毀誉褒貶ありつつも、どうにか無事に開幕を迎えようとしている平昌オリンピック。
オリンピックといえば聖火リレーがつきものだが、今大会でも昨年11月1日から開会式までの101日間をかけた聖火リレーが行われている。
近代オリンピック大会で初めて聖火リレーが行われたのは、1936年、ナチス政権下で開かれたベルリンオリンピックでのことで、五輪と聖火が切っても切れないものとして定着していくのはこの大会以降のことだ。
平昌五輪でも、ギリシアから仁川にもたらされた聖火は、済州島や珍島などもルートに加えながら、韓国国内全2018キロの行程を走破しようとしている。
ところで平昌五輪のちょうど80年前、昭和13年(1938)の日本において、とある特異なリレーが行われていたことをご存じだろうか?
当時の「日本陸上(臨時増刊)」(国会図書館デジタルアーカイブより)。
そのリレーとは、伊勢神宮でお祓いをうけた7本の聖なる矛を携え、東海道筋の神社に奉納しながら東京・明治神宮を目指して500キロ超の長距離をひた走る……というもの。
スポーツ競技とも、儀式とも、神事ともつかない大会、その名も「伊勢神宮明治神宮戦捷記念聖矛継走大会」である。
当時、この大会は「聖矛継走」と呼ばれて新聞でも盛んに報じられていた。この大会だけの特集号を組んだ雑誌もあったほどで、国民の注目度、認知度は現在からは想像もつかないほど高かったのだ。
なにしろ、この継走(リレー)には走者、伴奏者だけで1万5千人もの国民が参加しているのである。当時の記事からは、継走の一団が沿道の市町村から熱烈な歓迎を受けていた様子も見て取れる。
大会を主催したのは、日本陸上競技連盟と大日本体育協会という2つの団体で、その意味では聖矛継走はれっきとした「体育大会」だった。
一方で、その正式名称からもわかるように、大会はこの前年、昭和12年(1937)に勃発した「支那事変」の戦勝を祈願するという名目で行われたものでもあった。南京陥落が12年12月、その後内陸へと拠点を移す中華民国政府を追うように、日本は大陸に大量の兵力を投入し続けていた。やがて「泥沼」と呼ばれる長期戦化の兆しはありつつも、この頃はまだ多くの国民が「支那事変」の勝利を信じていた時代でもあった。
しかし、伊勢神宮から明治神宮の間を、聖なる矛を先頭に計1万人以上の国民が疾走するという行為が、果たして本当に「スポーツ振興」と「戦勝祈願」の意味しかないものだったのだろうか。目的に対して、その規模や内容がどうにも不釣り合いに見えてしまうのだ。当時の新聞や雑誌記事などから聖矛継走の様子を再現しつつ、その謎に迫ってみたい。
昭和13年(1938)、明治節(明治天皇誕生日として祝祭日になっていた11月3日)の翌日4日朝、伊勢神宮内宮の神楽殿に、はるばる東京から運び込まれた7本の矛が到着した。
矛は柄の長さ約180センチ、矛先6寸(約18センチ)の全長約2メートル、穂の付け根には金襴のヒレが下げられた立派なもので、東京神田の神祭具装束師・増田英治の手による、古式に則った「ホンモノ」の祭具である。
午前11時になると、陸連会長や宇治山田市長など名士列席のもと、神宮神職による修祓(お祓い)が行われ、7本の矛は晴れて「聖矛」となる。このうち1本が伊勢神宮に献納され、残りの6本は高々と天に掲げられ、継走の出発地となる宇治橋に移動していく。
当時の「日本陸上(臨時増刊)」(国会図書館デジタルアーカイブより)。
宇治橋前で、ゴールの明治神宮に奉納される聖矛が正選士に、2番目の神社に奉納される1本が副選士に手渡される。そして12時、宇治山田市長の打ち鳴らす太鼓の音を合図に、両選士はじめ伴走の衛団は、1000人超という大観衆の見守るなか、栄えある大会のスタートを切ったのである。この様子は、NHKのラジオによって全国に生中継されていた。
こうして始まった聖矛継走は、11月4日〜6日の3日間をかけて、520キロの道のりを昼夜ぶっ通し、文字通り不眠不休で走り通した。
聖矛が奉納される7つの神社とは、スタート地点の伊勢神宮、結城神社(津市)、熱田神宮(名古屋市)、三嶋大社(三島市)、鶴岡八幡宮(鎌倉市)、そして東京の靖国神社、ゴールの明治神宮だ。
結城神社は、南朝の忠臣・結城宗広を祭神として創建された神社で、建武中興十五社と呼ばれる神社の一社でもある。
熱田神宮は言わずと知れた草薙御剣を神体とする日本屈指の大社。三嶋大社、鶴岡八幡宮はいずれも源氏からもあつく信仰された武功の神として名高い。
聖矛を奉納する7社は、戦勝祈願にふさわしい武神と、皇室ゆかりの神社とをバランスよく選んだ絶妙なラインナップになっている、といえるだろう。
出発式前後の様子をみるだけでも、この大会が「普通のリレー」でないことは容易に感じとれるが、それは走者を「選手」でなくあえて「選士」と呼ばせているようなところからも伝わって来る。『大辞林』によれば、「選士」には選ばれた人というほかに、平安時代に大宰府のもとで国防の任にあたった兵士、という意味もあるそうだ。
この正副選士が捧げ持つ2本以外の矛はバスに載せて追走させていたのだが、そのバスもまた並みのものではない。
バスの内部には事前に矛を納める祭壇が設置され、車外にはしめ縄を巡らせて榊を立てるという特別仕様が施されていた。バスというよりも、即席の移動式神社が仕立てられたといった様相だ。
矛は明らかに、駅伝のタスキや聖火のトーチとは次元の異なる、まさに「聖矛」以外のなにものでもない扱いを受けていたのである。
続く……。
文=鹿角崇彦
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