励し、広めたとされる。討幕のみならず、将来を見据えたその視野の広さには驚かされる。

 

「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」と日本遺産に認定された高知県の中芸地域。森林鉄道の旧路線跡は道路となり、ゆずの出荷やゆず商品の輸送に活かされていた。林業は衰退しても、中岡慎太郎が生きた時代からゆず栽培への思いが綿々と受け継がれ、今も活かされる土地だったのである。

 

路面電車なのに地下鉄!? 不思議「京阪京津線」満喫の旅

おもしろローカル線の旅86〜〜京阪電気鉄道・京津線(京都府・滋賀県)〜〜

 

京都市の御陵駅(みささぎえき)と滋賀県大津市のびわ湖浜大津駅を結ぶ京阪電気鉄道・京津線(けいしんせん)。滋賀県内では道路上を走る路面電車として、京都市内では地下鉄として走る。さらに、路線は登山電車並みの上り下り、急カーブが続く路線を走り抜ける。途中駅での発見も多く、とにかく楽しい路線なのだ。

 

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古都の人気観光電車「叡山電鉄」を深掘りする

 

【京津線に乗る①】開業時は京都の三条と大津の札ノ辻を結ぶ

最初に京津線の概要を見ておこう。

路線と距離 京阪電気鉄道・京津線/御陵駅〜びわ湖浜大津駅間7.5km
開業 京津電気軌道により1912(大正元)年8月15日、三条大橋〜札ノ辻(ふだのつじ/現在は廃駅)間が開業。
1997(平成9)年10月12日に御陵駅〜浜大津駅(現・びわ湖浜大津駅)間の運転に変更。
駅数 7駅(起終点駅を含む)

 

京津線は京阪電気鉄道が運営する軌道線である。びわ湖浜大津駅で接続する石山坂本線(いしやまさかもとせん)と共に、大津線(おおつせん)と総称されている。総称で大津線と呼ばれているものの、石山坂本線とは走る電車が異なり、まったく違う路線といった印象が強い。

↑県道558号線を走る京津線の電車。左上に「京町一丁目」とある交差点付近に、路線開業時は札の辻駅があり終点となっていた

 

路線自体が変化に富む京津線だが、路線の歴史には紆余曲折あり興味深い。次にそんな京津線の歴史を見ていこう。

 

【京津線に乗る②】御陵駅〜三条駅間は昭和期まで軌道路線だった

京津線は、110年前の1912(大正元)年8月15日に、京津電気軌道という会社によって路線が開設された。この日に三条大橋と札の辻との間で路線が開業したが、全通したわけではなかった。京津線と交差している東海道線を越える路線の工事が終わらず、大谷駅側の仮停留所(名前はない)と上関寺(かみせきでら)間の140mは徒歩連絡区間だった。

 

その後、同年の12月14日に晴れて全通となる。当時の終点駅は札ノ辻駅だった。札ノ辻は旧東海道の大津宿があったところで、この札ノ辻で旧東海道がカギ型に折れ、西近江路(にしおおみじ/旧国道161号)の起点にもなった。

 

大津の中心地として賑わっていたこともあり、京津線の終点駅とされたが、この札ノ辻から400mほど下ったところに1913(大正2)年3月1日に大津電車軌道(現・石山坂本線)の大津駅が開設された。大津駅は同年に浜大津駅と名を改め、また京津線の路線も1925(大正14)年5月5日に浜大津駅まで延伸されたが、長い間、別の駅としての営業が続いていた。

↑京阪本線の四条駅付近の戦前の絵葉書。隣の三条駅で京津線と連絡していた。当時は路面電車タイプの電車が走っていた

 

運営する会社も二転三転する。路線開業当時は京津電気軌道だったが、1925(大正14)年2月1日に京阪電気鉄道と合併し、京阪電気鉄道の京津線となる。京阪電気鉄道は現在もある鉄道会社ながら、太平洋戦争の前後に会社名が消滅した時代があり、戦前の京阪電気鉄道は「初代」もしくは「旧」を付けて呼ばれることが多い。1943(昭和18)年10月1日には京阪神急行電鉄の京津線となった。この京阪神急行電鉄は、現在の阪急電鉄にあたる会社だが、要は戦時統合が盛んに行われた時代で、日本の鉄道の多くが国鉄もしくは一部の私鉄に集約された時代だった。

 

戦後の混乱も収まりつつあった1949(昭和24)年12月1日に、現在の京阪電気鉄道の京津線に戻る。さらに、1981(昭和56)4月12日に浜大津駅が石山坂本線と統合され、現在の駅となった。ちなみに、現在の駅名であるびわ湖浜大津駅になったのは、2018(平成30)年3月17日とごく最近のことである。

↑昭和初期の京阪電気鉄道(初代)の路線図。三條〜濱大津が京津線にあたる。この図では石山坂本線は「琵琶湖鉄道」と記述される

 

京津線の変化はまだまだあった。開業時には三条大橋が起点だったが、その後に京阪電気鉄道(初代)の京阪本線の三条駅が1915(大正4)年10月27日に開業し、同社とのつながりを深めていく。上記は昭和初期の京阪電気鉄道(初代)の路線図だ。京阪本線と京津線の同じ三條駅(現・三条駅)として描かれている。この当時、すでに両線の線路を結ぶ連絡線もつながり、1934(昭和9)年には直通運転用の「びわこ号」も登場し、両線の直通運転が行われた。直通運転は1960年代初頭まで続く。

 

この三条駅付近が大きく変わったのが1987(昭和62)年のこと。同年の5月24日に京阪本線の三条駅が地下化され、京津線との線路が分断された。そこで京津線の三条駅は京津三条駅と名前を改める。さらに1997(平成9)年10月12日に、京都市営東西線が開業し、京津線の京津三条駅〜御陵駅間が廃止となった。よって最長11.4kmあった京津線の路線距離は、現在の7.5kmに短縮。東西線開業後には、京津線の電車は御陵駅から地下鉄線への乗り入れを開始、多くの電車は東西線の、京都市役所前駅や太秦天神川駅(うずまさてんじんがわ)駅まで走るようになっている。

 

【京津線に乗る③】走るのは高性能な800系4両編成

京阪京津線は路面電車であり、地下鉄としても走る。さらに路線には61パーミル(1000m走る間に61m登る)の勾配や半径40mという急カーブがある。ある意味、かなり特殊な路線である。この条件をクリアするために、高性能な電車が導入されている。それが京阪800系だ。

↑当初800系はパステルブルーに白、京津線のラインカラー苅安色(かりやすいろ)ラインが入れられた。現在は全車塗り替え

 

京阪800系は1997(平成9)年に京津線の地下鉄乗り入れに合わせて開発された。まずは乗り入れに合わせて架線電圧1500Vに対応。併用軌道区間があることから、自動車との接触があっても修復が容易なように鋼製車体が採用された。さらに急勾配に対応するために、4両固定編成の2ユニット全動力車で、もし1ユニットが故障しても、残り1ユニットで走ることができる。地下鉄乗り入れるためにATO(自動列車運転装置)+京阪形のATS(自動列車停止装置)も装備している。また、制御を容易かつ確実にするために急勾配や天候変化に強い鋳鉄製のブレーキシューを利用している。

 

車体は全長16.5m、全幅は2.38mで、大津線の石山坂本線を走る700形よりも全長は1.5mほど長め、全幅は同じながら、4両が連結して走ることで、路面電車としては、かなり〝異彩〟を放っている。国が定める軌道運転規則では路面電車の列車の長さが30m以下と決められているが、京津線の4両編成の電車は全長70m近くなるものの、特例として認められている。4両のうち中間車2両はロングシートで、前後の車両は狭い車幅に対応し、クロスシート横1列+2列の3列シートを採用している。ちなみに、線路幅は1435mmと京阪本線と同じ標準軌幅だ。

 

開発時には「1mあたりの値段は日本で一番高い」という京阪電気鉄道の開発担当の言葉があったように、非常に高価な造りの電車となっている。

 

【京津線に乗る④】びわ湖浜大津駅付近は電車撮影の聖地

ここからは京津線の路線の紹介をしていこう。京津線の現在の起点は御陵駅となっているが、本原稿では、石山坂本線との接続駅であるびわ湖浜大津駅から旅を楽しみたい。

 

大津市は日本最大の湖、琵琶湖に面して街が広がっている。びわ湖浜大津駅は琵琶湖の観光船などが発着している大津港の近くにある。この琵琶湖畔に沿うように路線が敷かれるのが石山坂本線で、京津線はこの石山坂本線から、ほぼ直角に分岐して京都方面へ向かう。

 

びわ湖浜大津駅は1面2線の構造で、ホームは1番線が坂本比叡山口方面、三条京阪・太秦天神川方面、2番線が京都膳所(きょうとぜぜ)、石山寺方面となっている。京津線と石山坂本線の電車が1つのホームを共用しているわけだ。駅の東側、上り下り線の中央に留置線があり、2番線に到着した京津線の電車は、この留置線を利用して折り返し、1番線に入線して、同駅始発電車として三条京阪・太秦天神川方面へ向かう。

↑びわ湖浜大津駅を発車した太秦天神川駅行電車。ほぼ直角に曲がり併用軌道区間の県道558号線へ入る

 

さて、びわ湖浜大津駅の造りだが、東側は石山坂本線の専用軌道区間となるが、一方の西側は、駅の目の前からすぐに併用軌道区間に入る。駅前には大きなT字路交差点があり、多くの車が通行している。京津線、石山坂本線の電車とも、このT字路の信号に従い出発する。この交差点は併用軌道区間を走る両線の電車を撮影するのにうってつけで、電車にカメラを向ける人の姿を多く目にするポイントでもある。

 

京津線と石山坂本線とも現在は上部が濃緑色、下部が白色、中間に黄緑色の帯を巻いて走る。こうした〝京阪カラー〟に混じって石山坂本線には特別色、またはラッピング車が走っていて、この貴重なカラー塗装の車両を、びわ湖浜大津駅前で撮影しようと集まる鉄道ファンも多い。

↑石山坂本線の標準色で塗られた700系。同線では上部が濃緑色、下部が白色という標準カラーの車両が多くなっている

 

↑石山坂本線には1934(昭和9)年に天満橋〜浜大津間を直通運転した「びわこ号色塗装」の600系といった特別色の電車も走る

 

【京津線に乗る⑤】通りの真ん中を4両編成の電車が走る

びわ湖浜大津駅前を発車し、駅前で左急カーブを曲がる京津線の800系。平行して走る車に注意しながらやや坂となった県道588号線を上がって行く。

 

併用軌道区間の距離は600mほどで、その間に京町1丁目という交差点があり、この交差点の左手にかつての終点、札ノ辻駅があった。旧東海道はこの京町1丁目でカギ型に曲がっていた。京津線の併用軌道はこの先、旧東海道を進んでいく。

↑びわ湖浜大津駅を発車した京津線の電車はすぐに併用軌道区間へ入る。その距離600mほど

 

旧東海道筋を走る京津線の電車。このあたりは旧大津宿があったところで、街道筋には大塚本陣跡もあった。現在、大塚本陣跡には明治天皇が休憩されたとする碑が残るのみとなっている。

↑旧東海道の大津宿があった付近を走る800系。車体下に注意を促すリフレクターが装着されていることが分かる

 

【京津線に乗る⑥】上栄町駅の手前で専用軌道へ入っていく

併用軌道区間を登りきったところには、信号が取り付けられている。この信号が赤になり車が停止するのに合わせて、京津線の電車は道路を抜け専用軌道へ入っていく。間もなく上栄町駅に(かみさかえまちえき)に到着する。

↑信号に合わせて京津線の電車は道路を通過する。加えて踏切(写真左)設備もあり警報灯で電車の通過をドライバーへ伝えている

 

↑専用軌道を走るびわ湖浜大津駅行き電車。左に見えるのが上栄町駅の上り線用ホーム

 

上栄町駅付近から路面電車の趣は消え、郊外線の趣が強まる。左右には民家が建ち並び、先に小高い山が見えるようになる。こちらが逢坂山(おうさかやま)だ。かつてこの山は、京都と大津の往来を困難にした難所でもあった。

 

【京津線に乗る⑦】大谷駅まで急勾配&急カーブが続く難路を走る

↑上栄町駅〜大谷駅間ではカーブ区間にスプリンクラー(左上)が設置されている

 

上栄町駅を過ぎると、京津線の路線は険しさを増し、急カーブも続く。そんなカーブ区間でスプリンクラーを使って散水ししている光景を見かけた。この散水装置は何のためにあるのだろう。

 

急カーブ区間を電車が走ると、キッ、キッといった金属同士が擦れて音が出ることがある。これは車輪の外周の出っ張ったフランジと呼ばれる部分と線路がこすれて生まれる音で、通称〝フランジ音〟と呼ばれる。散水することにより、フランジ音を減らす効果があるとされる。民家が多い区間なので、騒音防止という役目もあるのだろう。

↑上栄町駅付近ですれ違う800系。専用軌道区間ではスピードアップして走る。とはいっても800系の最高速度は75km/hと抑えられている

 

多少寄り道になるが京都と大津の間の明治以降の鉄道建設に関して触れておこう。

 

今でこそ、京都〜大津間を走る東海道本線は複数のトンネルにより、スムーズに行き来することができる。しかし、トンネル掘りの技術が未熟な時代の路線造りは難航を極めた。当時、神戸〜京都間は1877(明治10)年に開業させたものの、東側の路線造りは遅々として進まなかった。

 

京都は四方を山に囲まれている。まずは東山を避けるべく明治政府は、大きく迂回するルートを選択した。京都駅から南へ向かい現在の奈良線の稲荷駅を経て、山科を通り大谷に向かった。だが、大谷と大津の間には逢坂山があり行く手を阻んだ。

 

この逢坂山はトンネルで貫かざるをえず、1878(明治11)年に掘削を開始。1880(明治13)年7月15日に開通したのが逢坂山隧道(664.76m)だった。同トンネルは日本初の山岳トンネルであり、日本人技師のみで着工された最初のトンネルだった。この逢坂山隧道は40年後の新線開通で役目を負えたが、東口が今も遺構として残されている。

↑京津線の下を抜ける東海道本線。写真の上関寺トンネルの先に新逢坂山トンネルがありスムーズな通り抜けが可能となっている

 

東海道本線の逢坂山隧道よりも、短めながら京津線も逢坂山を250mのトンネルで越えている。当時の旧東海道本線が迂回していて不便だったことに加えて、開設された京都駅が繁華街の三条、四条から遠かったことも京津線が計画された理由だった。トンネル掘りで官営路線造りに苦しんだことが、結果として京津線の開業にも結びついていたわけだ。

 

【京津線に乗る⑧】大谷駅は40パーミルの勾配区間にある

京津線の逢坂山トンネル付近には京津線最大の61パーミルという急勾配がある。このあたりは国道1号と平行して走る区間となる。大谷駅はその駅名通り、大きな谷にある駅だ。

 

大谷駅はなかなかユニークな駅だ。開業当時には旧東海道本線の大谷駅が近くにあり、乗換駅となっていたが、今はそちらの大谷駅はない。現在は乗降客も少ない静かな駅だが、じつは軌道法に準じた路線の急勾配日本一の駅でもある。「軌道法に準じた」としたのは、普通、鉄道は鉄道事業法という法律で管理されており、そちらの最急勾配駅は明知鉄道の飯沼駅だからだ。管理される法律は違うものの、飯沼駅の勾配は33.3パーミルであり、京津線の大谷駅は日本一の急勾配駅と断言してしまって良いだろう。

↑急勾配にある大谷駅。ホームに置かれるベンチ(左上)の足は拡大して見ると左右で長さが異なる、ホームは右肩あがりとなっている

 

ちなみに、軌道法の線路建設には規程があり、駅(軌道法の場合には停留場)は10パーミル以下であることが必要とされる。大谷駅の場合は当時の内務大臣の許可を得て特例として設けられた。急勾配の途中にある駅だけに不思議なことも。下り線上り線ともホームに木製のベンチが置かれているのだが、足の長さが左右で異なるのだ。計ってみると傾斜が低い側は40cm、高い側は30cmと10cmの違いがあった。

 

三条方面行きのホームから下り線ホームを見ると、ホームの右側が明らかに上がっていることが分かる。昨年、大リーグの大谷翔平選手がMVPに輝いた時に、京阪電気鉄道ではTwitterで大谷駅のホームとベンチの写真を掲載してお祝いしたそうだ。右肩上がりの意味を込めたそうで、なかなか粋なお祝いだったように思う。ちなみに同Twitterでは、大谷選手の二刀流に対して、「京津線は地下鉄・登山電車・路面電車の三刀流です」とPRしている。

↑大谷駅を発車する太秦天神川駅行き電車。京津線と並行するのは国道1号。四宮駅(しのみやえき)まで長い下り坂が続く

【京津線に乗る⑨】山科付近では東海道本線と並走して走る

高性能な電車800系とはいえ、大谷駅までの登りは乗車してみるとやや頑張って走っているように感じた。一方、大谷駅から次の追分駅、四宮駅と、軽快に下り坂を走り並走して走る国道1号の車もどんどん追い抜いて行く。四宮駅には車庫もあり、事業用車も停車している。この駅あたりから、右手に東海道本線が平行するようになり、新快速電車や特急サンダーバードなどが通過していくのが見える。

↑京津線の京阪山科駅の北出口。目の前にJR山科駅(右上)があり乗り換え客で賑わう。地下には東西線山科駅もある

 

そして京阪山科駅へ到着した。京阪山科駅の目の前にJR山科駅があり、乗換に便利だ。ちなみに京都市営地下鉄東西線の山科駅もある。京津線はこの先の御陵駅で合流するのだが、東西線と京津線の山科駅は別の駅となる。

 

【京津線に乗る⑩】御陵駅はなぜ「みささぎ」なのか

京阪山科駅の先で東海道本線の下をくぐる京津線の線路は、東海道本線と並走した後に地下へ入っていく。しばらく走ると京津線の現在の起点駅・御陵駅に到着する。京津線の大半の電車は、この先、東西線に乗り入れて、太秦天神川駅などへ向かう。

↑府道143号線(三条通り)にある御陵駅の出口。京阪山科駅との間に京津線の地下入り口がある(左上)

 

さて、京津線の御陵駅。御陵は「みささぎ」と読む。「ごりょう」ではない。地域名が御陵(みささぎ)であることから駅名が付けられたのだが、不思議なことが多い。まず地名の元になっているのは、駅の近くに38代・天智天皇(てんぢてんのう)の山科陵(御廟野古墳)があることからだ。7世紀中期、飛鳥時代に奈良を拠点にした当時の権力者のうち、京都の山科に御陵があるのは天智天皇のみだそうだ。

 

京都市内には西京区に御陵を「ごりょう」と読ませる地名もあり、なぜこちらは「みささぎ」なのか謎である。「陵」一文字を「みささぎ」と読むこともあり、そこからの「みささぎ」なのでは、ということも言われるがはっきりした理由は分かっていない。

 

【京津線に乗る⑪】地下鉄東西線沿線にも見どころがふんだんに

京津線の旅はここで終了となるのだが、御陵駅の入口に気になる碑があった。そこには琵琶湖疎水煉瓦工場跡とある。琵琶湖疎水は、御陵駅の1つ先、蹴上駅(けあげえき)の近くで一部を見ることができる。蹴上駅は旧京津線が走っていたところでもあり、時間に余裕があればぜひとも立ち寄りたい。

 

地下駅から外に出ると目の前に府道143号(三条通り)が通る。この通りをかつて京津線が走っていた。このあたりの勾配はきつく、当時の京津線には66.7パーミルという最急勾配があったそうだ。

↑琵琶湖疎水は水運にも利用された。水力を利用して坂を上下するインクラインという装置が今も残る。台車に乗せられ船が上下した(右上)

 

駅を出て京都市街方面へ向かうと右手に堤があり、この下を琵琶湖疎水が通っている。その先、蹴上交差点があり、直進すると、右手の琵琶湖疎水がさらに良く見えてくるようになる。レールが敷かれた坂があり、鋼鉄製の台車の上に三十石船が載せられている。このあたりは、「蹴上インクライン」と名付けられ、春先になると桜が見事で観光名所になっている。

↑現役当時のインクライン。船を台車に載せて坂を登る姿が見える。こうした絵葉書が今も残されている(絵葉書は筆者所蔵/禁無断転載)

 

琵琶湖疎水は京都の発展に大きく貢献した公共施設だ。第1疎水は1890(明治23)年に、第2疎水は1912(明治45)年に完成している。琵琶湖の水を京都市内に引き入れた用水で、水道用水、工業用水、灌漑に使われたほか水力発電にも使われ、生み出した電気は市電などの運行にも使われた。

 

さらに、インクラインというケーブルカーに近い装置を造り、水運にも利用した。非常に利用価値の高い公共工事であったことが分かる。

↑南禅寺の奥にある水路閣。レンガ造りの水道橋で今も使われている。蹴上駅近くには、ねじりまんぽと呼ばれるレンガの通路も見られる

 

蹴上地区にある南禅寺の奥には水路閣と名付けられたレンガ造りの水道橋が架かる。今でも実際に使われている水道設備だ。レンガで組んだ見事なアーチ橋だ。このレンガが御陵駅の出口に碑が立っていた煉瓦工場で造られ、橋造りに生かされていた。明治期に生きた技術者と職人たちの熱い思いが伝わってくるようで、まさに圧倒される。

 

京津線も明治期の終わりから大正にかけて、トンネルを掘り、急勾配を上り下りする路線を敷設して、多くの人の行き来に役立ってきた。今もこうしたインフラ施設が生かされ、大事に使われている。どちらの施設も明治・大正期に生きた人々の気概が伝わってくる。先人たちの頼もしく素晴らしい熱意とともに、長い年月の流れが見えてきたように感じた。

私鉄各社「事業計画」の新車両増備&設備投資に注目した【大手私鉄編】

〜〜春に発表の鉄道各社2022年度 事業計画③〜〜

 

2週にわたり鉄道各社が発表した「事業計画」「設備投資計画」を見てきた。各社とも今年はアフターコロナを見極め、次の時代に向けての計画案を打ち出しつつある。

 

今回は首都圏大手の3社と、東海・近畿・九州の大手各社の「事業計画」「設備投資計画」を見ていきたい。なお、近畿各社は単年度の計画は発表しないこともあり、中・長期計画の注目ポイントに迫った。

 

【関連記事】
私鉄各社「事業計画」の新車両導入&設備投資に注目する【首都圏大手私鉄編①】

 

【京成電鉄】3100系の増備と押上線の下り高架化を進める

京成電鉄は5月17日に「2022年度 鉄道事業設備投資計画」を発表した。鉄道事業では総額167億円の設備投資を行うとしている。計画では「(1)安全・安定輸送の追求」と「(2)人と環境に優しい取り組み」の2本柱を掲げている。

 

新車増備計画:成田スカイアクセス用の3100系を増備

今年度の計画に記述はなかったが、昨年の11月4日に発表した「2021年度 鉄道事業設備投資計画」の中で、アクセス特急用の3100形車両の2編成(16両)を導入するとあった。2019(令和元)年10月に登場した3100形は、2021(令和3)年9月までに6編成が導入されていて、さらに追加され8編成となる。

↑近未来的な正面デザインが特長の京成3100形、京成グループの標準車両で、新京成電鉄にも同形の80000形が走る

 

この3100形の増備とともに、駅や車内照明のLED化を図るとしている。LED照明の利用は省エネ効果が期待できるだけに、新車両の導入とともに、既存車両の照明の変更を多くの鉄道会社が行うようになっている。

 

設備投資計画:押上線の高架化もかなり進みつつある

京成押上線では東京都葛飾区内での連続立体交差事業が進められている。現在進められているのが京成立石駅(けいせいたていしえき)付近の高架化で、工事区間は四ツ木駅〜青砥駅間約2.2kmとなる。工事はまず仮の下り線工事を進めるとしている。

↑京成立石駅付近で進む立体交差事業。下りホームの後ろ側で仮の下り線の敷設工事が進む

 

工事完了すると2.2km間にある11か所の踏切が廃止される予定だ。仮の下り線の線路が現在の線路と平行に敷設中で、まずは下り線を移動した上で、次に上り線を移動、現在の上り線の位置から高架化する計画が立てられている。

 

同工事の完了は用地買収が遅れた影響もあり、当初は2022年度中の完成としていたものの、実際の完成は2027年度ごろになると見られている。

↑京成立石駅〜四ツ木駅間では仮の下り線の設置が進む。左の電車が走るところが現在の下り線で、工事の後は右の仮線へ移される

 

立体交差事業の他に計画されているのが「京成本線荒川橋梁架替(かけかえ)工事の推進」だ。京成電鉄の荒川橋梁が架けられたのは1931(昭和6)年3月のこと。地球温暖化のせいなのか、豪雨の際にはかなりの水位上昇も見られる。もしもの時に備えて、現在の架橋位置と堤防を高くして、街と路線を守ろうというのが、橋の架け替えの理由である。

 

国土交通省と京成電鉄では、同橋梁の掛け替えを20年近く前から検討を始めており、今年度の事業計画でも「沿線地域防災への取組みとして、国の荒川下流特定構造物改築事業である京成本線荒川橋梁架替工事について、工事に着手します」としている。完成予定は2037(令和19)年度とされている。

↑京成電鉄の荒川橋梁。荒川と平行する綾瀬川に全長446.99mの橋が架かる。工事では堤防とともに橋梁自体も高い位置に変更される

 

【相模鉄道】新横浜線に乗り入れる21000系の増備が進む

相鉄グループは4月26日に「2022年度 鉄道・バス設備投資計画」を発表。総額170億円のうち、鉄道事業へは164億円の投資が行われる。相模鉄道では2022年度末に羽沢横浜国大駅〜東急東横線日吉駅間を結ぶ新横浜線の開業を控えている。投資計画もこの新線開業に投入される新車の増備が記述されている。

 

新車増備計画:今年度に増備されるのは21000系3編成

新線乗り入れ用車両として増備されるのが相鉄21000系。2018(平成30)年2月に登場した20000系の8両編成版で、東急目黒線への乗り入れ用に新造された。今年度は3編成24両が導入の予定で、21000系は計7編成となる。将来は全9編成となる予定とされている。

 

さらに「既存車両のリニューアルを引き続き実施します」とあり、ますます「YOKOHAMA NAVYBLUE」塗装の車両に乗る機会が増えそうだ。

↑東急目黒線乗り入れ用車両の相模鉄道21000系。「YOKOHAMA NAVYBLUE」と呼ばれる濃いブルーで塗装される

 

設備投資計画:改良工事が進む海老名駅、鶴ケ峰駅も高架化が始まる

東急東横線との相互乗り入れが行われる新横浜線。羽沢横浜国大駅付近の工事はすでに終了していて、あとは東急電鉄側の工事の終了と、開業日を待つのみとなっている。他にも今年度の設備投資計画には鶴ケ峰駅付近の連続立体交差事業と、海老名駅の改良工事が記述された。

 

相鉄本線の鶴ケ峰駅は相鉄新横浜線が分岐する西谷駅(にしやえき)と、相鉄いずみ野線が分岐する二俣川駅(ふたまたがわえき)のちょうど中間にある駅で、新横浜線開業後には、通過する列車本数が増えることが予想されている。計画では「鶴ケ峰駅を含めた上下線約2.1km」が地下化される予定で、横浜市の都市計画事業として進められる。工事は2022年度下半期の着手を目指す。

 

今年度の計画では、さらに相鉄本線の終点、海老名駅の改良工事が進められる予定だ。北口改札を新設、「南口改札新設に向けた準備工事として鉄骨製作、架設や新駅舎構築」などが行われる。現在、海老名駅は他線との乗換えがやや不便となっているが、工事が完了すると乗換えも便利になりそうだ。

↑鶴ケ峰駅を通過する横浜行き12000系。現在同駅は地上駅だが地下化をめざして立体交差事業が始められる予定だ

 

【東京メトロ】3線の車両の増備が進められる

東京地下鉄株式会社(以下「東京メトロ」と略)からは2022(令和4)年3月に「2022年度(第19期)事業計画」が発表された。「さらなる安全・安心の提供と鉄道事業の進化による東京の多様な魅力と価値の向上」とする項目1の中で、「新型車両の導入」と「輸送サービスの改善」「新線建設」に関して触れている。いくつかの興味深い事柄も見られるのでチェックしておきたい。

 

新車増備計画:丸ノ内線の電圧を750Vに昇圧するプランも

まず「新型車両については、丸ノ内線、有楽町線・副都心線及び半蔵門線への導入を推進する」としている。それぞれすでに登場している丸ノ内線2000系、有楽町線・副都心線17000系、半蔵門線18000系が増備される。

↑丸の内線2000系電車。増備に伴い1988(昭和63)年生まれの02系が徐々に引退に。本年度から750V昇圧の検討も

 

興味深いのが銀座線・丸ノ内線の電圧を「標準電圧の750V化へ向けた取組みを推進する」と記述されていることだ。銀座線と丸ノ内線の電車は東京メトロで2線のみとなったサードレール(第三軌条)から電気を取り入れて走る方式を採用している。電圧は現在、直流600V方式だが、それを昇圧させ750Vを目指すとしている。説明には「輸送の安定性を高めるとともに、消費電力の削減等、環境負荷低減も図るため」としている。ちなみに、一般的な路線には直流1500Vが使われている。600Vの電圧は、やはり弱点があるということなのだろう。

↑2021(令和3)年8月から運転開始した半蔵門線18000系。グッドデザイン賞や鉄道友の会ローレル賞を受賞するなど評価も高い

 

設備投資計画:地下鉄内の複数の折り返し施設などの増強が図られる

事業計画の中では「輸送サービスの改善」として地下構内の施設の整備も行うとしている。

 

まずは東西線。列車の遅延防止・混雑緩和のため「飯田橋駅〜九段下駅間の折り返し設備整備」を行うとしている。地下鉄構内には、意外なところに側線や留置線が設けられ、路線を走る列車本数の調整や留置に使われている。飯田橋駅〜九段下駅にも側線が設けられているが、これを折り返し設備として有効活用しようというわけだ。

 

銀座線も列車の遅延防止のために、浅草駅構内の折返し設備整備を推進する、としている。浅草駅のホームの先には折返し用の3本の留置線がある。この折り返し用の留置線を、より使いやすいように整備するようだ。

 

【名古屋鉄道】9500・9100系の増備と立体交差化が進む

名古屋鉄道(名鉄)からは3月29日に「2022年度 名古屋鉄道 設備投資計画」が発表された。鉄道事業181億円、開発事業59億円、その他12億円と金額も細かく記述されている。この計画の中で鉄道事業では「1 安全・安定輸送確保」と「2 駅・車両の快適性・利便性の向上」の2つのポイントがあげられた。

 

新車増備計画:名鉄らしさが際立つ9500系・9100系

新車両の増備に関しては「2 駅・車両の快適性・利便性向上」の中に記された。具体的には「通勤型車両9500系及び9100系の新造」としている。

↑名鉄スカーレットと呼ばれる赤の正面デザインが目立つ9500系。9500系の2両編成版の9100系も新造される予定だ

 

9500系は2019(令和元)年12月に導入された新車両で4両編成だ。一方、9100系は9500系の2両編成版で、2021(令和3)年1月に走り始めている。名鉄の鋼製車両は赤一色で「名鉄スカーレット」として親しまれている。9500系・9100系はステンレス車体だが、正面から運転席入口まで名鉄スカーレットカラーを拡大し、名鉄らしい鮮やかな色合いの電車となっている。

 

9500系はすでに11編成まで導入されたが、2022年度に9500系は12編成目が、9100系は7編成目が導入予定。あわせて鋼製車両との置き換えが進むことになる。

 

設備投資計画:複数路線で進む立体交差、踏切の安全設備にも投資

名鉄は愛知県、岐阜県に営業キロ444.2kmという路線網を持つ。路線距離が長いせいもあり、沿線では現在4か所で高架化工事が進められている。どこで行われているか見ておこう。

 

◆知立駅(ちりゅうえき)付近(名古屋本線・三河線)

高架化されるのは名古屋本線の一ツ木駅〜知立駅〜牛田駅間1.6kmと、三河線の重原駅(しげはらえき)〜知立駅〜三河八橋駅間3.4km。知立駅は現在、地上駅だが、完成後には2階部が名古屋本線に、3階部が三河線のホームとなる。三河線は知立駅部分でスイッチバック方式となっている。計画を見るだけでも、大掛かりな工事になることが予想される。この高架化により計10か所の踏切がなくなる予定だ。

 

◆若林駅付近(三河線)

高架化工事が進む知立駅の東側にあたる三河線の三河八橋駅〜若林駅〜竹村駅間2.2kmでも高架化が進められる予定で、この工事完了後には4か所の踏切がなくなる。

 

◆喜多山駅付近(瀬戸線)

名鉄瀬戸線の喜多山駅前後の高架化工事で、小幡駅〜喜多山駅〜大森・金城学院前駅間1.9km間が高架化される。踏切は8か所なくなる予定だが、特に喜多山駅の東西側で瀬戸線と交差する国道302号(環状2号線)と県道59号線(瀬戸街道)といった交通量の多い幹線の踏切があり、同区間の立体交差化が急がれる理由となっている。

 

◆苅安賀駅(かりやすかえき)付近(尾西線/びさいせん)

尾西線の二子駅(ふたごえき)〜苅安賀駅〜観音寺駅(かんのんじえき)間1.8kmで進む高架化計画で3か所の踏切が消える。

 

こうした立体化とともに今回の事業計画には、踏切障害物検知装置の更新や、遠隔監視システム導入踏切の拡大により、踏切道の保安度向上を図ることが記述された。

↑独自の四角い警報灯が使われる名鉄の踏切。さらなる安全対策として複数の踏切で遠隔監視システムの導入が進められている

 

【近畿日本鉄道】新観光列車導入や駅周辺の開発計画が進む

ここからは近畿地方を拠点とする大手私鉄の事業計画・投資計画に話を進めたい。首都圏とは異なり、近畿地方の大手私鉄からは単年度の計画は発表されていない。中・長期計画のみとなる。

 

まずは私鉄最大の路線網を持つ近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)から。同社からは2021(令和3)年5月14日に「近鉄グループ中期経営計画2024」が発表されている。基本方針は「コロナ禍から回復し、新たな事業展開と飛躍に向かうための経営改革」としている。多彩な業種を持つ近鉄グループのプランということもあり、ここでは鉄道事業の一部に絞って見ていきたい。

 

新車増備計画:注目された新観光列車「あをによし」の導入

「中長期戦略/鉄道」の中で「魅力的な車両開発による観光需要の創出」があげられている。まずは名阪特急「ひのとり」デビュー1周年とし、2021(令和3)年2月で全72両(11編成)の投入が完了した。

↑名阪特急80000系「ひのとり」。6両と8両の編成があり、利用者の増減に合わせた運用が行われている

 

80000系「ひのとり」は、名阪特急用に2020(令和2)年3月14日に運行が始まった。余裕を持たせた座席配置で、密を避けたい時代にフィットしたこともあり、好評な運行を続けている。

 

中長期計画では2022年以降、新たな観光特急の運行を計画中と記されていたが、この最初の列車が観光特急「あをによし」となった。大阪難波駅〜近鉄奈良駅間と、京都駅〜近鉄奈良駅間を往復する。豪華な2人がけツインシートと、3〜4人がけサロンシートといった客席構成がユニークだ。

 

今年の4月29日からの運行だったが、筆者が走る前に近鉄京都線の沿線で写真を撮っていたところ、複数の人から「今日は『あをによし』が走るの?」と聞かれた。さらにみなが一度は「乗ってみたい」と話していたのが印象的だった。

↑新観光列車「あをによし」。日中は京都駅〜近鉄奈良駅間を、朝夕は大阪難波駅〜近鉄奈良駅間を走る。木曜日を除きほぼ毎日運行

 

「あをによし」は運賃+特急料金に加えて特別車両料金210円を払えば乗車できるとあってお得な印象が強い。沿線に住む人が興味を持ち乗ってみたいという列車は、これまであまりなかったように思う。沿線の人が興味を示してくれることは、鉄道会社にとってありがたいことではなかろうか。近鉄が今後、どんな新たな観光列車を導入してくるのか、興味深いところである。

 

設備投資計画:沿線の複数の駅で再開発が進められる

中期計画の「03重点施策の主な取り組み」では「駅周辺再開発の推進」も取り上げられている。5つの駅をあげているが、奈良線の駅が多く河内小阪駅、学園前駅、大和西大寺駅の3駅で再開発を計画している。

 

新観光列車「あをによし」が奈良線と京都線を走り、奈良線の複数の駅で再開発を行われることを見ても、近鉄が奈良線をかなり重視していることがわかる。

↑大和西大寺前駅では駅の南側を中心に土地区画整理事業が進められる。近鉄では「駅と周辺の一体的な再開発を推進」したいとする

 

【阪急・阪神】省エネ電車の導入と梅田エリアの開発

阪急阪神ホールディングスグループからは5月20日に「『長期ビジョン-2040年に向けて』及び中期経営計画の策定について」と題したプランが発表された。阪急電鉄と阪神電気鉄道の2社は阪急阪神ホールディングスグループの子会社にあたるが、両社とも中核企業ということもあり、プランの中でも大きく扱われている。

 

長期ビジョンの戦略1として「関西で圧倒的No.1の沿線の実現」を掲げている。具体的には「梅田エリアのバリューアップ」、「沿線主要エリアの活性化(千里中央地区の再整備構想)」、「鉄道新線等による交通ネットワーク(インフラ)の整備」の3テーマをあげている。

 

新車増備計画:阪急・阪神両社で進む次世代型電車の増備

中期経営計画の中の重点施策1として「収支構造の強靭化への取組」の「都市交通」の括りの中で、「鉄道の有料座席サービスの導入 2024年を目途(もくと)」を記載している。これまで有料座席サービスを行う車両を導入してこなかった同社グループ。近畿圏では近鉄、京阪、南海が有料座席サービスを行う中で、貴重な会社でもあったのだが、やはり収益力を上げるためには、有料座席サービスが必要不可欠と見ているのだろう。

 

また、重点施策4の「SDGs・2050年カーボンニュートラルに向けた対応」にある各事業の今後の主な取組内の「都市交通」に関して「鉄道車両の代替新造(省エネ車両)の推進」を掲げている。

 

両社はかなり前からこうした取組をしていて、たとえば2013(平成25)年から導入した阪急1000系(ほぼ同形の京都線用1300系も含む)は車体のリサイクルが容易なアルミダブルスキン構造で、客室照明や前照灯類などすべてLEDを採用している。

↑阪急電鉄の神戸線・宝塚線を走る1000系。9年ほど前に導入の車両だが、当初から環境に配慮した省エネ車両として造られた

 

一方の阪神電気鉄道の各駅停車用の5700系は「人と地球へのやさしさ」が考えられ新造されている。阪急電鉄の1000系・1300系が取り入れた要素を持つ省エネ車両で、旧型車の置き換え用に最近も増備された。

 

現在では当たり前のように導入される環境にやさしい車両づくりを一足先に進めていたわけで、先見の明があったということなのかもしれない。

 

設備投資計画:グループの北大阪急行の延伸工事も完了へ

阪急阪神ホールディングスグループは大阪メトロ御堂筋線へ乗り入れる北大阪急行線という鉄道会社の運営も行っている。同グループの計画書には「強固な交通ネットワークの構築を目指して」として「北大阪急行線の延伸」が記されている。北大阪急行線は千里中央駅〜箕面萱野駅(みのおかやのえき)間が工事中で、2023年度中には開業する予定としている。

↑北大阪急行線の終点駅・千里中央駅。北大阪急行線(右下)沿線は新大阪や梅田へのアクセスも便利で沿線人口も増えている

 

今年発表された計画では、2023(令和5)年3月開業予定の東海道支線の大阪駅から阪急電鉄の大阪梅田駅にかけて再開発を検討しており、「芝田1丁目計画」と名付けられたプランでは、大阪梅田駅に隣接した大阪新阪急ホテル・阪急ターミナルビルの建替え、阪急三番街の全面改修が計画されている。大阪駅、梅田駅の周辺がさらに大きく変わっていきそうだ。

↑進む東海道支線の大阪駅工事。右手に建つグランフロント大阪の複数のビル群も、阪急が開発事業者として加わり開発された

 

2031(令和13)年春に開業予定の「なにわ筋線」の新線計画にも阪急阪神ホールディングスが参画している。同新線は大阪市内に南北に延びる予定で、JR西日本、南海電気鉄道と共に将来は「阪急十三方面に分岐する路線(なにわ筋連絡線)について、国と連携しながら整備に向けた調査・検討を進めます」(大阪府ほか5社発表「なにわ筋線の整備に向けて」より)としている。線路幅はJR西日本や南海電気鉄道と異なることもあり、乗り入れは難しいが、どのような路線計画となるのか気になるところだ。

 

【関連記事】
街が変わる&より便利に!?大阪の「鉄道新線計画」に迫る

 

【南海電気鉄道】高野線向け8300系の導入も始まる

南海電気鉄道(以下「南海」と略)からは3月31日に「新中期経営計画『共創140計画』について」と題する、今年から2024(令和6)年度にかけての3年間にわたる計画が提案された。今の時代に対応していくには「1社単独では難しく、他者との『共創』がより一層重要になってくる」としている。

 

新車増備計画:8300系の増備さらに新線向け電車の計画も

具体的な車両計画は、同プランに記されていないが、最近の車両の導入を見ると、南海本線で8300系を増備し、さらに高野線へも2019(令和元)年11月からこの8300系6次車の導入を始めた。南海本線に導入された8300系の5次車と比べると15%の省エネ効果があるとされる。この導入により高野線の車歴60年と古強者だった6000系の引退が進められている。

 

共創140計画には、新車のイメージイラストが掲載されていたが、こちらは「なにわ筋線対応を含めた車両戦略の策定(「乗りたい電車づくり」の実現)」と解説されている。まだ車両イメージの段階で、具体的には明らかにされていないが、なんば筋線への乗り入れを考えた電車と推測されている。

↑南海本線を走る8300系。2015(平成27)年に導入以来、増備が進む。高野線用の8300系6次車もすでに登場している

 

設備投資計画:なんば筋線開通を柱に据えて未来を描く

南海が〝共創〟を掲げたのは、やはりなんば筋線の開業が将来に控えていることが大きいのであろう。なにわ筋線は、新大阪駅から大阪駅(新駅)を経て、中之島駅、西本町駅(いずれも仮称)、この先でJR線と南海線が分かれ、南海の新今宮駅に至る路線として計画されている。開業目標は2031(令和13)年で、共創140計画には「なにわ筋線開業に向けて沿線を磨く10年間」と記されている。具体的な戦略として、前述した新車両に加えて「新今宮駅、中百舌鳥駅(なかもずえき)、およびこれらに続く拠点駅の整備」をあげている。JR西日本と阪急阪神ホールディングスとの共同事業だけに、将来を見据えて、他社との調整が欠かせないものとなっている。

↑南海の大阪なんば駅。プランでは「シン・なんばターミナル共創エリア」とし、次世代型集客機能が融合した街区を目指すとする

 

さらに、南海本線・高野線の起点となる南海なんば駅周辺では「エンターテイメントシティ2050Namba」(仮称)という提案がなされている。現在の南海なんば駅の最寄りには、なにわ筋線の南海新難波駅も開業の予定で、この新駅まで含めての「共創エリア」とすることを目指している。

 

なんばは大阪南の繁華街だけに、今後どのように街の発展を目指していくか、調整役としての南海の存在が重要になるのかもしれない。

 

【京阪電気鉄道】プレミアムカーの連結が完了でより快適に

大阪と京都を結ぶ京阪本線などの路線を運営する京阪電気鉄道。同社からは2026年度を目標年次とする長期経営戦略「京阪グループにおける今後の方向性について」が2020(令和2)年11月5日に発表されている。2年前に発表されたものなので、すでに達成された計画もあり、簡単に触れておきたい。

 

新車増備計画:3000系全編成にプレミアムカーの連結が完了した

「各事業の施策(安全安心)」内で示されたのが「『プレミアムカー』サービスの拡大」で、2021(令和3)1月から3000系車両全編成の6号車に「プレミアムカー」を導入するとある。

↑京阪本線を走る3000系。コンフォート・サルーンの愛称を持つ。車体の色が異なる後ろから3両目がプレミアムカー

 

8000系と3000系編成に組み込まれた「プレミアムカー」。料金は乗車した距離で異なるが運賃+400円か500円で乗ることができる。プレミアムカーが目指す〝密集を避けて安心して移動できるサービスの拡充〟はちょうど時代に合ったこともあり好評なようだ。

 

逆に大量輸送時代の申し子だった5扉車の5000系は2021(令和3)年9月に最終運転を迎えた。初代3000系の2階建て車両など、時代を先取りした車両を導入することが多い鉄道会社だけに、次はどのような車両を登場させるか、気になるところだ。

 

設備投資計画:枚方市駅周辺の再開発など注目したいポイントも多い

設備投資計画としては枚方市駅周辺の再開発(2023年度完了予定)や、京橋駅周辺再開発、三条駅周辺再開発(いずれも完了時期は未定)といった駅周辺の再開発に関して触れている。

 

同計画で興味深いのは「デジタル技術を活用した業務効率化」として、橋梁などの鉄道設備の点検にドローンを活用して作業効率を上げるとしていることだ。今年発表された投資計画では、複数の鉄道会社でドローンの活用を検討とあったが、それを2年前に計画していたとはなかなかである。

 

【西日本鉄道】週末、大牟田線への自転車持ち込みが可能に

最後に西日本鉄道(以下「西鉄」と略)が3月25日に発表した「西鉄グループ〝修正〟第15次中期経営計画 2022年度計画」を見ていこう。巻頭に「聖域なき構造改革」を掲げていて、かなり大胆な取組が見て取れる。西鉄グループの計画の中の鉄道事業に限って見ていきたい。

 

新車増備計画:9000形などの増備で大きく変わった西鉄電車の〝顔〟

新車両の増備に関して具体的な記載はないが、「省エネ車両への代替による消費電力の削減」をうたっている。

↑2016年度から走る9000形。全照明にLEDを使用する省エネ電車で、編成を組みやすいように3両編成と2両編成が用意される

 

西鉄の車両の入れ替えのタイミングは早い。特急形車両に8000形という人気車両があったが、導入して30年たつ前に全車が引退、すでに低コストながら高品位な車体を売りにした3000形に置き換えている。

 

通勤形電車の主力となりつつある9000形は2016年度の導入ながら、前照灯や車内照明など照明装置はすべてLED化され、また車体はステンレス車体ながら組立にレーザー溶接を利用、正面のみ普通鋼製を利用している。正面を鋼製としたのはもしもの事故を考慮したもので、また日ごろの保守が容易ということが念頭に置かれている。列車の車両編成数を増減しやすいように、3両編成と2両編成を用意したところも興味深い。

↑地域を味わう旅列車「THE RAIL KITCHEN CHIKUGO」。行程によりカフェ、ランチ、ディナーそれぞれが楽しめる

 

車両・列車に関係する取り組みとしては「THE RAIL KITCHEN CHIKUGO」を活用した地域連携活動の推進が提案されている。地域のお祭り、沿線イベント・自治体と連携した企画列車の運行や体験イベントの実施を、この列車を通して行いたいとしている。

 

さらに西鉄では面白い試みも取り入れている。「ポストコロナの観光復活に向けた取り組み」として「サイクルトレインの実施」を進めているのだ。

 

サイクルトレインは、他社でもローカル線などでの取り組みが見られるが、同社は本線にあたる天神大牟田線で導入を図る。繁忙期を除く土曜・日祝日に自転車とともに乗車でき、持ち込み料1回につき300円がかかるが、自転車を折り畳んで輪行袋に入れる必要がなく、そのままの形で乗車できるのがポイントだ。自転車をのせることができる対象駅は、特急列車停車駅のみ、また乗車時には事前予約や、乗車できる扉が限られ、また車内ではベルトで固定するといった制限があるものの、新たな試みとして注目したい。

 

設備投資計画:進む天神大牟田線の立体交差化、さらに新駅も開業予定

天神大牟田線の福岡市内の連続立体交差事業も進められている。天神大牟田線の雑餉隈駅(ざっしょのくまえき)〜下大利駅(しもおおりえき)間で、2022年中には立体交差化が完了の予定。雑餉隈駅と春日原駅(かすがばるえき)の間には2023年度後半には新駅・雑餉隈新駅(仮称)が設けられることになる。

 

鉄道会社の事業計画・設備投資計画を見ると、次の時代へ向けた新たな取り組みが多く見られた。今後、どのような新型車両が登場してくるのか、一方で、旧型車両が消えていくのか、さらに立体交差事業も各地で進む。駅を含めどのような街造りが鉄道事業を通して行われていくのか多彩なプランが網羅される。そこには新しい時代の鉄道と日本の姿もおぼろげながら見えてくるようで、興味深い。

 

私鉄各社「事業計画」の新車両増備&設備投資に注目する【首都圏大手私鉄編1】

〜〜春に発表の鉄道各社2022年度 事業計画その2〜〜

 

首都圏大手私鉄各社の「設備投資計画」が出そろった。それぞれアフターコロナを見極め、次の時代へ向けての積極的なプランを打ち出している。今回は首都圏大手が発表した事業計画の中で、新型車両の導入計画および立体化工事などの設備投資を中心に、首都圏大手6社の気になるポイントに注目してみた。

 

【関連記事】
鉄道各社「事業計画」の新車両導入&設備投資に注目する【JR編】

 

【東急電鉄】新横浜線開業目前で目黒線8両化が進む

東急電鉄が5月13日に発表した2022年度の「設備投資計画」。「事業基盤の強靭化と社会的価値の持続的提供のため総額444億円を投資」する。ちなみに首都圏大手9社の中で、最も金額が多い設備投資計画となった。

 

新車増備計画:2020系増備で8500系も残り1編成に

「新型車両の導入」プランでは、田園都市線用の2020系の10両一編成を導入する。この導入により、旧型車両(8500系)との置き換えが完了する。

↑最後まで残った田園都市線用の8500系8637編成。残念ながら5月末現在、朝夕のみの運用などに限られている

 

東急2020系は2018(平成30)年3月28日に東急の次世代の標準車両として開発され、田園都市線用だけでなく、すでに目黒線用に3020系、大井町線用には6020系が生み出され導入されている。モーターの高効率化、車内照明、ヘッドライト・尾灯のLED化により使用電力を軽減、2020系と旧型の8500系と比較すると使用電力が50%ほど軽減される。

 

一方、消えていく8500系は1975(昭和50)年に開発された車両で、47年にわたり田園都市線を走り続けてきた。東急電鉄の言わば〝ご長寿車両〟だった。今年の4月からは「ありがとうハチゴー」プロジェクトとして残る編成にヘッドマーク装着が行われ、撮影会、貸切イベントも開かれている。田園都市線の沿線で、旧型電車らしいモーターの甲高い音が聞けなくなるのは、ちょっと寂しいところである。

↑東急田園都市線の主力車両となりつつある2020系。2022年度の導入分で旧型8500系の置き換えが完了となる

 

設備投資計画:東急新横浜線開業に向けて最後の仕上げに

2022年度末にあたる2023(令和5)年3月に開業予定の東急新横浜線。相模鉄道の羽沢横浜国大駅と東急東横線の日吉駅間が結ばれることにより、東海道新幹線の新横浜駅利用が非常に便利になる。さらに、この新線開業により3都県、7社局14路線を結ぶ大鉄道ネットワークが完成される。今年は最後の仕上げの年となるわけだ。

 

この新線には主に目黒線を走る列車が乗り入れる予定だが、これまで6両だった同線の電車が徐々に8両編成化が進んでいる。中でも3020系の一部編成は早くも6両から8両となり走り始めている。今年度の設備投資計画では新横浜線開業までに東急電鉄の全26編成がすべて8両化される予定だ。すでに他社の乗り入れ車両である、都営三田線用の新型6500形も8両編成で走り始めている。東京メトロ、埼玉高速鉄道などの電車も追随予定で、来春にはさらなる輸送力増強が図られそうだ。

↑新横浜線開業を1年後に控えた3月31日。元住吉運転区では8両化された東急3020系と相模鉄道20000系が並ぶ様子が見られた

 

その他にも設備投資の一環として大井町線で実施している有料着席サービス「Qシート」の他路線展開も、今後検討していくとしている。

 

【東武鉄道】新特急車両の導入で東武特急の〝顔〟が変わる

4月28日に東武鉄道から2022年度「鉄道事業設備投資計画」が発表された。この計画では総額322億円の設備投資を行うとしている。その1「安全・安心の持続的な提供に向けて」のトップに「鉄道立体化の推進」を掲げている。首都圏の大手私鉄の中で最も立体化の推進に力を入れている様子がうかがえる。同件の詳細は後述するとして、まず車両に関して見ていこう。

 

新車増備計画:N100系を新造、一方で消滅した350系電車

「鉄道事業設備投資計画」の2に「さらなるサービス向上に向けて」として新型特急N100系に関して触れている。このN100系は2022年度に車両製作を行い、2023年に正式にお目見えとなる。走るのは東武スカイツリーライン・日光線・鬼怒川線で、浅草駅〜東武日光駅・鬼怒川温泉駅間に導入される。計画では6両×4編成、計24両を新造する。横3列のプレミアムシート、運転席越しの展望が楽しめる11立方メートルの個室「コクピットスイート」が設けられるなど贅沢な車両となりそうだ。

↑100系の「デラックスロマンスカーカラー」編成。昨年12月に登場したリバイバルカラーで他の100系も塗り替えが進められている

 

現在の、東武鉄道の特急形車両は、100系スペーシアに、200・250型りょうもう、他に500系リバティの3本立てで運行される。N100系は形式名にも「100」という数字が踏襲されるように100系スペーシアの後継にあたる車両となる。100系が登場したのは1990(平成2)年6月のことで、すでに30年以上走り続けている。

 

現在の100系は6両×9編成、計54両が走っていて、昨年からリバイバルカラーへの塗り替えが一部の編成で行われている。これはN100系の新造とどのような関連性があるのか気になるところだ。500系リバティも徐々に増備されており、将来はN100系と500系によって、現在の100系の運用が引き継がれることが予想される。

↑東武鉄道の特急型電車の中ではユニークな存在だった350系。定期運用は消滅したものの夜行団体臨時列車などでの運行が行われる

 

ちなみに、今年の3月までは350系という特急形電車が走っていた。元は1800系という急行型電車で、特急形として改造した4両編成の車両を350系とした。土休日に浅草駅〜東武日光駅間を走る特急「きりふり」に使われていたが、2022(令和4)年3月6日の運行をもって同列車の運行が終了、同時に350系電車の定期運行が終了している。

 

東武の投資計画には記されていないものの、4月28日に車両に関して気になる発表があった。東武アーバンパークライン(野田線)に5両編成の新型車両を導入するというのである。同線には現在60000系と10030系、8000系の3タイプが走っている。すべて6両編成で運転されている。新型は60000系の5両編成版となる。2024年度以降から順次導入される予定だとされる。

 

コロナ禍により、在宅勤務やテレワークが多くなり、電車通勤をする人が減っているとされるが、既存の編成車両数を減らすというのは、かなり思い切った計画である。将来、5両編成と6両編成を共存させていくのか、気になるところだ。

↑東武アーバンパークライン(野田線)を走る60000系。2024年度以降は5両編成の車両が登場することが発表された

 

設備投資計画:立体化工事が進む東武スカイツリーライン

東武鉄道の沿線では踏切を減らすために複数の高架化工事が進められている。投資計画に掲げられた区間を紹介しておこう。

 

◆竹ノ塚駅付近高架化
東武スカイツリーライン・竹ノ塚駅付近(西新井駅〜谷塚駅/やつかえき間)の高架化工事で2023年度に事業完成予定。

◆清水公園駅〜梅郷駅(うめさとえき)間高架化
東武アーバンパークライン・清水公園駅〜梅郷駅間が立体交差かの工事を施工中。2023年度中に野田市駅の供用開始および2面4線化される。

◆とうきょうスカイツリー駅付近高架化
東武スカイツリーライン・とうきょうスカイツリー駅付近(とうきょうスカイツリー駅〜曳舟駅間)の工事で、2022年度は上り線の高架橋工事が推進される。

↑とうきょうスカイツリー駅付近で進む高架化工事。まずは上り線の高架橋工事が進められている

 

◆春日部駅付近高架化
東武スカイツリーライン・東武アーバンパークラインが交わる春日部駅付近(一ノ割駅〜北春日部駅間、八木崎駅〜藤の牛島駅間)の高架化工事で、2022年度には春日部駅東側で仮上り線ホームと東口仮駅舎の工事を推進する。

◆大山駅付近高架化
東上線・大山駅付近(下板橋駅〜中板橋駅間)の高架化で、2022年度に連続立体交差化工事についての地元自治体と施行協定を締結のうえ、工事着手に向けて設計業務等を行う。

 

こうした立体化工事は地元の自治体との都市計画事業として行われている。交通渋滞の原因となりがちな開かずの踏切を減らし、高齢化社会が進む時代、危険性が高い踏切を減らす要望がそれだけ強くなっているということもあるのだろう。

 

【京王電鉄】ライナー用車両の新造と連続立体化工事の推進

5月2日に京王電鉄から2022年度の鉄道事業設備投資計画が発表された。その額は288億円で、首都圏大手の3位にあたる。【主な取り組み】の中で「1.より高度な安全・安心の追求」のトップとして「(1)京王線(笹塚駅〜仙川駅間)連続立体交差事業の推進」が上げられている。連続立体交差事業が同社最大の事業という位置づけなわけである。

 

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半世紀にしてようやく!京王線の連続立体交差事業に見る「踏切問題」を解決する難しさ

 

新車増備計画:好調な京王ライナー用の5000系を増備

まずは車両増備計画から見ると、5000系の新造車両1編成(10両)を増備するとある。5000系は2017(平成29)年9月に登場した車両で、ロングシート・クロスシートと座席が変換できるデュアルシート(マルチシート)の機能を生かして、有料座席指定列車の「京王ライナー」などに使われている。デュアルシートは、多くの会社の車両に使われる機能だが、クロスシート利用時にリクライニングできないといったマイナス要素があった。

 

本年度に増備される京王5000系は、日本初のリクライニング機能を取り入れたデュアルシートが使われる予定となっている。すでに導入されて4年になる座席指定列車「京王ライナー」だが、密を避けたいという思いを持つ利用者が増えたせいか、運行される列車は概ね好評のようである。

↑朝夕に運行される座席指定列車「京王ライナー」。今年度はリクライニング機能付きの5000系の新車が導入される予定だ

 

車両に関しては「車両やホーム上における防犯・安全対策」とある。具体例としては「車両併結による車内通路非貫通の解消」と記されている。これは8000系同士の連結時にあったもので、先頭車両同士が連結されることにより、通り抜けができない状態が生まれていた。この8000系の連結される側の運転室を廃止し、貫通幌を付けて通り抜けが可能にした車両が整備されている。外から良く見ると、後付けした連結部ということもあり、やや異なる姿だが、こうした変更も防犯・安全対策として有効なのであろう。

 

ちなみに、今年の3月のダイヤ改正で京王線の列車運行で変更があった。「準特急」という「特急」に準ずる列車が廃止され、「特急」のみに変更された。誤乗車を防ぐための工夫であるとともに、京王ライナーを「終日運行の検討を進める」と投資計画内にあるように、次の時代の列車運行のための布石でもあったのだろう。

 

設備投資計画:笹塚駅〜仙川駅間の連続立体化工事を進める

京王電鉄が進める事業として最も大掛かりなのが、京王線の立体交差化である。京王線の笹塚駅〜仙川駅間約7.2km区間で進められる連続立体交差事業で、「引き続き事業主体である東京都および世田谷区・渋谷区・杉並区とともに用地取得や高架化工事などを進める」とある。この高架化により途中7つの駅が高架化、25か所の踏切が廃止される予定だ。

↑代田橋駅〜明大前駅間の現状。高架化工事を進めるために都道413号線(右)の位置が変更された。中央の工事部分が高架化される

 

筆者は同路線の沿線に住んでいることもあり、日々、この事業の進み具合を目にしているが、用地取得は最終局面を迎えつつあり、また一部の高架化工事も順調に進められているように見える。

 

投資計画の最後の「DX(デジタルトランスフォーメーション)を活用した業務省力化等の推進」の中に「土木構造物や電気設備の維持管理業務のデジタル化に向けて検査システムの構築を進める」とあった。同社には900形電車DAX(Dynamic Analytical eXpressの略)という軌道検測車両(総合高速検測車)が在籍している。DXとは言葉が異なるものの、この車両が調べたデータなども取り入れた仕組みづくりが進められていると思われる。

↑偶数月の月初めに走る京王線の検査列車。中間にDAXを連結して軌道検測などの検査を行っている

 

【小田急電鉄】5000形増備+3000形をリニューアル

小田急電鉄からは4月28日に2022年度「鉄道事業設備投資計画」が発表された。「安全対策の強化」と「サービスの向上」を重点に、総額263億円の投資が行われるとされた。

 

トップに掲げられた「安全対策の強化」として1日の利用者数10万人以上の駅へ優先的にホームドア整備を推進するとしている。同条件に当てはまる駅としては本厚木駅が上げられ、まずは1・2番線にホームドアの導入を行う。

↑増備が進む小田急5000形(2代目)。ワイドサイズの車体を生かし「車内スペースを拡張し、広さ、明るさ」をより感じる造りに

 

新車増備計画:5000形の増備の一方で1000形の減車が進む

今年度に導入される車両は5000形で10両×3編成が新造される。この新造により1000形の一部が引退となる。特に引退が進められているのは1000形の未更新車と、ワイドドア車だ。ワイドドア車とは、側面の乗降扉が通常(扉幅は1.3m)を扉幅2mに広げた車両で、乗降時間を短くすることを目的に造られた。乗降時間を短くする試みとして成果はあったものの、座席定員数が減ったことが逆に不評だったとされる。

↑1000形ワイドドア車。運転室の後ろの扉以外はみな2mと幅広くされた。写真の1752編成は2021(令和3)年6月に廃車となった

 

1000形のワイドドア車は6両×6編成が走っていたが、2020(令和2)年11月から引退が進められ、最後の車両は、今年の5月に正式に引退となった。ちなみに乗降扉を1.6mと広げつつも、座席数を確保した2000形は今も9編成72両が走り続けている。

 

さらに車両計画では、3000形の6両×3編成をリニューアルするとしている。「省エネルギー化が図られる制御装置の搭載やオイルフリーコンプレッサーへの更新」が行われる予定だ。

 

↑小田急電鉄の主力車両3000形。6両・8両・10両のうち6両編成の車両からリニューアル工事が進められる

 

設備投資計画:横浜線跨線橋などで耐震補強工事が進む

車両以外の設備投資プランとしては中央林間駅の駅舎改良工事(2024年度竣工予定)、町田駅近くに架かる「横浜線跨線橋」や、渋沢駅〜新松田駅間にある「第1四十八瀬川橋梁」の耐震補強工事が行われる予定となっている。

 

【西武鉄道】西武新宿線の複数個所で地下化・立体化が進む

西武鉄道からは5月12日に2022年度「鉄道事業設備投資計画」が発表された。総額245億円で、安全対策、サービス向上、環境対策などの鉄道事業に関しての設備投資を行うとしている。

 

特に今年度は次世代の新宿線を目指し、複数個所での連続立体交差事業をさらに推し進めるとしている。

 

新車増備計画:増備が進む40000系、一方で引退が進む旧型電車

まずは新車両の導入計画から見ていこう。新車両としては「S-TRAIN」用として導入された40000系3編成30両を増備するとしている。40000系は2017(平成29)年3月25日に導入された車両で、クロスシート・ロングシートが転換できるデュアルシートを備えた車両として開発された。すでにデュアルシートを取り入れた0番台が6編成60両を導入。さらにロングシートに固定された50番台の導入が行われ、0番台を超える編成数がすでに走っている。

↑池袋線を走る40000系50番台。座席は固定式のロングシートのみとなっている。主に池袋線での運用が続く

 

西武鉄道では池袋線の特急として登場した001系ラビューが2022年(令和4)年2月までに7編成56両が導入され、池袋線の特急列車の運用についている。新宿線では従来の10000系ニューレッドアローが特急「小江戸」の運用されているが、こちらの後継車両の導入はまだ先のことになりそうだ。

 

40000系の増備で徐々に減る可能性があるのは、やはり新101系ということになるのだろう。新101系は西武鉄道では唯一残る3扉車で、1979(昭和54)年〜1984(昭和59)年製造と〝古参車両〟となっている。多摩川線などを走る路線も限られている。かつての西武鉄道の電車を思わせる赤電復活塗装車、黄色レトロ塗装車が残り人気があるものの、徐々に減りつつある。この3月初旬にも1編成が姿を消した。さらなる引退も進みそうな気配だ。

↑今年の3月初旬で姿を消した新101系の1259編成。最後は赤電復活塗装車として走った。写真は多摩湖線を走った当時のもの

 

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今のうちに乗っておきたい!懐かしの鋼製電車が走る「西武鉄道」の3路線

 

設備投資計画:東京都内で進む西武新宿線の立体化工事

これまで立体交差区間が限られていた新宿線で、新たな立体交差事業が進められている。次の区間だ。

 

◆中井駅〜野方駅間の連続立体交差事業
2014(平成26)年1月、工事に着手したもので、野方駅〜中井駅間2.4kmの地下化工事が進められる。この工事により7か所の踏切が廃止される。予定は本年の計画には記されていないが、2027(令和9)年3月末に完成を目指すとされている。

↑工事が進む新宿線の新井薬師駅〜沼袋駅間。東京都と中野区との共同事業として工事が進められる。完成後はこの区間は地下化される

 

◆東村山駅付近連続立体交差事業
新宿線と国分寺線、西武園線が交わる東村山駅。新宿線の中でも乗り換え利用者が多い駅となっている。この東村山駅周辺を連続高架化して5か所の踏切を廃止することを目指し、2015(平成27)年1月に工事が着手された。事業区間は4.5kmで、中でも線路内で都道を含む5本の道路が交差していた「東村山第1号踏切(通称・大踏切)」の存在が立体化を強く押し進められた原因とされる。今年度は、駅構内と一般部の高架橋構築工事と、新宿線の切替工事を行うとされる。予定では2024(令和6)年度に完成の見込みだ。

↑工事が進む東村山駅の東口。駅前名物の「志村けんの像」のちょうど後ろの駅構内で立体交差工事が進められている

 

新宿線では他に東京都により2021(令和3)年11月に、井荻駅〜西武柳沢駅間が高架方式で立体交差事業を進めることが都市計画決定された。さらに2016(平成28)年3月、野方駅〜井荻駅間に関して、東京都から新規に着工を準備する区間として社会資本総合整備計画に位置づけられている。池袋線に比べて、やや立体化事業の遅れが見られた新宿線。これらの工事の進捗により、近代化された新宿線の姿が将来、見られるだろう。

 

【京浜急行電鉄】いよいよ本格化する品川駅の立体化工事

京浜急行電鉄からは5月11日に2022年度「鉄道事業設備投資計画」が発表された。副題は「さらなる安全対策の強化、ユニバーサルで快適な輸送サービスの提供を目指して」とある。投資金額は総額231億円となる。

 

概要のトップでは「1.さらなる安全対策の強化」として(1)連続立体交差事業の推進(品川駅付近・大師線)、(2)踏切安全対策の強化がうたわれる。同社としては神奈川新町駅に隣接する踏切で2019(令和元)年9月に起きた列車脱線事故があっただけに、安全対策を急ぐことを最初に掲げている。

 

新車増備計画:ブルーリボン賞受賞の新1000形がさらに増備される

同計画では新車両の増備に関して触れられていないが、1000形1890番台の増備は暫時進むと思われる。1000形1890番台はフランス語の〝空〟を意味する「le Ciel(ル・シエル)」という愛称が付けられた。座席がロングシートとクロスシートの転換が可能なデュアルシートが採用され、2022(令和4)年3月26日から運行が開始された。

↑今年の春に登場した1000形1890番台。羽田空港第1・第2ターミナル駅〜逗子・葉山駅間を走ることが多くなっている

 

この1000形1890番台が5月26日、鉄道友の会が選定する今年度のブルーリボン賞に輝いたことが発表された。最高水準の機器類を積極採用、同社で初のトイレ装備車で、さらに通勤・通学のみならず観光・イベントなどチャレンジングな姿勢が評価されたとしている。

 

京浜急行では39年前にあたる2000形(すでに全車引退)以来の2回目にあたる授賞車両となる。投資計画書の中では1000形の増備により、界磁チョッパ制御車の1500形の置き換えが掲げられている。解説によると「車種による運転用エネルギーの違い」の比較では新型は1500形に比べて37%減が実現できるという。2021(令和3)年4月1日現在、1500形は計158両が残っているが、徐々に減っていくことになりそうだ。

 

設備投資計画:北品川開かずの踏切の廃止に向けて立体化が進む

京急の沿線では2区間で連続立体交差事業の推進されている。

 

◆品川駅付近(泉岳寺駅〜新馬場駅間)連続立体交差事業

↑品川駅周辺では複数の駅改良工事が進む。将来は一番西側にある京急の線路は高架から地上に下りる予定となっている

 

2020年度から始められた事業で、泉岳寺駅〜新馬場駅間で3か所の踏切道をなくすように工事が進められている。品川駅〜北品川駅間では高架化し、逆に品川駅では、現在の高架線を地上に下げてホームは2面4線化(現在は2面3線で運用)して利便性の高い駅にするとされる。

 

品川駅付近は多くの交通機関が複雑に交差している。地上部にはJR在来線と東海道新幹線が走り、線路に平行し、西口駅前を国道15号が通る。リニア中央新幹線の品川駅開設の工事も行われ、将来は東京メトロ南北線の線路も延びるとされる。そうした交通の要衝に合わせて踏切道が抜ける北品川駅付近は高架にして、品川駅に至るまで高架線からJRの路線と同じく地平部に降ろす工事が進められる。そして駅構内を抜ける東西自由通路をより使いやすくするなどのプランが立てられている。

 

2022年度も同工事は推進し、2029年度の完了を目指すとされる。進む立体交差事業で品川駅がどのように変わっていくのか興味深い。

↑品川駅〜北品川駅間にある品川第一踏切。京浜急行の電車が徐行する区間とあって立体交差化によりスピードアップが実現する

 

◆大師線連続立体交差事業
他にも大師線での立体交差事業が進められている。すでに東門前駅付近と小島新田駅付近の約980mの区間が地下に切り替えられ、4か所の踏切道が廃止された。残る地上部整備工事や、大師橋駅と小島新田駅の駅舎工事がさらに進められる。

 

首都圏大手6社の事業計画・投資計画を見てきたが、大半の私鉄で、連続立体化交差事業といった大掛かりな事業が進められている。次週は、首都圏大手の残り3社と東海地方・近畿地方・九州地方の私鉄各社の今年度の事業計画・投資計画の注目ポイントを見ていきたい。

鉄道各社「事業計画」の新車両導入&設備投資に注目する【JR編】

〜〜春に発表の鉄道各社2022年度 事業計画〜〜

 

毎年3月から5月にかけて発表される鉄道各社の「事業計画」「設備投資計画」。鉄道会社はコロナ禍により乗客が減るかつてない状況に直面し、利益をどのようにあげていくか対応に追われている。今回はJR各社から発表された事業計画の中で、気になる新車両の導入計画および設備投資を中心に、注目ポイントをピックアップした。

 

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鉄道各社が発表した2021年度「新車両投入」計画を改めてまとめてみた

 

【JR北海道①】H100形、キハ261系の増備が進む

まずは、JR北海道が4月1日に発表した「令和4年度事業計画」を見ていこう。「輸送施設の安全性向上」の中で〝車両故障対策〟として、新車の導入計画に関して触れ、具体的には「H100形電気式気動車の新製によるキハ40形気動車の更新、261系特急気動車の新製投入」をあげている。

 

H100形はJR北海道が初めて導入したディーゼル・エレクトリック方式(電気式)の気動車で、基本設計はJR東日本のGV-E400系気動車と共通化された。2020(令和2)年3月に函館本線などの線区で運用開始以来、増備され運用範囲を広げつつある。

↑函館本線の長万部駅〜小樽駅間などで運用が開始されたH100形。愛称は「DECMO(デクモ)」

 

この新型の増備により入れ替わるのが国鉄形のキハ40形。キハ40形は国鉄時代に生まれた気動車だが、最終盤に造られた車両ですら1982(昭和57)年で、製造されてからすでに40年の歳月が経つ。部品の調達も難しくなりつつあり、JR北海道では故障への対応にも頭を痛めていた。2022(令和4)年4月1日の段階で北海道内にはキハ40形76両が在籍しているが、H100形(すでに各地に75両を配置)の一層の増備で、キハ40系の削減の波が強まりそうだ。

 

一方、事業計画に記された「261系」とは「キハ261系」のこと。キハ261系は特急形気動車で、1998(平成10)年から札幌駅〜稚内駅間を走る特急「スーパー宗谷」(現在は「宗谷」に特急名変更)に導入された。その後に、改良タイプが生み出され、徐々に運用範囲が広げられていった。

 

JR北海道では併用するようにキハ281系、キハ283系といった振子式の特急形気動車が使われてきたが、こちらは製造費用が割高で、走行中に火災が起きるなどのトラブルもあり、またメンテナンスに手間がかかるなどの問題を抱えていた。両形式を進化させたキハ285系も試作されたが、正式な導入を断念した経緯がある。対してキハ261系は新造費用も割安で、性能も安定しており、今やJR北海道にとって欠くことのできない特急形気動車になりつつある。

↑道内の主力となるキハ261系特急形気動車。写真の特急「北斗」も同車両のみとなりそうだ。789系(左)も重要機器取替工事が進む

 

2022(令和4)年3月11日には、キハ283系による特急「おおぞら」の運行が終了となり、「おおぞら」はすべてキハ261系に置き換えられた。キハ261系以外で運行される特急は、キハ281系で運行の特急「北斗」とキハ183系で運行の特急「オホーツク」「大雪」のみとなっている。「北斗」はすでにキハ261系での運行が大半を占めており、「北斗」に残るキハ281系での運用は今年度いっぱいで終了ということになりそうだ。

↑内浦湾沿いを走る特急「北斗」キハ281系。優秀な振子式車両だったが、2022年度中に姿を消すことになりそうだ

 

ちなみ事業計画では「789系特急電車や201系気動車等の重要機器取替工事を推進する」とある。既存車両の機器の更新も進められることになる。

 

【JR北海道②】北海道新幹線の延伸で始まる札幌駅の改良工事

「事業計画」の「(2)経営基盤の強化」の項目の中では「①収益の確保」を目指す鉄道事業として「観光列車で新たな観光需要の創出を図る」としている。

 

あげられた観光列車は「花たび そうや」号や「THE ROYAL EXPRESS」、「HOKKAIDO LOVE!ひとめぐり号」で、この3列車の運行を実施するほか、SL客車のリニューアルを実施するとある。北海道の自然や観光資源を活かすために、こうした観光列車を有効に生かしたい方針のようだ。

 

また「北海道新幹線の取り組み」に関しても事業計画で触れている。令和4年度には、新幹線延伸に向け札幌駅工事が本格化する。札幌駅では11番線ホームの新設工事、南北乗換こ線橋工事、東西連絡通路工事、新幹線高架橋増設工事、耐震補強工事が始まる。ほか、新幹線が延伸される沿線では函館本線の倶知安駅、長万部駅の支障移転工事も進められる予定だ。

↑札幌市の表玄関、札幌駅。北海道新幹線延伸のため、同駅の改良工事が今年度から始められる予定だ

 

事業計画では、北海道新幹線札幌延伸の効果が現れる令和13年度の経営自立を目指すとしている。あとはお金がかかる青函トンネルの修繕業務や、閑散路線の運営をいかにしていくかであろう。

 

閑散路線の中で、具体的には「留萌線(深川〜留萌間)、根室線(富良野〜新得間)の早期の鉄道事業廃止及びバス転換を目指す」としている。これ以外にも採算の取れない赤字路線が多い北海道。こうして年々不採算路線の廃線ということを進めていかざるをえない現状も、非常に気になるところである。

 

【JR東日本①】ワンマン運転が進む閑散路線

JR東日本からは4月27日に「設備投資計画」が発表された。同計画には「輸送サービスの変革」として車両の新造計画および、設備投資の具体例があげられている。

 

まず新車両としては、山形新幹線用のE8系を新造し、2024年春の営業開始を目指すとしている。現在、同線の車両はE3系の1000番台と2000番台が使われている。E3系1000番台は新庄駅へ延伸された1999(平成11)年に合わせて新造された。新幹線の車両の寿命は15〜25年とされ、この年数を目処に入れ替えが行われる。E8系の新造はこの寿命を念頭に置いてのものとなる。

 

また、具体的な形式名は記していないものの、「ワンマン運転の拡大やBRTの自動運転の実施に向けた対応」もあげられている。JR東日本管内でワンマン運転は、このところ急速に進みつつある。ワンマン運転に対応したE131系電車が開発されたことが大きい。まず、2021(令和3)年3月13日に房総地区に導入されたのがE131系の0番台だった。さらに2021(令和3)年11月18日には500番台・580番台が相模線に導入され、205系すべての置き換えが完了している。

 

さらに、今年の3月12日には、宇都宮周辺を走る東北本線の宇都宮駅(一部は小山駅)〜黒磯駅間と、日光線用に600番台・680番台が導入され、すでに両区間のほとんどの列車がE131系での運用となっている。

↑3月に宇都宮地区に導入されたE131系600番台・680番台。ワンマン運転に合わせた種々の機器を備えている

 

導入された線区は比較的、利用者が少なく編成の車両数が少ない閑散路線が多いが、他線区でも車掌が同乗しないワンマン化された列車が検討されていくことになるのだろう。

 

【JR東日本②】中央快速線のグリーン車導入は想定外の延期に

JR東日本では、2023年度末に中央快速線のグリーン車の連結を予定していた。長くなる編成のために各駅のホームの延長工事などがすでに進められている。今年度の事業計画では、このサービス開始が少なくとも1年程度遅れる見込みということが発表された。

 

その理由としてあげられたのが半導体不足の影響だ。自動車と同じように鉄道車両にも半導体が使われている。世界的な半導体不足が、こうした鉄道車両の製造にも影響し、新車両の導入や増備も遅れが出ているわけだ。

↑導入時期が延びた中央線快速電車のグリーン車両の増結。すでに快速線の各駅のホームの延伸工事も進められているが……が

 

【JR東日本③】時間短縮を目指して改良工事が進む新幹線

東日本の新幹線網の中で、たとえば東北新幹線の宇都宮駅〜盛岡駅間は最高時速320kmでの運転が行われている。一方、盛岡駅〜新青森駅間は整備新幹線として造られたこともあり、最高時速が260kmに抑えられている。これは国が設けたスピード規制で、設備もこれに合わせて造られている。

 

JR東日本の「設備投資計画」では、「東北新幹線(盛岡・新青森間)・上越新幹線(大宮・新潟間)のスピードアップに向けた工事を引き続き進め」としている。具体的に騒音対策工事などを進め、国が設けた整備新幹線のスピード規制を時代に合うように検討・変更を求める、ということになる。

 

さらに「大規模地震対策や新幹線降雨防災対策を進めていく」と記されている。今年の3月16日には東北新幹線の福島駅〜仙台駅間が「福島県沖地震」の影響で約1か月の不通を余儀なくされた。今後、こうした大規模な地震への対応が不可避であることが改めて確認された形となった。

↑新青森駅近くを走る東北新幹線E5系。盛岡駅〜新青森駅間は路線開設時から最高時速260kmで運転されている

 

【JR東海①】東海道新幹線ではN700Sの増備が進む

JR東海からは3月24日、「2022年度重点施策と関連設備投資について」と題した投資計画が発表された。JR各社の中で唯一、増備する車両の数まで明記した計画書となっている。

 

この計画の中で「輸送サービスの充実(1)」として車両に関して触れている。JR東海らしく、東海道新幹線をより充実させたいという思いが見てとれる。

 

具体的には「『のぞみ12本ダイヤ』を活用して、需要にあわせた弾力的な列車設定に取り組む」としている。のぞみ12本ダイヤとは、東京駅〜新大阪駅間の列車本数を1時間に最大12本にするプランのこと。主力車両をN700Aタイプにしたことによって、2020(令和2)年3月のダイヤ改正で可能になった。JR東海では、2022年度中に新たにN700Sを13編成投入する。さらに既存のN700Aタイプに、N700Sが持つ一部機能を追加する改造工事を進める。要はこれらの対応によって「のぞみ12本ダイヤ」を、より余裕をもって実施したいという思いがあるのだろう。

↑JR東海が開発したN700S。東海道新幹線を走る姿はすでに珍しいものではなくなりつつある。2023年度までに40編成が投入の予定

 

【JR東海②】非電化区間用の特急HC85系が7月にデビュー

2019(令和元)年12月に製造されたHC85系の試験走行車。HC85系はハイブリッド式の特急形気動車で、長期にわたって試験が進められてきたが、その成果を生かした量産車が新造され、7月初めから特急「ひだ」として走り始める。

 

事業計画によるとHC85系は2022年度に58両が投入される予定で、テストに使われた試験走行車も量産車仕様に改造されるとある。最終的に2023年度までに64両が投入される予定だ。

 

現在、既存のキハ85系により運転されているのは特急「ひだ」と特急「南紀」で、名古屋車両区に計84両(2022年4月1日現在)が配置されている。このキハ85系のほとんどがHC85系の導入により、入れ換えになりそうだ(臨時列車用の予備車を除く)。

↑名古屋車両区に停まるHC85系試験走行車。右は「ドクター東海」の愛称が付くキヤ95系で、軌道と路線の電気関係の検測を行う

 

ちなみに名古屋車両区では上記写真のようにHC85系とキヤ95系が並ぶ姿が見られた。今年度の計画の中にはキヤ95系の「検査車両の機能向上等による検査方法の見直し」も含まれている。キヤ95系ドクター東海は今後も、改良され、さらに効率よく検査に使われることになりそうである。

 

【JR東海③】315系が増備される一方で211系が削減対象に

3月5日に導入された新型315系通勤形電車。すでに中央本線の名古屋駅〜中津川駅間を往復している。この315系の追加投入計画が発表された。今年度中に56両が投入される。以降、2025年度まで352両が新造される。入れ替わるように3月のダイヤ改正までに既存の211系の基本番台1000・2000・3000番台が廃車となった。JR東海には4月1日現在、JRになって以降に造られた211系5000番台以降の230両が残っている。これらの入れ替えとともに、211系の2扉バージョン213系(28両)と311系(60両)も入れ替えということになりそうだ。

 

全車両の入れ換えが完了した後には、JR東海の通勤形電車は313系と315系の2形式のみになる。

↑3月に中央本線を走り始めた315系。8両編成での運行となる。313系以降、約20年ぶりの新形式の導入となった

 

【JR西日本】岡山地区の国鉄形電車の入れ替えが始まる

JR西日本からは、4月1日に「事業適応計画」、および2020(令和2)年秋に「JR西日本グループの中期経営計画2022」が発表されているが、具体的な車両導入計画が入っていない。そこで、ここでは最近に同社から発表された新車両導入の中で目立つものを取り上げておきたい。

 

5月10日にJR西日本から発表されたのが岡山・備後エリアに導入される新型車両227系近郊形電車の情報で、2023年度以降に2両・3両編成計101両が導入される。デザインコンセプトは「豊穏(ほうおん)の彩(いろどり)」とされた。

↑新快速電車として一世を風靡した117系が濃黄色に塗り替えられ岡山地区を走る。同車両も227系増備で引退となるのだろうか

 

岡山地区はJR西日本管内の中でも、国鉄形電車の宝庫で、現在岡山電車区には113系が52両、115系が157両、117系は24両、213系28両、105系14両が配置される。これらの国鉄形が227系導入後、すべてが入れ替えとはならないものの、広島地区と同じように徐々に新形式の車両と入れ替わっていくことになりそうだ。

 

【JR四国①】早くも好評!2代目・伊予灘ものがたりが登場

JR四国からは3月31日に「2022年度事業計画」が発表された。この計画の中で、新車両の導入計画の記述はなかったものの、「収益のリカバリー」をするために、新たな観光列車「伊予灘ものがたり」の運行開始を一例にあげている。

↑大洲城を背景に走る2代目「伊予灘ものがたり」。週末を中心に松山駅〜伊予大洲駅間と、松山駅〜八幡浜駅間を各1往復走る

 

今年の4月2日から走り始めた「伊予灘ものがたり」は、同列車の2代目にあたる。初代はJR四国初の本格的な観光列車として2014(平成26)年7月26日に走り始めた。初代はキハ47形からの改造車だったが、4月から走り始めた2代目は、特急形気動車のキハ185系3両を改造し、全席グリーン車特急とし、さらに松山側の3号車は定員8名が利用できるスイート「陽華(はるか)の章」とした。予約状況を見ると満席の列車も多く順調にスタートとしたように見受けられる。

 

JR四国では初代・伊予灘ものがたりの運行が成功したことにより、その後に多くの観光列車を運行して成果をあげている。JRグループの中でも経営状況が厳しいとされるJR四国やJR北海道は、こうした魅力ある観光列車を活発に運行させることも、生き残るために必要だと思われる。

 

JR四国からは設備投資計画の中で、具体的な形式名はあげられなかったものの、「特急電車のリニューアル」「ワンマン運転拡大のための車両改造」等をあげている。ワンマン運転拡大は、JR東日本でも課題としてあげられていた。ワンマン化のための車両改造も今後、各社で増えていくことになるのだろう。

 

【JR四国②】松山駅や高松駅などで改良工事が進められる

JR四国の計画で、ほかに注目されたのが主要駅の改造工事であろう。

 

まずは松山駅で、現在高架化工事がすでに始められている。駅に隣接していた松山貨物駅が場所を移動し、高架化された後には、駅の高架下に伊予鉄道の路面電車が乗り入れるという計画も立てられている。

 

高架化された駅の下に路面電車を走らせるプランはすでに、JR西日本の富山駅で実現しているが、これにより街がより活性化されたように思われる。JR四国では「松山駅周辺開発の検討深度化」という文章で表現しているが、高架化に加えて周辺開発を進めることは、街を活性化する取り組みとして有効のように思われる。

↑松山市の玄関口でもあるJR松山駅。付近ではすでに高架化に向けて工事が始まっている。事業完了は2024(令和6)年度の予定

 

さらにJR四国では現在の高松駅の駅舎に隣接して、高松駅ビル(仮称)の開発推進を事業計画の中であげている。

↑現在の高松駅駅舎。この右側に直結する形で新しい高松駅ビル(仮称)が建設される予定となっている

 

【JR九州】西九州新幹線開業に関わる車両の増備が進む

JR九州からは「JR九州グループ中期経営計画2022-2024」が3月23日に発表された。今年度に限定したものではないが、9月23日に開業予定の西九州新幹線と、新たに在来線の武雄温泉駅〜長崎駅間を走り出す新D&S列車「ふたつ星4047」に関して取り上げている。また2023(令和5)年秋に完成予定の新長崎駅ビル開発に関しても触れられている。

↑大村線に導入されたYC1系。この導入により国鉄形キハ66・67系が引退した。長崎本線の電化廃止区間も同形式が使われる

 

具体的な車両導入計画は記されなかったものの、JR九州では、西九州新幹線の開業に合わせて着々と在来線用の車両の準備を進めている。

 

たとえば、新幹線に平行して走る在来線の長崎本線・肥前浜駅〜長崎駅間の電化は9月23日以降に廃止される予定だ。現在は817系などの交流電車で運行される同区間の普通列車だが、電車に代わり走るのがYC1系気動車となる。YC1系はすでに2020(令和2)年3月に大村線に導入されている。ディーゼル・エレクトリック方式と、蓄電池を併用して走るハイブリット方式の車両だが、長崎本線用にも増備が進められている。

 

西九州新幹線の開業にあわせ、長崎県内の路線網を走る列車や車両が、大きく変わっていきそうである。

 

【JR貨物①】EH500形式が日本海縦貫線走行用に改良される

最後は3月31日に発表されたJR貨物の「2022年度 事業計画」を紹介したい。鉄道貨物輸送といえば電気機関車、ディーゼル機関車が主役となるが、機関車に関して注目したい、いくつかの情報が同計画に盛り込まれている。

↑東北本線の貨物輸送の主役といえばEH500形式。その一部が日本海縦貫線も走れるように改造が加えられる

 

まずはEH500形式の改造から。現在、EH500形式は青森から以南の東日本各地と、北九州地域の貨物輸送をカバーしているが、東北〜首都圏間の走る路線は東北本線にほぼ限られていた。

 

EH500形式はいわば東日本では〝東北本線専用車〟となっていたのだが、日本海縦貫線も迂回して走ることができるように18両の改造を行った。現在、本州のEH500形式は仙台総合鉄道部に67両が配置されているが、このうち約3分の1弱にあたる車両が、迂回運転が可能なように手を加えられた。日本海縦貫線の主力車両といえばEF510形式のみだったが、合わせてEH500形式も走れるように変更されたのである。

 

なぜ迂回運転を可能にしたのだろう。これは自然災害に備えての物流ルートの確保という側面が強い。首都圏と、東北・北海道を結ぶ貨物輸送の幹線にあたる東北本線。同線がもし災害で不通になったら、東日本の物流が停まってしまう。そうならないように事前に対応しておこうというわけである。すでに改造を終えたEH500形式による日本海縦貫線と上越線を使っての試運転も始まっている。

 

【JR貨物②】DD200形式などの新型機関車の増備が進む

新型機関車の導入に関しては「省エネを推進する設備投資」として2形式を掲げている。まずは電気式ディーゼル機関車DD200形式の導入を図るとしている。このDD200形式は、国鉄形のDE10形式に代わるもので、すでに石巻線や、各地の貨物支線での運行が引き継がれた。

↑拝島駅〜横田基地間を走る通称〝米タン輸送〟もこの3月からはDD200形式の牽引に変更された

 

ほかに一形式の導入が事業計画で記されている。それがEF510形式301号機で「交流回生ブレーキ機能を装備した機関車」として九州へ導入された。301号機は九州用のEF510形式の先行試験車として、すでに北九州貨物ターミナル駅〜福岡貨物ターミナル駅間を、実際に貨車を牽引しての試験運転が続けられている。

 

【JR貨物③】国鉄時代生まれの機関車の引退が進む

導入が進むDD200形式、EF510形式の新造に加えて、事業計画には記していないもののEF210形式300番台の増備が進む。これらの導入にあわせて、古い国鉄形機関車の引退が進められている。

 

この春に鉄道ファンの間で大きな話題を呼んだのがEF66形式27号機の引退であろう。EF66形式の中で唯一となった国鉄時代から運行していた車両の引退は、国鉄形機関車の終焉が近づいていることをより印象づけた出来事となった。

↑首都圏でもその元気な姿を見せたEF66形式27号機。写真は武蔵野線でのこと。ダイヤ改正後も臨時便を牽引するなどしていた

 

EF66形式以外にも、EF64形式はその活躍の場が急速に減少している。主力機として活躍してきた中央西線の輸送も、3月ダイヤ改正後はEH200形式とEF510形式が入線するようになったため牽引する列車が減ってしまった。

 

3月以降にEF64形式の独壇場となっているのが伯備線だ。とはいえ、こちらもコロナ禍の影響による積み荷の減少で、通常に運行されるはずの貨物列車が運休となることもあり、沿線を訪れた鉄道ファンをやきもきさせている。

↑EF64が2両連結で走ることも(倉敷駅5月20日の撮影)。2両目はパンタグラフをあげておらず、無動力で走る姿が見られた

 

九州用のEF510形式が導入されたことにより、今後影響を受けるのが九州地区で活躍してきた国鉄形機関車であろう。鹿児島本線、長崎本線、日豊本線では、少なからず国鉄形機関車を使っての貨物輸送が行われている。

 

貨物列車を牽引するのはEF81形式と、ED76形式の2形式だ。特にED76形式の中には、貴重な基本番台の81号機、83号機といった車両も残っている。このうちED76形式81号機は1975(昭和50)年3月の落成とすでに50年近い年期を誇る。こうしたベテラン機関車もEF510系が新たに導入されることで、引退の道を歩むことになるのだろう。

↑福岡貨物ターミナル駅行き列車を牽引するEF81形式とED76形式。このように重連という形で走る姿もまだ見ることができる

 

【JR貨物④】東京と札幌でレールゲートの新設が進む

コロナ禍の中でも、1日たりとも休まず国内の物流を支えてきたJR貨物。最近は一層のモーダルシフト化が進み、鉄道貨物輸送にかかる比重が高まっている。今年度の事業計画でも触れられているように「貨物駅の結節点機能の強化」として種々の整備が進められている。

 

具体例としてはマルチテナント型の物流施設「レールゲートの全国展開」があげられている。すでに東京貨物ターミナル駅に隣接して2020(令和2)年2月に「東京レールゲートWEST」を建設、さらに東側に「東京レールゲートEAST」が、この7月に竣工予定で、その機能が一層強化される。

 

さらに「DPL札幌レールゲート」が2022年度上半期の完成予定で、ほか新仙台貨物ターミナル駅での建設計画も進められている。レールゲートほど大規模ではなくとも、新座貨物ターミナル駅(埼玉県)などで積替ステーションの拡充も多くの貨物駅で行われている。

↑大規模なマルチテナント型物流施設として生まれた「東京レールゲートWEST」。この右側に新たにEASTが設けられる

 

ここ数年は1つの物流事業者や荷主企業が、1往復する列車を専用で利用する「ブロックトレイン」が増えてきている。佐川急便、福山通運、西濃運輸、トヨタ自動車といった会社がJR貨物と協力して運行させているケースが多い。3月のダイヤ改正でもさらにブロックトレインが増便された。ドライバー不足の時代に「ブロックトレイン」のニーズはますます加速していきそうだ。

 

JR旅客各社が乗客減少に悩む昨今、JR貨物は堅実に経常利益をあげ続けている。こうした傾向が顕著に現れる時代も珍しい。時代の推移に合わせて、春に発表される事業計画を見ていると各社の考え方の相違が見えてくることもあり、なかなか興味深い。

 

京の四季が堪能できる「叡山電鉄・鞍馬線」を深掘りする

おもしろローカル線の旅85〜〜叡山電鉄・鞍馬線(京都府)〜〜

 

京都の洛北(らくほく)を走る叡山電鉄(えいざんでんてつ)には、叡山本線と鞍馬線(くらません)の2本の路線がある。前回の叡山本線に引き続き、今回は鞍馬線の旅を楽しんでみたい。

 

鞍馬川に沿って走る鞍馬線は、京都市内の路線ながら洛北の山中を走る。車窓風景は見事で特に「もみじのトンネル」が名物となっている。沿線に名高い寺社や史跡もあり、京の四季を堪能できる。

 

【関連記事】
古都の人気観光電車「叡山電鉄」を深掘りする【前編】

 

【叡電を深掘り①】本線のように賑わう「鞍馬線」だが

叡山電鉄・鞍馬線の概要をおさらいしておこう。

 

叡山電鉄には叡山本線と鞍馬線の2本があり、叡山本線は出町柳駅〜八瀬比叡山口駅5.6km間を走る。一方、鞍馬線は叡山本線の途中駅、宝ケ池駅と鞍馬駅間の8.8kmを結ぶ路線だ。鞍馬線の電車はほとんどが出町柳駅の発車で、宝ケ池駅まで叡山本線を走る。

 

鞍馬駅行き電車はすべて2両編成。対して叡山本線の八瀬比叡山口駅行きの電車が1両編成。鞍馬行き電車の方が乗車率が高くこちらが本線のように感じてしまうのだが、あくまで鞍馬線が支線である。

 

路線の歴史は叡山本線の方が古く1925(大正14)年9月27日に開業した。京都電燈という電力会社によって造られている。一方、鞍馬線は叡山本線から遅れること3年、1928(昭和3)年12月1日に山端駅(やまばなえき/現・宝ケ池駅)〜市原駅間が開業、1929(昭和4)年12月20日に鞍馬駅まで路線が延ばされている。

 

鞍馬線は叡山本線とは異なり、京都電燈と京阪電気鐵道の合弁会社として設けられた鞍馬電気鐵道により路線が設けられた。線路はつながっているのにもかかわらず、運営は会社が異なるという、やや複雑な生い立ちを持つ。

 

【叡電を深掘り②】いろいろな会社名が出てくる戦前の路線図

叡山本線と鞍馬線は、古くから観光路線として親しまれただけに、路線パンフレットが数多く作られ配布された。特に太平洋戦争前に作られたものが多く、筆者も複数のパンフレットを所有している。興味深い内容なので、やや寄り道になるが見ておこう。

↑戦前に発行された路線パンフレット3枚。下のパンフは「叡山鞍馬電車」とあり、右上は「叡山・嵐山電車」とある

 

まずは叡山本線と鞍馬線を紹介した「叡山鞍馬電車」のパンフレット。表紙には〝大原女(おはらめ)〟のイラストが描かれていて趣深い。叡山・嵐山電車の名前で印刷された「春爛漫」なるパンフレットは、ロープウェイの下に桜が描かれ、これもなかなか味がある。

 

とはいえ、パンフレットが発行した鉄道名を見ると「叡山鞍馬電車」のみならず、「叡山・嵐山電車」、「叡山・嵐山・電車」とさまざま。これは叡山本線を開業させた京都電燈が、現在の京福電気鉄道嵐山本線・北野線(通称:嵐電/らんでん)を吸収合併していたためで、後者は叡山鞍馬電車とともに〝嵐山電車〟も一緒にパンフとしてまとめたものだった。

 

さらに、京都では叡山鞍馬電車を「叡電」「叡山電車」という通称名で呼ぶ傾向もあった。ここまで「〜電車」という名が乱発気味に使われていると、果たして利用者が、迷わなかっただろうか心配してしまうほどだ。

 

【叡電を深掘り③】集中豪雨で1年以上不通となっていた

1929(昭和4)年12月20日に鞍馬駅まで全通した鞍馬線だったが、その後の1942(昭和17)年8月1日に京福電気鉄道鞍馬線に、1986(昭和61)年4月1日に叡山電鉄鞍馬線と組織名を変更する。

 

観光客に人気の鞍馬線だが、路線が鞍馬川の渓谷沿いの険しい場所を通ることもあり、水害の影響をたびたび受けてきた。古くは1935(昭和10)年6月29日に起きた鴨川水害による被害で、この時は7月末に復旧した。その後、長らく水害の影響はなかったものの、地球温暖化のせいなのか、近年はたびたび被害を受けている。

 

まずは2018(平成30)年9月4日に列島を襲った台風21号により、鞍馬線全線が運休、宝ケ池駅〜貴船口駅間は9月中に運転再開したものの、貴船口駅〜鞍馬駅間の復旧が手間取り、10月27日に全線復旧を果たしている。そして「令和2年7月豪雨」に襲われる。この豪雨の影響は深刻だった。

↑鞍馬川沿いを走る鞍馬線。令和2年7月豪雨の際は、貴船口駅の南側地点200m地点(写真の左手にあたる)で土砂崩れが起きた

 

鞍馬線は貴船口駅の前後が、最も地形が険しい。線路はこの地域、鞍馬川の西斜面に沿って右に左にカーブを切りつつ走る。2020(令和2)年7月7日から翌8日未明にかけて京都市北部を襲った局地的集中豪雨により、鞍馬線の二ノ瀬駅〜貴船口駅間の斜面が崩落、60mほどの区間が土砂に埋まった。

 

当時、上空から撮影した航空写真を見ると山側の樹木がすべてなぎ倒されて、線路を埋め尽くした様子が見て取れる。筆者は前年の12月に現地を訪れ、貴船口駅付近を走る電車の姿を撮りつつ、その険しさに驚いたものだったが、ちょうど撮影した7か月後、すぐ近くで大規模崩落が起きていた。この土砂崩れにより、鞍馬線は市原駅〜鞍馬駅間が長期間の不通を余儀なくされる。

 

復旧までに1年間以上の時間を要し、運転再開したのは2021(令和3)年9月18日のことだった。

↑貴船口駅そばの斜面の様子を災害前と災害後を比較した。写真で感じる以上の傾斜地だが、災害後には植林されてきれいな斜面に

 

貴船口駅周辺では土砂崩れがあった二ノ瀬駅側だけでなく、被害が出なかった鞍馬駅側も、斜面の整備がかなり行われていたことが、撮影した写真を見てよく分かった。

 

上記の写真は貴船口駅すぐ北側の写真で、路線が不通になる前と、再開後を比較した。2019(令和元)年の写真では、伐採された木々と木株が斜面に残され、崩れ落ちそうな状態に見えた。この急斜面が路線再開前にきれいに整備され、傾斜地はひな壇状になっていた。急斜面には等間隔に植林が行われ、この若木を守るように1本ずつカバーがかけられていた。この状況を見て山を守る工夫がされていることがよく分かった。大変な被害に遭ってしまった鞍馬線だが、災害に強い路線を目指していることが伺えた。

 

鞍馬は山深い地だ。公共インフラは鞍馬線と平行して走る府道38号線(鞍馬街道)のみに限られる。災害のあった区間の一部に二ノ瀬トンネルが掘られるなど強化されているものの、鞍馬でイベントが開催される日は渋滞しがちだ。鞍馬線の大切さが改めて認識された災害となった。

 

【叡電を深掘り④】改めて出町柳駅から鞍馬線の沿線をたどる

ここからは鞍馬線の旅を楽しんでいこう。鞍馬線の電車は始発を除き出町柳駅発となる。鞍馬駅行き電車は日中15分間隔で、18時以降はおよそ20分間隔となる。朝夕には出町柳駅〜市原駅間を走る電車もある。日中の方が本数の多い典型的な観光路線である。

↑元田中駅〜茶山駅間を走る900系きらら。叡山本線の出町柳駅〜宝ケ池駅間は街中の走行区間で、間断なく民家が建ち並ぶ

 

鞍馬行き電車が発車する出町柳駅には1〜3番線のホームがあり、この2〜3番線が鞍馬線の発着ホームとなっている。ホームの長さから2両編成の900系や、800系は3番線からの発着がメインとなる。2両編成の車両には側面に4つの乗降扉があるが、一番前の扉付近はホーム幅が狭いのでパイロンが置かれ注意を促している。

 

日中の鞍馬駅行き電車の発車時間は0分、15分、30分、45分発で、ダイヤも覚えやすく便利だ。

↑宝ケ池駅の構内踏切を通る自転車。右側2本が鞍馬線の線路で、駅の案内図では鞍馬駅行きの案内は赤字で表示されていた(左上)

 

叡山本線の区間である宝ケ池駅までは京都の街中を走る。途中、車庫のある修学院駅などに停車しつつ、5つ目の宝ケ池駅へ。ここまで所要9分と短い。途中に4つの駅があるものの、駅間はみな500mから長くても900mぐらいで、市内を走る路面電車の運行に近い印象だ。

 

鞍馬駅行き電車は、宝ケ池駅の手前にあるポイントで、叡山本線の線路から左手へ曲がり、鞍馬線へ入っていく。

 

【叡電を深掘り⑤】市原駅までは平坦な路線ルートが続く

鞍馬線は駅の近くに名所旧跡や寺社、そして大学が多い。その情報も含め路線を紹介していこう。

 

宝ケ池駅を発車して間もなく八幡前駅。三宅八幡宮(徒歩約3分)の最寄り駅だ。興味深いのは叡山本線にも三宅八幡駅という八幡宮から付けたと思われる名前の駅があること。八幡前駅の方が圧倒的に近いにもかかわらず叡山本線の駅名を三宅八幡駅(同駅からは徒歩約10分)にしたのは、この駅からの道が正式な参道(表参道)にあたるからだ。近くには朱塗りの大鳥居も立つ。

↑岩倉駅〜木野駅間を走る800形。この付近から山々が間近に見えるようになってくる

 

八幡前駅の次が岩倉駅だ。洛北にあった岩倉村にちなんだ駅名だが、実は歴史に名を残した偉人に関わる史跡の最寄り駅でもあった。その偉人とは岩倉具視(いわくらともみ)である。江戸末期、公武合体派から討幕派に立場を変え、明治政府では重要な役割を担った中心的な人物だが、この岩倉具視が当主だった岩倉家がこの地を所領にしていた。幕末の一時期は洛中から追放され「岩倉具視幽棲旧宅(ゆうせいきゅうたく)」(徒歩約13分)に3年間住んだとされる。

 

岩倉駅を過ぎると進行方向右手に洛北の山々が間近に見えるようになってくる。この山麓を回り込むように木野駅、そして京都精華大前(きょうとせいかだいまえ)と走る。京都精華大前駅は、駅名どおり目の前に大学がある駅だ。次の二軒茶屋駅(にけんちゃやえき)も京都産業大学の最寄り駅と、鞍馬線は京都市の郊外にある大学に通う学生たちの利用が目立つ。

 

二軒茶屋駅付近まで来ると、左右の山がより近づいて見えるようになり、鞍馬線が平野部から山間部に入りつつあることが良く分かる。このあたりから、勾配も徐々に厳しくなっていく。

 

【叡電を深掘り⑥】人気の市原駅〜二ノ瀬駅間のもみじのトンネル

二軒茶屋駅まで複線だった鞍馬線だが、この先は単線区間となる。駅前に町並みが連なるのは次の市原駅までとなる。市原駅までは京都郊外の〝生活路線〟と言って良いだろう。この先は、行楽路線の色合いを強めていく。

 

市原駅〜二ノ瀬駅間の約250m区間は「もみじのトンネル」として、もみじが美しい区間だ。新緑の季節と、紅葉の季節には電車も徐行して走る。春秋シーズンの夜間はライトアップ、車内照明が消され、ひときわ美しいもみじのトンネルが楽しめる。

 

ちなみに市原駅〜二ノ瀬駅間にある「もみじのトンネル」だが、叡山電鉄の案内チラシには「もみじのトンネルは電車の外からご覧いただくことはできません。車窓からお楽しみください」とある。もみじのトンネルを通る電車の写真や動画は、あくまで鉄道敷地内で、PR用に撮られたものなので注意したい。

↑鞍馬街道をまたぐ900形きらら。もみじのトンネル(右上)はこの橋梁と市原駅間にある。写真のきららは現在、黄緑塗装に変更されている

 

二軒茶屋駅付近から勾配が徐々に強まっていく鞍馬線。二軒茶屋駅と鞍馬駅間4.7kmの標高差は115mもあり、山岳路線であることがよく分かる。二ノ瀬駅を過ぎると、さらに勾配がきつくなっていく。貴船口駅へ走るまでに、なんと50パーミル(1000m走るうちに50m登る)という最大勾配区間となる。

 

勾配が厳しい区間を持つ全国の私鉄7社が加盟する「全国登山鉄道‰(パーミル)会」という親睦団体があり、叡山電鉄も加わっている。アプト鉄道の大井川鐵道井川線と、特別な登坂機能を持つ電車を利用する箱根登山鉄道をのぞけば、叡山電鉄・鞍馬線の50パーミルは最急勾配だ。50パーミルの勾配を持つ路線は「全国登山鉄道‰(パーミル)会」の中でも南海電気鉄道高野線と、神戸電鉄を含め3社と限られている。

 

鞍馬線は普通鉄道で最大級の勾配があるわけだ。そんな急勾配を、叡山電鉄の電車はぐいぐいと登って行き、貴船口駅へ到着する。

↑貴船口駅の手前にある50パーミルの最大勾配区間。右下に勾配標もある。きららは側面ガラスが大きく開き展望が楽しめる(左上)

 

【叡電を深掘り⑦】貴船神社の最寄り駅・貴船口駅は魅力満点

もみじのトンネルだけでなく、新緑、紅葉のもみじが美しいのが貴船口駅だ。この駅付近も春と秋のシーズン中はライトアップされ、紅葉狩りに訪れる人も多い。

 

貴船口駅は2020(令和2)年3月19日に新駅舎となり、より快適になった。名高い貴船神社の最寄り駅とはいえ,

神社までは距離にして約2kmある。そのため駅前からバスを利用して、神社の最寄りまで乗車し、そこから歩くという参拝客が多い。貴船川沿いには名物の「川床」があり、京都の夏の酷暑を少しでも和らげる避暑地として昔から人気が高い。

↑新駅舎となった貴船口駅。ホームはこの上にある。階下には待合室もあり、叡山電鉄の駅で唯一のエレベーターも設置される

 

貴船口駅のすぐそばには鞍馬川と貴船川が流れ、両河川が合流している。樹木が生い茂るエリアだけに、貴船神社まで行かずとも、駅周辺を散策するだけでも涼味が味わえる。ぜひとも途中下車したい駅である。

↑貴船口駅近く貴船神社の大鳥居。貴船神社へは駅前からバス利用(右上)で約4分+徒歩約5分で行くことができる

 

↑貴船口駅の下を流れる鞍馬川。このすぐ下流で貴船川と合流する。渓谷沿いの新緑・紅葉が美しい

 

【叡電を深掘り⑧】鞍馬駅前の大天狗が新しくなって鼻も立派に

貴船口駅の次が終点の鞍馬駅だ。貴船口駅からも50パーミルの急坂が続く。進行方向右手に府道38号線(鞍馬街道)を眺めつつ、電車は徐々に坂を登って行く。

 

車窓から見える鞍馬街道沿いに門前町が連なるようになれば終点の鞍馬駅も近い。出町柳駅から乗車して30分ほどで、京都市街とは異なる山景色が楽しめる。この手軽さが鞍馬線の人気の1つの要因でもあろう。

 

行き止まり式のホームを先に歩けば趣ある駅舎が出迎える。同駅舎は1929(昭和4)年に建てられた寺院風の木造駅舎で、第一回近畿の駅百選に選ばれた。

↑鞍馬駅の木造駅舎。京阪鴨東線の開業時に手を加えられたが趣満点だ。駅前には大天狗のオブジェ(後述)が設置されている

 

↑駅舎横に電車の先頭部分が保存されている。こちらは開業時に使われたデナ21形の先頭部。横には同車の動輪と信号が設置されている

 

鞍馬といえば、牛若丸(源義経)が幼少時に修業した地で、山中で天狗を相手に剣術の稽古をしたと伝えられる。そうしたことからも天狗のイメージが強い。

 

鞍馬駅の改札を出ると大天狗のオブジェが目にとまる。この大天狗、実は2代目だ。初代の大天狗は2002(平成14)年に鞍馬地区から駅前に移され名物となった。発泡スチロール製だったためか、長年の風雪で弱り、さらに雪の重みで2.3mの鼻が折れる被害にあってしまった。

 

そのため2代目の大天狗が造られた。2019(令和元)年に初代からバトンタッチされたこの2代目、FRP(繊維強化プラスチック)製で2m以上ある鼻も丈夫そうである。初代よりも鼻がそそり立ち、いかにも今ふうの顔つき、眼光鋭くイケメンである。

↑鞍馬駅前にある大天狗。左が初代の大天狗で2019(令和元)年に2代目大天狗にバトンタッチされた

 

【叡電を深掘り⑨】珍しい境内の中にある小さなケーブルカー

鞍馬は平安京の建都以来、約1200年にわたり、京都の北方の守護の地として尊ばれる。その中心となるのが鞍馬寺だ。鞍馬寺の入口、仁王門へは鞍馬駅から並ぶ土産店を眺めながら200mあまり、約3分と近い。

 

鞍馬寺は奈良時代に唐から仏教を伝えた鑑真の高弟である鑑禎(がんてい)が8世紀に開山した寺とされる。本尊は毘沙門天王と千手観音菩薩と護法魔王尊の三身が一体となった「尊天」が祀られる。

 

鉄道好きとして気になるのは境内にケーブルカーがあること。鉄道事業として正式に認められたケーブルカー「鞍馬山鋼索鉄道」で、山門駅と多宝塔駅間の0.2kmを結ぶ。規模の大きなケーブルカーとは異なり、一車両が上下する造りで、坂道が連なる境内の移動手段として役立てられている。

↑鞍馬駅に近い仁王門が鞍馬寺の入口となる。多宝塔駅までケーブルカー(左上)が通じる。車両の名は牛若號Ⅳ

 

筆者が鞍馬線を訪れたのは、4月末の平日の朝だった。鞍馬駅から出町柳駅へ戻る時間帯が、ちょうど学生の通学時間に重なった。乗車したのは900系きらら。観光列車に乗って発車時間を待つ。そんな時に、鞍馬に住む中学生の一団が駅横の歩道を懸命に走ってきた。彼らが乗るのを待って電車は発車した。途中駅から、多くの中高生たちが乗車してくる。

 

朝の時間帯に乗車したから分かったのだが、鞍馬線は観光路線というだけではなく、京都の郊外に住む人々の通勤や、中高生の通学の足でもあった。鞍馬の地元小学校は貴船口駅前にあるのだが、中高等学校に進学すると、鞍馬からやや離れた学校へ、電車を利用して通学するようになるのであろう。

 

カッコいい観光列車きららに乗車して通学する彼らを、少しうらやましく感じた。市原駅、二軒茶屋駅と乗車する中高生たちが増えていく。そして岩倉駅へ着くと、一斉に下車して行った。観光客が乗車する時間帯と異なる時間に乗ると、思わぬ発見があるものだ。これから社会へ巣立っていく世代と一緒になり、ちょっと爽やかな気持ちになったのだった。

 

古都の人気観光電車「叡山電鉄」を深掘りする【前編】

おもしろローカル線の旅84〜〜叡山電鉄・叡山本線(京都府)〜〜

 

叡山電鉄(えいざんでんてつ)は京都市の北東部に、叡山本線と鞍馬線の2本の路線を持つ。シーズンともなれば比叡山と鞍馬へ向かう観光路線として賑わう。

 

観光路線ながら鉄道好きにとっては、気になるところがいっぱいの路線だ。今回は叡山電鉄・叡山本線の魅力を深掘りしてみたい。

 

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〝新車両〟導入で活気づく「北条鉄道」で未知との遭遇

 

【叡電を深掘り①】鉄道会社の名前は「叡山電鉄」だが

最初に叡山電鉄の概要を見ておこう。

路線と距離 叡山電鉄・叡山本線/出町柳駅〜八瀬比叡山口駅5.6km
鞍馬線/宝ケ池駅〜鞍馬駅8.8km
開業 叡山本線:京都電燈により1925(大正14)年9月27日、出町柳駅〜八瀬駅(現・八瀬比叡山口駅)間が全通。
鞍馬線:鞍馬電気鉄道により1928(昭和3)年12月1日に山端駅(やまばなえき/現・宝ケ池駅)〜市原駅間が開業、1929(昭和4)年12月20日に鞍馬駅まで全通。
駅数 叡山本線8駅、鞍馬線10駅(ともに起終点駅を含む)

 

↑叡山本線の三宅八幡駅〜八瀬比叡山口駅間を走る700系。緑に包まれて走る叡電の電車が絵になる区間だ

 

両線とも線路幅は1435mmと標準軌の幅で、全線が直流600vで電化されている。

 

2本の路線の始まりは3年ほどの違いだが、先にできた路線が本線を名乗り、鉄道会社の名前も比叡山を元にした「叡山」を名乗っている。一方の鞍馬線は、途中の宝ケ池駅から分岐する支線の扱いだ。叡山本線が1両での運行が主体であるのに対して、鞍馬線は2両編成が主力。鞍馬線のほうが観光客も多く、こちらが本線のようにも感じるのだが、歴史的な経緯も含め、叡山本線が本線の扱いとなっている。

 

【叡電を深掘り②】叡山本線と鞍馬線の古い路線図を見ると

叡山本線と鞍馬線の歴史を見ると、紆余曲折あり興味深い。それぞれの路線が生まれて今日に至るまでを触れておきたい。

 

筆者の手元に戦前に作られた叡山電鉄の路線図が数枚ある。中でも特長が良くわかる2枚の鳥瞰図を見てみよう。うち1枚は画家で、鳥瞰図造りを得意とした吉田初三郎が作った叡山電鉄の路線図。この路線図はなかなか見応えがあり、引き込まれるような魅力がある。

↑吉田初三郎が制作した叡山本線が開業したころの路線図。立体的な鳥瞰図で、遠くに富士山のほか、朝鮮や樺太の文字も記される

 

同路線図を発注したのが「京都電燈株式会社」で、会社名の下には「叡山電鐵部発行」とある。京都電燈とは日本で4番目の電燈会社として創設された。琵琶湖の水を京都市内へ導く琵琶湖疎水(びわこそすい)を電気づくりに役立てた。今も琵琶湖疎水は国の史跡に指定され、日本三大疎水の1つとして数えられる。

 

京都電燈は、豊富な水量を電力づくりに役立て京都市の近代化に大きく貢献。京都市に日本初の路面電車を走らせることにも同社の電気が使われた。そうした会社が叡山本線の路線造りに関わったわけである。

 

叡山本線は京都電燈によって造られたが、途中駅から分岐する鞍馬線の路線は京都電燈自ら造ることはせずに、京都電燈と京阪電気鐵道の合弁会社として設けられた鞍馬電気鐵道により路線が設けられた。別会社であったものの、列車は叡山本線の出町柳駅まで乗り入れた。また京都市民も、別会社という認識は薄く、今と同じように「叡電(えいでん)」「叡山電車」の名前で親しんだ。

↑叡山電気鉄道(路線図には「叡山鞍馬電車」とあり)が鞍馬線開業後に制作した路線図

 

鞍馬線が開業した後の路線図を見ると、「叡山鞍馬電車」と表紙にある。裏面にある問合せ先も、京都電燈叡山電鐵課と鞍馬電気鐵道の社名が併記され、住所も電話番号も、まったく同じだった。要は別組織にしていたものの、ほぼ同じ会社として路線を運営したようだ。

 

【叡電を深掘り③】〝孤立路線〟としての歴史が長かった

京都市の発達に貢献した京都電燈だったが、大正期から昭和初期にかけては各地に電力会社が乱立された時期で、戦時色が強まるにつれて、国策によりこれらの電力会社は寡占化されていく。京都電燈も例外でなく、関西配電(後の関西電力)と北陸配電(後の北陸電力)、日本発送電に事業譲渡が行われ1942(昭和17)年に解散となった。戦時中に京都電燈は消滅したのである。

 

鉄道部門のうち叡山本線は1942(昭和17)年に京福電気鉄道へ譲渡となった。形は譲渡だが、京福電気鉄道は京都電燈の鉄軌道部門を分離して設立された会社で、京福と「京」と「福」が社名に入るように、京都府下の鉄道会社と、福井県下の三国芦原線(現・えちぜん鉄道)などの路線も同社に合流している。

 

叡山本線と鞍馬線は、戦中・戦後しばらく京福電気鉄道の路線として運営されていたが、1986(昭和61)年4月1日に再び叡山電鉄として分離譲渡され、さらに京阪電気鉄道グループの傘下となり、今に至る。

↑京阪電気鉄道の戦前の路線図。当時、京阪本線は三条駅止まりで、出町柳駅までは路線が通じていなかった。この状態が長く続く

 

今でこそ観光路線として人気の叡山本線、鞍馬線だが、他の鉄道路線と接続しない、いわば〝孤立路線〟の期間が続いた。かつて京都市電が市内を巡った時代、出町柳駅の最寄りに今出川線の叡山電鉄前(後の「加茂大橋」)という停留所もあった。しかし、市電も1976(昭和51)年3月31日いっぱいで廃線となってしまう。長らく比叡山や鞍馬へ向かう時は、叡山電鉄利用よりも、バスが便利という状態が続いたのである。叡山電鉄は苦境に陥る。そんな状況を大きく変えたのが、京阪電気鉄道の鴨東線(おうとうせん)の開業だった。

 

大阪と京都を結ぶ京阪電気鉄道の京阪本線は長らく三条駅が終点で、現在の京津線(けいしんせん)と線路がつながっていた。この京津線との連絡線を廃止、鴨川沿いの地上部を走っていた京阪本線自体を、七条駅から北側を地下化。さらに三条駅から北に向けて路線を延長し、1989(平成元)年10月5日に出町柳駅まで2.3kmの鴨東線として開業させたのだった。

 

実はこの鴨東線は、先の京都電燈が1924(大正13)年に地方鉄道敷設免許を取得していた。鴨東線への叡山電鉄の電車乗り入れも計画されたが、京阪本線との車両と、規格が異なるために、同案は流れたが、叡電を造った会社の創立時の夢が形は変わったものの、半世紀以上の歳月をかけて、実ったことなる。

 

この鴨東線開業により叡山電鉄の乗客は2倍に増加し、見事に復活。さらに利用者増を見込んで新車両を導入するなど、叡電を大きく変えた契機となった。

 

【叡電を深掘り④】叡電の電車はなぜ短いのだろう?

ここからは叡電を走る車両を紹介しよう。

 

叡電の車両は3タイプある。まずは700系が8両配備される。細かく見ると700系にはデオ710形と、デオ720形、デオ730形の3タイプがあり、外観はほぼ同じだが、装備品の流用元により、形式が異なっている。全タイプ1両のみの運行で、鴨東線の開業に備え、1987(昭和62)年から1988(昭和63)年にかけて導入された。車体の長さが15.2mと、やや短く、前後に2つの乗降扉を持つのが特長となっている。

↑修学院駅を発車したデオ720形(左)と車庫内に停まるデオ730形(右)。塗装は各車両で異なるが形はほぼ同じだ

 

↑バリアフリー対応したデオ720形722号車。リニューアル工事が少しずつ進められ、同車の色は神社仏閣をイメージした朱色に

 

700系は車体長が15m級と短いが、これは叡山電鉄の伝統でもある。叡山電鉄は京福電気鉄道から分離譲渡されたが、今も京福電気鉄道として残る嵐山本線(通称「嵐電」)も併用軌道路線が一部に残ることもあり、15m級の車両が主体となっている。叡山電鉄は、京都市電からの乗り入れを戦後(昭和20年代)に行った時期があり、その歴史がこうした車両の短さとして残っている。また、18m級の長い車体を採用しようにも、ホームの長さもこの車体の長さに合わせていることもあり、簡単に変更することが難しいようだ。

 

ちなみに700系は叡山本線の運行と、鞍馬線では、主に平日の朝夕、出町柳駅〜市原駅間の列車の一部に利用されている。なお、700系の732号車は観光用の「ひえい」に改造されている(詳細後述)。

 

700系が叡山本線の主力車両なのに対して、鞍馬線の主力車両が800系だ。こちらは車体長15m級の2両編成車両で、京阪鴨東線の開業で増えた乗客に対応するために1990(平成2)年から2両×5編成、計10両が導入された。

↑800系のデオ800形801-851編成。800系は帯色がそれぞれ異なっているのが特長だ。最近、正面下に排障器が付けられた

 

↑デオ810形815-816号車は特別塗装車で「ギャラリートレイン・こもれび」として四季の森をバックにした動物が描かれる

 

800系は搭載機器が異なるデオ800形とデオ810形の2タイプがある。帯色は編成すべて異なり、たとえば山並みをイメージした緑、鞍馬の桜をイメージしたピンクなど、沿線のイメージしたカラーの帯が巻かれている。

 

【叡電を深掘り⑤】「きらら」「ひえい」と楽しい観光列車が走る

観光用の車両も走っている。2タイプが導入されているが、この車両もユニークだ。

 

まずは鞍馬線用に1997(平成9)年から翌年にかけて2両×2編成が導入されたのが900系展望列車「きらら」だ。「紅葉を観るために乗りに来ていただく車両」というのがコンセプトで、座席はクロスシートとともに、窓側を向いた座席を備えるなど、特別な造り。さらに、中央部のガラス窓は上まで広く開けられるなど、凝っている。現在は、紅葉にちなんだメイプルオレンジ塗装車と、新緑期に楽しめる「青もみじきらら」が用意されている。

↑展望列車「きらら」メイプルオレンジ塗装車。側面のガラス窓が広いことが良く分かる。1998年度の鉄道友の会「ローレル賞」を受賞した

 

きららとともに人気となっている観光用車両が700系デオ732号車を改造した観光列車「ひえい」で、正面にゴールド塗装の楕円が付くのが特長だ。この楕円は、比叡山、鞍馬山の持つ神秘的イメージを表現したものだとされる。内外装ともに深緑色で、側面の窓も楕円形、窓の下に比叡山の山霧をイメージした金色の細いストライプが入る。

 

凝った造りが好評で、2018年度のグッドデザイン賞、さらに2019年の鉄道友の会「ローレル賞」を受賞した。

 

観光列車「ひえい」は出町柳駅〜八瀬比叡山口駅間を主に運行される。展望列車「きらら」と共に運行時刻がホームページで紹介されている。車両検査日などを除き、この時刻に合わせて走っているので参考にしてみてはいかがだろう。

↑八瀬比叡山口駅〜三宅八幡駅間を走る観光列車「ひえい」。正面の楕円の形に合わせて、運転席は中央に設けられている

 

【叡電を深掘り⑥】2両編成はぎりぎり!始発駅・出町柳のホーム

さて、叡山本線の沿線を旅することにしよう。始発駅は出町柳駅。接続する京阪鴨東線の地下駅から7番出口をあがっていくと、すぐ目の前に叡山電鉄の駅舎がある。雨にも濡れずに乗り換えができて便利だ。

 

叡山電鉄の出町柳駅は、1両もしくは2両の電車にあわせるかのようにコンパクトだ。全車が折り返すいわゆる「櫛形ホーム」で、入口側の左から叡山本線の八瀬比叡山口方面行き1番線ホーム、降車ホームをはさみ、鞍馬線の2・3番線ホームが平行して設けられる。右側3番線に停車した2両編成の車両は、ホームぎりぎりに納まる形となる。先頭1両目の前の扉はホームが狭く危険なために、この先は危険と、三角コーンが置かれ注意を促していた。1・2番線の間にある降車ホームも幅がかなり狭い。このあたり京都の街中にある駅のため、拡幅工事が容易に行えない様子が窺える。

↑始発駅・出町柳駅。3番線ホームまであり、2両編成が停車したホームの先端部は非常に狭い(左下)。駅ではグッズ類も販売

 

ちなみに、叡山電鉄の利用は交通系ICカードでの支払いが可能で、乗降時は駅の読取機にタッチ、もしくは運転士後ろのICカード読取機にタッチして下車する。1日乗車券「えぇきっぷ」も大人1200円で通年用意。出町柳駅、もしくは鞍馬駅(時間限定)などで購入できる。

 

列車の本数は多く、日中は出町柳駅発、鞍馬駅行きと八瀬比叡山口駅行きがほぼ15分おきで発車している。また平日の朝7〜8時、夕方17〜18時には、鞍馬線の市原駅行きも出ている。

 

【叡電を深掘り⑦】修学院駅に来たら車庫を見よう

さて、出町柳駅から、この日は八瀬比叡山口駅行きに乗車した。700系1両編成の車両のロングシートに座る。朝早かったせいか、空いていた。

 

出町柳駅を出発し、京都の町並みを眺めながら走る。東大路通り(市道181号)の踏切を越えれば、最初の駅、元田中駅に停車する。この駅、上り下りホームが市道を挟むように対岸にある。続いて茶山駅、一乗寺駅と京都の街中の駅が続く。

 

一乗寺駅の次の駅が修学院駅だ。駅の東に位置する修学院離宮の名前にちなむ。ここで目を向けておきたいのが、進行方向、右手にある車庫だろう。ここには珍しい車両も停められている。

↑修学院駅の東側に隣接して設けられる修学院車庫。この日、検修庫には900系の「青もみじきらら」が停められていた

 

新旧車両に混じって、奥に停められていることが多いのが、荷台を持つ車両だ。こちらはデト1000形と呼ばれる事業用車で、荷台にレールやバラストを積んで走る。保線専用の車両で、無蓋電動貨車(むがいでんどうかしゃ)と呼ばれている。この電車は叡山電鉄に現在残る車両のうち唯一の京福電気鉄道時代に生まれた車両だ。車庫を囲む塀の外から見えるが、運がよければ他車両に隠されることなく車両全体を望むこともできる。

↑デト1000形無蓋電動貨車。荷台にクレーンが付く。この日はZ形パンタグラフを持ち上げた姿を見ることができた

 

さて修学院車庫で珍しい電車を見たあとは、再び、下り電車に乗り込む。

 

【叡電を深掘り⑧】鞍馬線が分岐する宝ケ池駅の不思議

次の駅は宝ケ池駅だ。叡山本線と、鞍馬線との分岐駅で、なかなかユニークな形の駅である。

 

修学院駅方面からまっすぐ北へ進む線路は1・2番線の叡山本線のホームだ。西側に位置する4番線が鞍馬方面行き。中ほどのホーム、2番線の向かい側3番線は鞍馬方面から出町柳駅方面へ向かうホームだ。

 

ホームの南側に駅の地上通路があり、この通路で乗り換えや、乗降ができる。この通路は宝ケ池構内踏切ともなっているが、踏切の東側と西側には、駅の入口が特に設けられているわけではない。こうした構造もあり、構内踏切は歩行者用通路も兼ねているようで、地元の人たちが乗る自転車や歩行者が間断なく通り過ぎる。駅構内の踏切のはずなのに、この駅では不思議な光景がごく日常となっている。

↑鞍馬方面から出町柳方面へ向かう電車は、叡山本線の下り線路を平面交差し、上り線路に合流する

 

↑宝ケ池構内踏切を兼ねる各ホームを結ぶ通路。中央は2・3番線ホーム。写真のように自転車が多く通りぬけている

 

【叡電を深掘り⑨】終点、レトロな八瀬比叡山口駅の秘密

宝ケ池駅の2番線を発車した八瀬比叡山口駅行きの電車。この宝ケ池駅付近から郊外の趣も強まってくる。

 

次の三宅八幡駅から先で、進行方向左手から高野川が近づいてきたら終点も近い。駅を過ぎると、叡山本線で最大の傾斜33.3パーミル(1000m走る間に33.3m登る)、25パーミル、18パーミルと終点、八瀬比叡山口駅との1駅の間に厳しい勾配が続く。

↑鉄骨平屋造り、切妻造の金属板葺きと凝った八瀬比叡山口駅。停まるのはデオ730形731号車、深緑塗装が目立つ

 

そして叡山本線の終点、八瀬比叡山口駅へ到着する。大正末期に造られた駅の立派さには行くたびに驚かされる。トレイン・シェッドと呼ばれる大型の屋根の覆われた造りで支える鉄骨の柱はリベットで接合した造り。ヨーロッパのターミナル駅をイメージさせる駅は、ドイツ人技師の設計と伝えられる。

 

当時、同線を造った京都電燈の財力を感じさせる終着駅だ。賓客を迎えるべく凝った造りにしたのだろうか、そうした歴史の記述が駅に掲示されていないのが残念に感じた。

↑現在の八瀬比叡山口駅には、右から記した開業当時の「八瀬驛」という駅名看板が付く。右上は2015(平成27)年に訪れた時のもの

 

手元に2015(平成27)年3月に撮影した同駅の写真があった。当時の駅舎の駅名看板は「八瀬比叡山口駅」だったが、現在は開業当時の「八瀬驛」に掛け替えられ、よりレトロ感が強まっていた。

 

【叡電を深掘り⑩】叡山ケーブルは現在、別会社の路線に

叡山本線を開業させた京都電燈は、八瀬比叡山口駅から比叡山へ登る観光客のために叡山ケーブルと叡山ロープウェイを開業させた。叡山本線の開業が1925(大正14)年9月27日、叡山ケーブルが同じ年の12月20日のことだった。さらにケーブルの山頂駅(ケーブル比叡駅)の先に、叡山ロープウェイも1928(昭和3)年10月21日に開業させている。いずれも京都電燈が手がけた鋼索線と索道線(ロープウェイ線)だった。

 

現在、叡山ケーブルの路線名は、京福電気鉄道鋼索線と呼ばれる。ロープウェイの運行も京福電気鉄道が行っている。叡山電鉄も、かつては京福電気鉄道の路線だったが、後に京福電気鉄道とたもとを分かっている。つまり電車とケーブルカー、ロープウェイは別会社によって運行されているわけだ。

↑ケーブル八瀬駅を発車する叡山ケーブル。2021年3月に車体デザインをリニューアル、外観が変更されている(写真は旧塗装)

 

ちなみに別会社となってはいるものの、叡山電鉄の出町柳駅〜八瀬比叡山口駅間と、叡山ケーブル、叡山ロープウェイ。さらに比叡山内のシャトルバス、また比叡山延暦寺の諸堂巡拝券がセットになった「比叡山延暦寺巡拝 叡山電車きっぷ」が大人3200円で用意されている。比叡山へ向かうときには便利だ。

 

八瀬比叡山口駅から叡山ケーブルの山麓駅・ケーブル八瀬駅までは徒歩4〜5分ほど。高野川の流れや草花を楽しみながらの道のりで、のんびり比叡山麓の自然を楽しみながら散策できる。ケーブル八瀬駅の近くには、八瀬もみじの小径(やせもみじのこみち/入場無料)もある。八瀬比叡山口駅に着き、そのまま帰ってしまうのはもったいない。ぜひとも叡山ケーブルのケーブル八瀬駅も目指したいものである。

“新車両”導入で活気づく「北条鉄道」で未知との遭遇

おもしろローカル線の旅83〜〜北条鉄道北条線(兵庫県)〜〜

 

兵庫県の播磨地方(はりまちほう)を走る北条鉄道北条線。乗車時間20分ほどの短い路線である。この短いローカル線が、いま全国の鉄道ファンの注目を浴びている。わざわざ遠くから乗りに訪れる人も増えてきた。

 

その理由は〝新車両〟を導入したから。この新車両だけでなく、初めて下りる駅や町、風景もなかなか新鮮で楽しめた。そんな北条鉄道で〝未知との遭遇〟を楽しんでみたい。

 

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【未知との遭遇①】昭和初期まで〝播丹鐵道〟北条支線だった

JR加古川線の粟生駅(あおえき)〜北条町駅間13.6kmを走る北条鉄道北条線(以下「北条鉄道」と略)。まずは北条鉄道の路線史から見ていくことにしよう。筆者の手元に北条鉄道の古い路線図がある。昭和10年前後に印刷された「播丹(ばんたん)鐵道沿線案内」だ。この案内によると、いまJRの路線になっている加古川線をはじめ北条鉄道、2008(平成20)年に廃止された三木鉄道などの路線がみな、播丹鐵道という会社の路線だったことがわかった。

↑昭和10年前後に発行の播丹鐵道の路線図の一部。図の上部に北条鉄道(当時は北条支線)の路線を確認することができる

 

北条鉄道の開業は1915(大正4)年3月3日のこと。播州鉄道という会社により粟生駅〜北条町駅間が開業した。その8年後の1923(大正12)年12月21日には播丹鐵道に譲渡された。掲載の路線図はその当時のものだ。

 

“ばんたん”と読ませる鉄道会社がこの会社以外にもあった。現在の播但線(ばんたんせん)を開業させた播但鐵道で、この会社は1903(明治36)年に山陽鉄道という会社に路線を譲渡している。山陽鉄道は現在の山陽本線を所有していた会社で、1906(明治39)年に国有化、播但線も同時に国有化された。

 

同じ読みで混同しやすいが、もう一度整理しておくと、播但線を開業させたのは播但鐵道という会社。加古川線、北条支線を運営したのが播丹鐵道という会社だった。太平洋戦争中に慌ただしく国有化された全国の私鉄は非常に多かったが、播丹鐵道も1943(昭和18)年6月1日に国有化された。

 

【未知との遭遇②】網引駅近くで戦時下に起きた悲惨なできごと

戦時下に国有化された播丹鐵道。北条支線は以来、国鉄北条線となる。その2年後に大惨事が起きた。

 

現在の法華口駅(ほっけぐちえき)近くに鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)という軍用飛行場があった。この飛行場は戦時下に海軍航空隊の訓練基地として使われていたが、当初は川西航空機(現・新明和工業の前身)姫路製作所の専用飛行場だった。戦時下に同工場で組み立てられていたのが戦闘機・紫電改(しでんかい)だった。

↑網引駅(あびきえき)付近を走る北条鉄道キハ40形。駅から300mほど、ちょうど写真付近で、戦時下に大事故が起きた

 

1945(昭和20)年3月31日、網引駅の西側300mほどの地点で、その事故は起こった。試験飛行中の紫電改が鶉野飛行場へ高度を下げ着陸態勢をとり、エンジンの出力を絞ったところ、突然にエンジンがとまってしまうトラブルが起きた。操縦していたのは20歳と若い飛行士だった。網引駅近くの線路は堤の上のやや高い場所を走っている。その線路に高度を落とした紫電改の尾輪が引っかかってしまい、そのせいでレールをねじ曲げてしまったのである。

 

運悪く現場へさしかかっていた上り列車の蒸気機関車と客車が転覆。満員の乗客を乗せていたからたまらない。死者12名、重軽傷者104名という大惨事となった。事故が起きた当初は戦時中だったこともあり、軍事機密として秘匿された。事故の詳細が明らかにされたのは戦後のことだった。

↑法華口駅に立つ「鶉野飛行場跡地」の案内。田園が広がる先に元飛行場の遺構が残り当時の様子を偲ぶことができる

 

網引駅近くの事故地点には小さな慰霊碑が立てられ、亡くなった方の霊を悼むように黄色い菜の花が堤を彩っていた。最寄りの網引駅には事故の概要を伝える案内板も立てられている。戦時下とはいえ、このような惨事が起きながら、国民に何も伝えられなかったとは、改めて戦争の不条理を感じてしまう。

 

戦後は長らく国鉄北条線だったが、接続する加古川線がJR西日本に引き継がれる前の1985(昭和60)年4月1日に、第三セクターの北条鉄道へ路線の運営が引き継がれた。北条鉄道になって以降は、様々な企業努力が実り、第三セクター路線としては珍しく朝夕の列車本数を増やすなど、輸送実績も順調に推移し、三セク鉄道の〝優等生〟となっている。

 

【未知との遭遇③】路線のほとんどが加西市内を走る

ここで路線の概要を見ておこう。

路線と距離 北条鉄道北条線/粟生駅〜北条町駅13.8km
全線単線非電化
開業 播州鉄道により1915(大正4)年3月3日に粟生駅〜北条町駅間が全通
(開業当初の区間距離は13.68km)
駅数 8駅(起終点駅を含む)

 

北条鉄道の起点は粟生駅で、この駅でJR加古川線と、神戸電鉄粟生線と接続している。路線は小野市と加西市(かさいし)を走っているが、小野市内の駅は粟生駅のみで、他の7駅はみな加西市内の駅となる。

 

つまり、北条鉄道は加西市内線と言ってもよいわけだ。そうした背景もあり、北条鉄道の主な出資者は加西市と兵庫県で、北条鉄道の代表取締役社長は加西市長が兼ねている。

 

【未知との遭遇④】形式名の頭に付くフラワの意味は?

次に走る車両を見てみよう。北条鉄道を走る主力車両は2000(平成12)年に運転開始したフラワ2000形気動車で、現在3両が走る。長さ18mの両運転台式の気動車で、3両はピンク、紫、緑と車体の色がそれぞれ異なる。

↑主力車両のフラワ2000形は3両あり、ピンク、紫、緑と3色の車体色をしている

 

形式名だが、なぜ「フラワ2000」と名付けられているのだろう。加西市には兵庫県立フラワーセンターがあり、「フラワ」はこのセンターの名前にちなんで付けられた。また2000は、2000年に導入されたことによる。ちなみに兵庫県立フラワーセンターへは、北条町駅からバス利用で、12〜20分ほどの距離にある。

 

なお、運用される車両は北条鉄道のホームページに運行計画表が掲示されており、そちらで運用状況が確認できる。この運行計画表を見るとフラワ2000-1から3は、およそ1週間単位のローテーションで、順次登場して走っている。

 

【未知との遭遇⑤】“新車両”キハ40形が沿線を彩る存在に

↑2021(令和3)年3月12日までJR五能線などを走っていたキハ40形535。秋田当時と同じ白と青の五能線カラーで走る

 

2022(令和4)年3月13日、長年、フラワ2000のみだった北条鉄道に新たに加わったのがキハ40形である。キハ40系は国鉄時代に開発された普通列車用の気動車で、キハ40形はバリエーション豊富な同系列の中の、両運転台付き車両を指す。北条鉄道ではJR東日本の南秋田センターに配置されていたキハ40形535車を有償で譲り受けた。

 

それまで北条鉄道は3両態勢で列車を運行してきたが、朝夕の増便もあり、車両運用に余力がなくなっていた。ちょうどJR東日本がキハ40系車両の引退を計画していたこともあり、そのうちの1両を譲り受けたのだった。

 

改造費や輸送費用は加西市が助成、加えてクラウドファンディングによる寄付を募った。ちなみに車内には寄付をした方々の名前が掲示されている。見ると筆者が見知った方の名前も散見された。

↑正面には5枚の銘板が付く。「新潟鉄工所・昭和64年」「北条鉄道・2022年2月」とあった。側面にはサボも付く(右下)

 

キハ40系は、JR西日本エリアで珍しい車両ではなく、今も多くが在籍している。とはいえ、車体更新がだいぶ進み、側面の窓の形などが、オリジナルなキハ40系の姿と異なるものが多い。さらに北条鉄道が導入したキハ40系は、遠く離れた北東北を走っていた白と青の〝五能線色〟ということが珍しく感じるのか、鉄道ファンのみならず、旅好きの人々に注目を浴びるようになり、走行日に訪れる人が多い。

 

キハ40形は毎日走るわけではない。1日中走る日が限られている。こうした日には乗車するため、また撮影のために沿線を詰めかける人が目立つ。筆者が乗車した列車も、運行を始めてすでに1か月たっていたにもかかわらず、座席は満席で立って乗車する人も多かった。まさに〝新車両景気〟のように感じられた。なお、キハ40形は週末に必ず運行されるわけではないのでご注意を。運行予定をしっかりチェックしてから訪ねることをお勧めしたい。

↑1日フリー切符も通常のもの(右上)とは異なるストラップ付きを期間限定で用意。鉄印(左)もキハ40形のイラスト入りを販売

 

【未知との遭遇⑥】粟生は乗り換えに便利だが不便な駅だった

さあ、北条鉄道の旅に出てみよう。起点は粟生駅。前述したようにJR加古川線と神戸電鉄粟生線と接続している。ホームは1・2番線が加古川線、神戸電鉄粟生線が4番線で、3番線が北条鉄道の発着ホームとなる。この駅の番線のふり方は変則的で、北条鉄道3番線の向かい側が加古川線の下り1番線ホームで、跨線橋を渡った側の加古川線上りホームが2番線となっている。

 

北条鉄道は土・休日の場合、ほぼ1時間おきに発着する。また平日は6時・7時台と、18時台が30分おきに増便される。

↑北条鉄道のホームは手前3番線。向かい側が加古川線の下り1番線ホームとなる。1番線に停まる電車は国鉄形通勤電車の103系だ

 

JR加古川線、神戸電鉄粟生線との乗り継ぎは非常に便利だ。接続する側の両線とも日中、ほぼ1時間おきに列車が走っていて、北条鉄道への乗り継ぎ、また北条鉄道からの乗り継ぎがしやすいように、列車ダイヤも調整されている。特に加古川線の上り下り列車との乗り継ぎは非常に良く、ほとんど待つことなしに乗車できる。

 

ただ、もし乗り継ぎに間に合わなかったら、どの列車も1時間待ちになってしまうので注意が必要だ。

↑瀟洒な造りの粟生駅の正面(左上)。跨線橋の下に加古川線のホームがある。奥に見えるのが神戸電鉄粟生線の車両

 

乗り継ぎに便利な粟生駅だが、駅から外に出ると驚かされる。駅舎は洋風で瀟洒な造りで、駅前にロータリーが整備され、民家が駅前通り沿いに建ち並ぶのだが、商店がない。駅横に「小野市立あお陶遊館アルテ」という陶芸教室などが開かれる公共施設があるほかは理髪店があるのみで、3本の路線が集まるターミナル駅らしくない印象だった。

 

粟生駅がある小野市の繁華街は、加古川線の小野町駅、もしくは神戸電鉄粟生線の小野駅周辺にある。一方の加古川線の粟生駅周辺は下車する人が少ない駅のせいか、商店の営業には向かなかったようだ。同駅で下りる場合には、ランチ時であれば、お弁当などを持参して動くことをお勧めしたい。

↑粟生駅を発車した列車はJRの線路と分かれ、大きく左カーブ、水田地帯の中、次の網引駅を目指す

 

【未知との遭遇⑦】北条鉄道の駅がみなきれいな理由は?

粟生駅11時9分発の北条町駅行きに乗車する。この日はキハ40形が1日走る運行日で、さらに日曜日で混みあっていた。ちなみに、粟生駅ホームには交通系ICカードのリーダーがあり、JRから北条鉄道への乗り換え時には、タッチして北条鉄道を利用する。北条鉄道線内ではICカードの利用は不可で、乗車時に整理券を受け取り、下車の際は現金での支払いとなる。

 

1日フリーきっぷ(840円)も用意され、車内および、終点の北条町駅で購入することができる。粟生駅〜北条町駅間の片道運賃が420円なので、往復+1駅どこかで下車すれば、お得になる計算だ。

 

短い路線だが、途中駅に下りてみて気がつくことがある。どの駅もきれいに掃除され、整備されているのである。ローカル線というと、なかなか掃除の行き届いていない路線もあるが、なぜなのだろう?

↑北条鉄道の駅には登録有形文化財に指定された古い駅も多い。駅舎内もきれいに掃除、また手入れをされた駅が多い(写真は長駅)

 

北条鉄道の各駅は終点の北条町駅を除きすべて無人駅だが、ボランティアの駅長が多くの駅に存在する。ステーションマスター制度という仕組みで、2年の任期で駅長となり、駅の清掃とともに、趣味や特技を生かしたイベントや、教室などを駅舎で開くことができる。

 

例えば網引駅では毎月2回、ボランティア駅長が切り絵教室を開いている。法華口駅のボランティア駅長は絵手紙教室、播磨下里駅では寺の住職がボランティア駅長を務める。播磨下里駅の駅舎には下里庵の名が付けられ月に2回、開放されている(現在はコロナ禍で活動休止中)。

 

こうした試みは、駅の清掃だけでなく、地域のコミュニティづくりにも役立っているようだ。とはいえあくまでボランティア活動なだけに、最近はなり手が少ないようである。

 

【未知との遭遇⑧】法華口駅で珍しいシステムが導入される

100年以上前に播州鉄道北条支線として開業した北条鉄道。古い駅舎もいくつか残る。その1つが粟生駅から3つ目の法華口駅(ほっけぐちえき)だ。この駅、木造駅舎が建つ古いホームの先に新しいホームが2面あり、現在は、新しいホームが使われている。

↑開業当時に造られたホームの先に新しいホームが設けられ、上り下り列車の交換が可能な造りとなっている。春先は桜もきれいだ

 

この法華口駅には上り下り列車の交換施設が設けられている。北条鉄道の路線唯一の交換施設だ。2020(令和2)年6月に新設された交換施設で、全国初の保安システム「票券指令閉そく式」が採用された。名称を見るとなかなか難しいシステムのように感じるが、行うことはシンプルだ。

 

まず、進行してきた列車は法華口駅の右側の線路に入る。ホームに停車し、乗客の乗降が済んだら、運転士は運転席の左側に設けられたカードリーダーに、持参するICカードをタッチする。タッチすると、先の信号が赤から緑に変わり、列車が進行できる仕組みだ。

 

現在、列車の交換システムの多くに「自動閉そく式」が使われている。このシステムの導入で自動的に列車交換が行われているが、「自動閉そく式」に比べて「票券指令閉そく式」は設置コストが割安なことが導入の決め手となった。列車本数が少ない路線には最適なシステムかもしれない。

↑列車の左側にカードリーダー(右上)が設けられ、そこにICカードをタッチすると、先の信号が青に変わり、前進が可能になる

 

【未知との遭遇⑨】8年前の播磨下里駅の駅舎写真と比べてみる

法華口駅をはじめ複数の駅に停車し、列車は進行していく。

 

駅周辺には民家が建ち並び、駅を離れると左右に水田風景が広がる。列車からあまり見えないのだが、沿線には1つの特長がある。北条鉄道が走る播磨地方には、ため池が非常に多いのだ。本原稿でも掲載している地図のように、いたるところに大小のため池がある。

 

この地方は降雨量が少ない。そのため、古くからため池が多く設けられた。江戸時代前期に築造のものもあるとされる。播磨地方に限った数字ではないのだが、兵庫県全体には、全国でトップの2万2107個もある。ちなみに、ため池が多いと予想される香川県のため池の数が1万2269の3位で、圧倒的に兵庫県のため池が多いということに気がついた。

↑播磨下里駅に入線するキハ40形。駅舎に掲げられる駅名標はレトロそのものだった

 

法華口駅の次が播磨下里駅で、この駅にも開業当時の駅舎が残る。法華口駅とともに駅舎が有形登録文化財に指定されている。駅舎には手書きの駅名標が付けられている。この駅名標、戦争前の表記方法だった右から左へ横書きした文字が、下に透けて見えていておもしろい。

↑播磨下里駅の2014(平成26)年と現在の姿。このように改装され、きれいになった駅が目立つ

 

手元に2014(平成26)年9月に撮影した同駅の写真があった。現在と比べて見ると、駅舎内の中扉が作り直されるなど、かなり手直しされている様子がわかる。記録によると2016(平成28)年3月に駅舎を改築とある。同鉄道の駅はきれいに掃除されているばかりでなく、駅舎、トイレなど改築・改装されたところも多い。

 

北条鉄道に初めて乗車して、これらの駅に下りる人も多いはず。駅舎はもちろん、入ったトイレが汚い、または使えなかったとなると、旅行者は困るし、残念に感じてしまう。このあたりの対応はローカル線といえども、旅人に来てもらうためには大切な要素だと思われた。

 

【未知との遭遇⑩】「長」と書いて何と読む?

播磨下里駅の次の駅は長駅だ。「長」と書いて何と読むのだろう。

 

答えは「おさ」。駅は加西市西長町にあり、その長が駅名になったようだ。同地の長という地名は同地を支配した豪族の長氏に由来する。また地域を支配し、統率する首長を意味したオサに由来するという説が同地に残されている。掲載の写真のように、春先には旧ホームの上に植えられた桜が美しい。

↑長駅を発車するフラワ2000-1。後ろが長駅の駅舎で路線開業時の建物が残る。桜は旧ホームに連なるように植えられている

 

↑年季が入った長駅の駅舎に驚かされた。駅舎内には、手荷物・小荷物取扱所という古い看板も掲げられていた(右下)

 

訪れた日には開いていなかったが、駅舎の裏手入口には結婚相談所「駅ナカ婚活相談所」の看板があった。ボランティア駅長が主催するイベントのようで、各駅でなかなか多彩な催しが行われていることがわかる。

 

長駅を発車して間もなく右カーブした車内から西池というため池が見えてくる。播磨地方にはため池が非常に多いと前述したが、線路のそばに見えるため池はこの西池のみに限られる。

↑播磨横田駅を発車して3分ほど。終点の北条町駅に近づくキハ40形。周囲には民家も増え始め賑わいが感じられた

 

【未知との遭遇⑪】終点の北条町駅の賑わいぶりが意外すぎる

播磨横田駅を過ぎて3分ほど。終点の北条町駅に到着した。これまでの駅周辺に比べると、かなりの賑わいぶりだ。

 

起点の粟生駅が、複数の路線との接続駅であるものの、駅周辺に何もないところであったし、途中の6駅も、駅近くには民家があるが、商店はほぼない。比べて北条町駅前には交通量の多い県道23号線が走る、駅からこの道をまたぐ跨線橋も設けられていて、ショッピングモール「アスティアかさい」に通じている。駅に隣接して寿司チェーン店、大型ショッピングモール、大型電器店がある。

 

要は加西市の中心部はこの北条町駅周辺だったのである。北条鉄道の旅を楽しむ際には、この北条町駅で一休み。次の列車を待つ1時間の間に、ランチなどを済ませたほうが賢明だ。

↑北条町駅のホームに入線するキハ40形。ホームの裏手には検修施設も設けられている

 

始発駅と終点の駅で、これほどまで賑わいが違う路線も珍しいだろう。北条鉄道のように行き止まり路線を盲腸線と呼ぶことがある。盲腸線は、大概が始発駅は地方の都市で、先に行くほど、郊外となり、賑わいが薄れるところが多い。北条鉄道の場合は、まったく逆で終点のほうが賑わっていた。

 

鉄道や車両だけでなく、この対比が新鮮だった。キハ40形という新たな車両が導入されたことで、より活気づく北条鉄道。同鉄道ならではの特異なロケーションが、魅力付けとなり、訪れる人が多いように感じた。

 

今後、どのように路線が変貌していくか、興味が尽きない。

↑北条町駅のホームに停車するキハ40形。側線にはフラワ2000-1が停車していた
↑駅向かいに建つショッピングモールから北条町駅を望む。県道を越える自由通路が設けられていて行き来も便利だ

 

マスク氏のトンネル会社、超高速交通プロジェクトに挑戦

実業家のイーロン・マスク氏はツイッターにて、所有するトンネル採掘会社ことボーリング・カンパニーが、超高速交通システム「ハイパーループ」の建設を試みる予定だと明かしています。

↑Volodimir Zozulinskyi / Shutterstock.comより

 

ボーリング・カンパニーとは都市交通の混雑を解消する目的で2016年に設立された会社で、独自にトンネルを設置し自動車や高速鉄道を運行することを想定しています。すでにラスベガスでは、採掘プロジェクトを進めています。

 

一方でハイパーループとは、低圧チューブの中を時速700マイル(約1100km/h)の超高速で乗り物(ポッド)が移動するアイディアです。こちらもマスク氏が2013年にコンセプトを発表したものの、実際のチューブやポッドの開発は参加する会社に委ねられています。

 

 

マスク氏のツイートによると、ボーリング・カンパニーは今後数年のうちに、ハイパーループの建設を試みるとのこと。その目的はアメリカに限らず世界の渋滞が激しい都市にて、混雑を解消することだとされています。さらにマスク氏は、地下トンネルは地表の気象状況に左右されず、ハイパーループのコンセプトにも適していると解説しているのです。

 

ボーリング・カンパニーは先日にシリーズCにて6億7500万ドル(約870億円)の資金調達を行っています。突拍子もないもののように思えるボーリング・カンパニーとハイパーループですが、その2つを組み合わせることにより、思わぬ化学反応が起きるのかもしれません。

 

Source: Elon Musk / Twitter

海景色を満喫!「日本海ひすいライン」郷愁さそう鉄旅【後編】

おもしろローカル線の旅82〜〜えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン(新潟県)その2〜〜

 

旧北陸本線の新潟県内、市振駅(いちぶりえき)〜直江津駅間を結ぶ日本海ひすいライン。路線名の通り、日本海の海景色が満喫できる。前編で紹介したように乗って楽しい車両が多く走る同路線。海沿いの駅だけでしに、トンネル内の珍しい駅があるなど変化に富んだ鉄旅を楽しんだ。

 

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乗り甲斐あり!「日本海ひすいライン」郷愁さそう鉄旅を堪能する【前編】

 

【郷愁さそう鉄旅⑦】直江津駅を出発!すぐに日本海と出会う

さっそく日本海ひすいラインの旅を楽しむことにしよう。本来は、起点から話を進めるべきなのだろうが、日本海ひすいラインの起点は無人駅の市振駅となる。無人駅から旅を始めるのもやや寂しいので、ターミナル駅の直江津駅から話を進めたい。

↑直江津駅の北口駅舎。佐渡汽船のフェリーが出港する港が近いことから港町の駅のイメージ。構内ではSLも見ることができる(左上)

 

日本海ひすいラインの列車が発着する直江津駅では、えちごトキめき鉄道の妙高はねうまライン、JR東日本の信越本線、そして十日町、越後湯沢方面へ向かう北越急行ほくほく線の各列車と接続している。

 

日本海ひすいラインの列車は1番線、もしくは2番線からの発着が多い。JR東日本の信越本線と、妙高はねうまラインは2番線から6番線までを共用している。ほくほく線は5・6番線を使う。呉越同舟といった趣のホーム利用は、やはり、北越急行を除く路線がすべて元JRの路線だったこともあるのだろう。

 

直江津駅構内にはD51が姿を現す。こちらは直江津駅に隣接する鉄道テーマパーク「D51レールパーク」で運行する観光用列車で、転車台がある同パークと直江津駅構内の間を往復する。使われるのはD51形蒸気機関車827号機で、乗客を乗せた車掌車(緩急車)2両を牽引して走る。

 

ちなみに、列車は朝を除きほぼ1時間おきの運行で、週末に運行される413系・455系「国鉄形観光急行」が補完する形で走ることもあり、さほど不便には感じない路線である。

↑日本海ひすいラインは旧北陸本線の新潟県内の市振駅〜直江津駅間を引き継いだ路線で、起点は市振駅、終点は直江津駅となる

 

さて、筆者がこの日に乗車した日本海ひすいラインの列車は、泊駅行きのET122形の通常タイプで、1人用座席に座りつつの旅が始まった。

 

直江津駅を発車すると、しばらく平行して走っていた妙高はねうまラインの線路が左手にカーブして離れていく。直江津の町を眺めつつ、しばらくすると湯殿トンネルへ入る。このトンネルを抜けると、すぐ右手に日本海が見えるようになる。そして右から国道8号が近づき、沿うように走る。

↑泊駅行きのET122形普通列車。直江津駅を発車後、谷浜駅から日本海と国道8号(左)に沿って走る旅となる

 

谷浜駅、次の有間川駅(ありまがわえき)と、海岸線をなぞるようにして走っていく。国道沿いには海産物を扱う商店、海岸には漁港もあり小さな船が停泊する風景を望むことができる。この2駅は、鉄道ファンにも人気があり、特に有間川駅は背景に海景色が望めるポイントがあって、同駅で下車する人も目立つ。

↑有間川駅のホームに到着した泊駅行き普通列車。クラシックな駅舎の前に、日本海が広がる風光明媚な駅だ

 

【郷愁さそう鉄旅⑧】注目を集める長大トンネルの中の筒石駅

有間川駅を発車すると、海景色とはしばらくお別れに。すぐに名立(なだち)トンネルへ入る。この先、トンネルが続く。

 

北陸本線が開業した当時は、海沿いに線路が敷かれたが、単線ルートで輸送力の増強が難しかった。さらに大規模な地滑りに悩まされた。また1963(昭和38)年3月には、列車転覆事故が起きてしまう。そこで、有間川駅〜浦本駅間はトンネル主体の路線を新たに設け、1969(昭和44)年9月29日に旧線から新線への切り替えが行われた。

 

そうして造られた名立トンネルを抜け名立駅へ。この駅は名立川という河川の上にホームが設けられている。トンネルとトンネルの間の、ごく狭い平野部に設けられているために、こうした構造になっている。名立駅を発車して、すぐに頸城(くびき)トンネルに入る。日本海ひすいラインで最も長いトンネルで、長さ1万1353mという長大なもの。JRを除く在来線最長のトンネルでもある。この頸城トンネルの途中に筒石駅がある。

↑筒石駅の構内。左は市振駅方面のホームで、右は直江津方面のホーム。駅の外に出るのには延々と続く階段を登る(右上)

 

筒石駅は頸城トンネルを建設する当時、廃止案もあったが、地元からの希望が強く、現在のようなトンネルの途中にホームが作られたとされる。

 

駅舎は海沿いの筒石集落から約1km登った山の上、海抜60mのところにある。ちなみに頸城トンネルが通るのは海抜20mの地点で、トンネルを掘る時に造られた斜坑が、今はホームへ降りる階段として活かされている。直江津方面の下りホームまでは290段、糸魚川方面の上りホームまでは280段の階段がある。もちろんエスカレーターやエレベーターはない。

 

JR当時は乗降する人も少ない駅だった。ところが、日本海ひすいラインとなってからは、この珍しい駅に乗り降りする人の姿を、よく見かけるようになっている。スピードを出して通り抜ける列車は少なめになったが、列車が通過する時に、ホーム上を強烈な風が通り抜けるので、駅通路からホームへ出入りする所には危険防止のために扉が設けられている。

↑糸魚川の平野部を走る下り貨物列車と日本海を望む。2021(令和3)年3月13日にはえちご押上ひすい海岸駅も設けられた

 

筒石駅がある頸城トンネルを抜けると能生駅(のうえき)へ。このあたりになるとようやく視界が開け始める。次の浦本駅から先は糸魚川市の平野部が少しずつ広がっていく。そして梶屋敷駅と新駅・えちご押上ひすい海岸駅の間には、前述した直流電化区間から、交流電化区間に変わるデッドセクションがある。といっても普通列車は気動車であるし、また電車や電気機関車が牽く貨物列車も、デッドセクションにかかわらず、スムーズに通り抜けていく。いまは交直流の変更も、それほど手間がかかる切り替えではないのだ。間もなく、北陸新幹線の接続駅、糸魚川駅へ到着する。

 

【郷愁さそう鉄旅⑨】途中下車し甲斐がある糸魚川駅

北陸新幹線とJR大糸線に接続する糸魚川駅はぜひとも下車したい駅だ。新幹線が開業した時に南側にアルプス口、1階には「糸魚川ジオステーションジオパル」が設けられた。複合型交流施設として、観光案内所などがあるほか、大糸線を走ったキハ52気動車が保存されている。

↑糸魚川駅のアルプス口。「糸魚川ジオステーション ジオパル」の前面は気動車の車庫として利用されたレンガ車庫の一部が使われている

 

↑地元の木材で作られたトワイライトエクスプレスの展望車を模した再現車両を展示。大きなジオラマも複数用意されている(左)

 

「糸魚川ジオステーション ジオパル」内には、糸魚川をかつて走った寝台特急「トワイライトエクスプレス」の展望客車や食堂車を再現した木製の車両も展示されている。ちなみにこの再現車両は、東京・六本木で2019(令和元)年に開かれた「天空ノ鉄道物語」という催しのために造られたもので、糸魚川の杉材で造られた縁から、催しが終了後に同施設へ運ばれた。

 

鉄道模型を走らせることができる大きなジオラマが複数あるほか、旧北陸本線を走った列車の行先表示板や、駅名のホーロー表示など、鉄道好きならば思わず見入ってしまうグッズが多く展示されている。

 

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【郷愁さそう鉄旅⑩】青海駅、親不知駅と気になる駅が続く

糸魚川駅で一休みしたら、終点を目指そう。糸魚川駅を出ると大きな川を渡るが、こちらは一級河川の姫川だ。姫川は一級河川の水質ランキングでトップに輝いた清流で、車窓から澄んだ流れを見ることができる。

 

そして青梅駅(おうみえき)へ。この駅、鉄道好きならば気になる駅である。進行方向左手に、古い操車場跡が残り、線路が敷かれたままになっている。かつて貨車が多く出入りしていた様子が見て取れる。また、山で隠れ全景は見えないものの、青海川をさかのぼった山あいに大きな工場がある。デンカ株式会社の青海工場だ。推定埋蔵量50億トンとされる黒姫山の石灰石を利用している工場が今も稼働している。

 

かつては青海駅から同工場へ引き込み線が敷かれ、貨車を使ってのセメント関連材料などの輸送を行っていた。輸送はトラック輸送が主体となり、すでに工場への引き込み線は廃止されているが、工場内には今も専用鉄道線が残り、材料の運搬などに利用されている。

↑青海駅に近づく「国鉄形観光急行」。写真右手に操車場の跡地が広がる。駅横には線路が敷かれたままで残される(右上)

 

青海駅の巨大な操車場の横には鉄道コンテナ用の基地がある。こちらは今も現役の青海オフレールステーションで、新潟県西部の鉄道コンテナの輸送に欠かせない重要拠点となっている。操車場跡地は、その一部が今も大切な役割を担っていたのである。

↑青海駅の西側まで海景色が楽しめる。ちょうどこの下がトンネルの入口で、この先、親不知駅までトンネル区間が続く

 

青海駅を発車すると、新潟県西部で最も険しい海岸線が連なる区間へ入る。名高い親不知(おやしらず)・子不知の海岸である。親不知子不知はかつての幹線道、北陸道の断崖絶壁が続く難所で、地名は源平の合戦に敗れ、越後に落ち延びた平頼盛(たいらよりもり)の後を追った妻・池ノ尼の愛児が波にさらわれた故事にちなむ(諸説あり)。

 

前編で紹介した戦前の絵葉書のように、古くは景勝地だったが、今は海岸側に北陸自動車道が造られ、かつての趣はない。列車に乗っていても、親不知駅付近では、海景色があまり良く見えないのが残念である。

↑国道8号から親不知海岸を遠望する。北陸自動車道の海上高架橋が海上部へ張り出している様子が分かる。右下は親不知駅ホーム

 

【郷愁さそう鉄旅⑪】市振駅が富山との〝境界駅〟なのだが

親不知駅を発車すると、間もなく4本のトンネルが続く。第2外波、第1外波、風波、親不知とトンネルが続く区間だが、この区間も1965(昭和40)年までは旧線だった区間で、トンネルを通すことで、複線化し、スムーズな列車運行が可能になった区間だ。

 

4536mの親不知トンネルを抜ければ間もなく市振駅へ到着する。この駅が日本海ひすいラインと、あいの風とやま鉄道線の境界駅となるのだが、普通列車は同駅で引き返さずに、2つ先の泊駅での折り返しとなる。

↑日本海ひすいラインの〝起点〟でもある市振。駅の案内標は日本海をイメージしたデザインだ。普通列車は2つ先の泊駅まで走る(右上)

 

市振駅まで来ると、南側の山々の険しさも薄れ、視野が開けてくる。一応、日本海ひすいラインの〝起点〟にあたる駅だが、無人駅である。駅構内に赤レンガの古い倉庫があるが、かつてランプ小屋と呼ばれた明治から大正初期に建てられた倉庫で、電気照明がない当時にカンテラ用の灯油を保管していたものだった。各地の古い駅に今も20前後が残されているとされる。

 

市振駅で写真を撮っていると、一緒に列車に乗ってきた御仁が一言「何もない駅ですね」と話しかけてきたが……。確かに駅付近は殺風景なことは確かである。市振の集落は駅の東側にあり、市振関所跡や市振港がある。また駅前を通る国道8号を西へ行くと、道の駅や県境がある。

↑市振駅は無人駅で寂しさが感じられた。構内には赤レンガの倉庫が。ランプ小屋(左下)と呼ばれる倉庫で灯油を保管する施設だった

 

さて「何もない」と言われた市振駅だが、気になる場所がある。それは国道8号を西に1.3kmほど歩いた先に流れる境川だ。国道8号とあいの風とやま鉄道線が平行して境川を越えている。

 

境川はその名前のとおり新潟県と富山県の県境の川だ。川を渡れば富山県、また川を渡れば北陸地方へ入るというように、旅情が高まる地点だ。列車の写真を撮るのもうってつけだ。春には桜の花も美しい。帰りには駅までの途中にある「道の駅越後市振の関」に立ち寄りたい。店内には、新潟・富山両県のお土産を扱う店や、この地域の郷土料理たら汁や定食が味わえる食堂もある。

 

ここで新潟と富山の魅力を味わいつつ市振駅へのんびり戻れば、日本海ひすいラインの鉄旅がさらに充実したものになるだろう。

 

乗り甲斐あり!「日本海ひすいライン」郷愁さそう鉄旅を堪能する【前編】

おもしろローカル線の旅81〜〜えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン(新潟県)その1〜〜

 

新幹線網の広がりにより旅が便利になった一方で、平行する在来線がJRの路線網から切り離され、多くが第三セクター鉄道となり大きく様相を変えている。えちごトキめき鉄道の日本海ひすいラインもそんな路線の1つである。

 

この路線、北陸本線という幹線からローカル線になったものの、注目の「国鉄形観光急行」を走らせていることもあり、休日には多くの観光客で賑わう。

 

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【郷愁さそう鉄旅①】北陸本線として長い歴史を持つ路線

かつて滋賀県の米原駅と新潟県の直江津駅を結んだ北陸本線。日本海沿いを縦断する幹線ルートとして造られた。

 

北陸本線の歴史は古く、湖東地方から徐々に延ばされていく。北陸の敦賀駅までは1882(明治15)年3月10日、福井駅までは1896(明治29)年7月15日、石川県の金沢駅までは1898(明治31)年4月1日、1899(明治32)年3月20日に富山駅まで延ばされている。そこから直江津駅までの全通はかなりの時間がかかり、1913(大正13)年4月1日のこととなった。

↑日本海ひすいラインの有間川駅へ到着する直江津行きET122形気動車K7編成。同車両は「NIHONKAI STREAM」の愛称を持つ

 

北陸本線はかなりの難路をたどる。現在、巡ってみても、いくつかのポイントでその難路ぶりを見聞きできる。湖東側から見ると、まずは琵琶湖湖畔から福井県の敦賀駅に至るまではかなりの標高差がある。そのために、敦賀から琵琶湖沿岸へ向かう上り路線は、勾配を緩めるためにループ線が設けられている。

 

敦賀駅〜南今庄駅間には、現在、狭軌幅の路線で一番長い北陸トンネルが通っている。この区間は1962(昭和37)年のトンネル開通までは、曲がりくねった旧線区間だった。

 

石川県、富山県の県境には倶利伽羅峠という険しい峠がある。富山県から新潟県に至る区間はさらに険しさを増す。まず、新潟県の最西端部分にある親不知(おやしらず)付近。そして糸魚川と直江津の間も海岸部は険しい。そうした新潟県の西部にある難路は、線路の付け替え、また長大なトンネルを掘って複線化することにより、現在のようなスムーズな列車の運行が可能になった。

↑親不知付近を紹介した戦前絵葉書。左に名勝「投げ岩」が見える。現在、景勝地らしい面影は無く海上を北陸自動車道の高架橋が通る

 

ルートが険しいということは、景色が変化に富み、美しいということにほかならない。日本海ひすいラインは、そうした旧北陸本線のなかでも格別に美しい海岸線区間を通っている。

 

【郷愁さそう鉄旅②】長大トンネル+美しい海景色が連なる

ここで日本海ひすいラインの概要を見ておこう。

路線と距離 えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン/市振駅(いちぶりえき)〜直江津駅59.3km
全線複線・交直流電化
開業 日本海ひすいラインの区間では、1911(明治44)年7月1日に直江津駅〜名立駅間が開業、以降、泊駅〜青海駅間、名立駅〜糸魚川駅間が延伸開業。1913(大正2)年4月1日に青海駅〜糸魚川駅間が開業し、全通。
駅数 13駅(起終点駅を含む)

 

北陸本線は2015(平成27)年3月14日の北陸新幹線の金沢駅延伸に合わせて、JR西日本の路線から経営分離、金沢駅〜倶利伽羅駅(くりからえき)間は「IRいしかわ鉄道」、倶利伽羅駅〜市振駅間が「あいの風とやま鉄道」、とそれぞれ第三セクター路線に変わっている。

 

新潟県内の市振駅〜直江津駅間が、「えちごトキめき鉄道」に引き継がれた。路線名の日本海ひすいラインは、株主アンケートをもとに取締役会に提案された名称で、糸魚川付近が特産のヒスイと、路線が沿って走る日本海のイメージにちなみ名付けられた

 

【郷愁さそう鉄旅③】2010年代まで長距離列車の宝庫だった

2015(平成27)年の北陸新幹線延伸で誕生した日本海ひすいラインだが、旧北陸本線時代といっても、今から7年前とそれほど古くないので、よく覚えている方も多いと思う。

 

日本海沿いの幹線ルートだっただけに、長距離列車も多く走り抜けた。まずは少し前に走った長距離列車が彩った華やかな時代を振り返ってみよう。

↑2010年代前半に走っていた4列車。寝台列車や在来線特急などが走る華やかな区間でもあった

 

旧北陸本線だったころの市振駅〜直江津駅間は、近畿と新潟・東北地方を直接結ぶ経路でもあり、首都圏と北陸を結ぶメインルートでもあった。

 

例えば、大阪駅と青森駅を結んだ寝台特急「日本海」。電気機関車が牽引するブルートレイン寝台列車であり、個室のない昔ながらのプルマン式と呼ばれる2段寝台を連ねた客車列車だった。大阪駅と新潟駅を結んだ寝台急行「きたぐに」は、寝台電車583系の最後の定期運用の列車で、大量輸送時代に生まれた電車で3段ベッドも用意されていた。

 

日中に走る特急「はくたか」は、越後湯沢駅と北陸地方を結んだ特急列車で、首都圏の利用者が多かった。また特急「北越」は新潟と北陸地方を結んだ特急列車で、交直両用特急形電車485系の晩年の姿が楽しめた。

↑有間川駅付近を走る「トワイライトエクスプレス」。牽引はEF81形(左上)。深緑色の機関車と客車が日本海沿いで絵になった

 

旧北陸本線を走った最も華やかな列車といえば、寝台特急「トワイライトエクスプレス」ではないだろうか。大阪駅と札幌駅を1昼夜かけて走った長距離列車で、現在の日本海ひすいラインの沿線で、下り列車は夕暮れが、上り列車は朝の海景色が楽しめた。市振駅〜直江津駅間は同列車が走る路線の中で、最も魅力ある区間であるといえよう。

 

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【郷愁さそう鉄旅④】今走る車両もなかなか味わいがある

ここからは現在の車両たちを紹介しよう。バリエーションは、以前に比べて減ったものの、今も乗りたくなる車両が揃っている。

↑日本海ひすいラインの普通列車に使われるET122形気動車。前面や側面には日本海の波をイメージしたデザインが入る

 

同線を走る普通列車用の車両はET122形気動車である。電車ではなく、気動車が使われている。電化区間なのにどうして気動車が使われるのだろう。

 

日本海ひすいラインは、電化されているのだが、交流と直流との2つの方式で電化されている。交直流の電化方式は、えちご押上ひすい海岸駅と梶屋敷駅間のデッドセクション区間で切り替わる。通して走る場合には、電車ならば交直流への対応が必要となる。交直両用の電車を新造するとなると高価になる。そこで第三セクター鉄道のえちごトキめき鉄道に変わる時に、ET122形気動車を取り入れたのだった。

 

日本海ひすいラインでは、朝夕にはこのET122形気動車を2両連結で使用、日中は1両単行で運行されることが多い。現在ET122形気動車は8両が導入されている。そのうちK7とK8編成はイベント列車「NIHONKAI STREAM」と、「3CITIES FLOWERS」で、座席は対面式ボックスシートになっている。

 

ET122形のK6編成までは横一列に1人+2人用の転換クロスシートがならぶ構造で、入口付近にはロングシートがあり車内の趣がやや異なる。

↑ET122形気動車のK8編成「3CITIES FLOWERS」。車体には花のラッピング塗装が施されている

 

ET122形気動車はもう1タイプ1000番台が導入されている。2両編成の観光列車で、「えちごトキめきリゾート雪月花」という愛称が付けられている。車体は銀朱色と呼ばれる鮮やかな色で塗られ目立つ。

 

おもに週末を中心に日本海ひすいラインの直江津駅〜糸魚川駅間と、妙高はねうまラインの直江津駅〜妙高高原駅間を往復している。大きなガラス窓からは日本海や、妙高高原の美しい車窓風景を楽しみながら食事が楽しめる。

↑ET122形1000番台「えちごトキめきリゾート雪月花」は車体が一回り大きく、ガラス窓は可能なかぎり大きく造られている

 

えちごトキめき鉄道の車両以外にも、日本海ひすいラインには、あいの風とやま鉄道の521系車両が乗り入れ、市振駅〜糸魚川駅間1往復が走っている。

 

【郷愁さそう鉄旅⑤】「国鉄形観光急行」が同線最大の売りに

日本海ひすいラインを走る車両の中で、一番注目される存在なのが有料の「国鉄形観光急行」として走る455系、413系3両編成だろう。

 

国鉄時代に北陸本線用に導入された交直流近郊形電車が413系。また交直流急行形電車として導入されたのが455系である。えちごトキめき鉄道が導入した両形式は、元はJR西日本の車両だったが、七尾線に新車両を導入するにあたって、引退となった。

 

その車両を改めてメンテナンスした上で、色も国鉄急行色と呼ばれる2色で塗られた。413系2両に、市振駅側に急行列車用の455系(クハ455)1両を連結し、前後で異なる形となっている。

↑455系・413系を組み合わせた「国鉄形観光急行」。455系の正面にヘッドマークを付けて運行する。「急行」という表示が郷愁をさそう

 

運行は土日祝日で日本海ひすいラインの路線内では、直江津駅〜市振駅間を1往復、直江津駅〜糸魚川駅間を1往復するダイヤで運行される。今年の5月2週目からは一部金曜日も、日本海ひすいラインのみでの運行が行われる予定だ。

↑直江津駅へ戻るときには413系を先頭に走る。こちらは正面上の案内表示部分が埋め込まれた姿となっている

 

角張ったスタイルが特長の国鉄形電車のスタイルで、今、改めて見ると独特の風貌が郷愁をさそい、人気となっていることがよく理解できる。日本海ひすいラインにも近い、新潟地区の国鉄形近郊電車115系の運用がこの春にほぼ終了した。JR東日本に残った最後の115系だった。こちらが引退した影響もあり、同じ新潟県内のえちごトキめき鉄道の455系、413系が、ますます注目を浴びることになりそうだ。

 

【郷愁さそう鉄旅⑥】赤・青・銀がま……貨物列車も見逃せない

ここからは貨物列車に目を転じたい。同線を走る旅客列車は短い区間を走る普通列車がメインとなったが、通過する貨物列車は長距離を走る列車が多い。札幌貨物ターミナル駅〜福岡貨物ターミナル駅を結ぶ日本で最も長い距離を走る貨物列車も、日本海ひすいラインを通る。貨物列車の運用では今も、旧北陸本線、信越本線、羽越本線という路線は統括して「日本海縦貫線」と呼ばれる。

 

このあたりは旧北陸本線当時のままなのだ。とはいっても、変わったことがある。それは牽引する電気機関車である。

↑旧北陸本線時代には、国鉄形電気機関車EF81が同線の主力だった。すでに全車が撤退、一部が九州地区へ移っている

 

日本海縦貫線は直流電化区間と、交流50Hzと交流60Hzという電源の区間がある。この3電源に対応した日本海縦貫線用の電気機関車として開発されたのがEF81形式交直流電気機関車だった。それまでの交直流電気機関車にくらべて優れた車両で、貨物用のみならず、旅客用にも使われたことは知られているとおりだ。

 

長年、日本海縦貫線で活躍したEF81だったが老朽化もあり、また後継のEF510形式交直流電気機関車が増備されたこともあり、EF81は長年配置されていた富山機関区から、九州の門司機関区へ転出が完了している。

 

代わって日本海縦貫線のエースとなっているのがEF510形式交直流電気機関車だ。現在、EF510には3タイプが使われている。JR貨物が導入した赤い車体が基本番台で、エコパワーRED THUNDER(レッドサンダー)という愛称が付けられている。

↑日本海縦貫線を走る3タイプのEF510形式交直流電気機関車。右上から基本番台、500番台の銀色塗装車、左は青色塗装車

 

そのほかに日本海縦貫線のEF510には銀色と、青色塗装の機関車が走る。どちらもJR東日本が導入した500番台で、銀色塗装が寝台特急「カシオペア」用で2両、青色が寝台特急「北斗星」用として13両が造られた。2009(平成21)年から新造され、寝台列車と、常磐線などの貨物列車牽引の受託業務に使われたが、その後に寝台列車は消滅、また貨物の受託業務も終了したことにより、全車両がJR貨物に引き継がれ、富山機関区へ移り、日本海縦貫線の貨物列車の牽引にあたっている。

 

500番台は、わずかな期間だったが寝台列車の牽引という栄光を持つ車両であり、今は牽引する車両が貨車に変わっているものの、郷愁をさそう姿を日本海沿いで見かけることができる。機関車はSL時代からの名残で〝かま〟と呼ばれるが、日本海ひすいラインでは赤がま・青がま・銀がまと3色のEF510が牽引する貨物列車が走り、なかなか賑やかになっている。

 

*日本海ひすいラインの「郷愁さそう鉄旅」は次週の後編に続きます。

バラエティ満載!? 来春開業予定の「相鉄・東急新横浜線」を走る車両たち

 〜〜3都県で進む7社局14路線の新鉄道ネットワーク〜〜

 

「相鉄新横浜線・東急新横浜線」の開業が2023(令和5)年3月の予定と発表された。1年前にあたる3月31日に、同路線を走る予定の車両が東急電鉄の元住吉運転区(神奈川県川崎市)に勢ぞろいし、報道陣に向けて「鉄道7社局の車両撮影会」が開かれた。

 

日ごろ入ることができない車両基地に、7編成の車両がきれいに並んだ。その並べ方といい、車両の選択といい、なかなか興味深い催しだった。これらの車両が走ることになったら、さぞや新線は賑やかな路線になるだろう。

 

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「相鉄・東急新横浜線」の開業で新横浜駅が便利に

2023(令和5)年3月に開業予定の路線は相鉄新横浜線・東急新横浜線(以下「相鉄・東急新横浜線」と略)で、新たに「相鉄新横浜線」の羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間の約4.2kmと、「東急新横浜線」の新横浜駅〜日吉駅の約5.8kmが開業する。中間に位置する新横浜駅が、相模鉄道(以下「相鉄」と略)と東急電鉄の境界駅となる。

↑路線は相鉄本線の西谷駅から東急電鉄の日吉駅へ至る路線となる。すでに相鉄・JR直通線は開業、列車の運行が続けられる

 

新線開業まで20年以上にわたる長い道のりだった。「相鉄・東急新横浜線」の路線計画の元となる「神奈川東部方面線」の計画が立てられたのが、2000(平成12)年のことだった。国土交通省の工事施行認可を受けたのが2009(平成21)年で、工事は鉄道・運輸機構が担当、まず相鉄・JR直通線の起工式が2010(平成22)年3月25日に行われた。同線は工事に9年の歳月がかかり、2019(令和元)年11月30日に開業している。さらに工事はその後も続けられ、1年後に開通する「相鉄・東急新横浜線」となる。

 

新横浜線のルート&工事進行状況は

「相鉄新横浜線」西谷駅〜羽沢横浜国大駅間の約2.1kmは、相鉄・JR直通線の一部として開業し、すでにJR埼京線との相互乗り入れが行われている。現在、工事が進められているのは羽沢横浜国大駅〜日吉駅の約10km区間だ。

↑羽沢横浜国大駅(左上)の北側でJR連絡線(左と右)と新横浜駅方面(中央2本)が分岐する。なお同写真は工事時のもの

 

工事の進捗状況だが、開業の1年前ということでかなり進んでいる。羽沢横浜国大駅付近のJR連絡線との分岐ポイント付近は、ほぼ工事が終了。その先の地下駅として新設される新横浜駅、新綱島駅、そして東急東横線の日吉駅まで羽沢トンネル、新横浜トンネル、綱島トンネルの工事が進められている。

 

開業後の運行頻度は羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間が朝のラッシュ時が10本/時、その他の時間帯が4本/時、新横浜駅〜日吉駅間が朝のラッシュ時14本/時、その他の時間帯が6本/時となる。これは現時点の予定で、変わる可能性があるとのことだが、この本数差を見ると、相互乗り入れ運転以外に、東急側から走る電車の一部は新横浜駅での折り返し運転されることが分かる。

 

直通乗り入れにより、二俣川駅〜目黒駅間は約38分、海老名駅〜目黒駅間は約54分となり、相鉄沿線と都心との所要時間が短縮される。

 

この新線によって便利になるのが東海道新幹線の停車駅・新横浜駅。JR横浜線と横浜市営地下鉄ブルーラインに加えて新線が接続することになり、利用者もかなり増えそうだ。さらに、新線により東京都、神奈川県、埼玉県まで3都県14路線を結ぶ広域な〝新鉄道ネットワーク〟が完成することになる。

 

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会場となった「元住吉検車区」は構造がなかなか興味深い

新鉄道ネットワークの開業1年前の催しとして、東急電鉄の元住吉検車区で3月31日に開かれたのが「鉄道7社局の車両撮影会」。7社局というのは、相模鉄道、東急電鉄、東京メトロ(東京地下鉄)、東京都交通局、埼玉高速鉄道、東武鉄道、西武鉄道をさす。東京都交通局が加わっているために「社局」とされたわけだ。

 

会場となった東急電鉄の元住吉検車区は、東急田園都市線の長津田検車区と並ぶ東急電鉄の代表的な車両基地。誕生は1926(大正15)年2月と長い歴史を持つ。東急東横線の元住吉駅のすぐそばにあるのだが、電車からは良く見えず、気付かない方が多いと思う。なかなか興味深い構造なので、その造りを簡単に紹介しておこう。最寄りの元住吉駅は高架上に設けられている。一方、元住吉検車区は東急東横線の下の地上部にある。そのため車窓からは見下ろさないと確認できない。

 

元住吉駅で下車すると、目の前に「元住吉第1号踏切」という踏切があるが、こちらは元住吉検車区に出入りする車両のみが通る踏切だ。そのため不定期に電車が通りすぎる。車両基地へ入出庫する電車のためだけに設けられたというのも珍しい。踏切からは車両基地内に電車が多く並んでいる様子が遠望できる。

↑元住吉検車区へ入る電車用に設けられ元住吉第1号踏切。踏切が駅前通りを横切るため、通過車両があると踏切待ちの人が目立つように

 

ちなみに、元住吉検車区に入出庫する車両は、1つ手前、渋谷側の武蔵小杉駅からの入出庫がメインだが、横浜側の日吉駅からも検車区へ入る専用線が設けられている。ここに配置される車両は東急電鉄の車両がメインとなる。

 

「鉄道7社局の車両撮影会」は、日ごろめったに見ることができない車両が集まる催しとあって、平日の日中にもかかわらず情報を聞きつけた熱心なファンが検車区の外に集まっていた。

↑元住吉検車区に配置されるのは東急の車両がメイン。珍しい車両の並びを撮ろうと当日は熱心なファンの姿も多く見受けられた(左下)

 

「そうにゃん」「のるるん」も登場、新線ムードを盛り上げた

筆者は1時間ほど前に会場を訪れたが、該当する車両らしきものはちらほら見られたものの勢ぞろいにはほど遠い様子だった。ところが、徐々に車両が集まり始め、小一時間ほどで、きれいに調整され〝整列〟したのだった。このあたり手順の良さに驚かされた。

 

最初は新線開業の〝主役〟となる2社、相鉄・東急の現業長(下写真参照・左から・東急車両保全課 元住吉検車区 区長、東急運転部 奥沢乗務区 区長、相鉄運輸課 電車区 区長、相鉄車両センター 検車区 区長)と相鉄キャラクター「そうにゃん」と東急線キャラクターの「のるるん」が並んだ撮影がまず行われた。

↑7社局の車両が並ぶ前でのフォトセッション。左に東急「のるるん」、右に相鉄「そうにゃん」と2社の現業長が集合した

 

2社のキャラクターは初めて身近で見たが、「のるるん」の頭に付いているパンタグラフが伸び縮みするとは知らなかった。

 

右から西武、東武、中央に相鉄と東急、そして地下鉄車両

↑元住吉検車区に集められた7社局の車両。右から西武、東武、相鉄、東急、東京メトロ、東京都交通局、埼玉高速鉄道の順に並ぶ

 

さて、ここからは7社局のどのような車両が集合したのか、その選択や並びについて、深堀りして見ていきたい。

 

右から西武鉄道、東武鉄道という関東の大手私鉄を代表する2社が並ぶ。次に新線開業の〝主役〟でもある相鉄と東急の2車両が中央に置かれている。東急の隣は大手私鉄の一社でもある東京メトロ、東京都交通局と地下鉄車両が続き、一番左に埼玉高速鉄道という順だった。

 

7社局の関係者が見ても、鉄道ファンが見ても納得できるような並びだった。ちなみに、7車両のうち西武鉄道は新線区間への乗り入れはしない。あくまで東急東横線を走る車両としてこの日は加わった形だった。

 

8両編成の東急3020系は撮影日翌日がデビューとなった

ここからは各社の代表として並べられた車両に関して見ていこう。各社の車両選びにも、こだわりが感じられた。

 

まずはこの日の〝主役〟となる東急と相鉄の車両から。まず東急電鉄は3020系。2019(令和元)年11月に導入した目黒線用の車両だ。8両編成として製造したが、導入時は目黒線が6両編成への対応のみだったため、中間車2両は予備車扱いとなり車両基地に留め置きされている。

 

この春から8両に戻す作業が少しずつ進む。元住吉検車区へやってきたのは、初めて8両化された3023編成で、正面に「8」のマークが付けられていた。そして翌日の4月1日から目黒線、東京メトロ南北線、埼玉高速鉄道を走っている。この編成が同路線区間で、最初に走った8両編成車両となった。そんなこだわり車両が、この日の撮影会の主役となっていた。

 

ちなみに、今後、目黒線、南北線、埼玉高速鉄道、都営三田線では順次6両編成から8両編成に変更が進められることになる。

↑4月1日から走り始めた東急3020系3023編成、右は相鉄20000系車両。こちらは10両編成車両だ。それぞれ「新横浜」と行先を表示

 

↑導入時は6両編成で走った東急3020系。すでに一部編成は中間に2両を連結し、8両として走り始めている

 

一方の相鉄は20000系が持ち込まれていた。20000系は新線開業用に2018(平成30)年2月に導入された10両編成の車両だ。まだ相鉄と東急の間には直接結ばれた線路がないため、撮影会にあたって、JR相模線の厚木駅からJR横浜線の長津田駅までは、JR貨物の甲種輸送によって運ばれた上で、元住吉検車区まで走ってきた車両だ。東急線内にしばらく留め置かれて、新線開業に備え乗務員訓練という形で試運転が行われるのであろう。

 

相鉄には目黒線乗り入れ用に21000系という8両編成の車両も2021(令和3)年6月に導入された。この21000系が4編成導入の予定とされている。21000系はすでに入線試験という形で、目黒線ほか、地下鉄路線にも乗り入れ試験を行っている。

 

↑新線開業後は東急目黒線への乗り入れが行われる21000系。すでに相鉄路線内のほか、地下鉄線内などでの入線試験が実施されている

 

試運転が続く都営三田線の新車6500形

次に地下鉄車両を見ていこう。この日に集まったのは東京メトロが9000系。東京都交通局からは6500形、そして埼玉高速鉄道からは2000系が集合した。この中で注目は都営三田線の新車6500形だろう。

 

都営6500形は前面が黒、淡いブルーの縁が付くなかなか個性的な正面。「人にやさしい車両」というユニバーサルデザインの考え方を取り入れた、全車両にフリースペースが設けられる。2022年度中に13編成×8両の計104両を導入の予定だ。走り始めるのは5月14日と発表されているものの、すでに目黒線内まで試運転電車が入線し、撮影会場となった元住吉検車区で折り返す姿を見ることができる。

↑左から埼玉高速鉄道2000系、都営三田線6500形、東京メトロ9000系が並んだ。都営6500形は5月14日から運用開始の予定

 

↑東京都交通局、都営三田線の新車6500形。なかなか個性的な正面デザインだ。すでに東急目黒線で試運転を始めている

 

東京メトロ9000系も鉄道ファンにとっては気になる車両だ。最初の車両は1991(平成3)年の南北線の開業に合わせて1990(平成2)年に登場した。後に5次車まで増備され、現在は23編成138両が走る。撮影会に集合したのは初期に造られた1次車だったが、最近は側面の帯が直線と波形(リニューアル車の目印)のものが走り、バラエティに富む。

 

さらに,

2009(平成21)年に増備された5次車はそれまでの9000系と設計思想も異なり、正面の形もかなり異なっている。この5次車は2編成のみで、9000系の中ではマイナーな存在だが、それだけに気になる車両と言って良いだろう。撮影会ではそうした珍しい車両を撮影できなかったのがちょっと残念だった。

 

この9000系も2022年度中には8両編成化が進められ、さらに新しい6次車も導入される。

↑東京メトロ9000系の5次車。2編成のみの珍しい車両で、既存の9000系とは正面の形がかなり異なっている

 

東武は新線にも乗り入れ、西武は現状乗り入れせず

撮影会の時には右側に並んでいたのが東武鉄道と西武鉄道の車両。この日は東武が50070型、西武が40000系の姿が見られた。西武は前述したように新線乗り入れはないものの、東急東横線を走る列車の中では、唯一の有料座席列車として目立つ存在でもある。将来は、乗り入れが検討されるかも知れない。

↑東武鉄道50070型と西武鉄道40000系が並ぶ。東武と西武の車両が並ぶというのも東急東横線ならではの光景だ

 

それぞれ車両の特長に触れておこう。東武鉄道50070型は、正面のオレンジと黒の2色カラーが目印。50000系の一系列が50070型で、東武東上線だけでなく、東京メトロ有楽町線・副都心線、東急東横線などへの直通運転用に開発された。ちなみに東武東上線専用の車両が50000型、東武伊勢崎線・日光線用で、東京メトロ半蔵門線、東急田園都市線へ直通運転を行うのが50050型となる。また、有料座席指定制列車「TJライナー」用の50090型も東武東上線を走っている。形はほぼ同じだが、こうした系列分けが細かく行われている車両でもある。

↑西武40000系は右端に並んだこともあり後部まで見通せた。40000系は現在、東横線内を有料座席指定制列車「S-TRAIN」として走る

 

東京メトロ副都心線を経て、東急東横線内へ乗り入れる西武鉄道の車両。東横線内には40000系と6000系が入線している。撮影会で並んだのは西武40000系で、2017(平成29)年に登場した車両だ。この車両最大の特長といえば、ロングシートとクロスシートと座席の転換ができること。デュアルシートと呼ばれる構造を生かして、西武鉄道線内だけでなく、現在は、副都心線、東急東横線、横浜高速鉄道みなとみらい線まで直通運転を行う有料座席指定制列車「S-TRAIN」として活用されている。

 

7社局の代表的な車両が集まった今回の車両撮影会は壮観だった。これら以外に新線を走ることになる車両はまだ多くある。そうした車両が相鉄・東急新横浜線を走ることになるのだ。さらに相鉄線内ではJR東日本の車両とも出会うことになる。今回の撮影会以上に、多士済々の車両たちが新線を走ることになりそうだ。今から新線開業が楽しみである。

癒やされる車窓風景!? 焼き物の里行き「信楽高原鐵道」のおもしろ旅

おもしろローカル線の旅80〜〜信楽高原鐵道(滋賀県)〜〜

 

滋賀県の甲賀市(こうかし)を走る信楽高原鐵道(しがらきこうげんてつどう)。乗ればとても癒やされる、そんなローカル線である。

 

筆者は滋賀県を訪れるたびに乗りに行ってしまう。たぬきの焼き物たちに癒やされ、車窓に癒やされ……そんな信楽高原鐵道の旅を紹介していこう。

 

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【癒やしの信楽①】信楽とはどのようなところなのか?

信楽はご存知のように焼き物の里である。信楽焼の窯は日本六古窯のひとつにあげられる。歴史は古く、焼き物づくりが始まったのが鎌倉時代のこと。15世紀ごろから日常品を中心に焼き物づくりが活発になったとされる。

↑信楽高原鐵道の信楽駅ではたぬきの焼き物がお出迎え。信楽高原鐵道の旅はフリー乗車券(940円)の利用がお得だ

 

信楽は四方を山に囲まれた山里だ。周辺では良質の陶土が多く産出されたことで、焼き物造りが盛んになった。さらに京都に近く、古くから交通の要衝として賑わい、そこで造られる食器や生活雑器が広く流通するようになった。

 

2019(令和元)年9月〜2020(令和2)年3月に信楽を舞台にしたNHKの連続テレビ小説(朝ドラ)「スカーレット」が放映されたこともあり、さらにその名が全国に知られるようになった。今も信楽の里には多数の窯元が点在し、年間を通じて多くの人が訪れている。

↑信楽といえばたぬきの焼き物が名物。窯元を訪ねても、たぬきの焼き物がずらり。新しいタイプのたぬきも人気だ(右下)

 

【癒やしの信楽②】甲賀市のみを走る路線なのだが……

ここで信楽高原鐵道の概略に触れておきたい。

路線と距離 信楽高原鐵道信楽線/貴生川駅(きぶかわえき)〜信楽駅14.7km、全線単線非電化
開業 1933(昭和8)年5月8日、国鉄信楽線として開業、1987(昭和62)年7月13日に信楽高原鐵道となる
駅数 6駅(起終点駅を含む)

信楽高原鐵道信楽線の歴史は国鉄信楽線として始まる。1933(昭和8)年5月8日に全線が開業し、国鉄が財政難に陥った1980年代に輸送密度が低い特定地方交通線に指定。滋賀県と甲賀市(当時の水口町/みなくちちょう、信楽町)などが出資する第三セクター経営の鉄道会社、信楽高原鐵道として1987(昭和62)に再スタートした。

 

走るのは甲賀市のみだ。信楽という土地の名前が良く知られているものの、現在、信楽という町はない。2004(平成16)年まではあったものの、今は甲賀市信楽町となっている。甲賀市は甲賀町、水口町、信楽町など5つの町が合併した市で、面積は非常に広い。南東端は三重県と接し、南西端は京都府と接している。広いせいもあり、起点となる貴生川駅付近と、信楽駅付近は、風景や文化もだいぶ異なる印象がある。

 

歴史を見ても、甲賀市の東側は戦国期、豪族が乱立する忍者の里であり、江戸時代は水口藩の城下町だった。一方、西の信楽は焼き物の里として異なる歴史を歩んできた。広いとはいえ、なぜ同じ地域に異なる文化が育まれたのだろう。

↑JR草津線と信楽高原鐵道の接続駅、貴生川駅。同駅は元水口町の駅で、同じ甲賀市ながら平野がひらけ、町の東と西で風景が異なる

 

地域の文化が異なる理由は、信楽高原鐵道が走る路線を見れば、おおよそ推測ができる。甲賀市の東西を隔てる〝高原〟エリアの存在が大きい。このあたりは路線の興味深い一面なので、後ほど紹介したい。

 

【癒やしの信楽③】車両紹介!おもしろ忍者車両も走る

次に走る車両を見ておこう。車両は3形式の気動車が走る。形式名の頭にはすべて「SKR」が付く。「Shigaraki Kohgen Railway」の頭文字を合わせ「SKR」としている。

 

3形式のうち、2001(平成13)年と翌年にかけて導入されたのがSKR310形で、311号車と312号車の2両が走る。2017(平成29)年に、甲賀市の東エリアが忍者の里と呼ばれた歴史にちなみ、ラッピング列車「SHINOBI-TRAIN」となった。車体は311号車が深緑色、312号車が紫色のベースカラーで、それぞれ忍者のイラストが大きく描かれている。車内にもつり革に忍者の人形が潜むなど、なかなか楽しい列車だ。

↑「SHINOBI-TRAIN」という名が付くSKR310形311号車。車体は忍者のイラスト入り、つり革(左上)には忍者付きだ

 

SKR310形に比べて新しい車両がSKR400形とSKR500形で、SKR400形は2015(平成27)年に、SKR500形は2017(平成29)年にそれぞれ導入された。どちらも車両の長さが18mで、SKR310形にくらべて一回り大きく感じる。車体カラーはSKR400形が茶褐色、SKR500形が緑色。座席はSKR400形がロングシートに対して、SKR500形が転換式クロスシートとなっている。

↑前がSKR500形、後ろがSKR400形の組み合わせ。この2両で走る列車が多い

 

【癒やしの信楽④】「高原」という名前が付いているものの

信楽高原鐵道の社名には「高原」という言葉が入る。ロマンを感じる素敵な名前だと思う。

 

起点の貴生川駅と紫香楽宮跡駅(しがらきぐうしえき)の間では、木々が生い茂る山の中、民家もないところを走ることもあり、これぞ高原というような場所を走っている。春は桜に新緑、秋は紅葉など四季折々の美しい車窓風景が楽しめる区間である。

 

「高原」という言葉の定義はあいまいだが、国語辞典(「スーパー大辞林」)には「海抜高度が高い平原。起伏が小さい高地」とある。高原とする標高の目安は600m以上のものとする解説もある。さて、信楽高原鐵道の路線はどうだろうか。

 

路線とほぼ平行して走る国道307号の標高を国土地理院の地図で確認すると、同エリアの国道のピークは標高338mとある。この国道は路線の真横を通るだけに、信楽高原鐵道は、この300m級の〝高地〟を走っていると言って良いだろう。

↑貴生川駅から路線のピークへ向けて走る。最初の一駅区間は山中に入ると、民家は皆無となり、実際に高原らしい風景が楽しめる

 

信楽高原鐵道が走る路線が高原の定義に当てはまるかどうかは異論もあるだろうが、第三セクター化する時に、なかなか上手い名前を付けたものだと思う。

 

【癒やしの信楽⑤】貴生川駅から一つ目の駅まで9.6kmも走る

ここから信楽高原鐵道の旅を始めよう。起点は貴生川駅で、この駅でJR草津線と近江鉄道本線に接続する。信楽高原鐵道の乗り場は、JR草津線の3番線ホームの反対側にあり、ホームの番数は付いていない。草津線と信楽高原鐵道のホームの間に交通系ICカードが利用できる簡易改札機が設置され、貴生川駅で乗り降りしたことをICカードに記憶させることができる。

 

信楽高原鐵道内では交通系ICカードの利用はできない。そのため貴生川駅からの乗車は駅に据え付けられた乗車駅証明書発行機で証明書を発行、また無人駅から乗車する時には車内入口の整理券を受け取り、乗車しなければいけない。下車する時には、有人の信楽駅をのぞき、列車の一番前で現金精算することが必要になる。

↑貴生川駅の最も西側にある信楽高原鐵道のホーム。向かい側はJR草津線の草津方面行きの列車が発着する

 

貴生川駅からの列車は6時台から22時台まで、ほぼ1時間おきに運行される。日中は、10時台から15時台までは各時間とも24分発、信楽駅発の場合には10時台から14時台まで54分発と一定で、利用者にとって分かりやすい時刻設定となっている。

 

筆者は10時24分発の信楽駅行き転換クロスシート座席のSKR500形に乗車した。定刻通り出発した列車は、独特のディーゼルエンジン音を奏でつつ、JR草津線に沿って走る。駅の先にある虫生野(むしょうの)踏切を通り、草津線と分かれ右カーブを描いて走る。

↑貴生川駅を発車したSKR400形。しばらくJR草津線と平行して走る

 

立ち並ぶ民家を眼下に眺めつつ、堤を走り杣川(そまがわ)を渡る。その先で、急な坂を登り始める。線路脇に立つ勾配標を見ると33パーミル(1000m走る間に33m登る)とあった。この急坂を登るために気動車はエンジン音をさらに高めた。次の駅の紫香楽宮跡駅まではだいぶ離れていて9.6kmの区間を、15分かけて走る。

 

1つめの紫香楽宮跡駅から先は駅と駅の間の距離が600m〜2.3kmと短めにもかかわらず、なぜ最初の駅間のみ9.6kmと長いのだろう。じつは、この貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間に信楽高原鐵道の特長が詰まっているといっても過言ではないのだ。

↑貴生川駅を発車し、次の紫香楽宮跡駅を目指す列車。坂の角度が、途中から急に強まっているのが分かる

 

信楽線が造られた昭和初期、国鉄では幹線とローカル線で、その造りを大きく変えて路線造りを行っていた。信楽線の貴生川駅〜紫香楽宮跡駅の途中区間は標高差170mもある。幹線ならばトンネルを掘って、なるべく高低差に影響されない路線造りを行ったであろう。

 

ところが、信楽線はローカル線ということもあり、工事費を節約するためにトンネルは掘らずにカーブを多用、急勾配を組み込みつつ路線造りを行った。スピードを重視するのではなく、ゆっくりでも良いから開業させたい思いが伝わってくる。今も開業当時の最小曲線半径200m、最大勾配33パーミルという、ローカル線らしい路線となっている。

 

勾配は厳しく、小さな半径の左カーブ、右カーブが続く。実際に乗ってみると、高原鉄道の名に相応しい線形となっていることが分かる。

 

貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間は庚申山(こうしんさん)と呼ばれる山が広がるエリアで、地元のハイキングコースとして知られる。国道307号が平行して走るものの、民家はまったくない。線路近くには甲賀市や湖東の遠望が楽しめる庚申山展望台がある。東海自然歩道も近くに通り、ハイカーに人気のエリアでもある。

 

列車は急勾配を登りつつ、左後ろを振り返ると、貴生川(水口町)の町並みがはるか眼下に見えた。エンジン音が静かになり、惰性で走り始めた時に、やや開けた峠のピークにさしかかった。そこには砂利が引き詰められ、古い線路や枕木が置かれていた。小野谷(おのたに)信号場の跡地だ。

↑貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間のほぼピーク部分にある小野谷信号場の跡。第三セクター化された後に設けられた信号場だった

 

小野谷信号場は1991(平成3)年に設けられた信号場で、当時、ちょうど信楽で世界的な陶器イベントが開催されたこともあり、列車増便を図るために設けられた。ところが、増便したことが予想外の結果をもたらす。信楽高原鐵道の紹介にあたっては、避けて通れない歴史ということもあり触れておきたい。

 

この信号場が造られたものの、信号機器の設定ミスなどが重なり、事故が起きた。1991(平成3)年5月14日の「信楽高原鐵道列車衝突事故」である。JR西日本から乗り入れた臨時快速列車と信楽高原鐵道の普通列車が、この信号場からやや紫香楽宮跡駅側で正面衝突事故を起こしてしまったのである。死者42名を出す大惨事となった。

↑線路端にある「信楽高原鐵道列車衝突事故」の慰霊碑の横を走る信楽駅行き列車

 

事故後に信楽高原鐵道は約7か月にわたり運休、後に事故現場近くの線路横に慰霊碑が立てられた。碑には「犠牲者の御霊のご冥福をお祈りするとともに、これを教訓とし二度とこのような大事故を繰り返すことのないよう、鉄道の安全を念願し建立されたものである」という言葉が添えられている。

 

事故の後、小野谷信号場は使われることなく廃止、ポイント切り替えなどの設備も取り外された。JR西日本からの乗り入れ列車も、途中での上り下り列車の交換もなく、1列車のみが路線を往復する形での運行が続けられている。

 

【癒やしの信楽⑥】紫香楽宮跡と信楽の関係は?

信楽高原鐵道の進行右手に国道307号が見えてきたら、最初の駅、紫香楽宮跡駅に到着する。紫香楽宮跡と、信楽は同じ「しがらき」と読むが、何か関連があるのだろうか。

 

紫香楽宮跡駅から徒歩7分ほどの所に「紫香楽宮跡」がある。この紫香楽宮は8世紀初頭に国を治めた45代聖武天皇が造営した宮だとされる。造成を始めたものの、情勢不安となり宮は放棄された。紫香楽宮は、信楽宮とも記したとされ、信楽焼という焼き物名や地名になったとされる。

↑朝もやの中、紫香楽宮跡駅を発車するSKR500形。紫香楽宮跡は駅の北西部にあり徒歩7分と近い

 

紫香楽宮跡駅付近からは東西を山に囲まれた狭い平野部に、大戸川、国道307号、信楽高原鐵道がほぼ並んで通る区間に入る。山里ながら田畑、そして駅の近辺には民家も建ち並ぶ。紫香楽宮跡駅から次の雲井駅(くもいえき)までは、わずかに600m、約2分で到着する。さらに勅旨駅(ちょくしえき)へ。

 

勅旨とは天皇の命令書のことで、この地には勅旨賜田(ちょくししでん)があった。勅旨賜田とは天皇の命令で整備して、個人に与えた水田だとされる。紫香楽宮跡や、勅旨など、当時この地域と中央政権とのつながりが深かったことが良く分かる。

 

【癒やしの信楽⑦】ホームから釣り橋が見える玉桂寺前駅

大戸川を渡り左右から山々が迫って来たところに玉桂寺前駅(ぎょくけいじまええき)がある。ホーム1つの小さな駅だが、この駅はなかなかロケーションが面白い。駅名通り玉桂寺という寺が近くにあり、駅との間に大戸川が流れるために、橋が架かる。

 

人のみが渡ることができる釣り橋で、「保良の宮橋(ほらのみやばし)」という名前を持つ。

↑玉桂寺前駅の信楽駅側に架かる保良の宮橋。その橋の先に玉桂寺(左手)が見えている

 

保良の宮橋は1990(平成2)年にかけられた釣り橋で、地元では鉄道の線路、大戸川、道をまたぐ珍しい橋とPRしている。玉桂寺は、奈良時代に淳仁天皇(じゅんにんてんのう/47代)が離宮として建てた保良宮の跡地という説も残る。そのために保良の宮橋と名付けられたそうだ。ちなみにこの釣り橋付近は鉄道ファンにも人気があるポイントで、橋のたもとで列車を撮影する人を見かけることもある。

↑保良の宮橋の上から見たところ。歩行者専用で、橋の幅は意外に狭くスリリング。橋付近から列車の写真も撮影可能だ(右上)

 

↑保良の宮橋の先には、朝ドラの撮影地に使われた遊歩道が延びる。人気シーンを撮影した場所にはカメラスタンド(左下)もあった

 

【癒やしの信楽⑧】なぜ信楽はたぬきの焼き物が多いのか?

玉桂寺前駅を発車して間もなく終着駅、信楽駅に到着した。信楽高原鐵道は途中の駅は4つのみで、全線の所要時間が25分あまりと短いものの、たっぷり乗ったようにも感じられる。やはり最初の貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間に途中駅がなく、長く感じるせいなのだろうか。

↑信楽駅はホームが2面あるものの駅舎側のホームのみが使われる。路線の先(右上)は行き止まりだが先に延ばすプランもある

 

終着駅で線路が途切れているものの、この先に延ばすプランが過去にあり、また今も生きている。信楽線は元々、京都府木津川市(きづがわし)の加茂駅(関西本線)まで延ばす計画で造られた。今は、近江鉄道本線から信楽高原鐵道を経て、片町線(学研都市線)まで延ばす「びわこ京阪奈線(仮称)」という構想がある。延伸は難しいかもしれないが、プランとしてはなかなか興味深い。

 

さて、そんな信楽駅で旅行客を迎えるのが大小のたぬきの焼き物たちだ。なぜ信楽にはたぬきの焼き物が多いのだろう。

↑信楽駅の駅前には高さ5.3mの大だぬき(右)がお出迎え、この大だぬき、公衆電話付きで電話ボックスも兼ねている

 

たぬきの焼き物が名物になったのは、意外に最近のこと。信楽焼のたぬきは、笑顔、目、とっくりなど8つの部分が〝八相縁起〟と呼ばれ縁起が良いとされてきた。さらに1951(昭和26)年に昭和天皇が信楽を行幸された時に、歓迎の様子とたぬきの焼き物が盛んに報道されたことから、信楽焼=たぬきの焼き物というイメージが定着したそうだ。ユーモラスなたぬきの焼き物が、信楽の知名度とイメージアップにつながったとは、なかなかおもしろい。

 

【癒やしの信楽⑨】ぜひお勧めしたい信楽窯元めぐり

せっかく列車で信楽を訪れたのならば、やはり町歩きも楽しみたいもの。信楽駅ではレンタサイクルも用意しているので、自転車利用で、窯元めぐりをしてみてはいかがだろう。駅の西側、大戸川と国道307号を渡ったエリアに窯元が点在している。

↑信楽焼はたぬきだけでなく、日常使いの食器や茶器、火鉢、かめ、傘立てなど種類も豊富で楽しめる(『宗陶苑』で)

 

信楽の窯は大小さまざま。一般に公開されている大きな窯元もあれば、個人営業でふだんは公開していない窯元もある。信楽焼の紹介パンフレットなどで、大規模な登り窯を利用した窯元の紹介が出ているが、現在、登り窯を利用しているのは「宗陶苑」(甲賀市信楽町長野)のみ。以前ほど大量に焼き上げる窯が少なくなっているため、登り窯までは必要とされないためだそう。ほかに残る登り窯は観光スポットとなり、カフェなどに利用されている。

 

登り窯を訪れた時に見ておきたいのは、窯の内部に残る〝石はぜ〟と呼ばれる美しく光る壁面。長年使われた窯には陶土内に含まれる石粒がはじけて生まれる〝石はぜ〟が付き、独特な〝景色〟を生み出す。これは登り窯の壁だけでなく、焼き物の表面にも表れ、信楽焼の魅力とされている。

↑傾斜地に段々状に焼成室を持つ登り窯。写真は観光施設として公開される『Ogama』の登り窯。カフェも併設されている

 

街中にはさまざまな焼き物のオブジェも設置されているので、信楽らしい焼き物を見ながらの町歩きが楽しい。

 

【癒やしの信楽⑩】貴生川駅で接続の草津線の電車も気になる

信楽高原鐵道を訪れたら、チェックしておきたいことが他にもある。それは貴生川駅を通るJR草津線の電車と、近江鉄道本線の電車だ。

 

草津線には今も、国鉄形の近郊形電車113系や117系(朝夕のみ)が走っている。この春のダイヤ改正で変更されるか心配されたが、今のところ、これらの電車の走行が確認されている。

 

とはいうものの、JR西日本では急速に国鉄形電車の運用範囲を狭めており、草津線の113系も、数年後には消滅の可能性も出てきたようだ。鉄道ファンとしては信楽高原鐵道へ訪れた時には、草津線の113系もしっかり目に焼き付けておきたい。

↑貴生川駅近くを走る113系電車。今やJR西日本のみに残る国鉄形近郊電車で、草津線、湖西線のほか、岡山地区などを走る

 

草津線だけでなく、貴生川駅を発着する近江鉄道本線も気になる路線だ。こちらは旧西武鉄道の電車が走っている。ここでも古い車両の廃車が徐々に進んでいる。3月末には西武鉄道で401系、近江鉄道では820形とされた車両が引退になった。

 

貴生川駅の東側に、近江鉄道のホームがある。訪れた際には、何形が停車しているかチェックしておきたい。時間に余裕があれば、この路線で米原駅へ向かっても良いだろう。

↑貴生川駅に停車する近江鉄道300形。同線では新車にあたるが、元は西武鉄道の3000系で、すでに西武鉄道では全車が引退している

郷愁さそう鉄道風景!? 桜も見事な「樽見鉄道」11の面白ポイント

おもしろローカル線の旅79〜〜樽見鉄道(岐阜県)〜〜

 

ローカル線の旅をしていると、初めて乗った列車なのに、この風景、前にどこかで出会ったなということがよくある。岐阜県内を走る樽見鉄道(たるみてつどう)は、大垣駅から北へ向かい樽見駅へ至る非電化の路線である。片道約1時間の列車に乗車すると、新鮮な発見とともに、不思議な懐かしさを感じることができた。

 

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【郷愁さそう鉄道①】妙に懐かしい昭和そのままの駅の光景

無骨なコンクリートの給水塔が立ち、その向こうに鉄骨で組まれた跨線橋がある。跨線橋は足下が透けて見え、渡るのがちょっと怖い年代物の造りだ。跨線橋の下には複数の線路が敷かれている。昔は貨車が多く出入りしていて、賑やかだったことだろう。しかし、今は事業用の車両一両が停車するのみ。線路わきの歩道を通る人もおらずひっそりとしていた。

↑樽見鉄道の本巣駅の北側にはSL用に作られた給水塔が立ち、その先には年代物の跨線橋が設けられていた

 

樽見鉄道の途中駅、本巣駅の北側には、昭和期に多くの駅で見ることができた光景が、そのままの姿で残っていた。今回は、こうした情景が各所に残る樽見鉄道の旅を楽しんでみよう。

 

【郷愁さそう鉄道②】紆余曲折を経てでき上がったローカル線

ここで樽見鉄道の概略を見ておきたい。

路線と距離 樽見鉄道樽見線/大垣駅〜樽見駅34.5km、全線単線非電化
開業 1956(昭和31)年3月20日、国鉄樽見線として、大垣駅〜美濃本巣駅(現・本巣駅)間が開業、1989(平成元)年3月25日に樽見駅まで延伸開業。
駅数 19駅(起終点駅を含む)

 

樽見線の開業は1956(昭和31)年3月20日とそう古くない。開業は太平洋戦争後のことだが、実は戦前から建設が始められていた。岐阜県の大垣から福井県の大野を経て、石川県の金沢を目指した路線だった。戦後に工事が再開され、まずは美濃本巣駅(現・本巣駅)、さらに1958(昭和33)年4月29日に美濃神海駅(みのこうみえき/現・神海駅)まで延伸された。

 

1970(昭和45)年に延伸工事が再開されたものの、特別天然記念物の根尾谷断層(詳細後述)があったことから、工事の停止が求められ、ルート変更した上で工事が再開された。さらに、国鉄再建法の公布により、樽見線は第1次特定地方交通線に選ばれ、廃止対象となり、同時期に延伸工事が凍結された。しかし、トンネルや橋は7割以上ができあがっていたこともあり、第三セクター方式の樽見鉄道が設けられ1984(昭和59)年に転換、ストップしていた延伸工事も再開され、1989(平成元)年3月25日まで、樽見駅まで開業している。こうしてみると、路線の歴史には紆余曲折があり、今の路線になるまでかなりの年数がかかったことが分かる。

 

【郷愁さそう鉄道③】気動車の頭に付く「ハイモ」の意味は?

走る車両を見ておこう。現在、車両は2形式4タイプあり、すべてに「ハイモ」という形式名が頭に付く。「ハイモ」の意味は「ハイスピードモーターカー」を略したものとされる。

↑車両はハイモ295、ハイモ330(左下)の2形式。ハイモ295は310から610まで3タイプが走る。610形は現在、赤白塗装に変更されている

 

ハイモ295は310、510、610の3タイプがあり、1999(平成11)年に310から順次装備された。なお610は、廃止された三木鉄道(兵庫県)で使われていた車両を購入したもので、機器が一部変更して使われている。

 

2010(平成22)年からはハイモ330が導入された。ハイモ330はNDCと呼ばれる新潟鐵工所(現在は新潟トランシスが鉄道車両などの事業を引き継ぐ)製造の軽快気動車で、他の第三セクター鉄道も多く導入しているものと同タイプだ。現在、ハイモ330は701〜703の3両が樽見鉄道を走っている。1両は沿線にあるショッピングモールの広告入りラッピング車として走っていて、よく目立つ。

↑2018(平成30)年11月末まで走っていたハイモ230-313形。レールバスタイプのハイモ230最後の車両として樽見線を走った

 

【郷愁さそう鉄道④】旅の始まりは大垣駅6番線ホームから

樽見鉄道の旅は大垣駅から始まる。この大垣駅で東海道本線と養老鉄道と接続する。樽見鉄道の列車は東海道本線の岐阜・名古屋方面行きの5番線の向かい側の7番線と、ホームの東端に設けられた6番線のホームから発車する。朝などの時間帯を除き、ほとんどの列車が6番線からの発車となる。

 

樽見鉄道の切符はJR大垣駅の券売機で購入が可能だ。さらに、6番線ホームの入口にきっぷ売り場があり、8時〜16時まで係員が勤務、切符の販売を行う。東海道本線から直接乗り換えする場合にはこちらで切符を購入する。また1日フリー乗車券(1600円)もこちらに用意され、購入が可能だ(係員がいる時間のみ。他は本巣駅のみ取り扱い)。なお交通系ICカードは使うことができない。大垣駅から終点の樽見駅までは片道930円なので、往復する場合には1日フリー乗車券のほうが得だ。

↑大垣駅6番線に停車する樽見鉄道のハイモ330。6番線にきっぷ売り場があり、朝8時以降1日フリー乗車券(右上)が購入できる

 

列車は朝夕30分〜1時間に1本の割合、日中は1時間〜1時間半に1本と少なめになる。ただし、朝夕は途中、本巣駅止まりも多いので注意が必要になる。

 

筆者が訪れた日、6番線に停車していたのはハイモ330だった。樽見鉄道色の水色ベースに、赤白のラインがアクセントとして入る。休日の朝だったこともあり乗車する人は少なめ。時間どおりにディーゼルエンジン音を奏でつつ発車した。

 

大垣駅から次の東大垣駅の手前まで約2.5km、東海道本線の路線の北側を並走する。過去に樽見鉄道が国鉄路線だった名残が感じられるところだ。

 

【郷愁さそう鉄道⑤】揖斐川に架かる橋へ向けてひたすら登る!?

次の駅の東大垣駅を発車すると、車両はさらにエンジン音を響かせ急な坂を登り始めた。その坂は最大25パーミル(1000m走る間に25m登る)というからかなりのものだ。この登り、実は揖斐川(いびがわ)橋梁を渡るためのものである。国土地理院の標高が計測できる地図で確認すると、東大垣駅が標高7〜8m、川の堤防の高さが16.8〜17.3mある。つまり、堤防まで10m近く登るわけだ。

↑東大垣駅(左)から揖斐川橋梁への急坂を登る樽見鉄道ハイモ330。後ろに大垣市街が見えている

 

この揖斐川堤防の高さには理由がある。堤防下の民家よりも、揖斐川の流れの方が標高が上なのだ。江戸時代から人々の暮らしを守るために治水事業が進められ、長年の工事により堤防を高めて水害に強い町造りをしてきたそうである。

↑揖斐川橋梁を渡る樽見鉄道の列車。橋の長さ321.7m。手前のトラス部分の1つは川崎造船所製、その先のトラス部分は米国製を利用

 

興味深いのは樽見鉄道の揖斐川橋梁が、非常に古い歴史を持つ構造物を使って造られているところだ。戦前に橋造りは進められたのだが、鉄資源を必要としていたことから、当時架橋に使われた部品は一度、取り外された。

 

後にこの揖斐川のトラス部分には、御殿場線の橋梁に使われていた構造物が使われた。御殿場線は古くは東海道本線の本線だったこともあり全線が複線だったが、丹那トンネル開通後には支線となり複線区間の多くが単線となった。そのため不用な橋の構造物を揖斐川の橋梁に転用した。また、橋梁部品は製造された歴史も古く、1900(明治33)年、アメリカのAアンドP・ロバーツ製、一部が1916(大正5)年の川崎造船所製という代物だった。

↑東海道本線の揖斐川橋梁と平行して架かる旧揖斐川橋梁。この橋へ至る堤の下には、ねじりまんぽ(左上)といった構造物も残る

 

揖斐川橋梁付近には、さらに興味深い構造物があった。樽見鉄道の橋の200m下流に東海道本線の橋梁と、旧揖斐川橋梁が平行して架かっている。この旧橋梁は現在、鉄道橋ではなく、歩道橋となり地元の高校生たちの通学路としても使われている。こちらは1887(明治20)年に使用開始された橋で、国の重要文化財に指定されている。

 

さらに、この橋へ至る東海道本線の堤には、いくつかのレンガ造りの古いトンネルが下をくぐる。そのうち1つ甲大門西橋梁は「ねじりまんぽ」と呼ばれる珍しい構造を残している。斜めに通る歩道用のトンネルのために、内部のレンガ組みを斜めに巻いた構造で、重さに耐えられるように造られた。橋だけでなく、そうした年代物の構造物も多数残されていたのだった。

 

【郷愁さそう鉄道⑥】車窓から見える果樹はいったい?

ちょっと寄り道してしまったが、先を急ごう。揖斐川橋梁を渡った樽見鉄道は、しばらくの間、平野部を走る。

 

横屋駅、十九条駅、美江寺駅(みえじえき)と瑞穂市内の駅が続く。北方真桑駅(きたがたまくわえき)から先、本巣市へ入る。この先、一部が揖斐川町内の駅があるが、大半が本巣市内の駅となる。樽見鉄道の19の駅のうち何と12の駅が本巣市内にあり、本巣市内線といった趣が強い。

↑十九条駅近くを走る「モレラ岐阜」ラッピングのハイモ330。線路の左右に名物「富有柿」の果樹畑が連なる

 

瑞穂市から本巣市にかけては、駅の周辺は民家が集まり、駅間には畑が広がる。畑には果樹が多く植えられている。筆者が訪れた時は春先だったために、葉が落ち、果実は実っていなかったのだが、さてこの果樹は何なのだろう?

 

調べると「富有柿(ふゆうがき)」だった。高糖度の「富有柿」は、樽見鉄道が走る瑞穂市が発祥の地とのこと。冬には北西にある伊吹山からの季節風「伊吹おろし」が吹き下ろし、夏は全国で最高気温を記録するほど暑いこの地は柿栽培の好適地なのだという。寒さが残る季節は剪定の時期で、確かに手入れをする人の姿が沿線で見られた。10月にはオレンジ色の柿の実が見事に実る。そうした風景もぜひ見てみたいと思った。

 

さて、柿の木畑を見ながら本巣市へ入った樽見鉄道の列車はモレラ岐阜駅に到着する。ここで乗降する人たちが目立った。おしゃれな駅名は、駅の東側に広がる大型商業施設の名前から付けられている。働く人たちと、ショッピングに向かう人たちが多く利用する駅で、樽見鉄道の2割の乗降客がこの駅を利用する人たちだという。ホーム1面の小さな駅ながら、同路線の営業への貢献度が高い駅だということがうかがえた。

 

【郷愁さそう鉄道⑦】本巣駅付近から見える工場は……?

モレラ岐阜駅の先、糸貫駅(いとぬきえき)に停まり、本巣駅へ到着した。この駅には、車庫、本社もあり樽見鉄道にとって中心駅だ。鉄印もこちらで扱われている。

 

上り下り列車が行き違う1・2番ホームがあり、車庫へ入るために留置線が設けられている。前述したように古い給水塔が残され、鉄骨むき出しの跨線橋が北側に架かる。留置線は何本もあって過分なようにも感じる。何に使われていたものなのだろうか?

 

実は本巣駅の北西側に住友大阪セメント岐阜工場がある。このセメント工場では、長い間、樽見鉄道を使ってセメント輸送を行っていた。かつては本巣駅から、同工場に延びる専用線があり、多くの貨車が出入りしていた。第三セクターとなった時にも同社が樽見鉄道の経営に関わるなど、大きな役割をしている。だが、2006(平成18)年3月28日でセメント輸送は終了し、専用線も廃止されている。本巣駅に残る留置線はそのセメント輸送の名残だったわけだ。貨物輸送が行われていたころは、さぞや賑わいを見せていただろう。

↑本巣駅に到着するハイモ330。左奥に見える工場が住友大阪セメント岐阜工場。本巣駅からこの工場まで専用線が延びていた

 

↑本巣駅には車庫もありハイネ295が2両停車していた。右上が本巣駅の入口。樽見鉄道色の自動販売機も設置されていた

 

 

【郷愁さそう鉄道⑧】谷汲口駅に残る古い客車は何だろう?

本巣駅のひとつ先、織部駅から木知原駅(こちぼらえき)へ向かう途中、左手から大きな川が近づいてくる。この川は根尾川(ねおがわ)で、下流で揖斐川に合流する一級河川だ。樽見鉄道はこの先、根尾川とほぼ平行して走るため〝縁の深い〟川でもある。

 

さて木知原駅の先で根尾川を渡る。この橋が第一根尾川橋梁だ。この橋梁の一部は明治期に造られた東海道本線の旧木曽川橋梁を再利用したものだとされる。先の揖斐川橋梁といい、他線の古い部品を一部流用した鉄橋が多い。

↑谷汲口駅(左上)のホーム横に保存されるオハフ33形客車。こげ茶色に塗られているが、近年は車両の傷みが感じられ残念だ

 

橋を渡って着いたのが谷汲口駅(たにぐみぐちえき)。訪れた時には盆梅展という幟が駅ホームに立てられていたが、4月になると桜に包まれる駅として良く知られている。その桜の木に包まれるように駅横に古い客車が保存されている。この客車は果たして……?

 

こちらはオハフ33形で、樽見鉄道発足時に国鉄から購入した3両のうちの1両だった。導入当時は水色に赤白ラインの樽見鉄道色に塗られ、客車列車として利用された。戦後の1947(昭和22)年に製造された旧型客車だが、利用後に1両のみ、同駅があった旧谷汲村に寄付され、この地で展示保存されることになった。こげ茶色に赤ラインが入る昔の三等客車の色に塗られたが、木々が覆いかぶさるように茂り、また錆が目立ち、保存状態が決して良いとは言えないのが気になった。

 

【郷愁さそう鉄道⑨】列車は根尾川を何回渡るのだろう?

谷汲口駅から次の神海駅(こうみえき)、さらに高科駅、鍋原駅(なべらえき)と、駅と駅の間で根尾川を渡る。鍋原駅まで3つの根尾川橋梁を渡る。

↑木知原駅から樽見駅にかけて根尾川を多く渡る。渓流は根尾川渓谷としてもハイカーたちの人気スポットにもなっている

 

根尾川を渡るとともに、民家と畑は徐々に減っていく。路線の途中までは国道157号と線路がほぼ平行に走っていたが、高科駅から先は離れた場所を国道が通るようになる。鍋原駅の先ですぐにトンネルに入り、険しさがいっそう強まった。山間部を走り抜け、また根尾川橋梁を渡る。

 

次の日当駅(ひなたえき)までは、なんと第五から第八根尾川橋梁まで4本の鉄橋を渡る。樽見鉄道が根尾川を渡る回数は何と計10回。第一から第十まで根尾川橋梁が連なるのだ。樽見線の工事は日本鉄道建設公団が行ったものだが、山中によくこうした鉄橋とトンネル続きの路線を通したものだと感心させられる。

 

【郷愁さそう鉄道⑩】気になる〝開運駅〟の表示がある駅は?

日当駅、高尾駅と山あいの駅が続く。その先にあるのが水鳥駅(みどりえき)。この水鳥駅が近づいてくると、やや民家も多くなってくる。

 

この駅の別名は開運駅とも呼ばれ、ホームには「水鳥」の駅名標に並ぶように「開運駅」の別名表示がある。さて、なぜ開運駅となったのだろう。駅から徒歩15分のところに根尾川にかかる赤い橋がある。歩いて渡ると運が開けることから開運橋と名付けられている。駅名はこの橋の名前にちなんで付けられたのだろう。

 

同駅の近くには「根尾谷断層」という大きな断層があり、筆者としてはこちらの方が興味深く感じた。

↑水鳥駅の駅名標の横に「開運駅」という別名の駅名標が立つ(右下)。ここには駅最寄りの観光名所の解説が記されていた

 

根尾谷断層は1891(明治24)年10月28日に起こった濃尾地震で発生した断層で、駅がある水鳥(みどり)地区が震央だったそうだ。総延長は約80kmに渡り、地表部にも大規模な断層が生じた。地震で発生した断層に関して、それまで歴史上の記録がなかったため、現在確認できる最古の地震断層として価値が高い。そのため国の特別天然記念物にも指定されている。

 

水鳥駅付近にも断層があるそうなのだが、地震が起きてすでに100年以上たち、風雨にさらされているために、断層の地形は車窓から見た限りは確認できなかった。こうした断層と歴史は「地震断層観察館・体験館」(駅から徒歩5分)に詳しく解説され、当時の大規模な断層の姿を見ることができる。

 

【郷愁さそう鉄道⑪】路線内最大の観光資源が樽見の〝淡墨桜〟

根尾谷断層がある水鳥駅を発車、樽見鉄道の第十根尾川橋梁を渡ると、左手に見えてくるのが旧根尾村の中心にあたる樽見だ。大垣駅から約1時間10分、終点の樽見駅へ到着した。盲腸線の終点駅ということで、ひなびた駅かと思ったが、意外にもホーム下には町も見えていて賑やかだった。

 

旧根尾村は2004(平成16)年に本巣市となったが、それまでは福井県と隣接する山村だった。岐阜県の中では冷涼な気候で冬は雪も積もる。筆者が訪れたのは春先だったものの、駅前には除雪した雪が山盛りされていた。現在の主産業は農業だが、かつては林業で栄えた村でもある。

↑終点の樽見駅へ到着したハイモ330。ホーム1面の駅だが、先に留置線が伸びる(右上)。かつて路線を北陸まで延ばす計画もあった

 

ホームから町並みが見えるものの、駅がある側は国道157号が通るがやや寂しめ。人気の温泉施設「うすずみ温泉 四季彩館」が休館だったこともあり、終点まで乗車した人は数人という状況だった。だが、一年で賑わう季節がある。それは桜の花が咲く季節だ。

↑樽見駅の駅前にはふれあいプラザが立ち、内部には待合所(左上)もある。地元の人たちによってきれいに手入れされていた

 

山里らしくやや開花が遅くなるものの、桜が見事なところでもある。なかでも名高い桜の古木がある。

 

根尾谷淡墨桜(うすずみざくら)という一本桜は、樹齢1500年以上のエドヒガンと呼ばれる種で、日本五大桜、三大巨桜にも数えられる天然記念物だ。淡い色の桜の花に特長があり、巨木すべてが花で覆われる姿が見事だ。駅からは根尾川を渡って、徒歩20分ほど。根尾谷・淡墨公園内にある。公園内には本巣市さくら資料館もある。

 

樽見鉄道では桜の季節に合わせて臨時の「桜ダイヤ」を組み増便する。今年は3月26日〜4月10日までの予定だ。通常の単行運転が2両に増結され賑わいを見せる。

 

観光関係の本づくりなどの仕事が多い筆者だが、残念ながら観光シーズン前に動くことが多い。そのため最盛期の観光地を訪れることは稀だ。最盛期の淡墨桜と、根尾谷断層見物はいつかゆっくりとシーズン中に見に来たいな、と思いつつ樽見駅をあとにしたのだった。

↑樽見駅のホームから見た樽見の町並み。名勝根尾谷淡墨桜(左下)は駅から徒歩20分

 

今さら聞きにくい!?「鉄道車両」系列や数字10の謎

〜〜系or形の使い分け&なぜ末尾が奇数数字なのか、など〜〜

 

日本国内には多くの鉄道車両が走っている。これらの車両は、115、201、225……といった異なる数字が付けられ、分類され、判別することができる。便利な方法だが、これらは一定の法則により、付けられていることをご存知だろうか。

 

今回は、電車の番号付け、「系」や「形」などの「系列」の呼び方などに注目してみた。今さら聞きにくい〝系列や数字10の謎〟を見ていきたい。

 

【鉄道車両10の謎①】「系」「形」「型」どれが正しいの?

数字+系・形などのことを「系列」と言う。複数造られた同種類の車両をまとめた総称で、英語で言えばシリーズに近い。この「系列」数字の後ろにつく「系」「形」「型」の使われ方を見ていこう。

 

↑国鉄の車両を継承したJRグループでは数字のあとに「系」が付く場合が大半だ。写真はJR西日本の201系

 

JRグループは、大半の車両の「系列」には後ろに「系」を付けて呼ぶ。よって、数字+「系」で呼んでおけば間違いない。例外として、気動車や電気機関車、ディーゼル機関車、事業用車などは「形」を付けることがある。

 

「形(がた)」を付ける会社は、「京成電鉄」「京浜急行電鉄」「小田急電鉄」といったところ。「系」と「型」が交じるのは「東武鉄道」。「系」と「形」が交じるのが「京阪電気鉄道(大津線の一部のみ「形」を使用)と独自の表記をする会社もある。

↑東武鉄道の60000系。東武の通勤形電車は多くが「型」を後ろに付けるが、60000系は珍しく「系」が付けられている

 

特異なのは西日本鉄道で、「形」を付けるが、あえて「けい」と読ませている。ちなみに小田急電鉄は「形」と「けい」と読ませる時期があったものの、現在は「がた」に統一している。

↑西日本鉄道の3000形。漢字は「形」ながら「けい」と読む。漢字自体に「けい」という読み方もあるわけで間違いではない

 

「系列」の呼び方は、数字の後ろが「系」「形」「型」のいずれでなければいけないという決まりはない。各会社それぞれのルールがあり、社内でその呼び方が一般的だったから、そのまま引き継いだという場合が多い。

 

【鉄道車両10の謎②】JR貨物では数字の後ろに「形式」付け?

前述したように、JRの旅客会社では機関車に「形」を付けている。一方で、JR貨物のみ「形式」を後ろにつける。読み方は「けいしき」で、EF64形式直流電気機関車、EF81形式交直流電気機関車といった具合に使う。

 

JR移行後の新しい機関車の場合には、ニックネームが後ろに付くので、「JR貨物 EF210形式 直流電気機関車 ECO-POWER桃太郎」といった、はなはだ長い正式名称となる。筆者は児童書を制作している時には、名称を「EF210 電気機関車 ECO-POWER桃太郎」とやや省略して表記することがあったが、それでも間違いではないというのが、JR貨物の見解だった。

↑JR貨物の機関車には「形式」が付けられている。写真のEF65ならば、正式には「JR貨物 EF65形式 直流電気機関車」となる

 

ちなみにJR貨物で唯一の動力分散方式の貨物電車は、M250系と「系」を付けて呼んでいる。

 

【鉄道車両10の謎③】なぜJR電車の数字末尾は奇数なのか?

JRグループの電車の系列に付く数字のほとんどは、末尾が奇数だ。この決まりは、言われてみて改めて気づく方も多いのではないだろうか。例えば103系、115系、201系、211系、311系とざっとあげただけでも、大半の電車の末尾が奇数となっている。例外については後述するが、なぜ末尾が奇数なのだろう? これには国鉄時代からの伝統がある。

↑国鉄が生み出した最初の新性能電車101系。写真は秩父鉄道を走っていた当時のもの。この101系から末尾の奇数がルール化された

 

国鉄にも古くは末尾が偶数の電車が走っていた。72系などがそれにあたる。太平洋戦争後間もなくのころだ。72系という形式は、正式なものではない。便宜的に分類された電車の総称だった。当時、国鉄はまだ混乱期で、寄せ集め的な編成も多かった。混乱からようやく立ち上がり、そして生まれたのが、101系という電車だった。

 

それまでの電車が〝旧型電車〟というのに対して、101系は〝新性能電車〟として区分けされた最初の電車だった。この電車の登場に合わせて、1959(昭和34)年6月1日に「車両称号規程改正」を施行された。101系は、当初90系という名称だったが、新たな「系列」呼称の101系が付けられた。この車両から称号規程改正されることになり、後に登場する電車には、みな末尾が奇数の数字が割り当てられるようになった。JR移行後にも「系列」名の数字末尾が奇数となる決まりが引き継がれ(一部の会社をのぞく)、JR他社の車両と、重複しないようにするという暗黙の了解事項がある。JRグループ内で混乱を招かないよう、それぞれ配慮しているというわけである。

 

ひとつ注意したいのは、「系列」名と編成の個々の車両の「形式」名とは異なることだ。例えば103系ならば、クモハ102形とクモハ103形、モハ102形とモハ103形の組み合わせといったように、末尾が異なる数字で組まれている。全車が103という統一数字ではない。このうち103が最大の数字で、その最大の数字が103系という「系列」名として使われる。

 

【鉄道車両10の謎④】10や100の位の違いに意味があるの?

「系列」名の末尾に奇数数字が付けられているように、10の位、100の位にも意味がある。

↑JR西日本の225系。200は直流電車、20は近郊形、225系は直流近郊形電車を意味する

 

まず100の位は電気方式の違いを示している。「100」「200」「300」は直流方式の電車、「400」「500」「600」は交直両用電車を指す。

↑JR九州の415系。「400」の数字は交直両用電車を指す。JR九州では唯一の交直両用電車で関門トンネルの運行に欠かせない

 

「700」「800」は交流電車を指し、その多くは現在JR北海道とJR九州が所有している。JR北海道が700の数字を多く利用し、721系、731系、733系、735系などの数字の電車が揃う。一方、JR九州が「800」を主に利用、811系、813系、815系、817系、821系が揃う。JR北海道とJR九州で上手く使い分けているのが現状だ。

↑JR北海道の主力車両733系。「700」は交流電車の証。JR北海道では特急形電車まで700の数字を持つ電車がほとんどだ

 

↑JR九州の817系。JR九州の交流電車は多くが「800」。特急形電車も一部に800の数字が付けられるようになっている

 

次に10の位を見てみよう。まず「0」は通勤形電車で、103系、201系などがその代表格となる。「10」「20」は近郊形電車で115系、415系、そしてJR四国の121系(現在は7200系に更新済み)があげられるだろう。後に1つの車両で、通勤形電車、近郊形電車を兼ねた「一般形電車」が多く開発されるようになったため、明確化されていた国鉄時代にくらべ、今はややあやふやな定義となっている。

 

「40」は事業用・非旅客電車。「50」〜「80」は急行形電車もしくは特急形電車で、急行形電車は消滅したものの、特急形電車には今も、このルールが踏襲されている。全国では「50」もしくは「80」が使われる例が多い。

↑JR東日本の255系。特急の証「50」が形式名に付く。頭に「E」が付かないJR東日本最後の特急形電車でもある

 

なお「90」は事業用・検査用電車に付けられる。この90付きの電車は現在JR東日本の車両で頭に「E」を付けたE491系、E493系などが目につくぐらいだ。

 

【鉄道車両10の謎⑤】「900」を唯一つけた試作車は?

さて100の位で「900」に関して触れなかった。「900」は試作車を示す数字であり、今は「E」が頭に付くJR東日本の試験車両がわずかにあるのみだが、唯一かなりの車両数が造られた試験車両がある。901系という電車だ。この901系はJR東日本の記念碑的な電車で、1992(平成4)年3月に10両編成×3本が〝試作車〟として造られた。

↑京浜東北線用として誕生したJR東日本の901系(写真は保存車両)。「900」を使った唯一の「系列呼称」の車両だ

 

後に209系と改番され、京浜東北線を走ることになる。JR東日本で「新性能電車」をより新しくした「新系列電車(車両)」と呼ばれ、その後の同社の車両造りに大きく影響を与えた車両でもある。

 

現在、209系は更新され、首都圏や房総地区を走るが、そろそろ一部車両の引退が見られるようになってきた。一部の編成は伊豆急行に引き取られて更新した上で使われることになった。〝重量半分・価格半分・寿命半分〟と割り切って生まれた電車だったにもかかわらず、意外に重宝がられ、長持ちしている。試作車が30両も造られたこと自体が異例だったが、それだけ手をかけた意味があったわけだ。

 

【鉄道車両10の謎⑥】JR東日本の車両につく「E」はいつから?

JR東日本の系列名にはご存知のように「E」が頭に付く。この「E」はもちろん東を意味する「East」の頭文字だ。JR東日本の車両であることが明確なように「E」付けが始められたものだった。初の「E」付き車両は1993(平成5)年に登場したE351系からだった。

 

しかし、その後のJR東日本の電車の系列名の数字は、JR他社とほぼバッティングしないものが付けられている。例外は東北地域を走るE721系と同じ721系の電車がJR北海道を走っていることぐらいだろうか。

↑初の「E」付き車両E351系。特急「あずさ」として活躍したが2018(平成30)年4月7日に最終運転(写真)を迎えた

 

【鉄道車両10の謎⑦】JR四国の車両の四桁数字をよく見ると

JRグループでは唯一、独自の系列名を付けているのがJR四国だ。国鉄形はすでに気動車以外にあまり走っておらず、新造された車両がJR四国の主力車両となっている。ユニークなのは、気動車も「キハ」等を頭に付けないことだ。

↑予讃線の通勤電車。先頭は7000系、後ろ2両は7200系だ。7200系は元国鉄形121系で、車体更新後はこの系列名となった

 

新造車両はすべて四桁数字で、1000形、1200形、1500形は一般形気動車(普通列車用)。この気動車類には後ろに「形」が付く。2000系、2600系、2700系は特急形気動車となる。電車は5000以上の数字で、近郊形電車は5000系、6000系、7000系、7200系。特急形電車は8000系、8600系というように特急や電車はみな「系」を後ろに付けて呼ぶ。

 

他のJRグループが意図的に奇数数字を使うことが多いのに対して、偶数数字を多く含むところが興味深い。

 

【鉄道車両10の謎⑧】新幹線は0系から800系で終わる?

ここからは新幹線電車の系列名を見ていこう。新幹線の系列名は元祖となる0系を除き、3桁数字が付けられることが一般的だった(JR東日本の現状は後述)。100系・300系は東海道・山陽新幹線を走った電車ですでに引退。200系は東北・上越新幹線用、400系は山形新幹線用に造られた。

↑山陽新幹線を走る100系。かつては食堂車付きの2階建て車両を中間部に連結し、人気の車両でもあった

 

500系は初めて時速300kmで走った〝栄光〟の車両で、今も山陽新幹線を走る。600系は欠番(詳細後述)で、700系は2020(令和2)年に引退している。800系は現在の九州新幹線の主力車両だ。

↑3桁数字の最後となる九州新幹線の800系。今後、新しい車両が誕生した場合にどのような数字が付けられるか興味深い

 

今のところ新幹線の3桁数字は800系までだ。現在の東海道・山陽新幹線の主力となっているN700系、N700A、N700Sなど、700の数字に〝new〟〝next〟を意味する「N」を付ける、また末尾に「A」「S」を付けて、さらに新しい車両であることを示している。

 

900という数字は試作車や事業用車両の形式名として付けられることが多い。ちなみにドクターイエローの形式名は「新幹線923形電車」である。すでに電気軌道総合試験車に900の数字が付けられていることもあり、今後も新幹線車両の900系は出現しないだろう。

 

今後、新しい新幹線電車が西日本に登場する時には、何系とつけられるのか、気になるところだ。

 

【鉄道車両10の謎⑨】新幹線600系は欠番だが実は?

新幹線の3桁数字で600系を欠番としたが、この形式名になる予定だった電車がある。初のオール2階建て新幹線として走ったE1系だ。

 

JR東日本では前述したように1993(平成5)年に新造したE351系から系列名の頭に「E」を付けるようになった。1994(平成6)年に登場したE1系もルール(車両番号付番方法)の変更に合わせたのだ。

↑オール2階建てで壮観だったE1系。開発・設計の段階では600系として開発されていた

 

新幹線の3桁数字は、いずれ足りなくなることがわかっていたこともあり、この「E」付けは、その後のJR東日本の新幹線の増備を見ると賢明だったかも知れない。新しいところでは、北海道新幹線への乗り入れ用の電車はJR東日本の車両が「E5系」、JR北海道の車両が「H5系」を名乗る。

 

北陸新幹線用の電車はJR東日本が「E7系」、JR西日本の電車は「W7系」を名乗り走っている。今後はJR北海道やJR西日本独自の車両は、この「H」付けや、「W」付けのルールが一般化するのかもしれない。

↑北陸新幹線のJR西日本の車両は「W7系」と名付けられた。「W」は当初〝ダブル〟とされたが今は〝ダブリュ〟とも読まれる

 

【鉄道車両10の謎⑩】新幹線E7系には3桁の形式名がある?

JR東日本の新幹線は、E1系以降、すべてがE○系となった。E1系は引退したものの、E2系からE7系までもれなく付けられ、すでにE8系は山形新幹線用の新車両になることが発表されている。

 

JR東日本の新幹線車両は、みな頭にEが付き、その後ろに一桁数字が付いて、これが系列名となる。一方でE7系ならば、車体に「E715-30」「E725-103」「E726-103」などの数字が書かれている。この数字のE715やE725は「形式」名で、後ろの数字は「車号」と呼ぶ数字だ。

 

ほかE714形は12号車となるグランクラスの制御車で運転台がある。E715形は11号車のグリーン中間電動車、E725形とE726形はそれぞれ普通中間電動車、E723形は1号車の普通制御車(運転台付き)となる。

 

このように形式名と車号を付けて、社内で管理運用しやすいようにしているのだ。

 

車両の系列名や形式名の数字には、いろいろな意味に含まれていて、なかなか奥が深いことがよく分かった。

↑E7系の11号車に付くE715形の形式名。E715-30はその30号車という意味。このような数字がかならず車体に記されている

街が変わる&より便利に!? 大阪の「鉄道新線計画」に迫る

 〜〜全国で進む新線計画その3 大阪編〜〜

 

これまで2回にわたり東京と神奈川、そして全国で進む新線計画を紹介した。今回は残る大阪地区の新線計画を見ていこう。大阪地区の新線計画は複数あり、工事が進み開業予定も明らかにされている路線が目立つ。

 

一部の新線の建設現場を2月末、実際に歩き工事の進み具合などチェックした。ほか、どのような計画が進行しているのか、追ってみたい。

 

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【大阪の新線計画①】複数の新線計画の工事計画が進められる

まずは大阪市および大阪府内で、工事そして計画が進む鉄道新線の概要を見ていこう。進む新線計画は5つある。

〈1〉「東海道線支線」地下化工事
・新線区間:北区豊崎6丁目〜福島区福島7丁目・約2.4km
・開業予定:2023(令和5)年3月予定

〈2〉「なにわ筋線」新線計画
・新線区間:JR難波駅〜西本町駅(仮称)〜大阪駅(新駅)間、南海新今宮駅〜西本町駅(仮称)〜大阪駅(新駅)間・約7.2km
・開業予定:2031(令和13)年春の予定

〈3〉「北大阪急行南北線」延伸工事
・新線区間:千里中央駅〜箕面萱野駅(みのおかやのえき)間・約2.5km
・開業予定:2023(令和5)年度

〈4〉「大阪メトロ中央線」延伸工事
・新線区間:コスモスクエア駅〜夢洲駅(仮称)間・約3.2km
・開業予定:2024(令和6)年度

〈5〉「大阪モノレール」延伸計画
・新線区間:門真市駅〜瓜生堂駅(仮称)間・約8.9km
・開業予定:2029(令和11)年を予定

 

【大阪の新線計画②】来春には開業予定の東海道支線の地下化

まずは工事がかなり進んでいる「東海道支線」の地下化工事に関して見ていきたい。

↑大阪駅(中央)の北側に大きな貨物駅・梅田駅があった。2011(平成23)年5月21日撮影のものでこの2年後に閉鎖された

 

大阪駅の北側には梅田駅という貨物専用駅があった。上記は貨物駅があった当時の上空からの写真だ。旧梅田駅の歴史は古い。元は1874(明治7)年12月に大阪駅の貨物取り扱い施設として生まれ、138年にわたり貨物の取り扱いが行われた老舗駅でもあった。2013(平成25)年4月1日に、その機能を吹田貨物ターミナル駅と百済貨物ターミナル駅に移している。

 

大阪駅すぐの一等地ということもあり、駅の廃止とともに跡地の再開発が始まった。今回の東海道支線の地下化工事もその一環である。北区豊崎6丁目〜福島区福島7丁目の約2.4km区間の工事が進み、旧梅田貨物駅の地下には「うめきた(大阪)地下駅(詳細後述)」が生まれる。完成は来春の予定だ。この新駅の誕生により、列車の運行も大きく変わりそうだ。まずは現状から見ていきたい。

 

【大阪の新線計画③】現在の線路配置と列車の動きを見ると

旧梅田駅は廃止されたものの、駅の西側を走っていた東海道支線(通称・梅田貨物線)は残された。同路線は今も特急列車や貨物列車の運行に欠かせない路線となっている。

 

梅田貨物線は、吹田貨物ターミナル駅と、梅田信号場(旧梅田駅)、福島駅を経て西九条駅(福島駅とともに大阪環状線)を結ぶ路線だ。路線距離は12.6kmあり、東海道本線と、大阪環状線を結ぶ大事なルートでもある。

↑梅田貨物線を走る安治川口駅行き貨物列車。写真は大阪駅西側にある西梅田一番踏切で新駅開業後は廃止となりそうだ

 

↑大阪駅(左側ビル)の西側を走る梅田貨物線の単線区間。同区間付近では写真のように地下化に向けて工事が進められている

 

吹田貨物ターミナル駅が路線の起点だが、実際には新大阪駅までは東海道本線と並走し、淀川にかかる上淀川橋梁を渡り、すぐに西へカーブして旧梅田駅方面へ向かう。そして、旧梅田駅の西側にある梅田信号場へ。信号場の先は単線となり西梅田一番踏切を通って、大阪環状線の路線に沿うように走る。福島駅の駅前にある浄正橋踏切を通って、高架上を走る大阪環状線へ上って行く。西九条駅までは大阪環状線に沿って単線の路線が続く。

 

この梅田貨物線を走る特急列車は、関西空港へ向かう特急「はるか」と、和歌山の紀伊半島へ向かう特急「くろしお」だ。

↑福島駅横にある浄正橋踏切を通る特急「くろしお」。ちょうどパンダ模様の車両が走ってきた。同区間は単線が続く

 

さらに、大阪環状線の西九条駅から分岐する桜島線(JRゆめ咲線)に安治川口駅という貨物駅併用の駅があり、この駅まで貨物列車も入線している。ちなみに、同駅と東京貨物ターミナル駅との間を走る「スーパーレールカーゴ」という宅配便専用の列車も毎日走っている。つまり梅田貨物線は、特急列車と貨物列車が走る重要な路線ということになる。

 

【大阪の新線計画④】大阪駅の新地下ホームの建設も進む

大阪駅近くの新線工事区間では、来春の開業を目指して工事がかなり進行していた。下はちょうど「うめきた(大阪)地下駅」の新駅ができる付近の工事の模様だ。

↑進む大阪駅近くの新駅の工事の様子。左奥に見えるのは梅田スカイビル。駅の西側地区では「うめきた2期地区開発事業」も進む

 

現在の大阪駅のちょうど北西側に地下の新駅ができる。すでにJR西日本から新駅の名前を「大阪駅」とすることが発表された。本原稿では既存の大阪駅との違いを明確にするために、ここからは大阪駅(新駅)と表記したい。

 

それに合わせて既存の大阪駅からの連絡通路等の建設も進む。大阪駅の西側には新改札口ができる予定で、また新しい駅と既存の大阪駅を結ぶための「改札内連絡通路」が設けられる。

 

JR西日本から発表されたイメージパースによると、地下1階にホーム2面、線路が4線の大阪駅(新駅)が生まれる予定だ。そして現在の梅田貨物線の路線も移され新駅を走ることになる。

 

この新駅誕生の効果は大きい。特急「はるか」と特急「くろしお」は、現在梅田貨物線がバイパスとして通っていることもあり、大阪駅には停車しないで走る。この特急が大阪駅(新駅)を停車するようになるのだ。大阪〜関西空港間を走る特急列車が停車することになり、大阪駅(新駅)は名実ともに大阪の玄関口となるわけだ。

↑大阪駅の西側では、新駅との改札内連絡通路や、新改札口を設けるための工事が進められている

 

しかし、大阪駅(新駅)の開設後もネックとなる要素が1つ残っている。新駅の先、西九条駅まで結ぶ梅田貨物線は単線のままなのだ。つまり、走る本数が限られ一部列車に遅れが生じると、多くの列車の運行に支障を来してしまう。

 

路線構造のために、スムーズな列車運行ができないことを鉄道ではボトルネックと呼ぶが、そうしたボトルネック解消のために、次の新線計画が立てられている。

 

【大阪の新線計画⑤】将来は「なにわ筋線」と結ばれる予定

大阪の北と南を直線的に結ぶ新線として計画されるのが「なにわ筋線」と呼ばれる新線計画だ。新線はJR難波駅〜西本町駅(仮称)〜大阪駅(新駅)間と、南海新今宮駅〜西本町駅(仮称)〜大阪駅(新駅)間。約7.2kmの予定で、開業は2031(令和13)年春とされている。

 

同線は大阪府、大阪市、JR西日本、南海電気鉄道(以降「南海」と略)、阪急電鉄の5社が共同事業として進める新線計画で、第三セクターの事業として進められている。

 

自治体が絡むものの、JR西日本と複数の民鉄事業者が一緒に路線造りを行うのは近畿地方では、珍しいことといって良いだろう。国鉄時代には私鉄との競走が激しく、お互いつばぜり合いを演じてきた仲でもある。路線が近くを走っていても駅すら設けないのが、ごく当たり前でもあったのだが、時代が変わったことを強くうかがわせる。

↑なにわ筋線の南側はJR難波駅から始まる。関西本線の始発駅だが難波地区では西の端にあり不便な印象が強い

 

なにわ筋線は大阪駅(新駅)から、中之島駅、西本町駅(いずれも仮称)と路線が敷かれ、西本町駅の先で分岐、一本はJR難波駅へ、もう一本は南海新難波駅(仮称)を経て、新今宮駅付近で南海本線と合流する。

 

大阪駅(新駅)〜西本町駅間はJR・南海共同営業区間で、西本町駅の南に設けられる分岐ポイントからそれぞれJR西日本と南海の営業区間となる。

 

JR難波駅は現在、関西本線の列車の折り返し駅となっている。「なにわ筋線」が完成した後、特急「はるか」「くろしお」はこの駅と新線を利用して、大阪駅(新駅)へ向かうことになる。このルートが完成すれば、現在、西九条駅〜梅田信号場(地下化が完成後は大阪駅)間に残る単線区間は走らずに済む。所要時間の短縮とともに、列車本数の増便も可能になり、その効果は大きい。

↑南海本線の新今宮駅北側の様子。計画では同付近から地下への路線が造られ、なにわ筋線へ入り、大阪駅(新駅)へ向かう

 

計画では南海の路線は新今宮駅付近から地下へ潜り、JR難波駅から北へ伸びる路線と合流し、大阪駅(新駅)へ向かう。南海の線路幅はJR西日本の在来線と同じ1067mmで乗り入れには支障ない。すでに関西空港線ではJR西日本と南海が一部区間を共用しており、運行や技術的な問題もなさそうだ。

 

なにわ筋線が開業した後には、関西空港線のように、JR西日本と南海の特急が大阪駅(新駅)で顔を合わせることになるのかも知れない。

↑南海の人気特急「ラピート」。なにわ筋線が開業した後には、同特急も大阪駅(新駅)乗り入れとなるのだろうか

 

なにわ筋線の計画で興味深いのは阪急電鉄が絡んでいることである。「阪急十三方面に分岐する路線(なにわ筋連絡線)について、国と連携しながら整備に向けた調査・検討を進めます」としている。

 

開業目標を2031(令和13)年春としているが、同目標には阪急電鉄の乗り入れ計画は明示されていない。阪急電鉄では1435mmという標準軌幅の電車が走る。既存の在来線の線路幅と異なり阪急の電車は新線を走ることができないにもかかわらず、なにわ筋線の計画に名を連ねているということは、阪急電鉄が、線路幅が違うものの、少しでも沿線住民の便利さを考えて、なんとか線路を延ばせないか考えてのことなのだろう。既存の鉄道会社が、将来にむけて強い危機感を感じている現れなのかも知れない。

 

【大阪の新線計画⑥】御堂筋線が乗り入れる「北大阪急行」が延伸

大阪を南北に走る大阪メトロ御堂筋線。1933(昭和8)年5月20日に梅田駅〜心斎橋駅間の3.1kmが開業した日本で2番目に古い地下鉄路線である。後に南は中百舌鳥駅(なかもずえき)、北は江坂駅まで延長されている。

 

江坂駅から先も路線があり、こちらは北大阪急行電鉄という大阪メトロとは異なる企業が運営している。北大阪急行電鉄は大阪府と阪急電鉄などが出資する第三セクター方式の鉄道会社だ。1970(昭和45)年に開かれた日本万国博覧会のために、北大阪急行・南北線の江坂駅〜千里中央駅間5.9kmが設けられた。ちなみに同線と万国博中央口間をつなぐ東西線という路線が造られたが、万博閉幕後に廃止されている。

↑国道423号(新御堂筋)の中央部を走る北大阪急行南北線。写真の車両は北大阪急行9000形

 

南北線の現在の終点駅は千里中央駅で豊中市にある。北隣には箕面市(みのおし)がある。この箕面市西宿までの区間、2.5kmの延伸工事が進む。路線は国道423号(新御堂筋)沿いに設けられる。新線区間には箕面船場阪大前駅と箕面萱野駅(みのおかやのえき)が設けられる。箕面市には阪急電鉄箕面線の箕面駅があったが、新線ができる付近は住宅地が多かったものの鉄道空白地帯で、路線の延伸が長年望まれてきた。

↑地下にある千里中央駅を発車、地上部を走る御堂筋線30000系。北大阪急行の延伸で、今後は北の箕面市まで走ることに

 

新線の終点駅となる箕面萱野駅には、複合型ショッピングセンター「みのおキューズモール」がすでにあり、同店舗と駅が直結される。通勤・通学だけでなく、ショッピングにも便利な路線となりそうだ。

↑北大阪急行南北線の現在の終点駅、千里中央駅。ホームのすぐ上は「せんちゅうパル」という専門店街になっていて便利だ

 

【大阪の新線計画⑦】万博開催に合わせ伸びる大阪メトロ中央線

2025(令和7)年の4月13日〜10月13日開催予定の日本国際博覧会。前回に開催された万博が1970(昭和45)年のことだったから、55年ぶりに大阪で開催される万博となる。

 

開催の予定地は大阪市の夢洲(ゆめしま)。大阪港、最西端にある人工島で、島内には現在、巨大なコンテナターミナルがある。一方で多くが空き地のままとなっており、その空き地が万博会場となる。

 

現在、夢洲へ渡るためには夢舞大橋と、夢咲トンネルを利用しなければならない。夢咲トンネルは万博会場となる夢洲と、南側の咲洲(さきしま)の間の海底部分にある自動車専用のトンネルで、同トンネル内の中間部を活かして、鉄道新線を通す。

↑コスモスクエア駅まで走る大阪メトロ中央線の24系。夢洲駅への延伸時には400系などの新型車両も導入の予定だ

 

咲洲のコスモスクエア駅までは大阪メトロの中央線が走っている。このコスモスクエア駅と夢洲に設けられる夢洲駅(仮称)間に新線が設けられる。ちなみに、終点のコスモスクエア駅と、1つ手前の大阪港駅の間は大阪港トランスポートシステムという事業者が路線の所有者で、夢洲延伸後も同社の所有になるという。

↑咲洲にあるコスモスクエア駅。通常、大阪メトロの中央線の駅と紹介されるが実際は大阪トランスポートシステムの所有駅だ

 

コスモスクエア駅からは前述の夢咲トンネルを利用、夢洲駅までは北港テクノポート線と名付けられ、2024(令和6)年度には完成予定だ。

 

北港テクノポート線は将来、新桜島駅(仮称)まで伸ばす計画もあったが、こちらの計画は明確になっていない。統合型リゾート施設(IR)の構想がコロナ禍もあり進んでいないことが影響しているようだ。

↑コスモスクエア駅が起点の南港ポートタウン線の電車。同路線の一部区間も大阪港トランスポートシステムが所有している

 

↑コスモスクエア駅から大阪湾を望む。右に見えるのが夢洲でコンテナターミナル(右上)がある。右の海底下を夢咲トンネルが抜ける

 

【大阪の新線計画⑧】大阪モノレールの路線の延伸計画もある

大阪市の周辺をぐるりとめぐる大阪モノレールの路線。大阪モノレール線と、彩都線(さいとせん)の名前で親しまれる国際文化公園都市モノレール線の2本の路線がある。

↑大阪モノレールは跨座式モノレールで、1990(平成2)年に南茨木駅〜千里中央駅間が開業した。写真は新型3000系

 

本線にあたる大阪モノレール線は大阪空港駅(豊中市)と門真市駅(かどましえき/門真市)間21.2kmを結び、かつては世界最長のモノレール路線でもギネス世界記録としても認められていた(現在は世界2位)。

 

そんな大阪モノレール線の延伸計画がある。現在の終点駅である門真市駅から南へ8.9km、瓜生堂駅(うりゅうどうえき/仮称)まで延長するプランだ。

↑終点の門真市駅(右上)の先の様子。左右の軌道桁(モノレールのレール部分)の間に折り返し用の軌道桁がある

 

新設される駅は4つ。門真市駅側から見ると、最初の駅が門真南駅(仮称)で、ここで大阪メトロの長堀鶴見緑地線と接続する。次の鴻池新田駅(仮称)ではJR西日本片町線(学園都市線)と、荒本駅(仮称)では近鉄けいはんな線(大阪メトロ中央線)と、終点の瓜生堂駅では、近鉄奈良線の新駅が設けられ、大阪モノレールとの接続駅が生まれる予定だ。

 

この延伸により、現在の営業区間と合わせると既存の鉄道10路線と接続されると言う。東京でもそうだが、都市の中央と郊外を結ぶ路線は充実している。一方で、郊外の町同士を結ぶ環状線路線は脆弱な印象が強い。大阪モノレールの延伸はそうした郊外の町々を結ぶ路線として役立ちそうだ。

 

すでに瓜生堂駅に新設される車両基地の整備が始められている。開業の目標は2029(令和11)年を予定している。

↑門真市の駅の先は軌道桁が約200mで途切れている。8.9kmの延伸計画の一部施設整備がすでに始められている

 

日本初の地下鉄を生み出した「早川徳次」−−その紆余曲折の生涯を追う【後編】

〜〜鉄道痛快列伝その4 東京地下鉄道創始者・早川徳次〜〜

 

鉄道史の中で、もしこの人が出現しなかったら、日本の鉄道はここまで発展しなかったろうという〝キーマン〟がいる。早川徳次(はやかわのりつぐ)もそのひとりであろう。

 

今も「地下鉄の父」と慕われる早川徳次。地下鉄の将来を100年以上も前に予見し、先頭に立って日本初の地下鉄を造り上げた。現在の地下鉄路線網の充実ぶりを見れば、その功績は計り知れない。後編は、ライバルとも言える五島慶太との関係や晩年について追る。

 

*絵葉書は筆者所蔵、写真は筆者撮影および東京メトロ、地下鉄博物館提供

 

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【早川徳次の生涯⑦】先進的な技術が数多く採り入れられた

日本初となった浅草〜上野駅間の地下鉄路線。当時としては斬新な技術やサービスが多く取り入れられている。それは根っからの鉄道マンらしい徳次の創意工夫が感じられる。振り返っておこう。

 

導入した車両は1000形で1927(昭和2)年に日本車輌製造で10両、1929(昭和4)年に汽車製造で11両の計21両が製造された。地下鉄車両として今では常識となっているが、車両すべて鋼鉄製の不燃車両だった。当時は台車や床下機器を除けば木造というのが当たり前だった時代で、その先進性に驚かされる。車両の色は黄色。地下でも良く見え、また明るく感じさせる色の採用で、さらに安全への配慮もあったのであろう。

 

さらに、日本の車両としては初めて間接照明を採用している。照明のまぶしさを乗客に感じさせない工夫だった。

↑地下鉄博物館で保存される1000形のトップナンバー1001号車。鉄道用電気車両として初めて国の重要文化財に指定された

 

1000形は側面に3つの扉が設けられている。この扉は当時としては珍しかった自動扉だった。当時は手動扉が当たり前の時代だった。自動は珍しかったこともあり、扉が自動で開閉するその動きに戸惑う乗客も多かったようだ。ほかにも内装は鋼板に木目焼き付け印刷を施していた。要は木目調の内装だったわけだ。今でも十分に通用する内装で、その凝り方に驚かされる。

 

つり革にはリコ式吊り手と呼ぶ、バネで上へ跳ね上がる方式が採用された。利用するときには乗客が、上部から引いて使うものだ。筆者も子ども時代にこのつり革を見た覚えがあるが、バネが戻る際に乗客にあたって負傷、眼鏡を壊したり、バネ部分に指が挟まれたりと、トラブルが起きたことから、1960年代中盤には消滅している。

↑自動扉が採用された1000形。車掌がドアスイッチを操作して開け閉めする当時としては斬新な車両だった

 

運行設備や駅の設備にも最新の技術が取り入れられていた。例えば開業時から使われていたのが「打子式自動列車停止装置」と呼ばれる装置である。列車の追突事故を防ぐために取り入れた装置で、列車が赤信号を見落として進行すると、自動的に非常ブレーキがかかって列車を停止させる装置だ。今で言う「ATS」の導入である。当時は、こうした安全装置を取り入れていた路線は稀だった。すぐれた装置で、銀座線では開業後から1993(平成5)年まで実際に使われていたそうだ。徳次はこうした、列車の安全にも非常に気を使ったことが分かる。

↑地下鉄博物館で保存される「打子式自動列車停止装置」。同装置は開業時から平成期まで実際に使われていた

 

利用者への対応も凝っていた。例えば、日本初の自動改札機(回転式改札口)が料金授受に使われていた。機械に10銭硬貨を投入すると、目の前の十字型の木製バーのロックが外れ、1人のみ入場できるという仕組みだった。切符の発行、そして授受という作業は大変である。そこでこうした機械を導入したのであろう。かつて現場で切符切りの体験がある徳次だけに、何とか省力化できないかと考えたのであった。

 

現在、この自動改札機のレプリカが、地下鉄博物館と上野駅の改札口横に展示されていて見ることができる。

↑開業当時の絵葉書。説明には「日本最初の自動改札口に十銭白銅を自動電話の様に入れて棒を押せば場内にはいれます」とある

 

【早川徳次の生涯⑧】ネーミングライツや直営ストアを生かす

徳次は、現在の鉄道各社で取り入れている工夫もすでに採用していた。例えば駅の名前に企業名を入れること。いわゆるネーミングライツだ。1932(昭和7)年に開業させた区間で「三越前駅」という駅名を付けている。三越百貨店の駅前だということがすぐに分かる駅名である。

 

このネーミングライツは三越側からの申し出だったのだが、企業の駅名をつける代わりに、駅の設営費用を全額負担してもらった。当時としては非常に珍しい駅の造り方でもあった。

 

地下鉄だけの収益にとどまらず、多角的な経営にも乗り出している。例えば1929(昭和4)年、浅草に直営の地下鉄食堂を備えた雷門ビルを設けた。翌年には、上野駅構内の2階地下道に日本最初の地下商店街「上野地下鉄ストア」を開いた。地下鉄ストアは、その後に日本橋や新橋などにも設けている。

 

利用者にとっては、行き帰りにぶらりと立ちよって気軽に買い物ができるわけで、なかなか目の付け所が鋭かったことをうかがわせる話だ。

↑地下鉄博物館に展示される地下鉄ストアのポスター。中に「ちん餅即売」の文字があるが、お金を出して餅をつくことを、ちん餅と呼んだ

 

【早川徳次の生涯⑨】新橋駅まで延伸が完了。そして次へ

1927(昭和2)年に上野駅〜浅草駅間ではじまった日本初の地下鉄路線は、徐々に路線区間を延ばしていく。まずは1930(昭和5)年1月1日に上野駅〜万世橋駅(仮駅)1.7km区間が開業した。1933(昭和6)年の11月21日に万世橋駅(仮駅)〜神田駅間の0.5kmが開業し、仮駅だった万世橋駅が廃止されている。

 

地下鉄延伸という事象のみを追っていくと、浅草駅〜上野駅間開業後の徳次の人生は順風満帆だったように思う。ところが、人生それほど甘くない。特に人の一生には時代背景や、経済の動きという〝重し〟に大きく影響されることがある。

 

日本初の地下鉄が誕生したころは、ちょうど世界経済の転換期でもあった。1929(昭和4)年から翌年にかけて世界は恐慌に包まれ、日本では昭和恐慌と呼ばれる時期に入る。

 

1930(昭和5)年11月に神田駅まで路線を延伸させたものの、東京地下鉄道は資金繰りに苦しんでいた。暮れまで資金繰りで東奔西走していた徳次だが、どうにもならなかった。最後の手段として郷里の地方銀行の東京支店長宅に駆け込んで融資をお願いしたとされる。大晦日に無事に融資が受けることができて、寸でのところで倒産を免れるといった経験もしている。

↑銀座駅に停車する浅草駅行き1000形電車。絵葉書には「交通日本の誇り地下鉄道の美観」とある

 

その後に「地下鉄融資団」が結成されたこともあり、路線の工事は無事に進められることになった。

 

1932(昭和7)年、4月29日には神田駅〜三越前駅間の0.7km、12月24日に三越前駅〜京橋駅間1.3kmが開業。さらに1934(昭和9)年の3月3日には京橋駅〜銀座駅間0.7kmが、6月21日は銀座駅〜新橋駅間0.9kmを開業させている。徳次53歳のことだった。ロンドンではじめて地下鉄に出会ってからすでに20年の月日が流れていた。

 

現在、銀座線は浅草駅〜渋谷駅間を走っているが、徳次は将来的に新橋駅と品川駅間に路線を造ろうとしていた。その夢が叶ったならば、銀座線は浅草駅〜品川駅間を走っていたかもしれない。また、そのまま地下鉄の路線造りが順調に進んだならば、それこそ「地下鉄王」となったかもしれない。しかし、徳次の前に立ちふさがった男がいた。

 

【早川徳次の生涯⑩】新橋駅で五島慶太と競り合いが始まった

東急グループの創始者とされる五島慶太(ごとうけいた)である。五島の人生は徳次の人生をなぞるような道をたどっている。元々は教師を目指し、教壇にも立ったのだが、性に合わなかったようで、辞めてしまう。そして鉄道院へ。徳次が地下鉄免許を申請したころのことで、このあたりですでに接点があったようである。

 

後に鉄道院も退職、当時、渋沢栄一が進めていた田園調布を宅地化するために予定された鉄道路線計画に、阪急電鉄創始者の小林一三に請われて参加するようになる。実業の道が水にあったのだろう。その後は辣腕を発揮して、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄、玉川電車などの会社をまとめあげ東京横浜電鉄、のちの東京急行電鉄(現・東急電鉄)を造り上げていく。

 

この五島慶太が地下鉄の将来性を予感したのか、「東京高速鉄道」という地下鉄の会社の経営に乗り出したのである。1934(昭和9)年9月5日に会社設立、1939(昭和14)年1月15日に渋谷駅〜新橋駅間を開業させた。

↑東京高速鉄道が開業時に新造した100形電車。地下鉄博物館には129号車の一部が保存されている

 

「東京高速鉄道」は五島慶太が仕切った会社らしく、車両などは実用一点張りで造られている。最初の車両は100形だったが、電装品はグループ会社の東京横浜電鉄と共用、室内灯も白熱灯、車体は鋼製ながら、床は木ばりだった。対して、電動機は東京地下鉄道の1000形にくらべて多く搭載。そのため走行性能に優れていた。このあたり五島の実利を重んじる性格が見て取れる。

↑開業時の東京高速鉄道の路線図裏には新橋駅と渋谷駅の様子や運賃が記されている(筆者所有の印刷物を再構成したもの)

 

五島は新橋駅で相互乗り入れをすることを徳次に持ちかけたが、徳次には先発組としての意地があったのだろう。頑として聞かなかった。

 

そのために「東京高速鉄道」の新橋駅は、開業時に「東京地下鉄道」の新橋駅と一枚の壁を隔てた場所に設けられた。乗客は乗り換えるためには地上に出て、再び地下へ入るといった不便なことになっていた。

↑東京高速鉄道の元新橋駅ホームは、現在未公開となっている。「新橋」の駅名は右から記すなど時代を感じさせる 写真:東京メトロ提供

 

徳次と五島は似ているようで、性格は真逆だったようだ。乗り入れに関して何度も対面したが、互いに妥協することはなかった。新橋駅の壁を取りのぞき、線路をつなげれば互いの線路をすぐに走れるように造られた電車だったのだが、話し合いがまとまることはなかった。

 

【早川徳次の生涯⑪】追われるように会社を去った徳次だったが

徳次は京浜急行電鉄(当時は京浜電鉄と湘南電鉄)へ将来、新橋駅〜品川駅間の地下鉄路線造りを一緒にやらないかと持ちかけ、五島の乗り入れを阻止しようとする。

 

対する五島は東京地下鉄道の株の買い占めに走った。敵対する鉄道会社の株を買い占めるのは、五島の常套手段だったが、そんな五島についたあだ名は〝強盗慶太〟。力で敵対されては徳次もたまらない。

 

ついに、徳次も話し合いに応じて1939(昭和14)年9月16日には東京地下鉄道と東京高速鉄道との直通運転が開始されたのだった。東京高速鉄道の開業後8か月間使われた新橋駅ホームは、その後使われなくなっている。現在も残っているものの〝幻のホーム〟となり、旧線路は留置線として、またホームは未公開(見学会が行われることもあり)となっている。

 

直通運転が行われるようになったものの、2社はいろいろな面でいがみ合い不都合なことが生じていた。そこで、当時の鉄道院監督局鉄道課長だった佐藤栄作(後の首相)が仲裁に乗り出した。1940(昭和15)年6月に両社に仲裁案が提示され、社長に就任していた早川徳次は東京地下鉄道を去ることになった。59歳のことだった。

 

実は、この仲裁案には裏があった。五島も東京高速鉄道の役員を辞めたのだが、それは一時的なもので、また戻れると解釈できるような文言が含まれていた。一方で、徳次が辞めるにあたって、そうした文言は含まれていなかった。後世から見ると仲裁策にはめられたといって良い。では五島が得したかといえば、そうとも言えなかった。

↑彫刻家・朝倉文夫作による早川徳次胸像。銀座線銀座駅と丸ノ内線銀座駅を結ぶコンコース内に設置される 写真:東京メトロ提供

 

1941(昭和16)7月4日には帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立されて、東京地下鉄道と東京高速鉄道の運営は、営団に継承されてしまうのである。営団地下鉄は国と東京都が出資した団体だった。徳次、五島ともに国と東京市の策にしてやられたわけである。両者痛み分けといった結果になった。

 

地下鉄をわが手で造った早川徳次は社を追われる形になったが、社員からは非常に慕われた経営者だったようだ。追われた翌年の1941(昭和16)年5月には新橋駅に重役、株主、社員有志の寄付を集めて造られた胸像が立てられている。寄付金は胸像造りには足りなかったが、〝東洋のロダン〟と呼ばれた彫刻家、朝倉文夫もその思いを感じて制作したとされている。1977(昭和52)年には地下鉄開通50周年を記念して銀座駅のコンコースに移されている。

↑東京の地下鉄に追随するように1933(昭和8)年5月20日に梅田駅〜心斎橋駅間を大阪メトロ(旧大阪市営地下鉄)御堂筋線が走った

 

早川徳次によって始まった日本の地下鉄の歴史。東京には現在、東京メトロの路線195km、東京都交通局の路線が109km、のべ304kmの地下鉄路線が延びている。また全国の主要都市に地下鉄路線網がはりめぐらされている。

 

地下鉄の父と称される早川徳次がこの繁栄ぶりを知ったとしたら、どう思ったであろうか。

 

最後に徳次の晩年に触れておこう。59歳で東京地下鉄道の社長の座を去った徳次は、この年に緑綬褒章を受章している。そのわずか2年後の1942(昭和17)年11月29日、61歳の若さで逝去している。故郷に若者たちを育てるために「青年道場」の建設を目指していたさなかだった。

 

初の地下鉄開業という大事業を成し遂げた男の最後としては、あまりに悲しく、寂しい終わり方だったように感じる。

 

【information】

↑地下鉄博物館で開かれている「早川徳次 生誕140周年記念展」。3月13日までなので見学はお早めに

 

地下鉄博物館(東京メトロ東西線・葛西駅下車)では3月13日(日曜日)まで「早川徳次 生誕140周年記念展」と題し、〝地下鉄の父の軌跡〟を様々な資料とともに紹介している。興味をお持ちの方は訪ねてみてはいかがだろう。金曜日限定だが14時30分〜「『東京地下鉄道工事乃状況』で振り返る日本初の地下鉄建設」の特別映画上映会も開かれている。

 

*文中の敬称略
*参考文献:「地下鉄誕生 早川徳次と五島慶太の攻防」/中村建治(交通新聞社)、「地中の星」/門井慶喜(新潮社)

日本初の地下鉄を生み出した「早川徳次」−−その紆余曲折の生涯を追う【前編】

〜〜鉄道痛快列伝その4 東京地下鉄道創始者・早川徳次〜〜

 

鉄道史の中で、もしこの人が出現しなかったら、日本の鉄道はここまで発展しなかったろうという〝キーマン〟がいる。早川徳次(はやかわのりつぐ)もそのひとりであろう。

 

今も「地下鉄の父」と慕われる早川徳次。地下鉄の将来を100年以上も前に予見し、先頭に立って日本初の地下鉄を造り上げた。現在の地下鉄路線網の充実ぶりを見れば、その功績は計り知れない。今回はその早川徳次の半生を追ってみる。

 

*絵葉書は筆者所蔵、写真は筆者撮影および東京メトロ、地下鉄博物館提供

 

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【早川徳次の生涯①】多くの実業家を排出した山梨県に生まれる

早川徳次は1881(明治14)年10月15日、山梨県東八代郡御代咲村(みよさきむら/現・笛吹市一宮町)で7人兄姉の末っ子として生まれた。父の早川常富(つねとみ)は、地元・御代咲村の村長を務めたいわば村の名士だった。

 

山梨県は、明治期に多くの偉人を輩出した。後に「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎、旧西武鉄道の前身・川越鉄道や大師電気鉄道、江ノ島電鉄といった経営に関わった雨宮敬次郎などが山梨県出身で、当時は甲府財閥とも言われていた。徳次もこうした縁を活かし、その力を徐々に発揮していくことになる。

 

ちなみに、徳次が誕生した翌年には、その後に大きな関わりを持つことになる東急グループの創始者、五島慶太が長野県青木村(旧殿戸村)に誕生している。

 

早川徳次の学歴を見ておこう。

1900(明治33)年 19歳。旧制山梨県立甲府中学校(現・県立甲府第一高校)を卒業。旧制第六高等学校(現・岡山大学)に入学
1901(明治34)年 20歳ごろ。旧制第六高等学校を病気のため中退
1904(明治37)年 23歳:早稲田大学高等予科に入学
1905(明治38)年 24歳:早稲田大学法科本科に入学
1908(明治41)年 27歳:早稲田大学を卒業

 

経歴を見ると病気によって、せっかく入学した大学を中退せざるをえず、さらに3年にわたって療養をしている。そのため大学を卒業して社会に巣立った年齢は、他の若者たちよりもやや遅かった。若く多感な時期に挫折を経験し、徳次には焦りもあったことだろう。

 

早大の法科を卒業したこともあり当初は政治家を目指した。そして、東京市長にもなる後藤新平に送付した論文が認められ、後藤の書生となる。当時、後藤新平は南満州鉄道の総裁を務めており、27歳の徳次も南満州鉄道に勤めることになった。これが最初の鉄道事業とのつながりになる。

 

入社したものの、後藤が数か月後に南満州鉄道の総裁を辞職し逓信大臣(鉄道院総裁を兼務)に就任。師を追うように徳次も鉄道院に移った。鉄道院に移ったものの、徳次は役人の仕事には満足できず、鉄道業の実情をより知りたいと、自ら現場勤務を希望して鉄道院中部鉄道管理部に入る。

 

当時、東京の玄関口でもあった新橋駅で、切符切りや荷物掛けといった仕事をこなした。大学を卒業した人間が、こうした現場の仕事にはほとんどつかなかった時代であり、周りから変わり者に見られたようだ。しかし、鉄道を知るためには現場の仕事を体験することが一番で、後々にそれが活きてくると考えたわけである。実際にこうした現場での経験が、その後の徳次に大きく役立つことになる。

 

そんな徳次だが、1年ほどで鉄道院の安定した生活を捨てて実業の世界に飛び込み、彼の一生を大きく左右するひとりの実業家と出会うことになる。

 

【早川徳次の生涯②】その後の人生を変えた根津嘉一郎との出会い

彼の名は根津嘉一郎(初代)。徳次が出会った当時、根津はすでに東武鉄道の社長であり、投資家としても辣腕をふるい、また企業再生も手がけていた。

 

根津は同郷である徳次の経歴を知るにつれ、なかなか面白い若者と見込んだのであろう。徳次に一つの仕事を託す。それが佐野鉄道(現・東武鉄道佐野線)の経営再建だった。1911(明治44)年、徳次30歳の時である。

 

若い経営者として、佐野鉄道に乗り込んだ徳次は、現場に通い、どこに問題があるのかを見いだし、さまざまな改革を行っていく。半年あまりで佐野鉄道の配当を4分から1割以上に増配するなど優良会社とした。翌年に佐野鉄道は東武鉄道と合併し、東武佐野線となっている。

↑徳次が初めて経営手腕を発揮したのが佐野鉄道(現・東武鉄道佐野線/写真)の再生だった。佐野線は館林駅〜葛生駅(くずうえき)間を走る

 

佐野鉄道を再建した翌年、31歳の徳次は根津により高野登山鉄道に送り込まれて支配人となる。

 

高野登山鉄道とは、現在の南海電気鉄道高野線の前身となる会社である。再建のために送り込まれたわけだが、なかなか難しい会社だったようだ。徳次は1912(明治45)年から1914(大正3)年まで務め、紀見トンネルを開通させるなど力を発揮したが、徳次が在籍している前後にも、高野鉄道→高野登山鉄道→大阪高野鉄道と、社名変更や譲渡を繰り返していた。

 

高野登山鉄道に支配人としておもむいた年に、望月軻母子(かもこ)と結婚。叔父となる望月小太郎は徳次と同じ山梨県の出身で、当時、衆議院議員を務めていた。根津嘉一郎に引き合わせたのも望月小太郎の手によるものだ。

 

さて、徳次が高野登山鉄道で行った再建策は上手くいったのだが、ここで骨を埋める気持ちはなかったようだ。根津の慰留も聞かずに2年ほどで退職してしまった。若いころの徳次は、どうも思い立ったが吉日、ただちに行動に移す性格だったようだ。

 

【早川徳次の生涯③】鉄道と港湾関係の調査に出向いたロンドンで

高野登山鉄道の再建のために赴いた大阪で、思うところがあって支配人の座を投げ出してしまった徳次。投げ出したはいいが、暇になってしまった。暇をもてあまして足を向けたのが、大型船を入港させるために大坂市の予算の20数倍という経費を使って、1897(明治30)年に整備した大阪築港だった。ところが、近くの神戸港へ入港する船は多かったが、大阪の築港は閑散とした状態が続いていた。その様子を見た徳次は現状を打開する策として「港と鉄道と組み合わせること」を思いつく。

↑大正期の築港の様子。大型船は着岸せずに閑散としている。絵葉書には「夏はよぅおまっせ。涼しいこっだっせ」と茶化す言葉も

 

矢も盾もたまらず、徳次はすぐにヨーロッパの実情を見てこようと思いたった。とはいえ、当時の洋行には大変な費用がかかる。もちろん、そうした金など手元にはない。そこで早大の恩師である大隈重信にかけあった。大隈は首相(第二次大隈内閣)となったばかりで多忙な時期だったが、叔父の望月小太郎が大隈の秘書をちょうど務めていたことも幸いした。

 

叔父の縁があるとはいえ、首相に会おうという徳次も相当なものだ。また会った大隈も、徳次の人物を見込んでのことなのだろう。お金の催促にも応じてくれたのである。しかも鉄道院の嘱託の身分まで用意して。

 

当時の人々は、前途有望と見込んだ若者には、惜しみなく援助を行ったようである。徳次33歳、妻を日本に置いての洋行である。あくまで「鉄道と港湾関係の調査をするため」であったのだが、そこでその後を決める一つの出会いがあった。

↑ロンドンの地下鉄の愛称は〝The Tube〟。トンネルの形状がまさにチューブのような形をしていることからこの名で呼ばれる

 

出向いたロンドンで、地下鉄に出会ったのである。ロンドンの地下鉄は世界最古の歴史を持つ。最初の地下鉄路線は1863年1月開業というから、日本が幕末のころすでにロンドンに地下鉄が走っていたのである。徳次が訪れた1914(大正3)年には、市内にすでに10本の地下鉄路線が設けられていた。

 

初めて地下鉄を見て、乗った徳次は心の底から驚いたことだろう。〝これはすごい、そして敵わない……〟と。そして、いつしか日本にも地下鉄を通すのだ、という自らの夢と目標がしっかり心の中に芽生えたのである。

 

一度、日本へ戻った徳次だったが、ロンドンだけでなく他国の地下鉄も見たいと思うようになった。1915(大正4)年から翌年にかけて、イギリス、フランス、スイス、カナダ、アメリカを巡り帰国した徳次は35歳となっていた。

 

【早川徳次の生涯④】当時の東京市内の鉄道の状況といえば

↑昭和中期まで路面電車が東京市内をくまなく走り大切な足となっていた。絵葉書は日本橋・三越呉服店。後に地下に三越前駅が生まれる

 

徳次が洋行していたころの日本の東京の交通事情を見ておこう。山手線など一部の官制路線があったものの、市内の交通は路面電車が頼りだった。

 

当時の路面電車の様子を写した絵葉書がある。朝8時のラッシュの様子だ。車外にしがみつく人、入口には押し合いへし合いする人の様子が見て取れる。絵葉書の題名は「東京名物満員電車」とある。

↑大正末期ごろの絵葉書。下には「午前八時頃の撮影 乗車に雑踏を極め居る光景」と記される

 

押しあう男性たちの後ろには、ぼう然とその様子を見守る中学生らしき少年と、冷めた目でカメラを見る女性の姿が見える。このような光景が、朝夕には日常に行われていたのだった。大の大人ですら乗車するのに大変で、女性や子どもたちにはとても危険で、乗るのにも苦労する路面電車だったのだ。

 

日本に戻り、こうした実情を見た徳次は、市電の数倍の輸送力を持つ地下鉄の路線がかならず必要になると確信した。

 

帰国してすぐに、徳次は地下鉄建設に向けて調査を始めた。調査項目は3つ。まずは路線をどこに敷けばより効果的かということだった。当時、東京市電では統計など取っていなかった。そこで徳次自らが街に立ち続け、利用者を数えた。今で言う「交通量調査」である。ただし今のようにコンパクトなカウンター(数取器)はない。そこでポケットに多くの豆を入れて、1人ごとに豆を別のポケットに移すという方法で人数を数えた。家に帰ると、妻が集計を手伝ったそうだ。

 

さらに「地質調査」。なかなかそうした調査結果が見つからなかったが、橋を架ける時に造る地質図が東京市の橋梁課にあると聞き、すぐに入手した。

 

次に地下鉄工事中に悩まされる「湧水量調査」がないかを調べた。当時は未舗装の道路に水を蒔くために、市内に撒き水井戸という井戸が掘られていたが、水の確保のために地中深く掘られた井戸が多いことに着目。地下鉄工事を阻害するほどの湧水量はないと判断した。

 

【早川徳次の生涯⑤】渋沢栄一ほか多くの財界人に話を持ちかける

こうした調査を終えれば、あとは金策、人材の確保、そして財界の重鎮にいかに手助けしてもらうかだが、これが予想以上にてこずった。

 

1917(大正6)年の初頭には、経済界の重鎮、渋沢栄一に会いに行き、地下鉄建設の支援を要請している。2度ほど会って支援は取り付けたものの、渋沢は高齢を理由に代表就任を断っている。その代わりに、援助と世話役を引き受け、その後の地下鉄誕生に向けて大きな力となる人々を紹介している。

 

地下鉄建設の免許出願のためには東京市会(現・東京都議会)の賛同が必要だった。そのために徳次は各議員のもとを自ら訪れ、根気強く説得して回った。この年に東京市会の賛同を得ることができた。徳次のこうした動きに合わせるかのように、東京の将来には地下鉄が必要という声が少しずつ出るようになっていた。また、地下鉄路線が儲かりそうだからとりあえず免許申請に動こうという企業もちらほら現れてきていた。

 

そんな動きを察した徳次は「東京軽便地下鉄道」を設立。高輪南町〜公園広小路(浅草)間と、車坂町〜南千住町間の地下鉄敷設免許を申請した。徳次36歳の時のことだった。

 

しかし、申請したものの、すぐに認可は下りなかった。日本ではまったく未知の地下鉄づくりだ。東京は埋め立て地が多いから、地下鉄造りには不向きという専門家も少なからずいた。

 

↑徳次が手がけた初の地下鉄路線の浅草駅出口(4番出口)が残る。通称「赤門」とよばれ近代化産業遺産にも認定されている

 

さらに、地上を走る鉄道に比べて、地下を掘って造る地下鉄は、莫大な資金が必要になる。財閥などの後ろ盾がない徳次に対して、果たして大丈夫かと疑問視する声が強かった。地下鉄を認可する鉄道院からも財政面での不安が指摘され、もっと財界の有力者を加えることを求められた。役所から見たら当然のことだったのかも知れない。未知数の地下鉄建設なのである。予算はそれこそ計り知れない。

 

そこで徳次は、根津嘉一郎の紹介をうけて、山本悌二郎(台湾精糖/現・三井精糖社長)、大川平三郎(「日本の製紙王」と呼ばれた)、野村龍太郎(鉄道院副総裁で、東京地下鉄道の第2代社長となる)らに発起人に加わってもらった。

 

1919(大正8)年11月17日、ついに徳次は免許を取得。38歳の時だった。しかし、取得したものの、すぐに工事着手とはいかなかった。

 

根津らの勧めにより、徳次のあとから地下鉄路線の出願を行った「東京鉄道」と合併、「東京地下鉄道」を1920(大正9)年8月29日に設立している。「東京鉄道」は三井財閥の資本力を背景として生まれた会社だった。この時、徳次は東京地下鉄道の常務取締役に就いている。社名は変わったものの、相変わらずの資金不足に苦しめられた。資金調達の目処がたちつつあった1923(大正12)年9月1日には関東大震災が起こる。

 

それまで徳次は新橋駅〜上野駅間の工事を進めようと考えていたのだが、より短い区間だが収益が見込める上野駅〜浅草駅間を先に開業させるという方針変更を行った。

 

関東大震災にも苦しめられ、工事の着手もままならない非常に苦しい中で一つの朗報が舞い込む。大倉土木(現・大成建設)が、工事費は竣工後の手形払いで、さらに利率も低くて良いという条件で工事を請け負ってくれたのだ。これが一つの転機となった。

 

そして、ようやく1925(大正14)年9月27日に上野〜浅草間の工事に着手したのだった。徳次44歳、ロンドンで地下鉄に出会ってすでに10年以上の時がたっていた——。

 

【information】

↑地下鉄博物館で開かれている「早川徳次 生誕140周年記念展」。3月13日までなので見学はお早めに

 

地下鉄博物館(東京メトロ東西線・葛西駅下車)では3月13日(日曜日)まで「早川徳次 生誕140周年記念展」と題し、〝地下鉄の父の軌跡〟を様々な資料とともに紹介している。興味をお持ちの方は訪ねてみてはいかがだろう。金曜日限定だが14時30分〜「『東京地下鉄道工事乃状況』で振り返る日本初の地下鉄建設」の特別映画上映会も開かれている。

 

*文中の敬称略
*参考文献:「地下鉄誕生 早川徳次と五島慶太の攻防」/中村建治(交通新聞社)、「地中の星」/門井慶喜(新潮社)

進む全国の「鉄道新線計画」−−新幹線をはじめ初のLRT新線計画も

〜〜全国で進む新線計画その2 全国編〜〜

秋に開業する新幹線路線や、来春に路線が延伸する新線、さらに全国で初になる新LRT(ライトレールトランジット)路線など話題豊富な新線が全国で生まれようとしている。

 

これらの計画は、前回の東京・神奈川の新線に比べると、かなり工事が進んでいるところが多い。どのような計画なのかチェックしていこう。

 

【関連記事】
意外に多い!? 東京&神奈川の「鉄道新線計画」に迫る

 

【はじめに】まず全国の新線計画7ルートの概要を見る

全国で進む7ルートの新線計画の概要を見ていこう。なお、大阪市内で複数の路線工事が進んでいるが、こちらは次の機会に紹介したい。

〈1〉西九州新幹線
・新線区間:武雄温泉駅〜長崎駅・約66.0km
・開業予定:2022(令和4)年9月23日開業で調整中

〈2〉北陸新幹線延伸
・新線区間:金沢駅〜敦賀駅・約125km(新線は白山車両基地〜敦賀間・約113km)
・開業予定:2024(令和6)年春

〈3〉北海道新幹線延伸
・予定区間:新函館北斗駅〜札幌駅・約212km
・開業予定:2030(令和12)年度末

〈4〉リニア中央新幹線
・予定区間:品川駅〜名古屋駅・約285.6km(名古屋駅〜新大阪駅・約152.4km)
・開業予定:2027(令和9)年(品川駅〜名古屋駅間)

〈5〉芳賀(はが)・宇都宮LRT
・予定区間:宇都宮駅東口〜芳賀・高根沢工業団地・約14.6km
・開業予定:2023(令和5)年春

〈6〉アストラムライン延伸
・予定区間:広域公園前駅〜西広島駅・約7.1km
・開業予定:2031(令和13)年ごろ

〈7〉福岡市地下鉄七隈線(ななくません)延伸
・予定区間:天神南駅〜博多駅・約1.6km
・開業予定:2023(令和5)年春

 

全国で進む新線計画のうち、新幹線の新線や延伸計画が多いことが分かる。国が2010年代に進めた「国土強靭化基本計画」から「経済財政運営と改革の基本方針2019」に至る、いわゆる〝骨太の方針〟に基づいた整備新幹線およびリニア中央新幹線の工事が進められている。

 

一方で、環境問題や、新線開業後に現状の交通インフラをどのように維持していくのかなど、国や鉄道会社と、自治体との考え方の相違も生まれてきている。新線の計画や工事の進み具合とともに生まれてきた問題等にも触れていこう。

 

【西九州新幹線】開業日は9月23日に決定

最も間近に迫った新線計画が「西九州新幹線」である。西九州新幹線は国が計画した整備新幹線のうち、九州新幹線(西九州ルート)の一部で、2008(平成20)年に着工、鉄道建設・運輸施設整備支援機構によって武雄温泉駅〜諌早駅(いさはやえき)間の工事が進められてきた。

 

14年の歳月を経てこの秋に武雄温泉駅〜長崎駅間の約66.0kmが開業となる。運転開始日は9月23日(金曜日)で調整中だ。

 

路線は佐世保線と接続する武雄温泉駅から南下、嬉野温泉駅(うれしのおんせんえき)を通り、新大村駅で大村線と接続、諌早駅で長崎本線、大村線、島原鉄道の各線と接続、長崎駅へと路線が至る。

↑大村線の路線と平行して設けられた西九州新幹線の高架橋。大村線とは新大村駅と諌早駅で接続が予定されている

 

これまで鉄道路線がなかった嬉野温泉には初の鉄道が通ることになる。「日本三大美肌の湯」で知られる嬉野温泉へは行きやすくなるわけだ。

 

一方で、既存の新幹線網とは離れた区間での暫定開業となる。九州新幹線の新鳥栖駅と武雄温泉駅の間に新たな路線を造るのか、既存ルートを生かすのか、新たな問題も生じている。新幹線ができた後、平行して走る長崎本線は、普通列車のみが走ることになり、一部区間(肥前浜駅〜諌早駅間)は電化廃止され、電車に代わり気動車が走る予定となっている。

↑西九州新幹線の途中駅となる諌早駅の構内。2018(平成30)年に橋上駅舎と東口、西口を結ぶ自由通路などが整備されてきれいに

 

さらに、フル規格として造られた西九州新幹線だが、新鳥栖駅〜武雄温泉駅は、在来線のままとなる。博多駅〜武雄温泉駅間はリレー列車が走ることになるのだろうが、フル規格の新幹線化への目処はたっていない。

 

もともと同区間には、在来線と新幹線の両路線の走行可能なフリーゲージトレイン(軌間可変電車)が開発されて走る予定だった。試験用の電車が開発され、さまざまな試験が行われた。ところが、技術的な問題が生じ、最高時速300kmといった高速化される新幹線車両と共存できないことが明確となり、開発および利用をほぼ断念する、という結果になった。

 

長崎本線が走る佐賀県としては、将来にわたり在来線を保持させたい。一方で、国は断念したフリーゲージトレインに代わり、この未決の区間もフル規格化を推し進めたい気持ちが強い。新幹線の路線整備ではその費用負担の一部を地方自治体に求めていることもあり、折り合う可能性は低いように思われる。西九州新幹線は開業した後も、当分の間は武雄温泉駅での乗り継ぎが必要になりそうだ。

 

【北陸新幹線】敦賀駅までの延伸は2024(令和6)年春の予定

現在、金沢駅まで走る北陸新幹線。2015(平成27)年春の金沢延伸によって首都圏と富山、金沢両県への距離が縮まり、両県の旅行者が増えるなど、新幹線効果が改めて確認された。北陸三県で新幹線が走らないのは、福井県のみとなっていたが、2年後には県西部の敦賀市まで路線が延びる予定だ。

↑北陸新幹線の金沢延伸に合わせて登場したJR西日本のW7系。ますます同車両の活躍範囲が増えてきそうだ

 

すでに用地取得率は99%、土木工事着手率は100%の進捗状況で2024年の春の開業は確実なようだ。金沢駅〜敦賀駅間は約125km(新線区間は白山車両基地〜敦賀間の約113km)。現在、東京駅から金沢駅まで所要時間は約2時間半で、プラス30分で福井県の西、敦賀駅まで行き着けることになりそうだ。

 

新路線はほぼ北陸本線と平行して設けられている。高架路線もほぼ敦賀駅付近まででき上がっている。平行する在来線の北陸本線は、石川県のIRいしかわ鉄道、富山県のあいの風とやま鉄道と同じように第三セクター路線となる。敦賀駅以北では在来線を特急列車が走らなくなるため、関西・中京方面から福井市、金沢市、富山市へ行く場合には敦賀駅での乗り換えが必要になる。

↑敦賀駅付近での北陸新幹線の高架線工事の様子。写真は2021(令和3)年9月の撮影。すでにほぼでき上がった状態だった

 

ちなみに、終点となる敦賀駅付近では高架橋が地上23mと高い位置を通る。在来線との乗り換えを容易にするため、在来線ホームが高架橋下に専用ホームが設けられる予定となっている。敦賀駅までの延伸が完了する北陸新幹線だが、その先の新線はどうなるのだろうか。もともと北陸3県は関西圏との結びつきが強いのだが……。

↑敦賀駅の駅舎には2024年春の開業予定の掲示も。現在の駅の後方で大型クレーンを使っての駅改良工事が進む

 

北陸新幹線は敦賀駅まで延びるものの、関西方面への延伸はまだ未確定な部分が多い。当初、北陸本線、湖西線を使ってのフリーゲージトレインの走行案もあったが、西九州新幹線の例と同じく断念された。その後、どのルートで通すかが検討されてきたが、敦賀駅〜小浜駅〜京都駅を通る小浜京都ルート案が決定している。

 

また、京都駅で東海道新幹線と接続して列車を走らせることが難しいために、南側の京都〜松井山手〜新大阪を通すルートも決定している。

 

とはいえ、同ルートに新たに路線を建設するとなると工事費は2兆円を超えるとされ、予算の確保もままならない状況だ。さらに着工しても工事期間が最低15年ほどかかるとされ、北陸新幹線の全通は2046(令和28)年春ごろになるというから、気の長い話になりそうだ。

 

【北海道新幹線】札幌駅まで延伸工事も始まっているものの

北海道新幹線はもともと1973(昭和48)年の整備計画に基づき整備が始められた。北海道新幹線は2016(平成28)年春に、新青森駅〜新函館北斗駅間の約148.8kmが開業している。

 

新函館北斗駅から先の工事も2012(平成24)年に認可され、札幌市まで約212km区間も鉄道建設・運輸施設整備支援機構の手により延伸工事が進められている。すでに用地取得率は69%、土木工事着手率は81%まで進んだ。

↑新函館北斗駅に到着するJR北海道のH5系。この先の札幌駅まで開業するころにはさらに新型車両が出現するのだろうか

 

路線は新函館北斗駅から北へ向かい、内浦湾沿いの新八雲駅(仮称)から長万部駅(おしゃまんべえき)へ。その先は、内陸部を走る函館本線(山線区間)に沿うように倶知安駅、新小樽駅(仮称)を経由して札幌駅へ向かう。開業は2030(令和12)年度末としている。

 

新函館北斗駅〜札幌駅間の距離は約212kmとあり、新幹線に乗車すれば約1時間弱の距離となりそうだ。現在、札幌駅〜函館駅間は特急「北斗」で3時間30分以上かかっている。道内移動の足としては非常に有効となりそうだ。

 

一方で、首都圏と北海道の行き来は大半の旅行者が飛行機の利用となる。北海道新幹線が新函館北斗駅へ延びた今も、道南や函館へのアクセスは飛行機の利用が主流となっている。函館〜札幌間といった道内の移動は格段に便利となるものの、飛行機に対抗できるかと言えば、なかなか難しいようにも思われる。

↑新函館北斗駅が現在の北海道新幹線の北端駅となる。函館駅との間には「はこだてライナー」が運行されている

 

さらに難しいのが平行する在来線に維持の問題だ。この2月には函館本線の長万部駅〜余市駅間120.3kmのバス転換が決定した。JR北海道から経営分離されるローカル線を地元自治体だけでは維持できないというわけである。ちなみに、新幹線開業後に廃止された在来線は信越本線の横川駅〜軽井沢駅間のみで、ここは補助機関車が必要な急勾配区間だったという特殊な事例であり、単純に比較はできない。早々に在来線の維持を諦めることになるほど、北海道のローカル線の現実は厳しいわけだ。

 

平行して走る在来線の中で残るのは貨物列車の輸送に欠くことのできない函館本線の函館(五稜郭駅)〜長万部駅間と、室蘭本線の長万部駅〜東室蘭駅のみとなりそうだ。残る路線にしても、本州のように経営を第三セクター化するのか、どこが運営主体となるのか、赤字をどのように補填していくかなど問題が山積している。利益が見込めず、加えて距離が長く、また冬は雪深い地域の在来線区間だけに、今後も難しいかじ取りを迫られそうだ。

↑長万部駅発の函館本線普通列車。右は室蘭本線の線路。新幹線開業後、函館本線はこの先、余市駅まで廃止されバス転換が決まった

 

【リニア新幹線】2027年開業予定だったものの

世界初のリニア高速鉄道となる予定のリニア中央新幹線。東京の品川駅と名古屋駅間の工事が始まり、同区間の開業は2027(令和9)年の予定とされた。

 

車両もL0系が開発され、連日のように山梨県内の実験線での試運転が続けられている。技術的には明日にでも営業運転が可能にまでに煮詰められたリニアではあるのだが、周知されているように静岡県内での工事の遅れにより、2027(令和9)年の開業は困難となりつつある。

 

路線は品川駅から神奈川県の橋本駅(相模原市)、山梨県甲府市、長野県飯田市、岐阜県中津川市(中央本線・美乃坂本駅)に駅が設けられ、名古屋駅へ向かう。途中駅ができる4県は恩恵を受ける。

↑山梨実験線ではリニア中央新幹線L0系のテスト走行が連日のように進められている

 

一方で、一部を路線が横切る静岡県では、山中ということで駅も造られず、またトンネルの掘削により、大井川の水資源が損なわれるなどの問題が起こることが予想されている。さらに、既存の東海道新幹線の列車運行はどうなるのか不明確なことも多い。JR東海と静岡県との間で話し合いの場が持たれ、いろいろな妥協策が提示されたものの、いずれの策も折り合いがついていない。

 

リニア中央新幹線は、JR東海の独自の事業として進められてきた。これほどまでの大規模事業を一つの鉄道会社が行うこと自体、画期的なことでもあったのだが、2年にわたるコロナ禍で乗客が大幅に減少し、JR東海も民営化後、初の赤字に転じるなど、非常に厳しい局面を迎えつつある。静岡県を通らないなどの工事予定区間を変更するとなると、さらに10年の時が必要とされている。落とし所が非常に難しくなってきている。

↑品川駅の次の駅として工事が進められる橋本駅周辺の様子。この先、山岳部をトンネルで抜けて山梨県の甲府盆地に次の駅ができる

 

新幹線の延伸計画、リニア中央新幹線の計画では、それぞれにさまざまな問題が絡み工事が一筋縄ではいかない要素が潜んでいる。

 

国土の大規模な開発について国民全員がもろ手をあげて賛成とはいかない時代になりつつある。今後、どのように策を講じ、少しでも多くの支持をとりつけ、問題を解決していくか、大きな課題がつきつけられているように思われる。

↑現在の山梨の実験線(写真)は、リニア中央新幹線が開業後、そのまま実際の路線として使われることになる。

 

【芳賀・宇都宮LRT】順調に進む車両導入&新線づくり

ここからは新幹線を除く全国で進む新線計画や延伸計画を見ていこう。まずは栃木県の県庁所在地、宇都宮市と芳賀町(はがまち)で進むLRT路線から。

 

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2022年開業に向けて準備が進む「芳賀・宇都宮LRT」−−新路線に沿って歩いてみた

↑宇都宮駅東口で進むLRTの路線整備。右側に路線がカーブして駅へ入ってくる構造も見て取れる 2022(令和4)年2月20日撮影(以下同)

 

LRTとはライトレールトランジットの略称で、国土交通省が導入支援を行っている取り組みだ。日本語に訳せば「軽量軌道交通」といったところだろうか。

 

路面電車をより近代化したシステムで、車両は低床タイプが使われる。停留場などは完全バリアフリー化、高齢者、障がいを持つ人たちにもやさしい造りとなっている。これまでLRTのシステムを導入した路線といえば、現在の富山地方鉄道富山港線、以前の富山ライトレールぐらいのものだった。こちらは路線の大半は以前のJR富山港線の路線を利用、駅周辺に併用軌道を設ける形でLRT路線化された。

 

芳賀・宇都宮LRTは完全な新路線として造られるもので、画期的な取り組みと言えるだろう。

↑同計画の最大の建造物となる鬼怒川橋梁。線路の敷設はまだだったが、橋自体はすでにできあがっている

 

路線は宇都宮駅東口と芳賀・高根沢工業団地間の約14.6kmとなる。宇都宮の市街は宇都宮駅西口と、東武宇都宮駅間に店舗などが連なる。この繁華街側とは逆の東側、そして工業団地がある芳賀町の間の公共交通機関として計画された。なお、宇都宮駅の西側、東武宇都宮駅までの区間にも将来はLRT路線を延ばしていきたいと調査が続けられている。

 

2017(平成29)年に工事施行認可を国に申請、翌年に起工式を行っている。当初2022(令和4)年に開業を目指していたが、1年遅れの2023(令和5)年3月の開業予定となり工事が進む。

↑国道4号に隣接して設けられた車両基地内には、すでに多くの車両が搬入され、出番を待っている

 

起工してから5年で完成することになる芳賀・宇都宮LRT。他の鉄道の新線が10年ぐらいの歳月がかかるのに比べるとLRTの路線づくりの工期はほぼ半分と短い。これがLRTの長所なのだろう。筆者も2回にわたり同路線を巡ってみたが、開業1年前にもかかわらず、車両基地などを見物に訪れる人がちらほら見られた。新LRT計画が果たして都市部の交通問題の根本的な解決につながるかどうか、今後、かなり注目を集めそうだ。

 

【アストラムライン】西広島駅への延伸でより便利に

広島高速交通「アストラムライン」は、広島市内を走る案内軌条式旅客輸送システム(AGT)の路線で、広島市中心部と北西部の住宅地を結ぶ。現在の路線は本通駅(ほんどおりえき)と広域公園前駅の間18.4km。

 

路線図を見ると広島市の中央部から北へ向かい、大きく左カーブして回り込むように市内の安佐南区まで走っている。起点の本通駅から終点の広域公園前駅までは約38分かかる。終点までバスを利用すれば広島駅から30分弱と、せっかくアストラムラインが走っているのにもかかわらず、やや不便なようにも感じられていた。

↑広島市内の中央部と北西部を結ぶアストラムライン。現在、山陽本線の新白島駅と可部線の大町駅でJR路線と接続している

 

現在、終点の広域公園前駅と、山陽本線の西広島駅を結ぶ路線の計画が進められている。延長区間は広域公園前駅〜西広島駅間、約7.1kmで、開業予定は2031(令和13)年ごろを見込んでいる。

 

延長予定の西広島駅は山陽本線だけでなく、市の中央部へ路線が延びる広島電鉄の広電西広島停留場が目の前にある。路線が開業後には、広島の市内中央部と北西部のアクセスが画期的に改善されることになる。

↑路線が延びる予定の西広島はJR山陽本線の西広島駅(右上)と広電西広島の停留場があり市内中央部へのアクセスも良い

 

【福岡市地下鉄七隈線】博多駅延伸で福岡市は大きく変わる!?

2020(令和2)年の国勢調査で、全国20ある政令指定都市の中で5年前に比べて人口が最大の増加率を示したのが福岡市。他の政令指定都市にくらべて著しい伸び率を示している。福岡市内の足として役立てられているのが、福岡市地下鉄の路線網。空港線、箱崎線に加えて、2005(平成17)年には天神南駅〜橋本駅間に七隈線(ななくません)が設けられ、活かされてきた。

 

とはいえ、福岡市の玄関口である博多駅に結びついておらず、また天神南駅が、空港線の天神駅とやや離れていて、やや不便だった。

 

そこで計画されたのが七隈線の延伸計画だ。天神南駅と博多駅を結ぶ路線計画で、2014(平成26)年に着工された。ところが2014年、2016(平成28)年と延伸工事の現場で2回の道路陥没事故が発生してしまった。

↑七隈線の橋本駅近くにある橋本車両基地に並ぶ3000系。同線は鉄輪式リニアモーターカーを利用している

 

そうしたトラブルにより、やや工期が延びたものの2023(令和5)年の春に開業予定だ。博多駅への延伸で、福岡市の南西部の西区へのアクセスがかなり改善されることになりそうだ。

↑博多駅へ七隈線の延伸が適うことで福岡市の南西部へのアクセスがかなり改善される

 

全国の新線計画を見てみると、前回に紹介した東京や神奈川の新線計画に比べてより具体的に工事が進み、開業が間近に迫った路線が多い。

 

大阪市内でも複数の新線が予定されている。これについては次の機会に詳細をお伝えしたい。また岡山電気軌道の岡山駅前広場への延伸や、伊予鉄道松山市内線の延伸計画などもあるが、今回は割愛させていただいた。

意外に多い!? 東京&神奈川の「鉄道新線計画」に迫る

〜〜全国で進む新線計画その1 東京都・神奈川県編〜〜

 

この1月に首都圏の鉄道事業者から2つの新線計画について発表があった。1つは「相鉄新横浜線・東急新横浜線開業」であり、もう1つは東京メトロ2路線の延伸に関して鉄道事業許可の申請だった。

 

今回は、全国で進む新線計画のうち、東京都と神奈川県内の新線計画を追った。中でも来年春に開業する相鉄新横浜線・東急新横浜線と、注目度が高い羽田空港アクセス線の2路線を中心に紹介しよう。

 

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祝開業!都心乗り入れを果たした「相模鉄道」−−盛り上がる沿線模様を超濃厚レポート

 

【はじめに】都内&神奈川県で進みつつある7ルートの新線

東京都と神奈川県で進む新線計画の概要をまず見ていこう。具体化しつつあるのは次の7ルートだ。

〈1〉相鉄新横浜線・東急新横浜線(以下「相鉄・東急新横浜線」と略)
・新線区間:「相鉄新横浜線」羽沢横浜国大駅〜新横浜駅・約4.2km、「東急新横浜線」新横浜駅〜日吉駅・約5.8km
・開業予定:2023(令和5)年3月予定

〈2〉羽田空港アクセス線(仮称)
・新線区間:田町駅〜羽田空港新駅(東京貨物ターミナル駅付近〜羽田空港新駅、建設予定区間約5km)
・開業予定:2029(令和11)年度ごろ

〈3〉横浜市営地下鉄ブルーライン延伸計画
・予定区間:あざみ野駅〜新百合ケ丘駅約6.5km
・開業予定:2030(令和12)年ごろ

〈4〉東京メトロ有楽町線延伸計画
・予定区間:豊洲駅〜住吉駅約4.8km
・開業予定:2030年代半ば(目標)

〈5〉東京メトロ南北線延伸計画
・予定区間:品川駅〜白金高輪駅約2.5km
・開業予定:2030年代半ば(目標)

〈6〉多摩都市モノレール延伸計画・箱根ヶ崎ルート
・予定区間:上北台駅〜箱根ケ崎駅約6.7km
・開業予定:2032(令和14)年ごろ

〈7〉多摩都市モノレール延伸計画・町田方面延伸ルート
・予定区間:多摩センター駅〜町田駅約16km
・開業予定:未定

 

相鉄・東急新横浜線を除き、開業予定が2030(令和12)年以降と〝気の長い〟計画である。しかし、新路線の開業は非常に時間がかかるものでもある。

 

例えば相鉄・東急新横浜線、相鉄・JR直通線となる「神奈川東部方面線」の計画が立てられたのが、2000(平成12)年の初頭、国土交通省の工事施行認可を受けたのが2009(平成21)年で、まず相鉄・JR直通線の起工式が2010(平成22)年3月25日に行われた。同線は工事に9年の歳月がかかり、2019(令和元)年11月30日に開業している。計画が立てられてから20年あまり、起工してから10年弱と、新線の開業には非常に長い期間を必要とすることが良く分かる。

 

さらに、相鉄・東急新横浜線の工事はその後も続けられ、こちらの開業は1年後に迫っている。まずは相鉄・東急新横浜線の計画と現状を見ていこう。

 

【相鉄・東急新横浜線①】新横浜駅へのアクセスがスムーズに

相鉄・東急新横浜線は、相模鉄道の西谷駅(にしやえき)と東急電鉄東横線の日吉駅間を結ぶ。この路線のうち、西谷駅〜新横浜駅間・約6.3kmが「相鉄新横浜線」で、その先の新横浜駅〜日吉駅間・約5.8kmが「東急新横浜線」となる。

 

西谷駅〜羽沢横浜国大駅間・約2.1kmは、相鉄・JR直通線の一部としてすでに開業し、JR埼京線へ乗り入れる列車が運行されている。2023(令和5)年3月に開業する区間は、羽沢横浜国大駅〜日吉駅間・約10kmとなる。

↑2023(令和5)年3月に開通予定の相鉄・東急新横浜線の路線図。羽沢横浜国大駅〜日吉駅間の途中に新綱島駅が設けられる

 

この新路線の開業で、より便利になるのが東海道新幹線・新横浜駅の利用だろう。現在は新横浜駅ではJR横浜線と、横浜市営地下鉄ブルーラインの2線のみ連絡で、決して便利とは言えなかった。

 

新線開業後は相模鉄道、東急東横線・目黒線との相互乗り入れが行われ、東海道新幹線の利用が非常に便利になる。沿線に住む人たちだけでなく、これまで品川駅、東京駅を使ってきた利用者の中にも、新横浜駅の利用を考える人も多くなりそうだ。

 

【相鉄・東急新横浜線②】各駅近辺の工事の進み具合を見る

ここからは沿線模様と工事の進捗具合を写真でチェックしていこう。

↑開業してすでに2年2か月たった羽沢横浜国大駅。現在、日中は30分に1本と不便だが、新線開業後は列車も増え便利になりそうだ

 

一足先の2019(令和元)年11月30日に開業した相鉄・JR直通線。唯一の中間駅として羽沢横浜国大駅が設けられた。羽沢横浜国大駅は東海道貨物線の貨物駅・横浜羽沢駅に隣接する。すぐ横にある貨物駅には旅客列車が停車しない。駅ができるまでは非常に辺鄙な場所だった。

 

路線開業日以来、同駅におよそ2年2か月ぶりに訪れてみた。駅の近くには大型ドラッグストアもでき、大規模なマンションも建設中で、乗り降りする利用者の姿もちらほら見かけるようになってきていた。

 

この駅の北側で相鉄・東急新横浜線の線路と、相鉄・JR直通線の線路が分岐する。

↑羽沢横浜国大駅の北側にある分岐ポイント。右上は相鉄・JR直通線開業前の同ポイントの様子で中央2線が相鉄・東急新横浜線となる

 

羽沢横浜国大駅周辺での工事は、平行する道路の整備を除いてほぼ完了していた。相鉄・JR直通線と一緒に工事を進めたため、進捗具合も早かったのであろう。開業に向け準備万端のように見えた。

 

次に新横浜駅を訪れる。新線は新横浜駅の西側、県道13号線(環状2号道路)の地下部分に設けられる。同駅部分では、道路の中央部に大型重機が置かれるなど、今も工事が続けられていた。とはいえ2年ほど前に訪れた時に比べると、重機が減り、開口部が閉ざされるなど、工事が進んでいるように見受けられた。

↑新横浜駅の西側、環状2号道路の中央部で続く新線の工事。1年後の開業に向けて順調に工事が進んでいるように見えた

 

次に新線唯一の途中駅・新綱島駅へ向かう。新線の開業後にはスムーズに巡ることができるルートも、今はかなり遠回りしなければならない。

 

新綱島駅の最寄り駅、東急東横線の綱島駅に降りたが、付近に新駅らしき入口等がない。駅の職員に聞いてみると、綱島駅の東口を出て、さらにその先にあるという。

↑綱島駅(左上)から100mほど、綱島街道沿いで行われている工事。次の日吉駅まで線路は綱島街道の下を走り抜ける。

 

新駅の新綱島駅は東口から100mほど、約1分の距離に生まれる予定だ。綱島街道沿いに「綱島トンネル」と「新綱島駅」の建設工事が進められていた。新線はこの綱島街道の下を通り抜ける。

 

設営工事用の大きな建物が設けられていて大型車両の出入りが頻繁に行われていた。入口に掲げられた工事期間を見ると今年の5月25日までとなっていた。3か月後にはほぼ、この区間の主要な工事は終わりそうだ。

 

次に日吉駅へ向かう。この駅で新線と東急東横線が合流するわけだ。駅周辺を見て回ると……。

↑日吉駅近くの工事の進捗状況。線路はすでに敷き終え、架線工事はこれからだった。同区間ではこの上を東急東横線が走っている

 

↑日吉駅(右上)の南側に東急目黒線の折り返し線がある。左右に東横線が走り、中側2線が新線に結びつくことになりそうだ

 

東急東横線の高架線の下に地下へ潜る新線が新設されていた。駅周辺ではすでに路盤工事は終了しているようだ。途中、壁が途切れたところから内部を見ると、線路はすでに敷かれていた。これから上部に架線を張るための準備を行う工事の様子を確認することができた。

 

【相鉄・東急新横浜線③】乗り入れ用の車両の準備も着々と

1月末にはすでに列車本数など詳細が発表されている。

 

列車本数は次の通り。東急新横浜線・日吉駅〜新横浜駅間は朝のラッシュ時が毎時14本、その他の時間帯が毎時6本。一方の相鉄新横浜線・羽沢横浜国大駅〜新横浜駅間は朝のラッシュ時が毎時10本、その他の時間帯が毎時4本となる。ということは、東急新横浜線の列車の中には、新横浜駅折り返しの電車もあるということになる。

 

両線が結びつくことで、相模鉄道の二俣川駅と目黒駅間の所要時間が約38分となる。ちなみに現状、相鉄・JR直通線を利用すると約49分、横浜駅経由で60分近くかかってしまう。かなり時間短縮ができるわけだ。

 

入線する車両編成は10両および8両(一部6両)とされた。東急東横線とともに、東武鉄道、東京メトロ副都心線の10両および8両の列車も乗り入れることになりそうだ(西武鉄道の車両は乗り入れなし)。また今年の4月上旬に8両編成の列車が走り始める東急目黒線、東京メトロ南北線、都営三田線、埼玉高速鉄道の列車も新線へ乗り入れることになるだろう。

 

すでに各社、新線用の車両の用意が少しずつ始められている。

 

相模鉄道には新線乗り入れ用の20000系が2018(平成30)年に登場し、走っているが、同形式を8両化した東急目黒線乗り入れ用の21000系という新編成も導入され、走り始めている。

↑相模鉄道21000系は20000系の8両編成仕様。東急目黒線や、東京メトロ南北線、都営三田線への乗り入れ用の車両となる

 

↑都営三田線の新型6500形はこの春からの8両編成運転を見据えた車両。すでに東急目黒線内での試運転も始められている

 

さらに、都営地下鉄三田線にも6500形という8両編成の新型車両の試運転も始まっている。こちらは5月から運転も始められ、新線にも乗り入れることになりそうだ。ほかの鉄道会社も6両の8両編成化の準備を始めている。こうした各社の動きは、1年後の新線開業を見据えたもので、乗り入れのための準備がすでに始められていたわけだ。

 

新路線開業後、相模鉄道へは他私鉄の車両の乗り入れも行われるのだろう。自社とJR埼京線の車両だけでなく、他の私鉄車両も混じるようになり、相鉄線内はますます賑やかになりそうである。

 

【羽田空港アクセス線①】羽田空港のアクセスがさらに便利に!

ここからは東京都心と羽田空港を結ぶ「羽田空港アクセス線」の現状を見ていこう。計画自体は2000(平成12)年からあった。東京臨海高速鉄道りんかい線の東京テレポート駅〜羽田空港間を結び、大崎方面からのアクセスも可能とするプランだった。ところが、JR東日本が東京モノレールを子会社化したことから流れが変わり、新線計画は立ち消えになっていた。

 

その後、2020年に開催予定だった東京オリンピックに間に合わせる等の話がもちあがったものの、羽田空港内や、接続線の建設の難しさが予想されたことから、その話も立ち消えとなっていた。

 

紆余曲折があった羽田空港アクセス線の計画だったが、2021(令和3)年1月20日に、JR東日本が東京貨物ターミナル駅〜羽田空港新駅間第一種鉄道事業許可を取得したことから、より現実化。本年度中に着工され、2029年度ごろには運行が始まる予定だとされている。

 

新線が通じた後には東京駅から羽田空港までの所要時間は約18分で、浜松町駅で乗り換える現状と比べると10分前後の時間短縮となる。

 

この路線がたびたび新路線計画として持ち上がってきた理由には、休線となっている大汐線(おおしおせん)の施設がかなり流用できるからにほかならない。大汐線の現在をたどりつつ、将来開業する羽田空港アクセス線の姿を想像してみた。

↑田町駅のすぐ近く、札の辻橋から望む大汐線(左)と東海道新幹線の回送線。この先、臨海部を高架線と橋梁で通り抜ける(右上)

 

大汐線はかつて貨物駅だった汐留駅(しおどめえき)から浜松町駅、そして現在の東京貨物ターミナル駅まで至る路線の通称である。汐留駅はすでに再開発され線路も用地も消滅しているものの、田町駅付近からは延々と線路が敷かれたまま残っている。

 

新線はまず田町駅付近で、東海道本線の上下線の間に単線トンネルを掘って、線路を大汐線へ結ぶ予定だとされている。大汐線は田町駅付近から東海道新幹線の大井車両基地まで延びる回送線と平行して線路が延びている。現状、草木が生い茂る区間があるものの、素人目には整備すれば新線にすぐに転用できそうに見えるところが多い。

 

【羽田空港アクセス線②】東京貨物ターミナル駅の東側を走る予定

大汐線は、田町駅付近から高架橋や橋梁で品川区港南地区、京浜運河を越えて、品川南ふ頭の横を通りすぎる。首都高速道路湾岸線を越えた付近から、東京貨物ターミナル駅へ入っていく。

↑首都高速道路湾岸線の上にかかる旧大汐線の橋梁。一番左が東海道新幹線の回送線、その右に東京臨海高速鉄道の引き込み線がある

 

上の写真は都道316号線の北部陸橋からの眺めで、東京貨物ターミナル駅の北端付近にあたる。未整備区間がこのあたりまで続いている。敷地はふんだんにあり転用もかなり融通が効くように思われる。

↑北部陸橋から東京貨物ターミナル駅方面を見る。ちょうどJR貨物の入れ替え作業が行われていた。左はJR東日本の技術訓練センター

 

羽田空港アクセス線の線路の場所を想像してみる。東京貨物ターミナル駅の東側、今は東京臨海高速鉄道りんかい線の東臨運輸区(とうりんうんゆく/八潮車両基地とも呼ばれる)へ向かう線路が設けられているが、東京貨物ターミナル駅構内の線路と、りんかい線の線路のちょうど間に新線が通ると推定できる。

 

羽田空港アクセス線は東京駅方面だけでなく、りんかい線とのアクセスも可能にするプランもあるとされる。こうした線路の造りを見ると、りんかい線との接続も容易に感じられる。新線が開業した後には、りんかい線の新木場駅方面からの乗り入れも可能になるかもしれない。

↑東京高速臨海鉄道の東臨運輸区。左に将来の羽田空港アクセス線になると思われる線路もある。東京貨物ターミナル駅はこの左手にある

 

↑東京貨物ターミナル駅から羽田トンネルをくぐり川崎貨物駅へ向かう貨物列車。この付近で分岐、羽田空港へ新線が延びる予定

 

東京貨物ターミナル駅の南端で、羽田空港アクセス線は東に分岐し、トンネルで空港内へ入っていく。写真で見るように、草むしているものの臨海部の線路は多くの箇所で残されている。

 

ここが2022年度からどのように整備され、新線として仕立てられていくのか。筆者は何度もこの地域に通っているが、どのような姿に変貌し、将来どのように電車が走るのか楽しみでならない。

 

次からは他の新線計画の概略に触れていきたい。

 

【横浜市営地下鉄の延伸】川崎市内まで延びる横浜市の地下鉄

横浜市営地下鉄ブルーラインは湘南台駅(神奈川県藤沢市)と、あざみ野駅(横浜市青葉区)間の40.4kmを結ぶ。湘南台駅では小田急江ノ島線、相模鉄道いずみの線と接続、あざみ野駅では東急電鉄田園都市線とそれぞれ接続する。

↑横浜市営地下鉄ブルーラインの3000形。同線の車両は現在みな3000形で、導入時期で形式名が異なる。写真は3000Vと名付けられている

 

このブルーラインの路線を、あざみ野駅から小田急線新百合ケ丘駅まで延ばす計画が具体化しつつある。すでに2019(平成31)年1月23日に事業化が判断され、延伸先の川崎市と事業推進するための覚書が交換された。翌年には概略ルート、駅予定位置についても合意されている。延伸区間には4つの駅が新設予定で、横浜市に隣接する川崎市内初の地下鉄駅が設けられる。

 

終点となる新百合ケ丘駅は小田急電鉄の小田原線と多摩線の接続駅で、同線が完成すれば、多摩方面からの新横浜駅や横浜市内へのアクセスが画期的に改善されることになりそうだ。

↑小田急電鉄の新百合ケ丘駅の南口付近に横浜市営地下鉄の駅が生まれる予定。同線が開業すれば横浜へのアクセスが劇的に改善される

 

【有楽町線の延伸】新線の開業で臨海地域をより便利に

和光市駅(埼玉県和光市)と新木場駅(東京都江東区)間28.3kmを結ぶ東京メトロ有楽町線。同線の豊洲駅から東陽町駅を経て住吉駅を結ぶ4.8kmの鉄道事業許可の申請が2022(令和4)年1月28日、国土交通大臣宛に行われた。申請とは新路線の鉄道経営を行うために必要な手続きで、具体的な事業着手に向けた一歩となる。

 

その後、鉄道事業法第5条によって、国土交通大臣が審査の上、許可が出されて鉄道敷設免許が取得され、以降、建設工事へ進んでいく。

↑2021(令和3)年2月から走り始めた有楽町線17000系。有楽町線、副都心線や東急東横線にも乗り入れる。新線の主力ともなりそうだ

 

有楽町線が延伸されると、東陽町駅で東西線と、住吉駅で半蔵門線、都営新宿線と接続される。

 

豊洲駅は2020(令和2)年度の平均乗降人員は14万612人で、東京メトロ管内では新橋駅に次ぐ7位の乗降数がある。周辺の臨海地域は特定都市再生緊急整備地域にも位置づけられ、多くの再開発が進められている。現在、公共交通機関は有楽町線、ゆりかもめ、および都バスの利用が可能だが、増える利用者に対して、混むイメージが強まりつつあった。そうした豊洲駅から東陽町駅方面へ路線ができれば、より利便性が高まり、また混雑しやすい東西線のバイパス路線として活かされることにもなる。

↑有楽町線の豊洲駅。駅近くには高層ビルなどが多い。ゆりかもめの乗換駅でもあり、新しいアクセス路線の必要性が取りざたされていた

 

【南北線の延伸】リニア駅の開業に合わせて品川駅まで延伸を

有楽町線の延伸とともに鉄道事業許可の申請が行われたのが、東京メトロ南北線の品川駅〜白金高輪駅(しろかねたかなわえき)間2.5kmだった。

 

南北線は現在、目黒駅〜赤羽岩淵駅間の21.3kmを結ぶ。目黒駅から先は東急電鉄目黒線と、赤羽岩淵駅から先は埼玉高速鉄道との相互乗り入れを行う。また途中、白金高輪駅で都営三田線と接続、こちらの路線とも相互乗り入れを行っている。2023(令和5)年3月からは前述したように相模鉄道との連絡線「相鉄・東急新横浜線」が生まれる予定で、さらに利便性が高まる。

↑東京メトロ南北線の9000系5次車。南北線内だけでなく、東急目黒線、埼玉高速鉄道の路線にも乗り入れている

 

南北線と都営三田線の電車は、白金高輪駅で折り返し運転される列車も多いが、新線が延びたならば品川駅まで延伸されることになるのだろう。

 

品川駅は、東海道新幹線、東海道本線、山手線、京浜急行線など、さまざまな列車への乗り換えが可能な駅で、さらにリニア新幹線の起点ともなる予定だ。駅周辺は再開発も盛んで、ますます利用者が増えそうだ。そんな品川駅の将来を見すえた路線延伸計画と言えるだろう。

↑年々大きく変わりつつある品川駅周辺。南北線が乗り入れればより便利になりそうだ

 

【多摩都市モノレール】南へ!北へ!延びるモノレール路線

東京の西郊外は都心と郊外を結ぶ鉄道路線がほとんど。一方、南北に走る鉄道路線がなく、移動は路線バスに頼りで朝夕には一部の道路に車が集中して渋滞を起こりやすい。そんな鉄道空白地帯を少しでも埋めるために設けられたのが多摩都市モノレールだった。

 

多摩都市モノレールは上北台駅(かみきただい/東大和市)と多摩センター駅(多摩市)間16.0kmを結ぶ。路線が生まれたのは北側が先で、上北台駅〜立川北駅が開業したのは1998(平成10)年11月27日のことだった。2年後に多摩センター駅まで延伸している。当初は利用者が低迷し、経営不振に陥った。

 

開業10年後の2008(平成20)年4月に「多摩都市モノレール経営安定化計画」が策定。その後、同社の経営が徐々に安定していき、2001(平成13)年度、7万9815人だった1日平均乗客が、2017(平成29)年度には14万2498人にもなっている。

↑開業してすでに20年以上たつ多摩都市モノレール。鉄道空白地帯と呼ばれた地域の公共交通機関として役立てられている

 

多摩都市モノレールの開業前に発表された構想路線は計約93kmにもおよぶ。そうした構想の中でより現実化しているのが、上北台駅とJR八高線の箱根ヶ崎駅(西多摩郡瑞穂町)を結ぶ約6.7kmの区間だ。路線は上北台駅から、新青梅街道の上を走る計画が立てられた。同区間が通る新青梅街道は拡幅計画が進んでいて、その道路中央部をモノレールが走る予定となっている。

 

沿線には、東京都多摩地域の市部で唯一鉄道が走っていない武蔵村山市がある。また青梅街道、日光脇往還の宿場町として賑わいを見せた箱根ヶ崎も、立川と直接結ばれることになる。これらの街では一日でも早くモノレールが開業することが願われている。

↑JR八高線の箱根ヶ崎駅。かつては青梅街道と日光脇往還が交わる宿場町として栄えた

 

多摩都市モノレールの延伸区間として、より具体化し始めているもう一つの区間が、多摩センター駅と町田駅を結ぶ路線だ。この地域は多摩丘陵を越えるエリアで、モノレール路線向きの区間でもある。路線が走るのは町田市の北部地域となる。この地域は路線バス以外の公共交通機関がなく、鉄道空白地帯そのものだった。今年の1月28日に町田市の北部を己形にうねるように走る路線距離16kmのルート案が選定されている。

 

多摩センター駅から予定されるルート沿いには、町田市立陸上競技場、野津田高等学校、日本大学第三高等学校、小山田桜台団地、桜美林学園といった学校や公共施設、大きな団地も多い。これまで路線バスに頼らざるをえなかった地区で、周辺道路は朝夕、渋滞が常態化している。待望の路線の開通が見えてきたこともあって、地元では期待する声が日に日に高まっている。

 

とはいえ開業予定は未定とされている。開業までは今後10年程度の歳月が必要という声も聞こえてくる。

↑多摩都市モノレールが乗り入れる予定の町田駅。路線は駅の東側で小田急線を乗り越えて南側から町田駅に近づく計画に

 

今回は東京都、神奈川県で計画されている鉄道新線計画をまとめた。しかし、この新線計画の前に立ちふさがる障害も出てきている。それは新型コロナウイルス感染症の影響だ。この流行が起こり始め、すでに2年の月日が過ぎようとしている。自治体の財政ひっ迫が注視されているが、乗客の減少が著しくなった鉄道各社の経営も圧迫されるばかりだ。また鉄道運行にも関わる自治体の財政もひっ迫している。まずは感染症が終息しないと、という思いが鉄道会社にも自治体にも強いだろう。

 

日常が戻り、人々の暮らしが取り戻されて、それから新線計画となるのであろう。新線計画は夢があり、より人の動きを活発化させる効果もある。いち早く日常が戻ることを祈りたい。

 

今や希少!国鉄形機関車がひく「石巻線」貨物列車&美景を旅する

おもしろローカル線の旅79 〜〜JR石巻線(宮城県)〜〜

 

日本国有鉄道がJRとなり今年で35年。国鉄時代に生まれた車両も続々と引退に追い込まれている。少し前までは見向きもされなかった国鉄形車両が、いつしか減っていき注目される存在になっている。今回紹介する石巻線を走るDE10形式ディーゼル機関車(以下「DE10」と略)もそんな一形式だろう。

 

貴重になったDE10が走る石巻線。貨物列車ばかりでなく列車に乗って旅をしてもなかなか楽しい路線である。

 

*本原稿は2021年までの取材記録をまとめたものです。新型コロナ感染症の流行時にはなるべく外出をお控えください。

 

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コロナ渦のさなか1日も休まず走り続けた「鉄道貨物輸送」−−とても気になる11の秘密

 

【石巻線を巡る①】110年前に軽便鉄道として開業した石巻線

まずは石巻線の概略を見ておこう。

路線と距離 JR東日本・石巻線/小牛田駅(こごたえき)〜女川駅(おながわえき)44.9km、全線単線非電化
開業 1912(大正元)年10月28日、仙北軽便鉄道により小牛田駅〜石巻駅間27.9kmが開業。
駅数 14駅(起終点駅を含む)

 

石巻線は、まず仙北軽便鉄道として開業。当時の線路幅は762mmだった。仙北軽便鉄道だった期間は短く、1919(大正8)年4月1日に国有化、翌年には1067mmの線路幅の変更されている。現在、石巻まで仙台からJR仙石線(せんせきせん)が走っているが、こちらが石巻駅まで開通したのは1928(昭和3)年のことで、宮城電気鉄道という私鉄の路線だった。宮城電気鉄道も1944(昭和19)年に国有化されている。石巻線がいち早く国有化されたのは、太平洋に面した石巻港を重要視した国の政策もあったのだろう。

 

石巻線の終点、女川駅まで路線が延びたのは1939(昭和14)年10月7日だった。この区間にも前身となる鉄道が走っていた。1926(昭和元)年に石巻湊〜女川13.9km間を金華山軌道という軌道鉄道が走り始めている。こちらは石巻線が延伸されて約半年後の1940(昭和15)年5月3日に、廃線となっている。

 

石巻線の歴史で避けて通れないのは2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災の影響だろう。

 

震災後には全線が不通となり、約2か月後の5月19日に小牛田から石巻まで復旧している。仙石線の全線再開が2015(平成27)年5月末になったことを考えると、この復旧は石巻にとって大きかったに違いない。

 

さらに、2年後の2013(平成25)年3月16日に女川駅の一つ手前の浦宿駅(うらしゅくえき)まで復旧している。一方、女川駅付近の被害は甚大で、最後の区間の再開がなかなか適わず、仙石線の再開と同じ年、2015(平成27)3月21日に女川駅までの運転再開を果たしている。

 

【石巻線を巡る②】旅客用の主力車両はキハ110系

石巻線を走る車両を見ておこう。

 

主力はJR東日本のキハ110系である。キハ110系のなかでも100番台と200番台が石巻線の全区間を走る。いずれも小牛田運輸区に配置される。キハ110系100番台は普通列車用に設計された型番で、小牛田運輸区以外には郡山、新津、小海線と東日本の各地に配置されている。一方、200番台はマイナーチェンジ車。小牛田運輸区に配置された200番台は、陸羽東線・西線用で、山形新幹線が新庄駅まで延伸されたことに合わせて、増備された。

 

石巻線にも同200番台が走っているが、陸羽東線・西線の愛称が、〝奥の細道湯けむりライン〟また〝奥の細道最上川ライン〟と名付けられることから正面に「奥の細道」というロゴが入る。

↑石巻線を走るキハ110系200番台。この番台は陸羽東線・西線用の車両だが石巻線を走ることも多い。正面に奥の細道のロゴが入る

 

旅客用として入線するのがHB-E210系気動車だ。同車両は仙石東北ライン用の車両として造られ、2015(平成27)年5月30日、仙石線の路線再開に合わせて運転が始められた。運転開始にあたっては、仙石線と東北本線の間に接続線が設けられた。仙石線は直流で、東北本線は交流で電化されている。両線を通して走るために、ディーゼルハイブリッドシステムを活用したHB-E210系が開発されたのだ。

 

この車両が2016(平成28)年8月6日から石巻線の女川駅まで乗り入れている。とはいっても朝一番の女川駅6時発と、女川着22時19分着の最終列車のみの1往復と少ない。

↑仙石東北ライン用のHB-E210系気動車。石巻線では早朝と深夜運転の往復1本のみ同車両が使われる。写真は仙石線内

 

そのほかに、石巻線を走るわけではないが、石巻駅では仙石線を走る国鉄形通勤電車の205系を見ることができる。JRになってから改造された205系3100番台だ。

 

電動車モハは全車両が元山手線を走っていたもの。制御車のクハも元山手線や元埼京線の中間車サハ205形に、運転台を付け、また耐寒仕様に変更された車両だ。

 

205系は当時の国鉄が首都圏用に開発した車両で、山手線に1985(昭和60)年に最初に導入されている。その血を引き継ぐわけで、正面のデザインが変わったものの、年季が入った車両といっていい。

 

昨今、JR東日本では205系の引退を急いでいる。相模線、宇都宮線と新しい車両に置き換わりつつある。この春以降、残るのは鶴見線、南武支線などと、この仙石線ということになりそうだ。すでにE131系への置き換え情報も出てきており、仙石線の205系も数年中には置き換えが始まりそうだ。

↑仙石線の終点駅でもある石巻駅。仙石線は今や貴重な205系が走る路線でもある。水色塗装車のほかにラッピング車両も走る

 

【石巻線を巡る③】石巻線の貨物列車を牽くのはDD200とDE10

石巻線の貨物列車の牽引機について、ここで触れておこう。列車の牽引に使われるのが仙台総合鉄道部に配置されるDE10と、愛知機関区に配置されるDD200形式ディーゼル機関車(以下「DD200」と略)だ。

↑仙台総合鉄道部に配置のDE10-3001号機、2021(令和3)年11月13日の撮影の写真だが、2月初頭現在、走っておらず動向が気になる

まずは、DE10の生い立ちに触れておこう。生まれは1966(昭和41)年で、貨物駅での入れ替え、列車の牽引用にと万能型機関車として、1978(昭和53)年まで708両の車両が生み出された。国鉄からJRとなった後は、JR貨物ばかりでなく、JRの旅客各社に引き継がれ、今も旅客列車の牽引や事業用列車などに役立てられている。

 

とはいっても新しい車両でさえすでに40年以上の経歴を持つ古参となりつつあり、JR貨物、JR旅客会社それぞれ、後継車両への引き継ぎが行われつつある。

 

JR貨物のDE10が貨物列車を牽く路線は数年前までは複数あった。しかし、今は岡山機関区のDE10が山陽本線から水島臨海鉄道に乗り入れる貨物列車を牽引、また東京の拝島駅構内での米軍用の石油タンク車の牽引、また私鉄などの新車を牽く〝甲種輸送〟などに使われるぐらいに減ってしまっている(臨時利用や貨物駅の貨車入れ替え、臨海鉄道などに残るDE10を除く)。

 

石巻線の輸送には2月初頭の時点で2往復、DE10が使われているが、この列車も3月のダイヤ改正後にはどうなるか分からない状況になっている。

 

↑DD200が牽引する貨物列車。石巻線でDE10とともに列車の牽引にあたる

 

DD200は2017(平成29)年に導入された新型の電気式ディーゼル機関車で、貨物駅の貨車の入れ替え作業以外に、ローカル線での列車牽引も可能な仕様となっている。これまで各地のローカル線、貨物支線で行われてきたDE10による列車牽引も徐々に新しいDD200に引き継がれるようになっている。

 

【石巻線を巡る④】起点の小牛田駅で見ておきたいこと

ここから石巻線の旅を楽しむことにしよう。石巻線の起点は小牛田駅だ。同駅では東北本線と、陸羽東線に接続している。石巻線の乗り場は4番線ホームとなる。対面する3番線は東北本線の上りホームだ。

 

4番ホームの東側には側線があり、南には小牛田運輸区がある。ホームと東西自由通路からは、広い運輸区に停車する気動車や貨物列車が見渡せる。ここにはJR東日本が導入した事業用のレール輸送車、キヤE195系の姿を見ることも多くなっている。同車両はJR東海が開発したレール輸送車キヤ97系のカスタマイズ版で、2017(平成29)年の導入時には、こちらの小牛田運輸区に最初に配置された。そうした車両群を小牛田駅では確認しておきたい。

↑東西自由通路から見た小牛田運輸区、下にキハ110系2000番台が停まる。右下は小牛田駅の西口駅前

 

小牛田駅から走る石巻線の列車は1日に18本、そのうち4本が前谷地駅(まえやちえき)から気仙沼線の柳津駅まで走る列車、2本が途中の石巻駅行き、2本が前谷地行きとなる。終点の女川駅まで走るのは1日に11本で、1〜2時間に1本という間隔で運行されている。

 

所要時間は小牛田駅から石巻駅までは33分〜40分ぐらい、女川駅までは1時間15分〜30分といったところだ。

 

小牛田駅から12時42分発の石巻駅行き2両編成へ乗り込む。乗客は5割のシートが埋まる程度で空いていた。出発して間もなく、東北本線の線路から離れ、右にカーブして非電化区間へ入っていく。

 

小牛田駅の周辺に建ち並ぶ民家もすぐに途絶え、左右に水田が広がる風景が続く。このあたりは仙北平野で、銘柄米ササニシキ以外にも最近は、「金のいぶき」といった新しい米が開発され、栽培されている。

↑東北本線の線路から離れ右カーブする石巻線。駅の側線や運輸区から延びる線路とこの付近で合流。電化設備もここまで

 

【石巻線を巡る⑤】前谷地駅で気仙沼線とBRTに接続する

小牛田駅の次の上涌谷駅(かみわくやえき)付近からは国道108号が平行して走るようになる。国道108号は石巻と秋田県の由利本荘市を結ぶ2級国道で、石巻線に付かず離れず走っている。2つめの涌谷駅は石巻線のなかでも、石巻に次いで駅付近に民家が建ち並らび賑わいが感じられる駅だ。とはいっても無人駅なのではあるが。

 

小牛田駅から石巻駅までは高低の差があまりなく、ひたすら平野部を走る。車窓から見る風景は単調だ。涌谷駅周辺の賑わいが絶えると、再び水田風景が広がる。次は前谷地駅だ。この駅は東日本大震災後に大きく変わった駅の一つといって良いだろう。

↑石巻側から前谷地駅構内を見る。気仙沼線の乗換駅だったホームも今は閑散としている

 

↑前谷地駅前(左上)にあるBRT気仙沼線の乗り場。1日5本の気仙沼駅行きが発車する。気仙沼駅までは2時間20分ほどかかる

 

震災前は気仙沼線が気仙沼駅まで走っていて、石巻線との乗換駅でもあった。列車本数こそ少なかったものの、気仙沼駅発、涌谷駅、小牛田駅経由の仙台駅行きの快速列車が1日に2本が走っていた。いま、快速列車は走らず、みな普通列車のみだ。

 

しかも、気仙沼線の鉄道区間として残るのは前谷地駅〜柳津駅間のみで、走る列車は1日に9本だ。その先は気仙沼駅までBRT(バス・ラピッド・トランジット)化されている。一方で、前谷地駅前にはBRTの発着所が設けられ、ここから気仙沼行きのバスが5往復している。列車本数が少ない分、バスが補っているわけだ。

↑気仙沼線と石巻線の分岐ポイント。左が気仙沼線の線路。石巻線の線路をちょうど小牛田行きの列車が走ってきた

 

【石巻線を巡る⑥】石巻駅で仙石線と合流。さて駅前には

前谷地駅の先で気仙沼線と別れた石巻線は、再び広々した田園風景の中を走る。次は佳景山駅(かけやまえき)だ。この駅の先で左から少しずつ大きな堤が近づいてくるのが見える。

 

堤の規模から見て北上川の堤防なのかな、と思ったのだが、調べると旧北上川のものだと分かった。旧北上川と北上川の違いは後ほど触れたい。

 

鹿又駅(かのまたえき)、曽波神駅(そばのかみえき)と読みの難しい駅が続く。旧北上川の堤がさらに近づいてみえるようになり、高速道路の高架橋をくぐる。地図などでは「三陸自動車道」と記される自動車専用道だ。正式には「三陸縦貫自動車道」とされ、仙台市と岩手県宮古市を結ぶ。区間ごとに道路名が異なり分かりにくい道路だが、国道45号として運用され、大半の区間が無料の高速道路だ。同道路が全通したことから、宮城県から岩手県まで三陸海岸沿いの地域の復興工事がより円滑に進むようになっている。一方で平行する気仙沼線、大船渡線は鉄道路線としての復旧は断念され、BRT化された。

 

前谷地駅からはすでに石巻市内へ入っている。とはいえ、石巻の市街地は車窓から見えない。曽波神駅を過ぎるとようやく、民家が増えてくる。右から仙石線の高架が近づいて、合流すると間もなく石巻駅へ到着する。

↑石巻線の石巻駅。駅前には石ノ森章太郎氏の漫画作品のキャラクターを模したモニュメントが飾られている

 

↑石巻駅の3番線に停車する石巻線の列車。向かいには貨物列車が機関車の機回しのために入線していた

 

石巻駅で降りると気がつくことがある。石巻線の貨物列車が入っていることと、駅舎の正面などに漫画家の石ノ森章太郎氏が生んだキャラクターのモニュメントが飾られていることだ。石ノ森章太郎氏は宮城県の登米市(とめし)出身。石巻市内には石ノ森萬画館という記念館(漫画ミュージアム)があることから、こうしたモニュメントが飾られているのだ。

 

ちなみに、東日本大震災の際に石巻線の沿線では曽波神駅から石巻駅、さらに東側の陸前稲井駅が沿って流れていた旧北上川へ津波が遡上し、さらに渡波駅(わたのはえき)が海辺だったこともあり、浸水被害にあっている。

 

【石巻線を巡る⑦】車窓から眺める万石浦の景色が素晴らしい

石巻駅を出発すると間もなく石巻湾に流れ込む旧北上川を渡る。非常に大きな河川で、こちらが北上川の本流と勘違いしてしまうほどだ。

 

現在、北上川は気仙沼線の柳津駅と一つ手前の御岳堂駅(みたけどうえき)の間に架かる北上川橋梁付近で、本流と旧北上川が分岐。本流は石巻市の北東にある追波湾(おっぱわん)へ流れ込んでいる。

↑石巻市街側から望む旧北上川。川幅の広さに圧倒される。本流は追波湾に流れる側なのだが

 

旧北上川橋梁を渡り、堤防を降りると間もなく陸前稲井駅だ。このあたりはまだ内陸の趣だ。大和田トンネルを越えると、石巻湾に面した渡波地区となる。線路は海に向かって降りて行くとともに、大きくカーブして渡波駅へ到着する。渡波駅からは再び丘陵部に近づいていき万石浦駅(まんごくうら駅)、沢田駅と走る。この沢田駅から次の浦宿駅(うらしゅくえき)までの、万石浦沿いを走る区間が石巻線で最も車窓景色が素晴らしい。

↑万石浦に沿って走る石巻線の列車。穏やかな内海で、車窓からの眺めが楽しめる

 

万石浦は、砂嘴(さし)の伸長などによって、入り江が湖となった海跡湖(かいせきこ)とされる。万石浦の場合は渡波付近の砂嘴が伸びていき湖が生まれた。とはいえ、今も石巻湾とは水路がつながっている。豊かな自然が残り、アマモ、アサクサノリ、ウミニナといった絶滅危惧種が生息する地でもある。海苔やカキの養殖も盛んだ。

↑万石浦の北東端にある浦宿駅に停車する石巻線の列車。浦宿駅はホーム一つの小さな駅だ

 

【石巻線を巡る⑧】震災で大打撃を受けた女川だったが……

前述したように浦宿駅までは東日本大震災後、2年で営業再開された。ところが、次の女川駅までの路線復旧は4年後の2015(平成27)年3月21日となる。不通だった期間には、浦宿駅前にバス停が設けられ、女川駅まで代行バスが運行されていた。

 

浦宿駅を発車した列車は国道398号沿いを走り、徐々に堤を上がっていく。女川トンネルを通り抜けたら右カーブ、間もなく終点の女川駅へ到着する。

↑現在の1面1線の女川駅のホーム。以前のホームから200mほど内陸に移動され設けられた

 

この女川駅は、以前の場所から変更されている。震災前には今よりも200mほど海側にあった。駅前には多くの建物があり、賑わいを見せていた女川地区を最大14.8mの大津波が襲う。ちょうど女川駅に停車していた気動車は遠く山の上の墓地まで流された。

 

そんな女川駅もきれいに造り直されている。昔の駅があったエリアは「シーパルピア女川」というショッピングモールに模様替えされ、ショップや飲食店が建ち並ぶ。その向こうには穏やかな女川港が見通せる。

↑女川駅の駅舎には日帰り温泉の「女川温泉ゆぽっぽ」が設けられ、駅前に足湯もある(左)。足湯が利用できない時もあり要注意

 

新しい駅舎には町営の「女川温泉ゆぽっぽ」が館内にある(2月現在一部の施設のみ営業中)。実は旧駅舎に隣接して同じ名前の施設があった。この施設の駅側には朱色の国鉄形気動車キハ40系518号車が停められていて車内は休憩所として利用することができた。このキハ40系も数100m流され、横転し、無残な姿になってしまった。そうした被害の状況をあらためて見聞きし、大震災の怖さを改めて痛感させられた。

↑女川駅の駅舎から望むシーパルピア女川。このちょうど中ほどに旧女川駅があった。その先に女川港が見える

 

↑シーパルピア女川の「地元市場ハマテラス」には干物を販売する店も。天日干しする磯の香りに思わず引きつけられる

 

きれいに造り直された女川の街をぶらり散歩、磯の香りを楽しみしつつ、女川駅に戻り、上り列車に乗り込んだ。さて次は石巻駅へ戻り、貨物列車の動きに注目してみよう。

 

【石巻線を巡る⑨】貨物列車は仙石線経由で石巻港まで走る

石巻線では主に紙製品を積んだコンテナ貨車を連ねた貨物列車が走っている。列車本数は6往復で、荷物が多いときには1往復の臨時便が増便される。

 

石巻線の貨物輸送がどのように行われているか、DE10の動きをメインに見ておこう。

 

DE10が牽引する列車は次のとおり。

 

◇下り1655列車:小牛田11時12分発 → 石巻11時50分着・12時50分発 → 石巻港13時1分着

◇上り654列車:石巻港13時57分発 → 石巻14時9分着・14時41分発 → 小牛田15時39分着

◇下り655列車:小牛田16時51分発 → 石巻17時38分着・17時57分発 → 石巻港18時8分着

◇上り1656列車:石巻港18時44分発 → 石巻18時57分着・19時29分発 → 小牛田20時8分着

 

この4本がDE10の牽引列車だ。655列車と1656列車は夕方発および夜間の列車なので、この季節に、追うことができる列車は1655列車と654列車のみと言って良いだろう。

↑石巻駅で発車を待つDD200牽引の貨物列車。同駅構内で機関車の機回しが行われる

 

石巻駅で下り・上り列車とも、発着にだいぶ時間をかけているのは、これは石巻駅構内で進行方向を変えるためで、機関車を機回しするために必要とする時間だ。小牛田駅から走ってきた下り列車は、石巻駅へ着いたら機回しして進行方向を変更する。次に仙石線を一駅区間のみ走り、陸前山下駅から貨物支線を走り石巻港(貨物駅)へ向かう。

↑陸前山下駅から分岐する貨物支線を走るDE10牽引列車。この支線沿線では東日本大震災時の津波の高さを示す表示が多く見られる

 

石巻港には日本製紙石巻工場が隣接する。積むのはほとんどが同工場で生産される紙製品だ。この地域も東日本大震災による津波の被害を受け、貨物列車の運転再開も1年半後の2012(平成24)年10月のこととなった。

 

貨物支線の沿線を訪れると、各所に「津波浸水深」という津波がこの高さまで来たことを示す表示が多く掲示されていた。住宅地のいたるところにこの表示があり、こんなところにまで津波が届いたのかと驚かされた。

 

【石巻線を巡る⑩】より貴重!映える国鉄色のDE10

石巻線の貨物列車は日曜日に運休となる。そのせいなのか土曜日に沿線を訪れる鉄道ファンの姿が目に付く。とはいっても、首都圏のように人気の列車が走ると多くの鉄道ファンが集まるようなことはなく、静かなものだ。

 

石巻線で鉄道ファンが目立つのは国鉄当時の塗装を残した「原色」塗装のDE10が走る時だ。DE10にはJR更新色と呼ばれる塗装と、古くからの「原色」塗装のままの車両がある。やはり国鉄色の方が人気が高いようだ。

↑JR貨物更新色と呼ばれる塗装のDE10-1120号機。同機は残念ながら昨年に引退となっている

 

石巻線を走るDE10の最新動向を見ると次のDE10が使われている。1539号機、1591号機、1729号機、3507号機、3510号機の5両だ。このうち1591号機、3507号機、3510号機が原色機だ。

 

筆者が訪れた時に出会ったのが3510号機だった。佳景山駅〜前谷地駅間の水田が広がるところで貨物列車の通過を待ち受けた。そして撮影したのが下の写真。国鉄形、しかも国鉄原色ということで、撮影後の充実感に久々に満たされた。国鉄形はやはり〝映える〟と思う。さらに原色機ならではのカッコ良さが感じられる。そんな余韻を胸に前谷地駅から帰りの列車に乗車したのだった。

↑石巻線を走る国鉄原色DE10は貴重になっている。コンテナ貨車を牽く姿は見映えが良いと感じた

 

 

三セク鉄道の優等生「甘木鉄道」の気になる10の逸話

おもしろローカル線の旅78〜〜甘木鉄道(福岡県・佐賀県)〜〜

 

地元で〝甘鉄〟と呼ばれ親しまれる福岡県の筑後地域を走る甘木鉄道は、旧国鉄の路線を引き継いで生まれた。第三セクター方式で運営する路線の多くが運営に苦しむなか、経営状態も良好で〝三セク鉄道の優等生〟と呼ばれることもある。実際、どのように列車を走らせているのか、現地を訪れ、列車に乗車して確かめてみた。

 

*本原稿は2021年までの取材記録をまとめたものです。新型コロナ感染症の流行時にはなるべく外出をお控えください。

 

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【気になる甘鉄①】朝倉軌道という妙な鉄道が走っていた

東日本では「あまぎ」といえば、伊豆の天城峠を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。九州では旧甘木市(現在は隣接の町と合併して朝倉市に)であり、甘木鉄道であろう。まずは概略を見ておこう。

 

路線と距離 甘木鉄道甘木線/基山駅〜甘木駅13.7km、全線単線非電化
開業 1939(昭和14)年4月28日、国有鉄道甘木線、基山駅〜甘木駅間が開業。
駅数 11駅(起終点駅を含む)

 

↑甘木鉄道の路線と周辺のマップ。路線図は甘木鉄道の駅などに掲載されているもの。乗り換えなど非常に分かりやすくできている

 

筑後地域には甘木鉄道が走り出す前まで、複数の軌道路線があった。朝倉軌道、中央軌道、両筑軌道(りょうちくきどう)といった軌道線である。「軌道」を名乗るように、道路上を走る路面電車の路線だ。3社の中でも朝倉軌道の名前は、今も好事家の間で語り継がれている。朝倉軌道は現在のJR二日市駅から甘木(場所は現在の駅より北にあった・上記のマップ・甘木バスセンターの位置)を経て杷木(はき)の間32.2kmを走った軌道線で、かなり妙な鉄道会社だった。

 

鉄道の路線は、国の認可を受けて敷設、変更、また車両を導入する。ところが、この朝倉軌道は国への届け出がいい加減で、車両なども平気で書類と違うものを造り、走らせてしまうこともしばしば。転車台も無許可で導入してしまった。当然、行政指導を受けるわけだが、それも無視といったことを続けていた。だが、1908(明治41)年の路線を開設以来、30年余にわたり事故の記録が残っていないところを見ると、安全管理面はしっかりしていたようだ。

 

甘木線が開業する直前の1939(昭和14)年4月24日に運輸営業停止と補償を申請して、8月21日には運行休止、1941(昭和16)年7月16日には補償金を得ている。国をさんざん悩ませておいて、最後はちゃっかりと補償金を受け取って会社を解散させてしまうという、なかなかの〝猛者〟だった。

 

筑後地域を走った3つの軌道会社は甘木線の開業後すべてが廃止された。ちなみに朝倉市内には〝筑前の小京都〟と呼ばれる旧城下町・秋月があり、戦前は両筑軌道が秋月まで走っていたが、今はバス路線に変わっている。

 

【気になる甘鉄②】甘鉄と愛される鉄道の本来の歴史を見る

余談が長くなったが、甘木鉄道の歴史を見ておこう。

 

甘木鉄道のルーツ、国鉄甘木線は太平洋戦争前に路線が開設されている。この時期は、国が戦備増強に追われていた時期で、同線の開業もそうした側面を持つ。

 

現在の太刀洗駅(たちあらいえき)の近くにあった陸軍の大刀洗飛行場への輸送力を増強するためという側面があった。路線の建設は1935(昭和10)年に決定され、わずか4年後には路線が敷かれた。路線は太刀洗止まりでなく、筑後地域の中心でもある甘木まで造られた。

 

国鉄時代の1981(昭和56)年に第1次特定地方交通線に指定され、廃止が承認。1984(昭和59)年には路線内の貨物輸送が消滅、先細り傾向が強まった。そして、1986(昭和61)年4月1日に第三セクター経営の甘木鉄道に転換された。

↑甘木駅前の交差点に「甘鉄駅前」の文字が(左上)。表示を見ても甘鉄の名が浸透していることが分かる。朝倉市内ではバス運行も盛んだ

 

甘木鉄道への出資は、路線が通る朝倉市、筑前町、基山町といった自治体と、沿線に工場があるキリンビールなどが行っている。通常、三セク鉄道に多い県の出資は福岡県(経営安定基金の拠出のみ)も佐賀県も行っていない。このあたり非常に珍しいケースである。

 

【気になる甘鉄③】8両すべての車体カラーが異なる

甘鉄を走る車両を見ておこう。車両はAR300形7両とAR400形1両の計8両。みな2000年代に入って富士重工業(途中から新潟トランシス社に移管)で新造された。片側2扉、全長は18.5mというややコンパクトな気動車だ。AR400形は同形車で、イベント用として造られたが、現在は他車と連結し、AR300形と同様に運用されている。

↑AR300形AR305は国鉄の急行形気動車と同じクリームと赤の2色で塗られている

 

楽しいのが、全車塗装が異なること。国鉄当時の一般形気動車の塗装や、急行形気動車の塗装、さらに沿線の高校の生徒さんがデザインした車両など、変化に富む。いろいろあって、見ているだけでも楽しい。

 

なお、同鉄道の車庫は終点の甘木駅にあり、日中は、この車庫内に停車している車両も多いので、一気に見たいという時には甘木駅を訪れることをお勧めしたい。筆者が訪れた時には甘木鉄道の〝標準色〟とされるAR301が検修施設に入り整備されていた。

↑甘木鉄道を走る車両をまとめてみた。下の列車のようにAR300形とAR400形が連結して走ることも珍しくない

 

↑右列が国鉄当時のカラーで塗られた車両。上のAR303が一般形気動車の塗装、下が急行形気動車の車体カラー

 

↑甘木駅の検修施設に入庫していたAR301。こちらが甘木鉄道の標準色で、他の車両も当初はこの車体色に塗られていた

 

【気になる甘鉄④】起点となる基山駅のとても簡素な入口

ここからは起点の基山駅から甘木鉄道の旅を楽しんでみよう。

 

列車の本数は多い。平日は42往復で、みな全線を通して走る。土曜・休日はやや減便され下り34往復となる。通勤通学客に対応すべく平日は増便し、朝夕は最短15分間隔、日中も30分間隔で列車が走る。地方の三セク鉄道としては非常に便利な路線と言ってよいだろう。

 

起点はJR鹿児島本線の基山駅で、同駅は佐賀県の基山町にある。同駅のJRの改札を出て、階上にある自由通路を国道3号方面へ向かったところに甘木鉄道の乗り場があるはずなのだが……。

 

JRの改札口側から見ると、それらしき入口がすぐには分からなかった。近づいてみて、上に小さな案内と、その右にこじんまりとした降り口の階段があることに気がついた。意外に目立たない入口だったのである。

 

JR基山駅のホームは1〜3番線、国鉄当時は4番線が甘木線のホームだったそうで、今もJR駅に平行してホームがある。だが、最初に見当たらないと錯覚したように簡素である。何番線という表示もない。同鉄道の駅員も不在の無人駅だ。

 

同鉄道を巡って良く分かったのだが、この鉄道会社は徹底的に無駄をそぎ落としている。反面、利用者に直接関わってくるサービスには力を入れていることが分かった。基山駅もそんな一面を持つ駅で、とにかく簡素だった。

↑基山駅の西口駅舎。東側には国道3号が通る。西と東を結ぶ自由通路に甘木鉄道のホームへ降りる階段がある

 

↑基山駅の自由通路から見た甘木鉄道のホーム。ホームは2両分の長さで、日中は気動車1両が基山駅〜甘木駅間を往復している

 

訪れた時にホームに停車していたのは国鉄急行形塗装のAR305だった。国鉄色とは〝これは幸先が良いかな〟と思い乗り込む。同駅を朝6時33分に発車する〝2番列車〟だった。始発駅では、座席の5割程度という乗車率だった。

 

しばらく鹿児島本線と平行して鳥栖駅方面へ走る。上り坂をあがって国道3号を高架橋で越えた。

 

【気になる甘鉄⑤】小郡市の玄関駅・小郡駅も西鉄の駅と比べると

基山駅から発車した列車はしばらく工場や倉庫が建ち並ぶ一帯を走る。次は立野駅。ここは九州自動車道のちょうど真下にある駅で、甘木鉄道が生まれた翌年に駅が設けられた。高速道路の高架橋が屋根代わりという、なかなかユニークな造りの駅だ。

 

三セク転換とともに、複数の新駅が設けられ、利用者の増加につながっている。こうしたことがなぜ国鉄時代にできなかったのか、不思議に感じるところでもある。この駅までが佐賀県内の駅で、次の駅からは福岡県内に入る。

 

立野駅を発車して間もなく、列車は大原信号場で停止した。全線単線の甘木鉄道では、こうした信号場や駅で上り下り列車の交換を行う。大原信号場は基山駅側にある最初の列車交換のための施設だ。停車した後に、すぐに基山駅行きの列車が通り、下り列車もそれに合わせて信号場を発車、次の停車駅へ向かった。

 

大原信号場は2003(平成15)年4月に開設されたもの。15分ヘッドという密度の濃い運転を可能にするために設けられた。信号場開設のために地元・小郡市(おごおりし)から土地が提供されたという。地元も甘木鉄道をより便利にするため、こうした協力を惜しまなかったわけである。

 

さて、次の駅は小郡駅。その名の通り地元の小郡市の玄関口にあたる駅だ。

↑小郡駅は高架にある。ホームは一本、駅入口と階段があるのみの簡素な駅だ

 

↑西鉄天神大牟田線の線路上を走る甘木鉄道のAR303。西鉄小郡駅の方が規模は大きい(右下)

 

この小郡駅は西鉄天神大牟田線の西鉄小郡駅に近く、乗り換えに利用する人が多い。帰りに立ち寄ってみたが、2駅間の距離は約200mで徒歩3分ほどと近い。こちらは幹線の駅ということで立派だ。西鉄小郡駅の規模に比べると小郡駅は簡素そのものだった。

 

【気になる甘鉄⑥】平行して走る高速バスとの乗り換えも便利

小郡駅では多くの学生たちが乗車してきた。ちょうど朝、通学するのに使う列車だったのである。この駅の特長は、ホームの目の前に高速道路の高架橋が平行して延びていること。大分自動車道の高架橋だ。次の大板井駅(おおいたいえき)まではわずかに700mの距離しかない。

 

実はこの大板井駅のすぐ目の前には高速バスの大板井バスストップがある。大板井駅は甘木鉄道に転換した翌年の開業だ。バス停方面の階段も設けられる。

↑大分自動車道を平行して走る甘木鉄道。この写真の先に大板井駅がある

 

駅と高速バス停が近いことを同鉄道ではしっかりPRしている。路線図には、高速バスのバス停が近いことを表示し、さらに列車の中でも「高速バス乗り換えの方は次でお降りください」とアナウンスしている。

 

駅などの施設は簡素だが、利用者を考えた対応を細かくしている。こうした配慮があれば、同線に初めて乗る人でも、まごつく心配がないだろう。

↑小郡駅から今隈駅(写真)まで甘木鉄道の路線は大分自動車道とほぼ平行して走っている

 

【気になる甘鉄⑦】太刀洗駅の駅名のいわれは?

松崎駅、今隈駅(いまぐまえき)と徐々に乗客が増えてくる。車窓には畑が見えるようになってきた。

 

西太刀洗駅(にしたちあらいえき)、山隈駅(やまぐまえき)と進行方向の左側には広々した畑が広がる。そして太刀洗駅(たちあらいえき)に到着した。入口は小さいが、無人駅ながら駅舎も残る。

 

駅舎の前、その頭上には元航空自衛隊の練習機T-33が飾られている。また駅舎内は「太刀洗レトロステーション」という民間の展示施設(有料)になっていた。

↑太刀洗駅(右上)の駅前から南側を望む。国道500号を挟んだ先には「大刀洗平和記念館」がある

 

太刀洗駅の南側、駅前を通る国道500号の先には筑前町立の「大刀洗平和記念館」がある。戦前にこの地にあった大刀洗飛行場の概要や、終戦間際に行われた特攻隊の出撃、さらに特攻攻撃に用いられた陸軍九七式戦闘機などが展示されている。

 

同施設の南側にはキリンビールの福岡工場がある。こちらの工場は大刀洗飛行場の跡地に造られたそうだ。ちなみに、同工場は見学が可能で、ビールのテイスティング体験なども楽しめる。

 

なお地元の町名は大刀洗町となっている。明治期、官報に村名が誤記載され、それ以来、「太刀洗」と「大刀洗」の2通りの地名が混在しているのだという。

 

さて、太刀洗という文字を見るに〝いかにも〟という駅名なのだが、どのようないわれがあるのだろうか。

↑太刀洗駅を発車するAR304。後ろには脊振山地(せふりさんち)が見えた

 

大刀洗の地名は、文字が示すように刀を洗ったという伝説を元にしていた。歴史をひも解くと、14世紀にこの地で南北朝時代、九州史上最大の合戦と言われる「筑後川合戦」があった。南朝、北朝が地元の豪族たちを巻き込んで行われた戦いで、総勢10万人というからなかなかの規模の戦いだったようだ。その戦いで南朝方の武将、菊池武光が川で刀に付いた血のりを洗ったことから大刀洗になったのだという。

 

大刀洗の言われよりも、この地で10万人という軍勢がぶつかった戦いがあったことに興味を覚えた。

 

【気になる甘鉄⑧】甘鉄の路線に近づいてくる線路は?

太刀洗駅まで来ると、もう終点が近い。各駅で多くの中高生が乗車してきたのだが、その様子にちょっと驚いた。乗車する中高生たちは、非常に静かだった。コロナ禍ということもあったのだろうか。みな進行方向を向き、車両の通路に列を作って整然と立っていた。学校の指導方針が浸透しているのかも知れない。

 

太刀洗駅の次の駅、高田駅を過ぎると、県道を立体交差するために設けられた堤を上る。上りきると、右から線路が一本見えてきた。大きくカーブして甘木鉄道の線路に近づいてくる。一度近づいた線路なのだが、交差や平行することもなく再び遠ざかっていく。

 

この線路は西鉄甘木線で、西鉄天神大牟田線の宮の陣駅と甘木駅間の17.9kmを走る。

↑高田駅〜甘木駅間を走る列車。手前の線路が西鉄甘木線の線路。このように近づいた線路だが、また離れて終点の甘木駅へ向かう

 

線路はこの先で小石原川を渡り、鉄橋を通りそれぞれの終点駅、甘木駅へ向かう。

↑前述の甘木鉄道と西鉄甘木線が最も近づく箇所のすぐ東側にかかる小石原川橋梁。この橋梁を渡れば終点の甘木駅までもうすぐだ

 

【気になる甘鉄⑨】風格ある造りの終点・甘木駅に到着した

起点の基山駅から27分ほどで終点の甘木駅に着いた。朝の列車だったこともあり、中高生が多く乗車していたが、降りる時にも騒ぐことなく静かに降りて行く。そのほとんどが、駅舎を通らずにホームの先へ向かい、車庫の横を通りすぎて、学校へ向かう。日々、歩き慣れた道といった趣だ。

 

よそから来た人間にとって、鉄道の敷地との境界がはっきりしない場所を通ることに違和感を感じたが、地元の人たちにとって、これが当たり前のルートのようだった。

↑甘木鉄道の甘木駅。駅舎内に同鉄道の本社がある。鉄印もこちらで扱われる。甘鉄で唯一の有人駅だ

 

甘木駅の駅舎は甘木鉄道の路線内ではもっとも立派だ。実は11駅ある甘木鉄道の駅で唯一の有人駅なのである。徹底して合理化されているわけだ。

 

この甘木鉄道には「甘木鉄道を育てる会」という応援グループもある。本部は甘木鉄道にあるものの、選任の職員はおらず一般会員(ボランティアスタッフ)により運営されている。「のりたい甘鉄」というホームページを設け、沿線さまざまなガイドを行っている。さらにイベント、七夕列車などの運行支援、清掃活動などの多技の活動をしている。

 

こうした活動を見ると地元では〝私たちの甘鉄〟といった思いを強く感じる。乗って支えるという意識が地元の人たちに強いように思った。

↑こちらは西鉄甘木線の甘木駅。甘木駅は西鉄の駅の方が簡素だ。右下は西鉄甘木線で運行される西鉄7000形

 

甘木駅に降りたあと、西鉄の甘木駅を訪ねてみた。甘木鉄道と西鉄の甘木駅は約200m離れている。歩けば3分の距離だが、どちらも「甘木駅」だ。小郡駅のように、甘木鉄道が小郡駅、西鉄が西鉄小郡駅と変えているようなことは、こちらではない。

 

ちなみに、西鉄の甘木駅は1921(大正10)年12月8日に三井電気鉄道という会社の駅として誕生した。1942(昭和17)年に西日本鉄道(西鉄)に合併、同社の駅となっている。

 

国鉄甘木線の開業よりも前なので、駅名も変えなかったのかも知れない。国鉄の甘木線開業当時には甘木駅は「あまき」と読んだそうだ。西鉄の駅との違いを強調したかったのだろうか。とはいえ、「あまき」は地元からも受け入れられなかった様子で、5か月後に「あまぎ」に改称されている。このあたりの経緯も興味深い。

 

甘木駅から西鉄福岡駅(天神)へ両鉄道を使った場合の差を見てみよう。甘木鉄道を利用した場合には52分(列車乗車のみの時間)、対して西鉄甘木線を利用した場合は1時間11分(前記と同じ)かかる。乗り継ぎがよければ、西鉄甘木線でも所要時間はあまり変わらないが、駅近辺の人の動きを見ると、甘木鉄道への乗客の方がより多いように見えた。

↑甘木駅構内にある車庫。右に検修庫とともに給油施設などが設けられている

 

【気になる甘鉄⑩】甘木駅前に「日本発祥の地」の碑があった

甘木鉄道甘木駅の駅前に立派な碑が立っていた。碑には「日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ」とある。日本発祥の地というのは本当なのだろうか?

 

卑弥呼は倭国の女王とされている。倭国とは2世紀ごろ、古代中国で呼ばれた日本の国の名前だ。碑の横に案内があって次のような解説があった。

 

要約すると、高天原は邪馬台国で、甘木朝倉地方にあり、その女王、卑弥呼は天照大神(あまてらすおおみかみ)とされるとある。邪馬台国がどこにあったかは諸説ある。解説には大和朝廷の前身は九州にあった邪馬台国で、それが東遷したとあった。

↑甘木駅前に立つ「卑弥呼の里」の碑。右に立つ案内に、甘木朝倉地方こそ邪馬台国であったことが解説されている

 

邪馬台国がどこにあったのかは、九州説、畿内説あり、どちらも絶対とする証拠は出てきていない。日本の歴史のミステリーとなっている。甘木駅前でこのような碑に出会うとは想定外だった。想定しないこととの出会いも旅の楽しさだと改めて感じたのだった。

いよいよ運転開始!世界初DMV路線「阿佐海岸鉄道」を探訪した【後編】

おもしろローカル線の旅77〜〜阿佐海岸鉄道(徳島県・高知県)〜〜

 

2021(令和3)年12月25日、待望のDMV(デュアル・モード・ビークル)が、阿佐海岸鉄道を走り始めた。世界初の鉄道運行システムがどのようになされているのか。さらにどんな乗り心地なのかを、見て、乗って、さらに南の室戸市まで週末に1本のみ走る〝特別列車〟も追ってみた。

 

【関連記事】
いよいよ運転開始!世界初のDMV導入へ!「阿佐海岸鉄道」を探訪した【前編】

 

【初DMVの旅⑥】走る〝列車〟は1日に15往復

まず、DMVのダイヤを見ておこう。運行されるのは「阿波海南文化村」と「道の駅宍喰温泉(みちのえきししくいおんせん)」の区間で、このうち阿波海南駅〜甲浦駅(かんのうらえき)間が鉄道モードで走る区間となる。そのほか土日祝日のみ、通常の走行区間から、室戸市の「海の駅とろむ」まで行く便が1本まである。

↑鉄道モードで走るDMV車両。開業した2021(令和3)年のクリスマスの週末は好天に恵まれ多くの来訪者で賑わった

 

1日の運行本数は15往復で、朝6時台から夕方18時台まで。日中は、およそ1時間に1〜2本が走る。鉄道路線区間では下り上り〝列車〟の行違い交換ができないため、日中は列車間隔が空いてしまう時間帯が多少あるものの、およそ均等なダイヤに造られている。さらに終〝列車〟は「道の駅宍喰温泉」19時5分着と、夜には運行しないという〝割り切った〟ダイヤが組まれた。

 

DMV導入前のダイヤは、下りが1日19本、上りが1日に18本と、現在よりも多かった。とはいうものの一部区間のみの運行という列車もあり、全列車が全区間を走ったわけではなかった。夜は20時台まで運行されていたが、朝夕の列車の間隔はほぼ現在と同じと見ていいだろう。

 

ちなみに、DMV導入後の阿波海南駅でのJR牟岐線の列車との接続だが、日中の一部に乗り継ぎしにくい列車があるものの、朝夕はスムーズに乗り継ぎできる設定になっている。

↑阿波海南鉄道のDMV車両が走る区間のマップ。土日祝日のみ室戸市内(左上)まで走る

 

【初DMVの旅⑦】DMVのモードチェンジにみな興味津々

DMVの一番の特長といば、バスから鉄道車両へ、また鉄道車両からバスへ変更されることだ。この変更を阿佐海岸鉄道では「モードチェンジ」と呼んでいる。実際にモードチェンジはどのように行われているのか見ることにした。

 

モードチェンジの模様を見るために訪れたのは阿波海南駅。JR牟岐線との接続駅である。駅舎の横には、発着する〝列車〟の停留所が設けられ、サーフボードの形をしたバス停の表示が立つ。鉄道の駅というよりもバス停という趣が強い。

↑阿波海南駅の停留所。こちらは甲浦駅方面への乗り場で、このあとモードインターチェンジへ入る

 

筆者が訪れた日は運行開始2日目の日曜日ということもあり、どのような乗り物なのか見物に訪れた人も多かった。〝列車〟はほぼ満席に近い状態で動いていた。1台に乗車できる乗客は21人と少なめなこともあり、運行開始当初はほぼ予約で埋まった〝列車〟も多かった。

 

阿波海南駅の停留所の奥にバスから鉄道車両へ変更する「モードインターチェンジ」がある。DMV車両は始発停留所の「阿波海南文化村」からここまでタイヤで走行し、阿波海南駅で鉄の車輪を出して鉄道車両へと変わる。

↑阿波海南駅の「モードインターチェンジ」。ここで線路が終了するという「車止標識」が付く。右にはJR牟岐線の車止めが見える

 

バスモードから鉄道モードへ変更する「モードインターチェンジ」。先が細くなった形の走行路になっており、バスとして走ってきたDMV車両が、ややずれて進入したとしても、車両はほぼ線路の上に導かれる構造となっている。

 

阿波海南駅の「モードインターチェンジ」の横には「撮影スポット」という立て札のある〝見物スペース〟があり、モードチェンジの様子を見ることができる。

↑日曜日の午前中から多くの人が阿波海南駅を訪れていた。どのようにDMVが動くのか、みな興味津々で見守っていた

 

【初DMVの旅⑧】鉄道モードへ変更する様子を見る

阿波海南駅の停留所で乗客を乗せたDMV車両がモードインターチェンジへ進み、停止位置の標識が立つところで停車する。そしてモードチェンジを行う。

 

ややエンジン音が高まり、下から鉄の前輪がせりあがるように出てくる。この前輪が下の線路に付くと、さらに突っ張るように動き、それにつれて車体の前方が徐々に持ち上がっていく。

↑DMVがモードインターチェンジに入り、徐々に鉄の前輪が出てくる様子。車体がだいぶ持ち上がったことが分かる

 

前輪を出して車体が持ちあがるまで約15秒。この時に後輪も同時に出てくる。少しすると運転士が右のドアを開けて出てきた。何をするのか注目していると、後ろに回って後輪がしっかり線路に載っているかをチェック、また前にまわって前輪がレールの上に間違いなく載っているかをチェックしていた。

 

モードチェンジが済んだらすぐに走り始めるのではなく、指さし確認をしていたのだ。これは現地に行かなければ、気がつかないことだった。

↑モードチェンジ終了後、鉄の車輪がしっかり線路に載っているかどうか、外に運転士が出て〝指さし確認〟をしていた

 

↑DMVの後輪がレール上に載った様子。駆動用の後輪タイヤよりも鉄の車輪が後ろにある

 

このチェックが済むと準備完了だ。モードチェンジ自体は15秒ながら、さまざまな確認作業や、マイクロバスがベースのDMVのため運転士のシートベルトを着脱するなどの行程がある。計測してみるとモードインターチェンジに進入してから約2分15秒でDMVは走り始めた。

 

走り出すと鉄道車両のように車輪がレールの上を走る音、さらに〝たん、たん〟と線路のつなぎ目をわたるシンプルな音が聞かれた。

【初DMVの旅⑨】バスモードへの変更はあっという間

鉄道モードからバスモードに変更される時はどのような様子なのだろうか。

↑阿波海南駅のモードインターチェンジで、鉄道モードからバスモードへの切り替えの様子。あっというまに車輪が収納された

 

こちらはいたってシンプルだ。駅が近づくと、いったん停車。そして「モードインターチェンジ」にゆっくりと近づき、入り口にある停車位置で車両を停止して、鉄輪を収めていく。この収める時間が約10秒、停止位置に止まって、モードチェンジ、さらに走り始めるまで約50秒で済んだ。

 

バスモードに変更した後は、タイヤでの走行となるため、レールに載ったかどうか、確認する作業は必要ないこともあり、運転士が外に出ることはない。このあと車両は停留所へ移動する。

 

バスモードから鉄道モードへ変更する時間よりも、鉄道モードからバスモードへ変更する時間の方が圧倒的に短くシンプルであることが良く分かった。

↑甲浦駅のモードインターチェンジで、鉄道モードからバスモードへ切り替える。見学できるように元ホーム(右)への階段が開放されている

 

【初DMVの旅⑩】乗った人たちの声と地元の盛り上がり

期待を背負って導入された日本最初のDMVだが、乗車した人の感想や地元の盛り上がりはどうだったのだろう。まずは乗車した人の声から。長野県から鉄道を乗り継いで来たという男性。

 

「何度も乗ったからちょっと飽きたかな」となんとも贅沢な答え。聞くと前日のDMVが走り始めた日の午後に訪れ、すでに3回乗車したそう。「でも、新しい乗り物に乗車できたから満足です」とのことだった。

もう1人、徳島市からやってきたという女性にも話を聞いてみた。家族は車で移動し、当人のみDMVに乗車したのだという。「初めて乗ってみましたが、なかなか面白い乗り物ですよね」と楽しそうに話す。乗車した後は、先回りした家族にピックアップしてもらう予定だとか。ご主人や息子さんよりも先に乗ったのだという。〝鉄道愛〟を感じる女性だった。

 

東京からお遍路サイクリングで四国を回っているという30代の男性もいた。DMVが走り始めたというので、どのような乗り物なのか甲浦駅へ立ち寄ったのだという。モードチェンジをする様子をカメラに収め、満足した様子。「旅のいい思い出になりました」と笑顔で立ち去った。

↑DMVが出発する阿波海南文化村の停留所(左上)には横断幕やのぼりが多数つけられていた

 

受け入れる側の沿線はどのような状況だったのだろう。バスとして走る区間にある3か所の停留所には写真のような横断幕やのぼりが多く立てられて、「世界初のDMV」ということが盛んにPRされていた。

 

徳島県海陽町の「阿波海南文化村」や「道の駅宍喰温泉」、また高知県東洋町の「海の駅東洋」といった停留所には、おそろいのキャップと、ウインドブレーカーを着た地元の女性たちが乗客を出迎えていた。話を聞いてみると婦人会の方々とのこと。

 

「自分たちが出迎えても、あまり役立たないかもしれませんが、少しでも盛り上げることができたなら」ということだった。注目されることが少ないエリアだけに、世界初の自慢の乗り物が導入されて誇らしいという気持ちとともに、少しでもPRに協力したいという気持ちが地元に生まれているのだろう。こうした面でDMV導入は〝正解〟だったと言えそうだ。

 

訪れた日は走り始めたばかりの週末ということもあり、ほぼ満席で走っていた。「発車オーライネット」という予約システムも稼働していおり、ネットで事前予約した人が大半を占めていた。天気に恵まれたこともあり、乗客以外にも多くの人が訪れ、DMVの運行を見守る人も目立った。

↑終点となる「道の駅宍喰温泉」に到着した乗客を地元の人たちが出迎えていた

 

【初DMVの旅⑪】DMVに実際に乗ってみて感じたこと

当日すぐに乗ろうと思ってもなかなか乗車できなかったDMVだったが、なんとか乗車できないか停留所にいた係の人や運転士に聞いてみた。すると、道の駅宍喰温泉発の〝列車〟で運良く1席が空いているという。

 

ということで乗車したのは緑の2号車・DMV932、ニックネームは「すだちの風」。指定された席は通路側、マイクロバスということもあり、やや席は狭い印象だ。天井部分には沿線の小学校の子どもたちが描いた絵が多く飾られている。

 

乗車したDMV車両は「道の駅宍喰温泉」を12時3分に出発。まずは国道55号を走る。左に見えるのは太平洋。青くまぶしい海だった。約5分で次の「海の駅東洋町」に到着した。ここでも地元の女性たちが、出迎え、見送りをしていた。同停留所を12時9分に発車する。

 

次の停留所は甲浦駅だ。ここからは鉄道路線を走る。停留所から専用スロープを上っていく。このスロープは鉄道車両ではとても登れないような急坂で、このあたりがDMVの強みだろう。鉄道施設用として造るスロープよりも、よりコンパクトに造ることができそうだ。

 

DMVはモードインターチェンジで停まり、バスモードから鉄道モードに変更される。さてどのような動きをするのだろう。変わるのを待っていると車内にアナウンスが流れた。

 

「鉄道モードにモードチェンジを行います」。続いて英語の解説が流れる。「モードチェンジ!」の声とともに、ソレソレ、セイヤ、セイヤの掛け声とお囃子が車内に流れる。お囃子で盛り上がったところで突然に「フィニッシュ!」のアナウンスが。最初の「モードチェンジ!」の声からここまで25秒だった。

 

ちなみに、モードチェンジの時に流れた徳島名物の阿波踊りふうのお囃子は、地元・徳島海陽町の高校の郷土芸能部が演奏した太鼓ばやしが使われている。なかなか軽妙で楽しい。

 

モードチェンジの様子を外から見た時には、車体の前方がかなり持ち上がった印象だったが、乗ってみると、傾きはさほど感じられなかった。その後、運転士が外に出て鉄の前後輪が線路の上に載っているかどうか、指さし確認をした後に走り出した。

↑宍喰駅のDMV用ホーム。高さが低く、また車両とホームの間を埋めるように踏み台が出され乗り降りしやすい構造となっている

 

出発はスムーズで、徐々にスピードを上げていく。線路のつなぎ目では2軸の鉄輪独特な〝たんたん〟という音がする。乗り心地は、道路上よりも良い。道路の上では、道路上の凹凸などを拾ってしまうこともあり、悪路にさしかかるとバス特有のややバウンドする印象があったが、鉄路上ではそうした揺れを感じさせない。

 

間もなくトンネルへ入った。暗いトンネル内では運転士の後ろにある映像モニターが良く見え、地元の観光案内などが流されていた。

 

甲浦駅を12時14分発、次の宍喰駅までは7分ほどだ。途中、ストップボタンが押される。DMVは路線バスのように次で降りたい人はストップボタンを押す仕組みになっている。とはいっても停留所や駅が少ないのですべて停車するのだが。

 

「間もなく宍喰、宍喰」のアナウンスが流れると、進行左側に旧車庫があり2020(令和2)年11月30日で運行終了したASA-301が停められているのが見える。

 

穴喰駅のホームはDMVの床の高さに合わせて、低いホームが従来のホームに続くように設けられていた。DMVの乗降口部分から踏み台が出てきて、乗り降りしやすい構造になっている。

↑有人駅の宍喰駅はDMV用のホームが設けられたものの、駅舎の変更はない。近くに旧車庫や本社事務所もある

 

↑宍喰駅では多くの記念品を販売していた。鉄印も同駅で扱われる。記念乗車券と鉄印を購入したらDMV導入を祝う粗品をいただいた

【初DMVの旅⑫】土日祝日一便の室戸へ行くバスを追ってみた

今回、筆者は宍喰駅までしか乗車できなかったが、もう少し乗りたいなと思った。そこで、土日祝日のみ運行される1本のみ、高知県東洋町の「海の駅東洋町」から国道55号を南へ走り室戸市へ向かう特別な〝列車〟を車を使って追いかけてみた。

 

「海の駅東洋町」の先は太平洋の海岸線に沿って走る。距離はかなりあり、次の「むろと廃校水族館」までは約28km、約37分。「海の駅東洋町」を11時27分に発車した〝列車〟は「むろと廃校水族館」に12時4分に到着する。

↑「海の駅東洋町」から室戸へ向かう国道55号沿いから見た海景色。こうした素晴らしい海岸の眺めが室戸市まで続く

 

「むろと廃校水族館」は廃校になった小学校を利用した水族館で、多くの海水魚が飼育されている。この次の停留所が「室戸世界ジオパークセンター」で、12時10分着。室戸はユネスコの世界ジオパークネットワークへの加盟が認定されていて、この「室戸世界ジオパークセンター」では、室戸という土地のなりたちや、室戸の産業や文化を詳しく紹介している。

↑「室戸世界ジオパークセンター」には大きな停留所があり、同区間を走る路線バスなども多く発着している

 

ここまでは室戸市の太平洋側の停留所で、この先の「室戸岬」からは土佐湾側を走ることになる。次の「室戸岬」へは約6.4km、9分ほどの距離があり、12時19分に到着する。停留所から室戸の突端にある室戸岬灯台へ徒歩4分ほどの距離だ。ちなみに、同停留所からは土佐くろしお鉄道の安芸駅(あきえき)や奈半利駅(なはりえき)方面への路線バスが1時間1〜2本間隔で走っていて便利だ。

 

DMVの終点はこの「室戸岬」ではなく、次の「海の駅とろむ」(「むろと」でなく「とろむ」なので注意)で、12時24分に到着する。「海の駅東洋町」から約1時間かかった。

↑国道55号から港へ入ったところにある「海の駅とろむ」。高速バスターミナルがあり(左下)、走行開始した週末はイベントも催された

 

「海の駅とろむ」は室戸岬漁港に面した施設で、高速バスターミナルがある(2021(令和3)年3月末に、営業していたレストランや直売所が営業休止している)が、ちょうど開業に合わせて、海の駅内には臨時のブースが多く出され、開業イベントで盛り上がっていた。

 

【初DMVの旅⑬】DMV登場でわく阿佐海岸鉄道へ行く手段は

DMVが走り出した阿佐海岸鉄道だが、乗りに行くとしたらどのような交通手段があるのだろう。

 

高知県の東端、また徳島県の南端にある同エリア。高知駅からは甲浦駅まで車で約2時間半、距離は室戸経由で112kmある。徳島駅から阿波海南駅までは約1時間40分で約75km。高速道路は一部区間しか開業していないため、国道55号をひたすら走らなければならない。運転していると遠さを感じる道のりだ。

 

公共交通機関があまり便利ではないこともあり、レンタカーを利用する方が多くなるかと思う。ちなみに、土佐くろしお鉄道ごめん・はなり線の安芸駅には駅レンタカーが用意されていて、この駅からならば室戸経由で約75km、1時間30分ほどで甲浦駅へ着くことができる。

 

この地域に行くアクセスとして、鉄道の利用より便利なのが大阪からの高速バス(徳島交通が運行)だ。大阪の南海なんばから阿佐海岸鉄道の各駅を通る高速バスが1日に4便出ている。このバスを利用すれば大阪・南海なんばからは海部駅まで約5時間、高速舞子バス停からは約3時間半で着くことができる。

 

阿佐海岸鉄道が走るエリアでは徳島バスの路線バスも走っている。沿線で写真を撮りたい時などの移動に便利だ。牟岐〜甲浦駅前間で13往復が運行され、通勤・通学の利用者が多い朝夕の本数が多い。地元の病院や学校を経由していて、暮らしに密着したバス路線でもある。

↑甲浦駅前から発車する牟岐駅行きの路線バス。病院や学校を経由して走ることもあり利用する地元の人も多い

 

高知県側からも高知東部交通の路線バスが甲浦岸壁(海の駅東洋町を経由)〜室戸営業所間を1日7往復走っている。なお、DMVが週に1回、往復する終着の停留所の「海の駅とろむ」は、前述した大阪・南海なんば発の高速バスが4本中、1本のみが向かい、折り返す停留所となる。この海の駅からバス等はほかに発着していない。

 

「海の駅とろむ」は前述の通り営業休止状態になので、DMVを高知県の室戸市側から利用する時には、一つ手前の「室戸岬」停留所で地元を走る高知東部交通のバスに乗り換えたほうが良さそうである。

 

DMVの整備に関しては「観光活用による沿線地域活性化」「地域公共交通の拡充」「災害時の交通インフラ」という意味合いが大きい。公共交通が脆弱な地域だからこそ補完する意味合いが大きいように感じた。

 

走り始めたばかりのDMV車両。最初は物珍しさから訪れる人も多いことだろう。長い間走り続けているうちに、課題も出てくるだろうが、長い目で見守るべき乗り物のように感じた。

 

いよいよ運転開始!レールと道路を走る世界初のDMV路線「阿佐海岸鉄道」を探訪した【前編】

おもしろローカル線の旅76〜〜阿佐海岸鉄道(徳島県・高知県)〜〜

 

徳島県と高知県をつなぐ阿佐海岸鉄道に2021(令和3)年12月25日、待望のDMV(デュアル・モード・ビークル)が走り始めた。世界初のレール上と道路を走ることができる〝鉄道車両〟の導入である。実際にどのように線路や道路を走っているのか、走り始めたばかりの阿佐海岸鉄道を訪ねた。

 

【関連記事】
世界初の線路を走るバス・DMV導入へ!「阿佐海岸鉄道」の新車両と取り巻く現状に迫った

 

【初DMVの旅①】これまでの阿佐海岸鉄道の歴史をチェック

まずは、阿佐海岸鉄道の歴史を見ておこう。

 

阿佐海岸鉄道は、日本鉄道建設公団が建設を始めていた阿佐線がルーツとなる。阿佐線は高知県の後免駅(ごめんえき/土讃線と接続)から室戸を通り、徳島県の牟岐駅(むぎえき)へ至る路線として計画された。予定線となったのは古く1922(大正11)年のこと。

 

長らく手付かずのままだったが、太平洋戦争後の1957(昭和32)年に調査線となり、その後に工事が始まり、1973(昭和48)年10月1日に徳島県側の牟岐駅〜海部駅(かいふえき)間が国鉄の牟岐線として開業した。1974(昭和49)年4月には海部駅〜野根(現在の高知県東洋町野根・野根中学校付近)の間の阿佐東線(あさとうせん)の工事が着手。1980(昭和55)年2月には海部駅〜宍喰駅(ししくいえき)のレール敷設が完了した。

 

ところが、当時、国鉄の経営状況はかなりひっ迫していた。レール敷設は完了したものの、その年の暮れ12月27日には日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が公布され、阿佐東線の工事は凍結されてしまった。

 

工事が進められていた阿佐東線の受け皿となったのが阿佐海岸鉄道である。徳島県・高知県および地元自治体などが出資し、1988(昭和63)年9月9日に第三セクター方式の会社が設立された。

↑阿佐海岸鉄道のASA-100形「しおかぜ」。開業当初に導入された車両で、2020(令和2)年11月30日に運用終了となった

 

当初予定されていた野根までの線路の敷設は適わなかったものの、1992(平成4)年3月26日に海部駅〜甲浦駅(かんのうらえき)間8.5kmの営業を開始した。DMV導入前は、朝のみJR牟岐駅までの乗り入れも行われていた。

 

ちなみに、阿佐線の高知県側の路線は、土佐くろしお鉄道が受け皿となり、後免駅〜奈半利駅(なはりえき)間42.7kmのごめん・なはり線(阿佐線)として2002(平成14)年7月1日に開業している。

↑ASA-300形「たかちほ」。元は九州の高千穂鉄道の車両だったが、同鉄道が災害により廃線となり、阿佐海岸鉄道に譲渡された

 

DMV導入前の阿佐海岸鉄道の所有車両はASA-100形とASA-300形の2両。ちなみにASA-200形という車両もあったのだが、衝突・脱線事故により2008(平成20)年に廃車となっている。また事故後、車両が足りなくなった時にはJR四国から車両を借り入れていた。

 

DMV導入のために、2020(令和2)年10月31日でJR牟岐線の阿波海南駅と海部駅1.5km区間の列車運行が終了し、翌11月1日に同区間は阿佐海岸鉄道の路線に編入された。11月30日には阿佐海岸鉄道のASA-100形とASA-300形が運行を終了。

 

阿佐海岸鉄道の旧車両はその後、解体されることなく、今もASA-100形が海部駅構内に、ASA-300形は宍喰駅近くの旧車庫に停められている。

↑2020(令和2)年秋までJR牟岐線の終点駅だった海部駅。阿佐海岸鉄道はこの駅が起点駅でJR線の乗換駅として利用された

 

↑阿佐海岸鉄道開業後、長らく終点駅だった甲浦。写真はDMV導入前で、ホームは階段を上った高架橋上にあった

 

【初DMVの旅②】2019年秋に導入車両が公開

阿佐海岸鉄道が走る阿佐東地域は、近年過疎化が進み、路線開業時に年17万6893人の乗車数があったのに対して、2019(令和元)年には乗車数は5万2983人まで落ち込んでいた。さらに鉄道路線に沿って路線バスも走っている。難しい経営環境である。廃線という道筋もあった。

 

ただ、路線がある徳島・高知両県にとって、いざという時のために交通インフラを維持しておきたい思惑があった。阿佐海岸鉄道の路線の大半が高架区間を走っている。平行する道路は国道55号しかなく、しかも、海岸に近いところを走っている。将来起こることが懸念されている「南海トラフ地震」で、四国沿岸は震度6クラスの揺れ、そして10m前後の津波が予測されている。そうしたいざという時のために、路線を存続させる道が探られた。

 

とはいえ、鉄道車両を維持するためにはかなりの経費がかかる。新たな車両導入となると億単位だ。経費を削減した上で、鉄道を存続できないか。定員100名といった規模の気動車は必要としない。小さくて手ごろな価格の車両がないだろうか? そんな時に浮かび上がってきたのがDMV導入案だった。

 

DMVはかつてJR北海道が導入を計画し、第1次〜第3次試作車を製造。JR北海道の路線だけでなく、静岡県の岳南鉄道(現・岳南電車)や、天竜浜名湖鉄道などでの走行テストが続けられていた。JR北海道では2015(平成27)年に導入を予定していたものの、当時、JR北海道管内で事故が多発するなどの諸問題が続いていたこともあり、導入を断念した経緯がある。

 

阿佐海岸鉄道は、このDMVを初めて実用化しようと考えたのだった。2017(平成29)年2月3日、「阿佐東線DMV導入協議会」が徳島市で開かれ、DMV導入計画が承認された。

↑徳島県の阿佐海南文化村で公開された時のDMV車両。赤青緑の3台が並んだ

 

長年、研究が続けられてきた技術だけに、車両が造られるのは意外に早かった。承認された2年後の2019(令和元)年10月5日には車両の報道公開までに至っている。3台が並ぶ写真は、その時の模様である。

↑前輪を出したDMV車両。前輪タイヤが浮いた状態まで車体が持ちあがる様子が分かる

 

車両はトヨタ自動車のマイクロバス「コースター」がベースとされている。コースターの市販車の価格はおよそ660万円台〜1030万円。日野エンジニアリングアネックスがシャーシを改造強化、さらに車体を東京特殊車体が改造し、NICHIJOが軌陸装置を担当した。

 

こうした車両製作費を「阿佐東線DMV導入協議会」は3両で約3.6億円〜3.9億円と見込んでいた。ちなみに、JR北海道で最近導入した新型電気式気動車のH100形は1両2億8000万円とされている。DMV車両は初もので、少量用意したことで高くついたものの、3両造ってこの金額だから、かなり割安となった。さらに、鉄道車両はメンテナンス代がかなりかかる。DMVのメンテナンスはマイクロバス+αで済むわけで、小さな鉄道会社にとってメリットも大きい。

 

車両を導入した2019(令和3)年から、DMVの導入に合わせた駅の改良工事なども進められた。「阿佐東線DMV導入協議会」では駅舎の改築に約2.8億円、信号設備等の整備に約3.6億円の概算事業費を見込んでいる。

 

一方、初のDMV導入の話題性により、新規利用者は年1万4000人増、経済波及効果は年2億1400万円と予想している。このあたり、どのような成果が出るかは非常に興味深い。

↑阿佐海岸鉄道の終点・甲浦駅では改良工事が進められた。訪れた2019(令和元)年10月には、アプローチ道路工事が行われていた

 

国内で初めて営業用として運行されるDMVだけに、国土交通省のチェックなどもだいぶ時間がかけられた。2021(令和3)年7月のオリンピック・パラリンピック開催に合わせていたが、テストの結果、前輪可動部「車輪アーム」の強度不足などがみつかり(その後に補強対策がとられた)、12月からの運行開始となった

 

なお、DMV車両と鉄道車両が混在して走ることは許されていない。阿佐海岸鉄道の線路はDMV車両専用としてのみ使われる。

 

【初DMVの旅③】DMVとはどのような車両なのだろう?

導入されたDMVはどのような車両なのかを見ておこう。形式名は「DMV93形気動車」とされた。

 

3両が導入され、1号車が青色のDMV-931で愛称は「未来への波乗り」。車体には宍喰駅の「伊勢えび駅長」がサーフィンしている様子が描かれる。阿佐東地域でサーフィンが盛んなことにちなむ。

↑阿佐海岸鉄道の車両DMV93形の1号車。愛称は「未来の波乗り」とされた。鮮やかなブルーの車体に楽しいイラストが描かれる

 

2号車は緑色のDMV-932で愛称は「すだちの風」。徳島県阿波の名産すだちを表現。県鳥のしらさぎが空高く舞い上がる様子が車体に描かれる。

 

3号車は赤いDMV-933で愛称は「阿佐海岸維新」。高知県出身幕末の英雄・坂本龍馬と南国土佐の輝く太陽が車体に描かれている。

 

それぞれ乗客用座席数は18名で、立席3名、乗務員1名の定員22名となっている。動力はディーゼルエンジンで、最高運転速度は70m/hだ。

↑ベースがマイクロバスということもあり座席数は18名。運転席の後ろに運賃箱、乗降口に整理券の発行機を設置(左上)

 

次の写真が線路上を走るDMV車両を横から撮影したところだ。これを見ると前後に鉄の車輪が車体から出され、線路上を走ることが分かる。鉄輪はガイド用で、レールから外れないための装備で、かつ駆動するゴムタイヤへの圧力を調整する役割も備えている。

 

駆動輪となるのが、後輪のタイヤ。DMV車両の後輪タイヤは2本あるダブルタイヤになっている。この内側のタイヤがレールに密着し、タイヤの駆動により、車両は前へ進む。このあたりは、保線用に使われる軌陸車用の中型トラックの構造と同じだ。

↑DMV-931が線路上を走る様子。これを見ると前輪タイヤがかなり上がっていることがよく分かる

 

線路沿いでDMV車両が走る音を聞いてみた。多くの鉄道車両はレールのつなぎ目を走ると、1両が2軸+2軸の計4軸のため、〝だだーん、だだーん〟という音がする。DMV車両は、鉄輪が2軸で、車重が軽めのためか、〝たんたん、たんたん〟と軽やかな音が聞こえた。初めて聞く音なだけに不思議、かつ新鮮に感じた。

 

【初DMVの旅④】DMVが走る路線をたどった

阿佐海岸鉄道のDMV車両は、どのようなルートで運行されているのか、全線をたどってみよう。

◆阿波海南文化村

北は徳島県海陽町の「阿波海南文化村」から出発する。「阿波海南文化村」は地元で発掘された大里古墳の復元などを展示、また「海陽町立博物館」も併設されている。海陽町の文化交流施設といって良いだろう。この文化村前にしゃれた待合スペースが設けられた。ここではバスモードとして走る区間なので、やや大きめのバス停という趣だ。

 

バスモードで走る区間の〝停留所〟それぞれには、サーフボードの形をした〝バス停の表示〟が立ち、そこに時刻などが掲示されている。

 

DMV車両はこのバス停を発車、約1.0km先にある、阿波海南駅へ向かう。

↑阿波海南文化村のDMV発着場所。屋根付きの待合スペースが設けられ、ドリンクの自動販売機も用意された

 

◆阿波海南駅

〝バス〟は約4分で阿波海南駅に到着。国道55号を走った車両は、阿波海南駅前で右折して駅構内に進入し、駅舎横に作られたアプローチ道路を登って〝駅〟に到着する。元はこの駅の一つ先の海部駅がJR牟岐線との接続駅だったのだが、DMV導入後は阿波海南駅が接続駅とされた。その理由としては、アプローチ道路が造りやすかったことがあげられるだろう。隣の海部駅は高架駅で、アプローチ道路を造るとなると大規模な工事が必要となる。反面、阿波海南駅は地上駅で、国道沿いにあり、DMV車両が線路に入りやすい構造だった。

 

元は阿波海南駅〜海部駅間はJR四国の線路だったのだが、DMV導入のために同区間が阿波海南鉄道に編入されたのは、こうした駅の構造による。

↑国道55号側から見た阿波海南駅。右がJR牟岐線のホーム入口で、左が駅舎。この奥にDMVの乗り場が設けられた

 

↑阿波海南駅止まりとなったJR牟岐線の列車。徳島駅から阿波海南駅まで2時間〜2時間30分ほどかかる

 

阿波海南駅の駅横に設けられたアプローチ道路を登ったDMV車両は、駅舎に隣接する下り列車の乗り場に到着する。造りはバス停そのもの。サーフボードの形をしたバス停の表示が立つ。ここで乗客が乗降し、そのあと、「モードインターチェンジ」に進入する。「モードインターチェンジ」の様子は次回の【後編】で詳しく紹介したい。

↑DMV車両の乗り場はJR牟岐線の阿波海南駅ホームの横に設けられた。ホームからはスロープを降りれば乗り場で、非常に便利だ

 

この阿波海南駅のモードインターチェンジ区間の横には、広々した撮影スポットも設けられている。また駅の隣接地には駐車場スペースも新たに設けられた。観光客を強く意識して施設が設けられているのだろう。

 

ちなみにJR牟岐線の線路と、阿波海南鉄道の線路は同じ軌間幅1067mmだが、線路はつながっておらず、同駅ホームの先に牟岐線の車止めが設けられている。

↑阿波海南駅のモードインターチェンジ(右)横には撮影スポットも設けられた。訪れた日には観光客も多く立ち寄って見物していた

 

◆阿佐海岸鉄道 阿佐東線

DMV車両は阿佐海南駅でモードチェンジしてバスから鉄道区間へ入る。阿佐海岸鉄道の路線は、DMVが走る前は海部駅〜甲浦駅を結ぶ8.5km区間だったが、阿波海南駅〜海部駅間が、阿佐海岸鉄道の路線に組み込まれたため、現在は10kmとなっている。

 

阿波海南駅から次の海部駅までは1.4km、海部川をわたればほどなく海部駅に到着する。海部駅〜宍喰駅間が6.1kmと同路線では一番、駅と駅が離れた区間だ。この間は地形が険しくトンネルが15本もある。トンネル間は海が望める区間だ。

 

なお、既存の海部駅と宍喰駅のホームは改造され、DMV車両に合うように低床用のホームが設けられた。

↑海部駅〜宍喰駅間を走るDMV車両。鉄道区間は他の車に邪魔されることもないので、スムーズに走る

 

宍喰駅から鉄道区間の終点、甲浦までは2.5km。この駅の間で車両は徳島県から高知県へ入る。鉄道区間10kmをモードチェンジの〝作業〟も含め21分で走る。

 

鉄道区間に〝列車〟が入るときは、下りのみ、上りのみの運行という走り方をしている。ちなみに線路上に複数の〝列車〟が走る場合には、下り、上りともに前の〝列車〟の12分後に、次の〝後続列車〟が走るという運行方法をとっている。よって途中駅で列車交換は行われない。

 

運賃は5kmまで210円だったものが、200円とやや割安となった。〜7.0kmは250円が300円に、〜9km区間280円が400円と、距離が長くなるほど割高になる。鉄道区間10kmを乗ると500円となる。金額は車内で精算しやすいように100円単位とした。なお〝列車〟の走行区間、阿波文化村〜道の駅宍喰温泉を乗車すると800円かかる。

↑DMV車両を後ろから見る。レール上を走る姿はマイクロバスそのもの。線路上を走る姿がなかなか興味深い

 

◆甲浦駅

鉄道区間の終点となる甲浦駅。筆者はこれまで3度ほど駅を訪ねたことがあるが、この駅の造りも大きく変更された。阿佐海岸鉄道の4駅中、最も形が変わった駅と言ってよいだろう。

 

この駅には鉄道モードからバスモードに変更するモードインターチェンジが設けられている。元駅は高架橋にあったので、地上の道へ降りるアプローチ道路が設けられた。

↑元駅ホームの横をDMV車両が走る。こののちモードチェンジが行われアプローチ道路(左上)を降りる

 

↑アプローチ道路の下に造られた甲浦停留所。一般車が間違って入らないようにゲートが設けられている

 

甲浦駅の駅舎はリニューアルされてきれいになり、駅舎内に売店も設けられた。駅近くに店がないところだけに非常に便利だ。

 

今回のDMV導入と合わせて、駅にはシェアサイクルも用意されるようになった。スマホを利用してのレンタルが可能で、沿線に複数のベースが設けられているので〝列車〟+サイクリングという楽しみ方もできそうだ。

↑停留所の横にある甲浦駅の駅舎。舎内には売店も設けられた。DMV車両が上り下りするアプローチ道路が上を通る

 

【初DMVの旅⑤】DMVの強みを生かしてその先まで走る

甲浦駅を終点とせずDMV車両の利点を生かして、先のポイントまで走るようになった。全〝列車〟が地元の観光拠点まで走る。どのようなポイントまで走るのか見ておこう。

 

◆海の駅東洋町

甲浦駅から約1.2km、走行時間3分ほどで次の「海の駅東洋町」へ到着する。この駅は甲浦駅と同じ高知県東洋町に位置する。東洋町は高知県の最東端にある町で、太平洋に面している。「海の駅東洋町」も施設名どおり海に面していて、停留所から海が望める。

 

海の駅では東洋町で水揚げされた鮮魚や加工された干物、農産物も販売されている。高知県の東の玄関口でもあり、県内の土産物も販売されている。地元のぽんかんを使った「ぽんかんソフト」が名物だ。

↑太平洋を望む「海の駅東洋町」の停留所。サーフボード型のバス停表示が2本立つ。海の駅(左上)にはレストランも設けられる

 

この停留所が終点ではない。ほとんどの〝列車〟は終点となる「道の駅宍喰温泉」へ向かう。また土・日・祝日には1日に1往復のみだが、「海の駅東洋町」から室戸市へ向かう〝列車〟もある。この室戸市へ向かう〝列車〟に関しては【後編】で詳しく触れたい。

 

◆道の駅宍喰温泉

今回のDMV導入では「道の駅宍喰温泉」が南側の終点とされた。海の駅東洋町から約3.5km、5分で到着する。

 

この路線ルートの興味深いところなのだが、甲浦駅、「海の駅東洋町」は、高知県の東洋町にある。ところが終点となる「道の駅宍喰温泉」は徳島県海陽町で、〝列車〟の起点の「阿南海南文化村」も徳島県海陽町だ。〝列車〟は一度、高知県東洋町へ入り、また海陽町に戻るルートとなっているのだ。

↑「道の駅宍喰温泉」へ到着したDMV車両。道の駅内には「ホテルリビエラししくい」(左後ろ)や温泉施設も設けられる

 

「道の駅宍喰温泉」は国道55号沿線で拠点となっている規模の大きな道の駅施設だ。道の駅には観光案内所、売店、海陽町の産品直売所のほか、ホテル、日帰り温泉施設が設けられている。同エリアの人気観光施設となっている。

↑「道の駅宍喰温泉」から国道55号へ入るDMV車両。道の駅は太平洋に面していて美しい海景色が楽しめる

 

次週の【後編】ではモードインターチェンジでの車両の動きや、乗車した時の模様、さらに土・日・祝日のみ運行される室戸市側の受け入れの模様などをお届けしたい。

鉄道ゆく年くる年…開業、運転再開、新車導入ほか2022年はこんな年になる

〜〜2022年 鉄道のさまざまな出来事を予想〜〜

 

鉄道コーナーでは本年も鉄道をめぐるさまざまな話題をお届けしたい。まずは2022(令和4)年の初頭、寅年の鉄道をめぐる動きをピックアップした。

 

今年も注目の新型車両が走り始めるなか、長年親しんできた車両が消えていく。まだ日程は決まっていないものの新路線の開業も予定されている。

 

【2022年の話題①】10年の歳月を経て復旧を果たす只見線

まずは自然災害で不通になっていた路線再開の話題から。

 

福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶJR只見線は、2011(平成23)年7月30日に新潟・福島両県を襲った豪雨によって、同路線の複数の橋梁が流失し、各所で路盤が流失してしまった。1週間前に「只見線全線開通40周年」の記念列車が運転されたばかりだった。

 

一部区間はその後に復旧工事が進められ運転再開にこぎつけた。だが、被害が甚大だった只見駅〜会津川口駅間の復旧が問題となった。地元自治体との話し合いが滞り、復旧方針が定まらなかったこともあり、長年、不通のままになっていた。不通区間には代行バスが走っており、復旧費用が甚大になるということで、バス運行をそのまま続けるべきとの意見も多数見られた。

↑福島県の只見駅。同駅と小出駅間は列車が走るものの、会津川口駅との間は代行バスが走る。左上は只見駅から先の不通区間の様子

 

筆者も実母の郷里が近いため、何度か乗車したが、只見町周辺は山深いところというイメージが強い。雪深く、国道が平行して走るものの、只見から新潟県方面は、冬になると国道が閉鎖される。また会津若松方面へのアクセスも、国道に頼るしかなく、大雪になると除雪に手間どり移動が大変になる秘境エリアでもある。こうした公共インフラの脆弱さもあり、福島県がバスに変換する案に難色を示していた。

 

最終的には、福島県が復旧費用の負担を増やすなどで話し合いがまとまった。また、施設は福島県、運行はJR東日本が行う上下分離方式へ事業構造を変更することになった。2022(令和4)年度の上半期には復旧工事が完了の見込みで、2022年中の運行再開が発表された。

 

運行再開された後には、ぜひとも完乗し、路線の素晴らしさを改めて楽しみたいと思っている。

↑険しい山々に囲まれた第八只見川橋梁。雨の中でも作業船が川に出て復旧作業が進められていた 撮影:2019(令和元)年5月31日

 

↑本名ダムの前には第六只見川橋梁が架かっていた。大型重機を持ち込んでの架橋工事が進む 撮影:2019(令和元)年5月31日

 

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夏こそ乗りたい! 秘境を走る「只見線」じっくり探訪記

 

【2022年の話題②】西九州新幹線が秋に暫定開業へ

現在、九州には山陽新幹線と九州新幹線の路線が設けられている。この九州新幹線の西九州ルートとして計画されたのが、長崎まで走る新幹線の路線だ。2008(平成20)年に一部区間の工事が着工された。標準軌サイズのフル規格新幹線として工事が進められ、武雄温泉駅(たけおおんせんえき)〜長崎駅間66.0kmの路線工事が完了。2022(令和4)年秋に開業することになった。

 

路線名は西九州新幹線と決まり、走る列車にはかつての寝台特急、現在は博多駅〜長崎駅を走る「かもめ」の名前が引き継がれることになった。

↑JR大村線の沿線から眺めた西九州新幹線の高架橋。武雄温泉駅〜長崎駅間はフル規格の新幹線路線として開業する

 

西九州新幹線の開業はうれしいニュースだが、課題も残った。九州新幹線の新鳥栖駅と、武雄温泉駅の間の新幹線の路線を今後どうしていくかという問題だ。

 

当初、同駅間は台車の軌間サイズを線路幅に合わせて変更できるフリーゲージトレイン(軌間可変電車)を採用しようと計画されていた。

 

1998(平成10)年にフリーゲージトレインの試験車両がつくられ、各種試験が進められていた。第三次試験車両までつくられたが、予測していなかった車軸の摩耗が発生。長年の試験によりある程度の成果は得ることができたが、車両関連費用が従来の新幹線の2倍前後かかり、また安全性が確保できないということから、JR九州では導入を見合わせている。フリーゲージトレインの開発はその後も進められているものの、実用化の道は険しい。それとともに、新鳥栖駅〜武雄温泉駅間の新幹線路線をどうするのかも宙に浮いたままとなっている。

 

西九州新幹線が誕生した後に平行する在来線はどのように変わるのだろうか。

↑レトロな趣の長崎本線の肥前浜駅。同駅までは電化区間として残るとされている

 

在来線もこの秋に、大きく変更されそうだ。博多駅から武雄温泉駅までは、リレー列車が運行されることになる。以前、九州新幹線が新八代駅〜鹿児島中央駅間を先行開業した時と同じ対応法だ。現在、博多駅〜長崎駅間を走っている特急列車は廃止となるが、「かもめ」の名前は西九州新幹線の列車名として残る。

 

一方、大きく変わりそうなのは長崎本線の肥前山口駅から長崎駅までの在来線だ。現在、電化区間として電車が運行されているが、JR九州では、コスト削減のために非電化区間としたいとしている。肥前山口駅〜長崎駅間のうち、肥前山口駅〜肥前浜駅間は電化区間として残すという情報も伝わってきている。

 

長崎駅〜佐世保駅間にはハイブリット車両のYC1系がすでに走っているが、このYC1系の増備が同区間で必要な車両数以上に進んでいる。この車両を長崎本線の主力とするのであろうか。佐賀県と長崎県の在来線の運行形態もだいぶ変わりそうである。

 

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【2022年の話題③】走り始める注目の新車両

2022(令和4)年も複数の新型車両が走り始めることになりそうだ。まだ運転開始日は明らかになっていない車両もあるが、注目の車両に触れておきたい。

 

◆東武鉄道 C11形蒸気機関車123号機

↑2021(令和3)年12月24日に火入れ式が済み、SL大樹の牽引機の仲間入りを果たしたC11形123号機  写真協力:東武鉄道株式会社

 

今年、新たな蒸気機関車が走り始める。東武鉄道のC11形蒸気機関車の123号機だ。同車両は、滋賀県を走っていた江若鉄道(こうじゃくてつどう)が太平洋戦争後に導入した機関車で、同鉄道ではC11形1号機とされていた。その後、北海道の雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)鉄道→釧路開発埠頭へ譲渡され、現役を退いた後は、個人が保有していた。

 

静態保存していたC11形を東武鉄道が譲り受け、2年前から復元作業を進めていた。2021(令和3)年12月24日には蒸気機関車に〝命を吹き込む〟神事の「火入れ」が行われ、2022(令和4)年にはいよいよ本線を走ることになりそうだ。

 

「SL大樹」の牽引機といえば、すでにC11形蒸気機関車の207号機と325号機が走っていて、123号機が加わることで3機体制となる。蒸気機関車はメンテナンスや検査に時間がかかる。また古い車両のため過度の負担は禁物だ。調子が悪く運転を断念せざるをえない日もある。人気の列車をこれからも継続的に運行させるために、3機体制が欠かせなかったというわけである。重連運転など、鉄道好きな人が喜びそうな運行も可能になるわけで、どのような体制になるか今から楽しみだ。

 

◆JR東海 HC85系特急用ハイブリッド車

↑防音防振対策も施され乗り心地が改善されたHC85系。先行車両の試運転も進み、量産車64両の新製も決定 写真協力:東海旅客鉄道株式会社

 

JR東海の非電化区間を走る特急「(ワイドビュー)南紀」、「(ワイドビュー)ひだ」。両特急には長い間キハ85系が使われてきた。キハ85系が新製されたのは、国鉄からJRになってすぐの1988(昭和63)年から1992(平成4)年にかけて。すでに30年以上の〝ベテラン車両〟になりつつあった。

 

キハ85系の後継車両として開発が始められたのがHC85系で、すでに試運転が始められている。HC85系は回生ブレーキによりつくられた電気を蓄電池にため、その電気とディーゼルエンジンで発電した電気を組み合わせ、電気モーターを動かして走る仕組みのハイブリッド方式を採用。ハイブリッド方式の鉄道車両としては初めて、日本最速の120km/hという高性能な車両となっている。

 

2022(令和4)年度の運転開始と発表されているが、どのような走りが見られるのか、楽しみにしたい。

 

◆JR東海 315系近郊用電車

↑丸みを帯びた前照灯にオレンジの帯の315系。まずは中央本線の中津川駅〜名古屋駅間に導入予定 写真協力:東海旅客鉄道株式会社

 

東海地区の東海道本線、中央本線、関西本線、飯田線等の電化区間を走る通勤型電車といえば、今は211系、213系、311系、313系の4タイプ。近年、313系が増備されつつあるが、国鉄時代に生まれた211系も、まだまだ走り続けている。この211系の後継車両として開発されたのが315系だ。

 

新型電車らしく、あらゆる面での性能向上が図られた。例えば211系に比べて電力消費量の35%低減を実現した。また、主要な機器が2重系統化されたために、故障しにくくなっている。バリアフリー対応の設備も充実し、全編成に車いす対応トイレを設置、車両とホームの段差を縮小するなどの工夫が施される。ほか1両に5か所の車内防犯カメラ、3か所の非常通話装置を設置。冷房機能にはAIによる自動学習・制御最適化機能も国内で初めて導入した。

 

運転開始は3月5日を予定している。2021(令和3)年度内には8両×7編成、計56両が新製される。12月中旬現在すでに4編成が試運転を始めている。

 

◆京都市交通局 20系電車

京都の町を南北に走る京都市営地下鉄烏丸線(からすません)。開業は1981(昭和56)年のことで、長年にわたり10系電車が使われてきた。最も長く走る電車はすでに40年を経過している。

 

この10系の後継車両として導入されるのが20系で、外観や内装には京都の伝統技法の「鎚起(ついき)」が使われている。従来の平面的な10系の車体正面と比べると、曲線を生かしたデザインとなり、よりスタイリッシュになった印象だ。運転開始は3月の予定で、現在走る10系20編成のうちの9編成までを、2025(令和7)年までに新型車両に置き換える予定だ。

 

◆JR九州 西九州新幹線N700S

2022(令和4)年秋の開業に合わせて同路線を走る新幹線車両が、2021(令和3)年12月22日に日立製作所笠戸事業所で報道公開された。すでに東海道・山陽新幹線用に導入されているN700Sを西九州新幹線用にリメイクした車両で、従来のN700Sが16両編成であるの対して6両と短い編成に変更。

 

デザインはJR九州との縁が深い水戸岡鋭治さんで、内外装とも水戸岡さんらしい味付けがなされている。西九州新幹線の路線に運ばれ、路線上でどのような姿を見せるか、今から楽しみだ。

 

【2021年の話題④】今年に引退していく車両といえば

新型が登場する一方で、長く走ってきた車両は引退となっていく。今年は意外な人気車両も第一線を退きそうだ。定期運用を外れる車両も含めて見ていこう

 

◆JR北海道 キハ283系気動車

↑長く札幌と道東・釧路の間を走ったキハ283系「おおぞら」。特急車両らしいスタイリッシュな姿も春で見納めとなる可能性が高い

 

キハ283系はJR北海道の札幌駅〜釧路駅間を走る特急列車に長年使われてきた。運用開始されたのは1997(平成9)年のことで、振り子式車両の特長を生かし、営業最高速度は130km/h、設計最高速度は145km/hと高速を誇る。導入前まで4時間25分かかっていた札幌駅〜釧路駅間の所要時間が、導入後は最短3時間40分と大幅なスピードアップを実現した。

 

ところが問題が生じてしまう。2011(平成23)年5月27日に脱線火災事故が起きたのだ。その後に運転最高速度を110km/hに引き下げたこともあり、性能が生かせなくなっていた。そのため、それまでキハ283系が使われていた「スーパーとかち」を汎用タイプのキハ261系に置き換え。さらにこの春には「おおぞら(以前の名はスーパーおおぞら)」も置き換えられ、キハ283系による定期運用が消滅する。

 

高性能が活かせなかったことに加えて、構造が複雑でメンテナンスに手間がかかる振り子式構造も弱みとなった。JR北海道で残る振り子式車両は、キハ281系のみとなる。キハ281系は現在、特急「北斗」に使われているが、こちらもキハ261系との置き換えが進んでいる。今後キハ281系もどうなるのか気になるところだ。

 

◆JR東日本 E3系「とれいゆつばさ」

↑山形新幹線の福島駅〜新庄駅間を走るE3系「とれいゆつばさ」。スタイリッシュな塗装で人気の観光列車となっている

 

当初は秋田新幹線に導入され、その後に山形新幹線用にも導入されたE3系。すでに秋田新幹線からは撤退したものの、山形新幹線は走り続けている。そんな山形新幹線を走る観光列車がE3系「とれいゆつばさ」である。

 

E3系「とれいゆつばさ」は秋田新幹線用のE3系0番台R18編成を改造し、2014(平成26)年から走り始めた観光列車である。車内に足湯や、座敷席があるなど、くつろげる新幹線車両でもあった。7年あまり走ってきた名物列車だったが、老朽化もあり3月に運行終了することが発表された。

 

E3系自体も後継のE8系が2024(令和6)年度から導入される予定が発表されている。まだ先の話とはいえ、長年走り続けたE3系も徐々に消えていくことになりそうだ。

 

◆JR九州 キハ47形・キハ147形「はやとの風」

↑明治期に建てられた嘉例川駅に停車する「はやとの風」。同駅で5分停車するなど、観光列車らしいダイヤが組まれ親しまれた

 

肥薩線の吉松駅と鹿児島中央駅の間を走っていた特急「はやとの風」。沿線に1903(明治36)年築という古い木造駅舎の駅、大隅横川駅や嘉例川駅(かれいがわえき)があることや、吉松駅で、肥薩線の観光列車「いさぶろう・しんぺい」に乗り継げることもあり人気となっていた。

 

この「はやとの風」が3月21日で運行終了となる。肥薩線が自然災害で不通となり、復旧が見通せなかったことが大きいのだろう。

 

ちなみに、車両は西九州新幹線の開業に合わせて生まれる新D&S列車「ふたつ星4047」に再改造される予定だ。完成後のイメージイラストを見ると「はやとの風」が黒い車体だったのに対して、「ふたつ星4047」は白のベースに金の帯になる予定で、対極とも言える車体カラーに生まれ変わりそうだ。

 

◆小田急電鉄 ロマンスカーVSE(5000形)

↑シルキーホワイトと呼ばれる白い車体にバーミリオンの帯。小田急線で長らく親しまれてきた名物車両も数年のうちに消えていく運命に

 

本原稿の準備をちょうど進めている時に、ニュースが飛び込んできた。小田急の人気ロマンスカーVSE(50000形)が春に定期運用を終了するというのである。

 

VSE(50000形)が生まれたのは2004(平成16)年のこと。「ロマンスカーの中のロマンスカー」と称され、小田急のフラッグシップモデルとして導入された。1963(昭和38)年に登場したNSE(3100形)に初の前面展望席を設けて以来、LSE(7000形)、HiSE(10000形)、そして本形式のVSE(50000形)と小田急ロマンスカーの伝統ともなっている前面展望が受け継がれた電車でもあった。

 

近年はEXE(30000形)やMSE(60000形)と展望席のないロマンスカーも導入されたが、GSE(70000形)には展望席が設けられているように、展望席はロマンスカーらしさの象徴のようにも思われる。

 

登場してからまだ18年ほどのVSE(50000形)。鉄道車両としてはまだまだ〝若い車両〟と言って差し支えない。それが定期運用を終了させるという。小田急電鉄としては唯一残った、車両と車両の間に台車がある「連接構造」がマイナス要素となったのだろうか。

 

春に定期運用が終了した後、2023(令和5)年秋ごろまでは臨時ダイヤでの運行が行われる予定だとされ、今すぐに消えるわけではないが、その動向が気になる車両となった。

 

【2022年の話題⑤】先祖返り!? 富士山麓電気鉄道へ名称を変更

この春には富士急行という鉄道会社名が消えて、新たに「富士山麓電気鉄道株式会社」が生まれる。

 

富士急行は山梨県内の大月駅〜河口湖駅間の路線を持つ鉄道会社だ。会社の設立は1926(大正15)年9月18日と古く、当時の社名が「富士山麓電気鉄道」だった。後の1960(昭和35)年5月30日に富士急行という名称に変更している。

 

その後、60年以上にわたり富士急行の名前が使われたが、2021(令和3)年に鉄道事業の分社化が発表され、2022(令和4)年4月1日からは正式に富士山麓電気鉄道となる。同社の歴史をふりかえれば、〝先祖返り〟することになるわけだ。

 

同社では分社化して動きを良くし、環境変化に即応するためと説明している。新型コロナ感染症の流行の前には、訪日外国人により非常に潤っていた同社だが、この2年は利用者の著しい減少に陥っていた。

↑富士急行の名物といえば、車窓から見る富士山の眺望。写真は8500系「富士山ビュー特急」

 

新型コロナウイルス感染症のまん延が始まったのは2020(令和2)年の春。そこからもうすぐ2年近くの歳月がたつ。鉄道経営にも経済的な影響がじわじわと忍び寄っているというのが現状なのだろう。

 

まだ始まったばかりの2022(令和4)年ながら、新たなニュースを見ていくと、鉄道自体が、難しい時代に直面していることが透けて見えるように感じる。

↑河口湖駅前で保存される富士山麓電気鉄道のモ1形、左下は富士山麓電気鉄道当時の時刻表。この当時の鉄道会社名に戻ることに

 

 

鉄道ゆく年くる年…運転再開、引退、DMV導入ほか2021年(下半期)の出来事をふり返る

〜〜2021年 鉄道のさまざまな話題を追う その2〜〜

 

2021年もあとわずか。今年の鉄道をめぐる話題を、前回に引き続きとりあげていきたい。今年は引退していく車両が目立った。その中には時代を飾った〝名物車両〟も含まれていた。大きく時代が変わる節目の年だったのかも知れない。

 

下半期を中心に起こった出来事を振り返ってみよう。

 

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【2021年の話題⑥】災害で傷ついた路線の多くが運転再開に

まずは災害で傷ついた路線の運転再開の話題から。この話題のみ上半期も含めて見ていこう。

 

◆JR東日本水郡線 3月27日・袋田駅〜常陸大子駅間の運転再開

茨城県の水戸駅と福島県の安積永盛駅(あさかながもりえき)を結ぶ水郡線(すいぐんせん)。2019(令和元)年10月12日から13日にかけて、列島を襲った台風19号によって、第六久慈川橋梁などの橋が流出し、長期にわたり不通となっていた。袋田駅〜常陸大子駅(ひたちだいごえき)間の復旧工事が完了したことにより、今年の3月27日に全線の運転再開を果たした。

 

◆上田電鉄別所線 3月28日・上田駅〜城下駅間の運転再開

↑千曲川橋梁(写真)の一部流失により約1年半にわたり運休となっていた上田電鉄別所線

 

長野県の上田駅と別所温泉駅の間を結ぶ上田電鉄別所線。水郡線と同じく2019(令和元)年の台風19号により、千曲川に架かる鉄橋と、築堤が流されてしまう。その後に城下駅〜別所温泉駅間の運転は再開されたものの、千曲川に架かる鉄橋の復旧に手間取った。約1年半の工事の末、この春に工事が完了、3月28日に全線の運転再開となった。

 

別所線も水郡線も2019(令和元)年の台風19号に苦しめられたが、その後に同台風は「令和元年東日本台風」と名前が付けられている。複数の路線の不通以外にも、北陸新幹線の長野新幹線車両センターが水没、停車していたE7系・W7系といった新幹線車両が水に浸かり廃車になるなど、東日本の鉄道インフラに大きな被害をもたらした台風でもあった。

 

◆叡山電鉄鞍馬線 9月18日・市原駅〜鞍馬駅間の運転再開

京都市内、宝ケ池駅と鞍馬駅の間を結ぶ叡山電鉄の鞍馬線。市内から鞍馬へ向かう観光路線として人気がある。この路線が2020(令和2)年7月8日の「令和2年7月豪雨」で運休となった。約1年にわたる復旧工事の末、今年の9月18日に市原駅〜鞍馬駅間の運転が再開した。名物〝もみじのトンネル〟が楽しめる秋の行楽シーズンに、ぎりぎり間に合う形となった。

↑貴船口駅近くを走る900系きらら。京都市近郊ながら沿線の風景を見ると、険しい山あいを走っていることがよく分かる

 

◆小湊鐵道 10月18日・光風台駅〜上総牛久駅間の運転再開

千葉県の五井駅と上総中野駅を結ぶ小湊鐵道が走る房総半島の内陸部は、養老川が蛇行し、複雑な地形が連なる。そのためか小湊鐵道は災害の影響を受けやすい。2019(令和元)年以来、毎年、運休と運転再開を繰り返している。今年は7月3日の豪雨で一部区間が運休となっていた。10月18日に光風台駅〜上総牛久駅間の運転再開を果たした。

 

再開がちょうど秋の行楽シーズンに重なったこともあり、新たに導入したキハ40系とキハ200系が連結して3両で走り始めたり、観光客に人気の里山トロッコ列車が、初めて五井駅発になったこともあって活況を見せている。

↑養老川を渡る里山トロッコ列車。これまで営業運転されなかった五井駅〜上総牛久駅間も走るようになり便利になった

 

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◆JR九州日南線 12月11日・青島駅〜志布志駅間の運転再開

宮崎県の南宮崎駅と鹿児島県の志布志駅の間を走る日南線。今年の9月16日に太平洋に面した小内海駅(こうちうみえき)の構内に土砂が流入し、青島駅〜志布志駅間が運休となっていた。復旧までに3か月ほど期間がかかり、12月11日に全線の運転再開が完了している。

 

九州では肥薩線など自然災害の影響で長期間、運休になったままの路線がある。毎年のように、自然災害で鉄道路線が寸断される日本列島。来年こそは穏やかな一年になることを祈りたい。

 

【2021年の話題⑦】下半期に消えていった車両

例年、春のダイヤ改正に合わせて引退となる車両が多いが、今年は下半期にも引退した車両が多かった。このような年は、あまりないように思われる。時代が求めている車両が、変わりつつあることを示すかのようだ。

 

◆京阪電気鉄道5000系

↑側面から見た5000系。白いドアはラッシュ時以外に開閉しない扉。正面(右上)の上部にひさしが付く個性的な姿でもあった

 

京阪電気鉄道の5000系が登場したのは1970(昭和45)年の暮れのことだった。7両×7編成+1両(事故車両の代替車両)が製造された。特長は5扉ということ。ラッシュ時の運行は5扉を利用、それ以外の時間帯には2扉を使わず、3扉のみ開閉するという珍しい造りの電車だった。日中、閉められた扉部分に、折り畳まれていたシートが下ってきて、座ることが可能になった。

 

ラッシュ時の乗降をより効率化するための策だったのだが、乗車位置が他の車両と異なること。また、今後導入が進むホームドアのドア位置が合わないことなど、問題が生じていた。すでに今年の1月29日からは3扉のみを使っての運行となったことで、中の2扉が不要となってしまった。半世紀にわたり活躍したものの9月4日で運用が終了した。

 

◆JR東日本485系 ジパング

↑岩手県内を観光列車「ジパング平泉」として走っていたころの485系「ジパング」。黒の車体がおしゃれだった

 

国鉄からJRになって団体向け列車用に多くの「ジョイフルトレイン」が生み出された。とくにJR東日本では、余剰となっていた交直両用電車485系を改造して、多種類のジョイフルトレインが用意された。

 

「ジパング」もジョイフルトレインの一列車で、いわてデスティネーションキャンペーンに合わせて2012(平成24)年に誕生した。盛岡県内を観光列車「ジパング平泉」として9年にわたり走り続けていたが、今年の10月10日に運転された団体専用列車「ありがとうジパング」を最後に引退となった。

 

485系はすでにオリジナル車両が消滅している。団体旅行の人気も下火となり、ジョイフルトレイン自体が急速に姿を消しつつある。「ジパング」が引退して、485系を改造したジョイフルトレインも、今や「華」と「リゾートやまどり」のみとなった。あと何年走り続けるのか微妙な状況になりつつある。

 

◆JR東日本 E4系

↑3月12日からはラストランロゴのラッピングがE4系の先頭車に付けられて走った

 

今年の下半期、もっとも注目を集めた引退車両は何といってもE4系であろう。E4系は1997(平成9)年の暮れに運用を開始した。総2階建ての新幹線電車で、同じ2階建てのE1系が好評だったことから、その後継車両として登場した。8両編成だが、2編成が連なる16両で走る列車は、世界の高速列車の中で最大の乗客を運ぶ列車として注目を浴びた。定員数を増やすため、自由席は横に3席+3席が並ぶ構造で、現在のように密を避ける時代となると、ややきつく感じた造りとなっていた。

 

登場当時は増える輸送量をさばく上で役立ったE4系だったが、最高時速240kmと、高速化する新幹線の中ではスピードの遅さが弱みとなっていた。2012(平成24)年には東北新幹線の定期運用から退き、上越新幹線の運用のみとなった。

 

上越新幹線にも新たにE7系の投入が始まり、2020年度中の引退が予告されていたが、2019(令和元)年の台風19号により、長野新幹線車両センターに停車していたE7系・W7系の多くが水没し、廃車となったために車両が足りなくなってしまう。そのためE4系の延命措置がとられて、予定よりも引退が遅れていた。そんなE4系も10月17日の「サンキューMaxとき」が最後の運行となった。2階から見る眺めが今後は楽しめなくなる。一抹の寂しさを覚える鉄道ファンも多いのではないだろうか。

 

◆札幌市交通局M100形

↑西4丁目付近を走るM100形。筆者もちょうど10月31日、札幌市内にいたこともあり、最後の走行を目にすることができた

 

札幌市内を走る札幌市電。2015(平成27)年12月20日に、それまで終着の停留所だった西4丁目とすすきのが結ばれ、路線が延伸されるとともに、周回できるループ路線となり便利になっている。このループ化により利用者数も増え、以前より路線が活気づいたように感じる。

 

そんな札幌市電で長年親しまれてきた名物車両がこの秋に消えていった。M100形という電車で、1961(昭和36)年に誕生。レトロな深緑(ダークグリーン)とデザートイエローと呼ぶ2色の塗り分けで走った。

 

この電車が珍しいのは、付随車を連結して走った時期があったこと。定員を増やして効率良く乗客を運ぼうという試みだった。「親子電車」と名付けられ親しまれたが、付随車のトレーラーは1971(昭和46)年とかなり前に廃車となり、その後は1両のみでの運行となっていた。

 

引退する前日、運悪く乗用車との衝突事故が起き、ラストとなる走行が危ぶまれたが、緊急に修理が行われ、最後となった10月31日は午後のみ走った。別れを惜しむ人たちが沿線に集まり、賑わいを見せたのだった。

 

◆新京成電鉄 8000形

↑8000形最後の編成となった8512編成。ピンク塗装の車両が大半となった同路線で、貴重なリバイバル塗装の車両だった

 

千葉県内を走る新京成電鉄。ほとんどの車両がピンクベースの塗装となり、より洗練されたイメージに代わりつつある。ひと時代前の新京成電鉄の主力車両である8000形は、正面中央に支柱がある独特の風貌とカラーで、どことなくユーモラスさがただよう見た目から「くぬぎ山の狸」と呼ばれ親しまれてきた。1978(昭和53)年から1985(昭和60)年にかけて6両×9編成が製造された。すでに製造から35年以上の時が過ぎ、最古参となっていた。

 

ここ数年、少しずつ車両が減っていき、最後に残ったリバイバルカラーの8512編成も11月1日をもって運用から離脱し、姿を消したのだった。

 

◆近畿日本鉄道 12200系

↑12200系を先頭に走る近鉄特急。後継車両との連結運転も可能な造りで、需要の変動に応えられる近鉄特急らしい電車でもあった

 

近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の特急車両はバラエティに富み、各路線で多くの特急列車が走っている。その中でも166両と最多の車両数を誇ったのが12200系で、1969(昭和44)年から7年にわたり製造された。ニックネームは「新スナックカー」で、誕生当時にスナックコーナーを設けていたことからこの名が付いた。近年になってリニューアルされ塗装変更された車両が増えるなか、旧来の車体カラーのまま走り続けたことから、逆に鉄道ファンの間で人気となっていた。

 

そんな車両も生まれて半世紀、徐々に車両数も減っていき、2月12日に定期運用から離脱。11月20日にはラストランツアーが行われ、この日で引退となった。ちなみに、近鉄では12200系を改造した4両編成の観光特急「あをによし」を2022(令和4)年4月29日にデビューさせ、大阪、奈良、京都の3都市を結ぶ予定とされる。なんとも近鉄らしい車両の活かし方である。

 

◆JR四国 キロ47形 伊予灘ものがたり

↑日本100名城に選ばれる大洲城を背景に走る「伊予灘ものがたり」。来春からは同橋梁を新たな車両が走ることに

 

愛媛県の松山駅〜伊予大洲駅間、または松山駅〜八幡浜駅間を走る観光列車「伊予灘ものがたり」。2014(平成26)年夏にキハ47形を改造した観光列車で、7年にわたり運転されてきた。JR四国では初の本格的な観光列車で、その後に複数の観光列車が生まれたが、この列車の成功が大きかったと言えるだろう。

 

改造元の車両が国鉄形キハ47形ということもあり、老朽化の問題もあって12月27日で運行が終了する予定。すでにキハ185系を改造した新「伊予灘ものがたり」が2022(令和4)年春に登場することがJR四国から発表されている。

 

◆東京都交通局 浅草線5300形

↑浅草線5300形同士のすれ違いシーン。すでに1編成となった5300形だけに、こうした光景ももう見ることができなくなった

 

東京の都心を南北に貫く都営地下鉄浅草線。2018(平成30)年6月に新型5500形が導入され、徐々に増備されていった。新車両5500形は導入からまだ3年と日が浅いが、すでに計画していた27編成すべてが導入され、瞬く間に旧車両5300形が減ってきていた。12月22日の運用を見ても5300形は5320編成1本が残るのみとなっている。

 

5300形は2021年いっぱいで消えると言われている。最後の編成の走りを見られるのも、あとわずかとなった。

 

【2021年の話題⑧】下半期に登場した新車は少なかったものの

今年の下半期は、引退する車両が多かったのに対して、新たにデビューする車両が少なかった。完全な新造車両は東京メトロ半蔵門線の18000系のみだった。

 

◆東京メトロ 半蔵門線18000系

↑東武線内を走る東京メトロ18000系。薄いパープルのラインが、青空のもと映える

 

東京メトロ18000系は、自社内の半蔵門線のほか、東急田園都市線、東武伊勢崎線などへ乗り入れている。これらの路線で、今年の8月7日から営業運転が始められた。アルミニウム合金製の車体で、半蔵門線のラインカラーである、パープル(紫色)の濃淡の帯が車体に入る。車内のつり革もパープルと凝っている。最新の車両らしく、ドア上などにセキュリティカメラを設置している。なかなかスタイリッシュなデザインで、今年の秋にグッドデザイン賞に輝いた。筆者も、このデザインが好きで、デビュー当時に〝追っかけ〟をしてしまったほどである。

 

増備が進むに従い旧型車両が引退していく。半蔵門線では8000系がすでに40年近く走り続けており、18000系の増備にあわせて、置き換えが進みそうだ。平面的な正面デザインで、貫通扉に窓のない旧営団地下鉄特有のデザイン車両が、今後は徐々に減っていくことになりそうだ。

 

改造されて姿を大きく変えた車両も見ておこう。

 

◆東武鉄道 12系客車・展望デッキ付き車両に改造

↑展望デッキが新設された12系客車。写真は青色塗装の客車で、ほかにレトロな濃い茶色塗装の展望デッキ付き客車も走っている

 

東武鉄道の鬼怒川線を走る「SL大樹」。12系客車が展望デッキ付きに改造され、11月から列車に連結され走り始めている。SL列車なのに、煙の香りなどが楽しめないという声に応えたもので、こげ茶色と青色の2両が導入された。秋の行楽シーズンは早くも、各列車とも満席になるなど、「SL大樹」の新しい楽しみ方が増えたと話題になった。

 

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ユニークな改造車両が和歌山県内で走り始めたので、こちらについても触れておこう。

 

◆南海電気鉄道 加太線「めでたいでんしゃ かしら」

和歌山県内を走る南海電気鉄道(以下「南海」と略)の加太線(かだせん)。和歌山市街と、海に近く新鮮な魚が楽しめる加太を結ぶ。走る電車は「めでたいでんしゃ」と名付けられ、カラフルな外装、座席には魚のイラスト、魚の形のつり革が使われるなど、楽しい車両となっている。「めでたいでんしゃ」はこれまで「さち」「かい」「なな」と3編成が走っていたが、4編成目として9月18日から走り始めたのが「かしら」。黒をベースにした渋い車体カラーで、車内は船のなかのようなデザインが各所に施されている。

 

◆和歌山電鐵 たま電車ミュージアム号

和歌山駅と貴志駅間を走る和歌山電鐵。いちご電車、おもちゃ電車など楽しい電車が走っている。12月4日から走り始めたのが、「たま電車ミュージアム号」だ。デザインは水戸岡鋭治氏。和歌山電鐵のユニークな電車はみな水戸岡氏がデザインしたものだが、この電車も水戸岡ワールド全開といった造りだ。和歌山電鐵といえば、終点・貴志駅のたま駅長がよく知られていたが、いまは次世代にその〝役目〟が引き継がれている。

 

新しい電車は「いまだかつてないネコ電車」だそうだ。初代たまがニタマ、よんたまや、ファンの子どもたちに囲まれて住んでいる家、という想定で、ネコ好きにはたまらない車内となっている。

 

【2021年の話題⑨】年末にいよいよ走り始めたDMV車両

今年の暮れ、新たな鉄道システムが動き出した。ちょうど本原稿がアップされる予定の12月25日から、四国でいよいよDMV(デュアル・モード・ビークル)が走り始めるのだ。世界でも初の実用DMVの運用となる。走るのは四国の東南部の鉄道会社、阿佐海岸鉄道の路線だ。

 

DMVは、バスに鉄輪を付けた構造で、保線用の軌陸車のように車輪が現れ、線路の上は気動車のように走る。車輪を格納すれば、小型バスとして道路上を走ることができる。2019(令和元)年に車両は導入され、慎重に準備が進められてきたが、2年かけて、ようやくのお披露目となった。

↑2019(令和元)年10月に報道公開されたDMV車両(DMV93形気動車)。車体の下、前後に鉄輪が格納されている(左上)

 

走るのは阿佐海岸鉄道の阿佐東線で、路線は徳島県の阿波海南駅と高知県の甲浦駅(かんのうらえき)の間を結ぶ。両駅には、DMV乗り入れ用の〝信号場〟が設けられた。DMV列車は、同路線区間では鉄道車両として、ほか阿波海南駅と阿波海南文化村(町立海南病院)間、甲浦駅と道の駅宍喰温泉(リビエラ宍喰)間はバスとして走る。土日祝日は、甲浦から室戸岬(海の駅とろむまで運行)へ一往復が走る。

 

DMVのメリットはいろいろある。車両として小型バスを利用することで、導入および、メンテナンスにかかる費用がかなり割安となる。道路上ではバスなので、こまめに動かすことができ、沿線に住む人にとって便利になる。地方鉄道にとっては、画期的な生き残り策となりそうだ。

 

今回、阿佐海岸鉄道がDMV化されて、鉄道路線が残されたことには、ほかの理由もあった。この沿岸では将来、南海トラフ地震の影響を受ける可能性があるとされる。海沿いの地域で道路は国道55号しかない。津波などが起こり、もし国道が寸断されたら、という心配があった。やや高い場所を走る鉄道線を残したかったという実情があったのである。

 

新たな鉄道システムとして導入されたDMV。新たな鉄道ということで当初は観光客も訪れそうだ。果たしてどのような成果が生みだされていくのか、長期にわたり存続が可能かどうか、注目を集めそうだ。

 

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【2021年の話題⑩】トラブル対応の難しさが表面化

最後は鉄道絡みの深刻な問題に触れておきたい。

 

世界一安全といわれる日本の社会と鉄道。この安全な鉄道神話を揺るがすような事件が相次いで起きた。まずは8月6日に小田急線の車内で起きた刺傷事件、触発されるように10月31日に京王線刺傷事件が起こった。

 

事件後に、JRおよび私鉄各社などでは、こうした事件が起きた時への対応を検討し、訓練が行われている。車内にカメラを設置したり、ドアの非常コックの表示方法の変更などの対応が急がれている。とはいえ、起きた時に、その場に居合わせた個人の対応が、非常に難しく感じた。

↑千葉県の幕張メッセで11月に開かれた鉄道技術展。不審者の発見など事件に対応したAI技術などを早くも売り込む企業があった

 

11月末に行われた鉄道技術展では、早くもAIを使った不審者発見技術などを売り込む企業ブースもあった。また、問題となったドアの開け閉めに関して対応する技術も見られた。この問題は、今後、鉄道関連企業だけでなく、もし起こった時にどう対応すれば良いのか、社会へ問いかける結果になったように思う。

 

次週は2022年に予測される鉄道ニュースをお届けしたい。

鉄道ゆく年くる年…新車、廃車、廃線ほか2021年(上半期)の出来事をふり返る

〜〜2021年 鉄道のさまざまな話題を追う その1〜〜

 

師走となり何かと気ぜわしい季節となってきた。2021年という1年、鉄道をめぐる出来事もいろいろあった。新車が登場した一方で、長年親しまれてきた車両が消えていった。また廃線となった路線もある。

 

今回は「鉄道ゆく年くる年」の第1回目、2021年に1月から6月にかけて、鉄道をめぐって起きた出来事を振り返ってみたい。

 

【2021年の話題①】長年親しまれてきた「湘南ライナー」が消滅

まずは列車の廃止、新設、また車両の置き換えから見ていきたい。

 

3月13日(土曜日)のダイヤ改正時、JRグループ内で何本かの列車が廃止、新設され、車両の置き換えがあった。中でも東海道本線の首都圏エリアでの動きが目立った。

 

ダイヤ改正の前日まで走っていたのが「湘南ライナー」「おはようライナー新宿」「ホームライナー小田原」といった座席定員制の有料快速列車だった。

↑2021年3月12日までの運行となった快速「湘南ライナー」と「おはようライナー新宿」(左上)。185系での運用も見納めになった

 

3月15日(月曜日)からはこうした快速列車がすべて廃止され、特急「湘南」に置き換わった。「湘南ライナー」は1986(昭和61)年に誕生した列車で、ちょうど35年で消えたことになる。

 

列車の変更に合わせて、車両も185系電車、215系電車から、E257系2000番台・2500番台に代わった。料金は湘南ライナー時代一律520円(+運賃=以下同)で、着席が可能だったが、特急「湘南」では50kmまでが760円、100kmまでが1020円(いずれもチケットレスサービス利用の場合は100円引き)と、割高になった。チケットレスサービスを使えば、9月30日までは300円引きとなっていたからなのか、料金が値上げになったことに関して、あまり注目されることもなく、利用者にはすんなり受け入れられたようだった。

↑全列車がE257系での運行となった特急「踊り子」。伊豆箱根鉄道駿豆線内でも、すでに見慣れた光景となりつつある

 

車両の入れ替えで目立ったのが、国鉄時代に生まれた特急形電車185系を巡る動きだろう。この春に185系は、湘南ライナーなどのほか、特急「踊り子」の定期運用からも撤退している。その後に185系は急速に姿を消しつつあり、現在は臨時で運転される季節列車や団体臨時列車といった運用のみとなっている。

 

【2021年の話題②】北日本で目立った廃線・廃駅の話題

今年の上半期、あまり目立たなかったものの、廃線、そして廃止となった駅があった。筆者は仕事柄、地方のローカル線に乗る機会が多いが、新型コロナ感染症の影響もあるのか、乗車率の低さが目に付くようになっている。その影響だけではないのだろうが、北海道で廃止となった駅が多く生まれた。

 

函館本線の伊納駅、釧網本線の南斜里駅。加えて石北本線と宗谷本線に廃駅が目立った。石北本線は生野駅など4駅、宗谷本線は南美深駅(みなみびぶかえき)や北比布駅(きたぴっぷえき)など12駅にも及んだ。これらは、多くが〝秘境駅〟と呼ばれるような駅で、駅周辺に民家があまりない。したがって乗降する人も少ない。

 

旅先でこうした〝ひなびた駅〟を発見する楽しみもあるが、営業的に存続が難しい駅は、ちょっと寂しいものの今後も廃止対象となっていくのであろう。

↑廃止された宗谷本線の北比布駅。簡易的な待合室とホーム一面の小さな駅だった

 

今年の上半期、北日本で2本の路線が廃止となっている。

 

1本目は日高本線で、鵡川駅(むかわえき)〜様似駅(さまにえき)間、116.0kmが4月1日に正式に廃止となった。同駅区間は2015(平成27)年1月初頭の低気圧による高波の影響で、各所で土砂崩れが起こり不通となり、代行バスが運行されていた。復旧の道が探られ、JR北海道と地元自治体との交渉の場がたびたび設けられたが、6年の歳月を経て正式に廃止となった。

 

このところ、自然災害の規模が大きくなる傾向がある。北海道だけでなく、九州などでも、営業休止が続く路線が複数ある。災害で寸断されやすい公共インフラ、採算をとることが困難な地方路線をどのように再生させていくのか、難しい時代になりつつある。

 

さて、もう1線、廃止となった路線があった。こちらは旅客路線でないだけに、あまり注目もされずに、ひっそりと消えていった。

↑旧雄物川橋梁を渡る秋田臨海鉄道の貨物列車。同路線の名物撮影地だったが、この鉄橋を列車が渡ることもなくなった

 

廃線となったのは秋田市の臨海部を走っていた秋田臨海鉄道で、4月1日に廃線となった。また、会社も鉄道事業から撤退している。

 

秋田臨海鉄道は1971(昭和46)年7月7日に北線と南線の営業を開始、奥羽本線の支線にあたる秋田港駅(貨物駅)と臨海部の工場間の貨物輸送に携わってきた。北線はすでに運行を終了していたが、南線の秋田港駅〜向浜駅5.4kmの貨物列車の運行と、秋田港駅構内の貨車の入れ換え作業などの事業が続けられていた。

 

廃線となった南線の貨物輸送を支えていたのが紙の輸送だった。紙の輸送は鉄道貨物の中でも大きなウェイトを占めていたが、近年はペーパーレス化の流れが高まり、輸送量が急激に減ってきている。同臨海鉄道でもそれは同様で、沿線の製紙工場の生産量は7年前には約20万トンだったものが、2020年度には約7万5000トンまで減っていた。今後、生産量の増加は見込めず、鉄道輸送からトラック輸送へシフトされた。他に同地区からの貨物輸送の需要もなかったことから秋田臨海鉄道自体の廃線に至った。

 

鉄道貨物輸送は時代の動きに大きく左右される。同路線は紙の輸送に頼っていただけに、その影響も大きかった。JRの貨物線や臨海鉄道では、今も紙の輸送量が多いが、今後は鉄道貨物の比率を減らす動きがより強まっていきそうだ。

 

【2021年の話題③】今年も鉄路を彩った車両たちが消えていった

長年、走り続け、見慣れ、乗り慣れた車両には愛着がある。とはいえ、走り続ければ老朽化が進む。平均して30年前後で消えていく車両が多い。国鉄がJRとなってすでに30年以上となることもあり、JR発足後、間もなく生まれた車両たちが次々と消えていくようになった。今年は特に引退していく車両が目立ったように思う。そんな引退車両のうち、上半期に消えた車両を見ていこう。

 

◆JR東日本215系

↑湘南ライナーの運用が終わり、車両基地に戻る215系。稼働率の低さからニートになぞらえ「ニートレイン」と呼ばれたことも

 

まずは215系から。215系は好評だった快速「湘南ライナー」の輸送量増強のために1992(平成4)年から翌年にかけて10両×4編成(計40両)が導入された。当時、東海道本線を走っていた211系の2階建グリーン車、2階建て試作車の415系クハ415-1901号車を元に開発された。

 

全車が2階建て構造という珍しい通勤型電車でもあった。当初は「湘南ライナー」以外に、日中に走る快速「アクティー」などに利用されたが、乗り降りに時間がかかるなどの問題もあり、後継車両の導入を機会に、東海道本線では「湘南ライナー」などの朝夕のみの運用となっていく。週末には快速「ホリデー快速ビューやまなし」などの臨時列車に使われたものの、決して稼働率が高い車両とは言えなかった。

 

さらに、有料の定員制列車に使われる電車なのに、グリーン車がのぞき対面式の座席だったことや、構造上、バリアフリー化できなかったり、客席の造りなどが今の時代に合わなくなっていた。他の路線や列車へ転用することもなく、この春に静かに消えていった。生まれて30年弱とはいえ、走ってきた距離は短い。ちょっと残念な車両だったように思う。

 

◆名古屋鉄道1700系

↑1700系は名鉄の車両らしく白地に赤のデザインがおしゃれだった。先頭にパンタグラフがあり目立っていた

 

名古屋鉄道(以下「名鉄」と略)の特急は他の鉄道会社ではあまり見ない運行方法をとっている。

 

2000系「ミュースカイ」のみ全車有料の特急だが、ほかの特急は豊橋駅側に連結される2両のみが有料の「特別車」で、他の車両は「一般車」となる。1700系はその「特別車」の一系統だが、2021(令和3)年2月10日に運用が終了した。運用開始は2008(平成20)年暮れと、新しかったのにもかかわらず、早めの引退となった。その経緯を見ると、この車両の風変わりな生まれに行き着く。

 

1700系はもともと1600系として1999(平成11)年に登場した。3両すべてが「特別車」という編成で、他の「一般車」と連結して運転された。その後に特急の運用形態が変わり、1600系の使い道がなくなってしまった。そのため、3両のうち1両(制動車)は廃車に、動力車と中間車のみ2両が改造されて、新製した2300系4両と連結して走り始めた。

 

特急6両のうち1700系2両の「特別車」は1999(平成11)年生まれ、2300系「一般車」は2008(平成20)年生まれという、2つの経歴を持った編成が生まれたのだった。

 

ここ数年で新塗装に変更され、リフレッシュした姿が見られたが、同系列のみでの運行した方が効率的といった理由もあったのだろう。1700系のみが引退となった。ちなみに1700系と組んでいた2300系には新たに2300系の新車が用意され〝新編成〟となって走り始めている。

 

◆JR西日本413系・415系800番台

↑七尾線を走る北陸地域色と呼ばれる塗装の413系。413系は多くが、あいの風とやま鉄道へ譲渡されている

 

国鉄時代に生まれた〝国鉄形車両〟が毎年のように消えていく。今年も数形式がJRの路線から姿を消した。七尾線を走ってきた413系、そして415系800番台も消えた形式である。

 

どのような車両だったのか触れておこう。

 

413系は急行形交直流電車451系などが種車となっている。急行列車が消えていくのに伴い、北陸地方で必要とされた近郊路線用の電車として改造されたのが413系だった。3両編成および2両編成の計31両が1986(昭和61)年から1995(平成7)年の間に生まれている。

 

北陸地方で長年にわたり使われたが、北陸新幹線の誕生により、北陸本線があいの風とやま鉄道とIRいしかわ鉄道に移行した時に、多くがあいの風とやま鉄道に譲渡、残りは七尾線を走り続けていた。

 

この春のダイヤ改正で、七尾線の普通列車がすべて新型521系100番台へ置き換えが完了、JRの路線からは413系が消えていくことになった。ちなみに、引退となった413系(クハ455を1両含む)の1編成はJR西日本金沢総合車両所で整備され、えちごトキめき鉄道に譲渡されている。

↑413系とともに七尾線を走っていた415系800番台。2扉の413系に対して415系800番台は3扉だった

 

413系とともにJRから消滅したのが415系800番台だ。この車両の生まれは今もJR九州を走る415系と異なる。JR九州の415系は、もともとこの形式として生まれた。ところが、北陸地区を走っている415系は改造車両として生まれた。種車は近郊用直流電車の113系で、この電車を七尾線用に1990(平成2)年〜1991(平成3)年に改造して誕生したのが415系800番台だった。

 

1991(平成3)年、七尾線は電化された。路線まわりの構造物の問題から交流電化には不向きとされ直流方式で電化された。七尾線の電車は路線の起点となる津幡駅止まりの電車は無い。すべての列車が金沢駅まで走っている。旧北陸本線の津幡駅〜金沢駅間は交流電化区間のために、七尾線の電車の運行には交直流電車が必要となった。

 

一部の列車には413系が使われたが、車両数が少ないことから113系を改造することに。この改造で同形式が生まれたのである。415系800番台は、33両が改造されたものの、七尾線の新型車両導入で、全車が運用を離脱した。

 

◆JR九州キハ66系

↑キハ66系には写真のような国鉄時代の塗装色の車両も走っていた。国鉄らしい姿の気動車で塗装が良く似合っていた

 

国鉄形の車両で消えていった車両のもう1形式が急行形気動車キハ66系だ。国鉄時代にはキハ58系という急行形気動車が、大量に生産された。このキハ58系を進化させ、1974(昭和49)年から九州の筑豊地区に投入されたのがキハ66系だった。走行性能、また客室の居住性も高められている。当時としては画期的な車両で鉄道友の会からローレル賞を受賞された。

 

とはいうものの、全国の路線からちょうど急行列車が消えつつあった時代ということもあり、優秀な車両だったが15編成30両のみしか製造されなかった。九州では筑豊本線を走った後に、全車が長崎に移動し、大村線の主力車両として長崎駅〜佐世保駅間の輸送に携わった。

 

走り始めてから47年。優秀だった車両も、さすがに老朽化が目立つようになり、大村線にYC1系ハイブリッド式気動車が導入されるにしたがい、徐々に車両数が減っていた。今年の6月30日がラストランとなり引退となった。

 

◆JR貨物DD51形式ディーゼル機関車

↑タンク車を牽くJR貨物DD51。四日市市内に非電化区間の貨物線があることから長い間、同形式が使われ続けていた

 

最後はJR貨物のDD51形式ディーゼル機関車である。DD51といえば、全国の非電化区間の無煙化に大きく貢献した車両で、計649両が製造され、貨物列車や、客車列車の牽引に活躍した。

 

JR移行に伴い多くの車両がJR旅客各社とJR貨物に引き継がれた。JR貨物のDD51は北海道と、中京地区を走り続けてきたが、DF200形式ディーゼル機関車の導入に伴い、まず北海道を走っていた車両が消滅、中京地区の輸送にのみ残されていた。

 

2両つらねた重連運転など力強い走行シーンが見られたが、同地区にもDF200の導入が進み、3月12日のダイヤ改正前の最終日に運行が終了している。

 

残るDD51は旅客各社のみとなり、JR東日本に2両、JR西日本に8両が在籍している(2021年3月現在)。すでに定期運用はなく、事業用列車、もしくは臨時の団体列車などに使われるのみで、なかなか見ることができない貴重な車両となってしまった。

 

【2021年の話題④】前半に登場した新車は少ないが希少車両も

引退していく車両がある一方で、新車も登場した。ここでは上半期に登場した新車を見ていこう。

 

◆京阪電気鉄道3000系プレミアムカー

↑3000系の6号車に連結されるようになったプレミアムカー。右下は3000系の先頭車両

 

まず、京阪電気鉄道(以下「京阪」と略)の3000系プレミアムカーから。京阪は大阪府、京都府、滋賀県を走る複数の路線を持つ。中でも大阪市内と京都市内を結ぶ京阪本線が〝ドル箱路線〟となっている。従来から高級感が感じられる特急形電車を導入してきたが、2017(平成29)年8月20日から、特急形電車8000系の編成に1両、プレミアムカーという有料座席指定特別車両を連結することを始めた。同車両が好評だったことから、さらに増備をすすめていた。

 

そして今年の1月31日からは特急形電車の3000系にもプレミアムカーが連結されるようになった。

 

有料座席指定の車両や列車は、JRおよび私鉄各社で導入が進められている。なかなか運賃収入の増加が見込めない中、少しでも役立てばと鉄道会社も導入を図る傾向が強まっている。さらに、新型コロナ感染症の流行により、混んでいる列車を避けて移動したいと思う利用者も多い。そうした人たちにとってうってつけの列車、そして車両となっている。需要がある以上は、今後もこうした車両・列車の導入が加速していきそうだ。

 

◆東京メトロ有楽町線・副都心線17000系

↑登場後すぐに東武東上線や西武池袋線などの路線への乗り入れを始めた17000系。丸みを持った車体が特長

 

2月21日から東京メトロ有楽町線・副都心線に新しい車両17000系が走り始めた。同線では10000系以来、15年ぶりの新車登場となった。丸形の前照灯に丸みを帯びた車体には、副都心線のブラウン、有楽町線のゴールドのラインカラーが入る。来年度までに21編成180両が導入される予定で、既存の7000系の置き換えを図る予定だ。

 

東京メトロの千代田線6000系、有楽町線7000系、半蔵門線8000系と、正面の貫通扉に窓がない独特な風貌を持つ車両が長年走り続けてきた。すでに6000系は引退となり、7000系も徐々に減りつつある。時代の流れとはいえ、親しまれてきた姿だけに、一抹の寂しさを覚える。

 

◆JR東日本E131系

↑鹿島線を走るE131系。水色と黄色のラインが入りおしゃれ。早くも房総地区の主力車両となりつつある

 

首都圏に近いJR東日本のローカル線では、これまで東京近郊を走ってきた車両をリニューアルして使う傾向が強かった。例えば房総半島を走る外房線、内房線、鹿島線では、以前に京浜東北線を走っていた209系が、車両更新されて使われてきた。そうしたローカル線の効率化を図ろうと生まれたのがE131系だ。3月13日のダイヤ改正に合わせて導入されたが、房総地区用に新しい車両が導入されたのは51年ぶりだそうだ。

 

水色と黄色の房総らしい明るい色のラインが入るE131系。12編成24両が製造され、房総地区の主力車両として活かされることになる。

 

このE131系はその後の増備も進み、秋からすでに相模線を走り、また来春からは日光線や、宇都宮線にも導入される。相模線ではE131系の増備により、早くもこれまで走っていた205系の姿が急速に減りつつある。

 

◆JR東日本E493系(事業用電車)ほか

↑新たに導入されたE493系。事業用車らしく前面は黄色塗装、JR東日本の車両らしく黄緑色の帯を巻く

 

回送作業、保線作業などに使われる事業用車は、なかなか一般利用者の目に触れることのない車両でもある。JR東日本に今年は複数の事業用車が導入され、顔ぶれが大きく変わろうとしている。

 

まずはE493系。2両編成の事業用交直流電車で、回送列車の牽引や、入れ替え作業などに使われる予定だ。

 

電気式気動車GV-E197系も今年に新製された事業用車両だ。形はE493系とほぼ同じながら砕石輸送用で、砕石を積むホッパ車(GV-E196形)を中間に4両はさむ形で運用される。

 

すでにレール輸送用のキヤE195系の導入も進められていて、JR東日本の事業用車も大きく変わることになる。

 

こうした新型事業用車に代わって消えていこうとしているのが、国鉄時代に造られた電気機関車やディーゼル機関車など。EF81、EF65、EF64、ED75、そしてDD51、DE10といった機関車が今も使われている。

 

現在、上記の新型事業用車両の試運転を続けている段階で、正式運用の開始はまだ発表されていないため、既存の車両がいつまで使われるのか不明である。あくまで推測でしかないが、量産型が導入される時には、国鉄生まれの機関車たちも、徐々に消えていくことになりそうだ。

 

【2021年の話題⑤】4月にロマンスカーミュージアムが開館

今年上半期の話題で最も注目されたのが、神奈川県の海老名駅に隣接して誕生した「ロマンスカーミュージアム」ではないだろうか。

 

長年、ロマンスカーの名前で特急列車を運転してきた小田急電鉄が造った鉄道ミュージアムで、館内には引退した歴代ロマンスカーや、昭和初期に走った小田原線用モハ1形などの車両が保存展示されている。

↑ロマンスカーミュージアムの1階に並ぶ歴代のロマンスカー。右からLSE(7000形)、NSE(3100形)、SE(3000形)

 

小田急沿線を模型化したジオラマパークや、ロマンスカーの運転が楽しめる本格的な運転シミュレーター、そして親子で遊べるキッズロマンスカーパークといった施設もあり充実している。

 

また入口にはミュージアムカフェ、屋上には海老名駅構内が見渡せるステーションビューテラスがあり、なかなか楽しめる施設となっている。

 

【関連記事】
歴代ロマンスカーが揃う小田急新ミュージアムの名車たちに迫る!!【前編】

 

次週は2021年の7月以降、下半期の鉄道ニュースをお届けしたい。

 

〝なるほど〟がいっぱい!鉄道好き目線で「鉄道技術展」を追ってみた

 〜〜第7回 鉄道技術展2021(千葉県)〜〜

今年で7回目となる「鉄道技術展」が11月24日〜26日、千葉県の幕張メッセで開かれた。同時に開かれた「橋梁・トンネル技術展」まで含めると270以上と出展ブースの数も多く、企業の多くが、自社の新技術のPRに務めていた。

 

鉄道のプロ向けの技術展ということもあり、難度が高かったものの、鉄道好きという立場から、興味を引いた企業のブースをいくつか紹介してみたい。

 

*主催:産経新聞社 オーガナイザー:CNT 写真は一部、修正を加えています

 

【鉄道技術展その①】将来の高所作業はロボットにお任せ?

まずは日本信号株式会社のブースから。日本信号といえば鉄道の信号技術の草分け的な企業だが、今回は「多機能ハンドリング車」と名付けられた展示が目を引いた。〝筋骨隆々〟なロボットの横に、VRゴーグルをした操作スタッフが座っている。スタッフが操縦すると、ロボットが腕の先にある〝指先部分〟で用意された鋼管をつかんだり、鋼管を上部の1〜4番のスライド部分に差し込むという実演作業を行っていた。

↑「多機能ハンドリング車」と名付けられた実演。ロボットが鋼管をつかみ、上部にあるスライド部分に見事に差し込んでいった

 

VRゴーグルには、ロボットの頭についたカメラが捉えた状況が映し出される。左手から右手に鋼管を持ち替えて、腕を上げ、スライドして見事に入れ込んだ。見学者から思わず拍手が起こる。

 

このロボットの後ろには作業車のイラストパネルがあった。高所作業は危険と常に隣り合わせだ。イラストのように作業車の中でスタッフが操作、荷台に取り付けられたロボットが危険な高所の作業を行うロボット付き高所作業車が、少しずつ配備されていくのかもしれない。

↑VRゴーグルを付けたスタッフが操る(左)。右のロボットが鋼管をつかみ、上の1〜4番の下にさし込むという実演が行われた

 

日本信号株式会社のブースでほかに気になった技術も取り上げておこう。

 

現在、多くの駅でおなじみとなっている自動改札機。今は交通系ICカードをタッチして通り過ぎるが、日本信号が展示していたのは「顔認証改札機」なるもの。あらかじめ顔をタブレッド端末で写真撮影し、登録すれば、改札機側が顔を判断して、改札機を開け閉めするシステムだ。

 

新型コロナ感染症が流行している昨今だが、たとえマスクで顔が半分隠れていても、顔をしっかり認識し、改札が開け閉めされる。

↑マスクをしていても改札機が利用できる「顔認証改札機」。登録していないと右上のように赤い光が点灯、「出てもう一度入って」の表示が

 

「LS式踏切障害物検知装置」も興味を引いた。従来の障害物検知装置とはどのように異なるのだろう。

 

この装置の場合、踏切内の上(地上750mm)と、下(地上300mm)2段に検知エリアが設けられる。もし自動車が踏切内に取り残されても、反射率が低いボディではなく、反射しやすいホイールを検知するという。また踏切内で、車いすを利用する人が転倒したとしても、従来タイプよりも死角が少なくなり検知されやすくなるという仕組みだった。

 

高齢者の踏切事故が目立つようになっている昨今、踏切事故を減らす装置の技術革新が進められているのである。

↑新型の「踏切しゃ断機」とともに公開されていた「LS式踏切障害物検知装置」(中央部の円筒形)。従来型に比べて検知能力に優れる

 

【鉄道技術展その②】LED表示器+豪華シートに注目が集まる

前照灯、室内灯、表示器などの製作メーカーとして知られているコイト電工株式会社。LEDライト、LED室内灯、さらにLED化した行先表示器「セレクトカラー表示器」などが、多くの鉄道会社に採用・納入されている。

 

鉄道技術展でも、同社の行先表示器「セレクトカラー表示器」が展示されていた。今は3万5937色の表示が可能になっているとのこと。ひと時代前の数色しか表示できなかったころとは明らかに異なり、色鮮やかで多彩な表示ができるようになっているのである。

 

【関連記事】
見慣れた表示がいつのまにか変化していた!?鉄道車両に欠かせない「カラーLED表示器」の今を追う

 

↑コイト電工のLED表示器「セレクトカラー表示器」。色鮮やかでさまざまな絵も表示できるようになっている

 

コイト電工でLED表示器とともに、注目を集めていたのが高級シート。「クレードルシート」と名付けられた座席で、技術展には、東海道・山陽新幹線を走るN700Sのグリーン車用シート、JR東日本のE261系・特急「サフィール踊り子」のプレミアムグリーンシート、さらに近畿日本鉄道の80000系・特急「ひのとり」のプレミアムシートが展示され、リクライニングシステムの稼働が可能なように調整されていた。

 

「サフィール踊り子」用と、「ひのとり」用は、ともにバックシェル付きで、リクライニングさせても、後ろに座る人への気遣いが不要な造りとなっている。

↑JR東日本E261系のプレミアムグリーンシート。背の後ろ、バックシェル部分には軽く丈夫なカーボンファイバーが使われる

 

コイト電工の「デジタルベルブザー」も気になった。音が鳴る部分はコンパクトながら、いろいろな音が出せるという。鉄道ではベルやブザー、チャイム、または音声案内など、利用客や乗務員にさまざまな情報を音で伝えることが多い。

 

これまではベルやブザーなどを個々に鳴らして伝えていた。別々の装置が必要だったわけである。ところが、この「デジタルベルブザー」ならば、それぞれのボタンを押せば、該当する音を鳴らすことができる。音をデータ化して一つの機器に組み込んだもので、省スペース化につながるわけである。

↑単打ベル、非常ブザー、アラームなど多彩な音を出すことができる「デジタルベルブザー」。左のボタンを押せば、右の機器から音が出る

 

【鉄道技術展その③】大きな車止め表示はどこの駅のもの?

鉄道標識は、線路の先の情報を運転士に伝える大切な役割を持つ。停止する場所を示す「停止箇所標識」や、「距離標」「勾配標」などを造るのが、株式会社保安サプライ。運転に関わる標識以外にも、乗客の目に触れる機会が多い「乗車位置標」や、駅名が書かれた「駅名標」なども製作している。

 

このブースは目を引くものが多かった。まずは「停止箇所標識」。この標識、実は、地方や会社により異なっていたのだ。たとえば、下の写真は通称〝停目〟と呼ばれる「停止位置目標」を集めたもの。北海道から九州の「停止位置目標」がずらりと並んだ。

 

中でも目を引いたのが、紫色に縁取りされた四角い枠の中に「E353」という文字と「9」の文字。これはつまり、中央本線などを走る特急「あずさ」「かいじ」に使われるE353系用で、紫の縁取りはE353系のアクセントカラー、9両編成の列車は、この位置で停まるようにという運転士に伝える「停止位置目標」だったわけである。運転士が見ても分かりやすい標識のように感じた。

↑各地の「停止位置目標」。右から北海道、関東、西日本、九州と並ぶ。左下がJR東日本E353系用

 

さらに、ブースの床には「乗車位置標」のシールが貼られていた。「乗車位置標」とは、ここが停車時のドアの位置ですよと知らせるマークだ。

 

乗車位置は列車ごとで異なることが多い。そんな時に、この「乗車位置標」が必要になる。床に貼られていたのは、普通列車とともに、特急列車のものも。例えばJR西日本の特急「スーパーはくと」の場合には列車のイラストが描かれ、分かりやすい。目を引いたのは流鉄(千葉県)の「乗車位置標」だ。流鉄は走る電車が一編成ずつ異なりカラフルだ。そんな正面の姿がシールにプリントされ、楽しい造りとなっている。

 

流鉄に乗った時はこの乗車位置標にも、ぜひ注目したいなと思った。

↑ブースの床には「乗車位置標」が多く貼られていた。こちらも北から南までずらり。中でも流鉄が目立った

 

ブースには、黒と白で塗り分けられた巨大な「車止標識」も置かれていた。線路がここで終了という所に設置される「車止標識」だが、通常は280mm角だそうだ。ところが、これは倍以上の大きさ。こんな大きな「車止標識」を、実際に使っているところがあるのだろうか。

 

たずねてみると、JR九州の門司港駅で使われているものだという。筆者が撮影した門司港駅の写真を探してみると……あった。門司港駅は鹿児島本線の起点となる駅だが、この巨大な「車止標識」が設置されていた。

 

こうした展示を見ていると、標識もかなり奥深いことがよく分かった。

↑ブースに飾られていた巨大な「車止標識」。鹿児島本線の起点、門司港駅の0キロポストとともに使われているものと同じだった(左下)

 

「駅名標」もなかなか奥が深い。

 

展示されていたのはJR仙山線の山寺駅の駅名標だった。山寺駅は山形県内にある駅で、山寺の通称で名高い立石寺(りっしゃくじ)の最寄り駅である。駅名標には山寺の写真が使われている。さらにお寺が近くにある駅ということで、和風の屋根が取り付けられていた。単なる名前のみの駅名表示ではない、とてもユニークな駅名標もあることが分かった。

↑山形県の山寺駅の駅名標が展示されていた。写真付きで和の趣が漂う造りに

 

こちらのブースでは、他にさまざまなメッセージを入れ込んだ「踏切注意標[踏切内走行注意]」が展示されていた。このような注意標を付けてはいかがでしょう、という鉄道会社に向けた提案型の展示だったが、利用者の目を引くこうした注意標があっても良いように感じた。

 

さらに同社では標識類だけでなく、「融雪ブロック『とけるくん』」なる商品の展示もされていた。こちらはホーム上に装着する融雪ブロックで、雪の多い地方の鉄道向け商品。雪の多い地方では、冬には日々のホーム上の雪かきが安全確保のために欠かせない。この融雪ブロックをつけておけば、その部分は雪が溶けるので安全というわけだ。

 

鉄道関連の技術といっても実に多種多様。色々な製品が開発されていることが良く分かった。

 

【鉄道技術展その④】目を引いたいくつかの新しい技術

ここではその他の企業で気になった製品をピックアップしてみよう。

 

◆近畿車輛「車載式 自動スロープ装置」

まずは近畿車輛から。同社は100周年を迎えたとあり、生み出した代表的な車両が細密なイラストで紹介されていた。

↑100周年を迎えた近畿車輛では生み出した車両をイラストで紹介する。「車載式 自動スロープ装置」の案内も目を引いた(右下)

 

1920(大正9)年製造の阪神電気鉄道の311形にはじまり、1958(昭和33)年製造の151系特急形電車や、1996(平成8)年製造の500系新幹線電車、2020(令和2)年の近畿日本鉄道80000系「ひのとり」など、歴史的な車両のイラストがボードにずらりと並び、見ていて楽しめた。

 

一方、実機はなかったものの、パネル展示で気になったのが、「車載式 自動スロープ装置」という製品。電車のバリアフリースペースなどに取り付けられる製品で、現在、駅の係員が対応している車椅子利用者への乗降サービスを、係員が不在な駅でも対応できるようにしたもの。段差や隙間があるところでも車椅子利用が可能となる装置でもある。すでに一部の路線バスなどに装着されたものの鉄道版というわけである。

 

すぐ導入というのは難しいかも知れないが、将来的にはこうした装置が導入されると役立つように思った。

 

◆富士電機「電気駆動ドアシステム」

↑富士電機の「電動駆動ドアシステム」の紹介。従来のタイプよりも、ドアに物がはさまった時などの対応に優れるとされる

 

富士電機株式会社のブースには、実物大の両開きの乗降ドアが用意されていた。どのようなものなのかたずねると、電気駆動ドアシステム「ラック・アンド・ピニオン式ドア」の紹介とのこと。

 

電車のドアの開閉は、すべてが電気駆動で動くのだろうと筆者は考えていたがすべてではないということが分かった。ドア上部に空気配管があり、〝元空気だめ〟から圧縮空気が供給されて、ドアが開閉する装置もかなり使われているようだ。

 

国内では走行中にドアが開く事故が年に数件起きている。事故には至らないまでも、ドアに物がはさまって、開閉するものの、なかなか電車の発車ができないといったトラブルもよく起こる。

 

富士電機のドアは電気駆動ドアシステムを売りにしている。ドアごとに監視機能付きのコントローラーを持ち、もし荷物がはさまったドアがあっても、ドア個々の対応が可能なのだと言う。その結果、トラブルによる時刻の遅れを未然に防ぐことにつながる。さらに圧縮空気を使わないために、取り付けが簡単で、保守・点検が容易になるという。鉄道の技術は奥深いことが良く分かった。

 

「走行中にコックを開けてもドアが開かない!」とPRの言葉にあった。つまり走行中に乗客がコックを誤操作したとしても、開けることができない。より安全性が確保されるという仕組みとなっているわけだ。ドアの非常コックへの注目度が高まっているだけに、見学者も同社のシステムにかなり興味を示しているようだった。

 

◆ニコン・トリンプル「自立四足歩行ロボット」

↑背中にレーザースキャナー装置を付けた四足歩行のロボット。タブレットPCのモニタを利用してコントロールする

 

株式会社ニコン・トリンプルが紹介する自立四足歩行ロボットはなかなか興味深い製品だった。

 

公開していたロボットはアメリカBoston Dynamics社の「Spot」。背にはアメリカTrimble社の「3DレーザースキャナC7」を積んでいる。ロボットとスキャナを一つのソフトフェアで制御できる仕組みで、タブレットPCを使って操作する。細密に計測できるスキャナを積むことで、人が関わらずにさまざまな計測をしたり、現場を360度見渡すことができるロボットだという。物流業界のロジスティクス管理にも応用できるのだそうだ。

 

人手をかけずに、管理業務などもできるわけで、それこそ番犬ならぬ、〝番ロボット〟としても役立ちそうである。

 

【鉄道技術展その⑤】開け閉めボタンも大きく変わっていた!

今回の鉄道技術展をめぐっていると、鉄道の車内外で良く見かけるボタンを見つけた。

 

「照光式押ボタンスイッチ」と名付けられたNKKスイッチズ株式会社の製品で、車両のドア横に付く。最近、ローカル線の車両などで良く見かけるようになった開け閉めの操作ができるボタンスイッチだ。

↑一番左が屋外用のベゼル付きボタンスイッチ、その右が屋内用。屋外用ベゼルは色も多彩に揃っている

 

車外に付くボタンスイッチは、ここにボタンがあります、ということが良くわかる仕組みだ。黄色や赤といった明るめの色をした「ベゼル」と呼ぶ囲むパーツが付いている。

 

一方、屋内用にはベゼルが付かず(ベゼルレスタイプと呼ぶ)、ボタンのみだが、「開」は緑、「閉」は赤で常時点灯。単にボタンスイッチがある状態とだいぶ異なるのだ。さらにベゼルは、黄色、橙(だいだい)、赤、青、緑、灰色があり、選べるようになっている。

 

また「開」「閉」という文字で示さずに、開閉方向が分かりやすくデザイン化されている。

↑ブースに設けられた屋外用ボタンスイッチ。押せば映像のドアが開く仕組みだが、音が本物に近く、つい何回も開け閉めしてしまった

 

従来型のボタンスイッチに比べて、暗い所でも見える造り。さらにユニバーサルデザインであり、色覚バリアフリーにも対応している。防水・防塵性能にも優れていて、2020(令和2)年4月20日に発売された新しいボタンスイッチながら、急速に採用されつつあり、多くの車両で見かけるようになっている。

 

車両に付くボタンスイッチも、技術開発やデザインで、より使いやすい形に進化を遂げていたわけだ。

↑右のボタンのどれを押しても消毒液が出る仕組み。ボタンを試し押しする人が多かった同ブースでは役立つ装置だった

 

【鉄道技術展その⑥】新たなレンタル軌陸車はどこが違うのか?

最後は、やや大きめの展示物を取り上げたい。保線作業などに使う軌陸車を紹介するレンタルのニッケンのブースだ。

 

軌陸車は大半が中型トラックを利用し、車体下から鉄輪がでてくることで、道路だけでなく、線路上も走ることができる。夜間に保線などの作業に使われることが多く、鉄道会社や保線作業を行う会社が所有していることが多い。とはいえ、そうした車両は高価で保有するのも大変である。

 

レンタルのニッケンでは「鉄道工事用機械」の名前で多くの軌陸車を用意する。同社では1979(昭和54)年から軌陸車の開発を開始、今もさまざまな用途に役立つ軌陸車の開発を続けている。

 

今回の鉄道技術展のブースにも2タイプの新しい車両を持ち込みPRに務めていた。その車両を紹介しておこう。

 

◆軌陸車「鉄道用サイドステージ」

まずは「鉄道用サイドステージ」と名付けられた車両。この車両は作業員が乗りこみ作業する〝ステージ〟が上でなく、横に伸びるのが特長となっている。

↑「鉄道用サイドステージ」と名付けられた車両。作業員が乗り込むステージを横に延ばすことができる(左上)、軌陸車なので移動も簡単だ

 

高所作業車の場合には、作業をする時にアウトリガーを四方に張り出して車体を安定させなければいけない。ただし、このタイプはアウトリガーを引っ込めないと移動できない。つまり作業中の移動に手間がかかるのだ。さらに高所作業車は上部の作業に役立つのだが、斜めとなると角度にもよるが危険が伴う。

 

今回展示されていた「鉄道用サイドステージ」は低い位置の作業に向いた車両で、アウトリガーも必要としない。そのためトンネル内などでの配線や、側面作業に向いている。作業に合わせて移動することもできる。作業効率がアップするというわけだ。

 

ちなみに軌陸車の鉄輪は在来線用の1067mm幅と、新幹線用1435mmといった異なった線路幅にも対応しているのだそうだ。なかなか便利な仕組みなわけである。

 

◆軌陸車「鉄道用アンロードプラス(仮称)」

もう1台の車両もユニークなものだった。「鉄道用アンロードプラス(仮称)」と名付けられた車両で、軌陸車ながらホームでの荷物の積み込み、積みおろし作業に役立つ車両だ。

↑鉄道用アンロードプラス(仮称)と名付けられた軌陸車を横から見る。前後に鉄輪を持っている。右下の鉄輪は後輪用だ

 

ホームに到着したら、荷台をホーム側に動かすことができる。荷台を降ろしきれば、ホームとの段差もなくなり、スムーズに荷物の積み下ろしができる。軌陸車が走る時には荷台が車両の上にすっぽりと収まる仕組みだ。いろいろな作業に役立ちそうだが、特にホームドアの設置作業などに威力を発揮しそうである。

↑ホーム上に荷台を降ろすところ。完全に降ろせばホームとの段差もなくなり、作業もスムーズに行える造りだ

 

今回の鉄道技術展に登場した「鉄道用アンロードプラス(仮称)」はまだレンタルはされておらず、現場には2022年度から登場の予定だとされる。

 

ちなみに、レンタルのニッケンからは、2022年度に高所作業車「鉄道用ハイライダー9.9m」と、「鉄道用オーバーフェンス」という名前の軌陸車が登場予定となっている。「鉄道用ハイライダー9.9m」はその名前の通り、9.9mまで作業ステージが伸びる高所作業車。また「鉄道用オーバーフェンス」は、線路と敷地外にフェンスがある場合に、そのフェンスを越えて作業をする時に役立つ造りとなっている。

 

いろいろな作業に対応するような軌陸車が次々に開発されていたわけである。

 

ブースには軌陸車だけでなく、「踏切用軽量マット」という製品も置かれていた。軌陸車は踏切などの線路と道路の段差がないところから線路の上にのせる必要がある。踏切が近くにない場所でも、この「踏切用軽量マット」を敷けば踏切がわりとなり、軌陸車を線路にのせることが可能となる。重量は11kg〜17.5kgと軽めで、簡単に移動させることができる。

 

軌陸車だけでなく、こうした製品まで用意していることに感心した。

↑「踏切用軽量マット」と名付けられたマット。緑と黒が用意されている。ともに10kg台の重さで簡単に持ち運びできる

 

今回は鉄道技術展の興味を引いたブースのみを紹介した。これはごく一部であり、他にも興味深い製品が多数紹介されていた。

 

同鉄道技術展は2022(令和4)年5月25日(水曜日)〜27日(金曜日)にも、インテックス大阪4・5号館で開かれる予定だ。鉄道のプロでなくとも一般の人でも入館できるので、興味がある方は訪ねてみてはいかがだろうか。

「英国の鉄道」の今を伝える写真展 & 気になる英国の鉄道趣味事情

〜〜「レールブリタニア英国鉄道写真展」を開催(東京都)〜〜

 

鉄道が走る景色は国それぞれ大きく異なり、個性がにじみ出るもののようだ。

 

「RAIL BRITANNIA」という英国鉄道の写真展が12月に東京都内で開かれる。英国に暮らす人たちが撮り歩いた、とっておきの〝英国の鉄道〟が再現された写真展だ。その一部の紹介と、英国鉄道の現在、気になるあちらの〝鉄道趣味〟〝撮り鉄〟の実情に触れてみたい。

 

【英国鉄道に触れる①】英国に住んだからこそ写せた鉄道風景

まずは写真展の概要を紹介しよう。

 

◆RAIL BRITANNIA「レールブリタニア」(副題:英国鉄道写真展)

日程:2021(令和3)年12月10日(金)〜16日(木)期間中無休
時間: 10時30分〜19時(土日17時、最終日14時まで)
会場: 富士フォトギャラリー銀座 東京都中央区銀座1-2-4サクセス銀座ファーストビル4階
入場料金:無料

出展者:相内浩平、大山敬太郎、越智喬之、関根英輝、西尾祐司(敬称略)

 

まずは写真展のタイトルだが、英国の愛国歌「Rule,Britannia!」をもじったそうである。今回の写真展のメンバーは「英国鉄道研究会」の一員であり、英国に長く滞在していたからこそ生み出されたタイトルといえよう。そうした方たちだからこそ写すことができた写真であり、日本の鉄道とはひと味違った〝鉄道景色〟を見出すことができる。

↑一見どこに駅があるのか分からない場所にポツンと立つ駅名標。周りとのギャップに思わずカメラを向けてしまった 撮影:関根英輝(以下同)

 

【英国鉄道に触れる②】英国を良く知るからこそ見えてきたこと

写真展に出展しているひとり関根英輝さん(29歳)は英国生まれの英国育ちで、生粋の〝ロンドンっ子〟だ。本サイトでも英国の鉄道事情を「秩父路号」のペンネームで何度かレポートしている。

 

【関連記事】
古き良き時代にタイムスリップできる「英国式保存鉄道」の魅力

 

そんな関根さんが日本に〝移住〟されたそうで、これを機会に英国鉄道を撮り続けてきたお仲間と写真展を開こうということになった。

↑英国の大幹線である東海岸本線。名前とは裏腹に海岸線を走るのはごく一部区間だがそこでは絶景が望める

 

関根さんに今回の写真展の主旨を紹介してもらうとともに、現在の英国の鉄道事情、趣味事情をうかがった。

 

「今回の写真展は共通の趣味を持った5人の写真家が合同で展示作品を出展しています。こだわったポイントとしては、写真を通して英国の鉄道の魅力を伝えたい、ということです。英国全土で写された写真で、風光明媚な景色、個性あふれる車両、そして鉄道の運行に関わる人々を大きなテーマとしています。

それぞれの写真に〝英国らしさ〟が込められていますので、少しでもそれを感じ取っていただければと思います。日本の鉄道とはまたひと味違った鉄道景色を見ていただき、少しでも英国の鉄道に興味がわいた、または英国に一度行ってみたいと感じていただければと思います」

 

では、関根さんが感じる英国の鉄道の魅力はどのようなところなのだろう。

 

「英国で特に目立つのは鉄道文化や風習でしょうか。最近では色々と状況が変ってきてしまいましたが、鉄道車両の顔が黄色かったり、ヘッドライトは片目しか点灯しなかったり、手動ドアの客車が営業運転で現在でも使用されていたりと、鉄道先進国の中でもユニークさが際立つところだと思います」

 

手動ドアの車両が今も使われるところなどは、日本のように効率および安全第一で鉄道を走らせる国とはだいぶ違うようだ。

 

【英国鉄道に触れる③】鉄道を保存する行動力が半端ない!

「あと大きな魅力としては鉄道文化の保存活動があげられます。一番分かりやすいのが全国各地の保存鉄道ですが、英国には鉄道遺産を後世に伝えるという情熱があふれている人たちが大勢います。

昔の姿で、かつての車両や機関車を復活させて運行したり、挙句の果てには全て廃車になってしまった蒸気機関車の形式を新造してしまったりと、尊敬するほどの行動力を感じます。その人たちのおかげで現在でも過去の鉄道文化と触れ合うことができるのが、大きな魅力だと感じています」

 

保存のために新しい形式を造ってしまうとは、うらやましいほどの行動力である。それを容認する社会の空気もあるのだろう。

↑保存鉄道でのワンシーン。昔の色鮮やかな蒸気機関車が力強く走る姿が現代でも楽しめる

 

「英国では鉄道のみならず産業・文化遺産を保存して後世に伝えるという点では情熱ある方が多くいます。日本でも同様の想いを持つ方は多いでしょうが、大きな違いはボランティア文化とチャリティ文化にあると思います。保存鉄道などは老若男女問わず多くのボランティアの方々が自由時間を割いて運営に貢献しています。

ボランティアの多くが高齢者となっていて、活動人口が減ってきているというのも事実ですが、世間一般にボランティア精神が根付いているのが大きいと思います。

また、チャリティに関しては、日ごろから何かに対して寄付をするというキリスト教から芽生えた文化でしょう。英国政府も、保存鉄道などには文化保存という名目で資金が提供することもあります。これもチャリティ文化のひとつの形と言えるかもしれません」

 

日本では、クラウド・ファンディングでの資金集めが広く行われるようになってきて、車両の動態保存などに役立てられるようになってきた。こうした活動が活発化されるのは素晴らしいことのように思う。あとはそれをいかに末長く持続させられるか、そのあたりが大きなカギなのであろう。

 

そんな関根さんが好きな鉄道車両について聞いてみた。

 

「個人的に思い入れがある車両はA4型蒸気機関車でしょうか。蒸気機関車の公式世界速度記録を保持する『マラード号』で有名ですね。小さいころ、スコットランドに住む母親の友人を訪問する際、いつもその途中にあるヨークの鉄道博物館に立ち寄ったのですが、そこで展示されているマラード号にいつも感銘を受けていた思い出があります。かっこよくて速い蒸気機関車は小さい自分の憧れでした」

↑ヨークの鉄道博物館に静態保存されているマラード号。時速203キロという公式の蒸気機関車の世界速度記録を保持する

 

では、英国で特に好きな鉄道風景は?

 

「お気に入りの鉄道路線でいえばエクセター~プリマスの間にあるドーリッシュ近辺ですかね。ここは海と崖の間に遊歩道と線路がはさまれていて、素敵なロケーションです。夏の日に散歩しながら〝撮り鉄〟するのが、本当に気持ちが良かったです」

 

【英国鉄道に触れる④】英国の〝撮り鉄〟の様子は?

日本では昨今、マナーの問題などで〝撮り鉄〟の評判があまり芳しくないのだが、英国の〝撮り鉄〟事情についてたずねてみた。

 

「元々、英国の鉄道文化は『スポッティング』という、目撃した機関車の番号をメモ帳に記録する趣味が王道で、カメラなどが普及した現在でもこれを行う『スポッター』が数多くいます。撮り鉄も少なからずいますが、日本と比較して人口は圧倒的に少ないので、撮影地などでもめることもほとんどないですし、和気あいあいとした雰囲気で撮影しています。

英国の鉄道趣味人口は平均年齢が高く、若い世代が活発に活動している日本とは対照的です。英国での撮影マナーは英国紳士らしく非常によいです」

 

なるほど、鉄道好きにとってうらやましい環境のようである。撮り鉄も、要は英国紳士らしく、マナーをしっかり守るわけである。日本も見習いたいところだ。とはいえ、まったくトラブルはないのだろうか?

 

「唯一の例外が蒸気機関車の『フライング・スコッツマン』が運行する時でしょうか。鉄道ファンだけでなく一般市民の間でも非常に有名な機関車なためか、ひと目見ようと多くの人が駅、そして沿線に詰めかけます。この機関車の写真を撮影しようと、鉄道の敷地内に入り込むなどのトラブルも頻発します」

 

【英国鉄道に触れる⑤】もし英国で鉄道を撮影したい場合は?

↑旧国鉄色に復元されたHSTをヨーク駅で撮影する現地の鉄道ファンたち

 

今後、英国に旅した時に鉄道を撮影したいと考える方もおられるかもしれない。どのような注意が必要なのか、関根さんに聞いておこう。

 

「近年は対テロ対策で人々の警戒心も強くなっています。駅で写真撮影のためにうろうろしていると〝何をしようとしているのか〟という意図の確認、また注意される可能性があります。駅で撮影する場合は事前に駅係員に撮影の許可をお願いするのが良いかと思います。

ほとんどの場合には快くOKしてくれますが、万が一〝ダメです〟と拒否された場合には潔く諦めることも大事だと思います。

ただ、イベント列車などで鉄道ファンが大勢集まる場合などは、駅の係員も自前のスマホやタブレットで撮影する姿も見受けられますね」

 

制服姿で写真撮りをしていたら、日本ならすぐ問題視されてしまうだろう。英国では大目に見られているようで、そのあたりお国柄のようである。

 

「また沿線での撮影ですが、英国では必ずと言っていいほど鉄道の敷地が外部と柵で区切られています。もちろん、こうした場所では、中には絶対に入らないようにしたいものです」

 

【英国鉄道に触れる⑥】英国に導入された日本車両の評判は?

明治時代、鉄道発祥の国である英国から学ぶことによって日本の鉄道の歴史が始まった。長らくお手本だった英国の鉄道なのだが、今は日本製の車両が走る時代になっている。導入された日本車両は不具合が多いという評判も湧き上がったようだが、実際のところどうなのだろう。

↑イギリスで活躍する日立製のClass 800シリーズ。写真は同シリーズの中でもイングランド北部を中心に走っているClass 802

 

「最初のころはやはり初期不良が出てしまい、悪いところが目立ってしまったようです。特に日立製のClass 800シリーズに関しては英運輸省が自ら発注して税金が使用されたことによって、メディアや一般でも注目されていたことが、悪い評判に転じてしまったことがあったように思います。

また、鉄道ファンの間では過去40年間、英国の鉄道の顔として活躍していたHSTを置き換えるということもあって、受け入れがたい部分があったのでしょうね」

 

このあたり、日本でも鉄道ファンが持つ古い国鉄形車両への愛着にも似ているようだ。慣れ親しんできたものへの愛着は、どこの国も同じなようである。

 

「一般の利用者からすると設備も更新され、性能のおかげでダイヤも利用しやすくなって、便利に感じていると思います。座席が固いという意見は今でも耳にしますが……」

 

確かに、日本でも新しい電車は座席が固いというものもあるようだが、向こうの日本製車両も同じような感想を持たれているようだ。

 

【英国鉄道に触れる⑦】日本に住んで感じた日本の鉄道事情は?

英国の鉄道事情に関して詳しい関根さん。日本に初めて住んでみて、日本の鉄道をどのように感じたのだろう。「現在テレワークが主流で、ほとんど通勤で使用していなのですが」と言うものの……。

 

「行楽での利用のみの感想ですが、やはり時間に正確で快適なのを痛感しました。これは鉄道会社に勤める皆さんの努力と犠牲があってこそのものなので、それを忘れずにありがたく利用していきたいと思います」

 

日本に住んでいるとそれが当たり前のようになってしまっている〝定時運行〟。世界的に見れば、貴重なものなのかも知れない。時間どおり走る電車というのは、本当に素晴らしい日本の鉄道の〝宝〟といって良いのだろう。

 

最後に関根さんから一言、

 

「もしお時間があれば、ぜひ写真展にお越しいただき、英国鉄道の世界に触れていただければ幸いです」

 

展望車の登場でさらに魅力アップした東武鉄道「SL大樹」

〜〜東武鉄道鬼怒川線のSL列車(栃木県)〜〜

 

東武鉄道の人気のSL列車「SL大樹(たいじゅ)」がこの秋に大きく変わった。新たな展望車が連結されるようになったのである。11月に入り2週連続で週末に訪れたが、紅葉シーズンと新型車両の登場が重なり、鬼怒川温泉駅は賑わっていた。

 

登場してから4年。列車も沿線も確実にパワーアップして魅力の度合いを高めている。列車の誕生を含め、改めて「SL大樹」の旅を見直していきたい。

 

【東武SLの旅①】「SL大樹」の生い立ちを振り返る

「SL大樹」は2017(平成29)年8月10日に、東武鉄道鬼怒川線の下今市駅〜鬼怒川温泉駅間を走り始めた。運転開始以来、今年で4年となる。

 

東武鉄道では、運転の開始前から長期にわたりSL列車運行の準備を始めていた。同社がかつてSLの運転を行っていたのは1966(昭和41)年6月まで。すでに半世紀の時が流れ、SLのことを知っている社員はほとんどいない状態から進められた。

 

SL列車の運転を行っていた大井川鐵道ほか多くの鉄道会社に協力を求め、社員を派遣し、運転方法、整備方法を長期にわたって学ばせ、技術を習得させた。そして複数の鉄道会社から車両を購入、または借用し、転車台などの施設も遠方から運び整えるなど、大規模プロジェクトとして計画が進められていった。そして2016(平成28)年12月1日に蒸気機関車C11形207号機を報道陣に公開するまでに至ったのである。

↑南栗橋車両管区に設けられたSL検修庫を前に公開された牽引機C11形207号機。このあと半年以上にわたる試験走行が続けられた

 

公開された後も、すぐには運転開始されなかった。鬼怒川線を使っての試運転、習熟運転が半年にわたって続けられた。そして満を持しての2017(平成29)年8月10日の運転開始となったのである。

↑鬼怒川温泉駅を発車する試運転列車。写真は2017(平成29)年6月4日の撮影。運転開始後、「SL大樹」はさらに進化していった

 

「SL大樹」は、東武鉄道の列車の乗車率を高めるためだけに運転が始められたわけではない。SL列車が走る鬼怒川温泉の人気を取り戻すという大きな使命があった。

 

鬼怒川沿いに温泉旅館が建ち並ぶ鬼怒川温泉。この温泉郷には大規模なホテル・旅館が多い。1960年代の高度経済成長期には社員旅行や団体旅行が大流行し、それに合わせて規模を拡大した宿が多かった。しかし、時代は大きく変化していき、社員旅行・団体旅行はすたれていく。廃業する宿も目立っていった。

 

鬼怒川温泉は日光市の藤原地域にある。藤原地域の「入込客」の推移を見てみると、2010(平成22)年度の237万3390人をピークに、その後、170万人台と落ち込んでいる。こうした藤原地域のてこ入れ策の一つとして「SL大樹」運行が計画されたのである。

 

「SL大樹」の運転が開始された2017(平成29)年度には「入込客」は233万5212人まで復活、以降、230万人前後で推移している。昨年度こそ新型コロナ感染症で「入込客」が減ったものの、SL列車の運転は一定の成果をもたらしたのだった。

↑鬼怒川温泉駅前に設けられた転車台。蒸気機関車が方向転換する時間ともなると、転車台の周りはずらりと見物客が取り囲む

 

SL列車の運転だけでなく、鬼怒川温泉駅の目の前に転車台を設けたのも効果があったのではないだろうか。転車台で行われる蒸気機関車の方向転換作業は鬼怒川温泉の人気のイベントとして定着している。転車台は、通常は駅構内にあり、利用者にはあまり縁のない作業だった。しかし、東武鉄道ではSL列車が走る鬼怒川線の起点、下今市駅とSL列車が折り返す鬼怒川温泉駅の両駅で、観光で訪れた人たちが楽しめる場所に転車台を設け、それをイベント化してしまった。これは実に画期的なプランだったように思う。

 

【東武SLの旅②】SL運転に使われている車両をチェック!

ここで「SL大樹」に使われる車両を整理しておこう。まずは蒸気機関車から。

 

◆蒸気機関車 C11形207号機

↑新展望車を連結して走るC11形207号機。前照灯を上部に付ける独特な姿が特長で「カニ目」と呼ばれ親しまれてきた

 

元はJR北海道で観光列車の牽引用に活躍していた蒸気機関車で、「SL大樹」の運転開始にあたりJR北海道から借用する形で、東武鉄道へやってきた。1941(昭和16)年12月26日生まれで、人間の年ならば今年でちょうど80歳、傘寿(さんじゅ)にあたる。現役当時、北海道では日高本線、瀬棚線などを走っていた。濃霧が多い線区を走ったこともあり、煙突の横に前照灯を2つ設けている。この独特な姿から「カニ目」と呼ばれ親しまれてきた。

 

◆蒸気機関車 C11形325号機

↑2020(令和2)年の暮れから運転が始められたC11形325号機。戦後生まれでC11形の4次形と呼ばれるグループに含まれる

 

栃木県・茨城県を走る真岡鐵道から購入したC11形蒸気機関車で、生まれは1946(昭和21)年3月28日と207号機に比べるとやや若い。とはいうものの誕生して75年になる。誕生時は神奈川県の茅ヶ崎機関区に配置され、相模線や南武線を走った。現役最後には東北地方へ移り、米坂線、左沢線(あてらざわせん)などを走った。引退後は新潟県阿賀野市の水原中学校で静態保存されていた。

 

1998(平成10)年に復元工事が行われ、真岡鐵道ほかJR東日本の路線でSL列車の牽引に活躍した後に、2020(令和2)年に東武鉄道に引き継がれ、同年の暮れからSL大樹の牽引機として走り始めている。

 

東武鉄道ではほかにC11形蒸気機関車の123号機の復元工事も進めていて、将来は3機態勢で「SL大樹」は運転されることになる。

 

次に客車を見ておこう

 

◆14系客車

↑ぶどう色という濃い茶色で塗られた客車編成。国鉄の旧型客車を思い起こさせる懐かしいカラーとなっている

 

↑青色で塗装された客車編成。14系客車を前後に中間には展望デッキ付きの12客車を連結して運転

 

14系は国鉄が造った客車で寝台車、また座席車の2タイプに分けられる。東武鉄道を走る14系は座席車で、JR北海道、JR四国で使われていたものだ。元特急列車用で回転式座席を持ち、簡易リクライニングシート仕様となっている。「SL大樹」は通常、客車3両で運転され、新展望車12系を中間に、前後に14系が連結されて走る。車体色は14系が「青20号」、12系が戦後の客車列車の趣をイメージさせる「ぶどう色2号」と、かつてのブルートレインを彷彿させる「青15号」で塗られ、すべて「ぶどう色2号」に塗られた編成も登場している。

 

◆12系客車

12系客車は国鉄が製造した急行形座席客車で1969(昭和44)年から1978(昭和53)年までに計603両が製造された。その多くがすでに引退となっているが、東武鉄道にはJR四国で使われていた2両がやってきた。今年になり展望車に改造(詳細は後述)され、SL大樹の客車の中間車として連結されている。

 

以下、「SL大樹」の運転に欠かせない車両をチェックしておこう。

 

◆車掌車 ヨ8000形

C11形蒸気機関車の後ろに連結されているのが車掌車ヨ8000形で、東武鉄道路線上では必ずペアを組んで走る。車掌車は現在2両が使われているが、JR貨物とJR西日本で活躍していた車両だ。東武形ATS(TSP)などの機器類を積んでSL列車の安全な運行を手助けする役割を担っている。

↑蒸気機関車の後ろに連結されている車掌車ヨ8000形。SL列車の安全な運転に欠かせない機器類が積み込まれている

 

◆DE10形ディーゼル機関車

↑「SL大樹」を後ろから押すDE10形ディーゼル機関車。写真の1109号機はブルートレインを牽いた機関車と同じ青色塗装で活躍する

 

SL列車の運転を補助的な役割をするディーゼル機関車で、後ろから列車を押す補機として、東武日光駅行きの「SL大樹『ふたら』」の運行などに使われる。最近は、補機を付けずに蒸気機関車の牽引のみで運行される列車も多くなっている。

 

使われるDE10形は国鉄が生み出したディーゼル機関車で、駅構内での貨車の入れ替え、支線での旅客・貨物列車の牽引と万能型機関車として使われてきた。今もJR各社で使われているが、東武鉄道にはJR東日本で働いていた1099号機と1109号機の2両が入線している。1099号機は国鉄時代の塗装、1109号機は、北海道で特急北斗星を牽いたDD51形ディーゼル機関車と同じ青色に金帯の塗装で、鉄道ファンにとっては楽しい車体色となっている。

 

【東武SLの旅③】新しい展望車はどのような客車なのだろう?

ここで11月から「SL大樹」に連結される展望車のディテールを見ておこう。

 

新展望車には前述した12系客車2両が改造されて使われている。まず、ぶどう色の客車が「オハテ12-1」、青色の客車「オハテ12-2」という車両番号が付く。それぞれ車両の約4分の1スペースを「展望デッキ」に改造し、側面を開けて手すりを設け、外気が直に感じられるようにした。

 

この展望デッキを設けた理由として、これまで乗車した人の声の中に「SLが吐き出す煙や、石炭が燃えたにおいを感じたい」、「SLのドラフト音が聞きたい」といった要望があったからだと言う。確かに現代の客車はきっちり窓が閉まることもあり、なかなかSL列車の特長が掴みにくい。

 

筆者の世代から上になるとSLが牽くローカル線の列車ではトンネルが近づくたびに「窓を閉めろ」と声が飛びかい忙しく開け閉めをした。そんな記憶や、石炭を燃やした煙の香りも頭の中にしっかりと刻み込まれている。そうしたSL列車の特長を肌で感じたいという世代も多いのであろう。

↑青く塗られた展望車オハテ12-2は11月13日から正式に走り始めた。「12系展望車就役記念乗車券」も発売されている(右上)

 

オハテ12-1は11月4日、またオハテ12-2は11月13日から「SL大樹」に連結され走り始めている。写真で展望車の特長を紹介しておこう。まずは展望デッキを横から見たところから。

↑オハテ12-2車両の展望デッキ部分を横から見る。上下すべて開いたスペースと上部のみ開いたスペースが設けられた

 

↑連結器側から見た展望デッキ。程よい高さのベンチと壁にはヒップレスト、スタンションポールが設置された

 

↑展望デッキには高さの異なるベンチを用意される。側面には手すりが付き小さな子どもたちでも安心して外の景色が楽しめる

 

↑オハテ12の客席はボックス席で真ん中にテーブルがある。テーブルの横には丸形フックが、座席の肩部分には手すりが付けられた

 

展望車の客席部分は4人掛けのボックス席で、ウッド風のテーブルを真ん中に設けている。上下2段のガラス窓は上のみ開くようにし、客室内でもSLが燃やす石炭の香りがほのかに伝わるように工夫された。

 

【東武SLの旅④】運転区間、運転状況を整理しておこう

展望車が連結されたことで新たな魅力が加味された「SL大樹」。現在どのような時刻、区間で運転されているのか整理しておこう。

 

運行パターンは7パターンがある。7つすべては書ききれないので、細かいところは「SL大樹」の公式ホームページを見ていただきたい。ここでは代表的な運行パターンを紹介しておきたい。

 

まずは平日に多い「運行パターンB」。運行パターンBはSL一両での運行となる。なお東武ワールドスクェア駅の発着時刻はここでは省略した(以下同)。

◆SL大樹「ふたら」71号 下今市駅11時28分発→東武日光駅11時51分着
◆SL大樹「ふたら」72号 東武日光駅12時33分発→下今市駅12時51分着・13時発→鬼怒川温泉駅13時48分着
◆SL大樹6号 鬼怒川温泉駅15時37分発→下今市駅16時14分着

 

↑東武日光駅に到着した「SL大樹『ふたら』」。東武日光から下今市駅への運転はディーゼル機関車を先頭にバックする形で運転される

 

週末や祝日に運転されることの多い「運行パターンD」は次のようなダイヤだ。SLは1両での運行になる。

 

◆SL大樹1号 下今市駅9時33分発→鬼怒川温泉駅10時9分着
◆SL大樹2号 鬼怒川温泉駅11時10分→下今市駅11時45分着
◆SL大樹5号 下今市駅13時発→鬼怒川温泉駅着13時48分着
◆SL大樹6号 鬼怒川温泉駅15時37分発→下今市駅16時14分着

 

運転本数が多い「運行パターンE」の場合は次のようになる。「パターンE」の日はSL2両を使っての運行が行われる(時刻順)。

 

◆SL大樹1号 下今市駅9時33分発→鬼怒川温泉駅10時9分着
◆SL大樹2号 鬼怒川温泉駅11時10分→下今市駅11時45分着
◆SL大樹「ふたら」71号 下今市駅11時28分発→東武日光駅11時51分着
◆SL大樹「ふたら」72号 東武日光駅12時33分発→下今市駅12時51分着・13時発 → 鬼怒川温泉駅13時48分着
◆Sl大樹7号 下今市駅14時55分発→鬼怒川温泉駅着15時32分着
◆SL大樹6号 鬼怒川温泉駅15時37分発→下今市駅16時14分着
◆SL大樹8号 鬼怒川温泉駅16時43分発→下今市駅17時18分着

 

さすがにSL2両を使って運行される日は本数が増え、かなり賑やかなダイヤとなる。

 

ちなみに、その日に運転されるSLが207号機か325号機かは、ホームページ上の「○月の運転日毎の編成予定はこちら」というコーナーで紹介されているので参考にしていただきたい。ディーゼル機関車が補機として連結されるかどうか、また国鉄色の1099号機か、青色の1109号機かまで分かるので大変に便利だ。

 

【東武SLの旅⑤】運転された4年間で沿線も大きく変わった!

「SL大樹」が運転される前は、鬼怒川線沿線にあまり足を運んだことのない筆者だったが、運転され始めた後は一年に数回は訪れるようになった。まさに「SL大樹」の魅力にはまってしまったのである。訪れるたびに沿線が少しずつ変わってきていること気がついた。

 

東武鬼怒川線には昭和初期に造られた駅や建造物が多く残り、それが長い間、大切に使われてきた。そんな鬼怒川線の鉄道施設7件が「SL大樹」が走り始めた2017(平成29)年の7月21日に国の登録有形文化財に登録された。SL復活運転の目的の一つには「鉄道産業文化遺産の保存と活用」の推進という大事なテーマがあったのである。

↑鬼怒川線の途中駅も徐々にお色直しされている。写真は現在の新高徳駅で、右上が以前の駅舎。きれいに整備されたことが分かる

 

そうした駅に残る文化財の保存とともに、駅がきれいに整備されていった。例えば「SL大樹」が発着する下今市駅。旧跨線橋が登録有形文化財に指定されるが、駅舎は博物館のように落ち着いた趣に整備されている。また新高徳駅はホームと古いレールを使った鉄骨造の上家が登録有形文化財に指定されている。新高徳駅は2019(平成31)年に駅舎もきれいに整備され、おしゃれな駅に生まれ変わった。

 

鬼怒川温泉駅も「SL大樹」の運転開始後にリニューアルされた。栃木県産の杉材を使った造りが評価され、2018(平成30)年に林野庁が主催するウッドデザイン賞に輝いている。構内の跨線橋には沿線の登録有形文化財に関しての案内があるので、ぜひ見ておきたいところ。時間に余裕があれば、駅前にある足湯に浸かっておきたい。

↑リニューアルされた鬼怒川温泉駅。左上はSL列車が運転開始された当時の駅舎。駅前には転車台のほか足湯も設けられている

 

【東武SLの旅⑥】代表的な人気撮影地を歩いてみると

ここからは乗車した時に役立つように沿線の見どころを簡単に紹介しておきたい。また、撮影地として人気のポイントと、車内から楽しめる美景ポイントも触れておこう。

 

起点の下今市駅側から紹介しよう。下今市駅を発車したSL列車は右にカーブして川を渡る。この川は大谷川(だいやがわ)。日光・中禅寺湖が源で、華厳の滝として落ち、日光市内で有名な神橋が上流にある。橋を渡れば間もなく大谷向駅(だいやむこうえき)だ。鬼怒川線は単線のため途中、大谷向駅ほか複数の駅に交換設備があり、特急列車や普通列車と行き違う。

↑「SL大樹」が走る鬼怒川線の路線図。地図内の写真は代表的な人気撮影ポイントで撮ったもの

 

大谷向駅を過ぎると、沿線には水田が点在、また左手には杉林が連なる。この杉林の下を通るのが会津西街道で、今市から旧会津藩の城下町・会津若松まで延びている。そんな風景を見ながらSL列車は走る。

 

間もなく倉ヶ崎SL花畑と名付けられた広場にさしかかる。地域の人たちによって整備された公園で、春には菜の花、夏にはヒマワリ、秋には秋桜が咲き、それぞれの季節には、花の写真とSL列車の写真を撮影に訪れる人も多い。ここではホタルを復活させる取り組みも行われているそうだ。

 

鬼怒川線の沿線は左右両側に架線柱が立つところが大半だが、この花畑のところは片側のみとなっていて、写真撮影には絶好なポイントといえるだろう。もちろん車内から見ても美しい。

↑倉ヶ崎SL花畑の東側には水田があり、春には写真のような水面鏡を生かした写真撮影も可能に。撮影日は2021年5月4日

 

↑倉ヶ崎SL花畑側から望む下今市駅行き「SL大樹」。列車に手を振る光景がよく見かけられる

 

次の大桑駅から新高徳駅までは変化に富んだ風景が楽しめる。勾配区間もありSLが煙を多く出しつつ走る区間でもある。また駅間には2本の大きな川が流れ、渡るSL列車が絵になる。川はまず一本目が小百川(こびゃくがわ)で、この川に架けられた砥川橋梁は登録有形文化財にも指定されている。平行する国道121号の歩道から気軽に写真撮影が可能とあって、訪れる人も多い。

 

さらに新高徳駅の近くには鬼怒川が流れる。鬼怒川橋梁は走る列車の撮影にはあまり向いていないものの、車内から見下ろす鬼怒川と遠くの山並みは新緑と紅葉時期(後述)、特に素晴らしい。

 

新高徳駅の先、小佐越駅(こさごええき)付近からは国道352号が間近を走るようになり、この国道沿いにも人気の撮影ポイントが点在する。

 

東武ワールドスクウェア駅を過ぎ、鬼怒川温泉駅が近づく途中、鬼怒立岩(きぬたていわ)信号場からは複線区間となる。写真撮影や、列車に手をふる人もこの区間は多い。ちなみにこの信号場にはかつて鬼怒立岩駅という駅があった。1964(昭和39)年に廃止となり、今は単線から複線区間へ変わる信号場として残されている。

 

鬼怒川温泉駅がSL列車の終点駅となるが、東武鉄道鬼怒川線の線路は新藤原駅まで延びている。さらにその先は、野岩鉄道(やがんてつどう)、会津鉄道と線路が続く。会津若松駅、また休日にはラーメンの町、喜多方まで行く快速「AIZUマウントエクスプレス」も鬼怒川線を走っている。

 

【東武SLの旅⑦】新展望車が連結されたSL列車に乗車した!

筆者は運転開始以来「SL大樹」の写真を数多く撮影してきたが、乗車したことがなかった。乗車しないことには、どのような列車なのかレポートもできない。そこで展望車を連結したばかりの「SL大樹」に乗車することにした。

 

予約は東武鉄道の駅窓口だけでなく、スマートフォンでも可能だ。ちょうど「SL大樹2号」の2号車「16D」という座席が空いていたのでそこを予約した。座席指定料金は鬼怒川温泉駅から下今市駅間が760円と手ごろだ。運賃は251円(ICカード利用の場合)なので計1011円となった。

 

乗車する「SL大樹2号」は鬼怒川温泉駅11時10分発。早めに乗車したいと考え、鬼怒川温泉駅の3番線ホームに。この日はC11形325号機が青い客車3両を牽いて走る日で補機は付かない日だった。跨線橋を渡り3番線に向かうと、すでにホームは家族連れでいっぱい。みな蒸気機関車を背景に記念撮影で忙しそうだった。そんな熱中する姿を見ながら乗降扉が開くのを待つ。

 

乗車すると自分が指定した2号車「16D」の席は扉をはさみ展望デッキのすぐ裏側だった。調べずに指定したのだが、なんともラッキーだった。

 

中間車となった展望車は4人掛けのボックス席で、グループ、ファミリーにはうってつけだ。今回は1人の乗車ということで心配だったが、向かい側に座られた方々と気軽におしゃべりできて助かった。出発して間もなく展望デッキへ出てみる。展望デッキはすでに多くの人で賑わっていた。

↑オハテ12-2の展望デッキから鬼怒川を見下ろす。紅葉にカメラを向ける人が目立った。窓越しではない景色が楽しめて大好評だった

 

乗車した日は絶好の晴天に恵まれた。風もなく小春日和そのもの。展望デッキに立つと、ガラス窓越しではない〝生の景色〟が楽しめる。鬼怒川橋梁では見下ろす景色が特に素晴らしく、展望デッキは歓声に包まれた。

 

【東武SLの旅⑧】乗車したご家族に話を聞いてみた

筆者の横には宇都宮市に住まわれるOさんご家族が座られた。小さいお子さんが一緒、通路側の席の指定ということで、外の景色が楽しめず。発車後は展望デッキで過ごされていた。運悪く通路側の席の指定しか取れなくても、展望デッキに出れば、外の景色をふんだんに楽しめる。これが展望デッキの良さなのだなと思った。

↑展望デッキで楽しむOさんご家族。小さなお子さん連れだったが、迫力ある展望を満喫されたようだった

 

そんなOさんご夫妻は「今日は、息子が喜ぶかなと急きょ乗ることに決めました」とのこと。

 

「満席ぎりぎりで席を取ることができたのは幸運でした。窓口で購入したら、硬券の切符で日付も自分で印字させてもらえて貴重な体験ができました」。

 

なるほど、窓口で買うと硬券切符が購入できるとは知らなかった。次回はぜひ窓口で購入したいと思った。

 

ただ、「座席や通路が少し狭かった」と感じられたそう。確かにこの日の車内は満席で混み合っていた。また展望デッキそばということで行き来する人も多くて、少し落ち着かない印象があった。

 

「息子にとっては窮屈だったようでご機嫌が悪くなってしまいましたが……、展望デッキでは風を感じながら景色もよく見ることができ、飽きずに楽しそうでした」とのこと。目の前に手すりがあるので、小さい子ども同伴でも安心して乗車できるようだ。

「沿線の方々が、手を振ってくれるのがあたたかくてうれしかったです」と話すように、鬼怒川線沿線に住む多くの人たちが、「SL大樹」を温かく迎えてくれるように感じた。

 

終点の下今市駅まで乗車時間は35分と短めだったが、濃厚な時間を過ごすことができた。小さな子どもたちでも飽きずに楽しむことができるのではと感じた。乗り足りないと思ったら、往復乗車すれば良いわけである。

 

【東武SLの旅⑨】東武鉄道の特急も新しく変わっていく!

最後にSL列車の話題から少し離れるが、東武特急の話題に触れておきたい。

 

東武特急がこの数年で大きく変わりそうである。いま鬼怒川線には100系スペーシアと500系リバティ、またJR東日本の253系特急「きぬがわ」が乗り入れている。500系は2017(平成29)年4月、「SL大樹」と同じ年に生まれた新型特急だ。500系は登場後、徐々に増車されていて、列車本数も増えてきた。

 

既存の100系スペーシアもリバイバル企画が進められている。まずは2021(令和3)年6月5日からリバイバル塗装車両が走り始めた。ジャスミンホワイトを基調に、パープルルビーレッドとサニーコーラルオレンジ、窓部分にブラックラインという100系のデビュー当時のカラーリングで走る。

 

さらに、かつて一世を風靡した1720系デラックスロマンスカーの塗装に変更された100系の新たな塗装編成が12月5日に登場の予定だ。

↑1960(昭和35)年に運転を開始した1720系。12月5日に登場する100系がどのような色になるか楽しみだ 写真提供:東武鉄道

 

さらに楽しみなニュースがある。100系の後継車両となる新型「N100系」が導入されるというのである。登場は2023(令和5)年になる予定で、6両×4編成が新造される。

 

車体色はホワイト。日光東照宮陽明門や御本社などに塗られた「胡粉(ごふん)」をイメージした高貴な白い車体になるという。イメージ図を見ると窓の格子が目立つ。この格子は沿線の鹿沼に伝わる組子、または江戸伝来の竹編み細工をイメージしたものなのだという。近未来的なデザインとなりそうだ。

 

加えて12月に「SL大樹」にも新たな話題が発表される予定とのこと。まだ明らかにされていないが〝鉄道好き〟〝SL好き〟な人には、とっておきのクリスマスプレゼントになりそうだ。

 

4年前に登場した「SL大樹」は確実に進化を遂げてきた。東武特急とともにこれからも目が離せない人気列車となっていることがよく分かった。

↑2023(令和5)年に導入予定のN100系。車体は白、窓周りなどかなり凝った造りの新型特急となりそうだ 写真提供:東武鉄道

 

 

金沢市と郊外を結ぶ「北陸鉄道」2路線−−10の謎解きの旅

おもしろローカル線の旅76 〜〜北陸鉄道石川線・浅野川線(石川県)〜〜

 

ローカル線の旅を楽しんでいると、なぜだろう? どうして? といった謎が多く生まれてくる。そうした謎解きしながらの列車旅がおもしろい。

 

今回は石川県金沢市とその近郊を走る北陸鉄道の石川線と浅野川線の旅を楽しんだ。両線を乗っているとなぜ? という疑問がいくつも湧いてきた。

 

【北陸謎解きの旅①】そもそも北陸鉄道はどこの鉄道会社なのか?

北陸鉄道は石川県の鉄道会社なのに北陸鉄道を名乗っている。北陸の隣県でいえば「富山地方鉄道」、福井県では「福井鉄道」がある。現在は元北陸本線の石川県内の路線が三セク鉄道の「IRいしかわ鉄道」となっているものの、なぜ、北陸鉄道と規模の大きさを感じさせる会社名を名乗ったのだろう?

 

下記の路線図は北陸鉄道の太平洋戦争後、最も路線網が広がった時代の路線図である。この当時の北陸鉄道の路線本数は計13路線にも広がり、路線の総距離は144.4kmにも達した。

↑昭和30年代初期の北陸鉄道の路線図。ピンク色の路線すべてが北陸鉄道の路線だったが、今は白ラインで囲む2路線のみとなっている

 

創業当時から北陸鉄道という会社名だったわけではない。1916(大正5)年に発足した金沢電気軌道という会社が大本だった。金沢市内の路面電車を運行していた会社が北陸鉄道となっていったのである。

 

1942(昭和17)3月26日に北陸鉄道を設立。翌年の1943(昭和18)年10月13日には石川県内7社の交通会社が合併した。太平洋戦争後の1945(昭和20)年10月1日には、浅野川電気鉄道(現浅野川線)を合併し、北陸地方最大規模の路線網が形作られたのだった。名実ともに北陸地方を代表する私鉄会社となったのである。

 

しかし、〝大北陸鉄道〟時代は長くは続かなかった。モータリゼーションの高まりとともに、鉄道利用者は次第に減っていき、1950年代から路線の縮小が始まる。1987(昭和62)年4月29日に、加賀一の宮駅〜白山下駅間を走っていた金名線(きんめいせん)が正式に廃止されたことにより、北陸鉄道の路線は石川線、浅野川線の2線、路線距離20.6kmとなっている。

 

【北陸謎解きの旅②】なぜ2路線は結ばれていないのか?

石川線の始発駅は金沢市内の野町駅、また、浅野川線の始発駅は北鉄金沢駅となっている。両線はつながっていない。しかも歩いて移動すると約3km強の距離がある。なぜ両線はつながらず、また両駅は離れているのだろう。

↑金沢市の繁華街、昭和初期の尾張町通りを金沢電気軌道の電車が走る。市内線は1967(昭和42)年に全廃 絵葉書は筆者所蔵

 

かつて、金沢市内には北陸鉄道金沢市内線という路面電車の路線網があった。この路面電車は全盛期には市街全域に路線が敷かれていた。路線の中で白銀町〜金沢駅前〜野町駅前という〝本線系統〟があり、路線距離はちょうど金沢駅前から野町駅前まで3.6kmだった。

 

路面電車が走っていたころは、この電車に乗れば、金沢駅から市の繁華街である武蔵ヶ辻(金沢駅から1.1km)、香林坊(金沢駅から2.2km)に行くのも便利で、野町駅へも繁華街経由で行くことができた。

 

この金沢市内線は、国内の多くの都市と同じように、モータリゼーションの高まりで、邪魔者扱いされるようになっていった。そして1967(昭和42)年2月11日に廃止された。

 

北陸三県では富山市、福井市が、路面電車の新たな路線を整備し、低床の車両を導入するなどして、路面電車を人にやさしい公共交通機関として役立て、また市内を活性化させている。対して金沢市は廃止し、バス路線化の道をたどった。まさに好対照と言って良いだろう。

↑今回紹介の北陸鉄道石川線(左)と浅野川線(右)の路線図。両線は離れていることもあり、一日で巡るには乗り換えが必要

 

地元に住む人たちはバスでの移動に慣れてしまっているのであろうが、観光で訪れた時には市内電車があれば、駅から金沢の繁華街へ行く時にも、より分かりやすいかと思われる。何より市内電車があったならば、石川線の始発駅・野町駅も今ほどの〝寂れ方〟はなかったようにも思う。

 

外部の者がそんな感想を持つぐらいだから、地元の人も危機感をもっていたようだ。実は今年の春に市内にLRT(ライトレールトランジット)路線を設けて北鉄金沢駅と野町駅を結ぶ計画が検討され始めていた。2021年度中には方向性を決め、導入に向けて環境を整えていくべきとしている。もし金沢市にLRT路線が生まれるとなれば、より便利になり、観光にも有効活用されそうである。期待したい。

 

【北陸謎解きの旅③】走っている車両は東急と京王の元何系?

ここからは石川線の概要と走る車両に関して見ていきたい。

 

◆北陸鉄道石川線の概要

路線と距離 北陸鉄道石川線/野町駅(のまちえき)〜鶴来駅(つるぎえき)13.8km
全線単線直流600V電。
開業 1915(大正4)年6月22日、石川電気鉄道により新野々市駅(現新西金沢駅)〜鶴来駅間が開業、1922(大正11)年10月1日に西金沢駅(後に白菊町に改名、現在は廃止)まで延伸。1927(昭和2)年12月28日に神社前駅(後の加賀一の宮駅)まで延伸開業。
駅数 17駅(起終点駅を含む)

 

石川電気鉄道の路線として開業した石川線だったが、開業8日後には「石川鉄道」という会社名となっている。石川鉄道を名乗る会社が大正期にあったわけだ。

 

現在、北陸鉄道石川線を走る電車は2種類ある。

 

◆北陸鉄道7000系電車

↑石川線の主力車両7000系。正面の下には大きな排障器(スカート)が取り付けられる。小柳駅付近では写真のように水田が広がる

 

北陸鉄道の7000系は、元東急電鉄の7000系(初代)だ。東急7000系(初代)は日本の鉄道ではじめて製造されたオールステンレス車両で、1962(昭和37)年に誕生した。

 

当時、日本ではステンレス車両を造る技術を持っておらず、アメリカのバッド社と技術提携した東急車輌製造によって134両が製造された。東急では東横線、田園都市線などを走り続け、北陸鉄道へは1990(平成2)年に2両編成5本が入線している。導入前には石川線に合うように電装品が直流1500V用から直流600V用に載せ変えられている。

 

今も石川線の主力として走る7000系。初期のオールステンレス車両らしく、側面には波打つコルゲート板が見て取れる。また正面下部には、東急時代には無かった大きな排障器(スカート)が付けられている。

 

7000系は、細かくは7000形、7100形、7200形と分けることができる。その中の7200形は中間車を先頭車に改造した車両で、正面に貫通扉がなく、凹凸のない顔のため他の7000系との違いが見分けしやすい。

 

◆北陸鉄道7700系電車

↑鶴来駅の車庫に停まる7700系。元井の頭線の3000系の初期型を利用した車両で、3000系の後期車とは正面の窓の形が異なる

 

元東急7000系以外に石川線を走るのは7700系。こちらは元京王電鉄の井の頭線を走っていた3000系で、東急7000系と同じく東急車両製造で製造、また誕生も1962(昭和37)年と、東急7000系と同じ時代に生まれたオールステンレス車両だ。要は同時代に同じ東急車輌製造で作られたオールステンレス車両が北陸の地で再び出会ったという形になったわけである。

 

なお、石川線が直流600Vで電化されていることから、2007(平成19)年の入線時に7700系の電装品は変更されている。石川線に入った編成は2両×1編成のみで、7000系に比べると沿線で出会うことは少なめだが、変更予定はない模様で、この先しばらくは走り続けることになりそうだ。ちなみに石川線も、市内のLRT路線計画に合わせてLRT化しては、という声も出てきている。そうなれば、現在の石川線の車両も大きく変わっていきそうだ。

 

【北陸謎解きの旅④】JR北陸本線にも野々市駅という駅がある

だいぶ寄り道してしまったが、石川線の旅を始めよう。北陸鉄道の旅をする時には事前に「鉄道線全線1日フリー乗車券(1100円)」を購入するとおトクだ。野町駅、鶴来駅、北鉄金沢駅、内灘駅、北鉄駅前センター(金沢駅東口バスターミナル1番のりば近く)で販売されている。

 

石川線の起点は野町駅。金沢市内にある駅だが、駅前はひっそりしている。路線バスが到着しても、バスから電車へ乗り換える人の姿は見かけない。筆者が訪れた時にも駅前は閑散としていた。同駅で「鉄道線全線1日フリー乗車券」を購入して電車に乗り込んだ。

↑石川線の起点となる野町駅。路線バスが駅舎に横付けするように停まる。同駅から金沢の繁華街、香林坊へはバスを使えば10分弱の距離

 

野町駅では到着した電車がそのまま折り返す形で出発する。列車の本数は朝夕が30分おき、日中は1時間おきと少なめだ。乗車の際にはダイヤを良く調べて乗車したい。

 

さて、野町駅を発車してしばらくは金沢の市街地だ。西泉駅、新西金沢駅と駅間の距離はそれぞれ約1.0kmで、駅を発車すると間もなく次の駅に到着する。

 

2つめの新西金沢駅で乗客がずいぶんと増えてきた。この新西金沢駅は、すぐ目の前にJR西金沢駅があり、同駅がJR北陸本線との接続駅になっていて、JR線からの乗り換え客が目立つ。野町駅から乗車する人よりも、この新西金沢駅から先の区間を利用する人が圧倒的に多いことが分かった。

↑新西金沢駅に入線する野町駅発、鶴来駅行きの7000系7200形。左上は同駅の入口で、乗降客が多いものの質素なつくりだ

 

ちなみに、新西金沢駅とJR北陸本線の西金沢駅の間には屋根付きの通路が設けられている。そのため雨の日でもぬれることなく乗り換えが可能となっている。

 

この新西金沢駅と、西金沢駅、また野々市駅という駅名の推移が興味深い。実は、JRにも石川線にも野々市駅があるのだ。北陸本線では西金沢駅の隣の駅、石川線では新西金沢駅から2つめの駅だ。両駅は直線距離でも2.5kmほど離れている。なぜ、2つの野々市駅がこんなに離れた場所にあるのだろう。他所から訪れる人は間違いそうだが、野々市駅が2つあるのには複雑な理由がある。

 

最初に野々市駅を名乗った駅は現在のJR西金沢駅で、1912(大正元)年8月1日のことである。その後、1925(大正14)年10月1日に現在の駅名、西金沢駅と改名した。西金沢駅は金沢市内にある駅なのに、当初は隣の市の名称である「野々市」を名乗っていたことになる。この改名と入れ替わるかのように金沢電気軌道(現・北陸鉄道)が、1925(大正14)年10月1日に上野々市駅の駅名を野々市駅に変更した。

↑北陸鉄道石川線との乗り換え客が多いJR西金沢駅。開業時の駅名は野々市駅だった

 

では、JR野々市駅はいつ開設されたのだろう。こちらは1968(昭和43)年3月25日と、ぐっと新しくなる。地元からの要望があり請願駅として駅が開設された。

 

北陸鉄道の野々市駅も、JR野々市駅も同じ野々市市内にあるが、規模はJR野々市駅の方が大きい。2面2線のホームと北口・南口がある。路線バスも野々市駅南口を通る本数が多い。

 

一方の北陸鉄道の野々市駅は、1面1線でホーム上に小さな待合施設があるだけで、規模は圧倒的に小さい。1日の乗降客もJRの野々市駅2000人に対して北陸鉄道の野々市駅は104人(それぞれ2019年の場合)と少ない。バスも通らない。こうした差もあり、地元では単に野々市駅といえば、JR北陸本線の駅を指すようになっているようだ。

 

そんな野々市駅まではひたすら市街地を電車が走る。次の野々市工大前駅付近からは徐々に水田も点在するようになる。

 

【北陸謎解きの旅⑤】雪にいだかれた背景に見える山は?

石川線の7000系は懐かしい乗り心地だ。台車はだいぶ上下動し、スピードアップするとその動きが体に感じられるようになる。

 

石川線の郊外の趣が強まるのは四十万駅(しじまえき)付近からだ。陽羽里駅(ひばりえき)、曽谷駅(そだにえき)と読み方が難しい駅名が続く。このあたりになると駅前近くには民家、周辺に田園風景が広がるようになる。そして小柳駅(おやなぎえき)へ。この駅の周囲は水田のみで、車窓からは遠くに山景色が楽しめた。

 

空気の澄んだ季節ともなると標高の低い山の向こうに、白い雪に抱かれた白山(はくさん)が見えるようになってくる。〝たおやかで気高い〟と称される白山は、地元の人たちに長年、親しまれてきた。小柳駅付近は同線で最も景色が楽しめる区間と言って良いだろう。ちなみに陽羽里駅からは白山市に入る。白山がより近くに見えることもうなずけるわけだ。

↑小柳駅から次の日御子駅(ひのみこえき)方面を望む。雪が降り積もった白山の姿が遠望できた

 

小柳駅を過ぎれば、次は日御子駅(ひのみこえき)。この日御子とは駅近くの日御子神社の名前に由来する。ちなみに日御子とは旧白山の中心部にあった、火御子峰の神に由来する名称で、白山に縁の深い地にある神社らしい。日御子駅の次は終点、鶴来駅だ。駅到着の手前、進行方向右手に石川線の車庫がある。

 

【北陸謎解きの旅⑥】終点鶴来駅の先にある線路はどこへ?

終点の鶴来駅は玄関口があるしょうしゃな駅舎で、石川線の駅の中でもっと風格のある駅といっていいだろう。1915(大正4)年に開業、現在の駅舎は1927(昭和2)年築と古い。駅舎内には石川線の歴史を紹介するコーナーや、同社関連の古い資料や備品なども陳列されていて、さながら北陸鉄道の博物館のような駅だ。

↑石川線の終点駅・鶴来駅。大正ロマンの趣を持つ駅舎では古い鉄道資料(左上)などの展示もされ、鉄道ファンには必見の駅だ

 

鶴来という駅名、「つるぎ」と読ませるだけに、この駅名にも何か白山に縁があるのか調べてみると、やはりそうだった。駅の近くに金劔宮(きんけんぐう)という神社があり、ここは白山七社の1つにあたる。この神社の門前町の地名が劔(つるぎ)でこの劔が鶴来と書かれるようになったのだそうだ。

↑鶴来駅から発車する野町駅行き電車。同駅構内には1、2番線のほか側線もあり構内は広い。駅舎はこの左手にある

 

鶴来駅で気になるのは駅舎内の古い資料だけではない。ホームの野町駅側だけでなく、南側のかなり先まで線路が延びているのである。同駅で終点なはずだが、なぜ線路があるのか、この線路はどこまで延びているのだろうか。

 

実はこの先、過去には2つの路線が設けられていた。駅から線路は右にカーブして伸びている。たどると鶴来の街中を南北に通り抜ける県道45号までは線路が敷かれ、県道の手前に車止めがあった。ここまでは鶴来駅にある検修庫用の線路からホームや本線へ入るために折り返し線として使われている。さらに県道をわたるように線路は残るが、先はすでに使われていない。緑が覆う廃線跡には入れないように柵が設けられていた。

 

調べるとこの先、実はいくつかの路線があった。まずは石川線が2.1km先の加賀一の宮駅まで延びていた。この加賀一の宮駅は今も旧木造駅舎が残り、登録有形文化財に指定されている。加賀一の宮駅の先からは金名線(きんめいせん)という路線が16.8km先の白山下駅まで延びていた。

↑鶴来駅の先に延びるレール。県道の先には旧線の架線柱と線路がまだ残っている区間(右上)が続いている

 

さらに、延びた線路の先に違う路線がもう1本あり、県道45号線のすぐ先に本鶴来駅(ほんつるぎえき)という駅があった。本鶴来駅は能美線(のみせん)という北陸鉄道の路線の駅で、この先はJR北陸本線の寺井駅(現・能美根上駅/のみねあがりえき)に接続する新寺井駅まで16.7kmの路線があった。

 

金名線は1987(昭和62)年4月29日に、能美線は1980(昭和55)年9月14日に正式に廃止されている。1980年代に入ってからの廃線とはいえ、調べるとすでに両線とも1970(昭和45)年には昼の運行を休止していたようで、なんとも寂しい終わり方だったようだ。

 

ひと昔前には、鶴来駅はターミナル駅として賑わっていたのだろう。その先に列車が走っていた時代に訪ねてみたかったと強く思った。

 

【北陸謎解きの旅⑦】浅野川線に元京王電車が導入された理由は?

ここからは金沢駅に戻り、北鉄金沢駅から走る浅野川線の旅を楽しんでみたい。まずは路線の概要と、走る車両の紹介から。

 

◆北陸鉄道浅野川線の概要

路線と距離 北陸鉄道浅野川(あさのがわ)線/北鉄金沢駅〜内灘駅6.8km、全線単線直流1500V電化
開業 1925(大正14)年5月10日、浅野川電気鉄道により七ツ屋駅〜新須崎駅(しんすさきえき/現在は廃駅)が開業、1926(大正15)年5月18日に金沢駅前までまで延伸。1929(昭和4)年7月14日に粟ヶ崎海岸駅(あわがさきかいがんえき/現在は廃駅)まで延伸開業。
駅数 12駅(起終点駅を含む)

 

まずは、浅野川電気鉄道により歴史が始まった北陸鉄道浅野川線。終点となる内灘駅へは大野川を渡る必要があり、橋の架橋に時間がかかった。新須崎駅開業の4年後に現内灘駅の先の粟ケ崎海岸まで路線が延びた。粟ケ崎には粟崎遊園があり、金沢市民の憩いの場として賑わった。後に粟崎遊園は軍の鍛練用地となり、戦後は内灘砂丘に米軍の試射場計画のため、また港湾整備などのため路線は縮小。現在は内灘駅が終点となっている。

 

北陸鉄道との合併は1945(昭和20)年10月1日のことで、太平洋戦争後のこと。戦時統合でなかば強制的に合併が決定され、戦後も計画は頓挫することなく、合併が進められた。

 

現在、この浅野川線を走る北陸鉄道の電車は2種類ある。

 

◆北陸鉄道8000系電車

↑北鉄金沢駅の地下化に伴い導入された元京王井の頭線の3000系。写真の片開き扉車両で8800番台に区分けされている

 

元京王井の頭線を走っていた3000系で、2001(平成13)年3月28日に起点の北鉄金沢駅が地下化されるのを機会に、地下化に向けて1996(平成8)年と1998(平成10)年に譲渡された。それまでの浅野川線の電車は吊り掛け式の旧型車両が多く、地下化に伴う火災対策、不燃化基準を満たさない車両とされていた。

 

京王3000系はオールステンレス車ということで地下化の基準に合致したこと、また売り込みもあり、同車両の導入を決めたのだった。同じ時期に浅野川線の電化方式を直流600Vから直流1500Vへ変更されたこともあり、この昇圧にも見合った電車でもあった。3000系は計10両が導入され、北陸鉄道8000系となった。8000系には2タイプあり、乗降扉が片開きの車両が8800番台、また両開きの扉を持つ車両が8900番台と区分けされている。

 

◆北陸鉄道03系電車

↑東京メトロ日比谷線を走った03系が浅野川線を走る。オレンジの帯で日比谷線を走っていた当時に比べると華やかな印象を受ける

 

浅野川線にとって四半世紀ぶりとなる〝新車〟が2020(令和2)年の暮れに導入された。その電車は03系。元東京メトロ日比谷線を走っていた03系で、日比谷線では銀色の帯だったが、8000系に合わせたオレンジの帯に刷新された。2021年秋までに2両×2編成がすでに走り始め、2024年度までに5編成が導入される予定だ。これが計画どおりに進めば、既存の8000系は消滅ということになりそうだ。

 

【北陸謎解きの旅⑧】そもそもなぜ浅野川線という路線名なのか?

金沢駅といえば兼六園口(東口)広場に立つ鼓門(つづみもん)が名物になっている。いつも記念撮影をしようという多くの観光客で賑わう。そのすぐ横にあるバスのロータリーのちょうどその下、地下フロアに浅野川線の起点、北鉄金沢駅がある。訪れた日、駅に停車していたのが03系だった。日比谷線を引退して以来、はじめて乗る03系だ。車内はリニューアルされてきれいに。それぞれのドア横に開け閉めのボタンが付く。

 

北鉄金沢の地下駅で見た03系は、帯色がオレンジで華やかになり、編成が短くなったものの、地下鉄日比谷線の電車として見慣れた印象があり、地下駅にしっくりと合っているように見えた。

↑金沢駅の兼六園口の地下にある浅野川線の起点・北鉄金沢駅。6時7時台と、17時台は20分間隔、他の時間はほぼ30分間隔で発車

 

ところで、なぜ浅野川線と呼ばれるのだろうか。開業時に浅野川電気鉄道という名の鉄道会社が開業させたこともあるのだが、同路線の名前にした理由は本原稿の最初に掲載した地図を見ていただくと良く分かる。

↑北鉄金沢駅からは地下を走り、IRいしかわ鉄道線をくぐり抜け地上を走り始める。次の七ツ屋駅から先はほぼ浅野川に沿って走る

 

浅野川線は北鉄金沢駅の次の駅、七ツ屋駅から大河端駅付近までほぼ平行して浅野川が流れている。車窓から川の土手を見る区間も多く、したがってこの路線名になったことが良く分かる。「金沢城の東側をゆったりと流れる浅野川では風情ある景観に出会える」と金沢市の観光パンフレットにもある。地元では金沢市街の南を流れる犀川を「男川」と呼ぶのに対して、浅野川を「女川」と呼ぶ。それほど、市民になじみの川であり、身近な川の名前だったわけである。

 

浅野川線は、しばらく半地下構造の路線を走り、北陸新幹線とIRいしかわ鉄道線の高架橋をくぐり地上部へ。そして次の七ツ屋駅へ到着する。先に乗った石川線に比べると、より都会的な路線という印象が強い。

 

路線はこの先、金沢市街を走る。磯部駅を過ぎると、進行右から川の堤が近づいてくるが、この堤を越えた側が浅野川だ。堤防の上には浅野川左岸堤防道路が走っている。電車からは道を走るクルマをやや見上げる形でしばらく並走する。

↑大河端駅〜北間駅間を走る浅野川線の8000系。この左側に浅野川の堤防がある

 

途中駅の名前を何気なく書いてきたが、意外に難読駅がある。まずは大河端駅。おおかわばたえき? と読みそうだが、こちらは「おこばたえき」だ。

 

さらに分かりにくいのは蚊爪駅。蚊に爪と書く珍しい駅名だ。いわれも気になるところなので、調べてみた。

↑ホーム一つの小さな駅・蚊爪駅。駅名の読みはホームに立つ駅名標にしかなかった。さてどのようないわれがあるのだろう?

 

「蚊爪」とは「かがつめ」と読む。この地域が金沢市蚊爪町(かがつめまち)という町名から由来する。さらに金沢市に併合される前には東蚊爪村、西蚊爪村という村があったとされる。蚊爪という名の起源は「芝地」や「草地」の意味で、そうした土地には蚊が多いということもあったのだろうか。そこまで明確な答えは導き出せなかったのが残念だった。

 

難しい読み方の蚊爪だが、金沢市民にはおなじみの地名なようだ。東蚊爪に運転免許センターがあるせいだろう。

 

【北陸謎解きの旅⑨】大野川橋りょうの形は何か意味があるの?

蚊爪駅を過ぎると、いよいよ同線の人気撮影ポイントの大野川を渡る大野川橋梁にさしかかる。ちなみに橋の手前には新須崎駅があったが、現在はもうない。橋の先に粟ヶ崎駅(あわがさきえき)があり、その先が終点の内灘駅となる。

 

大野川橋梁は少し不思議な形をしている。橋の前後に勾配があり、電車はこの橋を登って中央部からは下る。時速15kmに落としてゆっくりと渡るのだ。よく見るとガーダー橋なのだが、前後は線路が鉄製のガーダーと呼ばれる鋼製の構造物の上に線路が敷かれる。この構造を「上路線」と呼ぶ。中央部では線路がガーダーの下部に付く「下路橋」という構造をしている。単一でなく、複雑な構造をしているわけだ。また中央部には架線柱が設けられる。前後のガーダーの下は水面までのすき間があまりない。中央部のみ小さな船が通り抜けられるようにすき間をあけた構造となっている。

↑大野川橋梁を渡る03系。中央部を見ると、ここのみ橋の下の上下の隙間が広くなっていることが分かる

 

大野川には前述した浅野川が流れ込む。また大野川の上部には河北潟(かほくがた)がある。河北潟は昭和期まではフナ、ワカサギ、ウナギ、シジミなどの漁業が行われていた。しかし、干拓などの影響があったのか、漁獲量は減っていき、昭和中期に漁業権が消滅している。また河北潟から出る川はかつて大野川のみだったが、今は北側に日本海に直結した河北潟放水路が設けられている。放水路の出口と大野川を結ぶ所にはそれぞれ防潮水門があり、水量の調節も行えるようになっている。

 

大野川橋梁はそうした河北潟でかつて漁業を営んだ人たちが、小船が出入りすることができるように、こうした特殊な構造にしたのであろう。

 

【北陸謎解きの旅⑩】旧粟ケ崎海岸駅へのルートはどこに?

大野川橋梁を渡って間もなく浅野川線の終点、内灘駅に到着した。北鉄金沢駅から乗車時間17分と近い。ちなみに内灘駅という駅名となったのは1960(昭和35)年5月14日のこと。かつては内灘駅近くに粟ヶ崎遊園駅があり、その先は海岸に近い粟ヶ崎海岸まで路線が設けられていた。旧路線はどのように敷かれていたのだろう。気になるところだ。

↑内灘駅構内の左にカーブする線路が見えるが、この先に粟ヶ崎海岸駅があった。旧地図を見ると海岸まで路線が延びていたことが分かる(右上)

 

 

内灘駅には車庫があり8000系や03系が並ぶ。この駅の構造には、少し疑問に感じることがある。駅の手前でやや左カーブしてその先にホームが設けられている。古い地図を見比べてみると、この左にカーブする理由が分かった。

 

太平洋戦争前の時点では、内灘駅はまだ無く、左カーブして、その先に粟ヶ崎遊園という駅があった。さらに駅の先で右カーブ、海岸まで線路が敷かれ、海水浴場前に粟ヶ崎海岸駅があった。内灘駅開業当時の地図を見ると、左カーブしたその曲がった地点が駅となっていた。

 

今の内灘駅の検修庫に入る線路の左側にカーブした線路が敷かれるが、このカーブこそ、かつては粟ヶ崎海岸まで延びていた路線の名残だったのである。金沢にも近いことがあり、内灘駅周辺は住宅も多く、路線バスが多く発着している。石川線の鶴来駅に比べると、とても賑わっているように思われた。

↑浅野川線の終点・内灘駅。裏には車庫がある。左上は搬入された当時の03系。現在とは異なり当初は銀色の帯が巻かれていた

 

前述したように北陸鉄道の両線間にはLRT路線の建設プランも浮上してきている。LRT計画が成就したとすれば、北陸鉄道の両線は大きく変わる可能性を秘めている。その時に、また旅をしてどのように変わったのか見てみたいと思った。

 

北海道唯一の三セク鉄道「道南いさりび鉄道」10の新たな発見

おもしろローカル線の旅75 〜〜道南いさりび鉄道(北海道)〜〜

 

前回は九州最南端の指宿枕崎線を紹介した。今回は北へ飛んで日本最北端の第三セクター経営の路線「道南いさりび鉄道」の旅をお届けしよう。

 

これまでたびたび特急列車で通り抜けた区間だったが、普通列車に乗車してみるとさまざまな新しい発見があった。ゆっくり乗ってこそ魅力が見えてきた道南の路線の旅を楽しんだ。

 

【道南発見の旅①】道南いさりび鉄道と名付けられた理由は?

道南いさりび鉄道が走るのは北海道の西南、渡島半島(おしまはんとう)だ。まずは路線の概要を見ておこう。

 

◆道南いさりび鉄道の概要

路線と距離 道南いさりび鉄道線/五稜郭駅(ごりょうかくえき)〜木古内駅(きこないえき)37.8km、全線単線非電化
開業 1913(大正2)年9月15日、日本国有鉄道上磯軽便線として五稜郭駅〜上磯駅間が開業、1930(昭和5)年10月25日に木古内駅まで延伸開業。江差駅まで延伸は1936(昭和11)年11月10日、路線名を江差線と変更。木古内駅〜江差駅間は2014(平成26)年5月12日に廃止。
駅数 12駅(起終点駅を含む)

 

↑JR江差線当時の函館駅行き普通列車。早朝はキハ40系気動車を3両連結で運用。写真は釜谷駅〜渡島当別駅間

 

路線自体の歴史は100年ほど前の1913(大正2)年に始まる。とはいえ、その時に開業したのは函館近郊の上磯駅までで、その先への路線延伸の工事は順調に進まなかった。1930(昭和5)年になって木古内駅、さらに1936(昭和11)年に日本海に面した江差駅まで延ばされている。

 

この江差線は2014(平成26)年に木古内駅から先の区間を廃止。2016(平成28)年3月26日、北海道新幹線の開業に合わせて五稜郭駅〜木古内駅間の路線が第三セクター経営の道南いさりび鉄道に移管された。移管され今年で5周年を迎えている。

↑道南いさりび鉄道(旧江差線)以外にも1949(昭和24)年の鉄道路線図(左上)を見ると福山線(後の松前線)があったことが分かる

 

なぜ、道南いさりび鉄道という名前が付けられたのだろう。道南いさりび鉄道という会社が設立されたのが2014(平成26)年の夏のこと。北海道のほか、函館市、北斗市、木古内町という沿線自治体2市1町が株主となっている。

 

会社名を公募したところ、21点の応募があったのが道南いさりび鉄道という名前だった。「いさりび」とは「漁火」のこと。津軽海峡で漁火と言えば、毎年夏以降、イカ釣り船が用いる集魚灯の光のことをさす。

 

暗闇の海上に浮かぶ集魚灯の光「いさりび」は、道南・渡島半島の風物詩であり、そうした漁火を横目に走る鉄道路線の名称に相応しいとして名付けられたのだった。

 

【道南発見の旅②】松前線とはどのような路線だったのだろう?

昭和初期に現在の道南いさりび鉄道線の元となった江差線が開業した。さらに木古内駅の先、江戸時代に北海道で唯一の藩だった松前藩の城下町、松前まで鉄道路線が伸びていた。松前線である。この松前線に関して簡単に触れておこう。

 

この路線の歴史的な経緯が興味深い。木古内駅から先はまず1937(昭和12)年10月12日に渡島知内駅までを開業、さらに翌年の10月21日には碁盤坂駅(後に千軒駅と改称)まで、1942(昭和17)年11月1日に渡島吉岡駅まで開業している。太平洋戦争のさなかに開業させた理由には、軍需物資であるマンガン鉱の鉱山が松前町内にあったためとされている。

↑松前へ走る国道228号沿いに残る松前線の橋脚跡。廃線跡はこのように各所で見られる。右下は松前の観光名所・松前城

 

しかし、松前までの延伸は戦争中にはかなわず、戦後しばらくたっての1953(昭和28)年11月8日のこととなる。開業はしたものの、35年間という短い期間しか列車は走らずに1988(昭和63)年2月1日に廃止されている。当時、江差線の木古内駅〜江差駅間よりも輸送密度が高く、地元から廃止反対の声が巻き起こったものの、国鉄からJRへ移行する慌ただしい時期に廃止された。青函トンネルと松前線を結ぶ案も検討されたが、青函トンネルは新幹線規格で造られたために、線路が結ばれることはなかった。

 

松前線の渡島吉岡駅には、青函トンネル建設時に建設基地が設けられていた。27年という長い年月をかけて1988(昭和63)年3月13日に青函トンネルは開業。ちょうど同じ年に松前線は廃線となった。今振り返って見るとトンネルの誕生にあわせ、用済みになったかのように松前線は廃止されたのだった。

 

現在、渡島吉岡駅があった吉岡(現・松前郡福島町字吉岡)の地下を、北海道新幹線や貨物列車が多く通り抜けている。2014(平成26)年3月15日までは吉岡海底駅という駅もあった。現在、その地点を地図で見ると「吉岡定点」となっているが、トンネルの上に住む人たちに恩恵はなく、廃線以外に松前線を活用する方法がなかったのかとも思う。

 

筆者は松前城を見たいがためこの路線に沿って旅をしたことがあった。その時には松前線の廃線跡らしき構造物が各所に残っていて興味深かった。とはいえ、松前線の歴史を振り返るとちょっと寂しさを感じる風景でもあった。

 

【道南発見の旅③】道南いさりび鉄道のキハ40系は何色ある?

少し寄り道してしまった。ここからは道南いさりび鉄道の旅に戻ろう。まずは車両に関して見ていきたい。

 

道南いさりび鉄道はJR北海道の路線の移管とともに車両も引き継いだ。車両は江差線を走っていた車両キハ40系で、計9両が同社に引き継がれた。当初はJR北海道の塗装のままで走っていたが、2019(令和元)年までに9両すべてが道南いさりび鉄道のオリジナルカラーと塗り替えられている。カラーは次の通りだ。さて色は何色あるのだろう。

①ネイビーブルー色 車両番号1793、1799

・「ながまれ号」として2両が在籍。「ながまれ」とは道南の方言で「ゆっくりして」「のんびりして」という意味。観光列車としても走る。

②山吹色 車両番号1812、1814

・濃い黄色ベースで2両が在籍。

③濃緑色 車両番号1810
④白色 車両番号1815
⑤濃赤色 車両番号1796

・濃赤色だが茶色に近い。

⑥国鉄首都圏色 車両番号1807

・国鉄時代の気動車、首都圏色と呼ばれるオレンジ色一色で塗られる。

⑦国鉄急行色 車両番号1798

・クリーム色と朱色の2色の塗り分け

↑カラフルで目立つ色が多い。写真は山吹色と首都圏色のオレンジ色の車両

 

道南いさりび鉄道には上記のように7種類のカラーで塗られたキハ40系が走る。まさに七色の車両が走りにぎやかだ。次の列車は何色かなという楽しみがある。何色の車両がどの列車に使われるかは、道南いさりび鉄道のホームページの「お知らせ」コーナーで公開されているので、訪れる時にぜひとも参考にしたい。

 

ちなみに筆者が訪れた日は国鉄急行色の車両のみ、出会うことができなかった。次回に訪れた時にはぜひ撮影しておきたい。

↑道南いさりび鉄道の4通りの車体カラー。この中でネイビーブルー色の「ながまれ号」のみ2車両が走る

 

【道南発見の旅④】木古内駅前の道の駅に立ち寄ると得する?

今回は北海道新幹線の木古内駅から道南いさりび鉄道線の旅を楽しむことにした。東京駅6時32分発の東北・北海道新幹線「はやぶさ1号」に乗車して約4時間、10時41分に木古内駅に到着した。北海道新幹線の木古内駅と、道南いさりび鉄道の木古内駅は東西を結ぶ自由通路で結ばれる。

 

木古内駅の発車が11時16分と新幹線の到着から30分以上の余裕がある。時間があったので、木古内駅の北口、南口を回って、道南いさりび鉄道の窓口へ。自動販売機で切符を買おうとしたら、横の貼り紙に目が引きつけられた。貼り紙には「いさりび1日きっぷ」(700円)とある。ちなみに木古内駅から五稜郭駅まで切符を購入すると980円になる。直通の切符だけでなく、途中下車をすれば、断然安くなるわけだ。これは使わなければ損である。

 

ところが、木古内駅の切符の自動販売機では売っていないことが分かった。東口の駅前ロータリーをはさんだ「道の駅みそぎの郷きこない」で販売していたのだ。発車時間が迫っていたものの、急いで道の駅へ向かう。

↑高架上にある北海道新幹線の木古内駅に平行して設けられた道南いさりび鉄道の木古内駅。ホームには濃赤色のキハ40系が停車中

 

この道の駅には道南いさりび鉄道の「いさりび1日きっぷ」と、同社のグッズの多くが販売されていた。さらにこの道の駅でも「鉄印」が販売されていたのである。全国の第三セクター鉄道の鉄印を集める鉄印帖は、鉄道ファンには必携のアイテム。その鉄印帖には、鉄印の販売が五稜郭駅とあったので、五稜郭駅へは絶対に立ち寄らなければ、と思っていたのだが。

 

このように道南いさりび鉄道の旅をするならば、ぜひ立ち寄っておきたい道の駅である。筆者の場合は、発車時間に急き立てられ、グッズをゆっくり見る余裕がなかったが、次に訪れた時にはじっくりグッズ選びをしたいと思うのだった。

 

また、帰りに立ち寄るのであれば、地元のお土産や、新鮮な海産物の購入がお勧め。函館市内で木古内の地場産品はあまり見かけないだけに、そうしたお土産選びも楽しそうだなと思った。木古内町が株主の一員という鉄道会社だけに、地元の道の駅ではこうした豊富なグッズ類や「いさりび1日きっぷ」などの販売が行われていたわけである。

↑木古内駅の南口ロータリー前にある「道の駅みそぎの郷きこない」。鉄道グッズや鉄印なども販売される

 

道の駅から木古内駅へ戻り、道南いさりび鉄道の列車が止まる4番ホームへ向かう。そこには濃赤色のキハ40系1796が停車していた。

 

【道南発見の旅⑤】函館湾が良く見え始めるのは何駅から?

発車時間が近づく。そんな時に車両が停まるホームのすぐ横に赤い電気機関車が牽く上り貨物列車が入ってきた。同線を走るEH800形式交流電気機関車である。同機関車は五稜郭駅〜青森信号場間の専用機で、新幹線と共用している青函トンネルを走ることができる唯一の電気機関車だ。道南いさりび鉄道はローカル線であるとともに、北海道と本州を結ぶ物流の大動脈であることが分かる。

 

キハ40系が進行方向左手に北海道新幹線の高架橋、右手に木古内の市街を見ながら静かに走り出した。平行して走る新幹線の高架橋が見えなくなり、間もなく最初の駅、札苅駅(さつかりえき)に到着する。同駅も貨物列車と行き違いが可能な線路が設けられる。

 

道南いさりび鉄道の駅には下り上り列車が行き違いできるように「列車交換施設」を持った駅が多い。今でこそ走るのは貨物列車と、道南いさりび鉄道の列車のみとなっているが、以前は「特急はつかり」、寝台列車の「特急北斗星」「特急カシオペア」「特急トワイライトエクスプレス」といった多くの列車が走っていた。全線単線とはいえ、こうした駅の「列車交換施設」が充実しているのには理由があったわけだ。

 

札苅駅を過ぎると国道228号が進行方向右手に、平行して走るようになる。次の泉沢駅まで、国道越しに津軽海峡が見え始める。さらにその先、釜谷駅(かまやえき)からはより津軽海峡が近くに見えるようになる。

 

途中、国道沿いに「咸臨丸(かんりんまる)終焉の地」が見える。咸臨丸は幕末にアメリカまで往復し、幕府軍の軍艦として働いた後に、新政府軍に引き渡された。1871(明治4)年9月19日、函館から小樽に開拓民を乗せて出航したものの泉沢の沖で暴風雨にあって沈没、多くの犠牲者を出したのだった。この史実を筆者は知らなかったが、津軽海峡で起きた悲劇がこの地に複数残っていることを改めて知った。

↑釜谷駅の駅舎は有蓋貨車を改造したもの。貨車ながらも窓があり出入り口もサッシ。冬の寒さもこれならば防げそうな造りだ

 

釜谷駅(かまやえき)から先、渡島当別駅までは江差線当時には撮影ポイントが数多くあり、寝台列車が走っていたころには多くの鉄道ファンが集まったところでもある。筆者もその中の1人だったが、釜谷駅は今も当時のまま、有蓋貨車のワムを利用した駅舎で無骨ながら親しみが持てる駅だった。

↑釜谷駅前を通過する「特急トワイライトエクスプレス」。初夏の早朝ともなると、釜谷駅は〝撮り鉄〟が多く集合した

 

さて釜谷駅から先、津軽海峡とともに、海峡の先に函館山が見え始めるようになる。どのあたりから見る景色が最も美しいのだろうか。道南いさりび鉄道の路線は、海岸線よりも高い位置を走る区間が多く、まるで展望台から見るような眺望が各所で楽しめる。

 

筆者は同路線を「特急はつかり」や、寝台列車に乗って通り過ぎたことがある。しかし、当時は〝駆け足〟で通り過ぎるのみで、美しい景色がどのあたりから見えるものなのか、またどの区間から最もきれいに見えるのか、良く分からず乗車していた。今回、普通列車に乗ることによってポイントが良く分かり、また堪能できた。

↑釜谷駅〜渡島当別駅間にある人気のポイントから見る「特急カシオペア」と津軽海峡。この付近から右奥に函館山が見えるようになる

 

釜谷駅〜渡島当別駅間では、海岸線に合わせて路線はきれいにカーブを描いて走る。寝台列車の撮影ではこうしたカーブと、津軽海峡を一緒に写し込むことができて絵になった。撮影のポイント選びでは、途中にある踏切が目印代わりとなっていた。同駅間ではそうした踏切が複数あるのだが、釜谷駅から3つめの「箱崎道路踏切」あたりから先で函館山が見えるようになる。今回はそうした思い出を振り返りつつ乗車する楽しみもあった。

↑釜谷駅〜渡島当別駅間から函館山が見え始める。写真は箱崎道路踏切付近。車両の窓枠にも函館山が良く見えることを伝える表示が

 

【道南発見の旅⑥】渡島当別駅が洋風駅舎というその理由は?

釜谷駅から約6分、海景色を楽しみつつ列車は渡島当別駅に到着する。同駅は列車からも見えるように、洋風のおしゃれな駅舎が目立つ。洋風というよりも、修道院を模した建物といったほうが良いだろうか。なぜ修道院風なのだろう。

 

実はこの駅から約2kmの距離にトラピスト修道院がある。その最寄り駅ということでこの駅舎になったのだ。トラピスト修道院は1896(明治29)年に開院した日本初の男子修道院で、売店では修道院内で作られた乳製品、ジャムなどが販売されている。中でもトラピストクッキーは函館名物としてもおなじみだ。

 

というわけで修道院風の建物なのであるが同路線では異色の駅となっている。

↑修道院風のおしゃれな駅舎が特長の渡島当別駅。郵便局が併設された駅舎となっている。トラピスト修道院へは徒歩で約20分強

 

渡島当別駅はトラピスト修道院の最寄り駅ということもあり、観光客の乗り降りもちらほら見られた。とはいえ同列車は、観光客や〝乗り鉄〟の乗車はそれほど多くなく地元の人たちの利用が目立つ。地域密着型の路線なのであろう。

 

さて、次の茂辺地駅(もへじえき)までも海の景色が素晴らしい。

 

【道南発見の旅⑦】函館山と函館湾の景色が最も美しい箇所は?

渡島当別駅から先は、函館湾沿いに列車が走るようになる。函館山が車窓のほぼ中央に見えるようになる区間でもある。天気に恵まれれば、進行方向の右側に函館湾の海岸と連なる函館の市街が手に取るように見え始めるのがこの区間だ。

↑渡島当別駅を過ぎ茂辺地駅まで、函館山が正面に見えるようになり、また函館市街も見えるようになってくる

 

さらに茂辺地駅の先となると、函館湾の海岸線が函館市街まで丸く弧を描くように延びている様子が見えて美しい。このように釜谷駅から上磯駅までの4駅の区間は、それぞれの海景色が異なり、どこがベストであるかは、甲乙つけがたいように感じた。

↑茂辺地駅付近を走るJR東日本の「TRAIN SUITE四季島」。2022年設定の3泊4日コースでは道内、室蘭本線の白老駅まで走る予定だ

 

【道南発見の旅⑧】上磯駅から列車が急増する理由は?

茂辺地駅〜上磯駅間まで右手に函館山と函館湾が楽しめたが、同区間でこの海景色の楽しみは終了となる。道南いさりび鉄道の列車は上磯駅が近づくに連れて、左右に民家が連なるようになる。太平洋セメントの上磯工場の周りをぐるりと回るように走れば、間もなく上磯駅へ到着する。

 

上磯駅からの列車本数は多くなる。木古内駅〜上磯駅間の列車がほぼ2時間おきなのに対して、上磯駅〜五稜郭駅間は1時間に1本、朝夕は30分おきに列車が走る。この列車本数はJR北海道の時代からほぼ変わりない。

 

上磯駅〜五稜郭駅間の列車が多いのは、函館市の通勤・通学圏内だからだ。道南いさりび鉄道の列車は五稜郭駅の一駅先の函館駅まで全列車が乗り入れている。上磯駅から函館駅間は22分〜30分と近い。そうしたこともあり乗降客も増える。

↑久根別駅(左上)近くを通る貨物列車。上磯駅〜五稜郭駅間の普通列車と同じように貨物列車の通過本数も多い

 

〝撮り鉄〟の立場だと上磯駅〜五稜郭駅間は街中ということもあり、なかなか場所選びがしにくい区間である。やはり津軽海峡が良く見える釜谷駅〜渡島当別駅間が良いのだが、こちらは列車本数が少なく、列車を使う場合には立ち寄りにくいのが現状である。筆者は景色の良い区間で降りるのを諦めて、列車本数が多く移動しやすい久根別駅で降りた。数本の列車を撮影したが、景色が良いところで撮影したいという思いは適わなかった。

 

【道南発見の旅⑨】津軽海峡の区間は今、何線と呼ばれる?

道南いさりび鉄道は普通列車とともに貨物列車も多く走る。本州から北海道へ向かう下り貨物定期列車が1日に19本、臨時列車まで含めると26本ほど走る。上り貨物列車も下りとほぼ同じ列車本数だ。中には札幌貨物ターミナル駅〜福岡貨物ターミナル駅間と日本一長い距離を走る列車も含まれる。旅客列車のように、行先等が書かれていないのがちょっと残念ではあるが。

 

さて、貨物列車が走る路線とルートを確認しておきたい。普通列車とは逆に五稜郭駅側から見てみよう。貨物時刻表には「函館貨物」と「木古内」という2つの駅が道南いさりび鉄道の区間にある。函館貨物は五稜郭駅構内にあたる。実は函館貨物駅という貨物駅は別にあるのだが、これは後述したい。札幌方面から走ってきた貨物列車は五稜郭駅で折り返す。ここまで牽引してきた機関車はDF200形式ディーゼル機関車だ。この構内で機関車は切り離し、逆側に青函トンネル用のEH800形式電気機関車が連結される。

 

貨物時刻表には路線名は「道南いさりび鉄道」と書かれている。貨物時刻表には木古内とあるが、こちらは運転停車で、荷物の積み下ろしや貨車の連結作業は行われない。そして道南いさりび鉄道の木古内駅を過ぎ、北海道新幹線と合流する連絡線を上って行く。この区間および、青函トンネルの間は今、何線にあたるのだろうか。以前は「津軽海峡線」と通称ではあるものの呼ばれていたのだが。

↑木古内駅から北海道新幹線の路線への連絡線を上る貨物列車。写真は北海道新幹線の開業前でEH500形式電気機関車の姿が見える

 

現在、木古内駅の先、北海道新幹線への連絡線、そして青函トンネル区間、さらに青森県側の津軽線へ合流する新中小国信号場、そして中小国駅までの87.8kmの区間は「海峡線」と呼ばれている。

 

旅客列車がこの区間を走っていたころは、「津軽海峡線」の名が「時刻表」誌にうたわれ一般化していた。実はこの当時から正式な路線名は「海峡線」だったのだが、当時は一般には浸透していなかった。在来線だった津軽海峡線を通る列車は一部の団体列車(「カシオペア」「四季島」など)を除きなくなったことから、すでに「時刻表」誌では「津軽海峡線」「海峡線」という路線名の紹介ページはない。貨物列車の時刻を記した「貨物時刻表」のみ「海峡線」と書かれている。このあたりの変化もなかなか興味深い。

 

【道南発見の旅⑩】五稜郭駅手前で合流する線路はどこから?

上磯駅からは列車本数が増えるとともに、市街地を走る路線となり、風景もごく一般的な都市路線となる。そんな道南いさりび鉄道の旅の終点となった側の駅、五稜郭駅近くで進行方向右手から近づいてくる線路がある。道南いさりび鉄道の線路に、進行方向左手から近づいてくる路線は、函館本線であることは分かるのだが、さて右から合流するのは何線なのだろうか。

↑函館貨物駅と五稜郭駅を結ぶ埠頭通路線を走る貨物列車。函館貨物駅の本体(左上)は函館港のすぐそばにある

 

貨物時刻表ではJR北海道の五稜郭駅のことを函館貨物駅と呼んでいるが、先の道南いさりび鉄道の路線に合流する線路をたどると、それとは別の函館貨物駅という貨物コンテナを積み下ろす貨物駅へつながっている。連絡する路線は貨物時刻表では「埠頭通路線」としていて距離は2.1kmほどある。函館貨物駅は別名、有川操車場、五稜郭貨物駅という別名があり、この貨物線は「有川線」「五稜郭貨物線」とも呼ばれることがある。

 

あくまで函館貨物駅の構内線という扱いのため貨物時刻表には、その運行ダイヤが掲載されていない。列車を牽引する機関車も前照灯とともに赤ランプをつけて、構内での入れ替えと同じ扱いの列車として運行されている。

↑五稜郭駅の側線に上り列車が到着したところ。同側線で次は電気機関車が反対側に連結される。左上は五稜郭駅

 

さて、五稜郭駅が道南いさりび鉄道の路線の起点となっている。しかし、同駅始発、同駅終点の道南いさりび鉄道の列車はない。全列車が一駅先の函館駅まで函館本線を通って走っている。前述した「いさりび1日きっぷ」は同駅でも販売、また鉄印も販売されている。ちなみに五稜郭駅〜函館駅の運賃は通常250円だが、道南いさりび鉄道からそのまま乗車した時の同区間の運賃は乗り継ぎ割引される(七重浜駅〜上磯駅からは120円、茂辺地駅〜木古内駅からは190円となる)。ただし「いさりび1日きっぷ」利用の場合には、250円が加算される。

 

函館駅では1・2番線が上磯・木古内方面と表示されている。道南いさりび鉄道の路線となったものの、駅構内には道南いさりび鉄道の切符の販売機も置かれ、第三セクター鉄道の路線とは思えないような扱いだ。さらに道南いさりび鉄道の車両の基地は、函館駅に隣接した函館運輸所にある。函館駅に到着する前に、この運輸所に停まる道南いさりび鉄道の車両が見える。車両の色は七色でにぎやかに、また運賃が割高になったものの、函館駅での対応の様子を見るとJR北海道時代とあまり変わらずで、変わらない良さ、利用のしやすさも感じた道南いさりび鉄道の旅だった。

↑道南いさりび鉄道の全列車が函館駅まで乗り入れている。列車の発車は改札口にも近い1・2番線ホームからが多い(右下)

九州最南端を走る「指宿枕崎線」−−究極のローカル線珍道中の巻

おもしろローカル線の旅74 〜〜JR指宿枕崎線(鹿児島県)〜〜

 

ようやく新型コロナウィルス感染症の状況も改善しつつあり、旅へも出やすくなってきた。本サイトでも1年ぶりに「おもしろローカル線の旅」を復活させたい。

 

復活最初に紹介するローカル線はJR九州の指宿枕崎線。鹿児島県薩摩半島の最南端を走る路線である。一部の駅は以前に訪れたことがあったものの、〝全線完乗”するのは初めて。途中で写真を撮っての旅となると相当の時間がかかった。一方で地元の人との触れ合いや、長時間にわたる暇つぶしも。やや“珍道中”となりつつも、記憶に残る旅となった。

 

【最南路線の旅①】意外!? 全線開業したのは太平洋戦争後だった

まずは指宿枕崎線の概要を見ておこう。路線の歴史はそれほど古くはない。意外にも全線が開業したのは太平洋戦争が終わって、かなりたってのことだった。枕崎市という遠洋漁業の基地があるにもかかわらず、路線の延伸はなかなか果たせなかったのである。

 

◆指宿枕崎線の概要

路線と距離 JR九州 指宿枕崎線/鹿児島中央駅〜枕崎駅87.8km
全線単線非電化
開業 1930(昭和5)年12月7日、西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)〜五位野駅間が開業、1936(昭和11)年3月25日に山川駅まで延伸開業。枕崎駅まで延伸開業は1963(昭和38)年10月31日のこと。この時に路線名を指宿枕崎線に変更。
駅数 36駅(起終点駅を含む)

 

↑指宿枕崎線の路線図。左上は昭和10年代、太平洋戦争前の薩摩半島の路線図。当時は山川駅までしか路線が通じていなかった

 

指宿枕崎線が全線開業したのは前回の東京オリンピックの前年にあたる1963(昭和38)年のこと。遠洋漁業の基地がある枕崎市という規模の大きい町がありながらである。

 

これには理由がある。鹿児島交通枕崎線という私鉄の路線が、すでに枕崎へ到達していたからである。枕崎線は、鹿児島本線の伊集院駅と枕崎駅を結ぶ49.6kmの路線だった。南薩鉄道という名前で路線を開業、1914(大正3)年4月1日に伊集院駅〜伊作駅間が開業、1931(昭和6)年に枕崎駅までの路線を延ばしている。ちなみに路線の途中、阿多駅から知覧駅(ちらんえき)を結ぶ知覧線という支線も設けられていた。

 

つまり、公営の指宿枕崎線の路線(一部開業当時は指宿線)が造り始められていたころ、すでに枕崎駅まで私鉄路線があったわけで、当時の鉄道省(国鉄の前身)としては何が何でも鉄道を延ばそうとはならなかったようである。

 

この鹿児島交通枕崎線だが今はない。1984(昭和59)年3月18日で全線が廃止されている。指宿枕崎線の全線が開業してから、20年後に起きた集中豪雨の影響で運休となり、その1年後に正式に路線廃止となっている。

 

【最南路線の旅②】西大山駅&完乗は計画的に動かないと難しい

指宿枕崎線を旅するにあたって、どのように乗れば効率的なのかプランニングしてみた。途中、JRの路線最南端にある駅、西大山駅へ降りて、そこで写真を少し撮ってから終点の枕崎駅を目指したいな、と考えた。

 

ところが、路線の途中にある喜入駅、さらに山川駅までは列車の本数が多いのだが、山川駅〜枕崎駅間は超閑散路線となる。西大山駅は山川駅から2つ先にある。ということは列車の本数が極端に少ない区間にあるわけだ。山川駅から先は日に7本、さらに終着の枕崎駅へ走っている列車となると6本になる。さらに日中ともなると2時間、3時間、列車がない時間帯がある。しかも午前中は枕崎駅着7時25分の1本しかないという具合なのである。

↑JR最南端の駅「西大山駅」。列車に乗ってこの駅を訪れ、さらに枕崎へ行こうとするとプランニングが大変であることが分かった

 

指宿枕崎線の始発列車は早い。朝4時47分、鹿児島中央駅発の列車がその日の一番列車となる。途中、山川駅での乗り換えがあるが、この列車を使えば7時25分に終着の枕崎駅へ到着することができる。

 

とはいえ、旅先では朝5時前の出発はつらい。さらに、この列車を利用しても、枕崎駅で折り返し列車の発車が7時35分で、駅での時間の余裕が10分しかない。もし、この7時35分の列車に乗らないと、次は13時20分までないのである。ということは始発で動くと、枕崎駅で5時間45分も待たなければならない。始発で終点まで行ってしまうと、枕崎駅で過ごす時間がほぼない。また、始発の列車に乗って西大山駅で途中下車しても、次の下り列車が5時間半も来ない。これはかなり厳しい。

 

そこで次のような行程で動くことにした。

鹿児島中央駅6時20分発→山川駅7時33分着→(他列車に乗り継ぎ)→山川駅7時36分発(西頴娃駅行き)→西大山駅7時48分着

 

さらにその先は、

西大山駅11時54分発→枕崎駅12時56分着(折り返し)、枕崎駅13時20分発→指宿駅14時44分着

 

これでも西大山駅で4時間ほどの空き時間が出てしまうのだが、まあそれは仕方がないと諦めた。午前中から動こうとするとこのプランしかひねり出せなかったのである。

 

【最南路線の旅③】鹿児島湾が見え始めるのは平川駅の先から

秋ともなると南国、鹿児島でも夜明けは遅い。旅をしたのは10月17日(日曜日)のこと。この日の日の出の時間は6時22分。指宿枕崎線の列車の発車時間6時20分とほぼ同時刻だった。列車はまだ暗い中、ディーゼルエンジン特有の音を奏でつつ鹿児島中央駅を発車した。

 

車両はJR九州の気動車キハ200系。鹿児島を走るキハ200系は黄色い塗装で、側面の「NANOHANA」(なのはな)と大きくロゴが入る。乗車した2両編成の座席はロングシート、片側3扉の近郊用気動車である。

↑指宿枕崎線の南鹿児島駅と鹿児島市電・谷山線の南鹿児島駅前停留場。この駅のみ指宿枕崎線と市電の乗り換えが便利な駅となっている

 

ロングシートで〝旅の気分〟はあまり高まらずだが、鹿児島中央駅〜山川駅は、このキハ200系(クロスシート車両もあり)で運行されることが多い。列車が走り出してしばらく、進行左手を鹿児島市電・谷山線の線路が近づいてくる。そして指宿枕崎線と平行して走るようになる。

 

指宿枕崎線の駅名と、この鹿児島市電の停留場名は複数が同じだ。同じだから乗り換えできるのだろうと思われそうだが、離れている駅が多いので注意したい。接続しているのは南鹿児島駅のみだ。

↑平川駅〜瀬々串駅間の海をバックにした指宿枕崎線の定番スポット。走るのはキハ200系。ラッシュ時は4両編成での運行も行われる

 

指宿枕崎線も鹿児島市内では、通勤路線の趣で高架線区間がある。ローカル線のイメージは薄い。旅情豊かなローカル線の趣が味わえるのは、鹿児島中央駅から8つめの平川駅付近からだ。平川駅を過ぎると、間もなく進行左手に鹿児島湾(錦江湾)が見え始めるようになる。ここからしばらくは海に付かず離れずの路線区間となる。

↑平川駅を過ぎてから鹿児島湾を眺める区間となる。走るのは特急「指宿のたまて箱」。同路線の名物観光列車となっている

 

指宿枕崎線の観光ポスターなどで使われる写真を撮影できるのが平川駅〜瀬々串駅(せせくしえき)間の歩道橋上にあるスポット。後ろに鹿児島湾が見え、南国らしい風景が見渡せる。筆者もだいぶこのあたりには通ったが、このスポット以外に背景に海を写し込める箇所がほぼない。山側から写すことが難しい路線区間でもある。よって、この定番スポットが観光用に使われることが多いのであろう。

 

対して指宿枕崎線の車内から見る鹿児島湾の美景は素晴らしい。つまり撮影者たちが苦労して撮る風景を、指宿枕崎線に乗れば誰もが楽しめてしまうというわけである。

 

【最南路線の旅④】指宿といえば温泉だが帰りに立ち寄ることに

朝6時20分発の山川駅行き。平川駅を過ぎ、鹿児島湾が左手に見え始める。ちょうど朝日が向かいの大隅半島方面から海を赤く染めつつ上ってきていた。そんな感動的な景色を眺めながら列車は進む。海上に大型船が数隻浮かぶのが見える。進行方向、左手先にはENEOS喜入基地の大きな石油タンクが見えてくる。基地の最寄り駅、喜入まではほぼ30分おきに列車が走っていて列車本数が多い区間だ。ここまでは鹿児島の郊外路線といった趣が強い。

 

喜入駅、前之浜駅を過ぎ、再び鹿児島湾沿いを走り始める。車窓から亜熱帯の植物も見られるようになり、より南国ムードが増していく。マングローブ樹種のメヒルギ群落の北限地も路線沿いにある。人工的に植えた亜熱帯の木々でない自然のままの南国の木々が、ここでは見ることができるわけだ。薩摩今和泉駅(さつまいまいずみえき)から指宿市となる。指宿市はこの沿線屈指の温泉郷で、全国から訪れる人も多い。

↑鹿児島中央駅〜指宿駅間を走る特急「指宿のたまて箱」。海側が白、山側が黒という水戸岡鋭治氏らしい思いきったデザインの列車だ

 

観光客の多くが乗車するのが特急「指宿のたまて箱」で鹿児島中央駅と指宿駅の間を1日に3往復走る。車内は鹿児島湾側が良く見えるような座席配置となっている。指宿は浦島太郎伝説の発祥の地でもあり、発着する駅では、列車から玉手箱から出るような白煙が立ち上る。そんな演出が楽しい人気の観光列車でもある。使われるのはキハ140形とキハ47形の組み合わせで、JR九州の列車デザインを多く手がけてきた水戸岡鋭治氏が作り上げた「水戸岡ワールド」全開といったD&S列車(デザイン&ストーリー列車)である。

 

さて、今回の指宿枕崎線の旅では、指宿に帰りに訪れることにしたものの、先に指宿の簡単な説明をしておきたい。指宿は日本屈指の温泉町だ。駅前にも屋根付きで広めの足湯があり、温泉の良さを気軽に楽しむことができる。市内には温泉宿がふんだんにあるほか、駅近くにも日帰り温泉や、銭湯があり、宿泊せずとも温泉が楽しめる。

↑指宿駅の目の前にある足湯。こちらでのんびりと温泉気分を楽しむ人も多い

 

さらに、指宿ならではの温泉の楽しみ方といえば「砂むし」。温泉の蒸気で熱せられた砂の上に寝て、スタッフに砂をかけてもらう。10分も入れば、汗が吹き出してくる。浴衣を着て楽しむ天然サウナなのであるが、サウナとは違うのは、砂に包まれて横になってリラックスできること。生き返ったような、また天に舞い上がるような感触が楽しめる。山川にも砂むしがあるので、時間に余裕がある時は楽しんでみてはいかがだろう。

 

温泉の楽しみは次の機会にして、今回はローカル線の完乗で1日をまとめることにする。

 

【最南路線の旅⑤】早朝に山川駅で乗り換え西大山駅を目指した

指宿駅の一つ先の駅が山川駅だ。進行左手に山川港が見えてきてまもなく同列車の終点、山川駅に到着した。ちなみに、山川駅はJRの路線では最南端の有人駅でもある(ただし全時間が有人ではなく、時間・曜日限定ではあるのだが)。

 

乗った列車は山川駅の駅舎側の1番線ホームに到着、2番線ホームにすでにキハ40系1両が停車していた。到着してから3分後、山川駅発の西頴娃駅(にしえいえき)行き列車となって出発する。乗り換えは地上の構内踏切を渡ればすぐなので、手間いらずだが、何ともこのあたり慌ただしい。また興味深い車両の変更である。

↑鹿児島中央駅から山川駅まで乗車したキハ200系(右側)。山川駅から西大山駅までは左のキハ40系に乗り継いだ

 

キハ200系は2両で運行、そして乗り継ぐキハ40系は1両での運行となる。要はこの先の区間は乗車する人がそれだけ減るということなのだろう。でも他に理由があるのではと推測したのだが、そのあたりの話はのちほど。

 

筆者が乗車したのは日曜日のせいか乗客が少なく、地元の利用者は皆無だった。観光客が数人、残りは〝乗り鉄〟といった具合だった。少なめの乗客を乗せて走り始める。キハ200系よりも、古い国鉄時代生まれのキハ40系。次の大山駅の手前には勾配区間があり、ディーゼルエンジンを高らかに奏でながらゆっくり勾配を登っていく。車両の必死さが伝わってくるようだ。それでもスピードは上がらず……。このあたり鉄道好きにとって、たまらなく楽しいところでもある。

 

大山駅を過ぎると、畑地が見渡す限り広がるようになる。そして朝の7時48分、この日の最初の目的地、西大山駅に到着した。

↑西大山駅を入口から見る。小さな入口の階段と屋根が一つ。対して駐車場は広い。案内板にはPRと注意事項がかかれていた

 

西大山駅はJR最南端の駅で、ホームに「JR日本最南端の駅」という標柱が立っている。鉄道最南端の駅というと、現在は沖縄県の沖縄都市モノレール線の赤嶺駅となるのだが、2本レールの鉄道ならば、ここが正真正銘の最南端の駅と言って良いだろう。

 

筆者は西大山駅に訪れたのは3回目だったが、列車で来たのは今回が初めてだった。車ならば、鹿児島市から1時間ちょっとの距離。ところが列車を使うと1時間30分〜50分かかる。この先に行こうとなるとさらに大変だ。

 

駅前には大きな駐車場がある。列車利用の人向けではなく車利用の観光客向けのものだ。多くの人が薩摩半島を巡るドライブの一つの目的地として西大山駅を訪れて〝最果て感〟を楽しむ。さらに魅力なのが、ホームの先から秀麗な開聞岳が望めることであろう。この開聞岳が、同駅のアクセントにもなっている。美景がなければ、ここまで観光客に人気にはならなかったように思う。

↑西大山駅前には土産物屋(右上)がある。ここでは地元マンゴー商品が人気。指宿観光協会が発行する「駅到着証明書」も販売されている

 

さて、西大山駅へ降りたのはいいのだが、次に乗る枕崎駅行きの列車は4時間待ちになる。何をして過ごそうか、とても悩んでしまうのであった。

 

【最南路線の旅⑥】これぞ正真正銘の日本最南端の踏切へ

4時間の合間に、まずは2本の上り列車を撮影することにした。8時36分と、9時11分の2本が西大山駅へ到着する。どこで撮るかを悩みつつ選んだのが、西大山駅の西側にある西大山踏切という遮断機付きの踏切。この踏切は正真正銘、日本の鉄道最南端の踏切となる。

↑日本最南端の踏切となる西大山踏切をキハ40系が通過する。背景に開聞岳が望める立地だ。やや雑草が多いことが難点だった

 

もう一か所は、西大山駅の東側にある中学校踏切付近。ここから開聞岳を背景に走る列車を撮影してみた。中学校の名がつく踏切だが、現在、付近には中学校がない。昔あったことからこの名がついたのであろう。よく知られている撮影地としては、他に駅の東側、徒歩20分のところに県道242号の大山跨線橋がある。青春18きっぷの2010年夏用ポスターがここで撮影された。スケール感のある景色が魅力だが、こちらは開聞岳側に歩道がなく、危険と隣り合わせのため、あまりお勧めできない。

 

さて、中学校踏切の横から撮った開聞岳が下記の写真。撮ってはみたものの、西大山駅の上に電柱と電線があって今ひとつだなと思った。

↑中学校踏切(左上)から撮影した開聞岳とキハ40系。右下に西大山駅がある。電信柱がかなり気になる場所だった

 

とはいえ、先の西大山踏切が日本最南端の踏切ならば、この中学校踏切は日本で2位となる南にある踏切ということで、記憶には残るように思った。

 

【最南路線の旅⑦】次の列車までの4時間空きはさすがに辛い

2本目の上り列車が9時11分に通りすぎ、次の枕崎駅への下り列車の発車は11時54分と時間が大きく空いてしまった。さてどうしたら良いのだろう。

 

まずは西大山駅前の土産物店で、指宿名物のマンゴープリンとマンゴーサイダーを店内でいただいた。さらに指宿観光協会が発行しているJR日本最南端の「駅到着証明書」を購入。同土産物店にはトイレもあるので、休憩に最適だ。ただ、店の人たちと会話をしつつも、小一時間の滞在時間が精いっぱい。とりあえず動こうと、店を出たのだった。

 

向かったのは西大山駅の一つ先の薩摩川尻駅(さつまかわしりえき)。地図で調べてみると、距離にして1.6km、約20分で着けるとあって、ちょうど暇つぶしには最適だなと思って歩き出した。

↑西大山駅から隣の薩摩川尻駅まで歩く途中に出会った光景。広々した畑と美しい開聞岳の組み合わせが絵になった

 

西大山駅から薩摩川尻駅まで歩いたのは正解だった。前述した西大山踏切から畑の中に伸びる道をのんびりと歩く。畑には整然とキャベツが植えられ、その畑ごしに海が見えた。歩くにつれ、畑の先にそびえる開聞岳がよりきれいに見えるようになる。何ともすがすがしい光景に出会ったのだった。とはいっても、のんびり歩いても、30分ほどで隣の駅の薩摩川尻駅に着いてしまった。

 

西大山駅がJR最南端駅ならば、この薩摩川尻駅がJRで2番目の南の駅となる。ただ、何もない駅なので、観光客は皆無だった。2番目というのはそれほど魅力にはならないようだ。また、薩摩川尻駅からは、近いにもかかわらず開聞岳があまり見えない。美景が見えたら、観光客も訪れるのだろうが。

 

ちなみに、指宿市川尻という大きな町が駅から2kmほど南、太平洋に面した場所にあり、この地名から駅名が付けられたと推測される。とはいえ、川尻の人は指宿枕崎線を使わず、ほぼ100%が車利用となるようだ。駅に隣接する踏切を通る車はそれなりにあるのだが、駅にいる人は皆無だった。これから1時間半、列車が来るまでどうしたら良いのだろう。

↑JRで2番目に南にある薩摩川尻駅。指宿市川尻から遠いため利用者はほぼいない。なぜかきれいな電話ボックスが設けられていた

 

仕方なく駅のベンチに座って、しばらくうたた寝。朝早く起きた眠気を取り去る。それでも時間がもたずに駅付近をぶらぶら。軌道用の重機が置かれていたり、人がいない駅なのにきれいな電話ボックスがあったり、ちょっと不思議な駅でもあった。そんな時に農家の男性が通りかかった。

 

駅の裏手にあるハウスで野菜づくりをしている方だった。日中、この駅で列車待ちをする人はほとんどいないそうだ。利用は朝夕に乗降する学生ぐらいなのだろう。

 

この日は日曜日だったので、「仕事はいいんだ」と長い間、世間話に熱中してしまう。いろいろ話をするうちに、薩摩半島のこのあたりは「意外に雨が降らない」と聞いた。それでも山の上に池田湖があって、この付近は水不足にならないそうだ。九州はここ数年、集中豪雨の被害にあった地区も多い。同じ鹿児島県、隣県の宮崎県を走る日南線が、豪雨災害のため運休となっている。ただ、夏はかなり暑い地区だそうで、「このあたりでは、夏は北海道へ行って、向こうで野菜づくりをする人がいるね。で、冬はこちらに戻ってきて野菜をつくるんだ」そうだ。

 

冬でも温暖な気候の薩摩半島の夏はさすがに暑い。一方、北海道では冬には農作業はできない。日本列島の南北を行き来するという思いきったことをする農家の人たちが出現していることを初めて知った。そんな会話を楽しんでいるうちに時間が過ぎていく。暇だったものの、男性の出現で有効な時が過ごせたのだった。

 

【最南路線の旅⑧】南の路線は線路端の草木の勢いが半端ない

薩摩川尻駅11時56分、ようやく枕崎駅行き列車が到着する。今度はキハ47形が2両編成だ。1両だけでなく、2両という編成での運行もある。ただし、山川駅〜枕崎駅間は、ほぼキハ40系の国鉄形気動車一色となる。鉄道ファンにとってはうれしい列車なのだが……。

 

古い車両がなぜ使われるのだろうか。もちろん、利用者が少ないということが一つの理由ではある。加えて、他の路線ではあまり見かけない光景がこの指宿枕崎線では繰り広げられていたのである。

 

南国のせいなのか、左右の草木の伸び方が並みではないのである。もちろん、鉄道敷地内の草刈りは、JR九州の手で行われているようだ。だが、敷地の外の草木となると、著しく運行を妨げる枝以外は切ることができないのが実情のようだ。薩摩川尻駅に次のような貼り紙にあった。

 

JR九州からのお願いとして、「線路側に木が倒れないように管理をお願いします」。貼り紙には特急「指宿のたまて箱」に倒木があたり、正面の運転席のガラス窓が破損した時の写真が掲載されている。

 

「倒木により当社に損害が発生していれば、賠償請求をする場合がございます。線路のそばで木を切る際は事前にJR九州に連絡をお願いします。伐採中に線路側へ木が倒れると列車の運行に支障をきたします」とあった。

↑草木に囲まれるようにして走る指宿枕崎線のキハ40系。車体に右下のように、草が絡みついて走る姿も、ここでは当たり前のよう

 

このような貼り紙を鉄道路線で見たのは初めてだった。倒木にまで至るトラブルは極端な例ながら、左右両側から想像を絶するほどの草木が張り出していた。その張り出し方は乗車していても良く分かる。

 

途中、外気が気持ちよかったので、ガラス窓を少し開けておいた。その開いた窓から草木が入る。〝ビシッ〟〝バシッ〟と窓ワクを叩く音とともに、油断すると入ってくる草木に腕を擦られることに。この路線に限っては、窓開けには注意が必要なことがよく分かった。当然ながら車両も草木が擦りつけられることによって、多くの傷がつくことになるのだろう。頑丈な車体を持つキハ40系が使われる理由の一つになっているのかも知れない。

↑枕崎駅が近づくにつれ、先ほどまで間近に見えていた開聞岳が遠くなっていく

 

薩摩川尻駅から乗車したキハ47形の車窓からは、開聞岳はそそり立つように見える。東開聞駅、開聞駅を過ぎると、開聞岳は徐々に左手後方に遠ざかり小さくなっていく。

 

入野駅から先は、進行方向の左手、やや遠めながら東シナ海が見えるようになる。頴娃駅、西頴娃駅と難読駅名が続く。ちなみに頴娃駅はローマ字ならば「ei」。2文字は国内では「津駅」に次ぐ短い駅名だ。

 

指宿枕崎線の列車は進行左手に海と集落を、右手に丘陵地を眺めつつ進む。

 

【最南路線の旅⑨】終着駅の枕崎での滞在時間は24分のみに

枕崎駅への到着は12時56分、乗車した列車は鹿児島中央駅からの直通列車だったが、2時間54分かかった。朝6時20分に鹿児島中央駅を出た筆者にとっては、途中下車し、余計な時間を過ごしたものの合計6時間36分かけての終着駅・枕崎駅への到着となった。

↑指宿枕崎線の終点、枕崎駅。車止めの横には記念撮影用のデッキも設けられ、カメラ置台(右下)も用意されている

 

枕崎駅はJR最南端の始発・終着駅となる。そんな枕崎駅まで乗車してきたのは、ほとんどが鉄道ファンという状況だった。3時間近く、のんびりローカル線に乗るというのは、一般の人ならば苦痛を伴うかも知れないが、鉄道ファンにとっては至福の時となるようである。

 

そして大半が24分後に折り返す列車に乗ろうとしているようだった。多くが、最南端終着駅に関わる関連施設の撮影に大わらわだった。筆者の場合は、街中に残る鹿児島交通枕崎線の路線跡を探そうと歩き回った。

↑枕崎駅前の「本土最南端の始発・終着駅」の案内。後ろには「かつお節行商の像」が立つ。行商によって枕崎のかつお節の名が広まった

 

さて、駅に戻ると駅前に立つ案内に目が引きつけられる。そこには「本土最南端の始発・終着駅」とあり、宗谷本線稚内駅から3099.5km、最北端から南に延びる線路はここが終点です、とあった。

 

稚内駅からこの駅まで乗り継いで旅する人がいたとしたら、枕崎駅に到着した時は感慨ひとしおだろう。筆者もゆくゆくは、最北端の稚内駅、最東端の根室本線東根室駅を目指してみたいなと思うのだった。

 

ちなみに、鹿児島中央駅と枕崎駅間にはバスが走っている。所要時間は1時間20分〜2時間弱の距離だ。本数も1日に9往復走っている。他に鹿児島空港との間にもバス便(1日に8往復)が出ている。このバス便の便利さを知ってしまうと、指宿枕崎線を枕崎駅まで乗る人があまりいない理由が分かる。言葉は悪いものの〝物好き〟しか完乗しない路線だったのである。

↑枕崎駅の北には鹿児島交通枕崎線の線路跡が残る。右は観光案内所の横に立つ灯台の形をした日本最南端始発・終着駅のモニュメント

 

高齢者が危ない!「踏切」で〝もしも〟に出会ったら?

〜〜高齢化社会でより切実になる踏切問題を考える〜〜

 

先日、筆者は東京都内の踏切で閉まった遮断機の中に高齢の男性が取り残される場面に出くわした。まさに踏切で出会った危険な状況そのものだった。こうしたトラブルに直面したらどうしたら良いのだろう。

 

今回は踏切事故やトラブルの現状や、対応方法などを見ていきたい。

 

【踏切トラブル①】踏切での死亡事故の約4割が高齢者という現実

まずは、踏切事故の件数と死傷者数(歩行者)を見ておこう。国土交通省の資料によると、1998(平成10)年に踏切事故は487件あったが、20年後の2018(平成30)には247件と約半分に減っている。負傷者数も179人から64人に減った。ただし、思うように減らないのが死者数だ。130人が97人に減少したものの、負傷者数に比べて顕著な減少傾向を示していない。

 

2015(平成25)年度の国土交通省資料よれば、死亡した歩行者数のうち約4割を65歳以上の高齢者が占めている。なぜ高齢者が占める割合が多いのだろう?

↑ある踏切でみかけた光景。遮断機が閉まり始めてからの横断は危険だ。踏切事故の原因の半分近くが「直前横断」となっている

 

国も実態の把握につとめ、防止対策に乗り出しつつある。やや前のものになるが2015(平成27)年10月に国土交通省がまとめた資料「高齢者等による踏切事故防止対策検討会」のポイントを見ていこう。

 

踏切事故の死亡者は資料をまとめた年には93人で、そのうち73%が歩行者で、さらに歩行者の40%が65歳以上の高齢者が占めている。踏切で起きた高齢者のトラブルの例を見ると、

 

・歩行速度が遅いため取り残されてしまった。

・列車通過の風圧により転倒して取り残された。

・カートを押して横断中、転倒して取り残された。

・踏切道の縁の段差で足を取られ転倒、取り残された。

・降下中の遮断かん(遮断機に取り付けられた黄色と黒色の棒)にあたり転倒、取り残された。

 

といった事例が報告されている。踏切内に取り残される、転倒したという例が目立つ。これらは、みな現場に居合わせた通行人らに助けられた事例をまとめたものだが、もしものことを考えるとぞっとする。

 

同検討会では事故原因の分析として次のようにまとめている。上記と重複する箇所もあるが念のため取りあげておこう。

 

①踏切道を渡りきれず取り残される原因として、1)歩行速度が遅い。2)踏切道内の段差や、レールと路面との隙間に歩行者の足やシルバーカーの車輪等がひっかかり転倒。3)歩道がない踏切では自動車とすれ違いが難しく歩行を中止してしまう。

②遮断かんに阻まれて踏切道から出ることができない原因として、遮断かんを持ち上げることや、くぐることができない。

③警報機鳴動後に踏切道に進入する原因として、警報機が見えづらい等により踏切を認識できない可能性。

 

という具体例を3つあげている。ちなみに①の歩行速度だが、一般的な歩行速度を秒速1.3mとして計算されている。警報が鳴り始め、遮断機が下りて、外に出ることができる時間は、歩行速度から算出されている。しかし、成人の場合にはこのスピードで問題にならないだろうが、歩くのが困難な高齢者には、ちょっとつらい時間と言えそうだ。

 

踏切に取り残される原因には、こうしたスピードについていけなくなったこともあげられるだろう。

 

【踏切トラブル②】遮断かんは大人の力で簡単に持ち上がる

先の資料「高齢者等による踏切事故防止対策検討会」のトラブル例では多くの高齢者が、ちょうど居合わせた歩行者により、遮断かんが持ち上げられて、踏切の外に助け出されたとある。この遮断かんの機能を見ておこう。

 

遮断かんは、大人の力であればラクに持ち上げることができる。なぜラクに持ち上げることができるのだろう。

↑遮断かんの付け根には、遮断かん折損防止器という機器がついていて、車の接触などに対応できるような仕組みになっている

 

遮断かんと、遮断かんを下げたりあげたりする四角い箱(正式には「電気踏切遮断機」という)の間には、遮断かん折損防止器という〝機器〟が付いている。この機器がついていることで、遮断かんの動きは適度な融通性が保たれ、車の接触などに対応できる。また上に持ちあげて高齢者を外に出すといったことも可能になっている。

↑遮断かんを良くみると中間部がややしなっているように見える。ジョイントがここにあり、ラクに屈折できる構造となっている

 

さらに遮断かんの中間部にジョイントを設けて、屈折できる構造となっている踏切もある。もし踏切内に取り残された高齢者がいたら、助け出すのに可能な時間さえあれば、遮断かんを上げて外に出るようにサポートしたい。また踏切内のクルマが立ち往生してしまった時には、焦らず遮断かんにボディが当たってでも外に出るようにしたい。

 

ただし、せっぱ詰まった状況だと判断したら、非常ボタンを押すことが肝心になる。

 

【関連記事】
「踏切」は着実に進化していた!! 意外に知らない「踏切」の豆知識

 

【踏切トラブル③】いざという時は非常ボタンを押す決断が必要

踏切に付く非常ボタンのことを簡単に説明しておこう。非常ボタンの正式名は踏切支障報知装置で、ボタンはその操作器となる。

↑ほとんどの踏切に設けられている非常ボタン。もしもの時には躊躇なく押して非常を知らせたい。もちろんいたずらはご法度だ

 

非常ボタンを押すとただちに走行している列車に緊急信号が送られ、列車は急停車する。避けられそうにないと感じたならば非常ボタンは躊躇なく押すべきであろう。

 

ただし、非常ボタンは一般の人には、解除操作ができない。

 

筆者が目撃した例を見ておこう。京王線のカーブにある駅で電車待ちをしていた時のこと。車高の低いクルマが駅そばの踏切内で底を擦り、立ち往生してしまった。その時に非常ボタンが押されて、駅に近づいてきた通過電車が急停車して事故を防ぐことができた。その時に、ホームの詰め所で安全を確認しているスタッフが、踏切に駆けつけてボタンを解除した。非常ボタンが押されると、こうした解除作業が必要になる。

 

【踏切トラブル④】高齢者が踏切内に残されるトラブルに出会う

筆者は仕事柄、鉄道沿線を歩くことが多い。また最近、子ども向けに踏切の本(後述)を作ったこともあり、踏切の写真を撮ることが多くなっていた。そんな筆者が、高齢者が踏切内に取り残されるというトラブルに出会った。

 

ここ2年間に2件、そうしたトラブルに遭遇している。多いか少ないかはさておき、とっさの判断が大切なように感じた。その状況を見ておこう。

↑筆者が出会った高齢者の踏切内に取り残された時の例。2例とも遮断機の閉まった状態で、踏切内に取り残されてしまっていた

 

トラブル時の様子が分かりやすいように鉄道模型の踏切で再現してみた。

 

◆東武亀戸線で出会った事例

まずは東武亀戸線のある踏切で出会った例から。筆者が踏切を渡って間もなく遮断機が閉まった。すると踏切近くで工事を行う職人さんたちが騒ぎ始めた。振り返ると、筆者が立つ位置とは逆側に踏切を渡りきれずに立ち往生している年配の男性がいた。

 

閉まった遮断かんを前にして、外に出ることができない状態になっていた。同区間は複線区間で、男性が立つ側と反対側に電車がさしかかっていた。非常ボタンは押されなかったのだが、運転士が踏切内に残された男性を確認したのだろう。電車は踏切手前で急停車。運転士が降りてきて、男性を遮断かんの外に出して事無きを得たのだった。

 

◆京王井の頭線で出会った事例

京王井の頭線で出会った事例は、ごく最近のことである。この日、筆者は車で近くへ出かけ、その帰り道でのことだった。踏切が閉まり、自らの車も踏切の手前2台目の位置で停車。前を見ると、高齢の男性が遮断かんの内側、線路側に立っているではないか。非常に危険な立ち位置だった。

 

誰も動こうとしないので、筆者は車のギアをパーキングにし、サイドブレーキをかけて、念のためハザードランプを点滅させ車を降り、男性のところに近寄った。遮断かんのすぐ前に立っていたので、腕をとって「おじいさん、そこは危ないから外に出ましょうね」と遮断かんを上に少し持ちあげ、下をくぐらせて外に出した。

 

遮断かんとレールの間の距離は2〜3m。電車の車体はレール幅よりも広いから、遮断かんぎりぎりの場所に立っているとはいえ、中は危険だ。さらに通過時に巻き起こる風で転倒する可能性もある。

 

もし言うことを聞いてもらえないようであれば、非常ボタンを押さなければいけないだろうな、と覚悟しつつ、とっさにこうした行動を取ることができた。

 

資料「高齢者等による踏切事故防止対策検討会」で記されていた例を間近で体験してしまい、微力ではあるがお役に立つことができた。

 

【踏切トラブル⑤】いろいろな策が講じられているものの…

先に取り上げた「高齢者等による踏切事故防止対策検討会」ではどのような対策が有効とされているのだろうか。

 

①「踏切を渡りきれない」対応策

複線など線路が数本ある踏切は、渡る距離が当然のように長くなる。そこでレールとレールの間に遮断機で遮られた「避難場所」を設けてはどうだろう、と提言している。ただ、これは設備費用がかかりそうな解決策である。

 

②「踏切の構造上の問題で転倒」を防ぐ対策

踏切道内を平滑化(連接軌道化等)し、段差を解消することを検討。またレールと路面との隙間を緩衝材等で埋めることを検討してみては、としている。

 

③「歩道がない踏切ですれ違いできず歩行を中止」への対策

これに対しては歩道部分を拡幅して、歩車道の分離を検討しては、としている。

 

①〜③はいずれも設備費用が必要となる。特に①と③は大規模な工事が必要となるので、鉄道会社、または地域を含めた協力体制が必要となりそうだ。

 

④「遮断かんを持ち上げる、またはくぐれない」対策

歩行者の脱出が容易となる遮断かんの設置を検討しては、としている。この対策は前述したように「遮断かん折損防止器」が多くの踏切に装着され、大人の力ならば無理なく持ち上げられる。また遮断かんの中間部にジョイントを設けて、屈折しやすい構造となっている踏切も多い。

 

こうした装置をそれぞれの踏切が備えていることは、あまり良く知られていない。一般の人にこうした装置がついていることを知らせるPR活動こそ有効であろう。多くの人が知らずに、手をこまねいてしまっているのが現状のように感じている。

 

⑤「警報機鳴動後に踏切道に進入」への対策

警報が鳴っているのに入ってしまう人への対策は、警報機(警報灯)を低い位置に増設すること、また全方位警報機(赤色せん光灯)を設置することを検討しては、としている。この面でも踏切の機器は急速に進化している。

 

これまでは片側一方向のみ赤いランプが点灯する仕掛けの警報灯が多かった。ところが、ここ10数年で急速に導入が進められているのが全方向型だ。これならば周囲360度から確認でき、確認する角度を問わない利点がある。身長が低い子どもたちや、かがんで歩きがちな高齢者も、少し見上げれば点滅を確認できそうである。

↑多くの鉄道会社の踏切に導入されるようになった全方向型の警報灯。左下のように丸いタイプが使われる踏切も多くなった

 

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↑一方向のみの警報灯の場合、踏切に面した道路すべての方向に装着する必要があり、全方向型に比べると割高になる

 

全方向型の警報灯が生み出され、また設置されて以降、遮断かんの折損トラブルがかなり減ったそうだ。つまり、一方向のみの警報灯であると、点滅の確認が遅くなりがちで、気付かずうっかり踏切内に入ってしまう車や人も多かった。大型車の荷台に遮断かんが引っかかり折れてしまうというトラブルも起こりがちだったそうである。

 

ほかに「高齢者等による踏切事故防止対策検討会」では、警報器に気が付かない高齢者への対策として、見やすく、分かりやすい看板の設置や、路面の表示を検討してはどうだろう、としている。

↑遮断かんが折れてしまった例。遮断機が閉まりかけた時に大型車が通ると、こうして折れ曲がってしまうこともある

 

【踏切トラブル⑥】障害検知器は非常に優れたシステムなのだが

⑥「踏切道に取り残された高齢者等を救済する方策」は?

多方向から分かる場所への「非常ボタン」の設置と、検知能力の高い「障害物検知装置」の設置の検討を提言している。

 

「非常ボタン」はそのとおりであろう。これは多くの踏切にすでに装着されている。あとは危機を察知し、いかに早くボタンを押してもらうかになるであろう。タイミングを逃してしまった場合には、近づいてきた列車が急ブレーキをかけても止まれないことがある。

 

「障害物検知装置」はすでに多くの踏切で設置されている。「障害物検知装置」は大きくわけて2タイプある。踏切の左右に銀色の棒が立っているが、こちらを「光電式障害物検知装置」と呼ぶ。この装置を取り付けた踏切が多い。左右に立つ装置が対になっていて、その間を結ぶ光が遮られることにより、取り残された車などを確認して、踏切内に障害物があることを走る電車に伝えている。

 

ただし、光電式障害物検知装置は、車など大きなものは障害物であることを感知できるが、踏切内に立ち止まる歩行者の検知が難しい。

↑光電式の障害物検知装置(左上)は踏切内の障害の有無を検知する。感度のよい三次元のレーザーレーダー方式の導入も進められている

 

そこでより感知能力の高い三次元レーザー方式も開発され、これを設置している踏切も増えている。ただし感知能力が高い同装置を使い、検知範囲を広げてしまうと、小動物や風によって飛ばされた飛来物も障害物として認識してしまうことがあるとされる。踏切内に残された高齢者や、車などの障害物だけならば良いのだが、精度が高いと余計なものを感知してしまい、無用な輸送障害を出してしまうこともある。このあたりが難しいポイントでもある。うまく人や車といった障害物のみを感知できれば、ベストなのだろうが。

 

【踏切トラブル⑦】踏切事故ゼロにするには高架化しかない?

「高齢者等による踏切事故防止対策検討会」では他に踏切を渡らなくて良いように迂回路の設置を提言している。例えば地下道を設けて、地上とエレベーターで結ぶ迂回路の設置だ。もちろんこのような迂回路を設置するには設置費用が必要になる。〝開かずの踏切〟ではこうした迂回路も有効に思える。とはいえ歩行者が面倒がらずに迂回路を使うかどうかは、疑問でもある。

 

いま首都圏の私鉄路線の多くで、複数の踏切をなくすべく、高架化工事が進められている。高架化したら、踏切は完全になくなるわけで、それだけ危険性は減ることは確かだ。とはいえ時間がかかる。膨大な予算がかかる。鉄道会社はもちろん、自治体と協力しての大規模な工事が必要となる。いずれにしても、高齢者の踏切事故防止は、一般の人たちの理解とともに、PR活動も大事になる。

↑東武鉄道の竹の塚駅付近の高架化工事は現在、急行線の高架化が完了、残すは緩行線の高架化を残すのみとなっている

 

【踏切トラブル⑧】事故の確率がやや高い第4種踏切とは?

ここまで見てきた踏切事故および踏切対策は、ほとんどが遮断機付き踏切で起きたもの。高齢者にとってはもっと危ない踏切が、少なからず残されている。

 

踏切には4つのタイプがある。まず全国的に多いのが遮断機付きの踏切で「第1種踏切」に分類されている。「第3種踏切」は警報機が付くものの遮断機がない踏切、さらに警報機、遮断機がともにない踏切を「第4種踏切」と区別している。ちなみに「第2種踏切」は係員が常駐して遮断機の上げ下げを行っていた踏切で、現在は消滅している。

 

遮断機付きの踏切に比べて危険なのが「第3種踏切」と「第4種踏切」だ。

↑警報機、遮断機の無い第4種踏切。数は少ないものの事故は多め。閑散地区にあるため、なかなか遮断機付きに変更できない実情がある

 

2018(平成30)年の国土交通省の資料によると、全国の踏切数は3万3098か所で、これは踏切改良促進法が施行された1961(昭和36)年度の7万1070か所に比べ半分以下となっている。特に踏切改良促進法を施行以降、遮断機のある「第1種踏切」が増えていき2万9748か所、遮断機のない「第3種踏切」が698か所、警報器のない「第4種踏切」は2652か所ほどに減っている。

 

数では8%と少なめの第4種踏切だが、2018(平成30)年の事故発生数247件のうち、35件が第4種踏切で起こった。第4種踏切の数が全体の8%と少ないのに対して、事故の比率は14%と高いことが分かる。第4種踏切を通行する人と車の数は第1種踏切に比べると圧倒的に少ないはずである。その少なさを考えれば、この割合はかなり高いと言えるだろう。警報器がないところでは、列車の接近を自分の目で確認する必要がある。高齢者の場合、確認する行為に時間がかかってしまい、列車の接近に気付きにくくなっていることもあるのだろう。第4種踏切は高齢者にとって常に危険と隣り合わせと言える。

↑手で上げ下げできる遮断機がついた岳南電車の歩行者専用の踏切。こうした簡易形の遮断機の設置も一つの事故防止策として有効であろう

 

とすれば第4種踏切をなくす、また減らせば良いわけだが、なかなか理想どおりにいかないのが実情である。第4種踏切は多くが列車本数の少ないローカル線で閑散区間が多い。鉄道会社としては投資しにくいのだ。

 

国では現在、交通事故調査を行う基準として遮断機が設置されていない踏切道において発生した事故、死亡者を生じたものを調査するとしている。要は「第3種踏切」「第4種踏切」で起きた事故に限定しているわけである。調査は行われているものの、なかなかこれといった予防策を導入できていないのが実情である。ちなみに遮断機のある踏切での事故調査は5人以上の死亡事故があった場合としている。これも歩行者の死亡事故ではなかなか起きない事故であろう。

 

さらに最近、スマホに熱中し、踏切事故に遭ってしまった31歳の女性の例があったように、踏切問題は決して高齢者のみの問題と考えないほうが良いのかも知れない。いっそうのPR活動と注意喚起が必要に思われる。

 

筆者も踏切で危険な場面に複数回、出会っている。幸い死亡事故にはならなかったものの、すでに身近な問題になっているように感じる。真剣かつ早急な対応策が必要になっているのではないだろうか。

 

*  *   *

学研プラスではGakken Mook「スーパーのりものデラックス ふみきりのヒミツ!」という踏切をテーマにした児童書を出版した。発行は2021(令和3)年9月9日で1375円(税込)。付録は「ふみきりセット」で、警報灯の赤い光が点滅、また〝カンカン〟と音が鳴る。筆者も本誌の編集制作に関わらせていただいた。お子さんに向けて踏切を渡る時の注意点なども掲載している。お役立てていただければ幸いである。

↑筆者が編集制作に関わった「スーパーのりものデラックス ふみきりのヒミツ!」。付録はカンカンと音が鳴るふみきりセット

 

今のうちに乗っておきたい!懐かしの鋼製電車が走る「西武鉄道」の3路線

〜〜乗りたい&行きたいローカル線車両事典No.5〜〜

 

今回紹介する西武鉄道も含め、大手私鉄の電車といえば、最近はステンレス製の電車が多くなってきた。その一方で鋼製電車が減りつつある。

 

ステンレス製の電車は現代的でおしゃれだが、鋼製電車も捨てがたい。さらに、西武鉄道の鋼製電車は自社の車両工場で造ったメイドインSEIBUそのものなのだ。いま、そんな西武の自社車両も数が減り、走る路線も限られてきた。今のうちに乗って、その良さをしっかり目に焼き付けておきたい。

*運行情報は10月21日現在のものです。変更されることがありますのでご注意ください。

 

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【はじめに】西武鉄道の路線網に隠されたライバル3社の争い

車両の話をする前に、まずは西武鉄道の路線網を確認しておこう。西武鉄道の路線は東京の北西部一帯に広がっている。西武新宿駅〜本川越駅間を走る西武新宿線と、池袋駅〜吾野駅間を走る西武池袋線が幹線にあたり、ほか西武拝島線、西武秩父線といった路線に、特急・急行などの優等列車が走る。

 

路線地図を見ると不思議なことに気が付く。三多摩地区に、複数の支線が集まっているのである。特に東京都と埼玉県の間にある多摩湖、狭山湖の周辺には、西武多摩湖線、西武園線、西武狭山線と、3本の路線が集中している。西武国分寺線、西武多摩湖線は一つの会社なのに、路線がほぼ平行して走っている。この両線は東村山市内で立体交差しているのに、接続する駅がないというちょっと不思議な〝事実〟もある。

 

筆者は東村山市出身で、幼いころから国分寺線で通学していた。小さい時には感じなかったのだが、鉄道に興味を持ち始めてからは、不思議だなと思っていた。

↑太平洋戦争前の旧西武鉄道と、旧武蔵野鉄道の路線図。所沢駅で両社は接続していたが、それぞれの路線は無視され記されていない

 

この〝路線密集〟は同社の歴史にその理由があった。

 

太平洋戦争前に東京の北西部には、旧西武鉄道と武蔵野鉄道という2社の路線網があった。現在の国分寺線(開業当時は川越鉄道川越線)と新宿線(開業当時は村山線)を敷いたのが旧西武鉄道で、池袋線を敷いたのが武蔵野鉄道だった。

 

さらに、多摩湖線という路線も誕生していた。多摩湖線は1928(昭和3)年に国分寺駅〜萩山駅間の路線を開業。1930(昭和5)年1月23日に村山貯水池(仮)駅まで路線を延伸させた。

 

この多摩湖線を敷いたのが多摩湖鉄道で、その親会社が箱根土地。同会社を率いたのが堤康次郎である。堤は〝ピストル堤〟という異名を持つ実業家で、その辣腕ぶりが際立っていた。東京都下では国立などの街造りを手がけている。もともとは鉄道経営に乗り出す気持ちは薄かったとされている堤だが、沿線の宅地開発を円滑に進めるために多摩湖鉄道を開業させたことを契機に、鉄道路線の経営にも乗り出すようになる。

 

多摩湖線の終点近くにある村山貯水池(多摩湖)は、1927(昭和2)年に誕生した人造湖だ。東京市民に水を安定して供給するための貯水池で、同貯水池の北西に、同じ1934(昭和9)年に山口貯水池(狭山湖)も誕生している。両貯水池は誕生当時、東京市民の人気の観光スポットとなり、訪れる人も多かった。そのために3つの鉄道会社により複数の路線が設けられたのである。

↑狭山丘陵の窪地を利用して設けられた村山貯水池。都内最大規模(他県にまたがる湖は他にある)の湖でもある。最寄り駅は多摩湖駅

 

貯水池近くの駅として、多摩湖鉄道の村山貯水池(仮)駅が設けられた。さらに、旧西武鉄道の村山貯水池前駅が1930(昭和5)年4月5日に開業。現在の西武園駅にあたる駅だが、場所は現在の駅の位置より貯水地の築堤に近いところに設けられた。

 

旧武蔵野鉄道は、この2つの駅開業よりも1年前の、1929(昭和4)年5月1日に村山公園駅を開業させている。この駅は現在の西武球場前駅により、村山貯水池側によった場所に設けられていた。村山公園駅は、4年後の1933(昭和8)年に村山貯水池際駅と名を改めている。

 

このように、似たような名前の駅が村山貯水池周辺に3つあったわけで、当時の人は、非常に分かりにくく困ったことだろう。さらに3社によって観光客の〝争奪戦〟が行われたのである。

 

当時は昭和恐慌真っ最中の時代であり、多くの鉄道会社が経営危機に陥っていた。もともと、旧西武鉄道、武蔵野鉄道とも開業以来、鉄道経営は順調と言えず、さらに新線の延伸効果も薄く混迷を極めていく。

 

そんなさなか、堤康次郎は多摩湖鉄道だけでなく、武蔵野鉄道の経営の実権を握っていき、さらには太平洋戦争下の1943(昭和18)年に箱根土地が旧西武鉄道の経営権を獲得して、現在の西武鉄道の礎を造っていった。結果的に、小さな鉄道会社が大きな鉄道会社を飲み込んでいった形である。

 

なぜ、このあたりの路線の話をしたかといえば、いま、村山貯水池(多摩湖)、山口貯水池(狭山湖)を巡る路線に鋼製電車が走り、鉄道ファンとしてみれば、非常に〝熱い〟路線エリアであるからだ。西武狭山線と西武多摩湖線の間を走る西武山口線にはレトロカラーの車両も登場、懐かしの西武電車の〝天国〟で、古くからの西武ファンにとっては、何とも楽しいところになっている。

 

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【注目の車両&路線①】赤紺黄色のカラフル電車が走る多摩湖線

まずは、西武鉄道の多摩湖線を走る電車から見ていこう。多摩湖線では長年、鋼製電車の新101系が走っていたが、今年の2月22日で運行が終了している。国分寺駅にホームドアが設置され、このホームドアのドアの数が4扉車に合わせたものだったからである。新101系は西武鉄道に残る唯一の3扉車で、ホームドアのサイズに合わないこともあり、運行を終了したのだった。

 

とはいっても、新101系が西武鉄道から完全に消えたわけではない。今も走る線区は後述ということで、まずは現在の多摩湖線を走る車両9000系から見ていこう。

 

○西武鉄道9000系

西武9000系は1993(平成5)年から1999(平成11)年にかけて、西武所沢車両工場で製造された。西武所沢車両工場は所沢駅のすぐ近くに1947(昭和22)年に設けられた同社の車両工場で、メンテナンスはもちろん、西武鉄道の車両の新造を行う工場だった。他社へ車両譲渡を行うときの整備改造もこの工場で行った。

 

電車だけでなく、自動車整備や、大型特殊車両の製造を行うなど、さまざまな業務を行う工場だったのである。大手私鉄で、自社工場を持つ例は、東急(現在は異なる経営組織となっている)などをのぞき、非常に稀だが、高度成長期には、足りない車両を自社でまかなえる利点が最大限に活かされていた。

 

その後に所沢の再開発計画がおこり、2000年代となり同工場の役割は武蔵丘車両検修場(埼玉県日高市)に移された。その後も車両新造は一部行われたが、現在の西武鉄道の電車はすべて外部への発注となっている。

 

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↑黄色いオリジナル塗装の9000系。多摩湖線は途中、菜の花が咲くところが多く、春先には黄色い電車と黄色い花のコラボが楽しめる

 

実は9000系こそ、所沢車両工場で造られた最後の自社生産の新造車両だった。10両×8本、計80両が造られている。車両の特徴として外装は新2000系とほぼ同じで、普通鋼製で車体全部が黄色塗装とされた。新車ながら取り付けられた装備すべてが新製品というわけではなく、廃車された旧101系の電装品を再利用している。要は使い回しなのだが、所沢車両工場の効率的に電車を造るという〝得意技〟でもあった。ただし、9000系の制御装置は後の2000年代になって、全編成VVVFインバータ制御方式に取替えられている。

 

この9000系の最後の編成となったのが9108編成で、この編成が所沢車両工場の最後の新造車両となった。なお9108編成は今も多摩湖線を走っている。

↑レジェンドブルーという塗装で多摩湖線を走る9108編成。この編成こそ、西武の所沢車両工場最後の新製車両となった

 

最盛期には80両という大所帯の9000系は、近年、急激に車両数を減らしつつあった。そんな〝9000系ファミリー〟だったが、ホームドア設置で4扉車に揃えたい思いもあり、中間車を抜いてワンマン運転が可能なように改造され、4両編成で走り続けている。残るのは4両×5編成、計20両となっている。

 

車体カラーもオリジナル塗装の黄色だけでなく、イベント電車用に特別ラッピングの特殊色が残り、走っているのが興味深い。まず9108編成はプロ野球・西武ライオンズの球団カラーを生かした「L-train(エル・トレイン)」として走った車両で、現在ステッカー類などは外したものの、レジェンドブルーのままの塗装で走る。

↑10両で走った時には「RED LUCKY TRAIN」を名乗った9103系。鮮やかな赤い色が写真映えする

 

また9103編成は京浜急行電鉄とコラボした「RED LUCKY TRAIN」として走ったが、こちらもステッカー類は外されたものの、当時の鮮やかなレッド塗装のまま走っている。

 

そんな鮮やかなカラー車両が走るのも今の多摩湖線の面白さだ。ちなみに終日、赤・青・黄色のカラー電車が走るわけではなく、運用によっては黄色のみの日もある。また9000系に混じって新2000系が走っている日もある。このあたり、行ってみなければ分からない。赤色9000系に出会えたら、それこそ〝RED LUCKY〟なのかも知れない。

 

【注目の車両&路線②】レオライナーにはレトロ色も走る

さて多摩湖線の終点駅となる多摩湖駅だが、これまでたびたび駅名が変わってきた駅でもある。実は、つい最近も変更されていたのだ。今年の初頭は「西武遊園地駅」だったのだが、3月13日に「多摩湖駅」と変更された。この駅、なんと改名は4回目にあたる。

 

改めて確認すると、駅開設時は村山貯水池駅、1941(昭和16)年に狭山公園前駅、1951(昭和26)年に多摩湖駅(初代)、1979(昭和54)年に西武遊園地駅(2代)とされた。そして今年に多摩湖駅(2代)と名乗るようになった。西武遊園地駅の駅名が〝2代〟となっているのは、この名前が付けられる前に、「おとぎ電車」という軽便鉄道規格の路線(西武山口線:西武遊園地〜ユネスコ村間を結んだ)が走っており、そこに西武遊園地駅という駅があったからなのである。

 

ちなみに、2021年3月からは西武園遊園地が「西武園ゆうえんち」にリニューアルされ、多摩湖駅側の入口がなくなった。西武山口線の「遊園地西駅」を「西武園ゆうえんち駅」とし、こちらの駅前が西武ゆうえんちの入口となっている。

↑西武多摩湖線の終点駅・多摩湖駅。この3月までは西武遊園地駅という名前だった(左上)。駅構内で西武山口線と接続している

 

○西武鉄道8500系

現在の西武山口線に関しても興味深いラッピング電車が走り出している。紹介しておこう。

 

まずは西武山口線の概要から。西武山口線は多摩湖駅〜西武球場前駅間2.8kmを走る。愛称はレオライナー。新都市交通とも呼ばれる案内軌条式鉄道路線で、同方式を使う鉄道路線を運営するのは大手私鉄では西武鉄道のみである。同区間は村山貯水池の北側、ゴルフ場とはさまれた場所で、狭山丘陵内のアップダウンや、カーブが多いことから同方式が取り入れられている。

 

走るのは8500系で車輪は鉄輪ではなくゴムタイヤで駆動する。基本の塗装は白地に緑・赤・青の3本の帯色の「ライオンズカラー」だが、3編成のうち1編成は昨年9月から「SDGs×Lions GREEN UP!」プロジェクトトレインとしてグリーンに、さらに1編成は今年の5月15日からは、西武鉄道の1960年代に走った電車の車体カラーに模様替えして走っている。西武園ゆうえんちの1960年代をイメージした〝あの頃の日本〟の町並みを再現したコンセプトに合わせたそうである。

↑ライオンズカラーで走る西武山口線の8500系。今年の5月から1960年代の西武電車をイメージした車両も走る(左上)

 

この1960年代の西武電車のレトロカラーだが、筆者も実際に見て乗った世代で、同車両を見ると、何とも懐かしさがつのる。一方で、こんなにカッコよい電車ではなかったなあと思うのであった。色はこげ茶色とクリームの2色塗装なのだが、当時の写真はモノクロが多く、カラーが少なかったこともあり、実はもう少し地味だったようにも記憶している。

 

【注目の車両&路線③】狭山線を走る〝赤電〟塗装の新101系

西武球場前駅で西武山口線と接続するのが西武狭山線だ。西武狭山線は池袋線の西所沢駅〜西武球場前駅間の4.2kmを走る支線である。

 

同路線を走るのが鋼製電車・新101系だ。毎日、すべての時間帯を走るわけではない。西武ドーム(メットライフドーム)でイベント等がない平日に運用される。いまや多摩湖線からも撤退し、本線系列での運行は狭山線のみとなっていて、いわば貴重な車両と出会える線区となっているわけだ。新101系とはどのような電車なのか確認しておこう。

 

○西武鉄道 新101系

新101系を見る前に、まずは101系という電車を見ておかなければならない。101系は1969(昭和44)年から1976(昭和51)年に所沢車両工場で製造された。

 

101系が登場したその年に西武秩父線が開業している。西武秩父線は吾野駅と西武秩父駅を結ぶ路線で、長いトンネルとともに急な勾配区間があった。その勾配路線を走行するために、高出力またブレーキ性能を高めた電車が必要となった。それまでの西武鉄道は、高度成長期の乗客急増時代に合わせた電車が多く、デザインは新しくとも、古い電装品、台車などを流用した車両も目立った。非力だったために、西武秩父線の運行には向かなかったのだ。

 

そして生まれた101系は当時、西武初の高性能車でもあったわけである。

↑筆者が少年時代に小手指車両基地で撮った101系の新車。運転開始前の様子で整備員が運転台の調整していたようだった

 

鉄道に目覚めた年代だった筆者も、そんな新車を小手指にできた車両基地(現小手指車両基地)に撮りに行ったことがある。上の写真はそんな時のもの。当時はおおらかな時代で、ノートに住所と名前を記入すれば、基地内に入ることができ、写真を撮らせてもらえたのだった。もちろん安全面への配慮はすべて自己責任であったのだが。

 

この101系は現在、同社から消滅し、一部が三岐鉄道(三重県)などの譲渡先で走り続けている。

 

その後に誕生したのが新101系であった。新101系は1979(昭和54)年から製造された101系のリニューアルタイプで、2両編成・4両編成。さらに8両編成化した301系という車両も登場している。101系の外観との違いは、旧101系が低運転台だったのに対して、新101系は高運転台であること。また正面の運転席のガラス窓の支柱が太くなったことが、大きく変わったポイントだった。この当時から所沢車両工場だけでなく、東急車輌製造への車両造りの委託も始まっている。一時代前には東急グループとは、箱根などで激しいライバル争いをしていたこともあり、当時のこの変貌ぶりは考えられないことでもあったのだ。

↑狭山線を走る新101系。〝赤電塗装〟と呼ばれるカラーで、1960年代から70年代にかけて西武電車の代表的な塗装だった

 

こうして生まれた新101系だが、すでに登場してから40年近く走る古参電車となった。同じ西武グループの近江鉄道(滋賀県)や伊豆箱根鉄道駿豆線(静岡県)、また流鉄(千葉県)、三岐鉄道など中小私鉄へ譲渡される車両も多い。鋼製車両で頑丈に造ってきたこともあるのだろう。使いやすさもあったのか、多数の会社で使われている。

 

西武鉄道でも、平日やイベントがない日には西武狭山線を走っている。2021(令和3)年10月中に狭山線を走る新101系を確認したが、赤電塗装と呼ばれる1960年・70年代に西武路線を走ったカラーの1247編成と、1259編成。さらに黄色一色という263編成という新101系も走っている日があった。

 

ちなみに、263編成は新101系の中でも特にユニークな編成なので見ておこう。新101系の一般車は中間車1両に2つのパンタグラフを搭載している。ところが、263編成のみもう1両に2つのパンタグラフを付けている。先頭車に2つのパンタグラフが付く何ともものものしい姿なのである。

 

現在、西武鉄道では、車両牽引用の電気機関車を所有していない。路線内で新造車の回送や、また路線内の車両回送用の牽引電車が必要となる。特に路線網から1本のみ離れた西武多摩川線といういわば〝独立路線〟があるのだが、定期検査時などは、JR武蔵野線との接続線から、武蔵丘車両検修場まで回送が必要となった。そうした新造電車や回送電車を牽引するために改造されたのが新101系の263編成なのである。この263編成も〝牽引業務〟がない時には、狭山線で通常の電車と同じように乗客を運ぶというわけである。このあたりのやりくりが、鉄道ファンとしてはなかなか興味深いところだ。

↑多摩湖線を走っていた時の新101系263編成。写真のように先頭車にパンタグラフ2個を装着していて目立つ

 

↑001系特急ラビューの新造編成をJR武蔵野線新秋津駅から車両基地へ牽引する新101系263編成。こうした光景を時々見ることができる

 

さて、狭山線の平日のみに走る新101系だが、毎日、確実に出会える線区がある。それが西武多摩川線である。次は多摩川線の今を見ていくことにしよう。

 

【注目の車両&路線④】新101系の今や聖地となった多摩川線

西武多摩川線はJR中央線と接続する武蔵境駅と是政駅を結ぶ8.0kmの路線である。路線の歴史は古く1917(大正6)年10月22日に境駅(現武蔵境駅)〜北多磨駅(現白糸台駅)間が開業したことに始まる。当時、開業させたのは多摩鉄道という会社で、多摩川の砂利採集が目的で路線が設けられた。開業してからわずか10年で旧西武鉄道が合併し、太平洋戦争中に西武鉄道の一つの路線に組み込まれている。

旧西武鉄道時代から、本体の路線網とは結ばれていない〝独立路線〟となっていた。現在もそれは変わらずで、日常の検査は路線内の白糸台駅に隣接した車両基地で行われており、定期検査などが行われる場合には、武蔵境駅〜武蔵野線・新秋津駅間は、JR貨物の機関車が牽引して運んでいる。JRの路線を西武電車が走る珍しいシーンを見ることができるわけだ。

 

そんな西武多摩川線で使われる電車は現在も新101系のみ。鋼製電車の最後の〝聖地〟となっている。

↑西武多摩川線を走る新101系。同編成は黄色の「ツートンカラー」塗装で、これが新101系の登場時のカラーでもある

 

西武多摩川線を走る新101系は4編成で、3種類の車体カラーの新101系に出会うことができる。

 

そのカラーとは、245編成と、249編成が「ツートンカラー」と呼ばれる塗り分け。黄色と濃いベージュの2色で塗り分けられていて、これが新101系登場時の色そのものだ。新101系なじみの車体カラーというわけである。

 

さらに、241編成は伊豆箱根鉄道駿豆線を走る車両と同じ白地に青い帯が入る。また251編成は、近江鉄道の開業120周年を記念して2018(平成30)年に塗装変更された。近江鉄道の電車と同じように水色に白帯といった姿に塗り分けられる。

 

伊豆箱根鉄道、近江鉄道は西武グループの一員であり、こうしたグループ会社の〝コラボ車両〟が、この西武多摩川線に集ったわけである。

↑伊豆箱根鉄道駿豆線のカラーで走る新101系241編成。ちなみに駿豆線を走る同色の1300系は元西武の新101系でもある

 

↑多摩川線を走る近江鉄道色の新101系。近江鉄道の100形と同じカラーだ。近江鉄道の100形も元西武の新101系が使われる

 

伊豆箱根鉄道駿豆線と近江鉄道には元西武の新101系が走っている。今回の車体カラーのコラボ企画は、譲られた両社の新101系の車体カラーと、西武鉄道の新101系の車体カラーを同じにしたもの。生まれた会社に残る新101系と、遠く離れて走り続ける新101系が同色というのもなかなか楽しい企画である。

 

【注目の車両&路線⑤】そのほかの気になる鋼製車両といえば?

西武の鋼製電車で気になる車両がもう一形式ある。それは2000系だ。2000系とはどのような車両なのか、触れておこう。

↑西武新宿線を走る2000系。西武初の4扉車として登場し、40年にわたり走り続けてきたが、徐々に引退する車両も出てきた

 

西武の2000系は1977(昭和52)年に登場した電車で、新101系と同じころに生まれた。西武としては初の4扉車で、当初は西武新宿線用として誕生したが、その後には池袋線も走るようになる。1988(昭和63)年まで製造が行われ2両、4両、6両、8両とさまざまな車両編成が生み出されていった。製造は所沢車両工場で行われている。

 

今、西武鉄道を走る2000系には2タイプの正面スタイルがある。1988(昭和63)年までに造られた旧タイプと、同年から1992(平成4)年に造られた新タイプの2000系である。後者の2000系は「新2000系」と呼ばれることもある。前者の2000系は正面のおでこ部分が角張ったスタイルで、後者は正面のおでこ部分がアール状で列車種別、行先表示が、一体化されて組み込まれている。

 

どちらかといえば、無骨な姿の2000系は古いタイプで、きれいにまとまっているのが新2000系というわけだ。

↑増結用に用意された2両編成の2000系。パンタグラフが2つ付く先頭車で力強いいでたちが特徴となっている

 

2000系もすでに登場してから40年近くになる。新101系に並ぶ古参車両として長年活躍してきた。そんな2000系だが、トップナンバーでもあった2001編成(8両)が10月初旬に横瀬車両基地へ回送された。廃車になるとみられている。実はこの車両編成が、現在の西武の最も古い現役車両(あとから編成を組んだ中間2両をのぞく)でもあった。わずかに残る2000系の初期タイプではあるが、残る車両も徐々に引退していくものと見られる。

 

2000系、そして前述した新101系は西武では今や少なくなりつつある昭和生まれの鋼製電車となっている。西武の昭和期生まれの鋼製電車の現状を見ると〝昭和は遠くなりにけり〟というようにも感じてしまう。今後、その動向は不明瞭だが、少しでも長く活躍してもらえればと、昭和生まれの筆者としては祈るのみである。

 

鉄道&旅好きにお勧め!車両充実度満点の「えちごトキめき鉄道」

〜〜乗りたい&行きたいローカル線車両事典No.4〜〜

 

前回、本サイトで紹介した千葉県の房総半島を走る「いすみ鉄道」。同鉄道会社の元社長が就任したことにより、がぜん活気づいた鉄道会社がある。新潟県を走る第三セクター経営の鉄道会社「えちごトキめき鉄道」だ。

 

すでにご存知の方も多いと思うが、北陸本線を走っていた交直両用電車をメンテナンスした上で導入。休日に急行列車として走らせている。しかも国鉄当時の塗装で。この電車に乗ろうと全国からファンがつめかけている。

 

【関連記事】
〝七車七色〟の115系!行きたい!乗りたい!「越後線」「弥彦線」

【はじめに】6年目を迎えたえちごトキめき鉄道の2路線

2015(平成27)年3月14日に北陸新幹線の長野駅〜金沢駅間が開業した。以降、併行して走っていた信越本線の妙高高原駅〜直江津駅間と、北陸本線の市振駅〜直江津駅間の運営を引き継いで、列車を走らせているのが「えちごトキめき鉄道」である。

 

旧信越本線は、「妙高はねうまライン」に、北陸本線は「日本海ひすいライン」という路線名が付けられた。両路線とも自社車両だけでなく、他社車両も乗り入れている。さらにガラス窓が大きく、鮮やかな赤色に塗られた「えちごトキめきリゾート雪月花(せつげつか)」という観光列車を創業まもなく走らせ、なかなかの人気の路線となっていた。

 

転機が訪れたのは2019(令和元)年秋。鳥塚 亮(とりづかあきら)氏が新社長に就任したのである。鳥塚氏といえば、元航空会社に勤めた後にいすみ鉄道の社長に就任し、国鉄形気動車を導入するなど思いきったアイデアを取り入れ、いすみ鉄道の存続に貢献した人物だ。2018(平成30)年に社長退任の後、えちごトキめき鉄道(以下「トキ鉄」と略)に移った形となった。

 

新社長に就任して2年たった今年には、4月29日に直江津駅の構内に「直江津D51(デゴイチ)レールパーク」を開業、さらに7月4日には413系・455系を使った観光急行を運転し始めるなど、鉄道ファンやファミリー客の誘致に積極的に乗り出している。

 

筆者も今年の春以降に、すでに同路線に3回ほど訪れているが、コロナ禍による難しい時期にもかかわらず週末には、近隣はもとより、遠くから訪れた鉄道好きの姿も多く、さまざまな企画が実りつつあるように感じられた。

 

【注目の車両&路線①】7月から走り始めた「国鉄形観光急行」

同社の路線を走る車両を見ていこう。

 

同社の車両の中で最も気になる車両といえば413系・455系であろう。両車両は現在、観光急行列車としても使われている。413系・455系はどのような車両なのか見ていこう。

 

413系と455系は同じ交直両用電車ながら、生まれた経緯が異なる。直流電車が主力という地域に住む人にとっては、やや縁が薄い車両で、似た形式番号が多々あり難解な部分もあるが、国鉄時代と引き継いだJRの時代も含めて確認しておこう。

 

○クハ455-701(国鉄形交直両用455系電車)

↑クハ455-701を先頭に妙高はねうまラインを走る〝快速列車〟。この日は「赤倉」のヘッドマークを付けての走行

 

形式は455系電車にあたる。455系は国鉄時代に交流、直流両電化方式に対応した急行列車用の車両で、東北本線の盛岡地区と鹿児島本線の熊本電化開業に合わせ、また北陸地区の急行増発用に1965(昭和40)年に製造された。455系の前には453系、473系といった急行形交直両用電車があったが、これらに比べてより勾配区間のある路線で使うことを考慮し、抑速ブレーキなどの機器を強化している。

 

急行列車用に造られた455系だったが、年を追うごとに、急行列車自体の運行が減少していく。長い編成を組んで長距離を走る列車よりも、短い編成で、短い距離を走る普通列車向けの車両が必要となっていった。そのために、電源を持たない中間車は不要となっていた。

 

そこで中間車のサハ455形(種車はサハ455-1)が、1986(昭和61)年に運転台を持つクハ455-701に改造、さらに413系と組んで走るように改造されたのである。

 

クハ455-701は改造された後に413系とともにJR西日本に引き継がれ、北陸本線を長い間、走り続けた。JRの時にはB04編成という編成名で2010年代に入ると北陸地域色という青一色塗装に変更されている。当時、筆者も出会ったことがあるが、下記がその写真だ。

 

現在の姿と比べてみると、色の違いこそあれオリジナルな455系の姿はそのままである。ただし、正面の貫通扉上にある方向幕(列車種別の「急行」が表示される部分)がJR時代には表示がなく開口部が埋め込まれていたことが分かる。

↑北陸地域色に塗られたJR西日本時代のクハ455-701。後ろの413系とは乗降扉の位置と窓配置が異なる。撮影日2014(平成26)年4月12日

 

その後の2015(平成27)年には七尾色と呼ばれるあかね色に塗り替えられた。トキ鉄へやってくる前に、大きな改造と、車体色が複数回、変更されたことが分かる。ちなみに現在、455系の電源付きの車両(要するにモハやクモハ)はなく、トキ鉄に譲渡されたクハ455-701と、同じ経歴を持つクハ455-702が金沢総合車両所に1両のみが残るだけとなった。

 

ちなみに455系には微妙に違う姿形と形式がある。下の写真はクハ455-60とモハ474-46、クモハ475-46の編成で2011(平成23)7月19日に直江津駅のホームに停車する姿、クモハ475、モハ474は475系と呼ばれる455系に近い形式の電車で交流60Hzに対応するように造られた。写真のような475系と455系との組み合わせも、北陸本線では多く見受けられた。写真に写り込むクモハ475-46は準鉄道記念物に指定され、白山市の金沢総合車両所で保存されている。455系、475系とともに交直流電車の過渡期の車両であり、日本の鉄道技術を高めていく上で大きな足跡を残した〝歴史に残る車両〟なのである。

 

この車両塗装は急行列車に使われた大もとの色でローズピンク(赤13号)にクリーム色(クリーム4号)の組み合わせで「交直流急行色」と呼ばれている。

↑直江津駅で2011(平成23)年に停車する455系と475系の編成。トキ鉄のクハ455と比べると前照灯が大きい

 

○クモハ413-6・モハ412-6(国鉄形交直両用413系電車)

↑妙高はねうまラインを直江津駅に向けて走る快速列車。先頭が413系で、同車両は貫通扉上の方向幕が埋め込まれている

 

455系に関してだいぶ話が長くなってしまったが、編成を組む413系の特徴も触れておこう。

 

413系は1986(昭和61)年から製造された近郊形の交直両用電車である。453系・475系など急行形交直両用電車の台車、電装品、冷房装置などを再利用、車体を新造した。交流専用の電車717系も同時期に造られている。413系は北陸地方向けに、717系は東北の仙台地区と九州地区に導入された。

 

413系は北陸路の主力として長年走り続けた。JR西日本では近年、521系という交直両用電車を徐々に新造し、古い413系の置き換えを図ってきた。413系はJRの路線からは徐々に消えていき、最後まで走っていた七尾線の413系も、521系の導入により、今年3月12日で運用終了となった。

 

そんな413系は北陸本線を引き継いだ富山県内を走る「あいの風とやま鉄道」に5編成×3両(計15両)が譲渡された。そのうち、2編成は同社の観光列車に改造された。また一部に廃車されたものも出てきている。

 

ちなみに、413系の電車はあいの風とやま鉄道から、トキ鉄の糸魚川駅まで入線していたが、こちらの運行も2018(平成30)年3月17日で直通運転は終了している。

 

トキ鉄にやってきたのはB06編成という413系3両で、JR西日本当時には七尾線を走っている編成だった。交直流急行色に塗り替えられ、413系3両と、455系(クハ455-701)1両が購入されたが、413系のうち1両は直江津のD51レールパークの庫内で保存展示、一方、JR時代とは異なる455系1両と編成を組んで、現在は直江津駅〜妙高高原駅間と直江津駅〜市振駅間を走るようになっている。

↑七尾線を走った当時の413系B06編成で、車体色は茜色だった。撮影日は2020(令和2)年10月30日

 

413系・455系列車の運転ダイヤは下記のとおり。

 

◆快速列車としての運行

直江津8時43分発→上越妙高9時発→妙高高原9時37分着。

妙高高原9時44分発→上越妙高10時19分発→直江津10時35分着

※途中、高田、南高田、新井、二本木、関山の各駅に停車

 

◆急行列車(急行券が必要)としての運行

直江津11時26分発→糸魚川12時34分発→市振12時52分着

市振13時10分発→糸魚川13時42分発→直江津14時31分着

直江津15時03分発→糸魚川15時51分着/16時40分発→直江津17時08分着

 

【注目の車両&路線②】景色を楽しむならば「雪月花」が一押し

トキ鉄で最も目立つ列車といえば観光列車「えちごトキめきリゾート雪月花」であろう。あらためてどのような観光列車なのか、紹介しておこう。

↑妙高はねうまラインを走る「えちごトキめきリゾート雪月花」。こうして見ると側面のガラス窓の大きさが良く分かる

 

○ET122形1000番台「えちごトキめきリゾート雪月花」

形式はET122形で、その1000番台として造られた。ET122形はトキ鉄の日本海ひすいライン用に造られた車両(後述)で、同線は電化路線ながら、諸事情から気動車が採用された。

 

「えちごトキめきリゾート雪月花」は2016(平成28)年4月23日から運行されている。2両編成で、まず車体は車両限界ぎりぎりまで天井高を広げて造られた。さらに天井まで回り込むように側面窓が設けられている。結露がつかないよう、また断熱効果がある複層ガラスを利用。2枚のガラスの間には乾燥空気を入れ込む凝ったもので。UVカットガラスということもあり、熱も遮られる。

 

また車体の色は鮮やかなレッドとなっているが、こちらは「銀朱色」と呼ばれるカラーで、手塗りで塗装された。

 

ガラス窓から、美しい路線風景が落ち着いて楽しめるように座席幅は広く、足下のシートピッチも幅広く造られている。インテリアには木を多用しているが、こちらは天童木工が担当した。

↑日本海ひすいラインの有間川駅を通過する「えちごトキめきリゾート雪月花」。次の谷浜駅まで日本海の美景が存分に楽しめる

 

ごく一部だけを見ただけでも、手の込んだ車両として仕上げられた「えちごトキめきリゾート雪月花」。2016年度のグッドデザイン賞、2017年度の鉄道友の会ローレル賞に輝いている。

 

多くの観光列車が既存の車両を改造したものが多い中で、まったくゼロから新造している。同社の思いが詰め込まれているといって良いだろう。ちなみに同列車の運行時間は次のとおりだ。

 

◆午前便

上越妙高10時19分発→妙高高原11時30分折り返し→直江津12時26分発→糸魚川13時16分着

◆午後便

糸魚川13時59分発→直江津14時57分発→妙高高原16時16分折り返し→上越妙高16時44分着

車内では午前便がフレンチ、午後便では和食を楽しむことができる。

 

【注目の車両&路線③】多くの車両が走る「妙高はねうまライン」

トキ鉄の楽しいところは、多種類の車両が次々に走ってくることにある。先に紹介した413系・455系、「えちごトキめきリゾート雪月花」。さらに普通列車、特急列車、観光列車とさまざまな車両に出会える。まずは妙高はねうまラインを走る車両を紹介しておこう。

 

○えちごトキめき鉄道ET127系

↑妙高の山並みをイメージしたデザインが描かれるET127系。左上は通称「田島塗り」と呼ばれるラッピング電車

 

ET127系は妙高はねうまラインを走る普通列車用で、元は新潟地区を走るJR東日本のE127系だった。トキ鉄発足に合わせてJR東日本から2両×10編成が移籍した。

 

E127系には新潟地区用に造られた0番台と、松本地区用の100番台があり、0番台と100番台では、やや正面の形が異なる。トキ鉄へやってきた車両は0番台で、同社へやってきた後に、車体前面と側面に同路線から望める妙高の山並みをイメージした緑色の山模様が描かれている。

 

当初、妙高の山並みをイメージしたデザインが大半だったET127系だが、その後に地元企業のラッピングを施した車両が増えている。

 

8月には住宅建材などを扱う田島ルーフテイング社とトキ鉄がコラボ、〝初代新潟色〟に塗り分けた通称「田島塗り」ラッピング電車も登場した。ディテールに凝った広告ラッピング電車で、鉄道ファンを中心に人気となっている。このあたり鉄道ファンの好みをよく理解した鉄道会社らしい創意工夫が見られておもしろい。

 

○北越急行HK100形

↑妙高はねうまラインに乗り入れる北越急行のHK100形。直江津駅〜新井駅の1往復の列車に使われている。写真はHK100形100番台

 

新潟県内にはトキ鉄の他に、第三セクター経営の北越急行という鉄道会社がある。上越線の六日町駅と信越本線の犀潟(さいがた)駅を結ぶ「ほくほく線」の営業を行う。列車の多くが上越新幹線の越後湯沢駅と直江津駅を結んで走る。「スノーラビット」という快速列車を走らせているが、その1往復のみが、新井駅まで乗り入れている。

 

列車の運行には北越急行のHK100形が利用されている。トキ鉄の路線で北越急行の車両にも出会えるというわけだ。ちなみにHK100形の通常車両は薄紫色の帯色だが、赤い帯の100番台「ゆめぞら」の車両が使われることも。同車両は北越急行のトンネル内で車両の天井に星座を投影させる装置が付けられ、人気車両となっている。

 

○E653系 特急「しらゆき」

↑妙高の山並みを背景に走るE653系 特急「しらゆき」。アイボリーを基調に上下に紫紺と朱赤の帯が入る

 

妙高はねうまラインでは、妙高市の玄関口でもある新井駅と、北陸新幹線と接続する上越妙高駅の両駅を発着する優等列車が目立つ。特急「しらゆき」もそうした列車の一つで、新潟駅との間を1日に5往復している。

 

使われるのは1100番台に改造されたE653系で4両とやや短め編成で走る。E653系は元常磐線の特急「ひたち」用に造られた交直両用特急形電車で、新型車両導入後に、日本海側を走る特急に転用された。現在は新潟駅〜秋田駅・酒田駅間を走る特急「いなほ」と、新潟駅と妙高はねうまラインを結ぶ特急「しらゆき」として使われている。

 

○キハ40・48形 「越乃Shu*Kura」

↑妙高高原駅を発車する「越乃Shu*Kura」。週末を中心に11月28日まで運行の予定

 

JR東日本が運行する観光列車「越乃Shu*Kura」も上越妙高駅を発着駅として走っている。現在「越乃Shu*Kura」、「ゆざわShu*Kura」、「柳都Shu*Kura」の3行程が用意されているが、3列車とも上越妙高駅の発着と、もはや妙高はねうまラインにとって欠くことができない列車となりつつある。新潟のおいしい地酒と食が楽しめ、また利き酒もできる列車とあって、左党にはうれしい列車となっている。

 

○115系

JR東日本の115系も直江津駅〜新井駅を1往復走っている。新潟地区を走る115系は、7編成すべて色が違っていて注目度も高い。残念ながら夜に走るのみなので、乗る楽しみしかないのがちょっと残念なところだ。

 

運行は直江津19時18分発→新井19時43分着、新井20時13分発→直江津20時44分着だが、直江津駅を翌朝7時17分に発車するので、早朝の直江津駅構内限定ながら目にすることができる。

 

【注目の車両&路線④】「妙高はねうまライン」で注目したいのは

元信越本線の妙高高原駅〜直江津駅間37.7kmを走る妙高はねうまラインだが、路線のポイントをここで抑えておこう。まずは特急「しらゆき」の写真で見たように妙高の山並みが、路線の途中で見ることができる。

 

さらに珍しいスイッチバック駅がある。新井駅のひとつ南にある二本木駅で、上りも下りも、一度、駅ホームに入線する前、もしくは後に、折り返し線に入り、進行方向を変える。以前には、駅を停車しない特急の通過列車があったが、今は定期運行されるすべての列車が同駅に入るので〝行ったり来たり〟する様子が楽しめる。

↑二本木駅に停車する観光列車「えちごトキめきリゾート雪月花」と、駅へ進入する直江津駅行き普通列車。写真の手前に折り返し線がある

 

二本木駅の先、関山駅、妙高高原駅までの駅間の距離がかなり延び、さらに山あいの路線となる。電車がそれだけ上り下りしていることを実感させる路線だ。

 

妙高高原駅では、しなの鉄道と接続する。しなの鉄道といえば、国鉄型の115系が今も主力として走る路線で、その出会いも楽しいが、最近は新型車両の導入が進み、出会うチャンスが減ってきたのは、鉄道ファンとしてはちょっと残念なところでもある。

↑標高の高い妙高高原駅は降雪量も多い。そんな真冬のホームに止まるしなの鉄道の115系、その右に柱で遮られるがET127系が見える

 

【注目の車両&路線⑤】直江津D51レールパークを走るSLは?

妙高はねうまラインを直江津駅へ戻り、次に日本海ひすいラインを走る車両を見ていくことにしよう。その前に、直江津駅にはぜひ訪れたい施設がある。直江津構内にできた「直江津D51(デコイチ)レールパーク」だ。

 

今年の4月29日に誕生した施設で、その名前のようにD51形蒸気機関車の動く様子に触れることができる。同施設のD51は、和歌山県の有田川鉄道公園で保存されていた827号機で、圧縮空気で動く仕組みに改造されている。827号機は米原機関区、中津川機関区に配置された機関車で、中央西線で活躍したのちに引退となっていた蒸気機関車でもある。

 

同機関車が乗客を乗せた車掌車を牽引。直江津駅のホーム近くとレールパークを往復し、またパーク内にある転車台に載って、ぐるりと回る様子が楽しめる。

↑車掌車を牽いて直江津駅構内を往復するD51-827号機。車両は保存状態がかなりよい、車掌車に乗車しての走行体験も楽しめる

 

レールパークは元直江津機関区を利用したもの。この直江津機関区の歴史は古く1894(明治27)年に発足し、最盛期には転車台の周りに22線という大型の扇形庫が設けられた。1960年台前半までD51をはじめ多くのSLがこの機関区を基地に活躍した。その後、機関庫は縮小され、2015(平成27)年3月14日には、JR東日本からえちごトキめき鉄道へ施設が譲渡されている。

 

機関庫は小さくなったものの、レールパークになった後は、413系(クハ412-6)が庫内で保存展示。413系の車内は休憩所として、また売店として利用されている。ほか車両移動用の小型機関車、世界的な建築家の清家 清氏が自宅で利用していたという有蓋緩急車ワフ29603が保存されている。車掌車も兼ねていた車両で、清家氏はこの車内を書斎に利用していたそうだ。鉄道好きとしては贅沢な趣味の空間であるとともに、うらやましい車両の使い方だと感じた。

↑転車台に乗りぐるりと回るD51-827号機。直江津駅の構内を走行した後にはこうした転車台に乗るシーンを見ることができる

 

直江津D51レールパークはトキ鉄の車庫(直江津運転センター)に隣接していることもあり、車庫内に停車するET127系やET122形などの車両も間近に見ることができる。車庫ならではの動きを見ることができる楽しさも、ここで味わえる。

 

◆直江津D51レールパーク◆ 

営業時間:9時45分〜17時(最終入場16時30分)
営業日:3月上旬〜12月初旬の土・日曜、祝日など
入場料:大人1000円
アクセス:直江津駅南口から徒歩約3分

 

【注目の車両&路線⑥】日本海ひすいラインの注目列車といえば

次に日本海ひすいラインの直江津駅〜市振駅間を走る車両を見ていこう。旧北陸本線ならではの車両も行き来している。

 

○えちごトキめき鉄道ET122形

↑日本海ひすいラインの谷浜駅付近を走るET122形。写真のように朝夕には2両連結で走ることもある

 

ET122形は北陸本線をトキ鉄に移管するにあたって製造された気動車で、元はJR西日本が姫新線(きしんせん)などに導入したキハ122形がベースとなっている。前後両側に運転台がある気動車で、ステンレス車両の下部に「日本海の美しい海」を表現したデザインをほどこす。計8両が造られたが、うちイベント兼用車両が2両用意された。

 

ちなみに、なぜ電車が導入されなかったのか。走る区間の市振駅〜直江津駅間は、市振駅〜えちご押上ひすい海岸駅間が交流電化区間で、梶屋敷駅(かじやしきえき)〜直江津駅間が直流電化区間となっている。えちご押上ひすい海岸駅〜梶屋敷駅間には交流・直流を切り替えるデッドセクション区間がある。

 

つまり、電車の場合には交直両用電車でなければ走れない。交直両用電車の新造は高価で、しかも最低2両で編成を組まなければいけないという問題があった。交直両用電車に比べれば安めの気動車で、輸送量がそう多くない区間のため単行運転が可能なET122形の導入となったわけである。

↑イベント兼用車両のET122-7は「NIHONKAI STREAM」と名付けられた。正面に紅ズワイガニ、側面にアンコウなどのイラストが描かれる

 

ET122形が主力車両の日本海ひすいラインだが、週末ともなるとにぎやかになる。まず413系・455系を使った急行列車が走る。さらに鮮やかな「えちごトキめきリゾート雪月花」も連なるように走るのだ。

 

日本海ひすいラインを走るのは旅客列車だけでない。貨物列車も走る。日本海縦貫線という貨物輸送に欠かせない路線の一区間にあたるだけに、昼夜を問わず貨物列車が走っている。そして牽引機といえば。

 

○JR貨物EF510形式交直両用電気機関車

↑赤い車体のEF510基本番台。レッドサンダーという愛称が側面に入る。右上写真は500番台の銀色塗装機

 

日本海ひすいラインを含む日本海縦貫線を走る貨物列車を牽引するのがJR貨物のEF510形式である。EF510は直流電化区間、交流50Hz、交流60Hz区間が複雑に連なる路線に合わせ、また国鉄時代に生まれたEF81形式の置き換え用として開発された。そして日本海縦貫線では基本番台の赤い車体、愛称「ECO-POWERレッドサンダー」が走り続けてきた。

 

その後、JR東日本が特急「北斗星」などの寝台列車牽引用に新造した500番台が、客車列車の牽引自体がほぼ消滅したこともあり、JR貨物に売却された。現在は、赤い車両の基本番台と、北斗星仕様の青色、カシオペア仕様の銀色の500番台の3色の機関車が走るようになり、貨物列車好きには楽しい線区となっている。

↑日本海ひすいラインの青海駅〜糸魚川駅間を走るEF510の501号機。JR東日本当時のステッカー類は無いものの青い車体色のまま走る

 

【注目の車両&路線⑦】日本海ひすいラインで訪れたい駅といえば

トキ鉄の日本海ひすいラインの営業距離は59.3km。その先の市振駅〜越中宮崎駅間に富山県・新潟県の県境があるため、その手前の市振駅がえちごトキめき鉄道と、あいの風とやま鉄道の境界駅となっている。

 

営業上は市振駅が境界駅となっているが、トキ鉄の普通列車の運行は、2つ先の泊駅までの運行が大半で、その先のあいの風とやま鉄道の列車も大半が泊駅止まりとなっている。あいの風とやま鉄道からトキへ乗り入れる直通列車もわずかにあり、直通列車は糸魚川駅まで走っている。

 

日本海ひすいラインはほぼ日本海に沿って走るものの、トンネル区間が多い。日本海の風景が良く見える区間といえば、直江津駅側から見ると、谷浜駅〜有間川駅間、青海駅〜親不知駅間の一部、市振駅付近が車窓から海の景色が楽しめるが意外に少ないのが残念だ。

 

そんな日本海が良く見える区間の中でも、人気なのが有間川駅の近く。同駅は日本海の目の前にあり、列車と海が一緒に撮影できるスポットとあって、訪れる人が多い。

↑有間川駅のすぐそばから撮影した413系・455系利用の急行列車。市振駅行きの列車は先頭に急行型電車が付くとあって人気がある

 

ほかに一度下車してみたいのが筒石駅。トンネル内にある珍しい駅だ。北陸本線は、同駅がトンネル内に造られるまでは、海側に地上駅があった。駅の開業は1912(大正元)年と古い。地上駅だったものの、地滑りが多発した区間で、1963(昭和38)年に民家と列車が巻き込まれる土砂崩れが発生した。その後に、安全と輸送量を確保するために複線の頸城トンネル(くびきとんねる)を掘削し、トンネル内に筒石駅を開業させた。

 

「えちごトキめきリゾート雪月花」の午前便、午後便とともに同駅に停車、10分弱と短いながらもホームに降りることが可能だ。とはいえ地上の改札口からトンネル内の下りホームまで290段、上りホームまで280段で、エスカレーターやエレベーターはない。かなり〝労力〟を必要とする駅である。とてもえちごトキめきリゾート雪月花の短い停車時間内で改札までの往復は無理だ。

 

筆者も、JR時代に訪ねたことがあるが、ホームから改札口まで大変な思いをして上り下りした。海沿いにある筒石の集落から約1kmと遠いこともあり、一日の乗車客は20人程度と〝秘境駅〟に近い。とはいうものの〝話の種〟になる駅である。

↑写真は北陸本線当時のもの。下りホームと上りホームの位置関係がおもしろい。列車通過時には強い風圧がトンネルを抜けていく

 

いま同駅を通る列車は普通列車以外に貨物列車が通過するのみとなっている。JR当時は特急列車がかなりのスピードで走り抜けていた。その通過する時の風圧は予想以上で、ホームと階段・通路の間には頑丈な引き戸が設けられていて、列車通過時に備える仕組みとなっている。

 

その先の糸魚川駅も一度は訪れておきたい駅だ。駅の建物に併設される「糸魚川ジオステーション ジオパル」には、大糸線を走っていたキハ52-156が静態保存されている。東京・六本木で開かれた鉄道イベントで使われた糸魚川産の杉材を使ったトワイライトエクスプレス展望車のモックアップも、現在は、こちらの施設に展示されている。表を飾るレンガ造りの外装は、かつて糸魚川駅のレンガ車庫だったもので、当時のレトロでおしゃれなたたずまいがよみがえるようだ。

 

日本海ひすいラインは糸魚川駅から先は3駅ほどだが、青海駅〜親不知駅〜市振駅間は特に険しさが感じられるところ。山が海ぎりぎりまで迫り、狭い海岸線に海側から北陸自動車道、国道8号、日本海ひすいライン、県道525号線の路線が平行して走る。列車に乗っていても、その険しい地形に驚かされる。

 

今のように交通機関が発達していないころに、同地を通行した人は断崖絶壁が続く海岸に難渋した。それこそ〝親は子を、子は親を顧みるゆとりがなかった〟とされる。それこそ〝親不知・子不知〟の土地なのである。

↑市振駅の西側を流れる境川を渡る貨物列車。写真は富山県側から撮ったもの。対岸が新潟県となる

 

富山県との県境近くの市振駅付近になると、急に風景が開け始める。普通列車は県境を越えて泊駅まで走るが、市振駅の先に架かる境川が、富山県との県境となる。それこそ〝境(さかい)〟の川なのだ。この先、鉄橋を渡り列車は北陸地方へ入る。この境川の川岸も、すでにあいの風とやま鉄道の路線に入っているとはいえ、なかなかの好スポットといって良いだろう。

 

懐かしの気動車に乗りたい!旅したい!「小湊鐵道」「いすみ鉄道」

〜〜乗りたい&行きたいローカル線車両事典No.3〜〜

 

これまで、鉄道の旅に行きたくとも我慢していたという方が多いのではないだろうか。緊急事態宣言がようやく解除され、気軽に旅することができそうだ。

 

この1年半にわたるコロナ禍で、ローカル線は疲弊の度合いが増しているように思う。そこで、乗って少しでも営業に貢献したいと考え、今回は房総半島を走る2路線を乗り継ぎ、気になる車両観察の旅に出た。

 

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【はじめに】小湊鐵道の路線も10月中旬には全線復旧の予定

JR内房線の五井駅と上総中野駅を結ぶ「小湊鐵道」。一方、「いすみ鉄道」はJR外房線の大原駅と上総中野駅を結ぶ。上総中野駅で接続しており、乗り継げば房総半島を横断することができる。ちょうど日帰り鉄道の旅にうってつけな距離の路線である。ちなみに両社共通の「房総横断記念乗車券」は1730円とお得になっている。

 

そんな2つの路線だが、今年の7月3日の集中豪雨の影響で、小湊鐵道の路線が不通となってしまった。10月初旬現在も光風台駅〜上総牛久駅間が不通のままとなっている。この区間の代行バスの運行が行われているものの、時間が余分にかかり、半島横断もスムーズにできない。

 

そんな不通区間も、小湊鐵道の発表によると、10月中旬には復旧の見込みとされている。新しい車両の運行も始まり注目度が高まっているだけに、路線が復旧されるのに合わせて、秋の旅を楽しんでみてはいかがだろう。

 

房総半島の鉄道旅。まずは2社の列車に乗る前に内房線、外房線を走るJRの車両から見ておきたい。普通列車には、長らく209系が使われてきた内房線、外房線だが、新しい車両の導入が行われた。

 

○JR東日本E131系

新しい電車はE131系で、2021(令和3)年3月13日から内房線、外房線、鹿島線に2両編成の車両が導入されている。今後、このE131系は、相模線、宇都宮線、日光線などに導入の予定だ。

 

房総半島に導入されて半年あまりの新しい車両に乗車して、外房線の大原駅を目指し、いすみ鉄道に乗り換えて房総半島を横断した旅の最新レポートをお届けしよう(取材・撮影日は10月3日)。

↑外房線を走るE131系。ワンマン運転により運行の効率化を図ろうとJR東日本が導入を進める。この11月からは相模線などに導入予定

 

【乗ろう!いすみ鉄道①】普通車両の中で気になるのがキハ20

いすみ鉄道の大原駅はJRの駅に隣接して駅舎とホームが設けられている。さて、この日にホームに入線していたのは、肌色と朱色の〝国鉄一般色〟に塗られたキハ20。正式にはキハ20-1303とされている。

 

いすみ鉄道では普通列車用の車両が5両導入されているが、キハ20は1両のみ。〝写真映え〟するこの車両が大原駅のホームに停車していると、ついカメラを向けたくなる。キハ20に巡りあうと今日は幸先がいいな、とつい思ってしまうのである。

 

そんないすみ鉄道の車両を紹介しよう。まずは在籍する普通列車用から見ていこう。

 

○いすみ300形(301号車・302号車が在籍)

↑国吉駅を発車するいすみ300形。右の2両は同駅で保存されるキハ30と、いすみ200形。キハ30は運転体験のイベントにも利用される

 

いすみ鉄道開業以来24年ぶりの新車として2012(平成24)年に導入された。ローカル線向け軽快気動車で新潟トランシス製、中央に貫通扉がある最新気動車のごく標準的な顔立ちをしている。座席はセミクロスシートでトイレ付きだ。

 

○いすみ350形(351号車・352号車が在籍)

↑単行で走るいすみ350形。国鉄キハ20形のような顔立ちで、その後のいすみ鉄道キハ20製作のベースとなった車両でもある

 

2013(平成25)年に導入された。基本設計はいすみ300形と同じだが、正面の形は国鉄の気動車キハ20形にそっくりな姿形をしている。塗装は黄色ベースのいすみ鉄道色ながら、レトロな趣だ。座席はロングシート、トイレはない。

 

運用の傾向を見ると朝夕の混雑する時間帯や、観光シーズンなどの増結用に使われることが多いようだ。

 

○キハ20-1303

↑青空をバックに走るキハ20-1303。肌色と朱色という国鉄一般色が何ともレトロな雰囲気で絵になる

 

2015(平成27)年に導入された車両。キハ20形といえば、国鉄を代表する気動車で、全国の非電化路線の無煙化に役立った車両だ。そんな旧国鉄のキハ20形を彷彿させる姿と、そのものずばりの「国鉄一般色」と呼ばれる塗装で、〝新しいけれど懐かしい〟車両として登場した。導入時はキハ303、キハ20-303といった形式名が考えられたが、他社の既存車両の数字と重なるなどの理由から、キハ20-1303となった経緯がある。

 

座席はセミクロスシートで、トイレ付き。キハ20-1303の導入により、古いいすみ200形が全車両引退となり、新車両への切り替えが完了した。

 

現在、普通列車用の車両は計5両だが、やはり鉄道ファンから注目を浴びる車両はキハ20-1303であろう。訪ねた時にこの車両が走っている・走っていないでは、乗る・撮る気合いの入り方が不思議と違ってくるのである。

 

【乗ろう!いすみ鉄道②】もちろん看板列車はキハ28&キハ52

キハ20よりも増していすみ鉄道の名物車両といえば、キハ28とキハ52であろう。両車両は常に2両で組み、週末に運行される「急行列車」や、「レストラン列車」として生かされている。両車両とも国鉄時代に造られ、その後にJR西日本で活躍した後に、いすみ鉄道へやってきた。

 

大原駅側が「キハ28-2346」で上総中野駅側が「キハ52-125」の並びとなる。それぞれ車両は次のような経歴を持つ。

↑大多喜駅を出発したキハ20(左)とキハ52が並ぶ。大多喜駅で販売の「鉄印」(右)や、鉄印帳用のポーチもキハ52とまさに〝52づくし〟

 

○キハ52-125

キハ52形は、1957(昭和32)年に開発されたキハ20形の勾配区間用としてエンジンを2基搭載した出力増強タイプ。本州、四国、九州の多くの路線で活躍した。

 

いすみ鉄道へ譲渡された車両は1965(昭和40)年生まれで、福井県の越美北線、後に大糸線を走り続けた。2010(平成22)年に譲渡され、翌年からクリーム+朱色の国鉄一般色で走り始めた。その後に朱色一色の首都圏色に変更されたが、2019(令和元)年6月に再び国鉄一般色に戻されている。

 

○キハ28-2346

キハ28形は急行型気動車キハ58系に含まれる一形式だ。キハ28形とキハ58形の違いは、キハ28形が冷房用発電機を搭載するために、動力用のエンジンを1基しか積んでいないのに対して、キハ58形は動力用エンジンを2基積む。2基積んだものの、スペースの都合から冷房用発電機が非搭載の車両が多かったため、キハ28形とキハ58形と組んで走ることが多くなった。現在、いすみ鉄道ではキハ52形と組んで走っている。

 

いすみ鉄道へやってきたキハ28-2346は、さまざまな場所で走った経歴を持つ。生まれは1964(昭和39)年のこと。その後に米子機関区→新潟機関区→千葉気動車区→米子機関区→七尾機関区と移る。北陸での運用中にJR西日本に継承され、その後に富山運転所→高岡鉄道部→越前大野鉄道部と移り、最後は富山へ戻って最後は高山本線を走っていた。いすみ鉄道へは2012(平成24)年に譲渡されている。ちなみにキハ28形で動いているのはいすみ鉄道の車両のみとなっている。

↑国吉駅を発車した大原駅行きの急行列車。キハ28が先頭に、後ろがキハ52という編成だが、天気の良い日は正面が陰りがちに

 

筆者は10月3日の日曜日に訪れた際に、急行列車として出庫準備中のキハ52と、大多喜駅を出発したキハ20がちょうど並んだところを撮影する機会を得た。最近に製造された車両のキハ20だが、並んでみると色や形がキハ52にそっくり。房総半島で国鉄一般色2車両が並ぶ光景に出会えて嬉しく感じた。

 

【乗ろう!いすみ鉄道③】現在1往復の列車撮影の難点とは

キハ28とキハ52の組み合わせは、常に鉄道ファンに人気となっているが、実はちょっと残念なこともある。10月現在、土・日曜祝日に一往復。大多喜11時37分発→大原12時16分着。大原12時46分発→大多喜13時23分着が有料の急行列車として運行される。以降、大多喜13時26分発→上総中野駅13時50分着、上総中野駅14時→14時23分大多喜駅着は普通列車として運行されている。

 

残念なのは、現在の運行時刻だと、天気の良い日には、大原駅行きの列車の正面、つまりキハ28側に光が当たらず、陰りがちに写ってしまうのである。

↑大原駅行き急行列車は好天の日よりも、薄日ぐらいの日の方が場所選びに困ることがなさそうだ(大多喜駅〜城見ヶ丘駅間)

 

以前には8時台に走る列車があり、正面が陰ることが少なく順光でとれる場所が多かったが、現在は遅い時間帯に走るダイヤが定着してしまっている。今後、観光シーズンに増便があるのか気になるところだ。ちなみに新田野駅(にったのえき)〜上総東駅(かずさあずまえき)間など一部では、順光での撮影が可能なのでトライしてみてはいかがだろう。

↑大原発の急行列車、キハ52側の先頭車は沿線の各所で順光での撮影が可能となる(新田野駅〜国吉駅間)

 

【乗ろう!いすみ鉄道④】房総両路線横断の〝難点〟と言えば

筆者は何度目になるのか分からないほど、いすみ鉄道、小湊鐵道にたびたび乗って、撮って楽しんでいる。首都圏に近く貴重な非電化区間であり、懐かしの車両が走るとあって、つい時間があれば訪れてしまうのだ。

 

さらに房総半島を横断する列車旅を楽しむことにしている。ところが最近、やや不便に感じることが出てきた。

 

まずは昼食をどうするかで悩む。10年ほど前までは途中駅でも、駅前に飲食店や、パンやおにぎりなどを販売する店があって、昼食に困ることがなかった。ところが近年は規模の大きな大多喜駅あたりでも、駅前食堂がなくなり、飲食店へは少し歩くことが必要となってきた。コンビニなども駅前にないところが多い。いすみ鉄道と小湊鐵道が接続する上総中野駅でも、駅前付近に店がない。それだけ列車を利用する地元の人たちが減って、商売にならないということなのだろう。

 

そこで、房総半島を横断する時には事前に昼食を購入しておくことをお勧めしたい。

↑国吉駅で販売されている「たこめし」(900円)。外房沖で獲れるマダコを使用、いすみの地野菜とともに楽しめる

 

いすみ鉄道の大原駅側から入る場合には、大原駅そして国吉駅の売店でお弁当を販売している。さらに、週末には国吉駅での停車時間に、いすみ鉄道応援団の人たちが車内まで弁当の販売に訪れるので、そうした時に購入することをお勧めしたい。

 

小湊鐵道から乗る場合には、五井駅周辺で購入、また上総牛久駅など一部の駅前に飲食店がある。

↑上総中野駅にいすみ鉄道のキハ20が到着して賑わう。同写真を撮影した2020(令和2)年10月25日は小湊鐵道の一部路線が不通だった

 

さらに問題なのが、自然災害の影響を受けやすいことだ。房総半島の地図を見ると、川が右左に激しく蛇行していることが分かる。地形も複雑で、強固な地盤と言いがたい。小湊鐵道の線路端に連なる斜面などを見ると、水分を多量に含み、脆そうな印象が感じられる。

 

このところ台風が千葉県沖を通過することも多く、ここ10年の被害だけをあげてみると、いすみ鉄道での不通期間はないが、小湊鐵道では2013(平成25)年秋〜2014(平成26)年春、2015(平成27)年秋、2019(令和元)年に至っては9月9日〜21日、同年10月25日〜2020(令和2)年1月27日にかけて。さらにこの年は10月11日〜12月16日に不通となった。そして今年の7月4日以降(10月中旬に復旧予定)、というように路線のどこかの区間が不通になる状態が続いている。

 

そのたびに復旧作業が行われるのだが、こうした災害の影響が一般観光客の足を遠のかせる一つの要因になっているようにも思え、とても残念である。

 

さらに億劫なのが上総中野駅の乗り継ぎである。10月3日現在、途中区間が不通のままのため、列車本数が限定的になっていた。影響はいすみ鉄道にも波及しているように感じた。

 

筆者が乗車した上総中野駅着12時27分着のいすみ鉄道の列車は、乗っていたのが筆者1人のみだった。バスでは人が少ない例はあるものの、ローカル線の列車で、乗客が筆者のみというのは初めての経験だった。もちろん乗客1人のみでは、営業は成り立たないように思う。

 

【乗ろう!小湊鐵道①】接続する上総中野駅で列車を待つことに

いすみ鉄道の上総中野駅へ到着したのが12時27分。ここで小湊鐵道の接続列車が13時41分までない。1時間ちょっとの待ち合わせである。ちなみに、同列車の後はキハ28・キハ52利用の列車が13時50分に到着する。あと数分で、小湊鐵道の列車と接続できるのだが、なぜ接続させていないか、不思議に感じた。13時41分の後の列車は16時39分発で、3時間近く待つことになるわけで、これでは房総半島の鉄道での横断はとてもしにくい。

 

さらに上総中野駅〜上総牛久駅間を往復する列車は1日に3本のみ。いすみ鉄道の列車は上総中野駅まで走る列車は1日に11本あり、その差が大きい。

 

災害前の時刻表によると、五井駅〜上総中野駅間往復の列車は6便あった。不通になる前の時刻に戻るとしたら、いすみ鉄道との接続がかなり改善される。小湊鐵道の日常が早く戻ることを期待したい。

 

上総中野駅に到着して30分ほど。ホームへ入ってきたのは小湊鐵道のキハ208だった。キハ200形の208というわけだ。キハ200形とはどのような車両なのだろう。

 

○小湊鐵道キハ200形

↑上総中野駅に停車する小湊鐵道キハ208。後ろの木造駅舎と良く似あう。竹筒のような建物は公共トイレだがその巨大さに違和感を感じた

 

小湊鐵道のキハ200形は1961(昭和36)年から1977(昭和52)年にかけて導入された気動車で、国鉄のキハ20系をベースにしている。総計14両が造られ、長年にわたり活躍してきた。

 

キハ200形は小湊鐵道の顔と言うべき古参車両である。そんなキハ200形にも転機が訪れている。今後導入される後継車両に関しては後述するとして、上総中野駅に到着したキハ208をカメラに納めようというファンや、ローカル線の鉄道旅を楽しむ家族連れの姿が見受けられた。

 

【乗ろう!小湊鐵道②】バスに乗り継ぐ上総牛久駅で出会ったのは

上総中野駅13時41分発の列車に乗車したのは鉄道ファンや家族連れが10人あまり、この列車は上総牛久駅止まりとなる。上総牛久駅から先は不通のため代行バスの利用となる。

 

キハ208の座席はロングシートで、前後にドアは2つということもあり、ひたすら横一列の長いシートが連なる。上総中野駅〜養老渓谷駅間は、房総丘陵の横断路線の中でも、難路で途中、板谷トンネル、朝生原トンネルで房総半島のピークを越える。

 

菜の花の季節には賑わいを見せる月崎駅や飯給駅(いたぶえき)、また珍しいタブレット交換が行われる里見駅、テレビドラマのロケ地としてたびたび登場する上総鶴舞駅など名物駅を停車しつつ走る。途中駅では、駅の見物に訪れた観光客をよく見かけた。いすみ鉄道、小湊鐵道の沿線は、高速道路・国道などの道路網が発達していて、撮り鉄を含めて、首都圏からクルマでやってくる人が非常に多い。この人たちの一部でもよいので、列車で訪れて欲しいと感じた。

↑上総牛久駅に停車していたキハ207。路線不通後は、上総牛久駅〜上総中野駅間は同車両とキハ208のみで運行がやりくりされていた

 

上総中野駅から乗車して約45分。この日の〝終着駅〟である上総牛久駅の1番線ホームに到着した。3番線にはキハ207が停車していた。10月上旬現在、上総牛久駅〜上総中野駅間のみの運行となり、五井駅側はまだ路線が不通のままとなっている。

 

同社の車両基地は五井駅にある。7月初旬の水害によりキハ207とキハ208の2両が上総牛久駅〜上総中野駅間にとり残されたこともあり、かろうじて同区間の運行が続けられていたわけである。2両が残されていなかったとしたら、どうなったのであろうか。2車両による〝孤軍奮闘〟により、路線の営業が細々と維持されていたわけである。

↑上総牛久駅前にはすでに光風台駅行き代行バスが待っていた。列車が14時28分到着した後、バスは14時47分発と20分待つことに

 

上総牛久駅の代行バス発車までは約20分待ち。筆者にとって、その待ち時間の間に駅の周りなど撮影時間がとれるからラッキーだったものの、一般の利用者にとって、この待ち時間は何とも〝じれったい〟思いではないだろうか。

 

上総牛久駅で新しい施設を発見した。上総牛久駅が観光列車の「里山トロッコ」の出発駅であることから整備された施設で「里山トイレ」と名付けられる。要は公共トイレなのだが、トイレが公園風に清潔に、おしゃれに整備されていた。階段でのぼる「階段のトイレ」は列車が見える、いわば〝お立ち台〟なのだそうだ。子どもたちの遊び場にもなりそうな公共トイレだった。

↑上総牛久駅の駅前にできた「里山トイレ」。緑に包まれるようにできた公共トイレで、清潔感が感じられる。階段の上は〝お立ち台〟に

 

光風台駅行きのバスがそろそろ発車しそうだったので、断念したが、次回は階段の上の〝お立ち台〟から列車を撮ってみたい誘惑にかられた。

 

【乗ろう!小湊鐵道③】東北のような風景に見えるキハ40の走り

上総牛久駅から先は不通となっていたこともあり、2駅先の光風台駅まで代行バスでの移動となる。所要時間は12分ほどで、乗車してまもなく光風台駅に到着する。ここから先、五井駅までは30分〜1時間おきに列車が出ていて便利となる。

 

この区間では7月からすでに〝新車両〟が走り始めている。その新車両とはキハ40形だ。

 

○キハ40

↑JR只見線を走ったキハ40形。キハ40形は両端に運転席があり便利な車両だった。同塗装は東北地域本社色と呼ばれた

 

キハ40系(2代目)は国鉄が1977(昭和52)年〜1982(昭和57)年に新造した気動車で、キハ20形の後継車両として開発された。キハ40系の基本番台は車両の前後に運転台があるキハ40形、ドア位置を中央よりにした都市近郊タイプのキハ47形、片運転台のキハ48形が基本形として造られ、その派生系などを含めると大量の計888両が造られた。

 

全国津々浦々で活躍をし続け、その後にJR各社に引き継がれたものの、徐々に引退する車両が増え、JR東日本ではジョイフルトレイン用に改造された車両以外のキハ40系すべてが今年の3月で引退となっている。

 

そうしたキハ40形を今後に生かそうと引き取ったのが小湊鐵道だった。これまでのキハ200形の置き換え用に最適と考えたわけである。そして7月から五井駅〜光風台駅の運行に利用を始めている。

 

走り始めた車両はキハ40-2。JR只見線を2020(令和2)年3月まで走った塗装と同色で走り始めた。白地に濃淡2色のグリーンという塗装は、〝東北地域本社色〟と呼ばれていた。

↑稲刈りが終わったばかりの房総の田園地帯を走るキハ40-2。JR当時と同じ東北地域本社色のキハ40形が走る光景を見ることができる

 

JR只見線を走ったままの姿が房総半島で再現されたのである。それこそ行先案内の表示がなければ、これは東北の光景なのではと見間違えてしまう

 

キハ40形自体、国鉄カラーの強い車両であるし、さらにJR当時の塗装の車両が房総半島を走ることになるのは、予想できないことだった。この夏、緊急事態宣言下ということもあり、沿線では鉄道ファンの姿は限られていたものの、早くも同車両を撮影しようというファンの姿がちらほら見受けられた。

 

多くのキハ40形が小湊鐵道の五井駅にすでに運び込まれているが、今後、出場する車両がどのような塗装で出てくるのか、楽しみでならない。

 

【乗ろう!小湊鐵道④】光風台の駅へ入ってきた注目の異種編成

さて、レポートは10月3日に訪れた光風台駅の様子に戻る。代行バスが駅に着いて、まもなく駅に入ってきたのが、なんとキハ210と、キハ40-2の〝異種編成〟。気動車の場合には、電車とは異なり、このように違う形式であっても編成を組むことができるわけだ。

 

光風台駅で待つ乗客も興味津々で見ている人たちが多かった。光風台駅では、入ってきたホームからは、分岐ポイントの造りによってそのまま折り返すことができず、いったん先に進んで折り返す方式がとられていた。

↑この日、光風台駅に入線してきたのはキハ210とキハ40-2の組み合わせ。こうした車両編成での運行も今後、行われていくのだろうか

 

入線したホームから折り返し運転ができないということで、ダイヤよりもやや遅れ気味で発車した五井駅の列車。キハ210とキハ40-2という組みあせでの運行はどのようなものだろうと走りに注目した。五井駅までは5駅だが、停車は良いのだが、出発時にはあまりスムーズとは言えない様子だった。こうした異種での組み合わせに、まだ慣れていないということもあるのかも知れない。単行での運行の方がもちろん、スムーズだ。このあたり、全線が復旧した時にどうなるのか気になるところだ。

 

光風台駅からは20分ほどで五井駅に到着した。途中に寄り道はしたものの、半日がかりの房総半島横断となった。災害による路線の不通がなければ、大原駅から五井駅まで、最短2時間ちょっとで横断が可能になる。

↑上総山田駅〜光風台駅間にある第一柴の下(だいいちしばのした)橋梁を渡るキハ40-2。こちらの橋も国の登録有形文化財に指定される

 

余談になるが、小湊鐵道の路線では2017(平成29)年に22施設が国の登録有形文化財に登録された。駅や鉄道施設の多くが文化財なのだ。いわば古い時代物が数多く残っていることにほかならない。

 

そうした文化財と昭和に生み出された車両とが生み出すコラボレーションは、いわば同鉄道の〝財産〟であり〝宝物〟となっている。そんな恩恵を利用者も存分に見て、魅力を堪能したいものである。

 

【乗ろう!小湊鐵道⑤】復旧後の小湊鐵道の注目ポイントといえば

10月中旬になれば不通区間も復旧し、小湊鐵道の日常が戻ってくる。とともに、緊急事態宣言も解除されたこともあり、人気の観光列車「里山トロッコ」も上総牛久駅〜養老渓谷駅間での運行が再開されることになろう。

↑春には菜の花と桜、そして里山トロッコの共演が楽しめる上総大久保駅。こうした日常が早く取り戻されることを望みたい

 

さらに気になるのは、新しく導入されたキハ40の動向だ。下の写真が五井機関区の10月3日の状況だ。一番手前に見えているキハ40形が、キハ40-1で、小湊鐵道カラーの肌色と朱色で塗られ、イベント列車として走ることがすでに発表されている。

 

その後ろ側に「首都圏色」と呼ばれる朱色のキハ40が2両並ぶ。その横には「男鹿線色」と呼ばれる緑のラインが入った車両が止まっている。こうした塗装は、どのように変えて出てくるのか気になるところだ。

↑五井駅に隣接する小湊鐵道の五井機関区の模様。キハ200形とともにJR東日本から導入したキハ40の姿が多数に見える(10月3日撮影)

 

そんな五井機関区の車両の動向および観察に最適な小湊鐵道直営の施設もできている。五井駅の東口を降りた目の前に「こみなと待合室」という施設が今年3月にオープンした。広々したパブリックスペースでは、小湊鐵道のグッズ類の販売、そしてドリンク類やパンやスイーツが用意されている。

 

室内には駅側を見わたせるイス、さらには小湊鐵道のホームと機関区が目の前に見える中庭が設けられ、外にも座席とテーブル用意されている。それこそ、機関区に出入りする車両をじっくり見渡すことが可能なのだ。上総牛久駅の「里山トイレ」と、五井駅の「こみなと待合室」。最近の小湊鐵道の営業努力には頭が下がる。あとは、水害などの自然災害がなるべく房総半島を避けてくれることを祈るのみである。

↑ひと休みに最適な五井駅東口にある「こみなと待合室」。駅のホームや機関区が目の前に見えることもあり家族連れで訪れる人も多い

 

【乗ろう!房総の鉄道】気になる京葉臨海鉄道の赤い新型機関車

最後に、同じ房総半島を走る鉄道で注目の路線と新型車両に関して一つ触れておきたい。

 

内房線の蘇我駅と千葉貨物駅、さらに臨海工業地帯の京葉久保田を結ぶ21.6kmの貨物専用の路線がある。運行するのは京葉臨海鉄道臨海鉄道。貨物線としては屈指の輸送量を誇っている。これまで空色に塗られたディーゼル機関車KD55形とKD60形が長年にわたり使われてきたが、今年6月に新しい機関車が加わっている。

↑京葉臨海鉄道の新型DD200形の801号機。訪れた9月中旬には試運転が行われていた。後ろの村田川橋梁は明治期に米国で造られたもの

 

DD200形801号機がその新しい機関車で、筆者が訪れた9月には試運転が行われていた。「RED MARINE」という臨海鉄道らしい愛称も付けられた。

 

○DD200形ディーゼル機関車

DD200形はJR貨物が開発し、すでに複数の路線での貨車牽引だけでなく、駅構内の入れ替えなど、汎用性に富んだ機関車として使われている。JR貨物だけでなく、京葉臨海鉄道、水島臨海鉄道にもすでに導入されている。JR九州にも1両が導入された。臨海鉄道だけでなく、JR旅客会社にまでということは、DE10形といった古い国鉄形機関車の置き換えという役割を担うことになるのだろう。

 

京葉臨海鉄道の路線は内房線の蘇我駅・八幡宿駅・姉ケ崎駅からも徒歩で行ける距離にある。小湊鐵道を訪れたおりに、赤く鮮やかな新型機関車の活躍を見に行く楽しみも増えた。

〝ゴロンと〟気軽に休んで旅ができた!特急「あけぼの」の記録

〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.6〜〜

 

特急「あけぼの」は首都圏と東北の日本海側の駅を直接に結ぶ貴重な列車だった。〝ゴロンと〟ひと眠りしたら、夜明けに目的地の駅にちょうど到着した。

 

冬は時に雪を付けたまま走り、北国の昨夜の雪の積もり具合を首都圏の人たちに伝えた。車内ではお国言葉が飛び交った。そんな旅情豊かな寝台列車が消えてすでに7年の時が経つ。

*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載。学研パブリッシング刊「寝台列車を乗り尽くす」誌内の図版と地図をリメイクして使用しました

 

【名列車の記録①】日本海側の都市と首都圏を結んだ「あけぼの」

まずは概要から見ていこう。

↑春先、菜の花に包まれるようにして走る上り「あけぼの」。高崎線沿線ではこうした光景が楽しめた(高崎線本庄駅〜岡部駅間)

 

■特急「あけぼの」の概要

運行開始 1970(昭和45)年10月1日、上野駅〜青森駅間の定期運行を開始
運行区間 上野駅〜青森駅
営業距離 772.6km
所要時間 下り12時間41分、上り12時間50分(最終年の所要時間)
車両 24系客車8両(多客期は増結)+電源車、牽引はEF64形直流電気機関車、EF81形交直両用電気機関車
運行終了 定期運行2014(平成26)年3月14日
臨時運転2015(平成27)年1月4日

 

↑特急「あけぼの」の停車駅と発着時間。新潟県の新津駅より先、山形県、秋田県、青森県と多くの駅に停車して走ったことがわかる

 

特急「あけぼの」の運行開始当初は東北本線・奥羽本線経由で走っていた。石川さゆりの代表曲「津軽海峡冬景色」の冒頭で歌われていた列車そのものである。最盛期には毎日3往復が走る人気列車でもあった。1997(平成9)年3月22日の秋田新幹線開業時には、東北本線、奥羽本線経由の「あけぼの」が廃止され、それまで高崎線、上越線、羽越本線経由で走っていた特急「鳥海」の名前が、「あけぼの」に変更され、その後も18年にわたり定期運行を続けた。

 

停車駅を見ると分かるように、山形県、秋田県、青森県の日本海側の駅を数多く停車して走っていた。首都圏と日本海側の都市を結んだ地域密着型の寝台列車でもあった。

 

【名列車の記録②】気軽に乗車できた2両の「ゴロンとシート」

客車の構成もユニークだった。編成図を見ると、通常期の客車編成は電源車を除く8両で、寝台はグレードの異なる4タイプを備えていた。

↑電源車を最後尾にして走る上り「あけぼの」。「ゴロンとシート」のほか、個室AB寝台と、開放2段式が連なり変化に富んだ構成だった

 

4タイプのうち1号車と8号車は「ゴロンとシート」と呼ばれる客車だった。どのような寝台だったのだろう。この「ゴロンとシート」は指定席特急券と乗車券だけで利用できる2段式開放寝台で、浴衣や枕、ハンガーなどの備品がつかない。寝台料金が不用で、開放式B寝台が使えて横になって旅が楽しめた。カーテンがついていて、寝台を仕切られるので、プライバシーは守られていた。さらに1号車の「ゴロンとシート」は女性専用で、女性の一人旅にも向いていた。車体側面にはかわいらしいクマのイラストマークが描かれ、使いやすさも演出されていた。

 

ほかには個室が2タイプあった。A寝台は「シングルDX」で、基本1人利用だが、補助ベッドも設けられ2名利用も可能だった。またB寝台個室は「ソロ」があり、1階と2階でそれぞれ広々した窓から車窓風景も楽しめた。

 

ほかB寝台は開放2段式で、通常期3両が連結されていた。このように好みに合わせて寝台が選べたのも、この列車の魅力となっていた。

 

【名列車の記録③】上越線越えには〝山男〟の牽引が必須だった

この列車には2形式の牽引機関車が使われていた。

 

上野駅〜長岡駅間の牽引がEF64形直流電気機関車で、長岡駅〜青森駅間はEF81形交直両用電気機関車が担当した。772.6kmという、それほど長距離を走るわけではないのに、なぜ交換が行われたのか。

 

その理由は、上越線の山越え区間を考えての交換だった。現在、JR貨物の貨物列車輸送でも、EH500形式といった勾配区間に強い電気機関車が列車を牽引している。上越線はそれだけ勾配が険しいのである。EF64形は上越線での走行のために設計され「あけぼの」にも2009(平成21)年以来、同機関車が使われ続けていた。「あけぼの」が消滅後も、JR東日本ではEF64形は使われ続けていて、上越線を越えての新車の配給輸送等で活躍している。

↑EF64形牽引の上り「あけぼの」が上越国境を目指す。岩原スキー場駅の近くで撮影したもので、同日は大雪で3時間遅れの運行だった

 

長岡駅〜青森駅間はEF81形交直両用電気機関車にバトンタッチして、信越本線、羽越本線、奥羽本線の牽引を行った。東北本線で特急「北斗星」を2010(平成22)年まで牽いたEF81と同形式だったが、こちらは耐雪強化されたタイプで、運転席の窓上にあるひさしは、つらら切りのものだった。塗装も深紅の赤2号と呼ばれる塗装で、退色防止のために同色で塗られていた。

 

ちなみにJR東日本のEF81形は、今も、秋田総合車両センター南秋田センターおよび、長岡車両センター、田端運転所に配置されていて、事業用機関車として役立てられている。

↑下り「あけぼの」が津軽平野を走る。正面の運転席上のひさしと、塗装が特徴だった耐雪仕様のEF81交直両用電気機関車

 

【名列車の記録④】下りは津軽富士の眺めが楽しみに

下り「あけぼの」の上野駅発車時間は21時15分とやや遅めで、首都圏での仕事を終え、また用事を済ませて乗車する人が目立った。高崎駅を22時48分に発車以降、次の停車駅は新潟県の村上駅となる。停車は3時19分と深夜のことだった。羽越本線を北上して、山形県内に入り、鶴岡駅(4時34分着)あたりで、日の長い季節は外が少しずつ見えるようになった。この先、多くの駅に停車しつつ、北を目指す。秋田駅6時45分着で、もちろん東京駅発の秋田新幹線の始発よりも早く秋田駅に到着することができた。

 

さらに東能代駅(7時48分着)、大館駅(8時35分)といった秋田の県北の駅をいくつも停まって走る。

↑下り「あけぼの」が秋田県北にあたる白沢駅〜陣場駅間を走る。深緑のなか深紅の機関車とブルートレインが絵になった

 

上の写真の陣場駅の北側で列車は青森県へ入った。しばらく走ると県内初めての停車駅、碇ケ関駅へ8時57分に到着。青森県は広く、この先まだ1時間ほど終着の青森駅まではかかった。

 

大鰐温泉駅(9時5分着)、弘前駅(9時18分着)と停車し、寝台列車にもかかわらず、地元の通勤客の姿も目立つようになる。実は特急「あけぼの」、秋田県の羽後本荘駅から先は立席特急券でB寝台が利用できるとあって、地元の通勤の足としても利用されていたのである。

 

すでに途中駅で降りていった乗客も多く、こうした地元の通勤客の利用が可能だった。弘前駅の先では、津軽富士の名でも知られる美しい岩木山が下り列車を出迎えた。

↑岩木山を背景に力走を見せる下り「あけぼの」。時間は9時29分ごろで、あと30分で青森駅着となる(奥羽本線川部駅〜北常盤駅間)

 

秀麗な岩木山を進行方向左手に眺めながら下り列車は終着駅の青森駅を目指す。大釈迦駅(9時39分通過)の先で峠を越えて、青森平野へ列車は入っていく。雪のない季節には、こうした美景にも巡りあえたのだが、筆者は厳冬期、この列車を追ったことがあった。

 

それが下記の写真。新青森駅のとなり駅、津軽新城駅から徒歩で約24分というポイントでの撮影だが、それこそ〝雪中行軍〟で大変な目に。冬ともなると日々、こうした厳寒の中を走り続けた「あけぼの」だったのである。それこそ耐雪仕様のEF81形交直両用電気機関車が十分に生かされていた。雪の中であっても、ほぼ遅れることもなく、この日も青森駅に9時56分に定刻通りに到着したのだった。

↑厳冬期は雪でおおわれる北東北地方。雪に強い機関車の牽引でこの日も時刻通りに通過していった(奥羽本線鶴ケ坂駅〜津軽新城駅間)

 

【名列車の記録⑤】首都圏に朝到着する上りならではの雪の便りも

下りの上野発が21時15分と遅かったのに対して、上りは青森駅を18時8分発と3時間も早く発車した。外の景色は、日の長い季節以外は望めなかったものの、東北地方各県の途中駅にその日のうちに発着するとあって、翌朝に首都圏へ入りたいという人には重宝されていた列車でもある。山形県のあつみ温泉駅発が23時37分と、東北3県で停車する駅は、すべて23時台までと、利用者を考えた時間設定だと言えるだろう。

 

下り列車が通過した新発田駅(0時57分発)や、新津駅(1時22分発)も停まりつつ、列車は関東地方を目指した。

↑高崎線の本庄駅〜岡部駅間を走る上り「あけぼの」。このあたりは畑地が多い一帯で、撮影スポットも多かった

 

新潟県から群馬県へ県境を越えて最初に停車したのが高崎駅だった。5時12分に到着する。日の長い季節には車窓も楽しめる時間だった。

 

神保原駅(5時31分通過)からは埼玉県へ入り、関東平野の田畑を左右に見ながら東京を目指した。5時台に高崎線を通過していったが、列車の運行終了間近には早朝にもかかわらず、列車を撮り残しておきたいというファンも多く見ることができた。

 

そして最後の停車駅、大宮駅へは6時29分に到着する。上り列車は首都圏のラッシュ時間の前に主要駅を通過するダイヤ設定がされていたのである。そういう意味でも良く考えられていた寝台特急と言えただろう。

↑日暮里駅付近で最後の走りを見せる上り「あけぼの」。厳冬期にはこうした雪をつけたままの列車を良く見ることができた

 

上り「あけぼの」は雪の多い日本海側、そして上越地方を越えて走り続けた。そのために、雪国を越えた姿そのままに首都圏に入ってくることも多かった。正面の電気機関車には雪がこびりつき、客車の下回りにも雪が多くへばりついていた。着雪が多い日には、途中駅で雪が飛んで被害を及ぼさないように、雪下ろしもされたそうだが、それでも写真のようにへばりついていたのである。首都圏に住む人たちに、雪国の便りを届ける、そんな列車でもあった。そして6時58分、ラッシュ前の終着駅、上野へ客車列車らしくゆっくりと入っていったのである。

 

特急「あけぼの」、その後に特急「北斗星」の廃止により、ブルートレインは消えてしまった。さらに急行「はまなす」の廃止で、定期的に走る客車列車も一部の観光列車をのぞき消えてしまった。なんとも寂しいここ最近となっている。とはいえその間にも時代は刻々と動いている。

 

フランスなど欧米諸国では、脱炭素化の流れが強まり、鉄道旅行が見直されるようになっている。短距離区間の移動は飛行機利用ではなく、鉄道の旅をするように推奨され、政府が鉄道の補助を行うように変わりつつある。さらに寝台列車の復活の動きも出てきたと聞く。日本では、今や寝台特急といえば、首都圏と中国・四国地方を結ぶ特急「サンライズ瀬戸・出雲」のみとなっているが、その人気は高い。

 

急がずのスローな鉄道旅行も時には良いもの。もう少し寝台列車が見直されてほしいと切に願う。

ブルートレイン最後の輝き!列島を縦貫線した「北斗星」の記録

〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.5〜〜

 

ちょっと旅に出にくいこんな時期には、少し前の列車旅の思い出に触れてみてはいかがだろう。名列車・名車両の記録5回目は、最後のブルートレイン列車となった特急「北斗星」の活躍を振り返ってみたい。

 

長年にわたり走り続けたブルートレイン寝台特急が列島を駆ける姿は、とても輝きに満ちていた。

*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載。学研パブリッシング刊「寝台列車を乗り尽くす」誌内の図版と地図をリメイクして使用しました

 

【名列車の記録①】四半世紀にわたり東日本を走った特急「北斗星」

↑終着駅の上野を目指す上り特急「北斗星」。ブルートレインには青空がとても良く似合っていた

 

ブルートレインという名の起こりは1958(昭和33)年、20系客車が開発されたことに始まる。最初に同客車が使われたのは特急「あさかぜ」だった。優れた設備から〝走るホテル〟とも呼ばれた。

 

塗装は青15号と呼ばれるシックなブルーに、クリーム1号の3本の帯を巻いた姿で、20系を利用した客車寝台特急は「ブルートレイン」と呼ばれた。当初は、東京と山陽・九州方面を結んで走り、その後、東京と東北を結ぶ列車などに運行範囲が広がっていった。20系の後継として14系・24系客車が開発され、全国を走り続けた。半世紀にわたり全国を走ったが、新幹線の路線網が広がるにつれて徐々に廃止されていく。まずは西日本を走る列車が消え、かろうじて残った東日本の列車も徐々に消えていき、そして「北斗星」が最後の列車となったのである。

 

どのような列車だったのか。まずは列車概要から見ていくことにしよう。

 

●特急「北斗星」の概要

運行開始 1988(昭和63)年3月13日
運行区間 上野駅〜札幌駅
営業距離 1004.0km
所要時間 下り16時間12分、上り16時間26分(2015年の所要時間)
車両 24系25形客車12両(電源車を含む)。
牽引はEF510形交直両用電気機関車、ED79形交流電気機関車、DD51形ディーゼル機関車
運行終了 定期運行2015(平成27)年3月13日
臨時運転2015(平成27)年8月22日
↑特急「北斗星」の停車駅と発着時間。北東北ではほとんどの駅を通過、一方、北海道内で多くの駅に停車した。道内観光に最適な列車だった

 

特急「北斗星」は、青函トンネルが開通したちょうどその日、1988(昭和63)年3月13日に誕生した。青函トンネルの開通を象徴するような列車でもあった。それまでは津軽海峡を渡るためには、青森と函館の両駅で、青函連絡船に乗り換えが必要で、夜間ともなれば、眠い目をこすりながらの移動となった。それも悪天候となると欠航してしまう。

 

青函トンネルが開通したことによりその手間が省けたのである。さらに「北斗星」が運行されるようになってからは、寝台で横になって翌朝に北海道へ、または首都圏へと、移動がとてもスムーズになった。

 

ちなみに、晩年の特急「北斗星」は、下りの列車番号が「1」であり、上りの列車番号が「2」だった。時刻表の一番上の番号も「1」や「2」と記載される。この列車番号「1」「2」はJRグループの中では、当時もほかになく、今もない。栄光の番号を背負った最後の列車になった。

 

【名列車の記録②】AB寝台ともに個室が増えてより使いやすく

「北斗星」は客車構成がすぐれていた。それまでの寝台列車といえば、開放型の2段寝台が主体だった。「北斗星」には2段寝台も連結されたが、個室も用意された。

 

まずはA寝台用の1人用個室「ロイヤル」、2人用個室「ツインデラックス」、さらにB寝台用の1人用個室「ソロ」、2人用個室「デュエット」と4タイプの個室が用意された。なかでも1人用個室「ロイヤル」はシャワー付きで予約がほとんど取れない人気ぶりとなった。

↑下は「北斗星」の編成図と7号車から電源車までの内訳を記載した。7号車は特急電車からの流用車両で屋根上に冷房機器が付いていた

 

↑6号車にはロビーとシャワールームが付く。撮影した日はロビーカーを連結。臨時列車にはこうした編成も見ることができた

 

個室のほかにも「北斗星」で人気があったのが、7号車に連結された食堂車「グランシャリオ」だ。旧来のブルートレイン特急とは異なり、豪華な食事を楽しむことができた。フランス料理のフルコースや懐石御膳もあり、懐石御膳はルームサービスも頼めた。同時期に特急「カシオペア」も上野駅〜札幌駅間を走っていたが、メニュー内容は「カシオペア」のレストランと同じだった。

 

【名列車の記録③】3区間で機関車が交代しつつ列車を牽いた

鉄道好きにとっては、途中に行われる機関車の交換も興味深かった。2回の機関車交換が行われ、3形式による牽引が行われた。まず上野駅〜青森信号場間では、EF510形交直流電気機関車が牽引。青森信号場〜函館駅間ではED79形交流電気機関車が列車を牽引した。さらに函館駅〜札幌駅ではDD51形ディーゼル機関車が牽引した。

↑上野駅〜青森信号場間ではEF510形交直流電気機関車が牽引した。右上は2010(平成22)年まで牽引を担当したEF81形交直流電気機関車

 

主に本州内で「北斗星」を牽引したEF510形交直流電気機関車は、JR東日本が寝台列車用に2009(平成21)年と2010(平成22)年に15両を新製したもので、EF510形の500番台にあたる。車両は「北斗星」と同色のブルーベースのものと、「カシオペア」に合わせた銀色ベースの2タイプが造られた。

 

2010(平成22)年から「北斗星」「カシオペア」の牽引だけでなく、貨物列車の牽引も行っていたが、運行開始わずかに5年で「北斗星」、また翌年に「カシオペア」の定期運用が終了してしまう。当然ながら余剰となり、全車がJR貨物に売却された。現在は同じ色のまま(細部の飾り等は変更)日本海縦貫線をメインに貨物列車の牽引に活躍している。

 

一方で、2010年まで「北斗星」を牽いていたEF81形交直流電気機関車の一部が、今もJR東日本に残る。後に振り返れば、ちょっと不思議な新製機関車の導入でもあった。

↑津軽海峡線を走るED79形交流電気機関車。「北斗星」だけでなく、「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」の牽引にも活躍した

 

青森信号場〜函館駅間で「北斗星」を牽引したのがED79形交流電気機関車だった。青函トンネルの列車牽引用に用意された機関車だ。まさに青函トンネル開業に合わせて生まれた「北斗星」の〝同朋〟とも言うべき存在だった。赤い塗装が目立ち、津軽海峡線の花形機関車でもあった。2015(平成27)年に「北斗星」が定期運行を終了すると、ED79形交流電気機関車は、その後、1年は急行「はまなす」の牽引を行ったものの、2016(平成28)年の3月21日で運行を終えた。

 

その後に青函トンネル内の諸設備が、新幹線が運行できるように変更されたために、同機関車はトンネル内を走れなくなり、牽引の役目も終了となる。順次廃車され、2020(令和2)年に最後の1両も解体されている。

 

「北斗星」が走っていたころに話を戻そう。青森信号場では機関車の交換作業を見ることができなかったが、函館駅では下りで7分、上りで12分の停車時間があり、乗客も降りてED79形と、北海道の非電化区間を走るDD51形ディーゼル機関車の、切り離し、連結作業を見ることができた。

↑室蘭本線を走る下り「北斗星」。道内の非電化区間ではDD51形ディーゼル機関車が2両重連で列車を牽引。重厚な姿が楽しめた

 

北海道内で「北斗星」を牽引したDD51形ディーゼル機関車は外観も北斗星に合わせた塗装で、客車との色のコンビネーションも絶妙だった。原生林をバックに走る姿は見惚れる魅力があった。

 

このDD51形も全車が急行「はまなす」の運行終了に合わせて引退、JR貨物のDD51形式もすでに道内からは撤退しており(その後、東海地区からも引退となる)、その重厚なディーゼルエンジン音が聞けなくなったのがちょっと寂しい。

 

【名列車の記録④】下り列車では青森駅から先の車窓が楽しめた

下り列車は上野駅19時3分と、暗くなるころに発車した。そのために関東地方、また東北地方では車窓を楽しむことができなかった。

 

一方で、青森信号場から先は、特急「カシオペア」、特急「トワイライトエクスプレス」の運行に比べて遅い時間帯に走ることもあり、車窓の移り変わりが十分に楽しめた。

↑津軽海峡線の中小国駅〜新中小国信号場間を走る下り「北斗星」。時間は4時50分ごろで、田植えが済んだ水田にその姿が映った

 

津軽海峡線(現・津軽線)の蟹田駅が4時46分発(運転停車)で、日の長い季節には外が明るくなりつつあった。そしてまもなく、青函トンネルへ入った。青森側入口から約40分で北海道へ。その時間が5時45分ごろで、だいぶ外も明るくなっていた。

 

木古内駅(5時54分通過)を過ぎると右手に津軽海峡が見えるようになり、しばらくすると車内から函館山と函館湾が望めた。

↑津軽海峡線(現・道南いさりび鉄道)の釜谷駅〜渡島当別駅間で右手に津軽海峡が臨める。撮影した日は朝霧が出て残念ながら見えず

 

函館駅へは6時36分に到着する。同駅で機関車の付け替え作業のため7分ほど停車する。ここから進行方向が変わる。七飯駅(6時54分通過)からは上り勾配を駆けあがり、やや長めの新峠下トンネルへ。抜けると左手に小沼と、湖ごしに駒ヶ岳が望める絶景ポイントが広がっていた。

↑小沼湖畔(函館本線七飯駅〜大沼駅間)を走る下り「北斗星」。進行方向左手には駒ヶ岳が望めるポイントでもある

 

函館本線は大沼駅の先で、本線と、砂原支線の二手に分かれるが、「北斗星」は駒ヶ岳の西側を走る距離の短い本線を下り上りとも走った。本線を下り終えた「北斗星」。森駅(7時26分着)からは右手に内浦湾が望めた。この大きな湾を半周するように回り込んで走る。

 

途中、函館本線の長万部駅(8時29分着/おしゃまんべえき)からは室蘭本線へ入っていく。「トワイライトエクスプレス」が道内初の停車駅が洞爺駅だったのに対して、「北斗星」は洞爺駅(8時59分着)まですでに函館駅から4つの駅を停車、この先も伊達紋別駅(9時11分着)、東室蘭駅(9時32分着)、登別駅(9時48分着)、苫小牧駅(10時19分着)と細かく停車していく。この列車の停車駅を見ると、首都圏からの道内観光を楽しむ列車として便利なようにダイヤを設定されていたことが良く分かる。上りも同じ駅を停車して走ったこともあり、そうした北海道観光には〝役立つ寝台列車〟だったのである。

↑千歳線の北広島駅〜上野幌駅間を走る下り「北斗星」。終着駅まで残り20分弱の距離だが北海道らしく豊かな自然に包まれる

 

苫小牧駅の先では南千歳駅(10時41分着)に停車。千歳線の沿線も、札幌まで至近にもかかわらず、北海道らしく緑が豊かで、自然林に囲まれた中を、北斗星は終着駅を目指した。

 

札幌駅への到着は11時15分と遅めの到着だった。観光利用が大多数という列車だったこともあり、ホームに到着しても、長旅の余韻を楽しむ乗客が多かった。列車はしばらくの間、ホームにとどまる。その間に機関車や客車を外から記念撮影する人も目立った。17分経った11時32分過ぎに回送列車としてホームを静かに発車していく。ホーム上には、その姿を追う多くの人たちが残った。

 

【名列車の記録⑤】上り列車は関東平野の田園風景が楽しめた

次に上り列車の車内から楽しめた情景について触れていこう。

 

札幌駅発17時12分で、上野駅発に比べると2時間ほど早かった。そのせいもあり、日の長い季節ならば、道内の風景が楽しめた。千歳線沿線では広々した畑地や牧草地が見渡せた。

 

下の写真は、室蘭本線での7月初旬の情景。東室蘭駅(18時51分発)を発車した以降に、内浦湾が見え始め、運がよければ、海ごしに沈む夕日が楽しめた。こうした情景は食堂車「グランシャリオ」でディナーを味わう時にも楽しむことができた。

↑室蘭本線北舟岡駅を19時過ぎに通過した上り「北斗星」。この駅付近から進行左手に内浦湾を見ながらの旅が楽しめた

 

食堂車でのディナータイムも終わり、またロビーで寛ぐ人たちも部屋へ去り、列車はひたすら本州を目指す。函館駅を21時48分に発車以降は、仙台駅(4時54分着)まで、途中駅の停車がない。福島駅5時58分着、郡山駅6時38分着といったあたりからは、東北本線沿いの風景はしっかり楽しむことができた。

 

実は「北斗星」から15分ほど前を走る寝台列車があった。それが特急「カシオペア」だった。「カシオペア」の客車は1編成しか製造されておらず、毎日走るわけではなかったが、「カシオペア」「北斗星」と2列車が走る日は、2列車が立て続けに撮れるとあって、東北本線沿線は多いに賑わった。

↑福島県と栃木県の県境にかかる黒川橋梁を渡る上り「北斗星」。朝7時12分の通過で、朝陽に輝く列車の姿が楽しめた

 

朝7時過ぎに関東地方へ入った上り「北斗星」は、宇都宮駅に8時10分に到着した。栃木県そして埼玉県の沿線は、田畑の広がる場所も多く、車窓の楽しみともなった。もちろん撮影地も、ふんだんにあり、筆者もだいぶ通ったものである。

↑東北本線栗橋駅〜東鷲宮駅間で。ワシクリの名前で知られる名物スポットでは水田ごしの上り「北斗星」が撮影できた

 

↑東京都内はちょうどラッシュが終わるころ。写真は京浜東北線東十条駅付近。同駅付近はその後フェンスで覆われ撮影には向かなくなった

 

大宮駅には9時10分の到着。先行する「カシオペア」も9時2分着と、最も混みあう時間帯よりもやや遅くに都内へ入るようにダイヤが調整されていた。大宮駅以降は、京浜東北線と平行して走る区間で、ホームで電車を待つ人たちの視線を浴びつつ、列車は南下を続けた。

 

9時25分ごろに埼玉県と東京都の間にかかる荒川橋梁を通過。東京都へいよいよ入っていく。名残惜しむように、列車はスピードを落としていき、上野駅の行き止まり式ホームへ9時38分、静かに滑り込むのだった。

 

 

特急「北斗星」が廃止されてすでに6年の月日が経つ。夜空にきらめく「北斗星」のように魅力的で、有意義な旅が楽しめる列車だった。今後、再びこうした列車が現れることを期待したい

2012年に定期運行終了!日本海縦貫線を走った「日本海」と「きたぐに」の記録

〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.4〜〜

 

ちょっと前までは実用本位そのものの長距離列車が多く走っていた。今回紹介する特急「日本海」、急行「きたぐに」がその典型だった。

 

近畿と北陸、新潟、日本海沿いの東北各県を結んだ両列車は、昼夜もなく大量に旅客を運んだ時代の、最後の〝残り火〟だったのかも知れない。そんな名列車の記録をひも解いてみよう。

*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載。学研パブリッシング刊「寝台列車を乗り尽くす」誌内の図版と地図をリメイクして使用しました

 

【名列車の記録①】45年間も日本海沿いを走り続けた「日本海」

↑ローズピンク塗装のEF81形が全区間を牽いた特急「日本海」。日本海縦貫線を走り抜けた貴重な寝台列車だった

 

ほぼ日本海に沿って走る北陸本線、信越本線、羽越本線、奥羽本線は、全線を通して日本海縦貫線という名前で呼ばれた。いま、日本海縦貫線という路線の総称は、貨物輸送を除いてほぼない。北陸新幹線の延伸開業(2015・平成27年3月14日)とともに、北陸本線は第3セクター経営の路線となり、JRの路線網からは切り離されてしまった。この日本海縦貫線を縦断した長距離列車が特急「日本海」であり、急行「きたぐに」だった。両列車とも、今ふり返ればかなり異色な存在だった。

 

どのような列車だったのか。まずは「日本海」から見ていくことにしよう。

 

■特急「日本海」の概要

運行開始 1968(昭和43)年10月1日
運行区間 大阪駅〜青森駅
営業距離 1023.4km
所要時間 下り14時間58分、上り14時間56分(2012年の所要時間)
車両 24系客車8両(多客期は増結)+24形電源車。
牽引はEF81形交直両用電気機関車
運行終了 定期運行2012(平成24)年3月16日、臨時運転2013(平成25)年1月6日

 

↑特急「日本海」の停車駅と発着時間。北陸そして東北地方の主要駅を数多く停車して走ったことが分かる

 

日本海側を通り、大阪駅と青森駅を結ぶ列車が生まれた歴史は意外に古く、1947(昭和22)年と戦後まもなくのことだった。「日本海」という列車名は、1950(昭和25)年に同区間を走る急行列車に付けられたのが始まりで、特急列車となったのは1968(昭和43)年のこと。当初は米原駅経由で走り大阪駅〜青森駅を結んでいたのだが、湖西線の開業後の1975(昭和50)年からは、湖西線経由で走った。

 

列車の人気はかなりのもので、当初1日に1往復だったが、その後に1日に2往復に増便され、さらに1988(昭和63)年の青函トンネル開業後は、1往復が函館駅まで延伸運転された。このころが特急「日本海」の全盛期と言えただろう。

 

2006(平成18)年には函館乗り入れは終了し、2008(平成20)年に1日に1往復に減便された。高速バスの運行などによる利用者の減少と、使われていた客車の老朽化などの諸事情から、北陸新幹線の開業を待たずに2012(平成24)年に定期運行を終了、その後に夏休み、冬休みなどの多客期のみに臨時運行されたが、それも翌年の1月で終了した。

 

【名列車の記録②】ほとんどが開放2段式B寝台という徹底ぶり

「日本海」の客車編成を見ておこう。

 

寝台列車のブルートレインも、2000年代半ばになると、どの列車にも個室が付けられるようになっていた。ところが、「日本海」は最後まで個室がつかず、B寝台はもちろん、A寝台まですべて開放2段式の24系客車が使われた。寝台車は、昼間は座席車として、夜を迎えるとベッドメイキングにより2段ベッドに変更できる「プルマン式」と呼ばれるタイプだった。

↑24系客車が連なる下り「日本海」の編成。金帯に白帯車両が混じるが基本は変わらず。下りは前方に1両のみA寝台が連結された

 

24系客車の開放2段式のB寝台車両は、1973(昭和48)年から製造されたものだ。「日本海」に使われたのはJR東日本の青森車両センター所属の客車で、製造当初のものも混じる〝年代物〟だった。客車の各所、例えば、窓枠テーブルの裏には「センヌキ」が付いていた。洗面台のデザインもレトロで、洋式トイレの壁には「腰掛便器の使い方」という記述があるなど、国鉄時代のままの機器類が残された、寝台列車の〝生き字引〟のような客車だった。

 

旅客用の客車は基本8両で編成され、1両のみが開放2段式のA寝台。残りはみなB寝台。通常時は客車8両で運行されたが、多客期にはB寝台4両が増結され客車12両で走った。ちなみに開放2段式のA寝台オロネ24形0番台は1973(昭和48)年に新造の車両で、JR東日本でわずかに3両が残った貴重な客車だった。

↑上り「日本海」は最後尾に電源車を連結していた。24系の編成には欠かせない車両だった。その前がA寝台車両オロネ24形となる

 

客車がJR東日本の車両であるのに対して、牽引機関車はJR西日本のEF81形交直両用電気機関車で、「日本海」牽引機はローズピンク一色で塗られていた。鉄道ファンには〝ローピン〟塗装車として親しまれていた。同機関車は敦賀地域鉄道部敦賀運転センターの配置で、大阪駅〜青森駅間の運行では、上り列車の場合には、敦賀駅での機関車の切り離し・連結作業が行われた。このあたりは寝台特急「トワイライトエクスプレス」と同じ運行方法だった。

↑通常はローズピンクのEF81が「日本海」を牽引したが、稀に「トワイライトエクスプレス」塗装のEF81が牽引することもあった

 

【名列車の記録③】下り列車では津軽富士が乗客を出迎えた

営業キロ数1000kmを越えて走った特急「日本海」。大阪駅発の下り列車は17時47分、一方、青森駅発の上り列車は19時31分のそれぞれ発車だった(時間等は最終運転年のもの=以下同)。

 

下り列車は北陸本線の各駅に夜に停車して、乗客を乗せて青森へ。一方、上り列車は東北地方の各駅で乗客を乗せて大阪へ向けて走った。

 

ここからは下り、上りの車窓風景について触れておこう。

 

まずは下り列車から。車窓風景が楽しめるのは早朝、秋田県に入ってからだった。秋田駅に5時32分に到着。近畿圏からの移動手段として、ちょうど一休みして、早起きしたころに到着できて便利だった。

 

その後、東能代駅(6時27分着)、鷹ノ巣駅(6時53分着)、大館駅(7時17分着)、大鰐温泉駅(おおわにおんせんえき/7時47分着)と主要駅に停まっていく。そして弘前駅にはちょうど8時に到着した。

 

弘前駅の先では津軽平野に広がる水田の向こうに津軽富士とも呼ばれる岩木山がひときわ美しい姿を見せた。やはりこの姿が見えることが、下り特急「日本海」の魅力だったと言えるだろう。

↑奥羽本線の川部駅〜北常盤駅間を走る下り「日本海」。時間は8時12分で、天気の良い日は岩木山の美景が楽しめた

 

岩木山が見えたら終点の青森駅へはあと少しの距離だった。大釈迦駅(だいしゃかえき)を通過し、次の鶴ケ坂駅までは狭隘な地をトンネルで越えた。

 

弘前駅の次、新青森駅には8時39分に到着。とはいえ、東北新幹線が新青森駅まで延伸したのは2010(平成22)年12月のことで、それから「日本海」はわずか1年4か月ほどで定期運行を終えてしまったので、「日本海」と東北新幹線の接点はあまりなかったと言えるだろう。

 

むしろ、東北新幹線が新青森駅まで延伸されたことが、特急「日本海」の廃止を早めた一つの要因になったのかも知れない。

↑大釈迦駅と鶴ケ坂駅間を走る下り「日本海」。この先で大釈迦峠の下をくぐる新トンネルを抜けて、列車は青森市へ入っていく

 

新青森駅からわずかに6分ほどで青森駅に到着。客車列車らしく、終着の青森駅のホームへ余韻を楽しむようにゆっくり入り、約15時間の長い列車旅が終わりをつげるのだった。

 

【名列車の記録④】上りは車窓から朝の琵琶湖の美景が楽しめた

さて、上り列車はどのような風景が楽しめたのだろうか。青森駅発が19時31分と遅めだったこともあり、東北地方はひたすら闇の中を走った。

 

一夜明け、北陸地方に入り金沢駅(6時16分着)、加賀温泉駅(6時50分着)、福井駅(7時17分着)と、駅到着ごとに明るさが増していった。そして敦賀駅に8時2分に到着。ドアが開くと、ホームへ降りてくる乗客の姿が多く見かけられた。一部の人たちは朝食を購入しようと駅の売店へダッシュした。

↑在来線で2番目の長さがある北陸トンネルを通過する上り「日本海」。次の敦賀駅では牽引機関車の付け替えが行われる(右上)

 

敦賀駅で8時21分の発車まで約20分の停車時間があった。ここでEF81形交直両用電気機関車の付け替えが行われたのである。大阪駅〜青森駅間を1往復、約2000kmを越える長い距離を走ってきたため、機関車の整備・点検が欠かせなかったのである。

 

多くの乗客がホーム上で機関車の切り離し、連結作業を見入った。このあたりが客車列車らしいところで、先を急がない観光客だからこそ許せる長時間の停車であった。逆に言えば、急ぐビジネス客には向いていない列車でもあった。

 

牽引機関車を付け替えた「日本海」は敦賀駅〜新疋田駅間の急勾配に挑む。このあたりは特急「トワイライトエクスプレス」と同じ行程をたどった。

↑新疋田の大カーブを走る上り「日本海」。カーブを走る列車が絵になった。同区間では現在、機関車牽引の列車は貨物列車のみとなっている

 

新疋田駅までの急勾配を上った「日本海」はこの先、福井県から滋賀県へ入る。そして近江塩津駅(8時38分通過)からは湖西線へ。湖西線では近江今津駅(8時54分通過)付近からは徐々に進行左手に琵琶湖が見え始めた。上り「日本海」の最も楽しみな景色でもあった。

 

左手に琵琶湖、右手に比良山地を眺めつつ列車は走り続ける。空気の澄んだ季節には琵琶湖の先に伊吹山などの山々が望めた。

↑湖西線の志賀駅〜蓬莱駅を走る上り「日本海」。撮影は3月のもの。遠望が効く季節には、湖ごしの山景色が楽しめた

 

大津京駅(9時41分通過)を過ぎまもなく東海道本線に合流、京都駅には9時51分に到着する。

 

京都駅の先は新大阪駅(10時21分着)、終着駅の大阪駅には10時27分に到着。こうした遅めの時間に到着することもあり、ビジネス利用というよりも、観光での利用が多い列車だった。

 

開放式寝台のみという列車は「日本海」の〝晩年〟を振り返ると、古くなりつつあったスタイルだったのかも知れない。見ず知らずの人が寝る段は違えども、睡眠環境を共にするわけである。消滅してからすでに9年あまりたち、よりプライバシーを尊ぶ時代となってきた。北陸新幹線の開業前に消えてしまった理由には、開放式寝台の意外な不人気があったのかも知れない。

 

【名列車の記録⑤】583系最後の定期列車となった「きたぐに」

特急「日本海」と同時期に消滅したのが急行「きたぐに」だった。この「きたぐに」ほど、一時代前の輸送形態を色濃く残した列車はなかった。そんな「きたぐに」が運行されたころを振り返ってみよう。

↑583系急行「きたぐに」。右下は583系のオリジナルな塗装だが、「きたぐに」はグレーと白という塗装で走り続けた

 

■急行「きたぐに」の概要

運行開始 1968(昭和43)年10月1日
運行区間 大阪駅〜新潟駅
営業距離 581.1km
所要時間 下り8時間57分、上り7時間45分(最終年の所要時間)
車両 583系交直両用特急形電車
運行終了 定期運行2012(平成24)年3月17日、臨時運転2013(平成25)年1月7日

 

急行「きたぐに」は1968(昭和43)年に大阪駅〜青森駅を走る列車として運行が始まった。その後、1982(昭和57)年に上越新幹線の開業に合わせて大阪駅〜新潟駅に運転区間が短縮された。多くの急行が特急に格上げされる中で、最後まで急行列車という〝格付け〟が代わらなかった珍しい列車でもあった。

↑急行「きたぐに」の走行ルートと停車駅、そして発着時間。地図のように、細かく停車して走った急行列車だった

 

この列車が消えたことにより、有料急行は「はまなす」(本サイトで前回に紹介)のみとなった。JRグループの有料急行列車の中で、ラスト2番目まで残った列車でもあった。

 

急行「きたぐに」が走り始めたころ、車両には14系客車を利用していたが、1985(昭和60)年3月に583系という特急形電車が使われるようになった。晩年には583系で運行された最後の定期運行列車にもなった。583系とはどのような電車だったのか触れておこう。

 

1968(昭和43)年に登場した583系は高度経済成長期に、拡大した輸送需要に対応すべく、より早く多くの人を運ぶために生まれた電車だった。昼は座席、夜は座席を寝台に変更して利用できる昼夜兼行仕様と呼ばれる電車で、直流区間はもちろん、交流50Hz、60Hzの3電源に対応できた。大量輸送時代に便利な車両だったのである。そのため434両と大量に造られ北海道、四国をのぞき、全国で活躍した。

 

昼夜問わずフルに稼働した車両が多く、全盛期には1日に1500kmも走ったとされる。そのために老朽化も早かった。また、昼夜兼行という形で運行する列車が徐々に消えていき、余剰車両も増えていった。

 

余剰となった車両は、短い編成に分けられ、北陸・九州地方を走る普通列車用の419系・715系として改造された。「きたぐに」が運転された最晩年、583系はJR西日本とJR東日本(臨時列車用に利用)にわずかに残るばかりとなっていた。

 

【名列車の記録⑥】3段式のB寝台車は国鉄時代の花形車両だった

急行「きたぐに」は583系10両で運行された。内訳は1〜4号車が自由席座席車、5号車・7〜10号車は開放3段式のB寝台、6号車がグリーン車でリクライニングシート仕様、さらに7号車が開放2段式のA寝台だった。

 

昼夜兼行で走った当時の583系は、昼は座席、夜は寝台に転換して利用された。転換は機能を熟知した専門スタッフが必要で、同一列車で営業運転中に座席→寝台化といった転換作業を行った例もあったが、こうした使われ方は珍しかった。

 

急行「きたぐに」の場合には座席か、または寝台が常に固定化されていて、途中で変更することはなかった。

 

座席と寝台が転換できるように造られたため、特急形だったものの普通車の座席はリクライニングシートではなくボックスシートで、座り心地も決して良いとは言えなかった。このような構造の583系を使い続けたために「きたぐに」は急行から特急に格上げできなかったということもあったのだろう。

↑早朝、日本海を見ながら走る下り「きたぐに」。下記はその編成図で、自由座席車と開放3段式のB寝台が多いことが分かる

 

B寝台の車両は開放3段式だった。下段、中段、上段と3段のベッドが使える構造で大量輸送が必要な時代には最適な構造だったのだろう。ブルートレイン客車のB寝台が車両の進行方向に対して直角にベッドが設けられたのに対して、583系のベッドは真ん中の通路に沿って寝る造りとなっていた。屋根も高い構造の車両のため、個々の寝台スペースは意外に広かった。

 

「きたぐに」には開放3段式B寝台は4両が連結されていた。プルマン式の3段ベッドが通路の両脇に並ぶ様子は、壮観ですらあった。寝台のカーテンにはしっかりと縫い付けられていた寝台番号の刺繍や、仕切るカーテンには換気用の通気口が開けられ、国鉄時代を思い起こさせる装備が残っていた。

 

ちなみにパンタグラフの下のみ2段式になっていて、この部分は3段式よりも人気があった。

 

3段という寝台列車は、修学旅行などの団体旅行向きと言えた。一方で、運転最終年が近づくにつれて、密な空間での旅行を嫌う利用者も増えていったように思う。583系が登場したころとは、それこそ旅のスタイルが大きく変わってしまったのである。

 

【名列車の記録⑦】下りは日本海の景色を眺めつつ新潟を目指した

急行列車ゆえに、上り下りともに31駅に停車して走った。下りは大阪駅を23時32分発で、大阪や京都から、滋賀県内や北陸の家へ、また上りは新潟駅を22時58分発で新潟県内の家へ帰るのに最適な列車でもあった。

 

さらに、夜に走りながら途中駅で適度に時間調整をして走っていた。明け方には下り列車ならば新潟県内で、また上り列車では近畿圏内で早朝に走る通勤列車として活用された。

↑朝霧の中、信越本線を新潟駅に向けて走る下り「きたぐに」。左手に日本海が広がる柿崎駅〜米山駅間で朝6時37分に通過した

 

下り列車の場合には親不知駅の通過が5時20分で、日の長い季節には日本海が見えるようになる。さらに、糸魚川駅を5時29分に発車、直江津駅(6時17分発)までの間、有間川駅〜谷浜駅(5時50分通過)間で、雄大な日本海の眺望に出会えた。さらに柿崎駅(6時30分発)付近からは線路のすぐ横に日本海が見えた。海景色は鯨波駅(6時41分通過)まで楽しめた。

↑鯨波海岸を見ながら走った下り「きたぐに」。好天に恵まれればこの付近で海上に浮かぶ佐渡まで眺望できた

 

柏崎駅(6時45分発)から先は、内陸を走るようになるが、左右に米どころ新潟平野ならではの田園風景が楽しめた。新潟駅が近づくにつれて、通勤・通学客が増えていき、座席車には立って乗り込む人も目立った。そして終着、新潟駅に8時29分に到着するのだった。

 

【名列車の記録⑧】上りは東海道本線の通勤の足として生かされた

急行「きたぐに」は、大阪発の他の特急がバイパス線ともいうべく湖西線経由だったのに対して、米原駅経由で走ったことも特徴と言えた。

 

下りは米原駅着0時54分、北陸本線の長浜駅には1時14分着だった。いま北陸本線の長浜駅を発着する深夜便がない。一方、上りは長浜駅5時13分発、米原駅5時22分発で、大阪駅に早朝に到着したい通勤・通学客には最適な列車だった。

↑彦根駅付近を走る上り「きたぐに」。時間は5時26分で、この先、約1時間で大阪へ到着できる便利な列車でもあった

 

ちなみに、現在の米原駅発の大阪方面行き始発は4時58分発で、この列車を利用すれば6時44分(「きたぐに」到着は6時43分)に大阪駅に到着する。北陸本線の長浜駅発で一番早い列車は6時ちょうどで、急行「きたぐに」があったころように、大阪へ早朝に着くことができなくなっている。また、米原駅から新大阪駅へ走る朝一番の東海道新幹線は米原駅7時ちょうどの発車で、この列車は大阪駅に7時33分と〝遅め〟に到着する。

 

急行「きたぐに」は早朝に大阪まで行きたい人にとって非常にありがたい存在だったのである。早朝に移動手段がなくなる駅も生じた。列車が消えた後に、この列車を利用した方たちはどうしているのだろうか。気になるところである。

↑山崎駅の大カーブを走る上り「きたぐに」。通過は6時27分ごろで、この先、大阪府へ入り約15分で大阪駅へ到着した

 

上り「きたぐに」の車窓風景は、下りに比べるとそう大きな注目ポイントはなかったものの、朝の近江路を見ながらの旅が楽しめた。B寝台で長距離を眠って移動する人がいる一方で、座席車は通勤・通学の足として役立てられた、2つの側面を持つ急行「きたぐに」ならではの日常の風景が長年にわたり日々繰り返されていた。

 

そうした風景も、もはや10年近く前のことになろうとしている。列車の移り変わりはまさしく走馬灯のようである。

最後の急行列車となった「はまなす」と海峡を越えた車両の記録

〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.3〜〜

 

ここ10年で在来線の長距離列車の顔ぶれが大きく変わった。急行列車は消えていき特急列車のみとなった。使われる車両も大きく変貌している

 

“もう一度乗りたい名列車”の3回目は、最後の夜行急行そして客車列車となった「はまなす」と、ともに消えていった津軽海峡を越えて走った特急および名列車を振り返ってみたい。

*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載

 

【名列車の記録①】青森駅と函館駅を深夜に走った客車列車

かつては列島をくまなく走っていた急行列車。特急に比べて停車駅が多く、手ごろな料金で移動ができた。

 

まず特急と急行の料金を比較してみよう。特急料金の仕組みは複雑でJR各社や路線で微妙に異なるが、通常期で50kmまでが1030円〜1270円、100kmまでで1450円〜1700円といった金額だ(急行の料金設定があった2015年1月の金額=以下同)。

 

ところが、急行となると50kmまでが550円、100kmまでが750円、201km以上が1300円と安い。さらに特急が200km以上、100kmごとに割増となり最大601km以上3960円(A特急料金の場合)となるのに対して、急行の場合は201km以上という金額は設定されていなかった。それだけ手ごろな金額で乗車が可能だったわけである。

 

そんな急行列車も徐々に消えていき、2016(平成28)年に急行「はまなす」が消え、JRグループから急行列車が全廃された。今や列島を走るJRの有料列車は特急および新幹線のみとなってしまったのである(観光列車を除く)。

 

そんな最後の急行列車となった「はまなす」が走ったころを振り返ってみよう。同列車は津軽海峡を夜に越えることができる便利な急行列車だった。

↑急行「はまなす」のルートと各駅の発着時間。ED79形交流電気機関車とDD51形ディーゼル機関車が客車列車を牽引した

 

●急行「はまなす」の概要

運行開始 1988(昭和63)年3月13日
運行区間 青森駅〜札幌駅
営業距離 475.2km
所要時間 下り7時間49分、上り7時間39分(最終年の所要時間)
車両 14系・24形客車。牽引はED79形交流電気機関車、DD51形ディーゼル機関車
料金 開放式B寝台1万5980円、指定席(ドリームカー)1万20円、自由席9500円
※青森駅〜札幌駅間の大人1人分の運賃+急行料金+寝台料金・通常期の料金
運行終了 2016(平成28)年3月21日(下り)、正式には26日が運行終了日だったが、22日以降は運休扱いとなった

 

↑「はまなす」は通常期は7両の客車を牽いて走ったが、7・8月などの多客期は客車を増結して走った。この日は9両編成で運行

 

青森駅と札幌駅を結んだ急行「はまなす」は、青函トンネルが開業したちょうどその日から運行が開始された。それまで青森と函館の間の移動は、津軽海峡を渡る青函連絡船や、海峡フェリーを利用する以外に移動手段がなかった。これらの船は夜間に運航する便もあり、その夜行便に変わる役割として「はまなす」の運行が始まったのだった。

 

下り青森駅発は22時18分、函館駅着が深夜0時44分、札幌駅には6時7分に到着する。また上りは札幌駅発22時、函館駅着が2時52分、青森駅着5時39分に到着した。夜間に津軽海峡と、北海道内の移動ができて非常に便利な列車だった。

 

筆者も乗車した経験があるが、札幌から深夜に帰る会社員だったのだろう。寝台ベッドで横になって仮眠し、下車駅が近づくと身支度して降りていく人が多かったように記憶している。

 

【名列車の記録②】座席車と寝台車の〝混合編成〟で走る

「はまなす」の客車編成を見ておこう。運行最終時期の編成は、基本客車7両で運行された。客車の屋根はふぞろいで、寝台車と座席車で大きく違っていた。屋根の上にクーラーがあるのが14系座席車で、5両連結されていた。

 

そのうち、3号車と7号車の2両が自由席の座席車。5号車と6号車が特急のグリーン車用の座席を取り付けた「ドリームカー」で、こちらは指定席となっていた。さらに4号車は「のびのびカーペットカー」で、カーペットが敷かれたスペースがあり、寝具も提供された。指定席料金で、寝ながらの旅が可能とあって、人気があった。一部に女性専用のスペースも用意されていた。

 

屋根上にクーラーの突起がなく平たいのが寝台車で、1号車と2号車に14系と24系客車が一両ずつ連結されていた。ちなみに「はまなす」の14系は、元24系で、24系に電源装置を取り付け14系に改造されたものだった。14系・24系寝台車には開放2段式B寝台がずらっと並んでいた。ブルートレインなどでおなじみだった2段式ベッドで、こちらの利用の際は寝台料金が必要となった。

↑屋根の造りから後ろに2両の寝台車、その前に14系座席車が連結されていることが分かる。下は列車の通常時の編成図

 

14系および24系の客車の牽引は、青森駅から函館駅までがED79形交流電気機関車が牽引、函館駅で方向が変わり、同駅でDD51形ディーゼル機関車に付け替えられ、札幌駅まで牽引を行った。DD51は北斗星仕様で、特急「北斗星」、特急「トワイライトエクスプレス」と同じ牽引機だったが、他の寝台列車が2両連結の重連で牽引を行ったのに対して、「はまなす」は1両のみで牽引が行われていた。

↑深夜走る青森行き「はまなす」(右)。左上から14系座席車(自由席)、のびのびカーペットカー、B寝台(開放2段式)

 

急行「はまなす」は夜間に走る列車ということもあり、眠っての移動を目的にした利用者が大半だったが、下り上りとも春から初秋にかけては、車窓風景を早朝に楽しむことができた。終着駅が近づくころ、外を見ながら寝起きの時間を過ごす格別な楽しみがあった。

 

【名列車の記録③】上り列車からは津軽海峡線の朝が楽しめた

早朝に見える風景を走行写真で追ってみよう。

 

日本最長の青函トンネル53.85kmに入る時間は、下りが23時過ぎ、上りが4時15分ごろだった。起きているのがややつらい時間帯だったが、起きている時には窓の外や、後端車のデッキからトンネルの途中の海底駅を示す明かり、またトンネル内を照らす最深部の緑色のライトが確認できた。トンネルに入って約40分で出口を出る。上り列車の場合には薄明かりの時間帯になるので、外が見える確率が高かったが、それでも日が長い季節でないと難しかった。

↑津軽海峡線新中小国信号場〜中小国駅間を走る上り列車。撮影時間は朝5時40分(遅延あり)。水田に列車が反射して美しく見えた

 

上の写真は、青函トンネルの青森側出口からまもない中小国信号場から、最初の駅の中小国駅までの区間で、廃止される前年の5月に撮影したもの。通常時は5時10分ごろの通過予定だったが、この日は列車が遅れたこともあり、朝陽がややのぼり、田植えが終わったばかりの水田が〝水面鏡〟となって列車の姿が写り込んだ。この日もそうだったが、廃止1年ぐらい前からは、沿線には同列車を写そうという人が多くカメラを構えていた。

 

中小国駅の一つ先が蟹田駅だ。ちなみに蟹田港からは陸奥湾を横断するむつ湾フェリーが下北半島の脇野沢へ向けて出航している。

↑蟹田駅〜瀬辺地駅間では陸奥湾を目の前に走る。時間は5時18分で、この日は定時での運行。車内からは陸奥湾ごしに朝陽が楽しめた

 

蟹田駅では2分ほどの運転停車で、5時14分に発車する。駅からまもなく陸奥湾が見える海岸線を走るようになり、次の瀬辺地駅(せへじえき)へ向かう途中では陸奥湾の眺望が楽しめた。朝陽に輝く海岸線と沖に浮かぶ漁船といったのどかな風景が思い出される。

 

瀬辺地駅からは、ほぼ陸奥湾に沿って点在する集落を左に見て走る。そして5時39分、青森駅に到着した。意外にビジネスでの利用客が多いようで、ホームから足早に去っていく人が目立った。

 

【名列車の記録④】下り列車は千歳線の原生林を眺めつつ走る

札幌駅行きの下り列車の場合には室蘭本線の登別駅付近から徐々に外が見えるようになってくる。寝台特急「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」は登別駅に停車したが、「はまなす」は下り列車のみ停車せずに走った(通過4時31分ごろ)。このあたり、前者は観光用特急であり、「はまなす」はビジネス利用および、東室蘭駅からの通勤客が主体だったこともあったのだろう。

↑室蘭本線・本輪西駅〜東室蘭駅を走る下り「はまなす」。朝4時11分の撮影で、列車の姿もようやく捉えられる明るさだった

 

苫小牧駅が5時1分着、その後、千歳線へ入るが、同線内では南千歳駅(5時24分着)、千歳駅(5時29分着)、新札幌駅(5時55分着)と停車しつつ札幌駅を目指す。

 

千歳線は、新札幌駅付近からは急に住宅が増え、札幌の近郊住宅地の趣が強まるが、そこまでは、駅付近には民家があるものの、北海道らしい原生林が連なっている。

 

下記の写真は西の里信号場でのもの。同信号場は、新千歳空港開業に合わせて下り、上りとも追い抜きが可能なように設置された信号場だ。千歳線では北広島駅〜上野幌駅(かみのっぽろえき)間に位置するが、札幌駅までわずか20分のところに、周囲を原生林で包まれた自然豊かなところがあるのが、いかにも北海道らしかった。

↑西の里信号場を5時48分に通過した下り「はまなす」。信号場は自然林に包まれる。あと札幌駅まで20分で到着となる

 

西の里信号場付近の自然林を眺めつつ、上野幌駅を5時52分に通過、次の新札幌駅に到着した。地下鉄東西線の乗換駅ということもあり、かなりの人がおりていった。やはりこの列車は早朝に会社へ行きたいという人には格好の列車だったようである。札幌市内の住宅地を左右に眺め6時7分、札幌駅に到着した。

 

さて、廃止されて早5年。代わりとなる列車があるのか時刻表を見るとほぼないことが分かった。

 

現在、東室蘭方面からの札幌駅行き始発列車は、5時40分東室蘭発の特急「すずらん1号」で、この列車を利用すると7時13分に札幌駅に着く。6時台には到着できない。

 

一方、逆方向の列車は、22時ちょうど札幌駅発の特急「すずらん12号」が東室蘭駅まで走る最終列車で、東室蘭駅に23時31分に着く。ただし、その先、函館方面へは走らない。つまり「はまなす」のように札幌方面へ早朝に走る列車は消え、また逆方向も途中までで、その先の函館駅へはもちろん、海峡を渡って青森駅へ向かう列車はなくなってしまったのである。

 

北海道新幹線の開業により、消えてしまった急行「はまなす」。同列車を頻繁に利用していた人たちは、どのように道内や海峡越えをしているのだろうか。列車の廃止が道内での移動に微妙な陰を落としているように感じた。

 

【名列車の記録⑤】津軽海峡を越えて走った485系「白鳥」

深夜・早朝に青函トンネルを越えて走った急行「はまなす」や、「北斗星」などの寝台特急に対して、日中に津軽海峡を走った列車といえば特急「スーパー白鳥」「白鳥」が代表的な列車だった。列車の大半がJR北海道の789系だったが、混じってJR東日本の485系も走っていた。

↑津軽海峡そして遠くに函館山を見ながら走る485系「白鳥」。485系の更新車両ながら、今となっては懐かしく感じられる

 

「白鳥」という列車名の歴史は古い。特急として走り始めたのは1961(昭和36)年のことで、当初は大阪駅〜青森駅間と大阪駅〜上野駅間(直江津駅まわり)を走るディーゼル特急として誕生した。直江津駅で両列車が分割併合、直江津駅〜大阪駅間は一緒に走ったユニークな列車だった。同「白鳥」は2001(平成13)年3月2日に一度、消滅している。

 

その1年後の2002(平成14)年12月1日から走り始めたのが、特急「スーパー白鳥」と「白鳥」だった。当時は東北新幹線が八戸駅止まりだったために、八戸駅〜函館駅間での運行が行われた。東北新幹線が新青森駅まで延伸した2010(平成22)年12月4日以降は、新青森駅〜函館駅間の運行となった。

 

ちなみに、JR北海道の789系で運行した特急が「スーパー白鳥」であり、JR東日本の485系を利用した特急が「白鳥」だった。新型789系には〝スーパー〟が付き、485系はやや古かったせいか〝スーパーなし〟の扱いだったのである。

↑485系特急「白鳥」。普通車はクラシックなクロスシートだった。「はまなす」が青森駅止まりだったのに対して同列車は新青森駅まで走った

 

「白鳥」に使われた485系は国鉄が生んだ名車両の一形式と言って良いだろう。生まれは1964(昭和39)年と古い。直流、交流50Hz、交流60Hzの3電源に対応する特急形電車として誕生した。1979(昭和54)年までに計1453両の車両が製造され、列島各地で活躍した。

 

「白鳥」に使われた485系はリニューアルされた車両だったものの、形式が少し古いこともあり、JR北海道の789系と〝差〟を付けられたのである。とはいえ485系は津軽海峡線では目立つ存在だった。運行最終年には「スーパー白鳥」が8往復だったのに対して、「白鳥」は2往復と希少な列車でもあった。〝スーパー〟は付かなかったものの、鉄道ファンにとって、あえて乗りたい列車でもあった。

 

現在、485系の定期運行はなくなり、車両も大きく改造されたジョイフルトレイン用がわずかに残るのみとなっている。

 

【名列車の記録⑥】「白鳥」消滅とともに消えた希少な車両

「スーパー白鳥」の789系は、ノーズ部分と連結器部分が萌黄色(ライトグリーン)の塗装だった。「スーパー白鳥」「白鳥」は、急行「はまなす」とともに2016(平成28)年3月21日(22日〜26日間は運休扱い)に運行終了を迎えた。

 

その後、「白鳥」に使われた485系は引退となったが、「スーパー白鳥」に使われた789系は転籍し、札幌駅〜旭川駅間を走る特急「ライラック」となり、シルバー塗装の789系「カムイ」とともに活躍している。

 

実はこの「スーパー白鳥」にはとても希少な車両が使われていた。

↑函館駅を発車して青森駅へ向かう785系「スーパー白鳥」。789系(左上)とは異なる顔立ちで目立つ存在だった

 

785系が2両のみ「スーパー白鳥」に使われていたのである。785系はJR北海道が1990(平成2)年に新造した特急形電車で、当初は札幌駅〜旭川駅間用の特急として使われた。さらに札幌駅〜東室蘭駅を走る特急「すずらん」にも使われていた。

 

「スーパー白鳥」に使われた785系2両は、編成の組み換えで余剰となっていた車両で、2010(平成22)年4月に789系の増結用として改造された。789系の運転台が高い位置にあるのに比べると、785系は運転台が低く、平面な正面デザインで異彩を放っていた。他区間を走る785系はシルバーだったが、同増結車のみ萌黄色(ライトグリーン)の塗装で目立っていた。増結車だっただけに多客期にしか走らず、出会うことも少なかった。

 

こうした希少車だったが、2016(平成28)年3月21日の「スーパー白鳥」の運行終了でお役ごめんとなった。「ライラック」への転身はなく、3月末に廃車、9月には解体となった。名車両とは言いにくいものの、ちょっと残念な存在だった。

 

【名列車の記録⑦】重厚な姿が魅力だったJR貨物ED79形式

津軽海峡を越えて走った車両は北海道新幹線の開業とともに、大きく変わった。貨物列車を牽引する電気機関車も様変わりした。それまでの主力機関車といえばEH500形式交直両用電気機関車だったが、現在はEH800形式交流電気機関車に変更されている。

 

2016(平成28)年の北海道新幹線の開業に向けて徐々に変更されていったのだが、一方でその1年前に静かに消えていった貨物用機関車があった。JR貨物のED79形式交流電気機関車である。

↑津軽海峡線(現・津軽線)を走るED79形式交流電気機関車は必ず2両連結の重連で長大な貨物列車を牽引した

 

ED79形式交流電気機関車は、青函トンネルの開業に合わせて造られた。まず1986(昭和61)年にED75形式交流電気機関車がED79形式交流電気機関車に34両改造されて旅客用・貨物用に使われた。その後にJR貨物により1989(平成元)年に10両が新造された。この10両(1両は後に事故で廃車)がEH500の運行を補助する役割を負って2015(平成27)年まで2両重連の姿で使われていたのである。

 

筆者はこの国鉄形機関車が2両重連で貨車を牽く姿にとてもひかれた。津軽海峡へ訪れるごとに、好んでこの車両を追っていた。その姿は何とも凛々しく写真映えした。

↑津軽海峡線(現・道南いさりび鉄道線)特有のカーブ区間を走る重連で走るED79。とても絵になる機関車だった

 

旅客用の赤い塗装のED79も写真映えしたが、最後のころはシングルパンタに変更されたのがちょっと残念だった。一方、貨物用のED79は旧来の交差式パンタグラフに加えて、濃淡ブルーの車体、運転席の窓部分のブラック塗装、運転室ドアのワンポイントの赤塗装と、いかにも重厚な貨物用機関車という趣が強く、絵になった車両だったように思う。

↑蟹江駅〜瀬辺地駅間を走るED79牽引の上り貨物列車。同区間では陸奥湾を眺めつつ走った

 

津軽海峡、函館湾、陸奥湾を背にして走る姿が記憶に残る機関車でもあった。国鉄形機関車の重連運転は、東日本では東北本線のED75形式交流電気機関車に続いて、津軽海峡線のED79形式交流電気機関車が消えた。さらについ最近には関西本線のDD51形式ディーゼル機関車が消滅した。

 

残るは中央本線を走るEF64形式直流電気機関車の石油輸送列車のみとなっている。こちらも後継のEH200形式直流電気機関車の導入が取りざたされている。老朽化が忍び寄る国鉄形車両とはいえ、名シーンともなっていた運行風景が消えていくことには一抹の寂しさを感じざるを得ない。

↑津軽海峡線の〝主〟のような存在だったEH500形式交直流電気機関車も同区間から撤退。東北本線や首都圏に活躍の場を移している

 

オンライン廃線巡りで、家にいながら歴史鉄道散歩~注目の新書紹介~

こんにちは、書評家の卯月 鮎です。自宅から少し行ったところに、住宅街なのに突然だだっ広い道路がまっすぐ広がっている不思議な空間があります。調べてみると、そこは昔の花街で、その道は中心となる大通りだったと分かりました。

 

廃線跡から見えてくる風景

風景からふと昔の名残が見えると、「今、自分は長い歴史の上に立っているんだなぁ」と感慨が湧いてきますよね。それは廃線跡も同じでしょう。私は鉄道オタクではないですが、廃線巡りのロマンには惹かれるものがあります。

 

廃線跡巡りのすすめ』(栗原 景・著/交通新聞社新書)の著者・栗原景さんは、旅、鉄道、韓国をテーマに活動するフォトライター、ジャーナリスト。小学生のころからひとりで各地の鉄道を乗り歩いてきた強者です。『地図で読み解くJR中央線沿線』(三才ブックス)、『新幹線の車窓から~東海道新幹線編』(メディアファクトリー)、『アニメと鉄道ビジネス』(交通新聞社新書)など鉄道に関する著書も多数。

 

 

 

入門するなら名古屋鉄道美濃町線

序章「初めての廃線跡巡りに―名古屋鉄道美濃町線」では、入門編的な位置づけで、岐阜市~美濃市に残る名古屋鉄道美濃町線の廃路跡を訪れます。比較的最近(2005年)に廃止されたためか、線路跡がよく残っているうえ、危険な場所が少なく歩きやすいのがポイント。

 

鉄道が生きていた時代の地図をスマホに表示し、まずは起点の「徹明町駅」へ。元駅ビルは空き屋ですが、1階のきっぷ売り場はそのまま。アスファルトに入った斜めの亀裂は、レールを剥がして埋めた跡だとか。言われなければ見過ごしてしまう“遺跡”もあちこちに残っているんですね。

 

そうこうしていると年配の男性に「美濃町線を歩いているんですか」と話しかけられる著者の栗原さん……。単に廃線跡の情報だけでなく、地元の人々とのちょっとした交流も挟まり、読んでいて旅情感があります。

 

オンライン廃線巡りに役立つサイトは?

「そういう楽しみ方もあったのか!」と新鮮に感じたのが、第2章のオンライン廃線巡り。最初に「グーグルマップ」の航空写真で廃線跡をチェックするのが基本。そこを「ストリートビュー」でたどっていくと、撤去されていないコンクリート橋脚などがしっかり確認できるそうです。

 

昭和の戦前期から撮影されてきた航空写真が見られる国土地理院の「地理院地図」、全国49地域で明治期以降の地形図を閲覧できるサイト「今昔マップ」など、便利なサイト・アプリも具体的に紹介されていて、本書を手に取ったその日からオンライン廃線巡りに出発できます。

 

日本最後の非電化軽便だった石川の尾小屋鉄道、廃線跡の沿道にしだれ桜が植樹され新名所となっている福島・喜多方の日中線など「特徴的な廃線跡4例」、「廃線跡巡りの持ち物について」、「著者がおすすめする廃線跡」と各章で切り口もいろいろ。今よりもゆっくりと時間が流れていた時代、鉄道を中心に栄えていた風景を想像して、ノスタルジーに浸るのもいいですね。

 

【書籍紹介】

廃線跡巡りのすすめ

著者:栗原 景
発行:交通新聞社

在りし日の鉄道の姿を想像しながら歩く『廃線跡巡り』。やってみたいとは思っていても、そもそも下調べからして難しそう! たしかに昔はそうでした。それが今、劇的に始めやすくなっているのです。事前調査から実際に歩いてみるまで、数多くの廃線跡を巡った著者が豊富な実例と実体験をもとに新しい廃線跡巡りのHow Toと、廃線跡をもっと楽しむ方法を詰め込んだ実用の一冊です。

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【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。