5年前に惜しまれつつ消えた豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」の記録【後編】

〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.2〜〜

 

「トワイライトエクスプレス」が定期運行を終えてすでに6年あまりの年が経つ。約1500kmの行程を約22時間かけて列島を縦断した名物列車で、走り続けた25年8か月の間に約116万人の人が利用したとされている。

 

今回は“もう一度乗りたい名列車”「トワイライトエクスプレス」の後編として、列島を駆けたその勇姿を、写真を中心に振り返ってみたい。

*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載

【前編はコチラ

↑大阪駅と札幌駅を結んで走った「トワイライトエクスプレス」。本州では日本海にほぼ沿って走り抜けた

 

【はじめに】グッズや乗務員手づくりの品物が乗車記念になった

やや寄り道になるが最初に、同列車のグッズの話から始めたい。

 

「トワイライトエクスプレス」の魅力はもちろん、縦断する東日本の景色を車窓から満喫することだ。ただ、それ以外にも車内では有料の限定ガイド本や特製オレンジカードなどが購入でき、そうしたグッズにも魅力があった。

↑筆者が2回乗車した時に手に入れたパンフレット類や無料のポストカードなど。左上は有料の列車ガイド誌、JR北海道オレンジカード

 

サロン車で配布されていたスタンプ用紙も印象深い。用紙には列車のイラストと地図、そして17の停車駅のスタンプを押すスペースがあり、駅を通過していくごとにスタンプを押して仕上げていく楽しみがあった。しかも、この用紙とスタンプは大阪車掌区の車掌さん自ら手づくりしていたというから頭が下がる。それだけ車掌さんたちが、この列車への愛情を持っていたという証だったように思う。

↑サロン車で配られたスタンプ用紙。定期的に用紙が変更され何度乗っても楽しめた。右下はA個室寝台の乗客にプレゼントされた乗車証明書

 

さらにA個室寝台スイートルームに乗車した人には乗車証明書が配られた。厚紙を使った本格的な乗車証明書で、墨文字で乗車区間と、車掌名、乗車日が記入されていた。こんな車掌さんの気持ちが籠もった列車は、後にも先にもたぶん現れないだろう。

 

こうした乗務員が抱く“愛情”に支えられたことで、四半世紀にわたり運転されても魅力が色あせなかったのだと思う。

 

【名列車の記録①】淀川を渡り琵琶湖を眺め近畿をまず縦断する

ここからは下り列車を中心に沿線風景をたどろう。なお、停車・通過時間、メニューの料金等は運転最終年のもので紹介を進めていきたい。

 

整備・点検を終えた下り列車は大阪駅の北にある網干総合車両所宮原支所を11時2分過ぎに出発。北方貨物線から東海道本線へ入り、始発大阪駅へ向かう。

 

大阪駅への入線は11時11分過ぎ。発車まで40分近く大阪駅ホームに停車する。11時50分、長い発車ベルを合図に発車。静かにホームを離れていく。

 

電車とは異なり、客車列車の「トワイライトエクスプレス」の動きはゆっくりで、それがまた旅情を誘った。車内では「いい日旅立ち」のBGMが流れ始め、大阪駅〜新大阪駅間の間を流れる淀川にかかる鉄橋を渡るのだった。

↑大阪駅を出発して間もなく上淀川橋梁を渡る。右上は大阪駅行き上り列車。同橋梁では下りが通過した約1時間後に上り列車が通過した

 

大阪駅から約5分で、次の停車駅、新大阪駅に到着。新幹線の乗換駅ということで、この駅から乗車する利用者の姿もちらほら見られた。新大阪駅停車はわずかに1分、11時56分に出発し、次の京都駅を目指す。走る東海道本線は複々線区間となっていて、新快速列車と同じ線路をやや飛ばし気味に走るのだった。

 

約20分で山崎駅を通過。この地区は交通の要衝で、右は東海道新幹線と、阪急京都線、左は名神高速道路が平行するように走る。駅の左手に見える天王山(てんのうざん)は、戦国時代に明智光秀と豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の山崎の戦いが行われ「天下分け目の天王山」と呼ばれた地でもある。そんな天王山を横目に見て列車は次の京都駅を目指す。

↑山崎駅を12時13分に通過して京都府に入る。左手に天王山など丘陵が連なっている。この撮影地は現在、右手に住宅地が建ち並ぶ

 

「トワイライトエクスプレス」は連日2〜3編成が大阪駅と札幌駅間を走っていた。下り列車と上り列車は途中1か所、もしくは2か所ですれ違う。東海道本線では京都駅の手前、西大路駅付近で12時21分ごろに最初のすれ違いがあった。長い距離を走り、しかも列車本数が少ない“特別な列車”だっただけに、そのすれ違いもどこかドラマチックだった。

 

京都駅への到着は12時24分。ここも1分停車で12時25分には発車する。ちなみに発車は0番線から。この京都駅0番線は日本一長いホーム(558m)でもある。

↑琵琶湖を眺めて走る下り列車。場所は湖西線北小松駅〜近江高島駅間で13時11分。食堂車ではちょうどランチタイムが始まるころだ

 

京都駅を発車、列車は次の山科駅の先で東海道本線から湖西線へ入っていく。大津京駅付近からは右手に琵琶湖が眺められるようになる。しばらくは湖に付かず離れず、堅田駅(かたたえき)付近からは湖が間近に眺められるようになる。夏は湖水で遊ぶレジャー客が眺められる近江舞子駅で運転停車。後続の特急「サンダーバード」に抜かれる。「トワイライトエクスプレス」も特急だが、こちらは急がずに走る特別な列車なのである。近江舞子駅を運転停車後、13時4分に出発する。

 

この駅付近から、ちょうど3号車食堂車「ダイナープレヤデス」ではランチ・ティータイムが始まる。16時までは予約なしで軽食喫茶が楽しめる。右手に琵琶湖、左手に比良山系の山並みが美しく連なる車窓風景を眺めながらのランチが格別なものだった。

 

【名列車の記録②】北陸の田園風景や山景色を眺めながら

湖西線を通り抜けて列車は13時35分に近江塩津駅から北陸本線へ入る。県境をトンネルで越えると新疋田駅(しんひきだえき)だ。

 

この駅から福井県へ入るのだが、次の敦賀駅までのひと駅区間の行程が興味深い。新疋田駅の標高は海抜96.4mだが、ひと駅先の敦賀駅は海抜8mしかない。両駅は距離にして6、7kmしかないのだが、その間に88mも下り、また上る。よって、下り列車は標高の高い新疋田駅からは、スムーズに下り続け6分ほどで敦賀駅へ降りていく。一方、上り列車は大変だ。最大25パーミル(1000m走るうちに25m登る)という急勾配を上がっていかねばならない。路線は下り線と平行して走らずに、ぐるりと1周するループ線が特別に造られ、傾斜を緩める工夫が取り入れられている。やや迂回ルートとなるため敦賀駅から新疋田駅まで9分かかった。

 

さらに上り列車は、敦賀駅で、EF81形交直流電気機関車を交替させていた。つまり敦賀駅→大阪駅→青森駅→敦賀駅を走りきった電気機関車は、“お疲れさま”とばかり機関区に引き上げさせ、代わりに整備・点検、そしてリフレッシュしたばかりの電気機関車につけかえて、この勾配区間に挑むのだ。敦賀駅〜新疋田駅間は、それだけ難路というわけだったのである。

↑敦賀駅〜新疋田駅間の下り線は直線区間が多いのに対して、上り線にはループ線がある。眼下のループをちょうど上り列車が走ってきた

 

下り坂を疾走してきた下り列車は敦賀駅で2分停車し、13時48分に発車する。ここまでが大阪駅から約2時間の行程だ。敦賀駅を発車すると、間もなく在来線では2番目の長さを持つ北陸トンネル1万3870mを抜ける。ちなみに敦賀駅を過ぎると間もなくデッドセクションがあり、この区間で、直流から交流電化区間へ入る。

 

北陸トンネルを抜けて、しばらく走ると田園風景が広がるようになる。こちらで栽培されるお米はコシヒカリだ。今でこそコシヒカリといえば、他県産が有名となっているが、生み出されたのは福井県。そうした経緯もありコシヒカリの生産が多い。

↑福井県内では田園風景が多く広がっている。写真は北陸本線牛ノ谷駅〜大聖寺駅間で、15時2分ごろに下り列車が通過した

 

福井駅14時40分発、そして石川県の金沢駅を15時40分発と北陸各県の駅を停車しつつ北へ向かう。倶利伽羅峠峠(くりからとうげ)からは富山県へ入り、高岡駅16時14分、富山駅16時31分と停まっていく。富山駅の先、東富山駅付近から先は、行く手に立山連峰の山々がそびえ立つように見えた。

↑北陸本線(現あいの風とやま鉄道線区間)の東富山駅〜水橋駅間を16時41分に通過する下り列車。眼前に立山連峰がそびえ立つ

 

【名列車の記録③】下り列車では日本海の景色が楽しみだった

福井県内から日本海にほぼ沿って走る「トワイライトエクスプレス」だが、富山県までは一部区間を除き日本海が見えない。車窓から良く見えるようになるのが、富山県内の東端、越中宮崎駅近辺からだった。時間は18時6分過ぎのこと。つまり、日が短い季節に乗車すると日本海側の景色があまり楽しめなかった。逆に日が長い季節の列車に乗車すれば、日本海の眺望と夕日と、とことん付きあうことができた。

↑北陸本線(現えちごトキめき鉄道)有間川駅〜谷浜駅間を走る下り列車。海岸線をなぞるように走っていった

 

越中宮崎駅と市振駅間に富山県と新潟県の県境がある。県を越えた後に、まず海景色がきれいに楽しめたのが、北陸本線(現えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン)有間川駅〜谷浜駅(17時50分通過)だった。

↑青海川駅〜鯨波駅間にある有名な撮影ポイントで。筆者もたびたび通ったが、夕日と列車は思い通りの絵にはなかなかならなかった

 

17時59分、直江津駅を発車して信越本線に入る。信越本線には日本海の景色のベストポイントが連なる。特に同線の柿崎駅から鯨波駅まで5駅15km区間は、ほぼ路線が海岸にぴったりと沿って走る。時間は18時13分〜18時24分で、天気が良いと海上に佐渡が望めた。季節がぴったりあえば海岸線に沈むダイナミックな夕日が楽しめる区間でもあった。

 

日の長い季節には柏崎駅18時27分(通過)はもちろんのこと、長岡駅19時4分発、東三条駅19時22分(通過)ぐらいまでは車窓から風景が楽しめた。外が暗くなるころには次のお楽しみが待っていた。

 

【名列車の記録④】ディナーに加えてパブタイムも楽しみに

3号車食堂車「ダイナープレヤデス」でのディナータイムは、1回目が17時30分〜19時、2回目は19時30分〜21時とそれぞれ1時間30分にわたり豪華フランス料理のディナーコースが楽しめた。食堂車には厨房があり、そこで調理が行われ、作り立ての料理が各テーブルに運ばれた。筆者も2回ほど頂いたが、やはり取材ということでなく、プライベートで味わいたかったと今でも思う。ディナーコースは1万2000円で、列車の食堂車のメニューとしては高価だったものの、振り返ればそれだけの価値があったように思う。また部屋や、サロン車に運んでもらう形で、日本海会席御膳6000円も味わえた。

 

両メニューとも事前予約制だが、発車後に予約が可能な1500円弁当も用意されていた。

↑ディナーコース、日本海会席御膳ともに内容が細かく記載されたメニュ—が手渡された。左上は写真入りのメニュー案内

 

ディナータイムが終わる21時から23時まではパブタイムとなった。ランチタイムと同じく予約は不要で、誰もが気軽に利用できた。ビール、日本酒、洋酒、ワインを用意、軽食もミックスナッツ400円からスモークサーモン900円、夕食を食べ損ねた人向けにビーフピラフ(和牛)1200円といった料理も提供され、手軽に楽しめた。

 

筆者はこの時間が好きで乗車時は常にパブタイムを利用したが、意外に利用者は少なく、同乗したスタッフとのんびりと夜の語らいが楽しめた。

↑写真はスペアリブ1510円。パブタイムのメニューはたびたび刷新された。生ビールは札幌で積んだ北海道クラシックで人気があった

 

パブタイムが終了すると、食堂車のスタッフはようやく休憩をとることができる。翌朝6時(上り列車は6時45分から)から9時までモーニングの時間となる。後片づけ、さらに朝の仕込みと、その仕事内容は大変だったように思う。

 

【名列車の記録⑤】漆黒の闇の中、ひたすら東北を走り抜けていく

ディナータイム、そしてパブタイムを楽しむなか、列車は北を目指しひた走る。本州で最後の停車駅は新津駅で、この駅を19時45分に発車してからは、次の停車駅、北海道の洞爺駅までは旅客の乗り降りはできない。途中、待ち合わせなどでの運転停車はあるものの、漆黒の中を休みなく走る。新津駅から羽越本線、秋田駅からは奥羽本線を走った。

 

そんな運転停車駅の一つ、奥羽本線大久保駅。ここでは、ほとんど知られていなかったが、2回目のトワイライトエクスプレスのすれ違いを行う日があった。

 

秋田駅から5つめの大久保駅に深夜0時13分、下り列車が到着。この駅でしばらく停車する。0時23分、上り列車が駅に近づいてきた。上り列車の電気機関車が “ピュッ”と軽く警笛を鳴らす。それに答えるように下り列車が“ピュッ”と警笛で返す。それがこの駅での深夜の“儀式”だったのだ。上り列車が高速で通り過ぎた後に、下り列車は同駅をゆっくりと発車していった。

↑大久保駅構内に停まる下り列車(向かい側)の手前を、軽く警笛を鳴らして、上り列車が通り過ぎていった。夜の0時過ぎの“儀式が”行われていた

 

大久保駅で上り列車をやり過ごした列車は、再び奥羽本線を北上していく。途中は運転停車を繰り返すものの、ドアが開くことはない。そして奥羽本線の終点、青森駅の構内へ入っていく。

 

以前は青森信号場での折り返しだったが、運転最終年ごろには青森駅構内に変更されていた。青森駅着は2時40分ごろ。ここで牽引機がEF81形交直流電気機関車からED79形交流電気機関車に付け替えられる。

↑同写真は上り列車の青森駅発車シーン。上り列車は9時台の発車と駅の営業時間内の発着だったが、同駅では乗降ができなかった

 

青森駅はスイッチバック式の駅のため、逆方向に走り始めた下り列車は、奥羽本線から津軽海峡線(現・津軽線)へ入っていく。もちろん漆黒の闇の中で、車窓から眺めてもどこを走っているのかは良く分からない。津軽海峡線の蟹田駅で、JR西日本とJR北海道の乗務員の引き継ぎが行われる。時間は3時10分過ぎ。鉄道乗務員という職種の大変さが良く分かる光景だった。

 

そして3時30分に津軽今別駅(現・奥津軽いまべつ駅)を通過、間もなく青函トンネルへ入っていく。青函トンネルの長さは53.85km。進入した列車は2つの海底駅を通過して約40分で北海道側の出口を出る。

 

【名列車の記録⑥】起きたころに北海道の景色が車窓に広がる

青函トンネルの北海道側出口は、早朝4時20分ごろに通過する。この時間だとよほど日が長い季節を除いて、外の景色を見ることができなかった。できたとしても霧に覆われることも多かった。

↑青函トンネルの北海道側を出た下り列車。同写真は定刻の時間をかなり遅れた時の様子。通常は早朝でほぼ撮影することができない列車だった

 

前回触れたように、筆者は同列車の専門誌を作っていた時期がある。当時はJR西日本の協力を得ていたこともあり、列車の遅延に関して触れることはご法度だった。運行が終わったので触れることができるのだが、長距離、長時間を走る列車だけに、天気の影響、さまざまなトラブルにより、遅延も多かった。遅れは乗車している人たちにとっては迷惑な話だが、カメラを構えている立場の時には、ふだん撮れない場所で、撮影できるといった予想外の恩恵もあった。

↑釜谷駅〜渡島当別駅間を走る下り列車。2014年7月8日の4時49分の撮影で、霧でけぶる。右上は牽引するED79形交流電気機関車

 

木古内駅(きこないえき)を朝4時21分に通過。間もなく津軽海峡が右側に見えるようになる。夜が明けるにつれて海景色が次第にはっきりし始める。

 

4時43分、渡島当別駅を通過するころには、車窓から海越しに函館山が見えるようになる。列車が走る渡島半島と函館山の間には函館湾が深く切れ込んでいるが、海には海峡フェリーなど航行中の船舶も確認することができた。

 

【名列車の記録⑦】駒ヶ岳、内浦湾など北海道の眺望を楽しみつつ

津軽海峡線(現・道南いさりび鉄道)を走ってきた下り列車は五稜郭駅へ5時5分に到着する。この先、函館駅へ線路が延びているが、列車は函館駅まで行かずに五稜郭駅まで。ここで機関車をED79形交流電気機関車からDD51形ディーゼル機関車の牽引にバトンタッチされた。

 

5時18分、交替の機関車の連結が完了し、下り列車はまた反対方向へ向けて走り出す。津軽海峡線のみ、1号車のA寝台個室スイートが機関車の後ろに連結されていたが、同駅からは再び、最後端となって札幌駅を目指す。

 

函館本線は七飯駅(ななええき)から先、二手に分かれている。下り列車は現在の新函館北斗駅(旧渡島大野駅)側の路線を通らずに、下り貨物列車や一部の旅客列車が利用する通称・藤城線という路線を通り抜けた。藤城線は途中に駅がなく列車の運行本数をスムーズにすべく設けられたバイパス線だ。ここを下り列車は徐々に上っていく。しばらく山間を通りトンネルを抜けると急に視野が開け、左手に小沼と湖越しに駒ヶ岳が望める。

↑函館本線を走る列車の車窓からは小沼と湖の先に駒ヶ岳が望めた。写真は上り列車のもの

 

大沼駅を5時37分に通過。この先で函館本線は再び二手に分かれ、下り列車は駒ヶ岳の西側にある函館本線の本線を、上り列車は駒ヶ岳の東側にある函館本線の砂原線を走る。砂原線の方が路線として長く、それだけ遠回りとなる。下りと上り列車の営業距離の違いが出てしまうのは、函館本線のここの区間の差があったためだ。

 

駒ヶ岳山麓を走った列車は森駅へ向けて駆け降りていく。森駅のすぐ右手から見え始めるのが内浦湾だ。

↑森駅を通過した下り列車。左に内浦湾、右奥に駒ヶ岳が見える。同写真は列車遅延時のもので、実際は同駅付近では日の出が楽しめた

 

内浦湾は北海道南西部にある大きな丸い湾で、函館本線、室蘭本線はこの湾を半周するように沿って走る。森駅の通過は5時59分ごろで、3号車の食堂車ではモーニングサービスがちょうど始まるころだ。天気が良い時には内浦湾越しに室蘭方面の山並みを望むことができた。朝食時間になんとも贅沢な眺望が楽しめたわけである。

↑日本一の秘境駅として知られる小幌駅と礼文駅間を走る下り列車。内浦湾沿いは険しい地域もあり、山間部を通る区間もあった

 

函館本線を走ってきた下り列車は長万部駅(おしゃまんべえき)を6時49分に通過し、室蘭本線へ入る。秘境駅の小幌駅(こぼろえき)などを通過しつつ、内浦湾沿いに走り続け、7時18分に洞爺駅に到着。

 

この駅が本州の新津駅以降、旅客が乗降できるはじめての駅となる。JR東日本が運行していた特急「北斗星」が道内では函館駅、森駅、長万部駅と、停車駅が多かったのに対して、「トワイライトエクスプレス」は洞爺駅が道内最初の停車駅だった。やはり列車運行に協力してもらうJR東日本の意向もあったのだろう。下り列車は洞爺駅の先、東室蘭駅7時52分、登別駅8時11分と停車しつつ走った。

 

【名列車の記録⑧】札幌近くまで自然に包まれて走る

苫小牧駅に8時50分に到着。この苫小牧駅は白老駅から沼ノ端駅まで続く、日本一の直線区間(28.7km)の途中にある駅で、北海道の広さを感じる区間でもある。苫小牧駅の一つ先、沼ノ端駅からは千歳線へ入る。

 

千歳線は平和駅からは函館本線に入り、札幌駅の郊外線の趣が感じられる。とはいえ、北海道らしい緑が沿線にふんだんに残る。

↑植苗駅〜沼ノ端駅間を走る上り列車。撮影をしていたところ、タヌキが物珍しそうに近づいてきた(左上)

 

車窓からもそうした豊かな自然を眺めることができる。豊かということは野生の動物も多い。上記の写真のようにタヌキにも出会うし、駅のちかくでも「熊出没!」といった看板は多く見かけることができる。

 

次の停車駅は千歳空港にも近い南千歳駅だが、「トワイライトエクスプレス」が走っていたころには、同駅手前に美々駅(びびえき)という駅があった。この駅、下車客が1日に1人という秘境駅で、残念ながら2017(平成29)年に廃止された。新千歳空港といった施設がありながらも、住民はいないといった秘境感が感じられるのも千歳線なのである。

↑札幌駅を目指して加速する下り列車。撮影は美々駅付近でのもの。乗降客がほとんどいなかったために美々駅はすでに廃止されている

 

南千歳駅に9時10分に到着する。この駅を発車すればあとは終着の札幌駅だ。南千歳駅を過ぎても駅周辺に民家は連なるものの、緑が多い。新札幌駅あたりからは札幌市の郊外といった趣が強まる。

 

平和駅でふたたび函館本線へ入る。白石駅が過ぎると「いい日旅立ち」のBGMが車内に流れ始める。いよいよ22時間におよぶ長旅の終わり、9時52分に札幌駅へ到着。ほぼ1日がかりの長い旅ながら、列車から降りる乗客のほとんどが、疲れよりも充実した面持ちを強く感じられたのであった。25年8か月にわたる運行年月に、なんと116万人が利用したとされる「トワイライトエクスプレス」。今後も多くの人たちの記憶に残るに違いない。

 

【名列車の記録⑨】最終年、山陰、山陽を走った列車が最後に

「トワイライトエクスプレス」は2015(平成27)年3月12日を最後に大阪駅〜札幌駅間の定期運行が終了した。その後の1年は余韻を楽しむように2016(平成28)年3月21日まで「特別な『トワイライトエクスプレス』」が運転された。定期運行時の9両編成を7両編成に短縮、そのうち4両がA寝台個室車両という特別な編成だった。1両がB寝台車両(乗務員室として利用)と減ったものの食堂車、サロン車は付けられていた。

 

団体列車で金額も高めだったものの、非常に盛況だったとされる。牽引機は電化区間がEF65形直流電気機関車、非電化区間はDD51形ディーゼル機関車だった。コースは大阪駅、京都駅を起点に琵琶湖を一周するコースや、山陽本線、山陰本線を走破するコースで盛況だったと聞き及ぶ。2017(平成29)年6月17日には「TWILIGHT EXPRESS瑞風」がデビューした。もちろん「トワイライトエクスプレス」のDNAを受け継ぐ豪華寝台列車である。

↑山陰本線を走った「特別な『トワイライトエクスプレス』」。西日本での走行ながら日本海を眺めて走る豪華列車として人気だった

 

一方、「トワイライトエクスプレス」は京都市の京都鉄道博物館で、A寝台個室スイートがあるスロネフ25形501号車と、食堂車のスシ24形1号車がトワイライトプラザ内で展示保存されている。京都へ訪れた時にはぜひとも訪ねて、名車両たちとの再会を果たせたらと思う。

5年前に惜しまれつつ消えた豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」の記録【前編】

〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.1〜〜

 

旅や遠出が思いどおりにできない今日このごろ。そんな時には、前に乗った、見た、撮った列車の記録を、見直し、また思い出してみてはいかがだろう。

 

筆者が最も思い出深い列車といえば豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」だ。2016(平成28)年3月22日にツアー専用列車の運行が終了して早くも5年がたつ。どのような列車だったのか振り返ってみたい。

*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載

 

【はじめに】トワイライトエクスプレス誌・計6冊を制作する

2009(平成21)年から2016(平成28)年にかけて学研パブリッシング(現ワン・パブリッシングと学研プラス)では、「トワイライトエクスプレス」関連の専門誌を計6冊ほど発刊した。全ページ「トワイライトエクスプレス」の情報と話題のみという濃い内容。筆者はこの6冊を編集者としてまとめたが、振り返れば非常に楽しい仕事だった。

↑学研パブリッシングから6冊の「トワイライトエクスレス」専門誌が出版された。一部のみ今も学研出版サイト・ネット書店で在庫あり

 

同誌は、基本カメラマンに撮影をお願いしたのだが、何しろ長い距離を走る列車だけに、追いきれない。そこで筆者も手伝い、カメラ撮影とビデオ撮影をカバーしていた。大阪行の上り列車を新潟県の日本海沿岸で撮って、さらに福井県の敦賀まで高速道路を使ってクルマで追いかけたこともある。逆に、北へ下り列車を追いかけたこともあった。今思えばかなり無謀な行程ではあったが、当時はそれが楽しかった。

 

鉄道ライターと一緒に列車に乗車して、列車の趣を体感したこともある。そんな当時に記録した写真がふんだんにあり、今回はそうした写真類から、この名列車の面影を振り返りたい。

 

【名列車の記録①】22時間以上の時間をかけて列島を縦断する

豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」とはどのような列車だったのか、まずは概要を見直してみよう。

運行開始 1989(平成元)年7月21日、団体専用列車として運行開始、同年12月2日に定期運行開始
運行区間 大阪駅〜札幌駅
営業距離 下り1495.7km、上り1508.5km
※函館本線の走行区間が下り上りで異なるため距離数に差がある
所要時間 下り22時間2分、上り22時間48分(最終年の所要時間)
車両 24系25形客車。牽引はEF81形交直流電気機関車、ED79形交流電気機関車、DD51形ディーゼル機関車
料金 Bコンパートメント26.350円、1人用A寝台個室ロイヤル3万7570円など
※大阪駅〜札幌駅間の大人1人分の運賃+特急料金+寝台料金
運行終了 2015(平成27)年3月12日、臨時運行終了(大阪駅〜札幌駅間)、2016(平成28)年3月21日、団体専用列車「特別な『トワイライトエクスプレス』」の運行終了

 

「トワイライトエクスプレス」の基本的な運行日は、大阪駅発が月・水・金・土曜の発車、札幌駅発が火・木・土・日曜。毎日走るわけではなかったため、臨時列車扱いだったが、定期運行は26年にわたった。その後に山陽・山陰方面を走る団体専用列車「特別な『トワイライトエクスプレス』」の運行が1年ほど続けられた。

↑富山県〜新潟県内はほぼ日本海に沿って走る。写真は信越本線・笠島駅〜青海川駅間で変化に満ちた海岸風景が楽しめた

 

営業距離が1500km前後と長距離で、22時間と長時間走る。本州では日本海沿岸をなぞるように走り、北海道では太平洋を見ながら走る。寝台列車としては国内最長距離、最長時間を走った列車だった。それだけに沿線各地の車窓景色が堪能できた。

※各区間の風景は後編で紹介の予定。

↑同列車の走行ルート。Mapのように本州ではほぼ日本海沿いに走った。ルートでは3形式の異なる機関車が列車を牽いた

 

料金を見るとB寝台ならば運賃など含め2万円台で、A寝台個室ならば、1人用は3万円台で列島を縦断できた。ちなみに、B寝台個室ツインは2人で5万6520円、A寝台個室スイートは2人で9万2180円だった。B寝台はかなりリーズナブルな金額だったし、A寝台個室でも極端に高い金額ではなかったように思う。

 

意外に手頃な金額だったこともあったのか、運行される列車は連日ほぼ満席・満室で、個室スイートなどの特別な部屋はそれこそ“プレミア”チケットで、手に入れるのが非常に難しかった。ちなみに6冊のトワイライト本を制作するために、スタッフ数名が複数回乗車したが、雑誌取材だからといって、特別に手配してもらえる恩恵はなかった。

 

乗車券の入手は一般の人と同じように1か月前の朝10時にみどりの窓口に並ぶ、もしくは、旅行代理店に頼んだ。懇意にしていた旅行代理店に、指定券の“獲得”が上手な営業スタッフがいて、そうした人に頼んで入手したものである。

 

【名列車の記録②】列島の四季が車窓からふんだんに楽しめた

22時間、1500kmも走るのだから、南と北ではだいぶ様相が変わる。季節によって、車窓風景の変化が楽しめることもこの列車の楽しみだった。本州では桜の開花に立ち会いつつ、北へ走るとまだ冬景色ということもあった。そんな四季で色づく列島の景色がふんだんに楽しめた。

↑北陸の石川県と富山県の県境、倶利迦羅峠(くりからとうげ)を訪れると桜が満開。そんな桜の下を列車が通り過ぎた

 

↑北海道では太平洋側は晴れていたのに、札幌付近では吹雪に急転するといった天気の変化もこの列車に乗車していると体感できた

 

車窓風景だけでなしに、車両の編成も興味深かった。客室の窓から風景を楽しめるのはもちろん、共用スペースから風景が楽しめることも、この列車の魅力になっていた。次は、列車の編成に関して振り返ってみよう。

 

【名列車の記録③】深緑色の9両の客車+電源車の列車編成

「トワイライトエクスプレス」の側面から写した車体を連ねて、解説を付けてみた。写真は下り札幌駅行の本州での列島編成だ。進行方向、左側の側面である。編成は電気機関車を頭に、すぐ後ろに電源車、その後ろに9両の客車が連結されていた。

↑計11両の車両を側面から連写。その写真を合成してみた。窓を2段にするなどブルートレインを大改造した客車が利用された

 

客車は24系25形と呼ばれる車両で、2000年代まで多く走っていたブルートレインと同形式だ。形式は同じなのだが、「トワイライトエクスプレス」の場合は大きく改造されていた。工場での改造中の写真を見せてもらったことがあるが、2段ベッドのB寝台車を除き、他は原形を留めないほど、大きく改造された。

 

各号車の概要について触れておこう。

1号車
スロネフ25形(A寝台個室)
A寝台個室のスイート1室と、1人用ロイヤル4室を備える。1号室のスイートは“展望スイート”と呼ばれるプレミアムな部屋だった(詳細後述)。
2号車
スロネ25形(A寝台個室)
2号車にはA寝台個室のスイートが1室、1人用ロイヤルの4室が設けられる。中央に大きな曲面ガラスの窓があるが、ここにA寝台個室のスイートがあった。
3号車
スシ24形(食堂車)
3号車は食堂車「ダイナープレヤデス」。おしゃれな欧風の内装が特長だった。この車両のみ屋根が低く、“きのこ型”のクーラーが載る。特急電車用の食堂車を改造したため、このスタイルとなった。
4号車
オハ25形(サロン車)
4号車はサロン車の「サロン・デュ・ノール」。大型の曲面ガラスを使った窓が並ぶパノラマサロンカーだ。室内には上下2段の座席が設けられていた。
5・6号車
オハネ25形(B寝台個室)
5・6号車は同形車で、B寝台個室のツインが7室、シングルツインが6室、用意された。シングルツインはツインに比べてせまいが2人利用も可能だった。
7号車
オハネ25形(B寝台個室)
5・6号車と同じ形式だが、2段の窓が多い。B寝台個室ツインが5・6号車の7室に対して、7号車は9室設けられ、また車両端にミニロビーが付いていた。
8号車
オハネ25形(B寝台)
開放式B寝台のBコンパート(簡易的な個室にもなる)が連なる。ブルートレイン客車と同じベッド構造だが、同列車の場合には引戸が付き4人グループ使用の時には個室として利用できた。
9号室
オハネフ25形(B寝台)
開放式B寝台のBコンパート(簡易的な個室にもなる)車両で、8号車と基本は同じだが、9号車には車掌室が付いていた。8号車と同じく横に開く引戸が付けられていた。

 

【名列車の記録④】下り最後尾にある憧れのA個室スイート

A寝台個室、B寝台個室、B寝台といった客室、寝台スペースを持っていたトワイライトエクスプレス。最も人気があったのは9両で2部屋のA寝台個室スイートだった。1号車と2号車にそれぞれ1室のみ用意された特別な部屋で、それこそ“憧れの部屋”でもあった。

 

なかでも1号車の部屋番号1のA寝台個室スイートは車両端に設けられた部屋で、部屋から列車後ろの景色が“見放題”だった。

 

特に大阪駅発、札幌駅行の下り列車の場合には、大阪駅→青森駅(運転停車 ※以下同)と、五稜郭駅(運転停車 ※以下同)→札幌駅間で、後ろ側の風景が楽しむことができた。札幌駅発の上り列車の場合には、五稜郭駅→青森駅間で列車の後ろ側の風景を楽しめたものだ。ちなみに青森駅〜五稜郭駅間は、列車の進行方向が変わるために、後ろ前が逆となる。

 

電車ならば後ろは乗務員室となるが、乗務員室の中から見る景色そのものが、部屋から楽しめたのである。これは鉄道好きにはたまらない贅沢でもあり、乗車イコール至福の時間となった。

↑スロネフ25形を最後尾に走る下り列車。部屋はスモークガラスで見えないが、スイートの室内からは素晴らしい眺望が堪能できた

 

まさに憧れの1号車のA寝台個室スイートだが、実は筆者もこの部屋に乗車したことがある。もちろん個人の旅ではなく、取材だったのだが。外からは走行シーンを撮ることが多かった列車だが、それを中から見るという特別な時間を堪能した。おもしろいのは、部屋への訪問者が意外にいたこと。中を見せていただけないかという人が複数あり、こちらは仕事ということもあり、気軽に受け入れた。海外から訪れたご夫婦の探訪もあった。

 

同部屋にはシングルベッド2つ、またソファは展開すればシングルベッドとして利用可能で3人利用が可能だった。室内にシャワー&トイレもあり、リラックスして長旅が楽しめた。さらに夕方、日本海沿岸を走るころには海に沈む夕日を見ることもできた。それこそ列車の名のもとになった「たそがれ」=トワイライトが満喫できたのである。

 

さて寝心地は? もう走っていないので書くことができるのだが、台車の上にベッドがあるせいか、震動がかなり伝わってきて熟睡できなかったと記憶している。もちろん旅をしている高揚感と、仕事で乗っている緊張感から眠気を感じなかったこともあったが……。なお、同じA寝台個室スイートは2号車の中央にもう1室があった。こちらは台車と台車のちょうど間なので、寝やすさという点で、お勧めという話を乗車した取材スタッフから聞いた。

 

やや寝にくかったとはいえ、やはり後端の客車に乗ったことはやや大げさながら一生の思い出となっている。

 

【名列車の記録⑤】食堂車&サロン車も魅力に満ちていた

「トワイライトエクスプレス」には1車両が丸ごとパブリックスペースという車両を2車両連結していた。

 

まずは3号車の食堂車「ダイナープレヤデス」。ダイナー(=食堂)プレヤデス(=プレヤデス星団/すばる)という凝った名前が付けられている。テーブルはフランス料理のフルコースに対応した大きさで、ランプなどの照明もおしゃれだった。車内の3コーナーにはステンドグラスが飾られている。

 

このステンドグラスは、国際的にも活躍しているステンドグラスの第一人者である立花江津子氏が手づくりしたものだった。筆者はこの方にお会いして取材したことがあるが、丹精を込めて造り上げたと語られていた。このような素晴らしいステンドグラスを飾られるなど、非常に凝った食堂車でもあった。

↑A寝台個室がある1・2号車と、B寝台がある5号車以降の客車にはさまれるように3号車食堂車と4号車サロン車が連結されていた

 

3号車の隣、4号車はサロン車で「サロン・デュ・ノール」と洒落た名前がつけられていた。「サロン・デュ・ノール」とはフランス語で“北のサロン”という意味だとされる。北にある北海道へ行く寝台列車にぴったりの名前でもあった。

 

車内は天井部まで回り込むような大きな曲面窓が連続している。特に日本海側の曲面窓がひと際大きく造られている。座席は大きな窓側を向いた作りで、しかもひな壇状になっている。後ろに座っても、景色が良く見えるように配慮されていた。自分の部屋で過ごすのに飽きてくるころ、また日本海が良く見える夕方になると、この車両に集う人も多かった。

 

大阪発、また大阪着という列車だったせいなのか、たとえ隣が知らない間柄でも、いつの間にか和気あいあいと親しくなってしまう。関西流の気軽さなのだろうか、そんな光景も良く見られた。景色を楽しむだけでなく、会話が弾む、楽しいスペースでもあった。時どき車掌が巡ってきて観光案内を行うといったサプライズもあった。

↑上り列車の最後尾には電源車が連結され、下りは津軽海峡線を除き、機関車の後ろに電源車がくるように列車が組まれていた

 

客車に関して、電源車のことも触れておこう。電源車の形式はカニ24形。なぜ、電源車が1両連結されていたのだろう。ブルートレインの客車形式といえば14系と24系が代表格だった。14系は電源供給するため床下にディーゼル発電機を備えていた。一方、24系は客車にディーゼル発電機を搭載せず、電源車を1両連結して、積んだディーゼルエンジンにより各車両へ電気を供給していた。

 

床下に発電機を付けないために微動もなく、客車として乗っていて静かに感じた。ちなみに電源車には3トンまで積める荷物室も付いていたが、通常時は使われなかったようである。

 

【名列車の記録⑥】3形式の牽引機関車も魅力的だった

「トワイライトエクスプレス」の記録の前編では、最後に列車を牽引した機関車にも触れておこう。同列車は3形式の機関車の牽引によって走っていた。これら機関車の引き継ぎにより約1500kmにも及ぶ長距離区間を走破していたのである。中でも最も長距離を牽引したのが次の機関車だ。

 

◆JR西日本 EF81形交直流電気機関車(大阪駅〜青森駅間)

↑本州ではJR西日本のEF81が「トワイライトエクスプレス」を牽引した。客車と同色でまた黄色い帯色が全車そろう姿が魅力だった

 

大阪駅から青森駅(運転停車)まで本州を貫く日本海縦貫線(北陸本線、信越本線、羽越本線など連なる路線を日本海縦貫線と呼ぶ)すべてを牽いて走ったのがEF81だった。客車の色に合わせて、深緑色の車体に黄色の細帯、運転席の窓周りに黄色いアクセントが入り、ピンク色の列車のヘッドマークを付けて走った。

 

EF81は直流電化区間、交流電化区間50Hzと60Hzの3つの電源方式に対応した電気機関車で、電化方式が目まぐるしく変わる日本海側の路線に対応すべく国鉄により開発され、製造された。3つの電源方式に対応した初の電気機関車でもあり、164両もの車両が造られ、旅客、そして貨物用にも使われた。

 

「トワイライトエクスプレス」運行用にトワイライト色のEF81が敦賀地域鉄道部敦賀運転センターに6両在籍したが、現在は3両まで減り、主にレール輸送など事業用に使われている。また日本海縦貫線を多く走ったJR貨物のEF81も今は同地区から撤退、九州のみを走るようになっている。

 

◆JR北海道 ED79形交流電気機関車(青森駅〜五稜郭駅)

↑早朝に青函トンネルを越えて北海道へ入った下り列車。先頭にたって列車を牽引するのがED79。シングルパンタが特長だった

 

津軽海峡線で列車を牽いたのがED79形交流電気機関車だった。ED79は津軽海峡線用に造られた電気機関車で、同ルートにある青函トンネルの急勾配、多湿環境に対応するために製造された。JR北海道の函館運輸所青函派出所に配置され、「トワイライトエクスプレス」だけでなく、特急「北斗星」「カシオペア」といった寝台列車の牽引も行った。運行最終年には8両が在籍していた。

 

JR貨物でも同形式を利用していた。貨物牽引では2両で牽く重連運転で活用された。ED79は計34両が造られたが、北海道新幹線の開業時に、青函トンネル内の電化方式が変更されたことから、全車が廃車となっている。

 

◆JR北海道 DD51形ディーゼル機関車(五稜郭駅〜札幌駅)

↑北斗星塗装のDD51が2両重連で、「トワイライトエクスプレス」を牽引した。「北斗星」用の塗装だったが、意外と絵になった

 

北海道ではDD51形ディーゼル機関車が2両重連で牽引を行った。DD51は国鉄が製造したディーゼル機関車で、非電化区間ではこの機関車の独壇場といった活躍ぶりを見ることができた。道内では、「トワイライトエクスプレス」だけでなく、「北斗星」「カシオペア」の牽引も行った。元々、「北斗星」の運行開始に合わせて、塗装も北斗星仕様としたが、「トワイライトエクスプレス」を牽引しても絵になったように思う。JR北海道のDD51は函館運輸所に10両(2015年4月1日現在)が配置されていた。

 

北海道新幹線の開業時に定期運行される寝台列車が消滅したことから、全車が廃車されている。他のDD51はJR貨物の車両が東海地方で走っていたが、2021年3月で引退となった。残りはJR東日本とJR西日本に事業用として残るのみで、ごくわずかとなっている。ちなみに北斗星塗装のDD51は海外に譲渡され、そのままの塗装でミャンマーやタイで活躍していることが伝えられている。

 

ED79やDD51といった牽引機が消えてすでに6年。時代の移り変わりの速さに改めて驚かされる。

 

約100年で大きな変化が!?「鉄道鳥瞰図」で見えてくる当時の沿線模様

〜〜大正・昭和初期の鉄道路線図・鳥瞰図を読み解くNo.2〜〜

 

大正から昭和初期に盛んに作られた鳥瞰図。観光地だけでなく、鉄道の路線案内図も多く作られた。古い鳥瞰図を見ると、意外な発見があり、それが楽しい。

 

今回、紹介する鉄道鳥瞰図は、現在も走る路線の100年近く前の姿である。この時代の鳥瞰図と絵葉書で複数の沿線の過去をたどってみよう。路線は“こんなだったのか”という発見に加えて、当時の文化の一端も見えてくる。

 

【関連記事】
吉田初三郎の熱意に引き込まれる!大正&昭和初期の「鉄道鳥瞰図」の世界

*緊急事態宣言および、まん延防止措置が引き続き一部地域に宣言・発令されています。不要不急の外出を控えていただき、宣言解除後に鉄道の旅をお楽しみください。

 

【鳥瞰図は物語る①】路線と駅名の変化が著しい静岡鉄道沿線

前回は“大正の広重”と称された吉田初三郎の鳥瞰図の魅力に注目してみた。今回は、初三郎と並ぶ存在とされた金子常光(かねこつねみつ)の鳥瞰図を中心に、話を進めたい。

 

1894(明治27)年生まれの金子常光は、吉田初三郎の10年後輩とされている。初三郎の弟子となり学んだ後、1922(大正11)年に独立し、日本名所図絵社という会社を立ち上げに関わり、約1500点ともされる鳥瞰図を作り出している。初三郎と同じく、その生涯は謎に満ちている。没年も明確ではない。当時の商業デザインの世界は、一時的に名を挙げたとしても、後世まで名を残すことは稀だったのであろう。そんな金子常光が描いた鳥瞰図を元に、約100年で大きく変わっていった鉄道路線に注目した。まずは静岡市内を走る静岡鉄道から。

*鳥瞰図および絵葉書は筆者所蔵。禁無断転載

 

◆1927(昭和2)年発行・静岡電氣鐵道「静岡清水遊覧案内」

↑金子常光が昭和初期に描いた静岡鉄道沿線図。三保の松原、久能山といった観光地も描かれる。鳥瞰図のサイズは横75cm、たて18cm

 

静岡鉄道は静岡市内の新静岡駅〜新清水駅間11.0kmを走る。路線距離は短いものの、列車本数が多く便利で、静岡市民の大切な足として利用されている。

 

紹介の鳥瞰図は今から94年前に発行されたものだ。これを見ると、まずは現在の起点、終点駅の名前が異なっていたことが分かる。新静岡駅は鷹匠町(図では静岡鷹匠町)、新清水駅は江尻新道となっている。さらに両駅ともこの先に路線が描かれている。新静岡駅側は、静岡駅前〜安西間に鉄道路線が走っていたことが分かる。また新清水側は清水終点(他資料では「清水波止場」とあり)まで路線が走っていた。調べると新静岡駅側には、静岡駅前〜安西間を静岡市内線の軌道線2.0kmが走っていたことが分かった。

↑駿府城趾の堀端を走る静岡鉄道静岡市内線の絵葉書。現在の駿府城公園の城垣から撮影したと思われる

 

新静岡駅、新清水駅から先の路線は、静岡市内線は1962(昭和37)年に、新清水駅から清水波止場までは1949(昭和24)年に廃止されている。

 

一方、当時の鉄道省(後の国鉄)の東海道本線が平行して走っていたが、こちらも現在との違いが見られる。現在の清水駅は鳥瞰図の作成当時は江尻駅と呼ばれていた。また草薙駅だが、現在は静岡鉄道とJR東海道本線の駅がすぐ近くにあり乗り換え客も多い。1926(大正15)年4月3日には東海道本線の草薙駅も誕生しているはずなのだが、図には同駅が描かれていない。印刷が間に合わなかったのか、意図して描かなかったのかは分からない。当時の鳥瞰図、路線図は、意図してライバル会社の駅や路線を入れないケースがある。このあたり、どのような背景があるのか知りたいところだ。

 

路線図を見ていて不思議に思ったのは、観光地として知られる三保の松原の半島部に点線が記されていること。また久能山の登り口、太平洋に沿った海岸沿いにも点線が記される。両線は予定線で「三保線」「久能線」という記載がある。調べてみると三保線は、実際に清水波止場から路線延長を目指して工事が進められた路線だった。着工されたが、太平洋戦争のさなかという時期もあり、路線開業が断念されている。同地域には国鉄清水港線(1984・昭和59年に廃線)がすでに敷かれていたことも、工事中止の理由としてあったのかも知れない。この点線は、2本とも未成線と終わった。

 

実は静岡鉄道にはこうした未成線以外に、路線網が広がった時代があった。太平洋戦争中の1943(昭和18)年に、旧清水市内を走る清水市内線(路面電車)と、波止場線、駿遠線を吸収合併している。この3本とも1970年代までに次々と廃止されているのだが、駿遠線に至っては68.5kmにも至る路線だった。現在は、11.0kmという短い路線のみの鉄道会社となっている静岡鉄道だが、鳥瞰図がつくられた時代から現代に至るまで、未成線となった予定線、複数路線の吸収合併、そして廃止といった、幾多のドラマが同社の歴史には隠されていたのである。

 

【鳥瞰図は物語る②】移り変わりに驚かされる黒部川流域の路線

黒部川流域といえば、現在は富山地方鉄道本線が電鉄黒部駅〜宇奈月温泉駅間を走り、その先には黒部峡谷鉄道が延びる。現在の路線となる前に、富山地方鉄道本線の路線は黒部鐵道という鉄道会社の路線で、また黒部峡谷鉄道の路線は日本電力の専用鉄道線だった。当時の路線を描いた金子常光作の鳥瞰図がある。大きく変わる前の沿線の様子をひも解いてみよう。

 

◆1931(昭和6)年発行?・黒部鐵道「黒部峡谷と宇奈月温泉」

↑金子常光作の黒部鐵道の鳥瞰図。横35.5cm、縦12.6cmと他の図に比べるとコンパクト。表には路線図が、裏には観光案内が記される

 

現在の富山地方鉄道本線の電鉄黒部駅(旧・西三日市駅/にしみっかいちえき)〜宇奈月温泉駅(旧・宇奈月駅)間の16.1km間が黒部鐵道の元路線と重なる。

 

黒部鐵道は1922(大正11)年11月5日に三日市駅(現・あいの風とやま鉄道・黒部駅)と下立口駅(おりたてぐちえき)間に路線が開業、翌年11月21日に桃原駅(後の宇奈月駅)まで路線が延びている。三日市駅では当時の鉄道省の北陸本線と接続、その先に石田港駅という貨物取扱駅があり、鉱物資源の輸送用と、黒部川の電源開発用の資材運搬線という役割が強かった。

 

鳥瞰図にも石灰石産地、大理石採掘場などの文字があり、沿線は鉱物資源が豊富だったことをうかがわせる。

↑昭和初期だと思われる宇奈月駅付近の絵葉書。電車が貨車を引いて走る様子が写り込む。走る電車は同絵葉書のようにかなり小型だったようだ

 

金子常光が描いたとされる鳥瞰図。左半分が日本海沿岸部で、右半分に黒部峡谷が描かれるが、見ると峡谷の険しさがよく分かる。昭和初期の同地域は、まだ未踏のエリアが残り、官製地図は当てにならなかったと推測できる。鳥瞰図を描いた時の作図も、さぞや大変だったと思われる。1931(昭和6)年ごろに初版発行されたようだが、同鳥瞰図は人気があったようで、筆者の手元にあるものは1933(昭和8)年暮れの発行ですでに第五版となっている。当時の黒部峡谷は、未知のエリアで、そこに魅力を感じた旅行者も多かったことだろう。

 

なお、同鳥瞰図では、宇奈月駅を境にした路線の違いが明確に記述されていない。宇奈月駅(現・宇奈月温泉駅)から先は資材運搬用鉄道が敷かれていた。管理していたのは日本電力で、同鳥瞰図の裏面には「日電専用の軌道電車」と解説されている。日本電力専用鉄道という名称の鉄道路線で、宇奈月〜猫又間が1926(大正15)年10月26日に開通した。鳥瞰図が発行されたころには小黒部川まで通じていたとの情報もあるが、鳥瞰図には、小屋ノ平までの記載しかない。

 

その理由としては、あくまで電源開発用の資材や作業員の輸送用の路線で、旅客用路線でないことが考えられる。金子常光の元には路線の開業情報が伝わらなかったようだ。そんな状況でも同鉄道は乗車希望者が多く、 “便乗”という形で列車を走らせていた。乗車券(便乗券)には「生命の保証はしない」と記されていたとされる。

↑昭和初期の日本電力専用鉄道の路線絵葉書(一部を拡大)。見ると貨車に旅客が乗車している様子が見て取れる

 

当時の絵葉書を見ても、貨車に旅客が“便乗”していたようだ。現在でこそ、黒部峡谷鉄道という立派な観光列車の路線となっているものの、当時はそれこそスリル満点だったろう。沿線には黒薙温泉(くろなぎおんせん)などの温泉宿があり、秘湯として人気だった。現在の黒部峡谷鉄道が走りだした後もこうした秘湯への道はなく、鳥瞰図ができた時代と同じように鉄道に乗車して最寄り駅へ、そして駅から歩かなければ到達できない秘湯中の秘湯がこの地にはある。

 

鳥瞰図でおもしろいのは、沿線にスキー場の文字が記載されていること。昭和初期は、スキーが最初のブームになった時期でもあり、楽しむ人向けにスキー場を設けたのであろう。ただしリフトまであったかどうかは不明だ。当時はスキーの板を担いで山を登り、斜面を滑り降りるスキー場が多かったからだ。

 

鳥瞰図で気になるのは日本海の姿。富山湾に沿った先に能登半島がないのである。このあたり、黒部峡谷の描写にとらわれ過ぎて、半島の存在を忘れたのだろうか。ちょっと不思議なところだ。

 

【鳥瞰図は物語る③】混乱が気になる大社線開通前発行の鳥瞰図

山陰地方で唯一の私鉄路線である一畑電車。路線は島根県内の電鉄出雲市駅と松江しんじ湖温泉駅を結ぶ北松江線と、川跡駅(かわとえき)と出雲大社前駅間を走る大社線の2本がある。同鉄道会社の歴史は古い。1912(明治45)年4月に「一畑軽便鉄道株式会社」として創始している。軽便の名称が付いたものの、山陰本線との車両の行き来も念頭におかれ、軌間を当初の軽便サイズから1067mmに変更して路線の開業を目指した。そして北松江線が1915(大正4)年に全通している。

 

◆1928(昭和3)年発行・一畑電氣鐵道「一畑薬師と出雲名所圖繪」

↑金子常光作の一畑電氣鐵道の沿線鳥瞰図。宍道湖を中心に右に中海が大胆に描かれる。路線は北松江線と大社線の両線が描き込まれる

 

ここで掲載する金子常光作の鳥瞰図は、昭和初期に制作されたものだ。当時の北松江線と大社線の路線が描かれる。現在の路線とはいくつかの違いが見られるので確認しておきたい。

 

まずは北松江線の起点、終点の駅名が異なっている。起点となる電鉄出雲市駅は当時の駅名が出雲今市駅、終点は現在、松江しんじ湖温泉駅だが、当時は北松江駅と呼ばれていた。ちょうど中間にある一畑口駅は、この当時は小境灘駅(こざかいなだえき)と呼ばれた。一畑口駅は現在もスイッチバック方式で、同駅で全列車が折り返しで運転されているが、当時、今で言うところの“盲腸線”で、一駅区間のみ先の一畑駅までの路線3.3kmが設けられていた。

↑賑わう昭和初期の一畑駅。一畑薬師の最寄り駅として開業した。1944(昭和19)年に休止され、戦後に正式に廃止された

 

小境灘駅(現・一畑口駅)から一駅先の一畑駅は、同線随一の観光駅で、当時の絵葉書を見ても駅前の賑わいぶりが見て取れる。しかし、場所は一畑薬師の千段階段と呼ばれる前にあり、門前までは徒歩20分以上かかり、しかも登り坂で、現代人よりも健脚だと思われる昭和初期の人たちも、さすがに大変だったようだ。そうした立地の問題に加えて、太平洋戦争の前の時代ともなると鉄道利用の参拝客が減ったようで、当時の“不要不急線”に指定され、一駅区間は休止となり、戦後の1960(昭和35)年に復活することなく廃止となった。

↑宍道湖沿いを走る一畑電車。風光明媚な路線が今も魅力となっている。彩色絵葉書のため当時の電車がこげ茶色だったことが分かる

 

金子常光作の鳥瞰図で気になるのは、大社線の掲載で問題点がいくつかあるところ。図内の大社線の路線に「大社神門(現・出雲大社前)、鳶ヶ巣間昭和四年三月開通」とある。この開通年がまず間違っている。大社線は1930(昭和5)年2月2日に開業した。

 

鳶ヶ巣(とびがす)という駅は、現在は存在しない。実はこの駅、1930(昭和5)年2月2日に廃止となっていた。ちょうど、この日に川跡駅(かわとえき)が鳶ヶ巣駅から電鉄出雲市駅側0.9kmの場所に開業し、北松江線と大社線の乗換駅として機能し始めている。鳥瞰図は1928(昭和3)年3月と大社線の開業前に発行されていたのだが、こうした路線の開業予定年の変更、また乗換駅の変更は、事前に予定していたと思われるのだが、それが盛り込まれていなかった。

 

当時、鉄道会社と鳥瞰図制作者との間のコミュニケーション手段といえば、郵便がメインだった。どうしても情報のやりとりの時間がかかり、行き違いが生じてしまったのだろうか。このあたりも興味深い。

 

【鳥瞰図は物語る④】“発見”が多い近鉄の観光路線の起源に迫る

今回、最後に紹介するのは金子常光の作ではなく、新美南果という絵師の名が入った鳥瞰図である。鳥瞰図の出来がなかなか良く、また路線の推移がなかなかおもしろいので取り上げてみた。鉄道会社の名前は志摩電鉄だ。さて志摩電鉄とは現在の何線にあたるのだろうか。

 

◆発行年不明(1929・昭和4年ごろ作?)・「志摩電鉄沿線御案内」

↑三重県の鳥羽駅と真珠港駅を結んだ志摩電鉄の鳥瞰図。リアス式海岸の英虞湾など丁寧に描かれている

 

吉田初三郎、金子常光以外にも多くの絵師が鳥瞰図を作った。当然、内容の出来不出来が出てくる。この新美南果という名の絵師の作品は現在あまり見かけないようだが、秀作のように思える。吉田初三郎の鳥瞰図の影響を強く受けていて、志摩半島から富士山が遠くに見えるといった、大胆なデフォルメが行われている。

 

さて、この鳥瞰図に記された志摩電鉄とはどのような鉄道会社で、どの路線を営業していたのだろうか。志摩電鉄とは、現在の近畿日本鉄道(以降「近鉄」と略)の志摩線の前身である。ただし、現在に至るまでは紆余曲折の路線史があった。

↑開業時ごろのものと思われる志摩電鉄の鳥羽駅の絵葉書。右手に参宮線の鳥羽駅ホームが見える。当時、線路幅は1067mmだった

 

現在、近鉄の志摩線は鳥羽駅〜賢島駅(かしこじまえき)間24.5kmを走る。多くの方がご存知のように、大阪、京都、名古屋から「しまかぜ」などの人気観光特急が走り、沿線は近鉄随一の観光エリアとなっている。

 

路線の開業は1929(昭和4)年7月29日のことで、鳥羽駅〜真珠港駅間24.8kmが開業した。路線を敷設したのは志摩電気鉄道で、同社は志摩電鉄とも呼ばれていた。開業当時に鳥羽駅で鉄道省の参宮線と接続していて、貨車の相互乗り入れが可能なように、線路幅も1067mmとしていた。ちなみに鳥羽駅まで、近鉄の路線はまだ到達していなかった。鳥瞰図に発行年は記述されていないものの、路線開業を祝して作られたものと推測される。

↑開業した当時の賢島駅の絵葉書。当時は終点駅でなく、この先に真珠港駅という終点の駅が設けられていた

 

志摩電気鉄道は、その後にやや複雑な歴史をたどる。まずは太平洋戦争のさなか、1944(昭和19)年に三重交通の路線となっている。三重交通は当時、三重県内の北勢電気鉄道、三重鉄道、松阪電気鉄道、志摩電気鉄道ほか乗合自動車を運行する会社なども合併していた。

 

戦後の変化も目まぐるしい。1964(昭和39)年に三重交通の鉄道事業を三重電気鉄道に分割譲渡、さらに1965(昭和40)年4月1日に近鉄が三重電気鉄道を合併した。1969(昭和44)年7月1日には賢島駅〜真珠港駅間0.3kmが廃止されている。さらに12月10日から鳥羽駅〜賢島駅間の路線改良工事が始まり、電車の運行が休止された。

 

この路線の工事は1067mmという線路幅を、近鉄の主要路線と同じ1435mmという線路幅に改軌することと、直流750Vだった架線電圧を1500Vに昇圧、同時にATS装置を取り付ける工事も行われている。

 

工事は3か月もかからず完了し、1970(昭和54)年3月1日に、近鉄鳥羽線からの列車の乗り入れが可能になった。ちなみに宇治山田駅〜鳥羽駅13.2kmを走る近鉄鳥羽線は1970(昭和45)年3月1日と志摩線の路線再開日にあわせて開業している。近鉄山田線、近鉄鳥羽線、近鉄志摩線と走る志摩半島へ結ぶ近鉄の観光路線網は、近年になってから完成したことが分かる。

 

志摩半島を走るローカル私鉄が、近鉄の傘下におさまり、今や人気の観光路線となっていったわけである。鳥瞰図ができた後を追ってみると、大きく変化していった歴史が同路線に潜んでいたことが改めて確認できたのである。

吉田初三郎の熱意に引き込まれる!大正&昭和初期の「鉄道鳥瞰図」の世界

 〜〜大正・昭和初期の鉄道路線図・鳥瞰図を読み解くNo.1〜〜

 

家で楽しめる鉄道趣味の世界。今回は大正期から昭和初期に“異常なほど”にブームとなった鉄道鳥瞰図を見ていきたい。吉田初三郎というひとりの天才絵師の登場により、その後、彼を追うように優れた作家たちが数多く生まれ、一大ブームとなったのだ。

 

彼らがつくる鳥瞰図は今みても、“えっ!そこまで描くか!”という構図が多く、強く引き込まれる魅力を放つ。当時の沿線模様が楽しめる約100年前の世界にタイムスリップしてみよう。

 

*緊急事態宣言および、まん延防止措置が引き続き一部地域に宣言・発令されています。不要不急の外出を控えていただき、宣言解除後に鉄道の旅をお楽しみください。

 

【はじめに】デジタル化された現代とは異なる超アナログの世界

鳥瞰図(ちょうかんず)とは、上空から陸地を斜めに見下ろすように作られた地図のこと。鳥のように空を飛び上空から眺めたところを図にしたものだ。下の図は筆者が作ったもの。ある出版社のガイドブックを編集制作した時に、立山黒部アルペンルートを上空から見るというテーマで作った。

↑ガイド誌に掲載した立山黒部アルペンルート(筆者作)。現在は地図作りがある程度できれば、そう時間がかからずに作図できる

 

現在では、カシミールという地図を3Dに加工するソフトと作図用ソフトを使えば、それほど難しくなく鳥瞰図を作ることができる。また、こうした出版用の鳥瞰図でなくとも、現代人は3Dビューの地図、つまり鳥瞰図に簡単に接することができ、敷居の高い世界ではなくなっている。

 

今でこそ簡単に作れ、また接することができる鳥瞰図の世界だが、100年ほど前に作り出していた人たちの苦労は生半可なものでなかったことが想像できる。

 

時は明治末期から大正、そして第二次世界大戦までの平和な時期。1912(明治45)年にジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社、現在のJTB)が創設され、国内外に観光ブームが巻き起こった時期でもあった。そんな時期に生まれた鳥瞰図を見て多くの人が触発され、旅を楽しむようになっていった。鳥瞰図はまさに観光ブームの火付け役ともなったのである。

 

【鳥瞰図の世界①】広げれば路線全体が一望できる神秘的な世界

大正から昭和初期に巻き起こった観光ブームの中で作られた鳥瞰図の装丁をまず見てみよう。多くの鳥瞰図は、国や府県、都市などの自治体、鉄道省(国鉄の前身)、旅館組合がお金を出して、絵師に依頼し、作図してもらった。民間の鉄道会社も例に漏れず、鳥瞰図を多く発注している。下の写真はそんな鉄道会社が発注した鳥瞰図の例である。

 

その多くは厚地の表裏カバーが付き、中には鳥瞰図が折り畳まれている。開くと左右80cmにもおよぶ大きな地図が広がる仕組みだ。タテは18cmほどなので、かなり横長だった。

↑吉田初三郎という絵師が描いた鉄道鳥瞰図の例。表裏のあるカバーの中に左側のような横長の鳥瞰図が折り込まれていた

 

広げると、それこそ鳥が飛んだ時に見えるような風景がそこに表現されていた。当時の人にはさぞや新鮮に見えたことだろう。大半の人が飛行機には乗る機会がなかっただろうし(日本初飛行は明治末期のこと)、航空写真やドローンなどで撮った映像などを見ることができなかった時代だからこそ、より鮮烈に受け取ったと思われる。

 

絵師たちはどのように鳥瞰図を作ったのだろうか。

 

参考になるのは平面的な地図のみで、今ほど細かい情報は書き込まれていない。鳥瞰図を作るとなると、その情報量の少ない地図を持って、描く場所をくまなく歩いて情報を得なければならなかった。カメラも持ち歩けるようなものは少なく、また筆記用具も今のようにコンパクトではない。クルマも容易に使えるものではない。鉄道を使って近くまで行き、あとは歩くしかない。ネット時代とは大きく異なり調査はかなりハードだったはずである。

 

そうした鳥瞰図の世界でスターとも呼べる人物が登場し、その人気が沸騰していく。今回は、そのブームを生んだ吉田初三郎作の鳥瞰図を中心に話を進めていこう。

 

【鳥瞰図の世界②】吉田初三郎が生みだした新世界。初期の作例

鳥瞰図の中で最も素晴らしい作品を生み出した絵師が吉田初三郎とされる。初三郎は1884(明治17)年、京都に生まれた。10歳の時に代表的な染色技法「友禅」の図案師の元に丁稚奉公に出され、その後に洋画家に師事。さらに師の薦めで商業美術の世界に歩を進めた。

 

鳥瞰図を作りはじめたのは30歳前後のことで、1914(大正3)年に「京阪電車御案内」という京阪電気鉄道の案内を制作したのが最初とされる。この鳥瞰図がその後の初三郎の運命を決めた。ちょうど皇太子時代の昭和天皇が「京阪電車御案内」をご覧になり「これはきれいで分かりやすい」と賞賛されたのである。

 

当時の、このお言葉の影響度は計り知れない。初三郎は途端に鳥瞰図の世界でスターダムにのし上がったのだった。その後には「大正の広重」とも称されるほど大物になっていく。初三郎が生みだした鳥瞰図は果たしてどのようなものだったのか、具体例を見ながら紹介していこう。今回例にあげたものは、みな脂がのったころのものだ。初三郎ワールドが全開となっている。

*鳥瞰図および絵葉書は筆者所蔵。禁無断転載

 

◆1922(大正11)年発行・秩父鉄道「沿線名所圖繪」

↑秩父鉄道が羽生駅〜武甲駅(貨物駅)間だった時代の鳥瞰図。先の三峰口までは未完成で予定線として描かれる。図内に電車の絵も見える

 

まずは秩父鉄道の「沿線名所圖繪」と名付けられた鳥瞰図から。初三郎が鳥瞰図を作り出して8年ほどの作品である。後期の作に比べると、極端なデフォルメはなされていないものの、秩父鉄道沿線を流れる荒川が東京湾まで流れ出る構図となっていて、遠く東京には明治神宮や、浅草観音寺などの文字が読み取れる。

 

今回、横に長い鳥瞰図は見やすいように2分割して右面、左面に分けた。また文字や絵が読み取れるように一部を拡大、古い絵葉書、現在の写真などを組み込んでみた。

 

この図で紹介された秩父鉄道は、1901(明治34)年に熊谷駅〜寄居駅間の路線開業によりその歴史が始まる(当時は上武鉄道という会社名)。少しずつ路線が延伸され、1917(大正6)年に影森駅まで、また翌年には武甲駅(ぶこうえき/貨物駅)まで延伸された。鳥瞰図は羽生駅〜武甲駅間の路線が敷かれた後のもの。ちょうど鳥瞰図の発行年に熊谷駅〜影森駅間が電化された。そんな背景があり、鳥瞰図内には電車の絵が描かれている。

 

ちなみに鳥瞰図の発行翌年、1923(大正12)年には宝登山駅(ほどさんえき)が現在の長瀞駅に駅名を改めている。翌年の変更ながら情報が伝わらなかったのか、新しい駅名に変更できなかったことが分かる。

↑秩父鉄道の荒川橋梁は観光ポイントでもあり絵葉書も残る。こちらは昭和初期の貨物列車。有蓋貨車をひく様子が見て取れる

 

↑現在の影森駅から先の引込線の様子。この先に採掘場があり貨物列車が走る。初三郎の鳥瞰図でもカーブする路線が描かれている

 

初三郎の鳥瞰図は地図上、極端なデフォルメが行われているところが特長だ。秩父鉄道の鳥瞰図も、後に作られた図ほどではないが、実際には見えるかどうか微妙な、遠く東京の街まで描いている。加えて単なる路線紹介でなく、路線を線路に見立てて、そこに電車や列車を実際に走るように描いているのが特長となっている。鳥瞰図を単なる案内として仕立てるだけでなく、路線に電車を走らせて楽しくアレンジし、さらに遠くには、こんな町があるということを知らせている。見る人を引き込む要素をしっかり入れ込んでいるところがおもしろい。

 

秩父地方のシンボルでもある武甲山は図の中央にそびえさせているが、当時の武甲山は石灰石の採掘もそれほど進んでいなかった様子が窺える(現在は採掘により、かなり山容が変わっている)。色彩として平地はクリーム色、山地は緑色と変化をつけている。これ以降に制作したものよりも、やや暗めの彩色となっている。この後、初三郎の色付けは明るめなものに変化していく。

 

【鳥瞰図の世界③】ややコンパクト版の鉄道図だとこのように

◆発行年不明 1928(昭和3)年以降?・長野電鉄「沿線御案内」

↑長野電鉄のやや小さめの鳥瞰図。長野電鉄の諸施設をしっかり入れ込んでいるところがポイント。右上に「初三郎」のサインがある

 

先の秩父の鳥瞰図はカバーが付き、やや大きく“かさばる”サイズで、持ち歩くにはあまり便利とは言えない。一方で、コンパクトなサイズの鳥瞰図も制作された。ここで紹介するのは長野電鉄の「沿線御案内」で、鳥瞰図の大きさはヨコ35cm、タテ15.6cmと、長かったものに比べると半分以下となる。折り畳むとヨコ9cm(タテは15.6cmで同じ)までになり、これならば、旅先でも見ることができて便利なサイズだ。

 

この大きさでも要素はしっかり入れ込んである。沿線の観光地はもちろんのこと、長野電鉄第一・第二発電所といった電鉄の設備も入れ込んでいる。何より、長野電鉄が営業する温泉旅館「仙壽閣」が付近の観光施設の中で格段に大きく描かれているのだ。旅館の建物はもちろん、大浴場、温泉プールなども入る。これは発注したクライアントとして大喜びだったことだろう。

↑前述した長野電鉄沿線案内図には屋代線も描かれている。写真は屋代線の松代駅で、2012(平成24)年4月1日に廃止となった

 

つまり初三郎はデザインセンスもさることながら、こうした営業面での配慮も怠らなかった。発注主の受けがよいせいか、生涯1600点以上、また弟子の制作物まで含めると3000点という鳥瞰図を生み出したとされる。

 

一方で、“遊び心”も忘れていない。地図の端には遠く北は青森、函館。西は下関、門司、釜山まで地名が書き込まれている。

 

同鳥瞰図の発行年は明記されていないが、路線の描かれ方で予測ができる。同鉄道では路線網が大正末期から昭和初期にかけて広がっていった。1925(大正14)年に河東鉄道の屋代駅〜木島駅間が開業、翌年には河東鉄道は長野電気鉄道を合併して長野電鉄に社名変更をしている。1926(大正15)年には権堂駅〜須坂駅間が、1927(昭和2)年には信州中野駅〜湯田中駅間、1928(昭和3)年には権堂駅〜長野駅間を延ばして、長野電鉄の路線網を完成させている。鳥瞰図は1928(昭和3)年の路線網完成後のもので、いわば長野電鉄最盛期のものだった。たぶん、路線網完成後に依頼したものなのだろう。

 

当時、それぞれの路線名が明確ではなかったこともあり、鳥瞰図では明記されていないところも興味深い。

 

【鳥瞰図の世界④】すべて手づくりの鳥瞰図の難しさが垣間みえる

◆1927(昭和2)年発行・伊予鉄道電氣「松山道後名所圖繪」

↑伊予鉄道の昭和初期の鳥瞰図。路線が走る松山を中心に、左右に瀬戸内海を広げて描いている。駅名などが小さく見づらいのが難だ

 

初三郎の鳥瞰図の中で地形図の素晴らしさが味わえるのが瀬戸内海がらみのものだと思われる。その特長がいかんなく発揮されているのが伊予鉄道電氣「松山道後名所圖繪」で、松山を中心に、左右に瀬戸内海を幅広く描き、浮かぶ島々と、入江、そして港湾などが美しく描かれている。伊予鉄道の路線網とともに、松山のシンボルでもある松山城、道後温泉本館などの施設が大きく描かれ、思わず行ってみたくなる構図だ。

 

配色も巧みで、平野と山の色具合も、微妙な色が使われ、見ていて気持ちの良さが感じられる。そしてお得意のデフォルメで遠くには琉球、台湾まで記述されている。

 

下記はちょうど昭和初期の松山市内線の絵葉書で、札ノ辻(現在の本町三丁目)の停留場名が鳥瞰図内の路線図内に確認できる。

↑昭和初期の松山市内線、札ノ辻付近(現在の本町三丁目停留場付近)。日本家屋とともに洋館が建ち並ぶ様子が見える

 

さて、この伊予鉄道の鳥瞰図でやや気になることがあった。下記のような路線の追加訂正を記した紙が貼られていたのである。鳥瞰図が発行された1927(昭和2)年とされているが、この年の3月11日に松山駅が松山市駅と改称されている。この情報は鳥瞰図には盛り込まれている。しかし、同年11月1日に開業した高浜線の衣山駅、山西駅の記載がない。ほかいくつかの変更事項が、追加訂正の薄紙に印刷されている。

 

鳥瞰図の停留場、施設名などの記載が全体的に小さいようにも感じた。実物でも良く読めない。たぶん、当時見ている人からの指摘もあったはずだ。初三郎自身がこの鳥瞰図作りにどのぐらい関わっていたかは分からないが、入れている文字まで手書きだったせいか、修正などが簡単ではなく、総じて融通が効かないというのが、大正・昭和初期の鳥瞰図の弱点だったようだ。

↑カバーの裏には松山の観光写真が掲載されていた。その横には追加訂正の紙が貼られ、鳥瞰図の変更点などを補足していた

 

松山市を走る伊予鉄道を乗りに行ったことがある方も多いかと思う。伊予鉄道といえば、高浜線の大手町駅前にある、市内電車との平面交差区間が名高い。先の鳥瞰図を見ると、当時、大手町駅は江戸町駅(えどちょうえき)を名乗っていた。交差する市内電車の大手町線はまだ未開通で、1936(昭和11)年に大手町線の江戸町駅前の停留場が誕生している。よって、ここに平面交差区間ができたのも、鳥瞰図が作られた以降ということが分かった。

↑高浜線の大手町駅前の平面交差区間を走る坊っちゃん列車。同列車は伊予鉄道開業時に走っていた列車をモチーフにして生まれた

 

【鳥瞰図の世界⑤】初三郎の世界100%全開のパノラマワールド

◆1928(昭和3)年発行・富士身延鉄道「沿線名所圖繪」

↑富士身延鉄道全通した年に造られた鳥瞰図。非常に分かりやすくつくられている。遠くサンフランシスコまで描いていることに驚かされる

 

4枚目は富士身延鉄道の「沿線名所圖繪」を紹介したい。富士身延鉄道は現在のJR身延線を開業させた前身となる鉄道会社で、会社創設は1912(明治45)年のことだった。大正初期に東海道本線と接続する富士駅側から路線の延伸を始め、1920(大正9)年に身延駅が開業。1928(昭和3)年に甲府駅までの延伸を果たしている。鳥瞰図は全線開業時に造られたものである。

 

この鳥瞰図は伊予鉄道のものとは異なり、駅名や観光名所の紹介文字が大きめで、また大小の文字を使っていて分かりやすい。何よりも、構図が大胆で巧みである。右に富士山、左側に沿線の観光ポイントである身延山が対となるように描かれている。間に富士川が流れ、富士川沿いを突っ切るように、直線で、富士駅〜甲府駅間を走る富士身延鉄道の路線が描かれる。駅間には、無数のトンネルが描かれ、この路線の険しさが印象づけられている。もちろん、身延線は、この図のように直線ということはなく、カーブ路線が続く。それを直線で描いてしまうこと自体にも豪胆さが感じられる。

↑富士身延鉄道時代の下部駅(現・下部温泉駅)の絵葉書。当時の茶色の電車が停まる様子が見える。同駅は1927(昭和2)年の開業

 

初三郎は大正名所図絵社(後の観光社)という会社を作り、多くのスタッフが手伝い鳥瞰図を作っていた。そのために、素人目に見ても出来不出来が散見される。ただし、手作りだからこその良さも見えてくる。

 

この鳥瞰図でおもしろいのは、起点となる富士駅の東海道本線とその延長上に続く地名や地形の描き方だ。

 

雲状のデザインを配置し、そのデザインで近いところと、遠いところを区切っている。この図では東海道線に沿って見ていくと、西は大阪、神戸、さらに山陽本線が直線状に描かれ、下関まで記載されている。さらに遠くには釜山、朝鮮、金剛山、さらに台湾まで記述されている。逆には富士山越しに東京近辺を描き、遠くに筑波山と房総半島が見える。

 

愉快なのは伊豆半島の下田の先に、何とハワイ、サンフランシスコの名称が記述されているところ。今でこそ、国際宇宙ステーションにでも乗っていれば同一画面上に見えるかもしれないが、これこそ初三郎が持っていた “遊び心”の一面をよく表している。

↑身延線はアップダウンに加えてカーブの多い路線だ。初三郎はこの路線全線を直線に描き、分かりやすい鳥瞰図に仕立てた

 

吉田初三郎は、鳥瞰図を描く絵師ながら、地方を歩き、情報を仕入れ、それを絵として残す、いわば現代のジャーナリズムにも通じる視点を持っている。もちろん社員がその一部を分担したとしてもだ。そして大胆なデフォルメを施しつつも、それは見る人が分かりやすいように、意図的に変更し、デフォルメしたのである。決して間違った情報は入れ込んではいない。この鳥瞰図を見て、果たして目的地に間違いなく行けるかは疑問であるが、駅と目的地の位置関係などはすぐに分かる。非常に高度に作り出されたものである。

 

しかし、初三郎の鳥瞰図はその分かりやすさゆえにマイナス要素も生みだした。

 

昭和10年代前半まで初三郎の活躍が続いたが、太平洋戦争の前後、ぱったりと初三郎の作品が世に出なくなってしまう。その理由は港湾などの施設が緻密に描かれすぎているからだ。地図などの情報は、当時、軍事機密とされた。たしかに初三郎の鳥瞰図を敵方が見たら、良い情報源になったであろう。飛行機を操縦していたとしたら、コクピットから実際に見えたであろう情景がそこに描かれていたのだから。鳥瞰図は平和時だからできたものだったのである。

 

そのため太平洋戦争下では不遇の時代を送っている。戦時下にどのような暮らしをしていたのかは伝わっていないが、仕事がなくなったのだからつらかったことだろう。その思いが戦後の仕事に向かっている。1946(昭和21)年に広島へ足を運び、5か月にわたり、被爆地・広島の“取材”を続けた。数百名に証言を得て描いたとされる「廣島原爆八連図」を残した。なかでも原爆が爆発した時のものされる鳥瞰図は鬼気迫る凄みが感じられる。

 

初三郎はその後、原因不明の病に冒され1955(昭和30)年8月16日死去、享年71歳だった。その業績は近年になって見直され、再評価されるようになってきている。しかし、「廣島原爆八連図」にしても元となる肉筆画が見つかっておらず、未知の部分が多い絵師でもある。亡くなって60年以上の年月がたつものの、作品づくりに向かう真摯な姿勢には学ぶべきところが多い。

“七車七色”の115系!行きたい!乗りたい!「越後線」「弥彦線」

〜〜行きたい&乗りたいローカル線車両事典No.2〜〜

 

姿は武骨ながら魅力を放つ国鉄形車両。車両数が急激に減りつつあり、残る車両が注目を集めている。特にJR東日本管内で国鉄形車両の減り方が顕著だ。

 

新潟県内を走るJR越後線とJR弥彦線には、国鉄近郊形直流電車の115系が今も健在だ。JR東日本で唯一残る115系が走る路線網ということもあり、訪れる人も多い。残る7編成はすべて違うカラーで、十人十色ならぬ“七車七色”なのだ。そんな越後線・弥彦線に残る車両に注目した。

*緊急事態宣言および、まん延防止措置が引き続き一部地域に宣言・発令されています。不要不急の外出を控えていただき、宣言解除後に鉄道の旅をお楽しみください。

【乗りたい越後線①】115系7編成のみが越後線・弥彦線に残る

JR越後線は新潟駅と柏崎駅間83.8kmを走る。一方、弥彦線は弥彦駅〜東三条駅間17.4kmを走る。両線は途中、吉田駅で接続している。越後線、弥彦線ともに全線がほぼ単線で、ローカル色が濃く、列車本数も少なめ(越後線の新潟市近郊区間を除く)。国鉄形の115系と、E127系、E129系が走る。

 

115系は日本国有鉄道(国鉄)が1963(昭和38)年に生みだした代表的な近郊形直流電車である。1921両もの車両が製造され、本州各地に配置され、長年にわたり走り続けてきた。1987(昭和62)年4月のJR移行後は、JR東日本、JR東海、JR西日本の3社に引き継がれた。すでにJR東海では2008(平成20)年までにすべてが引退している。残るはJR東日本とJR西日本に残るのみとなった。

 

【関連記事】
残る車両はあとわずか‐‐国鉄近郊形電車「115系」を追う【東日本編】

↑新潟平野の水田地帯を走る115系。3両×2編成が連なる運行もあり同列車の注目度は高い

 

国鉄からJR東日本に引き継がれた115系は、2010年代に入り急速に車両数を減らし始めた。目立つところでは、2015(平成27)年10月に中央本線・篠ノ井線などでの運用を終了、2018(平成30)年3月に北関東地区の路線での運用を終了している。残るは新潟地区のみとなったが、2018(平成30)年3月に白新線の運用が終了。現在は、越後線、弥彦線、信越本線(えちごトキめき鉄道を含む)のみとなっている。

 

このうち信越本線(えちごトキめき鉄道を含む)は、早朝発の直江津駅→長岡駅→新潟駅という1本と、夜に新潟駅→新井駅→(折り返し)→直江津駅を走る1本の運行となっている。

 

残る115系が走る区間は、越後線と弥彦線のみとなっていて、おのずとこの両線の運行が注目されるようになっている。

 

【乗りたい越後線②】115系7編成すべて色違いでおもしろい

新潟地区に残る115系は3両×7編成のみだ。興味深いのは、7編成すべてが色違いということ。編成それぞれの色を確認しておこう。

N33編成 旧弥彦色(白地に朱色と黄色の太めラインが入る)
N34編成(リニューアル車) 3次新潟色(白地に濃淡の青色アクセントが入る)
N35編成(リニューアル車) 2次新潟色(白地に濃淡の緑帯が入る)
N36編成(リニューアル車) 弥彦色(白地で窓周りが黄色、窓下に黄緑帯が入る)
N37編成(リニューアル車) 1次新潟色(白地で窓周りが濃い青色、窓下に赤帯が入る)
N38編成(リニューアル車) 湘南色(緑とオレンジの組み合わせ)
N40編成 懐かしの新潟色(旧国鉄新潟色/黄色と赤の組み合わせ)

 

↑新潟色の4編成。右上からN37編成1次新潟色、時計回りでN35編成2次新潟色、N40編成懐かしの新潟色、N34編成3次新潟色の各編成

 

新潟地区に残る115系はすべて「N」が頭に付く。これは全編成が長野地区を走っていた車両で、2013(平成25)年〜2015(平成27)年にかけて新潟車両センターへ移動したことを示す。115系の中では1000番台と呼ぶ車両番台にあたり、製造されたのは1977(昭和52)年以降と、115系の中では比較的、新しめの車両だ(とはいってもすでに誕生して40年以上たっている)。さらにリニューアル車は2000年代に入ってクロスシートを変更しているほか、内装なども新たにしている。

 

【乗りたい越後線③】新たに塗り替え魅力アップした編成も

興味深いのは検査時に塗装の変更が積極的に行われてきたこと。このことが結果として、新潟の115系の注目度を高めることにもなっている。2016(平成28)年以降に、次のように色変更された。

2016(平成28)年 ●N33編成:長野色→2次新潟色
2017(平成29)年 ●N37編成:3次新潟色→1次新潟色

●N38編成:3次新潟色→湘南色

●N40編成:湘南色→懐かしの新潟色

2018(平成30)年 ●N35編成:3次新潟色→2次新潟色

●N36編成:3次新潟色→弥彦色

2019(平成31)年 ●N33編成:2次新潟色→旧弥彦色

 

↑N33編成は2019(平成31)年に2次新潟色(右上)から旧弥彦色に変更された。各編成名は運転席の窓の左上に表示される

 

検査で工場に入場するたびに変更されてきたこともあり、115系を好きな人たちに、また乗りに行こう、撮りに行こうと思わせるのであろう。ちなみにN34編成のみ2014(平成26)年に長野色から3次新潟色に変更して以降、変わっていない。

 

これらの色の変更は新潟地区の列車運行を行うJR東日本新潟支社が、利用者に向けて「思い入れのあるデザインを1種類選んでもらう」Webアンケートを通して決められた。最も票数が多かった色を復刻するという、鉄道会社と利用者(主に鉄道ファン)との結びつきを示すような企画で、効果的だったように思う。これも新潟の115系が根強い人気を保つ、一つの理由になっているようだ。

↑N36編成は2018(平成30)年に弥彦色に変更された。窓周りの黄色いスペースが大きめなところが特長となっている

 

↑N38編成は3次新潟色から湘南色に変更された。側面にJRと大きく文字が入り、北関東を走った115系のデザインを思わせる

 

ちょっと気になるのは2019(平成31)年の塗装変更以降に、新たな塗装車両が現れないことだろうか。最新の定期検査は2021(令和3)年6月にN37編成で行ったが、1次新潟色の塗装に変更がなかった。“七車七色”の体制はしばらく続くのだろうか。

 

【乗りたい越後線④】どのような運用で115系は動いているか?

主に越後線、弥彦線を走る115系だが、全列車が115系ではない。現状4分の1ぐらいの列車が115系での運用となる。越後線の吉田駅〜柏崎駅間は、閑散路線区となっていて、日中は2〜3時間に1本という列車本数になっている。そこに組み込まれる115系が多く、乗る機会、出会う機会もレアになりつつある。

 

さらに、乗るだけならば時間を合わせれば良いが、列車を撮影したいとなると、本数が少ない路線区間だけに、移動と撮影計画をしっかり立てての行動が欠かせない。

 

本原稿では、越後線の新潟駅〜吉田駅間の上り下りと吉田駅〜柏崎駅間の上り下り、また弥彦線の吉田駅〜東三条駅間の上り下りの、115系で運用される列車のみを記した。なお、弥彦線の吉田駅〜弥彦駅間では115系の定期運用はない。また、急きょ115系に代わりE129系が代走することもあり、必ずしも絶対とは言えないところが、“追っかける”立場としてつらいところだ。

↑3両×2編成で朝夕ラッシュ時に走る115系列車がある。希少な列車だけに、しっかり抑えておきたいところだ

 

越後線、弥彦線の115系運用列車をすべて記した。なお前述したように、その日になって代走が走ることがあり注意が必要となる。時刻は2021(令和3)年3月ダイヤ改正後のものだ。

 

◆越後線上りの115系運用列車◆ ※夜間19時以降始発の列車は除く

□新潟駅→吉田駅

1532M列車 新潟11:01発 → 内野11:25着(*運用3)
142M列車 新潟13:20発 → 吉田14:24着(*運用6)
156M列車 新潟17:04発 → 吉田駅18:03着(柏崎行)(運用3・4)

□吉田駅→柏崎駅

122M列車 吉田5:56発 → 柏崎7:08着(*運用2)
132M列車 吉田7:43発(東三条始発) → 寺泊7:58着(*運用3) 
134M列車 吉田8:39発 → 柏崎9:47着(*運用2)
140M列車 吉田12:32発 → 柏崎13:41着(*運用2)
148M列車 吉田15:44発 → 柏崎16:57着(*運用6)
156M列車 吉田18:04発(新潟始発) → 柏崎19:17着(*運用3・4)
162M列車 吉田18:42 発→ 柏崎19:54着(*運用6)

 

◆越後線下りの115系運用列車◆ ※夜間19時以降始発の列車は除く

□柏崎駅→吉田駅

125M列車 柏崎6:30発 → 吉田7:40着(東三条行)(*運用4・5)
129M列車 柏崎7:28発 → 吉田8:34着(*運用2)
139M列車 寺泊9:35発 → 吉田9:50着(新潟行)(*運用3)
141M列車 柏崎10:46発 → 吉田11:53着(*運用2)
157M列車 柏崎15:30発 → 吉田16:35着(*運用2)
161M列車 柏崎17:20発 → 吉田18:36着(*運用6)

□吉田駅→新潟駅

139M列車 吉田9:56発(寺泊始発) → 新潟10:55着(*運用3)
143M列車 吉田10:59発 → 新潟11:57着(*運用4・5)
1539M列車 内野11:51発 → 新潟12:13着(*運用3)

 

◆弥彦線下りの115系運用列車◆ ※夜間19時以降始発の列車は除く

□吉田駅→東三条駅

225M列車 吉田6:53発 → 東三条7:12着(*運用3)
227M列車 吉田7:42発(柏崎始発) → 東三条8:04着(*運用4・5)
245M列車 吉田17:37発 → 東三条17:58着(*運用2)
247M列車 吉田18:41発 → 東三条19:01着(*運用2)

 

◆弥彦線上りの115系運用列車◆ ※夜間19時以降始発の列車は除く

□東三条駅→吉田駅

222M列車 東三条7:21発→吉田7:41着(寺泊行)(*運用3)
226M列車 東三条8:55発 → 吉田9:15着(*運用4・5)
244M列車 東三条18:12発 → 吉田18:31着(*運用2)

 

各列車の後ろに付く運用2〜6という数字は、例えば「運用2」にN35編成が入ったとしたら、その1日はN35編成での運行が「運用2」で続く。運用3・4または4・5と数字が2つ入っている場合は3両×2編成が連結されて走る運行スタイルのことで、6両編成による運行になる。

 

列車の時刻を見て分かることは、越後線の新潟駅〜吉田駅間での運用が少なめなこと。弥彦線では日中の運用がほぼないことだろう。

 

115系の運用は越後線の吉田駅〜柏崎駅間の運用が目立つ。同区間は閑散区間ということもあり、日中は2〜3時間、列車がないことがある。さらに筆者が訪れた時に起きたことだが、115系がE129系に変わる“代走”が行われていた。

 

筆者が目にしたのは「運用2」の代走だった。「運用2」は吉田駅〜柏崎駅間の運転が多い。だが訪れた日には115系が入らないことに気付いた。

 

ちなみに、運用が変わったことに気付いたのは、越後線と弥彦線の両路線が走る吉田駅近くのホテルに宿泊していたことから。ホーム側の部屋に宿泊していたので、窓から駅側をのぞいたところ朝5時56分発の122M列車が115系からE129系に変わったことを知ったのだった。

 

この日は代走が入ったこともあり、行動予定を変更せざるを得なかった。115系を待っていても“不発”ということがおおいにあり得るのだ。吉田駅〜柏崎駅間は列車の本数が少ないため、もし代走を知らずに撮影地へ向かってしまうと、撮れなかったわけである。115系との出会いも難しいことが分かった。

 

【乗りたい越後線⑤】弥彦線を走るE127系も気になる

越後線、弥彦線では、JRになってから生まれた車両ながら希少なものも走っている。圧倒的に車両数が多いのがE129系だが、E127系という直流形電車もわずかに走る。このE127系は0番台と100番台があり、0番台は新潟地区用に1995(平成7)年に新造された。100番台は松本車両センターに配置され、大糸線や篠ノ井線などを走っている。0番台は2両×13編成が製造されたが、2015(平成27)年に第三セクター経営のえちごトキめき鉄道設立にあたり、JR東日本から10編成が譲渡されている。

 

新造された13編成のうち1編成は、越後線で起きた踏切事故により廃車となった。残り2両×2編成が今もJR東日本に残り、弥彦線を中心に運行している。

↑吉田駅に停車中のE127系、弥彦線を中心に運用されている。E127系100番台と異なり正面の縁取りがやや丸みを持つのが特長

 

ちなみに、今年の5月2日には越後線の関屋分水路にかかる橋梁上でE127系に車両故障が起きて立ち往生してしまった。約4時間後にE129系が救援に向かい連結、移動して修理が行われたが、後に同じ編成が踏切事故に遭うなど、どうもトラブル続きの車両形式になっている。115系よりも、車両数が少ないだけに、今後どのような扱いになるのか気になるところだ。

↑越後線と弥彦線の主力車両となっているE129系。写真は弥彦線での運行の様子。E129系には4両編成と2両編成の2タイプが走る

 

現在、越後線と弥彦線の主力はE129系で、両線だけでなく信越本線、白新線での運用も多い。いわば新潟地区の標準車両となりつつある。車両の半分がセミクロスシート、半分がロングシートとなっていて、近郊形電車ながら、定員数を増やす工夫が導入されている。

 

ちなみにE129系はLED表示器をきれいに撮るのが難しい車両で、シャッター速度は100分の1以下の遅めの設定が必要となっている。

 

【乗りたい越後線⑥】115系を撮影するとしたらどこが良いか?

越後線で115系を撮影するとしたらどこがお勧めだろうか。

 

◆新潟駅〜内野駅間の撮影ならば

新潟駅〜内野駅間は列車本数が多く移動もしやすいが、新潟市の近郊住宅街となっているだけに、撮影に不向きなところが多い。

 

撮影によく利用されているのが、新潟駅〜白山駅間にある信濃川橋梁だ。越後線はガーダー橋で信濃川を渡る。西側には架線柱がなく、また保線用の通路や手すりがないために、長い編成でも障害物にじゃまされずに上手く撮れる。

↑白山駅側から見た信濃川橋梁。西側は障害物が無く写しやすい。この写真はE129系だが青空バックの115系をぜひ撮影したいところ

 

おなじ橋梁絡みの写真となるが、関屋駅〜青山駅間にある関屋分水路橋梁もおすすめ。青山駅側はやや高めのポジションからの撮影となるため、橋の横に付いた手すりをクリアできる。海側には架線柱が立つので、川上の側から撮りたいところ。時間は午前中に順光となる。午前中には新潟駅から内野駅へ向かう列車が1本と少ないのがちょっと残念だ。

↑関屋分水路橋梁を渡る142M列車。この日はN35編成だった。新潟駅13時20分発で前面は順光だが、側面はすでに日が当たらなくなっている

 

◆内野駅〜吉田駅間の撮影ならば

内野駅から先は、列車の本数がほぼ半分に減る。一方で新潟平野らしい水田地帯が広がり、抜けの良いところが多い。撮影者に人気のあるのが越後赤塚駅の南側に架かる県道46号線「新潟中央環状線」の陸橋上からの眺望だろう。目の前に広がる水田地帯と、遠くに弥彦山地が望める。

 

このポイントでは架線柱が逆側に立っていて、車両の手前に障害物がないことも良いところだろう。やや気温が低めの季節になれば、山容がくっきり見え撮影向きかと思われる。とはいえ同区間を通る新潟方面行き115系列車は、越後赤塚駅10時18分発と、11時23分と少ないことがちょっと残念である。なお吉田方面行き115系列車は午後に通過する2本がある。

↑2次新潟色だったころのN33編成。後ろに弥彦山地が陸橋上から望める。真夏は線路沿いの雑草の伸び放題が気になるところでもある

 

◆吉田駅〜柏崎駅間の撮影ならば

吉田駅から南となると列車本数が極端に減るので、場所選びにも悩む。吉田駅になるべく近くでとなれば、南吉田駅〜粟生津駅(あおうづえき)、また粟生津駅の南側には広大な水田地帯が広がるので、撮影地として向いている。南吉田駅〜粟生津駅間ならば柏崎方面へ向かう朝の列車が、粟生津駅の南側ならば、午前中の早めには吉田駅へ向かう列車。昼ごろからは柏崎駅方面へ向かう列車が順光となり、撮影に向いている。

 

撮影地として寺泊駅〜桐原駅間も人気がある。線路に沿って農道があり、さらに架線柱が道の反対側に立っているので、障害物とならない。同エリアでは午後遅めに順光となるが、桐原駅側に少し歩けば、架線柱が反対側に立つ一帯もあり、昼過ぎまではそちらで撮っても良いだろう。

↑柏崎へ向かう湘南色N38編成。寺泊駅〜桐原駅間は農道が並走している。列車と適度な距離がとれて撮影しやすい。架線柱も逆側に立つ

 

【乗りたい越後線⑦】将来115系はどうなるのだろう?

春が来るごとに115系が外されないだろうかと、気をもむ鉄道ファンも多いのではないだろうか。この春にはキハ40系がJR東日本の路線から消えていった。同車両も、それこそあっという間に消えていったような印象があった。新潟地区の115系が消えても不思議でない。

 

ここ最近の傾向として、ファンの集中を避けるためか、サヨナラ運転等のアナウンスがされない場合も多い。筆者個人の予想と思って聞いていただきたいのだが、115系に関して来春はまだ大丈夫そうである。

 

115系の定期検査が本年も行われている。引退が目の前の車両ならば定期検査をすることもないであろう。さらにコロナ禍の影響もあり、JR東日本に限らず鉄道会社の新車導入計画が遅れがちとなってきている。

 

115系に代わるとしたらE129系なのであろうが、E129系を製造している総合車両製作所新津事業所では、E129系のほぼ同形車SR1系をしなの鉄道向けに製作している。こちらは2027年度まで最大2両×23編成の導入を予定。しなの鉄道も、新車導入計画の見直しをしているようだが、こうした計画もあり工場に余力がないように思われる。

↑越後線、弥彦線で見られるトロリー線1本の区間。直接ちょう架式で電化された区間だ。左上はパンタグラフがトロリー線と触れる様子

 

さらに大胆な予想も流れるようになっている。越後線と弥彦線では電化工事が1984(昭和59)年4月に行われた。国鉄最晩年のころだ。財政難に陥ったこともあり閑散区だった越後線の吉田駅〜柏崎駅間と、弥彦線の多くの区間では、直接ちょう架式という電化方式を採用している。パンタグラフが触れるトロリー線1本が架線柱に吊られているシステムだ。JRの路線の大半ではシンプルカテナリ式が採用されている。シンプルカテナリ式の場合に、上からはちょう架と呼ばれるケーブルをまず吊り、このちょう架とトロリー線をハンガーで結ぶ。この方式の場合にちょう架が途中にあることで、トロリー線に弾力性を持たせることができる。

 

一方、直接ちょう架式の場合は、路面電車など低速で走る車両ならば良いのだが、高速鉄道には不向きで、制限速度を抑えざるを得ない。こうした地上設備の脆弱さにより越後線では最高速度85kmに抑えられている。といって越後線の吉田駅〜柏崎駅間のような閑散区間では、通常のシンプルカテナリ式に変更するなどの新たな投資は避けたいはず。こうした条件を考えると、架線の電気を使わず列車を走らせる「架線レス化」という案もあるとされる。

 

この方法はすでに烏山線、男鹿線を走る蓄電池電車や、交流と直流電化区間をまたぐ羽越本線を走る電気式気動車GV-E400系を導入といった例ですでに実用化されている。この方式を採用するならば、電機を流す必要がなくなり、新車両の導入により115系の引退も容易で、省エネ化、効率化が可能となるわけだ。

 

いずれも推測の域を出ないが、今後の動向が気になる115系である。

 

【新潟の行き帰りには】上越新幹線E4系が10月に引退する

新潟地区で最後に乗っておきたい車両の情報をあげておこう。東京駅と新潟駅を結ぶ上越新幹線で、この秋に大きな動きがある。E4系が10月で引退するのだ。

 

E4系といえば、国内で唯一残る2階建て新幹線である。東北・上越新幹線を国鉄からJR東日本に引き継いだ後に、JR東日本ではE1系、そしてE4系と2階建て新幹線を次々に誕生させた。当時、増えつつあった新幹線を利用する通勤・通学客に対応する意図があったとされる。

↑現在、E4系には「Thank you! Max!」記念ロゴ(左下)が先頭車などに付けられていて、引退ムードを高めている

 

その後に新幹線は高速化の道を歩み、240km/hというE4系の最高運転速度が時代に合わなくなってきていた。また高速で走る新幹線は車体寿命が短めで、約20〜25年とされている。E4系も本来ならば2021(令和3)年3月に引退する予定だった。ところが、2019(令和1)年10月13日の千曲川堤防決壊による、長野新幹線車両センターに停留していたE7系・W7系の12両×10編成が水浸しになってしまう。全車が廃車となり、上越新幹線のE4系からE7系の置換計画が延期され、その影響でE4系は延命した。

 

筆者もつい先日に「Thank you! Max!」と引退記念ロゴを付けたE4系に乗車したが、やはり2階建て新幹線は乗っていて楽しい。引退がせまり親子連れの利用者が非常に多くなっていることに気が付いた。子どもたちに大人気のE4系だったのである。

 

やや生き延びたE4系だが、10月1日(金曜日)に定期運行が終了し、その後に10月9・10日「サンキューMaxとき&やまびこ」を新潟〜盛岡間で運行。10月16・17日の週末に「サンキューMaxとき」が運転される予定だ(変更可能性あり)。これで見納めとなるわけだが、運転最終日には混雑が予想される。コロナ禍ということもあり、静かに見送ってあげたい。

必携グッズから注意点まで「夏の鉄道撮影」で気をつけたい5つのこと

〜〜緊急提言 : 夏の鉄道撮影の安全を考察〜〜

 

梅雨が明け、ようやく青空バックの写真が撮れると、勇んで撮影に出かける方も多いのではないだろうか。ちょっと待った! あなたの夏対策は大丈夫?

 

夏の暑さは年々厳しさを増しているように感じる。しっかり対策をして出かけないと、熱中症で倒れるなど生命の危険がある。今回は、夏の鉄道撮影に関して考えてみたい。

 

【はじめに】猛暑は危険! 大きなお世話と考えないで

2021(令和3)年7月19日〜25日にかけて、梅雨明けと同時に熱中症で救急搬送された人の数は8122人(速報値)に上った(総務省消防庁発表より)。

 

大半が高齢者でしょ…と思われるかも知れない。実際に高齢者(満65歳以上)が57.1%と多いことは確かなのだが、成人と少年の割合もかなり多く、合計で41.2%にもなる。発生場所は住居が42.3%でトップだが、継いで道路が18.4%、公衆(屋外)が10.7%と続く。高齢者だけでなく、若い年代の人たちも屋外で熱中症による救急搬送という割合が予想以上に多いということになる。

 

そういう筆者も過去に救急搬送まではいかなかったものの、鉄道撮影中にくらくらっとしたことが何回もあり、暑さを甘くみてはいけないと感じている。

 

【夏の鉄道撮影①】熱中症の予防はまず帽子!

下の写真はとある撮影地での様子だ。目標とする列車が来るまでの状況だが、熱さ除けに最適ということもあり日陰で待つのは良いことなのだが、直射日光から頭を守る帽子をかぶっている人たちを、あまり見かけなかった。中高年以上の人はかぶっている人が目立ったものの、若い世代は、ほぼ皆無といった状況だった。

↑夏の盛り某撮影地での状況。若い世代に帽子をかぶる人があまりいないことが分かる *写真は加工修正しています

 

政府広報にもあるが、熱中症対策のポイントとして「涼しい服装を心がけ、外に出る際は日傘や帽子を活用しましょう」とある。鉄道を撮影する人は圧倒的に男性が多いので、日傘(後述)は照れ臭いとして、帽子をなぜかぶらないのか疑問だ。帽子さえかぶっていれば大丈夫というわけではないが、有効な予防策にはなる。自分だけは大丈夫という思い込みが、実は非常に恐ろしい。

 

そういう筆者も鉄道撮影に熱中し始めたころには、帽子なんか、と見くびっていた。しかし、プロのカメラマンに同行してみると、夏はやはり帽子をかぶっている人が大半だった。

 

今では筆者も、撮影時には常に帽子をかぶり身体を守るようにしている。頭で直射日光を浴びると、急激な体温上昇から熱中症を招く一つの要因にもなる。さらに脳の温度があがり、冷静な判断ができない状態になるように感じられる。やはり熱中症の“防止”には“帽子”が一番である。

 

筆者の場合、帽子をかぶることによって、これから撮影を始めるのだという“戦闘モード”に入ることができるのも、見逃せない効用だと感じている。夏以外にもオールシーズン帽子をかぶっていて、いつの間にか家は帽子だらけになってしまった。下の写真は、その一部だ。

↑つば付きの帽子ならば、撮影の邪魔にならない。強風や、列車の通過時に帽子が飛ばされないようにヒモがついていると万全だ(左下)

 

参考になればと思い家にある帽子を並べたが、数の多さに本人もびっくり。キャップタイプの帽子よりも、まわりにつばが付くタイプを好んでかぶっている。キャップだと、カメラのファインダーを覗いた時にどうしても帽子をあげ気味にして撮影しなければならないが、つば付きならば、カメラを構えた時にも邪魔にならない。

 

帽子をかぶっていると、列車の通過時や、風が吹く日には、飛ばされてしまうことがある。そのため筆者は、ひも付きを愛用している。ちなみに最近は、アウトドア用品店などで、ひもを後付けできるタイプも少なくない。

 

◆帽子とともに水分補給が欠かせない

筆者が帽子とともに夏の鉄道撮影で大切にしているのが水分補給である。夏以外はそれほど水分を必要としないことが多いが、気温が30度近くになる日には積極的に水分補給が必要である。

 

熱中症を予防するためには、帽子や日傘とともに、水分補給が効果的という専門家の意見が多い。ちなみに持参するのは、ふだん飲み慣れている飲み物(糖質が含まれているもの)と、より気温が高まりそうな日には、もう一本、スポーツドリンクを持ち歩くようにしている。

 

日本スポーツ協会では、汗をかいた日には0.1〜0.2%の食塩と4〜8%の糖質を含んだものの摂取が効果的としている。30度以上になる日には、発汗量も高まるので、我慢せずにどんどん飲んだほうが良いと筆者は感じている。

 

【夏の鉄道撮影②】落雷、ダニ、ハチ。予期せぬ危険が身に迫る

長く撮影していると、夏場は危険なことに遭遇することも多い。私も夏の“失敗談”に事欠かない。やや恥ずかしい事例も含めて、危険な例として挙げておこう。

 

◆傾斜地の朝露に気付かず滑って側溝へドボン

寝台列車が盛んに走っていたころのこと。早朝、誰よりも早く撮影地へ出かけ、急いで準備開始。ところが、ポイント近くの傾斜地が朝露で濡れていて、見事に足を取られて側溝へドボン! 手に持っていたカメラが水没し使用不能になったばかりか、転げ落ちた時に腰をしたたか打ち、背骨を圧迫骨折してしまった。なんとか立ち上がって、帰ることができたから良いものの、後から考えればぞっとする出来事だった。

 

以来、滑りやすい朝露に注意することと、列車が近づいてきても、決して「焦るな」という教訓が胸に刻まれた。

 

◆雷の音が近づいてきたらすぐに避難

JR成田線の有名撮影地でのこと。209系を試し撮りして、さあこれから本番というところで、一天にわかにかき曇り、雨が降りだしさらに雷鳴が聞こえる。周囲は何もない水田地帯で、雨やどりの場所もない。ここで傘をさして粘ろうか迷った。

↑目的の列車の前に試し撮りの一枚。雲が厚く暗くなってきた。そしてこのあと土砂降りに。撮影をあきらめ後方の陸橋下へ逃げ込んだ

 

こうした状況での判断は非常に難しい。この時には機材を持って一目散に陸橋の下に逃げ込んだ。そのあと本降りに。案の定、近くで“ずどーん”という音と共に稲妻が光った。どこに落ちたかは確認できなかったが、近くだったようだ。あのまま立っていたら、ずぶぬれどころでは済まなかったかも知れない。ぞっとする経験だった。

↑成田線といえばEF64が牽く貨物列車が走り人気だった。雨と雷も去り、列車が来るころには晴れ間も。とはいえ背景の雲がかなり怪しい

 

◆北海道ではダニにご注意

これも寝台列車が走っていたころのお話。毎年のように日が長くなる初夏、北海道へ出かけ、早朝に道内へ入ってくる列車を撮影した。道内の撮影地の場合、草をかき分けて行き着くポイントも多く、たいして対策もとらずに荒れ地へ入っていった。撮影は無事に終了し、帰宅したのだが、数日後に体が痒くて耐えきれなくなってしまった。腕には、得体の知れない発疹が。加えて小さな穴が開いているようにも見える。その後数か月にわたって、皮膚科へ通うことになった。原因は草地に潜むダニとのことだった。

 

そこでの教訓。草をかきわけ荒れ地に入る場合は、長ズボンはもちろん(ズボンの下から潜り込んで肌に噛みつく虫すらいる)、肌を露出させないように長袖シャツは着た方が絶対に良い。国内には致死率6〜30%というマダニが生息するという。こうしたマダニは主に草むらに潜む。後から考えればなんと無謀なことをやったのだろう、と反省したのだった。

 

◆スズメバチにはご用心

こちらも茂みの中での出来事。撮影準備をしていたら、やたら羽音がしてくる。巣がすぐ近くにあったらしく、黄色と黒の大きなスズメバチがぶんぶん飛びかっている。スズメバチの活動期は4月〜11月と長い。夏は彼ら最大の活発期である。撮影はほどほどにして、刺激しないように静かに逃げ帰ったのだった。

 

怖い話を聞いたことがある。私の大先輩にあたる鉄道カメラマンが、スズメバチに刺されてこん倒してしまったのだ。その時は幸いにも同行した僚友がいて、すぐに救急車を呼び、事なきを得たが、一人だったらダメだったろう、という話を聞いた。

↑ある撮影地でのひとこま。シジミチョウに好かれるぐらいならご愛嬌だが、ハチには仲良くされたくないものだ

 

スズメバチも怖いが、自然界でさらに怖いのは熊だろう。最近は、東北や北海道の住宅街での出没情報を耳にする。人里離れたところで遭遇するケースが多く、そのような撮影地に行く時には、熊よけの鈴の持参はもちろん、ラジオを大きな音でかけて歩くのが効果的だとされる。人里離れたところでの単独行は、避けたほうが良いだろう。

 

【夏の鉄道撮影③】撮影機材はなるべくコンパクトにまとめる

筆者は最近、クルマでの撮影を極力避けるようにしている。以前はクルマ利用派だったのだが、どのような場所に停めても地元の人たちに迷惑をかけかねないし、また普段の運動不足を補うためにも、駅から撮影地まで歩くことにしている。特にコロナ禍になり在宅勤務となってからは、平日は外に出ないことが多いため、鉄道撮影時ぐらいは思う存分に歩きたい。

 

鉄道を使うことにより、対価を支払って、コロナ禍で苦闘する鉄道の営業面に少しでも貢献ができればと思う。鉄道好きにとってそれが恩返しではないだろうか。コロナ禍もあり、列車が空き気味で利用しやすい側面もある。

 

ちなみに駅のホーム等では撮影しない。というよりも、写真を商業利用している立場(専業ではないものの)ということもあり、駅ホーム等の鉄道敷地内での撮影はご法度だ。敷地内で撮る場合には許可が必要となる。また一般利用者に迷惑をかけるため極力避けている。よって駅間の撮影地へ行くことになっている。

 

駅間での撮影と簡単に言うものの、暑い季節はつらい。何より撮影機材の持ち歩きが身体にこたえる。そのために、ここ数年はなるべく機材を減らす工夫をしている。

↑映像用の三脚とビデオカメラ、その下にカメラバック、そして100円均一で買った踏み台。左のバックは三脚などを入れるために持参

 

最近の持ちものを撮ったのが上の写真。もう少し整理して撮ればと思うのだが、暑い時は、つい横着になりがちである。カメラバックにはカメラボディと標準ズーム、望遠ズームの各1本が入っている。さらに走行の映像を提供する機会が多いため、カメラの横でビデオカメラを構える。映像用にはコンパクトに折り畳める三脚を持参する。カメラ用の三脚は持っていかない。これだけあれば、十分に撮影可能というスタイルだ。

 

ちなみに鉄道専門のプロカメラマンの場合には、もう少し持ち物が多くなる。とはいえ、プロのカメラマンが言うには、機材というのは、欲をかけば欲をかくだけ増えていく、とのこと。割り切って減らせば、それほど多くなくとも撮れるとのことだ。そんな言葉の影響もあり機材はなるべく少なめにして、できるかぎりスタミナを消耗しないように心がけている。

 

◆100円均一の踏み台が一つあると便利

写真に入っている100円均一の踏み台は、一つ持っていると便利だ。まずは待ち時間に座って過ごせる。さらに脚立がわりになる。クルマだったらアルミの脚立を持っていけるが、歩いて撮影場所に向かうようになって必需品となった。壊れやすいのが難だが、安いだけに買い替えが可能だ。選び方としてはまずコンパクトであること。カメラバックの後ろポケット部分に入るものを選んでいる。あとは頑丈そうなもの。落ち着いた色のものを選ぶようにしている。

 

◆暑さから逃れ、さらに機材を守る意味もある折り畳み傘

↑カメラバックなどに直射日光を当てないように折り畳み傘を利用する。最近は軽くコンパクトで丈夫な傘が販売されていて便利だ

 

暑い時には身体を冷やす工夫をすると、熱中症の予防に効果的だ。筆者の場合には、まずは撮影地近くに日陰があれば利用する。日なたと日陰だと実は気温差がないのだが、照り返しの温度にかなり差があり、路面温度差は20度にもなるといわれる。これは役立てない手はない。とはいえ付近に日陰がない場合にはどうしたら良いのか。

 

鉄道撮影を趣味としている人の90%以上が男性だと思われる。女性の場合は日傘で暑さ対策はふつうだが、男性で日傘を愛用という人はさすがに珍しい。ただ、筆者の場合には折り畳みの傘を日傘代わりに利用していて、降水確率に関係なく持参している。昨今ではアウトドアショップで、軽くコンパクトな傘を販売している。これならば余計な荷物にならない。

 

日陰のないところでは、折り畳み傘を臆面もなく広げることにしている。自分の体温を上げずに済むし、カメラ機材を直射日光から守ることにもなる。カメラ機材は低温に弱いが、実は高温にも弱い。クルマの車内に置きっぱなしなどは、非常に危険だが、屋外であっても直射日光が長く当たることにより誤動作の元になったりする。折り畳み傘は、こんな時にもある程度の対策になるのだ。

 

◆真夏にあればいいなと思う便利グッズ

真夏の撮影での便利グッズを写真にまとめた。あくまで筆者の持ちものなので、それぞれの撮影様式に合わせて用意していただければと思う。

↑撮影機材以外に真夏に持っていきたいグッズ類。この中でファン付きベストはあれば便利だが、かさばり気味で持ち歩くのが厄介

 

①ボトルケース:カメラバックの留め具で吊るすことができるタイプが利用しやすい。日本国内では自販機が多くあり助かるが、撮影前に必ずペットボトル飲料1本は購入しておき、同ケースで持ち歩くことにしている。

②虫よけスプレー:夏には欠かせない。蚊などは茂みなどで出てきやすいので、腕などに事前にスプレーしておきたい。

③日焼け止め:撮影には持参しないが、外出前に顔、腕、首すじにぬっておくと良い。

④折り畳み傘:急な雨、さらに日陰が無いところで日傘として利用。カメラ機材を直射日光から守るためにも役立つ。

⑤携帯用バッテリー:夏用ではないが、新幹線の形をした携帯用バッテリーは細長くカメラバックに入れやすいので重宝している。

⑥携帯食:駅間は食事できる場所がないことが多い。小腹が空いた時に持っていると便利。ただ暑い日には溶け出すものがあり、夏場には注意して選びたい。

⑦飴(塩入り):汗が出た後の塩分補給に効く。数粒もっていけば十分。

⑧スポーツタオル:汗拭き用にあると便利。大きめのタオルに比べ細長いので首回りにかけても邪魔にならない。また首筋の日焼け止めにもなる。

⑨ファン付きベスト(空調服):屋外で働く人向けの夏着として販売され一躍人気に。身体自体をファンで冷やしてくれる。バッテリーは結構もつ。

⑩鉄印帳:夏にどうしても、というものではもちろんない。第三セクター鉄道を乗りに行く時には必須アイテム。

 

◆駅間撮影の時にはレンタサイクルがあると便利

↑レンタサイクルがあると夏期の撮影に便利。さらに電動機付きならば坂道にも強く鬼に金棒だ

 

歩くことを習慣にしている筆者ながら、さすがに真夏は歩く距離を短くしたい。暑いなか、汗をかきかきの徒歩移動は歩くだけで疲れきってしまう。そこで駅から遠めの撮影場所へ行く時には、レンタサイクルを借りるようにしている。行動範囲が広がるし快適。暑さによる体力消耗も防げて一挙両得だ。

 

【夏の鉄道撮影④】一番の障害は沿線の伸び放題の“夏草”

夏場の撮影で、暑さとともに困るのが沿線の雑草の伸び具合ではないだろうか。筆者もクルマで行動する時には、下草刈り用の道具を持参し、撮影の前に雑草を刈ったりしたこともある。

 

今はそうした処理をしてまで撮影する鉄道ファンをあまり見かけないが、寝台列車が走っていたころには有名撮影地ではそうした光景がよく見られた。もちろん、撮影の邪魔だからといって、他人の家の庭木の枝を切る、また地元の人たちに大切にされている木の枝を切るなどの行為はご法度。あくまで鉄道用地の外の雑草の除去である。

↑ここまで雑草が生い茂ると、撮影には不向きになってしまう。有名なポイントでも夏場は撮影できないところも多い

 

さすがに歩きではそうした道具を持ち運ぶことができない。そこで筆者がやっているのが、事前にロケハンをしておくこと。電車に乗る時には、撮影したい沿線の下草の具合を確認しておくのだ。各地の路線では必ず雑草を刈ったばかりのところがあって、そうしたところが撮影地に適している。

 

あとは、数本のみ長くのびた雑草は折って除去しておくなどして事前に撮影の準備をしておきたい。ただし、その場合もあくまで鉄道用地へ進入せずに、用地の外で目立つところの雑草のみに留めたい。たとえ雑草といえども用地に入っての草刈りはご法度であり、何よりも危険だ。

 

【夏の鉄道撮影⑤】歩いて巡ると土地それぞれの発見が楽しい

歩いて駅間の撮影地を目指すようになって、クルマでの移動では見逃しがちなことに出会うことが多い。線路沿いを歩いているうちに、ここでも撮影できるな、という撮影地を見つけることができる。

 

下の写真は本サイトで前回紹介した三岐鉄道三岐線沿線の田んぼで撮った写真だ。歩いていたらなんともシュールな案山子も出会った。ユーモアを持った農家の方々なのだろう。後ろに写り込んだ三岐線の踏切。遮断機が大きくてごつい造りだった。ひと時代前の手の込んだクラシックな姿のもので、全国で初めて目にしたものだった。

↑三岐鉄道三岐線保々駅近くの田んぼの光景。シュールな案山子の後ろにクラシックな遮断機が写り込む。こうした出会いもなかなか楽しい

 

夏場の歩きは大変だが、こうした新たな発見もまた鉄道撮影の楽しさであろう。ほかに猛暑に気をつけたいポイントをあげておこう。

 

◆35度以上の猛暑日の撮影はあきらめる

週末は、デスクワークでなまった体を鍛えるためにも撮影に行くことを常としている筆者だが、夏場に“撮影を控える”目安を一つ設けている。それは、最高気温35度以上になる日には撮影をあきらめるということである。

 

いくら撮影したい列車が走る予定でも、35度以上の猛暑日にはきっぱりあきらめている。どのように暑さ対策をしても、35度以上の猛暑は身体への負担が大きくなり、屋外での行動が有害以外の何ものでもないからだ。下手をすると、その場所で倒れる可能性もある。いくら水分を補っても無理だろう。

 

もちろん、35度以下なら大丈夫ということではない。撮影に行く場合は、上述したようにきちんと暑さ対策をした上で、体調の変化に気をつけながら行いたい。無理はしないことである。

 

そうした日に鉄道を楽しむとしたら、ひたすら乗ることではないだろうか。冷房の効いた車内で涼み、風景を楽しむ。そんな日もあって良いように思う。

 

◆地元の人に出会ったら挨拶をしておきたい

鉄道撮影に関連する事柄として一つ。最近、撮影ポイントへ行って気付くのは「こんにちは」「おつかれさま」といった〝撮影仲間〟への声かけをする人が減っていること。なかなか言いだせない雰囲気があることも確かなのだが、同好の人々が集まっているのだから、ちょっと残念である。もちろん撮影直前まで、がやがやと会話に興じても集中力を欠くことになって具合が悪いのだが。

 

鉄道撮影に打ち込む人たちには、どちらかと言えば人付き合いが苦手というタイプが多いように感じる(筆者も含めて)。ただ、勇気をもって話をしてみてはどうだろう。有益な情報が得られる場合が非常に多い。もちろん自分が持つ情報も出すことが肝心だ。

 

さらに、筆者が実践しているのは、地元の人に道で出会ったら、かならず「こんにちは」と挨拶をしている(都市部は除く)。地元の人たちは他所から来た人に警戒心を抱きがちだ。そんな時に「こんにちは」とにこやかに挨拶をすれば、大半の人が「こんにちは」と返してくれる。こうした交流が“撮り鉄は変な人が多い”という誤解をやわらげるようになると思う。

 

次の撮影の時には、にこやかに挨拶をしてみてはいかがだろう。きっと爽やかな気持ちが心に芽生え、鉄道撮影がさらに楽しくなるように思う。

 

最後にあたり、都市部を中心に再び、新型感染症の感染者が増える傾向が強まっている。夏休み目前、撮影に行きたい気持ちが高まっている方も多いと思うが、ここは我慢も必要かと(筆者への戒めも含め)。慎重に行動していただければ幸いである。

車両がおもしろい!昭和レトロが楽しめる「三重県3路線」に乗る

 〜〜乗りたい&行きたいローカル線車両事典No.1〜〜

 

トップの写真を見て昭和期の西武鉄道なのでは? と思われた方もいるのではないだろうか。これは三重県を走る三岐鉄道三岐線の光景だ。三岐線ではこうしたレトロ感満点の風景に出会うことができる。

 

古い車両を大事に使っている路線が全国には数多く残っている。今回は昭和レトロが楽しめる三重県内を走る3路線を中心にお届けしたい。

 

【乗りたい三岐線①】始発駅で出会った古めかしい音

三岐鉄道(さんぎてつどう)三岐線は近鉄富田駅(きんてつとみだえき)〜西藤原駅間を結ぶ26.6kmの路線で、四日市街といなべ市の郊外を結ぶ。

 

旅客だけでなく貨物輸送が盛んで、首都圏で言えば、秩父鉄道の姿にやや近い。旅客列車は近鉄富田駅の3番線ホームから発車する。同じホーム上の2番線は近鉄名古屋線の名古屋方面のホームとなっている。近鉄と三岐鉄道がホームを共有しているのだ。ホーム上に両線を隔てる仕切りなどはなく、近鉄電車からすぐに乗り換えることが可能だ。

 

とはいっても近鉄で利用可能な交通系ICカードは、三岐鉄道路線内では使えない。近鉄から乗継ぎ、三岐鉄道に乗る場合には、近鉄富田駅までの切符を買い求めて、さらに三岐線内の降りる駅での精算をした方が賢明だろう。発車時間まで余裕があれば改札を一度出て、硬券切符を購入して乗車したい。

↑始発駅の近鉄富田駅に停まる三岐鉄道101系。ホームは近鉄名古屋線との共用で乗換えが便利。切符は昔ながらの硬券だ(右上)

 

近鉄富田駅に停まっていた電車は三岐鉄道101系。西武時代には401系だった電車である。停車している時から今の電車らしくない、コンプレッサーの甲高い音がする。グワグワグワッ……カランカラン。表現が難しいが、とにかく静かではないのだ。古い西武電車は旧式の部品を流用することが多く、それが三岐鉄道にやってきても活かされている。客室の床にも整備用のフタが設けられているなど、旧式タイプの電車らしい姿もしっかり残る。

 

昨今の大都市圏を走る電車では聞かれない音でもあろう。微振動が体にも伝わるようだ。ただ、中高年世代以上の鉄道好きにはとても懐かしく、また若い世代にはいかにも機械が動いている感覚で、新鮮な音に感じると思う。

↑今回紹介の三岐鉄道三岐線ほか2路線は、みなJR線、近鉄線から郊外へ向けて走っている

 

【関連記事】
鈴鹿山脈を眺めて走る三重のローカル私鉄‐‐10の新たな発見に胸ときめく

 

【乗りたい三岐線②】西武鉄道の旧形電車ばかりとなった三岐線

三岐鉄道三岐線の電車は先の101系のほかにも801系(元西武701系)が主力となっている。どちらも1960年代から70年代にかけて西武の所沢車両工場で造られた車両だ。

 

旧西武の701系は、高度成長期に西武鉄道沿線で急増していた旅客需要に応えるべく造られた電車で、西武初のカルダン駆動方式を採用していた。だが、先頭の制御車の台車は国鉄の払下げ品を使うなど、経済性を重んじた電車でもあった。経済性を重んじたといえば聞こえは良いが、当時の西武は実に“しぶちん”だったわけである。現在の西武鉄道の車両とはだいぶ趣が異なっていた。

 

とはいえ、筆者はこの沿線で育ったこともあり、特有の乗り心地の悪さながら親しみがあったし、赤電塗装といわれるレトロカラーも好きだった。

↑保々駅の車庫に停まる赤電塗装の801系の横を、レモンイエローの801系が走り抜ける。1970年代の西武鉄道沿線を思い起こさせる光景だ

 

三岐鉄道の電車の通常塗装は黄色ベースで、車体下部にオレンジ色の太いラインが入る。

 

そんな三岐の標準塗装が、ここ数年変わりつつある。まずは801系の805編成が2018(平成30)年3月、黄色塗装(レモンイエロー)に塗り替えられた。黄色塗装といえば、西武では1969(昭和44)年に誕生した101系以降が黄色ベースの色づかいで、赤電塗装だった車両も徐々に黄色塗装に塗り替えられていった。西武の路線網から遠く離れた三岐鉄道で1970年代の西武当時の色が完全復活したのである。

 

さらに801系803編成が、2019(平成31)年4月に赤とベージュに塗り替えられた。西武鉄道では“赤電塗装”というリバイバル塗装に変わったのである。

 

三岐鉄道では、元西武701系ができた当時の色と、その後に塗り替えられた色の2パターンが走るようになったのだった。

 

ちなみに西武鉄道の中でもリバイバル塗装車は走っている。最も古参の新101系が“赤電塗装”や黄色ベースの塗装に塗り替えられた。とはいえ、西武鉄道好きにとっては、赤電塗装といえば、湘南形と呼ばれる正面の古い形を残した元西武701系こそが似合うと思う。

 

あとは三岐鉄道の車両がはいた台車が、旧西武の時とは異なるのだが、そこまで昔の姿を求めては酷というものだろう。

 

【関連記事】
首都圏の大手私鉄で増えている!? レア&リバイバル塗装車両を徹底ガイド〈前編〉

↑旧三岐色に塗られた101系。1970年代までは三岐線の電車はこの深緑地ベースの黄色塗装というカラーで走っていた

 

赤電塗装と黄色塗装に関心が集まりがちだが、三岐線にはほかにも注目したい電車が走る。101系101編成が2020(令和2)年4月、地を深緑に窓部分を黄色に塗装変更されている。同カラーは旧三岐色と呼ばれる塗り分けで1970年代中盤までの三岐線の代表的な色づかいだった。

 

塗装だけでなくレアな編成もある。851系3両編成は、前後で形が異なる。近鉄富田駅側は801系と同一、西藤原駅側は西武の新101系となっている。2013(平成25)年の脱線事故で廃車となった車両の代わりに、元西武新101系を新たに連結したためである。

 

ほかに751系3両1編成が走るが、こちらは元西武新101系が譲渡されたものだ。大元の西武鉄道では現在、新101系の車両数が減りつつあるが、今後、三岐鉄道に元西武新101系が譲渡されていくのだろうか。一方で、三岐101系(元西武401系)は引退になるのだろうか。とても気になるところだ。

↑851系の先頭車は旧西武新101系、後ろ2両は旧西武701系。前後で先頭の形が異なる。左上は反対側。雨どいの形なども3両で異なる

 

【乗りたい三岐線③】乗りに行ったら訪れたい保々駅の車庫

三岐線に乗ったら、ぜひとも保々駅(ほぼえき)を訪ねたい。駅舎を出て、やや近鉄富田駅側に歩けば、公道から整備工場内が見え、さらに車庫内の留置線が見えてくる。大手私鉄の車両基地のように高いフェンスはなく、背の低い鉄柵があるのみなのがありがたい。そのため停まっている電車と、電気機関車がよく見える。

 

筆者は何度か同地を訪れているが、そのたびに停まっている車両が異なっていて楽しめた。例えば最近、訪れた日(2021年7月18日)には、三岐鉄道の電気機関車の中ではレアな、ED5081形(ED5082号機も含む)が停車していた。同機関車は元東武鉄道のED5080形で、三岐鉄道へやってくる前には東武佐野線の貨物輸送で使われた機関車だ。

 

【関連記事】
タヌキとラーメンの町を走る「東武佐野線」11の疑問

↑保々駅の車庫に停まるED5081形。三岐鉄道では2両のみの希少な形式だ

 

訪れた日には、ED5081形とともに珍しい機関車も停まっていた。ED301形という凸形電気機関車で、通常は東藤原駅近くにあるセメント工場内での入換えに使われることが多く、沿線で見る機会がない。筆者も初めて出会う機関車だった。保々駅の車庫では、このような稀に見ることができる車両も停まっている。三岐線に乗車したらぜひとも立ち寄りたいポイントである。

↑ED301形は元南海電気鉄道のED5201形。1984(昭和59)年に三岐鉄道に移籍。主に構内の入換え作業に使われている

 

三岐線では丹生川駅(にゅうがわえき)近くにある「貨物鉄道博物館」もぜひとも訪れておきたい施設だ。ここのみに残る貨車13車両、蒸気機関車と、入換え用の小型機関車各1両が収蔵されている。うち3両は国立科学博物館「重要科学技術史資料」に登録された貨車だ。こうした多くの貨車や大切な資料類がボランティアの人たちの協力によって守られている。

 

開館は月1回のみで、毎月第1日曜日(1月のみ第2日曜日)の10時から16時まで。入館料は無料だが、訪れた時には今後のためにも寄付をしておきたいところだ。現在コロナ禍ということで、休館となる日もあり、確認してから訪ねることをお勧めしたい。

↑貨物鉄道博物館に収蔵されているシキ160形式。130トン積吊掛式大物車で1955(昭和30)年の製造。同館の収蔵車両の中で最大

 

【乗りたい三岐線④】走る貨物列車にも目を向けておきたい

三岐鉄道三岐線では電車だけでなく、貨物列車もしっかりチェックしておきたい。東藤原駅とJR富田駅を結ぶ貨物列車で、1日に下り(東藤原行)が10本、上り(富田行)7本が電気機関車2両の牽引による重連運転で運行されている(機関車のみでの単機運行を除く)。連結する貨車はセメントの粉体を運ぶタンク貨車タキ1900形、もしくはフライアッシュと炭酸カルシウムを運ぶホッパ車ホキ1000形を連結した列車も走っている。

↑小さめの電気機関車が重連で牽引を行う。写真はセメント粉体を積んだタンク車輸送で、四日市出荷センターまで運ばれる

 

貨物列車は三岐線の近鉄富田駅〜大矢知駅(おおやちえき)間にある三岐朝明信号場から貨物専用線に入りJR富田駅に向かう。その先、タンク貨車は、JR貨物のDF200形式に引き継がれJR富田駅〜四日市駅を走り、四日市駅から先は、四日市港内にある出荷センターまで運ばれる。

 

時間に余裕があれば、三岐鉄道の路線内だけでなく、四日市港内を走る姿も見ておきたいものだ。ちなみにJR四日市駅から四日市港(末広橋梁上付近)へは、距離にして1,2kmほどで、JR四日市駅などでレンタサイクルを借りれば十分に貨物列車の走行を追うことができる。

↑四日市港に架かる末広橋梁上のセメント列車。同橋は可動橋で、列車が通らない時は中央部が上に持ちあがる。国の重要文化財でもある

 

タンク貨車以外に三岐鉄道を走っている貨車がホッパ車ホキ1000形。こちらは東藤原駅からJR富田駅まで走り、その先、JR貨物のDF200形式に引き継がれ、東海道本線の稲沢駅まで向う。折り返す形で、武豊線東浦駅まで走り、そこから衣浦臨海鉄道の碧南市駅まで向かう。三岐鉄道から碧南市駅へ向かう時には炭酸カルシウムを、戻る時にはフライアッシュ(石炭灰)を運ぶ。

 

コンテナを除く貨車(車扱い貨物)が空荷のない双方向輸送を行う例は希少で、輸送効率の高い貨物列車でもある。この貨物輸送で運ばれる炭酸カルシウムは、碧南火力発電所で必要なものだが、こちらの火力発電所は燃料が石炭となっている。脱炭素化が急速に進む時代となっていて、こうした輸送含は今後どうなっていくか気になるところだ。

 

【関連記事】
新車導入も!「臨海鉄道」の貨物輸送と機関車に注目〈首都圏・東海・中国地方の5路線〉

 

【乗りたい北勢線①】横幅小さめの電車の特異な動き

三岐鉄道三岐線とともに、三重県を訪れたら乗ってみたいのが「三岐鉄道北勢線(ほくせいせん)」と、「四日市あすなろう鉄道」の路線だ。

 

両線は762mmという線路幅の路線で、国内ではほかに黒部峡谷鉄道以外にない。いわゆる軽便鉄道と呼ばれる線路幅だ。日本の在来線は1067mmと世界の鉄道路線の中では狭軌となるが、それよりも一回り幅が狭い。その珍しい線路幅の路線が三重県に集うように残っているのである。独特な姿の車両と、また在来線とは異なる乗り心地が味わえるので、ぜひとも経験していただきたい。

 

【関連記事】
762mm幅が残った謎——三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

↑北勢線の基本形式となる270系。タテ長で、車体もかなり短い印象の電車だ

 

三岐鉄道北勢線はJRと近鉄の桑名駅に隣接の西桑名駅が起点で、阿下喜駅(あげきえき)まで20.4kmを走る。車両は線路幅に合わせて小さめ。横幅がせまく、タテに長く見える。車体の横幅は2110〜2130mm。JR山手線を走るE235系の横幅は2950mmなので、約800mmも狭い。ほかのサイズを比べてみると、全高が北勢線の場合3190〜3670mmなのに対して、E235系は3620mm(パンタグラフ折りたたみ時3950mm)と、車体の高さはそれほどの差はない。全長は北勢線の電車が11380〜15600mmで、山手線が20000mmだ。

 

つまり車体の横幅と長さが極端に違っているわけだ。こうした特長は、乗った時の印象につながっている。室内は通路が狭く感じる。大人が対面して座ると、すぐにそれが分かる。さらに動き出すと横にゆれる独特な感覚があり、これは北勢線特有のものだ。

↑楚原駅〜麻生田駅間にある「めがね橋」。3連アーチ橋で、コンクリートブロック製の美しい姿が残される

 

車両は三岐線と同じく黄色にオレンジ色のツートンカラーが基本。ほかに先頭が平面タイプではない湘南形と呼ばれるデザインの200系も走り、こちらは三重交通時代のリバイバル塗装である下半分が濃いグリーン、上半分がクリームという色分けで走る。

 

北勢線の沿線で訪れてみたいところを挙げておこう。北勢線の開業は古く、開業は1914(大正3)年で、現在の路線区間が全通したのが1931(昭和6)年のことだった。ちなみに三岐線の開業は、北勢線全通の年と同じ1931(昭和6)年で、北勢線の起源の方が古いことが分かる。そうした古さを感じさせるポイントがある。楚原駅(そはらえき)〜麻生田駅(おうだえき)間にある2本の橋がそれで、それぞれねじり橋、めがね橋と呼ばれ、同区間が開業した1916(大正5)年に完成した歴史を持つ。ともにコンクリートブロック製の橋で、いわば煉瓦積みのように、コンクリートをブロックにして積み上げて造りあげたもの。当時に造られた橋に多く見られるアーチ状の姿が美しい。

 

最寄りの楚原駅からはねじり橋までは徒歩で12分(900m)ほどなので、時間に余裕がある時に立ち寄ることをお勧めしたい。

 

【乗りたい北勢線②】終点の阿下喜駅には軽便鉄道博物館が

北勢線に乗車したら、ぜひ訪れたいのが、終点阿下喜駅に隣接した軽便鉄道博物館だ。軽便鉄道という今となっては貴重なスケールの鉄道を紹介する施設で、ミニ電車の運転も行う。さらに博物館内にはミニ転車台、北勢線開業当時に造られたモニ226、旧阿下喜駅舎も保存されている。

 

同博物館の開館は第1・3日曜日の10時から16時まで。コロナ禍のため閉館となる日もあるので、確認の上、訪れたい。

↑阿下喜駅前にある軽便鉄道博物館。資料展示のほか、かわいらしいミニ電車の運転も行われる(運転が無い日もあり)

 

北勢線と三岐線は、ほぼ平行して路線が延びている。それこそ付かず離れずといった距離で、北勢線の阿下喜駅から、三岐線の伊勢治田駅(いせはったえき)まで徒歩22分(1.6km)ほどの距離となる。

 

両線の間を歩くことを覚悟すれば、行きは北勢線で阿下喜駅まで、帰りは三岐線といった行程も不可能ではない。

 

【乗りたい四日市あすなろ鉄道】かわいらしいミニ鉄道&ミニ路線

↑2015(平成27)年にリニューアルされたモ261-サ181-ク161の3両編成。リニューアルにあたり中間車が新造された

 

せっかく三重県を訪れたのならば、四日市あすなろう鉄道にも乗っておきたい。前述したように、四日市あすなろう鉄道は三岐鉄道北勢線と同じように、線路幅が762mmの軽便鉄道サイズだ。

 

路線は内部線(うつべせん)の5.7km。八王子線(はちおうじせん)の1.3kmと路線距離もミニサイズだ。2015(平成27)年に近鉄から四日市あすなろう鉄道に運営が引き継がれた。四日市あすなろう鉄道の路線は四日市市が保有、近鉄75%、四日市市が25%を出資した第三セクター経営の四日市あすなろう鉄道が列車の運行を行っている。

↑2編成目としてリニューアルされたモ262-サ182(新造車)-ク162の3両。こちらは黄緑とクリームカラーの組み合わせで走る

 

車両は260系で、北勢線と同じくミニサイズである。四日市あすなろう鉄道が運行するようになって走る電車が大きく変った。リニューアル化は徹底され、中間車や制御車には新造車が導入、同時に冷房化された。新しい260系は、2016(平成28)年の鉄道友の会ローレル賞に選ばれている。

 

軽便鉄道としては画期的な車両といえるだろう。塗装も、明るい青とクリーム、または黄緑とクリーム色に変更された。筆者は近鉄当時にも訪れていたが、その変化に驚かされた。

↑座席は1人掛けクロスシートが基本。吊り手もあるが座席の横にある手すりがハート型でおしゃれな印象だ

 

この四日市あすなろう鉄道では、まずは新しい260系に乗りたい。線路幅762mmのため独特の揺れは感じるものの、おしゃれに変身したミニサイズの電車が楽しい。

 

路線は近鉄四日市駅の構内の1階にある、あすなろう四日市駅が起点となる。同駅から内部駅までの内部線と、途中の日永駅から分岐する一駅区間の八王子線がある。分岐駅の日永駅の構造がおもしろい。ホームは3番線まであり、八王子線方面のホームはちょうどカーブ途中にある。あすなろう四日市駅発の列車は八王子線西日野駅行と、内部線内部駅行が交互に出ていて、分かりやすい。乗車時間はあすなろう四日市駅から西日野駅まで乗車8分、内部駅まで18分と短め。すべての路線を乗車しても、それほど時間はかからない。

 

ちなみに車庫や検修庫は内部駅にあり、駅舎のすぐ横から検修庫内が見える。ミニサイズで、このスケール感が楽しい。また行ってみたいと思わせる三重県内のこれらの路線。コロナ禍が治まったらぜひとも訪ねていただきたい。

首都圏の大手私鉄で増えている!? レア&リバイバル塗装車両を徹底ガイド【後編】

 〜〜大鉄私鉄4社のレア塗装・リバイバル塗装2021〜〜

 

“黄色い電車に出会えた。今日はいいことがあるかも!?”というような楽しみ方をしている人が意外に多いそうである。暮らしに潤いを与えてくれるカラフルなレア塗装の電車たち。前回に引き続き、首都圏を走る大手私鉄のレア&リバイバル塗装車を取り上げてみよう。

 

【前編はこちら

 

【はじめに】レア塗装となる車両の傾向と撮影時の課題

↑東武亀戸線を走るオレンジ+黄帯塗装車。亀戸線だけでなく、大師線を走る日もあり、チェックした上で訪ねたい

 

前回も見たようにレア塗装車は、幹線路線よりも、閑散路線を走らせることが多い。レア&リバイバル塗装により、誘客効果が期待できるからだ。だが、乗りに行こうと突然訪れてもその日に走っているとは限らない。車庫に入っていたり、検査中の時もあり、出会えないこともある。

 

そこで、訪れる時はネット上に流れている運用情報(例えば「●●線運用情報」と検索してみればよい)をチェックした上で訪ねたい。首都圏の大手私鉄路線の場合、こうした運用情報が充実している。レア塗装車がどこを何時に走っているのか、すべてが分かるような仕組みとなっている。

 

レア塗装車は “古参車両”も多く、いつ引退してもおかしくない。筆者も撮りに行こうと日程を調整していたのだが、いつの間にか走らなくなっていたこともあった。

 

こうした車両は逃してしまったら、二度と撮れない可能性があるのだ。さらにコロナ禍もあり密を避けるためか、サヨナラ運転が発表されないことも多くなっている。

 

ほかの注意点としてはLED表示の問題もおさえておきたい。古参の車両でも、最近はLED表示器に変更されることがある。ちなみにすぐ下の写真にある東武鉄道の8000系もそうで、この“後付け”のLEDが厄介だ。きれいに撮影しようとすると100分1という遅めのシャッター速度が必要となることも。新しい車両のLED表示器に比べるとシャッター速度を遅くしなければならず、かなり“シビア”になることを確認しておきたい。

 

【レア塗装車その⑤】最大勢力を誇った東武8000系最後の輝き?

◆東武鉄道 亀戸線・大師線8000系 リバイバルカラー

↑東武亀戸線を走る8000系試験塗装車。ミディアムイエローにインターナショナルオレンジの帯を巻き、かなり目立つ装いとなっている

 

↑8000系試験塗装車のこちらはグリーン色の車体に白色系の帯というシックな出で立ち。同車両は亀戸線か大師線(写真)を走る

 

東武鉄道は“レア塗装車づくり”が活発な鉄道会社である。どのような路線を走っているのか、見ていこう。

 

まずは亀戸線と大師線。この路線を走る8000系は、かつて東武鉄道の主力車両で、1963(昭和38)年から20年の製造期間中、私鉄では最大の712両が造られた。東武では最大勢力を誇った8000系だったが、徐々に減っていき、東武アーバンパークライン(野田線)を除き、第一線から退きつつある。亀戸線・大師線ではこの8000系が2両化されて走り、2016(平成28)年3月23日にレア塗装車の導入が始まった。

 

まず走ったのが、インターナショナルオレンジ色と呼ばれるオレンジ塗装をベースにミディアムイエローの帯を巻いた8577編成だった。塗装の呼び名は「標準色」。昭和30年代に、東武鉄道の「標準色」として採用された塗装だった。

 

最初のレア塗装が好評だったことから、2017(平成29)年2月16日には、かつての「試験塗装色」として試された、グリーンのベース色に白帯(ジャスミンホワイト帯)の車両を登場させた。

 

さらに第3弾として、2017年7月13日から「試験塗装色」だったミディアムイエロー色の地に、インターナショナルオレンジ色の帯を巻く8000系を走らせている。

 

運行期間は当面の間ということだったが、4~5年たった今も、3色の塗装車は亀戸線・大師線を走り続けている。もう欠くことができない同路線の名物車両となっているようだ。

 

◆東武鉄道 東上線・越生線8000系 塗装変更車

↑小川町駅近くを走る8000系ツートンカラー車。現在は東上線の一部区間と越生線を走るのみとなっている

 

↑こちらはセイジカラー車。東上線では希少な8000系のリバイバルカラー車として走り続けている

 

亀戸線・大師線よりも先にレア&リバイバル塗装されたのが東武東上線・越生線を走る8000系4両編成だった。東上線開業100周年に合わせての塗り替えで、2014(平成26)年3月29日に「セイジクリーム」という淡いクリーム色に変更された。

 

ちなみにセイジクリームは1974(昭和49)年に登場した当時の標準色でもある。このリバイバル色が好評だったことから、2014(平成26)年の11月22日からは、1編成がオレンジ色とベージュ色の「ツートンカラー」に塗装変更されている。

 

ちなみにツートンカラー塗装は、セイジクリーム色となる前の東武鉄道の標準色でもあった。今でも2編成の塗装変更車が東上線・越生線を走る。とはいえ、走るのは寄居駅〜小川町駅間、もしくは越生駅〜坂戸駅間のみとなっている。

 

なお東上線・越生線には東上線全通90周年を記念して、濃い青色に黄色の帯の「フライング東上号」が2015(平成27)年11月28日に登場したが、同塗装は2019年7月で運行が終了している。

 

◆東武鉄道 日光線・鬼怒川線6050型「往年の6000系リバイバルカラー」

↑リバイバル塗装となった6050型6162編成。同色は6000系のころの塗装で、同編成も6000系を元にした更新車だ

 

6050型は東武鉄道で希少な2ドア、セミクロスシート仕様で、東武日光線や鬼怒川線の運用に利用されている。この形式には6000系(非冷房車)を更新した車両と、増備のために新造された車両がある。

 

2019(平成31)年、東武日光線90周年を記念して生まれたのが「往年の6000系リバイバルカラー」と呼ぶラッピング車両。通常の塗装はジャスミンホワイトに、サニーコーラルオレンジと、パープルルビーレッドの2本の帯が入るが、同ラッピング車両は、6000系のころのロイヤルベージュとロイヤルマルーンのツートンカラーが再現されている。リバイバルカラーとされたのは6162編成と6179編成の2編成(計4両)で、現在、南栗橋駅・下今市駅〜東武日光駅・新藤原駅間を走る。

 

ちなみにリバイバル塗装となった2編成のうち、6162編成が6000系の更新車で、元は6000系6119編成だった。同編成が6000系として生まれたのは1966(昭和41)年とかなりの前のことになる。

 

◆東武鉄道 東上線・50090型「池袋・川越アートトレイン」

↑カラフルにラッピングされた50090型51092編成。川越特急やTJライナーだけでなく、普通列車としても走る

 

2019(平成31)年3月に登場した東武東上線の「川越特急」。池袋駅〜川越駅間を最速26分で結ぶ。同特急が走り始める1か月前に登場したのが「池袋・川越アートトレイン」と呼ばれるラッピング塗装車両だった。同車両は若手画家、古家野雄紀氏が“川越に彩りを加える”というテーマで作画を担当、10両編成の全車両を使って川越の魅力を発信しようという試みが取り入れられている。

 

車両は座席定員制列車「TJライナー」用に設けられた50090型。クロスシート・ロングシートの横向き・縦向きが転換できる「マルチシート」を取り入れている。シートの転換が容易にできることもあり、TJライナー、川越特急といった優等列車だけでなく、普通列車としても走るなど、マルチな使われ方をしている。

 

【レア塗装車その⑥】気になるレトロ塗装車が3路線を走る

◆東急電鉄・東横線5000系“青ガエルラッピング”

↑東急東横線の名物電車5000系“青ガエルラッピング”。当初は90周年のヘッドマークを付けて運行、その後に外されたものの今も運行を続ける

 

東急電鉄も、レア&リバイバル塗装の宝庫だ。東横線と、池上線・多摩川線をレア塗装車両が走る。東急東横線が5000系と5050系、東急池上線・多摩川線では1000系にラッピング塗装が施されている。

 

まずここでは東横線を見ていこう。東急電鉄では5000系が東急の“標準車両”とも言える電車だが、路線ごとに形式名が異なる。まず基本となった田園都市線用が5000系、東横線が5050系、そして目黒線用が5080系となっている。ここには例外があり田園都市線用の5000系は一部が東横線へ転用されている。この転用された5000系5122編成が通称“青ガエルラッピング”塗装車となった。

 

緑色で独特な姿形から“青ガエル” と呼ばれた初代5000系を起源とする塗装色だ。“青ガエルラッピング”塗装車は東横線が開業90周年を記念して2017(平成29)年9月から走り始めた。当初は1年の予定だったものの、好評につき期限は徐々に伸びていき、すでに4年目となる。人気なだけにあえて変更する必要もないということなのだろう。

 

◆東急電鉄・東横線5000系「Shibuya Hikarie号」

↑ゴールドをベースにしたラッピング車「渋谷ヒカリエ号」。すでに走り始めて8年を迎えている。写真は西武池袋線での運用シーン

 

東横線の青ガエルラッピングとともに名物車両となっているのが「Shibuya Hikarie号」。渋谷駅近くにある商業施設の「渋谷ヒカリエ」の1周年記念プロモーション用に5050系4000番台(4010編成)が“特別車両”として新造された。2013(平成25)年4月からの運行で、ゴールドをメインカラーでラッピングされている。

 

車内にもひと工夫が見られる。シートの色分け、天井部の色づかい、吊り手に8色を採用するなど、賑やかな造りとなっている。さらに編成に1箇所のみ「キラリと光るハートマーク」を手すりに刻印。“見つけると幸せになれるかもしれない”というメッセージ性を持たせている。

 

このラッピング編成は、各社のレア&リバイバル塗装車と比べて、かなり手の込んだ造りにしている。すでに8年目となり、長生きなレア車両となっている。東横線内だけでなく、東京メトロ副都心線、東武東上線、西武池袋線、また横浜高速みなとみらい線へ乗り入れていて、そのPR効果は絶大なようだ。

 

◆東急電鉄 池上線・多摩川線1000系「緑の電車」

↑東急多摩川線を走る1000系「緑の電車」。この1000系は、他の車両と異なり中央に貫通扉が設けられている。その理由は?

 

東横線とならび、レア&リバイバル塗装が目立つのが池上線・多摩川線系列だ。同路線には2編成のリバイバル塗装車が走る。

 

まずは1000系の緑一色の3両編成で「緑の電車」と呼ばれている。「池上線活性化プロジェクト」の一環として、この編成は2019(平成31)年11月25日から走り始めた。“なつかしさ”を感じる旧3000系「緑の電車」にちなみ、1013編成が緑一色のラッピング塗装に変更された。旧3000系は1989(平成元)年まで走り続けていた緑色の名物車両である。

 

この編成、同線を走る1000系とやや異なっている。通常の1000系の正面を見ると、貫通扉が中央からややずれたところにあるが1013編成の前後両側の車両、クハ1013号とデハ1312号車とも、中央に貫通扉がある。なぜなのだろう。

 

同車は当初、東横・目蒲両線用に8両編成として造られた。4両×2編成に分割できるように、クハ1013号とデハ1312号の中央部に貫通扉を設けて連結が可能にしていた。その後、池上線・多摩川線用に3両編成化した際に、中央に貫通扉がある車両同士を前後にするために組み換えを行った。そのためにこの編成のみ、貫通扉が中央となった。ほかの1000系と組み合わせなかったのは、運転士の操作ミスを防ぐため。貫通扉の位置により、運転室の機器の配置が異なるそうである。

 

同編成をよく見ると中央に貫通扉を持つとともに、通常は中間車側の連結器部分に白ペンキで書かれる「形式」「自重」「定員数」などの表記が、先頭車側にある。以前は中間車だったのですよ、という整備スタッフからのメッセージであるようにも受け取れておもしろい。レア塗装であるとともに、車両の造りや塗り方にもこだわりが感じられる。

 

◆東急電鉄 池上線・多摩川線1000系「きになる電車」

↑池上線・多摩川線を走る1000系「きになる電車」。濃紺と黄色のツートンカラー、側面には「T.K.K」のロゴが入る

 

池上線・多摩川線にはもう1編成、リバイバル塗装車が走る。名前は「きになる電車」。それこそ気になる電車だ。濃紺と黄色のツートンカラーのボディ。側面には「T.K.K」のロゴが入る。T.K.Kとは、東急電鉄の前の会社名、東京急行電鉄株式会社(Tokyo Kyuko Kabushikigaisha)の略称で、ひと時代前の東急の電車には、この略称が車体に入っていた。また濃紺と黄色のカラーは1951(昭和26)年から1966(昭和41)年まで池上線と旧目蒲線を走っていた電車色なのである。

 

同列車は内装も凝っていて室内は木目調、吊り手も木製で職人が手作業でつくったもの。室内のライトも電球色のLED照明となっている。

 

◆東急電鉄 世田谷線300系「幸福の招き猫電車」

↑世田谷区内を走る東急世田谷線は沿線の花が美しい路線でもある。レアな「幸福の招き猫電車」が花の中を走る

 

世田谷線は、東急電鉄の路線の中でも異色の路線だ。元は路面電車の玉川線で、他線は廃止されたものの、三軒茶屋〜下高井戸間のみが残った。走る車両は路面電車タイプで、300系のみ。2両連結の10編成が走る。すべて車体色が異なり、みなレア塗装と言えるだろう。

 

ここでさらにレアなのが招き猫電車だろう。正式名称は「幸福の招き猫電車」。沿線にある豪徳寺が招き猫発祥の地で、2017(平成29)年9月25日から玉電開通110周年を記念して生まれた電車だ。ちょうど1年後の2018(平成30)年3月までの限定で運転された。

 

この「幸福の招き猫電車」が、今度は世田谷線50周年記念企画の一貫として2019(平成31)年5月から運行再開されている。新たな「幸福の招き猫電車」は、前回に比べてさらにパワーアップして、正面部分には耳が付けられた。もちろん車内の床面には猫の足あとが、吊り手も招き猫にちなむ形に。今回は1年のみならず、現在も走っている。どうも世田谷線に欠くことができない名物車両となってしまったようだ。

 

【レア塗装車その⑦】いわくつきの京成レア塗装車がおもしろい

◆京成電鉄3700形「千葉ニュータウン鉄道への賃貸車両」

↑千葉ニュータウン鉄道株式会社が所有する京成3700形の賃貸車両。9800形と形式名を変更、また帯色も変更されている

 

京成電鉄のレア塗装車はちょっと不思議な成り立ちがある。京成電鉄は北総鉄道との相互乗り入れを行っている。北総鉄道は京成電鉄が筆頭株主だ。北総の自社所有車両以外に、京成から3700形(3編成×8両)を賃貸契約で借りている。こちらは北総7800形と形式名を変更、帯の色を水色、青色の2本としている

 

さらに北総鉄道では千葉ニュータウン鉄道が所有する電車も走る。同社所有の電車を走らせる一方で、京成から3700形(1編成×8両)をリースしている。こちらも帯の色を水色と黄色に変更し、京成の3700形を9800形と形式名も変えている。これらの編成をレア塗装とすることには、多少の無理があるかも知れないが、なかなかおもしろい変更例なので取り上げておきたい。

 

◆京成3500形「芝山鉄道への賃貸車両」

↑柴又駅付近を走る芝山鉄道3500形。正面に「SR」、側面(左上)に「芝山鉄道」の名前が入り、京成電鉄の電車ではないことが分かる

 

京成電鉄には、もう1編成の賃貸車両がある。芝山鉄道へリースしている3500形だ。芝山鉄道は東成田駅〜芝山千代田駅間のわずか2.2kmの路線を持つ小さな鉄道会社で、京成電鉄も出資している第3セクター方式で運営され、京成成田駅からの乗り入れ運転が行われている。

 

自社車両は持たず京成電鉄3500形3540編成を2013(平成25)年4月1日からリースして走らせている。前述した北総鉄道、千葉ニュータウン鉄道への賃貸車両とは異なり、前面に「SR」の文字、側面に「芝山鉄道」のシールが貼られる細やかな変更のみで、かろうじて「芝山鉄道」の車両であることが分かる。

 

興味深いのは芝山鉄道の路線も走るものの、京成金町線(京成高砂駅〜金町駅間)での運用が多い。芝山鉄道と明記されながらも、金町線という東京下町の路線を走る姿もなかなかおもしろい。

 

◆京成電鉄3600形「標準塗装」「ファイヤーオレンジ塗装」

↑レア塗装車ではないものの、わずかとなった3600形編成のため取り上げてみた。同編成は京成金町線を走ることが多い

 

↑3600形唯一の6両編成の車両は標準の帯色でなく、ファイヤーオレンジ塗装という帯色にして走っている

 

京成電鉄で編成自体が希少になりつつあるのが3600形だ。3600形は1982(昭和57)年から導入された車両で6両編成×9本の計54両が造られた。今の車両に比べると正面が平坦で、やや無骨な形をしているものの、技術的には界磁チョッパ制御方式、またT形ワンハンドルのマスター・コントローラーを採用している。

 

長く都営地下鉄浅草線への乗り入れ用などに使われていたが、近年は急速に車両数を減らしている。すでに4両×1編成と、6両×1編成しか残っていない。4両編成の電車は主に京成金町線で、6両編成は赤帯(ファイヤーオレンジ塗装)のレア塗装となり、主に上野駅〜成田駅間、もしくは千葉線の京成津田沼駅〜ちはら台駅間を走っている。

 

【レア塗装車その⑧】NEVYBLUE塗装は珍しくなくなったものの

◆相模鉄道8000系YOKOHAMA NAVYBLUE

↑8000系のYOKOHAMA NAVYBLUE塗装は1編成のみ。従来の8000系とは異なる正面の形をしている

 

レア&リバイバル塗装の最後に相模鉄道(以下「相鉄」と略)を紹介したい。相鉄のレア塗装といえば「そうにゃんトレイン」も一例としてあげられるが、ここでは異なるレア塗装車に触れておこう。

 

相鉄ではYOKOHAMA NAVYBLUEという名前の、濃い青色塗装化を徐々に進めてきた。この塗装化を進める上で、希少な“異端”の車両が出てきた。

 

まずは8000系のYOKOHAMA NAVYBLUE車から。昨年の11月に7000系が引退し、8000系が相鉄電車の“最古参”となった。現在、10両×9編成が走るが、そのうち8709×10がYOKOHAMA NAVYBLUE塗装に変更され、車内外が大きく更新されている。これまでの8000系のように前照灯が先頭車の運転席の窓下中央に付いていたものが、上部に変更されているのがその一例だ。

 

今のところ8000系のYOKOHAMA NAVYBLUE車両は1編成のみで、今後、8000系は同じように変更されていくのか、気になるところだ。

 

◆相模鉄道10000系YOKOHAMA NAVYBLUE

↑相鉄10000系で唯一のYOKOHAMA NEVYBLUE塗装車。前照灯やLED表示器なども従来の10000系とは異なるものに更新されている

 

YOKOHAMA NAVYBLUE塗装は、まずは試験的に9000系に施され、徐々に編成数が増やされていった。そうした経緯もあり9000系は10両×6編成すべてがYOKOHAMA NAVYBLUE塗装とされている。

 

またJR東日本埼京線への乗り入れ用の12000系と、20000系もすべてがYOKOHAMA NAVYBLUE塗装とされている。一方でYOKOHAMA NAVYBLUE塗装が世に出る前に登場した10000系、11000系は通常のステンレス鋼の地をいかし、帯を巻く姿となっている。そのなかで異色なのが10000系のYOKOHAMA NAVYBLUE塗装車両で、10701×10の編成のみとなっている。同編成はJR東日本長野総合車両センターに入場して内外の機器なども更新した上で、YOKOHAMA NAVYBLUE塗装に変更されている。

 

10000系はJR東日本のE231系と同じ基本設計で造られた。さらに長野総合車両センターへ回送されての機器更新ということもあり、12000系と同じようにJR埼京線への乗り入れに備えたものでは、と推測されたが、現在のところ、相鉄線内を走るのみとなっている。

 

ちなみにこの塗装変更が行われたのち、10000系の別編成も機器更新が行われたが、YOKOHAMA NAVYBLUE塗装には変更されなかった。機器更新など改修が行われる時は塗装変更されると思われてきただけに、ちょっと不思議なところでもある。

 

今後ともレア&リバイバル塗装車には注目していきたい。関西、東海地方の大手私鉄も取り上げたいと思っている。

首都圏の大手私鉄で増えている!? レア&リバイバル塗装車両を徹底ガイド〈前編〉

〜〜大鉄私鉄4社のレア塗装・リバイバル塗装2021〜〜

 

赤・青・黄色・緑……大手私鉄各社が走らせているレア&リバイバル塗装車の電車の姿を並べてみると、色見本のような鮮やかな色の電車がそろう。

 

このところ、鉄道会社では各社の基本色とは異なる希少な色に塗り替えたり、ラッピングしたりした電車が多く現れている。すでに首都圏を走る大手私鉄のほとんどがレア塗装車を走らせている。どのような車両が走っているのか、具体例を見ていこう。当然ながらそこには、鉄道会社の意図が見え隠れしている

 

【レア塗装車その①】注目度が低い路線に鮮やかレッド車両が登場

◆西武鉄道多摩湖線9000系「RED LUCKY TRAIN」

↑西武多摩湖線を走る赤色の9000系。これまでにない鮮やかな色づかいで異彩を放つ

 

西武鉄道の多摩湖線は国分寺駅と多摩湖駅を結ぶ9.2kmの路線だ。西武の路線の中では、あまり目立つ存在とは言えず、地味目の路線だった。路線には長い間、同鉄道の中で最も古い車両の新101系が走っていた。そんな多摩湖線だが、駅のホームドア設置のために、3ドアの新101系は2021年2月で運行が終了。代わりにワンマン仕様、4ドアの9000系を投入した。さらに3月末には赤い9000系電車が走り始めている。

 

赤い色に塗られた9000系9103編成は2014(平成26)年7月から、京浜急行電鉄とのコラボレーション企画として、「幸運の赤い電車RED LUCKY TRAIN」として走っていた。当時は10両編成で、京急と同じく赤地に側面の窓周りなどクリーム色に塗り分けられていた。多摩湖線に入線するにあたって、4両となり、またワンマン運転が可能なように改造され、真っ赤一色となった。RED LUCKY TRAINの赤が、さらに強調され、鮮やかになったのだった。

↑こちらの紺色の9000系も西武多摩湖線を走る。他に9000系の標準色でもある黄色の電車も同線を走っている

 

多摩湖線には他に紺色、また9000系の元の色でもある黄色の編成も走る。路線を走る電車は赤、紺、黄色が入り交じりかなり賑やかになった。

 

こうした車両色を導入することによる効果を考えてみよう。まずは目立つ。路線のイメージアップを図ることができる。レア塗装が走っているということで鉄道ファンが訪れる。さらに子どもたちにも人気となる。要はレア塗装、リバイバル塗装は、鉄道会社にとって、少なからず誘客につながっている。どちらかといえば、閑散路線でこうした車両の導入が多いことからもうかがえるだろう。

 

◆西武鉄道多摩川線 新101系「赤電塗装車」「ツートンカラー」

↑1960年代・70年代の西武電車の基本色だった赤とベージュの塗り分け。赤電塗装車の新101系は現在、西武多摩川線を走っている

 

↑西武多摩川線を走る新101系のツートンカラーの黄色塗装車。101系の登場したころのリバイバル塗装でもある

 

西武多摩湖線から消えた新101系だが、西武多摩川線と、西武狭山線(こちらは平日のみ運行)を今も走る。新101系もレア塗装、リバイバル塗装車が目立つ。1960年代・70年代の西武電車の標準色“赤電塗装”と呼ばれる車両も走り、人気車両となっている。他に、ツートンカラー(黄色とベージュ色)、黄色一色車両。近江鉄道色、伊豆箱根鉄道色と、すでに新101系は、レア&リバイバル塗装ばかりになっているといって良い。逆に白い色の標準タイプが消えつつあることも興味深い。

↑新101系の263編成は黄色一色の塗装。パンタグラフが4つと特別なつくりで、旅客輸送以外に新型電車の輸送にも活用されている

 

新101系はすでに多摩湖線から消えて、車両数が減りつつある。多摩川線の新101系もいつまで走るのか、危ぶまれる存在となっている。

 

西武鉄道では、埼玉西武ライオンズにちなんだ20000系「L-train」、そして30000系「DORAEMON-GO!」も走らせている。このあたりは西武球団のPR用、また親子連れを強く意識したラッピング仕様となっている。

 

大手私鉄で唯一の新都市交通システム・案内軌条式鉄道を利用している西武山口線(レオライナー)。同線を走る8500系の8521編成が茶色と黄色のカラーとなり5月15日から走り始めている。この茶色と黄色というカラー塗装は、赤電塗装よりも前の1950年代・60年代に走っていた塗装車両だ。筆者は西武沿線で育っただけに、懐かしい思い出もあり一度乗りに行きたいな、と考えている。

 

【レア塗装車その②】すっかりおなじみになった青色黄色電車

◆京急600形・2100形「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」

↑京急の600形「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」。600形は京急線内だけでなく、都営浅草線、京成線などに乗り入れている

 

↑2100形は京急線内のみの運行。快速特急を中心に運用されている

 

レア塗装を各社に定着させたのは、京浜急行電鉄(以下「京急」と略)の影響が大きかったように思う。その元祖というべき存在が、「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」だ。600形と2100形の両形式に青い塗装の電車が1編成ずつ用意されている。青は京急の路線が走る「羽田空港の空」「三浦半島の海」をイメージした色だったとされる。

 

この「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」が走り始めたのは600形が2005(平成17)年3月14日、2100形が2005(平成17)年6月11日からと16年前のことになる。すでにベテランの域に達したレア塗装車となっている。

 

◆京浜急行電鉄1000形「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」

↑京浜急行電鉄の黄色の1000形は「YELLOW HAPPY TRAIN」の愛称で、すっかり人気のレア編成となっている

 

↑黄色い電車を生むヒントとなった事業用車の京急デト11・12形。主に車庫から車庫へ資材運搬列車として活躍している

 

さらに、2014(平成26)年5月1日から1000形1057編成を黄色に塗装変更を行い「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」として走らせ始めた。

 

この黄色電車は、もともと京急の電動貨車デト11・12形の色を意識して塗られたもので、当初、3年間の予定で運転を開始した。ところが、予想以上に好評だったこともあり、その後も継続して運転されている。「黄色い電車を見ると幸せになる」という“都市伝説”まで語られるようになり、変えるに変えられないという状況にまでなった。

 

さらに、もともと黄色の電車が多かった西武鉄道とのコラボレーション企画にまで進展。京急から提案して、前述のように西武鉄道には「幸運の赤い電車RED LUCKY TRAIN」が走るようになった。その後には両社で営業面での協力が盛んに行われるなど、私鉄同士の縁を強めることにも一役かっている。

 

「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」の3編成は京急のホームページで、連日、細かい運転時間まで発表されている。こうした細かい配慮も、レア編成の人気を長持ちさせている原因なのかも知れない。

 

【レア塗装車その③】沿線の観光PR用に生まれたラッピング車

◆京王電鉄8000系「高尾山トレイン」

↑京王のラッピング車両「高尾山トレイン」。側面には高尾山の四季のイメージイラストが描かれている

 

次に京王電鉄のレア塗装車を見ていこう。京王の車両はすべてがステンレス車両ということもあり、ラッピングによってレア塗装車を生み出している。

 

そんな代表が京王線を走る8000系「高尾山トレイン」。京王沿線の人気の観光地でもある高尾山のPRを図るために2015(平成27)年9月30日に運行を開始した。もとは高尾山口駅のリニューアルや、高尾山温泉「極楽湯」の開業を機会にラッピング車両として模様替えされた。

 

ベースの薄緑色は1957(昭和32)年から同路線を走った2000系の塗装色をイメージしたもので、側面には、高尾山の春、夏、秋、冬、若草の5パターンのイラストで四季折々の高尾山の魅力を紹介している。

 

2017(平成29)年には東京屋外広告協会主催の「第10回東京屋外広告コンクール」の第4部門(車体利用広告)で、最優秀賞の東京都知事賞を受賞している。ちなみに民鉄としてははじめての最優秀賞となった。

 

◆京王電鉄9000系「サンリオキャラクターフルラッピングトレイン」

↑京王9000系の「サンリオキャラクターフルラッピングトレイン」。京王線内だけでなく、都営新宿線まで乗り入れて走る

 

「高尾山トレイン」とともに代表的なラッピング車両が「サンリオキャラクターフルラッピングトレイン(特別ラッピング車両)」。京王相模原線の京王多摩センター駅最寄りにある「サンリオピューロランド」への、京王線の利用促進を図るということで生まれたラッピング車両だ。淡いピンク色をベースにサンリオのおもなキャラクターが描かれている。2018(平成30)年11月1日に走り始め、運行時期は当面とされたが、人気車両のためか現在も走り続けている。

 

ちなみに9000系10両編成車は、都営新宿線への乗り入れ対応車ということもあり、同ラッピング車も、京王線内だけでなく、都営新宿線の終点である本八幡駅まで乗り入れている。東京都内だけでなく、千葉県内まで走るわけで、そのPR効果も大きいと言えるだろう。

 

◆京王電鉄7000系「キッズパークたまどうとれいん」

↑京王動物園線の7000系の「キッズパークたまどうとれいん」。一駅区間のわずか4分間ではとても見切れないほどの濃密な電車だ

 

京王電鉄のラッピング車両でも、とびきりレア度が高いのがこの電車ではないだろうか。2018(平成30)年3月から走り始めた「キッズパークたまどうとれいん」と名付けられたラッピング車両で、高幡不動駅と多摩動物公園駅間を結ぶ京王動物園線のみを走る。

 

7000系4両7801編成を利用。淡いピンク色ベースで、多摩動物公園駅前にある多摩動物公園、京王れーるランド、屋内型遊戯施設「京王あそびの森 HUGHUG(ハグハグ)」といった施設のイラストが描かれている。

 

さらに車内が楽しい。各車両が1号車から4号車までゾウ、トラ、シカ、フラミンゴといった動物達のイラストがあちこちに。座席シートなどもイラスト入りの特別なつくりとなっている。子どもたちには楽しいラッピング車両といって良いだろう。

 

◆京王電鉄井の頭線1000系「レインボーカラー」

↑京王井の頭線のレインボーカラー編成。梅雨時になると同路線の名物の一つ、あじさいの花が車内からも楽しめる

 

京王電鉄の井の頭線にも珍しいラッピング車両が走る。同路線を走るのは1000系のみだが、同車両は前面と側面の帯に7通りのパステルカラーで色分けされている。それぞれの色は基本4編成ずつで、これもレアと言えばレアなのだが、全29編成中の1編成という、さらにレア度が高い車両が走る。

 

それがレインボーカラーの1729編成。沿線の魅力を発信しようと生まれた車両で、ハチ公、井の頭公園、神田川、あじさい、さくらをイメージした特別ラッピング車両として運行開始された。レインボーの七色の帯色が特長で、2012年10月に誕生している。当初は1年間の運転予定だったが、人気でのびのびとなり、すでに10年近い期間を走る井の頭線の名物編成となっている。

 

【レア塗装車その④】小田急では希少な赤色レア塗装車

◆小田急電鉄1000形「赤い1000形車両」

↑箱根湯本駅付近を走る「赤い1000形車両」。姉妹鉄道提携するスイスのレーティッシュ鉄道の車両色の赤に合わせている

 

小田急電鉄は、華やかな特急ロマンスカーを目立たせるためなのか、通勤形電車の塗装を大きく変更したレア&リバイバル塗装車がほとんど走らない。そんななかで、唯一のレア塗装といえるのが「赤い1000形車両」だろう。1000形のステンレスの地に水色の帯という標準タイプとは異なり、赤色ベースの鮮やかな車両が走る。

 

この赤い車両は小田原駅〜箱根湯本駅間の箱根登山鉄道線向けに用意されたもので、箱根登山鉄道と姉妹鉄道提携を結ぶスイスのレーティッシュ鉄道の赤い車両をイメージして生まれた。現在の車両数は4両×4編成で、2009年3月からの運行と、すでに12年にわたって走り続けている。通常時は箱根登山鉄道線内がメインだが、時々、イベント列車として小田急線内での運用もあり、注目の列車となっている。

 

※まだまだありますレア&リバイバル塗装車。東武鉄道、東急電鉄などの車両は次回の〈後編〉に続きます。

大きく進化しつつある踏切!? シェアNo.1の「保安機器メーカー」を探訪する

〜〜保安機器メーカー 東邦電機株式会社〜〜

 

鉄道の安全運行に欠かせない踏切。日ごろ何気なく利用しているが、じつはなかなか奥深いものがある。先ごろ踏切機器などを中心に製作する企業を訪れる機会があった。今回は企業の探訪記と、踏切の最新情報をお届けしたい。

 

【関連記事】
「踏切」は確実に進化していた!! 意外と知らない「踏切」の豆知識

 

【はじめに】この10年で大きく変わっている踏切の設備

踏切はこの10年でかなり進化している。特に変わったのが、赤色ライトの点滅、つまり列車の接近を伝える「警報灯」だ。これまでは、丸い黒い板の真ん中に据えられた丸いライト、そして日よけのツバが付くタイプが多かった。ところが現在、踏切を巡ってみると、このタイプはそう多くないことが分かる。毎週、鉄道原稿を書く筆者だが、これほど従来のタイプが減っていることに気付いていなかった。

 

さらに、目新しい表示器を付けた踏切にも出会うことができた。どのような新しい機器が付けられていたのかレポートしよう。

 

↑小田急江ノ島線の東林間駅前にある相模大野6号踏切。警報灯は全方向形。頭上の警報灯と列車進行方向指示器には踏切注意の表示が付く

 

小田急江ノ島線の東林間駅前にある踏切。片側は古いタイプの警報灯だが、もう一方は「全方向形」と呼ばれるタイプが付いていた。さらにオーバーハング、要は上空に付く警報灯もある。これは前後両方向から確認することができる両面形だ。そして矢印でどちらから列車が来るかを知らせる「列車進行方向指示器」。前後両方から見ることができ、さらに列車が来ない時には、「踏切」「注意」と表示される。これは頭上の警報灯も同じだ。

 

この中の機器で「全方向形」と呼ばれる周囲360度から見える警報灯の出現が、踏切の機器に変革をもたらしたのである。

 

この全方向形の警報灯を生みだしたのが東邦電機工業株式会社。今回は、こちらの相模工場を訪れて機器自体を見る機会を得て、さらに製作現場を見学させていただいた。知れば知るほど興味深い“踏切機器の世界”に迫ってみたい。

↑神奈川県座間市にある東邦電機工業株式会社。踏切機器が屋外に設置され、点滅や作動風景を見ることができる

 

【進化する踏切①】全方向形の出現でどのような変化があったのか

↑従来型の警報灯が付く踏切。片面のみの警報灯の場合、このように道の向きに合わせて複数の警報灯を設置しなければならない

 

踏切のなかでも特に目立つ警報灯。赤色の点滅で、列車の接近をクルマや歩行者に伝えている。踏切には欠かせない重要な装置である。従来の片面しか見えないタイプに比べて、全方向形や両面形の警報灯にはどのような利点があるのだろうか。

 

例えば上記の踏切の例。線路とほぼ直角に交わる大通りと、線路沿いの道があり、2本の道が踏切手前で交差する。片面タイプの警報灯の場合、こうした箇所では、それぞれの道向き用のものを用意しなければならない。

 

ところが、全方向形であれば、柱に付ければ、すべての方向から点滅が確認できる。大型車、小型車、そして歩行者が確認できるよう、上下に2つの警報灯を装着すれば良い。上の写真の踏切のように片側に4つの警報灯を付ける必要がないのだ。そして右の柱に装着された警報灯まで含めると8つを4つに減らすことができる。

 

つまり、全方向形は警報灯の個数を減らすことができ、省力化が可能となるわけだ。この全方向形の警報灯を開発したのが東邦電機工業だった。最初に世に出たのは2004(平成16)年。当初はなかなか浸透していかなかったが、一つの出来事に多くの鉄道会社が興味を示した。

↑初期の全方向形の警報灯。基板は4枚付き、カバーも透明だった。点灯した姿が左下。3枚を使った現在の基板よりもやや楕円に見える

 

東邦電機工業の広報担当は次のように話す。

 

「ある鉄道事業者さんがこの全方向形を付けてくださって、そのことが大きかったですね」。どのようなことだったのだろうか。

 

この鉄道事業者では、これまで遮断かん(遮断機の先に付いたさお部分)の破損に悩んでいた。試しに警報灯を全方向形に変えたところ、遮断かんの破損が劇的に減った。つまり、片面の警報灯に比べて、視認しやすい全方向形のほうが、ドライバーも点滅のしはじめに気付きやすいという長所があったのである。大型車のドライバーも踏切の進入前に気付くことができ、そのことで遮断かんの破損が減ったのだった。

↑寒冷地、多雪地帯向けの全方向形警報灯。カバーにヒーターが付き、着雪を防ぐ。点滅時が右。ヒーターの線が入っていることがわかる

遮断かんの破損が劇的に減ったことにより、他社も次々と全方向形を取り入れるようになっていった。現在では、多くの踏切にこの全方向形警報灯が付けられ、踏切の安全に欠かせない機器となっている。

 

全方向形には雪の多い環境でも力を発揮する融雪形タイプも造られている。さらに降雪地帯向けに防雪フードなども用意されている。

 

踏切の設置場所によっては前後で見えれば良いところもあり、平たい形の「両面形」の警報灯もつくられている。

 

【進化する踏切②】全方向形警報灯の製作工程を見学した

全方向形の警報灯を開発した東邦電機工業の製作現場を見学させていただいた。個人のイメージで申し訳ないが、工場と言えば、狭く雑然としているのだろうな、と思っていたが、そんな印象が覆された。きれいに整頓されていて、工場というよりオフィスに近い印象だった。同社は35年間無災害を達成している工場でもあるのだが、これはやはり日々の積み重ねによるものなのだろう。もちろん、塵や埃のない工場が精度の高い機器を生むために欠かせないポイントになっているのであろう。

 

さて、全方向形警報灯の製作現場では、女性スタッフが黙々と組み立てを進めていた。現在、赤色LEDが付いた基板は3枚、それをアルミ板に組み込んでいく。上から見ると基板と基板の角度は120度だ。全方向形の開発当初は4枚の基板でつくっていたが、現在の3枚となっている。この方がコストダウンにも結びつき、また見え方もほぼ円形となり、利点も大きいのだそうだ。

 

↑全方向形の警報灯の組立手順、作業台で進める①〜⑥の工程は本文を参照

 

写真でまとめたそれぞれの作業工程を追うと、

 

①基盤の装着。写真ではすでに2枚の基板を装着積み、そこに最後の1枚を組み込んでいく。
②ボルト止め。
③円筒レンズをかぶせる。
④電源をつないでテスト。点灯しないLEDがないかどうかをチェックする。
⑤底部の板をボルト止めする。
⑥背板(はいばん)を2枚とりつける。基板に合わせて角度は120度となっている。

 

全方向形の警報灯は、基板に付く細かい無数のLEDが赤く点滅する。さらにかぶせる円筒レンズも赤い。LEDも赤く光り、かぶせるレンズも赤。昼間の視認性を向上させる開発当初に透明だった円筒レンズを、赤いものに変えている。

↑組立て済みの全方向形警報灯。1日中、点灯した状態でのテストが行われる。常時点灯した時の光はかなりまぶしいと感じた

 

【進化する踏切③】ほか踏切機器の制作風景も見せてもらった

工場内では警報灯以外にも踏切の関連機器が製造されていた。そんな光景をいくつか見ていこう。まずは列車進行方向指示器から。

 

◆列車進行方向指示器(LED形)

列車進行方向指示器とは、列車がどちらから接近しているのか、知らせる機器だ。工場内には、作業台の上に矢印のみの部品がいっぱい並べられていた。その近くには、黒いステンレス製の箱。この箱の穴が開いたところに矢印の部品を組み込んでいく。

↑列車進行方向指示器の製作現場。矢印部品だけが並んだところは、ちょっと不思議にも感じた

 

写真を細かく見ていこう。

 

①工場内に置かれた矢印の部品。点灯していない時は、紫色に見えた。左右別方向に交互にきれいに並べられていた。
②LEDの矢印表示器を箱の中にきれいに入れていく。
③ボルト止め。
④できあがり、点灯した状態。消灯時は紫色だったが点灯すると赤色に見える。

 

列車進行方向指示器は、鉄道会社によって仕様が異なり、今回見せてもらったのは一つの例だそうだ。

 

◆踏切警標造り

踏切警標とは、支柱(踏切警報機柱)の上についているバツ印のこと。この警標の製作工程もちょうど見ることができた。あらかじめ黒に塗装されたアルミ板に、光を反射する黄色のリフレクターのシートを貼っていく。

↑黄色のリフレクターのシートを貼り込んで踏切警標が造られていく

 

工程を追ってみよう。

 

①最初にアルミ板の端からシールを貼っていく。はみ出さず、ずれないように貼ることが大切になる。
②裏面に付いたシールをはがしつつムラの出ないように貼る。
③ローラーを使い気泡を抜く。丁寧な作業が必要なように感じた。
④バツに組み合わせ、黄色と黒が均等になっているかを確認。ボルト止めは、次の工程で行われる。

 

この工程で発見したのは、黄色シート部分のみリフレクターとなっていたこと。確かに黒面での光の反射は無理だろう。当たり前のことながら、こうして見せてもらうことで良く理解できた。

 

◆スピーカーの確認

警標とともに支柱の上にはメガホンのようなスピーカーが付いていて“カンカンカン”という音を出して、列車接近を伝えている。光る警報灯とともに、音で列車接近を伝える大切な機器である。

 

このメガホン型のスピーカーが正常に鳴るかどうか、通電して確認する。“カンカン”と鳴れば、問題なしとなって出荷になるわけだ。

↑工場内ではスピーカーが鳴るかどうか確認作業が行われていた。作業台の上には、テストを待つスピーカーが並ぶ

 

進化する踏切④】雨風あたる屋上で長期間の耐久テストが続く

こうして造られた踏切機器は、工場内で出荷前に十分にテストしてから鉄道会社に向けて出荷される。とはいえ、踏切が立つ場所は、機械が設置される環境として決して恵まれているとは言えない。風雨にさらされる状況で、製品が性能を発揮できるか、長年、風雨にさらされても故障することはないのか、そうした耐久テストが工場の屋上で行われていた。

 

屋上には、同社のさまざまな製品が並んでいた。そして、みな間違いなく稼動していた。警報灯も点滅を繰り返している。かなりの年月を経たものもある。一部は取り付けた柱などに錆が少し浮き出してきていた。

↑屋上に並ぶ東邦電機工業の製品。風雨にさらされ耐久テストが行われている。夜は20時で消灯しているそう(近隣に住宅があるため)

 

↑屋上で一番古いのが出発反応標識で、1990年5月19日という設置日のテープが付けられていた

 

そんな中で一番の“ご長寿”は1990(平成2)年5月につくられた出発反応標識だった。出発反応標識とは、視界が悪い駅ホームなどに付けられ、発車準備が整ったことを車掌に伝える装置である。同機器は、設置後すでに30年以上たったものの、しっかり点灯していた。けなげなものである。

 

【進化する踏切⑤】ユニバーサルデザインの新型警報灯も発表

東邦電機工業のショールームでこれまでに見たことない警報灯を見つけた。同社の全方向形に形は近いが、より滑らかな印象。赤色のレンズカバーが基板をきれいに覆う形をしている。

 

「踏切警報灯(全方向形)ecok(エコケイ)」という名称がついている。2020年に登場したというこの機器。どのような警報灯なのだろうか。まずは上部のアルミ板がフタ状になっている。覆う背板はなく、レンズは滑らかにカーブしたスタイル。そして軽量化されている(従来の4.6kgに対して3.7kg=本体のみ)。加えて従来型に比べて消費電力を30%抑えている。

 

ユニバーサルデザインとしたことも大きな変化だ。赤色を見極めることができにくい色覚障害の人も認識しやすい波長成分のLEDを利用しているのだそうだ。

↑ユニバーサルデザインを配慮して開発された新しい警報灯。下からでも良く見えるようにつくられている

 

色覚障害を持つ人への対応には、国も乗り出しており、すでに交差点などで利用されていた赤色と、黄色で示す「一灯式信号機」を取り外す傾向が強まっている。黄色と赤色の見分けがつきにくいためだ。

 

そうした時代の流れもあり、警報灯にユニバーサルデザインを取り入れたわけである。今は発売を始めて間もないだけに、出荷も少なめとのことだが、鉄道会社でも徐々に取り入れるところが出始めているという。

 

ところで、一般には縁の薄い踏切機器のメーカーだが、最近は、一般向けグッズも用意している。最後に同社がつくるオリジナル踏切グッズも紹介しておこう。

 

◇意外に受けている踏切グッズ

↑左から踏切ボールペン、踏切ストラップ、踏切ピンバッジ、ふみきりマスキングテープ(右下へ)。専門メーカーのグッズだけにかなり凝っている

 

黄色と黒に色分けされた「踏切ボールペン」に、360度光る「踏切ストラップ」。平面形の警報灯などをデザインした「踏切ピンバッジ」。そして警報灯や、警標といった踏切の多彩な柄がはいったマスキングテープ、などのグッズが販売されている。専門メーカーの商品だけに、鉄道好きは魅力を感じるグッズに違いない。詳しくは下記を参照していただきたい。

 

https://www.toho-elc.co.jp/original-goods/

 

踏切機器のメーカーを訪れたことにより、踏切に関して多くの発見があった。そして興味も増した。なかなか注目をあびにくい設備ではあるものの、今後も目を向けていきたいと思った。

 

陸軍が造り戦時下に消えた「成田鉄道多古線」——ミステリアスな痕跡を求めて

不要不急線を歩く05 〜〜 成田鉄道 多古線(千葉県) 〜〜

 

そろそろ“不要不急の外出を控えて”という言葉も聞かなくなりつつある。今から80年ほど前に不要不急といえば、不要不急線を指した。利用率の低い鉄道路線を休止、廃止にして、線路などを軍事用に転用する。そのため全国に不要不急線が指定され、多くの路線が消えていった。

 

今回は、千葉県内を走った成田鉄道多古線の旧路線跡を訪ねた。そこにはいくつかの謎が浮かび上がってきたのである。

 

【関連記事】
「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

 

【多古線その①】陸軍の鉄道敷設部隊が造った県営路線が始まり

かつて、千葉県のJR成田駅とJR八日市場駅(ようかいちばえき)の間を結んでいた鉄道路線があった。成田鉄道多古線(たこせん)と呼ばれる路線である。太平洋戦争中に不要不急線として指定され、運転休止となり、戦後そのまま廃止となった。

 

この路線の歴史は興味深い。まずは千葉県営鉄道として誕生した。しかし、建設したのは千葉県ではなく、大日本帝国陸軍の鉄道連隊という鉄道敷設のプロ集団だった。この連隊は、占領した地域などで素早く線路を敷設するために設けられた部隊だった。

 

この鉄道連隊の第一・第二連隊が千葉県内に連隊本部が設けられ、主に千葉県内で路線を敷く演習をさかんに行った。

↑鉄道第一連隊の架橋作業の模様。大人数の部隊により素早く架橋作業が行われた。現在の千葉市花見川区柏井だとされる絵葉書 筆者所蔵

 

この鉄道連隊は、太平洋戦争時に内外に二十連隊まで出来たというのだから、大部隊だったことがわかる。この部隊により、千葉県内では現在の東武野田線、JR久留里線、小湊鐵道線などの路線が造られ、今も使われている。鉄道会社では、用地のみ提供すれば路線を造ってもらえるとあって、非常にありがたい部隊でもあった。

 

今回、取り上げた多古線も連隊により造られ、設備、車両などは当初連隊から県が借用し、のちに千葉県へ払い下げられた。

↑第一連隊の路線造りを写した絵葉書。いかに大がかりに線路が敷かれたか分かる。場所は特定出来ないが現在の千葉市内だとされる 筆者所蔵

 

【多古線その②】戦時下に休線となり戦後、正式に廃線へ

多古線の概要と歴史を見ておこう。

路線 成田鉄道多古線・成田駅〜八日市場駅間30.2km
路線の開業 1911(明治44)年7月5日、成田駅〜三里塚駅が開業、10月5日、多古駅まで延伸。1926(大正15)年12月5日、多古(仮)駅〜八日市場駅間が開業
廃止 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年1月11日に休止、1946(昭和21)年10月9日に廃止に

 

鉄道連隊による演習で、まず成田駅〜三里塚駅間の路線が敷かれた。線路敷設は軍の演習として行われたので、開業後のことなどは念頭におかれなかったようだ。初期に出来た成田駅〜多古駅間は、軌間幅が600mmという狭いスケールで造られている。軽便鉄道と呼ばれる路線ですら762mmという軌間幅(現在の黒部峡谷鉄道、三岐鉄道北勢線など)が多数なので、極端に狭かったことが分かる。要は、占領した土地での線路敷設は恒久的なものではなく、あくまで一時的で、利用しやすさなどは二の次だったようだ。

 

多古線は1911(明治44)年に千葉県営鉄道の路線として運転が開始された。その後の1926(大正15)年に開業した多古(仮)駅〜八日市場駅間は1067mmという軌間幅だった。成田駅〜多古駅間は開業当時の600mという軌間幅での運転がしばらく続けられた。

 

軌間幅が600mmのころの記録が複数の文献に残されている。軌間の狭さから列車のスピードは極端に遅かった。当時の様子を、“列車に乗り遅れても駆け足で追いつけた”、“乗客が走行中の列車から降りて、用を足した後に駆けて飛び乗った”といった逸話が残る。のんびりした列車だったようである。

 

千葉県営鉄道として開業した多古線だったが、軌間幅が狭く、さらにスピードは遅く、経営がたちゆかなくなった。そのためもあってか、1927(昭和2)年に成田電気鉄道に譲渡された。同年に成田電気鉄道は成田鉄道に改められている。そして1928(昭和3)年に1067mmに改軌され、ようやく全線を通して列車が運転されるようになったのだった。

 

それから16年後。不要不急線に指定され、1944(昭和19)年1月11日に運転を休止、戦後の1946(昭和21)年10月9日に廃止となっている。ちなみに休止した後は省営自動車が営業権を引き継ぎ、貨物運輸の営業が開始されている。

 

不要不急線として指定されたのは、もちろん利用者が少なかったこともあっただろう。それよりも、むしろ陸軍が演習で造った路線だけに、政府も不要不急線として指定しやすかったのかも知れない。

 

【多古線その③】JR成田線に沿って残る多古線の廃線跡

↑成田駅前発のジェイアールバスが、ほぼ旧多古線に沿って走っている。三里塚までは本数も多く便利な路線となっている

 

ここからは多古線の路線跡を歩いてみよう。30km以上の長い路線ということもあり、旧路線に沿って走る路線バスを何回か利用した。このバス路線はジェイアールバス関東の多古本線と呼ばれる。ただし、千葉県内を走る同社の路線バスとして主要路線となっているのに、同社の案内には多古本線の名前はない。

 

1928(昭和3)年、国土地理院(昭和初期は「参謀本部陸地測量部」)の地図を見ると、まず多古線の線路は、JR成田線の線路に沿って走っていたことが分かる。成田駅から成田線に沿って歩いてみた。すると、線路の横に細い歩行者専用道路が北へ向けて延びていた。ちょうど線路1本分ほどの幅で、明らかに多古線の跡だと分かった。この歩道も現在の成田小学校の先から途絶える。

↑多古線は成田線に沿って走っていた。現在、線路跡は歩行者専用道路に整備され、地元の人たちに利用されている

 

多古線は開業当初、成田市街を大きく迂回、遠回りして走っていたが、軌道幅を広げるにあたって、成田山新勝寺の裏手を通る新たなルートに変更されている。その新ルートの遺構が市内に残っている。

 

【多古線その④】新勝寺の裏手に路線唯一の遺構が残る

成田市街の北に成田山公園という丘陵地がある。この西に成田山新勝寺があり、裏手を通る土屋中央通り沿いに、多古線の鉄橋を支えた橋台の遺構がある。かつての多古線がここを走っていた証しだ。

 

廃線の前後が私有地となっているために、路線跡をたどれないのが残念だったが、移設した路線の工事も鉄道連隊によって行われたのだろうか。気になるところだ。

↑成田市内、土屋中央通沿いに立つ多古線の橋台跡。写真に写る側しか橋台は残っておらず、手前は住宅がひな壇状に建つ

 

多古線の橋台跡を探索した後は、そのまま路線跡をたどれないこともあり、新勝寺を参拝しつつ成田山門前へ。ここには以前、成田鉄道宗吾線の停留場があった。この路線も太平洋戦争下に休止、そして廃止の道をたどった。成田市近辺には、こうした廃線跡が複数残る。ちなみに成田鉄道は現在、千葉交通と名前を変えて、路線バスの事業者となっている。しかし、多古線は太平洋戦争中に鉄道省(後の日本国有鉄道)が営業する路線バスが営業権を引き継いだこともあり、国鉄の路線バス網を引き継いだジェイアールバス関東が路線バスを運行させている。

↑成田山新勝寺に近い成田山前バス停に到着するジェイアールバス。同地には成田鉄道宗吾線の成田山門前停留場があった

 

多古線を引き継いだジェイアールバスに成田山前から乗車した。バスはしばらく、多古線の路線から付かず離れずの道をたどる。

 

成田市の市街、東側を通り抜ける国道51号から先、道路の造りが謎めいている。

 

路線バスは通称・芝山はにわ道という高台の県道を走る。多古線は高台の下のやや標高の低いところを走っていた。現在、路線跡は片側一車線の道路(こちらの道路は名称が付けられていない)となっている。この2本の道は、その後に合流することも無く、ほぼ平行して成田空港方面へ向かう。バスに乗車した筆者は法華塚というバス停で下車して、旧路線跡を目指した。

 

【多古線その⑤】三里塚駅は現在のバス停と異なる場所にあった

バスが走る芝山はにわ道と平行した多古線跡を利用した道が、京成電鉄東成田線をまたいでいる。同路線は成田空港の開港にあわせて1978(昭和53)年に開業したこともあり、当然ながら多古線が走っていたころに、この線路はない。

↑今もバス停として法華塚の名が残る。この右手下に多古線が走り法華塚駅があった。その近く、現在は京成電鉄東成田線が通る(左上)

 

奇しくも筆者が降りた法華塚バス停の近くは法華塚駅があったようだ。法華塚バス停に近い、京成電鉄東成田線の線路との交差地点から、多古線はほぼ現在の路線バスが走る通りに沿って走っていた。この先、三里塚の町へ入る。

 

現在の三里塚バス停は、三里塚の町の中心に設けられている。多古線の三里塚駅はこのバス停より1kmほど手前にあった。

↑現在のバス通りに平行して走っていた多古線。この先、道が細くなる(左上)あたりに旧三里塚駅があった

 

↑バスターミナルとして整備された現在の三里塚バス停。同バス路線では、多古とならぶ大きめのバス停となっていた

 

さて三里塚へ到着した。三里塚といえば、古くは御料牧場があり、その後には成田空港開港時に闘争の町として記憶されている方も多いかも知れない。現在の三里塚は成田空港近郊の静かな住宅地という印象が強かった。

 

ちなみに成田鉄道の八街線(やちまたせん)という路線が八街駅〜三里塚駅を走っていた。この路線も鉄道連隊が線路を敷設していた。開業は1914(大正3)年のことで、千葉県営鉄道としてスタートしている。こちらも軌間幅は600mmと狭く、その後に改軌されることもなく、1940(昭和15)年8月19日に廃線となっている。

 

三里塚には戦後に開拓団が入植した。そうした三里塚に戦前に鉄道路線を敷くこと自体、鉄道連隊の演習路線だったにしても無謀という印象がぬぐえない。

 

【多古線その⑥】今の成田空港の滑走路上を多古線が走っていた

三里塚から先、多古線では千代田が次の駅となる。しかし、今は廃線の上を成田空港のA滑走路が貫いている。多古線は長さ4000mのA滑走路のちょうど南端部分を走っていた。旧三里塚駅からの先の路線跡は現在、細い道となっている。道は空港の西側に設けられた壁にちょうど突き当たるが、先への進入はもちろん出来なくなっている。

 

さて、多古線とほぼ同じルートで走る路線バスは、どのようなルートで走っているのだろうか。空港内を突っ切る道路はない。そのために、南側へ大きく迂回している。路線バスはA滑走路の南端にある航空科学博物館へ。また航空科学博物館を経由して、第2、第1ターミナル、貨物管理ビル前へ向かう便が多い。

↑成田空港の三里塚側は厳重なフェンスで囲まれる。ちょうど左に白い案内板があるあたりから多古線の線路は千代田へ向けて延びていた

 

その先、多古線のルートをたどるバスがないのか調べると、三里塚を出たバスのうち、千代田バス停を経由して、多古町内を通り八日市場駅へ向かうバスが走っている。しかし、このルートを走るバスは本数が非常に少ない。平日は成田駅発が7便、八日市場駅発が6便、土休日は5往復しかないのだ。

 

この路線バスは、三里塚に住む人たちが成田駅方面へ、また成田空港方面へ向かう人で成り立っているように感じた。

 

【多古線その⑦】現在の芝山千代田駅の南に旧千代田駅があった

本数が少ない閑散バス区間に、逆に筆者は興味を持った。

 

さらに多古線という路線名が付いたように、どうして多古を通るルートになったのか。筆者は、この多古線を巡る前、多古町(たこまち)という町名をあまり良く知らなかった。同音異句の言葉にタコがあり、そのことが印象に少し残ったぐらいだった。

 

成田空港の南東側は芝山町となる。この町には芝山鉄道という鉄道会社の路線が走る。路線距離は2.2kmで、日本一短距離の路線を持つ鉄道会社だとされている。終点駅は芝山千代田駅だ。この駅へ立ち寄るバスはさらに少なく、1日に上り下りとも2便ずつといった状態だった。つまり乗り継ぎなどで芝山千代田駅を使う人がほぼいないということなのだろう。

 

筆者は芝山千代田駅から最寄りの千代田バス停まで歩いてみた。空港の東側はターミナルなどさまざまな施設があり、また車の通行量も多く、それなりの賑わいを見せていた。芝山千代田駅から千代田バス停までは600mで、歩いても8分ほどの距離だった。

 

↑成田空港を芝山町側から見る。旧多古線は右上の歩道あたりから三里塚に向けて線路が延びていた。今は芝山千代田駅(左下)が最寄り駅となる

 

千代田バス停から多古線をたどって路線バスに乗車してみて驚いた。休日の日中のバスには筆者以外、誰も乗っていなかった。多古までの途中、1人が乗車してきたくらいだ。八日市場駅〜千代田バス停区間は、超閑散区間だったわけである。コロナ禍の最中とはいえこの乗車人数を考えれば、便数の少なさも致し方ないのだろうと感じた。ちなみに、走るバスも成田駅〜三里塚バス停間より古い車両が使われ、乗り心地の良さにやや欠けた。この区間に住む人たちの大半が路線バスを使わず、移動はマイカーに頼っているのかも知れない。

↑芝山千代田駅に近い千代田バス停。最寄りに旧千代田駅があった。ここからバスは東の多古へ向かう

 

【多古線その⑧】バスはひたすら田園地帯を走り多古へ向かった

バスは芝山町の千代田バス停から、多古線の線路跡を利用した道を走る。道幅は片側一車線もなく、一部区間では対向車とのすれ違いが難しい。ちょうど線路の幅を広げたくらいに見えた。とはいえ起伏が少なく、切り通しや田畑を見下ろす斜面上を走るなど、快適な道だ。交差する一般道とは立体交差する箇所もあり、やはり昔の鉄道路線らしい痕跡がうかがえる。

 

旧千代田駅と多古町の入口にあった旧染井駅との間には2つほど駅があったとされる。この区間、実は旧路線と、廃止時の新線区間があった。ここでも軌間幅を広げる時に路線の敷き直しをしたようだ。しっかりした記録がないため推測の域を出ないが、このあたりの路線造り直しも、鉄道連隊が演習として関わったのだろうか。

↑旧千代田駅と旧五辻駅間では、多古線は旧路線と新路線(写真)が平行して設けられた。現在は写真のように一般道として整備されている

 

旧千代田駅から10kmほどで旧多古駅へ到着する。この多古駅にも新旧2つの駅があった。この新旧駅を訪れて、加えて多古の町も歩いてみた。さて多古の町はどのような町だったのだろう。

 

【多古線その⑨】多古には江戸時代、小さな藩が設けられていた

路線バスは、現在の多古の公共交通機関の拠点でもある多古台バスターミナルに到着した。このターミナルからは東京駅八重洲口へ高速バスが走る。また、成田空港の第2ターミナルへのシャトルバスが約30分〜1時間おきに発着している。

 

訪れてみて、路線バスの乗客が少ないことが理解できた。今の路線バスは、昔の多古線のように成田と多古、そして八日市場を結ぶものの、その間に住む人々の移動手段として使われていない。成田空港があることで空港の東と西で、行き来が断ち切られてしまっている。むしろ、多古からは東京の都心および成田空港(鉄道駅もあり利用しやすい)との結びつきが強い。路線バスに乗って、成田と多古間を移動しようという筆者のような“物好き”は、いないようだった。

 

↑多古はかつてこの地方の中心的な町だった。古い郵便局の建物が町内に残る。右上は多古の現在の中心、多古台バスターミナル

 

多古は古い歴史を持つ町でもあった。現在の町名の書き方とは異なるが、徳川家康が関東を治めるにあたって、多胡藩という小藩が置かれた。小藩ゆえの悲哀で一時期、他の大名領に併合されることもあったが、江戸時代の終わりまで藩は続き、廃藩置県後に、多胡県、新治県となったのちに、千葉県に編入されている。

 

今も町内に藩の政治が行われた陣屋跡が残る。また、前島 密(郵便制度の生みの親)の要請で千葉県初の郵便局が開設された。同郵便局は1942(昭和17)年に建て替えられたが、今も建物が残されている。

 

多古という町は、千葉県の行政に関わる重要な都市でもあったのだ。そのために鉄道の路線名を付ける時にも多古の名前が使われたのであろう。

 

【多古線その⑩】多古町内に旧駅と新駅があった

先に多古線の歴史に触れた時に多古(仮)駅とした。千葉県営鉄道として開業した時に多古駅は、町の中心に近い場所に設けられた。しかし、その後に八日市場駅との間に設けられた軌間1067mmの新しい駅は町の南側、現在の国道296号が走る場所に多古(仮)駅として設けられた。同じ多古町多古という字名なのだが、距離差は直線距離で600mほどある。

 

筆者は両駅に訪れてみた。最初にできた駅は町の中心といっても良いところにあった。町役場もすぐそばだ。だが、新たにできた、多古(仮)駅は町の外れにあり、南側に広大な田畑が広がっていた。

↑旧多古駅(初代)に立つ多古町の歴史案内。そこに県営軽便鉄道として生まれた多古線の紹介があった

 

多古線の路線を敷くにあたり、どのように計画されたかは、今となっては調べることが難しくなっている。成田駅〜多古駅間が1067mm軌間に改軌された時に、旧駅の南側に造られた多古(仮)駅が、正式に多古駅となった。町の中心から600mほど南に移動したこともあり、当時、多古に住む人たちは不便に感じたことだろう。

 

利用者を無視した駅の移動といっても良い。利用者減少に悩み、不要不急線になってしまったわけだから、矛盾を感じる。

↑軌間幅を広げたのちは、多古町の南はずれの仮駅が正式な駅となった。現在の国道296号が通るあたりだが町外れの印象が強い

 

旧駅付近には多古町が立てた歴史散策という案内板があった。建設時の写真もあり、県営軽便鉄道として多古線が開業した当時のことにも触れている。さらに興味深い記述があった。

 

「セレベス島(現インドネシア・スラウェシ島)鉄道敷設用の資材供出のため廃線となりました。供出された多古線の鉄道資材は、輸送船が撃沈され、結局セレベスでの鉄道敷設は実現しませんでした」とあった。

 

戦争遂行のために不要不急線として休止させられ、その後に廃線となった多古線。駅の移動自体も矛盾を感じたが、不要不急線という政策自体に矛盾を感じる。廃止させられ、線路が持ち出されたものの、結局、何にも役立たなかったわけである。

 

多古線は不要不急線とならなくとも、その後に廃止されたかも知れない。とはいえ、戦後は復興に向けて必ず役立ったであろうし、なんともやるせない気持ちが残った。

 

【多古線その⑪】そして今回の終着駅・八日市場駅へ

多古から先、路線バスは多古の町内を巡り八日市場駅へ向かう。多古線の多古駅〜八日市場駅は、現在の国道296号にほぼ沿って線路が設けられていた。国道の拡幅にも路線跡が活かされたようだ。この区間には3つの途中駅があったが、今も昔も千葉県の穀倉地帯でもある広大な田畑が広がり、集落は点在するのみとなっている。

 

八日市場駅が近づくにつれて、住まいも増えてくる。現在のJR総武本線と並走したその先に、旧終点だった八日市場駅が見えてくる。

↑総武本線に並走して多古線の線路が敷かれていた。線路跡は現在、一般道として使われている

 

↑八日市場駅(左上)の西側を跨線橋から望む。駅付近の広い駐車場にはかつて多古線のホームや貨車の入換え線などがあったと推測される

 

多古線は太平洋戦争前後で休止、廃線となってしまった。多古線が走った千葉県の同エリアは現在、鉄道の無いエリアとなっている。一方、成田空港まではJRと京成電鉄の路線があり、本数が多く便利な路線となっている。

 

地元向けの鉄道路線といえば、芝山鉄道2.2kmしかない。この芝山鉄道を延伸させようという連絡協議会「芝山鉄道延伸連絡協議会」が設けられている。こちらは地元の芝山町、横芝光町、山武市の3市町で構成される。路線の延伸自体は、現在の鉄道とバスなどの利用状況を見ると適いそうにないが、連絡協議会によって空港シャトルバス・空港第2旅客ターミナル〜横芝屋形海岸間が運行されている。路線が走るのはちょうど、多古線よりも南側である。さらに前述したように多古町と成田空港もシャトルバスによって結ばれている。

 

これらのシャトルバスの運行に関わっているのが千葉交通。このバス会社こそ、多古線を運行させた成田鉄道の現在の姿でもある。成田鉄道多古線は消えたが、今も同地区ではそのDNAを受け継ぐ千葉交通のバス路線網が健在だったのである。

未来に向けて多くの種を蒔いた「五島慶太」の生涯【後編】

〜〜鉄道痛快列伝その3 東急グループ創始者・五島慶太〜〜

 

都会を走る鉄道網は一部の辣腕事業家によって生み出されていった。現在の東急グループの創始者、五島慶太は紛れもなく辣腕事業家を代表する1人であろう。何も持たないところから東急という鉄道会社を生み、まとめていった手腕は類を見ない。そして現代人は、その恩恵を受けて暮らしている。

 

今回は、東急電鉄の路線網を造り上げ、紆余曲折を経て、さらにグループを輝かせていった五島慶太の太平洋戦争後の後半人生を振り返ってみたい。

*絵葉書・路線図、写真は筆者所蔵および撮影

 

【関連記事】
東急の礎を気付いた「五島慶太」‐‐“なあに”の精神を貫いた男の生涯〜

 

“強盗慶太”と揶揄された太平洋戦争前後の動き

閑静な住宅地という趣の東京都世田谷区、上野毛(かみのげ)。二子玉川の街を見下ろす高台に五島美術館が建っている。五島慶太の居を活かして生まれた美術館である。玄関の前には区の「保存樹木」に指定された素晴らしい枝ぶりの大きなケヤキの木が立っている。

 

このケヤキは、慶太がここに自宅を構えるにあたって植えたとされる。幼いころに、学校へ通っていた途中に、立派な門構えの家があった。その家には太いケヤキの木が立っていた。ケヤキは幼い慶太にとって“富の象徴”と心に写ったのであろう。いつか自分も……。そうして上野毛に居を構えるにあたりケヤキを植えたのである。五島慶太が亡くなってすでに60年以上の年月がたつ。この巨木は慶太の生涯を見続け、亡くなった後もまるで慶太の化身のように、大地に根をはりそびえ立っている。

↑東急大井町線が走る真上(左側)に五島慶太の自宅はあった。自ら設けた線路が自宅のすぐそばを走るというのも興味深い

 

↑五島美術館の一角は、樹木が色濃く茂る。門の前には五島慶太が植えたケヤキの木がそびえる。区の保存樹木にも指定された名木に育っている

 

1882(明治15)年4月18日、五島慶太は長野県小県郡青木村(旧・殿戸村)で生まれた。前編で紹介したように、決して恵まれた境遇とは言えなかった。そのため若いころから働き始める。

 

代用教員として働いて得たお金を元に、東京へ出て師範学校へ通う。そして英語教師として勤めるも性に合わなかったのか、一念発起して東京帝国大学へ入り、官僚への道を歩む。

 

官庁へ入省したものの、30歳に近く、すでに出世の道が断たれていた。こうした恵まれない境遇が、逆に五島慶太という類い稀な事業家を生むのだから、人生というのはおもしろいものである。

 

鉄道院を退職した後には、武蔵電気鉄道の常務取締役に就任。この時、すでに慶太は38歳となっていた。実業家としての出発はかなり遅い。

 

この会社で阪急電鉄創始者の小林一三に見出されて、渋沢栄一の田園都市開発株式会社が興した新事業に巻き込まれていく。そこで力を発揮して、東急電鉄の元になる目黒蒲田電鉄の専務となる。不況の嵐にもまれながらも、徐々に会社を拡大させて行き、東京横浜電鉄→東京急行電鉄(以下「東急」と略)と会社も名前を変えていく。

 

太平洋戦争下の時代には、小田急電鉄、京浜電気鉄道、京王電気軌道などを合併し、東京の南西部の私鉄すべての会社を傘下に納めた。

 

↑目黒蒲田電鉄が東京急行電鉄となり他社を合併していった流れを図にしてみた。短期間に大会社となるが戦後まもなく分割してしまう

 

五島慶太は他社の鉄道を金の力で飲みこんだ、と世間的には見ており、 “強盗慶太”と揶揄された。74歳の時に記した「私の履歴書」でも「とにかく『強盗慶太』と異名を頂戴するくらいであったから」と、自ら卑下して記している。しかし、本人はまったく気にしていなかったどころか、勲章に感じていたようである。

 

そして、政治の世界にも身をおき、東条英機内閣の運輸通信大臣に就任する。ところが……。

 

【五島慶太の生涯⑧】公職追放!さらに「大東急」もばらばらに

前述した図を見ると分かるように、玉川電気鉄道の合併は1930年代の終わりだったものの、それ以外の鉄道会社を合併したのは1942(昭和17)年から1945(昭和20)年にかけての太平洋戦争中であった。この時代を、後世では「大東急時代」と呼ぶ。そして終戦となった。

 

何しろ日々の食べるものにも困る時代だった。そうした混乱はしばらく続く。図で見るように、そんな混乱期の1947(昭和22)年〜1949(昭和24)年にかけて、江ノ島電気鉄道、京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が分かれていく。

 

1947(昭和22)年3月15日 江ノ島電気鉄道が東急グループから離脱

1947(昭和22)年8月 公職追放

1948(昭和23)年6月 東京急行電鉄が正式に五分割化。小田急電鉄、京王帝都電鉄、京浜急行電鉄が新会社設立

1951(昭和26)年8月6日 公職追放解除 翌年、東京急行電鉄会長に選任される

 

↑戦前から戦後にかけて目蒲線、東横線を走ったモハ1000形。鋼製車両で後にデハ3500形と改称され1980年代まで走った(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)

 

五島慶太の年譜を見ると、太平洋戦争中に大臣を務めたことがマイナスに作用した。大臣を務めた責務を連合軍から問われ、終戦後の1947(昭和22)年に慶太は公職追放される(追放解除は4年後)。その間も密かに会社の運営に関わっていたようではあるが、60代後半の人生をほぼ棒に振っていたわけだ。

 

【五島慶太の生涯⑨】各社が分かれていった裏にあったものは

慶太が公職追放となっている間に、東急には大きな動きがあった。小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄が、東急から分離している。

 

分かれた一つの理由として、戦後の労働運動の高まりが大きな要素だったと伝えられている。戦後は、労働者の権利を声高に求める動きが強まった。そして戦前に買収された鉄道会社の社員の間から、元の形に戻して欲しいという動きが強まった。

 

さらに戦後の混乱期、東急自体の経営も困難な状態に直面していた。大東急として維持していくことが難しくなっていた。そこで経営的にも分けたほうが良いという判断がなされたようである。歴史に“もし”はないが、五島慶太が公職追放とならずに、東急のトップとして君臨していたら、どうなっていたのか興味深いところである。

 

↑太平洋戦争前の渋谷駅の様子。地上ホームに電車が停まる姿が確認できる。右後ろには東横百貨店の建物が確認できる(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)

 

【五島慶太の生涯⑩】元のサヤに収まってのやり直しの時代に

1948(昭和23)年に大東急は解体されて、戦前の1940(昭和15)年の路線網に戻った。10年前の振り出しに戻ったわけである。下の路線図はちょうど玉川電気鉄道を合併した時のもの。渋谷駅の東側に玉川線の路線があったが、この路線部分のみ都電路線となったものの、路線網はほぼこの状態に縮小されてしまった。五島慶太はふたたび、この状態から“やり直し”となったわけだ。

↑1939(昭和14)年発行の東急の路線図。1949(昭和24)年に会社を分割されたことで、ほぼこの時代の路線網に戻された

 

戦後に大混乱に陥った日本経済だが、再び活況の時代が訪れる。1950(昭和25)年に朝鮮戦争が起った影響である。1953(昭和28)年に休戦協定が結ばれるが、この戦争が起ったことにより、日本経済は、戦後の混乱期から抜け出ることになる。朝鮮特需と呼ばれる特需景気だった。戦前にも不況にあえいでいた時代があったが、こちらも日中戦争により不況下から脱している。

 

五島慶太は戦前の不況下に、従業員への支払いにも事欠き金策に走った。そんな時に戦争による特需により、社会は潤いその後の会社成長に結びついた。戦後の混乱も、新たな戦争による特需で救われている。歴史の中で、戦争は社会の混乱を生みだす要素ではあるものの、経済的にはプラスの要素として働くこともある。なんとも皮肉なものである。こうして戦後、苦境にあえいでいた東急もひと息ついたのだった。

 

【五島慶太の生涯⑪】太平洋戦争前後で繰り広げられた「箱根戦争」

経済的に余裕が生まれれば、次にはレジャーへ人々は動くようになる。この機を見逃す慶太ではなかった。

 

1951(昭和26)年8月6日に公職追放解除となったが、その前の4月1日 東京映画配給など3社を合併させ、東映株式会社と改称、再出発させている。この東映を生み出した時にも金策に走った慶太。自宅を担保にして銀行からお金を借りた。

 

この時に「もし失敗したら大変なことになる、悪くすると破産する」と銀行から諭された。だが動じず、東映の設立に動いている。さらに映画製作現場の人たちの取りまとめにかかった。公職追放のさなかであるから、あまり表立っては動けないものの、大人しくはしていられなかったようである。こうして東映は一躍脚光を浴びる映画関連企業となり、その後の映画産業の飛躍に結びついた。

 

余談ながら、プロ野球のチームの運営にも携わる。1947(昭和22)年にはプロ野球・東急フライヤーズを設立、1948(昭和23)年にチーム名は急映フライヤーズとなり、同年冬に、再び東急フライヤーズとなる。1954(昭和29)年から東映フライヤーズとなる。今の北海道日本ハムファイターズの大元となったチームだが、古いプロ野球ファンならば、張本 勲氏、大杉勝男氏ら猛者たちがいた東映フライヤーズを懐かしく思う方も多いのではないだろうか。そんな元になる球団を慶太は立ち上げたのである。

 

一方、沿線の観光地開発にも乗り出していた。そこでは強力なライバルが立ちふさがった。

↑1935(昭和10)年ごろ箱根のバスの絵葉書。屋根の無いオープントップバスを売りにしたよう。左上の沿線案内の表紙にもバスの絵が(左上)

 

立ちふさがったのが西武グループの創始者・堤 康次郎だった。1920(大正9)年に堤 康次郎は箱根土地株式会社を設立。ここから康次郎の実業家としての道が始まる。今でいうデベロッパーだが、国立などの住宅地販売以外に、当時は珍しい別荘地の開発を中心に進めている。特に箱根と、軽井沢の開発を重点的に行っていた。箱根では、別荘地として販売するために、自社で有料道路を造り、その管理まで行っている。今日ですら、そこまでの大規模開発は珍しい。当時としてはかなり異色であり、画期的な別荘地の開発だった。さらに箱根の観光事業にも乗り出している。

 

ここで、小田急電鉄、箱根登山鉄道を傘下におさめた慶太とことごとくぶつかったのである。康次郎は傘下の駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)を使い、慶太は箱根登山鉄道を利用して競い合った。康次郎が、箱根の自社の道路の封鎖という強行手段に出れば、慶太は裁判で提訴といった具合にやりあい、政治家まで巻き込む争いにまで発展。また、康次郎は東急との関係が深い小田急電鉄の株の買い占めに走れば、一方で、慶太も同じように西武鉄道の株の買い占めに乗り出す(しかし、当時は西武の株の多くを堤一族が握っていたため失敗に終わる)世の中のひとたちは、この争いを「箱根山戦争」と呼ぶ。太平洋戦争をはさんで、20年以上にわたり、両社による争いは繰り広げられた。

↑西武傘下の駿豆鉄道が大型船を導入したことを伝える芦ノ湖遊覧船のパンフレット。一方、東急とのつながりが強い小田急電鉄も観光船の運航で対抗した

 

「箱根山戦争」は後世から見れば不毛な争いにも思える。とはいえ、こうした商売での競い合いは、西武、そして東急という会社の体力強化につながっていくのだからおもしろい。「箱根山戦争」は箱根だけでなく、南の伊豆半島にまで波及していく。次にくるのは「伊豆戦争」だったのだろうか……。

 

【関連記事】
西武王国を築いた「堤 康次郎」‐‐時代の変化を巧みに利用した男の生涯〜

 

【五島慶太の生涯⑫】最後の仕事となった伊豆急行の開業計画

1956(昭和31)年2月1日、東京急行電鉄が伊東〜下田間の地方鉄道敷設の免許を当時の運輸省に申請した。負けじと西武傘下の駿豆鉄道も1957(昭和32)3月に伊東〜下田間の鉄道建設の免許申請を行っている。駿豆鉄道は同年6月に伊豆箱根鉄道と社名を変更させてまで、伊豆半島を走る鉄道会社というイメージを高めようとした。ここまでくると、争いとしてもなかなか手が込んでいる。

 

事態の収拾を図るべく運輸省で公聴会が開かれ、西武側はこの申請を取り下げる。そして1959(昭和34)年2月9日、東京急行電鉄に免許がおりる。ほっとしたのもつかの間、慶太はこの年の5月に持病の悪化で寝込んでしまった。そして8月14日に五島慶太は亡くなった。77歳だった。最後の仕事として開業を夢見た伊豆急行線のレール造りは長男の昇氏に引き継がれたのだった。

↑伊豆半島の東を走る伊豆急行線。五島慶太が計画に携わり長男の昇の手で開業させた。写真は開業当時に造られた100系。2019年に運用終了

 

慶太が夢見た伊豆急行線の開業は申請してからわずか5年後の1961(昭和36)年12月10日に開業している。伊豆急行線は海沿いを走り、トンネルなどの施設も多い。慶太の事業を引き継いだ二代目の五島 昇の手腕もあったろうが、よほど事前に準備をしていたのであろう。

 

ちなみに慶太の死後も箱根戦争はしばらく続いたが、堤 康次郎の鉄道事業を引き継いだ堤 義明氏と五島 昇氏の仲は、父親の時代とは異なっていたとされる。東急が箱根に道路を敷こうとした時に西武の土地を横切るという問題が起きた。その際、昇氏は義明氏に挨拶に出向き、義明氏はすぐに了解をしている。このあたり、頑固な父親の時代とは異なり、二代目は是々非々で、商売にプラスなれば問題ないととらえたようである。

 

五島慶太が残したもの。それは鉄道路線だけではない。東急百貨店を造り、渋谷の大規模開発の礎となった。鉄道以外に多くの企業経営に手を広げた初代の意思を引き継ぎ、例えば東急ハンズといった、ユニークな店作りも二代目の昇によって始められた。

 

↑渋谷の街を大きく発展させたのは東急百貨店の出店だとされる。駅上にあった元百貨店は建て替え中だが、渋谷本店は今も営業を続けている

 

さらに五島慶太が関わった田園都市株式会社は、戦後には田園都市という名前の、大規模な都市開発につながっていく。戦前に合併した玉川電気鉄道は、路線が地下化されて、田園都市線となり、田園都市地域に住む人たちの通勤・通学に利用され、沿線の60万人以上という人々の暮らしに役立っている。

 

こうした例は五島慶太が残した財産のほんの一部でしかない。

↑田園調布駅の駅前に残る初代駅舎のモニュメント。この駅を中心とした街造りは、その後の田園都市の開発に結びついていく

 

↑玉川電気鉄道として走った区間は、二代目・五島昇のプランにより地下化され田園都市線として生まれ変わった

 

最後に五島慶太が残した鉄道車両面での功績を見ておこう。五島慶太は戦後、東急で使う車両を1948(昭和23)年創設の東急車輌製造株式会社(設立当時は東急横浜製作所、現・総合車両製作所)で造らせた。この会社は慶太の晩年にあたる時期に画期的な車両を次々と生み出していた。

 

【五島慶太の生涯⑬】鉄道車両を見ただけでもその功績は大きい

東急車輌製造で生みだした画期的な車両といえば、まず5000系(初代)があげられる。1954(昭和29)年に開発された電車で、モノコック構造を採用、超軽量構造となっている。さらに日本ではじめて本格的に直角カルダン駆動方式を採用した。それまでの振動が良く伝わる、そして音のうるさい吊り掛け駆動方式から電車の技術を一歩、進歩させたのである。ほかにもそれまでの車両とは異なる機能を多々、採用し、その後の電車造りを大きく変えた車両だった。

 

ライトグリーンで、下膨れのスタイルから“青ガエル”というあまりありがたくない愛称を得たが、当時の先端を行く新性能電車で快適性、乗り心地にも配慮した車両だった。さらに5000系の車体をステンレス化した5200系は、その後の日本の車両のステンレス化に大きく貢献した。

 

高額であっても、より利用者のことを考えた車両だったわけである。このあたりグループを率いた五島慶太、そして引き継いだ長男、昇の考え方が見えて興味深い。

 

ちなみに箱根山戦争で対峙した西武鉄道は、当時とにかく大量輸送のために、古い機器を利用または流用して新車造り(現在は異なる)をしており、両社の方針は対極にあったといえる。

↑東急5000系(初代)は戦後の電車造りを大きく変えた画期的な電車だった。写真は熊本電鉄5000形で2016年まで同電鉄を走り続けた

 

↑東急グループの一員、上田電鉄で保存される5200系。日本初のステンレス車両で、その後のステンレス車両の普及に多大な影響を与えた

 

現在、東急グループの運営には五島家はほぼ関わっていない。五島慶太も五島 昇氏も、東急の株を購入しなかったためとされる。

 

「慶太以来、企業を私物化しないという路線を歩んできている」

(城山三郎「ビッグボーイの生涯」より)

 

これが昇氏のポリシーだった。

 

どうしても比べてしまうが、箱根山戦争の一方の雄であった堤 康次郎は、株を堤一族で持ち、他社の株買い占めに備えた。康次郎以降は、西武鉄道は堤 義明、百貨店などの流通グループ経営は堤 清二が率いた。まさにワンマン経営そのものだった。ところが、バブル崩壊、またリゾートホテル経営が破綻し、西武の業績は悪化してしまった。今は堤一族の経営から完全に離れてしまっている。このあたり、トップが時代の動きを見誤ると業績にすぐに出てしまう同族経営の難しいところであろう。

 

東急グループは創始者が私物化しなかったことにより、紆余曲折はあったとはいえ、それぞれのグループ企業が順調な道筋を歩んでいる。今後はどうなるか分からないものの、創立者の思いが、今も透けて見えるようで興味深い。

 

半世紀以上も前に生きた五島慶太ではあるものの、その生涯を振り返ると、功績だけでなく、現代人にも多くの教訓を残している。

 

まず実業の世界には30歳台の終わりからと遅かった。しかし、スタートが遅かったからといって、ハンデにならないということをしっかりと示している。さらに“機を見る敏”。このビジネスが正しいと思ったらとことん突き進む。そして生涯“なあに”の精神を貫いた。決めたら、あきらめない、めげないということなのであろう。今さらながら、五島慶太という人物が、凄さを見る思いである。

 

〈文中敬称略〉

*参考資料:「東急・五島慶太の生涯」北原遼三郎著/現代書館、「ビッグボーイの生涯」城山三郎著/講談社、「私の履歴書‐昭和の経営者群像〈1〉」日経新聞社、「東京横浜電鉄沿革史」東京急行電鉄株式会社

見どころ満載!「西武・電車フェスタ」詳細&おもしろ発見レポート

〜〜6月5日開催 西武・電車フェスタ2021 in 武蔵丘車両検修場〜〜

 

鉄道会社が催す恒例のイベントも徐々に開かれるようになってきた。6月5日(土曜日)、西武鉄道の武蔵丘車両検修場(埼玉県)で「西武・電車フェスタ2021 in 武蔵丘車両検修場」が行われた。同フェスタは実に2年ぶりの開催となった。

 

入場者を最大5000人に制限、完全事前申込制で行われたこの催し。主な見どころと、”おもしろ”を中心にレポートしたい。

 

【はじめに】西武鉄道の武蔵丘車両検修場とはどのような施設?

会場となった武蔵丘(むさしがおか)車両検修場はどのような施設なのか、はじめに見ておこう。西武鉄道では長らく「所沢車輌工場」で、車両の製造および検修を行ってきた。筆者は隣接する東村山市で育ったということもあり、所沢駅のすぐそばにあった工場の前を通るたびに、今日は何の電車が工場に入っているのかな、と興味津々で眺めたものだ。この工場が老朽化により、埼玉県日高市に引っ越して2000(平成12)年6月16日に、誕生したのが武蔵丘車両検修場である。

↑検修場の屋内には2000系が並んでいた。仮の台車をはき、座席などは外されていた。塗装し直すためにボディの補修作業が行われていた

 

8万4750平方メートルという広大な敷地では、毎年のように一般公開イベントが開催されてきた。筆者の住まいが遠くなったこともあり、これまで訪れる機会がなく、はじめての訪問となった。現在、西武鉄道では自社での電車製造を行っておらず、この検修場では、主に重要部検査や全般検査などの検査が行われている。西武の電車の安全運転のために欠かせない施設でもある。

 

【フェスタ紹介①】はやる心を抑え会場へ向かった

↑朝鮮半島で見られる魔よけの境界標が立つ高麗駅前。会場は駅から徒歩15分の距離。飯能駅から臨時の無料送迎バスも運行された(左下)

 

武蔵丘車両検修場の最寄り駅は西武池袋線の高麗駅(こまえき)。検修場は駅から徒歩15分ほどの距離にある。フェスタは11時から15時まで開かれた。駅に降り立つとふだんは静かな駅前に人出が。国道299号を飯能駅方面へやや歩き、途中からいつもは開放されていない、検修場への専用歩道を歩く。

 

この日は飯能駅と会場を結ぶ無料送迎バスも運転されていた。入場を最大5000人に制限されてのイベントとはいうものの、少しでも早く会場へ行きたいという人が多く、すでに行列ができていた。とはいえ“密”な状態ではない。訪れる人も適度な間をとっており、やはりこのあたりがコロナ禍ならではのイベントの現状なのだろう。

↑入場口では検温と消毒を実施。さらにレッドアロー号の特製ファイル(右上)が来場者にプレゼントされた

 

入場口へ到着。ここで検温と手の消毒。終わると、西武鉄道から来場者全員にプレゼントがあった。「池袋線レッドアロー号 ラストランプロモーション」と名付けられたクリアファイルが1人1枚配布されたのだった。こちらは2020年11月8日に横瀬車両基地で開かれた「車両基地まつり in 横瀬」で配布されたものと同じだ。なかなかおしゃれなレッドアローのファイルとあってうれしいプレゼントだった。

 

さらに小学生以下の子どもたちには、「Laview電車型ティッシュボックス」(なくなり次第、配布終了)が、また12時30分〜14時30分の間、高麗駅から帰宅する人には「レッドアロークラシックオリジナルマスクケース」がプレゼントされた。今回のイベントは入場無料である。にもかかわらず訪れるだけで、複数のプレゼントがあり、お得感が感じられるイベントとなった。

 

【関連記事】
西武鉄道がコロナ禍の基地まつりで魅せた「新旧の特急&お宝級の車両」たち

 

【フェスタ紹介②】武蔵丘車両検修場の中の様子は?

入場口からすぐに武蔵丘車両検修場の建物の入り口があった。どのような施設が場内にあり、どのような業務が行われているのか、写真で見ていこう。

 

入るとまず、天井が高く、奥行きのあるホールのようなスペースがある。ここには薄緑色の鉄橋のような“もの”がある。これはトラバーサーと呼ばれる電車の移動装置だ。このトラバーサーにより、検修場に入ってきた電車を作業にあわせて、建物内をタテに動かして所定の位置へ移動させる。もしくは台車などの移動が行われる。

↑検修庫の中には車両移動用のトラバーサーが2基、備えられている。同検修場の作業の進め方を解説する案内(左下)も用意されていた

 

入口から入るとトラバーサーの左側には、台車、車輪、電動機のメンテナンス、そして塗装を行う施設がある。台車や車輪のメンテナンス、塗装が行われる施設内は入場できなかったものの、写真付きの案内があり、概要をつかむことができた。また一部は開放され、車輪の「輪軸展示」と、電車を動かすのに重要な役割を持つ「主電動機展示」も行われていた。

↑台車から外された車輪がずらりとならぶ。こちらで研磨や、一部は新しい車輪が組み込まれていく。写真での説明(左下)も行われていた

 

トラバーサーの右側には、検修場に入場してきた電車の台車が置かれ、機器や座席を取り外し、塗装に向けて準備を行うスペースがある。検修が終わり出場するための組立もここで行われる。

 

こうした検修場の作業の工程が写真付きで解説されていた。フェスタでは、訪れた人たちが会場内をせわしなく巡っていたため、こうした案内に関心を持つ人が少なめに感じられたのが残念だった。

↑仮の台車をはいた2000系の中間車。手前には同車両の台車を展示していた。またブレーキ部品の制輪子も紹介していた

 

今回、検修場に入場していた車両は黄色いボディの2000系と、特急レッドアロー号として新宿線を走る10000系だった。これらの電車がここでしっかりメンテナンスされて、出場してまた一頑張りするわけである。

 

【フェスタ紹介③】トラバーサー乗車ほか体験イベントを用意

◆トラバーサー乗車体験

同フェスタでは複数の体験イベントを用意していた。その代表的なイベントがトラバーサー乗車体験だった。

↑検修場内にあるトラバーサーへの乗車体験。入場者を限ったこともあり、密にならずに乗車体験が楽しめた

 

検修場には2基のトラバーサーが設けられている。1基は移動用に固定されていたが、北側の1基は乗車体験として動かされた。ふだんは電車が乗るところに人が乗って動くというのも不思議な体験だった。

 

他にも「非常通報装置取扱い体験」などの体験コーナーが設けられていたが、この内容は後述したい。

 

【フェスタ紹介④】この日の主役はやはりレッドアロークラシック

◇2編成が並ぶ撮影コーナー

今回、最も注目を浴びたイベントがあった。それが「レッドアロークラシックファイナルイベント」。10000系といえば、長年、西武の路線を走り続けてきた特急形電車だ。池袋線の特急は2019年春に登場以来、新型001系Laviewに置き換わり、現在10000系は、新宿線での運転のみとなり、特急「小江戸」として走り続けている。登場してから四半世紀にわたり走り続けてきた10000系だったが、池袋線での特急電車が001系に置き換わり、少しずつ引退する車両が出ている。

 

この10000系の1編成7両のみが、クリーム地に赤ラインという、初代レッドアローの塗装に2011(平成23)年に変更されて「レッドアロークラシック」として走った。一編成限定ということもあり、人気車両だった。

 

この車両が、6月5日に西武新宿駅〜武蔵丘車両検修場間を往復するツアー列車として運転された。そしてツアー列車が、「レッドアロークラッシック」としてまさに現役最後の営業運行となった。

↑検修場の入口に並んだ10000系「レッドアロークラシック」と「西武 旅するレストラン『52席の至福』」(右側)

 

↑ラストランのヘッドマークを付けた「レッドアロークラシック」。西武新宿駅〜西武秩父駅間をかつて走った「おくちちぶ」の名を表示した

 

沿線には、最後の姿をカメラに納めようと多くのファンがつめかけた。武蔵丘車両検修場では、この到着した「レッドアロークラシック」と「西武 旅するレストラン『52席の至福』」の並んだ姿の撮影が楽しめる「撮影コーナー」が設けられた。この撮影コーナーには、撮影待ちの人たちの列ができ、人気の高さがうかがえた。

 

ちなみに「西武 旅するレストラン『52席の至福』」では、デビュー5周年を記念して、体験乗車と、“特別カフェタイム”の営業が行われた(事前予約制、人数限定)。そして、検修場内でおしゃれなカフェタイムを楽しむことができた。

 

【フェスタ紹介⑤】見どころがたっぷりあって時間が足りない

検修場は広く、いろいろな設備を使った見学コーナーが設けられていた。代表的なポイントを見ておこう。

 

◆電車グルグル巡りツアー

↑階段を上がると10000系と2000系の屋根上が見学できた。パンタグラフやクーラー、アースなどの機器の案内も用意されていた

 

ちょうど検修場に入場していた10000系と2000系を利用した「電車グルグル巡りツアー」。床下機器の案内や、ペダルを踏むと汽笛(警笛)を鳴らすことができるコーナーを見て回る。そして通常時は作業用に使われる階段を上がり、屋根上に付くさまざまな機器やパンタグラフを見て回る。いわば電車の構造を知ることができるツアーとなっていた。

 

◇「保線機械展示」コーナー

↑西武鉄道の保線車両マルチプルタイタンパー09-16CSM、車両の中央にある機器で枕木下のバラストの整備を行う

 

通常、保線専用の車両を間近で見る機会はほとんど無い。そんな保線機器の代表でもあるマルチプルタイタンパー(以下「マルタイ」と略)と、軌陸車(詳細後述)が展示されていた。

 

マルタイの役目は次のような作業だ。長い期間、電車が走り続けると、枕木と、その下のバラストとの間にすき間ができてしまう。これにより電車の乗り心地も悪くなる。マルタイは、定期的に出動して、レールを持ち上げ、枕木下のバラストをつき固めて、安定した線路の状態に復元する作業を行う。

 

会場で西武鉄道のマルタイの銘板を見ると「09-16CSM」という形式名で、オーストリア製であることが分かった。海外から輸入されることが多いマルタイが、縁の下の力もちとなり、営業運転終了後の深夜に働いて安全を守っているわけである。

 

◇「鉄道各社物販」コーナー

↑鉄道各社物販のコーナーでは西武グループの近江鉄道、伊豆箱根鉄道はもちろん、大手私鉄各社も参加して賑わった

 

入口に一番近いところに設けられていた「鉄道各社物販」コーナー。入場するとどうしてもこのコーナーに寄り道したくなる。今回は、西武グループの伊豆箱根鉄道や近江鉄道以外も多くブースを設けていた。大手私鉄では、東急電鉄、京王電鉄、京成電鉄、京浜急行電鉄。ほかに流鉄、富士急、江ノ電、秩父鉄道など計14社が出店していた。各ブースにはレアな品物も多く、グッズファンの注目度がかなり高いように見えた。

 

◇お子さま制服撮影会

↑001系Laviewほか3車両の大型写真の前で、西武鉄道の制服を着てポーズを決める子どもたち。お父さんも熱心に撮影を楽しんでいた

 

今回は親子連れの入場者が目立った。鉄道好きの親子に合わせていくつかのコーナーが設けられた。その中で人気は「お子さま制服撮影会」。001系Laviewや、40000系、10000系レッドアロークラシックの大きな写真の前で、西武鉄道の制服と制帽をかぶっての写真撮影が楽しめた。とはいえ、スタッフは、撮影が一回終わるごとに、すぐに制服や帽子の消毒に追われていた。こういう時期のイベントだけに気遣いも大変なように感じた。

 

◇「行先表示器」コーナー

↑LEDの表示器コーナー。レアな駅名が表示されるごとにカメラを向けるファンも多かった

 

LEDの表示器が多く並ぶ「行先表示器」コーナー。中高生ぐらいの若いファンが前列に陣取り、並んだLED表示器の表示が変るごとに、その表示をカメラに納める姿が見受けられた。

 

【フェスタ紹介⑥】時代の先端をいく路線バスも展示された

今回のフェスタで展示されていたのは電車ばかりではなかった。西武バスの新型車両も展示、また乗車することができた。展示されていたのは「自動運転大型バス」と「燃料電池大型バス」の2台。すでに各社で「自動運転大型バス」の実証実験が行われているが、西武バスでも同様の実験を行っている。また将来に備えて「燃料電池大型バス」も実際の路線で活用し始めている。

↑西武バスが所有する「燃料電池大型バス」(手前)と「自動運転大型バス」が展示された。車内への乗車可能で、親子連れが興味津々

 

この数年、急速に実験が進み、そして導入されている2種類のバス。特に燃料電池バスは、大手のバス会社の導入も盛んで、街中でも徐々に見かけるようになってきた。実際のところ、現場ではどのように見ているのだろうか。展示コーナーのスタッフは、

 

「水素ステーションがまだ少なく営業時間が限られているところが課題でしょうか。営業時間の終了に間に合わせるために、早めの運行時間に使わざるを得ないのが現状です。あと燃料費も割高なのです」。

 

将来的には脱炭素社会に向けて燃料電池バスが増えていくことだろう。また高齢化、人材不足ということもあり自動運転の技術も向上していくと思われる。とはいえ、まだまだ課題もあるようだ。こうした新しいバスの導入は大手バス会社だからこそ可能なのだろう。

 

さてここからは、今回のイベントに来て知ることができた、またおもしろかった“発見”を見ていくことにしよう。

 

【おもしろ発見①】踏切の特殊信号発光機の光は左回りだった

◆非常通報装置取扱い体験

↑踏切の非常ボタンを押すとどうなるのか体験できるコーナー。ボタンを押すと特殊信号発光機が点灯、運転士に危険を知らせることができる

 

「非常通報装置取扱い体験」というコーナーでは、緊急時の対応方法を紹介するコーナーで、なかなか興味深かった。電車の車内非常通報装置、ホーム上の列車非常通報装置(非常通報ボタン)、踏切支障通報装置の紹介とともに、どのようにボタンを押して対応すれば良いかが体験できた。中でも筆者が気になったのが踏切支障通報装置。ボタンを押すと、最寄りに立つ特殊信号発光機が赤く光り、運転士に危険を知らせる仕組みとなっている。

 

この特殊信号発光機、鉄道各社で導入している形が異なる。西武鉄道の場合は、5つのライトがぐるぐる回ることにより、緊急事態を運転士に知らせている。この光の回り方なのだが、あえて左回りで光が回る(上記写真を参照)。なぜ、右回りで光が回らないのかといえば、右回りは時計とおなじ回り方で、自然なものとして見てしまいがちだからだそうだ。ふだん見慣れない左回りにすることで、人間の視覚に刺激をあたえて、緊急であることを感覚的に伝えている。なかなか考えられている装置だった。

 

【おもしろ発見②】車両移動機は単独だと意外に速い

◇車両移動機が検修場内を自走

↑車両移動機が自走する姿も公開された。電車を引く時よりは格段に速い。連結器は電車を引くため複雑な構造をしていた(右下)

 

検修場の中では、電車がパンタグラフを上げて自走することがあまりない。中での移動は、車両移動機という専用の車両が牽引して電車を移動させている。この専用機は力が強く、10両編成、約300トンという重さの電車であってもラクに動かせるのだという。

 

今回のイベントでは、この車両移動機が電車を引かずに自走する姿を見ることができた。通常の電車を引く時にはゆっくり進むのだが、自走すると意外に速い。メーカーの同タイプの車両性能では「手動単機運転時には最高時速8kmでの運転も可能」と紹介されているのだが、同基地内で稼動していた車両移動機は、もう少し速いように感じた。

 

【おもしろ発見③】軌陸車にはパンタグラフが付いていたがさて?

◇Laview色をした新型軌陸車

「保線機械展示コーナー」では新型の軌陸車が展示されていた。軌陸車とは、道路を走ることばかりか、鉄輪を持っているため、線路の上を走ることができる事業用車両だ。中型トラックをベースに造られていることが多い。現場では保線要員を乗せて道路上を走り、踏切などで、車輪を出して、線路を走り、現場へ向かう。

↑公開された新型の軌陸車。上下に動く作業台の上にはパンタグラフ(右上)が付いていた。さてこの役割は?

 

↑道路上を走る時はタイヤで、線路上を走る時は鉄輪を出して走行する。意外に車体が上がることにも驚かされた

 

今回のイベントに登場した軌陸車は銀色。実は001系Laviewの車体カラーに合わせてこの色にされたそうである。車のエンジンをかけ、鉄輪を線路に降ろす工程、さらに高所作業用に造られた作業台の上げ下げの実演が行われた。その荷台の上に、パンタグラフが付いている。このパンタグラフはどのような役目があるのだろう。スタッフに聞いてみると、アースの役目があるのだそうだ。

 

保線作業は、電車の運転が終了した夜間に行われることが多い。作業にあたって、架線に流れる電気は止められる。通電したままでは、危険だからだ。タイヤで道路を走る時には、タイヤが絶縁帯となり電気は通さない。ところが、軌陸車が線路を走る時には鉄輪を使って移動するため、鉄輪を使っている時は電気が通ってしまう。もしもの時には、作業員の感電も起こりうる。

 

そこでこのパンタグラフを上げて作業を行うのだそうだ。電気がもし流れたとしてもアースの役目を持ち、作業員を守ることができる。軌陸車のパンタグラフには絶縁の役割があるとは知らなかった。

 

【おもしろ発見④】懐かしのコンプレッサーを見つけた!

◇電動空気圧縮機(コンプレッサー)の展示

↑コンプレッサーがずらりと展示されたコーナーにカメラを向けるファンも。右下が西武鉄道701系に搭載された古いコンプレッサー

 

検修場では、新旧さまざまな電動空気圧縮機(以下「コンプレッサー」と呼ぶ)の展示も行われていた。コンプレッサーとは、空気を圧縮して、その空気圧を利用するための装置だ。電車ではブレーキや、ドアの開閉、空気バネの作動などに使われている。

 

今は横長のボディを持つコンプレッサーが多い。その中で異色の丸いコンプレッサーが展示されていた。AK-3コンプレッサーと案内にある。大正時代に設計され旧鉄道省や国鉄標準型として長い間、各種電車に使われていたもので、西武鉄道では1960年代半ばに新造された701系に搭載された。701系は所沢車両基地で製造された新車だったが、当時の西武鉄道は、古い車両からの流用機器を使うことが多く、701系も外装は新しかったが、古いタイプのコンプレッサーを使っていたのだった。

 

701系が駅のホームに停まっている時に「ツー、ウォン、ウォン、ウォン……」というような甲高い音を奏でる。筆者は幼いころにそれを真似て口ずさむこともあった。そんな特長のあるサウンドを今もかすかに覚えている。以前に同フェスタでは、この音を聞く催しが行われたそうだ。今回は展示のみだったのが、ちょっと残念だった。

 

【おもしろ発見⑤】「流鉄行き」の機器も置かれていた

◇展示コーナーではなかったものの

↑検修庫で見かけた大きな黒い機器は断流機と記されていた。上にチョークで「流鉄へ」と書かれていた

 

展示コーナーではなかったものの、通常時は検修場として稼動しているだけに、興味深いものが多々見られた。ある一角に置かれた黒い大きな機器。よく見ると断流器とあった。断流器とは、電車の主電動機へ流れる電流をON・OFFするための機械だとされる。

 

このボックスの上には白いチョークで「流鉄へ」と書かれていた。流鉄の電車はすべてが元西武鉄道の新101系だ。西武鉄道でも新101系は多摩川線などでわずかに残っているが、多くが引退してしまっている。そんな古い電車の機器は、貴重ということもあり、同検修場で整備された上で譲渡されるのだろう。この断流器以外にも「流鉄へ」と記された機器が複数あった。西武を引退した新101系の機器は取り外されても、こうして今も他社に引き取られていることが良く分かった。

 

【おもしろ発見⑥】ロングシートお持ち帰り! お疲れさまです

◇人気の鉄道部品販売コーナー

↑武蔵丘車両検修場へは西武池袋線の線路沿いに専用歩道が延びている。帰りには鉄道部品を大事そうに持ち帰るファンに出会った(右)

 

鉄道会社の催しでは、使用済みの鉄道部品が多く販売され、鉄道ファンに根強い人気がある。希望者も多いことから、今回はこの鉄道部品を販売する「西武鉄道グッズ販売」コーナーへの入場がかなり制限されていた。事前に西武鉄道のアプリ経由で、入場券が発行され、当日には4回、各回30分限定で販売された。入場開始時間が決められており、各回20人限定、計80名(別途ツアー参加者から抽選で40名)のみが入場できた。いわば“狭き門”だったわけだ。それでもグッズファンは多く、筆者はこの販売コーナーのみ容易に近づけなかった。

 

フェスタの帰り道、ロングシートの座席と運転席用の折り畳みイスを、大事そうに抱えるファンと出会った。さすがにロングシートの座席は長く、身長ぐらいの長さがある。運ぶだけでも休み休みで大変そうだった。とはいえ、聞いてみると希望の品物がゲットできたのか、とてもうれしそう。「どちらも5000円です!」とのことだった。会場には駐車場がなくマイカーでの持ち帰りができないが、覚悟して購入したのだろう。「部屋で使おうかと」……。長イスとして使うのだろうか、用途を考えることが、グッズ好きにとってたまらない至福の時なのかも知れない。

 

いろいろ見てまわると11時から15時というフェスタの時間はあっという間にすぎた。なかなか内容の濃いイベントだったが、10000系のレッドアロークラシックとは最後のお別れとなってしまい、筆者もこの列車が好きだっただけにちょっと寂しく感じる。最後に筆者自ら「ありがとう」の感謝の気持ちを込めて一枚のカードを作ってみた。よろしければご笑覧ください。

↑西武池袋線、西武秩父線を走っていたころのレッドアロークラシック。奥武蔵の山景色や桜や青空が良く似合った電車だった

 

 

東急の礎を築いた「五島慶太」−−“なあに”の精神を貫いた男の生涯【前編】

 〜〜鉄道痛快列伝その3 東急グループ創始者・五島慶太〜〜

 

大都市の私鉄の路線網は大正から昭和にかけて、一握りの辣腕経営者によって生み出された。数多く設けられた路線は次第にまとめられ、使いやすいように整備されていったのだ。そうした鉄道の恩恵を日々、私たちは受けて暮らしている。

 

今回は、東急電鉄の路線網を造り上げた五島慶太の人生を振り返ってみたい。

*絵葉書・路線図、写真は筆者所蔵および撮影

 

【関連記事】
もし恐慌がなかったら「阪急電鉄」は生まれなかった!?〜小林一三の生涯〜

西武王国を築いた「堤 康次郎」−−時代の変化を巧みに利用した男の生涯

 

【五島慶太の生涯①】長野県の山村で生まれ紆余曲折の半生をおくる

五島慶太の生涯はドラマに満ちている。なかなか波乱万丈である。77歳で亡くなったが、そのうち鉄道会社の経営に精力をかたむけた期間はちょうど半分でしかない。短い期間で精力的に動き、東急電鉄の路線網を造り上げたのだ。そんな五島慶太の痛快な生き様を見ていきたい。

 

五島慶太は1882(明治15)年4月18日、長野県小県郡青木村(旧・殿都村)で、小林菊右衛門の次男・小林慶太として生まれた。生家は農家で、集落の中では最も資産家だったとされるものの、父親が事業に失敗するなどして、経済的な余裕がなかった。山村で育った慶太は小さいころ、とにかくワンパクで、仲間を引き連れて歩く典型的な“お山の大将”だった。学歴に触れておこう。

 

1889(明治22)年 青木村小学校尋常科へ入学

1893(明治26)年 浦里小学校高等科へ転校

1895(明治28)年 長野県尋常中学校上田支校に入学

1898(明治31)年 長野県尋常中学校松本本校へ移る

1900(明治33)年 長野県尋常中学校松本本校を卒業。青木村小学校の代用教員となる

 

今の年齢でいえば、高校卒業したばかりで代用教員となったわけである。代用教員となった理由は、都会へ出て勉強をしたかったため。そのためにまずは学費を貯めるべく仕事についた。ガキ大将だったものの、頭は良く、まずは将来のために勉強を、と考えていた。

↑五島慶太の故郷、青木村へは上田電鉄の上田原駅(駅は上田市内)が最も近い。駅前から青木村へ路線バスが出ている(左上)

 

お金を貯めて東京へ出た慶太は、その後に次のような過程を経る。

 

1902(明治35)年 東京高等師範学校(現・筑波大学)英文科に入学

1906(明治39)年 東京高等師範学校を卒業。四日市市立商業学校の英語教師として赴任

 

教師を育てるために当時は師範学校が設けられていた。慶太が学んだ時の東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎だった。嘉納治五郎といえば柔道家として著名だが、通算25年にわたり東京高等師範学校の校長を務めていた。慶太は嘉納の言葉に感銘を受ける。

 

『人間として何が一番大事か。それは「なあに」という精神である』

(東急・五島慶太の生涯/北原遼三郎著・現代書館)

 

要は、どんなにつらいことがあっても「なあに」このぐらいはと、はねのける、いわば不屈の精神が大切だということを、慶太は学んだのだった。

 

さて、師範学校を卒業し、英語教師として三重県の四日市の学校へ赴任するもすぐに辞めてしまう。教師という仕事が肌に合わないと感じたのだった。早く見切りをつけて次の道へ進む。この転身の早さは慶太の特長だったようだ。そして東京帝国大学を目指して撰科に入学。撰科とは正科に欠員が出た時に補充する、いわば予備校的なクラスだった。その後に超難関だった試験に受かり正科に転学している。

 

1907(明治40)年 東京帝国大学政治学科撰科に入学、後に法科大学本科に転学

1911(明治44)年 東京帝国大学を卒業、農商務省に入る

 

↑上田電鉄の城下駅で公開された元東急5200系。五島慶太最晩年に東急車両製造で造られた日本初のステンレス鋼製電車だった

 

農商務省へ入省したのが29歳の時で、一般の若者に比べ、だいぶ遅れて官僚の仲間入りを果たした。しかも、当初は鉄道に縁のない農商務省だったわけで、ここでもだいぶ“寄り道”をしていたわけだ。

 

本原稿も少し寄り道してみたい。慶太の出身地・青木村の近くを走る上田電鉄の別所線。今では東急グループの一員となっている。

 

さらに保存されている元東急5200系電車は、不定期で展示イベントが開かれる名物車両となっている。この電車は慶太が立ち上げた東急車輌製造(現・総合車両製作所)が新造した車両で、日本初のステンレス鋼製の電車だ。テスト的な意味合いの強い車両で5両しか製造されなかった。

 

東急車輌製造は、その後の日本の電車のステンレス化に大きく貢献した企業で、この会社がなかったら、ここまでステンレス車両化が進まなかったといっても良い。常に人々に役立つことを念頭に事業を展開させた、五島慶太が生み出した会社らしい異色の車両でもあった。

 

上田電鉄に残される5200系電車は東急車輌製造で造られた5両のうちの1両だ。さらに不思議な縁がある。この電車が製造されたのが1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけてで、実はこの車両の製造が終了した1959(昭和34)年に、五島慶太はちょうど亡くなったのである。つまり五島慶太が亡くなったころに生まれて、今も故郷近くで保存されているというわけだ。

 

【五島慶太の生涯②】阪急の創始者、小林一三に見いだされて

東京帝国大学を卒業した慶太は、まず官僚への道を歩む。ところが、大学を卒業したのが30歳近くとあって、官僚となったものの、周りに比べればかなり遅いスタートとなった。そのため出世の道はほぼ断たれていた。

 

1913(大正2)年 鉄道院へ移る

1918(大正7)年 鉄道院総務課長心得に就任

 

そのためもあってか、農商務省へ入省したものの、2年で鉄道院へ移った。この鉄道院へ移ったことが、その後の人生を決めたといっても良いだろう。プライベートな話題としては、

 

1912(明治45)年 建築家・久米民之助の長女、万千代と結婚

 

同年に五島に改称している。義父から五島の家を継いで欲しいという申し出があったからだという。明治から昭和に至るまで、名家の名前を殘すために夫婦どちらかが養子となり、その姓を名乗るケースがあった。妻となった万千代は10歳年下で、一目ぼれだったらしい。妻との間に2男2女をもうけている。

 

さて、鉄道院に移った慶太は鉄道院総務課長心得として務める。だが“心得”が気にくわないと、書類の心得は消して提出したと言う。堅苦しい役人生活は性に合わなかったのであろう。役人として風変わりな存在でもあった。

↑田園調布駅の復元駅舎。田園調布の住宅地造りには渋沢栄一、小林一三らそうそうたるメンバーがかかわっていた

 

慶太が鉄道院総務課長心得となった年に、その後に大きく関わることになる事業が始められた。

 

今年の大河ドラマの主人公、渋沢栄一が晩年に起こした事業である。それは田園調布を開発し、住宅地化しようという試みだった。そのために1918(大正7)年に田園都市株式会社という開発会社が設けられた。発起人であり相談役として渋沢栄一が就任する。渋沢は田園都市の開発には鉄道が必要として、阪急を生み出した小林一三を引き込もうとした。

 

とはいえ小林一三は、自社の経営で忙しい。さらに今の時代ならば、可能かもしれないが、当時は関西と東京を移動すること自体も大変だった。誰か代わりが務められる人材がいないだろうか、と探していた時に“おもしろい男がいる”ということで引き込まれたのが五島慶太だった。慶太は1920(大正9)年に鉄道院を退官、武蔵電気鉄道の常務取締役に就任していた。

 

1922(大正11)年9月2日に田園都市開発株式会社の傘下の荏原鉄道が、目黒蒲田電鉄と改称した。この日が東急電鉄の創立記念日となっている。そして五島慶太は10月2日に目黒蒲田電鉄の専務取締役に就任した。

 

五島慶太は、まず武蔵電気鉄道という会社に関わっている。この武蔵電気鉄道はその後に東京横浜電鉄の大元になる会社なのだが、当時はほとんどペーパーカンパニーで、内容が伴っていなかった。武蔵電気鉄道に関わったのが30歳代の終わり、そして目黒蒲田電鉄という鉄道会社の専務となったのが、40歳という年齢だった。ここから鉄道事業に携わる慶太の半生が始まった。

 

不幸なことに最愛の妻、万千代を1922(大正11)年に亡くしている。わずか31歳だった。こうした心の痛手を埋めるかのように慶太は事業に没頭し、妻の死後は一生、独り身を通した。

 

【五島慶太の生涯③】無人の荒野を行くかごとくの東京の郊外開発

渋沢栄一が構想を練り、そして小林一三まで巻き込み、五島慶太が実質的な開発責任者となった田園調布の開発計画だったが、そのころの東京城西、城南地区の状況はどのようなものだったのだろうか。

 

一枚の絵葉書がある。これは、大正中ごろの玉川電車沿線の様子だ。玉川電車とは、“玉電”の名前で親しまれ、現在の国道246号上を走った路面電車だ。現在、東急世田谷線として、一部区間が残っている。中央本線の路線の南西部で、最も早く設けられた鉄道路線だった。玉川電気鉄道により1907(明治40)年、渋谷〜玉川間が全通している。

 

玉川電気鉄道は、路線開業前の会社名が玉川砂利電気鉄道だった。要は乗客を運ぶよりも、多摩川の河原の砂利を東京の都市部へ運ぶことを主目的に造られた路線だった。

↑大正中ごろの玉川電気鉄道の路線風景。現在の二子玉川駅近くか、駒沢大学駅付近か、沿線には広大な田畑が広がっていた

 

大正中ごろの玉川電車の絵葉書を見ても、線路の周りは田畑のみで、ここがどこなのか今となっては分からない。まさに隔世の感がある、玉川電気鉄道の路線は、現在の東急田園都市線の渋谷駅〜二子玉川駅間にあたるが、沿線はほとんどが住宅地となり、畑地などほとんどない。

 

城西・城南地区で他の私鉄路線といえば、旧東海道の沿線に路線を設けた京浜電気鉄道の一部区間が1901(明治34)年に開業したぐらいのものだった。

 

五島慶太が電鉄会社を設けたころは、東京の城西・城南は玉川電気鉄道の沿線と同じような状況で、こんなところに鉄道路線を設けること自体、よほどの物好きと考えるのが普通だったわけである。まさに無人の荒野を行くがごとくの郊外開発だった。

 

【五島慶太の生涯④】まずは目蒲線から路線づくりを始めた

何もないところに住宅地を造り、移動手段として鉄道を敷設する。今となれば、最初に考えた渋沢栄一には先見の明があったことが分かる。しかし当時、不毛の台地に鉄道を敷こうなんてことは、破天荒過ぎる考えだった。そんな鉄道路線づくりを、五島慶太は始めたわけである。

 

まずは目蒲線(現・目黒線と東急多摩川線)の路線づくりから手を付け始めた。

 

1923(大正12)年3月11日 目黒蒲田電鉄が目黒線・目黒駅〜丸子駅(現・東急多摩川線沼部駅)間8.3kmが開業

11月1日 丸子駅〜蒲田駅間4.9kmが開業、目蒲線に改称、同線が全通する。当初9月開業予定だったが関東大震災の影響で11月にずれた

 

この年の9月1日に関東大震災が起ったことにより、目蒲線の開業は計画よりも遅くなった。工事現場も被害を受け、慶太自ら現場に出て、作業員らと一緒に復旧作業を行うなど苦闘した。関東大震災の後に下町から山手に住まいを移す人も出てくるようになった。山手線沿線に住む人は増えたものの、城西・城南の郊外へ住まいを移す人はそれほど多くはなかった。

↑目蒲線開業直後に旧丸子駅で写した目黒蒲田電鉄重役一同。左端が五島慶太、右から5人目が小林一三(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)

 

↑現在の東急蒲田駅。右上は大正末期の蒲田駅(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)。駅周辺は閑散としていたことが良く分かる

 

目蒲線が開業してから間もなく、次は東横線の開業を目指した。まずはペーパーカンパニーだった武蔵野電気鉄道の社名を、1924(大正13)年に東京横浜電鉄と変更した。五島慶太が専務に就任、小林一三が監査役となっている。そして、

 

1926(大正15)年2月14日 東京横浜電鉄が神奈川線・丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間14.8kmを開業、目蒲線からの直通運転を開始

1927(昭和2)年8月28日 渋谷駅〜丸子多摩川駅間9.0kmが開業。路線名を東横線とする

 

渋谷駅と神奈川駅間の全通が遅れたのは、多摩川の架橋工事に手間取ったからだった。この架橋工事でも慶太は陣頭指揮をとったと記録されている。

↑東横線の開業当時、横浜側の終着駅は神奈川駅(廃駅)だった。路線跡は東横フラワー緑道として整備され、線路のモニュメントも設置されている

 

【五島慶太の生涯⑤】東横線の路線を横浜まで延ばしたものの

大正から昭和初期にかけて設けられた目蒲線と東横線だったが、当初は利用者も少なく苦戦続きだったが、徐々に乗客が増えていき、路線延伸が続けられた。

 

1927(昭和2)年7月6日 大井町線、大井町駅〜大岡山駅間4.8kmが開業

1928(昭和3)年5月18日 東横線、神奈川駅〜高島駅間1.2kmが開業

1929(昭和4)年11月1日 二子玉川線、自由ヶ丘駅(現・自由が丘駅)〜二子玉川間4.1kmが開業、12月25日 二子玉川線、大岡山駅〜自由ヶ丘駅間1.5kmが開業。大井町駅〜二子玉川駅間が全通し、大井町線となる。

1932(昭和7)年3月31日 東横線、高島町駅〜桜木町駅間1.3kmが開業

 

現在まで続く、東横線、目蒲線(目黒線と東急多摩川線)、大井町線の路線網が、昭和初期でほぼ造り上げられた。

 

年号や開業日だけを見ると、いかにも路線の開業、延伸が上手く進んだように見えるが、すべて上手くいったわけではなかった。

 

1927(昭和2)年に起きた金融恐慌の影響、さらに世界恐慌。銀行は連鎖倒産、中小企業の倒産、労働争議も各地で起き、工場閉鎖が相次いだ。そして失業者が町にあふれた。現在、コロナ禍とはいえ、大卒の就職内定率は90%近くになる。ところが当時は大卒で就職できたのは30%だった。どん底の不況が日本を襲った。

↑1935(昭和10)年ごろの東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄の路線図。前年に池上線も同社の路線となり拡大路線は順調に進んだ

 

慶太も新線建設のための資金ばかりか、従業員の給料にと、銀行を駆けずり回るが、資金調達が断たれてしまうこともしばしばだった。資金繰りに苦しみ、わずかばかりの借金で保険会社にも頭をさげて回ったと伝わる。

 

「松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった」

(日本経済新聞社刊『私の履歴書』より)

 

豪毅な五島慶太でさえ、この時ばかりは死を覚悟したようである。とはいえ、こんな絶体絶命な時にも、嘉納治五郎の教え、“なあに”の気持ちで踏ん張った。この時の経験は五島慶太の『予算即決算主義』の経営哲学の確立に役立ったとされる。

 

当時の東横線のチラシには「ガラ空き電車を御利用下さい」の文句すらある。なかば居直りにも感じられるセールストークである。このガラ空き電車の文句には前例があった。事業の師でもあった阪急創始者・小林一三氏も同じ文言を使っていたのである。

 

小林一三は、神戸線開業時に自ら次の広告文を書いている。「綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」とした。小林一三も、五島慶太も、どのように大変な時でも、茶目っ気を忘れなかったようである。

 

金融恐慌、世界恐慌の不景気に震撼した日本経済だったが、転機が訪れた。1931(昭和6)年9月18日に起きた満州事変だった。中国の満州で起きた紛争により、その後、関東軍は満州の占領を進める。この軍需景気により、日本の経済は復活し、湧いたのである。

 

【五島慶太の生涯⑥】吸収合併を繰り返して“強盗慶太”と揶揄された

五島慶太はこの機を活かして拡大政策にうって出る。まずは1934(昭和9)年に東京高速鉄道の常務に就任。地下鉄路線の経営に勝機ありと見てのことだった。

 

さらに10月1日に池上電気鉄道(五反田駅〜蒲田駅間)の吸収合併を行う。現在の池上線は池上電気鉄道という会社が、1922(大正11)年に蒲田駅〜池上駅間1.8kmを開業させたことに始まる。徐々に延伸させていき、1928(昭和3)年に五反田駅まで全通させた。

 

慶太が率いた目黒蒲田電鉄と、ほぼ同じ時期に路線づくりを始めた会社だった。その会社を吸収合併という形で飲み込んだのである。

 

1934(昭和9)年は五島慶太が最初の勝負に乗り出した年だった。だが、好事魔多し。10月18日になんと贈賄容疑で逮捕されてしまったのである。東京市長選の立候補者に対して多額な選挙資金を提供したという疑いがかけられた。約半年後の182日目に釈放されたものの、市ヶ谷刑務所に半年にわたり収容されている。裁判の結果は第一審が有罪、第二審が有罪、大審院では上告棄却され、無罪となっている。

↑1938(昭和13)年、玉川電気鉄道合併後の路線図。同線は渋谷以東にも路線を持っていたが、合併後すぐに東京市電気局の路線となった

 

収監中は読書ざんまいの生活をおくったとされる。「人間として最低の生活」と後に振り返るものの、事業ばかりの自分の半生を冷静に省みることもできた。無罪となった五島慶太はさらに事業の拡大を推し進めていく。

 

1936(昭和11)年 東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任

1938(昭和13)年4月1日、玉川電気鉄道を合併する(後の東急玉川線)

 

同年に江ノ島電気鉄道を買収、取締役社長に就任。ほかタクシー会社、運送会社など複数の企業を立ち上げて社長に就任した。

 

1939(昭和14)年10月1日 目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を吸収合併、名称を東京横浜電鉄に。

1942(昭和17)年5月1日 京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併、東京急行電鉄株式会社に商号を変更

 

↑小田原急行鉄道と呼ばれた当時の小田原駅。親会社は鬼怒川水力電気という電力会社だった。1942(昭和17)年に東京急行電鉄に統合された

 

太平洋戦争に突入した1942(昭和17)年に五島慶太は京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、さらに1944(昭和19)年には京王電気軌道を合併している。この時代は東急最大最長の路線網を誇ったころで、後にこの時代の東急を「大東急」と呼んだ。当時は資金力にものを言わせて、他社の鉄道を飲み込んだと世間的には見られており、五島慶太は“強盗慶太”と揶揄された。

 

ただ、大同団結した時代の背景も見ておかなければいけないだろう。まずは当時の鉄道会社の多くが、電力会社の副業という側面があった。ところが、1938(昭和13)年4月に国が電力管理法を施行したことにより局面が変わる。この法律によって、電力の国家統制が始まった。それまで中小電力会社が乱立していたが、様々な圧力もあり日本発送電にまとめられてしまう。

 

鉄道業務が副業だった電力会社は追いつめられた。小田急電鉄がその一例にあたる。小田急電鉄は鬼怒川水力電気という電力会社の子会社で、その電力業務を国に取り上げられたことで窮地に追い込まれた。そんな時に救いの手を差し伸べたのが五島慶太だ。

 

また1938(昭和13)年に4月2日に陸上交通業調整法が公布、8月1日に施行されたことも大きい。こちらも国家統制で、乱立気味だった交通事業者の整理統合を正当化する法律でもあった。こうした時代背景が生み出した“大東急”だったのである。

 

【五島慶太の生涯⑦】渋谷を大きく繁栄させた東横百貨店の誕生

東急を生み出した五島慶太だったが、鉄道事業以外も精力的に推し進めた。そうした多角化が、その後の東急の文化的な側面のイメージアップにつながったことは間違いない。もちろん電鉄の利用者を増やす目的もあったのだが。

 

最初の動きとしては1929(昭和4)年の7月に慶応義塾大学の日吉台への誘致が挙げられるだろう。大学に無料で7万2000坪の土地を提供している。当時、世界恐慌による不況の影響を受けていたのにも関わらずである。名のある大学を誘致すれば、路線のイメージアップにつながり、もちろん学生に電車に乗ってもらえる。とはいっても会社ができて間もない時期であり、ライバル会社との綱引きもあり、広大な土地の無償提供はかなり思い切った策だった。その後には、

 

1934(昭和9)年11月1日 渋谷駅東口に東横百貨店(東館)が開業

1938(昭和13)年6月に東映映画株式会社を設立、7月に株式会社日吉ゴルフクラブを設立、12月に玉電ビルが完成、東横百貨店西館が開業する

1939(昭和14)年 東横商業女学校を私費で設立

 

デパート、映画興行、さらにゴルフ施設、そして学校の設立も行っている。東横商業女学校は、贈収賄事件で収監された五島慶太へ当時の株主総会で感謝金として出された5万円に、私財をプラスして設立させた。「この金をもらうわけにはいかず」と話したとされるように、お金に執着するわけでなく、将来のための人づくりのために活かしたわけだ。東横商業女学校は、その後に東横学園中学校・高等学校となり、また建学された武蔵工業大学と、東横学園女子短期大学が統合され、現在は東京都市大学と改称している。これらの学校は学校法人五島育英会が運営を行う。五島慶太の思いがこうして花開いていくわけである。

 

五島慶太が生前は“強盗慶太”と称されたものの、没後にその生涯が認められたのは、鉄道事業以外に、多くの社会貢献にあたる事業を進めたことも大きいだろう。

↑東横百貨店の開業は渋谷の町の発展に大きく貢献した。写真の東急百貨店東横店は2020年3月31日で閉店している

 

太平洋戦争中には事業ばかりでなく、政治の世界にも乗り出した。

 

1943(昭和18)年 内閣顧問に就任

1944(昭和19)年2月19日、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任

 

大臣に就任したことから東京急行電鉄社長を辞任。この時、61歳。電鉄の誕生に関わり、順調に成長させ、多くの路線網を傘下におさめた。まさに絶頂期だったのかもしれない。

 

ところが、大臣に就任してわずか5か月後の7月18日、東條英機内閣は解散してしまう。五島慶太は運輸通信大臣を辞任後、12月28日に東京急行電鉄会長に就任した。

 

さて五島慶太の今回の紹介はここまで。次回は太平洋戦争後の話を中心に進めたい。戦後は、箱根と伊豆でライバルとなる人物が現れ、壮絶な戦いを繰り広げることになる。

 

東急を率いるにあたって追い込まれることも多くなっていくが、常に〝なあに〟の思いを強め、乗り切っていったのである。

 

*参考資料:「東急・五島慶太の生涯」北原遼三郎著/現代書館、「ビッグボーイの生涯」城山三郎著/講談社、「私の履歴書‐昭和の経営者群像〈1〉」日経新聞社、「東京横浜電鉄沿革史」東京急行電鉄株式会社

 

わずかに残る「京王御陵線」の遺構と立派な参道や橋に驚く!

不要不急線を歩く04 〜〜 京王電気軌道 御陵線(東京都) 〜〜

 

生活圏の近くにありながら、知らないことは意外に多い。今回、筆者の身近にあった不要不急線の跡を歩いてみた。90年以上前に造られた立派な参道や橋にも出会い、太平洋戦争を境に日本が大きく変わっていったことを実感できた。

 

【関連記事】
「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

 

【京王御陵線①】戦前の京王の案内には終点が御陵前駅とある

すでに本サイトの過去の記事を読まれた方はご存知かと思うが、不要不急線とは何かを簡単に触れておこう。

 

太平洋戦争に突入し、軍艦や戦車など、武器を造るために大量の鉄が必要となった日本は、資源不足に陥り、庶民からありとあらゆる金属資源を供出させた。鉄道も例外ではなく、利用率が低い路線は休止や廃止となり、一部の複線区間は単線化され、線路が持ち出された。そして、軍事利用や幹線の線路に転用された。こうして休止・廃止、単線化した路線を不要不急線と呼ぶ。太平洋戦争中に、不要不急線に指定された路線は全国で90路線以上にもなる。

 

筆者の手元に、戦前の京王電気軌道の沿線案内が2枚ある。こちらの図には下記のように、御陵前駅(後に多摩御陵前駅と変更)という駅が西側の終点駅となっていた。今の京王電鉄の終点は高尾山口駅だ。御陵前という駅はない。さてこの駅は?

↑両図とも京王電気軌道の戦前の沿線図。上は昭和一けた代、下は昭和12年以降のもの。上の地図には武蔵中央電車という路線名も入る(筆者所蔵)

 

この御陵前駅へ行く区間(北野駅〜御陵前駅間)こそ、不要不急線として太平洋戦争中に休止命令が出され、その後に一部が廃止となった御陵線である。今回は、京王電気軌道御陵線(以下「京王御陵線」と略)の今を紹介したい。

 

【京王御陵線②】多摩御陵への参拝路線として生まれた御陵線

最初に京王電鉄の歴史を見ておこう。京王電鉄は1913(大正2)年4月15日に笹塚駅〜調布駅間に路線を開業させたことから歴史が始まる。開業時の社名は京王電気軌道だった。道路上を走る軌道線の区間が多かったこともあり、同社名となった。

 

徐々に西へ路線を延ばしていったが、資金難から別会社の玉南電気鉄道を立ち上げて資金集めを行うなどして、ようやく1925(大正14)年に、東八王子駅(現・京王八王子駅)まで到達している。御陵線の開業はその後になる。京王御陵線の開業時の概要を見ておきたい。

 

路線 京王電気軌道御陵線・北野駅〜御陵前駅(後に多摩御陵前駅と改称)6.3km
路線の開業 1931(昭和6)年3月20日。途中駅は片倉駅(現・京王片倉駅)、山田駅、横山駅(後に武蔵横山駅と改名)の3駅
廃止 不要不急線の指定をうけ1945(昭和20)年1月21日に休止、1964(昭和39)年11月26日、山田駅〜多摩御陵前駅間が正式に廃止となる

 

京王電気軌道だが、太平洋戦争中に京王という名称の会社は一度消滅している。1938(昭和13)年に陸上交通事業調整法が施行され、国の手で交通事業者の整理統合を行った。交通事業が完全に国の統制下に置かれたのである。そして1944(昭和19)年に、京王電気軌道は東京急行電鉄(後の東急電鉄)の一員になっている。そのため不要不急線に指定された時の路線名は東京急行電鉄御陵線だった。

 

余談ながら、京王井の頭線は戦前、帝都電鉄という会社が運営していた。この帝都電鉄は、1940(昭和15)年に小田原急行電鉄(現・小田急電鉄)と合併。その後に、小田急も東京急行電鉄と合併している。戦後に東京急行電鉄から京王と、小田急が分かれるが、井の頭線は京王線とともに、京王帝都電鉄(1948・昭和23年に創立)の路線に組み込まれ、京王井の頭線となった。1998(平成10)年に京王帝都電鉄は、京王電鉄という現在の社名を変更されている。

 

太平洋戦争前後の東京急行電鉄を巡る会社間の移り変わりは非常に複雑だが、歴史に“もし”があれば、井の頭線は小田急電鉄の路線だったのかも知れない。

 

さて、京王御陵線の話に戻そう。御陵線は不要不急線として、終戦の年の1月21日に休止となった。多摩御陵への参拝路線ということもあり、政府も休止を命じるのをためらったのだろうか。終戦まであと7か月という時の決定だった。休止されたものの、その後に復活されることはなく、山田駅〜多摩御陵前駅間が廃止となった。

 

その後に京王線の北野駅と山田駅間は、高尾線の敷設に役立てられ、1967(昭和42)年10月1日に高尾線の北野駅〜高尾山口駅間が開業している。

 

【京王御陵線③】旧線を復活させた山田駅から歩き出した

↑山田駅を発車した高尾山口駅行電車。この山田駅までは以前の京王御陵線の路線を使って高尾線は造られた

 

以前は御陵線の途中駅だった山田駅に降り立った。御陵線の旧路線をたどるために、駅から西へ向かう。しばらくは線路沿いを歩いた。途中から線路沿いの道が途切れるため、線路を離れて西へ向かう。山田地区は低地となっているが、行く手に、やや高台があった。この高台には現在、高尾線のめじろ台駅がある。駅の前に広がる高台の住宅地は「めじろ台」となっている。

 

古い地図を見ると、現在の山田駅とめじろ台駅の間で、路線は北へ向かっていた。下の写真のあたりで進行方向が変わっていたのだ。この写真を見てもわかるように、手前はめじろ台の高台で、山田駅方面は、それよりも一段、標高が低い地形となっている。

↑めじろ台駅側から山田駅側を見ると、写真のように高低差があることが分かる。御陵線はこの手前で向きを変えて北側へ向かって走った

 

京王御陵線は、現在の高尾線の路線から北へ向きを変えて走った。そしてめじろ台の高台へのぼっていく。そんな上り坂が下の写真。以前は、線路が敷かれていたであろう、なだらかなスロープが残っている。植えられた草花がちょうど見ごろを迎えていた。

↑現在の高尾線の路線からめじろ台へは適度な上り坂となっている。古い路線らしき箇所に緩やかなスロープが残っていた

 

【京王御陵線④】元線路跡は山田町並木線となり京王バスが走る

さて、めじろ台へ上ってきた御陵線。現在、線路は残っていないが、同区間を走っていたことが推測できる。線路が通っていたらしき通りは道幅が広い。中央に街路樹が植えられ、北西に向かって延びていた。古い地図で確認しても、この通りが旧路線とぴったりと重なることが分かる。現在の通りの名前は「山田町並木線」となっていた。

↑元御陵線の路線は現在の山田町並木線という通りとなっている。この通りを走るのは京王バス。付近のバス停(左上)の名前はめじろ台一丁目

 

ケヤキ、イチョウといった木々が見事に育った並木道ではあるものの、気になったので、御陵線という名称が通り沿いに残っていないかを探してみた。ところが、何も残っていない。京王御陵線との関連があるとすれば、京王バスが走っていることぐらいのものだった。

↑山田町並木線を北西へ向かう。途中には「関東武士ゆかりの地散歩なる碑」(左下)が設けられていたが、さて……

 

御陵線の元路線跡を示すものはなかったが、「関東武士ゆかりの地散歩」という碑があった。これは「ふだん通る道を歩いて、歴史の痕跡や新しい魅力を発見して欲しい」と、東京都生活文化局が設定したコースの一部ということだった。筆者は歴史好きを自認しているものの、関東武士とはいっても、鎌倉時代や戦国時代に表舞台に立った人物が東京西部に少ないこともあり、資料を読んだものの、ぴんとこなかった。

 

【京王御陵線⑤】中央本線の先にあった横山駅。路面電車も走った

街路樹が茂る山田町並木線をめじろ台から歩く。ゆるやかな坂道を下ると、先にJR中央本線の線路が見えてくる。京王御陵線は、この中央本線を高架で越えていた。現在の、山田町並木線の通りはアンダーパスでJR中央本線の下をくぐる。そんな写真を撮ろうとカメラを構えていたら。あれっ! 見慣れない列車が通過していく。なんと『TRAIN SUITE四季島』ではないか。通るのならば、この近くで構えておくのだったと残念に思った。

↑京王御陵線はJR中央本線の線路を高架で越えていた。現在、道路は下をくぐる。中央本線を通過するのは『TRAIN SUITE四季島』

 

JR中央本線を越えたあたりに横山駅(休止時は武蔵横山駅)があった。現在の甲州街道(国道20号)と山田町並木線が交差する並木町交差点付近である。御陵線は高架化され、駅も橋上駅だった。実は京王御陵線が正式に廃止の手続きが取られたのは1964(昭和39)年11月26日のこと。それまでは、高架施設が残っていたそうだ。この廃止を機に、高架施設は取り除かれ、旧横山駅がどこにあったのかも、今は推測するしかない状態になっている。

↑甲州街道と山田町並木線が交差する並木町交差点。角に交番があるが、このあたりに旧横山駅があったと推測される

 

↑旧路線は甲州街道(左)を横切り北へ向かった。不自然な向きのマンションがあり、この前あたりに路線が通ったことが推測できる

 

旧横山駅から北は、現在の山田町並木線が延びる方向とは、やや異なるところを線路は通っていた。並木町交差点の北側から、旧ルートがどこを通っていたのか判別が難しくなる。ひとつのヒントとしては、並木町交差点の北側にある建物と、マンションが甲州街道に対して、やや斜めに建っていること。土地の所有権が、ここで分かれていたということを示す一つの証だろう。

 

通り抜ける甲州街道で触れておきたいことがある。甲州街道には前述した古い地図にあるように、武蔵中央電車が走っていた。運行していたのは武蔵中央電気鉄道という会社で、路線は東八王子駅前停留場(現・京王八王子駅前付近)と高尾停留場(現・高尾山口駅付近)間を結んでいた。甲州街道を走る路面電車で、京王御陵線の横山駅の最寄りには横山駅前(後の武蔵横山駅前)停留場があった。

 

この路面電車の開業は1929(昭和4)年12月23日のこと。ところが1931(昭和6)年に京王御陵線が開通したことにより、客足が伸び悩む。そこで武蔵中央電気鉄道は京王電気軌道へ路線を売却。1938(昭和13)年6月1日のことだった。翌年の6月30日は運転休止に、そして12月1日は廃止となった。開業してわずか10年で消えた短命な鉄道路線だった。買い取った京王としては、うまみがあったのだろうか。線路が高く売れたことで得た利益を、その後の新車導入に役立てたという逸話が残っている。

 

【京王御陵線⑥】南浅川を渡った先に唯一の御陵線の遺構が残る

ちょっと歩くだけでも古い鉄道の逸話が出てくるものである。さて、甲州街道から旧線路跡をたどって歩く。甲州街道から北側は、路線跡が消えているために、南浅川に沿って平行した道を歩いて行くと、河畔に桜並木が続き、市民の憩いの場となっている。山田町並木線は横山橋で南浅川を越えている。この橋の西側に京王御陵線の高架橋が架かっていたが、今は何もない。

↑横山橋の上からみた南浅川。この先に京王御陵線の高架橋が架かっていた。今はその名残はない

 

横山橋を渡り河畔の道をやや西へ。100mほど先に住宅地へ入る細い道がある。ここに京王御陵線で唯一の遺構として、古びたコンクリートの柱状のものが2本ほど立っている。京王御陵線の高架線の橋脚だったものだ。今は橋脚が民家の塀として活かされている。1960年代に大半の鉄道施設は除去されたが、この橋脚だけは、すでに住宅の一部になっていたようで、取り壊されなかった。鉄道の橋脚が景色に溶け込んでいるようでおもしろい。この場所は某テレビ番組でも紹介されていたので、ご存知の方も多いのではないだろうか。

↑民家の塀の一部に使われている京王御陵線の橋脚。前後の2本のみが残っているというのが興味深い

 

残る橋脚を見つつ、先を目指す。南浅川の河畔に広がる住宅地の北西側には、長房町の高台が広がる。この高台へ抜けるために、京王御陵線は甲州街道と南浅川を高架橋で渡ったのだろう。

 

【京王御陵線⑦】路線は高台へ上り終点の御陵前駅を目指した

南浅川沿いの住宅地から長房町の高台にのぼる石段がある。上ると西へ向かって舗装路が続いていた。高架橋を走ってきた御陵線の電車は、この長房町で西へカーブして終点の御陵前駅へ向けて走った。

↑南浅川河畔に広がる住宅地から、長房町の高台へあがる石段。このあたりを線路が走っていたようだ

 

長房町の高台には都営住宅が立ち並ぶ。すっかり整備されていて、どこを線路が走っていたのか推測が難しかった。ちょうど線路が通っていたあたりの北側に、船田古墳という7世紀に造られた古墳跡があった。南浅川周辺は古代、有力な豪族が治め、地盤としていた証なのだろう。

↑長房町の団地内にある船田古墳跡。団地造成の際に発見された。円墳で、現在は埋め戻され公園となり案内板(右上)も立つ

 

地図で見ると、長房町を御陵甲の原線という道が東西に通り抜けている。この南側を京王御陵線は走っていたようだ。民家の間を抜ける細い道が数本、御陵甲の原線と平行して設けられている。

 

今は何も残っていないが、終点の御陵前駅は、この裏道に設けられていたようだ。古い駅舎の絵葉書を見ると、妻入と呼ぶのだろうか、神社のような立派な造りの建物だった。終戦間際に空襲で焼けてしまい、不要不急線として休止されていたこともあり、戦後に再建されることはなかった。

 

この御陵前駅のすぐ目の前には、ケヤキに包まれた多摩御陵参道が設けられていた。多摩御陵参道は、甲州街道方面と多摩御陵(現・武蔵陵墓地)を結ぶ参拝道路である。現在も立派な道が残っており、きれいに清掃されていてとてもすがすがしく感じる。

↑多摩御陵参道をはさみ向いに御陵前駅があった。立派な造りの駅舎があったが、空襲で焼け落ちたと記録される

 

多摩御陵は大正天皇の陵として1927(昭和2)年に築造された。面積は2500平方メートルにも及ぶ。陵が設けられるにあたり、参道が整備された。その参道が今も多摩御陵参道として残る。陵へ向かう多摩御陵参道には、約160本のケヤキが植えられ、今ではその高さが20mにも及ぶ。

 

旧御陵前駅から多摩御陵の入口まで参道が500mにわたり続く。厳かな気持ちになるような並木道。御陵をお参りする人で、戦前はさぞや賑わったことだろう。

 

【京王御陵線⑧】御陵の造営にあわせ整備された道や橋を歩く

多摩御陵参道を多摩御陵(現・武蔵陵墓地)まで歩き、御陵を参拝した後に道を引き返した。多摩御陵参道は、立派としか形容しようがない素晴らしい道だった。武蔵陵墓地から甲州街道方面へ約1kmの多摩御陵参道が延びる。京王御陵線の御陵前駅の前を通り過ぎ、参道はゆるやかな下りとなり南浅川へ至る。

↑多摩御陵参道は、旧東浅川駅から約1kmの通りだ。両側にケヤキの並木が続き、新緑時期など歩くだけでも厳かな気持ちになる

 

南浅川を渡る橋は、その名も南浅川橋。御陵造成当初の絵葉書を見ると簡素な橋だったが、1936(昭和11)年に写真のように立派なコンクリートアーチ式の橋に架け替えられている。

↑多摩御陵参道が渡る南浅川橋。1936(昭和11)年に架け替えられ、明かりが灯る立派な灯籠が両側に複数設けられる

 

太平洋戦争に突入するまでの昭和10年代は、現代人の冷静な目で振り返るとかなり不思議に感じる。多摩御陵が造営された当時、参道の南浅川橋は、簡素な印象の橋だった。ところが、その後に立派な橋に架け替えられた。多摩御陵参道の起点となる甲州街道を渡ると、中央本線の線路が見えてくる。

 

中央本線のこの付近には東浅川駅が設けられていた。1927(昭和2)2月7日に設けられた駅で、一般の旅客用ではなく、皇族が多摩御陵へ参拝する乗降施設として設けられたのである。

↑東浅川駅へ大正天皇の棺を載せた霊柩車が到着したことを伝える絵葉書。絵葉書は筆者所蔵

 

東浅川駅は社殿造の玄関を持つ立派な駅だった。多摩御陵参道、南浅川橋、東浅川駅といった施設は、かなりのお金をかけて造成された。

↑旧東浅川駅の跡地には、1964年の東京五輪で、自転車競技の会場となったことを記念する碑が立つ

 

東浅川駅は1960(昭和35)年に廃止となり、立派な駅舎はすでにない。旧駅舎跡には石碑が立っていて、五輪マークと1964、そして「オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる」とあった。1964(昭和39)年開催の東京五輪の自転車競技のロードレースがここを拠点に開かれ、平和な国として復興したことを内外に知らせる良いきっかけとなった。

 

昭和から太平洋戦争へ、そして戦後の物不足の時代、1964年の東京五輪と、この京王御陵線の廃線跡をたどるだけでも、世の中が大きく変わったことが良く分かった。

戦時下の「不要不急線」—— レールが外された後はどうなったのか?【東日本編】

不要不急線を歩く03 〜〜 東日本の不要不急線のその後 〜〜

 

「不要不急の外出を控えて」という言葉を聞くと、“やれやれ”と思う方が多い今日このごろ。太平洋戦争の最中の「不要不急線」といえば、強制的に路線が休止、または廃止され、線路が外された路線を指した。

 

今回は、戦時下に不要不急線に指定された東日本の路線に注目した。どのような路線が不要不急線となったのか、それぞれの路線は戦後どのようになったのか追ってみた。

 

【不要不急線①】戦争継続のため鉄道の線路が取り外された

まずは、不要不急線とはどのような仕組みだったのかを見ていこう。

↑1900年ごろに海外用に発行された絵葉書。当時の非力な機関車が想定外の貨車を牽いたシーン。合成された写真と思われる

 

太平洋戦争前の日本は、日華事変・日中戦争など大陸での戦火が広がりつつあった。対外的には、かなり背伸びした姿を見せていた様子が分かる。上は1900年ごろの海外用の絵葉書だ。貨物列車を紹介した戦前の絵葉書は珍しいが、途方もない数の貨車を引いている。当時の非力な蒸気機関車が牽引できるわけがなく(現在もここまでの車両数を牽くことはない)、合成写真だということがすぐに分かる。

 

要は対外的に日本の力を誇示するため、こうした絵葉書を使って国力を底上げして見せていた傾向が窺える。そうした国の姿勢は徐々に破綻を迎える。

 

そして、1941(昭和16)年の暮れに、アメリカ合衆国ほか連合国との全面戦争に突入する。鉄などの資源に乏しい日本は資源不足に陥り、まず国民から金属が含まれるありとあらゆる品物を供出させた。

 

鉄道路線には多くの資源が使われている。そこで重要度が低いとされた路線を休止、もしくは廃止、または複線を単線化して、線路を軍事用に転用、重要度が高い幹線用に転用するべく政府から命令が出された。命令の内容は「勅令(改正陸運統制令および金属類回収令)」であり、拒否はできなかった。廃止により運行スタッフの職が奪われようと、政府はそうした現実を見ようともしなかった。

 

そして、全国の国鉄(当時は鉄道省)と私鉄の路線が1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて休止もしくは廃止、単線化された。その数は90路線近くにのぼる。

 

【不要不急線②】東京都下や名古屋に不要不急線が多い

不要不急線として指定された路線を、昭和初期に発行された鉄道路線図に入れてみた。北海道ならびに東北地方の不要不急線は、意外に少なく見える。やはり、線路を回収して製鉄工場へ運ぶとなると、運び出すのに手間がかかる。

 

加えて北海道や東北地方には炭鉱や、鉱物資源が豊富だったことも見逃せない。一方で、沿線にそうした資源がない農村部を走る路線、例えば道内の札沼線(さっしょうせん)、興浜(こうひん)北線、興浜南線などは休止となっている。

↑北海道・東北地方の不要不急線。路線は密だったものの、意外に休線が少なかった。元図は東京日日新聞「全国鐵道地図」(昭和三年元旦附録)

 

一方の関東・甲信越・中部地方の路線となると、不要不急線に指定される路線が多かったことが地図を見ても分かる。もちろん、この地域の路線数が多かったことがあるものの、やはり運び出しやすいという理由もあったのだろう。特に東京都下と、中部地方では名古屋鉄道(名鉄)の路線が目立つ。

↑関東から中部に至るまでの不要不急線を抜き出してみた。東京と中部地方、特に名古屋鉄道の路線の休止区間が多かったことが分かる

 

不要不急線と指定された路線はその後どうなったのか? 戦後そのまま廃止となった路線がある一方で、営業再開、また単線が複線に戻された路線もあった。復活したものの、今はない路線もあり、明暗がはっきりと分かれている。とはいえ、沿線に住み、鉄道を利用してきた人にとっては、迷惑な話であることは確かだった。

 

【不要不急線③】取り外された線路は果たして役立ったのだろうか

↑日本軍には鉄道連隊という隊も存在した。占領した外地でいち早く鉄道を敷き、軍を進軍させるという役割を追っていた

 

不要不急線の指定は太平洋戦争の最中であり、どのような人たちがレールを取り外し、どのように運んだのか、記録を探すことができなかった。戦時下ということもあり、戦争に関わる事柄はすべて秘密だったせいもあるのだろう。果たして路線が休止となり、線路を運び出したところで、役立ったのだろうか。また鉄道会社への支払いはどうだったのか?

 

不要不急線の指定と同様に、戦時下に多くの民営鉄道(私鉄)が買収され国鉄(当時は鉄道省)の路線に組み込まれた。この時もほぼ強制的で、反対意見など言ったら、すぐに“非国民”となった。買収といっても戦時公債で支払われ、戦時中にはほぼ現金化できなかった。いわば“寄付”のような状況である。さらに戦後は超インフレとなり、戦時公債が戦後に償還される時には、ほぼ紙切れ同然でタダのような金額となっていた。

 

外された線路にしても、例えば、外地の占領地で鉄道敷設のために輸送船に積まれたものの、目的地へ着く前に敵の潜水艦によって沈められ、目的地に到着できなかったなどの逸話が残っている。

↑戦時下の出征風景を写した絵葉書。「東京○○駅出征 ○○大隊を見送の光景」と説明にある。軍がらみの事柄はすべてが秘密だった

 

要は、戦時下のごたごたした時期であって、不要不急線と指定されて線路が外されたものの、実際にどの程度役立ったのかは未知数である。もちろん、戦後に線路を外した路線の復旧などをする力は敗戦国に残っていなかった。結果を見れば、迷惑きわまりない話であり、とんだ無駄だったことが分かる。それがまた戦争が持つ宿命なのだろうが。

 

国の暴挙に付き合わされ、大変な思いをする、また不便な思いをするのは庶民ということなのかも知れない。

 

【その後の路線①】休止後にそのまま廃線となった路線

ここからは、東日本(中部地方以西はまたの機会に取り上げたい)の不要不急線のその後を追ってみたい。休止された後の路線の動向はいくつかの道筋に分かれる。最初は、休止後に廃線に追いやられた路線から。最も悲しい結末を迎えた路線である。

 

○そのまま廃線となった路線(前述の地図「×」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

◇北海道

・富内線(とみうちせん):沼ノ端〜豊城(とよしろ)24.1km間、1943(昭和18)年11月1日休止

沼ノ端から現在の日高本線の北側に敷かれた路線。路線が設けられたのは1922(大正11)年で、北海道鉱業鉄道として開業した。日高本線の鵡川(むかわ)から合流する路線が豊城駅まで敷かれていたが、戦時下には沼ノ端〜豊城間が休止となり、そのまま廃線となった。戦後も、鵡川〜豊城〜日高町の区間は存続されたが、1986(昭和61)年に廃止となった。

 

◇東北地方

・橋場線(岩手県):雫石〜橋場7.7km、1944(昭和19)年10月1日休止

橋場線は現在の田沢湖線の雫石と橋場間を結んでいた。開通は1922(大正11)年で、橋場軽便線として開業した。戦後は田沢湖線が雫石と、田沢湖、角館などを結んだが、路線は橋場を通らず、そのまま雫石〜橋場間が廃線となった。

 

・白棚線(はくほうせん/福島県):白河〜磐城棚倉23.3km、1944(昭和19)年12月11日休止

現在の東北本線白河駅と水郡線の磐城棚倉駅を結んだ路線。1916(大正5)年に白棚鉄道として開業した。水郡線の全通開業は1934(昭和9)年のことで、白棚線は水郡線よりも先に路線が開通していた。戦時下に休止となり、その後に復活はしなかった。一方で、元線路はバス専用道路に転用され、現在もジェイアールバスが白河〜磐城棚倉を結んでいる。

 

◇関東地方

・五日市線:立川〜拝島駅間8.1km、1944(昭和19)年10月11日休止

元は五日市鉄道として開業した線区で、現・青梅線よりも南側を走っていた。戦時下の1944(昭和19)年4月1日に、青梅鉄道(現・青梅線)、南武鉄道(現・南武線)とともに国有化され、半年後には不要不急線に指定、休止となった。戦後も復活することなく、廃止となっている。

↑旧五日市鉄道が走っていた大神駅跡には、線路と台車などを飾るモニュメント広場が設けられている

 

【関連記事】
“不要不急”の名のもと戦禍に消えた「旧五日市鉄道」廃線区間を歩く

 

■民営鉄道(私鉄)の廃線路線

不要不急線として休止になった鉄道省(後の国鉄)の路線は、戦後に復活したものが多い。一方、民営鉄道の場合は、休止後そのまま廃線となった路線が目立った。やはり資金力に余裕のない私鉄は復旧までたどり着かなかったのであろう。そんなつらい運命をたどった路線を見ていこう。

 

◇北海道

・江別町江別川線:江別〜江別川堤防0.3km、1945年3月1日廃止

函館本線の江別駅から千歳川沿いの江別橋までの短い路線で、貨車を人間が押すといった“人車軌道”だったという話も伝わる。路線開業は1905(明治38)年。不要不急線として終戦の年に廃止となり、戦後も復活はなかった。

 

・定山渓(じょうざんけい)鉄道:白石〜東札幌間2.7km、1945年3月1日休止

函館本線の白石駅〜定山渓間が1918(大正7)年に開業した。戦時下に千歳線との接続駅である東札幌と白石間の路線が休止となり、そのまま廃止となった。残った東札幌〜定山渓間も1969(昭和44)年11月1日に廃止となっている。定山渓温泉の最寄りまで行く私鉄路線で、今も残っていたら便利だろうにと、少し残念に思う。

 

・大沼電鉄:大沼公園〜鹿部17.2km、1945(昭和20)年1月31日廃止

道南、大沼公園と鹿部を結んでいた軌道路線で、1929(昭和4)年に開業した。1945(昭和20)年に廃線となり、同年の6月1日に平行して敷設された函館本線(砂原支線)が開通、路線としての役割を終えた。戦後には函館本線の新銚子口と鹿部駅間のみ、1948(昭和23)年に営業再開されたが、わずか4年のみの営業で路線廃止となった。

 

◇関東地方

・成田鉄道軌道線(千葉県):成田山門前〜宗吾間5.3km、省線駅前〜本社前0.1km、1944(昭和19)年12月11日廃止

成田山新勝寺と宗吾霊堂を結ぶ路面電車路線として1911(明治44)年に全通、成宗電車(せいそうでんしゃ)として地元の人たちに親しまれた。成田市内にトンネル跡などが残り、線路跡は今も車道として使われる。

↑成田鉄道軌道線のトンネル。戦前に不要不急線となり休止→廃線となったが、トンネルは一般道として使われ路線バスが走る

 

【関連記事】
「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

 

・成田鉄道多古線(千葉県):成田〜八日市場間30.2km、1944(昭和19)1月11日休止

1911(明治44)年から徐々に路線が延び1926(大正15)年に全線が開業した。開業当時は千葉県営鉄道で、鉄道の空白区間を埋める役割があった。1927(昭和2)年に成田鉄道となった後に、1944(昭和19)年に不要不急線として休止に、そのまま戦後に廃線となった。

 

・東京急行電鉄御陵線(東京都):北野〜多摩御陵前6.3km、1945(昭和20)年1月21日休止

現在の京王電鉄京王線の北野駅と多摩御陵前を結んだ路線で、1931(昭和6)年に開業した。開業した当時は京王電気軌道で、戦時下に小田急、京浜急行とともに東京急行電鉄(現・東急電鉄)の傘下に組み込まれた。そのため休止時には京王でなく、東京急行電鉄の路線名となる。御陵線は山田〜多摩御陵前間がそのまま廃止されたが、北野〜山田間の路線跡は、現在の京王高尾線に活かされている。

 

◇甲信越地方

・善光寺白馬電鉄:南長野〜裾花口(すそばなぐち)間7.4km、1944(昭和19)年1月11日休止

路線名にあるように、善光寺がある長野市と白馬を結ぼうとした電鉄線で、1936(昭和11)年に南長野から途中まで、戦時中の1942(昭和17)年に裾花口まで開通した。しかし、わずか2年後に休止させられ、そのまま廃止となった。筆者は一度、路線跡を歩いたことがあるが、険しさにたじろいでしまった。

 

今回は、取り上げなかったものの、東京都電車(都電)でも9線区が戦時中に廃止となっている。ほかにも鋼索鉄道(ケーブルカー)でも休止させられ、戦後にそのまま廃止となった路線もあった。

 

【その後の路線②】戦後に復活した路線も明暗が分かれた

ここでは休止となったのち、戦後に営業再開したものの、現在は廃止された路線をあげてみる。

 

○休止後に再開したものの今はない路線(前述の地図「▲」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

◇北海道

・札沼線:石狩月形〜石狩追分間45.8km、1943(昭和18)年10月1日休止。石狩当別〜石狩月形間20.4km、1944(昭和19)年7月21日休止。石狩追分〜石狩沼田間19.3km、1944(昭和19)年7月21日休止

札沼線は段階的に休止区間が決められていった。戦後すぐの1946(昭和21)年に石狩当別〜浦臼駅間が営業再開。全線の営業再開は1956(昭和31)年と、だいぶ後のことになった。再開されたものの乗車率が低く徐々に区間廃止が進められていく。記憶に新しいところでは2020(令和2)年5月7日に、北海道医療大学〜新十津川間が正式に廃止された。不要不急線として休止された区間で今も残るのは、北海道医療大学〜石狩当別間の3.0kmのみとなっている。

 

・興浜北線:浜頓別〜北見枝幸30.4km、1944(昭和19)年11月1日休止。興浜南線:興部(おこっぺ)〜雄武(おうむ)間19.9km、1944(昭和19)年11月1日休止

オホーツク海を望む道北にあった両線。興浜線として結ばれる予定だったが、戦時下に休止、戦後まもなく営業再開したものの、1985(昭和60)年の7月1日に興浜北線が、同じ年の7月15日に興浜南線が相次いで廃止された。

 

◇東北地方

・川俣線(福島県):松川〜岩代川俣間12.2km、1943(昭和18)年9月1日休止

東北本線の松川から伊達郡川俣町まで走った路線で、1926(大正15)年に開業した。戦時中に休線となったものの、戦後に営業再開した。終点の川俣は織物の生産地であったものの、それ以外に輸送する産物に乏しく、1972(昭和47)年に廃止された。

 

◇関東地方

・中央本線下河原線(東京都):国分寺〜東京競馬場前5.6km、1944(昭和19)年10月1日休止

下河原線は中央本線の支線で、当初、国分寺と下河原を結ぶため東京砂利鉄道によって1910(明治43)年に開業した。その後に国有化され終点駅を東京競馬場前に変更。戦時下に休止、戦後に営業再開した。武蔵野線の開通に合わせて1973(昭和48)年に廃止となる。筆者は通学路の近くに線路があったため、競馬開催日以外の平日は、旧形国電が1両で走っていた姿を覚えている。

 

◇甲信越地方

・魚沼線(新潟県):来迎寺〜西小千谷13.1km、1944(昭和19)年10月16日休止

信越本線の来迎寺と西小千谷を結んだ路線で、1911(明治44)年に魚沼鉄道として開業した。その後に国有化され戦時下に休止したが、1954(昭和29)年に営業再開された。興味深いのは国有化された後も軽便鉄道の線路幅だったこと。線路幅の762mmが在来線の1067mmになったのは1954(昭和29)年のことだった。1984(昭和59)年に廃止となっている。

 

・弥彦線(新潟県):東三条〜越後長沢7.9km、1944(昭和19)年10月16日休止

弥彦線は現在も東三条〜弥彦間の営業が行われている。かつては信越本線を横切り東三条から越後長沢まで路線が延びていた。元は越後鉄道という会社が開業させた路線で、東三条〜越後長沢間は1927(昭和2)年に路線が延ばされている。延伸後すぐに国有化、戦時中に休線となり、戦後まもなく営業再開となったが、1985(昭和60)年に廃止となっている。

↑東三条駅からは南の越後長沢へ走る元弥彦線の線路が右にカーブしていた。同区間は1985(昭和60)年に廃止となった

 

【関連記事】
なかなか興味深い歴史&逸話を持つ「弥彦線」10の秘密

 

こうして見ると、営業再開されたものの、盲腸線が大半だったこともあり、昭和後年に大概が廃止されている。廃止に至った原因は、沿線人口の減少、産業構造の変化、貨物輸送が鉄道から自動車への変換などがあったものの、もともと乗車率の低い路線だったことも大きかったと言えるのだろう。

 

【その後の路線③】戦後に再開して今も残る路線は意外に少ない

不要不急線として休止になり、戦後に営業再開した路線で、今も残る路線は少ない。もともと閑散区の路線が選ばれたということもあるだろう。今も残る路線を見ておこう。

 

○休止後に復活して今も残る路線(前述の地図「△」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

・久留里線(千葉県):久留里〜上総亀山9.6km、1944(昭和19)年12月16日休止

東日本において、元国鉄路線で不要不急線に指定され、今も残るJRの路線は久留里線のみだ。久留里線は1912(大正元)年に千葉県営鉄道として一部区間が開業、国有化後の1936(昭和11)年に上総亀山まで延ばされている。戦時下に路線の途中、久留里から先が休止となったが、戦後の1947(昭和22)年に営業再開となっている。今も久留里の先は閑散区間ではあるもののJR東日本の路線に組み込まれたこともあり、廃止という声は聞かれない。

 

【関連記事】
房総半島を走る行き止まり路線「久留里線」……予想外の発見の多さにびっくり!

↑早春には沿線の菜の花が美しい久留里線。通学の足として今も役立てられている

 

■民営鉄道の路線

・東武鉄道越生線(埼玉県):坂戸町〜越生10.9km、1944(昭和19)年12月10日休止

東武東上線の坂戸とJR八高線との接続駅の越生間を結ぶ東武越生線。1934(昭和9)年に越生鉄道が現在の路線を全線開業させ、戦時下に東武鉄道により買収された後に営業休止となった。戦後の1945(昭和20)年11月30日にすぐに営業再開とあり、線路も外されていかなったように推測される。

 

・西武鉄道村山線(東京都):東村山〜狭山公園2.8km、1944(昭和19)年5月10日休止

同区間は現在の西武鉄道の西武園線で、1930(昭和5)年に旧西武鉄道により開業された。村山貯水池への観光用に開業された路線で、開業時は村山貯水池前という駅名だった。戦時中の休止時には狭山公園という駅名だが、近くに狭山公園前という駅があり非常に分かりにくかった。同エリアで、現在の西武鉄道の元になる武蔵野鉄道との激しいライバル争いがあったためである。

 

戦時下に路線休止となったが、戦後すぐに両社は合併し、1948(昭和23)年に営業再開された。再開後に村山貯水池とは別の場所に終点の西武園駅が設けられ、旧村山貯水池駅は廃駅となり現在に至る。

↑西武鉄道西武園線は、東村山〜西武園の1駅区間を走る短い路線。戦前は旧西武鉄道の路線で終点駅は狭山公園だった

 

・武蔵野鉄道山口線(埼玉県):西所沢〜村山4.8km、1944(昭和19)年2月28日休止

武蔵野鉄道とは現在の西武鉄道の前身にあたる鉄道会社で、1929(昭和4)年に山口線が開業した。終点の駅名は戦前だけでも村山公園→村山貯水池際→村山と三転している。近くを走っている旧西武鉄道とのせめぎ合いがあったためである。山口線は戦時下に休止、1951(昭和26)年に営業再開、その時に路線名を狭山線に、終点駅は狭山湖となった。その後の1979(昭和54)年に駅名が狭山湖から西武球場前に変更されている。

 

不要不急線として休止されたものの、営業再開され、今も残る路線の多くは民営鉄道(私鉄)の路線が多い。それにしても西武鉄道の多摩湖線を含めた3本の路線が村山貯水池(多摩湖)周辺に集まる様子は、ライバル争いという背景が過去にありつつも、興味深い。

 

【関連記事】
西武鉄道の路線網にひそむ2つの謎‐‐愛すべき「おもしろローカル線」の旅【西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線】

 

【その後の路線④】複線→単線になってそのままとなった路線

ここからは不要不急線として複線の路線が単線化された例を見ていこう。単線化され、戦後もそのままだった東日本の路線は、鉄道省(国鉄)の1線のみだ。

 

・御殿場線(神奈川県・静岡県):国府津〜沼津60.2km、1944(昭和19)年7月11日単線化

御殿場線の路線は大半が静岡県内を走るが、神奈川県の国府津が起点駅ということもあり、関東地方の路線ということで触れておきたい。

 

御殿場線は1889(明治22)年の開業と古い。当時の東海道本線の一部区間として開業された。1934(昭和9)年に熱海〜函南(かんなみ)間を結ぶ丹那トンネルが難工事の末に開業したことにより、現在の御殿場線が東海道本線から外れて支線となった。

 

全線が複線化されていたが、列車の本数も減り、無駄とされたのだろう。戦時中に単線化され、その後に複線に戻されることはなかった。

↑戦前の御殿場線の絵葉書。非電化ながら複線で、蒸気機関車が牽引する客車数も長く、利用者も多かったことがうかがえる

 

【関連記事】
富士山の美景&迫力ある姿を満喫!‐‐さらに調べると御殿場線の奥深い魅力が浮かび上がってきた!!

 

【その後の路線⑤】単線化後に戦後に再び複線となった路線

御殿場線が戦時中に単線化された一方で、戦後に複線に戻された路線が東日本に2線ある。どちらも私鉄の路線だった。

 

・東武鉄道日光線(栃木県):合戦場(かっせんば)〜東武日光44.5km、1944(昭和19)年6月21日に単線化

東武日光線の新栃木の北にある合戦場と東武日光の間が戦時中に単線化された。合戦場の手前、新栃木は東武宇都宮線が分岐している。新栃木より北は観光目的が強い路線と判断されたのであろう。複線に戻す工事は、徐々に進められた。距離が長かったせいもあるのか、1973(昭和48)年、約30年後にようやく単線化した区間の複線化が完了している。

↑戦時中に単線となった東武日光線の複線化は時間がかかった。写真は楡木(にれぎ)駅付近で、複線に戻されたのは1973(昭和48)年のこと

 

・東京急行電鉄江ノ島線(神奈川県):藤沢〜片瀬江ノ島間4.5km、1943(昭和18)年11月16日単線化

江ノ島線といえば、現在は小田急電鉄の路線だが、戦時中は東京急行電鉄の傘下となっていた。藤沢〜片瀬江ノ島間は観光目的の利用者が多いことから単線化された。戦後は1948(昭和23)年に小田急電鉄となり、同年に藤沢〜元鵠沼間を、さらに翌年には片瀬江ノ島まで複線に戻されている。

 

こうして東日本の不要不急線を見るだけでも、指定された路線の多くにドラマが隠されている。一方で、軍事的な利用価値が高いとして、不要不急線として指定されることを免れた路線もある。例えば、長野電鉄の屋代線(やしろせん)がその例にあげられるだろう。

 

同線は2012(平成24)年にすでに廃止された24.4kmの路線だが、途中の松代(まつしろ)の近くに大本営が疎開するにあたり、大掛かりな地下壕(松代大本営)を掘削していた。この地下壕を設けるために不要不急線としての指定を免れたとされている。戦争中ということがあったにしろ、軍事優先の勝手な国の方針により、悲喜こもごもがあったわけだ。不要不急線は非常に不可思議な政策であったことは間違いない。

鉄道各社が発表した2021年度「新車両投入」計画を改めてまとめてみた

〜〜JR&大手私鉄各社の2021年「設備投資計画」から〜〜

 

年度替わりとなる春は、JRと大手私鉄複数各社から2021年度の「設備投資計画」、もしくは「事業計画」が発表される。同プランにはさまざまな分野の計画が盛り込まれるが、本サイトでは「新車両投入」というポイントにしぼり注目してみたい。

 

各社の計画を見ると、なかなか興味深い新車両導入の傾向がうかがえる。具体的にどのような車両が新造されるのか、また新車両の導入により既存の車両はどうなるのか、予測も含め考察していきたい。

 

【関連記事】
新車、引退、コロナ‐‐2020年「鉄道」の注目10テーマを追う【前編】

 

【新車投入計画①】まずJR東日本で気になる新車両は?

最初にお断りを。各社の「設備投資計画」だが、プレスリリースとして一般に発表された鉄道会社の計画のみに限定した。発表されたのはJR4社(JR西日本は『中期経営計画2022』の見直し)と大手私鉄6社(※本原稿では昨秋に「設備投資計画」を発表した会社もあわせて8社を紹介する)。各社の「設備投資計画」「事業計画」から新車両の導入計画のみを抜き出してみよう。

 

まずはJR東日本から。4月28日に「変革のスピードアップのための投資計画」と題された、2021年度設備投資計画が発表された。増備される車両数までは発表されていないが概要がうかがえる。

↑増備が進む横須賀線・総武快速線用のE235系1000番台。1994(平成6)年から走ってきたE217系の引退も目立つようになってきた

 

JR東日本では、まず2019年10月の台風19号で被災した、北陸新幹線用のE7系の増備を行うとしている。被災したE7系の代役は、上越新幹線の2階建て車両E4系によりまかなわれてきたが、被災した車両数分の増備が終了する。代役に使われてきたE4系は、この増備により上越新幹線からも姿を消すことになる。

 

さらに、横須賀・総武快速線用のE235系車両が増備される。この増備により「環境負荷低減を目指す」としている。

↑レール運搬用気動車のキヤE195系1000番台・1100番台。こちらは定尺レール運搬用の車両となる

 

さらに、事業用のレール輸送用新型気動車を導入するとしている。このレール輸送用新型気動車の形式名はキヤE195系で、定尺レール運搬用とロングレール運搬用がある。このキヤE195系は、元々JR東海が開発したキヤ97系で、この車両がJR東日本用に改良され導入が始まった。

 

JR東日本のレールの輸送は、これまで国鉄時代に造られた機関車が、レール輸送専用貨車を牽く形で行われてきた。機関車はみな国鉄時代に製造されたもので、老朽化が懸念されていた。

 

このレール輸送用新型気動車の導入とともに、砕石(さいせき)輸送用の新型電気式気動車GV-E197系と、E493系交直流電車も導入され、試運転が始まっている。これらの車両の本格的な運用が始まると、事業用車両として使われてきた電気機関車、ディーゼル機関車も、車両回送用および、客車牽引用の一部の機関車を除き、いよいよ引退となりそうだ。

 

【新車投入計画②】JR旅客他社の新車両導入の動向は?

JR東日本以外のJR各社からの設備投資計画等の発表は、JR西日本とJR北海道、JR貨物(詳細後述)のみとなっている。

 

JR西日本はやや前のものになるが、2020年10月30日の「JR西日本グループ中期経営計画2022」見直しの中で、車両増備に関して触れている。具体的には、山陽新幹線の利便性向上のため、N700S車両の16両×4編成増備を、また北陸新幹線敦賀開業(敦賀延伸は2023年度末の予定)に向けて、北陸新幹線用W7系を12両×11編成を増備するとしている。N700Sは現状、これまでJR東海の増備が中心で、東海道新幹線内での運行がメインとなってきたが、JR西日本所有の車両が増えることにより、山陽新幹線内での運行も行われることになる。

 

ちなみに、JR東海のN700SはJ編成。JR西日本のN700SはH編成と異なる。また、側面の車両形式の頭に付くJRマークがJR東海の車両はオレンジ色、JR西日本の車両はブルーとなっている。JR東海の車両の運行予定は発表されているが、JR西日本の車両の運行予定は、まだ発表されていないなどの違いがある。

↑N700Sの運行予定はJR東海からは発表されている。JR西日本のN700Sも運行を開始しているものの、運行ダイヤは未発表となっている

 

JR北海道からは、4月2日発表の「令和3年度事業計画」に車両計画が盛り込まれている。具体的にはH100形気動車と、261系(キハ261系)特急気動車の新製があげられている。ほかの車両関連では、789系特急電車や、201系気動車の重要機器の取り替えを行うとしている。投資金額も明らかにされており、136億円の予定だ。

 

観光列車に関しても触れている。キハ261系「はまなす編成」「ラベンダー編成」を活用した都市間輸送の販売強化や周遊企画。キハ40系「山紫水明」シリーズを用いた「花たび そうや」号、また昨年も行われた「THE ROYAL EXPRESS」の運行を行うとしている。観光客に人気のある観光列車を走らせて、何とか会社再生への道を探ろうという思いが見えてくる。

↑JR北海道の新型気動車H100形、愛称はDECMO(デクモ)だ。電気式気動車で、JR東日本のGV-E400系と基本設計は同じ

 

ここ数年、JR北海道ではH100形気動車の増備が著しい。国鉄時代に生まれたキハ40系や、キハ141形といった旧型車両は、徐々に減っている。今後はさらに環境に配慮した、また省エネルギー効果の高いH100形の導入が活発になっていきそうだ。

 

【新車投入計画③】東武鉄道では500系リバティの新造が目立つ

ここからは大手私鉄の車両増備の計画を見ていこう。首都圏の複数の大手私鉄から設備計画が発表されている。コロナ禍で、鉄道会社の収益も陰りがちだが、コロナ後の将来に向けての計画が打ち出されている。

 

まずは、首都圏最大の路線網をもつ東武鉄道から。4月30日に発表された「鉄道事業設備投資計画」では、東武スカイツリーライン・アーバンパークライン沿線の高架化計画をさらに進めていくことを中心に打ち出されている。

↑東武鉄道の500系リバティは、今年度6編成が新造される予定だ

 

一方で、車両計画で注目したいのは500系リバティの新造計画。2021年度にはさらに6編成を新造するとしている。すでにリバティは3両×11編成が利用されており、この新造が終了すると、51両の大所帯になる。

 

東武の既存の特急形電車といえば、100系スペーシア、特急「りょうもう」用の200型・250型が中心となっている。100系は54両、200型・250型も60両が在籍している。ほかに350型といった車両も残っていたが、こうした車両も徐々に減っていくことになるのだろうか。

 

ほかには、東武日光線の南栗橋駅以北で運行している20000系リニューアル編成を3編成(計12両)増備するとしている。

 

【新車投入計画④】小田急では新型5000形が増える一方で

続いては小田急電鉄を見てみよう。小田急といえば、この春に海老名駅に「ロマンスカーミュージアム」がオープンして大きな話題になっている。さて、どのような車両の新造があるのだろうか。

 

【関連記事】
歴代ロマンスカーが揃う小田急新ミュージアムの名車たちに迫る!!【前編】

 

↑小田急電鉄の新型通勤電車5000形。着々と増備が進められ、出会うことも多くなってきた

 

小田急電鉄といえば、ロマンスカーが注目されがちだが、4月28日に発表された「鉄道事業設備投資計画」によると、今年度の新造は5000形に限られる。昨年の春に登場した5000形。これまで小田急の通勤型電車といえば、正面が平面という姿の車両がすべてだったが、5000形はオフセット衝突対策を施し、やや正面下部に膨らみを持たせた形状となっている。今季の増備は4編成(40両)で、新たな〝小田急顔〟の新車に出会う機会も増えそうだ。

 

一方で、興味深いのは1000形2編成のリニューアルが発表されたこと。改装により車椅子スペース、車内LCD表示器、自動放送装置などを備える。1000形といえば、運用開始が1988(昭和63)年と、8000形(1983・昭和58年に登場)に次ぐ古豪だ。やや古めながらも、リニューアルし、まだまだ活かそうという方針のようだ。

 

【新車投入計画⑤】東京メトロでは17000系、18000系が増える

次は東京メトロの新型車両の導入計画。東京メトロでは3月25日に発表した「2021年度(第18期)事業計画」で、新型車両の導入に関して触れている。

 

まずは丸ノ内線。新しい2000系を1編成導入する。これにより、2000系は33編成となる。ほかの新型車両の導入は、次の路線の車両に集中して行われている。

 

特に有楽町線・副都心線への新型17000系の新造が目立つ。まずは10両×2編成導入の予定。こちらは今年の2月21日からすでに運用が始まっているが、この増備車両となる。さらに、8両の17000系12編成が導入の予定だ。これにより、17000系に8両と10両編成が混在して運用されることになりそうだ。

 

半蔵門線用の18000系は、すでに実車ができあがり試運転が開始されている。こちらは今年度10両×4編成が導入される予定だ。

↑今年の2月から走り始めた東京メトロ17000系。従来の10両編成に加えて今年度は8両編成という新規車両も登場の予定だ

 

有楽町線・副都心線用の7000系や、半蔵門線用の08系といった、長らく親しまれてきた正面形状をもった車両たちが、この新造により減っていくことになりそうだ。

 

【新車投入計画⑥】京王電鉄ではリクライニング付き新車が登場

京王電鉄では4月30日に「鉄道事業設備投資」を発表した。同社では現在、京王線(笹塚駅〜仙川駅間)の連続立体交差事業に力を注いでいる。

 

そんななか、今期の新造車両は少なめながらも、注目したい車両がある。5000系といえば、現在は「京王ライナー」などの有料座席指定列車に使われている車両。この5000系が1編成(10両)新造される。この新しい5000系の座席の仕組みが興味深い。

↑京王線を走る5000系に新顔が登場する。クロスシート使用時にリクライニングできる日本初の構造となる予定だ

 

5000系の座席といえば通常時はロングシート、有料座席指定列車として走る時にはクロスシートになる「ロング/クロスシート転換座席」、または「デュアルシート」とも呼ばれる構造の座席を備える。

 

新しく造られる5000系ではクロスシートにした時に、リクライニング機能が利用できるというのだ。これは日本初の仕組みとなる予定で、好評となれば他社でも同構造をもつ車両が現れそうだ。

 

この新5000系の新造は、今季の設備投資計画として発表されたが、実際に導入されるのは2022年下期となりそうだ。

 

ほかでは、京王線8000系2編成(計16両)で車両のリニューアルが行われる。改修にあわせて、車いす、ベビーカースペースが拡大される。こうした車いす、ベビーカースペースの拡大は、今後、京王電鉄の全車両に拡大されていく予定とされている。

 

【新車投入計画⑦】相鉄の新車21000系とは果たして?

念願の都心乗り入れを果たした相模鉄道。既存車両の塗装も濃紺のYOKOHAMA NAVYBLUE化が進み、新たなイメージ作りが進められている。

 

相模鉄道からは4月28日に「鉄道・バス設備投資計画」が発表された。この中で、21000系という新形式の車両が登場すると記されている。相鉄では近年、他社へ乗り入れ用の12000系と、20000系という新車両の増備が図られてきた。新型21000系と20000系ではどのような違いがあるのだろう。

 

↑新型21000系は、既存の20000系10両編成(写真)を8両編成化した車両となる

 

まず、12000系はJR東日本への乗り入れ用の車両として生まれた。一方の20000系は、相鉄・東急直通線用に導入が進められた。相鉄・東急直通線は2022年度末に開業する予定だ。開業後は相鉄線と東急線との相互直通運転が開始される。相鉄の電車が乗り入れるのは、東急目黒線、さらに都営三田線、東京メトロ南北線、埼玉高速鉄道線となる予定だ。東急目黒線など4路線では現在、電車が6両編成で走っているが、相鉄の乗り入れに合わせて車両を8両編成化、そのためのホームの延長工事などが行われている。

 

20000系は10両編成で登場したが、21000系は相鉄から発表されたイメージ図では、20000系と外観はほぼ同じで、東急線乗り入れ用に8両編成化された車両となる。そして8両×4編成が導入される予定だ。

 

【新車投入計画⑧】西武と京成も新造車両の増備が進む

首都圏の大手私鉄の中には、昨秋に設備投資計画を発表した会社もある。西武鉄道と京成電鉄である。西武鉄道は2020年9月24日に、京成電鉄は2020年11月10日にそれぞれ発表している。やや前のものながら、新型車両の計画を見ておこう。

 

西武鉄道では40000系を10両×2編成を増備する。40000系は有料座席指定制の「S-TRAIN」運行用で、座席の方向が変わるデュアルシートを装備していた。新造される40000系ではロングシートのみの車両となる。

↑全席ロングシートの40000系。同車両は40000系50番台と車両番号が既存の40000系と異なっている

 

一方、京成電鉄では「成田スカイアクセス」という愛称をもつ成田空港線用の3100形の8両×2編成を導入した、と記されている。同線ではこの増備により、鮮やかなオレンジ色ラインの3100形が徐々に目立つようになってきた。

↑増備が進む京成電鉄の3100形。成田スカイアクセス以外に、都営浅草線、京浜急行にも乗り入れている

 

【新車投入計画⑨】名鉄では正面の赤色が目立つ新車両が増える

関東圏を走る大手私鉄以外では、名古屋鉄道(以下「名鉄」と略)から3月25日に「設備投資計画」が発表されている。

↑名鉄の新型9500系。同タイプの2両編成車両が9100系となる。両車両とも、前面の赤色塗装が鮮やかだ

 

同計画では通勤型電車の増備が記されている。9500系を4両×3編成、さらに9100系を2両×2編成が新造される。

 

名鉄の通勤型電車といえば、鋼製車両のみの時代は赤一色の車両でかなり目立った。名鉄の赤色塗装は名鉄スカーレットとも呼ばれ親しまれてきた。ところが、ステンレス車両の新造車が増備されていくにしたがい、そうしたイメージも薄れつつあった。9100系、9500系は、前面が鮮やかな赤色塗装を施した車両で、名鉄の往年のイメージが復活したような印象が感じられる。

 

【新車投入計画⑩】JR貨物は桃太郎増備の一方で気になる情報が

最後はJR貨物が3月31日に発表した「2021年度事業計画」を見てみよう。この中には鉄道ファンにとっては、ちょっと気になることがあった。

 

JR貨物の「2021年度事業計画」の概要では、具体的な車両数までは触れていないものの、EF210-300形式機関車(愛称「ECO-POWER桃太郎」)、DD200形式機関車の車両新製が行われることが見て取れた。昨年暮れに発表された2021年3月時刻改正時に発表されたプレスリリースでは、具体的な増備数が記されている。

↑新鶴見機関区配置のEF210形式300番台。元は山陽本線での後押し用に造られた機関車だったが活用範囲が広がっている

 

この発表によるとEF210形式機関車が11両、DD200形式機関車が6両、HD300形式機関車が1両の新製の予定となっている。

 

すでに、新型EF210形式300番台は主に首都圏の運用をカバーする新鶴見機関区にも続々と配備が進められている。対して、この春にはEF65形式、EF64形式の活用の減少が目立った。国鉄時代に生まれた機関車もいよいよ淘汰が進んでいきそうだ。

↑日本海縦貫線を走るEF510形式交直流機関車。赤と銀色、青色の機関車が使われる。九州を走るEF510はどのような色になるのだろう

 

さて、気になったのは「事業計画」にあった次のような文言。「車両部門では、故障による輸送障害を未然に防止するため老朽車両の取替を計画的に進め、九州地区については取替後にEF510形式機関車を導入することから、九州用に仕様変更したEF510形式の走行試験を行う」としている。

 

EF510形式は交直両用電気機関車で、現在は日本海縦貫線の運用がメインとなっている。この車両がいよいよ、九州用に改造され、運行試験が行われるというのだ。九州地区では、山口県の幡生操車場〜福岡貨物ターミナル間はEH500形式機関車が使われている。

 

一方、輸送量の少ない路線では、旧来のEF81形式、ED76形式が使われてきた。両機関車とも半世紀前に登場した古参の機関車となる。JR貨物が生まれた後に増備されたEF81形式があるものの、かなりのベテラン揃いとなる。こうした機関車の後継車両の導入も検討され始めたということである。今すぐに入れ換えはないとはいえ、気になるところ。5年先あたりには九州の貨物用機関車の顔ぶれも大きく変わっているのかもしれない。

コロナが収束したら巡りたい……全国の三セク鉄道「鉄印」集めの旅!

とにかく旅がしたい……。

 

日常生活の中で「旅」というのはこんなにも大事なイベントだったのかと痛感している今日このごろです。なかなかすぐには難しいですが、「いつか」のために今から計画を立てておこう! そう考えている人も少なくないはず。

 

今回は、新たな鉄道の楽しみ方を予感させてくれる「鉄印帳」について、『鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40』(地球の歩き方編集室・編集/学研プラス・刊)より、その魅力と楽しみ方をご紹介していきます。

 

思った以上に本格的な、鉄道版の御朱印こと「鉄印」

『鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40』を読むまで「鉄印」の存在を知りませんでしたが、私が知らなかっただけでSNSでは結構話題になっていました。

 

鉄印とは、地方公共団体と民間の共同出資によって運営されている“第三セクター鉄道”(以下、三セク鉄道)に加盟している40社が、もっと地域を盛り上げよう! と2020年7月から始めたサービスのこと。

 

寺社でもらえる御朱印は、自分の好きな御朱印帳に集めていきますが、鉄印は決まった「鉄印帳(2200円)」を駅構内で購入し、スタンプラリーのように集めていきます。記帳料も300円〜かかりますが、乗車券を購入しないともらえないというルール付き。まさに鉄道を楽しむための「鉄印」になっているわけです!

 

「スタンプラリーみたいってことは、ただハンコ押すだけじゃないの?」と思ったそこのあなた! クオリティめちゃくちゃ高くて驚くと思いますよ。一体どんな種類の鉄印があるのでしょうか。

 

 

特殊な台紙を使用したもの、プリントや職員がその場でじかに書いてくれるもの、社長直筆などさまざま。直書きの場合や窓口が混雑しているときなどは記帳に時間がかかり、列車の待ち時間内でもらえるとは限らないので時間に余裕をもって計画しましょう。

(『鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40』より引用)

 

ちなみに、40社すべてコンプリートするとシリアルナンバー入りの「鉄印帳マイスターカード(有料)」も発行してもらえるのだとか。これがあると限定グッズや様々な特典が受けられるとのことで、日本全国の三セク鉄道に乗って制覇したくなってきます。実際にどんなものがあるのか、ご紹介していきましょう。

 

都内からもアクセスしやすい「いすみ鉄道」

鉄道ファンには有名な、国鉄時代の車両「キハ52」が現役で走っている千葉県のいすみ鉄道。大原駅から上総中野駅までの14駅をつなぎ、近年では観光列車としても注目集めている路線です。鉄印はたけのこでも有名な「大多喜駅」でゲットできます。

 


いすみ鉄道のInstagramにはこのように「鉄印」の見本がアップされているのですが、なんと社長直筆メッセージ付きバージョンもあるのだとか。ひとつひとつメッセージが違うとか、ちょっとそそられる……!

 

ちなみにいすみ鉄道沿線は、「レストラン列車」が大人気。奇数月は本格イタリアン、偶数月は和風の創作イタリアンが列車の中で楽しめるそうですよ。

【レストラン列車の詳細はこちら

 

自然豊かな車窓からの景色を楽しみながら、レトロな列車に乗ってイタリアンを味わう……もう想像しただけで心が豊かになりますよね。あぁ〜乗りたい! そして社長メッセージ付きの鉄印も欲しい!!

 

東京駅からいすみ鉄道の大多喜駅までは特急列車を使えば2.5時間で行けてしまうので、周辺の観光も楽しみながらの半日旅にもおすすめ。どんどん旅行プランが膨らみます。

 

清流沿いをのんびり走る「ながてつ」の個性強すぎ鉄印

次にご紹介するのは「ながてつ」の愛称で親しまれている美濃太田駅から北濃駅までの38駅を結ぶ長良川鉄道。長良川に沿いながら走る鉄道で、観光列車「ながら」は鉄道ファンだけでなく「一度は乗ってみたいのよ〜」と思っている人も多い列車ではないでしょうか?

 


見所たっぷりな沿線で、途中に温泉もあり、ゆっくりと途中下車しながら散策を楽しめるのも魅力です。鉄印は郡上八幡駅と関駅でもらえるのですが、これが他の路線とは一線を画すデザインで、コレクター心をくすぐります。

 

「鮎食べたし長良川鉄道」と書かれた個性的な鉄印。「ゆるい感じを意識したデザインです」と鉄印作成スタッフ。その言葉通り、鮎の表情や書体にほのぼのとしたあたたかみを感じます。

(『鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40』より引用)

 

どうしても御朱印のような筆文字をイメージしてしまっていましたが、こんなイラスト付きもありですよね。

 

『鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40』には、40社すべての鉄印も紹介されているので、気になるデザインの鉄道から集めることもできます。また、鉄道初心者でも安心して楽しめる路線のめぐり方も、タイムスケジュールと合わせて掲載されています。

 

三セク鉄道の沿線や近所の人は、ギスギスした毎日の息抜きの参考に、遠方の人は自由に旅行が楽しめるようになった時や実家に帰省する際の参考に、ぜひ、ご家庭に一冊「鉄印帳」と『鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40』を揃えておきましょう。

 

読んでいるだけでも旅行の楽しさを思い出せてワクワクしちゃいますよ!

 

【書籍紹介】

鉄印帳でめぐる全国の魅力的な鉄道40

著者:地球の歩き方編集室(編)
発行:学研プラス

北海道から九州まで、全国40の鉄道でもらえる鉄印。鉄道の旅に新しい魅力が加わりました。旅の記念として、思い出として、鉄印を集めながら全国を旅する人が増えています。鉄印はすべてオリジナル。手書きやスタンプ、プリントなど各社工夫を凝らしたこだわりのデザインです。本書では鉄印がもらえるすべての路線を網羅。その路線と周辺の観光スポットなどを紹介しています。

楽天koboで詳しく見る
楽天ブックスで詳しく見る
Amazonで詳しく見る

 

 

「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

不要不急線を歩く02 〜〜成宗電気軌道(千葉県)〜〜

 

「不要不急」といえば、今ならば「外出を控えて」となる。しかし、太平洋戦争の戦時下では、不要不急の名のもとに、多くの「鉄道路線が休止、廃止」となった。不足する鉄資源を得るため、これらの路線のレールが外されていったのだ。

 

今回は、その「不要不急線」として廃止された成宗電気軌道(せいそうでんききどう)の廃線跡を紹介したい。訪れると予想外に多くの発見があった。

 

【関連記事】
“不要不急”の名のもと戦禍に消えた「旧五日市鉄道」廃線区間を歩く

 

【成宗電気軌道①】廃線歩きは一枚の絵葉書から始まった

筆者の手元に一枚の古い絵葉書がある。そこには「成宗電車宗吾停留場」と印刷されている。さて、成宗電車とは? ほとんど馴染みのない名前の電車だ。どこを走っていたのか調べてみると、現在の千葉県成田市内を走っていた電車であることが分かった。

 

さらに、戦時下の1944(昭和19)年に不要不急線として廃止された路線だった。

↑大正期の成宗電車宗吾停留場の絵葉書。一両の路面電車と屋根付き停留場が写り込んでいた。さて宗吾とはどのような所なのだろう?

 

成宗電気軌道とは、成田と宗吾(そうご)という地区を結ぶ路面電車路線だったとされる。筆者は観光ガイドブックを制作する仕事もしているため、各地のことを少しは知っているつもりだった。ところが、宗吾という地名はお目にかかった記憶がない。宗吾には、果たして電車が結ぶほどの観光名所があったのだろうかと、疑問が膨らんでいった。とにかく歩いてみるべく現地を訪れた。

 

【成宗電気軌道②】成田と宗吾を結んでいた成宗電気軌道

まずは成宗電気軌道の概要を見ておきたい。

会社創立 1908(明治41)年11月、成宗電気軌道株式会社が創立
路線 成田山門前(後の不動尊)〜宗吾間5.3km
路線の開業 1910(明治43)年12月11日、成田駅前(後の本社前)〜成田山門前(後の不動尊)間が開業。1911(明治44)年1月20日、成田駅前〜宗吾間が開業
廃止 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年12月11日に廃止

 

路線の開業後、1916(大正5)年に会社名は成田電気軌道と改称された。1925(大正14)年には京成電気軌道(現・京成電鉄)が買収、傘下企業となっている。そして、1927(昭和2)年に成田鉄道と改称した。会社名の変転はあったものの、地元の人たちには「成宗電車」(以下、この名前で同路線を呼びたい)の名前で親しまれていた。

 

買収当時の京成電気軌道としては、線路を結び、成田山新勝寺の目の前まで電車を走らせる計画があった。成宗電車の軌間幅は1372mm、京成電鉄の軌間幅は今でこそ1435mmだが、当時は成宗電車と同じ軌間幅だった。つまり乗り入れが可能だったのである。

 

ちなみに、1372mmは馬車鉄道が起源だとされる。馬車鉄道を起源とする軌道路線が多かったこともあり、当時は1372mmという軌道幅は珍しくなかった。現在はこの線路幅を使っている鉄道路線はそう多くない。目立つところでは、軌道鉄道を起源とする京王電鉄京王線や都電荒川線、東急世田谷線が今も1372mmの軌間幅を利用している。

 

少し話がそれたが、当時の京成電気軌道が成宗電車への乗り入れを果たせなかった理由は、地元、新勝寺門前町から反対の声が強くあがったためだとされている。乗り入れが出来ていたならば、成宗電車の歴史も変わったのかも知れない。

 

さらに太平洋戦争に突入すると、戦時下に参詣のための路線はふさわしくないとされ、また京成電気軌道がほぼ平行して走ることから、不要不急線に指定。そして1944(昭和19)年に路線廃止となったのだった。戦時下とはいえ、参詣すら問題視されるほど余裕がない時代だったことが窺える。

 

ちなみに、成田鉄道では多古線(たこせん)という、成田駅〜八日市場駅間(30.2km)の路線も所有していた。この多古線も1944(昭和19)年1月11日に運転休止。戦後の1946(昭和21)年10月9日に廃止となっている。この多古線に関しては機会があれば紹介したい。

 

【成宗電気軌道③】京成成田駅を出発点に歩き出す。すると

↑京成電鉄の京成成田駅の参道口。成宗電車の成田駅前停留場が隣接していて乗換えも便利だ

 

成宗電車の廃線歩きは京成成田駅から始めることにした。京成成田駅の参道口に降り立つ。駅の正面には、屋根付のバス乗り場がある。ちょうどこのあたりに成田駅前の停留場があったのだろう。この付近からは成田鉄道多古線の列車も出発していたようだ。

 

さて、古い地図を参考に、線路が敷かれていた北側へ向かう。現在の京成成田駅から、成田空港方面への高架線の左手にある道路に線路が敷かれていた。この道は、現在の市役所通りを交差して、成田山新勝寺方面へ延びている。この先、写真を中心に元線路跡をなぞって歩いてみたい。

↑京成成田駅の北側に延びる車道。京成電鉄の線路に沿って、成田山新勝寺方面へ向かう。この道だが、地図では「電車道」となっている

 

京成成田駅から成田山新勝寺へ向かう人の多くは、現在は新勝寺門前町が連なる「表参道」を歩いて行き来する。お参りに加えて門前町を“そぞろ歩く”ことも楽しみの一つになっている。一方、京成成田駅から成田山新勝寺へ電車が走っていた“道”は、人通りが少ない。「表参道」と比べると、ほとんど歩行者がいないといって良い。駅付近には表示がなかったが、この通りは「電車道」と呼ばれている。

 

この通りの名前こそ、成宗電車が走っていた証というわけだ。さて、市役所通りを横断して電車道を先へ向かう。すると……。

↑京成成田駅から「電車道」を歩いていくと、先に古いトンネルを見えてくる

 

先に古いトンネルが見えてきた。このトンネルを成宗電車がくぐっていたのであろうか。

 

【成宗電気軌道④】トンネルを通り抜けた千葉交通バス。実は?

電車道に残されるレンガ造りのトンネルは2本ある。トンネルとトンネルの間には、成田市によって設けられた案内板が立つ。案内によると、この2本のトンネルは成宗電車「第一トンネル」「第二トンネル」と呼ばれる。完成は1910(明治43)年で、「煉瓦造(イギリス積)アーチ環6枚巻」の形式・構造とされる。成田山新勝寺側の第一トンネルは12.2m、京成成田駅側の第二トンネルは40.8mの長さがある。

 

電車は複線を走っていたとされ、トンネル幅は広く、現在も片側一車線の道幅でゆったりしている。

↑京成成田駅側の第二トンネル。駅と反対側にトンネルの案内板がある(左上)。こちらの外側がもっとも状態が良く造りがはっきりと分かる

 

案内板には「電車は地域に欠かせない乗り物となりましたが、戦争の激化により、遊覧的色彩が強いこと等を利用として、政府の命令により営業廃止となりました。これにより昭和19年に業務を停止し、35年に渡って成田の街を走り続けた成宗電車は幕を閉じました」とあった。非常に分かりやすい解説だった。

 

欠かせない乗り物だったものが、政府の命令により、問答無用で廃止となっていったわけだ。今だったら大反対運動が起こっていたことだろう。

↑第一トンネルを千葉交通の路線バスが通り抜ける。この千葉交通の路線バスこそ成宗電車の現在の姿でもある

 

さて、第一トンネルの写真を撮っていると路線バスが走ってきた。千葉交通の路線バスだ。成宗電車は廃止時に成田鉄道を名乗っていた。成田鉄道という会社は、その後、路線の廃止により鉄道事業から撤退。鉄道からは手を引いたものの、会社は交通事業者として存続し、戦後すぐに成田バスと改称して、バス会社として存続していた。1956(昭和31)年には千葉交通と会社名を改称している。

 

千葉交通では、成宗電気軌道として起業した年を会社の創立年としており、2008(平成20)年には創立100周年を迎えていた。記念事業として、成田市内でクラシックなボンネットバスを運行させた。電車はバスに変わったものの、同路線を同じ会社の乗り物が走っていたことが分かった。交通事業者としての意地が伝わるようで、うれしく感じた。

 

【成宗電気軌道⑤】“電車道”を歩いて成田山新勝寺の前へ

第一トンネルを抜けると下り道となる。緩やかなカーブ道を下りていくと、沿道に「電車道」の看板もあった。今も成宗電車の名残は「電車道」として生きていた。そして、電車道越しに成田山新勝寺が見えてきた。

 

旧不動尊の停留場跡は道路幅も広く、このあたりに停留場があったことが十分に予測できた。そして道は門前町に入った途端に細くなり、古い町並みとなる。土産物店や、うなぎなどの名物を商う飲食店が軒を連ねる。

 

帰りは電車道を通らず、新勝寺門前町が連なる「表参道」をぶらりと散歩しながら、京成成田駅へ戻った。

↑花形模様をした「電車道」の表示。写真は旧不動尊停留場があった付近。道幅が広く車の通行量も少なめで、歩きやすく感じた

 

↑新勝寺門前町が連なる石畳の「表参道」。木造3階建ての古い宿や飲食店などが連なり趣深い。人も車も通行量が多い通りだ

 

【成宗電気軌道⑥】成田駅の南は線路跡らしい箇所が消滅していた

後半では成宗電車が走っていた宗吾を目指す。古い地図を見ると、京成成田駅からは、ほぼ現在の京成本線に沿って走っていたと思われる。JR成田線の下をくぐり、線路は宗吾を目指していた。

↑公津の杜付近。成宗電車が走っていた宗吾街道(右)が緩やかにカーブを描く。公園では多くの鯉のぼりが風に舞う(右上)

 

京成本線と平行に走っていた成宗電車は、現在の日赤成田病院前交差点から国道464号上を走っていた。この国道464号は今も「宗吾街道」と呼ばれている。宗吾へ向けて走っていた通りということが良く分かる。

 

成宗電車が走っていたことを示す証は、この宗吾街道上にはなかった。宗吾街道の南側に公津の杜と呼ばれる地区があり、京成本線では公津の杜駅が最寄り駅となる。このあたりは、京成電鉄により開発されたニュータウンが広がる。

 

宗吾街道は、公津の杜公園と呼ばれる緑地帯を縁取るようにカーブして宗吾へ向かっていた。

 

【成宗電気軌道⑦】宗吾霊堂があり栄えた宗吾の町なのだが

宗吾街道を公津の杜公園から先へ歩く。ややアップダウンがあるものの、電車が走るのには問題がない勾配に思われる。途中、停留場があった大袋を過ぎ、宗吾地区へさらに向かった。

↑宗吾付近を走る宗吾街道(国道464号)。街道沿いに空き地が残されていた。このあたりに成宗電車が走っていたと思われる

 

住宅が立ち並ぶ地区が宗吾だ。国道464号は直角に曲がる。この角に東勝寺(とうしょうじ)がある。東勝寺は真言宗豊山派のお寺で、開基は坂上田村麻呂とされ、創建は8世紀とある。東勝寺という名前よりも宗吾霊堂という名前の方が良く知られている。

 

宗吾霊堂には義民・佐倉宗吾の霊が祀られている。宗吾は江戸時代の初期、下総佐倉藩を治めた堀田氏の圧政に苦しむ農民のために、将軍へ直訴を行い、そのかどで処刑された人物だ。この宗吾の義挙は人々の支持を得て、その後に歌舞伎、浪花節などの主人公として謳われ名前が広まった。そして、宗吾霊堂として祀られたのだった。

↑国道464号は宗吾霊堂を縁取るように直角に曲がる。右に宗吾霊堂があり、周囲には土産物店や蕎麦店などが商売を続けている

 

調べてみると、民衆に人気のあった宗吾を祀ったとあり、江戸時代から昭和にかけてはお参りする人も多かったようだ。成田と宗吾を結ぶ成宗電車も開業し、参詣客でさぞや賑わったことだろう。

↑東勝寺の入り口。門には厄除け祈願の寺、宗吾霊堂の文字がある。境内には土産物店が連なる

 

宗吾の町は、この宗吾霊堂があることで栄えた。成宗電車の停留場があったころは、きっと賑やかだったのであろう。だが、今は車で参拝に訪れる人が散見されたものの、やや寂しさが感じられた。

 

【成宗電気軌道⑧】地元のお年寄りに声をかけてみるとある発見が

さて、宗吾の停留場はどこにあったのだろう。古い地図を持ちつつ、町を右往左往する。ところが、どこにも停留場跡らしきものが見当たらなかった。

 

なんとか跡が見つからないだろうかと歩いてみたが、何もない。あきらめて帰ろうとしたら、ちょうど高齢の女性が杖をつきゆっくり歩いている。家の前には母親を迎える息子さんらしき姿が。

 

門前の歩道が細いこともあり、女性に道を譲りつつ待つ合間に息子さんに話しかけてみた。

↑宗吾霊堂の近くの細い横道。このあたりに停留場があったと思われる。前を行く高齢の女性と話す機会があって……

 

「宗吾の昔の信号場はどこにあったのでしょう」

「昔の駅ですよね。今はすっかり民家になってしまって、ほとんど残っていないんです」

 

そこへ母親が到着。ちょうど筆者が持参していた古い絵葉書のコピーを手渡した。「あら懐かしい。この電車ね、駅でなくとも、手を上げたら乗せてくれたのよね」と昔のことを思い出しながら話をしてくれた。

 

「宗吾でこの電車が走っていたころを知る人は、たぶんうちの母のみだと思います」と息子さん。「この電車ね、その後に函館市電を走っていると聞いて、若いころに町の人たちと乗りにいったわ」と母親。これは初耳、良い話を聞かせてもらった。

↑函館市内を走る「函館ハイカラ號」。この電車は元成宗電車を走っていた車両でもあった

 

調べてみると、成宗電車の電車は多くが函館市電(現・函館市交通局が運行/当時は函館水電)へ。デハ1形と呼ばれる電車5両が、函館市電に譲渡されていた(車両数が多かったため余剰の車両を譲っていた)。譲渡されたのは1918(大正7)年のこと。その1両は今も生き延びていた。「函館ハイカラ號」として1993(平成5)年に復元されて、今も春から秋まで(現在は新型コロナウイルスの影響により、運転休止の場合あり)は、函館の街を走る復元チンチン電車として走っていた。筆者も函館の街で何度か見かけたが、かつて成宗電車を走った電車だったとは、うかつにも知らなかった。

 

女性はこうも話していた。「戦争の時に電車がなくなったでしょう。働いていた人たちは大変。働き場所がなくなったので、宗吾霊堂で働かせてもらったりしたんですよ。でもね、鉄が足りないといって廃止されたんだけれど、レールはその後も、しばらくはそのままだったわね」。

 

不要不急線として廃止されたものの、レールの供出までは、手が回らなかったということなのだろう。矛盾した話である。

 

さらに「昔はこのあたり、多くの蕎麦屋さんがあって、とっても賑わっていたの」だそうだ。結局のところ、電車の廃止は地域経済への打撃も大きかった。成宗電車がもし走り続けていたら、宗吾霊堂の名前は、今も知られた存在だったのであろう。電車がなくなり、すっかり忘れられてしまったようである。

↑京成電鉄の宗吾参道駅が宗吾霊堂の最寄り駅となる。宗吾霊堂へは徒歩で約12分。途中には立派な門も立っていた(左上)

 

いま、宗吾霊堂の最寄り駅は京成電鉄の宗吾参道駅となる。徒歩で12分ほどだ。とはいうものの、上り坂が途中にあり、高齢者にはつらい行程かと思われる。さらに宗吾霊堂は成田市内だが、宗吾参道駅は酒々井町(しすいまち)の町内の駅となる。自治体が異なると、やはり連携したPR活動もできないのかもしれない。よってPR効果も期待できない。

 

宗吾は時代から取り残された印象があり、寂しく感じられた。鉄道が消えるということは、こういうことなのだろう。

 

“不要不急”の名のもと戦禍に消えた「旧五日市鉄道」廃線区間を歩く

不要不急線を歩く01 〜〜 旧五日市鉄道立川駅〜拝島駅間 〜〜

 

「不要不急」という言葉を聞くと「不要不急の外出を控えて」と、条件反射のように決まり文句が出てくるご時世。だが、今から80年近く前に生きた人々にとって不要不急といえば、「不要不急線」という言葉が頭に浮かんだのではないだろうか。

 

戦時下に廃止された鉄道路線には、この不要不急線が多い。なぜ廃止されなければならなかったのか、その後にどうなっているのか、明らかにしていきたい。今回は東京都下で気になった不要不急線を歩いてみた。

 

【不要不急線とは】鉄の供出のため強制的に廃止された鉄道路線

戦争というのは罪なもので、平常時ならばありえない政策が何でもまかり通る状態となる。不要不急線も、平和な時代ならばあり得ない“理不尽な政策”の犠牲であった。何しろ、多くの人が利用してきた鉄道路線が突然、廃止および休業させられてしまったのだから。

 

不要不急線という問答無用の路線廃止が行われた背景を簡単に触れておこう。昭和初期、日本は満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと泥沼の大戦へと突入していく。戦争遂行のためには、鉄などの戦略物資が大量に必要となる。もともと資源の乏しい日本。どこからか捻出しなければならない。まずは国民に、ありとあらゆる鉄が含まれる品物を供出させた。

 

鉄道路線には多くの鉄資源が使われている。そこで、重要度が低いとされた路線を廃止もしくは休止させて、レールなどを軍事用に転用、もしくは重要度が高い幹線用に転用するべく、政府から命令が出された。命令の内容は「勅令(改正陸運統制令および金属類回収令)」であり、拒否はできなかった。廃止により運行スタッフの職が奪われようと、政府は我関せずだったわけだ。

 

そして全国の国鉄(当時は鉄道省)と私鉄の路線が1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて廃止されていった。その数は90路線近くにのぼる。多数の鉄路が国を守るという美名のもとに消えていった。一部は戦後に復活した路線もあったが、そのまま消えていった路線も多かった。今回はそんな路線の一つ、五日市鉄道(現在のJR五日市線)の立川駅〜拝島駅間に注目した。

 

【五日市鉄道①】昭和初期発行の五日市鉄道・沿線案内を見ると

↑昭和初期発行の五日市鉄道の沿線案内。立川駅〜拝島駅間には今はない駅名が。右下は運賃表だが途中、多くの駅があったことが分かる

 

筆者の手元に昭和初期に発行された五日市鉄道の秋川渓谷の案内がある。五日市鉄道とは、現在のJR五日市線を運行していた旧鉄道会社名だ。この鳥瞰図を使った沿線案内をよく見ると、立川駅から拝島駅の間に、南中神駅と南拝島駅という現在は存在しない駅名が記されている。さらに裏面の運賃表を見ると、立川駅〜拝島駅間には多くの駅が表示されている。

 

一方、この沿線案内には、青梅線や八高線が拝島駅を通っていない。なぜなのだろう? 不思議になって調べ、図としたのが下記のマップだ。

 

現在の青梅線の南側に、旧五日市鉄道の立川駅〜拝島駅間があった。青梅線の立川駅〜拝島駅間がほぼ直線区間なのに対して、旧五日市鉄道の路線は多摩川側に大きくそれている。途中から多摩川の河原に向けて砂利採取用の貨物支線が敷かれていた。

 

なぜ、この路線が不要不急とされたのか。また、なぜ国鉄路線に組み込まれたのか、その歴史を含めてひも解いていこう。

 

【五日市鉄道②】今も青梅支線として活かされる立川駅側の一部

まずは五日市鉄道の概要を見ておきたい。

 

路線 五日市鉄道(現・JR五日市線)/立川駅〜武蔵岩井駅(現在の五日市線の終点は武蔵五日市駅)
開業 1925(大正14)年4月21日、五日市鉄道により拝島仮停留場〜五日市駅間10.62kmが開業、1930(昭和5)年7月13日、立川駅〜拝島駅間8.1kmが開業
合併と国有化 1940(昭和15)年10月、南武鉄道(現・JR南武線)と合併。1943(昭和18)年9月、青梅電気鉄道、奥多摩電気鉄道(ともに現・JR青梅線となる)と合併契約を結ぶ。1944(昭和19)年4月1日、国有化され五日市線に。
運転休止 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年10月11日、立川駅〜拝島駅間8.1kmと貨物支線3.0kmが休止、そのまま廃止に。

 

五日市鉄道は五日市地区(現在のあきる野市)で採掘される石灰石の輸送用に計画された。鉄道敷設には浅野セメントが大きく関わっている。当時、すでに青梅鉄道により、奥多摩地区の石灰石の輸送が活発になりつつあった。奥多摩で採掘された石灰石は、セメント工場や輸送設備があった川崎へ向け、南武鉄道経由で運ばれた。中継駅だった立川駅の構内は貨物列車により飽和状態となっており、五日市鉄道の開通により、さらに過密状態となった。

↑中央線から青梅線へ乗り入れる下り電車が青梅短絡線を走る。同路線は1931(昭和6)年に五日市鉄道と南武鉄道により開業した

 

そこで五日市鉄道の拝島駅〜立川駅間が計画され、路線が敷設された(実際の同線の建設には南武鉄道が大きく関わっている)。この路線により、五日市鉄道からは、鉄道省の路線(省線)を通ることなく、南武鉄道と結ばれることになった。当時の青梅電気鉄道の西立川駅からも、この路線への線路が敷かれ、五日市鉄道・青梅電気鉄道←→南武鉄道という石灰石流通ルートができあがった。省線の線路を使うことなく、行き来できるようになったことが3社にとっては大きかった。この“短絡線”の開業により鉄道省へ通過料を支払う必要がなくなったのである。

 

その後、歴史は目まぐるしく動く。特に太平洋戦争中は動きが活発になる。セメントも重要な軍事物資であり、戦争遂行のために欠かせなかった。戦時下に五日市鉄道など3社が合併をし、さらに1944(昭和19)年には国有化された。元々、省線の線路を使わず走ることが大前提として誕生した五日市鉄道の立川駅〜拝島駅間であり、国有化されたからには必要のない路線とされたのだった。国有化からわずかに半年あまり。不要不急線となり休止、そのまま廃止に追いやられた。

 

戦後、旧五日市鉄道などの路線が民間へ戻されることはなかった。五日市鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道の経営には浅野財閥が資本参加していた。戦争への道を突き進んだのは財閥の影響が大きいと見たGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が行った、財閥解体の影響だったとされる。

 

後世の人からは、まるで図ったように国有化され、立川駅〜拝島駅間は廃止されていったように見える。ただし、立川駅から西立川駅間の一部区間は、青梅短絡線として今も残る。中央線から青梅線へ直通運転される下り列車にとって欠かせない路線であり、青梅線〜南武線間を走る貨物列車(在日米軍基地・横田基地への石油輸送がある)が通過する。今も五日市鉄道の開業に関わった青梅短絡線を使って、青梅線と南武線を行き来しているわけだ。五日市鉄道が残した路線跡は、今も一部のみだが生き続けている。

↑拝島駅と横浜市の安善駅を結ぶ石油輸送列車。青梅線を走ってきた列車は西立川駅付近から青梅短絡線を使い南武線へ向かう

 

【関連記事】
始まりは砂利鉄道だった!今や活況路線「南武線」10の意外すぎる歴史と謎に迫る

 

【五日市鉄道③】拝島駅近くに遊歩道「五鉄通り」を発見!

五日市鉄道の立川駅から拝島駅間が廃止されてすでに77年の年月が経つ。何か残されていないのだろうか? 航空写真と照らし合わせて見ると……。いかにも鉄道路線らしい、緩やかなカーブ道が拝島駅から南へ向けて延びている。ここが旧路線だったところだな、とすぐに分かった。

↑拝島駅の南口から歩き始める。同南口は昭島市、反対側の北口は昭島市と福生市にまたがる。ちなみに横田基地への引込線は北口駅前を通る

 

拝島駅は現在、多くの路線が接続するターミナル駅となっている。まずJR青梅線、JR五日市線、JR八高線の3路線が接続する。さらに西武鉄道の拝島線の終点駅となっている。ほかに、アメリカ空軍と航空自衛隊の基地、横田基地へ向かう貨物線も、駅構内から敷かれている。この基地へは、国内でここのみの在日米軍に向けた石油の鉄道貨物輸送が行われている。

 

そんな拝島駅へ降り立った。筆者は南口へ向い、戦前の古い地図を手に持ち歩き出した。

 

駅前の道を通りまず江戸街道へ出る。さらに歩道を渡り南に進んで自転車置き場がある遊歩道へ。通り名は何と「五鉄通り(ごてつどおり)」だった。五日市鉄道の名残を示すそのものズバリの通り名ではないか。五鉄とは五日市鉄道の愛称だったのだろう。

↑江戸街道から伸びる五鉄通り。入り口には、道路案内と「五日市鉄道の線路跡」という解説が設けられている

 

五鉄通りの入り口には「五日市鉄道の線路跡」という地元・昭島市により立てられた案内板があった。子どもたちにも読めるように総ルビ付きで、解説も分かりやすい。どのような車両が走っていたかなどの記述もあった。廃止された理由としては「近くを青梅線が走っている事情から立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました」とあった。

 

それとともに「太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました」という説明があった。不要不急線というような“小難しい”裏事情はさすがに書かれていなかった。

↑昭島市立林ノ上公園前の五鉄通り。多摩川へ向けて緩やかな下り坂が続く。途中に公園もあり散策に最適な道となっていた

 

分かりやすい解説もあり、廃止線の概要がつかめた。五鉄通りの入り口は遊歩道となっていたが、さらに道に沿って歩くと、車道となり車が通行する。多摩川方面へ歩くにつれて、徐々に下り道となった。昭島市立林ノ上公園が途中にあるが、このあたりの道の名前の表示はないが、地図には五鉄通りとある。五日市鉄道の廃線跡は「五鉄通り」という名前で残り、公道として活かされていた。通り名として鉄道名が残されていたのだった。

 

【五日市鉄道④】路線跡は途中、国道16号となっていた

五鉄通りをどんどん南へ歩いていく。途中から道はなだらかに左へカーブしていく。道幅は広く、途中から車道が遊歩道になり、広い道に付きあたる。さてこの道は?

 

広い道は国道16号だった。国道16号は横浜市高島町交差点を起終点に、首都圏をぐるりと環状に走る国道だ。五鉄通りと国道16号が交わる付近に南拝島駅があったはずだが、その跡は見あたらなかった。たぶん道路の拡張もあり、消えたのだろう。

 

五日市鉄道の路線跡、現在の国道16号は、同地点からしばらく直線路が続く。その先の堂方上交差点で、国道16号は多摩川方面へ右折する。一方、広い道はこの先も続く。堂方上交差点からは都道29号線「新奥多摩街道」となる。

↑国道16号の歩道部分は写真のように非常に広い。旧五日市鉄道の元路線がこのあたりに敷かれていたようだ

 

しばらく新奥多摩街道を歩く。古い地図を見ると、現在の市役所前交差点あたりに武蔵田中駅があったはずだが。

 

【五日市鉄道⑤】旧駅跡には鉄道用の車止めや手動転轍機が

市役所前交差点の先の交差点。少し道が広くなっていて歩道上に突然、鉄道の「車止め」と、ポイント切替え用の「手動転轍機(てんてつき)」が置かれていた。武蔵田中駅であることを示す遺構なのだろう。説明書きなどがないのがちょっと残念だったが、モニュメントの周囲には花が植えられ、きれいに整備されていた。この駅近くから多摩川方面へ引込線が設けられていたが、その引込線跡も公道となっていた。

↑新奥多摩街道沿いにある旧武蔵田中駅の遺構(左)。車止めと転轍機がモニュメントとして設置され駅跡であることが分かる

 

↑旧武蔵田中駅から貨物線が多摩川方面へ延びていた。この左の道が旧路線跡と思われる

 

車止めがあったモニュメントの先に、新奥多摩街道から分かれ東へ延びる道がある。まっすぐ延びる道は通り名も、五鉄通りだった。つまり、拝島駅から、一部は国道16号と新奥多摩街道となっていたものの、ずっと五日市鉄道の路線跡は五鉄通りとなり生き続けていた。

 

【五日市鉄道⑥】旧大神駅にはレール、ホームなどモニュメントが

五鉄通りに入りまっすぐの道を約500m歩く。すると右手に公園があり、信号や踏切などと共に、短いホームと線路などのモニュメントが設けられていた。こちらが五日市鉄道大神駅跡だ。五日市鉄道の廃線区間で、最も整備されたモニュメントとなっている。短いホーム跡には大神駅の駅名案内も立つ。

 

ホームの寄贈者は東日本旅客鉄道と奥多摩工業の名前があった。ちなみに奥多摩工業とは、太平洋戦争前には奥多摩電気鉄道として設立された会社である。青梅線の御嶽駅〜氷川駅(現・奥多摩駅)の鉄道敷設免許を届け出た。青梅線の国有化後の1944(昭和19)年7月に同区間は開業している。奥多摩電気鉄道の手で路線開業できなかったものの、五日市鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道と合併した会社でもあり、この路線跡にも縁がある会社でもあった。

 

さらに昭島市が立てた案内板もあった。やや傷んでいたのが残念だったが、拝島駅近くの五鉄通り入口に立つ案内板に、近い解説があった。

↑旧大神駅のモニュメント。昭島駅や奥多摩駅で使われた信号や踏切施設などと共に、貨車の台車が線路上に設置される

 

旧大神駅前の五鉄通りはここで昭和通りと交差する。この大神駅のモニュメントの横にも、通りの謂われを解説する案内があった。そこには現在の昭島駅の北側に1937(昭和12)年に昭和飛行機が進出し、飛行機生産が始まり、工場や駅へ向かう道は昭和通りとされたとある。太平洋戦争前に、東京都下で戦時体制へ突入する動きが盛んだったことが分かった。

↑旧大神駅の先で八高線と交差していた。現在は、不釣り合いなほど立派な地下をくぐる構造の遊歩道となっている

 

今回の散策は、この旧大神駅前までで終了とした。帰りは昭和通りを昭島駅へ向かった。この昭島駅は旧大神駅にあった解説によると、1938(昭和13)年の開業時には「昭和前」という駅名だった。戦争の影は、都下にも不気味に迫っていたことが分かる。

 

五日市鉄道が走っていた頃の古い地図を見ると、廃止された区間には8つの駅があった。集落があったところに作った駅だそうだ。あとは一面の桑畑や田畑だった。もし路線が残っていたら、沿線に住む多くの人たちの通勤・通学に役立ったことだろう。たらればではあるものの、沿線風景も大きく変わったに違いない。路線が生まれてわずか14年で、戦禍に消えた五日市鉄道の廃線区間を歩き、やはり戦争は罪なものだと深く感じたのだった。

フェイバリット座席は大井町線の6000系!? BEYOOOOONDS一岡伶奈の「座り鉄」が深すぎる!!

個性派アイドル集団「ハロー! プロジェクト」のメンバーが、趣味や大好きなものを徹底的に語り尽くす特別企画。第1弾は2021年3月3日にリリースした2ndシングル『激辛LOVE/Now Now Ningen/こんなハズジャナカッター!』がデビューシングルから2作連続のオリコン週間ランキング1位を獲得したBEYOOOOONDSから、鉄道をこよなく愛する一岡伶奈が登場。一口に鉄道マニアと言えど、「撮り鉄」「乗り鉄」「録り鉄」など趣味嗜好は様々だが、彼女は鉄道の座席にこだわった「座り鉄」。独自の視点が冴えわたる「座り鉄」の深淵なる世界へようこそ!

(構成・撮影:丸山剛史/執筆:猪口貴裕)

 

BEYOOOOONDSオフィシャルサイト

自粛期間中に鉄道ノートを作り始めた

――昨年は「都営交通フェスタ2020オンライン」に出演、さらに東急電鉄『プレミアム旅グルメきっぷ』の特設サイトにモデルとして起用されるなど、鉄道関係のお仕事が増えていて、アイドルファンのみならず、鉄道マニアの間でも一岡さんの存在は知れ渡り始めていますね。

 

一岡 ずっと自分の好きなことや小さいころからの趣味がお仕事に繋がればいいなと思っていたので幸せです。お仕事を通して、普段だったら見られない場所に行けたり、現場で働く駅員さんなどのお話しを聞けたりもするので、とにかく楽しいです。

 

――『BEYOOOOONDS 一岡伶奈はじめての鉄道旅』(BSスカパー! ※2020年12月9日~2021年2月24日にかけて全4回放映)という冠番組までできましたからね。

 

一岡 番組でダーリンハニーの吉川さんと鉄道旅をさせていただいたんですけど、私の父も鉄道好きなので、親子で吉川さんを尊敬しているんです。なので共演できたのがうれしかったですし、その駅ごとに、駅ができた経緯や、駅周辺の情報まで知ってらっしゃって、鉄道以外の知識も豊富で驚きました。一日のロケだったんですけど、学ぶことが多すぎて圧倒されましたね(笑)。

 

――吉川さんも番組内で一岡さんの鉄道愛に感動してましたよね。

 

一岡 私は座席の硬さを調べるのが大好きなんですが、吉川さんから「なかなかいない系統なので、そこを極められるように頑張ってね」と言ってくださって。もっと深く座席について学んでいかないといけないなと改めて思いました。

 

――幾つぐらいから鉄道の座席に興味を持つようになったんですか?

 

一岡 確か小学2年生のときに、「どうして車両によって席の硬さが違うの?」と父に聞いたら、「ん? 確かに言われてみればそうかも」という反応で、その質問に答えられなかったんです。そのとき子どもながらに不思議に思うこと、疑問に感じることが、私にとっては「車両の座席の硬さ」だと気付きました。電車に乗る機会も多かったので、車両の種類によって硬さやデザインも違うことを知って、どんどん座席を意識するようになりました。

 

――椅子そのものにもこだわりがあるんですか?

 

一岡 それがお家のソファなどの柔らかさは一切気にしないんです。気になるのは車両だけで自分でも謎です。

 

――座席の違いなどは何かにまとめていたんですか?

 

一岡 中学2年生ぐらいにメモを取っていったら面白いんじゃないかなと思って、まずは携帯電話にメモするようになりました。ところがある日、データが全て消えてしまって、携帯電話に頼っていてはダメだと思ったんです。それで昨年の自粛期間中に時間もあったので、もっとお仕事が広がったらいいなと考えて鉄道ノートを作り始めました。今は2冊目です。

 

――鉄道ノートは『BEYOOOOONDS 一岡伶奈はじめての鉄道旅』でも披露していましたよね。今日も持参していただきましたが、鉄道ノートには何が書かれているんですか?

 

↑一岡さんの鉄道ノート

 

一岡 椅子の硬さはもちろん、何年にできた車両なのか、車両のカラー、路線図、鉄道のイラストなどです。自分で撮った車両や座席の写真も貼っています。

 

――ページによっては空白スペースもありますね。

 

一岡 まだ撮影していない鉄道のために写真を貼るスペースを空けてあるんです。

 

――もともとノートを取るのは好きだったんですか?

 

一岡 そこまでマメではなかったですし、色分けなどもしていなかったので、正直、学校の授業よりも必死に作っています!

 

座り心地だけではなく座席のデザイン性にも注目

――かねてからフェイバリット座席は東急大井町線の6000系と公言していますが、何が魅力なんですか?

 

一岡 やや柔らかめの座席で、自分にすごくフィットするんです。小さいころから鉄道に乗るのが好きで、特に乗る機会が多かったのが東京臨海高速鉄道りんかい線の70-000形でした。それを基準に、他の車両と座席の硬さを比べる中で、東急大井町線の6000系と出会ったんです。BEYOOOOONDSのライブなどで挨拶するたびに、それをお話ししていたら、2019年に東急大井町線90周年アンバサダーに選んでいただき、一日駅長も務めさせていただいたので、自分から発信していくことの大事さも学びました。

 

――独自に鉄道の座席を5段階評価しているそうですが、どういう内訳なのでしょうか。

 

一岡 5が「柔らかめ」、4が「やや柔らかめ」、3が「普通」、2が「やや硬め」、1が「硬め」です。ただ、まだ1の座席には出会ってないんです。

 

――それぞれ、どんな鉄道が該当するのか教えてください。まずは2から。

 

一岡 中央線、山手線、総武線などJRのE231系です。これがE235系だと3になるんです。

 

――同じ路線でも座席の硬さが違うんですか。

 

一岡 車両によって違います。他にも常磐線、横浜線、横須賀線など、JRは2が多い印象です。

 

――続いて3を教えてください。

 

一岡 東急大井町線の6020系、東京メトロ南北線の9000系、横浜市営地下鉄のグリーンライン10000形とブルーライン3000形、JR成田線209系、JR烏山線EV-301系、JR湘南新宿ラインE-231系、JR京浜東北線E-233系などです。

 

――4はいかがでしょうか?

 

一岡 私の大好きな東急大井町線の6000系、東急こどもの国線、東京臨海高速鉄道りんかい線の70-000形、京王線の5000系、江ノ電の500形などです。大阪だと、JR桜島線、阪急の9000系も4ですね。

 

――4はたくさん挙がりましたが、どうして東急大井町線の6000系は別格なのでしょうか。

 

一岡 「やや柔らかめ」の中にも、座席の中に空気感があったり、バネの感触があったりと幾つかの種類に分かれるんですけど、私は空気感のある座席が好きで、その感じが大井町線の6000系は一番しっくりくるんです。

 

――では最後に5をお願いします。

 

一岡 5は少ないんですけど、東京メトロ銀座線の1000系がすごく柔らかいです。ディズニーリゾートラインも5でめちゃめちゃ柔らかいです。

 

――座席の硬さや中の構造などは、車両の新旧に関係はあるんですか?

 

一岡 関係ないですね。だから面白いんです。中の構造や、どういう素材を使って作っているのかなど、断面図を見てみたいです! 最近は硬さだけではなく座席のデザイン性にも注目していて、おしゃれだったり、シンプルだったり、車両によって個性があって、座らなくても見るだけで楽しめます。

 

――座席の模様も特徴がありますしね。

 

一岡 総合車両製作所さんという、いろいろな車両を作っている会社が、座席の生地を使った筆箱やポーチなども出しているんです。私は埼京線と中央線のポーチを持っているんですけど、これが人気過ぎて、発売すると、すぐに売り切れちゃうんです。発売されるたびに買おうとするんですけど、なかなか手に入らないんですよね。ポーチを出すたびに、電車の座席を感じられるのが幸せなので、もっと集めたいです。

 

――確かに鉄道好きじゃなくても、座席の生地を使ったグッズは欲しくなりますね。他にも、そういうグッズはあるんですか?

 

一岡 大阪メトロさんが、日本シールさんという会社とコラボして、座布団や筆箱などを出しています。まだ大阪メトロさんには乗ったことがないので、身近に感じられるようにゲットしたいです。

 

――たまに鉄道会社が鉄道放出品を販売するイベントをやっていますけど、行ったことはありますか?

 

一岡 小さいときに父に連れられて京王線の展示会に行ったらしいんですけど覚えてなくて……。ずっと行きたいと思っているんですけど、今はお仕事もあって、なかなか日程が合わないんですよね。ネットでは販売されないレアなものも売っているらしいので、いつか行ってみたいです。

 

マイフェイバリット鉄道の座席ベスト3

――東急大井町線の6000系は一岡さんの中で殿堂入りしていると思うので、それ以外で好きな鉄道の座席を3つ挙げていただけますか。

 

一岡 えー! それは難しいですね……。座り心地だけではなくデザインを含めてのセレクトになるんですけど、まずは東武線の70000型です。鉄道ノートにも写真を貼ってあります。

 

――なかなかシックなデザインですね。

 

一岡 座席の硬さは3です。TJライナーという指定席だと、背もたれが長くて、座席が回るんです。普通の時間帯だと、指定席にも自由に座れるのも魅力です。

 

――2つ目をお願いします。

 

一岡 中央線のE233系です。座席の硬さは2です。背もたれがオレンジを基調に、いろんな色が混ざっていておしゃれなんです。車両のカラーもオレンジなんですけど、それが座席のデザインとリンクしていて、乗るたびにいいデザインだなと思います。

 

――3つ目は何でしょうか?

 

一岡 東京メトロ日比谷線の13000系です。座席の硬さは3です。ちょっと濃い灰色チックな座席も好きなんですけど、車内の荷物置きがガラスになっていて、そのデザインも可愛いんです。車両全体はシンプルなんですけど、一つひとつのデザインが美しくて、調和も取れていて、どこを見ても飽きないですし、乗るたびに発見があります。

 

――荷物置きにも違いがあるんですね。

 

一岡 そうなんです。JRはポールを組み合わせたような無機質な荷物置きが多いですけど、最近の新型車両は摺りガラスになっていて、そこに模様もついているんです。ぜひ注目してください。

 

――今日は一岡さんが所有する鉄道グッズを持参していただきましたが、それぞれ紹介してもらえますか。

 

一岡 この模型はナノパズルのドクターイエロー(※新幹線の検査などをする事業用新幹線車両)です。自分で作ったオリジナルです。4年ぐらい前に作ったので、満足できてない部分もあって、また作りたいんですけど、もう売ってないパーツもあるんですよね。

↑ナノパズルのドクターイエロー

 

――一岡さんはずっと前から「ドクターイエローを見たい」と言い続けてますよね。

 

一岡 そうなんです! でも、まだ見たことがないんです。時刻表は非公開なんですが、ドクターイエローを知り尽くしている方だと、ある程度の予測はできるらしいんです。ただ、それに頼って見に行くのではなくて、見たら幸せになれると言われている車両なので、自分の運と言いますか、偶然出会いたいんですよね。新幹線に乗る機会があるときに、たまたま見れたときの喜びってすごいと思うんですよ。他のグループのメンバーさんから、「ドクターイエローを見た」という連絡をいただくたびに悔しい思いをしています(笑)。

 

――誰から報告があったんですか?

 

一岡 つばきファクトリーの谷本安美ちゃん、山岸理子ちゃんです。理子ちゃんは写真も送ってくれたんですけど、ドクターイエローの顔の部分をキレイに撮ってくれてありがたかったです。

 

――谷本さんも山岸さんも、一岡さんが言い続けていなかったら、ドクターイエローの存在に気付かなかったかもしれませんね。BEYOOOOONDSのメンバーで目撃した人はいないんですか?

 

一岡 今のところいないです。BEYOOOOONDSのメンバーで、私よりも先に目撃した子が出てきたら、ショックは大きいかもしれません(笑)。新幹線に乗るたび、電子掲示板に「回送列車」と表示されたらワンチャンあるんじゃないかと思って楽しみにしているんですけど、まだ巡り合えてないです。

 

――このカードは何でしょうか?

 

一岡 東急大井町線の一日駅長を務めさせていただいたときに、駅長さんからいただいたものです。裏に車両の解説が書いてあって勉強になります。

 

最寄り駅の車両に乗るたびに心の中で挨拶

――まだ乗ったことがない車両で、特に乗ってみたい車両は何ですか?

 

一岡 今年の目標にも掲げているんですが、九州の特急「海幸山幸」に乗って青島駅に行ってみたいです。九州の車両は、デザインもネーミングもユニークで、鉄道詳しくない方が見ても、これは「〇〇の車両だ」と分かるぐらい個性的です。他にも883系「ソニック」、885系「かもめ」、「指宿のたまて箱」、713系の「サンシャイン」など、乗りたい車両はいっぱいあります。中でも宮崎で走っているサンシャインは赤い車両なんですけど、ヘッドマークが太陽で、それに乗るのも夢です。あと那覇空港から出ているゆいレールというモノレールも乗りたいですし、大阪の南海電鉄の特急「ラピート」も乗りたいですし……。

 

――きりがないですね(笑)。

 

一岡 本当にありすぎて……。去年、BEYOOOOONDSの単独ライブツアーが中止になってしまったんですけど、またライブツアーができるようになったら、他のメンバーは「えー!?」って反対するかもしれないですけど、私的には電車移動がしたくて。

 

――愚問だとは思いますが、通勤で乗る電車も好きなんですか?

 

一岡 好きですね。最寄り駅の車両も、ほぼ毎日乗っているのに全く飽きないですし、「おはよう。今日も頑張ってるね!」って頭の中で挨拶をしてから一日が始まります。今22歳ですけど、30代、40代と年齢を重ねて、もっと自由に移動ができるようになったら、日本全国の鉄道を制覇したいですし、海外の列車も乗りたいです。どんどん新しい車両も出てくるので、一生乗り続けたいです。

 

――コンサートツアー「Hello!Project 2021 春『花鳥風月』が3月13日に始まり、最終日の5月30日まで全国を回ります。ツアー先で鉄道に乗る時間があったらいいですね。最後に今回のコンサートツアーが、どんな内容か教えてください。

 

一岡 今回の「花鳥風月」は、ハロー!プロジェクト全体で4チームに分かれて公演します。それぞれのチームでコンセプトが違っていて、私はチーム花なんですけど歌に重点を置きつつ、これまでにないぐらい踊っています。お客さんは声を出せないですけど、たくさん手拍子をしてくださいますし、1曲終わるたびに拍手をしてくれるのでジーンとします。普段は一緒に活動する機会の少ないメンバーさんとチームを組んでやっているので、パフォーマンス面でも新しい発見がありますし、今までお話できなかったメンバーさんとも距離が縮められて、ステージ上はもちろん、それ以外の時間も楽しめています。最終日までいろんなことを学びながらスキルアップできるように頑張りたいです。

 

 

【プロフィール】

一岡伶奈(イチオカ レイナ)

1999年2月25日東京都生まれ。特技は山手線一周の駅名を言えること、東京メトロの路線名とカラーを全て言えること、趣味は、電車の椅子の硬さを比べること、樹脂粘土で色々作ること、映画鑑賞。

 

【INFORMATION】

眠れる森のビヨ

【出演】BEYOOOOONDS
※出演者は変更になる場合がございます。

【日程】2021年4月16日(金)~2021年4月25日(日)
【会場】こくみん共済 coop ホール(全労済ホール)/スペース・ゼロ
【料金】¥8000(税込)

※全席指定
※3歳以下入場不可・6歳以上チケット必要

【脚本・演出】中島庸介
【音楽】和田俊輔
【振付】YOSHIKO
【プロデューサー】丹羽多聞アンドリウ
【主催】アップフロントプロモーション
【企画・制作】High-position
【お問い合わせ】オデッセー 03-4426-6303 (平日11:00~18:00)
【特設サイト】http://gekijyo.net/performance/sleepingbeyo/

超希少となった国鉄特急形車両。「381系」「485系」などの今。

〜〜国鉄形電車の世界その11 特急形電車+特急形気動車〜〜

 

日本国有鉄道が分割民営化されJRグループとなって、すでに34年という歳月がたった。当時開発された国鉄形車両も、それだけの年数を走り続けてきた。

 

本サイトでは、残る国鉄形電車の全形式を網羅してきたが、最後に、国鉄時代に生まれた特急形電車と特急形気動車を見ていこう。この春、大所帯を誇った185系の定期運用がなくなり、残るのはごく少数の形式と車両のみになりつつある。“最晩年”を迎えつつある車両たちの現状に迫った。

 

【はじめに】列島のすみずみまで走った国鉄特急形電車だが

JR発足当時はもちろん、2000年代中ごろまで国鉄形特急は、主力車両として全国の路線を走り続けてきた。ところが2010年代に入って、急激に車両数を減らしていく。

 

そして今も残る国鉄生まれの特急形電車はとうとう3形式のみとなった。わずか3形式、しかも細々という状態だ。まずは、その概要を見ておこう。

 

残るのは特急形直流電車の185系と381系、特急形交直流電車の485系の3形式である。このうち定期運用が行われているのは381系のみだ。この381系ですら、すでに多くの車両が特急列車の運用を外れ、今や定期運用されているのは特急「やくも」1列車となった。

↑小雪舞う中を走る381系特急「きのさき」。晩年は国鉄色に塗られ京都駅と城崎温泉駅を結んだ 2014年2月5日撮影

 

◆残る185系と485系は団体臨時列車の運用がメインに

特急形直流電車のもう1形式、185系はご存じのように3月12日で定期運用を終えた。残る車両は臨時列車のみでの運用となる。また485系はオリジナルな姿を残した車両はない。大きく改造されたジョイフルトレインのみが残っている。

 

この状態を見ると、まさに終焉近しという印象が強くなる。さらに唯一の定期運用で使われる381系も、近々、後継車両との入換えも始まる予定だとされている。

 

そんな残る3形式がどのような車両だったのか、残り少なくなった車両の現状を見ていこう。今回は加えて特急形気動車も触れていきたい。こちらも残る形式はわずかで貴重になりつつある。

↑オリジナルな姿で走る485系特急「北越」。同特急は2015(平成27)年3月で運行終了となった 2013年5月12日撮影

 

【①残る国鉄形381系】日本初の振子式車両として1973年に誕生

今や、唯一の定期運用が残る国鉄形特急電車の381系。まずはその特徴と歴史に関して触れておこう。

 

◆車両の特徴:カーブを高速で走り抜けるために取り入れた自然振子装置

日本の路線、特に山間部の路線はカーブ区間が多く、列車の高速化にあたり障害となっていた。カーブを少しでも早く走り抜けるために、車体をかたむけて走らせようと生み出されシステムが振子装置だった。

 

振子装置を組み込んだ新車両の誕生にあたって、国鉄では、591系という試験電車まで作ってテストを重ねた。そして1973(昭和48)年に誕生させた電車が381系だった。381系は、まず名古屋〜長野間を走る特急「しなの」に投入、1978(昭和53)年には京阪神と紀伊半島を結ぶ「くろしお」に、1982(昭和57)年に岡山駅と山陰、出雲市駅を結ぶ特急「やくも」に投入された。

↑山陰本線を走る381系特急「やくも」。同列車は全列車が381系での運用となる。背景には山陰地方のシンボル大山がそびえる

 

381系は従来の特急形電車とはやや異なる姿をしている。車体にはアルミニウムを採用、運転台は従来の特急と同じ高運転台のスタイルながら、車体の重心を下げる構造とした。さらに振子装置を導入したこともあり、開発費、また製造費用も高額となっている。さらに地上の架線などの張り方なども、振子装置を備えた車両に合わせ改良しなければいけなかった。そうしたものまで含めると、この車両を導入するために多額の費用がかかっており、当時、財政難に陥っていた国鉄としては、異例の“厚遇車両”だったとことが分かる。381系は1982(昭和57)年まで277両が製造された。

 

381系が備えた振子装置は自然振子装置と呼ばれる。この装置により、カーブでは意図的に、車体を傾けて走る。この装置のおかげで既存のカーブ通過速度を20km上回り走り抜けることができたとされる。

 

しかし、到達時間は早くなったものの、不自然な曲がり方と揺れが生じてしまい、酔う人を多く出した。この酔いに対しての課題もあり、その後に導入された振子装置は、制御付き自然振子式、もしくは空気ばねにより、車体を傾斜してカーブを走る方式を採用する車両が多くなっている。

 

381系は、日本初の振子装置付きという画期的な車両にもかかわらず、酔いを覚える人が多く現れたこともあり、決して人気車両とは言えなかった。ちょっと残念なところでもあった。

 

◆残りの車両: 後藤総合車両所出雲支社に62両が残る

381系はJR東海とJR西日本に引き継がれた。そのうち、JR東海では後継の383系の導入により、引退が早く進み、2008(平成20)年には全車が引退している。

 

一方、JR西日本の残った381系は長年、特急「くろしお」や、北近畿を走る特急「こうのとり」「はしだて」「きのさき」に使われた。この北近畿を走る特急は晩年、クリーム色と赤の国鉄色に塗られ、注目された。残念ながら2015年に「くろしお」と共に北近畿ネットワークを走る特急列車での運用が消滅し、大半の車両が引退となっている。

 

残るのは後藤総合車両所出雲支所に配置された62両のみとなっている(2020年4月1日現在)。この車両も、JR西日本では「約60両を新製車両に置換計画あり(投入予定時期2022〜2023年)」としており、この1〜2年で状況は大きく変わりそうである。

 

◆車両の現状:高運転台の先頭車の他にパノラマグリーン車も走る

残る381系の車両の現状を見ておこう。特急「やくも」は岡山駅と島根県の出雲市駅間を走る。伯備線を通り山陽地方と山陰地方を結ぶ通称、陰陽連絡特急として重要な役割をしている。1日に15往復走るその全列車に381系が使われている。1973年から1982年まで製造された381系。特急「やくも」の381系は、大半が後期に造られた車両が使われている。とはいえ、すでに40年という歳月がたつ。この間に車内の更新が行われ、座席や内装などが新しくされていて古さを感じさせない。

 

↑カーブで車体を傾けて走る381系。2編成のみのパノラマグリーン車が連結される。同車両利用の列車は時刻表にも記載がある

 

残る381系62両の車両形式はクモハ381形、モハ381形、クロ381形など7形式。そのうち珍しいのがクロ380形だ。

 

クロ380形は、特急名がスーパーやくもと呼ばれていた時代に、中間車のサロ381形から改造された形式だ。他の先頭車のように高運転台ではなく、座席から前面展望が楽しめるような構造で、先頭部が傾斜した姿となっている。現在、クロ380-6と、クロ380-7の2両が使われている。ちなみに春のダイヤ改正以降は、岡山発→出雲市行の「やくも」3号、13号、17号、27号と、出雲市発→岡山行の「やくも」2号、12号、16号、26号に、このパノラマグリーン車が連結されている。

 

クロ380形は希少車ということで気になる存在である。ちなみに先頭車は出雲市駅側に連結されている。

 

【②残る国鉄形185系】今後はわずかな臨時列車に使われるのみに

◆車両の現状:大宮総合車両センターに配置されていた137両の運命は?

この春に大きな動きがあった185系。簡単に185系の特徴を見ておこう。

 

185系は1981(昭和56)年3月26日に運転が開始された。従来の特急形電車とは異なり、首都圏を走る特急列車や急行列車、そして通勤通学客の輸送も可能な電車として開発された。汎用性の高い電車であり、最盛期には227両と大所帯を誇った。「踊り子」「草津」「あかぎ」といった在来線特急のほか、快速まで含めた臨時列車、またJR東海までの路線まで乗り入れ可能なことから、「ムーンライトながら」などの長距離列車に利用された。

 

40年にわたり走ってきた185系だったが、特急「踊り子」や「湘南ライナー」などでの運用を2021年3月12日で終えている。最盛期には多くの列車に使われ、ごく最近までそう人気があるとはいえない存在だったが、引退が近づくにつれて人気が高まり、注目度も高まった。

 

185系は2020年4月1日には大宮総合車両センターに137両が配置されていた。まだ2021年の残存数は発表されていないが、発表されるにしても車両数もあくまで暫定的なもので、2022年には全車が引退することが明らかになっている。

↑185系で運用される臨時列車。春まではこうした185系の臨時列車も多く走ったが、今後は、非常に限られた運用となりそうだ

 

◆運用の傾向: 6月20日まで185系臨時列車の予定はあるものの…

3月で定期運用が消滅した185系。すでに廃車のため長野総合車両センターへ回送される姿も確認され始めた。今後、こうした引退する車両が少しずつ増えることになりそうだ。

 

一方で、臨時運転用に一定の車両数も残存することになる。現在の春の臨時列車として走る予定なのが、上野駅〜桐生駅と大船駅〜桐生駅間を走る「あしかが大藤まつり1〜4号」で、4月24日〜5月5日までの土日祝日・GW期間中の運行の予定がある。さらに「鎌倉あじさい号」として青梅駅〜鎌倉駅間を6月5日〜20日の週末に走ることになっている。発表されているのは、この列車のみ。これだけならば、6両×2編成を残せば十分にまかなえるであろう。とすれば120両以上が余剰となる計算になる。

 

さらにコロナ禍ということもあり、臨時列車も運休の可能性がある。臨時列車とともに団体専用列車の運行も少なくなる可能性がある。鉄道ファンにとってはちょっと寂しい状況となりそうだ。

 

【③残る国鉄形485系】全国を走った485系も3編成のみに

◆1000両以上の大所帯も今は16両のみに

485系は国鉄時代の1964(昭和39)年に生まれた交流直流両用の特急形電車である。直流および交流60Hzに対応した481系、直流と交流50Hzに対応した483系、さらに直流と交流50Hzと60Hzに対応した485系。横川〜軽井沢駅間でEF63形電気機関車と協調運転を行うために生まれた489系を含め1979(昭和54)年まで製造が続き、計1453両という大勢力を誇った。

 

電化方式を問わず走ることができた機能を活かし、全国で活躍した電車でもあったが、すでに定期運用は消滅している。またオリジナルな姿を残した485系も消え、今やジョイフルトレインとして改良された3編成16両のみが残る。

 

ジョイフルトレインとは、JR東日本が観光需要の高まりとともに、複数の既存車両を改造して臨時列車や、団体専用列車用に生み出した観光用列車だ。特に485系の場合には、電化区間であればどこでも走れることが活かされ、11のジョイフルトレインが生み出された。残念ながらその多くが引退となり、残るは3列車となっている。それぞれの現状を見ておこう。

 

◆ジョイフルトレイン「リゾートやまどり」

↑首都圏を走る485系ジョイフルトレインとしては最も動きが活発な「リゾートやまどり」

 

まずは「リゾートやまどり」。2011年に運行を開始した列車で、高崎車両センターに配置されている。これまでは群馬県の観光キャンペーンなどに関連する臨時列車として活用されることが多かった。今年の運用はやや異なってきている。4月以降の予定を見ると——。

 

「あしかが大藤まつり5・6号」として、いわき駅〜桐生駅間を5月1日〜4日に走る。さらに「やまどり青梅奥多摩号」になり三鷹駅〜奥多摩駅間を5月8日〜9日に走る。また、5月15日・16日は新習志野駅〜黒磯駅間を、5月29日・30日は「リゾート那須野満喫号」として走る。さらに、6月6日、12日、20日に大宮駅→越後湯沢駅を「谷川岳もぐら」、越後湯沢駅→大宮駅を「谷川岳ループ」として走る。

 

◆ジョイフルトレイン「華(はな)」

↑JR東日本では珍しい和式客席主体のジョイフルトレイン「華」。臨時列車や団体専用列車として首都圏を中心に運行される

 

「華(はな)」は「リゾートやまどり」と同じ高崎車両センターに配置されている。485系を元に1997年に改造された6両編成で、車体は紫色ベースにピンクの帯が入る。掘りごたつ形式のお座敷車両で、主に首都圏を走り続けてきた。

 

この春の臨時列車としては「お座敷 青梅奥多摩号」として、5月3日〜5日に川崎駅〜奥多摩駅間を、5月15日・16日には三鷹駅〜奥多摩駅間を走る予定だ。

 

◆ジョイフルトレイン「ジパング」

「ジパング」は岩手県の観光キャンペーンに合わせ2012(平成24)年に生まれた。岩手県の観光用に改造されたこともあり、盛岡車両センターに4両が配置されている。この春には4月29日・30日に「ジパング北上展勝地桜号」として一ノ関駅〜盛岡駅間を2往復する。また「ジパング平泉号」として盛岡駅〜一ノ関間を5月1日〜5日、6月26日・27日に2往復走る予定となっている。

 

とはいえ、4月に走る予定だった「ジパングさくら☆もち号」がコロナ禍のために運行休止になったこともあり、今後の運行は変更される可能性も出てきている。

↑主に盛岡駅〜一ノ関駅間の観光列車として走るジョイフルトレイン「ジパング」。中間車両の外観は485系の姿を保っている

 

JR東日本にのみに残る485系だが、今後どうなるかが、未知数となりつつある。これまでJR東日本の車両紹介のページでは、「のってたのしい列車」として観光列車の紹介コーナーが設けられていた。ジョイフルトレインも多く掲載されていた。ところが最新のページでは、485系のジョイフルトレインの掲載がなくなっている。

 

こうした現状を見ると、列車の本数も含め徐々に減っていくことになりそうだ。ここ数年で485系ジョイフルトレインが消えていく可能性もでてきている。

 

【④残るキハ183系気動車】スラントノーズ世代は消えたものの……

ここからは、電車ではないが、国鉄時代に生まれた特急形気動車に関して触れておこう。国鉄時代、非電化区間用の特急形気動車は、1960(昭和35)年のキハ80系(キハ81系とキハ82系を指す)の開発により、本格的に始まった。その後にキハ181系が誕生し、非力さなどが解消されていった。キハ181系は、その後の特急形気動車開発にもその技術が活かされている。

 

キハ181系の後に、北海道用に造られたのがキハ183系で、四国地区用に造られたのがキハ185系。ここまでが国鉄形の特急形気動車とされている。

 

◆残るキハ183系は石北本線の特急として活躍

既存のキハ181系の耐寒耐雪機能を高めたのがキハ183系である。当初、1979(昭和54)年に試作車が造られた。実際の運用にも使われた試作900番台で、その後の1981(昭和56)年からは基本番台が製造された。この試作900番台と基本番台の特徴は、高運転台とともに、スラント型(スラントノーズ)と呼ばれる独特な姿をした正面で、北海道を代表する特急形気動車として長年、親しまれた。同基本番台は2018年6月いっぱいで引退となっている。

 

今も残るのは500番台・1500番台と550番台・1550番台で、スラントノーズの正面とは異なり平坦な形をしている。製造は500番台・1500番台が1986(昭和61)年、550番台・1550番台は1988(昭和63)年から1991(平成3)年までと、ちょうどJRに分割民営化した時代をまたいで製造された。

 

↑高床式のキロ182形を組み込んだ特急「オホーツク」の編成。キハ183系の定期運用は特急「オホーツク」のみとなっている

 

◆その後の車両造りにも活かされた高床式キロ182形の技術

キハ183系の配置は苗穂運転所で2020年4月1日現在、55両だ。このなかの5両は改造された観光列車「ノースレインボーエクスプレス」で、また1両は出動することがほとんどないお座敷車ということもあり、実質49両のみと言うことができそうだ。

 

キハ183系で運用される列車は、札幌駅〜網走駅間を走る特急「オホーツク」と、旭川駅〜網走駅間を走る特急「大雪」。後者の「大雪」は現在、曜日限定となっている。毎日走るのは「オホーツク」2往復のみと、希少な存在になりつつある。列車には高床式のキロ182形グリーン車が連結される。この車両はハイデッカー仕様の創始期に生み出した車両だ。

 

余談ながら、大阪と札幌を結んだ寝台特急「トワイライトエクスプレス」の高床式のサロン車(サロン・デュ・ノール)の改造にあたっても、このキロ182形の思想や技術が活かされている。

↑キハ183系のグリーン車として連結されるキロ182形。製造当時には珍しかった高床式で、景色が楽しめる車両として人気となった

 

ちなみにJR九州ではキハ183系1000番台を所有している。特急「あそぼーい!」として走っている車両だ。こちらはキハ183系の基本構造を元に設計されたため同形式とされている。とはいえ展望席などを設けた姿など車両構造も大きく異なっている。JR北海道に残るキハ183系と同じ形式名ながら、異なるJR生まれの車両として扱われることが多い。

 

【⑤残るキハ185系気動車】JR四国とJR九州で今も活躍

国鉄が生み出した特急形気動車の最後の形式がキハ185系だ。経営基盤の弱い四国地区用に生み出された車両で、国鉄最晩年の1986(昭和61)年11月から走り始めている。

 

◆定期運用では特急「剣山」「むろと」が残るのみだが

↑吉野川に沿って走る徳島線唯一の優等列車として走るキハ185系特急「剣山」。週末には「ゆうゆうアンパンマンカー」を連結して走る

 

キハ185系は計52両が国鉄当時からJR化の後まで製造された。その後、JR四国では2000系などの高性能な特急形気動車を導入したこともあり、余剰となった20両がJR九州へ譲られた。JR四国では幹線の運行では2000系や、近年に登場した2600系や、2700系が使われている。一方で、キハ185系は徳島駅〜阿波池田駅間を走る特急「剣山(つるぎさん)」や、徳島駅〜牟岐駅(むぎえき)間を走る特急「むろと」に使い続けている。

 

いずれも閑散路線で、また100kmに満たない短距離区間ということもあり、新しい高性能車両を導入しにくい実情が見えてくるようだ。

 

JR四国のキハ185系は高松運転所に22両が配置されている(2020年4月1日現在)。うち3両が観光列車「四国まんなか千年ものがたり」。またキハ185系の中には「アイランドエクスプレス四国Ⅱ」やトロッコ列車牽引用の改造された車両も多く、既存の姿を残すキハ185系は15両に過ぎない。

 

すでに後継の2000系に引退車両が出てきている。国鉄時代に生まれた車両が後継車両よりも長生きしている不思議な存在ともなっている。

 

◆譲渡されたJR九州では全車両が今も活躍中

JR四国では新型車両の導入で余剰となったキハ185系20両が、1992(平成4)年にJR九州に譲渡された。

 

譲渡されたJR九州では、旧形の急行形キハ58系改造車両などで運用していた「由布」を特急「ゆふ」に格上げし、すぐに利用を始めた。さらに「九州横断特急」などの列車での運用にも使われた。JR九州ではその後に斬新な赤一色の姿に変更させるなど、“変身”させて、イメージアップを図っている。

↑由布岳を背景に走るキハ185系特急「ゆふ」、久大本線では特急「ゆふいんの森」を補完するような役割をこの「ゆふ」に持たせている

 

現在は大分車両センターに18両、熊本車両センターに2両が配置されている。JR四国から譲渡された車両すべてが活かされているわけだ。ちなみに熊本車両センターの2両は特急「A列車で行こう」として改造を受けている。いわばJR九州らしい色付けが行われている。

 

こうした傾向を見ると、国鉄時代に生まれた特急形気動車のうち北海道用に生まれたキハ183系は、今後あやうい立場になりつつあるが、四国と九州に残るキハ185系は、まだまだ一線で活躍しそうである。国鉄形特急車両のうち、最後まで残るのはこのキハ185系なのかも知れない。

奥が深い!小田急新ミュージアムは車両以外にも見どころいっぱい【後編】

〜〜小田急ロマンスカーミュージアムの見どころ遊びどころ【後編】〜〜

 

海老名駅前に4月19日にオープンする「ロマンスカーミュージアム」。前編では展示収蔵される歴代のロマンスカーの特徴や魅力を中心に紹介した。今回の後編では、ロマンスカー以外にも数多くある見どころ・遊びどころに注目したい。

 

「ロマンスカーミュージアム」には、ロマンスカーギャラリー以外にも、複数の展示ゾーンがそろっている。そこには、こだわりがふんだんに隠されていた。

 

【前編はこちら

 

【展示ゾーン①】小田急の車両史はこのモハ1形から始まった

◆ヒストリーシアター(1階)◆

2階のエントランスからエレベーターを下りると、最初の展示ゾーン「ヒストリーシアター」となる。まず目に入ってくるのが、濃い茶色に塗装された電車が1両。その横には映像シアターがある。

 

シアターでは、約4分30秒のショートムービー「ロマンスカーは走る」が上映されている。ジャズに合わせてステップを踏むタップダンサーとともに、小田急電鉄の歴史が紹介されていく。年代ごとに活躍した電車と、歴代のロマンスカーが映し出される。

↑1階のヒストリーシアターで展示されるモハ1形。手すりが設けられ全景が見えないが、エスカレーター下から見ると正面が確認できる

 

ここで小田急の歴史と、保存される古い車両を簡単に触れておこう。小田急は1923(大正12)年5月1日に小田原急行鉄道株式会社として創立された。1927(昭和2)年4月1日に小田原線が全線開業し、列車が走り始めている。区間延長という形ではなく、一気に全線開業させた路線作りは目を見張るものがある。さらに、当初は単線区間があったものの、10月15日には早くも全線複線化させている。その2年後の1929(昭和4)年4月1日には江ノ島線全線を開業させた。

 

首都圏を走る大手私鉄の中では、創業は決して早いとは言えないものの、歴史を見ると、創立当初から非常に動きが早い会社だったことがうかがえる。車両開発なども、当時から高性能車両を取り入れる傾向があった。

 

このフロアに飾られるモハ1(モハ1形10号車)もそんな高性能電車の一両。路線開業当時に導入した車両だった。形式はモハ1形とされる。数字に1が付くように、小田急の最初の電車形式だった。小田急の車両の歴史はこの1形から始まったと言っていいだろう。

↑ショートムービーでは小田急の歴史とともに、当時走っていた代表的な車両、そしてロマンスカーの紹介などが進められていく

 

モハ1形は1960(昭和35)年までに引退となり、各地の私鉄各社へ譲られた。ここで公開されるモハ1形10号車も、熊本県を走る熊本電気鉄道へ譲られた車両で、熊本では1981(昭和56)年まで走り続けた。小田急では、創業当時の車両を復元して保存したいという意向があり、再び戻されたという経緯がある。

 

車内には入れないものの、開いた扉から車内を見ることができる。当時の木をふんだんに使った内装の様子が良くわかる。

 

◇サボに書かれた稲城登戸駅間とは今の?

約15mの長さがあるモハ1形の側面。その中央にはホーロー製の列車行先札(サボ)が吊り下げられている。文字の表記は今とは異なり右から読むが、列車行先札には新宿〜稲田登戸とある。もともとモハ1形は、この区間用に用意された近郊形電車だったのである。

 

さて、稲田登戸駅とは、今の登戸駅のことなのだろうか。調べてみると南武線(当時は南武鐵道)との接続駅、現・登戸駅はかつて、稲田多摩川駅という駅名だった。一駅隣の現・向ヶ丘遊園駅を稲田登戸駅と呼んだのだった。

 

ちなみに小田急は1940(昭和15)年に現在の京王井の頭線(当時は帝都電鉄)を合併。太平洋戦争下の時代には国策により、東京急行電鉄(大東急)の傘下となった。戦後の1948(昭和23)年に小田急電鉄株式会社として再発足している。また1955(昭和30)年4月1日に、稲田登戸駅は現在の向ヶ丘遊園駅という駅名に改称されている。

↑モハ1形に付けられた列車行先札。モハ1形は新宿駅〜稲田登戸駅を結ぶ電車として使われた。戦前の沿線案内にも稲田登戸駅とある

 

↑整備されたモハ1形の内部。車内は木材が多く使われる。運転室はなく、運転士は客室の先頭にあるパイプで仕切られた部分に立って運転した

 

【展示ゾーン②】クラシックなマスコンハンドルでの運転が可能

◆ジオラマパーク(2階)◆

↑小田急沿線の風景が再現され、その中をNSE(3100形)が走る。背景のパノラマスクリーンには青空に加えて雲などの演出も

 

1階のヒストリーシアターの奥に、このミュージアムのメイン施設、ロマンスカーギャラリーがある。ここには5車種10両のロマンスカーが保存される。こちらの展示内容に関しては前編を参照していただきたい。

 

ロマンスカーギャラリーを見終わった後は、エスカレーターで2階へ。そこにはジオラマパークが広がっている。なんとその大きさは約190平方メートルにもなるとか。坪数でいえば57.48坪という広大なスペースにジオラマが広がる。

↑ジオラマの新宿駅には小田急百貨店と京王百貨店などの建物が並ぶ。後ろには高層ビル群が。実際の駅の姿にそっくりで驚かされる

 

そこには小田急線沿線の景色が再現されている。用意された建物数も800を超え、入口側が新宿、そしてジオラマの終端部分が箱根湯本駅となっている。

 

ジオラマにはHOゲージスケールのロマンスカー新旧10車種と、通勤電車5車種が走る。江ノ電の電車も走っている。Nゲージに比べて一回り大きなHOゲージの車両(箱根登山鉄道にはNゲージも使用)だけに、ロマンスカーの編成走行にも迫力が感じられる。使われる線路の総延長は400m、側線まで含めると500mに及ぶとされる。

 

ジオラマ展示では約36分にわたる「小田急沿線の1日」が。さらに合間には約9分間の「時間と距離のロマンス」と名付けられたジオラマショーが楽しめる。映像+音響+照明を伴った演出で臨場感たっぷりだ。

 

かなり手がかかったジオラマパークだが、制作したスタッフに聞いてみると構想10年、制作には3年以上の歳月をかけてできあがったものだとか。制作者の方たちの苦労が、4月の公開でようやく報われるわけである。

 

◇透明のカバーにより旧式マスコンハンドルの複雑な構造がわかる

↑操作機器を使って運転体験が楽しめる。マスコンハンドルとブレーキハンドルの下部分は透明カバーでおおわれるため、複雑な構造がよくわかる

 

↑箱根湯本駅に到着したVSE(50000形)。情景は夕方に変わった。このあと、模型はぐるりと一周して新宿駅方面へ戻っていく

 

凝ったジオラマパークの造りだが、面白かったのが用意された2つの「ジオラマ運転体験」用のコントロール機器。ツーハンドルと呼ばれる左にマスター・コントローラー(マスコンハンドルとも呼ばれる)と右にブレーキレバーがある作りだ。現在の小田急の新造車両はワンハンドルが主流になっているが、8000形などに残されるツーハンドルが、ここで再現されているのである。

 

右のブレーキハンドルは、使うことができないものの、左のマスコンハンドルを操作しての、ロマンスカーGSE(70000形)と、江ノ電500形の運転体験(3分100円)が楽しめる。

 

面白かったのは、用意されたマスコンハンドルの造り。通常のマスコンハンドルはボディ部分が鉄板に覆われているが、このパークのマスコンハンドルは透明カバーで覆われている。今の電子機器化されたワンハンドルに比べて、機械的な造りのツーハンドルで、ひと時代前のマスコンハンドルがいかに複雑な造りをしているのかがよくわかる。

 

【展示ゾーン③】ロマンスカーの部屋の中で存分に遊べる

◆キッズロマンスカーパーク(2階)◆

↑ロマンスカーの形をした遊具「てんぼうせき」では2階の「うんてんせき」も再現。2階にのぼりヘッドライトの点灯もできる

 

ジオラマパークを見終わり、部屋を出ると、そこには「キッズロマンスカーパーク」が広がる。木で造られた巨大なロマンスカー、7つの車両には子どもたちが遊べる空間が設けられている。

 

こちらには紙で作られたキッズジオラマが用意されている。工作部屋で手づくりしたペーパートレインを、キッズジオラマで走らせることができるのだ。

 

◇GSEカラーやMSEカラーの部屋があるのも楽しい

キッズロマンスカーパークの奥は土足厳禁のスペース。通路を入って行った部屋の外装は、GSE(70000形)や、MSE(60000形)といった車体カラーそのもの。本物のMSEの車体のようにオレンジと白の細いラインが入ったこだわりだ。部屋の中には、ロープで斜面を上り下りする遊具や、おかずの形をした木のおもちゃをロマンスカーの形のお弁当箱に詰める遊具セットなどもある。さらに、鉄道の絵本が読めるコーナーなども用意されていて、親子そろって楽しい時間を過ごすことができそうだ。

↑手づくりのペーパートレインを動かせるキッズジオラマ。白いラインの下には磁石が仕込まれ、載せたペーパートレインが動く仕組み

 

↑多彩な遊び方を用意。上の写真は「はしるきっさしつのおべんとう」と名付けられた遊具。部屋はMSE、GSEのカラーで塗られる

 

【展示ゾーン④】LSEのシミュレーターは臨場感たっぷり

◆ロマンスカーアカデミアⅡ(2階)◆

↑インタラクティブアートでは手をかざすと小田急沿線のさまざまな街の景色が現れる

 

2階のキッズロマンスカーパークの隣には「ロマンスカーアカデミアⅡ」と名付けられたフロアがある。ここにはまず「インタラクティブアート“電車とつくるまち”」というコーナーが。壁に手をかざすと、動きに合わせて線路が敷かれ、駅を中心に家や店、学校が浮かび上がり、街づくりが進む。

 

さらに運転シミュレーターのコーナーがある。「ロマンスカーシミュレーター“LSE(7000形)”」と名付けられたシミュレーター装置が用意されている。この運転シミュレーターもかなり凝っている。まず形は名称のとおりロマンスカーLSE(7000形)の2階にある運転室の部分を再活用したもの。

 

参加費は1回500円。当日抽選制で、券売機で抽選券を発券し、当選者のみ楽しめるシステムとなる。

 

使われる映像はLSEの運転台から撮られたものだ。流される映像は「秦野→本厚木」、「本厚木→町田」、「成城学園前→新宿」の3区間から選べる。レベルは「入門」、「初級」、「上級」と3段階から難易度を選べる仕組み。「入門」レベルは「成城学園前→新宿」の1コースのみだ。

 

◇運行終了日の新宿駅の様子が蘇る。さらにシミュレーター裏には?

↑LSE(7000形)の運転席部分を利用した運転シミュレーター。屋根上の運転室の正面や側面の窓周りがそのまま活かされた

 

↑LSEの2階運転席から見た眺望の良さを実感。この機器の裏側にはブルーリボンと音楽館のプレートが付く

 

今回、実物のLSE(7000形)の運転室がそのまま使われているという。限られた空間に設けられた運転室なので、一般的な大人の身長だと、天井に頭が届いてしまう。ただ、シートに座ると足を前に伸ばす構造になっているので、運転には差し支えない広さになっていることがわかる。

 

この運転シミュレーターには、2018年に運転を終了させた時の映像が使われていた。LSE(7000形)が新宿駅に到着すると、ホームに鈴なりになって待ち受けるファンの姿が見えてくる。2階の運転席から見た風景はより遠くまで望め、運転士はこうした風景を見て運転していることが改めて良くわかった。

 

このシミュレーター、裏側には1981年のブルーリボン賞に輝いた時に付けられたプレートと、その下に「音楽館」という楕円形のプレートが付けられていた。音楽館の鉄プレートは、車両に付けられている製造工場のプレートの形とほぼ同じ形のこだわりぶり。作った人はさぞや、鉄道好きな方なのだろう。音楽館? さて? 同シミュレーターを作ったのは鉄道ファンが良く知るあの方だった。

 

音楽館を率いるのは向谷実氏。フュージョンバンドの「カシオペア」のキーボード奏者であり、鉄道が好きなことを活かして鉄道シミュレーションゲームを生み出し、また駅の発着メロディを作曲するなど活躍の場を広げている。近年、音楽館では鉄道各社へ乗務員訓練用シミュレーターを開発して導入するなど、プロにも使われる本格的なシミュレーターの製作も行っている。

 

今回の報道公開時にも、小田急の現役運転士が操作見本を見せていたが、実車とかわりない本格的なものが、ここにも導入されたわけである。とはいえ、入門編を選べば操作はそれほど難しくはないそうで、たとえ初めてでも心配は無用なようだ。

 

【その他のゾーン①】ここだけの限定品がずらりと揃う

◆ミュージアムショップ「TRAINS」(2階)◆

↑2階に用意されたミュージアムショップ「TRAINS」にずらりと並ぶグッズ類

 

ここからは展示ゾーン以外の様子を見ていこう。この施設のこだわりぶりはまだまだ尽きない。2階のミュージアムショップ「TRAIN」では小田急やロマンスカーにちなむ商品をふんだんにそろえている。

 

◇気になる館内限定商品の数々。開業記念商品

↑館内限定商品のごく一部。お土産にも最適。NSEの車体が描かれた箸や、ロマンスカーのイラスト入りチョコ缶などふんだんにそろう

 

ミュージアムショップは、見るだけでも楽しいコーナーだ。模型や玩具、雑貨、そしてお菓子などがそろう。特にファンにとって気になるのは限定商品だろう。ここでしか買えない限定商品に加えて、開業記念商品も多数用意している。

 

筆者が気になったのはブレーキハンドル型オープナー(1100円/税込)。ツーハンドルのブレーキハンドルを模したオープナーで、このようなグッズでペットボトルのフタや、栓を開けたら……。なかなか鉄道ファンの心をくすぐる商品が多く見ているだけでも楽しくなってくる。

 

【その他のゾーン②】実物が目の前を走る!一工夫の時刻表に注目

◆ステーションビューテラス(屋上)◆

↑屋上に設けられたステーションビューテラス。目の前を通るロマンスカーの克明な時刻が用意されている(別写真を参照)

 

ミュージアムの屋上は「ステーションビューテラス」として整備されている。広々した屋上から海老名駅を見ると、電車の入線してくる姿が手に取るようにわかる。特に厚木駅側から入ってくるロマンスカーが良く見える。さて、この屋上にも同ミュージアムらしいこだわりがある。それは用意されたロマンスカーの時刻表だ。

 

◇ロマンスカーの出庫時間まで記されていた

↑ミュージアムの開館時間帯に通るロマンスカーの時刻がずらり。右上を拡大すると「海老名 出庫」という注釈が

 

屋上に用意された時刻表は、ミュージアムが開館している10時から17時台までのロマンスカーの時刻が網羅されている。そこには使われる車両の情報と、海老名駅に停車するかしないかなどの情報も入る。そして興味深いのは「出庫時間」の時刻も記されていること。海老名駅には海老名電車基地があり、ロマンスカーも配置されており、また検査・修理用の検修施設へ出入りすることもある。

 

同時刻表には平日の16時54分にEXE(30000形)を使った「さがみ78号」の出庫しかないことが記されている。たとえ出庫する列車が1本しかないとしても、克明に調べて、時刻表に表示する試みには、少々驚かされた。

 

【その他のゾーン③】かつてロマンスカーで出された味が楽しめる

◆ミュージアムカフェ「ROMANCECAR MUSEUM CLUBHOUSE」(2階)◆

↑駅側の席からはこのように海老名駅に停車する電車を見ながらカフェタイムが楽しめる。メニューは軽食中心で、スイーツも用意される

 

最後にエントランス部分にあるミュージアムカフェ「ROMANCE MUSEUM CLUBHOUSE」を取り上げておこう。ここのみ、ミュージアムへ入館せずとも利用ができる、一般向けに開放されたスペースなのだ。海老名駅の東西を結ぶペデストリアンデッキに面したカフェで、ガラス戸はフルオープンできる構造に。換気も十分な安心して使える造りとなっている。

 

駅側に面した席の数は少なめなものの、運良く座ることができたら窓の下に停車する電車を見ながらカフェタイムが楽しめる。メニューは「ロマンスカードッグ(750円〜)」と名付けられたホットドック、クラフトビールやスイーツなど。沿線食材を使ったメニューを取りそろえるとしている。

 

かつてロマンスカー車内で楽しめたサービスがここで再現されている。飲み物と軽食を座席まで届けたシートサービス「走る喫茶室」の当時のメニュー「クールケーキと日東紅茶のセット(700円」も再現されているのだ。

 

【その他のゾーン④】館内の通路スペースにも見逃せない機器が

◇ロマンスカーが背景に写り込むプリクラを試してみたい

↑モハ1形の姿をした特製プリクラ機。小田急の車両を絡めたプリクラが楽しめる。左は1階で見かけたカプセルトイの自販機

 

ひと通り館内を紹介してきたが、最後に通路スペースで見つけたものも触れておこう。屋上に出るスペースに置かれていたプリクラ機械。表はヒストリーシアターで出会ったモハ1形の姿で、ロマンスカーを絡めた写真シールが作れる。ロマンスカーだけでなく、通勤電車、モハ1形など古い電車の姿を絡めることもできる。

 

プリクラ機だけではない。1階で見つけたカプセルトイの自販機。ビネットフィギュア(500円/税込)と呼ばれるロマンスカーを絡めた小ジオラマの自販機だった。報道公開の短い時間だったのにも関わらず、「ロマンスカーミュージアム」ではいろいろな発見ができた。

 

じっくり巡れば、館内でまだまだお宝探しが楽しめそうだ。

 

【ロマンスカーミュージアム】

◆営業概要◆

○営業時間:10〜18時(最終入館17時30分)※季節により変動の可能性あり

○料金: 大人(中学生以上)900円、子ども(小学生)400円、幼児(3歳以上)100円
※3歳未満は無料
※一部別途料金のかかるコンテンツがあり

○休館日:第2・第4火曜日
※別途休館日を設ける場合あり

○問い合わせ:TEL046-233-0909(受付時間10〜18時)
※開業前は平日のみ

○予約受付:公式HPで受付
※1か月先まで予約可能

【公式HPはこちら

 

歴代ロマンスカーが揃う小田急新ミュージアムの名車たちに迫る!!【前編】

〜〜4月19日、海老名にロマンスカーミュージアムが開業【前編】〜〜

2021年4月19日、海老名駅前に歴代のロマンスカーを展示保存した「ロマンスカーミュージアム」がオープンする。お披露目となる前に訪れたが、小田急電鉄の“ロマンスカー愛”が強く感じられる施設だった。2回にわたって、こだわりの展示内容と、個々の保存車両について迫っていく。

 

【はじめに】なぜ4月19日(月)にオープンとなったのだろう?

4月19日(月)、小田急電鉄の「ロマンスカーミュージアム」が開業する。場所は神奈川県・海老名駅。駅のほぼ構内にあり、エントランスは東口と西口を結ぶ海老名駅自由通路に面している。小田急電鉄としては初めての鉄道ミュージアムで、構想およそ10年の歳月を経てのオープンとなる。

 

週末ではなく月曜日にオープンするのは、新型コロナウイルスの感染症対策として、入場者が殺到しないようにとの配慮だ。さらに当面の間は、日時指定、完全予約制での入館システムとなる。予約開始は4月1日12時から。予約方法はロマンスカーミュージアムのWEBサイトで紹介されているので、そちらを参照していただきたい。

 

【ロマンスカーミュージアム公式HPはこちら

 

↑海老名駅自由通路に面してエントランス(2階)が。入口にはミュージアムカフェが設けられ電車を見ながら、ひと休みできる

 

さて、4月19日という日程にした理由を担当者に聞いてみたところ、「ビナウォーク(ViNAWALK)の開業記念日に合わせました」とのこと。ビナウォークとは、東口駅前に広がる複合商業施設で、小田急電鉄の関連会社が2002(平成14)年4月19日に開業させた。公園を取り巻くように複数の店舗棟が建ち、多くの人で賑わっている。同施設の開業後に、海老名駅の西口側も大規模開発されるなど、駅前開発の起爆剤になった施設だ。

 

ビナウォークの記念日に合わせて誕生する「ロマンスカーミュージアム」も、新たな海老名の人気スポットとなりそうである。

↑ロマンスカーギャラリー(1階)に並ぶ歴代ロマンスカー。細部まで含め見てまわれば多くの発見があり、見ごたえたっぷりだ(詳細後述)

 

「ロマンスカーミュージアム」はおよそ4つの展示ゾーンに分かれる。1階は「ヒストリーシアター」と「ロマンスカーギャラリー」、2階には「ジオラマパーク」と「キッズロマンスカーパーク」がある。

 

それぞれの展示内容はよく練られていて、非常に奥深い。鉄道好きが訪れたとしたら、もう時間を忘れて、見入ってしまうだろう。それぐらい、中身の濃いミュージアムに仕上げられている。前編では、ミュージアムの骨格となる「ロマンスカーギャラリー」に保存される車両の紹介と、展示の魅力を探ってみたい。

 

【展示車両その①】日本の高速列車の草分けとなった名車両

ロマンスカーミュージアムのメインとなる展示がロマンスカーギャラリーだ。まるで美術館のように趣ある造りで、間接照明により展示された車両が光り輝く。ここには歴代のロマンスカー5車種、10両が展示される。すでに小田急路線を走らない引退車両のみ。かつて、小田急の路線を華やかに彩った名車両に対面でき、しかも至近で見ることができる。

 

大半の車両は、車内へ入ることができる(入れる箇所に一部制限あり)。車両内外を見ると、それぞれのロマンスカーが生まれた背景が透けてくるかのようだ。まさにロマンスカーを通して、時代そのものが見えてくる。保存される1車両ずつ、誕生したころの時代背景と、展示される車両の気になった特徴を見ていこう。まずはSE(3000形)から。

 

◆小田急電鉄SE(3000形)◆

↑SE(3000形)はロマンスカー最初の車両。登場時の姿を殘す正面には「乙女」のヘッドマークが付く。右下は海老名駅構内で保存していた時の姿

 

まずはSE(3000形)。丸みを帯びた正面デザインの車両が3両編成で展示される。こちらのSE(3000形)は、小田急初のロマンスカーとして登場した。ちなみにSEとは「Super Express」を略した愛称だ。

 

生まれたのは1957(昭和32)年のこと。太平洋戦争の痛手も癒え、レジャーにも関心を持つ余裕が生まれてきたころに誕生した。このころから鉄道各社も、観光用の車両作りを本格化し始める。SE車は小田急と国鉄が共同開発して誕生させた特急用車両で、当時としては画期的な技術が盛り込まれていた。

 

国鉄の技術協力を得たこともあり、誕生した1957年には東海道本線で運転試験が行われた。そして、当時の狭軌世界記録・最高時速145kmを達成している。SE(3000形)の誕生は、小田急の電車開発だけではなく、日本の鉄道車両技術を高めることにも結びついた。その後、東京と大阪を結んだ特急「こだま」に使われた特急形電車20系(その後の151系・181系)の製造や、新幹線0系にも、SE(3000形)の技術が活かされている。そのためSE車は「新幹線のルーツ」、または「超高速鉄道のパイオニア」とまで呼ばれた。鉄道友の会が設けたブルーリボン賞の、第1回受賞車両でもある。

 

◇表と裏の顔が違うがさて?

ロマンスカーギャラリーに展示されるSE(3000形)は、表と裏の顔が異なる。表は、なめらかな正面デザインが誕生したころの姿だ(1993年に復元)。一方、反対側の正面には、大きな前照灯があり、連結器用の大きなカバー、そして「あさぎり」というヘッドマークが付けられている。こちらは1968(昭和43)年、国鉄の御殿場線の電化に合わせ、乗り入れ用に改造された姿だ。それまで8両で運行されていたが、改造され5両と短くされた。愛称もSSE(Short Super Express)と小改訂されている。

↑国鉄御殿場線への乗り入れ用に改造された正面デザイン。車体側面には「新宿←→御殿場」というサボ(行先標)が付けられている

 

その一方で、2編成が連結して走れるように連結器がつけられた。形は変わったものの、こちらの正面デザインもなかなか味わいがある。ちなみにSE(3000形)は1992年に引退したが、その後に、海老名駅の構内に設けられた専用保存庫により、30年にわたり保存されていたが、今回、晴れて公開となった。

 

車内の特徴は写真を見ていただきたい。連結器部分などの造りなど、なかなかおもしろい。

↑入場できるのは一部通路のみ。写真は通路からみたSE(3000形)の車内。エンジ色の座席で、窓の造りやカーテンなどに時代を感じさせる

 

↑連結器部分の造り。3000形は連接車のため、この下に台車がある。丸い渡り板部分の構造が面白い。他の小田急連接車とは異なる造りだ

 

【展示車両その②】ロマンスカー初!最前部に展望席を設けた車両

◆小田急電鉄NSE(3100形)◆

↑丸みを帯びたデザインのNSE(3100形)。小田急初の先頭部分に展望席を設けたロマンスカーとして大人気となった

 

ロマンスカーの2世代目として生まれたのがNSE(3100形)だ。NSEとは「New Super Express」という意味を持つ。SE車が非常な人気となり、週末には乗り切れない状態が続いた。そのために、新たに造られたロマンスカーだった。

 

外観から見てもわかるように、この車両から先頭部分に展望席、2階に運転席を設けている。SE車が、軽量化に主眼をおかれて開発されたのに対し、NSE車は、デラックス、快適、安全、高速走行といった要素を重視して開発された。1963(昭和38)年に登場すると、たちまち人気列車となった。展望席を設けた“ロマンスカーらしさ”は、この車両によって生み出された。また、現在では多くの鉄道会社に取り入れられている着席通勤特急の先駆けとして運用されたのも、この車両からだった。

 

その後の展望席を設けたロマンスカーの伝統の礎になった車両であり、現在のVSE(50000形)やGSE(70000形)にもその伝統が活かされている。

 

ちなみに先頭車に展望席を設け、運転台を2階に設置した車両は、名古屋鉄道(以下「名鉄」)の7000系パノラマカーが国内初だった。現在、名鉄ではこうした形状の車両は用意しておらず、先頭車に展望席があり、運転席は2階という形状は、いまや小田急ロマンスカーの定番スタイルともなっている。

 

◇連結器部分の渡り板の違いや、車掌室の造りが興味深い

↑NSE車はより照明の明るさが増している。保存されるSE車は更新した車内のため、違いは明確でないが、SE車誕生時はより暗めだったとされる

 

↑NSE車の連結器部分。SE車と異なり台形の渡り板が使われる。同部分の左には車掌室(左囲み)がある。半透明の扉が時代を感じさせる

 

ロマンスカーミュージアムに保存されるNSE(3100形)は3両。前のヘッドマークは「えのしま」、後ろには「さようなら3100形(NSE)」という、さよなら運転が行われた時のヘッドマークが装着されている。同車両も、SE車と同じく、一部通路に入ることができる。入ると、目の前に車掌室があり、扉は半透明で中がよく見える。

 

今回、展示される車両のほとんどが、現役時の装備そのままで保存されていることが興味深い。車掌室内の機器類も残されていて、思わず見入ってしまう。SE車もNSE車も連接車ながら、SE車は連結器部分に丸い渡り板が使われているのに対して、NSE車は台形の渡り板が使われている。このあたり、使いやすさを考慮した結果の、進化した姿なのだろう。

 

【展示車両その③】ごく最近まで走ったロマンスカー3世代目

◆小田急電鉄LSE(7000形)◆

↑1両のみ保存されるLSE(7000形)。横に並ぶNSE(3100形)に比べるとデザインがより滑らかになったことがわかる

 

ロマンスカーギャラリーではSE(3000形)、NSE(3100形)と並んで展示されるのがLSE(7000形)だ。LSEは「Luxury Super Express」の略。居住性の良さが追求され、デザインも、その愛称のように、より洗練されたイメージとなった。誕生は1980(昭和55)年のこと、SE(3000形)の置き換え用として投入された。ロマンスカーとしては3世代目にあたる。先輩にあたるSE車や、NSE車に比べて勾配の登坂能力が向上し、箱根登山鉄道の急勾配もラクに走れるように改善されている。

 

このLSEは最近まで走っていたこともあり、乗った、また見たという方が多いのではないだろうか。じつはLSE車のあとに、2形式のロマンスカーが生まれている。この2形式に比べて“長生き”したロマンスカーであり、引退したのはごく最近の2018年7月のことだった。

 

◇この車両のみは車内は非公開に

LSE車の保存は先頭1両のみ。展示される5車種のうち、LSE車のみ車両内が非公開とされた。ちょっと残念なところだ。ちなみに同車両は11両編成。計44両が長年にわたり走り続けた、ロマンスカーの中でもご長寿車両である。

 

【展示車両その④】ハイデッカー車らしい景色の良さが魅力だった

◆小田急電鉄HiSE(10000形)◆

↑ワインレッドの塗装で人気だったHiSE(10000形)。人気だったものの、四半世紀で引退となった、ちょっと残念な車両でもあった

 

オレンジベースだったロマンスカーのイメージを大きく変えたのが、このHiSE(10000形)である。新しい時代を走るロマンスカーとして、ワインレッドを基調にしたカラーで登場した。登場したのは1987(昭和62)年のこと。床の高さを上げて景色がよく見えるようにと、ハイデッカー構造とした。

 

登場時には、他社でもハイデッカー構造にした観光列車が多く現れている。当時の観光列車の多くに採用されたスタイルだった。愛称のHiSEは「High Super Express」の略。この愛称のように展望席や、連接構造、運転制御など、車両技術も成熟した構造だったこともあり、その完成度の高さから、運転士にも人気の車両だったとされる。1987(昭和62)年に登場し、11両×4編成が製造された。

 

人気だったのにもかかわらず、引退は早く2012(平成24)年3月のこと。2000(平成12)年に交通バリアフリー法が施行され、車両更新する際にはバリアフリー化が義務化された。HiSE(10000形)は高床構造を採用したため、更新時のバリアフリー化が難しいと判断され、引退を余儀なくされた。その後、一部の車両が長野電鉄に引き取られ、長野電鉄1000系「ゆけむり」となり、今もワインレッドの登場時の姿で信濃路を走り続けている。

 

◇目の前で連接台車が見ることができる展示方法が何とも楽しい

↑HiSEの展望席スペース。赤青異なる座席が配置されていた。上にある運転室の写真も展示。運転室は意外に広かったことがわかる

 

↑通路側に階段がある高床構造だった。この階段があることでバリアフリー化が適わず、早めの引退となってしまったわけだ

 

ミュージアムでHiSEは先頭車1両のみの展示となる。車内には入ることが可能で、着席もできる。2000年当時に取り入れられた交通バリアフリー法は、今ならば、このぐらいの階段は大丈夫なのではと思われるが、厳密に可否が判断されたようだ。今も2階建て車両などが走る路線があるわけで、なぜHiSEが早めの引退を余儀なくされたのか、少し不思議に感じた。

 

今回の展示では、1両のみということもあり、連接車ならではの特徴を見ることができる。連結器部分の下にある台車を覆うものもなく、直に見ることができるのだ。連接台車が、こうやって一般の人の目に触れるということも希少なことであろう。メカニカルな台車でなかなか味わいがある。

↑HiSEの連接台車。住友金属製のFS533Aという台車で、その構造がよくわかる

 

【展示車両その⑤】御殿場線乗り入れ用の車両として生まれた

◆小田急電鉄RSE(20000形)◆

↑RSE(20000形)は先頭車と2階建て車両の2両を保存。先頭車はトップナンバーの20001(右下)が展示保存される

 

展示される5車両目はRSE(20000形)。愛称のRSEは「Resort Super Express」の略である。RSEは御殿場線乗り入れ用として1991(平成3)年に造られた。JR東海では同じ仕様の371系を製造し、相互乗り入れを行う形がとられた。371系と同じ仕様としたこともあり、ロマンスカーとしては初めて、連接構造をやめて通常の台車2つの姿に、また展望席を設けない構造とした。一方で、初の2階建て車両を連結し、テレビ付きシートや、グループ利用を念頭にした個室などの特別席を設けた。富士山の麓を走る列車ということで、愛称にもリゾートという名前を付けた車両だった。

 

このRSE(20000形)も登場当初は人気だったものの、引退は予想外に早く2012(平成24)年3月に最終運転が行われている。走った期間は21年と、鉄道車両としては“短命”だった。その理由としてはHiSE(10000形)とともに、バリアフリー化に不向きだったこと。また、登場当時はバブル期だったため、個室の造りなどが豪華で、その後の利用者増に結びつかなかったためとも言われている。

 

短命に終わったRSE(20000形)だが、引退後に、一部の車両が富士急行に引き継がれ、8000系「フジサン特急」として走り続けている。小田急での現役当時は静岡県側から富士山を見て走ったが、小田急引退後の今は、山梨県側から富士山を眺めて走り続けている。

 

◇サービスコーナーのレンジや冷蔵庫もそのままで

↑広々したRSE(20000形)の運転室。運転室内は入れないが客室からの見学が可能。一番前の座席が展望に優れていたことが分かる

 

RSE(20000形)の展示車両は先頭車に加えて2階建て車両の2両で、この2両は運転室や、2階建て車両の客室などを除き、車内へ入ることができる。1991年の製造ということもあり、それほど古さは感じさせない。先頭車の車内は運転室の後ろまで入ることができ、運転室の中がよく見渡せる。

 

さらに車内には、飲み物などを用意するためサービスコーナーがある。このコーナーは現役時代のままの姿で残されている。そこには電子レンジや、業務用の冷蔵庫も残る。また、カウンターの後ろには「焼酎お湯割り始めました!!」というPR用ポスターが貼ったままだ。ミュージアムの車両というと、こうした運転に関係ない機器類は、外されている場合が多い。ましてやPR用のポスターともなると普通ははがすのではないだろうか。

 

しかし、今回開業する「ロマンスカーミュージアム」では、こうしたロマンスカーが走った時代を感じさせるいろいろな品々まで、そのまま残して見せている。これまでの鉄道ミュージアムにはなかった、時代背景そのものを、ロマンスカーを通して見せようという姿勢に、とても好感が持てた。

↑2階建て車両のグリーン席は横3列の座席配置。豪華さが感じられる。足元の幅、シートピッチも1000mmと格段に広い造りだった

 

↑車内販売のベースだったサービスコーナー。業務用の冷蔵庫やレンジなど現役当時そのまま。PR用のポスターもあり今にも走り出しそう

 

 

※【後編】ではヒストリーシアターなど「ロマンスカーミュージアム」でのその他の見どころ満載でお届けする予定です。お楽しみに。

 

【ロマンスカーミュージアム】

◆営業概要◆

○営業時間:10〜18時(最終入館17時30分)※季節により変動の可能性あり

○料金: 大人(中学生以上)900円、子ども(小学生)400円、幼児(3歳以上)100円
※3歳未満は無料
※一部別途料金のかかるコンテンツがあり

○休館日:第2・第4火曜日
※別途休館日を設ける場合あり

○問い合わせ:TEL046-233-0909(受付時間10〜18時)
※開業前は平日のみ

○予約受付:公式HPで受付
※1か月先まで予約可能

【公式HPはこちら

誕生から半世紀!国鉄交直流電車「415系」などの最新状況を追う

〜〜国鉄形電車の世界その10 交直両用近郊形電車・交流近郊形電車〜〜

 

国鉄形電車の世界ということで、これまで直流電車を中心に見てきた。今回は、国鉄時代に生まれた交直両用および交流電車を見ていきたい。なかなか個性的な電車が今も九州と北陸地方を走っている。

 

残念ながら北陸地方ではこの3月で消えていく車両があるものの、引き続き走らせる第三セクター鉄道がある。今や希少になりつつある車両たちを追った。

 

【はじめに】九州を中心に長らく走った415系にも引退の動きが

今でこそ新幹線の路線をはじめ珍しくなくなった交流電化区間。交流電化は送電ロスが少なく地上設備のコストを低く抑える利点がある。

 

国内の交流電化の起源をたどると、その歴史は意外に浅い。1955(昭和30)年に仙山線がまず電化され、交流電化の試験が始められた。その後に北陸本線で1957(昭和32)年から、東北本線で1959(昭和34)から交流電化が進められ、徐々に全国に広まっていった。

 

ただし、電化は進んだものの対応する車両に関しては試行錯誤が続いていた。地域による商用周波数の違いが課題となった。東日本は50Hzで、西日本は60Hzと周波数が異なる。こうした経緯もあり試行錯誤が続いていたが、そんななか、その後に大きな影響を与える名車両たちが生み出された。

↑交直両用特急形寝台電車583系。直流と交流50/60Hzの3電源区間を走ることができた。2017年に引退 2010年12月18日撮影

 

当初に生まれた交直両用電車は直流電化区間と、交流ならば、50Hzもしくは60Hzどちらかのみに対応する車両だった。その後に直流および、交流50Hzと60Hzの両周波数への対応を可能にした車両が生み出される。まず特急形電車485系が1968(昭和43)年に登場する。同年には特急形寝台電車583系も生まれた。また電気機関車では3電源に対応するEF81形交直流電気機関車が1968年に登場した。さらに1971(昭和46)年に近郊形電車の415系が誕生したのだった。

 

これらの車両は、交直流電車また電気機関車としては、まさに標準タイプとなり、その後、長年にわたり交直両用区間を走る列車に使われ、また後世の車両開発をする上で大きな役割を果たした。

 

◆JR東日本の415系はすでに全車が引退に

交直両用近郊形電車として開発された415系。生まれて今年で50年、ちょうど半世紀になる。製造された期間は非常に長く、国鉄からJRとなった後にも製造が続き、1991(平成3)年まで計488両が製造された。それだけ技術に定評があり使い勝手の良い車両だったのであろう。

 

うち国鉄時代生まれの415系はJR東日本とJR九州に引き継がれ、JRになった後に800番台がJR西日本により造られた。

↑水戸線を走ったステンレス車体の415系1500番台。JR東日本の415系は2016年6月に営業運転が終了した 2013年9月19日撮影

 

JR東日本の415系は常磐線を中心に水戸線などで長らく活躍した。最後に残った415系は軽量ステンレス車体の1500番台だったが、これは国鉄最末期の1986(昭和61)年から造られたもの。現在の211系にも通じる、正面デザインがFRP成形によって造られている。ちょうど30年目の2016年3月のダイヤ改正時に勝田車両センターの車両の定期運用が終了。6月に「ありがとう415系号」が運転され、最後の別れとなった。残る415系は、JR九州とJR西日本のみとなっている。

 

◆関門トンネルと越えるために欠かせないJR九州の415系

JR九州に残る415系は車両数も多くバラエティに富む。配置されている車両基地と細かな違いは後述するが、3か所の車両基地に計160両(2020年4月1日現在/保留車両8両を含む)が配置される。

↑鹿児島本線を走る415系。後ろに正面デザインが異なる415系1500番台を連結して走る

 

ここまで生き延びている大きな理由は、JR九州では唯一の交直両用電車だったからだ。JR九州では、路線の大半(筑肥線・唐津線を除く)が交流電化区間だ。保有する電車は交流電車が大半をしめる。ほかは筑肥線、唐津線を走る直流電車のみだ。JRとなった後には、自社で交直両用電車を新造していない。とはいえ、関門トンネルを越える山陽本線の門司駅〜下関駅間は、交流から直流に電源が変わる区間で、このトンネルを越えるためには交直両用電車が必要となる。関門トンネルを越える旅客列車はすべてJR九州の電車によって運行されている。対応する新型電車を造らない限り、415系を廃車にしてしまうわけにはいかないわけだ。

 

ただ、徐々にだが、415系の初期タイプの車両の引退が報告されている。関門トンネルを抜ける以外の列車には、今後、後継車両に引き継がれていくものと思われる。

 

【415系が残る路線①】南福岡車両区の415系は1500番台のみ

まずは九州の中心、福岡市にある南福岡車両区の現状から見ていこう。

 

◆車両の現状:1500番台のみ48両が配置される

鹿児島本線の南福岡駅に隣接する南福岡車両区。筆者も九州を訪れると、南福岡駅に降りて、車両基地内をチェックすることが多い。5番線のホームからは、停まる電車が手に取るように見える。そこに配置される415系は1500番台。前述したように軽量ステンレス製の車体で、正面の姿は211系と同じくFRP成形で、415系の仲間の中では新しいタイプである。座席はロングシート仕様だ。

 

この415系1500番台が4両×12編成の計48両(2020年4月1日現在)が配置されている。

↑長崎本線を走る415系1500番台。座席はロングシートで、朝夕のラッシュ時に多くが活かされている

 

◆運用の傾向: 関門区間をはじめ鹿児島本線など朝夕の運用が多い

細かい運用は、3月のダイヤ改正で変わる可能性があるので、ここでは避けたい。運用区間と、傾向のみを見ておこう。

 

運用される区間は広い。山陽本線の下関駅〜門司駅間。鹿児島本線の門司港駅〜熊本駅間。日豊本線の小倉駅〜新田原駅(しんでんばるえき)間、長崎本線全線、佐世保線の肥前山口駅〜早岐駅(はいきえき)間を走る。

 

関門区間を除き、南福岡車両基地の415系は、朝夕晩の運用がほとんどだ。JR九州の電車の座席はクロスシートが多いが、415系1500番台はロングシート。その座席配置がラッシュ時に活かされている形だ。

 

【415系が残る路線②】広範囲に走る大分車両センターの415系

◆車両の現状:2扉の3000番台が主力となって走る

日豊本線の牧駅近くにある大分車両センターに配置される415系は88両(2020年4月1日現在/保留車8両を含む)と多い。うち4両×18編成、計72両が100番台と200番台にあたる。415系100番台・200番台は、1978年から製造されたグループで、セミクロスシートの座席配置だが、クロスシートの座席間のシートピッチがやや広げられている。狭いと不評だったそれまでの415系のシートピッチの幅をやや広げたグループというわけだ。

 

100番台・200番台は1984年まで造られたが、最も新しい車両でも約40年に近いわけで、大半の編成が延命工事を受けている。とはいえ、415系の最も車歴の長いグループと言って良いだろう。塗装は白をベースに太めの青い帯が入る。この塗装は1500番台を除きJR九州の415系に共通するカラーだ。

↑大分車両センターの415系は日豊本線の佐伯駅まで走る。415系は日豊本線の列車運用に欠かせない車両といって良いだろう

 

大分車両センターにはロングシート仕様の500番台・600番台の4両1編成が配置されているが、こちらは保留車扱いとなっている。さらに正面の形が異なる415系1500番台も4両×2編成、計8両が配置されている。

 

◆運用の傾向: 遠く長崎本線、佐世保線までも走る

大分車両センターの415系の運用範囲は、非常に広い。まずは山陽本線の下関駅〜門司駅間。鹿児島本線の門司港駅〜八代駅間。日豊本線の小倉駅〜佐伯駅(さいきえき)間、長崎本線(鳥栖駅〜肥前山口駅間)、さらに佐世保線を走る。鹿児島本線では、現在、肥薩おれんじ鉄道の路線となっている区間の北側全区間を走っているなど、南福岡車両基地の415系よりも、広い運用範囲となっている。

 

走る時間帯も、日豊本線を中心に日中も走っている。オリジナルな姿を残す415系に、九州の多くの電化区間で出会えるわけだ。

 

【415系が残る路線③】鹿児島車両センターの415系は500番台

◆車両の現状:ロングシートで鹿児島市近郊の路線で活かされる

JR九州の415系が配置される車両基地、3か所めが鹿児島車両センターだ。鹿児島車両センターは、鹿児島中央駅の南側にある車両基地だ。鹿児島車両センターの415系はすべてが500番台・600番台で、4両×6編成、計24両が配置される。

 

500番台・600番台は1982年からの製造と、オリジナルな姿を残す415系の中では比較的、新しいグループに入る。すべてがロングシートの座席で、元は常磐線用に造られた。国鉄最末期の1986(昭和61)年に南福岡電車区に4編成が転籍し、その後にJR東日本から2編成がJR九州に譲渡された。415系500番台・600番台で残る編成の大半が、今は鹿児島車両センターに配備され、走り続けているわけだ。

↑鹿児島駅を発車した415系。行先に「川内」とあるように鹿児島本線の鹿児島県内区間を通して走る列車だ

 

◆運用の傾向: 鹿児島本線と日豊本線の一部区間を走る

運用の範囲は鹿児島本線の鹿児島駅〜川内駅(せんだいえき)間と、日豊本線の鹿児島駅〜都城駅間となる。川内駅から八代駅間まで、今は肥薩おれんじ鉄道となっている。改めて見ると鹿児島本線は、南の鹿児島県内と、北の門司港駅〜八代駅の区間すべてを415系が走っていることになる。

 

現在の運用区間は前述の通りだが、鹿児島車両センターには2両編成の817系が多く配置されている。両路線に運用を見る限り、2両編成の817系が主力で、4両編成の415系は朝夕のラッシュ時の運用が多いようだ。

 

【415系が残る路線④】JR西日本415系はあと数日でお別れに

◆電化後の七尾線を30年間走り続けた415系800番台

↑七尾線に縁の深い輪島塗にちなみ赤色に塗られた415系800番台。3月13日以降は全車が521系100番台に入れ替わる

 

415系はJR西日本にも残っている。113系を改良した“わけあり”の415系800番台で、形は113系に近い。なお詳しい車両の特徴は2週前の記事を見ていただきたい。

 

【関連記事】
2021年すでに消えた&これから消えていく?気になる車両を追った【前編】

 

こちらが走り始めたのは七尾線が電化された1991(平成3)年のこと。今年でちょうど30年となる。113系からの改造なので、もちろん30年以上の車歴を持つ電車となるが、残念ながら3月12日までの運行となる。

 

【残る交直流電車】JR西日本の413系は消えるものの

七尾線を長く走ってきた415系とともに3月12日で引退となるのが413系である。413系は直流区間と、交流50/60Hzの3電源区間を通して走れる近郊形電車だ。経営状態がひっ迫していた国鉄最末期らしく、新製ではなく、既存の交直両用の急行形電車の部品を使い回して造られた車両だった。

 

415系と正面などの姿はほぼ同じだが、正面上部にある行先案内の部分が埋められ平坦に、また乗降扉が2つというところが415系と異なる。

 

31両が石川県の旧松任工場(現・金沢総合車両所)で改造された。そして長らく改造された同車両所に配置され、北陸地区を走り続けてきた。金沢総合車両所に18両(クハ455の2両を含む)が配置されていたが、3月12日で運用が終了となる。

↑2012年以降、青色単色塗装となった413系。JR西日本に残る413系は赤色単色塗装(右上)に変更された

 

◆あいの風とやま鉄道の413系は残る、そしてうれしいニュースも

JR西日本の413系は3月12日で、すべて定期運行が終了となる。一方で2015年に旧北陸本線を引き継いだあいの風とやま鉄道に、5編成、計15両が譲渡された。こちらの413系は全編成が残る。

 

そのうち2編成は観光列車の「一万三千尺物語」と「とやま絵巻」と改造された。こちらは改造されて間もないだけに、今後、かなりの年数は走り続けることになりそうだ。

↑あいの風とやま鉄道の413系「一万三千尺物語」号。車内で富山の幸が楽しめる観光列車で、週末および祝日に運行される

 

さらに413系を巡ってはうれしいニュースがあった。えちごトキめき鉄道が金沢総合車両所に配置されている413系3両を引き取ることを3月1日に発表した。えちごトキめき鉄道の現在の社長といえば鳥塚 亮氏。以前に勤めていた千葉県のいすみ鉄道では、国鉄形の気動車を引き取り観光列車として仕立てた。地方のローカル線の救世主といっても良い人である。鳥塚氏から近々この引き取る413系に関して、詳しい発表があるということなので、期待したい。

 

【残る交流型電車】わずか8両の713系が宮崎で今もがんばる

ここでは、わずかに残る国鉄時代に生まれた交流型電車を見ておきたい。交直両用の電車は多くの車両数が造られた。一方で新幹線用の電車を除き、国鉄は在来線向けの交流専用の電車をあまり積極的に開発していない。

 

交流専用の近郊形電車として造ったのは、北海道用の711系と九州用の713系のみだった。あとは改造した車両もしくは、旧形車両の機器を流用して製造した車両だった。

 

◆宮崎によく似あう鮮やかな「サンシャイン」号

↑宮崎空港線を走る713系。車両前面に「サンシャイン」のイラストと文字が入る。色は南国宮崎によく似あう鮮やかなレッドだ

 

713系は九州用に造られた交流型電車だ。九州では交流方式による電化が進められていたが、当初、電気機関車が牽引する普通列車が主体だった。国鉄では電車化し、効率化を図りたいこともあり、徐々に電車を導入していく。415系とともに、583系を改造した交流型電車715系などを利用していたが、車両不足が問題となっていた。そんな時に長崎本線用に導入されたのが713系電車だった。1983(昭和58)年のことだった。

 

当時、国鉄は財政ひっ迫に苦しんでいた。本来は量産化する構想もあったようだが、結局のところ713系は試作分の8両(2両×4編成)しか製造されなかった。だが、713系により営業運転を重ねたことから、技術的な成果を得ることができた。713系で培った技術は、その後に九州を走る783系や787系特急形電車や、811系近郊形電車に活かされている。

 

8両と少ない713系だったが、当初、南福岡車両区に配置された。1996(平成8)年に鹿児島車両センターに転籍し、以降、宮崎地区での運用が続けられている。この移動と共に、車体の色は鮮やかな赤色ベースに変更され、また車両の愛称も「サンシャイン」とされた。

 

運用区間は日豊本線の延岡駅〜西都城駅間と、宮崎空港線となっている。宮崎駅のお隣、南宮崎駅の構内に宮崎車両センターがある。気動車が配置される車両基地だが、713系も宮崎地区専属の車両ということもあり、運用がない時間帯にはこの駅構内の側線に停められていることが多い。

 

【記憶に残る交直両用電車】“食パン列車”に急行形交直流電車

◆寝台特急583系を普通電車に改造した419系電車

今回は、最後に記憶に残る交直両用電車を2車両とりあげておきたい。交直両用電車は、国鉄晩年に造られた車両が多いせいか、個性的かつ、悪い言い方をすれば“間に合わせ”的な車両が目立つように感じられる。変動期だった時代ということもあり、さまざまな電車がこの時代に生まれ使われた。今から見ると玉石混合の車両が走った時代で、非常に面白い。

 

419系という国鉄近郊形電車をご存知だろうか。特急形寝台電車583系もしくは581系を改造した近郊形電車だった。特急形寝台電車というユニークな発想で造られた583系は、日中は座席車、夜間は座席を寝台に代えて走らせる電車だった。まさにCMではないが“24時間戦えますか”というような“猛烈”時代の申し子的な電車だった。

 

とはいえ、時代は変っていく。座席は快適とは言えず、また寝台も3段式。座席から寝台へ変更する方法も複雑で、専用スタッフが必要になるなど問題もあった。583系は434両も製造されたのだが、新幹線網が拡大された時代でもあり、1980年代に入ると大量に余剰車両が出てしまった。

 

この寝台電車を改造して生まれたのが交直両用電車の419系であり、また交流専用に改造された715系だった。419系は45両、そして715系は108両も改造されている。いずれも国鉄末期の1984年、85年に改造されている。財政悪化の時代で、低コストで、改造が可能なようにと計画され、2回の全般検査を行う8年程度と短期間の使用を目処に生み出された車両だった。

 

↑天井が高い造りの419系。中間車の改造車両は “食パン列車”とも呼ばれた。右下は先頭車を利用した419系 いずれも2010年7月17日撮影

 

“間に合わせ”的な発想というか、元となった583系にしても新幹線路線の計画を考えれば、場当たり的に大量に造ってしまったように感じられる。振り返ってみると、国鉄の現在のような民間企業でない太っ腹さが裏目に出た車両だったといってもいいかも知れない。改造元の583系としても12両編成と長い編成が多く、それを3両編成と小分けにし、しかも乗降扉を2つ設けるなど大改造をしているわけで、改造費が安く済んだとは言いがたかったろう。

 

そんな583系を改造した419系、715系だったが、JRになった後にも使われ、交流専用機の715系は1998年と引退が早かったものの、419系にいたっては2011年までは北陸本線で使われ続けた。国鉄時代に8年程度もたせられればというプランで造られた419系も、改造後に30年近く走り続けたわけである。

 

それこそ“場当たり”的な改造電車も、583系の丈夫さが活かされ、長く使うのに適した車両だったということなのかも知れない。

 

◆北陸をつい最近まで走った急行形交直流電車475系

最後まで残った419系が北陸地区を走ったように、同地区にはつい最近まで交直両用の急行形電車が残っていた。国鉄の急行列車は、特急の下にランク付けされた優等列車で、急行券を購入して利用した。特急に比べてスピード、快適さは劣るものの、大量輸送時代、鉄道旅のスタイルとして確立されていた。筆者も幼いころに、両親につれられて、よく急行の旅を楽しんだ。

 

そんな急行形電車もJRとなり急行列車自体が、減るにつれて活躍の場がなくなり、その後に全廃された。そのため急行用に造られた電車は、近郊形電車と同じ使われ方をされるようになっていく。

↑敦賀機関区の催しでトワイライトエクスプレスを牽くEF81と475系が並んだ。同地には交流電化発祥之地の碑がある。2014年11月16日撮影

 

475系は交直両用の急行形電車の一形式である。形式名の異なる仲間が多く造られた。まず生まれたのが交流50Hzに対応の451系と、60Hz対応の471系だった。この2タイプは電動機出力が100kWと弱かったこともあり、その後に120kWの電動機に変更した50Hz対応の453系と60Hz対応の473系が生まれている。さらに453系と473系に勾配抑速ブレーキを積んだ455系と475系が生まれている。

 

交直両用の急行形電車は大半が2000年代で消えたが、北陸の金沢総合車両所には長らく配置され、使われ続けていた。電動車はモハ475やクモハ475で、制御車はクハ455、また増結用にはサハ455という、数字の異なる編成でいささか分かりにくかったが、クハ455を含めて475系と見て差し支えないだろう。すでに電動車は2017年で消えている。だが、実は413系と編成を組んでいるクハ455が2両のみ残されていた。

 

すでに電動車が消えているため、形式消滅と思われている475系なのだが、編成を組んでいたクハ455は制御車として目立つことなく走り続けていたのである。このクハ455も3月12日でその長かった役目を終えることになる。ちょっと寂しい春の訪れである。

新快速として輝き放った国鉄近郊形電車「117系」を追う

〜〜国鉄形電車の世界その9 「117系」「211系」「213系」〜〜

 

スピードランナーといった風貌の117系、国鉄最末期に生まれた211系と213系。それぞれ、直流近郊形電車を代表する車両として長らく走り続けてきた。

 

今回は、“新快速”として東海道・山陽本線を走った117系を中心に、今も多くが活躍する211系、車両数は少ないながらもローカル線を走り続ける213系と、国鉄近郊形電車のいまに迫ってみよう。

 

【はじめに】JR西日本の117系にも徐々に引退の動きが

大阪出身の友人いわく「新快速はなあ、新幹線よりも速くて安くて便利なんやでぇ」。30年以上も前に聞いた言葉を、今も鮮明に覚えている。関西の人たちにとって、「新快速」は他所の人たちについ誇りたくなる電車ということだったのだろう。もちろん新大阪駅〜京都駅間のみならば、新幹線のほうが早い。だが、大阪駅〜京都駅間と広げて見れば侮れない速さと手軽さなのである。

 

友人が誇らしげに語った「新快速」の電車といえば、そのものずばり117系直流近郊形電車を指したものだったのであろう。1979(昭和54)年に登場、1986(昭和61)まで216両が製造された。117系が登場するまで、新快速には急行形電車の153系が使われていた。急行形ということで乗り心地は良かったものの、昭和30年台の誕生と古く、ボックスシートなどの車内設備が陳腐化しつつあった。

 

◆平行して走るライバル社との競争が117系を生み出した

東海道本線が走る大阪〜京都間には、阪急電鉄京都線と京阪電気鉄道京阪本線がほぼ平行して走る。古くから競争がし烈で、私鉄の2線ではすでに転換クロスシートを取り入れた車両が走り、好評を得ていた。そうしたライバル路線との競争に負けないようにと国鉄が生み出したのが117系だった。

↑クリーム色のベースにブラウンの細帯が入る117系登場時の原色カラー。現在、同色の車両は走っていない 2015年9月22日撮影

 

117系が誕生するまで、国鉄の通勤形電車、近郊形電車は全国で利用ができる標準的な車両を生み出す傾向が強かった。しかし、関西圏では競争が激しかったこともあり、乗りたくなる魅力を持った電車の開発に乗り出した。そうして生まれたのが117系だった。急行形を上回る乗り心地と、快適な室内設備をかね備え、同じ近郊形電車の113系の最高運転速度が100km/hに対して、117系は110km/h(西日本の117系は115km/h)とより速く走れるような造りだった。

 

登場以降、好評となり1999(平成11)年まで20年にわたり新快速として走り続けた。1982(昭和57)年には東海地区にも117系が導入されている。こちらは「東海ライナー」という愛称で走り始めた。

 

◆117系が残るのはJR西日本のみに

国鉄からJRに変わって以降、117系はJR西日本に144両が、JR東海に72両が引き継がれている。それから30年以上たった117系の現状は……? すでにJR東海では2013(平成25)年3月のダイヤ改正時に定期運用が終了、翌年1月で全車が引退している。

↑東海道本線の稲沢駅付近を走るJR東海の117系。白地にオレンジ色の帯が巻かれていた。左に愛知機関区が見える 2011年5月22日撮影

 

残るのはJR西日本の82両(2020年4月1日現在)となっている。まだ“大所帯”なものの、ここ数年、廃車や移動する車両がやや見られるようになってきた。例えば、2019年まで吹田総合車両所日根野支所・新在家派出所には117系は20両が配置(2019年4月1日現在)され、紀勢本線などを走り続けていた。オーシャンブルーに塗装された華やかな姿の117系だったが、翌年までに同車両基地の117系は、引退および、一部が別の車両基地へ移動となった。

 

今後、JR西日本では経年33年以上たった車両、すなわち国鉄時代に誕生した車両の置換えを行うとしている。そのうち車両置き換えが具体化しているが113系と117系で、約170両を新製車両に置換えるとされる。置換え予定の年度は2022〜2025年度とのことだ。

↑オーシャンブルーの華やかなカラーで紀勢本線などを走り続けてきた和歌山地区の117系。2020年で消滅している 2018年10月13日撮影

 

和歌山地区の117系がわずかな期間で消えたように、置換えが始まると、あっという間に、ということになる。40年にわたり活躍してきた117系も、徐々に消えていきそうな気配だ。最後の“職場”となりそうな2つのエリアの117系の活躍ぶりを見ていくことにしよう。

 

【関連記事】
残るは西日本のみ!国鉄近郊形電車「113系」を追う

 

【117系が残る路線①】渋い濃緑色で走る湖西線・草津線の117系

まずは117系が最も多く走る京都地区に注目してみよう。

 

◆車両の現状:京都地区に残る117系は“実質”52両のみに

京都地区を走る117系はすべて吹田総合車両所京都支所に配置されている。その車両数は56両(2020年4月1日現在)、後に新在家派出所に配置されていた2両が加わり58両になっている。そのうち6両は観光列車「WEST EXPRESS銀河」に改造された車両なので、普通の117系は52両と見て良いだろう。

 

その多くが300番台だ。300番台は福知山線用に改造された車両で、乗降時間をスムーズにするために、扉付近の転換クロスシートの一部をロングシートに変更していた。福知山線での運行が2000年で終了した後に京都地区へ移っている。

 

京都地区を走る117系は、以前はクリーム色にブラウンの細帯の117系の原色カラーに塗られた編成もあったものの、その後に地域色の緑色一色に塗り改められている。京都に宇治という茶の産地があるせいか、鉄道ファンからは“抹茶色”とも言われるカラーだ。

↑緑一色で走る京都地区の117系。同路線を走る113系に比べて重厚な印象に見える

 

◆運用の現状: 6両での運行が多いせいか朝夕の運用がメインに

京都地区を走る117系は湖西線の列車と、草津線の列車に使われている。湖西線の列車は京都駅〜永原駅間、草津線の列車は主に草津駅〜柘植駅(つげえき)間を走る。

 

運用の傾向を見ると、どちらの路線も朝夕の運用が目立つ。これは両区間を走る113系とのかねあいがあるためだ。113系は4両編成で、利用者が少なくなる日中は113系が4両編成で走ることが多い。また113系の場合に朝夕は2編成を連ねた8両で走る運用が多くなる。対して、117系は6両編成がメイン(1編成のみ8両編成)のため、どうしても利用者が多くなる朝夕の運用が増えている。

↑湖西線の近江高島駅〜北小松駅間を走る上り列車。朝8時少し前に通る列車で、このあと30分後にも117系運用の上り列車が1本走る

 

それぞれの路線の運用傾向を詳しく見ると。まず、湖西線は京都駅発の下りが6時台〜9時台まで各一本ずつ、以降は14時台〜17時台まで1〜2本ずつ、あとは20時台に2本が走る。行先は近江舞子駅行、または近江今津駅行が目立つ。上りは下りのほぼ折り返し列車だ。

 

一方の草津線では、113系の運用が多くなっていて、117系はこちらも朝晩の運行が多い。京都駅発(一部は草津駅発)、柘植駅行きは京都駅発16時23分以降のみと極端で、22時台までに計5本が走る。117系で運行される列車は夜の柘植駅行きの戻りは翌朝で、柘植駅を早朝5時40分発と、7時42分発、日中はなく、17時以降、21時まで3本の京都駅行き、草津駅行き列車がある。こう見ると、草津線で陽がある時間帯に走る列車は、柘植駅発7時42分、京都駅9時2分着ぐらいに限られるわけだ。

 

なお、これらの運用は、ダイヤ改正が行われる前日の3月12日までのものなので、ご注意いただきたい。

 

【117系が残る路線②】岡山地区を走る黄色一色の117系

◆車両の現状:2扉の3000番台が主力となって走る

瀬戸内海に面した山陽3県の中でも、岡山は国鉄近郊形電車がまだ主力として使われている。113系、115系、さらに105系、213系(後述)が中心だ。117系もその中では少なめながら岡山電車区に24両が配置されている。

 

岡山電車区の117系は、基本番台が4両×3編成と、100番台が4両×3編成という内訳だ。ちなみに100番台は循環式汚物処理装置付きのトイレを持つタイプだったが、当初に配置された岡山電車区に、同処理装置への対応したシステムが無かった。そのため山口地区へ一度、移動されていた。その後に、トイレの汚物処理装置がカセット式に取り換えられ、岡山へ再び戻ってきている。

 

塗装は「快速サンライナー」に利用されていたことから、2016年まで専用のサンライナー色で塗られていた。現在は全車が中国地域色の濃黄色に塗り替えられている。

↑岡山地区を走る117系は、全車が4両編成。2016年まではサンライナー色の117系も走っていた(右上)が、現在は全車が濃黄色一色だ

 

◆運用の現状: 今も「サンライナー」全列車に117系が使われる

岡山地区の117系の運用を見てみよう。岡山地区の117系は主に山陽本線を走っている。運用範囲は岡山駅〜三原駅が多い。また赤穂線(あこうせん)にも乗り入れる。そのために、赤穂線に分岐する東岡山駅までは山陽本線を走る。すなわち山陽本線の三原駅〜東岡山駅間の運用のみとなるわけだ。赤穂線内は、播州赤穂駅〜東岡山駅間で、その先の相生駅まで赤穂線を通り抜ける列車の運用はない。

 

117系の運用は朝と夕方・晩が多い。早朝から10時台まで下り列車(三原駅方面)が4本、上り列車(岡山駅方面)が4時台から11時台まで7本が走る。日中の運用はない。その後の運用は15時台以降からで、ここでは下り、上りともに快速「サンライナー」の全列車に117系が使われている。岡山地区を走る「サンライナー」は岡山駅〜福山駅間を走る快速列車だ。ここで117系は、普通車自由席の列車ながら、優等列車として走っているわけだ。「サンライナー」は117系が唯一、輝きを見せる列車と言って良いだろう。

 

ちなみに赤穂線での運用は朝晩のみで4往復が走る。東は播州赤穂駅まで走る列車が1往復あるものの、他は長船駅(おさふねえき)もしくは西大寺駅までしか走らない。赤穂線内の運用はごく希少となっている。

 

◆117系の今後はどうなるのだろう

前述したように、国鉄形電車の置換え計画がJR西日本からすでに発表されている。113系、117系の約170両が新製車両に置換えとあり、その期限は2025年度とされている。

 

どちらかに配置された113系、117系が消滅する。まずは京都地区からと見るのが妥当だろう。吹田総合車両所京都支社には113系が64両、117系が58両(うち6両は「WEST EXPRESS銀河」)が配置され、両形式合わせて計122両となる。

↑山陽本線や山陰本線などユニークな運行方法で走る「WEST EXPRESS銀河」。117系改造車両を活かした臨時特別急行列車だ

 

このうち「WEST EXPRESS銀河」に改造された117系だが、この編成は今後、かなりの期間、残ることになるだろう。計画では残り50両強が置き換えられるが、これはやはり岡山地区の113系か117系になるかと思われる。117系で最後まで残るのは観光列車の「WEST EXPRESS銀河」のみとなるのだろうか。

 

【すでに消えた形式】国鉄近郊形電車119系と121系

ここではやや寄り道となるが、国鉄形近郊列車として活躍し、消えていった電車を抑えておきたい。117系よりも数字が上の電車には119系と121系がある。両車両とも、消えたのが近年のことだった。

 

◆特殊な事情を持つ飯田線用に造られた119系

↑険しい飯田線を走っていた119系。飯田線のみならず、中央本線の上諏訪駅へも乗り入れていた 2011年1月30日撮影

 

飯田線は愛知県の豊橋駅と長野県の辰野駅を結び、距離は195.7kmにも及ぶ。険しい中部山岳を縫って越える山岳路線である。一方で、太平洋戦争前に複数の私鉄によって線路の敷設が行われた歴史を持つこともあり、駅間が短くなっている。

 

同線には旧形国電が長く使われてきたが、老朽化が著しかった。飯田線は勾配があり、距離も長く、また駅間が短いという特殊な事情があり、専用の電車が必要とされた。そこで生まれたのが119系だった。1982(昭和57)年から1983年にかけて57両が新造されている。編成は2両もしくは1両と、閑散区向けの構成だった。119系は飯田線導入後に新潟の越後線などへの導入を計画したが、計画は国鉄の財政悪化の影響もあり立ち消えている。

 

正面の姿は中央に貫通扉があり、左右に窓がある105系のデザインを踏襲したもの。3扉で外観も105系に近いものだった。当初は、路線が走る天竜川にちなみ水色ベースに淡い灰色の帯を巻いた。その後にJR東海の標準色のベージュ色にオレンジと緑色の2色の帯に変った。

 

長年、飯田線の顔として走り続けたが、ちょうど生まれて30年後の2012年3月に引退となっている。廃車となった一部は、えちぜん鉄道に譲渡されて、MC7000形として走り続けている。

 

◆国鉄最晩年に登場した四国向け121系

↑瀬戸内海を眺めつつ予讃線を走る121系。将来のJR四国の経営を考え、国鉄が最晩年に開発した近郊形電車だった 2017年7月15日撮影

 

四国は電化工事が最も遅く行われた地域だ。1987(昭和62)年3月23日に予讃線の高松駅〜坂出駅間、多度津駅〜観音寺駅間が直流電化されたのが四国初の電化区間となった。瀬戸大橋が誕生し、橋を利用した瀬戸大橋線(本四備讃線)が1988(昭和63)年春に開業の予定だった。そのタイミングに合わせて、四国の一部地域の電化が行われた。

 

合わせて誕生したのが121系だった。電化された1987年3月23日にデビューした近郊形電車で、わずか数日後の4月1日に四国の路線が国鉄からJR四国へ移管されている。121系は国鉄から、経営的な基盤が弱いと予想されたJR四国への最後の置き土産となったわけである。

 

121系は2両×19編成、計38両が製造された。車体は軽量ステンレス製で、正面は貫通扉を持つものの205系や常磐線用の207系にも近いスタイル。車体側面は3扉で211系(後述)と同様の姿をしている。いわば、国鉄晩年の標準的なスタイルを踏襲している。車体の帯は青色、もしくは赤色だった。

↑121系全車が7200系としてリニューアル改造された。高松近郊区間には欠かせない近郊形電車となっている

 

121系は長年にわたり走り続けてきたが、ちょうど生まれて30年を機会に2016年から大幅にリニューアル工事に着手。台車や客室の設備などを大幅に変更した。

 

このリニューアルを機会に形式名も7200系と変更した。2019年2月にリニューアルが完了、元となった121系という形式名が消滅している。121系が劣化の少ないステンレス車体となり、リニューアル化後も走り続けていることは、国鉄の遺産が、JR四国の礎に多いに役立ったと言えるのではないだろうか。

 

【残る国鉄近郊形電車①】今も大量に残る211系ながら

ここからは残る国鉄時代に生まれた直流近郊形電車2形式を取り上げておこう。両形式とも、廃車された車両も少なめで、今も多くが走り続けている。とはいえ、後継車両が取りざたされる時代となってきた。

 

◆近郊形電車の代表として今も主力の211系

↑東海道本線を走るJR東海の211系。後ろに313系を連結して走る。JR東海の211系は形式を問わず、運行できるように改造されている

 

211系は国鉄の晩年となる1985(昭和60)年に誕生し、翌年の2月から走り始めた。大都市の近郊路線区間には、長年にわたり113系、115系が走り続けてきた。1980年代となり、軽量ステンレス製の車体、ボルタレス台車、界磁添加励磁制御と呼ばれる制御方式が普及してきた。これらのシステムは当初、205系で採用されたシステムだったが、省エネにも結びつき、また使い勝手の良さから、211系という近郊形電車にも同様のシステムを取り入れたのだった。

 

211系が最初に導入されたのが東海道線の首都圏エリアで、1986年3月のダイヤ改正から走り始めている。後に名古屋地区、東北線などを走り出している。国鉄時代からJRになった後も製造が続き、基本番台、1000番台、2000番台、3000番台、5000番台、6000番台を含めて計827両が製造された。

 

そのままJR東日本とJR東海に引き継がれ、今もJR東日本に326両、JR東海に250両の計576両が残っている。今でこそ、首都圏では、東海道線など第一線を退いたものの、中央本線、高崎地区などのローカル線を走り続けている。車両数を見る限りはまだ盛況と言えるだろう。

 

とはいえ、後期に造られた車両ですら、すでに30年たつこともあり、後継車両の導入も取りざたされるようになってきた。JR東海の新型315系がその置換え車両にあたる。今すぐに消えることはなさそうな211系だが、数年後からは徐々に消えていくことになるのだろう。

 

【残る国鉄近郊形電車②】希少車のJR東海とJR西日本の213系

◆国鉄最後の新形式が213系だった

国鉄が最後に設けた形式が近郊形電車の213系だった。導入は国鉄最終年の1987(昭和62)年3月と、それこそ国鉄製造の車両としてぎりぎりの期限に走り始めている。基本となったのは211系で、大きく異なるのは211系が3扉であるのに対して、213系は2扉となっているところである。すなわち、大都市の近郊路線区間で211系が走ったのに対して、ややローカル線区での運用を念頭においている。

 

213系最初の基本番台は岡山地区へ導入された。今も3両×4本と、2両×7本の計26両が岡山電車区に配置され走り続けている。なお他に213系の2両1編成があり、こちらは観光列車「La Malle de Bois(ラ・マル・ド・ボァ)」に改造され人気となっている。

↑伯備線を走る2両編成の213系。ステンレス車体に濃淡青色の帯を巻いて走る。ほか正面が真っ平らな切妻そのままの車両も走る

 

JR西日本の岡山地区以外にも213系を導入されている。導入したのはJR東海で、同社では並走する近鉄名古屋線に対向するために、関西本線の名古屋駅〜四日市駅間などに向けて導入した。こちらは5000番台とされるが、JRに移行後に導入されている。

 

2両×14本の計28両が新造され、当初は関西本線での運用が続けられたが、今は大垣車両区に配置されているものの、やや車両基地から遠い飯田線を走り続けている。

↑飯田線を走る213系。正面は211系とほぼ同じで、側面を見なければ213系と分からない

 

今回で国鉄が作った近郊形電車の現状紹介は終了とする。次回以降は今も残る国鉄が生み出した交直流電車や特急形電車などの紹介に話を移していきたい。

2021年これから消えていく? 気になる車両を追った【後編】

〜〜2021年に消滅が予定されている車両特集その2〜〜

 

前編で紹介したように2021年は多くの車両が消え、また消えていきそうな気配である。

 

残念なことに、鉄道会社は「さよなら運転」はもちろん、騒動を避けるために引退日を発表しない傾向が強まっている。知らないうち、気付かないうちに消えていく車両が多くなってきた。後編では東日本の車両、そして貨物用機関車の中で消えていきそうな車両を追っていきたい。

 

【消える車両その⑥】JR東日本最後の国鉄型気動車になる?

◆JR東日本キハ40系気動車

↑日本海を見ながら走るキハ40系。長年親しまれてきた風景もこの春からは見られなくなりそうだ

 

JR東日本から長年親しまれてきた国鉄形気動車が消えていく。形式名はキハ40系。国鉄が1977(昭和52)年から5年にわたり計888両を製造した、いわば非電化区間の標準車両というべき気動車だった。全国の非電化区間で40年にわたり活躍し続けてきた。JR化後も各社に引き継がれ走ってきたが、すでにJR東海からは全車が消え、この春で、JR東日本からも消滅することとなった。

 

◆東日本最後の活躍の場となった五能線・男鹿線

JR東日本では日本海沿いの路線を中心に、多くのキハ40系を使ってきた。ところが、新型GV-E400系気動車を開発し、まずは新潟地区のキハ40系が引退となった。さらに秋田車両センターに配置されていたJR東日本最後のキハ40系に代わり、GV-E400系と蓄電池電車HB-E301系の増備を進めている。

 

この増備により、五能線、男鹿線、一部奥羽本線を走ってきたキハ40系はこの春で消えることになる。ただ、JR東日本のキハ40系全車が消えるわけではない。JR東日本の観光列車「越乃Shu*Kura」、「リゾートしらかみ(くまげら編成)」としてキハ40系が使われている。こちらはしばらくの間は走り続けそうだ。またJR北海道、JR西日本、JR九州、JR四国(20両と少量)のキハ40系はかなりの車両数が残っており、こちらを含めて完全引退はまだ先となりそうだ。

 

【消える車両その⑦】客車を気動車に改造した珍しい車両

◆JR北海道キハ141系(キハ143形)気動車

↑苫小牧駅構内に停車するキハ143形。50系客車を気動車化したユニークな生い立ち。現在は室蘭本線の普通列車として運行されている

 

国鉄からJRとなるちょうど同じ時期、ローカル線の輸送は、まだ機関車が牽引する客車列車が走っていた。晩年の客車列車用に50系客車という軽量タイプの客車が大量に使われていた。この50系客車に運転席を設け、エンジン、制動機器などを積み、気動車化し、生まれたのがキハ141系だった。1990(平成2)年のことである。北海道の札沼線の輸送力増強のために設けられた形式だった。

 

さらに1994(平成6)年には、キハ150系と同様の駆動システムを搭載して強化したキハ141系の一形式、キハ143形が生まれた。このキハ143系が今も苫小牧運転所に配置され、室蘭本線の普通列車に利用されている。

 

◆この春に消えるのはキハ40系かキハ143形か

長年、走り続けてきたキハ143形だが、この春に室蘭本線に大きな動きがある。新型H100形気動車が導入されるのだ。室蘭本線では苫小牧駅〜室蘭駅間、東室蘭駅〜長万部駅間を走ることが発表されており、時間短縮の効果があるとされる。

 

この導入に合わせて室蘭本線を走る既存車両の置き換えが行われることになる。置き換えされるのがキハ40系なのか、キハ143形なのだろうか。キハ143形はすでに10両まで減っている。苫小牧運転所にはキハ40系が24両(車両数はともに2020年4月1日現在)残るが、どちらの形式に影響が及ぶのか気になるところだ。

 

ちなみにキハ143形とは同形のキハ141系がJR北海道からJR東日本に4両譲渡されている。「SL銀河」用の客車として活かされており、もしJR北海道のキハ143形が引退となったとしても、同形式がわずかだがJR東日本に残ることになる。

 

【消える車両その⑧】高性能すぎて小所帯となった国鉄形気動車

◆JR九州キハ66・67系気動車

↑大村湾に面した千綿駅に到着するキハ66・67系。写真のシーサイドライナー色など3通りの車体色で親しまれてきた

 

山陽新幹線が博多駅まで延伸されるのに合わせて開発された気動車がキハ66・67系。小倉駅や博多駅から筑豊方面への連絡する列車を、より快適化するために開発された。それまでにない意欲的な設計思想が認められ、鉄道友の会からローレル賞を受賞している。とはいえ、車両が生まれた当時、国鉄の財政事情は悪化しつつあり、車両費が高価なこと、また車両自体の自重が過多で、ローカル線での運用が難しいことなど、マイナス面がありわずかに2両×15編成、計30両のみの製造に終わった。

 

筑豊本線、篠栗線で運用された後に、長崎へ移動。長崎駅〜佐世保駅間の大村線、長崎本線の列車に約20年にわたり使われ続けた。

 

◆YC1形の増備に合わせて徐々に消えていくことに

現在、長崎駅〜佐世保駅間の列車、とくに大村線内での運用が多い。JR九州では、大村線のキハ66・67系をYC1系ハイブリッド型気動車へ、徐々に置き換えを進めている。2020年12月末現在で9編成がすでに引退になっている。まだ正式なキハ66・67系の引退はアナウンスされていないが、新車両の増備に従い、順次置き換えということになりそうだ。

 

【消える車両その⑨】ライナーの仕事も消え危うい2階建て電車

◆JR東日本215系電車

↑早朝に湘南ライナーとして東海道貨物線を走る215系。2階建て仕様がずらり連なる迫力ある姿でおなじみとなっている

 

2021年春のダイヤ改正で消える予定の東海道本線を走る「湘南ライナー」。1986(昭和61)年11月1日のダイヤ改正時から走り始めた列車である。座席定員制の有料快速列車で、座って通勤ができることから、登場後たちまち人気の列車となった。その後に湘南新宿ライナー(現在のおはようライナー)、ホームライナーが生み出されるなど好調な運行を続けてきた。誕生当初は185系のみの運用で、なかなかチケットが購入できないまでの人気となっていた。

 

そこで座席定員を増やすために1992(平成4)年に生まれたのが215系だった。東海道本線の普通列車として走っていた211系の2階建てグリーン車をベースに利用し、前後先頭車を除く中間車すべてが2階建てという“画期的”な構造の電車でもあった。

 

◆3月13日のダイヤ改正で運用終了に?

215系は10両×4編成、計40両のみが造られた。2階建てという造りが好評で、一時期は、快速アクティーにも使われた。しかし、2扉のみで乗降時間がかかることから、現在は朝晩のライナーのみの運用となっている。東海道本線の列車以外にはホリデー快速やまなしとして中央本線を走る臨時列車としても活用された。

 

湘南ライナーやおはようライナー、ホームライナーは、すべて3月12日までの運転となる。3月13日からはライナーという列車は消え、特急「湘南」として朝晩に運行される。利用される車両はすべてE257系に変更となる。そのためほぼライナー専門で活用されていた215系は、“職場”がなくなってしまう。3月13日以降、215系の運命は? JR東日本からの発表はないものの、この春で消えることになりそうだ。30年近い車歴をもつものの、稼働率が低かったため、まだまだ老朽化したとはいいがたい。何らかの形で活かせないのだろうか、というのが筆者の切ない思いである。

 

【関連記事】
乗れれば幸せ!?車両数が少ないJRの「希少車」16選

 

【消える車両その⑩】いよいよ2階建てMax新幹線が消えていく?

◆JR東日本E4系新幹線電車

↑新幹線最後のオール2階建て車両となりそうなE4系。2編成連ねた姿は迫力そのもの

 

E4系は国内で唯一の2階建て新幹線である。生まれたのは1997(平成9)年10月のこと。当時、新幹線を利用しての通勤需要が高まっていた。JR東日本ではそれまでE1系という2階建て新幹線を走らせていた。このE1系には、高速走行時の騒音などに問題があり、そのためにロングノーズのE4系が生み出された。

 

全車2階建て車両で、8両編成ながら、2編成を連結した16両で走る時の定員数は1634人となる。高速列車で世界一の定員数としても話題となった。列車名に「Max」と付け「Maxたにがわ」「Maxとき」の名前でも親しまれてきた。

 

そんなE4系だが、最高運転速度は240km/hと他の新幹線車両に比べると遅い。高速化を進める時代背景もあり、そのためまずは東北新幹線の運用から外れ、近年は上越新幹線のみの運用となっている。JR東日本としては上越新幹線の高速化を図るためE4系の早期引退を計画していた。上越新幹線向けにE7系の導入も進められていた。

 

◆水害の影響で多少の延命がなったものの、この秋に引退に?

2012年度から順次、E4系を廃車するという計画があり、当初は2016年度で全廃になるとされた。しかし、廃車計画は延びて2020年度末までとなった。

 

ところが、2019年10月に起きた令和元年東日本台風により、長野新幹線車両センターに停めてあったE7系とW7系の12両×10編成が水没してしまう。この計120両全車が廃車となってしまった。

 

減車を余儀なくされたE7系だが、補充は順調に進み北陸新幹線の分はすでにまかなえ、また上越新幹線用のE7系の増備分の製造も順調に進んでいるとされる。E4系の当初の廃車計画はわずかに延びたものの、2021年の秋には本当の引退となりそうである。廃止が、1度ならずとも2度にわたり延びたという、いわばE4系は“幸運”な車両となったようだ。

 

【消える車両その⑪】非電化区間のエースだったディーゼル機関車

◆JR貨物DD51形式ディーゼル機関車

↑関西本線を走るDD51形式ディーゼル機関車857号機。JR貨物に最後まで残った車両のうち唯一100番台のナンバーを持つ車両となった

 

DD51形式ディーゼル機関車の歴史は古い。最初の車両は1962(昭和37)年の製造で今から約60年前のことになる。DD51が誕生するまでに、複数のディーゼル機関車が「無煙化」のため生み出されたが、非力なうえ、整備にも手間がかかった。

 

対してDD51は幹線用主力機として生み出されたディーゼル機関車で、性能面でも問題が少なく走行も安定していた。中央に運転室がある凸形の車体というユニークな姿で、本線での運用、さらに駅での入換えが可能など、非常に使いやすい機関車だった。16年にわたり製造が続き、計649両が造られた。国鉄からJRへ移る時にも259両が引き継がれた。

 

◆愛知機関区の最後のDD51が運用終了に

259両のうちJR貨物に引き継がれたのは137両だった。その後、DF200形式などのディーゼル機関車が新造され、徐々に両数が減っていく。ちょうど10年前の2011年2月末の車両数を見ると56両までになっていた。いま稼動している車両はすべてが愛知機関区への配置される車両で、最新の運用状況を見ると857号機、1028号機、1801号機の3両しか稼動していない。その運用も一部がすでにDF200形式が代行するなど、DD51形式の運用は減りつつある。さらにDD200形式が6両増備される予定で、DD51の仕事はDF200やDD200に引き継がれる。

 

残るDD51はJR東日本とJR西日本のみとなる。無煙化に貢献した名機も終焉が近づいているといって良さそうだ。

 

【消える車両その⑫】鉄道ファンがやきもきEF64形0番台の動き

◆JR東日本EF64形電気機関車

↑レール輸送を行うチキ車両を牽引するEF64形37号機。渋い茶色の塗装で国鉄形らしい重厚な趣を保っている車両として人気がある

 

最後は、引退かまた現役続行かで、情報が錯綜している電気機関車の情報に触れておこう。ある鉄道関連ニュースで2021年2月4日に「EF64形電気機関車37号機」がラストランを迎えたという情報が流れた。追随する形で、複数のニュースサイトで情報が流された。その後に同ニュースがJR東日本の高崎支社に問い合わせをしたところ、まだ引退は決定していないとして訂正記事が配信されている。

 

国鉄形直流電気機関車の代表的な存在でもあるEF64形。後期タイプの1000番台はJR貨物を含めて今も多くが残存している。だが、基本番台と呼ばれる初期タイプはJR東日本に残る37号機のみだ。それだけに注目度が高い。

 

鉄道ファンが特に注目しているのが、EF64形37号機が所属する高崎車両センター高崎支所の機関車たちの動向であろう。ここにはEF65形直流電気機関車の501号機という「P形」と呼ばれる500番台唯一の車両が残っている。希少な機関車が配置される機関区なのである。同機関区の機関車は、旅客列車で使われるのは「ぐんまよこかわ」といった一部の列車のみ。主要な仕事は事業用車両として、レール運搬やバラスト輸送、そして新車を牽引する配給輸送などに限られている。

 

◆新型事業用車の導入で残る機関車たちはどうなる?

注目される高崎車両センター高崎支所の機関車はすべて国鉄時代に生まれた車両ばかりだ。そのためにJR東日本でも後継用の車両の導入を始めている。

 

レール輸送、バラスト輸送などの保線用としてJR東日本では、定尺レール輸送用、ロングレール輸送用それぞれ用のキヤE195系の導入を進めている。

 

さらに砕石輸送用電気式気動車のGV-E197系の導入もこの春に始まった。さらに交直流電化区間に対応したE493系を導入も行う。このE493系は回送列車の牽引用として使われる予定だ。GV-E197系は高崎エリアへの導入される予定で、この導入により、機関車・貨車特有のメンテナンス方法や運転操縦を廃し、効率的なメンテナンスが可能になるとしている。こうした車両は現在、事業用車両として働く国鉄形機関車の入換え用にほかならない。

 

一応、2月の引退はないとされたEF64形37号機ながら、EF65形501号機を含めて、今後の新事業用車両の増備次第では、危ういことは確かなようである。

 

2021年すでに消えた&これから消えていく? 気になる車両を追った【前編】

〜〜2021年に消滅が予定されている車両特集その1〜〜

 

春は別れとともに出会いの季節でもある。鉄道の世界でも同じ。3月のダイヤ改正をきっかけに、古い車両が消えていき、また新しい車両が登場する。今年はJR・私鉄ともに、そうした移り変わりが多くなりそう気配だ。

 

中には時代を彩った車両や、鉄道輸送を大きく変えた車両も含まれる。すでに引退した車両も含め、消えていく、また消えていきそうな車両の姿を追った。

 

【はじめに】混乱を避けるため最終運転日も非公開が多くなった

この1〜2年、複数の車両が引退していった。その大半がセレモニーもなしに表舞台を去っている。

 

やはり2018年秋に行われた東京メトロ千代田線の6000系電車の「さよなら列車」の激しい混雑と混乱が、大きく影響しているようだ。鉄道会社として“さよなら運転”は、長年走ってきた車両の最後のはなむけとして、またファン向けの“大切なイベント”だった。ところが残念なことに、この「さよなら列車」の運転ではマイナス効果に結びついてしまった。

 

昨今、こうした悪しき例が各地で見られるようになり、時に過熱しがちとなっている。ましてコロナ禍であり、無用なファン集中を避けたいということもあり、運行終了日も公開されること無く、静かに消えていく車両が多くなっている。こうした傾向は、筆者も鉄道ファンの一人として非常に残念であり、悲しいことととらえている。

 

そうした傾向が強まるなか、2021年の春に去っていく車両が目立っている。各社のすでに消えた&消えそうな“気になる車両”を見ていこう。

 

◆注目を浴びる「JR東日本185系」だが完全引退はまだ先に

2021年に消えていきそうな車両。まず首都圏ではJR東日本の185系を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。国鉄形特急電車として注目を浴びることも多い。

 

185系は国鉄時代から特急「踊り子」などに使われ、東海道本線を彩ってきた車両である。さらに通勤用快速列車や、臨時列車として活用され、多くの通勤客や旅行客を運んできた。この春に185系は特急「踊り子」、そして湘南ライナー、おはようライナー、ホームライナーなどの役目を終える。

↑富士山を背景に伊豆箱根鉄道駿豆線を走り続けてきた185系特急「踊り子」。3月13日以降は「踊り子」すべてがE257系に変更される

 

これで引退なの? と思われそうだが、今回の動きは定期運用が終了するところまで。しばらくは臨時列車用や団体列車用として働きそうだ。実際の引退は2022年度という情報もあり、この時に本当の引退となりそうだ。

 

ここからは2021年に消えた、もしくは消えていくことが決まっている車両、さらに消えていきそうな車両を見ていこう。

 

【消える車両その①】御召列車としても走った近鉄“鉄路の名優”

◆近畿日本鉄道12200系電車

↑近鉄名古屋線を走る12200系。後ろに22000系を連結する。後継車両は塗装が更新されたが、12200系のみ近鉄伝統の特急色で走った

 

大手私鉄の中で最も長い路線距離を誇る近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)。大阪と名古屋を結ぶ名阪特急を代表に、各路線に多くの特急列車を走らせてきた。最新の80000系「ひのとり」をはじめ、50000系「しまかぜ」など、特急形電車らしい華やかさと共に、機能性を合わせてもつ電車を多く開発し、活用してきた会社である。

 

近鉄の特急形電車は実に多彩で、なじみのない人にはちょっと分かりにくいかも知れない。2021年春に引退していく車両は12200系だ。1967(昭和42)年に登場した12000系の後継増備車として1969(昭和44)年に誕生した。8年にわたり製造され、近鉄の特急電車の中では最大の168両が製造された。

 

初期の車両はスナックコーナーを備えたことから“新スナックカー”という愛称も付けられていた。当初から120km/hの最高速度に対応、4両化、2両化され、さまざまな区間を走る特急列車として活用された。

 

近鉄の特急電車の優れたところは、利用客の増減に合わせて、列車の編成車両数を変えられるところである。多客期には4両、6両、8両といった具合に車両編成を増やす。閑散期には4両、2両と編成車両数を減らす。こうしたフレキシブルな運転が可能なように、新旧や形式にかかわりなく、車両を連結させて走ることができるように造られている。

 

◆すでに定期運用は終了、残るは3月に団体列車用に運行か

この12200系が一番輝いたのは御召列車として使われたことでないだろうか。さらにエリザベス2世が訪日された際に乗車されるなど、私鉄特急として輝かしい歴史を持つ。

 

そんな12200系も平成に入りリニューアルされ使われ続けてきたものの、生まれからすでに半世紀がたつ。すでに定期運用は2月12日(引退日は非公開だった)に終了している。3月23日に団体向けの企画列車が予定されていて、この時がおそらく本当の最後の走行になりそうだ。 “鉄路の名優”が静かに去っていく。

 

【消える車両その②】先頭にパンタグラフを持つ名鉄の「特別車」

◆名古屋鉄道1700系電車

↑先頭車の前にパンタグラフを付けた名鉄1700系。白地に赤のラインと、おしゃれな姿で人気の車両だった

 

名古屋鉄道(以下「名鉄」と略)の特急形電車は他の私鉄特急とは異なった特徴を持つ。空港アクセス特急「ミュースカイ」を除き、特急形電車は、豊橋駅側に「特別車」2両を連結する。この2両の「特別車」のみ有料の指定席料金を払う仕組みだ。もともと全車特別車だったのだが、有効な列車運用を、として2008(平成20)年から取り入れたシステムだった。

 

1700系はこのシステム変更のために、旧1600系を改造した形式だ。4両編成を2両ごとに分割、新造した2300系4両と組み合わせ6両編成とした。よって、豊橋側の2両が1700系、岐阜側の4両が2300系と、異なる形式を組み合わせ走った。

 

外見も異なっていて、特別車側の1700系は前後2扉仕様、側面窓が横に広がる。一方の岐阜側2300系は3扉の普通車という異種の組み合わせで走る。とはいっても、違和感のない組み合わせで、特に新塗装に変更したのちは、白地に赤のライン、先頭の排障器や額の部分に赤というスタイルが目立っていた。

 

先頭車の頭にパンタグラフがあるので、撮影はしづらい車両だったものの、迫力があって筆者としては好きな車両でもあった。

 

◆1月に撮影会を開催。すでに2月で定期運用が終了

1700系は2両×4編成が使われていた。1600系として生まれたのが1999(平成11)年のこと。2008(平成20)年に改造されてからまだ10数年と短い。ところが、車両数の少ない特異な形式ということもあったせいなのか、車両が生まれて20年足らずながら、引退となってしまった。

 

なお、1700系と編成を組んでいた2300系には新たに「特別車」用の2200系30番台が新造され、前後が同じ顔形の2200系6両編成となり走り始めている。

 

1月には最後の撮影会が車両基地で開かれ、運転終了日は発表されることもなく2月10日で運用を終えている。コロナ禍のさなかということもあり、ちょっと悲しいお別れとなった。

 

【消える車両その③】乗降をスムーズに!5扉車の京阪の名物電車

◆京阪電気鉄道5000系

↑5扉というユニークな姿の京阪5000系。日中は3扉のみの開け閉めで運行した。正面もひさしが付く形で個性的な姿をしている

 

京阪電気鉄道(以下「京阪」と略)の5000系は5扉という通勤形電車。ラッシュ時の混雑緩和、そして乗降時間の短縮のために1970(昭和45)登場した。まさに大量輸送時代の申し子でもあった。

 

京阪のホームページにある車両紹介コーナーでは「閑散時間帯は2扉を閉め切り、格納していた座席を復して、座席定員を増やすという離れ業と可能としました」と解説している。こうした扉の数に注目されがちな車両だったが、京阪初のアルミ合金製車体を採用するなど画期的な通勤形電車でもあった。

 

◆5扉での運用は2月で終了。6月ごろに運行終了か

保有車両は7両×4編成、計28両と少なめながら、50年にわたり走り続けてきた。すでに1月末で5扉の利用を終了、他の車両と同じ3扉のみの利用での運行に変更されている。京阪では13000系の導入が増えているが、5000系も新型13000系が増備される6月ごろに運行終了となりそうだ。5000系も現在の状況が続くと、運用終了日が発表されずに静かに消えていくことになるのだろうか。

 

【消える車両その④】113系を交直流電車化した七尾線用赤色電車

◆JR西日本415系電車

↑能登半島名産の輪島塗をイメージした赤色で塗られた415系。車体の姿は元となった113系そのままの姿をほぼ維持している

 

ここからは引退するJRの車両を見ていこう。まずは北陸、石川県を走る七尾線の電車から。七尾線とは言うものの、七尾線の電車は全列車が金沢駅まで乗り入れる。そのため金沢駅〜津幡駅(つばたえき)間は旧北陸本線、現在のIRいしかわ鉄道線を走る。

 

ここを走る普通列車用の電車には赤色の415系と、413系(後述)が長年、使われてきた。415系と413系は共に交直両用の電車だ。七尾線が電化されたのは1991(平成3)年のこと。この七尾線は直流方式で電化された。乗り入れる旧北陸本線は交流電化区間のために、交直流電車が必要とされた。

 

七尾線用に新たな交直流電車を新造することを避けたいJR西日本では、次のような方法で対応する。まずは北陸本線用の交直流特急形電車485系を、北近畿向けの特急に転出させるにあたって不要になった交流用の機器を取り外した。そして近郊形電車の113系に取り付けるという荒療治を行ったのである。こうして415系の800番台の11編成33両が生まれたのだった。

 

◆3月のダイヤ改正で新製の512系と入換えが完了

七尾線を走る415系は113系だったころも含めると40年〜50年といった経歴を持つ車両で老朽化が進んでいた。JR西日本では2020年10月から七尾線用に新造した521系100番台を投入。同車両はワンマン運転時に利用が可能な車載型ICOCA改札機を搭載している。

 

この改札機に交通系ICカードをタッチすれば精算可能で、2021年3月のダイヤ改正から正式に導入される。この新型改札機の導入もあり、旧形の415系、413系は引退となる。改造される前の113系は、今もJR西日本管内では走り続けている。改造された車両の方が早い引退となった。

 

【消える車両その⑤】七尾線には2扉の赤色電車も走っている

◆JR西日本413系電車

↑七尾線を走る413系。415系と正面の形はほぼ同じだが、上部の行先表示が埋められ、扉が2ドアという違いがある

 

七尾線には413系という電車も走っている。車体は415系と同じ赤色、正面は415系とほぼ同じで見分けがつきにくいが、行先表示部分が鉄板で埋められ、また乗降扉が2つということで別形式の413系と分かる。

 

この413系の生い立ちも興味深い。生まれは1986(昭和61)年のこと。当時、財政難に陥っていた国鉄は新造の電車を造ることが難しく、そこで既存の交直両用の急行形電車の部品を多く流用して413系という交直両用の近郊形電車を造った。

 

そうした廃車の部品の流用したこともあって、413系の新製車両数は少なく31両のみ。そして北陸地区に投入された。ちなみに、717系という交流専用の兄弟車両が東北地区と九州向け用に生み出されたが、こちらはすでに全車が引退している。

 

◆あいの風とやま鉄道に同形の車両がわずかに残るのみに

JR西日本の413系は16両とすでに減っていた(2020年4月1日現在/2編成はクハ455形と連結。こちらを含めれば計18両となる)。すべて金沢総合車両所への配置だったが、2021年3月のダイヤ改正で七尾線は521系となり、また北陸本線金沢駅〜小松駅間での運用がわずかに残っていたが、すべてこちらも521系に代わる予定となっている。

 

残りはあいの風とやま鉄道に譲渡された車両のみとなるが、こちらは観光列車に改造された編成もあり、もうしばらくは走り続けることになりそうだ。

 

※まだまだあります2021年に消えそうな車両。ここで紹介した以外の車両は【後編】に続きます。

ユニークな改造車両も活躍!?—国鉄近郊形電車「115系」を追う【西日本編】

〜〜希少な国鉄形電車の世界その8 JR西日本の「115系」〜〜

 

日本国有鉄道の直流近郊形電車を代表する115系。登場してからすでに60年近くになる。残る115系は1980年前後に製造された車両が多くを占めるものの、それでも40年近くとご長寿車両となりつつある。

 

115系が最も多く残るのがJR西日本だ。多くの115系が残存しつつも、後継車両との入換えの波が徐々に迫りつつあるようだ。

 

【はじめに】JR西日本には計590両の115系が引き継がれた

115系は1963(昭和38)年に製造が開始され、合計1921両が製造された。国鉄からJRに移行した1987(昭和62)年当時にも、計1875両がJR東日本、JR東海、JR西日本へ引き継がれている。この3社の中で引き継いだ車両数が多かったのがJR東日本とJR西日本で、JR東日本へ1186両、JR西日本へ590両が引き継がれた。このうちJR東日本ではすでに21両まで減ってしまっている。

 

【関連記事】
残る車両はあとわずか—国鉄近郊形電車「115系」を追う【東日本編】

 

さて一方の西日本に残る115系は、あと何両となっているのだろう。

 

◆岡山と山口を中心に251両が活動中!とはいうものの

車両を長く大事に使う傾向があるJR西日本とあって、今も115系は251両が走り続けている。内訳は次の通りだ。

 

○岡山電車区:165両(4月1日以降に微減しているとの情報もあり)
○下関総合車両所運用検修センター:84両(2020年4月1日現在のJR西日本発表の車両数)
○福知山電車区:2両(2020年4月1日現在のJR西日本発表の車両数)

 

この車両数を見る限り大所帯である。とはいえ安心はできない。JR移行後、中国地方を走る直流電化区間では、多くの115系や113系が使われてきた。特に山陽エリアでは115系の“天下”だった。

 

◆大変動が起った2015年から2016年にかけて

広島地区を走る電車が配置されるのが下関総合車両所広島支所。ここには2014年4月1日まで115系が88両、また113系が68両も配置されていた。この年までは計181両という大所帯だったのである。ところが、2015年春以降にJR西日本では「広島シティネットワーク」の一新に取り組み、新型227系の導入を進めていった。山陽本線はもちろん、呉線、可部線に新造車両が導入され、113系、115系、105系といった車両が徐々に消えていった。配置車両数の推移をみると良く分かる。

↑山陽本線の急勾配区間、通称“セノハチ”を走る115系。すでに広島地区からは113系、115系全車が撤退している 2015年3月27日撮影

 

○下関総合車両所広島支所の113系・115系の車両数

113系 115系
2015年4月1日 68両 88両
2016年4月1日 2両 0両

 

2015年に88両配置されていた115系は翌年には0両になってしまったのである。この車両数の変化には裏があった。下関総合車両所広島支所の115系36両が、下関総合車両所運用検修センターに大移動、同検修センターの115系は180両からこの年に216両に増えていた。つまり、227系を導入、115系との入換えにあたり、引き継ぎをスムーズに進めるためにも、配置箇所を一時的に変更するなどをして対応していたわけだ。

 

大変動があった2015年から2016年にかけてのJR西日本の115系だが、2015年当時の115系の車両数が計443両だったのに対して、2020年には251両まで減少した。この5年の間に半分近くの車両が引退となっていたわけだ。

 

JR西日本として今後は、京都地区を走る113系の入換えを先に進めるとしている。だが、227系を導入したその入換えのスピードを見ると、中国地方の115系に関しての入換え計画はまだ未知数というものの、決して安泰とは言い切れないのである。

 

【115系が残る路線①】岡山地区を走る115系の特徴

ここからはJR西日本に残る115系を注目してみよう。中国地方を走る115系は1000番台、1500番台、3000番台がメインとなっている。岡山地区には1000番台と1500番台、山口地区には3000番台の配置が多い。

 

このうち、中国地方向けに製造されたのが115系1000番台だった。1000番台は1982(昭和57)年7月に伯備線と、山陰本線の伯耆大山駅(ほうきだいせんえき)〜西出雲駅(当時は知井宮駅)間の電化に合わせて投入された電車だ。中国山地を越えることもあり耐雪耐寒設備を備えている。

 

一方、1500番台は編成数を増やすために、1000番台の車両に運転台ユニットを付け先頭車両化、3両など短い編成での運行が可能なように生まれた番台である。

 

さらに、3000番台は観光向けを考慮した車両で、3扉を2扉化、さらにメインの座席を転換クロスシートとした電車だ。こうした大まかな区分けがあるのだが、JR西日本の車両は、体質改善工事と、編成変更をするにあたり、さまざまな形の115系を生み出している。このあたりの車両の形の違いも、鉄道ファンとしては興味深いところである。

 

◆車両の現状1:岡山地区の電化区間を幅広く走る115系

↑オリジナルな姿を残した115系。写真の列車は後ろに張上げ屋根の体質改善工事を施した編成を連結して6両で山陽本線を走る

 

岡山地区を走る115系は、岡山駅を中心に山陽本線の姫路駅〜三原駅間、宇野線、瀬戸大橋線の茶屋町駅〜児島駅間、さらに赤穂線(あこうせん)の東岡山駅〜播州赤穂駅間を走る。また福塩線の福山駅〜府中駅間も列車本数は少ないながらも入線している。さらに耐雪耐寒仕様が生かされ、伯備線の全区間と、山陰本線の伯耆大山駅〜西出雲駅間を走る。

 

車両の多くは中国地域色の黄色塗装だ。そんな中、希少な塗装車両も走り、鉄道ファンから注目を浴びている

 

◆車両の現状2: 黄色に交じり湘南色の115系が2編成走る

岡山地区で注目されているのが湘南色の115系だ。2017年4月のJR西日本のニュースリリースでも、3両2編成は「湘南色と呼ばれるオレンジとグリーンのツートンカラーのデザインで運行しております」と紹介。実は黄色に変更予定だったが、利用者からの要望が多かったことから、湘南色で再塗装されることが、この時に発表されていた。

↑岡山では希少な湘南色の115系。元は中央線を走った115系で国鉄最晩年に岡山へやってきた。オリジナルな姿を良く残している

 

湘南色で再塗装された編成は岡山電車区では珍しい115系の300番台だ。この300番台は国鉄時代最後のダイヤ改正となった1986(昭和61)年11月を期に東京の三鷹電車区から岡山電車区へ移動した車両でもある。

 

移動した当時はクリーム色と紺色の横須賀色だったが、その後に湘南色に塗り替えられた。現在、D26編成とD27編成が湘南色で山陽本線を中心に走り続けている。体質改善工事未施工の車両で、外観はオリジナルの姿を残していて、湘南色が良く似合う。

 

【115系が残る路線②】山口県内の黄色い115系の特徴は?

中国地方の中で広島地区は全車が227系に置き換えられている。この広島地区を飛び、山口県に入ると、再び115系が主役となる。山陽本線の岩国駅〜下関駅間では、宇部線から入線する列車をのぞき大半が115系となる。

 

◆車両の現状1:2扉の3000番台が主力となって走る

↑山口県内を走る115系3000番台。中間車も3000番台で写真の編成は1つを折り畳んでいるもののパンタグラフが2つ付いている

 

現在、下関総合車両所運用検修センターには4両×19編成と、2両×4本の計84両が配置されている。4両編成の115系は3000番台(中間車に3500番台連結の編成もあり)で、すべて2扉車両となっている。

 

3000番台は1982(昭和57)年に広島地区用に造られた115系だ。通勤・通学利用よりも観光利用を重視、乗降扉を前後2つとし、大半の座席を転換クロスシートにした珍しい115系である。中間車のモハ114形には2つのパンタグラフが付いているのが特徴だ。こちらは製造時にパンタグラフ1つとしようとしたところ、乗務員から故障を心配する声があがった。そのため2つにしたという逸話が残る。

 

さて2扉4両編成の車両だが、やや異なる編成も混じる。パンタグラフが1つのみ編成があるのだ。この編成はさて?

 

◆車両の現状2:中間の2両だけ3500番台という編成も走る

中間車2両が3500番台という編成が含まれるのだ。こちらは元117系の中間車を利用した編成で、117系を6両から4両に短縮するにあたって、余剰車を115系編成用に転用した車両だ。改造してモハ115形・モハ114形の3500番台とした。こちらはモハ115形にパンタグラフが1つ付く。このパンタグラフの数の違いで3000番台と3500番台と番台数が異なっている。

↑こちらの115系の中間車は3500番台で、パンタグラフは1つのみ。元は117系だった車両で、改造して115系となった

 

【115系が残る路線③】岡山と山口には大胆な改造先頭車が走る

JR西日本の115系だが、ユニークな改造編成も走っている。3タイプあるが、写真とともに、ユニークなスタイルを見ておこう。全車とも、中間車を改造した車両で、先頭改造車は115系らしい丸みが消え、切妻面をそのまま使った平面的な“顔だち”となっている。まずは岡山地区を走る改造車両から。

 

◆改造車の現状1:非貫通タイプ横一列の正面窓が特徴の改造1000番台

伯備線用に2001(平成13)年度に改造され、岡山電車区に配置された1000番台の車両だ。2両編成で、うち中間電動車だった車両を先頭車として改造した。

 

丸い115系の正面スタイルとは異なる、真っ平らの正面で、非貫通タイプ。運転席のガラス窓が広く横に開けられ、途中に支柱がない。改造された同車はパンタグラフを2つもつ。先頭車がパンタグラフを2つ上げて走る姿が迫力満点だ。この改造車の形式名はクモハ114形で、1098、1102、1117、1118、1173、1178、1194、1196の計8両が在籍している。

↑伯備線を走る2両編成の改造車両。片側は通常の115系の正面(左上)だが、裏側はまったく異なる姿に改造されている

 

◆改造車の現状2:中央に貫通扉、窓が3枚のユニーク顔の1600番台

1000番台改造車と同じ岡山電車区にもう1タイプ、ユニークな改造車が配置されている。2004(平成16)年度に改造された1600番台だ。こちらは岡山地区のローカル線の輸送力増強のために設けられた改造車で、3両編成のうち片側先頭車が改造されている。

 

運転席のガラス窓は3枚で中央に貫通扉が付く。この改造車も丸みのない平面そのまま。いかにも“中間車を改造しました”という姿を持つ。座席も転換クロスシートに改造されている。車両番台は改造に合わせて、1000番台から1600番台に変更、形式はクモハ115形で、1653、1659、1663、1711の4両がその車両番号だ。山陽本線、瀬戸大橋線などの普通列車として利用されている。

↑岡山地区を走る115系1600番台。正面の姿からはとても115系だとは思えない。左右窓が丸い角を持つせいか後述の改造車とは印象が異なる

 

◆改造車の現状3:元は舞鶴線用改造車として生まれた2両編成の115系

もう1タイプの115系改造車が走っている。山口地区を走る2両編成の115系だ。山口地区では2扉3両編成の3000番台が主力車両として走るが、こちらは3扉2両編成なので、見分けがつきやすい。

 

現在は山口地区を走る115系改造車だが、舞鶴線用に生まれた車両だった。1999(平成11)年10月の舞鶴線の電化に合わせて改造が施された。舞鶴線で活躍した後に、下関総合車両所検修センターに移動している。

 

改造車は中央に貫通扉を設け、運転席のガラス窓は3枚となっている。岡山地区を走る1600番台と構成は同じだが、こちらの車両は運転台が高い位置にあり、また正面のガラス窓が、角張っているせいか、より重々しい顔立ちとなっている。

 

実は福知山電車区に同タイプがわずかに2両残っている。ちなみに福知山電車区に残る115系は6000番台の車両番号が付く(クモハ114形6123+クモハ115形6510の編成)。山口地区へ移動した車両も元は6000番台だったのだが、下関総合車両所検修センターへの配置の後に6000番台から元の1000番台に戻された。現在の形式名はクモハ114形で1106、1621、1625、1627の4両が山陽本線を走っている。

↑山陽本線の山口地区を走る115系の改造車両。正面の窓など、岡山地区を走る改造車とは異なる印象となっていて面白い

 

【関連記事】
残るは西日本のみ!国鉄近郊形電車「113系」を追う

 

こうして見てきたように、JR西日本に残る115系は、実にさまざま。こうした残る115系の姿を眺めつつ旅するのもおすすめである。

残る車両はあとわずか—国鉄近郊形電車「115系」を追う【東日本編】

〜〜希少な国鉄形電車の世界その7 東日本の「115系」〜〜

 

113系、115系が誕生してからすでに約60年の月日がたつ。いま残る車両も、すでに40年という歳月を走り続けてきた。国鉄形近郊電車として定番だったこれらの形式も引退の2文字が限りなく近づいてきた。今回は残る115系のうち、東日本に残るわずかな車両の現状に迫ってみよう。

 

【はじめに】115系とはどのような電車だったのか?

◆寒冷地区向け、急勾配区間用に生まれた115系

113系とほぼ同時期に115系は生まれた。1963(昭和38)年に登場し、国鉄末期の1983(昭和58)年まで、合計で1921両が造られている。

 

主電動機は113系と同じく1時間定格出力120kW。113系と大きく異なるのは急勾配区間に対応したところで、上り勾配、下り勾配でそれぞれスムーズに加速、また減速できるように、制御器(上り勾配を一定速度で運転できるようにノッチ戻しの操作を可能にしたなど)、ブレーキ(抑速発電ブレーキ)などが強化されている。また当初、導入が検討された区間に上越線などが含まれていたことから、耐寒耐雪装備を備えた。

↑筆者が少年期に撮影した中央線の115系。登場当時の115系は前照灯が今よりも大きかった 1972年ごろの国分寺駅付近

 

115系は国鉄からJRとなる際にJR東日本、JR東海、JR西日本の3社に引き継がれた。すでにJR東海からは消え、JR東日本の車両もごくわずかとなった。大所帯として残るのは3社のうちJR西日本のみで中国地方で活躍している。国鉄形電車の消えていくペースは予想以上に早い。首都圏近郊で、ごくごく身近に走っていた115系も、ほんの数年のうちに消えてしまった。そんな消えた2つのエリアの115系をまず振り返っておこう。

 

◆中央東線では2015年11月、群馬県内からは2018年3月に消滅

東京都下、山梨県、長野県と、広範囲に走る中央本線。JR東日本の路線区域、中央東線では、約50年にわたり115系が走り続けてきた。2010年台の初めまでは、普通列車のほとんどが115系だった。鉄道車両を撮影する人たちにとって115系は、目標とする特急列車などがやって来るまでの間に、試しでシャッターを切る、というような対象の車両でもあった。

 

ところが、2014年に後継となる211系(こちらも国鉄形近郊電車だが)が走り始めると、あっという間に115系の車両数が減っていった。そして2015年11月には横須賀色の115系が中央東線から姿を消した。いわゆるスカ色(すかしょく)の車体カラーで親しまれていた115系が、JRの路線から消えたのである。

↑中央東線の中長距離電車といえば115系だった。2014年から急速にその数を減らしていき2015年11月で運用終了 2015年3月15日撮影

 

他に関東地方で115系が多く活躍していたエリアと言えば群馬県内(栃木県の一部路線を含む)だった。元々、115系は上越線用に投入されたのが始まりとあって、縁の深い路線でありエリアだった。上越線、両毛線、吾妻線、信越本線(横川駅まで)と、多くの線区で“主役”として走った。こちらは全車がオレンジと緑の湘南色の115系だった。配置されていた高崎車両センターにも後継の211系が2016年ごろから徐々に投入されていく。

 

群馬県内からの115系の引退は、中央東線に比べれば3年ほどあとになったが、2018年3月の春のダイヤ改正とともに消えていっている。2つのエリアでは、新型電車の投入ではなく、別路線を走っていた211系の転用ということもあり、置き換えのペースは予想以上に早かった。振り返ればあっという間の引退劇だった。

↑上越線を走った湘南色の115系。山間に響いた独特のモーター音が今や懐かしく感じられる 2015年6月13日

 

さてJR東日本に残る“最後の115系”たちは、どのような運命が待ち受けているのだろうか? ここからはわずかになったJR東日本の115系と、JRから引き継ぎ、今も多くの115系が走る、しなの鉄道の115系の現状を見ていくことにしよう。しなの鉄道でも徐々に、新型車の導入が進んでいる。

 

【115系が残る路線①】新潟地区を残る七色の115系

JR東日本に残る115系は21両のみとなっている。すべてが新潟車両センターに配置されている。全車3両で編成を組み、現在7編成が日々、新潟エリアを走り続けている。なお、JR東日本の高崎車両センターにクモハ115が1両配置(2020年4月1日現在)されているが、こちらは運用がないので残る115系の車両総数から除外した。

 

◆車両の現状:7編成すべてが違う車体色で注目を浴びている

↑信越本線でも115系の運用がわずか1本残る。写真は夕景の鯨波海岸だが、現在は朝に同地を通過する。同塗装は「三次新潟色」

 

わずかに残る7編成21両の115系。すべての編成が色違いで、まさに七色の115系なのである。車体カラーは次のとおりだ。それぞれのカラーに名前が付いている。

 

(1)N33編成「旧弥彦色」〜白地に黄色と朱赤の帯
(2)N34編成「三次新潟色」〜濃淡のブルー塗装
(3)N35編成「二次新潟色」〜濃淡の緑色の帯
(4)N36編成「弥彦色」〜白地に窓周りが黄色、黄緑の帯という塗り分け
(5)N37編成「一次新潟色」〜窓周りが青、窓下の白地に細い赤の帯
(6)N38編成「湘南色」〜オレンジ色と緑色の塗り分け
(7)N40編成「懐かしの新潟色」〜あずき色と黄色の塗り分け

 

という具合である。2018年にはJR東日本の新潟支社が塗装の参考に、と一般へ好みのデザインを募集したところ、多くの案が集まるなど注目度が高い。利用者にも115系の車体カラーは注目され、七色の電車が人気となっているようだ。

↑関屋分水路を渡る越後線の115系。写真の塗装は「一次新潟色」。後ろに「三次新潟色」の115系を連結して走る

 

↑水田が広がる中を走る越後線115系。同車体カラーは「弥彦色」と呼ばれる

 

◆越後線の吉田駅〜柏崎駅間をメインに今も多くが走る

新潟エリアの115系はどのような運用が行われているのだろうか。現在、115系の運用は新潟駅〜柏崎駅間を走る越後線が中心となっている。特に吉田駅〜柏崎駅間に使われる115系が多い。同区間には上り・下り列車がそれぞれ11本走るが(区間運転の列車も含め)、そのうち上り・下り7本が115系で運用される。とはいえ、日中は上り・下りとも2〜3時間にわたり列車がない時間帯があるかなりの“閑散区”で、115系が走る割合は多くとも、列車本数が少なく乗れない、出会えない現実がある。

 

越後線以外では次のような傾向がある。弥彦線では、吉田駅〜東三条駅間の朝夕の列車に115系が使われる列車が多い。さらに新潟駅17時1分発→新井駅着(えちごトキめき鉄道)19時43分着、新井駅20時13分発→直江津駅20時44分着。さらに翌朝に直江津駅発7時17分発→長岡駅8時20分着、長岡駅発10時29分発→新潟駅11時29分着の列車に115系が使われる。信越本線を往復する115系列車が残っていたわけである。

↑越後線を走る湘南色の115系。越後線の吉田駅〜柏崎駅間はトロリー線1本の直接ちょう架式の架線区間が多い(左上参照)

 

◆えちごトキめき鉄道線へ乗り入れ列車が引退の鍵を握る?

さて、新潟エリアの115系はこの先、どのぐらいまで走るのだろう。2018年4月1日までは40両の115系が新潟車両センターに配置されていた。その翌年には現在の21両までに減っている。白新線などの115系が新型のE129系へ置き換えられたためである。新潟エリアのE129系は2018年4月1日時点で168両となっており、その後に増車はされていない。

 

新潟エリアではここ数年、非電化区間を走るキハ40系をGV-E400系気動車に置き換えることを優先していた。またE129系を製造した新潟市の総合車両製作所新津事業所では、横須賀・総武快速線用の新車E235系や、房総地区用のE131系の新造を進めている。この新造が一段落するまではE129系の新造はなさそうだ。

 

さらに越後線で115系が走る区間は超閑散区で、投資に応じた見返りが見込めないという一面もあるのだろう。架線設備など脆弱な難点もある。また新潟駅からえちごトキめき鉄道の新井駅へ乗り入れる快速普通列車が日に1便走っている。この列車に115系が使われている。E129系が、えちごトキめき鉄道への乗り入れに対応をしていないためとも言われ、この列車が残っていることも115系が残る一つの要因とされる。

 

こうした取り巻く状況を見ると、まだ数年は新潟地区の115系は生き延びそうな気配が見えてくる。鉄道ファンの一人として、この予想が当れば良いのだが。

 

【関連記事】
東日本最後の115系の聖地「越後線」−−新潟を走るローカル線10の秘密

 

【115系が残る路線②】しなの鉄道に残る115系に注目が集まる

JR東日本に残る115系は21両のみとなっているが、JR東日本からの譲渡された115系が多く残るのが、しなの鉄道だ。JR“本家”ではないものの、こちらの115系も興味深い存在で“115系見たさ”に沿線を訪れるファンも多い。

 

今でこそ第三セクター経営のしなの鉄道となっているが、ご存知のように、路線は旧信越本線である。しなの鉄道に移管される前から115系が走っていた。しなの鉄道となった後に譲渡された115系は元々長野・松本地区を走っていた車両である。同線では馴染みの深い電車だったわけだ。

 

◆車両の現状:最盛期には59両の115系が活躍していたが

↑しなの鉄道では「しなの鉄道色」と呼ばれる車体カラーの115系がメインで走る。写真のS27編成は2021年3月をもって引退の予定

 

しなの鉄道では59両の115系が在籍していた。とはいうものの2020年7月4日からは後継となるSR1系が走り始めている。そのため7月初頭にS6編成、S23編成の計5両が廃車となった。さらに新型車両SR1系(一般車)が2021年春から運行開始となる予定で、それに合わせてS25編成とS27編成の計4両が引退となる。

 

これまでに引退、また今後に引退予定の編成を見ると、S6編成は1977(昭和52)年、S23編成とS27編成は1978(昭和53)年、S25編成は1981(昭和56)年にそれぞれ製造された。すでにどの編成も40年以上の車歴を持つ。最古参のS6編成は誕生してから2020年6月末時点までで、528万5195kmを走ったそうだ。これは地球を約132周走ったことと同じ距離になる。ご長寿車両は実に働きものだったわけである。

 

しなの鉄道では、車両を引退させる時期をすべて明らかにし、さらに編成ごとにプロフィールを詳しく紹介している。同社の車両に対する“熱い思い”が窺えて、鉄道好きとしては非常に好感が持てる。それこそ華やかな“花道”を用意しているかのようでもある。

 

◆115系おなじみの「懐かしの車体カラー」が人気に

さて、しなの鉄道で注目の115系といえば、しなの鉄道色の定番車体カラーよりも、希少な「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」と名付けられた115系たちであろう。しなの鉄道では、一部の編成を同線に縁が深い車体カラーに塗り替えて走らせている。

↑初代長野色の115系。しなの鉄道は厳冬期ともなると、このように雪が付いた列車も走る。まさに115系の耐寒耐雪構造が活かされている

 

懐かしの車体カラー・ラッピング列車は5種類ある。編成と車体カラーに触れておこう。

 

・湘南色:S3編成・S25編成(S25編成は2021年3月に引退予定)
・初代長野色(白地に黄緑色の配色、スソは茶色):S7編成
・台鉄色(黄色地にオレンジの配色):S9編成
・長野色(白地に水色):S15編成
・横須賀色(スカ色の愛称あり):S16編成・S26編成

 

台鉄色以外は、旧信越本線や長野地区、松本地区と縁が深い車両カラーだ。ちなみ台鉄色は、「台湾鉄路管理局・自強号色」が正式名で、しなの鉄道と台湾鉄路管理局と友好協定を結んだことにちなみ、走り始めた車両カラーだ。

 

しなの鉄道の「懐かしの車体カラー」列車はどのような運用が行われているのだろうか。この発表の仕方こそ、しなの鉄道らしい。

↑しなの鉄道の「懐かしの車体カラー」の代表的な塗装色。台鉄色以外は、古くから115系の塗装として馴染みの色となっている

 

同社のホームページの「お知らせ」には「〈懐かしの車体カラー・ラッピング列車〉車両運用行路表」が発表されている。月々の運転予定が全日発表されていて、これを見れば、好みの電車がどのようなダイヤで走っているのかが良くわかる。各編成の運用予定表に加え、行路表と呼ばれるその日の列車番号、運行予定がPDF化され見ることができる。

 

さらに、しなの鉄道らしいのは行路表の見方まで詳しく解説していることである。もちろんこれは鉄道ファン向けで、鉄道に少しでも親しんで欲しい、知って欲しいという思いが感じられる。こうした鉄道会社からの啓蒙姿勢は、真摯に写る。ファンにとっても歓迎すべき姿勢であろう。

 

◆しなの鉄道の115系の今後は?

しなの鉄道では老朽化しつつある115系に代わる車両をどうするか、かなり苦慮したと伝わる。当初は他社からの譲渡車両で工面するという案も出たものの、新型車両を導入することのメリットを取った。

 

115系などの古い車両に比べて、新型車両はエネルギー効率が高く115系に比べて消費電力量が約40%削減できるとされる。またメンテナンスに必要な人員が少なくなるなどメンテナンスコストを減らせるといった利点があった。ちなみに、しなの鉄道が導入したSR1系は新潟エリアを走るE129系と同形の車両で、製造も総合車両製作所新津事業所と同じだ。

↑115系の置き換え用に造られたJR東日本のE129系と、しなの鉄道SR1系は同形で、同じ工場で造られている

 

しなの鉄道では2020年7月に新型SR1系を2両×3編成、計6両を導入した。このSR1系は、同社初の「有料快速」列車などに使われている。続けて2021年3月13日のダイヤ改正に合わせて、SR1系一般車の導入を行う。2020年に導入したSR1系とは車体カラーや車内設備が異なっているとされる。この春の導入は2両×4編成で計8両となる。これでしなの鉄道のSR1系は14両となり、全列車のうち約3割がSR1系に置き換わるとされる。

 

さらに2022年度中にはSR1系は28両となることがすでに発表されている。最終的には、2027年3月期までは計46両となる予定だ。要はこの2027年春で、しなの鉄道の115系は、多くが引退となりそうだ。ということはあと6年ほど。この時には、懐かしの車体カラーの115系も、115系を利用した観光列車の「ろくもん」も消えて行くことになるのだろうか。または一部が残るのだろうか。ちょっと悲しいものの、これも時代の流れと言えるのかも知れない。

残るは西日本のみ!国鉄近郊形電車「113系」を追う

〜〜希少な国鉄形電車の世界その5「113系」〜〜

 

日本国有鉄道が直流近郊形電車として製造した113系。都心と郊外を結ぶ近郊形電車を代表する形式として各地を走り続けてきた。そんな113系にも淘汰の波が迫りつつある。

 

今回は近郊形電車を代表する113系を紹介した。JR西日本のみに残る113系の現状を見ていこう。

 

【はじめに】近郊形電車として最大勢力を誇った113系

113系はどのような電車だったのか、まず概要から迫っていきたい。

 

首都圏で近郊形電車が活躍する代表的な路線といえば東海道本線。113系の先代にあたる111系はまずこの路線を念頭に開発された。戦後の混乱期を乗り越え、大量輸送時代が訪れた当時の東海道本線を走っていたのが80系や153系だった。この両形式はデッキ付き2扉スタイルだったが、多くの人が乗り降りすると、どうしても時間がかかる。停車駅で遅延が生じやすかった。

 

4扉の101系はすでに開発されていたが、近郊形には3扉デッキなしが良いだろうと考えられた。そして生まれたのが111系である。正面はいわゆる“東海型”と呼ばれる形で、中央に貫通扉が設けられた。111系はさっそく湘南電車の基地、大船電車区と静岡運転所に配置された。1962(昭和37)年のことである。

 

◆主電動機の出力を強化した113系

デビューして利用者の評判も良かった111系だったが、非力さが問題となった。そこで、主電動機の1時間定格出力を120kW(111系は100kW)にパワーアップした新しい電車が造られた。

 

この新しい電車こそ113系である。先代の111系が製造された期間はごく短期間で、1963(昭和38)年からは113系と115系の製造が主流となっていく。今も制御車に「クハ111」といった車両がある。111という数字は残るものの、現在は「クハ111」を含め113系と呼ばれている。

 

ちなみに115系は113系と主性能は同じで、投入した路線に合わせて急勾配に対応した設備を持ち、耐雪耐寒装備を施した形式を115系とし、区分けしている。115系の詳しい紹介は次回に譲ろう。

↑さまざまな車体色が混在していたJR西日本の113系。今も湖西線を中心に運行されている 2012年9月24日撮影

 

113系は1963(昭和38)年から1982(昭和57)年にかけて製造され、計2977両が造られたとされている。現在、113系はすでにJR各社から姿を消していき、残るのはJR西日本のみとなった。残る車両数は128両(2020年4月1日現在/※吹田総合車両所日根野支所の4両は2020年3月で運用を終了したので除外しました)で、3000両近くの車両が造られたが、今残るのはわずか4%あまりだ。

 

さらに、JR西日本からは「113系、117系 約170両を新製車両に置換計画あり(投入予定時期2022〜2025年)」という発表も行われている。あと数年で状況は大きく変わりそうである。

 

【113系が残る路線①】湖西線・草津線を走る抹茶色の113系

残る113系の現状を路線ごとに見ていこう。多く走るのが湖西線と草津線だ。

 

◆車両の現状:64両が湖西線、草津線の普通列車として走る

↑地域塗装に塗られてはいるもののオリジナルな姿を残した113系。湖西線の電車は京都駅発のため京都駅近郊で目にできる

 

湖西線、草津線を走る普通列車の多くに使われているのが113系だ。吹田総合車両所京都支所に4両×16編成の計64両が配置されている。ベースとなっているのは湖西線向けに用意された耐寒耐雪装備を持つ700番台で、その後に110kmの最高時速に対応できるように高速改造を施した時に、113系の5700番台となった。

 

さらに7700番台の113系が走るが、こちらは草津線が1980(昭和55)年に電化された時に増備された113系で、当初は2700系だったが、高速改造を施したことから、5000をプラスした7700番台となり走っている。

 

ここ数年で塗装変更が完了し、現在は京都地域色の緑単色で塗られていて目立つ。京都に宇治という茶の産地があるせいか、鉄道ファンからは“抹茶色”とも言われるカラーだ。

 

64両の113系を見ると、それぞれの編成ごと姿が微妙に異なる。オリジナルな姿をかなり残した編成がある一方で、体質改善工事が進められ、屋根が張上げタイプ、また側面窓をステンレス枠にした車両、正面の窓周りのステンレス部分が太くなった編成など、細部が編成ごとに異なっていて、なかなか興味深い。

 

◆湖西線での運用:京都駅発の湖西線列車の6割が113系で運用

↑写真の113系は体質改善工事が行われた編成。屋根は雨どいを上に上げた張上げタイプで、側面窓はステンレス枠化されている

 

湖西線は京都駅〜永原駅間を走る区間限定列車の多くに113系が使われている。京都駅〜山科駅間は東海道本線を走行、湖西線では近江今津駅まで走る列車が多い。

 

この区間の普通列車には他に117系と221系も使われているが、同区間の普通列車の約6割が113系で運用される。対して117系は6両編成ということもあり、朝夕を中心に使われている。ちなみに113系も朝夕の運行では2編成つなげた8両で走る姿が見られる。また同線には221系の入線もあるが、本数は少なめで全体の2割程度にとどまっている。

 

◆草津線での運用:5割は113系だが、草津線内のみでの運用が多い

草津線の運用は湖西線と共通運用で、抹茶色の113系が走る。この草津線でも113系の運用が盛んだ。5割は113系での運用で、草津駅〜柘植駅(つげえき)間、もしくは草津駅〜貴生川駅(きぶかわえき)間の運用が目立つ。残りは221系での運用で、117系も朝夕を中心に走る。湖西線に比べて京都への直通列車が少ない。草津線のみでの運用が多いことがちょっと残念なところだ。

 

【113系が残る路線②】山陰本線、舞鶴線、宮福線を走る

湖西線、草津線とは使われる電車が異なるものの、京都府と兵庫県を走る他路線でも、抹茶色の緑単色塗装の113系が走っている。こちらの運行状況も見ておこう。

 

◆車両の現状:2両編成化した113系がローカル輸送に従事

↑福知山地区を走る113系には1両に2つのパンタグラフを付けた編成も走る。写真は湘南色当時のもの 2010年12月30日撮影

 

京都府の北部、福知山駅を起点に113系が残り走っている。配置は福知山電車区で2両×6編成、計12両が残っている。車両は山陰本線の園部駅〜福知山駅間が電化された1996(平成8)年に導入された5300番台だ。この車両に耐雪ブレーキなどを取り付けられている。6編成のうち2編成は1車両にパンタグラフを2基搭載した車両で、先頭車にもかかわらずパンタグラフ2基というユニークな姿で目立つ存在となっている。

 

なお福知山電車区には115系6000番台が2両配置されている。こちらの編成は中間車を先頭車化するにあたり、平坦な顔立ちに改造されている。この115系の先頭車化に関して、なかなか興味深い改造しているので次回に紹介したい。福知山地区では113系と同じ運用に入り、113系と連結して走ることも多いので、ここで一緒に走る路線の状況を見ていこう

 

◆運用の傾向:地域限定ながら朝夕を中心に多くの運用を担う

福知山電車区の113系が走るのは次の3路線だ。

 

○山陰本線:福知山駅〜城崎温泉駅間
○舞鶴線:綾部駅〜東舞鶴駅間
○京都丹後鉄道宮福線:福知山駅〜宮津駅間

 

3路線共通での運用なので、一緒に運用の傾向を追っていこう。113系の運用が多いのは舞鶴線で、列車は福知山駅〜東舞鶴駅間を走る。ダイヤを見ると約7割程度の普通列車が113系で運用されている。残りは223系だ。

 

山陰本線での113系の運用は少なめで、昼から4往復が主に福知山駅〜豊岡駅間を走る(曜日により城崎温泉駅まで走る列車もあり)。京都丹後鉄道の宮福線へも113系が乗り入れている。福知山駅発14時22分と17時26分発で、戻りは宮津駅発15時33分と18時30分発だ。これらの列車は2020年度の一般的な運用のため、例外で変る日もあるのでご注意いただきたい。

 

このように福知山駅周辺では、舞鶴線での運用が目立つ。福知山駅〜綾部駅間では山陰本線も走る。このあたりが、同エリアの113系の注目ポイントと言って良いだろう。

 

【113系が残る路線③】岡山地区を走る113系の運用範囲は

JR西日本の113系が残る路線は、ほか岡山地区のみとなっている。岡山地区の113系はどのような路線を走っているのだろうか。岡山を走る113系の経歴を含めて追ってみたい。

 

◆車両の現状:B編成の計52両が岡山駅を中心に走る

↑山陽本線の姫路駅まで乗り入れる113系。写真のように張上げ屋根の体質改善車が多く見られる

 

岡山地区の113系は全車が岡山電車区に配置されている。4両×13編成、計52両で、0番台および2000番台が使われている。車両の色はすべて中国地域色の濃黄色一色の塗装だ。

 

岡山への113系の導入は早い。宇野線の快速列車として1973(昭和48)年から走り始めている。その後、他の電車区からの借用車などでやりくりした時期が続いたが、現在は下関総合車両所広島支所からやってきた車両のみで構成される。全編成がB編成という編成名で、正面のガラス窓に「B」の文字があれば113系と分かる。

 

◆運用の現状:伯備線の山岳地区を除く区間を幅広く走る

↑伯備線を走る113系。115系と同じ正面デザインのため、B編成の「B」の文字が正面ガラス窓にないと113系と分からない

 

岡山電車区の113系が走る範囲は以下のとおりだ。115系とほぼ共通運用される地区が多いため、走ってきた車両の形式名およびB編成の名前で、ようやく113系と分かることが多い。

 

○山陽本線:姫路駅〜福山駅間
○伯備線:倉敷駅〜新見駅間
○赤穂線:全線
○宇野線:全線

 

運用のメインは山陽本線で、一部の運用は岡山県内だけでなく兵庫県の姫路駅や、広島県の福山駅まで乗り入れている。ほか路線の運用は少なめで、伯備線では、倉敷駅から新見駅までで、備中高梁駅行きを含めて3往復のみしか走らない。新見駅から先の山岳区間を通り抜ける列車は115系で運行されている。また赤穂線では全線を走るものの、路線を通して走る列車が無い。宇部線も朝と夜に2往復があるのみとなっている。

 

岡山地区の113系は、115系とほぼ共通運用される区間が多い。そのために、走ってきた電車の正面のガラス窓に「B」の文字があるかどうかで、判別するしかない。あまり目立たない存在と言って良いだろう。

 

◆ちょっと寄り道、113系のタイフォンに注目してみた

ここでは113系の興味深い改造ポイントに注目してみたい。

 

113系には貫通路の隣に丸い形状の“何か”が付いている。これはタイフォンと呼ばれる。タイフォンとは警笛の一種で、空気笛とも呼ばれる。113系、115系の場合には、改造されていなければ貫通扉の両横にタイフォンがついており、通常時は蓋がしまっている。警笛を鳴らす時に、この蓋が空いて空気笛を鳴らす仕組みだ。ちなみに113系、115系はAW-5形というタイフォンが装着されている。

↑113系のタイフォン(円内)。蓋が空いてタイフォンが鳴らされる。写真の例は左(矢印側)のみが空いて警笛が鳴らしているところ

 

この113系と115系のタイフォン。国鉄時代の車両には特急形を含めて多くに装備されていた。いま走る113系と115系を撮影してみると、タイフォンの部分を改造した車両に出会う。多いのはフタをかぶせたもの、さらにタテ長に空気穴が空いた形状のものもある。フタをかぶせたものは警笛を移設したこともあり、こうした加工が行われたようだ。

 

鉄道に興味のない方には、そんな違いなんて……、と思われるかも知れない。だが、それぞれの改造スタイルにより、微妙に姿が変っていて、なかなか面白い変更ポイントだと思うのだ。

↑JR西日本113系体質改善施工車両。このようなカラーで広島地区を長い間走った。タイフォンはフタや細長い空気穴で覆われていた

 

◆紀勢本線ではこんな113系も2020年春まで走っていた

最後にちょっとユニークな姿の113系に触れておこう。吹田総合車両所日根野支所に4両の113系が配置されていた。紀勢本線の一部区間で定期運用されていた113系2000番台で、2両×2編成(HG201とFG202)が残っていた。車体はオーシャンカラー1色で塗られていた。

 

この113系。筆者も出会ったことがある。見た瞬間、「あれ〜?こんなところに103系が走っていたかな」と疑問が涌いた。形式名を拡大してみると113系だった。前後とも平面な正面に改造されていて、運転席の窓が広く横長に開けられていた。外見からは103系を彷彿させる姿だったのである。

 

2020年3月中旬までは運用されていたが、残念ながら2編成とも4月中旬に廃車回送されてしまった。このように普通列車用の電車は、特に引退を発表されることもなく消えていくことが多い。鉄道ファンにとってつらく悲しい現実でもある。

↑2020年3月まで紀勢本線を走っていた113系2000番台。正面の形は103系と見間違えるようなデザインをしていた 2017年3月20日撮影

まだ大丈夫!? 国鉄形通勤電車「201系」と「205系」の活躍を追う【後編】

〜〜希少な国鉄形電車の世界その4「205系」〜〜

 

まだまだ走っているから大丈夫だろうと思っているうちに、いつしか消えていくことが多い国鉄形電車たち。筆者も、数多く走る国鉄形電車の撮影に飽きてしまい、それこそ走ってくるのにスルーしてしまったこともある。後になって、もう少し撮っておけば良かったな、などと後悔することが多い。今回の後編は、“今はまだ多く走っている”205系に注目しよう。

 

【はじめに】103系の後に登場した通勤電車たちの役回りとは?

前編では201系までの、国鉄形電車の動きに関してとりあげた。さて国鉄初の省エネ電車として登場した201系だったが、製造された車両数こそ多かったものの、4年と製造された期間が短かった。なぜ短期間の製造に終わってしまったのだろうか。そこには省エネ電車201系ならではの問題点が潜んでいた。

 

◆国鉄末期、まずはコストダウンを、と生まれた205系

省エネタイプの電車として登場した201系だったが、コスト高が問題視されたのである。電機子チョッパ制御システムが高価だった。201系の製造が打ち切られて、わずか2年で国鉄が消えJRとなるわけだが、火の車状態の国鉄には、201系の製造が重荷となったわけである。

 

そこで計画されたのが205系だった。205系は103系に使われていた抵抗制御を基本にした界磁添加励磁制御方式という制御システムを使っている。さらに205系から国鉄初のボルスタレス台車という台車を使っている。DT50という形式のボルスタレス台車は、従来の台車に比べて軽量かつシンプルな構造と機構が特徴で、メンテナンスなどにかかるコストが削減できるばかりか、走行性能を著しく向上させた。

↑武蔵野線の205系基本番台。同線の205系は2020年10月にすべてが引退となっている 2020年4月29日撮影

 

さらに205系では国鉄の通勤電車初のステンレス製の車体を採用した。こうしたことでコストダウンを実現、車体が軽量化され、省エネルギー化も実現された。いわば一挙両得の利を得たわけである。

 

205系は国鉄時代の1985(昭和60)年から製造が始まり、JR化されたあとの1994(平成6)年まで製造が続き、計1461両の205系が造られた。国鉄の時代生まれであり、途中からはJR旅客会社が製造を引き継いだのだが、設計されたのが国鉄時代なので国鉄形通勤電車に区分して良いだろう。

 

首都圏では1985(昭和60)年に山手線から運行が始まり、京浜東北線、中央・総武緩行線、京葉線、武蔵野線など、そして関西圏では東海道・山陽本線を走る京阪神緩行線に導入された。1461両と製造された車両数は多く、0番台から始まり、その後に1000番台から6000番台までと、引き継いだJR東日本では多くの改造タイプを生み出している。

↑武蔵野線の205系基本番台には前面デザインを変更した車両も登場。排障器が未装着で目立っていた 2019年3月2日撮影

 

◆ご注意を! 消える時は、それこそあっという間に消えていく

今も205系はJR東日本とJR西日本に残っている。しかし……。JR東日本では武蔵野線の205系が、2020年10月19日で姿を消した。武蔵野線はそれこそ“205系だらけ”の路線で、オリジナルな正面デザインを持つ205系も珍しくなかった。それこそ、筆者はまた205系かと失礼ながら撮らなかったこともあった。そんな武蔵野線に209系、E231系が入線し始め、わずか数年で205系が消えることになってしまった。

↑武蔵野線最後の編成となったM20編成。オリジナルな姿を残していたが2020年10月19日で運行が終了 2020年10月14日撮影

 

武蔵野線は筆者もたびたび訪れているが、205系の運用が徐々に減っていき、最後に残ったM20編成の運用も2020年10月19日に終了した。コロナ禍のさなかということもあり、サヨナラ運転もなく、沿線に集う一部の鉄道ファンに見送られての最終運行となった。こうした例のように国鉄形電車は、消えて行く時は、かなり早いペースで消えていく。残る205系といえども、“安泰”ではないのである。

 

【205系が残る路線①】オリジナルな姿を残す奈良線の205系

205系が残る全路線を見ていこう。まずはJR西日本の奈良線から。奈良線に走る205系は今や貴重な、205系のオリジナルな正面デザインを持つタイプが走る。

 

◆奈良線の205系には2タイプがある

↑京阪神緩行線用に投入された奈良線の205系の基本番台。奈良線を走る205系は2タイプあるが、違いに気付きにくい

 

奈良線の205系は吹田総合車両所奈良支所に配置されていて、4両×9編成の計36両が残る。奈良線を走る205系には2タイプがある。元京阪神緩行線から阪和線を経て奈良線へやってきた基本番台と、阪和線用に投入された205系1000番台の2タイプだ。残る編成数は基本番台が4編成で、1000番台が5編成残る。

 

形やデザインは基本番台と1000番台で異なっている。基本番台は運転台のガラス窓の下部の高さが同じで、2枚のガラス窓を区切る支柱が助手席側にある。一方の1000番台は運転席の部分のみ、正面のガラス窓の下部の高さが、高くなっている。また助手席側のガラス窓が広げられている。

 

ほかに目立たないが運転席の下のスカイブルーの化粧板の下に、細い黄色線が入るのが基本番台だ。1000番台には化粧板の黄色い線が入っていない。筆者もこの原稿を書くまでは、迂闊なことに、この差に気付かなかった。ほかに機器や内装に微妙な違いがあるので、訪れた時はぜひ確認していただきたい。

 

◆普通列車の大半が205系で運用されている

↑阪和線用に導入された205系の1000番台。前の写真と比べると分かるように助手席側のガラス窓が大きく造られている

 

京都駅〜奈良駅を走る奈良線は快速列車の運用と、普通列車の運用で車両が分けられている。普通列車用の運用に入るのが主に205系と103系で、普通列車はほぼ205系がメインと見て良い。同列車の運用は2週前の記事を参照していただきたい。

 

奈良線から国鉄形電車が消えるとしたら、まずは103系からだと思われるが、JR西日本が225系を新造し、その影響で221系が他線区へ移る傾向が強まっている。205系といえども、予断は許さない状況となっている。

 

【関連記事】
そろそろ終焉!?‐‐西日本にわずかに残る国鉄形通勤電車「103系」を追った

 

【205系が残る路線②】宇都宮線を走る湘南色ラインの600番台

ここからはJR東日本の各路線に残る205系の状況を見ていこう。前述したように武蔵野線の205系は引退となり、オリジナルな正面の姿を残した205系が非常に少なくなっている。残る多くの車両は改造、またはJR東日本になって新造された205系となっている。とはいえ各路線の205系はなかなか個性派揃いだ。

 

なお、JR東日本の各路線用に改造されたうち、次の番台はすでに引退している。

 

・1200番台:南武線向け 2016年1月引退

・3000番台:八高線・川越線(八王子駅〜川越駅間)向け 2018年7月引退

 

残る205系のうち、まずは宇都宮線・日光線を走る600番台から。

 

◆宇都宮駅を起点に湘南色ラインの205系600番台が走る

↑宇都宮線を走る205系600番台。大半が改造タイプの正面デザイン(写真)だが、2編成のみオリジナルな形の車両も残る

 

宇都宮線・日光線を走る205系は、京葉線、または埼京線を走った205系で改造後には600番台となっている。600番台の配置は小山車両センターで、4両×12編成、計48両が配置されている。このうち宇都宮線を走る205系は8編成で、湘南カラーの帯でおもに宇都宮駅〜黒磯駅の運用についている。

 

多くが正面を改造されたデザインながら、改造元となった京葉線の車両が足りなかった。そのためY11とY12編成の2編成は元川越車両センターの車両が改造された。この2編成のみ埼京線を走ったオリジナルの正面の形を残している。JR東日本で、オリジナルな正面の姿を残した“最後”の車両となっており、栃木県を訪れた時には、この改造されていない205系を探してみてはいかがだろう。

 

【205系が残る路線③】レトロさが際立つ日光線の600番台

◆日光線用の205系ジョイフルトレインも走る

小山車両センターに配置された205系のうち4両×4編成が日光線用の205系。日光線の205系は湘南色ではなく、独自のレトロ調塗色車となっている。ステンレスの車体に巻く帯の色は、クラシックルビーブラウンとされるこげ茶色と、ゴールド、クリームの3色となっている。また行先を表示する方向幕はレトロ調のフォントが使われている。

↑日光線用の205系600番台。行先を示す方向幕もレトロ調となかなか凝っている

 

2013年から走り始めた600番台だが、2018年には栃木県の観光デスティネーションキャンペーンに合わせてY3編成が観光列車用に改造された。ジョイフルトレイン「いろは」と名付けられた編成で、4扉を2扉に変更。観光列車らしくセミクロスシートの座席配置とされた。検査日を除き、ほぼ毎日、普通列車のダイヤで走っている。日光線を訪れた時には、ぜひ乗車してみたい。

↑宇都宮線(東北本線)を走る205系ジョイフルトレイン「いろは」。4扉のうち、中央の2扉が外され客席スペースに改造された

 

【205系が残る路線④】南武支線用の205系1000番台

◆2両編成の205系が4.1km区間を往復

東京都の立川駅と神奈川県の川崎駅を結ぶ南武線。同線の尻手駅(しってえき)と浜川崎駅を結ぶのが南武支線である。南武支線は旅客案内上の名称で、浜川崎支線という通称名もある。川崎の臨海部の距離4.1km区間を走る路線で、2両編成の205系が行き来している。

↑南武支線を走る205系。帯色はクリーム、緑、黄色の3色が使われる。緑の帯の中には五線譜とカモメが描かれている

 

番台は1000番台にあたる電車で、元は中央・総武緩行線と山手線を走った電動車モハ2両を利用、先頭車に改造して生み出された編成だ。配置は鎌倉車両センター中原支所で、2両×3編成、計6両が走っている。なお、JR西日本にも205系1000番台が走っているが、現在、JR各社で車両形式の数字付けが異なり、JR東日本とJR西日本の205系1000番台は別車両となる。

 

【205系が残る路線⑤】鶴見線を走る205系は1100番台

◆3両編成、計9本が川崎の臨海部を走る

神奈川県横浜市と川崎市の臨海部を走る鶴見線。鶴見駅と扇町駅間を結ぶ本線と、途中の浅野駅〜海芝浦駅間を海芝浦支線と、武蔵白石駅〜大川駅間を結ぶ大川支線がある。この鶴見線を走るのが205系1100番台だ。

 

205系1100番台は、2004年から投入された編成で、元は埼京線と山手線の中間車からの改造で、2M1Tという3両編成で構成される。3両×9編成、計27両が鎌倉車両センター中原支所に配置されている。1100番台とはなっているものの、中間のモハは基本番台(0番台)で、正式には0番台と1100番台の混合編成ということになる。

 

車体に巻かれる帯は黄色とスカイブルーで、このうち黄色は鶴見線のラインカラーでもある。

↑鶴見線を走る3両編成の205系1100番台。中間車のみ0番台となっている

 

【205系が残る路線⑥】東日本大震災の影響をうけた仙石線の電車

◆4両編成、計17本の3100番台が仙石線を走る

東北地方でJR東日本唯一の直流電化区間の仙石線(せんせきせん)。こちらを走るのが205系3100番台だ。元は山手線(一部クハは埼京線用のサハ車)を2M2Tの編成に改造して2002年から投入された。車体に走る帯色はスカイブルーにやや濃いめのブルーの2色となっている。寒冷な東北を走る205系ということで、乗降扉にレールヒーターを、また耐雪用のブレーキを追加で装備している。また車内トイレも設けられた。

 

配置は仙台車両センター。当初4両×19編成が改造されたが、M7編成とM9編成という2編成は10年前の東日本大震災の被害を受けてそれぞれ廃車となっている。そのため現在は、仙台車両センターに配置された4両×17編成、計68両とやや減っている。それでもJR東日本に残る205系のうち、最も車両数が多い大所帯でもある。

↑仙石線の205系3100番台。2011年の東日本大震災で2編成が廃車に。写真の陸前富山駅も津波の被害を受け駅ホームが改修された

 

【205系が残る路線⑦】JRになり新造された205系が走る相模線

◆計52両の500番台が相模線に主力となり走る

これまで見てきたJR東日本の205系は、みな既存の205系を改造されて生まれた車両である。最後に紹介する205系は、JR東日本となって新造された車両だ。相模線が1991(平成3)年3月16日に電化されるのに合わせて誕生した。205系500番台とされた車両で、これまでの205系とは異なる正面デザインを特徴としている。車体に入る帯色は平行して流れる相模川をイメージしたブルーグリーンとライトグリーンとされた。

 

車両数は4両×13編成の計52両で、全車が国府津車両センターに配置されている。一応205系は国鉄形電車に含まれるが、車両の誕生が1991年と、JR化されて数年後であり、しかもデザインが既存の205系とだいぶ異なっている。

↑相模線の205系500番台。他の205系とは大きく異なる正面デザインが特徴となっている

 

国鉄形とは言い切れない微妙な電車ではあるが、国鉄のDNAは受け継いでいると言って良いだろう。JR東日本に残る205系は幹線ではなく、いずれもローカル線での運用となっている。幹線のように素早く新型車との入換えされる路線でないことも救いとなりそうだ。

 

JR東日本では、むしろ早めの置き換えを想定して製造された209系やE217系といった“後輩”の車両の置き換えが、すでに始まりつつある。むしろ頑丈に作られた国鉄形であるがゆえ、残る路線の現状を見る限り、意外に末長く使われることになりそうだ。

最後の活躍!? 国鉄形通勤電車「201系」と「205系」の活躍を追う【前編】

〜〜希少な国鉄形電車の世界その3「201系」〜〜

 

武骨なスタイルで決しておしゃれとは言えないけれど、懐かしさ、愛おしさを感じてしまう国鉄形電車たち。今回は通勤形電車として一世を風靡した201系を【前編】で、205系を【後編】で追ってみたい。

 

201系と205系も今は徐々に減り、すでに201系は近々運行を終えるという情報も出てきている。ここ数年で見納めとなるのだろうか。

 

【はじめに】101系・103系・105系その後の107系は?

まずは、国鉄時代に生まれた通勤形電車の歴史を振り返っておこう。

 

太平洋戦争後しばらくの間に走っていたのが、旧形国電と一括して紹介される車両群である。戦前、戦中、戦後まもなくに造られた通勤電車で、資源の乏しい時代でもあり、また技術的にも、安全面でも問題を抱えていた。

↑筆者が国鉄時代の青梅線御嶽駅で撮影したこげ茶色の旧形国電。1970年代、ローカル線にはかなり多くの旧形国電が残っていた

 

そこで開発されたのが新性能電車と呼ばれる新形電車たちだった。まずは1957(昭和32)年に101系が登場した。1964(昭和39)年に誕生したのが、その後の国電の“顔”となった103系である。さらに後年となるが、1981(昭和56)年に地方の路線向けとして105系が開発される。このうち、103系と105系は今もわずかにだが、JR西日本で使われている。さて105系のあとはどのような通勤形電車が造られたのだろうか。今回はここから話を進めてみよう。形式名の数字順に見ると107系となるわけだが。

 

◆早くも形式消滅してしまった“JR東日本”の107系

実は107系は国鉄形電車には含まれていない。107系は国鉄の技術を引き継ぎ、JRとなった翌年の1988(昭和63)年にJR東日本により造られた。ちょうど境目となる年のすぐあとに生まれた電車だったわけである。

↑信越本線の群馬県内区間を走る107系。115系とともに北関東の路線の主力電車として活躍し続けた 2014年4月27日撮影

 

日光線、両毛線などの北関東の路線向けに造られた電車で54両が造られている。地方用ということで2両編成、“パンダ顔”と呼ばれた105系の正面に近いデザインを持つ。ロングシートで、失礼ながら個性がある電車ではなかったこともあり、あまり注目は浴びなかったように思う。

 

誕生してからちょうど30年を迎えるわずか1年前の2017年10月に運用終了。早過ぎる引退でもあった。この引退で107系という形式は消滅している。とはいえ、群馬県を走る上信電鉄に大量に引き取られ、今は主力電車として活躍をしている。ずっと走り続けてきた北関東の私鉄に引き取られて、“幸運な電車”だったと言えるかも知れない。

↑上信電鉄を走る元107系、現在は700形という形式名となっている。車体色は全編成が異なるが、元107系カラーの電車も走る

 

107系まで電車を紹介したが、109系という形式名はない。これは最後の「9」という数字が、横川〜軽井沢間を走った電車群に付けられた数字だとされるが、209系があるのに、109系がないというのはちょっと不思議でもある。

 

さて100という数字で、次は111系、113系、115系、117系という国鉄形電車としては、大きな存在だった形式があるのだが、こちらは次週以降のお楽しみということで、ひとまず、今回は通勤形電車の流れということで201系、205系という電車たちに触れておきたい。

 

【201系電車の登場】103系の後に登場した通勤電車たち

国鉄では101系の後に登場した103系が3000両以上の大所帯となっていた。103系は1984(昭和59)年までの20年にわたり製造され続けてきた。安定した性能で供給も安定したが、短所も生じてきた。大きな問題としては技術面で沈滞が生じてしまったのである。そうした中で開発が始まったのが201系だった。

 

◆国鉄として初の省エネルギー電車201系の登場

103系と201系の違いは、201系が省エネルギーを念頭に置かれて開発されたことである。時代背景に1973(昭和48)年にオイルショックが起ったことが大きかった。石油に依存していた世界は、石油の供給ひっ迫で原油高騰が巻き起こり、世界経済に大きな影響を及ぼした。

 

このことにより、鉄道にも省エネタイプの電車の開発という大きな流れが生まれる。すでに1970年前後から省エネタイプの電車の開発が始まり、実際に営団地下鉄や大手私鉄の電車が誕生していた。対して国鉄では103系を主力にしていたせいか、動きは遅れがちで、201系の開発から省エネ電車の導入にかじを切っている。1979(昭和54)年に国鉄初の省エネ電車201系の先行試験車が誕生した。

 

201系では国鉄初の電機子チョッパ制御(サイリスタチョッパ制御)方式が採用された。さらに電力回生ブレーキを装備している。

↑関西圏では京阪神緩行線に導入後,大阪環状線などで使われた。大阪環状線の201系は2019年に運行終了 2016年12月10日撮影

 

2年におよぶ試験が続けられ、1981(昭和56)年に量産車が登場した。201系は、首都圏の中央線快速、中央・総武緩行線に加えて、関西圏の京阪神緩行線用に投入された。製造期間は1985(昭和60)年までと短かったが、計1018両(試作車10両を含む)が投入されている。

 

そんな201系も誕生してすでに40年がたった。JR東日本の201系は長らく走った中央線からは2010年10月で、また最後まで残った京葉線201系は2011年6月で運用終了している。残る201系はJR西日本のみとなった。

 

【201系が残る路線①】大和路線の普通列車として活躍中

今や国鉄形電車の聖地となりつつあるJR西日本。多くの国鉄形電車が更新され、大事に使われてきた。しかし、さすがにというか、徐々に新しい電車を入換えが進みつつある。201系が大半を占めていた大阪環状線とゆめ咲線(桜島線)も、3扉車への統一を図るため、後進の323系が増備され2019年に姿を消した。オレンジ一色の姿で長年、大阪で親しまれていた電車もすでに過去のものになっている残る201系はウグイス色の大和路線(関西本線)と、おおさか東線を走るのみとなっている。

 

◆車両の現状:残り201系はあと132両となった

↑大和路線を走る201系は2006年暮れからの運行。ウグイス色一色の車体に、正面のみ白帯(警告帯)が入る。側面はかなり改造されている

 

残る201系はすべて吹田総合車両所奈良支所に配置されている。残存する車両数は132両で最盛期の13%まで減ってしまった。

 

貴重な201系がまず走るのは大和路線のJR難波駅と王寺駅間で、同駅間の主に普通列車に利用されている。頻繁に走っているので、まだまだ大丈夫だろうと思っていたら……。2020年2月19日発表のJR西日本のプレスリリースによると、この残りの201系も「運行を終える」ことが発表された。「中期経営計画2022」と名付けられたプランによると、225系が144両、新規投入されることが発表されている。

 

225系はJR京都線、JR神戸線への投入ながら、両線を走っていた221系が大和路線へ移される。予定では225系の導入が2020年から2023年度にかけてとされる。となると3年以内には置き換えに? すでに大和路線では221系が主に快速列車などに使われているが、3年後には走る電車の大半が221系となりそうだ。

 

◆撮影するならば:緑の多い高井田駅〜三郷駅間がおすすめ!

↑三郷駅近くで大和川を渡る。第三大和川橋りょうは、橋の上の構造物がワーレントラスなど複雑な造りでなかなか面白い

 

筆者は国鉄形電車が好きなこともあり、大和路線を何度か訪れて、乗車している。201系が走る区間には、ちょうど大和川が平行して流れている区間がある。通勤電車が走る路線としては、非常に風光明媚な区間で、乗車していても車窓風景の展開がおもしろい。

 

もし撮影するとしたら、やはり大和川の流れと並行する区間がおすすめだろう。高井田駅から三郷駅(さんごうえき)間まで、途中に一駅・河内堅上駅(かわちかたかみえき)があるのみだが、ぜひともお気に入りのスポットを探していただきたい。

 

【201系が残る路線②】おおさか東線の主力として活躍中だが

◆運用の現状:大和路線と共通運用のため2023年度には消えることに

新大阪駅と久宝寺駅(きゅうほうじえき)を結ぶおおさか東線。2019年3月16日に全線開業した路線だが、この主力として走るのが201系だ。普通列車のすべてに201系が使われている。大和路線へ乗り入れる快速電車(新大阪駅発は日に4本のみ)を除く列車以外はすべて201系なので、同路線で201系が見放題、乗り放題というわけだ。

 

とはいえ大和路線と共通運用で、配置されるのが吹田総合車両所奈良支社。そのため2023年度までには消える運命となりそうだ。

↑新大阪駅近くを走るおおさか東線の201系。同線の久宝寺駅行き普通電車は現在のところすべて201系で運転されている

 

おおさか東線は全線がほぼ高架線が連なり、もし駅間で撮影するとしても好適地があまり無いのが残念なところ。貨物専用線だった淀川橋梁(赤川鉄橋)も今は歩行者が渡れなくなっている。駅間で撮るとしたら新大阪駅近辺や久宝寺駅周辺ぐらいかも知れない。

 

◆車両の特徴:車体側面や行先表示器は大きく変更されている

JR西日本には国鉄形の古い車両が残っている一方で、体質改善工事と称する改造工事を大がかりに行っている。残る201系の変更点をここで確認しておこう。まずはオリジナル車両にくらべて側面が大きくかわっている。雨どいの位置が上げられ、屋根の張上化、乗降扉が入り込む戸袋部分の窓が消された。ガラス窓の周囲などもステンレスにされている。上部にある前照灯もガラス内に収納されている。

 

行先表示器は方向幕からLED表示器にされている。ちなみにLED表示器の撮影を試みたが、きれいに撮影できるシャッター速度をいろいろ試してみて60分の1以下が望ましいことが分かった。なかなか難度の高いLED表示器である。走行時の撮影はかなり難しいように感じた。

↑行先表示器は現在LEDとなっている。このLEDをきれいに撮るのが結構難しい。作例はシャッター速度60分の1で撮影したもの

 

いろいろな変更点がある201系ではあるが、国鉄初の省エネ電車であることは確かだ。歴史にその名を刻んだ“名車”をしっかり目に焼き付けておきたい。

ローカル線用の国鉄形電車「105系」と「123系」の気になる行く末

 〜〜希少な国鉄形電車の世界その2「103系」「123系」〜〜

 

国鉄形電車の中には103系のように大量に製造され、各地の路線で活躍した車両がある一方で、限られた路線用に造られた国鉄形電車がある。例えば105系や123系といった車両があげられるだろう。

 

今回は地方ローカル線用に新造され、また一部は改造され105系と123系となった車両に迫ってみた。それぞれとても味わいのある車両なのである。

 

【はじめに】地方線区に残った旧型国電の置き換え用として登場

前回に紹介した新性能電車101系と、経済性を重視した103系。両車両の大量投入によって、旧形電車(旧型国電とも呼ばれる)の置き換えがかなり進んだ。一方、地方の線区では1980年代まで、旧型国電が多く残っていた。地方の線区に残っていた旧型国電の置き換え用に誕生したのが105系だった。

 

◆3扉か4扉車かで新造車か改造車か分かる

105系が登場したのは1981(昭和56)年のこと。地方ローカル線用の電車ということで、2両編成で運行できるように計画された(当初は4両編成も造られたが、その後に2両化)。国鉄の行く末に暗雲が立ちこめていた時期でもあり、経済性を最も重視している。電動車1両、付随車1両という組み合わせを基本とした。台車や主電動機も103系と共通化してコストを抑えている。

 

105系には2タイプがある。「新規製造車」と、103系を改造して105系とした「改造編入車」である。台車や主電動機は103系と同じにしたこともあり、改造しやすい利点もあった。

↑可部線を走った105系「新規改造車」。3扉が特徴だった。可部線の105系はすでに227系に置き換えられた 2015年3月27日撮影

 

1981(昭和56)年にまず福塩線、宇部線・小野田線に「新規製造車」が導入された。1984(昭和59)年からは、103系を改造した「改造編入車」が奈良線、和歌山線、紀勢本線の一部と、可部線に導入された。「新規製造車」と「改造編入車」の大きな違いは乗降扉の数が違うところ。「新規製造車」は3扉で、「改造編入車」は103系からの改造ということで4扉だった。よって外観を見ればすぐにどちらかが分かる。

↑和歌山線の105系は4扉車の「改造編入車」が使われた。和歌山線の105系は2019系9月末で運用を終えた。2017年3月20日撮影

 

可部線にはかつて同じ105系ながら3扉車、4扉車が混在していた。その後2016年には扉の数を統一するために、先に4扉の105系が姿を消している。新造車と改造車が混在していたころは、利用者にとって、さぞや使いづらかったことだろう。ちなみに新型の227系が導入され、可部線からは3扉車を含め105系のすべてが姿を消している。

 

◆“パンダ顔”の正面と異なる103系のままの姿を持つ105系も

新造した105系の正面中央には貫通扉があり、窓が左右に取り付けられている。左右の窓周りには黒色ジンカート処理と呼ばれる、黒の縁取り塗装が行われている。こうしたデザインから、鉄道ファンは“パンダ顔”とも呼んだ。確かにパンダに見えないこともない。

 

105系の「改造編入車」のうち中間車を改造した車両もそんな“パンダ顔”が取り付けられた。そんな中に異なった形の正面を持つ105系も混じっていた。この車両は元常磐緩行線を走った103系1000番台を改造したものだった。常磐緩行線では後継車両の203系が投入されたことで、103系が使われなくなっていた。この103系を2両化、片側は常磐緩行線の103系の正面のままの姿で、一方の正面は“パンダ顔”が付けられた。要は前後で正面の形が違う105系となったわけである。

↑可部線を2016年まで走った105系。写真は103系改造編入車で常磐緩行線の正面がそのまま活かされていた 2015年3月27日撮影

 

他には仙石線用に4両編成の103系を2両化する改造工事が行われ、こちらの改造車も105系に組み込まれている。こうして新規製造車60両、改造編入車が65両(後に1両補充)の計126両が造られた。一時は大所帯となった105系だったが、すでに生まれて40年近くたち、徐々に減っていき、今はJR西日本の50両を残すのみとなった。路線はわずかに4路線のみになっている。

 

そのうち1路線ではこの春に105系の運用の終了が予定されている。105系が残る4路線の現状を見ていきたい。

 

【105系が残る路線①】この春で消えそうな紀勢本線の105系

近畿地方で今や唯一、105系が残るのが紀勢本線だ。紀勢本線の中でも紀伊半島の最南端にあたる紀伊田辺駅〜新宮駅間の普通列車に使われるのみとなっている。2021年3月のダイヤ改正で、すでに和歌山線に導入されている227系1000番台が、この区間に導入されることが発表されている。代わって105系が引退ということになりそうだ。

 

◆車両の現状:わずか2編成の4扉車が注目を浴びている

↑先頭の車両がクハ105-6で103系1000番台の正面デザインを残した車両だ。紀勢本線の紀伊田辺駅〜新宮駅間を不定期で走る

 

紀勢本線に残る105系は吹田総合車両所日根野支所・新在家派出所の計14両で、このうち5編成が3扉の「新規製造車」。残り2編成が4扉の「改造編入車」が配置されている。ちなみに車両基地、新在家派出所は和歌山線の和歌山駅〜田井ノ瀬駅間にある。

 

4扉の「改造編入車」はあくまで3扉車の予備車の扱いで、3扉車が検査の時などに走る。この4扉車2編成のうちSW009編成のクハ105-6車両が今や貴重となった103系1000番台の正面デザインを持つ。そのために注目度も高くなっている。

 

◆運用の現状:本数の少ない閑散区で狙いたい“下り”列車

紀勢本線の105系の運用では4扉車があくまで予備車両扱いだが、鉄道ファンからはこの予備車両の運行が「紀南代走」として注目が集まっている。とはいえ列車本数の少ない区間のこと。日中は2〜3時間も列車の間隔が空くという閑散区で、それだけ105系を巡りあえる機会が少ない。「紀南代走」は常に行われるものではないので、Twitter等で情報をキャッチした方が賢明だろう。

 

乗車はできるものの撮影となると、かなり難度が高そうだ。紀伊田辺駅発の日中(朝夕を除く)に走る“上り”列車は10時41分と13時10分発のみ、一方、新宮駅発の“下り”列車は9時23分、11時26分発、13時6分発、15時30分発と上りに比べると本数が多くなる。大阪方面からは、特急列車を使って撮影地近くの駅まで出かけ、下りの105系にのんびり乗車、撮影するのがベストと言えそうだ。

 

紀勢本線を最後に近畿地方の105系は3扉車を含めて全車両が引退の予定だ。とはいえこのコロナ禍である。海を背景に走るオーシャンカラーの105系は、ファンに見送られることもなく、静かに引退ということになるのかもしれない。

 

【105系が残る路線②】福塩線向け新造105系が今も健在

105系が残る他の3路線は、いずれも中国地方にある。まずは福塩線(ふくえんせん)の105系から紹介しよう。広島県の福山駅と塩町駅を結ぶ福塩線。この路線の福山駅と府中駅間が直流電化区間で105系が主力車両として活躍している。

 

◆車両の現状:福塩線電化区間の主力は105系

↑福塩線の神辺駅〜湯田村駅間を走る105系。新造された車両で、105系オリジナルの姿を残している

 

車両は福塩線用に造られた3扉の「新規製造車」。当初は山吹色の地色に紺色の帯だったが、2009年からは濃黄色に塗り替えられている。なお、府中駅〜塩町駅間は非電化区間で、キハ120形が使われている。また福山駅〜神辺駅(かんなべえき)間には井原鉄道の気動車も乗り入れている。

 

◆運用の現状:岡山駅まで乗り入れる105系運用の列車も

↑府中駅発7時51分、岡山駅9時53分着の列車には105系が使われていた。山陽本線の福山駅〜岡山駅間ならば105系が撮影可能になる

 

福塩線を走る105系は岡山電車区に配置される。車両数は2両×7編成の計14両で、それほど多くはない。列車の本数は1時間に1〜2本で、福山市の郊外路線として機能している。列車の一部には同じ濃黄色の113系もしくは115系が使われている。福塩線を訪れる際には、105系だけでなく、福塩線を走る113系や115系、さらに井原鉄道の気動車を一緒に撮影したほうが賢明だろう。

 

なお福塩線から岡山駅まで乗り入れる列車も日に2本運行、また岡山駅発、府中駅行の列車も1本が運行されている。つまり福塩線を訪れなくとも、山陽本線の福山駅〜岡山駅間で105系に乗ったり撮ったりすることはできるというわけだ。この乗り入れ列車を有効に活かしてみてはいかだろう。

 

【105系が残る路線③】まだまだ走る宇部線・小野田線の105系

今や貴重な105系が走る区間は山口県内にもある。山口県内を走る宇部線と小野田線だ。2本の路線は105系の共通運用区間なので一緒に紹介したい。この2線のうち特に宇部線は105系が主役として走る。ちなみに小野田線の主力は123系で、この123系も車両数が非常に少ない国鉄形電車だ。この123系の詳細は後述したい。

 

◆車両の現状:105系「新規製造車」が22両も残る

↑小野田線を走る105系。小野田線の主力は123系で、朝などラッシュ時に105系が使われる

 

宇部線、小野田線を走る105系は3扉の「新規製造車」。JR西日本の中国地方を走る電車と同じく濃黄色の車体で走る。配置は下関総合車両所運用検修センターで、2両×11編成、計22両と105系が最も多く配置される車両基地でもある。

 

◆運用の現状:下関駅〜宇部駅間を走る105系も

宇部線の宇部駅〜新山口駅間はほぼ1時間に1本、列車が走っている。また宇部駅〜宇部新川駅間は朝夕の列車本数が増える。このうちほとんどが105系での運行で、一部に123系で運行の列車も混じる。また宇部駅からは、朝は厚狭駅や下関駅行まで山陽本線へ乗り入れる列車も走っている。この乗り入れ列車には105系と123系が連結して走る列車があり、鉄道ファンに注目されている。また朝夕には、厚狭駅、下関駅、また小野田線の小野田駅から宇部線へ乗り入れる列車もあり、変化に富んだ列車運行が行われている。

 

一方の小野田線の主力は123系となる。小野田線は宇部線と接続する居能駅(いのうえき)と小野田駅を結ぶ路線だが、途中の雀田駅(すずめだえき)から長門本山駅までは、本山支線という路線距離2.3kmの支線が延びている。朝に2往復と、夕方に1往復と、列車本数が非常に少ない路線で、しかもホームの有効長が1両分しかない、JRとしては異例な“超ローカル線”だ。走る123系も希少な車両ながら、非常に興味深い路線でもある。

↑宇部線の上嘉川駅〜深溝駅間の岡村第一踏切付近を走る105系。同線では濃黄色3扉の105系新規製造車が今も主力として走る

 

宇部線、小野田線ともなると、なかなか都市圏から遠く訪れる機会が少ないが、宇部線では新山口駅の隣、上嘉川駅(かみかがわえき)近くの岡村第一踏切が筆者のお気に入りの撮影スポットとなっている。水田風景が広がるところで見通し良好。宇部線の列車が途切れる時間は、近くの山陽本線に移動しての撮影ができる。宇部線の列車がやってくる時は、また宇部線に戻っての列車撮影が楽しめる場所で、まさに“一挙両得”といったポイントでもある。お勧めしたい。

 

【123系が残る路線】唯一となった123系が走る宇部線・小野田線

今回は宇部線・小野田線を走る123系の紹介もしておこう。この電車も今となっては貴重であり、レアな国鉄形電車でもある。

 

まずは生い立ちから。123系は1両での単行運転ができるJRグループでは貴重な電車である。国鉄がJRとなる前後の1986(昭和61)年から1988(昭和63)年にかけて誕生した。新造ではなく、当時、すでに使われなくなっていた荷物電車、事業用車を改造して新たに旅客用電車としたものだ。合計13両が造られている。JR東日本とJR東海、JR西日本の3社に引き継がれたが、すでにJR西日本のみにしか残っていない。

 

◆車両の現状:残る5両が小野田線を中心に“最後のご奉公”?

↑クモハ123-3。可部線用に改造されたグループの1両だ。乗降用扉が乗務員用の扉のすぐ近くにあるのが特徴だ

 

JR西日本に残るのはわずかに5両。すべて105系と同じ下関総合車両所運用検修センターに配置されている。残る123系は、クモハ123形の2から6まで。元の車両はクモニ143形という形式名の荷物車で1980(昭和55)年前後に造られた。2〜4車両と、5・6車両は履歴が異なるとともに、外観も異なっていて興味深い。2〜4車両は可部線向けに改造された車両で、後者の5・6車両は阪和線の羽衣支線用に改造された。両車両は側面の窓の形、そして扉の位置が異なっている。

↑クモハ123-6。こちらは阪和線羽衣支線用に改造された車両で乗降扉の位置と形が異なる。荷物車の面影を残すように扉が奥まった位置にある

 

◆運用の現状:小野田線の主力車両としてまた下関へも走る

小野田線では一部の列車を除き、123系が使われる。特に小野田線の本山支線は、ホームの長さの問題があり123系のみでの運行となる。

 

また前述したように宇部線から下関駅へ乗り入れる列車にも123系が連結されている。よって小野田線へ行けば、123系は確実に乗れるし、また撮影も可能と言っていいだろう。また写真で紹介したように、残存する123系の中でも形が異なる車両が含まれ、このあたりは意識的に捉えておきたいところだ。

↑残存する中ではトップナンバーのクモハ123-2。写真の塗装は旧塗装で今は全車濃黄色となっている 2013年9月14日撮影

 

宇部線・小野田線に残る105系や123系は今後、どのぐらいまで使われるのだろうか。JR西日本は車両を長く使う傾向があり、国鉄形電車が多く残る。もし変るとしたら105系は和歌山線や紀勢本線と同じように227系1000番台に、123系はJRグループで唯一1両の単行運転が可能な125系への置き換えとなると見られる。

 

とはいえ、JR西日本には103系や、113系、115系、117系とまだまだ古い国鉄形電車が多く残る。105系や123系よりも古い車両もあり、まずはそちらからの置き換えが優先されることになりそうだ。

 

小野田線の本山支線は、旧型国電最後のクモハ42形が2003(平成15)年3月まで使われた路線でもある。最後のクモハ42-001に至っては70年にわたって鉄路を走り続けた“超ご長寿車両”でもあった。この例から見ても宇部線・小野田線は、国鉄形電車が走る最後の“聖地”となる可能性を秘めている。

そろそろ終焉!?—西日本にわずかに残る国鉄形通勤電車「103系」を追った

〜〜希少な国鉄形電車の世界その1「103系」〜〜

 

日本国有鉄道がJRとなり30数年の年月がたった。国鉄時代に誕生した電車たちも、30年以上にわたり走り続けてきたわけで、老朽化がかなり進む。姿を消す車両も増えてきた。そんななか、今も活躍する車両が少なからずある。

 

今回は国鉄を代表する“国電”として、大量輸送の時代にデビューし、日本経済を影で支えた103系のわずかに残る車両と、走り続ける姿をお届けしよう。

 

【はじめに】“国電”の代表格! 日本一の車両数を誇った103系

まずは103系とはどのような電車だったのか。見ておきたい。

 

太平洋戦争が終わったばかりの昭和20年代、都市部を中心に増大する輸送量に対応していたのは、戦前・戦中・戦後生まれの旧形電車(旧型国電とも呼ばれる)だった。吊りかけ式という古い駆動方式で、車内にモーター音ばかりか、電動機の振動が伝わり、決して乗り心地が良いものでは無かった。中には木造車も混ざり、電車の性能や編成が統一されておらず、安全装備も疎かで、悲惨な鉄道事故が多発した。

 

◆旧型電車に代わる新性能電車として生まれた101系

そんな古い旧型国電を徐々に置き換え、新しい快適な電車の導入を、ということで開発されたのが103系の先輩にあたる101系だった。101系は「新性能電車」と呼ばれる。旧形電車から変わったところは多々あったが、大きなポイントとしては吊りかけ駆動方式から、カルダン駆動方式への変更。さらに当初から編成を組むことを考慮して「ユニット」という考え方を取り入れたことが大きい。さらに扉を4つもうけ、両開きにして乗降時間の短縮を図った。

↑JRから2003年に消えた101系だったが、秩父鉄道では2014年3月まで譲渡車両が走り続けた 2010年5月3日撮影

 

運用開始は1957(昭和32)年12月のことで、1969(昭和44)年までに計1535両が製造され、中央線を始め、首都圏と関西圏の通勤輸送に従事した。ほぼ40年にわたって走り続け、JRからは2003年11月28日をもって消滅している。最後はJR東日本の南武支線を走る101系だった。その後も、譲渡された秩父鉄道では1000系と形式名を変え、2014年まで走り続けた。

 

◆経済性を重視して生まれた103系

101系の次に開発されたのが103系だった。101系が新性能電車としての最初の電車として登場したのに対して、103系はより汎用タイプの通勤形電車として設計された。

 

なぜ、103系という電車が登場したのか。101系はオール電動車編成で、既存の路線の電気設備では、その性能を発揮できなかったことが大きい。性能を活かすためには、地上の設備を増強せざるをえなかった。101系はMM’ユニット方式(動力車2両で組む)だったのに対して、103系はMT比(動力車と付随車の構成比)を1対1としている。要は性能的にオーバースペック気味だった101系に対して、103系は経済性を重要視し、路線を選ばず走らせやすくした電車を造り、“実をとった”形だった。

↑ワンマン運転用に変更された阪和線羽生支線の103系。羽生支線の103系は2018年3月で消滅している 2015年11月7日撮影

 

103系は1963(昭和38)年3月に落成。9か月にわたる試運転を繰り返した後に、1964(昭和39)年5月から山手線での運用が開始された。その後に北海道・四国を除く直流電化区間の通勤電車として投入され、製造期間は1984(昭和59)年まで合計3447両が造られた。20年間にわたり同系列の電車が造り続けられることは稀で、車両数は日本の鉄道車両で最多の車両数を誇った。

 

20年間のうち、大きな変更点は1974年以降に製造された「高運転台」タイプの変更ぐらい(一部の路線用に変更した車両はあり)で、長い間、同タイプの車両が生産されこと自体、非常に珍しい。性能面でも安定し、走らせやすかったこともある。103系は昭和期の大量輸送時代を支え、ひいては日本の高度成長を支えた電車といっても過言ではないだろう。

↑大阪環状線を走った103系の高運転台タイプ。大阪環状線での103系運用は2018年1月をもって終了している 2016年12月10日撮影

 

それほどまで大量に製造された103系だったが、末期に製造された車両ですら約40年に近い年月がたつ。JR各社に引き継がれた103系の多くの車両が、体質改善工事に加えて、冷房装置を付けるなどの改良工事を行い“延命”が図られた。とはいえ、体質改善されたとはいえ、その後に登場したステンレス車体の軽量電車などに設備面や走行面で劣ることもあり、すでにJR東日本と、JR東海の103系は全車が引退している。

 

残っているのはJR西日本とJR九州にわずかに残るのみとなった。JR西日本には48両、JR九州には15両のみ。この車両数も2020年4月1日現在のものなので、厳密にはもう少し減っている可能性もある。最大勢力を誇った103系だったが、残る車両数は全盛時のわずか2%未満となってしまったわけである。

 

そんなわずかに残る103系を見るべく、筆者は新型感染症の蔓延が広まる直前の12月中旬、西日本の各路線を巡ってみた。最新情報を含めて残る103系の姿を追ってみたい。まずは注目の奈良線から。

 

【103系が残る路線①】塗装し直された103系が走る奈良線

京都駅と奈良駅を結ぶJR西日本の奈良線。走るのは吹田総合車両所奈良支所に配置されたウグイス色の103系で、奈良線の普通列車として長く走ってきた。そんな奈良線の103系に大きな動きが出たのは2018年春のこと。阪和線で使われていた205系全車が移動、奈良線を走り始めたのだった。

 

これで奈良線の103系も見納めかと思われたが。JR西日本の205系は車両数がそれほど多くない。現在の奈良支社に配置された36両のみである。4両×9編成では足りなかったせいなのか、103系も2編成が残された。この奈良線の103系に昨秋、気になる動きがあった。

 

◆車両の現状:103系の1編成が台車まできれいに塗り直された

↑台車や排障器まで明るいグレーで塗り直されたNS409編成。いま鉄道ファンの注目を最も浴びている103系といっていい

 

奈良線に残る103系はNS407編成とNS409編成の2本のみ。このNS409編成が検査の時に、車体、そして台車、下回りがきれいに塗り直されたのである。これはもしかして? 鉄道ファンが色めき立つのも当然であろう。205系が投入されて以降、そろそろ奈良線の103系が消えるのでは、と思われてきただけに、この塗り直されたインパクトは大きい。

 

奈良線の最後の103系2編成は、今後どうなるのか。最近の傾向としてファンの集中を避けるためなのか、鉄道会社各社は引退時期などを公表しない傾向が強い。奈良線の103系も例外ではないが、塗り直しされた現状を見る限り2021年3月のダイヤ改正時の引退はなさそうである。

 

◆運用と路線の現状:運用は9通り、京都府内の複線化工事が進む

↑貴重な103系NS407編成。既存の複線化区間でも沿線にネットを張る工事が進められていた。写真は山城多賀駅〜玉水駅間で

 

乗りたい、撮影したいと考えておられる方に向けて103系の動きの調べ方と、路線の現状についてここで触れておこう。奈良線の103系と205系は普通列車として運用されている。運用パターンは42A列車から50A列車まで9通りある。筆者が確認した普通列車の運行パターンをお伝えしておこう。

 

まずは京都発の普通列車は城陽駅行と奈良駅行がある。休日ダイヤの場合ならば、8時台から10時台までに42A〜50Aの運用の大半の列車が京都駅を折り返す(47Aを除く=47Aは京都駅の大阪側留置線に日中、停められている)。運用情報はネット上に流れているので、これらのどの運用に103系が入っているのか、京都駅に朝に行けば確認できる。確認できたら、撮影地へ移動あるのみだ。

 

撮影上、一つ問題がある。駅間撮影では多くの方が撮影スポット情報を元に動かれると思う。だが、京都駅からはすでに複線区間となっている区間を除き、多くの箇所で複線化工事が進められている。そのために、既存の撮影情報があまり役立たない。奈良線に乗車したら車窓から撮影できるかどうかを確認しつつの移動をお勧めしたい。

 

京都駅側の既存の複線区間は京都駅〜藤森駅間で、中でも稲荷駅付近に駆けつける鉄道ファンの姿を多く見かけた。藤森駅以南は玉水駅付近まで各所で工事が進められている。よって背景に住宅地が入らないなど、こだわりたい場合は玉水駅から先へ行くことをお勧めしたい。

 

【103系が残る路線②】朝夕のみ6両編成が走る和田岬線

兵庫駅と和田岬駅間を走る和田岬線。路線名は通称で、山陽本線の支線にあたる。路線距離はわずかに2.7km。和田岬駅付近の工場への通勤路線として利用されている。通勤路線ということもあり、起点の兵庫駅発が平日朝の7時〜9時台と夕方の16時〜21時台のみで日中は走らない。また土曜日は大幅に本数が減り、また日曜日は朝夕にそれぞれ1往復しか走らない。平日の朝夕が最大のチャンスというわけだ。

 

◆車両の現状:スカイブルーの103系が走る。検査時には207系が代行

↑和田岬駅を発車する103系。夕方は17時以降の運行のためどうしても日が長いシーズンに限られる 写真は17時25分発の夕方最初の列車

 

和田岬線も103系が残る貴重な線区である。しかもスカイブルー(国鉄が定めた塗装色・青22号色)という多くの線区を走ったおなじみのカラーだ。しかも和田岬線の103系は、極端な改造はされておらず、103系のオリジナルの姿が色濃く残る。ホームの有効長に限界があり、6両編成という京阪神を走るJR西日本の通勤形電車にはあまりない長さ。そのため103系の検査時にも207系3両編成を2本つなげた運用で代行される。和田岬線用の103系は1編成しかないので、検査時には走らない。訪れる時には事前にネット情報などで確認しておきたい。

 

JR西日本の普通列車用の電車には205系、207系や321系が使われるのが一般的だ。現状、JR西日本の205系は4両編成で奈良線の運用以外に余裕が無い。321系は7両固定編成となっている。代行できるのは207系のみで、6両編成限定という特殊なホームの長さのため、和田岬線の103系は今後もしばらく生き残りそうである。

 

◆運用と路線の現状:朝夕のみ、しかも単線で意外に撮影地が限られる

↑兵庫運河を渡る103系。同運河には旋回式の可動橋・和田旋回橋がかかる。船の運航のための可動橋だったが現在は固定されている

 

運行は朝と夕方から夜までのみなので、乗るのには問題ないが、写真撮影となると光線の加減に悩む。訪れるならば、やはり陽の長い季節がお勧めだろう。

 

筆者も2.7kmなので、全区間を歩いてみた。神戸市内を走る都市部の路線のためもあり、路線はほぼフェンスに覆われている。フェンスが途切れる踏切付近か、フェンスが比較的低めの川崎重工業兵庫工場付近。また視野が開けた兵庫運河での撮影が無難だ。

 

路線は兵庫駅からカーブして、途中から東南にある和田岬駅へ向けて直線的に走る。路線の角度が微妙で、朝に走る列車は順光で撮影できる場所が限られる。撮影には多少の難がある路線だが貴重な姿をやはり納めておきたいものである。

 

【103系が残る路線③】これが103系? 驚きの加古川線の電車

兵庫県の加古川駅と谷川駅を結ぶJR西日本の加古川線。全線単線で直流電化されている郊外路線である。この路線には103系3550番台という、103系としてはかなり異質な姿の電車が走っている。

 

モハ103形、モハ102形の2両がコンビとなっていて、両車両ともに先頭車に改造されている。前面は貫通扉付きの3枚窓という姿になっている。103系の面影はほぼ残っておらず、そのためか、鉄道ファンにはあまり人気が無いのがちょっと残念なところだ。

 

◆車両の現状:元常磐線103系と同色の2両×8編成が走る

↑青緑の車体、正面にブラックの塗装が行われる加古川線用の103系3550番台。昼よりも平日の朝夕の運用に使われるケースが多いようだ

 

前述したように、先頭車改造が行われているだけに、特異な姿となっている。カラーは国鉄では青緑1号と呼ばれた塗装で、以前に走っていた常磐線の103系と同じ青緑色だ。車両は2両×8編成の16両(2020年4月1日現在)で、網干(あぼし)総合車両所明石支所加古川派出所に配置される。車両基地名は長いが基地は加古川線の厄神駅(やくじんえき)に隣接して設けられている。

 

◆運用と路線の現状:日中は125系1両での運用列車が増えている

↑西脇市駅行の103系電車。写真でわかるように、西脇市方面の車両はパンタグラフが2つ装着される。1つは冬期の霜取用だ

 

加古川線の103系は加古川駅〜西脇市駅間の運用が主体で、加古川駅と車両基地がある厄神駅間の列車も多い。加古川線では103系とともに125系が使われている。125系は1両での運行が可能な電車で、加古川線には2004(平成16)年に導入されている。当初、125系は加古川駅〜西脇市駅間で運用されることが少なかったものの、現在は全路線で使われる。加古川駅〜西脇駅間では、日中はむしろ125系の運用が多くなっているように見受けられた。

 

103系との出会いを求めるならば、2両、4両での運用が多い朝夕に訪れることをお勧めしたい。

 

【103系が残る路線④】電化区間はまだ103系の天下の播但線

今回紹介するJR西日本の路線の中で、103系が最も“安泰”なのは播但線(ばんたんせん)と言って良いのかも知れない。播但線は兵庫県の姫路駅と和田山駅を結ぶ65.7kmの路線で、そのうち姫路駅〜寺前駅間が直流電化されている。

 

◆車両の現状:電化区間の大半の列車は103系での運用に

↑播但線の溝口駅付近を走る103系3500番台。正面の窓は支柱の無いタイプに改造されている、ほか改造点が多い車両だ

 

電化されている区間では、特急「はまかぜ」などを除き103系3500番台の電車で運用されている。3500番台は播但線が1998(平成10)年に電化された時に投入された車両で、103系初の2両での運用が可能なように改造された。網干総合車両所に2両×9編成18両が配置されている。車両カラーはワインレッド。体質改善工事とともにワンマン運転が可能なように改良されている。

 

見ると確かに103系の面影は残しているものの、運転席の窓は2本の支柱がない1枚ガラスで、ワイパーが運転席の前と、反対側の上からぶら下がるように設けられている。反対側はワンマン運転用で、ホーム上に設置されたミラーで後ろを確認しやすくするための設備であろう。

 

前照灯や行先表示、列車番号の表示の据え付け部分が、楕円の縁取りではなく、四角い据付け部で、いかにも後付け感がいなめない。

↑溝口駅で上り下り列車が待ち合わせを行う。103系のオリジナルな姿は薄れているものの昭和レトロの趣がたっぷり

 

◆運用と路線の現状:姫路駅〜福崎駅間は30分間隔で103系が撮り放題

ほとんどの列車が103系で、しかも姫路駅〜福崎駅間は20分〜30分間隔で列車が走っている。それこそ撮り放題で103系の姿が楽しめる。

 

とはいえ姫路駅〜野里駅間は高架区間で、さらにその先も、国道312号が平行して走り、民家が多く見通しの良いところがなかなかない。仁豊野駅(にぶのえき)から北側で、ようやく畑地なども多くなる。仁豊野駅〜福崎駅がお勧めの区間と言えるだろう。

 

体質改善をしているとはいえ、乗った印象は103系そのもの。駅では高らかにブレーキ音が響かせて停車する。今の電車のような静けさ、スムーズ感は無いものの、ひと時代前の通勤電車の“強烈さ”が感じられる。これはこれで新鮮そのもの。ぜひとも体験しておきたい“違い”が感じられる。

↑播但線を走る103系3500番台を側面から見る。ドアや窓は体質改善工事により元とはかなり異なるものになっている

 

【103系が残る路線⑤】筑肥線に残る103系はかなり個性的な姿

JR西日本は車両を長く使う傾向があり、国鉄形電車が多く残る。JRグループでほかに103系が残っているのがJR九州だ。JR九州で唯一の直流電化区間となっている筑肥線(ちくひせん)の一部区間を走る。

 

◆車両の現状:国鉄時代に生まれた103系1500番台が15両ほど残る

↑福岡市地下鉄に乗り入れをしていたころの103系。現在は筑前前原駅から西の路線のみに運用が限定されている

 

筑肥線を走る103系は1982(昭和57)年に、筑肥線(列車は唐津線の西唐津駅まで走る)と、福岡市地下鉄1号線が相互乗り入れを開始するに当たって生まれた。当時造られたのは6両編成9本、計54両だった。103系の主力車両とは異なり、地下鉄線内を走ることから、前面に貫通扉を設けているところが異なる。デザインは、同時期に製造された地方電化線区用の105系に近い。中央に貫通扉、3枚窓を備える。

 

登場当初は玄界灘のイメージからスカイブルーの地に、クリームの帯を付けた塗装だったが、JR九州となった後には前面と乗降扉がレッドに、また側面の車体はアルミふうにグレーで塗られている。

 

◆運用と路線の現状:筑前前原駅〜西唐津駅間でワンマン運転を行う

↑一貴山駅(いきさんえき)〜筑前深江駅間を走る103系。同地区は広大な田園が広がり撮影にも向いている区間だ

 

筑肥線には103系の後に303系、305系が登場した。後継車両の運用が増えるにしたがい、地下鉄への乗り入れ列車が減っていった。現在は同線を走る103系は3両×5編成、計15両のみとなっている。車両の配置は唐津車両センターで、筑前前原駅〜西唐津駅間のみの運行に限定されている。福岡市内から直接乗り入れる列車を除き、同区間のみを走る列車は大半が103系で、決して珍しい存在とはなっていない。

 

筑前前原駅〜西唐津駅の間には広大な田園地帯や、玄界灘に沿って走る区間、また虹ノ松原といった景勝地もあり、撮影地には困らないといった印象。赤とグレーという華やかな103系もなかなか写真映えする。乗って撮って楽しい車両となっている。

 

次週からも、希少になりつつある国鉄形電車の現状および紹介を少しずつお届けしたい。お楽しみに。

2021年、ダイヤ改正や車両情報以外で楽しみな「鉄道関連のトピックス」3ネタ

2020年は、毎日の通勤・通学や旅行など、“人の移動”に関する意識が大きく変わった1年となった。今回は、時代の変化に合わせた移動に関する新トレンドを3つ紹介する。

 

【その1】利用可能エリアが一挙に拡大する「伊豆MaaS」

MaaSとはMobility as a Serviceの略で、IoTにより様々な交通手段を1つのサービスとしてまとめ、ユーザーがシームレスに利用できることを目的としたもの。

 

伊豆半島をスマホひとつで周遊可能にすることを目指して実証実験を重ねてきた「Izuko」は、現在3度目の実証実験を実施中。従来よりも実施エリアがより広がり、利用可能な観光施設も格段に増加。体験型のアトラクションも加わり、1泊2日の伊豆旅行を想定した、充実したプログラムが用意されている。

↑利用可能エリアはこれまで東伊豆・中伊豆のみだったが、Phase3ではほぼ伊豆全域に拡大。駿河湾フェリーも片道1回利用できるデジタルフリーパスも登場。西伊豆の夕日や富士山の眺望が楽しめる

 

東急×JR東日本×伊豆急 Izuko 500円~3800円(デジタルフリーパスの価格)

 

具体的には、伊豆半島のほぼ全域に加えて駿河湾フェリーや静岡市内の一部鉄道・バスもカバー。利用できる観光商品の数は、Phase2の約6倍の125種類に増加した。2021年3月31日まで実施中だ。

 

↑下田の漁港を見学したあと金目鯛料理を味わえるなどの、Izukoオリジナル体験メニューも用意。メニュー数は35にも及ぶ

 

↑新清水-新静岡を結ぶ静岡鉄道も片道1回利用できるパスを用意。富士山静岡空港〜静岡/新静岡間を走るバスも利用できるチケットも

 

折しも働き方の多様化で、伊豆エリアでのワーケーション・テレワークの需要も増えているという。ワーケーション施設と連携して人口の増加にも取り組むなど、地域活性化にも繋げるという、MaaSの目的に寄与することも期待される。

 

【ネクストヒットの理由】

シームレスに交通機関を利用したり観光地を巡ったりすることを目指すMaaSは、より便利に使うために用意されたコンテンツの数が飛躍的に増加。スマホひとつで利用できる施設が増えただけでなく、Izukoオリジナルのメニューも用意されるなど魅力も満載だ。

 

【コチラも注目】東北6県でもMaaSが展開される!

JR東日本が2020年4月から9月まで実証実験を行った「TOHOKUMaaS」。以前の実証実験では仙台エリアが中心だったが、今回は東北6県に拡大。各エリアに合ったデジタルパスなどが販売された。

 

【その2】働き方の変化で定期券よりもおトクな「時差回数券」

満員電車での密集を避けるために、鉄道会社は時差出勤を推奨。またテレワークの普及で働き方も変化し、通勤には定期券という常識が変わることになる。

 

多くの大手私鉄会社が発売する時差回数券は、利用可能時間の多くが平日午前10時~午後4時、または土・休日に設定されており、価格は普通運賃の10枚分で12枚発行されおトクに。土・休日のみ利用可能な土休日回数券は14枚発行される。

↑西部鉄道の時差回数券

 

定期券の割引率は各社で異なるため日数は異なるが、試算では月21日の出社でも時差回数券を活用することで通勤定期券よりもおトクという結果に。回数券は3か月有効が多いので、テレワーク中の出社にも便利に使える。ただし、定期券のように自由に乗り降りできないので注意したい。

↑西武鉄道 池袋~所沢間(大人普通運賃350円)を月21日乗車した場合(出社時は時差回数券 、帰宅時は普通回数券を使用した場合として試算)

 

【ネクストヒットの理由】

働き方改革の波がここにも。時差出勤やテレワークなどの推奨で、これまで時差回数券の存在を知らなかった人の間でも注目が集まる。

 

【その3】懐かしい名車たちに出会える「ロマンスカーミュージアム」

鉄道会社が博物館をオープンするケースが増えている。2021年の注目は小田急電鉄のロマンスカーミュージアム。名車がズラリと並ぶ光景は必見だ。

 

小田急初の常設展示施設

小田急電鉄

ロマンスカーミュージアム

2021年4月中旬オープン予定

小田急電鉄初となる屋内常設展示施設で、海老名駅近くで開発が進む「ViNA GARDENS」に隣接。ロマンスカーの愛称で親しまれている特急車両5形式を展示。小田急沿線をイメージした国内最大級のジオラマも必見だ。

↑1980年にデビューした7000形・LSEの実際の運転台を使用した運転シミュレーター。映像も2階運転席からのものだ

 

【ネクストヒットの理由】

私鉄特急電車でも人気の高いロマンスカーがズラリと並ぶ光景は圧巻。鉄道ファンはもちろん、親子でも存分に楽しめる人気スポットに。

【フォトギャラリー(画像をタップするとご覧いただけます)】

さあ新しい年! 2021年の「鉄道」注目の10テーマを追う【後編】

〜〜2021年 鉄道のさまざまな話題を網羅〜〜

 

新しい年の訪れで期待が高まる2021年の鉄道。新特急や新型車両が登場する一方で、今年もコロナ禍は鉄道に大きな影響を与え続けそうだ。気になる新特急、新車情報、そして注目される鉄道の話題を追ってみよう。

 

【前編はコチラ

 

【注目! 2021年⑥】長く走り続けてきた国鉄形車両もいよいよ

この春、東日本の鉄道ファンにとっては、ちょっと寂しいシーズンとなるかも知れない。最近はファンが殺到することを恐れて、さよなら運転をせずに静かに消えていく例が増えてきている。さよなら運転どころか鉄道会社からは運転終了日が発表されなくなってきつつある。予想するしかないが、2021年に消えていきそうな車両をここで取り上げておこう。

 

◆JR東日本185系

2020年の特急「スーパ―ビュー踊り子」251系に続き、東海道線から長年親しまれてきた特急形電車が消えていきそうな気配だ。185系である。すでに特急「踊り子」は185系からE257系への置き換えが発表されている。ダイヤ改正の前にはまだ首都圏から伊豆急下田駅への列車の一部と、伊豆箱根鉄道の修善寺駅へ向かう全列車が185系で運行されている。この列車がすべて撤退となる。さらに「湘南ライナー」などのライナーすべてが特急「湘南」になることで、こちらもE257系への切り替えが行われる。

↑相模灘を間近に眺め走る特急「踊り子」185系。東京駅〜熱海駅間では最大15両という長い編成がこの春まで見ることができる

 

185系は1981(昭和56)年に走り始めた。国鉄の最晩年に登場した特急形電車で、東海道線の特急として、また高崎線・上越線を走る「あかぎ」「草津」などの特急として長年、走り続けてきた。万能タイプの電車ということもあり、他線の臨時特急や快速列車としても利用されてきた。

 

2021年でちょうど登場から40年間を迎える。ダイヤ改正後にどのぐらいの車両数が減るか、気になるところ。185系特有の甲高いモーター音が、日常に聞けなくなると思うとちょっと寂しい。ちなみに国鉄形特急電車は、185系がこのまま消えることになれば、JR西日本の特急「やくも」381系を残すのみとなる。

 

◆JR東日本215系

215系はJRが発足して早々の1992(平成4)年に誕生した電車で10両×4編成が造られた。東海道線を走る「湘南ライナー」など着席サービス用の電車として開発、より多くの人が座れるようにと両先頭車を除く8両が2階建て仕様という珍しい構造となっている。

 

「湘南ライナー」などの「ライナー」のほか、一時期は東海道線の快速「アクティー」にも利用されたが、乗降用扉が各車両の前後に2つしかなく、乗り降りに時間がかかり遅延が発生しやすいことから2000年代にはいって、すぐに「アクティー」での運用を取りやめている。「ライナー」以外には中央線を走る「ホリデー快速ビューやまなし」などの運用に使われたが、稼働率が低いちょっと“残念”な電車となりつつあった。

↑「ホリデー快速ビューやまなし」として中央線を走る215系。211系の2階建てグリーン車を元に設計された

 

春のダイヤ改正で「湘南ライナー」が消滅してしまう。215系の定期運用の場がなくなるわけだ。あとは臨時列車としての活路を見いだすかどうかだが、すでに車歴が30年になることもあり、このまま引退となる公算が強そうだ。

 

◆JR東日本E4系

JR東日本の新幹線網では、E1系(2012年10月28日に引退)、そしてE4系と、2階建て新幹線が造られ活かされてきた。2階建てにしたのは定員数を増やすための工夫で、E4系8両×2編成が連結して走る列車は、高速列車では世界一の定員数1634人が乗車できる列車として話題にもなった。

 

定員数を増やせた利点はあったものの、最高時速が240kmと、他の新幹線車両に比べ劣ることから、路線全体のスピードアップができないことが課題となっていた。現在、走る上越新幹線のスピードアップを図るためE4系は2020年度末までに引退予定だった。しかし。

↑東北新幹線も走ったE4系だが、スピードアップ化の流れの中でつらい立場に。やや延命したが秋には最後の運転ということになりそうだ

 

令和元年東日本台風による千曲川の氾濫で長野新幹線車両センターに留置されていたE7系、W7系の10本(計120両)が水没、廃車せざるをえなくなる。このことにより、E4系はやや延命することになった。とはいえ、この春には上越新幹線用にE7系を追加で投入される。この投入でE4系が使われていた列車の計12本が置き換えられる。また秋にはE7系のさらなる増備が予定されている。

 

残ったE4系の中には延命のため新たに全般検査を受けた車両もあるが、秋に行われるE7系の増備で、延びたE4系の寿命も2021年いっぱいということになりそうだ。

 

◆JR東日本キハ40系

JR東日本では非電化区間用にGV-E400系電気式気動車、もしくはEV-E801系蓄電池電車を開発し、積極的に増備を続けている。そんな流れを受けて、国鉄時代に生まれた気動車が次々に消えていっている。

↑五能線を走るキハ40系。すでに2020年12月から五能線をGV-E400系が走り始めている。春には全列車が置き換えられる予定だ

 

キハ40系はJR東日本の非電化区間用に最後まで残った国鉄形気動車である。この数年、JR東日本のキハ40系の淘汰が著しい。2020年のダイヤ改正からその後にかけて、磐越西線、只見線、羽越本線のキハ40系がGV-E400系や、キハ110系、キハE120系に置き換わった。

 

そして2021年の春は、五能線、男鹿線のキハ40系が消えていく。残りは奥羽本線内と、津軽線の一部のみとなりそうだ。この両線も運用は少なく、長年親しまれたキハ40系は、近いうちに消えていきそうな気配だ。

 

JR東日本で残るキハ40系は、「びゅうコースター風っこ」や「越乃Shu*Kura」といった観光列車用に改造された編成のみとなる。

 

【注目! 2021年⑦】阿佐海岸鉄道にDMVが走り始める

さて2021年、これからの地方の公共交通機関が生き残るための一つの方策となりそうな新たな“鉄道”が走り始める。四国の東南、徳島県と高知県の間を走る阿佐海岸鉄道に、DMV(デュアル・モード・ビークル)が投入される。

↑2019年秋に公開された阿佐海岸鉄道のDMV。地方の鉄道の生き残り策として注目されている。左上は鉄輪を出したところ

 

DMVは元々、JR北海道が閑散路線用に開発を進めていた車両で、マイクロバスをベースに収納式の鉄輪をつける。線路を走る時は鉄輪を出して走行、道路に降りる時は鉄輪を収納して、バスとして走る。車両費用も鉄道に比べて割安で済み、乗車率が低い鉄道路線には最適な運行スタイルだ。また駅から道路に降りれば、目的地までバスとして運行ができる。

 

阿佐海岸鉄道では2019年秋に車両を導入すると共に、DMVに対応できるように路線の変更工事も進めていた。2020年8月にはJR牟岐線の阿波海南駅〜海部駅間を阿佐海岸鉄道の路線に編入する認可申請を四国運輸局に提出。2020年12月初頭からは阿佐海岸鉄道の列車の運行を休止、バスの代行輸送を開始し、導入のための最後の工事を進めている。

 

DMVの運行開始は当初、2021年3月の予定だったが、やや予定が延び、夏ごろには阿波海南駅〜甲浦駅(かんのうらえき)のDMVの運転を開始する。DMVは、北は阿波海南文化村(徳島県海陽町)を起点に、鉄道路線を通って、南は海の駅東洋町(高知県東洋町)、さらにすぐ近くの県境を越えて道の駅宍喰温泉(徳島県海陽町)までバスとして走るとされている。

 

新しい可能性を秘めた鉄道輸送システム。どのように羽ばたいていくのか注目したい。

 

【関連記事】
世界初の線路を走るバス・DMV導入へ!「阿佐海岸鉄道」の新車両と取り巻く現状に迫った

 

【注目! 2021年⑧】自然災害を乗り越え復旧される鉄道路線

前回の2020年「ゆく年」の原稿では、自然災害に脅かされる鉄道路線の現状を追った。もはや全国の鉄道路線が、自然災害の影響から逃れることが容易でないことは、ここ数年の結果を見ても良く分かる。そうした中、2021年中に復旧される路線を見ておこう。

 

◆上田電鉄別所線(上田駅〜城下駅間が3月28日に復旧予定)

2019年10月13日、その後に令和元年東日本台風と名付けられた自然災害により、千曲川が増水。上田電鉄の千曲川橋りょうの一部が崩落してしまった。翌月の16日に城下駅(しろしたえき)〜別所温泉駅間の運転が再開したものの、上田駅と城下駅の間は、1年以上にわたり代行バスによる輸送が続いている。

↑千曲川の氾濫により橋の一部が壊されてしまった(2019年11月23日撮影)、左下は護岸工事が進む2020年9月27日の状況

 

国と県の復旧費に加えて地元上田市が全面復旧をサポート、さらに寄付金、ふるさと納税などの支援が集まり、復旧工事が進められている。そして目標としていた2021年3月28日に全線の運行再開が適いそうになっている。予定通り進めば1年5カ月ぶりに全線の運転が再開されることになる。

 

◆JR東日本水郡線(袋田駅〜常陸大子駅間が3月27日に復旧予定)

茨城県の水戸駅と福島県の安積永盛駅(あさかながもりえき)を結ぶJR東日本の水郡線(すいぐんせん)。風光明媚な山あいを走る。茨城県内は久慈川に沿って走る。この久慈川が令和元年東日本台風で氾濫し、沿線に大きな被害をもたらした。水郡線も第六久慈川橋りょうが落橋するなどで、10月13日から列車が不通となった。一部区間は11月までに運行再開したものの、西金駅(さいがねえき)〜常陸大子駅間が不通区間として残っていた。

 

不通していた区間の西金駅〜袋田駅間がまず2020年の7月4日に運転再開。残るは袋田駅〜常陸大子駅間のみとなっている。駅間3.8kmの一駅区間なのだが橋りょうの修復に時間がかかり同区間のみ不通が続いている。この区間の復旧は当初には2021年の夏ごろとしていたが、工事完了の予定が早まり3月27日に運転再開されることが発表された。筆者も運転再開されたら、ぜひ乗りに行きたいと考えている。

 

【注目! 2021年⑨】日高本線の一部区間がいよいよ路線廃止に

災害の痛手を乗り越え、復旧を果たす路線がある一方で、復旧できずに廃止が正式に決まった路線も現れている。残念ながら2021年に正式に廃止となる路線を取り上げておきたい。

 

◆JR北海道日高本線(鵡川駅〜様似駅間2021年4月1日廃止)

北海道の苫小牧駅と様似駅間の146.5kmを走った日高本線。本線と名が付くものの、ローカル色が強い路線だった。2015年1月8日、猛烈に発達した低気圧による高波で厚賀駅〜大狩部駅間の土砂が流失してしまう。この被害により鵡川駅(むかわえき)〜様似駅間116kmが不通となってしまった。悪いことは重なり、2015年9月、2016年に発生した台風により、2年続きで徐々に被害箇所が広まってしまうことになった。

↑厚真川を日高本線塗装のキハ40系優駿浪漫が渡る。同橋りょうも北海道胆振東部地震の被害を受けたが、廃止区間には含まれていない

 

その後、JR北海道と地元沿線7町の協議会の場がたびたび設けられ、復旧費用とその負担の割合などが話しあわれてきた。鵡川駅から先の被害が無い区間の運転再開を求める声があがったものの、折り返し運行のための設備費用の負担などの課題が残り、話し合いは長年にわたりまとまることがなかった。

 

その間にもJR北海道は経営状況が年々、悪化の一途をたどっていった。BRT(バス・ラピッド・トランジット)やDMVといった方式による代換案も出されたが、結局こちらの導入も断念された。そして2020年10月6日に沿線7町の臨時会議が開かれ、その場でJR北海道と沿線7町の間で、2021年4月1日に廃止し、同日から代替バスが運行開始することが正式に決まったのだった。

 

1度の被害ならば、まだ再開の見込みもあったろう。しかし、その後にもたびたび自然災害に襲われ、被害はそのつど広まっていった。何とも残念な結果となってしまったわけである。

 

【注目! 2021年⑩】秋田臨海鉄道がこの春に事業終了に

一般の人たちにはあまり知られていないものの、全国各地の臨海部などには臨海鉄道、または貨物専用鉄道が敷かれている。臨海鉄道や貨物専用線は貨物輸送量が確保されている時には、手堅い輸送業ということが言えるだろう。ところが、大口の荷主が荷物輸送を止めてしまったら、たちまち苦境に陥る。

 

秋田港の臨海部に路線を持つ秋田臨海鉄道。1970(昭和45)年4月21日に会社が設立された。奥羽本線の土崎駅からはJR貨物秋田港線が秋田港駅へ延びている。この秋田港駅から先、秋田臨海鉄道の北線と南線が設けられていた(北線はその後に休線に)。また秋田港駅の構内入換え作業、さらにJR貨物のコンテナ検修業務の委託を受けるなど、順調な経営を続けてきた。ところが。

↑旧雄物川を渡る光景が名物となっていた秋田臨海鉄道。残念ながら今後はこうした光景も見ることができなくなりそうだ

 

2020年6月に残念な発表があった。2021年3月いっぱいで事業を終了させるというのである。理由は南線で続けられてきた日本製紙秋田工場の紙製品の貨物輸送が終了となるためだった。同線の輸送の大半は、同工場の紙製品の輸送に頼っていたのである。

 

全国で紙の輸送は鉄道貨物輸送の中では大きな割合を占めている。ところが、時代はペーパーレス社会となってきた。紙製品の輸送は今後も減っていくことは間違い無い。こうした輸送に頼ってきた秋田臨海鉄道は、つらい状況に陥ることになった。秋田臨海鉄道の事業終了で、日本海側の臨海鉄道線は、すべて消えることとなった。残りは太平洋側の臨海鉄道線のみとなる。

 

【関連記事】
来春廃止の路線も!「臨海鉄道」の貨物輸送と機関車に注目〈東北・北関東版〉

 

さあ新しい年! 2021年の「鉄道」注目の10テーマを追う【前編】

〜〜2021年 鉄道のさまざまな話題を網羅〜〜

 

新しい年の訪れで期待が高まる2021年の鉄道。新特急や新型車両が登場する一方で、今年もコロナ禍は鉄道に大きな影響を与え続けそうだ。気になる新特急、新車情報、そして注目される鉄道の話題を追ってみよう。

 

【注目! 2021年①】コロナ禍で終電時間繰上げの動きが強まる

2021年、最初に触れておかなければいけないのは、やはり新型感染症の話題だろう。年初ぐらいは明るい話題をと考えたものの、避けることができない現実が伴う。

 

すでにほとんどの方がご存知かと思われるが、全国規模で進められそうなのが終電時間の繰上げ。こうした話題の時に例としてあげられることが多いのが山手線だが、同線の繰上げ時間は16〜19分程度となる。内回りの電車だと、上野駅、東京駅、品川駅では0時30分前後の発車と今とほぼ変わりないが、池袋駅、新宿駅、渋谷駅に到着する時間が20分ほど繰り上がる。

 

山手線はそれなりに遅くまで走っているとはいえ、春のダイヤ改正後には都市部を走る電車は大概が0時から0時30分前後が最終となると考えたほうが良さそうだ。

↑2020年の東京五輪開催に向けて、各社の終電は遅くなる傾向が強まったが、今春は多くの鉄道会社で終電の繰上げを予定する(写真はイメージ)

 

JR東日本のプレスリリースの巻頭には、終電車の繰上げとは明記せずに「ご利用状況に合わせた輸送体系の見直し」となっている。このあたり、鉄道会社の苦悩を表しているかのようだ。次に終電車の繰上げ以外に、3月13日(土曜日)に全国いっせいに行われるJRグループの春のダイヤ改正で、注目されるポイントを見ておこう。

 

【注目! 2020年②】春のダイヤ改正で注目のポイントは?

この春のJRグループのダイヤ改正では、新特急の運転開始も発表されている。

 

◆JR東日本の新特急「湘南」が運転開始! 特急「踊り子」はE257系に

これまで東海道本線の朝夕の通勤用快速列車といえば、「湘南ライナー」「おはようライナー新宿」「ホームライナー」という列車名で運行されていた。この「ライナー」列車が消えて、代わりに同時間帯に特急「湘南」が運転される。平日の朝通勤時間帯に上り列車が10本、夕夜間帯に下り11本という運転本数だ。

 

「着席サービスの導入で“着席ニーズ”にお応えします」とある。とはいえ利用者として気になるのは利用金額が変わることだろう。現在の「ライナー」は快速列車の扱い。料金は520円均一だ。座席は指定席ではないものの座席定員制のため、座ることができる。

↑特急「湘南」に利用されるE257系2000番台・2500番台。特急「踊り子」の185系と同車両との切替えも発表されている

 

新しい特急「湘南」は特急列車。東京駅〜小田原駅間の特急料金を見ると、事前料金は1020円、車内料金は1280円となる。えきねっとチケットレスサービスを利用すれば920円と割安となる。とはいえ現行の520円と比べると、割高となるわけだ。

 

東海道本線では普通列車にもグリーン車が連結されている。このグリーン車に乗車すれば東京駅〜小田原駅間で平日の事前料金は1000円(ホリデー価格は800円)、車内料金は1260円(ホリデー価格は1060円)と似た金額となる。えきねっとチケットレスサービスを利用すれば、より割安になるわけだ。ふだんグリーン車を利用する乗客を意識した新特急ということができそうだ。

 

ちなみに特急「湘南」に使われるのはE257系2000番台・2500番台が使われる。「ライナー」や特急「踊り子」に、これまでは主に185系が使われてきたが、特急「湘南」、特急「踊り子」はすべてE257系に統一されることになる。

 

◆東北・上越新幹線の所要時間が1分短縮! わずか1分短縮ではあるのだが

↑東北新幹線は東京駅〜大宮駅間は大宮駅以北に比べて曲線区間も多く、これまで最高時速110kmに抑えての運転が行われてきた

 

東北新幹線、上越新幹線の列車に乗車したことがある方はご存知のように、東京駅〜大宮駅間は、普通の電車並みのスピードで走っている。この区間は最高時速が110kmに抑えられている。

 

東北新幹線の工事区間でも路線新設にあたって反対運動が高まりをみせた。そのためにルート設定に難航し、通勤新線(現在の埼京線)を平行して開業させるなどの譲歩案を経て工事が始められた。さらに同区間では新幹線の路線としては異例な曲線半径600m〜2000mの急カーブが設けられている。こうした経緯もあり、大宮以北よりも、上野駅〜大宮駅間は3年ほど遅れた1985(昭和60)年に開業している。

 

いわば“新幹線らしくない”ルートがスピードアップを阻んできた。JR東日本では少しでもスピードアップをと、まず設備面ではデジタルATCを導入した。この設備の導入により、より細かい速度制御が可能となった。さらに埼京線と平行して走る区間各所で、吸音板を設置、また一部で防音壁のかさ上げ工事を行った。この工事に2年の歳月をかけている。こうした積み重ねの結果、荒川橋りょう以北の区間で最高時速130kmへの引き上げが可能となった。

 

現在、上野駅〜大宮駅の所要時間約19分、東京駅〜大宮駅間約25分かかる。この所要時間がそれぞれ1分、短縮されることになる。新幹線の所要時間の短縮は、意外に大変なことなのである。たかが1分、されど1分なのだ。

 

◆JR四国の特急「南風」「しまんと」が全列車2700系に

JR四国の2700系は2019年8月に走り始めた特急形気動車である。古くなりつつあった2000系の置き換え用に増産が進められた。JR四国では2700系を新造するまでに2600系を製作し、高徳線を走らせた。しかしカーブの多い四国の路線には合わないことが分かった。そのため制御付き自然振子装置を装着した2700系を新たに開発し、量産化を図ったのだった。

↑2019年に走り出した2700系「南風」。岡山駅と高知駅を結んで走る。カーブが多い土讃線でもその性能をいかんなく発揮している

 

走り始めてまだ1年とちょっとなのだが、優れた性能が改めて確認された。鉄道友の会が選択する第60回のローレル賞も受賞している。技術面で認められたわけである。

 

すでに複数の特急列車に導入されているが、この春のダイヤ改正からは特急「南風」と特急「しまんと」の全列車に2700系が導入されることが発表された。高知駅から先を走る特急「あしずり」にも追加投入される。高知県内の路線は2700系一色で染まりそうである。

 

【注目! 2021年③】北海道では減便傾向が強まるダイヤ改正

この春のダイヤ改正では、新しく登場する特急列車がある一方で、大幅に減便される特急や、廃止される特急が現れている。特急の減便は、特に列島の南北、北海道と九州で目立つ。代表例を2つあげておこう。

 

◆臨時特急に降格するJR北海道の特急「大雪」

訪日外国人の大幅減少に最も苦しんでいるのがJR北海道ではないだろうか。コロナ禍となる前には、北海道内の路線は四季を通して、多くの訪日外国人で賑わっていた。ところが……。

 

ダイヤ改正後にはJR北海道の大半の特急が減便プラス、編成の車両数を減らすなどの対応を行う。その中で特に目立つのが、特急「大雪」の減便だ。現在は旭川駅〜網走駅間を毎日2往復している「大雪」の運行が大きく変わる。

↑キハ183系で運行される特急「大雪」。JR北海道の特急は、多くが減便、または曜日運休される列車が多くなる

 

2往復走る特急「大雪」の全列車が閑散期には、曜日運休となってしまう。具体的には4・5・10・11月の火・水・木曜が運休となる。つまり毎日運行されている定期運行の特急が臨時運行となるわけだ。ちなみに札幌駅〜網走駅間を走る特急「オホーツク」の1日2往復は、これまでと変らず毎日運行される予定だ。

 

◆JR九州の特急「有明」は廃止に

JR九州でも特急の減便が目立つ。JR九州のプレスリリースでは、その減便理由として、コロナ前と現行でどのぐらい利用状況が変化しているかまで明かしている。現行で、各特急の乗車率が20〜57%も減っているというのだから厳しい。今の窮状を何とか知ってもらいたいという思いなのだろう。

 

この春のダイヤ改正では減便でなく、列車自体が廃止される特急も現れた。福岡県内の大牟田駅〜博多駅を結ぶ特急「有明」である。

↑長洲駅発、博多駅(もしくは吉塚駅)行きだった当時の上り特急「有明」。同特急には787系が使われている

 

実は特急「有明」は現在、早朝に走る大牟田駅発、博多駅行きの1本しか残っていない。1本となってしまったのは、2018年春のダイヤ改正からで、その前は夜に下りが3便、朝の上りが2便走っていた。運転区間は下りが博多駅発で大牟田駅の先にある長洲駅(ながすえき)まで走っていた。また朝に走る上りは2本とも長洲駅発で、1本が博多駅行、もう1本が博多駅の一つ先の吉塚駅まで走っていた。

 

平行して九州新幹線が通っているが、新幹線の駅が遠い利用者にとっては、便利な通勤特急だったわけである。3年前に本数が減り、また運転区間を短くなった上に、さらに2021年には列車自体も消滅してしまう。

 

大牟田市街に在住する人の場合は、西鉄大牟田駅が隣接しているので、特に不便さは無いのかも知れない。だが、途中の停車駅で同特急に乗車してきた人たちにとっては痛手となりそうだ。なおダイヤ改正後は、特急「有明」の発車時間と同じ、大牟田駅発、鳥栖駅行き快速列車が運転される予定だ(平日のみ)。JR九州ではこの列車を利用、鳥栖駅で接続する特急「かもめ」への乗換えを呼びかけている。

 

減便される列車が多いJR九州の特急の中で、珍しく増便されるのが特急「海幸山幸」。同列車は週末を中心に宮崎駅〜南郷駅間を1往復走り、日南海岸の素晴らしさが楽しめる列車として人気となっている。多くの利用者が見込まれる日には2往復される予定だ。減便傾向が強まっているだけに、こうした増便の動きは、唯一の光ではあるが歓迎したいところだ。

 

【注目! 2021年④】今年初登場の新車はやや地味め?

2020年は新しい特急形電車など、華やかな新型車両が続々と登場した。東京五輪の開催年に合わせてという動きでもあった。今年は、登場する新車には失礼ながらが、やや地味めとなっている。代表的な車両を見ておこう。

 

◆房総・鹿島エリア向けJR東日本E131系

千葉県内を走る内房線、外房線、成田線・鹿島線といった路線には、長い間、京浜東北線を走った209系0番台を改造、4両、6両編成にした2000番台・2100番台が使われてきた。もともと209系は「重量半分・価格半分・寿命半分」という発想で開発された。房総エリアを走る209系の車歴はすでに25年以上となる。ここまで持たせることは考えて造られてこなかったこともあり、そろそろの置き換えが予想されていた。

↑配置区となる幕張車両センターにはすでに多くのE131系が新造され集結している。春には209系の入換えがかなり進みそうだ

 

代わる新しい車両はE131系で、2両編成が基本となる。総合車両製作所新津事業所で順調に製造が進められていて、すでにその多くが幕張車両センターに運び込まれている。今後は試運転が進められ、ダイヤ改正とともに内房線、外房線、成田・鹿島線の一部区間で運転開始される予定だ。

 

さらに佐原駅〜鹿島神宮駅間ではワンマン運転が実施される。これまで209系では車掌が乗務する形での運行が行われてきたこともあり、今後はワンマン化で一層の省力化が図られることになる。

 

◆東京メトロ有楽町線・副都心線17000系

東京メトロ有楽町線と副都心線では7000系と10000系の2タイプが走っているが、7000系はすでに路線開業以来、約45年以上も走り続けている。この7000系の置き換え用に用意されたのが新型17000系だ。

↑東京メトロの新木場車両基地に停まる17000系。今年度は10両×1編成を導入、2年後に10両×6編成と、8両×15編成の揃う予定だ

 

17000系はこれまでの7000系や10000系が持つ丸いヘッドライトを踏襲、両線のゴールドとブラウンのラインカラーが車体に入る。新しい車両らしく、全車両にフリースペースを設置、車両の床面の高さを低くして、ホームとの段差を低減させるなどの工夫が盛り込まれている。

 

2020年度中には運行開始し、2年後の2022年度までには全21編成、180両が導入される予定となっている。

 

なお半蔵門線にも新型車両18000系が2021年度上半期に導入される。有楽町線・副都心線用の17000系とほぼ同じ形で、車体には半蔵門線のパープルのラインカラーが入る。こちらは8000系の置き換え用で19編成、計190両が導入される見込みだ。

 

【注目! 2021年⑤】JR貨物では新車がどんどんと投入される

トラック輸送から鉄道貨物輸送にシフトする流れが加速している。モーダルシフト、および国の政策として2050年にはカーボンニュートラル化を目指すとされ、鉄道貨物輸送への移行はますます強まりそうだ。

 

春のダイヤ改正でもそうした需要にあわせて、複数の新列車の運行が始まる。新列車は積合せ貨物という形体を取る。複数の荷主の荷物を積み合わせ輸送する新しいタイプの貨物列車で、3往復が新設される。

 

3往復は、大阪府の安治川口駅と岩手県の盛岡貨物ターミナル駅間(20両編成)、名古屋貨物ターミナル駅と福岡貨物ターミナル駅間(24両編成)、東京貨物ターミナル駅と広島県の東福山駅間(20両編成)が運行開始となる。それぞれ1両に12フィートのJRコンテナを5個積むことができる。

 

機関車の新造も活発だ。2021年に予定されている機関車は以下の通り。

↑首都圏も走り始めたEF210形式300番台。桃太郎のイラストが側面に付く(左上)。今後、新鶴見機関区にも増備が進められそうだ

 

EF210形式直流電気機関車が11両、DD200形式ディーゼル機関車が6両、HD300形式ハイブリッド機関車が1両、それぞれ増備される。EF210形式は、現在の増備は300番台が中心となっている。元々、300番台は山陽本線の“セノハチ”と呼ばれる急勾配区間で貨物列車の後押しをする補機用機関車として開発された。現在は、後押しとは無縁の新鶴見機関区にも増備が始まっていて、東海道・山陽線を中心に貨物列車の牽引を目にすることも多くなっている。

↑石巻線を走るDD200形式ディーゼル機関車。本線の列車牽引と、貨物駅での入換えができる万能型として今後、増産が図られる

 

一方、DD200形式は、貨物駅構内の貨車の入換え、さらに本線で列車を牽くことができる万能タイプのディーゼル機関車だ。すでに石巻線ほか貨物専用線を中心に貨物輸送に従事している。

 

新型機関車が装備されるということは、一方で引退となる古い機関車が出てくることに。EF210形式の増備は、EF65もしくはEF66といった国鉄形、もしくはJR初期の車両の引退に、またDD200形式の増備はDE10形式の引退ということにつながりそうだ。世の中の常とはいい、華やかになる反面、そうした話題に触れる機会も多くなりそうで、古い機関車ファンにとっては、ちょっと寂しい2021年となりそうだ。

 

 

新車、引退、コロナ−−2020年「鉄道」の注目10テーマを追う【前編】

 〜〜2020年 鉄道のさまざまな話題を網羅その1〜〜

 

2020年、早くも年が暮れようとしている。新車の登場、そして慣れ親しんだ車両の引退、新駅開業といった鉄道の話題も盛りだくさんの一年だった。

 

一方で世の中を揺るがした新型感染症の流行は、鉄道にも大きな影響を与えた。そんな1年、鉄道をめぐる10のテーマに注目してみた。まずは【前編】の5つの話題から。

 

【注目!2020年①】鉄道も新型感染症で振り回された一年に

まずは一つめ。やはり新型感染症は避けて通れない話題だろう。まさか1年前に、こうした新しいウィルスの出現によって、世の中がここまで一変させてしまうことがあるとは、誰が想像しただろうか。コロナウィルスによって人々の暮らしが大きく変ってしまった。そして鉄道も大きな打撃を受けた。

 

人を運ぶことが、鉄道の大きな使命でもある。人が移動を制限するようになれば、利用者が減る。減れば電車や列車は空くが、減収を免れない。特に一部都道府県に緊急事態宣言が出された4月7日(16日には全都道府県に拡大)から宣言解除された5月25日(一部区域を除き段階的に解除)までの1か月半は、どの電車や列車も“がらあき状態”が続いた。

 

いくら空いていても電車や列車を動かさなければいけないのが、公共交通機関のつらいところ。とはいえそのままの状態で走らせるわけにも行かず、長距離を走る新幹線や特急列車の減便が目立った。さらに大半の観光列車が運行を取りやめた。筆者はちょうど取材もあり、やむを得ず渋谷へ出かけたことがあった。下の写真は緊急事態の前とその後の渋谷駅ハチ公前広場の様子である。緊急事態宣言下の渋谷駅前は、まるでホラー映画のワンシーンを見るかのようにひっそりし、日中でも人がほとんどいない状況となっていた。

↑3月27日の渋谷駅ハチ公前広場にはまだ人がいたが、4月14日には人がいない状況に。ちなみに広場の東急5000系は8月3日に移設された

 

一方で、鉄道貨物輸送は緊急事態宣言の最中も、絶えることなく続けられていた。鉄道貨物やトラック輸送を使った物流が絶えなかったことで、多くの人の暮らしが守られたことを付け加えておきたい。

 

コロナ禍で変ったのは車内の様子だろう。暑い季節はもちろん、外気がひんやりする季節になってからも、窓明けが行われるようになっている。窓が固定されている車両の場合には、必ず、「○分ごとにこの車両は強制的に換気されております」という車内アナウンスを聞くようになった。

↑通勤電車の車内の窓明けが推進された。左上のような「車内窓開けのお願い」という吊り広告も車内で多く見かけるようになった

 

本格的な冬の季節に入った日本列島。Go Toトラベルキャンペーンの一時中断などで、移動の自粛が進みそうだ。そのまま年を越しそうな気配だが、来年こそは、ワクチンの接種や特効薬の開発で、何とか終息を願いたい。

 

【関連記事】
新型感染症の流行に「苦悩する鉄道」−−列車運休から駅なか営業まで気になる情報を調べた

 

【注目!2020年②】話題となった新型車両の続々とデビュー!

さて、嫌な話題から明るい話題にテーマを切り替えよう。今年は数多くの新型車両がデビューした。話題の車両も多く新型車両という一面では非常に華やかだった一年となった。ここでは2020年に登場した代表的な新型車両をピックアップしたい。

 

◆JR東海N700S(2020年7月1日運用開始)

↑東海道新幹線の新型N700S。先頭部分が個性的な形状をしている。運行時間は発表されておらず現在はTwitter情報などに頼るしかない

 

東海道・山陽新幹線の主力車両のN700系。この改良タイプのN700Aの登場からちょうど7年を迎えた2020年に運行開始したのがN700Sだ。N700系に比べて、先頭の左右部分が、膨らみを増した形が特徴で、「デュアル・スプリーム・ウィング形」と名付けられる。この構造はトンネルに突入する時の騒音を減らし、また走行抵抗も減少させる効果があるとされる。

 

形式名のN700Sの「S」は、“最高の”を示すSupreme(スプリーム)。その頭文字を付けた。今の時代に合わせて、各席に電源コンセントを設けているのも特徴だ。まだ本数は少なめで、乗れたらラッキーといえるだろう。

 

◆近畿日本鉄道80000系 ひのとり(2020年3月14日運用開始)

↑近鉄80000系ひのとり。先頭車はハイデッカー構造のプレミアム車両で、前面車窓や景色が存分に楽しめる

 

近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の路線には多く特急列車が走っている。中でも近鉄の“看板特急”とも言えるのが、大阪難波駅と近鉄名古屋駅間を結ぶ特急列車で、名阪特急の名前で親しまれてきた。80000系はこの名阪特急用に誕生した車両で、愛称は「ひのとり」と名付けられた。

 

6両編成、もしくは8両編成で途中駅の停車が少ない名阪甲特急、もしくは大阪難波駅〜近鉄奈良駅間を結ぶ阪奈特急として走る。多くの特徴を備えるが、最大の魅力は座席だろう。3列のプレミアム車両の座席はもちろん、4列のレギュラー車両の座席まで、バックシェルを備えた構造となっている。バックシェルとは、座席の背を倒した時に、シェル内のみで座席が動く仕組み。つまり、後ろの席スペースまで座席が侵食するような動きが無い。座席を倒す時に後ろの人に配慮する必要がない造りのわけだ。さらに足元もゆったりとしていているのがこの特急電車の魅力となっている。

 

【関連記事】
「ひのとり」誕生で注目集まる「近鉄特急」その車両の魅力に迫る

 

◆JR東日本E261系 サフィール踊り子(2020年3月14日運用開始)

↑東海道線を走行するE261系。全車グリーン車の豪華な造りで、特に伊豆急下田駅側の先頭1号車はプレミアムグリーンとなっている

 

3月14日から運行開始したのがE261系特急「サフィール踊り子」で、東京駅(新宿駅)〜伊豆急下田駅間を結ぶ。

 

この特急の大きな特徴は8両全車両がグリーン席という贅沢な編成であること。さらに伊豆急下田駅側に連結される1号車は「プレミアムグリーン」となっていて、横に2席×10列というこれまで車両に無いゆったりした造りとなっている。グリーン車(5号〜8号車)でも3席が横にならぶ形で、こちらも十分にゆったりしている。さらに2・3号車は「グリーン個室」で、よりプライベートな個室空間での旅が楽しめる。

 

さらにユニークなのは4号車の1両すべてがカフェテリア車両ということ。形式名は「サシE261」で、久々に食堂車を示す「シ」の形式称号が使われている。この車両では一流料理人が監修したヌードルメニューが味わえる。

 

【関連記事】
【保存版】2019年秋〜2020年春に導入された「鉄道新型車両」をずらり紹介【東日本編】

 

◆JR九州YC1系(2020年3月14日運用開始)

↑大村湾を眺めて走るYC1系気動車。前面がなかなかユニークな形をしている。写真は大村線の岩松駅付近

 

特急列車以外の一般用車両も多くの新型車両が導入された。ここでは、その中で目立つJR九州の新型車両に触れてみたい。

 

JR九州が春に導入した車両の形式名はYC1系。同社初のハイブリッド気動車で、ディーゼルエンジンの駆動で生み出された電気を元に走り、また蓄電池に貯めた電気をアシスト役として利用する。

 

面白いのは数字の前に「YC」という文字が付くこと。さてYCとは? YCとは「やさしくて力持ち」のことだそうで、この言葉をローマ字で書くと「Yasashikute Chikaramochi」となる。この頭文字をとってYCとつけた。正面の形もかなりユニーク。ぐるりとライトで縁取りされ、花柄模様のような形の前照灯が付いている。後ろとなる時は、縁取り部分のライトが赤く光り、かなり目立つ。

 

走るのは長崎県内の長崎駅と佐世保駅の間。この区間の中で大村線を走る頻度が高い。YC1系が走る区間は、国鉄形のキハ66・67形が残っている。YC1系は続々と車両数が増やしつつあり、残念ながらキハ66・67形は近いうちに引退ということになりそうだ。

 

【関連記事】
【保存版】2020年春までに登場した「鉄道新型車両」をずらり紹介【西日本編】&【貨物編】

 


<!-nextpage–>

【注目!2020年③】改造車とはいえ個性的な観光列車が表れる

今年も新しい観光列車が登場してきている。ここでは、これまでの観光列車と趣が異なる2列車を紹介しよう。なかなかユニークな鉄道旅行が楽しめる列車とあって、早くも人気となっている。

 

◆JR西日本WEST EXPRESS 銀河(2020年9月11日運行開始)

↑瑠璃紺色というカラーで塗られた「WEST EXPRESS銀河」。車内に自由に過ごせるフリースペースがある凝った造りとなっている

 

JR西日本といえば豪華な観光用寝台列車「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)」が名高い。この瑞風に比べ、もっと「気軽に鉄道の旅が楽しめる列車」として登場したのが「WEST EXPRESS銀河」だ。関西圏を走る新快速列車用に造られた117系を改造して造られた。編成は6両で、外観が瑠璃紺色でまとめられる。

 

ユニークなのは2号車に女性専用の車両とされたこと。また1号車はグリーン車指定席(ファーストシート)、6号車はグリーン個室が付く。他に4号車はまるまる「フリースペース『遊星』」になっている。加えて3号車・6号車にフリースペースがあり、列車内で自由に過ごせる空間が複数設けられているところが面白い。

 

当初は5月8日からの運行予定だったが、コロナ禍のより運行開始を延期。9月11日から、まずは山陰方面へ夜行特急として走った。次いで12月12日から2021年3月11日までは、山陽本線を走る昼行特急として走っている。乗車には運賃の他、特急料金(現行の特急料金と同額)、またはグリーン車を利用の際にはグリ―ン料金、グリーン個室料金が必要となる。特製弁当の販売や、地元産品の車内販売もあり、長時間乗っても飽きることなく楽しめる“珍しい列車”に仕上げられている。

 

なお、同列車が走る区間は期間ごとに変更の予定で、2021年の春からは京都・大阪〜出雲市を夜行列車として走る予定。さらに2021年の夏〜秋は京都駅発、新宮駅行き夜行列車として、帰りは新宮駅発、京都駅行きの昼行列車として走る予定となっている。

 

◆JR九州36ぷらす3(2020年10月16日運行開始)

↑36ぷらす3の月曜日コースは博多駅〜長崎駅間を往復するプラン。途中、肥前浜駅で1時間停車。地元の人たちの歓迎を受けて走る

 

「36ぷらす3」というユニークな列車名。JR九州の観光列車は「D&S(デザイン&ストーリー)列車」と名付けられているが、その第12弾の列車となる。「36ぷらす3」の意味は、列車が走る九州が世界で36番目に大きい島とされていること。さらに列車が走る5行程に九州を楽しむ35のエピソードを詰め込まれ、最後の36番目のエピソードは乗車した人に語ってもらいたいという思いが込められたこと。さらに「お客さま、地域の皆さま、私たち」でひとつになって(+3の)39(サンキュー!)=感謝の輪を広げていきたい、という意味を込めて名付けられたとされる。

 

車両は特急形電車の787系を改造、デザインは水戸岡鋭治さんがてがけた。6両編成で全車がグリーン席、1〜3号車はグリーン個室、5〜6号車はグリーン席、さらに中間の4号車はマルチカーと名付けられたパブリックスペースで、さまざまな体験を楽しむ催しやイベントなどに利用される。

 

運行は曜日によって異なり、木曜日に博多駅を発車、南下して鹿児島中央駅へ。金曜日には宮崎駅へ。土曜日は大分駅・別府駅へ。日曜日は大分駅から博多駅へ。日曜日は博多駅から長崎駅との往復、という九州をほぼ一回りするコースをたどる。コンセプトといい、コースといい、かなりユニーク。ランチ付プラン、グリーン席のみのプランなど、1日単位の利用も可能で、選択肢がふんだんにあり楽しめる列車に仕上げられている。

 

【注目!2020年④】今年も一世を風靡した車両が消えていった

新しい車両や観光列車が登場する一方で、静かに第一線を去っていった車両も目立った。引退していった車両の面影をたどってみよう。

 

◆東海道新幹線700系(2020年3月13日定期運用終了)

↑山陽新幹線を走る700系C編成。16両の700系はほぼ引退となったが8両編成の700系ひかりレールスターは現在も定期運行している

 

東海道新幹線・山陽新幹線の700系が登場したのは1999年3月13日のこと。当時の主力300系が最高時速270kmを出して走ったものの、振動や騒音が問題となり、乗り心地が芳しくなかった。そこで270kmのトップスピードを維持しつつ、居住性や乗り心地の改善が図られ登場したのが700系だった。登場時は、初代の0系や100系が走っていたこともあり、まずは初期の2タイプの置き替え用として造られている。

 

2006年までに1328両が製造され、主力として活躍してきた。新幹線の車両は在来線の車両に比べると、高速で走り続けることもあり、耐用年数が短いとされる。ちょうど20年あまり、2019年の暮れにまずは0番台にあたるC編成が定期運用の終了、続いて3000番台にあたるB編成の定期運用が2020年3月13日に運行を終了している。

 

その後もJR西日本には山陽新幹線を走る団体向け臨時列車用に、B編成16両が2本ほど残された。しかし、コロナ禍で定期便の本数自体が減っている状況もあって、運用されたという情報は流れていない。

 

一方、JR西日本の700系の8両E編成はひかりレールスターとして、主に山陽新幹線の「こだま」として運用されている。デザインが大きく異なるものの、700系の一部は残されたわけだ。

 

◆JR東日本251系(2020年3月13日運用終了)

↑相模灘や伊豆七島を見ながら走った251系「スーパ―ビュー踊り子」。伊豆半島でおなじみだったその姿ももはや過去のものとなった

 

JR東日本の251系特急形電車は、東京の都心と伊豆急行線を結ぶ特急「スーパ―ビュー踊り子」用に造られた。国鉄からJRとなって間も無い1990(平成2)年4月28日から運行を始めている。JRに変ったことを前面に打ち出し、例えば、景色が良く見えるようにと、ハイデッカー構造に、さらに2階建てのダブルデッカー構造の車両も用意するなど、乗って楽しめる造りとされた。

 

走り始めてからちょうど30年。海岸沿いを走る路線を長年、走り続けてきたこともあり、外から見ても塗装含め、傷みが感じられた。伊豆半島へ向かう看板特急として走り続けてきた251系。JRが誕生した当時に生まれた初期の車両も、引退する時代になったこと実感させた。

 

◆東京メトロ03系(2020年2月28日運用終了)

↑東武鉄道内を走る東京メトロ03系。日比谷線のほか東武鉄道伊勢崎線などを30年以上にわたり走り続けた

 

あと一車両、2020年に引退した車両に関して触れておこう。東京メトロ日比谷線用の03系。2020年の2月28日に最後に運用を終えた。

 

03系は1988(昭和63)7月1日に運行を始めた。日比谷線以外にも東武鉄道伊勢崎線などへ乗り入れて走った。より早く乗り降りが完了できるようにと、5扉車まで登場した。全長が18mと短めなのに5扉車というのは、今、改めて見てみるとかなり極端な造りの車両だった。これも時代の要求だったのだろう。首都圏の通勤電車は、30年が引退の一つの目安とされているようで、後任となる13000系が2017年に登場し、次第に置き換えられていき、徐々に車両数が減っていった。

 

首都圏を走る電車の中で長さ18mの車両は珍しく、線路幅も在来線と同じ1067mm、さらにアルミ合金製の車体に傷みが少ないこともあり、引退後には地方私鉄数社へ譲渡されていった。長野電鉄、北陸鉄道、熊本電気鉄道と各地の私鉄で、短い編成となったものの、早くも走り始めている。

 

【関連記事】
今も各地で働き続ける「譲渡車両」に迫る〈元首都圏私鉄電車の場合〉

 

【注目!2020年⑤】変る渋谷駅では2路線が大きく変貌した

東京の中で大きく変貌し続ける街といえば渋谷。常に新しいビルが建ち続け、街は姿を大きく変えている。その変貌とともに2020年は渋谷駅も姿を大きく変えた。

 

まずは東京メトロ銀座線の渋谷駅。これまでホームの狭さ、古さもあり、決して使いやすい駅とは言えなかった。渋谷区が進める渋谷駅街区基盤整備に合わせて2009年から工事が徐々に進められ、新駅への大移動が2019年の12月27日の夜から2020年の1月3日早朝にかけて行われた。この移設のために、銀座線の一部区間を運休させてまで実施した大掛かりなものだった。1月3日に終了とまさに渋谷駅の2020年は銀座線の移動工事で明けた1年の始まりとなった。

 

明治通り上空に誕生した銀座線渋谷駅の新駅はM型アーチ状の屋根が覆う近未来的な造りが特徴。ホーム幅も6mから12mと広々した造りとなり、より快適になっている。

↑従来の駅よりも東側に大きく移動した銀座線の渋谷駅。明治通り沿いには新改札口も設けられた

 

銀座線の渋谷駅とともに大きく変ったのがJR埼京線のホームだ。これまで埼京線の渋谷駅を利用する時には、ホームが大きく恵比寿駅側にずれていたために、かなり歩かなければならず不便だった。この埼京線のホームを、山手線のホームとほぼ平行する位置まで約350m移動させる工事が行われた。こちらは2015年から始まったJR渋谷駅の改良工事の最大の難関の工事でもあった。

 

埼京線のホームの移動は5月29日の夜22時から6月1日の早朝4時にかけて行われた。丸2日、電車をストップさせた大工事となった。その後に工事の模様がドキュメント番組として報道されたが、コロナ禍のさなか、かなりの難工事だったことが、その番組からも読み取ることができた。

 

この数日で、すべての工事が完了したわけでなく、その後も元ホームの撤去などの工事が進められている。渋谷駅はまだ完成途上なのである。

 

【⑥からは後編へ続く】

子どもから大人まで「鉄道好き」ならゼッタイに楽しめる「しかけ」が満載!−−『はっけんずかんプラス鉄道』

鉄道好きにお勧めの書籍が12月17日に発行された。対象は幼児〜小学校高学年向けの児童書ながら、大人でも十分に楽しめる内容となっている。タイトルは『はっけんずかんプラス 鉄道』(学研プラス・刊)。サブタイトルに「まどあきしかけ」とある。さて「まどあきしかけ」とは何だろう?

 

 

【本書の特徴①】あければ、おっとの「まどあきしかけ」

まずはこの本、イラストが中心となっている。描いたのはスズキサトルで、乗り物の絵本や児童書、アウトドア雑誌や書籍などを中心に幅広いジャンルを描く新進気鋭のイラストレーターである。同書籍のイラスト点数が並みではない。大きなイラスト64点、小さめのイラスト99点。今回、掲載できなかったものまで含めると計180点近いイラストを新たに書き起こし、それらのイラストを組み合わせて作られている。ちなみに構成や文章、写真などは本原稿の筆者が監修役を務めた。

 

↑「たくさんの人を運ぶ通勤電車」のイラストページの一部。全国を走る10車両の紹介と、「まどあきしかけ」が隠されている

 

前ふりはこのぐらいにしておき、そのポイントを紹介してみよう。上記の写真は4章「たくさんの人を運ぶ通勤電車」というイラスト中心の、しかけページである。この写真を見る限りは、ごく普通のイラスト本とかわりないように見える。さて、この本のポイントは「まどあきしかけ」にある。その一部を見てみよう。

 

【本書の特徴②】あければあけるほど発見や楽しみが倍増!?

「まどあきしかけ」を分かりやすく説明するために、写真で手順を追ってみた。たとえば西武鉄道40000系 S-TRAINの「まどあきしかけ」。この車両の特徴といえば、座席の向きが変更できるところ。通常の列車として走る時は、ロングシートとして、指定席列車として走る時にはクロスシートとなる。このあたりの仕組みが「まどあけしかけ」をめくると分かるのだ。

↑西武鉄道40000系の「まどあきしかけ」は凝っている。1つめをあけるとロングシートが登場、2をあけるとクロスシートとなる

 

例をあげたが、こうした「まどあきしかけ」が本文34ページに、84か所も仕組まれている。かなり凝った仕掛けの車両もあり、あけていく楽しさがこの本の特徴となっている。

 

【本書の特徴③】制作している側にも新たな発見があった

筆者の性分として、つい本づくりや、原稿を書く時に、“凝ってしまう”ところがある。また分からないところがあると、とことん調べてしまう。いろいろ調べていくうちに、複数の発見があった。

 

その一つを紹介しよう。石油類を運ぶ貨車、タンク車。こちらのタンク車は私有貨車といって、石油を輸送する会社が所有している。タンクの中は、どのようになっているのだろう、と疑問がわいた。ところが、調べても資料がほぼない。そこで日本石油輸送株式会社の担当に聞いて、資料を多数出していただいた。

↑「パワー全開!貨物列車」のページの一部。「まどあきしかけ」を全部あけると、こんなに多くの仕掛けが隠されている

 

すると、これまでどこにも紹介されていないと思われる事実が分かった。タンク内には、上部マンホールから降りるはしごがある。さらに下部にある排出口を開閉するシャフトが天井部まで伸びているということが分かった。

 

このことは輸送に関わる鉄道会社に勤める人も初めて知ったというぐらい、新しい情報だった。

 

【本書の特徴④】写真中心ずかんページには多くの「ひみつ」が

本書の構成はイラスト中心の「しかけページ」と、写真中心の「ずかんページ」に分かれている。「しかけページ」の後ろには必ず「ずかんページ」が続く。取り上げたテーマは8項目で次のとおり。

 

①いろいろな新幹線

②特急がいっぱい! 

③乗りたい!観光列車 

④たくさんの人を運ぶ通勤電車 

⑤まだまだいっぱい!いろいろな電車 

⑥電気で動くだけじゃない! ディーゼルカーなど 

⑦パワー全開! 貨物列車 

⑧鉄道の安全を守る! 

 

ずかんページは写真中心の構成で、イラストページでは、紹介できなかったポイントが例えば「新幹線のひみつ」というように、“ひみつ”というキーワードで紹介されている。

↑写真を中心に構成された新幹線のずかんページ。「新幹線のひみつ」として新幹線として走る車両を網羅している

 

このように、ごく一部を見るだけでも、盛りだくさんの情報を詰め込まれていることが分かる。定価は2178円(税込)。クリスマスプレゼントにいかがだろう。

 

【書籍紹介】

 

はっけんずかんプラス鉄道

著者:スズキサトル (イラスト)、星川功一(監)
発行:学研プラス

めくるしかけや豊富な写真で、鉄道の秘密に迫るしかけ図鑑。鉄道が大好きなお子さんが満足する情報を幅広く、深く紹介します。しかけ図鑑ならではのわかりやすさと楽しさで、鉄道のことがもっと好きになる一冊です。

楽天ブックスで詳しく見る

火入れ式も終わり2機体制に!東武鉄道「SL大樹」の今後に夢が膨らむ

〜〜東武鉄道SLC11形325号機「火入れ式」〜〜

 

東武鉄道が運行する観光列車「SL大樹(たいじゅ)」。日光・鬼怒川温泉地区の活性化を目的に生まれた列車で、同地区の観光客の増加に貢献してきた。そんなSL大樹に、この12月に大きな“動き”があった。

 

新たなC11形への火入れ式が行われたのである。新たな蒸気機関車が加わり2機体制に増強された。さらに3機めの修復が進められている。今回は火入れ式の模様と、車両や列車の生い立ち、今後の運行予定をレポートしよう。

 

【関連記事】
魅力はSL列車だけでない!「東武鬼怒川線」の気になる11の逸話

 

【SL大樹に注目①】火入れ式が行われたC11形325号機とは?

埼玉県久喜市にある南栗橋車両管区。東武鉄道日光線の南栗橋駅近くにある車両基地で、東武鉄道の総合メンテナンスセンターがある。基地の一角にSL検修庫があり、ここで2020年の12月2日に「火入れ式」の神事が催された。

 

すでにSL大樹用にはC11形207号機が使われている。これまで1両のみでの運行を行ってきたが、鉄道車両としては高齢にあたる蒸気機関車なので、過度な負担は禁物となる。大事に扱うことが必要だ。そのため週末など運転日を限定せざるをえなかった。さらに検査日には、ディーゼル機関車が牽引を代行した。鉄道ファンにはディーゼル機関車の牽引も人気があったが、一般利用者にとっては「せっかく訪れたのに」ということになっていた。

 

そこで、SL大樹の運行を強化すべく、蒸気機関車を探していた。そして今回、新たにメンバーに加わったのが、C11形325号機だった。

↑東武鉄道南栗橋車両管区で「火入れ式」が行われ、正式にSL大樹の牽引機となった。きれいに整備された車体が美しい

 

C11形325号機の生い立ちを紹介しておこう。325号機は1946(昭和21)年3月28日、日本車輌製造本店で生まれた。太平洋戦争後、間もなく製造された蒸気機関車で、「戦時設計」「戦時工程」で造られた4次形車両に含まれる。当初は茅ヶ崎機関区に配置された。相模線や南武線などを走った後に、米沢機関区へ。米坂線や左沢線(あてらざわせん)で列車を牽引した。

 

湘南育ちで、その後に山形県内のローカル線を主に走ったわけだ。1972(昭和47)年に引退し、新潟県内で静態保存されていた。1998(平成10)年にJR東日本の大宮工場で復元工事を行い、この時に4次形 C11の特徴だった角形ドームが丸形ドームに変更されている。そして真岡鐵道の「SLもおか」として走り始めた。

↑真岡鐵道を走っていた頃のC11形325号機。下館駅行きの列車は先頭にC11形、後部にC12形といった運転も行われていた

 

真岡鐵道ではC12形とともに2機体制で、SL列車を運行させていた。JR東日本にたびたび貸し出され、「SL会津只見号」ほか多くの観光列車としても利用されていた。長年、走り続けてきたが、高額な検査・整備費用の捻出が難しくなりつつあり、引き取り手を探していた。

 

真岡鐵道では2019年12月にラストランを行った。その後に、325号機は所有権を真岡市から芳賀地区広域行政事務組合に移され、2020年7月30日に東武鉄道に正式に譲受された。それから4か月に渡り東武鉄道によって整備が進められ、今回の「火入れ式」となったのだった。

 

【SL大樹に注目②】女優の門脇 麦さんも駆けつけ祝福した

蒸気機関車に魂をいれ、また今後の安全を祈願する「火入れ式」。神事とあって厳かな雰囲気のなか進行された。神職による祝詞(のりと)の読み上げや、拝礼が執り行われる。その後に、根津嘉澄東武鉄道社長が点火棒を使い、SLの心臓部、ボイラーへの点火が行われた。

 

こうしてC11形325号機は、東武鉄道の蒸気機関車として正式に復活したのである。

↑安全などを祈願して東武鉄道の根津社長が点火棒を使って「火入れ式」を行った 写真提供:東武鉄道株式会社

 

火入れ式当日は女優の門脇 麦(かどわき むぎ)さんがゲストとして招かれた。大河ドラマ「麒麟がくる」のヒロイン役をつとめ注目される門脇さんは「1号機のC11形207号機の運行(開始)日が私の誕生日と同じ8月10日だったので、SL大樹とは何かのご縁があるように思っていました。今日の火入れ式に参加できてとても光栄でした」と話す。

↑東武鉄道の根津社長と並び写真に納まるのはゲストとして招かれた女優の門脇 麦さん  写真提供:東武鉄道株式会社

 

無事に「火入れ式」が終了したC11形325号機。12月26日の土曜日から早くも運行に使われ始め、SL大樹の牽引役をつとめる。

 

【SL大樹に注目③】人気のSL大樹の列車&車両の歩みをたどる

ここからは、せっかくの機会なので、SL大樹の歩みをふりかえっておこう。

 

SL列車の運転計画は今から5年前にさかのぼる。2015年8月10日にJR北海道が保有するC11形207号機を借り、東武鉄道鬼怒川線で運行することを発表された。ちなみに207号機は、かつて走った路線で濃霧に悩まされたことから、その対策として、前照灯を2つ付けている。通称“カニ目”という造りで人気となった。近年はSL函館大沼号などの観光列車の牽引に使われていた。

↑北海道の函館本線を走っていたころのC11形207号機。JR北海道ではSL函館大沼号などの牽引機として活躍した 2013年7月13日撮影

 

まずは、この207号機をJR北海道からかりることができた。もちろんSL列車は蒸気機関車だけでは運行できない。乗客が乗車する客車が必要となる。ちょうどJR四国が14系・12系客車を使わずにいたこともあり、この客車を譲り受けた。蒸気機関車の運行をバックアップする補機用に、JR東日本のDE10形ディーゼル機関車を譲り受けた。さらに安全機器類などを搭載するための車掌車もJR貨物とJR西日本から譲り受けた。

 

起点の下今市駅と、終点の鬼怒川温泉駅に方向転換する転車台がほしい。そこでJR西日本の長門市駅と、三次駅(みよしえき)にあった転車台を譲り受け、輸送して整備した上で設置した。

 

さらに専門のスタッフを育てなければいけない。蒸気機関車運行用の機関士、機関助士、検修員、整備員の育成が必要となる。何しろ、東武鉄道では1966年6月にSLの運行が終了していた。当時を知る人も社内にはいなかった。そこで秩父鉄道、大井川鐵道など、蒸気機関車を動かしている鉄道会社へ、乗務員の研修を依頼した。こうして他の鉄道会社の協力を得て、蒸気機関車の扱い方を学んでいったのである。

 

こうした自社以外の多くの鉄道会社の協力を得て、一つのプロジェクトを成し遂げていくというスタイルは、これまでの鉄道業界では、ほぼなかったことだけに、注目を集めた。

 

そして2016年12月1日、今回、火入れ式が行われた同じ南栗橋SL検修庫で、SL列車の名前が「大樹」と発表された。C11形207号機のお披露目も行われた。4年前を写真で振り返ってみよう。

↑2016年12月1日に列車名は「大樹」と発表された。この日にC11形207号機に初めてヘッドマークが取り付けられた

 

2016年12月1日に列車名「大樹」が発表されるとともに、南栗橋駅構内に設けられたSL用の側線を颯爽と走る姿も報道陣に公開された。

 

この時には、現在使われている車掌車のヨ8000形(8709)とヨ5000形(13785)を連結して走る姿を見ることができた。ヨ8000形はSL大樹にも連結されて、活躍中だが、ヨ5000形はその後の姿を見ていない。ちょっと気になる存在でもあった。

↑列車名の発表とともに南栗橋車両管区内で試運転シーンが公開された。連結しているのは車掌車のヨ5000形とヨ8000形

 

↑C11形207号機の機関車の運転室内。SL列車の運転に向けて、スタッフは長期にわたり他社に出向き研修を積み重ねた

 

【SL大樹に注目④】転車台の作業が人気イベントとなった

2016年12月に列車名が発表された。その後8か月にわたり、試運転などの準備が進められ、2017年の8月10日に正式に運転が始められた。かなり時間をかけて準備されたSL運転だったことが分かる。

↑砥川橋りょうを渡るSL大樹。トラス部分は明治30年に架けられた阿武隈川橋りょうを転用したもので国の登録有形文化財に指定される

 

 

筆者もSL大樹の運転開始後に、たびたび沿線を訪れたが、まずは最初に驚かされたのが転車台の設置場所+公開方法だった。

 

起点となる下今市駅は、北側スペースに扇形庫と転車台が設けられた。見学用の転車台広場が造られ、また隣接してSL展示館が設けられた。転車台を使っての方向転換の作業が、人気のイベントとなった。

↑運転開始当初の下今市駅構内の転車台。後ろの扇形庫は、車両の増強もあり、大きく改修されている

 

下今市駅の転車台は駅構内なので、見学は乗客や入場した人が限られる。鬼怒川温泉駅の場合は、最初に見た時は、びっくりさせられた。

 

駅の玄関前に転車台が設けたのだった。この場所ならば、誰もが気軽に方向転換の風景を楽しむことができる。駅の構内でなく、駅前にわざわざ転線しなければいけないのは、手間かも知れない。だが、転車台でぐるりと回る作業を、一つのエンターテイメントとして売り出したのは、さすがに大手私鉄ならではのアイデアだと感心させられたのだった。

 

SL大樹が運行され始めてすでに4年となる。この鬼怒川温泉駅の駅前での転車台による方向転換は、すでに温泉地を訪ねる観光客にとっても、楽しみなイベントとしてすっかり定着しているかのようだ。

↑鬼怒川温泉駅の駅舎前に設けられた転車台。鬼怒川温泉を訪れた観光客にとって方向転換シーンは注目イベントとなっているようだ

 

【SL大樹に注目⑤】沿線の駅もレトロできれいに模様替え

実は東武鬼怒川線の途中駅は、昭和初期に開設した駅がほとんどで、多くの駅の施設が国の登録有形文化財に指定されている。

 

そうした文化財の状況は、SL大樹の起点駅、下今市駅の旧跨線橋内に解説がある。興味のある方はぜひ見ていただきたい。実は下今市駅の旧跨線橋(東武日光駅側)自体も、国の登録有形文化財に指定されている。

 

東武鉄道ではこうした文化財を生かしつつ、各駅の「昭和レトロ化工事」を進めている。たとえば途中の新高徳駅。最寄りに人気の撮影スポットがあり、鉄道ファンがよく利用する駅だ。この駅に2020年の早春に訪れてびっくりしてしまった。

 

前はごく普通の駅だったが、いつのまにかレトロなおしゃれな姿に変身していたのである。トイレもきれいに整備されていた。駅員もレトロな制服姿に。SL列車が停まらなくとも、鉄道ファンは訪れる。細かいところにまで徹底して整備を始めている。“ここまで東武はやるのか”とビックリさせられた。

↑昭和レトロ化工事によって、リニューアルされた新高徳駅。右上の旧駅舎と比べると、とてもおしゃれに変身したことがよく分かる

 

【SL大樹に注目⑥】次から次へユニークな運行が注目を集めた

2017年8月に運転を開始したSL大樹だが、3年間、同じ形での運行を続けてきたわけではない。形を少しずつ変えて運行させていた。たとえば次の写真は、後ろに補機のディーゼル機関車を付けずに走った時のものだ。

 

補機を付けずに走ると、勾配などの運転で、牽引する機関車の負担も大きくなる。一方で、煙をはく量が多くなる。ちょうどこの補機を付けなかった期間は冬期だったこともあり、白煙が目立って見えた。そうした効果があってか、多くの鉄道ファンが沿線につめかけていた。もちろん列車の乗車率も高まったはずである。

↑補機を付けずに走った時のSL大樹。冬期ということもあったが、白煙が多く立ち上り迫力のあるシーンを見せてくれた

 

また同時期には客車を1両のみだが元JR北海道で活躍していた14系客車オハ14-505、通称ドリームカーに変更した列車も登場した。ドリームカーは、国内最後の夜行急行「はまなす」に連結されていた客車だ。グリーン車と同等で、座席の間が広々していて寛いで乗車できる。またラウンジも設けられていた。札幌駅〜青森駅間を走った「はまなす」に乗車した経験がある人にとって、とても懐かしい客車なのである。

↑補機を付けずに走ったSL大樹。客車3両のうち、中間に元JR北海道の14系ドリームカーを連結して走る日も用意された

 

JR北海道からは同じ「はまなす」の客車として使われていたスハフ14-501も導入されている。これで客車は6両体制となった。さらに補機として使われるDE10形も増強されている。新たにJR東日本の1109号機を秋田総合車両センターで整備した上で譲り受けたのである。

 

この1109号機の塗装には鉄道ファンも驚かされた。青地に金色の帯、さらに運転席下に北斗星のロゴマークが入るこだわりぶりだった。かつて、寝台特急「北斗星」を牽いたDD51形ディーゼル機関車とそっくりな塗装だったのである。この1109号機が2020年10月31日から「DL大樹」を牽引して走り始めた。従来のDE10形がオーソドックスな国鉄塗装だったのに対して、この機関車の色は客車のブルー塗装と似合い、なかなか趣があった。

 

補機を付けない蒸気機関車だけの運行と、さらに新たな車両の導入。常に斬新なスタイルの列車を走らせる試みは、マンネリ化させない工夫そのもので、さすがだと思う。

↑2機目の補機用のディーゼルカーDE10形1109号機。北斗星仕様の塗装が施されていた 写真提供:東武鉄道株式会社

 

【SL大樹に注目⑦】2機体制となりより充実した運行が可能に

SL大樹は、C11形蒸気機関車の1両増やすことで2台体制となる。そして充実した運転が可能となった。整備のためSLが走らない日を無くすことができ、さらにSL列車の本数を増やすことができる。

 

早くも年末年始の運転予定のうち、12月26日と27日、1月1日〜3日、1月9日〜11日の8日間はSL2編成で運転される。SL大樹は1号から8号(上り下り4往復)が運転されるというから、鉄道好き、SL好きにとっては、注目の年末年始となりそうだ。

↑東武鬼怒川線の鬼怒川橋りょうを渡るSL大樹。新高徳駅〜大桑駅間にはこうした名物スポットが多く人気となっている

 

【SL大樹に注目⑧】さらに3機体制で夢が大きく膨らむ

SL大樹の運行は、さらに強化されようとしている。東武鉄道では新たなC11形の復元作業に取り組んでいる。

 

新たなC11が加わる。そしてナンバーは123号機となる。123号機は江若鉄道(こうじゃくてつどう)という現在のJR湖西線の一部区間を走っていた私鉄が、1947(昭和22)年に日本車輌製造に発注した車両だ。同鉄道ではC11 1として走っていた。その後に北海道の雄別炭磺鉄道、そして釧路開発埠頭と巡り、1975(昭和50)年に廃車に。その後は日本鉄道保存協会の所有となり静態保存されていた。この車両が2018年11月に南栗橋車両管区に運ばれ、少しずつ修復が進められていた。復元作業は2021年冬に完了の予定だとされる。

 

ちなみに123号機の「123」は、2020年11月1日に東武鉄道が123周年を向かえたことにちなむ。さらに1→2→3(ホップ、ステップ、ジャンプ)と将来に向かってさらに飛躍を、という思いが込められた。

 

ところで、最初に走り始めた207号機はJR北海道から借用している車両なのだが、こちらはどうなるのだろう。東武鉄道によると、今後も借り続ける予定で、名物のカニ目SLはまだ東武鬼怒川線を走り続けそうだ。

 

3機体制となると、どのような運行になるのだろう。2021年夏以降は、平日を含めた毎日、運転したいと考えているとのこと。

↑真岡鐵道では定期的にSL重連運転が見られたが、東武鉄道でも同じような運転が行われるかどうか注目したい

 

定期運行と、現在、月一回程度、行っている下今市駅〜東武日光駅間の運行のほか、他線区でのイベント運転に乗り出す。加えて事業の目的の一つ、東北復興支援の一助として、会津方面への乗り入れも今後の検討課題だとしている。

 

今回、登場するC11形325号機が走った真岡鐵道で行われたように、C11形2両による重連運転が見られる日も、意外と近い日に訪れるのかも知れない。

歴史好きは絶対に行くべし!「近江鉄道本線&多賀線」6つのお宝発見の旅【後編】

おもしろローカル線の旅73 〜〜近江鉄道本線・多賀線(滋賀県)その2〜〜

 

近江鉄道の沿線には隠れた“お宝”がふんだんに隠れている。こうしたお宝が、あまりPRされておらずに残念だな、と思いつつ沿線を旅することになった。今回は近江鉄道本線の八日市駅〜貴生川駅(きぶかわえき)間と、多賀線の高宮駅〜多賀大前駅間の“お宝”に注目してみた。

*取材撮影日:2015年10月25日、2019年12月14日、2020年11月3日ほか

 

【関連記事】
歴史好きは絶対行くべし!「近江鉄道本線」7つのお宝発見の旅【前編】

 

【はじめに】京都に近いだけに歴史的な史跡が数多く残る

近江鉄道は前回に紹介したように、1893(明治26)年に創立された歴史を持つ会社だ。現在は西武グループの一員となっており、元西武鉄道の車両が多く走る。

 

路線は、近江鉄道本線・米原駅〜貴生川駅間47.7kmと、多賀線・高宮駅〜多賀大社前駅2.5km、さらに八日市線・近江八幡駅〜八日市駅間9.3kmの3路線がある。八日市線を除き、経営状況は厳しい。主要駅をのぞき、駅の諸設備などの整備まで行き渡らないといった窮状が、他所から訪れた旅人にも窺えるような状況だ。

とはいえ、沿線には見どころが多い。特に史跡が多く残る。京都という古都に近かったことも、こうした歴史上の名所が多く残る理由と言えるだろう。PRがなかなか行き渡っていないこともあり、そうした隠れた一面に目を向けていただけたら、という思いから近江鉄道本線の紹介を始めた。その後編となる。

 

今回は近江鉄道本線の八日市駅〜貴生川駅間の紹介と、さらに短いながらも、多賀大社という古くから多くの人が訪れた神社がある多賀線にも乗車した。終点の多賀大社前駅から歩くと、予想外の車両にも出会えた。

 

【お宝発見その①】八日市駅に下車したらぜひ訪ねたい近江酒造

↑1998(平成10)年にできた八日市駅の新駅舎。2019年には2階に近江鉄道ミュージアムが開館した

 

八日市駅は八日市線の乗換駅でもあり、近江鉄道本線でも最も賑わいが感じられる駅だ。また東近江市の玄関駅でもある。駅前からは多くのバスが発着、駅近くにはビジネスホテルも建つ。駅舎内には近江鉄道ミュージアム(入場無料)があり、同鉄道の歴史や名物駅の紹介、さらにトイトレイン運転台、運転席BOXなどがあり、電車の待ち時間を過ごすのにもうってつけだ。

↑八日市駅構内に並ぶ800系。同駅では近江鉄道本線から八日市線への乗換え客で賑わう。800系は写真のように広告ラッピング車も多い

 

八日市駅で行くたびに寄りたいと思っているのが近江酒造の本社だ。駅から徒歩14分ほどの距離にある。2019年の12月に1両の電気機関車が運び込まれた。元近江鉄道のED31形ED31 4である。

 

ED31 4は、近江鉄道では彦根駅に隣接したミュージアムで多くの電気機関車とともに静態保存されていた。静態保存といっても、維持費がかかる。経営状態の芳しくない近江鉄道としては、本来は残しておきたい保存機群であったが、背に腹はかえられずという状態になった。

↑彦根駅に隣接する近江鉄道ミュージアムで保存されていた時のED31 4。今は八日市駅に近い近江酒造本社で保存される

 

ED31形は1923(大正12)年に現在の飯田線の前身、伊那電気鉄道が発注し、芝浦製作所(現在の東芝)が電気部分を、石川島造船所が機械部分を製造した電気機関車だ。当時の形式名はデキ1形機関車だった。同路線を国鉄が買収後、国鉄を(一部の車両は西武鉄道)経て、または直接、近江鉄道へ譲渡されている。近江鉄道ミュージアムでは5両が保存展示されていたが、2017年暮れまでにED31 4を除き解体された。

 

日本の電気機関車の草創期の歴史を残す車両ということもあり、ED31 4のみは、地元の大学の有志が中心となりクラウドファンディング活動を行い残す活動を行った。めでたく目標額に到達し、その後に移転され近江酒造の敷地内で保存されることになった。手前味噌ながら、筆者もわずかながら活動に助力させていただいた。

 

日本の国産電機機関車としては、それこそお宝級の電気機関車であり、この保存の意味は大きいと思う。筆者は平日には訪れることがなかなか適わないが、今度はぜひ近江酒造本社が営業している平日の日中に訪れて、ED31 4との対面を果たしたいと思っている。

 

【お宝発見その②】水口石橋駅近くには東海道の宿場町がある

さて八日市駅から近江鉄道本線の旅を進めよう。本線の中でも八日市駅〜貴生川駅間は閑散度合が強まる。そのせいもあり、朝夕を除き9時〜16時台まで1時間1本と列車の本数が減る。長谷野駅(ながたにのえき)、大学前駅、京セラ前駅と南下するに従い、田園風景が目立つようになる。桜川駅、朝日大塚駅、朝日野駅と見渡す限りの水田風景が続き、車窓風景もすがすがしい。

 

日野駅は地元、日野町の玄関口にあたる駅。ここで上り下り列車の行き違いのため、時間調整となる。この日野駅の紹介は最後に行いたい。

 

日野駅を発車すると、しばらく山なかを走る。そして清水山トンネルを徐行しつつ通り抜ける。次の水口松尾駅までは約5kmと、最も駅間が長い区間だ。

↑水口宿の中心部にある鍵の手状の町並み。手前から中央奥に東海道が延びる。からくり時計があり、時を告げる動きに多くの人が見入る

 

水口松尾駅(みなくちまつおえき)から先の駅はみな甲賀市(こうかし)市内の駅となる。特に水口石橋駅と水口城南駅は立ち寄りたい “お宝”がある。近江鉄道本線は八日市駅の北側では中山道に沿って敷かれていたが、この甲賀市では、路線と江戸五街道の一つ、旧東海道が交差している。

 

ということで水口石橋駅を下車して、東海道へ向かってみた。本当に駅のすぐそばに宿場町があった。東海道五十三次の50番目の宿場、水口宿(みなくちじゅく)である。近江鉄道の東海踏切の東側にあった。ちょうど道が三筋に分かれた鉤の手状の町並みが特徴となっていた。

 

道は細いが古い宿場町の面影が色濃く残る。さらに時をつげるからくり時計があり、ちょうど訪れた時には観光客が集まり、からくり時計の動きに見入っていた。この訪れた人たちは、多くが車利用の観光客なのであろう。電車を利用する人がもう少し現れればと残念に思えた。

 

【お宝発見その③】水口城にはどのような歴史が隠れているのか

水口宿の付近は、かつて水口藩が治めていた。小さめながらも水口城という城跡が残る。宿場からは水口城趾へ向けて歩いてみた。水口藩は小藩で、藩の始まりは豊臣政権までさかのぼる。当時は五奉行の1人、長束正家(なつかまさいえ)が5万石で治めていた。その後に幕府領となった後に、賤ケ岳の七本槍の一人とされる加藤嘉明(伊予松山藩の初代藩主)の孫、加藤明友(かとうあきとも)が水口城主となった。城は明友が立藩当時に整備された城である。

 

水口藩はその後に、一時期、鳥居家が藩主となるが、再び加藤家が加増され2万5千石の藩主となり、明治維新を迎えている。城は京都の二条城を小型にしたものとされる。石垣と乾矢倉(いぬいやぐら)が残り、水口城資料館があり公開されている(有料)。ちなみに維新後は、城の部材はほとんどが民間に払下げされ、その一部は近江鉄道本線の建設にも使われた。水口城が意外なところで近江鉄道の開業に関わっていたわけだ。

↑堀と石垣、そして乾矢倉が残る。2万5千石の小藩だけに規模は小さめだが、コンパクトで美しくまとまって見えた

 

水口城からは近江鉄道の駅が徒歩約2分と近い。駅の名前は水口城南駅(みなくちじょうなんえき)。城の南にあり駅名もそのままずばりである。

 

水口城南駅から近江鉄道本線も終点まで、残すはあと1駅のみ。駅間には野洲川(やすがわ)がある。ちなみに下流で琵琶湖に流れ込むが、琵琶湖に流れ込む川としては最長の川にあたる。野洲川を渡り甲賀市の市街が見え、左カーブすれば貴生川駅に到着する。貴生川駅ではJR草津線と信楽高原鐵道線と接続していて、自由通路を上ればすぐに他線の改札口があり乗換えに便利だ。

↑近江鉄道の貴生川駅のホームは北側にあり自由通路でJR線、信楽高原鐵道と結ばれている。駅にはちょうど820系赤電車が停車していた

 

【お宝発見その④】多賀線のお宝といえば多賀大社は外せない

ここからは多賀線を紹介しよう。多賀線は近江鉄道本線の高宮駅と多賀大社前駅を結ぶわずか2.5kmの路線で、1914(大正3)年3月8日に開業した。近江鉄道本線の高宮駅が1898(明治31)年6月11日に開業しているのに対して、16年ほどあとに路線が開業している。

 

とはいえ当時、経営があまり芳しくなかった近江鉄道にとって、多賀線の開業は経営環境を好転させる機会となったとされる。これは多賀大社前駅に近くにある多賀大社のご利益そのものだった。多賀大社に参詣する人により路線は賑わいを見せたのだった。

↑高宮駅3番線が多賀線のホーム。駅構内で急カーブしている。改良前まではカーブに対応するため車体の隅が切り欠け改造された(右上)

 

多賀線の起点となる高宮駅は1、2番線ホームが近江鉄道本線用で、2番線ホームで降りると向かいの3番線ホームに多賀大社前駅行きの電車が停まっている。この3番線は線路が急カーブしていて、この急カーブに合わせてホームが造られている。これでもカーブ自体、緩やかに改造されたそうで、改造前までは、車体の隅を切り欠け改造した電車しか入線できないほどだった。

 

急カーブのホームということもあり、電車とホームの間のすき間が開きがちに。足元に注意してご乗車いただきたい。さて多賀線の電車は、彦根駅方面からの直通電車もあるものの、大半は高宮駅と往復運転する電車となる。わずか2.5kmの短距離路線の多賀線。発車すると間もなくスクリーン駅に到着する。

 

スクリーン駅は、ホーム一つの小さな駅で、企業名がそのままついた駅だ。2008(平成20)年3月15日の開業で、駅名となっているSCREENホールディングスが開設費用を負担したことによって誕生した。目の前に事業所があるため、同社に勤務する人たちの乗降が多い。

↑多賀大社前駅の駅舎(左)のすぐ前には多賀大社の大鳥居がある。駅舎は趣ある造りで、コミュニティハウスが併設される

 

↑3面2線というホームを持つ多賀大社前駅。1998年に多賀駅から多賀大社前駅と改称された。現在はほぼ駅舎側のホームが使われる

 

スクリーン駅からは左右に広々した田園風景を眺め東へ。名神高速道路の高架橋をくぐればすぐに多賀大社前駅だ。高宮駅からはわずか6分の乗車で多賀大社前駅に到着する。鉄道ファンならば、駅構内に何本かの側線があることに気がつくのではないだろうか。現在の乗降客を考えれば、駅構内が大きく、不相応な規模に感じる。

 

この大きさには理由がある。まずはスクリーン駅〜多賀大社前駅間から沿線にあるキリンビール滋賀工場へ引込線があった。また多賀大社前駅から、その先にある住友セメント多賀工場までも引込線があった。こうした工場からの貨物列車は多賀大社前駅を経由して出荷されていった。1983(昭和58)年にキリンビール工場の専用線が廃止されてしまったが、当時の駅構内はさぞや賑わいを見せていたことだろう。

↑多賀大社駅前から多賀大社まで門前町が続く。かつては商店が連なったが現在は神社周辺のみ店が営業している。同門前町の名物は糸切餅

 

↑多賀大社は多賀大社前駅から徒歩10分ほど。県道多賀停車場線に面して鳥居が立つ

 

多賀線の終点駅は多賀大社前駅を名乗るように多賀大社と縁が深い。多賀大社へお参りする人を運ぶために設けられた路線だった。

 

多賀大社の歴史は古い。創建は上古(じょうこ)と記述されるのみで、正式なところは分からない。日本の歴史の最も古い時期に設けられたと伝わるのみである。祭神は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)とされ、御子は、伊勢神宮の祭神である天照大神(あまてらすおおかみ)とされる。昔から「お伊勢参らばお多賀に参れ お伊勢お多賀の子でこざる」と謡われた。

 

長寿祈願の神として名高く、豊臣秀吉が、母・大政所(おおまんどころ)の延命を多賀社(1947年以降に多賀大社となった)に祈願したとされる。

 

このように歴史上、名高い神社で、現在も賑わいを見せている。残念なことに、多賀線で訪れる人もちらほらみられるが、圧倒的にクルマで訪れる人が多い。いずれにしても、多賀線にとってはお宝の神社ということが言えるだろう。

 

【お宝発見その⑤】多賀大社の先で残念な光景に出会った

多賀大社の前からさらに歩いて10分あまり、国道307号沿いにある車両が置かれている。こちら現在はお宝と言いにくいが、念のため触れておこう。テンダー式蒸気機関車が、ぽつりと1両。正面にナンバープレートはすでについていないが、D51形蒸気機関車、いわゆるデコイチである。D51の1149号機だ。1944年度に川崎車輌で製造された31両のうちの1両で、今も残っているD51形の中では最も若いグループに入るD51で、太平洋戦争中に生まれたことから戦時型と呼ばれる。

 

さてなぜここに置かれているのだろう。1976年3月まで北海道の岩見沢第一機関区に配置されていた。廃車除籍となったあとに、多賀に設けられた多賀SLパークに引き取られた。同年11月には寝台客車を連結し、SLホテルとして開業した。ところが、SLホテルとして営業していた期間はわずかで、同ホテルが経営するレストランとともに1980年代に入り閉鎖されてしまった。客車はその後に解体されたが、機関車のみ置きっぱなしにされたのだった。

↑国道沿いの荒れ地にそのまま置かれたD51形1149号機。地元で復活が検討されたが、実現は難しそうで放置されたままとなっている

 

導入の時には多賀大社前駅まで近江鉄道の電気機関車によって牽引され、駅からはトレーラーで運ばれた。見物人が多く集まり注目を集めたという。当時は、全国からSLが消えていったちょうどさなか。SLブームだったせいか、ホテルも賑わった。ところが、ブームもさり、場所もそれほど好適地とは言えず、経営がなりたたなくなっていった。そして多賀SLパークは閉鎖された。

 

それこそ、つわものどもが夢の跡となってしまった。保存されているとはいえ、放置されたままの状態。無残な状態で、見ていて痛々しくなってきた。

 

【お宝発見その⑥】最後に日野駅のカフェでほんのり癒された

近江鉄道の旅を終えるにしたがい、筆者の気持ちはどうしても落ち込みがちになっていた。せっかく、さまざまな“お宝”があるのにもかかわらず、週末に乗車する観光客はせいぜい1割以下しか見かけなかった。新型感染症が心配されるなかだったとはいえ、寂しさを感じた。

 

滋賀県に住む知人はこうした現状に関して、「民鉄一社に何もかも背負わせるのは、もう時代遅れで、いかに沿線が力を合わせて活性化させることがキーポイントだと思います」と話すのだった。

 

筆者もその通りだと思う。そんな思いのなか、明るい兆しが感じられた駅があった。近江鉄道本線は1900(明治33)年に貴生川駅まで延伸された。その時に日野駅が開業した。当時はまだ、蒸気機関車が火の粉を出すということで、町の近くに駅を造ることに対して反対意見もあった。そのため町の外れに駅が造られたところも多かった。近江鉄道本線でも例に漏れず、経費節減ということもあり郊外に駅を設けがちだった。ところが日野では、町の中心に駅を、と逆に陳情したのだった。

 

地図を見ても、日野駅付近で、路線が曲がり、東に出張った形になっている。この曲がりは、陳情の成果だった。大正期、駅構内に待避線を設ける時にも、村絡みで援助し、鉄道用地を買収、施設の敷設費の一部を負担している。

↑2017年に駅舎再生工事が行われた日野駅。駅舎は町の宝として取り壊さずに再生させる道をたどった

 

町の将来を考えれば、鉄道を誘致して乗ることが大切と、すでに当時の日野の人たちは考えたのだった。今もこうした心意気が日野町に残っている。現在の駅は2017年に改修されたもの。まったく新しくするわけでなく、古い駅をきれいに改修することで、“わが町の駅”の歴史を大切にする道を選んだ。

 

さらにその改修費はふるさと納税制度や、クラウドファンディングを利用している。さらに駅舎内に観光交流施設を備えたカフェ「なないろ」を設けた。

↑日野駅に併設されたカフェ「なないろ」。町の人たちの交流の場としても活かされている。電車の待ち時間に利用する人も見かけた

 

鉄道がたとえ消えたとしても、路線バスにより公共交通機関は保持されるだろう。ところが○○線が通る○○町という看板が消えてしまう。人口の減少が加速することも予想される。バス路線は乗る人が減り廃止される。こうした積み重ねが、町が消滅していく危機にもなりかねない。

 

各地のローカル線が経営難にあえいでいる。今回、訪ねた近江鉄道も同様だった。さらにコロナ禍で、来年以降、全国の鉄道会社に苦難がのしかかるだろう。近江鉄道の一部の駅は、トイレ整備など、後回しにされ使えない駅もあった。決してきれいとはいえない駅もある。知人が話したように、このことは「民鉄一社では何もかも背負わすのは、もう時代遅れ」なのでは無いだろうか。

 

日野駅の例は、そうした町も一緒になって鉄道を盛り上げていく具体例を示してくれているようだ。ローカル線好きとしてはとてもうれしく感じ、最後に癒されたような気持ちになったのだった。

 

 

不思議がいっぱい? えちぜん鉄道「勝山永平寺線」11の謎解きの旅

おもしろローカル線の旅71 〜〜えちぜん鉄道勝山永平寺線(福井県)〜〜

 

乗車したローカル線で、これまで見た事がないもの、知らないものに出会う。「何だろう」と好奇心が膨らむ。一つ一つ謎を解いていく、それが楽しみとなる。さらにプラスαの楽しさが加わっていく。えちぜん鉄道勝山永平寺線は、さまざまな発見が楽しめるローカル線。晩秋の一日、謎解きの旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2014年7月23日、2020年11月1日ほか

 

【関連記事】
えちぜん鉄道「三国芦原線」10の魅力発見の旅

 

【謎解きその①】路線名が越前本線から勝山永平寺線となったわけ

初めに、勝山永平寺線(かつやまえいへいじせん)の概要を見ておきたい。

路線と距離 えちぜん鉄道勝山永平寺線/福井駅〜勝山駅間27.8km
*全線単線・600V直流電化
開業 1914(大正3)年2月11日、京都電燈により新福井駅〜市荒川駅(現・越前竹原駅)間が開業、同年3月11日、勝山駅まで延伸開業
駅数 23駅(起終点駅を含む)

 

すでに路線開業から100年以上を経た勝山永平寺線。路線の開業は京都電燈という会社によって進められた。当時、電力会社は今のように寡占化が進んでおらず、電力会社が各地にあった。京都に本社があったのが京都電燈で、関西と北陸地域に電気を供給していた。自前で作った電気を利用し、電車を走らせることにも熱心な会社で、日本初の営業用の電車が走った京都電気鉄道(後に京都市電が買収)のほか、現在の叡山電鉄などの路線を開業させた。

 

福井県内で手がけたのが現在の勝山永平寺線で、当初は越前電気鉄道の名前で電車の運行を行った。経営は順調だったが、太平洋戦争中の1942(昭和17)年の戦時統制下、配電統制令という国が電力を管理する決定が下され、京都電燈は解散してしまう。

 

京都電燈が消えた後に京福電気鉄道が経営を引き継ぎ、京福電気鉄道越前本線となった。当時は永平寺鉄道という会社があり、永平寺線という路線を金津駅(現・芦原温泉駅)〜永平寺駅間で営業していた。同線とは永平寺口駅で接続していた。1944(昭和19)年に京福電気鉄道は永平寺鉄道を合併し、京福電気鉄道永平寺線としている。この年に永平寺口駅は東古市駅と名を改めた。

 

当初は路線名が越前本線だったわけだが、勝山永平寺線となった理由は、その後の経緯がある。答えは、次の章で見ていくことにしよう。

 

【謎解きその②】なぜ2回もいたましい事故が起きたのか?

京福電気鉄道は、戦後間もなくは順調に鉄道経営を続けていたが、モータリゼーションの高まりとともに、次第に経営が悪化していく。1960年代からは赤字経営が常態化していた。まずは永平寺線の一部区間を廃止した(金津駅〜東古市駅間)。新型電車の導入もままならず、施設は古くなりがちで、安全対策もなおざりにされていた。そんな時に事故が起った。

 

現在に「京福電気鉄道越前本線列車衝突事故」という名で伝えられる事故。詳しい解説は避けるが、古い車両のブレーキの劣化による破断が原因だったとされる。2000(平成12)年12月17日のこと。永平寺駅(廃駅)方面から下ってきた東古市駅(現・永平寺口駅)行き電車が、ブレーキが効かずに暴走してしまう。そして駅を通り過ぎ、越前本線を走っていた下り列車と正面衝突してしまったのだった。

↑永平寺口駅の構内に入線する福井駅行の上り列車。右側にカーブするように元永平寺駅へ延びていた線路跡がわずかに残る

 

この事故で運転士が亡くなる。ブレーキが効かなくなったことを気付いた運転士は、少しでもスピードが落ちるように、電車の全窓をあけて空気抵抗を高めようとし、乗客を後ろの方に移動させるなどの処置を行った。本人は最後まで運転席にとどまり、電車をなんとか制御しようとしたとされる。おかげで乗客からは死者を出さずに済んだのだが、本人が亡くなるという大変に痛ましい結果となっている。

 

さらに翌年の6月24日には保田駅〜発坂駅間で上り普通列車と下り急行列車が正面衝突してしまう。こちらは普通列車の運転士が信号機の確認を怠ったための事故だった。とはいえ、ATS(自動列車停止装置)があったら、防げた事故だった。この事故の後に国土交通省から中小事業者に対して補助金が出され、各社の設置が進んだ。2006(平成18)年には国土交通省の省令に、安全設備設置は各鉄道事業者自身の責任で行うことが明記されている。現在は全国の鉄道に当たり前のようにATSが設置されるが、京福電気鉄道をはじめ複数の鉄道会社で起きた痛ましい事故がその後に活かされているわけだ。

 

この2件の正面衝突事故を重く見た国土交通省はすぐに京福電気鉄道の全線の運行停止、バスを代行運転するように命じた。ところが、両線が運行停止したことにより、沿線の道路の渋滞がひどくなり、バス代行も遅延が目立った。とはいえ京福電気鉄道には安全対策を施した上で、運行再開をさせる経済的な余力が無かった。

 

そこで福井県、福井市、勝山市などの沿線自治体が出資した第三セクター経営の、えちぜん鉄道が設立され、運行が引き継がれた。そして2003(平成25)年の2月にまずは永平寺線をそのまま廃線とし、越前本線は勝山永平寺線に路線名を改称した。7月20日に福井駅〜永平寺口駅間を、10月19日に永平寺口駅〜勝山駅間の運行を再開させた。

 

永平寺線自体は消えたが、沿線で名高い永平寺の名前は路線名として残したわけである。

 

【謎解きその③】2両編成の電車は元国鉄119系なのだが……?

ここで勝山永平寺線の主要車両の紹介をしておこう。前回の三国芦原線の紹介記事と重複する部分もあるが、ご了承いただきたい。2タイプの電車がメインで使われる。筆者は三国芦原線では乗れなかった2両編成の電車も、こちら勝山永平寺線で乗車できた。さてそこで不思議に感じたのは……

 

・MC6101形

えちぜん鉄道の主力車両で、基本1両で走る。元は愛知県を走る愛知環状鉄道の100系電車で、愛知環状鉄道が新型車を導入するにあたり、えちぜん鉄道が譲渡を受け、改造を施した上で利用している。車内はセミクロスシート。なお同形車にMC6001形が2両あるが、MC6101形とほぼ同じ形で見分けがつかない。MC6001形は1両での運行も可能だが、2両編成で運行させることが多い。なお、他にMC5001形という形式もあるが、1両のみ在籍で、この車両にはあまりお目にかかることがない。

↑勝山永平寺線を走るMC6101形電車。日中はこの1両編成の車両がメインとなって走る。沿線の風景は三国芦原線に比べて山里の印象が強い

 

・MC7000形
元はJR飯田線を走った119系。えちぜん鉄道では2両編成の運用で、朝夕を中心に運行される。勝山永平寺線では週末の日中にも走ることがある。MC6101形と同じくセミクロスシート仕様だ。

 

さてMC7000形だが、下記の写真を見ていただきたい。飯田線を走っていたころの119系(小写真)、と2両編成で走るMC7000形を対比してみた。まったく顔形が違っていたのである。

↑2両で走るMC7001形。正面の形は119系(左上)とは異なる。MC6101形とは尾灯の形が異なるぐらいで見分けがつきにくい

 

MC7000形は、119系をベースにはしているが、電動機や制御方式を変更している。119系の当時は制御車にトイレが設けられたが、現在は取り外され空きスペースとなっている。また運転台の位置を下げるなどの改造を行い、正面の姿は元も面影を残していない。MC6101形と、ほぼ同じ姿、いわば“えちぜん鉄道顔”になっている。よって、正面窓に2両の表示がない限り、見分けがつきにくい。

 

国鉄形の電車も顔を変えれば印象がだいぶ変わるという典型例で、この変化もおもしろく感じた。

 

【謎解きその④】一部複線区間が今は全線単線となった理由

さてここから勝山永平寺線の旅を始めよう。起点は福井駅。えちぜん鉄道福井駅はJR福井駅の東口にある。福井駅の東口は北陸新幹線の工事の真っ最中で、大きくその姿を変えつつある。新幹線の高架路線に沿って、えちぜん鉄道の高架路線が福井口駅まで延びている。

 

すでにえちぜん鉄道の路線の高架化改良工事は終了している。福井駅〜福井口駅間が地上に線路があったころとはだいぶ異なる。以前には福井駅〜新福井駅間と、福井口駅からその先、一部区間が複線だった。現在は複線だった区間がすべて単線となり、途中駅には下り上り線が設けられ行き違い可能な構造になっている。興味深いことにえちぜん鉄道では、自社の高架路線が完成するまでは北陸新幹線用の高架路線を、“仮利用”していた。2015年から3年ばかりの間は、新幹線の路線となるところをえちぜん鉄道の電車が走り、自社の高架路線が完成するのを待ったのである。

 

自社線ができあがってからは、複線区間が単線となった。要は福井駅〜福井口駅間は新幹線を含めて敷地の幅が拡張されたが、えちぜん鉄道の一部は路線の幅を縮小して単線化された。結果として北陸新幹線の開業に向けて用地を一部提供した形となっている。

↑福井駅東口にあるえちぜん鉄道の福井駅。高架駅でホームは2階にある。勝山行き列車は日中、毎時25分、55分発の2本が発車する

 

福井駅発の勝山永平寺線の列車は朝の7〜8時台が1時間に3本を運転(平日の場合)。また9時台〜20時台は発車時間が毎時25分と55分になっている。途中駅でも、この時間帯の発車時刻はほぼ毎時同タイムで運行される。要はパターンダイヤになっている。利用者が使いやすいように配慮されているわけだ。

 

筆者は福井駅発10時25分発の電車に乗車した。なお、福井駅発の電車は平日のみ運転の7時54分発の電車のみが永平寺口駅どまりで、他はみな勝山駅行となっている。急行はないが一部列車は比島駅(ひしまえき/勝山駅の一つ手前の駅)のみを通過するダイヤとなっている。勝山駅まで通して乗車すれば53〜63分ほど。運賃は福井駅〜勝山駅間が770円となる。三国芦原線の記事でも紹介したとおり、全線を往復することを考えたら1日フリーきっぷ1000円を購入すればかなりおトクになる。

↑福井口駅の北で三国芦原線(右)と分かれる。ちょうど勝山駅行列車が高架上を走る。右の高架線下にえちぜん鉄道本社と車両基地がある

 

福井口駅をすぎると分岐を右に入り、列車は勝山駅方面へ向かう。なお、福井口駅の北側にえちぜん鉄道の車両基地があり、勝山永平寺線の車内からもわずかだが基地内が見える。

↑高架上から車両基地へ降りる回送電車。右は基地内に停まるMC6001形電車。車庫内には同社名物の電気機関車ML521形も配置される

 

【謎解きその⑤】さっそく出ました難読「越前開発駅」の読みは?

↑福井口駅から高架線を走り勝山駅へ向かう下り列車。高架から地上に降りる坂の勾配標には32.0パーミルとある。結構な急勾配だ

 

福井口駅から高架線を降りてきた勝山永平寺線の列車。次の駅は越前開発駅だ。この駅名、早速の難読駅の登場です。通常ならば「えちぜんかいはつえき」と読むところ。だが、「かいはつ」ではない。「えちぜんかいほつえき」と読ませる。

 

越前開発駅の北側に開発(かいほつ)という地域名がある。このあたりは元々原野や湿地帯で、その一帯が開発されたところだとか。「かいほつ」と読ませるのは仏性(仏になることができる性質のこと)を獲得するという仏教用語なのだそう。縁起の良い呼び方がそのまま伝わったということなのだろう。なかなか日本語は奥が深いことを、ここでも思い知った。

↑越前開発駅はホーム一つの小さな駅。以前は福井口駅からこの駅まで複線区間となっていて、今もその敷地跡が残る

 

越前開発駅、越前新保駅(えちぜんしんぼえき)と福井の市街地の中を走るルートが続く。追分口駅付近からは左右の田畑も増えてきて、徐々に郊外の風景が広がるように。越前島橋駅の先で北陸自動車道をくぐる。その先、さらに田園風景が目立つようになる。

 

松岡駅の付近からは右手に山がすぐ近くに望めるようになり、やがて、列車は山のすそ野に沿って走るように。左手に国道416号に見ながら走る。このあたり九頭竜川(くずりゅうがわ)が生み出した河岸段丘の地形が連なる。志比堺駅(しいざかいえき)がちょうど、段丘のトップにあたるのだろうか。駅も路線も一段、高いところに設けられる。

 

勝山永平寺線は地図で見る限り平坦なよう感じたが、乗ってみると河岸段丘もあり、意外にアップダウンがある路線だった。

 

【謎解きの旅⑥】永平寺口駅には駅舎が2つある?さらに……

志比堺駅を発車すると右から迫っていた山地が遠のき平野が開けてくる。そして列車は下り永平寺口駅(えいへいじぐちえき)へ到着する。この駅で下車する人が多い。現在の駅舎は線路の進行方向左手にあり、こちらに永平寺へ向かうバス停もある。一方で、右手にも駅舎らしき建物がある。こちらは何の建物だろう?

↑永平寺口駅の旧駅舎。路線開業時に建てられた駅舎で、映画の男はつらいよのロケ地としても使われた

 

右手の建物は旧駅舎(現・地域交流館)で勝山永平寺線が開業した1914(大正3)年に建てられたもの。開業当初は永平寺の最寄り駅であり、1925(大正14)年には永平寺鉄道(後の永平寺線)も開業したことにより、乗り換え客で賑わった。

 

同路線では終点の勝山駅と共に歴史が古く、風格のあるたたずまいで今もその旧駅舎が残されるわけだ。この建物の入り口には映画「男はつらいよ」のロケ地となったことを示す石碑が立つ。1972(昭和47)年8月に公開された第9作「柴又慕情」編のロケ地となり、主人公の渥美清氏やマドンナ役の吉永小百合さんも訪れたそうだ。

 

さらにこの駅舎は2011(平成23)年には国の登録有形文化財に指定されている。登録後には改修工事も行われ、非常にきれいに管理されている。さて永平寺口駅周辺で気になるのは旧永平寺線の線路跡である。

↑永平寺口駅構内には、旧永平寺駅方面へ右カーブしていたころの線路が一部残る。左手奥が現在の勝山永平寺線の線路

 

永平寺口駅はこれまで4回にわたり駅名を変更している。駅が開業した時は永平寺駅、さらに永平寺鉄道が開業した2年後に永平寺口駅となった。永平寺鉄道と京福電気鉄道が合併した時には東古市駅となった。さらにえちぜん鉄道となった年に、永平寺口駅となった。つまり誕生してから2つめの駅名に戻ったことになる。

 

さて東古市駅と呼ばれたころまで永平寺線があった。当時の旧永平寺線は東古市駅〜永平寺駅間6.2kmの路線だった。現在の永平寺口駅から南側、山間部に入っていった路線で、駅構内にその線路跡の一部が残されている。駅の先も旧路線の大半が遊歩道として整備されている。

 

旧永平寺線はこの6.2km区間のみでは無かった。永平寺鉄道は金津駅(現・芦原温泉駅)と東古市駅間の18.4kmも路線を開業させていた。同路線の途中にある本丸岡駅と現在の三国芦原線の西長田駅(現・西長田ゆりの里駅)間には京福電気鉄道丸岡線という路線もあった。京福電気鉄道は福井県内で大規模な鉄道路線網を持っていたわけである。

 

とはいえクルマの時代に変化していった1960年台。1968(昭和43)年7月には丸岡線が、1969(昭和44)年9月には永平寺線の金津駅〜東古市駅間があいついで廃線となった。この永平寺線の金津駅〜東古市駅間は、東古市駅〜永平寺駅間に比べて廃線となったのが、早かったこともあり、現在は駅の北側にわずかに線路のように道路が緩やかに右カーブしているあたりにしか、その名残を見つけることができなかった。

↑永平寺口駅前に建つ旧京都電燈古市変電所。煉瓦造平屋建で屋根は切妻造桟瓦葺(きりづまづくりさんがわらぶき)といった構造をしている

 

永平寺口駅で見逃せないのが、駅前にあるレンガ建ての建物である。さてこの建物は何だったのだろう。

 

この建物こそ、路線が開業した当時の京都電燈の足跡そのもの。レンガ建ての建物は旧京都電燈古市変電所だったのだ。電気を供給するために路線の開業に合わせて1914(大正3)年に建てられたのがこの変電所だった。和洋折衷のモダンなデザインで、当時の電気会社の財力の一端がかいま見えるようだ。同建物も旧駅舎とともに国の有形文化財に指定されている。

 

最後になったが、永平寺に関してのうんちく。永平寺は曹洞宗の大本山にあたるお寺だ。永平寺は曹洞宗の宗祖である道元が1244年に建立した。道元はそれまでの既存の仏教が、なぜ厳しい修業が必要なのかに対して異をとなえた。旧仏教界と対立した道元は、越前に下向してこの寺を建立したとされる。

 

【謎解きその⑦】2つめの難読「轟駅」は何と読む?

筆者は永平寺口駅でひと休み。古い建物を楽しんだ後は、さらに勝山駅を目指した。しばらく列車は九頭竜川が切り開いた平坦な河畔を走る。永平寺口駅から3つめ。またまた難読な駅に着いた。今度は、漢字もあまり見ない字だ。車が3つ、組み合わさった駅名。さて何と読むのだろう。

 

車が3つ合わさり「どめき」と読む。ワーッ!これはかなりの難読だ。

↑轟駅のホームを発車する勝山駅行き電車。民家風の駅舎には轟駅の案内が掲げられている。この先に同路線特有のシェルターが付く

 

轟と書いて「とどろき」と読ませる地名はある。轟(とどろき)は音が大きく鳴り響くさまを表す言葉を指す。駅の北側を流れる九頭竜川の流れがやはり元になっているのだろうか。

 

「難読・誤読駅名の事典」(浅井建爾・著/東京堂出版・刊)によると、「ガヤガヤ騒ぐことを『どめく』ともいい、それに『轟』の文字を当てたものとみられる。」としている。確かに「どめく」(全国的には「どよめく」という言うことが多い)という言葉がある。当て字で轟を当てたのだろうか。ちなみに「どめく」という表現は、九州や四国地方で多く使われていることも調べていてわかった。なんとも謎は深い。

 

ちなみに地元の町役場にも調べていただいたのだが、答えは「不明」だった。こうした地名を基づく駅名は難しく、明確に分からないことも多い、ということを痛感したのだった。

 

【謎解きその⑧】ドーム型のシェルターは何のため?

轟駅の近くにはこの路線特有の装置も設けられていた。勝山駅側の分岐ポイント上にシェルターが設けられている。これはスノーシェルターと呼ばれる装置で、その名のとおり、分岐ポイントが雪に埋もれないように、また凍結しないように守る装置だ。えちぜん鉄道の勝山永平寺線には轟駅〜勝山駅間で計4か所に設けられている。

↑轟駅近くにあるスノーシェルター。ポイントを雪から守るために設けられる。横から見るとその形状がよく分かる(左上)

 

筆者は福井県内の福井鉄道福武線で同様のシェルターを見たことがある。とはいえポイントのみを覆う短いスノーシェルターは、希少で、全国的には少ないと思われる。青森県を走る津軽鉄道などにも同タイプがあったと覚えているが、津軽鉄道の場合は雪よりも季節風除けの意味合いが強い造りだった。

↑勝山永平寺線は意外に坂の上り下りが多い。小舟渡駅近くでは山が九頭竜川に迫っていることもあり電車は山肌をぬうように走る

 

【謎解きその⑨】小舟渡駅の先から見える美しい山は?

やや広がりを見せていた地形も、越前竹原駅を過ぎると一変する。進行方向右手から山が迫り、山あいを走り始めるようになる。そして左手すぐ下に九頭竜川を見下ろすようになる。

 

小舟渡駅も難読駅名の一つだろう。「こぶなとえき」と読む。駅前にはすぐ下に九頭竜川の流れがある。このあたり九頭竜川は両岸が狭まって流れている。橋が架かっていなかった時代には、多くの小舟を並べてその上に板を渡して、仮設の橋を架けて渡ったとされる。よって小舟で渡ったという地名になったのだろう。こうした橋は舟橋とも呼ばれ、九頭竜川では他にも同タイプの橋が使われていたことが伝えられている。

↑小舟渡駅近くを走る勝山行電車。九頭竜川がすぐ真下に見える。奥には1921(大正10)年に開通した小舟渡橋が架かる

 

さて小舟渡駅から先は進行方向、左手をチェックしたい。このあたりからの九頭竜川と山々の風景が沿線の中で最も美しいとされる。訪れた日はあいにく好天とは言いきれなかったが、先に白山連峰が望めた。冬になると路線のちょうど正面に大きなスキー場が見える。こちらはスキージャム勝山で関西圏から多くのスキーヤーが駆けつける人気のスキー場でもある。

↑小舟渡駅の近くから見た九頭竜川と白山の眺め。路線の一番のビューポイントで、同乗するアテンダントさんからの案内もある

 

【謎解きその⑩】勝山駅の先に線路がやや延びているが

小舟渡駅から九頭竜川を見つつ保田駅(ほたえき)へ。この駅からは勝山市内へ入り平野部が広がり始める。勝山盆地と呼ばれる平野部でもある。九頭竜川は勝山盆地で大きくカーブする。流れは勝山の先では東西に流れるが、勝山から上流は南北に流れを変る。勝山永平寺線の線路は九頭竜川の流れに合わせてカーブ、川の西岸沿いを走る。

 

一方、勝山の市街は九頭竜川の東岸が中心となっている。街の賑やかさは列車に乗っている限り感じられない。終点の勝山駅は街の中心から勝山橋を渡った西の端に位置している。なぜこの位置に駅が造られたのだろう。

↑勝山駅の駅舎は1914(大正3)年築の建物。国の登録有形文化財に指定されている。右上はわずかに延びる大野方面への線路跡

 

勝山駅の先にわずかに残る線路にその理由が隠されている。1914(大正3)年3月11日に勝山駅まで延伸開業した。その1か月後には勝山駅から先の大野口駅(後に京福大野駅まで延伸)まで路線が延ばしている。要は路線が開業して間もなく勝山駅は途中駅となったのである。

 

大野市の中心は九頭竜川の西岸にある。そのため勝山の中心部へ九頭竜川に橋をかけて電車を走らせることはなかった。南にある大野を目指したために、こうした路線の造りになったわけだった。大野には路線開業当初に鉄道線がなく、利用者も多かった。しかし、1960(昭和35)年に国鉄の越美北線(えつみほくせん)が開通する。そのため当時の越前本線の利用者が激減、1974(昭和49)年には勝山駅〜京福大野駅間が廃線となる。勝山駅の南に残る線路は大野まで延びていた旧路線の名残だった。

↑勝山市内には福井県恐竜博物館があり、勝山駅から路線バスが運行されている。駅前広場には恐竜が、またホームには恐竜の足跡も

 

【謎解きその⑪】勝山駅前に保存されている黒い車両は?

終点の勝山駅で鉄道好きが気になるのが駅前広場に保存される車両ではないだろうか。この車両はテキ6形という名前の電気機関車。開業当初に導入した車両はみな非力だったため、京都電燈が1920(大正9)年に新造した車両で、貨車を牽引する電気機関車であり、また貨物輸送車として織物製品や木材を載せて運んだとされる。海外製の主要部品が使われていたとはいえ、その後に誕生した国産電気機関車よりも前の時代の車両で、いわば日本に残る最古級の国産電気機関車といって良いだろう。

 

本線での運用が終了した後も、福井口の車両基地での入換え作業などに使われていた。その後に勝山駅に移され動態保存され、短い距離だが動かすことができるように架線も張られている。走る時にどのような音を奏でるのか一度、見聞きしてみたいものである。

↑屋根付の施設で動態保存されるテキ6形。後ろには貨車ト61形を連結している。建物には同車両の写真付の案内も掲示されている

 

↑福井県はソースカツに越前おろしそばが名物。勝山駅前の「みどり亭」では一緒に味わえる福井名物セット(850円)が人気。昼食に最適だ

 

時間に余裕があれば福井県恐竜博物館は訪れておきたいところ。勝山永平寺線の車内でも同博物館帰りと思われる家族連れの姿が見受けられた。そしてランチには、福井名物のソースカツや越前おろしそばを、ぜひ味わってみていただきたい。

西武鉄道がコロナ禍の基地まつりで魅せた「新旧の特急&お宝級の車両」たち

〜〜Laviewブルーリボン賞受賞記念 車両基地まつりin横瀬〜〜

 

埼玉県の西武鉄道・横瀬車両基地で11月8日に「車両基地まつりin横瀬」が開かれた。今年は、2019年春に登場した001系Laviewがブルーリボン賞に輝いた受賞記念をかねての催しだった。

 

コロナ禍もあり、2020年は鉄道イベントも少なめ。多くの人が待ちわびたのだろうか、予約制にもかかわらず入場時間の前に駆けつけた人が目立った。秋の1日の模様と、この日に見ることができた貴重な保存車両を紹介しよう。

 

【関連記事】
今も各地で働き続ける「譲渡車両」8選−−元西武電車の場合

 

【横瀬の見どころ①】開場を待ちわびていた人たちが続々と……

↑秩父地方のシンボル武甲山のふもとにある西武鉄道の横瀬車両基地。同鉄道で長年、活躍した電気機関車などが保存されている

 

埼玉県横瀬町(よこぜまち)、西武秩父線の横瀬駅に隣接して設けられた横瀬車両基地で、11月8日に「Laviewブルーリボン賞受賞記念 車両基地まつりin横瀬」と題した催しが開かれた。例年秋に、横瀬では車両基地の公開が行われているが、今回はコロナ禍ということもあり、予約制で入場できる人数を制限した上で開催された。残念ながら見ることができなかった方にも、その模様をお届けしたい。

 

午前の部が10時から11時30分、午後の部が12時から13時30分と開場した時間は短め。入場開始前から多くの人たちがつめかけた。そして開場。多くの人がこの日に発売された受賞記念のLaview限定グッズなどを目指して販売ブースへ並ぶ。一方、親子連れは、保存された車両が並ぶエリアへ急ぎ足で目指した。

↑予約制のため例年よりも入場者は少なめだったが、10時の開場とともに親子連れは保存車両のコーナーに駆けつけていた

 

横瀬車両基地とはどのような施設なのか触れておこう。池袋駅〜吾野駅(あがのえき)間を結ぶ西武池袋線は長い間、吾野駅が終点となっていた。吾野駅の先にそびえていた奥武蔵の山々をトンネルで貫き、誕生したのが西武秩父線だった。1969(昭和44)年10月14日に吾野駅〜西武秩父駅間が開業し、西武秩父線となった。

 

西武秩父線は、旅客営業だけでなく、秩父地方の石灰石を都市部へ運ぶ役割を持っていた。そのために強力な電気機関車(後述)を新造したほどだった。この電気機関車や貨車の検修施設として1970(昭和45)年に造られたのが横瀬車両基地だった。開設されて今年でちょうど50年という節目の年にあたる。

 

1996(平成8)年に西武鉄道での貨物輸送が終了したこともあり、基地はかつて活躍した西武鉄道の車両の保存場所として、休車となった車両の保管などに使われている。

 

この基地では1994(平成6)年から例年秋に、「西武トレインフェスティバル in横瀬」が開かれている。西武鉄道ファンの中には、例年1度1日きりの恒例となった催しを楽しみにしている人が多い。さらに今回は001系Laviewのブルーリボン賞受賞記念も兼ねていた。鉄道イベントも例年に比べると少なめだったこともあり、待ちに待ったイベントとなったわけである。

↑西武鉄道の販売ブースでは、8月31日に閉園したとしまえんのグッズや、Laviewの記念グッズなどが販売され多くの人で賑わった

 

【横瀬の見どころ②】賞に輝いたLaviewが入線してきた!

車両基地ということで、多くの線路が並ぶ基地内。そこにはかつてレッドアローの愛称で親しまれた西武鉄道5000系電車が1両のみ停められていた。5000系は西武鉄道で初めて、1970年度の鉄道友の会ブルーリボン賞に輝いた車両である。

 

そこへゆっくりとシルバーの車両が近づいてきた。001系電車である。001系は2019年3月から走り始めた西武の新型特急電車。世界的な建築家である妹島和世(せじま かずよ)氏がデザインを監修、個性的なデザインで注目を浴びた。正面の風貌といい、外の景色が存分に楽しめる広い側面の窓など、特徴をあげれば切りがないほどである。

↑西武鉄道001系Laviewが車両基地内の線路をゆっくりと入線してきた。シルバーの車体、個性的なスタイルが秋の秩父路によく似合う

 

ゆっくり基地に入線してきた001系Laviewが所定の位置に停車。5000系レッドアローときれいに並ぶ。そして運転席の表示も「特急ちちぶ」となった。並んでみると生まれた時代に差があるものの、ともに特急車両らしい威厳が備わっているように感じられた。

↑西武鉄道の代表的な特急電車として歴史に名を刻むことになった5000系レッドアロー(左)と001系Laview

 

今年の催しでは混乱を避けるために取材陣が先に撮影させていただいた。10時以降には密を避けるため、時間制限を設けて一般来場者にも撮ることができた。そして多くの人が新旧の特急の撮影を楽しんだ。

↑001系Laviewは複数の凝った造りが隠されている。例えば前照灯部分にはまるで人の笑顔のようなスマイルモードに変更することができる

 

【横瀬の見どころ③】ブルーリボン賞とは何か確認しておこう

ブルーリボン賞とはどのような賞なのか触れておこう。鉄道愛好者の集いであり任意団体の鉄道友の会。同会が1958年に制定したのがブルーリボン賞だ。毎年、その時代を代表する車両1形式のみが選定される。

 

鉄道友の会では「会員の投票結果に基づき、選考委員会が審議して最優秀と認めた車両を選定します」としている。

 

第63回にあたる2020年にブルーリボン賞に輝いたのが西武鉄道001系Laviewだった。今回、並んだ5000系レッドアローは第13回の1970年にブルーリボン賞に輝いた車両だった。

↑西武鉄道の社章が全面を飾る5000系レッドアロー。横瀬車両基地には1両のみが保存されている

 

ふさわしい新車がない場合には該当車なしという年もあり001系Laviewは59車両目にあたる。ここ5年間に、ブルーリボン賞に輝いた車両を見ておこう。

 

2016年 阪神電気鉄道5700系電車(阪神本線などの各駅停車用の電車)

2017年 JR九州BEC819系電車(国内初の交流用蓄電池駆動電車)

2018年 JR西日本 35系客車(SLやまぐち号用のレトロな客車)

2019年 小田急電鉄70000形GSE(展望席のあるロマンスカー)

 

そして2020年の001系Laviewとなる。こうして見ると、その年のブルーリボン賞に選ばれる鉄道車両は、各鉄道会社の看板列車だけでなく、技術やソフト面など、時代を先取りした車両が選ばれる傾向が強い。その時代を象徴する車両であり、新しく誕生した鉄道車両のみに与えられる非常に名誉ある賞なのである。

 

友の会では他にローレル賞という賞も設けている。こちらはブルーリボン賞が華やかな特急車両が選ばれがちだったこともあり、「優秀と認めた車両」を選定している。こちらは1車両に限らず、複数の車両が選ばれる年もある。

 

【横瀬の見どころ④】レッドアロークラシックが久々に入線した!

イベントが始まって間もなく会場にアナウンスが流された。10000系レッドアロークラシックが西武秩父線を走るという知らせだった。今年の横瀬のイベントにあわせ、10000系が飯能駅〜西武秩父間を1往復、特別に臨時運転されたのだった。

 

10000系の愛称はニューレッドアロー。1993(平成5)年から製造された特急電車である。残念ながらブルーリボン賞は受賞されなかったものの、001系が誕生する前の、ほぼ四半世紀にわたり、西武各線を「ちちぶ」「むさし」「小江戸」などとして走ってきた。すでに西武池袋線、西武秩父線から去り、現在の運行は西武新宿線のみとなっている。そんな10000系が久々に秩父路を走ったのだった。

 

横瀬のイベント会場からは臨時列車に向けて手を振る人も多く、乗車していた人たちからも返礼するかのように手を振る姿が多く見受けられた。

↑横瀬車両基地付近を走る臨時特急「ちちぶ」レッドアロークラシック。11月8日のイベント開催に合わせて特別に運転された

 

【横瀬の見どころ⑤】夜中に行われる保線作業を特別に公開された

イベントでは5000系、001系の撮影とともに、複数の販売ブースが設けられそれぞれ人気となっていた。さらに催されたのが「保線作業の実演」だった。保線は主に夜に行われる作業ということもあり、通常は目に触れることがない。保線スタッフによって、そうした日頃は見ることができない作業が公開された。どのような模様だったのかお伝えしよう。

 

まずは軌道上のレールを持ち上げる、またゆがみや線路幅の確認を行う。そして鉄道車両が走行により徐々に沈んでいく路盤を修正するため、レールの下のバラストを整備する作業が実演された。“ダッダッダッ!”という独特の音が特徴の工具・タイタンパーを使っての整備が行われた。

 

さらにレールの切断、レールの穴開けと実演が続く。取り換え用のレールを持ち上げ、移動する作業などの実演が見られた。最後には子どもたちに切断したレールがプレゼントされた。5個限定だったものの、レールが無料でもらえる機会はまずない。5組の親子が抽選で選ばれた。プレゼントを大事そうに抱える子どもたちの姿が印象的だった。

↑レールの切断作業を実演するそのすぐ横をLaviewが通過する。興味津々でイベントの様子を眺める車内の人たちの姿が目立った

 

↑重いレールを専用機械で持ち上げ、移動する作業を再現。現場では一定サイズのレールを使い、溶接してロングレールに仕立てていく

 

保線の作業は鉄道の安全のために重要なのは言うまでもない。雨天や暑い日、寒い日には、スタッフの大変さが想像される。鉄道の運行を支える仕事は、主に夜に行われるため見ることが出来ない。こうした催しでなければ目に触れることがないが、もっと注目を浴びてもよい鉄道の仕事なのではと思った。

 

【横瀬の見どころ⑥】横瀬は西武鉄道のお宝車両の宝庫なのだ

イベントとともに気になるのが横瀬の保存車両である。筆者は西武沿線の東村山で育ったこともあり、こちらも非常に気になった。

 

いまこうして鉄道コーナーの原稿を書いているが、その芽は西武鉄道に作ってもらったと言って良い。ということもあり、ついひいき目に書いてしまうのだが、許していただきたい。

↑かつて西武鉄道の貨物輸送を支えた電気機関車4両。左からE61形、E51形、E71形、そしてE851形

 

西武鉄道は保存された車両を公開する施設を持たない。会社の歴史を築いてきた車両は、ほぼこの横瀬車両基地に集められ、通常はシートで厳重にカバーして保存され、イベントの時に公開されている。今や稼動はしていないとはいえ、保存のためには経費も必要になる。鉄道遺産を後世に残すというのは鉄道会社のひとつの使命とはいえ、大変なことだと思う。

同じ西武グループの一員である近江鉄道(滋賀県)は彦根駅構内に電気機関車を数多く保存してきたが、経営状態の悪化で、保存しきれなくなった。クラウドファンディングで保存費用が集まったごく少数の車両を除き、大半の電気機関車が廃車されてしまった。

 

筆者としても横瀬車両基地に保存されている機関車たちは、同じようなことにならないか心配していた。現地を訪れ、催しを見て、保存状態が予想以上に良いのにほっとさせられた。そんな横瀬車両基地に保存された代表的な車両を見ていこう。

↑西武鉄道では自社で貨車も製造して利用していた。右は車掌車を兼用した有蓋車ワフ101形。奥は袋詰めセメント用有蓋車スム201形

 

【横瀬の見どころ⑦】西武鉄道の歴史を大きく変えた通勤電車たち

まずは通勤電車から。横瀬では西武鉄道の代表的な通勤電車を保存している。その中で西武鉄道の歴史にとって大きな存在の電車2両がある。まずは351系(初代501系)。当時、流行していた湘南スタイルの正面をした車体の長さ17メートルの電車である。この車両は西武鉄道でどんな意味を持っていたのだろう。確認しておこう。

↑西武池袋線の西所沢駅〜所沢駅間を走る戦災復旧電車。戦後の復興期、国鉄からの払下げ車両が多く使われた 1968年9月22日筆者撮影

 

西武鉄道は太平洋戦争の混乱期を乗り越えて、高度成長期を迎えるにあたり、利用者の増加をどのように対応するか苦慮していた。戦後まもなくは、なかなか電車を新造する力がない。そこで戦災により傷ついた車両を国鉄から大量に払下げを受けた。この払下げを受けた車両を戦災復旧車と呼ぶ。この被災した車両を状態に応じて車体の一部や骨組みなどを再利用、台車の再利用なども行った。この元国電車両の投入で難局を乗り切ったのだった。

 

そうした戦災復旧車が使われる一方で、所沢の自社の車両工場で車両を造り始めた。西武鉄道として戦後初めて1954(昭和29)年〜1956(昭和31)年に新製したのが351系(初代501)だった。新造車両だったものの、長さの異なる20メートルの中間車2両を挟んだ4両編成や、戦災で被災した車両の部品を使った制御車両と組ませた2両編成を用意した。部品は後に造られた新型501系にさらに転用させるなど、当時の西武らしい“やりくり”が随所に見られた。戦災復旧車とともに351系や、そのあとに新造した自社製車両によって、ひっ迫しつつあった輸送需要に対応していったのである。

↑登場した当初の塗装で保存される351系(車両番号はモハ505としている)。左上は筆者が出会った当時の赤電塗装の351系

 

西武鉄道の電車の歴史の中で351系よりも後年となるが、大きな存在となったのが101系電車だ。この101系も、横瀬車両基地にクハ1224の1両のみが保存されている。101系は西武秩父線の開業に合わせて新造された電車だった。それまでの西武鉄道の新造車両は、形は新しいものの、台車や機器に古めの部品が混じっているなど、新造車両とは言いがたい電車が目立った。節約主義が徹底していたのである。

 

西武秩父線の開業に合わせて用意された101系は、西武秩父線の勾配区間をクリアできるように、高出力、高ブレーキ性能を保持していた。1968(昭和43)年から1976(昭和51)年まで大量の278両が造られている。それまでの西武の車両とは異なった性能重視の電車だった。この電車は、今でこそ、低い位置に運転台がある初期タイプが引退したものの、後期に生まれた高い位置に運転台がある新101系は、今も多摩湖線、多摩川線で活躍している。それだけ性能的に秀でたこともあり、長寿車両となったのだろう。

↑2001年10月に開かれた横瀬の催しでは赤電塗装の101系が会場へ。当時の列車名「奥武蔵」のヘッドマークを付けて入線した

 

101系以降の西武鉄道の新造車両は性能を重視し、乗り心地にも目を向けるようになっていく。今ではスマイルトレインの愛称で親しまれる30000系や、有料座席指定列車S-TRAINとして他社に乗り入れる40000系といった、他社と遜色のない優秀な電車を走らせているが、それも101系という電車を生み出したことが大きかったことになる。

↑登場した当時の黄色塗装で保存される101系電車。西武秩父線の開業に合わせて新造された電車だった

 

【横瀬の見どころ⑧】ここにしか残っていない貴重な機関車たち

横瀬に保存される車両で、わが国の鉄道史の中でも大きな存在なのが、複数の機関車だ。今回は、シートがかぶされたままで、公開はされなかったが、まずは4号蒸気機関車という、基地内で唯一のSLが保存されている。同機関車は現在の西武国分寺線と西武新宿線の東村山駅〜本川越駅間を開業させた川越鉄道という会社から引き継がれた機関車だ。元は国鉄400形で明治初期に英国に発注された。西武鉄道では1957(昭和32)年まで多摩湖線で使われていた。

 

この機関車のみ唯一の蒸気機関車。ほかは電気機関車ながら、日本に電気機関車が導入された創始期に、海外から輸入された歴史的な車両ばかりである。一両ずつ見ておこう。

↑いずれも大正末期に鉄道省により輸入された電気機関車で、西武ではE61形(左から)、E51形、E71形を名乗った

 

・E51形電気機関車
鉄道省が東海道本線の電化用に1923(大正12)年にスイスから2両を輸入した機関車で、その後の国鉄ではED12形を名乗った。1949(昭和24)年に西武鉄道の2両とも移籍、E52のみが保存されている。

 

・E61形電気機関車
鉄道省が1923(大正12)年に東海道本線用にアメリカから輸入した機関車で、国鉄当時はED11形を名乗った。西武には1960(昭和35)年に移籍、E61形となった。同形機が名古屋市のリニア・鉄道館に保存されている。

 

・E71形電気機関車
アメリカ製の元国鉄ED10形で、1925(大正14)年に東海道本線用に鉄道省が輸入した。1960年(昭和35)年に西武鉄道に移籍、ローズレッドに色が変更されたが、現在は国鉄時代のブドウ色に塗装変更、ナンバープレートも国鉄時代のED10形2号機に変更されている。

↑E41形電気機関車が牽く貨物列車。有蓋車に無蓋車と当時の混成だった貨物輸送の様子が分かる。左上は今回の催しでのE41形 筆者撮影

 

・E41形電気機関車
元青梅鉄道1号形電気機関車で1926(大正15)年から1929(昭和4)年にかけてイギリスに4両が発注された。国鉄時代はED36形で、その後に4両とも西武鉄道に移籍した。現在はE43のみが横瀬に保存されている。

 

E41形を除いて、すべてが当時の鉄道省が東海道本線の電化に合わせて導入した電気機関車だ。将来、電気機関車の国産化を目指すために、アメリカ、イギリス、スイス、と当時の最新技術が取り入れるべく国内に持ち込まれたものだった。筆者はいずれも現役当時に西武池袋線などを走る姿を確認していた。特にスイス製のE51形はなかなかダンディな姿で、その姿が深く脳裏に刻まれている。

↑写真は1999年の横瀬の公開時のもの。E851形機の大きさが良くわかる。後ろにはE31形も見えている。当時はまだ検修庫があった

 

そして最後に紹介しておきたいのがE851形電気機関車である。今回の催しでは残念ながら両側を作業用の台に挟まれ、その姿を存分に楽しむことが出来なかったが、ここでは過去の横瀬の催しの姿を掲載しておきたい。

 

E851形は西武秩父線用に1969(昭和44)年に新製した電気機関車である。急勾配がある西武秩父線では従来の機関車が使えなかったために新造された。私鉄では最大の大きさを誇る機関車で、過去にも後にも、この大きさの機関車は生まれていない。国鉄で言えば動軸6軸の、いわばF形で、EF65形式に匹敵する。4両製造され一部区間では重連で運用された。強力だったが、活用された期間は意外に短かった。西武秩父線と平行する国道の整備などが進んだこと、また貨物の輸送量の減少などの理由により、1996(平成8)年に貨物輸送が廃止された。同機関車も稼動期間27年をもって終了している。4両製造されたうちのE854のみが横瀬に保存されている。

 

筆者は残念ながら同機が活躍していたころには、鉄道趣味から離れていた時期と重なったために撮影しそこなっていた。今思えば大変に残念に思う。いずれにしても、それぞれの車両に何年かぶりに“再会”できて非常に有益な時間を送ることができた。

 

西武鉄道がこうした古い機関車を今も大事に保存していることに敬意を表したい。“再会”できて、うれしく思ったとともに、来年も再訪することを誓い横瀬車両基地をあとにした。

えちぜん鉄道「三国芦原線」10の魅力発見の旅

おもしろローカル線の旅70 〜〜えちぜん鉄道三国芦原線(福井県)〜〜

 

訪れた土地で乗車したローカル線。その地方らしさ、路線の魅力や、細やかな人々の思いに触れたとき、乗って良かった、訪れて良かったと心から思う。えちぜん鉄道三国芦原線(みくにあわらせん)はそんな魅力発見が楽しめるローカル線。秋の一日を思う存分に楽しんだ。

*取材撮影日:2013年2月10日、2015年10月12日、2020年10月31日ほか

 

【関連記事】
希少車両が多い東海・関西出身の「譲渡車両」の11選!

 

【魅力発見の旅①】日中は30分間隔で運行のパターンダイヤ

↑日中でも30分間隔で走る三国芦原線の電車。主力車両のMC6101形が築堤を走る

 

はじめに、三国芦原線の概要を見ておきたい。

路線と距離 えちぜん鉄道三国芦原線/福井口駅〜三国港駅(みくにみなとえき)25.2km 
*全線単線・600V直流電化
開業 1928(昭和3)年12月30日、三国芦原電鉄により福井口駅〜芦原駅(現・あわら湯のまち駅)間が開業、1929(昭和4)年1月31日、芦原駅〜三国町駅(現・三国駅)間が延伸開業
駅数 23駅(起終点駅・臨時駅を含む)

 

まずは現在の三国芦原線の運行ダイヤを見ておこう。列車はおよそ30分間隔で運行されている。三国芦原線の路線は福井口駅〜三国港駅間だが、福井口駅から発車する列車はなく、すべてが福井駅発となる。列車のダイヤは特に日中が分かりやすい。

 

福井駅発、三国港駅行は9時〜21時まで、福井駅を毎時09分発と39分発に発車する。途中駅でも毎時決まったダイヤに変わりがない。三国駅発、福井駅行の列車も同じで、日中は毎時同じダイヤで運行されている。こうした時間が決まったダイヤをパターンダイヤと呼ぶが、利用者にとっては非常に分かりやすく便利である。

 

鉄道ファンとしては30分刻みというのは非常にありがたい。途中駅で写真を撮る時にも、頻繁に列車が往来するので効率的だ。撮影が終えて、次の電車に乗る時にもあまり待たずに済む。

 

さらに日中の列車には女性のアテンダントが乗車する。乗車券、バスや施設入館料のセット券の販売から、沿線の観光アナウンスのほか、年輩の利用者には、席かけのお手伝いまでするなど、配慮には頭が下がる思いだった。

 

以前にも福井市を訪れて、居酒屋で女性スタッフの細やかな配慮に驚かされたことがある。車内でも同じような光景が見られた。福井県の県民性として「地道に愚直にこなす性質」「創意工夫の精神」といった傾向が見られるとか。

 

分かりやすく便利なパターンダイヤ、そして女性のアテンダントの姿勢に、同鉄道らしさが見えたのだった。

↑えちぜん鉄道福井駅は2階がホームとなっている。三国港駅行電車は日中09分、と39分発と決まったダイヤで利用しやすい(右上)

 

【魅力発見の旅②】列車は一両単行運転が大半を占める

さてえちぜん鉄道の電車をここで紹介しておこう。

 

・MC6101形

えちぜん鉄道の主力車両で、基本1両で走る。元は愛知県を走る愛知環状鉄道の100系電車で、愛知環状鉄道が新型車を導入するにあたり、えちぜん鉄道が譲渡を受け、改造を施した上で利用している。車内はセミクロスシートで旅の気分を盛り上げる。なお同形車にMC6001形が2両あるが、MC6101形とほぼ同じ形で見分けがつかない。

 

・MC7000形

元はJR飯田線を走った119系。えちぜん鉄道では2両編成のみの運用となり、朝夕を中心に運行される。MC6101形と同じくセミクロスシート仕様だ。なお、他にMC5001形という形式もあるが、1両のみ在籍するのみで、この車両はあまりお目にかかることが無い。

↑三国芦原線の主力車両MC6101形。筆者が訪れた週末、三国芦原線ではほとんどがMC6101形1両での運行となっていた

 

・L形ki-bo(キーボ)

L形電車は超低床車両で、黄色い車体の2車体連節構造(車体の間に中間台車がある)。福井鉄道福武線との相互乗入れが可能なように導入された。2016年生まれで、えちぜん鉄道初の新造車両でもある。愛称はki-bo(キーボ)で、「キ」は黄色、「ボー」は坊やや相棒を意味する。また「キーボ」は希望にも結びつくとされている。

↑福井鉄道福武線への相互乗り入れ用に造られたL形ki-bo。超低床車のため途中駅には専用のホームが用意されている

 

2車体連接車のL形や福井鉄道の乗り入れ用車両(後述)を除き、列車のほとんどが1両で走っている。気動車での1両運行は全国で見られるものの、電車の1両運行となると希少となる。

 

列車によっては、中高生の通学時間と重なり多少、混む列車があるものの、大半の列車は空き気味となる場合が多い。えちぜん鉄道のように30分間隔で電車を走らせるためには、この1両での運行がとても有効だと思われた。

 

【魅力発見の旅③】2年にわたる運行休止期間を越えて

えちぜん鉄道では、

 

①30分間隔で列車を運行、覚えやすいパターンダイヤを取り入れている。

②日中は女性のアテンダントの乗車している。

③列車の大半を1両で運行させている。

 

というように派手ではないものの、地道な工夫や努力が見えてくる。ローカル線の将来への道筋を示しているようにも感じられた。

 

今でこそ、活路を見いだした三国芦原線だが、ここまで至るまでは苦難の歴史が潜んでいた。同線の歴史に関して触れておこう。

 

同線の計画は大正期に立てられた。まずは1919(大正8)年に加越電気鉄道という会社が路線計画を提出し、鉄道免許がおりている。その後に、加越電気鉄道は吉崎電気鉄道と社名を変更した。だが、資金難のせいだろうか、工事が進められることはなく、1925(大正14)年に免許が失効している。最初から波乱含みだった。1927(昭和2)年に再び鉄道免許がおり、同年に会社名を三国芦原電鉄と改称した。その翌年に福井口駅〜芦原駅(現・あわら湯のまち駅)が開業した。

 

すでに福井駅〜福井口駅間には京都電燈越前電気鉄道線が走っていて、三国芦原電鉄は、1929(昭和4)年にこの区間へ乗り入れている。京都電燈越前電気鉄道は1942(昭和17)年に京福電気鉄道となり、この年に三国芦原電鉄と京福電気鉄道が合併、京福電気鉄道・三国芦原線となった。

↑芦原温泉の玄関口あわら湯のまち駅。京福電気鉄道から2000年にバス事業を引き継いだ京福バスが今も健在で路線バスを走らせている

 

京福電気鉄道は現在も、京都市内で嵐山線を運行している鉄道事業者で、京都と福井に鉄道網を持つことから「京福」と名付けられた。そして同社の福井支社が三国芦原線と越前本線(現・勝山永平寺線)の列車運行を行っていた。

 

京福電気鉄道では1960年代から80年代にかけて合理化を進めていたが、旧態依然とした企業体質が残り、営業姿勢に関しても必ずしも積極的とは言えなかった(あくまで昭和から平成初期のこと=現在は異なる)。1990年台には、すでに両線とも赤字経営が続いていた。そうした後向きの企業体質が影響したのだろうか、2000年と2001年に越前本線で2度の正面衝突事故を起こしてしまう。2000年には運転士が死亡する大事故となった。

 

1度ならまだしも、2度も続き、国土交通省からはすぐに列車の運行停止が求められた。結果、2001(平成13)年に6月25日に両線の電車運行がストップしてしまった。たちゆかなくなった京福電気鉄道は2003(平成15)年には福井鉄道部を廃止、事業をえちぜん鉄道に譲渡した。えちぜん鉄道は福井市、勝山市などの地元自治体が中心になって運営する第三セクター方式の会社である。

 

引き継いだえちぜん鉄道では、早急に安全対策などを施し、同年の8月10日に三国芦原線を、10月19日には勝山永平寺線を営業再開にこぎ着けた。

 

三国芦原線ではまる2年にわたって、鉄道が走らなかった時期があったのである。こうした苦しい時があったからこそ、えちぜん鉄道は地元の人たちに大切にされ、応援され、またそれに応えるべく地道な企業努力をしているように見受けられた。

 

【魅力発見の旅④】福井駅は2年前に高架化されより快適に

さて。ここからは三国芦原線の旅を始めよう。起点は福井口駅だが、列車が発車する福井駅からの行程をたどる。えちぜん鉄道福井駅はJR福井駅の東口にある。現在、東口は新幹線工事が進んでいることもあり、通路は狭く、やや迷路のような状態になっていた。筆者はJRの特急列車からの乗り換え時間がまだ5分あるからと、のんびり駅へ向かった。だが、すでに発車時刻寸前でベルが鳴り響いていた。改札口で整理券を受け取り9分発の電車にあわてて飛び乗った。

 

現在、福井駅東口の駅構内が改良工事中のため、乗り換え時間は余分に取ったほうが良さそうだ。進行方向左手を北陸新幹線が通る予定で、それに沿うようにえちぜん鉄道の高架線が続く。高架化工事は2018(平成30)年に完成している。福井口駅までは高架路線が続き、新しく快適なルートが続く。

 

ちなみに共通1日フリーきっぷは1000円。福井駅〜三国港駅間は片道770円で、途中下車や往復を考えたら、フリーきっぷの方が断然におトクだ。有人駅や車内乗務員(アテンダントも含む)から購入できる。電車は有人駅以外、一番前のトビラから乗車する。降りる時も運転席後ろの精算機に運賃を入れて前のトビラから下車するシステムとなっている。なお交通系ICカードの利用はできない。

↑福井口駅近くの三国芦原線(右側)と勝山永平寺線の分岐を高架下から見る。左上はその分岐ポイントで、三国芦原線の電車が走る様子

 

福井口駅までは高架線で、福井口駅の先に分岐があり三国芦原線の電車は左の高架線へ進入する。地上へ降りていく途中で注目したいのは左手下だ。JRの路線との間にえちぜん鉄道車両基地があり、検修庫も設けられる。ここには名物となっている凸形電気機関車ML521形も留め置かれている。重連で運転され降雪時には除雪用に使われる機関車だ。こうした高架上の路線から停まる車両をチェックしておきたい。

↑福井口駅近くの車両基地内の検修庫。数両のMC6101形とともに、L形の姿もわずかに確認できた

 

車両基地を左手に眺めつつ路線は左カーブ。新幹線の高架橋をくぐり、JR北陸本線の線路をまたぐ。そして、まつもと町屋駅、西別院駅と福井市街地の中の駅に停まり田原町駅(たわらまちえき)へ向かう。

 

県道30号線の踏切を越えたらまもなく田原町駅だ。この駅では左から近づいてくる福井鉄道福武線の線路に注目したい。

 

【魅力発見の旅⑤】田原町から福井鉄道車両の乗り入れ区間に

福井鉄道福武線は福井市内を通り越前市の越前武雄駅まで走る鉄道路線。福井市街は県道30号線上を走る併用軌道となっている。福武線が田原町駅まで路線が通じたのは1950(昭和25)年のことだった。三国芦原線との接続駅だったが、2013年から相互乗り入れが検討され、その後に駅構内が整備され、2016年からは三国芦原線との相互乗り入れを開始している。

↑田原町駅は三国芦原線と福井鉄道の接続駅。車両が停車するのが乗り入れ用の2番線で、奥に三国芦原線と合流するポイントがある(右下)

 

↑田原町駅に近づく三国芦原線の電車。ホームの案内はユニークな吹き出しふう(左上)。電車を見に来る親子連れや鉄道ファンの姿も目立った

 

筆者は同駅に数度、訪れているが、改修される前の写真を引っ張り出して比べてみた。当時の駅の建物は古風そのもの。福武線のホームは曲線上にあった。停まるのは湘南タイプの正面で人気があった200形が現役時代の姿。路面電車にもかかわらず、乗降口は高い位置にあり、独特な折り畳み式ステップが付いていた。いま思えばユニークな電車だったが、この名物車両は1編成のみ保存され、越前市の福武線・北府駅(きたごえき)近くに整備される北府駅鉄道ミュージアムで展示される予定だとされる。

↑改修前の田原町駅に停車する福井鉄道200形203号車。同車両は越前市の新施設で保存される予定だ 2013年2月10日撮影

 

古い駅舎もなかなか趣があったが、やはり新駅は開放感が感じられ快適だ。隣接地は小さな公園となり、電車好きな親子連れや鉄道ファンが、電車の行き来や撮影を楽しんでいる様子が見られ、ほほ笑ましい。

 

電車の乗換え客は前にもまして増えた様子。以前に訪れた時は無人駅で、静かだったが、現在は有人駅となり華やかな印象の駅に生まれ変わっていた。

 

【魅力発見の旅⑥】九頭竜川橋りょうから風景が一変する

さて田原町駅からは、福武線の電車も乗り入れし、路線はより華やかになる。平日ならば通学する学生の乗降も多くなる。そして福井大学のキャンパスに近い福大前西福井駅へ。この駅からしばらく、福武線用の超低床の車両が走るために、通常の高いホームと超低床車両用の低いホームが連なるように設けられていておもしろい。高いホームの先に低いホームがあるという具合だ。三国芦原線の電車は最大で2両編成なので、ホームの長さが短くて済む。大都市の電車とは異なるからこそ、こうしたホーム造りが可能ということもあるだろう。

 

福大前西福井駅からは大きく右にカーブして電車はほぼ北へ向かって走り始める。日華化学前駅から3駅ほど福井市街の駅が続く。築堤をあがると、福井のシンボルでもある一級河川、九頭竜川(くずりゅうがわ)を渡る。

↑三国芦原線の九頭竜川橋りょうを渡る三国港行電車。本格的なトラス橋で、1990(平成2)年に現在の新橋りょうが完成した

 

九頭竜川橋りょう手前まで左右に広がっていた市街地は川を境に大きく変る。川の堤防とほぼ同じ高さに中角駅(なかつのえき)があり、視界が大きく開ける。路線の先々まで見通せ、広々した水田風景が広がる。この車窓風景の変化が爽快だ。中角駅の先は視界が開けることもあって、同路線の人気撮影スポットとなっている。

 

筆者も同駅で下車、撮影を楽しんだ。同線の線路沿いはありがたいことに雑草が刈り取られているところが多かった。このあたりも地元の人たちや鉄道会社の配慮なのだろう。もちろん撮影する鉄道ファン向けでは無く、やはり利用者や、住民の快適さを考えて、線路端もきれいに整えているようである。

 

ちなみに中角駅のみ超低床車両用のホームがないため、福武線と相互乗り入れを行う電車は同駅のみ通過する。乗り入れる列車は一応、急行となっているが、三国芦原線内では中角駅を通過する急行列車なのである。

↑中角駅〜仁愛グランド前駅(臨時駅)間を走るMC6101形。水田が広がる同ポイントから中角駅へ電車は勾配を駆け上がる

 

中角駅から一つ先は仁愛グランド前駅となる。この駅は臨時駅で通常の列車は停車しない。停車するのは駅前にある仁愛学園のグラウンドで学校行事がある時のみで、下車できるのは学生に限られる特別な駅だ。ホームだけがあり停車しなかったので、筆者も当初は廃駅かなと思ったが、そんな裏事情がある駅だった。

 

【魅力発見の旅⑦】鷲塚針原駅まで超低床車両が走る

臨時駅の仁愛グラウンド前駅のホームを通過し、次の駅は鷲塚針原駅(わしづかはりばらえき)。田原町駅と鷲塚針原駅間は、福武線との相互乗り入れ区間で、同路線には「フェニックス田原町ライン」という別の愛称がつけられている。

↑中角駅付近を走る福井鉄道の超低床電車F1000形FUKURAM(ふくらむ)。中角駅を通過して鷲塚針原駅まで急行列車として走る

 

さて鷲塚針原駅。超低床ホームが通常のホームと並行して設けられるが、見比べるとその高低差に驚かされる。三国芦原線のように一部区間に、こうした超低床車両が乗り入れるという試みは、今後、検討する都市の例も出てくるだろうが、こうしたホームの整備が必要になることがよく分かった。

↑鷲塚針原駅のホームを見比べる。左は三国芦原線用のホーム。右手は超低床のL形やF1000形用の専用ホームでその低さが際立つ

 

鷲塚針原駅を過ぎて郊外の趣が急に強まる。特に西長田ゆりの里駅から北は、見渡す限りの水田風景となる。

 

ご存知の方が多いだろうが、福井はお米の品種コシヒカリが生まれたところだ。この品種の歴史は古く1944(昭和19)年に誕生した。改良を加えて「越(こし)の国に光り輝く米」という願いを込めて、コシヒカリとなった。コシヒカリの作付面積は全国一という福井県。広がる水田はすでに刈り取りが終わっていたが、きっと初夏から秋にかけては見事な景色が楽しめたことだろう。

↑大関駅付近から望む田園風景。路線の東側、遠方に標高1500m前後の飛騨山地が望めた

 

【魅力発見の旅⑧】廃線マニアにはこの急カーブが気になる

田園風景が広がるのは番田駅(ばんでんえき)付近まで。線路の先を眺めると、大小の旅館、ホテル、そして住宅が建ち並ぶ“街”が見えてくる。こちらが関西の奥座敷とも呼ばれる芦原温泉(あわらおんせん)だ。温泉街が近づくと三国芦原線は左にカーブしてあわら湯のまち駅へ向かう。

 

駅に到着する前のカーブは半径400mとややきつめで、線路はほぼ90度に折れて、進行方向を西へ変える。

 

このカーブはもしかして……? 実は以前に東西に敷かれた線路があり、その線路に合流するように三国芦原線の線路が設けられたのだった。東西に線路が延びていたのは旧国鉄三国線で、国鉄がまだ鉄道院だったころの1911(明治44)年に金津駅(かなづえき/現・芦原温泉駅)〜三国駅間に開業した路線だった。同時に現在のあわら湯のまち駅にあたる芦原駅も誕生していた。温泉街へ向かう観光路線として造られたわけではなく、港湾として重要視されていた三国港へのアクセス路線として造られたのだった。

↑北上してきた三国芦原線の線路は、温泉街の手前でカーブする。左の直線路が国鉄三国線の線路跡。この先、JR芦原温泉駅まで線路があった

 

つまり国鉄の三国線は三国芦原線よりもだいぶ前に開業していて、すでに温泉街への足としても利用されていた。そこに合流するように後年になって三国芦原線が造られたのだった。この国鉄三国線の線路と三国芦原線の線路は芦原駅(現・あわら湯のまち駅)〜三国港間では平行に敷かれた。その後に、太平洋戦争中は不要不急路線として国鉄線が休止、戦後に復活したものの1972(昭和47)年3月1日に正式に廃止された。

 

いわば古くに造られた路線が先に廃止され、後発だった鉄道路線が今に残ったというわけである。

↑あわら湯のまち駅から芦原温泉駅へ京福バスが運行されている。芦原温泉駅は北陸本線にある駅だが、温泉街はあわら湯のまち駅が近い

 

【魅力発見の旅⑨】あわら湯のまち駅近くの芦湯でひと休み

昨今、温泉の玄関口となる駅はクルマ利用の人が多くなったせいか、寂しくなりがち。あわら湯のまち駅はどうなのだろうと思って降りてみた。確かに盛況時の賑わいは薄れているものの、公共の施設や、屋台街があり、夕方はそれなりの賑わいになることが想像できた。

 

余裕があったら、ぜひ立ち寄りたいのが駅近くの芦湯(あしゆ)。足湯といえば通常は「足」に「湯」だが、ここでは少し洒落て芦湯。大正ロマンをイメージした無料の足湯で、泉質豊富な芦原温泉らしく、5種類の湯が楽しめる。利用時間が朝7時から夜11時と、時間を気にせずに入湯できる。旅先でタオルを持参出来なかった時にも、有料で販売しているのがありがたい。

↑あわら湯のまち駅から目と鼻の先にある芦湯。5つの異なる泉質の湯船を無料で楽しむことができて楽しい

 

さてあわら湯のまち駅で気になる表示を発見。構内踏切にあった案内に「“ジャンジャン”がなったらわたらないでください」という表示が。福井では踏切の音を“カンカン”ではなく、“ジャンジャン”と呼ぶようだ。カンカンは決して全国共通ではなく地方により異なる呼び方があると初めて気がつかされた。

↑あわら湯のまち駅で見つけた構内踏切の注意書きには「ジャンジャンがなったら」とあり思わず注目してしまった

 

【魅力発見の旅⑩】レトロな三国港駅。駅近くの港からは……

あわら湯のまち駅からは列車は西へ向かって走る。三国港駅までは、旧国鉄三国線とほぼ平行して線路が敷かれていた。太平洋戦争中に国鉄線は休止され、芦原駅(現・あわら湯のまち駅)〜三国港駅間は、当時の京福電気鉄道の路線のみ営業が存続、旧国鉄線は線路がはがされ、鉄不足を補うため供出されていた。戦後、同区間の国鉄路線は復活されることなく、京福電気鉄道の路線のみが残された。国鉄の列車が京福電気鉄道の路線に乗り入れて運行されることもあったとされる。

 

あわら湯のまち駅を発車した電車は水居駅(みずいえき)、三国神社駅と小さな駅を停車して、三国駅へ。この三国駅は2018年3月に新しい駅舎ができたばかり。観光案内所もあり、地元、坂井市三国の玄関口として整備されている。東尋坊方面への路線バスもこの駅の下車が便利だ。

 

この三国駅は、三国港駅と東尋坊口駅へ向かう路線の分岐駅になっていた。太平洋戦争中の1944(昭和19)年まで、京福電気鉄道の路線が東尋坊口駅まで1.6km区間に電車を走らせていた。だが、この年に休止、1968(昭和43)年に復活することなしに正式に廃止されていた。

↑三国駅〜三国港駅間にある眼鏡橋。三国港駅からもよく見える。大正期の造りで国の登録有形文化財に指定されている

 

さて筆者は三国駅では降りず、終点の三国港駅へ。途中下車しつつの旅立ったため、時間はかかったが、福井駅から直通の電車に乗れば、三国港駅へは約50分で到着する。なかなか三国港駅は見どころ満載の駅だった。まずは駅舎。この駅舎は2010年に改修されたが、元の木造平屋建ての建物の部材を使って建て直したもので、なかなか趣深く写真映えしそうだ。

 

さらに三国駅方面にはレンガ造りのアーチ橋が架かっていた。この橋は「眼鏡橋(めがねばし)」の名前で親しまれ、旧国鉄三国線の開業時に造られたものだった。アーチのレンガが螺旋状に積まれた構造のトンネルで、こうした構造は「ねじりまんぽ」と呼ばれる。アーチ端部分が鋸歯状(きょしじょう)の段差仕上げがなされていて、この時代特有の姿を今に残している。歴史的にも貴重なため、同眼鏡橋は国の登録有形文化財に指定されている。

↑終点駅、三国港駅の構内。駅舎は2010年に立て替えられたもの。逆側を見るとわずかだが引込線らしき線路が残っていた(左上)

 

↑三国港駅に平行するように旧国鉄三国港駅のホームの遺構が残っていた。すぐ目の前は県漁連の荷揚げ施設などがある

 

三国港駅の構内踏切を渡ると古い石組みが残る。同施設の解説プレートがあった。読んでみよう。

 

「このホームは国鉄三国支線時代の遺構です。(中略)三国港駅は大正2年に荷扱所(貨物専用)として出発し、翌年、駅に昇格しました。貨物積み込み線の横はすぐ海で、船からの積み替えが容易にできるようになっていました」。

 

今でこそ、旧ホームの裏手に県道が通るものの、すぐ裏手に港があった。そこから望む西側の空は、夕日で真っ赤にそまり、とても神々しく、まるで旅のフィナーレを飾るかのようだった。

↑九頭竜川の河口にある三国港。駅のすぐ目の前にこの風景が広がっていた。こんなドラマチックな夕景に出会えるとは

 

タヌキとラーメンの町を走る「東武佐野線」11の疑問

おもしろローカル線の旅69 〜〜東武佐野線(群馬県・栃木県)〜〜

 

ローカル線を訪ねてみると、他の路線では見かけないものにしばしば出会う。そこに改めて疑問が湧いてくることも多い。好奇心が刺激され、また乗りに行ってしまう。東武佐野線は再訪したくなる魅力的な路線といって良いだろう。タヌキの町とラーメンの町を結ぶ素朴なローカル線で疑問を解決する旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2020年1月13日、2月15日、10月24日

 

【関連記事】
本線になれなかった残念な路線「東武亀戸線」10の秘話

 

【佐野線の疑問①】なぜ葛生駅まで路線が敷かれたのだろう?

↑佐野線の終点、葛生駅を発車する館林駅行き電車。朝の1本を除き、すべてが館林駅行電車だ

 

初めに、佐野線の概要を見ておきたい。

路線と距離 東武鉄道佐野線/館林駅(たてばやしえき)〜葛生駅(くずうえき)22.1km
*全線単線・1500V直流電化
開業 1894(明治27)年3月20日、佐野鉄道により佐野駅(開業当時は佐野町駅で、同駅〜越名駅間も同日に開業)〜葛生駅間が開業、1914(大正3)年8月2日、東武鉄道により館林駅〜佐野町駅間を延伸
駅数 10駅(起終点駅を含む)

 

佐野線創始の歴史は、意外に古い。歴史には佐野鉄道という会社名が出てくる。その以前に、安蘇馬車鉄道(あそばしゃてつどう)という馬車鉄道により、1889(明治22)年に葛生〜吉水間に路線が敷かれていた。葛生周辺では石灰石が古くから産出され、その石灰石を運ぶために馬車鉄道が設けられたのだった。

 

しかし、馬車でひく鉄道は非力で、石灰石を運ぶのには向かなかった。そこで1893(明治26)年に佐野鉄道が創立された。翌年から蒸気機関車により輸送が始められている。ちなみに安蘇とは、栃木県の郡名で、その名前をつけた馬車鉄道が佐野線のルーツということになっている。

 

それから約20年たった1912(明治45)年に東武鉄道が佐野鉄道を吸収合併、佐野線となった。そして2年後に、現在の館林駅〜葛生駅間が全線開業した。当初、葛生に鉄道が開業したのは、産出する石灰石の輸送のためだった。ところで、東武鉄道はなぜ佐野鉄道を合併したのだろう。

 

東武鉄道は東京と、日光を結ぶ路線の開設を目指していた。そのルートは後に栃木市経由となったが、佐野鉄道の路線を利用する案が検討されたため、佐野鉄道を吸収合併したとされる。

 

【佐野線の疑問②】路線は館林市と佐野市の2市しか走らない?

佐野線は群馬県と栃木県を跨いで走っている。群馬県では館林市の市内、栃木県では佐野市しか走らない。10駅もあり2県に跨ぐ路線ながら、2つの市のみしか走らないというのも、なかなか珍しい路線である。

 

筆者も当初は葛生町があるのかと思ったが、葛生町はすでになく、佐野市葛生なのである。沿線には田沼町、葛生町があったものの、2005年2月に合併したこともあり、その後は2つの市内を走る路線となっている。

 

さて館林市と、佐野市といえば、それぞれに、全国的に知られていれる“名物”がある。こうした多くの人が知る名物がある市もざらにはないだろう。その名物に関しては後述したい。

 

【佐野線の疑問③】6月から走るステンレス車両は何形?

ここでは佐野線を走る電車に関して触れておこう。走るのはまずは8000系。東武鉄道の高度成長期を支えた通勤形電車である。登場は1963(昭和38)年のこと、以降、1983(昭和58)年まで製造が続けられ、合計712両と、私鉄では最大の車両数となった。近年まで幹線で活躍し続けてきたが、東武伊勢崎線の浅草駅〜館林駅間は2009年度末で運用終了、東武東上線では2015年以降、坂戸駅より先のみの運用になるなど、運用区間は年々、狭まってきている。

 

現在、8000系は東武伊勢崎線ならば館林駅以西と、佐野線と小泉線などの運用に限られる。ちなみに8000系をワンマン化、3両編成で走る800系という編成がある。こちらは以前、佐野線での運用が多く見られたが、現在は、伊勢崎線の館林駅〜伊勢崎駅〜太田駅といった区間での運用がメインとなっている。

↑佐野線の主力電車は8000系。2両の短い姿で今も走り続けている

 

↑6月に入線した10000系。もともと2両固定編成の車両で、すでに2編成がワンマン改造され佐野線を走り始めている

 

コロナ禍で訪ねることができず、半年ぶりに訪れた佐野線に“新顔”が入線していた。ステンレス車体の2両編成の車体で、モハ11201とクハ12201編成と、モハ11202とクハ12202という2両×2編成である。ステンレス製のこの車両は何形なのだろう?

 

こちらは10000系で、8000系の後継用に1983(昭和58)年に誕生した車両だった。正面が丸みを帯びた形が10000系で、正面に縁が付いたマイナーチェンジ車10030系、制御機器を変更した10080系も10000系の仲間に含まれる。そして3タイプを合わせて計486両が造られた。いわば8000系とならぶ、東武鉄道の代表車両と言っていいだろう。大量に製造された車両なのであるが。

 

佐野線にやってきた車両は10000系の中では希少車だった。10000系の2両固定編成は、6両や8両の増結用に用意されたのだが、それほど多くの編成が造られず、わずか4編成しか造られていなかった。そんな希少な車両がワンマン化されて6月から走り始めている。

↑佐野線で唯一の優等列車、特急りょうもう。上り列車は葛生駅8時6分発、下り列車は浅草駅20時39分発の1往復のみの運行される

 

【佐野線の疑問④】館林駅前に複数のタヌキ像。さてなぜ?

さてここから佐野線の旅を始めよう。起点は館林駅で、佐野線は行き止まり式の1番線ホーム、もしくは3番線ホームから発車する。まずは電車の乗り込む前に館林駅前に降りたってみた。駅前広場には、なんとタヌキ! タヌキがいっぱいいた。

 

タヌキのいろいろな像が並んでいる。あれれ? 何かのおまじないか。案内を読むと、分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)の昔話(童話)は、その舞台が実は館林だったとのこと。

 

「へえーっ?」という思いがした。タヌキが化けた茶釜の話なのだが、市内の茂林寺(もりんじ)に実際に茶釜が残っているのだとか。ちなみに茂林寺は、館林駅の隣駅の茂林寺前駅が徒歩10分と近い。茂林寺は室町時代の西暦1426年開山と伝わる古刹で、名物となった分福茶釜の見学が可能だ。

↑館林の駅前ロータリーには信楽焼や石のタヌキ君たちがならぶ。今ふうのタヌキのキャラクター「ぽんちゃん」が気温表示の上に付けられる

 

タヌキが茶釜に化けてということが実際にあるわけが無いだろうから、きっと、なかなか賢いお寺の住職が子どもたちに話聞かせ、語り継いできたものなのだろう。お寺の名前は全国に知られ、町のPRにも結びついているわけで、現代流に言えばPR効果は抜群だったようである。

 

駅前のタヌキ像の隣には「不屈のG魂誕生の地」という碑が建っている。これは館林の分福球場で、読売巨人軍(当時は東京巨人軍)が秋のキャンプをした翌年(1936年)に初Vを遂げたことを記念したものだ。同球団が好きな方は、話のタネにいかがだろうか。

 

↑館林駅の1番線は行き止まり式の佐野線専用ホーム。この駅で佐野線の全列車(特急を除く)が折り返し運転となる

 

↑館林駅から600mほど伊勢崎線と並走、左手に車両基地が見える付近から分岐して佐野線へ入る

 

さてタヌキの逸話を確認したあと、この日は3番線から葛生行きに乗車する。佐野線の電車はすべて(特急1本を除く)が館林駅始発の葛生駅行で、朝夕は20〜30分間隔、9時から14時の日中は1時間間隔となる。乗車した電車は週末だったこともあり、2両編成の座席がほぼ埋まるぐらいと少なめ。部活動に行くのだろう、高校生の姿が目立った。

 

ローカル線らしくのんびり感がただよう印象、慌ただしさはなく出発した。しばらく伊勢崎線と並走、左手に車両基地(南栗橋車両管区館林出張所)に停まる車両を見ながら、右手に大きくカーブし、佐野線へ入る。

 

そして間もなく渡瀬駅(わたらせえき)へ到着する。駅の近くには農協の古い石造りの倉庫が残る。駅舎の前にはタヌキ像が鎮座し、まるで駅を守るかのようだ。

↑渡瀬駅前では大小の信楽焼のタヌキが駅を守る(?)。ちなみにこの駅が佐野線の群馬県内、最後の駅でもある

 

【佐野線の疑問⑤】渡瀬駅の先にある側線に停まる車両は?

渡瀬駅を発車すると進行方向、右手に気になる一角がある。側線に東武鉄道の古い車両が多く停められている。1月と2月に訪れた時には、加えて東京メトロ日比谷線の03系が、10月には、10000系の中間車が並んでいた。この一角はどのような役割をしているところなのだろうか。

 

ここは資材管理センター北館林解体所。つまり引退となった電車はここへ回送され、解体となる運命なわけだ。日比谷線の03系といえば2月末に引退となった車両。日比谷線の車庫は東武沿線にあるだけに、ここに送られてきた仲間がいたようである。03系は長野電鉄、北陸鉄道、熊本電気鉄道といった譲渡された車両があった一方で、廃車に至る車両もあらわれた。そうした電車の末路を考えるとちょっと寂しい気持ちにさせられる一角である。

↑渡瀬駅〜田島駅間にある北館林解体所。東武の10000系の中間車と日比谷線03系が留置されていた。2020年1月13日撮影

 

渡瀬駅〜田島駅間にある北館林解体所。実は東武鉄道の歴史では大きな転換点となったポイントでもある。それは後述したい。

 

さて右手に廃車となる一群を見送った後は、築堤を上り始める。築堤をあがりきり、渡良瀬川橋りょうを渡る。渡良瀬川は群馬県と栃木県の県境、足尾山塊を源流にした一級河川で、この下流で利根川に合流する。この渡良瀬川だが、かつて世の中を揺るがした公害事件が起きていた。

↑佐野線の渡良瀬川橋りょうを渡る8000系。栃木県側の路線のかたわらには「田中正造翁終焉の地」の記念碑が立つ

 

足尾鉱毒事件として後世に伝えられる事件である。足尾鉱毒事件は、明治期から昭和にかけて問題化した。足尾銅山から流され出た鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、その鉱毒により、アユが死に、また川の水を使っていた田畑も悪影響を受けた。

 

この問題を取り上げたのが、佐野市(当時は安蘇郡小中村)出身の国会議員の田中正造(たなかしょうぞう)だった。国会で鋭い質問をし続け、また触発されて、多くの農民が陳情に東京へ訪れた。政府も黙っていたわけでなく、足尾銅山を運営する古河鉱業へ、対応を早急に求めた。会社側も諸施設を造り対応したものの、当時の技術では、効果的な予防策をとることができなかった。

 

鉱毒の影響はその後も絶えることがなく続き、正造はとうとう、東京の日比谷で明治天皇に直訴を行ったのである。その後も正造は亡くなるまで精力的に活動を行い、支援を求めて歩き回った。そして渡良瀬川が見える地で客死した。1913(大正2)年、正造71歳だった。いまこの業績を讚えるように佐野線と県道7号線が並行するポイントに「田中正造翁終焉の地」の記念碑が立つ。生涯を掛けて鉱毒の怖さを伝え、正義を貫き通した氏の思いがこの地に今も眠っている。

 

【佐野線の疑問⑥】田島駅に残る側線は何だろう?

渡良瀬側橋りょうを渡ると左手に「田中正造翁終焉の地」の記念碑、右手には見渡す限り水田が広がる。かつて鉱毒の影響を受けた流域とは思えないほどの素晴らしい水田風景が広がる。とはいうものの、2月に訪れた当時と、10月ではちょっとした違いが。10月には路線の傍らにセイタカアワダチソウをはじめ雑草が生い茂っていた。草刈りをしないと、これほどまでに半年で雑草が伸びてしまうことがよく分かった。

↑渡良瀬川橋りょうを渡り、田島駅を目指す8000系。写真は2月15日撮影のもの。同地で撮影する時は雑草の具合を確認したほうが賢明

 

さて、到着した田島駅から栃木県佐野市の駅となる。駅前に人気ラーメン店があるなど佐野市内の駅らしい。民家が少なく郊外の駅といった印象だが、構内を見ると、側線とともに広々した敷地が広がる。

 

佐野線は全線が単線だが、田島駅だけでなくすべての途中駅が上り下り列車の行き違いができる構造になっている。さらに田島駅のように側線が残る駅も多い。残る側線の大半は本線からの分岐が切り離され、いまは使われていないが、なぜこのように側線が残っているのだろう。

 

これこそ、佐野線を貨物列車が多く走っていた証しである。そんな貨物列車が行き交った様子が想像できる場所が、他にも残っている。そのあたりは後述したい。

↑田島駅構内に残る側線。ポイントや架線が取り外されているものの、貨物列車が行き交った往時の姿が彷彿される

 

【佐野線の疑問⑦】佐野ラーメンはなぜ「青竹打ち」なのか?

さて田島駅の次は佐野市駅。車内にはJR両毛線との乗換駅ではないことを伝える案内がたびたび流されている。それだけ間違って降りてしまう人が多いのだろう。佐野市駅は佐野厄除大師の名前で知られる惣宗寺(そうしゅうじ)の最寄り駅である。

 

佐野市駅を発車した電車は佐野市の中心部を横切らず、東側に大きく迂回して両毛線の線路をまたぎ、ぐるりと左にカーブして佐野駅へ入線する。

 

ちなみに佐野鉄道の時代には、佐野駅の南側に佐野町駅が別にあり、ここから5km先の越名(こえな)まで路線が延びていた。当時は渡良瀬川の水運を利用して石灰石を運ぶためだったと見られる。1917(大正6)年に佐野町〜越名間の路線は廃止されている。おもしろいことに、越名には現在、人気の佐野プレミアムアウトレットがある。佐野駅からのバスが混みがちなだけに、もし路線が残っていたら、とちょっと残念に思った。

↑お店ごとにラーメンの味も異なる。その違い探しがまた楽しい。左は佐野駅近くの「優華」、右は葛生駅前「あづま本店」のラーメン

 

佐野の名物といえば佐野ラーメンである。筆者も佐野線を訪れるたびに、今度はどこのラーメン屋に立ち寄ろうかなと楽しみにしている。ネットで人気のお店となると、昼時は長蛇の列となるが、こだわらなければ、お店は数多くあるので、気軽に立ち寄れる。

 

さて佐野ラーメン、その多くの店に「青竹打ち」という案内がある。麺ものはそば・うどんにしても手打ちが多いが、ラーメンの手打ちとなると、生地にかなり弾力があるため大変な労力となる。そこで、長く太い青竹をテコのように使って、体重をかけて打ったという伝統の麺づくりが主流となっていたのである。青竹打ちは気泡が麺に多く残るぶん、独特な風味が楽しめるとされる。古くは製麺機を個人商店では導入できなかったために、この方法が導入されたという理由もあったようだ。

 

個人的にだが、筆者は佐野ラーメンもおいしいと思うものの、多くの店で用意している佐野の餃子が、なかなか美味だと感じる。よって佐野に立ち寄るといつもラーメンに餃子を注文して、食べ過ぎてしまうことになるのである。

↑JR両毛線と接続する佐野駅。両毛線の電車は1・2番線、佐野線のホームも1・2番線で、佐野駅には1・2番線が2つあることになる

 

佐野駅を発車した佐野線の電車は、すぐに右カーブして次の堀米駅(ほりごめえき)へ向かう。次の駅までほぼ佐野市の市街地で、さすがに人口11万人が住む都市ということを実感する。堀米駅を過ぎて、間もなく渡るのが秋山川。この川をわたると広々した水田地帯が広がる。そして吉水駅へ。

↑堀米駅〜吉水駅間に広がる水田。佐野市もこのあたりまで来ると、住宅が減っていきこうした水田風景が広がるようになる

 

吉水駅、次の田沼駅、多田駅と駅周辺には住宅街が広がる。このあたりを見ても佐野線の沿線人口が多いことが分かる。

 

多田駅を発車し、終点の葛生駅が近づくにつれて、工場が点在するようになる。砂や石灰を製造する工場が目立ち、やはり葛生は石灰石が産出する町ということが実感できる。右にカーブして秋山川を渡れば間もなく終点の葛生駅に到着する。はじめて訪れた人は、構内の大きさにびっくりすることだろう。

↑秋山川を渡れば終点の葛生駅はもうすぐだ。撮影で訪れたこの日はちょうど634型「スカイツリートレイン」が入線していた

 

【佐野線の疑問⑧】葛生駅の敷地が広い理由はもしかして?

葛生駅はホーム1つの小さな終着駅。ところが、ホームの前には側線が何本も設けられている。さらに現在はソーラーパネルがずらりと並ぶところまで、ずらりと入換え線が設けられていた。

↑右手の電車が停まるホームが現在の葛生駅。左手には今も多くの側線が残るが、現在ソーラーパネルがある所も入換え線だった

 

駅を撮影していたら、ちょうど地元の年輩に声をかけられた。「よく撮影しに来る人がいるんだよね」と開口一番。「ここは前、貨車が多く停まっていたんですよ」と懐かしげな様子。

 

「早朝から貨車の入換えが始まってね、それを合図に朝は起きたっけ。この駅からも多くの浅草行電車が出ていて、それで通ったものです。いまはすっかり寂れてしまったけれど」と話してくれたのだった。

 

往時の様子は、いまとても想像できないが、その名残が残されている。駅方面でなく、逆側に少し歩いてみると、そのことが分かる。

 

【佐野線の疑問⑨】葛生駅の先に残る廃線跡は?

セメント工場を背景に、引込線の跡が残されている一角がある。線路は外されているが架線柱が残っている。しかも架線柱の幅は複線以上の線路が敷かれていたことを想像させる。ということで昔の地図を探してみた。そこには多くの路線が記されていた。

↑葛生駅からのびる線路の跡をたどると、すでに線路は外されていたが、架線柱がそのままの姿で残されている

 

1977(昭和52)年、国土地理院発行の地図には、しっかりと引込線が記されていた。調べると引込線どころではなく貨物線だった。葛生駅の先には下記の路線があった。

会沢線
(あいさわせん)
葛生駅〜上白石駅〜第三会沢駅4.2km
1997(平成9)年廃止
大叶線
(おおがのせん)
上白石駅〜大叶駅1.6km
1986(昭和61)年廃止
日鉄鉱業貨物線
(日鉄鉱業羽鶴専用鉄道)
距離数・廃止年不明

 

これらの路線は大正から昭和にかけて作られ、蒸気機関車の牽引により貨車の輸送が行われていた。これらの路線で運び出されるのは石灰、セメント、ドロマイト。セメントは東京の業平橋(なりひらばし)まで運ばれていた。

 

さらに1966(昭和41)年には会沢線、大叶線が電化されていた。葛生駅は東武鉄道でも最大のターミナル駅だったとされる。こうした歴史をたどると1960年代、70年代までが最盛期だったことがわかる。電車の本数よりも貨物列車が多く走っていたと前述の地元の年輩が話をしていた。

 

佐野線ではほかに石油輸送が頻繁に行われていた。いまでもJR貨物が一部の路線でタンク車による石油輸送を行っているが、佐野線では堀米駅と北館林荷扱所(現在の資材管理センター北館林解体所)に石油タンク施設があり、両駅への貨物輸送が行われていた。1990年代がこの石油輸送の最盛期だったとされる。

↑1977(昭和52)年の葛生駅近辺の路線。エンジ色の路線は東武の貨物専用線、緑色が日鉄鉱業の貨物線。かなり奥まで路線が延びていた

 

こうした佐野線を舞台に行われた貨物輸送だったが、輸送量の減少とともに廃止が取りざたされるようになる。そして、石灰石やセメント輸送は1997(平成9)年までに終了した。久喜駅〜北館林荷扱所の石油輸送がその後も続けられたが、2003(平成15)年8月2日の運転をもって終了した。これが大手私鉄で最後の貨物列車輸送となった。

 

【佐野線の疑問⑩】いま廃線の跡はどうなっているのだろう……

さて葛生駅近くで見つけた廃線跡。この先はどうなっているのだろうか。数年前までは柵でざっと覆われていたものの、途切れた箇所があり、無造作に廃線跡に入れた。しかし現在は廃線跡が柵で覆われていて、立ち入り禁止の立て札こそないものの、進入はできない。興味を持ったこともあり、ぐるりと回ってその先に行ってみた。

↑県道210号線側から見た貨物線の跡。草が刈られた状態になっていた。ここまでは架線柱が残されている

 

会沢線と呼ばれた貨物線であろうか、複線以上の線路が並ぶ路線は葛生の町内をそれて、東側を走っていた。ちょうど県道210号・柏倉葛生線と呼ばれる道までいくと、そこまで架線柱が残されている。

 

事前にGoogle Earthでこの先も架線柱があることが確認されていたのだが、実際に行ってみると、すでにこの先は架線柱が外されていた。路線が廃線になりすでに20年、こうして廃線跡の遺構も徐々に消えていくことになるのだろう。

 

この先もかなり先に路線が続いていたのだが、ここで取材は終了、次回に地図を持って、さらに奥まで廃線をたどってみようと心に決めた。

↑県道210号から見た北側の様子。橋台は残るものの、この先の架線柱はすでに取り外されていた

 

【佐野線の疑問⑪】以前に走っていた貨物用機関車はどこへ?

佐野線レポートの最後。東武鉄道で活躍した電気機関車のその後について触れておきたい。東武鉄道で長年、活躍した電気機関車が実は他所に行って、今も走っている。東武鉄道時代はED5000形、ED5060形、ED5080形と呼ばれた電気機関車は、ともに三重県を走る三岐鉄道に譲渡されていた。

 

三岐鉄道三岐線を走るこれらの機関車たち。ED5000形は三岐鉄道のED45形のED458号機に。ED5060形はED459号機として今も働いている。さらにED5080形はそのままの形式名のED5081号機、ED5082号機として走り続けている。

 

誕生した東武鉄道では二度と貨物列車を牽くことはないだろうが、こうして第二の職場で活躍する姿がまだ楽しめることは、鉄道好きとしては無上の喜びでもある。

↑セメント粉体用のタンク車を牽く三岐鉄道ED5081号機とED5082号機。円内はED459号機。三岐の他の機関車とやや顔立ちが異なる

 

 

「白新線」‐‐11の謎を乗って歩いてひも解く

おもしろローカル線の旅68 〜〜JR東日本・白新線(新潟県)〜〜

 

新潟駅と新発田駅を結ぶ白新線(はくしんせん)。特急列車に観光列車、貨物列車が走る賑やかな路線である。これまでは車両を撮りに訪れた路線であったが、今回は複数の途中駅で降りて、駅周辺をじっくりと歩いてみた。

 

すると、これまで気付かなかった同線の新たな魅力が見えてきたのだった。白新線でそんな再発見の旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2018年3月3日、2019年7月6日、2020年10月18日ほか

 

【関連記事】
東日本最後の115系の聖地「越後線」−−新潟を走るローカル線10の秘密

 

【白新線の謎①】なぜ路線名が白新線なのだろう?

初めに白新線の概要を見ておきたい。

路線と距離 JR東日本・白新線/新潟駅〜新発田駅(しばたえき)27.3km
*複線(新潟駅〜新崎駅間)および単線・1500V直流電化
開業 1952(昭和27)年12月23日、日本国有鉄道により葛塚駅(くずつかえき/現・豊栄駅)〜新発田駅間が開業、1956(昭和31)年4月15日、沼垂駅(ぬったりえき/現在は廃駅)まで延伸開業
駅数 10駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の最大の謎から。路線名はなぜ白新線と付けられているのか、白新線の「白」はどこから来たのか、そこから見ていこう。

 

まず、路線計画が立てられたところに、白新線と名付けられた理由がある。路線の計画が立てられたのは1927(昭和2)年のこと。「新潟県白山ヨリ新発田二至ル鉄道」という路線案が立てられた。白山と新発田を結ぶ路線なので白新線となったのである。

 

白山とは、現在の越後線の白山駅のことだ。計画が立てられた年は、ちょうど柏崎駅と白山駅を結ぶ越後鉄道が、国有化されて越後線となった年である。国は、越後線の新潟方面の終点駅だった白山駅と、新発田駅を結ぶ路線の計画を立てたのだった。

 

だが、そこに立ちはだかるものがあった。新潟市を流れる信濃川である。信濃川は日本一の長さを誇る河川であり、当時の河口部は川幅も広く、水量も豊富だった。鉄道にとって越すに越されぬ信濃川だったわけである。

↑昭和初期と現代の信濃川の流れを比べると、昭和初期の信濃川は現在の3倍近くの川幅があった。旧信越本線のルートも今と異なっていた

 

1929(昭和4)年に大河津分水(おおこうづぶんすい)という信濃川の水を途中で日本海へ流す流路が作られ、新潟市内を流れる信濃川の水量が大幅に減った。その後、川の南岸が主に改修され川幅が狭まり、ようやく越後線の信濃川橋りょうを架けることが可能となった。とはいえ越後線の路線が新潟駅まで延ばされ旅客営業が始まったのは1951(昭和26)年のこと。この年、ようやく信濃川橋りょうを生かして、新潟駅と関屋駅(白山駅の隣の駅)間に列車が走ったのだった。

 

とはいえ白新線は、まだ開業していない。白新線の開業を困難にしていたのも大河の存在だった。

↑新潟駅からは信濃川橋りょうを渡った最初の駅が越後線の白山駅(左上)だ。白新線は白山駅と新発田駅を結ぶ予定で計画が立てられた

 

【白新線の謎②】開業してから60年と意外に新しい理由は?

越後線がようやく新潟駅まで開業した翌年の1952(昭和27)年の暮れ、白新線の葛塚駅(現・豊栄駅)と新発田駅の間が開業している。新潟駅側からではなく、新発田駅側から路線が敷設されていったわけである。白新線の残り区間、葛塚駅〜新潟駅間、正式には沼垂(ぬったり)駅〜葛塚駅間が開業したのは4年後の1956(昭和31)年4月15日のことだった。

 

新潟市と新潟県の北部や庄内地方、秋田への幹線ルートの1部を担う路線だけに、この開業年の遅さは不思議にも感じる。そこには鉄道の敷設を妨げる大きな壁があった。

↑白新線のなかでひと足早く開業した葛塚駅(現・豊栄駅)。南口駅前には路線開業を祝う碑や当時のことを伝える案内などがある

 

新潟平野には信濃川とともに大河が流れ込む。阿賀野川(あがのがわ)である。阿賀野川は、群馬県と福島県の県境を水源にした一級河川。途中、只見川などの流れが合流し、河川水流量は日本最大級を誇る。実際、新潟市内を流れる河畔に立ってみるとその川の太さ、河畔の広さにびっくりさせられる。この水量の豊かさから、古来、水運が盛んで、鉄道が開業するまでは会津地方の産品はこの川を使い運ばれていた。

 

そんな阿賀野川が鉄道を敷設する上で難敵となった。阿賀野川を越える鉄道路線としては羽越本線(当時は信越線)の阿賀野川橋りょうの歴史が古い。1912(大正元)年、新津駅〜新発田駅間が開業に合わせて設けられた。全長1229mという長さがあり、当時としては全国最長の橋となった。現在の白新線の橋りょうよりも上流にあるにもかかわらずである。

 

架橋技術が今ほどに進んでいない時代、大変な工事だったに違いない。国鉄(当時は鉄道省)は下流に白新線の2本目の橋を架けることはためらったようだ。とはいえ、1940(昭和15)年には橋の着工を進めていた。ところが、翌年に太平洋戦争に突入したこともあり、資材不足となり、橋脚ができたところで、建設中止に追い込まれている。

↑長さ1200mと、在来線ではかなりの長さを持つ白新線の阿賀野川橋りょう。河畔が広く川の流れはかなり先へ行かないと見えない(右上)

 

阿賀野川橋りょうの建設が再開したのは大戦の痛手からようやく立ち直り始めた1953(昭和28)年のこと。橋脚がすでに造られていたので、翌年には架橋工事が完了している。戦前に無理して進めていた工事が、後に役立ったわけである。そうして白新線の全線が1956(昭和31)年に完成にこぎつけた。当初、単線で造られた阿賀野川橋りょうだが、1979(昭和54)年には複線化も完了している。

 

【白新線の謎③】走る車両はここ5年ですっかり変ってしまった

本章では走る車両に注目したい。走る車両に謎はないものの、実は5年前と、今とでは、ことごとく走る車両が異なっている。複数の車両形式が走る線区で、ここまで徹底して車両が変わる線区も珍しいのではないだろうか。写真を中心に見ていただきたい。まずはここ最近まで走っていて、撤退した車両から。

 

◆白新線から撤退した車両

・485系〜 
国鉄が1968(昭和43)年から製造した交流直流両用特急形電車。交流50Hz、60Hz区間を通して走れ便利なため、全国で多くが使われた。白新線では特急「いなほ」として、また改造され快速「きらきらうえつ」として使われた。「いなほ」の定期運用は2014年7月まで、翌年に臨時列車の運行も終了している。快速「きらきらうえつ」は2019年の12月までと、ごく最近までその姿を見ることができた。

 

・115系〜
国鉄当時に生まれた近郊用直流電車で、JR東日本管内では近年まで群馬地区、中央本線なども走った。現在、越後線など新潟エリアに少数が残るのみとなっている。白新線からは2018年3月の春のダイヤ改正日に撤退している。

 

・EF81形式交直流電気機関車〜
かつては日本海縦貫線の主力機関車として活躍した。ローズピンクの色で親しまれたが2016年3月のダイヤ改正以降は定期運用が無くなり、富山機関区への配置も1両のみとなっていて、運用が消滅している。

↑少し前まで白新線を走った車両たち。すべて国鉄形で115系は越後線で、またEF81は九州で姿を見かけるのみとなっている

 

◆白新線を走る現役車両

次に現役の車両を見ていくことにしよう。

 

・E653系〜 
特急「いなほ」として運用される交流直流両用特急形電車。以前は常磐線の「フレッシュひたち」として走っていたが、2013(平成25)年に定期運用を終了。転用工事が行われた上で、同年から「いなほ」として走り始めた。2014年7月から「いなほ」の定期列車すべてがE653系となっている。

 

・E129系〜 
新潟地区専用の直流電車で、座席はセミクロスシート。ロングシートが車内半分を占めていて、混雑時にも対応しやすい座席配置となっている。

 

白新線のほぼすべての普通列車がこの形式で、2〜6両と時間に合わせ編成数も調整されている。白新線では新潟駅〜豊栄駅間の短区間を運転する列車が多いが、そのほか、北は羽越本線の村上駅まで、西は越後線の吉田駅、内野駅、また信越本線の新津駅などに乗り入れる列車も多く走る。

 

・キハ110系〜 
白新線では米坂線・米沢駅への直通列車、快速「べにばな」として運行。新潟発8時40分、戻りは新潟駅21時25分着で走る。

↑現在、白新線を走る旅客用車両3タイプと貨物用機関車。白新線を走り抜ける貨物列車はすべてEF510形式が牽引している

 

現在、走る車両はみなJR発足後の車両だけに鉄道ファンとしては物足りないかも知れない。とはいうものの希少車両も走っている。希少な車両ならば、やはり見たい、乗りたいという人も多いことだろう。白新線の希少車両といえば、まずはE653系特急「いなほ」の塗装変更車両だろう。U106編成が海の色をイメージした「瑠璃色」に、U107編成は日本海の海岸で自生するハマナスの花をイメージした「ハマナス色」に塗られている。ともに青空の下では栄えるカラーとあって、この車両の通過に合わせてカメラを構える人も目立つ。

↑E653系「いなほ」のハマナス色編成が名物撮影地、佐々木駅〜黒山駅間を走る。右上は瑠璃色編成

 

ほか希少車両を使った列車といえば、主に週末に走る臨時快速列車「海里(KAIRI)」。HB-E300系気動車が使った観光列車で2019年10月に登場した。下り列車は新潟駅を10時12分発と、白新線内では早い時間帯に通過する。ほとんどの運行日が酒田駅行きだが、秋田駅まで走る日もある。上りは酒田駅15時発、新潟駅18時31分着。上越新幹線に乗継ぎもしやすい時間帯に走っていることが、この列車の一つの魅力となっている。

↑ハイブリッド気動車を利用した観光列車「海里」。4両編成で車内では地元の食材を使った食事も楽しめる(食事は要予約)

 

【白新線の謎④】変貌する新潟駅。そして万代口は……

さて、前置きが長くなったが白新線の旅を進めよう。起点は新潟駅。いま新潟駅は大きく変ろうとしている。筆者はほぼ半年ごとに新潟駅を訪れているが、毎回、変化しているので面食らってしまう。

 

大きく代わっているのは、在来線ホームの高架化が進んでいること。上越新幹線のホームと同じ高さとなり、同一ホームで、特急「いなほ」との乗換えができるようになり便利になっている。ほか在来線のホームも徐々に高架化され、地上に残る線路もあとわずかとなっている。

 

一方で、新潟の玄関口ともなっていた、北側の万代口(ばんだいぐち)が大きく変っている。信濃川に架かる萬代橋側にあることにちなみ名前が付けられたこともあり、新潟を象徴する駅舎でもあった。10月9日からは移転して仮万代口改札となった。これから旧駅舎は取り壊されることになる。

 

予定では今後、鉄道線の高架化が終えた2023年には駅下に新潟駅改札口が集約される予定。また高架橋下には、バスステーションが作られ、万代口と南口の別々に発着していたバスも駅下からの発着となる。とともに万代口は万代広場、南口には南口広場が整備され、万代口という愛着のある名称は消えていく。長年、親しまれてきた名称だけに、ちょっと寂しい気持ちにもなる。

↑1958(昭和33)年に現在の場所に移転した新潟駅。万代口駅舎は2020年秋から撤去工事が始められている 2019年7月6日撮影

 

さて寄り道してしまったが、白新線の列車に乗りこもう。E129系電車の運用が大半の白新線だが、この日はキハ110系で運行される8時40分発の快速「べにばな」に乗車する。新潟地区ではキハ40系はすでに引退、磐越西線の気動車も電気式気動車のGV-E400系が多くなってきたこともあり、新潟駅では通常の気動車を見かけることが少なくなってきた。

 

そんなキハ110系の車内は、座席が5割程度うまるぐらい。ディーゼルエンジン音をBGMに高架駅を軽やかに出発した。

 

【白新線の謎⑤】上沼垂信号場から白新線の路線が始まるのだが

左下に残る地上線を見ながら高架線を走るキハ110系。しばらくすると地上へ、右へ大きくカーブして上越新幹線の高架橋(同路線は新潟新幹線車両センターへ向かう)をくぐると、いくつかの線路が合流、また分岐する。ここが上沼垂(かみぬったり)信号場だ。正確には、ここまでは信越本線と白新線は重複区間で、ここから分岐して“純粋な”白新線の線路へ入っていく。

 

この信号場、合流、分岐が忙しく続き、鉄道好きにはわくわくするようなポイントだ。新潟方面から乗車すると、まず右にカーブした路線に、左から築堤が近づいてくる。草が茂り、いかにも廃線跡のようだ。ここは旧信越本線の路線跡で、かつての旧新潟駅へは、この路線上を列車が走っていた。途中、旧沼垂駅の先に引込線跡も残るなど、廃線の跡を、今もかなりの場所で確認することができる。

 

その次に合流するのが信越貨物支線の線路。焼島駅(やけじまえき)という貨物駅まで向かう貨物専用線だ。現在は新潟貨物ターミナル経由で、東京の隅田川駅行の貨物列車が1日1便、焼島駅から出発している。ちなみにこの路線の牽引機は愛知機関区に配置されたDD200形式ディーゼル機関車となっている。

↑新潟方面(手前)から見た上沼垂信号場。列車はここから分岐をわたり白新線へ入る。左手の線路が信越貨物支線、左の高架は上越新幹線

 

列車は左へポイントをわたり、白新線へ入る。しばらく信越本線と並走するが、より左へカーブすると、いよいよ白新線独自の路線へ。その先、合流、分岐は続き、鉄道好きとしては気を抜けないところだ。進行方向右手、信越本線の線路が徐々に離れていくが、信越本線の線路との間に新潟車両センターがある。E653系の「いなほ」「しらゆき」、そしてE129系が多く停まっている。

 

さらに走ると、右手から白新線の線路に近づき、またぐ線路が1本ある。こちらは信越本線から新潟貨物ターミナル駅へ入る貨物列車用の線路となる。というように、目まぐるしく線路が合流、分岐、交差をくりかえして、次の東新潟駅へ向かう。

 

【白新線の謎⑥】東新潟駅ではやはり進行方向左手が気になります

さて白新線の最初の駅、東新潟駅。進行方向左手には側線が多く設けられ、貨物列車が停められている。さてここは?

 

こちらはJR貨物の新潟貨物ターミナル駅。日本海側では最大級の大きさを誇る貨物駅だ。車窓から見ても見渡す限り、貨物駅が広がる。貨物列車好きならば、東新潟駅の下りホームは、それこそ貨物列車の行き来が手に取るように見える、至福のポイントと言えそうだ。

 

さらに東新潟駅の先には、機関庫があり、日本海縦貫線の主力機関車EF510の赤や青の車両が休んでいる様子が望める。

↑白新線の線路の北側には新潟貨物ターミナル駅が広がる。線路沿いよりもむしろ眺めが良いのは東新潟駅の下りホームからだ

 

【白新線の謎⑦】大形駅の先、並行する築堤は果たして?

新潟貨物ターミナル駅の広がっていた線路が再び集まり、白新線に合流すると間もなく次の大形駅(おおがたえき)に到着する。この先は、また進行方向の左側に注目したい。走り出して間もなく線路と並行して、築堤が連なる。さてこの築堤は何だろう、もしかして?

 

いかにも前に線路が敷かれていたらしき築堤である。実際に下車して確認すると白新線公園という名前の公園となっており、築堤の上は遊歩道と整備されていた。スロープまで設けられ、整備状況が素晴らしい。ここは旧線跡を利用した公園で、阿賀野川河畔まで連なっている。

↑大形駅から新崎駅方面へ歩くと、路線に並行して旧線を利用した公園がある。同公園は阿賀野川河畔近くまで整備、小さな橋も残る

 

この旧線は、白新線が開通した当初に使われていた、阿賀野川橋りょうまで連なる線路跡で、現在の路線は、複線化するにあたって線路を南側にずらして敷かれたものだった。その旧線跡をきれいに公園化しているわけである。

 

ただし、この堤、阿賀野川に最も近づく築堤の先は、手すりに囲まれ、そこから下へ降りることができないという不思議な造りだった。この造りに疑問符が付いたものの、廃線となり草が茂り寂しい状態になるよりも、こうした再利用されていることは大歓迎したい。

 

そして阿賀野川の堤防に登ると、そこから広がる河畔が望める。河原は阿賀野川河川公園として整備され、市民の憩いの広場として活かされていた。

 

【白新線の謎⑧】黒山駅から延びる引込線は何線だろう?

大形駅へ戻り、白新線の旅を続ける。水量豊富な阿賀野川を渡り、次の新崎駅(にいざきえき)へ。新崎駅の先からは単線となり、次第に田園風景が広がるようになる。米どころ新潟ならではの光景だ。早通駅(はやどおりえき)、豊栄駅(とよさかえき)と、駅からかなり遠くまで住宅地が広がっている。豊栄駅までは、列車の本数も多いため、新潟市の中心部へ通うのにも便利ということもあり、住宅地化されているのだろう。

 

豊栄駅から先は朝夕を除き、列車本数が1時間に1本という閑散区間に入る。列車本数に合わせるかのように、住宅も減っていき、一方で水田が多く広がるようになる。そして次の黒山駅へ着く。この駅、構造がなかなか興味深い。

↑黒山駅の構内を望む。白新線の線路・ホームの横に側線があるが、この側線の先、藤寄駅まで新潟東港専用線が延びている

 

下りホームに沿って側線が何本か並行に敷かれている。側線があるものの、貨車は停まっていない。単に線路があるのみ。気になったので下車してみた。ぐるりと北側へまわってみると、白新線から離れ、1本の引込線が延びている。さてこの路線は?

 

黒山駅分岐新潟東港専用線という名称が付いた路線で、藤寄駅(ふじよせえき/聖籠町)まで2.5kmほど延びている。新潟東港の開港に合わせて造られた路線で、開業は1969(昭和44)年のこと。路線の開業とともに新潟臨海鉄道株式会社が創設された。しかし、大口の顧客だった新潟鐵工所が経営破綻したことなどの理由もあり、2002(平成14)年に新潟臨海鉄道は解散となってしまう。

 

その後は、路線の短縮を経て、現在は新潟県が所有する路線となり、JR貨物が運行を行う。列車は、新潟鐵工所の鉄道車両部門などを引き継いだ新潟トランシスが製造した新車、および、新潟東港から海外へ譲渡される車両の輸送などが主体となっている。

↑黒山駅近くの黒山踏切には踏切の両側に簡易柵が設けられていた。踏切の案内には「新潟東港鉄道」の文字が記されている(右上)

 

列車が運行するのは稀なため沿線の踏切には簡易柵が設けられ路線に進入できないようになっていた。線路は雑草に覆われる様子もなく、いつでも列車が走れるように保持されていた。ちなみに白新線を走る観光列車の「海里」が誕生した時にも、新潟トランシス製ということもあり、同線を走って白新線へ入線している。

 

列車運行が珍しく、しかもその運転日は明かされないこともあり、同線を走る列車を出会うことは、至難の業となっているようだ。

 

【白新線の謎⑨】黒山駅の裏手にある「黒山駅」の表示はさて?

黒山駅の周辺をぐるりと回っていて、ちょっと不思議な光景に出くわす。駅の裏手の道沿いから駅側を望むと、小さな建物に「黒山駅」の表示が。“あれ〜、ここから駅へ行けるのだろうか?”。

↑黒山駅の北側にある謎(?)の「黒山駅」の表示。裏手を通る道沿いの建物にある駅案内で、知らないと間違えて入っていきそうだ

 

この表示、JR貨物の黒山駅を表す表示で、JR東日本の黒山駅を示すものではない。したがって、この表示の場所から駅ホームへ入ることはできない。知らないと、間違えてしまいそうだが、もちろんこの地区に住む人は皆が知っていることでもあるし、また駅の北側に民家がないため問題にならないのだろう。都会だったらとても考えられない駅の表示だと感じた。

 

【白新線の謎⑩】撮り鉄の“聖地”佐々木駅を再訪する

黒山駅の次は佐々木駅だ。この付近になると駅間も広がり、豊栄駅〜黒山駅〜佐々木駅それぞれの駅間は3kmと距離が離れる。なお黒山駅までは新潟市内、次の駅の佐々木駅は新発田市内の駅となる。

 

この佐々木駅。鉄道ファンの中には同駅で降りた人も多いのではないだろうか。駅から徒歩で10分ほどの稲荷踏切。この踏切から太田川まで白新線の線路が大きくカーブ、水田よりもやや高い位置を走るため、全編成が車輪まで見える非常に“抜け”の良い場所となる。架線柱も片側だけに立ち撮影の邪魔にならない。さらにアウトカーブ、インカーブ、両方が撮影できるとあって、白新線ナンバーワンの人気撮影地となっている。

↑稲荷踏切から貨物列車を撮る。写真の851列車は2018年3月で廃止。現在、白新線を日中に走る貨物列車が少ないのがとても残念だ

 

筆者も2年ぶりに訪れてみた。以前は115系が撤退間際ということもあり、多くのファンが集まっていた。が、2年後は……。それでも私以外に2名の撮影者が訪れ構図作りに興じていた。この場所は、自分の好きなポイントで構図作りができることも人気の理由だろう。

 

このポイントは、気兼ねせずに撮影ができる。手前には刈り取りが終わった水田、周りも見渡す限り水田が広がる。水田越しに飯豊連峰・朝日連峰などの山々が遠望でき、気持ちの良い撮影時間となった。

 

【白新線の謎⑪】終点・新発田駅で駅近辺を歩いてみたら……

佐々木駅に戻り、終点の新発田駅を目指す。列車の時刻はちょうど1時間おきなので、予定作りもしやすい。佐々木駅の次の駅は西新発田駅。この駅は駅前にショッピングモールがあり、乗り降りする人が多い。黒山駅や佐々木駅と比べると、同じ路線の駅なのだろうかと思うほどだ。

 

西新発田駅と過ぎて、しばらく走ると、右から1本の線路が近づいてくる。この線路が羽越本線で、同線が近づいてくると、新発田駅がもうすぐであることが分かる。新潟駅から普通列車に乗車すると約40分で新発田駅に到着する。

 

新発田駅は西側の正面口しか無いが、久々下車してみると駅の形が大きく変っていることに気付いた。調べると2014(平成26)年の11月に現在の姿にリニューアル。城下町のイメージをした、なまこ壁の駅舎に改良工事をされていた。

↑なまこ壁の装いをほどこした現在の新発田駅。右上は2014年までの新発田駅の旧駅舎

 

さて、新発田駅では戻る列車まで時間があるので、駅の周辺を歩いて回った。駅の東口へ、地下通路を通って向かう。そして北側へ。

 

地図で事前に見てみると、駅の北から東へと、非常にきれいにカーブした道路があって、気になったのである。このカーブは何の跡なのだろう。

↑新発田駅近く、現在は公道として使われる赤谷線の廃線跡。この先で大きくカーブして赤谷へ向かう。なお今は赤谷行きバスが出ている(左下)

 

新発田駅からはかつて、赤谷線という支線が出ていた。路線距離は18.9kmと長めの支線だった。カーブした道はこの赤谷線の跡だった。

 

赤谷(新発田市赤谷)へはかつて鉄鉱石輸送用の専用線が敷かれていた。その路線を活かして1925(大正14)年に開業したのが赤谷線だった。白新線よりも、かなり前に開業していたわけだ。新発田駅から途中駅が5駅。終点の東赤谷駅の手前にはスイッチバックがあり、列車はスイッチバックをした上で、駅に入線していた。

 

駅の手前に33.3パーミルという急勾配があったためとされる。調べてみると東赤谷駅の蒸気機関車用の転車台は現在、大井川鐵道の千頭駅(せんずえき)に移設され役立てられていた。

 

赤谷線は1984(昭和59)年に全線が廃止されたが、以前に同線で使われていた施設が、その後に別の場所で活かされていたと聞いてうれしくなった。今となっては適わぬ夢ながら、一度、乗ってみたかったローカル線である。

↑新発田駅の東側にあるセメント工場には、今は使われていない引込線の線路がそのままの状態で残されていた

 

赤谷線の廃線跡を探したものの勝手が分からず駅の東側から遠回りをしてしまった。だが、思わぬ発見も。駅の東側に今や使われない線路が延びていた。錆びついた線路が残り、終端にはレトロな線路止めも。セメント工場への引込線跡だった。今もセメント会社は稼動していたが、羽越本線からは線路はすでに途切れていて、引込線は機能していなかった。

 

地方を訪ねると、こうした引込線の跡が残るところがある。新発田駅のように、県の中心、新潟駅から40分の距離の駅近くにも、こうした使われない線路が残されている。今回の白新線の旅では、光と陰の部分を見たようで、ちょっと複雑な気持ちにさせられた。

 

なお筆者が訪れた日に、新発田市内の観光施設で熊の出没騒ぎがあった。羽越本線の月岡駅から1kmほどのところ、白新線の黒山駅へも6kmほどの距離にあたる。この秋は、熊の出没が多く取りざた沙汰されている。民家が多い場所にも出てきている。甲信越や、東北、北陸地方などで沿線を歩く時には、熊鈴などの防御グッズを必ず携行して出かけることをお勧めしたい。

信州松本を走る「上高地線」‐‐巡って見つけた10の再発見

おもしろローカル線の旅67 〜〜アルピコ交通上高地線(長野県)〜〜

 

ローカル線は何度たずねても新たな発見があって楽しいもの。長野県の松本市を走る「アルピコ交通上高地線」。山景色が美しい路線を訪ねてみた。改めて乗って、いくつかの駅で下りてみたら……。数年前と異なる再発見が数多く出現! 新鮮で楽しい旅となった。

*取材撮影日:2017年7月8日、2018年7月15日、2020年9月27日ほか

 

【関連記事】
なぜ?どうして?「近鉄田原本線」−−とっても気になる11の不思議

 

【上高地線で再発見①】開業時は筑摩電鉄。さて筑摩という地名は?

↑新村駅の駅舎に掲げられた創業当時の社名と社章。いま見るとレトロ感満点のなかなか貫録ある社章だった

 

初めに、上高地線の概要を見ておきたい。

路線と距離 アルピコ交通上高地線/松本駅〜新島々駅14.4km
*全線単線・1500V直流電化
開業 1921(大正10)年10月2日、筑摩鉄道により松本駅〜新村駅間が開業、翌年に島々駅まで延伸
駅数 14駅(起終点駅を含む)

 

上高地線は筑摩鉄道という鉄道会社により路線が敷かれた。筑摩という地名は、地元の方には馴染み深いのだろうが、筆者は今回、訪ねるまで知らなかった。路線の新村駅の駅舎の横に案内があり、筑摩電鉄(1922年に筑摩鉄道から筑摩電気鉄道に社名を変更した)の名前とともに社章が案内されていた。駅横の案内としては、やや唐突に思われたが、アルピコ交通の実直さが感じられるような案内だった。

 

それにしても「筑摩」という地名。調べてみると長野県の中信地方、南信地方、岐阜県の飛騨地方を広く「筑摩」と呼ばれた。明治の始めには「筑摩県」があり、さらに長野県には「筑摩郡」という郡が明治10年前後にあった。さらに上高地線が走る松本盆地の梓川が流れる南側を「筑摩野」と呼ばれている。

↑東京日日新聞の1928(昭和3)年発行の「全国鐵道地圖」には「筑摩電気」の名が見られる。すでに浅間温泉まで路線が延びていた

 

筑摩鉄道という鉄道名は、当時としては、ごく当然のように付けられた社名だったようである。この筑摩鉄道→筑摩電気鉄道(筑摩電鉄もしくは筑摩電気)という名前が10年ほど続き、1932(昭和7)年12月に松本電気鉄道に社名が変更された。

 

当時、筑摩電気鉄道は松本駅の東口から浅間温泉駅まで延びる浅間線を1924(大正13)年に開業させている。その後の1932(昭和7)年に松本駅前広場まで路線を延ばした。この路線延長が松本電気鉄道と社名を変更したきっかけとなったようである。ちなみに浅間線は併用軌道区間が多く、車の交通量が増え、路線バスに利用者を奪われたこともあり、1964(昭和39)年3月いっぱいで廃線となっている。

 

【上高地線で再発見②】正式な路線名はアルピコ交通上高地線だが

長い間、松本電気鉄道の路線だった上高地線だが、松本電気鉄道は2011(平成23)年4月に、アルピコ交通となった。

 

しかし、今も「松本電鉄」という呼称が良く聞かれる。JR線内は「松本電鉄上高地線はお乗換えです」等のアナウンスがされている。正式には松本電気鉄道という会社はなくなり、正式な路線名もアルピコ交通上高地線なのだが、長年に親しまれてきた名称が今も生き続けているわけである。

↑新島々駅方面の先頭車にある案内には「アルピコ交通上高地線」の名前の上に「松本電鉄」と添えられている

 

ちなみに松本駅の上高地線のホームへ階段下りると、停まる上高地線の電車の正面の案内板には「アルピコ交通上高地線」という名称とともに「松本電鉄」の名前が上に添えられている。逆側の正面には、この案内板がない。いかに「松本電鉄」の名前が浸透していて、今も案内を必要としているのか、正面の案内板を見ても良くわかる。

【上高地線で再発見③】走る電車は元京王井の頭線の3000系

ここで上高地線の電車を紹介しておこう。現在、走る電車は3000形で、元京王井の頭線を走っていた3000系である。

 

京王3000系は1962年に製造が始まった電車で、鉄道友の会のローレル賞を受賞している。車体は京王初のオールステンレス車体で、井の頭線を走っていたころには、正面上部のカラーが編成ごとに異なり、レインボーカラーの電車として親しまれた。1991年まで製造され、2011年に井の頭線を引退している。京王での晩年はリニューアルされ、正面の運転席の窓が側面まで延びていた。

 

大手私鉄の車両としては全長18.5mとやや短めで、片側3トビラ、さらに1067mmと国内の在来線と同じ線路幅ということもあり、重宝がられ、井の頭線引退後も、上毛電気鉄道、岳南電車、伊予鉄道といった複数の地方私鉄に引き取られている。京王グループの京王重機による整備、改造を行った上で譲渡されるとあって、人気のある譲渡車両だった。

 

上高地線に導入されたのは1999(平成11)年と2000(平成12)年のこと。2両編成4本の計8両が譲渡されている。車両は運転席の窓が側面まで延びたリニューアルタイプだ。

↑アルピコカラーをまとった3000形。正面と側面に「Highland Rail」の文字が入る。車内にはモニターが付き、沿線ガイドなどに利用される

 

↑3003-3004編成は、松本電鉄が1960年前後に自社発注したモハ10形、クハ10形の車体色のカラーラッピングが施されている

 

導入の際にはワンマン運転できるように改造。車体は白色をベースに紫、ピンク、山吹、緑、赤の斜めのストライプを、正面と側面にいれたアルピコカラーとなっている。乗車すると車内のモニターが付いていることに気がつく。1車両の7か所もモニターが付き、沿線の観光案内や、路線の駅案内などに役立てられている。現在の都市部の新型電車にも小さなモニターが付けられ、沿線ガイドやCMなどが流されているが、上高地線のモニターは手づくり感満点ながら、大きくて見やすく、とても良い試みだと感じた。

 

ちなみに3000形の前に使われていたのが、元東急電鉄の5000系だった。本家の車両は青ガエルのニックネームで親しまれていた独特の形状を持つ車両で、上高地線でも人気車両だったが、2000年に引退している。2両が新村駅の車庫に保存されていたが、その話題は、後述したい。

 

【上高地線で再発見④】JRのある線と共用の松本駅7番線ホーム

ここからは上高地線の旅をはじめよう。上高地線の起点はJR篠ノ井線の松本駅だ。ちなみに松本駅はJR東日本と、アルピコ交通の共用駅となっていて、改札も共用となっている。上高地線の切符も券売機で購入できる。

 

券売機では上高地線「電車わくわく一日フリー乗車券(1420円)」や、上高地、乗鞍高原、白骨温泉への電車+バス乗継ぎ乗車券も購入可能だ。ちなみにJR各路線からそのまま乗り継いでも、下車駅で精算できる。ただし路線内で交通系ICカードの利用や、ICカードの精算はできない。

 

また無人駅での下車はワンマン運転ということもあって高額紙幣の両替は不可なのでご注意を。

 

さて、始発駅の松本駅。上高地線の乗り場は7番線にある。位置としては松本駅のアルプス口(西口)側だ。

↑松本駅のアルプス口(西口)側の7番線に停まる新島々駅行き電車。ホームはJR線と共用となっている

 

7番線ホームだが、同じホームの反対側、6番線ホームはJR大糸線の普通列車の着発ホームとなっている。つまり大糸線と共用ホームなのである。大糸線の車両は、連絡口の階段からやや離れ、北側に停車する。上高地線の電車が階段下すぐに停まるのに、JR線の方が階段から距離があるというやや不思議な位置関係だ。

 

上高地線のホームは行き止まり方式。北側に0キロポストがあり、ここが路線の始まりであることが分かる。松本駅からの発車は1時間に1〜3本と本数にばらつきがある。利用の際は事前に時刻表を確認して調整したほうが賢明だろう。列車はみな新島々駅行き電車だ。新島々駅までは所要時間30分ぐらいなので、路線をゆっくり巡るのに最適な長さと言って良いだろう。

 

松本駅を発車した上高地線の電車は、ゆるやかに右カーブを描きながら走り始める。この時に、注目したいのは左手。JR東日本の松本車両センターがあり、特急あずさとして走るE353系や大糸線などを走るE127系などの車両が停まっているのが見える。

 

数年前まではE351系、E257系といったすでに中央本線からは退役した車両が多く停まっていたな、などと思い出に浸りつつ松本車両センターの横を通り過ぎる。そして電車はすぐに西松本駅に到着する。この先で、田川をわたり、さらに右にカーブして、渚駅へ。海なし県なのに駅名が「渚」。それはなぜだろう?

 

調べてみると古代は松本盆地そのものが大きな湖だったそうだ。そこが渚の語源となっているとされる。その名残は、この地区に田川そして奈良井川(ならいがわ)と川の支流が数多く、流れも緩やかで、曲がりくねる形からもうかがえる。電車は奈良井川を渡り信濃荒井駅へ着いた。

↑奈良井川橋りょうを渡る3000形。奈良井川の両岸とも高い堤防になっている。川面と住宅地の標高があまり変わらないことが分かった

【上高地線で再発見⑤】新村車庫にある古い電気機関車は?

信濃荒井駅まで沿線には住宅が多かったものの、この先、田畑が増えてくる。田畑では信州らしくそば畑が多い。筆者が訪れた9月末には白い花咲く光景をあちこちで見ることができた。

 

路線は住宅街を抜けたこともあり直線路が続くようになる。大庭駅を過ぎ、長野自動車道をくぐると、右手から路線に沿う道が見えてくる。こちらが国道158号で、この先で、ほぼ上高地線と並行に走るようになるが、その模様は後で。次の下新駅(しもにいえき)は旧・新村(にいむら)の駅で、「新」を「にい」と読ませるのはその名残だ。

 

次が北新・松本大学前駅。この北新も「きたにい」と読ませる。平日ならば、大学前にある駅だけに学生の乗り降りが目立つ。

↑ED301電気機関車は米国製で、信濃鉄道(現・大糸線)の電気機関車として導入された。信州に縁の深い機関車である

 

次の新村駅(にいむらえき)は鉄道ファンならばぜひ下りておきたい駅だ。この駅に併設して新村車庫がある。

 

車庫内で気になるのが焦げ茶色の凸形電気機関車。1926(大正15)年にアメリカで製造された。米ボールドウィン・ロコモティブ・ワークスが機械部分を造り、ウェスティングハウス・エレクトリック社が電気部分を担当した機関車で、松本電気鉄道ではED30形ED301電気機関車とされた。この機関車の履歴が興味深い。

 

松本駅と信濃大町駅を結んでいた信濃鉄道(現・JR大糸線)が輸入した1形電気機関車3両のうち1両。1937(昭和12)年に国有化された後には国鉄ED22形と改番されて大糸線、飯田線を走った。その時の国鉄ED22 3号機が後に西武鉄道を経由して1960(昭和35)年に松本電気鉄道へ入線していたのだ。その後、工事および除雪用に使われたが、2005(平成17)年に除籍、現在は保存車両として車庫内に残る。

 

なお国鉄ED22形は長寿な車両で、弘南鉄道大鰐線に引き取られたED22 1は今も社籍があり、除雪用として使われている。技術不足から電気機関車の国産化が難しかった時代の機関車で、その後の国産化された電気機関車も、ウェスティングハウス・エレクトリック社のシステムを参考にしている。そんな時代の電気機関車が、まだこうしてきれいな姿で残っているわけである。

 

余談ながらJR大糸線は、昭和初期までは信濃鉄道という鉄道会社が運営していた。現在、長野県内の旧信越本線はしなの鉄道が運行している。しなの鉄道には、しなのを漢字で書いた信濃鉄道という、先代の会社があったことに改めて気付かされた。

 

【上高地線で再発見⑥】新村車庫で保存されていた元東急電車は?

新村車庫で古参電気機関車とともに、ファンの注目を集めていたのが5000形。現在の3000形の前に上高地線の主力だった車両だ。前述したように東急5000系で、新村車庫には5005-5006編成の2両が保存されていた。2011(平成23)年には松本電鉄カラーから緑一色に塗りかえられ、イベント開催時などに車内の公開も行われていた。

↑新村車庫内に留め置かれていた5000形。2011年に塗り替えられたが、2017年の撮影時にはすでに塗装が退色しはじめていた

 

久々に新村車庫を訪れた筆者は、ほぼ5000形の定位置だったところにED301形電気機関車と事業用車が置かれていたことに驚いた。そして車庫のどこを見ても、緑色の2両がいない。どこへいったのだろう。まさか解体?

 

心配して調べたら2020年春に「電鉄文化保存会」という愛好者の団体に引き取られていた。同保存会は群馬県の赤城高原で東急デハ3450型3499号車の保存を行う団体で、この車両に加えて上高地線の5000形2両を赤城高原に搬入。会員は手弁当持参で、鉄道車両の整備や保存活動にあたっている。

 

こうした団体に引き取られた車両は、ある意味、幸運と言えるだろう。末長く愛され、赤城の地で保存されることを願いたい。

 

【上高地線で再発見⑦】渕東駅と書いて何と読む?

新村駅から先の旅を続けよう。新村駅から次の三溝駅(さみぞえき)へ向かう途中、右手から道が近づいてくる。この道が先にも少し触れた国道158号。路線はこの先、付かず離れず、道路と並行して走る。国道158号の起点は福井市で、岐阜県の高山市を経て、松本市へ至る総延長330.6kmの一般国道だ。一部が野麦街道と呼ばれる道で、明治期には製糸工場に向けて女性たちが歩いた隘路で、飛騨山脈を越える険しい道だ。岐阜県と長野県の県境を越える安房峠(あぼうとうげ)の下に安房トンネルが開通したことにより、冬期も通れるようになっているが、古くは行き倒れる人もかなりいたとされる。

 

そうした国道を横に見ながら森口駅、下島駅と走るうちに、この地の典型的な地形に出会うようになる。右手、眼下に流れる梓川。その河畔よりも、電車は一段、高い位置を走り始めていることが分かる。波田駅(はたえき)付近は、そうした階段状の地形がよくわかる地点で、明らかに河岸段丘の上を走り始めたことが分かる。この波田駅は梓川が流れる付近から数えると2つめの崖上(段丘面)にある。そして次の駅までは河岸段丘を1段下り、梓川の対岸まで望める地域へ出る。

 

ちなみに上高地線の進行方向の左手、南側には段丘崖(だんきゅうがい)が連なり、この上はまた平坦な地形(段丘面)となっている。

↑渕東駅の裏手から駅を望む。先に山が見えるが、ここが河岸段丘の崖地になっていて、上部にまた平野部が広がっている

 

↑渕東駅前に広がる水田。稲刈りが終わり信州は晩秋の気配がただよっていた。藁は島立てという立て方で乾燥させ利用する

 

さて渕東駅である。「渕」そして「東」と書いて何と読むのだろう。何もヒントなしに回答できたらなかなかの鉄道通? 筆者は残念ながら読めなかった。

 

「渕」は訓読みならば「ふち」と読む。この「ふち」のイメージが強く、駅名が思い付かなかったのだが、音読みならば? 「渕」は「えん」と読む。なるほど、だから渕東と書いて「えんどう」と読むのか。理由を聞いてしまうと理解できるのだが、日本語は難しいと実感する。

↑渕東駅前には赤く実ったリンゴの木もあった。元井の頭線の電車が走る目の前に赤く色づくリンゴの実る風景が逆に新鮮に感じられた

 

ちなみに駅名標には上高地線のイメージキャラクターが描かれる。イメージキャラクターは「渕東なぎさ」だそうだ。渕東駅と渚駅が組み合わさったキャラクターなのである。

 

【上高地線で再発見⑧】新島々駅前にある古い駅舎は?

渕東駅からさらに段丘を下りる形で終点の新島々駅へ向かう。梓川がより近づいていき、左右の山々も徐々に迫ってくる。広がっていた松本盆地の平野部も、そろそろ終わりに近づいてきたことに気付かされる。

↑河岸段丘を1段おりつつ新島々駅へ向かう電車。先には小嵩沢山(こたけざわやま)や無名峰などの標高2000mを越える山々が望めた

 

左右の山々が取り囲むように終点の新島々駅がある。とはいえ付近にはまだ平坦な地があり、駅前には広々したバスの発着所がある。ここから上高地、白骨温泉、乗鞍高原、高山方面への路線バスが出ている。ちなみに上高地へはマイカーに乗っての入山はできないので注意。路線バスの利用が必須となる。

 

さて筑摩鉄道が開業させたのは島々駅までだったのだが、その島々駅はどうなったのだろう。実は開業当時には新島々駅という駅はなかった。1966(昭和41)年に赤松集落にあった赤松駅が、現在の新島々駅に改称されたのである。

↑新島々駅の駅舎。新島々バスターミナルとあるように、バスの発着所スペースの方が鉄道の駅よりもむしろ大きく利用者で賑わう

 

終点だった島々駅の今は後述するとして、赤松駅から新島々駅に駅名を変更された時に、バスターミナルの機能が移され、整備されている。

 

その後の1983(昭和58)年9月。長野を襲った台風10号により、土砂が新島々駅〜島々駅間の路線に流れ込み不通となってしまった。1985(昭和60)年1月1日に、新島々駅〜島々駅間は正式に廃止となった。すでに新島々駅にバスターミナル機能が移っていたので、島々駅まで無理に復旧して電車を走らせる必要もなかったということだったのだろう。

↑新島々駅の駅前には旧島々駅の駅舎が移築されている。以前は観光施設だったが現在は未使用。歴史案内があったらと残念に感じられた

 

【上高地線で再発見⑨】草むらの中に旧鉄橋が埋もれていた!

新島々駅の先は廃線となっている。その跡はどうなっているのか、興味にそそられ歩いてみた。まずは新島々駅の構内から、駅の先、100mほどは線路が残されている。そしてホーム1面2線の線路が先で合流している。今でもすぐに島々駅へ向かって線路が復活しそうな線路配置である。

 

ただホームの100m先からは線路が外され、途切れていた。新島々駅のある付近には国道158号の両側に赤松集落がある。古い地図を元に歩くと、旧路線は赤松集落の裏手を抜けて、すぐに国道158号と合流するようになっていた。

↑新島々駅から集落の裏手を通り、まもなくして国道に合流する。そのポイントから新島々駅側を見る。路線跡は砂利道となっていた

 

国道158号沿いに合流するように走っていた旧路線。国道よりも1段、高い位置を路線が設けられていた。赤松の集落内は砂利道として旧路線が使われていたが、国道に合流後、しばらくすると旧路線は草木に埋もれるようになった。とても路線上は歩けないので、国道の歩道を歩く。国道沿いには一軒の土産物屋さんがあり、店の上を走っていたらしき名残がうかがえる。

 

さらに旧島々駅を目指す。歩くと左手に路線がほぼ並行していたが、草木が繁り、良く見えない。しかし、1か所、廃線ということが分かる箇所があった。雨が降ると川が流れる階段状の窪地があり、そこに古い鉄橋が架かっていた。

↑国道158号を廃線沿いに歩くと、途中に発見した旧鉄橋。窪地をまたぐように鉄橋が架かる。錆びついていたが鉄橋跡だと分かった

 

【上高地線で再発見⑩】旧島々駅はこの辺だと思うのだが……

何もなかったら廃線跡も無駄歩きになりそうだったが、錆びついた鉄橋を発見。少しは鉄道の形跡を確認することができた。

 

さらに歩き、島々駅があった付近へ到着する。前渕(まえぶち)という集落に上高地線の終点、島々駅があった。梓川のほとりにある小さな集落で、山々に囲まれ、新島々駅付近に比べると平坦な土地が乏しい。古い地図を見ると今の国道158号上に駅があったようだ。旧駅前付近は、広々した空き地となっていた。

↑旧島々駅前付近は広い空き地となっていた。左下は1970年代の地図で、旧島々駅は現在の国道(写真右)になったことが分かる

 

前渕集落の中に小道が通るが、地図を見るとこちらが旧国道のようだ。少し歩くと、数軒の家々があり、食堂や旅館だったたたずまいがある。旧旅館の建物にかかる案内地図には、島々駅があった当時のまま残されていた。ちなみに集落名は前渕でここでは「ぶち」と読む。前述したように、上高地線の駅名の渕東は「えんどう」と読む。同じ旧波田町内の地名なのだが、日本語の複雑さを改めて感じた。

 

新島々駅〜島々駅間は1.3km、山あいのウォーキングコースとしてはちょうど良い距離だった。

 

最後に上高地線のイベント情報を一つ。車内でバイオリンの生演奏が楽しめるイベントが不定期ながら開かれている。次回は10月18日(日曜)で、演奏が楽しめる列車は松本駅10時10分発、新島々駅発10時53分、松本駅11時30分発の電車内。編成の1両目でプロの音楽家・牛山孝介さんの演奏が楽しめる。特別料金や予約は不要だ。無料でプロの音楽家の演奏が楽しめる。運良く乗り合わせた筆者としてはとても得した気持ちになった。

 

車窓から信州の山々を眺めながら生演奏を楽しむ。この路線ならではのロケーションの良さと、バイオリンの調べがぴったり合うことに気付かされた。

↑演奏を行う牛山孝介さん。牛山さんは松本市在住で、松本モーツァルト・オーケストラのコンサートマスターを務める 2018年7月15日撮影

 

なぜ?どうして?「近鉄田原本線」−−とっても気になる11の不思議

おもしろローカル線の旅66 〜〜近畿日本鉄道・田原本線(奈良県)〜〜

 

日本各地には、ちょっと不思議で、乗ってみたいと思わせる路線があるもの。筆者はついそうした路線を見つけると、行ってみたくなる。近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の田原本線(たわらもとせん)もそうした路線だ。

 

起終点駅ともに近鉄の駅が間近にありながら、駅は異なり線路が結ばれていない。ほかにも疑問が多数出現する“おもしろい路線”なのだ。そんな不思議な路線に乗車しようと奈良県の王寺駅へ向かった。

*取材撮影日:2020年1月31日、2月2日、9月21日

 

【関連記事】
海と楽しいキャラクターが迎える「ごめん・なはり線」−−心ときめく12の秘密

 

【田原本線の不思議①】大手私鉄では珍しい“孤立路線”の一つ

↑田原本線の佐味田川駅〜池部駅間を走る8400系。沿線に住宅街が多い路線だが、こうした緑の中を走る区間もある

 

初めに、近鉄田原本線の概要を見ておきたい。

路線と距離 近畿日本鉄道・田原本線/新王寺駅〜西田原本駅10.1km *全線単線・1500V直流電化
開業 1918(大正7)年4月26日、大和鉄道により新王寺駅〜田原本駅(現在の西田原本駅)間が開業
駅数 8駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の不思議なところは、起点駅の新王寺駅と、終点駅の西田原本駅(にしたわらもとえき)の両駅とも、近くに近鉄の駅がありながら、駅が異なっているということ。しかも隣接する駅とは線路が結びついていない。詳しい駅の造りは、後述するとして、新王寺駅は、近鉄生駒線の王寺駅と130m(徒歩2分弱)ほど離れている。西田原本駅は、近鉄橿原線(かしはらせん)の田原本駅と60m弱離れている。ここで名前をあげた3路線すべて、線路幅が1435mmと同一であるのにもかかわらずである。

 

こうした大手私鉄の路線網で自社他線との接続がない路線を“孤立路線”と呼ぶことがある。田原本線は隣接して走る橿原線と連絡線があり、回送電車がこの連絡線を通って行き来するものの、直通電車は走っていない。起終点の駅の同一会社同士の駅の離れ方は、他に例を見ない微妙な“孤立ぶり”である。

 

なぜ、孤立路線となったのだろう。それこそ同路線の微妙な歴史が隠されていたのだった。

 

【田原本線の不思議②】最盛期には桜井まで路線が延びていた

下の写真は昭和初期の鉄道路線図である。王寺駅と桜井駅との間を「大和鉄道」という鉄道が走っていたことが分かる。当時の路線図には南海はあるが、近鉄の名前は載っていない。なぜ載っていないのだろう……。

↑東京日日新聞の1928(昭和3)年元旦発行版の付録「全国鐵道地圖」には「大和鉄道」という路線名で田原本線が掲載されている

 

田原本線は大和鉄道という会社により1918(大正7)年4月26日に、現在の路線区間が開業した。その後に、路線は1928(昭和3)年に桜井駅まで延伸している(旧田原本駅〜桜井駅間は1958年に廃止)。この路線図は延伸当時のものだ。開業当時の線路幅は1067mmで、蒸気機関車が牽引する列車が往復した。

 

大正・昭和初期は、奈良県内の鉄道路線網が大きく変っていった時代でもある。大阪電気軌道(上記図内にあり)が、大阪線や、畝傍線(うねびせん/後の近鉄橿原線)を開業させたことから、大和鉄道は経営が悪化していく。大阪電気軌道こそ、近鉄の前身となった会社だ。大阪電気軌道はその後に関西急行鉄道となり、さらに太平洋戦争中の1944(昭和19)年に近畿日本鉄道と名前を改めた。南海電気鉄道(当時は南海鉄道)を含め関西圏のいくつかの鉄道会社が合併して生まれた。戦時下という特殊事情のなか、一時期にせよ近鉄の名のもとに大同団結している。

 

大和鉄道は大阪電気軌道の傘下に加わっていたものの、この時代、創業当時の会社のままで終戦を迎えている。

 

大和鉄道を取り巻く状勢が変化したのは、戦後しばらくたってから。現在の近鉄生駒線を運営していた信貴生駒電鉄(しぎいこまでんてつ)が1961(昭和36)年10月1日に大和鉄道を合併した。さらに1964(昭和39)年10月1日に信貴生駒電鉄が近鉄に吸収合併された。そして現在に至る。大和鉄道時代に、すでに近鉄の前身にあたる会社の傘下にありながら、戦時下に合併されることなしに、戦後まで会社が存続していたこともちょっと不思議に感じる。

 

【田原本線の不思議③】走るのは町のみという路線も珍しい

さて、路線の歴史的な経緯も不思議ならば、走る路線区間もなかなか珍しいことが一つある。路線全線がみな町を通っていることだ。

 

起点となる新王寺駅は、JR王寺駅に隣接している。同駅は関西本線、和歌山線、近鉄生駒線と、利用者が多い乗換駅。駅周辺は、ビルも建ち並び、なかなか賑やかだ。ところが、ここは王寺町(おうじまち)と町の駅である。ここから田原本線の路線は河合町(かわいちょう)、広陵町(こうりょうちょう)、三宅町(みやけちょう)、田原本町(たわらもとちょう)と町のみを走る。

 

全国では平成の大合併で多くの町村が消えて、市となったが、奈良県のこの地区は、合併がなかったわけである(正式には合併交渉が頓挫していた)。ちなみに王寺町の南隣に香芝市(かしばし)があるぐらいで周辺にも市が見当たらない。日本の鉄道路線で市を通らない例は、他に南海多奈川線(たながわせん)と、名鉄知多新線が見られるぐらいで、非常に希少な例なのだ。

↑路線図を見ると市制をとる自治体はなく、みな町のみとなっている。こうした路線の例も珍しい

 

【田原本線の不思議④】起点の新王寺駅の離れ方を写真でみると

ここからは沿線を旅して見聞きしたことを報告していこう。まずは起点となる新王寺駅から。この新王寺駅、近鉄の王寺駅からは直線距離にして130mほど離れている。ちなみに新王寺駅の駅舎はJR王寺駅の中央改札口へ上る北口階段のすぐ下にある。新王寺駅は駅舎こそ小さめだが、駅前にSEIYUが建ち賑やかだ。

 

一方の近鉄生駒線の王寺駅はJR王寺駅の西側にあり、JRの西改札口の隣に改札がある。こちらは新王寺駅前に比べると賑わいに欠ける。この差は興味深く感じた。半世紀以上前に大和鉄道の経営から離れ、信貴生駒電鉄、さらに近鉄と同じ会社になったのだから、線路を直接、結ぶことになぜ至らなかったのか、不思議に感じるところである。

↑田原本線の新王寺駅は「コ」の字形の行き止まりホームとなっている。左上は田原本線新王寺駅の駅舎。同写真の右側にJR王寺駅がある

 

↑新王寺駅側から見た近鉄王寺駅。道の先の大屋根の下に近鉄の王寺駅がある。左上は近鉄の王寺駅のホームを西側から写したもの

 

田原本線の新王寺駅は2面1線の「コ」の字形の構造。全電車が同駅で折り返しとなる。南側ホームが降車ホームで、北側ホームが乗車ホームだ。列車の出発時刻は15〜20分間隔で、5時、11時、12時、14時、23時それぞれの時間帯が30分おきとなる(土休日の14時台は20分おき)。なお田原本線では全線全駅で交通系ICカードが使えて便利だ。

 

【田原本線の不思議⑤】発車してすぐ右に見えるデコイチは?

新王寺駅に停まっていた電車はマルーンレッドの復刻塗装列車。この電車の紹介は後述するとして、みな3両編成と短めだ。

 

しばらく停車した後に、静かに走り出した。右手にJR関西本線の線路を見ながらしばらく並走する。JR王寺駅の南側に広い留置線が広がっていて、ここに停まる関西本線用のウグイス色塗装の国鉄形201系電車も気になるところだ。

 

さてしばらくすると、JR関西本線を越えるべく登り坂にさしかかる。ここで右手に保存された蒸気機関車が見えた。

↑新王寺駅から間もなく、JR関西本線の線路を越えるスロープが延びる。越えた後に和歌山線を下に見て走る(右下の写真)

 

↑新王寺駅から徒歩7分ほどの舟戸児童公園で保存されるD51形895号機。すぐ横を田原本線の8400系復刻塗装列車が通り抜けた

 

確認しなければ気が収まらないのが筆者の流儀。ということで後日に蒸気機関車を見に行ってきた。JR関西本線と近鉄田原本線にはさまれた舟戸児童公園で保存されるこの機関車はD51形895号機。D51デコイチである。なぜここに保存されるのだろう。1944(昭和19)日立製作所笠戸工場生まれというこの機関車。主に山陽、山陰で活躍した後に、1971(昭和46)年春に奈良機関区へやってきた。

 

とはいえこの当時は、無煙化が全国で進みつつあり、同D51も翌年の1972年秋には休車したのちに廃車となっている。最晩年に過ごしたのが関西本線だったわけだ。

 

ちなみに田原本線を走る近鉄8400系は1969(昭和44)年から製造された。もしかしたら、現役当時のD51と8400系はこの王寺の地で、すれ違っていたかも知れない。

 

【田原本線の不思議⑥】深緑とマルーンのレトロ塗装がなぜ走る?

ここで田原本線を走る電車の紹介をしておこう。走る電車はみな8400系で西大寺検車区に配置され、3両編成で走る。8400系は奈良線用に製造された近鉄8000系20m車の改造タイプで、奈良線が600Vから1500Vに昇圧される時に合わせて開発された。製造されてほぼ50年となる8400系が田原本線の主力として走る。

 

近鉄の他線と同じように「近鉄マルーン」と呼ばれる濃い赤色とアイボリーの2色分け塗装車が走る。一方で、この田原本線にはダークグリーン一色と、マルーンレッドにシルバー帯という塗装車両が走る。2編成のみ2018年に塗装変更されたのだが、どのような理由からだったのだろう。

↑マルーンレッドにシルバーの帯が入る8400系の8414編成が黒田駅〜西田原本駅間を走る。レトロ塗装車が走らない日もあるので注意

 

↑こちらはダークグリーン塗装が施された8409編成。大和鉄道時代の600系のレトロ塗装が施された

 

この2編成は田原本線が開業100周年を迎えた記念事業の一環として運行を開始したもの。8400形8414編成が、1980年代半ばまで田原本線を走っていた820系の車体カラー、マルーンレッドにシルバー帯という塗装に変更されている。一方の8409編成は、大和鉄道時代の600系を模したダークグリーンとされた。

 

すでに走り始めて2年ほどになる復刻塗装列車だが、現在も走り、沿線にはこの車両を撮影しようと訪れるファンの姿も目立つ。ちなみに運用の具合から、走らない日もあるので注意したい。ちなみに運用は事前発表されておらず、遠方から訪れる場合は“出たとこ勝負”とならざるを得ないのが現状だ。

 

【田原本線の不思議⑦】池部駅のすぐ近くにある立派な門は?

さて新王寺駅を発車した西田原本行の電車。沿線住宅街を眺めつつ1つめの大輪田駅へ。この先からは田畑が多く見られるようになる。佐味田川駅(さみたがわえき)を過ぎると、軽い登り坂があり池部駅付近がそのピークとなる。

 

池部駅には、馬見丘陵公園(うまみきゅうりょうこうえん)という副駅名が付くように、駅付近は丘陵地帯であることが分かる。この池部駅で気になるのは、駅舎のすぐ隣に古風な屋敷門が建つこと。電車の車窓からも見えたこともあり、早速、駅を降りてみた。さて門の前に立つと、河合町役場という札がかかる。

↑池部駅の駅舎(右)のすぐ隣に立派な屋敷門がある。車窓からも見えるので気になって降りてみたら……

 

↑ライオンが守る(?)門には役場の表札が、中に池泉回遊式の庭園がある(右上)。邸宅を建てた森本千吉は大和鉄道に縁の深い人物だった

 

役場の門がこんなに古風で立派というのも不思議である。実は、この門は「豆山荘」という名前の邸宅の旧門で、町役場が門の裏手にある。豆山荘は実業家・森本千吉の旧邸宅だった。森本千吉こそ、田原本線を建設した張本人だったのである。1923(大正12)年にこの邸宅は造られている。自らが開業させた鉄道路線の駅前に邸宅を建てるとは、なかなかのやり手だったようである。

 

ちなみに森本千吉は大和鉄道を開業した同じ年の1918(大正7)年に生駒鋼索鉄道(現・近鉄生駒鋼索線)を創業させている。この生駒鋼索鉄道は日本初の営業用ケーブルカーだった。大和鉄道といい、生駒鋼索鉄道といい、森本千吉の絶頂期の“作品”だったわけである。

 

森本千吉は1937(昭和12)年に死去している。その後に邸宅は他者にわたり、さらに河合町の役場となった。今は門と、庭園に残るのみだが、日本の鉄道の発展に尽力した人の遺志がこのような形で駅前に残っているというのもおもしろい。

 

【田原本線の不思議⑧】沿線にはなぜ天井川が多いのだろう?

池部駅で丘陵を越えた電車は奈良盆地(大和盆地・大和平野とも呼ばれる)へ入っていく。集落そして田畑が沿線に広がる。この盆地を走りはじめると、他ではあまり見ないおもしろい地形に出会うことができた。

 

田原本線の線路は東西に延びているが、ほぼ90度の角度で複数の河川をわたる(表現として「越す」といった印象)。高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川という河川は決まったように北へ向けて流れる。さらにみな天井川と呼ばれる構造なのである。田畑のある標高よりも、川の両岸の標高が高い。そのために、この川を越えるために電車は上り下りする。このあたりの川の構造が鉄道橋の造りが珍しい。

 

田原本線の北側を流れる大和川という本流がある。この大和川に多くの支流が合流している。この支流の特徴として上流部は急で、奈良盆地は平坦なために、流れが急に緩やかになる。そのために盆地内では土砂が堆積しやすい。そこで川の流れを制御するために掘り、両岸を高く土砂を積み上げた天井川という構造になっていったわけである。

 

ちなみに奈良盆地の年間降雨量が少なめため天井川の水量も少ない。そうした背景もあり奈良盆地には農耕用のため池が多い。この奈良盆地だけで5000個以上もあるとされる。こうした川やため池の水利権は昔から非常に厳しく管理されてきたのだそうだ。

↑池部駅を発車後、奈良盆地へと電車は下り坂を降りる。この先、黒田駅まで4本の天井川(左上)を越える。線路は川の前後で上り下りを繰り返す

 

【田原本線の不思議⑨】兵庫県の但馬にある駅と勘違いしそうだが

奈良盆地を左右に見ながら、そして天井川を越えつつ走る田原本線の電車。直線路がしばらく続くが、その途中に但馬駅(たじまえき)という駅がある。奈良県にある駅なのに但馬というのも不思議だ。但馬といえば、兵庫県北部の地域名で、美味しい牛肉の代表格である但馬牛が良く知られている。ちなみに但馬地方には但馬駅がない。

 

なぜ田原本線の駅名が但馬なのだろう。余談ながら但馬駅のある三宅町は奈良県内で最も小さい町で、全国でも2番目に小さい町なのだそうだ。

 

そんな三宅町の大字但馬にある但馬駅。ある史料によると、兵庫県北部に但馬氏という氏族がいて、奈良(当時の大和)へ氏族の一部が移り住み、その地名に但馬と付けたという説が残る。兵庫県北部の地名と奈良盆地の同じ地名。その経緯を知って訪ねるとなかなか興味深い。

 

ちなみに但馬駅のお隣、黒田駅と西田原本駅間には田畑が広がり、同線の電車を撮影スポットとして知られる。

↑黒田駅付近には田畑が多く広がる。西田原町駅間は撮影スポットとしても人気がある

 

【田原本線の不思議⑩】橿原線と連絡線がこんなところに

さて黒田駅を発車して京奈和自動車道をくぐる。田畑が広がる風景はここあたりまでで、次第に住宅地が増えてくる。終点の西田原本駅ももうすぐだ。すると左から線路が近づいてくる。近づいてくるのだが、ぴったりと寄り添うことはない。

 

近づいてくるのは近鉄橿原線の線路。そして西田原本第二号踏切を通ると、左から線路が田原本線に近づいてきて合流する。これが田原本線と近鉄の他線を連絡する唯一の連絡線となっている。この連絡線を通って、電車は配置される西大寺検車区との間を行き来する。

↑西田原本第二号踏切から見た田原本線(右)と橿原線(左)はこれほど近い。この先で橿原線から田原本線へ連絡線が設けられている

 

橿原線と田原本線は連絡線付近で、最も近づくのだが、その後も一定の距離を保ったまま、電車は終点の西田原本駅へ到着する。乗車時間20分の短いローカル線の旅が終わった。最後に西田原本駅の周りを見ていこう。

 

【田原本線の不思議⑪】田原本線なのに田原本駅という駅はない

西田原本駅の改札を出ると、橿原線の田原本駅が60mほど先にある。さえぎるものがないため良く見える。だが、新王寺駅と同様に微妙な離れ方である。

 

前述したように、西田原本駅の北側で、田原本線は橿原線とかなり近づいて走る。工事をして、田原本駅を1つにまとめることをなぜしなかっただろうか疑問が残る。

 

調べてみると1964年に近鉄に吸収合併された時に統合構想が出たそうなのである。ところが人の流れが変わるとして地元商店街などの反対から立ち消えとなったそうだ。

↑田原本線の終点、西田原本駅。ホーム1面2線、行き止まりの構造となっている。ちなみに新王寺駅行電車は、下り列車として発車する

 

↑1番線側から西田原本駅の構内を見る。留置線の左側にある構造物は旧大和鉄道時代のホームだとされる

 

鉄道網の発達や利便性を重視するべきか。利用する地元の人の声を重視するべきか、難しい選択だったに違いない。全国の鉄道駅では、都市部を除き、郊外になればなるほど、駅前商店街の地盤沈下している現象に良く出会う。田原本でも両駅の間にはコンビニがあるぐらいで、今は商店街らしきものもほとんどなく寂しい印象が強かった。

↑橿原線田原本駅の西口から西田原本駅方面を見る。両駅を結ぶ屋根が延びていて雨の日でも大丈夫だが、便利な乗換駅とは言いづらい印象

 

田原本線に関して不思議なことを最後に一つ。路線名は田原本線なのに、田原本線に田原本駅はない。正確には田原本線に昔あったが今はないというのが正しい。

 

西田原本駅から60mほど離れている橿原線の田原本駅は、実はたびたび駅名を改称していた。1928(昭和3)年に開業した時には大軌田原本駅、その後、関急田原本駅、近畿日本田原本駅と改名している。そして1964(昭和39)年10月に、田原本線が近鉄の一路線になって以降、はれて田原本駅を名乗るようになった。そして田原本線の旧田原本駅が西田原本駅となった。

 

近鉄にとって橿原線は本線扱いであり、田原本線は支線ということからしても致し方ないことなのだろうが、駅の改名された経緯を知って、ちょっと複雑な気持ちになった。

 

新車導入も! 「臨海鉄道」の貨物輸送と機関車に注目〈首都圏・東海・中国地方の5路線〉

〜〜工業地帯に欠かせない貨物専用線「臨海鉄道」その2〜〜

 

各地の工業地帯に敷かれている臨海鉄道の路線。大半が旅客列車の走らない路線で、貨物列車が数時間おきに走る。

 

工業地帯を走ることもあり、人の目にあまり触れることがない。いわば裏方に徹している臨海鉄道だが、私たちの暮らしに欠かせない物流の流れが息づいている。今回は首都圏と東海地方、中国地方を走る5つ臨海鉄道を紹介。路線と輸送の状況、活躍するディーゼル機関車に注目してみよう。

 

【関連記事】
来春廃止の路線も!「臨海鉄道」の貨物輸送と機関車に注目した〈東北・北関東版〉

 

【はじめに】緑に包まれた路線や歴史的な施設が残る路線も

今回、紹介するのは首都圏と、東海地区、岡山県の倉敷市を走る5つの臨海鉄道である。この5つの臨海鉄道は、どの鉄道も個性に富んでいる。

 

中でも神奈川臨海鉄道、京葉臨海鉄道、名古屋臨海鉄道の3つは、京浜、京葉、名古屋といった物流拠点を走る路線だけに輸送量も多い。ほかにも衣浦臨海鉄道や、水島臨海鉄道は自社の機関車がJRの路線に乗り入れている。JRの旅客路線を走ることもあり臨海鉄道の機関車が牽引する貨物列車の姿を間近に見ることができる。

 

臨海鉄道というと工業地帯の中を走るとあって、背景に見えるのは工場のみと思われがちだ。ところが路線を巡ってみると、意外に緑に包まれているところも多く、写真写りの良い路線も目立つ。さらに橋りょうなどに歴史的な施設が使われているところもある。臨海鉄道は、貨物専用線という以上の魅力が隠されているのだ。

 

そんな各路線の特徴を次に見ていこう。

↑全国に10の臨海鉄道が走る。今回は首都圏と東海地方と中国地方を走る5社の現状を見ていきたい。紹介の5社は拡大マップも掲載した

 

【注目の臨海鉄道①】臨海鉄道屈指の規模・営業実績を誇る

◆千葉県 京葉臨海鉄道:1963(昭和38)年9月開業
◆路線:臨海本線・蘇我駅〜京葉久保田駅ほか計23.8km

↑北袖駅付近を走る京葉臨海鉄道のコンテナ列車。春には桜が咲き絵になる。途中駅はあるものの多くが簡易的な信号場という趣だ

 

千葉県の京葉臨海工業地帯の造成に伴い、当時の国鉄、自治体、進出企業の共同出資により、1962(昭和37)年に日本初の臨海鉄道会社として創業した。翌年に路線が開業している。

 

現在では千葉県内の鉄道貨物のほとんどを扱い、日本屈指の規模となっている。輸送トン数の合計が202万4368トンという輸送量を誇る。ちなみに臨海鉄道2位は神奈川臨海鉄道の137万5591トンになる(鉄道統計年報平成29年度版)。

 

【路線】 路線はJR内房線の蘇我駅から京葉久保田駅までで、国道16号に沿って臨海本線が走る。さらに途中から京葉市原駅、北袖駅へ分岐する路線がある。

 

JR貨物の電気機関車で運ばれた列車は、JR蘇我駅から京葉臨海鉄道のディーゼル機関車に引き継がれ千葉貨物駅へ向かう。JR蘇我駅に到着する下りコンテナ貨車、車扱貨車すべてが、千葉貨物駅に運ばれる。

 

路線一の規模を持つ千葉貨物駅で編成し直されて臨海本線をさらに南下する。輸送はタンク輸送と、コンテナ輸送が主体となる。時には大物車を使っての、大形変圧器の輸送も行われる。

 

沿線は京葉工業地帯を走るが、千葉貨物駅から先に連なる工場の多くが、木々に囲まれて造られている。臨海鉄道の線路は国道16号にほぼ沿っているが、国道との間にも木々が植えられる。左右とも、木々が立ち並ぶ風景がこの路線特有の魅力となっている。

 

路線で見ておきたい施設がある。それは橋りょうだ。路線を造る時に、他の路線で使われていた橋げたを転用して造られたものが複数あり、歴史的にも貴重な施設が見られる。例えば、千葉貨物駅に近い村田川橋りょう、こちらは東海道本線の大井川橋りょうに使われていた橋げたの一部を転用したもの。1911(明治44)年、米ブリッジ社製で、2018年に選奨土木遺産に認定された。ほか白旗川橋りょうの背丈の低い橋げたは、1918(大正7)年製の信越本線の犀川橋りょうを転用している。鉄道施設の複数が、歴史的に見ても価値があるのだ。

 

【車両】 現在の主力機関車はKD60形。臨海鉄道所有の機関車の多くが、国鉄DD13形をベースとしているが、KD60形も同様である。1号機から4号機の4両が活躍している。KD60形よりも前に造られたKD55形も残っている。

 

なお、京葉臨海鉄道からは新型機関車の導入が発表されている。そこには「老朽化した機関車を更新するために、JR貨物が開発したDD200形式の機関車をメーカーに発注し、令和3年5月に完成する予定です」(安全報告書より)とある。

 

来春には新型機関車が導入されるわけである。JR貨物のDD200形式と同じ、赤い塗装なのか、京葉臨海鉄道の伝統色の水色ベースとなるのか、気になるところだ。

↑タンク列車を牽引するKD60形1号機。右上の村田川橋りょうの橋げたは1911(明治44)年米国製で、選奨土木遺産に認定されている

 

【注目の臨海鉄道②】川崎と横浜臨海部に貨物路線を持つ

◆神奈川県 神奈川臨海鉄道:1964(昭和39)年3月開業
◆路線:浮島線・川崎貨物駅〜浮島町駅3.9km、千鳥線・川崎貨物駅〜千鳥町駅4.2km、本牧線・根岸駅〜本牧埠頭駅5.6km

↑京浜急行小島新田駅に近くの川崎貨物駅。小島新田駅前の歩道橋から見渡せる。右下は塩浜機関区でこちらも公道から見ることが可能

 

1963(昭和38)年、京浜工業地帯の鉄道貨物輸送を行うために、国鉄、神奈川県、川崎市、関係企業が出資あるいは用地提供をして第三セクター方式で設立された。現在では京葉臨海鉄道、名古屋臨海鉄道と並び、国内を代表する臨海鉄道となっている。

 

【路線】 路線は川崎市内を走る2路線と、横浜市内を走る1路線がある。川崎市内を走る浮島線は東海道本線貨物支線に接続する川崎貨物駅から浮島町(うきしまちょう)駅を結ぶ。また千鳥線は川崎貨物駅から千鳥町(ちどりちょう)駅間を走る。横浜市内を走るのが本牧線で、JR根岸線根岸駅から本牧埠頭(ほんもくふとう)駅まで走る。ほか川崎貨物駅から水江駅まで2.6kmの水江線があったが、2017年9月いっぱいで廃止されている。

 

川崎市内の路線では石油製品を扱うタンク車輸送、さらに化成品を積んだタンク・コンテナを運ぶ輸送が目立つ。珍しいのはゴミ輸送が鉄道貨物で行われていること。川崎市の一般廃棄物を運ぶ「クリーンかわさき号」で、武蔵野線梶ケ谷貨物ターミナル駅から、川崎貨物駅へ、さらに浮島線の末広駅まで輸送が行われている。輸送には専用コンテナが使われているので、結構目立つ。

↑湾岸を走る神奈川臨海鉄道だが意外に海辺らしい風景は貴重。写真は千鳥運河を渡る貨物列車。千鳥線はタンク・コンテナの輸送が目立つ

 

一方の本牧線では、20フィート、40フィートといった海上コンテナの輸送を中心に行われている。港に近く、また40フィートに対応できる鉄道貨物駅は数少ないため有効に役立てられている。

↑本牧線を走る貨物列車。大形の海上コンテナの輸送が主体となる。本牧埠頭駅付近からは横浜ベイブリッジも見える

 

【車両】 機関車はほぼ千葉臨海鉄道と同じ構成。国鉄のDD13形と同性能のDD55形が1990年代までに導入されている。臨海鉄道他社のDD55形にも同型機だが、各社各機で形や性能が微妙に異なっている。

 

2000年代に入ってDD60形が発注され、各線の主力として利用されている。ちなみに機関車の検査はすべて川崎貨物駅の構内にある塩浜機関区で行っている。自動車でいえば、車検にあたる全般検査も塩浜機関区で行う。多くの臨海鉄道がそうした検査能力を持たないため、JRなどに委託しているところが多いなかで貴重な存在となっている。

 

【注目の臨海鉄道③】フライアッシュの輸送が名物に

◆愛知県 衣浦臨海鉄道:1975(昭和50)年11月、半田線開業
◆路線:半田線・東成岩駅〜半田埠頭駅3.4km、碧南線・東浦駅〜碧南市駅8.2km

↑衣浦臨海鉄道の碧南線では炭酸カルシウム専用列車が走る。KE65形が重連で牽引する臨海鉄道では珍しい光景を見ることができる

 

愛知県といえば名古屋港の港湾設備の充実度が高い。さらに、名古屋港の東側にある衣浦港(きぬうらこう)の開発も進められてきた。衣浦臨海鉄道は1971(昭和46)年、衣浦臨海工業地帯を造成するにあたり国鉄、愛知県、半田市の出資により生まれた。路線は橋りょうなどの、大がかりな路線整備が必要だったこともあり、路線の開業は会社創業後4年後の1975(昭和50)年11月に半田線が、1977(昭和52)年5月に碧南線(へきなんせん)が開業した。

 

【路線】 路線は2本あり、まず半田線はJR武豊線の東成岩駅(ひがしならわえき)と半田埠頭駅を結ぶ。一方の碧南線はJR武豊線の東浦駅と碧南市駅(へきなんしえき)を結ぶ。

 

両路線はそれぞれ輸送品目が大きく異なる。半田線は沿線の工場の製品を積み込んだコンテナ輸送が主流となる。碧南線はここのみという輸送が行われている。碧南市駅へ向かう下り列車では発電所で使う炭酸カルシウムを、帰りの上り列車では石炭発電所の副生成物である石炭灰(フライアッシュ)を運ぶ。使われる貨車はホキ1000形で、車体には「フライアッシュ及び炭酸カルシウム専用」と書かれている。

 

鉄道貨物輸送では、下り上りどちらかが空荷になることが多いものの、この輸送の場合は空荷のない理想的な「双方向輸送」が可能になることもあり良く知られている。

↑終点の碧南市駅には炭酸カルシウムを降ろす施設と、石炭灰を積む施設がある。石炭灰は三岐鉄道の東藤原駅に向け輸送される

 

【車両】 衣浦臨海鉄道で使われるディーゼル機関車はKE65形。国鉄のDE10形ディーゼル機関車とほぼ同タイプ、同性能で、色もほぼ変わりない。形式称号の刻印が異なることと、車体横に衣浦臨海鉄道の名前が入るので見分けが付くが、遠くから見たらDE10そのものである。同社ではこのKE65形が4両体制で貨物輸送に対応している。そして自社路線だけでなく武豊線の起点、大府駅まで乗り入れ、大府駅構内でJR貨物へ貨車牽引の引き継ぎを行う。

 

ちなみに検査などにより機関車が足りなくなった時にはJR貨物愛知機関区のDD51形式が貸し出され、KE65形と組んで走る姿が確認されている。今後、愛知機関区のDD51は引退となり、DF200形式が代わっていく可能性が強い。もしまた応援機関車を必要とする時にはどうなるのだろう。気になるところだ。

↑JR大府駅まで乗り入れている衣浦臨海鉄道のKE65形。写真は構内で発車待ちをする半田埠頭行きコンテナ列車

 

【注目の臨海鉄道④】工業地帯の貨物輸送が活況を見せる

◆愛知県 名古屋臨海鉄道:1965(昭和40)年8月創業
◆路線:東港線・笠寺駅〜東港駅3.8km、南港線・東港駅〜知多駅11.3km(名古屋南貨物駅〜知多駅間4.4kmは休止中)、東築線・東港駅〜名電築港駅1.3km

↑東港線を走るND60形。沿線の春は桜が楽しめる。右上は東港駅の構内。同臨海鉄道では東港駅がターミナルとして機能している

 

古くから工場の進出が盛んだった名古屋港湾地区。ここでは長らく名古屋鉄道によって貨物輸送が行われてきた。しかし、名古屋南部臨海工業地帯の造成に伴い、貨物輸送の需要増大が予測された。そのため1965(昭和40)年から1969(昭和44)年にかけて敷設されたのが、名古屋臨海鉄道だった。この路線により、東海道本線の笠寺駅と臨海地区が直結された。

 

【路線】 現在の路線は、東海道本線笠寺駅〜東港間の東港線と、東港駅から南へ延びる南港線、東港駅から北へ向かう東築線(とうちくせん)がある。ほか汐見線・東港駅〜汐見町駅3.0km、昭和町駅・東港駅〜昭和町駅1.1kmの路線は休止中。また名古屋南貨物駅から先、知多駅までの区間も休止中となっている。

 

名古屋臨海鉄道の輸送は通常のコンテナ輸送以外に、専用列車の運行が目立つ。トヨタ自動車の部品を運ぶ専用列車「TOYOTA LONGPASS EXPRESS」が名古屋臨海鉄道の名古屋南貨物駅と、岩手県の盛岡貨物ターミナル駅との間を土・日曜日を除き、1日に2往復している。この輸送は導入時に、船による輸送やトラック輸送よりも鉄道貨物輸送を効率的に活かす輸送例として注目された。

 

専用ホッパ車を利用した石灰石輸送もこの鉄道の名物列車となっている。こちらは岐阜県の西濃鉄道の乙女坂駅からJR東海道本線を経由して、名古屋臨海鉄道沿線にある日本製鉄名古屋製鉄所まで運ぶ輸送だ。

 

ちなみに東築線では、名古屋鉄道の電車の甲種輸送が行われる。頻繁ではないものの、この路線の輸送も興味深い。終点の名電築港駅では、名古屋臨海鉄道の線路と、名鉄築港線の線路とが平面で交差する箇所が設けられている。ほぼ直角に交差するダイヤモンドクロスで、同区間では平面交差を横切る列車の珍しい走行シーンを見ることができる。

↑東港駅を発車したホッパ車を連ねた石灰石輸送列車。西濃鉄道の乙女坂へは「石灰石返空」列車として引き返す

 

【車両】 現在の主力機関車はND60形で水色の車体に黄色、またはピンク色のラインが入る。このND60形と、55トン機のND552形という陣容となっている。DD552形は、国鉄DD13形と同タイプの機関車で自社発注機に加えて、国鉄のDD13形の譲渡を受け利用していたが、徐々に廃車も出てきている。

 

ND552形の自社発注機は車体ボディの上に前照灯が1つ付いていて、愛嬌のある顔立ちで目立つ。これらの機関車は名古屋臨海鉄道も自社で全般検査を行っている。ちなみに名古屋臨海鉄道では、JR貨物の名古屋貨物ターミナル駅の入換え業務も受託している。そのために同社のND552形が名古屋貨物ターミナル駅に常駐、構内で入換え作業に従事している。

↑DD552形に牽かれてJR笠寺駅に到着する「TOYOTA LONGPASS EXPRESS」。笠寺駅で方向転換して盛岡貨物ターミナル駅へ向かう

 

【注目の臨海鉄道⑤】旅客列車も走る西日本唯一の臨海鉄道

◆岡山県 水島臨海鉄道:1948(昭和23)年8月路線開業(1970年に水島臨海鉄道へ移管)
◆路線:水島本線・倉敷市駅〜倉敷貨物ターミナル駅11.2km、港東線・水島駅〜東水島駅3.6km

↑倉敷貨物ターミナル駅構内で入換え作業を行うDE70形。JR山陽本線への乗り入れ列車にも使われている

 

水島臨海鉄道の路線の始まりは古い。太平洋戦争中、水島地区に造られた三菱重工水島航空機製作所の専用鉄道として1943(昭和18)年に設けられた。戦争遂行のための軍需施設用に造られた路線だったのである。

 

終戦後の1948(昭和23)年に地方鉄道法に準拠した鉄道として営業を開始、倉敷市に譲渡され市営鉄道となった。さらに1970(昭和45)年4月に水島臨海鉄道となっている。今回紹介する臨海鉄道路線の中で、唯一、旅客営業も行う臨海鉄道でもある。

 

【路線】 JR山陽本線の倉敷駅に隣接した倉敷市駅と倉敷貨物ターミナル駅を水島本線が結ぶ。旅客営業は倉敷市駅と三菱自工前駅で行われている。また途中の水島駅と東水島駅間には港東線が走る。後者は貨物列車専用の路線となっている。

 

貨物はコンテナ列車が大半で、JR岡山貨物ターミナル駅から倉敷駅構内の連絡線を通って、同臨海鉄道へ乗り入れる。そして東水島駅、もしくは倉敷貨物ターミナル駅(臨時列車のみ)へ向かう。上りは東水島駅発の東京貨物ターミナル駅行きの直通列車も1日に1便が走っている。

↑岡山機関区のDE10形式の入線もある。岡山貨物ターミナル駅と東水島駅間を1日に2往復ほど貨車を牽いて走る

 

【車両】 DE70形と名付けられた70トン機が1両と、DD50形という50トン機が使われている。主力として走るのはDE70形だ。このDE70形は国鉄のDE11形にあたる機関車で、性能はDE10形とほぼ同じ。DE11形とDE10形の違いは、DE10形が重連での統括制御機能が有効なのに対して、DE11形は同機能を持たないこと。また客車牽引を考慮しなかったために蒸気発生装置を持っていないという違いである。

 

DE70形は岡山貨物ターミナル駅までの直通運転が可能なようにJR線に合わせて安全機器が装備されている。一方で、JR貨物岡山機関区のDE10形式も水島臨海鉄道へ入線している。臨海鉄道とはいうものの、所有の機関車はほぼJRのものと同じでJR貨物の機関車も線内に乗り入れるとあって、他の臨海鉄道路線とはかなり異なる光景が目にできる。

 

ちなみに保有する旅客車両も興味深い。主力のMRT300形以外に元JR久留里線を走った国鉄形気動車キハ30形に、キハ37形・38形が在籍している。この国鉄形気動車は朝夕、そしてイベント開催日に運転されている。こちらも見逃せない存在となっている。

↑倉敷貨物ターミナル駅の奥にある車両基地。DE70形の横にDD50形の姿や、国鉄形気動車の姿が確認できる

 

↑こちらは東水島駅の入口。ちょうどDE70形牽引の貨物列車が到着し、構内での入換えが行われていた

 

【関連記事】
西日本唯一の臨海鉄道線−−「水島臨海鉄道」10の謎

来春廃止の路線も!「臨海鉄道」の貨物輸送と機関車に注目〈東北・北関東版〉

〜〜工業地帯に欠かせない貨物専用線「臨海鉄道」その1〜〜

 

各地の臨海工業地帯に敷かれたレール。あれー、こんなところに鉄道路線があったかな? と不思議に感じることがないだろうか。鉄道好きはクルマを走らせていても、バスに乗っていてもつい鉄道に目がいってしまうものである。

 

臨海部や工業地帯で見かける“謎”の線路の正体は多くが臨海鉄道の線路である。今回は東北と北関東を走る5つの臨海鉄道の路線と、貨車を引く機関車に注目した。悲しいことに来春で消える臨海鉄道路線があることも分かった。

 

【関連記事】
この春どう変ったのか?新時代の「鉄道貨物輸送」を追う

 

【はじめに】全国で10の臨海鉄道が今も走っている

現在、臨海鉄道は全国に計10社。すべてが本州内にあり、東海地方から東側にある会社が大半を占める。

 

各臨海鉄道の歴史を見ると、多くが1970年代序盤の創業で、日本国有鉄道(国鉄)が高度経済成長に合わせて、貨物の輸送量を増やしていった時代にあてはまる。臨海鉄道は臨海部の貨物輸送を担うために誕生した。国鉄と臨海鉄道のつながりが強い。JR化された後も臨海鉄道のすべて、JR貨物が筆頭株主となっている。また大半が地元の自治体が経営に参画する第三セクター経営となっている。

 

ほとんどが貨物専用の鉄道会社だが、鹿島臨海鉄道と水島臨海鉄道の2社は貨物輸送とともに旅客列車も走らせている。

↑全国に10の臨海鉄道が走る。今回は東北地方と北関東を走る5社の現状を見ていきたい。紹介の5社は拡大マップも掲載した

 

ちなみに、これ以外に北海道に苫小牧港開発、釧路開発埠頭。そして新潟県を新潟臨海鉄道が走っていた。この3社はいずれも2000年前後に廃止されている。地方の旅客路線が業績悪化により廃止される例は多いが、貨物輸送は、工業地帯の複数の工場が撤退もしくは、縮小しないかぎり、荷主の動向に左右されるものの、輸送業務が無くなる心配がない。モーダルシフトが進んでいる時代背景もあり、旅客専用の鉄道会社よりも、手堅い収益が確保できる。

 

さらに各臨海鉄道では、JR貨物の貨車の入れ換えや、車両整備、旅客会社の窓口業務などさまざまな業務を受託している。臨海鉄道のスタッフは、鉄道輸送に特化したプロである。輸送自体は目立たず、会社も小所帯のところが多いものの、長所を充分にいかし、黒字経営を続ける企業が大半を占める。

 

その一方で、輸送する物品、また一部企業のみに頼る臨海鉄道には脆弱な一面がある。来春に業務を終了させる秋田臨海鉄道もメインの荷主が、鉄道貨物輸送を取りやめることで、その影響を受けた。長年、黒字経営を続けてきたにも関わらずである。

 

こうした難しい問題も抱えつつも、国内の貨物輸送を担う臨海鉄道。北から会社の歴史、路線の模様、使われるディーゼル機関車などを中心に見ていこう。

 

【注目の臨海鉄道①】紙製品やパルプの輸送がメインとなる

◆青森県 八戸臨海鉄道:1970(昭和45)年12月創業
◆路線:八戸臨海鉄道線・八戸貨物駅〜北沼駅8.5km

↑主力のDD56形が牽引するコンテナ列車。この3号機には車体横に八戸市民の鳥、ウミネコのイラストが描かれる

 

【歴史】 八戸臨海鉄道は1966(昭和44)年に青森県営専用線として誕生した。そして青森県八戸港の港湾部にある工場を発着する貨物輸送が続けられてきた。その後の1970(昭和45)年からJR貨物・青森県・八戸市などが出資する第三セクター方式で運営される八戸臨海鉄道となっている。

 

【路線】 路線は青い森鉄道に接続する八戸貨物駅が起点。しばらくJR八戸線と並走し、馬淵川河口沿いを走り、自衛隊の八戸基地の東側を走る。さらに八戸港に隣接した北沼駅まで路線が延びる。北沼駅からは三菱製紙の専用線が連絡している。輸送は三菱製紙八戸工場の紙製品がメインとなっている。

 

【車両】 ディーゼル機関車はDD56形、DD16形など。このうちDD56形は自社発注の機関車で、DD16形はJR東日本からの譲渡車で2009(平成21)年から同線を走る。北浜駅の先の三菱専用線では小型のスイッチャーの姿を見ることもできる。

 

なお機関車の全般検査は福島臨海鉄道に委託している。そのため検査時期になると、八戸〜泉(福島県)間の甲種輸送が行われる。臨海鉄道間には業務の関わりも強く、そうした長所を活かしているところも、臨海鉄道らしい一面である。

↑D56形の4号車は2014年に新製された機関車。新設計の機関車で、3号車までとは異なるメーカーに発注されたため姿も異なる

 

【注目の臨海鉄道②】来春に解散予定の日本海側唯一の臨海鉄道

◆秋田県 秋田臨海鉄道:1971(昭和46)年7月開業
◆路線:南線・秋田港駅〜向浜駅5.4km

↑紙製品を満載して走る南線の輸送列車。牽引するのはDE10形。3両が保有される。写真1250号機は元十勝鉄道から転属した車両だ

 

【歴史】 奥羽線の土崎駅と秋田港駅を結ぶ貨物専用線のJR秋田港線。1971(昭和46)年7月に終点の秋田港駅から北線と南線が開業し、秋田港内での貨物輸送が始められた。秋田港駅での入換え業務に加えて、南線での紙製品の輸送と、北線では濃硫酸輸送を行われてきた。ところが1998(平成20)年に、小坂製錬所(秋田県)の濃硫酸生産が終了したことから以降、北線の列車の運行は途絶えている。

 

【路線】 目の前に秋田市ポートタワーがそびえる秋田港駅。南線はこの駅を起点にまずは旧雄物川沿いを南下。4kmほど国道7号にそって走ったあと、旧雄物川橋梁を渡り、対岸へ。大規模な工場が連なる中を北へ走り、向浜駅へ付く。この向浜駅には、日本製紙秋田工場がある。現在、秋田臨海鉄道の輸送の大半は同社の紙製品の輸送である。エンジ色の12ftコンテナを連ねた貨物列車が旧雄物川橋梁を渡るシーンは同線で最も絵になる風景といって良いだろう。

↑秋田港駅構内に進入するDE10形1250号機牽引の貨物列車。後ろはDD56形で、2両が主に入換え用として使われている

 

【車両】 主力機関車として走るのがDE10形。秋田臨海鉄道ではDE10を名乗っているが、元JR東日本のDE15形である。北海道の十勝鉄道を経て2両が、JR北海道から1両が移籍した。DE15形はラッセルヘッドをつけて、除雪作業を行う機関車として造られたが、除雪をしない時は、牽引機としても使える便利な機関車でもある。秋田臨海鉄道ではさらにDD56形が2両在籍。こちらは朱色と青い塗装車両があり、秋田港駅構内での入換えなどに使われている。

 

秋田臨海鉄道に関して6月に残念な発表があった。来春に事業を終了させるというのである。2018年3月期を除けば、ここ6年にわたりしっかりと収益を確保し、黒字経営を続けてきた。なぜ事業終了となったのか。同線の輸送の大半を占めていた日本製紙秋田工場が、紙製品の鉄道貨物輸送を終了させるためだ。運ぶものが無くなれば、会社は成り立たなくなる。沿線にある企業の影響を受けやすい臨海鉄道の弱い一面が露呈したわけだ。

 

2021年の3月で、秋田臨海鉄道の歴史は終焉を迎えることになる。ちょうど会社創業50年めで会社解散を迎えることとなった。旧雄物川橋梁を渡る姿も来春で見納めとなる。

 

【注目の臨海鉄道③】石油、ビールなど多彩な製品の輸送を行う

◆宮城県 仙台臨海鉄道:1971(昭和46)年10月開業
◆路線:臨海本線・陸前山王駅〜仙台北港駅5.4km、仙台埠頭線・仙台港駅〜仙台埠頭駅1.6km、仙台西港線・仙台港駅〜仙台西港駅2.5km

↑仙台臨海鉄道のSD55形103号機。101号機、102号機は東日本大震災の被害を受けて解体に。103号機のみ唯一、自社発注機として残った

 

【歴史】 仙台臨海鉄道の始まりは1971(昭和46)年10月のこと。この年は、ちょうど仙台港が開港した年にあたる。仙台港は掘り込み式の人造港で、脆弱だった仙台地区の港機能を強化し、工業港として、また大形フェリーが着岸できる商業港として誕生した。以降、仙台港は物流の要となっている。

 

この港の機能を強化する役目として、同時期に臨海鉄道も造られた。以来順調に歩んできた仙台臨海鉄道だが、2011年3月の東日本大震災の影響を受けている。路線および車両基地が被災したのだった。路盤や稼動する機関車が津波の影響を受け、長期にわたり輸送が途絶えたが、2011年11月に臨海本線の一部区間が、翌年11月に全線の復旧を果たしている。

 

【路線】 路線は東北線の陸前山王駅と仙台北港駅を結ぶ臨海本線、仙台港駅〜仙台埠頭駅間を結ぶ仙台埠頭線、仙台港駅〜仙台西港駅間を結ぶ仙台西港線の3本がある。

 

列車の運行は仙台港駅が中心で、同駅から仙台北港駅、仙台西港駅、仙台埠頭駅に向けて列車が走る。仙台港駅からは陸前山王駅を結ぶ臨海本線を経て、JR線内への輸送が行われる。輸送物品はバラエティに富む。石油、コンテナ、化学薬品、ビールの商品輸送などで、仙台埠頭線ではレール輸送も行われている。

↑仙台港駅が同社のターミナルの役割を持つ。左上は被災した101号機。円内写真は2011年6月のものだが、しばらく手付かずの状態だった

 

【車両】 2011年の東日本大震災の前後で、同社が所有する機関車の状況が大きく変わった。震災前までの主力は自社発注のSD55形だった。ところがSD55形が複数機、被災したことから、急きょ臨海鉄道他社から機関車の譲渡を受けている。現在の機関車の内訳はSD55形が2両。そのうち103号機が自社発注で唯一残った車両だ。また105号機は、2012年に京葉臨海鉄道から譲渡された車両だ。

 

DE65形2号機は震災後に秋田臨海鉄道から借用を受け、その後に購入した機関車で、性能はほぼ国鉄DE10形と同じだ。この2号機は古くは新潟臨海鉄道の機関車だった車両で、秋田臨海鉄道を経て仙台へやってきた。またDE65形3号機も走る。こちらは元JR東日本のDE10形1536号機で2019年に導入されている。

 

このように仙台臨海鉄道の機関車は震災の影響を受け、さまざまとなった。紺色の機関車あり、朱色の機関車ありと、なかなか賑やかになっている。

 

【注目の臨海鉄道④】“安中貨物”が発着する福島の臨海鉄道

◆福島県 福島臨海鉄道:1967(昭和42)年4月創業
◆路線:福島臨海鉄道本線・泉駅〜小名浜駅4.8km

↑DD56形がタンク車と無蓋車を連ねて走る。通称“安中貨物”の姿は珍しいこともあり、福島臨海鉄道を訪れる鉄道ファンも多い

 

【歴史】 福島臨海鉄道の路線の開業は古い。1907(明治40)年12月の泉〜小名浜間が小名浜馬車軌道として誕生した。磐城海岸軌道を経て、1939(昭和14)年には小名浜臨港鉄道となり1941(昭和16)年に線路幅を1067mmと改軌、軌道線から鉄道線へ変更されている。さらに1967(昭和42)年に、現在の福島臨海鉄道となった。福島臨海鉄道となった当初は旅客列車を走らせていたが、1972(昭和47)年に貨物専用路線となっている。

 

【路線】 路線は常磐線の泉駅と小名浜駅4.8kmの区間。JR泉駅構内の北側に広い入換え線があり、ここが路線の起点となる。駅を発車した列車はJR常磐線から離れ、大きくカーブして常磐線の線路を跨ぐ。そして間もなく国道6号をくぐり、藤原川橋梁をわたる。列車が進んだ、右手から引込線が近づいてくるが、こちらが、東邦亜鉛小名浜製錬所から延びる線路だ。しばらく複線区間が続き、終点の小名浜駅へ到着する。

 

この路線の輸送のメインとなっているのが東邦亜鉛関連の貨物輸送。通称“安中貨物”と呼ばれる輸送で、小名浜から群馬県の安中製錬所へ亜鉛精鉱・亜鉛焼鉱が、タンク車と無蓋車を使って輸送される。無蓋車を使っての貨物輸送は国内ではこの列車のみ。希少な輸送を見ることができる。

↑JR泉駅と信越本線の安中駅間を結ぶ“安中貨物”。1日1往復の鉱石専用列車が運転されている。JR線での牽引は全線EH500形式が行う

 

【車両】 主力機関車はDD56形でこの機関車が牽引を担当する日が多い。ほかにDD55形2両が在籍している。おもしろいのは、機関車の先頭部の目立つところに赤色灯が付けられていること。これは構内での入換え作業を行う時などに、機関車の姿を目立たせるためで、臨海鉄道の他社では見かけないパーツとなっている。ちなみに本線走行時には赤色灯が付いていない。

↑終点の小名浜駅。構内には技術区があり機関車や貨車の整備、保守管理を行う。同駅から越谷貨物ターミナル駅行きコンテナ列車も発車

 

【注目の臨海鉄道⑤】貨物専用線と旅客専用線の両線がある

◆茨城県 鹿島臨海鉄道:1970(昭和45)年7月開業
◆路線:鹿島臨港線・鹿島サッカースタジアム駅〜奥野谷浜駅19.2km、大洗鹿島線・水戸駅〜鹿島サッカースタジアム駅53.0km(旅客専用線)

↑KRD64形2号機が鹿島サッカースタジアム駅行列車を牽引する。ケミカルコンテナを先頭に走る列車を見ても輸送量が多いことが分かる

 

【歴史】 鹿島臨海鉄道の歴史は、鹿島海岸に造られた鹿島港とともに始まる。かつて茨城県の鹿島海岸には長大な砂浜と砂丘が連なっていた。この海岸を掘り生み出された鹿島港が1969(昭和44)年に開港した。翌年に鹿島臨海鉄道も開業した。鹿島港を中心に誕生した鹿島臨海工業地帯の輸送を目的に付設されたのだった。以降、2011(平成23)年3月に起きた東日本大震災により、被害を受けたが、貨物専用線の鹿島臨港線は6月に復旧している。

 

【路線】 JR鹿島線の旅客列車は鹿島神宮駅どまりとなっている。一方で、JRの路線は一つ先の鹿島サッカースタジアム駅までとなっている。同駅は通常は旅客駅を行っておらず、サッカーなどの試合開催日のみの臨時駅だ。この臨時駅が鹿島臨海鉄道とJR鹿島線の接続駅となっている。

 

路線は2本あり、鹿島サッカースタジアム駅から南下、臨海工業地帯をめぐるように走る鹿島臨港線と、鹿島サッカースタジアム駅〜水戸駅間を走る大島鹿島線(旅客専用線)がある。鹿島サッカースタジアム駅で、コンテナ貨物はJR貨物に引き継がれ、毎日2便が東京貨物ターミナル駅と、越谷貨物ターミナル駅へ向けて走っている。

 

ちなみに鹿島臨港線では路線が開業してから、1983(昭和58)年まで旅客営業が行われていた。今、貨物駅となっている神栖駅(かみすえき)の仕分線が並ぶ西側に旧ホームが残されている。

↑朱色に塗られたKRD形。国鉄13形に基づき生まれたが、高出力エンジンを搭載するなど同社の貨物牽引が可能なように変更されている

 

【車両】 機関車はKRD形と呼ばれる車両1両と、KRD64形2両が、使われている。KRDは国鉄当時に、全国の貨物駅などで、使われたDD13形と呼ばれるディーゼル機関車の性能に準じている。5両が路線開業時から新造されたが、今は5号車のみ残るが、牽引する姿はあまり見かけない。

 

一方、主力機として使われるのがKRD64形で、長い編成の貨物列車を引く姿を沿線で目にすることができる。臨海鉄道の機関車には63とか64とか数字が付く機関車が多いが、KRD64形の64は64トン級という意味を持つ。

 

旅客営業を行っているので、気動車にも触れておこう。車両は6000形に8000形で、車体長はみな20m。6000形は乗降扉が前後に2つということもあり、セミクロスシートがずらりとならぶ様子が壮観だ。水戸駅近郊では通勤・通学客も多いことから、3扉車の新車両8000形の導入も進められている。

↑鹿島臨海鉄道の鹿島サッカースタジアム駅。臨時駅のため旅客列車は通過する。ホームに並行する側線で貨物列車の入換え作業が行われる

 

【関連記事】
常時営業を行っていない臨時駅が起点という鉄道路線「鹿島臨海鉄道」の不思議

 

 

希少車両が多い東海・関西出身の「譲渡車両」の11選!

〜〜東海・関西圏を走った私鉄電車のその後5〜〜

 

譲渡車両紹介の最終回は、東海・関西圏から他の鉄道会社へ移籍した電車を見ていくことにしよう。

 

東海・関西圏を走った電車の譲渡例は意外に少なめ。少ないものの、かなり個性的な車両が揃う。本家ではすでに引退し、他社で第二の人生を送る電車も目立つ。そろそろ引退が近い電車も表れつつあり、気になる存在となっている。

 

【関連記事】
今も各地を働き続ける「譲渡車両」8選元西武電車の場合

 

【注目の譲渡車両①】今や大井川鐵道だけに残った関西の“名優”

◆静岡県 大井川鐵道21000系(元南海21000系)

↑昭和生まれの電車らしい姿を残す大井川鐵道の21000系。“名車”もそろそろ引退となるのだろうか気になるところだ

 

大井川鐵道を走る21000系は、元は南海電気鉄道の21000系(登場時は21001系)である。南海高野線の急勾配を上り下りする急行・特急用に造られた。 “ズームカー”、または“丸ズーム”の愛称で親しまれた電車で、製造開始は1958(昭和33)年のこと。誕生してからすでに60年以上となる。

 

正面は、国鉄80系を彷彿させる“湘南タイプ”の典型的な姿形。その後の車両よりも、運転席の窓が小さめ、窓の中央には太めの仕切りがある。湘南タイプの後年に生まれた車両にくらべれば、運転席からの視界があまり良くなさそうだ。

 

南海では1997(平成9)年で引退、大井川鐵道へは1994(平成6)年と1997年に2両×2編成が譲渡された。一畑電車にも譲渡されたが、こちらは2017年に引退している。21000系は大井川鐵道に残った車両のみとなっている。

 

さて、大井川鐵道に“後輩”となる車両の搬入が最近あった。

↑南海高野線を走る6000系6016号車。大井川鐵道へやって来たのは写真の6016号車に加えて、6905号車の2両だ

 

大井川鐵道に搬入されたのは南海の6000系2両である。南海6000系は運行開始が1962(昭和37)年のこと。東急車輌製造が米バッド社のライセンス供与により最初に製造したオールステンレス車体の東急7000系(初代)と同じ年に、東急車両製造が造った電車だった。ちなみに7000系は車体が18m、南海6000系はオールステンレス製20m車として国内初の電車でもあった。

 

オールステンレスの車体は、東急7000系の例もあるように、老朽化の度合が鋼製車両に比べて低く、長く使える利点がある。大井川鐵道では、しばらく改造などに時間をかけてから登場となるだろうが、この後に紹介する元近鉄の電車に変って走ることになりそうである。

 

かつて同じ高野線を走った電車が、他の鉄道会社で再び顔を合わせる。鉄道ファンとしてはなかなか興味深い光景に出会えそうだ。

 

【注目の譲渡車両②】近鉄の特急オリジナル色がここでは健在!

◆静岡県 大井川鐵道16000系(元近鉄16000系)

↑大井川沿いを走る大井川鐵道16000系。近鉄から2両×3編成がやってきたが、すでに1編成が走るのみとなっている

 

大井川鐵道の旅客輸送を長年、支えてきたのが元南海の21000系とともに、16000系である。16000系は元近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の16000系にあたる。近鉄16000系は、狭軌幅の南大阪線・吉野線向けに造られた電車で、同線初の特急用電車でもあった。1965(昭和40)年3月から走り始めている。

 

計9編成20両が増備され、南大阪線・吉野線の特急として長年、活躍し続けてきた。車体更新が行われ、今も一部の編成が残り、走り続けている。

 

大井川鐵道へやってきたのは、初期に製造されたタイプで、1997(平成9)年に第1・第2編成が、さらに2002(平成14)年に第3編成が譲渡された。すでに第1編成は引退、第2編成が休車となっている。第3編成のみが現役で、南海の6000系は、休車となっている第2編成に代わって走り出すとされる。

 

本家の近鉄16000系は近年に大規模な車体更新が行われ、同時に車体カラーも一新されつつある。近鉄の伝統だったオレンジ色と紺色の特急色で塗られた車両が消えつつある。大井川鐵道の16000系は、そうした近鉄の伝統を残した貴重な車両となりつつある。

【注目の譲渡車両③】電車ではないが今や貴重な存在の機関車

◆静岡県 大井川鐵道ED500形(元大阪窯業セメントいぶき500形)

↑SL列車の後押しを行うED500形電気機関車。側面に「いぶき501」の文字が入る。大井川鐵道に移籍後、前照灯などが変更されている

 

大井川鐵道には興味深い譲渡車両が走っている。主にSL列車の後押しに使われているED500形電気機関車である。

 

ED500形の出身は大阪窯業(おおさかようぎょう)セメントという会社だ。大阪窯業セメントという名前の会社はすでにないが、会社名が変わり現在は住友大阪セメントとして存続している。ED500形は大阪窯業セメントいぶき500形で、1956(昭和31)年の製造、伊吹工場の専用線用に導入された。同専用線を使った輸送は1999(平成11)年でトラック輸送に切り替えられたため、同年、大井川鐵道へ2両が譲渡されたのだった。

 

大井川鐵道へやってきた以降に、三岐鉄道へ貸し出された期間があったものの、ED500形501号機のみ戻り、大井川鐵道で使用されている。西武鉄道出身のE31形とは異なる、こげ茶色の渋いいでたちの電気機関車でレトロ感満点だ。

↑1999年当時の大阪セメント伊吹工場の専用線。筆者は最終年に訪れていたが、粘って機関車も撮影しておくのだったと後悔している

 

【注目の譲渡車両④】元近鉄の軽便路線の電車が装いを一新

◆三重県 三岐鉄道北勢線270系(元近鉄270系)

↑三岐鉄道北勢線の主力車両270系。線路幅にあわせ小さめの車体となっている。270系の全車が黄色ベースの三岐カラーで走る

 

国内の在来線の多くが1067mmの狭軌幅を利用している。かつては全国を走った軽便鉄道(けいべんてつどう)は、さらに狭い762mmだった。今もこの762mmの線路幅の路線がある。三岐鉄道北勢線と、このあとに紹介する四日市あすなろう鉄道、そして黒部峡谷鉄道の3つの路線である。線路幅が狭いということは、それに合わせて電車もコンパクトになる。

 

三重県内を走る北勢線と、四日市あすなろう鉄道の2路線は、かつて近鉄の路線だった。三岐鉄道北勢線の歴史は古い。開業は1914(大正3)年と100年以上も前のことになる。軽便鉄道の多くがそうだったように資本力に乏しかった。開業させたのは北勢鉄道という会社だったが、その後に北勢電気鉄道→三重交通→三重電気鉄道を経て、1965(昭和40)年に近鉄の路線となった。

 

2000年代に入って、近鉄が廃線を表明したこともあり、地元自治体が存続運動に乗り出し、2003(平成15)年に三岐鉄道に譲渡された。元近鉄の路線だった期間が長かったこともあり、主力となる270系は元近鉄270系。1977(昭和52)年生まれの電車だ。

 

さらに古参の200系や、中間車の130形や140形は、前身の三重交通が新造した電車だ。ともに三岐鉄道に引き継がれた後には、黄色とオレンジの三岐鉄道色となり、より華やかな印象の電車に生まれ変わっている。そのうち1959(昭和34)年生まれの200系は、三重交通当時の深緑色とクリーム2色の塗装に変更された。軽便鉄道という線路幅は、国内では貴重であり、ちょっと不思議な乗り心地が楽しめる。

 

【関連記事】
762mm幅が残った謎三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

 

【注目の譲渡車両⑤】元近鉄電車だがほとんど新造に近い姿に

◆三重県 四日市あすなろう鉄道260系(元近鉄260系)

↑四日市あすなろう鉄道の260系。ブルーと黄緑色の2色の電車が走る。座席の持ち手部分はハート型と、おしゃれな造りになっている

 

四日市あすなろう鉄道も、前述したように762mmの線路幅だ。始まりは1912(大正元)年と古い。三重軌道という会社により部分開業。大正期に現在の路線ができ上がっている。その後に三重鉄道→三重交通→三重電気鉄道を経て、1965(昭和40)年に、近鉄の内部線(うつべせん)と八王子線となった。

 

長年、近鉄の路線だったが、近鉄が廃止方針を打ち出したことから、公有民営方式での存続を模索、2015(平成27)年4月から四日市あすなろう鉄道の路線となった。

 

電車は260系が走る。元近鉄260系で、近鉄が1982(昭和57)年に導入した。車体は三岐鉄道の北勢線を走る270系を基にしていて、その長さは11.2m〜15.6mとまちまち。長年パステルカラーで走っていたが、四日市あすなろう鉄道となって、電車をリニューアル。現在は、すべて車両が冷房化、車体が更新された。中間車の一部を新造したが、この新造車は鉄道友の会ローレル賞を受賞している。

 

元の近鉄車はかなりの古参車両といった趣だったが、電車が更新されたことにより、新車のような輝きに。車内の照明はLEDを利用、化粧板は木目調とおしゃれ。リニューアルにより大きく生まれ変わっている。

 

【注目の譲渡車両⑥】元近鉄路線に残る近鉄電車が徐々に減少中

◆三重県・岐阜県 養老鉄道600系・620系(元近鉄1600系など)

↑養老鉄道養老線を走る元近鉄車両。正面に524号車という数字があるが形式は620系。近鉄マルーン一色の伝統色で走る

 

三重県の桑名駅から岐阜県の大垣駅を経由して揖斐駅(いびえき)まで走る養老鉄道養老線。近鉄の元路線で、さらに養老鉄道が、近鉄グループホールディングの傘下の会社ということもあり長年、近鉄の電車が使われてきた。

 

これまで走ってきたのが近鉄600系・620系で、さまざまな種車を元に改造され、1992(平成4)年に養老線に導入されている。養老鉄道となった2007(平成19)年以降も走り続けてきた。そんな養老鉄道に、東急の7700系15両が2019年に導入され、状況がかわりつつある。それまで600系、610系、620系と、3タイプが走っていたが、すでに610系の全編成が引退となった。

 

600系と620系が16両ほど残る。従来の近鉄マルーン色の車体だけでなく、オレンジ色に白線のラビットカラー、赤地に白線の車両と、車体カラーはいろいろで、元東急車とともに沿線をカラフルに彩る。東急7700系は15両で導入は終了しているが、その後に、どのような電車が導入されるのか、元近鉄車は今後どうなるのか、気になる路線となっている。

 

【注目の譲渡車両⑦】京阪の名物「テレビカー」が富山の“顔”に

◆富山県 富山地方鉄道10030形(元京阪3000系/初代)

↑立山山麓などの山々を背景に走る2両編成の10030形。車両数が多いため富山地方鉄道の路線では良く出会う電車となっている

 

富山平野を走る富山地方鉄道の複数の路線。自社発注の電車、元西武鉄道の電車、元東急電鉄の電車、といろいろな電車が走りなかなか賑やかである。

 

そんななか、ややふくよかな姿形で走る電車を見かける。富山地方鉄道での形式名は10030形。形式名を聞いただけでは、元の電車が何であるかは分かりにくいが、この電車は京阪電気鉄道(以降「京阪」と略)の元3000系(初代)だ。

 

京阪3000系は、京阪の車両史の中でも革新的な電車だった。製造されたのは1971(昭和46)年からで、大阪と京都を結ぶ特急専用車両として生まれた。大阪と京都を結ぶ路線はJR東海道本線、阪急京都線などライバルが多い。そのため乗車率を少しでも高めるべく登場した電車で、オールクロスシート、冷房を装備、後には2階建ての中間車を連結した。また編成の一部車両の車内にテレビを備えていたことから「テレビカー」とも呼ばれた。40年にわたり走り続け2013年3月に京阪の路線から引退している。

 

そんな京阪3000系を大量に引き取ったのが富山地方鉄道だった。1990(平成2)年から17両が移籍している。ちなみに大井川鐵道にも2両が移籍したが、こちらはすでに引退している。

↑2階建て中間車を連結して走る10030形「ダブルデッカーエキスプレス」。車体カラーもヘッドマークも京阪当時を再現した編成だ

 

京阪は線路幅が1435mm、富山地方鉄道の路線は1067mmという違いもあり、入線の際には台車を履き替えるなど改造を施している。

 

富山地方鉄道に多くの元3000系が移籍したこともあり、同鉄道ではよく見かける存在となっている。移籍した中で異色なのが3000系の8831号中間車で、2013年に譲渡された。この8831号中間車は、富山地方鉄道の10030形では唯一の2階建て車両だ。他の10030形は2両編成だが、この8831号車を組み込んだ編成は3両編成となり、また塗装も京阪当時の色に塗り替えられた。編成名も「ダブルデッカーエキスプレス」となり、有料特急列車に使われ走り続けている。

 

編成こそ、京阪当時のような長大ではないが、3両編成になろうとも、往時の姿が楽しめるのは、鉄道ファンとしてはうれしいところだ。

 

【注目の譲渡車両⑧】意外な出身のえちぜん鉄道の主力電車

◆福井県 えちぜん鉄道MC6001形(元愛知環状鉄道100形・200形・300形)

↑えちぜん鉄道の勝山永平寺線を走る6101形。元愛知環状鉄道の電車で前後に運転台付けるなど改造され、同鉄道の主力車両として生かされる

 

福井県内を走るえちぜん鉄道。勝山永平寺線と三国芦原線の2本の路線に列車を走らせる。両線とも歴史は古い。勝山永平寺線(旧越前本線)の開業が1914(大正3)年のこと、三国芦原線が1928(昭和3)年に一部区間が開業している。両線は創業当時こそ別会社だったが、太平洋戦争中に京福電気鉄道に引き継がれている。

 

長年にわたり両線の運行を続けてきた京福電気鉄道だが、経営状態が徐々に悪化していき、2003(平成15)年に第三セクター経営方式のえちぜん鉄道が路線の譲渡を受け、今に至っている。譲渡以前の電車、路線の設備は、かなり旧態依然としていて、2000(平成12)年、2001(平成13)年と2年続きで、電車の正面衝突事故が起こっている。2回目の事故後の2001年から、えちぜん鉄道の路線に移管された2003年にかけて全線運行休止となっていた。

 

こうした経緯もあり、えちぜん鉄道になるにあたって、急きょ、古い電車の入換えが行われた。ちょうど同じ頃、愛知県内を走る愛知環状鉄道の100系が、新型車への切替え時期で、引退間近だった。この100系を引き取ったのがえちぜん鉄道だった。

 

100系は愛知環状鉄道の路線開業時の1988(昭和63)年に導入された。細かくみると3形式に分けられる。2両編成の電車が100形と200形、増結用の300形がある。えちぜん鉄道では計23両を引き取り、改造を施して入線させている。制御付随車だった200形は、運転台のみを移設用に使われた後に廃車となっている。

 

えちぜん鉄道での形式名はMC6001形とMC6101形の計14両で、同形式は1両で走れることから利用客が少ない時間帯などに有効に生かされている。

 

ちなみにえちぜん鉄道には他に2両編成のMC7000形が12両ほど走っているが、こちらは元JR東海の119系で、飯田線での運行終了後に、改造され、えちぜん鉄道に譲渡されている。両タイプは、正面の姿がほぼ同じで、見分けが付きにくいが、側面の乗降扉が1枚扉ならばMC6001形、MC6101形、2枚扉ならばMC7000形である。

 

【注目の譲渡車両⑨】全車両が阪急電鉄からの譲渡車の能勢電鉄

大阪平野の北部に妙見線(みょうけんせん)と日生線を走らせる能勢電鉄(のせでんてつ)。路線の開業は1913(大正2)年と古い。ところが開業後の翌年に早くも破産宣告を下されるなど、多難な創業期だった。1922(大正11)年に阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の資本参加以降は、阪急色が強まり、現在は、阪急電鉄の子会社となっている。

 

阪急の子会社であり、さらに線路がつながり阪急路線内に直通電車が走るということもあり、走る電車はすべて旧阪急の電車だ。子会社とはいえ、異なる会社に移籍しているものの、これまで見てきた譲渡車両と同一には評しにくい部分もある。とはいえ今では親会社の路線で見ることができない車両も走り、阪急ファンの注目度が高い路線となっている。ここでは希少な車両のみ触れておこう。

 

◆大阪府・兵庫県 能勢電鉄1700系(元阪急2000系)

↑能勢電鉄では最も古参車両の1700系だが徐々に車両数が減りつつある。写真の1753編成(1703号車)は2019年5月に廃車となった

 

阪急の2000系として登場した電車で、誕生は1960(昭和35)年のこと。阪急での2000系単独編成は1992(平成4)年に運用が終了、他形式の中間車としてその後も使われていたが、2014年に姿を消している。

 

2000系の能勢電鉄への譲渡は1983(昭和58)からとかなり古く、1500系として走り始めた。その後に2000系を種車とした1700系が生まれ、1990(平成2)年から走り始めている。かなりの古参電車ということもあり、先輩格の1500系はすべてが引退、後輩にあたる1700系も近年は徐々に運用終了となりつつある。

 

◆大阪府・兵庫県 能勢電鉄3100形(元阪急3100系)

↑能勢電鉄でわずか4両×1編成のみの3100系。阪急マルーンの塗装に加えて、正面にステンレス製の飾り帯を付けて走る

 

能勢電鉄の希少車といえば3100系が代表格だろう。能勢3100系の元は阪急の3100系だ。同編成は1997(平成9)年に能勢電鉄に譲渡された。

 

元となる阪急の3100系は宝塚線用に造られた形式で、ほぼ同形式の神戸線用の3000系は1964(昭和39)年に登場している。以降、両形式あわせて154両と多くの車両が造られた。1960年代半ば以降、阪急の神戸線・宝塚線の輸送を支えた電車と言って良いだろう。長年にわたり走り続けてきたが、2020年2月を最後に阪急での運行を終了している。

 

阪急の代表的な車両だった3100系が今も能勢電鉄を走り続けている。車両数は少なくわずかに4両。能勢電鉄に入線してから、正面の尾灯付近にステンレス製の飾り帯を付け、能勢電鉄では目立つ電車となっている。

 

ほか能勢電鉄には5100系(元阪急5100系)、6000系(元阪急6000系)、7200系(元阪急7000系・一部6000系付随車)が移籍している。

 

【注目の譲渡車両⑩】変貌ぶりに驚かされる和歌山電鐵の電車

◆和歌山県 和歌山電鐵2270系(元南海22000系)

↑和歌山電鐵の「たま電車」。貴志駅の初代名物駅長のたまにちなんだ車両で、車体全体にたまのイラスト、正面がたまの顔となっている

 

和歌山駅〜貴志駅間を結ぶ貴志川線(きしがわせん)を運営する和歌山電鐵。岡山市を走る岡山電気軌道の子会社であり、両備グループの一員である。2006(平成18)年4月から、南海電気鉄道の貴志川線を引き継いで電車の運行を行う。

 

すでに14年の年月がたち、ネコ駅長、さらに「たま電車」「おもちゃ電車」などユニークな電車を走らせていることなど、全国にその名前が広まり、訪れる人が絶えない。ここでは、南海からの譲渡車両を中心に見ていきたい。

 

和歌山電鐵の2270系は元南海の22000系である。22000系は南海の高野線の混雑を緩和するための増結用車両として1969(昭和44)年に誕生した。高野線の看板電車は「ズームカー」と呼ばれたが、先輩格の21000系(大井川鐵道の章で紹介)に対して、混雑区間の増結用の車両ということで、「通勤ズーム」、さらに丸みがやや薄れたので「角ズーム」と呼ばれた。

 

南海は長く電車を使い続ける傾向があることもあり、同系統は今も、2200系や2230系に改造され、南海の路線で走っている。ちなみに高野線を走る観光列車2200系「天空」も22000系を改造した電車だ。

↑地元・和歌山の特産「南高梅」から作られる梅干しをモチーフに生まれた「うめ星電車」。和歌山電鐵運行開始10周年を記念して走り始めた

 

和歌山電鐵には同22000系の2両×6編成が、路線の引き継ぎに合わせて譲渡された。そして水戸岡鋭治氏のデザインにより刷新された。1編成ごとに外観や車内の設備を変更し、「たま電車」、「おもちゃ電車」、「うめ星電車」、「いちご電車」などに生まれ変わっている。

 

電車をここまで思いきったリニューアルさせる、いわば水戸岡ワールド全開の電車たち。やはり地方の路線を存続させるためには、こうした思いきった策が必要であることを、今さらながら示してくれた成功例と言って良いだろう。

 

【注目の譲渡車両⑪】元名古屋の地下鉄電車が讃岐路を走る

◆香川県 高松琴平鉄道600形(名古屋市交通局250形・700形など)

↑志度線の600形が瀬戸内海沿いを走る。元の車両が地下鉄用の中間車を改造されたこともあり、平坦な正面の形をしている

 

最後にちょっと珍しい譲渡車両が四国を走るので見ておこう。高松琴平電気鉄道(以下「琴電」と略)は高松を中心に、琴平線、長尾線、志度線(しどせん)の3路線を走らせている。この琴電に、他所であまり見かけない電車が走っている。

 

琴電の主力の電車といえば、主に元京浜急行電鉄の電車が多い。1070形(元京急6000形)、1080形(元京急1000形)、1200形(元京急700形)、1300形(元京急1000形)などといった具合だ。さらに元京王電鉄の5000系(初代)が1100形として走る。

 

琴平線、長尾線、志度線に正面が平坦で、車体の長さが他の電車よりも短い電車が走っている。この電車はどこからやってきた電車なのだろうか。この電車は琴電600形で、元名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の250形などだ。

 

名古屋市営地下鉄の東山線を走っていた電車で、1965(昭和40)年の登場時には、それまで東山線を走っていた100形、200形の中間増備車として64両が製造された。100形、200形に比べて後から造られたこともあり、この中間車を活かそうと、生まれたのが250形だった。250形は地下鉄車両としては異色の中間車に運転台を付けた電車だった。

 

そのために正面が平坦な形となっている。250形は1983(昭和58)年から18両が改造を受け、東山線を走った。1999(平成11)年まで使われた後、琴電に譲渡されている。

↑車体の長さが15mと短い長尾線の600形。各扉に乗降用のステップがついているところが長尾線、琴平線を走る600形の特徴

 

名古屋市営地下鉄250形はサードレールから電気を取り入れる方式の電車だったために、琴電に移籍するにあたって、パンタグラフを取り付け、さらに冷房装置を付けるなどの改造工事が行われている。ほか名古屋市営地下鉄の700形・1600形・1700形・1800形・1900形の同形タイプの電車も運転台を取り付けられて、琴電600形となった。ちなみに名古屋市営地下鉄の東山線と、琴電の路線の線路幅は同じ1435mmで琴電用に改造は必要なものの、共通点があったこともこの電車が譲渡された一つの要因となったようだ。

 

琴平線や長尾線を走る電車の大半は車体の長さが18mの車両だ。しかし、600形のみ車体の長さが15.5mと短い。同路線を走る電車の中ではかなり特異な存在となっている。

 

◆香川県 高松琴平鉄道700形(名古屋市交通局300形・1200形)

↑志度線を走る700形。600形と比べると丸い姿で、地下鉄を走った当時の姿を色濃く残す。前照灯の形状といいレトロ感満点の電車だ

 

志度線には平坦な600形が正面に比べて、丸い顔立ちをしている電車も走っている。こちらは700形で、名古屋市交通局の300形と1200形が種車となっている。

 

300形は250形と同じく東山線を走った電車で、1200形は名城線・名港線を走っていた。この先頭車が琴電用に改造されて使われている。丸みを帯びた独特な姿で、琴電に入線するにあたって冷房装置を取り付けるために、名古屋時代に比べると、前頭部がやや削られた状態になっている。それでもかなり丸みを帯びたレトロな形状の電車で、当節あまり見かけない趣のある顔立ちとなっている。

希少車両が多い東海・関西出身の「譲渡車両」の11選!

〜〜東海・関西圏を走った私鉄電車のその後5〜〜

 

譲渡車両紹介の最終回は、東海・関西圏から他の鉄道会社へ移籍した電車を見ていくことにしよう。

 

東海・関西圏を走った電車の譲渡例は意外に少なめ。少ないものの、かなり個性的な車両が揃う。本家ではすでに引退し、他社で第二の人生を送る電車も目立つ。そろそろ引退が近い電車も表れつつあり、気になる存在となっている。

 

【関連記事】
今も各地を働き続ける「譲渡車両」8選元西武電車の場合

 

【注目の譲渡車両①】今や大井川鐵道だけに残った関西の“名優”

◆静岡県 大井川鐵道21000系(元南海21000系)

↑昭和生まれの電車らしい姿を残す大井川鐵道の21000系。“名車”もそろそろ引退となるのだろうか気になるところだ

 

大井川鐵道を走る21000系は、元は南海電気鉄道の21000系(登場時は21001系)である。南海高野線の急勾配を上り下りする急行・特急用に造られた。 “ズームカー”、または“丸ズーム”の愛称で親しまれた電車で、製造開始は1958(昭和33)年のこと。誕生してからすでに60年以上となる。

 

正面は、国鉄80系を彷彿させる“湘南タイプ”の典型的な姿形。その後の車両よりも、運転席の窓が小さめ、窓の中央には太めの仕切りがある。湘南タイプの後年に生まれた車両にくらべれば、運転席からの視界があまり良くなさそうだ。

 

南海では1997(平成9)年で引退、大井川鐵道へは1994(平成6)年と1997年に2両×2編成が譲渡された。一畑電車にも譲渡されたが、こちらは2017年に引退している。21000系は大井川鐵道に残った車両のみとなっている。

 

さて、大井川鐵道に“後輩”となる車両の搬入が最近あった。

↑南海高野線を走る6000系6016号車。大井川鐵道へやって来たのは写真の6016号車に加えて、6905号車の2両だ

 

大井川鐵道に搬入されたのは南海の6000系2両である。南海6000系は運行開始が1962(昭和37)年のこと。東急車輌製造が米バッド社のライセンス供与により最初に製造したオールステンレス車体の東急7000系(初代)と同じ年に、東急車両製造が造った電車だった。ちなみに7000系は車体が18m、南海6000系はオールステンレス製20m車として国内初の電車でもあった。

 

オールステンレスの車体は、東急7000系の例もあるように、老朽化の度合が鋼製車両に比べて低く、長く使える利点がある。大井川鐵道では、しばらく改造などに時間をかけてから登場となるだろうが、この後に紹介する元近鉄の電車に変って走ることになりそうである。

 

かつて同じ高野線を走った電車が、他の鉄道会社で再び顔を合わせる。鉄道ファンとしてはなかなか興味深い光景に出会えそうだ。

 

【注目の譲渡車両②】近鉄の特急オリジナル色がここでは健在!

◆静岡県 大井川鐵道16000系(元近鉄16000系)

↑大井川沿いを走る大井川鐵道16000系。近鉄から2両×3編成がやってきたが、すでに1編成が走るのみとなっている

 

大井川鐵道の旅客輸送を長年、支えてきたのが元南海の21000系とともに、16000系である。16000系は元近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の16000系にあたる。近鉄16000系は、狭軌幅の南大阪線・吉野線向けに造られた電車で、同線初の特急用電車でもあった。1965(昭和40)年3月から走り始めている。

 

計9編成20両が増備され、南大阪線・吉野線の特急として長年、活躍し続けてきた。車体更新が行われ、今も一部の編成が残り、走り続けている。

 

大井川鐵道へやってきたのは、初期に製造されたタイプで、1997(平成9)年に第1・第2編成が、さらに2002(平成14)年に第3編成が譲渡された。すでに第1編成は引退、第2編成が休車となっている。第3編成のみが現役で、南海の6000系は、休車となっている第2編成に代わって走り出すとされる。

 

本家の近鉄16000系は近年に大規模な車体更新が行われ、同時に車体カラーも一新されつつある。近鉄の伝統だったオレンジ色と紺色の特急色で塗られた車両が消えつつある。大井川鐵道の16000系は、そうした近鉄の伝統を残した貴重な車両となりつつある。

【注目の譲渡車両③】電車ではないが今や貴重な存在の機関車

◆静岡県 大井川鐵道ED500形(元大阪窯業セメントいぶき500形)

↑SL列車の後押しを行うED500形電気機関車。側面に「いぶき501」の文字が入る。大井川鐵道に移籍後、前照灯などが変更されている

 

大井川鐵道には興味深い譲渡車両が走っている。主にSL列車の後押しに使われているED500形電気機関車である。

 

ED500形の出身は大阪窯業(おおさかようぎょう)セメントという会社だ。大阪窯業セメントという名前の会社はすでにないが、会社名が変わり現在は住友大阪セメントとして存続している。ED500形は大阪窯業セメントいぶき500形で、1956(昭和31)年の製造、伊吹工場の専用線用に導入された。同専用線を使った輸送は1999(平成11)年でトラック輸送に切り替えられたため、同年、大井川鐵道へ2両が譲渡されたのだった。

 

大井川鐵道へやってきた以降に、三岐鉄道へ貸し出された期間があったものの、ED500形501号機のみ戻り、大井川鐵道で使用されている。西武鉄道出身のE31形とは異なる、こげ茶色の渋いいでたちの電気機関車でレトロ感満点だ。

↑1999年当時の大阪セメント伊吹工場の専用線。筆者は最終年に訪れていたが、粘って機関車も撮影しておくのだったと後悔している

 

【注目の譲渡車両④】元近鉄の軽便路線の電車が装いを一新

◆三重県 三岐鉄道北勢線270系(元近鉄270系)

↑三岐鉄道北勢線の主力車両270系。線路幅にあわせ小さめの車体となっている。270系の全車が黄色ベースの三岐カラーで走る

 

国内の在来線の多くが1067mmの狭軌幅を利用している。かつては全国を走った軽便鉄道(けいべんてつどう)は、さらに狭い762mmだった。今もこの762mmの線路幅の路線がある。三岐鉄道北勢線と、このあとに紹介する四日市あすなろう鉄道、そして黒部峡谷鉄道の3つの路線である。線路幅が狭いということは、それに合わせて電車もコンパクトになる。

 

三重県内を走る北勢線と、四日市あすなろう鉄道の2路線は、かつて近鉄の路線だった。三岐鉄道北勢線の歴史は古い。開業は1914(大正3)年と100年以上も前のことになる。軽便鉄道の多くがそうだったように資本力に乏しかった。開業させたのは北勢鉄道という会社だったが、その後に北勢電気鉄道→三重交通→三重電気鉄道を経て、1965(昭和40)年に近鉄の路線となった。

 

2000年代に入って、近鉄が廃線を表明したこともあり、地元自治体が存続運動に乗り出し、2003(平成15)年に三岐鉄道に譲渡された。元近鉄の路線だった期間が長かったこともあり、主力となる270系は元近鉄270系。1977(昭和52)年生まれの電車だ。

 

さらに古参の200系や、中間車の130形や140形は、前身の三重交通が新造した電車だ。ともに三岐鉄道に引き継がれた後には、黄色とオレンジの三岐鉄道色となり、より華やかな印象の電車に生まれ変わっている。そのうち1959(昭和34)年生まれの200系は、三重交通当時の深緑色とクリーム2色の塗装に変更された。軽便鉄道という線路幅は、国内では貴重であり、ちょっと不思議な乗り心地が楽しめる。

 

【関連記事】
762mm幅が残った謎三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

 

【注目の譲渡車両⑤】元近鉄電車だがほとんど新造に近い姿に

◆三重県 四日市あすなろう鉄道260系(元近鉄260系)

↑四日市あすなろう鉄道の260系。ブルーと黄緑色の2色の電車が走る。座席の持ち手部分はハート型と、おしゃれな造りになっている

 

四日市あすなろう鉄道も、前述したように762mmの線路幅だ。始まりは1912(大正元)年と古い。三重軌道という会社により部分開業。大正期に現在の路線ができ上がっている。その後に三重鉄道→三重交通→三重電気鉄道を経て、1965(昭和40)年に、近鉄の内部線(うつべせん)と八王子線となった。

 

長年、近鉄の路線だったが、近鉄が廃止方針を打ち出したことから、公有民営方式での存続を模索、2015(平成27)年4月から四日市あすなろう鉄道の路線となった。

 

電車は260系が走る。元近鉄260系で、近鉄が1982(昭和57)年に導入した。車体は三岐鉄道の北勢線を走る270系を基にしていて、その長さは11.2m〜15.6mとまちまち。長年パステルカラーで走っていたが、四日市あすなろう鉄道となって、電車をリニューアル。現在は、すべて車両が冷房化、車体が更新された。中間車の一部を新造したが、この新造車は鉄道友の会ローレル賞を受賞している。

 

元の近鉄車はかなりの古参車両といった趣だったが、電車が更新されたことにより、新車のような輝きに。車内の照明はLEDを利用、化粧板は木目調とおしゃれ。リニューアルにより大きく生まれ変わっている。

 

【注目の譲渡車両⑥】元近鉄路線に残る近鉄電車が徐々に減少中

◆三重県・岐阜県 養老鉄道600系・620系(元近鉄1600系など)

↑養老鉄道養老線を走る元近鉄車両。正面に524号車という数字があるが形式は620系。近鉄マルーン一色の伝統色で走る

 

三重県の桑名駅から岐阜県の大垣駅を経由して揖斐駅(いびえき)まで走る養老鉄道養老線。近鉄の元路線で、さらに養老鉄道が、近鉄グループホールディングの傘下の会社ということもあり長年、近鉄の電車が使われてきた。

 

これまで走ってきたのが近鉄600系・620系で、さまざまな種車を元に改造され、1992(平成4)年に養老線に導入されている。養老鉄道となった2007(平成19)年以降も走り続けてきた。そんな養老鉄道に、東急の7700系15両が2019年に導入され、状況がかわりつつある。それまで600系、610系、620系と、3タイプが走っていたが、すでに610系の全編成が引退となった。

 

600系と620系が16両ほど残る。従来の近鉄マルーン色の車体だけでなく、オレンジ色に白線のラビットカラー、赤地に白線の車両と、車体カラーはいろいろで、元東急車とともに沿線をカラフルに彩る。東急7700系は15両で導入は終了しているが、その後に、どのような電車が導入されるのか、元近鉄車は今後どうなるのか、気になる路線となっている。

 

【注目の譲渡車両⑦】京阪の名物「テレビカー」が富山の“顔”に

◆富山県 富山地方鉄道10030形(元京阪3000系/初代)

↑立山山麓などの山々を背景に走る2両編成の10030形。車両数が多いため富山地方鉄道の路線では良く出会う電車となっている

 

富山平野を走る富山地方鉄道の複数の路線。自社発注の電車、元西武鉄道の電車、元東急電鉄の電車、といろいろな電車が走りなかなか賑やかである。

 

そんななか、ややふくよかな姿形で走る電車を見かける。富山地方鉄道での形式名は10030形。形式名を聞いただけでは、元の電車が何であるかは分かりにくいが、この電車は京阪電気鉄道(以降「京阪」と略)の元3000系(初代)だ。

 

京阪3000系は、京阪の車両史の中でも革新的な電車だった。製造されたのは1971(昭和46)年からで、大阪と京都を結ぶ特急専用車両として生まれた。大阪と京都を結ぶ路線はJR東海道本線、阪急京都線などライバルが多い。そのため乗車率を少しでも高めるべく登場した電車で、オールクロスシート、冷房を装備、後には2階建ての中間車を連結した。また編成の一部車両の車内にテレビを備えていたことから「テレビカー」とも呼ばれた。40年にわたり走り続け2013年3月に京阪の路線から引退している。

 

そんな京阪3000系を大量に引き取ったのが富山地方鉄道だった。1990(平成2)年から17両が移籍している。ちなみに大井川鐵道にも2両が移籍したが、こちらはすでに引退している。

↑2階建て中間車を連結して走る10030形「ダブルデッカーエキスプレス」。車体カラーもヘッドマークも京阪当時を再現した編成だ

 

京阪は線路幅が1435mm、富山地方鉄道の路線は1067mmという違いもあり、入線の際には台車を履き替えるなど改造を施している。

 

富山地方鉄道に多くの元3000系が移籍したこともあり、同鉄道ではよく見かける存在となっている。移籍した中で異色なのが3000系の8831号中間車で、2013年に譲渡された。この8831号中間車は、富山地方鉄道の10030形では唯一の2階建て車両だ。他の10030形は2両編成だが、この8831号車を組み込んだ編成は3両編成となり、また塗装も京阪当時の色に塗り替えられた。編成名も「ダブルデッカーエキスプレス」となり、有料特急列車に使われ走り続けている。

 

編成こそ、京阪当時のような長大ではないが、3両編成になろうとも、往時の姿が楽しめるのは、鉄道ファンとしてはうれしいところだ。

 

【注目の譲渡車両⑧】意外な出身のえちぜん鉄道の主力電車

◆福井県 えちぜん鉄道MC6001形(元愛知環状鉄道100形・200形・300形)

↑えちぜん鉄道の勝山永平寺線を走る6101形。元愛知環状鉄道の電車で前後に運転台付けるなど改造され、同鉄道の主力車両として生かされる

 

福井県内を走るえちぜん鉄道。勝山永平寺線と三国芦原線の2本の路線に列車を走らせる。両線とも歴史は古い。勝山永平寺線(旧越前本線)の開業が1914(大正3)年のこと、三国芦原線が1928(昭和3)年に一部区間が開業している。両線は創業当時こそ別会社だったが、太平洋戦争中に京福電気鉄道に引き継がれている。

 

長年にわたり両線の運行を続けてきた京福電気鉄道だが、経営状態が徐々に悪化していき、2003(平成15)年に第三セクター経営方式のえちぜん鉄道が路線の譲渡を受け、今に至っている。譲渡以前の電車、路線の設備は、かなり旧態依然としていて、2000(平成12)年、2001(平成13)年と2年続きで、電車の正面衝突事故が起こっている。2回目の事故後の2001年から、えちぜん鉄道の路線に移管された2003年にかけて全線運行休止となっていた。

 

こうした経緯もあり、えちぜん鉄道になるにあたって、急きょ、古い電車の入換えが行われた。ちょうど同じ頃、愛知県内を走る愛知環状鉄道の100系が、新型車への切替え時期で、引退間近だった。この100系を引き取ったのがえちぜん鉄道だった。

 

100系は愛知環状鉄道の路線開業時の1988(昭和63)年に導入された。細かくみると3形式に分けられる。2両編成の電車が100形と200形、増結用の300形がある。えちぜん鉄道では計23両を引き取り、改造を施して入線させている。制御付随車だった200形は、運転台のみを移設用に使われた後に廃車となっている。

 

えちぜん鉄道での形式名はMC6001形とMC6101形の計14両で、同形式は1両で走れることから利用客が少ない時間帯などに有効に生かされている。

 

ちなみにえちぜん鉄道には他に2両編成のMC7000形が12両ほど走っているが、こちらは元JR東海の119系で、飯田線での運行終了後に、改造され、えちぜん鉄道に譲渡されている。両タイプは、正面の姿がほぼ同じで、見分けが付きにくいが、側面の乗降扉が1枚扉ならばMC6001形、MC6101形、2枚扉ならばMC7000形である。

 

【注目の譲渡車両⑨】全車両が阪急電鉄からの譲渡車の能勢電鉄

大阪平野の北部に妙見線(みょうけんせん)と日生線を走らせる能勢電鉄(のせでんてつ)。路線の開業は1913(大正2)年と古い。ところが開業後の翌年に早くも破産宣告を下されるなど、多難な創業期だった。1922(大正11)年に阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の資本参加以降は、阪急色が強まり、現在は、阪急電鉄の子会社となっている。

 

阪急の子会社であり、さらに線路がつながり阪急路線内に直通電車が走るということもあり、走る電車はすべて旧阪急の電車だ。子会社とはいえ、異なる会社に移籍しているものの、これまで見てきた譲渡車両と同一には評しにくい部分もある。とはいえ今では親会社の路線で見ることができない車両も走り、阪急ファンの注目度が高い路線となっている。ここでは希少な車両のみ触れておこう。

 

◆大阪府・兵庫県 能勢電鉄1700系(元阪急2000系)

↑能勢電鉄では最も古参車両の1700系だが徐々に車両数が減りつつある。写真の1753編成(1703号車)は2019年5月に廃車となった

 

阪急の2000系として登場した電車で、誕生は1960(昭和35)年のこと。阪急での2000系単独編成は1992(平成4)年に運用が終了、他形式の中間車としてその後も使われていたが、2014年に姿を消している。

 

2000系の能勢電鉄への譲渡は1983(昭和58)からとかなり古く、1500系として走り始めた。その後に2000系を種車とした1700系が生まれ、1990(平成2)年から走り始めている。かなりの古参電車ということもあり、先輩格の1500系はすべてが引退、後輩にあたる1700系も近年は徐々に運用終了となりつつある。

 

◆大阪府・兵庫県 能勢電鉄3100形(元阪急3100系)

↑能勢電鉄でわずか4両×1編成のみの3100系。阪急マルーンの塗装に加えて、正面にステンレス製の飾り帯を付けて走る

 

能勢電鉄の希少車といえば3100系が代表格だろう。能勢3100系の元は阪急の3100系だ。同編成は1997(平成9)年に能勢電鉄に譲渡された。

 

元となる阪急の3100系は宝塚線用に造られた形式で、ほぼ同形式の神戸線用の3000系は1964(昭和39)年に登場している。以降、両形式あわせて154両と多くの車両が造られた。1960年代半ば以降、阪急の神戸線・宝塚線の輸送を支えた電車と言って良いだろう。長年にわたり走り続けてきたが、2020年2月を最後に阪急での運行を終了している。

 

阪急の代表的な車両だった3100系が今も能勢電鉄を走り続けている。車両数は少なくわずかに4両。能勢電鉄に入線してから、正面の尾灯付近にステンレス製の飾り帯を付け、能勢電鉄では目立つ電車となっている。

 

ほか能勢電鉄には5100系(元阪急5100系)、6000系(元阪急6000系)、7200系(元阪急7000系・一部6000系付随車)が移籍している。

 

【注目の譲渡車両⑩】変貌ぶりに驚かされる和歌山電鐵の電車

◆和歌山県 和歌山電鐵2270系(元南海22000系)

↑和歌山電鐵の「たま電車」。貴志駅の初代名物駅長のたまにちなんだ車両で、車体全体にたまのイラスト、正面がたまの顔となっている

 

和歌山駅〜貴志駅間を結ぶ貴志川線(きしがわせん)を運営する和歌山電鐵。岡山市を走る岡山電気軌道の子会社であり、両備グループの一員である。2006(平成18)年4月から、南海電気鉄道の貴志川線を引き継いで電車の運行を行う。

 

すでに14年の年月がたち、ネコ駅長、さらに「たま電車」「おもちゃ電車」などユニークな電車を走らせていることなど、全国にその名前が広まり、訪れる人が絶えない。ここでは、南海からの譲渡車両を中心に見ていきたい。

 

和歌山電鐵の2270系は元南海の22000系である。22000系は南海の高野線の混雑を緩和するための増結用車両として1969(昭和44)年に誕生した。高野線の看板電車は「ズームカー」と呼ばれたが、先輩格の21000系(大井川鐵道の章で紹介)に対して、混雑区間の増結用の車両ということで、「通勤ズーム」、さらに丸みがやや薄れたので「角ズーム」と呼ばれた。

 

南海は長く電車を使い続ける傾向があることもあり、同系統は今も、2200系や2230系に改造され、南海の路線で走っている。ちなみに高野線を走る観光列車2200系「天空」も22000系を改造した電車だ。

↑地元・和歌山の特産「南高梅」から作られる梅干しをモチーフに生まれた「うめ星電車」。和歌山電鐵運行開始10周年を記念して走り始めた

 

和歌山電鐵には同22000系の2両×6編成が、路線の引き継ぎに合わせて譲渡された。そして水戸岡鋭治氏のデザインにより刷新された。1編成ごとに外観や車内の設備を変更し、「たま電車」、「おもちゃ電車」、「うめ星電車」、「いちご電車」などに生まれ変わっている。

 

電車をここまで思いきったリニューアルさせる、いわば水戸岡ワールド全開の電車たち。やはり地方の路線を存続させるためには、こうした思いきった策が必要であることを、今さらながら示してくれた成功例と言って良いだろう。

 

【注目の譲渡車両⑪】元名古屋の地下鉄電車が讃岐路を走る

◆香川県 高松琴平鉄道600形(名古屋市交通局250形・700形など)

↑志度線の600形が瀬戸内海沿いを走る。元の車両が地下鉄用の中間車を改造されたこともあり、平坦な正面の形をしている

 

最後にちょっと珍しい譲渡車両が四国を走るので見ておこう。高松琴平電気鉄道(以下「琴電」と略)は高松を中心に、琴平線、長尾線、志度線(しどせん)の3路線を走らせている。この琴電に、他所であまり見かけない電車が走っている。

 

琴電の主力の電車といえば、主に元京浜急行電鉄の電車が多い。1070形(元京急6000形)、1080形(元京急1000形)、1200形(元京急700形)、1300形(元京急1000形)などといった具合だ。さらに元京王電鉄の5000系(初代)が1100形として走る。

 

琴平線、長尾線、志度線に正面が平坦で、車体の長さが他の電車よりも短い電車が走っている。この電車はどこからやってきた電車なのだろうか。この電車は琴電600形で、元名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の250形などだ。

 

名古屋市営地下鉄の東山線を走っていた電車で、1965(昭和40)年の登場時には、それまで東山線を走っていた100形、200形の中間増備車として64両が製造された。100形、200形に比べて後から造られたこともあり、この中間車を活かそうと、生まれたのが250形だった。250形は地下鉄車両としては異色の中間車に運転台を付けた電車だった。

 

そのために正面が平坦な形となっている。250形は1983(昭和58)年から18両が改造を受け、東山線を走った。1999(平成11)年まで使われた後、琴電に譲渡されている。

↑車体の長さが15mと短い長尾線の600形。各扉に乗降用のステップがついているところが長尾線、琴平線を走る600形の特徴

 

名古屋市営地下鉄250形はサードレールから電気を取り入れる方式の電車だったために、琴電に移籍するにあたって、パンタグラフを取り付け、さらに冷房装置を付けるなどの改造工事が行われている。ほか名古屋市営地下鉄の700形・1600形・1700形・1800形・1900形の同形タイプの電車も運転台を取り付けられて、琴電600形となった。ちなみに名古屋市営地下鉄の東山線と、琴電の路線の線路幅は同じ1435mmで琴電用に改造は必要なものの、共通点があったこともこの電車が譲渡された一つの要因となったようだ。

 

琴平線や長尾線を走る電車の大半は車体の長さが18mの車両だ。しかし、600形のみ車体の長さが15.5mと短い。同路線を走る電車の中ではかなり特異な存在となっている。

 

◆香川県 高松琴平鉄道700形(名古屋市交通局300形・1200形)

↑志度線を走る700形。600形と比べると丸い姿で、地下鉄を走った当時の姿を色濃く残す。前照灯の形状といいレトロ感満点の電車だ

 

志度線には平坦な600形が正面に比べて、丸い顔立ちをしている電車も走っている。こちらは700形で、名古屋市交通局の300形と1200形が種車となっている。

 

300形は250形と同じく東山線を走った電車で、1200形は名城線・名港線を走っていた。この先頭車が琴電用に改造されて使われている。丸みを帯びた独特な姿で、琴電に入線するにあたって冷房装置を取り付けるために、名古屋時代に比べると、前頭部がやや削られた状態になっている。それでもかなり丸みを帯びたレトロな形状の電車で、当節あまり見かけない趣のある顔立ちとなっている。

希少車両が多い東海・関西出身の「譲渡車両」の11選!

〜〜東海・関西圏を走った私鉄電車のその後5〜〜

 

譲渡車両紹介の最終回は、東海・関西圏から他の鉄道会社へ移籍した電車を見ていくことにしよう。

 

東海・関西圏を走った電車の譲渡例は意外に少なめ。少ないものの、かなり個性的な車両が揃う。本家ではすでに引退し、他社で第二の人生を送る電車も目立つ。そろそろ引退が近い電車も表れつつあり、気になる存在となっている。

 

【関連記事】
今も各地を働き続ける「譲渡車両」8選元西武電車の場合

 

【注目の譲渡車両①】今や大井川鐵道だけに残った関西の“名優”

◆静岡県 大井川鐵道21000系(元南海21000系)

↑昭和生まれの電車らしい姿を残す大井川鐵道の21000系。“名車”もそろそろ引退となるのだろうか気になるところだ

 

大井川鐵道を走る21000系は、元は南海電気鉄道の21000系(登場時は21001系)である。南海高野線の急勾配を上り下りする急行・特急用に造られた。 “ズームカー”、または“丸ズーム”の愛称で親しまれた電車で、製造開始は1958(昭和33)年のこと。誕生してからすでに60年以上となる。

 

正面は、国鉄80系を彷彿させる“湘南タイプ”の典型的な姿形。その後の車両よりも、運転席の窓が小さめ、窓の中央には太めの仕切りがある。湘南タイプの後年に生まれた車両にくらべれば、運転席からの視界があまり良くなさそうだ。

 

南海では1997(平成9)年で引退、大井川鐵道へは1994(平成6)年と1997年に2両×2編成が譲渡された。一畑電車にも譲渡されたが、こちらは2017年に引退している。21000系は大井川鐵道に残った車両のみとなっている。

 

さて、大井川鐵道に“後輩”となる車両の搬入が最近あった。

↑南海高野線を走る6000系6016号車。大井川鐵道へやって来たのは写真の6016号車に加えて、6905号車の2両だ

 

大井川鐵道に搬入されたのは南海の6000系2両である。南海6000系は運行開始が1962(昭和37)年のこと。東急車輌製造が米バッド社のライセンス供与により最初に製造したオールステンレス車体の東急7000系(初代)と同じ年に、東急車両製造が造った電車だった。ちなみに7000系は車体が18m、南海6000系はオールステンレス製20m車として国内初の電車でもあった。

 

オールステンレスの車体は、東急7000系の例もあるように、老朽化の度合が鋼製車両に比べて低く、長く使える利点がある。大井川鐵道では、しばらく改造などに時間をかけてから登場となるだろうが、この後に紹介する元近鉄の電車に変って走ることになりそうである。

 

かつて同じ高野線を走った電車が、他の鉄道会社で再び顔を合わせる。鉄道ファンとしてはなかなか興味深い光景に出会えそうだ。

 

【注目の譲渡車両②】近鉄の特急オリジナル色がここでは健在!

◆静岡県 大井川鐵道16000系(元近鉄16000系)

↑大井川沿いを走る大井川鐵道16000系。近鉄から2両×3編成がやってきたが、すでに1編成が走るのみとなっている

 

大井川鐵道の旅客輸送を長年、支えてきたのが元南海の21000系とともに、16000系である。16000系は元近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の16000系にあたる。近鉄16000系は、狭軌幅の南大阪線・吉野線向けに造られた電車で、同線初の特急用電車でもあった。1965(昭和40)年3月から走り始めている。

 

計9編成20両が増備され、南大阪線・吉野線の特急として長年、活躍し続けてきた。車体更新が行われ、今も一部の編成が残り、走り続けている。

 

大井川鐵道へやってきたのは、初期に製造されたタイプで、1997(平成9)年に第1・第2編成が、さらに2002(平成14)年に第3編成が譲渡された。すでに第1編成は引退、第2編成が休車となっている。第3編成のみが現役で、南海の6000系は、休車となっている第2編成に代わって走り出すとされる。

 

本家の近鉄16000系は近年に大規模な車体更新が行われ、同時に車体カラーも一新されつつある。近鉄の伝統だったオレンジ色と紺色の特急色で塗られた車両が消えつつある。大井川鐵道の16000系は、そうした近鉄の伝統を残した貴重な車両となりつつある。

【注目の譲渡車両③】電車ではないが今や貴重な存在の機関車

◆静岡県 大井川鐵道ED500形(元大阪窯業セメントいぶき500形)

↑SL列車の後押しを行うED500形電気機関車。側面に「いぶき501」の文字が入る。大井川鐵道に移籍後、前照灯などが変更されている

 

大井川鐵道には興味深い譲渡車両が走っている。主にSL列車の後押しに使われているED500形電気機関車である。

 

ED500形の出身は大阪窯業(おおさかようぎょう)セメントという会社だ。大阪窯業セメントという名前の会社はすでにないが、会社名が変わり現在は住友大阪セメントとして存続している。ED500形は大阪窯業セメントいぶき500形で、1956(昭和31)年の製造、伊吹工場の専用線用に導入された。同専用線を使った輸送は1999(平成11)年でトラック輸送に切り替えられたため、同年、大井川鐵道へ2両が譲渡されたのだった。

 

大井川鐵道へやってきた以降に、三岐鉄道へ貸し出された期間があったものの、ED500形501号機のみ戻り、大井川鐵道で使用されている。西武鉄道出身のE31形とは異なる、こげ茶色の渋いいでたちの電気機関車でレトロ感満点だ。

↑1999年当時の大阪セメント伊吹工場の専用線。筆者は最終年に訪れていたが、粘って機関車も撮影しておくのだったと後悔している

 

【注目の譲渡車両④】元近鉄の軽便路線の電車が装いを一新

◆三重県 三岐鉄道北勢線270系(元近鉄270系)

↑三岐鉄道北勢線の主力車両270系。線路幅にあわせ小さめの車体となっている。270系の全車が黄色ベースの三岐カラーで走る

 

国内の在来線の多くが1067mmの狭軌幅を利用している。かつては全国を走った軽便鉄道(けいべんてつどう)は、さらに狭い762mmだった。今もこの762mmの線路幅の路線がある。三岐鉄道北勢線と、このあとに紹介する四日市あすなろう鉄道、そして黒部峡谷鉄道の3つの路線である。線路幅が狭いということは、それに合わせて電車もコンパクトになる。

 

三重県内を走る北勢線と、四日市あすなろう鉄道の2路線は、かつて近鉄の路線だった。三岐鉄道北勢線の歴史は古い。開業は1914(大正3)年と100年以上も前のことになる。軽便鉄道の多くがそうだったように資本力に乏しかった。開業させたのは北勢鉄道という会社だったが、その後に北勢電気鉄道→三重交通→三重電気鉄道を経て、1965(昭和40)年に近鉄の路線となった。

 

2000年代に入って、近鉄が廃線を表明したこともあり、地元自治体が存続運動に乗り出し、2003(平成15)年に三岐鉄道に譲渡された。元近鉄の路線だった期間が長かったこともあり、主力となる270系は元近鉄270系。1977(昭和52)年生まれの電車だ。

 

さらに古参の200系や、中間車の130形や140形は、前身の三重交通が新造した電車だ。ともに三岐鉄道に引き継がれた後には、黄色とオレンジの三岐鉄道色となり、より華やかな印象の電車に生まれ変わっている。そのうち1959(昭和34)年生まれの200系は、三重交通当時の深緑色とクリーム2色の塗装に変更された。軽便鉄道という線路幅は、国内では貴重であり、ちょっと不思議な乗り心地が楽しめる。

 

【関連記事】
762mm幅が残った謎三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

 

【注目の譲渡車両⑤】元近鉄電車だがほとんど新造に近い姿に

◆三重県 四日市あすなろう鉄道260系(元近鉄260系)

↑四日市あすなろう鉄道の260系。ブルーと黄緑色の2色の電車が走る。座席の持ち手部分はハート型と、おしゃれな造りになっている

 

四日市あすなろう鉄道も、前述したように762mmの線路幅だ。始まりは1912(大正元)年と古い。三重軌道という会社により部分開業。大正期に現在の路線ができ上がっている。その後に三重鉄道→三重交通→三重電気鉄道を経て、1965(昭和40)年に、近鉄の内部線(うつべせん)と八王子線となった。

 

長年、近鉄の路線だったが、近鉄が廃止方針を打ち出したことから、公有民営方式での存続を模索、2015(平成27)年4月から四日市あすなろう鉄道の路線となった。

 

電車は260系が走る。元近鉄260系で、近鉄が1982(昭和57)年に導入した。車体は三岐鉄道の北勢線を走る270系を基にしていて、その長さは11.2m〜15.6mとまちまち。長年パステルカラーで走っていたが、四日市あすなろう鉄道となって、電車をリニューアル。現在は、すべて車両が冷房化、車体が更新された。中間車の一部を新造したが、この新造車は鉄道友の会ローレル賞を受賞している。

 

元の近鉄車はかなりの古参車両といった趣だったが、電車が更新されたことにより、新車のような輝きに。車内の照明はLEDを利用、化粧板は木目調とおしゃれ。リニューアルにより大きく生まれ変わっている。

 

【注目の譲渡車両⑥】元近鉄路線に残る近鉄電車が徐々に減少中

◆三重県・岐阜県 養老鉄道600系・620系(元近鉄1600系など)

↑養老鉄道養老線を走る元近鉄車両。正面に524号車という数字があるが形式は620系。近鉄マルーン一色の伝統色で走る

 

三重県の桑名駅から岐阜県の大垣駅を経由して揖斐駅(いびえき)まで走る養老鉄道養老線。近鉄の元路線で、さらに養老鉄道が、近鉄グループホールディングの傘下の会社ということもあり長年、近鉄の電車が使われてきた。

 

これまで走ってきたのが近鉄600系・620系で、さまざまな種車を元に改造され、1992(平成4)年に養老線に導入されている。養老鉄道となった2007(平成19)年以降も走り続けてきた。そんな養老鉄道に、東急の7700系15両が2019年に導入され、状況がかわりつつある。それまで600系、610系、620系と、3タイプが走っていたが、すでに610系の全編成が引退となった。

 

600系と620系が16両ほど残る。従来の近鉄マルーン色の車体だけでなく、オレンジ色に白線のラビットカラー、赤地に白線の車両と、車体カラーはいろいろで、元東急車とともに沿線をカラフルに彩る。東急7700系は15両で導入は終了しているが、その後に、どのような電車が導入されるのか、元近鉄車は今後どうなるのか、気になる路線となっている。

 

【注目の譲渡車両⑦】京阪の名物「テレビカー」が富山の“顔”に

◆富山県 富山地方鉄道10030形(元京阪3000系/初代)

↑立山山麓などの山々を背景に走る2両編成の10030形。車両数が多いため富山地方鉄道の路線では良く出会う電車となっている

 

富山平野を走る富山地方鉄道の複数の路線。自社発注の電車、元西武鉄道の電車、元東急電鉄の電車、といろいろな電車が走りなかなか賑やかである。

 

そんななか、ややふくよかな姿形で走る電車を見かける。富山地方鉄道での形式名は10030形。形式名を聞いただけでは、元の電車が何であるかは分かりにくいが、この電車は京阪電気鉄道(以降「京阪」と略)の元3000系(初代)だ。

 

京阪3000系は、京阪の車両史の中でも革新的な電車だった。製造されたのは1971(昭和46)年からで、大阪と京都を結ぶ特急専用車両として生まれた。大阪と京都を結ぶ路線はJR東海道本線、阪急京都線などライバルが多い。そのため乗車率を少しでも高めるべく登場した電車で、オールクロスシート、冷房を装備、後には2階建ての中間車を連結した。また編成の一部車両の車内にテレビを備えていたことから「テレビカー」とも呼ばれた。40年にわたり走り続け2013年3月に京阪の路線から引退している。

 

そんな京阪3000系を大量に引き取ったのが富山地方鉄道だった。1990(平成2)年から17両が移籍している。ちなみに大井川鐵道にも2両が移籍したが、こちらはすでに引退している。

↑2階建て中間車を連結して走る10030形「ダブルデッカーエキスプレス」。車体カラーもヘッドマークも京阪当時を再現した編成だ

 

京阪は線路幅が1435mm、富山地方鉄道の路線は1067mmという違いもあり、入線の際には台車を履き替えるなど改造を施している。

 

富山地方鉄道に多くの元3000系が移籍したこともあり、同鉄道ではよく見かける存在となっている。移籍した中で異色なのが3000系の8831号中間車で、2013年に譲渡された。この8831号中間車は、富山地方鉄道の10030形では唯一の2階建て車両だ。他の10030形は2両編成だが、この8831号車を組み込んだ編成は3両編成となり、また塗装も京阪当時の色に塗り替えられた。編成名も「ダブルデッカーエキスプレス」となり、有料特急列車に使われ走り続けている。

 

編成こそ、京阪当時のような長大ではないが、3両編成になろうとも、往時の姿が楽しめるのは、鉄道ファンとしてはうれしいところだ。

 

【注目の譲渡車両⑧】意外な出身のえちぜん鉄道の主力電車

◆福井県 えちぜん鉄道MC6001形(元愛知環状鉄道100形・200形・300形)

↑えちぜん鉄道の勝山永平寺線を走る6101形。元愛知環状鉄道の電車で前後に運転台付けるなど改造され、同鉄道の主力車両として生かされる

 

福井県内を走るえちぜん鉄道。勝山永平寺線と三国芦原線の2本の路線に列車を走らせる。両線とも歴史は古い。勝山永平寺線(旧越前本線)の開業が1914(大正3)年のこと、三国芦原線が1928(昭和3)年に一部区間が開業している。両線は創業当時こそ別会社だったが、太平洋戦争中に京福電気鉄道に引き継がれている。

 

長年にわたり両線の運行を続けてきた京福電気鉄道だが、経営状態が徐々に悪化していき、2003(平成15)年に第三セクター経営方式のえちぜん鉄道が路線の譲渡を受け、今に至っている。譲渡以前の電車、路線の設備は、かなり旧態依然としていて、2000(平成12)年、2001(平成13)年と2年続きで、電車の正面衝突事故が起こっている。2回目の事故後の2001年から、えちぜん鉄道の路線に移管された2003年にかけて全線運行休止となっていた。

 

こうした経緯もあり、えちぜん鉄道になるにあたって、急きょ、古い電車の入換えが行われた。ちょうど同じ頃、愛知県内を走る愛知環状鉄道の100系が、新型車への切替え時期で、引退間近だった。この100系を引き取ったのがえちぜん鉄道だった。

 

100系は愛知環状鉄道の路線開業時の1988(昭和63)年に導入された。細かくみると3形式に分けられる。2両編成の電車が100形と200形、増結用の300形がある。えちぜん鉄道では計23両を引き取り、改造を施して入線させている。制御付随車だった200形は、運転台のみを移設用に使われた後に廃車となっている。

 

えちぜん鉄道での形式名はMC6001形とMC6101形の計14両で、同形式は1両で走れることから利用客が少ない時間帯などに有効に生かされている。

 

ちなみにえちぜん鉄道には他に2両編成のMC7000形が12両ほど走っているが、こちらは元JR東海の119系で、飯田線での運行終了後に、改造され、えちぜん鉄道に譲渡されている。両タイプは、正面の姿がほぼ同じで、見分けが付きにくいが、側面の乗降扉が1枚扉ならばMC6001形、MC6101形、2枚扉ならばMC7000形である。

 

【注目の譲渡車両⑨】全車両が阪急電鉄からの譲渡車の能勢電鉄

大阪平野の北部に妙見線(みょうけんせん)と日生線を走らせる能勢電鉄(のせでんてつ)。路線の開業は1913(大正2)年と古い。ところが開業後の翌年に早くも破産宣告を下されるなど、多難な創業期だった。1922(大正11)年に阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の資本参加以降は、阪急色が強まり、現在は、阪急電鉄の子会社となっている。

 

阪急の子会社であり、さらに線路がつながり阪急路線内に直通電車が走るということもあり、走る電車はすべて旧阪急の電車だ。子会社とはいえ、異なる会社に移籍しているものの、これまで見てきた譲渡車両と同一には評しにくい部分もある。とはいえ今では親会社の路線で見ることができない車両も走り、阪急ファンの注目度が高い路線となっている。ここでは希少な車両のみ触れておこう。

 

◆大阪府・兵庫県 能勢電鉄1700系(元阪急2000系)

↑能勢電鉄では最も古参車両の1700系だが徐々に車両数が減りつつある。写真の1753編成(1703号車)は2019年5月に廃車となった

 

阪急の2000系として登場した電車で、誕生は1960(昭和35)年のこと。阪急での2000系単独編成は1992(平成4)年に運用が終了、他形式の中間車としてその後も使われていたが、2014年に姿を消している。

 

2000系の能勢電鉄への譲渡は1983(昭和58)からとかなり古く、1500系として走り始めた。その後に2000系を種車とした1700系が生まれ、1990(平成2)年から走り始めている。かなりの古参電車ということもあり、先輩格の1500系はすべてが引退、後輩にあたる1700系も近年は徐々に運用終了となりつつある。

 

◆大阪府・兵庫県 能勢電鉄3100形(元阪急3100系)

↑能勢電鉄でわずか4両×1編成のみの3100系。阪急マルーンの塗装に加えて、正面にステンレス製の飾り帯を付けて走る

 

能勢電鉄の希少車といえば3100系が代表格だろう。能勢3100系の元は阪急の3100系だ。同編成は1997(平成9)年に能勢電鉄に譲渡された。

 

元となる阪急の3100系は宝塚線用に造られた形式で、ほぼ同形式の神戸線用の3000系は1964(昭和39)年に登場している。以降、両形式あわせて154両と多くの車両が造られた。1960年代半ば以降、阪急の神戸線・宝塚線の輸送を支えた電車と言って良いだろう。長年にわたり走り続けてきたが、2020年2月を最後に阪急での運行を終了している。

 

阪急の代表的な車両だった3100系が今も能勢電鉄を走り続けている。車両数は少なくわずかに4両。能勢電鉄に入線してから、正面の尾灯付近にステンレス製の飾り帯を付け、能勢電鉄では目立つ電車となっている。

 

ほか能勢電鉄には5100系(元阪急5100系)、6000系(元阪急6000系)、7200系(元阪急7000系・一部6000系付随車)が移籍している。

 

【注目の譲渡車両⑩】変貌ぶりに驚かされる和歌山電鐵の電車

◆和歌山県 和歌山電鐵2270系(元南海22000系)

↑和歌山電鐵の「たま電車」。貴志駅の初代名物駅長のたまにちなんだ車両で、車体全体にたまのイラスト、正面がたまの顔となっている

 

和歌山駅〜貴志駅間を結ぶ貴志川線(きしがわせん)を運営する和歌山電鐵。岡山市を走る岡山電気軌道の子会社であり、両備グループの一員である。2006(平成18)年4月から、南海電気鉄道の貴志川線を引き継いで電車の運行を行う。

 

すでに14年の年月がたち、ネコ駅長、さらに「たま電車」「おもちゃ電車」などユニークな電車を走らせていることなど、全国にその名前が広まり、訪れる人が絶えない。ここでは、南海からの譲渡車両を中心に見ていきたい。

 

和歌山電鐵の2270系は元南海の22000系である。22000系は南海の高野線の混雑を緩和するための増結用車両として1969(昭和44)年に誕生した。高野線の看板電車は「ズームカー」と呼ばれたが、先輩格の21000系(大井川鐵道の章で紹介)に対して、混雑区間の増結用の車両ということで、「通勤ズーム」、さらに丸みがやや薄れたので「角ズーム」と呼ばれた。

 

南海は長く電車を使い続ける傾向があることもあり、同系統は今も、2200系や2230系に改造され、南海の路線で走っている。ちなみに高野線を走る観光列車2200系「天空」も22000系を改造した電車だ。

↑地元・和歌山の特産「南高梅」から作られる梅干しをモチーフに生まれた「うめ星電車」。和歌山電鐵運行開始10周年を記念して走り始めた

 

和歌山電鐵には同22000系の2両×6編成が、路線の引き継ぎに合わせて譲渡された。そして水戸岡鋭治氏のデザインにより刷新された。1編成ごとに外観や車内の設備を変更し、「たま電車」、「おもちゃ電車」、「うめ星電車」、「いちご電車」などに生まれ変わっている。

 

電車をここまで思いきったリニューアルさせる、いわば水戸岡ワールド全開の電車たち。やはり地方の路線を存続させるためには、こうした思いきった策が必要であることを、今さらながら示してくれた成功例と言って良いだろう。

 

【注目の譲渡車両⑪】元名古屋の地下鉄電車が讃岐路を走る

◆香川県 高松琴平鉄道600形(名古屋市交通局250形・700形など)

↑志度線の600形が瀬戸内海沿いを走る。元の車両が地下鉄用の中間車を改造されたこともあり、平坦な正面の形をしている

 

最後にちょっと珍しい譲渡車両が四国を走るので見ておこう。高松琴平電気鉄道(以下「琴電」と略)は高松を中心に、琴平線、長尾線、志度線(しどせん)の3路線を走らせている。この琴電に、他所であまり見かけない電車が走っている。

 

琴電の主力の電車といえば、主に元京浜急行電鉄の電車が多い。1070形(元京急6000形)、1080形(元京急1000形)、1200形(元京急700形)、1300形(元京急1000形)などといった具合だ。さらに元京王電鉄の5000系(初代)が1100形として走る。

 

琴平線、長尾線、志度線に正面が平坦で、車体の長さが他の電車よりも短い電車が走っている。この電車はどこからやってきた電車なのだろうか。この電車は琴電600形で、元名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の250形などだ。

 

名古屋市営地下鉄の東山線を走っていた電車で、1965(昭和40)年の登場時には、それまで東山線を走っていた100形、200形の中間増備車として64両が製造された。100形、200形に比べて後から造られたこともあり、この中間車を活かそうと、生まれたのが250形だった。250形は地下鉄車両としては異色の中間車に運転台を付けた電車だった。

 

そのために正面が平坦な形となっている。250形は1983(昭和58)年から18両が改造を受け、東山線を走った。1999(平成11)年まで使われた後、琴電に譲渡されている。

↑車体の長さが15mと短い長尾線の600形。各扉に乗降用のステップがついているところが長尾線、琴平線を走る600形の特徴

 

名古屋市営地下鉄250形はサードレールから電気を取り入れる方式の電車だったために、琴電に移籍するにあたって、パンタグラフを取り付け、さらに冷房装置を付けるなどの改造工事が行われている。ほか名古屋市営地下鉄の700形・1600形・1700形・1800形・1900形の同形タイプの電車も運転台を取り付けられて、琴電600形となった。ちなみに名古屋市営地下鉄の東山線と、琴電の路線の線路幅は同じ1435mmで琴電用に改造は必要なものの、共通点があったこともこの電車が譲渡された一つの要因となったようだ。

 

琴平線や長尾線を走る電車の大半は車体の長さが18mの車両だ。しかし、600形のみ車体の長さが15.5mと短い。同路線を走る電車の中ではかなり特異な存在となっている。

 

◆香川県 高松琴平鉄道700形(名古屋市交通局300形・1200形)

↑志度線を走る700形。600形と比べると丸い姿で、地下鉄を走った当時の姿を色濃く残す。前照灯の形状といいレトロ感満点の電車だ

 

志度線には平坦な600形が正面に比べて、丸い顔立ちをしている電車も走っている。こちらは700形で、名古屋市交通局の300形と1200形が種車となっている。

 

300形は250形と同じく東山線を走った電車で、1200形は名城線・名港線を走っていた。この先頭車が琴電用に改造されて使われている。丸みを帯びた独特な姿で、琴電に入線するにあたって冷房装置を取り付けるために、名古屋時代に比べると、前頭部がやや削られた状態になっている。それでもかなり丸みを帯びたレトロな形状の電車で、当節あまり見かけない趣のある顔立ちとなっている。

今も各地を走り続ける東急「譲渡車両」9選〈東海・中部・西日本版〉

〜〜首都圏を走った私鉄電車のその後<4>〜〜

 

引き続き元東急の譲渡車両の話題。中部・西日本で目を向けてみると予想以上に多くの元東急電車が走っていた。

 

東日本では、ステンレス車体の地色をそのまま活かしている鉄道会社が多かったが、中部・西日本では、なかなか個性的でカラフルな色にラッピングした車両が目立つ。第二・第三の職場で働く元東急電車の活躍ぶりに注目してみよう。

 

【関連記事】
今も各地を走り続ける東急「譲渡車両」を追う〈東日本版〉

 

【注目の譲渡車両①】大井川鐵道が3社目という元東急7200系

◆静岡県 大井川鐵道7200系(元東急7200系)

↑大井川鐵道の7200系。前後で正面の形が大きく異なっている。この電車は大井川鐵道が3社目の“職場”となった

 

静岡県の金谷駅と千頭駅を結ぶ大井川鐵道大井川本線。SL列車が名物の鉄道路線である。この鉄道の普通列車用の電車はすべてが譲渡車両でまとめられている。南海電気鉄道、近畿日本鉄道といった関西の電車が大半を占める中で、唯一、東日本生まれの電車が7200系2両だ。この大井川鐵道の7200系は興味深い経歴を持つ。まずは誕生した経緯から見ていくことにしよう。

 

東急の7200系は1967(昭和42)年に運用が開始された。1972(昭和47)年までに53両が造られている。東急の電車にしては製造車両数が少ない。すでに東急では7000系というオールステンレス製の車体の電車が登場し、使われていた。この7000系は高性能な電車だったが、全車が電動車で高価だった。全車が電動車という編成を必要としない路線もあり、7000系の廉価版として生まれたのが7200系である。7000系と比べると、正面に特徴があり、中央部が出っ張った「く」の字状の形をしていて、「ダイヤモンドカット」とも呼ばれた。

 

この7200系は東急の田園都市線、東横線、目蒲線、池上線を長年にわたり走り続けた。池上線・東急多摩川線での運用を最後に2000(平成12)年、引退している。さて現在、大井川鐵道を走る7200系はどのような経歴をその後にたどったのだろうか。

 

↑青森県の十和田観光電鉄を走る7200系。この電車が後に大井川へやってくることに。円内は元十和田観光電鉄の主力車両だった7700系

 

筆者は大井川鐵道へやってくる前、青森県の十和田観光電鉄でこの7200系に出会っていた。当時は正面が平面で不思議な形の電車だなと思った程度だったのだが。

 

東急から十和田観光電鉄へは2002(平成14)年に7200系2両が譲渡されている。1両でも運転できるように、両運転台に改造されていた。そのために、7200系の特徴である「く」の字形の正面の反対側は平面な顔つきとなっていた。十和田観光電鉄は、東北本線の三沢駅〜十和田市駅を結ぶ14.7kmの路線を運行していた。歴史は古く1922(大正11)年に開業している。

 

通学・通勤の足として活かされていたが、長年の債務に加えて2011年3月に起きた東日本大震災の影響を受けて経営が悪化。地元自治体に支援を求めたが、願いは実らず、2012年3月いっぱいで廃止となった。

 

十和田観光電鉄には東急の7700系と7200系が走っていたが、2014年に7200系のみ大井川鐵道に譲渡された。大井川鐵道では2015年2月から運用が開始されている。この電車を譲り受けるにあたっての金額が公になっているが、車両費が1000万円、輸送費が900万円、改造にかかった費用が6100万円。合計が8000万円と、鉄道車両がたとえ譲渡であっても、非常にお金がかかることが良く分かる。

 

ちなみに両運転台の構造だが、大井川鐵道では主に2両での運用が行われていた。ところが、新型感染症の流行により旅客数が減少したことから1両での運行も見られるようになっている。“特別仕様”の7200系が持つ機能がようやく生かせたわけである。

 

【注目の譲渡車両②】名鉄電車と入れ替わって豊橋鉄道を走る

◆愛知県 豊橋鉄道1800系(元東急7200系)

↑豊橋鉄道渥美線を走る1800系。青色の電車1804号は「ひまわり号」、菜の花号と菊号が黄色ということで、こちらは青色とされた

 

愛知県内の新豊橋駅と三河田原駅(みかわたはらえき)を結ぶ豊橋鉄道渥美線。この路線を走る電車はすべてが1800系、元東急7200系だ。太平洋を臨む渥美半島を走る鉄道路線らしく、3両×10編成がカラフルな姿で走る。

 

名付けて「渥美半島カラフルトレイン」。1801号がばら、1802号がはまぼう、1803号がつつじ、といった具合で、渥美半島に咲く花々がそれぞれデザインされた色違いの10色電車だ。

↑正面がホワイトで窓部分がブラック。そして各編成で花にちなんだ色付けを行う。写真は左が「菖蒲号」、右が「菊号」

 

豊橋鉄道の親会社は名古屋鉄道である。名古屋鉄道から電車の譲渡はなかったのだろうか。調べると1800系の前に名鉄7300系が1500V昇圧に合わせて1997(平成9)年に28両が転籍していた。ところが、加速性能があまり良くなかった。加えて片側2扉で乗り降りに時間がかかった。1500V昇圧にあわせて車両を揃え、ダイヤ変更したのにもかかわらず、遅延が頻発してしまう事態となった。そのため入線して5年で全車が引退となる。

 

7300系に入れ替わるように2000年から導入が始まったのが1800系だった。1800系の18は、18m車という意味を持つ。ちなみに元名鉄7300系は1971(昭和46)年から新製された車両だった。一方の東急の7200系は1967(昭和42)年から走り始めている。そして豊橋鉄道に導入されてすでに20年、元東急7200系は今も第一線で活躍し、引退の声は聞こえてこない。やはり東急の電車は性能や造りが優秀だったということなのだろう。

 

【関連記事】
カラフルトレインと独特な路面電車が走る希有な街“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

 

【注目の譲渡車両③】養老鉄道では最新電車として屋台骨を支える

◆三重県・岐阜県 養老鉄道7700系(元東急7700系)

↑養老鉄道を走る元東急7700系。池上線でおなじみだった赤歌舞伎塗装以外に、養老線では緑歌舞伎と呼ばれる塗装の電車も走る

 

元東急の7700系といえば、2018年11月まで東急池上線・東急多摩川線の主力電車として活躍していた。その電車が、東急テクノシステムの手で整備・改造され、2019年4月から養老鉄道を走り始めている。

 

東急7700系の生い立ちに触れておこう。7700系は1987(昭和62)年に運用が始まった。まったくの新製というわけではなく、1962(昭和37)年に誕生した7000系を改造した車両だった。7000系の誕生は前回の原稿を参考にしていただくとして、時代の先端を行く車両であったことは確かで、今も一部の地方私鉄を走り続けている。

 

7000系は高性能な電車だったが、冷房がついておらず、利用者向けサービスという面では時代から遅れつつあった。7700系は、7000系の改造という形をとったが、流用したのは車体の骨組みとステンレスの外板だけで、ほかはすべての機器を載せ変え、さらに冷房装置を取り付けている。

↑養老山地を背景に走る7700系赤帯車。こうした山景色をバックに走る姿も新鮮で楽しい

 

養老鉄道へやってきた7700系は、7000系の時代までたどるとすでに約60年という時間を経ているが、ステンレスの車体は劣化が少なく、整備さえすればまだまだ走れるということから導入に至った。

 

ちなみに、それまで養老鉄道では近鉄600系・620系が主力として走ってきた。養老鉄道養老線が近鉄の元路線だったことと、養老鉄道に運営が移管されたのちも、近鉄グループホールディングスの傘下の会社でもあるためである。今も一部の600系・620系が残るが、7700系が大挙15両、導入されたことから、次第に一線を立ち退く形になっている。

 

ちなみに600系・620系は養老線用に近鉄の複数の路線を走る従来形式を改造した車両で、経歴はそれぞれさまざま。1960年前後の生まれの電車が目立つ。それこそ古参車両だったわけである。

 

導入された7700系は、養老鉄道ではまだ若手とあって、これから数10年にわたり走り続ける予定である。車体色は、東急池上線当時に人気だった赤歌舞伎に加えて、緑歌舞伎なる車両塗装も走り、注目を集めている。

 

【関連記事】
三重県と岐阜県を結ぶ唯一の鉄道路線「養老鉄道」10の謎

 

【注目の譲渡車両④】伊賀鉄道を走る名物+忍者列車でござる!

◆三重県 伊賀鉄道200系(元東急1000系)

↑伊賀鉄道の200系。元東急の1000系ながら、ここまで塗装が変ると元の東急電車のイメージは薄れている

 

三重県内、JR関西本線の伊賀上野駅と、近鉄大阪線と接続する伊賀神戸駅(いがかんべえき)間を結ぶ伊賀鉄道伊賀線。伊賀鉄道は近鉄グループホールディングス傘下の会社である。2007年までは近鉄伊賀線だった。

 

近鉄との縁が深い会社ながら、現在走るのが200系。元東急の1000系である。2009(平成21)年に導入され、2両×5編成が走っている。おもしろいのはラッピングされた姿だ。路線が走る伊賀が忍者の里ということもあり、1編成(東急当時の赤帯)を除き、みな忍者姿で走っている。正面に大きな忍者の目が入る3編成のデザインはかなり目立つ。

 

この200系が導入される前は、近鉄の860系が走っていた。860系の導入は1984(昭和59)年のこと。ベースは1960年代に誕生した820系で、改造の際に台車を1435mmから1067mmの狭軌用にはきかえている。伊賀線は近鉄大阪線に接続しているものの、線路の幅が異なる。近鉄から分離されたのは、利用者の減少という要因があったものの、この線路幅が異なることも一つの要因であったのだろう。

↑最も忍者の「目」が多く描かれる青色の忍者列車。元東急1000系の改造車両で、正面の貫通扉の位置など編成で異なっている

 

さて忍者の姿走る200系。「忍者列車」という愛称が付く。伊賀鉄道のホームページには「名物+忍者列車でござる!」(※「+」は手裏剣の形)というコーナーがあり、青色、ピンク色、緑色の忍者列車の紹介がある。「忍者が見え隠れする扉」、「手裏剣柄のカーテン」、「手裏剣柄の車内灯」、「忍者のマネキン人形」と忍者にちなむデザインや人形が車内に隠されている。これはぜひとも乗ってみたいと思わせる工夫の数々。子どもたちにも人気の忍者列車なのである。

 

【注目の譲渡車両⑤】北陸・富山地方鉄道にも元東急電車が走る

◆富山県 富山地方鉄道17480形(元東急8590系)

↑富山地方鉄道の17480形電車。形は元東急8590系のままだが、「宇奈月温泉」という表示。すでにこの地に馴染んだ印象がある

 

富山県内に約100kmにも及ぶ路線網を持つ富山地方鉄道。地方中小私鉄の中ではトップクラスの路線距離を誇る。路線距離が長いだけに走る電車もバラエティに富む。

 

主力の14760形をはじめに、京阪電気鉄道、西武鉄道の元車両が走る。車両数が多い14760形は1979(昭和54)年に新造した電車で、同社初の冷房車でもあった。性能的にも優れていたため、鉄道友の会ローレル賞を受賞している。

 

とはいえ製造してからすでに40年となる。新車を製造する余力もないことから、導入されたのが元東急8590系だった。2013年から導入がはじまり、すでに2両×4編成を購入、17480形として使われている。富山地方鉄道に移ったのちは、正面が赤と黄色のグラデーション模様が入り、側面は赤帯を巻く姿で富山平野を走る。

 

ちなみに元東急8590系は1988(昭和63)年生まれ。富山地方鉄道が製造した14760形よりやや車歴が浅い。とはいえ同じ昭和生まれの電車が、電鉄の将来を託されているというのも、なかなか興味深い。

 

【注目の譲渡車両⑥】北陸鉄道では石川線のみ元東急電車が走る

◆石川県 北陸鉄道7000系(元東急7000系)

↑北陸鉄道石川線の7000系。写真の7001編成は非冷房車で東急当時の姿を色濃く残す。雪が多い北陸の電車らしく正面下の排雪器が物々しい

 

北陸鉄道は石川県金沢市を中心に路線を持つ。かつては県内に多くの路線網が広がっていたが、今残るのは石川線と浅野川線の2路線のみとなる。

 

このうち金沢市の野町駅と白山市の鶴来駅(つるぎえき)の間を走るのが石川線だ。石川線を走るのは7000系と7700系。7000系は元東急7000系、7700系は元京王井の頭線の3000系を譲り受けた車両だ。

 

東急7000系は、国内初のオールステンレス車両であり、その後のステンレス車両造りのパイオニアとなった車両である。北陸鉄道では1990(平成2)年から走り始めている。石川線は600V直流電化のため(東急は1500V直流電化)、電装品が乗せ換えられている。またワンマン化に向けて改造も行われた。

 

北陸鉄道の7000系は2両×5編成が走る。形や搭載機器が異なる3形式が在籍している。内訳を見るとまずは7000形の1編成。この電車のみ冷房がない非冷房車だ。屋根上の機器の形状など元東急7000系に最も近いタイプと言えるだろう。非冷房車ということもあって夏期はほぼ走らない。次に7100形の2編成で、北陸鉄道へ入るにあたり冷房改造が行われた。さらに7200形2編成が走る。こちらは中間車を改造した冷房車両で正面中央に貫通扉がない。

 

こうした同じ7000系の違いを見つけることも、北陸鉄道石川線の旅を楽しむ時のポイントとなりそうだ。

 

【注目の譲渡車両⑦】関西で唯一の東急ユーザーの水間鉄道

◆大阪府 水間鉄道1000形(元東急7000系)

↑水間鉄道1000形1003編成。元は東急の7000系だが冷房装置を付けるなど改造が行われた。家族の写真入りヘッドマークを付けて走る

 

大阪府内を走る水間鉄道と聞いてすぐに思い浮かべることができる方は、かなりの鉄道通と言って良いのかも知れない。水間鉄道は地元の人以外、あまり良く知らないというのが現実でないだろうか。さらに東証一部に上場する外食チェーンの子会社という不思議な鉄道会社でもある。

 

水間鉄道水間線は貝塚駅〜水間観音駅の5.5kmを走る短い鉄道路線。歴史は古く1925(大正14)年の創業である。終点の水間観音駅の近くにある水間寺への参詣用の路線として造られた。走る地元、貝塚市は紡績で栄えた街で開業当時、かなりの財力に余裕があった。地元有志の寄付で鉄道会社が設立されたほどだった。起点となる貝塚駅は南海電気鉄道南海本線の貝塚駅と隣接している。

 

南海の貝塚駅と接続しているものの、経営上の関係はなく、車両のみ、以前は南海の譲渡車両を使用していたぐらいの関係である。そして現在は元東急の7000系を利用している。1990(平成2)年に導入した当時は7000系という形式名だった。2006年から改造が始めて、現在は1000形を名乗っている。

 

1000型には2タイプの形あり、元東急7000系のイメージを残す貫通扉付の電車と、中間車を改造した貫通扉の無い電車が走る。そしてみなワンマン運転できるように改造されている。

↑青帯だけでなく、赤帯、オレンジ帯の1000形も走る。写真のように中間車を改造した貫通扉がない電車も。U字形の排障器がユニークだ

 

おもしろいのは電車に家族写真のヘッドマークが付けた電車が走ること。これは10日間1万円でオリジナルヘッドマークが付けて走るサービスなのだそうだ。貝塚市内のみを走る小さな鉄道会社だからこそできるサービスであろう。

 

車内に交通系ICカードで清算できるバス型精算機を搭載するなど、積極的な営業戦略を進めている。小さな鉄道ながら侮れない奮闘ぶりである。

 

【注目の譲渡車両⑧】出雲路を走るのはオレンジ色の元東急電車

◆島根県 一畑電車1000系(元東急1000系)

↑一畑電車1000系のうち2編成は動態保存されるデハニ50形と同じ車体色のオレンジのラッピング塗装されている

 

島根県の一畑電車の歴史は古い。山陰地方で唯一の私鉄で、起源は1912(明治45)年までさかのぼる。現在の路線は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を結ぶ北松江線と、川跡駅(かわとえき)〜出雲大社前駅間を結ぶ大社線の2本である。

 

走る電車は多彩で、元京王電鉄5000系(初代)を譲り受け改造した2100系と5000系。さらに元東急1000系を改造した1000系。さらに一畑電車では86年ぶりとなる新造車両7000系が走る。

 

ちなみに7000系は前後に運転台を持つ電車で、一両での運行が可能だ。利用者が少ない地方鉄道には向いた電車と言えるだろう。

 

ここでは元東急の1000系の話に戻ろう。一畑電車1000系は老朽化した3000系(元南海電気鉄道21000系)の置き換え用として2014年度から導入された。現在2両×3編成が走る。東急1000系の中間車を改造した電車のため、元東急1000系のオリジナルの姿とは異なる。

 

同タイプは福島交通(福島県)、上田電鉄(長野県)も走っており、いわば、中小私鉄用に東急のグループ会社である東急テクノシステムが用意した“標準タイプ”と言うこともできる。

 

ユニークなのは車体色。一畑電車ではオレンジに細い白い帯が入る。ステンレス車体を全面ラッピングでおおったものだが、この車体色は、かつての一畑電車の車体色のリバイバル塗装「デハニカラー」だ。2編成はこのオレンジ色、また3編成目は県のキャラクター「しまねっこ」のイラスト入りのピンク色のラッピング電車で、「ご縁電車しまねっこ号Ⅱ」と名付けられている。いずれも華やかないでたちで、一畑電車のイメージアップに一役かっている。

 

【注目の譲渡車両⑨】現役は引退したが今も“くまでん”の名物電車

◆熊本県 熊本電気鉄道5000形(元東急5000系/初代)

↑現役当時の熊本電気鉄道の5000形。運転台を前後に付けていたため、右のように1両で運行ができた。左が動態保存される5001A号車

 

最後は熊本電気鉄道(くまでん)の5000形を紹介しよう。この電車のみ現役車両ではない。だが、東急の記念碑的な電車であり、触れておきたい。熊本電気鉄道5000形は、元東急の5000系(初代)で、2016年まで現役として走っていた。

 

元東急5000系はその姿がユニーク。すそが広がる姿が特徴で“青ガエル”という愛称が付けられていた。つい最近まで東京の渋谷駅の駅前、忠犬ハチ公像の前に設置されていたからご存知の方も多いことだろう。

 

この5000系、生まれは1954(昭和29)年とかなり古い。だが、日本のその後の電車造りに大きな影響を及ぼした車両だ。モノコック構造で軽量、さらに日本初の直角カルダン駆動方式を採用した。それまで吊り駆け駆動が一般的だった電車の構造を大きく変えた電車でもある。

 

この電車を造った東急車輌製造(現在はJR東日本の子会社、総合車両製作所に引き継がれている)は、その後もオールステンレス車両をはじめ、画期的な電車造りを行っていて、日本の電車製造技術を高めた功績は大きい。

 

熊本電気鉄道には1981(昭和56)年から計4両が譲渡された。両運転台に改造され、長年走り続けた。ちなみに5000系は、各地の私鉄で使われていたが、熊本が現役最後の場所となった。

 

今も北熊本駅構内の車庫で動態保存されている。車庫の公開日には間近で見ることも可能だ。東急の記念碑的な電車だけに、機会があればぜひとも訪れたい(同社Facebookでも最近の様子を見ることが可能)。

 

【関連記事】
東京の地下鉄電車が熊本で大活躍!気になる「くまでん」12の秘密

 

今も各地を走り続ける東急「譲渡車両」を追う〈東日本版〉

〜〜首都圏を走った私鉄電車のその後<3>〜〜

 

地方の鉄道事業者にとって新型車両の導入は悩みの種。そこで活用されるのが大手私鉄の「譲渡車両」である。

 

譲渡車両の中でも最も“人気”があるのが元東急の電車だ。各地の私鉄が譲り受けて主力車両として走らせている。なぜ東急の電車が人気なのか、現在の活躍ぶりだけでなく、東急電車が登場した時代を振り返り、その歴史にも迫ってみよう。今回は、東日本を走る東急の譲渡車両にこだわって見ていきたい。

 

【関連記事】
今も各地で働き続ける「譲渡車両」−−元西武電車の場合

 

【はじめに】なぜ元東急電車の譲渡車両が多いのか?

北は青森県、西は島根県まで、津々浦々多くの私鉄路線を元東急の電車が走っている。三重県・岐阜県を走る養老鉄道のように、2018年秋に引退した元東急7700系を、“待ってました”、とばかりに大量に引き取り、走らせている例もある。東急では7700系に続くように、8500系が引退時期を迎えている。すでにこの8500系を導入している会社もあり、今後、この引退していく元東急の電車の導入を検討する会社も現れてきそうだ。

 

なぜ元東急の電車は人気があるのだろう。はじめにこの理由を探っておきたい。

↑東急池上線・多摩川線を走った7700系。2018年11月で引退まもなく、養老鉄道(三重県・岐阜県)に計15両が引き取られた

 

いま全国を走る元東急の電車はみな、ステンレス製の電車である。ステンレス製の電車は、鋼製と比較すると耐久性に富むとされる。何十年にわたり、走り続けてきた電車なのに、車体の劣化が少ない。そのため整備し直せば、充分に、あと何十年かにわたって走らせることができる。

 

加えて譲渡される電車が、みな登場した当時には革新的な技術を採用していた電車であったことも大きい。今も陳腐化していない技術を持つ車両なのである。

 

さらに東急の場合は、譲渡先へ旅立つ前に、東急グループの一員、東急テクノシステムにより、機器の更新、改造、整備が行われる。東急テクノシステムは、東急の車両のメンテナンスに長じた会社であり、業界での評価が高い。元東急電車の中間動力車を利用した標準タイプの電車も造られ、購入する側の会社も、発注しやすさがある。

 

また古い鉄道車両となると、部品探しにも苦労が伴う。ところが東急の電車の場合、大半の車両形式が大量に製造されているために、部品探しも容易にできるということも人気の一因であろう。そうした複数の要因があり、全国の多くの私鉄で第二の人生を送る元東急電車が多くなっているわけなのである。
次にそれぞれで会社で活躍する元東急電車の現在を見ていこう。まずは青森県から。

 

【注目の譲渡車両①】弘前を走る弘南鉄道の電車はみな東急出身

◆青森県 弘南鉄道7000系(元東急7000系)

↑弘南鉄道の7000系7000形が弘前市内にある中央弘前駅に到着した。大鰐線の電車は同形式が中心となっている

 

私鉄電車としては最北の路線が、青森県内を走る弘南鉄道。弘南線と大鰐線(おおわにせん)と2つの路線があり、すべて元東急の電車でまとめられている。形式は7000系で、元東急の7000系だ。

 

東急7000系は1962(昭和37)年から製造された電車で、日本初のオールステンレス製の電車だった。当時、国内ではまだ自力でオールステンレス製の車両を製造することができず、米バッド社と東急車輌製造(当時の東京急行電鉄の子会社)が技術提携して、この7000系が生み出されている。

 

この7000系の製造で学んだ技術が、その後の多くの日本のステンレス製車両の製造に役立てられている。東急7000系は134両と大量の車両が造られた。車体以外にも、多くの新技術を盛り込んだ非常に革新的な電車だった。東急の路線からは2000(平成12)年に引退している。

↑中間車を改造した7100・7150形の多くが弘南線で活躍する。正面の姿大きく異なり、元東急の電車らしさは薄れている

 

弘南鉄道へ譲渡されたのは1988(昭和63)年から。弘南鉄道でも7000系を名乗る。弘南鉄道の7000系は全24両(2両のみ廃車)で、細くは3タイプに分けられる。元東急7000系の姿を色濃く残す7000形。形は7000形とほぼ同じだが改番された7010・7020形、中間車を改造したために、正面の形が違う7100・7150形が走る。

 

7000形は大鰐線の主力車両として、7100・7150形は主に弘南線の主力車両として使われている。

 

◆青森県 弘南鉄道6000系(元東急6000系)

↑津軽大沢駅の車庫に停められた元東急6000系。例年10月に開かれる鉄道まつりなどのイベントでその姿を見ることができる

 

実は弘南鉄道には東急の車両史から見ても、非常に重要な車両が残されている。弘南鉄道6000系である。この車両はすでに静態保存されている電車だが、東急の記念碑的な車両のため、触れておきたい。

 

弘南鉄道6000系は、元東急6000系である。東急6000系は1960(昭和35)年3月に最初の編成が造られた。当時の電車としては画期的な空気バネ台車、回生ブレーキ、そして1台車1モーター2軸駆動というシステムを採用している。さらに車体はセミステンレス構造を取りいれた。セミステンレス構造とは、普通鋼の骨組み、その上にステンレス板を貼り付けて組み立てられている。その独特な姿から“湯たんぽ”とも呼ばれた。そう言われれば、それらしくも見える。

 

東急6000系は、試験的な電車という意味合いもあり、東急の電車としては珍しく、わずかに20両のみの製造となった。とはいえ、その後の7000系以降の車両造りに大きな影響を与えた電車でもあった。弘南鉄道へは量産型の12両が譲渡されたが、2000年代に入って7000系が増強されたことで、ほとんどが引退、今では2両×1編成が大鰐線津軽大沢駅の車両基地に静態保存車両として停められているほか、倉庫にも使われている。

 

【関連記事】
なぜ別々に発展?近くて遠い2つの路線を抱えた東北の私鉄ローカル線のいま

 

【注目の譲渡車両②】元東急電車が「いい電」となって福島を走る

◆福島県 福島交通1000系(元東急1000系)

↑元東急1000系の中間車を改良した福島交通1000系。正面に「いい電」のヘッドマークが付く。同タイプが他の私鉄にも導入されている

 

福島市の福島駅と飯坂温泉駅を結ぶ福島交通飯坂線。主力電車は1000系で、元東急の1000系が元となっている。

 

東急1000系は1988(昭和63)年12月に登場したステンレス製の電車で、世界初の制御方式を採用していた。すでに東横線の1000系は引退したものの、池上線・東急多摩川線では、今も主力として走り続けている。

 

福島交通に導入された1000系は、2両×4編成と、3両×2編成の合計14両。既存の7000系(元東急7000系)の置き換え用として導入された。

 

福島交通の1000系は、元東急1000系とは正面の形が異なる。元東急1000系の中間電動車を東急テクノシステムが改造した電車で、非貫通タイプの運転台が取り付けられた。主回路にはVVVFインバータ制御方式が使われている。福島交通にとって、始めての同方式の採用で、省エネ型電車として役立てられている。さらに車両の長さが18m(3扉車)と、東京の都市部を走る電車の平均的な長さ20m(4扉車)よりも短いことから、地方の私鉄路線では扱いやすい車両サイズとなっている。

 

ちなみに、同タイプの中間車を改良した1000系は、ほかに上田電鉄(長野県/詳細後述)や、一畑電車(島根県)にも導入されている。姿形はほぼ同じで、デザインや機能を共通化した地方の私鉄向け電車といって良さそうだ。

 

【関連記事】
奥州三名湯・飯坂温泉へ走る福島交通の「いい電」10の秘密

 

【注目の譲渡車両③】秩父では東急出身の3タイプが走っている

埼玉県内を走る秩父鉄道。ここでは東急8500系、8090系を元にした3タイプの電車が使われている。線路がつながり、電車の甲種輸送まで行う東武鉄道の車両を導入せずに、あえて東急の電車を利用しているところが興味深い。

 

◆埼玉県 秩父鉄道7000系(元東急8500系)

↑元東急8500系は秩父鉄道では7000系として運用されている。秩父鉄道の元東急電車はみな先頭に緑色と黄色のグラデーション模様が付く

 

2009(平成21)年3月から運行を開始した秩父鉄道7000系。元は東急の8500系である。8500系は、1975(昭和50)年生まれで、主に田園都市線と、乗り入れる東京メトロ半蔵門線、東武伊勢崎線、そして大井町線を走った。新造当時、通勤電車の技術を集約した車両とされ、鉄道友の会からローレル賞を受賞している。車両数も多く400両が造られた。すでに導入されてから40年以上になる。

 

東急田園都市線では新型車両の導入が進み、徐々に減りつつあり、引退が近づきつつあるが、立派なご長寿車両と言って良いだろう。ちなみに筆者も最近、同車両に乗車したが、エアコンに加えて首振り扇風機が天井に付いた車両が走っていて、懐かしく感じられた。

 

秩父鉄道へ譲渡されたのは3両×2編成。本来は同車両が多く譲渡される予定だったが、東急からの提供車両の予定が変更され、この車両数にとどまっている。

 

◆埼玉県 秩父鉄道7500系(元東急8090系)

↑秩父鉄道7500系。写真は秩父鉄道のオリジナル塗装車両。7500系のラッピング電車も出現している

 

7000系(元東急8500系)が計6両にとどまっているのに対して、今や秩父鉄道の主力電車となっているのが、7500系と7800系である。元となった電車は両形式とも東急の8090系だ。

 

8090系は1980(昭和55)年12月に登場した。この車両も意欲的な電車だった。日本初の量産ステンレス軽量車体を採用している。強度を保ちつつも、従来のオールステンレス車両よりも、1両で2トンほど軽量化、編成全体で8%の軽量化を実現した。当時は、まだ鉄道業界では縁が薄かったコンピューター解析による車体設計が行われたとされる。90両が製造され、当初は東横線を、さらに田園都市線や大井町線を走った。本家では徐々に車両数が減っていき、昨年2019年、静かに引退を迎えている。

 

車両の軽量化を実現した8090系だったが、2010年以降から秩父鉄道に譲渡された。形式は7500系と7800系に分けられる。7500系は3両編成、7800系は2両編成で運行されている。正面の形が少し違うので、ここでは分けて紹介しよう。まずは7500系から。

 

7500系は元東急大井町線を走っていた8090系で、5両編成を3両に短縮するにあたり、パンタグラフの位置の変更などの改造を受けている。車体の帯も側面に緑色、正面は緑色と黄色のグラデーション模様が入る。色が異なっているものの、外観は東急当時の8090系のままを保っている。すでに3両×7編成と秩父鉄道の電車の中では大所帯となった。

 

◆埼玉県 秩父鉄道7800系(元東急8090系)

↑秩父鉄道7800系は元東急8090系の2両編成タイプ。中間車を改造したため、正面のデザインが7500系と大きく異なっている

 

秩父鉄道にやってきた元東急8090系。東急大井町線を走っていた頃は5両で走っていた。秩父鉄道に譲渡されるにあたり、5両のうち3両がまず7500系に改造された。残りの2両を使って編成されたのが7800系である。中間車を改造、運転台を設けたため、顔形が7500系と異なっている。

 

7500系は8090系のオリジナルな姿そのままで、正面に傾斜が付いた顔形。一方の7800系はほぼ平面で、連結側の平坦な妻面を利用したことが分かる。運転台の窓部分がブラックに塗装され、7500系に比べると、やや渋くなった印象も。7800系は2013年から走り始め、2両×4編成が運用されている。

 

【関連記事】
これだけ多彩な魅力が潜む路線も珍しい—祝SL復活!乗って見て遊ぶ「秩父再発見」の旅

【注目の譲渡車両④】上田電鉄では1000系2タイプが走る

◆長野県 上田電鉄1000系(元東急1000系)

↑上田電鉄の1000系。写真は1003編成で「自然と友だち2号」と名付けられた。同鉄道の1000系はみなデザインが異なっている

 

長野県上田市内を走る上田電鉄。昨年秋の台風19号の影響で千曲川橋梁が倒壊、現在は上田駅〜城下駅間がバスによる代行輸送となり、電車の運行は城下駅〜別所温泉駅間のみとなっている。

 

そんな上田電鉄の主力車両が1000系、元東急の1000系である。1000系は2両×4編成が走り、皆デザインが異なる。1001編成は元東急の1000系のままの赤帯電車、1002編成は自然と友だち1号、1003編成は自然と友だち2号と名付けられたラッピング電車。1004編成は丸窓電車として人気だった車両デザインを踏襲した「まるまどりーむ号Mimaki」で、上田電鉄の伝統色、紺と白に塗装されている。

 

上田電鉄は東急の系列会社であり、1986(昭和61)年の1500V昇圧後以降は元東急電車のみを使用している。昇圧後当初は5000系、5200系、さらに7200系を利用してきた。7200系は2018年5月まで走っていただけに、懐かしく思われる方も多いのではないだろうか。

 

かつて利用した東急電車の中で、5200系1両のみ保存されている。元東急5200系は、“青ガエル”の愛称で親しまれた5000系のセミステンレス車両版である。1958(昭和33)年から4両のみ造られた車両で、日本初のステンレス鋼を用いて造られた。通常は下之郷駅の車両基地内でシートをかぶされ保管されている。

 

この元東急電車の記念碑的な車両が、9月27日までの期間限定で、城下駅の下りホームに展示されている。通常は、なかなかお目にかかれない車両なので、この機会にぜひとも訪れておきたいところだ。

 

◆長野県 上田電鉄6000系(元東急1000系)

↑上田電鉄6000系は現在2両のみ。さなだどりーむ号という愛称が付く。戦国時代に上田城を拠点とした真田家にちなむ装いで走る

 

上田電鉄には2015年3月に東急から譲渡された6000系も走っている。この車両は1000系の中間車を改造した電車で、新たに運転台を設けた。そのため、既存の上田電鉄1000系とは正面の形が大きく異なっている。

 

前述した福島交通の1000系とほぼ形は同じだが、真田藩の元城下町、上田らしく「さなだどりーむ号」の名前が付く。車体は戦国武将、真田幸村の赤備えにあわせ、赤が基調、車体には真田家の家紋・六文銭があしらわれている。

 

ちなみに、前述したように台風災害で一部区間が不通となっている。2021年春ごろを目指して復旧工事が進められている。

 

【関連記事】
乗って歩けば魅力がいっぱい!「上田電鉄別所線」で見つけた11の発見

 

【注目の譲渡車両⑤】元東急8500系がほぼ同じ姿で信州を走る

◆長野県 長野電鉄8500系(元東急8500系)

↑先頭に赤い帯が入る長野電鉄8500系。元東急8500系と同じ姿のままで、後ろに山景色がなければまるで首都圏を走っているかのようだ

 

長野県内の長野駅と湯田中駅を結ぶ長野電鉄長野線。普通列車に使われるのが元東急8500系である。長野にやってきても8500系を名乗る。正面に赤い帯が入る東急当時とほぼ同じスタイルで、田園都市線でも同じ姿の電車が走っている。写真を見る限り、後ろに志賀などの山々が見えなければ、首都圏で撮ったように錯覚してしまうほどだ。

 

長野電鉄へやってきたのは2005(平成17)年。3両×6編成が信濃路を走る。姿はほぼ元東急のままだが、細いところでは、例えば、雪の多い長野の風土に合わせて、凍結防止用にドアレールヒーター、耐雪ブレーキが装着されるなど、改造が施されている。

 

ちなみに急勾配用のブレーキを装着していないため、長野駅〜信州中野駅間のみの運行となっている。

 

【関連記事】
実に「絵」になる鉄道路線!! フォトジェニックな信州ローカル線の旅【長野電鉄長野線】

 

【注目の譲渡車両⑥】伊豆急行線を走るのは元東急8000系

◆静岡県 伊豆急行8000系(元東急8000系)

↑伊豆急行線片瀬白田駅〜伊豆稲取駅間を走る8000系。潮風を浴びる海辺の路線で、オールステンレス製の長所が活かされている

東急のグループ会社、伊豆急行。同路線の普通列車に使われるのが8000系だ。元東急の8000系である。形は細部が異なるものの、8500系と見間違えてしまう。8500系とどのように違う電車だったのか。まずはそこから見ていこう。

 

元東急8000系は1969(昭和44)年に走り始めた。東急では8000系よりも以前に7000系というステンレス製の車両を造っている。8000系はこの7000系と同じく米バッド社との技術提携を結び造られたオールステンレス製の電車だった。

 

オールステンレスであるとともに、革新的な技術を導入していた。ここからは、やや専門的な話となる。「他励界磁チョッパ制御方式」という電車の制御技術を採用した。世界で初めて実用化された技術だった。さらにマスコンハンドルとブレーキレバーが一緒になった「ワンハンドルマスコン」を、量産する電車として初めて取り入れた。こうした技術は今となっては珍しくないが、日本の鉄道車両のその後に大きな影響を与えた技術である。

 

その後の進化タイプの8090系、8500系、8590系まで含めると677両と大量の電車が製造されている。

 

東急では東横線、大井町線用で運用されたのち、2008(平成20)年に引退している。私鉄には8000系の後継車両となる8500系が譲渡されたが、8000系が引き取られたのは伊豆急行のみだった。他にはインドネシアの鉄道会社にひきとられている。

 

さて伊豆急行の8000系。2005(平成17)年から運行を始め、今では40両(4両×7編成+2両×6編成)が使われている。伊豆急行では濃淡2色の水色の塗装および帯を巻く姿となった。客席もロングシートから、一部がクロスシートに変更され、観光用電車のイメージが追加された。
海岸沿いを走る伊豆急行線。鋼製の電車は潮風の影響を受け錆びやすい。その点、オールステンレス製の8000系は、車体の腐食の心配をせずとも走らせることができる。8000系の機能が海辺を走る路線で今も活かされているわけである。

今も各地で働き続ける「譲渡車両」8選ーー元西武電車の場合

〜〜首都圏を走った私鉄電車のその後2〜〜

 

首都圏や京阪神を走っていた当時の“高性能電車”の多くが、各地の私鉄路線に移り、第2の人生をおくっている。大手私鉄の「譲渡車両」2回目は、元西武鉄道の電車を紹介した。

 

西武鉄道のグループ会社へ移籍する電車が多いのは当然ながら、他にも複数の会社へ移籍して、今も多くが第一線を走る。そんな電車たちの“第二の人生”を写真を中心にお届けしよう。

 

【関連記事】
今も各地で活躍する「譲渡車両」に迫る〈元首都圏私鉄電車の場合〉

 

【注目の譲渡車両①】グループ会社の近江鉄道は全車が元西武電車

◆近江鉄道(滋賀県)800系・820系

↑近江鉄道820系は、元西武の401系。822編成は西武当時の “赤電”と呼ばれたリバイバルカラーで塗られ近江路を駆ける

 

大手私鉄の電車の中で各地の鉄道会社へ譲渡されることが多いのが東急、さらに西武鉄道の電車だ。まずは西武鉄道のグループ会社、近江鉄道と伊豆箱根鉄道の譲渡車両の現状から見ていこう。

 

近江鉄道は西武鉄道のグループ会社ということもあり、古くから西武の譲渡車両を多く使ってきた。現在、すべてが元西武の車両である。

 

なかでも主力として活躍するのが800系と820系。元は西武の401系だった。401系は高度成長期、デザインよりも、車両数を増やすことに専念した西武鉄道らしく、凝らずに正面を平坦にしたデザインが特徴となっている。

 

近江鉄道へ移ってからは、正面がそのままの車両は820系に、独自の3枚窓に改造された車両が800系となった。820系のほうが、西武の元401系の姿を色濃く残しているものの、車体の四隅のスソ部分が当時の車両運行上の問題からカットされているところが西武当時とは異なっている。401系が西武で生まれたのは1964(昭和39)年のこと。1991(平成3)年から1997(平成9)に近江鉄道にやってきてすでに四半世紀と、かなり年季が入った電車となっている。

↑八日市駅に停車中の800系3編成。近江鉄道に来て正面を3枚窓に改造された車両形式だ。車両ごとにラッピングが異なりカラフルだ

 

◆近江鉄道(滋賀県)100形

次は近江鉄道の100形。元は西武鉄道の新101系もしくは301系を改造した電車である。西武の新101系、301系は、西武鉄道の車両のなかでは長寿車両で、現在も多摩湖線や西武多摩川線などを走り続けている。

 

↑元西武の新101系・301系を改造した近江鉄道100形。水色に白いラインというシンプルな姿で近江の路線を走っている

 

さらに各社へ譲渡される車両数が多く、今も各地で活躍している。全長20mと長めながら片側3扉車で、部品類に事欠かず、地方の鉄道会社として使い勝手が良い電車となっている。100形は2両×5編成と編成数も多く、同社の主力車両として沿線で出会う機会が多い。

 

◆近江鉄道(滋賀県)900形

100形と同じく西武の新101系がベースで、100形よりも半年ばかり早く2013年6月に登場した。2両×1編成のみが900形に改造され、当初はダークブルーの淡海号として走り始めた。その後に、虹たび号、あかね号と愛称を変更、塗装もそのつど変更されている。

↑あかね号塗装に変更された900形。ほぼ同形の100形とは優先席をクロスシートに、塗装を変えるなどの違いがある

 

◆近江鉄道(滋賀県)300形

2020年8月から走り始めたのが300形。こちらは元西武の3000系である。3000系は西武池袋線系統で初の省エネルギータイプの車両として1983(昭和58)年から1987(昭和62)年にかけて導入された。その後、2010年代に入り、混雑緩和を図るため西武池袋線や西武新宿線といった本線用の車両の4ドア化が進められ、他車両よりも早めの2014年に西武を引退している。そして一部が近江鉄道に譲渡され、長年、高宮駅の構内に停められていた。その車両がこのほど改造され、300形として“新車デビュー”した。

 

姿形は新101系と似た正面のガラス窓が2枚だ。だが、3000系は同じ2枚窓でも中央にある柱部分の出っ張りが無く、窓周辺と同じ濃い色に塗られていること。そのため柱部分が目立たなくなっている。また近江鉄道初の界磁チョッパ制御方式が使われている。

 

近江300形の車体色は濃い水色一色で100形と似ているが、正面の2枚窓部分の全体がブラックとなり、より引き締まった顔立ちとなっている。

 

【注目の譲渡車両②】元西武電車がほとんど走らない伊豆箱根鉄道

◆伊豆箱根鉄道駿豆線(静岡県)1300系

↑伊豆箱根鉄道1300系「イエローパラダイストレイン」。西武の新101系が登場時のリバイバルカラーで伊豆半島を走る

 

伊豆箱根鉄道は西武鉄道のグループ会社だが、自社発注の電車が多い。神奈川県内を走る大雄山線は全長18mのオリジナル車両5000系のみ。一方の静岡県内を走る駿豆線(すんずせん)は、主力の3000系と、7000系は自社発注の電車となっている。

 

そんな中で、唯一の西武鉄道の譲渡車両が駿豆線の1300系だ。1989(平成元)年から走っていた1100系(元西武701系)が老朽化しつつあったことから、後継車両として西武新101系を譲り受け、2008(平成20)年に改造されて1300系となった。

 

現在、走るのは3両×2編成で色がそれぞれ異なる。1編成は白地にブルーの帯、もう1編成は「イエローパラダイストレイン」と名付けられた西武当時のリバイバルカラー電車だ。「イエローパラダイストレイン」はイベントなどで使われることも多く、元西武電車そのままの姿ということもあり人気が高い。

 

ちなみに西武鉄道に残る新101系の249編成は、伊豆箱根鉄道の1300系と同じ白地に青い帯に塗り替えられた。また251系編成は近江鉄道の100形と同色に塗り替えられ、多摩湖線や西武多摩川線を走る。グループ会社3社の、それぞれのカラーが西武鉄道に勢揃いしているというのもおもしろい。

 

【関連記事】
【おもしろローカル線の旅】美景とのどかさに癒される「伊豆箱根鉄道」

 

【注目の譲渡車両③】元の面影をしっかりと残す三岐鉄道の電車

三重県の近鉄富田駅(きんてつとみだえき)〜西藤原駅間を走る三岐鉄道三岐線。走る電車はすべてが西武鉄道の譲渡車両でまとめられている。車体の色も黄色がメインで、下部がオレンジと塗り分けられる。黄色い電車のイメージが強く、かつて黄色が電車の大半を占めていた西武の沿線を訪れたような懐かしさが感じられる。余談ながら筆者は西武沿線で育ったこともあり、この三岐線沿線を訪れるたびに、幼き日に戻ったようなうれしさを感じてしまうのである。

 

そんな三岐鉄道の元西武電車のラインナップを紹介しよう。

 

◆三岐鉄道三岐線(三重県)101系

↑元西武の401系は三岐鉄道では101系となった。前照灯が大きくなっているものの、西武時代の401系の面影をほぼ残している

 

正面が平たい姿の三岐鉄道101系。元は西武の401系だ。401系が登場した当時、国鉄の101系、103系といった、正面が平坦な通勤電車が多かった。とはいえ国鉄101系が、平坦な顔立ちとはいうものの、運転席の窓部分に窪みを付けアクセントにしている。対して西武401系の正面デザインは全面平らである。この極端なシンプルさが特徴だった。

 

三岐鉄道に移り101系となったが、前照灯などが大きく変った以外には改造箇所は目立たず、それだけ西武の401系のオリジナルな姿を良く留めていて興味深い。

 

◆三岐鉄道三岐線(三重県)801系

↑三岐鉄道の801系は元西武701系。写真の805編成は2年ほど前から車両全体をレモンイエロー塗装に変更され走る

 

↑三岐801系の803編成は、昨年に西武時代当時の塗装に変更された。701系の登場したころの“赤電塗装”で一際レトロ感が増している

 

401系とともに三岐線の主力として走るのが801系である。西武鉄道では701系だった。西武701系は1963(昭和38)年に登場した電車で、401系のように淡泊な姿ではなく、当時、流行していた湘南スタイルを踏襲、その後の101系、3000系まで続くいわば “西武顔”の電車だった。デザインは少し凝ったものの、電車にあまりお金を投資しなかった当時の西武の思想が見える。登場当時の前後の先頭車両には、国鉄払下げ品の台車を使うなど、乗り心地が決して良い電車とは言えなかった。

 

三岐鉄道には平成に入った1989(平成元)年から1997(平成9)年にかけて計16両が譲渡された。3両編成化、台車を変更されるなど改造され、今も走り続けている。さらに近年には黄色とオレンジの三岐塗装の車両のほかに、805編成はレモンイエロー一色、803編成赤(ラズベリーレッド)と窓回りがベージュ(トニーベージュ)に塗り分けられている。後者は“赤電”塗装と呼ばれ、西武701系が登場したころの懐かしいカラーが復活したこともあり、人気となっている。

 

◆三岐鉄道三岐線(三重県)751系・851系

↑西武鉄道の新101系が譲渡され三岐751系となった。正面とともに屋根上の雨どい部分などの形が801系と異なっている

 

三岐線には751系と851系という形式の異なる電車が走っている。西武鉄道の新101系が譲渡され3両×1編成の751系となった。三岐線では最も新しい電車だが、それでも1979(昭和54)年製造とかなり年期が入っている。ちなみに三岐鉄道の車両は、西武鉄道がかつて自社車両を製造していた西武所沢工場製がほとんどだが、この751系は東急車輌製造で製作された電車だ。

 

ほか三岐鉄道には851系という電車も走っている。この851系は、元西武の701系で、三岐801系とは機器や台車が異なることもあり851系とされ、1995(平成7)年から走り始めた。その後の2012(平成24)年に先頭車両が事故にあい廃車となったことで、先頭車のみ元西武の新101系の改造車両を連結して走る。そのため前後の姿、また屋根の雨どい部分の形や高さが異なるなど、ちょっと不思議な姿の編成となっている。

 

とはいえ、西武ファンにとっては、まるで“宝箱”のような三岐線。車庫は沿線の保々駅(ほぼえき)に隣接していて、車庫の横を通る道沿いから停まる電車が良く見える。古い元西武電車との触れ合いを求めこの駅に訪れるファンも多い。

 

【関連記事】
鈴鹿山脈を眺めて走る三重のローカル施設10の新たな発見に胸ときめく

 

【注目の譲渡車両④】すっかり模様替えして走る流鉄の元西武電車

◆流鉄流山線(千葉県)5000形

↑濃淡ピンク色に塗られた流鉄の「さくら」編成。流鉄では5編成すべてが色違いで、それぞれ愛称が付けられている

千葉県の馬橋駅と流山駅間を結ぶ流鉄流山線。5.7kmの短い路線である。短いがすでに100年以上の歴史を持つ老舗路線でもある。そんな流鉄を走るのは全車が元西武の新101系で、流鉄では5000形として走る。ワンマン運転、そして2両運転が可能なように西武の武蔵丘車両検修場で改造され、2009年〜2013年にかけて入線した。

 

現在、走るのは5編成。それぞれ「さくら」「流星」「あかぎ」「若葉」「なの花」という愛称が付けられ、名前に相応しい車体カラーで走る。

 

流鉄は5000形が走る前までは、元西武101系を改造した3000形が在籍していた。101系と言っても今も各地を走る新101系ではなく、701系などと正面の姿が同じ旧101系に分けられるタイプで、この車両が譲渡されたのは流鉄のみだった。こうした珍しい車両が走っていたが、残念ながら2010年に引退している。

 

さらに前をたどると2000形が2009年まで走っていた。こちらは西武701系・801系の改造車両である。その前は、1200形・1300形が2001年まで走った。こちらは元西武551系で、西武では初の両開き扉を用いた車両編成だった。

 

流鉄は1979年にこの1200形・1300形を導入したことにより、電車の近代化を果たした。以降、西武一筋なわけだ。西武鉄道との資本面での関係はないが、不思議な縁を感じる鉄道会社である。

↑終点の流山駅に停まる5000形。右下が流鉄の電車近代化に役立った1200形・1300形。愛称の「あかぎ」は現在の5000形にも受け継がれる

 

【関連記事】
開業1世紀で5回の社名変更の謎乗車時間11分のみじか〜い路線には波乱万丈のドラマがあった!

 

【注目の譲渡車両⑤】ラッピングが楽しい上信電鉄の元101系電車

◆上信電鉄(群馬県)500形

↑上信電鉄500形の第1編成は「ぐんまちゃん列車」のラッピング。かわいらしい姿で子どもたちに人気の電車となっている

 

↑500形第2編成は地元企業「マンナンライフ」のラッピング電車。こちらもなかなか個性的な姿でおもしろい

 

群馬県の高崎駅と下仁田駅を結ぶ上信電鉄。今でこそJR東日本の107系が大量に引き取られて主力となっているが、その前まで上信電鉄では同社が新造した電車と、元西武電車のみだった。元西武451系、601系を改造した100形、さらに西武401系、701系、801系をそれぞれ改造した150形と、いろいろ入り交じり賑やかだった。

 

現在、残る元西武電車は500形のみで2両×2編成が走る。西武時代は新101系だった電車で、改造された上で、2005年から上信電鉄を走っている。当初はクリーム地に緑のラインという淡泊な姿だったが、その後にラッピング電車となり、第1編成が群馬県のPR車両「ぐんまちゃん列車」、第2編成は沿線に本社があるこんにゃくゼリーを販売する企業のラッピング電車となっている。

 

今も全国の鉄道会社を走る新101系だが、こうしたラッピング電車も現代の地方私鉄らしく、興味深い姿である。

 

【関連記事】
新鮮な発見が次々に!−見て乗って食べて良しの【上信電鉄】の旅

 

【注目の譲渡車両⑥】改造されて秩父路を有料急行として走る

西武鉄道の101系は西武秩父線の開業に合わせて導入された。25パーミルという勾配区間がある山岳路線を走りきる性能を持った電車が必要になったためだった。101系は秩父路に縁がある車両だったわけである。

 

そんな101系の後期車、新101系が改造され、秩父鉄道に譲渡され6000系として走る。新101系は全国の複数の鉄道会社で使われているが、この秩父鉄道の6000系は最も姿を変えた編成と言って良いだろう。

 

◆秩父鉄道(埼玉県)6000系

↑秩父路を走る6000系。3ドアが2ドアに改造された。中間部のみ大きなガラス窓となっていて改造されたことが良く分かる

 

秩父鉄道では現在、3両×3編成の6000系が走る。新101系は側面3扉車両だが、この6000系は中間のドアを取り外して2扉とした。中間部のみ大きなガラス窓となっているため、改造したことが良くわかる。前照灯の場所と形も変え、正面中央にLED表示器を装着している。

 

さらにロングシートの座席をクロスシートに付け替えた。色は白地ベースに窓部分などを薄めのブルーに塗装された。さらに3編成のうち1編成は、古い秩父鉄道の電車を模したリバイバルカラーとなっている。

 

この6000系以外の秩父鉄道の車両はすべてロングシートである。6000系が唯一のクロスシート車両というその機能を活かして、有料の急行列車として使われている。ちなみに秩父鉄道には西武秩父線から4000系という電車も乗り入れている。新旧の西武電車が他社線に秩父鉄道で出会い、さらに元東急や元都営三田線の電車まで行き違い、なかなか賑やかだ。

 

【関連記事】
これだけ多彩な魅力が潜む路線も珍しい祝SL復活!乗って見て遊ぶ「秩父再発見」の旅

 

【注目の譲渡車両⑦】今も富山平野を走り続ける初代レッドアロー

◆富山地方鉄道(富山県)16010形

↑富山地方鉄道の16010形第2編成。特急アルプス号としても利用されている。特急の乗車には特急料金(2号車のみ+座席指定券)が必要に

 

西武鉄道の特急形電車といえば、現在は001系ラビューに、10000系ニューレッドアローが西武池袋線系統、そして西武新宿線を走る。その前に走っていたのが西武5000系である。5000系は1969年に西武初の有料特急用に造られた電車で、鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞している。余談ながら半世紀後に誕生した001系ラビューもブルーリボン賞を獲得した。5000系は斬新なスタイルで話題になったラビューが生まれるちょうど半世紀前に誕生した名車だったわけである。

 

そんな西武生まれの名車が今も日本海側を走っている。富山県内に複数の路線を持つ富山地方鉄道。5000系が2005年、2006年に富山へ移籍、改造され16010形となった。現在は3両×2編成が活躍、うち第2編成は2011(平成23)年に水戸岡鋭治氏がデザインし、リニューアル改造が行われた。そして、観光列車「アルプスエキスプレス」として走る。リメイクされたものの、元の姿を色濃く残している。

 

【注目の譲渡車両⑧】SL列車の補佐役として走る元西武の機関車

◆大井川鐵道(静岡県)E31形

↑きれいにメンテナンスされたE34形。古参の機関車に代わってSL列車の補助役やELイベント列車の牽引などに利用されている

 

最後は元西武生まれの電気機関車である。西武鉄道では1996年に貨物輸送が廃止となるまで、多くの電気機関車が在籍していた。特にセメント関連輸送が盛んに行われていたことから、私鉄最大のE851形といった電気機関車を新造され使われていた。電気機関車の創世記の時代に造られた欧米生まれの車両も多く保有していたが、保存車両として残る一部をのぞき、廃車となっている。

 

元西武の電気機関車の中で珍しい存在だったのがE31形。1986(昭和61)年、87年に自社の所沢車両工場で4両が造られた。戦前生まれ、欧米から輸入された古典的な電気機関車に代わる役割を持つ電気機関車として造られたのだが、製造後10年もしないうちに貨物輸送が終了してしまう。その後は工事列車や新車の牽引などで使われたが、その機能が充分に生かす場が消えたこともあり、2010年に引退となった。

 

引退した年にE31形の3両を引き取ったのが静岡県を走る大井川鐵道だった。長らく新金谷駅や千頭駅構内に停められていたが、2017年にクリーム色に朱色の3本ラインが入る西武当時の姿で復活した。現在は、SL列車の補機や、EL牽引のイベント列車などに使われている。何より重連統括制御による運転が可能とあって、鉄道ファンからはなかなかの人気となっている。

 

こうした譲渡車両も、それぞれの歴史をひも解くとおもしろい。何よりも、譲渡された会社で大事に使われている姿を見ると、鉄道ファンにとっては何ともうれしく感じられるものである。

乗れれば幸せ!? 車両数が少ないJRの「希少車」16選

〜〜さまざまな理由で誕生したJRの希少車〜〜

 

首都圏でオレンジ色の電車といえば中央線。“あれれ?”この電車、ふだん乗る電車と姿形が違う。このあまり見かけない珍しい電車は209系1000番台で、元は常磐線を走っていた。わけあって20両のみが中央線へやってきた。

 

今回はこうしたJRの「希少車」に注目した。調べてみると形式数は意外に多い。理由があって生まれた希少車。引退が取りざたされる車両も含まれる。そんなレアな車両に注目した。

*事業用車両および特急形車両・観光列車、機関車、また増備中の新型車両は除外しました。紹介した車両数は令和2年4月現在の情報です。

 

【関連記事】
今も各地で活躍する「譲渡車両」に迫る〈元JR電車の場合〉

 

【希少車に注目①】なぜ209系が中央線を走っているのか?

◆JR東日本209系1000番台 計20両(豊田車両センター)

↑中央線を走る209系1000番台。平日の朝などを中心に主力のE233系を手助けして走り続けている

 

中央線の通勤電車といえば車両のほとんどがE233系0番台。ところが朝を中心に見慣れない電車に出会うことがある。その電車が209系1000番台だ。現在、10両×2編成が走っている。

 

209系1000番台は1999(平成11)年、常磐緩行線用に造られた車両だった。常磐線では緑の帯を巻き、東京メトロ千代田線にも乗り入れた。地下鉄乗り入れ用ということで、正面に非常時用の貫通扉を設けているところが他の209系とは異なる。

 

すでに常磐線を走っていた209系1000番台は2018年10月に引退した。なぜその電車が中央線へやってきたのだろう。中央線を走るE233系はグリーン車2両を組み込み12両化する改造工事と、車内にトイレを付設する改造工事を進めている。改造工事のために工場に入ることが必要となり、そのために編成数が足りなくなる。 “応援部隊”が必要となった。その応援役として引退する予定だった209系1000番台に白羽の矢がたった。

 

中央線のグリーン車増結は当初の2020年度の予定から2023年度末に延びている。一方でE233系0番台の12年ぶりに増備がこの夏に行われた。209系1000番台はお役ごめんとなり、数年後には引退ということになりそうだ。

 

【希少車に注目②】2階建ての珍しい215系の気になる今後

◆JR東日本215系 計40両(国府津車両センター)

↑中央本線の繁忙期用臨時列車「ホリデー快速ビューやまなし」として走る215系。同車両の運用はますます減りつつある

 

215系は東海道貨物線を利用して走る「湘南ライナー」や「湘南新宿ライナー」といった着席サービスを提供するために造られた電車だ。10両編成の前後車両を除く車両のすべて2階建て。グリーン車を2両はさんで走る。1992(平成4)年から1993(平成5)年に4編成のみ製造された。40両という数字は多いものの、実質的にはあまり走っていない“珍しくなりつつある電車”、そして引退が予想される電車のため今回は取り上げた。

 

座席定員を増やすための2階建て仕様で、座席定員は普通車で最大120名となっている。215系は211系をベースにして造られたが、211系の座席定員が60名前後ということを考えれば、2階建て仕様が功を奏したと言えるだろう。ところが、バリアフリー化という時代の流れもあり、また215系と併用される185系の方が運用しやすいなどの理由があり、徐々に運用から外れていく。

 

現在は朝夕に走る湘南ライナーの一部列車と、多客期に運転される中央本線の「ホリデー快速ビューやまなし」といった列車に使われるのみ。日中は東海道線の茅ヶ崎駅などの留置線に停められている姿を見かけることが多い。

 

湘南ライナーの特急化などの話も出てきている。稼働率が低い215系は、湘南ライナーが消えるとともに、引退となりそうだ。JR東日本では希少となってきた形式名に「E」が付かない電車だけに、ちょっと残念でもある。

 

【希少車に注目③】仲間が他社へ移籍する中で残された4両

◆JR東日本E127系0番台 計4両(新潟車両センター)

↑吉田駅ホームに停車するE127系0番台。新潟県内の弥彦線などを走るわずか4両のみとなっている

 

新潟県内の普通列車には、長い間、急行形電車が利用されていた。ところが乗降口が前後2か所のため、朝夕のラッシュ時の乗降に時間がかかり不評だった。こうした古参車両に代わりに1995(平成7)年に登場したのが3扉仕様のE127系だった。計24両が造られ20年ほど新潟市と郊外を結ぶ列車を中心に活用されてきた。ところが今は4両のみしか残されていない。なぜだろう?

 

2015年に開業した第三セクター鉄道・えちごトキめき鉄道に2両×10編成が譲渡されたからである。2両×2編成のみがJR東日本に残され、同社内では希少車となった。またE129系という後継車両の増備が進んでいることもあり、追いやられるように弥彦線などを走るのみとなっている。

 

ちなみにE127系には1000番台もある。こちらは長野県内の路線用で、松本車両センターに配属、計24両が大糸線、篠ノ井線などの路線で活躍している。緑ベースの0番台と比べて、水色主体の車体、さらに正面の周囲にフチがあるデザインで、0番台とはかなり異なる“顔立ち”となっている。

【希少車に注目④】ハイブリッド化への礎を造った名車両

◆JR東日本キハE200形 計3両(小海線営業所)

↑小海線を走るキハE200形。車体横に誇らしく「HYBRID TRAIN」の文字が入る

 

日本の鉄道最高地点を走る小海線。高原を走るローカル線としても人気が高い。この路線を車体横に「HYBRID TRAIN」と大きな文字が入る少し目立つ気動車が走っている。この車両がキハE200形。2007年に3両のみが造られ小海線へ投入された。

 

キハE200形はディーゼルエンジンとともにリチウムイオン充電池を積み、蓄電池に貯めた電力を発車時に利用して走るハイブリッド式の気動車である。世界初の営業用ハイブリッド車両ということもあり、鉄道友の会のローレル賞を受賞している。ハイブリッド機構は標高が高く、勾配が急な小海線への投入で熟成化されていった。いわばハイブリッド式気動車の開発に大きく貢献したわけである。

 

ハイブリッド車両は今やJR東日本の複数の観光列車として、また幹線用の列車として多くが開発製造され、東日本各地で生かされている。希少車キハE200形の功績は大きい。

 

【希少車に注目⑤】新潟地区に投入され今は只見線の主力車両に

◆JR東日本キハE120形 計8両(郡山総合車両センター)

↑新潟地区を走ったころのキハE120形。2020年3月以降は黄緑色ベースの車体色に変更されて只見線を走り始めている

 

国鉄時代から引き継がれてきた気動車に代わるJR東日本の後継車両といえば、キハ100系、キハ110系。そして、2008年に新潟地区用に造られたのがキハE120形である。

 

先輩にあたるキハ100・110系との違いは車体にステンレス製軽量構体を利用していること。またスソ絞りの体型になったことだろう。このスタイルはその後に多く新造され各地で活躍するキハE130形に生かされている。

 

結局8両のみの導入となり長年、新潟駅を起点に磐越西線、米坂線、羽越本線などにキハ40系の後継車両として運用されてきた。2020年3月には新潟車両センターから郡山総合車両センターへ移動。ベース色もオレンジから黄緑に変更され、只見線の会津若松駅〜会津川口駅間を走り始めている。

 

【希少車に注目⑥】初の蓄電池駆動電車として烏山線を走る

◆JR東日本EV-E301系 計8両(小山車両センター)

↑非電化の烏山線を走る時にはパンタグラフを下げて蓄電池にためた電力で走る。電化区間ではパンタグラフを上げて走る(左下)

 

電化された区間では架線からパンタグラフで電気を取り込む。さらに非電化区間ではリチウムイオン電池に貯めた電力を利用して走る。EV-E301系は2014年に導入された日本初の営業用の、直流用一般形蓄電池駆動電車である。車両は2014年から2017年にかけて2両×4編成の計8両が造られている。

 

鉄道友の会からは2015年のローレル賞を受賞した。非電化路線用の今後の車両作りを具体化する電車として認められたわけである。車体の側面にはニックネーム「ACCUM(アキュム)」の文字が描かれている。

 

課題は現在の蓄電池の容量で走れる距離に限界があることだろう。烏山線が片道20.4kmの短い路線だから成り立つシステムでもある。終点の烏山駅には充電設備がありパンタグラフをあげて、電気の取り込みを行う。この充電にも時間を必要とする。ちなみに折り返す烏山駅の停車時間を見ると15分以上を要していた。

 

素晴らしいシステムではあるものの、まだ短い非電化路線でしか力を発揮できないシステムといえそうである。

 

【希少車に注目⑦】男鹿線を走る交流用の蓄電池駆動電車

◆JR東日本EV-E801系 計2両(秋田車両センター)

↑奥羽本線の電化区間を走るEV-E801系。非電化の男鹿線に入るとパンタグラフを降ろして、リチウムイオン電池に貯めた電力で走る

 

直流用のEV-E301系の交流区間用がEV-E801系だ。2017年3月に奥羽本線の秋田駅と男鹿線の男鹿駅間を走る列車用に2両が導入された。

 

すでに交流電化区間用には、2016年10月にJR九州のBEC819系電車が導入されていた。BEC819電車は筑豊本線(若松線)に導入され、後に香椎線(かしいせん)用にも増備されて活用されている。

 

EV-E801系はBEC819系をベースにした車両で、九州が電気の周波数が60Hzであるのに対して、東日本が50Hzと異なることに対応、また耐寒耐雪地向けの車両となった。ちなみに終点の男鹿駅には充電装置が設けられている。

 

愛称は烏山線のEV-E301系と同じく「ACCUM(アキュム)」。すでに3年に渡り営業運転を続け、実用化に目処がたったことから2020年度以降に増備される予定となっている。この増備で、男鹿線を走ってきた既存のキハ40系は、置き換えということになりそうだ。

 

【希少車に注目⑧】2編成のみ造られた北海道の希少な電車

◆JR北海道735系 計6両(札幌運転所)

↑ステンレス製の733系と連結して走るアルミニウム合金製の735系。両車両の外観はほぼ同じだが、735系は側面には色帯が付かない

 

ここからは各地を走るJRの希少車をとりあげよう。まずJR北海道から。札幌を中心に、多くの通勤形交流電車が走っている。721系、731系、そして車両数が多いのが733系である。733系とほぼ形は同じながら、側面に黄緑の帯が入らず、すっきりした姿の電車を時々見かけることがある。この帯が無い車両が735系電車だ。

 

この735系電車は2010年に3両×2編成のみ造られた。なぜ6両のみとなったのだろう?

 

735系はアルミニウム合金製の車体を持つ。アルミは軽量化、そして整備のコスト低減に結びつくことから、導入を図る鉄道会社も多い。そうした理由もありJR北海道でも735系の導入を図ったのだが、北海道は酷寒地である。アルミニウム合金製の電車が同じような環境で使われた先例がなかった。そのため6両を造ったものの短期間の試験で導入するのは、時期尚早という結論に至った。

 

JR北海道では735系の増備ではなく、2012年からは主力電車となる733系電車を新造という道をとった。733系のデザインは735系とほぼ同じだが、こちらはステンレス製である。すでに導入されていて充分に実績があった素材を使ったというわけである。

 

735系はわずか6両のみとなった。札幌近郊を走る電車の車両数は334両と多く、735系に出会う確立が少ない。それだけ出会えない電車となっている。

 

【希少車に注目⑨】電車との併結運転が可能な珍しい気動車

◆JR北海道キハ201系 計12両(苗穂運転所)

↑函館本線を走るキハ201系。走行性能に優れ、ニセコライナーといった優等列車にも利用されている

 

キハ201系は1996年に3両×4編成が誕生した。それまでのJR北海道の主力気動車といえば、キハ40系やキハ150形だった。函館本線の小樽よりも先は非電化区間となっている。この非電化区間から札幌方面へ気動車が直接に乗り入れることも多かった。ところが、既存の気動車は動きがやや鈍く、スピードも遅め。そのため他の電車の運行をさまたげる要因なってしまう。

 

そうした問題を解決するために開発されたのがキハ201系だった。キハ201系は最高運転速度120km/hと優秀な走行性能を誇る。さらにキハ201系は同時期に開発された731系電車と連結し、協調運転ができるように造られた。こうした電車と気動車が連結して協調運転を行う例は現在、北海道のみとなっている(他にJR東日本のSL銀河の例があるが、こちらは異例として見たい)。

 

非常に珍しいわけだ。ところが、最近は731系と協調運転されるケースが稀になっている。ニセコライナーが一番の“ハレ”の舞台となっているが、これも蘭越発、札幌駅行きが朝に1本、札幌を夕方に発車、倶知安駅行の列車が1本あるのみとなっている。札沼線の非電化区間が廃止されたこともあり、残る運用は函館本線内の電化区間を電車に混じって走るぐらいと、その性能が活かしきれていないのがちょっと残念だ。

 

【希少車に注目⑩】効率的な車両運用を行うJR東海で稀な例

◆JR東海キハ11形300番台 計4両(名古屋車両区)

↑名松線を走るキハ11形300番台。1両のみの運用が可能で、JR東海では珍しい全長18mと小型の車体となっている

 

JR東海では電車、そして気動車の形式を減らして集約化を図る傾向が強い。メンテナンス効率や、運用面といった利点を考えてのことなのだろう。そうした中で稀な存在なのがキハ11形だ。キハ11形はローカル線用に造られた気動車で、最初の車両の登場は1988年とJRになってすぐのころだった。

 

非電化区間の普通列車用に長らく使われてきたが、その後にキハ25系、キハ75系といった高性能な気動車が登場したことから、車両数が減少し、今では1999(平成11)年に増備されたステンレス車体のキハ11形300番台のみ4両が残る。運行はほぼ名松線と参宮線が主になっている。JR東海では4両のみと希少になっているが、ほかの鉄道会社に譲渡された車両もある。

 

JR東海の関連会社である東海交通事業城北線に2両が入線している。ちなみに300番台が導入された東海交通事業からはキハ11形200番台の2両が、茨城県を走る、ひたちなか海浜鉄道へ譲渡された。車両数が減りつつもキハ11形は、ローカル線を運行する鉄道会社にとって、利用しやすい車両なのだろう。

【希少車に注目⑪】元荷物電車が改造されて今も走り続ける

◆JR西日本123系 計5両(下関総合車両所運用検修センター)

↑濃黄色一色で塗装されたJR西日本の123系が宇部線を走る。ほか小野田線の運用に欠かせない車両となっている

 

今回、紹介する希少車の中で貴重な国鉄時代生まれの電車が123系である。ベースは鉄道で手荷物・郵便輸送の行われていたころに使われた荷物電車で(一部例外がある)、改造されて123系電車となった。前後に運転台を持つ構造のために、利用客の少ないローカル線での運用に向いている。

 

123系はみなJRとなる前後の1986(昭和61)年〜1988(昭和63)年に改造された。そしてJR東日本、JR東海、JR西日本に引き継がれた。現在、使われているのがJR西日本のみ。車両数は5両と少ないが、いかにも古い車両を長持ちさせて使うJR西日本らしい例だ。この5両は山口県内を走る小野田線、宇部線で使われている。元になったクモニ143形までさかのぼれば、すでに誕生して40年近い古参車両となっている。

 

JR西日本では前後に運転台を持つ125系という電車を開発し、小浜線、北陸本線、加古川線で使用している。今後、123系に代わる電車となれば125系になるのだろうが、現在のところ、代わる話は聞こえてこない。もうしばらくは123系が走る雄姿が見られそうだ。

 

【希少車に注目⑫】瀬戸大橋線の普通列車用に造られた電車

◆JR四国6000系 計6両(高松運転所)

↑予讃線の普通列車として活用される6000系。姿を見ればJR他社を走る211系や213系とデザインがほぼ同じということが分かる

 

国鉄時代の近郊形電車といえば、111系や113系が代表的だった。JR四国にも111系が12両引き継がれ、主に瀬戸大橋線の運用に使われていた。とはいえ老朽化が目立っていた。この代わりに生まれたのが6000系だった。

 

6000系は外観からも分かるようにJR他社を走る211系や213系の外観と非常に良く似ている。コスト低減を考え、正面窓などは213系とほぼ同じ構成としている。側面の窓まわりはJR東海の311系のデザインと似ている。一方で片側3扉でのうち、運転室の後ろの扉のみ片開きと、6000系のみの仕様もあってなかなか興味深い。

 

元々は瀬戸大橋線用に造られた6000系だが、現在は主に高松駅を発着する予讃線の列車に使われている。3両×2編成と希少な電車だが、高松駅近郊で良く見かけることができる。

 

【希少車に注目⑬】予讃線の非電化区間などを走る国鉄形気動車

◆JR四国キハ54形 計12両(松山運転所)

↑予讃線の非電化区間を走るキハ54形。国鉄の最晩年に、北海道と四国用に造られた形式だ

 

キハ54形は国鉄がJRとなる直前の1986(昭和61)年、1987(昭和62)年に製造された気動車だ。経営基盤が脆弱で将来が危ぶまれた北海道と、四国向けに造られた。主に利用客が少なめなローカル線用に造られ、1両で運行ができるように前後に運転台を持つ。車体の長さは21.3mと長めだ。四国用は短距離区間向けのために、トイレは設けられなかった。またコストを抑えるために、一部の部品は廃車から発生した部品を再利用している。国鉄の晩年生まれらしい気動車でもある。

 

耐寒仕様を施したJR北海道に残るキハ54形は28両と多い。一方のJR四国用には元々12両のみが造られた。この12両すべてが残り、予讃線の非電化区間や内子線、予土線を走っている。ちなみに予土線を走る「しまんトロッコ号」には濃黄色に塗り替えられたキハ54形が使われている。

 

【希少車に注目⑭】3編成のみ造られたJR九州らしい赤い電車

◆JR九州303系 計18両(唐津車両センター)

↑筑肥線を走る303系電車。正面が赤と黒というデザインが目立つ。筑肥線から福岡市内を走る地下鉄路線にも乗り入れている

 

JR九州では交流電化区間が大半を占める。一方で、福岡市交通局の地下鉄路線と相互乗り入れを行う筑肥線のみ直流方式で電化された。この筑肥線を走るのが303系だ。2000年に、同路線の列車増発に対応するために6両×3編成が造られた。

 

車両デザインは水戸岡鋭治氏で、正面が赤と黒という水戸岡氏のデザインらしい顔立ち、乗降扉も赤一色という目立つ造りとなっている。この色の配色は交流区間用の813系などにも見られるが、813系が丸みを帯びたデザインなのに対して、303系は直線的な正面デザインで、ちょっと異なる印象だ。

 

後継の305系が2015年以降に新造されたこともあり、303系は3編成の製造で終了してしまった。JR九州らしいスタイリッシュな顔立ちの電車だけに、3編成しか見られないのが、ちょっと惜しいようにも感じられる。

【希少車に注目⑮】国鉄らしい風貌+赤ベースの華やか電車

◆JR九州713系 計8両(鹿児島車両センター)

↑鹿児島の基地に配置されているものの宮崎地区で運用が主体の713系電車。南宮崎駅構内に留置されることも多く見つけやすい

 

国鉄時代の電車といえば、武骨な佇まいの電車が多い。とはいえ郷愁を誘うデザインなのか、115系などわずかに残る国鉄形電車がみな人気となっている。そんな国鉄時代の風貌をそのまま残す713系。JR九州の電車らしく赤色ベースのおしゃれなイメージに変更されている。

 

この713系電車。造られたのは1983(昭和58)年のこと。九州初の交流専用電車として造られた。この電車をベースに交流専用電車が開発される予定だったのだが、資金難から計画は途中で変更され、既存車両の改造でまかなう方針に変わっている。713系は将来に向けての試作的な車両だったのだが、JRとなった後に造られた787系、811系といった電車に、その技術が引き継がれている。いわば交流専用電車の礎になった電車なのである。

 

今は宮崎地区で朝夕を中心に走る713系。静かに“余生”を送るといった雰囲気でもある。

 

【希少車に注目⑯】元高性能車両も新旧交代の波にのまれ始めた

◆JR九州キハ66系 計16両(佐世保車両センター)
*同車両数は2020年8月5日以降(予定)のもの

↑キハ66系が大村線の千綿駅を通過する。大村湾沿いを走るこうした光景もあと少しで見おさめとなりそうだ

 

今回、紹介する中で最古参の車両がキハ66系。1974(昭和49)年から1975(昭和50)年にかけての製造と、すでに活躍は45年にも及ぶ。元々は山陽新幹線の博多駅延伸に合わせて造られた気動車で、非電化区間だった筑豊・北九州地区の路線への乗継ぎを便利にするために開発された。

 

当時の急行形気動車キハ58系などよりも、走行性能に優れていたが、車体重量が重めで、ローカル線での運用には適さず、また国鉄の経営悪化に伴い2両×15編成のみの製造で終わった。

 

2001年からは長崎地区へ転属、大村線を中心に長崎駅〜佐世保駅間を走る列車の主力列車に活かされてきた。そうした長年、活躍してきたキハ66系も、ハイブリッド気動車のYC1系の増備で、活躍の場を失いつつある。

 

8月5日には2編成がラストランを迎える予定で、2020年4月から8月5日にかけて12両が引退を迎えている。残りは2両×8編成となる。こうした新旧交代は世の習いとはいえ、一抹の寂しさを覚えるのは筆者だけだろうか。

祝! 4年ぶりに走る「豊肥本線」−−魅力満点の復旧区間に注目

〜〜2020年8月8日に復旧予定の豊肥本線(熊本県・大分県)〜〜

 

豊肥本線(ほうひほんせん)は九州を横断して熊本駅と大分駅を結ぶ。途中、風光明媚な阿蘇カルデラを走る人気の観光路線だ。ところが、2016年4月に起った熊本地震で大きな被害を受け、一部区間が不通となってしまった。

 

この不通区間が4年の歳月を経て復旧工事が完了し、8月8日(土曜日)に運転が再開されることになった。筆者はなぜか不通となっていた区間に引き付けられるようにたびたび訪れていた。記録した写真を中心に、地震前後の状況と、今回、復旧する区間の魅力を見直してみたい。

 

【関連記事】
熊本地震で被災した九州の鉄道事情豊肥本線は1年前とどう変ったのか

↑阿蘇五岳を望む豊肥本線の内牧駅〜阿蘇駅間。不通区間は阿蘇五岳とともに、阿蘇外輪山の眺めが素晴らしい 2013年7月23日撮影

 

【豊肥本線の記録①】地震による被害は予想をはるかに超えていた

2013年、2015年と訪れていた熊本県の阿蘇地方。豊肥本線の列車は筆者にとって格好の“被写体”であり、列車への乗車も楽しんだ。特に特急「あそぼーい!」の前後の展望パノラマシートがお気に入りだった。

 

ときどき立野駅で下車して、駅周辺で列車を撮影した。立野駅は駅から歩ける範囲に複数の撮影スポットがあり、日がな一日、過ごすのにちょうど良かった。

 

2016年4月14日、心を痛める知らせが飛び込んできた。熊本で大地震が発生したというのである。最大震度7という揺れが観測された。しかし、この揺れは前震だった。4月16日にさらに大規模な揺れが観測され、最大震度7、豊肥本線が通る阿蘇は多くの地点で震度6の揺れとなった。次々と流れてくる情報はつらく悲しいものばかりだった。豊肥本線も4月14日の前震から不通となり、その後に一部区間が復旧したものの、肥後大津駅〜阿蘇駅間が長期にわたり不通となってしまった。

 

この年、復旧の邪魔になっては、と訪れたい気持ちを抑えつつ、2017年5月に現地を訪れてみた。目の前の光景は、それこそ目を覆いたくなるものだった。

↑立野駅〜赤水駅間の状況。線路が走る傾斜地で大規模な土砂崩れが発生。線路を飲み込んでしまっていた 2017年5月29日撮影(以下同)

 

↑立野駅近く立野踏切の状況。このあたりに被害はなかったが、1年間、列車が走らなくなったために草が線路を覆っていた

 

↑立野駅〜赤水駅間の状況。スイッチバックを折りかえした列車が棚田の中をあがってくる、そんな名物ポイントもこの有り様だった

 

立野駅近くを歩くうちに見た光景。外輪山のふもとを線路が通る地点で、大規模な土砂崩れが起きていた。険しい山々はそれこそ身を反らせないと頂が見えないほどの急斜面。崩れた土砂の量は想像をはるかに超えていた。阿蘇では各地で斜面崩壊が起ったとされる。特に立野付近の状況がひどかった。

 

試しに流れ出た土砂を少し手に取ってみた。すると、思った以上に脆く、塊を手にのせ指で少しつまんだだけでも、細く砕けてしまい、粒状になってしまった。阿蘇の外輪山は、火山性の地質+降灰が積もった土地らしく非常に脆い地質ということが良く分かった。

 

この場所での復旧は非常に困難が伴うことは容易に想像が付いた。この先で、豊肥本線は国道57号と並走するが、並走区間は国道、線路、そして合流する国道325号の阿蘇大橋の橋もろとも、すべてが大規模な斜面崩壊により流された区間である。国道は通行止めとなった。立ち入り禁止となっており、見ることができなかったが、この後に撮影した航空写真の資料を見ても、被害の大きさが良く分かるポイントだった。

↑豊肥本線熊本駅〜宮地駅間の路線マップ。立野駅で接続する南阿蘇鉄道も被害を受け、現在、立野駅〜中松駅間が不通となっている

 

【豊肥本線の記録②】立野駅で胸に突き上げてきた思いとは

豊肥本線はここ10年のうちに2つの災害の影響を受け、長期間の不通を余儀なくされた。まず、2012年7月12日の九州北部豪雨による被害を受けている。ほぼ1年後の2013年8月14日まで豊後竹田駅〜宮地駅間が不通となった。そして熊本地震では、前回に被害を受けた区間の西側が不通区間となってしまったのである。

 

尽きることなくJR九州は災害の影響を受けてきたわけだ。本年も豪雨により複数の路線が不通となっている。鉄道好きにとってはつらい夏となってしまった。さて、豊肥本線の話題に戻ろう。

↑豊肥本線はたびたび自然災害の影響を受けている。写真は2012年7月に起きた九州北部豪雨で不通となった時に運転された代行バス

 

立野駅周辺の斜面崩壊などの現場を見て回った後に、立野駅を訪ねてみた。駅周辺の道の一部が通行止めとなり、迂回して、駅にたどりついた。さて……。

↑2013年1月12日撮影の立野駅。ちょうど特急「あそぼーい!」が到着。停車時間を利用して、多くの乗客が下車し、写真撮影を楽しんでいた

 

↑熊本地震が起きて1年後の様子。ホームは崩れ落ち、またホームの上屋も取り除かれていた 2017年5月29日撮影

 

列車が走らなくなり人のいない駅は、実に寂しいものである。ましてや、到着した列車から多くの人が下車して賑わっていた立野駅。ホームが崩れ、ホーム上の屋根も取り除かれ、寂しいばかりの状況となっていた。

 

先に斜面崩壊のひどい状況を目にしていただけに、果たして豊肥本線は復旧できるのだろうか、とその時には疑問を覚えながら訪ねたのだった。

 

ちょうど駅の状態をチェックしにきていたJR九州のスタッフと一言、二言、言葉を交わしたが、途中から恥ずかしながら涙声になってしまった。単なる通りすがりの旅人だったにもかかわらず、それほど衝撃が大きかった。

↑赤水駅には大正期に立った木造駅舎があったが被災。訪れた時にはすでに取り壊されていた 写真は2017年5月29日(左下は2013年撮)

【豊肥本線の記録③】阿蘇駅までバスを使って訪れたものの

豊肥本線の不通となり、また並走する国道57号線も不通となったことから、阿蘇カルデラ内にある町村へのアクセスが非常に不便となった。

 

公共交通機関はバス便のみ。便利だった国道57号が不通となったこともあり、ミルクロードを走り北へ大きく迂回するルートを走らざるをえなくなった。2018年に熊本駅と阿蘇駅との間、バスで往復してみた。バス(九州産交バスが運行)を使うと熊本駅から阿蘇駅へは2時間以上もかかった(列車ならば1時間10分前後)。阿蘇くまもと空港に立ち寄るルートを走るためでもあった(やや遠回りとなる)。

 

↑8月8日まで特急「あそぼーい!」は別府駅〜阿蘇駅の間を走る。阿蘇駅〜肥後大津駅間のバス便のみで不便だ 2018年12月1日撮影

 

熊本への帰り道はちょっと残念な光景が見られた。

 

別府駅発、阿蘇駅行の特急「あそぼーい!」がちょうど到着。この日には、熊本駅方面へ向かう交通手段はバスしかない。多くの観光客が、バス停に殺到したのだが、バスの本数が少ない。現在、阿蘇駅を通るバス便は特急やまびこ号が1日に5往復、九州横断バスが1日に1往復である。つまり豊肥本線の補助的な役割として機能しているのだが、これがメインの交通機関としては脆弱なのである。肥後大津駅への代行バスもあるが、平日8本、土曜日は3本で、休日には運休となる。

 

こうした運行しているバスは高速バス用のため、立って乗ることができない。定員数が限られていた。筆者は幸いにも事前に予約をしていたために、事無きを得たが、乗り切れない人が大勢いた。まだ新型感染症の流行前ということもあり、海外からの訪日外国人が多く旅を楽しんでいた。バスに乗れずに、待ちぼうけとなった人たちはどういう気持ちだったろうか。知らない土地でバスに乗ることができない時の不安は、いかばかりかと案じられた。

 

実感したことは、路線が“不通”になるということは、非常に“不便”になるということだった。やはり豊肥本線が走らないとダメなのだ、と強く感じたのだった。

 

【豊肥本線の記録④】特急あそぼーい!が全線通して走ることに

地震、路線不通に関し、つい暗い話題になりがちだったが、ここからは8月8日以降の復旧後の話に移ろう。

 

すでにJR九州から特急列車の運行予定が発表されている。豊肥本線を走る人気特急と言えば、特急「あそぼーい!」。キハ183系4両編成で、前後に展望「パノラマシート」が付く。さらに親子が一緒に座れる「白いくろちゃんシート」が用意される。飲み物や軽食、土産が購入できる「くろカフェ」、「木のボールプール」があるなど、楽しいつくりの特急だ。

 

この特急「あそぼーい!」が熊本駅〜別府駅間を1往復走ることになった。走る曜日は土休日が中心で、平日は、変わりにキハ185系「九州横断特急」が走ることになる。時刻は熊本駅発が9時9分、別府駅着が12時32分。折り返し別府駅発が15時12分、熊本系18時29分着となる。

 

また別に九州横断特急が1往復走る。別府駅を朝7時51分に発車、熊本駅着が11時12分。折り返し列車は熊本駅を15時5分に発車、別府駅着が18時14分となる。

 

他に熊本駅〜宮地駅間を走る特急「あそ」も新たに1日に1往復(多客期間は3往復)新設される。これで阿蘇観光がかなり便利になりそうだ。

↑別府駅発の特急「あそぼーい!」。路線の復旧後は熊本駅へ直通運転が行われる。ただし同列車は土休日のみの運行になる予定だ

 

【豊肥本線の記録⑤】列車が走っていた頃の立野駅付近の風景

4年ぶりに復旧する豊肥本線。始めて乗車するという方むけに今回、復旧する区間の魅力を中心に紹介したい。乗車した経験があるという方は、読んでいただき“そうそう”と頷いていただけたら幸いだ。

 

まずは豊肥本線の魅力といえば、車窓で楽しむ阿蘇の山景色であろう。下の2枚の写真はそれぞれ立野駅近くの様子である。車内から望む阿蘇の景色は、乗車する区間で大きく印象が異なる。

↑左は立野駅〜赤水駅間から眺めた阿蘇。右は、立野駅〜瀬田駅間から眺めた阿蘇。見あげる方角が少し違うだけで、山の趣も変わる

 

熊本駅から阿蘇方面へ向かい、立野駅が近づいてくると阿蘇がより良く見えるようになってくる。ほぼ進行方向の正面に位置するためにやや見えにくいが、「あそぼーい!」の展望パノラマシートならばしっかりと見えることだろう。

 

立野駅から先、標高を上げた列車からはさらに阿蘇が近づいて見える。なだらかに見えた山容が、やや険しく見え始めてくる、そんな変る阿蘇の姿を楽しみたい。

 

さらに平坦な大地が広がる阿蘇カルデラ内を走り始めると、阿蘇の峰々は横に広がりを見せる。阿蘇五岳と呼ばれるように、阿蘇山は一つの山ではなく、峰々の集合体でもある。

 

さらに阿蘇カルデラを縁取るように取り囲む外輪山の山景色も楽しめる。そうした景色が刻々と変わって行く様子を楽しめるのが、やはり列車旅の楽しさだろう。

【豊肥本線の記録⑥】やはり注目は立野駅近くのスイッチバック

鉄道好きにとって豊肥本線で最大の楽しみといえば、やはり立野駅〜赤水駅間のスイッチバック区間であろう。しかも、豊肥本線は珍しいZ字形を描く“三段スイッチバック”が楽しめるのである。豊肥本線の同区間ができたのが、1918(大正7)年1月25日のこと。当時はもちろん蒸気機関車が牽引する客車列車のみで、勾配がきつい路線を走りきることが難しかった。

 

そのために傾斜を緩めるためにスイッチバックが導入されたのである。熊本駅から走ってきた列車は立野駅(標高277.4m))のホームにまず到着する。ここでしばらく停車。ホームに停まる間に運転士は前から後ろへ移り、列車は進む方向を換える。

 

そして静かに発車する。列車は今まで走ってきた線路を左に見て、右側に続く急坂を登って行く。特急「あそぼーい!」に乗車すると客室乗務員の次のようなアナウンスを聞くことができる。

 

「これよりスイッチバックの中間地点に到着いたします。進行方向を変えて運転をいたします」とスイッチバック構造の簡単な解説が車内に流される。

 

山の斜面に2つめのスイッチバックする箇所に転向線がある。ここの標高は約306m。立野駅からこの折り返しまでの長さ1kmほどの距離で、30m近くものぼったことになる。

↑山の中にあるスイッチバック転向線(左上)。写真右の線路が立野駅側、左が赤水駅側となる。さらに登ると棚田が広がる名物ポイントへ出る

 

この区間で停車した列車内では、また運転士が前から後ろへ忙しそうに移動して、進行方向を変える。発車した列車は、さらに高度を上げていくのである。周囲に広がる豊肥本線の名物ポイント「棚田」を見ながら徐々に登っていくのが楽しい。次の赤水駅の標高467.4mで、わずか1駅間で200m近くも列車は登って行くのである。

 

ちなみにスイッチバック区間のその先にある阿蘇大橋付近は、大規模な斜面崩落が起り、国土交通省による復旧工事が行われた。外輪山の山頂部、標高740m地点まで徹底して手が入れられ、斜面の途中からは「土留盛土」工事が行われた。「崩落斜面の恒久安定化対策」が施されたことにより、安心して通れるルートと生まれ変わっている。このあたり熊本側から走った左手に、大規模な工事跡があるので、ぜひ見ておきたいところだ。

 

ちなみに並行して走る国道57号の復旧は10月ごろになる予定で、豊肥本線がひと足早い復旧となった。

 

【豊肥本線の記録⑦】ななつ星in九州も豊肥本線を走るだろうか

震災の前まではJR九州自慢のクルーズトレイン「ななつ星in九州」が豊肥本線を走っていた。豪華列車は果たして豊肥本線を戻ってくるのだろうか。

 

残念ながら新型感染症の流行もあり、「ななつ星in九州」は3月から運休を余儀なくされていた。さらに7月の豪雨災害も重なり、運転を見合わせていた。8月15日から運行が再開される。その行程は。

↑阿蘇駅に停車するななつ星in九州。早朝に到着し、ホーム内にあるレストラン「火星」での朝食が楽しめる 2013年12月22日撮影

 

3泊4日コースは九州の東側、日豊本線をたどるコースが中心となる。このコースでは1日目から2日目にかけて、大分駅から阿蘇駅へ列車が入線する予定だ。残念ながら熊本駅方面へは向かわない。

 

一方、1泊2日コースでは、1日目は長崎県へ。2日目に熊本駅から豊肥本線の阿蘇駅(宮地駅での折り返し)までの行程が組み込まれた。

筆者はこの豪華列車が運転開始したころに、取材のため列車を追いかけた経験がある。立野駅近くの棚田が広がる名物ポイントで構えたが、通過したのは早朝5時40分過ぎ。陽の短い季節、しかも雨が降る朝で、あえなく“撃沈”となってしまった。

 

今回の運転では阿蘇駅に停車するのは6時〜9時25分ごろになった。立野駅のスイッチバック区間は5時台の運転となりそうだ。今度はぜひ陽の長い日に訪れ、朝日を浴びて走る「ななつ星in九州」に出会ってみたい。

 

【豊肥本線の記録⑧】立野駅で接続する南阿蘇鉄道の復旧は?

豊肥本線の立野駅といえば、忘れてはいけないのが同駅で接続する南阿蘇鉄道である。立野駅近くにある立野橋梁をはじめ、美景があちこちで楽しめた。

 

この南阿蘇鉄道も、立野駅から長陽駅(ちょうようえき)までの間が特に深刻な被害を被った。道床流失、土砂流失にとどまらず、立野橋梁の橋脚損傷や、同線一の美景が楽しめるポイントだった第一白川橋梁が軌道の狂い、鋼材の歪み、そしてトンネルの亀裂多数などが起り、大規模な復旧工事が必要となった。

↑立野橋梁は1924(大正13)年の竣工。鋼プレートガーダー橋と呼ばれる構造で選奨土木遺産に指定される 2015年7月23日撮影

 

↑不通区間の阿蘇下田城ふれあい温泉駅はシートに覆われていた(駅舎はすでに修復完了)。線路上一面が花畑となっていた 撮影日同上

 

そのため現在は中松駅〜高森駅間の運転のみとなっている。被害の規模の大きさから復旧が危ぶまれた南阿蘇鉄道だったが、地元の熱意が実り2018年3月に復旧工事を開始、予定では2023年の夏には復旧の見込みとされる。

 

豊肥本線に比べて、こちらはやや先のことになるが、運転されるトロッコ列車に乗車できる日が楽しみだ。

今も各地で働き続ける「譲渡車両」に迫る〈元首都圏私鉄電車の場合〉

〜〜首都圏を走った私鉄電車のその後1〜〜

 

旅先で、かつて身近に走っていた電車に出会い、とても懐かしく感じられることがないだろうか。首都圏や京阪神を走っていた当時の“高性能電車”の多くが、各地の私鉄路線に移り、第2の人生をおくっている。

 

今回は、首都圏を走った大手私鉄の電車のうち、車両数が多い元東急、元西武鉄道以外の電車にこだわって、その後の姿を追ってみた。かつての姿を色濃く残す電車がある一方で、大きくイメージを変えた電車もあった。

 

【関連記事】
今も各地で活躍する「譲渡車両」に迫る〈元JR電車の場合〉

 

【注目の譲渡車両①】東急・西武以外では元京王電車の姿が目立つ

↑富士急行の1000形は元京王の5000系(初代)。写真はリバイバル塗装車。筆者が少年時代に京王線で出会った車両(右上)とほぼ同じ

 

大手私鉄の電車の中で各地の鉄道会社へ譲渡されることが多いのが、東急と西武鉄道の電車だ。それぞれ自社系列の工場で整備、改造を施した電車が、導入されるとあって、地方の鉄道会社にとってもありがたい存在でもある。

 

この東急と西武鉄道に次いで、各地の鉄道会社で走る車両数が多いのが、京王電鉄の電車だ。意外かも知れないが、これは京王グループの一員でもある京王重機整備という会社の存在が大きい。

 

この会社は京王電鉄の本線系統、井の頭線の電車の整備点検を行う。さらに引退した電車を、各地の鉄道会社用に、改造、整備をした上で送り出す仕事も請け負っている。年期の入った車両でも機器などを新しいものに変更し、またそれぞれの会社の実情にあった改造を施す。

 

さて各地で活躍する元京王の電車だが、多いのは5000系(初代)と3000系の2形式だ。各地で活躍中の車両の姿を紹介しよう。

 

 

【注目の譲渡車両②】今も各地で活躍し続ける元京王5000系

↑1995年から走る一畑電車の2100系。写真はイベント車両「楯縫」。2両×4編成が走るが、新車の導入で編成数は徐々に減りつつある

 

使われる車両が多い元京王の5000系。同車両は車体の長さが18mと短めということもあり、ホームの長さなどの制約があり、また定員数が少なめでもよい車両を求める地方の鉄道会社としては、運用しやすい車両となっている。

 

この5000系はどこの鉄道会社を走っているのだろうか。以下の会社で形式名を変更されて走っている。

鉄道会社 形式名
富士急行(山梨県) 1000形・1200形
一畑電車(島根県) 2100系
高松琴平電気鉄道(香川県) 1100形
伊予鉄道(愛媛県) 700系

*ほか岳南電車、銚子電気鉄道の元京王5000系は後述

 

初代の京王5000系は、京王電鉄京王線系統用に造られた電車で1963(昭和38)年に登場した。登場したころの京王線は、新宿近辺に残っていた道路併用区間を地下化し、架線電圧を1500Vに昇圧したばかりで、それに合わせた車両が必要となっていた。そのために5000系を新開発した。5000系は優秀な電車で当時の鉄道友の会ローレル賞を受賞している。1969年までに計155両が製造された。すでに京王線からは1996(平成8)年に引退している。

 

この引退に合わせるように、各地の鉄道会社へ引き取られていった。当時の優秀な電車とはいえ、すでに車歴は50年以上となる。これまで使われてきた要因の一つには、やはり京王重機整備のメンテナンスに負うところが大きい。

 

写真で、各社のその後の5000系の姿を見ておこう。各社それぞれ、塗り直され、独自の趣が濃くなっている。とはいえ、顔つきは、やはり京王5000系そのもの。特徴が強く残されていることも確かだ。

↑高松琴平電気鉄道の1100形。1997年以来、琴平線を走る。入線時の改造で、機器や台車などが変更されている

 

↑伊予鉄道700系。1987年から1994年にかけて導入された。現在はオレンジ色1色に塗り替えられ走り続けている

 

各地の鉄道会社に引き取られてすでに四半世紀。その間にかなり手を入れられ走り続ける元京王5000系がある。次は大きく改造されたその姿を見てみよう。

【注目の譲渡車両③】大きく姿を変えて走る元京王5000系

◆富士急行(山梨県)1200形「富士登山電車」

↑元京王5000系を改造した富士急行の富士登山電車。さび朱色という車体カラーで、内装は木を多用、展望席などを設け観光列車化した(左上)

 

富士急行の観光列車「富士登山電車」。元京王の5000系の改造電車で、まずは車体の塗装を富士急行開業当時の車体色「さび朱色」とした。内部を大きく改造し、クロスシート主体に。また窓側に展望席、そしてソファを設けるなど、観光列車としてイメージを一新している。外観は元5000系と変りは無いものの、中身はまったく違う造りとなっている。

 

◆一畑電車(島根県)5000系

↑前面の姿も大きく変更された一畑電車5000系。扉を片側2ドアに、座席もクロスシート主体に改造されている

 

大きく改造された元京王5000系がもう一系列ある。一畑電車では、元5000系のスタイルを踏襲した2100系とは別に、5000系という電車2両2編成が走る。京王重機整備で元京王5000系を観光用として改造した電車だ。

 

元5000系は正面の中央に貫通扉が付いているところが特徴だったが、この電車は貫通扉をなくし、前照灯の形と位置も大きく変えている。車内はクロスシートが主体の座席配置に変更し、乗降扉は2ドアとしている。元の電車が何なのか、分からないほどに様変わりしているのだ。

 

それぞれの鉄道会社に引き取られた元京王5000系は、車歴も古くなり、徐々に引退しつつある。しかし、こうして大改造された車両は、それぞれの鉄道会社で、この先しばらくの間は、主力電車として活躍し続けそうである。

 

 

【注目の譲渡車両④】第3のご奉公先という古参5000系が走る

◆岳南電車(静岡県)9000形

↑岳南電車の9000形。京王電鉄、富士急行、そして岳南電車が3社めという古参車両だが整備され塗装し直され新しい電車のように見える

 

元京王5000系には譲渡先から、さらに譲渡先に渡る、すなわち第3の奉公先という電車も出てきている。それだけ長持ちし、扱いやすい電車なのだろう。

 

岳南電車の9000形も第3の奉公先となった電車だ。元は富士急行の1200形だった。富士急行は岳南電車にとって親会社で、これまで岳南電車を走ってきた7000形(後述)の不具合もあり、自社を走っていた1200形を京王重機で改造工事を施した上で、岳南電車に入線させた。新たに塗装し直された姿は、富士急行当時とは、また違った姿で新鮮な印象を受ける。

 

◆銚子電気鉄道(千葉県)3000形

↑銚子電気鉄道の3000形。同社では最も“新しい”車両だ。伊予鉄道を経て千葉県の銚子へやってきた

 

千葉県を走る銚子電気鉄道にも元京王の5000系が走っている。この電車、元は愛媛県の伊予鉄道700系だった。どうして四国を経て、千葉県へとやってきたのだろうか。銚子電気鉄道は、架線の電圧が直流600Vだ。ちなみに京王電鉄をはじめ多くの路線が直流1500Vである。そのため改造しないと、京王電鉄の電車をそのまま銚子電気鉄道で走らせることができない。

 

銚子電気鉄道は、多くの方が知るように経営に余裕がない。そのため輸送費を使ってでも、同じ600V電化に対応するため、改造された伊予鉄道(750V電化区間もあり)の電車を希望したわけである。

 

見た目は、同じ元京王5000系でも、各社に合わせて改造が行われ、またさまざまな経緯を経て今を迎えているわけだ。

 

ちなみに銚子電気鉄道には、ほかに2編成、5000系とほぼ同じ顔を持つ電車が走っている。この電車のたどってきた経緯も興味深い。

 

 

【注目の譲渡車両⑤】ユニークな履歴を持つ銚子の2000形

◆銚子電気鉄道(千葉県)2000形

↑レトロな塗装が施された銚子電気鉄道の2000形は前後で姿が異なる。一方は“湘南”顔で、一方は元5000系の顔形をしている(左上)

 

銚子電気鉄道には3000形以外に2000形という電車が2両×2編成走っている。この電車、外川駅側の正面は、元京王5000系に良く似た形をしている。よく見ると元5000系の正面が左右のスソが絞られる形状なのに対して、この2000形の正面はスソがそのまま下までストレートに延びている。さてこの電車の大元は何だったのだろう。

 

銚子へやってくる前は3000形と同じように伊予鉄道を走っていた。伊予鉄道での形式は800系で、大元をたどると京王電鉄の2010系だった。京王電鉄からは多くの譲渡車両が地方の各社に渡っているが、京王重機整備が手がけた譲渡車両の第1号電車でもあった。台車は軌間幅に合わせて、井の頭線用のものに変更するなど、大改造を施されて四国へ渡っている。

 

さらに伊予鉄道へ渡ったのちにも、京王重機の出張工事により、現在の貫通扉付の運転台を取り付ける改造工事が行われた。譲渡後も、至れり尽くせりのサービスが行われていたわけである。

 

こうして改造された伊予鉄道800系だったが、元京王3000系の譲渡車両が新たに伊予鉄道に導入されたこともあり、同じ600V電化という縁もあり、銚子へやってきた。

 

ということで、形は5000系と良く似ているが、元京王の電車だったものの、元5000系とは別の車両だったわけである。譲渡車両は、なかなか奥が深い経緯をもった車両が隠されていて興味深い。

【注目の譲渡車両⑥】元京王3000系も各地で働いている

元京王5000系とともに、今も各地の鉄道会社に引き継がれ、使われて続けている元京王の電車がある。京王井の頭線を走った3000系である。この3000系も、各鉄道会社へ譲渡される時には京王重機整備が改造と整備を行なっている。

 

京王3000系は1962(昭和37)年〜1991(平成3)年まで計145両が製造された。井の頭線の主力車両で、2011年の暮れまで渋谷駅〜吉祥寺駅間を走っていた。当時に乗車した記憶をお持ちの方も多いのではないだろうか。さて、どこの会社に引き継がれたのだろう。

 

◆上毛電気鉄道(群馬県)700型

↑上毛電気鉄道の桐生球場前駅付近を走る700型。この電車が以前に走った井の頭公園を彷彿させる美しい桜並木が沿線に連なる

 

京王3000系には初期のオリジナルタイプと、後年にリニューアルされ、正面の窓が側面まで拡大されたタイプがある。上毛電鉄には初期のオリジナルタイプで、1998年から2000年に2両×8編成が同会社に引き渡された。

 

正面の色は井の頭線当時を彷彿させるカラフルな姿だ。8編成すべての色が異なり、路線を彩る。2両という短い編成は往時と異なるものの、井の頭線当時の様子をより伝える佇まいと言って良いだろう。

 

同社からは新型の後継車が導入されるという話しも伝わってきている。700型は元3000系のオリジナルな姿を残す車両だけに、今後が気になるところだ。

 

◆北陸鉄道(石川県)8000系・7700系

↑北陸鉄道浅野川線を走る8000系。2両×5編成が走るが、正面と帯の色はサーモンピンクのみとなっている

 

石川県に浅野川線と石川線の2本の路線を持つ北陸鉄道。同鉄道には2両×6編成が京王重機整備の改造・整備を経て導入された。すべてオリジナルタイプの車両で、形式名は浅野川線が8000系で5編成、石川線は7700系で1編成が1996年から2006年にかけて導入された。

 

同浅野川線には、東京メトロ日比谷線を走った03系(詳細後述)4両の導入が進められている。元京王3000系のみだった浅野川線の趣も、今後は変わっていきそうだ。

 

◆アルピコ交通上高地線(長野県)3000系

↑元京王3000系のリニューアル後の車両が導入されたアルピコ交通。白地に虹色のストライプ模様が入ったアルピコカラーで走る

 

1999年〜2000年にかけて導入されたアルピコ交通3000系。元京王井の頭線当時の形式名をそのまま引き継いでいる。リニューアルされた後の3000系を元に京王重機整備で改造・整備が行われた上で導入されている。北アルプスなどの山景色、雪景色を見ながら走る姿が絵になる。

 

◆伊予鉄道(愛媛県)3000系

↑3両編成で走る伊予鉄道3000系。伊予鉄道には路面電車との平面交差(写真)する踏切があり、同区間は直流600Vで電化されている

 

伊予鉄道の電車は600Vと750Vの2種類の架線電圧を跨いで走ることが必要となる。そのため入線にあたっては京王重機整備で、改造・整備が行われた。改造の際には省力化に有効なVVVFインバータ装置(ブレーキチョッパ装置付き)も搭載されている。当初、正面の色がアイボリーだったが、その後に伊予鉄道が進める車体の全面的な塗り替えが行われ、今は車体のステンレス部分を含めて、オレンジ一色となり、電車のイメージも一新されている。

 

 

【注目の譲渡車両⑦】前後に運転台を持つ岳南電車の元3000系

◆岳南電車(静岡県)7000形・8000形

↑元京王3000系としては異色の存在の岳南電車7000形。1両での運行が可能なように両側に運転台が設けられている

 

静岡県を走る岳南電車には1996年と1997年に元京王3000系を1両化した7000形3編成と、2002年に8000形2両1編成が導入された。

 

ユニークなのは前後に運転台を持つ7000形である。元は運転台のない中間車だった。そこで岳南電車に導入にあたり、京王重機整備で運転台をつける大改造を受けている。長年にわたり、日中の主力車両として走り続けてきたが、2018年に1編成に故障が起きて運用を離脱。そのため前述したように富士急行から元5000系にあたる1200形を改造した上で導入している。

 

今後も元京王3000系由来の名物車として富士山麓を走ってもらいたいものだ。

 

【注目の譲渡車両⑧】元日比谷線の電車が人気となった理由は?

↑熊本電気鉄道の03形は、元日比谷線を走った03系だ。外観はシルバーで元のままだが、排障器はいかついものに変更されている

 

近年、地方の鉄道会社から熱い視線をあびていた首都圏の車両がある。それが東京メトロ日比谷線を長年、走り続けてきた03系である。なぜ人気なのか。

 

その理由は1988(昭和63)年に登場した比較的新しい車両であること。アルミ製車体で腐食が少ないこと。さらに車体の長さが18m〜18.1mと首都圏を走る多くの車両の長さ20mに比べて短いということが大きい。

 

東京メトロの車両サイクルは約30年前後が一般的だが、03系の後期タイプ、もしくは代換新造車にいたっては、20年にも満たない車両だった。

 

そうした利点もあり、現在、長野電鉄、北陸鉄道、熊本電気鉄道に導入され、一部は、すでに走り始めている。

鉄道会社 形式名
長野電鉄(長野県) 3000系
北陸鉄道(石川県) 形式名未定
熊本電気鉄道(熊本県) 03形

 

最初に元日比谷線03系を導入したのが熊本電気鉄道で、03形としてすでに走り始めている。今年度中に2両×3編成が走る予定だ。

 

次いで走り始めたのが長野電鉄。今年の初夏から走り始める予定だった。ところが、コロナ禍のため、走り始める日程を発表するとファンが集まる心配があったことから、未発表のまま、すでに走り始めている。

 

北陸鉄道では浅野川線に導入の予定で、計4両が近日中に走り始める見込みだ。熊本電気鉄道の元03系は、日比谷線を走っていた当時のスタイルのほぼそのまま、長野電鉄では銀色の帯から赤い色の帯に変更されて走り始めている。

 

◆長野電鉄(長野県)3500系

↑セミステンレス車体特有の波板(コルゲート板)が特徴の長野電鉄3500系。03系の導入でいよいよ引退となりそうだ

 

長野電鉄が元03系の3000系を導入したことによって、元日比谷線の3500系が引退となりそうだ。長野電鉄3500系は元営団3000系で、日比谷線用に1961(昭和36)年から1971(昭和46)年にかけて304両が製造された。長野電鉄には計37両が譲渡された。営団3000系が譲渡されたのは長野電鉄のみで、長年、長野電鉄の“顔”として親しまれてきた。

 

同じ日比谷線出身の後輩03系の導入で、先輩が引退となるわけだ。何とも不思議な縁を感じる。ちなみに2017年には長野電鉄の3500系2両が東京メトロに戻されている。いわば2両のみ“里帰り”を果たしたわけである。

 

 

【注目の譲渡車両⑨】元都営の地下鉄が地方の主力車として走る

◆秩父鉄道(埼玉県)5000系

↑秩父鉄道の5000系。元三田線6000形で、秩父鉄道へは12両が入線し、今も主力電車として走り続けている

 

◆熊本電気鉄道(熊本県)6000形

↑熊本電気鉄道の名物区間、併用軌道区間を走る6000形。長さ20mの車両が併用軌道を走る姿が見られる。前面の排障器の形が面白い

 

東京の都心を南北に貫く都営地下鉄三田線。路線開業時に登場したのが6000形だった。製造されたのは1968(昭和43)年〜1976(昭和51)年で、計168両が1999年まで走り続けた。車体は外板がステンレス鋼、普通鋼を骨組みに使ったセミステンレスと呼ばれる車体となっている。鉄道友の会のローレル賞を受賞している。

 

この車両を整備・改造の上で、導入したのが秩父鉄道と熊本電気鉄道。車両の編成が短くなっているものの、三田線当時の水色の帯を残した姿で、往時を偲ぶ姿が楽しめる。

 

◆熊本電気鉄道(熊本県)01形

↑元銀座線01系が熊本電気鉄道01形となって名物併用軌道区間を走る。元の姿を残しつつも、熊本らしい佇まいがほほ笑ましい

 

熊本電気鉄道では03形、6000形以外にも、東京の都心を走った車両が姿を変えて走り続けている。01形である。01形はご覧の通り東京メトロ銀座線を走った01系である。01系は1983(昭和58)年から1997(平成9)年にかけて計228両が製造された。引退したのは2017年と、つい最近のことである。

 

熊本に渡った元01系は2両×2編成。西鉄テクノサービスで改造され、2015年春から走り始めている。銀座線当時、01系は、パンタグラフではなく、電気が通るサードレールから集電靴(コレクターシュー)によって集電して走っていた。熊本では、もちろん架線から集電するために、パンタグラフが新しく付けられた。パンタグラフを高々とかかげる姿は、銀座線当時を知っている者にとっては不思議に見えつつも、意外に似合っているようにも感じてしまう。

【注目の譲渡車両⑩】讃岐らしい風景の中を走る元京急の電車

◆高松琴平電気鉄道(香川県)1070形、1080形、1200形、1300形

↑高松琴平鉄道琴平線を走る1200形。讃岐らしいため池を横に見て走る。写真の車両はラッピング車両のため黄色一色で目立つ

 

京浜急行電鉄の電車といえば、高性能な電車づくりで定評がある。ところが、譲渡車両は少ない。唯一、元京急の車両を導入しているのが香川県を走る高松琴平電気鉄道(以下「ことでん」と略)のみだ。なぜなのだろう。

 

京急は1435mmという軌間を使っている。ことでんも1435mmと地方私鉄の路線としては珍しい軌間が使われる。元京急の電車が導入されている理由には、この幅が同じということが大きい。ちなみに、ことでんでは他に名古屋市営地下鉄の元電車と、京王の元電車が使われているが、名古屋市営地下鉄の東山線、名城線などの軌間は1435mmとなっている。京王のみ1372mmと異色だが、これは京王重機整備が改造を請け負ったこともあり、問題なくことでんに入線している。

 

ことでんには元京急の電車が4種類、引き継がれている。1070形が元京急600形(2代目)、1080形が元京急1000形(初代)。1200形が元京急700形(2代目)、1300形が元京急1000形(初代)という布陣だ。計44両と、ことでんのなかでは大所帯となっている。元京急の電車はことでん電車の冷房化にも貢献した車両でもあった。

 

ことでんでは京急時代の赤い車体に白い帯のリバイバル車両を復活させた。ひと時代前の京急を走った、やや丸みを帯びた車両が、讃岐路を存分に走る姿を痛快に感じるのは筆者だけだろうか。

↑高松城を横に見つつ走ることでん長尾線の1300形。元京急1000形(初代)だ。丸みを帯びた姿に懐かしさを感じる方も多いのでは

 

 

【注目の譲渡車両⑪】元ロマンスカーが甲信越を走り続ける

最後に首都圏を走った特急形電車で、他社に引き継がれた電車に触れておこう(西武鉄道の車両を除く)。小田急ロマンスカーの2形式が甲信越で働いている。両者とも、今も有料特急として輝く存在だ。

 

◆長野電鉄(長野県)1000系「ゆけむり」

↑長野電鉄1000系が志賀などの山々を背景に走る。元小田急の10000形だ。前後先頭車には人気の展望席が設けられる

 

長野電鉄の1000系は元小田急のロマンスカー10000形で小田急当時は「HiSE」という愛称がついていた。1987〜1989年製造と比較的、新しかったが、車内がハイデッカー構造で、バリアフリー化に向かないこともあり、2012年に引退に追い込まれた。

 

この車両のうち4両×2編成が長野鉄道へ譲渡され、2006年から走り始めた。愛称は路線に湯田中温泉など温泉が多いことから「ゆけむり」と名付けられた。

 

同列車は有料特急ながら、運賃+特急券(100円)と手軽に乗車が可能だ。前後の展望席も自由席とあって、人気になっている。

 

◆富士急行(山梨県)8000系「フジサン特急」

↑富士急行8000系「フジサン特急」。車体にはたくさんの“フジサンキャラ”が描かれる。1号車は指定席、2・3号車は自由席となっている

 

富士急行の8000系。元は小田急20000形RSEで、1990〜1991年に7両×2編成が造られた。この電車も小田急10000形と同じく、ハイデッカー構造+2階席があったことから、バリアフリー化の影響を受け、2012年に引退している。

 

富士急行では、この元小田急20000形3両を譲り受け、大改造を施した。フジサンのイラストが全面に描かれた「フジサン特急」として生まれ変わり、2014年の7月から走り始めている。特急券は自由席が200円〜400円で、1号車の指定席はプラス200円が必要となる。

 

小田急当時のRSEの面影は消えているものの、“愉しさ満開”といった姿で、すっかり富士急行の名物列車となっている。

2022年開業に向けて準備が進む「芳賀・宇都宮LRT」――新路線に沿って歩いてみた

〜〜芳賀・宇都宮LRT整備事業(栃木県)〜〜

 

栃木県の中心、宇都宮市と東隣の芳賀町(はがまち)を結ぶLRT(ライトレールトランジット)路線の建設が進められている。橋りょう工事が進み、順次、車両の発注を進めるなど、より具体化し始めてきた。

 

既存の路面電車網を活かす街は全国にあるものの、線路を新たに敷き、電車を走らせる街は、全国で初めてのことになる。なぜ、宇都宮市はLRTの導入を進めたのか、現地で続く工事の進捗状況を含め、LRT事業計画の全容に注目した。

*LRTのイメージ写真とMAPは宇都宮市提供/現地取材・撮影は2020年4月5日に行いました。

 

【関連記事】
新幹線と路面電車が同じ駅で乗り入れる!? 類を見ない魅力に溢れた「富山地方鉄道市内電車」

 

↑LRT路線完成後は、黄色ベースのおしゃれな車両が宇都宮市を走ることになる。同模型は商業施設「ベルモール」で見ることができる

 

【進むLRT事業①】芳賀・宇都宮LRTとはどのような事業か?

初めに、LRT計画の概要を見ておきたい。

 

事業の名称 芳賀・宇都宮LRT整備事業
路線計画と距離 JR宇都宮駅東口〜本田技研北門(停留場名はすべて仮称・以下同)、約14.6km 
*軌間1067mm、750V直流電化
開業予定 2022年(将来はJR宇都宮駅西側へ路線の延伸計画も)
停留場数 19か所(起終点を含む)

 

↑宇都宮駅の東西自由通路では芳賀・宇都宮LRTのポスターやディスプレイでPRが行われている。駅前の停留場は同自由通路と直結の予定

 

LRT新路線は「JR宇都宮駅東口」と、芳賀町の「本田技研北門」の間を結ぶ。途中、鬼怒川を渡って全線を約44分間で結ぶ。19か所の停留場を設置、すべての停留場付近に駐輪場を整備する。さらに19か所のうち5か所を「トランジットセンター」として、駐車場、駐輪場に加えて、バス停留所などの機能を想定している。

 

運転時間帯はJR宇都宮駅に発着する新幹線が運転される時刻に合わせ、朝6時から23時台となる。ピーク時は6分間隔で、オフピークは10分間隔で運転される。車両は低床の新型LRT電車(後述)で、定員は160人(座席数50席)。開業時は17編成が導入される予定だ。

 

【進むLRT事業②】20年以上前にLRT導入の夢が語られ始めた

栃木県宇都宮市と言えば、なかなかイメージが思い浮かばないという方も多いのではないだろうか。栃木県の県庁所在地、そして宇都宮餃子……。正直に言えば、筆者も知識といえば、似たようなものだった。宇都宮市がどうしてLRT事業に乗り出したのだろう。

 

国土交通省では、LRTの整備に対する導入支援を行っている。LRTとはライトレールトランジットを略した言葉で、日本語に訳したならば「軽量軌道交通」となる。古くから全国を路面電車が走り、現在も全国の都市内交通として使われている。LRTとは路面電車をより近代化したシステムで、車両は低床タイプが使われ、停留場などは完全バリアフリー化、高齢者、障がいを持つ人たちにもやさしい造りとなっている。

 

国土交通省でLRTの導入支援をしてきてはいるものの、新たに造られたLRT路線といえば、富山市を走る富山ライトレール(現・富山地方鉄道富山港線)ぐらいのものだった。同路線も、大半が既存のJR富山港線を生かしたもの。新しくレールを敷いた区間は、それほど多く無い。ほかにも新規導入の検討が行われた都市があったものの、実現までに至らず立ち消えとなった計画が多い。

↑宇都宮駅の東西を結ぶ自由通路。この東口(写真右)にLRTの新停留場ができる予定だ

 

宇都宮市では1993(平成5)年度に、宇都宮市街地開発組合が新交通システム研究会を設置させたことが始まりとなった。以降、県、市による検討が続けられ、2012(平成24)年度に「東西基幹公共交通の実現に向けた基本方針」の策定、さらに2013(平成25)年度には芳賀町から「LRT整備に関する要望書」が提出された。

 

2015(平成27)年度には運行事業者となる「宇都宮ライトレール株式会社」が設立された。2016(平成28)年度には「軌道運送高度化実施計画」の認定(特許取得)、2017(平成29)年度に「工事施行認可」の申請が県、および国に対して行われ、認可された。そして2018(平成30)年度にはLRT工事の着工、さらに車両デザインが決定された。

 

20年以上前に語り始められたLRT開業の夢が、ここ5年ほどで、事業化計画が加速し、花開くことになったのである。

【進むLRT事業③】なぜLRT導入が検討されたのか?

宇都宮市でLRT導入が、なぜ検討されたのか。そこには日本の国全体が抱える問題と、宇都宮市特有の問題が上げられる。ポイントを見ておこう。

 

全国で進む問題とは「少子・超高齢化」。国内では人口減少問題が避けられない。宇都宮市も2018(平成30)年度の52万245人をピークに微減に転じつつある。このままいけば、30年後には45万人まで市内の人口が減るという調査もある。

 

さらに高齢者が運転することによる事故も問題視されている。運転免許の返納率が高まっているものの、一方で高齢者が不便さから出かけづらくなり、家への「引きこもり」をもたらす可能性も指摘されている。

↑宇都宮市も全国の主要都市と同じようにクルマの利用者が多い。写真はLRTが通る予定の鬼怒通り(県道64号線)の陽東3丁目交差点

 

次に宇都宮市と隣接の芳賀町が抱える問題を見ておこう。

 

宇都宮市は東北新幹線・東北本線の線路を境に、東側と西側では街の様子が大きく異なる。西側には東武宇都宮駅があり、JR宇都宮駅と東武駅の間、約1.8kmの間に繁華街が連なる。西側はバス便も多く便利だ。

 

一方、今回の路線が通る駅の東側は、公共交通機関といえば路線バスのみで、不便だ。しかもバスの本数が少ない。そのため、東側に住む人たちはマイカーに頼らざるをえない。栃木県の自動車保有率は、全国で群馬県に次ぎ、2位という数字があるほどで、クルマ社会そのものだ。

 

さらに宇都宮市の東側には清原工業団地、隣接する芳賀町には芳賀工業団地、芳賀・高根沢工業団地といった工場群がある。学校も点在している。現在、JR宇都宮駅から工業団地への足は、企業が朝夕に走らせている貸切の通勤バスに頼っている状況だ。本数が限られ、朝夕しかバスが走らないために不便だ。工業団地への行き来はマイカー頼みという通勤者も多くなっている。

 

LRTの開業は、まず、高齢化しつつある街の活力を維持させるという大きな意味がある。さらにLRTが走れば、新たな公共交通機関が生まれるわけで、かなり便利になることが予想される。マイカーの自粛にも結びつく。高齢者の移動もしやすくなる。利点はさまざまで、その効果も大きい。

 

平日の利用者は1万6318人と見込まれており、こうした人たちが住まいから駅へ向かう一方で、駅から郊外の工業団地へ多くの人たちが使うことが予想される。

 

今回の概算事業費は2022年に完成する区間のみ全体で458億円、宇都宮市区間は412億円と試算されている。ちなみに国土交通省の「LRTの整備等に対する支援」では施設の整備等に対しては2分の1の国費が交付金として地方公共団体等に支給される。

 

【進むLRT事業④】LRTの新路線が走るルートは?

事業は「公設型上下分離方式」で進められる。レールや停留場などの諸施設の整備は宇都宮市、芳賀町が行う。

 

レール上を走る車両の運行、管理は宇都宮ライトレール株式会社の手により行われる。宇都宮ライトレールは第三セクター方式で経営される。

 

レールが敷設される予定路線をざっと紹介しておこう。起点となる「JR宇都宮駅東口」停留場は、JR宇都宮駅の東口に位置する。駅の東西自由通路の東側にほぼ直結するために便利だ。電車は駅の東側にある鬼怒通り(一部は県道64号線)へ入り、道路上を東側へ向かう。

 

商業施設の「ベルモール前」停留場付近までは県道上を走る。この先で、県道を逸れて、LRV(LRT用の車両)の専用区間を走行する。国道4号の新バイパスをくぐり、東進。鬼怒川を越える。越えた先には宇都宮清陵高校や、作新大学、清原工業団地などがある。この清原地区で、北へ向きを変える。

 

清原地区内には栃木県グリーンスタジアムもある。全国規模の大会の開催も可能なサッカー・ラグビー場である。最寄り停留場は清原工業団地北だ。

 

さらに北進、野高谷町交差点で、右折。ゆいの杜と呼ばれる地区を東へ走る。芳賀町に入ると芳賀工業団地が広がり、中核となるのがホンダの工場がある。管理センター前を北へ走ると芳賀・高根沢工業団地の本田技研工業の北門付近までをLRTが走る予定だ。所要時間は宇都宮駅から約44分、快速に乗れば約38分で到着する(一部の停留場を通過)。運賃は大人150円〜400円の予定だ(詳細は国の認可等を得て決定)。

 

【進むLRT事業⑤】LRT導入のお手本とした都市とされたのは?

LRT事業は、計画化するにあたって、LRTを上手く活かしている都市をお手本とした。そのお手本とされたのは、富山市などだ。

 

ここで若干、寄り道となるがLRTを活かしている富山市の例を見てみよう。富山市の人口は41万4705人(令和2年6月末現在)と、宇都宮市よりも少ない。同市内には、既存の路面電車網がすでにあった。富山地方鉄道の軌道線(市内電車)である。歴史は古い。創始は1913(大正2)年のことだった。

 

富山市内の路面電車は一時期、自動車の増加で、路線の廃止など、衰退を余儀なくされたが、近年になって路線の延伸を図るなど、路線網の充実が図られた。さらにJR富山駅の高架化工事に合わせ、駅の地上部分を南北に電車が通過できるように手直し。駅の北側を走っていた富山ライトレールの路線と軌道線の線路を結びつけた。今年の2月22日には富山地方鉄道が富山ライトレールを吸収合併、3月21日からは富山地方鉄道の電車と元富山ライトレールの電車が南北相互に乗り入れを行い、走りだしている。より便利になり富山市民にとってLRTは、日々欠かせない足となっている。

 

富山市では市が取りまとめ役となって整備が進められた。老舗民鉄に電車の運行を任せてしまうという、思いきった策を取り入れるなど、それこそ全国のLRT路線のお手本と言って良いかもしれない。

↑富山城趾を背景に走る富山地方鉄道富山都心線の電車。車両は9000形でセントラムという愛称が付く。2009年に導入された

 

福井市の例も興味深い。市内には福井鉄道の併用軌道線が走っている。その路線をたどると、南は専用軌道が越前市まで延びる。近年、低床の新型電車を導入した。2016年には福井駅停留場まで路線を延長、さらに北の田原町駅でえちぜん鉄道と接続、相互に電車の乗り入れを行う。えちぜん鉄道も併用軌道用の車両を開発するといったように、積極的なLRT化政策を進めている。

↑福井鉄道のF1000形FUKURAM(フクラム)。2013年からの導入でえちぜん鉄道の三国芦原線への相互乗入れにも使われている

 

北陸地方ではJR氷見線といった既存の鉄道路線のLRT化が取り沙汰されている。それだけLRTは利点が大きいということなのだろう。

 

【関連記事】
いま最注目の路面電車「福井鉄道 福武線」−−その理由とは?

【進むLRT事業⑥】どのような車両が導入されるのか?

新LRT路線にはどのような車両が走るのだろう。車両の特徴を見ておこう。

 

デザインは黄色をメインカラーに、正面と側面にダークグレーで車体のイメージを引き締めた。芳賀・宇都宮は「雷」が多いので「雷都」とも呼ばれる。雷には雨を降らせ、穀物などを育てる恵みとなる一面も。そんな恵みの “雷の稲光”をイメージさせる「黄色」がメインカラーとなった。

 

車両は4輪ボギー連接電動客車で、1編成3両。カーブを走行する際にスムーズで、乗り心地にすぐれた構造を採用した。

 

将来、宇都宮駅西側への延伸も考慮し、勾配67‰(1000分の67)の最急勾配も走行可能とした。運転最高速度は70km/hの車両性能を持つが、軌道運転規則に基づき40km/hでの運行が行われる。

↑3両1編成の車両が走る。黄色をメインカラーに採用、正面と側面がダークグレーとなる。乗降口は片側に4つ設けられる

 

↑座席の左右幅は一般の鉄道車両とほぼ同じ。ガラス窓も広々。全乗降口にはICカードリーダーが設置される

 

定員数は国内の低床式車両では最多の定員160人。座席は広い座席幅を確保した上で、可能な限り座れるよう50席が確保された。座席は基本、クロスシート仕様。優先席のみ窓を背にした方向に配置される。座席の後ろには荷物の置きスペースも設けられる。

 

前後にある運転席付近に車椅子スペースが用意される。またベビーカー等にも対応可能なフリースペースを中間車に備えた。将来的には自転車のフリースペースへの持ち込みも検討しているとされる。

 

興味深いのは全乗車口にICカードリーダーが設置されること。日本で初めての仕組みとなる。どこのドアからでも乗車が可能となって便利となり、また一部スペースに偏らず分散乗車が可能となる。それこそ密を防ぐ工夫となりそうだ。なお現金での乗車の場合は先頭の扉からのみの乗車となる。

 

今年度から本格的に車両製造を進め、年度末には、1編成目の車両が車両基地に納入予定で、それを皮切りに順次、完成車両の納入が開始される。新型車両の導入も、わずか先に迫っているわけだ。

 

【進むLRT事業⑦】走る予定の路線を実際に歩いてみた

どのようなルートをLRTが走ることになるのか。宇都宮市内の一部を歩いてみた。

 

まずはJR宇都宮駅の東口へ。自由通路の東端に下り口がある。ここに新停留場ができる。現在は広い空き地となっているが、停留場の建設に合わせて開発も進んでいる。空き地を横に見て、東へ歩道を進む。間もなくT字交差点へ。この先、ほぼ直線路で片側2〜3車線道路がのびる。鬼怒通りと名付けられた駅前通りで、途中から県道64号線となる。

 

通りの左右に商業ビルやホテルが連なる。とはいうものの、宇都宮駅の西口に比べると人通りが少ない。このあたり、やはり東西差がこの街はあるのだと実感した。写真を中心にLRT路線が通る街並みを巡ってみよう。

↑JR宇都宮駅の東西自由通路を遠望する。この右下に新停留場が造られ、手前側に線路が延びてくると思われる

 

↑駅前から歩道を歩くと鬼怒通りの起点となるT字路へ。この先、東側へ鬼怒通りの直線路が延びている。この中間部をLRVが走る予定だ

 

↑鬼怒通りは国道4号を立体交差で越える。LRVは軽量なため、このあたり新たな立体交差路を造らなくとも線路の敷設が可能となる

 

ひたすら鬼怒通りを進む。店舗、民家が点在する道を歩く。2.7kmほどで商業施設ベルモールが右手に広がる。イトーヨーカド—ほか、レストランなどが入るショッピングモールで、1階にはLRT事業の紹介を行う「交通未来都市うつのみやオープンスクエア」がある。帰りに寄ろうと思い、先を急ぐ。

 

ベルモールのちょうど裏手、陽東8丁目付近まで、鬼怒通りの上を走る併用軌道区間となる予定だ。その先で、路線は鬼怒通りをまたぎ、LRVのみが走行する区間へ入っていく。ちなみに同路線の自動車との併用区間は約9.4km、LRVのみが走行する区間は約5.1kmとなる予定だ。

↑鬼怒通りを駅から約3.5km進んだ陽東8丁目付近。このあたりから、路線は、写真の左手へ方向を変えて、専用区間へ入っていく

【進むLRT事業⑧】宇都宮市の郊外に出るとLRV専用区間へ入る

駅から約3.5km。急に左右に水田が広がるようになる。LRTの路線はこのあたりから鬼怒通りを遠ざかり南へ。そして専用区間を走る。

 

この先、国道4号の新バイパス道沿いには車両基地が造られる予定だ。水田を左右に見ながら爽やかな気分でLRTの予定線を歩く。このあたりになると、重機が使われる工事箇所に出会うようになった。

↑水田が広がる郊外。道沿いには菜の花が咲いていた。この付近には平出町という停留場が生まれる。開業後は大きく変わりそうな一帯だ

 

↑国道4号の新バイパス道が左に見えるあたり。この付近にLRTの車両基地が造られる。新型車両もこの車両基地への搬入となりそうだ

 

↑平出町からさらに東へ。下平出町の水田には赤い印がつけられていた。この印あたりに新路線が敷かれることを示す目印なのだろう

 

国道4号のバイパス路を越えると、さらに郊外の趣が増していく。とともに見渡すかぎり水田、そして点在する農家といった光景が広がる。まもなく、南北に連なる土手が見えてきた。

 

 

【進むLRT事業⑨】鬼怒川橋りょうの工事は渇水期に限定される

この土手は宇都宮市の郊外を南北に流れる鬼怒川の堤防だ。この鬼怒川を長さ643mの橋りょうで渡る。同LRT事業でもっとも手間がかかる工事地域となる。さらに厄介なのは、鬼怒川での工事が渇水期(11月〜翌5月)しか進められないこと。増水期の工事は危険なため、認められていないのだ。

 

訪れた日は、渇水期で、流れは細く穏やかなものだった。ところが荒れるとこの川は怖い。それこそ鬼が怒る川になる。鬼怒川は明治後期に行われた改修前までは、毎年のように洪水に襲われていた。それほど水の増減に差がある。2015年9月に下流の常総市で大規模な洪水が起ったことは記憶に新しい。

 

鬼怒川橋りょうの工事は2018年7月2日に始められた。同工事は路線内でもっとも時間がかかる。とはいえ2021年8月には完了となる予定だ。

 

これが鬼怒川にかかる橋となるのか、と納得。頑丈な造りで、かなり雨でも電車の運転に支障がなさそうだなと納得させられたのだった。

↑鬼怒川橋りょうへと上るアクセス路も工事されていた。写真は宇都宮駅側の工事の模様。堤防上の遊歩道をまたぎ橋りょうとつながる

 

↑LRT路線の鬼怒川橋りょうの様子。工事の中でもっとも大規模な造成物となる。2018年7月に起工、3年間の工事期間が見込まれている

 

今回は、歩いて回ったこともあり、鬼怒川の堤防にて“現地視察”を終了にした。次回に行く時は、もう新線ができあがったころかなと思いつつ、来た道を戻った。

 

工事は現在、見てきたように橋りょう工事のほか、道路改良工事や擁壁などの高架構造物の工事を主体に進められている。今後は、レールの敷設、停留場の整備などの工事を進める予定とされている。

 

【進むLRT事業⑩】ペーパークラフト&シールを頂きました!

駅へ戻る途中、ひと休みがてら商業施設「ベルモール」に立ち寄る。この1階にはLRT事業の全容を紹介する「交通未来都市うつのみやオープンスクエア」が開設されている。

 

コーナー内では、パネルや映像でLRT事業を紹介。LRTの模型車両が走るジオラマがあり、VR(バーチャルリアルティ)によるLRTの疑似体験が楽しめる。開館時間は10〜19時、無休だ。興味のある方はぜひとも立ち寄ってみたい。

↑「ベルモール」のオープンスクエアではLRT事業をわかりやすく展示している。鉄道ジオラマではLRV車両が走る様子(左上)が楽しめる

 

↑「ベルモール」のオープンスクエアに用意されたPR素材。車両のイラスト入りのファイルに特製シール、ペーパークラフトを無料配布

 

さて帰ろうとしたら。こちらをどうぞ、と“お土産”をいただいた。中には車両が描かれたファイル、そして170分の1のペーパークラフト、さらにシール! みなおしゃれで、実用性があり、とてもトクした気持ちになったのだった。

 

 

【進むLRT事業⑪】将来は宇都宮駅西側への延伸を目指す

JR宇都宮駅に戻ってきたら、夕方になっていた。念のため駅の東口から西口にまわってみる。やはり西口は賑やかな印象だ。

 

2022年に開業するのは東口から芳賀町までだが、将来は、JR線を越えて西側方面へ路線を延伸する計画がある。路線は東武宇都宮駅に近い池上町の交差点、さらに西の「桜通り十文字付近(国道119号)」を含め、先への延伸を図る。

 

今のところ「桜通り十文字付近」「護国神社付近」「宇都宮環状線付近」「東北自動車道付近」「大谷観光地付近」の5つの案について整備区間の検討が行われている。本年度中には「LRTの整備区間」について決定される予定だとされる。

↑JR宇都宮駅の西口。東口に比べて賑やかだ。この先、東武宇都宮駅までの間には繁華街なども多くつらなる

 

 

最後に今回のLRTがなぜ1067mmという線路幅を採用しているのだろうか。

 

既存の鉄道路線と同一軌間としたことで、将来的には、鉄道路線への乗り入れも模索しているのだという。西へ路線を延長していくことは将来、東武宇都宮線や、JR日光線への乗り入れも可能ならば、というわけだ。

 

すでに福井県では併用軌道区間のある福井鉄道と、えちぜん鉄道間の相互乗り入れが実現している。宇都宮の新しいLRT計画も、今後は、同じように大きく羽ばたく“夢”を秘めていたのである。

ストーブ列車だけじゃない!! 日本最北の私鉄路線「津軽鉄道」の魅力を再発見する旅

おもしろローカル線の旅~~津軽鉄道(青森県)~~

 

津軽富士の名で親しまれる岩木山を望みつつ走るオレンジ色のディーゼルカー。最北の私鉄(第三セクター鉄道を除く)として知られる津軽鉄道の車両だ。

津軽鉄道といえば、雪景色のなかを走るストーブ列車がよく知られ、最果て感、美しい雪景色に誘われ、冬季は多くの人が訪れる。

 

そんな雪のイメージが強い津軽鉄道だが、あえて雪のない津軽へ訪れてみた。すると、雪の降らない季節ならではの発見があり、おもしろローカル線の旅が十分に楽しめた。

 

【津軽鉄道の現状】何とか存続を、と盛り上げムードが強まる

津軽鉄道の路線は津軽五所川原駅〜津軽中里駅間の12駅20.7km区間を結ぶ。北海道に第三セクター方式で経営する道南いさりび鉄道があるが、私鉄=民営鉄道と限定すれば、津軽鉄道は日本最北の地に路線を持つ私鉄会社ということになる。

津軽鉄道を取り巻く状況は厳しい。平成20年度から27年度の経営状況を見ると、黒字となったのは平成20年度と、平成22〜24年度まで、平成25年度以降は赤字経営が続く。路線の過疎化による利用者の減少傾向が著しい。

 

とはいえ、地元の人たちのサポートぶりは手厚い。2006年に津軽鉄道の存続を願うべく市民の機運を盛り上げる「津軽鉄道サポーターズクラブ」が発足。さらに観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」が列車に同乗し、好評だ。ほか全国の鉄道ファンの応援ぶりも熱い。熱気を感じさせる具体例が最近あったばかりだが、それは後述することにしよう。

 

【津軽鉄道をめぐる歴史】五能線の開業がその起源となっていた

さて津軽鉄道の歴史を簡単に触れておこう。

 

津軽鉄道のみの歴史を見ると、地方路線によく見られる、地元有志による会社設立、そして路線開業という流れが見られる。津軽鉄道の開業する前、五所川原に初めて敷かれた鉄道が現在の五能線だった。

 

五能線の開業のため、地元有志による出資で、まず陸奥鉄道という会社が創られた。

 

●1918(大正7)年9月25日 陸奥鉄道により川部駅〜五所川原駅間が開業

現在の奥羽本線川部駅と五所川原駅間で、JR五能線の起源となる。ちなみに、この開業後に五所川原駅から先、鯵ケ沢駅(あじがさわえき)との間の路線建設が鉄道省の手によって始められている。そして、

 

●1927(昭和2)年6月1日 鉄道省が陸奥鉄道の川部駅〜五所川原駅間を買収、五所川原線(現・五能線の一部)に編入された

鉄道省の買い上げ条件が良く、その資金が津軽鉄道の開業の“元手”となった。

 

●1930(昭和3)年 7月15日に津軽鉄道の五所川原駅〜金木駅間が開業、10月4日に金木駅〜大沢内駅間が開業、11月13日に大沢内駅〜津軽中里駅間が開業

前年の1929年に鉄道免許状を交付されてから、翌年に開業したというその手際の良さには驚かされる。当時、鉄道の建設ブームということが背景にあり、また新線建設が地域経済の発展に大きく貢献したということなのだろう。

 

【車両の見どころ】個性的な動きを見られる機関車と旧型客車

現在、使われている車両は主力のディーゼルカーが津軽21形で、5両が在籍している。オレンジ色に塗られ、沿線出身の作家、太宰治の作品にちなみ、「走れメロス号」の愛称が付けられている。

 

ストーブ列車などのイベント列車に使われているのは、DD350形+旧型客車のオハフ33系やオハ46系といった1940年代および1950年代に製造された車両だ。DD350形ディーゼル機関車は、動輪にロッドという駆動のための機器が付く。いまとなっては貴重な車両で、走るとユニークな動輪の動きが見られる。

↑ストーブ列車などのイベント列車はディーゼル機関車+旧型客車という編成が多い。写真はGW期間に開かれる金木桜まつり用のイベント列車がちょうど五農校前駅を通過していったところ

 

↑列車を牽引するDD350形は1959年に製造されたディーゼル機関車で、動輪の駆動を助ける棒状の機器、ロッドが付く。津軽鉄道の客車は屋根にダルマストーブの煙突が付くのが特徴

 

同機関車には暖房用の蒸気供給設備がないために、客車にはダルマストーブが付けられている。暖房用にダルマストーブを設置したことが、逆に物珍しさとなり、いまやストーブ列車は津軽鉄道の冬の風物詩にまでなっている。

 

【津軽鉄道の再発見旅1】風が強い路線ならではの工夫が見られる

では、津軽五所川原駅から下り列車に乗り込むことにしよう。

 

筆者が乗車した列車は、津軽五所川原駅を15時以降に発車する列車だったこともあり、あいにく観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」の乗車がなかった。「津軽半島観光アテンダント」の同乗する列車内では津軽のお国言葉を生で楽しむことができる。同乗しない列車に乗ってしまったことを悔やみつつ、旅を続ける。

↑乗り合わせた列車は「太宰列車2018」。2018年の6月19日から8月末まで沿線を走った。太宰ゆかりの作家や芸術家たちが手作りしたパネルなどの展示が行われた

 

↑前後の運転席横は図書スペースとなっている。このあたり小説家・太宰治の出身地らしい。津軽に関わる書籍やパンフレットなどもが置かれている

 

さて津軽五所川原駅。津軽鉄道の駅舎で乗車券を購入して、改札口を入る。構内に入ったつもりが、そこはJR五所川原駅の構内。跨線橋もJRと同じだ。このあたり五能線と津軽鉄道の関係が、その起源や歴史を含めて縁が深かったことをうかがわせる。

↑JR五所川原駅に隣接する津軽鉄道の起点、津軽五所川原駅。ホームは改札口からJR五所川原駅の構内へ入り、JRと共用する跨線橋を渡った奥にある

 

↑津軽五所川原駅の軒先に吊られるのは伝統的な津軽玩具「金魚ねぷた」。幸福をもたらす玩具とされている。駅舎内の売店でもお土産用の「金魚ねぷた」が販売されている

 

津軽五所川原駅の3番線が津軽鉄道のホーム。オレンジ色の車体、津軽21形1両が停車する。ホームの反対側には津軽鉄道の車庫スペースがあって、個性的な車両が多く停まっている。このあたりは、帰りにじっくり見ることにしよう。

 

ディーゼルエンジン特有の重みのあるアイドリング音を耳にしつつ車両に乗り込む。ちょうど地元の学校の休校日にあたったこの日は、乗り込む学生の姿もまばら。観光客の姿もちらほらで、半分の席が埋まるぐらいで列車は出発した。

 

しばらく五所川原の住宅地を見つつ、次の十川駅(とがわえき)へ。この十川駅から五農校前駅(ごのうこうまええき)付近が、もっとも岩木山がよく見える区間だ。

 

五農校前駅は、地元では「五農」の名で親しまれる「県立五所川原農林高等学校」の最寄り駅でもある。同高校で育てられた野菜や、生産されたジャムやジュースなどの産品は津軽五所川原駅の売店で販売されている。

 

次の津軽飯詰駅(つがるいづめえき)に注目。駅の前後のポイント部分にスノーシェルターが付けられている。このシェルター、進行方向の左側と上部のみ覆いがあり、ポイントへの雪の付着を防いでいる。

↑津軽飯詰駅の前後のポイント部分にかかるスノーシェルター。片側と屋根部分のみ覆われ、反対側には覆いが付いていないことがわかる

 

なぜ、進行方向左側のみなのか。それは、冬は日本海側から吹く西風が強いため。西風対策として進行方向左側のみ覆いが付けられたのだ。ただし、このスノーシェルター、現在はポイント自体が使われていないため、あまり役立っていないという現実もある。

 

このような風対策は、次の毘沙門駅(びしゃもんえき)でも見られる。

 

毘沙門駅は林に覆われている。西側が特に見事だ。津軽鉄道の社員が1956(昭和31)年に植樹した木々が60年以上の間に、ここまで育ったもので、冬に起こりやすい地吹雪や強風から鉄道を守る役割を果たしてきた。駅ホームには「鉄道林」の案内も立てられている。

↑毘沙門駅には鬱蒼とした林により覆われる。西側を覆う林は津軽鉄道の社員が植樹したもの。鉄道を風害から守る鉄道林の役割をしている

 

次の嘉瀬駅(かせえき)では構内に停まるディーゼルカー・キハ22形に注目したい。

 

倉庫前に停められた古いディーゼルカーは、ユニークな絵が多く描かれている。先頭には「しんご」の文字が。香取慎吾さんと青森の子どもたちが一緒にペイントした「夢のキャンバス号」だ。1997年にTV番組の企画でペイントが行われたもの。同車両は2000年に引退し、嘉瀬駅に停められていたが、2017年に、再度、塗り直しが行われた。

↑嘉瀬駅のホームに停まるキハ22028号車。1997年にTV番組の企画で香取慎吾さんと青森の子どもたちの手でペイント、さらに20年後に同メンバーが集まり塗り替えられた

【津軽鉄道の再発見旅2】太宰治の生家といえば金木の斜陽館

津軽鉄道の各駅には注目ポイントが多く、乗っていても飽きない。時間があれば、それぞれの駅に降りてじっくり見てみたい。

 

津軽鉄道で最も観光客が多く降りる駅といえば、嘉瀬駅のお隣、金木駅(かなぎえき)。津軽鉄道で唯一、列車交換ができる駅でもある。金木駅に進入する手前には、いまでは珍しい腕木式信号機がある(津軽五所川原駅にもある)ので、確認しておきたいところ。

 

金木といえば、小説家・太宰治の故郷であり、生家「斜陽館」が太宰治記念館(入館有料)となり残されている。「斜陽館」は金木駅から徒歩5分ほどの距離にある。

↑太宰治の生家「斜陽館」。太宰が生まれる2年前の1907(明治40)年に建てられた。和洋折衷・入母屋造りの豪邸で、国の重要文化財建造物にも指定されている

 

金木駅の先も見どころは多い。

 

次の芦野公園駅(あしのこうえんえき)は、その名のとおり芦野公園(芦野池沼群県立自然公園)の最寄り駅。春は1500本の桜が見事で、日本さくら名所100選にも選ばれる公園だ。児童公園やオートキャンプ場もある。

 

鉄道好き・太宰好きならば、この駅で見逃せないのが、旧駅舎。太宰治の小説「津軽」にも小さな駅舎として登場する。現在の駅舎に隣接していて、建物は喫茶店「駅舎」として利用される。店では「昭和のコーヒー」や、金木特産の馬肉を使った「激馬かなぎカレー」を味わうことができる。

↑芦野公園駅付近を走る「走れメロス号」。線路は芦野公園の桜の木に覆われている。桜が花を咲かせる季節が特におすすめで、例年、多くの行楽客で賑わう

 

↑津軽鉄道開業当時に建てられた芦野公園駅の旧駅舎。国の登録有形文化財でもある。建物は喫茶店「駅舎」となっていて、ひと休みにもぴったりだ

 

【津軽鉄道の再発見旅3】終点の津軽中里駅の不思議なこといろいろ

芦野公園駅を過ぎると、急に視界が開ける。川倉駅から深郷田駅(ふこうだえき)まで、線路の左右に見事な水田風景が広がる。

↑川倉駅付近の水田風景。路線の左右に広々した水田が広がる。もちろん冬になれば一面の雪原となる。地元、金木では地吹雪体験ツアーという催しも厳冬期に開かれる

 

美しく実る稲穂をながめ、乗車すること35分ほど。終点の津軽中里駅(つがるかなさとえき)に到着した。

 

駅に到着してホームに降り立って気がついたのだが、駅の先の踏切(津軽中里駅構内踏切)の遮断機が下りている。あれれ…この列車は、先には走らず、到着したホームからそのまま折り返すはずだが。

 

数分もしないうち、遮断機があがり、踏切は通れるように。ちょっと不思議に感じた。線路はこの踏切を通り駅の先まで延びているものの、通常、ホームから先の線路は走らない。

 

ストーブ列車などのイベント列車が、進行方向を変えるために機関車を機回しして付け替えるときや、側線を利用する事業用車以外に、ほぼ車両は通らない。それなのに稼働する不思議な踏切となっている。

↑津軽中里駅に到着した列車。駅構内には側線と左に木造の車庫が用意されている。車庫の手前には転車台があり、駅のホームからも望むことができる

 

↑津軽中里駅の北側にある踏切。列車がホームに入ってくると、警報器が鳴る。通常の列車は写真の位置から先に進むことはなく、遮断機を閉める必要はないと思うのだが

 

津軽中里駅には転車台がある。その赤い色の転車台がホームからも見える。さて、この転車台はどのようなものなのだろう。

 

実はこの転車台、開業時から1988(昭和63)年まで使われていたものだった。開業時は蒸気機関車の方向を変えるため、その後は、除雪車などの方向転換にも使われた。近年は使われなかったこともあり、長年、放置されていた。

 

その転車台を復活すべく前述した「津軽鉄道サポーターズクラブ」が立ち上がった。同クラブが主導役となり、クラウドファンディングにより、改修費を全国の鉄道ファンに向けて募った。すると、目標とした改修費を大幅に上回り、倍以上の資金が集まった。

 

これこそ津軽鉄道を応援する鉄道ファンが多いことを示す証でもあった。その資金を元に、2017年5月に本州最北にある転車台として見事に復活。復活イベントも行われ、全国からファンも多く集まり、転車台復活を祝った。

↑復活した津軽中里駅の転車台。右の建物は旧機関庫。ほか給水タンクや給炭台なども古くにはあった。ちなみにこの転車台への車両の入線は構内踏切を通ることが必要になる

 

↑津軽中里駅のホームに立つ「最北の駅・津軽中里駅」の案内板。この案内を見て“最果てに来た”という印象を持つ人も多いのでは無いだろうか。筆者もその1人

 

【津軽鉄道の再発見旅4】昭和初期生まれの雪かき車を見ておきたい

ちなみに北海道新幹線開業後は、新幹線の奥津軽いまべつ駅と津軽中里駅の間を結ぶ路線バスも日に4本出ている。運賃は1200円で、約1時間の行程だ。往復乗車を避けたいとき、または北海道や青森市を巡りたいときなどに便利だ。

 

筆者は津軽中里駅でしばらくぶらぶら。そして折り返しの列車を待って津軽五所川原駅に戻ることにした。

 

上り列車に乗り、おさらいするように車窓風景を楽しむ。

 

そして津軽五所川原駅へ到着。ホーム横に停められた旧型客車、事業用の貨車などを見て回る。ホームから、これらの車両がごく間近に見えることがうれしい。

 

停められる車両のなかで、やはり気になるのが雪かき車キ100形だ。1933(昭和8)年に鉄道省大宮工場で造られた車両で、国鉄時代はキ120形を名乗っていた。1967(昭和42)年に津軽鉄道へとやってきた車両だ。

 

太平洋戦争前の雪かき車で現在も残っている車両は、この津軽鉄道のキ100形と、同じ津軽地方を走る弘南鉄道のキ104形、キ105形の3両のみ。非常に貴重な車両となっている。

↑津軽五所川原駅のホームからはディーゼルカーなどが停まる機関区がすぐ横に見える。通常時は庫内の奥にイベント列車用のディーゼル機関車が停められていることが多い

 

↑夏期は津軽五所川原駅の構内に留置される雪かき車キ100形。近年は保線用の除雪機が使われることも多く、出動も稀だが、イベントなどで走行シーンに出会えることがある

 

雪かき車に後ろ髪を引かれつつも帰路に着くことに。最後に津軽五所川原駅構内の売店でお土産探し。五所川原農林高等学校で収穫または生産された野菜や、ジャムやジュースが並ぶ。

 

さらに津軽鉄道の人気キャラクター「つてっちー」関連グッズがずらり。筆者はそのなかの「つてっちー飴」を450円で購入。りんご味の金太郎飴で、かわいらしいパッケージ入り。どうも、開封するのが忍びなく、いまだにそのままオフィスの机の上に置いてある。

 

つてっちーを見るたびに津軽恋しの気持ちが高まる。「また津軽鉄道に乗りに行きたい!」と思うのだった。

↑津軽五所川原駅の駅舎内にある売店。津軽鉄道のグッズ類、前述の金魚ねぷたなどのお土産、そして農産品など販売する。17時にはクローズしてしまうので注意したい

 

↑キャラクター「つてっちー」飴(450円)。変形袋入りで、裏の顔部分から金太郎飴の姿が見える。津軽で販売されてはいるが、製造しているのは東京の金太郎飴本店だった

 

◆今回のローカル線の旅 交通費

2400円(コロプラ☆乗り放題1日フリーきっぷ)
*コロプラ☆乗り物コロカ【津軽鉄道】乗車記念カードをプレゼント

ほか「津軽フリーパス」2060円もあり。津軽フリーパスは津軽鉄道の津軽五所川原駅〜金木駅間が利用できる。金木より先は乗継ぎ料金が必要。同フリーパスは津軽地方を走るJRの路線(区間制限あり)と弘南鉄道、弘南バスの利用が可能だ。

【おもしろローカル線の旅】美景とのどかさに癒される「伊豆箱根鉄道」

おもしろローカル線の旅~~伊豆箱根鉄道(神奈川県・静岡県)~~

 

伊豆箱根鉄道は大雄山線(だいゆうざんせん)と駿豆線(すんずせん)の2本の路線で電車を運行している。この2本の路線は神奈川県と静岡県と走る県が別々で、線路は直接に結ばれず、電車の長さが異なり共用できない。そんな不思議な一面を持つ私鉄路線だが、美景と郊外電車の“のどかさ”が魅力になっている。

 

乗れば癒されるローカル線の旅。今回はおもしろさ満載の伊豆箱根鉄道の旅に出ることにしよう。

 

【路線の概要】2本の特徴・魅力はかなり異なっていておもしろい

最初に路線の概要に触れておこう。まずは大雄山線から。

大雄山線は小田原駅を起点に南足柄市の大雄山駅までの9.6kmを結ぶ。路線は、小田原市の郊外路線の趣。住宅地が続き、途中、田畑を見つつ走る

 

ちなみに路線名と駅名に付く大雄山とは15世紀に開山した最乗寺(大雄山駅からバス利用10分+徒歩10分)の山号(寺院の称号のこと)を元にしている。

↑大雄山線の主力車両5000系。5501編成のみ、赤電と呼ばれたオールドカラーに復刻されている。赤電は大雄山線だけでなく、西武鉄道でも1980年代まで見られた車体カラーだ

 

一方の駿豆線(すんずせん)は三島駅と修善寺駅間の19.8kmを結ぶ。

 

こちらは観光路線の趣が強く、富士山の眺望と、沿線に伊豆長岡温泉、修善寺温泉など人気の温泉地が点在する。東京駅から特急「踊り子」が直通運転していて便利だ。

 

ちなみに、駿豆線の駿豆とは、駿河国(するがのくに)と伊豆国(いずのくに)を走ることから名付けられた路線名。開業当初に駿河国に含まれる沼津市内へ路線が延びていたことによる。現在は同区間が廃止されたため、駿豆線と呼んでいるものの伊豆国しか走っていないことになる。

↑駿豆線の三島二日町駅〜大場駅間は富士山の美景が楽しめる区間として知られる。185系の特急「踊り子」の走る姿を写真に収めるならば、空気が澄む冬の午前中がおすすめ

 

両線の起点は大雄山線が小田原駅、駿豆線が三島駅だ。お互いの路線の線路は別々でつながっていない。しかも、神奈川県と静岡県と走る県も違う。

 

大手私鉄のなかで異なる県をまたぎ、また線路がつながらない路線を持つ例がないわけではない。しかし、伊豆箱根鉄道という中小の鉄道会社が、どうしてこのように別々に分かれて路線を持つに至ったのだろう。そこには大資本が小資本を飲み込んで拡大を続けていった時代背景があった。

 

【伊豆箱根鉄道の歴史】戦前に西武グループの一員に組み込まれる

伊豆箱根鉄道は、現在、西武グループの一員となっている。元は、両路線とも地元資本により造られた路線だった。その後に勢力の拡大を図った堤康次郎氏ひきいる箱根土地(現・プリンスホテル)が合併し、伊豆箱根鉄道となった。

 

まずは駿豆線の歩みを見ていこう。

●1898(明治31)年5月20日 豆相鉄道が三島町駅(現・三島田町駅)〜南条駅(現・伊豆長岡駅)間を開業
同年6月15日に三島駅(現・御殿場線下土狩駅)まで延伸させた。

 

●1899(明治32)年7月17日 豆相鉄道が大仁駅まで路線を延長
ちょうど120年前に、駿豆線が生まれた。同時代の地方鉄道にありがちだったように、運行する会社が次々に変って行く。

豆相鉄道 → 伊豆鉄道(1907年) → 駿豆電気鉄道(1912年) → 富士水力電気(1916年) → 駿豆鉄道(1917年)

と動きは目まぐるしい。駿豆鉄道は、1923(大正13)年に箱根土地(現・プリンスホテル)の経営傘下となる。そして…。

 

●1924(大正14)年8月1日 修善寺駅まで路線を延伸

↑1924年に生まれた駿豆線の修善寺駅。修善寺温泉や天城、湯ケ島温泉方面への玄関口でもある。修善寺温泉へは駅からバスで8分ほどの距離

 

一方、大雄山線の歩みを見ると。

●1925(大正14)年10月15日 大雄山鉄道の仮小田原駅〜大雄山駅が開業

 

●1927(昭和2)年4月10日 新小田原駅〜仮小田原駅が開業

 

●1933(昭和8)年 大雄山鉄道が箱根土地(現・プリンスホテル)の経営傘下に入る

 

その後、1941(昭和16)年に大雄山鉄道は駿豆鉄道に吸収合併された。さらに1957(昭和32)年に伊豆箱根鉄道と名を改めている。歴史をふりかえっておもしろいのは、同社が駿豆鉄道と呼ばれた時代に静岡県を走る岳南鉄道(現・岳南電車)の設立にも関わっていたこと。会社設立に際して、資本金の半分を出資している。そして。

 

●1949(昭和24)年 岳南線の鈴川駅(現・吉原駅)〜吉原本町駅が開業
しかし、駿豆鉄道が運営していた時代は短く、1956(昭和31)年には富士山麓電気鉄道(現・富士急行)の系列に移されている。

↑ライオンズマークを付けた伊豆箱根バス。大雄山駅最寄りのバス停は伊豆箱根バスが「大雄山駅」、箱根登山バスは「関本」としている

 

かつて西武グループの中核企業だった箱根土地が、神奈川県と静岡県の鉄道路線を傘下に収めていった。同時期に東京郊外の武蔵野を巡る路線の覇権争いも起きている。

【関連記事】
西武鉄道の路線網にひそむ2つの謎――愛すべき「おもしろローカル線」の旅【西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線】

 

いずれも首都圏や関東近県まで含めた西武グループ対東急グループの勢力争い巻き起こる、その少し前のことだった。その後の1950年代から60年代にかけて、箱根や伊豆を舞台に繰り広げられた熾烈な勢力争いは箱根山戦争、伊豆戦争という名で現代まで言い伝えられている。

 

いまでこそ、西武池袋線と東急東横線が相互乗り入れ、協力し合う時代になっているが、半世紀前にはお互いのグループ会社まで巻き込み、すさまじい競争を繰り広げていたのだ。

 

伊豆箱根鉄道は、堤康次郎氏が率いる西武グループの勢力拡大への踏み石となっていた。そんな時代背景が、いまも感じられる場所がある。

 

大雄山駅近くのバスセンター。西武グループの伊豆箱根バスと、小田急グループ(広く東急系に含まれる)の箱根登山バスが走っている。伊豆箱根バスのバス停は「大雄山駅前」、一方の箱根登山バスのバス停は「関本」。この名前の付け方など、それこそ昔の名残そのもの。知らないと、少し迷ってしまう停留所名の違いだ。

【大雄山線1】なぜ長さ18m車しか走らない?

↑大雄山線の主力車両5000系が狩川橋梁を渡る。同車両の長さは18m。駿豆線を走る3000系と正面の形は酷似しているものの3000系は20m車両と長さが異なっている

 

大雄山駅の近くでも見られた大企業による争いの名残。いまはそんな争いもすっかり昔話となりつつある。

 

歴史話にそれてしまった。伊豆箱根鉄道の現在に視点を戻そう。

 

伊豆箱根鉄道の大雄山線は、小田原駅の東側にホームがある。同駅は東側からホーム番線が揃えられている。そのため、大雄山線のホームは1・2番線。ちなみにJR東海道線が3〜6番線、小田急線・箱根登山鉄道が7〜12番線、東海道新幹線が13・14番線となっている。

 

大雄山線のホームは行き止まり式。しかし、駅の手前にポイントがあり、JR東海道線の側線に向けて線路が延び、接続している。その理由は後述したい。

↑大雄山線小田原駅のホームは2面あるが、右端のホームは未使用。線路は2本ありそれぞれ1番線2番線を名乗る。左側の東海道線とは線路が結びついている

 

大雄山線の電車は5時、6時台、22時台以降を除き日中は、きっちり12分間隔で非常に便利だ。例えば小田原発ならば、各時0分、12分、24分、36分、48分発。どの駅も同様に12分間隔刻みで走るので時刻が覚えやすい。たぶん、沿線の人たちは自分が利用する駅の時刻を、きっちり覚えているに違いない。

 

小田原駅を発車した電車は、東海道線と並走、間もなく緑町駅に付く。この先で、路線は急カーブを描き、東海道線と東海道新幹線の高架下をくぐる。

 

このカーブは半径100mm。半径100mというカーブは、大手私鉄に多い車両の長さ20mには酷な急カーブとされている。よって大雄山線の全車18mという車体の長さが採用されている。さらにカーブ部分にはスプリンクラーを配置。線路を適度に濡らすように工夫、車輪から出るきしみ音を減らす工夫を取っている。

↑半径100mとされる急カーブを走る様子を緑町駅付近から写す。連結器部分をぎりぎりに曲げて走る様子が見える。線路下にはスプリンクラーがあり、きしみ音を防いでいる

 

↑駅ホームにある接近案内。レトロな趣だが、どちら行きの電車が接近しているのか、明確で分かりやすく感じた

 

緑町駅を過ぎ、JRの路線をくぐると、あとは住宅地を左右に見ながら、北を目指す。五百羅漢駅の先で小田急小田原線の跨線橋をくぐり北西へ。穴部駅を過ぎれば水田風景も見えてくる。

 

しばらく狩川に平行して走り、塚原駅の先で川を渡り、左に大きくカーブして終点の大雄山駅を目指す。

 

終点の大雄山駅へは、きっちり22分で到着した。鉄道旅というにはちょっと乗り足りない乗車時間ではあるものの、大雄山駅周辺でちょっとぶらぶらして小田原駅に戻ると考えれば、ちょうど良い所要時間かも知れない。

↑終点の大雄山駅に到着した5000系。構内には車庫がわりの留置線と検修庫がある

 

↑足柄山の金太郎、ということで足柄山の麓、大雄山駅前には金太郎の銅像がある。熊にま〜たがりという童謡の光景だが、熊が屈強そうで金太郎、大丈夫か? とふと思ってしまった

 

【大雄山線2】今年で90歳! コデ165形という古風な電車は何をしているの?

終点の大雄山駅には茶色の車体をしたコデ165形という古風な電車が停められている。この電車、なんと1928(昭和3)年に製造されたもの。今年で90歳という古参電車だ。17mの長さで国電として走った後に、相模鉄道を経て、大雄山線にやってきた。果たして何に使われているのだろう。

 

実は、このコデ165形は大雄山線では電気機関車代わりに利用されている。大雄山線の路線内には、大雄山駅に検修庫はあるものの、車両の検査施設がない。そのため定期検査が必要になると、駿豆線の大場工場まで運んでの検査が行われる。

↑大雄山駅の検修庫内に停まるコデ165形。90年前に製造された車両で、現在は電気機関車代わりとして検査車両の牽引以外に、レール運搬列車の牽引に使われている

 

大雄山線では検査する車両を、このコデ165形が牽引する。小田原駅〜三島駅は、JR貨物に甲種輸送を依頼。小田原駅構内の連絡線を通って橋渡し。JR貨物の電気機関車が東海道線内を牽引、三島駅からは同路線用の電気機関車が牽引して大場工場へ運んでいる。2本の路線の線路が結びついていないことから、このような手間のかかる定期検査の方法が取られているわけだ。

 

なお、このコデ165形の走行は、事前に誰もが知ることができる。

 

「駅に●月●日、●時●分の電車は運休予定です」と告知される。これは大雄山線のダイヤが日中、目一杯のため、定期列車を運休させないと、この検査する電車の輸送ができないために起こる珍しい現象。

 

他の鉄道会社では、検査列車などの運行は一切告知しないのが一般的だが、この大雄山線に限っては、検査列車の運行をこのように違う形で発表しているところがおもしろい。

↑各駅に貼り出される列車運休のお知らせで検査車両の運行が行われることがわかる。大雄山線の運行が目いっぱい詰ったダイヤのために起こる不思議な現象だ

 

【駿豆線1】元西武線のレトロ車両ほか多彩な電車が走る

伊豆箱根鉄道の2路線を同じ日に巡るとなると、小田原駅から三島駅への移動が必要となる。

 

もちろん東海道新幹線での移動が早くて便利だ。とはいえ乗車券670円のほかに特別料金1730円が必要となる。ちなみに在来線ならば乗車券の670円のみで移動できる。所要時間は新幹線が16分、在来線ならば40分ほどと、差は大きく悩ましいところだ。

 

さらに、小田原駅と三島駅間を直通で走る在来線の普通列車は少なく(特急はあり)、熱海駅での乗換えが必要となる。小田原駅はJR東日本だが、途中の熱海駅がJR東日本とJR東海の境界駅で、三島駅はJR東海の駅となる。ICカードを利用した場合は、下車した駅で改札をそのまま通ることができない。窓口や精算機で乗継ぎ清算が必要となるとあって、やや面倒だ。

↑大雄山線は交通系ICカードの利用が可能。一方の駿豆線は同じ伊豆箱根鉄道の路線ながらICカードは使えず、切符を購入しての乗車が必要。1日乗り放題乗車券も販売(1020円)

 

駿豆線を走る電車はすべて長さ20m車両で、大雄山線に比べて変化に富む。大雄山線が5000系だけだったのに対して、駿豆線の自社車両は1300系、3000系、7000系の3種類。さらにラッピング電車や色違いの車体カラー、JRの特急列車の乗り入れもあるので、より変化に富む印象が強い。

↑7000系はJR乗り入れ用に造られた。当初は快速列車用だったが、現在は普通列車として運用される。正面は写真の金色と、銀色の2編成が走っている

 

↑1300系は元西武鉄道の新101系。2編成走るうちの1編成は西武鉄道で走っていたころの黄色塗装に戻され「イエローパラダイストレイン」の名で駿豆線内を走っている

 

三島駅から駿豆線の電車に乗車してみよう。駿豆線の三島駅は南側にあり、JRの通路からも直接ホームへ入ることができる。JRの三島駅南口と並んで、伊豆箱根鉄道の駅舎も設けられている。

↑JR三島駅の南口駅舎の隣に建つ駿豆線の三島駅駅舎。観光路線らしく、おしゃれなたたずまいになっている

 

ホームは小田原駅とは逆で、JR東海道線のホームが1〜4番線、新幹線ホームが5・6番線。そして駿豆線のホームが7〜9番線となっている。ちなみに駿豆線に乗り入れる特急「踊り子」は、1番線ホームを利用している。

 

【駿豆線2】富士山の清らかな伏流水が街中を豊富に流れる

三島駅から緩やかなカーブを描き、東海道本線から離れていく。そして三島市内をしばらくの間、走る。

 

三島は富士山麓から湧出する伏流水が豊富に流れる街だ。三島駅の次の駅、三島広小路駅の近くでは源兵衛川をまたぎ、さらにその先の三島田町駅の手前で御殿川をまたぐ。

 

いずれも伏流水が流れる河川で、清らかな流れが楽しめる。河川沿いには緑地や親水公園も設けられていて、のんびり歩くのには格好な場所だ。

↑三島駅の次の駅、三島広小路駅近くを流れる源兵衛川。富士山麓から湧き出す豊かで澄んだ伏流水の流れで、親水公園では親子が水遊びを楽しむ様子が見られた

 

3番目の駅、三島二日町駅と次の大場駅の間は、前述したように、富士山の眺望が素晴らしいところ。三島市の住宅街が途切れ、畑ごしに富士山と駿豆線を走る電車の撮影を楽しむことができる。

 

さらに大場駅近くには伊豆箱根鉄道の車両の定期検査を行う大場工場があり、駅側からこの工場へ入る引込線が設けられている。大雄山線の車両も、この工場まで運ばれ、検査が行われているわけだ。

↑大場工場内を望む。構内に停まる電気機関車はED31形で、1948(昭和23)年に西武鉄道が導入した車両。現在は大雄山線の検査車両を主に牽引している

 

大場駅から伊豆長岡駅まではほぼ直線路が続く。途中駅の韮山駅は、世界遺産にも指定された韮山反射炉(循環バス利用で約10分)の最寄り駅。また伊豆長岡駅は伊豆長岡温泉(バス利用で約10分)の最寄り駅だ。

 

伊豆長岡駅から先は、狩野川沿いに電車は走る。大仁駅付近で蛇行する狩野川に合わせてのカーブが続く。普通列車で30分ちょっと、まもなく終点の修善寺駅に到着する。

↑大仁駅付近からは山容に特徴のある葛城山が見える。この葛城山は富士山を望む美景の地として名高い。山頂と麓の伊豆長岡温泉の間にはロープウェイが架けられている

 

↑駿豆線の終着駅・修善寺駅。観光拠点の駅らしくホームは2面、1〜4番線ホームが揃う。停車中の特急「踊り子」は、1日に2〜4本が東京駅との間を走っている

 

ちょうど修善寺駅には特急「踊り子」が停車していた。「踊り子」に使われる185系だが、走り始めてからすでに40年近い。数年内に185系の退役させることがJR東日本から明らかにされており、ここ数年中に、駿豆線を走る特急「踊り子」はE257系(中央本線の特急「あずさ」「かいじ」に使われた車両)に引き継がれる予定だ。

 

国鉄生まれの特急形電車の姿もあと数年後には消えていきそうだ。駿豆線ではお馴染のスター列車だっただけに、ちょっと寂しく感じる。

常時営業を行っていない臨時駅が起点という鉄道路線「鹿島臨海鉄道」の不思議

おもしろローカル線の旅~~鹿島臨海鉄道(茨城県)~~

 

茨城県の南東部を走る鹿島臨海鉄道。鹿島灘の沿岸部に敷かれた路線を旅客列車と貨物列車が走る。旅客列車が走るにも関わらず、路線の起点となる駅は常時営業を行っていない臨時駅だ。えっ、なぜ? どう乗ればいいの? ということで、今回は鹿島臨海鉄道にまつわる謎解きの旅に出かけることにしよう。

 

【路線の概要】まずは鹿島臨海鉄道の路線紹介から

まず鹿島臨海鉄道の路線の概要から見ていこう。

鹿島臨海鉄道には2本の路線がある。まず1本目は鹿島サッカースタジアム駅〜奥野谷浜駅(おくのやはまえき)間の19.2kmを結ぶ鹿嶋臨港線である。2本目は鹿島サッカースタジアム駅〜水戸駅間53.0kmを結ぶ大洗鹿島線だ。

 

鹿島臨港線は貨物列車のみが走る貨物専用線で、大洗鹿島線は旅客列車が走る旅客路線だ。2本の路線の起点が鹿島サッカースタジアム駅となる。

 

この鹿島サッカースタジアム駅だが、常時営業しているわけではない。最寄りの鹿島サッカースタジアムで、サッカーの試合やイベントが行われるときのみ営業される臨時駅だ。よって通常は、同駅を通るすべての旅客列車が通過してしまう。

 

実は同駅が路線の起点なのだが、大洗鹿島線を走る旅客列車は、隣りの鹿島神宮駅まで直通運転をしている。すべての旅客列車が鹿島神宮駅を発着駅としているのだ。鹿島サッカースタジアム駅〜鹿島神宮駅はJR鹿島線の線路で、鹿島臨海鉄道の全列車は、JRの同区間に乗り入れる形になっている。

 

なぜ、このような不思議な運転方式になったのだろう。そこには同社設立の歴史が深く関わっていた。次は鹿島臨海鉄道の歴史に関して触れたい。

↑鹿島臨海鉄道の2本の路線の起点駅・鹿島サッカースタジアム駅。サッカーやイベント開催日のみに営業する臨時駅だ。通常は貨物列車の入れ換え基地という趣が強い

 

貨物輸送用にまず駅が造られた

鹿島臨海鉄道の歴史は鹿島灘沿岸に造られた鹿島臨海工業地帯の誕生とともに始まる。

 

1969(昭和44)年、元は砂丘だった鹿島灘に面した海岸に鹿島港が開港、住友金属鹿島製鉄所の操業が始まった。23の事業所の進出とともに工業地帯が発展していく。鹿島臨海鉄道とJR鹿島線もこの工業地帯の誕生に合わせて路線が敷かれた。

 

●1969(昭和44)4月1日 鹿島臨海鉄道株式会社が設立
主要な株主は日本国有鉄道(後に日本貨物鉄道=JR貨物に引き継がれる)、茨城県、住友金属工業、三菱化学といった自治体および団体、企業だ。つまり第三セクター方式の鉄道事業者として発足したわけだ。

 

●1970(昭和45)年7月21日 鹿島臨港線19.2kmが開業
鹿島臨港線の北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅)〜奥野谷浜駅(おくのやはまえき)間が開業した。当初は貨物輸送のみを行う路線だった。

 

●1970(昭和45)年8月20日 国鉄鹿島線の香取駅〜鹿島神宮駅間が開業

 

●1970(昭和45)年11月12日 国鉄鹿島線が北鹿島駅まで延伸される
この延伸により北鹿島駅構内で鹿島臨海鉄道とJR鹿嶋線の線路がつながった。

 

国鉄鹿島線が北鹿島駅へ延伸した後も旅客列車は鹿島神宮駅止まり。一方、貨物列車は北鹿島駅まで走り、同駅で鹿島臨海鉄道に引き継がれ、鹿嶋臨港線を通って各工場へ貨物が運ばれていった。

↑JR鹿島線(右)と鹿島臨港線(左)の合流ポイント。JR鹿島線の鹿島神宮駅〜鹿島サッカースタジアム駅間は、JR貨物と鹿島臨海鉄道の共用区間となっている

 

●1978(昭和53)年7月25日 北鹿島駅〜鹿島港南駅(現在は廃駅)間で旅客営業を開始
貨物輸送のみだった鹿島臨港線だが、旅客営業を開始、北鹿島駅で折り返し、鹿島神宮駅まで乗り入れた。

 

●1983(昭和58)年12月1日 鹿島臨港線の旅客営業が終了
利用客が少なく、わずか6年で鹿島臨港線の旅客営業が終了した。同時に鹿島神宮駅への乗り入れも中止された。

 

北鹿島駅から北へ向かう大洗鹿島線はどのような経緯をたどったのだろう。こちらは鹿島臨港線に比べて、かなり遅い路線開業となった。

↑鹿島サッカースタジアム駅には入れ換え用の線路が設けられ、貨物列車の信号場としての役割を担う。首都圏では珍しくなったEF64が牽引する貨物列車が乗り入れている

 

●1985(昭和60)年3月14日 大洗鹿島線水戸駅〜北鹿島駅間が開業
北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅)〜水戸駅を走る大洗鹿島線は、当初、国鉄の鹿島線を水戸駅まで延ばすことを念頭に計画が立てられた。そして1971(昭和46)年、日本鉄道建設公団により着工された。しかし、当時の国鉄は巨額な赤字に喘いでいた。改革が迫られ、さらに民営化と推移していく時期でもあり、新線の経営を引き受けることが困難になっていた。

 

着工が間近に迫った1984年に、新線の経営を鹿島臨海鉄道にゆだねることが決定、そして大洗鹿島線は、開業当初から鹿島臨海鉄道の路線として歩み始めたのだった。

 

大洗鹿島線は当初から旅客中心の営業だったため、開業と同時に北鹿島駅から鹿島神宮駅までの列車の乗り入れを開始している。

 

香取駅〜水戸駅間の路線が国鉄鹿島線として計画されたものの、最初の計画が頓挫。北鹿島駅〜水戸駅の新区間が鹿島臨海鉄道に経営が引き継がれたことにより、路線の起点が臨時駅で、実際の列車の発着駅とは異なる、という不思議な運行方式になったわけである。

 

なおその後、1994(平成6)年3月に北鹿島駅は鹿島サッカースタジアム駅と改称された。1996(平成8)年には大洗鹿島線での貨物営業を中止、以降、貨物列車は鹿島臨港線を走るのみとなっている。

↑鹿島サッカースタジアム駅を通過する列車。ホームをはさみ貨物列車用の線路がある。駅周辺には民家も少なく、利用者が見込めないためイベント開催日限定の臨時駅となった

【鹿島臨港線】神栖には謎の階段やホーム跡が残る

路線の歴史説明がやや長くなってしまったが、次は各路線の現在の姿を見てまわることにしよう。まずは貨物列車専用の鹿島臨港線から。

↑鹿島臨港線は東日本大震災による津波の被害を受けた。津波により速度表示もなぎ倒された(2012年撮影)。被害は甚大だったが震災から4か月後に全線復旧を果たしている

 

鹿島臨港線は貨物専用線のため、列車に乗って見て回るわけにはいかない。そこでクルマで巡ってみた。貨物列車が走る様子をたどろう。

 

鹿島サッカースタジアム駅を発車した貨物列車はまもなく、JR鹿島線と分岐、非電化路線をひたすら南下する。しばらくは鹿島市の住宅地を左右に見て走る。

 

10分ほど走ると、鹿島港に近い工業地帯へ出る。工場用に造られた造成地が線路の周囲に広がっている。鹿島サッカースタジアム駅を発車して約20分で、列車は貨物専用の神栖駅(かみすえき)へ到着する。

 

この神栖駅でコンテナの積み降しが主に行われている。神栖駅の西側には和田山緑地という公園があり、この園内に手すり付きの階段がある。ここを上るとフェンス越しに元ホームが見える。この階段やホームは旅客営業時に使われていたもの。いまはフェンスが階段の上に設置されているため、ホーム内に立ち入りはできないが、旅客営業時代の面影を偲ぶことができる。

↑神栖市の和田山緑地内にある、手すり付き謎の階段。フェンスがあり階段の上から先に入ることはできない。構内にはJR貨物のコンテナ貨車が停まっていた

 

↑和田山緑地からフェンス越しに神栖駅構内を見ることができる。このように元ホームや休車となった古いディーゼルカー、そして貨物用機関車の車庫を望むことができる

 

神栖駅から線路は奥野谷浜駅まで延びている。この奥野谷浜駅は、いまも貨物時刻表の地図に掲載されているが、すでに駅施設らしきものはない。不定期で運行される貨物列車がJSR鹿島工場へ走っているが、駅は通過するのみだ。

 

神栖駅より先は、単調に線路が延びるのみで、駅施設などはすべてきれいに取り除かれているのがちょっと残念だった。

↑鹿島臨港線の主力KRD64形ディーゼル機関車が鹿嶋市の住宅地を左右に見ながら進む。鹿島臨港線では写真のような化学薬品を積んだタンクコンテナの割合が多い

 

↑1979年に導入されたKRD5形ディーゼル機関車も使われる。鹿島臨港線の貨物列車は下り2便、上り3便と本数は少なめだが、コンテナを満載して走る列車が目立つ

 

【大洗鹿島線1】 日本一長いひらがな駅名を持つ駅とは?

鹿島臨海鉄道の旅客列車が発車するJR鹿島神宮駅に戻り、水戸行き列車を待つ。鹿島神宮駅発の列車は、朝夕を除き、ほぼ1時間間隔で発車する。水戸に近い大洗駅〜水戸駅間は列車の本数が増え、約30分間隔で列車が走っている。

 

急行や快速列車はなく、すべて普通列車だ。ただし前述したように、鹿島サッカースタジアム駅は通常、普通列車も停まらずに通過してしまう。

鹿島神宮駅でのJR鹿島線から大洗鹿島線への乗換えは、朝夕を除いて、接続があまり良くないのが実情だ。さらに、東京方面からの直通の特急列車は廃止され(6月のみ特急「あやめ」が走る)、また直通の普通列車も1日に1往復という状態になっている。列車利用の場合は佐原駅乗換えが必要で、東京方面からのアクセスがちょっと不便になっているのが残念だ。

 

鹿島神宮駅での待ち時間が長くなりそうな場合は、駅から徒歩10分の鹿島神宮を立ち寄っても良いだろう。巨大な古木が立ち並ぶ参道は、森閑として一度は訪れる価値がある。

↑大洗鹿島線の列車はすべてがJR鹿島神宮駅から発車する。駅から徒歩10分のところに紀元前660年の創建とされる鹿島神宮がある。駅前に古風な屋根が持つ案内が立つ

 

筆者が乗った車両は6000形ディーゼルカー。赤い車体に白い帯を巻いた鹿島臨海鉄道の主力車両だ。中央部の座席がクロスシート、ドア近くがロングシートというセミクロスシートの車両だ。座るシートはふんわり、軟らかさに思わず癒される。鉄道旅には、やはり堅めのシートより、ふかふかシートの方が旅の気分も高まるように思う。

↑鹿島臨海鉄道の主力車両6000形の車内。片側2つの乗降トビラの間にクロスシートがずらりと並ぶ。ふんわりと座り心地もよく、旅の気分が味わえる。トイレも付いている

 

↑6000形の車体にはK.R.T(kasima rinkai tetsudo)の文字が入る。金属製の斜体文字。新車の8000形にも同文字は入るが、金属製ならではの重厚感でレトロな趣が強まる印象

 

さらに、鹿島臨海鉄道の列車は乗っていて快適さが感じられる。それはなぜだろう。

 

全線が単線とはいうものの、建設当初に急行列車を走らせる予定だったため、高規格な設計で造られている。ロングレールが使用され、騒音もなく、揺れずにスピードを出して走ることができる贅沢設計なのだ。

 

しかも踏切が途中になく(水戸駅近くを除く)、全線が立体交差。警笛を鳴らすこともあまりなく、列車は最高時速95kmのスピードで快調に走っていく。

↑大洗鹿島線を走る6000形ディーゼルカー。鹿島サッカースタジアム駅〜大洋駅間は沿線に畑が広がるエリア。踏切はなく、道はすべて立体交差となっている

 

JR貨物の電気機関車や貨車を横目に見ながら鹿島サッカースタジアム駅を通過。その先、2つ目の駅の表示に目が止まる。

↑日本一長い駅名とされる「長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅」。徒歩10分の所に展望台や全長154mという長いローラー滑り台が名物の「大野潮騒はまなす公園」がある

 

長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅。

 

駅名の表示には日本一長い駅名というシールが貼ってある。実際にひらがなで書くと「ちょうじゃがはましおさいはまなすこうえんまえ」と22文字になる。これは南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」のひらがな文字表記と同じ文字数だそうだ。

 

いやはや、プロのアナウンサー氏でも、一気に読むのが大変そうな駅名だと感心させられる。

 

長い駅名の長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅を過ぎ、大洋駅付近までは、ひたすら左右に畑を見て列車が走る。地図を見ると鹿島灘の海岸線と路線が平行に走っているのだが、内陸部を走るため、列車から海は見えない。

↑北浦湖畔駅から水戸駅近くまでは、このように水田の中を高架線が走る。ロングレールを使った高規格路線で、地方ローカル線としてはトップクラスの最速95kmで快走する

 

【大洗鹿島線2】広がる水田風景の中を高架路線が通り抜ける

北浦湖畔駅まで走ると、風景は一変する。高架路線を走るとともに、北浦、涸沼(ひぬま)といった大きな湖沼が車窓から眺められる。

 

間もなく大洗駅だ。大洗駅は鹿島臨海鉄道で最も賑やかな駅。駅からは海岸沿いにある観光施設行きのバスも出ている。

 

駅舎内に産直品の販売店やインフォメーションコーナー、その前には鹿島臨港線の知手駅(しってき)で実際に使われていたポイント切り替え用の機械(連動制御盤)や、踏切警報器が置かれ、鉄道好きはつい見入ってしまう。

 

大洗駅〜水戸駅間は列車本数も多いので、鹿島神宮駅方面から乗車した場合は、途中下車しても良いだろう。

↑大洗鹿島線の大洗駅。鹿島臨海鉄道の本社もこの駅舎内にある。大洗には多彩な観光施設が揃う。北海道方面へのカーフェリーが発着する大洗港へは徒歩10分ほど

 

↑大洗駅のインフォメーションコーナーの前には写真のような踏切警報器と、以前に鹿嶋臨港線の駅で使われていたポイント切り替え用の機械が置かれ、楽しめる

 

↑大洗駅構内に旅客列車用の車庫がある。大きな洗車機もあり。水戸駅発、大洗駅止まりの列車も多く、頻繁に車両の出し入れを行う様子がホームから眺められる

 

大洗駅から水戸駅までは途中2駅ほどと近い。

 

大洗駅の先で大きくカーブ、常澄駅(つねずみえき)付近からは、水田のなかをほぼ直線の線路が水戸駅近くまで延びている。高架路線、さらにロングレールが使用され、また踏切もないので、乗車していても快適、車窓の広がりも素晴らしく、乗るのが楽しい区間だ。

 

それこそ関東平野のひろがりが感じられる快適区間と言って良いだろう。

 

水戸駅手前で那珂川の支流にかかる鉄橋を渡れば、まもなくJR常磐線と合流。列車はカーブを描き、水戸駅ホームへ滑り込んだ。

↑水戸駅付近でJR常磐線と並走する。写真の車両は2016年3月に導入された8000形。これまでの6000形と異なり片側3トビラで乗り降りしやすくなっている

 

途中下車しなければ、乗車時間は鹿島神宮駅から水戸駅までが約1時間20分。長さはまったく感じず、快さだけが心に残ったローカル線の旅となった。

なぜ増えている? 百花繚乱「ラッピング電車」の世界

前記事では、この9月に運行を開始したラッピング電車「ベイスターズトレイン ビクトリー号」について紹介した(~2018年9月16日まで運行)。この例に限らず、実はここ数年、全国の鉄道会社がラッピング電車を走らせることが増えている。その理由は何なのか、どんなラッピング電車が走っているのか――。本稿では具体的な例を挙げつつ、ラッピング電車の最新傾向を見ていこう。

【関連記事】

ベイスターズ応援電車「ビクトリー号」、鉄道好きが興味津々のギミックとは?

 

ラッピング電車が増えているのはなぜ?

ラッピングのはじまりは1990年代中ごろからと、意外に古い。2000年に東京を走る都バスに広告ラッピングが施され、その名を「ラッピングバス」と紹介されたことから、ラッピングの名が広まったとされる。

 

昨今、通勤用の電車は銀色のステンレス車体が多くなりつつある。塗料を使っての塗装が不用になってはいるものの、各車両の差はあまりない。沿線PR、キャンペーンなどでPR媒体として車両を利用したいときに、ラッピングはまさにうってつけだったのである。

 

さらに近年は、印刷精度もあがり、また貼りやすいラッピングシールが開発されている。

 

ラッピング費用は、ラッピングシールの大小で大きく異なる。その差は大きいが、車両全部(屋根や床下部分を除く)をラッピングすると1両で百数十万円以上というのが相場のようだ。8両や10両という長い車両を1両ごとラッピング、さらに企業広告ともなれば、広告費も加算されかなり高額になる。

 

一方で車両編成が短い電車となると、ぐっと身近になる。1〜2両編成の路面電車で広告ラッピングされた電車が多いことから、そのあたりの実情が推測できよう。

 

続いて全国を走る代表的なラッピング電車を見ていこう。

 

チームカラーが目を引く「プロ野球応援ラッピング電車」

前回ベイスターズのラッピング電車を紹介したので、まずはその他のプロ野球球団のラッピング電車から見ていこう。

 

例年、新たなデザインで登場しているのがJR西日本の「カープ応援ラッピング電車」。JR山陽線、呉線、可部線などを走行する。カープのイメージカラーである派手なレッドの車体が目立つ。今年の車両には、側面に選手たちがプレーする姿が躍動している。

↑毎年のように登場する「カープ応援ラッピングトレイン」。写真は2015年のもの。地元広島だけでなく、周辺地域を走ることもあり注目度は高い

 

西のカープが赤ならば、東の西武ライオンズはチームカラーでもあるレジェンドブルーで対抗する。全体がブルーのシックな装い、車体には球団のロゴが施される。車内のシートにも球団ロゴがプリントされている。

↑自社の球団を持つ強みを生かす西武鉄道。例年、西武ライオンズの球団ロゴ入りの「L-Train」を走らせる。今年の車両は3代目で、20000系10両×2編成が走り続けている

 

鉄道会社で球団を所有しているといえば、阪神電鉄が代表格でもある。この阪神だが、球団80周年の2015年にタイガースカラーの黄色い車体の「Yellow Magicトレイン」を走らせたものの、その後は大がかりなラッピング電車は走らせていない。今後に期待したい。

 

子どもたちに人気!「キャラクター入りラッピング電車」

キャラクター入りのラッピング電車も各地を走っている。代表的な車両を見ていこう。

 

自社のキャラクター「そうにゃん」を生み出し、そのキャラクター入りラッピング電車を走らせるのが相模鉄道。「そうにゃん」は相鉄沿線出身のネコだそうで、仕事は相鉄の広報担当とのこと。2014年に登場、そうにゃんのイラストが車内外に入るラッピング電車「そうにゃんトレイン」が好評で、すでに5代目の「そうにゃんトレイン」が走っている。

↑相模鉄道のキャラクターといえば「そうにゃん」。車内外にキャラクターが入る「そうにゃんトレイン」はすでに5代目が走っている。写真は4代目そうにゃんトレイン

 

熊本県のPRキャラクターといえば「くまモン」。肥薩おれんじ鉄道では、2012年からくまモン入りの「くまモンラッピング列車」を走らせている。当初は1両のみだったが、その後に増えて2号、3号と色違いのラッピング列車が走っている。くまモンの姿は車体だけでなく、車内にはくまモンのぬいぐるみや立体像などが置かれ、かわいらしい姿を楽しむことができる。

↑肥薩おれんじ鉄道の「くまモンラッピング列車」。ブルーの車体の「1号」以外に、オレンジ色の「2号」、さらに2018年3月から黒と赤の「3号」も走り始めている

 

キャラクター入りラッピング列車は他社でも多く登場している。代表的な車両としては、JR四国の「アンパンマン列車」、京阪電気鉄道の「きかんしゃトーマス号」、富士急行「トーマスランド号」などが挙げられる。子どもたちに人気があるキャラクターがラッピングされる傾向は、今後も強まるだろう。

 

沿線の観光要素を強く打ち出した「観光ラッピング電車」

鉄道会社にとって、定番となりつつあるのが、「観光ラッピング電車」。沿線のPRも兼ねて、また既存の車両とはひとあじ異なる車両を走らせ、乗客の注目を集める狙いもあるようだ。

 

代表的な車両を2車両、挙げておこう。

 

まずは西日本鉄道(西鉄)の観光ラッピング電車「旅人(たびと)」。沿線の太宰府観光用に生まれた電車だ。2014年当時には8000形が使われていたが、現在は、3000形となり、太宰府の観光活性化に一役買っている。さらに西鉄では「水都(すいと)」という観光ラッピング電車も走らせている。こちらは柳川のイメージアップを図るための観光ラッピング電車。こちらも以前は8000形だったが、現在は3000形を利用した2代目となっている。

↑西日本鉄道の「旅人(たびと)」は沿線の太宰府をモチーフにしたラッピング電車。車体には太宰府に咲く四季の花々が描かれる。内装は5つの開運模様で構成される

 

両列車とも注目度は高く、ラッピングや車内の改装などの費用をかけてでも、こうした観光ラッピング電車を走らせる効果は大きいようだ。

 

おもしろいのは南海電気鉄道(以下、南海と略)加太線(かだせん)を走る「めでたいでんしゃ」。

 

和歌山県の海沿いを走る加太線沿線は海産物が特産品となっていて、路線も「加太さかな線」という愛称をもつ。とはいえ、ローカル線ならではの乗客の減少に悩んでいた。そんな同線用に2016年に登場させたのが「めでたいでんしゃ」。加太に縁の深い鯛をモチーフに生まれた電車だ。走る電車で鯛のボディを再現しており、窓には目、車体にはウロコ模様が入るなど凝った造りとなっている。

↑南海電気鉄道加太線の「めでたいでんしゃ」。沿線を代表する海の幸「鯛」が走るイメージ。ピンクの「めでたいでんしゃ さち」と水色の「めでたいでんしゃ かい」が走る

 

↑こちらは2015年9月末から走り始めた京王電鉄の高尾山ラッピング車両。1983年まで走っていた京王2000系の緑色を再現。車体には四季の高尾山の姿が描かれている

 

↑阿武隈急行の「伊達なトレインプロジェクト号」。後に仙台藩主まで出世した伊達政宗のゆかりの地、伊達市を走ることから生まれたラッピング車両。2016年春から走り続ける

 

こんな車両は見たことない!「ユニークなラッピング電車」

ラッピング電車の長所は、デザインの自由度が際限なく生かせる所。発想がユニークなラッピング電車も各地で走っている。最後に、そうしたちょっとユニークなラッピング電車を見てみよう。

 

まずは京浜急行の大師線を走る「京急120年の歩み号」から。

 

4両編成の同列車、それぞれの車体カラーが、太平洋戦争前、戦後そして現代と、時代ごとに変ってきた京浜急行の車体カラーがラッピングされている。1番古い赤茶色の車体には、古い電車を表現すべく、鋼鉄製の車体を組み立てるときに使われたリベットの出っ張りまでがプリントされている。このあたりは、ラッピング電車でなければできない表現だろう。

↑「京急120年の歩み号」と名付けられた京浜急行1500形ラッピング電車。4両それぞれ、異なる年代の車体カラーを施した。2019年の2月まで大師線を中心に走る予定だ

 

東急世田谷線のラッピング電車もおもしろい。

 

「招き猫電車」として名付けられたこの電車。世田谷線が玉電として走り始めてから110周年を迎えることから生まれた。塗装でこのような招き猫のデザインを描くとなると、かなり大変だ。細かい招き猫の模様は、ラッピングシールがあるからこそ表現できたものだろう。残念ながら2018年9月末までの運行の予定。ホームページ上で運行予定が公開されているので、いまのうちに乗ってみてはいかがだろう。

↑東急世田谷線を走る「招き猫電車」。玉電として走りはじめて110周年を迎えたことから走り始めたラッピング電車で、2018年の9月いっぱい走り続ける予定

 

↑こちらは智頭急行のラッピング列車「あまつぼし」。天空の津(港)に集う天上の星をイメージした。車体には発見すると幸せになれる(?)ピンクの「ハート型の星」もデザインされる

 

↑長崎電気軌道の「みなと」。デザイナー水戸岡鋭治さんにより310号電車の車内外がリメークされた。輝くメタリック色、車体にはネコのイラストも入り注目度は抜群

 

まさに百花繚乱となりつつあるラッピング電車の世界。今後、どのようなラッピング電車が登場するか、ますます楽しみだ。

ベイスターズ応援電車「ビクトリー号」、鉄道好きが興味津々のギミックとは?

9月、プロ野球はシーズン終盤戦を迎え、日々、過熱の度合いを高める。そんな折、横浜を本拠地とするDeNAベイスターズを応援する特別ラッピング電車「ベイスターズトレイン ビクトリー号」が東急東横線・みなとみらい線で運転を開始した。ラッピング電車は16日(日曜)まで走り続ける。

↑東急東横線、みなとみらい線を走った臨時「ベイスターズトレイン ビクトリー号」。渋谷駅発、日本大通り駅行きという珍しい特別列車となった 写真協力:HK

 

↑車内の様子

 

選手たちの雄姿を車内外にラッピングした「ビクトリー号」

東京急行電鉄(以下、東急と略)と、横浜高速鉄道、さらにDeNAベイスターズの3社の協力によって生まれた「ベイスターズトレイン ビクトリー号」。横浜高速鉄道Y500系8両編成を利用して、DeNAベイスターズ一色のラッピング電車として仕立てた。

 

もともとY500系は、車体の色が球団カラーのブルーを基調にした電車。車外にまず選手の写真がラッピングされている。さらに車内がすごい。ドアには躍動する選手たちの姿がラッピングされている。床や中吊りほかの広告スペースもすべてDeNAベイスターズだらけ。吊り革ももちろんDeNAバージョンだ。

 

ビクトリー号を利用した特別ツアーには特別ゲストも登場!

「ベイスターズトレイン ビクトリー号」が走り始めた初日の9月7日(金曜日)から3日間は、同列車を利用した「ビクトリーツアー」が行われた。渋谷駅から横浜スタジアムの最寄り駅、日本大通り駅まで走る臨時列車として運行。列車には公募により選ばれた250名が乗車。DeNAのユニフォームを着込んだ、熱心なファンの姿が目立つ。

↑球団ユニフォームを着込んだDeNAファン一色だった「ビクトリーツアー」。乗り込んだファンたちは、選手の雄姿を熱心に撮り歩くために車内を行ったり来たり

 

乗車したファンたちは、まずはラッピングされた電車の中を熱心に見て回り、記念撮影を楽しむ。取材日の特別ゲストは球団OBの三浦大輔さん、MCはダーリンハニー吉川正洋さんというコンビ。吉川さんは大の鉄道ファンであり、熱心なDeNAファンとして知られている。車内アナウンス用のマイクを利用しての、この2人の軽妙なやり取りに車内は大いに盛り上がった。

↑「ビクトリーツアー」初日は、特別ゲストとして“ハマの番長”ことOBの三浦大輔さんが同乗。乗車したファンにポストカードを配布、ハイタッチで応援ムードを盛り上げた

 

渋谷駅発12時48分、日本大通り13時33分着。途中の数駅で、運転停車はしたものの、ドアは開かずという東急としては非常にレアな臨時列車となった。特別ゲストの三浦大輔さんと吉川正洋さんが車内を巡り、ファンと交流する。あっという間に日本大通り駅に到着した。その後も記念グッズ抽選会や、スタジアム内での練習見学と盛りだくさんの1日となった。

↑乗客を送り届け、車両基地へ戻る「ビクトリー号」。車両は横浜高速鉄道のY500系が利用された。正面にはDeNAベイスターズのヘッドマークも掲げられた

 

ラッピングされた「ベイスターズトレイン ビクトリー号」は、9月16日まで東急東横線とみなとみらい線を中心に走り続ける。車内のラッピングは、この16日で外される予定だが、車体に貼られた選手たちの写真は、その後しばらくの間はラッピングされたままで走り続ける予定だ。

 

おもしろい車内ラッピングに鉄道ファンも興味津々

ベイスターズファンとして盛り上がり必至な「ビクトリー号」だが、鉄道好きにもおもしろい電車だった。車外をラッピングした電車は多いが、車内をラッピングしている電車となると、そう多くはない。

 

特に興味をひかれたのが、ドアに貼られた選手たちのラッピング。トンネルといった背景が暗い場所では、その迫力のシーンが1枚の写真のようになってしっかり見える。だが明るい背景のところで見ると、ガラス窓のみ透けてみえるように工夫されている。車両の運行のためには、この部分が透けることが必要なのだそう。ちゃんと鉄道車両のラッピングならではの難しい問題もクリアされていたわけだ。

↑ドアに貼られた背番号19は、「小さな大魔神」の愛称を持つ山崎康晃選手。背景が暗いトンネル内では、このように迫力ある投球シーンがしっかりと見える

 

↑明るいところでは、このようにガラス窓部分が透けて見えるようにつくられている。保安上の問題から、窓部分だけこのように透ける特別なラッピングシールが貼られている

 

↑車体の側面にはDeNAの選手たちのプロフィール写真がラッピングされている。乗降トビラのラッピングは、外から見ると、このように選手の姿が見えないことがわかる

 

ここまでは最近走り始めた「ベイスターズトレイン ビクトリー号」というラッピング電車を見てきた。このほかにも、ここ最近は全国の鉄道会社がラッピング電車を走らせている。次回はそうした事例を挙げつつ、ラッピング電車の最新傾向を見ていこう。

震災被害に遭いつつも復興に大きく貢献する「鉄道会社」が岩手にあった

おもしろローカル線の旅〜〜岩手開発鉄道(岩手県)

 

岩手県の三陸沿岸の街、大船渡市(おおふなとし)を走る「岩手開発鉄道」という鉄道会社をご存知だろうか。

 

自らも東日本大震災で大きな被害を受けながら、いち早く路線を復旧。日々、セメントの材料となる石灰石を大量に運び、東北復興に大きく貢献している。その輸送トン数を見ると、JR貨物を除く私鉄・臨海鉄道のなかで国内トップの輸送量を誇る。

 

さらに貨物専用鉄道ながら、沿線には趣ある駅やホームが残っている。そんなちょっと不思議な光景が見られるのが同鉄道の魅力でもある。今回は震災復興の裏方役に徹する岩手開発鉄道をご紹介しよう。

↑大船渡鉱山で採掘された石灰石が18両の貨車に積まれ、太平洋セメント大船渡工場の最寄り赤崎駅まで運ばれる。牽引するのはDD56形ディーゼル機関車

 

当初は旅客営業のため創立された鉄道会社だった

三陸鉄道南リアス線、JR大船渡線の盛駅(さかりえき)の横を青いディーゼル機関車に牽かれた貨物列車が、日中ほぼ40分間隔で通り過ぎる。

 

岩手開発鉄道の路線は赤崎駅〜岩手石橋駅間の11.5km。下り・上りとも1日に13〜18列車が走る。途中には3つの駅があり、それぞれに行き違いできる施設が設けられている。旅客列車が通らないので、駅というよりも信号所と言ったほうがよいかもしれないが、ホームとともに駅舎が残っている。これらの駅の跡が、貨物列車のみが走る路線なのに、旅情をそそるほど良い“アクセント”になっている。

この岩手開発鉄道、当初は旅客営業のために設けられた鉄道会社だった。

 

ここで、大船渡市を巡る鉄道史を振り返ろう。

 

1935(昭和10)年9月29日 国鉄大船渡線が盛駅まで開業

盛駅までは太平洋戦争前に鉄道が開通したものの、盛から北は地形が険しく鉄道が延ばせない状況が続いた。ちなみに三陸鉄道南リアス線の盛駅〜釜石駅間が全通したのは、1984(昭和59)年と、かなりあとのことになる。

 

1939(昭和14)年8月 岩手開発鉄道を設立

資本は岩手県、沿線各市町村、関係企業が出資し、当初から第三セクター経営の鉄道会社として誕生した。大船渡線の盛駅から釜石線の平倉駅(ひらくらえき)までの29kmの路線の開業を目指して会社が設立された。

 

なお、平倉駅を通る国鉄釜石線が三陸沿岸の釜石駅の間まで全通したのは1950(昭和25)年と、こちらもかなりあとのことだった。

 

1950(昭和25)年10月21日 盛駅〜日頃市駅間が開業

会社は設立したが、太平洋戦争が間近にせまっていた時代。物資の不足で路線工事は進まず、盛駅〜日頃市駅(ひころいちえき)が開業したのが1950(昭和25)年のことだった。

 

1957(昭和32)年6月21日 赤崎駅〜盛駅間が開業

太平洋セメントの大船渡工場の製品を輸送するために、赤崎駅〜盛駅間の路線を延長。同区間では旅客営業は行われず、貨物輸送のみが開始された。

 

1960(昭和35)年6月21日 日頃市駅〜岩手石橋駅間が開業

日頃市駅から先の岩手石橋駅まで路線を延伸され、赤崎駅〜岩手石橋駅間の路線が全通。大船渡鉱山からの石灰石の運搬が始まった。

 

震災による被害――津波により臨海部の線路が大きな被害を受けた

会社設立後、貨物輸送は順調だったものの、計画されていた釜石線平倉駅への路線の延伸は達成できず、当初から旅客営業は思わしくなかった。経営合理化のためもあり、40年以上にわたり続けられた旅客列車の運行が1992(平成4)年3月いっぱいで休止された。

↑2012年春に訪れた時の日頃市駅の様子。「がんばろう!東北」のヘッドマークを付けた貨物列車が行き違う。路線の復旧は早く、震災後、8か月後に列車運行が再開された

 

そして東日本の太平洋沿岸地域にとって運命の日、2011年3月11日が訪れる。岩手開発鉄道の路線や車両の被害状況はどのようなものだったのだろう。

 

岩手開発鉄道の路線では臨海部の盛駅〜赤崎駅の被害が特にひどかった。津波により線路の道床やバラストが流失、踏切や信号設備なども津波でなぎ倒され、流された。

↑臨海部の赤崎駅付近の2012年春の様子。盛駅までの臨海部の線路は新たに敷き直され、信号設備なども新しいものに付け替えられた

 

東北三陸沿岸で唯一のセメント工場でもある太平洋セメントの大船渡工場。震災1か月後の4月に太平洋セメントの経営陣が大船渡工場を訪れ、さらに岩手開発鉄道にも足を運んだ。大船渡工場のいち早い再開を決断するとともに、岩手開発鉄道による石灰石輸送の再開を望んだのだった。

 

とはいえ路線の被害は予想よりも深刻で、臨海部の路線復旧は、ほとんど新線を建設するのと変わらない手間がかかった。

 

岩手開発鉄道にとって幸いだったのは、盛川(さかりがわ)橋梁に大きな被害がなかったこと。ほかにも、ちょうど3月11日は工場の作業上の問題から、石灰石輸送の休止日にあたっていたため、沿線で被害にあった列車がなかった。津波は盛駅まで何度も押し寄せたが、機関車が納められていた盛車両庫までは至らなかった。

 

とはいえ、盛駅に停められていたすべての貨車は津波による海水の影響を受けた。貨車の多くは分解して潮抜きという作業が必要となった。

 

太平洋セメント大船渡工場は2011年11月4日からセメント生産を再開。岩手開発鉄道もいち早く路線復旧と車両の整備を行い、11月7日から石灰石輸送を再開させたのだった。

↑路線復旧後には貨車に「復旧から復興へ〜一歩一歩前へ〜がんばっぺ大船渡」「太平洋の復興の光と共に大船渡」などの標語が掲げられ地元・大船渡を元気づけた

 

ちなみに、盛駅に乗り入れている三陸鉄道南リアス線は、2013年4月5日に盛駅〜釜石駅間が復旧した。またJR大船渡線は、2013年3月2日からBRT(バス高速輸送システム)により運行が再開されている。

 

被害状況の差こそあれ、岩手開発鉄道の路線復旧がいかに早かったかがわかる。

 

JR貨物を除き、輸送量は私鉄貨物トップを誇る

東北の震災復興に大きく貢献している岩手開発鉄道。実は輸送量がすごい。国土交通省がまとめた鉄道統計年表によると、最も新しい平成27年度の数字は、岩手開発鉄道の輸送トン数は205万8156トン。

 

近い数字を上げているのは秩父鉄道の192万7301トン。臨海鉄道で最大の輸送トン数をあげたのが京葉臨海鉄道で185万607トンとなっている。

 

石灰石とコンテナ主体の輸送では、同じ土俵で比べるのは難しいものの、輸送トン数では、JR貨物を除き、貨物輸送を行う私鉄および第三セクター鉄道のなかでは最大の輸送量を誇っている。路線距離11.5kmという鉄道会社が、実は日本でトップクラスの輸送量だったとは驚きだ。

 

大船渡鉱山は石灰石の埋蔵量が豊富で新たな鉱区も開発されている。岩手開発鉄道が復興に果たす役割はますます大きくなっていると言えるだろう。

↑石灰石の輸送に使われるホッパ車ホキ100形。上部から石灰石を載せ、車両の下部の蓋を開けて石灰石を降ろす。ホキ100形は岩手開発鉄道の専用貨車として造られた

【路線案内1】盛駅をスタートして山側の駅や施設を見てまわる

貨物輸送専用の鉄道路線なので、もちろん列車への乗車はできない。そこでローカル線の旅としては異色だが、クルマで路線を見て回ろう。まずは盛駅を起点に山側の路線へ。

 

出発は盛駅から。岩手開発鉄道の盛駅は、JRや三陸鉄道の盛駅の北側に位置する。旅客営業をしていた時代のホームが残る。1両編成のディーゼルカー用に造られたホームは短く小さい。だが、四半世紀前に旅客営業を終了したのにも関わらず、待合室はそのまま、「盛駅」の案内もきれいに残っている。構内には立入禁止だが、盛駅の北側にある中井街道踏切から、その姿を間近に見ることができる。

↑岩手開発鉄道の盛駅。1両編成のディーゼルカー用に造られたホームは短く、またかわいらしい。待合室や案内表示などは、旅客営業をしたときのまま残されている

 

中井街道踏切から駅と逆方向を見ると、岩手開発鉄道の本社と、その裏手に盛車両庫があり、検査中の機関車や貨車が建物内に入っているのが見える。

↑盛駅の北側にある岩手開発鉄道の盛車両庫。東日本大震災の津波被害はこの車両庫の手前までで、施設やディーゼル機関車はからくも被災を免れた

 

ここから路線は、終点の岩手石橋駅へ向けて、ほぼ盛川沿いに進む。クルマで巡る場合は、国道45号から国道107号(盛街道)を目指そう。この国道107号を走り始めると、盛川の対岸に路線が見えてくる。

 

途中に駅が2つあるので、立ち寄ってみたい。

 

まずは長安寺駅。国道107号から長安寺に向けて入り、赤い欄干のある長安寺橋を渡る。すぐに踏切がある。このあたりから長安寺駅の先にかけて、撮影に向いた場所が多くあり、行き来する列車の姿も十分に楽しめるところだ。

↑長安寺駅のホームと駅舎。駅舎やホームは立入禁止だが、線路をはさんだ、盛川の側から、駅舎の様子が見える。木造駅舎で、改札などの造りも趣があって味わい深い

 

↑日頃市駅を通過する下り列車。日中は長安寺駅もしくは、この日頃市駅で列車の行き違いシーンが見られる。駅構内は立入禁止ながら外からでも十分にその様子が楽しめる

 

長安寺駅付近で上り下り列車を見たあと、次の日頃市駅を目指す。道路はしばらく路線沿いを通っているが、その後に、国道107号と合流、しだいに周囲の山並みが険しさを増していく。

 

列車の勾配もきつくなってくる区間で、長安寺駅前後が9.2パーミル(1000m間に9.2mのぼる)だったのに対して、次の駅の日頃市駅前後は19.6パーミルとなっている。

 

日頃市駅は大船渡警察署日頃市駐在所のすぐ先を左折する。細い道の奥に日頃市駅の駅舎がある。駅構内は立入禁止だが、駅舎横に空きスペースがあり、ここから列車の行き来を見ることができる。

 

【路線案内2】山の中腹に岩手石橋駅と石灰石積載施設がある

↑終点の岩手石橋駅に到着した列車は、バックで石灰石積載用のホッパ施設に進入する。施設内に入った列車は数両ずつ所定の位置に停車し、順番に石灰石を載せていく

 

↑石灰石積載用のホッパ施設の裏手には、周辺の鉱山から集まる石灰石がベルトコンベアーを使って、うずたかく積まれていた。この石灰石が施設を通して貨車に積み込まれる

 

日頃市駅から先は、国道107号がかなり山あいを走るようになる。終点の岩手石橋駅へは、岩手開発鉄道の緑色の「第二盛街道陸橋」の手前の交差点を右折する。さらに県道180号線を線路沿いに約1.0km、石橋公民館前のT字路を左折すれば到着する。

 

岩手石橋駅はスイッチバック構造の駅で、列車はスイッチバック。進行方向を変えて駅に進入してくる。山の中腹に、巨大な石灰石の積載用のホッパ施設がある。このホッパ施設内に貨車がバックで少しずつ入り、数両ずつ石灰石を積み込んでいく。ガーッ、ガラン、ガラン、という石が積まれる音が山中に響き、迫力満点だ。

↑岩手石橋駅はスイッチバック構造になっている。ホッパ施設で石灰石を積んだ列車は機関車を前に付替え、後進で写真奥の引込線に入ったあと、進行方向を変え赤崎駅を目指す

 

18両の貨車全車に石灰石が積まれたあとに、ディーゼル機関車が機回しされ、列車の逆側に連結される。そして後進して、スイッチバック用の引込線に入った後に進行方向を変更。石灰石を満載した上り列車は、下り勾配気味の路線をさっそうと駆け下りて行く。

 

岩手石橋駅の構内は立入禁止。踏切もあり注意が必要だ。見学の際は、安全なスペースでその様子を見守りたい。

 

【路線案内3】盛駅から赤崎駅までの路線も見てまわる

↑三陸鉄道の盛駅の横を通り抜ける赤崎駅行き上り列車。貨車には石灰石が満載されている。盛駅から赤崎駅へは約2kmの距離

 

↑太平洋セメント大船渡工場の最寄りにある赤崎駅。左が荷おろし場で、ここに列車ごと入り、貨車の下の蓋を開いて石灰石の荷おろしが行われる

 

盛駅に戻り、臨海部にある赤崎駅を目指す。三陸鉄道の盛駅のすぐ横に岩手開発鉄道の留置線があるが、上り列車はここには停まらず、終点の赤崎駅を目指す。市街地を抜け、間もなく盛川橋梁を渡る。

 

この橋梁よりも港側に架かるのが三陸鉄道南リアス線の盛川橋梁だ。クルマで赤崎駅方面へ移動する場合は、南リアス線の橋梁と平行に架かる佐野橋を渡る。道はその先で、岩手開発鉄道の踏切を渡り、県道9号線と合流する交差点へ。ここを右折すれば、間もなく赤崎駅が見えてくる。

 

この赤崎駅は当初から旅客列車が走らなかったこともあり、ホームや駅舎はない。岩手開発鉄道の職員の詰め所と荷おろし場が設けられ、その姿は県道からも見える。岩手石橋駅を発車した上り列車は、約30分で到着。荷おろし場にそのまま進入した列車から降ろされた石灰石は、ベルトコンベアーで隣接する太平洋セメントへ運ばれていく。

↑学研プラス刊「貨物列車ナビvol.3」誌(2012年7月発行)掲載の時刻表。同時刻はほぼ現在も変らずに使われている。工場の操業により運転休止日もあるので注意したい

 

赤崎駅〜岩手石橋駅間の11.5kmの旅。山あり川あり、趣ある駅舎が残るなど変化に富んでいる。

 

首都圏や、仙台市や盛岡市からも遠い岩手県の三陸海岸地方だが、三陸を訪れた際には震災復興を支える岩手開発鉄道にぜひ目を向けてみたい。最後に、大船渡周辺の復興状況と、そのほかの交通機関の現状を見ておこう。

【沿岸部の状況】大船渡駅周辺にはホテルや諸施設が建ち始めた

↑市街と大船渡湾の間に造られつつある防潮堤。もし大津波がきたときには遮断機が下り、右の重厚なトビラが閉められる。近くに立つと思ったより高く、巨大でそそりたつ印象

 

岩手開発鉄道の盛駅の周囲は、震災前から残る建物が多い。しかし、港側に足を向けると、その被害が大きかったことがわかる。JR大船渡駅付近は大船渡市内でも津波の影響が大きかった地区だ。2012年に筆者が訪れた当時は、ガレキが取り除かれていたが、何もない荒れ野の印象が強かった。

 

現在、大船渡駅周辺は更地となり、複数のホテルやショッピングセンターなど諸施設が建ち始めている。港との間には巨大な防潮堤の建設が進む。

 

一部、線路が道床とも津波にさらわれたJR大船渡線の跡はどのようになっているのだろうか。

 

【沿岸部の交通】北の鉄路は回復したが、南はBRT路線化

↑跨線橋から見た盛駅。右ホームには三陸鉄道南リアス線の列車が停まる。左側はJR大船渡線のBRT用ホームで駅舎側が降車用。右ホームから気仙沼方面行きバスが発車する

 

↑盛駅を発車した三陸鉄道南リアス線の下り列車。2019年3月には釜石駅の先、宮古駅まで旧山田線区間が復旧の予定。三陸鉄道に運営が移管され、全線通して走ることが可能に

 

↑盛駅には三陸鉄道南リアス線の車庫もある。南リアス線では主力のディーゼルカー以外に、レトロな姿の36-R3(写真中央)といった観光用車両も使われている

 

前述のように盛駅からの交通機関の復旧は2015年のことだった。三陸鉄道南リアス線は震災前の姿を取り戻した。

 

2019年3月には、釜石駅から先の宮古駅までJR山田線が復旧される予定だ。復旧後は列車の運行は三陸鉄道に移管され、盛駅と北リアス線の久慈駅まで直通で列車が運行できるようになる。

 

この三陸鉄道の北リアス線と南リアス線が結ばれる効果は、観光面でも大きいのではないだろうか。

 

残念なのは南側のJR大船渡線の区間だ。震災によりJR大船渡線は気仙沼駅〜盛駅間は路線の被害が大きく、列車の運行が行われていない。

 

列車に代わって運行されているのがBRTだ。BRTとはバス・ラピット・トランジットの略で、日本語ではバス高速輸送システムと略される。旧大船渡線の被害の少ない区間では線路を専用道に作り替えた。さらに専用道に転換できない区間は一般道路を利用してBRTを走らせている。

↑大船渡駅付近のBRT専用道。大船渡線の線路はすべて取り除かれ、バス専用道として造り直された。一般道との交差地点には、このように進入できないよう遮断機が設けられる

 

↑盛駅を発車した気仙沼行きBRTバス。元線路を専用道路化、復旧が難しい区間は一般道を利用して専用バスを走らせている。列車に比べて所要時間がかかるのが難点

 

鉄道に比べて本数が増発できるなど、利点はあるが、盛駅〜気仙沼駅間の列車ならば約1時間で着いた所要時間が、+15分〜20分かかるなどの難点も。

 

大船渡線の復旧が進まない現状とは裏腹に、三陸沿岸の海岸線をほぼなぞって走る三陸自動車道が2020年度には仙台市から岩手県宮古市まで全通の予定だ。この高速道路が完成すれば、仙台市方面からの直通の高速バスがより便利になり増発もされることになるだろう。

↑整備が続けられる三陸自動車道。2020年度中には仙台市から宮古市までの全線が開業する予定。全通後は高速バスなどの増発も予想される

 

三陸沿岸の鉄道網は、1896(明治29)年に起きた三陸地震の被害地域に、支援物資が届けられなかった反省を踏まえ構想された。以降、非常に長い期間を経て整備された。それから一世紀以上たち、東日本大震災以降は、鉄道復旧よりも、むしろ高速道路の整備が急がれている。

 

かつて大地震が起きたことで整備された鉄道網が、地震により一部は復旧を断念、代役のバス交通や高速道路網に代わられつつある。さまざまま事情があるだろうが、なんとも言えない寂しさが心に残った。

なぜ別々に発展? 近くて遠い2つの路線を抱えた東北の私鉄ローカル線のいま

おもしろローカル線の旅~~弘南鉄道弘南線・大鰐線(青森県)~~

 

青森県弘前市を中心に弘南線(こうなんせん)と大鰐線(おおわにせん)の2つの路線を走らせる弘南鉄道。同じ鉄道会社が運営する2本の路線だが、起点となる弘前市内の2つの駅は遠く離れ、線路はつながっていない。なぜこのように2本の路線は別々に運営されることになったのだろうか。

今回は列島最北の私鉄電車、弘南鉄道の旅を楽しんだ。そこには、過疎化に悩む地方鉄道の現状と、東北の私鉄ローカル線の魅力が浮かびあがってきた。

 

起点の駅が接続しない謎――弘前駅から中央弘前駅へ歩くと20分はかかる

まずは弘南鉄道の2本の路線の概略に触れておこう。

弘南鉄道の弘南線は弘前駅と黒石駅間、16.8kmを結ぶ。起点となる弘前駅はJR弘前駅に隣接しており、JR奥羽本線を走る列車との乗換えもスムーズだ。

 

一方の弘南鉄道の大鰐線は中央弘前駅と大鰐駅間の13.9kmを結ぶ。起点となる中央弘前駅は、駅名のとおり、弘前市の市街中心部、土手町に近い繁華街の近くにある。桜で有名な弘前城にも、中央弘前駅が近い。

 

この両線の起点となる弘前駅と中央弘前駅。ちょっと不思議に感じるのは、両駅が、約1.2km以上も離れていて(弘南鉄道の乗換案内では約2kmとある)、歩くと20分以上もかかることだ。両線の線路も接続されていない。

 

同じ会社なのに、なぜ駅が離れ、路線も別々となっているのだろう。それは、両線が異なる鉄道会社によって造られた路線だったからだ。

 

【駅が別々の理由1】元・和徳村に作られた官営の弘前駅

↑弘南鉄道弘南線の起点駅・弘前駅。JR弘前駅の駅舎に隣接していて、乗換えも便利だ。官営の奥羽北線の開業当時、同駅は弘前の外れ、和徳村に造られた

 

弘前市に鉄道が敷かれたのは1984(明治27)年のことだった。奥羽北線の弘前駅がこの年に設けられた。

 

実は弘前駅を名乗ったものの、駅は旧中津軽郡和徳村に設けられた。和徳村は昭和になり弘前市に編入されたが、弘前を名乗りながらも駅は市街から遠い場所に造られたのだった。その理由としては、鉄道黎明期に見られた住民の反対の声の高まりとともに、早く線路を敷設させたい明治政府の意向もあった。その結果、弘前駅は市街から遠い、当時は辺鄙な場所に造られたのだった。

 

その後の1927(昭和2)年に弘南鉄道の弘南弘前駅が、弘前駅に併設される形で誕生する。現在の弘南線の弘前駅である。

 

【駅が別々の理由2】市街の不便さを解決するため生まれた大鰐線

↑弘南鉄道大鰐線の起点・中央弘前駅。弘前市の中心街である土手町にも近い。ホーム横には土淵川が流れる。停まるのは主力のデハ7000系電車

 

一方の中央弘前駅だが、誕生したのは1952(昭和27)年と、弘南線に比べるとかなり新しい。当時はバスも普及しておらず、駅の遠さが市民生活のネックとなっていた。その不便さを改善すべく地元の有力者と三菱電機が出資して、弘前電気鉄道という会社を設立、現在の中央弘前駅〜大鰐駅間の路線を通したのだった。

 

だが、後発の弘前電気鉄道は堅調とは行かなかった。地域の幹線である奥羽本線とは、南側の大鰐駅で接続していているものの、肝心の弘前駅につながっていない。さらに台風の被害などの影響もあり、深刻な経営難に陥る。陸運局の仲介もあり、結局、弘前電気鉄道の路線は、1970(昭和45)年に弘南鉄道に譲渡され、会社は解散となった。

 

街から離れたところに幹線の駅が設けられ、駅周辺が次第に繁華になっていく。一方で駅から離れた市街が衰退していくという例は全国各地で見られる。弘前でも、こうした全国の都市と似た状況となっていったわけである。

↑弘前市の繁華街にあたる土手町。大鰐線の中央弘前駅から近いが、JR奥羽本線弘前駅からはバスの利用が必要となる。日中にも関わらず、通行する人の少なさが目立った

 

弘南鉄道に譲渡されてから40年近く。現状はどうなのだろう。国土交通省の鉄道統計年表の平成24年度〜27年度の数字を見ると、弘南線の年間乗車人数を見ると132万人〜134万人でほぼ横ばいとなっている。

 

一方、大鰐線は、平成24年度に57万人あった年間乗車人数は3年後の平成27年度には46万人まで減ってしまっている。中央弘前駅の1日の平均乗降人員も2004年には1814人あったものの、2015年には737人と半分以下にまで落ちている。

 

その理由として考えられるのは、同地域の幹線である奥羽本線との接続が悪いという点が大きいだろう。弘前に住む人が東京方面へ行く場合に、現在は奥羽本線に乗り、東北新幹線の新青森駅経由で移動する人が多い。高速バスも弘前駅前から発着する。大鰐線を使っても、弘前駅へは中央弘前駅からの移動が必要になる。

 

さらに弘前市の人口自体も1995(平成7)年には19万4485人をピークに徐々に減少、2017年1月には17万5721人にまで減っている。沿線人口の減少も、乗客減少に歯止めがかからない1つの要因なのかもしれない。

 

大鰐線は、路線の廃止がこれまで何度も取り沙汰され、そのたびに撤回されているのが現状で、現在も予断を許さない状況となっている。

 

さて、そんな弘南鉄道の2本の路線。まずは弘南線から乗車してみることにした。両路線に乗車する際には、1日フリー乗車券「大黒様きっぷ」(大人1000円)を使うと便利だ。

 

【弘南線の旅1】 東京五輪の年に生まれたデハ7000系に乗車

↑弘前駅に停まるデハ7000系。駅には1・2番線のホームがある。すぐ左にJR奥羽本線の線路が並んでいる。弘南線の線路幅はJR線と同じ1067mmで線路もつながっている

 

弘前駅に停まるのはデハ7000系電車。元東急電鉄の7000系電車だ。銘板を見ると1964(昭和39)年に造られた車両とある。東京オリンピックの年に生まれた電車だ。40年以上にわたり、東急そして弘南鉄道を走り続けてきた古参電車。ロングシート、天井に付けられた首振り扇風機が懐かしい。

↑デハ7000系の車内。2両編成が基本で、朝夕に増結される日もある。ロングシートで天井に付いた首振りタイプの扇風機が懐かしい。渋谷109の吊り革がいまも使われている

 

列車は日中の11〜13時台を除き30分間隔。弘前駅から黒石駅は全線乗車しても約30分の道のりだ。ただし終電が21時台で終了するので注意したい。

 

【弘南線の旅2】新里駅で五能線を走ったSLが保存される

↑新里駅(にさと)駅で保存される48640号機。五能線で活躍した8620形蒸気機関車で、新里駅の駅舎内には当時の写真なども展示されている。保存・塗装状態は非常に良い

 

弘前駅を発車して3つめの新里駅(にさとえき)。窓の外を見ていると、「あれっ!蒸気機関車だ。なぜここに?」

 

駅舎の横に8620形蒸気機関車が保存されていた。弘南線は開業後に、蒸気機関車が使われた時期が短く、1948(昭和23)年には早くも全線電化されている。よってこの路線に縁はないはず……。慌てて駅で降りて見たものの、車両がなぜここで保存されているのか、解説などはない。

 

調べたところ、48640号機は1921(大正10)年、汽車製造製で、晩年は五能線で活躍していた機関車とわかった。青森県の鯵ケ沢町役場で保存されていたが、NPO法人・五能線活性化クラブに譲渡され、2007年7月にこの場所に移設された。有志の人たちの手で整備されているせいか、保存状態も良かった。

 

【弘南線の旅3】 田舎舘(いなかだて)といえば「田んぼアート」

↑弘南線沿線の田舎舘村名物の「田んぼアート」。臨時駅も開設される。色違いの稲を植えることにより絵を描く「田んぼアート」。展望所から見ると素晴らしい絵が楽しめる

 

SLが保存されている新里駅から再乗車。終点を目指す。

 

館田駅(たちたえき)を過ぎると、90度以上のカーブを描き、平賀駅へ着く。ここには車庫があり、デハ7000系とともに古い電気機関車や除雪車などが並ぶ。赤い電気機関車は大正生まれの古参で、武蔵野鉄道(のちの西武鉄道)が導入した車両だ。こうした古参車両も目にできるが、車両のとめ具合により、ホーム上から見えないときもあるので注意したい。

↑平賀駅には車庫がある。左右のデハ7000系は中間車に運転席を設けた改造タイプで、顔つきが異なる。中央のED33形機関車は1923(大正12)年製、西武鉄道で使われた車両だ

 

平賀駅の先、柏農高校前駅(はくのうこうこうまええき)や、尾上高校前駅(おのえこうこうまええき)と学校の名が付く駅に停車する。弘南線、大鰐線では学校の名がつく駅が計7つある。弘南鉄道の電車が通学手段として欠かせないことがわかる。尾上高校前駅の1つ先が田んぼアート駅。この駅は臨時駅で朝夕や冬期は電車が通過となる。

 

この駅のすぐそばに道の駅 いなかだて「弥生の里」があり、こちらで田んぼアートが楽しめる。田んぼをキャンパスに見立て、色が異なる稲を植えることにより見事な絵が再現される田んぼアート。地元の田舎館村(いなかだてむら)の田んぼアートの元祖でもあり、多くの観光客が訪れる。ここで写真を紹介できないのが残念だが、今回訪れたときには手塚治虫のキャラクターが田んぼのなかに描かれていた。

 

【弘南線の旅4】 終点の黒石駅で見かけた黒石線とは?

↑黒石駅には、通常は使われていないホームと検修庫が隣接している。この検修庫の外壁には「黒石線検修庫」とある。弘南線でなく黒石線となっているのはなぜだろう?

 

↑夏祭りが盛んなみちのく。黒石駅前には「黒岩よされ」の飾り付けがあった。日本三大流し踊りの1つとされ、連日2000人にもおよぶ踊り手の流し踊りが名物となっている

 

途中下車しつつも到着した終点の黒岩駅。ホームの横には大きな検修庫が設けられている。その壁には「黒石線検修庫」の文字が。

 

「ここの路線は弘前線なのに、どうして黒石線なのだろう?」という疑問が浮かぶ。

 

調べてみると、黒石線とは以前に奥羽本線の川部駅と黒石駅を結んでいた6.2kmの路線の名であることがわかった。1912(大正元)年に黒石軽便線として誕生、その後に国鉄黒石線となり、1984(昭和59)年に弘南鉄道の黒石線となった。弘南鉄道では国鉄へ路線譲渡の打診を1960年代から行っており、20年以上もかかりようやく弘南鉄道の路線となったわけである。

 

弘南鉄道の路線となったものの、黒石線は非電化路線のためディーゼルカーを走らせることが必要だった。路線距離も短く、効率が悪かった。そのため1998(平成10)年3月いっぱいで廃止となってしまった。もし、鉄道需要が高かった1960年代に弘南鉄道に引き継がれ、電化され電車が走っていたら。時を逸したばかりに残念な結果になったわけである。

 

【大鰐線の旅1】 レトロな印象が際立つ中央弘前駅の駅舎

↑大鰐線の起点駅、中央弘前駅の駅舎。中に切符売場と小さな待合室、改札口がある。1952(昭和27)年からの姿でここにあること自体に驚きを感じる

 

弘南線の弘前駅へ戻って、次は大鰐線の起点駅、中央弘前駅を目指す。弘南バスの土手町循環バス(運賃100円)に乗車して「中土手町」バス停で下車、土淵川沿いの遊歩道を歩けば、すぐに駅がある。

 

見えてきた中央弘前駅。年期が入った駅舎に驚かされた。

 

列車は朝夕30分間隔、除く10時〜16時台と19時以降は1時間間隔となる。中央弘前駅発の終電は21時30分発と早い。弘南線よりも、乗降客が少ないこともあり本数が少なめだ。

 

中央弘前駅はホームが1つという質素な造り。弘南線と同じデハ7000系がそのまま折り返して発車する。

 

【大鰐線の旅2】土淵川沿いを走りリンゴ畑を見ながら進む

↑大鰐線の沿線にはリンゴ畑が多い。9月ともなると沿線のリンゴが赤く色づきはじめる

 

弘南線よりも大鰐線は、よりローカル色が強く感じられた。中央弘前駅を発車するとしばらく土淵川沿いを走る。次の弘高下駅(ひろこうしたえき)、さらに弘前学院大前駅、聖愛中高前駅(せいあいちゅうこうまええき)と3駅とも、学校名が駅名となっている。

 

4つめの千年駅(ちとせえき)を過ぎると、沿線には畑が多くなる。弘南線の沿線に水田が目立ったのにくらべて、大鰐線ではリンゴ畑が目立つ。青森リンゴの産地らしい風景が目を引く。

 

【大鰐線の旅3】津軽大沢駅の車庫にねむる古い車両に注目

↑津軽大沢駅の車庫の全景。1番左側がデハ6000系。中央にED22形電気機関車。ほか右には保線用の事業用車などが並ぶ

 

大鰐線の乗車で最も気になる箇所が、津軽大沢駅に隣接する車庫。ここには珍しい車両が眠っている。

 

まずはデハ6000系。元・東急電鉄の6000系で、1960(昭和35)年に製造された。現在では一般化しているステンレス車体を持つ新性能電車で、東急では試作的に造られ、また使われた車両だった。現在、2両のみが残り、秋の鉄道の日イベントなどの車庫公開時に近くで見ることができる。

 

ほかED22形電気機関車は、1926(大正15)年製で、信濃鉄道で導入、その後、大糸線、飯田線、西武鉄道、近江鉄道を経て弘南鉄道へやってきた車両だ。

↑ED22形は米国のボールドウィン・ウェスチングハウス社製。電気機関車草創期の車両で、国内の鉄道会社の多くが同社製を輸入、使用した。同線では保線などに使われている

 

↑大鰐線の除雪車キ104。元国鉄キ100形で、国鉄では貨車の扱いだった。機関車が後ろから押して走る。くさび状の先頭部で線路上の雪を分け、左右のつばさで雪をはねのける

 

赤い電気機関車ED22形と並び注目したいのが、除雪用のラッセル車。弘南線とともに大鰐線でも、国鉄で使われていたラッセル車キ100形を導入、冬期の除雪作業に使用している。大鰐線の除雪車はキ104形と名付けられた車両で、1923(昭和12)年に北海道の苗穂工場で造られた車両だ。

 

ED22形電気機関車と組んで使われる除雪車。冬期は大鰐駅に常駐して、降雪に備えている。寒い冬に、ぜひともこうした車両の雪かきシーンを見たいものだ。

 

【大鰐線の旅4】大鰐駅の名前がJRと弘南鉄道で違う理由は?

↑平川橋梁を渡る大鰐線のデハ7000系。同線沿線は周囲の山や河川など、変化に富み、写真撮影にも最適なポイントが多い

 

車庫のある津軽大沢駅を過ぎると、JR奥羽本線を立体交差で越え、さらに平川を越える。周囲の山景色が美しいあたりだ。

 

平川沿いに走ると、間もなく終点の大鰐駅に到着する。同駅は弘南鉄道の駅は大鰐駅。併設しているJR奥羽本線の駅は大鰐温泉駅を名乗る。この駅名にもおもしろい経緯がある。

 

1895(明治28)年に奥羽北線の駅が開業。大鰐駅と名乗った。1952(昭和27)年に弘前電気鉄道の大鰐駅が開業した。

 

その後、1970(昭和45)年の弘南鉄道に譲渡されたあとに同駅は、弘南大鰐駅と名が変更された。さらに1986(昭和61)年には国鉄と同じ大鰐駅に改称された。一方の国鉄・大鰐駅はJR化後の1991(平成3)年に大鰐温泉駅と改称された。

 

大鰐駅が、元々の名前で、二転三転していている。一時期、同じ名前となっていたものの、JR側の駅に新たに「温泉」が付けられていった。

↑弘南鉄道大鰐駅の全景。ホームは4・5番線となっている。JRの大鰐温泉駅のホームが1番線と、2・3番線となっているので、それに続く連番となったわけだ

 

↑弘南鉄道大鰐駅の北口出入り口。建物の中を通り、左に見える通路を使うと国道7号側の出入り口がある。北口駅舎は目立たたない造りで筆者も気付かず通り過ぎてしまった

 

↑JR奥羽本線とつながる跨線橋。昭和の香りがする構造物がこうして残っていることがおもしろい。この跨線橋を通り、先にある階段を下りれば弘南鉄道大鰐駅の南口がある

 

↑JR奥羽本線の大鰐温泉駅の玄関。写真右手には足湯も用意され、無料で大鰐温泉の湯が楽しめる。足湯とJR駅舎のちょうど間、奥に見えるのが弘南鉄道大鰐駅の南口の建物

 

弘南線と大鰐線の両線に乗車して、次のように思った。

 

1950年代に大鰐線を開業させた人たちが将来を見越して、いまのJR弘前駅と中央弘前駅を結ぶ路線を計画し、さらに大鰐線の線路と結びつけていたら。大鰐線もいまほどに乗客数の減少に苦しみ、廃止を取り沙汰されることもなかったかもしれない。

 

さらに廃止されてしまった黒石線が、鉄道需要が高かった時代に弘前鉄道の経営に移管されて姿を変えていたら。弘前市や黒石市をめぐる鉄道網も状況が変ったかもしれない。

 

歴史に“もし”や、“たられば”は禁物だとは思うものの、両線に乗車しつつ、そんな思いにとらわれた。

険路に鉄道を通す! 先人たちの熱意が伝わってくる「山岳路線」の旅【山形線・福島駅〜米沢駅間】

おもしろローカル線の旅〜〜山形線(福島県・山形県)

 

ステンレス車体の普通列車が険しい勾配をひたすら上る。せまる奥羽の山々、深い渓谷に架かる橋梁を渡る。スノーシェッド(雪囲い)に覆われた山のなかの小さな駅。駅の奥にはスイッチバック用の線路や、古いホームが残っている。駅を囲む山々、山を染める花木が一服の清涼剤となる。

JRの在来線のなかでトップクラスに険しい路線が、山形線(奥羽本線)の福島駅〜米沢駅間だ。福島県と山形県の県境近くにある板谷峠(いたやとうげ)を越えて走る。

 

いまから120年ほど前に開業したこの路線。立ちはだかる奥羽山脈を越える鉄道をなんとか開通させたい、当時の人たちの熱意が伝わってくる路線だ。

 

8時の電車の次は、なんと5時間後!

福島発、米沢行きの普通列車は5番・6番線ホームから出発する。5番線は在来線ホームの西の端、6番線は5番線ホームのさらにその先にある。この“片隅感”は半端ない。さらに普通列車の本数が少ない。2駅先の庭坂駅行きを除けば、米沢駅まで行く列車は日に6本しかない。

↑板谷駅の「奥羽本線発車時刻表」。この日中の普通列車の少なさは驚きだ。一方で山形新幹線「つばさ」はひっきりなしに通過していく *現在は本写真撮影時から時刻がやや変更されているので注意

 

上の写真は板谷駅の時刻表。光が反射して見づらく恐縮だが、朝は下り・上りとも7時、8時に各1本ずつ列車があるが、それ以降は13時台までない。さらにその後は、下りは16時台に1本あるが、上りにいたっては、13時の列車以降、5時間半近くも列車が来ない。

 

山形線の普通列車は、米沢駅〜山形駅間、山形駅〜新庄駅間も走っているが、こちらはだいたい1時間に1本という運転間隔だ。福島駅〜米沢駅間の列車本数の少なさが際立つ。沿線人口が少ない山岳路線ゆえの宿命といっていいかもしれない。

 

一方、線路を共有して運行される山形新幹線「つばさ」は、30分〜1時間間隔で板谷駅を通過していく。新幹線のみを見れば山形線は幹線路線そのものだ。

 

福島駅〜米沢駅間で普通列車に乗る際には、事前に時刻を確認して駅に行くことが必要だ。また途中駅で乗り降りするのも“ひと苦労”となる。新幹線の利便性に比べるとその差は著しい。

 

今回は、そんな異色の山岳路線、福島駅〜米沢駅間を走る普通列車に乗車、スイッチバックの遺構にも注目してみた。

 

【驚きの険路】 標高差550m、最大勾配は38パーミル!

上は福島駅〜米沢駅の路線マップと、各駅の標高を表した図だ。福島駅〜米沢駅間は40.1km(営業キロ数)。7つある途中駅のなかで峠駅の標高が1番高く海抜624mある。峠駅をピークにした勾配は最大で38パーミル(1000m走る間に38m高低差があること)で、前後に33パーミルの勾配が連続している。

 

一般的な鉄道の場合、30パーミル以上となれば、かなりの急勾配にあたる。ごく一部に40パーミルという急勾配がある路線もあるが、山形線のように、急勾配が続く路線は珍しい。

 

いまでこそ、強力なモーターを持った電車で山越えをするので、難なく走りきることができる。しかし、1990(平成2)年まで同区間では、赤岩駅、板谷駅、峠駅、大沢駅の計4駅でスイッチバック運転が行われ、普通列車は徐々に上り、また徐々に下るという“手間のかかる”運転を行っていた。

↑開業時から1990(平成2)年まで使われていた板谷駅の旧ホームはすっかり草むしていた。米沢行き普通列車は本線から折り返し線に入り、後進してこのホームに入ってきた

 

【山形線の歴史1】 難工事に加え、坂を逆行する事故も

さて、実際に乗車する前に、山形線(奥羽本線)福島駅〜米沢駅間の歴史をひも解いてみよう。

●1894(明治27)年2月 奥羽本線の福島側からの工事が始まる

●1899(明治32)年5月15日 福島駅〜米沢駅間が開業

当時の鉄道工事は突貫工事で、技術の不足を人海戦術で乗り切る工事だった。奥羽本線は北と南から工事を始めたが、青森駅〜弘前駅間は、わずか1年5か月という短期間で開業させている。一方で福島駅〜米沢駅間の5年3か月という工事期間を要した。この時代としては想定外の時間がかかっている。

 

特に難航したのが、庭坂駅〜赤岩駅間にある全長732mの松川橋梁だった。川底から高さ40mという当時としては異例ともいえる高所に橋が架けられた。開業後も苦闘の歴史が続く。

●1909(明治42)年6月12日 赤岩信号場(現・赤岩駅)で脱線転覆事故

下り混合列車が急勾配区間を進行中に蒸気機関車の動輪が空転。補助機関車の乗務員は蒸気とばい煙で意識を失ったまま、列車は下り勾配を逆走、脱線転覆して5人が死亡、26人が負傷した。

●1910(明治43)年8月 庭坂駅〜赤岩信号場間で風水害によりトンネルなどが崩落

休止した区間は徒歩連絡により仮復旧。翌年には崩落区間の復旧を諦め、別ルートに線路を敷き直して運転を再開させた。

●1948(昭和23)年4月27日 庭坂事件が発生、乗務員3名死亡

赤岩駅〜庭坂駅間で起きた脱線事故で、青森発上野行きの列車の蒸気機関車などが脱線し、高さ10mの土手から転落する事故が起きた。列車妨害事件とされるが、真相は不明。太平洋戦争終了後、原因不明の鉄道事故が各地で相次いだ。

 

当時の非力な蒸気機関車による動輪の空転・逆走事故、風水害の影響と険路ならではの問題が生じた。そこで同区間用の蒸気機関車の開発や、電化工事が矢継ぎ早に進められた。

●1947(昭和22)年 福島駅〜米沢駅間用にE10形蒸気機関車5両を製造

国鉄唯一の動輪5軸という珍しい蒸気機関車が、同路線用に開発された。急勾配用に開発されたが、思い通りの性能が出せず、同区間が電化されたこともあり、稼働は1年のみ。移った北陸本線でも走ったのは1963(昭和38)年まで。本来の機能を発揮することなく、稼働も15年のみという短命な機関車だった。

↑E10形蒸気機関車は国鉄最後の新製蒸気機関車とされ、福島駅〜米沢駅間の急勾配区間向けに開発された。登場は昭和23(1948)年で、1年のみ使われたのち他線へ移っていった

 

↑E10形は石炭や水を積む炭水車を連結しないタンク車。転車台で方向転換せずにバック運転を行った。現在は東京都青梅市の青梅鉄道公園に2号機が展示保存されている

 

●1949(昭和24)年4月29日 福島駅〜米沢駅間が直流電化

当時はまだ電化自体が珍しい時代でもあった。東海道本線ですら、全線電化されたのが1956(昭和31)年と後になる。いかに福島駅〜米沢駅間の電化を急がれたのかがよくわかる。

 

【山形線の歴史2】 新幹線開業後に「山形線」の愛称がつく

●1967(昭和43)年9月22日 福島駅〜米沢駅間を交流電化に変更

交流電化の変更に加えて路線が複線化されていく。1982(昭和57)年には福島駅〜関根駅間の複線化が完了している。

●平成4(1992)年7月1日 山形新幹線が開業(福島駅〜山形駅間)

線路を1067mmから1435mmに改軌し、山形新幹線「つばさ」が走り出す。それとともに、福島駅〜山形駅間に山形線の愛称がついた。

●平成11(1999)年12月4日 山形新幹線が新庄駅まで延伸

これ以降、福島駅〜新庄駅間を山形線と呼ぶようになった。

 

【所要時間の差は?】 新幹線で33分、普通列車ならば46分

さて福島駅〜米沢駅間の列車に乗車してみよう。同区間の所要時間は、山形新幹線「つばさ」が約33分。普通列車が約46分で着く。運賃は760円で、新幹線利用ならば運賃+特急券750円(自由席)がかかる。

 

所要時間は13分の違い。沿線の駅などや風景をじっくり楽しむならば、やはり列車の本数が少ないものの普通列車を選んで乗りたいものだ。

 

山形線の普通列車として使われるのは標準軌用の719系5000番代と701系5500番代。福島駅〜米沢駅間の普通列車はすべて719系5000番代2両で運行されている。

↑福島駅の5番線に停車する米沢駅行き電車。車両はJR東日本719系。2両編成でワンマン運転に対応している。ちなみに5番線からは観光列車「とれいゆつばさ」も発車する

 

車内は、窓を横にして座るクロスシートと、ドア近くのみ窓を背にしたロングシート。クロスシートとロングシートを組み合わせた、セミクロスシートというスタイルだ。

【山形線の車窓1】営業休止中の赤岩駅はどうなっている?

筆者は福島駅8時5分発の列車に乗った。乗車している人は定員の1割ぐらいで、座席にも余裕あり、のんびりとローカル線気分が楽しめた。同線を走る山形新幹線「つばさ」の高い乗車率との差が際立つ。

 

福島駅の先で、高架線から下りてくる山形新幹線の線路と合流、まもなく最初の笹木野駅へ到着する。次の庭坂駅までは沿線に住宅が連なる。

 

庭坂駅を発車すると、しばらくして線路は突堤を走り、右に大きくカーブを描き始める。ここは通称、庭坂カーブと呼ばれる大カーブで、ここから山形線はぐんぐんと標高をあげていく。ちょうど福島盆地の縁にあたる箇所だ。

↑庭坂駅から赤岩駅間の通称・庭坂カーブを走るE3系「つばさ」。同カーブ付近から列車は徐々に登り始める。福島盆地の雄大なパノラマが楽しめるのもこのあたりだ

 

庭坂駅から10分ほどで、眼下に流れを見下ろす松川橋梁をわたる。ほどなく赤岩駅へ。駅なのだが、普通列車もこの赤岩駅は通過してしまう。さてどうして?

↑赤岩駅は現在、通年通過駅となっている。普通列車も通過するので乗降できない。利用者がいない駅とはいうものの、ホーム上は雑草も無くきれいな状態になっていた

 

赤岩駅は廃駅になっていない。が、2016年秋以来、通過駅となっていて乗降できない。時刻表や車内の案内にも、赤岩駅が存在することになっているのだが、乗り降りできない不思議な駅となっている。営業していたころも長年、乗降客ゼロが続いてきた駅であり、このまま廃駅となってしまう可能性も高そうだ。

 

【山形線の車窓2】 スイッチバック施設が一部に残る板谷駅

板谷駅の手前で山形県へと入る。

 

板谷駅は巨大なスノーシェッド(雪囲い)に覆われた駅で、ホームもその中にある。おもしろいのは、旧スイッチバック線の先にある旧ホームだ。実際にスイッチバック施設が使われていた時代には、現在のホームの横に折り返し線があり、米沢方面行き列車は、この折り返し線に入り、バックしてホームへ入っていった。

 

特急などの優等列車は、このスイッチバックを行わず、そのまま通過していった。板谷駅は山間部にある同線の駅のなかでは、最も人家が多く、工場もある。が、列車の乗降客はいなかった。国道13号が近くを通るため、クルマ利用者が多いのかもしれない。

↑板谷駅は駅全体が頑丈なスノーシェッドに覆われている。駅舎はログハウスの洒落た造り。右側のホームが福島駅方面、左に米沢駅方面のホームがある

 

↑上写真の立ち位置で逆を写したのがこの写真。右の2本の線路が山形線の本線で、左の線路の先に古い板谷駅のホームがある。現在は保線用に使われている

 

↑上写真のスノーシェッドの先にある旧板谷駅のホーム。行き止まり式ホームで、列車は前進、または後進でホームに入線した。このホームの右手に板谷の集落がある。同駅は国道13号からも近くクルマでも行きやすい

 

【山形線の車窓3】雪囲いに覆われる峠駅、峠の力餅も楽しみ

板谷駅から5分ほどの乗車で、福島駅〜米沢駅間で最も標高が高い峠駅に到着した。

 

海抜624m。山あいにあるため冬の降雪量も尋常ではない。多いときには3mも積もるという。この峠駅の周辺には、滑川温泉などの秘境の温泉宿があり、若干ながら人の乗り降りがあった。

↑峠駅は巨大なスノーシェッド(雪囲い)に覆われている。標高624mと福島駅〜米沢駅間では最も高い位置にある駅で、冬の積雪はかなりの量になる

 

この峠駅、雪から駅を守るために、スノーシェッドが駅の施設をすっぽりと覆っている。この駅の改札口付近から、さらに別のスノーシェッドが200mほど延びている。

↑峠駅へと続くスノーシェッド。スイッチバックして旧峠駅へ進入するためのルートに使われた。複線分のスペースがあり非常に広く感じられる

 

こちらは現在、使われていない施設だが、複線の線路をすっぽりと覆う巨大な大きさだ。スノーシェッドは、200mぐらい間を空けて、さらに先の山側に入った地点にも残っている。このスノーシェッドの間に元の峠駅があったという。

 

駅近くの「峠の茶屋」で聞くと、「スノーシェッドですべて覆ってしまうと、蒸気機関車の煙の逃げ場がなくなる。あえて、スノーシェッドを空けた部分を設けていたんです」と教えてくれた。

 

現在の峠駅ホームをはさみ反対側には折り返し線用のトンネルがあった。福島方面行き列車は、この折り返し線に入り、バックして旧駅に入線していた。スイッチバックが行われた時代、さぞや楽しい光景が展開していたことだろう。

↑峠駅の目の前にある「峠の茶屋」。江戸時代は参勤交代が行われた羽州米沢街道の峠で茶屋を営んでいた歴史ある店だ。現在の「峠の茶屋」といえば、名物「峠の力餅」で有名

 

↑現在も峠駅のホームでの立売り(窓越し販売)が行われている。停車時間の短いのが難点だが、電話で事前予約しておくこともできる

 

↑峠の力餅10ヶ入り(926円)。餅米は山形置賜産のヒメノモチ、小豆は厳選した大納言、地元吾妻山系の伏流水を使用して製造する。ボリュームあり、お土産にも最適だ

 

峠駅近くの「峠の茶屋」。峠駅で下車した際には、昼食、小休止、そして次の列車待ちに利用するのも良いだろう。

 

【山形線の車窓4】関根駅〜米沢駅間は不思議に単線となる

峠駅から米沢駅側は、ひたすら下りとなる。峠駅の1つ先の大沢駅もスノーシェッド内の駅だ。峠駅や板谷駅のように明確ではないが、スイッチバックの遺構が残っている。

 

4駅に残るこうしたスイッチバックの遺構などは、1999(平成11)年5月に「奥羽本線板谷峠鉄道施設群」として産業考古学会の推薦産業遺産として認定された。

 

推薦理由は、「奥羽山脈の急峻な峠を越えるために、スイッチバック停車場を4カ所連続させ」、加えて「広大な防雪林を造営するなど、東北地方の日本海側地域開発にとって記念碑的な鉄道遺産である」こと。この路線が、歴史的に重要であり、国内の鉄道遺産としても貴重であるという、学会から“お墨付き”をもらったわけである。

 

大沢駅を過ぎると、右に左にカーブを描きつつ列車は下っていく。田畑が見え集落が広がると関根駅へ着く。

 

この関根駅の次が米沢駅。この区間は米沢盆地の開けた区間となり路線もほぼ直線となる。険しい福島駅〜関根駅間が複線なのに、関根駅〜米沢駅間のみ単線となる。

↑関根駅〜米沢駅間の単線区間を走る観光列車「とれいゆつばさ」。ほかの駅間と比べて平坦な同区間がなぜ複線とならなかったのだろうか

 

米沢駅の先、赤湯駅まで単線区間が続く。よってこの区間で列車に遅れが生じると、対向列車まで影響を受ける。米沢駅〜赤湯駅間も米沢盆地内の平坦な土地なのに、この米沢盆地内のみ単線区間が残ることに、少し疑問が残った。

 

終着の米沢駅に付くと、ちょうど向かいに観光列車「とれいゆつばさ」が停車していた。「とれいゆつばさ」の車内にある「足湯」を浸かりながらの旅も癒されるだろうな、とつい誘惑にかられてしまう。

↑米沢市の玄関口・米沢駅。江戸時代は上杉藩の城下町として栄えた。現在は人気ブランド米沢牛の生産地でもある。駅2階のおみやげ処でも米沢牛関連商品が販売されている

 

だが、今回はローカル線の旅なのだ。帰りにもこだわり、4時間ほど米沢周辺で時間をつぶして、福島行き普通列車に乗車した。逆からたどる山岳路線も味わい深い。峠駅を過ぎると、福島市内までひたすら下り続ける。普通列車とはいえ標準軌ならではの安定した走行ぶり、快適な乗り心地が心に残った。

東京方面行きが“下り”になる不思議ーー会津線はほのぼの旅に最高の路線

おもしろローカル線の旅〜〜会津鉄道会津線(福島県)~~

 

南会津の山あい、阿賀川(あががわ)の美しい渓谷に沿って走る会津鉄道会津線。2017年4月21日に東京浅草駅から会津鉄道の会津田島駅まで、特急「リバティ会津」が直通で運転されるようになり、山間のローカル線も変わりつつある。

 

さて、今回は1枚の写真から紹介しよう。次の写真は会津下郷駅で出会ったシーン。列車の外を何気なく撮影していた時の1枚だ。

↑会津下郷駅でのひとコマ。列車の発着時にスタッフの人たちがお出迎え&お見送りをしていた。さらに停車する列車の車掌さんも素敵な笑顔で見送ってくれた

 

これが会津鉄道会津線(以降、会津線と略)の、魅力そのものなのかもしれない。緑とともに鉄道を運行する人たち、そして会津の人たちの「素敵な笑顔」に出会い、心が洗われたように、ふと感じた。

 

ほのぼのした趣に包まれた会津線らしい途中駅でのひとこま。南会津のローカル線の旅は、この先も、期待が高まる。

 

【会津線の歴史】 開業してからすでに91年目を迎えた

会津線は、西若松駅〜会津高原尾瀬口駅間の57.4kmを走る。

 

その歴史は古い。およそ90年前の1927(昭和2)年11月1日に、国鉄が西若松駅〜上三寄駅(現・芦ノ牧温泉駅)間を開業させた。その後、路線が延伸されていき、1934(昭和9)年12月27日に会津田島駅まで延ばされている。

 

会津田島駅以南の開通は太平洋戦争後のことで、1953(昭和28)年11月8日に会津滝ノ原駅(現・会津高原尾瀬口駅)まで路線が延ばされた。

 

1986(昭和61)年には、野岩鉄道(やがんてつどう)の新藤原駅〜会津高原尾瀬口駅(当時の駅名は会津高原駅)間が開業した。この路線開通により、東武鉄道(鬼怒川線)、野岩鉄道、会津線(当時は国鉄)の線路が1本に結ばれた。

 

翌年の1987(昭和62)年4月1日には、国鉄が民営化され、会津線はJR東日本の路線になった。さらに同年7月16日に会津鉄道株式会社が設立され、会津線の運営がゆだねられた。

↑会津線ではディーゼルカーが入線するまでC11形蒸気機関車が主力機として活躍した。その1両である254号機が会津田島駅の駅舎横に保存・展示されている

 

【会津線の謎】ちょっと不思議? 東京方面行きが“下り”となる

会津線は西若松駅〜会津田島駅間が非電化、会津田島駅〜会津高原尾瀬口駅間が電化されている。

 

電化、非電化が会津田島駅を境にしているため、会津田島駅から北側、そして南側と別々に運行される列車が多い。北側は会津若松駅〜会津田島駅間、南側は会津田島駅〜新藤原駅・下今市駅間を結ぶ。さらに北はJR只見線に乗り入れ、南は野岩鉄道、東武鉄道と相互乗り入れを行う。

 

会津線全線を通して走るのは快速「AIZUマウントエクスプレス」のみで、会津若松駅〜東武日光駅(または鬼怒川温泉駅)間を日に3往復している。週末には、会津若松駅から北へ走り、ラーメンや「蔵のまち」として知られるJR喜多方駅までの乗り入れも行う。

 

昨年春から運行された特急「リバティ会津」は東京・浅草駅〜会津田島駅間を日に4往復、両駅を最短で3時間9分で結んでいる。以前は直通の快速列車が運行されていたが、最新の特急列車「リバティ会津」の登場で、より快適な鉄道の旅が楽しめるようになっている。

↑会津田島駅まで直通運転された特急「リバティ会津」。会津線内では、各駅に停まる列車と主要駅のみ停車する2パターンの特急「リバティ会津」が運行されている

 

↑快速「AIZUマウントエクスプレス」と、特急「リバティ会津」のすれ違い。会津田島駅〜東武日光駅間では、会津鉄道のディーゼルカーと東武特急とのすれ違いシーンが見られる

 

さて、一部の時刻表などで表記されているのだが、会津線にはちょっと不思議なルールが残っている。通常の鉄道路線では、東京方面行きが上り列車となるのだが、会津線内の西若松駅〜会津田島駅間では会津若松駅行きが上り列車となっている(会津田島駅から南は、会津高原尾瀬口駅方面行きが上り列車となる)。

走る列車番号にも、その習慣が残されていて、会津田島駅行きには下りということで末尾が奇数の数字、会津若松駅行きの上り列車には末尾に偶数の数字が付けられている。

 

この上り下りの基準が、通常と異なるのはなぜなのだろう。

 

【謎の答え】 国鉄時代の名残そのまま受け継がれている

国鉄時代、栃木県との県境を越える野岩鉄道の路線がまだできていなかった。会津線は福島県内だけを走る行き止まり路線だった。

 

行き止まり路線の場合は、ほとんどが起点側の駅へ走る列車が上りとなる。国鉄時代の会津線は、会津若松駅へ向かう列車がすべて上りだった。

 

野岩鉄道の開通により東京方面への線路が結びついたものの、会津田島駅を境にして、上り下り方向の逆転現象は残された。西若松駅〜会津若松駅間ではJR只見線の路線を走る。只見線の列車も、会津若松駅行きを上り列車としており、会津線の上り下りを以前のままにしておけば、同線内で列車番号の末尾を上りは偶数、下りは奇数に揃えられる利点もあった。

↑東武日光駅へ直通運転を行う「AIZUマウントエクスプレス」。漆をイメージした赤色のAT700形やAT750形と、AT600形・AT650形と連結、2両編成で運行される

 

↑2010年に導入されたAT700形やAT750形は、全席が回転式リクライニングシートで寛げる。その一部は1人用座席となっている

【人気の観光列車】 自然の風が楽しめる「お座トロ展望列車」

会津線には週末、観光列車も走っている。その名は「お座トロ展望列車」。2両編成で、1両はガラス窓がないトロッコ席(春〜秋の期間)、もう1両は展望席+お座敷(掘りごたつ式)席の組み合わせとなっている。

 

会津線の絶景スポットとされる3か所の鉄橋上で一時停車。絶景ビューが楽しめる。さらにトンネル内ではトロッコ席がシアターに早変わりする。

 

お座トロ展望列車は乗車券+トロッコ整理券310円(自由席)が必要になる。会津若松駅〜会津田島駅間の運転で、所要約1時間30分。のんびり旅にはうってつけの列車だ。

↑阿賀川を渡る「お座トロ展望列車」。左側のAT-351形がトロッコ席のある車両。右のAT-401形が展望席+お座敷席付きの車両だ。ちなみに阿賀川は福島県内の呼び方で、新潟県に入ると阿賀野川(あがのがわ)と名が改められる

 

↑湯野上温泉駅〜芦ノ牧温泉南駅間にある深沢橋梁。若郷湖(わかさとこ)の湖面から高さ60mを渡る橋で一時停止する。なお写真の黄色い車両AT-103形はすでに引退している

 

【歴史秘話】江戸時代の会津線沿線は繁華な街道筋だった

会津線の旅を始める前に、ここで会津、そして南会津の歴史について簡単に触れておこう。

 

まずは「会津西街道」の話から。会津西街道は会津線とほぼ平行して走る街道(現在の国道121号と一部が重複)のことを指す。会津藩の若松城下と今市(栃木県)を結ぶ街道として会津藩主・保科正之によって整備された。江戸時代には会津藩をはじめ、東北諸藩の参勤交代や物流ルートとして重用された。いわば東北本線と平行して延びる東北道とともに、東北諸藩には欠かせない重要な道路だったわけだ。

 

その栄えた面影は、大内宿(おおうちじゅく)で偲ぶことができる。すなわち、いまでこそ山深い印象がある南会津の里も、江戸時代までは華やかな表通りの時代があったということなのだ。

↑茅葺き屋根の家並みが残る大内宿。会津西街道の宿場として栄えた。会津線の湯野上温泉駅から乗り合いバス「猿游号」が利用可能。所要約20分(日に8往復あり)

 

あと忘れてならないのは、会津藩の歴史だろう。会津若松の鶴ヶ城を中心に3世紀にわたり栄えた会津藩。戊辰戦争により、西軍の目の敵とされた会津藩の歴史はいまでも、その悲惨さ、非情さが語り継がれる。会津藩の領地でもあった南会津や、会津西街道は戦乱の舞台となり、多くのエピソードが残されている。

 

【会津の人柄】朴訥な人柄を示す言葉「会津の三泣き」とは?

会津の人柄を示す言葉として「会津の三泣き」という言葉がある。

 

会津の人は山里に育ったせいか、朴訥な趣の人が多い。それはよそから来た人、とくに転勤族にとっては、時に“とっつきにくさ”を感じさせてしまう。そのとっつきにくさに、他所から来た人は「ひと泣き」する。

 

やがて暮らしに慣れると、その温かな心に触れて「二泣き」する。さらに会津を去るときに、情の深さに心を打たれ、離れがたく三度目の「三泣き」をするというのだ。

 

筆者は、個人的なことながら、会津とのつながりが深く、ひいき目につい見てしまうのだが、このような人々の純朴さは、訪れてみて、そこここで感じる。

 

先にあげたように列車に乗り降りする客人を迎え、見送る駅スタッフや乗務員の人たちの笑顔。こうした会津の人柄を知ると、旅がより楽しくなるだろう。

【車窓その1】まずは会津高原尾瀬口駅から会津田島駅を目指す

さて、会津鉄道会津線に乗車、見どころおよび途中下車したい駅などを、写真をメインに紹介していこう。

 

まずは野岩鉄道との境界駅でもある会津高原尾瀬口駅から。ここは、尾瀬沼への登山口でもある尾瀬桧枝岐方面へのバスが出発する駅でもある。

 

実際に野岩鉄道と会津鉄道の境界駅ではあるのだが、鉄道会社が変わったということはあまり感じられない。野岩鉄道方面から走ってきた電車は、ここでの乗務員交代は行わない。普通列車の大半が、東武鉄道6050型で、この車両は会津田島駅まで野岩鉄道の乗務員により運転、また乗客への対応が行われる。

↑会津高原尾瀬口駅は野岩鉄道との境界駅だが、駅案内には野岩鉄道の社章が付く。停まっているのは東武鉄道6050型電車。野岩鉄道、会津鉄道両社とも同形式を所有・運行させている

 

一方、ディーゼルカーにより運行される「AIZUマウントエクスプレス」は、野岩鉄道、東武鉄道線内も、会津鉄道の乗務員により運転、乗客への対応が行われる。

 

山深い会津高原尾瀬口駅からは、徐々に視界が開けていき、田園風景が広がり始め、20分ほどで会津田島駅へ到着する。

↑会津田島駅に停車する東武鉄道の特急「リバティ会津」。2017年4月に運行を開始した。東京の浅草駅〜会津田島駅間を日に4往復している

 

【車窓その2】「塔のへつり」とは、どのようなものなのか?

会津田島駅からは、非電化ということもあり、よりローカル色が強まる。

 

会津線の駅名表示。見ていると面白い仕掛けがある。田島高校前駅は高校生のイラストとともに「青春思い出の杜」とある。養鱒公園駅(ようそんこうえんえき)は、鱒のイラストとともに「那須の白けむりを望む」。会津下郷駅は昔話の主人公の力持ちのイラストと「会津のこころと自然をむすぶ」という、各駅それぞれ、キャッチフレーズが付けられている。こんなキャッチフレーズを探しつつの旅もおもしろい。

 

会津下郷駅を過ぎると、山が険しくなってくる。阿賀川も間近にせまって見えるようになる。そして塔のへつり駅に到着する。

 

「へつり」とは、どのようなものを指すのだろうか。「へつり」とは福島県または山形県の言葉で「がけ」や「断崖」のことを言う。駅から徒歩3分ほどの「塔のへつり」。阿賀川の流れが生み出した奇景が望める。

↑森のなかにある塔のへつり駅。独特の門が駅の入り口に立つ。景勝地・塔のへつりへは駅から徒歩3分の距離。塔のへつり入口には土産物屋が軒を並べ賑やかだ

 

↑100万年にもわたる阿賀川の侵食作用により造られた塔のへつり。対岸から吊橋が架かる。断崖絶壁に加えて人が歩行できるくぼみもできている

 

【車窓その3】 茅葺き屋根の駅やネコの名誉駅長がいる駅など

塔のへつり駅の隣りの駅が湯野上温泉駅。この駅は、時間に余裕があればぜひ途中下車したい。

 

ここは駅舎が茅葺きという珍しい駅だ。会津鉄道が発足した年に建て替えられた駅舎で、2005(平成17)年度には日本鉄道賞・特別賞も受賞している。

 

駅内には売店があり、また地元・湯野上温泉の観光ガイドも行われている。駅舎のすぐ横には足湯があってひと休みが可能だ。また駅から周遊バスに乗れば、会津西街道の宿場として知られる大内宿に行くこともできる。

↑湯野上温泉駅の駅舎は珍しい茅葺き屋根だ。駅舎内には観光案内所があり、南会津の特産品を中心に多くの土産品が販売される

 

↑湯野上温泉駅にある足湯「親子地蔵の湯」。列車を見送りながら“ひと風呂”が楽しめる。ちなみに駅から湯野上温泉へは徒歩2分〜15分の距離で、23軒の温泉宿や民宿がそろう

 

湯野上温泉駅の先はトンネルが多くなる。湯野上温泉駅〜芦ノ牧温泉駅間は、大川ダムが造られたことにより、1980(昭和55)年に建設された新線区間となっている。ダムにより生まれた湖を迂回するように長いトンネルが続く。

 

大川ダムにより生まれた若郷湖(わかさとこ)が芦ノ湖温泉南駅の手前、深沢橋梁から一望できる。会津若松駅行き列車の左手に注目だ。さらに大川ダム公園駅は、初夏ともなるとホームを彩るあじさいが美しい。

 

そして芦ノ牧温泉駅へ到着する。

 

この駅で良く知られているのが名物駅長の「らぶ」。2代目駅長で、芦ノ牧温泉駅の人気者となっている。施設長の「ぴーち」とともに働いているが、大人気のため営業活動(?)に出かけることも多い。ぜひ会いたいという方は、会津鉄道のホームページ上に“勤務日”が掲載されているので、確認してから訪れたほうが良さそうだ。

↑芦ノ牧温泉駅の名誉駅長「らぶ」がお座トロ展望列車をお見送り。施設長「ぴーち」とともに駅務に励んでいる/写真提供:芦ノ牧温泉駅(※写真撮影等はご遠慮ください)

 

【車窓その4】会津磐梯山が見えてきたら終点の会津若松駅も近い

芦ノ牧温泉駅あたりになると、両側に迫っていた山も徐々になだらかになっていき、沿うように流れていた阿賀川の流れも、路線から離れていく。

 

そして沿線に田園風景が広がっていく。このあたりが会津若松を中心とした会津盆地の南側の入口でもある。いくつか無人駅を通り過ぎると、右手に会津のシンボル、会津磐梯山が見えてくる。

 

南若松駅あたりからその姿はより間近になっていき、そして会津線の起点駅・西若松駅に到着する。

↑会津線の南若松駅付近は田園地帯も多く、好天の日には会津磐梯山の姿が楽しめる。秀麗な姿で、会津地方に伝えられた民謡では「宝の山よ」と唄われてきた

 

↑会津鉄道会津線の起点となる西若松駅。駅表示にJR東日本と会津鉄道の社章が掲げられている。鶴ヶ城の最寄り駅だが、城まで歩くと20分ほどかかる

 

西若松駅は会津線の起点駅だが、ここで終点となる列車はなく、全列車がこの先、JR只見線を走り会津若松駅まで乗り入れている。

 

会津若松駅は、会津若松市の玄関駅。会津藩にちなんだ史跡も多い。街の中心や主要な史跡は、会津若松駅からやや離れているので、まちなか周遊バス「ハイカラさん」を利用すると便利だ。

↑会津若松市の玄関口、JR会津若松駅。会津線の全列車は同駅からの発車となる。駅前に戊辰戦争の際に犠牲となった少年たちを讃えた「白虎隊士(びゃっこたいし)の像」が立つ

 

子鉄&ママ鉄必見!夏休みの締めくくりは、ドクターイエローに会いに行こう!――『スーパー特急のひみつ100』

男の子のママあるあるだと思うのだが、今まで電車になどまったくもって興味がなかったのに、我が子が電車に目覚め、プラレールにハマり、呪文のように列車名を唱え始めると、嫌でも電車の種類を覚えてしまう。

 

散歩コースとして、線路沿いの「電車がよく見えるスポット」をしっかりおさえている。ハッピーセットにトミカのおもちゃがつくとわかるや否や、息子を喜ばせたいがためにマックに通う。なんならコンプリートしたいので、同じく男の子を持つママ友とトレードしたり。いつのまにか自分自身が電車好きになっていた、なんてことは珍しくない。

 

そして、子どもも親も電車に夢中になると、おそらくこんな願いが心の中に生まれてくるのではないだろうか。

 

ドクターイエローを生で見たい!」と。

 

 

子鉄&ママ鉄の憧れ!「ドクターイエロー」とは

ご存じない方のために簡単に説明すると、「ドクターイエロー」とは線路の歪みや架線の状態などを走りながら調べる、いわば「電車のお医者さん」。輝く黄色のボディが印象的だ。

 

東京~博多間を10日に1回ほどの頻度で走っていて、運行予定などは公に発表されていない。そのため、見かけたら幸せになれるというジンクスがあるくらいである。

 

独身の頃、出張や帰省で東京~大阪間をかなり頻繁に移動していた私だったが、実は一度もお目にかかったことがなかった。そもそも「ドクターイエロー」という存在を知らなかったため、もし遭遇していたとしても視界に入っていなかったのかもしれないが。

 

今回は、そんな幸福の黄色い新幹線・ドクターイエローをなんとか生で見たいと思い、見事成功した私の記録をお伝えしたい。

 

 

ネットを駆使してドクターイエローに出会う!

確実にドクターイエローを見るためのポイントは2つ。

 

ネットで検測時刻をリサーチ

まずは、いつ走るかがわからないと始まらない。

 

JRに勤めている友人に聞いたらダイヤを教えてくれないかとも思ったが、さすがにそれ無理だろう。というわけで、ネットで検索しまくった結果、ドクターイエローに関する情報や今月の検測(走行、ではなく検測というのも、なんだか通っぽくていい)予想日をアップしているブログやHPにヒット!

 

なかには、ビックリするくらい細かい情報をアップしてくれているブログもあり、アメンバーであれば「○○駅は何時頃通過予定ですか?」などというコメントにも、親切に返答してくれていた。一体どこのどなたなのだろうか。ドクターイエローへの深い愛情を感じずにはいられない。

 

ひとつのブログで確認できればOKだが、複数のサイトの情報を見比べておくとさらに安心である。

 

当日は、ツイッターや掲示板などでリアルな運行状況をチェック

ドクターイエロー通の方の情報はほぼ間違いがないが、もちろん運行状況に乱れが起こることも有り得る。

 

そこで、当日はツイッターやドクターイエローマニアたちの掲示板をマメにチェックしておこう。「西の皆さん、東京駅をいま出発しました!」「○○駅、いま通過しました!」など、ドクターイエローが今どのあたりを走っているかがリアルタイムでわかるのだ。

 

自分が待機している駅近くの投稿や情報が得られれば、ドクターイエローはもう目の前だ。

 

私の場合は、ちょうど帰省とドクターイエローののぞみ検測日が重なることをキャッチしたため、岐阜羽島駅にて待機。予定時刻が近づくに連れて、ホームには少しずつ人が集まってくる。今日は通過するだけなのに。どうやら毎月来ている人もいるようだ。ドクターイエロー、半端ないって。

 

そして見事、ドクターイエローが通過していくところに遭遇できた。こだま検測であれば停車しているドクターイエローを拝めたのだが、致し方ない。ほんの数十秒だったが、そのかっこよさと言ったら…写真にもバッチリおさえることができた!

 

もう、とにかくカッコいいのだ。オーラが違う。息子も大喜びしていたが、私自身がめちゃめちゃ興奮してテンション上がりまくりだった。

 

 

見たい!乗りたい!特急列車が目白押し

あれから数年。最近は少し電車への熱が下がり気味だった息子と私だが、こんな本を見つけて、再びアツい想いが再燃! 『スーパー特急のひみつ100』(栗原 景・著/学研プラス・刊)は、見開きにドカンと迫力ある電車の写真が載っていて、文句なしにカッコいい!

 

息子と2人でページをめくるたび、「あ、これ乗ったことある!」「うわ、めちゃカッコいい!」と盛り上がる盛り上がる。

 

外観や車両の特徴、豆知識なども盛り込まれているので、「へーそうだったのかー!」という発見もあり、見ていて飽きない。

 

いろいろと気になる電車はあったが、「かっけー!」と声を揃えたのがラピート。なんばと関西国際空港を結ぶ南海電鉄のアクセス特急で、ロボットみたいな顔と発色の良いブルー、「レトロフューチャー」をテーマにした車両デザインに魅了されてしまった。客室の窓が楕円形なのもクールだ。

 

それから、車両のデザインだけでなく、内観や設備などがユニークなものも。阿蘇~別府間を走るJR九州の「あそぼーい!」は、木のボールのプールや図書館など、親子で楽しめる設備がたくさんあるとのこと。

 

東京~新庄間を走るJR東日本の「つばさ」には、なんと足湯や湯上がりラウンジつきの車両があるらしい。

 

鹿児島中央~指宿間を走るJR九州の「指宿のたまて箱」は、ドアが開くと、浦島太郎がたまて箱を開けた時の煙に見立てて、ミストが出るのだとか! いつか乗ってみたい。

 

 

お金がかからず、最高の想い出が作れること間違いなし!

これらの列車は、ドクターイエローと違って運行時刻が簡単にわかるので、乗車することはもちろん、お目当ての列車を見るために駅に行くだけでも楽しめる。

 

夏休みも残りわずか。テーマパークなどに遊びに行くのもいいが、どこも混雑しているだろう。何かとお金もかかる。ここはひとつ、駅へお好みの特急列車に会いに行くというプランはいかがだろうか。

 

そして、タイミングがあえば、ぜひドクターイエローとの遭遇にチャレンジしてみてほしい。我が家は、ラピート目的でなんばまで遊びに行こうかと計画中である。

 

 

【書籍紹介】

 

乗ってみたい! スーパー特急のひみつ100

著者:栗原景
発行:学研プラス

日本全国の特急列車のひみつを100紹介。新幹線からJR、私鉄の特急、観光特急から通勤特急まで、たくさんの列車を掲載する。迫力の写真と正面のイラスト、くわしいデータなど、乗りたくなる情報が満載のSG(スゴイ)100シリーズ第6巻。

kindlleストアで詳しく見る
楽天Koboで詳しく見る
bookbeyondで詳しく見る

そう簡単にはいかないでしょ… 「中央線グリーン車連結問題」に立ちはだかる壁

「ほんとに実現すんのかなぁ?」

炎天下の聖橋に立っているだけで、大汗といっしょに魂まで流れ出ちゃいそうな、酷暑。ここまで暑いと、こんな半信半疑で半ばあきらめモードな独り言が出てきてしまう。

 

聖橋でいろいろ思っていることは、「月曜から夜ふかし」的にいうと、「中央線グリーン車連結問題」。中央線といえば、混雑率200%超え、2分ヘッド過密ダイヤ、東京カウンターカルチャーの高円寺や吉祥寺といった人気の街を結ぶステータス抜群の「語れちゃう路線」……といったイメージ。

 

そんな中央線に、有料座席車両のグリーン車(下の写真がそのイメージ)を連結させるという計画が、静かに熱くすすめられている。

 

■グリーン車を2両プラスして12両編成に

JR東日本の首都圏を走る通勤電車には、グリーン車が組み込まれている路線がある。普通列車グリーン車というサービスで、湘南新宿ラインや上野東京ライン、東海道線、横須賀線、総武線快速、そして足立を貫き茨城へと誘う常磐線などの電車がグリーン車を連結して走っている。

 

この普通列車グリーン車がいま、めちゃめちゃ好評。平日朝ラッシュ時間帯の都心方面は、満席も続出。せっかくグリーン券を買ったのに、座れずにデッキで席が空くのを待つ人の姿も見かける。土休日になると、電車旅グループや親子、仲良し男女たちが、グリーン車を躊躇なく選ぶ。

 

この利用者増を受けてか、中央線のサービス向上計画の切り札か、JR東日本は突然、中央線にグリーン車を2両追加連結すると公表。ことし春には、2020年のサービス開始をめざしてきた計画を、2023年度末までに実現させるとプランを後ろ倒しした。

 

素人目で見ても、その実現はいろいろ難しいと感じる。車両導入、地上設備、人材確保、サービス展開、特急列車とのすみ分け……前途にはいろいろハードルが立ちはだかる。

 

■ホーム延長の壁

車両は、既存の普通列車グリーン車に似たモデルだから、そのままいけそう。ただ、中央線グリーン車計画では、両開きドアを採用したり、普通車にトイレを設置したりといった変更がある。

 

通勤や通学、仕事で中央線を使うとき、ちょっと視点を変えて見てみると興味深いのが、地上設備。グリーン車2両を増結することで、中央線は既存の10両から12両編成に変わる。車両が2両ぶん増える計画だけど、中央線の駅のほとんどが、ホームは10両ぶんの長さしかない。

 

たとえば御茶ノ水駅のホームは、東京・秋葉原方はけっこう急な勾配の途中にあって、黄色い総武線各駅停車とオレンジ色の中央線電車ののりばは、階段2段ぶんほどの大きな段差がある。さらにホーム端には詰め所もあったりで、東京方にホームを延ばすことは難しい。そうなると、新宿寄りのホームを延ばすことになるか。でも、こちらも急カーブやポイント(分岐器)がすぐ迫っていて、難工事確実。

 

■IoTのチカラを借りるか…

グリーン車を組み込む位置も気になる。車両の構造上、東京側から4両目と5両目、12両編成時の4号車・5号車がグリーン車になる計画。で、特急電車を使用した中央ライナー用のライナー券を買う場所と、グリーン車の位置も微妙に違う。グリーン券を購入できる端末は、新たにまた設置するスペースが要る。

 

ひょっとしたら、IoTのチカラを借りて、グリーン券 券売機の端末を省略するという作戦もあるか。利用者はスマホやSuicaを座席上スキャンにピッとかざすだけで、座席が確保できるという時代がくるかもしれない。

 

12両化で信号類の位置変更もあるだろうし、車両基地には車両トイレの地上処理施設もつける必要が出てくるし、グリーン車の車内サービスを担うグリーンアテンダントの人材も確保しなければならない。

 

クリアすべき課題がいろいろある中央線グリーン車連結問題。だけど、実現したらそれはまた、中央線ユーザーに好評を博すことは間違いない。中央線の競合路線のひとつ、京王線は「京王ライナー」という有料座席指定列車サービスで先手を打った。

 

中央線にグリーン車が走る日まで、あと5年。後手には後手のやり方がある。5年間で、中央線の風景が少しずつ変わっていく。実現すれば儲かることはわかっている。損益分岐点もすぐにきちゃいそう。

 

【著者プロフィール】

モビリティハッカー Gazin

GazinAirlines(ガジンエアラインズ)代表。1972年生まれ。浦和市立南高、島根大(中退)、東京学芸大を卒業。東北新社、鉄道ジャーナル社、CAR and DRIVER、TVガイドなどを経て独立。SNSなどをやってないせいか、人格の問題か、友だちゼロ&人脈ゼロ。著書に『ワケあり盲腸線探訪』(えい出版社)、『ひとり、ふらっと鉄道』(イースト・プレス)ほか。

実に「絵」になる鉄道路線!! フォトジェニックな信州ローカル線の旅【長野電鉄長野線】

おもしろローカル線の旅~~長野電鉄長野線(長野県)~~

 

信州の山々を背景に走る赤い電車は長野電鉄長野線の特急「ゆけむり」。最前部と最後部に展望席があり、列車に乗りながらにして迫力ある展望風景が楽しめる。

長野電鉄長野線は長野駅と湯田中駅間を結ぶ33.2kmの路線。起点となる長野駅はJR駅に隣接した地下にホームがあり、また長野市街は路線が地下を走っていることもあって、ローカル線というより都市路線だろう、という声も聞こえそうだ。

 

しかし、千曲川を越えた須坂市、小布施(おぶせ)町、中野市を走る姿は魅力あるローカル線そのもの。山々をバックに見ながら走る姿が実に絵になる。ここまで“写真映え”する鉄道路線も少ないのではないだろうか。今回は、絵になる長野電鉄の旅を、写真を中心にお届けしよう。

 

【写真映えポイント1】

赤い特急と山や草花、木の駅舎の組み合わせが絶妙!

なぜ、長野電鉄長野線は写真映えするのだろう。まず車体色が、赤が基本となっていることが大きいように思う。色鮮やかで写りがいい。

 

特急は、1000系「ゆけむり」(元小田急ロマンスカー10000形HiSE)と、2100系「スノーモンキー」(元JR東日本253系「成田エクスプレス」)の2タイプが走る。それぞれ赤ベースの車体が鮮やかで、青空、周囲の山々、花が咲く里の景色、そして木の駅舎と絶妙な対比を見せる。

 

普通電車の8500系(元東急8500系)や3500系(元営団地下鉄3000系)も、車体に赤い帯が入り華やかで、こちらも信州の風景と良く似合う。

↑特急「ゆけむり」が信濃竹原駅を通過する。1000系は、元小田急電鉄のロマンスカー10000形。赤い特急電車と古い駅舎とのコントラストが何とも長野電鉄らしい

 

↑桜沢駅付近を走る特急「ゆけむり」。4月末、ようやく信州に遅い春がやってくる。沿線は桜などの草花が一斉に花ひらき見事だ。車窓から望む北信五岳にはまだ雪が残る

 

【写真映えポイント2】

プラス100円で乗車可能な「ゆけむり」展望席がGOOD!

車内から撮った風景も写真映えしてしまう。

 

特に特急「ゆけむり」の前後の展望席から見た風景が素晴らしい。展望席は、広々した窓から迫力の展望が楽しめる特等席で、志賀高原や高社山など沿線の変わりゆく美景が存分に楽しめる。

↑夜間瀬駅〜上条駅付近からは志賀高原を列車の前面に望むことができる。ぜひ特急「ゆけむり」の展望席から山景色を楽しみたい

 

↑長野線の夜間瀬川橋梁から望む高社山(こうしゃさん)標高1351.5m。整った姿から高井富士とも呼ばれ、信州百名山にも上げられている

 

特急「ゆけむり」は、元は小田急ロマンスカー10000形として生まれた車両で、小田急当時のニックネームはHiSE。車内に段差があり、バリアフリー化が困難なため、登場からちょうど25年という2012年に小田急電鉄から姿を消した。この2編成が長野電鉄へやってきて大人気となっているのだ。

 

筆者が乗車した週末には、小布施人気のせいか、長野駅〜小布施駅間は混んでいた。その先の小布施駅→湯田中駅はそこそこの空き具合となった。湯田中駅発の上り「ゆけむり」にも乗車したが、湯田中→小布施間で、運良く後部展望席を独り占めという幸運に出会えた。

 

この美景が乗車券+特急券100円(乗車区間に関わらず)で楽しめるのが何よりもうれしい。指定席ではなく自由席なので、席が開いてればどこに座っても良い。

 

週末には「ゆけむり〜のんびり号〜」という、ビューポイントでスピードを落として走るなど、まさに写真撮影にぴったりの特急も走るので、ぜひチャレンジしていただきたい(列車情報は記事末尾を参照)。

 

【写真映えポイント3】

長野電鉄のレトロな駅舎が、また絵になる!

駅で撮った写真も絵になる。

 

長野電鉄の路線の開業は大正の終わりから昭和の初期にかけて。開業したころに建てられた木造駅舎が信濃竹原駅、村山駅、桐原駅、朝陽駅と、複数の駅に残っている。トタン屋根、ストーブの煙突、木の腰板。木の格子入りガラス窓といった、古い駅の姿を留めている。

↑須坂駅の跨線橋で写した1枚。長野電鉄の多くの駅ではいまも昭和の駅の懐かしい情景がそこかしこに残されている

 

↑先にも紹介した信濃竹原駅の駅舎。開業は1927(昭和2)年のこと。90年も前の昭和初期の駅舎がほぼ手付かずの状態というのがうれしい

 

↑こちらは村山駅。駅の開業は1926(大正15)年のこと。沿線ではほかに、桐原駅、朝陽駅に古い木造の駅舎が残っている

 

長い時間、そこに立ち続けてきた駅舎。日々、人々を見送り迎えてきたそんな多くのストーリーが透けて見えてきそうだ。この4駅ほど古くはないものの、ほかの駅で目に触れる風景もレトロ感たっぷりで、何気なく撮った風景が実に絵になるのだ。

 

【写真映えポイント4】

さりげなく置かれる古い車両や機器にも注目

停車中の保存車両や、古い機器も絵になる。

 

例えば、須坂駅には赤い帯を取った3500系06編成2両が停められている。同車両は元営団地下鉄日比谷線の3000系で、当時、珍しかったセミステンレス車体を採用、車体横はコルゲートと呼ばれる波形の板が使われている。

↑須坂駅構内の3500系。この車両はすでに引退した車両で、長野電鉄の赤い帯やNAGADENという表示も取られ、営団地下鉄当時のオリジナルの姿に戻されている

 

1961(昭和36)年に登場し、高度成長期に都心を走る日比谷線の輸送を支え、1994(平成6)年に、日比谷線の最終運転を終えている。同車両は、長野電鉄のみに計39両が譲渡され、現在も現役車両として活躍している。ちなみに2両は2007年に東京メトロに里帰りした。

 

日比谷線を走っていた往時の姿を知る人にとっては、この須坂駅にたたずむ古い車両に、胸がキュンとなってしまう人も多いのではないだろうか。

 

また、須坂駅のホームには、いまでは使われていない古い転轍器(てんてつき)が多く置かれ、保存されている。

↑ポイント変更用の転轍器(てんてつき)なども須坂駅のホームで保存されている。右側に発条転轍器が並ぶ。このような古い装置が特に説明もなく保存されていておもしろい

 

これらの保存車両や転轍器は、特に案内があるわけでなく、また乗客に見せるために保存展示されているわけではない。さりげなく置かれているといった様子である。そこに案内表示はなくとも、長野電鉄を守ってきたという誇りが伝わってくるようでほほ笑ましい。

【残る路線の謎】不自然なS字の姿をしているワケを探る

ここからは長野電鉄長野線の歴史と路線の概要を説明していこう。

上の路線図を見るとわかるように、路線は長野駅からSの字を描きつつ湯田中へ向かう。

 

まずは長野駅と東西に結ぶ路線が千曲川を越えて須坂駅へ向かう。須坂駅の手前で急カーブ、信州中野駅までではほぼ南北の路線が結ぶ。信州中野駅から先で急カーブ、路線が東に向かい回り込むようにして湯田中駅を目指している。

 

この路線、須坂駅と信州中野駅付近の曲がり方が極端に感じてしまう。どうしてなのだろう。

 

現在は長野線という1つの路線になっているが、開業時は千曲川東岸を走る路線が先に設けられた。その歴史を追うと、

1922(大正11)年6月 河東(かとう)鉄道により屋代駅〜須坂駅間が開業

1923(大正12)年3月 須坂駅〜信州中野駅間が開業

1925(大正14)年7月 信州中野駅〜木島駅間が開業 河東線全線開通

 

そのほかの路線は

1926(大正15)年6月 長野電気鉄道により権堂駅〜須坂駅間が開業。この年に河東鉄道が長野電気鉄道を合併、長野電鉄となる

1927(昭和2)年4月 平穏線の信州中野駅〜湯田中駅間が開業

1928(昭和3)年6月 長野駅〜権堂駅間が開業、現長野線が全線開通する

 

このように、長野電鉄は、元々、千曲川東岸の屋代駅と木島駅(長野県飯山市)を結ぶ鉄道が最初に造られ、その後に沿線の途中駅から長野駅へ、また湯田中駅へ路線が延ばされていった。

 

長年、この路線網が引き継がれていたが、利用者減少が著しくなり、まず2002(平成14)年3月末に木島駅〜信州中野駅間が、2012年3月末に屋代駅〜須坂駅間の路線が廃止された。南北に延びていた路線がそれぞれ廃線になり、S字の路線のみが長野線として残されたわけだ。

↑2012年3月まで運行していた長野電鉄屋代線(須坂駅〜屋代駅間)。真田松代藩の城下町・松代(まつしろ)を通る路線でもあった。写真は松代駅に入線する3500系電車

 

↑現在、須坂駅から屋代方面へ延びる線路の一部が残り河東線(かとうせん)記念公園として整備されている。例年、10月中旬の土曜日にイベントも開かれている

 

↑信州中野駅の先で湯田中方面へ線路が右にカーブしている。左の線路は木島駅へ向かった元河東線の線路跡。この分岐付近のみ線路が残されている

 

【輝かしい歴史】上野駅発、湯田中駅行き列車も走っていた!

長野電鉄が最も輝いていたのが1960年ごろから1980年ごろだった。1961(昭和36)年からは、長野電鉄への乗り入れる上野駅発の列車が運転された。国鉄の急行形車両を利用、信越本線の屋代駅から、屋代線経由で湯田中駅まで直通運転を行った。翌年には通年運転が行われるほど乗客も多かった。この直通運転は1982(昭和57)年11月まで続けられている。

 

自社製の車両導入も盛んで1957(昭和32)年には、地方の私鉄会社としては画期的な特急形車両2000系も登場させた。その後、1967(昭和42)年には鉄道友の会ローレル賞を受賞した0系や10系といった一般列車用電車も新製するなど、精力的に新車導入を続けた。

 

路線も長野駅〜善光寺下駅間の地下化工事が1981(昭和56)年3月に完了している。

↑かつての須坂駅構内の様子。中央が2000系特急形車両でツートン塗装車と、後ろにマルーン色の編成が見える。2006年に特急運用から離れ2012年3月をもって全車が引退した

 

そんな順調だった長野電鉄も1980年代から陰りが見えはじめた。先の国鉄からの直通列車も1982年に消えた。営業収入は1997年の35億2000万円をピークに、長野冬期五輪が開催された1998年から減収に転じ、2002年には24億6000万まで落ち込んでいる。

 

この2002年に信州中野駅〜木島駅間の河東線の路線を廃止した影響もあったが、急激な落ち込みは河東線と平行して走る上信越自動車道が、徐々に整備されていったのが大きかった。まず1993年に更埴JCT〜須坂長野東IC間を皮切りに2年ごとに北へ向けて延ばされていき、1999年には北陸自動車道まで全通している。高速道路網の充実で、クルマで移動する人が増え、また高速バスの路線網も充実していった。

 

長野電鉄では2002年と2012年に河東線を廃線にし、車両は首都圏の鉄道会社の譲渡車を主力にするなど、営業努力を続けてきた。同社の平成24年度から平成27年度の損益を見ると(鉄道統計年表による)、平成24年度の5億から平成27年度には8億円まで数字を上げ好転している。前述した古い駅舎が数多く残る理由は、駅舎を建て直すほどの余裕が、これまではなかったという理由もあるのだろう。

 

ただ、古いものが数多く残り、昭和と平成が混在する、まさに写真映えする状況が生まれているわけで、少し皮肉めいた現象とも言えるだろう。

【鉄道好き向け乗車記】長野駅から湯田中駅まで撮りどころは?

長野電鉄長野線の始発駅はJR長野駅西口の地下にある。JR駅を出てすぐのところにあり便利だ。行き止まり式のホームからは、朝夕が特急を含めて15分間隔、日中は20分間隔で列車が発車する。

 

特急は一部列車を除き湯田中駅行き、普通列車は須坂駅もしくは信州中野駅行きが出ている。

↑長野駅の西口を出てすぐ目の前にある長野電鉄長野駅の入り口。こうした造りは都市と近郊を結ぶ都市鉄道の起点駅といった趣だ

 

↑長野電鉄長野駅の地下ホーム。停まるのは2100系「スノーモンキー」と8500系。8500系はいまも東急田園都市線で現役として活躍する車両だ。長野電鉄では2005年から走る

 

長野市街は地下路線が続き、3つ先の善光寺下駅まで地下駅となる。善光寺下駅の先で始めて地上へ出る。長野駅から朝陽駅まで複線区間が続き、しなの鉄道の路線などと立体交差する。朝陽駅から先は、単線区間となり、柳原駅〜村山駅間で千曲川を越える。

↑長野駅〜朝陽駅間は複線区間となっている。2100系「スノーモンキー」と8500系がちょうどすれ違う。写真の桐原駅近くでは都市路線らしい光景が見られる

 

25分ほどで須坂駅に到着する。ここには車両基地があるので、ぜひとも降りて見ておきたい。先の3500系などの保存車両や、古い転轍器などにも出会える。

 

須坂駅からは、ローカル色が強まる。長野ならではリンゴ園も沿線に多く連なる。

 

須坂駅から乗車7分ほどで小布施駅(おぶせえき)に到着する。小布施といえば、名産の栗、そして江戸時代には地元の豪商、高井鴻山(たかいこうざん)が葛飾北斎や小林一茶が招いたことで、独自の文化が花開いたところでもある。

 

そうしたうんちくにうなずきつつも、鉄道好きならばホームの傍らにある「ながでん電車の広場」に足を向けたい。ここには現在、特急として活躍した長野電鉄2000系3両が保存展示されている。車内の見学もできる。

↑小布施駅の構内にある「ながでん電車の広場」。長野電鉄オリジナルの特急型電車2000系が保存展示される。傍らの腕器式信号機もいまとなっては貴重な存在を言えるだろう

 

信州中野駅から先は、長野線の閑散区間となる。長野駅から湯田中駅まで直通で走る普通列車はなく、途中の須坂駅か信州中野駅での乗り換えが必要となる。

 

信州中野駅〜湯田中駅間では、朝夕30分間隔、日中は特急を含めて1時間に1本の割合で電車が走っている。本数は少なくなるものの、信州中野駅〜湯田中駅間には絵になるポイントが多く集まっている。

 

まず夜間瀬川橋梁。左右に障害物のないガーダー橋で、橋を渡る車両が車輪まで良く見える。もちろん撮影地としても名高い。車内からは高井富士とも呼ばれる高社山が良く見えるポイントでもある。

↑夜間瀬川橋梁を渡る2100系「スノーモンキー」。元JR東日本253系で、特急「成田エクスプレス」として走った。長野電鉄では2編成が入線、4人掛け個室(有料)も用意される

 

夜間瀬川を渡ると、路線は右に左にカーブを切りつつ、勾配を登っていく。このあたりの沿線はリンゴ園や、モモ園などが多いところ。GWごろは薄ピンクのリンゴの花、桃色のモモの花が沿線を彩り見事だ。

↑夜間瀬駅〜上条駅間を走る1000系「ゆけむり」。GWごろ高社山を仰ぎ見る夜間瀬付近ではモモやリンゴの花が見ごろを迎える

 

リンゴ園を見つつ急坂を登れば、列車は程なく湯田中駅に到着する。

 

この駅の構造、少し不思議に感じる人がいるかもしれない。現在のホームと駅舎とともに、すぐ隣に古い駅舎とホームがある。実はかつて、普通列車よりも長い編成の特急列車などは駅の先にある県道を越えて引込線に入り、折り返してホームに入っていた。

 

駅構内でスイッチバックする複雑な姿の駅だったのだ。さすがに不便だということで、2006年に大改造、スイッチバック用の施設は取り外され、現在のホームと線路のみとなっている。

↑湯田中駅に到着した1000系「ゆけむり」。右側の駅舎がかつての駅舎で、現在は日帰り温泉施設として使われている。線路は右側ホームにも沿って敷かれていた

 

↑日帰り温泉施設「楓の湯」として使われる旧湯田中駅舎。この建物の前には足湯(写真円内)もあり、無料で湯田中温泉の湯を楽しむことができる

 

列車が到着すると「美(うるわ)しの志賀高原」という懐メロがホームに流れる。志賀高原、そして湯田中・渋温泉の玄関口である湯田中駅らしい演出でもあるのだが、この曲が作られたのは1956(昭和31)年だという。このタイムスリップ感は並ではない。これぞ世代を超えた永遠のリゾート、志賀高原! というところだろうか。

↑湯田中駅前のバス乗り場。奥志賀高原ホテル行きや白根火山行きのバスが出ている。こうした“高原行きバスと乗り場”の光景も昭和の面影が強く感じられ、懐かしく感じられた

 

【観光列車の情報】

毎週末、下り:長野駅13時6分発、上り:湯田中駅11時25分発の上下2本は特別な「ゆけむり〜のんびり号〜」として走る。普通列車のようにゆっくりと沿線を走る観光案内列車で、撮影スポットで徐行運転を行うサービスもあるので、期待したい。料金は通常の特急と同じで、乗車券プラス特急券100円が必要。一部の車両はワインバレー専用車両となる(要予約)。

762mm幅が残った謎――三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

おもしろローカル線の旅~~三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道(三重県)~~

 

今回のおもしろローカル線の旅は、線路の幅について注目してみたい。

 

日本の鉄道の線路幅は次の2タイプが多い。まずは国際的な標準サイズを元にした1435mmで、新幹線や私鉄の一部路線の線路幅がこのサイズだ。JRや私鉄など在来線には1067mmという線路幅が多い。ほかに1372mmという線路幅も、京王電鉄京王線や都営新宿線で使われている。

 

さて、そこで注目したいのが、今回紹介する、三重県を走る三岐(さんぎ)鉄道北勢(ほくせい)線と四日市あすなろう鉄道という2つの路線。この2つの路線は762mmという、ほかと比べるとかなり細い線路幅となっている。

↑三岐鉄道北勢線の線路。踏切を渡る軽自動車を比較してみても、762mmという線路幅の細さがよくわかる

 

↑コンパクトな車両に比べると集電用のパンタグラフがかなり大きく、ちょっとアンバランスに感じてしまう

 

↑三岐鉄道北勢線の車内。細い線路幅に合わせ車内の横幅もせまい。そのためシートに大人同士が座ると、このような状況になる

 

ちなみに762mmという線路幅はナローゲージとも言い、この線路幅の鉄道は軽便鉄道(けいべんてつどう)と呼ばれる。大正末期から昭和初期、全国さまざまなところに鉄道路線が敷かれていったころに、地方の鉄道や鉱山鉄道、森林鉄道などが採用したサイズだった。1435mmや1067mmといったサイズに比べて、小さいために建設費、車両費、維持費が抑えられるという利点がある。

 

一方で、ほかの鉄道路線と車両が共用できない、また貨車などの乗り入れできない、スピードが出せない、といった短所があり、鉄道が成熟するにしたがって、多くの軽便鉄道が線路幅を広げるなどの変更がなされ、あるいは廃線になるなどして消えていった。

 

現在、762mmという線路幅を採用している旅客線は、三重県内を走る三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道の2路線に加えて、富山県の黒部峡谷鉄道のみとなっている。黒部峡谷鉄道の場合は、山岳地帯、しかも峡谷沿いの険しい場所にダム工事用の鉄道を通すために、あえて軽便鉄道のサイズにした経緯がある。

 

では、三重県の平野部に、なぜ762mmという線路幅の鉄道が残ったのだろうか。

 

【762mm幅が残った謎】広げる機会を逸してしまった両路線

三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道の両路線は、いまでこそ運行している会社が違うものの、生まれてからいままで、似た生い立ちをたどってきた。762mmの線路幅の路線が残った理由には、鉄道の利用者が多かった時代に、線路の幅を広げる機会を逸してしまったからにほかならない。

 

路線が開業したのは、四日市あすなろう鉄道が1912(大正元)年8月(日永駅〜伊勢八王子駅=1976年廃駅に)、三岐鉄道北勢線が1914(大正3)年4月(西桑名駅〜楚原駅間)と、ほぼ同時期だ。

 

開業させたのは三岐鉄道北勢線が北勢鉄道、四日市あすなろう鉄道が三重軌道(後に三重鉄道となる)という会社だった。太平洋戦争時の1944(昭和19)年に両社を含めて三重県内の複数の鉄道会社が三重交通として合併する。

 

その後に三重交通は、三重電気鉄道と名を変え、さらに近畿日本鉄道と合併(1965年)という経過をたどり、それぞれが近鉄北勢線と、近鉄内部線(うつべせん)・八王子線となった。

 

三重電気鉄道と近畿日本鉄道が合併した前年に、三重電気鉄道三重線(いまの近鉄湯の山線)が762mmから1067mmに改軌している。1960年代は鉄道需要が高まりを見せた時代であり、利用者が急増していたそんな時代でもあった。湯の山線は、沿線に温泉地があり、その観光客増加を見込んだため、改軌された。

 

その後の、モータリゼーションの高まりとともに、地方の鉄道路線は、その多くが利用者の減少に苦しんでいく。線路幅を変更するための工事は、新路線を開業させるくらいの資金が必要となる。近鉄湯の山線のように利用者が増加していた時代に改軌を実現した路線がある一方で、近鉄北勢線と、近鉄内部線・八王子線の路線は762mmという線路幅のまま残されてしまった。

 

40年以上にわたり、運行を続けてきた近鉄も、路線の維持が困難な状況に追いこまれていった。

 

2003(平成15)年4月に、近鉄北勢線が三岐鉄道に運営を譲渡、さらに2015(平成27)年4月に近鉄内部線と八王子線が四日市あすなろう鉄道へ運営が移管された。ちなみに四日市あすなろう鉄道は、近鉄と四日市市がそれぞれ出資して運営する公有民営方式の会社として生まれた。

【三岐鉄道北勢線】見どころ・乗りどころがふんだんに

前ふりが長くなったが、まずは路線距離20.4km、西桑名駅〜阿下喜駅(あげきえき)間、所要1時間の三岐鉄道北勢線の電車から乗ってみよう。

↑三岐鉄道北勢線の電車は一部を除き、車体はイエロー。車体の幅は2.1mで、JR在来線の車両幅、約3m弱に比べるとスリムで、コンパクトに感じる

 

北勢線の車両の幅は2.1m。車両の長さは15mが標準タイプとなっている。ちなみにJR山手線を走るE235系電車のサイズは幅が2.95m、長さは19.5mなので、幅はほぼ3分の2、長さは4分の3といったところだ。

 

乗ると感じるのは、そのコンパクトさ。先に紹介した車内の写真のように、大人がシートに対面して座ると、通路が隠れてしまうほどだ。

 

北勢線の起点はJR桑名駅に隣接する西桑名駅となる。列車は朝夕が15〜20分間隔、日中は30分間隔で運転される。そのうち、ほぼ半分が途中の楚原駅(そはらえき)止まりで、残りは終点の阿下喜駅行きとなる。

↑JR桑名駅に隣接する北勢線の西桑名駅。ホームは1本で、阿下喜行きか楚原行き電車(朝夕発車の一部電車は東員・大泉行きもあり)が15〜30分おきに出発している

 

↑北勢線の電車は正面が平たいスタイルの電車がほとんどだが、写真の200系は湘南タイプという形をしている。同編成のみ三重交通当時の深緑色とクリーム色に色分けされる

 

ほかの路線では経験することができない面白さ

さて762mmという線路幅の北勢線。床下からのモーター音が伝わってくる。かつての電車に多い吊り掛け式特有のけたたましい音だ。さらに乗ると独特な揺れ方をする。横幅がせまく、その割に車高があるせいか、横揺れを感じるのだ。クーラーの室外機も昨今のように天井ではなく、車内の隅に鎮座している。

 

ただこうした北勢線の音や揺れ、車内の狭さは、ほかの路線では経験することができない面白さでもある。

 

途中の楚原駅までは、ほぼ住宅地が連なる。楚原駅を過ぎると、次の駅の麻生田駅(おうだえき)までの駅間は3.7kmと離れている。この駅間が北勢線のハイライトでもある。車窓からは広々した田畑が望める。車内からは見えないが、コンクリートブロック製のアーチが特徴の「めがね橋」や、ねじれた構造がユニークな「ねじれ橋」を渡る。楚原駅から麻生田駅へは、傾斜も急で吊り掛け式モーターのうなり音が楽しめるポイントだ。

↑橋脚のアーチ部分が美しい「めがね橋」を北勢線140形が渡る。楚原駅からは1.2km、徒歩で15分ほどの距離で行くことができる

 

麻生田駅から終点の阿下喜駅へは員弁川(いなべがわ)沿いを下る。西桑名駅からちょうど1時間。乗りごたえありだ。運賃は全区間乗車で片道470円、1日乗り放題パスは1100円で販売されている。この1日乗り放題パスは、北勢線とほぼ平行して走る三岐線の乗車も可能だ。北勢線と三岐線を乗り歩きたい人向けと言えるだろう。

 

阿下喜駅には駅に隣接して軽便鉄道博物館もある。開館は第1・3日曜日の10〜16時なので、機会があれば訪れてみたい。

↑阿下喜駅に隣接する軽便鉄道博物館には、モニ226形という車両が保存されている。1931(昭和6)年に北勢線を開業させた北勢鉄道が導入した電車で荷物を積むスペースがある

 

さて北勢線の現状だが、順調に乗客数も推移してきている。2003年に三岐鉄道に移管され、運賃値上げの影響もあり一時期、落ち込んだ。その後に車両を冷房化、高速化、また曲線の改良工事などで徐々に乗客数も持ち直し、最近では近鉄当時の乗客数に匹敵するまで回復してきた。沿線の地元自治体からの支援が必要な状況に変わりはないが、明るい兆しが見え始めているように感じた。

【四日市あすなろう鉄道】車両リニューアルでイメージUP!

四日市あすなろう鉄道は全線が四日市市内を走る鉄道だ。

 

路線はあすなろう四日市駅〜内部駅間を走る内部線5.7kmと、日永駅〜西日野駅間の八王子線1.3kmと、2本の路線がある。西日野へ行く路線に八王子線という名が付く理由は、かつて同路線が伊勢八王子駅まで走っていたため。集中豪雨により西日野駅〜伊勢八王子駅間が1974(昭和49)年に不通となり、復旧されることなく、西日野駅が終着駅となった。

 

電車は起点のあすなろう四日市駅から内部駅行きと、西日野駅行きが出ている。それぞれ30分間隔、朝のみ20分間隔で走る。路線の距離が短いため、あすなろう四日市駅〜内部駅間で18〜20分ほど。あすなろう四日市駅〜西日野駅間にいたっては8分で着いてしまう。

 

四日市あすなろう鉄道になって、大きく変わったのが車両だ。近鉄時代の昭和50年代に造られた車両を徹底的にリニューアル。車内は、窓側に1人がけのクロスシートが並ぶ形に変更された。通路も広々していて、通勤通学も快適となった。同車両は、技術面で優れた車両に贈られる2016年のローレル賞(鉄道友の会が選出)にも輝いている。たとえ762mmと線路の幅は細くとも、居住性に優れた車両ができるということを示したわけだ。

↑四日市あすなろう鉄道となり、旧型車をリニューアル、新260系とした。同車両は車内環境の向上などが評価され、2016年に鉄道友の会ローレル賞を受賞している

 

↑リニューアルされた新260系は、ブルーの車両に続いて薄いグリーンの車両も登場。3両編成に加えて2両編成も用意され、輸送量に応じた運用が行われている

 

↑新260系の明るい車内。1人掛けクロスシートで、座り心地も良い。通路は広く造られていて、立っている乗客がいても圧迫感を感じることなく過ごすことができる

 

↑車内には吊り革(車内端にはあり)の代わりに座席にハート型の手すりが付けられている。車内が小さめなこともあり、吊り革よりこの手すりのほうが圧迫感なく感じる

 

まるで模型の世界のような可愛らしい駅や車両基地

近鉄四日市駅の高架下に同路線の起点、あすなろう四日市駅がある。ホームは1面、2本の線路から内部駅行き、西日野駅行きが出発する。
料金はあすなろう四日市駅から日永駅・南日永駅までが200円、それより先は260円となる。この200円と260円という料金以外はない。1dayフリーきっぷは550円。全線乗車する時や、また途中下車する場合には、フリーきっぷの方がおトクになる。

↑四日市あすなろう鉄道の車両の形をした1dayフリーきっぷ550円。あすなろう四日市駅の窓口で購入できる

 

↑内部行きと西日野行きが並ぶあすなろう四日市駅。朝は3両編成の新260系がフル回転で走っている

 

車両は現在、新260系が大半を占めている。新会社に移行したあとに、リニューアルされた車両だけに、きれいで快適。乗っても762mm幅ならではの狭さが感じられなかった。乗り心地も一般的な電車と差がない。

 

路線は内部線、八王子線ともに四日市の住宅街を走る。面白いのは内部線と八王子線が分岐する日永駅。駅の手前、四日市駅側で路線が分岐、八王子線用のホームはカーブの途中に設けられている。急カーブに車両が停車するため、ドアとホームの間に、やや隙間ができる。

 

ちなみにこの急カーブ、半径100mというもの。新260系などの車両の先頭部が、前にいくにしたがい、ややしぼむ形をしているが、この半径100mという急カーブで、車体がホームにこすらないようにするための工夫だ。

↑日永駅で内部線と八王子線の線路が分岐している。手前が内部行き電車。向かいが八王子線の電車。同駅で必ず内部線と八王子線の電車がすれ違うダイヤとなっている

 

ちなみに内部線は国道1号とほぼ平行して線路が敷かれている。途中、追分駅前を通る道は旧東海道そのものだ。古い町並みも一部に残っているので、時間に余裕があれば歩いてみてはいかがだろう。

 

八王子線の終点、西日野駅は日永駅から1つ目、行き止まりホームで駅舎もコンパクトだ。

 

内部線の終点は路線名のまま内部駅。この駅も味わいがある。駅の建物を出ると、すぐ右手に引込線があり、検修庫に電車が入っている場合は、駅のすぐ横まで先頭車が顔をのぞかせている。762mmという線路幅ならではの小さめの車両が顔をのぞかせるシーンは、普通サイズの車両のような威圧感もなく、見ていて何ともほほ笑ましい。それこそ鉄道模型のジオラマの世界が再現されているような、不思議な印象が感じられた。

↑内部駅を出たすぐの横にある検修庫。鉄道模型のジオラマの世界のような趣がただよう。普通サイズの電車ではとても味わえないサイズ感の違いが楽しめる

 

帰りは偶然だが、古くから走るパステル車両に乗り合わせた。3両編成のうち中間車両はロングシートで、乗るとナローゲージ特有の狭さが感じられた。昭和生まれの1編成(265・122・163号車)は何と2018年9月で引退する予定とされている。昔ながらの内部線・八王子線の雰囲気が味わえるのもあと少しとなった。

↑新260系が増えているなか、パステルカラーの旧車両の面影を残した車両も1編成3両のみ残っている。2018年9月には引退となる予定。乗るならいまのうちだ

日本一短い地下鉄となぜか電化されない路線――名古屋の不思議2路線を乗り歩く【名古屋市営地下鉄上飯田線/東海交通事業城北線】

おもしろローカル線の旅~~名古屋市営地下鉄上飯田線・東海交通事業城北線(愛知県)~~

 

今回紹介する名古屋市営地下鉄上飯田線/東海交通事業城北線の2路線。東海地方にお住まいの方でも、あまりご存知ないのではないだろうか? 沿線に住む人以外には馴染みの薄い路線となっている。だが、2路線とも謎が多く、実に不思議な路線なのだ。

 

【地下鉄上飯田線の謎】なぜ路線距離が0.8kmと短いのか?

まずは名古屋市営地下鉄上飯田線(以降、上飯田線と略)から。こちらはローカル線とは言えないかもしれないものの、異色路線として紹介しよう。

 

上飯田線は平安通駅(へいあんどおりえき)と上飯田駅(かみいいだえき)を結ぶ路線で、その距離は0.8kmしかない。わずかひと駅区間しかなく、上飯田駅より北は、名古屋鉄道(以降、名鉄と略)小牧線となる。そのため、ほぼ全列車がひと駅区間のみ走るのではなく、小牧線との相互乗り入れを行っている。

 

ちなみに0.8kmという路線距離は日本の地下鉄路線のなかで、最も短い。まさか記録を作るために短くしたのではなかろうが、0.8kmという短さは極端だ。なぜこれほどまでに短い路線になってしまったのだろう。

↑路線図ではわずかひと駅区間のみラインカラーが変わっているのがおもしろい

 

当初は名古屋市の中央部まで延ばすプランがあった。しかし−−

上飯田線が誕生したのは2003(平成15)年のこと。開業してから今年でちょうど15年となる。上飯田線が造られた理由は、名古屋市中央部への連絡を良くするためだった。

 

かつては、上飯田駅からは名古屋市電御成通(おなりどおり)線が走り、その市電に乗れば平安通や大曽根へ行けて便利だった。ところが、高度成長期、路面電車がじゃまもの扱いとなり、御成通線も1971(昭和46)年に廃止されてしまった。

 

それ以降、小牧線の上飯田駅は起点駅でありながら、鉄道駅との接続がなく、“陸の孤島”となっていた。その不便さを解消すべく造られたのが上飯田線だった。最小限必要なひと駅区間のみを、先行して開業させた。

↑名古屋市営地下鉄上飯田線の起点となる平安通駅。この駅で名古屋市営地下鉄の名城線と連絡している。車両は名鉄の300系

 

↑上飯田線の終点・上飯田駅。終点でもあり名鉄小牧線との境界駅となる。駅の表示には名古屋市交通局のマークと名鉄の両マークが併記されている

 

利用者が伸びない将来を考えて延伸プランは白紙に

上飯田線の路線着工は1996(平成8)年のこと。当初は0.8km区間に留まらず、名古屋市営地下鉄東山線の新栄町駅、さらに南にある中区の旧丸太町付近まで延ばす計画だった(1992年に答申の「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画」による)。

 

ところが、2000年以降、大都市圏の人口が増加から減少傾向に転じ、新線計画が疑問視されるようになった。そのため名古屋市は当初の計画を見直し、新たな路線開業は行わないとした。こうした経緯もあり、今後も上飯田線は0.8kmという路線距離のままの営業が続けられていきそうだ。

 

希少な名古屋市交通局7000形に乗るなら朝夕に訪れたい

上飯田線の電車はすべて平安通駅での折り返し運転。朝夕は10分間隔、日中でも15分間隔で、便利だ。平安通駅〜上飯田駅の乗車時間は、わずか1分あまり。

 

さすがにひと駅区間は短いので、乗車したら上飯田駅の隣駅、味鋺駅(あじまえき)、もしくは小牧駅や犬山駅まで足を伸ばしてみてはいかがだろう。

 

味鋺駅付近からは、地下を出て、外を走り始める。郊外電車の趣だ。小牧線の終点、犬山駅までは、平安通駅から片道30分ちょっと。犬山駅で接続する名鉄犬山線の電車で名古屋駅方面へ戻ってきてもいい。

↑上飯田線を走る電車のほとんどが名古屋鉄道の300系だ。電車は平安通駅発の小牧駅行きや犬山駅行きが多い。平安通駅から犬山駅までは所要時間30分ほど

 

上飯田線を走る電車は、ほとんどが名古屋鉄道の300系だ。ヘッドライトが正面中央部の高さにない不思議な顔立ちをしている。客席はロングシートとクロスシート併用タイプだ。

 

この上飯田線には名古屋市営地下鉄(運行する名古屋市交通局が所有)の電車も走っている。それが7000形だ。この7000形、4両編成×2本しか造られなかった車両で、この路線ではレアな存在となっている。切れ長のライトで、個性的な顔立ちをしている。

↑名古屋市交通局の7000形。2編成しか走っておらず、レアな存在。朝夕の時間帯のみを走ることが多い。フロントのピンク部分が色落ちしているのがちょっと残念だった

 

日中はあまり見かけることのない車両でもある。7000形に乗りたい、撮りたい場合は、朝夕に訪れることをオススメしたい。

【東海交通事業城北線の謎】なぜJR東海城北線ではないのか?

東海交通事業城北線(じょうほくせん・以下、城北線と略)は、中央本線の勝川駅(かちがわえき)と東海道本線の枇杷島駅(びわじまえき)間の11.2kmを結ぶ。

 

この路線には不思議な点が多い。まずはその運行形態について。

 

城北線は名古屋市の北側を縁取るように走る。起点となる勝川駅は、名古屋市に隣接する春日井市の主要駅で、JR中央本線の勝川駅は乗降客も多い。終点の枇杷島駅は、東海道本線に乗れば名古屋駅から1つめの駅だ。名古屋から近い両駅を結ぶこともあって、利用者は多いように思える。しかも全線が複線だ。

 

それにも関わらず非電化でディーゼルカーが使われている。しかも1両での運転だ。列車本数も朝夕で20〜30分に1本。日中は1時間に1本という、いわば閑散ローカル線そのものなのである。

↑東海交通事業城北線の車両はキハ11形のみ。朝夕を含め全時間帯、ディーゼルカー1両が高架橋を走る光景を見ることができる。正面に東海交通事業=TKTの社章が入る

 

↑枇杷島駅の駅舎にはJR東海と東海交通事業の社章が掲げられる。同駅の1・2番線が城北線の乗り場となっている

 

↑非電化にも関わらず、ほぼ全線が高架で複線という城北線。線路は名古屋第二環状自動車道の高架橋に沿って設けられている

 

JR東海の路線だが、列車を走らせるのは東海交通事業

城北線は運営方法も不思議だ。

 

路線を保有するのはJR東海で、JR東海が第一種鉄道事業者となっている。運行を行っているのはJR東海でなく、子会社の東海交通事業だ。城北線では、この東海交通事業が第二種鉄道事業者となっている。

 

さらに不思議なのは他線との接続。

 

終点の枇杷島駅のホームは東海道本線と併設され、乗り継ぎしやすい。

 

一方の勝川駅は、中央本線のJR勝川駅と離れている。JR勝川駅には城北線乗り入れ用のスペースが確保されているのだが、乗り入れていない。乗り入れをしていないどころか、両線の高架橋がぷっつり切れている。両鉄道の駅名は同じ勝川駅なのに、駅の場所は500mほど離れていて、7分ほど歩かなければならない。

 

JRの路線以外に、路線の途中で2本の名鉄路線とクロスしているが、接続はなく、最も近い城北線の小田井駅と名鉄犬山線の上小田井駅(かみおたいえき)でさえ約0.5kmの距離がある。

 

利用する立場から言えば、不便である。なぜこのような状況になっているのだろう。

↑手前はJR中央本線の高架橋。右奥が城北線の勝川駅がある高架橋。写真のようにぷっつりと両線の高架橋が切れている。さらにJR勝川駅と城北線勝川駅は500mほど離れている

 

↑城北線の勝川駅ホームから200m近く歩道が設けられている。その横に城北線用の留置線があり保線用の車両などが置かれている。先に見えるのがJR中央本線の高架橋

 

↑城北線ではICカードが使えず、車内清算のみ可能(一部駅では乗車券を販売)。枇杷島駅で下車するときは降車証明書が渡され、JR東海道本線へは一度ゲートを出て乗り換える

 

40年間にわたり必要となる路線のレンタル料

JR東海は現状、城北線を建設した鉄道建設・運輸施設整備支援機構(着工時は日本鉄道建設公団)から路線を借りて列車を走らせている。当然、そのための借損料を支払っている。借損料とは造った鉄道建設・運輸施設整備支援機構に対して払う賃借料のこと。「借りている路線の消耗分の賃料」という名目になっている。その金額は膨大で年間49億円とされている。この支払いは開業してから40年(城北線の全線開業は1993年)という長期にわたって行われる。

 

借損料は、現時点の設備にかかるもので、もし電化や路線延長など改良工事を“追加発注”してしまうと、支払う金額は、さらに上がってしまう。

 

投資金額に見合った収益が上がれば良いのだろうが、城北線の開業時点で、そこまでは見込めないと考えたのだろう。そのため、運営は子会社に任せ、運行も細々と続けられている。現状、駅の改良工事などの予定もなく、いわば塩漬け状態になっている。

 

路線の途中で上下線が大きくわかれる理由は?

城北線の路線は、不相応と思えるぐらい、立派な路線となっている。なぜこのような路線が造られたのだろう。小田井駅~尾張星の宮駅間にそのヒントがある。

↑小田井駅〜尾張星の宮駅間で上下線が大きく離れ、また高低差がある。ここから東海道本線の稲沢方面へ路線が分岐する予定だった

 

この駅間では上の写真のように上下線が離れ、また高低の差がある。ここから東海道本線の稲沢方面へ分岐線が設けられる予定だった。稲沢駅には旅客駅に加えてJR貨物の拠点駅がある。

 

下の地図を見ていただこう。名古屋周辺のJRの路線と、未成線の路線図だ。城北線と未成線の瀬戸線を結びつけることで、中央本線と東海道本線との間を走る貨物列車をスムーズに走らせたい計画だった。

 

かつて名古屋中心部を迂回する遠大な路線計画が存在した

JRとなる前の国鉄時代。輸送力増強を目指して、各地で新線計画が多く立てられた。城北線もその1つの路線だった。前述の地図を見てわかるように、城北線は中央本線と東海道本線を短絡する路線であることがわかる。

 

この地図には入っていないが、東側に東海道本線の岡崎駅〜中央本線の高蔵寺駅間を結ぶ岡多線・瀬戸線が同時期に計画され造られた。その路線は現在、愛知環状鉄道線として利用されている。

 

この愛知環状鉄道線と城北線をバイパス線として利用すれば、列車の運行本数が多い名古屋駅を通らず、東海道本線の貨物列車をスムーズに走らせることができると考えられた。

 

首都圏で言えば、東京都心を通る山手貨物線を走らずに貨物輸送ができるように計画されたJR武蔵野線のようなものである。

↑中央本線を走る石油輸送列車。四日市〜南松本間を走るが、名古屋近辺では一度、稲沢駅まで走り、そこでバックして中央本線、または関西本線へ向かうため不便だ

 

↑名古屋の東側を走る愛知環状鉄道線も名古屋のバイパスルートとして生まれた。同路線は国鉄清算事業団が賃借料を引き継ぎ開業、城北線のように借損料が発生しなかった

 

↑流通拠点、名古屋貨物ターミナル駅は名古屋臨海高速鉄道あおなみ線の荒子駅に隣接している。貨物列車は全列車があおなみ線経由で入線する(写真は稲沢駅行き貨物列車)

 

↑城北線や愛知環状鉄道線と同じ時期に造られた南港貨物線の跡。東海道本線から名古屋貨物ターミナル駅へ直接向かう路線として着工されたが、現在その跡が一部に残る

 

借損料の支払いが終了する2032年以降、城北線は変わるか

名古屋近辺では、東海道本線から名古屋貨物ターミナル駅へ直接乗り入れるために南港貨物線の工事も行われた。この南港貨物線も、当初に計画された貨物列車を走らせるというプランは頓挫し、一部の高架施設がいまも遺構として残っている。

 

貨物列車の需要は伸びず、また貨物列車もコンテナ列車が増え、高速化した。こうしたことですべての路線計画が立ち消えとなり、一部の路線が旅客線として形を変えて復活し、開業した。

 

さて城北線の話に戻ろう。城北線の借損料の支払いは、これから14年後の2032年まで続く。ここで終了、めでたくJR東海が所有する路線となる。

 

そこから城北線の新たな時代が始まることになるのだろう。複雑な経緯が絡む城北線の問題。せっかくの公共財なのだから、もっと生かす方法がなかったのだろうか。

 

国鉄時代の負の遺産にいまも苦しめられる構造に、ちょっと残念な思いがした。

カラフルトレインと独特な路面電車が走る稀有な街――“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅~~豊橋鉄道渥美線(愛知県)~~

 

愛知県の東南端に位置する豊橋市。この豊橋市を中心に電車を走らせるのが豊橋鉄道だ。今回はまず、豊橋鉄道がらみのクイズから話をスタートさせたい。

【クイズ1】普通鉄道+路面電車を走らせる会社は全国に何社ある?

【答え1】全国で5社が普通鉄道+路面電車を走らせる

豊橋鉄道は渥美線という普通鉄道(新幹線を含むごく一般的な鉄道を意味する)の路線と、市内線(東田本線)という路面電車を走らせている。こうした普通鉄道と路面電車の両方を走らせている鉄道会社は5社しかない(公営の鉄道事業者を除く)。

 

ここで普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社を挙げておこう。

 

東京急行電鉄(東京都・神奈川県)、京阪電気鉄道(大阪府・京都府など)、富山地方鉄道(富山県)、伊予鉄道(愛媛県)に加えて、豊橋鉄道の計5社だ。東京急行電鉄が走らせる路面電車(世田谷線)は、道路上を走る併用軌道区間がほとんどなく、含めるかどうかは微妙なところなので、実際には4社と言っていいかもしれない。

 

このように豊橋鉄道は全国でも数少ない普通鉄道と路面電車を走らせる、数少ない鉄道会社なのだ。

↑豊橋市内を走る路面電車・豊橋鉄道市内線(東田本線)。写真はT1000形で、「ほっトラム」の愛称を持つ。低床構造の車両で2008年に導入された

 

【クイズ2】1の答えのなかで、県庁所在地でない街を走る鉄道は?

【答え2】県庁所在地でない街を走るのは豊橋鉄道のみ

前述した普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社は、ほとんどが都・府・県庁所在地を走る鉄道だ。

 

5社のうち唯一、豊橋鉄道が走る豊橋市のみ県庁所在地ではない。豊橋市の人口は約37万人で、首都圏で同規模の人口を持つ街をあげるとしたら川越市、所沢市(両市とも埼玉県)が近い。人口30万人台の都市で、普通鉄道と路面電車の両方が走る、というのは異色の存在と言うことができるだろう。

 

豊橋市は愛知県の中核都市とはいえ、豊橋鉄道を巡る環境は決して恵まれていない。にも関わらず豊橋鉄道は優良企業であり、年々、手堅く収益を上げ続けている元気な地方鉄道だ。

 

今回は、そうした“元気印”の豊橋鉄道渥美線と市内線を巡る旅を楽しもう。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべてが1800系。もと東京急行電鉄の7200系だ。電車は3両×10編成あり、すべての色が異なる。写真は1808号車で編成名は「椿」

 

渥美線、市内線ともに90年以上、豊橋を走り続けてきた

豊橋鉄道の歴史を簡単に振り返っておこう。

 

1924(大正13)年1月:渥美電鉄が高師駅(たかしえき)〜豊島駅間を開業

1925(大正14)年5月:新豊橋駅〜田原駅(現・三河田原駅)間が開業

1925(大正14年)7月:豊橋電気軌道が市内線を開業、以降、路線を延長

1940(昭和15)年:名古屋鉄道(以降、名鉄と略)が渥美電鉄を合併

1949(昭和24)年:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更

1954(昭和29)年:豊橋交通が豊橋鉄道に社名を変更。同年に名鉄が渥美線を豊橋鉄道へ譲渡

 

歴史を見ると、太平洋戦争前までは、渥美線と市内線(東田本線)は別の歩みをしていた。その後に名鉄に吸収合併された渥美線が、名鉄の経営から離れ、市内線を走らせていた豊橋鉄道に合流した。ちなみに、現在も豊橋鉄道は名鉄の連結子会社となっている。

 

【豊橋鉄道渥美線】全10色の「カラフルトレイン」が沿線を彩る

豊橋鉄道は旅をする者にとって、乗って楽しめる鉄道でもある。

 

まずは豊橋鉄道渥美線の旅から。渥美線の電車は、その名もずばり「カラフルトレイン」の名が付く。

 

渥美線の電車は、とにかくカラフルだ。3両×10編成の電車が使われるが、すべての色が違う。1801号車は赤い「ばら」、1802号車は茶色の「はまぼう」、1803号車はピンクで「つつじ」、というように各編成には、沿線に咲く草花の愛称が付けられる。

↑赤い車両は1801号で編成名は「ばら」。渥美線の電車は沿線を彩る花や植物にちなんだカラーに正面やドアなどが塗られ、「カラフルトレイン」の名が付けられている

 

↑カラフルトレインの車体には写真のようにカラフルなイラストが描かれる。10編成ある車体の違いを見比べても楽しい

 

電車は元東京急行電鉄の7200系。1967(昭和42)年に誕生したステンレス車で東急では田園都市線、東横線などを長年、走り続けた。2000(平成12)年には全車両がすでに引退している。豊橋鉄道では、この東急を引退した年に計30両を譲り受けた。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべて1800系。元東急の7200系で、製造されたのは昭和42年から。東急車輌の銘板が掲げられる。車歴はほぼ50年だが大事に使われている

 

生まれた年を考慮すると、かなりの古参の車両ではあるが、豊橋鉄道では、古さを感じさせないカラフルなカラーに模様替えされている。

凝ったつくりの1日フリー乗車券。乗車記念にもぴったり

渥美線の起点となる新豊橋駅。駅名が違うものの、JR・名鉄の豊橋駅を出ればすぐ。アクセスも良く駅舎も快適だ。

↑渥美線はJR豊橋駅に隣接した新豊橋駅が起点となる。新豊橋駅は2009年に新装された駅舎で、豊橋駅東口・南口の連絡デッキ(自由通路階)とつながり利用しやすい

 

渥美線を旅するならば新豊橋駅で「1日フリー乗車券(1100円)」を購入したい。単に新豊橋駅と終点の三河田原駅を往復するだけならば、通常切符の方が割安だが(520円×2)、途中駅にも立ち寄るならばフリー乗車券のほうが断然におトクとなる。

 

さらに、この1日フリー乗車券。鉄道好きな人たちの心をくすぐる工夫がされている。ジャバラ状になっていて、広げると渥美線のカラフルトレイン10編成のイラストや解説を楽しむことができるのだ。使用後にも大事に保存してきたい、そんな乗車券だ。

↑豊橋鉄道の1日フリー乗車券。凝ったつくりで表裏に「カラフルトレイン」各色の車両説明とともに沿線の案内がプリントされる。記念に保存しておきたい乗車券だ

 

↑渥美線の新豊橋駅のホームには、フグなどの地元の産品のイラストが描かれる

 

乗車時間は片道40分弱。渥美半島の景色を楽しみながら走る

渥美線は新豊橋駅〜三河田原駅(みかわたはらえき)間の18.0kmを結ぶ。乗車時間は40分弱で、長くもなく、短くもなく、ほどほど楽しめる路線距離だ。

新豊橋駅から、しばらく東海道本線に並走して最初の駅、柳生橋駅へ到着。さらに東海道本線を越え、東海道新幹線の線路をくぐり南下する。

 

しばらく住宅街を見つつ愛知大学前駅へ。このあたりからは愛知大学のキャンパスや、高師緑地など沿線に緑が多く見られるようになる。

 

高師緑地の先にある高師駅(たかしえき)には渥美線の車庫があり、検修施設などをホームから見ることができる。

↑高師駅の南側に車両基地が設けられる。留置線に停まるのは1805号の「菖蒲」。菖蒲は梅雨の時期、豊橋市の賀茂しょうぶ園や田原市の初立池公園などで楽しめる

 

↑1807号「菜の花」の車内。シートは菜の花柄。吊り革も黄色と菜の花のイメージで統一されている。乗っても楽しめるのが豊橋鉄道渥美線の魅力だ

 

芦原駅(あしはらえき)を過ぎると沿線の周辺には畑を多く見かけるようになる。路線が通る渥美半島の産物はキャベツ、ブロッコリー、レタス、スイカ、露地メロンなど。渥美線の1810号車は「菊」が愛称となっているが、電照菊を栽培するビニールハウスの灯りも、この沿線の名物になっている。

 

そうした畑を見つつ乗車すれば、終点の三河田原駅へ到着する。同駅からは渥美半島の突端、伊良湖岬(いらこみさき)行きのバスが出ている。

↑渥美線の終点・三河田原駅。2013年10月に駅舎が改築された。1980年代まで貨物輸送に利用されていたため駅構内はいまも広々としている

【豊橋鉄道市内線】豊橋市内を走る路面電車も見どころいっぱい

豊橋鉄道では路面電車の路線を「豊鉄市内線」と案内している。路線名は東田(あずまだ)本線が正式な名前だ。ここでは市内線という通称名で呼ぶことにしよう。

 

ちなみに東海中部地方では、豊橋鉄道市内線が唯一の路面電車でもある。

 

市内線の路線は駅前〜赤岩口間の4.8kmと、井原〜運動公園前間の0.6kmの計5.4kmである。

 

路面電車は豊橋駅東口にある「駅前」停留場から発車する。行き先は「赤岩口(あかいわぐち)」と「運動公園前」がメインだ。途中の「競輪場前」止まりも走っている。

↑豊橋駅ビル(カルミア)の前に広がる連絡デッキを下りた1階部分に「駅前」停留場がある。写真は「赤岩口」行きの市内線電車。車輌はモ3500形で元都電荒川線7000形

 

名鉄や都電の譲渡車輌に加えて新製した低床車輌も走る

市内線で使われる車輌は5種類。

 

まず低床のLRV(Light Rail Vehicleの略)タイプのT1000形「ほっトラム」は、1925年以来、約83年ぶりとなる自社発注の新製車輌でもある。

 

ほか、モ3200形は名鉄岐阜市内線で使われていたモ580形3両を譲り受けたもの。モ3500形は東京都交通局の都電荒川線を走った7000形で、4両が走る。

 

モ780形は名鉄岐阜市内線を走ったモ780形で、市内線では7両が走り、主力車輌として活躍している。そのほか、モ800形という車輌も1両走る。こちらは名鉄美濃町線を走っていた車輌だ。

↑市内線の主力車輌となっているモ780形。地元信用金庫のラッピング広告が施された781号車など、華やかな姿の車輌が多い

 

↑元名鉄岐阜市内線を走った3203号車。クリーム地に赤帯のカラーは豊鉄標準カラーと呼ばれる。標準カラーだが、実際にはこの色の車輌は少なく希少性が高い

 

↑3201号車は「ブラックサンダー号」。豊橋で生まれ、現在、全国展開するお菓子のパッケージそのものの車体カラー。市内線の「黒い雷神」として人気者になっている

 

↑「おでんしゃ」は車内でおでんや飲み物を楽しみつつ走る、秋からのイベント電車だ。秋の9月24日までは納涼ビール電車が運行されて人気となっている

 

市内線を走る電車は、T1000形以外は、名鉄と都電として活躍した車両が多い。豊橋鉄道へやってきたこれらの電車たち。独特のラッピング広告をほどこされ、見ているだけでも楽しい電車に出会える。

 

日本一の急カーブに加えて、国道1号を堂々と走る姿も名物に

市内線は豊橋駅から、豊橋市街を通る旧東海道方面や、三河吉田藩の藩庁がおかれた吉田城趾方面へ行くのに便利な路線だ。

 

興味深いのは、市役所前から東八町(ひがしはっちょう)にかけて国道1号を走ること。国道1号を走る路面電車は、全国を走る路面電車でもこの豊橋鉄道市内線だけ。自動車や長距離トラックと並走する姿を目にすることができる。

↑豊橋公園前電停付近から東八町電停方面を望む。国道1号の中央部に設けられた市内線の線路を走るのはT1000形「ほっトラム」

 

国道1号を通るとともに、面白い光景を見ることができるのが井原電停付近。井原電停から運動公園前へ行く電車は、交差点内で急カーブを曲がる。このカーブの大きさは半径11mというもの。このカーブは日本の営業線のなかでは最も急なカーブとされている。

 

ちなみに普通鉄道のカーブは最も急なものでも半径60mぐらい。それでもかなりスピードを落として走ることが必要だ。

 

路面電車でも半径30mぐらいがかなり急とされているので、半径11mというカーブは極端だ。このカーブを曲がれるように、同市内線の電車は改造されている。

 

T1000形は、この急カーブを曲がり切れないため、運動公園前への運用は行われていないほどだ。日本で最も厳しいカーブを路面電車が曲がるその光景はぜひとも見ておきたい。

↑井原電停交差点の半径11mという急カーブを走るモ780形。見ているとほぼ横滑りするかのように、また台車もかなり曲げつつスピードを落として走り抜ける

 

赤岩口へ向かう電車は井原電停の先を直進する。赤岩口には同線の車輌基地がある。

 

この赤岩口も、同路線の見どころの1つ。車庫から出庫する電車は市内線に入る際に一度、道路上に設けられた折り返し線に入って、そこでスイッチバックして赤岩口電停へ入る。

 

折り返し線は道路中央にあり、通行する自動車の進入防止の柵もなく、何とも心もとない印象だが、通行するドライバーも慣れているのだろう。白線にそって電車の線路を避けて通る様子が見受けられる。

 

カラフルトレインと独特な路面電車が走る稀有な街――“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅~~豊橋鉄道渥美線(愛知県)~~

 

愛知県の東南端に位置する豊橋市。この豊橋市を中心に電車を走らせるのが豊橋鉄道だ。今回はまず、豊橋鉄道がらみのクイズから話をスタートさせたい。

【クイズ1】普通鉄道+路面電車を走らせる会社は全国に何社ある?

【答え1】全国で5社が普通鉄道+路面電車を走らせる

豊橋鉄道は渥美線という普通鉄道(新幹線を含むごく一般的な鉄道を意味する)の路線と、市内線(東田本線)という路面電車を走らせている。こうした普通鉄道と路面電車の両方を走らせている鉄道会社は5社しかない(公営の鉄道事業者を除く)。

 

ここで普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社を挙げておこう。

 

東京急行電鉄(東京都・神奈川県)、京阪電気鉄道(大阪府・京都府など)、富山地方鉄道(富山県)、伊予鉄道(愛媛県)に加えて、豊橋鉄道の計5社だ。東京急行電鉄が走らせる路面電車(世田谷線)は、道路上を走る併用軌道区間がほとんどなく、含めるかどうかは微妙なところなので、実際には4社と言っていいかもしれない。

 

このように豊橋鉄道は全国でも数少ない普通鉄道と路面電車を走らせる、数少ない鉄道会社なのだ。

↑豊橋市内を走る路面電車・豊橋鉄道市内線(東田本線)。写真はT1000形で、「ほっトラム」の愛称を持つ。低床構造の車両で2008年に導入された

 

【クイズ2】1の答えのなかで、県庁所在地でない街を走る鉄道は?

【答え2】県庁所在地でない街を走るのは豊橋鉄道のみ

前述した普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社は、ほとんどが都・府・県庁所在地を走る鉄道だ。

 

5社のうち唯一、豊橋鉄道が走る豊橋市のみ県庁所在地ではない。豊橋市の人口は約37万人で、首都圏で同規模の人口を持つ街をあげるとしたら川越市、所沢市(両市とも埼玉県)が近い。人口30万人台の都市で、普通鉄道と路面電車の両方が走る、というのは異色の存在と言うことができるだろう。

 

豊橋市は愛知県の中核都市とはいえ、豊橋鉄道を巡る環境は決して恵まれていない。にも関わらず豊橋鉄道は優良企業であり、年々、手堅く収益を上げ続けている元気な地方鉄道だ。

 

今回は、そうした“元気印”の豊橋鉄道渥美線と市内線を巡る旅を楽しもう。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべてが1800系。もと東京急行電鉄の7200系だ。電車は3両×10編成あり、すべての色が異なる。写真は1808号車で編成名は「椿」

 

渥美線、市内線ともに90年以上、豊橋を走り続けてきた

豊橋鉄道の歴史を簡単に振り返っておこう。

 

1924(大正13)年1月:渥美電鉄が高師駅(たかしえき)〜豊島駅間を開業

1925(大正14)年5月:新豊橋駅〜田原駅(現・三河田原駅)間が開業

1925(大正14年)7月:豊橋電気軌道が市内線を開業、以降、路線を延長

1940(昭和15)年:名古屋鉄道(以降、名鉄と略)が渥美電鉄を合併

1949(昭和24)年:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更

1954(昭和29)年:豊橋交通が豊橋鉄道に社名を変更。同年に名鉄が渥美線を豊橋鉄道へ譲渡

 

歴史を見ると、太平洋戦争前までは、渥美線と市内線(東田本線)は別の歩みをしていた。その後に名鉄に吸収合併された渥美線が、名鉄の経営から離れ、市内線を走らせていた豊橋鉄道に合流した。ちなみに、現在も豊橋鉄道は名鉄の連結子会社となっている。

 

【豊橋鉄道渥美線】全10色の「カラフルトレイン」が沿線を彩る

豊橋鉄道は旅をする者にとって、乗って楽しめる鉄道でもある。

 

まずは豊橋鉄道渥美線の旅から。渥美線の電車は、その名もずばり「カラフルトレイン」の名が付く。

 

渥美線の電車は、とにかくカラフルだ。3両×10編成の電車が使われるが、すべての色が違う。1801号車は赤い「ばら」、1802号車は茶色の「はまぼう」、1803号車はピンクで「つつじ」、というように各編成には、沿線に咲く草花の愛称が付けられる。

↑赤い車両は1801号で編成名は「ばら」。渥美線の電車は沿線を彩る花や植物にちなんだカラーに正面やドアなどが塗られ、「カラフルトレイン」の名が付けられている

 

↑カラフルトレインの車体には写真のようにカラフルなイラストが描かれる。10編成ある車体の違いを見比べても楽しい

 

電車は元東京急行電鉄の7200系。1967(昭和42)年に誕生したステンレス車で東急では田園都市線、東横線などを長年、走り続けた。2000(平成12)年には全車両がすでに引退している。豊橋鉄道では、この東急を引退した年に計30両を譲り受けた。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべて1800系。元東急の7200系で、製造されたのは昭和42年から。東急車輌の銘板が掲げられる。車歴はほぼ50年だが大事に使われている

 

生まれた年を考慮すると、かなりの古参の車両ではあるが、豊橋鉄道では、古さを感じさせないカラフルなカラーに模様替えされている。

凝ったつくりの1日フリー乗車券。乗車記念にもぴったり

渥美線の起点となる新豊橋駅。駅名が違うものの、JR・名鉄の豊橋駅を出ればすぐ。アクセスも良く駅舎も快適だ。

↑渥美線はJR豊橋駅に隣接した新豊橋駅が起点となる。新豊橋駅は2009年に新装された駅舎で、豊橋駅東口・南口の連絡デッキ(自由通路階)とつながり利用しやすい

 

渥美線を旅するならば新豊橋駅で「1日フリー乗車券(1100円)」を購入したい。単に新豊橋駅と終点の三河田原駅を往復するだけならば、通常切符の方が割安だが(520円×2)、途中駅にも立ち寄るならばフリー乗車券のほうが断然におトクとなる。

 

さらに、この1日フリー乗車券。鉄道好きな人たちの心をくすぐる工夫がされている。ジャバラ状になっていて、広げると渥美線のカラフルトレイン10編成のイラストや解説を楽しむことができるのだ。使用後にも大事に保存してきたい、そんな乗車券だ。

↑豊橋鉄道の1日フリー乗車券。凝ったつくりで表裏に「カラフルトレイン」各色の車両説明とともに沿線の案内がプリントされる。記念に保存しておきたい乗車券だ

 

↑渥美線の新豊橋駅のホームには、フグなどの地元の産品のイラストが描かれる

 

乗車時間は片道40分弱。渥美半島の景色を楽しみながら走る

渥美線は新豊橋駅〜三河田原駅(みかわたはらえき)間の18.0kmを結ぶ。乗車時間は40分弱で、長くもなく、短くもなく、ほどほど楽しめる路線距離だ。

新豊橋駅から、しばらく東海道本線に並走して最初の駅、柳生橋駅へ到着。さらに東海道本線を越え、東海道新幹線の線路をくぐり南下する。

 

しばらく住宅街を見つつ愛知大学前駅へ。このあたりからは愛知大学のキャンパスや、高師緑地など沿線に緑が多く見られるようになる。

 

高師緑地の先にある高師駅(たかしえき)には渥美線の車庫があり、検修施設などをホームから見ることができる。

↑高師駅の南側に車両基地が設けられる。留置線に停まるのは1805号の「菖蒲」。菖蒲は梅雨の時期、豊橋市の賀茂しょうぶ園や田原市の初立池公園などで楽しめる

 

↑1807号「菜の花」の車内。シートは菜の花柄。吊り革も黄色と菜の花のイメージで統一されている。乗っても楽しめるのが豊橋鉄道渥美線の魅力だ

 

芦原駅(あしはらえき)を過ぎると沿線の周辺には畑を多く見かけるようになる。路線が通る渥美半島の産物はキャベツ、ブロッコリー、レタス、スイカ、露地メロンなど。渥美線の1810号車は「菊」が愛称となっているが、電照菊を栽培するビニールハウスの灯りも、この沿線の名物になっている。

 

そうした畑を見つつ乗車すれば、終点の三河田原駅へ到着する。同駅からは渥美半島の突端、伊良湖岬(いらこみさき)行きのバスが出ている。

↑渥美線の終点・三河田原駅。2013年10月に駅舎が改築された。1980年代まで貨物輸送に利用されていたため駅構内はいまも広々としている

【豊橋鉄道市内線】豊橋市内を走る路面電車も見どころいっぱい

豊橋鉄道では路面電車の路線を「豊鉄市内線」と案内している。路線名は東田(あずまだ)本線が正式な名前だ。ここでは市内線という通称名で呼ぶことにしよう。

 

ちなみに東海中部地方では、豊橋鉄道市内線が唯一の路面電車でもある。

 

市内線の路線は駅前〜赤岩口間の4.8kmと、井原〜運動公園前間の0.6kmの計5.4kmである。

 

路面電車は豊橋駅東口にある「駅前」停留場から発車する。行き先は「赤岩口(あかいわぐち)」と「運動公園前」がメインだ。途中の「競輪場前」止まりも走っている。

↑豊橋駅ビル(カルミア)の前に広がる連絡デッキを下りた1階部分に「駅前」停留場がある。写真は「赤岩口」行きの市内線電車。車輌はモ3500形で元都電荒川線7000形

 

名鉄や都電の譲渡車輌に加えて新製した低床車輌も走る

市内線で使われる車輌は5種類。

 

まず低床のLRV(Light Rail Vehicleの略)タイプのT1000形「ほっトラム」は、1925年以来、約83年ぶりとなる自社発注の新製車輌でもある。

 

ほか、モ3200形は名鉄岐阜市内線で使われていたモ580形3両を譲り受けたもの。モ3500形は東京都交通局の都電荒川線を走った7000形で、4両が走る。

 

モ780形は名鉄岐阜市内線を走ったモ780形で、市内線では7両が走り、主力車輌として活躍している。そのほか、モ800形という車輌も1両走る。こちらは名鉄美濃町線を走っていた車輌だ。

↑市内線の主力車輌となっているモ780形。地元信用金庫のラッピング広告が施された781号車など、華やかな姿の車輌が多い

 

↑元名鉄岐阜市内線を走った3203号車。クリーム地に赤帯のカラーは豊鉄標準カラーと呼ばれる。標準カラーだが、実際にはこの色の車輌は少なく希少性が高い

 

↑3201号車は「ブラックサンダー号」。豊橋で生まれ、現在、全国展開するお菓子のパッケージそのものの車体カラー。市内線の「黒い雷神」として人気者になっている

 

↑「おでんしゃ」は車内でおでんや飲み物を楽しみつつ走る、秋からのイベント電車だ。秋の9月24日までは納涼ビール電車が運行されて人気となっている

 

市内線を走る電車は、T1000形以外は、名鉄と都電として活躍した車両が多い。豊橋鉄道へやってきたこれらの電車たち。独特のラッピング広告をほどこされ、見ているだけでも楽しい電車に出会える。

 

日本一の急カーブに加えて、国道1号を堂々と走る姿も名物に

市内線は豊橋駅から、豊橋市街を通る旧東海道方面や、三河吉田藩の藩庁がおかれた吉田城趾方面へ行くのに便利な路線だ。

 

興味深いのは、市役所前から東八町(ひがしはっちょう)にかけて国道1号を走ること。国道1号を走る路面電車は、全国を走る路面電車でもこの豊橋鉄道市内線だけ。自動車や長距離トラックと並走する姿を目にすることができる。

↑豊橋公園前電停付近から東八町電停方面を望む。国道1号の中央部に設けられた市内線の線路を走るのはT1000形「ほっトラム」

 

国道1号を通るとともに、面白い光景を見ることができるのが井原電停付近。井原電停から運動公園前へ行く電車は、交差点内で急カーブを曲がる。このカーブの大きさは半径11mというもの。このカーブは日本の営業線のなかでは最も急なカーブとされている。

 

ちなみに普通鉄道のカーブは最も急なものでも半径60mぐらい。それでもかなりスピードを落として走ることが必要だ。

 

路面電車でも半径30mぐらいがかなり急とされているので、半径11mというカーブは極端だ。このカーブを曲がれるように、同市内線の電車は改造されている。

 

T1000形は、この急カーブを曲がり切れないため、運動公園前への運用は行われていないほどだ。日本で最も厳しいカーブを路面電車が曲がるその光景はぜひとも見ておきたい。

↑井原電停交差点の半径11mという急カーブを走るモ780形。見ているとほぼ横滑りするかのように、また台車もかなり曲げつつスピードを落として走り抜ける

 

赤岩口へ向かう電車は井原電停の先を直進する。赤岩口には同線の車輌基地がある。

 

この赤岩口も、同路線の見どころの1つ。車庫から出庫する電車は市内線に入る際に一度、道路上に設けられた折り返し線に入って、そこでスイッチバックして赤岩口電停へ入る。

 

折り返し線は道路中央にあり、通行する自動車の進入防止の柵もなく、何とも心もとない印象だが、通行するドライバーも慣れているのだろう。白線にそって電車の線路を避けて通る様子が見受けられる。

 

「全駅から富士山が望める鉄道」の見どころは富士山だけじゃない! おもしろローカル線「岳南電車」の旅

おもしろローカル線の旅~~岳南電車(静岡県)~~

 

富士山の南側、静岡県富士市を走る岳南電車(がくなんでんしゃ)。富士山を見上げつつ1両で走るカラフルな電車が名物となっている。「全駅から富士山が望める電車」が岳南電車のPR文句。だが、売りは富士山が見えるだけではない! 乗っていろいろ楽しめる岳南電車なのだ。

↑主力車両の7000形。元京王井の頭線の3000系で、中間車の両側に運転台を付ける工事を受けたあとに、岳南へやってきた。オレンジ色のほか水色の7000形も走る

 

奇々怪々―― カーブが続く路線

岳南電車、その名もずばり、岳(富士山)の南を走る電車である。東海道本線の吉原駅(よしわらえき)と岳南江尾駅(がくなんえのおえき)間の9.2kmを結ぶ。路線はすべてが静岡県富士市の市内を通る。富士市内線と言ってもいい。

上の路線図を見てわかるように、吉原駅から、ぐる~っとカーブして、吉原の繁華街を目指す。さらにその先もカーブ路線が続く。なぜこのようにカーブが多いのだろう?

 

まずは、岳南電車の歴史を簡単に触れておこう。

 

1936(昭和11)年:日産自動車の専用鉄道として路線が設けられる。

1949(昭和24)年:岳南鉄道により鈴川駅(現・吉原駅)〜吉原本町間が開業される。その後、徐々に路線が延長されていく。

1953(昭和28)年:岳南富士岡駅〜岳南江尾駅間が開業し、全線開業。

 

太平洋戦争後に誕生、ちょうど70周年を迎えた鉄道路線である。そして、

 

2013(昭和25)年:岳南鉄道から岳南電車に路線の運行を移管

 

現在は富士急行グループの一員になっている。2013年に岳南鉄道から岳南電車に名前を変更した理由は後述したい。

↑岳南電車の起点となる吉原駅。JR吉原駅のホームとは専用の跨線橋で結ばれる。武骨な駅舎ながら、それが岳南電車らしい味わいとなっている

 

↑終点の岳南江尾駅。レトロな駅表示に変更されている。駅のすぐ横を東海道新幹線が通る。2駅手前の須津駅(すごえき)の近くには新幹線の名撮影地もある(徒歩15分)

 

↑岳南唯一の2両編成8000形。こちらも元京王井の頭線の3000系だ。岳南では「がくちゃん かぐや富士」の名が付く。朝夕のラッシュ時や臨時列車に利用されている

 

工場をよけて路線を敷いた結果、カーブが多くなった

富士市は第二次産業が盛んな都市である。

 

岳南電車が走る地域で、最も大きな工場といえばジヤトコだ。ジヤトコ前駅という駅すらある。吉原駅の北側にジヤトコ本社富士事業所が大きく広がる。直線距離にして南北1kmという大きな工場だ。

 

ジヤトコの富士事業所は太平洋戦争前に、日産自動車の航空機部吉原工場として誕生した。現在、同社は日産自動車グループの一員として、主に変速機を生産。日産自動車や、国内外の自動車メーカーに納入している。

 

岳南電車の路線は、太平洋戦争以前にこの工場用に敷かれた専用線が元になっている。路線開業の際には、工場を縁取るように線路が延ばされていった。

 

さらにその先にも大規模な工場などがあり、この敷地をよけるように線路が敷かれている。こうして工場をよけるように線路が敷かれていった結果、カーブが多い路線となったのだ。

 

岳南原田駅〜比奈駅間では工場内を走る箇所もある。奇々怪々、電車の上を太いパイプ類が通るその風景は、この岳南電車ならではの車窓風景だ。日が落ちると工場のライトをくぐるように走り、幻想的な光景が楽しめる。

↑富士市は大規模工場が多い。この工場を縫うように路線が通る。岳南原田駅〜比奈駅間では、工場の内部を抜ける。上空をパイプが張り巡らされた不思議な光景と出会う

大規模な引込線、これはもしかして…?

比奈駅と岳南富士岡駅の間に大規模な引込線が残されている。旅客輸送のみを行う岳南電車が、これはもしかして……?

 

岳南電車の沿線には、かつて多くの引込線が敷かれ、2012年3月17日まで実際に貨物輸送が行われていた。沿線の工場へ向けての貨物輸送の比重がかなり高かった。

 

貨物輸送を取りやめた理由は、JR貨物が連絡貨物の引き受けを中止したため。その裏には、鉄道貨物輸送のなかで大きな割合を占めていた紙の輸送が急激に減っていった現状があった。沿線には豊富な水を利用して日本製紙などの製紙工場が多いが、ペーパーレス化の流れもあって紙の生産量が減り、鉄道を使った紙の輸送量が急減していた時代背景があったのだ。

↑比奈駅と岳南富士岡駅間に残る大規模な引込線の跡。多くの貨車が停まっていた時代があった。この先、使われることなく放置されるのには惜しいように思われる

 

↑岳南富士岡駅構内には当時の貨物用機関車が保存される。手前のED50形ED501号機は上田温泉電軌という会社が1928(昭和3)年、川崎造船所に発注した電気機関車だ

 

かつては珍しい「突放」も見られた

先の引込線跡は、鉄道貨物の輸送用に設けられた留置施設でもあった。

 

2012年3月まで行われた岳南電車での貨物輸送。この路線の貨物輸送ではほかで見ることのできないユニークな輸送風景が見られた。

 

まずは使われる貨車の多くがワム80000形という屋根付きの有蓋(ゆうがい)車だった。最終盤となった6年前、このワム80000形が使われていたのは、岳南へ乗り入れる貨物列車のみとなっていた。

↑貨物列車が運転された当時の比奈駅の構内。コンテナ貨車とともに有蓋車のワム80000形が紙の輸送に使われていた。現在は比奈駅構内の引込線はほとんどが取り外されている

 

↑岳南での輸送に使われたワム8000形。すでに有蓋車での貨物輸送は消滅してしまった。かつては一般的だった天井の無い無蓋車もごく一部で利用されるのみとなっている

 

さらに岳南では、「突放(とっぽう)」と呼ばれる貨車の入れ換え作業が最後まで行われていた。かつては、貨車からの荷卸し、貨車の組み換え作業が行われた駅では、ごく普通に見られた突放。だが、近年になり、この突放が行われていたのは岳南のみとなっていた。

 

機関車がバック運転し、走行中に貨車を切り離し、その惰性で貨車のみを走らせる。それこそ「突放」の字のごとく、機関車が貨車を突き放した。貨車には作業員が乗っていて、貨車に付いたブレーキをステップに乗って操作、巧みに停止位置に停めるという作業だった。

 

機関車の運転士、そしてポイントの切替え、ブレーキをかける作業員らの息のあった作業を必要とした。危険が多い作業でもあったが、所定の位置に上手く停止、またはほかの貨車と連結させる熟練のワザが見られた。

↑後ろに写る貨車と連結を試みる突放作業の様子。無線片手に機関車の運転士らと連絡を取り合い、ステップ操作でブレーキを利かせ、貨車のスピードを巧みにコントロールした

臨時電車や沿線マップといった取り組みも

貨物輸送の割合が大きかった当時の岳南鉄道にとって、輸送中止の痛手は大きかった。不動産業、ゴルフ場経営などを行う岳南鉄道への影響を小さくしようと、鉄道部門のみを切り離して、子会社へ移した。貨物輸送が終了した翌年にそうした移管が行われ、鉄道の名前も岳南鉄道から岳南電車に変えた。

 

岳南電車のなかでも注目された貨物輸送ではあるが、廃止されてからだいぶ日が経った。筆者は久々に現地を訪れて電車に乗ったが、鉄道会社の経営も順調に軌道に乗っているように感じられた。

 

「ビール電車」や「ジャズトレイン」が夏期限定で運行。ほかにも、お祭り用に臨時電車やラッピング電車を走らせたり、詳細な沿線マップを作ったり、グッズをふんだんに用意したり……と地道な営業活動を続けている。こうした細かい活動が少しずつ実を結びつつあるように見えた。

↑吉原の祇園祭(6月9日・10日開催)に合わせて走った「お祭り電車」。タイムリーなラッピング電車を走らせるなど小さな鉄道会社ならではの動きの良さが感じられる

 

↑吉原駅構内に並ぶグッズコーナー。ずらりと並ぶグッズ類に驚かされる

 

↑全線1日フリー乗車券は700円。こどもは300円。春・夏・冬休みのこども券は200円と割安に。駅で配布されている沿線MAPは飲食店や観光地情報も掲載され便利だ

 

沿線の隠れた見どころ

起点の吉原駅から終点の岳南江尾駅まで、乗車時間20分ほど。沿線の見どころを紹介しよう。

 

吉原駅から出発すると、しばらく東海道本線と並走する。その後、ジヤトコの工場にそってカーブを走り、しばらく走るとジヤトコ前駅に付く。そこから吉原の町並みのなかを走り、吉原本町通りが通る吉原本町駅へ。さらに本吉原と住宅街が続く。

 

岳南原田駅を過ぎ、大きな工場を見つつ、前述した工場内を走れば比奈駅へ到着する。

 

この比奈駅には駅舎内に鉄道模型専門店「FUJI Dream Studio501」がある。模型好きの方は立ち寄ってみてはいかがだろう。

 

さらに隣りの岳南富士岡駅には車両の検修庫があり、また貨物輸送に使われた電気機関車と貨車が保存されている。これらの保存車両は駅ホームからの見学に限られるが、昭和初期生まれの貴重な機関車も残されるので、じっくり見ておきたい。

 

須津駅(すどえき)から岳南江尾駅までは住宅街を走る。須津からは東海道新幹線と富士山が美しく撮れることで知られる名スポットが近い。
電車が走る富士市は小さな河川が多く、豊富な水が流れる地でもある。岳南電車は数多くの河川を跨いで走る。これらは富士山麓から豊富に湧き出る伏流水が生み出した河川でもある。

↑岳南富士岡駅近くの流れ。沿線には富士山の伏流水を集めた小河川が多く、豊富な水の流れが目にできる。春から初夏にかけてはカルガモ一家との出会い、なんてことも

 

筆者が撮影していたポイントでも、こうした河川に出会ったが、水が豊富で流れは澄んでいる。見ていてすがすがしい気持ちになった。カルガモ一家がのんびり泳ぐ、そんな川の流れに心も癒された旅であった。

東急の路線らしくない!? 「東急こどもの国線」の不思議と“大人の事情”

おもしろローカル線の旅~~東急こどもの国線~~

 

前回のおもしろローカル線の旅では、千葉県を走る流鉄流山線を紹介した。路線距離5.7km、乗車時間が11分の非常に短い路線だったが、今回取り上げる、神奈川県を走る東急こどもの国線は路線距離3.4km、乗車時間7分とさらに短い。そのみじか~い路線に秘められた謎について解き明かしていこう。

 

東急の路線らしくない!? 東急こどもの国線の謎

東急こどもの国線は、東急田園都市線の長津田駅からこどもの国駅まで3.7kmを結ぶ。

この路線、ちょっと不思議なことがある。東京急行電鉄(以下、東急と略)の純粋な路線とは言い難い事例が、いくつか見られるのだ。

 

例えば、電車は横浜高速鉄道が所有する車両で、シルバーに黄色と水色という東急のほかの電車とは異なる車体カラーとなっている。駅などの表示は、東急の社章とともに、横浜高速鉄道という会社の社章が掲示されている。さらに長津田駅のホームも、東急の改札口を出た外に設けられている。

 

なぜ、このように東急の路線を名乗っているのに、ちょっと異なる点が多いのだろうか?

↑こどもの国線では横浜高速鉄道Y000系電車が2両編成で走る。横浜高速鉄道の車両だが、車両の運行や整備などは、すべて東急の手で行われている

 

↑終点のこどもの国駅。駅の表示は東急とともに横浜高速鉄道の社章が付けられている。そこには、こどもの国へ行くために造られた路線ならではの事情が潜んでいた

 

こどもの国行き電車にからむ“大人の事情”

こどもの国線は、東京急行電鉄の路線のなかでは、やや複雑な「立場」となっている。実は路線の所有者は東急ではない。横浜高速鉄道という第三セクターの鉄道事業者が持つ路線なのだ。

 

横浜高速鉄道は、神奈川県内でみなとみらい線の運営を行う鉄道事業者。みなとみらい線では、自社の車両を走らせ、東急東横線や東京メトロ線などとの相互乗り入れを行っている。このみなとみらい線では横浜高速鉄道が第一種鉄道事業者といわれる立場。第一種鉄道事業者とは、自ら路線を持ち、自らの車両を運行させる鉄道事業者のことだ。

 

横浜高速鉄道のこどもの国線の立場は、みなとみらい線とは異なり「第三種鉄道事業者」となっている。第三種鉄道事業者とは、鉄道路線を敷設、運営する事業者のこと。別会社である第二種鉄道事業者にその線路での列車運行を任せている。こどもの国線では東急が、この第二種鉄道事業者となっている。

 

こどもの国線にこのような複雑な事情が絡んだ理由を簡単に触れておこう。

 

こどもの国は旧日本軍の弾薬庫跡地を利用した施設。もともと、この弾薬庫まで延びていた引込線をこどもの国線として活用した。そしてこどもの国開園の2年後の、1967(昭和42)年に路線が開業した。

↑1965(昭和40)年に開園したこどもの国。こどもの国へ行く専用の路線として1967(昭和42)年に造られた

 

路線開業や電車の運行には東急が協力したが、開業時に路線を所有したのは社会福祉法人こどもの国協会だった。当初はこどもの国へ行く専用路線という色合いが濃く、休園日には列車の本数が大幅に削減された。

 

その後、沿線は徐々に住宅地化していった。通勤路線として使う側にしてみれば、こどもの国の営業にあわせた列車運行が不便でもあった。途中駅がなく、列車の交換が途中でできないなど、増発もかなわなかった。

 

通勤路線化にあたり路線の所有者が横浜高速鉄道に変わった

そこで通勤路線化が進められたが、こどもの国協会という公益法人が鉄道事業に本格的に関わるのは問題がある、とされた。

 

そのため1997(平成9年)、こどもの国協会から横浜高速鉄道に路線の譲渡が行われた。ちなみに、みなとみらい線の開業が2004年のことだから、それよりもだいぶ前に横浜高速鉄道の鉄道路線が生まれていたことになる。

 

子ども向けのこどもの国行き専用線から、通勤路線化するにあたって、第二種、第三種という「大人の事情」がからむ話になっていたのである。

↑長津田駅にあるこどもの国線の案内。平日の朝夕は列車が増発され、また日中は20分間隔で運行される。所要時間は長津田駅からこどもの国駅まで7分

 

急カーブから路線がスタート。途中に東急の車両工場も

長津田駅から電車が発車すると、すぐに東急田園都市線と分かれるように急カーブが設けられる。このカーブの半径は165m。普通鉄道のカーブとしては、かなりの急カーブだ。

 

そのため、時速を30km程度に落として走る。実は通勤路線化を図るときに、地元から「騒音がひどくなる」と反対運動が起きた経緯もあり、いまも騒音対策のためにかなり徐行して走っているのだ。

 

ほどなく、畑地を左右に見て走ると唯一の途中駅、恩田(おんだ)駅へ。

↑長津田駅を発車したこどもの国駅行きY000系電車。すぐに半径165mという急カーブにさしかかる。この急カーブを徐行しつつ走り始める

 

↑横浜高速鉄道のY000系のシートは、このようにカラフル。こどもの国のシンボルマークの赤、緑、青、黄(シートでは同系のオレンジを使用)に合わせた色のシートが使われる

 

恩田駅の近くには東急の長津田車両工場がある。東急の全車両の大掛かりな検査や整備が行われる重要な車両工場だ。時に留置線には、興味深い車両が停められていることもあり、鉄道ファン必見のポイントでもある。

 

さらにナシが植えられる果樹園が連なるエリアを過ぎれば、ほどなく終点のこどもの国へ到着する。こどもの国へは駅から徒歩3分の距離だ。

 

長津田駅から7分と乗車時間は短いものの、注目したい急カーブがあり、車両工場あり、となかなか興味深い路線でもある。

 

子どものころ、東京都や神奈川県で育った方のなかには、遠足でこどもの国へ行った人も多いのではないだろうか。時には童心に戻ってこどもの国で遊んでみてはいかがだろう。

↑恩田駅に近い東急の長津田工場を敷地外から見る。写真に映る白い車体は伊豆急行2100系。この後に同工場でザ・ロイヤルエクスプレスへの改造工事が行われた

開業1世紀で5回の社名変更の謎――乗車時間11分のみじか〜い路線には波乱万丈のドラマがあった!

おもしろローカル線の旅~~流鉄流山線~~

 

千葉県を走る流鉄流山線の路線距離は5.7kmで、乗車時間は11分。起点の駅から終点まで、あっという間に着いてしまう。それこそ「みじか〜い」路線だが、侮ってはいけない。その歴史には波乱万丈のドラマが隠されていたのだ。

↑流鉄のダイヤは朝夕15分間隔、日中は20分間隔で運行している。全線単線のため、途中、小金城趾駅で上り下りの列車交換が行われている。写真は5000形「あかぎ」

 

【流鉄流山線】開業102年で5回も社名を変えた謎

千葉県の馬橋駅と流山駅を結ぶ流鉄流山線。流山線は流鉄株式会社が運営する唯一の鉄道路線で距離は前述したとおり5.7kmだ。

歴史は古い。1913(大正2)年の創立で、すでに100年以上の歴史を持つ。その1世紀の間に5回も社名を変更している。このような鉄道会社も珍しい。ざっとその歩みを見ていこう。

 

1916(大正5)年3月14日:流山軽便鉄道が馬橋〜流山間の営業を開始

1922(大正11)年11月15日:流山鉄道に改称

1951(昭和26)年11月28日:流山電気鉄道に社名変更

1967(昭和42)年6月20日:流山電鉄に社名変更

1971(昭和46)年1月20日:総武流山電鉄に社名変更

2008(平成20)年8月1日:流鉄に社名変更、路線名を流山線とする

 

改名の多さは時代の変化と、波にもまれたその証

流鉄が走る流山(ながれやま)は江戸川の水運で栄えた町である。味醂や酒づくりが長年にわたり営まれてきた。この物品を鉄道で運ぶべく、流山の有志が資金を出し合い、造られたのが流山軽便鉄道だった。

 

創業時から流山の町のための鉄道であり、町とのつながりが強かった。そのためか、ほかの鉄道会社のように、路線延長などは行われず創業時からずっと同じ区間での営業を続けてきた。

 

当初の線路幅は762mmと軽便鉄道サイズ。その後に、常磐線への乗り入れがスムーズにできるようにと、線路幅が1067mmに広げられた。このときに流山軽便鉄道から流山鉄道と名称が変更された。

 

太平洋戦争後、電化したあとは流山電気鉄道と名を変え、さらに流山電鉄へ。この流山電鉄の社名は、わずか4年で総武流山電鉄と名を改められている。これは経営に平和相互銀行が参画し、大株主となった総武都市開発(ゴルフ場事業会社)の「総武」が頭に付けられたためだった。

↑総武流山鉄道時代の主力車1300形。こちらは元西武鉄道の譲渡車両で、西武では551系、クハ1651形だった。「あかぎ」というように編成の愛称がこの当時から付けられた

 

しかし、平和相互銀行は1986年に不正経理が発覚、住友銀行に吸収合併されて消えた。さらに大株主の総武都市開発がバブル崩壊の影響を受け、2008年に清算の後に解散。小さな鉄道会社は、こうした企業間のマネーゲームに踊らされ、また投げ出された形となった。

 

2008年には現在の、鉄道事業を主体にした「流鉄株式会社」となっている。

 

つくばエクスプレスの開業で厳しい経営が続いているが――

時代の変転、また経営陣が変わることで社名が変わるという、なんとも小さな鉄道ならではの運命にさらされてきた。

 

さらに2005年8月には、つくばエクスプレスの路線が開業。流鉄が走る流山市と都心をダイレクトに結ぶために、この開業の影響は大きかった。流鉄の利用者減少がその後、続いている。

 

とはいえ、流鉄の決算報告を見ると、2016年3月期で、鉄道事業の営業収益は3億3093万円、2017年3月期で3億2822万円。純利益は2016年度が340万円、2017年度が286万円と少ないながらも純利益を確保し続けている。

 

一駅区間の運賃は120円、馬橋駅〜流山駅間の運賃は200円、1日フリー乗車券は500円と運賃は手ごろ。ICカードは使えず、乗車券を購入し、出口で駅員に渡すという昔ながらのスタイルをとっている。大資本の参画はないものの、5.7km区間を地道に守り続ける経営が続けられている。

↑流鉄の馬橋駅。総武緩行線や、総武本線の線路と並ぶように駅とホームがある。通常はJR側の1番線を利用する。手前は2番線で、通勤時間帯のみの利用となる

 

↑馬橋駅の自由通路の西側に「流山線」の小さな案内板が架かる。発車ベルは「ジリジリジリーン」という昔ながらのけたたましい音色。レトロ感たっぷりだ

 

鉄道ファンの心をくすぐる所沢車両工場の銘板

流鉄の車両は1980年ごろから、すべて西武鉄道から購入した車両が使われている。1979年から導入された1200形・1300形、1990年代から使われた2000形や3000形。そして2009年からは、5000形車両が順次、旧型車両と入れ替えて使用している。

 

現在走る車両の5000形は、赤、オレンジ、黄色、水色など6色に塗られ、それぞれ「あかぎ」「流馬」「流星」といった車両の愛称が付けられる。
これらの車両は、すべてが所沢車両工場製だ。2000年まで西武鉄道では、ほとんどの車両を所沢駅近くにあった自社工場で製造していた。そんな証でもある銘板が、いまも車内に掲げられている。 鉄道ファン、とくに西武好きにとっては心をくすぐるポイントといっていいだろう。

↑現在、流鉄を走る5000形電車は2両×6編成。そのすべてが西武鉄道から購入した車両だ。西武時代の元新101系で、車内には「西武所沢車両工場」という銘板が付けられる

 

↑2012年まで走っていた2000形「青空」。西武では801系(2000形の一部は701系)という高度経済成長期に造られた車両で、1994年から20年近く流鉄の輸送を支えた

 

↑終点の流山駅。駅の奥に車庫と検修施設が設けられている。駅から徒歩3分、流山街道を越えたところに近藤勇陣屋跡(近藤勇が官軍に捕縛された地とされる)がある

 

流山には味醂を積みだした廃線跡など興味深い史跡が残る

乗車時間は11分と短いが、沿線の見どころを簡単に紹介しよう。

 

馬橋駅〜幸谷駅付近は常磐線の沿線で住宅街が続く。小金城趾駅に近づくと農地が点在する。鰭ケ崎(ひれがさき)駅からは流山市内へ入る。大型ショッピングセンターすぐ近くにある平和台駅を過ぎたら、間もなく流山駅へ到着する。

↑難読駅名の「ひれがさき」。ここの地形が魚の背びれに似ていたから、または地元の東福寺に残る伝説、神竜が残したヒレ(鰭)から鰭ケ崎の地名となったとされる

 

流山の街は「江戸回廊」を名乗るように味わいのある街が残る。新選組の近藤 勇が官軍に捕縛されたとさる、近藤勇陣屋跡。18世紀から味醂製造を続けてきた流山キッコーマンの工場も、街中にある。ここで造られるのが万上(まんじょー)本味醂(みりん)だ。1890(明治23)年に建てられ、国登録有形文化財に指定される呉服新川屋店舗(いまでも営業を続けている)といった古い建物も残る。

↑流山駅前に立つ流鉄開業100年記念の案内板。歴代の車両が写真付きで紹介されている。蒸気機関車やディーゼル機関車で客車を牽いたころからの歴史がおよそわかる

 

↑かつて流山駅から流山キッコーマンの工場まで引込線(万上線)が敷かれていた。1969(昭和44)年に廃止されたあとは市道として使われ、かたわらに記念碑も立つ

 

↑万上(まんじょー)本味醂の製造を続ける流山キッコーマンの工場。レトロふうな塀には引込線があった当時の写真などが掲げられている

 

コンパクトにまとまった古い流山の街。わずか乗車11分ながら、街を歩いた余韻を感じつつ、帰りはオレンジ色の「流星」に身を任せた。

 

都内を走る「忘れ去られた貨物路線」に再び栄光の時は来るか?――越中島支線/新金線の現状

おもしろローカル線の旅~~JR越中島支線/JR新金線~~

 

お江戸の中心といえば日本橋。その日本橋からわずか5kmのところに、都内で唯一となった、非電化路線が走っていることをご存知だろうか。JR越中島(えっちゅうじま)支線という名の貨物線がその路線。ディーゼル機関車が貨車を牽いてのんびり走っている。

今回は、JR越中島支線と、さらにその先の貨物専用線・JR新金(しんかね、もしくは、しんきん)線の2本の貨物専用線をご紹介しよう。両線とも貨物専用線のため、列車への乗車はできないが、路線にそってのんびり歩くことができる。新たな発見とともに、不思議さが十分に体験できる路線だ。

 

【謎その1】なぜ、都内唯一の非電化路線として残ったのか?

越中島支線や新金線という路線名を聞いて、すぐにどこを走っているのかを思い浮かべられた方は、かなりの鉄道通と言っていいだろう。それこそ、長年、忘れられてきた路線と言ってもいい。

 

走る列車の本数も少ない、いわば“ローカル貨物線”だが、なんとか旅客線にできないか、という地元自治体の話もあり、近年にわかに脚光をあびるようにもなっている。

 

まずは両路線のデータをおよび路線図を見ていこう。

◆越中島支線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 越中島貨物駅
距離:11.7km
開業:1929(昭和4)年3月20日

◆新金線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 金町駅
距離:8.9km
開業:1926(大正15)年7月1日(新小岩操車場〜金町駅間)

まずは越中島支線から見ていこう。なぜ都内で唯一の非電化路線として残されたのだろうか。電化される計画はなかったのだろうか。

 

【謎解き1】輸送量が少なく非電化のままが賢明だとの判断か

現在、越中島支線の列車は新小岩信号場と越中島貨物駅の間を走っている。日曜日を除いて日に3往復の列車が走り、JR東日本管内で使われるレール輸送やバラスト輸送が行われている。ちなみに貨物時刻表で紹介されているダイヤは、

9295列車 新小岩信号場12時10分発 → 越中島貨物駅12時22分着
9294列車 越中島貨物駅13時42分発 → 新小岩信号場13時55分着

という1往復のみだ。ほか2往復も走っているが、全便が臨時列車扱いで、実際に沿線で待っていても、上記の時刻を含め列車が走らない日がある。

↑新小岩信号場12時10分発の9295列車。この日はJR東日本のDE10形ディーゼル機関車が1両のみで走る。列車の早発、遅発はこの路線ではごく普通なのでご注意を

 

越中島駅にはJR東日本のレールやバラストを管理する東京レールセンターがある。現在、越中島支線にはこの東京レールセンターから、JR東日本管内へ運ばれるレールや、バラストの輸送列車が走る。ただ、前述の通り列車の本数は日に3本で、それすら走らない日もある。わざわざ電化して列車を走らせるほどの輸送量ではない。ゆえに、都内唯一の非電化路線として残ったのだろう。

↑越中島支線の終点、越中島駅には東京レールセンターがあって、JR東日本のレールやバラストの基地として使われている。最寄り駅は京葉線の潮見駅だ(徒歩約15分)

 

↑越中島駅から新小岩信号場へ向かう上り列車。大半が写真のようにレール輸送用の貨車(長物車)や、バラストを積んだホッパ車を連ねた列車が運行される

 

いまでこそ列車の本数が非常に少ない越中島支線だが、かつては多くの貨物列車が行き交い、賑わいを見せた時代もあった。ここからは、そんな時代を振り返っていこう。

 

【補足情報その1】かつては東京湾岸の鉄道輸送に欠かせない路線だった

昭和の初期に開業した越中島支線だが、この路線が1番、輝いたのが、太平洋戦争後の1950〜60年代のことだった。越中島駅から先、1953年に深川線が豊洲まで開業。さらに晴海まで晴海線が1957年に開業した。さらに1959年には豊洲物揚場線と、次々に路線が新設された。

 

豊洲といえば現在、築地市場の移転で話題になっている場所だが、かつて豊洲には石炭埠頭や鉄鉱埠頭があり、ほか様々な物資の陸揚げ基地として賑わっていた。

 

それらの物資の多くは貨物列車を使って都内および首都圏各地へ輸送されていった。それは路線をさらに汐留駅まで延ばす計画が立てられるほどの盛況だった。こうした逸話を聞くだけでも、多くの貨物列車が走った往時の様子が彷彿される。

↑いまも、越中島駅から豊洲方面へ数100mほど線路が延びている。線路が途切れた先の線路跡地は駐車場などに使われている

 

↑往時の姿を残す元晴海線の鉄道橋。橋の遺構は晴海通り・春海橋に沿うように残っている。線路も残り、いまにも貨物列車が走ってきそうな趣がある

 

貨物輸送に湧いた越中島支線だったが、1980年代になると物流の主役はトラック輸送となり、鉄道による貨物輸送が激減する。越中島駅から先の路線が徐々に廃止されていき、1989年の晴海線の廃止を最後に路線がすべて消滅した。

 

以降、越中島支線は、新小岩信号場と越中島駅間のレールとバラスト輸送のみが行われる路線となっている。

 

【補足情報その2】路線沿いには線路スペースを使った公園や、路面軌道の跡も

越中島支線の一部を線路に沿って歩いてみた。

 

今回、スタート地点としたのは都営地下鉄新宿線の西大島駅。まず明治通りを南へ向かった先に小名木川(おなぎがわ)が流れる。この小名木川は水運用につくられた人工河川で、川沿いには陸揚げした物資を積み込むための駅・小名木川駅が設けられていた。

↑小名木川に架かる越中島支線の小名木川橋梁。この左手にかつて小名木川駅があった。橋梁はワーレントラス橋で、見てのとおり重厚な構造の橋となっている

 

現在、駅の跡地には巨大なショッピングセンターが立っている。ちなみに同センター前の交差点名が「小名木川駅前」となっている。駅はすでにないものの、交差点名にのみ、その名残があるわけだ。

 

小名木川駅があった付近を線路ぞいにさらに歩いていくと、南砂線路公園がある。線路の跡地を歩道と自転車道にした公園で、江東区が設けた公園案内も立てられる。列車を待ちながらの一休みに最適だ。

↑越中島支線沿いに設けられた南砂線路公園(写真右)。複線区間の線路が敷かれていたスペースを利用。歩行者と自転車用のルートが設けられている

 

この先、線路沿いの道がいったん途切れるので、明治通りへ。南砂三丁目の交差点を過ぎたあたりで、不思議な遊歩道(南砂緑道公園)を発見した。この遊歩道は、横幅もあり、明らかに線路の跡のよう。越中島支線をくぐるように立体交差している。地元の人に聞くと、「ここは昔、チンチン電車が走っていたところなんですよ」とのこと。

 

遊歩道をしばらく歩くと説明があり、城東電気軌道(地元では城東電車の名で親しまれた)の砂町州崎線の跡だった。この城東電車はその後、都電となり都電砂町線(水神森=亀戸駅近く〜州崎間)として1972(昭和47)年まで走り続けた。

↑南町緑道公園はもと都電砂町線の路線跡。越中島支線と立体交差している。南側にはかつて汽車製造会社東京製作所があり、造られた鉄道車両が越中島支線を使って運ばれた

 

汽車製造会社東京製作所があったその先に永代通りが通る。平面交差するため、永代通りには踏切が設けられている。しかも信号機付き。列車が近づくと、通りの信号が赤になる。列車が少ないこともあり、通常の踏切では危険という判断からか、このようにドライバーに注意を促す造りとなっているのだろう。

↑永代通りと交差する越中島支線。列車の本数が少なく廃線と思うドライバーが多いためか、信号機付きの踏切となっている。この踏切から日本橋へ5kmの案内が架かる

 

永代通りを越え、明治通りを南に向かえば、終点の越中島駅も近い。帰りは東京メトロ南砂町駅か、JR京葉線の潮見駅を目指したい。

【謎その2】複線用の敷地がしっかりと残る新金線の謎

新金線は、誕生の経緯がなかなかおもしろい。そこから見ていこう。

 

千葉県の産物を、総武本線を使って輸送するにあたって問題になったのが、隅田川を越える橋がなかったこと。長年、総武本線は両国止まりだった。そのため、当時の貨物輸送は東武鉄道の路線経由で常磐線の北千住駅まで運ばれていた。この問題を打開すべく1926(大正15)年に誕生したのが新金線だった。

 

その後の1932(昭和7)年に総武本線の隅田川橋梁が完成したが、両国駅〜御茶ノ水駅間が旅客営業のみに造られた路線だったため、その後も総武本線の貨物列車は、新金線経由で走り続けている。

 

この路線を訪れてみて、奇異に感じるのは、ほとんど全線にわたり複線用の用地が確保されていることだ。下の写真のように、敷地はゆったりとしていて、さらに架線を吊る鉄塔も複線用に造られている。

↑新金線の線路は、ほとんどが複線化できるよう広いスペースが確保されている。将来、複線にして旅客路線に使えないか、地元の葛飾区などでは検討を続けている

 

【謎解き2】列車本数の減少で複線化が実現しなかった

1970年ごろまで新金線は、千葉方面と都心を結ぶ物流の大動脈でもあった。さらに越中島支線を走る貨物列車も、この路線を通って各地へ向かった。最盛期は、さぞや過密ダイヤとなっていたに違いない。

 

複線用のスペースを確保しておいた理由は、路線開業時に、将来の列車本数の増加を見越してのものだったのだろう。

 

ところが、1980年以降となると、新金線の列車本数は激減する。現在は、定期運行している貨物列車が日に3往復(うち1往復は日曜日運休)、ほか数便が臨時運行という状態だ。こうなると、とても複線にする意味がないと思われる。結局、新金線の複線化計画は夢物語に終わってしまい、確保した用地もそのまま塩漬け状態になってしまったわけだ。

↑金町駅から新小岩信号場へ向かう下り列車。高砂付近で京成本線の下をくぐって走る。写真の1093列車はEF65形式直流電気機関車での運用が行われている

 

【補足情報その1】貨物列車で必須の「機回し」作業に注目

現在、新金線を走る定期列車は次の3往復だ。

◆下り列車(金町駅 → 新小岩信号場)
1091列車:隅田川駅発 → 千葉貨物ターミナル駅行き
金町駅10時49分発 → 新小岩信号場11時00分着
1093列車:越谷貨物ターミナル駅発 → 鹿島サッカースタジアム駅行き
金町駅6時24分発 → 新小岩信号場6時35分着
1095列車:東京貨物ターミナル駅発 → 鹿島サッカースタジアム駅行き
金町駅0時27分発 → 新小岩信号場0時38分着(日曜運休)

◆上り列車(新小岩信号場 → 金町駅)
1090列車:千葉貨物ターミナル駅発 → 隅田川駅発行き
新小岩信号場19時20分発 → 金町駅19時30分着
1092列車:鹿島サッカースタジアム駅発 → 越谷貨物ターミナル駅行き
新小岩信号場19時52分発 → 金町駅20時02分着
1094列車:鹿島サッカースタジアム駅発 → 東京貨物ターミナル駅行き
新小岩信号場15時23分発 → 金町駅15時33分着(日曜運休)

 

貨物列車は電車のように、前後、進行方向をすぐに変えて走り出すことができない。進む方向を変える時には、機関車を切り離して併設された線路を逆方向へ走り、先頭となる側に機関車を連結させる「機回し」作業が必要となる。

 

地図上、Z字形の路線になっているこの新金線の路線。どの駅で機回しが行われているのだろうか。

 

まず金町駅では隅田川駅発の1091列車と、戻りの隅田川駅行きの1090列車の機回しが行われる。

 

新小岩信号場では、前述した3往復の列車がすべて機回し作業を行う。この機回しには地上の補助要員が必要なうえ、時間は最低でも15分程度は見ておかなければいけないとあって、各列車とも機回しのための時間に余裕を持たせている。

↑新小岩信号場へ到着したら、千葉方面へ機関車を付け替えるために、機回し作業が行われる。写真の1093列車で6時35分到着後に機回し、11時35分まで同信号所で待機する

 

ちなみにこうした作業は新小岩信号場に沿った遊歩道から見ることができる。貨物列車好きな方は一度、訪れてみてはいかがだろう。

 

【補足情報その2】国鉄形電気機関車の宝庫、新金線。撮影できるポイントも多い

前述した定期的に走る3列車だが、鉄道ファンにとってうれしいのは、すべての列車に、いまや貴重となりつつある国鉄形電気機関車が使われていること。

 

下り1091列車・上り1090列車、そして下り1093列車・上り1092列車にはEF65形式直流電気機関車が使われる。また下り1095列車と上り1094列車には、EF64形式直流電気機関車が使われている。

 

両形式とも、国鉄当時の原色に戻されつつある車両が増えているだけに、鉄道ファンにとって気になるところだ。新金線は、撮影ポイントが多く、国鉄形電気機関車が貨物列車を牽くとあって、鉄道ファンにとっては見逃せない路線にもなっている。

↑新金線では関東エリアでは少なくなったEF64形式の運用が見られる。上り列車は夜の運行が多いが、写真の1094列車のみ新小岩信号所15時23分発と理想的な時間帯に走る

 

【補足情報その3】新金線を訪れるとしたら小岩駅か京成高砂駅からがおすすめ

新金線は、金町駅から中川沿いに南下、路線のほとんどが、住宅の建ち並ぶなかを走る。踏切が数多いこともあり、撮影しようとするときには、この踏切が生かせる。複線化用に用意されたスペースを、列車との適度な“間”として生かせることもうれしい。

 

新金線を訪れるならば、京成高砂駅や、JR小岩駅から歩くことをおすすめしたい。京成高砂駅から中川方面に向かい、新金線に並走する道や中川の土手を歩けば、快い散策も楽しめる。

 

また小岩駅からは、徒歩15分ほどで、この路線の最大のポイントでもある中川橋梁へ行くことができる。

↑1091列車が新金線の中川橋梁を渡る。EF65形式が牽引、同橋梁を10時55分前後に通過する。中川の土手は広く、散歩がてらに訪れて撮影できる

 

新小岩信号場へは、JR新小岩駅からJR小岩駅方面へ徒歩で10分ほど。信号場内に停まる貨物列車や総武本線の列車がよく見えて、鉄道ファンにとっては魅力的なポイントにもなっている。ベンチもあり、小休止の場所にも利用できる。

↑新金線の新小岩信号場近くでみかけた花々。フェンスが花壇がわりに使われていた。新金線らしい何とものんびりした光景が沿線のそこかしこで見られる

 

↑新小岩信号場に停まる長物車(チキ車)。信号場沿いの道は遊歩道になっていて、行き交う列車が気軽に楽しめる。ただ遊歩道を走る自転車の通行には注意

 

葛飾区の新金線旅客化計画のその後を追う

今回、紹介した越中島支線と新金線には、長年にわたり、旅客路線とするプランが立てられてきた。

 

両路線が走る江東区、葛飾区を南北に結ぶ公共交通機関といえば、バスのみだ。バスはどうしても道路の渋滞に悩まされる。特に朝夕のラッシュ時には、運行が思い通りいかない。

↑JR新小岩駅と京成電鉄の青砥駅、JR亀有駅を結ぶ路線バスが運行されている。15分おきに走るバスで、新金線とほぼ平行して走るバスとしては最も便数が多く便利だ

 

こうした現状から江東区も葛飾区も、越中島支線や新金線を、旅客化できないか長年にわたり検討を続けてきた。

 

2017年に、さらに具体的に旅客化できないかを検討したのが葛飾区。新金線をLRT(ライトレールトランジットの略)の路線として生かせないかというものだった。低床で、高齢者にもやさしい乗り物として見直されつつあるLRT。国も導入支援を行い、実際に宇都宮市では、新たなLRT路線の建設に乗り出している。

 

新金線はすでに複線化できる用地があり、まっさらの新線を造るよりは、建設費も安くできる。

 

さてその検討結果が、2018年6月11日に葛飾区のホームページで発表された。

 

新金線のLRT案は、国道6号との平面交差や、需要予測に基づく採算性、貨物線のダイヤとの共存などの課題があるとしたうえで、「周辺の動向を見守りながら、南北交通の充実を図るストック材として活用方法を検討していく」としている。

 

新金線旅客化案はまったく消えたわけではないが、まずは地下鉄の延伸計画などのプランの促進に力を入れていくことになりそうだ。

古き良き時代にタイムスリップできる「英国式保存鉄道」の魅力

保存鉄道とは、英語では「Heritage Railway(ヘリテージ・レイルウェイ)」、または「Preserved Railway(プリザーブド・レイルウェイ)」などと呼ばれ、その名の通り昔活躍していた車両を復元、維持して乗客を乗せる私有鉄道のことだ。私有鉄道といっても民営会社ではなく保存団体が運営していることが多く、従業員の大部分はボランティアが支えている。イギリス人の鉄道遺産に対する情熱があってこその存在だ。

 

基本的には観光客向けに運行されており、公共交通機関としての地元客による利用は基本的に想定されていない。値段も同じ距離を走行する一般の旅客鉄道と比べると割高で運行日も限定されている。

↑保存鉄道の目玉である蒸気機関車。写真の8572号機は1920年代に製造された古参で木造客車も同年代のものだ

 

保存鉄道と一口に言っても規模は大小様々で、普通の旅客鉄道と同じ「標準軌」と呼ばれる線路幅を有し、全長36kmに及ぶ長大なものもあれば路線長が1kmにも満たない小さな場所もある。「ナローゲージ」と呼ばれる線路幅が小さいものも存在し、その種類は様々だ。

↑ディーゼル機関車なども保存鉄道で動態保存されている。写真は客車を牽引するClass 50ディーゼル機関車

 

純粋な「観光鉄道」とは異なり、保存鉄道はある特定の時代を車両だけではなく駅舎の装飾や乗務員の服装まで再現している。1番多く見受けられるのが、20世紀初頭の雰囲気を残し、蒸気機関車と当時の古い客車を走らせている鉄道だ。

 

ほかにも蒸気機関車が廃止され、1960~70年代の気動車やディーゼル機関車を主に走らせる鉄道もあれば、鉱山鉄道や湾港鉄道などで現役時代のように貨物列車を走らせたり、さらには旧型の路面電車を野外博物館で運行したりとバラエティに富んでいる。現在ではおよそ150種類もの保存鉄道がイギリス中で営業しており、世界的に見ても保存鉄道大国と言える。

↑セバーン・バレー鉄道のハイリー駅(Highley station)に入線する列車と到着を待っていた乗客たち

 

保存鉄道の発端と成り立ち

イギリスでの保存鉄道運動は、1951年にイギリス初の保存鉄道となったウェールズのタリスリン鉄道から始まったといえる。ここは1866年開業し、採掘場のスレート石を運ぶ鉱山鉄道と地元民の脚を兼任したナローゲージ鉄道であった。しかし採掘場の閉鎖とそれに伴う地元住民の減少で廃線の危機を迎えていたが、ボランティアの手によって列車の運行が継続され、いまとなってはウェールズ指折りの保存鉄道、そして有名観光地となっている。

↑タリスリン鉄道と同様にウェールズのナローゲージ鉄道の1つであるヴェール・オブ・ライドル鉄道。「標準軌」の路線は線路幅が1435 mmだがここは603 mmと狭く作られている

 

タリスリン鉄道のようにほとんどの保存鉄道はそのためだけに新しい路線を建設したのではない。例えば1960年代には「ビーチング・アックス」と呼ばれるイギリス国鉄による不採算路線の大規模閉鎖が行われ、現在営業している標準軌の保存鉄道もこのときに廃線となった線区を転用しているものが多い。以後多くの保存鉄道が発足していき、一般の旅客鉄道では廃止になった車両に行き場を与えた。そしてかつての鉄道産業遺産の動く姿が見られ、後世にその技術と魅力を伝える貴重な場として成長していく。

↑一時期は廃線になったが、セバーン・バレー鉄道で保存鉄道の一部として復活したアーリー駅(Arley station)

保存鉄道の楽しみ方

上記のように保存鉄道は大小様々だが、ここでは基本的に1番メジャーな標準軌の蒸気機関車を主に扱う保存鉄道を基準に紹介していく。

 

まず訪問することを決めたら運行日を確かめておく必要がある。5月~8月の繁忙期では毎日運行しているところもあるが、基本的に土日と祝日の運転となる。12月~2月頃は冬季メンテナンスを行い、その間は運休となるので要注意だ。

↑蒸気機関車は人気の的だが、ほかにも地味だが歴史的に重要な車両も動態保存されている。写真は国鉄時代に製造されたレールバスで安価な製造コストと運行費用で採算の悪い地方路線を救った

 

保存鉄道の楽しみ方といっても様々な方法がある。昔ながらのコンパートメントでゆっくり揺られながら汽車旅そのものを楽しむのもよし。鉄道を移動手段として使い沿線の街を観光したり、海辺や田舎でハイキングを堪能したりするのもよい。保存鉄道側も来客を呼び込むのに力を入れており、様々なイベントを年中企画している。以下ではその魅力的なイベントを簡単に紹介する。

↑ゆったりとしたレトロな内装でふかふかの座席で汽車旅が楽しめる

 

多種多様の保存車両が活躍する「ガーラ」

鉄道ファンにとってやはり保存鉄道の1番魅力は動態保存されている車両だろう。かつて本線で現役だった蒸気機関車などが動き、生きている姿を目の当たりするのは非常に喜ばしいことだ。そのようなファンのために多くの保存鉄道では年に数回「Gala(ガーラ)」と呼ばれる祭典が行われる。その保存鉄道に在籍する機関車や車両のみならず、ほかの鉄道からもゲストとして機関車などが招集され、数日間高頻度で運転が行われる。

↑セバーン・バレー鉄道の2018年春のSLガーラでゲストとして登場した60163号機「Tornado」。この機関車は2008年に新しく製造されたことで一目置かれている

 

↑ガーラでは旅客列車だけでなく貨物列車などの展示走行も見られる

 

例えばイングランド中部に位置するセバーン・バレー鉄道の2018年春のSLガーラでは3月中旬の3日間にわたって開催され、ゲスト機関車4機を含めた総勢8機体制で毎日45分置きに列車を走らせていた。列車を撮影する目的の「撮り鉄」や乗るためやってきた「乗り鉄」、SLが好きな子どもと一緒の家族連れなどで大いに賑わった。ガーラは一度に多くの車両と触れ合える機会なので、鉄道ファンにはぜひおすすめしたいイベントだ。

↑保存鉄道はボランティアの方の協力が必要不可鉄だ。車掌の制服に身を包み、乗客の乗降を見守る

 

大人も子どもも楽しめる様々なイベント

鉄道ファンももちろん大事な保存鉄道の顧客だが、一般のマニアでない人が訪問するのも大切な収入源だ。子どもに保存鉄道に興味を持ってもらい、新しいことを学んでほしいという意味で特に家族連れを意識したイベントが多くみられる。既存のSLをかの有名なキャラクター「機関車トーマス」として仮装させて列車を走らせるトーマスイベントや、クリスマスのときにサンタさんからプレゼントがもらえるクリスマスイベントなどが開催される。

↑イングランド中部に位置するグレート・セントラル鉄道の列車。ここはイギリスで唯一複線区間を保有している保存鉄道で注目を浴びている

 

もちろん大人だけで楽しめるものもあり、なかでも人気なのが「Murder Mystery(マーダー・ミステリー)」、つまり殺人事件の犯人当てゲームだ。主な概要としては役者たちがストーリーの登場人物たちを演じ、乗客に演劇のように話を展開する。しかしあるとき悲鳴が響きわたり、そのうちの1人が死体で発見されてしまう。その後の登場人物たちの証言などから本当の犯人を当てる参加型のゲームなのだ。これがかなり好評で、いつも満員御礼の保存鉄道も少なくない。

 

ほかにも1940年代の戦時中を再現したものもあり、当時の軍服を着た方や戦線へ派遣される兵士のコスプレをした方なども参加する。さらに大規模な保存鉄道だとクラシックカーの展示会や第二次世界大戦で活躍した戦闘機によるデモ飛行も行われ、当時にタイムスリップしたような気分になる。

↑セバーン・バレー鉄道の1940年代テーマの運行日では当時の英首相、ウィンストン・チャーチルの仮装をする方も現れた

レトロな空間で豪華な食事「ディナートレイン」

保存鉄道のもう1つの大きな魅力は車内での食事だ。レトロな装飾をまとった客車の中でふかふかの椅子に座りながら、ゴトゴトと蒸気機関車が牽く列車でフルコースの食事が堪能できる。イギリスと日本から昔ながらの食堂車がほぼ消えてしまったいま、このように再び旅情あふれる体験ができるのが売りだ。ドレスコードがありスーツやドレスを着用しなければならない高級なディナーから、カジュアルな服装でリーズナブルな値段で参加できるランチなど幅広い種類がある。

↑ウェスト・サマーセット鉄道の食堂車の様子。通常は予約が必要だが、この食堂車は一般の列車についており、気軽に食事が楽しめる

 

↑保存鉄道のディナー列車で提供されるメニューの一例。ラムロースにポテトと旬の野菜

 

このほかにも伝統的なイギリスと紅茶とお菓子を堪能できるアフタヌーンティーが提供される列車や、地ビールやエールなどが生で飲める「Ale Train(エール・トレイン)」なども頻繁に運行されており、保存鉄道を訪問した際には食事も楽しむことをおすすめする。

↑一部の列車ではビュッフェカウンターがあり、ドラフトビールや地元のエール酒などが堪能できる

 

このようにイギリスの保存鉄道は様々な楽しみ方があり、列車が特別好きな人でなくても十分に満足できるだろう。もし一度イギリスを訪問する機会があれば近くの保存鉄道へ寄ってみてほしい。そこにはきっとほかでは味わえない世界が広がっている。

↑ノース・ヨークシャー・ムーア鉄道のゴースランド駅で発車を待つSL。ここの駅は「ハリー・ポッター」シリーズの映画で登場し、人気スポットとなっている

 

オススメの保存鉄道8選

魅力的な場所はイギリス全土に広まっているが、こちらでは筆者のオススメの保存鉄道8選を紹介する。

1- セバーン・バレー鉄道(Severn Valley Railway):その名の通りイギリス最長のセバーン川の中流に沿って線路が引かれている。豊富な客車類と大規模なガーラが魅力。途中のハイリー駅の博物館も必見。http://www.svr.co.uk/

2- スワネッジ鉄道(Swanage Railway):海岸のリゾート、スワネッジを起点とする保存鉄道。近くの海岸線は恐竜の化石がよく見つかるため「ジュラシック・コースト」と呼ばれており、様々な興味深い地形や地層が観測できる。https://www.swanagerailway.co.uk/

3- グレート・セントラル鉄道(Great Central Railway):一部複線区間を保有する大規模な保存鉄道。せわしなく蒸気機関車が動き回り、まるで現役当時の様子を見ているよう。ここのダイニング列車はお手頃な値段で楽しめる。http://www.gcrailway.co.uk/

4- ブルーベル鉄道(Bluebell Railway):イングランド南部に位置し、ロンドンから気楽に日帰りで訪問できる。19世紀に製造され未だに乗客を運ぶ蒸気機関車と客車は必見。https://www.bluebell-railway.com/

5- ノース・ヨークシャー・ムーア鉄道(North Yorkshire Moor Railway):ヨークシャーの丘陵地帯の国立公園の中を通る鉄道。素晴らしい眺めが拝める他、夏季にはフィッシュ・アンド・チップスが有名な港町、ウィットビーに乗り入れる。「ハリー・ポッター」シリーズの撮影に使用されたゴースランド駅も人気。https://www.nymr.co.uk/

6- ダートマス蒸気鉄道(Dartmouth Steam Railway):イングランド南西のダート川の河口を目指す鉄道。汽船などにも乗れて一日満喫できる。https://www.dartmouthrailriver.co.uk/explore

7- ウェルシュ・ハイランド鉄道(Welsh Highland Railway):ウェールズのナローゲージ鉄道の一つ。可愛らしい客車に揺られて眺めるウェールズの山々は絶景。展望車の一等席にも追加料金で乗れる。http://www.festrail.co.uk/

8- ビーミッシュ博物館(Beamish Museum):北イングランドに位置する20世紀初頭の街を再現した野外博物館。街中には保存された昔ながらの二階建ての路面電車やバスが走っており、タイムスリップした気分になれる。上記の保存鉄道とは異なるが訪問をおすすめする。http://www.beamish.org.uk/

西武鉄道の路線網にひそむ2つの謎――愛すべき「おもしろローカル線」の旅【西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線】

おもしろローカル線の旅~~西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線~~

 

東京都と埼玉県に路線網を持つ西武鉄道。その路線を地図で見ると、ごく一部に路線が集中して設けられている地域がある。一方で、ポツンと孤立して設けられた路線も。これらの路線網のいきさつを調べ、また訪ねてみると、「おもしろローカル線」の旅ならではの発見があった。

 

今回は、西武鉄道の路線網の謎解きの旅に出かけてみよう。

 

【謎その1】国分寺駅のホームは、なぜ路線で場所がちがうのか

下の地図は、西武鉄道の東京都下の路線図である。都心と郊外を結ぶ西武新宿線と西武池袋線、西武拝島線の路線が設けられる。東西にのびる路線と垂直に交わるように、南北に西武国分寺線と西武多摩湖線という2本の路線が走っている。

起点となる駅は国分寺駅で同じだが、国分寺線は東村山駅へ。その先、西武園線に乗り継げば西武園駅へ向かうことができる。一方の多摩湖線は萩山駅を経て、西武遊園地駅へ向かう。両路線はほぼ平行に、しかも互いに付かず離れず線路が敷かれている。途中、国分寺線と多摩湖線は八坂駅付近で立体交差しているが、接続する駅はなく、乗継ぎができない。

↑西武国分寺線とJR中央線の電車が並走する国分寺駅付近。路線を開業した川越鉄道は中央線の前身、甲武鉄道の子会社だった。以前は連絡線があり貨車の受け渡しも行われた

 

さらに、不思議なことに国分寺線と多摩湖線が発着する国分寺駅は、それぞれのホームが別のところにあり線路がつながっていない。国分寺線のホームはJR中央線のホームと並んで設けられているのに対し、多摩湖線の国分寺駅は、やや高い場所にある。同じ西武鉄道の駅なのに、だ。どうしてこのように違うところにあるのだろうか。

↑西武多摩湖線は、西武国分寺線よりも一段高い位置に設けられる。4両編成用のホームが1面のみでシンプルだ。駅に停まっているのは多摩湖線の主力車両、新101系

 

【謎解き】路線開発を競った歴史が複雑な路線網を生み出した

謎めく路線が生まれた理由は、ずばり2つの鉄道会社が、それぞれ路線を設け、延長していったから、だった。

 

国分寺線と多摩湖線の2本の路線の歴史を簡単にひも解こう。

◆西武国分寺線の歴史
1894(明治27)年 川越鉄道川越線の国分寺駅〜久米川(仮)駅間が開業
1895(明治28)年 川越線久米川(仮)駅〜川越(現:本川越)駅間が開業
*川越鉄道は後に旧・西武鉄道となり、1927(昭和2)年に東村山駅〜高田馬場駅間に村山線(現・西武新宿線)を開業させた。

◆西武多摩湖線の歴史
1928(昭和3)年 多摩湖鉄道多摩湖線の国分寺駅〜萩山駅間が開業
1930(昭和5)年 萩山駅〜村山貯水池(現・武蔵大和)駅間が開業
*多摩湖鉄道の母体は、堤康次郎氏(西武グループの創始者であり衆議院議員も務めた)が率いた箱根土地。経営危機に陥った武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の再建に乗り出し、株を取得。1940(昭和15)年、武蔵野鉄道が多摩湖鉄道を吸収合併し、同じ会社となった。

 

川越線(現・国分寺線)を運営していた旧・西武鉄道陣営と、多摩湖線を含む武蔵野鉄道陣営の競り合いはすさまじかった。

 

武蔵野鉄道が1929(昭和4)年に山口線(現・西武狭山線)の西所沢駅〜村山公園駅(のちに村山貯水池際駅と改称)間を開業、また1930(昭和5)年1月23日に多摩湖鉄道が多摩湖線の村山貯水池(仮)駅まで路線を延ばした。すると1930年4月5日には旧・西武鉄道が東村山駅〜村山貯水池前(現・西武園)駅間に村山線を延伸、開業させた(現在の西武園線)。1936(昭和11)年には、多摩湖鉄道が0.8kmほど路線を延ばし、村山貯水池により近い駅を設けている。

↑1930(昭和10)年ごろの旧・西武鉄道の路線案内。すでに多摩湖線が開業していたが、熾烈なライバル関係にあったせいか多摩湖線や武蔵野鉄道の路線が描かれていない

 

村山貯水池(多摩湖)の付近には、似たような名前の駅が3つもあり、さぞかし当時の利用者たちは、面食らったことだろう。両陣営の競り合いは過熱し、路線が連絡していた所沢駅では乗客の奪い合いにまで発展したそうだ。

↑東京市民の水がめとして1927(昭和2)年に設けられた村山貯水池(多摩湖)。誕生当時は、東京市民の憩いの場にもなったこともあり路線の延長が白熱化した

 

村山貯水池を目指した激しい戦いの痕跡が、いまも複雑な路線網として残っていたわけである。

 

そんなライバル関係だった両陣営も、1945(昭和20)年に合併してしまう。会社名も西武農業鉄道と改め、さらに現在の西武鉄道となっていった。

 

【補足情報その1】両路線とも本線系統とは異なる古参車両が運用される

筆者は、西武鉄道の路線が通る東村山市の出身であり、国分寺線や多摩湖線は毎日のようにお世話になった。いまもそうだが、国分寺線や多摩湖線は、西武鉄道のなかではローカル線の趣が強い。西武池袋線や西武新宿線といった本線の運用から離れた、やや古めの車両が多かった。

 

子ども心に、新しい電車に乗りたいと思っていたものだが、やや古い車両に乗り続けた思い出は、いまとなっては宝物となって心に残っている。そのころに撮影したのが下の写真2枚だ。

↑国分寺線を走る351系(1970年ごろ)。同車両は西武鉄道としては戦後初の新製車両として誕生した。晩年には大井川鐵道に譲渡され、長年にわたり活躍した

 

↑西武園線を走るクハ1334。西武鉄道では急速に増える沿線人口に対応するため、国鉄から戦災車両の払い下げを受け再生して使った。クハ1334もそんな戦災車両を生かした一両

 

現在、多摩湖線を走るのが新101系。西武鉄道の車両のなかで唯一残る3扉車で、1979(昭和54)年に登場した車両だ。40年近く走り続ける、いわば古参といえるだろう。

↑多摩湖線の車両は新101系のみ。写真のような黄色一色、先頭車がダブルパンタグラフという新101系や、グループ企業の伊豆箱根鉄道カラーの車両も走っていて楽しめる

 

一方の国分寺線や西武園線は2000系。西武初の4扉車として登場し、こちらも40年にわたり走り続けてきた。国分寺線には2000系のなかでも角張ったスタイルの初期型の2000系も走っている。古参とは言っても、それぞれ内部はリニューアルされ、乗り心地は快適だ。

↑国分寺線の主力車両は2000系。写真は初期の2000系で、角張った正面に特徴がある。この初期型も最近になって廃車が進みつつある

 

多摩湖線には、レトロな塗装車も走っているので、そんな車両に乗りに訪れるも楽しい。

 

【補足情報その2】国分寺線と多摩湖線のおすすめの巡り方は?

昭和初期に生まれた国分寺線と多摩湖線をどう乗り継げば楽しめるだろうか。手軽に楽しめるルートを2パターン紹介しよう。

 

◆ルート例1
国分寺駅(多摩湖線) → 萩山駅 → 西武遊園地駅 →(西武レオライナーを利用)→ 西武球場前駅 → 所沢駅 → 東村山駅 → 国分寺駅
*多摩湖線の電車は国分寺〜西武遊園地間を直通する電車と、国分寺〜萩山間を走る電車がある。

◆ルート例2
国分寺駅(多摩湖線) → 萩山駅 → 西武遊園地駅 →(徒歩10分)→ 西武園駅 → 東村山駅 → 国分寺駅
*西武園〜国分寺間は、直通電車の本数が少ないので、東村山駅での乗換えが必要となる。

 

ちなみに西武園駅から徒歩約10分の北山公園では6月17日まで菖蒲まつりが開かれている。駅からは八国山緑地などを散策しつつ歩けるので、訪ねてみてはいかがだろう。

↑西武遊園地駅と西武球場前駅を結ぶ西武レオライナー(西武山口線)。大手私鉄で唯一の案内軌条式鉄道(AGT)が走っている。古くはこの路線をSLや、おとぎ電車が結んでいた

 

↑北山公園は狭山丘陵すぐそばにある自然公園で、初夏には200種類8000株(約10万本)の花菖蒲が咲き誇る。6月17日までは菖蒲まつりが開かれ多くの人で賑わう

【謎その2】西武鉄道の路線網とは離れた「孤立路線」はなぜ生まれたのか

西武鉄道の路線図を見るとJR中央線の北側にほとんどの路線が広がっている。そんななか、唯一、JR中央線から南に延びる線がある。それが西武鉄道多摩川線だ。

路線距離は8km、駅数は6駅と路線は短い。西武鉄道の本体と離れた「孤立路線」がどうして生まれたのか、また孤立している路線ならでは、手間がかかる実情を見ていこう。

↑西武多摩川線を走る電車はすべてが新101系。標準色のホワイトだけでなく、写真のようにレトロなカラー(赤電と呼ぶ塗装)も走っていて西武鉄道のファンに人気だ

 

【謎解き】西武鉄道が計画してこの路線を開業させたわけではない

西武多摩川線の元となる路線が開業したのは、境(現・武蔵境)駅〜北多磨駅間が1917(大正6)年のこと。1922(大正11)年には是政駅まで線路が延ばされた。路線を造ったのは多摩鉄道という鉄道会社だった。

 

その後、1927(昭和2)年に旧・西武鉄道が多摩鉄道を合併した。1945(昭和20)年の、武蔵野鉄道と、旧・西武鉄道の合併後は、西武鉄道の路線となり、いまに至っている。要は西武鉄道が計画してこの路線を開業させたわけでなく、鉄道会社同士が合併を進めたなかに、この路線が含まれていたというわけだ。

 

この路線は多摩川の砂利の採取が主な目的として造られたが、すでに西武多摩川線での貨物輸送はなくなり旅客輸送のみ。沿線に競艇場や複数の公園が点在することもあり、レジャー目的で利用する人も多い。

 

【補足情報その1】赤や黄色いレトロカラーの電車がファンの心をくすぐる

西武多摩川線を走る車両は新101系のみ。多摩湖線と同じ車両だ。新101系はホワイトが標準色となっている。この標準色に加えて、西武多摩川線では、鉄道ファンに「赤電」の名で親しまれた赤いレトロカラー(1980年ごろまで多くの車両がこのカラーだった)と、新101系が登場したころの黄色いレトロカラーというレアな色の2編成も走っている(2018年6月現在)。

↑新101系のレトロ塗装車。同車両が登場した当時の色に塗り直され、赤電塗装の車両とともに西武多摩川線の人気車両になっている

 

この2編成のカラーは、西武鉄道のオールドファンに特に人気で、懐かしいレトロカラーの電車をひとめ見ようと沿線に訪れる鉄道ファンも目立っている。

 

【補足情報その2】JR中央線との接続は便利だが、京王線との乗換えはやや不便

西武多摩川線の起点駅は武蔵境駅。JR武蔵境駅と同じ高架路線の駅となっている。乗継ぎ改札口を利用すれば、JR中央線との乗換えは便利だ。

↑西武多摩川線の起点となる武蔵境駅。JRの駅と並ぶように高架下に設けられている。こちらは自由通路側の改札口だがJR中央線との乗換え口がほかにある

 

電車は平日、休日に関わらず10分間隔で発車している。武蔵境駅から終点の是政駅まで12分あまりだ。車窓からは、武蔵野らしく畑地のほか、野川公園など三多摩地区を代表する公園も点在し、四季を通じて楽しめる。

 

途中、白糸台駅が京王線の武蔵野台駅との乗換駅になる。ただし、乗換えはやや不便で、徒歩6分ほどかかる。白糸台駅の駅舎が京王線の武蔵野台駅側とは逆側のみのためだが、この位置関係がちょっと残念に感じる。ちなみに白糸台駅には車両基地があり、仕業点検など簡単な整備や清掃はここで行われる。

 

そして終点の是政駅へ。この駅は多摩川のすぐ近くにあり、裏手に土手があり、のぼればすぐに多摩川河畔となる。

↑終点の是政駅の先にはバラスト用の砂利や、レールの置き場があり、その区間のみ線路が延びている。かつてこの先が多摩川まで延び砂利運搬用に利用されていたのだろうか

 

↑是政駅を出たすぐ裏手に多摩川があり、土手からはJR南武線や、武蔵野貨物線の橋梁が見える。長い間、河畔では砂利採集が行われ西武鉄道多摩川線で運搬されていた

 

【補足情報その3】鉄道ファンにとっては隠れた人気イベント!? 孤立路線ならではの苦労

西武多摩川線には白糸台に車両基地があるが、この基地では本格的な整備を行っていない。そのため、西武鉄道の路線内にある車両検修場まで運び、検査や整備をしなければいけない。そのあたりが孤立路線のために厄介だ。

 

武蔵境駅には、JR中央線との連絡線がある。車両は通ることはできるが、西武鉄道の電車がJRの路線を自走することはできない。そこで「甲種輸送」という方法で、輸送が行われる。JR貨物に輸送を委託、JR貨物の電気機関車が西武鉄道の電車を牽引して運ぶのだ。

 

そのルートは、武蔵境駅 →(中央線を走行)→ 八王子駅(進行方向を変える) →(中央線・武蔵野線を走行)→ 新秋津駅付近 →(西武池袋線への連絡線を走行)→ 所沢駅 → 武蔵丘車両検修場 という行程になる。
また、整備を終えた車両や交代する車両は、その逆で西武多摩川線へ戻される。

 

約3か月に1回の頻度で行われるこの「甲種輸送」。JR貨物の電気機関車が西武鉄道の電車を牽くシーンが見られるとあって、鉄道ファンには隠れた人気“イベント”にもなっている。

↑武蔵境駅の先でJR中央線への連絡線が設けられている。検査や整備が必要になった車両は連絡線を通りJRの路線経由で西武鉄道の車両基地へ「甲種輸送」されている

 

↑西武多摩川線用の新101系の「甲種輸送」の様子。JR路線内では西武鉄道の電車は自走できないため、JR貨物の機関車に牽かれて運ばれる

 

吊り革にコロッケ!? 愛すべき「おもしろローカル線」の旅【関東鉄道竜ケ崎線/東武小泉線】

おもしろローカル線の旅~~関東鉄道竜ケ崎線/東武小泉線~~

 

全国を走るローカル線のなかには、沿線に住む人以外に、ほとんど知られていない路線も多い。そうした路線に乗ってみたら、予想外に面白い発見がある。そんな「おもしろローカル線」を旅する企画、今回は北関東を走る2つの路線を訪れた。まずは茨城県龍ケ崎市内を走る関東鉄道竜ケ崎線から紹介しよう。

 

〈1〉関東鉄道竜ケ崎線(茨城県)の旅

路線距離わずか4.5km!! 街は「龍」ケ崎市、路線は「竜」ケ崎線という不思議

関東鉄道竜ケ崎線は、その距離わずか4.5kmという短い路線だ。関東鉄道といえば、取手駅〜下館駅を結ぶ常総線がよく知られている。あちらは51.1kmの路線距離があり、最近は、都心へのアクセスに優れたつくばエクスプレスが、途中の守谷駅を通ることから、沿線の住宅化が著しい。

 

一方の竜ケ崎線は、始点となる駅が、JR常磐線の佐貫駅。常総線の始発駅・取手駅とはずいぶん離れている。路線距離は短く、駅数が始点・終点あわせても3駅のみである。どうして離れたこの場所に、このような短い路線が走っているのだろう。

↑路線は常磐線の佐貫駅からほぼ一直線に終着駅の竜ケ崎駅へ向かう。終点の竜ケ崎駅から、さらに400mぐらい先に龍ケ崎市の中心部がある

 

龍ケ崎は、古くは陸前浜街道(旧国道6号にあたる)の要衝でもあり、木綿の生産地だった。しかし、常磐線(開業時は日本鉄道土浦線)が、街から遠い佐貫に駅が設けられることになった。そのため佐貫と龍ケ崎を結ぶ鉄道路線を、と1900(明治33)年に造られたのが前身となる竜崎(りゅうがさき)鉄道だった。開業当時は762mmという線路幅だった。

 

その後に改軌され、1944(昭和19)年に鹿島参宮鉄道に吸収された。路線は1965(昭和40)年、鹿島参宮鉄道と常総鉄道が合併して生まれた関東鉄道に引き継がれ、現在の関東鉄道竜ケ崎線となっている。

 

面白いのは地元の自治体名は龍ケ崎市と書くのに、路線は竜ケ崎線と書くところ。市の名前に「龍」が使われているのは、龍ケ崎市が生まれた際の官報に載った表記を元にしている。一方の竜ケ崎線は関東鉄道が合併した当時から「竜」の字が使われている。公文書に使われる常用漢字が「竜」の字だったため、この字が路線名として定着したようだ。

 

乗ったらエッ—−? 吊り革にコロッケが付いている

竜ケ崎線の始発駅・佐貫に降り立つ。JRの橋上駅を下りた先に関東鉄道の佐貫駅があった。この竜ケ崎線、路線距離は前述したように、わずか4.5km。乗車時間は7分だ。途中に入地(いれじ)駅という駅があるのみで、乗ったらすぐに着いてしまう。だが、乗車したときのインパクトは特大。なんと、車内がコロッケだらけなのだ!

 

車両はディーゼルカー。訪れた日は主力車両のキハ2000形1両のみの運行だった。淡い水色ボディにブルーの帯とブルーの天井、オレンジ色の細い帯がはいる関東鉄道特有の車体カラーだ。

 

車内には「コロッケがキタ−−」とネームが入るシール式のポスターが貼られる。ほかに「コロッケ アゲアゲ」などさまざまなイラスト入りのポスターが車内を飾る。それら貼り紙よりもさらにインパクト大なのが吊り革だ。なんと、吊り革にコロッケが付いていたのだ。

↑関東鉄道のキハ2000形の車内をさまざまな「コロッケ」のシールポスターが彩る。ほかに「コロッケ、地球に生まれて良かった−!」などの文句が踊るポスターも貼られていた

 

↑車内の吊り革のほとんどにコロッケが付く。もちろん本物ではなく、プラスチック製の食品サンプルを利用したもの。小判型や俵型など、コロッケの形にもこだわりが垣間見える

 

↑JR佐貫駅の駅前にあるそば店「四季蕎麦 佐貫駅前店」でも揚げたてコロッケが販売されている。市内の複数の店で販売されるが、竜ケ崎駅そばに販売店が無いのは惜しい

 

このコロッケは何なのだろうか。

 

実は龍ケ崎市の名物グルメが「コロッケ」なのだ。2003年に「コロッケクラブ龍ケ崎」が生まれ、全国のイベントに参加。2014年には、ご当地メシ決定戦で見事に優勝したという輝かしい経歴を誇る。いまも市内ではコロッケイベントが随時、開かれている。

 

竜ケ崎線の車内の装いも、市外から訪れた人たちに、そんな龍ケ崎名物を伝えよう、という意図があったわけだ。当初は短期間で終了の予定だったらしいのだが、好評なので現在もこの装いで列車が運行されている。

 

竜ケ崎沿線では、佐貫駅のそば店や、関東鉄道佐貫駅に隣接する観光物産センター「まいりゅうショップ」(冷凍もののみ用意)でも龍ケ崎コロッケが販売されている。筆者もひとついただいたが、ほくほくしていて懐かしの味だった。

↑JR常磐線の佐貫駅に隣接して関東鉄道佐貫駅が設けられる。入口には龍ケ崎市観光物産センターの「まいりゅうショップ」がある

 

レトロふうな途中駅、そして終点の竜ケ崎駅へ

ついコロッケだけに目を奪われがちだが、そのほかの沿線の様子もお伝えしよう。沿線には龍ケ崎市の住宅地が点在する。そして田畑も広がり、北関東らしい風景が広がる。

 

途中の駅は入地(いれじ)駅の1駅のみ。駅の待合室は最近、きれいに模様替えされ、駅名表示などレトロな文字が入る案内に変更されていた。

↑レトロな造りに変わった入地駅。ホーム1つの小さな駅だが、つい降りてみたくなるような趣がある。駅近くの道にキジが歩いているのを発見、そんなのんびりした駅だった

 

起点の佐貫駅から乗車7分で終着駅、竜ケ崎駅へ到着する。街の中心は400〜500m先にあるため、駅周辺は閑散としている。とはいえ、鉄道好きならば、すぐ近くにある車両基地は見ておきたい。留置された予備車両をすぐ近くで見ることができる。

↑竜ケ崎線の終着駅・竜ケ崎駅に到着したキハ2000形。この先、線路は行き止まりの頭端式のホームとなっている。すぐ裏手に竜ケ崎線の車両基地がある

 

↑竜ケ崎駅の外観。路線や駅の開業は古く、すでに120年近い歴史を持つ。駅舎は近年、改修され、きれいになっている

 

↑車両基地にとまるキハ532形。基地の建物が撤去されたこともあり、周囲の道路からでも車両がよく見える。写真のキハ532形は予備車両として週末に走ることが多い

 

〈2〉東武小泉線(群馬県)の旅

不思議な“盲腸線”がある路線。日本離れした景色がおもしろい

今回、紹介するもう1本の路線は東武鉄道の小泉線。下の地図を見ていただくとわかるように、東武小泉線は館林(たてばやし)駅と太田駅を結ぶ路線である。途中の東小泉駅から西小泉駅までの2駅区間の路線もある。

↑群馬県内を走る東武小泉線の路線。東武鉄道の特急「りょうもう」は全列車が足利市駅経由のため伊勢崎線を走る。東武小泉線の方が距離は短いものの走るのは普通列車のみだ

 

都心と群馬県の赤城や伊勢崎を結ぶ特急「りょうもう」は東武伊勢崎線を通り、この東武小泉線を通らない。足利市駅を通るため、大きく北をまわっているのだ。特急が通る路線よりも短い “短絡路線(距離は東武小泉線経由の方が約4km短い)”であり、行き止まりの“盲腸線”がある。

 

東武小泉線では、どのように列車が運転されているのか、気になって訪ねてみた。

 

東武小泉線は館林駅〜西小泉駅間12.0kmと、太田駅〜東小泉駅間6.4kmの計18.4km区間を指す。歴史は古く1917(大正6)年に営業を始めた中原(ちゅうげん)鉄道小泉線(館林〜小泉町)が元となる。1937(昭和12)年には東武鉄道に買収されたあと、1941(昭和16)年に太田〜東小泉間と小泉町〜西小泉間が開業、現在の小泉線の路線ができあがった。

 

その当時、西小泉駅近くには中島飛行機小泉製作所があり、西小泉駅から利根川河畔まで貨物線の仙石河岸(せんごくがし)線が敷かれていた。その先、利根川を越えて熊谷まで路線延長の計画があったという(旧東武熊谷線と接続を計画)。1976年に仙石河岸線は廃止されたが、路線の草創期は東洋最大の飛行機メーカーだった中島飛行機との縁が深かった。

 

ちなみに中島飛行機といえば、陸軍の「隼」、「鍾馗(しょうき)」、「疾風」。海軍の「月光」、「天山」といった名戦闘機を生み出している。戦後に、中島飛行機は解体され、自動車メーカーのSUBARUにその技術が引き継がれた。

 

東武で最大車両数を誇った8000系が2両編成で走る

やや前置きが長くなったが、いまは軍需産業にかわり、自動車、さらにパナソニックなどの工場がある地域でもある。そんな予備知識を持ちつつ、東武小泉線の起点駅、館林駅に降りる。

 

館林駅の東武小泉線用ホームは3番線、5番線ホームの先、伊勢崎方面側にある。2両編成の運転に対応した4番線ホームで、スペースは小さい。このホームから列車が出発する。使われるのは8000系で、乗務員1人のワンマン運転で走る。

↑東武鉄道の代表的な電車として活躍した8000系。現在、東武小泉線を走る電車はすべて8000系で、2両編成となり、ワンマン運転用に改造されている

 

↑館林駅の伊勢崎駅側の一角にある4番線が東武小泉線の乗り場。このホームから2両編成の西小泉駅行き電車のみが出発する

 

館林駅からは西小泉駅行きの電車しか走っていない!?

乗り場で知ったのだが、館林駅発の東武小泉線の列車はすべてが“盲腸線”の終わりにあたる西小泉駅行きだった。館林駅と太田駅を直接に結ぶ列車が無いのだ。館林駅から東武小泉線経由で太田駅へ向かう場合は、分岐する東小泉駅での乗換えが必要になる。

 

つまり東武小泉線の列車の運用は館林駅〜西小泉駅間と、東小泉駅〜太田駅(多くが桐生線赤城駅まで直通運行)間の2系統に分けられていた。

 

東小泉駅〜西小泉駅間は、小泉線にとっては盲腸線区間ではあるが、列車の運用はこの区間を切り分けているわけでなく、館林駅〜西小泉駅間が東武小泉線のメイン区間という形で電車が走っているわけだ。

↑館林駅〜西小泉駅間を走る列車すべてが、東小泉駅で太田駅方面の電車と接続して発車している

 

終着・西小泉駅は数か国語が飛び交い異国の地に来たよう

東武小泉線の電車に乗ると気づくのが、日系の人たちの乗車が多いこと。ブラジルやペルーなどへ日系移民として渡った子孫が、日本へ多く戻り沿線にある工場で働いているようだ。車内では日本語以外の言葉が飛び交い、まるであちらの電車に乗っているかのように感じる。

 

ちなみに、沿線では西小泉駅、小泉町駅、東小泉駅がある大泉町に多くの日系人が暮らしている。大泉町は人口が4万1845人(2018年4月30日現在)で、そのうち18%を外国人が占めている。群馬県内で最も人口の多い町で、人口密度も北関東3県の市町村のなかで最も高い。

 

実際に西小泉駅へ降りてみる。すると駅は新しく模様替えされ、案内表示はポルトガル語、スペイン語、などさまざまな言語で表示されている。地図も同様だ。

↑2017年から2018年2月にかけて工事が行われ、駅舎とともに屋外の公共トイレもリニューアルされ、きれいになった。大泉町の玄関口にふさわしい造りとなっている

 

↑このとおり駅の案内はインターナショナル。英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語などで表記されている

 

↑街の地図もおしゃれな雰囲気。これならば日本語が読めなくとも心配なさそうだ

 

街中に出てみる。日本のお店に混じって、日系の人たち向けのお店も目立つ。駅前のブティックにはドレスで着飾ったマネキン。ポルトガル語・スペイン語の看板が目を引く。さらにブラジル料理の店などが点在する。公園ではラテン音楽に合わせて踊りを練習する子どもたち……。まるで南米の街を歩いているかのように感じる。

↑国内で英語の看板は見かけるものの、スペイン語、ポルトガル語の看板となるとそうは無いのではないだろうか。大泉町ではこれが当たり前の光景だ

 

↑ブラジル料理店やブラジリアバーなどが西小泉駅近くには多く並ぶ。街にはシュラスコや、フェジョアーダといったブラジル料理が楽しめる店もある

 

西小泉駅の留置線や廃線跡を利用したいずみ公園にも注目!

西小泉駅は1970年代まで貨物輸送が盛んに行われていた駅でもある。そんな面影が駅周辺に残るので、こちらも注目しておきたい。

 

西小泉駅自体の開業は1941(昭和16)年12月で、中島飛行機の玄関口として当時は立派な駅が設けられたそうだ。残念ながら、太平洋戦争開始直前のことで、当時の写真や資料は残っていない。だが、面影は偲べる。現在のプラットホームは一面ながら、引込線などのスペースが大きく残る。

↑西小泉駅を発車する館林駅行き電車。駅は線路の配置もゆったりしていて、以前に貨物用に使われた線路やホームの跡もいずみ緑道側に残されている

 

さらに利根川方面へ延びていた仙石河岸(せんごくがし)線の廃線跡が、いずみ緑道としてきれいに整備されている。群馬の街で異国情緒を楽しんだあとに、廃線の面影を偲びつつ公園散歩をしてみるのも楽しい。

↑貨物線だった仙石河岸線の廃線跡がいずみ緑道となっている。同緑道は日本の道100選や、日本街路樹100景、美しい日本の歩きたくなるみち500選にも選ばれている

 

次回以降も、全国各地のユニークなローカル線を紹介していこう。

世界最高の時速350キロ!! 中国での移動には「高速鉄道」を使うべき?

地図を見れば一目瞭然ですが、中国の広さは日本の比ではありません。実際に住んでみると身をもって分かります。例えば、中国では「寝台列車」は当たり前。列車泊をしながら旅をするのは日常茶飯事です。そんな中国ではいま、日本の新幹線にあたる「高速鉄道」が建設ラッシュ。広い中国を効率よく旅をするならこの「ガオティエ(高速鉄道の現地の呼び名)」がおすすめです。筆者が自信を持っておススメする理由を4つご説明しましょう。

 

1:国内2万5000キロを超える路線距離

中国の高速鉄道は路線距離が世界一。いまこの瞬間でさえ、レールの敷設作業が着々と進んでいますから、これから先はさらに距離が延びるはずです。地元メディアの報道によると、中国鉄道の総距離は12.7万キロで、そのうち高速鉄道が「2万5000キロ」を占めているとのこと。2017年だけでも約8000億元(日本円で約14兆円)という巨額の費用をかけて開発が行われていました 。

 

2:時速350キロの最高速度も世界一

以前は安全性の観点から速度制限が設けられていたものの、現在の一部区間では「最高時速350キロ」での走行が許可されています。ちなみに日本の新幹線の最高速度は、東北新幹線の宇都宮〜盛岡区間で時速320キロ。中国の高速鉄道より速い新幹線はこの世にありません。

 

3:乗り心地最高! 川崎重工業の鉄道車両を使用

中国の高速鉄道に利用されている車両は、実は日本の新幹線をベースに設計されているのです。使用されている「CRH2車両」は、中国が川崎重工業 車両カンパニーから購入したもので、乗り心地もなかなか。中国鉄道の種類には「G」もしくは「D」で始まる高速鉄道と、「T」や「Z」で始まるいわゆる鈍行列車があります。車内の防音効果やシートの座り心地など、高速鉄道と鈍行列車ではまさに雲泥の差。

 

4:高速鉄道専用の駅は新設備でサービスも充実

「G○○○」のようにアルファベットの「G」から始まる高速鉄道は専用の駅から発着します。高速鉄道に乗る人たちはスマートな人々が多く、何が入っているのかわからない巨大な荷物を背負って乗り込んでくる人もいなければ、プラットホームから車両につばを吐いたり、駅のプラットホームでたばこをスパスパ吸ったりするマナーの悪い人もいません。

 

また、駅内のサービスが充実していることも高速鉄道の魅力の1つ。広い駅構内には、おいしいレストランや気軽に入れるファストフード店、コンビニなどがいっぱいあります(駅内で食べ物を買い損ねても、車内でお弁当などのサービスを利用可能)。フリーWi-Fiが利用できるのも高速鉄道の駅ならでは。

速さだけじゃない! 比べ物にならない快適さ

単純に速さだけではなく、車両の「快適さ」も高速鉄道をおすすめする理由の一つです。ゆったりとしたシートの足元には電源プラグがあり、手持ちのデバイスを充電可能。シートの背もたれは鈍行列車と違ってリクライニングできるので、仮眠する際にも腰が楽です。広々としたシートで、気分はまるでファーストキャビン(さすが日本製車両!)。周りも静かなので、すやすや眠れます。

 

鈍行列車と比べて3倍ほどの価格とチケットが割高なため(北京-上海間で約500元) 、客層は中流階級以上が多く、マナーをわきまえた乗客が大半。怒鳴るような大声でおしゃべりする乗客もいないので、快適な乗車時間を過ごせるのです。また、おしゃべりしている人が少ないのは、鈍行列車のように座席が向かい合っておらず、相手の顔が見えないからかもしれません。

 

主要都市間は飛行機の便も多いものの、地方部になると高速鉄道のほうが飛行機よりも本数が多いのも事実です。例えば、武漢-上海間だと、飛行機は1日平均20本ほどですが、高速鉄道なら30本近くあります。天候などに左右されにくい、新しい交通手段のガオディエ。中国にお越しの際は高速鉄道をぜひお試しください。

 

 

意外に知られていない「踏切」の安全対策。「踏切の安全確認のために停車いたしました」はどんなとき?

国土交通省が平成28年度に行った調査によると、踏切事故は20年前に比べて58%減、10年前に比べて40%減となり、死亡者数も平成8年度142人、平成18年度124人、平成28年度97人と確実に減ってきている(鉄軌道輸送の安全に関わる情報)。一方で、70歳代以上の高齢者が巻き込まれる事故が34.5%と目立っており、60歳代まで含めると49.7%にもなる。

踏切には安全対策のためにさまざまな機器が取り付けられている。こうした安全装置を知ることにより、クルマや高齢者が踏切内に取り残されたときなど、もしものときに遭遇したらどのように対応すればいいのか知っておきたい。今回は、首都圏に路線網を持つ京王電鉄の踏切の安全対策を中心に見ていこう。

 

「踏切の安全確認のために停車いたしました」はどんなとき?

駅はまだ先だというのに、電車が駅と駅の間で停車。「踏切の安全確認のために停車いたしました」という車掌のアナウンスが車内に流されることがある。踏切でどのようなトラブルが起こると、電車が停止するのか、整理しておこう。停止となる要素は次のことがあげられる。

 

①非常停止ボタン(踏切支障報知装置)が押されたとき

②踏切障害物検知装置が、踏切内に残されたクルマなどを検知したとき

③踏切警報装置の電源が停電したとき

 

それぞれについての詳細は後述するが、これらのことが起こると以下のような対応が行われる。

「特殊信号発光機が作動して運転士に知らせるとともに、当該踏切の手前で停まるように信号が発信されます。さらに万が一、運転士のブレーキ操作を行わなかった場合でも、自動的にブレーキが作動します(停止距離に余裕がない場合は非常ブレーキが作動)」(京王電鉄)

ちなみに、踏切障害物検知装置で人が検知されることはあまりなく、数秒間、同じ場所に留まってはじめて検知されるとのこと。つまり通行する人が遮断機が閉まりかけている踏切を無理に渡ろうとした場合、こういった事例を運転士が発見し危険だと思いブレーキをかけたときをのぞき、電車が急停車するまでには至らないようだ。

 

もちろん、そのような行為は大変危険であり、絶対に行ってはならない。踏切内で転んだり、もしものときは取り返しがつかない。直前横断が踏切事故の原因のなかでもっとも多いことを忘れないようにしたい。

 

非常押ボタンが押されたら、係員や乗務員による復帰操作が必要

さて踏切の安全確認のために電車が停車したとき、運転再開の手続きはどのように行われるのだろう。

「駅係員または乗務員により、目視で当該踏切道の異常の有無を確認します。非常押ボタンによる発光信号の作動については、安全確認後に係員が同装置の復帰操作を行います。運転再開は踏切道内の安全確認後に、そのむねを運輸指令所へ報告してから行います」(京王電鉄)

特に非常ボタンが押されて一度停まってしまうと、運転再開まではなかなか大変なのである。このことにより、列車の遅れ、または前後の踏切が開かなくなるなどの影響が生じてしまう。

 

踏切の警報が鳴りだして遮断動作が終了するまでの時間は15秒が標準。また遮断動作が終了してから電車の到達までの時間は標準で20秒あるそうだ。警報器が鳴り始めて、少なくとも電車到着までに35秒以上の時間があるわけだ。閉まりかけた踏切には無理して進入しない。さらに、もしもの時も慌てずに対応したい。

↑警報が鳴ってから電車が到達するまで約35秒。ただこの数字はあくまで標準時間で、踏切を渡り切る時間を考慮しつつ、長時間、遮断させないなどの設計が行われている

「踏切警報灯」は視認性を考えて場所ごとに使い分けされていた

ここからは、踏み切りに施された安全対策を見ていこう。これらを把握しておくことで、いざというときに落ち着いて行動できるようになるだろう。まずは赤く点滅する踏切警報灯の話題から。

 

京王電鉄の場合、踏切警報灯には次の写真のようなタイプが使われている。大きく分けて、片面形と全方向形、両面形の3種類だ。古くからある片面形だが、「老朽化に伴う更新では片面形から全方向形へ、もしくは両面形への変更を基本としています」と京王電鉄では話す。

片面形は片側のみ、全方向形はその名前のとおり360度、どこからでも点滅していることが確認できる。両面形は表裏の両側から見える形だ。古くから使われてきた片面形に比べて、視認性というポイントでは全方向形と両面形の2タイプのほうが優れていることは言うまでもない。

 

さらに京王電鉄の踏切では、視認性を向上させるために、形の違う踏切警報灯を併存させている箇所がある(上の写真の右下がそれにあたる)。この場所では、線路と交差する道に加えて、線路沿いに側道がある。ちょうど街路灯の柱があり、側道から踏切警報灯が見難いことから、全方向形と片面形を併存させている。

↑京王電鉄をはじめ、鉄道会社の踏切は、写真の全方向形の踏切警報灯が増えつつある

 

筆者が京王電鉄京王線の高幡不動駅 → 笹塚駅の間にある70か所の踏切警報灯を調べたところ(踏切北側のみ)、全方向形が50%近くと圧倒的に多く、従来からある片面形が38%と減りつつあることがわかった。なお、両面形は10%と数は少なめだった。

 

遮断機のトラブルで多い「遮断かん」の破損を防ぐ工夫

次の写真は、東海地方のある路線で見られた踏切のトラブル例だ。遮断機がしまりつつあるのに、クルマが無理に渡ってしまったらしく、踏切を遮断する棒「遮断かん」が完全に折れ曲がっていた。このような状態になると、保安要員が現地へ出向き、修理をしない限り、電車は踏切の手前で停車、さらに踏切前後で徐行運転をせざるをえない。実際にこの路線では列車が大幅に遅れ、また付近の踏切がなかなか開かない状態になっていた。

↑踏切を遮断する棒「遮断かん」が折れてしまった事例。こうなってしまうと、保安要員が到着して遮断かんを交換するまでは、電車は徐行運転を余儀なくされる

 

鉄道会社ではこのような遮断機のトラブルに、どのように対応しているのだろうか。

 

まずは遮断かんを動かしている電気踏切遮断機と、遮断かんをつなぐ部分に「遮断かん折損防止器」という機器を取り付けていることが多い。この防止器を付けることで、多少の角度の折れ曲がりには耐えられる仕組みとなっている。

 

とはいえ限界を越えると上の例のように鉄道の運行に支障をきたし、ほかのクルマや歩行者に迷惑をかけることになってしまう。踏切事故の原因のなかでもっとも多いのが直前横断で、全体の56.5%を占めている(国土交通省調査)。クルマの運転をしているときは、当たり前だが閉まりかけた踏切の無理な横断は慎みたい。

↑電気踏切遮断機(左のボックス部分)と遮断かんの間に付く遮断かん折損防止器。この装置で、一定の角度までは遮断かんが折れないような仕組みとなっている

 

一方、高齢者が(踏切の内側で)遮断かんを前にして立ち往生しているような場合は、手で遮断かんを上にあげて、高齢者を踏切の外へサポートしたい。筆者も自転車を押す高齢者が遮断かんの手前で動けなくなっていた際に、遮断かんを持ち上げて外に出られるよう手助けしたことがあった。人が通るために遮断かんを持ち上げるぐらいならば、大概の踏切には遮断かん折損防止器がついていて、折れることはまずないといっていい。

 

京王電鉄の場合は、まず遮断かん折損防止器の装着に加えて、FRP(繊維強化プラスチック)という、かたい素材の遮断かんを使っている。それでも、クルマが遮断かんに引っかかったりして、折れることがある。折れた場合は、すぐに保守要員が現場に急行して予備品と交換するそうだ。

 

さらに最近ではスリット形遮断かん、屈折ユニットといった、折れ曲がりの衝撃を緩和する遮断かんの導入を進めているということだった。

 

踏切の動作状況を運転士に知らせる「踏切動作反応灯」

踏切がしっかり閉まっているかどうか、これを運転士に知らせるのが踏切動作反応灯だ(京王電鉄社内では「踏切遮断表示灯」と呼んでいる)。踏切動作反応灯の点灯によって、踏切が正常に作動していることがわかる。万が一、停電や故障で踏切が可動していない場合には、この表示が消えたままとなる。

 

ちなみに、この踏切動作反応灯は、鉄道会社により形が違っている。

↑踏切の手前に設けられた京王電鉄の踏切動作反応灯(×印が付いた側)。踏切がしっかり閉まっているかどうかをこの反応灯で運転士に知らせている

 

↑西武鉄道の踏切動作反応灯。上下のランプが点滅して、踏切が正常に作動しているかどうかを運転士に知らせる

 

ところで、上の京王電鉄の踏切動作反応灯の写真に写り込むランプ(踏切動作反応灯の上)は何だろうか?

 

これは踏切の安全を守るために欠かせない特殊信号発光機というもの。踏切に設置された非常ボタン(正式には踏切支障報知装置と呼ばれる)が押されたとき、または踏切障害物検知装置(詳細は後述)が障害物を検知したときに、この発光機が赤く光る。鉄道会社によっては、棒状のもので知らせる例もあるが、いずれのタイプも、赤い光がぱっと輝き、遠くからでもよく見える。

 

非常ボタンを押されたら、この特殊信号発光機が発光して運転士に通知、さらにATC装置(自動列車制御装置)が作動、走る電車の減速が自動的に行われる。2重の安全対策が施されているわけだ。

↑踏切に設置されている非常ボタン(踏切支障報知装置)。このボタンが押されると、特殊信号発光機が点灯、さらにATC(自動列車制御装置)が作動し、電車が減速される

 

↑特殊信号発光機の点灯の様子。点灯時の様子はなかなか目にできないが、点灯時は赤く輝き、遠くからでもすぐわかる(非常ボタンの仕組みを伝える鉄道イベントでの1コマ)

 

踏切内でクルマが立ち往生、または高齢者が踏切内で立ち往生していて動けない、といったトラブルが生じたときには、いち早く非常ボタンを押して、運転士や鉄道会社へ知らせることが大切だ。

 

非常ボタン以外にも障害物を検知して知らせる仕組みが

利用者のあまり目に触れないところで、踏切の安全を守っている装置が踏切障害物検知装置(以下、障検・しょうけんと略)だ。障検のなかでもっとも普及しているのが、光センサー式の検知装置だ。踏切の左右両側に、銀色の柱が数本、立っている姿を目にしたことのある人もいるのではないだろうか。これがその検知装置だ。

↑踏切の脇に立つ踏切障害物検知装置。発光器から赤外線、またはレーザー光線を発光し、受光器でその情報を得て、踏切内の障害物の有無を検知している

 

赤外線やレーザー光線を発光器から出し、もう一方の側に立つ受光器でこの信号を受ける。赤外線やレーザー光線が途中で遮られ、踏切内にクルマなどの障害物があることが検知されると、非常ボタンが押されたときと同じように特殊信号発光機が光り、さらにATC装置が作動して、車両が減速される。

 

光センサー式の検知装置は、複数の装置を立てて、障害物を検知する。とはいえ、赤外線やレーザー光線を照射する部分が限られている。元々、クルマなどの障害物の検知を前提にした装置のため、踏切内に人がいたとしても、その検知は難しい。

 

この検知装置に比べて高度な検知が可能にしたのが「三次元レーザーレーダ式(3DLR)」と呼ばれるシステム。踏切脇の支柱上に箱形の装置が設置されていて、この箱からレーザー光が照射され、踏切内の障害物を検知しようというものだ。障害物が踏切内に留まっている場合、クルマだけでなく、条件によっては人まで感知できるように検知の精度が高まっている。

↑三次元レーザーレーダ式の踏切障害物検知装置。京王電鉄では芦花公園駅に隣接する踏切などに設置される。同踏切がカーブ途中にあり視界が悪いため設置されたと思われる

 

ちなみに京王電鉄では踏切障害物検知装置の設置割合は踏切全体の63%だとされる。歩行者専用の踏切もかなりあるので、クルマが通行できる踏切のうち、多くが何らかの装置を備えているわけだ。ちなみに検知方式は光センサー式の検知装置(HB形と呼ばれるものやレーザー式)を多く使用しているが、一部に三次元レーザーレーダ式も設置されている。

 

踏切の保安設備がない「第4種踏切の事故」が目立つ

ここまでさまざまな安全対策について見てきたが、踏切は、その保安設備により第1種、第2種、第3種、第4種の全4種類に分けられている。踏切警報器や自動遮断機が付いている踏切は第1種踏切とされる。第2種踏切は踏切保安係が遮断機を操作する踏切で、現在はすでに国内にない。第3種踏切は自動遮断機がなく、踏切警報器のみの踏切だ。

 

そして第4種踏切は踏切警報器などの保安設備がなく、足元に踏み板が設けられ渡れるようになっている形のものだ。ちなみに大手私鉄の踏切は、第4種は非常に少なく、今回紹介した京王電鉄はすべての踏切が第1種で、第4種は1つもない。第4種は、列車の運行本数の少ない地方の鉄道路線に多い。

↑踏切警報器や自動遮断機がない第4種踏切。地方路線に多く残り、事故率も高いことか問題視されている

 

数で言えば全国の3万3432箇所(国土交通省平成27年度調査・路面電車の路線も含む)ある踏切のうち、第4種は2864箇所で、0.085%でしかない。

 

ところが、第4種踏切で起きた事故が、踏切事故全体の13.9%を占める。今後、どのような対策を施していけばいいのか。近隣の人たちにとって、欠かせない第4種踏切もあり、安全対策が模索されている。

 

「踏切」は着実に進化していた!! 意外と知らない「踏切」の豆知識

私たちが日ごろ、何気なく通る踏切。鉄道の安全を守るために必要不可欠な設備だが、実は調べてみると、いろいろな機器が取り付けられ、形もいろいろあることがわかった。そこで、2回にわたり鉄道の安全運行に欠かせない踏切を紹介していこう。

 

こんなにいろいろあったとは!! 踏切の機器一覧

まずは踏切を使う側が、知っておきたい踏切の基礎知識から。

 

次の写真は東京北区にあるJR東北本線の井頭踏切。京浜東北線、東北本線、湘南新宿ラインなどの電車が絶え間なく走る。列車の通過本数は多いが、踏切施設としてはごく一般的な形だ。とはいえ、ご覧のように、細部を見ると、さまざまな機器が取り付けられていることが分かる。

踏切には、鉄道の安全運行を守るため、これだけの設備が必要ということなのだ。まずは踏切には黄色と黒で色分けされた柱が付く。この柱は「踏切警報器柱」という名称で、1番上に黄色と黒に色分けされた×印が付いている。これは「踏切警標」と呼ばれている。そしてその下に「踏切警報灯」が付く。これが大半の踏切にある基本的な設備だ。

 

なかでも利用者が目を向けることが多いのが、赤く点滅する「踏切警報灯」ではないだろうか。形もいろいろ。そんな踏切警報灯に、まず注目した。

 

形いろいろ「踏切警報灯」。省エネタイプも登場

踏切を利用する人やクルマへ注意を促すために、赤く点滅。踏切の機器のなかでも最も目立つ存在なのが、踏切警報灯だ。この踏切警報灯、実はいろいろな形がある。まとめたのが下の写真だ。

長く使われてきて、おなじみな形が片面形だろう。赤い警報灯を取り囲むように黒い円形の鉄板が付く。警報灯の上に傘が付くものも多い。筆者も踏切の警報灯は、いまもこの片面形が一般的なのだろうと、思っていた。だが、実際に巡ってみると、形の違う警報灯がすでに多く普及していることがわかった。

 

それが全方向形、またぼんぼりの形のような全方位形と呼ばれるタイプ。前後の両面が点滅する両面形もある。片面形をのぞき、近年になって使われるようになった形のものだ。これらの新しいタイプの良さは、片面形と比べると、見る角度に関係なしに点滅していることが見える点だろう。

 

片面形の場合、線路と交わる道路が1本の場合は良いが、数本の道路が交差しつつ線路をまたぐ場合にやっかいだ。片面形の場合には、角度が異なる道路ごとに警報灯を装着する必要があり、経費がそれだけかさむ。片面形でなく全方向形で対応すれば、2灯の装着で済む。最近はLEDライトを利用した警報灯も生まれ、省エネの効果も期待できるようになっている。

↑踏切に交わる道路の角度にあわせて片面形の警報灯を付けた例。道路にあわせて4灯の警報灯が付く。これが全方向形であれば、2灯で済むので設置費用も割安となる

 

古くから使われる片面形の警報灯だが、鉄道会社で異なる形のものを使っている例もあった。愛知と、岐阜両県に路線を持つ名古屋鉄道(名鉄)だ。この名鉄の踏切はほとんどが、取り囲む黒い板が四角。全国的にも珍しい形だと思われる。

↑名古屋鉄道(名鉄)の踏切は写真のような黒い板の中に丸い警告灯が納まる形。あくまで筆者が確認した範囲だが、名鉄の踏切のみの特徴かと思われる

「遮断かん」は折れにくいカーボンファイバー製が主流に

通常、私たちが遮断機と呼んでいる、踏切を遮断するシステム。実は遮断機は、踏切を遮るさおを下ろす機械「電気踏切遮断機」と、遮るさお「踏切遮断かん」(「かん」は漢字ならば「桿」)で構成されている。

 

この踏切遮断かんには、以前は竹ざおが利用されることが多かったが、いまはFRP(繊維強化プラスチック)が広く普及するようになっている。カーボンファイバーとも呼ばれる素材で、軽くて強い。

 

強いとはいえ、踏切内に閉じこめられたクルマが脱出しようとしたときには折れることもある。そのために踏切遮断かんと電気踏切遮断機の間に、遮断かん折損防止器という装置が付けられることが多い。これで、多少の角度までならば、遮断かんが折れないように工夫されている。

↑遮断機は、動作する部分の電気踏切遮断機と、遮断かん折損防止器、遮断かんで構成される。遮断かんには、のれんのような注意喚起用のパーツが付けられた踏切もある

 

↑竹ざおを使った遮断かんも一部の踏切では残っている。また、注意喚起用にリフレクター(反射板)を付ける鉄道会社もある

 

電子音が主体の「警報音発生器」。珍しい音色が聞ける路線も

踏切では踏切警報灯と、音で電車や列車の接近を伝えている。この音を発生させる装置は「警報音発生器」と呼ばれる。

 

いま、全国の多くの踏切の警報音は「電子音式」になっている。カンカンカンカン……という良く耳にするあの音だ。踏切警報器柱の上に取り付けられたスピーカーで、この音が流されている。

 

いまや電子音が大半を占めるなか、レトロな音色が聞ける線区がまだ残っている。例えば千葉県内を走る小湊鐵道。始発・五井駅すぐそばの踏切・五井踏切では「電鈴(でんれい)式」とよばれる警報音を聞くことができる。柱の上に鐘がついていて、この鐘を鳴らすことで警報音が生まれる。「チンチンチンチン……」という郷愁あふれる音色が楽しめる。

 

この鐘を鳴らす方式には、「電鐘(でんしょう)式」とタイプもある。鐘を鳴らす方式はおなじだが、電鐘式のほうが柱の上にのる鐘が大きく、音はやや重め。三重県内を走る三岐鉄道三岐線の踏切などで見ることができる。

↑小湊鐵道の五井踏切。電鈴式というレトロな警報音を聞くことができる。柱の上にのる鐘を鳴らして音を出される仕組みだ

 

↑三岐鉄道の山城8号踏切では電鐘式と呼ばれる警報音が聞ける。柱の上に音を奏でる鐘が付けられている

 

警報音は電子音だが、近づく電車の動きに合わせて音のスピードが変わる踏切がある。それは京成電鉄の踏切。上りか下り、どちらかの一方の電車が通過するときは、通常の電子音での警報のみ。一方の電車が通過、さらに逆側からの電車が近づいたときは、電子音のスピードが早まる。まだ電車は来ますよ、という注意をうながし、また切迫感が伝わるように工夫されている。

↑京成電鉄の踏切では、上下電車が通るときのみ、通常とは違う早さの警報音を聞くことができる

 

踏切に欠かせない標識、そして線路部分の説明

踏切部分の設備ではないものの、踏切になくてはならないのが踏切標識。踏切の50〜120m手前に立つ標識で、この先に「踏切あり」ということを示している。この標識、1986(昭和61)年よりも前と後で、立てられた標識の絵が違うことをご存知だろうか。

 

次の写真が古いものと新しいものの違い。左は1986年以前のもので、右が以降に立てられた標識だ。蒸気機関車の運行が減ったことで、描かれた絵が電車に変更された。電車が走らない地域では、気動車の絵も使われている。

↑左が1986年までの「踏切あり」の標識。いまも残されている路線もある(写真は小湊鐵道)。右は1986年以降に立てられた標識。電車がデザインされている

 

最後に踏切の足元にも目を向けておこう。踏切を通る道路上には特別な仕組みが用意されている。レールの内側に踏切ガードレールというレールが付けられているのだ。レールと踏切ガードレールの間にはすき間がある。このすき間は車輪のフチにある出っぱり部分、フランジを通すためのものだ。踏切ガードレールがあり、その中には踏み板が付けられていて、人やクルマの通行に支障が生まれないように工夫されている。

↑人やクルマが通る踏切の足元の構造物にも名前が付いている。電車の車輪が通り抜けられるように、レールと踏切ガードレールの間には、すき間が設けられている

 

このように、踏切には必要不可欠な機器や設備が多く用意されている。次回は、安全への備え、さらに、走行中の電車への情報の伝わり方、そしてもしものことに出くわしたらどうしたら良いかなど、踏切をめぐる安全に関して目を向けていきたい。

まもなく見られなくなる? 終焉近づく「国鉄形電車」のいまと今後【2018年春 保存版】

1987年4月のJRグループ発足前の、国鉄時代に開発され、製造された電車(車両)を国鉄形電車(車両)と呼ぶ。やや武骨な出で立ち。走行音や乗り心地も、現在の静かで乗り心地の良い電車とは、ちょっと差がある。だが、その姿に親しみを感じ、郷愁を覚える人も多いことだろう。

 

長年走り続け、日本の経済発展にも寄与してきた国鉄形電車も、誕生してから30年以上の年月が経ち、終焉も近づきつつある。2018年の3月から5月にかけてそうした車両の著しい動きを見ることができた。

 

いまや残り少ない国鉄形電車のうち、動向が注目される車両と、さらにそうした車両に乗ることができる、また撮影できる路線に注目した。なお、今回は国鉄形電車のオリジナルな姿をなるべく留めた車両を中心に紹介したい。

 

いよいよ見納めか? 関西地区の103系

103系といえば、国鉄形の通勤電車を代表する存在。1963(昭和38)年から1984(昭和59)年まで3500両近い車両が製造され、首都圏を始め、近畿圏の多くの路線で通勤用に使われてきた。この103系が急激に車両数を減らしている。JR西日本が103系の最後の“牙城”となっていたが、大阪環状線や、大和路線(関西本線)、阪和線から、相次いで姿を消した。

 

近畿の都市部路線で残るのは奈良線、さらに朝夕しか運行のない和田岬線(兵庫駅〜和田岬駅間)のみとなっている。奈良線の103系は運行本数も減り、廃車の情報がちらほら見られるようになっている。早々に消えるのは避けられないようだ。最後まで残りそうなのが和田岬線。そのほか、更新され形を変えているが、播但線、加古川線、JR九州の筑肥線といった路線の103系が残りそうだ。

↑奈良線を走るウグイス色の103系。各駅停車用に使われてきたが、阪和線の205系が奈良線に移ってきたことで、103系の運用が急激に減ってきている

 

↑和田岬線の103系。前面窓ガラスのワクが黒ゴムと、鉄道ファンにはたまらないレトロ感を保つ。検査時には207系が代用されることがあり、訪れる際は注意したい

 

近郊形電車113系・115系の行く末は?

103系と同じ時期に造られたのが113系。近郊路線用に開発された直流電車で、この113系を寒冷地区用、急勾配路線用にした115系が造られた。

 

この113系、115系も活躍の場が狭められつつある。JR東日本に残っていた115系はこの春に、高崎地区での運用がなくなり、新潟地区のみの運行となった。その姿も貴重になりつつある。

 

JR西日本では湖西線、草津線で113系の運用が、また山陽本線を中心に113系、115系が多く使われている。新車両の導入が急速に進んでいるものの、あと数年は活躍ぶりを見ることができそうだ。とはいえ、深緑色、また濃黄色といった独自カラーに塗られた姿に、一抹の寂しさを覚える人も多いのではないだろうか。

↑越後線を走る115系。JR東日本で115系が走る地区は新潟地区のみとなっている。新型E129系の増備が進み、ここ数年で115系の姿は見られなくなりそうだ

 

↑湖西線・草津線を走る113系。深緑一色という出で立ちで京都〜近江路を走る

 

↑山陽本線の115系は濃黄色。広島地区では新型227系の進出が著しいが、まだまだ主力として活躍中。連結部側を先頭車としたユニークの姿の115系も走っている

 

↑JR四国にも113系が4両×3編成が残っている。とはいえ前面の姿は大きく変わり、113系の面影を留めていないのが残念だ

 

新快速として活躍した117系が最後の輝きを放つ

117系といえば、国鉄時代に生まれた近郊形電車のなかでは異色の存在。1979(昭和54)年からの製造で、そのころ私鉄の車両にくらべ見劣りした、京阪神地区の車両のレベルを高めるべく開発された。東海道本線を走る新快速列車に投入、速くて快適と沿線の人たちに愛された。そんな華やかな活躍もすでに過去のものとなり、JR東海で走っていた117系はすべて引退、残るはJR西日本の117系のみとなっている。

 

深緑色の117系が湖西線・草津線を、濃黄色の117系が山陽本線などを、オーシャンブルーの117系が和歌山地区を走る。山陽本線、和歌山地区での117系の運用は少なめだが、湖西線・草津線では頻繁に走っている。京都駅まで乗り入れていて、いましばらくは両路線や京都駅で目にすることができそうだ。

 

JR西日本では新車両導入を各路線で進めている。湖西線・草津線の113系や117系も、ここ数年で代わることが十分に考えられる。

↑湖西線・草津線を走る117系。同地区の113系・117系は数年前にほぼ深緑色に統一された。東海道本線・京都駅付近でも、その姿を頻繁に見ることができる

 

↑山陽本線を走る117系は、115系などと同じで濃黄色に塗られている

 

大阪環状線や大和路線が201系の最後の活躍の場所に?

201系が開発されたのは1979(昭和54)年のこと。「省エネルギー形電車」として生まれた。首都圏では中央快速線、中央・総武緩行線などで201系が使われていたが、すでに引退。残るは関西地区のみとなっている。

 

この関西地区でも201系の活躍の場が狭まっている。多く走っていた大阪環状線やゆめ咲線では新型323系の導入が進み、先輩格の103系が先に引退、201系も運用が減りつつある。残りは大和路線(関西本線)・おおさか東線のみとなっている。新型車両の増備で、先に大阪環状線用のオレンジ色車両が消えていきそう。ゆめ咲線用のラッピング電車と、ウグイス色の大和路線用の車両が最後に残りそうな気配だ。

↑大阪環状線を走るオレンジ色の201系。新型323系の増備で、日中、森ノ宮の電車区内に停められていることが多いようだ

 

↑大和路線の普通列車として走るウグイス色の201系。同路線でも後進の221系が増えつつあるが、ここ数年は主力電車として走り続けそうだ

国鉄形の特急電車189系・381系の動向は?

2018年の春、首都圏でその動向が最も注目された車両が、特急形電車の189系だった。1975(昭和50)年、国鉄が信越本線用に造った車両で、近年は中央本線の多くの臨時列車に使われてきた。国鉄時代に生まれた特急らしい姿を保った車両で人気も高かった。

 

189系は6両×4編成が残っていたが、この春に3編成がほぼ同時期に引退となった。まだ走るだろうと思われていた車両だっただけに、多くの鉄道ファンを驚かせることに。残るは長野総合車両センターに配置されるN102編成のみとなっている。一編成のみとなった車両の今後の動向が注目される。

↑長野総合車両センターに配置される189系のN102編成。あずさ色で塗られる。この5月19〜20日には「桔梗ヶ原ワイナリー号」として長野駅〜塩尻駅間を走る予定だ

 

国鉄時代に生まれた特急用の電車には、あと2種類、国鉄形電車が残っている。381系と185系電車だ。

 

1973(昭和48)年に登場したのが381系電車。カーブが多い路線のスピードアップを図るため振子装置が組み込まれた初の車両だった。中央本線などで活躍したが、すでにJR東海に受け継がれた381系は、全車が引退、JR西日本に残る車両のみとなっている。

 

そのうち、紀勢本線、福知山線などを走った381系は、すでに消えて、残るは岡山駅〜出雲市駅間を結ぶ特急「やくも」のみとなった。振子装置の動きに違和感を覚える利用者も多く、人気薄なのがちょっと残念だ。

↑特急「やくも」として走る381系電車。車両はすべてが「ゆったりやくも」カラーで塗られる。JR西日本の381系の運用は、すでにこの「やくも」のみとなっている

 

さて、特急形電車の残り一車両、185系の動向。現在は、東京と伊豆半島を結ぶ特急「踊り子」として多くの車両が使われている。この185系も、今後は中央本線などを走るE257系との入れ換えが予想されている。

 

この185系や、381系の運用が終わるとき(2018年5月時点で両車両とも車両変更の発表は行われていない)に、本当に国鉄形の特急電車が終焉の時を迎えることになりそうだ。

↑特急「踊り子」以外にも首都圏を走る臨時列車として使われる185系。この車両もすでに生まれてから30年以上たっている

 

そのほか今後の動向が気になる車両をいくつか−−

国鉄の最晩年に生まれた車両も徐々にだが、引退する車両が出始めている。そんな晩年生まれで気になる車両をいくつかここで見ておこう。

 

まずは105系。この電車は地方路線用に造られた電車で2両編成が基本。1両が電動車、もう1両は付随車という構成だ。輸送密度の低い路線にはうってつけの電車で、現在はJR西日本管内のみに残る。運行される路線は近畿地方では和歌山線や桜井線など、中国地方では、宇部線、小野田線などだ。

 

そんな105系が走る和歌山線、桜井線に新車を導入することが2018年3月に発表された。広島地区にも導入されている227系で、2両編成×28本が造られる。車載型IC改札機を搭載した車両で、2019年春に登場、2020年春には105系が全車置き換えとなる予定だ。

↑和歌山線を走る105系。オーシャンブルーの和歌山色で塗られる。和歌山線には103系を改造した105系も走る。103系の改造車は写真のようにかつての姿を色濃く残す

 

205系も一部の路線では動向が注目される存在になりつつある。205系は国鉄の1985年に登場した通勤形電車。JRになったあとも増備された。軽量ステンレス製の車体で、最初に山手線に導入されるなど、首都圏ではおなじみになった電車だった。

 

いまでも郊外の路線を走り続けているが、多くが正面の形を変更した更新車両が多くなっている。そんななかで、オリジナルの形をした205系が走っていたのが、武蔵野線だ。この武蔵野線でも、205系の後に造られた209系や、E231系といった車両との置き換えが進められつつある。

 

2018年2月にはJR東日本から武蔵野線を走っていた205系の全車両がインドネシア通勤鉄道会社に譲渡されることが発表された。オリジナル色が強い武蔵野線の205系も近日中に見納めとなりそうだ。

↑長年、活躍してきた武蔵野線の205系だが、全車両がインドネシア・ジャカルタの鉄道会社への譲渡が発表された。ここ1〜2年で209系やE231系に置き換えられそうだ

 

希少な車両ゆえに生き延びている国鉄形電車もある

国鉄時代に生まれた電車のなかで、希少な存在なだけに、いまも重宝される電車がある。そんな国鉄形電車の話題にふれておこう。

 

まずは123系。この123系、荷物用電車として生まれた。1両の前後に運転席があり、1両で運行できるように造られている。鉄道での手荷物・郵便輸送が、廃止されたこともあり、国鉄時代の最晩年に、13両が一般乗客向けの電車に改造された。現在、残るのはJR西日本の5両のみ。宇部線、小野田線といった路線で使われている。

 

JR西日本では1両で運行できる125系をすでに開発していて、小浜線、加古川線で利用している。とはいえ、やはり都市部向け新車両の増備が優先されそう。宇野線や小野田線では、今後しばらくの間は123系が走り続けそうだ。

↑荷物車を改造して造られたJR西日本の123系。1両で走ることができ、利用者の少ないローカル路線では重宝される存在でもある。まだまだその活躍を見ることができそうだ

 

JR九州の415系も希少がゆえに生き延びている国鉄形電車といっていいだろう。JR九州の電車は、ほとんどが交流電車。筑肥線など一部に直流電車が使われる。両電化方式に対応した交直流両用電車は、国鉄時代に生まれた415系のみだ。JR九州の在来線は、ほとんどが交流電化区間だが、関門トンネルをはさんで下関駅まで走る場合は、下関側が直流電化区間となるため、交直両用電車が必要となる。唯一の交直流両用電車である415系が欠かせないわけだ。

↑415系はJR九州では唯一となる交直流両用電車。関門トンネルを越えて下関駅まで電車を走らせるために、必要不可欠な存在となっている

 

415系は1971(昭和46)年からの製造とかなりの古参車両でもある。すでにJR東日本に引き継がれた415系は全車が引退したが、JR九州では先の事情があり、JR東日本からの譲渡された車両を含め150両以上の大所帯が残存する。

 

JR九州では将来に備え、新交直流電車の新造では無く、蓄電池形ディーゼルエレクトリック車両を開発中。関門区間での運用も検討されているようだが、415系の置き換えは、だいぶ先の話となりそうだ。

 

感情論では解決しない…ローカル線廃止後、地元に求められる“マネジメント”とは?

ここまで話題になるとは思わなかった。3月31日で廃止されたJR西日本三江線のことだ。営業が終了する1か月ぐらい前から、NHKの全国向けニュースを筆頭に、さまざまなテレビ番組がこのローカル線を取り上げた。中でも天空の駅と呼ばれる高架橋上の宇津井駅にスポットが当たることが多かった。

多くのローカル線と同じように、三江線にも地元自治体などが中心となった存続運動はあったが、結果的には廃止となり、バスに置き換わる。ただし国土交通省が発表した代替バスの資料によれば、線名の由来になった広島県の三次と島根県の江津との間を走破するには最低でも2度の乗り換えが必要になり、所要時間は増え、運賃は高くなっている。こうした状況は他の代替バスにも多く見られる。さらにバスは渋滞の影響を受けるので、時間どおりの運行が難しい。つまりバスへの転換によって不便さが増し、乗客離れが進んで減便や廃止に至り、地域そのものを衰退させると指摘する専門家もいる。

 

鉄道の線路は鉄道車両しか走らないので、線路がある以上何とかして存続させようという動きが生まれやすいのに対し、道路は乗用車やトラックも走っていて固有のインフラではないし、バス停のコストは駅と比べるまでもなく、車両価格も鉄道よりかなり安い。それに鉄道より参入や撤退の自由度が高い。つまり鉄道より廃止しやすいのは確かである。

 

でも多くの沿線住民がバスへの転換を不満と感じていたら、廃止にはならないはずである。住民が存続のために知恵を絞り、行動を起こしたことがきっかけで廃止をまぬがれた鉄道もいくつかある。ネコ駅長の「たま」で世界的に有名になった和歌山電鐵はその代表だ。

■鉄道にこだわらなければ選択肢はふえてくる

一方で鉄道に頼らないまちづくりを推進している地方都市もある。今年1月に訪れた石川県輪島市がそうだった。輪島市にはかつてJR西日本七尾線が走っていた。しかし多くのローカル線がそうだったように、自動車交通への移行に伴う乗客減によって赤字が嵩み、1991年に途中の七尾駅以北が第3セクターの「のと鉄道」に転換されたが、乗客の減少は止まらず、10年後に穴水駅から先が廃止された。

 

ただし2003年には能登空港が開港したことで東京とダイレクトに結ばれ、3年後には能越自動車道がこの能登空港まで開通して金沢まで高速バスが走りはじめており、東京はもちろん金沢への到達時間も短縮している。

 

では地域輸送はどうか。こちらは旧輪島駅と市立病院を拠点とすることで、北陸鉄道が路線バス、輪島市がコミュニティバスや乗り合いバスを走らせている。今年3月いっぱいで北陸鉄道バスの1路線が廃止となったが、同じルートを市営乗り合いバスが引き継いでいる。さらに2014年からは輪島商工会議所が、ゴルフ場などで使っている電動カートを中心市街地の移動に活用しはじめた。しかも2年後には自動運転にも挑戦。昨年末からは遠隔管理によって運転手が乗らない無人走行の実証実験も始めている。

 

輪島市が周辺の町との合併で現代の姿になったのは2006年。その年4月1日の人口は3万4511人だった。これが2016年には2万8426人と3万人を切った。1986年には同じ地域に4万4993人が住んでいたというから、30年間で3分の2以下になったことになる。つまり輪島の場合は鉄道の廃止で人口が減少したのではなく、人口の減少に合わせて鉄道の廃止を含めた交通再編を行なったというほうが適切だろう。同市がモビリティマネジメントに積極的なことは、将来を見据えて自動運転に挑戦していることからも明らかだ。

 

現在残っている地方鉄道は、多くが第二次世界大戦前に開業した。当然ながら現在とは人々の暮らしは大きく異なる。暮らしが変わればモビリティも変わってしかるべきだ。長い間地域の生活を支えてきた鉄道の廃止に際しては「ありがとう」という言葉を掛けたいけれど、一方で今の時代に見合ったモビリティの提供については、感情論に引っ張られない冷静な判断が必要だとも思っている。

 

著者プロフィール

モビリティジャーナリスト・森口将之

モータージャーナリスト&モビリティジャーナリスト。移動や都市という視点から自動車や公共交通を取材し、雑誌・インターネット・講演などで発表するとともに、モビリティ問題解決のリサーチやコンサルティングも担当。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本デザイン機構理事、日本自動車ジャーナリスト協会・日仏メディア交流協会・日本福祉のまちづくり学会会員。著書に『パリ流環境社会への挑戦(鹿島出版会)』『富山から拡がる交通革命(交通新聞社)』『これでいいのか東京の交通(モビリシティ)』など。

THINK MOBILITY:http://mobility.blog.jp/

あの線路はどこへ行く? 相鉄車内から見える“謎の廃線”を探索!

横浜駅から相模鉄道に乗り、相模大塚駅を過ぎたあたり。外を何気なく眺めていたら、引込線らしき線路が住宅街へと延びていた。あれっ?こんなところに線路があるぞ。相模鉄道(以下、相鉄と略)は貨物輸送はやっていないし。乗るたびに、疑問に思った。

しかもその引込線、車内から見る限り、線路や架線がしっかりと残っている。一般的に、貨物輸送に使われなくなった引込線は、線路や架線は早々と撤去されることが多い。なのに、その気配すら感じられない。実際に現場を歩いてみよう、と最寄りの相模大塚駅に降り立った。

↑相鉄本線から延びる引込線のMAP。写真で紹介する①〜⑧のポイントをMAP上で示した

 

相模大塚〜さがみ野間の踏切から線路は南へと向かう

相模大塚駅からさがみ野駅方面へ歩くこと5分。「相模大塚2号踏切道」という警報器付き踏切がある。この踏切内から引込線が始まる。相鉄本線と引込線は、相鉄本線に平行して造られた折り返し線(引上げ線)を通して、いまも線路がつながっている。

↑相模大塚駅〜さがみ野駅間にある相模大塚2号踏切道。この踏切付近から引込線が設けられている。写真の右側に写るのが今回、探索した引込線だ(MAP① ※冒頭の地図内の番号と対応。以下、同様)

 

↑踏切があいているときに撮影した引込線。木が生い茂っているが、線路はしっかりと残っている。踏切の先へ行き来を防ぐように柵が設けられている(MAP①)

 

やや回り道をして、引込線の先を目指す。柵の先にあったのは、まさにノスタルジーを感じる廃線跡の世界。線路内の雑草は茂り、脇の樹木が線路側に出ばり、一部は線路にかぶさるように生える。レールは赤錆びているが、枕木や架線柱、架線はしっかりと残されている。整備すればいまでも十分に列車を走らせることができそうだった。

 

その先、踏切がいくつかあり、警報器も残されている。だが、現在は、走る列車がないため稼動せず、通行するクルマも、停車せずに通り過ぎていく。

↑家々の庭のすぐ裏を通る引込線。雑草は茂り、また木々も線路側にせり出して生えていた。とはいえ線路や枕木、架線柱などの鉄道施設はしっかりと残されている(MAP②)

 

謎の引込線は高速道路を越えて意外な場所へと行き着く

県道40号線を越え、住宅地の裏手を抜ければ、まもなく東名高速道路をまたぐ大和6号橋へ着く。橋を越えればカーブとなり、厚木基地が目の前に広がる。線路は厚木基地へ向かい敷かれている。そう、この引込線は相鉄本線と厚木基地を結ぶ線路だったのである。

 

現在の引込線の沿線風景を写真で見ていこう。

↑引込線の途中、数箇所に警報器付きの踏切がある。列車が来ないため停まる車両はほとんどいない(MAP③)

 

↑列車は走っていない。それなのに警報器がない踏切には、いまも「STOPでんしゃにちゅうい」の看板が残る(MAP④)

 

↑警報器や信号などの設備は現在も使えそうな形できれいに残されている(MAP⑤)

 

↑東名高速道路をまたぐ大和6号橋の上を引込線が通る。しっかり造られた橋で、子どもたちが通学途中、遊び半分で渡っていたが、危険性はほぼ感じられなかった(MAP⑥)

 

引込線は軍用だったせいか、橋などを含めて、しっかり造られている。地元の子どもたちが橋の上を渡っていたが安全そのもの。鉄道橋で良く見かけるすき間が多い構造ではない。引込線に沿った側道を歩くもよし、また列車が走らないために、引込線の敷地内を歩くこともできる。通行するクルマなどに気をつければ、危険な場所はほぼない廃線跡だった。

 

引込線の線路は厚木基地の柵の前まで延びる。柵を越えた厚木基地内は、すでに線路が取り外され、芝生広場になっていた。ちなみに、引込線が残るのは相模大塚第2号踏切道のスタート地点から約800m。

↑高速道路を渡った先はカーブがあり、隣接する公園には春先、桜が咲く。もし列車が走っていたら、さぞや絵になったポイントだろう(MAP⑦)

 

↑「なんで勝手に撮るんニャー」とばかりに、線路を渡るネコににらまれる(MAP⑦)

 

↑引込線の線路はここが途絶える。柵の先は厚木基地で、すでに線路はない。以前はこの先にも線路が延びタンク車による貨物輸送が行われていた(MAP⑧)

80年にわたる厚木基地の歴史を振り返る

ここで少し、厚木基地の歴史を振り返っておこう。厚木基地の正式な名前は「厚木海軍飛行場」だ。太平洋戦争前の1938(昭和13)年に着工し、開戦後の1942(昭和17)年に飛行場が完成。首都東京の防衛のための海軍基地として造られた。引込線に関しての史料は探し当てることができなかったが、鉄道輸送が主流な時代のため、当然のごとくこの引込線も一緒に造られたと推測される。

↑厚木基地への石油輸送はJR相模線の厚木駅(左手前)から渡り線を通り、相模鉄道へバトンタッチされていた。現在も厚木駅に隣接して相模鉄道の操車場が広がる(右側)

 

↑相鉄の相模大塚駅の北側に広がる車庫線。ここで石油列車は折り返して、相鉄本線に平行した引上げ線に、機関車が貨車を後押しして入る。引込線を走り厚木基地を目指した

 

太平洋戦争終了後に武装解除された厚木基地は連合国軍に接収され、アメリカ陸海軍の基地として使用されることになる。戦後、アメリカのダグラス・マッカーサー連合軍総合司令官が、最初に下り立ったのが厚木基地だった。あのコーンパイプを片手にタラップを下りるマッカーサーの姿は、歴史の教科書に掲載されているので、覚えておられる方も多いのではなかろうか。

 

現在、厚木基地はアメリカ海軍と、海上自衛隊の航空隊が共用する飛行場となっている。

 

石油輸送列車は自転車ぐらいのスピートで引込線を走った

相鉄本線と厚木基地を結んだ引込線は厚木航空隊線、または相鉄厚木基地専用線と呼ばれていた。タンク列車の走行ルートは、東海道本線・茅ヶ崎駅 → 相模線・厚木駅 → 相鉄・厚木操車場 → 相鉄・相模大塚駅 → 厚木基地というルートをたどり運ばれた。そして1998(平成10)年9月をもってこの石油輸送は終了した。

↑相鉄のED10形電気機関車が2両連なり石油輸送列車を牽引した。写真は東名高速道路の上を走る石油輸送列車(写真提供:益子真治)

 

石油輸送が行われた当時を知る益子真治さんは次のように話す。

 

「列車を牽く機関車のモーターは、戦中戦後に造られた国鉄63型電車の物を使い回していました。それだけに、厚木操車場〜相模大塚間では古い電車独特の、雄叫びのようなモーターの大音響を発しながら走っていましたね」(益子さん)

 

茶色い電気機関車ED10形を2両連ねた重連スタイル+タンク貨車の運行だっただけに、さぞや豪快だったことだろう。

↑相模大塚駅からはデッキに係員が乗り込み列車を先導した。踏切には警報器があったものの、前方の障害物に注意しながらの慎重な運行が行われた(写真提供:益子真治)

 

一方で、相模大塚駅からの運行はゆっくりしたものだったようだ。益子さんは「自転車並みの速度で最徐行して走っていました」と話す。

 

輸送の頻度はばらつきがあり、横須賀港に米海軍の空母が入港したときは、演習用の燃料が必要になるためか、毎日のように輸送があったようだ。一方で週に1回程度ということもあり、「結構、列車の撮影が空振りすることもありました」と、益子さんは当時を懐かしみつつ話してくれました。

 

この引込線は今後は線路が外され更地となり所有者に返還の予定

長い間、使われていなかった厚木基地への引込線。実は2017年6月30日に大きな動きがあった。日米合同委員会で、厚木海軍飛行場の「軌道及びその他雑工作物」が日本へ返還されることが決まったのである。

 

石油輸送列車の運行が終了してから、ほぼ20年という年月を経て戻されることになったわけだ。引込線の土地は約13000㎡にも及ぶ。

 

返還業務を行う防衛省南関東防衛局によると、この土地は国有地と民有地に分けられると言う。今後は更地にしたうえで、国有地は財務省へ、また民有地は所有者に戻される。現在はまだ調査の段階で、具体的な工事計画やその期間は未定とのことだった。

 

80年前に着工され、厚木への石油輸送を長年担ってきた厚木航空隊線。その面影を見聞きしたい方は、線路が残るいまのうち、早めに訪ねておいたほうがよいかもしれない。

↑引込線を歩いていると、しばしば離発着する軍用機を見ることができる

 

↑引込線は春ともなるとお花畑になる。廃線跡ならではの趣が色濃く感じられる

 

【大特集】家族旅行にもおすすめ!! GWの鉄道イベント&臨時列車情報まとめ【東海&西日本編】

GWになると、普段は行われないようなイベントが開催される。また珍しい臨時列車が走る。鉄道好きにとってはたまらない期間でもある。そこで、GWに行われる西日本の鉄道イベントや運転される臨時列車のなかから、おすすめのイベント&臨時列車を、やや筆者の独断気味ながら選んでみた。

【東日本編はコチラ】

【大特集】家族旅行にもぴったり!! GWの鉄道イベント&臨時列車情報まとめ【東日本編】

 

【東海地方】

大井川鐵道のSLに乗る前に整備工場を見学!

古くからSL列車の運行を行ってきた大井川鐵道。GWにはSL列車の本数が増えて活況を見せる。さらにうれしいことに、通常は非公開の新金谷駅のSL整備工場が見学可能だ。出発に備えて進められるSLの整備作業。石炭を燃やして走る蒸気機関車らしく、整備工場内ではボイラーの熱が身体に伝わってくる。石炭のにおいがする。蒸気機関車のひと味ちがった魅力が感じられそうだ。

↑見学スペースから見た整備工場。以前筆者が訪れた際はちょうどC10形が整備の真っ最中だった。火室への燃料投入や水タンクへの注水、可動部への油さしなどの作業を見ることができる

 

◆新金谷SL整備工場見学会
●公開日時:4月28〜5月6日、9:00〜11:30
●料金:小学生以上500円(記念缶バッチ、専用パンフレット付き)。新金谷駅構内転車台横に臨時テントで受付
※GW期間中は1〜3往復運行。新金谷10:00☆、10:38★、11:52○発、千頭13:39☆、14:10★、14:53○発。○印は毎日運行、☆印は4月29日、5月3日〜5日運行、★印は4月28日〜30日、5月3日〜5日に運行。なお2018年のトーマス号、ジェームス号の運行は6月9日(土曜日)以降となる予定

 

遠州鉄道の希少編成30形が4月末にラストランを迎える

静岡県の浜松と西鹿島を結ぶ遠州鉄道。電車のほとんどが赤い色で塗られていることから“赤電”とも呼ばれている。そんななかで唯一の丸みを帯び、湘南スタイルの形で親しまれてきた30形【モハ25号】が4月末にラストランを迎える。4月28日〜30日の3日間のみ浜松〜西鹿島間を2往復する。乗車は事前応募制ですでに締め切られたが、その雄姿が撮影できる最後のチャンスだ。

↑1958〜1980年にかけて生まれた30形。当時に流行した湘南スタイルの形を踏襲している。モハ25号は遠州鉄道として最後の30形として残った編成だった

 

◆遠州鉄道30形勇退記念特別列車
●運行日時:4月28日〜30日、10:28新浜松発→11:04西鹿島着、11:40西鹿島発→12:16浜松着、13:28新浜松発→14:04西鹿島着、14:40西鹿島発→15:16浜松着
※特別列車への乗車はすでに受付終了

 

【北陸地方】

福井に行ったらぜひ乗りたいドイツ生まれの路面電車「レトラム」

福井の街中を走る福井鉄道の「レトラム」。元シュツットガルド市電だった車両で、土佐電気鉄道を経て、2014年から福井鉄道の車両として走り始めた。ドイツ生まれらしいスタイリッシュな風貌で、走っている姿を見ると、ヨーロッパの街中だと錯覚してしまいそう。GW期間中も田原町〜越前武生間、さらに福井駅〜田原町間それぞれを1往復するので、ぜひ乗ってみたい。

↑福井鉄道の「レトラム」。元ドイツのシュツットガルド市電だった車両で、日本語の看板が後ろになければ、まるでヨーロッパの街中のように感じてしまう

 

◆「レトラム」運行
●運転日時:GW期間中の土・日曜・祝日に運行、9:30越前武生発→10:40田原町着、10:45田原町発→10:55福井駅着、11:13福井駅発→11:26田原町着、12:32田原町発→14:47越前武生着
※臨時の急行電車として走行、通常車両と同じ運賃で利用できる。6月3日までの土・日曜・祝日に運行予定

 

こどもの日に行われる「ポートラム運転体験会」

富山駅と日本海に面した岩瀬浜駅と結ぶ富山ライトレール。電車はポートラムの愛称で親しまれている。そんな路面電車のポートラムの運転体験会がこどもの日に開かれる。城川原(じょうがわら)駅に隣接する車両基地内で車両を運転、さらに車両基地の見学も楽しめる。対象は小・中学生限定で保護者同伴が必要となる。

↑2006年に元JR富山港線を路面電車路線に変更して誕生した富山ライトレール。車両はTLR0600形で、色が異なる7編成が導入されている

 

◆ポートラム運転体験会
●実施日時:5月5日、午前の部10:00〜11:30、午後の部13:30〜15:00
●参加費:3000円(参加者にはポートラムグッズをプレゼント)
●備考:応募方法は富山ライトレールのホームページを参照(E-mail応募可能)。4月22日(日曜)必着

 

【近畿地方】

のせでんレールフェスティバルのイベント電車に注目!

能勢電鉄といえば阪急電鉄の子会社で、車両はすべてが阪急マルーンと呼ばれる茶色で塗られる。鉄道ファンには隠れた人気を持つ鉄道会社で、春秋に開かれるイベントを楽しみにしている人も多い。

 

GW期間中の4月29日に春の「のせでんレールフェスティバル」が開かれる。ミニ電車の運行やプラレール運転会が行われるほか、運転シミュレーションなども楽しめる。特に人気なのはイベント電車。平野〜日生中央間を運行、軽妙な語り口の車掌の話を聞きつつ、洗車機に入る様子を車内から楽しむことができる。

↑能勢電鉄を走る電車はすべてが阪急マルーンで塗られる。使われる電車はすべてが元阪急で活躍していた電車だ。写真は5100系(元阪急の5100系)

 

◆「のせでんレールフェスティバル」
●開催日時:4月29日、10:00〜15:00(雨天決行)
●会場:平野車庫(平野駅から徒歩3分)
●入場料:無料
※イベント電車は午前の部10:42発、午後の部12:42発。10:30から会場で整理券を配付(先着順)

【中国地方】

「津山まなびの鉄道館」では急行用ディーゼルカーに注目!

岡山県津山市にある「津山まなびの鉄道館」。かつての蒸気機関車の基地だった津山扇形機関車庫を利用した鉄道館で、国鉄時代に生まれたディーゼル機関車やディーゼルカーを中心に13両、展示保存される。GWには収蔵されるキハ28、DF50、DD51の3両の頭出しやキハ28の車内見学、5月3日〜5日にはキハ58を転車台に載せての実演が行われる。

↑転車台の後ろに扇形機関車庫が広がる「津山まなびの鉄道館」。GW期間中には写真右側の急行用ディーゼルカー・キハ28形、キハ58形を中心にしたイベントが開催される

 

◆「ゴールデンウィークイベント(扇形こどもまつり)」
●開催日時:4月28日〜5月6日、9:00〜16:00(入館受付15:30まで)
●入館料300円、小中学生100円、幼児無料
●休館日:毎週月曜(祝日の場合は翌日。5月1日は開館)
●アクセス:JR津山駅から徒歩約10分(駐車場あり)
※開館時間、休業日、入館料は通常期も同じ
※キハ28車内見学は9:00〜15:50、転車台実演は5月3日〜6日の12時、15時

 

若桜鉄道の名物C12形がピンクに染まる

鳥取県の東部を走る若桜鉄道。最近、観光ディーゼルカーの「昭和」を走らせるなど元気の良い鉄道会社でもある。この鉄道の名物となっているのが、若桜駅構内に停まるC12形蒸気機関車。圧縮空気の利用で走行も可能で、一部の週末には体験運転が実施される。GWにはこのC12形がピンク色に塗られ、4月30日に行われるイベント「ピンクSLフェスタ」でお披露目される予定だ。

↑若桜駅に停まるC12形167号機。兵庫県の多可町の公園に保存されていた車両が、2007年に若桜鉄道へやってきた。将来は本線での運行も考えられている

 

◆「ピンクSLフェスタ」
●開催日時:4月30日、11:10〜20:00
●会場:若桜駅、若桜駅前広場
●備考:鉄道写真家の中井精也氏や、大の鉄道ファン・ダーリンハニーの吉川正洋氏、ホリプロマネージャーの南田裕介氏らがスペシャルゲストとして登場、夜には花火も打ち上げられる。
※C12形のピンク塗装期間は4月30日〜5月27日

 

山口線での最後のお勤めとなるJR西日本のC56形

後部に石炭と水を積む炭水車を連結するテンダー式蒸気機関車のC56。高原のポニーなどの愛称で親しまれてきた。現在はJR西日本と大井川鐵道にそれぞれ1両が残るのみとなっている。

 

JR西日本のC56は160号機、長年、SL北びわこや、SLやまぐち号の牽引機として活躍してきたが、とうとう引退が近づいてきた。GWには山口線での最後の走行を迎える。

↑写真は「SL北びわこ」として走るC56。160号機はC56のラストナンバーでもある。GWに山口線を走ったあと、5月27日の「SL北びわこ」運転で本当のラストランを迎える

 

◆SL「やまぐち号」運行
●運転日時:5月5日(D51との重連運行)、10:50新山口発→12:59津和野着、15:45津和野発→17:30新山口着。5月6日(ありがとうC56号として運行)、10:32津和野発→13:10新山口着(途中、篠目駅で通常運転のSL「やまぐち号(D51牽引)」と行き違う。11:44〜12:12篠目駅停車予定
※全車指定席で運行

 

【四国地方】

GWこそJR四国のトロッコ3列車を満喫したい!

JR四国ではトロッコ列車が3列車も走っている。「しまんトロッコ」が窪川(高知県)〜宇和島(愛媛県)間を、「志国高知 幕末維新号」が高知〜窪川間を、また「瀬戸大橋アンパンマントロッコ」が岡山〜高松・琴平(ともに香川県)間を走る。自然の風を受けつつ爽快な鉄道の旅を楽しみたい。

↑窪川〜宇和島間を走る「しまんトロッコ」。四万十川に沿った予土線の名物列車として走る。予土線には鉄道ホビートレインなども走っていて、乗って楽しい路線だ

 

◆JR四国のトロッコ列車運行
●「しまんトロッコ」運転日時:4月28日〜30日、5月2日〜6日。10:29宇和島発→13:16窪川着、14:14窪川発→16:46宇和島着
●「志国高知 幕末維新号」運転日時:4月28日〜30日、5月1日〜6日。10:14高知発→12:39窪川着、14:15窪川発→16:18高知着
●「瀬戸大橋アンパンマントロッコ」運転日時:4月28日〜5月6日。9:10高松発→10:44岡山着、11:18岡山発→13:09琴平着、13:16琴平発→14:53岡山着、15:21岡山発→17:19高松着。
※全車指定席で運行(「瀬戸大橋アンパンマントロッコ」は全車グリーン席)

 

“ことでん”のレトロ電車が4両連結で走る

香川県の高松市を中心に走る高松琴平電気鉄道。“ことでん”の愛称で親しまれる。この私鉄の名物がレトロ電車だ。大正末期から昭和頭に造られた4両の電車がいまも立派に動く状態で整備されている。このレトロ電車が、全車両を連結して5月4日と6日に走ることになった。これは必見の価値あり、できれば乗りたい電車だ。

 

さらに5月4日の午前中には仏生山駅工場で車両展示会、きっぷ販売会が開かれる。運転前のレトロ電車4両に加えて、元京浜急行の1070形や、事業用車のデカなどの撮影が楽しめる。

↑通常1か月に1度行われることでんのレトロ電車の運行。普段は2両で走る。GWの運行のみ全車両4両を連結した特別編成となる

 

◆高松琴平電気鉄道「GWのイベント」
●レトロ電車特別運行日時:5月4日、12:49仏生山発→13:06高松築港着、13:06高松築港発→14:25琴電琴平着、15:19琴電琴平発→16:36高松築港着、16:39高松築港発→16:54仏生山着。5月6日、時刻7:39高松築港発→8:55琴電琴平着、9:19琴電琴平発→10:15仏生山着、11:06高松築港発→12:25琴電琴平着、(13:19琴電琴平発→13:41滝宮着・14:02滝宮発→14:25琴電琴平着・同区間は2両で運行)、15:19琴電琴平発→16:36高松築港着、16:39高松築港発→16:54仏生山着
●備考:5月4日に仏生山工場で車両展示会、きっぷ販売会を開催。時間は8:00〜11:30で、入場無料。仏生山工場は仏生山駅の裏手にある(駐車場無し)

 

【九州地方】

熊本電気鉄道5000形“青ガエル”の雄姿を再び

東急電鉄の5000系といえば1950年代に製造され、その後の日本の電車づくりに大きな影響を与えた車両でもある。その容姿から「青ガエル」と鉄道ファンから呼ばれた。そんな青ガエルは東急で活躍したのちに、地方の鉄道会社に多数が譲渡されたが、そのほとんどがすでに引退となっている。

 

熊本電気鉄道で2016まで走り続けた5000系ラストとなった5101A車。この5101A車がクラウドファンディングにより多くのファンの支援を受け、再塗装された。この車両がGW期間の5月6日まで北熊本駅構内にとめられ、ホームから撮影ができる。ごく最近まで走り続けた旧東急5000系の雄姿を目に焼き付けておきたいところだ。

↑現役当時の熊本電気鉄道の5000形。右が2015年に運用離脱した5102A。左が今回、再塗装された5101A。東急時代と異なり1両となり、反対側にも運転席が設けられた

 

◆「5101A号車の再塗装完了と車両展示」
●期間:5月6日まで(日中の時間のみ)
●備考:熊本電気鉄道・北熊本駅のホームから見える位置に留置される。駅ホームへの入場券(120円)が必要。
※留置線・車庫内は立入禁止

【大特集】家族旅行にもぴったり!! GWの鉄道イベント&臨時列車情報まとめ【東日本編】

あと1週間で、2018年のゴールデンウイーク(GW)が始まる。子どもたちをどこへ連れて行ったら良いのだろうか、また楽しめるだろうかと、頭を悩まされている方も多いのではないだろうか。

 

そこで、GWに行われる東日本の鉄道イベントや、運転される臨時列車のなかから、これは乗りたいという臨時列車と、また遊びに行きたいイベント情報をお届け。筆者が自分も行きたい、また乗りたい臨時列車を、やや独断気味ながら選んでみた。

 

【北海道】

GWから運転される「くしろ湿原ノロッコ」

GWごろになるとめっきり春めく北海道。釧路湿原の春の訪れが楽しめるのが「くしろ湿原ノロッコ号」。今年は4月28日から運転が開始される。トロッコ列車の車内から広がる釧路湿原の春の訪れを楽しみたい。

↑JR北海道の観光列車は本数が減り気味で寂しいところ。GWから「くしろ湿原ノロッコ」が運転開始。さらに6月9日から「富良野・美瑛ノロッコ」が運転される予定

 

◆「くしろ湿原ノロッコ」
●運転日:4月28日〜5月6日、時刻11:06釧路発→11:54塘路着、12:17塘路発→13:05釧路着。
※以降6月2日〜4日・8日〜30日の間は13:35釧路発→14:17塘路着、14:48塘路発→15:36釧路着も増便される
※3両は指定席、1両は自由席で運行

 

【東北地方】

盛岡駅で「SL銀河」車両展示会が開かれる(4月30日のみ)

2014年4月に運行を開始、今年で5年目を迎える「SL銀河」。列車を牽引するC58形蒸気機関車と、客車として使われるキハ141系車両の展示会が盛岡駅で開かれる。客車内の見学ができるほか、機関車と客車の連結、解放作業を公開。さらに入場記念証などのプレゼントも用意されている。

↑花巻〜釜石間を走る「SL銀河」。C58とキハ141系4両の編成で運行される

 

◆「SL銀河」展示会
●開催日:4月30日11:00〜14:00
●場所:JR盛岡駅7番線ホーム(入場券大人140円、子ども70円が必要、有効期限は2時間)

◆「SL銀河」運行
GW期間運転日:4月28日・5月2日・5日が花巻10:37発→釜石15:07着、4月29日・5月3日・6日が10:55釜石発→15:20花巻着
※全車指定席で運行

 

ジョイフルトレイン「Kenji」が盛岡〜宮古間を往復

国鉄時代の1960年代から大量に作られた急行用ディーゼルカーキハ58形とキハ28形。いまではほとんどが消え、JRグループのなかで現役として走るのは、ジョイフルトレイン「Kenji」に改造された車両のみとなった。「Kenji」は盛岡地区を走る観光列車として使われているが、GW期間は盛岡〜宮古間を快速「さんりくトレイン宮古」として走る。重厚なディーゼルエンジンの音が楽しみ。

↑ジョイフルトレイン「Kenji」。水色の車体に金の帯、さらに車体には盛岡の名物・わんこそばなどのイラストが描かれている。先頭車には展望室が設けられている

 

◆「さんりくトレイン宮古」運行(ジョイフルトレイン「Kenji」使用)
●運転日:4月28〜30日、5月3〜6日、時刻8:55盛岡発→11:16宮古着、14:07宮古発→16:33盛岡着。
※1両のみ指定席で運行。以降6月23日〜24日・30日も運行。

 

ストーブ列車の雰囲気が楽しめる津軽鉄道の客車列車

津軽半島の田園風景のなかをのんびり走る津軽鉄道。走る列車のなかでも客車でストーブを焚き、身体を暖めることができる冬のストーブ列車が名物となっている。冬以外にも、GW期間中、金木さくらまつりが開かれることに合わせて、臨時のストーブ列車が走っている。さすがにこの時期ともなるとストーブを焚く日は珍しくなるが、趣ある客車列車で、のんびり旅するのも楽しそうだ。

↑貴重なロッド駆動式のディーゼル機関車DD350形が国鉄形の旧型客車を牽引する。GWには、客車列車が津軽五所川原〜津軽中里間を2往復する予定

 

◆旧型客車(ストーブ車両)運行
●運転日:4月29日〜5月6日、時刻12:25津軽五所川原発→13:12津軽中里着、13:35津軽中里発→14:20津軽五所川原着、15:50津軽五所川原→16:37津軽中里着、17:05津軽中里発→17:50津軽五所川原着。
※全車自由席で運行。津軽五所川原駅はJR五能線・五所川原駅に隣接。寒い日のみストーブを焚くことがある(焚く日以外はストーブ料金は不要)

 

人気の町・弘前〜角館間を結ぶ臨時列車「さくら号」が運行

秋田県の内陸部を走る秋田内陸縦貫鉄道。この鉄道の車両AN8900形が4月末のみJRの路線を乗り入れ、青森県の弘前〜秋田県の角館間を結ぶ。弘前発、角館行きが「角館武家屋敷とさくら号」。角館発、弘前行きが「弘前お城とさくら号」と、それぞれの町の名所とさくらが入る列車名となるのが面白い。乗車時間は4時間近くと長いが、時にはこうした時間がかかる鉄道旅も楽しい。

↑秋田県北部の鷹巣駅と南部の角館駅を結ぶ秋田内陸縦貫鉄道。「さくら号」には非貫通形AN8900形(写真)が2両編成で運行される

 

◆「さくら号」運行
●運転日:4月28日〜30日、時刻「角館武家屋敷とさくら号」8:22弘前発→12:17角館着、「弘前お城とさくら号」14:41角館発→18:28弘前着。※2両全車自由席で運行。4月21日、22日も運行。途中、主要駅に停車して走る

 

かわいらしい旧南部縦貫鉄道のレールバスに乗れるイベント

かつて青森県内を南部縦貫鉄道という鉄道が走っていた。野辺地駅と七戸駅20.9kmを結んだローカル私鉄だった。1997年に休止、2002年に廃止された。この鉄道では、かわいらしいレールバスが使われていた。バスのように小さい車両がのんびりと線路上を走る姿が愛らしかった。

 

いまも七戸駅構内で、この車両が愛好家たちによって整備、保存され、GWのみ、車庫から出されて公開されている。公開期間中には、レールバスに乗るイベントも開催されている。

↑旧南部縦貫鉄道の七戸駅のホームに停まるレールバス・キハ102。約800mの構内を往復する。この車両独特のクラッチペダルとシフトレバーの操作で動く様子も見学できる

 

◆「レールバスとあそぼう2018」
●開催日:5月4日〜5日、時刻9:00〜16:00、体験乗車は10:00〜15:00に開催(12:00〜13:00昼休み)。体験乗車は大人500円、中学生以下は無料。イベントは旧七戸駅構内で行われる。
●交通:旧七戸駅へは東北新幹線・七戸十和田駅からタクシーで5分、徒歩約40分。※GW以外の土・日曜日は旧七戸駅構内の車庫に停まるレールバスの見学のみが可能(10:00〜16:00)

 

只見の美しい風景の中を「びゅうコースター風っこ」が走る

キハ48形を改造して生まれたジョイフルトレイン「びゅうコースター風っこ」。トロッコ列車のように、暖くなる季節からは窓を開放。入り込む風を満喫できる。GW期間中は只見線を「風っこ只見線新緑号」として走る。只見川を望む渓谷の新緑風景が堪能できる。

↑2両編成で走る「びゅうコースター風っこ」。冬期はガラス戸をはめこんで運転されるが、暖くなると、窓が開放され、自然の風を存分に楽しむことができる

 

◆「風っこ只見線新緑号」運行
●運転日:5月4日〜6日、時刻10:15会津若松発→12:31会津川口着、13:56会津川口発→16:05会津若松着。
※2両全車指定席で運行

【関東地方】

全車グリーン・お座敷席の「華」で成田山や小江戸・佐原へ

ジョイフルトレインの「華(はな)」。元になったのは特急形電車の485系で、ジョイフルトレインに改造、全車グリーン席、さらにお座敷形式(掘りごたつスタイルで足は延ばせる)の「華」となった。GWは新宿(両国)〜佐原間を「お座敷成田・佐原号」として走る。沿線では開基1080年の記念大開帳が行われる成田山、さらに小江戸の風情が残る町・佐原の観光がおすすめ。

↑485系を改造したジョイフルトレイン「華」。多くの485系電車がジョイフルトレインに改造されたが、徐々に減りつつある。乗るならいまのうちかもしれない

 

◆「お座敷成田・佐原号」運行
●運転日:4月28日〜30日、5月2日〜4日(2日のみ両国駅着発)。時刻8:54新宿発(9:08両国発)→10:41佐原着、15:36佐原発→17:31新宿着(17:12両国着)。
※全車指定席で運行

 

ちょっと早起きして小田急の新型ロマンスカーGSEに乗ろう!

2018年の3月に登場以来、大人気の小田急電鉄の新型ロマンスカーGSE(70000形)。GW後半の5月3日〜5日にかけては、新宿駅出発が朝6時20分発の臨時列車「あしがら61号」として運転される。箱根湯本着が7時48分と、箱根・小田原で1日たっぷり遊ぶのにぴったりの列車だ。

↑3月17日から走り始めた新型ロマンスカーGSE(70000形)。前後展望席は16席のみで、チケットはなかなか取りにくいが、他の席でもスマホを使えば前面展望が楽しめる

 

◆「あしがら61」運行
●運転日:5月3日〜5日。時刻6:20新宿発→7:48箱根湯本着。3日〜5日のGSEの運行予定はほかに、新宿10:00、13:20、17:00、20:20発の箱根湯本行き、箱根湯本8:12、11:25、15:08、18:39、22:07発の新宿行きと多くの列車に使われる予定だ。
※全車指定席で運行

 

【甲信越地方】

貴重な上田電鉄7200系を撮影する最後のチャンス!

上田から別所温泉まで走る上田電鉄。主力の1000系に混じって7200系が走っていた。この7200系、上田電鉄で古くに走っていた丸い窓を再現した電車で、「まるまどどりーむ号」という愛称が付けられていた。7200系の最後の編成がこの5月に消えることになった。GW期間中の4月28日(土曜日)には下之郷車庫で「さよなら7200系撮影会」が開かれる。7200系をじっくり撮影したい、という人におすすめのイベントとなりそうだ。

↑元東急電鉄の7200系が上田電鉄に譲渡されて以降も7200系を名乗った。側面の窓が丸い窓に改造されている。最後の運行は5月12日(土曜日)になる予定

 

◆「さよなら7200系撮影会」
●開催日:4月28日、時刻10:00〜14:00、入場無料。当日はふだん立ち入ることができない構内の撮影スペースで自由に撮影可能。撮影会記念入場券も発売。場所:下之郷車庫(上田電鉄別所線・下之郷駅下車すぐ・駐車場無し)。
※5月12日(土曜日)に定期列車としてラストランを行う予定

セット系きっぷは実際おトク? 京急電鉄「よこすか満喫きっぷ」でどれくらい“満喫”できるかやってみた

赤い電車でお馴染の京浜急行電鉄(以下、京急と略)。駅で見かけた「よこすか満喫きっぷ」というリーフレットに目が引かれた。品川駅・横浜駅などの駅からスタートし、横須賀地区の駅との間の電車のフリーきっぷ(一部バスも含む)とともに、グルメ1品、そして観光施設など1か所の利用料金が含まれている。料金は品川駅から大人3050円だ。

 

まずは簡単に計算してみる。品川駅〜横須賀中央駅間の往復料金が1276円(ICカード利用時)。グルメに加えて遊び要素が2000円ぐらいかかったとして、それが3050円で楽しめるとなれば、かなりおトクになるのではないのだろうか。

 

さらにフリーきっぷが利用可能な、横須賀、浦賀、観音崎地区を京浜急行バスに乗って回れば……というような皮算用を胸に、さっそく横須賀へ向かった。

↑「よこすか満喫きっぷ」のリーフレット。券が使える店と施設、さらに地図も掲載。同きっぷは、京急の駅の自販機で購入できる(写真左下のように3枚の券に分けて販売される)

 

【満喫きっぷ行程①】

品川から快特に乗って45分で横須賀中央へ

品川駅からまず横須賀中央駅へ向かう。快特を使えば約45分の距離だ。ちなみに品川駅〜横須賀駅間をJR横須賀線に乗ると1時間10分以上かかる。やはり京急は断然に速い。

 

個人的には窓を横にして座るクロスシートの2100形が好きなのだが、この日はロングシート主体の新1000形に乗車。とはいえ、速さにはかわりない。あっという間に川崎、横浜を過ぎて横須賀中央駅に着いたのだった。

↑横須賀市の中心駅・横須賀中央駅。あちこちにオブジェが飾られる横須賀の街。駅前広場にもサックスを吹く像が立つ

 

【満喫きっぷ行程②】

日露戦争で旗艦として活躍した戦艦「三笠」へ

横須賀中央駅から、世界三大記念艦「三笠」を見学しようと三笠公園を目指す。繁華街を抜け、そして国道16号を渡り、約0.9km。10分の道のりだ。横須賀新港に面して、記念艦「三笠」が設置されている。全長122mのグレーの船体。高い2本の煙突に、上空に延びる2本のマストが目立つ。

 

世界三大記念艦「三笠」。1904(明治37)年に起こった日露戦争で連合艦隊の旗艦として活躍。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破する功績をあげている。

↑三笠公園で保存される記念艦「三笠」。イギリスの「ヴィクトリー」、アメリカの「コンスティチューション」とともに世界の三大記念艦とされている

 

記念艦「三笠」の入口を上り、「満喫きっぷ 遊ぶ券C」を窓口に出すと、引き換えに「入艦券」と「お土産引換券」が渡される(通常の入艦料は600円)。そして見学。艦内をほぼくまなく見ることができるのだが、日露戦争当時の歴史的な資料が展示されているほか、なんとVRやシミュレーターで日本海海戦を体感することができる。それも無料だ。そして実際にバルチック艦隊との降伏文章を調印した部屋なども見学できる。東郷平八郎連合艦隊司令長官が実際に戦闘の指揮をとった場所とされる最上艦橋からは、港の風景が楽しめる。

↑艦橋および上甲板だけでなく、艦内の見学が可能だ。写真は中甲板にある長官公室。連合艦隊の作戦会議や、バルチック艦隊の降伏文章調印などもここで行われた

 

帰り際、入口で渡された「お土産引換券」を手に売店へ立ち寄る。すると、「三笠しおり」か、「三笠砲弾豆&ボールペンセット」のお土産がもらえる。見学だけでなく、お土産付きとは、すごく得した気分になる。

 

◆世界三大記念艦「三笠」

●「遊ぶ券」利用可能時間:[4〜9月]9〜17時最終入艦、[3月・10月]9時〜16時30分最終入艦、[11〜2月]9時〜16時最終入艦/12月28〜31日休み

●場所:横須賀市稲岡町82-19

●TEL:046-822-5225

 

【満喫きっぷ行程③】

国道16号を歩き横須賀本港を目指す

世界三大記念艦「三笠」から西へ向かい、横須賀本港を目指す。約1.2km、15分の距離だ。三笠公園の前からまっすぐ延びる三笠公園通り。遊歩道沿いにはオブジェなどもあり、それらを鑑賞しながらの散策が楽しめる。

 

さらに米軍施設の目の前を通り過ぎる。軍関係者が多く行き交い、やはり米軍の基地がある街であることを強く印象づけられる。国道16号沿いに建ち並ぶ店などを見ながら歩けば、間もなく横須賀本港へ出る。

↑三笠公園通りには港町・横須賀らしく帆船日本丸のスケールモデルが設けられている

 

横須賀本港へ出ると、軍港らしく海上に海上自衛隊の護衛艦や、アメリカの軍艦が対岸に繋留される姿がよく見える。「よこすか満喫きっぷ」には含まれていないが、この港からは「YOKOSUKA軍港めぐり」のクルーズ船が出航している。料金は1400円。護衛艦や軍艦が間近に海上から見ることができるとあって人気も高い。

↑横須賀本港には海上自衛隊の護衛艦やアメリカ海軍のイージス艦などが繋留されていた

【満喫きっぷ行程④】

横須賀名物のカレーやハンバーガーを堪能

そろそろおなかも空いてきたということで、満喫きっぷのお楽しみの1つ、「食べる券」が使えるグルメどころを目指す。横須賀本港に近いのは、国道16号から1本、裏手に入った「ドブ板通り」だ。ここには「食べる券」が使えるお店も多い。

 

ところで横須賀といえば、カレーが有名だ。かつて横須賀には大日本帝国海軍の横須賀鎮守府が置かれていた。現在も海上自衛隊の基地がある。海軍では兵士の栄養の偏りを防ぐためにカレーライスを採用したとされる。そんな昔ながらの海軍のレシピを生かした「よこすか海軍カレー」を多くのお店で楽しむことができる。

↑ドブ板通にある「レストランTSUNAMI」の海軍カレー(「満喫きっぷ」食べる券で食事できるメニュー)、牛肉たっぷりのカレーライスに野菜サラダとミルク、福神漬付き

 

海軍カレーとともに横須賀の名物となっているのが「ヨコスカネイビーバーガー」。米海軍の軍隊食で、艦船の見張り要員の食事だった「NAVY BURGER」。そのレシピが、米横須賀基地から横須賀市に提供され、2009年1月から基地周辺のお店で販売されたのが始まりとされる。実際に横須賀のドブ板通りは、軍関係者と思われる人たちの姿も多く、そんな彼らが愛好してきた味がごく気軽に食べられるのだ。

 

今回海軍カレーを食べた「レストランTSUNAMI」では、このヨコスカネイビーバーガーも提供している。もちろん、こちらも「食べる券」が利用可能。手持ちの「食べる券」は海軍カレーに使用してしまったが、せっかくなのでこちらも実食。直火焼きのグリラーで焼き上げた牛肉、さらに三浦の海洋酵母で発酵させ、溶岩窯で焼いたバンズはふんわりした食べ心地で、美味だった。

※「満喫きっぷ食べる券」は、1店1品のみ有効です

↑「レストランTSUNAMI」の横須賀ネイビーバーガー(「食べる券」で食事できるメニュー)。ドリンク付きでボリュームも満点。パテには赤身の多い100%牛肉と牛脂を使用する

 

◆レストランTSUNAMI

●「食べる券」利用可能時間:11〜21時LO/1月1日休み

●場所:横須賀市本町2-1-9飯田ビル

●TEL:046-827-1949

 

【満喫きっぷ行程⑤】

さらにフリーきっぷを駆使して観音崎を目指す

食事をしたドブ板通りは、京急の汐入駅のすぐ近く。満腹になったとはいえ、フリーきっぷがあるだけに、そのまま帰るのはもったいない。そこで横須賀の東南端に位置する観音崎を目指した。

 

観音崎へは2つのアクセス方法がある。例えば汐入駅からは、京急本線に乗り浦賀駅へ。そこからバスで観音崎を目指す方法。あるいは、横須賀市街の国道16号沿いにある汐留、または本町一丁目バス停、横須賀中央バス停からも直接、観音崎行きのバス(JR横須賀駅〜観音崎駅間を運行)が出ている。いずれのアクセス方法も、満喫きっぷのフリー乗車券が利用できる。

↑観音崎バス停からすぐそばの海岸から浦賀水道を望む。東京湾の出口ということで大型貨物船がひっきりなしに出入りしていて、その行き交う様子を見ているだけでも楽しい

 

↑観音崎の丘陵上に設けられた観音埼灯台。灯台内の見学も可能(有料)。観音崎のバス停からは徒歩約15分。急坂を登り下りする必要がある

 

観音崎周辺は夏ともなると海水浴客で混雑するが、そのほかの季節は比較的、訪れる人も少なめで穴場といっていい海岸だ。目の前の浦賀水道をひっきりなしに大型の外航船が行き交う。船や乗り物好きには結構、楽しめるポイントだ。日産自動車の工場が神奈川県内にあることから、自動車運搬船の往来も多い。

↑観音崎の海沿いに作られたボードウォーク。板張りのきれいな遊歩道で足にもやさしい造りで癒される。景色を楽しみつつ、のんびり歩きたい

 

【満喫きっぷ行程⑥】

観音崎でも「遊ぶ券」が使える

「よこすか満喫きっぷ」の「遊ぶ券」は、横須賀市街だけでなく観音崎地区でも使える。例えば、「横須賀美術館」。観音崎から歩いてほど近い、海を望むポイントにある。今回は世界三大記念艦「三笠」で「遊ぶ券」を使ったが、観音崎までとっておくというのも1つの方法だろう。

↑観音崎の自然と一体化した造りの「横須賀美術館」。建物自体も一見の価値がある

 

↑海を目の前に望む絶景美術館として知られ、屋上から眺める東京湾も素晴らしい

 

「横須賀美術館」は国内の近現代美術を中心に収蔵、展示を行う。また多彩な企画展も開催している。別館では横須賀ゆかり、そして週刊新潮の表紙絵を描いた谷内六郎の作品を見ることができる。

 

◆横須賀美術館

●「遊ぶ券」利用可能時間:10〜18時/毎月第一月曜休(祝日の場合は開館)・12月29日〜1月3日休

●場所:横須賀市鴨居4-1

●TEL:046-845-1211

※企画展が展示替え中で所蔵品展のみ開催の場合は、所蔵品展の観覧に加え、お土産を進呈

 

観音崎で「遊ぶ券」が使えるほかの施設としては、温浴施設「SPASSO(スパッソ)」もおすすめだ。こちらは観音崎京急ホテルのビューティー&リラクゼーションスパ。観音崎を散策したあとに、東京湾を望みつつゆったり温浴、さらにリフレッシュして帰るというプランも楽しいだろう。

↑東京湾を望む「SPASSO」の眺望露天風呂。地元、走水の湧水を使用

 

↑眺望露天風呂以外にサウナや眺望内風呂などを用意する。写真は女性用のホワイトシルキーイオンバス。シルクのようにやさしいミクロの泡が身体を包み込む

 

◆SPASSO

●「遊ぶ券」利用可能時間:10〜23時(最終入館は22時30分まで)/無休(メンテナンス休あり)

●場所:横須賀市走水2

●TEL:046-844-4848

※バスタオル、フェイスタオルのレンタル付き

 

【1日の振り返り】

この日の「行程」と「利用金額」を整理――実際どれくらいお得?

今回の行程をまとめると、

 

品川駅 → 横須賀中央駅 → 三笠公園 → 横須賀本港 → ドブ板通りで昼食 →(本町一丁目からバスで移動)→ 観音崎 →(バスで移動)→ 横須賀中央駅 → 品川駅

 

よこすか満喫きっぷを使わなかった場合の経費は、

 

交通費合計2056円 + 食事代(横須賀海軍カレー1200円※) + 遊ぶ(世界記念艦「三笠」入場券600円+お土産代) = 3856円+α

 

となる。満喫きっぷは、品川駅からで大人3050円なので、使い方によっては、かなりお得になることがわかった。「よこすか満喫きっぷ」の公式サイトには、「食べる券」「遊ぶ券」が使える場所やおすすめスポットなどの情報も掲載されているので、それらを参考に思いっきり横須賀の待ちを“満喫”してみてはいかがだろう。

※食事は通常時メニューと異なる場合あり

 

◆京浜急行電鉄「よこすか満喫きっぷ」

●主要駅からの発売額(大人の場合):品川から・京急蒲田から・京急川崎からそれぞれ3050円、横浜から2950円、上大岡から・金沢文庫から2800円。フリー区間内の駅からの発売額:2670円。

●有効期間:1日

●その他:食べる券が使える店舗は17軒、遊ぶ券は9軒(「食べる券」「遊ぶ券」ともに、それぞれ1軒でのみ利用可能)

*京急電鉄ではほかに「みさきまぐろきっぷ」と「葉山女子旅きっぷ」も用意している。

 

※記事内の情報は2018年4月執筆時点のものです

「富山県のひみつ」――GWの計画にも最適! 13の鉄軌道に乗って富山を味わい尽くせ

富山県といえば、黒部ダム、おわら風の盆、世界遺産の五箇山合掌造り集落などの観光で有名です。ほかにも、富山の薬は全国的に知られている産業ですし、ほたるいか、ますの寿司などで有名な日本有数の美食の宝庫でもあります。

 

富山県は奥深い県ですが、実は、鉄道ファン垂涎の、ローカル線の宝庫でもあるのです。

 

鉄道ファンのお父さんも絶賛!

おなじみの学研“ひみつシリーズ”の「富山県のひみつ」(松本義弘ほか著/学研プラス・刊)は、主人公のタクヤくんのお父さんが鉄道ファンで、写真好きという設定です。

 

マニアックなお父さん曰く、富山県にはなんと“13”もの鉄道や軌道があるので、“鉄軌道王国”と言われているのだそうです。そんなお父さんに乗せられて、タクヤくんは富山の鉄道について調べて、学校で発表しました。

 

その後、富山県に興味がわいてきたタクヤくん。なんと、富山から転校してきたガールフレンドと一緒に(お父さんも同伴で)富山県を旅することになるという、なかなか強引かつ楽しい内容です。本書では、なんと親子で富山のローカル線をほぼ乗りつくしています。その中から、ぜひ乗ってみたいローカル線を紹介しましょう。

 

 

絶景の連続、黒部峡谷鉄道

富山県は北陸新幹線が開業して、首都圏からグッと近くなりました。東京~富山駅間は最速の「かがやき」に乗ると、2時間あまりで行くことができます。

 

富山駅の手前にある黒部宇奈月温泉駅からは、黒部峡谷鉄道の宇奈月駅に乗り換えることができます。黒部峡谷鉄道は、富山を訪れたらぜひ乗りたいローカル線の筆頭でしょう。もともと電力会社が水力発電の電源開発のために建設された鉄道なのですが、日本三大峡谷のひとつである黒部峡谷の絶景を楽しめるとあって、家族連れにも大人気です。

 

宇奈月~欅平駅の全区間が絶景スポットの連続。窓がないトロッコ列車に乗って眺める景色は格別です。特に、宇奈月駅を発って程なく渡る真っ赤な新山彦橋から見えるは、黒部川を跨ぐ景色はインスタ映えすること間違いなし!

 

 

あの人気キャラとコラボ! JR氷見線と万葉線

さらに、見逃せないのが高岡駅から伸びているJR氷見線です。越中国分~雨晴間は、線路が浜辺すれすれの場所を通る区間があり、雨晴海岸の絶景を望むことができるのです。ここも、インスタによく投稿される絶景ポイントです。

 

タクヤくんのお父さんも車窓に大興奮。曰く「海越しに立山連峰が見える、有名な撮影スポット」なのだとか。雨晴海岸は、雨晴駅から徒歩で5分ほど。途中下車するにはもってこいですね。

 

富山県といえば、漫画界の巨匠である藤子不二雄A氏と藤子・F・不二雄氏の故郷です。氷見線と城端線には“ハットリくん列車”が、万葉線には“ドラえもんトラム”が走っています。こちらも、親子で乗っても楽しめますね。

 

 

親子で富山県の鉄道に乗ろう

本書はいたるところに鉄道の情報が散りばめられています。例えば、富山地方鉄道には西武鉄道の特急電車「レッドアロー号」で使われていた車両が走っているなど、濃い知識が満載です。

 

本書は、どう考えても鉄道ファンの編集者が作ったとしか思えないほど、誌面の多くが鉄道の紹介に割かれています(笑)。「富山県のひみつ」というより、「富山県の鉄道のひみつ」でもよかった気がしますが、こういう本、ステキです。

 

もうすぐゴールデンウィーク。親子の絆が深まり、お父さんも大満足間違いなしの富山県の鉄道の旅、おすすめですよ!

 

 

【書籍紹介】

富山県のひみつ

著者:松本義弘(構成)、谷豊(漫画)、藤子不二雄A(キャラクター)
発行:学研プラス

富山湾と山々に囲まれて、豊かな自然とおいしい水、お米、お魚がいっぱいの富山県。実は〝鉄軌道王国″といわれるほど鉄道や路面電車があるんだ。富山のすばらしい歴史や文化・産業にも出会いながら、君のお気に入りの〝ひみつ″をこの本から見つけてね。

Bookbeyondで詳しく見る

 

 

 

 

 

極上の鉄道旅に出かけよう!! JR九州「D&S列車」全11列車の魅力を完全解説!

風光明媚な球磨川を横に見ながら走るのはJR九州のD&S列車「かわせみ やませみ」。グリーンとブルーのメタリックボディがおしゃれで、車窓から川の景色を眺めつつ、のんびりと鉄道の旅が楽しめる。

D&Sとは「デザイン&ストーリー」という意味。デザインと物語がある列車で九州を楽しんでもらいたい、というJR九州の願いが込められている。現在、D&S列車は全部で11列車が運行されている。この全列車の紹介と、それぞれの魅力をチェックした。

↑九州を走るD&S列車は全部で11本。2018年4月現在、熊本地震や災害の影響で、経由路線などが変更されている列車があるので注意したい

 

①元祖D&S列車の特急「ゆふいんの森」

まずはJR九州を代表するD&S列車・特急「ゆふいんの森」から。

 

「ゆふいんの森」は国鉄が分割民営化されて間もない1989(平成元)年3月に運行が開始された。現在は博多駅〜由布院駅間を2往復(日によって異なる)が運行されている。JR九州が生まれ、専用車両を用意して走らせた最初の観光特急でもあり、D&S列車の元祖と言っていい。この「ゆふいんの森」の成功が、その後、九州各地を走る多くのD&S列車を生み出すきっかけとなった。

↑特急「ゆふいんの森」に使われるキハ71形気道車(JR九州では「形」としている。ただし形の読み方は「けい」)。沿線の風景がより楽しめるハイデッカー構造となっている

 

↑特急「ゆふいんの森」用に1999年に新造されたキハ72形気道車。当初は4両編成だったが、利用者が多いことから1両増結、5両編成で運転されている

 

車両は床が高いハイデッカー構造で、沿線の景色を高い座り位置から楽しめる。さらに、木が多用された車内、シートもクラシカルな造りとなっている。サロンスペースなど、自由に使えるスペースがあってより楽しめる。

 

もちろん、九州の代表的な温泉観光地、湯布院や別府と九州の表玄関、博多駅を直接結ぶという運転区間の魅力も見逃せない。

 

■特急「ゆふいんの森」

●運転区間:博多駅〜由布院駅(2018年夏頃までは小倉経由で運行、後に久留米経由に戻る予定)

●運転日:ゆふいんの森91号・92号はほぼ毎日、93号・94号は週末を中心に運行

●車両:キハ71形4両編成・キハ72形5両編成

 

②2017年春に誕生した特急「かわせみ やませみ」

D&S列車は毎日走る列車と、週末などを中心に走る列車の2つの運行パターンに分かれる。ここでは先に、毎日運行されている列車から見ていこう。

 

D&S列車のなかでも最も新しいのが、2017年3月に登場した特急「かわせみ やませみ」だ。運転区間は熊本駅〜人吉駅間で、八代駅〜人吉駅間は、ほぼ球磨川沿いを走る。

 

列車名は球磨川に生息する鳥の名前から名付けられた。2両編成中、1号車は「翡翠(かわせみ)」、2号車は「山翡翠(やませみ)」とネーミングも凝っている。

↑2両編成で走る特急「かわせみ やませみ」。人吉側が1号車でブルーの「翡翠(かわせみ)」。熊本側が2号車でグリーンの「山翡翠(やませみ)」とそれぞれ名付けられる

 

車両はキハ47形の改造車で、JR九州のほぼ全列車をデザインしている水戸岡鋭治氏が内外装を手がけた。魅力はこの車両の造りと、車窓に広がるダイナミックな球磨川の景色だ。車内には軽食などを販売するサービスコーナー(ビュッフェ)も設けられている。

 

■特急「かわせみ やませみ」

●運転区間:熊本駅〜人吉駅

●運転日・運転本数:毎日3往復

●車両:キハ47形2両編成

 

③肥薩線の山線を走る特急「いさぶろう・しんぺい」

肥薩線には「川線」区間と、「山線」区間がある。八代駅〜人吉駅間は球磨川沿いを走るので「川線」、人吉駅〜吉松駅間は山に分け入り、山を越える区間なので「山線」と呼ばれる。川線、山線の両区間を走るのが「いさぶろう・しんぺい」だ。

↑古代漆色に塗られた「いさぶろう・しんぺい」。車窓からは球磨川沿いを通る川線とともに山線の魅力が満喫できる

 

↑上空から見た肥薩線大畑駅(おこばえき)。吉松駅行きの場合、手前の線路から右側の駅ホームへ入線。出発後に、左側へ入り、さらにスイッチバックして上の線路を登って行く

 

「いさぶろう・しんぺい」とは、ユニークな特急名だが、肥薩線の開通当時(1909年)の逓信大臣の山縣伊三郎と、鉄道院総裁の後藤新平の名から付けられたものだ。吉松駅行き下りが「いさぶろう号」で、熊本駅行き(または人吉駅行き)上りが「しんぺい号」として運転される。

 

凝った特急名のほか、面白いのが沿線風景の移り変わりだろう。八代駅〜人吉駅間は球磨川を、人吉駅〜吉松駅間は山越えの楽しみが味わえる。山越えの区間には、貴重なスイッチバック駅が大畑駅と真幸駅(まさきえき)と2つにある。また大畑駅はぐるっと回って標高を稼ぐ、ループ線の途中にある駅でもある。さらに日本三大車窓に上げられる矢岳越えなど見どころが満載だ。

 

■特急「いさぶろう・しんぺい」

●運転区間:熊本駅(人吉駅)〜吉松駅

●運転日・運転本数:熊本駅〜吉松駅間、人吉駅〜吉松駅間をそれぞれ毎日1往復

●車両:キハ140形+キハ47形2両編成 *人吉駅〜吉松駅間は普通列車として運転

 

④鹿児島湾を眺めて走る特急「指宿のたまて箱」

鹿児島中央駅と温泉で知られる指宿(いぶすき)駅を結ぶのが、特急「指宿のたまて箱」だ。

 

浦島太郎の伝説が残るこの地方にちなんだ特急名で、駅に到着すると、たまて箱の煙のようにミストが車体から立ちのぼる。そんな凝った演出が楽しい。鹿児島湾の海景色が十分に楽しめるように、海側の座席は、海に向いて設置される。

↑鹿児島湾に沿って走る「指宿のたまて箱」。車体は海側が白、山側が黒という塗り分け。通常は2両で運行、写真のように増結される場合もある

 

■特急「指宿のたまて箱」

●運転区間:鹿児島中央駅〜指宿駅

●運転日・運転本数:毎日3往復

●車両:キハ47形2両編成

 

⑤前面展望が楽しめる特急「あそぼーい!」

熊本地震の影響で豊肥本線の一部区間が運休となり、別の路線で不定期運行されていた特急「あそぼーい!」。2018年3月のダイヤ改正以降、熊本県の阿蘇駅と大分県の別府駅を結ぶD&S列車として復活した。

 

この車両の特徴は前面展望が楽しめるパノラマシートが付くこと。加えて親子用の座席「白いくろちゃんシート」、子どもたちの遊び場に「木のプール」があるなど、親子連れでの利用を考えた造りとなっている。

↑前後にパノラマシートがあるキハ183系「あそぼーい!」。写真は熊本地震前に熊本駅〜宮地駅間を走っていたときのもの。現在は阿蘇駅〜別府駅間と運行区間が変更されている

 

↑横3列に並ぶパノラマシート。ゆったりした座席で、移り変わる前面展望が満喫できる。座席の背の部分や肘掛けなどに木が多用されている

 

■特急「あそぼーい!」

●運転区間:別府駅〜阿蘇駅

●運転日・運転本数:金・土・休日を中心に運行。1日1往復

●車両:キハ183系4両編成

 


<!–nextpage–>

⑥広がる阿蘇の風景が楽しみな特急「九州横断特急」

「九州横断特急」は熊本地震が起こる前までは、名前の通り、九州を東西に横断した特急列車だった。現在は特急「あそぼーい!」と同じく別府駅〜阿蘇駅を結ぶ特急列車として運行されている。

 

運行日は「あそぼーい!」が運転されない日のみ。要は別府駅〜阿蘇駅間は、「あそぼーい!」、もしくは「九州横断特急」のどちらかが運行される形になっている。阿蘇駅近くの豊肥本線の車窓から見る阿蘇五岳の景色が素晴らしい。

↑国鉄が四国用に開発したキハ185系がJR九州に移り、活用されている。真っ赤な車体が特徴。車内も改造され、木が多用され落ち着いた造りになっている

 

■特急「九州横断特急」

●運転区間:別府駅〜阿蘇駅

●運転日・運転本数:平日を中心に運行(特急「あそぼーい!」の運行がない日)

●1日1往復/車両:キハ185系2両編成

 

⑦天草観光に便利な特急「A列車で行こう」

ジャズのスタンダード・ナンバーの名が付くD&S列車。“16世紀の天草に伝わった南蛮文化”をテーマにした内外装で、天井の造り、座席の模様、ステンドグラスなど細かい箇所の造りが凝っている。

 

A-TRAIN BARと名付けられたカウンターでは、熊本名物のデコポンをアレンジしたハイボールを販売、こちらも名物となっている。終着の三角(みすみ)駅の目の前にある港から、天草・本渡(ほんど)港行きの船「天草宝島ライン」が接続。天草観光にも最適なD&S列車だ。

↑三角線の沿線からは島原湾越しに雲仙を望むことができる。車両はキハ185系を改造したもの。2両で運転される

 

■特急「A列車で行こう」

●運転区間:熊本駅〜三角駅

●運転日・運転本数:土・休日を中心に運行。1日3往復

●車両:キハ185系2両編成

 

⑧古い駅舎が残る肥薩線の名物特急「はやとの風」

鹿児島中央駅と肥薩線の吉松駅間を走る特急「はやとの風」。肥薩線の隼人駅〜吉松駅間は1903(明治36)年に造られた路線で、いまでも開業当時の駅舎が途中、嘉例川(かれいがわ)駅と大隅横川駅に残り、必見の価値がある。

 

登録有形文化財でもある両駅に同特急も停車。停車時間も4〜8分と余裕を持たせているので、写真撮影も可能だ。鹿児島湾越しに見る桜島の風景もまた美しい。

↑漆黒のボディが特徴の「はやとの風」。写真の嘉例川駅の駅舎は115年前に建てられたもの。各列車とも5分前後の停車時間があるので記念撮影も可能だ

 

■特急「はやとの風」

●運転区間:鹿児島中央駅〜隼人駅

●運転日・運転本数:土・休日を中心に運行。1日2往復

●車両:キハ147形+キハ47形2両編成

 

⑨日南海岸の絶景が楽しめる特急「海幸山幸」

日豊本線の宮崎駅と日南線の南郷駅を結ぶD&S列車が「海幸山幸(うみさちやまさち)」だ。地元の神話に登場する海幸彦と山幸彦を元にした特急名で、沿線にはその名前の通り、海の幸、山の幸の宝庫でもある。

 

とくに車内から望む日南海岸の海景色が素晴らしい。沿線には城下町・飫肥(おび)や、景勝地・青島など観光地も多い。途中下車して南国、宮崎の観光も満喫するのも楽しい。

↑日南線を走る「海幸山幸」。沿線の油津港はクルーズ船の寄港地でもある。撮影時、ちょうど油津港には「飛鳥Ⅱ」が寄港していた。「飛鳥Ⅱ」は日本を代表する外航クルーズ船だ

 

↑車両は高千穂鉄道の元TR-400形気道車を使用。全面改造されて運行されている。写真は1号車「山幸」の車内。座席は3列シートで広々している

 

■特急「海幸山幸」

●運転区間:宮崎駅〜南郷駅

●運転日・運転本数:土・休日を中心に運行。1日1往復

●車両:キハ125形2両編成

 

⑩現役最古の蒸気機関車8620形がひく「SL人吉」

最近は、各地でSL列車が増えているが、現役で最も古い蒸気機関車がJR九州の8620形58654号機。誕生したのは1922(大正11)年で、1975(昭和50)年まで活躍、その後、肥薩線の矢岳駅前の人吉鉄道記念館に保存されていた。この車両をJR九州が修復し、「SL人吉」の牽引機として活躍している。

 

「SL人吉」は、機関車だけでなく、客車も魅力満載。クラシカルな内装、前後1号車と3号車に展望ラウンジがあり、球磨川や移り行く景色が楽しめる。2号車にはビュッフェがあり、軽い食事やドリンク、グッズ類が販売されている。

↑1988(昭和63)年に復活された8620形58654号機。長い間、「SLあそBOY」の牽引機として走ったあと、再整備され2009年から「SL人吉」の牽引機として走り続けている

 

↑前後部とも全面ガラス窓の展望ラウンジに改造した50系客車を利用。広々した車窓風景が楽しめるとあって人気だ

 

■「SL人吉」

●運転区間:熊本駅〜人吉駅

●運転日・運転本数:金・土・休日を中心に運行(冬期は運行休止)。1日1往復

●車両:8620形58654号機+50系客車3両

 

⑪極上スイーツが車内で味わえる「或る列車」

鹿児島本線や長崎本線の一部は、1889(明治22)年に私設鉄道会社として生まれた九州鉄道の手により開業された。この九州鉄道が1906(明治39)年にアメリカのブリル社に豪華客車を発注した。九州鉄道は、その後、国有化されたため、ほとんど利用されず消えていった客車だが、豪華な客車は「或る列車」として後世に伝えられた。

 

この豪華な客車を再現したのが「或る列車」だ。金色と黒に塗られ、一部に唐草模様をあしらったユニークな外観が目立つ。車内では東京南青山のレストラン「NARISAWA」のオーナーシェフ、成澤由浩氏監修の軽食とスイーツが楽しめる。

↑外観は金色と黒、加えて唐草模様をあしらった「或る列車」。走るコースは固定されておらず、2018年6月末までは佐世保駅〜長崎駅間の予定

 

運行される路線は2018年6月末までは佐世保駅〜長崎駅間の「長崎コース」の予定。車窓に広がる大村湾の眺めも楽しみだ。

 

■「或る列車」

●運転区間:佐世保駅〜長崎駅(2018年6月末まで)

●運転日・運転本数:金・土・休日を中心に運行。1日1往復

●車両:キロシ47形2両編成

 

これまで見てきたようにJR九州のD&S列車は多種多彩。ただ車両と走る区間の楽しみだけに留まらない。各列車では客室乗務員が乗車し、各種サービスを行っている。記念撮影のお手伝いなど、細かい気配りが各列車で行われていることも、D&S列車の魅力をアップする大きなポイントとなっている。

無賃乗車が減らないから? 治安も公共マナーもいい日本で「信用乗車」が普及しない理由

日本で鉄道を利用するとき、都市部のJRや大手私鉄、地下鉄では乗車券を改札口で確認し、地方のローカル線や路面電車ではバスのように運転士などの乗務員が確認する方法が一般的だ。

ところが欧米の大都市を走る鉄道には改札口がなく、車内で乗務員がチェックもしないパターンがある。でもほとんどの利用者は正規の料金を支払って乗っているという、日本の鉄道に慣れた人が見れば不思議な光景を目にする。

 

この方式、「信用乗車」と呼ばれることが多い。利用者が運賃を支払って乗車していると鉄道会社が信用することから、この名がついたようだ。他にも呼び名があるようだが、ここではもっともよく使われている信用乗車で統一する。

 

信用乗車のメリットは何か。もっとも大きいのは都市部の電車がそうであるように、複数のドアで乗り降りできることだ。乗車時あるいは降車時に乗務員が乗車券を確認する方式では、乗り降りするドアが限定されるので混雑時に時間が掛かり、遅れの原因になる。

福井鉄道の降車扉は運転士脇の1か所だけに限られている

 

そういえば近年、長くてドアの数が多いLRT(日本では次世代型路面電車システムと訳される)の車両を、欧米などで見ることが多くなった。日本でも広島電鉄や福井鉄道で、全長30m前後という長い車両が走っている。いずれも信用乗車前提で設計されたのだろう。ところが日本では、どちらも片側に4か所のドアを持つのに、福井鉄道では降車扉は運転士脇の1か所だけ。広島電鉄は国内外の多くのLRT車両がワンマン運転となる中、車掌が乗務することで複数のドアから降りることを可能としているが、それでも4か所中2か所だ。

広島電鉄は車掌を乗務させることで複数扉降車を実現している

 

■なぜ富山ライトレールは全扉降車を認めているのか?

これでは本来の機能を使い切ってない。そう考える鉄道事業者が日本にもあった。先週のダイヤ改正のコラムでも紹介した富山ライトレールだ。開業した2006年から平日朝のラッシュ時に限り、ICカードのみ全扉での降車を認めていて(同社では信用降車と呼んでいる)、昨年10月からはこれを全日全時間帯に拡大したのだ。

富山ライトレールは2017年10月から、すべての時間帯でICカード利用の全扉降車を認めている

 

1月に富山でセミナーの仕事があったので、約1年ぶりに富山ライトレールに乗りに行った。週末の昼間という、さほど混雑していない時間帯ではあったが、多くの乗客が当然のように後ろ側のドアから降りていく。日頃からLRTに親しんでいる富山市民だけあって定着率は高そうだった。乗務員の目の届かない場所で乗り降りできるので、理論上は無賃乗車も可能だ。しかし他の乗客の目があるし、顔見知りの人も多く利用しているだろうから、実際には難しいだろう。実際大きな問題にはなっていないようだ。

 

では欧州ではどうなのか。前述のように多くのLRTで全扉での乗降が可能。扉付近に端末を取り付けてあり、切符の場合は乗車時に挿入、ICカードの場合はタッチすることで運賃を支払うパターンが多いが、ドイツのベルリンやフランクフルトは地下鉄も信用乗車方式で、改札はおろか車内の端末もない。

 

もちろん彼らは無賃乗車がないとは考えてはいない。そのために欧米では罰金を厳しくすることで対応している。不定期で乗車券の確認を行う係員が乗車し乗車券をチェック。カードの場合も係員が持つ端末で瞬時に分かるとのことだ。以前利用したフランクフルトのLRT車内には60ユーロと、最大で通常の乗車券の約20倍にも相当する罰金を徴収すると明記してあった。

 

実はここに日本での信用乗車導入が進まない理由のひとつがある。日本の法律では無賃乗車に対する罰金は乗車券の2倍以内と定められているからだ。つまり富山ライトレールの場合は340円(カード利用時)となる。自動車で交通違反をした際に支払う反則金と比べると、驚くほど少額だ。

 

日本ではローカル線のワンマン車両も同様の乗降方式を用いているけれど、長い車両に2〜3駅だけ乗る場合など、走行中に後方から前方に移動しなければならず不便だし、運転士が多くの業務を担当する様子は大変に思える。早急に信用乗車を前提とした法整備をすべきではないだろうか。

 

【著者プロフィール】

森口将之

モータージャーナリスト&モビリティジャーナリスト。移動や都市という視点から自動車や公共交通を取材し、雑誌・インターネット・講演などで発表するとともに、モビリティ問題解決のリサーチやコンサルティングも担当。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本デザイン機構理事、日本自動車ジャーナリスト協会・日仏メディア交流協会・日本福祉のまちづくり学会会員。著書に『パリ流環境社会への挑戦(鹿島出版会)』『富山から拡がる交通革命(交通新聞社)』『これでいいのか東京の交通(モビリシティ)』など。

設置が進む「ホームドア」最前線――期待の新型と今後の問題

ホームからの転落を防止するために設けられるホームドア。2016年8月に視覚障害のある男性が、東京都内の地下鉄駅のホームから転落して死亡するという痛ましい事件が起きた。このことが契機となり、国土交通省は2020年度までに、1日に10万人以上が利用する駅にホームドアを設置する数値目標を示した。

 

このホームドア、プラットホームの端に設置されていて、停車した電車のトビラと同時に開き、また電車のトビラが閉まればホームドアも一緒に閉まるもの、という程度の認識しか筆者は持ち合わせていなかった。

 

しかし、調べてみるとさまざまな形や、開閉方法が異なるホームドアがあった。設置方法の違いもある。さらに、設置が難しい駅があることもわかった。今回は、そんな奥深いホームドアの世界を見ていくことにしよう。

 

歴史は意外に古い!? 設置費用は数十億円!? ホームドアの豆知識

まずは、ホームドアが生まれてから現在に至るまでの流れについて、簡単に触れておこう。

 

国内のホームドアの歴史は意外に古い。1974(昭和49)年1月1日に東海道新幹線の熱海駅に設置されたのが初めてだった。東海道新幹線の熱海駅はホームの幅が狭い。さらに上り下りの線路のみで、停まらない列車がホームのすぐ目の前を高速で通過していく。通過時の風圧が強く、利用者が巻き込まれる恐れがあった。そのため、日本初の「可動式ホーム柵」が設置されたのだった。

 

その後、1977(昭和52)年に、山陽新幹線の新神戸駅に設置され、これが西日本初のホームドアとなった。1981(昭和56)年には神戸新交通ポートアイランド線の部分開業にあわせてホームドアが導入された。さらに1991(平成3)年の営団地下鉄(現在の東京メトロ)南北線が部分開業し、半密閉式のホームドアが全駅に取り付けられた。

↑地下鉄としては最初のホームドアを導入したのが現・東京メトロ南北線だった。安全に万全を期すため、半密閉式スクリーンタイプというホームドアシステムが導入された

 

現在、多くの駅で見かける通常の開閉式ホームドアは、2000(平成12)年に都営三田線で導入されている。これが新幹線以外で最初に設置されたホームドアでもあった(南北線の方式を除く)。

 

その後、導入が進んでいき、国土交通省の調べでは2006年度末に318駅だった設置駅が、2016年度末には686駅まで増えている。とはいえ、設置費用はかなり高額だ。1駅(上下2線分)あたり数億円から数十億円にも及ぶという。もちろん、設置後の維持費もかかる。国や地方自治体から一部補助金が出されるとはいっても、JR東日本やJR西日本、さらに大手私鉄といった経営に余裕があるところでないと、そう簡単に導入できるものではないというのが現実だろう。

 

ホームドアの開け閉めは誰が行っている?

次にホームドアの通常のスタイルと、開閉方法を見ていこう。

 

通常のホームドアの形だが、ご存知のように2枚の戸が横開きする形が一般的で、ドアが格納される戸袋が左右にある。開いたときの開口部の長さは、電車のドアよりも横幅1mほど大きく開くように造られている。これは電車の停車位置が前後にややずれることがあるためで、そのぶんの余裕を持たせているわけだ。

 

設置位置はプラットホームの端と平行に設置されるのが一般的で、戸袋裏にセンサーが装着されている。もし、センサーが感知したときにはホームドアが再び開くなど、危険を避けるように作動する。

↑最も一般的なホームドア。開け閉めされるドアは金属の戸のみの場合と、写真のようにガラス戸のものがある。海外のホームドアはガラス戸になっている場合が多い

 

ホームドアの開け閉めだが、多くは電車に乗車する車掌が後端部にあるスイッチで操作する。電車の進入と同時に自動的にホームドアが開くもの(閉めるのは車掌が操作)と、開け閉めすべて車掌が操作するホームドアがある。

 

一方で、東京メトロ丸ノ内線や都営三田線などではワンマン運転にも対応。あらかじめ車両に改良を施して、運転士がドアの開閉するボタン操作すれば、連動してホームドアが開閉する路線もある。

 

次に一般的なホームドアの形に改良を加えた“進化タイプ”の例を見てみよう。

 

まずは、東京メトロ丸ノ内線の中野富士見町駅の場合。上り線のホームがややカーブしているため、電車とホームの間にすき間が生まれる。そのため、ホーム内からプレートが出てきてすき間を埋めるように作動している。電車とホームのすき間から物が線路へ落ちないよう配慮しているわけだ。

↑東京メトロ中野富士見町駅の例。上り線ではホームドアが開く際に、ホーム下からプレートが出てきて、電車とホームとの間に生まれる“すき間”を埋めている(矢印部分)

 

より安全に乗り降りしてもらおうという配慮が感じられるのが、相模鉄道横浜駅のホームドアだ。電車が停車位置に近づくと左右のランプが点灯。まずは赤で、乗車可能になったら青いランプが付く。閉まるときは青→赤と色が変わる。車掌が扱うホームドアの開け閉めスイッチも大きく、誤った操作を防ぐための工夫が見られる。

↑乗車可能なときは左右のランプが青く点灯する(矢印部分)。ホームドアの開閉は黄色い小ボタンで開き、緑の大ボタンで閉める。ボタンが大きく操作しやすい造りだ(赤写真内)

 

↑乗車ができないとき、また閉まりかけたときには右左のランプが赤く点灯する(矢印部分)

こんなホームドアもある! 走る車両に合わせて形もいろいろ

ホームドアの基本的な形とは異なる形、または設置方法を用いた駅もある。そんな通常とは異なるのホームドアの例を見ていこう。

 

設置方法が少し異なるのが東急電鉄の宮前平駅の例。写真を見ていただくとわかるように、ホームドアと電車の間に通常より広いスペースがある。

 

↑東急田園都市線の宮前平駅の様子。ホームドアと電車の間に、広いスペースが設けられている。東急の一部電車が6ドア車だったためこの形となった

 

これは以前に走っていた主力車両50000系に対応するための工夫だった。50000系は4ドア車とともに6ドア車を数両連結していた。しかし、50000系以外の電車は4ドアで、そうなると、ドアの位置が異なってしまう。宮前平駅のように電車との間にスペースを作れば、たとえ電車のトビラとホームドアの位置が合っていなくとも、電車への乗降が可能だったわけだ。

↑戸袋の線路側には「ホームの内側にお進みください」の表示が付けられる

 

宮前平駅のホームドアは電車が走りだしたあとに閉まる仕組み。とはいえ一長一短あり、電車のドアが閉まったあとに、ホームドアのなかに取り残されてしまうこともある。そうしたトラブルを防ぐために、現在は係員がホームに常駐している。現在は東急50000系の6ドア車が廃止され、すべて4ドア車と変更された。この大きなスペースは、いまは必要なくなっている。

 

次は、走る電車によってドアの開口部の大きさが異なる東京メトロ東西線の場合だ。

 

東京メトロ東西線の場合、主力車両の05系の一部と15000系は、乗降トビラが1800mmというワイドサイズになっている。一方で東西線には、ドアの幅が1300mmという通常サイズの電車も走っている。500mm差しかないといえばそれまでだが、ホームドアが従来のサイズだと、ワイドドア車の場合に、停車位置がややずれただけでも、乗り降りに支障をきたす可能性が考えられた。

 

そのため東西線の九段下駅に導入されたのは「大開口ホーム柵」と名付けられたホームドア。2重引き戸構造として、開く幅を大きくした。

↑東京メトロ九段下駅に通常の1300mm幅の東西線の電車が停車したときの様子。2重となった中側のドア部分の幅が、一般的なホームドアのドア幅となる

 

↑1800mmというワイドドアの電車が停まったときの様子。開口部が1300mmの通常の電車と500mm差とはいえ、幅が広いことがわかる

 

↑東西線九段下駅のホームドアは、2重で、それぞれ2枚のドアが右左に開く仕組みとした。通常のドア幅を持つ車両が到着したときでも、ドアが全開する仕組みになっている

ドアというよりも「バー」!? 導入に向けてテストが続く新型ホームドアも

走る車両のドアの数、ドアの位置がすべて同じ路線の場合、ホームドアを導入しやすい。困難なのはドアの数、ドアの位置が異なる車両が走る路線だ。こうした駅向けに新型ホームドアの実証実験も行われている。

 

たとえば、JR拝島駅(東京都)の八高線ホームには、3本バーを支柱間にわたして、車両が到着するとバーを上げ下げするホームドアが使われている。「昇降バー式ホーム柵」と名付けられたこのシステム。ドアの位置が、車両ごとに異なっていても対応できるシステムだ。

↑JR拝島駅の八高線、八王子行きホームに設置されたホームドア。「昇降バー式ホーム柵」と名付けられたシステムで、ドアの位置の違いに対応する方式として開発された

 

↑昇降バーが高々とあがる構造。乗客の乗り降りの邪魔にならない造りとなっている

 

バーをロープにしたホームドアも西日本で見ることができる。JR高槻駅(大阪府)で設置されたのは「昇降ロープ式ホーム柵(支柱伸縮型)」と呼ばれる装置。JR西日本はドアの数や位置が異なる車両が多々、走っている。そのため、この形のホームドアが試されているのだ。

↑JR高槻駅の場合、10mにわたる5本のロープが支柱間にわたされている。電車が到着するとこのロープが上に上がって乗降できる仕組み

 

鉄道会社間で異なる導入スピード――「2019年度に全駅設置」を掲げるところも

ホームドアの導入は鉄道各社によってかなり差がある。全国の地下鉄や新都市交通、そしてモノレールの路線では、当初からホームドアの導入が盛んで、導入率も高い。

 

JRでは新幹線の駅の導入率は高いものの、在来線はこれから本格的に、といった状況。大手私鉄では東高西低の印象が強い。また会社間での導入スピードも異なる。

 

そんななか、2019年度に早くも全駅にホームドア設置を目指しているのが東急電鉄だ。宮前平駅の例を前述したが、東急ではさまざまなスタイルを試してきた。そしていま、活発に各駅のホームドア設置を進めている。

 

東急のホームドアには2タイプがある。東横線、田園都市線などには通常のホームドアを導入する。一方で、池上線、東急多摩川線では「センサー付固定式ホーム柵」という形の“柵”を設置している。

 

これは後者の2路線の場合、電車が3両編成と短め、かつ駅間が短く、電車のスピードがほかの路線よりも遅いため有効だと考えられた対応策。ドアは無いものの、電車が発車しようとしたときに柵の内側に人が立つとセンサーが感知して、乗務員に知らせる。

↑東急池上線の駅に設置された「センサー付固定式ホーム柵」。柵と柵の間に乗降トビラがくるように停車する。線路側にはセンサーが設けられている

 

高額な設置費用を、もう少し手軽なものにできないかという試みもJR東日本で始められている。JR横浜線の町田駅の下りホームに付けられたのが「スマートホームドア」という名のホームドア。開口部および戸袋部分が、通常のものにくらべて軽量、簡素化され、本体機器費用、および設置工事費用などの低減を図っている。

↑JR横浜線の町田駅で試験が続けられる「スマートホームドア」。JR東日本の関連会社の手により開発されたホームドアで、軽量、簡素化が図られている

 

↑開口部は広々している。直線的なホームだけでなく、カーブしたホームにも対応できる仕組みとなっている

 

今後は、通常のものよりも簡素化されたスタイルのホームドアも普及していくのかもしれない。

 

あとは2ドア、3ドアなどドア数、およびドアの位置が異なる車両が走る路線。小田急電鉄や京浜急行電鉄などにより、すでに実証実験が行われている。両社では2020年度〜2022年度には主要駅には導入を予定している。果たしてどのようなスタイルのホームドアが導入されるのか興味深い。

 

ホームドア設置による抑止効果と今後の問題

最後に、ホームドア設置によってどの程度、事故が減るのかを見てみよう。

 

ちょっと古い数字だが国土交通省が2005(平成17)年にまとめた鉄道事故の統計によると、プラットホームでの死亡者数が196人。そのうち、「酔客」が10人(5.1%)、足を滑らせてなど「その他」での理由が24人(12.1%)。残りがすべて「自殺」164人(82.8%)という割合だった。プラットホームの死亡事故の原因は圧倒的に「自殺」が多かったわけだ。

 

この数字が、どのぐらいホームドアの設置駅で減っているのだろう。まだ設置駅の事故率を浮き彫りにした公式の統計は、残念ながら出されていない。とはいえ、ホームドア設置駅では誤ってホーム下に転落する事故は、ほぼ皆無となるだろう。時たま起こる、ホームドアを乗り越えて……というような事件がニュースになるものの、設置は確実に自殺をしようとする人たちへの抑止効果を生んでいると思われる。

 

とはいえ、ホームドア設置後の問題も出てきている。たとえば、つくばエクスプレスの例。2016年にホームドアがからむトラブルが22件も起こっている。ホームドアにはセンサーが付いているが、死角になる部分があるためだ。電車のドアに物が挟まったときに、ホームドアが逆に死角になって見えないことがある。ワンマン運転の電車の場合、こうした状況を運転士がすべて確認して電車を運行しなければならない。

 

これは、ホームドアもまだ完璧とは言えない技術であることを物語る話だ。今後、ホームドアの設置率向上を生かしていくため、さらなるハード面とソフト面の技術力のアップ、加えて利用者側もトラブルに出会わないために、ホームドアの仕組みをある程度、理解しておいたほうがいいのかもしれない。

赤字体質から6年連続増益へ――躍進する「JR貨物」に鉄道貨物輸送の現状を見る

相模灘を眼下に望む東海道本線の早川駅〜根府川駅間のカーブを、うねるようにして貨物列車が進む。ブルートレイン牽引機として活躍したEF66 “マンモス”、その血を受け継いだJR貨物のEF66形式直流電気機関車が、長い貨物列車の先頭に立つ。24両編成、総重量1000トン以上にも及ぶコンテナ貨車。力強く牽引する姿は豪快そのものだ。

この貨物列車の姿のように、JR貨物がいま、力強く元気だ。長年、赤字体質だった会社が、6年前から黒字経営に、さらにここ数年は好業績を上げ続けている。どのようにして体質改善が図られていったのか、変わるJR貨物の現状を見ていきたい。

 

6年連続増益!ついに最高益をあげるまでに

まずは、JR貨物の好調ぶりを数字で見ていこう。

 

平成29年10月30日に、平成30年3月期の中間決算が発表された。営業収益は935億円。対前年比23億円プラスで、2.6%の増収となった。営業利益にいたっては前年比12.2%増、経常利益は対前年比20.5%増となった。

 

中間期の純利益を見るとなんと78.2%の増加となる。これで6年連続増益となり、中間期決算の公表を開始した平成9年度以来の最高益をあげた。

↑JR田端駅近くビル上にある案内看板。夜になると機関車のヘッドライトが光り、面白い。赤い電気機関車がJR貨物を力強く牽引するといった構図にも見える

 

いまでこそ好調のJR貨物だが、10年ほど前まで、この状態はとても予想できなかった。純利益を見ると、平成20年度(△15億円)、21年度(△27億円)とマイナスの数字が並ぶ。22年度(10億円)は持ち直したものの、東日本大震災があった平成23年度はマイナス5億円の損失を計上した。

 

ところが、翌平成24年度からプラスに転じ、それ以降、ほぼ右肩上がりで業績を延ばしている。

 

こうした背景には、トラック輸送から鉄道輸送や船輸送への転換。CO2の排出を減らそうとする取り組み「モーダルシフト」が、国により強く推進されたこともあるだろう。また昨今の、ドライバー不足から鉄道貨物輸送への転換を余儀なくされた荷主が増えている背景もありそうだ。

 

一方で、時間をかけつつも、より効率の良い鉄道貨物輸送を目指してきた、その成果が実を結んだようにも思える。どのような改善を施し、また成果を生み出したのか、いくつかの事例を見ていきたい。

 

【事例①】

企業とのつながりを強めた「専用列車」の運行

鉄道貨物の輸送は大きく2つにタイプに分けられる。「車扱(しゃあつかい)輸送」と「コンテナ輸送」の2つだ。石油や鉱石などを専用の貨車に載せ、走らせることを車扱輸送と呼ぶ。一方、一定の大きさのコンテナを貨車に載せて運ぶ列車をコンテナ輸送と呼ぶ。

 

古くは車扱輸送が主流だったが、現在は、コンテナ輸送が鉄道貨物全体の約70%を占めている。主流となるコンテナ輸送だが、その姿を大きく変えたのが次の列車だった。

↑一企業の専用列車として走り続ける「スーパーレールカーゴ」。東京貨物ターミナル駅を23時14分に発車、大阪の安治川口駅に早朝5時26分に到着する

 

2004(平成16)年に走り始めた「スーパーレールカーゴ」。東京貨物ターミナル駅と大阪市内の安治川口駅を結ぶ貨物列車で、佐川急便の荷物を積んだコンテナのみを載せて走る。

 

M250系という動力分散方式の車両を利用、専用のコンテナを積んだいわば“貨物電車”のスタイルで走る。深夜の東海道本線を最高時速130kmで走り、上り下りとも約6時間10分で結ぶ。深夜に出発して、翌早朝には東京、大阪に到着するダイヤで運行されている。

 

「スーパーレールカーゴ」での輸送が実績を上げたこともあり、2013年からは福山通運の専用列車「福山レールエクスプレス号」が東京貨物ターミナル駅〜吹田貨物ターミナル駅(大阪府)間を一往復しはじめた。さらに「福山レールエクスプレス号」は、2015年から、東京貨物ターミナル駅〜東福山駅(広島県)間、2017年には名古屋貨物ターミナル駅〜北九州貨物ターミナル駅間の運行も開始された。こうした専用のコンテナ列車は、1往復で、大型トラック60台分のCO2削減につながることもあり、効果が大きい。

↑東海道貨物線を走る「福山レールエクスプレス号」。同列車は東京〜大阪間だけでなく、東京〜福山間、2017年5月からは名古屋〜北九州間の運転も始まっている

 

この動きは、宅配業種との協力体制のみに留まらない。2006年11月から運行を始めたのが「トヨタ・ロングパス・エクスプレス」。列車名でわかるように、トヨタ自動車関連の部品類を運ぶ専用列車だ。愛知県の笠寺駅(名古屋臨海鉄道・名古屋南貨物駅着発)〜盛岡貨物ターミナル駅、約900km間を約15時間かけて走る。1日に2往復(土・日曜日は運休)するこの専用列車。愛知県内にあるトヨタ自動車の本社工場と岩手工場間の部品輸送に欠かせない列車となっている。

↑相模灘を背に走る「トヨタ・ロングパス・エクスプレス」。青い色の31フィートサイズの専用コンテナを積んで走る

 

2018年3月のダイヤ改正からは、こうしたクルマの部品輸送用の専用列車が相模貨物駅(神奈川県)〜北九州貨物ターミナル駅間を走る予定で、専用列車の需要はますます高まっていくと言えそうだ。

 

【事例②】

スムーズな輸送に欠かせなかった拠点駅の整備

専用列車の登場とともに、JR貨物のスムーズな輸送に大きく貢献したのが2013年3月の吹田貨物ターミナル駅の開業だ。国鉄時代には、東洋一の規模を誇った吹田操車場の跡地の一部を利用した貨物駅で、東海道本線の千里丘駅〜吹田駅間の約7kmにわたる広大な敷地に貨物ターミナル駅が広がる。

↑東海道本線に沿って設けられる吹田貨物ターミナル駅。同駅の整備にあわせて福山通運の「福山レールエクスプレス号」の運行が始められた

 

同駅の整備により、先にあげた「福山レールエクスプレス号」などの列車の着発と、荷役が可能になった。また貨物列車の上り下り線ホームを整えたことで、東海道本線や山陽本線という物流の大動脈を走る列車の荷役作業を、よりスピーディに行えるように改善された(作業は着発線荷役と呼ばれる)。

 

吹田貨物ターミナル駅からは、大阪市内の別の貨物駅、大阪貨物ターミナル駅や百済貨物ターミナル駅を向かう列車も多い。構内を整備したことで、これらの列車の発着もよりスムーズになった。1つの駅の整備が大阪圏内だけでなく、西日本の鉄道貨物の流れをよりスムーズにしたと言っても良いだろう。

↑東海道本線を走る多くの貨物列車の起終点となるのが東京貨物ターミナル駅。駅構内に新たに設けられる大型物流施設の工事も始まっている

【事例③】

引っ越し需要にこたえて臨時列車を走らせる

3月、4月は1年で、最も引っ越し需要が高まる季節。さらに今年はドライバー不足、働き手不足の影響もあって、引っ越し料金が高騰し、予約が取れない状況だとされる。

 

そんな引っ越し需要に合わせて、JR貨物では3月上旬〜4月上旬にのべ30本の臨時列車を運転、68本の貨物列車の曜日運休を解除して、12フィートコンテナ換算で9800個(49,350トン)の輸送力の増強を図っている。

 

臨時列車が走るのは大阪貨物ターミナル駅〜鳥栖貨物ターミナル駅(佐賀県)・北九州貨物ターミナル駅間や、隅田川駅(東京都)〜札幌貨物ターミナル駅間。こうした柔軟性に富んだ対応も、JR貨物の新しい一面と言えるだろう。

 

【事例④】

国鉄時代に生まれたコンテナ貨車が消えていく

コンテナを積む貨車の更新も改善されてきたポイントの1つだ。

 

コンテナ用の貨車は1970年代にコキ50000形式が大量に造られた。その後、1980年代の終わりに、コキ100系というコンテナ貨車が生まれた。

 

40年にわたり使われてきたコキ50000形式だったが、時速100〜110kmのコキ100系に対して、最高時速が95kmと見劣りした。しかも床面の高さがコキ100系の1000mmに比べ1100mmと10mmほど高い。コンテナ貨車はコンテナを積んだときに、上限となる限界値があり、コキ50000形式には背の高いコンテナを載せることができない。

↑1970年代に大量に造られたコキ50000形式。高床構造で、12フィート汎用コンテナの利用の場合、高さ2500mm未満の限定サイズを使わざるを得なかった

 

いままで使われ続けてきたコキ50000形式だったが、2018年3月のダイヤ改正で残っていた車両が消えることになった。

 

今後、コンテナ貨車は、ほぼコキ100系に統一される。これまで12フィートサイズの汎用コンテナは、コキ50000形式に合わせてつくられていた。しかし、コキ100系が主流となることで、高さを2500mmから2600mmへと、100mmほどサイズが大きい汎用コンテナが一般化することになる。わずか100mmの違いながら、それだけ多くの荷物の積み込みが可能になるわけで、荷主にとってありがたい改善点となる。

↑31フィートコンテナを載せたコキ100系。高さが2500mmを越えるコンテナには、誤った積載を防ぐため「コキ50000積載禁止」の文字が書かれていた。

 

 

【事例⑤】

鉄道ファン受けしそうな貨物用機関車の塗り替え

最後に鉄道ファンとしては気になる貨物用機関車の話題に触れておこう。この貨物用機関車の運用に関しても、現在のJR貨物らしさを見ることができる。

 

EF200形式直流電気機関車という強力な貨物用機関車が使われている。東海道・山陽本線で使われる機関車で、日本の機関車史上、最強の6000kWの出力で、1600トンの貨車の牽引が可能な車両だった。

 

この機関車はJR貨物発足後の1990(平成2)年、景気が良かった時代に誕生した。ところが、生まれたあとの輸送需要が伸びなかったこと、フルパワーで走ろうとすると、地上の変電設備などに負荷をかけることから、出力を抑えての運転が余儀なくされていた。問題をかかえていたために21両と製造数も少なかった。

 

生まれてまだ30年も経っていないが、すでに稼働しているのが4両のみとなっている。このままでは、あと数年で消えていきそうな気配だ。

↑日本の電気機関車史上、最大のパワーを誇ったEF200形式電気機関車。オーバースペックがたたり、国鉄形機関車よりも先に消えていきそうな気配だ

 

消えていきそうな機関車がある一方で、国鉄形電気機関車に面白い動きが見られる。

 

国鉄がJRに分社化されすでに30年あまり。JR貨物に残る国鉄時代生まれの機関車も減りつつある。そんな動きのなか、国鉄形機関車のなかに、全般検査を受け、今後、3年、5年と走り続けそうな車両も出てきた。EF64形式やEF65形式が昨年から数両、全般検査を終えて工場から出庫してきているが、塗り替えた姿は、両形式ともすべてが国鉄原色と呼ばれる塗装だった。

↑EF65形式直流電気機関車の2065号機。定期的に行われる全般検査の際に国鉄原色に戻され、鉄道ファンの心をくすぐった

 

まさか、鉄道ファンに人気だから、ということでの国鉄原色への回帰というわけではないだろう。とはいえ、貨物ターミナル駅や機関区などの公開イベントなどでは、親子連れを含め多くの人が集まり、JR貨物の人気は高い。塗装変更という1つの現象ではあるものの、こうしたJR貨物へ興味を持つ鉄道ファンに受けるがための塗りかえであったら歓迎したい。

↑EF64形式の国鉄原色機は一時期、消えてしまった(JR貨物の場合)。ところが1028号機が全般検査後に国鉄原色に戻された。この復活劇を喜んだ鉄道ファンも多い

 

↑JR貨物のEF64形式といえばブルーに白のラインの色分けが多い。鉄道ファンからは“牛乳パック”と呼ばれたカラーだが、今後、この塗り分けはどうなっていくのだろうか

 

まもなく実施されるJR各社の「ダイヤ改正」、今年は何がどう変わる?

3月17日(土曜日)にJR各社のダイヤ改正が行われる。この春は新路線の開通といった華々しい話題はないものの、各社の変更点を見ていくと、時代の変化を感じざるをえない。旅客各社のダイヤ改正で目立った変更ポイントをチェックした。

 

【JR北海道】国鉄型キハ183系が走る路線がわずかに

まずはJR北海道のダイヤ改正で目立つポイントから。

 

長年、函館駅と札幌駅を結んできた特急「北斗」が消え、すべての列車が特急「スーパー北斗」となる。車両がキハ183系から、すべてキハ281系とキハ261系に変更されるのだ。この車両変更によって、若干の所要時間の短縮(既存列車から0〜9分の短縮)と乗り心地の改善が図られる。

 

この改正以降、キハ183系は道南から撤退、定期運用される列車は、石北本線を走る特急「オホーツク」と特急「大雪」のみとなる。特急「北斗」にはキハ183系のなかでも唯一のハイデッカー仕様のグリーン車が連結されていたが、この車両も消えることになりそうだ。長年、北海道の特急運用を支えてきたキハ183系の撤退だけに、一抹の寂しさを覚える。

↑増備が続くキハ261系が内浦湾沿いを走る。キハ261系は「スーパー北斗」だけでなく、「スーパーとかち」や「宗谷」「サロベツ」にも使われている

 

↑キハ183系「北斗」。中間にハイデッカータイプのグリーン車を連結する。同車両の製造技術はその後の特急トワイライトエクスプレス用の客車改造にも生かされた

 

さらにこの3月には、スラントノーズの名で親しまれてきたキハ183系の初期型車両が消えていく。車体に動物のイラスト、車内に動物をテーマにした遊び場が設けられていたキハ183系「旭山動物園号」。3月25日にラストランを迎える。

↑キハ183系「旭川動物園号」。写真は特急「フラノラベンダーエクスプレス」として運転されたときのもの。貴重なスラントノーズを持つキハ183系の初期形車両だった

 

【JR東日本】中央本線の特急と臨時列車に大きな変化が

JR東日本の管内で、より変化が大きいのが中央本線だ。

 

特急「スーパーあずさ」に使われるすべての車両が新型のE353系に変更される。これまで使われてきたE351系は、廃車となる予定。JR東日本の車両形式として「E」を初めて付けたE351系だが、登場して25年という期間での消滅となる。E351系はJR東日本で唯一の制御付き自然振子装置を備えた車両だった。整備の手間がかかるということで嫌われたのかもしれない。

↑すでに2017年12月から走り始めているE353系「スーパーあずさ」。今後は、増備され257系の特急「あずさ」や「かいじ」もE353系に置き換わるとされる

 

↑E351系は制御付き自然振り子装置を活かし、カーブを高速で走り抜けた。3月17日以降は、この姿を見ることができなくなる

 

昨年の暮れ、JR東日本がダイヤ改正を発表した際には明らかにされなかったが、長年、中央本線の臨時列車として使われてきた国鉄形特急電車189系の2編成(M51・M52編成)も4月末までに引退することになった。

 

残る189系は長野支社に配属されるN102編成のみで、こちらもあと数年で引退となりそうだ。国鉄形特急電車の姿を色濃く残した車両だけに、鉄道ファンから引退を惜しむ声があがっている。

↑「グレードアップあずさ色」と呼ばれる塗装で親しまれた189系M52編成。主に中央本線の臨時列車として活躍した。今後、中央本線の臨時列車の多くはE257系となる予定だ

【JR東海】「あさぎり」という特急名が「ふじさん」に

小田急電鉄の車両が当時の国鉄御殿場線に乗り入れることで始まった列車名の「あさぎり」。愛称は富士山麓の朝霧高原にちなんで名付けられた。

 

60年近くにわたり走り続けてきた小田急本線から御殿場線への乗り入れ列車だったが、この春から「ふじさん」という特急名に変更される。世界文化遺産に登録された富士山は、海外の人たちへもその名が知れ渡る。この名称変更も、やはり時代の波なのかもしれない。

↑JR東海と小田急電鉄が共同運行してきた特急「あさぎり」。車両には小田急のMSE(60000形)が使われる。3月17日からは特急「ふじさん」に改められる

 

JR東海では、ほかに注目されるのが特急「(ワイドビュー)ひだ」の名古屋駅の発車時間。午後の名古屋駅発の下り列車は、ほぼ2時間間隔となり、最終は20時18分と遅い発車となる。東京駅発18時30分の「のぞみ」に乗車すれば、乗り継げる時間に設定。このあたり、飛騨高山の人気と、海外からの利用者が多いことへの調整と思われる。

 

【JR西日本】国鉄形通勤電車の運用を最新タイプに変更

JR西日本では上り特急「こうのとり」を1時間間隔で運行、また18時台に新大阪駅発の和歌山駅行き、下り特急「くろしお」を増発させるといったビジネス利用を考慮したダイヤ変更を行っている。

 

一方で、鉄道好きには気になる車両の動きも。阪和線では、ごく一部に通勤形電車205系が使われてきたが、こちらが消える予定。さらに阪和線の支線、羽衣線の103系も車両変更される予定だ。

 

国鉄形車両の宝庫であったJR西日本も、徐々にJRになってから生まれた車両が多くなりつつある。阪和線を走っていた205系は奈良線などに移る見込みで、103系は残念ながら廃車ということになりそうだ。

↑JR西日本の225系。阪和線では今後、この新製車両の割合が増えていく

 

↑JR西日本では貴重な存在だった阪和線の205系。ダイヤ改正後は吹田総合車両所奈良支所などに転属する見込み

 

↑阪和線の支線・羽衣線を走る103系。国鉄当時の面影を色濃く残す車両として鉄道ファンに人気がある

 

JR西日本の路線のうち話題を呼んだのが三江線(さんこうせん)。ダイヤ改正後の3月31日に廃線となり、43年にわたる歴史を閉じる。利用者の減少という地方のローカル線が抱える問題が如実に現れた三江線の廃止。第2、第3の三江線が出ないことを祈りたい。

 

ちなみに現在、発売中の「時刻表」誌3月号には、三江線の時刻が掲載されている。三江線のダイヤが掲載された最後の「時刻表」誌となるのかもしれない。

↑天空の駅として人気の三江線・宇都井駅(うづいえき)。廃線が決まったあとは、その姿を一目見ようと多くの人たちが沿線へ訪れている

【JR四国】新型車両を利用した特急が増える一方で――

新型車両の導入が順調に進められているJR四国。ダイヤ改正で、特急用の電車8600系で運転される特急「しおかぜ」「いしづち」と、特急用の気道車2600系で運転される特急「うずしお」が増えることとなった。2車両ともJR四国の社内デザイナーがデザインした新造車両で、評判もなかなか。人気デザイナーに頼らず、独自の新型車を生み出す姿勢が目を引く。

↑新型8600系で運転の特急「しおかぜ」と「いしづち」。従来の8000系に換わり8600系で運転の列車が、「しおかぜ」「いしづち」とも1往復ずつ増える予定だ

 

↑2017年12月から運転が始まった2600系の特急「うずしお」。増車され、3月のダイヤ改正からは2600系で運転される列車が1日に3往復から4往復になる予定だ

 

新造車が増える一方で消えていく車両も。JR四国の2000系は、気道車としては世界初の制御付き振り子式車両として開発された。1989(平成元)年に製造されたTSE2000形が、鉄道史に名を残す2000系最初の車両となった。この試作車両の編成3両がダイヤ改正とともに姿を消すことになった。

↑TSEという愛称を持つ2000系の試作編成。その後の2000系量産型と異なり正面に特急名の表示が無い。最後は3月17日の特急「宇和海」2号として走る予定だ

 

【JR九州】減便が多く見られる厳しい現状

JR九州は、JR東日本やJR西日本に次ぐJRグループの“優等生”となりつつあった。鉄道事業以外に、多角経営に乗り出し、新規事業それぞれが順調に推移していた。

 

しかし、ベースとなる鉄道事業が、度重なる大規模災害や、利用者減少の荒波を受け、厳しさを増しているように見える。熊本地震による豊肥本線の寸断、さらに昨年の大水害による久大本線や日田彦山線の長期不通など、鉄道事業を揺るがす大きな負担となっている。そのため、一部の優等列車の減便や、閑散路線の運行本数を減らすなど、今回のダイヤ改正でもマイナス要素が目立ってしまっている。

↑上り特急「有明」。これまでは早朝発の上りが2本、夜に下り3本という列車が運行されていた。3月17日以降は、朝の上り1本のみの特急になってしまう

 

在来線の特急列車の本数や、運転区間の見直しが多くなっている。なかでも減便の割合が大きいのが特急「有明」。ダイヤ改正時までは博多駅〜長洲駅(ながすえき)間に上り2本、下り3本の運行で、長洲駅着が深夜1時20分と帰宅する利用者に重宝がられる列車も運行されていた。

 

それがダイヤ改正以降は、大牟田駅発の博多駅行きとなり、上り大牟田駅発6時43分のみになってしまう。区間短縮、さらに上り片道1本のみとは、なんとも思い切ったものだ。

 

ほかにもこうした例が見られる。

↑1903(明治36)年築の駅舎が残る嘉例川駅(かれいがわ)に停まる特急「はやとの風」。これまでは毎日運転の特急だが、ダイヤ改正後は週末などの限定日の運行に変わる

 

鹿児島中央駅と肥薩線の吉松駅を結ぶ特急「はやとの風」。錦江湾越しの桜島を眺めや、嘉例川駅や、大隅横川駅(おおすみよこがわえき)といった、明治生まれの駅舎が残る駅に停車するなど鉄道好きに親しまれてきた観光特急だ。

 

この「はやとの風」の運行日が毎日から、週末や長期休みの期間のみに限定されることになった。

 

同列車の終着駅・吉松駅からの北側区間は、さらに状況が厳しい。肥薩線では「山線」と呼ばれる吉松駅〜人吉駅間。スイッチバック駅の大畑駅(おこばえき)や真幸駅(まさきえき)がある険しい線区だが、この区間は走る列車がこれまでの5往復から、1日わずか3往復に減る。珍しいスイッチバックがあり、また日本三大車窓が楽しめた風光明媚な路線の旅が、かなり不便になりそうだ。

 

厳しい現実を見せつけられたJR九州のダイヤ改正の内容。一筋の光明を見いだすとしたら特急「あそぼーい!」の復活だろうか。

↑阿蘇カルデラを走ったころの特急「あそぼーい!」。熊本地震の影響で、写真の豊肥本線・立野駅付近の被害が大きく、長い間、運転休止となっていた

 

「あそぼーい!」は熊本地震が起こる前までは、豊肥本線の熊本駅〜宮地駅(みやじえき)を結ぶ人気のD&S(デザイン&ストーリー)列車だった。熊本地震以降には、臨時列車として、各地で運行されていたが、3月17日以降は、大分県の別府駅と肥薩線の阿蘇駅間を走ることになる。

 

週末や長期休み期間のみの運行となるが、パノラマシートから見る前面展望の楽しみが復活するわけだ。期待したい。

【乗車ルポ】この春登場で注目を浴びる「小田急新ロマンスカー」と「京王ライナー」、実際どう?

新宿駅を起点とする小田急電鉄と京王電鉄が、それぞれ新車両・新列車を、この春に登場させて注目を浴びている。小田急は3月17日に新ロマンスカー「GSE(70000形)」を登場させる。京王は2月22日に座席指定制の有料特急「京王ライナー」の運行を始めた。

 

小田急は観光用の特急ロマンスカー、一方、京王は通勤型電車で、シートの向きが転換できる座席指定制特急というスタイルの車両だ。2つの車両の単純な比較はできないものの、未来の鉄道車両と、未来へ向けた運行スタイルの姿が見えてくる。注目される新車両・新列車の乗車ルポをお届けしよう。

 

座れば心がウキウキ! 迫力の前面展望が魅力の新ロマンスカーGSE

小田急ロマンスカーといえば、小田急電鉄の特急の代名詞であり、同社のシンボル的な車両となっている。1957(昭和32)年にSE(3000形)を登場させて以来、時代を象徴する車両を世に送りだしてきた。

 

ところが、2000年代にVSE(50000形)、MSE(60000形)が新造されて以来、2017年にリニューアル車のEXEα(30000形)の投入があったものの、GSE(70000形)という車両の登場まで10年の歳月を待たなければならなかった。

20180302_y-koba2 (2)↑ローズバーミリオンと呼ばれる車体色が目を引くGSE(70000形)。すでに小田急本線や小田急多摩線を使った試運転や、試乗会が行われている

 

この春、待望の新型GSE(70000形)が登場する。GSEとはGraceful Super Expressの略で、“優雅なスーパー特急”という意味になるだろうか。

 

車体は薔薇の色をイメージした「ローズバーミリオン」。一見して華やかなカラーで、これまでのロマンスカー車両に比べてかなり目を引く。そしてこの車両の特徴であり、最大の魅力となりそうなのが、先頭に設けられた展望席。前後車両に展望席を設けたスタイルは、LSE(7000形)、VSE(50000形)といった車両に受け継がれてきた。

 

特急電車の一番前に陣取って展望を楽しむ。鉄道ファンでなくとも、誰もが一度は経験したいと思うはず。座れば心が浮き浮きする、そんな楽しめるスペースが新ロマンスカーにも採用された。

20180302_y-koba2 (3)↑GSE(70000形)の展望席は前後に16席ずつ。人気となること必須で、運転開始当初はかなりの倍率となりそうだ

 

20180302_y-koba2 (9)↑展望席の後ろにある運転室への入口。新車では、棚状のステップを下に設け、登り口の階段をスムーズに登れるように工夫している。運転時には、この上り口が閉じられる

 

20180302_y-koba2 (4)↑GSE(70000形)の先頭部を外から見る。正面だけでなくサイドの窓も広々している。写真の右に見える小さなトビラは乗務員用の乗降扉

 

GSE(70000形)では、展望席を持つ同スタイルのVSE(50000形)に比べて前面のガラスの高さを30cmほど拡大、先頭の座席を35cmほど前に配置した。

 

実際に、短時間ながら筆者も先頭の展望席に座ってみた。試乗会での体験だけに、ゆっくりと楽しめなかったが、 “迫力に圧倒される!”と感じた。正式に走り出したら、展望席の指定券をぜひゲットして乗りたいと思う。

 

この展望席の指定券は運転開始後、高嶺の花になること間違いない。当初は、なかなか指定券が取れそうにない。ただ、心配はご無用。ほかの席でも十分に新ロマンスカーの魅力が満喫できる。

 

通常席にいながらにして前面や後部の展望が楽しめる

中間車の車両であっても、側面の窓はVSE(50000形)やMSE(60000形)よりも広い天地幅は100cm。さらにつなぎ目のない連続窓で、車窓が十分に楽しめる。

20180302_y-koba2 (5)↑4号車の車内。車椅子利用者用の座席が用意される。側面の窓は思った以上に広い。天井も高く造られ広いイメージを強めている。天井の両端には空気清浄機が装着された

 

さらに面白いのがスマホで同列車の前面展望が楽しめること。車内で無料Wi-Fiシステムが使えるとともに、Romancecar Linkというサイトにつなげば、この前面展望が楽しめる。前面展望だけでなく、後部の展望映像も楽しめるというのが面白い。

20180302_y-koba2 (6)↑車内では無料Wi-Fiシステムの利用が可能。Romancecar Linkを使えば、前面の展望映像が楽しめる。2階にある運転室のカメラを使用、展望席とは違う角度の展望が楽しめる

 

筆者はスマホしか持参しなかったが、画面が大きめのタブレット端末を使えば、より迫力のシーンが楽しめそうだ。ちなみにこのシステム、座席の背に解説がある。観光情報なども見ることができて、役立ちそうだ。

 

乗り心地や細やかな配慮にも注目!

つい展望席に注目が集まるが、乗り心地にも触れておきたい。このGSE(70000形)には左右方向の車両振動を低減する「電動油圧式フルアクティブサスペンション」が装着されている。新幹線では東北新幹線E5系などの一部車両に電動式のフルアクティブサスペンションを使用しているが、在来線の量産車では初という電動油圧式のフルアクティブサスペンションの導入となった。今後は、東海道新幹線の新型N700Sにもこのシステムが使われる予定という優れた装置だ。

 

今回の試乗は短時間だったこともあり、電動油圧式フルアクティブサスペンションの性能こそ味わえなかったが、どのぐらいの成果が得られているのか、気になるところだ。

20180302_y-koba2 (7)↑海外からの利用者が多いロマンスカーゆえの配慮。広い荷物収納スペースがほぼ全車両に設けられている

 

20180302_y-koba2 (8)↑シートの上部にある点字の座席指定の番号案内。歩く時に手すりに代わりとなる場所の、こうしたきめ細かい配慮は、さすがロマンスカーと思わせるものがある

 

小田急電鉄では、3月17日(土曜日)にダイヤ改正の予定。下北沢駅付近の改良工事が完成し、代々木上原〜登戸間の複々線工事が完了する。それとともに特急ロマンスカーも、よりスムーズに運行されることになる。

 

GSE(70000形)は主に「はこね」「スーパーはこね」として運行される予定だ。新ロマンスカーに乗車できる日が待ち遠しい。

 

*注:小田急線〜箱根登山鉄道線の区間を直通する特急の料金割引が終了します。そのため、3月17日から新宿駅〜箱根湯本駅の特急料金が1090円と200円、高くなります

 

京王で初めて!座席指定制「京王ライナー」の運行開始

京王電鉄は新宿駅が起点の京王線系統、渋谷駅が起点の井の頭線の2路線を運行する。井の頭線の路線が12.7kmと短いのに比べて、京王線系統は西に路線が延び、新宿駅〜京王八王子間の京王線、調布駅〜橋本駅間の相模原線、北野駅〜高尾山口駅間の高尾線などの路線が広がっている。

 

京王線系統の総延長は71kmと路線の距離はかなりのもの。加えて都営新宿線との相互乗り入れも行われている。

20180302_y-koba2 (10)↑新型の5000系を使っての運行が始まった「京王ライナー」。平日は20時以降、土休日は17時以降、下りのみの運行が開始された

 

20180302_y-koba2 (15)↑車体側面の案内表示には京王ライナーのロゴが入り、また行き先と、停車駅を表示される。なお京王八王子駅に到着後は新宿駅へ回送され、再び京王ライナーとして運転される

 

京王電鉄としては初めて座席指定制の有料特急として2月22日から運行開始されたのが「京王ライナー」。車両は2017年10月から走り始めた新型5000系が使われている。5000系は通常の通勤電車として走るときは、窓を背にして座席が並ぶロングシートに、また座席指定制の有料特急として走る時はクロスシートに座席の向きが変更される。

20180302_y-koba2 (12)↑新宿駅入口に設けられた「京王ライナー」の案内表示。時刻と行き先、各ライナーの停車駅と空席状態が示されている

 

2月22日のダイヤ改正に合わせて設定された「京王ライナー」の運行ダイヤは次の通りだ。

 

運転は夜間の下りのみで、平日は20時以降、30分間隔で新宿駅発→京王八王子駅行き、新宿駅発→橋本駅行きが交互に計10本が運転される。夜は0時20分発の橋本駅行きが最終となる。

 

土休日は、運転時間がやや早めの17時から。17時発の時刻ちょうどが京王八王子駅行きで、各時間20分発が橋本駅行きとなる。運転本数は計10本。土休日の最後は21時20分発の橋本駅行きが最終となる。

 

1席400円。PCやスマホでも購入ができる

座席指定券の料金は400円。運転当日の指定券が、新宿駅にある京王ライナー専用券売機と、Web( PCかスマホ)で購入できる。筆者は、スマホでの予約・購入にチャレンジ、土曜日の17時発の京王ライナーに乗る手配をしてみた。

 

まずは会員登録を行う。仮登録などの多少のやりとりはあるがスムーズ。ログインすると、その日の京王ライナーの発車時間が表示される。乗りたい京王ライナーの「指定券を購入する」で、希望の号車や、座席タイプが指定できる。さらに座席表から、座りたい席が選べる。

20180302_y-koba2 (13)↑スマホの「京王ライナー」の利用画面。会員登録、さらにクレジットカードを登録すれば購入が可能、チケットレスで乗車できる

 

20180302_y-koba2 (14)↑ログインすると、京王ライナーの発車時刻と空き具合が表示される。発車15分前までWebでの購入ができる。15分をきると新宿駅の専用券売機のみでの販売となる

 

筆者は運行開始後、最初となる土曜日の17時発を選択した。さらに先頭車に乗りたいので、念のため朝に予約を入れたが、すでに先頭車の半分以上の席が埋まっていた。座席を決めたら、同意のチェックと、会員登録した際のパスワードが必要となる。パスワードを最後に打つというひと手間があるものの、新宿駅の券売機で買うよりも、早めの座席指定ができて安心だ。

 

確実に座れて快適ながら通勤用車両ならではの気になるポイントも

発車時に独特のミュージックフォーンを奏で、新宿駅2番線ホーム(京王ライナーはすべて同ホームを発車)を17時に出発。週末だったせいか、鉄道好きらしき乗客が多い。隣に座った人に声をかけてみると、やはり鉄道ファンだった。各鉄道会社の座席指定制の特急を比較のため乗車しているという。

 

車内アナウンスの前には、癒し系の音楽がワンフレーズ流される。このあたりも京王ライナーならでは。ちなみに、5000系が通勤時に使われるときはこの音は流れず、シンプルなアナウンスとなる。座席も、ロングシート、クロスシート転換式ならではといった印象だが、座り心地は悪くない。各座席の足元には電源用のコンセントも設けられる。

 

ただ、少し足元が狭く感じた。転換式のため狭くならざるを得ないのかもしれない。

20180302_y-koba2 (16)↑京王ライナーとして走る時のクロスシートの状態。ドアとドアの間にシートがタテ3列で配置される。京王ライナー利用時は室内の照明も暖色系の色合いとなる

 

20180302_y-koba2 (17)↑通勤利用時のロングシートの状態。ロングシートの時は6人掛けで、通常の通勤電車の7人掛けの状態に比べると1人当りの横幅が広くなる。肘掛けもありゆったりした印象

 

発車して22分で最初の停車駅、府中駅に停車する。途中、明大前駅(一時停止の運転停車を行う)と調布駅は停車しない。この府中駅より先は座席指定券が不要となり、誰でも乗車できるようになる。ちなみに橋本駅行きの場合は、京王永山駅から先の座席指定券がいらなくなる。

 

府中駅から乗る人が数人いた。わざわざ乗りに来たと思われる親子づれも。知らない人は、席の向きに戸惑っている様子だ。そして17時39分に終着の京王八王子駅へ到着する。所要時間39分の短い旅は終わった。

 

京王ライナー利用の場合、新宿駅〜京王八王子間は最短35分、新宿駅〜橋本駅間は最短32分と早い。

 

運転開始から1週間、実際の利用率は?

運転開始から1週間あまり。指定席の埋まり具合を確認してみた。

 

最初の数日は、記念に乗ろうと、早めの時間帯の指定券はほぼ満席となった。週が開けて2月26日からは、20時30分、21時30分発の橋本行きは満席となった。傾向として京王八王子行きよりも、橋本駅行きのほうがより利用率が高い。早めに売れ切れる京王ライナーは少なく、発車30分前に座席指定券を求めても十分に購入できるようだ。

20180302_y-koba2 (11)↑運行開始された週の新宿駅での様子。運転開始されたばかりの「京王ライナー」の姿を一目見ようと鉄道ファンだけでなく、多くの人が訪れた

 

京王電鉄にとって最初の有料特急の運転ということで、手探り状態ということもあるのだろう。もしもの話だが、平日朝の上り京王ライナー、また平日の18時台、19時台の下り京王ライナーが運転されればと思う。また都営新宿線からの直通京王ライナーがあれば使い勝手が良さそうだ。ピーク時、同線の飽和状態を見るとなかなか難しいプランかもしれないが。

 

今後、どのように修正が加えられていくのか、京王線沿線に住み、日々、京王線を利用する筆者にとしても期待しつつ見守りたい。