阿武隈川流域の美しさ&険しさ魅力をたっぷり味わう「阿武隈急行」の旅

おもしろローカル線の旅111〜〜阿武隈急行・阿武隈急行線(福島県・宮城県)〜〜

 

起点は東北新幹線の福島駅がアクセスが良く、気軽に〝秘境線〟気分が味わえる阿武隈急行線。春は車窓から花々や吾妻連峰を眺め、秋は赤いリンゴが実る風景を走り抜ける。やや無骨な面持ちの電車に揺られ福島から宮城へ美景探訪とともに、意外な歴史に触れる旅を楽しんだ。

*2014(平成26)年8月3日〜2023(令和5)年2月26日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【阿武隈の旅①】かつて軌道線が走っていた福島県・宮城県沿線

まずは大正期の絵葉書を見ていただきたい。こちらは福島駅前の大通りの様子だ。絵葉書には写真撮影を見にきた子どもたちとともに、道の真ん中をのんびり走る路面電車が写り込んでいる。

↑「本町十字路通りより大町方面を望む」と記された古い絵葉書。現在の福島市街とはかなり様子が違う

 

阿武隈線沿線にはかつて、福島交通飯坂東線、福島交通保原線(ほばらせん)、福島交通梁川線(やながわせん)といった路面電車の路線網が張り巡らされていた。しかし、モータリゼーションの高まりとともに、それらの軌道線は1971(昭和46)年4月12日に一斉に廃止されてしまう。

 

一方、宮城県側では1968(昭和43)年に国鉄丸森線が造られたが、終点の丸森駅が町の中心から離れていたことから、開業後も利用者が伸びなかった。丸森線は福島まで路線を延ばす工事が続けられ、東北本線と接続する矢野目信号場まであと一歩という箇所まで工事が進んだが、国鉄の財政がひっ迫し、国鉄は同線を開通させても黒字化は無理と判断、工事を中断させた。

 

戦前には福島交通の軌道線が多く走っていたこともあり、地元の人たちの鉄道への思いは強かったようだ。せっかく工事が進んだのだからと、結局、福島県、宮城県と地元企業が出資。こうして第三セクター鉄道の阿武隈急行線ができ上がったのだった。

 

ちなみに同線の主要な株主は福島県、宮城県、福島交通とされる。路線開業まで福島交通のバスが走っていた地域で、主要な株主になったのは補償の意味があるとされている。また福島交通の多くの社員も阿武隈急行へ移っている。阿武隈急行の福島駅ホームが福島交通と共同利用している理由の裏には、こうした〝近い関係〟もあったわけだ。

路線と距離 阿武隈急行・阿武隈急行線:福島駅〜槻木駅(つきのきえき)間54.9km(福島駅〜矢野目信号所間はJR東北本線を走行)、全線交流電化単線
開業 国鉄丸森線、槻木駅〜丸森駅間が1968(昭和43)4月1日に開業
福島駅〜丸森駅間が1988(昭和63)年7月1日に開業
駅数 24駅(起終点駅を含む)

 

【阿武隈の旅②】35年走り続けた車両から新型車両へ切り替え中

次に阿武隈急行を走る車両を見ておこう。長年、走り続けてきた車両に代わり新型車両が徐々に増えつつある。

 

◇8100形電車

↑丸森駅近くを走る8100形電車。側面の2つの扉は前方が片開き、連結器側が両開きと珍しい姿をしている

 

阿武隈急行が1988(昭和63)年から導入した交流型電車で、JR九州の713系電車を元に2両×9編成が造られ、現在も主力として活用されている。車内はセミクロスシートで、トイレも装備。2両の貫通幌部分はキノコのような形に大きく開き、乗降扉は両開き、片開きの両方があり、側面から見ると不思議な形をしている。

 

すでに導入されてから35年たち、搭載する機器類も古くなりつつあり、部品に事欠くようになったことから、古い編成を廃車して部品取り用に使うなどしている。そのため新型車AB900系の導入が急がれている。

 

◇AB900系

JR東日本のE721系を元に造られた車両で、2018(平成30)年度に1編成が導入され、徐々に増備され将来的には2両×10編成を導入する予定だ。

 

槻木駅の先、阿武隈急行線の列車は仙台駅まで1日に2往復乗り入れているが、東北本線乗入れ車両はJR東日本の車両と同形式のAB900系が使われることが多くなっているようだ。

 

ちなみに形式名の頭にABが付くのは「あぶ急」という阿武隈急行の通称から取ったもので、車両正面のアクセントカラーは編成ごとに異なり、沿線自治体の自然や花をテーマに5色が設定されている。またアニメキャラクターをラッピングした車両も走るようになっている。

↑AB900系のうち最初に導入されたAB-1編成と、後ろはAB-2編成。正面のアクセントカラーが編成ごとに変わる

 

【阿武隈の旅③】列車は福島交通と共通ホームから発車する

ここからは阿武隈急行線の旅を始めたい。起点となる阿武隈急行線の福島駅はJR福島駅の北東側に位置し、JR線構内側に設けられた連絡口と、福島駅東口側の通常口がある。東口の入口にはゲートが設けられ、上に「電車のりば」そして阿武隈急行線、福島交通飯坂線の名が掲げられている。

↑福島駅ホームに停車する阿武隈急行線の8100形と駅入口(左上)。阿武隈急行線用ホームはJR線側が使われている

 

ホームは1面2線で、何番線とは付けられず、改札口から入って左が阿武隈急行線、右が福島交通飯坂線となっている。なお交通系ICカードの利用はできない。

 

乗車する時にあまり気にしなかったが、飯坂線は直流電化、阿武隈急行線は交流電化されている。このように1つのホームで対向する電車の電化方式が違うというのは、国内でこの福島駅ホームだけだそうだ。電化方式が違うので、線路幅は同じだが、当然ながらお互いの線路に入線できない。

↑福島交通飯坂線の美術館図書館前駅までは、並走して線路が設けられる。JR線を走る阿武隈急行の電車と飯坂線がすれ違うことも

 

阿武隈急行の乗車券は福島駅の窓口および自販機で販売され、お得な「阿武急全線コロプラ★乗り放題切符」(大人2000円)も発売されている。曜日および日付によってはもっと安いフリー切符もある。

 

全線を通して走る列車はなく、途中の梁川駅(やながわえき)行、または富野駅行の列車に乗って乗継ぎが必要になる。列車本数は1時間に1〜2本とローカル線にしては多めだ。

 

【阿武隈の旅④】福島市内でまず阿武隈川橋梁を渡る

福島駅を出発した列車は東北本線の線路に入り北へ向けて走る。かつて国鉄が計画した路線だけに、今もその歴史を引き継ぎ、阿武隈急行線もJR東日本の一部区間を走っている。最初の駅、卸町駅(おろしまちえき)までは5.6kmと離れていて、東北本線から分岐する矢野目信号場の先に同駅がある。卸町駅から先、阿武隈急行線の沿線に入ると駅間が狭まり、各駅の距離は1km程度と短くなる。

 

JR東日本と共用する東北本線の区間には踏切があるが、1980年代に新しく生まれた路線ということもあり、阿武隈急行線に入ると踏切は旧丸森線の区間まで行かないとない(駅構内踏切を除く)。市街は高架線区間が多く、その先は交差する道路が線路をくぐるか陸橋で越えていく。

 

そんな踏切のない路線を快適に列車は走り、福島市の郊外線らしい沿線風景が続いていく。

↑福島市の郊外を流れる阿武隈川を渡る。その先の向瀬上駅周辺は5月上旬ともなると、リンゴの白い花が美しく咲きほこる(左下)

 

瀬野駅(せのうええき)を過ぎると間もなく阿武隈橋梁を渡る。福島県南部を水源にした一級河川で、水量が豊富だ。この阿武隈川橋梁を渡ると、次の向瀬上駅(むかいせのうええき)の駅周辺には丘陵部が連なり、リンゴ畑が広がる。

↑阿武隈橋梁を渡り向瀬上駅へ近づく富野駅行の列車。背景の吾妻連峰の雪が消えるのは意外に早い。写真は5月初旬の撮影

 

【阿武隈の旅⑤】福島市から伊達市へ郊外住宅地が続く

向瀬上駅までは福島市内の駅だが、丘陵を抜けるトンネルを過ぎると伊達市(だてし)へ入る。次の高子駅(たかこえき)付近は新しい住宅街として整備され、近年、福島市のベッドタウンとして賑わいをみせている。

↑伊達市内の大泉駅を発車する富野駅行列車。こちらの駅前にも住宅地が連なる

 

大泉駅付近からは少しずつ水田が連なるようになる。福島県の米の作付面積は全国6位で、特に福島市、伊達市がある中通り地方での米づくりが盛んだ。作付けされる品種はコシヒカリがトップで5割以上を占めている。

 

このあたりも踏切はなく、快調に列車は走る。そうした風景を見るうちに梁川駅へ到着する。駅に到着する前、進行方向右手に阿武隈急行線の車庫があるので、車両好きな方は注目していただきたい。

↑梁川駅(左上)に近い阿武隈急行の車両基地。8100形とともに右にAB900系が停められている

 

梁川駅でこの先の槻木駅方面への列車に接続することが多い。接続時間は1〜2分と非常に短く、便利なものの乗り遅れに注意したい。

 

【阿武隈の旅⑥】梁川は伊達家のふるさと

梁川駅の次の駅は、やながわ希望の森公園前駅で仮名書き16文字は全国で5番目の長さだ。駅に設けられた駅名標も通常の駅のものよりも横に長い。これだけ長いと覚えたり話すのも大変そうで、利用する人にとって不便なことがないのか心配してしまう。

 

やながわ希望の森公園前駅の近くに梁川城址がある。梁川城は鎌倉時代初期に生まれた城で、築城したのは戦国武将、伊達政宗を輩出した伊達氏である。元は関東武士だったが、奥州征伐の功績により源頼朝から伊達郡(現在の福島県北部)を賜り、伊達を名乗るようになった。

 

梁川城は伊達家が米沢へ本拠を移した後も重要な拠点として治められ、伊達政宗の初陣も梁川城を拠点にしたそうだ。

↑やながわ希望の森公園前駅の駅名標は横長だ(右上)。近くには伊達家ゆかりの施設が多い。写真は「政宗にぎわい広場」

 

興味深いのは梁川城の南側を広瀬川という川が流れていることだ。伊達政宗が生み出した仙台の町にも広瀬川が流れているが、場所がだいぶ離れているため同じ川の流れではない。偶然の一致か伊達氏が仙台に入って川の名前を命名したのか、今後の宿題にしたい謎である。

↑富野駅で福島駅方面へ折り返す列車も多い。この駅の先に県境があり、険しい区間となる

 

【阿武隈の旅⑦】県境の厳しさを体感する車窓風景

富野駅を発車、次の駅は兜駅(かぶとえき)だ。進行方向左手には阿武隈川が眼下に望める。福島市内で渡った阿武隈川と同じ川とは思えないぐらい両岸が切り立つような地形になりつつある。

 

兜駅を過ぎて、福島県と宮城県の県境部へ入っていく。そして阿武隈急行線では最も長い羽出庭(はでにわ)トンネル2281mに進入する。このトンネルを出るとすぐ宮城県の最初の駅、あぶくま駅に到着する。

 

あぶくま駅は近隣に民家もなく秘境駅の趣がある。川へ下りる遊歩道は川下り船の運航時(夏期など季節運航)の時以外、閉鎖されているのが残念だが、あぶくま駅前に天狗の宮産業伝承館があるので、有意義な時間を過ごすことができる。

↑羽出庭トンネルを抜けてあぶくま駅へ。県境越えの山道(左側)はかなり険しい

 

この県境部は阿武隈川の左岸(下流に向かって左側)を国道349号が通り右岸を阿武隈急行線が走っている。線路沿いに設けられた山道は狭く険しくカーブ道が続く。険しい川沿いを阿武隈急行線は複数のトンネルで通り抜ける。

 

トンネルが多い路線区間であるものの、近年の豪雨で大きな被害を受け、特に2019(令和元)年10月12日「令和元年東日本台風(台風19号)」の影響は大きかった。あぶくま駅ではホームが流失、駅に隣接する丸森フォレストラウンジ天狗の宮産業伝承館の建物も天井近くまで水が達したとされる。駅付近では線路に土砂が流入、一部で道床が流失してしまう。富野~丸森間は長期にわたり運転がストップし、ホームの再整備、阿武隈川川岸の壁面などの修復作業が行われ1年後の10月31日に全線運転再開を果たした。

↑あぶくま駅に隣接した天狗の宮産業伝承館。台風被害の時にはこの施設も上部まで水に浸ったという話を聞いた

 

筆者は路線復旧を遂げた1年後に、あぶくま駅に降りてみたが、はるか下を阿武隈川が流れ、駅のそばは渓流が流れるのみで、なぜ駅が大きな被害を受けたか想像が付かなかった。地元丸森町の雨量計では総雨量427mmで阿武隈川の水位は8m以上も上昇し、複数個所で氾濫、犠牲者も出している。今年の2月下旬に同線に乗車した時も、対岸の国道349号沿いで修復工事が続けられていた。豪雨災害というのはとてつもなく厳しいものだと感じる。

 

↑現在、夏期などに同船着き場から阿武隈川の川下り船が運行。河原は立入禁止で、川下り船運行の時のみ降りることができる

 

【阿武隈の旅⑧】急流域を抜けて平野が開ける丸森へ

兜駅からあぶくま駅、次の丸森駅にかけての12.3km間は進行方向左側に注目したい。眼下に阿武隈川が流れ、四季を通じて素晴らしい景観が楽しめる。険しい風景を見せていた阿武隈川を橋梁で渡ると丸森駅も近い。このあたりまで走ってくると険しさも薄れ、駅周辺には平野部も広がるようになる。

↑丸森駅構内に進入する下り列車。後ろには山々が望める。この険しい山の麓を阿武隈川が流れている

 

丸森町は阿武隈川の川港として町が形成された。阿武隈川の南側が町の中心部で豪商屋敷などの古い家並みが残り、歴史散歩が楽しめる。阿武隈川ラインの舟下りの拠点も川沿いに設けられる。町の中心部が阿武隈急行線の丸森駅から約2.5kmと離れているのが残念だが、丸森町は阿武隈川と縁が深い町なのである。

↑1968(昭和43)年に誕生した丸森駅(左上)。槻木駅発、丸森駅止まりという列車も日中の時間帯は多い

 

【阿武隈の旅⑨】国鉄が戦後に整備した旧丸森線の沿線

丸森駅からは1960年代に整備された旧国鉄丸森線の区間となる。次の北丸森駅から先は見渡す限りの水田地帯が広がるようになる。このあたりまでは、丸森駅構内などを除き踏切がない区間が続くが、南角田駅まで走ってきて初めて車が通る踏切が駅そばにある。

 

在来線では当たり前のように設けられる踏切だが、阿武隈急行線では非常に数が少なく、安全に配慮した路線であることが良く分かる。

↑ホーム1つの小さな南角田駅。御当地アニメラッピング電車がこの南角田駅を発車していった(左上)

 

南角田駅の次の角田駅は角田市の表玄関にあたる駅で、駅舎はオークプラザと名付けられている。駅の跨線橋などの窓は円形が多く「宇宙に拓かれた町の、未来的なフォルムの駅」という解説がされている。

 

実は角田市には宇宙開発機構角田宇宙センターがあり、ロケットの心臓部となるエンジンの開発を行っている。駅舎を未来的なフォルムにした理由もこうした施設があるためだったのだ。

 

【阿武隈の旅⑩】JR東北本線の中央の線路を走って終点駅へ

阿武隈急行線の旅も終盤にさしかかってきた。終点の槻木駅の手前が東船岡駅だ。船岡という地名で山本周五郎の小説『樅の木は残った』を思い出される方もいるかと思う。同小説の主人公、原田甲斐が居住した船岡城址跡(柴田町)がある町だ。原田甲斐は伊達家のお家騒動で身を張って逆臣となり藩を守るため働いたとされる。船岡城址はJR船岡駅が最寄りで東船岡駅からやや遠いものの、一度は訪れてみたい地でもある。東船岡駅の先で、東北本線と立体交差して並行に走り始めるが、東北本線の線路に入ることなく北上する。

↑東北本線の上り下り両線の間の線路が阿武隈急行線の専用路線となる

 

阿武隈川の支流、白石川を越えれば間もなく槻木駅へ。到着するのは2番線で、向かいの3番線からは仙台駅方面への列車が発着していて便利だ。途中での乗り継ぎはあったものの福島駅から槻木駅まで約1時間15分の道のり、乗って楽しめる〝阿武急〟だった。

↑終点、槻木駅2番線に到着した阿武隈急行線の列車。向かい側に仙台方面行の列車が停車して乗換えに便利だ

 

↑近代的な造りの槻木駅舎。土曜・休日には仙台駅発梁川行「ホリデー宮城おとぎ街道号」も運転される(右上)

 

「水戸線」なのに水戸は通過しない!? 意外と知らない北関東ローカル線深掘りの旅

おもしろローカル線の旅110〜〜JR東日本・水戸線(栃木県・茨城県)〜〜

 

あまり目立たないローカル線でも、実際に乗ってみると予想外の発見があるもの。関東平野の北東部を走る水戸線はそんなローカル線の1本だ。

 

実は水戸線、名前に水戸という地名が入るものの水戸市は走っていない。なぜなのだろう? そんな疑問から水戸線の旅が始まった。

*2017(平成29)年8月13日〜2023(令和5)年2月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【水戸線の旅①】常磐線よりも先に開業した水戸線の歴史

まず、水戸線の概要や歴史から見ていこう。

 

路線と距離 JR東日本・水戸線:小山駅(おやまえき)〜友部駅(ともべえき)間50.2km、全線電化単線
開業 水戸鉄道が1889(明治22)年1月16日、小山駅〜水戸駅間を開業、友部駅は1895(明治28)年7月1日に開設
駅数 16駅(起終点駅を含む)

 

水戸線の歴史は古く、今年で開業134年を迎えた。最初は水戸鉄道という私鉄の会社が、起点となる小山駅から水戸駅まで路線を開業。ところが、水戸鉄道として走ったのはわずか3年ばかりと短く、1892(明治25)年には日本鉄道に譲渡され、水戸線という路線名になった。

 

さらに日本鉄道が常磐線の一部区間を開業、1895(明治28)年に水戸線と接続する地点に友部駅を開設した。友部駅が開設された翌年の1896(明治29)年には常磐線の田端駅と土浦駅間の路線が開業し、東京と水戸が鉄道で直接結ばれるようになった。

 

明治期に北関東の鉄道網は目まぐるしく変化していく。常磐線が開業してから10年後の1906(明治39)年に日本鉄道は官設鉄道に編入。国営化された後に友部駅〜水戸駅間は常磐線に編入され、残された小山駅〜友部駅間のみ、水戸線という名称が残された。その後、名称の変更が行われることはなく、水戸市は通らないのに水戸線という路線名が今もそのまま使われ続けている。

 

1987(昭和62)年に国鉄民営化でJR東日本の一路線となったが、その時も長らく親しまれてきた路線名ということもあり、改称などの話は持ちが上がることもなかったそうだ。

 

【水戸線の旅②】E531系ひと形式が走るのみだが

次に水戸線を走る車両を見ておこう。現在は臨時列車や甲種輸送列車などを除き1形式のみが走っている。

 

◇E531系電車

↑水戸線の顔となっているE531系。5両編成での運行が行われている。座席はセミクロスシートで、トイレを備える

 

JR東日本の交直流電車で常磐線のほか水戸線、東北本線の一部区間で運用されている。定期運用が開始されたのは2015(平成27)年2月1日から。常磐線での運用はグリーン車を交えた10両編成が主力だが、水戸線では併結用に造られた付属5両編成の車両が単独で使われている。

 

ちなみに1編成(K451編成)のみ、かつて交流区間を走っていた401系の塗装をイメージした〝赤電塗装〟のラッピング車となっている。なかなか出会えないものの、この車両を見られることが旅の楽しみの一つになっている。

 

E531系導入まで水戸線では長らくE501系および415系が走っていたが、415系は引退、E501系は水戸線内でたびたび故障が起きたこともあり、今は常磐線での運用に限られるようになっている。

↑1編成5両のみ走る赤電ラッピング車。水戸線内と常磐線一部区間を走ることが多い

 

【水戸線の旅③】小山駅を出発してすぐの気になる分岐跡は?

ここからは水戸線の旅を進めたい。起点となる小山駅は東北本線の接続駅で、水戸線は15・16番線ホームから発車する。朝夕は30分間隔、昼前後の時間帯も1時間おきとローカル線としては列車本数が多めだ。昼間の時間帯は大半が友部駅どまりだが、朝夕は水戸駅や、その先の勝田駅へ走る列車もある。

↑東北新幹線の停車駅でもある小山駅。水戸線の列車は水戸駅地上駅の一番東側の15・16番線から発車する

 

小山駅のホームを離れた水戸線の列車は、すぐに左にカーブして次の小田林駅(おたばやしえき)へ向かう。乗車していると気づきにくいが、進行方向右側からカーブして水戸線に近づいてくる廃線跡がある。今は空き地となっているのだが、並行する道路が緩やかにカーブしていて、いかにもかつて列車が走っていた雰囲気が残る。

 

この廃線跡は、水戸線と東北本線を結んでいた短絡線の跡で、東北本線の間々田駅(ままだえき)と水戸線を直接に結ぶために1950(昭和25)年に敷設された。入線すると折り返す必要があった小山駅を通らず、東北本線から直接、貨物列車が走ることができた便利な路線だったが、1980年代に貨物列車の運用が消滅したため、2006(平成18)年に線路設備も撤去されて今に至る。

↑小山駅の最寄りにある東北本線との短絡線の跡。左手に延びる空き地にかつて線路が敷かれ貨物列車が通過していた

 

【水戸線の旅④】気になるデッドセクション箇所の走り

水戸線は16ある駅のうち、15駅が茨城県内の駅で、小山駅1駅のみが栃木県の駅だ。小山駅が栃木県の県東南部の端にあるという事情もあるが、2県をまたいで走る路線は数多くあるものの、このように1つの県で停車駅が1駅のみという路線も珍しい。この県境部に鉄道好きが気になるポイントがある。

 

小山駅を発車すると次の小田林駅との間、県境のやや手前で列車の運転士は運転台で一つの切り替え作業を行う。小山駅は直流電化区間なのだが、次の小田林駅への途中で交流電化区間に切り替わる。この切り替え作業を行うのである。

 

以前、筆者が水戸線の415系に乗車した時には、この区間で車内の照明が消え、モーター音が途絶えて一瞬静かになるということがあり驚いたものだった。現在走っているE531系の車内照明は消えることはなく、走行音もほぼ変わることはない。外から見ても変化がないのか、興味を持ったので直流から交流へ変更を行う「デッドセクション」区間を訪れてみた。

 

上部に張られた架線にはいろいろな装置が付けられていて、ここで直流と交流が変わることが分かる。また架線ポールに「交直切替」の看板が付けられ、運転士にデッドセクション区間であることを伝えている。

↑交流直流の切替区間には他と異なり碍子(がいし)を含めさまざまな設備が装着されている

 

小山駅から向かってきたE531系を見ると、ほぼスピードを落とさず通過していった。今では技術力も高まり、運転士が切替えスイッチの操作を行えば、問題なく通過できてしまう。通常の走行と異なる点といえば、車両先頭の案内表示用のLED表示器が消灯しているぐらいだった。

↑デッドセクション区間を走る友部方面行列車。架線柱には「交直切替」の案内がある(左下)。LED表示器のみ消灯していた

 

ところで、なぜ直流電化、交流電化の切り替え区間が県境付近にあるのか。その理由は茨城県石岡市に「気象庁地磁気観測所」があるからだ。地磁気観測所は地球の磁気や地球電気の観測を行っている。この観測地点から半径30km圏内で電化をする場合、電気事業法の省令で観測に影響がでない方式での電化が義務づけられている。従来の直流電化は、漏えい電流が遠くまで伝わる特長があり、そのため観測に影響が出にくい交流で電化されているのだ。

 

「気象庁地磁気観測所」の半径30km圏内に路線がある水戸線では小山駅〜小田林駅間で、また友部駅で合流する常磐線も取手駅〜藤代駅(ふじしろえき)間にデッドセクションを設けている。

 

【水戸線の旅⑤】川島駅の構内には広大な貨物線跡が残る

小田林駅の次の結城駅は、結城つむぎの生産地でもある結城市の表玄関となるのだが、今回は下車せずに先を急ぐ。東結城駅〜川島駅間で550mの長さを持つ鬼怒川橋梁を渡った。

↑鬼怒川橋梁を渡る水戸線の列車。現役の橋の横には開業当時に造られたレンガ造りの橋台跡が今も残されている(左上)

 

この鬼怒川橋梁を渡った地点から川島駅の構内に向けて、側線が設けられていた。今は一部が保線用に利用されているが、その先にあたる川島駅の北側の広々した空き地には今も錆びた線路が一部残り、側線の跡であることがよく分かる。

 

現在、川島駅の北側にはNC工基の工場がある。NC工基は土木、建築工事に関する各種基礎工事を施工する企業で、駅から工場内を望むと資材などを運ぶ大型クレーン類が良く見える。さらに、駅の北西側にはNC東日本コンクリート工業川島第四工場(旧太平洋セメント川島サービスステーション)があり専用線が設けられていた。

↑川島駅を発車した友部行列車。駅の北側に広々した側線の跡地と、大規模な工場が広がっている

 

今もこうした工場へ向けての専用線の跡地が残っている。かつては電気機関車などによる貨車の入換え作業が行われていたわけだ。筆者は、こうした引き込み線跡に興味があり、この場所には複数回訪れたが、駅の北西側の工場内に伸びていた専用線の跡は、つい最近ソーラー発電所に再整備された。徐々に川島駅周辺の廃線跡も消えていくことになるのだろう。

↑かつて使われていた専用線には今も一部に線路、また架線柱や架線も残されている

 

ちなみに、小山駅近くの東北本線への短絡線は、この川島駅と秩父鉄道の武州原谷駅(ぶしゅうはらやえき)という貨物専用駅との間を結んでいた貨物列車運行用に使われたものだった。1997(平成9)年3月22日にこの運行は終了してしまい、川島駅付近の専用線も荒れるままとなっている。貨物列車の運行も永遠に続くわけではなく、このように企業の活動に左右されるわけだ。

 

【水戸線の旅⑥】気になる関東鉄道・真岡鐵道の接続駅、下館駅

川島駅付近から先は好天の日、進行方向の右手に注目したい。関東平野の広大な田園畑地が広がるなか、筑波山が見えてくる。

 

そして列車は下館駅(しもだてえき)へ到着する。この駅は関東鉄道常総線、真岡鐵道の乗換駅となる。真岡鐵道のSLは牽引機のC12形が検査を終えたばかりで3月4日(土曜日)から運行されている。今年も行楽シーズンには多くの乗客で賑わいそうだ。さらにGW期間中には益子陶器市が開かれ、水戸線、真岡鐵道の利用者の増加が見込まれている。

 

筆者がよく訪れる下館駅だが、訪れるたびに賑わいが薄れていくように感じる。駅前の元ショッピングセンターは市役所となり、昼間に開く食事処も少なく、駅のコンビニも営業日と営業時間が限られている。このように駅の周辺が寂しくなるのは、地方都市では鉄道よりも車の利用者が圧倒的に多くなってきているせいなのだろう。

↑筑西市の表玄関にあたる下館駅の北口。真岡鐵道のSLもおか(左下)は土日休日の運行で下り列車は下館駅発10時35分発だ

 

下館駅の次の新治駅(にいはりえき)にかけて、もっとも筑波山の姿が楽しめる区間となる。標高877mとそれほど高い山ではないものの、関東平野の中にそびえ立つ山容は、昔から「西の富士、東の筑波」と称されてきた。

 

筑波山には男体山と女体山の2つの峰がある。以前に本稿で日光線の紹介した時に男体山、女体山が対になる山と記述したが、この筑波山も同じ名称の峰があり、古くから信仰の山として尊ばれてきたわけだ。

 

水戸線側から望むと単独峰に見えるのだが、実は標高が一番高い筑波山をピークに300mから700mの複数の山々が東西に連なっていて、この峰々を筑波連山、筑波連峰と呼ぶ。

↑新治駅近くの沿線から眺めた筑波山。単独峰のようにみえるが、筑波山の東側に複数の山々が連なり見る角度によって印象が変わる

 

【水戸線の旅⑦】岩瀬駅から発着した筑波線の跡は?

現在、水戸線に接続する鉄道路線は下館駅の関東鉄道常総線と真岡鐵道の2路線しかないが、かつては貨物輸送用、また観光用に複数の路線が設けられていて、それらの駅も接続駅として賑わっていた。

 

下館駅から3つめの岩瀬駅もそうした駅の一つだ。この岩瀬駅からはかつて、筑波鉄道筑波線が常磐線の土浦駅まで走っていた。筑波山観光の利用者が多く、最盛期の1960年代には上野駅などから列車が直接に筑波駅まで乗り入れた。モータリゼーションの高まりの中で、利用者の減少に歯止めがかからず、筑波鉄道筑波線は1987(昭和62)年4月1日に廃線となっている。

 

美しい筑波山麓の田園地帯をディーゼルカーが走る当時の写真をサイトで見ることができるが、長閑な趣を持つローカル線だったようだ。

↑旧筑波鉄道の廃線跡を利用した「つくばりんりんロード」。岩瀬駅に隣接して駐車場や休憩所が設けられる

 

現在、岩瀬駅から伸びていた筑波鉄道の廃線跡は、サイクリングロード「つくばりんりんロード」として整備されている。岩瀬駅の南側には駐車場が整備され、サイクリングのベースとして利用する人も多い。サイクリングロードの終点、土浦までは40kmという案内板も設けられている。途中、一里塚のようにに休憩所が複数設けられているので、のんびりとペダルをこぐのに最適な廃線跡となっている。

↑廃線線跡を利用した「つくばりんりんロード」。しっかり整備されていて自転車を漕ぐのに最適な専用道となっている

 

【水戸線の旅⑧】稲田石の産地、稲田駅で降りてみた

小山駅から岩瀬駅まで田畑を左右に見て平坦な地形を走ってきた水戸線だが、羽黒駅を過ぎると地形も一転して丘陵部を走り始める。そんな風景を眺めつつ稲田駅に到着した。

 

地元・笠間市稲田は稲田石と呼ばれる良質の御影石の産地で、切り出した砕石の輸送のため駅が開設され、また駅と砕石場を結ぶ稲田人車軌道という鉄道も敷設された。駅は水戸鉄道開業後の1898(明治31)年に造られた。地元の石材業者が中心になって、用地を提供するなど駅の開設に協力したそうだ。

 

地元が稲田石の産地であることにちなみ駅前には立派な石燈籠が立ち、「石の百年館」(入館無料)という展示館が設けられている。

↑稲田駅の駅前に立つ巨大な石燈籠。向かい側に「石の百年館」という稲田石を紹介する施設がある

 

「石の百年館」に入り、展示内容を見て驚かされた。稲田石は地元笠間市で採掘される花崗岩だが、白御影と呼ばれその白さが特長になっている。明治神宮など様々な施設に使われ、1914(大正3)年に建造された東京駅丸の内駅舎にも使われていた。窓周り、柱頭の飾りに稲田石の白い岩肌が活かされたそうだ。

 

さらに東京市電の敷石にも、材質に優れ、採掘量が安定した稲田石が大量に使われた。すでに東京都内の路面電車の路線は多くが廃止となったものの、今も道路工事のために旧路線を掘ると、敷き詰められた稲田石が大量に見つかるそうだ。

↑稲田駅に隣接して稲田石の積み下ろしに使った貨物ホームも残る。1906(明治39)年には4万4千トンの稲田石が東京方面へ出荷された

 

【水戸線の旅⑨】常磐線と合流、そして終着友部駅へ

起点の小山駅から乗車1時間弱、進行方向右手から常磐線が近づいてくると、その先が水戸線終点の友部駅となる。水戸線の列車は3〜5番線に到着し、一部列車はそのまま水戸駅または勝田駅へ向かう。

 

友部駅は2007(平成19)年にリニューアルされた橋上駅舎で、南口と北口を結ぶ自由通路が設けられている。

↑手前の2本が常磐線の線路で、水戸線の列車は写真の左側から坂を登り合流する

 

↑友部駅は3面あるホームへ上り下りする3本のエレベータ棟がアクセントになっている。水戸線の折返し列車は3番線発が多い(右上)

 

友部駅は地元笠間市の常磐線側の玄関口にあたるものの、水戸線の開業時には駅がなかった。笠間の市街地は他にあったからで、水戸線笠間駅の北側が笠間市の中心部にあたる。

 

笠間は日本三大稲荷にあたる笠間稲荷神社の鳥居前町であり、笠間城が築かれ笠間藩の城下町として栄えた。春秋に行われる陶器市で賑わう町でもある。

 

今回は訪れそこねたものの、次は笠間駅で下車してゆっくりと古い城下町巡りをしてみたいと思った。

 

【水戸線の旅⑩】最近気になる特急の模様替え車両

さて友部駅で接続する常磐線だが、停車する特急「ひたち」「ときわ」の一部編成が模様替えされ、鉄道ファンにとっては気になる列車となっている。水戸線を走る車両ではないものの、水戸線を訪れる際に利用してはいかがだろうか。

↑友部駅付近を走る特急「ひたち」グリーンレイク塗装車。今後、5編成がフレッシュひたち塗装になる予定だ

 

以前、常磐線を走っていたE653系は、各編成で色が異なり鮮やかな印象を放っていた。現在走るE657系の塗装は1パターンのみだったが、かつての「フレッシュひたち」をイメージした特別塗装車が走るようになっている。

 

茨城デスティネーションキャンペーンに合わせての塗装変更で、まずはK17編成がグリーンと白の「グリーンレイク(緑の湖)塗装」に。さらにK12編成が「スカーレットブロッサム(紅梅色)塗装」に変更されている。合計で5編成が模様替えされる予定で、水戸線を旅する時の、もう一つの楽しみになりそうだ。

「水戸線」なのに水戸は通過しない!? 意外と知らない北関東ローカル線深掘りの旅

おもしろローカル線の旅110〜〜JR東日本・水戸線(栃木県・茨城県)〜〜

 

あまり目立たないローカル線でも、実際に乗ってみると予想外の発見があるもの。関東平野の北東部を走る水戸線はそんなローカル線の1本だ。

 

実は水戸線、名前に水戸という地名が入るものの水戸市は走っていない。なぜなのだろう? そんな疑問から水戸線の旅が始まった。

*2017(平成29)年8月13日〜2023(令和5)年2月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
SL列車だけではない!「真岡鐵道」貴重なお宝発見の旅

 

【水戸線の旅①】常磐線よりも先に開業した水戸線の歴史

まず、水戸線の概要や歴史から見ていこう。

 

路線と距離 JR東日本・水戸線:小山駅(おやまえき)〜友部駅(ともべえき)間50.2km、全線電化単線
開業 水戸鉄道が1889(明治22)年1月16日、小山駅〜水戸駅間を開業、友部駅は1895(明治28)年7月1日に開設
駅数 16駅(起終点駅を含む)

 

水戸線の歴史は古く、今年で開業134年を迎えた。最初は水戸鉄道という私鉄の会社が、起点となる小山駅から水戸駅まで路線を開業。ところが、水戸鉄道として走ったのはわずか3年ばかりと短く、1892(明治25)年には日本鉄道に譲渡され、水戸線という路線名になった。

 

さらに日本鉄道が常磐線の一部区間を開業、1895(明治28)年に水戸線と接続する地点に友部駅を開設した。友部駅が開設された翌年の1896(明治29)年には常磐線の田端駅と土浦駅間の路線が開業し、東京と水戸が鉄道で直接結ばれるようになった。

 

明治期に北関東の鉄道網は目まぐるしく変化していく。常磐線が開業してから10年後の1906(明治39)年に日本鉄道は官設鉄道に編入。国営化された後に友部駅〜水戸駅間は常磐線に編入され、残された小山駅〜友部駅間のみ、水戸線という名称が残された。その後、名称の変更が行われることはなく、水戸市は通らないのに水戸線という路線名が今もそのまま使われ続けている。

 

1987(昭和62)年に国鉄民営化でJR東日本の一路線となったが、その時も長らく親しまれてきた路線名ということもあり、改称などの話は持ちが上がることもなかったそうだ。

 

【水戸線の旅②】E531系ひと形式が走るのみだが

次に水戸線を走る車両を見ておこう。現在は臨時列車や甲種輸送列車などを除き1形式のみが走っている。

 

◇E531系電車

↑水戸線の顔となっているE531系。5両編成での運行が行われている。座席はセミクロスシートで、トイレを備える

 

JR東日本の交直流電車で常磐線のほか水戸線、東北本線の一部区間で運用されている。定期運用が開始されたのは2015(平成27)年2月1日から。常磐線での運用はグリーン車を交えた10両編成が主力だが、水戸線では併結用に造られた付属5両編成の車両が単独で使われている。

 

ちなみに1編成(K451編成)のみ、かつて交流区間を走っていた401系の塗装をイメージした〝赤電塗装〟のラッピング車となっている。なかなか出会えないものの、この車両を見られることが旅の楽しみの一つになっている。

 

E531系導入まで水戸線では長らくE501系および415系が走っていたが、415系は引退、E501系は水戸線内でたびたび故障が起きたこともあり、今は常磐線での運用に限られるようになっている。

↑1編成5両のみ走る赤電ラッピング車。水戸線内と常磐線一部区間を走ることが多い

 

【水戸線の旅③】小山駅を出発してすぐの気になる分岐跡は?

ここからは水戸線の旅を進めたい。起点となる小山駅は東北本線の接続駅で、水戸線は15・16番線ホームから発車する。朝夕は30分間隔、昼前後の時間帯も1時間おきとローカル線としては列車本数が多めだ。昼間の時間帯は大半が友部駅どまりだが、朝夕は水戸駅や、その先の勝田駅へ走る列車もある。

↑東北新幹線の停車駅でもある小山駅。水戸線の列車は水戸駅地上駅の一番東側の15・16番線から発車する

 

小山駅のホームを離れた水戸線の列車は、すぐに左にカーブして次の小田林駅(おたばやしえき)へ向かう。乗車していると気づきにくいが、進行方向右側からカーブして水戸線に近づいてくる廃線跡がある。今は空き地となっているのだが、並行する道路が緩やかにカーブしていて、いかにもかつて列車が走っていた雰囲気が残る。

 

この廃線跡は、水戸線と東北本線を結んでいた短絡線の跡で、東北本線の間々田駅(ままだえき)と水戸線を直接に結ぶために1950(昭和25)年に敷設された。入線すると折り返す必要があった小山駅を通らず、東北本線から直接、貨物列車が走ることができた便利な路線だったが、1980年代に貨物列車の運用が消滅したため、2006(平成18)年に線路設備も撤去されて今に至る。

↑小山駅の最寄りにある東北本線との短絡線の跡。左手に延びる空き地にかつて線路が敷かれ貨物列車が通過していた

 

【水戸線の旅④】気になるデッドセクション箇所の走り

水戸線は16ある駅のうち、15駅が茨城県内の駅で、小山駅1駅のみが栃木県の駅だ。小山駅が栃木県の県東南部の端にあるという事情もあるが、2県をまたいで走る路線は数多くあるものの、このように1つの県で停車駅が1駅のみという路線も珍しい。この県境部に鉄道好きが気になるポイントがある。

 

小山駅を発車すると次の小田林駅との間、県境のやや手前で列車の運転士は運転台で一つの切り替え作業を行う。小山駅は直流電化区間なのだが、次の小田林駅への途中で交流電化区間に切り替わる。この切り替え作業を行うのである。

 

以前、筆者が水戸線の415系に乗車した時には、この区間で車内の照明が消え、モーター音が途絶えて一瞬静かになるということがあり驚いたものだった。現在走っているE531系の車内照明は消えることはなく、走行音もほぼ変わることはない。外から見ても変化がないのか、興味を持ったので直流から交流へ変更を行う「デッドセクション」区間を訪れてみた。

 

上部に張られた架線にはいろいろな装置が付けられていて、ここで直流と交流が変わることが分かる。また架線ポールに「交直切替」の看板が付けられ、運転士にデッドセクション区間であることを伝えている。

↑交流直流の切替区間には他と異なり碍子(がいし)を含めさまざまな設備が装着されている

 

小山駅から向かってきたE531系を見ると、ほぼスピードを落とさず通過していった。今では技術力も高まり、運転士が切替えスイッチの操作を行えば、問題なく通過できてしまう。通常の走行と異なる点といえば、車両先頭の案内表示用のLED表示器が消灯しているぐらいだった。

↑デッドセクション区間を走る友部方面行列車。架線柱には「交直切替」の案内がある(左下)。LED表示器のみ消灯していた

 

ところで、なぜ直流電化、交流電化の切り替え区間が県境付近にあるのか。その理由は茨城県石岡市に「気象庁地磁気観測所」があるからだ。地磁気観測所は地球の磁気や地球電気の観測を行っている。この観測地点から半径30km圏内で電化をする場合、電気事業法の省令で観測に影響がでない方式での電化が義務づけられている。従来の直流電化は、漏えい電流が遠くまで伝わる特長があり、そのため観測に影響が出にくい交流で電化されているのだ。

 

「気象庁地磁気観測所」の半径30km圏内に路線がある水戸線では小山駅〜小田林駅間で、また友部駅で合流する常磐線も取手駅〜藤代駅(ふじしろえき)間にデッドセクションを設けている。

 

【水戸線の旅⑤】川島駅の構内には広大な貨物線跡が残る

小田林駅の次の結城駅は、結城つむぎの生産地でもある結城市の表玄関となるのだが、今回は下車せずに先を急ぐ。東結城駅〜川島駅間で550mの長さを持つ鬼怒川橋梁を渡った。

↑鬼怒川橋梁を渡る水戸線の列車。現役の橋の横には開業当時に造られたレンガ造りの橋台跡が今も残されている(左上)

 

この鬼怒川橋梁を渡った地点から川島駅の構内に向けて、側線が設けられていた。今は一部が保線用に利用されているが、その先にあたる川島駅の北側の広々した空き地には今も錆びた線路が一部残り、側線の跡であることがよく分かる。

 

現在、川島駅の北側にはNC工基の工場がある。NC工基は土木、建築工事に関する各種基礎工事を施工する企業で、駅から工場内を望むと資材などを運ぶ大型クレーン類が良く見える。さらに、駅の北西側にはNC東日本コンクリート工業川島第四工場(旧太平洋セメント川島サービスステーション)があり専用線が設けられていた。

↑川島駅を発車した友部行列車。駅の北側に広々した側線の跡地と、大規模な工場が広がっている

 

今もこうした工場へ向けての専用線の跡地が残っている。かつては電気機関車などによる貨車の入換え作業が行われていたわけだ。筆者は、こうした引き込み線跡に興味があり、この場所には複数回訪れたが、駅の北西側の工場内に伸びていた専用線の跡は、つい最近ソーラー発電所に再整備された。徐々に川島駅周辺の廃線跡も消えていくことになるのだろう。

↑かつて使われていた専用線には今も一部に線路、また架線柱や架線も残されている

 

ちなみに、小山駅近くの東北本線への短絡線は、この川島駅と秩父鉄道の武州原谷駅(ぶしゅうはらやえき)という貨物専用駅との間を結んでいた貨物列車運行用に使われたものだった。1997(平成9)年3月22日にこの運行は終了してしまい、川島駅付近の専用線も荒れるままとなっている。貨物列車の運行も永遠に続くわけではなく、このように企業の活動に左右されるわけだ。

 

【水戸線の旅⑥】気になる関東鉄道・真岡鐵道の接続駅、下館駅

川島駅付近から先は好天の日、進行方向の右手に注目したい。関東平野の広大な田園畑地が広がるなか、筑波山が見えてくる。

 

そして列車は下館駅(しもだてえき)へ到着する。この駅は関東鉄道常総線、真岡鐵道の乗換駅となる。真岡鐵道のSLは牽引機のC12形が検査を終えたばかりで3月4日(土曜日)から運行されている。今年も行楽シーズンには多くの乗客で賑わいそうだ。さらにGW期間中には益子陶器市が開かれ、水戸線、真岡鐵道の利用者の増加が見込まれている。

 

筆者がよく訪れる下館駅だが、訪れるたびに賑わいが薄れていくように感じる。駅前の元ショッピングセンターは市役所となり、昼間に開く食事処も少なく、駅のコンビニも営業日と営業時間が限られている。このように駅の周辺が寂しくなるのは、地方都市では鉄道よりも車の利用者が圧倒的に多くなってきているせいなのだろう。

↑筑西市の表玄関にあたる下館駅の北口。真岡鐵道のSLもおか(左下)は土日休日の運行で下り列車は下館駅発10時35分発だ

 

下館駅の次の新治駅(にいはりえき)にかけて、もっとも筑波山の姿が楽しめる区間となる。標高877mとそれほど高い山ではないものの、関東平野の中にそびえ立つ山容は、昔から「西の富士、東の筑波」と称されてきた。

 

筑波山には男体山と女体山の2つの峰がある。以前に本稿で日光線の紹介した時に男体山、女体山が対になる山と記述したが、この筑波山も同じ名称の峰があり、古くから信仰の山として尊ばれてきたわけだ。

 

水戸線側から望むと単独峰に見えるのだが、実は標高が一番高い筑波山をピークに300mから700mの複数の山々が東西に連なっていて、この峰々を筑波連山、筑波連峰と呼ぶ。

↑新治駅近くの沿線から眺めた筑波山。単独峰のようにみえるが、筑波山の東側に複数の山々が連なり見る角度によって印象が変わる

 

【水戸線の旅⑦】岩瀬駅から発着した筑波線の跡は?

現在、水戸線に接続する鉄道路線は下館駅の関東鉄道常総線と真岡鐵道の2路線しかないが、かつては貨物輸送用、また観光用に複数の路線が設けられていて、それらの駅も接続駅として賑わっていた。

 

下館駅から3つめの岩瀬駅もそうした駅の一つだ。この岩瀬駅からはかつて、筑波鉄道筑波線が常磐線の土浦駅まで走っていた。筑波山観光の利用者が多く、最盛期の1960年代には上野駅などから列車が直接に筑波駅まで乗り入れた。モータリゼーションの高まりの中で、利用者の減少に歯止めがかからず、筑波鉄道筑波線は1987(昭和62)年4月1日に廃線となっている。

 

美しい筑波山麓の田園地帯をディーゼルカーが走る当時の写真をサイトで見ることができるが、長閑な趣を持つローカル線だったようだ。

↑旧筑波鉄道の廃線跡を利用した「つくばりんりんロード」。岩瀬駅に隣接して駐車場や休憩所が設けられる

 

現在、岩瀬駅から伸びていた筑波鉄道の廃線跡は、サイクリングロード「つくばりんりんロード」として整備されている。岩瀬駅の南側には駐車場が整備され、サイクリングのベースとして利用する人も多い。サイクリングロードの終点、土浦までは40kmという案内板も設けられている。途中、一里塚のようにに休憩所が複数設けられているので、のんびりとペダルをこぐのに最適な廃線跡となっている。

↑廃線線跡を利用した「つくばりんりんロード」。しっかり整備されていて自転車を漕ぐのに最適な専用道となっている

 

【水戸線の旅⑧】稲田石の産地、稲田駅で降りてみた

小山駅から岩瀬駅まで田畑を左右に見て平坦な地形を走ってきた水戸線だが、羽黒駅を過ぎると地形も一転して丘陵部を走り始める。そんな風景を眺めつつ稲田駅に到着した。

 

地元・笠間市稲田は稲田石と呼ばれる良質の御影石の産地で、切り出した砕石の輸送のため駅が開設され、また駅と砕石場を結ぶ稲田人車軌道という鉄道も敷設された。駅は水戸鉄道開業後の1898(明治31)年に造られた。地元の石材業者が中心になって、用地を提供するなど駅の開設に協力したそうだ。

 

地元が稲田石の産地であることにちなみ駅前には立派な石燈籠が立ち、「石の百年館」(入館無料)という展示館が設けられている。

↑稲田駅の駅前に立つ巨大な石燈籠。向かい側に「石の百年館」という稲田石を紹介する施設がある

 

「石の百年館」に入り、展示内容を見て驚かされた。稲田石は地元笠間市で採掘される花崗岩だが、白御影と呼ばれその白さが特長になっている。明治神宮など様々な施設に使われ、1914(大正3)年に建造された東京駅丸の内駅舎にも使われていた。窓周り、柱頭の飾りに稲田石の白い岩肌が活かされたそうだ。

 

さらに東京市電の敷石にも、材質に優れ、採掘量が安定した稲田石が大量に使われた。すでに東京都内の路面電車の路線は多くが廃止となったものの、今も道路工事のために旧路線を掘ると、敷き詰められた稲田石が大量に見つかるそうだ。

↑稲田駅に隣接して稲田石の積み下ろしに使った貨物ホームも残る。1906(明治39)年には4万4千トンの稲田石が東京方面へ出荷された

 

【水戸線の旅⑨】常磐線と合流、そして終着友部駅へ

起点の小山駅から乗車1時間弱、進行方向右手から常磐線が近づいてくると、その先が水戸線終点の友部駅となる。水戸線の列車は3〜5番線に到着し、一部列車はそのまま水戸駅または勝田駅へ向かう。

 

友部駅は2007(平成19)年にリニューアルされた橋上駅舎で、南口と北口を結ぶ自由通路が設けられている。

↑手前の2本が常磐線の線路で、水戸線の列車は写真の左側から坂を登り合流する

 

↑友部駅は3面あるホームへ上り下りする3本のエレベータ棟がアクセントになっている。水戸線の折返し列車は3番線発が多い(右上)

 

友部駅は地元笠間市の常磐線側の玄関口にあたるものの、水戸線の開業時には駅がなかった。笠間の市街地は他にあったからで、水戸線笠間駅の北側が笠間市の中心部にあたる。

 

笠間は日本三大稲荷にあたる笠間稲荷神社の鳥居前町であり、笠間城が築かれ笠間藩の城下町として栄えた。春秋に行われる陶器市で賑わう町でもある。

 

今回は訪れそこねたものの、次は笠間駅で下車してゆっくりと古い城下町巡りをしてみたいと思った。

 

【水戸線の旅⑩】最近気になる特急の模様替え車両

さて友部駅で接続する常磐線だが、停車する特急「ひたち」「ときわ」の一部編成が模様替えされ、鉄道ファンにとっては気になる列車となっている。水戸線を走る車両ではないものの、水戸線を訪れる際に利用してはいかがだろうか。

↑友部駅付近を走る特急「ひたち」グリーンレイク塗装車。今後、5編成がフレッシュひたち塗装になる予定だ

 

以前、常磐線を走っていたE653系は、各編成で色が異なり鮮やかな印象を放っていた。現在走るE657系の塗装は1パターンのみだったが、かつての「フレッシュひたち」をイメージした特別塗装車が走るようになっている。

 

茨城デスティネーションキャンペーンに合わせての塗装変更で、まずはK17編成がグリーンと白の「グリーンレイク(緑の湖)塗装」に。さらにK12編成が「スカーレットブロッサム(紅梅色)塗装」に変更されている。合計で5編成が模様替えされる予定で、水戸線を旅する時の、もう一つの楽しみになりそうだ。

あれから12年! 変貌する「仙石線」で謎解きと震災の記憶をたどった

おもしろローカル線の旅109〜〜JR東日本・仙石線(宮城県)〜〜

 

東日本大震災が起きた2011(平成23)年3月11日から早くも12年を迎える。複数の鉄道路線が復旧を諦めバス路線に変更された一方で、一部区間の線路を敷き直して復旧を果たした路線がある。

 

仙石線(せんせきせん)もそうした路線の1つだ。震災から復旧したのみならず、歴史をたどると荒波にもまれた過去があることも分かった。路線に関わる謎解きと、あの日の記憶を改めて見つめ直した。

*2015(平成27)年9月5日〜2023(令和5)年2月26日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
今や希少!国鉄形機関車がひく「石巻線」貨物列車&美景を旅する

 

【仙石線の旅①】仙石線と東北本線はなぜ並行して走るのか?

仙石線の旅を始めるにあたって昭和初期の絵葉書の謎から解いていきたい。下記は昭和初期の仙石線の絵葉書だ。仙石線の電車がクロスする線路は何線だろうか。現在、JR東日本の仙石線と東北本線は塩釜〜松島間を並行して走っていて、クロスする箇所があるものの、絵葉書の風景とはだいぶ異なる。調べたところ、下の線路は国鉄塩釜線と推測された。塩釜線は東北本線の岩切駅から塩釜港まで延びていた路線で、港湾部の区間は廃線となったが一部はその後の東北本線に流用された。

↑昭和初期発行の宮城電気鉄道の絵葉書。下を走るのは旧国鉄塩釜線で現在の塩釜港まで線路が延びていた 筆者所蔵

 

現在、塩釜〜松島間で東北本線と仙石線は並行して走っている。なぜ同じ企業の2本の路線がすぐ近くをほぼ同じルートで走ることになったのだろう。

 

実は太平洋戦争前まで東北本線は官設の路線で、仙石線は私鉄の路線だったのだ。並行する路線には両線の過去が隠されていた。まずは仙石線の概要を含め歴史を追ってみたい。

 

【仙石線の旅②】宮城電気鉄道により98年前に開業した仙石線

仙石線は宮城県の仙台と石巻を結ぶことから名付けられた。その概要は次のとおりだ。

路線と距離 JR東日本・仙石線:あおば通駅(あおばどおりえき)〜石巻駅間49.0km、陸前山下駅〜石巻港駅1.8km(貨物支線)、全線電化(支線は非電化)複線および単線
開業 宮城電気鉄道が1925(大正14)年6月5日、仙台〜西塩釜間を開業、1928(昭和3)年11月22日に石巻駅まで延伸され全通
駅数 33駅(起終点駅・貨物駅を含む)

 

宮城電気鉄道により設けられた仙石線は、社名のとおり当時の最先端を行く直流1500ボルトに対応した新型電車が運行。仙台の郊外電車として、また観光地・松島が沿線にあるため利用客が多く、昭和初期には15分〜30分間隔で列車が走っていた。沿線の陸海軍の施設に向けての貨物輸送も盛んで、こうした背景のもと1944(昭和19)年5月1日に戦時買収され、国有化された。

 

一方、東北本線は現在、塩釜駅から松島駅まで仙石線とほぼ並行して走っているが、古くは利府支線の利府駅と品井沼駅(しないぬまえき)間21.2kmを結び走っていた。ちょうど現在の三陸沿岸道路が通る地域に重なる。旧線は山中を通るため勾配がきつく輸送のネックとなっていたために戦時下の1944(昭和19)年11月15日に、旧塩釜線の一部区間を利用した現在の海沿いの路線に改められた。なお旧線は1962(昭和37)年4月20日に廃止されている。

 

仙石線は、海沿いの東北本線の新線が開業した年に国営化された。戦時下とはいえ国に計画性がなかったことが透けてみえる。もし並行する仙石線と東北本線を直結させて列車を走らせたのならば、問題は一挙に解決し、無駄もないようだが、なぜそうした解決策を図らなかったのか謎である。

 

その後、1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化により仙石線はJR東日本に引き継がれ現在に至る。そして2011(平成23)年3月11日を迎えるわけだが、震災前後の様子は沿線めぐりの中で触れていきたい。

 

【仙石線の旅③】JR東日本では希少な205系が今も主力

仙石線を走る車両を見ておこう。現在、旅客用車両は下記の2形式だ。

 

◇205系電車

↑仙石線を走る205系3100番台。仙石線のラインカラーのスカイブルーの帯が入る

 

205系は国鉄が1985(昭和60)年に投入した直流通勤形電車で、国鉄分割民営化した後にはJR東日本、JR西日本に引き継がれた。

 

仙石線を走る205系は旧型の103系の置換え用に2002(平成14)年〜2004(平成16)年に導入された車両だ。新製車両ではなく、元山手線・埼京線を走った205系の車体や機器を流用している。4両編成で冬の寒さに対応するために耐寒設備も装着された。JR東日本の205系は徐々に減りつつあり、現在は仙石線と、鶴見線、南武支線のみと希少な車両になっている。

 

なお、ロングシートがクロスシートに変わる2WAYシートを装備した車両も走っている。こちらはスカイブルーの帯を巻く主力の車両と異なり、沿線の観光イメージのアップを図るため多彩なラインカラーが車体に入っている。また沿線の石巻に縁が深い漫画家、石ノ森章太郎氏のマンガ作品がラッピングされた車両も走る。

 

◇HB-E210系気動車

↑仙石線内を走行するHB-E210系気動車。車体正面に「HYBRID(ハイブリッド)」の文字が入る

 

HB-E210系気動車はディーゼルハイブリッドシステムを搭載した一般形気動車で、仙台駅〜石巻駅間を走る仙石東北ライン用に2015(平成27)年に導入された。JR東日本の東北地域の電化方式は交流電化で、一方の仙石線は直流電化方式のため、両路線の間で行き来するため気動車が採用された。

 

ちなみに、仙石東北ラインは、仙台駅〜塩釜駅間は東北本線を走り、高城町駅(たかぎまちえき)〜石巻駅間は仙石線を走る。塩釜駅と高城町駅の間には連絡線があり、その連絡線を利用して東北本線、仙石線を行き来している。

 

そのほかにJR貨物のDD200形式・DE10形式ディーゼル機関車牽引の貨物列車も一部区間を走っている(詳細後述)。

 

【仙石線の旅④】日本初の地下路線&地下駅だった旧仙台駅

ここからは仙石線の旅を始めよう。現在の起点は地下駅のあおば通駅となる。ここから陸前原ノ町駅間の約3.2km間が地下鉄区間となっている。この仙台市街地区間の歴史も紆余曲折があり、謎も秘めている。

↑仙台駅の西側に位置する起点駅のあおば通駅。地上からの入口(右上)は市営地地下鉄との共用で、入口には仙台駅と記されている

 

路線が誕生した宮城電気鉄道時代、仙台駅から東七番丁駅間で地下路線が設けられた。東北本線と立体交差し、仙台駅西口に駅の出口を設けるためだった。

 

日本の地下鉄道は浅草駅〜上野駅間を走った東京地下鉄道(現・銀座線)が最初だとされるが、仙石線はその開業より2年半も早く設けられた地下鉄道および地下駅だったのだ。しかし、単線で使い勝手が悪く1952(昭和27)年に廃止、その歴史はすっかり忘れられてしまった。宮城電気鉄道が消滅したため、当時の地下駅がどうなったかも謎のままである。

 

地下ホームが廃止された後、仙石線のホームは200メートルほど東に移され、地上ホームとなった。東口から市街を走る時代が長く続いたのだが、市街地には踏切が多く、開かずの踏切ばかりで不評だった。そこで連続立体交差事業が進められ2000(平成12)年3月11日に工事が完成し、今の仙石線の地下を走る区間ができあがった。

↑現在の仙台駅の東側に仙石線の地上ホームがあった。旧路線の東七番丁踏切跡には記念碑(右下)が歩道上に設けられている

 

【仙石線の旅⑤】地下駅の一つ宮城野原駅で途中下車した

仙台市街の地下駅の一つ、宮城野原駅(みやぎのはらえき)で途中下車してみた。この駅は楽天ゴールデンイーグルスの本拠地、楽天モバイルパーク宮城の最寄り駅。発車ベルは応援歌の「羽ばたけ楽天イーグルス」だったり、駅の2番出口にはヘルメットが乗ってるなど、なかなか凝っている。

 

この球場に隣接して仙台貨物ターミナル駅が広がる。仙台貨物ターミナル駅は東北地方を代表する貨物駅で、路線は仙台駅を通らず東北本線のバイパス線、東北本線支線(通称・宮城野貨物線)にある。貨物駅上には跨線橋がかかり、橋の上から貨物列車の入換えや、コンテナを積む様子を見ることができる。

↑宮城野原駅の一つの2番出口は楽天カラーでまとめられている(左下)。その出口から徒歩約10分の場所に仙台貨物ターミナル駅がある

 

仙石線は宮城野原駅の次の陸前原ノ町駅を過ぎると宮城野貨物線の下をクロスして走り、苦竹駅(にがたけえき)手前から地上部へ出る。

 

【仙石線の旅⑥】本塩釜駅までは大都市の郊外線の趣が強い

仙石線は起点のあおば通駅から本塩釜駅までは複線区間で列車本数も多い。北側を東北本線が沿うように走っているが、東北本線は駅間が長いのに対して、仙石線は駅間が短い。例えば東北本線の仙台駅〜塩釜駅間13.4kmに途中駅は4駅で所要時間が16分、対して仙石線は仙台駅〜本塩釜駅間15.5kmに途中駅が11駅で所要時間は約30分かかる。

 

東北本線の駅周辺よりも仙石線の駅周辺のほうが賑わっていて、沿線の住宅開発やマンション建設も進んでいる。列車本数が多く便利ということもあるのだろう。

↑複線区間が本塩釜駅まで続く。仙台市の郊外区間ということもあり、マンションも多く建ち並ぶ

 

仙台駅から約30分、本塩釜駅を過ぎると進行方向右手に塩釜港が見えてくる。筆者は震災前に訪れたことがあったが、今は港を取り囲むように背の高い堤防が築かれ、だいぶ趣が変わっていた。

↑塩釜港の西側を高架線で走る仙石線の下り列車。車窓からも港の様子を望むことができる

 

【仙石線の旅⑦】芭蕉も発句に懊悩した松島はやはりすごい!?

次の東塩釜駅からは海岸沿いを走る区間が多くなる。仙石線の線路に寄り添うように左手から近づいてくるのが東北本線の線路だ。しばらく並走するのだが、接続駅がなく両線の駅も遠く離れているのが不思議なところ。やはり私鉄路線と官設路線だった名残が今も続いているわけだ。

 

仙石線の車窓から大小の島々が浮かぶ海が眺められるようになると、間もなく松島海岸駅だ。この駅では多くの観光客が下車していく。

↑新装した仙石線の松島海岸駅。駅から景勝地、瑞巌寺五大堂(左上)も徒歩圏内にある

 

冬にもかかわらず、松島海岸駅は賑わいをみせていた。駅前から遊覧船の呼び込みが盛んで、松島名物のカキの殻焼きも香る。そんななかを歩くこと8分、瑞巌寺五大堂を訪れ、松島湾を見渡した。260余の島々が浮かぶ日本三景の松島には、かの俳聖、松尾芭蕉すら美しさに発句できなかったと伝わるが、観光客が訪れる魅力は醒めないようだ。

 

松島には瑞巌寺(ずいがんじ)、瑞巌寺五大堂といった古刹や景勝地が集う。海岸に近い瑞巌寺だが、杉並木が枯れたりしたものの津波の影響もあまりなく、震災後は避難所として活かされた。松島湾に浮かぶ島々が津波から施設を守り、この場所ならば安全という長年の経験と知恵が役立っているようだ。

↑仙石線と東北本線との連絡線付近を走る仙石東北ラインの列車。松島の瑞巌寺のちょうど裏手にこの連絡線がある

 

【仙石線の旅⑧】丘陵部の野蒜駅の新駅から海へ散策してみた

仙石線は路線の68%が海岸部の近くを走ることもあり、震災時には津波の被害を受けた箇所も多かった。松島海岸駅周辺のように被害が軽微だった地域もあれば、大きな被害を受けた地域もあった。ここからはより海岸近くを走る区間の震災前後の状況を見て行きたい。

↑復旧した陸前富山駅。背の高い防波堤(右上)が設けられた。現在防波堤は入場禁止となっている 2015(平成27)年9月5日撮影

 

 

仙石線の沿岸で最も海岸に近いのは陸前富山駅(りくぜんとみやまえき)から陸前大塚駅付近。この区間は海が近いだけに風景が素晴らしい。一方で津波の被害を受けたため路線をかさ上げし、堤防を増強するなどした上で、2015(平成27)年5月30日に復旧に至っている。

↑陸前富山駅〜陸前大塚駅間を県道27号線から松島湾と仙石線を眺める。近くの古浦農村公園では5月、菜の花畑も楽しめる(左上)

 

陸前大塚駅から東名駅(とうなえき)、野蒜駅(のびるえき)間の津波の被害は特に際立った。野蒜駅から東名駅へ向かっていた仙石線の上り列車が津波に押し流されて大破している。幸いにも乗客は近くの小学校へ避難して無事だった。

 

震災前の地図を見るとこの区間は海岸からだいぶ離れていた。そして海の先には宮戸島(みやとじま)という松島湾最大の島がせり出している。2つの駅は海岸から離れていたものの標高が低く平坦地が連なっていたこともあり、津波の被害が大きかったようだ。

 

仙石線の路線は震災後に丘陵部に移され、東名駅と野蒜駅の北側は野蒜北部丘陵団地として新たに整備された。この新しい野蒜駅から津波の被害が甚大だった旧野蒜駅方面へ歩いてみた。

↑現在の野蒜駅の駅舎。野蒜ヶ丘という丘陵部に造成された住宅地に面して、新しい駅が設けられた。右上は旧駅方面へ向かう連絡通路

 

 

駅前から「野蒜駅連絡通路」を抜けて旧駅方面へ降りていく。徒歩10分ほどで着く旧野蒜駅周辺は「東松島市東日本大震災復興祈念公園」として整備されていた。中心となる施設が旧野蒜駅の駅舎だ。

 

旧駅舎は「東松島市 震災復興伝承館」として開放されている(入館無料)。館内には被災前の東松島市と、3月11日の同地の様子、そして津波、避難の記録などが展示され、映像でもふり返ることができる。2階の入口には旧駅で使われた自動券売機が展示され、その壊れ方が津波のすごさを物語っている。

↑駅名案内などもそのままに残る旧野蒜駅の駅舎。建物に津波が3.7mの高さまで来たことを示す案内看板が付いている

 

階段の上部には津波がここまで来たことを示す案内看板が。この場所での津波の高さは3.7mだった。数字だけだとその高さが実感できないが、実際に見上げると、この津波が目の前に差し迫ったとしたら、とても逃げられない高さであることが実感できた。

 

旧野蒜駅と裏手に残るホームからは今も電車が発着しそうな趣が残るだけに、震災および津波の恐ろしさを改めて感じた。

↑旧野蒜駅「東松島市 震災復興伝承館」の裏手にはレールが敷かれたまま残るホームも保存されている。

 

【仙石線の旅⑨】航空自衛隊の練習機が駅前に

丘陵に設けられた野蒜駅から陸前小野駅、鹿妻駅(かづまえき)と、水田風景が広がる平野部へ下りていく。この鹿妻駅前には航空自衛隊で使われたジェット機が保存展示されている。

↑鹿妻駅の駅前で展示保存される航空自衛隊のT-2練習機。ブルーインパルスの基地上空訓練は平日の午前中に行われている

 

鹿妻駅の駅前に展示保存されるのは、航空自衛隊で1995(平成7)年12月まで地元の松島基地を拠点に活動する曲技飛行隊・ブルーインパルスで使われていたT-2超音速高等練習機(69-5128機)であることが分かった。なお、現在のブルーインパルスはT-4練習機を使っている。

 

航空自衛隊の松島基地は鹿妻駅から次の矢本駅の海岸側に滑走路がある。ちなみに松島基地も被災し、基地内の駐機していた28機がすべて水没してしまった。幸いブルーインパルスの乗務機は福岡県の芦屋基地を訪れていて水没を免れ、隊員たちは機体を残し、東松島へ急ぎ戻り被災した人たちの支援にあたったそうだ。

 

【仙石線の旅⑩】石巻市内では貨物専用線を訪ねてみた

起点のあおば通駅から約1時間30分で終点の石巻駅へ到着した。石巻駅の駅構内や駅舎には、石ノ森章太郎氏が生み出したマンガのキャラクター像が飾られている。石ノ森章太郎氏は宮城県登米市生まれだが、学生時代に石巻の映画館に通った縁もあり、石ノ森萬画館(駅から徒歩12分)が市内に設けられている。

↑仙石線の石巻駅。1・2番線(左下)が仙石線、仙石東北ラインのホームで、石巻線との乗換えも便利だ

 

石巻駅で鉄道好きが気になることといえば、駅構内に停まるコンテナ貨車だろう。この列車はどこへ向かう列車なのだろう。

 

貨物列車は石巻駅のとなり、仙石線陸前山下駅から分岐する仙石線貨物支線の先にある石巻港駅へ向かう。この貨物駅に隣接して日本製紙石巻工場があり、紙製品がコンテナに積まれて、石巻線経由で小牛田駅(こごたえき)へ運ばれる。

↑陸前山下駅から住宅街を抜けて石巻港に面した石巻港駅を目指すDE10形式牽引の貨物列車。同機関車牽引の列車も減り気味だ

 

石巻港にほぼ面した石巻港駅も津波により壊滅的な被害を追った。駅構内に停まっていたDE10形式ディーゼル機関車の1199号機と3503号機が被害を受けて現地で廃車、解体されている。

 

仙石線貨物支線の撮影から戻る陸前山下駅近くの街中で、ここまで津波が到達したことを示す案内が貼られていた。海岸からかなり遠い住宅地まで津波がやってきたがわけだ。仙石線沿線の「東松島市東日本大震災復興祈念公園」の案内には「あの日を忘れず 共に未来へ」という見出しが付く。時間がたつとともに忘れがちだが、時あるごとに震災の記憶を未来への教訓として役立てていくべきだと切に感じた。

黄色い電車に揺られ「宇部線」を巡る。炭鉱の町の歴史と郷愁を感じる旅

おもしろローカル線の旅108〜〜JR西日本・宇部線(山口県)〜〜

 

重工業で栄えてきた宇部市は人口16万人と地方の中核都市だ。そんな市内を走る宇部線だが、駅周辺の賑わいは消えていた。車社会への移行によって駅前の風景が大きく変わっていく−−そんな地方ローカル線の現状を、宇部線の旅から見ていきたい。

*2017(平成29)年9月30日、2022(令和4)年11月26日、2023(令和5)年1月21日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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電車も駅も昭和の趣が色濃く残る「小野田線」超レトロ旅

 

【宇部線の旅①】宇部軽便鉄道として宇部線の歴史が始まった

まず、宇部線の概要や歴史を見ていこう。宇部線は軽便鉄道が起源となっている。

路線と距離 JR西日本・宇部線:新山口駅〜宇部駅間33.2km、全線電化単線
開業 宇部軽便鉄道が1914(大正3)年1月9日、宇部駅〜宇部新川駅間を開業。
宇部鉄道が1925(大正14)年3月26日に小郡駅(現・新山口駅)まで延伸し、宇部線が全通。
駅数 18駅(起終点駅を含む)

 

今から109年前に宇部軽便鉄道により路線が開設された宇部線だが、「軽便」と名が付くものの官設路線との鉄道貨物の輸送が見込まれたこともあり、在来線と同じ1067mmの線路幅で路線が造られた。1921(大正10)年には宇部鉄道と会社名を変更、1941(昭和16)年には宇部電気鉄道(現・小野田線の一部区間を開業)と合併し、旧宇部鉄道は解散、新たな宇部鉄道が設立された。この〝新〟宇部鉄道だった期間は短く、その後の戦時買収により1943(昭和18)年5月1日、宇部鉄道の全線は国有化。1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化によりJR西日本に引き継がれ現在に至っている。

 

ローカル線の利用状況の悪化が目立つJR西日本の路線網だが、2021(令和3)年度における宇部線の1日の平均通過人員は1927人。居能駅(いのうえき)で接続する小野田線の346人と比べれば多いものの、赤字ローカル線の目安となる2000人をやや下回る状況になっている。

 

【宇部線の旅②】国鉄形105系とクモハ123形の2形式が走る

次に宇部線を走る車両を見ておこう。現在は下記の2形式が走る。

↑宇部新川駅を発車する濃黄色の105系。宇部線の105系は2両編成のみだがクモハ123形と連結して走る列車もある

 

◇105系電車

105系は国鉄が地方電化ローカル線向けに開発し、1981(昭和56)年に導入した直流電車で、宇部線には同年の3月19日から走り始めている。誕生して42年となる古い車両で、他の路線では後継車両に置き換えが進めれ、JR西日本管内で残るのは福塩線(ふくえんせん)および、宇部線、小野田線と山陽本線の一部となっている。なお、宇部線を走る105系の車体カラーは濃黄色1色と、クリーム地に青と赤の帯を巻いた2タイプがある。

 

◇クモハ123形電車

クモハ123形電車は、1986(昭和61)年に鉄道手荷物・郵便輸送が廃止されたことで、使用されなくなった荷物電車を地方電化ローカル線用に改造したもの。JR東日本、JR東海のクモハ123形はすでに全車が引退となり、JR西日本に5両のみが残る。5両全車が宇部線、小野田線で走っていることもあり、貴重な電車を一度見ておこうと訪れる鉄道ファンの姿も目立つ。

↑宇部新川駅構内に留置中のクモハ123形。トイレが付く側の側面は窓がわずかしかない。それぞれの車両は細部が微妙に異なっている

 

宇部線、小野田線を走るクモハ123形は1両のみで走る列車が大半だが、105系2両と連結し、3両で走る珍しい列車も見られる。こちらは朝夕のラッシュ時のみ、新山口駅と山陽本線の下関駅を往復(宇部駅を経由)している。

↑2両の105系の後ろに連結されたクモハ123形。同じ車体色のため違和感はないが、ドアの数が異なる不思議な編成となっている

 

【宇部線の旅③】やや離れた0番線から宇部線の旅が始まった

ここからは宇部線の旅を楽しみたい。路線の起点は新山口駅なのだが、路線の3分の2にあたる12駅が市内にあり、路線名ともなっている宇部市の宇部駅から乗車することにした。

 

筆者は宇部駅7時28分着の山陽本線の下り列車を利用したが、ホームを降りると連絡跨線橋を走り出す中学生がいた。接続する宇部線の列車が7時31分と、3分の乗り換え時間しかないのだ。しかも、宇部線の電車が停車しているのが、0番線と連絡跨線橋から遠いことが、中学生が走り出した理由だった。

 

通常、宇部線の列車は1番線からの発車が多いのだが、早朝はこうした接続時間に余裕のない列車がある。走り出す中学生がいたから分かったものの、のんびりしていたら乗り遅れていただろう。こうした例はいかにもローカル線らしい現実だ。ワンマン運転のため、運転士がホームを確認して乗り遅れがないかを確認して発車していたが、慌ただしいことに変わりはない。

↑小規模ながら瀟洒な造りの宇部駅駅舎。とはいえ駅前通り(右下)を見ると閑散としていた

 

宇部駅は1910(明治43)年7月1日に開業した古い駅だが、宇部鉄道が国有化した後に、宇部線の宇部新川駅が宇部駅と改称。1943(昭和18)年5月1日から1964(昭和39)年10月1日までは西宇部駅を名乗った。後に再改称されて宇部駅を名乗っているが、宇部市の中心は宇部新川駅付近である。

 

宇部駅は名前の通り宇部市の表玄関にあたるが、駅前に商店はほとんどなく閑散としてい理由はこのあたりにあるのかもしれない。

↑宇部駅の0番線ホームに停まるクモハ123形。0番線は連絡跨線橋から離れていて山陽本線からの乗り継ぎに時間を要する

 

【宇部線の旅④】厚東川の上をカーブしつつ105系が走る

宇部駅を発車した宇部線の列車は、進行方向左手に山陽本線の線路を見ながら右へカーブして宇部線に入ると、わずかの距離だが複線区間に入る。ここは際波信号場(きわなみしんごうじょう)と呼ばれるところで、朝夕に宇部方面行き列車との行き違いに使われることがある。

 

現在の宇部線は列車本数が少なめで、上り下り列車の行き違いのための信号場は不要に思える。しかし、石炭・石灰石輸送が活発だったころは、美祢(みね)線の美祢駅と宇部港駅(現在は廃駅)間を貨物列車が1日に33往復も走っていたそうだ。際波信号場はそんな貨物輸送が盛んだったころの名残というわけである。ちなみに現在、貨物輸送は全廃されている。

↑厚東川橋梁を渡る宇部新川方面行の列車。橋の途中からカーブして次の岩鼻駅へ向かう

 

信号場を通り過ぎると間もなく列車は厚東川(ことうがわ)橋梁にさしかかる。車窓からは上流・下流方向とも眺望が良い。二級河川の厚東川だが水量豊富で宇部線が渡る付近は川幅も広い。橋梁上で列車は右カーブを描きつつ次の岩鼻駅へ向かう。

 

【宇部線の旅⑤】開業当初、岩鼻駅から先は異なる路線を走った

宇部線の開業当初の岩鼻駅付近の地図を見ると、次の居能駅方面への路線はつながっておらず藤山駅(その後に藤曲駅と改称)、助田駅(すけだえき)という2つの駅を通って宇部新川駅へ走っていた。現在のように路線が変更されたのは国有化以降で、それ以前は現在の小野田線のルーツとなる、宇部電気鉄道の路線が居能駅を通り、宇部港方面へ線路を延ばしていた。

 

国有化されて路線が整理された形だが、宇部市内の狭いエリアで宇部鉄道、宇部電気鉄道という2つの会社がそれぞれの路線を並行して走らせていたわけである。

↑レトロな趣の岩鼻駅(右上)から居能駅へ線路が右カーブしている。戦後しばらくこの先、異なる路線が設けられていた

 

岩鼻駅から右にカーブした宇部線は小野田線と合流して居能駅へ至る。この岩鼻駅〜居能駅間は路線名がたびたび変わっていて複雑なので整理してみよう。

 

【宇部線の旅⑥】レトロな居能駅の先に貨物線が走っていた

国有化まもなく宇部駅(当時の駅名は西宇部駅)〜宇部新川駅(当時の駅名は宇部駅)〜小郡駅(現・新山口駅)は宇部東線と呼ばれた。一方、居能駅から延びる宇部港駅、さらに港湾部に延びる路線は宇部西線と呼ばれた。岩鼻駅と居能駅間は1945(昭和20)年6月20日に宇部西線貨物支線として開業している。終戦間近のころに岩鼻駅と居能駅間の路線がまず貨物線として結ばれたわけである。

 

その後の1948(昭和23)年に宇部東線が宇部線に、宇部西線が小野田線と名が改められた。岩鼻駅から藤曲駅(旧・藤山駅)、助田駅経由の宇部駅(現・宇部新川駅)まで路線が結ばれていたが、この路線は1952(昭和27)年4月20日に廃止され、岩鼻駅〜宇部新川駅間は現在、旧宇部西線経由の路線に変更されている。

↑居能駅(左下)を発車した下関駅行列車。居能駅の裏手(写真右側)には今も貨物列車用の側線が多く残されている

 

何とも複雑な経緯を持つ宇部市内の路線区間だが、貨物線を重用したことが影響しているようだ。宇部市の港湾部の地図を見ると、港内に陸地が大きくせり出しており、この付近まで引込線が敷かれていた。当時のことを知る地元のタクシードライバーは次のように話してくれた。

 

「今の宇部興産のプラント工場がある付近は、かつて炭鉱で働く人たちが暮らした炭住が多く建っていたところなんです。沖ノ山炭鉱という炭鉱があったのですが、私が小さかった当時、町はそれこそ賑やかなものでした」

 

宇部炭鉱は江戸時代に山口藩が開発を始めた炭鉱だった。中でも宇部港の港湾部にあった沖ノ山炭鉱は規模も大きかった。宇部炭鉱は瀬戸内海の海底炭鉱で、品質がやや劣っており、海水流入事故などもあったことから、全国の炭鉱よりも早い1967(昭和42)年にはすべての炭鉱が閉山された。一方で、出炭した石炭を化学肥料の原料に利用するなど、歴史のなかで培ってきた技術が、後の宇部市の化学コンビナートの基礎として活かされている。

↑沖ノ山炭鉱の炭住が建ち並んだ港湾部は現在コンビナートに変貌している。写真は宇部伊佐専用道路のトレーラー用の踏切

 

【宇部線の旅⑦】郷愁を誘う現在の宇部新川駅

炭鉱の町から化学コンビナートの町に変貌した宇部市だが、人口の推移からもそうした産業の変化が見て取れる。炭鉱が閉山した当時は一度人口が減少したものの、その後に増加に転じ、1995(平成7)年の国勢調査時にピークの18万2771人を記録している。今年の1月末で16万183人と減少しているものの、豊富なマンパワーが沖ノ山炭坑を起源とする宇部興産(現・UBE)などの大手総合化学メーカーの働き手として役立てられた。

 

宇部市の繁華街がある宇部新川駅に降りてみた。山陽本線の宇部駅に比べると駅周辺にシティホテルが建ち、また飲食店も点在している。駅前の宇部新川バスセンターから発着する路線バス、高速バスも多い。

↑宇部新川駅の駅舎。宇部市の表玄関にあたる駅で規模も大きい。とはいえ人の少なさが気になった

 

だが、立派な造りに反して駅は閑散としていた。跨線橋は幅広く以前は多くの人が渡っていたであろうことが想像できるのだが、階段の踏み板は今どき珍しい木製で、改札口の横に設けられた小さな池も水が張られず、白鳥の形をした噴水の吹出し口が寂しげに感じられた。

 

一方、駅構内の側線には宇部線・小野田線用の105系、クモハ123形が数両停められていた。駅構内には宇部新川鉄道部と呼ばれる車両支所(車両基地)があったが、それぞれの電車は現在、下関総合車両所運用検修センターの配置となっていて、宇部新川駅の構内は一時的な留置場所として車庫代わりに利用されている。

↑宇部新川駅構内に止められる宇部線、小野田線の車両。同駅の車両基地は廃止されたが現在も車庫代わりに利用されている

 

宇部新川駅前の賑わいがあまり感じられないこともあり、再びタクシードライバー氏に聞いてみた。

 

「若い世代は地元であまり買物をしないし、遊ばないからね。下関までなら電車で1時間、車を使えば北九州小倉へ約1時間ちょっとで行けるから、皆そちらへ行ってしまう……」と悲しげな様子だった。

 

車で移動する人が大半となり、さらに他所へ出かけてしまう。それがこうした駅周辺の寂しさの原因となっているようだ。

 

【宇部線の旅⑧】バスの利用者が大半の山口宇部空港の現状

宇部線の沿線には重要な公共施設もある。例えば宇部線草江駅のそばには山口宇部空港がある。駅から徒歩7分、距離にして600mほどだ。山口県には広島県境に岩国飛行場もあるが、山口宇部空港は山口県内の主要都市に近いこともあり年間100万人を上回る利用者がある。とはいうものの草江駅で降りて空港へ向かう人の姿はちらほら見かけるだけだった。

 

これは、空港へはバスの利用が便利なためと推察する。現在、空港の公式ホームページでも同駅利用のアクセス方法を紹介しているものの、飛行機の発着に列車のダイヤが合っておらず、不便なのだろう。

↑利用者が少ない草江駅。ホームからも空港が見える。山口宇部空港(左上)は県道220号線をはさんで7分の距離にある

 

その点、山口宇部空港が1966(昭和41)年に開設されたときに、駅を少しでも空港近づけるなり方法があったのではと感じてしまう。ちなみに、JR西日本管内の路線では、鳥取県を走る境線では米子空港の改修時に、より近くに駅を移転させて利用者を増やした例がある。それだけに、少し残念に感じた。

 

【宇部線の旅⑨】瀬戸内海の眺望が楽しめる常盤駅

山口県の瀬戸内海沿岸地方を走る宇部線だが、車窓から海景色が楽しめる区間が意外に少ない。唯一見えるのが草江駅の次の駅、常盤駅(ときわえき)だ。

↑常盤駅のホームからは瀬戸内海が目の前に見える。レジャー施設が集う常盤池も徒歩15分ほどの距離にある

 

この駅で下車する観光客を多く見かけた。その大半が海方面とは逆の北側を目指す。北には常盤池という湖沼があり、この湖畔に「ときわ公園」(徒歩15分)が広がる。園内には動物園や遊園地や植物園もあり宇部市のレジャースポットとなっている。また宇部市発展の基礎を作った石炭産業の歴史を伝える「石炭記念館」もあり、併設された展望台からは瀬戸内海が一望できる。

 

筆者は時間の余裕がなかったこともあり、公園を訪れることなく、海へ出て常盤海岸を散策するにとどめた。駅から海岸へは徒歩3分で、瀬戸内海と九州が海越しに望める。山口宇部空港の滑走路が右手に見えて、発着時はきっと迫力あるシーンが楽しめるだろうと思ったが、残念ながら次の列車を待つ間に飛行機の発着を眺めることはできなかった。

↑常盤駅のすぐそばに広がる常盤海岸。今は波消しブロックが並んでいるが、1999(平成11)年までは海水浴場として開放されていた

 

【宇部線の旅⑩】宇部市から山口市へ入ると景色が大きく変わる

宇部市内の宇部線の駅は岐波駅(きわえき)まで続く。宇部線の18駅中、岐波駅までの12駅が宇部市内の駅で、この先の阿知須駅(あじすえき)からの6駅が山口市内の駅となる。宇部市は山口県内でも人口密度が県内3番目ということもあるのか、宇部市内の駅や沿線に民家が多く建つ。一方、阿知須駅を過ぎたころから沿線に緑が目立つようになり、特に深溝駅から先は田畑が沿線の左右に広がるようになる。

↑上嘉川駅〜深溝駅間は水田地帯が広がる。山陽本線は左手に見える民家付近を通っている

 

こうした民家が途絶える山口市内は宇部線の列車を撮影するのに最適なこともあり、深溝駅〜上嘉川駅(かみかがわえき)間で撮影した写真がSNS等に投稿されることも多い。そんな田園の中を走り、上嘉川駅を過ぎると、左側から山陽本線が近づいてきて並走し、今回の旅の終点、新山口駅へ到着する。

 

宇部駅からは1時間15分〜20分ほど、変化に富んだ車窓風景が楽しめる旅となった。

 

【宇部線の旅⑪】かつて小郡駅の名で親しまれた新山口駅

最後に新山口駅の駅名に関して。同駅は1900(明治33)年の駅の開設時に小郡駅(おごおりえき)と名付けられた。小郡村に駅が設けられたためで、その後に小郡町となり山口市と合併した。1975(昭和50)年、山陽新幹線が開業した後もしばらく小郡駅のままだったが、紆余曲折あった後、2003(平成15)年10月1日に山陽新幹線ののぞみ停車駅になったことを機に、小郡駅から新山口駅へ駅名を改めた。

↑新山口駅の新幹線ホーム側にある南口。在来線は北口側近くに改札口があり宇部線のホーム(右上)はそちらの8番線となっている

 

小郡駅といえば、駅弁ファンは「ふく寿司」を製造していた小郡駅弁当という会社を思い出す方もあるかと思う。筆者も安価でふく(地元下関ではフグと濁らずフクと呼ぶことが多い)が味わえるので、駅を訪れた際は欠かさず購入していたのだが、2015年に小郡駅弁当は駅弁から撤退してしまった。

 

しかし、この味を別会社の広島駅弁当が引き継ぎ販売を開始していた。パッケージのフクのイラストも健在で、懐かしの味が復活。新山口駅の「おみやげ街道」で金・土・日曜日のみ限定販売(1200円)するとのこと。次回に訪れた際は必ず購入しようと誓うのだった。

電車も駅も昭和の趣が色濃く残る「小野田線」超レトロ旅

おもしろローカル線の旅106〜〜JR西日本・小野田線(山口県)〜〜

 

かつて小野田セメントという会社があった。誰もが良く知る大企業だったが、会社名の元になった小野田は果たして何県にあるのか、知る人は少なかったのでなかろうか。

 

小野田は山口県の山陽小野田市の合併前の市の名前で、この街と宇部市を走るのが小野田線だ。セメント製造と石炭の採掘で栄えた街は、産業構造の変化の影響を受けて。やや寂しくなってはいるが、小野田線は昭和の趣が色濃く残り鉄道好きにぜひおすすめしたい路線だった。

*2013(平成25)年9月14日〜2023(令和5)年1月20日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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岩国市の名所旧跡と美景を探勝。清流沿いを走る「錦川鉄道」のんびり旅

 

【小野田線の旅①】セメントと石炭の輸送のため設けられた路線

小野田線は2本の路線区間によって構成される。居能駅(いのうえき)と小野田駅を結ぶのが小野田線(本線)で、途中の雀田駅(すずめだえき)と長門本山駅(ながともとやまえき)を結ぶのが小野田線(本山支線)となる。2本の路線の概要を見ていこう。

 

路線と距離 JR西日本・小野田線(本線):居能駅〜小野田駅間11.6km 、小野田線(本山支線):雀田駅〜長門本山駅間2.3km、全線電化単線
開業 小野田軽便鉄道(後の小野田鉄道)が1915(大正4)年11月25日にセメント町駅(現・南小野田駅)〜小野田駅間を開業。
宇部電気鉄道が1929(昭和4)年5月16日に居能駅〜雀田駅間を開業、1937(昭和12)年1月21日に雀田駅〜長門本山駅が開業。
1947(昭和22)年10月1日、雀田駅〜小野田港駅(当時は南小野田駅)間が延伸され小野田線が全通
駅数  11駅(起点駅を含む)

 

小野田線の歴史は複雑だ。ここでは大まかな路線の成り立ちに触れておこう。まず、小野田駅側から小野田軽便鉄道が路線を造り、居能駅側からは宇部電気鉄道(後に宇部鉄道と合併)が路線を延ばした。それぞれセメントの材料や、石炭を運ぶ貨物輸送が盛んだったこともあり、軍需産業強化を図る国が戦時下に国有化し、戦後に一部区間が延長され現在の小野田線となった。さらに、1987(昭和62)年には国鉄分割民営化に伴いJR西日本の路線となっている。

 

JR西日本が発表した「経営状況に関する情報開示」によると、2021(令和3)年度の輸送密度は1日あたり346人、2019(平成31・令和1)〜2021(令和3)年度の輸送密度は8.5%とかなり厳しい。路線を廃止することなく活かせないかと、地元では接続する宇部線を含めてBRT(バス・ラピッド・トランジット)化構想を掲げるなどしているものの、廃止か存続か結論が出ていない。

 

【小野田線の旅②】今も主力は1両で走る希少なクモハ123形

次に小野田線を走る車両を見ていこう。2形式が走るが、いずれも国鉄形と呼ばれる車両だ。

 

◇クモハ123形

小野田線を走る列車の大半が、クモハ123形1両で運行されている。クモハ123形は国鉄が手荷物・郵便輸送用に造った荷物電車を、1986(昭和61)年〜1988(昭和63)年にかけて改造した電車だ。荷物電車だった時代も含めると40年以上の長い車歴を持つ。JR東日本、JR東海に引き継がれた車両はすでに全車が廃車され、残るのはJR西日本に引き継がれた5両のみとなる。そんな希少な電車が今も小野田線と宇部線、山陽本線の一部を走っている。

 

クモハ123形は左右非対称で、側面窓の形状など車両ごとに異なり鉄道ファンには興味深い車両でもある。

↑国鉄が造った車両らしくごつい姿が特長のクモハ123形。現在5両のみ残存、小野田線の主力車両として活用されている

 

↑妻崎駅を発車するクモハ123形。トイレが増設され側面窓が一部ないなど左右非対称で、車両ごとに窓の形など細部が異なっている

 

◇105系

国鉄が1981(昭和56)年に導入した直流通勤形電車で、国鉄分割民営化後はJR東日本とJR西日本に引き継がれた。すでにJR東日本の105系は消滅し、JR西日本のみに残っている。JR西日本の105系も近年は急速に車両数を減らし、福塩線(ふくえんせん)と山陽本線の一部区間、宇部線、小野田線のみでの運行が続けられている。なお、小野田線での105系の運行は朝の1往復のみと限定されている。

↑朝1往復のみ小野田線を走る105系。写真の濃黄色1色以外に新広島色と呼ばれるクリーム色に赤と青帯の105系も走っている

 

【小野田線の旅③】山陽本線の小野田駅3番線ホームから発車

小野田線の起点は居能駅だが、山陽本線の小野田駅で乗換えて乗車する人が多いので、本稿でも小野田駅から話を始めたい。

 

山陽本線との乗換駅となる小野田駅は駅舎、跨線橋、ホームなどすべてがかなりレトロな造りだ。平屋の駅舎は1951(昭和26)年に改築されたもので、改札口にはかつて駅員が立った旧型のステンレス製のボックスが残されていた。そんな昭和の時代を感じさせた改札口だが、1月に訪れるとICカード対応の改札機の工事が始まるとの掲示が張り出されていた。この春からは小野田駅でも交通系ICカードの利用ができるようになる。

↑昭和中期に立てられた小野田駅の駅舎。改札口はボックス形(左上)だったが、この春から交通系ICカード対応の改札機に変更となる

 

山陽小野田市の表玄関にあたる小野田駅だが、通勤・通学客は多く見られたものの、かつての賑わいは薄れているように感じた。

 

山陽小野田市の人口は1955(昭和30)年の国勢調査で8万2784人とピークを迎えたが、昨年12月末現在で6万209人に減少している。市の看板企業でもあった小野田セメントは太平洋セメントと名を変え、市内にあったセメント工場も1985(昭和60)年に閉鎖された。小野田線の南小野田駅の東側には「セメント町」という町名が残っており、その名がかつての繁栄ぶりを示す証しとなっている。

 

セメントとともに街を潤したのが石炭採掘だった。小野田線・長門本山駅の近くにあった本山炭鉱では、江戸後期に石炭が発見され明治期に採掘が本格化。1963(昭和38)年まで採掘が続けられた。本山炭坑を含む旧・小野田市・宇部市に点在した炭鉱群はみな海底炭田で、出水事故などトラブルが目立った。石炭といえば燃料としての使用が思い浮かぶが、出炭した石炭の品質が劣っていたこともあり、多くがセメント製造の燃料や化学肥料の原材料として利用された。

 

いずれにしてもセメント産業や炭田で地域は栄え、鉄道も両産業の影響もあり延ばされていった。セメント工場は現在、石油基地などに変貌し、マンパワーを必要としない産業構造の変化が、人口減少の一つの要因になっているようだ。

↑小野田駅3番線を発車する小野田線の列車。跨線橋や階段は骨組みがむき出しの構造で時代を感じさせる

 

小野田駅には1番線と2番線はなく、3番線が小野田線専用、4番・6番線が山陽本線のホームとなっている。小野田駅の長いホームにやや無骨な形のクモハ123形が1両ぽつんと停車する様子は何ともユーモラスで旅心をくすぐる。

 

【小野田線の旅④】駅および用地、電車がみな小さめに感じる

小野田駅発着の列車は1日に9往復。小野田駅発の列車の大半が宇部線・宇部新川駅行きで、朝の1本の列車のみが宇部線の新山口駅まで走っている。列車本数は朝夕が1時間に1本の割合だが、昼前後10時16分発、13時54分発、16時14分発と時間が空くので利用の際は注意したい。

 

沿線は、1両および2両編成の電車にあわせたコンパクトな造りの駅や用地、レールの敷設のされ方が目立つ。小野田駅の次の目出駅(めでえき)はその典型だ。急カーブの途中に短いホームが設けられ、駅舎も小さくかわいらしい。

↑目出駅を発車する旧塗装当時のクモハ123形。駅のホームがカーブしていることが分かる。駅舎はシンプルそのもの(左下)

 

小野田線は切符の自動販売機のない駅が大半だが、かつて切符販売が行われていたころには「目出たい」駅ということで多くの入場券が売れたそうだ。

 

次の南中川駅も駅はコンパクトそのもの。その次の南小野田駅もホーム一つの駅だ。南小野田駅は小野田軽便鉄道が開業させた駅。小野田セメントの工場に近かったこともあり当初、駅名は「セメント町駅」と名付けられた。後に小野田港駅、小野田港北口となり、そして現在、南小野田駅と名を改めている。駅周辺には商店や民家が集い小野田線で最も賑わいが感じられる。

 

次の小野田港駅は1947(昭和22)年10月1日に生まれた駅で、西側の小野田港に面して大規模な工場が集まる。小野田線の駅では大きめの駅で、待合室に円柱が立つなどお洒落な駅だった。しかし、残念ながら2021(令和3)年に老朽化のため閉鎖され、現在は旧駅舎の横からホームに入る造りとなっている。

 

【小野田線の旅⑤】本山支線の起点は三角ホームの雀田駅

小野田港駅の次、雀田駅は本山支線の起点駅だ。雀田駅はホームに何番線といった数字がなく、南側ホームが小野田線(本山支線)の長門本山駅方面、北側ホームが小野田線(本線)の小野田駅・居能駅方面行きに使われている。

↑雀田駅に停車する小野田駅行き列車。同ホームがカーブ途中にあることが分かる。写真は新広島色と呼ばれる塗装の105系電車

 

ホームは三角形の形をしていて、不思議なのが小野田線(本線)の側の電車がカーブ途中にあるホームに停まることだ。一方、本山支線用のホームは居能駅側から延びる直線路の上にある。

 

これは本山支線が先に開業し、雀田駅から先は戦後に設けられた〝後付け区間〟だったため、こうした不思議な形になってしまったようである。

↑雀田駅に停まる本山支線の列車。小野田線(本線)のホームがカーブ上にあるのに対して支線のホームがまっすぐな線路上にある

 

【小野田線の旅⑥】1日に3本という本数少なめの本山支線

本山支線を走る列車本数は極端に少ない。朝7時台に2往復、夜18時台に1往復、計3往復しか走らない。

 

本数が少なく朝早いため、旅人がこの本山支線の朝の列車に乗車するためには、山口県内に宿泊しないと難しい。筆者も山口県内に宿泊し、小野田駅発の始発電車で雀田駅へ着いた。そして始発の6時58分に乗車した。

↑雀田駅を発車した宇部新川駅行きの列車。本山支線は起点終点含めて3駅の短い路線で、5〜6分で終点の長門本山駅へ到着する

 

訪れたのは土曜日だったせいか、始発列車の乗客は筆者を含めて3人あまり。1人は地元の人、もう1人は鉄道ファンのようだった。雀田駅から発車して唯一の途中駅・浜河内駅(はまごうちえき)で1人が下車し、終点の長門本山駅に降り立ったのは2人のみだった。

 

【小野田線の旅⑦】寂しさが感じられた終着の長門本山駅

到着した長門本山駅はホーム一つに屋根付き待合スペースがある小さな駅だった。朝2本目の列車の乗降客を見ても旅行者が多く、地元の人たちがどのぐらい利用しているのか推測しづらかった。

↑本山支線の終点、長門本山駅のホームに停車するクモハ123形。屋根付きの待合スペースがあるが、電車を待つ人は1人もいなかった

 

長門本山駅のホームから外に出ると、駅前には広場(空き地といった趣)があって小さな花壇が設けられている。駅前に商店はなく、周囲に民家がちらほらあるぐらいだった。

 

駅の南には1963(昭和38)年まで本山炭鉱があり、今は閉鎖された斜坑坑口が残されている。駅の車止めの先に、かつて引込線が延びていて採炭された石炭が大量に運ばれていたのだろうか。今は海岸沿いにソーラー発電所が広がっているが、この一体が貨車を停める引込線の跡だと思われる。曇天の朝に訪れたこともあり、寂しさが感じられた。

↑空き地が広がる長門本山駅前。写真の手前を県道345号線が通るものの、民家が点在するのみでかなり寂しい

 

長門本山駅のすぐ目の前には路線バスの停留所があり、その時刻表を見るとほぼ1時間おきに小野田駅方面へのバスが出ていた。バス便の多さ見てしまうと、鉄道を利用しない理由が少し理解できた。

 

【小野田線の旅⑧】妻崎駅では駅舎の軒先をかすめるように走る

長門本山駅から雀田駅へ折り返し、次に小野田線の起点となる居能駅を目指した。

 

長門本山駅を発車する列車のうち朝夜の2本はそのまま居能駅、宇部新川駅を目指すので便利だ。小野田線にはホーム一つのシンプルな駅が多いが、雀田駅から2つ目の妻崎駅(つまざきえき)には上り下り交換施設がある。

 

ホームから駅舎へ線路を渡る構内踏切がある地方の典型的な駅の趣で、駅舎のすぐ横を電車が走っていることも気になった。駅や電車がコンパクトにまとまり、鉄道模型のジオラマのように感じられる。

↑妻崎駅に停車する宇部新川駅行き列車。右が駅舎で軒先をかすめるように電車が走る。右下は妻崎駅の入口

 

【小野田線の旅⑨】厚東川の河口側に見える大きな橋は?

妻崎駅を発車した列車は間もなく厚東川(ことうがわ)を渡る。山口県の名勝、秋吉台(あきよしだい)を流れる川で、二級河川ながら川幅が広い。河口部には河原がなく、滔々と流れる様子が車内からよく見える。

↑厚東川を渡る小野田線の105系電車。背後には宇部湾岸道路と、宇部伊佐専用道路の興産大橋が見える。九州の島陰もうっすら見えた

 

上記の写真は上流に架かる橋から小野田線の列車を写したものだ。手前に国道190号、後ろに宇部湾岸道路が並行して架かる。さらに奥に立派なトラス橋が見えているが、こちらは宇部伊佐専用道路(旧・宇部興産専用道路)の興産大橋だ。この専用道路は1982(昭和57)年に造られた31.94kmにおよぶ企業の私道で、美祢市と宇部市を結んでいる。運ぶのは石灰石とセメントの半製品で、専用の大型トレーラー(ダブルストレーラーと呼ぶ)が輸送に使われている。

 

この専用道路ができるまでは、美祢線の美祢駅と宇部線・宇部新川駅近くの宇部港駅(後述)間を貨物列車が走り、1978(昭和53)年度には770万トンの輸送量があったとされる。専用道路完成後には鉄道貨物輸送が激減し、1998(平成10)年に宇部港駅を利用しての貨物輸送は消滅した。

 

【小野田線の旅⑩】起点・居能駅には始発終着する列車がない

興産大橋を進行方向右手に眺め、厚東川を渡った小野田線の電車は、間もなく左手から走ってきた宇部線と合流して居能駅へ到着した。

↑小野田線のクモハ123形は居能駅の手前で右に大きくカーブして宇部線と合流する

 

小野田線の起点は居能駅となっているが、あくまで起点駅というだけで、列車の運転は宇部新川駅を始発終着としている。居能駅で宇部駅方面へ乗り換える客がいるものの、駅で下車する人は見かけなかった。

 

ちなみに、宇部市の市街地は宇部新川駅周辺で、山陽本線の宇部駅に代わり、かつて宇部新川駅が宇部駅を名乗っていた時期があったほど栄えていた。シティホテルも宇部新川駅近くに多く設けられている。

 

宇部新川駅の詳細は宇部線の紹介をするとき(2月25日ごろ公開予定)に詳しく紹介するとして、ここでは小野田線の起点、居能駅を紹介しよう。ホームは小野田駅と同じく1・2番線がなく、跨線橋で連絡する3番線が宇部駅・小野田線方面、駅舎側のホームが4番線で宇部新川駅、新山口駅方面の列車が発車する。

↑小野田線の起点となる居能駅の駅舎。改札口の上には列車の接近をランプで知らせる表示板が吊られていた(右上)

 

列車が発車した後、人気(ひとけ)が絶えた居能駅前に立ってみた。駅舎の建築・改築年の詳しい資料がないが、今建っている駅舎は1938(昭和13)年11月6日に移転した時に建てられたままのようだ。レトロといえば聞こえはいいが、何とも説明しにくい状態の駅だった。

↑居能駅の裏手には側線が残されていた。宇部線、小野田線ともに引込線や側線の遺構は工場近くの駅に多く残されている

 

駅の北にある玉川踏切へ行ってみると駅の裏手が望め、複数の線路やポイントが残されていた。この駅からはかつて近くの工場や、宇部市の港湾部、旧宇部港駅などへの貨物線が分岐していた。居能駅は現在、寂しい姿となっているものの、線路が何本も敷かれ、そこを頻繁に貨物列車が通り過ぎた華やかな時代もあったのである。

 

【小野田線の旅⑪】かつて路線が延びていた沿岸部を訪れる

小野田線の創始期に路線を敷設した宇部電気鉄道は居能駅の先、宇部市の港湾部に向けて路線を延伸させていた(掲載地図を参照)。沖ノ山旧鉱(後の宇部港駅の近くにあった)、さらに港へ線路が延び、沖ノ山新鉱という駅まで線路が延びていた。旧鉱、新鉱と名が付けられたように、海岸部には沖ノ山炭鉱との坑口が設けられ、多くの炭鉱住宅が建ち並んでいた。

 

居能駅から港湾部まで走った路線(古くは宇部西線と呼ばれた)の先にあった宇部港駅は1999(平成11)年に貨物列車の運行が廃止となり、駅自体も2006(平成18)年5月1日に廃止となった。

 

宇部伊佐専用道路の開設により石灰石輸送貨物列車が廃止され、他の工場への貨物列車の輸送も消滅。時代が進み、産業構造そのものが変わっていくことは、街の姿や鉄道、輸送体系も変えてしまうことを痛感した。最後に沖ノ山新鉱駅があった付近を訪れたが、一抹の寂しさを感じた旅となった。

↑かつて沖ノ山新鉱駅があった付近を今、宇部伊佐専用道路が走る。大型トレーラーが走る時は踏切が鳴り一般車が遮断される

 

祝開業100周年!珍しい蓄電池駆動電車で巡る「烏山線」深掘りの旅

おもしろローカル線の旅105〜〜JR東日本・烏山線(栃木県)〜〜

 

烏山線は栃木県の宝積寺駅(ほうしゃくじえき)〜烏山駅(からすやまえき)間を結ぶ。今年で開業100周年を迎えるこのローカル線は、日本で初めて蓄電池駆動電車が営業運転に使われた路線でもある。

 

20.4kmの路線はのどかそのもので、田園地帯を走り列車と滝が一緒に撮影できる観光スポットもある。冬の一日、烏山線でのんびり旅を満喫した。

*2011(平成23)年9月8日〜2022(令和4)年12月25日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
【3月3日で消滅】関東地方で最後のキハ40系の聖地「烏山線」−−消える気動車の勇姿と先進的な蓄電池電車を追った

 

【烏山線の旅①】紆余曲折あった開業までの歴史

烏山線は東北本線と接続する高根沢町の宝積寺駅を起点に那須烏山市の烏山駅が終点となる〝盲腸線〟だ。まず路線の概略を見ておこう。

路線と距離 JR東日本・烏山線:宝積寺駅〜烏山駅間20.4km 全線非電化(一部に電化設備あり)単線
開業 鉄道省の官設路線として1923(大正12)年4月15日、宝積寺駅〜烏山駅間が全通
駅数 8駅(起点駅を含む)

 

今年の4月で100周年を迎える烏山線だが、路線を巡る歴史には紆余曲折があった。ポイントを簡単に触れておこう。

 

路線の歴史をたどるにあたっては、まず烏山(現・那須烏山市)の歴史に触れておかなければいけない。烏山は烏山城が15世紀前半に築城されたことから歴史に登場するようになる。城主はたびたび替わったが、江戸時代に烏山藩が設けられ、1725(享保10)年に譜代の大久保常春が3万石に加増され城主となり、その後、幕末まで大久保家の城下町として栄えた。町の東側に那珂川が流れていて、この川が交易に使われたことも大きい。

 

鉄道開業を求める運動は明治時代の終わりから高まりを見せたが、なかなか成就しなかった。地元資本により1921(大正10)年にようやく工事に着手し、その後に鉄道省が引き継ぎ1923(大正12)年4月15日に路線開業となったものの、皇族が亡くなられたこともあり開通式は5月1日と半月ほど引き伸ばされている。

 

その後、国鉄烏山線となり、1987(昭和62)年に国鉄分割民営化によりJR東日本に引き継がれ現在に至る。昨年11月にJR東日本から発表された経営情報によると、2021(令和3)年度の収支データは運輸収入が5900万円に対して営業費用は6億6300万円とマイナス6億300万円の赤字。1kmあたりの平均通過人員は1140人と、1987(昭和62)年度の2559人に比べて55%減少といった具合で状況は厳しい。ただ、JR東日本の路線には烏山線よりも経営状態が悪い路線区間が多いので、今すぐ廃止とはならないように思われる。

 

【烏山線の旅②】実用蓄電池駆動電車EV-301系の導入

次に走る車両に関して見ておこう。現在は下記の車両が走っている。

 

◇EV-E301系

EV-E301系電車は直流用蓄電池駆動電車で「ACCUM(アキュム)」という愛称が付けられている。日本初の営業用の蓄電池駆動電車として2014(平成26)年に導入された。電化区間ではパンタグラフを上げて架線から電気を取り入れて走る一方、非電化区間ではリチウムイオン電池に貯めた電気を使って走行する。

↑蓄電池駆動電車初の営業用車両として誕生したEV-E301系。非電化の烏山線ではパンタグラフを降ろして走行する

 

導入当初、1編成でテスト運転を兼ねての営業運転が行われ、順調な成果をあげたことから2017(平成29)年2月まで3編成が増備されている。烏山線の営業運転以降、JR九州で2016(平成28)年10月19日から交流電化用蓄電池駆動電車BEC819系が筑豊本線(若松線)に、2017(平成29)年3月4日からJR東日本の交流用蓄電池駆動電車EV-E801系が男鹿線(秋田県)に導入されている。

 

画期的なシステムの電車でもあり、環境への負荷が少ないことから車両数の増備が期待されているが、蓄電池の容量が限られていて充電に時間が必要なこともあり、現在は短い路線での運用に限定されている。

↑烏山線を走ったキハ40形はカラーも多彩で人気があった。左上が首都圏色、右上が烏山線カラー、下がキハ40一般色

 

新型蓄電池電車の導入が行われた一方で、それまで走っていたキハ40形1000番台は2017(平成29)年3月3日をもって運用が終了となった。関東地方で最後のキハ40系が運用された区間であっただけに、鉄道ファンの間では惜しむ声が強まったが、山口県を走る錦川鉄道へ1両が譲渡され観光列車として運用され、また3両は「那珂川清流鉄道保存会」(栃木県那須烏山市白久218-1)で保存されている。

 

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【烏丸線の旅③】夕方を除きほとんどの列車が宇都宮駅発に

ここからは烏山線の旅を楽しみたい。烏山線の列車は1日に14往復が走っている。そのうち夕方の3往復を除き、11往復が宇都宮駅の発着となる。宇都宮市と周囲の市町を結ぶ郊外電車という役割も担っているわけだ。

↑宇都宮駅を発車した烏山線用EV-E301系電車。東北本線の電化区間ではパンタグラフを上げて走行する

 

列車の運行間隔は朝夕ほぼ1時間に1本で、日中の10時から14時までは2時間おきとやや時間が空くので注意したい。なお宝積寺駅以外は交通系ICカードが使えない区間で、ワンマン運転のため運転席後ろにある精算機での現金清算となる。

 

宇都宮駅から烏山線の起点となる宝積寺駅までは約11〜14分と近いが、駅前に気になる建物を見つけたので降りてみた。

 

【烏山線の旅④】起点となる宝積寺駅はお洒落そのもの

宝積寺駅(高根沢町)の歴史は古く、1899(明治32)年10月に日本鉄道の駅として開業。駅舎と東西口を結ぶ自由通路は、2008(平成20)年に建て替えられた。隈研吾建築都市設計事務所の設計で、自由通路の外観、内装、特に天井部など、時代の先端を行くデザインのように感じる。ちなみに、この駅のデザインは国際的な鉄道デザインコンペティション「ブルネル賞」で奨励賞を受賞した。

↑宝積寺駅の駅舎と自由通路は隈研吾建築都市設計事務所がデザインしたもの。国際的なデザイン賞も受賞した名建築でもある

 

筆者は駅舎だけでなく東口前の「ちょっ蔵広場」も気になった。こちらも隈研吾氏が「光と風が通り抜けるイメージ」として設計した広場で、壁に大谷石が波状に組み込まれていてる古い米蔵が目を引く。広場にはカフェもあり、元米蔵の「ちょっ蔵ホール」ではライブも開催されている。路面は籾殻(もみがら)を使用して舗装されたそうで、足に優しい感触が伝わってくる。非常に手間をかけて造られた広場ということがよく分かった。

↑宝積寺の東口駅前には古い米蔵を改造した「ちょっ蔵ホール」が建つ。広場の舗装方法も興味を引いた

 

【烏山線の旅⑤】パンタグラフを下げて烏山線へ入線していく

宝積寺という駅名は高根沢町大字宝積寺という字名が元になっているが、木曽義仲の御台所(みだいどころ)だった清子姫が開山した宝積寺に由来するとの説もある。なお宝積寺という寺はすでに現存していないそうだ。

 

宝積寺駅へ到着した烏山線の電車はここで一つの作業を行う。ホームに到着したらパンタグラフを下げるのだ。架線はこの先の烏山線が分岐するポイントまで敷設されているのだが、走行中にパンタグラフの上げ下げはできないため、烏山行き列車は駅でパンタグラフを下げることになる。運転士は下がったことを目視で確認してから列車を出発させる。

↑宝積寺駅に停車する烏山線EV-E301系。ホームに着いた後にパンタグラフの上げ下げの作業が行われる(左上)

 

宝積寺駅を発車した烏山線の列車は、しばらく東北本線の線路を進行方向左手に見ながら走る。右カーブを描き分岐していくが、この先で列車は急な坂を下っていく。左右はのり面(人工的な斜面)となっていて、路線が設けられた際に線路を通すために切り通しにされたことが予測できる。

 

坂を下りると広い平坦な田園風景が目の前に広がっており、この極端な地形の変化が興味深い。調べてみると、宝積寺駅付近は宝積寺段丘という舟状の形をした台地の上にある町ということが分かった。この段丘は現在、宝積寺駅の西側を流れる鬼怒川の流れが造ったと予測されている。太古の鬼怒川は宝積寺段丘の東側を流れていたそうで、烏山線が走る平坦な平野は太古の鬼怒川の流れが造り出したものだったわけだ。

↑東北本線から分岐した烏山線は切り通し部分を走る。この先に下りていくと間もなく平坦な田園地帯が広がる

 

宝積寺駅を発車して5分あまりで下野花岡駅(しもつけはなおかえき)へ着いた。この駅とその先、仁井田駅(にいたえき)の間の広大な空き地が気になった。

 

【烏山線の旅⑥】下野花岡駅〜仁井田駅間の不思議な空間

下野花岡駅を発車するとすぐ右手に見えてくる空き地は、烏山線の南に並行する県道10号線(宇都宮那須烏山線)まで広がっている。古い地図などを見ると大きな建物が何棟も建っていたことが記されているが、この空き地は何なのだろう?

 

ここにはかつてキリンビールの栃木工場があった。31年にわたりビールの生産を続け、今も空き地の西にはキリン運動場という施設が残っている。周囲は木々に囲まれて緑豊かな工場だったようだ。かつて烏山線に沿うように木々が立ち並び、烏山線の車両を撮るのに最適な場所でもあったのだが、1年ほど前に訪れると木々は伐採され、工場の跡地が整地されていた。

↑下野花岡駅のすぐ近くで撮影したEV-E301系。背後の木々は最近、伐採され広大な工場跡地が見渡せるようになった(左下)

 

ビール工場の跡地は長い間そのままになっていたが、この跡地に栃木県に本社を持つ医療機器製造販売メーカーが関連施設の移転を発表している。2024(令和6)年度を目標にしているとされ、烏山線の沿線も大きく変わりそうだ。

 

鉄道ファンとして気になるのは、次の仁井田駅までの区間、右手に残る引込線の跡であろう。これはキリンビール栃木工場の製品出荷用に設けられたもので、工場から仁井田駅近くまで側線が設けられ、1979(昭和54)年から1984(昭和59)年にかけて宝積寺駅〜仁井田駅間の鉄道貨物輸送が行われていた。今は線路も取り外されているが、古い橋梁の跡や車止めなどの施設がわずかに残されている。

↑キリンビール栃木工場の出荷用に設けられた側線の跡。橋の一部や車止め(左下)も烏山線の線路横に残っている

 

【烏山線の旅⑦】北関東の緑に包まれて走る烏山線

朝の列車に乗車すると仁井田駅で驚かされることがある。下車する高校生が非常に多いのだ。駅の北側にある栃木県立高根沢高等学校の生徒たちだ。降り口は先頭のドアのみなので、都会の電車のように効率的な乗降とは言えないが、通学する高校生たちにとって烏山線が欠かせないことがよく分かる。降車にだいぶ時間がかかるが、乗客や運転士にも焦る様子はうかがえない。ローカル線らしい日常の風景に感じた。

 

烏山線はほとんどが平野と丘陵部を走り険しい区間がないものの、仁井田駅を発車すると、この線では数少ない勾配区間にさしかかる。次の鴻野山駅(こうのやまえき)まで最大25パーミルの上り下りがあるのだ。キハ40形が走っていた当時、勾配のピーク区間で列車を待ち受けると、エンジン音を野山に響かせ、スピードを落として坂を上る様子が見うけられた。キハ40形はそれほど非力ではない気動車だったが、やはり勾配は苦手だったようだ。

↑仁井田駅〜鴻野山駅間の勾配区間を走るキハ40形。重厚なエンジン音を奏でて上り坂に挑んだ 2017(平成29)年1月29日撮影

 

現在運行しているEV-E301系の最高時速は65kmだが、速度を落とさずに勾配をあっさりとクリアしていく。蓄電池駆動電車とはいえ、登坂力は強力で電車の強みが遺憾なく発揮されているわけだ。

 

鴻野山駅から大金駅(おおがねえき)まで、田園と木々に囲まれての走りとなる。このあたりは烏丸線の人気撮影地でもあり、訪れる人が多いところだ。

 

到着した大金駅は烏丸線で唯一、上り下り列車の交換施設があるところで、朝夕には列車の行き違いが行われる。金に縁がありそうな駅名のため、以前は乗車券を求めて訪れた人もいたそうだ。今は乗車券の自動販売機がなくなったこともあり、大金駅の名入りの乗車券を購入できない。なお駅の横には、JR東日本宇都宮地区社員が建立し、出雲大社から大黒様をお迎えした大金神社がある。

↑鴻野山駅〜大金駅間を走るEV-E301系。田園風景と森を背景に電車がのんびり走る姿を撮影することができる

 

【信濃路の旅⑧】途中下車するならば滝駅で

烏山線はホーム一つという小さな駅が続く。宝積寺駅、烏山駅以外は駅員不在の無人駅で駅も含めて人気(ひとけ)のない駅が目立つ。滝駅(たきえき)もそんな駅の一つだ。烏山線の6つある途中駅の中で、途中下車するならばこの駅をおすすめしたい。

↑ホーム一つの小さな滝駅。屋根などがきれいに改装されているが、栃木県らしく大谷石を使った古いホームの一部が残る

 

滝駅という駅名のとおりに、駅から徒歩5分、約450mという距離に滝がある。滝の名前は「龍門の滝」。那珂川に流れ込む江川にある滝だ。高さは約20m、幅は約65mという規模を誇る。おもしろいのは、烏山線の列車が滝の上を通る様子が展望台から眺められ、また撮影できること。春には桜、秋には紅葉を入れての写真撮影が楽しめる。

 

この龍門の滝という名前は、大蛇伝説にちなむものとされる。展望台の入口にある太平寺は、作家・川口松太郎の小説「蛇姫(へびひめ)様」のモデルとなった藩主大久保佐渡守の娘、琴姫の墓もある。琴姫を亡きものにしようとした悪い家老から姫を守る黒蛇(琴姫を守り殺された侍女の化身とされる)にまつわる逸話も、地元那須烏山市に残っている。

↑龍門の滝の上部を走る烏山線の列車。展望台には列車が通過する時間の掲示もある(時刻は変わる可能性あるので注意)

 

【烏山線の旅⑨】宝積寺駅から約30分で終着の烏山駅へ到着する

そんな龍門の滝近くを通り過ぎ、列車は大きく左カーブし、烏山の街へ入っていく。起点の宝積寺駅を出発して約30分、終点の烏山駅へ列車は到着した。

 

烏山駅からは路線バス便が市内区間のみと限られていて、他エリアへ足を延ばすことが難しい。そのせいか列車で訪れた観光客は、そのまま折り返し列車を利用して宇都宮方面へ戻る人が多いようだ。列車の折り返し時間はたっぷりとられていて、最短16分から最長で48分という具合だ。筆者は折返し時間を利用して駅周辺を歩いてみた。

↑2014(平成26)年3月に新装された烏山駅。線路は敷かれていないが元線路用地が残されている(左上)

 

今は電気施設が設置されているため、ホームの先20mほどで線路は途切れているが、以前は200m先付近まで線路が延びていた。その線路の跡地らしき空き地が確認できる。昭和中期までは、烏山駅の先を真岡鐵道の茂木駅や水郡線の沿線まで延伸する計画もあったとされる。駅の先に残る跡地は、鉄道最盛期だった時代の夢物語の残照と言ってよいだろう。

 

【烏山線の旅⑩】帰路のための充電をして発車準備を整える

列車の折り返しまで少なくとも16分の時間を設けている烏丸線の列車だが、これには理由がある。蓄電池電車EV-E301系の充電時間なのだ。烏山駅に到着したEV-301系はすぐにパンタグラフを上げて、駅の設備を使って充電を行う。ホームに設けられた充電設備を「充電用剛体架線」と呼ぶ。

 

運転台には「剛体架線」と記された画面がモニターに映し出され、蓄電池にどのぐらいの電気が充電できたか表示される。充電中にモニターには95%という数字が記されていた。この数値は蓄電池への充電の割合を示す値で、発車待ちをする運転士に尋ねると75%以上の値を示せば走行に問題はないそうだ。

↑烏山駅に設けられた充電用剛体架線装置。パンタグラフを上げて、非電化区間を走行するための電気を蓄電池にため込む

 

帰りの非電化区間を走るための充電が完了したEV-E301系。烏山駅のホームに地元のお祭りのお囃子「山あげ祭り」の発車メロディが鳴り終わると、間もなく列車は静かに走り出した。

 

帰りの非電化区間を走るための充電が完了したEV-E301系は、烏山駅のホームに地元のお祭りのお囃子「山あげ祭り」の発車メロディが鳴り終わると、静かに走り出した。

 

ちなみに、烏山線の7駅(宝積寺駅を除く)には、それぞれ縁起のよい「七福神」が割り当てられている。烏山駅は毘沙門天(びしゃもんてん)、滝駅は弁財天という具合で、各駅にはそうした七福神の案内板が掲げられている。この七福神の割り当ては宝積寺、大金という縁起の良い駅名があることから行われた。次に烏山線を訪れたときには大黒天が割り当てられた大金駅に下車して、駅に隣接する大金神社に参拝し、金に縁のある神との良縁を願おうと誓った筆者であった。

↑烏山駅に設けられた毘沙門天の案内看板。烏山線の7駅には縁起のよい七福神の名前が割り当てられ、イラスト入りで紹介される

「しなの鉄道線」沿線の興味深い発見&謎解きの旅〈後編〉

おもしろローカル線の旅104〜〜しなの鉄道・しなの鉄道線(長野県)〜〜

 

東日本で希少になった国鉄近郊形電車の115系が走る「しなの鉄道しなの鉄道線」。沿線には旅情豊かな宿場町や史跡が点在し、興味深い発見や謎に巡りあえる。前回に続き、しなの鉄道線の小諸駅から篠ノ井駅までのんびり旅を楽しみたい。

*2015(平成27)年1月10日〜2023(令和5)年1月2日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
「しなの鉄道線」115系との出会い&歴史探訪の旅〈前編〉

 

【信濃路の旅⑪】眼下に千曲川を眺めつつ鉄道旅を再開

 

小諸は千曲川が長年にわたり造り上げた河岸段丘に広がる町だ。小諸市街と千曲川の流れの高低差は30m〜50mもあるとされる。

 

河岸段丘の上にある小諸駅を発車した列車は、まもなく左右の視界が大きく開ける箇所にさしかかる。左手のはるか眼下には千曲川が流れており、列車から隠れて見通せないが、布引渓谷と呼ばれる美しい渓谷付近にあたる。また、進行方向右手を見れば浅間連峰の烏帽子岳(えぼしだけ)などの峰々を望むことができる。

↑小諸駅近くを走る初代長野色の115系。背景に浅間連峰の山々が連なって見える

 

千曲川の流れに導かれるように、しなの鉄道線は西に向かって走り、その線路に沿って北国街道(現在の旧北国街道)が付かず離れず通っている。北国街道は江戸幕府によって整備された脇街道の一つで、小諸駅の先はやや北を、田中駅からは線路のすぐそばを並走する。

 

【信濃路の旅⑫】宿場町「海野宿」の古い町並みはなぜ残った?

田中駅から徒歩約20分、約1.9km離れたところに、海野宿(うんのじゅく)という北国街道の宿場町がある。細い道沿いに旅籠屋(はたごや)造りや茅葺き屋根の建物、そして蚕(かいこ)を育てた時代の名残である蚕室(さんしつ)造りの建物が連なる。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていて、よくこれだけの町並みがきれいに残ったものだと驚かされる。

↑掘割(左下)と細い道筋の両側に古い家が建ち並ぶ海野宿。「海野格子」などの伝統様式を残した家が多い

 

歴史をひも解くと海野宿は1625(寛永2)年に北国街道の宿として開設された。

 

それ以前は、現在の田中駅近くに田中宿という宿場町があったが、大洪水により被害を受けて本陣や多くの宿が海野宿へ移転したそうだ。千曲川は当時からこの地に住む人を苦しめていたわけだ。海野宿へ移った後は伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と大いに賑わったそうである。海野宿は今も650mに渡って古い家が連なり、宿や飲食店などもあって訪れる観光客が絶えない。

↑田中駅(右上)から海野宿を目指し西へ。しなの鉄道線に沿って遊歩道が整備されている。同歩道は旧信越本線の廃線跡を利用したもの

 

ところで、しなの鉄道線は海野宿のすぐ北を通り抜けているが、信越本線が開業したときに、最寄りになぜ駅が生まれなかったのだろうか。

 

史料は残っていないが、駅の開業を反対する声が上がったのだろう。当時は、蒸気機関車が排出する煙や煤(すす)、火の粉が好まれず、路線開設にあたり各地で反対運動が起こりがちだった。海野宿では蒸気機関車の煙が蚕の害になるといった声も出たようで、こうした反対運動により駅の建設は中止となった。

 

全国に残された古い町並みの共通点として、大規模な開発が行われなかったことがある。駅が開業すれば開発も進むわけで、駅ができなかったことが、海野宿の町並みを残したとも言えるだろう。

 

なお、海野宿から西にある大屋駅(おおやえき)まで徒歩で約18分、約1.4kmと距離がある。しなの鉄道線を利用して海野宿へ行く場合、田中駅、大屋駅の両駅からもかなり歩かなければいけない。

↑海野宿のすぐ北を走るしなの鉄道線。宿場町は田中駅〜大屋駅間のちょうど中間にあり、観光で訪れるのにはやや不便な立地だ

 

【信濃路の旅⑬】千曲川の濁流がすぐ近くまで押し寄せた

江戸時代に洪水が海野宿という宿場町を生み、繁栄させるきっかけになったというが、今も千曲川の豪雨災害は人々を苦しめている。

 

最近では2019(令和元)年10月12日に長野県を襲った台風19号の被害が大きかった。しなの鉄道線の北側を走る国道18号から海野宿まで、線路を立体交差する海野宿橋が架かっていたが、台風19号による豪雨災害で、橋付近の護岸が約400mに渡って崩れ、海野宿橋と東御市(とうみし)の市道部分が崩落。橋が使えなくなってしまった。この台風による影響で、しなの鉄道線も上田駅〜田中駅間が1か月にわたり運休となった。

↑海野宿橋から望む、しなの鉄道線と千曲川(右側)。ふだんは静かな流れだが、豪雨時には周辺地区が氾濫の脅威にさらされる

 

↑海野宿橋と千曲川護岸の復旧工事が進められた2021(令和3)年1月2日の模様。右上は復旧された海野宿橋の現在

 

その後、海野宿橋の復旧工事は2022(令和4)年3月1日に完了。橋が復旧してから海野宿へ訪れる人も徐々に回復しつつあるようだ。

 

ちなみに、台風19号は海野宿の下流でも大きな被害を出している。しなの鉄道線の沿線では、上田駅と別所温泉駅を結ぶ上田電鉄別所線の千曲川橋梁の橋げたの一部が崩落。そのため長期にわたり不通となり、代行バスが運転された。不通となってから約1年半後、2021(令和3)年3月28日に全線の運行再開を果たしたが、台風19号による千曲川の氾濫被害は深刻なものだった。

 

↑上田電鉄の千曲川橋梁は台風19号による千曲川の増水により橋梁が崩落した。左下は復旧後の千曲川橋梁

 

たび重なる豪雨災害で苦しめられてきた千曲川の流域だが、一方で川の恵みもあったことを忘れてはならない。古代から千曲川は水運に使われてきた。木材の運搬だけでなく、川舟による人の行き来も盛んに行われ、この地の文化や歴史を育んできた。ゆえに、しなの鉄道線の沿線では、古くからの人々の足跡を残す史跡も多い。

 

【信濃路の旅⑭】真田家が造った難攻不落の上田城

大屋駅の一つ先、信濃国分寺駅(上田市)の近くには信濃国分寺がある。現在残る信濃国分寺は室町時代以降に再建されたものだが、しなの鉄道線の線路の南北には奈良時代に建立された僧寺跡と尼寺跡があったことが発掘調査で明らかになった。遺跡が発掘された土地は史跡公園として整備され、園内に信濃国分寺資料館(入館有料)が設けられている。

 

奈良時代に聖武天皇が中心となり、各地に国分寺建立を推し進めたが、中央政権はこの上田を信濃の中心にしようと考えていたのだろう。

↑しなの鉄道線の南北に広がる史跡公園。同地で旧国分寺の遺跡が発掘されている

 

一方、上田で今も市民が誇りにしているのが戦国時代の真田家の活躍である。上田駅の北西に残る上田城は真田信繁(幸村)の父、真田昌幸が築城し、攻防の拠点として役立てた。第二次上田合戦と呼ばれる1600(慶長5)年の戦いでは、兵の数で劣る真田軍が上田周辺の地形を巧みに利用して徳川秀忠(後の徳川2代将軍)軍を翻弄。これにより、秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わなかったことがよく知られている。

 

その後、真田家は松代(まつしろ・長野市)に領地を移されたが、今でもその活躍ぶりは上田市民の誇りとなっている。

↑上田城址本丸跡の入り口に立つ東虎口櫓門と南櫓(左側)。この櫓門の下には真田石という巨石が今も残る

 

しなの鉄道線の上田駅から上田城の入口までは駅から徒歩で約12分。900mほどの距離だ。この上田城の入口には二の丸橋が架かっており、橋の下には二の丸をかぎの手状に囲んだ二の丸堀跡が残っている。堀の長さは1163mあり、難攻不落の城の守りの要として役立てられた。

 

二の丸堀跡は現在、「けやき並木遊歩道」として整備されているが、この堀をかつて上田温泉電軌(現在の上田電鉄の前身)の真田傍陽線(さなだそえひせん)が走っていた。二の丸橋のアーチ下には、当時に電車が走っていたことを示す碍子(がいし)が残されている。

↑上田城の二の丸堀跡と二の丸橋。ここに1972(昭和47)年まで電車が走っていた。現在は「けやき並木遊歩道」として整備される

 

【信濃路の旅⑮】坂城駅の駅前に止まる湘南色の電車は?

上田駅から先を目指そう。一つ先の駅は西上田駅で、ホームの横に多くの側線があることに気がつく。この駅から先の篠ノ井駅までJR貨物の「第二種鉄道事業」の区間になっており、2011(平成23)年3月まで石油タンク列車が乗入れていたが、今は西上田駅の2つ先の坂城駅(さかきえき)までしか走らない。西上田駅構内にある側線はそうした名残なのだ。

↑石油タンク車が多く停車する坂城駅構内。ホームから入換え作業を見ることができる

 

石油輸送列車が走る坂城駅に隣接してENEOSの北信油槽所がある。この駅まで石油類が輸送され、ここからタンクローリーに積み換えが行われ北信・東信地方各地へガソリンや灯油が運ばれていく。

 

石油輸送列は、神奈川県の根岸駅に隣接する根岸製油所から1日2便(臨時1便もあり)が運行されているが、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間が途切れて遠回りせざるをえず、輸送ルートは複雑になっている。根岸駅から根岸線、高島線(貨物専用線)、東海道本線、武蔵野線(南武線)、中央本線、篠ノ井線、しなの鉄道線を通って運ばれてくる。それこそ遠路はるばるというわけだ。

 

ちなみに、坂城駅の北信油槽所と線路を挟んだ反対側には、湘南色の電車が3両保存されている。これは1968(昭和43)年に製造された169系で、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間の急勾配区間で、EF62形電気機関車との協調運転が始まったときに導入された。信越本線では急行「信州」「妙高」「志賀」として運行。そのうち「志賀」は現在のしなの鉄道線の屋代駅から先、長野電鉄屋代線(詳細後述)へ乗入れ、湯田中駅まで走っていた列車だ。

↑坂城駅の隣接地で保存される169系S51編成。写真は2018(平成30)年7月14日時のもので塗装もきれいな状態に保たれていた

 

坂城駅の隣接地に静態保存されるのは169系のS51編成で、JR東日本からしなの鉄道に譲渡後に2013(平成25)年4月まで走っていた。ラストラン後に地元の坂城町が譲り受け、ボランティア団体の169系電車保存会会員の手で守られている。3両のうち、「クモハ169-1」と「モハ168-1」は169系のトップナンバーという歴史的な車両でもある。風雨にさらされて保存されているため、車体の状態や塗装が年を追うごとに悪化しがちだが、保存会のメンバーが塗り直しをするなど懸命な保存活動が続けられている。

 

【信濃路の旅⑯】戸倉駅の車両留置線がなぜこんな所に?

坂城駅の一つ先が戸倉駅(とぐらえき)で戸倉上山田温泉の玄関口となる。しなの鉄道線の車両基地がある駅でもあり、鉄道ファンにとっては気になるところだ。

↑しなの鉄道線の車両基地がある戸倉駅。駅前に戸倉上山田温泉の名が入ったアーチが立つ。訪れた日は後ろの山が冠雪して美しかった

 

戸倉駅の車両基地には115系やSR1系が多く留置されていて、周囲を歩くとこうした車両を間近で見ることができる。この車両基地はちょっと不思議な構造になっていて、荒々しい地肌が見える山のすぐ下に電車が留置されているのが興味深い。駅に隣接した留置線から、かなり離れているように見える。

↑戸倉駅構内にある車両基地。周囲を囲む道路から間近に電車が見える。この日は「台鉄自強号」塗装の115系(右側)も停車していた

 

レールの先をたどると車両基地の裏から400mほど2本の線路が延びていて、その先に複数の電車が止められていた。歴史を調べると、この線路は元は駅と戸倉砕石工業の砕石場を結ぶ引込線として使われていたことが分かった。この引込線の跡が今も車両基地の一部として使われていたのだ。

↑旧砕石場への元引込線を利用した線路に115系が停車中。線路のすぐ上の山中では今も砕石事業が続けられている

 

【信濃路の旅⑰】屋代駅に残る長野電鉄屋代線の遺構

戸倉駅の次の駅は千曲駅(ちくまえき)で、この駅はしなの鉄道線となった後に開業した駅だ。しなの鉄道線には西上田駅〜坂城駅にあるテクノさかき駅のように、第三セクター鉄道となってからできた駅が複数ある。なぜ国鉄時代やJR東日本当時に、駅を新たな開設しなかったのか不思議だ。

 

↑屋代駅の年代物の跨線橋。奥までは入れないが、元ホームに向かう跨線橋は台形の形をしていてレトロな趣満点の造りだ(左下)

千曲駅の次が屋代駅(やしろえき)で、地元・千曲市の玄関口でもあり規模の大きな駅舎が建つ。駅舎側1番線ホームと2・3番線ホームの間にかかる跨線橋は、使われていない東側の元ホームまで延びている。

 

この元ホームは2012(平成24)年3月末まで長野電鉄屋代線の電車が発着していた。屋代線は屋代駅と長野電鉄長野線の須坂駅(すざかえき)を結んでいた路線で、スキー列車が多く走った時代には上野駅と志賀高原スキー場の玄関口、湯田中駅を直通運転する急行「志賀」が走った。ちなみに、この列車には坂城駅に保存された169系が使われていた。屋代駅の跨線橋はそんな歴史が刻まれていたわけである。

 

屋代線は屋代駅から先、しなの鉄道線と並行して次の屋代高校前駅方面へ延びていた。今は駅付近のみしか線路が残っていない。なぜ屋代駅構内の屋代線の線路のみが残されているのだろう。

 

これは、屋代駅の隣接地に車両工場があるためだ。長電テクニカルサービスという長野電鉄の別会社の屋代工場があり、屋代線が通っていたときには長野電鉄の車両整備などに使われていた。現在は長野電鉄の路線と離れてしまったために、長野電鉄の車両整備ではなく、線路がつながるしなの鉄道の車両の整備や検査などを主に行っている。そのため、しなの鉄道線との連絡用に元屋代線の線路が生かされていたというわけだ。なお、長野電鉄の車両は、須坂駅に隣接した長電テクニカルサービスの須坂工場で整備が行われている。

 

【信濃路の旅⑱】篠ノ井駅から長野駅までは信越本線となる

屋代駅から北へ向けて走るしなの鉄道線は、次の屋代高校前駅を過ぎると千曲川を渡る。橋の長さは460mあり、列車から千曲川の流れと信州の山々を望むことができる。橋を渡れば間もなく左からJR篠ノ井線の線路が近づいてきて、篠ノ井駅の手前でしなの鉄道線に合流する。

↑篠ノ井駅へ近づくしなの鉄道線の長野駅行き列車。名古屋駅行き特急「しなの」は同位置から分岐して篠ノ井線へ入っていく(右下)

 

しなの鉄道線の下り列車はここから先の長野駅まで走るが、篠ノ井駅〜長野駅間の営業距離9.3kmは今もJR東日本の信越本線のままで、しなの鉄道の電車、JR東日本の電車、JR東海の電車が共用している。長野駅から先の妙高高原駅までは再びしなの鉄道の北しなの線となり、妙高高原駅から先はえちごトキめき鉄道の妙高はねうまラインとなっている。

 

信越本線は高崎駅〜横川駅と、篠ノ井駅〜長野駅、さらに直江津駅〜新潟駅間に3分割されたままの状態で生き続けているわけだ。

 

【信濃路の旅⑲】篠ノ井駅の橋上広場にある〝お立ち台〟

しなの鉄道線の列車は小諸駅から篠ノ井駅まで約40分、長野駅まで約1時間で到着する(快速列車を除く)。

 

しなの鉄道線は篠ノ井駅までということもあり、旅は同駅で終了としたい。改札口から自由通路に出ると、橋上広場のフェンスの前に親子連れの姿があり、手作りの階段に上り、下を通り過ぎる北陸新幹線のE7系、W7系電車を見続けていた。この手作りの階段は、新幹線を楽しむのにはまさに最適な〝お立ち台〟となっている。

↑しなの鉄道線の終点でもある篠ノ井駅。橋上にある広場には新幹線の姿が楽しめる〝お立ち台〟が設けられている。

 

しなの鉄道の路線は長野駅の先にも続いている。また機会があれば長野駅〜妙高高原駅間を走る北しなの線も紹介したい。こちらもしなの鉄道線に負けず劣らず、風光明媚で乗って楽しい路線である。

「しなの鉄道線」115系との出会い&歴史探訪の旅〈前編〉

おもしろローカル線の旅103〜〜しなの鉄道・しなの鉄道線(長野県)〜〜

 

北陸新幹線の開業にあわせ、並行する信越本線は第三セクター鉄道の「しなの鉄道」に変わった。長野県の東信地方、軽井沢駅と篠ノ井駅(しののいえき)を結ぶしなの鉄道線は、中山道(なかせんどう)と北国街道沿いに敷かれた路線だけに残る史跡も多い。

 

のんびり散策してみると、史跡以外にも発見が尽きない路線でもある。そんなしなの鉄道線の旅を2回に分けて楽しんでいきたい。

 

*2015(平成27)年1月10日〜2023(令和5)年1月2日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。写真・絵葉書は筆者撮影および所蔵、禁無断転載

 

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【信濃路の旅①】開業から135年間!東信地方を支える

しなの鉄道の路線は軽井沢駅〜篠ノ井駅を結ぶ「しなの鉄道線」と、長野駅〜妙高高原駅を結ぶ「北しなの線」の2本がある。今回は「しなの鉄道線」を紹介したい。まずは概要を見ておこう。

↑浅間山を見上げるようにして走るしなの鉄道線。軽井沢駅〜御代田駅(みよたえき)間の車窓の楽しみともなっている

 

路線と距離 しなの鉄道・しなの鉄道線:軽井沢駅〜篠ノ井駅間65.1km 全線電化複線
開業 鉄道局の官設路線として1888(明治21)年8月15日、上田駅〜篠ノ井駅間が開業、同年12月1日、軽井沢駅〜上田駅間が延伸開業し、現在のしなの鉄道線が全通
駅数 19駅(起終点駅を含む)

 

前身となる信越本線は、明治政府の威信をかけて建設した関東と信越地方を結ぶ幹線ルートで、軽井沢駅〜篠ノ井駅の区間(開業当時は長野駅まで開通)は路線開業から今年で135年を迎える。

 

同区間は北陸新幹線(当時は長野新幹線)が開業した1997(平成9)年10月1日に、第三セクター経営のしなの鉄道に移管された。

 

現在、しなの鉄道線にほぼ沿うように北陸新幹線が走っており、軽井沢駅、上田駅で乗換えできる。しなの鉄道線の路線は篠ノ井駅までだが、ほとんどの列車(区間運転列車を除く)が篠ノ井駅の先の長野駅まで乗入れ、長野県内、特に東信地方に住む人々の大切な足として活用されている。

 

【信濃路の旅②】横川〜軽井沢間の輸送の歴史と現状は?

群馬県と長野県の県境部分にあたる信越本線の横川駅〜軽井沢駅間は、長野新幹線開業時に廃線となっている。この区間は、しなの鉄道線でないものの、信越本線の成り立ちを語る上で欠かせない区間でもあり触れておきたい。

 

軽井沢駅が誕生した5年後の1893(明治26)年4月1日に横川駅までの区間が開業している。横川駅の標高は386m、対して軽井沢駅の標高は939mで、標高差は約553m、両駅間の距離は11.2kmある。数字だけを見ると険しさが予想できないものの、かつてないほどの非常に厳しい急勾配区間が路線計画の前に立ちふさがった。

 

この急勾配を克服するために導入されたのがアプト式鉄道だった。最大66.7パーミルという急勾配に列車を走らせるために、線路の中央に凹凸のあるラックレールを敷いて、機関車が持つ歯車とかみ合わせて列車を上り下りさせた。当初は専用の蒸気機関車で運行していたが事故やトラブルが目立ち、1912(明治45)年にEC40形という電気機関車が導入された。

↑軽井沢駅に停車する列車を写した大正期発行の絵葉書。先頭に連結されるのがEC40形電気機関車。当時の駅舎が復元され今も使われる

 

EC40形は国有鉄道初の電気機関車だった。電気機関車に変更したものの、アプト式では運行に時間がかかり過ぎるため、1963(昭和38)年に新ルートに変更し、EF63形電気機関車を導入。横川駅側に連結して運転する方式に変更され、1997(平成9)年9月30日まで使われた。

 

横川駅〜軽井沢駅間の急勾配区間の列車運行に活躍したEC40形とEF63形は、現在しなの鉄道線の軽井沢駅構内で静態保存されている。両機関車とも日本の鉄道史を大きく変えた車両と言ってよいだろう。

↑横川駅〜軽井沢駅間で活躍したEF63形電気機関車。横川側に2両が連結され列車の上り下りに活用された 1997(平成9)年9月14日撮影

 

横川駅〜軽井沢駅間の旧路線のアプト区間のうち、群馬県側は遊歩道として整備され、また旧路線の線路も残されている区間が多く、観光用のトロッコ列車などに活用されている。一方、軽井沢側の旧信越本線の路線は、観光用に生かされることなく、北陸新幹線の保線基地や、駐車場などに使われている。

↑しなの鉄道線の軽井沢駅ホームの先の線路は駐車場などの施設で途切れている

 

【信濃路の旅③】国鉄形の115系も徐々に新型電車と置換え

ここからは、しなの鉄道線を走る車両を紹介しておきたい。同線ではちょうど新旧電車の入換え時期にあたっている。まずは古い国鉄形車両から。

 

◇115系

国鉄が1963(昭和38)年に導入した近郊形電車で、同時代に生まれた113系に比べて勾配区間に強い性能を持つ。JR東日本から路線および車両を引き継いだしなの鉄道線では長年にわたり走り続けてきた。

 

115系が生まれてから60年あまり。車歴が比較的浅い車両にしても40年とかなりの古豪になりつつあった。譲渡した側のJR東日本では全車が引退し、東日本で残るのはしなの鉄道のみとなる。

 

しなの鉄道の115系も後継車両が導入され始めたこともあり、すでに多くが廃車となりつつあり、残るのは車内をリニューアルした車両のみとなった。今後リニューアル車両も、徐々に減っていくことが確実視されている。

↑赤色をベースにしたしなの鉄道標準色の115系。開業時は3両編成のみが譲渡され、その後は2両編成も多く導入された

 

◇SR1系100番台・200番台・300番台

しなの鉄道が2020(令和2)年から導入を始めた新型車両で100番台〜300番台まである。100番台はロイヤルブルーをベースにした車両で、ロングシート、クロスシートに座席の向きが変更できるデュアルシートを採用、有料座席指定制の快速「軽井沢リゾート」「しなのサンセット」といった列車に利用されている。

 

車体はJR東日本の新潟地区を走る総合車両製作所製のE129系電車とほぼ同じで、車両製造も総合車両製作所が行っている。車体カラーや内装設備を除き、ほぼE129系と同じというわけである。

↑快速列車として走るSR1系100番台。この車両は2本のパンタグラフがあるが、前側は「霜取りパンタグラフ」として使われる

 

200番台・300番台は赤色ベースの車両で、座席はロングシート部分とセミクロスシート部分が連なる造りで、一般列車用に導入された。番台の数字は2種類あるが、大きな変更点はなく正面に入る番台の数字が変わるぐらいだ。

 

余談ながらSR1系の写真を撮る場合には注意が必要になる。正面上部に付いたLED表示器が速いシャッター速度で撮ると文字が読めなくなるのだ。シャッター速度を100分の1まで遅くしてようやく文字が読めるようになるので、走行中の車両をLED表示器まできれいに撮る場合は「ズーム流し」といったテクニックが必要となる。

 

一方、115系はLED表示器が搭載されていないこともあり、撮影の時に気を使わずに済むのがうれしい。

↑車体の色が赤ベースのSR1形200番台。写真は125分の1のシャッター速度で撮影したもの。かろうじて表示器の「小諸」の文字が読める

 

【信濃路の旅④】人気の懐かしの車体カラー・ラッピング列車は?

しなの鉄道の車両で見逃せないのが、115系「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」だ。数年前までは標準色に加えて、複数の国鉄カラーの115系が走り、沿線を訪れる鉄道ファンを楽しませていた。

 

最新の「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」は下記の通りだ。純粋な国鉄カラーは、初代長野色と湘南色のみとなっている。残念ながらしなの鉄道に唯一残っていた青とクリームの「スカ色(横須賀色)」や、白と水色の「新長野色」の車両は引退となってしまった。

 

現在走っている列車も、新型車両の投入の速さを見ると、数年で乗り納め、撮り納めとなるのかもしれない。

↑4色残る「懐かしの車体カラー・ラッピング列車」。同車両の運行はしなの鉄道のホームページで毎月詳しく発表されている

 

標準色以外の115系といえば、観光列車の「ろくもん」も忘れてはいけない。2014(平成26)年7月から運行が開始された観光列車で、その名は沿線の上田に城を構えた真田家の家紋「六文銭」に由来している。デザインは水戸岡鋭治氏だ。しなの鉄道と水戸岡氏の縁は深く、軽井沢駅などの諸施設のプロデュースやデザインなども担当している。

 

「ろくもん」の車体カラーは真田家の「赤備え」とされる濃い赤。金土日祝日を中心に軽井沢駅〜長野駅間を1日1往復し、食事付き、軽食付きといったプランもあり、車窓とともに地元の食が楽しめる列車となっている。

↑真田家の家紋にちなむ六文銭をモチーフとした観光列車「ろくもん」。軽井沢駅〜長野駅間を約2時間かけてゆっくり走る

 

【信濃路の旅⑤】復元された旧軽井沢駅前に保存される車両は?

ここからはしなの鉄道線の旅を楽しもう。始発駅の軽井沢は、古くから避暑地として知られ、現在は南口に「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」があり、四季を通して多くの観光客が訪れる。

 

本稿では、旧駅舎と駅舎前に保存された小さな電気機関車にスポットを当てたい。軽井沢駅は北口と南口を結ぶ橋上の自由通路があり、しなの鉄道線の改札も自由通路内に設けられている。一方、北口には古い駅舎が建つ。実はこちらは復元された駅舎であり、現在はしなの鉄道線の改札口としても利用されている。

 

旧軽井沢駅には1910(明治43)年築の古い駅舎が残っていたが、新幹線の開業にあわせて解体されてしまった。その後の2000(平成12)年に「(旧)軽井沢駅舎記念館」として復元。その後、しなの鉄道の軽井沢駅としてリニューアルされた。館内にはイタリア料理店もある。自由通路にある改札口に比べて利用する人が圧倒的に少なく、落ち着ける静かな空間となっている。

↑新幹線開業時に一度解体されたが、隣接地に復元された現・しなの鉄道軽井沢駅。近代化産業遺産にも指定されている

 

この古い駅舎のすぐ目の前に三角屋根に囲われ、黒い小さな電気機関車が保存されている。案内板が立っているが、長年の風雨にさらされ文字が消えかかっていて、一見すると何の機関車か分からないのが至極残念である。

 

この機関車は草軽電気鉄道で使われたデキ12形と呼ばれる車両で、アメリカ・ジェフリー社が1920(大正9)年に製造し、発電所建設工事用に日本へ輸入されたものだとされる。その後に同線が電化される時に譲渡されたものだ。草軽電気鉄道の歴史は古く、1915(大正4)年に一部区間が草津軽便鉄道として開業。1926(大正15)年に新軽井沢駅(軽井沢駅前に設けられた)〜草津温泉間55.5kmが全線開業し、その後に草軽電気鉄道と改名している。

↑軽井沢の駅舎前に保存される草軽電気鉄道の古い電気機関車。L字型のユニークなスタイルで1〜2両の客車や貨車を引いて走った

 

当時の資料を見ると、草軽電気鉄道の路線はスイッチバック区間が多い。残された電気機関車を見ても貧弱さは否めず、新軽井沢〜草津温泉間はなんと3時間半ほど要した。ここまで時間がかかると乗る人も少なく経営に行き詰まった。さらに、1950(昭和25)年前後の台風災害で橋梁が流されるなどで一部区間が廃止され、1962(昭和37)年に全線廃止されている。

 

それこそモータリゼーションの高まる前に廃止されてしまったが、大資本が路線を敷設し、高性能な車両を導入したらどのような結果になっていたのだろうか。草軽電気鉄道は現在、草軽交通というバス会社として残り、軽井沢駅北口〜草津温泉間のバスを運行している。現在、急行バスに乗れば同区間は1時間16分で草津温泉へ行くことができる。

↑戦後間もなく発行された草軽電気鉄道の絵葉書。噴煙をあげる浅間山を眺めつつ走る高原列車だった

 

【信濃路の旅⑥】浅間山を右手に見て旧中山道をたどるルート

しなの鉄道線の軽井沢駅発の列車は30〜40分おきと本数が多いものの、日中は長野駅まで走る直通列車よりも、途中の小諸駅止まりの列車が多くなる。しなの鉄道線内のみのフリー切符はなく、軽井沢駅〜長野駅間で使える「軽井沢・長野フリーきっぷ」が大人2390円で販売されている。ちなみに、軽井沢駅〜篠ノ井駅間は片道1470円、軽井沢駅〜長野駅間は片道1670円で、どちらの区間も往復乗車すれば十分に元が取れる割安なフリー切符である。

 

しなの鉄道線は車窓から見える風景が変化に富む。軽井沢から乗車してすぐに目に入ってくるのは雄大な浅間山の眺めだ。3つ先の御代田駅(みよたえき)付近まで浅間山の姿が進行方向右手に楽しめる。

↑軽井沢駅〜中軽井沢駅間から見た浅間山の眺め。右の峰が標高2568mの浅間山だ。写真の新長野色115系はすでに引退となっている

 

景色とともに沿線は史跡が魅力だ。官設の信越本線として線路が敷かれたエリアが、中山道、北国街道と重なっていたせいもあるのだろう。東と西、また日本海を結ぶ重要な陸路だったこともあり、戦国時代には甲州の武田家、上田の真田家といった武将が群雄割拠する地域でもあった。

 

中軽井沢駅、信濃追分駅と軽井沢町内の駅が続く。軽井沢駅から2つ目の信濃追分駅はぜひとも下車したい駅である。

 

駅の北、約1.5km、徒歩20分ほどのところに中山道と北国街道が分岐する追分宿(おいわけじゅく)がある。追分という地名は、街道の分岐点を指す言葉でもあり、この追分宿から佐久市方面へ中山道が、北国街道が小諸市方面に分かれる。現在の追分宿をたどると国道18号から外れた旧中山道の細い道沿いにそば店や老舗宿が点在し、風情ある宿場町の趣を保っている。

↑旧中山道が通り抜ける追分宿。沿道にはそば店(左上)や飲食店が数軒あり、訪れる観光客も多い

 

【信濃路の旅⑦】かつてスイッチバックがあった御代田駅

追分宿に近い信濃追分駅は標高が955mある。標高939mの軽井沢駅よりも高い位置にあるわけだ。信濃追分駅がしなの鉄道線で最も高い標高にある駅とされていて、駅舎にも「当駅海抜九五五メートル」と記した小さな案内がある。ちなみに信濃追分駅はJRの駅以外では最高地点にある駅でもある。

 

信濃追分駅まで坂を上ってきたしなの鉄道線だが、駅から先は右・左へカーブを描きながら坂を下っていく。

↑信濃追分駅〜御代田駅間は浅間山が最もきれいに見える区間として知られる。列車は右カーブを描きながら坂を下っていく

 

次の御代田駅は標高約820mで、わずか6kmの駅間で135mも下っていく。現代の電車ならば上り下りもスムーズに走るが、蒸気機関車が列車を引いた時代は楽な行程ではなかった。

 

横川駅〜軽井沢駅間はアプト式という特殊な運転方法を採用していたために、明治の終わりに早くも電気機関車が導入されたが、軽井沢駅〜長野駅間の電化はかなり遅れ、導入されたのは1963(昭和38)年6月21日のことだった。それまで蒸気機関車が列車の牽引に活躍したわけだが、信濃追分駅〜御代田駅間の急勾配を少しでも緩和しようと、御代田駅はスイッチバック構造となっていた。

 

上り列車はこの駅へバックで入線、釜に石炭を投入して、ボイラーの圧力を高め、煙をもうもうとはきだしつつ軽井沢を目指した。旧御代田駅の構内にはSLが保存されているが、60年前まではSLが走っていたわけである。

↑御代田駅の東側にはスイッチバック構造の旧駅があった。旧駅内の「御代田町交通記念館」にはD51-787号機が保存されている(右下)

 

【信濃路の旅⑧】駅の入口は車掌車のデッキという平原駅

列車は御代田駅を発車すると、ひたすら下り坂を走っていく。水田風景が広がる土地を走り始めると、不思議な地形が見えてくる。

 

進行方向の両側に高くはないが崖が連なり、その上には平たい台地状の土地が広がり住宅地となっている。この付近を流れる小河川によって河岸段丘が造られていたわけである。

 

そんな崖地の間にあるのが無人駅の平原駅で、駅前に民家が一軒のみの〝秘境駅〟の趣がある駅だ。閑散としているが、駅から北東1kmほどのところに旧北国街道の平原宿がある。

↑平原駅の駅舎兼待合室として使われる旧車掌車(緩急車)。元車内は待合室に整備されベンチが置かれる(左下)

 

平原駅はユニークな造りの駅だ。駅の入口には旧車掌車(緩急車)が駅舎兼待合室として置かれている。車掌車が駅舎の駅は北海道ではよく見かけるが、本州ではここのみと言われている。さらに車掌車の前後にあるデッキ部分がホームへの入口として使われているのも興味深い。

 

使われている車掌車は元ヨ5000形で、コンテナ特急「たから号」にも連結された車両だ。今は駅舎となった車両にも輝かしい過去があったのかもしれない。

 

【信濃路の旅⑨】やや寂しさが感じられる小海線接続の小諸駅

水田が広がっていた平原駅を過ぎると、間もなく左手から線路が近づいてくる。この線路はJR小海線のもので、しなの鉄道線に合流した地点に小海線の乙女駅のホームがある。

↑しなの鉄道線に合流するように小海線の列車が近づいてくる。まもなく列車は乙女駅へ到着する

 

乙女駅から並走する小海線は次の東小諸駅に停車するのに対して、しなの鉄道線はこの2駅は止まらない。左右に民家が増え、しばらく走ると小諸駅へ到着する。

 

筆者はこれまでたびたび小諸駅を訪ねたが、かつての賑わいはやや薄れたように感じる。やはり北陸新幹線の駅が、南隣の佐久市の佐久平駅に設けられたからのかもしれない。

↑小諸駅は小海線(右側列車)との接続駅となる。小諸駅の駅舎にはしなの鉄道の社章が付けられている(左上)

 

軽井沢駅発の列車は日中、小諸駅止まりが多いが、到着したホームの向かい側に長野駅行き列車が停まっていて乗り継ぎしやすい(接続しない列車もあり)。

 

小諸駅の駅前を出ると左手に自由通路があり、この通路を渡れば、名勝小諸城址(懐古園・かいこえん)へ行くことができる。元々、信越本線は小諸城址の一部を利用して線路が敷かれたこともあり、駅の目の前に城址があると言ってもよい。

↑小諸城址(左下)で保存されるC56-144号機は小海線で活躍した蒸気機関車。小諸城址は桜や紅葉の名所としても知られる

 

小諸城の起源は古く、平安時代に最初の城が築かれたとされる。戦国時代は武田氏の城代が支配し、その後の豊臣秀吉の天下統一後は小田原攻めで軍功があった仙石秀久5万石の城下となった。徳川幕府となった後は、仙石家は近くの上田藩へ移り、以来歴代藩主には譜代大名が配置された。

 

現在、小諸城址は公園として整備され、小諸市動物園、児童遊園地などの施設がある。さてこの小諸城址、駅の側でなく、西を流れる千曲川を見下ろす側に回ると驚かされることになる。

 

【信濃路の旅⑩】小諸は険しい河岸段丘の上にある街だった

駅付近は至極平坦だった地形が裏手に回ると断崖絶壁になるのだ。小諸は河岸段丘の険しい地形がよく分かる土地だったのだ。

 

明治の文豪、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』で小諸を次のように描いている。

 

「この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ」。

↑藤村も上った御牧ヶ原から市街方面を望む。浅間山、黒班山、高嶺山(右から)がそびえる。御牧ヶ原と市街の間に千曲川が流れる

 

藤村は信越本線がすでに開通していた1899(明治32)年から1905(明治38)年の6年間にわたり小諸で英語教師を勤めた。30歳前後を小諸で暮らしたことが大きな転機になったとされている。そして今も多くの人に記憶される詩を詠んだ。

 

「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ……」

 

遊子とは、小諸城址に立った藤村その人だとされる。藤村が詠んだ歌は「濁り酒 濁れる飲みて 草枕しばし慰む」と結ばれている。若い藤村は宿で濁り酒をひとり飲みながら、旅愁を慰めたとされる。藤村にとって小諸はふと寂しさを感じてしまう土地だったのかもしれない。藤村が現在の小諸を見たらどう感じるのだろうか。

 

次回は小諸駅〜篠ノ井駅の沿線模様を紹介していきたい。

岩国市の名所旧跡と美景を探勝。清流沿いを走る「錦川鉄道」のんびり旅

おもしろローカル線の旅102〜〜錦川鉄道・錦川清流線(山口県)〜〜

 

本州最西端、山口県を走る第三セクター鉄道の錦川鉄道(にしきがわてつどう)錦川清流線。澄んだ錦川沿いを走るローカル線である。この錦川は岩国市の名勝、錦帯橋(きんたいきょう)が架かる川でもある。清流を望む路線を往復乗車し、史跡探訪と錦川の美景を存分に楽しんだ。

 

*2014(平成26)年8月31日、2017(平成29)年9月29日、2022(令和4)年11月26日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【清流線の旅①】全通して60周年となる錦川清流線

まずは錦川清流線の概要を見ておこう。

路線と距離 錦川鉄道・錦川清流線:川西駅〜錦町駅(にしきちょうえき)間32.7km
全線非電化単線
開業 1960(昭和35)年11月1日、日本国有鉄道・岩日線(がんにちせん)川西駅〜河山駅(かわやまえき)間が開業。
1963(昭和38)年10月1日、錦町駅まで延伸開業し、岩日線(現・錦川清流線)が全通
駅数 13駅(起終点駅を含む)

 

元となった国鉄岩日線は、岩国駅と山口線の日原駅(にちはらえき)を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画された。錦町駅までは路線が開業されたものの、錦町駅から先の工事はその後に凍結されている。

↑山陽新幹線・新岩国駅付近を走る錦川清流線。新幹線の駅近くにもこのような里山風景が広がっている

 

その後の国鉄民営化に伴いJR西日本の路線となり、1987(昭和62)年7月25日に第三セクター経営の錦川鉄道へ移管、錦川清流線として開業した。今年は、岩日線の川西駅〜錦町駅が全通開業してから60周年という節目の年にあたる。

全線32.7kmとそれなりの距離のある路線だが、全線が岩国市内を走る路線ということもあり、岩国市が株の半数近くを所有する主要株主となっている。これは全国を走る第三セクター鉄道としては珍しい。それだけ地元の人たちの〝マイレール〟への思いが強い。

 

さらに沿線を路線バスが走らないこともあり、住民の大切な足として活用されている。同社が鉄道事業以外にも市内の公共事業に関わっているという事情もあり、廃止問題とは無縁のローカル線となっている。

 

【清流線の旅②】清流ラッピング車両とキハ40系が走る

次に錦川清流線を走る車両を紹介しよう。2形式の車両が導入されている。

 

◇NT3000形気動車

2007(平成19)年から2008(平成20)年にかけて、新潟トランシス社で4両が新製され導入された。錦川清流線の主力車両で4両ともに色と愛称が異なる。NT3001はブルーの車体「せせらぎ号」、NT3002はピンクの車体「ひだまり号」、NT3003はグリーンの車体「こもれび号」、NT3004はイエローの車体「きらめき号」といった具合だ。4両ともラッピング車両で、錦川にちなんだ草花や、魚や動物たちのイラストが車体に描かれている。

 

車内は転換クロスシートと一部ロングシートの組み合わせで、トイレも付く。運転席の周りには運賃箱と整理券発行機に加えて、消毒液が出る足踏み式の装置が取り付けられていて手が消毒できる。筆者も初めて見る珍しい装置だった。

↑錦川にすむ魚たちの絵が描かれたNT3001「せせらぎ号」。運賃箱の後ろには手が消毒できる装置が付けられている(左下)

 

◇キハ40形

2017(平成29)年に1両のみJR東日本から購入した車両で、元はJR烏山線を走っていた。毎月運行される「清流みはらし列車」といったイベント列車として走ることが多い。ちなみに同社の列車が乗入れる岩徳線(がんとくせん)にはJR西日本のキハ40系が走っているが、こちらは側面窓などの造りが大きく変更されている。錦川鉄道のキハ40形は、国鉄時代のデザインを残すもので、中国地方の鉄道ではレア度が高い車両とも言えるだろう。

↑錦町駅の車庫に停まるキハ40形1009号車。クリーム地にグリーンライン、JRマーク入りと烏山線当時(左上)のままの姿で走る

 

【清流線の旅③】岩国駅0番線ホームから列車は発車する

それでは錦川清流線の旅を始めよう。錦川清流線の路線の起点は川西駅からとなっているが、全列車がJR岩徳線の起点駅、岩国駅に乗入れている。この岩国駅0番線ホームから発車する。

↑2017(平成29)年に新築された岩国駅の駅舎(西口)。駅前から錦帯橋方面への路線バスなども発車している

 

列車の本数は1日に10往復で、全列車が岩国駅から錦川清流線の終点駅、錦町駅間を走る。岩国駅から発車する下り列車は約1時間30分おきに1本の発車だが、11時10分発の次の列車は3時間10分後の14時20分発と、かなり空く。一方、上り列車は錦町駅発が9時54分の次の列車は2時間37分後の12時31分発といった具合だ。日中は本数が少ないダイヤが組まれているので注意して旅を楽しみたい。岩国駅〜錦町駅間の所要時間は1時間5分前後となっている。

 

錦川清流線の川西駅〜錦町駅間の運賃は980円で、岩国駅から乗車すると190円が加算される。錦川清流線内のみ限定ながら、昼の列車の利用時のみ有効な「昼得きっぷ」が往復1200円で、また「錦川清流線1日フリーきっぷ」も2000円で販売されている。「昼得きっぷ」は終点駅の錦町駅で、「錦川清流線1日フリーきっぷ」は車内および錦町駅で購入できる。

↑岩国駅の西口駅舎側にある錦川清流線専用の0番線ホーム。岩国駅の切符自販機でも錦川清流線内行きの切符が購入できる

 

【清流線の旅④】まず因縁ありの岩徳線区間を走る

0番線から発車した錦川清流線の列車は岩徳線の線路へ入っていく。ちなみに岩徳線のホームは1番線なので誤乗車の心配がない。間もなく最初の駅、西岩国駅へ到着する。

 

この西岩国駅は1929(昭和4)年に開設され、当時は岩国駅を名乗った[それまでの岩国駅は麻里布駅(まりふえき)と改名]。西岩国駅は当時の古い駅舎が残っているのだが、筆者が訪れた時はちょうど改修中で、ネットで覆われていたためにその姿を見ることができなかった。改修工事は今年の1月いっぱいで終了するそうだ。ぜひ見ていただきたい味わいのある古い駅舎である。

↑岩国駅を発車後、まもなく岩徳線へ入る。岩徳線のキハ40系が走る同じ線路を錦川鉄道の主力車両NT3000形も走る(左下)

 

岩徳線の歴史がなかなか興味深いので触れておきたい。岩徳線は岩国駅の「岩」と徳山駅の「徳」(路線は櫛ケ浜駅・くしがはまえき まで)を組み合わせた路線名で、山陽本線の短絡線として計画された。距離は岩徳線経由の岩国駅〜徳山駅間の路線距離が47.1kmなのに対して、山陽本線の同区間の路線距離は68.8kmmと21.7kmも長い。

 

麻里布駅(現・岩国駅)〜岩国駅(現・西岩国駅)間の開業が1929(昭和4)年4月5日で、全線開通は1934(昭和9)年12月1日だった。一時は岩徳線を山陽本線にしようとしたために、岩国駅の場所を移し、改名したほどだったが、岩徳線の本線化計画は頓挫する。当時の建設技術では複線化が難しかったのが理由だった。そのため麻里布駅は1942(昭和17)年に岩国駅と再び名を変えている。要は本線になりそこねたわけである。

 

西岩国駅の次が川西駅で、錦川清流線の列車はここまでJR岩徳線を走る。

↑川西駅を発車する岩徳線のキハ40系。同駅は錦川清流線の起点駅であり、また錦帯橋の最寄り駅でもある

 

【清流線の旅⑤】清流線起点の川西駅は錦帯橋の最寄り駅

ホーム一つの小さな川西駅には、ホーム上に錦川清流線の起点を示す「0キロポスト」が立つ。ここが正真正銘の路線の始まりである。

 

錦川清流線の旅を始める前に、すこし寄り道をしておきたい。川西駅は岩国の名勝でもある錦帯橋の最寄り駅だからだ。錦帯橋まで1.3km、徒歩17分で、散策に最適な距離だが、観光客はマイカー利用以外は岩国駅からバス利用が多く川西駅をほぼ利用しない。歩いていたのは筆者ぐらいのものだった。

↑階段を上がった上に川西駅がある。ホーム上には錦川清流線の起点を示す0キロポストが立っている(右下)

 

錦帯橋の歴史と概略を簡単に触れておこう。架けられたのは1673(延宝元)年のことで、今から350年前のことになる。当時の岩国藩主、吉川広嘉(きっかわひろよし)によって現在の橋の原型となる木造橋が架けられた。5連の構造(中央の3連はアーチ橋)で、日本三名橋や、日本三大奇橋とされる名勝だ。何度も改良を重ねた末に、錦川の氾濫に耐えうる構造の橋が築かれた。

 

2代目の橋は276年にわたり流失をまぬがれてきたが、1950(昭和25)年9月14日に襲った台風の影響で橋が流されてしまう。その後の工事で復旧したが、2005(平成17)年9月6日〜7日の台風でも橋が流されている。いずれも複合的な要因が指摘されているが、1950(昭和25)年の流失の原因としては、特に太平洋戦争中に上流域の森林伐採が急速に進み、保水力が落ちたことが指摘されている。

↑岩国藩三代当主・吉川広嘉により原型が造られた錦帯橋。橋を見下ろす山の上に岩国城が立つ

 

山の保水力が落ち、さらに地球温暖化の影響もあるのだろう。錦川清流線は錦川沿いを走っている区間が多いが、この路線もたびたび、錦川の氾濫により影響を受けている。

 

【清流線の旅⑥】山中で岩徳線と分岐して錦川清流線の路線へ

川西駅が錦川清流線の起点駅となっているが、岩徳線としばらく重複して走る。川西駅から眼下に岩国の市街をながめながら山中へ入っていき、道祖峠トンネルを通り抜けて1.9kmあまり、森ヶ原信号場(もりがはらしんごうじょう)で、進行方向右手に分岐していく線路が錦川清流線となる。

↑川西駅から山すそを通り、685mの道祖峠トンネルを過ぎて、岩徳線との分岐ポイント森ヶ原信号場(右上)へ向かう

 

森ヶ原信号場を過ぎると、間もなく一つの橋梁を渡る。こちらは御庄川(みしょうがわ)という錦川の支流にあたる河川だ。このあたりの錦川は岩国城がある山の尾根で流れを阻まれるように北へ大きく蛇行しており、錦川清流線とは離れて走る区間となっている。

 

御庄川橋梁を渡ると、はるか上空に山陽自動車道の高架橋がかかり、まもなく山陽新幹線の高架線も見えてくる。

↑御庄川に架かるガーダー橋を渡る錦川清流線の下り列車。この区間は錦川とかなり離れている

 

【清流線の旅⑦】山陽新幹線の乗換駅ながら質素さに驚く

山陽新幹線の高架線のほぼ下にあるのが清流新岩国駅だ。新岩国駅の最寄り駅となる。JR山陽本線の岩国駅が海岸に近い市街地にあるのに対して、新岩国駅は山の中に開かれ駅だ。今は岩国駅と新岩国駅の両駅が岩国市の玄関口とされているが、駅舎を出るとだいぶ印象が異なる。

 

新岩国駅の駅前には路線バスやタクシーが多くとまり、また近隣の駐車場も入り切れないぐらいの車が駐停車していた。行き交う人も多く、現在は新岩国駅の方がより賑わっているように感じられた。同駅からも前述した錦帯橋行きの路線バスが走っている。

 

新岩国駅から錦川清流線に乗換える人も多いが、最寄り駅とはいえやや離れている。時刻表誌にも「距離300m、徒歩7分」離れているという注釈が入っている。

↑山陽新幹線の新岩国駅駅舎。駅の横に清流新岩国駅へ向かう専用通路がある(左上)。上の案内には200mとあるが実際は300mほどある

 

新岩国駅の駅舎を出ると、山陽新幹線の高架下にそって通路があり、300m進むと清流新岩国駅がある。意外に距離があり、列車に遅れまいと小走りする利用者が多く見うけられた。

 

清流新岩国駅はホーム一つの小さな駅で、待合室は元緩急車の車掌室を改造したものだ。錦川清流線を利用する多くの観光客はこの駅から乗車するが、初めて訪れた人はその質素さに驚かされるに違いない。

 

なお清流新岩国駅は2013(平成25)年までは御庄駅(みしょうえき)という名だった。待合室の上部にはペンキ書きされた古い駅名が残っていて郷愁を誘う。

↑錦川鉄道の清流新岩国駅のホーム。待合室は元緩急車の車掌室を利用、上の高架は山陽新幹線で、新岩国駅はこの左手にある

 

【清流線の旅⑧】路線は錦川に沿ってひたすら走る

清流新岩国駅を発車して間もなく、進行方向右手に錦川が見え始める。岩徳線の西岩国駅〜川西駅間で錦川を渡るが、ここから錦川清流線は錦川沿いを走る区間に入る。守内かさ神駅(しゅうちかさがみ)駅、南河内駅(みなみごうちえき)にかけては、錦川をはさんで対岸に国道2号が走り、南河内駅近くで錦川清流線とクロスする。国道2号をさらに先へ行くと、岩徳線の路線と出会い並行して走り徳山方面へ向かう。

 

国道2号(旧山陽道)がこの地を通るように、錦川清流線および岩徳線が通るルートは、古くから重要な陸路として開かれ活用されてきた。大正昭和期の人たちが岩徳線を山陽本線としようとした理由もここにあった。

 

錦川清流線は行波駅(ゆかばえき)、北河内駅(きたごうちえき)、椋野駅(むくのえき)、南桑駅(なぐわえき)と進むにつれて、蛇行する錦川にぴったりと寄り添うように走る。進行方向の右下は川岸ぎりぎりという区間も多くなる。

↑錦川沿いを走る錦川清流線。写真のように川岸ぎりぎりを走る区間も多い。椋野駅〜南桑駅間で

 

盛土された上や、コンクリートの壁面を作りその上を列車が走るため川面よりもだいぶ上を走る。錦川ははるか下に見下ろす箇所が大半だが、数年ごとに豪雨災害の影響も受けている。

 

錦川清流線は、2018(平成30)年7月にこの地方を襲った「平成30年7月豪雨」により全線不通となり、8月27日に復旧した。昨年の9月18日には台風14号の影響で路線に並走する市道が崩れ落ちたために岩国駅〜北河内駅間が運休、11月14日にようやく復旧を終えたばかりである。

 

【清流線の旅⑨】観光列車でしか行けない錦川沿いの秘境駅

川が近くを流れるということは、列車からの景色が美しいということにもなる。それが錦川清流線の魅力にもなっている。

 

錦川側の風景ばかりではない。北河内駅〜椋野駅間には「錦川みはらしの滝」、椋野駅〜南桑駅間には「かじかの滝」と2本の滝が山から流れ出している。両スポットでは列車がスピードダウンして、それぞれの滝の解説が車内に流れる。観光客が多く乗車することを意識してのことだろう。

↑南桑駅付近を走る上り列車。このように線路のすぐ下を錦川が流れる区間が多い

 

さらに南桑駅〜根笠駅(ねがさえき)間にはとっておきの駅がある。清流みはらし駅と名付けられた臨時駅だ。清流みはらし駅は川沿いにホームのみがある臨時駅で、道は通じていない。錦川のパノラマ風景を楽しむために造られた駅で、キハ40形で運行される観光列車「清流みはらし列車」のみこの駅へ行くことができる。

↑南桑駅を発車する下り列車。次の駅が観光列車しか停らない清流みはらし駅(左上)だ

 

同列車は昨年秋、災害により路線が不通となり運転されなかったが、次回は2月4日(土曜日)に走る予定だ。往復運賃+昼食お弁当を含み5000円で1日30名のみ限定だが、機会があればぜひとも乗ってみたい、そして訪れてみたい川の上の臨時駅である。

 

【清流線の旅⑩】終点・錦川駅の先には未成線の路線が延びる

河山駅(かわやまえき)、柳瀬駅(やなぜえき)と錦川を見下ろす駅を通り、錦川橋梁を越えれば終点の錦川駅に到着、三角屋根の駅舎が旅人を出迎える。

 

錦川鉄道が発行する「鉄印」はこの駅のみの取り扱いで、スタンプ+キャラクター「ニシキー」(岩国市特産品を食べる絵)や書き置き印といったバラエティに富んだ「鉄印」を用意している。

↑錦川鉄道の本社がある錦町駅舎。2階には観光・鉄道資料館があり、古い岩日線の写真などが展示されている

 

錦町駅の構内には車庫があり、乗車したNT3000形以外のカラー車両とキハ40形が停車している姿を見ることができる。戻る列車の発車時間まで余裕がある場合には、ぐるりと駅を一回りするのも良いだろう。車庫や検修庫を裏側から見ることができる。

↑錦町駅隣接の車庫と検修庫。乗車できなかった車両もここで確認することができる

 

錦町駅から先には岩日線の未成線区間を利用した観光用トロッコ遊覧車両が運転されている。「とことこトレイン」と名付けられた列車で錦町駅と、そうづ峡温泉駅間の約6kmを走る。

 

てんとう虫を見立てたデザインの「ゴトくん」、「ガタくん」というかわいらしいネーミングの車両を利用し、路線内には蛍光石で装飾された「きらら夢トンネル」という装飾トンネルを走るなど、親子連れにぴったりな乗り物だ。片道40〜50分で、基本は週末と特定日の運行、往復1200円だが、錦川清流線の利用者は割引となる。そうづ峡温泉には日帰り温泉施設「SOZU温泉」もある。「とことこトレイン」は冬期(12月〜翌3月下旬)運休で、4月以降に運転が再開される予定だ。

↑錦川清流線の線路の先に設けられたとことこトレインの錦町駅。電動の動力車+客車2両で運行される(左上)

 

乗車した錦川清流線では錦川の清涼感が感じられ、錦帯橋を含め爽やかな気持ちになった。次回に訪れた時には、観光列車に乗車しなければ下車できない「清流みはらし駅」や、改修された「西岩国駅」にも訪れてみたいものである。

路線は「鉄道文化財」だらけ!「区間は町のみ」で頑張る「若桜鉄道」にローカル線の光明を見た

おもしろローカル線の旅100〜〜若桜鉄道若桜線(鳥取県)〜〜

 

鳥取県の東部を走る若桜鉄道(わかさてつどう)。走る区間は2つの町のみという地方ローカル線だが、筆者が訪れた日は多くの来訪者で賑わっていた。人気イベントが開かれた日に重なったこともあったが、路線を応援しようという沿線の熱意が感じられた。そんな山陰の〝元気印〟の路線をめぐった。

 

*2014(平成26)年9月1日、2016(平成28)年4月16日、2018(平成30)年4月20日、2022(令和4)年10月30日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【若桜の鉄旅①】市は通らずとも〝頑張っている〟という印象

第三セクター方式で経営される若桜鉄道若桜線は、八頭町(やずちょう)と若桜町の2つの町のみを走る。鳥取市などの市は通っていない。走るのが町村のみの第三セクター鉄道はほかに四国を走る阿佐海岸鉄道、熊本県を走る南阿蘇鉄道などあるが非常に稀だ。人口が少ない地域を走る路線はそれだけ存続が難しいわけである。若桜鉄道若桜線の概要を見ておこう。

路線と距離 若桜鉄道若桜線:郡家駅(こおげえき)〜若桜駅間19.2km 全線非電化単線
開業 1930(昭和5)年1月20日、郡家駅〜隼駅(はやぶさえき)間が開業、12月1日、若桜駅まで延伸開業
駅数 9駅(起終点駅を含む)

 

若桜線はちょうど今から100年前の1922(大正11)年に「鳥取県郡家ヨリ若桜ヲ経テ兵庫県八鹿(ようか)附近ニ至ル鉄道」として計画された。八鹿は山陰本線の豊岡駅〜和田山駅の中間部にある駅で、鳥取県、兵庫県の山間部を越えて両県を結ぶ路線として計画されたわけである。

 

この若桜線が造られた当時は、戦時色が強まる中で山陰本線が敵から攻撃を受けた時に備えて計画されたバイパス線の一部だった。しかし、若桜駅までの路線は開業したものの、路線は延ばされず典型的な行き止まりの〝盲腸線〟となった。

 

1981(昭和56)年に第一次廃止対象特定地方交通線として廃止が承認されたが、地元の熱心な存続運動が実り、1987(昭和62)年に第三セクター鉄道の若桜鉄道への転換が行われた。2009(平成21)年には上下分離方式による運営に変更され、現在は若桜町、八頭町の2つの町が若桜線を所有する第三種鉄道事業者となり、若桜鉄道は列車の維持、運行を行う第二種鉄道事業者となる。要は鉄道会社の負担をなるべく減らすように工夫されたわけである。

↑若桜駅で配布されていた印刷物。鉄道文化財、マップ、さらに隼車両の紹介などと豊富。下は「1日フリー切符(760円)」など

 

こうした仕組みのせいか、他の第三セクター鉄道に比べると〝自分たちの鉄道〟という意識、地元の熱意がより感じられる。例えば上記の写真のように、さまざまなPR用の印刷物などが駅で提供されている。ローカル線は、こうしたPR用の印刷物まではなかなか手が回らないところも多いが、少しでも鉄道のことを知ってもらうために、こうした活動は大切だと思う。

 

【若桜の鉄旅②】車両はリニューアルされ新しい印象だが

次に走る車両に関して紹介しよう。筆者は若桜鉄道に4度訪れているが、そのつど車両が新しくなったと感じる。同社の積極性が感じられる一面だ。

 

◇WT3000形

若桜鉄道の車両形式は頭に「WT」が付いている。「W」は若桜、「T」は鳥取を意味している。4両の車両が在籍しているが、うち3両はWT3000形となる。

↑郡家駅を発車するWT3000形。写真の車両はWT3004「若桜」で、車内は木を多用したお洒落な造りに改造されている(右上)

 

このWT3000形は若桜鉄道が開業した当時に導入したWT2500形のエンジン、変速機、台車など主要部品を変更した車両だ。WT2500形が導入されたのが1987(昭和62)年のことで、WT3000形への改造は2002(平成14)年から翌年にかけて行われた。

 

さらに、WT3000形は2018(平成30)年から2020(令和2)年にかけて、3両すべてが観光列車にリニューアル工事が行われた。デザインは水戸岡鋭治氏で、車内には木を多用、座席も赤青緑とカラフルなシートに変更され、お洒落な車両となった。WT3001は「八頭(やず)、WT3003は「昭和」、WT3004「若桜」と沿線の町名などが付けられている。なお、改造されたWT2500形のうち2502号車はすでに引退し、その車両番号を引き継ぐWT3002は欠番となっている。

↑WT3000形はそれぞれ色変更、名前の違う観光列車として改造された。左はWT3001「八頭」、右はWT3003「昭和」

 

第三セクターの鉄道において、路線が誕生したころの車両が2度も改造され、今も活躍しているというのは珍しい。新車両を導入するのではなく、改造により経費を浮かしているわけだ。

 

◇WT3300形

2001(平成13)年にWT2500形の予備車両として導入された車両で、イベント対応のためカラオケ設備などが取り付けられている。一部座席は回転式で、車内に会議スペースが設けられるように工夫もされている。

 

現在はスズキの大型バイク「隼(ハヤブサ)」のラッピングが施されており、隼ファンに人気となっている。

↑郡家駅に停車するWT3300形、車両全体に大型バイク「隼」のラッピングが施されている

 

【若桜の鉄旅③】さまざまな会社の車両が走る起点の郡家駅

若桜線の起点となる郡家駅(こおげえき)から沿線模様を見ていこう。「郡家」はかなりの難読駅名だ。どのような理由からこのような名前が付いたのだろう。2005年(平成17)年に周辺町村と合併したことで、現在は八頭町となっているが、それ以前には郡家町(こおげちょう)だったことからこの駅名が付けられた。郡家は元々、高下(こおげ)と書いたそうだ。律令制の時代に郡司が政務を行う郡家(ぐんけ)が置かれていたため、高下がいつしか郡家(こおげ)となったと考えられている。

↑三角屋根のJR郡家駅。駅前には「神ウサギ」の石像が立つ。地元に伝わる神話時代の恋のキューピット「白兎伝説」にちなむ(右上)

 

郡家駅を通るのはJR因美線(いんびせん)だ。旅行者にとって読みにくい郡家駅だが、因美線もなかなか読みにくい路線名である。しかも運転体系が分かりづらいので簡単に触れておこう。

 

因美線は鳥取駅を起点に、岡山県の東津山駅まで走る70.8kmの路線である。近畿地方や岡山から鳥取へのメインルートとして使われる路線だが、幹線として機能しているのは鳥取駅〜智頭駅(ちずえき)間31.9kmのみ。残りの路線は、列車本数が非常に少ない超閑散路線となる。その理由は智頭駅から先、山陽本線の上郡駅(かみごおりえき)までの間を智頭急行智頭線が走るため。この路線が1994(平成6)年12月3日に開業したことにより、鳥取方面行きの特急列車の大半が同線を通るようになり、幹線として機能するようになった。

 

よって、因美線を走る車両も鳥取駅〜智頭駅間と、智頭駅〜東津山駅間では大きく異なる。鳥取駅と智頭駅間では複数の会社の車両が走り華やかだ。鳥取駅〜智頭駅のちょうど中間にある郡家駅も例外ではない。

 

まず、JR西日本の車両はキハ187系・特急「スーパーいなば」、普通列車にはキハ47形やキハ121形・キハ126形が使われる。JR西日本の車両を利用した列車は非常に少なく、郡家駅では第三セクター鉄道の智頭急行の車両を良く見かける。特急「スーパーはくと」として走るHOT7000系、普通列車として走るHOT3500形だ。普通列車はみな鳥取駅まで、特急列車はその先の倉吉駅(鳥取県)まで走っている。

↑郡家駅始発の若桜線の列車は1番線から発車。3番線はキハ121形・126形で因美線では1往復のみの運用と希少な存在だ

 

若桜鉄道の列車は1日に14往復の列車が郡家駅〜若桜駅間を走っている(土曜・休日は13往復)。そのうち6往復がJR因美線を走り、鳥取駅まで乗り入れをしている。つまり、若桜線は鳥取市の郊外ネットワークに組み込まれている路線というわけだ。沿線の2つの町だけでなく、鳥取県と鳥取市が出資を行う若桜鉄道だからこそ、可能な運用ということもできるだろう。

↑智頭急行のHOT3500形が郡家駅に入線する。同じ線路を若桜鉄道のWT3000形も利用、鳥取駅まで乗り入れる(右上)

 

【若桜の鉄旅④】鉄道文化財が盛りだくさんの若桜鉄道沿線

筆者は朝6時54分に郡家駅を発車する始発列車で、まず若桜駅へ向かった。ちなみに郡家駅舎内にあるコミュニティ施設「ぷらっとぴあ・やず」の観光案内所(9時15分〜18時)で「1日フリー切符(760円)の購入が可能だ。営業時間外は終点の若桜駅まで行っての購入が必要となる。

 

若桜鉄道の見どころの中でまず注目したいところは、若桜鉄道に多く残る「鉄道文化財」であろう。若桜鉄道では2008(平成20)年7月に沿線の23関連施設が一括して国の登録有形文化財に登録されている。一括登録という形は珍しく全国初だったそうだ。開業時に設置されたものが大事に使われてきたものも多い。「若桜鉄道の鉄道文化財」というパンフレットが駅などで配付されているので、それを見ながら列車に乗車するのも楽しい。

 

郡家駅の一番線を発車した若桜駅行きの列車は、JR因美線の線路から別れ、左にカーブして最初の駅、八頭高校前駅(やずこうこうまええき)に停車する。この日は休日、しかも始発ということで学生の乗車はなかったものの、駅のすぐ上に校舎があり通学に便利なことがよく分かる。同駅は1996(平成8)年10月1日の開業で、国鉄時代にはなかった駅だった。

↑第一八東川橋梁を渡る下り列車。撮影スポットとして人気の橋だ。写真は「さくら1号」と呼ばれていた頃のWT3001号車

 

八頭高校前駅を発車すると左右に水田や畑が見られるようになる。そして最初の鉄橋、第一八東川(はっとうがわ)橋梁を渡る。この橋梁は若桜鉄道では最長(139m)の鉄橋で、路線開業の1929(昭和4)年に架けられたものだ。橋げたはシンプルなプレートガーダー橋だ。この橋も国の登録有形文化財に登録されている。ちなみに八東川は鳥取南東部を流れる千代川(せんだいがわ)水系の最大の支流で、若桜鉄道はほぼこの川に沿って走り、第一から第三まで3つの橋梁が架けられ、いずれも国の登録有形文化財となっている。

 

【若桜の鉄旅⑤】早朝から隼駅には時ならぬカメラの放列が……

川を渡ると間もなく因幡船岡駅(いなばふなおかえき)へ。ホーム一つの小さな駅だ。因幡船岡駅を過ぎると線路の左右には水田や畑が連なる。

 

隼駅のホームが近づく。列車が7時2分到着と早朝にもかかわらず、ホームにはカメラの放列が。鉄道ファンではなく、ライダースーツを着た一団だった。

↑木造駅舎の隼駅も本屋とプラットホームが国の有形登録文化財に登録されている。バイクライダーに人気の高い駅でもある

 

隼駅はスズキの大型バイク「隼」と名前が同じということもあり全国からライダーが集う駅でもある。いわば〝聖地巡礼〟の地。訪れた日は朝早くからホームは賑わっていた。筆者が乗車していた隼ラッピングの車両と、隼駅を一緒に撮ろうとしていたようである。筆者はこの隼駅には降りず、終点の若桜駅を目指した。

 

こも隼駅に加え、安部駅、八東駅(はっとうえき)は平屋の木造駅舎が残っており本屋とプラットホームがいずれも国の登録有形文化財だ。

↑質素な造りの安部駅の本屋。同駅には2つ集落に対応するように2つの出入り口が設けられている

 

3駅の中では安部駅の名前の由来と本屋の構造が興味深い。本屋には2つの玄関口がある。これは「安井宿」と「日下部」という駅近くの2つの集落に配慮したものだという。「安井宿」は駅の北、八東川を渡った国道29号沿いにある宿場町の名であり、「日下部」は駅近くの国道482号沿いにある集落の名だ。駅名の安部も「安井宿」の「安」と「日下部」の「部」を合わせたもの。集落に均等に対応しようという配慮が駅の開業当時にあったわけだ。

 

【若桜の鉄旅⑥】いくつかの鉄橋をわたって終点の若桜駅へ

安部駅の次の八東駅は同路線内で唯一の上り下り列車の交換機能を持つ駅となっている。列車増発のために2020(令和2)年3月14日にホームを2面に、線路も2本に拡張された。加えて同駅の1番線ホームに隣接して古い貨車が置かれ、今では非常に珍しくなった貨物用ホームがある。この貨物用ホームは若桜線SL遺産保存会が再整備、復活した施設である。引込線のレールも新たに敷設され、ワフ35000形有蓋緩急車(列車のブレーキ装置を備えた車両)が停められている。

 

八東駅では今年の11月13日に動態保存されている排雪モーターカーのTMC100BS形と緩急車を連結して走らせるという試みが行われた。TMC100BS形は兵庫県の加悦(かや)SL広場で保存されていたもので、同SL広場が2020(令和2)年に閉園した時に無償譲渡されていたものだった。今後、八東駅構内では排雪モーターカーと緩急車の運行を定期的に行っていきたいとのことだ。

↑八東駅の貨物用引込線と貨物用ホーム。車掌車としても使われた有蓋緩急車が保存されている。案内板も設置されている

 

八東駅を発車すると間もなく長さ128mの第二八東川橋梁を渡る。この橋も国の登録有形文化財に登録されている鉄橋で、第一八東川橋梁と構造はほぼ同じだが、当時の標準設計だった「達540号型」だそうだ。ちなみに同橋梁の下流には「徳丸どんど」という名前の小さな滝がある。川の流れの途中に自然にできた滝(規模的には段差に近い)で非常に珍しいものだ。

↑徳丸駅近くの第二八東川橋梁を渡るのはWT3300形+WT3000形連結の下り列車。WT3300形の隼ラッピングは旧デザインのもの

 

徳丸駅の次が丹比駅(たんぴえき)で、この駅も本屋とプラットホームが国の有形登録文化財に登録されている。屋根の支柱にはアメリカの鉄鋼王カーネギーが創始したカーネギー社の輸入レールが今も残っている。

 

平野部をゆったり走ってきた若桜線だが、丹比駅を過ぎると南から山がせりだし、その山肌に合わせるかのように若桜線、国道29号、八東川が揃って右カーブを描いていく。そして列車は八頭町から若桜町へ入る。若桜町は山あいの町ながら、工場も建ち繁華な趣だ。間もなく町並みが見え始め、郡家駅から所要35分で終点、若桜駅へ到着した。

 

【若桜の鉄旅⑦】給水塔や転車台&SLと見どころ満載の若桜駅

木造平屋建ての若桜駅も本屋とプラットホームが国の登録有形文化財に登録されている。筆者は4年ぶりに訪れたが、外観は変わらないものの待合室などがすっかりきれいになっていた。WT3000形と同じ水戸岡鋭治氏のデザインで改修されたことが分かる。

↑若桜鉄道の終点・若桜駅。木造平屋建ての本屋の外観は変わりないものの、待合室(右上)に加えてカフェも設けられた

 

若桜駅の構内にはC12形蒸気機関車やDD16形ディーゼル機関車が動態保存され、古い給水塔、転車台、複数の倉庫がならぶ。これらの施設のほか、保線用車両の諸車庫、線路隅に設けられた流雪溝なども国の登録有形文化財に登録されている。このスペースの見学には入場券300円が必要となるが、若桜駅へ訪れた時には立ち寄って見学しておきたい。

 

このように若桜駅にある施設のほとんどが国の登録文化財であり〝お宝〟というわけ。博物館でしか見ることができないような鉄道施設が、今も大事に残されている。

↑若桜駅構内で保存されるC12形蒸気機関車とDD16形ディーゼル機関車。この右側に転車台(左上)や倉庫、諸車庫などがある

 

【若桜の鉄旅⑧】若桜を散策すると気になる光景に出合った

若桜駅に到着したのが朝の7時29分のこと。8時25分発の上り列車で戻ろうと計画していたこともあり、列車の待ち時間を有効活用し、転車台や、給水塔などを見て回る。さらに駅周辺を探索してみた。

 

若桜町は古い街道町でもある。若桜鉄道に並行して走るのが国道29号で、鳥取と姫路を結ぶ主要国道でもある。明治時代の初期に整備された陰陽連絡国道の1本でもあり、鳥取県側では若桜街道、播州街道とも呼ばれてきた。国道29号を若桜町の先へ向かうと、戸倉峠の下、新戸倉トンネルを越えて兵庫県宍粟市(しそうし)へ至る。若桜町は県境の町でもあるのだ。古い町並みとともに木材輸送の拠点でもあり、切り出された木材の集積場なども街中にある。

↑若桜駅の近くには木材の集積基地が点在している。駅の南側には蔵通り、陣屋跡、昭和おもちゃ館(右上)などがある

 

若桜駅の先に伸びる線路がどうなっているか、気になって歩いてみた。線路は「道の駅若桜 桜ん坊」の裏手で途切れていたが、ここに気になる車両が停められていた。

 

国鉄12系客車と呼ばれる3両の客車で、若桜鉄道へはJR四国から2011(平成23)年に4両が譲渡されたのだが、そのうちの3両が停められていた。若桜駅構内でC12形が保存されているが、この車両は圧縮空気を動力にして走らせることができる。この機関車と12系客車を連結して2015(平成27)年に「走行社会実験」が行われていた。筆者はその翌年に同客車を若桜駅で見かけたが、当時は塗り直されたばかりで今にもSLにひかれ走り出しそうな装いとなっていた。しかし、SLを本線で運転させる計画は実現せず、当時の客車が塗装状態も悪くなりつつも、線路の奥で保存されていたわけだ。全国でSL列車の運行が活発になり、若桜線SL遺産保存会といった団体を中心に復活運動を続けてきたが、SLの運行はなかなか難しかったようである。

↑若桜駅の先、線路の終端部に停められている12系客車3両。ほか1両の12系客車は隼駅構内に停められている

 

【若桜の鉄旅⑨】帰路は隼駅でイベント風景を見学する

若桜駅から8時25分発の上り列車で隼駅へ戻る。9時ごろ駅に到着したのだが、駅前は非常に賑わっていた。

 

2008(平成20)年、あるバイク専門誌が「8月8日ハヤブサの日」に隼駅に集まろうと呼びかけた。徐々に全国の「隼」愛好家たちが集まるようになり、2018(平成30)年8月8日には2000台もの「隼」が終結したという。その後、コロナ禍でイベントを開催できないようになっていたが、ようやく制限も解除されて今年は10月30日に「ハヤブサの日」が開催されたのだった。この日に集まったのは約1200台。ナンバーを見ると近畿地方、中国地方はもちろん、遠く九州、東北地方のナンバーを付けた隼が終結していた。

↑朝早くから隼駅前で記念撮影をしようと並ぶライダーたち。駅前には「ようこそ!隼駅へ!」という案内もあり人気だった(右下)

 

鉄道ファンも熱心だと思うが、バイク好きの人たちの熱意もすごいと感じる。取材しようと訪れたメディアも多かった。また、駅前には記念品販売のブースも設けられ、元駅の事務室にも「若桜鉄道隼駅を守る会」の売店(土日祝日のみ営業)がある。こちらでも土産品や、隼駅のみで販売している鉄道グッズなどがあり多くの人が立ち寄っていた。

↑隼駅の元事務室を利用した「隼駅を守る会」の売店。入口には古い秤などが置かれ趣がある

 

↑隼駅構内には元北陸鉄道のED301電気機関車と元JR四国で夜行列車に利用されていた12系客車が保存されている

 

【若桜の鉄旅⑩】鉄道好きには「隼駅鐵道展示館」がおすすめ

隼駅の構内にはかつての備品倉庫を利用した「隼駅鐵道展示館」もある。同展示館の開館は4〜11月の第三日曜日の10〜16時のみだが、この日は催しに合わせて開いていた。

 

「隼駅鐵道展示館」には大きな鉄道ジオラマが設けられ、また古い鉄道用品などが保存展示されている。筆者はこの日の催しを撮り終えた後、「隼駅鐵道展示館」で古い若桜線をよく知る地元の方との鉄道談義を楽しんだ。

↑隼駅の駅舎に隣接した「隼駅鐵道展示館」。大型ジオラマ(左下)を設置、ほか多くの貴重な鉄道資料などが展示保存されている

 

その方によると「若桜駅に保存されるC12よりもC11がよく走っていた」とのこと。季節によっては「客車と貨車を連結した混合列車が多く走った」そうだ。「隼駅でも米俵の積み込み作業をしていた」と懐かしい話をふんだんに話していただいた。転車台を利用せずに、C11がバック運転で引いた列車もあったそうだ。貨物輸送が行われた当時はさぞや若桜線も賑わっていたことだろう。「その賑わいが今は消えてしまって……」と、その方もやや悲しげな表情に。外国からの木材輸入が増えて、若桜の木材の需要も減ったことに伴い、若桜線の貨物輸送も消滅してしまった。

 

さらに木材の輸送は鉄道からトラックへ移行していく。そんな時代の流れが若桜線を飲み込んだわけだが、一方で、若桜線沿線に住む人たちの鉄道存続への熱意は消えていなかったと言えるだろう。隼イベントなどの多くの催しを開くことにより、沿線の活気は一時とはいえ蘇っているのである。こうした催し物は、地元の人たちの協力と熱意があってこそ成り立っているように思える。

 

若桜線の乗客増加にはすぐには結びつかないかも知れないが、認知度は確実にあがるだろう。ローカル線の廃線が全国で続き、存続が危ぶまれる路線も多いなか、現在の若桜線の姿にはローカル線の一筋の光明を見るようだった。

↑隼駅に到着する隼ラッピングのWT3300形。ライダーたちに大人気の車両だ。若桜線内だけでなく鳥取駅にも乗り入れている

 

連なる鳥居に宍道湖の眺め、そして出雲大社−−“映える”「ばたでん」歴史&美景散歩

おもしろローカル線の旅99〜〜一畑電車(島根県)〜〜

 

連なる赤い鳥居の先を横切る電車、背景には低山と青空が写り込む。ばたでんこと島根県を走る一畑電車らしい光景である。こうした〝映える〟光景が点在する一畑電車の沿線。今回は北松江線の一畑口駅から終点の松江しんじ湖温泉駅までの区間と、大社線の川跡駅(かわとえき)から出雲大社前駅間の注目ポイントをめぐってみたい。

*2011(平成23)年8月1日、2015(平成27)年8月23日、2017(平成29)年10月2日、2022(令和4)年10月29日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【ばたでん旅が続く①】斬新な券売機に悪戦苦闘!

一畑口駅は前回紹介したように、平地なのにスイッチバックする珍しい駅である。この駅から松江しんじ湖温泉方面への電車に乗ろうと駅舎へ。筆者は「1日フリー乗車券」を購入したので、切符を新たに買う必要がなかったが、高齢の女性が券売機の前で困り果てていたので手助けすることに。

 

一畑電車の主要駅には最新型の券売機が取り付けられている。筆者も初めて目にした券売機だったが、手助けしようとしてスムーズいかずにまごついてしまった。一畑口駅へやってくる前にも、電鉄出雲市駅でも切符が購入できず駅員に聞いている女性を見かけたのだが、なぜだろう。

 

考えられるのは、切符を買うまでの選択が多いことだ。まずは片道か往復かのボタン選択。次に行先の駅にタッチすると何枚必要か画面に表示されるので、1人ならば「1」を押す。筆者もここまではできたのだが、今度はコイン投入口にお金が入らない。この後に現金かカードかの選択ボタンを押す必要があったのだ。

 

さらに、この券売機は指で画面に触れずとも近づけるだけで感知する。これもとまどう理由だろう。慣れればそう難しくなさそうだが、この券売機が初めての人や高齢者はややてこずる可能性があると思った。

↑趣ある木造駅舎の一畑口駅。一畑薬師の最寄り駅でもある。駅舎内には最新式の券売機が設置されていた(左)

 

さて、無事に切符購入の手伝いも終えて松江しんじ湖温泉駅の電車に乗り込む。電鉄出雲市駅方面からやってきた電車は前後が変わり、この駅からは後ろが先頭になって走り始める。駅からは左に大きくカーブしてまずは宍道湖を進行方向右手に見ながら、次の伊野灘駅(いのなだえき)に向かった。

↑一畑口駅(手前)を発車すると左カーブして松江しんじ湖温泉駅方面へ向かう。民家の間から宍道湖のきらめく湖面が見通せた

 

【ばたでん旅が続く②】映画の舞台になった趣満点の伊野灘駅

ホームが一つの伊野灘駅は映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』(以下『RAILWAYS』と略)で主要な舞台として登場した駅だった。駅の入口は国道431号とは逆側にあり、細い道をたどりレトロな石段を上がる。小さな待合室の手前には桜の木が1本あって、春先はさぞや絵になるだろう。

 

映画『RAILWAYS』の主人公の故郷の駅という設定で、映画の舞台としてもぴったりの駅だ。国道側から見ると草が生い茂りホームが良く見えないが、裏に回ってみるとこの駅の魅力が分かるはずである。

↑伊野灘駅に近づく3000系(すでに引退)。写真の左下から駅ホームに入る。右側には国道431号が並行して走っている

 

【ばたでん旅が続く③】北松江線のハイライト!宍道湖の美景

一畑口駅から伊野灘駅を過ぎてしばらくは、右手に宍道湖を横に見ての行程となる。あくまで国道431号越しだが、国道よりも線路が高い位置を通っている区間からは、湖の眺望がよりきれいに見える。

 

周囲約45kmの宍道湖は全国で7番目に大きな湖とされる。淡水湖ではなく、わずかに塩分を含む汽水湖で、他では見られない魚介類が生息している。収穫されるのはスズキ、シラウオ、コイ、ウナギ、モロゲエビ、アマサギ、シジミ。この7つの魚介類は「宍道湖七珍(しんじこしっちん)」と呼ばれ、珍重されている。

 

一畑電車の車内からも、小船が係留されている港が見える。見る場所によって宍道湖の景色が微妙に異なり、湖ならではの穏やかな風景が続く。

↑宍道湖の風景は場所ごとに趣が異なる。写真は津ノ森駅〜高ノ宮駅間で、湖畔に小船が一隻のみ引き上げられていた

 

北松江線は伊野灘駅〜津ノ森駅間で出雲市から松江市へ入る。津ノ森駅近くには「ワカサギふ化場」もあり、小船が何艘も係留されている様子が車内から見えた。

 

宍道湖を見ながら進むと、松江フォーゲルパーク駅に到着した。駅の向かいに「松江フォーゲルパーク」の入口があり、駅前が同パークの駐車場になっている。“湖畔に広がる花と鳥の楽園”がPR文句で、国内最大級の大温室には一年を通して花が満開で、約90種類の世界中の鳥たちともふれあうことができる。入園料は大人1500円で、開園は9時〜17時(4/1〜9/30は17時30分まで)、年中無休で営業している。何より駅前というのがうれしい。

 

松江フォーゲルパーク駅、秋鹿町駅(あいかまちえき)、長江駅と、宍道湖の眺めを楽しみながらの旅が続くが、長江駅を過ぎると車窓風景が変わっていく。

↑秋鹿町を発車して長江駅へ向かう5000系。宍道湖側から国道431号、一畑電車、そして民家が並ぶ風景がしばらく続く

 

長江駅を過ぎると北松江線は湖畔から離れ、朝日ヶ丘駅へ到着する。駅の北側には新興住宅地が連なり、南には家庭菜園が楽しめる湖北ファミリー農園という施設も広がる。

 

【ばたでん旅が続く④】最後の一駅間に沿線の魅力が凝縮される

朝日ヶ丘駅の次は松江イングリッシュガーデン駅という、観光施設の駅名となっている。当初、庭園美術館が設けられたが、後に日本有数のイングリッシュガーデンに模様替えされた。だが、現在は同ガーデンが休園となり再開の目処はたっていない。同沿線では「松江フォーゲルパーク」があり、なかなか営業面での難しさがあったのかもしれない。なおガーデンに隣接するカフェレストランなどは営業している。

 

松江イングリッシュガーデン駅から、終点の松江しんじ湖温泉駅まで4.3kmとやや距離がある。松江イングリッシュガーデン駅付近に建ち並んでいた民家は途切れ、再び国道431号と並行して北松江線が走るようになる。宍道湖が南西側に位置し、天気の良い日中は光が順光になるため、湖面と湖を挟んだ対岸が良く見渡せる区間となる。この駅間は変化に富み、北松江線の魅力が凝縮されているようだ。

↑松江イングリッシュガーデン駅〜松江しんじ湖温泉駅間を走る2100系(色変更前のもの)。宍道湖の風景もこのあたりが見納めとなる

 

再び住宅地が見え始めると、間もなく湖側に大型の温泉ホテルが建ち並び始め、電車は終点の松江しんじ湖温泉駅のホームに滑り込んだ。始発の電鉄出雲市駅からは約1時間、一畑口駅からは約30分だった。

 

【ばたでん旅が続く⑤】駅前に足湯がある松江しんじ湖温泉駅

松江しんじ湖温泉駅はJR山陰本線の松江駅に比べて、市内の主な観光スポットに近い。まずは松江しんじ湖温泉街がすぐそばだ。加えて宍道湖畔の千鳥南公園までは徒歩3分あまり。同公園内には「耳なし芳一」像や、松江と縁が深い小泉八雲文学碑などが立つ。

 

松江のシンボルでもある、現存天守が残る国宝「松江城」には駅から市営バスの利用で約5分(徒歩で17分ほど)、松江城を囲う堀をめぐる「堀川遊覧船」の大手前広場乗船場までは徒歩で約15分ほどだ。

↑北松江線の終点、松江しんじ湖温泉駅。駅前に足湯も設けられている。適温の程よい温泉が楽しめる(右上)

 

観光よりも鉄道に乗る旅を中心に楽しみたいという方には、次の電車が折り返すまでの約15〜30分の時間を利用して、松江しんじ湖温泉駅のすぐ目の前にある無料足湯を利用してはいかがだろう。「お湯かけ地蔵足湯」と名付けられた湯で、泉質は低張性弱アルカリ性高温泉で浴後には肌がすべすべになるだろう。毎週、月・火・木・土曜の朝6〜8時までが清掃時間の足湯で、清掃日であっても朝10時ごろには湯が満ちて使えるようになる。

↑松江しんじ湖温泉駅から徒歩約3分の千鳥南公園から眺めた宍道湖。同公園への途中に温泉ホテルが建ち並ぶ(右上)

 

↑松江しんじ湖温泉駅からは堀川遊覧船や松江城(左上)といった観光スポットも近い。松江城天守は1611年に築城され国宝に指定される

 

【ばたでん旅が続く⑥】大社線高浜駅近くで見つけた赤い鳥居群

ここからは川跡駅に戻って大社線の沿線模様を見ていこう。大社線を走る電車は土日祝日と平日でかなり異なるので注意が必要になる。土日祝日の日中は、松江しんじ湖温泉駅と電鉄出雲市駅から出雲大社前駅行きの直通電車が多くなる。一方、電鉄出雲市駅から松江しんじ湖温泉駅へ、また松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲市駅へ向かう場合には、川跡駅での乗換えが必要になる。平日は川跡駅〜出雲大社前駅間を往復する電車が大半となる。

↑川跡駅を出発、出雲大社前駅方面へ向かう7000系。観光シーズンを除く平日の日中は一両で運転される電車が多くなる

 

川跡駅を発車した大社線の電車は、北松江線と分かれ西へ向かうと、広がる水田と点在する集落が連なる。次の駅は高浜駅だ。電車好きは高浜駅に到着する前、進行方向左手に注目したい。ここに一畑電車の往年の名車、デハニ50形2両が停まっている。保育園内で静態保存されているもので、一両はオレンジ色に白帯、もう一両はクリーム色に水色帯という、それぞれ出雲路を飾ったデハニ50形カラーで残されている。

 

高浜駅を発車したら進行方向左手に注目したい。小さめの赤い鳥居が並ぶ一角がある。筆者も気になり帰りに訪ねてみた。最寄りの高浜駅から徒歩10分、距離で800mほどある粟津稲生神社(あわづいなりじんじゃ)の赤い鳥居だった。

↑粟津稲生神社の赤鳥居と7000系を写してみた。鳥居の先の踏切は警報器がないが、最寄りの踏切の警報音で電車の接近が分かる

 

参道には赤い鳥居が20数本連なっている。その先に警報器・遮断器のない踏切があり、踏切を渡って社殿へ向かう。この赤い鳥居越しの写真が“映える”と話題になり、筆者が訪れた時にも写真を撮りに来た人たちが見受けられた。ちなみに、粟津稲生神社は京都にある伏見稲荷神社の分社として建立されたと伝えられる。伏見稲荷神社も境内に多くの赤い鳥居が立つことで知られるが、こちらもそうした歴史が息づいているわけだ。稲荷神社は全国に多く設けられるが、稲生と書いて「いなり」と読ませる神社は全国で約20社しかないそうである。

 

なお、粟津稲生神社の赤い鳥居は今年の6月15日に建て直された。本数も増え赤さが増し、より“映える”と思う。

 

【ばたでん旅が続く⑦】出雲大社前駅近く背景の山地が気になる

赤い鳥居が見えた次の駅が遙堪駅(ようかんえき)だ。難読駅名で、語源はどこにあるのか調べてみた。このあたりは、進行方向右側に山地が連なって見えてくるようになる。北山山地と呼ばれる低山帯で、そこにかつて菱根池という大きな池があった。“遙かに水を湛(たた)える”が変化して遥堪となったそう。駅名はこの地名に由来する。ちなみに駅は現在、出雲市常松町にある。

 

遥堪駅の次は浜山公園北口駅で、駅名どおり南側に競技場、野球場などが設けられた浜山公園がある。遥堪駅の駅名の元になった北山山地が北側に連なっている。この山地の特長として麓まで平地が広がり、すそ野から急に盛り上がるように急斜面の山々がそびえ立っているところである。

 

この独特な地形はどこかで見た記憶があると思ったのだが、新潟県を走る越後線でも同じような地形を見ることができた。山の麓には彌彦神社(やひこじんじゃ)という古社があった。一畑電車大社線でも同じようにこの先、出雲大社という古社がある。

↑出雲大社前駅の手前に流れる堀川を渡る1000系。この橋梁の先に弥山(みせん)標高506mが見えている

 

神が造りあげたような神々しい山の造形美があり、その麓には古社が設けられているのである。ご神体との絡みもあり、後ほど山と古社の関係を明かしてみたい。

 

連なる北山山地のなかで大社線からも良く見える山が、弥山(みせん)だ。出雲大社の東側に弥山登山口がありハイキングに訪れる人も多い。

 

【ばたでん旅が続く⑧】登録有形文化財でもある出雲大社前駅

川跡駅から11分で出雲大社前駅に到着する。1930(昭和5)年2月2日に開業した駅で、当時の名前は大社神門駅(たいしゃしんもんえき)だった。駅舎は当時のままの洋風な造りで、待合室は上部の明かり取り用のステンドグラスが取り付けられている。こうした姿が歴史的・文化的にも貴重とされ、1996(平成8)年12月20日には国の登録有形文化財に登録された。

↑大社線の終点駅・出雲大社前駅。趣ある建物を記念撮影する人も多い。登録有形文化財を示すプレートが入口右側に付けられている

 

出雲大社前という駅名どおり、出雲大社の最寄り駅だ。神門通りに面していて、この通りを北に徒歩で5分ほどのところに、出雲大社の正門にあたる「勢溜の大鳥居(せいだまりのおおとりい)」が立つ。

↑出雲大社前駅の駅舎内。ドーム形の屋根がおもしろい。ステンドグラス越しに明かりが差し込むお洒落な造りだ

 

【ばたでん旅が続く⑨】旅の定番といえば出雲大社に出雲そば

出雲大社は「神々の国」ともいわれる出雲の象徴である神社だ。「古事記」「日本書紀」などでも触れられ、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀る。まるで大社を守るように周囲は北山山地の緑におおわれている。

 

背景を山に囲まれた古社は、他にも新潟県の彌彦神社、広島県の宮島・厳島神社などが挙げられる。厳島神社は弥山(みせん)、彌彦神社は弥彦山である。出雲大社の北東側にも弥山という山がある。

 

みな「弥」が付く山に守られ鎮座していた。神社は神が降臨して宿る物が「ご神体」とされ、欠かすことができない大切なものとされる。彌彦神社のご神体は弥彦山(神体山とも呼ばれる)、厳島神社は宮島自体、とりわけ弥山がご神体とされる。すると、出雲大社のご神体は弥山かと思いきや、こちらはご神体は明らかにされていない。

 

古くから偉人英傑たちが出雲大社を訪れ、ご神体を見せて欲しいと願ったが、これまで明らかにされなかった。出雲大社のご神体は剣やアワビ、蛇、鏡という説が伝わる一方で、山や木といった森羅万象自体がご神体とも言われている。神社の裏手には八雲山という名の山がそびえ、ここは神職すら入ることができない禁足地となっていて、こちらがご神体なのではとも言われている。いずれにしても、古社を取り囲む山との関係はより緊密であることは間違いない。

 

そしてご神体が明らかにされないことも出雲大社を神秘的にさせている一つの要素なのかもしれない。

↑神門通りの突き当たりにある勢溜の大鳥居。この大鳥居から拝殿までは約500mの距離がある

 

出雲大社の門前町にあたる神門通りは700mほどの通り沿いに老舗宿や食事処が建ち並ぶ。食事処で人気なのはやはり出雲そばだろう。出雲大社の門前町のみに限らず、出雲地方で親しまれる郷土料理で、日本三大そばの一つとされる。

 

出雲でそばが広まった理由としては、松江藩の初代藩主の松平直政(まつだいらなおまさ)が、三代将軍家光の時代に国替えされたことに起因するとされる。直政はもと信州松本藩の藩主だったこともあり、蕎麦好きが高じて信濃からそば職人を連れてきた。もともと奥出雲(出雲の南側一帯)は痩せた土地が多かったことも、そば栽培を盛んにさせた理由だとされる。

 

出雲そばでは割子そば、釜揚げそばといった独特な食べ方が広まり、もみじおろしや、辛味大根の大根おろしを薬味にして楽しまれる。

↑出雲そばは割子そばという食べ方が一般的。いろいろな薬味をのせ、つゆをかけてそれぞれ食べる 写真は一例

【ばたでん旅が続く⑩】鉄道好きならば寄りたい旧大社駅だが……

今回の出雲への旅で、どうしても訪ねてみたいところがあった。旧国鉄大社線の終点、旧大社駅である。大社駅は1912(明治45)年6月1日、大社線の開通とともに開業した。その後1924(大正13)年2月13日に2代目駅舎が竣工した。現在残るのは98年前に建築された2代目駅舎で、出雲大社を模した寺社づくりとされる。賓客をもてなすために荘厳な造りの2代目が建てられたように思われる。1990(平成2)年4月1日に路線が廃線となった後に、駅はJR西日本から旧大社町に無償貸与された。2004(平成16)年には重要文化財に指定、また2009(平成21)年には近代化産業遺産に認定された。

 

2021(令和3)年2月1日からは保存修理(仮設・解体)工事を開始したと聞いていた。筆者は修理以前に訪れたことがあり、現在どのようになっているのか確かめておきかった。

 

旧大社駅は出雲大社前駅から神門通りを南へ約11分900mの距離にある。駅舎は全体がすっぽりとカバーに覆われていて、残念ながら中をみることができなかった。前回撮影した写真があるので掲載しておきたい。左右対称の寺社建築で、駅舎内も素晴らしい出来だった。保存修理工事は2025(令和7)年12月20日までかかるとされる。

↑重要文化財の指定を受けた駅舎は東京駅丸の内駅舎と門司港駅舎、そして旧大社駅のみ。現在は工事中で全体が覆われている(左上)

 

なお、駅舎部分のみ覆われているが裏の一部残されているホームと線路へは、裏手から立ち入ることができる。駅舎側のホームは工事が行われおり、見学の際には工事関係者の指示に従って欲しいとのことである。構内にはD51形774号機も保存されていた。このD51形も出雲市では駅の保存修理に合わせて大規模修繕を進める予定と発表している。

 

保存修理にはだいぶ時間を要するようだが、修理が終わったらぜひまた訪ねたいと思う。

↑旧大社駅駅舎は高い天井で漆喰壁、乗車券売り場など、大正期の駅の様子が残っている 2011(平成23)年8月1日撮影

 

この旧大社駅から出雲大社の勢溜の大鳥居まで16分、約1.2kmと距離がある。一畑電車の出雲大社前駅のように近いところになぜ駅を造らなかったのか疑問に感じるところだ。出雲大社からの遠さも大社線がいち早く廃止になった一因だったように思う。

 

最後に出雲路からの帰路の鉄道利用に関して、注意したいことがあるので触れておきたい。

 

電鉄出雲市駅に接続するJR山陰本線の出雲市駅だが、同駅では「みどりの窓口」が廃止された。近距離区間の券売機と新幹線・在来線特急・乗車券券売機と、みどりの窓口に代わり「みどりの券売機プラス」が設置されている。複雑な経路の乗車券の購入や券売機を扱い慣れない場合には「みどりの券売機プラス」を利用してのオペレーターとの会話が必要になる。(営業時間4時〜23時・オペレータ対応時間5時30分〜23時)。

 

「みどりの券売機プラス」を利用してスムーズに購入できれば良いが、混みあう時間帯は待たされることも多い。出雲市駅は特急「やくも」や特急「サンライズ出雲」といった長距離旅客列車の始発駅だけに「みどりの窓口」が必須と思われ、残念に思う。

 

筆者は出雲市駅から、やや複雑な行程をたどって東京へと考えていたので、旅程を変更して松江駅へ立ち寄り、こちらの「みどりの窓口」で購入をしたが、手間がかかった。事前に他の駅で購入しておくか、あらかじめJR西日本ネット予約「e5489」等で列車の予約しておき、受取だけを出雲市駅の券売機で済ませるなど、事前に対策をしておいたほうが良さそうに感じた。

 

この時代に増便?平地なのにスイッチバック? ナゾ多き出雲の私鉄「ばたでん」こと一畑電車の背景を探る

おもしろローカル線の旅98〜〜一畑電車(島根県)〜〜

 

全国の鉄道会社が3年間にわたるコロナ禍で苦しみ、列車本数を減らすなか、逆に増発を行った地方鉄道がある。それは島根県の一畑電車(いちばたでんしゃ)だ。

 

ハロウィン期間中にはヒゲ付き電車を走らせるなど、ウィットに富んだ元気印の鉄道でもある。そんな一畑電車の歴史や車両、路線にこだわってめぐってみた。

*2011(平成23)年8月21日、2015(平成27)年8月23日、2017(平成29)年10月2日、2022(令和4)年10月29日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【一畑電車の旅①】ユーモラスな出雲の電車「ばたでん」

全国旅行支援の効果もあるかも知れないが、一畑電車は毎週末、かなりの賑わいをみせている。一畑電車の会社の愛称は「ばたでん」。会社ホームページにも「ばたでん」の名前がトップに入り、地元の人たちも「ばたでん」と親しげに呼ぶ。そんな一畑電車の概要をまず見ておこう。

 

路線と距離 一畑電車・北松江線:電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間33.9km
大社線:川跡駅(かわとえき)〜出雲大社前駅間8.3km 全線電化単線
開業 1914(大正3)年4月29日、出雲今市駅(現・電鉄出雲市駅)〜雲州平田駅(うんしゅうひらたえき)間が開業。
1928(昭和3)年4月5日、小境灘駅(現・一畑口駅)〜北松江駅(現・松江しんじ湖温泉駅)の開業で北松江線が全通。
1930(昭和5)年2月2日、川跡駅〜大社神門駅(現・出雲大社前駅)が開業、大社線が全通
駅数 北松江線22駅、大社線5駅(起終点駅を含む)

 

一畑電車は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を結ぶ北松江線と、川跡駅〜出雲大社前駅間を結ぶ大社線の2本の路線で構成されている。2本の路線は以前、ほぼ路線別に電車の運転が行われていたのだが、現在は北松江線から大社線への乗り入れが多く行われている。曜日によってその運用が大きく変わるので、利用の際は注意したい(詳細後述)。

 

【一畑電車の旅②】中国地方で唯一! 老舗の私鉄鉄道会社

一畑電車は、路面電車の岡山電気軌道や広島電鉄、第三セクター鉄道の路線を除けば中国地方で唯一の私鉄の鉄道路線である。その歴史は古く、今から108年前に一部路線が開業している。会社の創設は1912(明治45)年4月6日のことで、その時の会社の名前が一畑軽便鉄道株式会社だった。1925(大正14)年7月10日には一畑電気鉄道株式会社と会社名を改称している。

↑1928(昭和3)年、一畑電気鉄道発行の路線図。横長に広がる鳥瞰図で出雲大社、一畑薬師が大きく描かれている 筆者所蔵

 

2006(平成18)年4月1日に鉄道部門を分社化して一畑電車株式会社となったが、今も一畑電気鉄道という会社名は残り、一畑グループを統括する事業持株会社となっている。

 

掲載した古い路線図は昭和初頭のもので、当時人気があった金子常光という絵師の鳥瞰図が使われている。当時からPR活動にも熱心だった。鳥瞰図には出雲大社と共に一畑薬師(一畑寺)がかなりデフォルメされて大きく掲載されており、出雲大社とともに一畑薬師を訪れる人が多かったことをうかがわせる。

 

【一畑電車の旅③】なぜ“一畑”なのか? 会社名の謎に迫る

一畑電車はなぜ“一畑”を名乗るのだろうか。松江、出雲という都市があり、また出雲大社という観光地がありながら、あえて一畑を名乗った。これにはいくつかの理由があった。

 

かつて、北松江線の路線に一畑薬師(一畑寺)参詣用に設けられた一畑駅という駅があった。場所は現在の一畑口駅の北側、3.3kmの位置。ちなみに、以前は一畑口駅(当時は小境灘駅)から一畑駅まで電車が乗り入れており、一畑口駅が平地にもかかわらず進行方向が変わるスイッチバック駅となっているのはその時の名残である。

 

一畑口駅〜一畑駅間の路線は時代に翻弄される。戦時下、鉄資源に困った政府が乗車率の低い路線、時世にあわないと思われる全国の多くの路線を「不要不急線」として強制的に休止させ、線路の供出が行った。一畑口駅〜一畑駅も不要不急線の指定を受けて1944(昭和19)年12月10日に休止。路線が復活することはなく、1960(昭和35)年4月26日に正式に廃止となった。会社名が一畑となった理由のひとつには、この一畑駅があったことがあげられる。

↑昭和初期に発行された一畑駅の古い絵葉書。すでにこの一畑駅はない。停車する電車は今も残るデハニ50形だと思われる 筆者所蔵

 

しかし、調べてみると他にも理由があった。

 

一畑電車(一畑電気鉄道)の前身となる一畑軽便鉄道は、創設当時の大口出資者が経営する会社が破綻し、路線の開業計画が頓挫しかけた。そこで当時、鉄道敷設により参拝客を増やしたいと考えていた一畑薬師(一畑寺)が会社創設の資本金25%を負担して手助けした。また、出雲大社へ伸びる路線計画を国に提出した際、一度は官設の大社線が敷設されていたことから、競合路線として許可がおりなかった。しかし、一畑薬師に行くことを目的とした鉄道だということを強調したことで申請が通ったとされる。つまり一畑薬師(一畑寺)に、たびたび助けられていたわけである。 こうした要因が会社名に大きく影響したのだった。

 

一畑駅は廃止されたものの、会社創設期の縁もあり、長年親しまれてきた会社名は一畑のままになったわけである。

【一畑電車の旅④】86年ぶりの新車導入。古参車両も保存される

次に一畑電車を走る車両を紹介しておこう。一畑電車の車両はここ10年で刷新され快適になってきている。86年ぶりに自社発注の新車も導入された。4タイプが走っているが、まずは数字順にあげていこう。

↑一畑電車を走る4タイプの電車。2100系はヒゲらしき模様が付いているが、これはハロウィン期間中だったため

 

◇1000系

1000系はオレンジに白帯のカラーで2両×3編成が走る。このカラーはデハニ50形という古い車両のカラーがベースになっている。1000系は元東急電鉄の1000系で、東横線、乗り入れる東京メトロ日比谷線で活躍した車両だ。正面の形が当時と異なっているが、それは中間車を改造したため。中間車を先頭車とするため新たに運転席が取り付けられ、ワンマン化されて2014(平成26)年に入線した。

 

◇2100系

元京王5000系(初代)で、京王電鉄では初の冷房車両だった。一畑へはワンマン改造や台車の履き替えなどを行い、1994(平成6)年に導入された。現在はオレンジ一色に白帯を巻いた姿で走る。元京王5000系の導入車両のうち、一部の電車はリニューアルされ5000系となっている。

 

◇5000系

元京王5000系だが、正面のデザインや乗降扉を3つから2つに変更、また座席をクロスシートに変更している。車体のカラーは青色ベースの車両と、オレンジ色に白帯塗装の「しまねの木」という愛称の車両が走る。「しまねの木」は1席+2席のクロスシートが横に並び、対面する座席ごとに他のスペースと仕切るウッド柄のボックスで囲まれる構造となっていて、カップルやグループ客に人気が高い。

 

◇7000系

一畑電車としてデハニ50形以来、86年ぶりとなる新車で2016(平成28)年から導入された。1両の単行運転ができるほか、貫通扉を利用して2両連結で走ることができる。ベースはJR四国7000系で、電気機器はJR西日本225系のものを流用し、コスト削減が図られている。車体の色は白がベース、「出雲の風景」をデザインテーマにしたフルラッピング車両となっている。

 

ほかに静態保存および動態保存の車両について触れておこう。

 

◇デハニ50形

1928(昭和3)年〜1930(昭和5)年に導入された車両で、荷物室を持つために「ニ」が形式名に付いている。当時の新製車両で、2009(平成21)年3月まで現役車両として働いた。

 

今は一畑電車で2両が保存されている。1両は出雲大社前駅構内に保存されたデハニ52。デハニ50形の2号車で、駅に隣接した出雲大社前駅縁結びスクエアから保存スペースへ入ることができる。もう1両は雲州平田駅構内に動態保存されているデハニ53で、体験運転用の車両として活用されている。また大社線の高浜駅近くの保育園にはデハニ50形が2両保存されていて、子どもたちに囲まれ静かに余生を送っている。

 

デハニ50形は映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』(以下『RAILWAYS』と略)にも”出演”したこともあり、今も人気の高い車両となっている。

↑出雲大社前駅で静態保存されるデハニ52。隣接する縁結びスクエアから入ることができる。車内も乗車可能だ

 

ちなみに、遠く離れたところながら一畑軽便鉄道時代の車両も残されているので触れておこう。

 

静岡県の大井川鐵道の新金谷駅に隣接した「プラザロコ」で保存される蒸気機関車は元一畑軽便鉄道時代に活躍した車両だ。ドイツのコッペル社製のCタンク機で、一畑へは1922(大正11)年に4号機として導入された。その後に複数の工場の入れ換え機として使われ、大井川鐵道へわたり「いずも」と名付けられ大切にされている。

 

一畑電車の古い車両は場所が異なるものの、複数の車両が残っていること自体が奇跡のように思う。デハニも多く残っているように、車両を大切にしてきた同社の思いが、今も伝わってくるようだ。

↑大井川鐵道の施設で保存されている元一畑軽便鉄道のドイツ製蒸気機関車。一畑導入当時は4号機で、大井川鐵道では「いずも」と改称

 

【一畑電車の旅⑤】この時代に増便?画期的なダイヤ改正を行う

一畑電車を利用にあたって注意したいのは電車の時刻だ。土日祝日と平日ダイヤが大きく異なり、行先も異なる。土日祝日のダイヤは昨年の10月1日に改正されたものだが、平日のダイヤは今年の10月3日に大きく変更された。

 

改正された平日ダイヤでは、乗客を乗せずに動かしていた回送列車4本を急行列車に変更、さらに電鉄出雲市駅〜松江宍道湖温泉間の昼間帯普通列車3往復を急行列車に変更した。一方で、急行列車前後の普通列車のダイヤを調整し、急行通過駅の利用客の利便性に配慮した。

 

回送列車を旅客列車に変更する増便方法は画期的な方策のように思う。今の時代に増便すること自体が珍しく、加えて急行を走らせ時間短縮を図るなど積極姿勢が感じられ、同社のダイヤ改正が新聞紙上やネットニュースにも取り上げられたほどだった。

 

ここで一畑電車の土日祝日と平日の列車の傾向を見ておこう。

↑出雲科学館パークタウン前駅付近を走る7000系。土日祝日は出雲大社前駅から電鉄出雲市駅行き直通特急が運行される(右下はその表示)

 

〔土日祝日のダイヤ〕

朝夕は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を往復する普通列車がすべてだが、日中はがらりと変わり、電鉄出雲市駅発と松江しんじ湖温泉駅発の電車すべてが出雲大社前駅行きとなる。電鉄出雲市駅〜出雲大社前駅間は複数の途中駅を通過する特急も数本ある。

 

日中は、電鉄出雲市駅から松江しんじ湖温泉駅へ、また松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲市駅へ行きたい時には、途中の川跡駅での乗換えが必要になる。

 

〔平日のダイヤ〕

大半の列車は電鉄出雲市駅〜松江しんじ湖温泉駅間を走る。そのうち日中は急行列車が4往復、また朝には電鉄出雲市駅発、松江しんじ湖温泉駅行きの「スーパーライナー」という列車が設けられている。この列車は同駅間45分(各駅停車利用時は約60分)と最短時間で着けるようにダイヤが設定されている。

 

一方、出雲大社駅行きの直通電車は電鉄出雲市駅発が2本、雲州平田駅発の電車は朝6時台の1本のみと少ない。

 

ここまで平日と土日祝日で運転の傾向が変わる鉄道会社も少ないのではないのだろうか。一畑電車の利用客は半分以上、観光客が占めているという。さらに、平日日中の主要駅以外での乗降は0.4%しかいないそうだ。平日の日中は観光客とビジネス客が主体となる利用状況を考えて、少しでも早く目的駅に着けるように急行列車を新たに走らせ、より便利になるように増便したのだとされる。とにかく思い切ったダイヤの組み方をしているわけだ。

 

だが、一般利用者にそのことが周知されているわけではないようで、週末に筆者が乗車した電車では、乗換えるべき川跡駅で降りずにそのまま乗ってしまい、数駅いったところで慌てて降りるという乗客を数人、見かけることになった。土日祝日は、出雲大社前へ行きやすくなったものの、誤乗車する人も現れているので注意したい。

【一畑電車の旅⑥】電鉄出雲市駅はJR駅と近いようなのだが

前置きが長くなったが、ここから一畑電車の旅を始めたい。北松江線の起点となる電鉄出雲市駅からスタートとなる。JR山陰本線の出雲市駅からの乗換えとなるが、筆者はここで最初から失敗しかけてしまった。

 

JRの特急列車から降りて駅の北口を出る。電鉄出雲市駅が目の前だから5分もあれば十分だろうと思っていた。まず荷物をコインロッカーに預けた。だが、コインロッカーは電鉄出雲市駅からだいぶ離れた場所にあった。電鉄出雲市駅はJR出雲市駅の北口を出て右手に見えていて分かりやすいのだが、150メートルほど離れていたのだった。結局、小走りで移動することに。改札でフリー乗車券を購入、階段を駆けのぼり、発車にぎりぎり間に合ったのだった。一畑電車は何度か来て乗っていたのだが、預ける荷物がある場合には、余裕を見て乗換えした方が良いことが分かった。

 

↑JR山陰本線の高架橋に並ぶように設けられた電鉄出雲市駅。ホームは高架上にある(左下)。窓口でフリー乗車券が販売される(左上)

 

一畑電車全線を乗り降りする場合には「一畑電車フリー乗車券」(1600円)が得だ。各路線の起点終点駅と川跡駅、雲州平田駅で販売している。また65歳以上のシルバー世代には「一畑電車シルバーきっぷ」(1500円)も用意されている。

 

【一畑電車の旅⑦】映画『RAILWAYS』にも登場した大津町駅

電鉄出雲市駅のホームに止まっていたのは5000系「しまねの木」号だった。2席、4席が囲われたボックス席がユニークな電車だ。ちょうど乗り合わせた女子高校生らしきグループは初めて乗車したようで「この電車いい! ここで宿題ができそう」と話していた。落ち着くボックス席には、窓側に折畳みテーブルが付けられていて、確かに勉強にはぴったりかも知れない。

↑5000系「しまねの木」号は座席がボックス構造だ(右上)。出雲科学館パークタウン前駅付近ではJR山陰本線の線路と並行して走る

 

そんな楽しそうなおしゃべりを聞きながら、松江しんじ湖温泉行きが出発した。高架ホームを発車した電車はJR山陰本線の高架路線と並走し、次の出雲科学館パークタウン前駅を発車後も、進行方向右にJR山陰本線を見ながら走る。途中で左へカーブして、次の大津町駅へ向かう。出雲市の町並みを見ながら到着した大津町駅は、どこかで見た駅だと思ったのだが、実は映画『RAILWAYS』のワンシーンの撮影に使われていた駅だと知り、なるほどと思った。沿線には同映画の舞台として登場した駅も多い。

 

大津町駅の西側にはかつて、山陰道の28番目の宿場「今市宿」が設けられていた。大津町駅の西側、出雲市駅の北側にかけての通り沿いで、今も情緒ある町並みが高瀬川沿いにわずかに残っている。ちなみに、出雲市駅はかつて出雲今市駅という駅名で、この今市宿の名前を元にしている。出雲今市駅は1957(昭和32)年に出雲市駅と改称された。

↑電鉄出雲市駅から2つ目の大津町駅。1914(大正3)年に開業した駅だが、2003(平成15)年に現駅舎となった

 

【一畑電車の旅⑧】川跡駅での乗換えには要注意

今市宿にも近い大津町駅を発車して国道184号、続いて国道9号の立体交差をくぐる。国道が連なることでも、このあたりが山陰道の要衝であったことが分かる。国道9号を越えると沿線には徐々に水田風景が広がるようになる。

↑川跡駅に近づく北松江線2100系電車。この2104+2114の編成は3年前まで「ご縁電車しまねっこ号」(写真)として走った

 

次の武志駅(たけしえき)を過ぎると右カーブをえがき大社線の乗換駅、川跡駅に到着する。川跡駅の先の松江しんじ湖温泉駅方面へ行く時には、平日はほぼそのままの乗車で良いのだが、土日祝日は朝夕を除き、川跡駅での乗換えが必要になる。

 

川跡駅ではほとんどの北松江線、大社線の電車が待ち時間もなく接続していて便利だ。ただし乗換えによっては西側に設けられた構内踏切を渡っての移動が必要になる。駅舎側の1番線、2番線、3番線と並び、出雲大社前行き、電鉄出雲市行き、松江しんじ湖温泉行きの電車がそれぞれホームに到着する。

 

何番線が○○行きといった傾向が曜日、時間帯で異なるため、乗換えの際には、川跡駅に着く前に行われる車内案内とともに、駅のスタッフのアナウンスによる行先案内と、電車の正面に掲げた行先案内表示をしっかり確認して、間違えないようにしたい。

↑駅舎側(左)から4番線(通常は使用しない)と1番線、構内踏切で渡ったホームが2番線、3番線とならぶ。乗換え時は注意が必要

 

【一畑電車の旅⑨】余裕があればぜひ立ち寄りたい雲州平田駅

筆者は土曜日の朝の電車に乗車したこともあり、川跡駅で乗り換えずにそのまま乗車して松江しんじ湖温泉駅を目指した。

 

川跡駅を発車すると左右に水田が広がり、進行方向右手には斐伊川(ひいがわ)の堤防が見えてくる。斐伊川が流れ込むのが宍道湖(しんじこ)だ。なお宍道湖自体も一級河川の斐伊川の一部に含まれている。

 

途中、大寺駅(おおてらえき)、美談駅(みだみえき)、旅伏駅(たぶしえき)とホーム一つの小さな駅が続く。そして雲州平田駅に到着した。同駅は一畑電車の本社がある駅で、同鉄道会社の中心駅でもある。単線区間が続く北松江線では、この駅で対向列車との行き違いもあり、時間待ちすることが多い。

 

時間に余裕があれば下車して駅の周囲を回りたい。車庫に停まる電車もホーム上から、また周囲からも良く見える。筆者も訪れた際には、どのような車両が停まっているかと確認するようにしている。

↑雲州平田駅に近い寺町踏切から臨む車庫。検修庫内に3000系(廃車)、2100系や5000系が見える 2015年8月23日撮影

 

以前に訪れた時には、車庫の裏手に設けられた150メートルの専用線路でちょうど体験運転(有料)が行われていた。デハニ53形を使っての運転体験で、毎週金・土・日曜祝日に開催されている(年末年始および祭事日を除く)。運転体験は本格的で、まず電車の仕組みと操作方法を講習で学び、ベテラン運転士の手本を見学し、最終的には実際に運転席に座っての体験運転が可能だ。終了後には体験運転修了証や、フリー乗車券がもらえるなどの特典もある。

 

鉄道好きならば、一度は体験したい催しといっていいだろう。筆者は羨ましい思いを抱きながら写真を撮るのみだった。

↑専用線路を使っての「デハニ50形体験運転」。今年の6月8日から制限がなくなり全国の利用者が楽しめるシステムに戻った

 

【一畑電車の旅⑩】田園風景が広がる雲州平田駅〜園駅間

雲州平田駅を出発すると美田が続く一帯が広がる。筆者は車庫周りを巡るとともに、この沿線では車両の撮影によく訪れる。

 

次の布崎駅付近までは、きれいな単線区間が続く。北側に架線柱が立ち邪魔になるものが少なく車両がきれいに撮影できる。背景には宍道湖の西側にそびえる北山山地の東端にある旅伏山があり絵になる。

↑雲州平田駅〜布崎駅間を走る1000系。周りは水田、後ろには北山山地が見える。同線で見られる架線柱もなかなかレトロなものだ

 

平田船川を渡り布崎駅に到着、そして次は「湖遊館新駅」駅へ。「駅」という文字が最初から入る全国的にも珍しい駅名で、「駅」を駅名表示の後に付ける本原稿のような場合には、駅が重複することになる。

 

同駅は1995(平成7)年10月1日に開業した請願駅で、駅から徒で10分ほどの宍道湖湖畔に「湖遊館」が開設され、新しい駅だったことから今の駅名が付けられた。ちなみに湖遊館には現在、「島根県立宍道湖自然館ゴビウス」という名の水族館がある。ゴビウスとはラテン語でハゼなど小さな魚を表す言葉だそうで、同館では宍道湖で暮らす汽水域の魚たちを中心に展示紹介している。

↑小さなホームと駅舎の「湖遊館新駅」駅に到着した7000系。島根県立宍道湖自然館ゴビウスが同駅の南側にある

 

【一畑電車の旅⑪】一畑口駅での電車の発着にこだわって見ると

湖遊館新駅駅を発車して園駅(そのえき)へ、この駅を過ぎると、右手に宍道湖が国道431号越しに見えてくる。とはいえ園駅〜一畑口駅間で見える宍道湖の風景はまだ序章に過ぎない。

 

北松江線のちょうど中間駅でもある一畑口駅へ到着した。この駅は前述したように、平地なのにもかかわらずスイッチバックを行う駅で、すべての電車が折り返す。運転士も前から後ろへ移動して進行方向が変わる。この駅での電車の動きを一枚の写真にまとめてみたので、見ていただきたい。2本の構内線にそれぞれの電車が入場し、そして折り返していく。

↑一畑口駅9時42分発の出雲大社前行きが入線、9時43分発の松江しんじ湖温泉行きが入線、それぞれ出発までの様子をまとめた

 

土日祝日のダイヤでは一畑口駅で両方向へ向かう電車が並ぶのは1日に2回のみというレアケースであることが後で分かった(平日には7回ある)。こんな偶然の出会いというのも、旅のおもしろさだと感じた。

 

ところで一畑口駅の線路の先、旧一畑駅方面は今、どうなっているのだろうか。

 

一畑口駅の先には200メートルほどの線路が伸びているが、その先は行き止まりで、車止めの先には一般道が直線となって延びている。実はこの道路にも逸話があった。旧路線跡には一畑口駅〜一畑駅間が正式に廃止された後の1961(昭和36)8月に「一畑自動車道」という有料道路が一畑電気鉄道により開設されていたのである。この道路は一畑に設けられた遊園地「一畑パーク」のために開設されたものだった。一畑パークはピーク時には年間12万人もの来園者があった遊園地だったが、人気は長続きせずに1979(昭和54)年に閉園、有料道路は1975(昭和50)年に廃止された。この後に一畑薬師(一畑寺)が同有料道路を買収、出雲市に無償譲渡していた。

↑一畑口駅の先には200mほど線路が残る。車止めの先に戦前までは線路が一畑口駅まで延びていた。現在は一般道となっている(左上)

 

一畑をレジャータウン化する計画は10余年で頓挫し、会社創設時のように再び一畑薬師により助けられた形になったわけである。ちなみに一畑薬師へは一畑口駅からバスまたはタクシーの利用で約10分と案内されている。

 

一畑口駅から先の美しい沿線模様と、大社線の興味深い路線案内はまた次週に紹介することにしたい。

↑一畑口駅から松江しんじ湖温泉駅かけては、宍道湖の風景が進行方向、右手に続く

 

11年ぶり全区間で運転再開!「只見線」各駅の「喜びの声」と「興味深い変化」をレポート

〜〜JR只見線 各駅と沿線スポット情報(福島県)〜〜

 

2011(平成23)年7月の豪雨災害の影響で、福島県の一部区間が不通となっていたJR只見線。復旧工事が完了し、10月1日に運転再開を果たした。

 

本サイトでは前回、被害を受けた橋梁の工事中と運転再開後の姿を中心に紹介したが、今回は再開を祝う駅を中心にレポートしたい。やはり線路が結ばれることによる効果は大きかったようだ。

*取材は2019(令和元)5月31日、6月1日、2022(令和4)10月15日に行いました。

 

【関連記事】
人気路線が11年ぶりに全区間の運転再開!「只見線」復旧区間を再訪し、工事前後を比較してみた

【再開後の駅めぐり①】お祝いムード一色の只見駅と只見町

只見町は福島県の南会津郡の南西部に位置し、北および西は新潟県に接する。日本有数の豪雪地帯とされ、年間降雪量は平均で1233cm(1991〜2020年の平均)にも達する。町内には田子倉ダム、只見ダムという水力発電用の大きなダムがあり、発電した電気は、東北や首都圏へ供給されている。人口は3854人(2022年9月1日現在)で、産業別就業者の割合は建設業、製造業、農業を主体にしている。

 

豊かな自然に囲まれる只見地域は2014(平成26)年6月にユネスコエコパークに指定された。ユネスコエコパークとは、自然保護と地域の人々の生活とが両立し持続的な発展を目指しているモデル地域で、日本国内では10か所が指定されている。只見地域のブナの天然林は国内最大規模とされ、豪雪地帯が育んだ自然と文化が共存する地域として、世界的にも貴重と評価された。

 

そうした只見町は町の名前が付いた只見線への思い入れが強い。運転再開後に訪れてみると、一部区間が不通だった頃とは様子がだいぶ変わり、活気が感じられた。

↑駅前通りには大きな横断幕がかかる。朝の会津若松駅始発列車が到着するころには駅前駐車場も満杯に

 

駅前通りには「祝 JR只見線全線運転再開!」の横断幕がかかる。只見駅周辺には「全線運転再開」の幟(のぼり)が数多く立ち、華やかな印象に変わっていた。

 

福島県の会津川口駅、さらに会津若松駅からの直通列車の再開が大きいのだろう。列車の到着時間が近づくと駅前の駐車場も満車になっていた。以前は、駅舎内に只見町の観光問い合わせ窓口「只見町インフォメーションセンター」があり観光客に対応していたのだが、全線運転再開に合わせて移転していた。

↑只見駅前には「おかえり10.1」の案内や幟が立つ。再開日まであと何日と表示したデジタルは再開から何日目かに切り替えられた(右上)

 

「只見町インフォメーションセンター」は、10月1日の運転再開日から、駅のすぐ目の前へ移っていた。前は駅舎内ということで、やや手狭な印象だったが、全面ガラス張りの明るい建物となり広くなっていた。ちなみに只見町ではすでに観光協会が解散しており、その業務は只見町インフォメーションセンターに引き継がれている。

 

「只見町インフォメーションセンター」の菅家(かんけ)智則さんは、「運転再開後はそれまでとは大違い。いらっしゃる方が増えて只見も変わりました」と明るい表情で話す。話をうかがう間にも、問い合わせ電話が鳴りやまず、多くの観光客が入館する。只見の観光案内だけでなく、センター内では地場産品や、新鮮な採れたて野菜なども販売しているので、かなり忙しそうだった。

 

「鉄道ファンの方には只見線グッスが人気ですよ」とのこと。只見線グッズのコーナーが設けられ、そこには只見線キャラクターの「キハちゃん」のイラストが掲げられている。ポストカードやカレンダー、気動車のイラスト入り菓子などの商品が置かれ、鉄道好きならばつい手に取りたくなるようなものも多かった。

↑移転した「只見町インフォメーションセンター」。センターには一休みできるコーナーや駐車場もある。右下は只見線グッズコーナー

 

会津若松駅発の始発列車は朝9時7分着で、この時間は同センターが混みがちだ。この列車が9時30分に小出駅へ向けて出てしまうと少し落ち着くのだが、週末の臨時列車(不定期)が走る日は同センターに立ち寄る人も多く、只見駅の周辺は賑わいを見せる(臨時列車は只見駅12時36分・もしくは40分着、折返し会津若松駅行きは13時40分発)。

 

開通したばかりに加えて紅葉時期ということもあり、列車で訪れる人に加え、車を利用する観光客も増えていて、只見の町はかなり賑わっていた。

 

【再開後の駅めぐり②】会津蒲生駅では黄色いハンカチで歓迎

只見駅の賑わいをあとに、復旧した区間の各駅をまわってみた。只見駅と会津川口駅の間には6つの駅があり、只見町内の駅が2駅、東隣の金山町内の駅が残り4駅となる。各駅では住民の熱い思いが伝わるような飾り付けが見られた。本稿では駅近くのおすすめ施設や、只見線の撮影スポットにも注目した。

 

まずは只見駅の隣りの駅、会津蒲生駅(あいづがもうえき)から。

↑会津蒲生駅前には黄色いハンカチがはためく。住民の思いが伝わるようだ。なお同駅周辺は道が狭く車進入禁止なので注意

 

写真を見るとおり、駅前広場には黄色いハンカチの飾り付けが行われ、穏やかな風にハンカチが揺れていた。ここで念のため黄色いハンカチのいわれを少し。黄色いハンカチは、山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』にちなんだものだろう。映画は1977(昭和52)年10月公開で、「自分を待っていてくれるなら、家の前に黄色いハンカチを揚げておいて欲しい」という主人公の思いに応え、妻が家の前に黄色いハンカチを揚げるというあらすじ。映画では何十枚もの黄色いハンカチが風にたなびくシーンが感動的だった。

 

会津蒲生駅の駅前で風にたなびく黄色いハンカチ。ようやく再開された列車でやってきた人たちを祝福する住民の熱い思いが感じられた。

 

会津蒲生駅と次の会津塩沢駅の間の撮影ポイント情報を一つ。両駅間には第八只見川橋梁がかかる。国道252号の寄岩橋から遠望できて美しいのだが、橋上での駐車はもちろん禁止、また橋の上は横幅が狭く歩道もなく、さらに大型車も頻繁に通行するので、長居の撮影はおすすめできない。

 

【再開後の駅めぐり③】感謝の言葉が目立った会津塩沢駅

国道252号の寄岩橋の近くに次の会津塩沢駅がある。会津蒲生駅と同じくホーム一つの小さな駅だが、ホームの目の前には、幟が多く立っていた。そこには赤い丸の中に白い文字で「感謝」そして「只見線全線再開通 塩沢老人会」とある。地元の老人会の会長を中心に、開通する前の工事の期間から長い間、只見線に関わってきた思いと、路線復旧に携わってきたあらゆる人々(鉄道ファンを含め)へ感謝の気持ちに込めたそうだ。

↑会津塩沢駅の前には数多くの幟が立つ。近くの河井継之助記念館紹介の幟の他に「感謝」という文字が入る幟が立つ(左上)

 

駅前の農機具を入れる倉庫の壁には「祝 おかえり只見線 万歳」とあり、下に「塩沢十島住民一同」と大きく掲げられていた。「感謝」「万歳」と、長年この地に住んできた方々のあふれる思いが伝わってくるようだった。

↑会津塩沢駅の目の前の農家の倉庫には「祝 おかえり只見線 万歳」とあった

 

【再開後の駅めぐり④】只見町で注目の観光施設といえば

この会津塩沢駅から徒歩10分ほどの場所に「只見町河井継之助記念館」があり、只見町で最もおすすめの観光施設としてPRしている。

 

河井継之助(かわいつぐのすけ)と言われても、ぴんとこない方も多いと思うので、紹介しておきたい。河井継之助は幕末の越後長岡藩の家老を務めていた人物である。卓越した先見性があり、他藩に先駆け西欧の軍備を積極的に導入した。中でも注目された銃器にガトリング砲が挙げられる。ガトリング砲とは今の機関銃に近い装備で、戊辰戦争のさなか奥羽越列藩同盟に加わった越後長岡藩に相対した官軍を大いに苦しめた。

 

とはいえ、圧倒的な物量を誇る官軍には太刀打ちできず、長岡城は落城し、継之助ほか残る藩兵は会津に落ち延びようとした。しかし、継之助は戦闘中の傷を負い、長岡から峠の八十里越(詳細後述)はしたものの、只見川沿いの集落で治療にあたる。傷の治療むなしく、破傷風のため42歳で、塩沢地区の民家で亡くなった(同民家はダム湖下に水没、今は「河井継之助記念館」内に移築)。

↑只見線の線路のそばに建つ「只見町河井継之助記念館」。継之助の人となりや、この地で亡くなるに至るまでを紹介している。入館料350円

 

河井継之助の一生は小説や映画でも描かれている。筆者は継之助に以前から興味があり、展示内容をじっくり見た。すると、そこに従者の藩士・外山脩造(とやましゅうぞう)に関しての紹介が。この外山脩造は後に衆議院議員、実業家になった人物で、阪神電鉄の初代社長でもあった。幼名は寅太で阪神タイガースの愛称はこの名にあやかったという説がある。継之助は只見で亡くなったが、偉才は後に生きる人々に引き継がれ、新たな時代を創造していったわけである。

↑只見町河井継之助記念館の駐車場前に只見川が流れる。ダムで水位が上がったが、以前はこの川の下に塩沢集落があった

 

【再開後の駅めぐり⑤】会津大塩駅は再開前のほうがきれいだった

会津塩沢駅までは只見町内の駅で、次の会津大塩駅からは金山町へ入る。会津大塩駅でもなかなか興味深い変化があった。下記は列車が不通だったころと、運転再開した後の会津大塩駅の様子だ。待合室はきれいに作り直されていて、ホーム上の白線も引き直されていた。しかし線路内は列車が不通だった時のほうが、雑草が刈り取られてきれいだった。

 

地元には「会津大塩駅をきれいにしたい会」というグループがあり、ボランティアで列車が不通だった時にも、駅の掃除を続けていた。筆者も不通だった時に訪れると、線路端の雑草取りに励む方を見かけたのだが、こうした地元の人たちが駅をきれいに守り続けていたのだろう。

 

しかし、さすがに列車が動き出すと線路内に立ち入って雑草を取るわけにはいかない。そのためこうして、逆に雑草が目立つことになったようだ。

↑会津大塩駅の3年前(左上)と復旧後(右下)。復旧後の待合室はきれいに整備された一方で、不通だったころの方が線路上の雑草が無くきれいに見えた

 

この会津大塩駅の近くには「滝沢天然炭酸水」と「大塩天然炭酸場」と2か所の炭酸泉が涌き出し、井戸も設けられている。近くの住民だけでなく、他県から汲みに訪れる人もいるそうだ。駅近くには滝沢温泉、大塩温泉の宿や共同浴場もあり、「天然サイダー温泉」が楽しめる湯として親しまれている。

 

鉄道ファンには会津大塩駅から約1kmの第七只見川橋梁がおすすめだ。

 

この第七只見川橋梁に平行して四季彩橋が架かっていて、その橋上から鉄橋の撮影ができる。この四季彩橋の下流側に第七只見川橋梁が架かり、また反対の上流方面の眺めも良く、紅葉の名所ともなっている。橋を通る車も少ない。

↑四季彩橋から望む只見線第七只見川橋梁。ちょうど臨時列車が走る。同写真の右側奥の道路上も撮影スポットとして人気

 

【再開後の駅めぐり⑥】会津横田駅も黄色いハンカチの飾り付け

第七只見川橋梁が望める四季彩橋から約1.5kmで会津横田駅へ着く。この駅も他の中間駅と同じホーム一つで、ホーム上に待合室がある造りだ。

↑会津横田駅近くにはかつて鉱山があり貨物輸送に使われた側線が残る。ホーム前には再開を祝した手作りの立て看板が立つ(左上)

 

まずはホームの前に手製の「祝 只見線」「おかえりなさい只見線全線再開通」の立て看板が立つ。さらに集落内には国旗を掲げる柱に、黄色いハンカチが結ばれていた。柱の元には「祝おかえり10.1」の看板と、幟が立ち並ぶ。駅からはコスモスと黄色いハンカチ、背景に青い屋根の家が見える。映画のような風景がそこに再現されていたのだった。

↑会津横田駅近くに建てられた黄色いハンカチ。ちょうどコスモスの花が咲いていた

 

会津横田駅は1963(昭和38)年8月20日に開業した。この開業は只見線の会津川口駅〜只見駅間の延伸開業に合わせたものだった。ところが次の会津越川駅(あいづこすがわえき)の開業は1965(昭和40)年2月1日だった。この時、他に本名駅、会津大塩駅、会津塩沢駅も、合わせて開業している。

 

会津越川駅の入口にはそうした経緯が記された案内板が立てられている。そこには「当時の国鉄に陳情を重ね、昭和40(1965)年2月に新設された請願駅です。会津越川駅の建設費は越川区と金山町で負担して造られました」とあった。住民の願いと資金を出しあって造られた駅だったのだ。

 

会津越川駅のホームの前には全線再開を祝う幟が立てられていた。掃除が行きとどいたホーム上には植物のプランターが並ぶ。越川地区の人たちが、会津越川駅を自分たちの駅と捉えている思いが伝わるようだった。

↑会津越川駅のホームと待合室。駅の入口には只見線と会津越川駅の誕生の経緯を記した案内板が立っている(右上)

 

【只見線を再訪した⑦】迫力の第六只見川橋梁近くの本名駅

会津越川駅周辺までは集落が連なるエリアだが、この先、民家がない地区が続き、只見川沿いを只見線と国道252号が寄り添うように走っていく。第六只見川橋梁を渡れば本名駅(ほんなえき)だ。本名駅では運転再開を祝う幟がホーム前に立てられ、植木がきれいに整えられていた。他の駅に比べればささやかなお祝いに感じられたが、それでも再開を祝す人々の気持ちが十分に感じられた。

↑10月1日に再開した駅のなかで、最も会津川口駅側にある本名駅。ホーム前の植木がきれいに整えられ開通を祝う幟が立てられていた

 

本名駅の近くには第六只見川橋梁が架かる。ここは撮影スポットとしても人気だ。ダムの下とダムの上、両方から撮影ができる。

 

まずダムの下へは駅から徒歩450mほどで、国道252号を渡り川への道を下りて行く。一方、本名ダムのダム上へは徒歩10分ほどだ。ダムの上を旧国道が通るが、やや道幅が狭く車の往来もあるので注意が必要となる。一方、下から見上げる側の道は工事車両と農作業の車が通るぐらいで、道にも余裕があり安心してカメラを構えやすい。とはいえ好天日は午後になると逆光になりがちなので注意したい。

 

 

↑本名ダムの前に架けられた第六只見川橋梁を渡る下り列車。同写真はダム下から撮影したもの、ダム上から撮る人も多い

 

【再開後の駅めぐり⑧】会津川口駅にも立ち寄る人が増加傾向に

10月1日に再開した区間の中で、最も会津若松側の駅となる会津川口駅。こちらは駅舎に「再開!只見線」の幟などがささやかに掲げられるなど、お祝いの様子も静かなものだった。

↑金山町の玄関口でもある会津川口駅。駅前の飾りは再開を祝した幟や垂れ幕(左楕円)を含めて控えめな様子だった

 

とはいえ、駅前の駐車場スペースは満杯だった。駅には公共トイレもあり、全線運転が再開されたことと紅葉時期が重なったこともあって、立ち寄る観光客が多く見かけられた。駅内には金山町観光情報センターもある。週末ということもあり、問い合わせの電話が途切れることなくかかってきていた。

 

【再開後の駅めぐり⑨】この秋、盛況だった臨時列車の運行

運転再開後、只見線には毎週末のように臨時列車が運転されている。この臨時列車の運行は只見線を活気づける一つの要因になっているように見えた。只見線をこれまで走った臨時列車と今後の予定を見ておこう。

 

まず運転再開日の10月1日(土)、2日(日)に企画されたのが団体臨時列車「再会、只見線号」で、DE10形ディーゼル機関車+旧型客車3両で運行された。

 

10月8日(土)〜10日(月祝)、15日(土)・16日(日)、22日(土)・23日(日)にはキハ110系の快速「只見線満喫号」が運行された。また29日(土)・30日(日)にトロッコタイプ(只見線運転時は窓閉め予定)の「風っこ只見線紅葉号」が、キハ48形観光車両「びゅうコースター風っこ」により運転が予定されている。

 

さらに、会津鉄道の観光列車「お座トロ展望列車」も走る。ガラス窓がオープンするトロッコ車両と、展望車両が連結され、通常は週末を中心に会津若松駅〜会津田島駅間を定期的に走っている。この列車が10月7日(金)、14日(金)、21日(金)、28日(金)、11月4日(金)、11日(金)、18日(金)、26日(土)に団体ツアー列車「お座トロ展望列車で行く!只見線秋の旅」として運行されている。会津鉄道は福島県の資本も入る第三セクター経営の鉄道会社で、只見線も上下分離方式(福島県が線路を保有し、JR東日本が車両を走らせる)で再建されたこともあり、福島県のバックアップの色あいが強くなっている。

↑11月26日まで只見線に乗り入れ予定の会津鉄道「お座トロ展望列車」。写真は会津鉄道内を走っている時に撮影したもの

 

ちなみに「只見Shu*Kura」という列車名で、観光列車のキハ40系の「越乃Shu*Kura」が10月22日(土)・23日(日)に小出駅経由で、新潟駅〜只見駅間を走っている。

 

こうした臨時列車は、雪が降り観光のオフシーズンとなる前、ほぼ毎週のように運転されている。定期列車は1日に3往復しか走らない線区なだけに、日中はダイヤに余裕がある。地元としても来春以降は臨時列車に期待したいところだろう。

 

今のところは他社の車両、他エリアを走る車両が〝出張〟してきて走るだけに、将来は定期的に走り、名物となるような観光列車が造れないものだろうか。例えば、2010年代まで走っていた「SL会津只見号」を復活させることができないのだろうか、そのあたりも気になるところだ。

 

【再開後の駅めぐり⑩】車利用の観光客を惹き付けるためには

今は開通景気と紅葉時期のため賑わいをみせる只見線だが、先々どのようにすれば、継続的な誘客が可能となるのか、筆者なりに考えてみた。只見線は〝乗り鉄〟にとっては魅力的な路線であることに違いない。とはいえ、全線を巡るとなると1日必要になる。途中下車して過ごすとなれば、なおさら時間がかかる。臨時列車はどれも賑わっていたが、今後の定期運行が決まっていないだけに、これからが大切なように思われた。

 

只見線沿線を訪れる観光客、撮影に訪れる人はクルマの利用が圧倒的に多いように思われる。とすれば誘客に加えて、現地で物品を購入してもらうことが肝心になるだろう。一つの好例がある。

 

それは只見線の絶景の代表としてPRされることが多いのが第一只見川橋梁である。只見川に架かる橋をゆっくり走る気動車。風がなければ川面が水面鏡となり、列車が写り込んで絵になる。四季折々、晴天日だけでなく、霧の立つ日なども訪れる人が多い。

 

こうした絶景が写せるビューポイント(JRで紹介された絶景ポイント)と遊歩道が整備されており、そこに行く観光客が多い。すぐ近くには「道の駅 尾瀬街道みしま宿」(福島県三島町)があり、週末ともなると駐車場スペースも満杯で物販も好調のようである。

↑第一只見川橋梁の一番低い位置の撮影スポットB地点から撮影したもの。さらに上がったC地点、D地点まで遊歩道が整備される

 

ちなみに第一只見川橋梁のビューポイントはB・C・Dの3カ所ある(Aは遊歩道の入口でビューポイントではない)。道の駅から最短のビューポイントB地点までは徒歩で5分もかからない。Bの上にあるC地点、さらに奥のD地点まで行けば、広大な景色が楽しめる。また、各地点には列車が橋を渡る時間が掲示されていてありがたい。ただし行きは上り坂、帰りは下り坂となるので注意して歩きたい。

 

↑国道252号沿いの「道の駅 尾瀬街道みしま宿」(三島町)。第一只見川橋梁のビューポイントは右奥の山の傾斜部にある

 

↑道の駅にある只見川ビューポイント遊歩道の案内図。Aから入りB、C、Dの順にポイントがある。各場所から写真も掲載される

 

筆者が訪れた時はビューポイントへ向かう人も絶え間なかった。訪れる人は、こうした只見線の絶景を一度はカメラやスマホで撮っておきたいという人ばかり。ただし道の駅のPRサイトなどの記事はあまり分かりやすいとは言えず、少し残念に感じている。

 

只見線には他にも絶景ポイントがあるので、そちらも第一只見川橋梁のように、撮影ポイントを整備すればよいのではないかと思った。

 

少し先になるが2026(令和8)年には只見への新ルートが開通する予定だ。新潟県の三条市と只見町を結ぶ国道289号の県境部が全通する予定になっている。この国道が八十里越(前述の河井継之助が越えた道)とも呼ばれる峠道で、このルートを使うと三条市〜只見町が79分で結ばれる。冬期も通行が可能との情報もあり、新たなルート誕生にも期待したい。

 

【再開後の駅めぐり⑪】実は豪雨災害の後に廃止された駅があった

「平成23年7月新潟・福島豪雨」後、只見線で唯一、営業休止のままとなり、10月1日の全線開通時にも再開しなかった駅がある。田子倉(たごくら)という駅だ。

 

田子倉駅は只見駅〜大白川駅間の駅で、県境となる六十里越の福島県側、只見町内の田子倉湖畔にあった。1971(昭和46)年8月29日に只見駅〜大白川駅間の開通に伴い開業した。

 

利用者が1日に0〜3人だったこともあり、2001(平成13)年12月1日からは3月まで冬期休業となり、普通列車が停まらない臨時駅となっていた。2011年(平成23)年7月30日、豪雨災害の影響を受けたその日に営業休止、後に只見駅〜大白川駅間が復旧したものの、2013(平成25)年3月16日に正式に廃駅となった。

 

旧田子倉駅の入口棟は国道252号に面していたものの、駅のホームは入口を下りた湖畔のスノーシェッドの中にあり、今は入口も閉鎖されホームの様子を見ることはできない。なお、駅の周辺に民家は一軒もない。近くに田子倉無料休憩所があり、ここをベースに奥只見の山々へ登る人も見られるほか、釣り客も訪れる。

↑旧田子倉駅の入口棟の様子。国道252号沿いにあり、この建物から下のホームへ下りていった

 

↑入口を塞ぐネットから中をのぞくと階段などがきれいに残されていた。右にわずかに見える階段から下に降りたようだ

 

もし「平成23年7月新潟・福島豪雨」により路線が不通になることがなかったら、駅はどのような運命をたどっていただろうか。〝秘境駅〟を訪れる人は今も意外に多いし、ユネスコエコパークのベースとしても利用されていたかも知れず、少し残念なところである。

11年ぶりに運転再開!「只見線」の復旧区間を再訪してみた〈前編〉

〜〜JR只見線 復旧工事前後を比較レポート(福島県)〜〜

 

福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶJR只見線。2011(平成23)年7月の豪雨災害の影響で、福島県の一部区間が不通となっていたが、復旧工事がようやく完了し、10月1日に11年ぶりの運転再開を果たした。

 

複数の鉄橋が崩落するなど、大規模な復旧工事が必要となった只見線。工事着工1年後と、運転再開後に再訪し、変わった只見線を比べてみた。観光客の来訪の様子も含め、復旧の悲願を達成した沿線を2回にわたりレポートしたい。

*取材は2019(令和元)5月31日、6月1日、2022(令和4)10月15日に行いました。

 

【関連記事】
夏こそ乗りたい! 秘境を走る「只見線」じっくり探訪記〈その2〉

 

【只見線を再訪した①】満員の列車到着で賑わっていた只見駅

只見線の起点は会津若松市の玄関口、会津若松駅。会津若松市は福島県会津地方の中心都市であり、旧会津藩の城下町としても良く知られている。起点の会津若松駅から終点の小出駅まで、全線135.2kmとその距離は長い。所要時間も4時間半ほどだ。全線を走る列車は1日にわずか3往復といった具合だ。それにもかかわらず只見線は鉄道雑誌などのローカル線の人気投票で、常にベスト3位に入る人気路線となっている。

 

そんな只見線を悲劇が襲った。2011(平成23)年、全線開通40周年のお祝いが行われたわずか数日後の7月26日から30日にかけて「平成23年7月新潟・福島豪雨」により、大きな被害を受けた。一部区間の復旧は果たしたものの、会津川口駅〜只見駅27.6km(営業キロ)間では複数の橋梁が流されるなど被害が大きく、長期間の不通を余儀なくされる。4年にわたる復旧工事が進められ、この10月1日に運行再開となった。

↑会津若松駅発、只見駅9時7分着の〝始発列車〟が到着した。駅のそばの水田ではかかしたちが「お帰り只見線」とお出迎え(上)

 

筆者は復旧してから2週間後の只見駅を訪れた。そして9時7分着、会津若松発〝始発列車〟の到着を待った。この列車は会津若松駅6時8分発だ。

 

1両編成のキハ110系、小出駅行きがホームに入ってくる。見ると車内は立って乗車する人が多いことが分かる。只見駅に到着すると、多くの人たちが下車してきた。乗客は老若男女、先生が付き添う小学生の一団も見られた。運転再開して2週間がたつのに、その乗車率の高さに驚いた。

 

この小出駅行き列車は、只見駅で23分間の休憩時間を取る。この駅で乗務員が交代、乗客たちもホームで、また駅舎の外へ出て一休みしている。このあたりローカル線ならでは、のんびりぶりである。

 

乗客のうち只見駅で下車する人は1割ぐらいだったろうか。次の小出駅行きが16時31分発までなく(まれに臨時列車が走る日も)、また会津若松方面に戻るにしても、次の列車は14時35分(臨時列車運行日は13時40分)といった具合なので、日中に只見の町で過ごそうという人は見かけなかった。

 

出発時間が近づくと列車に戻り、また只見駅から乗車する人も加わり、多くの人たちがそのまま終点の小出駅を目指して行ったのだった。

 

【只見線を再訪した②】只見線の宝物といえば渓谷美と鉄橋

復旧後に全線を通して走る列車3往復の時刻を見ておこう。

 

〈下り〉会津若松駅→小出駅

423D列車:会津若松6時8分発→只見9時7分着・9時30分発→小出10時41分着

427D列車:会津若松13時5分発→只見16時21分着・16時31分発→小出17時47分着

431D列車:会津若松17時00分発→只見19時52分着・20時2分発→小出21時26分着

 

〈上り〉小出駅→会津若松駅

426D列車:小出5時36分発→只見7時1分着・7時11分発→会津若松10時32分着

430D列車:小出13時12分発→只見14時25分着・14時35分発→会津若松17時24分着

434D列車:小出16時12分発→只見17時30分着・18時00分発→会津若松20時55分着

 

ほかに区間限定で運転される列車と、ごく一部の週末に運転される臨時列車が走る。ダイヤを見ると夜間に運転される列車を除き、日中に走る列車は2往復のみで、なかなか利用しづらいというのが現実だ。ちなみに、不通となる前も全線を走る列車は1日に3往復しか走っていなかった。

↑第一只見川橋梁を渡る下り427D列車。会津桧原駅〜会津西方駅間にある橋梁を望む展望台は紅葉期ともなれば大変な人出に

 

あらためて只見線の魅力はと問えば、列車の本数が少なく貴重な体験が楽しめること。また第一只見川橋梁のように、只見川に架かった橋と、周囲の山々が織りなす景観の素晴らしさが挙げられるだろう。第一只見川橋梁は国道252号沿いに展望台が設けられていて、近くにある「道の駅 尾瀬街道みしま宿」から徒歩で5分程度と近い。ただし展望台へは若干、山の上り下りが必要となる。

↑本MAPは只見線の不通区間だった会津川口駅〜只見駅間を中心に紹介。人気の第一只見川橋梁と、第五〜第八橋梁の位置を図示した

 

【只見線を再訪した③】希少車やラッピング車両に注目したい!

ここで只見線を走る車両を紹介しておこう。只見線といえば長年キハ40系が走っていたが、残念ながら2020(令和2)年7月に運用終了となっている。現在走っている車両は以下の2タイプだ。

 

◇キハ110系

↑紅葉期に合わせて10月の連休や週末に運転された「只見線満喫号」。150年前の客車をイメージしたレトロラッピング車両が走った

 

JR東日本を代表する気動車で、只見線を走る車両は新津運輸区に配置される。筆者が訪れた日には、臨時列車(快速「只見線満喫号))の増結用として、「東北デスティネーションキャンペーン」にあわせ「東北のまつり」のレトロラッピングを施した「キハ110系リクライニングシート車」も走っていた。こうした臨時列車の運行時は増結車両に注目したい。

 

◇キハE120形

↑越後須原駅〜魚沼田中駅間を走るキハE120系。同車両は前後2扉が特長となっている。全線復旧後は小出駅まで乗り入れている

 

キハE120形は新津運輸区に配置されていた車両で、郡山総合車両センター会津若松派出所属に配置替え、2020(令和2)年3月14日から只見線で運用を開始した。

 

関東地方の久留里線や水郡線を走るキハE130系と形は似ているが、キハE130系の乗降扉が3扉あるのに対して、キハE120系は2扉で、両側に運転台を持ち、1両での運行も可能となっている。またキハ110系との併結運転も可能だ。製造されたのが8両という希少車両でもある。

 

只見線の全線運転再開に合わせて10月1日から1両のみ(キハE120-2)が「旧国鉄カラー」色のクリーム色と朱色の組み合わせラッピングで走り始めたが、運転開始日の始発列車で運用された時に、只見線内で車両故障のトラブルが起き、立ち往生してしまった。筆者が訪れた日にも残念ながらお目にかかることができなかった。

 

【只見線を再訪した④】只見川はふだん穏やかな川だが

ここからは、只見線と関係が深い只見川の話に触れておきたい。只見川は日本海へ流れ込む阿賀野川(福島県内では阿賀川)の支流にあたる。只見線は会津若松駅から会津坂下までは会津若松の郊外線の趣だが、会津坂本駅からほぼ只見川に沿って走る。只見駅の先、六十里越トンネルへ入るまで8つの橋梁を渡る。

 

戦前に会津宮下駅まで延伸開業していた只見線(当時はまだ「会津線」と呼ばれた)だが、戦後はまず、1956(昭和31)年9月20日に会津川口駅まで延伸。会津川口駅〜只見駅間は、当初は只見川に設けたダム建設用の資材を運ぶための路線として設けられ、1961(昭和36)年までは電源開発株式会社の専用線として貨物輸送が行われた。その後、1963(昭和38)年8月20日に同区間は旅客路線として延伸開業している。全通したのはその8年後で、1971(昭和46)年8月29日、只見駅と新潟県側の大白川駅間が開業し、全線を只見線と呼ぶようになった。

↑只見ダムによってせき止められた只見湖の上流には田子倉ダムがそびえる。このダムの先には巨大な人造湖・田子倉湖が広がる

 

只見線の車窓からも見えるが、只見川は上流にかけて計10のダムが連なっている。上流部のダムはひときわ大きく、田子倉ダム、さらに上流の奥只見ダムは全国屈指の規模とされている。水力発電により生み出された電気は、東北県内、また只見幹線と呼ばれる送電線により首都圏方面へ送られている。つまり、只見川でつくられた電気が広域の電気需給に役立っているわけだ。

 

ダムにより治水も行われ、ふだんは穏やかな只見川を暴れ川にしたのが、2011(平成23)年7月26日から30日にかけて降り続いた「平成23年7月新潟・福島豪雨」だった。その降り方は尋常ではなかった。筆者の従兄弟が、この地方の学校にちょうど赴任していたのだが、当時のことを聞くと、それこそ「バケツをひっくり返した」という表現がふさわしい降り方だったと話している。この時は本当に「降る雨が怖かった」そうだ。1時間に100ミリ前後の雨が降り続き、只見町では72時間の間に最大700mmの降雨を記録している。要は大人の腰近くまで浸かるぐらいの雨が、短時間に降ったのだから、その降り方は想像が付かない。只見川に多く設けられたダムも、この予想外の雨には無力だった。ダムの崩壊を防ぐためにやむなく緊急放水を行うことになる。

 

降水および放水により、急激に水かさを増した只見川の濁流が住宅や水田、そして橋を襲う。只見線では只見川にかかる第五、第六、第七、第八只見川橋梁が崩落し、また冠水して復旧工事が必要となった。

 

今、ふり返れば、雨が降る前から少しずつ放流していればと思うのだが、最近の豪雨災害は予想がまったくつかない。裁判も開かれたが、今の豪雨災害はダム管理者にとっても管理が非常に難しいというのが現実なのだろう。

 

【只見線を再訪した⑤】2018年に復旧工事が始まった

被害を受けてからその後の鉄道会社と自治体の対応は、詳細は省くとして、結論としては復旧した後は福島県が線路を保有し、JR東日本が車両を走らせ上下分離方式で運用されることが決定。復旧費用は約90億円とされ、そのうち3分の2は福島県と会津地方の17市町村、3分の1をJR東日本が負担する。線路の保有・管理費用は毎年約3億円とされ、これらは自治体の負担となる。

 

そうした負担や、今後の管理運営方針がはっきりしたところで、2018(平成30)年6月15日から復旧工事が開始された。

↑被害の軽微なところでは写真のように線路上も走れる油圧ショベルを使っての作業が行われた

 

復旧工事が始まって約1年後に現地を巡ったが、第六只見川橋梁の工事が特に大規模な工事に見受けられた。

 

第六只見川橋梁は、東北電力の本名(ほんな)ダムの下流部に架かっていた。この橋を復旧させるために、ダムの下に強靭な足場を造り、そこに大型クローラークレーンを入れ込んだ。新しい橋脚を造り上げるためだった。川の流れのすぐそばに持ち込まれた重機が動く様子を見ただけでも、難工事になることが容易に想像できたのだった。

↑第六只見川橋梁の復旧工事現場には、写真のような大型クローラークレーンが据え置かれて、橋脚の新設に使われていた

 

【只見線を再訪した⑥】それぞれの橋梁の復旧前後を見比べると

ここからは被害を受けた鉄橋が架かる箇所の、復旧前後の変化を見ていきたい。橋が濁流に飲まれたところでは、なぜ流されたのかが想像できないところもある。それほどまでに水かさが増し、流れが激しかったということなのだろう。

 

ちなみに、2021(令和3)年に只見線の橋梁や諸施設は「只見線鉄道施設群」として土木学会選奨土木遺産に認定されている。日本の土木技術を高めたとして、土木工学の世界でも大切とされているわけだ。

 

まずは第五只見川橋梁(橋長193.28m)から。この橋梁は中央部が曲弦ワーレントラスという構造になっていて、前後はシンプルな形のプレートガーダーで結ばれている。この第五只見川橋梁が架かるところは、川がちょうどカーブしているところで、流れがそのカーブに集中したようで、下流側のプレートガーダー部分が流されてしまった。第五只見川橋梁の復旧費用は約3億円とされているが、被害を受けた4本の橋梁のうち、もっとも少ない費用で復旧することができたとされる。

↑国道252号から望む第五只見川橋梁。穏やかな川面には橋を写しこむ水面鏡が見られた。会津川口駅側の一部分が被害を受けた(右上)

 

【只見線を再訪した⑦】水面上昇を考慮した新第六・七只見川橋梁

本名駅(ほんなえき)〜会津越川駅(あいづこすがわえき)間に架かるのが第六只見川橋梁(橋長169.821m)で、会津横田駅〜会津大塩駅間に架かるのが第七橋梁(橋長164.75m)となる。どちらの橋も迫力があり、渡る列車の車窓からの眺めも素晴らしい。

 

このうち第六只見川橋梁は本名ダムに平行するようにかかり、放流の際にも影響を受けないように、離れて設置され、水面からの高さも確保されていたのだが、それでも被害を受けてしまった。

 

構造は第六、第七只見川橋梁ともに橋げたはプレートガーダーだったが、ボルチモアトラスという構造物(上路式トラス橋とも呼ばれる)が下に付く形をしていた。橋を強化するための構造だったが、水面が上昇した際に流木などが引っ掛かり、さらに当時はより橋脚も川の流れに近かったことも災いした。

↑第六只見川橋梁の架橋工事が進む。正面が本名ダムで手前の高い位置に橋が架かっていたが流されてしまった

 

↑復旧した第六只見川橋梁。川の流れに影響されないように橋脚は両岸の高い位置に設けられた。ちょうど下り列車が通過中

 

第六、第七只見川橋梁ともに流れの影響を受けないように、橋台・橋脚が強化され、また流れが届かない位置に設けられた。橋げたも長く延ばされている。また以前は線路部分の下に構造物が付いたボルチモアトラス(上路式トラス橋)だったが、上部に構造物がある下路式トラス橋に変更されていて、水面上昇に被害を受けにくい構造が採用されている。

 

第六只見川橋梁の工事は、地質条件が想定よりも悪かったなどの悪条件が重なり、工法を再検討するなど困難を極めた。工事の進捗にも影響し、復旧見込みの日程もずれることになった。復旧費用は第六只見川橋梁が約16億円とされる。

↑第七只見川橋梁の復旧工事の模様。橋脚・橋げたを含めすべて除去した後に、新たな橋脚工事から進められた

 

↑第七只見川橋梁を渡る快速「只見線満喫号」。水面が上昇しても影響を受けない下路式トラス橋という構造が使われる

 

この2本の橋梁の再建方法を見ると、水面が上昇し、水圧を受けたとしても、被害が受けにくいような構造および技術が採用されている。素人目に見てもタフな構造に強化されているように感じた。

↑磐越西線の開業当時の古い絵葉書。中央部がボルチモアトラス(上路式トラス橋)で今では国内4箇所のみに残る珍しい構造だ

 

【只見線を再訪した⑧】道路が平行しない場所の復旧工事では

被害を受けた4本の橋の中で予想を上回る復旧費用がかかったのが第八只見川橋梁(橋長371.10m)だった。この区間のみで約25億円がかかったとされている。この橋梁前後は盛り土が崩壊し、また橋梁が冠水した。上部にトラス構造が付く橋だったせいか、橋自体の流出は免れているが、さらなる被害をふせぐために、一部のレールの高さが最大5mにまで引き上げられた。

↑ダム湖の左岸にある第八只見川橋梁の復旧工事の模様。湖面上に重機を積んだ船が浮かぶ様子が見える(左)

 

↑復旧した第八只見川橋梁を遠望する。その先、路盤のかさ上げ工事が行われたようで、その部分が白く見えている

 

被害を受けた橋梁前後の路線距離があり、さらに国道252号の対岸で、線路に平行する道もない。そのため重機の持ち込みが難しく、対岸に船着き場を設けて、そこから船を使って重機を復旧現場に運び込む様子も窺えた。

 

もちろん重機を運ぶような船が当初からあるわけでなく、他所から運んできて組み立てたものだ。川岸での作業、またダム湖の水を放流しての河畔で作業を行うことが必要な時もあり、雨天の作業の際には慎重にならざるをえないような場所だった。ここが最も費用がかかったことも推測できる。

 

【只見線を再訪した⑨】列車が走ってこその駅だと痛感する

今回のレポートは最後に一駅のみ復旧前、運転再開後の姿を見ておこう。田んぼの中にある小さな駅、会津大塩駅の、〝ビフォーアフター〟である。3年前に訪れた時にはホーム一つに小さな待合室らしき建物があったが、中には入れないように板が打ち付けてあった。雑草が生い茂り寂寥感が漂った。運転再開後は、ホーム上の白線がきれいに引かれ、待合室も開放感あふれるきれいな造りになっていた。

 

訪れた時は人がいなかったものの、駅は列車が発着してこそ、駅として成り立つことを物語っていた。

↑列車が走っていない時の会津大塩駅。右は待合室の建物だが、板が打ち付けられて入室できない状態に

 

↑運転再開後の会津大塩駅。塗装し直されたばかりで小さいながらも清潔な装いに。近所の人たちが育てた植物のプランターも見られた

 

復旧した会津川口駅〜只見駅間では全駅を巡ってみた。そこには列車再開を祝う手作りの飾りが多く見られた。地元の人たちの心待ちにしていた思いが込められているようだった。変わる駅の様子、人々の歓迎ぶりや、今後への思いは次週にまたレポートしたい。

 

人情味あふれる南秋田!ほのぼの「由利高原鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅96〜〜由利高原鉄道・鳥海山ろく線(秋田県)〜〜

 

秋田県の県南、由利本荘市内を走る「由利高原鉄道」。鳥海山ろく線を名乗るように、沿線から鳥海山を望める風光明媚な路線である。この鳥海山ろく線に乗ったところ、他の路線にはないいくつかの出会いがあった。人情味あふれるほのぼの路線だったのである。

*取材は2014(平成26)9月、2015(平成27)9月、2022(令和4)年7月31日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
田んぼ&歴史+景勝地「秋田内陸縦貫鉄道」の魅力にとことん迫る

 

【鳥海山ろく線の旅①】横手と路線を結ぼうとした横荘鉄道

鳥海山ろく線の概要をまず見ておこう。

 

路線と距離 由利高原鉄道・鳥海山ろく線:羽後本荘駅(うごほんじょうえき)〜矢島駅間23.0km 全線非電化単線
開業 1922(大正11)年8月1日、横荘鉄道(おうしょうてつどう)により羽後本荘駅〜前郷駅(まえごうえき)間11.7kmが開業、1938(昭和13)年10月21日、羽後矢島駅(現・矢島駅)まで延伸
駅数 12駅(起終点駅を含む)

 

始点駅となる羽後本荘駅と前郷駅の間の路線は誕生して今年でちょうど100周年になる。当時、横荘鉄道という民間の鉄道会社により路線が開設された。

↑鳥海山ろく線の終点駅の・矢島駅。過去には横手と路線を結ぶ計画があった

 

横荘鉄道という鉄道会社は、今ふりかえると少し不思議な鉄道会社だった。横荘の「荘」は由利本荘市(当時は「本荘町」)を元にしていると分かるが、「横」はどこだったのだろう。この「横」は由利本荘市の東側に隣接する横手のことだった。つまり今から100年以上前の人々が、奥羽本線が通る横手と本荘を鉄道で結ぼうと計画した路線だったのである。横荘鉄道は、本荘側の一部区間を1922(大正11)年に開業させたが、横手側では、これよりも早く1918(大正7)年に横手駅〜沼館駅(ぬまだてえき)間を開業させている。

 

その後、本荘側と横手側の路線は違う歴史をたどる。横手側は1930(昭和5)年に老方駅(おいかたえき)まで延伸させた。本荘側では、横荘鉄道が延伸工事を進めていたが、1937(昭和12)年9月1日に国有化され国鉄矢島線となり、1938(昭和13)に矢島駅まで延伸され、現在の鳥海山ろく線にあたる路線が全通している。

 

一方の横手側は戦時中の1944(昭和19)年に羽後鉄道横荘線となり、1952(昭和27)年に羽後交通横荘線に名称変更したが、1971(昭和46)年7月20日に全線が廃線となった。横荘鉄道が企画した路線の夢はついえたわけだ。地図を見ると矢島駅から、羽後交通の老方駅へは山間部が続き、路線が開業できたかどうか疑問に感じるようなところだ。

 

ただ興味深いことに、羽後交通横荘線の終点、老方駅は現在の由利本荘市東由利(旧東由利町)にあった。旧老方駅は由利本荘市と横手市をストレートに東西に結ぶ現在の国道107号上にあった。対して、現在の鳥海山ろく線は、羽後本荘駅から南東に走る国道108号にほぼ沿って走っている。このあたりどのようなルートを夢見たのか、当時の人たちに話を聞いてみたいところだ。

 

現在の鳥海山ろく線は、国鉄矢島線として長い間走ってきたが、1981(昭和56)年9月11日に第1次廃止対象特定地方交通線として廃止が承認された。その後、同線は当時の本荘市を中心とした地方自治体が出資する第三セクター経営の由利高原鉄道に転換し、1985(昭和60)年10月1日からは鳥海山ろく線として走り始めたのである。2005(平成17)年3月22日に本荘市と周辺の由利郡の7つの町が合併し、鳥海山ろく線は現在、全線が由利本荘市内を走る路線となっている。

 

【鳥海山ろく線の旅②】由利高原の名が付くものの標高は低い

鉄道会社の名前は由利高原鉄道となっている。乗車して分かるのだが、山の中を上り下りするのは子吉駅〜鮎川駅間ぐらいのものだ。始発駅の羽後本荘駅は標高7m弱、終点駅の矢島駅も標高53mぐらいとそれほど高くない(国土地理院標高地図で計測)。

 

第三セクターの路線では、他に滋賀県の信楽高原鐵道(しがらきこうげんてつどう)という路線があるが、こちらも高原は走っていないが、山間部は走っている。このあたりは、鉄道会社名を命名するにあたっての〝イメージ戦略〟ということもあるのだろう。

 

ちなみに路線の南西部、鳥海山麓には由利原高原と呼ばれる高原エリアがあって、そちらにはゆり高原ふれあい農場など「由利(または『ゆり』)高原」を名乗る施設が複数ある。

↑曲沢駅(左上)付近から見た鳥海山。鳥海山山麓の北側の高原地帯の一部が由利原高原、または由利高原と呼ばれている

 

由利高原と鳥海山麓が出てきたので、この高原地帯の頂点にある鳥海山の解説をしておきたい。鳥海山は山形県と秋田県のまたがる標高2236mの活火山で、日本百名山の一つとして上げられている。

 

独立峰ということもあり、四方から美しい山容が楽しめる。秋田県側には一番古い歴史を持つ登山道として「矢島口(祓川・はらいがわ)ルート」があり、矢島駅から鳥海山5合目であり山への登り口にあたる「祓川」まで、夏山シーズンにはシャトルバスも運行されている。

 

【鳥海山ろく線の旅③】おもちゃ列車という観光列車も走る

ここで鳥海山ろく線を走る車両の紹介をしておこう。現在、車両は2タイプが走る。

 

◇YR-2000形

↑「おもちゃ列車」として走るYR-2001。車内にはキッズスペース(右上)があり、木のおもちゃなども用意されている

 

2000(平成12)年と2003(平成15)年に2両が製造された。新潟鐵工所(現・新潟トランシス社)製の地方交通線用のNDCタイプの気動車で、由利高原鉄道としては初の全長18m車両の導入となった。

 

2両のうちYR-2001は、沿線に「鳥海山 木のおもちゃ美術館」が2018(平成30)年7月に開設されたことに合わせてリニューアルされた。車両の名前は「鳥海おもちゃ列車『なかよしこよし』」で、アテンダントが乗車する「まごころ列車・おもちゃ列車」などとして運行されている。客室内には木材を多用、キッズスペース、サロン席などが設けられた楽しい車両だ。

 

◇YR-3000形

↑YR-3000形の最初の車両YR-3001。車体横に車両の愛称「おばこ」と鳥海山が描かれている。「おばこ」とは方言で娘さんの意味

 

YR-3000形は2012(平成24)年から2014(平成26)年にかけて3両が製造された。製造は日本車輌製造で、長崎県を走る松浦鉄道のMR-600形をベースにしている。3両とも車体色が異なり、1両目のYR-3001は緑色、2両目のYR3002は赤色、3両目のYR-3003は青色をベースにした塗り分けが行われている。

 

YR-3000形は1両編成で走ることが多いが、イベント開催時などには3両編成といった姿も見ることができる。ただし、YR-2000形との併結運転はできない。この車両の導入により由利高原鉄道が開業した時に導入したYR-1500形(旧YR-1000形)がすべて廃車となっている。

 

【鳥海山ろく線の旅④】始発駅は、由利本荘市の羽後本荘駅

鳥海山ろく線の始発駅、羽後本荘駅から旅を始めよう。由利本荘市の玄関口だ。由利本荘市なのに、駅の名前は羽後本荘駅なので注意したい。

 

鉄道省の陸羽西線(当時)の駅として羽後本荘駅が誕生したのは1922(大正11)年6月30日のことだった。現在の鳥海山ろく線の羽後本荘駅はその1か月ちょっと後の開設で、両線の駅が同じ年に生まれたことになる。ちょうど100年前と、幹線の駅としてはそれほど古くない。これには理由がある。

 

当初、日本海沿いを走る羽越本線の工事が手間取り、南と北から徐々に路線が延ばされていった。最後の区間として残ったのが新潟県の村上駅と山形県の鼠ケ関駅(ねずがせきえき)間で、この駅間の開業が1924(大正13)年7月31日のことだった。これで、日本海沿いに新潟県と秋田県を結ぶ羽越本線がようやく全通したのだった。

 

東北地方を南北に貫く路線の中で、羽越本線よりも前に開通していたのが、奥羽本線だった。1905(明治38)年に湯沢駅〜横手駅間の開業で、福島駅〜青森駅間が全通している。奥羽本線が20年近くも前に全通していた経緯もあり、横荘鉄道が横手駅から羽後本荘駅への鉄道路線を計画したようだ。

↑昨年8月に橋上駅舎が完成した羽後本荘駅。写真は東口で、橋上にある自由通路から鳥海山が遠望できる(左上)

 

羽越本線の羽後本荘駅は秋田駅から特急「いなほ」を利用すれば30分、普通列車ならば約50分で到着する。1番線〜3番線が羽越本線のホームで、3番線と同じホームの4番線が鳥海山ろく線の始発ホームとなる。鳥海山ろく線の羽後本荘駅発の列車は朝6時50分が始発で、以降、ほぼ1時間に1本の割合で列車が走っている。

 

【鳥海山ろく線の旅⑤】乗務員の気配りにびっくり!

鳥海山ろく線を土日祝日に旅する場合には「楽楽遊遊(らくらくゆうゆう)」乗車券1100円を購入するとおトクだ。羽後本荘駅〜矢島駅間の運賃が610円なので、往復するだけで十分に元が取れる。しかし、筆者は一つミスをしてしまった。羽後本荘駅の窓口が開き、その乗車券が購入できるのは7時30分以降のこと。その前の列車に乗ろうとすると、有人駅の前郷駅、矢島駅まで行って乗車券を買わなければいけない。

↑羽後本荘駅の4番線に停車する矢島駅行き列車。週末の利用には「楽楽遊遊」乗車券(右上)がおトクになる

 

ワンマン運転を行う乗務員からは購入できないのである。筆者は朝一番の列車に乗って、鳥海山が良く見える曲沢駅で降りて撮影をと考えていた。

 

そのことを乗務員に伝えると、「前郷駅で行き違う上り列車の運転士に『楽楽遊遊(らくらくゆうゆう)』乗車券を託しますから曲沢駅で受け取ってください」とのこと。

 

さすがにそこまでやっていただくのは申し訳ないと思い、手配してもらうことは遠慮し、有人駅の前郷駅を目指すことにした。こうした手配は、乗車した乗務員個人の配慮だとは思われるが、1人の旅人に向けての気遣いがとてもうれしかった。実はこの乗務員とは、帰りにも出会い、再び細かい心配りをしていただいたのである。

 

こうした乗客のことを考えた姿勢は、由利高原鉄道全体の社風なのかもしれない。前郷駅で「楽楽遊遊」乗車券を購入したら、2023(令和5)年3月31日まで有効の「楽楽遊遊」乗車券をもう1枚プレゼントされたのである。同乗車券は沿線の食堂や公共施設などの割引優待券も兼ねており、旅する時に便利だ。

 

同社の思いきった施策は定期券の販売にも見られる。2021年度と2022年度の一時期、通学定期券の金額を半額程度まで引き下げたのである。さらに定期券を購入すると、カレーや中華そばといった同社のオリジナル商品もプレゼントされた(時期限定)。そのことで前年に比べて利用者が約2倍に増えたそうだ。割引をしたとはいえ、隠れた需要の掘り起こしに結びついたわけで、何とも思いきったことをする会社でもある。これも乗客への心配りの一環と言えるだろう。

 

さて、前置きが長くなったが鳥海山ろく線の旅を始めよう。羽後本荘駅の次の駅は薬師堂駅。この駅までは羽越本線に平行して走る。複線の羽越本線の東側に平行して鳥海山ろく線の線路が延びている。薬師堂駅から左にカーブ、進行方向右手に鳥海山や山々が見えるようになる。

↑羽後本荘駅から薬師堂駅(左上)までは羽越本線と平行して走る。訪れた日には珍しいYR3000形が3両で走るシーンが目撃できた

 

このあたり、進行方向左手に国道108号が並走する。左右に水田が広がるが、南側に鉄の柵が線路に連なるように立てられている。この柵は防雪柵といって、冬に発生しがちな吹雪から列車を守る装置だ。春から秋までは柵となる鉄板は外されているため、車窓の眺めに影響はない。

 

ちなみに、同社ホームページには「各駅・駅周辺みどころ案内」として駅の案内がアップされている。駅周辺を見渡す「全画面パノラマ」といった試みも行われる。こうした例は他社では見たことがない。これも同社の心配りのように思う。旅する前に一度、見ておくことをおすすめしたい。

 

薬師堂駅の次は子吉駅。ホーム前に水田が広がるものの、駅舎は郵便局も兼ねている。子吉駅を過ぎると国道108号から離れ山の中を走る。15パーミルの坂を下りて鮎川を渡れば鮎川駅へ到着する。この鮎川を渡る手前、右手にあゆの森公園があり、沿線で一番の人気スポット「鳥海山 木のおもちゃ美術館」が隣接している。

 

【鳥海山ろく線の旅⑥】鮎川駅前のかわいらしい待合室は?

↑鮎川駅の駅舎。ホーム上にはかわいらしい「世界一小さな待合室」(左下)が設けられている

 

鮎川駅のホーム上には「世界一小さな待合室」がある。中に入ろうとすると、大人では頭がつかえてしまう高さの待合室だ。この駅からは前述した「鳥海山 木のおもちゃ美術館」行きシャトルバスが出ている。駅舎を出ると左にふしぎな建物が。こちらは「あゆかわこどもハウス」と呼ばれるこども待合室で、室内にはバスや列車を待つ間に遊べるように、木のおもちゃなどが置かれている。

 

興味深いのはこの待合室がクラウドファンディングによるプロジェクトにより建てられたこと。528万5000円の支援が集まったそうだ。

↑鮎川駅前に設けられたこども向け待合室。室内には木の椅子や、木のおもちゃ(右上)なども置かれて時間待ちに最適だ

 

なお、鮎川駅から「鳥海山 木のおもちゃ美術館」までは直線距離にすれば近いのだが、鮎川を渡る橋がないため、国道108号を経由しなければならずに、歩くと大人の足で22分ほど、約1.7kmの距離がある。

 

【鳥海山ろく線の旅⑦】子吉川を渡り、川に沿って南下する

鳥海山ろく線の各駅はみな個性的で、地元の方たちが掃除したり、花を植えたり手間をかけているのできれいだ。地元の方々に「自分たちの鉄道を守る」という思いが強いのであろう。

 

次の黒沢駅からは広がる水田の中、カーブを描いて駅に近づいてくる列車が絵になる。同社パンフレットにも「撮り鉄に大人気」とあった。筆者は7年前に花々と列車を撮影したいと、黒沢駅を訪れたことがある。ちょうどホーム上にキバナコスモスが咲き乱れ、停車する列車と駅が美しく撮影できた。

 

そんな黒沢駅で新発見。ホームの集落側に階段が設けられていた。ホームの柵も強化されていた。これまでホームには中央部の階段からしか入れない構造だったが、階段の新設は利用者の使いやすさを考えたものなのだろう。残念ながら花壇は小さめのプランターとなっていたが、安全性を高めるためにこれらの配慮をしているように感じた

↑2015(平成27)年9月初頭の黒沢駅。左上は今年の夏の黒沢駅。ホームが整備され、手前に階段が設けられていた

 

黒沢駅を出発すると、すぐに川を渡る。子吉川と呼ばれる一級河川だ。鳥海山麓を源流にして日本海へ流れ込む。秋田県内では雄物川、米代川に次ぐ第三の流域面積を持つ。

↑黒沢駅〜曲沢駅間で子吉川を渡る。橋の名前は滝沢川橋梁となっている。上流部では路線と並走して流れる区間もある

 

鳥海山ろく線は黒沢駅〜曲沢駅間に架けられた滝沢川橋梁で子吉川を渡った後に、子吉川とほぼ並走するようになる。西滝沢駅〜吉沢駅間で再び子吉川を渡るが、こちらは子吉川橋梁と名付けられている。

 

【鳥海山ろく線の旅⑧】前郷駅で今も行われるタブレット交換

鳥海山が望める駅・曲沢駅を過ぎたら次は前郷駅だ。鳥海山ろく線の場合には、前郷駅のみで上り下り列車の行き違いが行われる。この駅では、全国でも珍しい「タブレット・スタフ交換」作業が今も続けられている。専門用語では「閉塞」と呼ばれる信号保安システムの一種類で、この前郷駅で「タブレット・スタフ交換」をすることにより、羽後本荘駅〜前郷駅間と、前郷駅〜矢島駅間のそれぞれの駅間で2本の列車が同時に走らないように制御しているわけだ。

 

羽後本荘駅〜前郷駅間が小さめのスタフで、前郷駅〜矢島駅間では大きめのタブレットが使われる。それぞれには、金属製の円盤が通行証として入っている。こうしたタブレットとスタフの2種類の交換で運用されている鉄道会社は、全国の路線でもここのみだ。各地で残るこの交換作業は、大きめのタブレットのみか、小さめのスタフのみが使われていることが多い。安全運転を行う上でなかなか興味深いルールだと思った。

↑前郷駅で上り下り列車が行き違う。その際に、大きなタブレットと、小さめのスタフの交換作業が行われている(左上)

 

なお前郷駅での交換作業は、上り下りの列車行き違いが行われる時のみ。全列車ではないので時刻表を確認してから訪ねることをおすすめしたい。

 

前郷駅前には集落が広がっていたものの、その先は水田風景が広がる。前郷駅の一つ先、久保田駅は青いトタン屋根の小さな家が駅舎として使われている。この久保田駅から先はほぼ子吉川沿いに列車は走る。

↑青いトタン屋根の久保田駅の駅舎。ホーム一本で、下に駅舎があるのだが、民家のような造りが楽しい

 

次の西滝沢駅の先、子吉川橋梁で子吉川を渡る。ややカーブした橋でやや高い位置を列車が走ることもあり左右の眺望が開けて爽快だ。次の吉沢駅は、田んぼの中にぽつんと設けられた無人駅だ。最寄りの集落は国道108号を渡った先にあり、駅から最短で300mほど歩かなければならない。なかなかの〝秘境駅〟である。

 

吉沢駅と川辺駅の間は、進行方向左手に注目したい。この駅間で、もっとも子吉川の流れが良く見える。川とともに周囲の山々が美しく、撮影したくなるような区間だ。

↑川辺駅〜矢島駅間にある鳥海山ろく線唯一のトンネル・前杉沢トンネル。トンネルを抜けると終着駅の矢島駅も近い

 

↑水田と集落に囲まれて走る「おもちゃ列車」。この堤を駆け上がれば終点の矢島駅に到着となる

 

川辺駅を発車したらあと一駅。国道108号を立体交差で越えて、鳥海山ろく線で唯一のトンネル・前杉沢トンネル520mへ入る。トンネルを抜けたら間もなく目の前に広がるのは、由利本荘市矢島地区の町並みだ。

 

【鳥海山ろく線の旅⑨】矢島駅では手書き鉄印が名物に

羽後本荘駅から約40分で終点の矢島駅へ到着した。駅前に出ると、建物の間から鳥海山を望むことができる。沿線の各所で鳥海山は眺望できたが、矢島まで来ると、鳥海山がくっきり見えるようになる。

↑鳥海山ろく線の終点・矢島駅。開設当時は羽後矢島駅という駅名だったが、由利高原鉄道に転換時に矢島駅に改名された

 

↑矢島駅の構内には車庫があり、給油や車両の整備などが行われる。転てつ機などの古い機器が検修庫の横に置かれていた

 

訪れた日はちょうど自転車のロードレース大会が矢島を起点に開かれていて、全国から多くの人が訪れていた。どのような大会なのかと見て回る。このぶらぶら散策したことが小さな失敗に。

 

全国の第三セクター鉄道を乗り歩く際に記念となる「鉄印」だが、由利高原鉄道の鉄印は「由利鉄社員」の直筆鉄印(300円)と、「売店のまつ子さん」直筆の鉄印(500円)など複数の鉄印を用意している(9時〜17時の営業時間内)。そのうち名物となっているのが「売店のまつ子さん」の鉄印だ。だが、駅に戻ってきたのが列車の発車5分前と時間がない。筆者はどうも行き当たりばったりで旅することが多くよく失敗する。書いていただく時間を計算していなかったのである。

 

受付の人は渋い顔だったが、まつ子さんは快く「大丈夫よ!」と言い、時間が無いなかさらさらと書いていただけたのである。

 

「売店のまつ子さん」の店で書いてもらうと、しおりや、200円分の菓子が鉄印代に含まれる恩恵もある。まつ子さんはメディアなどでも紹介されているが、まさに心配りの人だった。

↑「売店のまつ子さん」が記帳した鉄印。にじみを防ぐために右下のしおりまで付けてくれた。右上のように、目の前で書いてもらえる

 

慌ただしい一時ながら無事に鉄印も書いていただき、帰りの列車に乗り込む。乗車したのは「おもちゃ列車」だった。かすりを着た「秋田おばこ」姿の列車アテンダントも同乗している。

 

矢島駅を出発する時にホームを見ると、列車の見送りに「売店のまつ子さん」が出ていらっしゃったではないか。「愛知からありがとう、伏見からありがとう……皆様ありがとう」の墨書きを持ちつつ、手を振るのであった。まつ子さんとの再会を願いつつ手を振り返し、矢島駅を後にしたのであった。

 

【鳥海山ろく線の旅⑩】帰りの列車の降車時にも小さなドラマが

筆者は「楽楽遊遊」乗車券を購入したこともあり、途中下車して、列車や景色を撮影しながら帰ることにした。まずは曲沢駅で下車しようと、乗務員に乗車券を見せて降りようとすると、朝に細かい心配りをしていただいた乗務員だった。「朝は、心配りありがとうございます」と告げると、覚えていたようで、「こちらこそ、いい写真が撮れましたか?」と話す。

 

そして思い出したように、筆者を呼び止め、「今日は特別にYR3000形の3両編成が走るんですよ」とひとこと。矢島で行われたイベントの参加者向けに3両編成という特別列車が運行されることを教えてくれたのだった。

 

わずかな時間の交流だが、それだけで十分だった。教えてもらえなければ、3両編成の運行は知らずにそのまま帰っていたところだった。

↑黒沢駅を発車して子吉川の堤防にさしかかる「おもちゃ列車」。軽く警笛を鳴らして、通り過ぎていった

 

曲沢駅で降りた後に、子吉川の堤防上で、羽後本荘駅で折り返す列車を待ち受けた。親切に対応していただいた乗務員が運転する列車だった。撮影にあたり、こちらは〝いろいろとありがとう〟という気持ちを込めて列車に片手をあげて合図を送った。すると列車も軽く警笛を鳴らして通り過ぎた。筆者が撮影していたことを確認しての警笛の〝返礼〟だったように思う。

 

子吉川の堤防の上に爽やかな風が吹き抜けたように感じたのである。

意外に知らない「青梅線」10の謎解きの旅〈前編〉

おもしろローカル線の旅94〜〜JR東日本・青梅線(東京都)その1〜〜

 

東京の郊外を走る青梅線。立川駅から青梅駅までは住宅地や畑が連なり、その先、奥多摩駅まで「東京アドベンチャーライン」の愛称で親しまれている。130年近い歴史を持つ青梅線には、不思議な短絡線や、謎の引き込み線もある。意外に知られていない一面を持つ青梅線の謎解きの旅を楽しんでみた。

*取材は2019(令和元)9月〜2022(令和4)年7月10日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

 

【青梅線の謎を解く①】戦前発行の路線ガイドに隠された秘密

青梅線の概要をまず見ておこう。

路線と距離 JR東日本・青梅線:立川駅〜奥多摩駅間37.2km 全線電化、
立川駅〜西立川駅間は三線、西立川駅〜東青梅駅は複線、ほか単線
開業 1894(明治27)年11月19日、青梅鉄道により立川駅〜青梅駅間18.5kmが開業
1944(昭和19)年7月1日、氷川駅(現・奥多摩駅)まで延伸
駅数 25駅(起終点駅を含む)

 

今から128年前に誕生した青梅線は、青梅鉄道により路線が造られた。開業当時は軽便鉄道で線路幅は762mmだった。拝島駅から分岐する五日市線がそうだったように、東京郊外で産出される石灰石やセメントの貨物輸送を主な目的に造られた。青梅駅から先は多摩川沿いに延ばされていった。

 

1895(明治28)年12月28日には日向和田駅(ひなたわだえき)まで、1920(大正9)年1月1日に二俣尾駅(ふたまたおえき)まで路線が伸びている。軌間は1908(明治41)年に1067mmに改軌され、また1923(大正12)年に全線が電化されている。

 

そんな時につくられたのが下記の青梅鉄道の路線ガイドである。当時の人気絵師であり、鳥瞰図作りの作家でもあった吉田初三郎が制作したもので、当時の沿線の様子が非常に分かりやすく描かれている。

↑開くと横に76cmほどの「青梅鉄道名所図絵」。大正末期のもので、沿線の様子が克明に記されていて非常に分かりやすい。筆者所蔵

 

今も人気の吉野梅郷(よしのばいごう)が大きく描かれるとともに、終点の二俣尾駅周辺にあった浅野セメントの石灰石採掘所が詳しく描かれている。吉田初三郎は、鳥瞰図を作る場合に、必ず現地を訪れて書いたとされる(本人が行けない場合は弟子が訪れた)。小型カメラなどがなかった時代、大変だったと思われるが、鳥瞰図により当時の様子が再現され、今見てもおもしろい。

 

青梅鉄道は1929(昭和4)年5月3日に青梅鉄道から青梅電気鉄道と社名を変更。さらに、その年の9月1日に御嶽駅(みたけえき)まで路線を延伸している。そんな青梅電気鉄道時代の春用、秋用のパンフレットが下記のものだ。

↑上が春のもの、下が秋のもの。秋のパンフレットの方が、制作が古いと思われ、お洒落な雰囲気が感じられる。筆者所蔵

 

吉田初三郎作のパンフレットほど豪華さはないが、それぞれ広げると横幅30cmほどで持ちやすいサイズに作られている。細かさは初三郎の鳥瞰図には劣るものの、秋の紅葉や春の新緑などの表現がしっかり描かれている。

 

おもしろいのは時代背景が感じられること。秋のパンフレットは表紙が背広姿の男性と和装の女性の2人が川沿いを散策する姿。対して春のパンフレットは景色のみのシンプルなものになっている。秋のパンフレットは、昭和5年〜10年ぐらいのもの、春のパンフレットは昭和10年代以降のものだと思われる。昭和初期の作のほうがデザインもお洒落で、まだ余裕があった時代らしい作りだ。青梅鉄道のパンフレットは、本稿で以前に取り上げた五日市鉄道(現・五日市線)に比べて多く残されている。それだけ観光路線としても、人気が高かったのだろう。

 

その後、太平洋戦争に突入すると、青梅電気鉄道も軍国主義の荒波にのまれていく。御嶽駅から先は奥多摩電気鉄道という会社が鉄道路線の延伸工事を進めていたが、青梅電気鉄道とこの奥多摩電気鉄道が1944(昭和19)年4月1日に国有化され青梅線になる。当時の国有化は半ば強制で、支払いは戦時国債で行われた。戦時国債の現金化は難しく、戦後は超インフレで紙切れ同然となっている。太平洋戦争後も元の会社に戻されることはなかった。

 

青梅線の延伸は1944(昭和19)年7月1日に氷川駅までの工事が完了し、全通している。戦時下の物資乏しい中にもかかわらず、軍部がセメントを重要視していたこともあり、路線はいち早く延ばされた。多摩川の上流部に石灰石が多く眠っていたためである。

 

【青梅線の謎を解く②】50年前に青梅線を走った電車は謎だらけ

戦後、落ち着きを取り戻した昭和30年代となると、青梅線は東京から気軽に行くことができる行楽地として脚光を浴びる。週末は御岳山などに登るハイキング客で賑わった。筆者の父もハイキングが好きで、やや無理やりに連れていかれたが、そんな時には、沿線で電車や機関車を撮ることを楽しみにしていた。そんな写真が下記のものだ。

↑1970(昭和45)年ごろの青梅線で撮影した写真。旧型国電とともに電気機関車や蒸気機関車の姿も見ることができた

 

今から半世紀前のものになるが、青梅線にはまだオレンジの101系などは走っておらず、こげ茶色の「旧型国電」と呼ばれる電車だった。当時の青梅線は、古い電車の宝庫だったわけである。

 

この旧型電車は、今調べると非常に分かりにくい。現在のように、体系化されておらず、昭和一桁から戦後間もなくの物資がない時代に、車両数を増やすことを主眼に製造された。整理してみると青梅駅〜立川駅では20m車両の72系(73系と呼ばれることも)や40系が多く走り、それより先は17m車の50系が多く見られたように記憶している。何しろ、異なる形の車両が〝ごちゃまぜ〟で走っていることもあり、車両形式をメモするなどしていないこともあり、筆者の記憶もやや怪しい。

 

青梅線ではこれらの旧型国電が1978(昭和53)年まで走り続けた。他線に比べてもかなり長く生き続けたわけである。旧型国電の姿とともに、青梅線全線で見られたのはED16形電気機関車が牽引する鉱石運搬列車、さらに拝島駅では八高線にSLが走っていたこともありD51やC58の姿を見ることができた。

 

現在、青梅線を走る電車も見ておこう。主力はE233系基本番台で、区間ごとに6両(一部は4両)、10両の電車が走る。2024年度末以降にはグリーン車付き電車も運行予定で、立川駅〜青梅駅のホーム延伸工事も進められている。

 

ほか定期列車として走るのがE353系特急形電車で、平日の朝と夜に特急「おうめ」として東京駅〜青梅駅間が運転されている。

↑通常の電車はE233系0番台だが、一編成のみ「東京アドベンチャーラインラッピング」車両も青梅線内を走る(左上)

 

青梅線には貨物列車が今も走っている(詳細後述)。石油タンク車はEF210形式直流電気機関車が牽引する。これまではEF65形式直流電気機関車で運転されていたが、最近の運用を見るとEF210に引き継がれたようだ。

 

また、拝島駅の入れ替えや引き込み線での牽引はDD200形式ディーゼル機関車が使われている。青梅駅までさまざまな臨時列車が入線することもあり、画一化されがちな通勤路線に比べるとバラエティに富んでいて、それが青梅線ならではの楽しみの一つになっている。

↑石油タンク車を牽引するDD200形式。2022(令和4)年3月のダイヤ改正以降、同車両が入線するようになった

 

【青梅線の謎を解く③】立川駅から分岐する謎の単線は?

前置きが長くなったが、青梅線の謎をひも解いていこう。起点の立川駅から早くも謎の路線を走る。通常の青梅線の発着は立川駅の北側にある1・2番ホームとなる。このホームに停まる電車は主に青梅線(一部は五日市線)の折返し電車だ。

 

中央線から青梅線に直接乗り入れる電車は、どのように走っているのだろう。乗り入れる電車は5・6番線からの発車となる。青梅線の折り返し電車とは異なるホームだ。ここから発車する電車は「青梅短絡線」と呼ばれるルートをたどる。

 

「青梅短絡線」は中央線から分岐し、立体交差で越えて西立川駅まで走る単線ルートで、民家の裏手、垣根に囲まれて走るような、ちょっと不思議な路線だ。

↑緑に包まれるように走る青梅短絡線。西立川駅の手前で青梅線の本線に合流する(左下)

 

この短絡線は青梅電気鉄道と南武鉄道(現・南武線)との間で、国鉄の路線を通過せずに、貨物列車などを通すために設けた路線だった(国鉄の路線を通すと通過料が必要となるため)。その後に国鉄路線となったため、本来の役割は消滅したが、今は青梅線への直通電車の運行に役立っているわけである。さらに拝島駅と、鶴見線の安善駅とを結ぶ石油タンク輸送列車の運行にも役立てられている。

 

青梅短絡線は1.9kmの距離がある。元々の立川駅〜西立川駅間の青梅線の距離は1.7kmで、青梅短絡線を回ると0.2km長く走ることになる。青梅短絡線は実は少し長く走る〝迂回線〟だったというのがおもしろい。ちなみに、長く走るがその分の運賃の加算はない。

 

【青梅線の謎を解く④】アウトドアヴィレッジのかつての姿は?

立川駅から拝島駅の間にはレジャー施設が多くある。たとえば、西立川駅の北側には国営昭和記念公園がある。広大な公共公園で、「花・自然」「遊ぶ・スポーツ」など四季を通じて楽しめるエリアに分かれている。西立川駅の次の駅、東中神駅の南側には昭島市民球場や陸上競技場、テニスコートなどがある。

 

拝島駅の一つ手前、昭島駅近くには大規模ショッピングセンターに加えて、商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」がある。テナントはアウトドア関連のショップのみで、さらにパーク内に、クライミングジムやヨガスタジオ、ミニトレッキングコースなどがあり、多彩なアウトドアイベントも開かれる。まさにアウトドア好きにぴったりの施設だ。

 

このアウトドアヴィレッジ、かつては何だったのかご存じだろうか?

↑昭島駅から徒歩3分にある「モリパークアウトドアヴィレッジ」。アウトドアショップやレストランなどがある

 

ここには、かつて昭和飛行機工業という飛行機を造る工場があった。戦前にはプロペラ機のダグラスDC-3のライセンス生産を開始、終戦までDC-3/零式輸送機の大量生産を続けていた。戦時下には紫電改などの戦闘機もライセンス生産していたとされる。終戦後には国産旅客機のYS-11、輸送機C-1の分担生産を行ったほか、特殊車両の製造などを続けた。飛行機工場のため、飛行場を併設するなど広大な敷地を備えていたこともあり、敷地を活かしてアウトドアヴィレッジが生まれたわけである。

 

ちなみに、昭島駅(開業時は「昭和前駅」)も、昭和飛行機工業が駅舎用地を提供、建設費も一部負担したとされる。同工場との縁が深いわけである。

 

前述した国営昭和記念公園は旧立川飛行場の跡地が利用された。この沿線は、広大な武蔵野台地を利用して造られた飛行場や飛行機工場など、飛行機に縁が深い土地である。飛行機との縁は拝島駅ではさらに濃くなる。

 

【青梅線の謎を解く⑤】拝島駅の東口を通る謎の線路はどこへ?

青梅線は拝島駅で八高線と五日市線、そして西武拝島線と接続している。拝島駅の東口駅前には、引き込み線が設けられている。

 

この引き込み線は横田基地線と呼ばれる。伸びる先には現在、在日米軍が所有・使用する横田基地がある。元は1940(昭和15)年に当時の大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、太平洋戦争末期には首都圏防衛の戦闘基地になっている。

↑空になった石油タンク貨車を牽き拝島駅へ向けて走るDD200牽引の貨物列車。線路端には「防衛」という境界杭が立つ

 

飛行場は終戦後には米軍に接収された。その後、長く米軍の燃料輸送が行われている。石油タンク車を利用した燃料輸送は鶴見線の安善駅との間を走り、拝島駅でディーゼル機関車に付け替えられる。そして拝島駅の東口駅前を通り、横田基地の入り口フェンスまで約500m走り、そして基地内へ運び込まれている。

 

なお、青梅線の線路から拝島駅東口に向かう際に、西武拝島線を平面交差して横切っている。そのため、西武鉄道の電車も、このタンク輸送に合わせて、電車のダイヤ調整が行われている。

↑横田基地の入口から外へ出てきた石油タンク列車。ウクライナ侵攻が始まった時には輸送機の離発着が目立った(左上)

 

↑拝島駅からは青梅線などを経由して鶴見線の安善駅まで走る専用列車。以前はEF65の牽引だったが今はEF210が牽引する日が多い

 

日本には在日米軍の基地が多くあるが、鉄道による石油輸送が行われているのは、横田基地のみとなっている。輸送は主に火曜日および木曜日に行われている(臨時列車のため確実ではない)。珍しい米軍向けのタンク車輸送ということもあり、鉄道愛好家の間では〝米タン輸送〟の愛称で呼ばれている。

 

横田基地線の線路には日本語と英語で書かれた「立入禁止区域」の立て札が各所に立てられ、ものものしい雰囲気だ。基地内は日本の中のアメリカで、世界で戦争や紛争などが起こっている時は、張りつめた緊張感が感じられる。ロシアのウクライナ侵攻が始まったころには、通常時に比べて輸送機が数多く離発着していた。

 

【青梅線の謎を解く⑥】福生駅から伸びる廃線、その開業の謎

↑拝島駅〜牛浜駅間を流れる玉川上水。民家が迫り、玉川上水らしさは薄れる箇所だが、上水沿いの多くの区間で散歩道が整備されている

 

現在は、拝島駅〜立川駅間の貨物輸送しか行われていないが、かつては、全線で貨物輸送が行われ、複数の引き込み線が設けられていた。

 

福生駅から福生河原まで1.8kmに渡り伸びていた貨物支線もその一つである。この路線が造られた経緯も興味深い。福生河原での多摩川の砂利採取のために1927(昭和2)年2月9日、路線が造られた。この砂利は八王子市に計画された大正天皇陵所の造営に必要な多摩川の石を運搬するために造られたものだった。廃線跡を歩いてみると、貨物支線の痕跡が残されている

 

江戸時代に設けられた玉川上水には加美上水橋が架かる。今は歩道橋として使われるが、以前は貨物支線用につくられた橋だった。橋の入口には歴史を記した碑があり、そこには「日に二回電気機関車が四、五両の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた」とあった。

↑玉川上水(右上)に架かる加美上水橋は、かつての貨物支線の橋梁を使ったもの。橋の幅が狭く車の利用はできない

 

この橋をさらに多摩川方面に歩くと、堤がカーブして河原へ続いている。サイクリングに最適な川沿いの道だが、かつて貨物列車が走っていたとは、利用者の大半が知らないだろう。

 

この貨物支線は1959(昭和34)年12月に砂利運搬停止、路線を廃止、さらに1961(昭和36)年3月に線路や架線が撤去された、と碑にはあった。

↑多摩川沿いを堤防のように伸びる旧貨物支線跡。今は歩道およびサイクリングロードとして利用されている

 

【青梅線の謎を解く⑦】青梅駅の手前で急に単線になる謎

青梅線の運行形態は立川駅〜青梅駅間と、青梅駅〜奥多摩駅間では大きく異なる。青梅駅までは東京の郊外幹線の趣があるが、青梅駅から先は、途端に閑散路線となる。ところが、線路の造りを見ると、こうした運転形態とは、少し異なる。青梅駅の一つ手前、東青梅駅までは複線区間で、郊外線そのものだが、その先で単線となり、そのまま青梅駅へ電車は入っていく。電車の本数が青梅駅までは多いのにかかわらずである。

↑東青梅駅〜青梅駅間を走る立川駅行き電車。写真のように同区間で急に山景色が広がり単線区間となる

 

東青梅駅までは平野が広がる地形で、その先で、急に進行方向右手に山並みが迫ってくる。青梅駅が近づく進行方向左手にも丘陵があり、電車は窪地をなぞるように走り青梅駅へ入っていく。

 

東青梅駅までは1962(昭和37)年5月7日に複線化された。ところが、その先は複線化工事が行われなかった。山が急に迫る地形が、複線化を拒んだということなのかもしれない。

 

【青梅線の謎を解く⑧】青梅駅の風格ある駅舎の起源は?

青梅駅へ到着して駅を降りる。駅の地下道には、昔の映画館で良く見かけた映画看板が左右に掲げられいる。改札口までの通路には青梅線の古い写真などの掲示もある。駅の案内表示はレトロ風と、昭和の装いがそこかしこにある。ちょっと不思議な駅の装いだが、青梅駅は2005(平成17)年に「レトロステーション」としてリニューアルしている。映画看板もそうしたイメージ戦略による。

↑旧青梅鉄道の本社だった青梅駅の駅舎。郊外の駅としては他に無い重厚な趣だ

 

青梅駅の駅舎は1924(大正13)年に青梅鉄道の本社として建てられた。青梅鉄道が開業30周年を迎えたことに伴い改築されたもので、すでに改築してから100年近い歴史を持つ。そうした経緯の建物のせいか、重厚感が感じられる。建物の1階部分のみしか見ることができないが、地上3階、地下1階建てだそうだ。

 

こうしたレトロステーションにあわせて、青梅市内には〝昭和レトロ〟の趣があちこちに。今年の4月末からは駅の隣に「まちの駅 青梅」という青梅市の地場産品を販売する店舗も誕生した。外装には昔のホーロー看板(メーカーそのものの看板ではなく似せてある)が飾られ、昭和期の町の商店のよう。青梅わさびや、地酒、スイーツも販売され、楽しめる店舗となっている。

↑青梅駅に隣接する「まちの駅 青梅」。懐かしいホーロー看板が数多く付けられた外装で、思わず見入ってしまう

 

青梅市街にはほかに映画看板が飾られた施設や店も多く昭和レトロ好きにはたまらない町となっている。

 

【青梅線の謎を解く⑨】西武鉄道沿線まで走る路線バスの謎

青梅駅からバス好きの人たちには良く知られた名物都営バスが発車している。西武新宿線の小平駅や花小金井駅へ向けて走る路線バスだ。青梅駅と花小金井駅間の走行距離は約30kmもある。この都営バスは「梅70」系統とよぶ路線バスで、都営バスが走る路線の中では最長距離路線とされる。所要時間100分前後で、道が混めば2時間かかることも。

 

走行する区間は青梅駅近くの、青梅車庫と花小金井駅北口間で、停留所数81もある。ほぼ青梅街道に沿って走り、青梅線の河辺駅(かべえき)、八高線の箱根ヶ崎駅、西武拝島線の東大和市駅、武蔵野線の新小平駅、西武多摩湖線の青梅街道駅を経由して、花小金井駅へ走る。

 

電車が走らない武蔵村山市や、公共交通機関の乏しい青梅街道沿いを走るとあって、意外に利用者が多い路線である。

↑青梅駅を発車する「梅70」系統の都営バス。写真のバスは小平駅行きだが、花小金井駅行きも走っている。

 

この「梅70」系統、1949(昭和24)年に301系統として生まれ、その時には荻窪駅〜青梅(現・青梅車庫)間を走っていた。1960(昭和35)年には阿佐ケ谷駅まで延伸されている。当時は約39.1kmで今よりも長い距離を走った。その後に荻窪駅まで、2015(平成27)年に、現在の花小金井駅北口まで短縮された。

 

全線乗車するには、かなり忍耐強くなければ難しい路線だが、次回は途中まででも良いので、試してみようかと思った。

 

【青梅線の謎を解く⑩】青梅鉄道公園に残る悲劇の機関車とは?

鉄道好きならば、青梅駅を訪れたら、ぜひとも寄っておきたい施設がある。鉄道好きご用達「青梅鉄道公園」だ。国鉄が鉄道90周年記念事業として開設した鉄道公園で、明治時代から昭和期まで活躍した10車両が保存展示されている。鉄道好きの子どもたちが安心して遊べる遊具や、古い車両に出合え、鉄道模型などもあり親子揃って楽しめる施設となっている。

↑青梅駅の北側、徒歩15分ほどの青梅鉄道公園。珍しいE10形蒸気機関車(右上)も展示保存される

 

鉄道公園だから駅や線路近くかと思うと、これが意外にも青梅駅の北側、永山公園という山の一角にある。駅からは徒歩で15分ほどだ。ハイキング気分で訪れるのに最適と言えるだろう。

 

展示保存される中で最も珍しいのは動輪5軸というE10形蒸気機関車ではないだろうか。国鉄が最後に新製した蒸気機関車で、奥羽本線の板谷峠越え用に造られた。1948(昭和23)年に5両が造られた機関車で、青梅鉄道公園に残る車両はその2号機が保存される。このE10、高性能だったのだが、技術的な問題が多々あり、製造翌年には、板谷峠が電化され、肥薩線や北陸本線へ転用された。他の路線でも性能は活かされずに1962(昭和37)年には全車が廃車となっている。稼働14年と短く〝悲劇の機関車〟とも呼ばれる。

 

そのほか青梅線で走った車両も見ておこう。まずはED16形電気機関車1号機。こちらは1931(昭和6)年に鉄道省(その後の国鉄)が製造した電気機関車で、中央本線や上越線用に開発された。青梅線との縁も深く、西立川にあった機関区に数両が配置された。博物館に保存される1号機も、西立川や八王子の機関区に配置されていた期間が長い。同1号機は、国産電気機関車が生まれた当時の歴史的な車両ということもあり重要文化財に指定されている。

 

こげ茶色の旧型国電クモハ40054という車両も保存されている。この電車の形式名はクモハ40形電車で、車体長20m、国鉄40系のひと形式に含まれている。同車両は青梅駅にあった青梅電車区に一時期、配置され、その後は日光線などで活躍した後に、記念イベントで青梅線を走行した経歴を持つ。

 

旧型国電は、青梅線などの全国のローカル線を走り、さらに全国の私鉄に払い下げられ長い間、走り続けた。戦中・戦後の日本を支え、さらに昭和期の輸送に役立てられた。このこげ茶色の角張った車両を見ると、お疲れ様と言いたくなるような愛おしさが感じられるのである。

風光明媚な能登路を走る「のと鉄道」とっておき10の逸話

おもしろローカル線の旅93〜〜のと鉄道・七尾線(石川県)〜〜

 

石川県の能登地方を走る「のと鉄道」。車窓からは青く輝く能登の海が楽しめる。「のと里山里海号」という人気の観光列車も走っている。そんな、のと鉄道の気になる10の逸話に迫ってみた。

*取材は2015(平成27)4月、2022(令和4)年6月19日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

【のと鉄道の逸話①】2000年代初頭に80km区間を廃止へ

のと鉄道の路線の概要をまず見ておこう。

 

路線と距離 のと鉄道・七尾線:七尾駅(ななおえき)〜穴水駅(あなみずえき)間33.1km
七尾駅〜和倉温泉駅間は直流電化ほか非電化、全線単線
開業 1928(昭和3)年10月31日、七尾駅〜能登中島駅間16.3kmが開業、
1932(昭和7)年8月27日、穴水駅まで延伸開業
駅数 8駅(起終点駅を含む)

 

1932(昭和7)年まで現在の終点、穴水駅まで延びた国鉄七尾線。路線はさらに延伸され、北は1935(昭和10)年7月30日に穴水駅から輪島駅間20.4km、さらに東は国鉄能登線として1964(昭和39)年9月21日に蛸島駅(たこじまえき)まで61.0kmが延ばされた。

↑のと鉄道の旧路線図。七尾線は輪島駅まで、能登線は蛸島駅まで走っていた。当時に走ったNT800形が今も穴水駅で保存される(右下)

 

国鉄がJR化された時にはJR西日本に継承されたが、1988(昭和63)年3月25日に能登線が第三セクター経営の「のと鉄道」に引き継がれた。さらに1991(平成3)年9月1日に、のと鉄道七尾線の七尾〜輪島間が開業している。

 

七尾線、能登線は昭和中期まですでに輪島へ、蛸島へそれぞれ延ばされていたものの、所要時間がかかり不便だった。

 

石川県内では日本海に突き出た能登半島の地域格差が特に著しく、県庁のある金沢市まで出るのも1日がかりだった。そうした格差解消のため道路網の整備が進められていった。中でも大きかったのが、県庁のある金沢市から、穴水町を結ぶ能登有料道路(現・のと里山海道)の開通だった。1982(昭和57)年に全通し、この道路につながる県道の整備が続いた。現在、のと里山海道の穴水ICから輪島市内へは50分、また珠洲市内まで1時間ほどでアクセス可能になっている。

 

こうした道路整備の影響もあり、七尾線、能登線の利用者は急激に減少していった。将来の乗客減少を見越して、のと鉄道七尾線の穴水駅〜輪島駅間は2001(平成13)年4月1日に、能登線の穴水駅〜蛸島駅間は2005(平成17)年4月1日に廃止となった。JRおよび国鉄から移管された第三セクター鉄道の中では、廃止が非常に早かった例と言えるだろう。

 

【のと鉄道の秘話②】のと鉄道は路線を保有していない……?

第三セクター経営の鉄道路線は、鉄道会社自体が路線を所有し、列車を運行する形態が大半である。ところが、のと鉄道は異なる。現在、列車は七尾駅〜穴水駅間を走っているが、のと鉄道は「第二種鉄道事業者」として車両を保有し、線路を借用して列車の運行を行う。路線は保有していない。

 

七尾駅〜穴水駅間の路線を保有しているのはJR西日本である。まず七尾駅〜和倉温泉駅間はJR西日本が第一種鉄道事業者となっている。第一種鉄道事業者とは、鉄道施設・車両一式を保有し、列車の運行を行う事業者のことだ。

 

その先の和倉温泉駅〜穴水駅間は形態が異なりJR西日本は第三種鉄道事業者となる。第三種鉄道事業者とは線路を敷設、保有するだけで、列車の保有、運行は行わない事業者を指す。

 

なぜ、こうした複雑な運行スタイルを取っているのだろう。これには裏がある。

 

かつて七尾線は、津幡駅〜輪島駅間全線が非電化だった。沿線では和倉温泉が人気観光地として集客に熱心で、電化して特急電車を走らせて欲しいという願いが強かった。そこで国鉄を引き継いだJR西日本では、電化する見返りに、和倉温泉駅から先の区間の営業を石川県に引き継いでもらいたい、という条件を出した。そして1991(平成3)年9月1日に津幡駅〜和倉温泉駅間での電化が完了し、さらに、のと鉄道七尾線が生まれたわけである。

 

のと鉄道が生まれるまで、第三セクター鉄道に移管された路線はすべて特定地方交通線の指定を受けた路線で、経営が成り立たず、地方自治体が経営を引き継いだ形だった。

 

ところが、七尾線は特定地方交通線には指定されていない路線だった。特定地方交通線の場合には、国から転換時に交付金等の支援が得られるが、七尾線を受け継ぐにあたり、買い上げよりも借用の方が有利と判断された。こうして、のと鉄道が第二種鉄道事業者になったのである。七尾線は特定地方交通線以外で初の第三セクター路線として生まれたのだった。

 

やや複雑だが、鉄道路線の経営もいろいろな思惑が交錯していたわけである。

 

【のと鉄道の逸話③】七尾駅〜和倉温泉駅はJRの車両も走る

次に七尾線を走る車両を見てみよう。まずは七尾駅〜和倉温泉駅間から。

↑七尾駅〜和倉温泉駅間を走る観光列車「のと里山里海」。同区間のみJR西日本の特急「能登かがり火」などの列車も走る(左上)

 

同区間はJR西日本が第一種鉄道事業者となっていることもあり、JR西日本の車両も走る。とはいえJR西日本の列車は特急のみで、JR西日本の普通列車は入線しない。七尾駅から先を走る普通列車は、のと鉄道の列車だけになる。

 

◆681系・683系 特急「サンダーバード」「能登かがり火」

現在、金沢駅〜和倉温泉駅間を特急「能登かがり火」が4往復、大阪駅〜和倉温泉駅間を特急「サンダーバード」が1往復走っている。使われる車両は681系・683系交直両用特急形電車だ。

 

◆キハ48形 特急「花嫁のれん」

金沢駅〜和倉温泉駅間を走る観光特急列車で、金土日を中心に走る。キハ48形気動車を改造した車両を利用、北陸の和と美が満喫できることを売りにしている。

↑キハ48形を改造した特急「花嫁のれん」。外観は北陸の伝統工芸・輪島塗や加賀友禅をイメージした華やかな造り

 

次にのと鉄道の車両を見ていこう。

 

◆のと鉄道NT200形

のと鉄道の普通列車用気動車NT200形。新潟トランシス製で、2005(平成17)年に7両が造られた。座席はセミクロスシートで、車体の色は能登の海をイメージした明るい青色をベースにしている。車両番号は3月導入の車両がNT201〜204まで、2次車の10月に製造されたNT211〜213と2パターン用意されている。人気アニメのラッピング車両も走る。

↑のと里山里海号を後部に連結して走るNT203。NT204は「花咲くいろは」ラッピング車両として走る(左下)

 

◆のと鉄道NT300形

北陸新幹線が金沢駅へ延伸した2015(平成27)年3月に合わせて導入されたのがNT300形で、観光列車「のと里山里海号」用に2両が製造された。外観は能登の海をイメージした青色「日本海ブルー」で鏡面仕上げされている。内装も凝っていて、沿線の伝統工芸品を車内各所で使用、また七尾寄りの座席は海側に向き、ひな壇状としたこともあり、後ろ側の席でも能登の海が見える造りとなっている。

↑NT300形2両で運転される「のと里山里海号」。日本海ブルーと呼ばれる青い塗装が能登半島の緑にも似合う

 

運行は七尾駅〜穴水駅間で土日祝日(当面の間)を中心に上り2本、下り3本を運行、運賃に加えて500円の乗車整理券が必要となる(一部列車は普通運賃で利用可能な車両も増結)。和倉温泉駅で特急「花嫁のれん」と接続して運転している列車もあり、金沢駅から2社の異なる観光列車に乗車することも可能だ。

 

一部の便では飲食付きプランも用意している。アテンダントの沿線案内もあり、ビュースポットでは徐行運転が行われ、車窓風景が楽しめる。

↑七尾寄りの座席は海側が見える仕様となっている。乗車するとポストカードや鉄道グッズなど乗車記念のプレゼントも(左上)

 

【のと鉄道の逸話④】七尾駅の「のとホーム」から列車が発車

ここからは、のと鉄道七尾線の旅を始めよう。

 

列車は各駅停車の普通列車と、臨時列車扱いの観光列車「のと里山里海号」が走る。普通列車は朝7時〜8時台と夕方19時台が1時間に2本、その他の時間帯は1時間〜1時間半に1本の割合でローカル線としては多めで使いやすい。七尾駅から穴水駅まで所要時間が約40分、運賃は850円となる。

 

ちなみに「つこうてくだしフリーきっぷ」が土日祝日のみ有効で大人1000円で販売されている。販売は穴水駅、能登中島駅、田鶴浜駅、七尾駅(のと鉄道ホーム改札前に係員がいる時間帯のみ)と、車内でも購入できる。「つこうてくだし」とは能登の方言で「使ってください」という意味だそうだ。

 

沿線の観光施設の特別優待券も兼ねているので、お得。ぜひ利用したい。

 

筆者はJR七尾線の列車に乗車し、JR七尾駅に降り立った。七尾駅周辺は駅前に大型ディスカウントストアがあるなど、非常に賑やかだ。七尾は能登半島の中心都市であることが良く分かる。JRの改札口に並ぶように、のと鉄道の改札が設けられていて、その奥にある「のとホーム」に1両編成の穴水行きNT200形普通列車が停車していた。

↑のと鉄道七尾線の起点となる七尾駅。駅の北側にのと鉄道の専用ホームが設けられている(右上)

 

筆者が乗車したのは10時33分発の穴水行き列車NT211、客席が5割ぐらい埋まって発車した。七尾駅を出てすぐにJR線と合流し、単線区間を北へ走る。七尾駅から次の和倉温泉駅間まで5kmほどと、やや離れており、続く直線区間を快適に走る。

 

和倉温泉駅へ到着した。金沢方面から特急列車が到着する時には、おそろいの法被を着た宿のスタッフの〝お迎え〟でホーム上は賑わうが、普通列車となるとお迎えもなく静かだった。

↑和倉温泉駅はJR西日本と、のと鉄道の共用駅。特急「花嫁のれん」と「のと里山里海号」が並ぶのもこの駅のみ(右上)

 

やや寂しさを感じた和倉温泉駅のホームを眺めつつ、のと鉄道の列車のみが走る区間へ入っていく。駅を過ぎて間もなく電化区間が終了して非電化区間へ入った。

 

【のと鉄道の逸話⑤】田鶴浜駅の先で右手に見えてくる海は?

和倉温泉を発車して間もなく左カーブ、列車は西へ向けて走り始める。進行方向右手には水田風景が広がる。そして次の駅、田鶴浜駅(たつるはまえき)へ到着した。このあたりは、まだ七尾市の郊外という印象が強い。この駅を発車すると、国道249号と並走するようになる。

↑大津川が流れ込む大津潟。このあたりはカキの養殖が盛んな地域だ。この大津潟を越えると間もなく笠師保駅(左上)に到着する

 

海と山に包まれた能登らしい風景が車窓から見えるようになる。水田越しに海が見えてくる。こちらは七尾西湾と呼ばれる内海だ。さらに走ると大津川を越える鉄橋を渡る。この左右に見えるのが大津潟と呼ばれる湖沼で、長年かけて埋め立てられていき、潟になったとのこと。弘法の霊泉が流れ込む潟で、今は天然うなぎの漁やカキの養殖も行われている。

 

【のと鉄道の逸話⑥】能登中島駅に停まる青い車両は?

海や入り江の風景を見ながら列車は笠師保駅から先、北へ向けて走る。丘陵を越えて、水田が広がる能登中島駅へ到着した。

↑能登中島駅に保存される鉄道郵便車「オユ10」。のと里山里海号の運転時には車内の見学も可能だ(左上)

 

同駅では上り下り列車の交換をすることが多い。対向列車を待つため、やや停車時間が長くなることもある。例えば穴水駅14時15分発の列車は「のと里山里海号」を連結しているが、能登中島駅で10余分の停車時間を用意している。この駅には駅マルシェ「わんだらぁず」があり、地元産品の販売も行う(臨時休業あり注意)。購入にちょうど良い停車時間だ。

 

駅構内に青い車両が停められていた。この車両は鉄道郵便車のオユ10で、昭和の中期に計72両が製造された。全国の客車列車に連結され、郵便物の配送が行われた。鉄道郵便が終了した1986(昭和61)年に全車が廃車となったが、少しでも誘客に役立てようと、のと鉄道発足時に譲り受けたそうだ。雨風で傷んでいたが、有志の人たちにより整備され、この能登中島駅で保存されている。

 

車内は「のと里山里海号」の停車に合わせて公開されている。中で郵便物を仕分けした様子を再現するために、封書類が棚に置かれていたが、中には良く知られた有名人宛の手紙もあったりして楽しい。車内にはポストもあり、手紙を投函することもできる。

↑能登中島駅(左下)の前後はカーブしていて、駅で行き違った車両が走る姿を乗車した列車から遠望することができる

 

 

【のと鉄道の逸話⑦】能登にはなぜ黒瓦の家が多いのか?

能登中島駅を出るとしばらく山中へ入っていく。そんな山中で、やや視界が開ける箇所があり、眼下に漁港と集落が見える。ここは七尾市の深浦漁港だ。小さな漁港だが、家の前に漁船が係留できるような造りとなっている。ここで気がつくのは、ほとんどの民家が黒い瓦屋根であること。なぜ黒い瓦なのだろう。

↑眼下に見える深浦漁港。港は整備され民家の前に漁船が係留されている。黒い瓦屋根の民家が多い

 

当初、この地方の瓦は赤だったそう。金沢の家の瓦や漆喰に使われることが多いベンガラ色といわれる色だった。ところが明治に入ってマンガンの釉薬を使った瓦が開発された。それが黒だった。黒い瓦は屋根に積もった雪を早く溶かす特長もあり、能登の家に使われることが多くなったそうだ。瓦一つにしても、その土地の気候風土に影響されることが分かりおもしろい。

 

【のと鉄道の逸話⑧】西岸駅にある「ゆのさぎ」という駅名標の謎

深浦漁港を見下ろす山中から平地へ降りて行くと、間もなく西岸駅(にしぎしえき)へ到着する。この駅から穴水駅までが、のと鉄道の車窓のハイライト区間だ。

 

西岸駅で不思議な駅名標を発見した。西岸駅なのに「ゆのさぎ(湯乃鷺)」駅という駅名標が立てられていたのである。さてこの駅名標は何だろう。

↑西岸駅に到着するラッピング車両「花咲くいろは」。ホームには「ゆのさぎ」駅という架空の駅名標が立つ

 

実はこの「ゆのさぎ」駅という駅名標は架空のもの。2011(平成23)年に放送されたアニメ「花咲くいろは」と関係がある。同アニメは西岸駅近くの温泉街の宿を舞台にして描かれた物語で、放送開始まもなく、西岸駅に「ゆのさぎ」という駅名標が立てられた。この駅名標、凝っていて、わざわざ赤錆が浮き出るような造りにされているそうだ。

 

西岸駅の駅舎には〝聖地巡礼(舞台探訪)〟を行うファンの訪問も多いようで、アニメのパネルや、ファン向けのノートが常備されていた。こうした舞台設定に合わせた駅づくりも楽しい。

 

【のと鉄道の逸話⑨】列車からも見える海岸に立つ櫓は何?

西岸駅を過ぎたら、進行方向右手に注目したい。山中を抜けると右手に海景色が広がるようになる。ここは七浦北湾で、列車は高台を走ることもあり、海の景色が堪能できる。

↑西岸駅を発車したら進行右手に注目。眼下に黒瓦の民家、そして国道249号、その先が能登北湾と呼ばれる海が広がる

 

黒瓦の民家と海岸線、さらに能登島が遠望できる。能登島と能登半島との間に架かるのが「ツインブリッジのと」と呼ばれる現代風な釣り橋で、こうした光景が絵になる。

 

観光列車の「のと里山里海号」に乗車すると、この付近では徐行運転が行われ、ゆっくり景色が楽しめる。

↑右前方に見えるのが「ツインブリッジのと」で、線路端にはこうした風景の案内板も立つ。通常列車はスピードを落とさず通過する

 

次の能登鹿島駅(のとかしまえき)は春に訪れたい駅だ。のと鉄道のすべての駅には、愛称が付けられているが、能登鹿島駅は「能登さくら駅」。春は上り下り両ホームの桜が満開となり「桜のトンネル」とも呼ばれている。

 

夜にはライトアップが行われ、また4月上旬には駅前で「さくら祭り」も行われる。筆者も春に訪れたことがあるが、それは見事なものだった。

↑上り下りホームの数十本の桜が満開となった能登鹿島駅。「能登さくら駅」という駅の看板も立つ(左上)。2015年4月15日撮影

 

能登鹿島駅の次は終点の穴水駅。この駅間に、車内から気になる櫓が見える。三角形の櫓が立つのだが、こちらは何だろう。

 

この櫓は「ボラ待ちやぐら(または『ぼら待ちやぐら』)」とよばれる櫓で、櫓の上からボラの群れを見張って、仕掛けた網をたぐる〝原始的な漁法〟とされる。最盛期には穴水町で40基を越える櫓が立ったが、継ぐ人が居なくなり、一時期は途絶えていた。2012(平成24)年から再開され、同地方の秋の風物詩となっている。波穏やかな内海だからできる漁なのだろう。

↑国道249号から見た「ぼら待ちやぐら」。日本最古の漁法とあるように、ボラの群れを見張る櫓で秋のボラ漁に使われている

 

終点の穴水駅の近くまで、気が抜けない〟。ボラ待ちやぐらが立つ海を眺め、さらに志ヶ浦という小さな湾を右手に眺めた後に、最後の山越えの区間に入る。

 

この山の中で2本のトンネルをくぐる。志ヶ浦隧道194mと乙ヶ崎隧道105mの2本だ。2本目のトンネルに注目したい。トンネルイルミネーションが楽しめるのである。なかなか速く通過してしまうので、見逃してしまうのだが、電飾で絵や文字が書かれている。

↑穴水駅側に近い乙ヶ崎隧道ではトンネルイルミネーションが楽しめる。トンネル全体を染める電飾に加えて、多彩な絵が彩られる

 

よく見るとさまざまな絵とともに「ようこそ のとへ」という文字が光っていた。33.1kmという短めの路線ながら、訪れた人を飽きさせない工夫があちこちにある。頑張っている印象が強く感じられるローカル線だった。

 

【のと鉄道の逸話⑩】穴水駅の愛称「まいもんの里駅」とは?

海景色、人々の暮らしぶりなど、この鉄道ならではの工夫を楽しみつつ終点の穴水駅が近づいてくる。進行方向右手に穴水の町が見え始め、穴水駅の1番線ホームに列車は到着した。

 

穴水駅の愛称は「まいもんの里駅」。まいもんとは、能登の方言で美味しいものを指すそうだ。町では「まいもんまつり」が四季それぞれ行われている。春の陣(3月中旬〜4月中旬)は「いさざまつり」、夏の陣(6月中旬〜7月中旬)は「さざえまつり」、秋の陣(10月)は「牛まつり」、冬の陣(1月〜5月)は「カキまつり」といった具合だ。

 

駅に隣接して穴水町物産館「四季彩々」があり、土産や伝統工芸品、鉄道グッズなどが販売されている。お弁当や寿司もあり、寿司はテイクアウトと思えないほど、ネタが新鮮で美味だった。やはり海に面した能登ならではの魅力と言って良いだろう。

↑終点の穴水駅の駅舎。並んで穴水町物産館「四季彩々」があり、能登の土産や、弁当も用意され充実している

 

鉄道好きとしては穴水駅の周辺の様子も気になり、ぶらぶらしてみた。線路が穴水駅構内だけでなく、先に300mほど伸びている。この終端部の車止めから先の線路はすでに外されているが、この先、七尾線の輪島や、能登線の蛸島へ延びていたわけである。

 

この300mの余白区間には保線用の事業用車がおかれている。駅の西側にある側線や、検修庫へ入る車両が、ここで引き返す形で走っていた。

↑穴水駅の先に延びる終端部。ここで気動車が折返して(右上)側線や検修庫に入っていく *県道50号線大町踏切から撮影

 

のと鉄道をじっくり旅する前は、ここまで濃密な路線だとは知らなかった。実際に乗車してみて、旅をして、また帰ってきて調べ直してみると、なんとも楽しい逸話がふんだんな路線だった。

 

帰ってきてまだ間もないが、また乗りに行きたくなる、そんな魅力が詰まった路線だった。

田んぼ&歴史+景勝地「秋田内陸縦貫鉄道」の魅力にとことん迫る

おもしろローカル線の旅91〜〜秋田内陸縦貫鉄道(秋田県)〜〜

 

秋田県の内陸を南北に縦断する「秋田内陸縦貫鉄道」。車窓からは秋田らしいのどかな田園風景と田んぼアート、美林、景勝地が楽しめて飽きさせない。94kmの路線距離を2時間〜2時間半ほどで、乗り甲斐たっぷりの路線だ。そんな秋田内陸縦貫鉄道の魅力に迫ってみたい。

 

※取材は2014(平成26)9月、2016(平成28)年9月、2022(令和4)年7月30日に行いました。一部写真は現在と異なっています。
8月15日現在、豪雨災害の影響で鷹巣駅〜阿仁合駅間が不通となっています。運行状況をご確認のうえ、お訪ねください。

 

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【内陸線の旅①】国鉄阿仁合線として始まった路線の歴史

東北地方の中央部を南北に貫く奥羽山脈、その西側を秋田内陸縦貫鉄道が走る。その概要を見ておこう。

 

路線と距離 秋田内陸縦貫鉄道・秋田内陸線:鷹巣駅〜角館駅間94.2km
全線非電化単線
開業 1934(昭和9)年12月10日、阿仁合線(あにあいせん)鷹ノ巣駅〜米内沢駅(よないざわえき)間が開業、1989(平成元)年4月1日、比立内駅(ひたちないえき)〜松葉駅間が延伸開業し、秋田内陸線が全通
駅数 29駅(起終点駅を含む)

 

今から88年前に鷹ノ巣(現・鷹巣)駅から米内沢駅まで開業した阿仁合線は、その後に延伸されていき、1936(昭和11)年9月25日に阿仁合駅(あにあいえき)まで開業する。太平洋戦争の後に、再び延伸工事が続けられ1963(昭和38)年10月15日には比立内駅まで路線が延びた。

 

一方の角館駅側の路線の歴史は浅く、国鉄角館線として1970(昭和45)年11月1日に角館駅〜松葉駅間が開通した。

↑阿仁合駅前に建つ「内陸線資料館」。秋田内陸線の歴史紹介だけでなく、阿仁鉱山や林業に関しても紹介する。入館無料

 

阿仁合線は沿線で産出された木材の運搬と、旧阿仁町内(現・北秋田市)にあった日本の代表的な銅山・阿仁鉱山からの鉱石輸送を行うために路線が建設された。しかし、比立内駅まで延伸された時代には、すでに鉱山の操業も、林業も衰退しつつあり、貨物営業は1980年代初頭で廃止されてしまう。後から造られた角館線も、当初から旅客営業のみの路線だったこともあり、角館線は1981(昭和56)年に、阿仁合線は1984(昭和59)年と次々に路線の廃止承認された。

 

すでに日本鉄道建設公団では、比立内駅〜松葉駅間の鷹角線(ようかくせん)の建設を進めており、廃止承認された阿仁合線と、角館線と、未成線だった鷹角線を引き継いだのが第三セクター経営の秋田内陸縦貫鉄道だった。1986(昭和61)年に阿仁合線と、角館線を暫定的に開業、1989(平成元)年4月1日に完成した鷹角線を結んだ秋田内陸線(以降「内陸線」と略)の営業が始められたのだった。

 

【内陸線の旅②】車両はすべて色違い!特別車両も用意される

秋田内陸縦貫鉄道は3タイプ、計11両の気動車が使われる。みな色違いということもありバラエティに富んで見える。車両形式をここで見ておこう。

↑秋田内陸線のAN-8800形は現在9両が在籍。そのうち6両をならべてみた。写真のようにみな車体の色が異なる

 

◆AN-8800形

↑AN-8808の愛称は「秋田マタギ号」。内装などかなり凝った造りになっている。訪れたこの日も急行「もりよし号」として走る

 

1988(昭和63)年、秋田内陸縦貫鉄道の全線開業時に9両導入されたのがAN-8800形で、新潟鐵工所が開発したローカル線用の軽快気動車NDCシリーズの車両が採用された。他社の軽快気動車とほぼ同様ながら、寒冷地向けに乗降扉が引き戸式とされている。

 

導入された当時は白地にエンジ色の帯という塗装だったが、その後に全車両が異なる塗装に変更された。車内はヒマワリのイラストや、かわいい秋田犬の写真がラッピングされた内装で、楽しめるように工夫されている。またAN-8808のみは「秋田マタギ号」としてレトロな木の内装に変更され、有料急行列車の「もりよし号」に使われることが多い。

 

◆AN-8900形

↑AN-8900形はAN-8905の1両のみ残り「笑EMI」として走る。側面の窓が大きいのが特長となっている

 

秋田内陸線の全通にあわせて設けられた急行列車用に用意された車両で、5両が新潟鐵工所で造られた。そのうち4両は前面が非貫通の造りで、一時期は奥羽本線に乗り入れる臨時列車にも使われた。非貫通の車両は、片側にしか運転席がなく、2両での運行が必要だったために、非効率ということもあり、4両すべてが廃車に。AN-8905のみ両運転台だっため、その後も活かされ、2020(令和2)年に2月にリニューアルされ、愛称も「笑EMI(えみ)」に。主に急行列車用車両として使われている。

 

◆AN-2000形

↑前面に展望席があるAN-2000形。「秋田縄文号」のヘッドマークも付く。側面の窓も広く眺望に優れている

 

1両のみ2000(平成12)年に導入された非貫通タイプの車両で、当初は団体専用車として使われた。2021(令和3)年12月には「秋田縄文号」に改造され、主に急行列車の増結用に利用されている。

 

秋田内陸線の沿線には縄文遺跡、伊勢堂岱(いせどうたい)がある。遺跡をイメージした縄文土器や土偶などのイラストが室内を飾る。先頭部の展望席からは前面展望が、また側面の窓も大きく風景を楽しむのに最適な造りとなっている。

 

なお、特別仕様の車両は運行日が決められている。それぞれの運行は次のとおりだ。

 

AN-8808「秋田マタギ号」:第1・2・4・5土曜日

AN-8905「笑EMI」:第1・2・4・5日曜日

AN-2000「秋田縄文号」(普通車両と2両編成):第3土・日曜日に運行されている。

*検査などで変更されることがあり注意。
↑秋田犬の模様付きのクロスシートを使った車両も(左上)。小さなテーブルには、イラストの路線図がつけられ便利だ

 

【内陸線の旅③】旧町名を残す起点の鷹巣駅

内陸線の旅をする時、首都圏や仙台方面から便利な角館駅から乗車する人が多いかと思う。だが、本稿では路線の起点でもある鷹巣駅から旅を楽しみたい。鷹巣側のほうが路線の歴史も古く、エピソードも事欠かない。

 

起点の鷹巣駅は、JR奥羽本線の鷹ノ巣駅と接続している。JR東日本と内陸線の駅舎は別々になっているが、ホームはつながっていて、駅舎を出なくとも、内陸線の列車に乗車することができる。

 

余談ながらJR奥羽本線の鷹ノ巣駅の1番ホームにはレンガ建築の「ランプ小屋」がある。明治32年築と建物に「建物財産標」のプレートが付けられてあり、同駅が1900(明治33)年に開業していることから開業前に建ったようだ。ランプ小屋は、当時の客車の照明用ランプに、補充する灯油を保管していた。歴史ある鉄道遺産が今も残されていたのである。そんな駅舎を出て、右手に回ると、内陸線の鷹巣駅舎がある。

↑JR奥羽本線の鷹ノ巣駅の駅舎。この駅舎裏に明治期建築のランプ小屋(右上)が残る。ランプ小屋が残る駅は非常に希少だ

 

JR東日本の駅は鷹ノ巣駅、内陸線の駅は鷹巣駅となっている。なぜ駅の表記が異なるのだろうか。

 

国鉄阿仁合線と呼ばれていたころは、国鉄の同一駅だったので鷹ノ巣駅という表記だった。当時、駅があったのは鷹巣町(たかのすまち)で、1989(平成元)年4月1日の秋田内陸縦貫鉄道の全線開通に合わせて、同線の駅は町名に合わせて鷹巣駅と改称された。後の2005(平成17)年に鷹巣町は北秋田市となった。そのため鷹巣の名前は、旧鷹巣町を示す地元の大字名と駅名に残るのみになっている。

 

北秋田市は4つの町が合併したこともあり、その面積は広く、内陸線の路線も、鷹巣駅から18駅先の阿仁マタギ駅まで北秋田市に含まれる。その南側は仙北市(せんぼくし)となる。29の駅が北秋田市と仙北市の2つの市内に、すべてあるというのもおもしろい。

↑ロッジ風の駅舎の秋田内陸縦貫鉄道の鷹巣駅。この日、駅に入線してきた車両はAN-8801だった(右上)

 

JR東日本の秋田方面行き1番線ホームの西側に内陸線のホームがある。ホームに停車していたのはAN-8801黄色の車両だった。「秋田内陸ワンデーパス全線タイプ(有料急行も乗車可能)」2500円を購入したかったのだが、朝6時59分発の始発列車に乗車しようとしたこともあり、鷹巣駅の窓口は閉まっていた(窓口は7時20分から営業開始)。なお、車内ではこのワンデーパスは発売していない。

 

週末、しかも朝一番の列車ということで乗客も6人ほどと少なめだった。ディーゼル音を響かせつつ、鷹巣駅を発車する。しばらくは奥羽本線と平行して走り、間もなく左カーブを描く。広々した田園風景に包まれるように走り、西鷹巣駅を過ぎたら大きな川を渡る。こちらは米代川(よねしろがわ)だ。

 

【内陸線の旅④】早速、名物「田んぼアート」が乗客を歓迎!

川を越えて間もなく、テープの車内アナウンスではなく、運転士によるアナウンスがある。何かと思って耳を傾けると、次の縄文小ヶ田駅(じょうもんおがたえき)で、「田んぼアート」が楽しめることを伝えるものだった。

 

田んぼアートとは、田んぼをキャンバス代わりに色の異なる稲を植え、巨大な絵や文字を作るアートで、全国で行われているが、特に北東北各県で盛んだ。

 

多くが道の駅や観光施設などに隣接した田んぼで披露される。内陸線では鉄道車両からこの田んぼアートが楽しめる。しかも5か所で。こうした試みは珍しい。内陸線では沿線の有志が協力し、列車の乗車率を高めようと田んぼアートで協力しているわけである。

↑この夏の内陸線の4か所の田んぼアートを紹介したい。鷹巣駅から2つめの縄文小ヶ田駅の田んぼアートは左上のもの

 

縄文小ヶ田駅から見えたのは「秋田犬といせどうくんと笑う岩偶」と名付けられた作品だ。内陸線沿線は秋田犬の故郷らしく、秋田犬が登場するアートが多かった。

 

ちなみにいせどうくんとは、縄文小ヶ田駅近くの伊勢堂岱遺跡から出た土偶をモチーフにしたキャラクター。岩偶(がんぐう)は縄文時代後期の石製の人形のことだ。田に描かれたどの作品も、植えられた色違いの稲が作り出したとは思えないほど、見事なものだった。内陸線の田んぼアートは6月上旬から9月上旬まで楽しむことができる。

 

【内陸線の旅⑤】路線そばに縄文遺跡さらに防風雪林にも注目!

縄文小ヶ田駅付近から少しずつ上り始めるが、このあたりは米代川の河岸段丘の地形にあたる。駅を過ぎるとすぐに木々が生い茂った森林の中へ列車は入っていく。

 

このあたり、古い歴史を持つエリアだ。路線の進行左手すぐのところに田んぼアートでもテーマになった伊勢堂岱遺跡がある。内陸線(当時は阿仁合線)の新設工事でも縄文時代の土器などが出土したそうだ。ここは縄文時代の葬祭場だったと推測される遺跡で、国内でも珍しいそうだ。

 

次の大野台駅まで秋田杉やブナの林が続く。こちらも古い歴史を持つ森林だ。この付近は秋田藩の御留山(おとめやま)と呼ばれる場所で、秋田杉を計画生産していた地域だった。藩の重要な財源でもあった秋田杉は大事に育てられ、御留山ではみだりに伐採できないとされた。そうした藩政時代の歴史が残る森林なのである。

 

大野台駅もホームが森林に面している。背の高い秋田杉を中心にした森林で、前述したエリアと同じように古い時代に防風雪林として植えられたもののようだ。

↑大野台駅の周辺は写真のように木々が生い茂る一帯が続く。この付近には秋田藩の藩政時代に植えられた秋田杉やブナ林が残る

 

そんな樹林帯が大野台駅から合川駅(あいかわえき)付近まで続く。合川駅から先、上杉駅、米内沢駅と列車の進行方向左手に森林、路線に平行して集落とケヤキ並木、阿仁街道(現在の県道3号線)が続く。そして右手に田園が続く。

 

調べると、この地域の北側に大野台台地があり、台地の南縁に総延長4〜5kmにわたる防風雪林が設けられていた。街道筋に連なる集落は「並木集落保存地区」、田園は「農地保存地区」として保存地区とすることが市により検討されていることも分かった。要は古くに植えられた防風雪林により、長い間、集落と街道、農地が守られてきた一帯だったのである。

 

並木集落保存地区の南端にあたる米内沢駅は、阿仁合線が誕生した最初の終端駅で、この駅から路線が徐々に延ばされていった。

↑旧阿仁合線は最初に鷹ノ巣駅から米内沢駅まで線路が敷かれた。今は使われていない屋根付きホームがぽつんと残る(右上)

 

【内陸線の旅⑥】鉄道&歴史好きならば阿仁合駅での下車は必須

米内沢駅を過ぎると、左右の山が急にせまり始める。狭隘な土地を阿仁川(あにがわ)が蛇行して流れ、狭い土地に田が広がる。そんな一帯を、路線は川に沿って走り続ける。米内沢駅までは駅と駅の間があまり離れていなかったが、以降の桂瀬駅、阿仁前田温泉駅は駅間が5km以上あり、それだけ沿線に民家が少なくなったことがわかる。前田南駅、小渕駅とさらに阿仁川が迫って走るようになり、ややスピードを落としつつ列車は上り坂を進んでいく。

 

そして内陸線の中心駅でもある阿仁合駅へ到着する。鷹巣発の列車は阿仁合止まりが多い。急行列車や夕方以降の列車を除き、この駅で10分程度の〝小休止〟を取る列車や、燃料の給油のため、車両交換になる列車も目立つ。逆に角館発の上り列車は、この〝小休止〟の時間が短いので注意が必要だ。

 

この阿仁合駅には前述した内陸線資料館や車庫がある。さらに「鉄印」もこの駅で扱っている。売店や休憩スペース、レストランなどもあるので、小休止にぴったりの駅である。ちなみに、筆者は途中の大野台駅で下車、次の列車に乗車して9時10分、阿仁合駅に到着した。9時15分発の急行列車に乗り継げたのだが、同駅でぶらぶらしたいこともあり、その後の列車を待つことにした。

↑三角屋根の阿仁合駅駅舎。1階にはトレインビューカウンターや洋食レストラン、お土産売り場などが設けられ、小休止にも最適

 

とは言っても次は11時30分発と、2時間以上の時間をつぶすことが必要となる。駅周辺をぶらつくものの、時間が余ってしまう。そこで駅舎内2階にある「北秋田森吉山ウェルカムステーション」へ。そこには駅ホームと車庫が見渡せる休憩スペースがあった。

 

この休憩スペースからは車庫で入れ替えを行う車両が一望できて飽きない。

↑阿仁合駅の2階の休憩室から望む内陸線の車庫。次の列車の準備のため、間断なく車両の出入りが行われていた

 

歴史好きには、町歩きもお勧めだ。阿仁合の駅周辺は市が「鉱山街保存地区」の指定を検討しているエリア。駅から徒歩5分のところには1879(明治12)年築の煉瓦造り平屋建ての「阿仁異人館・伝承館」がある。阿仁鉱山の近代化のために来山した鉱山技師メツゲルの居宅として建築された建物で、県と国の重要文化財に指定されている。筆者も本稿を書くために調べていて、この情報に触れたのだが、次回は訪れてみたいと思う。開館時間は9時〜17時までで入館料400円、毎週月曜日休館(祝祭日の場合は翌日休)となる。

 

阿仁合駅に降りてたっぷりの休憩時間を過ごし、11時30分発の列車に乗車する。とはいっても、次は2つ先の萱草駅(かやくさえき)で降りる予定。路線に平行して走るバス便もほぼなく移動に苦労する。

 

【内陸線の旅⑦】萱草駅近くの名物鉄橋の撮影はスリル満点!

阿仁合駅を発車し、荒瀬駅、萱草駅とホーム一つの小さな駅が続く。萱草駅で下車すると、徒歩12分ほどのところに景勝地、大又川橋梁がある。駅に掲げられた貼り紙やポスターには日本語以外の橋のガイドもあり、訪日外国人も、多く訪れていたことがわかる。猛暑となったこの日はさすがに降りる人がいなかった。

 

内陸線を代表する風景として阿仁川に架かる大又川橋梁の写真がPRに使われることが多い。多くが平行して架かる国道105号の萱草大橋の歩道から撮影したものだ。筆者も川の流れが見える定番の位置を目指したのだが、国道に平行して架かる電線が垂れ下ってきていて断念。やや駅側の位置で列車を待つ。

↑大又川橋梁156mを渡るAN-8808「秋田またぎ号」。列車も同橋梁を渡る時はスピードを落としてゆっくりと渡る

 

大又川橋梁と同じように国道の萱草大橋は川底からかなり高い位置に架かる。手すりなどもしっかりしているものの、見下ろすとスリル満点。極度の高所恐怖症の筆者は、1本の列車を撮影しただけで腰が引けてしまい、早々と引き上げるのだった。ちなみに国道の萱草大橋の下に旧道の橋が架かるのだが、そちらへ向かう道は閉鎖となっていた。下から見上げるアングルならば、高所恐怖症を感じることなく、撮影できただろうにと思うと残念である。

 

【内陸線の旅⑧】笑内の読みは「おかしない」。その語源は?

萱草駅でまた2時間ほど次の列車を待つ。内陸線は朝夕がおよそ1時間に1本の列車本数だが、日中は次の列車が1時間半から2時間、空いてしまう時間帯が多く途中下車がつらい。もし途中下車する場合には、綿密なスケジュールをたててからの行動をおすすめしたい。さて萱草駅の次は笑内駅だ。笑内と書いて、「おかしない」と読む。

 

アイヌ語の「オ・カシ・ナイ」が語源とされ、意味は「川下に小屋のある川」という意味だそうだ。この駅の近くに流れる阿仁川にちなんだ言葉だったわけだ。オ・カシ・ナイにどうして「笑」と「内」をあてたのか、昔の人が当て字を考えたのだろうがなかなかのセンスと思う。

↑笑内駅(左上)のすぐ目の前には「ひまわり迷路」が設けられている。「どこでもドア」風にピンクの出入り口があった

 

ちなみに笑内駅には8月中旬までの限定で「ひまわり迷路」が設けられている。今年、楽しめるのはあとわずかな期間だが、お好きな方はチャレンジしてみてはいかがだろう。

 

【内陸線の旅⑨】比立内駅の近くには転車台の跡があった

筆者は行程の最後の下車駅に比立内駅を選んだ。この駅は阿仁合線だった当時、終点だった駅で何か残っているのでは、と思ったからである。比立内駅ができたのは1963(昭和38)年10月15日のこと。当時はSLで列車牽引が行われていた。阿仁合線ではC11形蒸気機関車が走っていて、タンク機関車のため帰りはバックのままの運転も可能だったが、距離が鷹ノ巣駅まで46kmあったため、この駅に転車台が設けられた。

↑比立内駅の近くに設けられた転車台の跡地。左手奥の道の先に比立内駅がある。右下は比立内駅の駅舎

 

その転車台の跡が比立内駅の近くに残されていた。転車台そのものは残って無いが、跡地は空き地となり全面アスファルト舗装されていた。何も使われていない、ただの空き地だが、SLの運転のためにこうして敷地を用意して機械を導入して、と大変だったことが分かる。

 

阿仁合線のSLは1974(昭和49)年3月に運転が終了している。わずか10年しか使われずに転車台は不用になったわけで、何とももったいない話である。転車台跡を見た後は、多少の時間があったので、近くの「道の駅あに・マタギの里」で小休止、上り列車を撮影して駅へ戻る。

 

道の駅の名前になっているように、北秋田のこの付近は「マタギの里」である。マタギとは、伝統的な方法を使い集団で狩猟を行う人たちを指す。現在、猟を行う人たちは減っているものの、この北秋田の阿仁地方では、マタギ文化が今も伝承され、また地域おこしとして活かす取り組みが行われている。

↑「道の駅あに・マタギの里」近く、ヒメジョオンが咲く畑を横に見ながら上り列車が走る

 

【内陸線の旅⑩】トンネルを抜けると快適にスピードアップ

比立内駅から先の旅を続けよう。乗車したのは急行「もりよし3号」で車両は「秋田マタギ号」だった。急行列車にはアテンダントが同乗していて、沿線の案内が行われる。比立内駅から先は新しく造られた路線区間ということもあり、直線路が続き、また道路との立体交差か所も多い。直線区間にはロングレールが敷かれていて、列車も快適に走る。とはいえ、奥阿仁駅、阿仁マタギ駅と走っていくにつれ、上り坂となり列車のスピードも落ちる。

 

阿仁マタギ駅を発車して阿仁川を渡るとすぐに、同路線で最長のトンネルに入る。十二段トンネルと名付けられた5697mのトンネルで、途中までは勾配区間で、そこまで列車は重厚なエンジン音を響かせながら走っていく。

↑十二段トンネルを抜け、次のトンネルへ。この区間は直線区間でロングレールが使われていることもあり快適に走る

 

トンネル内のピークを越えると列車はスピードを上げて走る。直線路で、レールも継ぎ目が無いためにスムーズだ。トンネル内で、仙北市へ入る。仙北市内最初の駅は戸沢駅だが、急行列車は同駅を通過、次に上桧木内駅(かみひのきないえき)に停車する。このあたりの駅はホーム一つの小さな駅が多い。

 

戸沢駅から先は、渓流の桧木内川が路線と平行して流れるが、新しく造られた路線ということもあり、蛇行する川には複数の鉄橋が架けられ、スピードを落とさずに走っていく。車窓から渓流釣りを楽しむ人たちを眺めつつ、松葉駅(まつばえき)に到着した。

↑角館駅へ向かう急行列車。この先で、秋田新幹線(田沢湖線)の線路に合流する。左上は角館線の終点駅だった松葉駅

 

松葉駅は角館線の終点として1970(昭和45)年11月1日に誕生した。駅周辺には田園風景が広がり、ホーム一面で、短い側線があるぐらいの駅だ。田沢湖西岸まで最短で10km弱とそう遠くないが、今は公共交通機関がない。

 

【内陸線の旅⑪】秋田新幹線の線路が近づき並走、終点の角館へ

松葉駅付近でも桧木内川が流れるが、徐々に平野部が広がりを見せていく。

 

羽後長戸呂駅(うごながとろえき)〜八津駅間はこの路線の最後のトンネルと橋が連続する区間だが、ここを越えると田園風景が広がる区間に入る、民家が多く建ち並ぶ西明寺駅に停車したのち、羽後太田駅を通り過ぎれば、間もなく左手から1本の線路が近づいてくる。秋田新幹線(田沢湖線)の線路で、しばらく並走の後、終点の角館駅へ到着する。

↑角館駅を発車した普通列車の上り「秋田マタギ号」。この先、しばらく秋田新幹線の線路と並走して走る

 

仙北市角館は小京都とも呼ばれる町並みが残るところ。内陸線の駅もレトロな趣で造られている。JR東日本の駅舎とは別棟になるが、目の前に隣接しているので、乗換えに支障は無い。

 

時間に余裕がある時には、駅から1.5kmほどの武家屋敷通りを訪ねてみたい。徒歩で約20分の道のりながら、現在は、角館オンデマンド交通「よぶのる角館」(8時30分〜17時30分まで利用可能/運賃は300円)と呼ばれる交通サービスがある。

 

内陸線は列車本数が少ないだけに、どこで時間を過ごすか、事前に決めて乗ることをお勧めしたい。鉄道好きならば阿仁合駅へ。歴史好きの方は縄文遺跡の伊勢堂岱遺跡、もしくは角館の武家屋敷通りを訪れてみてはいかが。のんびり旅にぴったりの内陸線の旅となるだろう。

↑秋田内陸縦貫鉄道の角館駅。秋田内陸線の列車は専用の行きどまりホームに止まる(右下)。JR角館駅は、写真の右側に設けられている

筑豊をのんびり走る「田川線・糸田線」の意外な発見づくしの旅

おもしろローカル線の旅90〜〜平成筑豊鉄道・田川線・糸田線(福岡県)〜〜

 

平成筑豊鉄道には、先週紹介した伊田線(いたせん)のほか、田川線(たがわせん)と糸田線(いとだせん)という2本の路線がある。全線複線の伊田線とは対照的に、全線単線の田川線と糸田線。両線の旅では予想外の発見もあった。かつて炭鉱が点在した筑豊を走るローカル線の旅を楽しんでみたい。

*取材は2013(平成25)年7月、2022(令和4)年4月3日と7月2日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【田川・糸田線の旅①】豊州鉄道という会社が造った2本の路線

まずは2線のうち、田川線の概要を見ておこう。

路線と距離 平成筑豊鉄道・田川線:行橋駅(ゆくはしえき)〜田川伊田駅(たがわいたえき)間26.3km 全線非電化単線
開業 1895(明治28)年8月15日、豊州鉄道(ほうしゅう)により行橋駅〜伊田駅(1982年に田川伊田に駅名改称)間が開業
駅数 17駅(起終点駅を含む)

 

2本目の糸田線の概要は次の通りだ。

路線と距離 平成筑豊鉄道・糸田線:金田駅(かなだえき)〜田川後藤寺駅(たがわごとうじえき)間6.8km 全線非電化単線
開業 1897(明治30)年10月20日、豊州鉄道(ほうしゅう)により後藤寺駅(1982年に田川後藤寺に駅名改称)〜宮床駅(現在の糸田駅)〜豊国駅(貨物駅)間が開業。
1929(昭和4)年2月1日、金宮鉄道(きんぐうてつどう)により糸田〜金田駅間が開業
駅数 6駅(起終点駅を含む)

 

平成筑豊鉄道の伊田線は今から129年前の1893(明治26)年に部分開業した。その2年後に田川線が、さらにその2年後に糸田線の一部が開業している。当時は筑豊の炭鉱数、出炭量も急速に増え、増大する輸送量にあわせるかのように次々と新たな路線が設けられていった。

 

【田川・糸田線の旅②】豊州鉄道を創立した人となりに注目したい

田川線、糸田線ともに、路線を敷いたのは豊州鉄道(初代)という鉄道会社だった。この会社が開業させた複数の路線が、今もJR九州の路線として活かされている。

 

豊州鉄道が開業させたのは平成筑豊鉄道の田川線、糸田線のほかに、現在の日豊本線となった行橋駅〜柳ケ浦駅(やなぎがうらえき)間、日田彦山線の田川伊田駅〜川崎駅(現・豊前川崎駅)間と多い。同社が開業した路線の総延長は85.2kmに及ぶ。ところが現・田川線を開業させた後、わずか6年で九州鉄道と合併し、豊州鉄道の名前は消滅した。短期間に積極的な路線敷設を行い、さらに九州最古の鉄道トンネル(詳細は後述)を設けるといった当時としては新しい試みも行っていた。

 

豊州鉄道の創設者は村野山人(むらの さんじん)と呼ばれる人物だ。なかなか豪快な人生を送っているので触れておきたい。村野が生まれたのは現在の鹿児島県鹿児島市城山町で、父は島津斉彬(しまづなりあきら)の奥小姓役だったが、お由羅騒動(おゆらそうどう)と呼ばれたお家騒動に連座、遠島となる。のちに赦免されたものの帰藩する船の中で亡くなってしまった。そのため村野家は家財を没収され、山人は悲惨な幼少時代を送ったとされる。その後に嫌疑が晴れ、村野家の家督を相続する。

 

明治維新後の動きがすごい。教師、志願兵として台湾出兵に従軍、警部、兵庫県職員などを務めた後、鉄道実業家となる。鉄道との関わりもかなりのものだ。まずは山陽鉄道の副社長を勤める。その後、豊州鉄道の総支配人、阪鶴鉄道(はんかくてつどう/現・福知山線、舞鶴線)の発起人、ほか門司鉄道、九州鉄道、南海鉄道、豊川鉄道、京阪電気鉄道、神戸電気鉄道などの鉄道経営に参画。衆議院議員を2期つとめ、最初の鉄道会議議員となり、さらに私財を投じて、工業高等学校まで創立している。

 

この足跡をたどるだけでも実にバイタリティをあふれる人物に見える。こうした草創期の鉄道路線網の整備に功績をあげた人物により田川線、糸田線は造られたのである。

↑日田彦山線の彦山駅(ひこさんえき)。田川線の駅として1942(昭和17)年に誕生した。豪雨により路線休止となり同駅舎も解体された

 

田川線は現在、行橋駅〜田川伊田駅間となっているが、古くは田川伊田駅から先、現在の日田彦山線にあたる一部区間も田川線として造られた路線だった。田川線は次のように延伸された。九州鉄道との合併も含め見ていこう。

1895(明治28)年8月15日 行橋駅〜伊田駅(現・田川伊田駅)間を開業
1896(明治29)年2月5日 伊田駅〜後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)間を開業
1899(明治32)年7月10日 後藤寺駅〜川崎駅(現・豊前川崎駅)間を開業
1901(明治34)年 豊州鉄道が九州鉄道と合併
1903(明治36)年12月21日 川崎駅〜添田駅(現・西添田駅)間を開業
1907(明治40)年7月1日 九州鉄道が官設鉄道に買収される
1942(昭和17)年8月25日 西添田駅〜彦山駅間を開業

 

ここで記したのは旅客営業を行った路線のみで、貨物支線まで含めると膨大な路線が田川線として開設された。その後、田川線は1960(昭和35)年に行橋駅〜田川伊田駅(当時の駅名は伊田駅)間の区間のみとなり、田川伊田駅から南は日田彦山線となった。日田彦山線は2017(平成29)年7月に同路線を襲った「平成29年7月九州北部豪雨」により多大な被害を受けて添田駅〜夜明駅(日田駅)間の列車運行が休止されてしまう。鉄道路線としての復旧は困難と判断され、JR九州と地元自治体との話し合いを経てBRT化することに合意。2023(令和5)年度のBRT転換を目指して工事が進められる。かつて田川線だった彦山駅もこの不通区間に含まれ、モダンな駅舎もすでに解体されている。

 

一方の平成筑豊鉄道・田川線も2012(平成24)年の豪雨など度重なる災害で多大な被害を受け、長期間不通となってきたが、そのつど復旧工事が行われ運転再開を果たしている。私企業となったJR九州と、第三セクター経営の平成筑豊鉄道との違いがこうした差に出ているようにも感じる。

 

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【田川・糸田線の旅③】一駅区間はJRと共用区間を走る

歴史の話が少し長くなったがここからは路線の紹介に話を進めたい。田川線の起点は行橋駅だが、前回に伊田線の紹介をしたこともあり、田川伊田駅から話を進めよう。田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続している。

 

日田彦山線の一部区間が、かつて田川線として開業されたこともあり、今も両線は縁が深い。

↑田川市の玄関口・田川伊田駅。田川線は1・2番線ホームから、日田彦山線の列車は3・4番線ホームから発車する(右上)

 

実は平成筑豊鉄道・田川線の田川伊田駅と次の上伊田駅(かみいたえき)間は単線区間で、日田彦山線と線路を共用しているのである。このあたり、路線紹介を行うガイドや、Webにも解説がないこともあり、筆者も現地で実際に列車に乗ってみてはじめて気が付いた。

 

ちなみに、国土交通省鉄道局が監修している「鉄道要覧」にも田川伊田駅〜上伊田駅間はJR九州・日田彦山線と平成筑豊鉄道・田川線2社のどちらの路線か明記されていない。

 

さて、田川伊田駅から平成筑豊鉄道の列車は田川線へ入っていく。伊田線の直方駅(のおがたえき)から走ってきた列車の大半は、列車番号が変わるものの、そのまま田川線を走り終点の行橋駅を目指す。そうした列車の中で一部が、田川伊田駅で時間調整をして次の上伊田駅へ向かうのだが、路線を共用する日田彦山線の列車とかち合うため時間調整をしていたのだ。

↑彦山川橋梁を渡る田川線の列車。JR九州の日田彦山線の列車も同橋梁を共用している(右上)。複線分の橋脚が設けられている

 

田川伊田駅の東側で田川線の線路と日田彦山線の線路が合流し、彦山川(ひこさんがわ)橋梁を渡る。この彦山川は遠賀川(おんががわ)の支流となる。

 

この橋梁、現在は単線が通るのみだが、興味深いのは橋脚部分に線路1本を通せる余分なスペースがあること。かつては複線だったのを橋げたを外したのか、複線にするために橋脚をひろげたのか、資料がなくはっきりしないが、推測するに太平洋戦争前後に橋げたを外す、もしくは複線化を図ろうとしたのかも知れない。

 

田川伊田駅を発車する田川線の列車は朝の6時、8時、18時に1時間に2本で、あとは1時間に1本の列車本数。日田彦山線もほぼ同様と列車本数は少なめなので、前述したように一部の列車に時間調整が必要なものの、複線にしなくとも運転に支障はないようだ。

 

【田川・糸田線の旅④】上伊田駅前後の線路配置がおもしろい

田川伊田駅から彦山川橋梁を渡り約1.4km、上伊田駅の手前にある分岐ポイントで、両線の線路が分かれる。田川線の列車は右手へ、そして上伊田駅のホームへ到着する。一方、日田彦山線の列車は上伊田駅手前の分岐ポイントを左へ入る。上伊田駅では両線の線路がほぼ並行しているのだが、日田彦山線の上伊田駅のホームは設けられていないので、列車は上伊田駅を横目に見て走り抜けていく。

↑「神田商店上伊田駅」と駅名が記される田川線・上伊田駅。駅のすぐ西に日田彦山線との分岐ポイントがある(左上)

 

上伊田駅の手前で分岐した田川線と日田彦山線の線路は、上伊田駅の東側にある猫迫1踏切を通り抜けてすぐに、線路が離れていく。田川線は直線で次の勾金駅(まがりかねえき)へ向かい、日田彦山線は、左に大きくカーブして一本松駅へ向かう。このあたりの線路の分岐、合流の様子が興味深い。

 

上伊田駅付近には、かつてもう一本の線路が通っていた。添田線と呼ばれ、現在の駅名と同じ上伊田駅があった。日田彦山線の一本松駅付近から現在の上伊田駅へ至る途中に分岐があり、田川線とクロスして日田彦山線の添田駅へ向かっていた。添田線は田川伊田駅を通らない日田彦山線のバイパス的な路線で、貨物列車の走行には便利だったが、田川伊田駅を通らないことで旅客路線としては営業的に芳しくなく1985(昭和60)年4月1日に廃止されている。ちなみに上伊田駅は場所を移し、田川線の新駅として2001(平成13)年3月3日に開業した。

↑上伊田駅へ近づく田川線(右)と日田彦山線(左)。本写真は合成したもので、実際には同時間にこうして走ることはない

 

田川伊田駅周辺は、調べてみると多くの路線が走っていたことに驚かされる。だが、石炭輸送がなくなり、いわば〝無用の長物〟になってしまったのだ。

 

【田川・糸田線の旅⑤】油須原駅など途中駅もなかなか興味深い

上伊田駅を発車すると列車は田川市から香春町(かわらまち)へ入る。間もなく着くのが勾金駅。同駅から北に設けられた旧・夏吉駅まで貨物線が設けられ、セメント列車が走っていたが、すでに廃線となっている。かつての路線は、道路となり廃線跡として偲ぶことができる。

 

勾金駅の次の駅が柿下温泉口駅。その名前の温泉が近いのかと思ったら、肝心の柿下温泉は徒歩15分と遠めで、しかも長期休業中となっていた。高濃度の天然ラドン泉で泉質は人気があっただけに残念だ。柿下温泉口駅から先は、山景色が間近に見えるようになる。次の内田駅からは赤村へ入る。

 

内田駅の次は赤村の村名そのものを付けた赤駅に到着する。この赤駅には、「赤村トロッコ油須原線(ゆすばるせん)」という観光トロッコが走っていたのだが、コロナ禍もあり、現在運転休止となっている。

 

赤駅の次は、油須原駅となる。この駅の読み方は「ゆすばる」。九州には「原」を「はる」または「ばる」と読ませる地名が多い。油須原駅は鉄道ファンとしては必見の駅である。まずは築127年という九州一古いと言われる木造駅舎が今年の2月に復元改装され、きれいに整備されている。駅舎内には「鉄道作業体験室」や「ギャラリー」が設けられた。将来的には出札口の復元も目指すそうだ。

↑復元改装された油須原駅の駅舎は内外装もきれいに。ホームには古い腕木式信号機(左上)やタブレットの受け器(左下)もある

 

ホームには古い腕木式信号機や、タブレットの受け器も保存されている。油須原駅はさながら鉄道資料館のようになっていた。

 

この油須原駅で触れておかなければいけないことがある。かつてこの駅に至る「油須原線」という路線計画があったのだ。1950年代半ばから工事が始まり、油須原線のうち、漆生駅(うるしおえき/現・嘉麻市 かまし)と、日田彦山線の豊前川崎駅までの路線は1966(昭和41)年3月10日に開業した。豊前川崎駅と油須原駅間の工事も着工したが、その後に、工事中断、再開が繰り返された末に1980(昭和55)年、正式に工事が凍結。開通した漆生駅〜豊前川崎駅間も1986(昭和61)年4月1日に廃止されてしまった。

 

開通からわずか20年で廃線となった油須原線。さらに工事が完了した区間もあったが、放棄されてしまった。石炭輸送のためにこうした計画が立てられ、エネルギー源が著しく変わり、輸送目的が消滅することが見えていたのにもかかわらず、工事が続けられ、無駄になったわけである。こうした歴史をたどるたびに、進められた公共工事の見通しの甘さを痛感する。時代が変わろうとも、進められる公共工事が本当に将来に必要なものかどうか、見極める術と、止める決断も大事なのだろうと思う。

 

【田川・糸田線の旅⑥】源じいの森で気がついた意外なこと

田川伊田駅から乗車20分で源じいの森駅へ到着した。「源じいの森」とは珍しい駅名だが、これは駅に隣接する自然公園「源じいの森」に由来する。源じいという、おじいさんが住んでいたのかなと、勝手に想像していたのだが、まったく違った。「源」はこの付近に生息する源氏蛍の「源」で、「じい」は赤村の村の花・春蘭の方言名である「じいばば」の「じい」、そして赤村の7割以上を占めている森林の「森」を組み合わせたものだそうだ。

↑源じいの森駅に停車する金田行き上り列車。駅の近くには源氏蛍が生息する渓流・今川が流れ、自然公園「源じいの森」がある

 

駅のすぐそばに「源じいの森」の受付がある建物があり、その周囲にキャンプ場などのレクリエーション施設が広がる。ちなみに、平成筑豊鉄道の1日フリー乗車券「ちくまるキップ」(大人1000円)を購入すると源じいの森温泉の入湯料が無料となる。

↑源じいの森の受付や宿泊施設などがある建物。この目の前に車掌車が保存されていた(右上)

 

受付や宿泊施設が入る建物の道路をはさんだ向かいに、塗装がやや薄まっていたが、青い車掌車が保存されていた。ヨ9001という形式名の車両で、時速100km運転を目指して国鉄が開発した試験車両だった。実際には100kmでの運転は不可能ということが分かり、2両しか製造されなかった。その後に筑豊地方を走る貨物列車に連結して使われたとされる。筑豊がらみということで、この地に保存されているのであろう。

 

車掌車の横には田川線に関わる案内が建てられていた。源じいの森の下をくぐるように走る田川線。その先にある「石坂トンネル」に関する案内だった。

↑第二石坂トンネルを出て源じいの森駅を目指す列車。トンネルは複線用のサイズで造られていた

 

源じいの森駅の先には「第二石坂トンネル(延長74.2m)」と「第一石坂トンネル(延長33.2m)」の2本の「石坂トンネル」が連なる。このトンネルは1895(明治28)年に完成したもので、九州最古の鉄道トンネルとされている。レンガ構造で、外から見た入口はやや楕円形で、現在は単線の線路となっているが、将来的に複線化も可能な造りとなっている。複線化はかなわなかったが、当時の鉄道会社の資金力を見る思いだ。

 

この石坂トンネルは、九州最古であるとともに、ドイツ人技師・ヘルマン・ルムシュッテルの指導を受けた工学博士・野辺地久記(のべちひさき)が設計したトンネルとしても歴史的な価値が高く、国の登録有形文化財に指定されている。

 

田川線では今回、駅から遠く立ち寄ることができなかったが、内田駅〜赤駅間にある内田三連橋梁も当時の貴重な橋梁技術を後世に伝えるものとして国の登録有形文化財の指定を受けている。127年前に開業した田川線には、こうした貴重な鉄道史跡が残されているのである。

 

【田川・糸田線の旅⑦】古さが目立つ崎山駅などに停車しつつ

森に包まれた源じいの森駅を発車して2本の石坂トンネルを越え、赤村からみやこ町へ入る。車窓からは田畑が広がる景色が見えてくる。この風景の移り変わりを見ていると、源じいの森駅が、田川線の最も標高の高い駅だったことが分かる。車窓からは田園風景とともに源氏蛍が生息するとされる今川が眼下に見えてくる。

 

列車は崎山駅へ到着。この駅は1954(昭和29)年4月20日に信号場として造られ、2年後に駅として開業した。この崎山駅には10年ほど前にも一度訪れたことがあるのだが、駅施設は以前のままだった。手付かず、整備が行き届かずといった様子で、形容しづらい状況だ。

↑崎山駅の駅舎。駅が造られた当時に信号所だったこともあり、駅務員用に建物が設けられた。建物自体は昭和中盤の建築とされる

 

今、駅の屋根の一部には青いビニールシートがかかる。屋根瓦の落下が予測されることもあり、建物とその周囲が立ち入り禁止となっている。

 

崎山駅から犀川駅(さいがわえき)、東犀川三四郎駅、新豊津駅と進むにしたがい水田風景が広がっていく。豊津駅からは行橋市(ゆくはしし)に入り、沿線に民家も点在するようになる。そして今川河童駅(いまがわかっぱえき)へ。風変わりな駅名だが、地元の今川に伝わるかっぱ伝説にちなむとされる。駅に河童の銅像も立っている。

 

平成時代に生まれた美夜古泉駅(みやこいずみえき)、令和時代に生まれた令和コスタ行橋駅と停車し、今回の田川線の旅の終点駅・行橋駅に到着する。田川伊田駅から乗車約55分、源じいの森駅など、豊かな自然に包まれた車窓風景が記憶に残った。

↑日豊本線と連絡する行橋駅。田川線の乗り場は3・4番線ホームの南端、5番線(右上)にある。乗換え用の専用口も設けられる

 

【田川・糸田線の旅⑧】金田駅近郊で伊田線と別れる糸田線

ここからは、もう一本の糸田線の路線紹介に移ろう。糸田線は金田駅と田川後藤寺駅を結ぶ路線で、伊田線の支線の趣が強い。列車の運行は朝夕の糸田線内のみを往復する列車に加えて、9時〜16時台の列車は直方駅から伊田線内を走り、金田駅から糸田線へ乗り入れる列車が多くなる。列車の本数は上り下りともに1時間に1本。路線距離が6.8kmと短いこともあり、所要14分と乗車時間も短い。

↑田川後藤寺行きの下り列車。写真のように水田と民家が点在する風景が連なる

 

金田駅の先、伊田線の複線に加え糸田線用の線路が進行方向右手に延びている。1kmほど3本の線路が並んで走った後、東金田踏切の先で、糸田線は進行方向右手に分岐、次の豊前大熊駅を目指す。この駅は、前回紹介した田川伊田駅と同じく「MrMax」というディスカウントストアがネーミングライツを取得していて、その名が駅名標に記されている。糸田線の駅は単線ということもあり、ホーム1つの小さな駅が大半だ。

 

糸田線ではこの豊前大熊駅から松山駅、糸田駅が糸田町内の駅となる。路線名は、この土地名に由来しているわけだ。車窓風景に変化は少なく、豊前大熊駅から糸田駅の先までは県道420号線と遠賀川の支流、中元寺川を進行方向右に見て列車は進む。

↑全線複線の伊田線(左)に並ぶ糸田線の線路(一番右)。東金田踏切の先で、糸田線の線路が右に分岐している

 

糸田町の玄関口でもある糸田駅。1897(明治30)年10月20日の路線の開業時は宮床駅(みやとこえき)という名前だった。この糸田線、短いながら路線の開業から、紆余曲折の歴史が隠されている。開業させた豊州鉄道は後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)と宮床駅間を結ぶ路線に加えて、宮床駅の0.5km先に豊国駅(ほうこくえき)という貨物駅を造った。この豊国駅は石炭を積むための駅だった。

 

糸田駅(旧・宮床駅)の北側は豊州鉄道とは異なる会社が線路を敷設した。金田と宮床を結んだ路線で金宮鉄道と名付けられた鉄道会社だった。この会社は後に産業セメント鉄道という名の会社になる。そして現在の糸田駅から北0.7km地点に糸田駅(後に廃駅)を設けた。この産業セメント鉄道は1943(昭和18)年に買収され国有化された。

 

要は6.8kmの短い路線にも関わらず、開業には2つの会社が関わり、太平洋戦争中に国鉄の糸田線に。産業セメント鉄道が造った糸田駅は、国有化された時に宮床駅に吸収され、旧宮床駅が糸田駅となった。

 

【田川・糸田線の旅⑨】田川後藤寺駅では古い跨線橋が気になる

糸田駅の南で糸田町から田川市へ入る。列車は中元寺川から離れ大薮駅(おおやぶえき)へ。同駅は路線開業時、貨物駅として誕生したが、一度廃止された後の1990(平成2)年に現在の駅が再開している。糸田線にはこのようにいろいろな経緯を持つ駅が多い。こちらも「MrMax大藪」というネーミングライツされた駅名が付く。

 

大薮駅を過ぎると緑が多くなり、左手から線路が近づいてくる。JR日田彦山線の線路で、田川伊田駅方面からの列車がこの線路を走る。さらに右手からJR後藤寺線の線路が近づいてきて、田川後藤寺駅の構内に入る。

↑田川後藤寺駅の駅舎。西側のみに駅入口がある。駅構内は広くJR九州のキハ40系などの気動車が多く留置されている

 

糸田線の列車は田川後藤寺駅の2番線に到着する。同駅のホームは4番線まで並んでいるが、後藤寺線は0番線と1番線を利用。一方、日田彦山線は1番、3・4番線のホームを利用する。2番線は糸田線単独のホームで、跨線橋を渡って他線への乗換えが必要となる。

↑日田彦山線の列車が停る1番線ホーム。糸田線(左)は2番線ホームからの発着となる

 

駅舎の改札はJR九州の管理となっているが、糸田線の乗車券の購入もできる。駅舎は1997(平成9)年に建てかえられたが、駅構内には骨組みにレールを使用した木製の跨線橋が残る。使われたレールは最も古いもので1900(明治33)年、新しいもので1911(明治44)年という刻印がある。記録では1916(大正5)年に駅舎改築とあることから、この時か、また昭和初期にかけて架けられた跨線橋が残っていることになる(糸田線の階段部分は後に付け加えられたもの)。

 

田川後藤寺駅を訪れ、田川線、糸田線が設けられた同時代の資材が、こうして跨線橋として残されていることが分かった。

↑田川後藤寺駅のレトロな跨線橋。骨組みのレールには1900年代の序盤に造られたアメリカ製のものなども含まれる

 

【田川・糸田線の旅⑩】もう1本、忘れてはいけない路線がある

平成筑豊鉄道の紹介で、もう1本、忘れてはいけない路線がある。それは福岡県北九州市を走る門司港レトロ観光線である。

 

JR門司港駅に隣接する九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅間2.1kmを結ぶ観光路線で、かわいらしいトロッコ列車が走る。運営方式は上下分離方式で、北九州市が第三種鉄道事業者で路線を所有管理、平成筑豊鉄道は第二種鉄道事業者として、車両を保有し、運行を行っている。

↑平成筑豊鉄道が運行する「潮風号」。終点の関門海峡めかり駅では、海峡を行き来する大型船が間近に見え楽しめる

 

同路線は元々、鹿児島本線の貨物支線であり、後に田野浦公共臨港鉄道の路線として貨物列車が走っていた。そこをディーゼル機関車2両にトロッコ客車2両を連結した観光列車「潮風号」が時速15kmというのんびりしたスピードで走る(冬期は運休)。

 

同列車の名称は「北九州銀行レトロライン潮風号」。こちらの路線もネーミングライツによる企業の名前を付けている。厳しさが増す鉄道事業、平成筑豊鉄道は駅名だけでなく、こうした路線名にまで企業の名前を入れるなど、涙ぐましい営業努力を続けているわけである。

 

栄華の跡が色濃く残る「へいちく伊田線」非電化複線の旅を楽しむ

おもしろローカル線の旅89〜〜平成筑豊鉄道・伊田線(福岡県)〜〜

 

1950年代から1960年代にかけて起こった「エネルギー革命」。国内のエネルギー源が石炭から石油へ短期間で変わった。日本一の出炭量を誇り、栄華を極めた福岡県の筑豊地方はその大きな影響を受けたのだった。

 

筑豊を走る平成筑豊鉄道の伊田線(いたせん)。現在も華やかだった時代の残り香が味わえる沿線である。過去の栄光を感じつつ鉄道旅を楽しんだ。

 

*取材は2013(平成25)年7月、2017(平成29)年5月、2022(令和4)年4月3日と7月2日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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↑直方駅近くを走る伊田線の列車。伊田線の複線と、筑豊本線の複線が並んで走る区間だ。右上に直方市石炭記念館が見える

 

【伊田線の旅①】129年前に設けられた石炭運搬路線

30年以上前に筆者は筑豊の直方市(のおがたし)を訪れ、複々線の線路が連なる様子と、華やかで大きなアーチが出迎える商店街に驚かされた。その記憶が今も頭の片隅に残っている。訪れた当時はとうに炭田は閉鎖されていたはずだが、賑わった時代の余韻のような華やかさが感じられたのである。

 

あの華やかな町の面影は今も残っているのだろうか、そんな疑問から今回の旅は始まった。地元の人たちから〝へいちく〟の名で親しまれる平成筑豊鉄道。その伊田線の概略をまず見ておこう。

路線と距離 平成筑豊鉄道・伊田線:直方駅〜田川伊田駅(たがわいたえき)間16.1km 全線非電化複線
開業 1893(明治26)年2月11日、筑豊興業鉄道により直方駅〜金田駅(かなだえき)間が開業。
1899(明治32)年3月25日、金田駅〜伊田駅(1982年に田川伊田に駅名改称)間が延伸開業
駅数 15駅(起終点駅を含む)

 

今から129年前に部分開業した伊田線は、1897(明治30)年に鹿児島本線などを運行する九州鉄道と合併。さらに1907(明治40)年には国が九州鉄道を買収し、官設鉄道の路線となる。終戦前の1943(昭和18)年に印刷された地図が下記だ。この地図を見ると筑豊地方の鉄道網は実に多くの路線があり、支線も多く伸びていたことが分かる。

↑「鐵道路線地図」1943(昭和18)年5月改正版。当時、鉄道職員に配られた地図で伊田線は2本線=複線として描かれている

 

伊田線は直方駅で筑豊本線に接続する。筑豊本線の終点は北九州の若松駅だ。この若松駅の目の前には若松港があり、この港から筑豊炭田で産出された石炭が各地へ輸送された。さらに富国強兵策を進める明治政府が官営八幡製鐵所を北九州・八幡に造り1901(明治34)年に操業を始めた。

 

この製鐵所では大量の石炭が必要となった。伊田線の輸送力を確保したい思惑もあり1911(明治44)年には全線が複線化されている。

 

筑豊炭田は福岡県の北九州市、中間市(なかまし)、直方市、田川市、など6市4郡にまたがって広がっていた。日本一の石炭産出量を誇った筑豊炭田。その採炭量が全国の産出量の半分を占めた時期もあったとされる。そのピーク時は太平洋戦争前後で、筑豊には最盛期、265鉱(1951年度)があった。

 

【伊田線の旅②】全線が非電化複線という路線が今も残る

ところがエネルギー革命が急速に進む。1960年代になると大手企業が採炭から撤退していき、筑豊炭田は1976(昭和51)年の宮田町にある貝島炭礦の閉山により姿を消した。

伊田線の沿線の中で直方市と、田川市が大きな街だが、その人口にもそうした影響が明確に現れている。直方市の人口は1955(昭和30)年には6万3319人で、6万4479人(1985年)まで膨らんだが、2022(令和4年)年6月には5万5735人に減っている。田川市の人口の推移は顕著で、1955(昭和30)年には10万71人を記録したが、2022(令和4年)年7月1日現在で4万5881人と半分以下になっている。

 

炭坑が閉山されたことで、伊田線も大きな影響を受けた。まずは沿線の途中駅から炭田に向けて多くの貨物支線が分岐していたが、1960年から1970年代にかけて貨物支線が次々に廃止され、支線の先にあった貨物駅も閉鎖された。

 

伊田線を走る貨物列車は減少どころか運転すらなくなり、さらに急激な人口減少で利用者も減っていった。1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化により路線は九州旅客鉄道(JR九州)に引き継がれ、2年後の1989(平成元)年10月1日には第三セクター経営の平成筑豊鉄道に転換されて現在に至る。

↑伊田線は全線が複線のまま残されている。そこをほとんどの列車が1両で走っている

 

平成筑豊鉄道には今回紹介の伊田線と、田川線(行橋駅・ゆくはしえき〜田川伊田駅間)と糸田線(いとだせん/金田駅〜田川後藤寺駅間)の3路線が移管された。

 

平成筑豊鉄道の田川線、糸田線は全線単線だが、伊田線のみ全線が複線のままで引き継がれ、今も残されている。60年以上も前に多くの炭坑は消えてしまったが、栄華の跡を沿線各地で確認することができ、筑豊炭田が生み出した〝財力〟を偲ぶことができて興味深い。

 

【伊田線の旅③】走る気動車は400形と500形の2タイプ

ここで平成筑豊鉄道を走る車両を見ておこう。平成筑豊鉄道を走る車両は2タイプある。

 

◆400形

↑平成筑豊鉄道の400形。写真は標準タイプで多くがこの塗装が施されている。ベース色の黄色は菜の花をイメージしている

 

平成筑豊鉄道が2007(平成19)年から導入した気動車で、製造は新潟トランシスが担当した。車両は地方鉄道向けの軽快気動車NDCと呼ばれる。全国の多くの路線で見ることができるタイプだ。平成筑豊鉄道の400形は大半が菜の花を意味する黄色ベースに青色、緑色、空色の斜めのストライプが入る。

 

400形には黄色ベースの車両以外に企業の広告ラッピング車両、マスコットキャラクター「ちくまる」をテーマにしたラッピング車などのほかに、「ことこと列車」という名前の観光列車2両が走っている(詳細後述)。

 

◆500形

↑1両のみの500形。外装はレトロ調で、車内も通常の400形とは異なる転換クロスシートが導入された

 

1両のみ2008(平成20)年に製造された車両で、基本構造は400形と同じだが、内外装をレトロ調にした。愛称は「へいちく浪漫号」で、通常の列車に利用されるほか、貸し切り列車として走ることもある。

 

【伊田線の旅④】休日には人気のレストラン列車が走る

400形の401号車と402号車は「ことこと列車」という名前の観光列車に改造されている。同社では「レストラン列車 ゆっくり・おいしい・楽しい列車」としてPRしている。デザインはJR九州などの多くの車両を手がけた水戸岡鋭治氏で、木を多用した内装に変更、外観もお洒落な深紅のメタリック塗装となっている。

 

「ことこと列車」の運転は土日・祝日で、今年は11月27日までの運転の予定だ。1日1便の運行で、直方駅を11時32分に発車、田川伊田駅で折返し、直方駅へ12時35分に戻る。これで終了ではなく、再び直方駅12時57分発、田川線へ乗り入れ、行橋駅14時52分で運転終了となる。

↑今年は4月2日から運転が開始された「ことこと列車」。写真は今年の4月3日に撮影したもので、車内から花見が楽しめた

 

車内では筑豊、京築(けいちく)地方の素材を贅沢に使ったフレンチコース料理6品が提供される。福岡市の「La Maison de la Nature Goh」を展開する料理人・福山剛氏が料理を監修した。旅行代金は1万7800円とちょっと贅沢な観光列車に仕上がっている。

↑水戸岡鋭治氏デザインの「ことこと列車」。内装は木を多用した造り(左上)で、2019(平成31)年3月から運行が始まった

 

【伊田線の旅⑤】直方駅近く複々線の上にかかる跨線橋だがさて?

ここからは伊田線の旅をはじめたい。その前に、30年以上前の脳裏に刻まれた風景をまず確認しておきたい。筑豊本線と伊田線の2本の路線が並び、複々線で走る区間だ。

 

筑豊本線と伊田線の2線が並んで走るのだから複々線でも不思議ではないのだが、30年以上前に訪れたときは線路がなぜ複々線なのか良くわからず、その規模に圧倒されたのだった。当時は4線すべてが非電化で、それも驚かされる要因の1つだったのだろう。筑豊本線(折尾〜桂川間)の電化は2001年(平成13)年のことだった。

 

直方駅から線路に沿って500mほど、石の鳥居が立つ跨線橋の入り口へ到着する。線路を挟んだ高台に多賀神社があり、その参道として設けられた跨線橋が2本ある。この跨線橋は参道跨線橋の2本めにあたり(正式名は「多賀第3跨線人道橋」)、ここで新たな発見をしたのだった。

↑直方駅の東口には力士の銅像が立つ。これは地元出身の魁皇の銅像だ。伊田線の乗り場はこの駅舎の南側に設けられる(左下)

 

跨線橋からは眼下に伊田線の複線と、並んで筑豊本線の複線が見える。複々線だから、列車が頻繁に走ると思うのだが、本数はそれほど多くない。現状の列車本数を考えれば過分にも感じる線路の数である。

 

この跨線橋を越えると「直方市石炭記念館」がある。外には石炭列車の牽引で活躍した複数のSLと、炭坑で使われた小さな電気機関車、さらに「救助訓練坑道」が残されていた。

 

「救助訓練坑道」は救護隊員の養成訓練用に設けられたものだとされる。幼いころに炭坑事故の痛ましいニュースをたびたび見た記憶があるが、こうした事故が起きた時のために救護隊員がいて、さらに養成訓練用の坑道まで設けられたとは、当時の炭鉱の資金力を改めて知ることになった。

↑多賀神社の南側の跨線橋の入り口。跨線橋からは筑豊本線と伊田線を行き来する列車が見える(左上)。架かる橋は不思議な形をしている

 

「直方市石炭記念館」の開館時間は9〜17時(月休)で、掘削、採炭、運搬などの炭鉱に関する貴重な資料が納められている(入館料は100円)。筆者の世代でも知らないことが多い石炭採掘の歴史に触れることができて勉強になる。

 

帰りは複々線を眼下に見て、跨線橋を越えて階段を降りた。振り返ると跨線橋が風変わりな形をしている。下から見上げると跨線橋自体が山形をしていて、中央部が盛り上がっているのが分かった。

 

実はこの跨線橋、転車台の台部分を転用したものだそうだ。上下逆にしてこの跨線橋として使ったそうである。どこの駅の転車台を転用したかは資料がなく定かでないが、中央部がどうりで山形をしていたわけである。ちなみにかつて直方駅構内にも転車台があったそうだ。

↑直方市石炭記念館の正面には貝島大之浦炭坑で半世紀にわたり働き続けたコペル32号が飾られる。右下は救護訓練坑道と使われた機関車

 

複々線区間と石炭記念館、アーケードを通り直方駅に戻る。そして2番線に停車していた田川伊田駅行き下り列車に乗車したのだった。

 

【伊田線の旅⑥】構内が非常に広い途中駅が目立つ

直方駅を発車する列車は1時間に2本が基本で、朝の7時台は3本出ている。列車の半分は伊田線の終点・田川伊田駅まで走り、田川線に乗り入れて行橋駅まで走る。また一部列車は金田駅から糸田線へ乗り入れる。第三セクター経営の路線としては本数が多いといって良いだろう。複線であることが活かされているわけである。ただし、大概の列車は1両編成なのだが。

 

列車はみなワンマン運転で、交通系ICカードは使えない。乗車する駅で整理券を受け取り、下車駅で現金での支払いとなる。1日全線が乗り放題の「ちくまるキップ」は大人1000円、沿線の日帰り湯の入湯料が無料になるなどの特典が付く。車内で販売されているが、有効日を運転士が書き込む手間がかかるために、下車時よりも直方駅(平成筑豊鉄道の改札は無人)などの始発駅で、乗車時にあらかじめ購入しておくことをお勧めしたい。

 

沿線の様子を見ていこう。

 

直方駅を出発した列車は次の南直方御殿口駅(みなみのおがたごてんぐちえき)までは筑豊本線と並行して走る。直方駅から南直方御殿口駅の先まで筑豊本線との並走区間が約1.7kmあり、つまり複々線区間がそれだけ続いていることになる。そして筑豊本線と離れて、左にカーブする。カーブするとすぐに遠賀川(おんががわ)を渡る。

↑直方駅から4つ目の駅、中泉駅は上下線の間が非常に開いていることが分かる。遠賀川を渡る伊田線の橋梁(右上)。

 

遠賀川とボタ山は、筑豊地方のシンボルとして五木寛之氏の小説「青春の門」やリリー・フランキー氏の小説「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」で描かれている。そんな遠賀川だが、明治20年代までは嘉麻川(かまがわ)と地図に記されていた。伊田線は1893(明治26)年2月11日開業ということもあり、遠賀川に架かる鉄橋の名前は「嘉麻川橋梁」と名付けられ今に至る。架けられた後に遠賀川という名前が定着していき、一般にもその名で呼ばれたそうである。

 

南直方御殿口駅、あかぢ駅、藤棚駅、市場駅、ふれいあい正力駅、人見駅と、みな平成筑豊鉄道になって設けられた駅である。直方駅〜金田駅間で、古くからある駅は中泉駅と赤池駅のみだ。国鉄もしくはJRから第三セクター鉄道へ移行した後にできた駅は各地に多いが、なぜ国鉄時代に、利用者を考えた駅を設けなかったのか、いつも疑問である。

 

伊田線の古くからある駅は、構内の大きさが目立つ駅が多い。例えば中泉駅。上り下り線用のホームがそれぞれあり、上り下り線の線路の間がとてもあいている。明らかにこの間に線路が昔あり、使われていたと推測できる。調べると中泉駅の近辺には大城(だいじょう)第一駅・第二駅という貨物駅があり、そちらへ向けての支線も設けられていた。中泉駅が集約駅だったようだ。ひと昔前にはこの駅構内は貨車がいっぱい停まっていたのだろう。

 

【伊田線の旅⑦】早春ならば桜がきれいな人見駅がおすすめ

中泉駅と共に古い赤池駅は、かつて近くに赤池炭坑駅があり、赤池駅のすぐ近くには信号場が設けられ、貨物支線がのびていた。このように伊田線には複数の信号場があり、貨物支線が設けられていたが、今はそれらの貨物支線は廃線となり、一方で多くの新駅が設けられていたのである。

 

金田駅の1つ手前の人見駅は開業が1990(平成2)年と、平成筑豊鉄道になって間もなく設けられたが、筆者が好む駅である。春先に訪れたがホームの裏手に桜並木があり、列車と駅と桜の組み合わせが美しかった。

 

美しい桜を目当てに撮影者が複数人訪れていたが、平成筑豊鉄道は、こうした絵になる駅が複数あることも魅力の1つといって良いだろう。

↑4月初旬に桜が満開となった人見駅。番線名は付いていないが、下りホームの裏手に桜が連なっていた

 

【伊田線の旅⑧】車庫がある金田駅で驚いたこと

伊田線の金田駅は平成筑豊鉄道の中心駅と言って良い。同駅構内に本社や車庫がある。運行している列車がみな気動車ということもあり、給油のためこの駅止まりとなる列車もある。平成筑豊鉄道を訪れるたびに途中下車する駅だが、この春に訪れて驚いた。

 

窓口は平日のみの営業となっていて、休日は無人駅となっていた。同社の「鉄印」は、この金田駅のみでの販売となっているのだが、無人の窓口の前になんと、鉄印の販売機が設置されていたのである。鉄印は全国の第三セクター鉄道を中心に40社が、御朱印を集めるように乗りまわろうと始めた企画だ。大半が有人駅で窓口販売となっているが、平成筑豊鉄道の場合、有人駅は平日を除きない。そこで苦肉の策として販売機での配布を始めたわけである。こうした鉄印の配り方ははじめてだった。ここまで省力化が徹底しているとむしろ気持ちが良いぐらいである。

↑平成筑豊鉄道の本社と車庫がある金田駅。休日には窓口に人が不在となるため「鉄印」も販売機での扱いとなる(右上)

 

無事に鉄印を手に入れ、駅の周辺を回ってみる。車庫に停車している車両が良く見えるが、そこに気になる車両が停車している。

 

キハ2004形という形式名の車両だ。この車両は、茨城県のひたちなか海浜鉄道を走っていた車両で、クリーム地に赤帯に塗装されている。これは、かつて九州で走っていたキハ55系の「準急色」であり、形式は違えど、準急「ひかり」のイメージに近かった。ということで有志が平成筑豊鉄道の路線を走らせようとクラウドファンディングで資金を募り、金田駅へ運ばれた車両なのである。

 

2016(平成28)年10月に運ばれた後に、有志の団体「キハ2004号を守る会」が中心となり、きれいに塗装し直して、動態保存されている。守る会により年に数回、運転体験が実施されている。

↑金田駅の車庫で保存されるキハ2004形(今年4月の状態)。左上は搬入され塗装し直した頃の2017(平成29)年5月27日の姿

 

今年の4月に訪れた際には薄い色のせいもあったのか、塗装状態が悪化していて心配したのだが、7月初旬には塗装の一部補修が進められたことが確認できた。

 

車両の保存活動というのは何かと困難がつきまとうと思われるが、なんとか成就していただきたいと願うばかりである。

 

この金田駅からもかつて貨物支線が設けられていた。車庫の西南側、今は立体交差する道路がある付近から三井鉱山セメント(現・麻生セメント)の専用線があった。2004(平成16)年3月25日に同線は廃止されている。ほかの貨物支線よりも長く保たれたが、この廃線により、平成筑豊鉄道での貨物列車の運行が終了している。

↑金田駅の車庫の奥にある検修庫と洗車機。その奥には2010(平成22)年に引退した300形304も保存されている(右下)

 

【伊田線の旅⑨】田川伊田駅の裏手に残る名物二本煙突

金田駅から先の旅を続けよう。金田駅からは1kmほど3本の線路が並行して走る。

 

進行方向左手の2本は伊田線の線路、右の1本は糸田線の線路で、田川後藤寺駅まで向かう。この糸田線の線路が金田駅の南にある東金田踏切の先で、進行方向右手に分岐していく。

↑左2本が伊田線の線路、右にカーブするのが糸田線の線路となる。ちょうど「スーパーハッピー号」403号車が通過した

 

こうした造りを見ると、かつて整備された線路網がそのまま活かされていることが良く分かる。ここまで過分な線路配置は必要ないようにも思えるのだが、大都市に比べて土地に余裕があることも大きいのだろう。

 

金田駅と田川伊田駅の間に、上金田駅、糒駅(ほしいえき)、田川市立病院駅、下伊田駅がある。糒駅を除き平成筑豊鉄道が生まれた後に造られた新しい駅だ。糒駅は前に紹介した中泉駅のように、上り下りの線路の間が離れている。かつてこの駅でも石炭貨物列車の運行が盛んで、引き込み線もあり、貨車の入れ換え作業が頻繁に行われた。

 

糒駅を過ぎると進行方向左手に彦山川が見えてくる。彦山川は前述した遠賀川の支流だ。筑豊本線、伊田線が開業する前は、これらの河川で石炭が運ばれていたそうだ。こうした船運に代わって、鉄道路線が設けられ、徐々に広げられていったわけである。

 

この彦山川が見えてきたら左カーブして終点の田川伊田駅へ入っていく。田川伊田駅止まりの列車は朝夕のみで、大半の列車は平成筑豊鉄道の田川線へ乗り入れて、行橋駅まで走る。

↑お洒落に改装された田川伊田駅。駅内にはホテルなどが設けられる。JRの通路などに一部、古い造りが残される(右上)

 

直方駅から田川伊田駅まで乗車時間が40分弱と短いが、全線複線非電化の旅は終わる。田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続し、田川伊田駅の先でなかなか興味深い運転体系が見られるが、今週はここまで。最後に田川伊田駅の話を締めくくろう。

 

田川伊田駅が近づくと「MrMax田川伊田駅」と車内アナウンスが流される。駅名標にもこの名前が記されている。これはネーミングライツの一環によるもので、MrMaxというディスカウントストアが田川伊田駅の権利を購入したことにより、この駅名が案内されている。平成筑豊鉄道では、ほとんどの駅に冠となる施設名がつけられている。その駅名は大企業のみならず、中小企業も名を連ねる。ネーミングライツにより、少しでも営業収益が上げられればという、それこそ涙ぐましい努力がうかがえる。

↑田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続する。入線する列車の後ろには2本の煙突が見えているが、この施設は?

 

田川伊田駅の駅舎はここ数年で装いを新たにしていた。3階建ての駅ビルが1990(平成2)年に建てられ、2016(平成28)年に田川市がJR九州から駅舎を購入し、きれいに改装され2019(令和元)年に駅舎ホテルなどがグランドオープンしていた。駅の1階には手作りのパン屋や、うどん屋があり、それぞれ賑わっていた。

 

1950年から1960年代、日本のエネルギーの劇的な変化があった。その変化の大きな影響を受けたのが筑豊だった。炭鉱は消滅したものの、鉄道路線は残され、多くの人々が今も暮らしている。かつての栄華の跡は、そこかしこに残され確認できるものの寂れた印象が感じられた。一方で田川伊田駅の駅名や駅舎などで見られるように、町の玄関口を少しでも活気を持たせようという取り組みも垣間見えてきて、頼もしくも感じたのだった。

↑田川伊田駅の裏手には三井田川鉱業の炭鉱があった。現在は「田川市石炭・歴史博物館」となっている。二本煙突が名物に

 

鉄路が大自然に還っていく!?「根室本線」廃線予定区間を旅する

おもしろローカル線の旅88〈特別編〉〜〜JR北海道・根室本線(北海道)〜〜

 

言い古された言葉ながら「でっかいどお。北海道」地平線まで原野が広がり、サイロがある農家がぽつんと1軒建つ……そんな光景を朝日や夕日が染めていく。北海道のだいご味である素晴らしい景色に出会い感動し、癒される。雄大な北海道のほぼ中央を走る根室本線の一部区間が、いま消えていこうとしている。どのような場所を列車が走っているのか訪れてみた。

 

*取材は2004(平成16)年8月、2009(平成21)年5月、2014(平成26)年7月、2022(令和4)年6月25日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【保存版】2019年春に消える夕張支線の旅は、まさにびっくりの連続だった

 

【根室本線の旅①】明治期、路線開業は大自然との戦いだった

JR北海道が2022(令和4)年4月1日に発表した「令和4年度事業計画」の中で次のような一文があった。

 

「持続可能な交通体系の構築については、留萌線(深川〜留萌間)、根室線(富良野〜新得間)の早期の鉄道事業廃止及びバス転換を目指す」とあった。根室本線は「利用が少なく鉄道を持続的に維持する仕組みの構築が必要な線区」としている。

 

根室本線は現在、東鹿越駅(ひがししかごええき)〜新得駅(しんとくえき)41.5kmの間で列車運行が行われておらず、代行バスでの運行が行われている。JR北海道では、不通区間をさらに延長し、富良野駅〜新得駅(路線は上落合信号場まで)81.7km区間の廃止を目指している。富良野駅〜新得駅間はどのような区間なのか、写真を中心に追ってみたい。

 

まずは、根室本線の歴史をひも解いてみよう。廃止が予定されている区間は、大変な苦労の末に先人たちが築いた路線だった。

 

根室本線の起点は函館本線と接続する滝川駅、そして終点は北海道の東端、根室駅へ至る443.8kmの路線である。北海道の鉄道開発は開拓の進行とともに進んでいった。根室本線は道央と道東を結ぶメインルートとして計画され、道東エリアを開発する上で欠かせないルートとされた。同線の計画でネックとなったのが北海道の中央部にそびえる狩勝峠(かりかちとうげ)だった。当時はこの地域は、まさに人跡未踏で探検ルートにされるようなエリアだった。ヒグマやオオカミが多く生息する危険と隣り合わせの場所で、路線造りは困難を極めたとされる。

 

当初の根室本線は、十勝線の名前で旭川駅から路線敷設が進められた。まず富良野駅(当初は下富良野駅)へ到達したのが1900(明治33)8月1日のこと。同年の12月2日まで鹿越駅(しかごええき/廃駅)まで到達。その後に徐々に延ばされ、落合駅まで通じたのが1901(明治34)年9月3日のことだった。この落合駅の東に狩勝峠がある。この狩勝峠の下を通るトンネル工事が岩盤の硬さゆえに困難を極める。苦労の末に狩勝トンネルが開通し、新得駅まで路線が通じたのは1907(明治40)年9月8日のことだった。

↑旧狩勝峠を越える9600形蒸気機関車牽引の貨物列車。長大な編成が根室本線を行き交った(昭和初期の絵葉書/筆者所蔵)

 

さらに滝川駅〜下富良野駅間が1913(大正2)年11月10日に開業した。東端にあたる根室駅まで線路が伸びたのは1921(大正10)年8月5日のこととなる。明治から大正にかけての鉄道工事は、危険をいとわない突貫作業で進められたが、それでも滝川駅〜根室駅間の開業には、20年以上の年月を要したことが分かる。難工事の末に完成した、いわば先人たちの苦労が実った一大路線だったわけである。

 

【根室本線の旅②】ルート変更と石勝線開業で変化が現れる

400kmを越える長大な根室本線を少しでも便利に快適に、また到達時間を短くする工事がその後も進められた。そのひとつが狩勝峠を越える新ルートの建設だった。地図を見ると、旧線は今の国道38号に沿って走っていた。このルートは勾配もきつく、最小180mという半径のカーブが連続する難しい線形で、列車で越えるのは一苦労だった。列車のブレーキが利かなくなり暴走するなどの事故も起きたとされる。

 

この路線を少しでもなだらかに、カーブも緩くした新ルートが1966(昭和41)年10月1日に造られている。峠は新狩勝トンネルで越えた。

 

この新ルートにより列車の運行がスムーズになった。旧狩勝峠の路線は廃線後に、そのカーブや勾配を活かし、狩勝実験線として利用され、その後の車両開発に役立てられている。

 

狩勝峠の新ルートに加えて根室本線を大きく変えたのが1981(昭和56)年10月1日に開業した石勝線(せきしょうせん)だった。石勝線は千歳線の南千歳駅と根室本線の新得駅を結ぶ132.4kmのルートで、北海道の中央部をほぼストレートに通り抜ける。

 

石勝線の開業までは富良野経由で大回りしなければいけなかったが、石勝線に完成により43.4kmものショートカットが可能となった。道央の札幌と、道東の釧路間の特急の到達時間も約1時間短縮された。特急列車の運行だけでなく、貨物列車も石勝線経由の運行に変更されている。

↑旧狩勝峠のルートの途中駅だった新内駅(にいないえき)は、路線廃止後、駅構内には9600形蒸気機関車などが保存されている

 

石勝線が一躍、幹線ルートとなる一方で、富良野を経由した優等列車は一部を除き消滅し、富良野駅〜新得駅間を利用する人は徐々に減っていく。さらに追い討ちをかけるような大きな災害が路線を襲ったのである。

 

【根室本線の旅③】台風により南富良野町内の路線が運転休止に

2016(平成28)年8月31日に列島に上陸した台風10号による豪雨災害は甚大なものとなった。根室本線では富良野駅〜新得駅〜音別駅(おんべつえき)間が不通となった。その年の暮れまでに石勝線トマム駅〜根室本線の音別駅との間は復旧工事が進み、特急の運転が可能となった。ところが、東鹿越駅〜上落合信号場(新狩勝トンネル内の信号場)間では多数の被害箇所が生じてしまい、とてもJR北海道一社では復旧できないと判断され、工事は手付かずの状態になった。そして列車の運行が休止した東鹿越駅〜新得駅の間には2017(平成29)年3月28日から代行バスが運行されるようになった。

↑落合駅〜上落合信号場間の線路の状況。列車が走らなくなり、線路が隠れるほど草木が生え放題に。2022年6月25日撮影

 

JR北海道では「線区別の収支状況」を毎年発表しているが、運行休止後の状況悪化が目立つ。富良野駅〜新得駅間の輸送密度(旅客営業キロ1kmあたりの1日の平均旅客輸送人員)を見ると、運行休止前の2015(平成27)年度の輸送密度が152だったのに対して、2019(令和元)年度が82、最も新しい発表の2021(令和3)年度になると50まで落ち込んでいる。2021(令和3)年度の同区間の営業損益は6億6100万円の赤字と発表された。

 

東鹿越駅〜新得駅間の復旧に関しては、地元自治体との話し合いの場がたびたび持たれた。廃止が予定されている富良野駅〜新得駅(上落合信号場)間の路線と駅は、ほぼ富良野市と南富良野町の2市町の中にある。

 

富良野市、南富良野町の両市町とも、人口減少にあえでいる。富良野市の場合、2000(平成12)年には2万6112人だったのに対して、今年の4月末の人口は2万397人と2万人を割り込みそうだ。一方、南富良野町は2000(平成12)年が3236人だった人口が今年4月には2337人と大幅に減ってきている。過疎化が進み自治体の財政状況も厳しさを増している。昨年11月にJR北海道は、地元自治体に対して鉄道を残す場合には、維持管理費として年間11億円の負担を要請したものの、自治体からは今年の1月に「負担は困難」と回答、鉄道存続が断念されることになった。

 

富良野市、南富良野町ともに、住む人たちの移動はマイカーが基本で、鉄道・バスを利用するのは、中・高校生ら学生がメインとなる。人口減少が著しいこともあり、学生数の増加は見込めない。地方鉄道の難しさが凝縮されたような根室本線の一部廃線化の道筋であった。

 

【根室本線の旅④】たびたび訪れた映画の舞台・幾寅駅はいま?

すでに列車が走らなくなった駅で筆者が良く立ち寄る駅がある。それは幾寅駅(いくとらえき)だ。この幾寅駅は幌舞駅(ほろまいえき)の〝別名〟でも知られている。

 

幾寅駅は1999(平成11)年6月に公開された映画「鉄道員(ぽっぽや)」の舞台として使われた。監督は降旗康男氏、主演は高倉健である。仕事一筋で無骨な鉄道員・佐藤乙松を高倉健が好演した。

 

映画の中で幾寅駅は幌舞駅とされ、行き止まり式のホーム(実際の駅は行き止まりではない)にキハ40形が到着する姿が描かれた。懐中時計を見つつ遅れを気にする健さん演じる幌舞駅長。列車が駅へ到着すると「ほろまい、ほろまい」と駅名を連呼する姿が筆者の記憶にも残っている。

↑幾寅駅の駅舎には幌舞駅という駅名標がかかる。駅舎内には映画「鉄道員(ぽっぽや)」の記念パネルなどが展示されている(右上)

 

↑幾寅駅前には撮影で使われた「だるま食堂」とキハ40形が保存されている。20年以上月日が経ち食堂はだいぶくたびれた趣に

 

幾寅駅は、すでに列車が走らない。今年6月、10年以上ぶりに訪れたが、走らないことにより周囲の自然が駅を飲み込んでいくような印象があった。ちょうど地元の方が草刈りをしていたものの、駅のホームなどの施設も劣化が進んでいた。代行バスが通り、映画ファンたちが多く訪れ、駅は末長く〝幌舞駅〟として残るであろう。だが、幾寅駅としての姿は徐々に消えていき、ホームの案内板などは、見る人もなく風化していくことになりそうだ。

↑2009年に訪れたときと同じ場所で今年撮影、対比してみる。名所案内(左)の表示はすでに文字が消え線路端まで草が忍び寄る

 

【根室本線の旅⑤】富良野駅は観光拠点として活気があるものの

ここからは、現在列車が走るものの、廃線となる予定の区間の沿線や駅を訪ねてみたい。まずは富良野駅から。北海道のほぼ中央にある富良野は、〝北海道のへそ〟とも呼ばれている。富良野、そして北にある美瑛(びえい)にかけては、道内でもトップを争うほどの人気観光地となっていて、6月から7月にかけて、名物のラベンダーが咲くエリアは観光客で賑わう。

 

根室本線の滝川駅〜富良野駅間では、札幌駅から直通で運転される特急「フラノラベンダーエクスプレス」が今年の8月28日まで走る(詳細は後述)。運転にはラベンダーのイメージにあわせたキハ261系5000番台ラベンダー編成が使われている。

↑富良野市の表玄関、富良野駅。根室本線と富良野線の連絡駅でもあり、夏期と冬期の観光時期にはかなりの賑わいを見せる

 

↑ラベンダーの花の色に合わせラベンダー塗装が施されたキハ261系5000番台。夏期は札幌駅〜富良野駅間を1日1往復走っている

 

↑富良野駅で「フラノラベンダーエクスプレス」と「富良野・美瑛ノロッコ号」が並ぶ。列車が到着するとホーム上は観光客で賑わう

 

特急「フラノラベンダーエクスプレス」の運転に合わせて、富良野駅と美瑛駅、旭川駅間を走る「富良野・美瑛ノロッコ号」も8月28日までほぼ毎日に運転されている。詳細は後述するとして、北海道の宝物はやはり観光資源ということがよく分かる両列車である。

 

さて、富良野駅からは根室本線の下り列車が東鹿越駅まで走っている。現在の列車本数は少ない。下り東鹿越駅行きが1日に4本、東鹿越駅発の上り列車は1日に5本だ。すべての列車が東鹿越駅〜新得駅の間で代行バスに連絡している。走るのは朝と、学生たちの帰宅時間に合わせるかのように14時台〜19時台という運転体系となっている。ちなみに同列車は富良野駅〜東鹿越駅間を約45分で走る。

 

【根室本線の旅⑥】人気ドラマの最初の舞台となった布部駅

↑富良野駅の隣の駅、布部駅。駅前の一本松の前に倉本聰さんの「北の国 此処に始る」の案内がかかる

 

富良野駅〜東鹿越駅間を走る列車は、JR北海道のキハ40形で、ほぼ1両で往復している。途中駅の様子を見ていこう。なかなか魅力的な駅が連なる。

 

富良野駅を発車した東鹿越駅行きの列車は、富良野盆地の水田を左右に見て進む。走り始めて約7分、最初の駅、布部駅(ぬのべえき)に到着する。ホーム一面、線路2本の小さな駅だ。駅前に立つ1本の松、その前に木の看板がある。そこには「北の国 此処に始まる」倉本聡とあった。

 

連続ドラマ『北の国から』の主人公らがこの駅に降り立つことから、このドラマが始まった。初回放送は1981(昭和58)年10月9日のことになる。41年前に放送された『北の国から』のドラマが始まった駅がここだったとは、すっかり忘れていた。現地を訪れて改めて駅前に立つと、さだまさしさんが作られた「あ〜ぁ、あぁ……」という歌詞のないドラマの主題歌をつい口ずさんでしまうのだった。

 

ドラマの舞台となった、麓郷(ろくごう)に向けて、かつて東京帝国大学(現・東京大学)の北海道演習林用の森林軌道線が走っていたとされる。1927(昭和2)年から1947(昭和22)年まで走ったそうだが、今はその面影はない。だが、地元を走る道道544号線が「麓郷山部停車場線」の通称名があるように、この道が森林軌道線の走っていた跡と思われる。

 

【根室本線の旅⑦】ルピナスの群生に大感動の新金山駅

布部駅の先、国道237号がより近づいて走るようになる。国道が根室本線をまたいだら、まもなく山部駅(やまべえき)だ。富良野駅〜東鹿越駅の間では駅周辺に最も民家がある駅だ。それでも駅前通りに商店はなく閑散としている。北海道では都市部の主要駅を除いて駅前商店のない駅が目立つ。やはり列車で通勤する人がほぼいないせいなのであろう。

 

さて、山部駅から南下した根室本線の車窓から川の流れが見えてくる。こちらは空知川(そらちがわ)で、この川と国道に沿って山間部を抜ければ南富良野町へ入る。そして最初の駅が下金山駅(しもかなやまえき)だ。この駅、初夏は花の名所になっている。

↑線路沿いに咲くルピナス。7月上旬までが見ごろだとされる。ルピナスの群生地が道内各所にあるが線路端に咲く所は珍しい

 

下金山には誰が植えたのかルピナスが群生していて、6月下旬から7月上旬にかけてピンクや紫色の花を咲かせる。廃線になったら、二度と見ることができなくなる列車とルピナスの花を見て、良い思い出ができたように感じた。

 

下金山駅にも布部駅と同じように、1952(昭和27)まで東京大学農学部北海道演習林用の森林鉄道が設けられていた。駅の北側には貯木場があったそうである。予想以上に駅構内が広いのはそうした森林鉄道があった名残なのだろう。ただし駅構内が広いだけで、森林鉄道の痕跡は何も残っていない。

 

撮影に訪れた日の17時11分着の下り列車から降りた乗客は学生1人。森林鉄道が原野の中に消えていったように、根室本線の思い出も、廃線になって時がたてば、風化していってしまうものかもしれない。

↑ルピナスの花畑の中を走る根室本線の下り列車。こうした美しい光景も近いうちに見られなくなりそうだ

 

【根室本線の旅⑧】金山駅はすでに駅名標が無かったものの

下金山駅を発車した列車は国道237号沿いに走り、空知川を2本の橋梁で渡る。2本の橋梁とも赤く塗られたガーダー橋で、渡る列車が絵になる。このあたりになると建ち並ぶ民家も減っていき、山の中に入ってきたことが強く感じられる。

 

国道沿いにある金山の集落を過ぎたところに金山駅がある。こちらにも他にない〝お宝〟があった。まず駅舎の入口にあるはずの金山駅という駅名標がもうなかった。ホーム側には付いているのだが、駅名標を掲げていないのは、駅名を知っている人しかふだんは乗降しないからなのだろう。

↑表に駅名標がない金山駅。駅舎横にはレンガ造りの「ランプ小屋」が残される。廃駅となった後、このランプ小屋はどうなるのだろう

 

駅舎の近くにレンガ建ての古い「ランプ小屋」が残されていた。ランプ小屋とは灯油などを保管した危険物収納倉庫のこと。電気照明がなかった客車には室内灯としてランプが天井からつるされていた。1900(明治33)年12月2日と富良野駅(開設当時の「下富良野駅」)と並び根室本線の中で最も古い時代に開設された金山駅には、ランプ用の灯油などを保管する施設が必要だったということが分かる。

 

こちらにも1958(昭和33)年まで金山森林鉄道という森林鉄道が走っていたそうだ。場内に上り下り交換設備などもある広い金山駅だが、まったく人の気配がない駅で、かつての栄光の時代を考えると、かなり寂しく感じられた。

↑現在の終着駅、東鹿越駅は民家もない静かな湖畔の駅。ここから先は、新得駅まで代行バス(右)が運行されている

 

金山駅を過ぎると路線は山中へ入る。今、運転される金山駅〜東鹿越駅間は、路線の開設当初とは異なっている。路線と並行して流れる空知川に金山ダムという多目的ダムが造られたためで、現在は「かなやま湖」の湖底に沈んだところに鹿越駅(しかごええき)という駅があった。ダムが造られたことによる水没した地区には261世帯700人が住んでいたというから、現在の「かなやま湖」の湖底には、大規模な集落が広がっていたわけだ。

 

かなやま湖を見下ろす高台に路線は移され、現在の終着駅である東鹿越駅が設けられた。今、駅を取り巻く施設は木材関係のプラント工場のみで民家はない。終着駅というにはあまりに寂しい駅である。

 

かなやま湖畔のレジャー施設は、駅の対岸エリアにあり、駅からはかなり遠い。この1つ先の駅が前述した幾寅駅で、こちらのほうが南富良野町の中心部にあたる。2016(平成28)年8月末の台風災害により大規模な土砂崩れが起こり、路線は寸断されてしまった。幾寅駅まで通じていれば、まだ救いがあったのかも知れない。現在の東鹿越駅の静けさを思うと、残念でしかたがない。

 

【根室本線の旅⑨】末端の〝花咲線〟は乗車客も多めだった

根室本線の富良野駅〜新得駅間は一部が代行バスによって運行され、かろうじて存続されている。しかし、近いうちに廃止される。ところで、根室本線の他の線区の存続は大丈夫なのだろうか。

 

石勝線を含め、新得駅〜釧路駅間は特急列車が走る幹線として機能している。釧路駅〜根室駅間はどうなのだろう。筆者は最東端区間への興味もあり、別名・花咲線とも呼ばれる釧路駅〜根室駅間を訪れてみた。

 

釧路駅〜根室駅間は135.4kmある。特急列車は走っていない。現在は釧路駅発列車が1日に8本、うち夜に走る列車2本は、途中の厚岸駅(あっけしえき)止まり。上りは同じく8本で、朝と夜の2本は厚岸駅〜釧路駅間を走る。要は釧路駅〜根室駅間を走る列車は1日に6往復ということになる。往復6往復のうち一部駅を通過する快速列車「はまさき」と「ノサップ」(下りのみ)が走る。釧路駅〜根室駅間は約2時間半弱とかなりかかる。

 

この路線には、列島の最東端にあたる鉄道の駅・東根室駅と、最東端の有人駅である終着駅の根室駅がある。ともに最果ての駅である。この花咲線の列車はどのような具合なのだろうか。

 

訪れてみると、意外に週末の列車の乗車率が高めだった。例えば、釧路駅始発の下り列車の乗車率は7割ぐらい、さらに根室駅折返し8時24分発の発車時間が近づくと、改札口には30人近くの乗客の列ができていた。とはいえ、1両のみの運行が主なので、乗る人が多いとはいっても延べ乗客数ともなると限りがあるのだが。

↑日本最東端の駅・東根室駅付近を走る花咲線の列車。キハ54形が一両で運行されている。写真は朝一番に走る「快速はなさき」

 

終点の根室駅の駅スタッフに聞いてみると、「週末はいつもこんな感じです」とのことだった。多くが鉄道ファンらしき様子。ただし、釧路駅から始発列車でやってきて、そのままの折返し列車に乗って戻る人の姿が多かった。

 

花咲線の〝盛況〟ぶりは、鉄道ファン効果が大きいように思えた。でも、せっかく根室駅まで乗ってきているのだから、根室駅から東端の納沙布岬をバスで目指すなり、根室市の観光をしても良いのではないだろうかと思った。乗車するのは路線存続のために良いことだと思うのだが、どうも鉄道ファン(筆者も含めてだが)は、一般の観光に興味を示さない人が多いようである。

↑日本列島の最東端にあたる根室本線の東根室駅。住宅地が周囲に建ち並び、最果て感はあまり感じない駅だった

 

前述したJR北海道が発表した2021(令和3)年度の「線区別の収支状況」を見ると花咲線の輸送密度は174で、富良野駅〜新得駅間に比べると3倍の数字が出ている。とはいえ路線距離が長いためか、営業損益は11億6000万円の赤字となる。

 

赤字にはなっているものの、根室という東端の町まで通じる路線ということで、国防という意味合いでも路線を存続させる意味は大きいのであろう。富良野駅〜新得駅間とはちょっと状況が異なるようにも感じた

 

【根室本線の旅⑩】北海道の宝物を見事に生かす2本の観光列車

根室本線の富良野駅〜新得駅の現地を訪れてみて、乗客も少なく、また住む人も徐々に減ってきていて、廃止は致し方ないように感じた。国や道が支援をしない限り、JR北海道一社や地元自治体の力ではどうにもならないように思う。こうした北海道の閑散地区の鉄道はどう残していけば良いのだろうか。好例を、富良野および釧路で見ることができた。

 

富良野や釧路では人気の観光列車が走っている。まずは、富良野線の旭川駅〜美瑛駅〜富良野駅を走る「富良野・美瑛ノロッコ号」。今年は6月11日(土)から走り始め、6月18日(土)〜8月14日(日)までは毎日、8月20日(土)〜8月28日までの土日に走る。運賃プラス840円の指定席料金で利用できる(乗車証明書付き)。列車は旭川駅〜富良野駅間が1往復、美瑛駅〜富良野駅間を2往復走る。運行中にはラベンダー畑で有名な「ファーム富田」の最寄りに「ラベンダー畑」という臨時駅も開設される。

 

ラベンダー畑駅で乗車する利用者の様子を見ていたところ、個人客よりも団体客の乗車が目立った。ラベンダー畑駅から美瑛駅までの乗車時間は約30分、富良野駅までは約25分。美瑛駅や富良野駅へ観光バスが先回りし、団体客を乗せてパッチワークの丘等の人気スポットを巡るのであろう。

↑人気の観光農園のラベンダー畑越しに「富良野・美瑛ノロッコ号」(右下は先頭機関車)と十勝岳を望む

 

一方の釧路では釧網本線の釧路駅〜塘路駅(とうろえき)間を「くしろ湿原ノロッコ号」が走っている。こちらの今年の運行は4月29日から始まり、5月のGW期間中、さらに5月28日(土)からはほぼ毎日、10月10日(祝日)に1往復、夏休みなどは2往復が運転される。一部の日は川湯温泉駅まで延長しての運転もある。この列車も運賃プラス指定席券840円が必要となる。

 

釧路駅から塘路駅までは約45分で、クルマでは入ることができない釧路湿原の魅力が観光列車の車内から楽しむことができる。運転日に塘路駅に訪れると、駅前で観光バスが数台、観光列車の到着を待っていた。これから先の道東観光の続きを、観光バスで楽しもうということなのだろう。

↑根室本線の釧路川橋梁を渡る「くしろ湿原ノロッコ号」。列車はDE10形(左上)と510系客車との組み合わせで走る

 

両列車の運行で良く分かったのは、観光バスとのコラボがより効率的で好まれているということ。さらに一般の利用者は長時間の乗車ではなく、最大45分ぐらいまでの乗車が飽きずに手軽ということなのだろう。さすがに花咲線のように2時間半の乗車となると、かなりの鉄道好きでないとつらいということなのかもしれない。

 

これらの観光列車は、北海道の最大のお宝である観光資源を上手く生かしている列車のように感じた。コロナ禍前に「富良野・美瑛ノロッコ号」は訪日外国人たちでかなりの賑わいをみせていた。今後、どのような人気観光列車を造り、活かしていくかが北海道の路線存続にとって大きいと思われた。

 

JR北海道では近年、廃止路線が毎年のように出てきている。2019(平成31)年4月1日には夕張支線が、2020(令和2)年4月には札沼線(さっしょうせん)の北海道医療大学駅〜新十津川駅間が廃止となった。2021(令和3)年4月1日には、日高本線の鵡川駅(むかわえき)〜様似駅(さまにえき)間が、根室本線と同じように災害による土砂流出による路線不通のまま、復旧することなく廃止に追いやられた。

↑キハ40形で運行される富良野駅発、東鹿越駅行き列車。北海道の自然に包まれ静かに走り去る。寂寥感に身が包まれる思いだった

 

さて根室本線の廃止はいつになるのだろう。札沼線廃止の時に、コロナ禍もあり、残念なことに混乱が起きてしまった。沿線は消えて行く列車に乗ろうとファンが殺到した。こうした前例があるせいなのか、今回巡った根室本線の富良野駅〜新得駅は廃止が決まっているものの、JR北海道からは運行終了日が発表されていない。

 

とはいえ、それほど先のことではないようだ。廃線となると札沼線であったように、最後の乗車をしよう、と訪れる人が極端に増える。札沼線の場合には、混乱を避けるために最終運転日を切り上げることになり、予定通りの最終日までの運行が敵わなかった。コロナ禍も引き続いているため、鉄道会社としては密を避けたいという思いが強いであろう。

 

鉄道ファンが集中すると、日ごろ乗車してきた利用者に迷惑がかかることになる。同じファンとして乗りたい気持ちも分からないわけではないが、長年の列車運行を感謝するとともに、静かに見守ることこそ、鉄道好きの〝使命〟なのではないだろうか。

 

120年以上前に先人たちによって作られた鉄路は、北海道の大自然のなかに静かにのみ込まれ、深い緑の中に再び還っていくことになる。

SL列車だけではない!「真岡鐵道」貴重なお宝発見の旅

おもしろローカル線の旅87〜〜真岡鐵道真岡線(茨城県・栃木県)〜〜

 

茨城県の下館(しもだて)駅と栃木県の茂木(もてぎ)駅を結ぶ真岡(もおか)鐵道真岡線。28年にわたりSL列車が走り、沿線に陶器の町、益子(ましこ)があり訪れる観光客も多い。

 

これまで真岡線に乗った経験があり、良く知っているという方も多いのではないだろうか。筆者も似たような思いを持っていた。だが、細かく乗り歩いて見聞きすると、多くのお宝が眠っていたことが良く分かったのだった。

 

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【真岡線に乗る①】開業したころの真岡線の絵葉書を見ると

最初に真岡線の概要を見ておこう。

路線と距離 真岡鐵道・真岡線/下館駅〜茂木駅間41.9km
開業 1912(明治45)4月1日、官営鉄道の真岡軽便線として下館駅〜真岡(もうか/1988年「もおか」に読み変更)駅間が開業。
1920(大正9)年12月15日、茂木駅まで延伸開業。
駅数 17駅(起終点駅を含む)

 

現在の真岡鐵道の元となった真岡線の歴史は古い。明治の終わりには一部区間ではあるものの下館駅〜真岡駅間が開業している。筆者の手元に古い絵葉書がある。真岡線の七井駅の絵葉書で、古い機関車と駅舎が写り込んでいる。

↑七井駅の大正時代の絵葉書。ホームに停車するのは600形蒸気機関車。絵葉書は筆者所蔵(禁無断転載)

 

七井駅が開業したのは1913(大正2)年7月11日のことなので、絵葉書はそれ以降ののものだと思われる。目を凝らしてみると駅舎の手前に撮影を見守る鈴なりの子どもたちの姿が写り込んでいる。汽車が珍しいのか、写真撮影が珍しいのだろうか。絵葉書に写る汽車や駅舎の形も気になるものの、むしろこの時代の子どもたちが何を見物に来ていたのか興味深い。

 

ちなみに、写っているのは600形機関車と呼ばれる車両で、その612号機。導入したのは東北本線などを建設した日本鉄道で、1890(明治23)年にイギリスのナスミス・ウィルソンという会社が製造したものだった。612号機は真岡線などを走った後、現在の湖西線の前身である江若鉄道(こうじゃくてつどう)に引き取られたとされる。

 

【真岡線に乗る②】2県をまたがる路線ゆえの難しい問題も

真岡軽便線は1922(大正11)9月2日に真岡線と改称される。最盛期は1960年代前半で、上野駅から真岡線へ直通で走る準急「つくばね」が運転された。その後に急行に格上げされたが、1968(昭和43)年に乗り入れが終了となっている。国鉄の路線だった当時から「地域の流動に合わない線形」が問題視された。

通勤や通学は、住んでいる県内で動く傾向が強い。真岡線は下館駅からひぐち駅は茨城県内、久下田駅(くげたえき)から終点の茂木駅までは栃木県内に駅がある。沿線では真岡市が最大の都市となるが、市の調査でも栃木県内での通勤・通学が多く、県をまたいで下館へ出る人は少ない。

 

要は県内での移動が主流で、県をまたいで移動する人は多くないということだ。そのため国鉄当時には、県庁のある宇都宮市との路線新設も計画されたこともあったが実ることはなかった。

 

この線形の問題が国鉄時代に収益悪化にもつながる。真岡線は国鉄時代に特定地方交通線に指定され、JR民営化でJR東日本・真岡線になった1年後の1988(昭和63)年4月11日に真岡鐵道に転換された。

 

現在、真岡鐵道は栃木県と真岡市、茨城県筑西市(ちくせいし)などが主要株主となり第三セクター経営の鉄道会社として運営が続けられている。

 

【真岡線に乗る③】モオカ14形とC12形に加えて

真岡鐵道の車両をここで見ておこう。ここならではのお宝もある。まずはSLもおかの牽引機が欠かせないだろう。

 

◆C12形蒸気機関車66号機

C12形は後ろに石炭や水を積んだテンダーを連結しないタンク式蒸気機関車で、主にローカル線で使われた。真岡鐵道を走るC12形の66号機は1933(昭和8)年11月29日、日立製作所笠戸工場(山口県)で製造された。当初は指宿線(現・指宿枕崎線)で走った後に、東北の小牛田、宮古、釜石、弘前機関区と移る。その後、信州、東北の会津若松と移った引っ越しの多い機関車であった。最後は福島県の川俣線(廃線)の岩代川俣駅(廃駅)まで走り、近隣の団地内で保存された。

↑タンク式蒸気機関車C12形が牽引する「SLもおか」。国内で唯一のC12形の動態保存車両でもある

 

その後に真岡鐵道がSL観光列車の運転を企画していたことから1993(平成5)年から動態復元工事が行われ、翌年の3月27日から「SLもおか」の牽引機として走り始めた。いま、実際にボイラーが生きていて、列車を牽引することができるC12形蒸気機関車は真岡鐵道の66号機のみとなっている。

 

◆50系客車

SLもおかの運行に使われる50系客車はJR東日本から譲りうけたもので、形式名オハ50形2両、オハフ50形1両が使われる。

 

50系は旧型客車と呼ばれた戦前戦後から残る古いタイプの客車を、安全性や居住性という面から刷新した車両で、1977(昭和52)年から1982(昭和57)年にかけて900両以上が製造された。その後に客車列車が淘汰されたことと、一部残った車両は観光列車用に、大幅に改造されて使われたものが多かったこともあり、50系の原形をとどめた車両は今や貴重となっている。つまり、SLもおかに使われる蒸気機関車と客車は、すでに〝お宝〟級の珍しい車両なのだ。

↑SLもおかの客車は国鉄形50系。こげ茶色の塗装で、赤い帯を巻いている。50系の原形をとどめた車両で今や貴重になっている

 

◆モオカ14形

2002(平成14)年から導入が始められた気動車で、現在の列車はこの車両が1両、もしくは2両での運行が行われている。

 

製造は当初は富士重工業だったものの、同社が鉄道車両事業から撤退したことから3号車以降は日本車輌製造が行っている。ちなみに14形の「14」は平成14年から導入されたことによる。座席はロングシート仕様が多いが、一部の車輌はセミクロスシート仕様となっている。

↑モオカ14形は9両が製造された。富士重工業社製は前照灯が中央上部に(左上)。日本車輌製造製は前照灯が上部左右に付く

 

◆DE10形ディーゼル機関車

SLもおかの運転時に、車庫がある真岡駅から下館駅へ客車と蒸気機関車を牽引。またSLもおかの運転終了時に下館駅から真岡駅へ戻る列車(通常列車として営業運行)の牽引を行う。このDE10形1535号機はJR東日本から2004(平成16)年8月に譲り受けたもの。JR貨物やJR旅客各社で今も使われているDE10形だが、急激に車両数が減ってきている。真岡鐵道のDE10も近いうち、希少車両となっていきそうだ。

↑SLもおかの運転終了後、真岡駅の基地へ戻る列車を牽引するDE10形1535号機。国鉄の原色塗装が保たれている

 

他に触れておかなければいけないのは蒸気機関車C11形325号機のことだろう。1998(平成10)年9月に動態復元工事が行われ、その年から真岡鐵道をSLもおかとして走っただけでなく、JR東日本にも貸し出された。SL列車の利用者の減少などの理由から、真岡鐵道での維持が難しくなり、2020(令和2)年に東武鉄道へ譲渡された。東武鉄道では鬼怒川線を走るSL大樹の牽引機となり、早速、2機体制で走り始めている。

 

C11形とC12形の2両で列車を牽引する姿は人気だっただけに、手放さざるを得なかった同社の苦悩を思うとつらいところである。

↑真岡鐵道の所有機だった当時のC11形325号機。C12形との重連運転が行われる日はかなりの賑わいを見せた

 

【真岡線に乗る④】起点の下館駅は水戸線と関東鉄道の連絡駅

さて、ここからは真岡線の旅を始めてみたい。真岡線の起点は下館駅となる。下館駅は茨城県の筑西市の表玄関で、JR水戸線と、関東鉄道常総線との連絡駅となる。

 

列車は朝と夕方を除き1時間に1本の割合で、ほとんどが終点の茂木駅行き。所要時間は下館駅から真岡駅まで約30分、茂木駅までは約1時間15分ほどかかる。なお、SLもおかの運転日は土日祝日が中心で、2022年は12月25日まで運転の予定だ。SLもおかの乗車には運賃に加えて整理券(大人500円、小人250円)が必要となる。

 

真岡線の旅で注意したいことがある。ランチをどこで食べるか、また弁当などをどこで購入するかである。特に親子づれなどでは切実な問題となりそうだ。

↑下館駅の北口。JR水戸線の改札がある。同改札から入り西側にある1番線が真岡線の乗り場となる(右下)

 

駅前にコンビニなどの売店がある駅は限られる。起点となる下館駅も例外ではない。駅のコンビニは平日の朝方のみ、土日・祝日は休業となる。北口駅前には大規模商業施設の建物があるのだが、10年ほど前にショッピングセンターが退店してしまい、現在は筑西市役所となっている。日中に営業の飲食店もほぼない。駅近くに飲食店があるのは真岡駅と茂木駅ぐらいなので注意したい。

 

下館駅を発車する真岡線のみならず、水戸線を含め鉄道の利用者が減少していることを痛感してしまうのである。

 

真岡線の乗車券は、下館駅の窓口でも購入可能だが、SLもおかが走る日には真岡線が発車する1番ホームに真岡鐵道のスタッフが配置されているので、こちらでの購入も可能だ。ただ、益子などでのイベント開催日は、混みあうことがあり、事前に乗車券を購入しておいた方が賢明だ。また、土・日曜、祝日、年末年始などに有効な関東鉄道と真岡鐵道(下館駅〜益子駅間のみ)の共通1日自由きっぷ(大人2300円)が用意されている。関東鉄道と真岡線を通して利用する場合に便利だ。

 

行き止まりの1番線ホームに停車しているのはモオカ14形。訪れた日は益子でイベントの開催があり、早朝から立ち客が出るほどの盛況ぶりだった。ディーゼルカーらしいエンジン音を奏でつつ出発する。水戸線と並行して西へ。そして右へカーブして、水戸線から離れて行く。

↑ひぐち駅へ進入する普通列車モオカ14形。この駅の北側でまもなく栃木県へと入る

 

しばらくは筑西市の住宅街を見ての走行となる。水田風景が見えてきたら、下館二高前駅へ。こちらは真岡鐵道に転換された日にできた駅だ。駅のすぐ近くに中学校と高等学校がある。通学での利用者が予測できたのに、なぜ国鉄の時代に駅を造らなかったのか疑問である。こうした事実を知ると、国鉄時代にもっと利用者のことを考えた細かな鉄道営業をしておけば、まったく違った道が描けたのではないのだろうかと思ってしまう。

 

下館二高前駅を発車すると左手に大きな通りが見えてくる。こちらは国道294号で、真岡鐵道とほぼ並行して走る通りで、付かず離れず茂木近くまでほぼ並行して走る。国道294号は千葉県柏市から福島県の会津若松を結ぶ主要国道だ。この国道沿いに町が発達してきた。

 

次の折本駅も国道の横にあり、その次のひぐち駅も国道にほど近い。このひぐち駅だが、こちらも真岡鐵道となった後の1992(平成4)年開業と比較的新しい駅だ。駅開設時に秩父鉄道の樋口駅と混同を避けるためにひらがな表記とされた。

 

【真岡線に乗る⑤】茨城と栃木の県境にある久下田駅

ひぐち駅の次は久下田駅で、ここから栃木県内の駅となる。真岡線の茨城県の駅は4駅のみで、残り13駅は栃木県内の駅となる。国鉄時代に宇都宮と結びつけるプランも提案されたというから、こうした2県をまたがる路線の難しさというのは、当時から頭が痛い問題だったのだろう。

↑久下田駅から栃木県内の駅となる。1996(平成8)年に現在の立派な造りの駅に建替えられたが、現在は無人駅となっている

 

地図で見ると、久下田駅から栃木県に入るのだが、路線が県境上にあることがわかる。西側の駅出口は栃木県真岡市、線路の東側は茨城県筑西市樋口で、駅舎は西口にあたる栃木県側にある。駅の東側・茨城県側に入口はない。そのために筑西市に住む人たちは、真岡線利用の際にはぐるりと北に回って踏切を渡り、栃木県に入って列車に乗車することなる。茨城県内に住む人たちにとっては厄介な駅の造りとなっているわけだ。

 

【真岡線に乗る⑥】路線で最も賑わう真岡駅とSLキューロク館

真岡市内へ入った真岡線。寺内駅を過ぎれば民家も徐々に増えていき、沿線で一番大きな町の真岡市の玄関駅でもある真岡駅へ到着する。この駅は初めて降りるとややビックリする。駅舎は大きなSLの姿で、入口付近は車輪のデザイン、屋上には前照灯まで付けられる凝りようだ。

↑真岡駅の駅舎。SLの姿が再現されている。真岡鐵道の本社も同駅舎内にある

 

駅の構内に真岡線の車庫があり、モオカ14形が多く停車していたり、SL列車が走らない平日は、蒸気機関車が休息していたりする。車庫には検修庫があり、転車台もあって車両の方向転換が可能になっている。

 

駅舎の南側に隣接して設けられているのが「SLキューロク館」で2013(平成25)年に〝SLが走る町の拠点施設〟として開設された。

 

〝キューロク〟とは大正時代に造られた9600形の愛称で、同館にもその1両である49671号機とD51形蒸気機関車146号機の2両が保存されていて、両機とも圧縮空気により自走できるように整備されている。ほかにも、ここにはお宝車両が多く保存されている。

↑真岡駅(左)と「SLキューロク館」を並べて撮ると、巨大なSLが並ぶように見える。中央に見えるのがD51形146号機

 

圧縮空気により動く9600形とD51形、9600形は車掌車ヨ8000形貨車と連結して運行し、この車掌車への乗車体験や、またD51形は運転体験会も行われる(現在、運転体験会は休止中)。こうした〝イベント〟やグッズなどを除き、無料で入場できるのもうれしい。そのせいもあるのか、週末は多くの親子連れで賑わっている。

 

鉄道好きには、屋内外に珍しい車両が保存されているところも見逃せない。まずは館内に青い客車。こちらは「スハフ44形」で、急行「ニセコ」などの客車として活躍したもの。屋外には無蓋車や木造の有蓋貨物車などが保存される。中でも「ワ11形木造有蓋貨物車」が珍しい。戦前に地方私鉄向けに造られた有蓋の木造貨車で、現存する最も古い車両の1両となっている。車掌が乗り貨物も積めた「ワフ15形貨物緩急車」も他で見ることができない車両である。

↑車掌車ヨ8000形貨車(左端)と連結した9600形蒸気機関車。車掌車との連結走行への乗車も楽しめる(有料)

 

貴重な車両が多く保存されるキューロク館だが、同じ真岡駅構内で気になったことがあった。線路を挟んで、西側にディーゼル機関車や気動車、貨車など何台か留置されている。そこに今やあまり見かけることのない車掌車が3両おかれている。こちらは長らく、屋外に置かれているせいか、一部は天井が抜け落ちていた。こうした車両の保存というのは、非常にお金がかかるし、手間がかかるもの。キューロク館に保存されている車両で精いっぱいというところなのかもしれない。

 

【真岡線に乗る⑦】のどかさが半端ない西田井駅周辺

真岡駅で、つい時間をかけすぎてしまった。先を急ごう。この先、益子駅までは15分、終点の茂木駅までは約40分かかる。ただし、つい立ち寄りたくなる駅も多い。

 

真岡駅の1つ先が北真岡駅。こちらは春先には菜の花と桜が一緒に撮影できるポイントがあり賑わう。数年前に地元の人たちが丹精込めて植えた菜の花が踏みつけられ、無断駐車も問題視された。地元の観光PRの一環であるのに、トラブルが出てしまうところが、非常に残念である。2022年にはコロナ禍で桜の時期に開かれる「一万本さくら祭り」も中止になった。2023年以降の動向が気になるところだ。

 

さて北真岡駅を過ぎると、一面の田園風景が広がる。次の西田井駅(にしだいえき)まで絵になる所が多い。

↑北真岡駅〜西田井駅間は田園風景のなか線路がまっすぐに延びていて絵になる

 

次の西田井駅は筆者がよく途中下車する駅である。とにかくのどかだ。北真岡駅方面へ徒歩5分あまり歩いたエリアには、広々した田園地帯が広がり、路線の両側を細い道が並行するため撮影もしやすい。田園地帯まで行く途中に気になる古い鉄橋を見つけた。その話は後ほどということで、駅に戻る。

↑西田井駅のホームそばに広がる西田井駅前公園。大きな池ではないが、釣り人も複数人訪れている姿が見られた

 

写真撮影を済ませ駅で次の列車を待つ。ホーム横に西田井駅前公園という池のある公園が広がり、つい気になってしまう。釣り糸をたれている人がちらほら。イヌとのんびり散歩する人も見かける。とてものどかで、癒される風景が広がっているのである。

 

【真岡線に乗る⑧】焼き物の町ながら駅から離れるのが難点

西田井駅を過ぎたら益子駅ももうすぐだ。陶器市などのイベントがある日には、この駅まで乗車する人が非常に多くなる。

 

残念なのは駅から陶器専門店が多くある城内坂(じょうないざか)まで約1.5kmの距離があること。筆者はいつもこの距離でめげてしまうのだった。ちなみに、陶器市は春と秋に開催されている。春はGW前後で、秋の陶器市は2022(令和4)年の場合11月3日〜7日の予定となっている。同期間、手ごろな価格で陶器が販売されるので、お好きな方は訪ねてみてはいかがだろう。

↑益子駅を発車する茂木駅行き列車。駅舎はツインタワーが建つ造り(右上)。関東の駅百選にも選ばれた

 

【真岡線に乗る⑨】茂木駅の先の未成線跡が整備されていた

益子駅を発車した列車は、左手に広がる田畑風景を見ながら北上する。七井駅、多田羅駅(たたらえき)と進むうちに、徐々に車窓風景がかわっていき屋敷林や丘陵が見えるようになる。市塙駅(いちはなえき)の先で、路線は大きく右カーブを描く。左右に丘陵が連なり、はさまれるように水田が広がる。進行方向、右側の丘の麓を真岡線がたどり、左の丘の麓を県道宇都宮茂木線がたどる。

 

笹原田駅(ささはらだえき)、天矢場駅(てんやばえき)といずれも1992(平成4)年3月14日に誕生したホーム1つの小さな駅で、駅周辺に民家はあまりない静かな駅である。天矢場駅からは国道123号が真岡線と並行して走るようになる。国道を陸橋で越えると右に見えてくるのが「道の駅もてぎ」。ここは週末になると駐車場がほぼいっぱいになる人気の道の駅で、この近くで、SLもおかの姿を撮影しようとカメラを構える人も多い。

↑道の駅もてぎの緑を背景に走るSLもおか。ここを通過すれば、終点の茂木駅も近い

 

余談ながら、栃木県の自動車の普及率は例年97%前後をしめし、この数字は全国トップクラスとなる。茨城県も同県と似た数字が出ている。世帯当たりの台数は茨城県が全国2位の1.565台、栃木県が全国3位の1.581台となる(2021年、自動車検査登録情報協会調べ)。ちなみに1位は群馬県だ。北関東3県では通勤・通学でマイカーを使う世帯が多いことを物語る。

 

マイカーに慣れてしまうと、あえて鉄道に……とはなりにくいのであろう。さらに県の中心の宇都宮市方面に真岡線の路線は通じていない。このあたりの路線営業の難しさが感じられてしまう。せめて首都圏から真岡線を楽しみに訪れる方は真岡線に少しでも乗っていただけるようお勧めしたい。道の駅の駐車場の混雑ぶりを見ながら、そんなことをふと思うのだった。

↑茂木駅の駅構内にはSLが方向転換するための転車台(左下)がある。駅前からは本数は少ないが宇都宮方面行きバスも出ている

 

列車は終点の茂木駅へ到着。この茂木は、明治期にたばこ産業の発展した町で、最盛期には7つの葉たばこの委託工場があり4000人に上る従業員が勤めたとされる。当時に造られた土蔵造りの商家も残る。駅の近辺には飲食店もありランチ時に便利だ。

 

さて、茂木駅で気になるパンフレットを見つけた。「未成線の旅へようこそ!」というタイトルが付けられたパンフレットで、地元の茂木町役場商工観光課と茂木町観光協会が制作していた。茂木駅の先には、蒸気機関車が転車台で方向転換するために、わずかだが線路が延びている。その先は今どうなっているのだろう。足を向けてみた。

↑茂木駅の北側に延びた線路の先は未成線跡として一部、整備されていた。「未成線へようこそ」という案内も立つ(右上)

 

真岡線の線路の車止めの先に、元線路跡らしき敷地がきれいに整備されていた。真岡線の先は路線計画が戦前に立てられていた。国によって1922(大正11)年4月11日に公布・施行された「鉄道敷設法」には、第38号として茂木駅と水戸を結ぶ路線計画が立てられていた。この路線は長倉線という名前で呼ばれ、実際に1937(昭和12)年3月に着工されていた。1940(昭和15)年にはレール敷設も始められていたとされる。ところが太平洋戦争が始まり工事は中断、敷設されたレールも外されてしまったのである。

 

前述したパンフレットでは、那珂川に近い下野中川駅(しもつけなかがわえき/栃木県茂木町河井)まで建設された5.7km区間が〝未成線ハイキングコース〟として紹介されていた。茂木駅に近いところは、あくまで出発地点にあたるポイントだが、一部が整備されていたというわけである。茂木駅からは、JR烏山線の終点、烏山駅まで線路を延ばす計画もあったとされる。たらればながら、これらの未成線ができていたら、真岡線も異なる姿になっていたかもしれない。

 

【真岡線に乗る⑩】花と絡めて列車を撮影しておきたい

さて、ここからは真岡線沿線のお宝を改めて確認しておきたい。前述したようにまずはC12形蒸気機関車と50系客車が挙げられるであろう。真岡駅の「SLキューロク館」で保存される車両群は希少なものが多い。また西田井駅近くなどの田園風景などもお宝に加えて良いかも知れない。

 

さらに筆者があげておきたいのは、花景色だ。本原稿では写真に含めなかったが、早春の北真岡駅近くの桜と菜の花は人気が高い。ほかにも規模は小さいものの花々を絡めて写真撮影できるところが多々ある。早秋ならば沿線の秋桜が見事だ。みな地元の方が丹精込めて植えたものが多いので、大事にして撮影したいと思う。

↑多田羅駅近くの秋桜畑は人気のスポット。写真は9月末撮影のもの。こうした花々は年によって様子が変わることがあり注意したい

 

↑西田井駅のそばで線路端の草花と絡めてみた。緑豊かな真岡線はこうした構図づくりに困らない路線でもある

 

【真岡線に乗る⑪】鉄橋など古い施設こそ真岡鐵道のお宝

真岡線のお宝という視点で欠かせないのは、古い橋梁であろう。真岡線には鉄橋が46橋梁かかるとされる。さらに明治末期から大正時代にかけて架けられた鉄橋が手付かずのまま残っているところが多い。

 

例えば、益子駅に近い小貝川(こかいがわ)橋梁がある。この橋梁は鋼ワーレントラス(またはポニーワーレントラス)と呼ばれる構造で、日本の鉄道技術の普及に大きな役割を果たしたイギリス人技師のC.A.W.ポーナルの影響が強く見られる。ワーレントラスのなかでも、技師の名前を付けたポーナル型ピントラスと呼ばれ、鉄道草創期の姿を今に残している。

 

小貝川橋梁の骨格をなす橋げた部分は1894(明治27)年製のイギリス、パテントシャフト&アクスルトゥリー社(「Patent Shaft & Axletree」と刻印/現在、同社は消滅)製のものだった。かつて本原稿で樽見鉄道を紹介した時に旧東海道本線の鉄橋を紹介したが、この鉄橋もパテントシャフト&アクスルトゥリー社製のものだった。土木学会選奨土木遺産に2011(平成23)年に認定されている。この小貝川橋梁とともに、真岡線の北真岡駅〜西田井駅間にかかる五行川(ごぎょうがわ)橋梁も同じ会社で橋梁部が製造されたものだった。

 

テーム川の源流にあるイギリス・ウェンズベリーという町で製造された橋梁の鉄骨材料が、海を越えて運ばれ各地で使われていたことが分かった。

 

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↑益子駅に近い小貝川橋梁を渡る列車。右手の橋の構造がポニーワーレントラスと呼ばれ現役最古の同構造の橋と言われている

 

小貝川橋梁や五行川橋梁だけでなく、小さな橋も実は見逃せないものがあった。例えば、西田井駅近くの赤堀川に架かる小さな橋梁。線路端の道からもレンガ積みの橋脚が良く見える。鉄道草創期の技術を残すもので、緻密さが感じられる。さらに橋げたのガーダー橋梁が気になった。刻印はさびつき見づらかったものの……。

↑西田井駅の近く、赤堀川にかかるガーダー橋。鉄橋の刻印(右上)には、小貝川橋梁と同じくイギリス製であることが分かった

 

枕木の下にちょうど刻印があり、それを拡大して見ると小貝川の橋げたを造った会社と同じ「Patent Shaft & Axletree」とあった。さらに製造年は1900(明治33)年だった。赤堀川を渡る路線区間は1913(大正2)年の開業なので、製造され13年後に使われたこと分かる。どこかの路線で使われた後に、真岡線に転用されたのか不明なものの、一世紀以上前にイギリス・ウェンズベリーで製造された鉄橋が今もこうして役立ち、使われていることが良く分かった。

 

こうした橋梁は真岡線のお宝であり、大事にされてきた鉄橋にはるか昔の刻印を発見できた。真岡線の歴史の奥深さを感じたのである。

路面電車なのに地下鉄!? 不思議「京阪京津線」満喫の旅

おもしろローカル線の旅86〜〜京阪電気鉄道・京津線(京都府・滋賀県)〜〜

 

京都市の御陵駅(みささぎえき)と滋賀県大津市のびわ湖浜大津駅を結ぶ京阪電気鉄道・京津線(けいしんせん)。滋賀県内では道路上を走る路面電車として、京都市内では地下鉄として走る。さらに、路線は登山電車並みの上り下り、急カーブが続く路線を走り抜ける。途中駅での発見も多く、とにかく楽しい路線なのだ。

 

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【京津線に乗る①】開業時は京都の三条と大津の札ノ辻を結ぶ

最初に京津線の概要を見ておこう。

路線と距離 京阪電気鉄道・京津線/御陵駅〜びわ湖浜大津駅間7.5km
開業 京津電気軌道により1912(大正元)年8月15日、三条大橋〜札ノ辻(ふだのつじ/現在は廃駅)間が開業。
1997(平成9)年10月12日に御陵駅〜浜大津駅(現・びわ湖浜大津駅)間の運転に変更。
駅数 7駅(起終点駅を含む)

 

京津線は京阪電気鉄道が運営する軌道線である。びわ湖浜大津駅で接続する石山坂本線(いしやまさかもとせん)と共に、大津線(おおつせん)と総称されている。総称で大津線と呼ばれているものの、石山坂本線とは走る電車が異なり、まったく違う路線といった印象が強い。

↑県道558号線を走る京津線の電車。左上に「京町一丁目」とある交差点付近に、路線開業時は札の辻駅があり終点となっていた

 

路線自体が変化に富む京津線だが、路線の歴史には紆余曲折あり興味深い。次にそんな京津線の歴史を見ていこう。

 

【京津線に乗る②】御陵駅〜三条駅間は昭和期まで軌道路線だった

京津線は、110年前の1912(大正元)年8月15日に、京津電気軌道という会社によって路線が開設された。この日に三条大橋と札の辻との間で路線が開業したが、全通したわけではなかった。京津線と交差している東海道線を越える路線の工事が終わらず、大谷駅側の仮停留所(名前はない)と上関寺(かみせきでら)間の140mは徒歩連絡区間だった。

 

その後、同年の12月14日に晴れて全通となる。当時の終点駅は札ノ辻駅だった。札ノ辻は旧東海道の大津宿があったところで、この札ノ辻で旧東海道がカギ型に折れ、西近江路(にしおおみじ/旧国道161号)の起点にもなった。

 

大津の中心地として賑わっていたこともあり、京津線の終点駅とされたが、この札ノ辻から400mほど下ったところに1913(大正2)年3月1日に大津電車軌道(現・石山坂本線)の大津駅が開設された。大津駅は同年に浜大津駅と名を改め、また京津線の路線も1925(大正14)年5月5日に浜大津駅まで延伸されたが、長い間、別の駅としての営業が続いていた。

↑京阪本線の四条駅付近の戦前の絵葉書。隣の三条駅で京津線と連絡していた。当時は路面電車タイプの電車が走っていた

 

運営する会社も二転三転する。路線開業当時は京津電気軌道だったが、1925(大正14)年2月1日に京阪電気鉄道と合併し、京阪電気鉄道の京津線となる。京阪電気鉄道は現在もある鉄道会社ながら、太平洋戦争の前後に会社名が消滅した時代があり、戦前の京阪電気鉄道は「初代」もしくは「旧」を付けて呼ばれることが多い。1943(昭和18)年10月1日には京阪神急行電鉄の京津線となった。この京阪神急行電鉄は、現在の阪急電鉄にあたる会社だが、要は戦時統合が盛んに行われた時代で、日本の鉄道の多くが国鉄もしくは一部の私鉄に集約された時代だった。

 

戦後の混乱も収まりつつあった1949(昭和24)年12月1日に、現在の京阪電気鉄道の京津線に戻る。さらに、1981(昭和56)4月12日に浜大津駅が石山坂本線と統合され、現在の駅となった。ちなみに、現在の駅名であるびわ湖浜大津駅になったのは、2018(平成30)年3月17日とごく最近のことである。

↑昭和初期の京阪電気鉄道(初代)の路線図。三條〜濱大津が京津線にあたる。この図では石山坂本線は「琵琶湖鉄道」と記述される

 

京津線の変化はまだまだあった。開業時には三条大橋が起点だったが、その後に京阪電気鉄道(初代)の京阪本線の三条駅が1915(大正4)年10月27日に開業し、同社とのつながりを深めていく。上記は昭和初期の京阪電気鉄道(初代)の路線図だ。京阪本線と京津線の同じ三條駅(現・三条駅)として描かれている。この当時、すでに両線の線路を結ぶ連絡線もつながり、1934(昭和9)年には直通運転用の「びわこ号」も登場し、両線の直通運転が行われた。直通運転は1960年代初頭まで続く。

 

この三条駅付近が大きく変わったのが1987(昭和62)年のこと。同年の5月24日に京阪本線の三条駅が地下化され、京津線との線路が分断された。そこで京津線の三条駅は京津三条駅と名前を改める。さらに1997(平成9)年10月12日に、京都市営東西線が開業し、京津線の京津三条駅〜御陵駅間が廃止となった。よって最長11.4kmあった京津線の路線距離は、現在の7.5kmに短縮。東西線開業後には、京津線の電車は御陵駅から地下鉄線への乗り入れを開始、多くの電車は東西線の、京都市役所前駅や太秦天神川駅(うずまさてんじんがわ)駅まで走るようになっている。

 

【京津線に乗る③】走るのは高性能な800系4両編成

京阪京津線は路面電車であり、地下鉄としても走る。さらに路線には61パーミル(1000m走る間に61m登る)の勾配や半径40mという急カーブがある。ある意味、かなり特殊な路線である。この条件をクリアするために、高性能な電車が導入されている。それが京阪800系だ。

↑当初800系はパステルブルーに白、京津線のラインカラー苅安色(かりやすいろ)ラインが入れられた。現在は全車塗り替え

 

京阪800系は1997(平成9)年に京津線の地下鉄乗り入れに合わせて開発された。まずは乗り入れに合わせて架線電圧1500Vに対応。併用軌道区間があることから、自動車との接触があっても修復が容易なように鋼製車体が採用された。さらに急勾配に対応するために、4両固定編成の2ユニット全動力車で、もし1ユニットが故障しても、残り1ユニットで走ることができる。地下鉄乗り入れるためにATO(自動列車運転装置)+京阪形のATS(自動列車停止装置)も装備している。また、制御を容易かつ確実にするために急勾配や天候変化に強い鋳鉄製のブレーキシューを利用している。

 

車体は全長16.5m、全幅は2.38mで、大津線の石山坂本線を走る700形よりも全長は1.5mほど長め、全幅は同じながら、4両が連結して走ることで、路面電車としては、かなり〝異彩〟を放っている。国が定める軌道運転規則では路面電車の列車の長さが30m以下と決められているが、京津線の4両編成の電車は全長70m近くなるものの、特例として認められている。4両のうち中間車2両はロングシートで、前後の車両は狭い車幅に対応し、クロスシート横1列+2列の3列シートを採用している。ちなみに、線路幅は1435mmと京阪本線と同じ標準軌幅だ。

 

開発時には「1mあたりの値段は日本で一番高い」という京阪電気鉄道の開発担当の言葉があったように、非常に高価な造りの電車となっている。

 

【京津線に乗る④】びわ湖浜大津駅付近は電車撮影の聖地

ここからは京津線の路線の紹介をしていこう。京津線の現在の起点は御陵駅となっているが、本原稿では、石山坂本線との接続駅であるびわ湖浜大津駅から旅を楽しみたい。

 

大津市は日本最大の湖、琵琶湖に面して街が広がっている。びわ湖浜大津駅は琵琶湖の観光船などが発着している大津港の近くにある。この琵琶湖畔に沿うように路線が敷かれるのが石山坂本線で、京津線はこの石山坂本線から、ほぼ直角に分岐して京都方面へ向かう。

 

びわ湖浜大津駅は1面2線の構造で、ホームは1番線が坂本比叡山口方面、三条京阪・太秦天神川方面、2番線が京都膳所(きょうとぜぜ)、石山寺方面となっている。京津線と石山坂本線の電車が1つのホームを共用しているわけだ。駅の東側、上り下り線の中央に留置線があり、2番線に到着した京津線の電車は、この留置線を利用して折り返し、1番線に入線して、同駅始発電車として三条京阪・太秦天神川方面へ向かう。

↑びわ湖浜大津駅を発車した太秦天神川駅行電車。ほぼ直角に曲がり併用軌道区間の県道558号線へ入る

 

さて、びわ湖浜大津駅の造りだが、東側は石山坂本線の専用軌道区間となるが、一方の西側は、駅の目の前からすぐに併用軌道区間に入る。駅前には大きなT字路交差点があり、多くの車が通行している。京津線、石山坂本線の電車とも、このT字路の信号に従い出発する。この交差点は併用軌道区間を走る両線の電車を撮影するのにうってつけで、電車にカメラを向ける人の姿を多く目にするポイントでもある。

 

京津線と石山坂本線とも現在は上部が濃緑色、下部が白色、中間に黄緑色の帯を巻いて走る。こうした〝京阪カラー〟に混じって石山坂本線には特別色、またはラッピング車が走っていて、この貴重なカラー塗装の車両を、びわ湖浜大津駅前で撮影しようと集まる鉄道ファンも多い。

↑石山坂本線の標準色で塗られた700系。同線では上部が濃緑色、下部が白色という標準カラーの車両が多くなっている

 

↑石山坂本線には1934(昭和9)年に天満橋〜浜大津間を直通運転した「びわこ号色塗装」の600系といった特別色の電車も走る

 

【京津線に乗る⑤】通りの真ん中を4両編成の電車が走る

びわ湖浜大津駅前を発車し、駅前で左急カーブを曲がる京津線の800系。平行して走る車に注意しながらやや坂となった県道588号線を上がって行く。

 

併用軌道区間の距離は600mほどで、その間に京町1丁目という交差点があり、この交差点の左手にかつての終点、札ノ辻駅があった。旧東海道はこの京町1丁目でカギ型に曲がっていた。京津線の併用軌道はこの先、旧東海道を進んでいく。

↑びわ湖浜大津駅を発車した京津線の電車はすぐに併用軌道区間へ入る。その距離600mほど

 

旧東海道筋を走る京津線の電車。このあたりは旧大津宿があったところで、街道筋には大塚本陣跡もあった。現在、大塚本陣跡には明治天皇が休憩されたとする碑が残るのみとなっている。

↑旧東海道の大津宿があった付近を走る800系。車体下に注意を促すリフレクターが装着されていることが分かる

 

【京津線に乗る⑥】上栄町駅の手前で専用軌道へ入っていく

併用軌道区間を登りきったところには、信号が取り付けられている。この信号が赤になり車が停止するのに合わせて、京津線の電車は道路を抜け専用軌道へ入っていく。間もなく上栄町駅に(かみさかえまちえき)に到着する。

↑信号に合わせて京津線の電車は道路を通過する。加えて踏切(写真左)設備もあり警報灯で電車の通過をドライバーへ伝えている

 

↑専用軌道を走るびわ湖浜大津駅行き電車。左に見えるのが上栄町駅の上り線用ホーム

 

上栄町駅付近から路面電車の趣は消え、郊外線の趣が強まる。左右には民家が建ち並び、先に小高い山が見えるようになる。こちらが逢坂山(おうさかやま)だ。かつてこの山は、京都と大津の往来を困難にした難所でもあった。

 

【京津線に乗る⑦】大谷駅まで急勾配&急カーブが続く難路を走る

↑上栄町駅〜大谷駅間ではカーブ区間にスプリンクラー(左上)が設置されている

 

上栄町駅を過ぎると、京津線の路線は険しさを増し、急カーブも続く。そんなカーブ区間でスプリンクラーを使って散水ししている光景を見かけた。この散水装置は何のためにあるのだろう。

 

急カーブ区間を電車が走ると、キッ、キッといった金属同士が擦れて音が出ることがある。これは車輪の外周の出っ張ったフランジと呼ばれる部分と線路がこすれて生まれる音で、通称〝フランジ音〟と呼ばれる。散水することにより、フランジ音を減らす効果があるとされる。民家が多い区間なので、騒音防止という役目もあるのだろう。

↑上栄町駅付近ですれ違う800系。専用軌道区間ではスピードアップして走る。とはいっても800系の最高速度は75km/hと抑えられている

 

多少寄り道になるが京都と大津の間の明治以降の鉄道建設に関して触れておこう。

 

今でこそ、京都〜大津間を走る東海道本線は複数のトンネルにより、スムーズに行き来することができる。しかし、トンネル掘りの技術が未熟な時代の路線造りは難航を極めた。当時、神戸〜京都間は1877(明治10)年に開業させたものの、東側の路線造りは遅々として進まなかった。

 

京都は四方を山に囲まれている。まずは東山を避けるべく明治政府は、大きく迂回するルートを選択した。京都駅から南へ向かい現在の奈良線の稲荷駅を経て、山科を通り大谷に向かった。だが、大谷と大津の間には逢坂山があり行く手を阻んだ。

 

この逢坂山はトンネルで貫かざるをえず、1878(明治11)年に掘削を開始。1880(明治13)年7月15日に開通したのが逢坂山隧道(664.76m)だった。同トンネルは日本初の山岳トンネルであり、日本人技師のみで着工された最初のトンネルだった。この逢坂山隧道は40年後の新線開通で役目を負えたが、東口が今も遺構として残されている。

↑京津線の下を抜ける東海道本線。写真の上関寺トンネルの先に新逢坂山トンネルがありスムーズな通り抜けが可能となっている

 

東海道本線の逢坂山隧道よりも、短めながら京津線も逢坂山を250mのトンネルで越えている。当時の旧東海道本線が迂回していて不便だったことに加えて、開設された京都駅が繁華街の三条、四条から遠かったことも京津線が計画された理由だった。トンネル掘りで官営路線造りに苦しんだことが、結果として京津線の開業にも結びついていたわけだ。

 

【京津線に乗る⑧】大谷駅は40パーミルの勾配区間にある

京津線の逢坂山トンネル付近には京津線最大の61パーミルという急勾配がある。このあたりは国道1号と平行して走る区間となる。大谷駅はその駅名通り、大きな谷にある駅だ。

 

大谷駅はなかなかユニークな駅だ。開業当時には旧東海道本線の大谷駅が近くにあり、乗換駅となっていたが、今はそちらの大谷駅はない。現在は乗降客も少ない静かな駅だが、じつは軌道法に準じた路線の急勾配日本一の駅でもある。「軌道法に準じた」としたのは、普通、鉄道は鉄道事業法という法律で管理されており、そちらの最急勾配駅は明知鉄道の飯沼駅だからだ。管理される法律は違うものの、飯沼駅の勾配は33.3パーミルであり、京津線の大谷駅は日本一の急勾配駅と断言してしまって良いだろう。

↑急勾配にある大谷駅。ホームに置かれるベンチ(左上)の足は拡大して見ると左右で長さが異なる、ホームは右肩あがりとなっている

 

ちなみに、軌道法の線路建設には規程があり、駅(軌道法の場合には停留場)は10パーミル以下であることが必要とされる。大谷駅の場合は当時の内務大臣の許可を得て特例として設けられた。急勾配の途中にある駅だけに不思議なことも。下り線上り線ともホームに木製のベンチが置かれているのだが、足の長さが左右で異なるのだ。計ってみると傾斜が低い側は40cm、高い側は30cmと10cmの違いがあった。

 

三条方面行きのホームから下り線ホームを見ると、ホームの右側が明らかに上がっていることが分かる。昨年、大リーグの大谷翔平選手がMVPに輝いた時に、京阪電気鉄道ではTwitterで大谷駅のホームとベンチの写真を掲載してお祝いしたそうだ。右肩上がりの意味を込めたそうで、なかなか粋なお祝いだったように思う。ちなみに同Twitterでは、大谷選手の二刀流に対して、「京津線は地下鉄・登山電車・路面電車の三刀流です」とPRしている。

↑大谷駅を発車する太秦天神川駅行き電車。京津線と並行するのは国道1号。四宮駅(しのみやえき)まで長い下り坂が続く

【京津線に乗る⑨】山科付近では東海道本線と並走して走る

高性能な電車800系とはいえ、大谷駅までの登りは乗車してみるとやや頑張って走っているように感じた。一方、大谷駅から次の追分駅、四宮駅と、軽快に下り坂を走り並走して走る国道1号の車もどんどん追い抜いて行く。四宮駅には車庫もあり、事業用車も停車している。この駅あたりから、右手に東海道本線が平行するようになり、新快速電車や特急サンダーバードなどが通過していくのが見える。

↑京津線の京阪山科駅の北出口。目の前にJR山科駅(右上)があり乗り換え客で賑わう。地下には東西線山科駅もある

 

そして京阪山科駅へ到着した。京阪山科駅の目の前にJR山科駅があり、乗換に便利だ。ちなみに京都市営地下鉄東西線の山科駅もある。京津線はこの先の御陵駅で合流するのだが、東西線と京津線の山科駅は別の駅となる。

 

【京津線に乗る⑩】御陵駅はなぜ「みささぎ」なのか

京阪山科駅の先で東海道本線の下をくぐる京津線の線路は、東海道本線と並走した後に地下へ入っていく。しばらく走ると京津線の現在の起点駅・御陵駅に到着する。京津線の大半の電車は、この先、東西線に乗り入れて、太秦天神川駅などへ向かう。

↑府道143号線(三条通り)にある御陵駅の出口。京阪山科駅との間に京津線の地下入り口がある(左上)

 

さて、京津線の御陵駅。御陵は「みささぎ」と読む。「ごりょう」ではない。地域名が御陵(みささぎ)であることから駅名が付けられたのだが、不思議なことが多い。まず地名の元になっているのは、駅の近くに38代・天智天皇(てんぢてんのう)の山科陵(御廟野古墳)があることからだ。7世紀中期、飛鳥時代に奈良を拠点にした当時の権力者のうち、京都の山科に御陵があるのは天智天皇のみだそうだ。

 

京都市内には西京区に御陵を「ごりょう」と読ませる地名もあり、なぜこちらは「みささぎ」なのか謎である。「陵」一文字を「みささぎ」と読むこともあり、そこからの「みささぎ」なのでは、ということも言われるがはっきりした理由は分かっていない。

 

【京津線に乗る⑪】地下鉄東西線沿線にも見どころがふんだんに

京津線の旅はここで終了となるのだが、御陵駅の入口に気になる碑があった。そこには琵琶湖疎水煉瓦工場跡とある。琵琶湖疎水は、御陵駅の1つ先、蹴上駅(けあげえき)の近くで一部を見ることができる。蹴上駅は旧京津線が走っていたところでもあり、時間に余裕があればぜひとも立ち寄りたい。

 

地下駅から外に出ると目の前に府道143号(三条通り)が通る。この通りをかつて京津線が走っていた。このあたりの勾配はきつく、当時の京津線には66.7パーミルという最急勾配があったそうだ。

↑琵琶湖疎水は水運にも利用された。水力を利用して坂を上下するインクラインという装置が今も残る。台車に乗せられ船が上下した(右上)

 

駅を出て京都市街方面へ向かうと右手に堤があり、この下を琵琶湖疎水が通っている。その先、蹴上交差点があり、直進すると、右手の琵琶湖疎水がさらに良く見えてくるようになる。レールが敷かれた坂があり、鋼鉄製の台車の上に三十石船が載せられている。このあたりは、「蹴上インクライン」と名付けられ、春先になると桜が見事で観光名所になっている。

↑現役当時のインクライン。船を台車に載せて坂を登る姿が見える。こうした絵葉書が今も残されている(絵葉書は筆者所蔵/禁無断転載)

 

琵琶湖疎水は京都の発展に大きく貢献した公共施設だ。第1疎水は1890(明治23)年に、第2疎水は1912(明治45)年に完成している。琵琶湖の水を京都市内に引き入れた用水で、水道用水、工業用水、灌漑に使われたほか水力発電にも使われ、生み出した電気は市電などの運行にも使われた。

 

さらに、インクラインというケーブルカーに近い装置を造り、水運にも利用した。非常に利用価値の高い公共工事であったことが分かる。

↑南禅寺の奥にある水路閣。レンガ造りの水道橋で今も使われている。蹴上駅近くには、ねじりまんぽと呼ばれるレンガの通路も見られる

 

蹴上地区にある南禅寺の奥には水路閣と名付けられたレンガ造りの水道橋が架かる。今でも実際に使われている水道設備だ。レンガで組んだ見事なアーチ橋だ。このレンガが御陵駅の出口に碑が立っていた煉瓦工場で造られ、橋造りに生かされていた。明治期に生きた技術者と職人たちの熱い思いが伝わってくるようで、まさに圧倒される。

 

京津線も明治期の終わりから大正にかけて、トンネルを掘り、急勾配を上り下りする路線を敷設して、多くの人の行き来に役立ってきた。今もこうしたインフラ施設が生かされ、大事に使われている。どちらの施設も明治・大正期に生きた人々の気概が伝わってくる。先人たちの頼もしく素晴らしい熱意とともに、長い年月の流れが見えてきたように感じた。

京の四季が堪能できる「叡山電鉄・鞍馬線」を深掘りする

おもしろローカル線の旅85〜〜叡山電鉄・鞍馬線(京都府)〜〜

 

京都の洛北(らくほく)を走る叡山電鉄(えいざんでんてつ)には、叡山本線と鞍馬線(くらません)の2本の路線がある。前回の叡山本線に引き続き、今回は鞍馬線の旅を楽しんでみたい。

 

鞍馬川に沿って走る鞍馬線は、京都市内の路線ながら洛北の山中を走る。車窓風景は見事で特に「もみじのトンネル」が名物となっている。沿線に名高い寺社や史跡もあり、京の四季を堪能できる。

 

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【叡電を深掘り①】本線のように賑わう「鞍馬線」だが

叡山電鉄・鞍馬線の概要をおさらいしておこう。

 

叡山電鉄には叡山本線と鞍馬線の2本があり、叡山本線は出町柳駅〜八瀬比叡山口駅5.6km間を走る。一方、鞍馬線は叡山本線の途中駅、宝ケ池駅と鞍馬駅間の8.8kmを結ぶ路線だ。鞍馬線の電車はほとんどが出町柳駅の発車で、宝ケ池駅まで叡山本線を走る。

 

鞍馬駅行き電車はすべて2両編成。対して叡山本線の八瀬比叡山口駅行きの電車が1両編成。鞍馬行き電車の方が乗車率が高くこちらが本線のように感じてしまうのだが、あくまで鞍馬線が支線である。

 

路線の歴史は叡山本線の方が古く1925(大正14)年9月27日に開業した。京都電燈という電力会社によって造られている。一方、鞍馬線は叡山本線から遅れること3年、1928(昭和3)年12月1日に山端駅(やまばなえき/現・宝ケ池駅)〜市原駅間が開業、1929(昭和4)年12月20日に鞍馬駅まで路線が延ばされている。

 

鞍馬線は叡山本線とは異なり、京都電燈と京阪電気鐵道の合弁会社として設けられた鞍馬電気鐵道により路線が設けられた。線路はつながっているのにもかかわらず、運営は会社が異なるという、やや複雑な生い立ちを持つ。

 

【叡電を深掘り②】いろいろな会社名が出てくる戦前の路線図

叡山本線と鞍馬線は、古くから観光路線として親しまれただけに、路線パンフレットが数多く作られ配布された。特に太平洋戦争前に作られたものが多く、筆者も複数のパンフレットを所有している。興味深い内容なので、やや寄り道になるが見ておこう。

↑戦前に発行された路線パンフレット3枚。下のパンフは「叡山鞍馬電車」とあり、右上は「叡山・嵐山電車」とある

 

まずは叡山本線と鞍馬線を紹介した「叡山鞍馬電車」のパンフレット。表紙には〝大原女(おはらめ)〟のイラストが描かれていて趣深い。叡山・嵐山電車の名前で印刷された「春爛漫」なるパンフレットは、ロープウェイの下に桜が描かれ、これもなかなか味がある。

 

とはいえ、パンフレットが発行した鉄道名を見ると「叡山鞍馬電車」のみならず、「叡山・嵐山電車」、「叡山・嵐山・電車」とさまざま。これは叡山本線を開業させた京都電燈が、現在の京福電気鉄道嵐山本線・北野線(通称:嵐電/らんでん)を吸収合併していたためで、後者は叡山鞍馬電車とともに〝嵐山電車〟も一緒にパンフとしてまとめたものだった。

 

さらに、京都では叡山鞍馬電車を「叡電」「叡山電車」という通称名で呼ぶ傾向もあった。ここまで「〜電車」という名が乱発気味に使われていると、果たして利用者が、迷わなかっただろうか心配してしまうほどだ。

 

【叡電を深掘り③】集中豪雨で1年以上不通となっていた

1929(昭和4)年12月20日に鞍馬駅まで全通した鞍馬線だったが、その後の1942(昭和17)年8月1日に京福電気鉄道鞍馬線に、1986(昭和61)年4月1日に叡山電鉄鞍馬線と組織名を変更する。

 

観光客に人気の鞍馬線だが、路線が鞍馬川の渓谷沿いの険しい場所を通ることもあり、水害の影響をたびたび受けてきた。古くは1935(昭和10)年6月29日に起きた鴨川水害による被害で、この時は7月末に復旧した。その後、長らく水害の影響はなかったものの、地球温暖化のせいなのか、近年はたびたび被害を受けている。

 

まずは2018(平成30)年9月4日に列島を襲った台風21号により、鞍馬線全線が運休、宝ケ池駅〜貴船口駅間は9月中に運転再開したものの、貴船口駅〜鞍馬駅間の復旧が手間取り、10月27日に全線復旧を果たしている。そして「令和2年7月豪雨」に襲われる。この豪雨の影響は深刻だった。

↑鞍馬川沿いを走る鞍馬線。令和2年7月豪雨の際は、貴船口駅の南側地点200m地点(写真の左手にあたる)で土砂崩れが起きた

 

鞍馬線は貴船口駅の前後が、最も地形が険しい。線路はこの地域、鞍馬川の西斜面に沿って右に左にカーブを切りつつ走る。2020(令和2)年7月7日から翌8日未明にかけて京都市北部を襲った局地的集中豪雨により、鞍馬線の二ノ瀬駅〜貴船口駅間の斜面が崩落、60mほどの区間が土砂に埋まった。

 

当時、上空から撮影した航空写真を見ると山側の樹木がすべてなぎ倒されて、線路を埋め尽くした様子が見て取れる。筆者は前年の12月に現地を訪れ、貴船口駅付近を走る電車の姿を撮りつつ、その険しさに驚いたものだったが、ちょうど撮影した7か月後、すぐ近くで大規模崩落が起きていた。この土砂崩れにより、鞍馬線は市原駅〜鞍馬駅間が長期間の不通を余儀なくされる。

 

復旧までに1年間以上の時間を要し、運転再開したのは2021(令和3)年9月18日のことだった。

↑貴船口駅そばの斜面の様子を災害前と災害後を比較した。写真で感じる以上の傾斜地だが、災害後には植林されてきれいな斜面に

 

貴船口駅周辺では土砂崩れがあった二ノ瀬駅側だけでなく、被害が出なかった鞍馬駅側も、斜面の整備がかなり行われていたことが、撮影した写真を見てよく分かった。

 

上記の写真は貴船口駅すぐ北側の写真で、路線が不通になる前と、再開後を比較した。2019(令和元)年の写真では、伐採された木々と木株が斜面に残され、崩れ落ちそうな状態に見えた。この急斜面が路線再開前にきれいに整備され、傾斜地はひな壇状になっていた。急斜面には等間隔に植林が行われ、この若木を守るように1本ずつカバーがかけられていた。この状況を見て山を守る工夫がされていることがよく分かった。大変な被害に遭ってしまった鞍馬線だが、災害に強い路線を目指していることが伺えた。

 

鞍馬は山深い地だ。公共インフラは鞍馬線と平行して走る府道38号線(鞍馬街道)のみに限られる。災害のあった区間の一部に二ノ瀬トンネルが掘られるなど強化されているものの、鞍馬でイベントが開催される日は渋滞しがちだ。鞍馬線の大切さが改めて認識された災害となった。

 

【叡電を深掘り④】改めて出町柳駅から鞍馬線の沿線をたどる

ここからは鞍馬線の旅を楽しんでいこう。鞍馬線の電車は始発を除き出町柳駅発となる。鞍馬駅行き電車は日中15分間隔で、18時以降はおよそ20分間隔となる。朝夕には出町柳駅〜市原駅間を走る電車もある。日中の方が本数の多い典型的な観光路線である。

↑元田中駅〜茶山駅間を走る900系きらら。叡山本線の出町柳駅〜宝ケ池駅間は街中の走行区間で、間断なく民家が建ち並ぶ

 

鞍馬行き電車が発車する出町柳駅には1〜3番線のホームがあり、この2〜3番線が鞍馬線の発着ホームとなっている。ホームの長さから2両編成の900系や、800系は3番線からの発着がメインとなる。2両編成の車両には側面に4つの乗降扉があるが、一番前の扉付近はホーム幅が狭いのでパイロンが置かれ注意を促している。

 

日中の鞍馬駅行き電車の発車時間は0分、15分、30分、45分発で、ダイヤも覚えやすく便利だ。

↑宝ケ池駅の構内踏切を通る自転車。右側2本が鞍馬線の線路で、駅の案内図では鞍馬駅行きの案内は赤字で表示されていた(左上)

 

叡山本線の区間である宝ケ池駅までは京都の街中を走る。途中、車庫のある修学院駅などに停車しつつ、5つ目の宝ケ池駅へ。ここまで所要9分と短い。途中に4つの駅があるものの、駅間はみな500mから長くても900mぐらいで、市内を走る路面電車の運行に近い印象だ。

 

鞍馬駅行き電車は、宝ケ池駅の手前にあるポイントで、叡山本線の線路から左手へ曲がり、鞍馬線へ入っていく。

 

【叡電を深掘り⑤】市原駅までは平坦な路線ルートが続く

鞍馬線は駅の近くに名所旧跡や寺社、そして大学が多い。その情報も含め路線を紹介していこう。

 

宝ケ池駅を発車して間もなく八幡前駅。三宅八幡宮(徒歩約3分)の最寄り駅だ。興味深いのは叡山本線にも三宅八幡駅という八幡宮から付けたと思われる名前の駅があること。八幡前駅の方が圧倒的に近いにもかかわらず叡山本線の駅名を三宅八幡駅(同駅からは徒歩約10分)にしたのは、この駅からの道が正式な参道(表参道)にあたるからだ。近くには朱塗りの大鳥居も立つ。

↑岩倉駅〜木野駅間を走る800形。この付近から山々が間近に見えるようになってくる

 

八幡前駅の次が岩倉駅だ。洛北にあった岩倉村にちなんだ駅名だが、実は歴史に名を残した偉人に関わる史跡の最寄り駅でもあった。その偉人とは岩倉具視(いわくらともみ)である。江戸末期、公武合体派から討幕派に立場を変え、明治政府では重要な役割を担った中心的な人物だが、この岩倉具視が当主だった岩倉家がこの地を所領にしていた。幕末の一時期は洛中から追放され「岩倉具視幽棲旧宅(ゆうせいきゅうたく)」(徒歩約13分)に3年間住んだとされる。

 

岩倉駅を過ぎると進行方向右手に洛北の山々が間近に見えるようになってくる。この山麓を回り込むように木野駅、そして京都精華大前(きょうとせいかだいまえ)と走る。京都精華大前駅は、駅名どおり目の前に大学がある駅だ。次の二軒茶屋駅(にけんちゃやえき)も京都産業大学の最寄り駅と、鞍馬線は京都市の郊外にある大学に通う学生たちの利用が目立つ。

 

二軒茶屋駅付近まで来ると、左右の山がより近づいて見えるようになり、鞍馬線が平野部から山間部に入りつつあることが良く分かる。このあたりから、勾配も徐々に厳しくなっていく。

 

【叡電を深掘り⑥】人気の市原駅〜二ノ瀬駅間のもみじのトンネル

二軒茶屋駅まで複線だった鞍馬線だが、この先は単線区間となる。駅前に町並みが連なるのは次の市原駅までとなる。市原駅までは京都郊外の〝生活路線〟と言って良いだろう。この先は、行楽路線の色合いを強めていく。

 

市原駅〜二ノ瀬駅間の約250m区間は「もみじのトンネル」として、もみじが美しい区間だ。新緑の季節と、紅葉の季節には電車も徐行して走る。春秋シーズンの夜間はライトアップ、車内照明が消され、ひときわ美しいもみじのトンネルが楽しめる。

 

ちなみに市原駅〜二ノ瀬駅間にある「もみじのトンネル」だが、叡山電鉄の案内チラシには「もみじのトンネルは電車の外からご覧いただくことはできません。車窓からお楽しみください」とある。もみじのトンネルを通る電車の写真や動画は、あくまで鉄道敷地内で、PR用に撮られたものなので注意したい。

↑鞍馬街道をまたぐ900形きらら。もみじのトンネル(右上)はこの橋梁と市原駅間にある。写真のきららは現在、黄緑塗装に変更されている

 

二軒茶屋駅付近から勾配が徐々に強まっていく鞍馬線。二軒茶屋駅と鞍馬駅間4.7kmの標高差は115mもあり、山岳路線であることがよく分かる。二ノ瀬駅を過ぎると、さらに勾配がきつくなっていく。貴船口駅へ走るまでに、なんと50パーミル(1000m走るうちに50m登る)という最大勾配区間となる。

 

勾配が厳しい区間を持つ全国の私鉄7社が加盟する「全国登山鉄道‰(パーミル)会」という親睦団体があり、叡山電鉄も加わっている。アプト鉄道の大井川鐵道井川線と、特別な登坂機能を持つ電車を利用する箱根登山鉄道をのぞけば、叡山電鉄・鞍馬線の50パーミルは最急勾配だ。50パーミルの勾配を持つ路線は「全国登山鉄道‰(パーミル)会」の中でも南海電気鉄道高野線と、神戸電鉄を含め3社と限られている。

 

鞍馬線は普通鉄道で最大級の勾配があるわけだ。そんな急勾配を、叡山電鉄の電車はぐいぐいと登って行き、貴船口駅へ到着する。

↑貴船口駅の手前にある50パーミルの最大勾配区間。右下に勾配標もある。きららは側面ガラスが大きく開き展望が楽しめる(左上)

 

【叡電を深掘り⑦】貴船神社の最寄り駅・貴船口駅は魅力満点

もみじのトンネルだけでなく、新緑、紅葉のもみじが美しいのが貴船口駅だ。この駅付近も春と秋のシーズン中はライトアップされ、紅葉狩りに訪れる人も多い。

 

貴船口駅は2020(令和2)年3月19日に新駅舎となり、より快適になった。名高い貴船神社の最寄り駅とはいえ,

神社までは距離にして約2kmある。そのため駅前からバスを利用して、神社の最寄りまで乗車し、そこから歩くという参拝客が多い。貴船川沿いには名物の「川床」があり、京都の夏の酷暑を少しでも和らげる避暑地として昔から人気が高い。

↑新駅舎となった貴船口駅。ホームはこの上にある。階下には待合室もあり、叡山電鉄の駅で唯一のエレベーターも設置される

 

貴船口駅のすぐそばには鞍馬川と貴船川が流れ、両河川が合流している。樹木が生い茂るエリアだけに、貴船神社まで行かずとも、駅周辺を散策するだけでも涼味が味わえる。ぜひとも途中下車したい駅である。

↑貴船口駅近く貴船神社の大鳥居。貴船神社へは駅前からバス利用(右上)で約4分+徒歩約5分で行くことができる

 

↑貴船口駅の下を流れる鞍馬川。このすぐ下流で貴船川と合流する。渓谷沿いの新緑・紅葉が美しい

 

【叡電を深掘り⑧】鞍馬駅前の大天狗が新しくなって鼻も立派に

貴船口駅の次が終点の鞍馬駅だ。貴船口駅からも50パーミルの急坂が続く。進行方向右手に府道38号線(鞍馬街道)を眺めつつ、電車は徐々に坂を登って行く。

 

車窓から見える鞍馬街道沿いに門前町が連なるようになれば終点の鞍馬駅も近い。出町柳駅から乗車して30分ほどで、京都市街とは異なる山景色が楽しめる。この手軽さが鞍馬線の人気の1つの要因でもあろう。

 

行き止まり式のホームを先に歩けば趣ある駅舎が出迎える。同駅舎は1929(昭和4)年に建てられた寺院風の木造駅舎で、第一回近畿の駅百選に選ばれた。

↑鞍馬駅の木造駅舎。京阪鴨東線の開業時に手を加えられたが趣満点だ。駅前には大天狗のオブジェ(後述)が設置されている

 

↑駅舎横に電車の先頭部分が保存されている。こちらは開業時に使われたデナ21形の先頭部。横には同車の動輪と信号が設置されている

 

鞍馬といえば、牛若丸(源義経)が幼少時に修業した地で、山中で天狗を相手に剣術の稽古をしたと伝えられる。そうしたことからも天狗のイメージが強い。

 

鞍馬駅の改札を出ると大天狗のオブジェが目にとまる。この大天狗、実は2代目だ。初代の大天狗は2002(平成14)年に鞍馬地区から駅前に移され名物となった。発泡スチロール製だったためか、長年の風雪で弱り、さらに雪の重みで2.3mの鼻が折れる被害にあってしまった。

 

そのため2代目の大天狗が造られた。2019(令和元)年に初代からバトンタッチされたこの2代目、FRP(繊維強化プラスチック)製で2m以上ある鼻も丈夫そうである。初代よりも鼻がそそり立ち、いかにも今ふうの顔つき、眼光鋭くイケメンである。

↑鞍馬駅前にある大天狗。左が初代の大天狗で2019(令和元)年に2代目大天狗にバトンタッチされた

 

【叡電を深掘り⑨】珍しい境内の中にある小さなケーブルカー

鞍馬は平安京の建都以来、約1200年にわたり、京都の北方の守護の地として尊ばれる。その中心となるのが鞍馬寺だ。鞍馬寺の入口、仁王門へは鞍馬駅から並ぶ土産店を眺めながら200mあまり、約3分と近い。

 

鞍馬寺は奈良時代に唐から仏教を伝えた鑑真の高弟である鑑禎(がんてい)が8世紀に開山した寺とされる。本尊は毘沙門天王と千手観音菩薩と護法魔王尊の三身が一体となった「尊天」が祀られる。

 

鉄道好きとして気になるのは境内にケーブルカーがあること。鉄道事業として正式に認められたケーブルカー「鞍馬山鋼索鉄道」で、山門駅と多宝塔駅間の0.2kmを結ぶ。規模の大きなケーブルカーとは異なり、一車両が上下する造りで、坂道が連なる境内の移動手段として役立てられている。

↑鞍馬駅に近い仁王門が鞍馬寺の入口となる。多宝塔駅までケーブルカー(左上)が通じる。車両の名は牛若號Ⅳ

 

筆者が鞍馬線を訪れたのは、4月末の平日の朝だった。鞍馬駅から出町柳駅へ戻る時間帯が、ちょうど学生の通学時間に重なった。乗車したのは900系きらら。観光列車に乗って発車時間を待つ。そんな時に、鞍馬に住む中学生の一団が駅横の歩道を懸命に走ってきた。彼らが乗るのを待って電車は発車した。途中駅から、多くの中高生たちが乗車してくる。

 

朝の時間帯に乗車したから分かったのだが、鞍馬線は観光路線というだけではなく、京都の郊外に住む人々の通勤や、中高生の通学の足でもあった。鞍馬の地元小学校は貴船口駅前にあるのだが、中高等学校に進学すると、鞍馬からやや離れた学校へ、電車を利用して通学するようになるのであろう。

 

カッコいい観光列車きららに乗車して通学する彼らを、少しうらやましく感じた。市原駅、二軒茶屋駅と乗車する中高生たちが増えていく。そして岩倉駅へ着くと、一斉に下車して行った。観光客が乗車する時間帯と異なる時間に乗ると、思わぬ発見があるものだ。これから社会へ巣立っていく世代と一緒になり、ちょっと爽やかな気持ちになったのだった。

 

古都の人気観光電車「叡山電鉄」を深掘りする【前編】

おもしろローカル線の旅84〜〜叡山電鉄・叡山本線(京都府)〜〜

 

叡山電鉄(えいざんでんてつ)は京都市の北東部に、叡山本線と鞍馬線の2本の路線を持つ。シーズンともなれば比叡山と鞍馬へ向かう観光路線として賑わう。

 

観光路線ながら鉄道好きにとっては、気になるところがいっぱいの路線だ。今回は叡山電鉄・叡山本線の魅力を深掘りしてみたい。

 

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【叡電を深掘り①】鉄道会社の名前は「叡山電鉄」だが

最初に叡山電鉄の概要を見ておこう。

路線と距離 叡山電鉄・叡山本線/出町柳駅〜八瀬比叡山口駅5.6km
鞍馬線/宝ケ池駅〜鞍馬駅8.8km
開業 叡山本線:京都電燈により1925(大正14)年9月27日、出町柳駅〜八瀬駅(現・八瀬比叡山口駅)間が全通。
鞍馬線:鞍馬電気鉄道により1928(昭和3)年12月1日に山端駅(やまばなえき/現・宝ケ池駅)〜市原駅間が開業、1929(昭和4)年12月20日に鞍馬駅まで全通。
駅数 叡山本線8駅、鞍馬線10駅(ともに起終点駅を含む)

 

↑叡山本線の三宅八幡駅〜八瀬比叡山口駅間を走る700系。緑に包まれて走る叡電の電車が絵になる区間だ

 

両線とも線路幅は1435mmと標準軌の幅で、全線が直流600vで電化されている。

 

2本の路線の始まりは3年ほどの違いだが、先にできた路線が本線を名乗り、鉄道会社の名前も比叡山を元にした「叡山」を名乗っている。一方の鞍馬線は、途中の宝ケ池駅から分岐する支線の扱いだ。叡山本線が1両での運行が主体であるのに対して、鞍馬線は2両編成が主力。鞍馬線のほうが観光客も多く、こちらが本線のようにも感じるのだが、歴史的な経緯も含め、叡山本線が本線の扱いとなっている。

 

【叡電を深掘り②】叡山本線と鞍馬線の古い路線図を見ると

叡山本線と鞍馬線の歴史を見ると、紆余曲折あり興味深い。それぞれの路線が生まれて今日に至るまでを触れておきたい。

 

筆者の手元に戦前に作られた叡山電鉄の路線図が数枚ある。中でも特長が良くわかる2枚の鳥瞰図を見てみよう。うち1枚は画家で、鳥瞰図造りを得意とした吉田初三郎が作った叡山電鉄の路線図。この路線図はなかなか見応えがあり、引き込まれるような魅力がある。

↑吉田初三郎が制作した叡山本線が開業したころの路線図。立体的な鳥瞰図で、遠くに富士山のほか、朝鮮や樺太の文字も記される

 

同路線図を発注したのが「京都電燈株式会社」で、会社名の下には「叡山電鐵部発行」とある。京都電燈とは日本で4番目の電燈会社として創設された。琵琶湖の水を京都市内へ導く琵琶湖疎水(びわこそすい)を電気づくりに役立てた。今も琵琶湖疎水は国の史跡に指定され、日本三大疎水の1つとして数えられる。

 

京都電燈は、豊富な水量を電力づくりに役立て京都市の近代化に大きく貢献。京都市に日本初の路面電車を走らせることにも同社の電気が使われた。そうした会社が叡山本線の路線造りに関わったわけである。

 

叡山本線は京都電燈によって造られたが、途中駅から分岐する鞍馬線の路線は京都電燈自ら造ることはせずに、京都電燈と京阪電気鐵道の合弁会社として設けられた鞍馬電気鐵道により路線が設けられた。別会社であったものの、列車は叡山本線の出町柳駅まで乗り入れた。また京都市民も、別会社という認識は薄く、今と同じように「叡電(えいでん)」「叡山電車」の名前で親しんだ。

↑叡山電気鉄道(路線図には「叡山鞍馬電車」とあり)が鞍馬線開業後に制作した路線図

 

鞍馬線が開業した後の路線図を見ると、「叡山鞍馬電車」と表紙にある。裏面にある問合せ先も、京都電燈叡山電鐵課と鞍馬電気鐵道の社名が併記され、住所も電話番号も、まったく同じだった。要は別組織にしていたものの、ほぼ同じ会社として路線を運営したようだ。

 

【叡電を深掘り③】〝孤立路線〟としての歴史が長かった

京都市の発達に貢献した京都電燈だったが、大正期から昭和初期にかけては各地に電力会社が乱立された時期で、戦時色が強まるにつれて、国策によりこれらの電力会社は寡占化されていく。京都電燈も例外でなく、関西配電(後の関西電力)と北陸配電(後の北陸電力)、日本発送電に事業譲渡が行われ1942(昭和17)年に解散となった。戦時中に京都電燈は消滅したのである。

 

鉄道部門のうち叡山本線は1942(昭和17)年に京福電気鉄道へ譲渡となった。形は譲渡だが、京福電気鉄道は京都電燈の鉄軌道部門を分離して設立された会社で、京福と「京」と「福」が社名に入るように、京都府下の鉄道会社と、福井県下の三国芦原線(現・えちぜん鉄道)などの路線も同社に合流している。

 

叡山本線と鞍馬線は、戦中・戦後しばらく京福電気鉄道の路線として運営されていたが、1986(昭和61)年4月1日に再び叡山電鉄として分離譲渡され、さらに京阪電気鉄道グループの傘下となり、今に至る。

↑京阪電気鉄道の戦前の路線図。当時、京阪本線は三条駅止まりで、出町柳駅までは路線が通じていなかった。この状態が長く続く

 

今でこそ観光路線として人気の叡山本線、鞍馬線だが、他の鉄道路線と接続しない、いわば〝孤立路線〟の期間が続いた。かつて京都市電が市内を巡った時代、出町柳駅の最寄りに今出川線の叡山電鉄前(後の「加茂大橋」)という停留所もあった。しかし、市電も1976(昭和51)年3月31日いっぱいで廃線となってしまう。長らく比叡山や鞍馬へ向かう時は、叡山電鉄利用よりも、バスが便利という状態が続いたのである。叡山電鉄は苦境に陥る。そんな状況を大きく変えたのが、京阪電気鉄道の鴨東線(おうとうせん)の開業だった。

 

大阪と京都を結ぶ京阪電気鉄道の京阪本線は長らく三条駅が終点で、現在の京津線(けいしんせん)と線路がつながっていた。この京津線との連絡線を廃止、鴨川沿いの地上部を走っていた京阪本線自体を、七条駅から北側を地下化。さらに三条駅から北に向けて路線を延長し、1989(平成元)年10月5日に出町柳駅まで2.3kmの鴨東線として開業させたのだった。

 

実はこの鴨東線は、先の京都電燈が1924(大正13)年に地方鉄道敷設免許を取得していた。鴨東線への叡山電鉄の電車乗り入れも計画されたが、京阪本線との車両と、規格が異なるために、同案は流れたが、叡電を造った会社の創立時の夢が形は変わったものの、半世紀以上の歳月をかけて、実ったことなる。

 

この鴨東線開業により叡山電鉄の乗客は2倍に増加し、見事に復活。さらに利用者増を見込んで新車両を導入するなど、叡電を大きく変えた契機となった。

 

【叡電を深掘り④】叡電の電車はなぜ短いのだろう?

ここからは叡電を走る車両を紹介しよう。

 

叡電の車両は3タイプある。まずは700系が8両配備される。細かく見ると700系にはデオ710形と、デオ720形、デオ730形の3タイプがあり、外観はほぼ同じだが、装備品の流用元により、形式が異なっている。全タイプ1両のみの運行で、鴨東線の開業に備え、1987(昭和62)年から1988(昭和63)年にかけて導入された。車体の長さが15.2mと、やや短く、前後に2つの乗降扉を持つのが特長となっている。

↑修学院駅を発車したデオ720形(左)と車庫内に停まるデオ730形(右)。塗装は各車両で異なるが形はほぼ同じだ

 

↑バリアフリー対応したデオ720形722号車。リニューアル工事が少しずつ進められ、同車の色は神社仏閣をイメージした朱色に

 

700系は車体長が15m級と短いが、これは叡山電鉄の伝統でもある。叡山電鉄は京福電気鉄道から分離譲渡されたが、今も京福電気鉄道として残る嵐山本線(通称「嵐電」)も併用軌道路線が一部に残ることもあり、15m級の車両が主体となっている。叡山電鉄は、京都市電からの乗り入れを戦後(昭和20年代)に行った時期があり、その歴史がこうした車両の短さとして残っている。また、18m級の長い車体を採用しようにも、ホームの長さもこの車体の長さに合わせていることもあり、簡単に変更することが難しいようだ。

 

ちなみに700系は叡山本線の運行と、鞍馬線では、主に平日の朝夕、出町柳駅〜市原駅間の列車の一部に利用されている。なお、700系の732号車は観光用の「ひえい」に改造されている(詳細後述)。

 

700系が叡山本線の主力車両なのに対して、鞍馬線の主力車両が800系だ。こちらは車体長15m級の2両編成車両で、京阪鴨東線の開業で増えた乗客に対応するために1990(平成2)年から2両×5編成、計10両が導入された。

↑800系のデオ800形801-851編成。800系は帯色がそれぞれ異なっているのが特長だ。最近、正面下に排障器が付けられた

 

↑デオ810形815-816号車は特別塗装車で「ギャラリートレイン・こもれび」として四季の森をバックにした動物が描かれる

 

800系は搭載機器が異なるデオ800形とデオ810形の2タイプがある。帯色は編成すべて異なり、たとえば山並みをイメージした緑、鞍馬の桜をイメージしたピンクなど、沿線のイメージしたカラーの帯が巻かれている。

 

【叡電を深掘り⑤】「きらら」「ひえい」と楽しい観光列車が走る

観光用の車両も走っている。2タイプが導入されているが、この車両もユニークだ。

 

まずは鞍馬線用に1997(平成9)年から翌年にかけて2両×2編成が導入されたのが900系展望列車「きらら」だ。「紅葉を観るために乗りに来ていただく車両」というのがコンセプトで、座席はクロスシートとともに、窓側を向いた座席を備えるなど、特別な造り。さらに、中央部のガラス窓は上まで広く開けられるなど、凝っている。現在は、紅葉にちなんだメイプルオレンジ塗装車と、新緑期に楽しめる「青もみじきらら」が用意されている。

↑展望列車「きらら」メイプルオレンジ塗装車。側面のガラス窓が広いことが良く分かる。1998年度の鉄道友の会「ローレル賞」を受賞した

 

きららとともに人気となっている観光用車両が700系デオ732号車を改造した観光列車「ひえい」で、正面にゴールド塗装の楕円が付くのが特長だ。この楕円は、比叡山、鞍馬山の持つ神秘的イメージを表現したものだとされる。内外装ともに深緑色で、側面の窓も楕円形、窓の下に比叡山の山霧をイメージした金色の細いストライプが入る。

 

凝った造りが好評で、2018年度のグッドデザイン賞、さらに2019年の鉄道友の会「ローレル賞」を受賞した。

 

観光列車「ひえい」は出町柳駅〜八瀬比叡山口駅間を主に運行される。展望列車「きらら」と共に運行時刻がホームページで紹介されている。車両検査日などを除き、この時刻に合わせて走っているので参考にしてみてはいかがだろう。

↑八瀬比叡山口駅〜三宅八幡駅間を走る観光列車「ひえい」。正面の楕円の形に合わせて、運転席は中央に設けられている

 

【叡電を深掘り⑥】2両編成はぎりぎり!始発駅・出町柳のホーム

さて、叡山本線の沿線を旅することにしよう。始発駅は出町柳駅。接続する京阪鴨東線の地下駅から7番出口をあがっていくと、すぐ目の前に叡山電鉄の駅舎がある。雨にも濡れずに乗り換えができて便利だ。

 

叡山電鉄の出町柳駅は、1両もしくは2両の電車にあわせるかのようにコンパクトだ。全車が折り返すいわゆる「櫛形ホーム」で、入口側の左から叡山本線の八瀬比叡山口方面行き1番線ホーム、降車ホームをはさみ、鞍馬線の2・3番線ホームが平行して設けられる。右側3番線に停車した2両編成の車両は、ホームぎりぎりに納まる形となる。先頭1両目の前の扉はホームが狭く危険なために、この先は危険と、三角コーンが置かれ注意を促していた。1・2番線の間にある降車ホームも幅がかなり狭い。このあたり京都の街中にある駅のため、拡幅工事が容易に行えない様子が窺える。

↑始発駅・出町柳駅。3番線ホームまであり、2両編成が停車したホームの先端部は非常に狭い(左下)。駅ではグッズ類も販売

 

ちなみに、叡山電鉄の利用は交通系ICカードでの支払いが可能で、乗降時は駅の読取機にタッチ、もしくは運転士後ろのICカード読取機にタッチして下車する。1日乗車券「えぇきっぷ」も大人1200円で通年用意。出町柳駅、もしくは鞍馬駅(時間限定)などで購入できる。

 

列車の本数は多く、日中は出町柳駅発、鞍馬駅行きと八瀬比叡山口駅行きがほぼ15分おきで発車している。また平日の朝7〜8時、夕方17〜18時には、鞍馬線の市原駅行きも出ている。

 

【叡電を深掘り⑦】修学院駅に来たら車庫を見よう

さて、出町柳駅から、この日は八瀬比叡山口駅行きに乗車した。700系1両編成の車両のロングシートに座る。朝早かったせいか、空いていた。

 

出町柳駅を出発し、京都の町並みを眺めながら走る。東大路通り(市道181号)の踏切を越えれば、最初の駅、元田中駅に停車する。この駅、上り下りホームが市道を挟むように対岸にある。続いて茶山駅、一乗寺駅と京都の街中の駅が続く。

 

一乗寺駅の次の駅が修学院駅だ。駅の東に位置する修学院離宮の名前にちなむ。ここで目を向けておきたいのが、進行方向、右手にある車庫だろう。ここには珍しい車両も停められている。

↑修学院駅の東側に隣接して設けられる修学院車庫。この日、検修庫には900系の「青もみじきらら」が停められていた

 

新旧車両に混じって、奥に停められていることが多いのが、荷台を持つ車両だ。こちらはデト1000形と呼ばれる事業用車で、荷台にレールやバラストを積んで走る。保線専用の車両で、無蓋電動貨車(むがいでんどうかしゃ)と呼ばれている。この電車は叡山電鉄に現在残る車両のうち唯一の京福電気鉄道時代に生まれた車両だ。車庫を囲む塀の外から見えるが、運がよければ他車両に隠されることなく車両全体を望むこともできる。

↑デト1000形無蓋電動貨車。荷台にクレーンが付く。この日はZ形パンタグラフを持ち上げた姿を見ることができた

 

さて修学院車庫で珍しい電車を見たあとは、再び、下り電車に乗り込む。

 

【叡電を深掘り⑧】鞍馬線が分岐する宝ケ池駅の不思議

次の駅は宝ケ池駅だ。叡山本線と、鞍馬線との分岐駅で、なかなかユニークな形の駅である。

 

修学院駅方面からまっすぐ北へ進む線路は1・2番線の叡山本線のホームだ。西側に位置する4番線が鞍馬方面行き。中ほどのホーム、2番線の向かい側3番線は鞍馬方面から出町柳駅方面へ向かうホームだ。

 

ホームの南側に駅の地上通路があり、この通路で乗り換えや、乗降ができる。この通路は宝ケ池構内踏切ともなっているが、踏切の東側と西側には、駅の入口が特に設けられているわけではない。こうした構造もあり、構内踏切は歩行者用通路も兼ねているようで、地元の人たちが乗る自転車や歩行者が間断なく通り過ぎる。駅構内の踏切のはずなのに、この駅では不思議な光景がごく日常となっている。

↑鞍馬方面から出町柳方面へ向かう電車は、叡山本線の下り線路を平面交差し、上り線路に合流する

 

↑宝ケ池構内踏切を兼ねる各ホームを結ぶ通路。中央は2・3番線ホーム。写真のように自転車が多く通りぬけている

 

【叡電を深掘り⑨】終点、レトロな八瀬比叡山口駅の秘密

宝ケ池駅の2番線を発車した八瀬比叡山口駅行きの電車。この宝ケ池駅付近から郊外の趣も強まってくる。

 

次の三宅八幡駅から先で、進行方向左手から高野川が近づいてきたら終点も近い。駅を過ぎると、叡山本線で最大の傾斜33.3パーミル(1000m走る間に33.3m登る)、25パーミル、18パーミルと終点、八瀬比叡山口駅との1駅の間に厳しい勾配が続く。

↑鉄骨平屋造り、切妻造の金属板葺きと凝った八瀬比叡山口駅。停まるのはデオ730形731号車、深緑塗装が目立つ

 

そして叡山本線の終点、八瀬比叡山口駅へ到着する。大正末期に造られた駅の立派さには行くたびに驚かされる。トレイン・シェッドと呼ばれる大型の屋根の覆われた造りで支える鉄骨の柱はリベットで接合した造り。ヨーロッパのターミナル駅をイメージさせる駅は、ドイツ人技師の設計と伝えられる。

 

当時、同線を造った京都電燈の財力を感じさせる終着駅だ。賓客を迎えるべく凝った造りにしたのだろうか、そうした歴史の記述が駅に掲示されていないのが残念に感じた。

↑現在の八瀬比叡山口駅には、右から記した開業当時の「八瀬驛」という駅名看板が付く。右上は2015(平成27)年に訪れた時のもの

 

手元に2015(平成27)年3月に撮影した同駅の写真があった。当時の駅舎の駅名看板は「八瀬比叡山口駅」だったが、現在は開業当時の「八瀬驛」に掛け替えられ、よりレトロ感が強まっていた。

 

【叡電を深掘り⑩】叡山ケーブルは現在、別会社の路線に

叡山本線を開業させた京都電燈は、八瀬比叡山口駅から比叡山へ登る観光客のために叡山ケーブルと叡山ロープウェイを開業させた。叡山本線の開業が1925(大正14)年9月27日、叡山ケーブルが同じ年の12月20日のことだった。さらにケーブルの山頂駅(ケーブル比叡駅)の先に、叡山ロープウェイも1928(昭和3)年10月21日に開業させている。いずれも京都電燈が手がけた鋼索線と索道線(ロープウェイ線)だった。

 

現在、叡山ケーブルの路線名は、京福電気鉄道鋼索線と呼ばれる。ロープウェイの運行も京福電気鉄道が行っている。叡山電鉄も、かつては京福電気鉄道の路線だったが、後に京福電気鉄道とたもとを分かっている。つまり電車とケーブルカー、ロープウェイは別会社によって運行されているわけだ。

↑ケーブル八瀬駅を発車する叡山ケーブル。2021年3月に車体デザインをリニューアル、外観が変更されている(写真は旧塗装)

 

ちなみに別会社となってはいるものの、叡山電鉄の出町柳駅〜八瀬比叡山口駅間と、叡山ケーブル、叡山ロープウェイ。さらに比叡山内のシャトルバス、また比叡山延暦寺の諸堂巡拝券がセットになった「比叡山延暦寺巡拝 叡山電車きっぷ」が大人3200円で用意されている。比叡山へ向かうときには便利だ。

 

八瀬比叡山口駅から叡山ケーブルの山麓駅・ケーブル八瀬駅までは徒歩4〜5分ほど。高野川の流れや草花を楽しみながらの道のりで、のんびり比叡山麓の自然を楽しみながら散策できる。ケーブル八瀬駅の近くには、八瀬もみじの小径(やせもみじのこみち/入場無料)もある。八瀬比叡山口駅に着き、そのまま帰ってしまうのはもったいない。ぜひとも叡山ケーブルのケーブル八瀬駅も目指したいものである。

“新車両”導入で活気づく「北条鉄道」で未知との遭遇

おもしろローカル線の旅83〜〜北条鉄道北条線(兵庫県)〜〜

 

兵庫県の播磨地方(はりまちほう)を走る北条鉄道北条線。乗車時間20分ほどの短い路線である。この短いローカル線が、いま全国の鉄道ファンの注目を浴びている。わざわざ遠くから乗りに訪れる人も増えてきた。

 

その理由は〝新車両〟を導入したから。この新車両だけでなく、初めて下りる駅や町、風景もなかなか新鮮で楽しめた。そんな北条鉄道で〝未知との遭遇〟を楽しんでみたい。

 

【関連記事】
懐かしの気動車に乗りたい!旅したい!「小湊鐵道」「いすみ鉄道」

 

【未知との遭遇①】昭和初期まで〝播丹鐵道〟北条支線だった

JR加古川線の粟生駅(あおえき)〜北条町駅間13.6kmを走る北条鉄道北条線(以下「北条鉄道」と略)。まずは北条鉄道の路線史から見ていくことにしよう。筆者の手元に北条鉄道の古い路線図がある。昭和10年前後に印刷された「播丹(ばんたん)鐵道沿線案内」だ。この案内によると、いまJRの路線になっている加古川線をはじめ北条鉄道、2008(平成20)年に廃止された三木鉄道などの路線がみな、播丹鐵道という会社の路線だったことがわかった。

↑昭和10年前後に発行の播丹鐵道の路線図の一部。図の上部に北条鉄道(当時は北条支線)の路線を確認することができる

 

北条鉄道の開業は1915(大正4)年3月3日のこと。播州鉄道という会社により粟生駅〜北条町駅間が開業した。その8年後の1923(大正12)年12月21日には播丹鐵道に譲渡された。掲載の路線図はその当時のものだ。

 

“ばんたん”と読ませる鉄道会社がこの会社以外にもあった。現在の播但線(ばんたんせん)を開業させた播但鐵道で、この会社は1903(明治36)年に山陽鉄道という会社に路線を譲渡している。山陽鉄道は現在の山陽本線を所有していた会社で、1906(明治39)年に国有化、播但線も同時に国有化された。

 

同じ読みで混同しやすいが、もう一度整理しておくと、播但線を開業させたのは播但鐵道という会社。加古川線、北条支線を運営したのが播丹鐵道という会社だった。太平洋戦争中に慌ただしく国有化された全国の私鉄は非常に多かったが、播丹鐵道も1943(昭和18)年6月1日に国有化された。

 

【未知との遭遇②】網引駅近くで戦時下に起きた悲惨なできごと

戦時下に国有化された播丹鐵道。北条支線は以来、国鉄北条線となる。その2年後に大惨事が起きた。

 

現在の法華口駅(ほっけぐちえき)近くに鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)という軍用飛行場があった。この飛行場は戦時下に海軍航空隊の訓練基地として使われていたが、当初は川西航空機(現・新明和工業の前身)姫路製作所の専用飛行場だった。戦時下に同工場で組み立てられていたのが戦闘機・紫電改(しでんかい)だった。

↑網引駅(あびきえき)付近を走る北条鉄道キハ40形。駅から300mほど、ちょうど写真付近で、戦時下に大事故が起きた

 

1945(昭和20)年3月31日、網引駅の西側300mほどの地点で、その事故は起こった。試験飛行中の紫電改が鶉野飛行場へ高度を下げ着陸態勢をとり、エンジンの出力を絞ったところ、突然にエンジンがとまってしまうトラブルが起きた。操縦していたのは20歳と若い飛行士だった。網引駅近くの線路は堤の上のやや高い場所を走っている。その線路に高度を落とした紫電改の尾輪が引っかかってしまい、そのせいでレールをねじ曲げてしまったのである。

 

運悪く現場へさしかかっていた上り列車の蒸気機関車と客車が転覆。満員の乗客を乗せていたからたまらない。死者12名、重軽傷者104名という大惨事となった。事故が起きた当初は戦時中だったこともあり、軍事機密として秘匿された。事故の詳細が明らかにされたのは戦後のことだった。

↑法華口駅に立つ「鶉野飛行場跡地」の案内。田園が広がる先に元飛行場の遺構が残り当時の様子を偲ぶことができる

 

網引駅近くの事故地点には小さな慰霊碑が立てられ、亡くなった方の霊を悼むように黄色い菜の花が堤を彩っていた。最寄りの網引駅には事故の概要を伝える案内板も立てられている。戦時下とはいえ、このような惨事が起きながら、国民に何も伝えられなかったとは、改めて戦争の不条理を感じてしまう。

 

戦後は長らく国鉄北条線だったが、接続する加古川線がJR西日本に引き継がれる前の1985(昭和60)年4月1日に、第三セクターの北条鉄道へ路線の運営が引き継がれた。北条鉄道になって以降は、様々な企業努力が実り、第三セクター路線としては珍しく朝夕の列車本数を増やすなど、輸送実績も順調に推移し、三セク鉄道の〝優等生〟となっている。

 

【未知との遭遇③】路線のほとんどが加西市内を走る

ここで路線の概要を見ておこう。

路線と距離 北条鉄道北条線/粟生駅〜北条町駅13.8km
全線単線非電化
開業 播州鉄道により1915(大正4)年3月3日に粟生駅〜北条町駅間が全通
(開業当初の区間距離は13.68km)
駅数 8駅(起終点駅を含む)

 

北条鉄道の起点は粟生駅で、この駅でJR加古川線と、神戸電鉄粟生線と接続している。路線は小野市と加西市(かさいし)を走っているが、小野市内の駅は粟生駅のみで、他の7駅はみな加西市内の駅となる。

 

つまり、北条鉄道は加西市内線と言ってもよいわけだ。そうした背景もあり、北条鉄道の主な出資者は加西市と兵庫県で、北条鉄道の代表取締役社長は加西市長が兼ねている。

 

【未知との遭遇④】形式名の頭に付くフラワの意味は?

次に走る車両を見てみよう。北条鉄道を走る主力車両は2000(平成12)年に運転開始したフラワ2000形気動車で、現在3両が走る。長さ18mの両運転台式の気動車で、3両はピンク、紫、緑と車体の色がそれぞれ異なる。

↑主力車両のフラワ2000形は3両あり、ピンク、紫、緑と3色の車体色をしている

 

形式名だが、なぜ「フラワ2000」と名付けられているのだろう。加西市には兵庫県立フラワーセンターがあり、「フラワ」はこのセンターの名前にちなんで付けられた。また2000は、2000年に導入されたことによる。ちなみに兵庫県立フラワーセンターへは、北条町駅からバス利用で、12〜20分ほどの距離にある。

 

なお、運用される車両は北条鉄道のホームページに運行計画表が掲示されており、そちらで運用状況が確認できる。この運行計画表を見るとフラワ2000-1から3は、およそ1週間単位のローテーションで、順次登場して走っている。

 

【未知との遭遇⑤】“新車両”キハ40形が沿線を彩る存在に

↑2021(令和3)年3月12日までJR五能線などを走っていたキハ40形535。秋田当時と同じ白と青の五能線カラーで走る

 

2022(令和4)年3月13日、長年、フラワ2000のみだった北条鉄道に新たに加わったのがキハ40形である。キハ40系は国鉄時代に開発された普通列車用の気動車で、キハ40形はバリエーション豊富な同系列の中の、両運転台付き車両を指す。北条鉄道ではJR東日本の南秋田センターに配置されていたキハ40形535車を有償で譲り受けた。

 

それまで北条鉄道は3両態勢で列車を運行してきたが、朝夕の増便もあり、車両運用に余力がなくなっていた。ちょうどJR東日本がキハ40系車両の引退を計画していたこともあり、そのうちの1両を譲り受けたのだった。

 

改造費や輸送費用は加西市が助成、加えてクラウドファンディングによる寄付を募った。ちなみに車内には寄付をした方々の名前が掲示されている。見ると筆者が見知った方の名前も散見された。

↑正面には5枚の銘板が付く。「新潟鉄工所・昭和64年」「北条鉄道・2022年2月」とあった。側面にはサボも付く(右下)

 

キハ40系は、JR西日本エリアで珍しい車両ではなく、今も多くが在籍している。とはいえ、車体更新がだいぶ進み、側面の窓の形などが、オリジナルなキハ40系の姿と異なるものが多い。さらに北条鉄道が導入したキハ40系は、遠く離れた北東北を走っていた白と青の〝五能線色〟ということが珍しく感じるのか、鉄道ファンのみならず、旅好きの人々に注目を浴びるようになり、走行日に訪れる人が多い。

 

キハ40形は毎日走るわけではない。1日中走る日が限られている。こうした日には乗車するため、また撮影のために沿線を詰めかける人が目立つ。筆者が乗車した列車も、運行を始めてすでに1か月たっていたにもかかわらず、座席は満席で立って乗車する人も多かった。まさに〝新車両景気〟のように感じられた。なお、キハ40形は週末に必ず運行されるわけではないのでご注意を。運行予定をしっかりチェックしてから訪ねることをお勧めしたい。

↑1日フリー切符も通常のもの(右上)とは異なるストラップ付きを期間限定で用意。鉄印(左)もキハ40形のイラスト入りを販売

 

【未知との遭遇⑥】粟生は乗り換えに便利だが不便な駅だった

さあ、北条鉄道の旅に出てみよう。起点は粟生駅。前述したようにJR加古川線と神戸電鉄粟生線と接続している。ホームは1・2番線が加古川線、神戸電鉄粟生線が4番線で、3番線が北条鉄道の発着ホームとなる。この駅の番線のふり方は変則的で、北条鉄道3番線の向かい側が加古川線の下り1番線ホームで、跨線橋を渡った側の加古川線上りホームが2番線となっている。

 

北条鉄道は土・休日の場合、ほぼ1時間おきに発着する。また平日は6時・7時台と、18時台が30分おきに増便される。

↑北条鉄道のホームは手前3番線。向かい側が加古川線の下り1番線ホームとなる。1番線に停まる電車は国鉄形通勤電車の103系だ

 

JR加古川線、神戸電鉄粟生線との乗り継ぎは非常に便利だ。接続する側の両線とも日中、ほぼ1時間おきに列車が走っていて、北条鉄道への乗り継ぎ、また北条鉄道からの乗り継ぎがしやすいように、列車ダイヤも調整されている。特に加古川線の上り下り列車との乗り継ぎは非常に良く、ほとんど待つことなしに乗車できる。

 

ただ、もし乗り継ぎに間に合わなかったら、どの列車も1時間待ちになってしまうので注意が必要だ。

↑瀟洒な造りの粟生駅の正面(左上)。跨線橋の下に加古川線のホームがある。奥に見えるのが神戸電鉄粟生線の車両

 

乗り継ぎに便利な粟生駅だが、駅から外に出ると驚かされる。駅舎は洋風で瀟洒な造りで、駅前にロータリーが整備され、民家が駅前通り沿いに建ち並ぶのだが、商店がない。駅横に「小野市立あお陶遊館アルテ」という陶芸教室などが開かれる公共施設があるほかは理髪店があるのみで、3本の路線が集まるターミナル駅らしくない印象だった。

 

粟生駅がある小野市の繁華街は、加古川線の小野町駅、もしくは神戸電鉄粟生線の小野駅周辺にある。一方の加古川線の粟生駅周辺は下車する人が少ない駅のせいか、商店の営業には向かなかったようだ。同駅で下りる場合には、ランチ時であれば、お弁当などを持参して動くことをお勧めしたい。

↑粟生駅を発車した列車はJRの線路と分かれ、大きく左カーブ、水田地帯の中、次の網引駅を目指す

 

【未知との遭遇⑦】北条鉄道の駅がみなきれいな理由は?

粟生駅11時9分発の北条町駅行きに乗車する。この日はキハ40形が1日走る運行日で、さらに日曜日で混みあっていた。ちなみに、粟生駅ホームには交通系ICカードのリーダーがあり、JRから北条鉄道への乗り換え時には、タッチして北条鉄道を利用する。北条鉄道線内ではICカードの利用は不可で、乗車時に整理券を受け取り、下車の際は現金での支払いとなる。

 

1日フリーきっぷ(840円)も用意され、車内および、終点の北条町駅で購入することができる。粟生駅〜北条町駅間の片道運賃が420円なので、往復+1駅どこかで下車すれば、お得になる計算だ。

 

短い路線だが、途中駅に下りてみて気がつくことがある。どの駅もきれいに掃除され、整備されているのである。ローカル線というと、なかなか掃除の行き届いていない路線もあるが、なぜなのだろう?

↑北条鉄道の駅には登録有形文化財に指定された古い駅も多い。駅舎内もきれいに掃除、また手入れをされた駅が多い(写真は長駅)

 

北条鉄道の各駅は終点の北条町駅を除きすべて無人駅だが、ボランティアの駅長が多くの駅に存在する。ステーションマスター制度という仕組みで、2年の任期で駅長となり、駅の清掃とともに、趣味や特技を生かしたイベントや、教室などを駅舎で開くことができる。

 

例えば網引駅では毎月2回、ボランティア駅長が切り絵教室を開いている。法華口駅のボランティア駅長は絵手紙教室、播磨下里駅では寺の住職がボランティア駅長を務める。播磨下里駅の駅舎には下里庵の名が付けられ月に2回、開放されている(現在はコロナ禍で活動休止中)。

 

こうした試みは、駅の清掃だけでなく、地域のコミュニティづくりにも役立っているようだ。とはいえあくまでボランティア活動なだけに、最近はなり手が少ないようである。

 

【未知との遭遇⑧】法華口駅で珍しいシステムが導入される

100年以上前に播州鉄道北条支線として開業した北条鉄道。古い駅舎もいくつか残る。その1つが粟生駅から3つ目の法華口駅(ほっけぐちえき)だ。この駅、木造駅舎が建つ古いホームの先に新しいホームが2面あり、現在は、新しいホームが使われている。

↑開業当時に造られたホームの先に新しいホームが設けられ、上り下り列車の交換が可能な造りとなっている。春先は桜もきれいだ

 

この法華口駅には上り下り列車の交換施設が設けられている。北条鉄道の路線唯一の交換施設だ。2020(令和2)年6月に新設された交換施設で、全国初の保安システム「票券指令閉そく式」が採用された。名称を見るとなかなか難しいシステムのように感じるが、行うことはシンプルだ。

 

まず、進行してきた列車は法華口駅の右側の線路に入る。ホームに停車し、乗客の乗降が済んだら、運転士は運転席の左側に設けられたカードリーダーに、持参するICカードをタッチする。タッチすると、先の信号が赤から緑に変わり、列車が進行できる仕組みだ。

 

現在、列車の交換システムの多くに「自動閉そく式」が使われている。このシステムの導入で自動的に列車交換が行われているが、「自動閉そく式」に比べて「票券指令閉そく式」は設置コストが割安なことが導入の決め手となった。列車本数が少ない路線には最適なシステムかもしれない。

↑列車の左側にカードリーダー(右上)が設けられ、そこにICカードをタッチすると、先の信号が青に変わり、前進が可能になる

 

【未知との遭遇⑨】8年前の播磨下里駅の駅舎写真と比べてみる

法華口駅をはじめ複数の駅に停車し、列車は進行していく。

 

駅周辺には民家が建ち並び、駅を離れると左右に水田風景が広がる。列車からあまり見えないのだが、沿線には1つの特長がある。北条鉄道が走る播磨地方には、ため池が非常に多いのだ。本原稿でも掲載している地図のように、いたるところに大小のため池がある。

 

この地方は降雨量が少ない。そのため、古くからため池が多く設けられた。江戸時代前期に築造のものもあるとされる。播磨地方に限った数字ではないのだが、兵庫県全体には、全国でトップの2万2107個もある。ちなみに、ため池が多いと予想される香川県のため池の数が1万2269の3位で、圧倒的に兵庫県のため池が多いということに気がついた。

↑播磨下里駅に入線するキハ40形。駅舎に掲げられる駅名標はレトロそのものだった

 

法華口駅の次が播磨下里駅で、この駅にも開業当時の駅舎が残る。法華口駅とともに駅舎が有形登録文化財に指定されている。駅舎には手書きの駅名標が付けられている。この駅名標、戦争前の表記方法だった右から左へ横書きした文字が、下に透けて見えていておもしろい。

↑播磨下里駅の2014(平成26)年と現在の姿。このように改装され、きれいになった駅が目立つ

 

手元に2014(平成26)年9月に撮影した同駅の写真があった。現在と比べて見ると、駅舎内の中扉が作り直されるなど、かなり手直しされている様子がわかる。記録によると2016(平成28)年3月に駅舎を改築とある。同鉄道の駅はきれいに掃除されているばかりでなく、駅舎、トイレなど改築・改装されたところも多い。

 

北条鉄道に初めて乗車して、これらの駅に下りる人も多いはず。駅舎はもちろん、入ったトイレが汚い、または使えなかったとなると、旅行者は困るし、残念に感じてしまう。このあたりの対応はローカル線といえども、旅人に来てもらうためには大切な要素だと思われた。

 

【未知との遭遇⑩】「長」と書いて何と読む?

播磨下里駅の次の駅は長駅だ。「長」と書いて何と読むのだろう。

 

答えは「おさ」。駅は加西市西長町にあり、その長が駅名になったようだ。同地の長という地名は同地を支配した豪族の長氏に由来する。また地域を支配し、統率する首長を意味したオサに由来するという説が同地に残されている。掲載の写真のように、春先には旧ホームの上に植えられた桜が美しい。

↑長駅を発車するフラワ2000-1。後ろが長駅の駅舎で路線開業時の建物が残る。桜は旧ホームに連なるように植えられている

 

↑年季が入った長駅の駅舎に驚かされた。駅舎内には、手荷物・小荷物取扱所という古い看板も掲げられていた(右下)

 

訪れた日には開いていなかったが、駅舎の裏手入口には結婚相談所「駅ナカ婚活相談所」の看板があった。ボランティア駅長が主催するイベントのようで、各駅でなかなか多彩な催しが行われていることがわかる。

 

長駅を発車して間もなく右カーブした車内から西池というため池が見えてくる。播磨地方にはため池が非常に多いと前述したが、線路のそばに見えるため池はこの西池のみに限られる。

↑播磨横田駅を発車して3分ほど。終点の北条町駅に近づくキハ40形。周囲には民家も増え始め賑わいが感じられた

 

【未知との遭遇⑪】終点の北条町駅の賑わいぶりが意外すぎる

播磨横田駅を過ぎて3分ほど。終点の北条町駅に到着した。これまでの駅周辺に比べると、かなりの賑わいぶりだ。

 

起点の粟生駅が、複数の路線との接続駅であるものの、駅周辺に何もないところであったし、途中の6駅も、駅近くには民家があるが、商店はほぼない。比べて北条町駅前には交通量の多い県道23号線が走る、駅からこの道をまたぐ跨線橋も設けられていて、ショッピングモール「アスティアかさい」に通じている。駅に隣接して寿司チェーン店、大型ショッピングモール、大型電器店がある。

 

要は加西市の中心部はこの北条町駅周辺だったのである。北条鉄道の旅を楽しむ際には、この北条町駅で一休み。次の列車を待つ1時間の間に、ランチなどを済ませたほうが賢明だ。

↑北条町駅のホームに入線するキハ40形。ホームの裏手には検修施設も設けられている

 

始発駅と終点の駅で、これほどまで賑わいが違う路線も珍しいだろう。北条鉄道のように行き止まり路線を盲腸線と呼ぶことがある。盲腸線は、大概が始発駅は地方の都市で、先に行くほど、郊外となり、賑わいが薄れるところが多い。北条鉄道の場合は、まったく逆で終点のほうが賑わっていた。

 

鉄道や車両だけでなく、この対比が新鮮だった。キハ40形という新たな車両が導入されたことで、より活気づく北条鉄道。同鉄道ならではの特異なロケーションが、魅力付けとなり、訪れる人が多いように感じた。

 

今後、どのように路線が変貌していくか、興味が尽きない。

↑北条町駅のホームに停車するキハ40形。側線にはフラワ2000-1が停車していた
↑駅向かいに建つショッピングモールから北条町駅を望む。県道を越える自由通路が設けられていて行き来も便利だ

 

海景色を満喫!「日本海ひすいライン」郷愁さそう鉄旅【後編】

おもしろローカル線の旅82〜〜えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン(新潟県)その2〜〜

 

旧北陸本線の新潟県内、市振駅(いちぶりえき)〜直江津駅間を結ぶ日本海ひすいライン。路線名の通り、日本海の海景色が満喫できる。前編で紹介したように乗って楽しい車両が多く走る同路線。海沿いの駅だけでしに、トンネル内の珍しい駅があるなど変化に富んだ鉄旅を楽しんだ。

 

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乗り甲斐あり!「日本海ひすいライン」郷愁さそう鉄旅を堪能する【前編】

 

【郷愁さそう鉄旅⑦】直江津駅を出発!すぐに日本海と出会う

さっそく日本海ひすいラインの旅を楽しむことにしよう。本来は、起点から話を進めるべきなのだろうが、日本海ひすいラインの起点は無人駅の市振駅となる。無人駅から旅を始めるのもやや寂しいので、ターミナル駅の直江津駅から話を進めたい。

↑直江津駅の北口駅舎。佐渡汽船のフェリーが出港する港が近いことから港町の駅のイメージ。構内ではSLも見ることができる(左上)

 

日本海ひすいラインの列車が発着する直江津駅では、えちごトキめき鉄道の妙高はねうまライン、JR東日本の信越本線、そして十日町、越後湯沢方面へ向かう北越急行ほくほく線の各列車と接続している。

 

日本海ひすいラインの列車は1番線、もしくは2番線からの発着が多い。JR東日本の信越本線と、妙高はねうまラインは2番線から6番線までを共用している。ほくほく線は5・6番線を使う。呉越同舟といった趣のホーム利用は、やはり、北越急行を除く路線がすべて元JRの路線だったこともあるのだろう。

 

直江津駅構内にはD51が姿を現す。こちらは直江津駅に隣接する鉄道テーマパーク「D51レールパーク」で運行する観光用列車で、転車台がある同パークと直江津駅構内の間を往復する。使われるのはD51形蒸気機関車827号機で、乗客を乗せた車掌車(緩急車)2両を牽引して走る。

 

ちなみに、列車は朝を除きほぼ1時間おきの運行で、週末に運行される413系・455系「国鉄形観光急行」が補完する形で走ることもあり、さほど不便には感じない路線である。

↑日本海ひすいラインは旧北陸本線の新潟県内の市振駅〜直江津駅間を引き継いだ路線で、起点は市振駅、終点は直江津駅となる

 

さて、筆者がこの日に乗車した日本海ひすいラインの列車は、泊駅行きのET122形の通常タイプで、1人用座席に座りつつの旅が始まった。

 

直江津駅を発車すると、しばらく平行して走っていた妙高はねうまラインの線路が左手にカーブして離れていく。直江津の町を眺めつつ、しばらくすると湯殿トンネルへ入る。このトンネルを抜けると、すぐ右手に日本海が見えるようになる。そして右から国道8号が近づき、沿うように走る。

↑泊駅行きのET122形普通列車。直江津駅を発車後、谷浜駅から日本海と国道8号(左)に沿って走る旅となる

 

谷浜駅、次の有間川駅(ありまがわえき)と、海岸線をなぞるようにして走っていく。国道沿いには海産物を扱う商店、海岸には漁港もあり小さな船が停泊する風景を望むことができる。この2駅は、鉄道ファンにも人気があり、特に有間川駅は背景に海景色が望めるポイントがあって、同駅で下車する人も目立つ。

↑有間川駅のホームに到着した泊駅行き普通列車。クラシックな駅舎の前に、日本海が広がる風光明媚な駅だ

 

【郷愁さそう鉄旅⑧】注目を集める長大トンネルの中の筒石駅

有間川駅を発車すると、海景色とはしばらくお別れに。すぐに名立(なだち)トンネルへ入る。この先、トンネルが続く。

 

北陸本線が開業した当時は、海沿いに線路が敷かれたが、単線ルートで輸送力の増強が難しかった。さらに大規模な地滑りに悩まされた。また1963(昭和38)年3月には、列車転覆事故が起きてしまう。そこで、有間川駅〜浦本駅間はトンネル主体の路線を新たに設け、1969(昭和44)年9月29日に旧線から新線への切り替えが行われた。

 

そうして造られた名立トンネルを抜け名立駅へ。この駅は名立川という河川の上にホームが設けられている。トンネルとトンネルの間の、ごく狭い平野部に設けられているために、こうした構造になっている。名立駅を発車して、すぐに頸城(くびき)トンネルに入る。日本海ひすいラインで最も長いトンネルで、長さ1万1353mという長大なもの。JRを除く在来線最長のトンネルでもある。この頸城トンネルの途中に筒石駅がある。

↑筒石駅の構内。左は市振駅方面のホームで、右は直江津方面のホーム。駅の外に出るのには延々と続く階段を登る(右上)

 

筒石駅は頸城トンネルを建設する当時、廃止案もあったが、地元からの希望が強く、現在のようなトンネルの途中にホームが作られたとされる。

 

駅舎は海沿いの筒石集落から約1km登った山の上、海抜60mのところにある。ちなみに頸城トンネルが通るのは海抜20mの地点で、トンネルを掘る時に造られた斜坑が、今はホームへ降りる階段として活かされている。直江津方面の下りホームまでは290段、糸魚川方面の上りホームまでは280段の階段がある。もちろんエスカレーターやエレベーターはない。

 

JR当時は乗降する人も少ない駅だった。ところが、日本海ひすいラインとなってからは、この珍しい駅に乗り降りする人の姿を、よく見かけるようになっている。スピードを出して通り抜ける列車は少なめになったが、列車が通過する時に、ホーム上を強烈な風が通り抜けるので、駅通路からホームへ出入りする所には危険防止のために扉が設けられている。

↑糸魚川の平野部を走る下り貨物列車と日本海を望む。2021(令和3)年3月13日にはえちご押上ひすい海岸駅も設けられた

 

筒石駅がある頸城トンネルを抜けると能生駅(のうえき)へ。このあたりになるとようやく視界が開け始める。次の浦本駅から先は糸魚川市の平野部が少しずつ広がっていく。そして梶屋敷駅と新駅・えちご押上ひすい海岸駅の間には、前述した直流電化区間から、交流電化区間に変わるデッドセクションがある。といっても普通列車は気動車であるし、また電車や電気機関車が牽く貨物列車も、デッドセクションにかかわらず、スムーズに通り抜けていく。いまは交直流の変更も、それほど手間がかかる切り替えではないのだ。間もなく、北陸新幹線の接続駅、糸魚川駅へ到着する。

 

【郷愁さそう鉄旅⑨】途中下車し甲斐がある糸魚川駅

北陸新幹線とJR大糸線に接続する糸魚川駅はぜひとも下車したい駅だ。新幹線が開業した時に南側にアルプス口、1階には「糸魚川ジオステーションジオパル」が設けられた。複合型交流施設として、観光案内所などがあるほか、大糸線を走ったキハ52気動車が保存されている。

↑糸魚川駅のアルプス口。「糸魚川ジオステーション ジオパル」の前面は気動車の車庫として利用されたレンガ車庫の一部が使われている

 

↑地元の木材で作られたトワイライトエクスプレスの展望車を模した再現車両を展示。大きなジオラマも複数用意されている(左)

 

「糸魚川ジオステーション ジオパル」内には、糸魚川をかつて走った寝台特急「トワイライトエクスプレス」の展望客車や食堂車を再現した木製の車両も展示されている。ちなみにこの再現車両は、東京・六本木で2019(令和元)年に開かれた「天空ノ鉄道物語」という催しのために造られたもので、糸魚川の杉材で造られた縁から、催しが終了後に同施設へ運ばれた。

 

鉄道模型を走らせることができる大きなジオラマが複数あるほか、旧北陸本線を走った列車の行先表示板や、駅名のホーロー表示など、鉄道好きならば思わず見入ってしまうグッズが多く展示されている。

 

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【郷愁さそう鉄旅⑩】青海駅、親不知駅と気になる駅が続く

糸魚川駅で一休みしたら、終点を目指そう。糸魚川駅を出ると大きな川を渡るが、こちらは一級河川の姫川だ。姫川は一級河川の水質ランキングでトップに輝いた清流で、車窓から澄んだ流れを見ることができる。

 

そして青梅駅(おうみえき)へ。この駅、鉄道好きならば気になる駅である。進行方向左手に、古い操車場跡が残り、線路が敷かれたままになっている。かつて貨車が多く出入りしていた様子が見て取れる。また、山で隠れ全景は見えないものの、青海川をさかのぼった山あいに大きな工場がある。デンカ株式会社の青海工場だ。推定埋蔵量50億トンとされる黒姫山の石灰石を利用している工場が今も稼働している。

 

かつては青海駅から同工場へ引き込み線が敷かれ、貨車を使ってのセメント関連材料などの輸送を行っていた。輸送はトラック輸送が主体となり、すでに工場への引き込み線は廃止されているが、工場内には今も専用鉄道線が残り、材料の運搬などに利用されている。

↑青海駅に近づく「国鉄形観光急行」。写真右手に操車場の跡地が広がる。駅横には線路が敷かれたままで残される(右上)

 

青海駅の巨大な操車場の横には鉄道コンテナ用の基地がある。こちらは今も現役の青海オフレールステーションで、新潟県西部の鉄道コンテナの輸送に欠かせない重要拠点となっている。操車場跡地は、その一部が今も大切な役割を担っていたのである。

↑青海駅の西側まで海景色が楽しめる。ちょうどこの下がトンネルの入口で、この先、親不知駅までトンネル区間が続く

 

青海駅を発車すると、新潟県西部で最も険しい海岸線が連なる区間へ入る。名高い親不知(おやしらず)・子不知の海岸である。親不知子不知はかつての幹線道、北陸道の断崖絶壁が続く難所で、地名は源平の合戦に敗れ、越後に落ち延びた平頼盛(たいらよりもり)の後を追った妻・池ノ尼の愛児が波にさらわれた故事にちなむ(諸説あり)。

 

前編で紹介した戦前の絵葉書のように、古くは景勝地だったが、今は海岸側に北陸自動車道が造られ、かつての趣はない。列車に乗っていても、親不知駅付近では、海景色があまり良く見えないのが残念である。

↑国道8号から親不知海岸を遠望する。北陸自動車道の海上高架橋が海上部へ張り出している様子が分かる。右下は親不知駅ホーム

 

【郷愁さそう鉄旅⑪】市振駅が富山との〝境界駅〟なのだが

親不知駅を発車すると、間もなく4本のトンネルが続く。第2外波、第1外波、風波、親不知とトンネルが続く区間だが、この区間も1965(昭和40)年までは旧線だった区間で、トンネルを通すことで、複線化し、スムーズな列車運行が可能になった区間だ。

 

4536mの親不知トンネルを抜ければ間もなく市振駅へ到着する。この駅が日本海ひすいラインと、あいの風とやま鉄道線の境界駅となるのだが、普通列車は同駅で引き返さずに、2つ先の泊駅での折り返しとなる。

↑日本海ひすいラインの〝起点〟でもある市振。駅の案内標は日本海をイメージしたデザインだ。普通列車は2つ先の泊駅まで走る(右上)

 

市振駅まで来ると、南側の山々の険しさも薄れ、視野が開けてくる。一応、日本海ひすいラインの〝起点〟にあたる駅だが、無人駅である。駅構内に赤レンガの古い倉庫があるが、かつてランプ小屋と呼ばれた明治から大正初期に建てられた倉庫で、電気照明がない当時にカンテラ用の灯油を保管していたものだった。各地の古い駅に今も20前後が残されているとされる。

 

市振駅で写真を撮っていると、一緒に列車に乗ってきた御仁が一言「何もない駅ですね」と話しかけてきたが……。確かに駅付近は殺風景なことは確かである。市振の集落は駅の東側にあり、市振関所跡や市振港がある。また駅前を通る国道8号を西へ行くと、道の駅や県境がある。

↑市振駅は無人駅で寂しさが感じられた。構内には赤レンガの倉庫が。ランプ小屋(左下)と呼ばれる倉庫で灯油を保管する施設だった

 

さて「何もない」と言われた市振駅だが、気になる場所がある。それは国道8号を西に1.3kmほど歩いた先に流れる境川だ。国道8号とあいの風とやま鉄道線が平行して境川を越えている。

 

境川はその名前のとおり新潟県と富山県の県境の川だ。川を渡れば富山県、また川を渡れば北陸地方へ入るというように、旅情が高まる地点だ。列車の写真を撮るのもうってつけだ。春には桜の花も美しい。帰りには駅までの途中にある「道の駅越後市振の関」に立ち寄りたい。店内には、新潟・富山両県のお土産を扱う店や、この地域の郷土料理たら汁や定食が味わえる食堂もある。

 

ここで新潟と富山の魅力を味わいつつ市振駅へのんびり戻れば、日本海ひすいラインの鉄旅がさらに充実したものになるだろう。

 

乗り甲斐あり!「日本海ひすいライン」郷愁さそう鉄旅を堪能する【前編】

おもしろローカル線の旅81〜〜えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン(新潟県)その1〜〜

 

新幹線網の広がりにより旅が便利になった一方で、平行する在来線がJRの路線網から切り離され、多くが第三セクター鉄道となり大きく様相を変えている。えちごトキめき鉄道の日本海ひすいラインもそんな路線の1つである。

 

この路線、北陸本線という幹線からローカル線になったものの、注目の「国鉄形観光急行」を走らせていることもあり、休日には多くの観光客で賑わう。

 

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【郷愁さそう鉄旅①】北陸本線として長い歴史を持つ路線

かつて滋賀県の米原駅と新潟県の直江津駅を結んだ北陸本線。日本海沿いを縦断する幹線ルートとして造られた。

 

北陸本線の歴史は古く、湖東地方から徐々に延ばされていく。北陸の敦賀駅までは1882(明治15)年3月10日、福井駅までは1896(明治29)年7月15日、石川県の金沢駅までは1898(明治31)年4月1日、1899(明治32)年3月20日に富山駅まで延ばされている。そこから直江津駅までの全通はかなりの時間がかかり、1913(大正13)年4月1日のこととなった。

↑日本海ひすいラインの有間川駅へ到着する直江津行きET122形気動車K7編成。同車両は「NIHONKAI STREAM」の愛称を持つ

 

北陸本線はかなりの難路をたどる。現在、巡ってみても、いくつかのポイントでその難路ぶりを見聞きできる。湖東側から見ると、まずは琵琶湖湖畔から福井県の敦賀駅に至るまではかなりの標高差がある。そのために、敦賀から琵琶湖沿岸へ向かう上り路線は、勾配を緩めるためにループ線が設けられている。

 

敦賀駅〜南今庄駅間には、現在、狭軌幅の路線で一番長い北陸トンネルが通っている。この区間は1962(昭和37)年のトンネル開通までは、曲がりくねった旧線区間だった。

 

石川県、富山県の県境には倶利伽羅峠という険しい峠がある。富山県から新潟県に至る区間はさらに険しさを増す。まず、新潟県の最西端部分にある親不知(おやしらず)付近。そして糸魚川と直江津の間も海岸部は険しい。そうした新潟県の西部にある難路は、線路の付け替え、また長大なトンネルを掘って複線化することにより、現在のようなスムーズな列車の運行が可能になった。

↑親不知付近を紹介した戦前絵葉書。左に名勝「投げ岩」が見える。現在、景勝地らしい面影は無く海上を北陸自動車道の高架橋が通る

 

ルートが険しいということは、景色が変化に富み、美しいということにほかならない。日本海ひすいラインは、そうした旧北陸本線のなかでも格別に美しい海岸線区間を通っている。

 

【郷愁さそう鉄旅②】長大トンネル+美しい海景色が連なる

ここで日本海ひすいラインの概要を見ておこう。

路線と距離 えちごトキめき鉄道・日本海ひすいライン/市振駅(いちぶりえき)〜直江津駅59.3km
全線複線・交直流電化
開業 日本海ひすいラインの区間では、1911(明治44)年7月1日に直江津駅〜名立駅間が開業、以降、泊駅〜青海駅間、名立駅〜糸魚川駅間が延伸開業。1913(大正2)年4月1日に青海駅〜糸魚川駅間が開業し、全通。
駅数 13駅(起終点駅を含む)

 

北陸本線は2015(平成27)年3月14日の北陸新幹線の金沢駅延伸に合わせて、JR西日本の路線から経営分離、金沢駅〜倶利伽羅駅(くりからえき)間は「IRいしかわ鉄道」、倶利伽羅駅〜市振駅間が「あいの風とやま鉄道」、とそれぞれ第三セクター路線に変わっている。

 

新潟県内の市振駅〜直江津駅間が、「えちごトキめき鉄道」に引き継がれた。路線名の日本海ひすいラインは、株主アンケートをもとに取締役会に提案された名称で、糸魚川付近が特産のヒスイと、路線が沿って走る日本海のイメージにちなみ名付けられた

 

【郷愁さそう鉄旅③】2010年代まで長距離列車の宝庫だった

2015(平成27)年の北陸新幹線延伸で誕生した日本海ひすいラインだが、旧北陸本線時代といっても、今から7年前とそれほど古くないので、よく覚えている方も多いと思う。

 

日本海沿いの幹線ルートだっただけに、長距離列車も多く走り抜けた。まずは少し前に走った長距離列車が彩った華やかな時代を振り返ってみよう。

↑2010年代前半に走っていた4列車。寝台列車や在来線特急などが走る華やかな区間でもあった

 

旧北陸本線だったころの市振駅〜直江津駅間は、近畿と新潟・東北地方を直接結ぶ経路でもあり、首都圏と北陸を結ぶメインルートでもあった。

 

例えば、大阪駅と青森駅を結んだ寝台特急「日本海」。電気機関車が牽引するブルートレイン寝台列車であり、個室のない昔ながらのプルマン式と呼ばれる2段寝台を連ねた客車列車だった。大阪駅と新潟駅を結んだ寝台急行「きたぐに」は、寝台電車583系の最後の定期運用の列車で、大量輸送時代に生まれた電車で3段ベッドも用意されていた。

 

日中に走る特急「はくたか」は、越後湯沢駅と北陸地方を結んだ特急列車で、首都圏の利用者が多かった。また特急「北越」は新潟と北陸地方を結んだ特急列車で、交直両用特急形電車485系の晩年の姿が楽しめた。

↑有間川駅付近を走る「トワイライトエクスプレス」。牽引はEF81形(左上)。深緑色の機関車と客車が日本海沿いで絵になった

 

旧北陸本線を走った最も華やかな列車といえば、寝台特急「トワイライトエクスプレス」ではないだろうか。大阪駅と札幌駅を1昼夜かけて走った長距離列車で、現在の日本海ひすいラインの沿線で、下り列車は夕暮れが、上り列車は朝の海景色が楽しめた。市振駅〜直江津駅間は同列車が走る路線の中で、最も魅力ある区間であるといえよう。

 

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【郷愁さそう鉄旅④】今走る車両もなかなか味わいがある

ここからは現在の車両たちを紹介しよう。バリエーションは、以前に比べて減ったものの、今も乗りたくなる車両が揃っている。

↑日本海ひすいラインの普通列車に使われるET122形気動車。前面や側面には日本海の波をイメージしたデザインが入る

 

同線を走る普通列車用の車両はET122形気動車である。電車ではなく、気動車が使われている。電化区間なのにどうして気動車が使われるのだろう。

 

日本海ひすいラインは、電化されているのだが、交流と直流との2つの方式で電化されている。交直流の電化方式は、えちご押上ひすい海岸駅と梶屋敷駅間のデッドセクション区間で切り替わる。通して走る場合には、電車ならば交直流への対応が必要となる。交直両用の電車を新造するとなると高価になる。そこで第三セクター鉄道のえちごトキめき鉄道に変わる時に、ET122形気動車を取り入れたのだった。

 

日本海ひすいラインでは、朝夕にはこのET122形気動車を2両連結で使用、日中は1両単行で運行されることが多い。現在ET122形気動車は8両が導入されている。そのうちK7とK8編成はイベント列車「NIHONKAI STREAM」と、「3CITIES FLOWERS」で、座席は対面式ボックスシートになっている。

 

ET122形のK6編成までは横一列に1人+2人用の転換クロスシートがならぶ構造で、入口付近にはロングシートがあり車内の趣がやや異なる。

↑ET122形気動車のK8編成「3CITIES FLOWERS」。車体には花のラッピング塗装が施されている

 

ET122形気動車はもう1タイプ1000番台が導入されている。2両編成の観光列車で、「えちごトキめきリゾート雪月花」という愛称が付けられている。車体は銀朱色と呼ばれる鮮やかな色で塗られ目立つ。

 

おもに週末を中心に日本海ひすいラインの直江津駅〜糸魚川駅間と、妙高はねうまラインの直江津駅〜妙高高原駅間を往復している。大きなガラス窓からは日本海や、妙高高原の美しい車窓風景を楽しみながら食事が楽しめる。

↑ET122形1000番台「えちごトキめきリゾート雪月花」は車体が一回り大きく、ガラス窓は可能なかぎり大きく造られている

 

えちごトキめき鉄道の車両以外にも、日本海ひすいラインには、あいの風とやま鉄道の521系車両が乗り入れ、市振駅〜糸魚川駅間1往復が走っている。

 

【郷愁さそう鉄旅⑤】「国鉄形観光急行」が同線最大の売りに

日本海ひすいラインを走る車両の中で、一番注目される存在なのが有料の「国鉄形観光急行」として走る455系、413系3両編成だろう。

 

国鉄時代に北陸本線用に導入された交直流近郊形電車が413系。また交直流急行形電車として導入されたのが455系である。えちごトキめき鉄道が導入した両形式は、元はJR西日本の車両だったが、七尾線に新車両を導入するにあたって、引退となった。

 

その車両を改めてメンテナンスした上で、色も国鉄急行色と呼ばれる2色で塗られた。413系2両に、市振駅側に急行列車用の455系(クハ455)1両を連結し、前後で異なる形となっている。

↑455系・413系を組み合わせた「国鉄形観光急行」。455系の正面にヘッドマークを付けて運行する。「急行」という表示が郷愁をさそう

 

運行は土日祝日で日本海ひすいラインの路線内では、直江津駅〜市振駅間を1往復、直江津駅〜糸魚川駅間を1往復するダイヤで運行される。今年の5月2週目からは一部金曜日も、日本海ひすいラインのみでの運行が行われる予定だ。

↑直江津駅へ戻るときには413系を先頭に走る。こちらは正面上の案内表示部分が埋め込まれた姿となっている

 

角張ったスタイルが特長の国鉄形電車のスタイルで、今、改めて見ると独特の風貌が郷愁をさそい、人気となっていることがよく理解できる。日本海ひすいラインにも近い、新潟地区の国鉄形近郊電車115系の運用がこの春にほぼ終了した。JR東日本に残った最後の115系だった。こちらが引退した影響もあり、同じ新潟県内のえちごトキめき鉄道の455系、413系が、ますます注目を浴びることになりそうだ。

 

【郷愁さそう鉄旅⑥】赤・青・銀がま……貨物列車も見逃せない

ここからは貨物列車に目を転じたい。同線を走る旅客列車は短い区間を走る普通列車がメインとなったが、通過する貨物列車は長距離を走る列車が多い。札幌貨物ターミナル駅〜福岡貨物ターミナル駅を結ぶ日本で最も長い距離を走る貨物列車も、日本海ひすいラインを通る。貨物列車の運用では今も、旧北陸本線、信越本線、羽越本線という路線は統括して「日本海縦貫線」と呼ばれる。

 

このあたりは旧北陸本線当時のままなのだ。とはいっても、変わったことがある。それは牽引する電気機関車である。

↑旧北陸本線時代には、国鉄形電気機関車EF81が同線の主力だった。すでに全車が撤退、一部が九州地区へ移っている

 

日本海縦貫線は直流電化区間と、交流50Hzと交流60Hzという電源の区間がある。この3電源に対応した日本海縦貫線用の電気機関車として開発されたのがEF81形式交直流電気機関車だった。それまでの交直流電気機関車にくらべて優れた車両で、貨物用のみならず、旅客用にも使われたことは知られているとおりだ。

 

長年、日本海縦貫線で活躍したEF81だったが老朽化もあり、また後継のEF510形式交直流電気機関車が増備されたこともあり、EF81は長年配置されていた富山機関区から、九州の門司機関区へ転出が完了している。

 

代わって日本海縦貫線のエースとなっているのがEF510形式交直流電気機関車だ。現在、EF510には3タイプが使われている。JR貨物が導入した赤い車体が基本番台で、エコパワーRED THUNDER(レッドサンダー)という愛称が付けられている。

↑日本海縦貫線を走る3タイプのEF510形式交直流電気機関車。右上から基本番台、500番台の銀色塗装車、左は青色塗装車

 

そのほかに日本海縦貫線のEF510には銀色と、青色塗装の機関車が走る。どちらもJR東日本が導入した500番台で、銀色塗装が寝台特急「カシオペア」用で2両、青色が寝台特急「北斗星」用として13両が造られた。2009(平成21)年から新造され、寝台列車と、常磐線などの貨物列車牽引の受託業務に使われたが、その後に寝台列車は消滅、また貨物の受託業務も終了したことにより、全車両がJR貨物に引き継がれ、富山機関区へ移り、日本海縦貫線の貨物列車の牽引にあたっている。

 

500番台は、わずかな期間だったが寝台列車の牽引という栄光を持つ車両であり、今は牽引する車両が貨車に変わっているものの、郷愁をさそう姿を日本海沿いで見かけることができる。機関車はSL時代からの名残で〝かま〟と呼ばれるが、日本海ひすいラインでは赤がま・青がま・銀がまと3色のEF510が牽引する貨物列車が走り、なかなか賑やかになっている。

 

*日本海ひすいラインの「郷愁さそう鉄旅」は次週の後編に続きます。

癒やされる車窓風景!? 焼き物の里行き「信楽高原鐵道」のおもしろ旅

おもしろローカル線の旅80〜〜信楽高原鐵道(滋賀県)〜〜

 

滋賀県の甲賀市(こうかし)を走る信楽高原鐵道(しがらきこうげんてつどう)。乗ればとても癒やされる、そんなローカル線である。

 

筆者は滋賀県を訪れるたびに乗りに行ってしまう。たぬきの焼き物たちに癒やされ、車窓に癒やされ……そんな信楽高原鐵道の旅を紹介していこう。

 

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【癒やしの信楽①】信楽とはどのようなところなのか?

信楽はご存知のように焼き物の里である。信楽焼の窯は日本六古窯のひとつにあげられる。歴史は古く、焼き物づくりが始まったのが鎌倉時代のこと。15世紀ごろから日常品を中心に焼き物づくりが活発になったとされる。

↑信楽高原鐵道の信楽駅ではたぬきの焼き物がお出迎え。信楽高原鐵道の旅はフリー乗車券(940円)の利用がお得だ

 

信楽は四方を山に囲まれた山里だ。周辺では良質の陶土が多く産出されたことで、焼き物造りが盛んになった。さらに京都に近く、古くから交通の要衝として賑わい、そこで造られる食器や生活雑器が広く流通するようになった。

 

2019(令和元)年9月〜2020(令和2)年3月に信楽を舞台にしたNHKの連続テレビ小説(朝ドラ)「スカーレット」が放映されたこともあり、さらにその名が全国に知られるようになった。今も信楽の里には多数の窯元が点在し、年間を通じて多くの人が訪れている。

↑信楽といえばたぬきの焼き物が名物。窯元を訪ねても、たぬきの焼き物がずらり。新しいタイプのたぬきも人気だ(右下)

 

【癒やしの信楽②】甲賀市のみを走る路線なのだが……

ここで信楽高原鐵道の概略に触れておきたい。

路線と距離 信楽高原鐵道信楽線/貴生川駅(きぶかわえき)〜信楽駅14.7km、全線単線非電化
開業 1933(昭和8)年5月8日、国鉄信楽線として開業、1987(昭和62)年7月13日に信楽高原鐵道となる
駅数 6駅(起終点駅を含む)

信楽高原鐵道信楽線の歴史は国鉄信楽線として始まる。1933(昭和8)年5月8日に全線が開業し、国鉄が財政難に陥った1980年代に輸送密度が低い特定地方交通線に指定。滋賀県と甲賀市(当時の水口町/みなくちちょう、信楽町)などが出資する第三セクター経営の鉄道会社、信楽高原鐵道として1987(昭和62)に再スタートした。

 

走るのは甲賀市のみだ。信楽という土地の名前が良く知られているものの、現在、信楽という町はない。2004(平成16)年まではあったものの、今は甲賀市信楽町となっている。甲賀市は甲賀町、水口町、信楽町など5つの町が合併した市で、面積は非常に広い。南東端は三重県と接し、南西端は京都府と接している。広いせいもあり、起点となる貴生川駅付近と、信楽駅付近は、風景や文化もだいぶ異なる印象がある。

 

歴史を見ても、甲賀市の東側は戦国期、豪族が乱立する忍者の里であり、江戸時代は水口藩の城下町だった。一方、西の信楽は焼き物の里として異なる歴史を歩んできた。広いとはいえ、なぜ同じ地域に異なる文化が育まれたのだろう。

↑JR草津線と信楽高原鐵道の接続駅、貴生川駅。同駅は元水口町の駅で、同じ甲賀市ながら平野がひらけ、町の東と西で風景が異なる

 

地域の文化が異なる理由は、信楽高原鐵道が走る路線を見れば、おおよそ推測ができる。甲賀市の東西を隔てる〝高原〟エリアの存在が大きい。このあたりは路線の興味深い一面なので、後ほど紹介したい。

 

【癒やしの信楽③】車両紹介!おもしろ忍者車両も走る

次に走る車両を見ておこう。車両は3形式の気動車が走る。形式名の頭にはすべて「SKR」が付く。「Shigaraki Kohgen Railway」の頭文字を合わせ「SKR」としている。

 

3形式のうち、2001(平成13)年と翌年にかけて導入されたのがSKR310形で、311号車と312号車の2両が走る。2017(平成29)年に、甲賀市の東エリアが忍者の里と呼ばれた歴史にちなみ、ラッピング列車「SHINOBI-TRAIN」となった。車体は311号車が深緑色、312号車が紫色のベースカラーで、それぞれ忍者のイラストが大きく描かれている。車内にもつり革に忍者の人形が潜むなど、なかなか楽しい列車だ。

↑「SHINOBI-TRAIN」という名が付くSKR310形311号車。車体は忍者のイラスト入り、つり革(左上)には忍者付きだ

 

SKR310形に比べて新しい車両がSKR400形とSKR500形で、SKR400形は2015(平成27)年に、SKR500形は2017(平成29)年にそれぞれ導入された。どちらも車両の長さが18mで、SKR310形にくらべて一回り大きく感じる。車体カラーはSKR400形が茶褐色、SKR500形が緑色。座席はSKR400形がロングシートに対して、SKR500形が転換式クロスシートとなっている。

↑前がSKR500形、後ろがSKR400形の組み合わせ。この2両で走る列車が多い

 

【癒やしの信楽④】「高原」という名前が付いているものの

信楽高原鐵道の社名には「高原」という言葉が入る。ロマンを感じる素敵な名前だと思う。

 

起点の貴生川駅と紫香楽宮跡駅(しがらきぐうしえき)の間では、木々が生い茂る山の中、民家もないところを走ることもあり、これぞ高原というような場所を走っている。春は桜に新緑、秋は紅葉など四季折々の美しい車窓風景が楽しめる区間である。

 

「高原」という言葉の定義はあいまいだが、国語辞典(「スーパー大辞林」)には「海抜高度が高い平原。起伏が小さい高地」とある。高原とする標高の目安は600m以上のものとする解説もある。さて、信楽高原鐵道の路線はどうだろうか。

 

路線とほぼ平行して走る国道307号の標高を国土地理院の地図で確認すると、同エリアの国道のピークは標高338mとある。この国道は路線の真横を通るだけに、信楽高原鐵道は、この300m級の〝高地〟を走っていると言って良いだろう。

↑貴生川駅から路線のピークへ向けて走る。最初の一駅区間は山中に入ると、民家は皆無となり、実際に高原らしい風景が楽しめる

 

信楽高原鐵道が走る路線が高原の定義に当てはまるかどうかは異論もあるだろうが、第三セクター化する時に、なかなか上手い名前を付けたものだと思う。

 

【癒やしの信楽⑤】貴生川駅から一つ目の駅まで9.6kmも走る

ここから信楽高原鐵道の旅を始めよう。起点は貴生川駅で、この駅でJR草津線と近江鉄道本線に接続する。信楽高原鐵道の乗り場は、JR草津線の3番線ホームの反対側にあり、ホームの番数は付いていない。草津線と信楽高原鐵道のホームの間に交通系ICカードが利用できる簡易改札機が設置され、貴生川駅で乗り降りしたことをICカードに記憶させることができる。

 

信楽高原鐵道内では交通系ICカードの利用はできない。そのため貴生川駅からの乗車は駅に据え付けられた乗車駅証明書発行機で証明書を発行、また無人駅から乗車する時には車内入口の整理券を受け取り、乗車しなければいけない。下車する時には、有人の信楽駅をのぞき、列車の一番前で現金精算することが必要になる。

↑貴生川駅の最も西側にある信楽高原鐵道のホーム。向かい側はJR草津線の草津方面行きの列車が発着する

 

貴生川駅からの列車は6時台から22時台まで、ほぼ1時間おきに運行される。日中は、10時台から15時台までは各時間とも24分発、信楽駅発の場合には10時台から14時台まで54分発と一定で、利用者にとって分かりやすい時刻設定となっている。

 

筆者は10時24分発の信楽駅行き転換クロスシート座席のSKR500形に乗車した。定刻通り出発した列車は、独特のディーゼルエンジン音を奏でつつ、JR草津線に沿って走る。駅の先にある虫生野(むしょうの)踏切を通り、草津線と分かれ右カーブを描いて走る。

↑貴生川駅を発車したSKR400形。しばらくJR草津線と平行して走る

 

立ち並ぶ民家を眼下に眺めつつ、堤を走り杣川(そまがわ)を渡る。その先で、急な坂を登り始める。線路脇に立つ勾配標を見ると33パーミル(1000m走る間に33m登る)とあった。この急坂を登るために気動車はエンジン音をさらに高めた。次の駅の紫香楽宮跡駅まではだいぶ離れていて9.6kmの区間を、15分かけて走る。

 

1つめの紫香楽宮跡駅から先は駅と駅の間の距離が600m〜2.3kmと短めにもかかわらず、なぜ最初の駅間のみ9.6kmと長いのだろう。じつは、この貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間に信楽高原鐵道の特長が詰まっているといっても過言ではないのだ。

↑貴生川駅を発車し、次の紫香楽宮跡駅を目指す列車。坂の角度が、途中から急に強まっているのが分かる

 

信楽線が造られた昭和初期、国鉄では幹線とローカル線で、その造りを大きく変えて路線造りを行っていた。信楽線の貴生川駅〜紫香楽宮跡駅の途中区間は標高差170mもある。幹線ならばトンネルを掘って、なるべく高低差に影響されない路線造りを行ったであろう。

 

ところが、信楽線はローカル線ということもあり、工事費を節約するためにトンネルは掘らずにカーブを多用、急勾配を組み込みつつ路線造りを行った。スピードを重視するのではなく、ゆっくりでも良いから開業させたい思いが伝わってくる。今も開業当時の最小曲線半径200m、最大勾配33パーミルという、ローカル線らしい路線となっている。

 

勾配は厳しく、小さな半径の左カーブ、右カーブが続く。実際に乗ってみると、高原鉄道の名に相応しい線形となっていることが分かる。

 

貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間は庚申山(こうしんさん)と呼ばれる山が広がるエリアで、地元のハイキングコースとして知られる。国道307号が平行して走るものの、民家はまったくない。線路近くには甲賀市や湖東の遠望が楽しめる庚申山展望台がある。東海自然歩道も近くに通り、ハイカーに人気のエリアでもある。

 

列車は急勾配を登りつつ、左後ろを振り返ると、貴生川(水口町)の町並みがはるか眼下に見えた。エンジン音が静かになり、惰性で走り始めた時に、やや開けた峠のピークにさしかかった。そこには砂利が引き詰められ、古い線路や枕木が置かれていた。小野谷(おのたに)信号場の跡地だ。

↑貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間のほぼピーク部分にある小野谷信号場の跡。第三セクター化された後に設けられた信号場だった

 

小野谷信号場は1991(平成3)年に設けられた信号場で、当時、ちょうど信楽で世界的な陶器イベントが開催されたこともあり、列車増便を図るために設けられた。ところが、増便したことが予想外の結果をもたらす。信楽高原鐵道の紹介にあたっては、避けて通れない歴史ということもあり触れておきたい。

 

この信号場が造られたものの、信号機器の設定ミスなどが重なり、事故が起きた。1991(平成3)年5月14日の「信楽高原鐵道列車衝突事故」である。JR西日本から乗り入れた臨時快速列車と信楽高原鐵道の普通列車が、この信号場からやや紫香楽宮跡駅側で正面衝突事故を起こしてしまったのである。死者42名を出す大惨事となった。

↑線路端にある「信楽高原鐵道列車衝突事故」の慰霊碑の横を走る信楽駅行き列車

 

事故後に信楽高原鐵道は約7か月にわたり運休、後に事故現場近くの線路横に慰霊碑が立てられた。碑には「犠牲者の御霊のご冥福をお祈りするとともに、これを教訓とし二度とこのような大事故を繰り返すことのないよう、鉄道の安全を念願し建立されたものである」という言葉が添えられている。

 

事故の後、小野谷信号場は使われることなく廃止、ポイント切り替えなどの設備も取り外された。JR西日本からの乗り入れ列車も、途中での上り下り列車の交換もなく、1列車のみが路線を往復する形での運行が続けられている。

 

【癒やしの信楽⑥】紫香楽宮跡と信楽の関係は?

信楽高原鐵道の進行右手に国道307号が見えてきたら、最初の駅、紫香楽宮跡駅に到着する。紫香楽宮跡と、信楽は同じ「しがらき」と読むが、何か関連があるのだろうか。

 

紫香楽宮跡駅から徒歩7分ほどの所に「紫香楽宮跡」がある。この紫香楽宮は8世紀初頭に国を治めた45代聖武天皇が造営した宮だとされる。造成を始めたものの、情勢不安となり宮は放棄された。紫香楽宮は、信楽宮とも記したとされ、信楽焼という焼き物名や地名になったとされる。

↑朝もやの中、紫香楽宮跡駅を発車するSKR500形。紫香楽宮跡は駅の北西部にあり徒歩7分と近い

 

紫香楽宮跡駅付近からは東西を山に囲まれた狭い平野部に、大戸川、国道307号、信楽高原鐵道がほぼ並んで通る区間に入る。山里ながら田畑、そして駅の近辺には民家も建ち並ぶ。紫香楽宮跡駅から次の雲井駅(くもいえき)までは、わずかに600m、約2分で到着する。さらに勅旨駅(ちょくしえき)へ。

 

勅旨とは天皇の命令書のことで、この地には勅旨賜田(ちょくししでん)があった。勅旨賜田とは天皇の命令で整備して、個人に与えた水田だとされる。紫香楽宮跡や、勅旨など、当時この地域と中央政権とのつながりが深かったことが良く分かる。

 

【癒やしの信楽⑦】ホームから釣り橋が見える玉桂寺前駅

大戸川を渡り左右から山々が迫って来たところに玉桂寺前駅(ぎょくけいじまええき)がある。ホーム1つの小さな駅だが、この駅はなかなかロケーションが面白い。駅名通り玉桂寺という寺が近くにあり、駅との間に大戸川が流れるために、橋が架かる。

 

人のみが渡ることができる釣り橋で、「保良の宮橋(ほらのみやばし)」という名前を持つ。

↑玉桂寺前駅の信楽駅側に架かる保良の宮橋。その橋の先に玉桂寺(左手)が見えている

 

保良の宮橋は1990(平成2)年にかけられた釣り橋で、地元では鉄道の線路、大戸川、道をまたぐ珍しい橋とPRしている。玉桂寺は、奈良時代に淳仁天皇(じゅんにんてんのう/47代)が離宮として建てた保良宮の跡地という説も残る。そのために保良の宮橋と名付けられたそうだ。ちなみにこの釣り橋付近は鉄道ファンにも人気があるポイントで、橋のたもとで列車を撮影する人を見かけることもある。

↑保良の宮橋の上から見たところ。歩行者専用で、橋の幅は意外に狭くスリリング。橋付近から列車の写真も撮影可能だ(右上)

 

↑保良の宮橋の先には、朝ドラの撮影地に使われた遊歩道が延びる。人気シーンを撮影した場所にはカメラスタンド(左下)もあった

 

【癒やしの信楽⑧】なぜ信楽はたぬきの焼き物が多いのか?

玉桂寺前駅を発車して間もなく終着駅、信楽駅に到着した。信楽高原鐵道は途中の駅は4つのみで、全線の所要時間が25分あまりと短いものの、たっぷり乗ったようにも感じられる。やはり最初の貴生川駅〜紫香楽宮跡駅間に途中駅がなく、長く感じるせいなのだろうか。

↑信楽駅はホームが2面あるものの駅舎側のホームのみが使われる。路線の先(右上)は行き止まりだが先に延ばすプランもある

 

終着駅で線路が途切れているものの、この先に延ばすプランが過去にあり、また今も生きている。信楽線は元々、京都府木津川市(きづがわし)の加茂駅(関西本線)まで延ばす計画で造られた。今は、近江鉄道本線から信楽高原鐵道を経て、片町線(学研都市線)まで延ばす「びわこ京阪奈線(仮称)」という構想がある。延伸は難しいかもしれないが、プランとしてはなかなか興味深い。

 

さて、そんな信楽駅で旅行客を迎えるのが大小のたぬきの焼き物たちだ。なぜ信楽にはたぬきの焼き物が多いのだろう。

↑信楽駅の駅前には高さ5.3mの大だぬき(右)がお出迎え、この大だぬき、公衆電話付きで電話ボックスも兼ねている

 

たぬきの焼き物が名物になったのは、意外に最近のこと。信楽焼のたぬきは、笑顔、目、とっくりなど8つの部分が〝八相縁起〟と呼ばれ縁起が良いとされてきた。さらに1951(昭和26)年に昭和天皇が信楽を行幸された時に、歓迎の様子とたぬきの焼き物が盛んに報道されたことから、信楽焼=たぬきの焼き物というイメージが定着したそうだ。ユーモラスなたぬきの焼き物が、信楽の知名度とイメージアップにつながったとは、なかなかおもしろい。

 

【癒やしの信楽⑨】ぜひお勧めしたい信楽窯元めぐり

せっかく列車で信楽を訪れたのならば、やはり町歩きも楽しみたいもの。信楽駅ではレンタサイクルも用意しているので、自転車利用で、窯元めぐりをしてみてはいかがだろう。駅の西側、大戸川と国道307号を渡ったエリアに窯元が点在している。

↑信楽焼はたぬきだけでなく、日常使いの食器や茶器、火鉢、かめ、傘立てなど種類も豊富で楽しめる(『宗陶苑』で)

 

信楽の窯は大小さまざま。一般に公開されている大きな窯元もあれば、個人営業でふだんは公開していない窯元もある。信楽焼の紹介パンフレットなどで、大規模な登り窯を利用した窯元の紹介が出ているが、現在、登り窯を利用しているのは「宗陶苑」(甲賀市信楽町長野)のみ。以前ほど大量に焼き上げる窯が少なくなっているため、登り窯までは必要とされないためだそう。ほかに残る登り窯は観光スポットとなり、カフェなどに利用されている。

 

登り窯を訪れた時に見ておきたいのは、窯の内部に残る〝石はぜ〟と呼ばれる美しく光る壁面。長年使われた窯には陶土内に含まれる石粒がはじけて生まれる〝石はぜ〟が付き、独特な〝景色〟を生み出す。これは登り窯の壁だけでなく、焼き物の表面にも表れ、信楽焼の魅力とされている。

↑傾斜地に段々状に焼成室を持つ登り窯。写真は観光施設として公開される『Ogama』の登り窯。カフェも併設されている

 

街中にはさまざまな焼き物のオブジェも設置されているので、信楽らしい焼き物を見ながらの町歩きが楽しい。

 

【癒やしの信楽⑩】貴生川駅で接続の草津線の電車も気になる

信楽高原鐵道を訪れたら、チェックしておきたいことが他にもある。それは貴生川駅を通るJR草津線の電車と、近江鉄道本線の電車だ。

 

草津線には今も、国鉄形の近郊形電車113系や117系(朝夕のみ)が走っている。この春のダイヤ改正で変更されるか心配されたが、今のところ、これらの電車の走行が確認されている。

 

とはいうものの、JR西日本では急速に国鉄形電車の運用範囲を狭めており、草津線の113系も、数年後には消滅の可能性も出てきたようだ。鉄道ファンとしては信楽高原鐵道へ訪れた時には、草津線の113系もしっかり目に焼き付けておきたい。

↑貴生川駅近くを走る113系電車。今やJR西日本のみに残る国鉄形近郊電車で、草津線、湖西線のほか、岡山地区などを走る

 

草津線だけでなく、貴生川駅を発着する近江鉄道本線も気になる路線だ。こちらは旧西武鉄道の電車が走っている。ここでも古い車両の廃車が徐々に進んでいる。3月末には西武鉄道で401系、近江鉄道では820形とされた車両が引退になった。

 

貴生川駅の東側に、近江鉄道のホームがある。訪れた際には、何形が停車しているかチェックしておきたい。時間に余裕があれば、この路線で米原駅へ向かっても良いだろう。

↑貴生川駅に停車する近江鉄道300形。同線では新車にあたるが、元は西武鉄道の3000系で、すでに西武鉄道では全車が引退している

今や希少!国鉄形機関車がひく「石巻線」貨物列車&美景を旅する

おもしろローカル線の旅79 〜〜JR石巻線(宮城県)〜〜

 

日本国有鉄道がJRとなり今年で35年。国鉄時代に生まれた車両も続々と引退に追い込まれている。少し前までは見向きもされなかった国鉄形車両が、いつしか減っていき注目される存在になっている。今回紹介する石巻線を走るDE10形式ディーゼル機関車(以下「DE10」と略)もそんな一形式だろう。

 

貴重になったDE10が走る石巻線。貨物列車ばかりでなく列車に乗って旅をしてもなかなか楽しい路線である。

 

*本原稿は2021年までの取材記録をまとめたものです。新型コロナ感染症の流行時にはなるべく外出をお控えください。

 

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【石巻線を巡る①】110年前に軽便鉄道として開業した石巻線

まずは石巻線の概略を見ておこう。

路線と距離 JR東日本・石巻線/小牛田駅(こごたえき)〜女川駅(おながわえき)44.9km、全線単線非電化
開業 1912(大正元)年10月28日、仙北軽便鉄道により小牛田駅〜石巻駅間27.9kmが開業。
駅数 14駅(起終点駅を含む)

 

石巻線は、まず仙北軽便鉄道として開業。当時の線路幅は762mmだった。仙北軽便鉄道だった期間は短く、1919(大正8)年4月1日に国有化、翌年には1067mmの線路幅の変更されている。現在、石巻まで仙台からJR仙石線(せんせきせん)が走っているが、こちらが石巻駅まで開通したのは1928(昭和3)年のことで、宮城電気鉄道という私鉄の路線だった。宮城電気鉄道も1944(昭和19)年に国有化されている。石巻線がいち早く国有化されたのは、太平洋に面した石巻港を重要視した国の政策もあったのだろう。

 

石巻線の終点、女川駅まで路線が延びたのは1939(昭和14)年10月7日だった。この区間にも前身となる鉄道が走っていた。1926(昭和元)年に石巻湊〜女川13.9km間を金華山軌道という軌道鉄道が走り始めている。こちらは石巻線が延伸されて約半年後の1940(昭和15)年5月3日に、廃線となっている。

 

石巻線の歴史で避けて通れないのは2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災の影響だろう。

 

震災後には全線が不通となり、約2か月後の5月19日に小牛田から石巻まで復旧している。仙石線の全線再開が2015(平成27)年5月末になったことを考えると、この復旧は石巻にとって大きかったに違いない。

 

さらに、2年後の2013(平成25)年3月16日に女川駅の一つ手前の浦宿駅(うらしゅくえき)まで復旧している。一方、女川駅付近の被害は甚大で、最後の区間の再開がなかなか適わず、仙石線の再開と同じ年、2015(平成27)3月21日に女川駅までの運転再開を果たしている。

 

【石巻線を巡る②】旅客用の主力車両はキハ110系

石巻線を走る車両を見ておこう。

 

主力はJR東日本のキハ110系である。キハ110系のなかでも100番台と200番台が石巻線の全区間を走る。いずれも小牛田運輸区に配置される。キハ110系100番台は普通列車用に設計された型番で、小牛田運輸区以外には郡山、新津、小海線と東日本の各地に配置されている。一方、200番台はマイナーチェンジ車。小牛田運輸区に配置された200番台は、陸羽東線・西線用で、山形新幹線が新庄駅まで延伸されたことに合わせて、増備された。

 

石巻線にも同200番台が走っているが、陸羽東線・西線の愛称が、〝奥の細道湯けむりライン〟また〝奥の細道最上川ライン〟と名付けられることから正面に「奥の細道」というロゴが入る。

↑石巻線を走るキハ110系200番台。この番台は陸羽東線・西線用の車両だが石巻線を走ることも多い。正面に奥の細道のロゴが入る

 

旅客用として入線するのがHB-E210系気動車だ。同車両は仙石東北ライン用の車両として造られ、2015(平成27)年5月30日、仙石線の路線再開に合わせて運転が始められた。運転開始にあたっては、仙石線と東北本線の間に接続線が設けられた。仙石線は直流で、東北本線は交流で電化されている。両線を通して走るために、ディーゼルハイブリッドシステムを活用したHB-E210系が開発されたのだ。

 

この車両が2016(平成28)年8月6日から石巻線の女川駅まで乗り入れている。とはいっても朝一番の女川駅6時発と、女川着22時19分着の最終列車のみの1往復と少ない。

↑仙石東北ライン用のHB-E210系気動車。石巻線では早朝と深夜運転の往復1本のみ同車両が使われる。写真は仙石線内

 

そのほかに、石巻線を走るわけではないが、石巻駅では仙石線を走る国鉄形通勤電車の205系を見ることができる。JRになってから改造された205系3100番台だ。

 

電動車モハは全車両が元山手線を走っていたもの。制御車のクハも元山手線や元埼京線の中間車サハ205形に、運転台を付け、また耐寒仕様に変更された車両だ。

 

205系は当時の国鉄が首都圏用に開発した車両で、山手線に1985(昭和60)年に最初に導入されている。その血を引き継ぐわけで、正面のデザインが変わったものの、年季が入った車両といっていい。

 

昨今、JR東日本では205系の引退を急いでいる。相模線、宇都宮線と新しい車両に置き換わりつつある。この春以降、残るのは鶴見線、南武支線などと、この仙石線ということになりそうだ。すでにE131系への置き換え情報も出てきており、仙石線の205系も数年中には置き換えが始まりそうだ。

↑仙石線の終点駅でもある石巻駅。仙石線は今や貴重な205系が走る路線でもある。水色塗装車のほかにラッピング車両も走る

 

【石巻線を巡る③】石巻線の貨物列車を牽くのはDD200とDE10

石巻線の貨物列車の牽引機について、ここで触れておこう。列車の牽引に使われるのが仙台総合鉄道部に配置されるDE10と、愛知機関区に配置されるDD200形式ディーゼル機関車(以下「DD200」と略)だ。

↑仙台総合鉄道部に配置のDE10-3001号機、2021(令和3)年11月13日の撮影の写真だが、2月初頭現在、走っておらず動向が気になる

まずは、DE10の生い立ちに触れておこう。生まれは1966(昭和41)年で、貨物駅での入れ替え、列車の牽引用にと万能型機関車として、1978(昭和53)年まで708両の車両が生み出された。国鉄からJRとなった後は、JR貨物ばかりでなく、JRの旅客各社に引き継がれ、今も旅客列車の牽引や事業用列車などに役立てられている。

 

とはいっても新しい車両でさえすでに40年以上の経歴を持つ古参となりつつあり、JR貨物、JR旅客会社それぞれ、後継車両への引き継ぎが行われつつある。

 

JR貨物のDE10が貨物列車を牽く路線は数年前までは複数あった。しかし、今は岡山機関区のDE10が山陽本線から水島臨海鉄道に乗り入れる貨物列車を牽引、また東京の拝島駅構内での米軍用の石油タンク車の牽引、また私鉄などの新車を牽く〝甲種輸送〟などに使われるぐらいに減ってしまっている(臨時利用や貨物駅の貨車入れ替え、臨海鉄道などに残るDE10を除く)。

 

石巻線の輸送には2月初頭の時点で2往復、DE10が使われているが、この列車も3月のダイヤ改正後にはどうなるか分からない状況になっている。

 

↑DD200が牽引する貨物列車。石巻線でDE10とともに列車の牽引にあたる

 

DD200は2017(平成29)年に導入された新型の電気式ディーゼル機関車で、貨物駅の貨車の入れ替え作業以外に、ローカル線での列車牽引も可能な仕様となっている。これまで各地のローカル線、貨物支線で行われてきたDE10による列車牽引も徐々に新しいDD200に引き継がれるようになっている。

 

【石巻線を巡る④】起点の小牛田駅で見ておきたいこと

ここから石巻線の旅を楽しむことにしよう。石巻線の起点は小牛田駅だ。同駅では東北本線と、陸羽東線に接続している。石巻線の乗り場は4番線ホームとなる。対面する3番線は東北本線の上りホームだ。

 

4番ホームの東側には側線があり、南には小牛田運輸区がある。ホームと東西自由通路からは、広い運輸区に停車する気動車や貨物列車が見渡せる。ここにはJR東日本が導入した事業用のレール輸送車、キヤE195系の姿を見ることも多くなっている。同車両はJR東海が開発したレール輸送車キヤ97系のカスタマイズ版で、2017(平成29)年の導入時には、こちらの小牛田運輸区に最初に配置された。そうした車両群を小牛田駅では確認しておきたい。

↑東西自由通路から見た小牛田運輸区、下にキハ110系2000番台が停まる。右下は小牛田駅の西口駅前

 

小牛田駅から走る石巻線の列車は1日に18本、そのうち4本が前谷地駅(まえやちえき)から気仙沼線の柳津駅まで走る列車、2本が途中の石巻駅行き、2本が前谷地行きとなる。終点の女川駅まで走るのは1日に11本で、1〜2時間に1本という間隔で運行されている。

 

所要時間は小牛田駅から石巻駅までは33分〜40分ぐらい、女川駅までは1時間15分〜30分といったところだ。

 

小牛田駅から12時42分発の石巻駅行き2両編成へ乗り込む。乗客は5割のシートが埋まる程度で空いていた。出発して間もなく、東北本線の線路から離れ、右にカーブして非電化区間へ入っていく。

 

小牛田駅の周辺に建ち並ぶ民家もすぐに途絶え、左右に水田が広がる風景が続く。このあたりは仙北平野で、銘柄米ササニシキ以外にも最近は、「金のいぶき」といった新しい米が開発され、栽培されている。

↑東北本線の線路から離れ右カーブする石巻線。駅の側線や運輸区から延びる線路とこの付近で合流。電化設備もここまで

 

【石巻線を巡る⑤】前谷地駅で気仙沼線とBRTに接続する

小牛田駅の次の上涌谷駅(かみわくやえき)付近からは国道108号が平行して走るようになる。国道108号は石巻と秋田県の由利本荘市を結ぶ2級国道で、石巻線に付かず離れず走っている。2つめの涌谷駅は石巻線のなかでも、石巻に次いで駅付近に民家が建ち並らび賑わいが感じられる駅だ。とはいっても無人駅なのではあるが。

 

小牛田駅から石巻駅までは高低の差があまりなく、ひたすら平野部を走る。車窓から見る風景は単調だ。涌谷駅周辺の賑わいが絶えると、再び水田風景が広がる。次は前谷地駅だ。この駅は東日本大震災後に大きく変わった駅の一つといって良いだろう。

↑石巻側から前谷地駅構内を見る。気仙沼線の乗換駅だったホームも今は閑散としている

 

↑前谷地駅前(左上)にあるBRT気仙沼線の乗り場。1日5本の気仙沼駅行きが発車する。気仙沼駅までは2時間20分ほどかかる

 

震災前は気仙沼線が気仙沼駅まで走っていて、石巻線との乗換駅でもあった。列車本数こそ少なかったものの、気仙沼駅発、涌谷駅、小牛田駅経由の仙台駅行きの快速列車が1日に2本が走っていた。いま、快速列車は走らず、みな普通列車のみだ。

 

しかも、気仙沼線の鉄道区間として残るのは前谷地駅〜柳津駅間のみで、走る列車は1日に9本だ。その先は気仙沼駅までBRT(バス・ラピッド・トランジット)化されている。一方で、前谷地駅前にはBRTの発着所が設けられ、ここから気仙沼行きのバスが5往復している。列車本数が少ない分、バスが補っているわけだ。

↑気仙沼線と石巻線の分岐ポイント。左が気仙沼線の線路。石巻線の線路をちょうど小牛田行きの列車が走ってきた

 

【石巻線を巡る⑥】石巻駅で仙石線と合流。さて駅前には

前谷地駅の先で気仙沼線と別れた石巻線は、再び広々した田園風景の中を走る。次は佳景山駅(かけやまえき)だ。この駅の先で左から少しずつ大きな堤が近づいてくるのが見える。

 

堤の規模から見て北上川の堤防なのかな、と思ったのだが、調べると旧北上川のものだと分かった。旧北上川と北上川の違いは後ほど触れたい。

 

鹿又駅(かのまたえき)、曽波神駅(そばのかみえき)と読みの難しい駅が続く。旧北上川の堤がさらに近づいてみえるようになり、高速道路の高架橋をくぐる。地図などでは「三陸自動車道」と記される自動車専用道だ。正式には「三陸縦貫自動車道」とされ、仙台市と岩手県宮古市を結ぶ。区間ごとに道路名が異なり分かりにくい道路だが、国道45号として運用され、大半の区間が無料の高速道路だ。同道路が全通したことから、宮城県から岩手県まで三陸海岸沿いの地域の復興工事がより円滑に進むようになっている。一方で平行する気仙沼線、大船渡線は鉄道路線としての復旧は断念され、BRT化された。

 

前谷地駅からはすでに石巻市内へ入っている。とはいえ、石巻の市街地は車窓から見えない。曽波神駅を過ぎるとようやく、民家が増えてくる。右から仙石線の高架が近づいて、合流すると間もなく石巻駅へ到着する。

↑石巻線の石巻駅。駅前には石ノ森章太郎氏の漫画作品のキャラクターを模したモニュメントが飾られている

 

↑石巻駅の3番線に停車する石巻線の列車。向かいには貨物列車が機関車の機回しのために入線していた

 

石巻駅で降りると気がつくことがある。石巻線の貨物列車が入っていることと、駅舎の正面などに漫画家の石ノ森章太郎氏が生んだキャラクターのモニュメントが飾られていることだ。石ノ森章太郎氏は宮城県の登米市(とめし)出身。石巻市内には石ノ森萬画館という記念館(漫画ミュージアム)があることから、こうしたモニュメントが飾られているのだ。

 

ちなみに、東日本大震災の際に石巻線の沿線では曽波神駅から石巻駅、さらに東側の陸前稲井駅が沿って流れていた旧北上川へ津波が遡上し、さらに渡波駅(わたのはえき)が海辺だったこともあり、浸水被害にあっている。

 

【石巻線を巡る⑦】車窓から眺める万石浦の景色が素晴らしい

石巻駅を出発すると間もなく石巻湾に流れ込む旧北上川を渡る。非常に大きな河川で、こちらが北上川の本流と勘違いしてしまうほどだ。

 

現在、北上川は気仙沼線の柳津駅と一つ手前の御岳堂駅(みたけどうえき)の間に架かる北上川橋梁付近で、本流と旧北上川が分岐。本流は石巻市の北東にある追波湾(おっぱわん)へ流れ込んでいる。

↑石巻市街側から望む旧北上川。川幅の広さに圧倒される。本流は追波湾に流れる側なのだが

 

旧北上川橋梁を渡り、堤防を降りると間もなく陸前稲井駅だ。このあたりはまだ内陸の趣だ。大和田トンネルを越えると、石巻湾に面した渡波地区となる。線路は海に向かって降りて行くとともに、大きくカーブして渡波駅へ到着する。渡波駅からは再び丘陵部に近づいていき万石浦駅(まんごくうら駅)、沢田駅と走る。この沢田駅から次の浦宿駅(うらしゅくえき)までの、万石浦沿いを走る区間が石巻線で最も車窓景色が素晴らしい。

↑万石浦に沿って走る石巻線の列車。穏やかな内海で、車窓からの眺めが楽しめる

 

万石浦は、砂嘴(さし)の伸長などによって、入り江が湖となった海跡湖(かいせきこ)とされる。万石浦の場合は渡波付近の砂嘴が伸びていき湖が生まれた。とはいえ、今も石巻湾とは水路がつながっている。豊かな自然が残り、アマモ、アサクサノリ、ウミニナといった絶滅危惧種が生息する地でもある。海苔やカキの養殖も盛んだ。

↑万石浦の北東端にある浦宿駅に停車する石巻線の列車。浦宿駅はホーム一つの小さな駅だ

 

【石巻線を巡る⑧】震災で大打撃を受けた女川だったが……

前述したように浦宿駅までは東日本大震災後、2年で営業再開された。ところが、次の女川駅までの路線復旧は4年後の2015(平成27)年3月21日となる。不通だった期間には、浦宿駅前にバス停が設けられ、女川駅まで代行バスが運行されていた。

 

浦宿駅を発車した列車は国道398号沿いを走り、徐々に堤を上がっていく。女川トンネルを通り抜けたら右カーブ、間もなく終点の女川駅へ到着する。

↑現在の1面1線の女川駅のホーム。以前のホームから200mほど内陸に移動され設けられた

 

この女川駅は、以前の場所から変更されている。震災前には今よりも200mほど海側にあった。駅前には多くの建物があり、賑わいを見せていた女川地区を最大14.8mの大津波が襲う。ちょうど女川駅に停車していた気動車は遠く山の上の墓地まで流された。

 

そんな女川駅もきれいに造り直されている。昔の駅があったエリアは「シーパルピア女川」というショッピングモールに模様替えされ、ショップや飲食店が建ち並ぶ。その向こうには穏やかな女川港が見通せる。

↑女川駅の駅舎には日帰り温泉の「女川温泉ゆぽっぽ」が設けられ、駅前に足湯もある(左)。足湯が利用できない時もあり要注意

 

新しい駅舎には町営の「女川温泉ゆぽっぽ」が館内にある(2月現在一部の施設のみ営業中)。実は旧駅舎に隣接して同じ名前の施設があった。この施設の駅側には朱色の国鉄形気動車キハ40系518号車が停められていて車内は休憩所として利用することができた。このキハ40系も数100m流され、横転し、無残な姿になってしまった。そうした被害の状況をあらためて見聞きし、大震災の怖さを改めて痛感させられた。

↑女川駅の駅舎から望むシーパルピア女川。このちょうど中ほどに旧女川駅があった。その先に女川港が見える

 

↑シーパルピア女川の「地元市場ハマテラス」には干物を販売する店も。天日干しする磯の香りに思わず引きつけられる

 

きれいに造り直された女川の街をぶらり散歩、磯の香りを楽しみしつつ、女川駅に戻り、上り列車に乗り込んだ。さて次は石巻駅へ戻り、貨物列車の動きに注目してみよう。

 

【石巻線を巡る⑨】貨物列車は仙石線経由で石巻港まで走る

石巻線では主に紙製品を積んだコンテナ貨車を連ねた貨物列車が走っている。列車本数は6往復で、荷物が多いときには1往復の臨時便が増便される。

 

石巻線の貨物輸送がどのように行われているか、DE10の動きをメインに見ておこう。

 

DE10が牽引する列車は次のとおり。

 

◇下り1655列車:小牛田11時12分発 → 石巻11時50分着・12時50分発 → 石巻港13時1分着

◇上り654列車:石巻港13時57分発 → 石巻14時9分着・14時41分発 → 小牛田15時39分着

◇下り655列車:小牛田16時51分発 → 石巻17時38分着・17時57分発 → 石巻港18時8分着

◇上り1656列車:石巻港18時44分発 → 石巻18時57分着・19時29分発 → 小牛田20時8分着

 

この4本がDE10の牽引列車だ。655列車と1656列車は夕方発および夜間の列車なので、この季節に、追うことができる列車は1655列車と654列車のみと言って良いだろう。

↑石巻駅で発車を待つDD200牽引の貨物列車。同駅構内で機関車の機回しが行われる

 

石巻駅で下り・上り列車とも、発着にだいぶ時間をかけているのは、これは石巻駅構内で進行方向を変えるためで、機関車を機回しするために必要とする時間だ。小牛田駅から走ってきた下り列車は、石巻駅へ着いたら機回しして進行方向を変更する。次に仙石線を一駅区間のみ走り、陸前山下駅から貨物支線を走り石巻港(貨物駅)へ向かう。

↑陸前山下駅から分岐する貨物支線を走るDE10牽引列車。この支線沿線では東日本大震災時の津波の高さを示す表示が多く見られる

 

石巻港には日本製紙石巻工場が隣接する。積むのはほとんどが同工場で生産される紙製品だ。この地域も東日本大震災による津波の被害を受け、貨物列車の運転再開も1年半後の2012(平成24)年10月のこととなった。

 

貨物支線の沿線を訪れると、各所に「津波浸水深」という津波がこの高さまで来たことを示す表示が多く掲示されていた。住宅地のいたるところにこの表示があり、こんなところにまで津波が届いたのかと驚かされた。

 

【石巻線を巡る⑩】より貴重!映える国鉄色のDE10

石巻線の貨物列車は日曜日に運休となる。そのせいなのか土曜日に沿線を訪れる鉄道ファンの姿が目に付く。とはいっても、首都圏のように人気の列車が走ると多くの鉄道ファンが集まるようなことはなく、静かなものだ。

 

石巻線で鉄道ファンが目立つのは国鉄当時の塗装を残した「原色」塗装のDE10が走る時だ。DE10にはJR更新色と呼ばれる塗装と、古くからの「原色」塗装のままの車両がある。やはり国鉄色の方が人気が高いようだ。

↑JR貨物更新色と呼ばれる塗装のDE10-1120号機。同機は残念ながら昨年に引退となっている

 

石巻線を走るDE10の最新動向を見ると次のDE10が使われている。1539号機、1591号機、1729号機、3507号機、3510号機の5両だ。このうち1591号機、3507号機、3510号機が原色機だ。

 

筆者が訪れた時に出会ったのが3510号機だった。佳景山駅〜前谷地駅間の水田が広がるところで貨物列車の通過を待ち受けた。そして撮影したのが下の写真。国鉄形、しかも国鉄原色ということで、撮影後の充実感に久々に満たされた。国鉄形はやはり〝映える〟と思う。さらに原色機ならではのカッコ良さが感じられる。そんな余韻を胸に前谷地駅から帰りの列車に乗車したのだった。

↑石巻線を走る国鉄原色DE10は貴重になっている。コンテナ貨車を牽く姿は見映えが良いと感じた

 

 

三セク鉄道の優等生「甘木鉄道」の気になる10の逸話

おもしろローカル線の旅78〜〜甘木鉄道(福岡県・佐賀県)〜〜

 

地元で〝甘鉄〟と呼ばれ親しまれる福岡県の筑後地域を走る甘木鉄道は、旧国鉄の路線を引き継いで生まれた。第三セクター方式で運営する路線の多くが運営に苦しむなか、経営状態も良好で〝三セク鉄道の優等生〟と呼ばれることもある。実際、どのように列車を走らせているのか、現地を訪れ、列車に乗車して確かめてみた。

 

*本原稿は2021年までの取材記録をまとめたものです。新型コロナ感染症の流行時にはなるべく外出をお控えください。

 

【関連記事】
九州最南端を走る「指宿枕崎線」−−究極のローカル線珍道中の巻

 

【気になる甘鉄①】朝倉軌道という妙な鉄道が走っていた

東日本では「あまぎ」といえば、伊豆の天城峠を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。九州では旧甘木市(現在は隣接の町と合併して朝倉市に)であり、甘木鉄道であろう。まずは概略を見ておこう。

 

路線と距離 甘木鉄道甘木線/基山駅〜甘木駅13.7km、全線単線非電化
開業 1939(昭和14)年4月28日、国有鉄道甘木線、基山駅〜甘木駅間が開業。
駅数 11駅(起終点駅を含む)

 

↑甘木鉄道の路線と周辺のマップ。路線図は甘木鉄道の駅などに掲載されているもの。乗り換えなど非常に分かりやすくできている

 

筑後地域には甘木鉄道が走り出す前まで、複数の軌道路線があった。朝倉軌道、中央軌道、両筑軌道(りょうちくきどう)といった軌道線である。「軌道」を名乗るように、道路上を走る路面電車の路線だ。3社の中でも朝倉軌道の名前は、今も好事家の間で語り継がれている。朝倉軌道は現在のJR二日市駅から甘木(場所は現在の駅より北にあった・上記のマップ・甘木バスセンターの位置)を経て杷木(はき)の間32.2kmを走った軌道線で、かなり妙な鉄道会社だった。

 

鉄道の路線は、国の認可を受けて敷設、変更、また車両を導入する。ところが、この朝倉軌道は国への届け出がいい加減で、車両なども平気で書類と違うものを造り、走らせてしまうこともしばしば。転車台も無許可で導入してしまった。当然、行政指導を受けるわけだが、それも無視といったことを続けていた。だが、1908(明治41)年の路線を開設以来、30年余にわたり事故の記録が残っていないところを見ると、安全管理面はしっかりしていたようだ。

 

甘木線が開業する直前の1939(昭和14)年4月24日に運輸営業停止と補償を申請して、8月21日には運行休止、1941(昭和16)年7月16日には補償金を得ている。国をさんざん悩ませておいて、最後はちゃっかりと補償金を受け取って会社を解散させてしまうという、なかなかの〝猛者〟だった。

 

筑後地域を走った3つの軌道会社は甘木線の開業後すべてが廃止された。ちなみに朝倉市内には〝筑前の小京都〟と呼ばれる旧城下町・秋月があり、戦前は両筑軌道が秋月まで走っていたが、今はバス路線に変わっている。

 

【気になる甘鉄②】甘鉄と愛される鉄道の本来の歴史を見る

余談が長くなったが、甘木鉄道の歴史を見ておこう。

 

甘木鉄道のルーツ、国鉄甘木線は太平洋戦争前に路線が開設されている。この時期は、国が戦備増強に追われていた時期で、同線の開業もそうした側面を持つ。

 

現在の太刀洗駅(たちあらいえき)の近くにあった陸軍の大刀洗飛行場への輸送力を増強するためという側面があった。路線の建設は1935(昭和10)年に決定され、わずか4年後には路線が敷かれた。路線は太刀洗止まりでなく、筑後地域の中心でもある甘木まで造られた。

 

国鉄時代の1981(昭和56)年に第1次特定地方交通線に指定され、廃止が承認。1984(昭和59)年には路線内の貨物輸送が消滅、先細り傾向が強まった。そして、1986(昭和61)年4月1日に第三セクター経営の甘木鉄道に転換された。

↑甘木駅前の交差点に「甘鉄駅前」の文字が(左上)。表示を見ても甘鉄の名が浸透していることが分かる。朝倉市内ではバス運行も盛んだ

 

甘木鉄道への出資は、路線が通る朝倉市、筑前町、基山町といった自治体と、沿線に工場があるキリンビールなどが行っている。通常、三セク鉄道に多い県の出資は福岡県(経営安定基金の拠出のみ)も佐賀県も行っていない。このあたり非常に珍しいケースである。

 

【気になる甘鉄③】8両すべての車体カラーが異なる

甘鉄を走る車両を見ておこう。車両はAR300形7両とAR400形1両の計8両。みな2000年代に入って富士重工業(途中から新潟トランシス社に移管)で新造された。片側2扉、全長は18.5mというややコンパクトな気動車だ。AR400形は同形車で、イベント用として造られたが、現在は他車と連結し、AR300形と同様に運用されている。

↑AR300形AR305は国鉄の急行形気動車と同じクリームと赤の2色で塗られている

 

楽しいのが、全車塗装が異なること。国鉄当時の一般形気動車の塗装や、急行形気動車の塗装、さらに沿線の高校の生徒さんがデザインした車両など、変化に富む。いろいろあって、見ているだけでも楽しい。

 

なお、同鉄道の車庫は終点の甘木駅にあり、日中は、この車庫内に停車している車両も多いので、一気に見たいという時には甘木駅を訪れることをお勧めしたい。筆者が訪れた時には甘木鉄道の〝標準色〟とされるAR301が検修施設に入り整備されていた。

↑甘木鉄道を走る車両をまとめてみた。下の列車のようにAR300形とAR400形が連結して走ることも珍しくない

 

↑右列が国鉄当時のカラーで塗られた車両。上のAR303が一般形気動車の塗装、下が急行形気動車の車体カラー

 

↑甘木駅の検修施設に入庫していたAR301。こちらが甘木鉄道の標準色で、他の車両も当初はこの車体色に塗られていた

 

【気になる甘鉄④】起点となる基山駅のとても簡素な入口

ここからは起点の基山駅から甘木鉄道の旅を楽しんでみよう。

 

列車の本数は多い。平日は42往復で、みな全線を通して走る。土曜・休日はやや減便され下り34往復となる。通勤通学客に対応すべく平日は増便し、朝夕は最短15分間隔、日中も30分間隔で列車が走る。地方の三セク鉄道としては非常に便利な路線と言ってよいだろう。

 

起点はJR鹿児島本線の基山駅で、同駅は佐賀県の基山町にある。同駅のJRの改札を出て、階上にある自由通路を国道3号方面へ向かったところに甘木鉄道の乗り場があるはずなのだが……。

 

JRの改札口側から見ると、それらしき入口がすぐには分からなかった。近づいてみて、上に小さな案内と、その右にこじんまりとした降り口の階段があることに気がついた。意外に目立たない入口だったのである。

 

JR基山駅のホームは1〜3番線、国鉄当時は4番線が甘木線のホームだったそうで、今もJR駅に平行してホームがある。だが、最初に見当たらないと錯覚したように簡素である。何番線という表示もない。同鉄道の駅員も不在の無人駅だ。

 

同鉄道を巡って良く分かったのだが、この鉄道会社は徹底的に無駄をそぎ落としている。反面、利用者に直接関わってくるサービスには力を入れていることが分かった。基山駅もそんな一面を持つ駅で、とにかく簡素だった。

↑基山駅の西口駅舎。東側には国道3号が通る。西と東を結ぶ自由通路に甘木鉄道のホームへ降りる階段がある

 

↑基山駅の自由通路から見た甘木鉄道のホーム。ホームは2両分の長さで、日中は気動車1両が基山駅〜甘木駅間を往復している

 

訪れた時にホームに停車していたのは国鉄急行形塗装のAR305だった。国鉄色とは〝これは幸先が良いかな〟と思い乗り込む。同駅を朝6時33分に発車する〝2番列車〟だった。始発駅では、座席の5割程度という乗車率だった。

 

しばらく鹿児島本線と平行して鳥栖駅方面へ走る。上り坂をあがって国道3号を高架橋で越えた。

 

【気になる甘鉄⑤】小郡市の玄関駅・小郡駅も西鉄の駅と比べると

基山駅から発車した列車はしばらく工場や倉庫が建ち並ぶ一帯を走る。次は立野駅。ここは九州自動車道のちょうど真下にある駅で、甘木鉄道が生まれた翌年に駅が設けられた。高速道路の高架橋が屋根代わりという、なかなかユニークな造りの駅だ。

 

三セク転換とともに、複数の新駅が設けられ、利用者の増加につながっている。こうしたことがなぜ国鉄時代にできなかったのか、不思議に感じるところでもある。この駅までが佐賀県内の駅で、次の駅からは福岡県内に入る。

 

立野駅を発車して間もなく、列車は大原信号場で停止した。全線単線の甘木鉄道では、こうした信号場や駅で上り下り列車の交換を行う。大原信号場は基山駅側にある最初の列車交換のための施設だ。停車した後に、すぐに基山駅行きの列車が通り、下り列車もそれに合わせて信号場を発車、次の停車駅へ向かった。

 

大原信号場は2003(平成15)年4月に開設されたもの。15分ヘッドという密度の濃い運転を可能にするために設けられた。信号場開設のために地元・小郡市(おごおりし)から土地が提供されたという。地元も甘木鉄道をより便利にするため、こうした協力を惜しまなかったわけである。

 

さて、次の駅は小郡駅。その名の通り地元の小郡市の玄関口にあたる駅だ。

↑小郡駅は高架にある。ホームは一本、駅入口と階段があるのみの簡素な駅だ

 

↑西鉄天神大牟田線の線路上を走る甘木鉄道のAR303。西鉄小郡駅の方が規模は大きい(右下)

 

この小郡駅は西鉄天神大牟田線の西鉄小郡駅に近く、乗り換えに利用する人が多い。帰りに立ち寄ってみたが、2駅間の距離は約200mで徒歩3分ほどと近い。こちらは幹線の駅ということで立派だ。西鉄小郡駅の規模に比べると小郡駅は簡素そのものだった。

 

【気になる甘鉄⑥】平行して走る高速バスとの乗り換えも便利

小郡駅では多くの学生たちが乗車してきた。ちょうど朝、通学するのに使う列車だったのである。この駅の特長は、ホームの目の前に高速道路の高架橋が平行して延びていること。大分自動車道の高架橋だ。次の大板井駅(おおいたいえき)まではわずかに700mの距離しかない。

 

実はこの大板井駅のすぐ目の前には高速バスの大板井バスストップがある。大板井駅は甘木鉄道に転換した翌年の開業だ。バス停方面の階段も設けられる。

↑大分自動車道を平行して走る甘木鉄道。この写真の先に大板井駅がある

 

駅と高速バス停が近いことを同鉄道ではしっかりPRしている。路線図には、高速バスのバス停が近いことを表示し、さらに列車の中でも「高速バス乗り換えの方は次でお降りください」とアナウンスしている。

 

駅などの施設は簡素だが、利用者を考えた対応を細かくしている。こうした配慮があれば、同線に初めて乗る人でも、まごつく心配がないだろう。

↑小郡駅から今隈駅(写真)まで甘木鉄道の路線は大分自動車道とほぼ平行して走っている

 

【気になる甘鉄⑦】太刀洗駅の駅名のいわれは?

松崎駅、今隈駅(いまぐまえき)と徐々に乗客が増えてくる。車窓には畑が見えるようになってきた。

 

西太刀洗駅(にしたちあらいえき)、山隈駅(やまぐまえき)と進行方向の左側には広々した畑が広がる。そして太刀洗駅(たちあらいえき)に到着した。入口は小さいが、無人駅ながら駅舎も残る。

 

駅舎の前、その頭上には元航空自衛隊の練習機T-33が飾られている。また駅舎内は「太刀洗レトロステーション」という民間の展示施設(有料)になっていた。

↑太刀洗駅(右上)の駅前から南側を望む。国道500号を挟んだ先には「大刀洗平和記念館」がある

 

太刀洗駅の南側、駅前を通る国道500号の先には筑前町立の「大刀洗平和記念館」がある。戦前にこの地にあった大刀洗飛行場の概要や、終戦間際に行われた特攻隊の出撃、さらに特攻攻撃に用いられた陸軍九七式戦闘機などが展示されている。

 

同施設の南側にはキリンビールの福岡工場がある。こちらの工場は大刀洗飛行場の跡地に造られたそうだ。ちなみに、同工場は見学が可能で、ビールのテイスティング体験なども楽しめる。

 

なお地元の町名は大刀洗町となっている。明治期、官報に村名が誤記載され、それ以来、「太刀洗」と「大刀洗」の2通りの地名が混在しているのだという。

 

さて、太刀洗という文字を見るに〝いかにも〟という駅名なのだが、どのようないわれがあるのだろうか。

↑太刀洗駅を発車するAR304。後ろには脊振山地(せふりさんち)が見えた

 

大刀洗の地名は、文字が示すように刀を洗ったという伝説を元にしていた。歴史をひも解くと、14世紀にこの地で南北朝時代、九州史上最大の合戦と言われる「筑後川合戦」があった。南朝、北朝が地元の豪族たちを巻き込んで行われた戦いで、総勢10万人というからなかなかの規模の戦いだったようだ。その戦いで南朝方の武将、菊池武光が川で刀に付いた血のりを洗ったことから大刀洗になったのだという。

 

大刀洗の言われよりも、この地で10万人という軍勢がぶつかった戦いがあったことに興味を覚えた。

 

【気になる甘鉄⑧】甘鉄の路線に近づいてくる線路は?

太刀洗駅まで来ると、もう終点が近い。各駅で多くの中高生が乗車してきたのだが、その様子にちょっと驚いた。乗車する中高生たちは、非常に静かだった。コロナ禍ということもあったのだろうか。みな進行方向を向き、車両の通路に列を作って整然と立っていた。学校の指導方針が浸透しているのかも知れない。

 

太刀洗駅の次の駅、高田駅を過ぎると、県道を立体交差するために設けられた堤を上る。上りきると、右から線路が一本見えてきた。大きくカーブして甘木鉄道の線路に近づいてくる。一度近づいた線路なのだが、交差や平行することもなく再び遠ざかっていく。

 

この線路は西鉄甘木線で、西鉄天神大牟田線の宮の陣駅と甘木駅間の17.9kmを走る。

↑高田駅〜甘木駅間を走る列車。手前の線路が西鉄甘木線の線路。このように近づいた線路だが、また離れて終点の甘木駅へ向かう

 

線路はこの先で小石原川を渡り、鉄橋を通りそれぞれの終点駅、甘木駅へ向かう。

↑前述の甘木鉄道と西鉄甘木線が最も近づく箇所のすぐ東側にかかる小石原川橋梁。この橋梁を渡れば終点の甘木駅までもうすぐだ

 

【気になる甘鉄⑨】風格ある造りの終点・甘木駅に到着した

起点の基山駅から27分ほどで終点の甘木駅に着いた。朝の列車だったこともあり、中高生が多く乗車していたが、降りる時にも騒ぐことなく静かに降りて行く。そのほとんどが、駅舎を通らずにホームの先へ向かい、車庫の横を通りすぎて、学校へ向かう。日々、歩き慣れた道といった趣だ。

 

よそから来た人間にとって、鉄道の敷地との境界がはっきりしない場所を通ることに違和感を感じたが、地元の人たちにとって、これが当たり前のルートのようだった。

↑甘木鉄道の甘木駅。駅舎内に同鉄道の本社がある。鉄印もこちらで扱われる。甘鉄で唯一の有人駅だ

 

甘木駅の駅舎は甘木鉄道の路線内ではもっとも立派だ。実は11駅ある甘木鉄道の駅で唯一の有人駅なのである。徹底して合理化されているわけだ。

 

この甘木鉄道には「甘木鉄道を育てる会」という応援グループもある。本部は甘木鉄道にあるものの、選任の職員はおらず一般会員(ボランティアスタッフ)により運営されている。「のりたい甘鉄」というホームページを設け、沿線さまざまなガイドを行っている。さらにイベント、七夕列車などの運行支援、清掃活動などの多技の活動をしている。

 

こうした活動を見ると地元では〝私たちの甘鉄〟といった思いを強く感じる。乗って支えるという意識が地元の人たちに強いように思った。

↑こちらは西鉄甘木線の甘木駅。甘木駅は西鉄の駅の方が簡素だ。右下は西鉄甘木線で運行される西鉄7000形

 

甘木駅に降りたあと、西鉄の甘木駅を訪ねてみた。甘木鉄道と西鉄の甘木駅は約200m離れている。歩けば3分の距離だが、どちらも「甘木駅」だ。小郡駅のように、甘木鉄道が小郡駅、西鉄が西鉄小郡駅と変えているようなことは、こちらではない。

 

ちなみに、西鉄の甘木駅は1921(大正10)年12月8日に三井電気鉄道という会社の駅として誕生した。1942(昭和17)年に西日本鉄道(西鉄)に合併、同社の駅となっている。

 

国鉄甘木線の開業よりも前なので、駅名も変えなかったのかも知れない。国鉄の甘木線開業当時には甘木駅は「あまき」と読んだそうだ。西鉄の駅との違いを強調したかったのだろうか。とはいえ、「あまき」は地元からも受け入れられなかった様子で、5か月後に「あまぎ」に改称されている。このあたりの経緯も興味深い。

 

甘木駅から西鉄福岡駅(天神)へ両鉄道を使った場合の差を見てみよう。甘木鉄道を利用した場合には52分(列車乗車のみの時間)、対して西鉄甘木線を利用した場合は1時間11分(前記と同じ)かかる。乗り継ぎがよければ、西鉄甘木線でも所要時間はあまり変わらないが、駅近辺の人の動きを見ると、甘木鉄道への乗客の方がより多いように見えた。

↑甘木駅構内にある車庫。右に検修庫とともに給油施設などが設けられている

 

【気になる甘鉄⑩】甘木駅前に「日本発祥の地」の碑があった

甘木鉄道甘木駅の駅前に立派な碑が立っていた。碑には「日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ」とある。日本発祥の地というのは本当なのだろうか?

 

卑弥呼は倭国の女王とされている。倭国とは2世紀ごろ、古代中国で呼ばれた日本の国の名前だ。碑の横に案内があって次のような解説があった。

 

要約すると、高天原は邪馬台国で、甘木朝倉地方にあり、その女王、卑弥呼は天照大神(あまてらすおおみかみ)とされるとある。邪馬台国がどこにあったかは諸説ある。解説には大和朝廷の前身は九州にあった邪馬台国で、それが東遷したとあった。

↑甘木駅前に立つ「卑弥呼の里」の碑。右に立つ案内に、甘木朝倉地方こそ邪馬台国であったことが解説されている

 

邪馬台国がどこにあったのかは、九州説、畿内説あり、どちらも絶対とする証拠は出てきていない。日本の歴史のミステリーとなっている。甘木駅前でこのような碑に出会うとは想定外だった。想定しないこととの出会いも旅の楽しさだと改めて感じたのだった。

いよいよ運転開始!レールと道路を走る世界初のDMV路線「阿佐海岸鉄道」を探訪した【前編】

おもしろローカル線の旅76〜〜阿佐海岸鉄道(徳島県・高知県)〜〜

 

徳島県と高知県をつなぐ阿佐海岸鉄道に2021(令和3)年12月25日、待望のDMV(デュアル・モード・ビークル)が走り始めた。世界初のレール上と道路を走ることができる〝鉄道車両〟の導入である。実際にどのように線路や道路を走っているのか、走り始めたばかりの阿佐海岸鉄道を訪ねた。

 

【関連記事】
世界初の線路を走るバス・DMV導入へ!「阿佐海岸鉄道」の新車両と取り巻く現状に迫った

 

【初DMVの旅①】これまでの阿佐海岸鉄道の歴史をチェック

まずは、阿佐海岸鉄道の歴史を見ておこう。

 

阿佐海岸鉄道は、日本鉄道建設公団が建設を始めていた阿佐線がルーツとなる。阿佐線は高知県の後免駅(ごめんえき/土讃線と接続)から室戸を通り、徳島県の牟岐駅(むぎえき)へ至る路線として計画された。予定線となったのは古く1922(大正11)年のこと。

 

長らく手付かずのままだったが、太平洋戦争後の1957(昭和32)年に調査線となり、その後に工事が始まり、1973(昭和48)年10月1日に徳島県側の牟岐駅〜海部駅(かいふえき)間が国鉄の牟岐線として開業した。1974(昭和49)年4月には海部駅〜野根(現在の高知県東洋町野根・野根中学校付近)の間の阿佐東線(あさとうせん)の工事が着手。1980(昭和55)年2月には海部駅〜宍喰駅(ししくいえき)のレール敷設が完了した。

 

ところが、当時、国鉄の経営状況はかなりひっ迫していた。レール敷設は完了したものの、その年の暮れ12月27日には日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が公布され、阿佐東線の工事は凍結されてしまった。

 

工事が進められていた阿佐東線の受け皿となったのが阿佐海岸鉄道である。徳島県・高知県および地元自治体などが出資し、1988(昭和63)年9月9日に第三セクター方式の会社が設立された。

↑阿佐海岸鉄道のASA-100形「しおかぜ」。開業当初に導入された車両で、2020(令和2)年11月30日に運用終了となった

 

当初予定されていた野根までの線路の敷設は適わなかったものの、1992(平成4)年3月26日に海部駅〜甲浦駅(かんのうらえき)間8.5kmの営業を開始した。DMV導入前は、朝のみJR牟岐駅までの乗り入れも行われていた。

 

ちなみに、阿佐線の高知県側の路線は、土佐くろしお鉄道が受け皿となり、後免駅〜奈半利駅(なはりえき)間42.7kmのごめん・なはり線(阿佐線)として2002(平成14)年7月1日に開業している。

↑ASA-300形「たかちほ」。元は九州の高千穂鉄道の車両だったが、同鉄道が災害により廃線となり、阿佐海岸鉄道に譲渡された

 

DMV導入前の阿佐海岸鉄道の所有車両はASA-100形とASA-300形の2両。ちなみにASA-200形という車両もあったのだが、衝突・脱線事故により2008(平成20)年に廃車となっている。また事故後、車両が足りなくなった時にはJR四国から車両を借り入れていた。

 

DMV導入のために、2020(令和2)年10月31日でJR牟岐線の阿波海南駅と海部駅1.5km区間の列車運行が終了し、翌11月1日に同区間は阿佐海岸鉄道の路線に編入された。11月30日には阿佐海岸鉄道のASA-100形とASA-300形が運行を終了。

 

阿佐海岸鉄道の旧車両はその後、解体されることなく、今もASA-100形が海部駅構内に、ASA-300形は宍喰駅近くの旧車庫に停められている。

↑2020(令和2)年秋までJR牟岐線の終点駅だった海部駅。阿佐海岸鉄道はこの駅が起点駅でJR線の乗換駅として利用された

 

↑阿佐海岸鉄道開業後、長らく終点駅だった甲浦。写真はDMV導入前で、ホームは階段を上った高架橋上にあった

 

【初DMVの旅②】2019年秋に導入車両が公開

阿佐海岸鉄道が走る阿佐東地域は、近年過疎化が進み、路線開業時に年17万6893人の乗車数があったのに対して、2019(令和元)年には乗車数は5万2983人まで落ち込んでいた。さらに鉄道路線に沿って路線バスも走っている。難しい経営環境である。廃線という道筋もあった。

 

ただ、路線がある徳島・高知両県にとって、いざという時のために交通インフラを維持しておきたい思惑があった。阿佐海岸鉄道の路線の大半が高架区間を走っている。平行する道路は国道55号しかなく、しかも、海岸に近いところを走っている。将来起こることが懸念されている「南海トラフ地震」で、四国沿岸は震度6クラスの揺れ、そして10m前後の津波が予測されている。そうしたいざという時のために、路線を存続させる道が探られた。

 

とはいえ、鉄道車両を維持するためにはかなりの経費がかかる。新たな車両導入となると億単位だ。経費を削減した上で、鉄道を存続できないか。定員100名といった規模の気動車は必要としない。小さくて手ごろな価格の車両がないだろうか? そんな時に浮かび上がってきたのがDMV導入案だった。

 

DMVはかつてJR北海道が導入を計画し、第1次〜第3次試作車を製造。JR北海道の路線だけでなく、静岡県の岳南鉄道(現・岳南電車)や、天竜浜名湖鉄道などでの走行テストが続けられていた。JR北海道では2015(平成27)年に導入を予定していたものの、当時、JR北海道管内で事故が多発するなどの諸問題が続いていたこともあり、導入を断念した経緯がある。

 

阿佐海岸鉄道は、このDMVを初めて実用化しようと考えたのだった。2017(平成29)年2月3日、「阿佐東線DMV導入協議会」が徳島市で開かれ、DMV導入計画が承認された。

↑徳島県の阿佐海南文化村で公開された時のDMV車両。赤青緑の3台が並んだ

 

長年、研究が続けられてきた技術だけに、車両が造られるのは意外に早かった。承認された2年後の2019(令和元)年10月5日には車両の報道公開までに至っている。3台が並ぶ写真は、その時の模様である。

↑前輪を出したDMV車両。前輪タイヤが浮いた状態まで車体が持ちあがる様子が分かる

 

車両はトヨタ自動車のマイクロバス「コースター」がベースとされている。コースターの市販車の価格はおよそ660万円台〜1030万円。日野エンジニアリングアネックスがシャーシを改造強化、さらに車体を東京特殊車体が改造し、NICHIJOが軌陸装置を担当した。

 

こうした車両製作費を「阿佐東線DMV導入協議会」は3両で約3.6億円〜3.9億円と見込んでいた。ちなみに、JR北海道で最近導入した新型電気式気動車のH100形は1両2億8000万円とされている。DMV車両は初もので、少量用意したことで高くついたものの、3両造ってこの金額だから、かなり割安となった。さらに、鉄道車両はメンテナンス代がかなりかかる。DMVのメンテナンスはマイクロバス+αで済むわけで、小さな鉄道会社にとってメリットも大きい。

 

車両を導入した2019(令和3)年から、DMVの導入に合わせた駅の改良工事なども進められた。「阿佐東線DMV導入協議会」では駅舎の改築に約2.8億円、信号設備等の整備に約3.6億円の概算事業費を見込んでいる。

 

一方、初のDMV導入の話題性により、新規利用者は年1万4000人増、経済波及効果は年2億1400万円と予想している。このあたり、どのような成果が出るかは非常に興味深い。

↑阿佐海岸鉄道の終点・甲浦駅では改良工事が進められた。訪れた2019(令和元)年10月には、アプローチ道路工事が行われていた

 

国内で初めて営業用として運行されるDMVだけに、国土交通省のチェックなどもだいぶ時間がかけられた。2021(令和3)年7月のオリンピック・パラリンピック開催に合わせていたが、テストの結果、前輪可動部「車輪アーム」の強度不足などがみつかり(その後に補強対策がとられた)、12月からの運行開始となった

 

なお、DMV車両と鉄道車両が混在して走ることは許されていない。阿佐海岸鉄道の線路はDMV車両専用としてのみ使われる。

 

【初DMVの旅③】DMVとはどのような車両なのだろう?

導入されたDMVはどのような車両なのかを見ておこう。形式名は「DMV93形気動車」とされた。

 

3両が導入され、1号車が青色のDMV-931で愛称は「未来への波乗り」。車体には宍喰駅の「伊勢えび駅長」がサーフィンしている様子が描かれる。阿佐東地域でサーフィンが盛んなことにちなむ。

↑阿佐海岸鉄道の車両DMV93形の1号車。愛称は「未来の波乗り」とされた。鮮やかなブルーの車体に楽しいイラストが描かれる

 

2号車は緑色のDMV-932で愛称は「すだちの風」。徳島県阿波の名産すだちを表現。県鳥のしらさぎが空高く舞い上がる様子が車体に描かれる。

 

3号車は赤いDMV-933で愛称は「阿佐海岸維新」。高知県出身幕末の英雄・坂本龍馬と南国土佐の輝く太陽が車体に描かれている。

 

それぞれ乗客用座席数は18名で、立席3名、乗務員1名の定員22名となっている。動力はディーゼルエンジンで、最高運転速度は70m/hだ。

↑ベースがマイクロバスということもあり座席数は18名。運転席の後ろに運賃箱、乗降口に整理券の発行機を設置(左上)

 

次の写真が線路上を走るDMV車両を横から撮影したところだ。これを見ると前後に鉄の車輪が車体から出され、線路上を走ることが分かる。鉄輪はガイド用で、レールから外れないための装備で、かつ駆動するゴムタイヤへの圧力を調整する役割も備えている。

 

駆動輪となるのが、後輪のタイヤ。DMV車両の後輪タイヤは2本あるダブルタイヤになっている。この内側のタイヤがレールに密着し、タイヤの駆動により、車両は前へ進む。このあたりは、保線用に使われる軌陸車用の中型トラックの構造と同じだ。

↑DMV-931が線路上を走る様子。これを見ると前輪タイヤがかなり上がっていることがよく分かる

 

線路沿いでDMV車両が走る音を聞いてみた。多くの鉄道車両はレールのつなぎ目を走ると、1両が2軸+2軸の計4軸のため、〝だだーん、だだーん〟という音がする。DMV車両は、鉄輪が2軸で、車重が軽めのためか、〝たんたん、たんたん〟と軽やかな音が聞こえた。初めて聞く音なだけに不思議、かつ新鮮に感じた。

 

【初DMVの旅④】DMVが走る路線をたどった

阿佐海岸鉄道のDMV車両は、どのようなルートで運行されているのか、全線をたどってみよう。

◆阿波海南文化村

北は徳島県海陽町の「阿波海南文化村」から出発する。「阿波海南文化村」は地元で発掘された大里古墳の復元などを展示、また「海陽町立博物館」も併設されている。海陽町の文化交流施設といって良いだろう。この文化村前にしゃれた待合スペースが設けられた。ここではバスモードとして走る区間なので、やや大きめのバス停という趣だ。

 

バスモードで走る区間の〝停留所〟それぞれには、サーフボードの形をした〝バス停の表示〟が立ち、そこに時刻などが掲示されている。

 

DMV車両はこのバス停を発車、約1.0km先にある、阿波海南駅へ向かう。

↑阿波海南文化村のDMV発着場所。屋根付きの待合スペースが設けられ、ドリンクの自動販売機も用意された

 

◆阿波海南駅

〝バス〟は約4分で阿波海南駅に到着。国道55号を走った車両は、阿波海南駅前で右折して駅構内に進入し、駅舎横に作られたアプローチ道路を登って〝駅〟に到着する。元はこの駅の一つ先の海部駅がJR牟岐線との接続駅だったのだが、DMV導入後は阿波海南駅が接続駅とされた。その理由としては、アプローチ道路が造りやすかったことがあげられるだろう。隣の海部駅は高架駅で、アプローチ道路を造るとなると大規模な工事が必要となる。反面、阿波海南駅は地上駅で、国道沿いにあり、DMV車両が線路に入りやすい構造だった。

 

元は阿波海南駅〜海部駅間はJR四国の線路だったのだが、DMV導入のために同区間が阿波海南鉄道に編入されたのは、こうした駅の構造による。

↑国道55号側から見た阿波海南駅。右がJR牟岐線のホーム入口で、左が駅舎。この奥にDMVの乗り場が設けられた

 

↑阿波海南駅止まりとなったJR牟岐線の列車。徳島駅から阿波海南駅まで2時間〜2時間30分ほどかかる

 

阿波海南駅の駅横に設けられたアプローチ道路を登ったDMV車両は、駅舎に隣接する下り列車の乗り場に到着する。造りはバス停そのもの。サーフボードの形をしたバス停の表示が立つ。ここで乗客が乗降し、そのあと、「モードインターチェンジ」に進入する。「モードインターチェンジ」の様子は次回の【後編】で詳しく紹介したい。

↑DMV車両の乗り場はJR牟岐線の阿波海南駅ホームの横に設けられた。ホームからはスロープを降りれば乗り場で、非常に便利だ

 

この阿波海南駅のモードインターチェンジ区間の横には、広々した撮影スポットも設けられている。また駅の隣接地には駐車場スペースも新たに設けられた。観光客を強く意識して施設が設けられているのだろう。

 

ちなみにJR牟岐線の線路と、阿波海南鉄道の線路は同じ軌間幅1067mmだが、線路はつながっておらず、同駅ホームの先に牟岐線の車止めが設けられている。

↑阿波海南駅のモードインターチェンジ(右)横には撮影スポットも設けられた。訪れた日には観光客も多く立ち寄って見物していた

 

◆阿佐海岸鉄道 阿佐東線

DMV車両は阿佐海南駅でモードチェンジしてバスから鉄道区間へ入る。阿佐海岸鉄道の路線は、DMVが走る前は海部駅〜甲浦駅を結ぶ8.5km区間だったが、阿波海南駅〜海部駅間が、阿佐海岸鉄道の路線に組み込まれたため、現在は10kmとなっている。

 

阿波海南駅から次の海部駅までは1.4km、海部川をわたればほどなく海部駅に到着する。海部駅〜宍喰駅間が6.1kmと同路線では一番、駅と駅が離れた区間だ。この間は地形が険しくトンネルが15本もある。トンネル間は海が望める区間だ。

 

なお、既存の海部駅と宍喰駅のホームは改造され、DMV車両に合うように低床用のホームが設けられた。

↑海部駅〜宍喰駅間を走るDMV車両。鉄道区間は他の車に邪魔されることもないので、スムーズに走る

 

宍喰駅から鉄道区間の終点、甲浦までは2.5km。この駅の間で車両は徳島県から高知県へ入る。鉄道区間10kmをモードチェンジの〝作業〟も含め21分で走る。

 

鉄道区間に〝列車〟が入るときは、下りのみ、上りのみの運行という走り方をしている。ちなみに線路上に複数の〝列車〟が走る場合には、下り、上りともに前の〝列車〟の12分後に、次の〝後続列車〟が走るという運行方法をとっている。よって途中駅で列車交換は行われない。

 

運賃は5kmまで210円だったものが、200円とやや割安となった。〜7.0kmは250円が300円に、〜9km区間280円が400円と、距離が長くなるほど割高になる。鉄道区間10kmを乗ると500円となる。金額は車内で精算しやすいように100円単位とした。なお〝列車〟の走行区間、阿波文化村〜道の駅宍喰温泉を乗車すると800円かかる。

↑DMV車両を後ろから見る。レール上を走る姿はマイクロバスそのもの。線路上を走る姿がなかなか興味深い

 

◆甲浦駅

鉄道区間の終点となる甲浦駅。筆者はこれまで3度ほど駅を訪ねたことがあるが、この駅の造りも大きく変更された。阿佐海岸鉄道の4駅中、最も形が変わった駅と言ってよいだろう。

 

この駅には鉄道モードからバスモードに変更するモードインターチェンジが設けられている。元駅は高架橋にあったので、地上の道へ降りるアプローチ道路が設けられた。

↑元駅ホームの横をDMV車両が走る。こののちモードチェンジが行われアプローチ道路(左上)を降りる

 

↑アプローチ道路の下に造られた甲浦停留所。一般車が間違って入らないようにゲートが設けられている

 

甲浦駅の駅舎はリニューアルされてきれいになり、駅舎内に売店も設けられた。駅近くに店がないところだけに非常に便利だ。

 

今回のDMV導入と合わせて、駅にはシェアサイクルも用意されるようになった。スマホを利用してのレンタルが可能で、沿線に複数のベースが設けられているので〝列車〟+サイクリングという楽しみ方もできそうだ。

↑停留所の横にある甲浦駅の駅舎。舎内には売店も設けられた。DMV車両が上り下りするアプローチ道路が上を通る

 

【初DMVの旅⑤】DMVの強みを生かしてその先まで走る

甲浦駅を終点とせずDMV車両の利点を生かして、先のポイントまで走るようになった。全〝列車〟が地元の観光拠点まで走る。どのようなポイントまで走るのか見ておこう。

 

◆海の駅東洋町

甲浦駅から約1.2km、走行時間3分ほどで次の「海の駅東洋町」へ到着する。この駅は甲浦駅と同じ高知県東洋町に位置する。東洋町は高知県の最東端にある町で、太平洋に面している。「海の駅東洋町」も施設名どおり海に面していて、停留所から海が望める。

 

海の駅では東洋町で水揚げされた鮮魚や加工された干物、農産物も販売されている。高知県の東の玄関口でもあり、県内の土産物も販売されている。地元のぽんかんを使った「ぽんかんソフト」が名物だ。

↑太平洋を望む「海の駅東洋町」の停留所。サーフボード型のバス停表示が2本立つ。海の駅(左上)にはレストランも設けられる

 

この停留所が終点ではない。ほとんどの〝列車〟は終点となる「道の駅宍喰温泉」へ向かう。また土・日・祝日には1日に1往復のみだが、「海の駅東洋町」から室戸市へ向かう〝列車〟もある。この室戸市へ向かう〝列車〟に関しては【後編】で詳しく触れたい。

 

◆道の駅宍喰温泉

今回のDMV導入では「道の駅宍喰温泉」が南側の終点とされた。海の駅東洋町から約3.5km、5分で到着する。

 

この路線ルートの興味深いところなのだが、甲浦駅、「海の駅東洋町」は、高知県の東洋町にある。ところが終点となる「道の駅宍喰温泉」は徳島県海陽町で、〝列車〟の起点の「阿南海南文化村」も徳島県海陽町だ。〝列車〟は一度、高知県東洋町へ入り、また海陽町に戻るルートとなっているのだ。

↑「道の駅宍喰温泉」へ到着したDMV車両。道の駅内には「ホテルリビエラししくい」(左後ろ)や温泉施設も設けられる

 

「道の駅宍喰温泉」は国道55号沿線で拠点となっている規模の大きな道の駅施設だ。道の駅には観光案内所、売店、海陽町の産品直売所のほか、ホテル、日帰り温泉施設が設けられている。同エリアの人気観光施設となっている。

↑「道の駅宍喰温泉」から国道55号へ入るDMV車両。道の駅は太平洋に面していて美しい海景色が楽しめる

 

次週の【後編】ではモードインターチェンジでの車両の動きや、乗車した時の模様、さらに土・日・祝日のみ運行される室戸市側の受け入れの模様などをお届けしたい。

金沢市と郊外を結ぶ「北陸鉄道」2路線−−10の謎解きの旅

おもしろローカル線の旅76 〜〜北陸鉄道石川線・浅野川線(石川県)〜〜

 

ローカル線の旅を楽しんでいると、なぜだろう? どうして? といった謎が多く生まれてくる。そうした謎解きしながらの列車旅がおもしろい。

 

今回は石川県金沢市とその近郊を走る北陸鉄道の石川線と浅野川線の旅を楽しんだ。両線を乗っているとなぜ? という疑問がいくつも湧いてきた。

 

【北陸謎解きの旅①】そもそも北陸鉄道はどこの鉄道会社なのか?

北陸鉄道は石川県の鉄道会社なのに北陸鉄道を名乗っている。北陸の隣県でいえば「富山地方鉄道」、福井県では「福井鉄道」がある。現在は元北陸本線の石川県内の路線が三セク鉄道の「IRいしかわ鉄道」となっているものの、なぜ、北陸鉄道と規模の大きさを感じさせる会社名を名乗ったのだろう?

 

下記の路線図は北陸鉄道の太平洋戦争後、最も路線網が広がった時代の路線図である。この当時の北陸鉄道の路線本数は計13路線にも広がり、路線の総距離は144.4kmにも達した。

↑昭和30年代初期の北陸鉄道の路線図。ピンク色の路線すべてが北陸鉄道の路線だったが、今は白ラインで囲む2路線のみとなっている

 

創業当時から北陸鉄道という会社名だったわけではない。1916(大正5)年に発足した金沢電気軌道という会社が大本だった。金沢市内の路面電車を運行していた会社が北陸鉄道となっていったのである。

 

1942(昭和17)3月26日に北陸鉄道を設立。翌年の1943(昭和18)年10月13日には石川県内7社の交通会社が合併した。太平洋戦争後の1945(昭和20)年10月1日には、浅野川電気鉄道(現浅野川線)を合併し、北陸地方最大規模の路線網が形作られたのだった。名実ともに北陸地方を代表する私鉄会社となったのである。

 

しかし、〝大北陸鉄道〟時代は長くは続かなかった。モータリゼーションの高まりとともに、鉄道利用者は次第に減っていき、1950年代から路線の縮小が始まる。1987(昭和62)年4月29日に、加賀一の宮駅〜白山下駅間を走っていた金名線(きんめいせん)が正式に廃止されたことにより、北陸鉄道の路線は石川線、浅野川線の2線、路線距離20.6kmとなっている。

 

【北陸謎解きの旅②】なぜ2路線は結ばれていないのか?

石川線の始発駅は金沢市内の野町駅、また、浅野川線の始発駅は北鉄金沢駅となっている。両線はつながっていない。しかも歩いて移動すると約3km強の距離がある。なぜ両線はつながらず、また両駅は離れているのだろう。

↑金沢市の繁華街、昭和初期の尾張町通りを金沢電気軌道の電車が走る。市内線は1967(昭和42)年に全廃 絵葉書は筆者所蔵

 

かつて、金沢市内には北陸鉄道金沢市内線という路面電車の路線網があった。この路面電車は全盛期には市街全域に路線が敷かれていた。路線の中で白銀町〜金沢駅前〜野町駅前という〝本線系統〟があり、路線距離はちょうど金沢駅前から野町駅前まで3.6kmだった。

 

路面電車が走っていたころは、この電車に乗れば、金沢駅から市の繁華街である武蔵ヶ辻(金沢駅から1.1km)、香林坊(金沢駅から2.2km)に行くのも便利で、野町駅へも繁華街経由で行くことができた。

 

この金沢市内線は、国内の多くの都市と同じように、モータリゼーションの高まりで、邪魔者扱いされるようになっていった。そして1967(昭和42)年2月11日に廃止された。

 

北陸三県では富山市、福井市が、路面電車の新たな路線を整備し、低床の車両を導入するなどして、路面電車を人にやさしい公共交通機関として役立て、また市内を活性化させている。対して金沢市は廃止し、バス路線化の道をたどった。まさに好対照と言って良いだろう。

↑今回紹介の北陸鉄道石川線(左)と浅野川線(右)の路線図。両線は離れていることもあり、一日で巡るには乗り換えが必要

 

地元に住む人たちはバスでの移動に慣れてしまっているのであろうが、観光で訪れた時には市内電車があれば、駅から金沢の繁華街へ行く時にも、より分かりやすいかと思われる。何より市内電車があったならば、石川線の始発駅・野町駅も今ほどの〝寂れ方〟はなかったようにも思う。

 

外部の者がそんな感想を持つぐらいだから、地元の人も危機感をもっていたようだ。実は今年の春に市内にLRT(ライトレールトランジット)路線を設けて北鉄金沢駅と野町駅を結ぶ計画が検討され始めていた。2021年度中には方向性を決め、導入に向けて環境を整えていくべきとしている。もし金沢市にLRT路線が生まれるとなれば、より便利になり、観光にも有効活用されそうである。期待したい。

 

【北陸謎解きの旅③】走っている車両は東急と京王の元何系?

ここからは石川線の概要と走る車両に関して見ていきたい。

 

◆北陸鉄道石川線の概要

路線と距離 北陸鉄道石川線/野町駅(のまちえき)〜鶴来駅(つるぎえき)13.8km
全線単線直流600V電。
開業 1915(大正4)年6月22日、石川電気鉄道により新野々市駅(現新西金沢駅)〜鶴来駅間が開業、1922(大正11)年10月1日に西金沢駅(後に白菊町に改名、現在は廃止)まで延伸。1927(昭和2)年12月28日に神社前駅(後の加賀一の宮駅)まで延伸開業。
駅数 17駅(起終点駅を含む)

 

石川電気鉄道の路線として開業した石川線だったが、開業8日後には「石川鉄道」という会社名となっている。石川鉄道を名乗る会社が大正期にあったわけだ。

 

現在、北陸鉄道石川線を走る電車は2種類ある。

 

◆北陸鉄道7000系電車

↑石川線の主力車両7000系。正面の下には大きな排障器(スカート)が取り付けられる。小柳駅付近では写真のように水田が広がる

 

北陸鉄道の7000系は、元東急電鉄の7000系(初代)だ。東急7000系(初代)は日本の鉄道ではじめて製造されたオールステンレス車両で、1962(昭和37)年に誕生した。

 

当時、日本ではステンレス車両を造る技術を持っておらず、アメリカのバッド社と技術提携した東急車輌製造によって134両が製造された。東急では東横線、田園都市線などを走り続け、北陸鉄道へは1990(平成2)年に2両編成5本が入線している。導入前には石川線に合うように電装品が直流1500V用から直流600V用に載せ変えられている。

 

今も石川線の主力として走る7000系。初期のオールステンレス車両らしく、側面には波打つコルゲート板が見て取れる。また正面下部には、東急時代には無かった大きな排障器(スカート)が付けられている。

 

7000系は、細かくは7000形、7100形、7200形と分けることができる。その中の7200形は中間車を先頭車に改造した車両で、正面に貫通扉がなく、凹凸のない顔のため他の7000系との違いが見分けしやすい。

 

◆北陸鉄道7700系電車

↑鶴来駅の車庫に停まる7700系。元井の頭線の3000系の初期型を利用した車両で、3000系の後期車とは正面の窓の形が異なる

 

元東急7000系以外に石川線を走るのは7700系。こちらは元京王電鉄の井の頭線を走っていた3000系で、東急7000系と同じく東急車両製造で製造、また誕生も1962(昭和37)年と、東急7000系と同じ時代に生まれたオールステンレス車両だ。要は同時代に同じ東急車輌製造で作られたオールステンレス車両が北陸の地で再び出会ったという形になったわけである。

 

なお、石川線が直流600Vで電化されていることから、2007(平成19)年の入線時に7700系の電装品は変更されている。石川線に入った編成は2両×1編成のみで、7000系に比べると沿線で出会うことは少なめだが、変更予定はない模様で、この先しばらくは走り続けることになりそうだ。ちなみに石川線も、市内のLRT路線計画に合わせてLRT化しては、という声も出てきている。そうなれば、現在の石川線の車両も大きく変わっていきそうだ。

 

【北陸謎解きの旅④】JR北陸本線にも野々市駅という駅がある

だいぶ寄り道してしまったが、石川線の旅を始めよう。北陸鉄道の旅をする時には事前に「鉄道線全線1日フリー乗車券(1100円)」を購入するとおトクだ。野町駅、鶴来駅、北鉄金沢駅、内灘駅、北鉄駅前センター(金沢駅東口バスターミナル1番のりば近く)で販売されている。

 

石川線の起点は野町駅。金沢市内にある駅だが、駅前はひっそりしている。路線バスが到着しても、バスから電車へ乗り換える人の姿は見かけない。筆者が訪れた時にも駅前は閑散としていた。同駅で「鉄道線全線1日フリー乗車券」を購入して電車に乗り込んだ。

↑石川線の起点となる野町駅。路線バスが駅舎に横付けするように停まる。同駅から金沢の繁華街、香林坊へはバスを使えば10分弱の距離

 

野町駅では到着した電車がそのまま折り返す形で出発する。列車の本数は朝夕が30分おき、日中は1時間おきと少なめだ。乗車の際にはダイヤを良く調べて乗車したい。

 

さて、野町駅を発車してしばらくは金沢の市街地だ。西泉駅、新西金沢駅と駅間の距離はそれぞれ約1.0kmで、駅を発車すると間もなく次の駅に到着する。

 

2つめの新西金沢駅で乗客がずいぶんと増えてきた。この新西金沢駅は、すぐ目の前にJR西金沢駅があり、同駅がJR北陸本線との接続駅になっていて、JR線からの乗り換え客が目立つ。野町駅から乗車する人よりも、この新西金沢駅から先の区間を利用する人が圧倒的に多いことが分かった。

↑新西金沢駅に入線する野町駅発、鶴来駅行きの7000系7200形。左上は同駅の入口で、乗降客が多いものの質素なつくりだ

 

ちなみに、新西金沢駅とJR北陸本線の西金沢駅の間には屋根付きの通路が設けられている。そのため雨の日でもぬれることなく乗り換えが可能となっている。

 

この新西金沢駅と、西金沢駅、また野々市駅という駅名の推移が興味深い。実は、JRにも石川線にも野々市駅があるのだ。北陸本線では西金沢駅の隣の駅、石川線では新西金沢駅から2つめの駅だ。両駅は直線距離でも2.5kmほど離れている。なぜ、2つの野々市駅がこんなに離れた場所にあるのだろう。他所から訪れる人は間違いそうだが、野々市駅が2つあるのには複雑な理由がある。

 

最初に野々市駅を名乗った駅は現在のJR西金沢駅で、1912(大正元)年8月1日のことである。その後、1925(大正14)年10月1日に現在の駅名、西金沢駅と改名した。西金沢駅は金沢市内にある駅なのに、当初は隣の市の名称である「野々市」を名乗っていたことになる。この改名と入れ替わるかのように金沢電気軌道(現・北陸鉄道)が、1925(大正14)年10月1日に上野々市駅の駅名を野々市駅に変更した。

↑北陸鉄道石川線との乗り換え客が多いJR西金沢駅。開業時の駅名は野々市駅だった

 

では、JR野々市駅はいつ開設されたのだろう。こちらは1968(昭和43)年3月25日と、ぐっと新しくなる。地元からの要望があり請願駅として駅が開設された。

 

北陸鉄道の野々市駅も、JR野々市駅も同じ野々市市内にあるが、規模はJR野々市駅の方が大きい。2面2線のホームと北口・南口がある。路線バスも野々市駅南口を通る本数が多い。

 

一方の北陸鉄道の野々市駅は、1面1線でホーム上に小さな待合施設があるだけで、規模は圧倒的に小さい。1日の乗降客もJRの野々市駅2000人に対して北陸鉄道の野々市駅は104人(それぞれ2019年の場合)と少ない。バスも通らない。こうした差もあり、地元では単に野々市駅といえば、JR北陸本線の駅を指すようになっているようだ。

 

そんな野々市駅まではひたすら市街地を電車が走る。次の野々市工大前駅付近からは徐々に水田も点在するようになる。

 

【北陸謎解きの旅⑤】雪にいだかれた背景に見える山は?

石川線の7000系は懐かしい乗り心地だ。台車はだいぶ上下動し、スピードアップするとその動きが体に感じられるようになる。

 

石川線の郊外の趣が強まるのは四十万駅(しじまえき)付近からだ。陽羽里駅(ひばりえき)、曽谷駅(そだにえき)と読み方が難しい駅名が続く。このあたりになると駅前近くには民家、周辺に田園風景が広がるようになる。そして小柳駅(おやなぎえき)へ。この駅の周囲は水田のみで、車窓からは遠くに山景色が楽しめた。

 

空気の澄んだ季節ともなると標高の低い山の向こうに、白い雪に抱かれた白山(はくさん)が見えるようになってくる。〝たおやかで気高い〟と称される白山は、地元の人たちに長年、親しまれてきた。小柳駅付近は同線で最も景色が楽しめる区間と言って良いだろう。ちなみに陽羽里駅からは白山市に入る。白山がより近くに見えることもうなずけるわけだ。

↑小柳駅から次の日御子駅(ひのみこえき)方面を望む。雪が降り積もった白山の姿が遠望できた

 

小柳駅を過ぎれば、次は日御子駅(ひのみこえき)。この日御子とは駅近くの日御子神社の名前に由来する。ちなみに日御子とは旧白山の中心部にあった、火御子峰の神に由来する名称で、白山に縁の深い地にある神社らしい。日御子駅の次は終点、鶴来駅だ。駅到着の手前、進行方向右手に石川線の車庫がある。

 

【北陸謎解きの旅⑥】終点鶴来駅の先にある線路はどこへ?

終点の鶴来駅は玄関口があるしょうしゃな駅舎で、石川線の駅の中でもっと風格のある駅といっていいだろう。1915(大正4)年に開業、現在の駅舎は1927(昭和2)年築と古い。駅舎内には石川線の歴史を紹介するコーナーや、同社関連の古い資料や備品なども陳列されていて、さながら北陸鉄道の博物館のような駅だ。

↑石川線の終点駅・鶴来駅。大正ロマンの趣を持つ駅舎では古い鉄道資料(左上)などの展示もされ、鉄道ファンには必見の駅だ

 

鶴来という駅名、「つるぎ」と読ませるだけに、この駅名にも何か白山に縁があるのか調べてみると、やはりそうだった。駅の近くに金劔宮(きんけんぐう)という神社があり、ここは白山七社の1つにあたる。この神社の門前町の地名が劔(つるぎ)でこの劔が鶴来と書かれるようになったのだそうだ。

↑鶴来駅から発車する野町駅行き電車。同駅構内には1、2番線のほか側線もあり構内は広い。駅舎はこの左手にある

 

鶴来駅で気になるのは駅舎内の古い資料だけではない。ホームの野町駅側だけでなく、南側のかなり先まで線路が延びているのである。同駅で終点なはずだが、なぜ線路があるのか、この線路はどこまで延びているのだろうか。

 

実はこの先、過去には2つの路線が設けられていた。駅から線路は右にカーブして伸びている。たどると鶴来の街中を南北に通り抜ける県道45号までは線路が敷かれ、県道の手前に車止めがあった。ここまでは鶴来駅にある検修庫用の線路からホームや本線へ入るために折り返し線として使われている。さらに県道をわたるように線路は残るが、先はすでに使われていない。緑が覆う廃線跡には入れないように柵が設けられていた。

 

調べるとこの先、実はいくつかの路線があった。まずは石川線が2.1km先の加賀一の宮駅まで延びていた。この加賀一の宮駅は今も旧木造駅舎が残り、登録有形文化財に指定されている。加賀一の宮駅の先からは金名線(きんめいせん)という路線が16.8km先の白山下駅まで延びていた。

↑鶴来駅の先に延びるレール。県道の先には旧線の架線柱と線路がまだ残っている区間(右上)が続いている

 

さらに、延びた線路の先に違う路線がもう1本あり、県道45号線のすぐ先に本鶴来駅(ほんつるぎえき)という駅があった。本鶴来駅は能美線(のみせん)という北陸鉄道の路線の駅で、この先はJR北陸本線の寺井駅(現・能美根上駅/のみねあがりえき)に接続する新寺井駅まで16.7kmの路線があった。

 

金名線は1987(昭和62)年4月29日に、能美線は1980(昭和55)年9月14日に正式に廃止されている。1980年代に入ってからの廃線とはいえ、調べるとすでに両線とも1970(昭和45)年には昼の運行を休止していたようで、なんとも寂しい終わり方だったようだ。

 

ひと昔前には、鶴来駅はターミナル駅として賑わっていたのだろう。その先に列車が走っていた時代に訪ねてみたかったと強く思った。

 

【北陸謎解きの旅⑦】浅野川線に元京王電車が導入された理由は?

ここからは金沢駅に戻り、北鉄金沢駅から走る浅野川線の旅を楽しんでみたい。まずは路線の概要と、走る車両の紹介から。

 

◆北陸鉄道浅野川線の概要

路線と距離 北陸鉄道浅野川(あさのがわ)線/北鉄金沢駅〜内灘駅6.8km、全線単線直流1500V電化
開業 1925(大正14)年5月10日、浅野川電気鉄道により七ツ屋駅〜新須崎駅(しんすさきえき/現在は廃駅)が開業、1926(大正15)年5月18日に金沢駅前までまで延伸。1929(昭和4)年7月14日に粟ヶ崎海岸駅(あわがさきかいがんえき/現在は廃駅)まで延伸開業。
駅数 12駅(起終点駅を含む)

 

まずは、浅野川電気鉄道により歴史が始まった北陸鉄道浅野川線。終点となる内灘駅へは大野川を渡る必要があり、橋の架橋に時間がかかった。新須崎駅開業の4年後に現内灘駅の先の粟ケ崎海岸まで路線が延びた。粟ケ崎には粟崎遊園があり、金沢市民の憩いの場として賑わった。後に粟崎遊園は軍の鍛練用地となり、戦後は内灘砂丘に米軍の試射場計画のため、また港湾整備などのため路線は縮小。現在は内灘駅が終点となっている。

 

北陸鉄道との合併は1945(昭和20)年10月1日のことで、太平洋戦争後のこと。戦時統合でなかば強制的に合併が決定され、戦後も計画は頓挫することなく、合併が進められた。

 

現在、この浅野川線を走る北陸鉄道の電車は2種類ある。

 

◆北陸鉄道8000系電車

↑北鉄金沢駅の地下化に伴い導入された元京王井の頭線の3000系。写真の片開き扉車両で8800番台に区分けされている

 

元京王井の頭線を走っていた3000系で、2001(平成13)年3月28日に起点の北鉄金沢駅が地下化されるのを機会に、地下化に向けて1996(平成8)年と1998(平成10)年に譲渡された。それまでの浅野川線の電車は吊り掛け式の旧型車両が多く、地下化に伴う火災対策、不燃化基準を満たさない車両とされていた。

 

京王3000系はオールステンレス車ということで地下化の基準に合致したこと、また売り込みもあり、同車両の導入を決めたのだった。同じ時期に浅野川線の電化方式を直流600Vから直流1500Vへ変更されたこともあり、この昇圧にも見合った電車でもあった。3000系は計10両が導入され、北陸鉄道8000系となった。8000系には2タイプあり、乗降扉が片開きの車両が8800番台、また両開きの扉を持つ車両が8900番台と区分けされている。

 

◆北陸鉄道03系電車

↑東京メトロ日比谷線を走った03系が浅野川線を走る。オレンジの帯で日比谷線を走っていた当時に比べると華やかな印象を受ける

 

浅野川線にとって四半世紀ぶりとなる〝新車〟が2020(令和2)年の暮れに導入された。その電車は03系。元東京メトロ日比谷線を走っていた03系で、日比谷線では銀色の帯だったが、8000系に合わせたオレンジの帯に刷新された。2021年秋までに2両×2編成がすでに走り始め、2024年度までに5編成が導入される予定だ。これが計画どおりに進めば、既存の8000系は消滅ということになりそうだ。

 

【北陸謎解きの旅⑧】そもそもなぜ浅野川線という路線名なのか?

金沢駅といえば兼六園口(東口)広場に立つ鼓門(つづみもん)が名物になっている。いつも記念撮影をしようという多くの観光客で賑わう。そのすぐ横にあるバスのロータリーのちょうどその下、地下フロアに浅野川線の起点、北鉄金沢駅がある。訪れた日、駅に停車していたのが03系だった。日比谷線を引退して以来、はじめて乗る03系だ。車内はリニューアルされてきれいに。それぞれのドア横に開け閉めのボタンが付く。

 

北鉄金沢の地下駅で見た03系は、帯色がオレンジで華やかになり、編成が短くなったものの、地下鉄日比谷線の電車として見慣れた印象があり、地下駅にしっくりと合っているように見えた。

↑金沢駅の兼六園口の地下にある浅野川線の起点・北鉄金沢駅。6時7時台と、17時台は20分間隔、他の時間はほぼ30分間隔で発車

 

ところで、なぜ浅野川線と呼ばれるのだろうか。開業時に浅野川電気鉄道という名の鉄道会社が開業させたこともあるのだが、同路線の名前にした理由は本原稿の最初に掲載した地図を見ていただくと良く分かる。

↑北鉄金沢駅からは地下を走り、IRいしかわ鉄道線をくぐり抜け地上を走り始める。次の七ツ屋駅から先はほぼ浅野川に沿って走る

 

浅野川線は北鉄金沢駅の次の駅、七ツ屋駅から大河端駅付近までほぼ平行して浅野川が流れている。車窓から川の土手を見る区間も多く、したがってこの路線名になったことが良く分かる。「金沢城の東側をゆったりと流れる浅野川では風情ある景観に出会える」と金沢市の観光パンフレットにもある。地元では金沢市街の南を流れる犀川を「男川」と呼ぶのに対して、浅野川を「女川」と呼ぶ。それほど、市民になじみの川であり、身近な川の名前だったわけである。

 

浅野川線は、しばらく半地下構造の路線を走り、北陸新幹線とIRいしかわ鉄道線の高架橋をくぐり地上部へ。そして次の七ツ屋駅へ到着する。先に乗った石川線に比べると、より都会的な路線という印象が強い。

 

路線はこの先、金沢市街を走る。磯部駅を過ぎると、進行右から川の堤が近づいてくるが、この堤を越えた側が浅野川だ。堤防の上には浅野川左岸堤防道路が走っている。電車からは道を走るクルマをやや見上げる形でしばらく並走する。

↑大河端駅〜北間駅間を走る浅野川線の8000系。この左側に浅野川の堤防がある

 

途中駅の名前を何気なく書いてきたが、意外に難読駅がある。まずは大河端駅。おおかわばたえき? と読みそうだが、こちらは「おこばたえき」だ。

 

さらに分かりにくいのは蚊爪駅。蚊に爪と書く珍しい駅名だ。いわれも気になるところなので、調べてみた。

↑ホーム一つの小さな駅・蚊爪駅。駅名の読みはホームに立つ駅名標にしかなかった。さてどのようないわれがあるのだろう?

 

「蚊爪」とは「かがつめ」と読む。この地域が金沢市蚊爪町(かがつめまち)という町名から由来する。さらに金沢市に併合される前には東蚊爪村、西蚊爪村という村があったとされる。蚊爪という名の起源は「芝地」や「草地」の意味で、そうした土地には蚊が多いということもあったのだろうか。そこまで明確な答えは導き出せなかったのが残念だった。

 

難しい読み方の蚊爪だが、金沢市民にはおなじみの地名なようだ。東蚊爪に運転免許センターがあるせいだろう。

 

【北陸謎解きの旅⑨】大野川橋りょうの形は何か意味があるの?

蚊爪駅を過ぎると、いよいよ同線の人気撮影ポイントの大野川を渡る大野川橋梁にさしかかる。ちなみに橋の手前には新須崎駅があったが、現在はもうない。橋の先に粟ヶ崎駅(あわがさきえき)があり、その先が終点の内灘駅となる。

 

大野川橋梁は少し不思議な形をしている。橋の前後に勾配があり、電車はこの橋を登って中央部からは下る。時速15kmに落としてゆっくりと渡るのだ。よく見るとガーダー橋なのだが、前後は線路が鉄製のガーダーと呼ばれる鋼製の構造物の上に線路が敷かれる。この構造を「上路線」と呼ぶ。中央部では線路がガーダーの下部に付く「下路橋」という構造をしている。単一でなく、複雑な構造をしているわけだ。また中央部には架線柱が設けられる。前後のガーダーの下は水面までのすき間があまりない。中央部のみ小さな船が通り抜けられるようにすき間をあけた構造となっている。

↑大野川橋梁を渡る03系。中央部を見ると、ここのみ橋の下の上下の隙間が広くなっていることが分かる

 

大野川には前述した浅野川が流れ込む。また大野川の上部には河北潟(かほくがた)がある。河北潟は昭和期まではフナ、ワカサギ、ウナギ、シジミなどの漁業が行われていた。しかし、干拓などの影響があったのか、漁獲量は減っていき、昭和中期に漁業権が消滅している。また河北潟から出る川はかつて大野川のみだったが、今は北側に日本海に直結した河北潟放水路が設けられている。放水路の出口と大野川を結ぶ所にはそれぞれ防潮水門があり、水量の調節も行えるようになっている。

 

大野川橋梁はそうした河北潟でかつて漁業を営んだ人たちが、小船が出入りすることができるように、こうした特殊な構造にしたのであろう。

 

【北陸謎解きの旅⑩】旧粟ケ崎海岸駅へのルートはどこに?

大野川橋梁を渡って間もなく浅野川線の終点、内灘駅に到着した。北鉄金沢駅から乗車時間17分と近い。ちなみに内灘駅という駅名となったのは1960(昭和35)年5月14日のこと。かつては内灘駅近くに粟ヶ崎遊園駅があり、その先は海岸に近い粟ヶ崎海岸まで路線が設けられていた。旧路線はどのように敷かれていたのだろう。気になるところだ。

↑内灘駅構内の左にカーブする線路が見えるが、この先に粟ヶ崎海岸駅があった。旧地図を見ると海岸まで路線が延びていたことが分かる(右上)

 

 

内灘駅には車庫があり8000系や03系が並ぶ。この駅の構造には、少し疑問に感じることがある。駅の手前でやや左カーブしてその先にホームが設けられている。古い地図を見比べてみると、この左にカーブする理由が分かった。

 

太平洋戦争前の時点では、内灘駅はまだ無く、左カーブして、その先に粟ヶ崎遊園という駅があった。さらに駅の先で右カーブ、海岸まで線路が敷かれ、海水浴場前に粟ヶ崎海岸駅があった。内灘駅開業当時の地図を見ると、左カーブしたその曲がった地点が駅となっていた。

 

今の内灘駅の検修庫に入る線路の左側にカーブした線路が敷かれるが、このカーブこそ、かつては粟ヶ崎海岸まで延びていた路線の名残だったのである。金沢にも近いことがあり、内灘駅周辺は住宅も多く、路線バスが多く発着している。石川線の鶴来駅に比べると、とても賑わっているように思われた。

↑浅野川線の終点・内灘駅。裏には車庫がある。左上は搬入された当時の03系。現在とは異なり当初は銀色の帯が巻かれていた

 

前述したように北陸鉄道の両線間にはLRT路線の建設プランも浮上してきている。LRT計画が成就したとすれば、北陸鉄道の両線は大きく変わる可能性を秘めている。その時に、また旅をしてどのように変わったのか見てみたいと思った。

 

北海道唯一の三セク鉄道「道南いさりび鉄道」10の新たな発見

おもしろローカル線の旅75 〜〜道南いさりび鉄道(北海道)〜〜

 

前回は九州最南端の指宿枕崎線を紹介した。今回は北へ飛んで日本最北端の第三セクター経営の路線「道南いさりび鉄道」の旅をお届けしよう。

 

これまでたびたび特急列車で通り抜けた区間だったが、普通列車に乗車してみるとさまざまな新しい発見があった。ゆっくり乗ってこそ魅力が見えてきた道南の路線の旅を楽しんだ。

 

【道南発見の旅①】道南いさりび鉄道と名付けられた理由は?

道南いさりび鉄道が走るのは北海道の西南、渡島半島(おしまはんとう)だ。まずは路線の概要を見ておこう。

 

◆道南いさりび鉄道の概要

路線と距離 道南いさりび鉄道線/五稜郭駅(ごりょうかくえき)〜木古内駅(きこないえき)37.8km、全線単線非電化
開業 1913(大正2)年9月15日、日本国有鉄道上磯軽便線として五稜郭駅〜上磯駅間が開業、1930(昭和5)年10月25日に木古内駅まで延伸開業。江差駅まで延伸は1936(昭和11)年11月10日、路線名を江差線と変更。木古内駅〜江差駅間は2014(平成26)年5月12日に廃止。
駅数 12駅(起終点駅を含む)

 

↑JR江差線当時の函館駅行き普通列車。早朝はキハ40系気動車を3両連結で運用。写真は釜谷駅〜渡島当別駅間

 

路線自体の歴史は100年ほど前の1913(大正2)年に始まる。とはいえ、その時に開業したのは函館近郊の上磯駅までで、その先への路線延伸の工事は順調に進まなかった。1930(昭和5)年になって木古内駅、さらに1936(昭和11)年に日本海に面した江差駅まで延ばされている。

 

この江差線は2014(平成26)年に木古内駅から先の区間を廃止。2016(平成28)年3月26日、北海道新幹線の開業に合わせて五稜郭駅〜木古内駅間の路線が第三セクター経営の道南いさりび鉄道に移管された。移管され今年で5周年を迎えている。

↑道南いさりび鉄道(旧江差線)以外にも1949(昭和24)年の鉄道路線図(左上)を見ると福山線(後の松前線)があったことが分かる

 

なぜ、道南いさりび鉄道という名前が付けられたのだろう。道南いさりび鉄道という会社が設立されたのが2014(平成26)年の夏のこと。北海道のほか、函館市、北斗市、木古内町という沿線自治体2市1町が株主となっている。

 

会社名を公募したところ、21点の応募があったのが道南いさりび鉄道という名前だった。「いさりび」とは「漁火」のこと。津軽海峡で漁火と言えば、毎年夏以降、イカ釣り船が用いる集魚灯の光のことをさす。

 

暗闇の海上に浮かぶ集魚灯の光「いさりび」は、道南・渡島半島の風物詩であり、そうした漁火を横目に走る鉄道路線の名称に相応しいとして名付けられたのだった。

 

【道南発見の旅②】松前線とはどのような路線だったのだろう?

昭和初期に現在の道南いさりび鉄道線の元となった江差線が開業した。さらに木古内駅の先、江戸時代に北海道で唯一の藩だった松前藩の城下町、松前まで鉄道路線が伸びていた。松前線である。この松前線に関して簡単に触れておこう。

 

この路線の歴史的な経緯が興味深い。木古内駅から先はまず1937(昭和12)年10月12日に渡島知内駅までを開業、さらに翌年の10月21日には碁盤坂駅(後に千軒駅と改称)まで、1942(昭和17)年11月1日に渡島吉岡駅まで開業している。太平洋戦争のさなかに開業させた理由には、軍需物資であるマンガン鉱の鉱山が松前町内にあったためとされている。

↑松前へ走る国道228号沿いに残る松前線の橋脚跡。廃線跡はこのように各所で見られる。右下は松前の観光名所・松前城

 

しかし、松前までの延伸は戦争中にはかなわず、戦後しばらくたっての1953(昭和28)年11月8日のこととなる。開業はしたものの、35年間という短い期間しか列車は走らずに1988(昭和63)年2月1日に廃止されている。当時、江差線の木古内駅〜江差駅間よりも輸送密度が高く、地元から廃止反対の声が巻き起こったものの、国鉄からJRへ移行する慌ただしい時期に廃止された。青函トンネルと松前線を結ぶ案も検討されたが、青函トンネルは新幹線規格で造られたために、線路が結ばれることはなかった。

 

松前線の渡島吉岡駅には、青函トンネル建設時に建設基地が設けられていた。27年という長い年月をかけて1988(昭和63)年3月13日に青函トンネルは開業。ちょうど同じ年に松前線は廃線となった。今振り返って見るとトンネルの誕生にあわせ、用済みになったかのように松前線は廃止されたのだった。

 

現在、渡島吉岡駅があった吉岡(現・松前郡福島町字吉岡)の地下を、北海道新幹線や貨物列車が多く通り抜けている。2014(平成26)年3月15日までは吉岡海底駅という駅もあった。現在、その地点を地図で見ると「吉岡定点」となっているが、トンネルの上に住む人たちに恩恵はなく、廃線以外に松前線を活用する方法がなかったのかとも思う。

 

筆者は松前城を見たいがためこの路線に沿って旅をしたことがあった。その時には松前線の廃線跡らしき構造物が各所に残っていて興味深かった。とはいえ、松前線の歴史を振り返るとちょっと寂しさを感じる風景でもあった。

 

【道南発見の旅③】道南いさりび鉄道のキハ40系は何色ある?

少し寄り道してしまった。ここからは道南いさりび鉄道の旅に戻ろう。まずは車両に関して見ていきたい。

 

道南いさりび鉄道はJR北海道の路線の移管とともに車両も引き継いだ。車両は江差線を走っていた車両キハ40系で、計9両が同社に引き継がれた。当初はJR北海道の塗装のままで走っていたが、2019(令和元)年までに9両すべてが道南いさりび鉄道のオリジナルカラーと塗り替えられている。カラーは次の通りだ。さて色は何色あるのだろう。

①ネイビーブルー色 車両番号1793、1799

・「ながまれ号」として2両が在籍。「ながまれ」とは道南の方言で「ゆっくりして」「のんびりして」という意味。観光列車としても走る。

②山吹色 車両番号1812、1814

・濃い黄色ベースで2両が在籍。

③濃緑色 車両番号1810
④白色 車両番号1815
⑤濃赤色 車両番号1796

・濃赤色だが茶色に近い。

⑥国鉄首都圏色 車両番号1807

・国鉄時代の気動車、首都圏色と呼ばれるオレンジ色一色で塗られる。

⑦国鉄急行色 車両番号1798

・クリーム色と朱色の2色の塗り分け

↑カラフルで目立つ色が多い。写真は山吹色と首都圏色のオレンジ色の車両

 

道南いさりび鉄道には上記のように7種類のカラーで塗られたキハ40系が走る。まさに七色の車両が走りにぎやかだ。次の列車は何色かなという楽しみがある。何色の車両がどの列車に使われるかは、道南いさりび鉄道のホームページの「お知らせ」コーナーで公開されているので、訪れる時にぜひとも参考にしたい。

 

ちなみに筆者が訪れた日は国鉄急行色の車両のみ、出会うことができなかった。次回に訪れた時にはぜひ撮影しておきたい。

↑道南いさりび鉄道の4通りの車体カラー。この中でネイビーブルー色の「ながまれ号」のみ2車両が走る

 

【道南発見の旅④】木古内駅前の道の駅に立ち寄ると得する?

今回は北海道新幹線の木古内駅から道南いさりび鉄道線の旅を楽しむことにした。東京駅6時32分発の東北・北海道新幹線「はやぶさ1号」に乗車して約4時間、10時41分に木古内駅に到着した。北海道新幹線の木古内駅と、道南いさりび鉄道の木古内駅は東西を結ぶ自由通路で結ばれる。

 

木古内駅の発車が11時16分と新幹線の到着から30分以上の余裕がある。時間があったので、木古内駅の北口、南口を回って、道南いさりび鉄道の窓口へ。自動販売機で切符を買おうとしたら、横の貼り紙に目が引きつけられた。貼り紙には「いさりび1日きっぷ」(700円)とある。ちなみに木古内駅から五稜郭駅まで切符を購入すると980円になる。直通の切符だけでなく、途中下車をすれば、断然安くなるわけだ。これは使わなければ損である。

 

ところが、木古内駅の切符の自動販売機では売っていないことが分かった。東口の駅前ロータリーをはさんだ「道の駅みそぎの郷きこない」で販売していたのだ。発車時間が迫っていたものの、急いで道の駅へ向かう。

↑高架上にある北海道新幹線の木古内駅に平行して設けられた道南いさりび鉄道の木古内駅。ホームには濃赤色のキハ40系が停車中

 

この道の駅には道南いさりび鉄道の「いさりび1日きっぷ」と、同社のグッズの多くが販売されていた。さらにこの道の駅でも「鉄印」が販売されていたのである。全国の第三セクター鉄道の鉄印を集める鉄印帖は、鉄道ファンには必携のアイテム。その鉄印帖には、鉄印の販売が五稜郭駅とあったので、五稜郭駅へは絶対に立ち寄らなければ、と思っていたのだが。

 

このように道南いさりび鉄道の旅をするならば、ぜひ立ち寄っておきたい道の駅である。筆者の場合は、発車時間に急き立てられ、グッズをゆっくり見る余裕がなかったが、次に訪れた時にはじっくりグッズ選びをしたいと思うのだった。

 

また、帰りに立ち寄るのであれば、地元のお土産や、新鮮な海産物の購入がお勧め。函館市内で木古内の地場産品はあまり見かけないだけに、そうしたお土産選びも楽しそうだなと思った。木古内町が株主の一員という鉄道会社だけに、地元の道の駅ではこうした豊富なグッズ類や「いさりび1日きっぷ」などの販売が行われていたわけである。

↑木古内駅の南口ロータリー前にある「道の駅みそぎの郷きこない」。鉄道グッズや鉄印なども販売される

 

道の駅から木古内駅へ戻り、道南いさりび鉄道の列車が止まる4番ホームへ向かう。そこには濃赤色のキハ40系1796が停車していた。

 

【道南発見の旅⑤】函館湾が良く見え始めるのは何駅から?

発車時間が近づく。そんな時に車両が停まるホームのすぐ横に赤い電気機関車が牽く上り貨物列車が入ってきた。同線を走るEH800形式交流電気機関車である。同機関車は五稜郭駅〜青森信号場間の専用機で、新幹線と共用している青函トンネルを走ることができる唯一の電気機関車だ。道南いさりび鉄道はローカル線であるとともに、北海道と本州を結ぶ物流の大動脈であることが分かる。

 

キハ40系が進行方向左手に北海道新幹線の高架橋、右手に木古内の市街を見ながら静かに走り出した。平行して走る新幹線の高架橋が見えなくなり、間もなく最初の駅、札苅駅(さつかりえき)に到着する。同駅も貨物列車と行き違いが可能な線路が設けられる。

 

道南いさりび鉄道の駅には下り上り列車が行き違いできるように「列車交換施設」を持った駅が多い。今でこそ走るのは貨物列車と、道南いさりび鉄道の列車のみとなっているが、以前は「特急はつかり」、寝台列車の「特急北斗星」「特急カシオペア」「特急トワイライトエクスプレス」といった多くの列車が走っていた。全線単線とはいえ、こうした駅の「列車交換施設」が充実しているのには理由があったわけだ。

 

札苅駅を過ぎると国道228号が進行方向右手に、平行して走るようになる。次の泉沢駅まで、国道越しに津軽海峡が見え始める。さらにその先、釜谷駅(かまやえき)からはより津軽海峡が近くに見えるようになる。

 

途中、国道沿いに「咸臨丸(かんりんまる)終焉の地」が見える。咸臨丸は幕末にアメリカまで往復し、幕府軍の軍艦として働いた後に、新政府軍に引き渡された。1871(明治4)年9月19日、函館から小樽に開拓民を乗せて出航したものの泉沢の沖で暴風雨にあって沈没、多くの犠牲者を出したのだった。この史実を筆者は知らなかったが、津軽海峡で起きた悲劇がこの地に複数残っていることを改めて知った。

↑釜谷駅の駅舎は有蓋貨車を改造したもの。貨車ながらも窓があり出入り口もサッシ。冬の寒さもこれならば防げそうな造りだ

 

釜谷駅(かまやえき)から先、渡島当別駅までは江差線当時には撮影ポイントが数多くあり、寝台列車が走っていたころには多くの鉄道ファンが集まったところでもある。筆者もその中の1人だったが、釜谷駅は今も当時のまま、有蓋貨車のワムを利用した駅舎で無骨ながら親しみが持てる駅だった。

↑釜谷駅前を通過する「特急トワイライトエクスプレス」。初夏の早朝ともなると、釜谷駅は〝撮り鉄〟が多く集合した

 

さて釜谷駅から先、津軽海峡とともに、海峡の先に函館山が見え始めるようになる。どのあたりから見る景色が最も美しいのだろうか。道南いさりび鉄道の路線は、海岸線よりも高い位置を走る区間が多く、まるで展望台から見るような眺望が各所で楽しめる。

 

筆者は同路線を「特急はつかり」や、寝台列車に乗って通り過ぎたことがある。しかし、当時は〝駆け足〟で通り過ぎるのみで、美しい景色がどのあたりから見えるものなのか、またどの区間から最もきれいに見えるのか、良く分からず乗車していた。今回、普通列車に乗ることによってポイントが良く分かり、また堪能できた。

↑釜谷駅〜渡島当別駅間にある人気のポイントから見る「特急カシオペア」と津軽海峡。この付近から右奥に函館山が見えるようになる

 

釜谷駅〜渡島当別駅間では、海岸線に合わせて路線はきれいにカーブを描いて走る。寝台列車の撮影ではこうしたカーブと、津軽海峡を一緒に写し込むことができて絵になった。撮影のポイント選びでは、途中にある踏切が目印代わりとなっていた。同駅間ではそうした踏切が複数あるのだが、釜谷駅から3つめの「箱崎道路踏切」あたりから先で函館山が見えるようになる。今回はそうした思い出を振り返りつつ乗車する楽しみもあった。

↑釜谷駅〜渡島当別駅間から函館山が見え始める。写真は箱崎道路踏切付近。車両の窓枠にも函館山が良く見えることを伝える表示が

 

【道南発見の旅⑥】渡島当別駅が洋風駅舎というその理由は?

釜谷駅から約6分、海景色を楽しみつつ列車は渡島当別駅に到着する。同駅は列車からも見えるように、洋風のおしゃれな駅舎が目立つ。洋風というよりも、修道院を模した建物といったほうが良いだろうか。なぜ修道院風なのだろう。

 

実はこの駅から約2kmの距離にトラピスト修道院がある。その最寄り駅ということでこの駅舎になったのだ。トラピスト修道院は1896(明治29)年に開院した日本初の男子修道院で、売店では修道院内で作られた乳製品、ジャムなどが販売されている。中でもトラピストクッキーは函館名物としてもおなじみだ。

 

というわけで修道院風の建物なのであるが同路線では異色の駅となっている。

↑修道院風のおしゃれな駅舎が特長の渡島当別駅。郵便局が併設された駅舎となっている。トラピスト修道院へは徒歩で約20分強

 

渡島当別駅はトラピスト修道院の最寄り駅ということもあり、観光客の乗り降りもちらほら見られた。とはいえ同列車は、観光客や〝乗り鉄〟の乗車はそれほど多くなく地元の人たちの利用が目立つ。地域密着型の路線なのであろう。

 

さて、次の茂辺地駅(もへじえき)までも海の景色が素晴らしい。

 

【道南発見の旅⑦】函館山と函館湾の景色が最も美しい箇所は?

渡島当別駅から先は、函館湾沿いに列車が走るようになる。函館山が車窓のほぼ中央に見えるようになる区間でもある。天気に恵まれれば、進行方向の右側に函館湾の海岸と連なる函館の市街が手に取るように見え始めるのがこの区間だ。

↑渡島当別駅を過ぎ茂辺地駅まで、函館山が正面に見えるようになり、また函館市街も見えるようになってくる

 

さらに茂辺地駅の先となると、函館湾の海岸線が函館市街まで丸く弧を描くように延びている様子が見えて美しい。このように釜谷駅から上磯駅までの4駅の区間は、それぞれの海景色が異なり、どこがベストであるかは、甲乙つけがたいように感じた。

↑茂辺地駅付近を走るJR東日本の「TRAIN SUITE四季島」。2022年設定の3泊4日コースでは道内、室蘭本線の白老駅まで走る予定だ

 

【道南発見の旅⑧】上磯駅から列車が急増する理由は?

茂辺地駅〜上磯駅間まで右手に函館山と函館湾が楽しめたが、同区間でこの海景色の楽しみは終了となる。道南いさりび鉄道の列車は上磯駅が近づくに連れて、左右に民家が連なるようになる。太平洋セメントの上磯工場の周りをぐるりと回るように走れば、間もなく上磯駅へ到着する。

 

上磯駅からの列車本数は多くなる。木古内駅〜上磯駅間の列車がほぼ2時間おきなのに対して、上磯駅〜五稜郭駅間は1時間に1本、朝夕は30分おきに列車が走る。この列車本数はJR北海道の時代からほぼ変わりない。

 

上磯駅〜五稜郭駅間の列車が多いのは、函館市の通勤・通学圏内だからだ。道南いさりび鉄道の列車は五稜郭駅の一駅先の函館駅まで全列車が乗り入れている。上磯駅から函館駅間は22分〜30分と近い。そうしたこともあり乗降客も増える。

↑久根別駅(左上)近くを通る貨物列車。上磯駅〜五稜郭駅間の普通列車と同じように貨物列車の通過本数も多い

 

〝撮り鉄〟の立場だと上磯駅〜五稜郭駅間は街中ということもあり、なかなか場所選びがしにくい区間である。やはり津軽海峡が良く見える釜谷駅〜渡島当別駅間が良いのだが、こちらは列車本数が少なく、列車を使う場合には立ち寄りにくいのが現状である。筆者は景色の良い区間で降りるのを諦めて、列車本数が多く移動しやすい久根別駅で降りた。数本の列車を撮影したが、景色が良いところで撮影したいという思いは適わなかった。

 

【道南発見の旅⑨】津軽海峡の区間は今、何線と呼ばれる?

道南いさりび鉄道は普通列車とともに貨物列車も多く走る。本州から北海道へ向かう下り貨物定期列車が1日に19本、臨時列車まで含めると26本ほど走る。上り貨物列車も下りとほぼ同じ列車本数だ。中には札幌貨物ターミナル駅〜福岡貨物ターミナル駅間と日本一長い距離を走る列車も含まれる。旅客列車のように、行先等が書かれていないのがちょっと残念ではあるが。

 

さて、貨物列車が走る路線とルートを確認しておきたい。普通列車とは逆に五稜郭駅側から見てみよう。貨物時刻表には「函館貨物」と「木古内」という2つの駅が道南いさりび鉄道の区間にある。函館貨物は五稜郭駅構内にあたる。実は函館貨物駅という貨物駅は別にあるのだが、これは後述したい。札幌方面から走ってきた貨物列車は五稜郭駅で折り返す。ここまで牽引してきた機関車はDF200形式ディーゼル機関車だ。この構内で機関車は切り離し、逆側に青函トンネル用のEH800形式電気機関車が連結される。

 

貨物時刻表には路線名は「道南いさりび鉄道」と書かれている。貨物時刻表には木古内とあるが、こちらは運転停車で、荷物の積み下ろしや貨車の連結作業は行われない。そして道南いさりび鉄道の木古内駅を過ぎ、北海道新幹線と合流する連絡線を上って行く。この区間および、青函トンネルの間は今、何線にあたるのだろうか。以前は「津軽海峡線」と通称ではあるものの呼ばれていたのだが。

↑木古内駅から北海道新幹線の路線への連絡線を上る貨物列車。写真は北海道新幹線の開業前でEH500形式電気機関車の姿が見える

 

現在、木古内駅の先、北海道新幹線への連絡線、そして青函トンネル区間、さらに青森県側の津軽線へ合流する新中小国信号場、そして中小国駅までの87.8kmの区間は「海峡線」と呼ばれている。

 

旅客列車がこの区間を走っていたころは、「津軽海峡線」の名が「時刻表」誌にうたわれ一般化していた。実はこの当時から正式な路線名は「海峡線」だったのだが、当時は一般には浸透していなかった。在来線だった津軽海峡線を通る列車は一部の団体列車(「カシオペア」「四季島」など)を除きなくなったことから、すでに「時刻表」誌では「津軽海峡線」「海峡線」という路線名の紹介ページはない。貨物列車の時刻を記した「貨物時刻表」のみ「海峡線」と書かれている。このあたりの変化もなかなか興味深い。

 

【道南発見の旅⑩】五稜郭駅手前で合流する線路はどこから?

上磯駅からは列車本数が増えるとともに、市街地を走る路線となり、風景もごく一般的な都市路線となる。そんな道南いさりび鉄道の旅の終点となった側の駅、五稜郭駅近くで進行方向右手から近づいてくる線路がある。道南いさりび鉄道の線路に、進行方向左手から近づいてくる路線は、函館本線であることは分かるのだが、さて右から合流するのは何線なのだろうか。

↑函館貨物駅と五稜郭駅を結ぶ埠頭通路線を走る貨物列車。函館貨物駅の本体(左上)は函館港のすぐそばにある

 

貨物時刻表ではJR北海道の五稜郭駅のことを函館貨物駅と呼んでいるが、先の道南いさりび鉄道の路線に合流する線路をたどると、それとは別の函館貨物駅という貨物コンテナを積み下ろす貨物駅へつながっている。連絡する路線は貨物時刻表では「埠頭通路線」としていて距離は2.1kmほどある。函館貨物駅は別名、有川操車場、五稜郭貨物駅という別名があり、この貨物線は「有川線」「五稜郭貨物線」とも呼ばれることがある。

 

あくまで函館貨物駅の構内線という扱いのため貨物時刻表には、その運行ダイヤが掲載されていない。列車を牽引する機関車も前照灯とともに赤ランプをつけて、構内での入れ替えと同じ扱いの列車として運行されている。

↑五稜郭駅の側線に上り列車が到着したところ。同側線で次は電気機関車が反対側に連結される。左上は五稜郭駅

 

さて、五稜郭駅が道南いさりび鉄道の路線の起点となっている。しかし、同駅始発、同駅終点の道南いさりび鉄道の列車はない。全列車が一駅先の函館駅まで函館本線を通って走っている。前述した「いさりび1日きっぷ」は同駅でも販売、また鉄印も販売されている。ちなみに五稜郭駅〜函館駅の運賃は通常250円だが、道南いさりび鉄道からそのまま乗車した時の同区間の運賃は乗り継ぎ割引される(七重浜駅〜上磯駅からは120円、茂辺地駅〜木古内駅からは190円となる)。ただし「いさりび1日きっぷ」利用の場合には、250円が加算される。

 

函館駅では1・2番線が上磯・木古内方面と表示されている。道南いさりび鉄道の路線となったものの、駅構内には道南いさりび鉄道の切符の販売機も置かれ、第三セクター鉄道の路線とは思えないような扱いだ。さらに道南いさりび鉄道の車両の基地は、函館駅に隣接した函館運輸所にある。函館駅に到着する前に、この運輸所に停まる道南いさりび鉄道の車両が見える。車両の色は七色でにぎやかに、また運賃が割高になったものの、函館駅での対応の様子を見るとJR北海道時代とあまり変わらずで、変わらない良さ、利用のしやすさも感じた道南いさりび鉄道の旅だった。

↑道南いさりび鉄道の全列車が函館駅まで乗り入れている。列車の発車は改札口にも近い1・2番線ホームからが多い(右下)

九州最南端を走る「指宿枕崎線」−−究極のローカル線珍道中の巻

おもしろローカル線の旅74 〜〜JR指宿枕崎線(鹿児島県)〜〜

 

ようやく新型コロナウィルス感染症の状況も改善しつつあり、旅へも出やすくなってきた。本サイトでも1年ぶりに「おもしろローカル線の旅」を復活させたい。

 

復活最初に紹介するローカル線はJR九州の指宿枕崎線。鹿児島県薩摩半島の最南端を走る路線である。一部の駅は以前に訪れたことがあったものの、〝全線完乗”するのは初めて。途中で写真を撮っての旅となると相当の時間がかかった。一方で地元の人との触れ合いや、長時間にわたる暇つぶしも。やや“珍道中”となりつつも、記憶に残る旅となった。

 

【最南路線の旅①】意外!? 全線開業したのは太平洋戦争後だった

まずは指宿枕崎線の概要を見ておこう。路線の歴史はそれほど古くはない。意外にも全線が開業したのは太平洋戦争が終わって、かなりたってのことだった。枕崎市という遠洋漁業の基地があるにもかかわらず、路線の延伸はなかなか果たせなかったのである。

 

◆指宿枕崎線の概要

路線と距離 JR九州 指宿枕崎線/鹿児島中央駅〜枕崎駅87.8km
全線単線非電化
開業 1930(昭和5)年12月7日、西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)〜五位野駅間が開業、1936(昭和11)年3月25日に山川駅まで延伸開業。枕崎駅まで延伸開業は1963(昭和38)年10月31日のこと。この時に路線名を指宿枕崎線に変更。
駅数 36駅(起終点駅を含む)

 

↑指宿枕崎線の路線図。左上は昭和10年代、太平洋戦争前の薩摩半島の路線図。当時は山川駅までしか路線が通じていなかった

 

指宿枕崎線が全線開業したのは前回の東京オリンピックの前年にあたる1963(昭和38)年のこと。遠洋漁業の基地がある枕崎市という規模の大きい町がありながらである。

 

これには理由がある。鹿児島交通枕崎線という私鉄の路線が、すでに枕崎へ到達していたからである。枕崎線は、鹿児島本線の伊集院駅と枕崎駅を結ぶ49.6kmの路線だった。南薩鉄道という名前で路線を開業、1914(大正3)年4月1日に伊集院駅〜伊作駅間が開業、1931(昭和6)年に枕崎駅までの路線を延ばしている。ちなみに路線の途中、阿多駅から知覧駅(ちらんえき)を結ぶ知覧線という支線も設けられていた。

 

つまり、公営の指宿枕崎線の路線(一部開業当時は指宿線)が造り始められていたころ、すでに枕崎駅まで私鉄路線があったわけで、当時の鉄道省(国鉄の前身)としては何が何でも鉄道を延ばそうとはならなかったようである。

 

この鹿児島交通枕崎線だが今はない。1984(昭和59)年3月18日で全線が廃止されている。指宿枕崎線の全線が開業してから、20年後に起きた集中豪雨の影響で運休となり、その1年後に正式に路線廃止となっている。

 

【最南路線の旅②】西大山駅&完乗は計画的に動かないと難しい

指宿枕崎線を旅するにあたって、どのように乗れば効率的なのかプランニングしてみた。途中、JRの路線最南端にある駅、西大山駅へ降りて、そこで写真を少し撮ってから終点の枕崎駅を目指したいな、と考えた。

 

ところが、路線の途中にある喜入駅、さらに山川駅までは列車の本数が多いのだが、山川駅〜枕崎駅間は超閑散路線となる。西大山駅は山川駅から2つ先にある。ということは列車の本数が極端に少ない区間にあるわけだ。山川駅から先は日に7本、さらに終着の枕崎駅へ走っている列車となると6本になる。さらに日中ともなると2時間、3時間、列車がない時間帯がある。しかも午前中は枕崎駅着7時25分の1本しかないという具合なのである。

↑JR最南端の駅「西大山駅」。列車に乗ってこの駅を訪れ、さらに枕崎へ行こうとするとプランニングが大変であることが分かった

 

指宿枕崎線の始発列車は早い。朝4時47分、鹿児島中央駅発の列車がその日の一番列車となる。途中、山川駅での乗り換えがあるが、この列車を使えば7時25分に終着の枕崎駅へ到着することができる。

 

とはいえ、旅先では朝5時前の出発はつらい。さらに、この列車を利用しても、枕崎駅で折り返し列車の発車が7時35分で、駅での時間の余裕が10分しかない。もし、この7時35分の列車に乗らないと、次は13時20分までないのである。ということは始発で動くと、枕崎駅で5時間45分も待たなければならない。始発で終点まで行ってしまうと、枕崎駅で過ごす時間がほぼない。また、始発の列車に乗って西大山駅で途中下車しても、次の下り列車が5時間半も来ない。これはかなり厳しい。

 

そこで次のような行程で動くことにした。

鹿児島中央駅6時20分発→山川駅7時33分着→(他列車に乗り継ぎ)→山川駅7時36分発(西頴娃駅行き)→西大山駅7時48分着

 

さらにその先は、

西大山駅11時54分発→枕崎駅12時56分着(折り返し)、枕崎駅13時20分発→指宿駅14時44分着

 

これでも西大山駅で4時間ほどの空き時間が出てしまうのだが、まあそれは仕方がないと諦めた。午前中から動こうとするとこのプランしかひねり出せなかったのである。

 

【最南路線の旅③】鹿児島湾が見え始めるのは平川駅の先から

秋ともなると南国、鹿児島でも夜明けは遅い。旅をしたのは10月17日(日曜日)のこと。この日の日の出の時間は6時22分。指宿枕崎線の列車の発車時間6時20分とほぼ同時刻だった。列車はまだ暗い中、ディーゼルエンジン特有の音を奏でつつ鹿児島中央駅を発車した。

 

車両はJR九州の気動車キハ200系。鹿児島を走るキハ200系は黄色い塗装で、側面の「NANOHANA」(なのはな)と大きくロゴが入る。乗車した2両編成の座席はロングシート、片側3扉の近郊用気動車である。

↑指宿枕崎線の南鹿児島駅と鹿児島市電・谷山線の南鹿児島駅前停留場。この駅のみ指宿枕崎線と市電の乗り換えが便利な駅となっている

 

ロングシートで〝旅の気分〟はあまり高まらずだが、鹿児島中央駅〜山川駅は、このキハ200系(クロスシート車両もあり)で運行されることが多い。列車が走り出してしばらく、進行左手を鹿児島市電・谷山線の線路が近づいてくる。そして指宿枕崎線と平行して走るようになる。

 

指宿枕崎線の駅名と、この鹿児島市電の停留場名は複数が同じだ。同じだから乗り換えできるのだろうと思われそうだが、離れている駅が多いので注意したい。接続しているのは南鹿児島駅のみだ。

↑平川駅〜瀬々串駅間の海をバックにした指宿枕崎線の定番スポット。走るのはキハ200系。ラッシュ時は4両編成での運行も行われる

 

指宿枕崎線も鹿児島市内では、通勤路線の趣で高架線区間がある。ローカル線のイメージは薄い。旅情豊かなローカル線の趣が味わえるのは、鹿児島中央駅から8つめの平川駅付近からだ。平川駅を過ぎると、間もなく進行左手に鹿児島湾(錦江湾)が見え始めるようになる。ここからしばらくは海に付かず離れずの路線区間となる。

↑平川駅を過ぎてから鹿児島湾を眺める区間となる。走るのは特急「指宿のたまて箱」。同路線の名物観光列車となっている

 

指宿枕崎線の観光ポスターなどで使われる写真を撮影できるのが平川駅〜瀬々串駅(せせくしえき)間の歩道橋上にあるスポット。後ろに鹿児島湾が見え、南国らしい風景が見渡せる。筆者もだいぶこのあたりには通ったが、このスポット以外に背景に海を写し込める箇所がほぼない。山側から写すことが難しい路線区間でもある。よって、この定番スポットが観光用に使われることが多いのであろう。

 

対して指宿枕崎線の車内から見る鹿児島湾の美景は素晴らしい。つまり撮影者たちが苦労して撮る風景を、指宿枕崎線に乗れば誰もが楽しめてしまうというわけである。

 

【最南路線の旅④】指宿といえば温泉だが帰りに立ち寄ることに

朝6時20分発の山川駅行き。平川駅を過ぎ、鹿児島湾が左手に見え始める。ちょうど朝日が向かいの大隅半島方面から海を赤く染めつつ上ってきていた。そんな感動的な景色を眺めながら列車は進む。海上に大型船が数隻浮かぶのが見える。進行方向、左手先にはENEOS喜入基地の大きな石油タンクが見えてくる。基地の最寄り駅、喜入まではほぼ30分おきに列車が走っていて列車本数が多い区間だ。ここまでは鹿児島の郊外路線といった趣が強い。

 

喜入駅、前之浜駅を過ぎ、再び鹿児島湾沿いを走り始める。車窓から亜熱帯の植物も見られるようになり、より南国ムードが増していく。マングローブ樹種のメヒルギ群落の北限地も路線沿いにある。人工的に植えた亜熱帯の木々でない自然のままの南国の木々が、ここでは見ることができるわけだ。薩摩今和泉駅(さつまいまいずみえき)から指宿市となる。指宿市はこの沿線屈指の温泉郷で、全国から訪れる人も多い。

↑鹿児島中央駅〜指宿駅間を走る特急「指宿のたまて箱」。海側が白、山側が黒という水戸岡鋭治氏らしい思いきったデザインの列車だ

 

観光客の多くが乗車するのが特急「指宿のたまて箱」で鹿児島中央駅と指宿駅の間を1日に3往復走る。車内は鹿児島湾側が良く見えるような座席配置となっている。指宿は浦島太郎伝説の発祥の地でもあり、発着する駅では、列車から玉手箱から出るような白煙が立ち上る。そんな演出が楽しい人気の観光列車でもある。使われるのはキハ140形とキハ47形の組み合わせで、JR九州の列車デザインを多く手がけてきた水戸岡鋭治氏が作り上げた「水戸岡ワールド」全開といったD&S列車(デザイン&ストーリー列車)である。

 

さて、今回の指宿枕崎線の旅では、指宿に帰りに訪れることにしたものの、先に指宿の簡単な説明をしておきたい。指宿は日本屈指の温泉町だ。駅前にも屋根付きで広めの足湯があり、温泉の良さを気軽に楽しむことができる。市内には温泉宿がふんだんにあるほか、駅近くにも日帰り温泉や、銭湯があり、宿泊せずとも温泉が楽しめる。

↑指宿駅の目の前にある足湯。こちらでのんびりと温泉気分を楽しむ人も多い

 

さらに、指宿ならではの温泉の楽しみ方といえば「砂むし」。温泉の蒸気で熱せられた砂の上に寝て、スタッフに砂をかけてもらう。10分も入れば、汗が吹き出してくる。浴衣を着て楽しむ天然サウナなのであるが、サウナとは違うのは、砂に包まれて横になってリラックスできること。生き返ったような、また天に舞い上がるような感触が楽しめる。山川にも砂むしがあるので、時間に余裕がある時は楽しんでみてはいかがだろう。

 

温泉の楽しみは次の機会にして、今回はローカル線の完乗で1日をまとめることにする。

 

【最南路線の旅⑤】早朝に山川駅で乗り換え西大山駅を目指した

指宿駅の一つ先の駅が山川駅だ。進行左手に山川港が見えてきてまもなく同列車の終点、山川駅に到着した。ちなみに、山川駅はJRの路線では最南端の有人駅でもある(ただし全時間が有人ではなく、時間・曜日限定ではあるのだが)。

 

乗った列車は山川駅の駅舎側の1番線ホームに到着、2番線ホームにすでにキハ40系1両が停車していた。到着してから3分後、山川駅発の西頴娃駅(にしえいえき)行き列車となって出発する。乗り換えは地上の構内踏切を渡ればすぐなので、手間いらずだが、何ともこのあたり慌ただしい。また興味深い車両の変更である。

↑鹿児島中央駅から山川駅まで乗車したキハ200系(右側)。山川駅から西大山駅までは左のキハ40系に乗り継いだ

 

キハ200系は2両で運行、そして乗り継ぐキハ40系は1両での運行となる。要はこの先の区間は乗車する人がそれだけ減るということなのだろう。でも他に理由があるのではと推測したのだが、そのあたりの話はのちほど。

 

筆者が乗車したのは日曜日のせいか乗客が少なく、地元の利用者は皆無だった。観光客が数人、残りは〝乗り鉄〟といった具合だった。少なめの乗客を乗せて走り始める。キハ200系よりも、古い国鉄時代生まれのキハ40系。次の大山駅の手前には勾配区間があり、ディーゼルエンジンを高らかに奏でながらゆっくり勾配を登っていく。車両の必死さが伝わってくるようだ。それでもスピードは上がらず……。このあたり鉄道好きにとって、たまらなく楽しいところでもある。

 

大山駅を過ぎると、畑地が見渡す限り広がるようになる。そして朝の7時48分、この日の最初の目的地、西大山駅に到着した。

↑西大山駅を入口から見る。小さな入口の階段と屋根が一つ。対して駐車場は広い。案内板にはPRと注意事項がかかれていた

 

西大山駅はJR最南端の駅で、ホームに「JR日本最南端の駅」という標柱が立っている。鉄道最南端の駅というと、現在は沖縄県の沖縄都市モノレール線の赤嶺駅となるのだが、2本レールの鉄道ならば、ここが正真正銘の最南端の駅と言って良いだろう。

 

筆者は西大山駅に訪れたのは3回目だったが、列車で来たのは今回が初めてだった。車ならば、鹿児島市から1時間ちょっとの距離。ところが列車を使うと1時間30分〜50分かかる。この先に行こうとなるとさらに大変だ。

 

駅前には大きな駐車場がある。列車利用の人向けではなく車利用の観光客向けのものだ。多くの人が薩摩半島を巡るドライブの一つの目的地として西大山駅を訪れて〝最果て感〟を楽しむ。さらに魅力なのが、ホームの先から秀麗な開聞岳が望めることであろう。この開聞岳が、同駅のアクセントにもなっている。美景がなければ、ここまで観光客に人気にはならなかったように思う。

↑西大山駅前には土産物屋(右上)がある。ここでは地元マンゴー商品が人気。指宿観光協会が発行する「駅到着証明書」も販売されている

 

さて、西大山駅へ降りたのはいいのだが、次に乗る枕崎駅行きの列車は4時間待ちになる。何をして過ごそうか、とても悩んでしまうのであった。

 

【最南路線の旅⑥】これぞ正真正銘の日本最南端の踏切へ

4時間の合間に、まずは2本の上り列車を撮影することにした。8時36分と、9時11分の2本が西大山駅へ到着する。どこで撮るかを悩みつつ選んだのが、西大山駅の西側にある西大山踏切という遮断機付きの踏切。この踏切は正真正銘、日本の鉄道最南端の踏切となる。

↑日本最南端の踏切となる西大山踏切をキハ40系が通過する。背景に開聞岳が望める立地だ。やや雑草が多いことが難点だった

 

もう一か所は、西大山駅の東側にある中学校踏切付近。ここから開聞岳を背景に走る列車を撮影してみた。中学校の名がつく踏切だが、現在、付近には中学校がない。昔あったことからこの名がついたのであろう。よく知られている撮影地としては、他に駅の東側、徒歩20分のところに県道242号の大山跨線橋がある。青春18きっぷの2010年夏用ポスターがここで撮影された。スケール感のある景色が魅力だが、こちらは開聞岳側に歩道がなく、危険と隣り合わせのため、あまりお勧めできない。

 

さて、中学校踏切の横から撮った開聞岳が下記の写真。撮ってはみたものの、西大山駅の上に電柱と電線があって今ひとつだなと思った。

↑中学校踏切(左上)から撮影した開聞岳とキハ40系。右下に西大山駅がある。電信柱がかなり気になる場所だった

 

とはいえ、先の西大山踏切が日本最南端の踏切ならば、この中学校踏切は日本で2位となる南にある踏切ということで、記憶には残るように思った。

 

【最南路線の旅⑦】次の列車までの4時間空きはさすがに辛い

2本目の上り列車が9時11分に通りすぎ、次の枕崎駅への下り列車の発車は11時54分と時間が大きく空いてしまった。さてどうしたら良いのだろう。

 

まずは西大山駅前の土産物店で、指宿名物のマンゴープリンとマンゴーサイダーを店内でいただいた。さらに指宿観光協会が発行しているJR日本最南端の「駅到着証明書」を購入。同土産物店にはトイレもあるので、休憩に最適だ。ただ、店の人たちと会話をしつつも、小一時間の滞在時間が精いっぱい。とりあえず動こうと、店を出たのだった。

 

向かったのは西大山駅の一つ先の薩摩川尻駅(さつまかわしりえき)。地図で調べてみると、距離にして1.6km、約20分で着けるとあって、ちょうど暇つぶしには最適だなと思って歩き出した。

↑西大山駅から隣の薩摩川尻駅まで歩く途中に出会った光景。広々した畑と美しい開聞岳の組み合わせが絵になった

 

西大山駅から薩摩川尻駅まで歩いたのは正解だった。前述した西大山踏切から畑の中に伸びる道をのんびりと歩く。畑には整然とキャベツが植えられ、その畑ごしに海が見えた。歩くにつれ、畑の先にそびえる開聞岳がよりきれいに見えるようになる。何ともすがすがしい光景に出会ったのだった。とはいっても、のんびり歩いても、30分ほどで隣の駅の薩摩川尻駅に着いてしまった。

 

西大山駅がJR最南端駅ならば、この薩摩川尻駅がJRで2番目の南の駅となる。ただ、何もない駅なので、観光客は皆無だった。2番目というのはそれほど魅力にはならないようだ。また、薩摩川尻駅からは、近いにもかかわらず開聞岳があまり見えない。美景が見えたら、観光客も訪れるのだろうが。

 

ちなみに、指宿市川尻という大きな町が駅から2kmほど南、太平洋に面した場所にあり、この地名から駅名が付けられたと推測される。とはいえ、川尻の人は指宿枕崎線を使わず、ほぼ100%が車利用となるようだ。駅に隣接する踏切を通る車はそれなりにあるのだが、駅にいる人は皆無だった。これから1時間半、列車が来るまでどうしたら良いのだろう。

↑JRで2番目に南にある薩摩川尻駅。指宿市川尻から遠いため利用者はほぼいない。なぜかきれいな電話ボックスが設けられていた

 

仕方なく駅のベンチに座って、しばらくうたた寝。朝早く起きた眠気を取り去る。それでも時間がもたずに駅付近をぶらぶら。軌道用の重機が置かれていたり、人がいない駅なのにきれいな電話ボックスがあったり、ちょっと不思議な駅でもあった。そんな時に農家の男性が通りかかった。

 

駅の裏手にあるハウスで野菜づくりをしている方だった。日中、この駅で列車待ちをする人はほとんどいないそうだ。利用は朝夕に乗降する学生ぐらいなのだろう。

 

この日は日曜日だったので、「仕事はいいんだ」と長い間、世間話に熱中してしまう。いろいろ話をするうちに、薩摩半島のこのあたりは「意外に雨が降らない」と聞いた。それでも山の上に池田湖があって、この付近は水不足にならないそうだ。九州はここ数年、集中豪雨の被害にあった地区も多い。同じ鹿児島県、隣県の宮崎県を走る日南線が、豪雨災害のため運休となっている。ただ、夏はかなり暑い地区だそうで、「このあたりでは、夏は北海道へ行って、向こうで野菜づくりをする人がいるね。で、冬はこちらに戻ってきて野菜をつくるんだ」そうだ。

 

冬でも温暖な気候の薩摩半島の夏はさすがに暑い。一方、北海道では冬には農作業はできない。日本列島の南北を行き来するという思いきったことをする農家の人たちが出現していることを初めて知った。そんな会話を楽しんでいるうちに時間が過ぎていく。暇だったものの、男性の出現で有効な時が過ごせたのだった。

 

【最南路線の旅⑧】南の路線は線路端の草木の勢いが半端ない

薩摩川尻駅11時56分、ようやく枕崎駅行き列車が到着する。今度はキハ47形が2両編成だ。1両だけでなく、2両という編成での運行もある。ただし、山川駅〜枕崎駅間は、ほぼキハ40系の国鉄形気動車一色となる。鉄道ファンにとってはうれしい列車なのだが……。

 

古い車両がなぜ使われるのだろうか。もちろん、利用者が少ないということが一つの理由ではある。加えて、他の路線ではあまり見かけない光景がこの指宿枕崎線では繰り広げられていたのである。

 

南国のせいなのか、左右の草木の伸び方が並みではないのである。もちろん、鉄道敷地内の草刈りは、JR九州の手で行われているようだ。だが、敷地の外の草木となると、著しく運行を妨げる枝以外は切ることができないのが実情のようだ。薩摩川尻駅に次のような貼り紙にあった。

 

JR九州からのお願いとして、「線路側に木が倒れないように管理をお願いします」。貼り紙には特急「指宿のたまて箱」に倒木があたり、正面の運転席のガラス窓が破損した時の写真が掲載されている。

 

「倒木により当社に損害が発生していれば、賠償請求をする場合がございます。線路のそばで木を切る際は事前にJR九州に連絡をお願いします。伐採中に線路側へ木が倒れると列車の運行に支障をきたします」とあった。

↑草木に囲まれるようにして走る指宿枕崎線のキハ40系。車体に右下のように、草が絡みついて走る姿も、ここでは当たり前のよう

 

このような貼り紙を鉄道路線で見たのは初めてだった。倒木にまで至るトラブルは極端な例ながら、左右両側から想像を絶するほどの草木が張り出していた。その張り出し方は乗車していても良く分かる。

 

途中、外気が気持ちよかったので、ガラス窓を少し開けておいた。その開いた窓から草木が入る。〝ビシッ〟〝バシッ〟と窓ワクを叩く音とともに、油断すると入ってくる草木に腕を擦られることに。この路線に限っては、窓開けには注意が必要なことがよく分かった。当然ながら車両も草木が擦りつけられることによって、多くの傷がつくことになるのだろう。頑丈な車体を持つキハ40系が使われる理由の一つになっているのかも知れない。

↑枕崎駅が近づくにつれ、先ほどまで間近に見えていた開聞岳が遠くなっていく

 

薩摩川尻駅から乗車したキハ47形の車窓からは、開聞岳はそそり立つように見える。東開聞駅、開聞駅を過ぎると、開聞岳は徐々に左手後方に遠ざかり小さくなっていく。

 

入野駅から先は、進行方向の左手、やや遠めながら東シナ海が見えるようになる。頴娃駅、西頴娃駅と難読駅名が続く。ちなみに頴娃駅はローマ字ならば「ei」。2文字は国内では「津駅」に次ぐ短い駅名だ。

 

指宿枕崎線の列車は進行左手に海と集落を、右手に丘陵地を眺めつつ進む。

 

【最南路線の旅⑨】終着駅の枕崎での滞在時間は24分のみに

枕崎駅への到着は12時56分、乗車した列車は鹿児島中央駅からの直通列車だったが、2時間54分かかった。朝6時20分に鹿児島中央駅を出た筆者にとっては、途中下車し、余計な時間を過ごしたものの合計6時間36分かけての終着駅・枕崎駅への到着となった。

↑指宿枕崎線の終点、枕崎駅。車止めの横には記念撮影用のデッキも設けられ、カメラ置台(右下)も用意されている

 

枕崎駅はJR最南端の始発・終着駅となる。そんな枕崎駅まで乗車してきたのは、ほとんどが鉄道ファンという状況だった。3時間近く、のんびりローカル線に乗るというのは、一般の人ならば苦痛を伴うかも知れないが、鉄道ファンにとっては至福の時となるようである。

 

そして大半が24分後に折り返す列車に乗ろうとしているようだった。多くが、最南端終着駅に関わる関連施設の撮影に大わらわだった。筆者の場合は、街中に残る鹿児島交通枕崎線の路線跡を探そうと歩き回った。

↑枕崎駅前の「本土最南端の始発・終着駅」の案内。後ろには「かつお節行商の像」が立つ。行商によって枕崎のかつお節の名が広まった

 

さて、駅に戻ると駅前に立つ案内に目が引きつけられる。そこには「本土最南端の始発・終着駅」とあり、宗谷本線稚内駅から3099.5km、最北端から南に延びる線路はここが終点です、とあった。

 

稚内駅からこの駅まで乗り継いで旅する人がいたとしたら、枕崎駅に到着した時は感慨ひとしおだろう。筆者もゆくゆくは、最北端の稚内駅、最東端の根室本線東根室駅を目指してみたいなと思うのだった。

 

ちなみに、鹿児島中央駅と枕崎駅間にはバスが走っている。所要時間は1時間20分〜2時間弱の距離だ。本数も1日に9往復走っている。他に鹿児島空港との間にもバス便(1日に8往復)が出ている。このバス便の便利さを知ってしまうと、指宿枕崎線を枕崎駅まで乗る人があまりいない理由が分かる。言葉は悪いものの〝物好き〟しか完乗しない路線だったのである。

↑枕崎駅の北には鹿児島交通枕崎線の線路跡が残る。右は観光案内所の横に立つ灯台の形をした日本最南端始発・終着駅のモニュメント

 

歴史好きは絶対に行くべし!「近江鉄道本線&多賀線」6つのお宝発見の旅【後編】

おもしろローカル線の旅73 〜〜近江鉄道本線・多賀線(滋賀県)その2〜〜

 

近江鉄道の沿線には隠れた“お宝”がふんだんに隠れている。こうしたお宝が、あまりPRされておらずに残念だな、と思いつつ沿線を旅することになった。今回は近江鉄道本線の八日市駅〜貴生川駅(きぶかわえき)間と、多賀線の高宮駅〜多賀大前駅間の“お宝”に注目してみた。

*取材撮影日:2015年10月25日、2019年12月14日、2020年11月3日ほか

 

【関連記事】
歴史好きは絶対行くべし!「近江鉄道本線」7つのお宝発見の旅【前編】

 

【はじめに】京都に近いだけに歴史的な史跡が数多く残る

近江鉄道は前回に紹介したように、1893(明治26)年に創立された歴史を持つ会社だ。現在は西武グループの一員となっており、元西武鉄道の車両が多く走る。

 

路線は、近江鉄道本線・米原駅〜貴生川駅間47.7kmと、多賀線・高宮駅〜多賀大社前駅2.5km、さらに八日市線・近江八幡駅〜八日市駅間9.3kmの3路線がある。八日市線を除き、経営状況は厳しい。主要駅をのぞき、駅の諸設備などの整備まで行き渡らないといった窮状が、他所から訪れた旅人にも窺えるような状況だ。

とはいえ、沿線には見どころが多い。特に史跡が多く残る。京都という古都に近かったことも、こうした歴史上の名所が多く残る理由と言えるだろう。PRがなかなか行き渡っていないこともあり、そうした隠れた一面に目を向けていただけたら、という思いから近江鉄道本線の紹介を始めた。その後編となる。

 

今回は近江鉄道本線の八日市駅〜貴生川駅間の紹介と、さらに短いながらも、多賀大社という古くから多くの人が訪れた神社がある多賀線にも乗車した。終点の多賀大社前駅から歩くと、予想外の車両にも出会えた。

 

【お宝発見その①】八日市駅に下車したらぜひ訪ねたい近江酒造

↑1998(平成10)年にできた八日市駅の新駅舎。2019年には2階に近江鉄道ミュージアムが開館した

 

八日市駅は八日市線の乗換駅でもあり、近江鉄道本線でも最も賑わいが感じられる駅だ。また東近江市の玄関駅でもある。駅前からは多くのバスが発着、駅近くにはビジネスホテルも建つ。駅舎内には近江鉄道ミュージアム(入場無料)があり、同鉄道の歴史や名物駅の紹介、さらにトイトレイン運転台、運転席BOXなどがあり、電車の待ち時間を過ごすのにもうってつけだ。

↑八日市駅構内に並ぶ800系。同駅では近江鉄道本線から八日市線への乗換え客で賑わう。800系は写真のように広告ラッピング車も多い

 

八日市駅で行くたびに寄りたいと思っているのが近江酒造の本社だ。駅から徒歩14分ほどの距離にある。2019年の12月に1両の電気機関車が運び込まれた。元近江鉄道のED31形ED31 4である。

 

ED31 4は、近江鉄道では彦根駅に隣接したミュージアムで多くの電気機関車とともに静態保存されていた。静態保存といっても、維持費がかかる。経営状態の芳しくない近江鉄道としては、本来は残しておきたい保存機群であったが、背に腹はかえられずという状態になった。

↑彦根駅に隣接する近江鉄道ミュージアムで保存されていた時のED31 4。今は八日市駅に近い近江酒造本社で保存される

 

ED31形は1923(大正12)年に現在の飯田線の前身、伊那電気鉄道が発注し、芝浦製作所(現在の東芝)が電気部分を、石川島造船所が機械部分を製造した電気機関車だ。当時の形式名はデキ1形機関車だった。同路線を国鉄が買収後、国鉄を(一部の車両は西武鉄道)経て、または直接、近江鉄道へ譲渡されている。近江鉄道ミュージアムでは5両が保存展示されていたが、2017年暮れまでにED31 4を除き解体された。

 

日本の電気機関車の草創期の歴史を残す車両ということもあり、ED31 4のみは、地元の大学の有志が中心となりクラウドファンディング活動を行い残す活動を行った。めでたく目標額に到達し、その後に移転され近江酒造の敷地内で保存されることになった。手前味噌ながら、筆者もわずかながら活動に助力させていただいた。

 

日本の国産電機機関車としては、それこそお宝級の電気機関車であり、この保存の意味は大きいと思う。筆者は平日には訪れることがなかなか適わないが、今度はぜひ近江酒造本社が営業している平日の日中に訪れて、ED31 4との対面を果たしたいと思っている。

 

【お宝発見その②】水口石橋駅近くには東海道の宿場町がある

さて八日市駅から近江鉄道本線の旅を進めよう。本線の中でも八日市駅〜貴生川駅間は閑散度合が強まる。そのせいもあり、朝夕を除き9時〜16時台まで1時間1本と列車の本数が減る。長谷野駅(ながたにのえき)、大学前駅、京セラ前駅と南下するに従い、田園風景が目立つようになる。桜川駅、朝日大塚駅、朝日野駅と見渡す限りの水田風景が続き、車窓風景もすがすがしい。

 

日野駅は地元、日野町の玄関口にあたる駅。ここで上り下り列車の行き違いのため、時間調整となる。この日野駅の紹介は最後に行いたい。

 

日野駅を発車すると、しばらく山なかを走る。そして清水山トンネルを徐行しつつ通り抜ける。次の水口松尾駅までは約5kmと、最も駅間が長い区間だ。

↑水口宿の中心部にある鍵の手状の町並み。手前から中央奥に東海道が延びる。からくり時計があり、時を告げる動きに多くの人が見入る

 

水口松尾駅(みなくちまつおえき)から先の駅はみな甲賀市(こうかし)市内の駅となる。特に水口石橋駅と水口城南駅は立ち寄りたい “お宝”がある。近江鉄道本線は八日市駅の北側では中山道に沿って敷かれていたが、この甲賀市では、路線と江戸五街道の一つ、旧東海道が交差している。

 

ということで水口石橋駅を下車して、東海道へ向かってみた。本当に駅のすぐそばに宿場町があった。東海道五十三次の50番目の宿場、水口宿(みなくちじゅく)である。近江鉄道の東海踏切の東側にあった。ちょうど道が三筋に分かれた鉤の手状の町並みが特徴となっていた。

 

道は細いが古い宿場町の面影が色濃く残る。さらに時をつげるからくり時計があり、ちょうど訪れた時には観光客が集まり、からくり時計の動きに見入っていた。この訪れた人たちは、多くが車利用の観光客なのであろう。電車を利用する人がもう少し現れればと残念に思えた。

 

【お宝発見その③】水口城にはどのような歴史が隠れているのか

水口宿の付近は、かつて水口藩が治めていた。小さめながらも水口城という城跡が残る。宿場からは水口城趾へ向けて歩いてみた。水口藩は小藩で、藩の始まりは豊臣政権までさかのぼる。当時は五奉行の1人、長束正家(なつかまさいえ)が5万石で治めていた。その後に幕府領となった後に、賤ケ岳の七本槍の一人とされる加藤嘉明(伊予松山藩の初代藩主)の孫、加藤明友(かとうあきとも)が水口城主となった。城は明友が立藩当時に整備された城である。

 

水口藩はその後に、一時期、鳥居家が藩主となるが、再び加藤家が加増され2万5千石の藩主となり、明治維新を迎えている。城は京都の二条城を小型にしたものとされる。石垣と乾矢倉(いぬいやぐら)が残り、水口城資料館があり公開されている(有料)。ちなみに維新後は、城の部材はほとんどが民間に払下げされ、その一部は近江鉄道本線の建設にも使われた。水口城が意外なところで近江鉄道の開業に関わっていたわけだ。

↑堀と石垣、そして乾矢倉が残る。2万5千石の小藩だけに規模は小さめだが、コンパクトで美しくまとまって見えた

 

水口城からは近江鉄道の駅が徒歩約2分と近い。駅の名前は水口城南駅(みなくちじょうなんえき)。城の南にあり駅名もそのままずばりである。

 

水口城南駅から近江鉄道本線も終点まで、残すはあと1駅のみ。駅間には野洲川(やすがわ)がある。ちなみに下流で琵琶湖に流れ込むが、琵琶湖に流れ込む川としては最長の川にあたる。野洲川を渡り甲賀市の市街が見え、左カーブすれば貴生川駅に到着する。貴生川駅ではJR草津線と信楽高原鐵道線と接続していて、自由通路を上ればすぐに他線の改札口があり乗換えに便利だ。

↑近江鉄道の貴生川駅のホームは北側にあり自由通路でJR線、信楽高原鐵道と結ばれている。駅にはちょうど820系赤電車が停車していた

 

【お宝発見その④】多賀線のお宝といえば多賀大社は外せない

ここからは多賀線を紹介しよう。多賀線は近江鉄道本線の高宮駅と多賀大社前駅を結ぶわずか2.5kmの路線で、1914(大正3)年3月8日に開業した。近江鉄道本線の高宮駅が1898(明治31)年6月11日に開業しているのに対して、16年ほどあとに路線が開業している。

 

とはいえ当時、経営があまり芳しくなかった近江鉄道にとって、多賀線の開業は経営環境を好転させる機会となったとされる。これは多賀大社前駅に近くにある多賀大社のご利益そのものだった。多賀大社に参詣する人により路線は賑わいを見せたのだった。

↑高宮駅3番線が多賀線のホーム。駅構内で急カーブしている。改良前まではカーブに対応するため車体の隅が切り欠け改造された(右上)

 

多賀線の起点となる高宮駅は1、2番線ホームが近江鉄道本線用で、2番線ホームで降りると向かいの3番線ホームに多賀大社前駅行きの電車が停まっている。この3番線は線路が急カーブしていて、この急カーブに合わせてホームが造られている。これでもカーブ自体、緩やかに改造されたそうで、改造前までは、車体の隅を切り欠け改造した電車しか入線できないほどだった。

 

急カーブのホームということもあり、電車とホームの間のすき間が開きがちに。足元に注意してご乗車いただきたい。さて多賀線の電車は、彦根駅方面からの直通電車もあるものの、大半は高宮駅と往復運転する電車となる。わずか2.5kmの短距離路線の多賀線。発車すると間もなくスクリーン駅に到着する。

 

スクリーン駅は、ホーム一つの小さな駅で、企業名がそのままついた駅だ。2008(平成20)年3月15日の開業で、駅名となっているSCREENホールディングスが開設費用を負担したことによって誕生した。目の前に事業所があるため、同社に勤務する人たちの乗降が多い。

↑多賀大社前駅の駅舎(左)のすぐ前には多賀大社の大鳥居がある。駅舎は趣ある造りで、コミュニティハウスが併設される

 

↑3面2線というホームを持つ多賀大社前駅。1998年に多賀駅から多賀大社前駅と改称された。現在はほぼ駅舎側のホームが使われる

 

スクリーン駅からは左右に広々した田園風景を眺め東へ。名神高速道路の高架橋をくぐればすぐに多賀大社前駅だ。高宮駅からはわずか6分の乗車で多賀大社前駅に到着する。鉄道ファンならば、駅構内に何本かの側線があることに気がつくのではないだろうか。現在の乗降客を考えれば、駅構内が大きく、不相応な規模に感じる。

 

この大きさには理由がある。まずはスクリーン駅〜多賀大社前駅間から沿線にあるキリンビール滋賀工場へ引込線があった。また多賀大社前駅から、その先にある住友セメント多賀工場までも引込線があった。こうした工場からの貨物列車は多賀大社前駅を経由して出荷されていった。1983(昭和58)年にキリンビール工場の専用線が廃止されてしまったが、当時の駅構内はさぞや賑わいを見せていたことだろう。

↑多賀大社駅前から多賀大社まで門前町が続く。かつては商店が連なったが現在は神社周辺のみ店が営業している。同門前町の名物は糸切餅

 

↑多賀大社は多賀大社前駅から徒歩10分ほど。県道多賀停車場線に面して鳥居が立つ

 

多賀線の終点駅は多賀大社前駅を名乗るように多賀大社と縁が深い。多賀大社へお参りする人を運ぶために設けられた路線だった。

 

多賀大社の歴史は古い。創建は上古(じょうこ)と記述されるのみで、正式なところは分からない。日本の歴史の最も古い時期に設けられたと伝わるのみである。祭神は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)とされ、御子は、伊勢神宮の祭神である天照大神(あまてらすおおかみ)とされる。昔から「お伊勢参らばお多賀に参れ お伊勢お多賀の子でこざる」と謡われた。

 

長寿祈願の神として名高く、豊臣秀吉が、母・大政所(おおまんどころ)の延命を多賀社(1947年以降に多賀大社となった)に祈願したとされる。

 

このように歴史上、名高い神社で、現在も賑わいを見せている。残念なことに、多賀線で訪れる人もちらほらみられるが、圧倒的にクルマで訪れる人が多い。いずれにしても、多賀線にとってはお宝の神社ということが言えるだろう。

 

【お宝発見その⑤】多賀大社の先で残念な光景に出会った

多賀大社の前からさらに歩いて10分あまり、国道307号沿いにある車両が置かれている。こちら現在はお宝と言いにくいが、念のため触れておこう。テンダー式蒸気機関車が、ぽつりと1両。正面にナンバープレートはすでについていないが、D51形蒸気機関車、いわゆるデコイチである。D51の1149号機だ。1944年度に川崎車輌で製造された31両のうちの1両で、今も残っているD51形の中では最も若いグループに入るD51で、太平洋戦争中に生まれたことから戦時型と呼ばれる。

 

さてなぜここに置かれているのだろう。1976年3月まで北海道の岩見沢第一機関区に配置されていた。廃車除籍となったあとに、多賀に設けられた多賀SLパークに引き取られた。同年11月には寝台客車を連結し、SLホテルとして開業した。ところが、SLホテルとして営業していた期間はわずかで、同ホテルが経営するレストランとともに1980年代に入り閉鎖されてしまった。客車はその後に解体されたが、機関車のみ置きっぱなしにされたのだった。

↑国道沿いの荒れ地にそのまま置かれたD51形1149号機。地元で復活が検討されたが、実現は難しそうで放置されたままとなっている

 

導入の時には多賀大社前駅まで近江鉄道の電気機関車によって牽引され、駅からはトレーラーで運ばれた。見物人が多く集まり注目を集めたという。当時は、全国からSLが消えていったちょうどさなか。SLブームだったせいか、ホテルも賑わった。ところが、ブームもさり、場所もそれほど好適地とは言えず、経営がなりたたなくなっていった。そして多賀SLパークは閉鎖された。

 

それこそ、つわものどもが夢の跡となってしまった。保存されているとはいえ、放置されたままの状態。無残な状態で、見ていて痛々しくなってきた。

 

【お宝発見その⑥】最後に日野駅のカフェでほんのり癒された

近江鉄道の旅を終えるにしたがい、筆者の気持ちはどうしても落ち込みがちになっていた。せっかく、さまざまな“お宝”があるのにもかかわらず、週末に乗車する観光客はせいぜい1割以下しか見かけなかった。新型感染症が心配されるなかだったとはいえ、寂しさを感じた。

 

滋賀県に住む知人はこうした現状に関して、「民鉄一社に何もかも背負わせるのは、もう時代遅れで、いかに沿線が力を合わせて活性化させることがキーポイントだと思います」と話すのだった。

 

筆者もその通りだと思う。そんな思いのなか、明るい兆しが感じられた駅があった。近江鉄道本線は1900(明治33)年に貴生川駅まで延伸された。その時に日野駅が開業した。当時はまだ、蒸気機関車が火の粉を出すということで、町の近くに駅を造ることに対して反対意見もあった。そのため町の外れに駅が造られたところも多かった。近江鉄道本線でも例に漏れず、経費節減ということもあり郊外に駅を設けがちだった。ところが日野では、町の中心に駅を、と逆に陳情したのだった。

 

地図を見ても、日野駅付近で、路線が曲がり、東に出張った形になっている。この曲がりは、陳情の成果だった。大正期、駅構内に待避線を設ける時にも、村絡みで援助し、鉄道用地を買収、施設の敷設費の一部を負担している。

↑2017年に駅舎再生工事が行われた日野駅。駅舎は町の宝として取り壊さずに再生させる道をたどった

 

町の将来を考えれば、鉄道を誘致して乗ることが大切と、すでに当時の日野の人たちは考えたのだった。今もこうした心意気が日野町に残っている。現在の駅は2017年に改修されたもの。まったく新しくするわけでなく、古い駅をきれいに改修することで、“わが町の駅”の歴史を大切にする道を選んだ。

 

さらにその改修費はふるさと納税制度や、クラウドファンディングを利用している。さらに駅舎内に観光交流施設を備えたカフェ「なないろ」を設けた。

↑日野駅に併設されたカフェ「なないろ」。町の人たちの交流の場としても活かされている。電車の待ち時間に利用する人も見かけた

 

鉄道がたとえ消えたとしても、路線バスにより公共交通機関は保持されるだろう。ところが○○線が通る○○町という看板が消えてしまう。人口の減少が加速することも予想される。バス路線は乗る人が減り廃止される。こうした積み重ねが、町が消滅していく危機にもなりかねない。

 

各地のローカル線が経営難にあえいでいる。今回、訪ねた近江鉄道も同様だった。さらにコロナ禍で、来年以降、全国の鉄道会社に苦難がのしかかるだろう。近江鉄道の一部の駅は、トイレ整備など、後回しにされ使えない駅もあった。決してきれいとはいえない駅もある。知人が話したように、このことは「民鉄一社では何もかも背負わすのは、もう時代遅れ」なのでは無いだろうか。

 

日野駅の例は、そうした町も一緒になって鉄道を盛り上げていく具体例を示してくれているようだ。ローカル線好きとしてはとてもうれしく感じ、最後に癒されたような気持ちになったのだった。

 

 

不思議がいっぱい? えちぜん鉄道「勝山永平寺線」11の謎解きの旅

おもしろローカル線の旅71 〜〜えちぜん鉄道勝山永平寺線(福井県)〜〜

 

乗車したローカル線で、これまで見た事がないもの、知らないものに出会う。「何だろう」と好奇心が膨らむ。一つ一つ謎を解いていく、それが楽しみとなる。さらにプラスαの楽しさが加わっていく。えちぜん鉄道勝山永平寺線は、さまざまな発見が楽しめるローカル線。晩秋の一日、謎解きの旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2014年7月23日、2020年11月1日ほか

 

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えちぜん鉄道「三国芦原線」10の魅力発見の旅

 

【謎解きその①】路線名が越前本線から勝山永平寺線となったわけ

初めに、勝山永平寺線(かつやまえいへいじせん)の概要を見ておきたい。

路線と距離 えちぜん鉄道勝山永平寺線/福井駅〜勝山駅間27.8km
*全線単線・600V直流電化
開業 1914(大正3)年2月11日、京都電燈により新福井駅〜市荒川駅(現・越前竹原駅)間が開業、同年3月11日、勝山駅まで延伸開業
駅数 23駅(起終点駅を含む)

 

すでに路線開業から100年以上を経た勝山永平寺線。路線の開業は京都電燈という会社によって進められた。当時、電力会社は今のように寡占化が進んでおらず、電力会社が各地にあった。京都に本社があったのが京都電燈で、関西と北陸地域に電気を供給していた。自前で作った電気を利用し、電車を走らせることにも熱心な会社で、日本初の営業用の電車が走った京都電気鉄道(後に京都市電が買収)のほか、現在の叡山電鉄などの路線を開業させた。

 

福井県内で手がけたのが現在の勝山永平寺線で、当初は越前電気鉄道の名前で電車の運行を行った。経営は順調だったが、太平洋戦争中の1942(昭和17)年の戦時統制下、配電統制令という国が電力を管理する決定が下され、京都電燈は解散してしまう。

 

京都電燈が消えた後に京福電気鉄道が経営を引き継ぎ、京福電気鉄道越前本線となった。当時は永平寺鉄道という会社があり、永平寺線という路線を金津駅(現・芦原温泉駅)〜永平寺駅間で営業していた。同線とは永平寺口駅で接続していた。1944(昭和19)年に京福電気鉄道は永平寺鉄道を合併し、京福電気鉄道永平寺線としている。この年に永平寺口駅は東古市駅と名を改めた。

 

当初は路線名が越前本線だったわけだが、勝山永平寺線となった理由は、その後の経緯がある。答えは、次の章で見ていくことにしよう。

 

【謎解きその②】なぜ2回もいたましい事故が起きたのか?

京福電気鉄道は、戦後間もなくは順調に鉄道経営を続けていたが、モータリゼーションの高まりとともに、次第に経営が悪化していく。1960年代からは赤字経営が常態化していた。まずは永平寺線の一部区間を廃止した(金津駅〜東古市駅間)。新型電車の導入もままならず、施設は古くなりがちで、安全対策もなおざりにされていた。そんな時に事故が起った。

 

現在に「京福電気鉄道越前本線列車衝突事故」という名で伝えられる事故。詳しい解説は避けるが、古い車両のブレーキの劣化による破断が原因だったとされる。2000(平成12)年12月17日のこと。永平寺駅(廃駅)方面から下ってきた東古市駅(現・永平寺口駅)行き電車が、ブレーキが効かずに暴走してしまう。そして駅を通り過ぎ、越前本線を走っていた下り列車と正面衝突してしまったのだった。

↑永平寺口駅の構内に入線する福井駅行の上り列車。右側にカーブするように元永平寺駅へ延びていた線路跡がわずかに残る

 

この事故で運転士が亡くなる。ブレーキが効かなくなったことを気付いた運転士は、少しでもスピードが落ちるように、電車の全窓をあけて空気抵抗を高めようとし、乗客を後ろの方に移動させるなどの処置を行った。本人は最後まで運転席にとどまり、電車をなんとか制御しようとしたとされる。おかげで乗客からは死者を出さずに済んだのだが、本人が亡くなるという大変に痛ましい結果となっている。

 

さらに翌年の6月24日には保田駅〜発坂駅間で上り普通列車と下り急行列車が正面衝突してしまう。こちらは普通列車の運転士が信号機の確認を怠ったための事故だった。とはいえ、ATS(自動列車停止装置)があったら、防げた事故だった。この事故の後に国土交通省から中小事業者に対して補助金が出され、各社の設置が進んだ。2006(平成18)年には国土交通省の省令に、安全設備設置は各鉄道事業者自身の責任で行うことが明記されている。現在は全国の鉄道に当たり前のようにATSが設置されるが、京福電気鉄道をはじめ複数の鉄道会社で起きた痛ましい事故がその後に活かされているわけだ。

 

この2件の正面衝突事故を重く見た国土交通省はすぐに京福電気鉄道の全線の運行停止、バスを代行運転するように命じた。ところが、両線が運行停止したことにより、沿線の道路の渋滞がひどくなり、バス代行も遅延が目立った。とはいえ京福電気鉄道には安全対策を施した上で、運行再開をさせる経済的な余力が無かった。

 

そこで福井県、福井市、勝山市などの沿線自治体が出資した第三セクター経営の、えちぜん鉄道が設立され、運行が引き継がれた。そして2003(平成25)年の2月にまずは永平寺線をそのまま廃線とし、越前本線は勝山永平寺線に路線名を改称した。7月20日に福井駅〜永平寺口駅間を、10月19日に永平寺口駅〜勝山駅間の運行を再開させた。

 

永平寺線自体は消えたが、沿線で名高い永平寺の名前は路線名として残したわけである。

 

【謎解きその③】2両編成の電車は元国鉄119系なのだが……?

ここで勝山永平寺線の主要車両の紹介をしておこう。前回の三国芦原線の紹介記事と重複する部分もあるが、ご了承いただきたい。2タイプの電車がメインで使われる。筆者は三国芦原線では乗れなかった2両編成の電車も、こちら勝山永平寺線で乗車できた。さてそこで不思議に感じたのは……

 

・MC6101形

えちぜん鉄道の主力車両で、基本1両で走る。元は愛知県を走る愛知環状鉄道の100系電車で、愛知環状鉄道が新型車を導入するにあたり、えちぜん鉄道が譲渡を受け、改造を施した上で利用している。車内はセミクロスシート。なお同形車にMC6001形が2両あるが、MC6101形とほぼ同じ形で見分けがつかない。MC6001形は1両での運行も可能だが、2両編成で運行させることが多い。なお、他にMC5001形という形式もあるが、1両のみ在籍で、この車両にはあまりお目にかかることがない。

↑勝山永平寺線を走るMC6101形電車。日中はこの1両編成の車両がメインとなって走る。沿線の風景は三国芦原線に比べて山里の印象が強い

 

・MC7000形
元はJR飯田線を走った119系。えちぜん鉄道では2両編成の運用で、朝夕を中心に運行される。勝山永平寺線では週末の日中にも走ることがある。MC6101形と同じくセミクロスシート仕様だ。

 

さてMC7000形だが、下記の写真を見ていただきたい。飯田線を走っていたころの119系(小写真)、と2両編成で走るMC7000形を対比してみた。まったく顔形が違っていたのである。

↑2両で走るMC7001形。正面の形は119系(左上)とは異なる。MC6101形とは尾灯の形が異なるぐらいで見分けがつきにくい

 

MC7000形は、119系をベースにはしているが、電動機や制御方式を変更している。119系の当時は制御車にトイレが設けられたが、現在は取り外され空きスペースとなっている。また運転台の位置を下げるなどの改造を行い、正面の姿は元も面影を残していない。MC6101形と、ほぼ同じ姿、いわば“えちぜん鉄道顔”になっている。よって、正面窓に2両の表示がない限り、見分けがつきにくい。

 

国鉄形の電車も顔を変えれば印象がだいぶ変わるという典型例で、この変化もおもしろく感じた。

 

【謎解きその④】一部複線区間が今は全線単線となった理由

さてここから勝山永平寺線の旅を始めよう。起点は福井駅。えちぜん鉄道福井駅はJR福井駅の東口にある。福井駅の東口は北陸新幹線の工事の真っ最中で、大きくその姿を変えつつある。新幹線の高架路線に沿って、えちぜん鉄道の高架路線が福井口駅まで延びている。

 

すでにえちぜん鉄道の路線の高架化改良工事は終了している。福井駅〜福井口駅間が地上に線路があったころとはだいぶ異なる。以前には福井駅〜新福井駅間と、福井口駅からその先、一部区間が複線だった。現在は複線だった区間がすべて単線となり、途中駅には下り上り線が設けられ行き違い可能な構造になっている。興味深いことにえちぜん鉄道では、自社の高架路線が完成するまでは北陸新幹線用の高架路線を、“仮利用”していた。2015年から3年ばかりの間は、新幹線の路線となるところをえちぜん鉄道の電車が走り、自社の高架路線が完成するのを待ったのである。

 

自社線ができあがってからは、複線区間が単線となった。要は福井駅〜福井口駅間は新幹線を含めて敷地の幅が拡張されたが、えちぜん鉄道の一部は路線の幅を縮小して単線化された。結果として北陸新幹線の開業に向けて用地を一部提供した形となっている。

↑福井駅東口にあるえちぜん鉄道の福井駅。高架駅でホームは2階にある。勝山行き列車は日中、毎時25分、55分発の2本が発車する

 

福井駅発の勝山永平寺線の列車は朝の7〜8時台が1時間に3本を運転(平日の場合)。また9時台〜20時台は発車時間が毎時25分と55分になっている。途中駅でも、この時間帯の発車時刻はほぼ毎時同タイムで運行される。要はパターンダイヤになっている。利用者が使いやすいように配慮されているわけだ。

 

筆者は福井駅発10時25分発の電車に乗車した。なお、福井駅発の電車は平日のみ運転の7時54分発の電車のみが永平寺口駅どまりで、他はみな勝山駅行となっている。急行はないが一部列車は比島駅(ひしまえき/勝山駅の一つ手前の駅)のみを通過するダイヤとなっている。勝山駅まで通して乗車すれば53〜63分ほど。運賃は福井駅〜勝山駅間が770円となる。三国芦原線の記事でも紹介したとおり、全線を往復することを考えたら1日フリーきっぷ1000円を購入すればかなりおトクになる。

↑福井口駅の北で三国芦原線(右)と分かれる。ちょうど勝山駅行列車が高架上を走る。右の高架線下にえちぜん鉄道本社と車両基地がある

 

福井口駅をすぎると分岐を右に入り、列車は勝山駅方面へ向かう。なお、福井口駅の北側にえちぜん鉄道の車両基地があり、勝山永平寺線の車内からもわずかだが基地内が見える。

↑高架上から車両基地へ降りる回送電車。右は基地内に停まるMC6001形電車。車庫内には同社名物の電気機関車ML521形も配置される

 

【謎解きその⑤】さっそく出ました難読「越前開発駅」の読みは?

↑福井口駅から高架線を走り勝山駅へ向かう下り列車。高架から地上に降りる坂の勾配標には32.0パーミルとある。結構な急勾配だ

 

福井口駅から高架線を降りてきた勝山永平寺線の列車。次の駅は越前開発駅だ。この駅名、早速の難読駅の登場です。通常ならば「えちぜんかいはつえき」と読むところ。だが、「かいはつ」ではない。「えちぜんかいほつえき」と読ませる。

 

越前開発駅の北側に開発(かいほつ)という地域名がある。このあたりは元々原野や湿地帯で、その一帯が開発されたところだとか。「かいほつ」と読ませるのは仏性(仏になることができる性質のこと)を獲得するという仏教用語なのだそう。縁起の良い呼び方がそのまま伝わったということなのだろう。なかなか日本語は奥が深いことを、ここでも思い知った。

↑越前開発駅はホーム一つの小さな駅。以前は福井口駅からこの駅まで複線区間となっていて、今もその敷地跡が残る

 

越前開発駅、越前新保駅(えちぜんしんぼえき)と福井の市街地の中を走るルートが続く。追分口駅付近からは左右の田畑も増えてきて、徐々に郊外の風景が広がるように。越前島橋駅の先で北陸自動車道をくぐる。その先、さらに田園風景が目立つようになる。

 

松岡駅の付近からは右手に山がすぐ近くに望めるようになり、やがて、列車は山のすそ野に沿って走るように。左手に国道416号に見ながら走る。このあたり九頭竜川(くずりゅうがわ)が生み出した河岸段丘の地形が連なる。志比堺駅(しいざかいえき)がちょうど、段丘のトップにあたるのだろうか。駅も路線も一段、高いところに設けられる。

 

勝山永平寺線は地図で見る限り平坦なよう感じたが、乗ってみると河岸段丘もあり、意外にアップダウンがある路線だった。

 

【謎解きの旅⑥】永平寺口駅には駅舎が2つある?さらに……

志比堺駅を発車すると右から迫っていた山地が遠のき平野が開けてくる。そして列車は下り永平寺口駅(えいへいじぐちえき)へ到着する。この駅で下車する人が多い。現在の駅舎は線路の進行方向左手にあり、こちらに永平寺へ向かうバス停もある。一方で、右手にも駅舎らしき建物がある。こちらは何の建物だろう?

↑永平寺口駅の旧駅舎。路線開業時に建てられた駅舎で、映画の男はつらいよのロケ地としても使われた

 

右手の建物は旧駅舎(現・地域交流館)で勝山永平寺線が開業した1914(大正3)年に建てられたもの。開業当初は永平寺の最寄り駅であり、1925(大正14)年には永平寺鉄道(後の永平寺線)も開業したことにより、乗り換え客で賑わった。

 

同路線では終点の勝山駅と共に歴史が古く、風格のあるたたずまいで今もその旧駅舎が残されるわけだ。この建物の入り口には映画「男はつらいよ」のロケ地となったことを示す石碑が立つ。1972(昭和47)年8月に公開された第9作「柴又慕情」編のロケ地となり、主人公の渥美清氏やマドンナ役の吉永小百合さんも訪れたそうだ。

 

さらにこの駅舎は2011(平成23)年には国の登録有形文化財に指定されている。登録後には改修工事も行われ、非常にきれいに管理されている。さて永平寺口駅周辺で気になるのは旧永平寺線の線路跡である。

↑永平寺口駅構内には、旧永平寺駅方面へ右カーブしていたころの線路が一部残る。左手奥が現在の勝山永平寺線の線路

 

永平寺口駅はこれまで4回にわたり駅名を変更している。駅が開業した時は永平寺駅、さらに永平寺鉄道が開業した2年後に永平寺口駅となった。永平寺鉄道と京福電気鉄道が合併した時には東古市駅となった。さらにえちぜん鉄道となった年に、永平寺口駅となった。つまり誕生してから2つめの駅名に戻ったことになる。

 

さて東古市駅と呼ばれたころまで永平寺線があった。当時の旧永平寺線は東古市駅〜永平寺駅間6.2kmの路線だった。現在の永平寺口駅から南側、山間部に入っていった路線で、駅構内にその線路跡の一部が残されている。駅の先も旧路線の大半が遊歩道として整備されている。

 

旧永平寺線はこの6.2km区間のみでは無かった。永平寺鉄道は金津駅(現・芦原温泉駅)と東古市駅間の18.4kmも路線を開業させていた。同路線の途中にある本丸岡駅と現在の三国芦原線の西長田駅(現・西長田ゆりの里駅)間には京福電気鉄道丸岡線という路線もあった。京福電気鉄道は福井県内で大規模な鉄道路線網を持っていたわけである。

 

とはいえクルマの時代に変化していった1960年台。1968(昭和43)年7月には丸岡線が、1969(昭和44)年9月には永平寺線の金津駅〜東古市駅間があいついで廃線となった。この永平寺線の金津駅〜東古市駅間は、東古市駅〜永平寺駅間に比べて廃線となったのが、早かったこともあり、現在は駅の北側にわずかに線路のように道路が緩やかに右カーブしているあたりにしか、その名残を見つけることができなかった。

↑永平寺口駅前に建つ旧京都電燈古市変電所。煉瓦造平屋建で屋根は切妻造桟瓦葺(きりづまづくりさんがわらぶき)といった構造をしている

 

永平寺口駅で見逃せないのが、駅前にあるレンガ建ての建物である。さてこの建物は何だったのだろう。

 

この建物こそ、路線が開業した当時の京都電燈の足跡そのもの。レンガ建ての建物は旧京都電燈古市変電所だったのだ。電気を供給するために路線の開業に合わせて1914(大正3)年に建てられたのがこの変電所だった。和洋折衷のモダンなデザインで、当時の電気会社の財力の一端がかいま見えるようだ。同建物も旧駅舎とともに国の有形文化財に指定されている。

 

最後になったが、永平寺に関してのうんちく。永平寺は曹洞宗の大本山にあたるお寺だ。永平寺は曹洞宗の宗祖である道元が1244年に建立した。道元はそれまでの既存の仏教が、なぜ厳しい修業が必要なのかに対して異をとなえた。旧仏教界と対立した道元は、越前に下向してこの寺を建立したとされる。

 

【謎解きその⑦】2つめの難読「轟駅」は何と読む?

筆者は永平寺口駅でひと休み。古い建物を楽しんだ後は、さらに勝山駅を目指した。しばらく列車は九頭竜川が切り開いた平坦な河畔を走る。永平寺口駅から3つめ。またまた難読な駅に着いた。今度は、漢字もあまり見ない字だ。車が3つ、組み合わさった駅名。さて何と読むのだろう。

 

車が3つ合わさり「どめき」と読む。ワーッ!これはかなりの難読だ。

↑轟駅のホームを発車する勝山駅行き電車。民家風の駅舎には轟駅の案内が掲げられている。この先に同路線特有のシェルターが付く

 

轟と書いて「とどろき」と読ませる地名はある。轟(とどろき)は音が大きく鳴り響くさまを表す言葉を指す。駅の北側を流れる九頭竜川の流れがやはり元になっているのだろうか。

 

「難読・誤読駅名の事典」(浅井建爾・著/東京堂出版・刊)によると、「ガヤガヤ騒ぐことを『どめく』ともいい、それに『轟』の文字を当てたものとみられる。」としている。確かに「どめく」(全国的には「どよめく」という言うことが多い)という言葉がある。当て字で轟を当てたのだろうか。ちなみに「どめく」という表現は、九州や四国地方で多く使われていることも調べていてわかった。なんとも謎は深い。

 

ちなみに地元の町役場にも調べていただいたのだが、答えは「不明」だった。こうした地名を基づく駅名は難しく、明確に分からないことも多い、ということを痛感したのだった。

 

【謎解きその⑧】ドーム型のシェルターは何のため?

轟駅の近くにはこの路線特有の装置も設けられていた。勝山駅側の分岐ポイント上にシェルターが設けられている。これはスノーシェルターと呼ばれる装置で、その名のとおり、分岐ポイントが雪に埋もれないように、また凍結しないように守る装置だ。えちぜん鉄道の勝山永平寺線には轟駅〜勝山駅間で計4か所に設けられている。

↑轟駅近くにあるスノーシェルター。ポイントを雪から守るために設けられる。横から見るとその形状がよく分かる(左上)

 

筆者は福井県内の福井鉄道福武線で同様のシェルターを見たことがある。とはいえポイントのみを覆う短いスノーシェルターは、希少で、全国的には少ないと思われる。青森県を走る津軽鉄道などにも同タイプがあったと覚えているが、津軽鉄道の場合は雪よりも季節風除けの意味合いが強い造りだった。

↑勝山永平寺線は意外に坂の上り下りが多い。小舟渡駅近くでは山が九頭竜川に迫っていることもあり電車は山肌をぬうように走る

 

【謎解きその⑨】小舟渡駅の先から見える美しい山は?

やや広がりを見せていた地形も、越前竹原駅を過ぎると一変する。進行方向右手から山が迫り、山あいを走り始めるようになる。そして左手すぐ下に九頭竜川を見下ろすようになる。

 

小舟渡駅も難読駅名の一つだろう。「こぶなとえき」と読む。駅前にはすぐ下に九頭竜川の流れがある。このあたり九頭竜川は両岸が狭まって流れている。橋が架かっていなかった時代には、多くの小舟を並べてその上に板を渡して、仮設の橋を架けて渡ったとされる。よって小舟で渡ったという地名になったのだろう。こうした橋は舟橋とも呼ばれ、九頭竜川では他にも同タイプの橋が使われていたことが伝えられている。

↑小舟渡駅近くを走る勝山行電車。九頭竜川がすぐ真下に見える。奥には1921(大正10)年に開通した小舟渡橋が架かる

 

さて小舟渡駅から先は進行方向、左手をチェックしたい。このあたりからの九頭竜川と山々の風景が沿線の中で最も美しいとされる。訪れた日はあいにく好天とは言いきれなかったが、先に白山連峰が望めた。冬になると路線のちょうど正面に大きなスキー場が見える。こちらはスキージャム勝山で関西圏から多くのスキーヤーが駆けつける人気のスキー場でもある。

↑小舟渡駅の近くから見た九頭竜川と白山の眺め。路線の一番のビューポイントで、同乗するアテンダントさんからの案内もある

 

【謎解きその⑩】勝山駅の先に線路がやや延びているが

小舟渡駅から九頭竜川を見つつ保田駅(ほたえき)へ。この駅からは勝山市内へ入り平野部が広がり始める。勝山盆地と呼ばれる平野部でもある。九頭竜川は勝山盆地で大きくカーブする。流れは勝山の先では東西に流れるが、勝山から上流は南北に流れを変る。勝山永平寺線の線路は九頭竜川の流れに合わせてカーブ、川の西岸沿いを走る。

 

一方、勝山の市街は九頭竜川の東岸が中心となっている。街の賑やかさは列車に乗っている限り感じられない。終点の勝山駅は街の中心から勝山橋を渡った西の端に位置している。なぜこの位置に駅が造られたのだろう。

↑勝山駅の駅舎は1914(大正3)年築の建物。国の登録有形文化財に指定されている。右上はわずかに延びる大野方面への線路跡

 

勝山駅の先にわずかに残る線路にその理由が隠されている。1914(大正3)年3月11日に勝山駅まで延伸開業した。その1か月後には勝山駅から先の大野口駅(後に京福大野駅まで延伸)まで路線が延ばしている。要は路線が開業して間もなく勝山駅は途中駅となったのである。

 

大野市の中心は九頭竜川の西岸にある。そのため勝山の中心部へ九頭竜川に橋をかけて電車を走らせることはなかった。南にある大野を目指したために、こうした路線の造りになったわけだった。大野には路線開業当初に鉄道線がなく、利用者も多かった。しかし、1960(昭和35)年に国鉄の越美北線(えつみほくせん)が開通する。そのため当時の越前本線の利用者が激減、1974(昭和49)年には勝山駅〜京福大野駅間が廃線となる。勝山駅の南に残る線路は大野まで延びていた旧路線の名残だった。

↑勝山市内には福井県恐竜博物館があり、勝山駅から路線バスが運行されている。駅前広場には恐竜が、またホームには恐竜の足跡も

 

【謎解きその⑪】勝山駅前に保存されている黒い車両は?

終点の勝山駅で鉄道好きが気になるのが駅前広場に保存される車両ではないだろうか。この車両はテキ6形という名前の電気機関車。開業当初に導入した車両はみな非力だったため、京都電燈が1920(大正9)年に新造した車両で、貨車を牽引する電気機関車であり、また貨物輸送車として織物製品や木材を載せて運んだとされる。海外製の主要部品が使われていたとはいえ、その後に誕生した国産電気機関車よりも前の時代の車両で、いわば日本に残る最古級の国産電気機関車といって良いだろう。

 

本線での運用が終了した後も、福井口の車両基地での入換え作業などに使われていた。その後に勝山駅に移され動態保存され、短い距離だが動かすことができるように架線も張られている。走る時にどのような音を奏でるのか一度、見聞きしてみたいものである。

↑屋根付の施設で動態保存されるテキ6形。後ろには貨車ト61形を連結している。建物には同車両の写真付の案内も掲示されている

 

↑福井県はソースカツに越前おろしそばが名物。勝山駅前の「みどり亭」では一緒に味わえる福井名物セット(850円)が人気。昼食に最適だ

 

時間に余裕があれば福井県恐竜博物館は訪れておきたいところ。勝山永平寺線の車内でも同博物館帰りと思われる家族連れの姿が見受けられた。そしてランチには、福井名物のソースカツや越前おろしそばを、ぜひ味わってみていただきたい。

えちぜん鉄道「三国芦原線」10の魅力発見の旅

おもしろローカル線の旅70 〜〜えちぜん鉄道三国芦原線(福井県)〜〜

 

訪れた土地で乗車したローカル線。その地方らしさ、路線の魅力や、細やかな人々の思いに触れたとき、乗って良かった、訪れて良かったと心から思う。えちぜん鉄道三国芦原線(みくにあわらせん)はそんな魅力発見が楽しめるローカル線。秋の一日を思う存分に楽しんだ。

*取材撮影日:2013年2月10日、2015年10月12日、2020年10月31日ほか

 

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【魅力発見の旅①】日中は30分間隔で運行のパターンダイヤ

↑日中でも30分間隔で走る三国芦原線の電車。主力車両のMC6101形が築堤を走る

 

はじめに、三国芦原線の概要を見ておきたい。

路線と距離 えちぜん鉄道三国芦原線/福井口駅〜三国港駅(みくにみなとえき)25.2km 
*全線単線・600V直流電化
開業 1928(昭和3)年12月30日、三国芦原電鉄により福井口駅〜芦原駅(現・あわら湯のまち駅)間が開業、1929(昭和4)年1月31日、芦原駅〜三国町駅(現・三国駅)間が延伸開業
駅数 23駅(起終点駅・臨時駅を含む)

 

まずは現在の三国芦原線の運行ダイヤを見ておこう。列車はおよそ30分間隔で運行されている。三国芦原線の路線は福井口駅〜三国港駅間だが、福井口駅から発車する列車はなく、すべてが福井駅発となる。列車のダイヤは特に日中が分かりやすい。

 

福井駅発、三国港駅行は9時〜21時まで、福井駅を毎時09分発と39分発に発車する。途中駅でも毎時決まったダイヤに変わりがない。三国駅発、福井駅行の列車も同じで、日中は毎時同じダイヤで運行されている。こうした時間が決まったダイヤをパターンダイヤと呼ぶが、利用者にとっては非常に分かりやすく便利である。

 

鉄道ファンとしては30分刻みというのは非常にありがたい。途中駅で写真を撮る時にも、頻繁に列車が往来するので効率的だ。撮影が終えて、次の電車に乗る時にもあまり待たずに済む。

 

さらに日中の列車には女性のアテンダントが乗車する。乗車券、バスや施設入館料のセット券の販売から、沿線の観光アナウンスのほか、年輩の利用者には、席かけのお手伝いまでするなど、配慮には頭が下がる思いだった。

 

以前にも福井市を訪れて、居酒屋で女性スタッフの細やかな配慮に驚かされたことがある。車内でも同じような光景が見られた。福井県の県民性として「地道に愚直にこなす性質」「創意工夫の精神」といった傾向が見られるとか。

 

分かりやすく便利なパターンダイヤ、そして女性のアテンダントの姿勢に、同鉄道らしさが見えたのだった。

↑えちぜん鉄道福井駅は2階がホームとなっている。三国港駅行電車は日中09分、と39分発と決まったダイヤで利用しやすい(右上)

 

【魅力発見の旅②】列車は一両単行運転が大半を占める

さてえちぜん鉄道の電車をここで紹介しておこう。

 

・MC6101形

えちぜん鉄道の主力車両で、基本1両で走る。元は愛知県を走る愛知環状鉄道の100系電車で、愛知環状鉄道が新型車を導入するにあたり、えちぜん鉄道が譲渡を受け、改造を施した上で利用している。車内はセミクロスシートで旅の気分を盛り上げる。なお同形車にMC6001形が2両あるが、MC6101形とほぼ同じ形で見分けがつかない。

 

・MC7000形

元はJR飯田線を走った119系。えちぜん鉄道では2両編成のみの運用となり、朝夕を中心に運行される。MC6101形と同じくセミクロスシート仕様だ。なお、他にMC5001形という形式もあるが、1両のみ在籍するのみで、この車両はあまりお目にかかることが無い。

↑三国芦原線の主力車両MC6101形。筆者が訪れた週末、三国芦原線ではほとんどがMC6101形1両での運行となっていた

 

・L形ki-bo(キーボ)

L形電車は超低床車両で、黄色い車体の2車体連節構造(車体の間に中間台車がある)。福井鉄道福武線との相互乗入れが可能なように導入された。2016年生まれで、えちぜん鉄道初の新造車両でもある。愛称はki-bo(キーボ)で、「キ」は黄色、「ボー」は坊やや相棒を意味する。また「キーボ」は希望にも結びつくとされている。

↑福井鉄道福武線への相互乗り入れ用に造られたL形ki-bo。超低床車のため途中駅には専用のホームが用意されている

 

2車体連接車のL形や福井鉄道の乗り入れ用車両(後述)を除き、列車のほとんどが1両で走っている。気動車での1両運行は全国で見られるものの、電車の1両運行となると希少となる。

 

列車によっては、中高生の通学時間と重なり多少、混む列車があるものの、大半の列車は空き気味となる場合が多い。えちぜん鉄道のように30分間隔で電車を走らせるためには、この1両での運行がとても有効だと思われた。

 

【魅力発見の旅③】2年にわたる運行休止期間を越えて

えちぜん鉄道では、

 

①30分間隔で列車を運行、覚えやすいパターンダイヤを取り入れている。

②日中は女性のアテンダントの乗車している。

③列車の大半を1両で運行させている。

 

というように派手ではないものの、地道な工夫や努力が見えてくる。ローカル線の将来への道筋を示しているようにも感じられた。

 

今でこそ、活路を見いだした三国芦原線だが、ここまで至るまでは苦難の歴史が潜んでいた。同線の歴史に関して触れておこう。

 

同線の計画は大正期に立てられた。まずは1919(大正8)年に加越電気鉄道という会社が路線計画を提出し、鉄道免許がおりている。その後に、加越電気鉄道は吉崎電気鉄道と社名を変更した。だが、資金難のせいだろうか、工事が進められることはなく、1925(大正14)年に免許が失効している。最初から波乱含みだった。1927(昭和2)年に再び鉄道免許がおり、同年に会社名を三国芦原電鉄と改称した。その翌年に福井口駅〜芦原駅(現・あわら湯のまち駅)が開業した。

 

すでに福井駅〜福井口駅間には京都電燈越前電気鉄道線が走っていて、三国芦原電鉄は、1929(昭和4)年にこの区間へ乗り入れている。京都電燈越前電気鉄道は1942(昭和17)年に京福電気鉄道となり、この年に三国芦原電鉄と京福電気鉄道が合併、京福電気鉄道・三国芦原線となった。

↑芦原温泉の玄関口あわら湯のまち駅。京福電気鉄道から2000年にバス事業を引き継いだ京福バスが今も健在で路線バスを走らせている

 

京福電気鉄道は現在も、京都市内で嵐山線を運行している鉄道事業者で、京都と福井に鉄道網を持つことから「京福」と名付けられた。そして同社の福井支社が三国芦原線と越前本線(現・勝山永平寺線)の列車運行を行っていた。

 

京福電気鉄道では1960年代から80年代にかけて合理化を進めていたが、旧態依然とした企業体質が残り、営業姿勢に関しても必ずしも積極的とは言えなかった(あくまで昭和から平成初期のこと=現在は異なる)。1990年台には、すでに両線とも赤字経営が続いていた。そうした後向きの企業体質が影響したのだろうか、2000年と2001年に越前本線で2度の正面衝突事故を起こしてしまう。2000年には運転士が死亡する大事故となった。

 

1度ならまだしも、2度も続き、国土交通省からはすぐに列車の運行停止が求められた。結果、2001(平成13)年に6月25日に両線の電車運行がストップしてしまった。たちゆかなくなった京福電気鉄道は2003(平成15)年には福井鉄道部を廃止、事業をえちぜん鉄道に譲渡した。えちぜん鉄道は福井市、勝山市などの地元自治体が中心になって運営する第三セクター方式の会社である。

 

引き継いだえちぜん鉄道では、早急に安全対策などを施し、同年の8月10日に三国芦原線を、10月19日には勝山永平寺線を営業再開にこぎ着けた。

 

三国芦原線ではまる2年にわたって、鉄道が走らなかった時期があったのである。こうした苦しい時があったからこそ、えちぜん鉄道は地元の人たちに大切にされ、応援され、またそれに応えるべく地道な企業努力をしているように見受けられた。

 

【魅力発見の旅④】福井駅は2年前に高架化されより快適に

さて。ここからは三国芦原線の旅を始めよう。起点は福井口駅だが、列車が発車する福井駅からの行程をたどる。えちぜん鉄道福井駅はJR福井駅の東口にある。現在、東口は新幹線工事が進んでいることもあり、通路は狭く、やや迷路のような状態になっていた。筆者はJRの特急列車からの乗り換え時間がまだ5分あるからと、のんびり駅へ向かった。だが、すでに発車時刻寸前でベルが鳴り響いていた。改札口で整理券を受け取り9分発の電車にあわてて飛び乗った。

 

現在、福井駅東口の駅構内が改良工事中のため、乗り換え時間は余分に取ったほうが良さそうだ。進行方向左手を北陸新幹線が通る予定で、それに沿うようにえちぜん鉄道の高架線が続く。高架化工事は2018(平成30)年に完成している。福井口駅までは高架路線が続き、新しく快適なルートが続く。

 

ちなみに共通1日フリーきっぷは1000円。福井駅〜三国港駅間は片道770円で、途中下車や往復を考えたら、フリーきっぷの方が断然におトクだ。有人駅や車内乗務員(アテンダントも含む)から購入できる。電車は有人駅以外、一番前のトビラから乗車する。降りる時も運転席後ろの精算機に運賃を入れて前のトビラから下車するシステムとなっている。なお交通系ICカードの利用はできない。

↑福井口駅近くの三国芦原線(右側)と勝山永平寺線の分岐を高架下から見る。左上はその分岐ポイントで、三国芦原線の電車が走る様子

 

福井口駅までは高架線で、福井口駅の先に分岐があり三国芦原線の電車は左の高架線へ進入する。地上へ降りていく途中で注目したいのは左手下だ。JRの路線との間にえちぜん鉄道車両基地があり、検修庫も設けられる。ここには名物となっている凸形電気機関車ML521形も留め置かれている。重連で運転され降雪時には除雪用に使われる機関車だ。こうした高架上の路線から停まる車両をチェックしておきたい。

↑福井口駅近くの車両基地内の検修庫。数両のMC6101形とともに、L形の姿もわずかに確認できた

 

車両基地を左手に眺めつつ路線は左カーブ。新幹線の高架橋をくぐり、JR北陸本線の線路をまたぐ。そして、まつもと町屋駅、西別院駅と福井市街地の中の駅に停まり田原町駅(たわらまちえき)へ向かう。

 

県道30号線の踏切を越えたらまもなく田原町駅だ。この駅では左から近づいてくる福井鉄道福武線の線路に注目したい。

 

【魅力発見の旅⑤】田原町から福井鉄道車両の乗り入れ区間に

福井鉄道福武線は福井市内を通り越前市の越前武雄駅まで走る鉄道路線。福井市街は県道30号線上を走る併用軌道となっている。福武線が田原町駅まで路線が通じたのは1950(昭和25)年のことだった。三国芦原線との接続駅だったが、2013年から相互乗り入れが検討され、その後に駅構内が整備され、2016年からは三国芦原線との相互乗り入れを開始している。

↑田原町駅は三国芦原線と福井鉄道の接続駅。車両が停車するのが乗り入れ用の2番線で、奥に三国芦原線と合流するポイントがある(右下)

 

↑田原町駅に近づく三国芦原線の電車。ホームの案内はユニークな吹き出しふう(左上)。電車を見に来る親子連れや鉄道ファンの姿も目立った

 

筆者は同駅に数度、訪れているが、改修される前の写真を引っ張り出して比べてみた。当時の駅の建物は古風そのもの。福武線のホームは曲線上にあった。停まるのは湘南タイプの正面で人気があった200形が現役時代の姿。路面電車にもかかわらず、乗降口は高い位置にあり、独特な折り畳み式ステップが付いていた。いま思えばユニークな電車だったが、この名物車両は1編成のみ保存され、越前市の福武線・北府駅(きたごえき)近くに整備される北府駅鉄道ミュージアムで展示される予定だとされる。

↑改修前の田原町駅に停車する福井鉄道200形203号車。同車両は越前市の新施設で保存される予定だ 2013年2月10日撮影

 

古い駅舎もなかなか趣があったが、やはり新駅は開放感が感じられ快適だ。隣接地は小さな公園となり、電車好きな親子連れや鉄道ファンが、電車の行き来や撮影を楽しんでいる様子が見られ、ほほ笑ましい。

 

電車の乗換え客は前にもまして増えた様子。以前に訪れた時は無人駅で、静かだったが、現在は有人駅となり華やかな印象の駅に生まれ変わっていた。

 

【魅力発見の旅⑥】九頭竜川橋りょうから風景が一変する

さて田原町駅からは、福武線の電車も乗り入れし、路線はより華やかになる。平日ならば通学する学生の乗降も多くなる。そして福井大学のキャンパスに近い福大前西福井駅へ。この駅からしばらく、福武線用の超低床の車両が走るために、通常の高いホームと超低床車両用の低いホームが連なるように設けられていておもしろい。高いホームの先に低いホームがあるという具合だ。三国芦原線の電車は最大で2両編成なので、ホームの長さが短くて済む。大都市の電車とは異なるからこそ、こうしたホーム造りが可能ということもあるだろう。

 

福大前西福井駅からは大きく右にカーブして電車はほぼ北へ向かって走り始める。日華化学前駅から3駅ほど福井市街の駅が続く。築堤をあがると、福井のシンボルでもある一級河川、九頭竜川(くずりゅうがわ)を渡る。

↑三国芦原線の九頭竜川橋りょうを渡る三国港行電車。本格的なトラス橋で、1990(平成2)年に現在の新橋りょうが完成した

 

九頭竜川橋りょう手前まで左右に広がっていた市街地は川を境に大きく変る。川の堤防とほぼ同じ高さに中角駅(なかつのえき)があり、視界が大きく開ける。路線の先々まで見通せ、広々した水田風景が広がる。この車窓風景の変化が爽快だ。中角駅の先は視界が開けることもあって、同路線の人気撮影スポットとなっている。

 

筆者も同駅で下車、撮影を楽しんだ。同線の線路沿いはありがたいことに雑草が刈り取られているところが多かった。このあたりも地元の人たちや鉄道会社の配慮なのだろう。もちろん撮影する鉄道ファン向けでは無く、やはり利用者や、住民の快適さを考えて、線路端もきれいに整えているようである。

 

ちなみに中角駅のみ超低床車両用のホームがないため、福武線と相互乗り入れを行う電車は同駅のみ通過する。乗り入れる列車は一応、急行となっているが、三国芦原線内では中角駅を通過する急行列車なのである。

↑中角駅〜仁愛グランド前駅(臨時駅)間を走るMC6101形。水田が広がる同ポイントから中角駅へ電車は勾配を駆け上がる

 

中角駅から一つ先は仁愛グランド前駅となる。この駅は臨時駅で通常の列車は停車しない。停車するのは駅前にある仁愛学園のグラウンドで学校行事がある時のみで、下車できるのは学生に限られる特別な駅だ。ホームだけがあり停車しなかったので、筆者も当初は廃駅かなと思ったが、そんな裏事情がある駅だった。

 

【魅力発見の旅⑦】鷲塚針原駅まで超低床車両が走る

臨時駅の仁愛グラウンド前駅のホームを通過し、次の駅は鷲塚針原駅(わしづかはりばらえき)。田原町駅と鷲塚針原駅間は、福武線との相互乗り入れ区間で、同路線には「フェニックス田原町ライン」という別の愛称がつけられている。

↑中角駅付近を走る福井鉄道の超低床電車F1000形FUKURAM(ふくらむ)。中角駅を通過して鷲塚針原駅まで急行列車として走る

 

さて鷲塚針原駅。超低床ホームが通常のホームと並行して設けられるが、見比べるとその高低差に驚かされる。三国芦原線のように一部区間に、こうした超低床車両が乗り入れるという試みは、今後、検討する都市の例も出てくるだろうが、こうしたホームの整備が必要になることがよく分かった。

↑鷲塚針原駅のホームを見比べる。左は三国芦原線用のホーム。右手は超低床のL形やF1000形用の専用ホームでその低さが際立つ

 

鷲塚針原駅を過ぎて郊外の趣が急に強まる。特に西長田ゆりの里駅から北は、見渡す限りの水田風景となる。

 

ご存知の方が多いだろうが、福井はお米の品種コシヒカリが生まれたところだ。この品種の歴史は古く1944(昭和19)年に誕生した。改良を加えて「越(こし)の国に光り輝く米」という願いを込めて、コシヒカリとなった。コシヒカリの作付面積は全国一という福井県。広がる水田はすでに刈り取りが終わっていたが、きっと初夏から秋にかけては見事な景色が楽しめたことだろう。

↑大関駅付近から望む田園風景。路線の東側、遠方に標高1500m前後の飛騨山地が望めた

 

【魅力発見の旅⑧】廃線マニアにはこの急カーブが気になる

田園風景が広がるのは番田駅(ばんでんえき)付近まで。線路の先を眺めると、大小の旅館、ホテル、そして住宅が建ち並ぶ“街”が見えてくる。こちらが関西の奥座敷とも呼ばれる芦原温泉(あわらおんせん)だ。温泉街が近づくと三国芦原線は左にカーブしてあわら湯のまち駅へ向かう。

 

駅に到着する前のカーブは半径400mとややきつめで、線路はほぼ90度に折れて、進行方向を西へ変える。

 

このカーブはもしかして……? 実は以前に東西に敷かれた線路があり、その線路に合流するように三国芦原線の線路が設けられたのだった。東西に線路が延びていたのは旧国鉄三国線で、国鉄がまだ鉄道院だったころの1911(明治44)年に金津駅(かなづえき/現・芦原温泉駅)〜三国駅間に開業した路線だった。同時に現在のあわら湯のまち駅にあたる芦原駅も誕生していた。温泉街へ向かう観光路線として造られたわけではなく、港湾として重要視されていた三国港へのアクセス路線として造られたのだった。

↑北上してきた三国芦原線の線路は、温泉街の手前でカーブする。左の直線路が国鉄三国線の線路跡。この先、JR芦原温泉駅まで線路があった

 

つまり国鉄の三国線は三国芦原線よりもだいぶ前に開業していて、すでに温泉街への足としても利用されていた。そこに合流するように後年になって三国芦原線が造られたのだった。この国鉄三国線の線路と三国芦原線の線路は芦原駅(現・あわら湯のまち駅)〜三国港間では平行に敷かれた。その後に、太平洋戦争中は不要不急路線として国鉄線が休止、戦後に復活したものの1972(昭和47)年3月1日に正式に廃止された。

 

いわば古くに造られた路線が先に廃止され、後発だった鉄道路線が今に残ったというわけである。

↑あわら湯のまち駅から芦原温泉駅へ京福バスが運行されている。芦原温泉駅は北陸本線にある駅だが、温泉街はあわら湯のまち駅が近い

 

【魅力発見の旅⑨】あわら湯のまち駅近くの芦湯でひと休み

昨今、温泉の玄関口となる駅はクルマ利用の人が多くなったせいか、寂しくなりがち。あわら湯のまち駅はどうなのだろうと思って降りてみた。確かに盛況時の賑わいは薄れているものの、公共の施設や、屋台街があり、夕方はそれなりの賑わいになることが想像できた。

 

余裕があったら、ぜひ立ち寄りたいのが駅近くの芦湯(あしゆ)。足湯といえば通常は「足」に「湯」だが、ここでは少し洒落て芦湯。大正ロマンをイメージした無料の足湯で、泉質豊富な芦原温泉らしく、5種類の湯が楽しめる。利用時間が朝7時から夜11時と、時間を気にせずに入湯できる。旅先でタオルを持参出来なかった時にも、有料で販売しているのがありがたい。

↑あわら湯のまち駅から目と鼻の先にある芦湯。5つの異なる泉質の湯船を無料で楽しむことができて楽しい

 

さてあわら湯のまち駅で気になる表示を発見。構内踏切にあった案内に「“ジャンジャン”がなったらわたらないでください」という表示が。福井では踏切の音を“カンカン”ではなく、“ジャンジャン”と呼ぶようだ。カンカンは決して全国共通ではなく地方により異なる呼び方があると初めて気がつかされた。

↑あわら湯のまち駅で見つけた構内踏切の注意書きには「ジャンジャンがなったら」とあり思わず注目してしまった

 

【魅力発見の旅⑩】レトロな三国港駅。駅近くの港からは……

あわら湯のまち駅からは列車は西へ向かって走る。三国港駅までは、旧国鉄三国線とほぼ平行して線路が敷かれていた。太平洋戦争中に国鉄線は休止され、芦原駅(現・あわら湯のまち駅)〜三国港駅間は、当時の京福電気鉄道の路線のみ営業が存続、旧国鉄線は線路がはがされ、鉄不足を補うため供出されていた。戦後、同区間の国鉄路線は復活されることなく、京福電気鉄道の路線のみが残された。国鉄の列車が京福電気鉄道の路線に乗り入れて運行されることもあったとされる。

 

あわら湯のまち駅を発車した電車は水居駅(みずいえき)、三国神社駅と小さな駅を停車して、三国駅へ。この三国駅は2018年3月に新しい駅舎ができたばかり。観光案内所もあり、地元、坂井市三国の玄関口として整備されている。東尋坊方面への路線バスもこの駅の下車が便利だ。

 

この三国駅は、三国港駅と東尋坊口駅へ向かう路線の分岐駅になっていた。太平洋戦争中の1944(昭和19)年まで、京福電気鉄道の路線が東尋坊口駅まで1.6km区間に電車を走らせていた。だが、この年に休止、1968(昭和43)年に復活することなしに正式に廃止されていた。

↑三国駅〜三国港駅間にある眼鏡橋。三国港駅からもよく見える。大正期の造りで国の登録有形文化財に指定されている

 

さて筆者は三国駅では降りず、終点の三国港駅へ。途中下車しつつの旅立ったため、時間はかかったが、福井駅から直通の電車に乗れば、三国港駅へは約50分で到着する。なかなか三国港駅は見どころ満載の駅だった。まずは駅舎。この駅舎は2010年に改修されたが、元の木造平屋建ての建物の部材を使って建て直したもので、なかなか趣深く写真映えしそうだ。

 

さらに三国駅方面にはレンガ造りのアーチ橋が架かっていた。この橋は「眼鏡橋(めがねばし)」の名前で親しまれ、旧国鉄三国線の開業時に造られたものだった。アーチのレンガが螺旋状に積まれた構造のトンネルで、こうした構造は「ねじりまんぽ」と呼ばれる。アーチ端部分が鋸歯状(きょしじょう)の段差仕上げがなされていて、この時代特有の姿を今に残している。歴史的にも貴重なため、同眼鏡橋は国の登録有形文化財に指定されている。

↑終点駅、三国港駅の構内。駅舎は2010年に立て替えられたもの。逆側を見るとわずかだが引込線らしき線路が残っていた(左上)

 

↑三国港駅に平行するように旧国鉄三国港駅のホームの遺構が残っていた。すぐ目の前は県漁連の荷揚げ施設などがある

 

三国港駅の構内踏切を渡ると古い石組みが残る。同施設の解説プレートがあった。読んでみよう。

 

「このホームは国鉄三国支線時代の遺構です。(中略)三国港駅は大正2年に荷扱所(貨物専用)として出発し、翌年、駅に昇格しました。貨物積み込み線の横はすぐ海で、船からの積み替えが容易にできるようになっていました」。

 

今でこそ、旧ホームの裏手に県道が通るものの、すぐ裏手に港があった。そこから望む西側の空は、夕日で真っ赤にそまり、とても神々しく、まるで旅のフィナーレを飾るかのようだった。

↑九頭竜川の河口にある三国港。駅のすぐ目の前にこの風景が広がっていた。こんなドラマチックな夕景に出会えるとは

 

「白新線」‐‐11の謎を乗って歩いてひも解く

おもしろローカル線の旅68 〜〜JR東日本・白新線(新潟県)〜〜

 

新潟駅と新発田駅を結ぶ白新線(はくしんせん)。特急列車に観光列車、貨物列車が走る賑やかな路線である。これまでは車両を撮りに訪れた路線であったが、今回は複数の途中駅で降りて、駅周辺をじっくりと歩いてみた。

 

すると、これまで気付かなかった同線の新たな魅力が見えてきたのだった。白新線でそんな再発見の旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2018年3月3日、2019年7月6日、2020年10月18日ほか

 

【関連記事】
東日本最後の115系の聖地「越後線」−−新潟を走るローカル線10の秘密

 

【白新線の謎①】なぜ路線名が白新線なのだろう?

初めに白新線の概要を見ておきたい。

路線と距離 JR東日本・白新線/新潟駅〜新発田駅(しばたえき)27.3km
*複線(新潟駅〜新崎駅間)および単線・1500V直流電化
開業 1952(昭和27)年12月23日、日本国有鉄道により葛塚駅(くずつかえき/現・豊栄駅)〜新発田駅間が開業、1956(昭和31)年4月15日、沼垂駅(ぬったりえき/現在は廃駅)まで延伸開業
駅数 10駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の最大の謎から。路線名はなぜ白新線と付けられているのか、白新線の「白」はどこから来たのか、そこから見ていこう。

 

まず、路線計画が立てられたところに、白新線と名付けられた理由がある。路線の計画が立てられたのは1927(昭和2)年のこと。「新潟県白山ヨリ新発田二至ル鉄道」という路線案が立てられた。白山と新発田を結ぶ路線なので白新線となったのである。

 

白山とは、現在の越後線の白山駅のことだ。計画が立てられた年は、ちょうど柏崎駅と白山駅を結ぶ越後鉄道が、国有化されて越後線となった年である。国は、越後線の新潟方面の終点駅だった白山駅と、新発田駅を結ぶ路線の計画を立てたのだった。

 

だが、そこに立ちはだかるものがあった。新潟市を流れる信濃川である。信濃川は日本一の長さを誇る河川であり、当時の河口部は川幅も広く、水量も豊富だった。鉄道にとって越すに越されぬ信濃川だったわけである。

↑昭和初期と現代の信濃川の流れを比べると、昭和初期の信濃川は現在の3倍近くの川幅があった。旧信越本線のルートも今と異なっていた

 

1929(昭和4)年に大河津分水(おおこうづぶんすい)という信濃川の水を途中で日本海へ流す流路が作られ、新潟市内を流れる信濃川の水量が大幅に減った。その後、川の南岸が主に改修され川幅が狭まり、ようやく越後線の信濃川橋りょうを架けることが可能となった。とはいえ越後線の路線が新潟駅まで延ばされ旅客営業が始まったのは1951(昭和26)年のこと。この年、ようやく信濃川橋りょうを生かして、新潟駅と関屋駅(白山駅の隣の駅)間に列車が走ったのだった。

 

とはいえ白新線は、まだ開業していない。白新線の開業を困難にしていたのも大河の存在だった。

↑新潟駅からは信濃川橋りょうを渡った最初の駅が越後線の白山駅(左上)だ。白新線は白山駅と新発田駅を結ぶ予定で計画が立てられた

 

【白新線の謎②】開業してから60年と意外に新しい理由は?

越後線がようやく新潟駅まで開業した翌年の1952(昭和27)年の暮れ、白新線の葛塚駅(現・豊栄駅)と新発田駅の間が開業している。新潟駅側からではなく、新発田駅側から路線が敷設されていったわけである。白新線の残り区間、葛塚駅〜新潟駅間、正式には沼垂(ぬったり)駅〜葛塚駅間が開業したのは4年後の1956(昭和31)年4月15日のことだった。

 

新潟市と新潟県の北部や庄内地方、秋田への幹線ルートの1部を担う路線だけに、この開業年の遅さは不思議にも感じる。そこには鉄道の敷設を妨げる大きな壁があった。

↑白新線のなかでひと足早く開業した葛塚駅(現・豊栄駅)。南口駅前には路線開業を祝う碑や当時のことを伝える案内などがある

 

新潟平野には信濃川とともに大河が流れ込む。阿賀野川(あがのがわ)である。阿賀野川は、群馬県と福島県の県境を水源にした一級河川。途中、只見川などの流れが合流し、河川水流量は日本最大級を誇る。実際、新潟市内を流れる河畔に立ってみるとその川の太さ、河畔の広さにびっくりさせられる。この水量の豊かさから、古来、水運が盛んで、鉄道が開業するまでは会津地方の産品はこの川を使い運ばれていた。

 

そんな阿賀野川が鉄道を敷設する上で難敵となった。阿賀野川を越える鉄道路線としては羽越本線(当時は信越線)の阿賀野川橋りょうの歴史が古い。1912(大正元)年、新津駅〜新発田駅間が開業に合わせて設けられた。全長1229mという長さがあり、当時としては全国最長の橋となった。現在の白新線の橋りょうよりも上流にあるにもかかわらずである。

 

架橋技術が今ほどに進んでいない時代、大変な工事だったに違いない。国鉄(当時は鉄道省)は下流に白新線の2本目の橋を架けることはためらったようだ。とはいえ、1940(昭和15)年には橋の着工を進めていた。ところが、翌年に太平洋戦争に突入したこともあり、資材不足となり、橋脚ができたところで、建設中止に追い込まれている。

↑長さ1200mと、在来線ではかなりの長さを持つ白新線の阿賀野川橋りょう。河畔が広く川の流れはかなり先へ行かないと見えない(右上)

 

阿賀野川橋りょうの建設が再開したのは大戦の痛手からようやく立ち直り始めた1953(昭和28)年のこと。橋脚がすでに造られていたので、翌年には架橋工事が完了している。戦前に無理して進めていた工事が、後に役立ったわけである。そうして白新線の全線が1956(昭和31)年に完成にこぎつけた。当初、単線で造られた阿賀野川橋りょうだが、1979(昭和54)年には複線化も完了している。

 

【白新線の謎③】走る車両はここ5年ですっかり変ってしまった

本章では走る車両に注目したい。走る車両に謎はないものの、実は5年前と、今とでは、ことごとく走る車両が異なっている。複数の車両形式が走る線区で、ここまで徹底して車両が変わる線区も珍しいのではないだろうか。写真を中心に見ていただきたい。まずはここ最近まで走っていて、撤退した車両から。

 

◆白新線から撤退した車両

・485系〜 
国鉄が1968(昭和43)年から製造した交流直流両用特急形電車。交流50Hz、60Hz区間を通して走れ便利なため、全国で多くが使われた。白新線では特急「いなほ」として、また改造され快速「きらきらうえつ」として使われた。「いなほ」の定期運用は2014年7月まで、翌年に臨時列車の運行も終了している。快速「きらきらうえつ」は2019年の12月までと、ごく最近までその姿を見ることができた。

 

・115系〜
国鉄当時に生まれた近郊用直流電車で、JR東日本管内では近年まで群馬地区、中央本線なども走った。現在、越後線など新潟エリアに少数が残るのみとなっている。白新線からは2018年3月の春のダイヤ改正日に撤退している。

 

・EF81形式交直流電気機関車〜
かつては日本海縦貫線の主力機関車として活躍した。ローズピンクの色で親しまれたが2016年3月のダイヤ改正以降は定期運用が無くなり、富山機関区への配置も1両のみとなっていて、運用が消滅している。

↑少し前まで白新線を走った車両たち。すべて国鉄形で115系は越後線で、またEF81は九州で姿を見かけるのみとなっている

 

◆白新線を走る現役車両

次に現役の車両を見ていくことにしよう。

 

・E653系〜 
特急「いなほ」として運用される交流直流両用特急形電車。以前は常磐線の「フレッシュひたち」として走っていたが、2013(平成25)年に定期運用を終了。転用工事が行われた上で、同年から「いなほ」として走り始めた。2014年7月から「いなほ」の定期列車すべてがE653系となっている。

 

・E129系〜 
新潟地区専用の直流電車で、座席はセミクロスシート。ロングシートが車内半分を占めていて、混雑時にも対応しやすい座席配置となっている。

 

白新線のほぼすべての普通列車がこの形式で、2〜6両と時間に合わせ編成数も調整されている。白新線では新潟駅〜豊栄駅間の短区間を運転する列車が多いが、そのほか、北は羽越本線の村上駅まで、西は越後線の吉田駅、内野駅、また信越本線の新津駅などに乗り入れる列車も多く走る。

 

・キハ110系〜 
白新線では米坂線・米沢駅への直通列車、快速「べにばな」として運行。新潟発8時40分、戻りは新潟駅21時25分着で走る。

↑現在、白新線を走る旅客用車両3タイプと貨物用機関車。白新線を走り抜ける貨物列車はすべてEF510形式が牽引している

 

現在、走る車両はみなJR発足後の車両だけに鉄道ファンとしては物足りないかも知れない。とはいうものの希少車両も走っている。希少な車両ならば、やはり見たい、乗りたいという人も多いことだろう。白新線の希少車両といえば、まずはE653系特急「いなほ」の塗装変更車両だろう。U106編成が海の色をイメージした「瑠璃色」に、U107編成は日本海の海岸で自生するハマナスの花をイメージした「ハマナス色」に塗られている。ともに青空の下では栄えるカラーとあって、この車両の通過に合わせてカメラを構える人も目立つ。

↑E653系「いなほ」のハマナス色編成が名物撮影地、佐々木駅〜黒山駅間を走る。右上は瑠璃色編成

 

ほか希少車両を使った列車といえば、主に週末に走る臨時快速列車「海里(KAIRI)」。HB-E300系気動車が使った観光列車で2019年10月に登場した。下り列車は新潟駅を10時12分発と、白新線内では早い時間帯に通過する。ほとんどの運行日が酒田駅行きだが、秋田駅まで走る日もある。上りは酒田駅15時発、新潟駅18時31分着。上越新幹線に乗継ぎもしやすい時間帯に走っていることが、この列車の一つの魅力となっている。

↑ハイブリッド気動車を利用した観光列車「海里」。4両編成で車内では地元の食材を使った食事も楽しめる(食事は要予約)

 

【白新線の謎④】変貌する新潟駅。そして万代口は……

さて、前置きが長くなったが白新線の旅を進めよう。起点は新潟駅。いま新潟駅は大きく変ろうとしている。筆者はほぼ半年ごとに新潟駅を訪れているが、毎回、変化しているので面食らってしまう。

 

大きく代わっているのは、在来線ホームの高架化が進んでいること。上越新幹線のホームと同じ高さとなり、同一ホームで、特急「いなほ」との乗換えができるようになり便利になっている。ほか在来線のホームも徐々に高架化され、地上に残る線路もあとわずかとなっている。

 

一方で、新潟の玄関口ともなっていた、北側の万代口(ばんだいぐち)が大きく変っている。信濃川に架かる萬代橋側にあることにちなみ名前が付けられたこともあり、新潟を象徴する駅舎でもあった。10月9日からは移転して仮万代口改札となった。これから旧駅舎は取り壊されることになる。

 

予定では今後、鉄道線の高架化が終えた2023年には駅下に新潟駅改札口が集約される予定。また高架橋下には、バスステーションが作られ、万代口と南口の別々に発着していたバスも駅下からの発着となる。とともに万代口は万代広場、南口には南口広場が整備され、万代口という愛着のある名称は消えていく。長年、親しまれてきた名称だけに、ちょっと寂しい気持ちにもなる。

↑1958(昭和33)年に現在の場所に移転した新潟駅。万代口駅舎は2020年秋から撤去工事が始められている 2019年7月6日撮影

 

さて寄り道してしまったが、白新線の列車に乗りこもう。E129系電車の運用が大半の白新線だが、この日はキハ110系で運行される8時40分発の快速「べにばな」に乗車する。新潟地区ではキハ40系はすでに引退、磐越西線の気動車も電気式気動車のGV-E400系が多くなってきたこともあり、新潟駅では通常の気動車を見かけることが少なくなってきた。

 

そんなキハ110系の車内は、座席が5割程度うまるぐらい。ディーゼルエンジン音をBGMに高架駅を軽やかに出発した。

 

【白新線の謎⑤】上沼垂信号場から白新線の路線が始まるのだが

左下に残る地上線を見ながら高架線を走るキハ110系。しばらくすると地上へ、右へ大きくカーブして上越新幹線の高架橋(同路線は新潟新幹線車両センターへ向かう)をくぐると、いくつかの線路が合流、また分岐する。ここが上沼垂(かみぬったり)信号場だ。正確には、ここまでは信越本線と白新線は重複区間で、ここから分岐して“純粋な”白新線の線路へ入っていく。

 

この信号場、合流、分岐が忙しく続き、鉄道好きにはわくわくするようなポイントだ。新潟方面から乗車すると、まず右にカーブした路線に、左から築堤が近づいてくる。草が茂り、いかにも廃線跡のようだ。ここは旧信越本線の路線跡で、かつての旧新潟駅へは、この路線上を列車が走っていた。途中、旧沼垂駅の先に引込線跡も残るなど、廃線の跡を、今もかなりの場所で確認することができる。

 

その次に合流するのが信越貨物支線の線路。焼島駅(やけじまえき)という貨物駅まで向かう貨物専用線だ。現在は新潟貨物ターミナル経由で、東京の隅田川駅行の貨物列車が1日1便、焼島駅から出発している。ちなみにこの路線の牽引機は愛知機関区に配置されたDD200形式ディーゼル機関車となっている。

↑新潟方面(手前)から見た上沼垂信号場。列車はここから分岐をわたり白新線へ入る。左手の線路が信越貨物支線、左の高架は上越新幹線

 

列車は左へポイントをわたり、白新線へ入る。しばらく信越本線と並走するが、より左へカーブすると、いよいよ白新線独自の路線へ。その先、合流、分岐は続き、鉄道好きとしては気を抜けないところだ。進行方向右手、信越本線の線路が徐々に離れていくが、信越本線の線路との間に新潟車両センターがある。E653系の「いなほ」「しらゆき」、そしてE129系が多く停まっている。

 

さらに走ると、右手から白新線の線路に近づき、またぐ線路が1本ある。こちらは信越本線から新潟貨物ターミナル駅へ入る貨物列車用の線路となる。というように、目まぐるしく線路が合流、分岐、交差をくりかえして、次の東新潟駅へ向かう。

 

【白新線の謎⑥】東新潟駅ではやはり進行方向左手が気になります

さて白新線の最初の駅、東新潟駅。進行方向左手には側線が多く設けられ、貨物列車が停められている。さてここは?

 

こちらはJR貨物の新潟貨物ターミナル駅。日本海側では最大級の大きさを誇る貨物駅だ。車窓から見ても見渡す限り、貨物駅が広がる。貨物列車好きならば、東新潟駅の下りホームは、それこそ貨物列車の行き来が手に取るように見える、至福のポイントと言えそうだ。

 

さらに東新潟駅の先には、機関庫があり、日本海縦貫線の主力機関車EF510の赤や青の車両が休んでいる様子が望める。

↑白新線の線路の北側には新潟貨物ターミナル駅が広がる。線路沿いよりもむしろ眺めが良いのは東新潟駅の下りホームからだ

 

【白新線の謎⑦】大形駅の先、並行する築堤は果たして?

新潟貨物ターミナル駅の広がっていた線路が再び集まり、白新線に合流すると間もなく次の大形駅(おおがたえき)に到着する。この先は、また進行方向の左側に注目したい。走り出して間もなく線路と並行して、築堤が連なる。さてこの築堤は何だろう、もしかして?

 

いかにも前に線路が敷かれていたらしき築堤である。実際に下車して確認すると白新線公園という名前の公園となっており、築堤の上は遊歩道と整備されていた。スロープまで設けられ、整備状況が素晴らしい。ここは旧線跡を利用した公園で、阿賀野川河畔まで連なっている。

↑大形駅から新崎駅方面へ歩くと、路線に並行して旧線を利用した公園がある。同公園は阿賀野川河畔近くまで整備、小さな橋も残る

 

この旧線は、白新線が開通した当初に使われていた、阿賀野川橋りょうまで連なる線路跡で、現在の路線は、複線化するにあたって線路を南側にずらして敷かれたものだった。その旧線跡をきれいに公園化しているわけである。

 

ただし、この堤、阿賀野川に最も近づく築堤の先は、手すりに囲まれ、そこから下へ降りることができないという不思議な造りだった。この造りに疑問符が付いたものの、廃線となり草が茂り寂しい状態になるよりも、こうした再利用されていることは大歓迎したい。

 

そして阿賀野川の堤防に登ると、そこから広がる河畔が望める。河原は阿賀野川河川公園として整備され、市民の憩いの広場として活かされていた。

 

【白新線の謎⑧】黒山駅から延びる引込線は何線だろう?

大形駅へ戻り、白新線の旅を続ける。水量豊富な阿賀野川を渡り、次の新崎駅(にいざきえき)へ。新崎駅の先からは単線となり、次第に田園風景が広がるようになる。米どころ新潟ならではの光景だ。早通駅(はやどおりえき)、豊栄駅(とよさかえき)と、駅からかなり遠くまで住宅地が広がっている。豊栄駅までは、列車の本数も多いため、新潟市の中心部へ通うのにも便利ということもあり、住宅地化されているのだろう。

 

豊栄駅から先は朝夕を除き、列車本数が1時間に1本という閑散区間に入る。列車本数に合わせるかのように、住宅も減っていき、一方で水田が多く広がるようになる。そして次の黒山駅へ着く。この駅、構造がなかなか興味深い。

↑黒山駅の構内を望む。白新線の線路・ホームの横に側線があるが、この側線の先、藤寄駅まで新潟東港専用線が延びている

 

下りホームに沿って側線が何本か並行に敷かれている。側線があるものの、貨車は停まっていない。単に線路があるのみ。気になったので下車してみた。ぐるりと北側へまわってみると、白新線から離れ、1本の引込線が延びている。さてこの路線は?

 

黒山駅分岐新潟東港専用線という名称が付いた路線で、藤寄駅(ふじよせえき/聖籠町)まで2.5kmほど延びている。新潟東港の開港に合わせて造られた路線で、開業は1969(昭和44)年のこと。路線の開業とともに新潟臨海鉄道株式会社が創設された。しかし、大口の顧客だった新潟鐵工所が経営破綻したことなどの理由もあり、2002(平成14)年に新潟臨海鉄道は解散となってしまう。

 

その後は、路線の短縮を経て、現在は新潟県が所有する路線となり、JR貨物が運行を行う。列車は、新潟鐵工所の鉄道車両部門などを引き継いだ新潟トランシスが製造した新車、および、新潟東港から海外へ譲渡される車両の輸送などが主体となっている。

↑黒山駅近くの黒山踏切には踏切の両側に簡易柵が設けられていた。踏切の案内には「新潟東港鉄道」の文字が記されている(右上)

 

列車が運行するのは稀なため沿線の踏切には簡易柵が設けられ路線に進入できないようになっていた。線路は雑草に覆われる様子もなく、いつでも列車が走れるように保持されていた。ちなみに白新線を走る観光列車の「海里」が誕生した時にも、新潟トランシス製ということもあり、同線を走って白新線へ入線している。

 

列車運行が珍しく、しかもその運転日は明かされないこともあり、同線を走る列車を出会うことは、至難の業となっているようだ。

 

【白新線の謎⑨】黒山駅の裏手にある「黒山駅」の表示はさて?

黒山駅の周辺をぐるりと回っていて、ちょっと不思議な光景に出くわす。駅の裏手の道沿いから駅側を望むと、小さな建物に「黒山駅」の表示が。“あれ〜、ここから駅へ行けるのだろうか?”。

↑黒山駅の北側にある謎(?)の「黒山駅」の表示。裏手を通る道沿いの建物にある駅案内で、知らないと間違えて入っていきそうだ

 

この表示、JR貨物の黒山駅を表す表示で、JR東日本の黒山駅を示すものではない。したがって、この表示の場所から駅ホームへ入ることはできない。知らないと、間違えてしまいそうだが、もちろんこの地区に住む人は皆が知っていることでもあるし、また駅の北側に民家がないため問題にならないのだろう。都会だったらとても考えられない駅の表示だと感じた。

 

【白新線の謎⑩】撮り鉄の“聖地”佐々木駅を再訪する

黒山駅の次は佐々木駅だ。この付近になると駅間も広がり、豊栄駅〜黒山駅〜佐々木駅それぞれの駅間は3kmと距離が離れる。なお黒山駅までは新潟市内、次の駅の佐々木駅は新発田市内の駅となる。

 

この佐々木駅。鉄道ファンの中には同駅で降りた人も多いのではないだろうか。駅から徒歩で10分ほどの稲荷踏切。この踏切から太田川まで白新線の線路が大きくカーブ、水田よりもやや高い位置を走るため、全編成が車輪まで見える非常に“抜け”の良い場所となる。架線柱も片側だけに立ち撮影の邪魔にならない。さらにアウトカーブ、インカーブ、両方が撮影できるとあって、白新線ナンバーワンの人気撮影地となっている。

↑稲荷踏切から貨物列車を撮る。写真の851列車は2018年3月で廃止。現在、白新線を日中に走る貨物列車が少ないのがとても残念だ

 

筆者も2年ぶりに訪れてみた。以前は115系が撤退間際ということもあり、多くのファンが集まっていた。が、2年後は……。それでも私以外に2名の撮影者が訪れ構図作りに興じていた。この場所は、自分の好きなポイントで構図作りができることも人気の理由だろう。

 

このポイントは、気兼ねせずに撮影ができる。手前には刈り取りが終わった水田、周りも見渡す限り水田が広がる。水田越しに飯豊連峰・朝日連峰などの山々が遠望でき、気持ちの良い撮影時間となった。

 

【白新線の謎⑪】終点・新発田駅で駅近辺を歩いてみたら……

佐々木駅に戻り、終点の新発田駅を目指す。列車の時刻はちょうど1時間おきなので、予定作りもしやすい。佐々木駅の次の駅は西新発田駅。この駅は駅前にショッピングモールがあり、乗り降りする人が多い。黒山駅や佐々木駅と比べると、同じ路線の駅なのだろうかと思うほどだ。

 

西新発田駅と過ぎて、しばらく走ると、右から1本の線路が近づいてくる。この線路が羽越本線で、同線が近づいてくると、新発田駅がもうすぐであることが分かる。新潟駅から普通列車に乗車すると約40分で新発田駅に到着する。

 

新発田駅は西側の正面口しか無いが、久々下車してみると駅の形が大きく変っていることに気付いた。調べると2014(平成26)年の11月に現在の姿にリニューアル。城下町のイメージをした、なまこ壁の駅舎に改良工事をされていた。

↑なまこ壁の装いをほどこした現在の新発田駅。右上は2014年までの新発田駅の旧駅舎

 

さて、新発田駅では戻る列車まで時間があるので、駅の周辺を歩いて回った。駅の東口へ、地下通路を通って向かう。そして北側へ。

 

地図で事前に見てみると、駅の北から東へと、非常にきれいにカーブした道路があって、気になったのである。このカーブは何の跡なのだろう。

↑新発田駅近く、現在は公道として使われる赤谷線の廃線跡。この先で大きくカーブして赤谷へ向かう。なお今は赤谷行きバスが出ている(左下)

 

新発田駅からはかつて、赤谷線という支線が出ていた。路線距離は18.9kmと長めの支線だった。カーブした道はこの赤谷線の跡だった。

 

赤谷(新発田市赤谷)へはかつて鉄鉱石輸送用の専用線が敷かれていた。その路線を活かして1925(大正14)年に開業したのが赤谷線だった。白新線よりも、かなり前に開業していたわけだ。新発田駅から途中駅が5駅。終点の東赤谷駅の手前にはスイッチバックがあり、列車はスイッチバックをした上で、駅に入線していた。

 

駅の手前に33.3パーミルという急勾配があったためとされる。調べてみると東赤谷駅の蒸気機関車用の転車台は現在、大井川鐵道の千頭駅(せんずえき)に移設され役立てられていた。

 

赤谷線は1984(昭和59)年に全線が廃止されたが、以前に同線で使われていた施設が、その後に別の場所で活かされていたと聞いてうれしくなった。今となっては適わぬ夢ながら、一度、乗ってみたかったローカル線である。

↑新発田駅の東側にあるセメント工場には、今は使われていない引込線の線路がそのままの状態で残されていた

 

赤谷線の廃線跡を探したものの勝手が分からず駅の東側から遠回りをしてしまった。だが、思わぬ発見も。駅の東側に今や使われない線路が延びていた。錆びついた線路が残り、終端にはレトロな線路止めも。セメント工場への引込線跡だった。今もセメント会社は稼動していたが、羽越本線からは線路はすでに途切れていて、引込線は機能していなかった。

 

地方を訪ねると、こうした引込線の跡が残るところがある。新発田駅のように、県の中心、新潟駅から40分の距離の駅近くにも、こうした使われない線路が残されている。今回の白新線の旅では、光と陰の部分を見たようで、ちょっと複雑な気持ちにさせられた。

 

なお筆者が訪れた日に、新発田市内の観光施設で熊の出没騒ぎがあった。羽越本線の月岡駅から1kmほどのところ、白新線の黒山駅へも6kmほどの距離にあたる。この秋は、熊の出没が多く取りざた沙汰されている。民家が多い場所にも出てきている。甲信越や、東北、北陸地方などで沿線を歩く時には、熊鈴などの防御グッズを必ず携行して出かけることをお勧めしたい。

信州松本を走る「上高地線」‐‐巡って見つけた10の再発見

おもしろローカル線の旅67 〜〜アルピコ交通上高地線(長野県)〜〜

 

ローカル線は何度たずねても新たな発見があって楽しいもの。長野県の松本市を走る「アルピコ交通上高地線」。山景色が美しい路線を訪ねてみた。改めて乗って、いくつかの駅で下りてみたら……。数年前と異なる再発見が数多く出現! 新鮮で楽しい旅となった。

*取材撮影日:2017年7月8日、2018年7月15日、2020年9月27日ほか

 

【関連記事】
なぜ?どうして?「近鉄田原本線」−−とっても気になる11の不思議

 

【上高地線で再発見①】開業時は筑摩電鉄。さて筑摩という地名は?

↑新村駅の駅舎に掲げられた創業当時の社名と社章。いま見るとレトロ感満点のなかなか貫録ある社章だった

 

初めに、上高地線の概要を見ておきたい。

路線と距離 アルピコ交通上高地線/松本駅〜新島々駅14.4km
*全線単線・1500V直流電化
開業 1921(大正10)年10月2日、筑摩鉄道により松本駅〜新村駅間が開業、翌年に島々駅まで延伸
駅数 14駅(起終点駅を含む)

 

上高地線は筑摩鉄道という鉄道会社により路線が敷かれた。筑摩という地名は、地元の方には馴染み深いのだろうが、筆者は今回、訪ねるまで知らなかった。路線の新村駅の駅舎の横に案内があり、筑摩電鉄(1922年に筑摩鉄道から筑摩電気鉄道に社名を変更した)の名前とともに社章が案内されていた。駅横の案内としては、やや唐突に思われたが、アルピコ交通の実直さが感じられるような案内だった。

 

それにしても「筑摩」という地名。調べてみると長野県の中信地方、南信地方、岐阜県の飛騨地方を広く「筑摩」と呼ばれた。明治の始めには「筑摩県」があり、さらに長野県には「筑摩郡」という郡が明治10年前後にあった。さらに上高地線が走る松本盆地の梓川が流れる南側を「筑摩野」と呼ばれている。

↑東京日日新聞の1928(昭和3)年発行の「全国鐵道地圖」には「筑摩電気」の名が見られる。すでに浅間温泉まで路線が延びていた

 

筑摩鉄道という鉄道名は、当時としては、ごく当然のように付けられた社名だったようである。この筑摩鉄道→筑摩電気鉄道(筑摩電鉄もしくは筑摩電気)という名前が10年ほど続き、1932(昭和7)年12月に松本電気鉄道に社名が変更された。

 

当時、筑摩電気鉄道は松本駅の東口から浅間温泉駅まで延びる浅間線を1924(大正13)年に開業させている。その後の1932(昭和7)年に松本駅前広場まで路線を延ばした。この路線延長が松本電気鉄道と社名を変更したきっかけとなったようである。ちなみに浅間線は併用軌道区間が多く、車の交通量が増え、路線バスに利用者を奪われたこともあり、1964(昭和39)年3月いっぱいで廃線となっている。

 

【上高地線で再発見②】正式な路線名はアルピコ交通上高地線だが

長い間、松本電気鉄道の路線だった上高地線だが、松本電気鉄道は2011(平成23)年4月に、アルピコ交通となった。

 

しかし、今も「松本電鉄」という呼称が良く聞かれる。JR線内は「松本電鉄上高地線はお乗換えです」等のアナウンスがされている。正式には松本電気鉄道という会社はなくなり、正式な路線名もアルピコ交通上高地線なのだが、長年に親しまれてきた名称が今も生き続けているわけである。

↑新島々駅方面の先頭車にある案内には「アルピコ交通上高地線」の名前の上に「松本電鉄」と添えられている

 

ちなみに松本駅の上高地線のホームへ階段下りると、停まる上高地線の電車の正面の案内板には「アルピコ交通上高地線」という名称とともに「松本電鉄」の名前が上に添えられている。逆側の正面には、この案内板がない。いかに「松本電鉄」の名前が浸透していて、今も案内を必要としているのか、正面の案内板を見ても良くわかる。

【上高地線で再発見③】走る電車は元京王井の頭線の3000系

ここで上高地線の電車を紹介しておこう。現在、走る電車は3000形で、元京王井の頭線を走っていた3000系である。

 

京王3000系は1962年に製造が始まった電車で、鉄道友の会のローレル賞を受賞している。車体は京王初のオールステンレス車体で、井の頭線を走っていたころには、正面上部のカラーが編成ごとに異なり、レインボーカラーの電車として親しまれた。1991年まで製造され、2011年に井の頭線を引退している。京王での晩年はリニューアルされ、正面の運転席の窓が側面まで延びていた。

 

大手私鉄の車両としては全長18.5mとやや短めで、片側3トビラ、さらに1067mmと国内の在来線と同じ線路幅ということもあり、重宝がられ、井の頭線引退後も、上毛電気鉄道、岳南電車、伊予鉄道といった複数の地方私鉄に引き取られている。京王グループの京王重機による整備、改造を行った上で譲渡されるとあって、人気のある譲渡車両だった。

 

上高地線に導入されたのは1999(平成11)年と2000(平成12)年のこと。2両編成4本の計8両が譲渡されている。車両は運転席の窓が側面まで延びたリニューアルタイプだ。

↑アルピコカラーをまとった3000形。正面と側面に「Highland Rail」の文字が入る。車内にはモニターが付き、沿線ガイドなどに利用される

 

↑3003-3004編成は、松本電鉄が1960年前後に自社発注したモハ10形、クハ10形の車体色のカラーラッピングが施されている

 

導入の際にはワンマン運転できるように改造。車体は白色をベースに紫、ピンク、山吹、緑、赤の斜めのストライプを、正面と側面にいれたアルピコカラーとなっている。乗車すると車内のモニターが付いていることに気がつく。1車両の7か所もモニターが付き、沿線の観光案内や、路線の駅案内などに役立てられている。現在の都市部の新型電車にも小さなモニターが付けられ、沿線ガイドやCMなどが流されているが、上高地線のモニターは手づくり感満点ながら、大きくて見やすく、とても良い試みだと感じた。

 

ちなみに3000形の前に使われていたのが、元東急電鉄の5000系だった。本家の車両は青ガエルのニックネームで親しまれていた独特の形状を持つ車両で、上高地線でも人気車両だったが、2000年に引退している。2両が新村駅の車庫に保存されていたが、その話題は、後述したい。

 

【上高地線で再発見④】JRのある線と共用の松本駅7番線ホーム

ここからは上高地線の旅をはじめよう。上高地線の起点はJR篠ノ井線の松本駅だ。ちなみに松本駅はJR東日本と、アルピコ交通の共用駅となっていて、改札も共用となっている。上高地線の切符も券売機で購入できる。

 

券売機では上高地線「電車わくわく一日フリー乗車券(1420円)」や、上高地、乗鞍高原、白骨温泉への電車+バス乗継ぎ乗車券も購入可能だ。ちなみにJR各路線からそのまま乗り継いでも、下車駅で精算できる。ただし路線内で交通系ICカードの利用や、ICカードの精算はできない。

 

また無人駅での下車はワンマン運転ということもあって高額紙幣の両替は不可なのでご注意を。

 

さて、始発駅の松本駅。上高地線の乗り場は7番線にある。位置としては松本駅のアルプス口(西口)側だ。

↑松本駅のアルプス口(西口)側の7番線に停まる新島々駅行き電車。ホームはJR線と共用となっている

 

7番線ホームだが、同じホームの反対側、6番線ホームはJR大糸線の普通列車の着発ホームとなっている。つまり大糸線と共用ホームなのである。大糸線の車両は、連絡口の階段からやや離れ、北側に停車する。上高地線の電車が階段下すぐに停まるのに、JR線の方が階段から距離があるというやや不思議な位置関係だ。

 

上高地線のホームは行き止まり方式。北側に0キロポストがあり、ここが路線の始まりであることが分かる。松本駅からの発車は1時間に1〜3本と本数にばらつきがある。利用の際は事前に時刻表を確認して調整したほうが賢明だろう。列車はみな新島々駅行き電車だ。新島々駅までは所要時間30分ぐらいなので、路線をゆっくり巡るのに最適な長さと言って良いだろう。

 

松本駅を発車した上高地線の電車は、ゆるやかに右カーブを描きながら走り始める。この時に、注目したいのは左手。JR東日本の松本車両センターがあり、特急あずさとして走るE353系や大糸線などを走るE127系などの車両が停まっているのが見える。

 

数年前まではE351系、E257系といったすでに中央本線からは退役した車両が多く停まっていたな、などと思い出に浸りつつ松本車両センターの横を通り過ぎる。そして電車はすぐに西松本駅に到着する。この先で、田川をわたり、さらに右にカーブして、渚駅へ。海なし県なのに駅名が「渚」。それはなぜだろう?

 

調べてみると古代は松本盆地そのものが大きな湖だったそうだ。そこが渚の語源となっているとされる。その名残は、この地区に田川そして奈良井川(ならいがわ)と川の支流が数多く、流れも緩やかで、曲がりくねる形からもうかがえる。電車は奈良井川を渡り信濃荒井駅へ着いた。

↑奈良井川橋りょうを渡る3000形。奈良井川の両岸とも高い堤防になっている。川面と住宅地の標高があまり変わらないことが分かった

【上高地線で再発見⑤】新村車庫にある古い電気機関車は?

信濃荒井駅まで沿線には住宅が多かったものの、この先、田畑が増えてくる。田畑では信州らしくそば畑が多い。筆者が訪れた9月末には白い花咲く光景をあちこちで見ることができた。

 

路線は住宅街を抜けたこともあり直線路が続くようになる。大庭駅を過ぎ、長野自動車道をくぐると、右手から路線に沿う道が見えてくる。こちらが国道158号で、この先で、ほぼ上高地線と並行に走るようになるが、その模様は後で。次の下新駅(しもにいえき)は旧・新村(にいむら)の駅で、「新」を「にい」と読ませるのはその名残だ。

 

次が北新・松本大学前駅。この北新も「きたにい」と読ませる。平日ならば、大学前にある駅だけに学生の乗り降りが目立つ。

↑ED301電気機関車は米国製で、信濃鉄道(現・大糸線)の電気機関車として導入された。信州に縁の深い機関車である

 

次の新村駅(にいむらえき)は鉄道ファンならばぜひ下りておきたい駅だ。この駅に併設して新村車庫がある。

 

車庫内で気になるのが焦げ茶色の凸形電気機関車。1926(大正15)年にアメリカで製造された。米ボールドウィン・ロコモティブ・ワークスが機械部分を造り、ウェスティングハウス・エレクトリック社が電気部分を担当した機関車で、松本電気鉄道ではED30形ED301電気機関車とされた。この機関車の履歴が興味深い。

 

松本駅と信濃大町駅を結んでいた信濃鉄道(現・JR大糸線)が輸入した1形電気機関車3両のうち1両。1937(昭和12)年に国有化された後には国鉄ED22形と改番されて大糸線、飯田線を走った。その時の国鉄ED22 3号機が後に西武鉄道を経由して1960(昭和35)年に松本電気鉄道へ入線していたのだ。その後、工事および除雪用に使われたが、2005(平成17)年に除籍、現在は保存車両として車庫内に残る。

 

なお国鉄ED22形は長寿な車両で、弘南鉄道大鰐線に引き取られたED22 1は今も社籍があり、除雪用として使われている。技術不足から電気機関車の国産化が難しかった時代の機関車で、その後の国産化された電気機関車も、ウェスティングハウス・エレクトリック社のシステムを参考にしている。そんな時代の電気機関車が、まだこうしてきれいな姿で残っているわけである。

 

余談ながらJR大糸線は、昭和初期までは信濃鉄道という鉄道会社が運営していた。現在、長野県内の旧信越本線はしなの鉄道が運行している。しなの鉄道には、しなのを漢字で書いた信濃鉄道という、先代の会社があったことに改めて気付かされた。

 

【上高地線で再発見⑥】新村車庫で保存されていた元東急電車は?

新村車庫で古参電気機関車とともに、ファンの注目を集めていたのが5000形。現在の3000形の前に上高地線の主力だった車両だ。前述したように東急5000系で、新村車庫には5005-5006編成の2両が保存されていた。2011(平成23)年には松本電鉄カラーから緑一色に塗りかえられ、イベント開催時などに車内の公開も行われていた。

↑新村車庫内に留め置かれていた5000形。2011年に塗り替えられたが、2017年の撮影時にはすでに塗装が退色しはじめていた

 

久々に新村車庫を訪れた筆者は、ほぼ5000形の定位置だったところにED301形電気機関車と事業用車が置かれていたことに驚いた。そして車庫のどこを見ても、緑色の2両がいない。どこへいったのだろう。まさか解体?

 

心配して調べたら2020年春に「電鉄文化保存会」という愛好者の団体に引き取られていた。同保存会は群馬県の赤城高原で東急デハ3450型3499号車の保存を行う団体で、この車両に加えて上高地線の5000形2両を赤城高原に搬入。会員は手弁当持参で、鉄道車両の整備や保存活動にあたっている。

 

こうした団体に引き取られた車両は、ある意味、幸運と言えるだろう。末長く愛され、赤城の地で保存されることを願いたい。

 

【上高地線で再発見⑦】渕東駅と書いて何と読む?

新村駅から先の旅を続けよう。新村駅から次の三溝駅(さみぞえき)へ向かう途中、右手から道が近づいてくる。この道が先にも少し触れた国道158号。路線はこの先、付かず離れず、道路と並行して走る。国道158号の起点は福井市で、岐阜県の高山市を経て、松本市へ至る総延長330.6kmの一般国道だ。一部が野麦街道と呼ばれる道で、明治期には製糸工場に向けて女性たちが歩いた隘路で、飛騨山脈を越える険しい道だ。岐阜県と長野県の県境を越える安房峠(あぼうとうげ)の下に安房トンネルが開通したことにより、冬期も通れるようになっているが、古くは行き倒れる人もかなりいたとされる。

 

そうした国道を横に見ながら森口駅、下島駅と走るうちに、この地の典型的な地形に出会うようになる。右手、眼下に流れる梓川。その河畔よりも、電車は一段、高い位置を走り始めていることが分かる。波田駅(はたえき)付近は、そうした階段状の地形がよくわかる地点で、明らかに河岸段丘の上を走り始めたことが分かる。この波田駅は梓川が流れる付近から数えると2つめの崖上(段丘面)にある。そして次の駅までは河岸段丘を1段下り、梓川の対岸まで望める地域へ出る。

 

ちなみに上高地線の進行方向の左手、南側には段丘崖(だんきゅうがい)が連なり、この上はまた平坦な地形(段丘面)となっている。

↑渕東駅の裏手から駅を望む。先に山が見えるが、ここが河岸段丘の崖地になっていて、上部にまた平野部が広がっている

 

↑渕東駅前に広がる水田。稲刈りが終わり信州は晩秋の気配がただよっていた。藁は島立てという立て方で乾燥させ利用する

 

さて渕東駅である。「渕」そして「東」と書いて何と読むのだろう。何もヒントなしに回答できたらなかなかの鉄道通? 筆者は残念ながら読めなかった。

 

「渕」は訓読みならば「ふち」と読む。この「ふち」のイメージが強く、駅名が思い付かなかったのだが、音読みならば? 「渕」は「えん」と読む。なるほど、だから渕東と書いて「えんどう」と読むのか。理由を聞いてしまうと理解できるのだが、日本語は難しいと実感する。

↑渕東駅前には赤く実ったリンゴの木もあった。元井の頭線の電車が走る目の前に赤く色づくリンゴの実る風景が逆に新鮮に感じられた

 

ちなみに駅名標には上高地線のイメージキャラクターが描かれる。イメージキャラクターは「渕東なぎさ」だそうだ。渕東駅と渚駅が組み合わさったキャラクターなのである。

 

【上高地線で再発見⑧】新島々駅前にある古い駅舎は?

渕東駅からさらに段丘を下りる形で終点の新島々駅へ向かう。梓川がより近づいていき、左右の山々も徐々に迫ってくる。広がっていた松本盆地の平野部も、そろそろ終わりに近づいてきたことに気付かされる。

↑河岸段丘を1段おりつつ新島々駅へ向かう電車。先には小嵩沢山(こたけざわやま)や無名峰などの標高2000mを越える山々が望めた

 

左右の山々が取り囲むように終点の新島々駅がある。とはいえ付近にはまだ平坦な地があり、駅前には広々したバスの発着所がある。ここから上高地、白骨温泉、乗鞍高原、高山方面への路線バスが出ている。ちなみに上高地へはマイカーに乗っての入山はできないので注意。路線バスの利用が必須となる。

 

さて筑摩鉄道が開業させたのは島々駅までだったのだが、その島々駅はどうなったのだろう。実は開業当時には新島々駅という駅はなかった。1966(昭和41)年に赤松集落にあった赤松駅が、現在の新島々駅に改称されたのである。

↑新島々駅の駅舎。新島々バスターミナルとあるように、バスの発着所スペースの方が鉄道の駅よりもむしろ大きく利用者で賑わう

 

終点だった島々駅の今は後述するとして、赤松駅から新島々駅に駅名を変更された時に、バスターミナルの機能が移され、整備されている。

 

その後の1983(昭和58)年9月。長野を襲った台風10号により、土砂が新島々駅〜島々駅間の路線に流れ込み不通となってしまった。1985(昭和60)年1月1日に、新島々駅〜島々駅間は正式に廃止となった。すでに新島々駅にバスターミナル機能が移っていたので、島々駅まで無理に復旧して電車を走らせる必要もなかったということだったのだろう。

↑新島々駅の駅前には旧島々駅の駅舎が移築されている。以前は観光施設だったが現在は未使用。歴史案内があったらと残念に感じられた

 

【上高地線で再発見⑨】草むらの中に旧鉄橋が埋もれていた!

新島々駅の先は廃線となっている。その跡はどうなっているのか、興味にそそられ歩いてみた。まずは新島々駅の構内から、駅の先、100mほどは線路が残されている。そしてホーム1面2線の線路が先で合流している。今でもすぐに島々駅へ向かって線路が復活しそうな線路配置である。

 

ただホームの100m先からは線路が外され、途切れていた。新島々駅のある付近には国道158号の両側に赤松集落がある。古い地図を元に歩くと、旧路線は赤松集落の裏手を抜けて、すぐに国道158号と合流するようになっていた。

↑新島々駅から集落の裏手を通り、まもなくして国道に合流する。そのポイントから新島々駅側を見る。路線跡は砂利道となっていた

 

国道158号沿いに合流するように走っていた旧路線。国道よりも1段、高い位置を路線が設けられていた。赤松の集落内は砂利道として旧路線が使われていたが、国道に合流後、しばらくすると旧路線は草木に埋もれるようになった。とても路線上は歩けないので、国道の歩道を歩く。国道沿いには一軒の土産物屋さんがあり、店の上を走っていたらしき名残がうかがえる。

 

さらに旧島々駅を目指す。歩くと左手に路線がほぼ並行していたが、草木が繁り、良く見えない。しかし、1か所、廃線ということが分かる箇所があった。雨が降ると川が流れる階段状の窪地があり、そこに古い鉄橋が架かっていた。

↑国道158号を廃線沿いに歩くと、途中に発見した旧鉄橋。窪地をまたぐように鉄橋が架かる。錆びついていたが鉄橋跡だと分かった

 

【上高地線で再発見⑩】旧島々駅はこの辺だと思うのだが……

何もなかったら廃線跡も無駄歩きになりそうだったが、錆びついた鉄橋を発見。少しは鉄道の形跡を確認することができた。

 

さらに歩き、島々駅があった付近へ到着する。前渕(まえぶち)という集落に上高地線の終点、島々駅があった。梓川のほとりにある小さな集落で、山々に囲まれ、新島々駅付近に比べると平坦な土地が乏しい。古い地図を見ると今の国道158号上に駅があったようだ。旧駅前付近は、広々した空き地となっていた。

↑旧島々駅前付近は広い空き地となっていた。左下は1970年代の地図で、旧島々駅は現在の国道(写真右)になったことが分かる

 

前渕集落の中に小道が通るが、地図を見るとこちらが旧国道のようだ。少し歩くと、数軒の家々があり、食堂や旅館だったたたずまいがある。旧旅館の建物にかかる案内地図には、島々駅があった当時のまま残されていた。ちなみに集落名は前渕でここでは「ぶち」と読む。前述したように、上高地線の駅名の渕東は「えんどう」と読む。同じ旧波田町内の地名なのだが、日本語の複雑さを改めて感じた。

 

新島々駅〜島々駅間は1.3km、山あいのウォーキングコースとしてはちょうど良い距離だった。

 

最後に上高地線のイベント情報を一つ。車内でバイオリンの生演奏が楽しめるイベントが不定期ながら開かれている。次回は10月18日(日曜)で、演奏が楽しめる列車は松本駅10時10分発、新島々駅発10時53分、松本駅11時30分発の電車内。編成の1両目でプロの音楽家・牛山孝介さんの演奏が楽しめる。特別料金や予約は不要だ。無料でプロの音楽家の演奏が楽しめる。運良く乗り合わせた筆者としてはとても得した気持ちになった。

 

車窓から信州の山々を眺めながら生演奏を楽しむ。この路線ならではのロケーションの良さと、バイオリンの調べがぴったり合うことに気付かされた。

↑演奏を行う牛山孝介さん。牛山さんは松本市在住で、松本モーツァルト・オーケストラのコンサートマスターを務める 2018年7月15日撮影

 

なぜ?どうして?「近鉄田原本線」−−とっても気になる11の不思議

おもしろローカル線の旅66 〜〜近畿日本鉄道・田原本線(奈良県)〜〜

 

日本各地には、ちょっと不思議で、乗ってみたいと思わせる路線があるもの。筆者はついそうした路線を見つけると、行ってみたくなる。近畿日本鉄道(以下「近鉄」と略)の田原本線(たわらもとせん)もそうした路線だ。

 

起終点駅ともに近鉄の駅が間近にありながら、駅は異なり線路が結ばれていない。ほかにも疑問が多数出現する“おもしろい路線”なのだ。そんな不思議な路線に乗車しようと奈良県の王寺駅へ向かった。

*取材撮影日:2020年1月31日、2月2日、9月21日

 

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【田原本線の不思議①】大手私鉄では珍しい“孤立路線”の一つ

↑田原本線の佐味田川駅〜池部駅間を走る8400系。沿線に住宅街が多い路線だが、こうした緑の中を走る区間もある

 

初めに、近鉄田原本線の概要を見ておきたい。

路線と距離 近畿日本鉄道・田原本線/新王寺駅〜西田原本駅10.1km *全線単線・1500V直流電化
開業 1918(大正7)年4月26日、大和鉄道により新王寺駅〜田原本駅(現在の西田原本駅)間が開業
駅数 8駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の不思議なところは、起点駅の新王寺駅と、終点駅の西田原本駅(にしたわらもとえき)の両駅とも、近くに近鉄の駅がありながら、駅が異なっているということ。しかも隣接する駅とは線路が結びついていない。詳しい駅の造りは、後述するとして、新王寺駅は、近鉄生駒線の王寺駅と130m(徒歩2分弱)ほど離れている。西田原本駅は、近鉄橿原線(かしはらせん)の田原本駅と60m弱離れている。ここで名前をあげた3路線すべて、線路幅が1435mmと同一であるのにもかかわらずである。

 

こうした大手私鉄の路線網で自社他線との接続がない路線を“孤立路線”と呼ぶことがある。田原本線は隣接して走る橿原線と連絡線があり、回送電車がこの連絡線を通って行き来するものの、直通電車は走っていない。起終点の駅の同一会社同士の駅の離れ方は、他に例を見ない微妙な“孤立ぶり”である。

 

なぜ、孤立路線となったのだろう。それこそ同路線の微妙な歴史が隠されていたのだった。

 

【田原本線の不思議②】最盛期には桜井まで路線が延びていた

下の写真は昭和初期の鉄道路線図である。王寺駅と桜井駅との間を「大和鉄道」という鉄道が走っていたことが分かる。当時の路線図には南海はあるが、近鉄の名前は載っていない。なぜ載っていないのだろう……。

↑東京日日新聞の1928(昭和3)年元旦発行版の付録「全国鐵道地圖」には「大和鉄道」という路線名で田原本線が掲載されている

 

田原本線は大和鉄道という会社により1918(大正7)年4月26日に、現在の路線区間が開業した。その後に、路線は1928(昭和3)年に桜井駅まで延伸している(旧田原本駅〜桜井駅間は1958年に廃止)。この路線図は延伸当時のものだ。開業当時の線路幅は1067mmで、蒸気機関車が牽引する列車が往復した。

 

大正・昭和初期は、奈良県内の鉄道路線網が大きく変っていった時代でもある。大阪電気軌道(上記図内にあり)が、大阪線や、畝傍線(うねびせん/後の近鉄橿原線)を開業させたことから、大和鉄道は経営が悪化していく。大阪電気軌道こそ、近鉄の前身となった会社だ。大阪電気軌道はその後に関西急行鉄道となり、さらに太平洋戦争中の1944(昭和19)年に近畿日本鉄道と名前を改めた。南海電気鉄道(当時は南海鉄道)を含め関西圏のいくつかの鉄道会社が合併して生まれた。戦時下という特殊事情のなか、一時期にせよ近鉄の名のもとに大同団結している。

 

大和鉄道は大阪電気軌道の傘下に加わっていたものの、この時代、創業当時の会社のままで終戦を迎えている。

 

大和鉄道を取り巻く状勢が変化したのは、戦後しばらくたってから。現在の近鉄生駒線を運営していた信貴生駒電鉄(しぎいこまでんてつ)が1961(昭和36)年10月1日に大和鉄道を合併した。さらに1964(昭和39)年10月1日に信貴生駒電鉄が近鉄に吸収合併された。そして現在に至る。大和鉄道時代に、すでに近鉄の前身にあたる会社の傘下にありながら、戦時下に合併されることなしに、戦後まで会社が存続していたこともちょっと不思議に感じる。

 

【田原本線の不思議③】走るのは町のみという路線も珍しい

さて、路線の歴史的な経緯も不思議ならば、走る路線区間もなかなか珍しいことが一つある。路線全線がみな町を通っていることだ。

 

起点となる新王寺駅は、JR王寺駅に隣接している。同駅は関西本線、和歌山線、近鉄生駒線と、利用者が多い乗換駅。駅周辺は、ビルも建ち並び、なかなか賑やかだ。ところが、ここは王寺町(おうじまち)と町の駅である。ここから田原本線の路線は河合町(かわいちょう)、広陵町(こうりょうちょう)、三宅町(みやけちょう)、田原本町(たわらもとちょう)と町のみを走る。

 

全国では平成の大合併で多くの町村が消えて、市となったが、奈良県のこの地区は、合併がなかったわけである(正式には合併交渉が頓挫していた)。ちなみに王寺町の南隣に香芝市(かしばし)があるぐらいで周辺にも市が見当たらない。日本の鉄道路線で市を通らない例は、他に南海多奈川線(たながわせん)と、名鉄知多新線が見られるぐらいで、非常に希少な例なのだ。

↑路線図を見ると市制をとる自治体はなく、みな町のみとなっている。こうした路線の例も珍しい

 

【田原本線の不思議④】起点の新王寺駅の離れ方を写真でみると

ここからは沿線を旅して見聞きしたことを報告していこう。まずは起点となる新王寺駅から。この新王寺駅、近鉄の王寺駅からは直線距離にして130mほど離れている。ちなみに新王寺駅の駅舎はJR王寺駅の中央改札口へ上る北口階段のすぐ下にある。新王寺駅は駅舎こそ小さめだが、駅前にSEIYUが建ち賑やかだ。

 

一方の近鉄生駒線の王寺駅はJR王寺駅の西側にあり、JRの西改札口の隣に改札がある。こちらは新王寺駅前に比べると賑わいに欠ける。この差は興味深く感じた。半世紀以上前に大和鉄道の経営から離れ、信貴生駒電鉄、さらに近鉄と同じ会社になったのだから、線路を直接、結ぶことになぜ至らなかったのか、不思議に感じるところである。

↑田原本線の新王寺駅は「コ」の字形の行き止まりホームとなっている。左上は田原本線新王寺駅の駅舎。同写真の右側にJR王寺駅がある

 

↑新王寺駅側から見た近鉄王寺駅。道の先の大屋根の下に近鉄の王寺駅がある。左上は近鉄の王寺駅のホームを西側から写したもの

 

田原本線の新王寺駅は2面1線の「コ」の字形の構造。全電車が同駅で折り返しとなる。南側ホームが降車ホームで、北側ホームが乗車ホームだ。列車の出発時刻は15〜20分間隔で、5時、11時、12時、14時、23時それぞれの時間帯が30分おきとなる(土休日の14時台は20分おき)。なお田原本線では全線全駅で交通系ICカードが使えて便利だ。

 

【田原本線の不思議⑤】発車してすぐ右に見えるデコイチは?

新王寺駅に停まっていた電車はマルーンレッドの復刻塗装列車。この電車の紹介は後述するとして、みな3両編成と短めだ。

 

しばらく停車した後に、静かに走り出した。右手にJR関西本線の線路を見ながらしばらく並走する。JR王寺駅の南側に広い留置線が広がっていて、ここに停まる関西本線用のウグイス色塗装の国鉄形201系電車も気になるところだ。

 

さてしばらくすると、JR関西本線を越えるべく登り坂にさしかかる。ここで右手に保存された蒸気機関車が見えた。

↑新王寺駅から間もなく、JR関西本線の線路を越えるスロープが延びる。越えた後に和歌山線を下に見て走る(右下の写真)

 

↑新王寺駅から徒歩7分ほどの舟戸児童公園で保存されるD51形895号機。すぐ横を田原本線の8400系復刻塗装列車が通り抜けた

 

確認しなければ気が収まらないのが筆者の流儀。ということで後日に蒸気機関車を見に行ってきた。JR関西本線と近鉄田原本線にはさまれた舟戸児童公園で保存されるこの機関車はD51形895号機。D51デコイチである。なぜここに保存されるのだろう。1944(昭和19)日立製作所笠戸工場生まれというこの機関車。主に山陽、山陰で活躍した後に、1971(昭和46)年春に奈良機関区へやってきた。

 

とはいえこの当時は、無煙化が全国で進みつつあり、同D51も翌年の1972年秋には休車したのちに廃車となっている。最晩年に過ごしたのが関西本線だったわけだ。

 

ちなみに田原本線を走る近鉄8400系は1969(昭和44)年から製造された。もしかしたら、現役当時のD51と8400系はこの王寺の地で、すれ違っていたかも知れない。

 

【田原本線の不思議⑥】深緑とマルーンのレトロ塗装がなぜ走る?

ここで田原本線を走る電車の紹介をしておこう。走る電車はみな8400系で西大寺検車区に配置され、3両編成で走る。8400系は奈良線用に製造された近鉄8000系20m車の改造タイプで、奈良線が600Vから1500Vに昇圧される時に合わせて開発された。製造されてほぼ50年となる8400系が田原本線の主力として走る。

 

近鉄の他線と同じように「近鉄マルーン」と呼ばれる濃い赤色とアイボリーの2色分け塗装車が走る。一方で、この田原本線にはダークグリーン一色と、マルーンレッドにシルバー帯という塗装車両が走る。2編成のみ2018年に塗装変更されたのだが、どのような理由からだったのだろう。

↑マルーンレッドにシルバーの帯が入る8400系の8414編成が黒田駅〜西田原本駅間を走る。レトロ塗装車が走らない日もあるので注意

 

↑こちらはダークグリーン塗装が施された8409編成。大和鉄道時代の600系のレトロ塗装が施された

 

この2編成は田原本線が開業100周年を迎えた記念事業の一環として運行を開始したもの。8400形8414編成が、1980年代半ばまで田原本線を走っていた820系の車体カラー、マルーンレッドにシルバー帯という塗装に変更されている。一方の8409編成は、大和鉄道時代の600系を模したダークグリーンとされた。

 

すでに走り始めて2年ほどになる復刻塗装列車だが、現在も走り、沿線にはこの車両を撮影しようと訪れるファンの姿も目立つ。ちなみに運用の具合から、走らない日もあるので注意したい。ちなみに運用は事前発表されておらず、遠方から訪れる場合は“出たとこ勝負”とならざるを得ないのが現状だ。

 

【田原本線の不思議⑦】池部駅のすぐ近くにある立派な門は?

さて新王寺駅を発車した西田原本行の電車。沿線住宅街を眺めつつ1つめの大輪田駅へ。この先からは田畑が多く見られるようになる。佐味田川駅(さみたがわえき)を過ぎると、軽い登り坂があり池部駅付近がそのピークとなる。

 

池部駅には、馬見丘陵公園(うまみきゅうりょうこうえん)という副駅名が付くように、駅付近は丘陵地帯であることが分かる。この池部駅で気になるのは、駅舎のすぐ隣に古風な屋敷門が建つこと。電車の車窓からも見えたこともあり、早速、駅を降りてみた。さて門の前に立つと、河合町役場という札がかかる。

↑池部駅の駅舎(右)のすぐ隣に立派な屋敷門がある。車窓からも見えるので気になって降りてみたら……

 

↑ライオンが守る(?)門には役場の表札が、中に池泉回遊式の庭園がある(右上)。邸宅を建てた森本千吉は大和鉄道に縁の深い人物だった

 

役場の門がこんなに古風で立派というのも不思議である。実は、この門は「豆山荘」という名前の邸宅の旧門で、町役場が門の裏手にある。豆山荘は実業家・森本千吉の旧邸宅だった。森本千吉こそ、田原本線を建設した張本人だったのである。1923(大正12)年にこの邸宅は造られている。自らが開業させた鉄道路線の駅前に邸宅を建てるとは、なかなかのやり手だったようである。

 

ちなみに森本千吉は大和鉄道を開業した同じ年の1918(大正7)年に生駒鋼索鉄道(現・近鉄生駒鋼索線)を創業させている。この生駒鋼索鉄道は日本初の営業用ケーブルカーだった。大和鉄道といい、生駒鋼索鉄道といい、森本千吉の絶頂期の“作品”だったわけである。

 

森本千吉は1937(昭和12)年に死去している。その後に邸宅は他者にわたり、さらに河合町の役場となった。今は門と、庭園に残るのみだが、日本の鉄道の発展に尽力した人の遺志がこのような形で駅前に残っているというのもおもしろい。

 

【田原本線の不思議⑧】沿線にはなぜ天井川が多いのだろう?

池部駅で丘陵を越えた電車は奈良盆地(大和盆地・大和平野とも呼ばれる)へ入っていく。集落そして田畑が沿線に広がる。この盆地を走りはじめると、他ではあまり見ないおもしろい地形に出会うことができた。

 

田原本線の線路は東西に延びているが、ほぼ90度の角度で複数の河川をわたる(表現として「越す」といった印象)。高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川という河川は決まったように北へ向けて流れる。さらにみな天井川と呼ばれる構造なのである。田畑のある標高よりも、川の両岸の標高が高い。そのために、この川を越えるために電車は上り下りする。このあたりの川の構造が鉄道橋の造りが珍しい。

 

田原本線の北側を流れる大和川という本流がある。この大和川に多くの支流が合流している。この支流の特徴として上流部は急で、奈良盆地は平坦なために、流れが急に緩やかになる。そのために盆地内では土砂が堆積しやすい。そこで川の流れを制御するために掘り、両岸を高く土砂を積み上げた天井川という構造になっていったわけである。

 

ちなみに奈良盆地の年間降雨量が少なめため天井川の水量も少ない。そうした背景もあり奈良盆地には農耕用のため池が多い。この奈良盆地だけで5000個以上もあるとされる。こうした川やため池の水利権は昔から非常に厳しく管理されてきたのだそうだ。

↑池部駅を発車後、奈良盆地へと電車は下り坂を降りる。この先、黒田駅まで4本の天井川(左上)を越える。線路は川の前後で上り下りを繰り返す

 

【田原本線の不思議⑨】兵庫県の但馬にある駅と勘違いしそうだが

奈良盆地を左右に見ながら、そして天井川を越えつつ走る田原本線の電車。直線路がしばらく続くが、その途中に但馬駅(たじまえき)という駅がある。奈良県にある駅なのに但馬というのも不思議だ。但馬といえば、兵庫県北部の地域名で、美味しい牛肉の代表格である但馬牛が良く知られている。ちなみに但馬地方には但馬駅がない。

 

なぜ田原本線の駅名が但馬なのだろう。余談ながら但馬駅のある三宅町は奈良県内で最も小さい町で、全国でも2番目に小さい町なのだそうだ。

 

そんな三宅町の大字但馬にある但馬駅。ある史料によると、兵庫県北部に但馬氏という氏族がいて、奈良(当時の大和)へ氏族の一部が移り住み、その地名に但馬と付けたという説が残る。兵庫県北部の地名と奈良盆地の同じ地名。その経緯を知って訪ねるとなかなか興味深い。

 

ちなみに但馬駅のお隣、黒田駅と西田原本駅間には田畑が広がり、同線の電車を撮影スポットとして知られる。

↑黒田駅付近には田畑が多く広がる。西田原町駅間は撮影スポットとしても人気がある

 

【田原本線の不思議⑩】橿原線と連絡線がこんなところに

さて黒田駅を発車して京奈和自動車道をくぐる。田畑が広がる風景はここあたりまでで、次第に住宅地が増えてくる。終点の西田原本駅ももうすぐだ。すると左から線路が近づいてくる。近づいてくるのだが、ぴったりと寄り添うことはない。

 

近づいてくるのは近鉄橿原線の線路。そして西田原本第二号踏切を通ると、左から線路が田原本線に近づいてきて合流する。これが田原本線と近鉄の他線を連絡する唯一の連絡線となっている。この連絡線を通って、電車は配置される西大寺検車区との間を行き来する。

↑西田原本第二号踏切から見た田原本線(右)と橿原線(左)はこれほど近い。この先で橿原線から田原本線へ連絡線が設けられている

 

橿原線と田原本線は連絡線付近で、最も近づくのだが、その後も一定の距離を保ったまま、電車は終点の西田原本駅へ到着する。乗車時間20分の短いローカル線の旅が終わった。最後に西田原本駅の周りを見ていこう。

 

【田原本線の不思議⑪】田原本線なのに田原本駅という駅はない

西田原本駅の改札を出ると、橿原線の田原本駅が60mほど先にある。さえぎるものがないため良く見える。だが、新王寺駅と同様に微妙な離れ方である。

 

前述したように、西田原本駅の北側で、田原本線は橿原線とかなり近づいて走る。工事をして、田原本駅を1つにまとめることをなぜしなかっただろうか疑問が残る。

 

調べてみると1964年に近鉄に吸収合併された時に統合構想が出たそうなのである。ところが人の流れが変わるとして地元商店街などの反対から立ち消えとなったそうだ。

↑田原本線の終点、西田原本駅。ホーム1面2線、行き止まりの構造となっている。ちなみに新王寺駅行電車は、下り列車として発車する

 

↑1番線側から西田原本駅の構内を見る。留置線の左側にある構造物は旧大和鉄道時代のホームだとされる

 

鉄道網の発達や利便性を重視するべきか。利用する地元の人の声を重視するべきか、難しい選択だったに違いない。全国の鉄道駅では、都市部を除き、郊外になればなるほど、駅前商店街の地盤沈下している現象に良く出会う。田原本でも両駅の間にはコンビニがあるぐらいで、今は商店街らしきものもほとんどなく寂しい印象が強かった。

↑橿原線田原本駅の西口から西田原本駅方面を見る。両駅を結ぶ屋根が延びていて雨の日でも大丈夫だが、便利な乗換駅とは言いづらい印象

 

田原本線に関して不思議なことを最後に一つ。路線名は田原本線なのに、田原本線に田原本駅はない。正確には田原本線に昔あったが今はないというのが正しい。

 

西田原本駅から60mほど離れている橿原線の田原本駅は、実はたびたび駅名を改称していた。1928(昭和3)年に開業した時には大軌田原本駅、その後、関急田原本駅、近畿日本田原本駅と改名している。そして1964(昭和39)年10月に、田原本線が近鉄の一路線になって以降、はれて田原本駅を名乗るようになった。そして田原本線の旧田原本駅が西田原本駅となった。

 

近鉄にとって橿原線は本線扱いであり、田原本線は支線ということからしても致し方ないことなのだろうが、駅の改名された経緯を知って、ちょっと複雑な気持ちになった。

 

ストーブ列車だけじゃない!! 日本最北の私鉄路線「津軽鉄道」の魅力を再発見する旅

おもしろローカル線の旅~~津軽鉄道(青森県)~~

 

津軽富士の名で親しまれる岩木山を望みつつ走るオレンジ色のディーゼルカー。最北の私鉄(第三セクター鉄道を除く)として知られる津軽鉄道の車両だ。

津軽鉄道といえば、雪景色のなかを走るストーブ列車がよく知られ、最果て感、美しい雪景色に誘われ、冬季は多くの人が訪れる。

 

そんな雪のイメージが強い津軽鉄道だが、あえて雪のない津軽へ訪れてみた。すると、雪の降らない季節ならではの発見があり、おもしろローカル線の旅が十分に楽しめた。

 

【津軽鉄道の現状】何とか存続を、と盛り上げムードが強まる

津軽鉄道の路線は津軽五所川原駅〜津軽中里駅間の12駅20.7km区間を結ぶ。北海道に第三セクター方式で経営する道南いさりび鉄道があるが、私鉄=民営鉄道と限定すれば、津軽鉄道は日本最北の地に路線を持つ私鉄会社ということになる。

津軽鉄道を取り巻く状況は厳しい。平成20年度から27年度の経営状況を見ると、黒字となったのは平成20年度と、平成22〜24年度まで、平成25年度以降は赤字経営が続く。路線の過疎化による利用者の減少傾向が著しい。

 

とはいえ、地元の人たちのサポートぶりは手厚い。2006年に津軽鉄道の存続を願うべく市民の機運を盛り上げる「津軽鉄道サポーターズクラブ」が発足。さらに観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」が列車に同乗し、好評だ。ほか全国の鉄道ファンの応援ぶりも熱い。熱気を感じさせる具体例が最近あったばかりだが、それは後述することにしよう。

 

【津軽鉄道をめぐる歴史】五能線の開業がその起源となっていた

さて津軽鉄道の歴史を簡単に触れておこう。

 

津軽鉄道のみの歴史を見ると、地方路線によく見られる、地元有志による会社設立、そして路線開業という流れが見られる。津軽鉄道の開業する前、五所川原に初めて敷かれた鉄道が現在の五能線だった。

 

五能線の開業のため、地元有志による出資で、まず陸奥鉄道という会社が創られた。

 

●1918(大正7)年9月25日 陸奥鉄道により川部駅〜五所川原駅間が開業

現在の奥羽本線川部駅と五所川原駅間で、JR五能線の起源となる。ちなみに、この開業後に五所川原駅から先、鯵ケ沢駅(あじがさわえき)との間の路線建設が鉄道省の手によって始められている。そして、

 

●1927(昭和2)年6月1日 鉄道省が陸奥鉄道の川部駅〜五所川原駅間を買収、五所川原線(現・五能線の一部)に編入された

鉄道省の買い上げ条件が良く、その資金が津軽鉄道の開業の“元手”となった。

 

●1930(昭和3)年 7月15日に津軽鉄道の五所川原駅〜金木駅間が開業、10月4日に金木駅〜大沢内駅間が開業、11月13日に大沢内駅〜津軽中里駅間が開業

前年の1929年に鉄道免許状を交付されてから、翌年に開業したというその手際の良さには驚かされる。当時、鉄道の建設ブームということが背景にあり、また新線建設が地域経済の発展に大きく貢献したということなのだろう。

 

【車両の見どころ】個性的な動きを見られる機関車と旧型客車

現在、使われている車両は主力のディーゼルカーが津軽21形で、5両が在籍している。オレンジ色に塗られ、沿線出身の作家、太宰治の作品にちなみ、「走れメロス号」の愛称が付けられている。

 

ストーブ列車などのイベント列車に使われているのは、DD350形+旧型客車のオハフ33系やオハ46系といった1940年代および1950年代に製造された車両だ。DD350形ディーゼル機関車は、動輪にロッドという駆動のための機器が付く。いまとなっては貴重な車両で、走るとユニークな動輪の動きが見られる。

↑ストーブ列車などのイベント列車はディーゼル機関車+旧型客車という編成が多い。写真はGW期間に開かれる金木桜まつり用のイベント列車がちょうど五農校前駅を通過していったところ

 

↑列車を牽引するDD350形は1959年に製造されたディーゼル機関車で、動輪の駆動を助ける棒状の機器、ロッドが付く。津軽鉄道の客車は屋根にダルマストーブの煙突が付くのが特徴

 

同機関車には暖房用の蒸気供給設備がないために、客車にはダルマストーブが付けられている。暖房用にダルマストーブを設置したことが、逆に物珍しさとなり、いまやストーブ列車は津軽鉄道の冬の風物詩にまでなっている。

 

【津軽鉄道の再発見旅1】風が強い路線ならではの工夫が見られる

では、津軽五所川原駅から下り列車に乗り込むことにしよう。

 

筆者が乗車した列車は、津軽五所川原駅を15時以降に発車する列車だったこともあり、あいにく観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」の乗車がなかった。「津軽半島観光アテンダント」の同乗する列車内では津軽のお国言葉を生で楽しむことができる。同乗しない列車に乗ってしまったことを悔やみつつ、旅を続ける。

↑乗り合わせた列車は「太宰列車2018」。2018年の6月19日から8月末まで沿線を走った。太宰ゆかりの作家や芸術家たちが手作りしたパネルなどの展示が行われた

 

↑前後の運転席横は図書スペースとなっている。このあたり小説家・太宰治の出身地らしい。津軽に関わる書籍やパンフレットなどもが置かれている

 

さて津軽五所川原駅。津軽鉄道の駅舎で乗車券を購入して、改札口を入る。構内に入ったつもりが、そこはJR五所川原駅の構内。跨線橋もJRと同じだ。このあたり五能線と津軽鉄道の関係が、その起源や歴史を含めて縁が深かったことをうかがわせる。

↑JR五所川原駅に隣接する津軽鉄道の起点、津軽五所川原駅。ホームは改札口からJR五所川原駅の構内へ入り、JRと共用する跨線橋を渡った奥にある

 

↑津軽五所川原駅の軒先に吊られるのは伝統的な津軽玩具「金魚ねぷた」。幸福をもたらす玩具とされている。駅舎内の売店でもお土産用の「金魚ねぷた」が販売されている

 

津軽五所川原駅の3番線が津軽鉄道のホーム。オレンジ色の車体、津軽21形1両が停車する。ホームの反対側には津軽鉄道の車庫スペースがあって、個性的な車両が多く停まっている。このあたりは、帰りにじっくり見ることにしよう。

 

ディーゼルエンジン特有の重みのあるアイドリング音を耳にしつつ車両に乗り込む。ちょうど地元の学校の休校日にあたったこの日は、乗り込む学生の姿もまばら。観光客の姿もちらほらで、半分の席が埋まるぐらいで列車は出発した。

 

しばらく五所川原の住宅地を見つつ、次の十川駅(とがわえき)へ。この十川駅から五農校前駅(ごのうこうまええき)付近が、もっとも岩木山がよく見える区間だ。

 

五農校前駅は、地元では「五農」の名で親しまれる「県立五所川原農林高等学校」の最寄り駅でもある。同高校で育てられた野菜や、生産されたジャムやジュースなどの産品は津軽五所川原駅の売店で販売されている。

 

次の津軽飯詰駅(つがるいづめえき)に注目。駅の前後のポイント部分にスノーシェルターが付けられている。このシェルター、進行方向の左側と上部のみ覆いがあり、ポイントへの雪の付着を防いでいる。

↑津軽飯詰駅の前後のポイント部分にかかるスノーシェルター。片側と屋根部分のみ覆われ、反対側には覆いが付いていないことがわかる

 

なぜ、進行方向左側のみなのか。それは、冬は日本海側から吹く西風が強いため。西風対策として進行方向左側のみ覆いが付けられたのだ。ただし、このスノーシェルター、現在はポイント自体が使われていないため、あまり役立っていないという現実もある。

 

このような風対策は、次の毘沙門駅(びしゃもんえき)でも見られる。

 

毘沙門駅は林に覆われている。西側が特に見事だ。津軽鉄道の社員が1956(昭和31)年に植樹した木々が60年以上の間に、ここまで育ったもので、冬に起こりやすい地吹雪や強風から鉄道を守る役割を果たしてきた。駅ホームには「鉄道林」の案内も立てられている。

↑毘沙門駅には鬱蒼とした林により覆われる。西側を覆う林は津軽鉄道の社員が植樹したもの。鉄道を風害から守る鉄道林の役割をしている

 

次の嘉瀬駅(かせえき)では構内に停まるディーゼルカー・キハ22形に注目したい。

 

倉庫前に停められた古いディーゼルカーは、ユニークな絵が多く描かれている。先頭には「しんご」の文字が。香取慎吾さんと青森の子どもたちが一緒にペイントした「夢のキャンバス号」だ。1997年にTV番組の企画でペイントが行われたもの。同車両は2000年に引退し、嘉瀬駅に停められていたが、2017年に、再度、塗り直しが行われた。

↑嘉瀬駅のホームに停まるキハ22028号車。1997年にTV番組の企画で香取慎吾さんと青森の子どもたちの手でペイント、さらに20年後に同メンバーが集まり塗り替えられた

【津軽鉄道の再発見旅2】太宰治の生家といえば金木の斜陽館

津軽鉄道の各駅には注目ポイントが多く、乗っていても飽きない。時間があれば、それぞれの駅に降りてじっくり見てみたい。

 

津軽鉄道で最も観光客が多く降りる駅といえば、嘉瀬駅のお隣、金木駅(かなぎえき)。津軽鉄道で唯一、列車交換ができる駅でもある。金木駅に進入する手前には、いまでは珍しい腕木式信号機がある(津軽五所川原駅にもある)ので、確認しておきたいところ。

 

金木といえば、小説家・太宰治の故郷であり、生家「斜陽館」が太宰治記念館(入館有料)となり残されている。「斜陽館」は金木駅から徒歩5分ほどの距離にある。

↑太宰治の生家「斜陽館」。太宰が生まれる2年前の1907(明治40)年に建てられた。和洋折衷・入母屋造りの豪邸で、国の重要文化財建造物にも指定されている

 

金木駅の先も見どころは多い。

 

次の芦野公園駅(あしのこうえんえき)は、その名のとおり芦野公園(芦野池沼群県立自然公園)の最寄り駅。春は1500本の桜が見事で、日本さくら名所100選にも選ばれる公園だ。児童公園やオートキャンプ場もある。

 

鉄道好き・太宰好きならば、この駅で見逃せないのが、旧駅舎。太宰治の小説「津軽」にも小さな駅舎として登場する。現在の駅舎に隣接していて、建物は喫茶店「駅舎」として利用される。店では「昭和のコーヒー」や、金木特産の馬肉を使った「激馬かなぎカレー」を味わうことができる。

↑芦野公園駅付近を走る「走れメロス号」。線路は芦野公園の桜の木に覆われている。桜が花を咲かせる季節が特におすすめで、例年、多くの行楽客で賑わう

 

↑津軽鉄道開業当時に建てられた芦野公園駅の旧駅舎。国の登録有形文化財でもある。建物は喫茶店「駅舎」となっていて、ひと休みにもぴったりだ

 

【津軽鉄道の再発見旅3】終点の津軽中里駅の不思議なこといろいろ

芦野公園駅を過ぎると、急に視界が開ける。川倉駅から深郷田駅(ふこうだえき)まで、線路の左右に見事な水田風景が広がる。

↑川倉駅付近の水田風景。路線の左右に広々した水田が広がる。もちろん冬になれば一面の雪原となる。地元、金木では地吹雪体験ツアーという催しも厳冬期に開かれる

 

美しく実る稲穂をながめ、乗車すること35分ほど。終点の津軽中里駅(つがるかなさとえき)に到着した。

 

駅に到着してホームに降り立って気がついたのだが、駅の先の踏切(津軽中里駅構内踏切)の遮断機が下りている。あれれ…この列車は、先には走らず、到着したホームからそのまま折り返すはずだが。

 

数分もしないうち、遮断機があがり、踏切は通れるように。ちょっと不思議に感じた。線路はこの踏切を通り駅の先まで延びているものの、通常、ホームから先の線路は走らない。

 

ストーブ列車などのイベント列車が、進行方向を変えるために機関車を機回しして付け替えるときや、側線を利用する事業用車以外に、ほぼ車両は通らない。それなのに稼働する不思議な踏切となっている。

↑津軽中里駅に到着した列車。駅構内には側線と左に木造の車庫が用意されている。車庫の手前には転車台があり、駅のホームからも望むことができる

 

↑津軽中里駅の北側にある踏切。列車がホームに入ってくると、警報器が鳴る。通常の列車は写真の位置から先に進むことはなく、遮断機を閉める必要はないと思うのだが

 

津軽中里駅には転車台がある。その赤い色の転車台がホームからも見える。さて、この転車台はどのようなものなのだろう。

 

実はこの転車台、開業時から1988(昭和63)年まで使われていたものだった。開業時は蒸気機関車の方向を変えるため、その後は、除雪車などの方向転換にも使われた。近年は使われなかったこともあり、長年、放置されていた。

 

その転車台を復活すべく前述した「津軽鉄道サポーターズクラブ」が立ち上がった。同クラブが主導役となり、クラウドファンディングにより、改修費を全国の鉄道ファンに向けて募った。すると、目標とした改修費を大幅に上回り、倍以上の資金が集まった。

 

これこそ津軽鉄道を応援する鉄道ファンが多いことを示す証でもあった。その資金を元に、2017年5月に本州最北にある転車台として見事に復活。復活イベントも行われ、全国からファンも多く集まり、転車台復活を祝った。

↑復活した津軽中里駅の転車台。右の建物は旧機関庫。ほか給水タンクや給炭台なども古くにはあった。ちなみにこの転車台への車両の入線は構内踏切を通ることが必要になる

 

↑津軽中里駅のホームに立つ「最北の駅・津軽中里駅」の案内板。この案内を見て“最果てに来た”という印象を持つ人も多いのでは無いだろうか。筆者もその1人

 

【津軽鉄道の再発見旅4】昭和初期生まれの雪かき車を見ておきたい

ちなみに北海道新幹線開業後は、新幹線の奥津軽いまべつ駅と津軽中里駅の間を結ぶ路線バスも日に4本出ている。運賃は1200円で、約1時間の行程だ。往復乗車を避けたいとき、または北海道や青森市を巡りたいときなどに便利だ。

 

筆者は津軽中里駅でしばらくぶらぶら。そして折り返しの列車を待って津軽五所川原駅に戻ることにした。

 

上り列車に乗り、おさらいするように車窓風景を楽しむ。

 

そして津軽五所川原駅へ到着。ホーム横に停められた旧型客車、事業用の貨車などを見て回る。ホームから、これらの車両がごく間近に見えることがうれしい。

 

停められる車両のなかで、やはり気になるのが雪かき車キ100形だ。1933(昭和8)年に鉄道省大宮工場で造られた車両で、国鉄時代はキ120形を名乗っていた。1967(昭和42)年に津軽鉄道へとやってきた車両だ。

 

太平洋戦争前の雪かき車で現在も残っている車両は、この津軽鉄道のキ100形と、同じ津軽地方を走る弘南鉄道のキ104形、キ105形の3両のみ。非常に貴重な車両となっている。

↑津軽五所川原駅のホームからはディーゼルカーなどが停まる機関区がすぐ横に見える。通常時は庫内の奥にイベント列車用のディーゼル機関車が停められていることが多い

 

↑夏期は津軽五所川原駅の構内に留置される雪かき車キ100形。近年は保線用の除雪機が使われることも多く、出動も稀だが、イベントなどで走行シーンに出会えることがある

 

雪かき車に後ろ髪を引かれつつも帰路に着くことに。最後に津軽五所川原駅構内の売店でお土産探し。五所川原農林高等学校で収穫または生産された野菜や、ジャムやジュースが並ぶ。

 

さらに津軽鉄道の人気キャラクター「つてっちー」関連グッズがずらり。筆者はそのなかの「つてっちー飴」を450円で購入。りんご味の金太郎飴で、かわいらしいパッケージ入り。どうも、開封するのが忍びなく、いまだにそのままオフィスの机の上に置いてある。

 

つてっちーを見るたびに津軽恋しの気持ちが高まる。「また津軽鉄道に乗りに行きたい!」と思うのだった。

↑津軽五所川原駅の駅舎内にある売店。津軽鉄道のグッズ類、前述の金魚ねぷたなどのお土産、そして農産品など販売する。17時にはクローズしてしまうので注意したい

 

↑キャラクター「つてっちー」飴(450円)。変形袋入りで、裏の顔部分から金太郎飴の姿が見える。津軽で販売されてはいるが、製造しているのは東京の金太郎飴本店だった

 

◆今回のローカル線の旅 交通費

2400円(コロプラ☆乗り放題1日フリーきっぷ)
*コロプラ☆乗り物コロカ【津軽鉄道】乗車記念カードをプレゼント

ほか「津軽フリーパス」2060円もあり。津軽フリーパスは津軽鉄道の津軽五所川原駅〜金木駅間が利用できる。金木より先は乗継ぎ料金が必要。同フリーパスは津軽地方を走るJRの路線(区間制限あり)と弘南鉄道、弘南バスの利用が可能だ。

【おもしろローカル線の旅】美景とのどかさに癒される「伊豆箱根鉄道」

おもしろローカル線の旅~~伊豆箱根鉄道(神奈川県・静岡県)~~

 

伊豆箱根鉄道は大雄山線(だいゆうざんせん)と駿豆線(すんずせん)の2本の路線で電車を運行している。この2本の路線は神奈川県と静岡県と走る県が別々で、線路は直接に結ばれず、電車の長さが異なり共用できない。そんな不思議な一面を持つ私鉄路線だが、美景と郊外電車の“のどかさ”が魅力になっている。

 

乗れば癒されるローカル線の旅。今回はおもしろさ満載の伊豆箱根鉄道の旅に出ることにしよう。

 

【路線の概要】2本の特徴・魅力はかなり異なっていておもしろい

最初に路線の概要に触れておこう。まずは大雄山線から。

大雄山線は小田原駅を起点に南足柄市の大雄山駅までの9.6kmを結ぶ。路線は、小田原市の郊外路線の趣。住宅地が続き、途中、田畑を見つつ走る

 

ちなみに路線名と駅名に付く大雄山とは15世紀に開山した最乗寺(大雄山駅からバス利用10分+徒歩10分)の山号(寺院の称号のこと)を元にしている。

↑大雄山線の主力車両5000系。5501編成のみ、赤電と呼ばれたオールドカラーに復刻されている。赤電は大雄山線だけでなく、西武鉄道でも1980年代まで見られた車体カラーだ

 

一方の駿豆線(すんずせん)は三島駅と修善寺駅間の19.8kmを結ぶ。

 

こちらは観光路線の趣が強く、富士山の眺望と、沿線に伊豆長岡温泉、修善寺温泉など人気の温泉地が点在する。東京駅から特急「踊り子」が直通運転していて便利だ。

 

ちなみに、駿豆線の駿豆とは、駿河国(するがのくに)と伊豆国(いずのくに)を走ることから名付けられた路線名。開業当初に駿河国に含まれる沼津市内へ路線が延びていたことによる。現在は同区間が廃止されたため、駿豆線と呼んでいるものの伊豆国しか走っていないことになる。

↑駿豆線の三島二日町駅〜大場駅間は富士山の美景が楽しめる区間として知られる。185系の特急「踊り子」の走る姿を写真に収めるならば、空気が澄む冬の午前中がおすすめ

 

両線の起点は大雄山線が小田原駅、駿豆線が三島駅だ。お互いの路線の線路は別々でつながっていない。しかも、神奈川県と静岡県と走る県も違う。

 

大手私鉄のなかで異なる県をまたぎ、また線路がつながらない路線を持つ例がないわけではない。しかし、伊豆箱根鉄道という中小の鉄道会社が、どうしてこのように別々に分かれて路線を持つに至ったのだろう。そこには大資本が小資本を飲み込んで拡大を続けていった時代背景があった。

 

【伊豆箱根鉄道の歴史】戦前に西武グループの一員に組み込まれる

伊豆箱根鉄道は、現在、西武グループの一員となっている。元は、両路線とも地元資本により造られた路線だった。その後に勢力の拡大を図った堤康次郎氏ひきいる箱根土地(現・プリンスホテル)が合併し、伊豆箱根鉄道となった。

 

まずは駿豆線の歩みを見ていこう。

●1898(明治31)年5月20日 豆相鉄道が三島町駅(現・三島田町駅)〜南条駅(現・伊豆長岡駅)間を開業
同年6月15日に三島駅(現・御殿場線下土狩駅)まで延伸させた。

 

●1899(明治32)年7月17日 豆相鉄道が大仁駅まで路線を延長
ちょうど120年前に、駿豆線が生まれた。同時代の地方鉄道にありがちだったように、運行する会社が次々に変って行く。

豆相鉄道 → 伊豆鉄道(1907年) → 駿豆電気鉄道(1912年) → 富士水力電気(1916年) → 駿豆鉄道(1917年)

と動きは目まぐるしい。駿豆鉄道は、1923(大正13)年に箱根土地(現・プリンスホテル)の経営傘下となる。そして…。

 

●1924(大正14)年8月1日 修善寺駅まで路線を延伸

↑1924年に生まれた駿豆線の修善寺駅。修善寺温泉や天城、湯ケ島温泉方面への玄関口でもある。修善寺温泉へは駅からバスで8分ほどの距離

 

一方、大雄山線の歩みを見ると。

●1925(大正14)年10月15日 大雄山鉄道の仮小田原駅〜大雄山駅が開業

 

●1927(昭和2)年4月10日 新小田原駅〜仮小田原駅が開業

 

●1933(昭和8)年 大雄山鉄道が箱根土地(現・プリンスホテル)の経営傘下に入る

 

その後、1941(昭和16)年に大雄山鉄道は駿豆鉄道に吸収合併された。さらに1957(昭和32)年に伊豆箱根鉄道と名を改めている。歴史をふりかえっておもしろいのは、同社が駿豆鉄道と呼ばれた時代に静岡県を走る岳南鉄道(現・岳南電車)の設立にも関わっていたこと。会社設立に際して、資本金の半分を出資している。そして。

 

●1949(昭和24)年 岳南線の鈴川駅(現・吉原駅)〜吉原本町駅が開業
しかし、駿豆鉄道が運営していた時代は短く、1956(昭和31)年には富士山麓電気鉄道(現・富士急行)の系列に移されている。

↑ライオンズマークを付けた伊豆箱根バス。大雄山駅最寄りのバス停は伊豆箱根バスが「大雄山駅」、箱根登山バスは「関本」としている

 

かつて西武グループの中核企業だった箱根土地が、神奈川県と静岡県の鉄道路線を傘下に収めていった。同時期に東京郊外の武蔵野を巡る路線の覇権争いも起きている。

【関連記事】
西武鉄道の路線網にひそむ2つの謎――愛すべき「おもしろローカル線」の旅【西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線】

 

いずれも首都圏や関東近県まで含めた西武グループ対東急グループの勢力争い巻き起こる、その少し前のことだった。その後の1950年代から60年代にかけて、箱根や伊豆を舞台に繰り広げられた熾烈な勢力争いは箱根山戦争、伊豆戦争という名で現代まで言い伝えられている。

 

いまでこそ、西武池袋線と東急東横線が相互乗り入れ、協力し合う時代になっているが、半世紀前にはお互いのグループ会社まで巻き込み、すさまじい競争を繰り広げていたのだ。

 

伊豆箱根鉄道は、堤康次郎氏が率いる西武グループの勢力拡大への踏み石となっていた。そんな時代背景が、いまも感じられる場所がある。

 

大雄山駅近くのバスセンター。西武グループの伊豆箱根バスと、小田急グループ(広く東急系に含まれる)の箱根登山バスが走っている。伊豆箱根バスのバス停は「大雄山駅前」、一方の箱根登山バスのバス停は「関本」。この名前の付け方など、それこそ昔の名残そのもの。知らないと、少し迷ってしまう停留所名の違いだ。

【大雄山線1】なぜ長さ18m車しか走らない?

↑大雄山線の主力車両5000系が狩川橋梁を渡る。同車両の長さは18m。駿豆線を走る3000系と正面の形は酷似しているものの3000系は20m車両と長さが異なっている

 

大雄山駅の近くでも見られた大企業による争いの名残。いまはそんな争いもすっかり昔話となりつつある。

 

歴史話にそれてしまった。伊豆箱根鉄道の現在に視点を戻そう。

 

伊豆箱根鉄道の大雄山線は、小田原駅の東側にホームがある。同駅は東側からホーム番線が揃えられている。そのため、大雄山線のホームは1・2番線。ちなみにJR東海道線が3〜6番線、小田急線・箱根登山鉄道が7〜12番線、東海道新幹線が13・14番線となっている。

 

大雄山線のホームは行き止まり式。しかし、駅の手前にポイントがあり、JR東海道線の側線に向けて線路が延び、接続している。その理由は後述したい。

↑大雄山線小田原駅のホームは2面あるが、右端のホームは未使用。線路は2本ありそれぞれ1番線2番線を名乗る。左側の東海道線とは線路が結びついている

 

大雄山線の電車は5時、6時台、22時台以降を除き日中は、きっちり12分間隔で非常に便利だ。例えば小田原発ならば、各時0分、12分、24分、36分、48分発。どの駅も同様に12分間隔刻みで走るので時刻が覚えやすい。たぶん、沿線の人たちは自分が利用する駅の時刻を、きっちり覚えているに違いない。

 

小田原駅を発車した電車は、東海道線と並走、間もなく緑町駅に付く。この先で、路線は急カーブを描き、東海道線と東海道新幹線の高架下をくぐる。

 

このカーブは半径100mm。半径100mというカーブは、大手私鉄に多い車両の長さ20mには酷な急カーブとされている。よって大雄山線の全車18mという車体の長さが採用されている。さらにカーブ部分にはスプリンクラーを配置。線路を適度に濡らすように工夫、車輪から出るきしみ音を減らす工夫を取っている。

↑半径100mとされる急カーブを走る様子を緑町駅付近から写す。連結器部分をぎりぎりに曲げて走る様子が見える。線路下にはスプリンクラーがあり、きしみ音を防いでいる

 

↑駅ホームにある接近案内。レトロな趣だが、どちら行きの電車が接近しているのか、明確で分かりやすく感じた

 

緑町駅を過ぎ、JRの路線をくぐると、あとは住宅地を左右に見ながら、北を目指す。五百羅漢駅の先で小田急小田原線の跨線橋をくぐり北西へ。穴部駅を過ぎれば水田風景も見えてくる。

 

しばらく狩川に平行して走り、塚原駅の先で川を渡り、左に大きくカーブして終点の大雄山駅を目指す。

 

終点の大雄山駅へは、きっちり22分で到着した。鉄道旅というにはちょっと乗り足りない乗車時間ではあるものの、大雄山駅周辺でちょっとぶらぶらして小田原駅に戻ると考えれば、ちょうど良い所要時間かも知れない。

↑終点の大雄山駅に到着した5000系。構内には車庫がわりの留置線と検修庫がある

 

↑足柄山の金太郎、ということで足柄山の麓、大雄山駅前には金太郎の銅像がある。熊にま〜たがりという童謡の光景だが、熊が屈強そうで金太郎、大丈夫か? とふと思ってしまった

 

【大雄山線2】今年で90歳! コデ165形という古風な電車は何をしているの?

終点の大雄山駅には茶色の車体をしたコデ165形という古風な電車が停められている。この電車、なんと1928(昭和3)年に製造されたもの。今年で90歳という古参電車だ。17mの長さで国電として走った後に、相模鉄道を経て、大雄山線にやってきた。果たして何に使われているのだろう。

 

実は、このコデ165形は大雄山線では電気機関車代わりに利用されている。大雄山線の路線内には、大雄山駅に検修庫はあるものの、車両の検査施設がない。そのため定期検査が必要になると、駿豆線の大場工場まで運んでの検査が行われる。

↑大雄山駅の検修庫内に停まるコデ165形。90年前に製造された車両で、現在は電気機関車代わりとして検査車両の牽引以外に、レール運搬列車の牽引に使われている

 

大雄山線では検査する車両を、このコデ165形が牽引する。小田原駅〜三島駅は、JR貨物に甲種輸送を依頼。小田原駅構内の連絡線を通って橋渡し。JR貨物の電気機関車が東海道線内を牽引、三島駅からは同路線用の電気機関車が牽引して大場工場へ運んでいる。2本の路線の線路が結びついていないことから、このような手間のかかる定期検査の方法が取られているわけだ。

 

なお、このコデ165形の走行は、事前に誰もが知ることができる。

 

「駅に●月●日、●時●分の電車は運休予定です」と告知される。これは大雄山線のダイヤが日中、目一杯のため、定期列車を運休させないと、この検査する電車の輸送ができないために起こる珍しい現象。

 

他の鉄道会社では、検査列車などの運行は一切告知しないのが一般的だが、この大雄山線に限っては、検査列車の運行をこのように違う形で発表しているところがおもしろい。

↑各駅に貼り出される列車運休のお知らせで検査車両の運行が行われることがわかる。大雄山線の運行が目いっぱい詰ったダイヤのために起こる不思議な現象だ

 

【駿豆線1】元西武線のレトロ車両ほか多彩な電車が走る

伊豆箱根鉄道の2路線を同じ日に巡るとなると、小田原駅から三島駅への移動が必要となる。

 

もちろん東海道新幹線での移動が早くて便利だ。とはいえ乗車券670円のほかに特別料金1730円が必要となる。ちなみに在来線ならば乗車券の670円のみで移動できる。所要時間は新幹線が16分、在来線ならば40分ほどと、差は大きく悩ましいところだ。

 

さらに、小田原駅と三島駅間を直通で走る在来線の普通列車は少なく(特急はあり)、熱海駅での乗換えが必要となる。小田原駅はJR東日本だが、途中の熱海駅がJR東日本とJR東海の境界駅で、三島駅はJR東海の駅となる。ICカードを利用した場合は、下車した駅で改札をそのまま通ることができない。窓口や精算機で乗継ぎ清算が必要となるとあって、やや面倒だ。

↑大雄山線は交通系ICカードの利用が可能。一方の駿豆線は同じ伊豆箱根鉄道の路線ながらICカードは使えず、切符を購入しての乗車が必要。1日乗り放題乗車券も販売(1020円)

 

駿豆線を走る電車はすべて長さ20m車両で、大雄山線に比べて変化に富む。大雄山線が5000系だけだったのに対して、駿豆線の自社車両は1300系、3000系、7000系の3種類。さらにラッピング電車や色違いの車体カラー、JRの特急列車の乗り入れもあるので、より変化に富む印象が強い。

↑7000系はJR乗り入れ用に造られた。当初は快速列車用だったが、現在は普通列車として運用される。正面は写真の金色と、銀色の2編成が走っている

 

↑1300系は元西武鉄道の新101系。2編成走るうちの1編成は西武鉄道で走っていたころの黄色塗装に戻され「イエローパラダイストレイン」の名で駿豆線内を走っている

 

三島駅から駿豆線の電車に乗車してみよう。駿豆線の三島駅は南側にあり、JRの通路からも直接ホームへ入ることができる。JRの三島駅南口と並んで、伊豆箱根鉄道の駅舎も設けられている。

↑JR三島駅の南口駅舎の隣に建つ駿豆線の三島駅駅舎。観光路線らしく、おしゃれなたたずまいになっている

 

ホームは小田原駅とは逆で、JR東海道線のホームが1〜4番線、新幹線ホームが5・6番線。そして駿豆線のホームが7〜9番線となっている。ちなみに駿豆線に乗り入れる特急「踊り子」は、1番線ホームを利用している。

 

【駿豆線2】富士山の清らかな伏流水が街中を豊富に流れる

三島駅から緩やかなカーブを描き、東海道本線から離れていく。そして三島市内をしばらくの間、走る。

 

三島は富士山麓から湧出する伏流水が豊富に流れる街だ。三島駅の次の駅、三島広小路駅の近くでは源兵衛川をまたぎ、さらにその先の三島田町駅の手前で御殿川をまたぐ。

 

いずれも伏流水が流れる河川で、清らかな流れが楽しめる。河川沿いには緑地や親水公園も設けられていて、のんびり歩くのには格好な場所だ。

↑三島駅の次の駅、三島広小路駅近くを流れる源兵衛川。富士山麓から湧き出す豊かで澄んだ伏流水の流れで、親水公園では親子が水遊びを楽しむ様子が見られた

 

3番目の駅、三島二日町駅と次の大場駅の間は、前述したように、富士山の眺望が素晴らしいところ。三島市の住宅街が途切れ、畑ごしに富士山と駿豆線を走る電車の撮影を楽しむことができる。

 

さらに大場駅近くには伊豆箱根鉄道の車両の定期検査を行う大場工場があり、駅側からこの工場へ入る引込線が設けられている。大雄山線の車両も、この工場まで運ばれ、検査が行われているわけだ。

↑大場工場内を望む。構内に停まる電気機関車はED31形で、1948(昭和23)年に西武鉄道が導入した車両。現在は大雄山線の検査車両を主に牽引している

 

大場駅から伊豆長岡駅まではほぼ直線路が続く。途中駅の韮山駅は、世界遺産にも指定された韮山反射炉(循環バス利用で約10分)の最寄り駅。また伊豆長岡駅は伊豆長岡温泉(バス利用で約10分)の最寄り駅だ。

 

伊豆長岡駅から先は、狩野川沿いに電車は走る。大仁駅付近で蛇行する狩野川に合わせてのカーブが続く。普通列車で30分ちょっと、まもなく終点の修善寺駅に到着する。

↑大仁駅付近からは山容に特徴のある葛城山が見える。この葛城山は富士山を望む美景の地として名高い。山頂と麓の伊豆長岡温泉の間にはロープウェイが架けられている

 

↑駿豆線の終着駅・修善寺駅。観光拠点の駅らしくホームは2面、1〜4番線ホームが揃う。停車中の特急「踊り子」は、1日に2〜4本が東京駅との間を走っている

 

ちょうど修善寺駅には特急「踊り子」が停車していた。「踊り子」に使われる185系だが、走り始めてからすでに40年近い。数年内に185系の退役させることがJR東日本から明らかにされており、ここ数年中に、駿豆線を走る特急「踊り子」はE257系(中央本線の特急「あずさ」「かいじ」に使われた車両)に引き継がれる予定だ。

 

国鉄生まれの特急形電車の姿もあと数年後には消えていきそうだ。駿豆線ではお馴染のスター列車だっただけに、ちょっと寂しく感じる。

常時営業を行っていない臨時駅が起点という鉄道路線「鹿島臨海鉄道」の不思議

おもしろローカル線の旅~~鹿島臨海鉄道(茨城県)~~

 

茨城県の南東部を走る鹿島臨海鉄道。鹿島灘の沿岸部に敷かれた路線を旅客列車と貨物列車が走る。旅客列車が走るにも関わらず、路線の起点となる駅は常時営業を行っていない臨時駅だ。えっ、なぜ? どう乗ればいいの? ということで、今回は鹿島臨海鉄道にまつわる謎解きの旅に出かけることにしよう。

 

【路線の概要】まずは鹿島臨海鉄道の路線紹介から

まず鹿島臨海鉄道の路線の概要から見ていこう。

鹿島臨海鉄道には2本の路線がある。まず1本目は鹿島サッカースタジアム駅〜奥野谷浜駅(おくのやはまえき)間の19.2kmを結ぶ鹿嶋臨港線である。2本目は鹿島サッカースタジアム駅〜水戸駅間53.0kmを結ぶ大洗鹿島線だ。

 

鹿島臨港線は貨物列車のみが走る貨物専用線で、大洗鹿島線は旅客列車が走る旅客路線だ。2本の路線の起点が鹿島サッカースタジアム駅となる。

 

この鹿島サッカースタジアム駅だが、常時営業しているわけではない。最寄りの鹿島サッカースタジアムで、サッカーの試合やイベントが行われるときのみ営業される臨時駅だ。よって通常は、同駅を通るすべての旅客列車が通過してしまう。

 

実は同駅が路線の起点なのだが、大洗鹿島線を走る旅客列車は、隣りの鹿島神宮駅まで直通運転をしている。すべての旅客列車が鹿島神宮駅を発着駅としているのだ。鹿島サッカースタジアム駅〜鹿島神宮駅はJR鹿島線の線路で、鹿島臨海鉄道の全列車は、JRの同区間に乗り入れる形になっている。

 

なぜ、このような不思議な運転方式になったのだろう。そこには同社設立の歴史が深く関わっていた。次は鹿島臨海鉄道の歴史に関して触れたい。

↑鹿島臨海鉄道の2本の路線の起点駅・鹿島サッカースタジアム駅。サッカーやイベント開催日のみに営業する臨時駅だ。通常は貨物列車の入れ換え基地という趣が強い

 

貨物輸送用にまず駅が造られた

鹿島臨海鉄道の歴史は鹿島灘沿岸に造られた鹿島臨海工業地帯の誕生とともに始まる。

 

1969(昭和44)年、元は砂丘だった鹿島灘に面した海岸に鹿島港が開港、住友金属鹿島製鉄所の操業が始まった。23の事業所の進出とともに工業地帯が発展していく。鹿島臨海鉄道とJR鹿島線もこの工業地帯の誕生に合わせて路線が敷かれた。

 

●1969(昭和44)4月1日 鹿島臨海鉄道株式会社が設立
主要な株主は日本国有鉄道(後に日本貨物鉄道=JR貨物に引き継がれる)、茨城県、住友金属工業、三菱化学といった自治体および団体、企業だ。つまり第三セクター方式の鉄道事業者として発足したわけだ。

 

●1970(昭和45)年7月21日 鹿島臨港線19.2kmが開業
鹿島臨港線の北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅)〜奥野谷浜駅(おくのやはまえき)間が開業した。当初は貨物輸送のみを行う路線だった。

 

●1970(昭和45)年8月20日 国鉄鹿島線の香取駅〜鹿島神宮駅間が開業

 

●1970(昭和45)年11月12日 国鉄鹿島線が北鹿島駅まで延伸される
この延伸により北鹿島駅構内で鹿島臨海鉄道とJR鹿嶋線の線路がつながった。

 

国鉄鹿島線が北鹿島駅へ延伸した後も旅客列車は鹿島神宮駅止まり。一方、貨物列車は北鹿島駅まで走り、同駅で鹿島臨海鉄道に引き継がれ、鹿嶋臨港線を通って各工場へ貨物が運ばれていった。

↑JR鹿島線(右)と鹿島臨港線(左)の合流ポイント。JR鹿島線の鹿島神宮駅〜鹿島サッカースタジアム駅間は、JR貨物と鹿島臨海鉄道の共用区間となっている

 

●1978(昭和53)年7月25日 北鹿島駅〜鹿島港南駅(現在は廃駅)間で旅客営業を開始
貨物輸送のみだった鹿島臨港線だが、旅客営業を開始、北鹿島駅で折り返し、鹿島神宮駅まで乗り入れた。

 

●1983(昭和58)年12月1日 鹿島臨港線の旅客営業が終了
利用客が少なく、わずか6年で鹿島臨港線の旅客営業が終了した。同時に鹿島神宮駅への乗り入れも中止された。

 

北鹿島駅から北へ向かう大洗鹿島線はどのような経緯をたどったのだろう。こちらは鹿島臨港線に比べて、かなり遅い路線開業となった。

↑鹿島サッカースタジアム駅には入れ換え用の線路が設けられ、貨物列車の信号場としての役割を担う。首都圏では珍しくなったEF64が牽引する貨物列車が乗り入れている

 

●1985(昭和60)年3月14日 大洗鹿島線水戸駅〜北鹿島駅間が開業
北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅)〜水戸駅を走る大洗鹿島線は、当初、国鉄の鹿島線を水戸駅まで延ばすことを念頭に計画が立てられた。そして1971(昭和46)年、日本鉄道建設公団により着工された。しかし、当時の国鉄は巨額な赤字に喘いでいた。改革が迫られ、さらに民営化と推移していく時期でもあり、新線の経営を引き受けることが困難になっていた。

 

着工が間近に迫った1984年に、新線の経営を鹿島臨海鉄道にゆだねることが決定、そして大洗鹿島線は、開業当初から鹿島臨海鉄道の路線として歩み始めたのだった。

 

大洗鹿島線は当初から旅客中心の営業だったため、開業と同時に北鹿島駅から鹿島神宮駅までの列車の乗り入れを開始している。

 

香取駅〜水戸駅間の路線が国鉄鹿島線として計画されたものの、最初の計画が頓挫。北鹿島駅〜水戸駅の新区間が鹿島臨海鉄道に経営が引き継がれたことにより、路線の起点が臨時駅で、実際の列車の発着駅とは異なる、という不思議な運行方式になったわけである。

 

なおその後、1994(平成6)年3月に北鹿島駅は鹿島サッカースタジアム駅と改称された。1996(平成8)年には大洗鹿島線での貨物営業を中止、以降、貨物列車は鹿島臨港線を走るのみとなっている。

↑鹿島サッカースタジアム駅を通過する列車。ホームをはさみ貨物列車用の線路がある。駅周辺には民家も少なく、利用者が見込めないためイベント開催日限定の臨時駅となった

【鹿島臨港線】神栖には謎の階段やホーム跡が残る

路線の歴史説明がやや長くなってしまったが、次は各路線の現在の姿を見てまわることにしよう。まずは貨物列車専用の鹿島臨港線から。

↑鹿島臨港線は東日本大震災による津波の被害を受けた。津波により速度表示もなぎ倒された(2012年撮影)。被害は甚大だったが震災から4か月後に全線復旧を果たしている

 

鹿島臨港線は貨物専用線のため、列車に乗って見て回るわけにはいかない。そこでクルマで巡ってみた。貨物列車が走る様子をたどろう。

 

鹿島サッカースタジアム駅を発車した貨物列車はまもなく、JR鹿島線と分岐、非電化路線をひたすら南下する。しばらくは鹿島市の住宅地を左右に見て走る。

 

10分ほど走ると、鹿島港に近い工業地帯へ出る。工場用に造られた造成地が線路の周囲に広がっている。鹿島サッカースタジアム駅を発車して約20分で、列車は貨物専用の神栖駅(かみすえき)へ到着する。

 

この神栖駅でコンテナの積み降しが主に行われている。神栖駅の西側には和田山緑地という公園があり、この園内に手すり付きの階段がある。ここを上るとフェンス越しに元ホームが見える。この階段やホームは旅客営業時に使われていたもの。いまはフェンスが階段の上に設置されているため、ホーム内に立ち入りはできないが、旅客営業時代の面影を偲ぶことができる。

↑神栖市の和田山緑地内にある、手すり付き謎の階段。フェンスがあり階段の上から先に入ることはできない。構内にはJR貨物のコンテナ貨車が停まっていた

 

↑和田山緑地からフェンス越しに神栖駅構内を見ることができる。このように元ホームや休車となった古いディーゼルカー、そして貨物用機関車の車庫を望むことができる

 

神栖駅から線路は奥野谷浜駅まで延びている。この奥野谷浜駅は、いまも貨物時刻表の地図に掲載されているが、すでに駅施設らしきものはない。不定期で運行される貨物列車がJSR鹿島工場へ走っているが、駅は通過するのみだ。

 

神栖駅より先は、単調に線路が延びるのみで、駅施設などはすべてきれいに取り除かれているのがちょっと残念だった。

↑鹿島臨港線の主力KRD64形ディーゼル機関車が鹿嶋市の住宅地を左右に見ながら進む。鹿島臨港線では写真のような化学薬品を積んだタンクコンテナの割合が多い

 

↑1979年に導入されたKRD5形ディーゼル機関車も使われる。鹿島臨港線の貨物列車は下り2便、上り3便と本数は少なめだが、コンテナを満載して走る列車が目立つ

 

【大洗鹿島線1】 日本一長いひらがな駅名を持つ駅とは?

鹿島臨海鉄道の旅客列車が発車するJR鹿島神宮駅に戻り、水戸行き列車を待つ。鹿島神宮駅発の列車は、朝夕を除き、ほぼ1時間間隔で発車する。水戸に近い大洗駅〜水戸駅間は列車の本数が増え、約30分間隔で列車が走っている。

 

急行や快速列車はなく、すべて普通列車だ。ただし前述したように、鹿島サッカースタジアム駅は通常、普通列車も停まらずに通過してしまう。

鹿島神宮駅でのJR鹿島線から大洗鹿島線への乗換えは、朝夕を除いて、接続があまり良くないのが実情だ。さらに、東京方面からの直通の特急列車は廃止され(6月のみ特急「あやめ」が走る)、また直通の普通列車も1日に1往復という状態になっている。列車利用の場合は佐原駅乗換えが必要で、東京方面からのアクセスがちょっと不便になっているのが残念だ。

 

鹿島神宮駅での待ち時間が長くなりそうな場合は、駅から徒歩10分の鹿島神宮を立ち寄っても良いだろう。巨大な古木が立ち並ぶ参道は、森閑として一度は訪れる価値がある。

↑大洗鹿島線の列車はすべてがJR鹿島神宮駅から発車する。駅から徒歩10分のところに紀元前660年の創建とされる鹿島神宮がある。駅前に古風な屋根が持つ案内が立つ

 

筆者が乗った車両は6000形ディーゼルカー。赤い車体に白い帯を巻いた鹿島臨海鉄道の主力車両だ。中央部の座席がクロスシート、ドア近くがロングシートというセミクロスシートの車両だ。座るシートはふんわり、軟らかさに思わず癒される。鉄道旅には、やはり堅めのシートより、ふかふかシートの方が旅の気分も高まるように思う。

↑鹿島臨海鉄道の主力車両6000形の車内。片側2つの乗降トビラの間にクロスシートがずらりと並ぶ。ふんわりと座り心地もよく、旅の気分が味わえる。トイレも付いている

 

↑6000形の車体にはK.R.T(kasima rinkai tetsudo)の文字が入る。金属製の斜体文字。新車の8000形にも同文字は入るが、金属製ならではの重厚感でレトロな趣が強まる印象

 

さらに、鹿島臨海鉄道の列車は乗っていて快適さが感じられる。それはなぜだろう。

 

全線が単線とはいうものの、建設当初に急行列車を走らせる予定だったため、高規格な設計で造られている。ロングレールが使用され、騒音もなく、揺れずにスピードを出して走ることができる贅沢設計なのだ。

 

しかも踏切が途中になく(水戸駅近くを除く)、全線が立体交差。警笛を鳴らすこともあまりなく、列車は最高時速95kmのスピードで快調に走っていく。

↑大洗鹿島線を走る6000形ディーゼルカー。鹿島サッカースタジアム駅〜大洋駅間は沿線に畑が広がるエリア。踏切はなく、道はすべて立体交差となっている

 

JR貨物の電気機関車や貨車を横目に見ながら鹿島サッカースタジアム駅を通過。その先、2つ目の駅の表示に目が止まる。

↑日本一長い駅名とされる「長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅」。徒歩10分の所に展望台や全長154mという長いローラー滑り台が名物の「大野潮騒はまなす公園」がある

 

長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅。

 

駅名の表示には日本一長い駅名というシールが貼ってある。実際にひらがなで書くと「ちょうじゃがはましおさいはまなすこうえんまえ」と22文字になる。これは南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」のひらがな文字表記と同じ文字数だそうだ。

 

いやはや、プロのアナウンサー氏でも、一気に読むのが大変そうな駅名だと感心させられる。

 

長い駅名の長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅を過ぎ、大洋駅付近までは、ひたすら左右に畑を見て列車が走る。地図を見ると鹿島灘の海岸線と路線が平行に走っているのだが、内陸部を走るため、列車から海は見えない。

↑北浦湖畔駅から水戸駅近くまでは、このように水田の中を高架線が走る。ロングレールを使った高規格路線で、地方ローカル線としてはトップクラスの最速95kmで快走する

 

【大洗鹿島線2】広がる水田風景の中を高架路線が通り抜ける

北浦湖畔駅まで走ると、風景は一変する。高架路線を走るとともに、北浦、涸沼(ひぬま)といった大きな湖沼が車窓から眺められる。

 

間もなく大洗駅だ。大洗駅は鹿島臨海鉄道で最も賑やかな駅。駅からは海岸沿いにある観光施設行きのバスも出ている。

 

駅舎内に産直品の販売店やインフォメーションコーナー、その前には鹿島臨港線の知手駅(しってき)で実際に使われていたポイント切り替え用の機械(連動制御盤)や、踏切警報器が置かれ、鉄道好きはつい見入ってしまう。

 

大洗駅〜水戸駅間は列車本数も多いので、鹿島神宮駅方面から乗車した場合は、途中下車しても良いだろう。

↑大洗鹿島線の大洗駅。鹿島臨海鉄道の本社もこの駅舎内にある。大洗には多彩な観光施設が揃う。北海道方面へのカーフェリーが発着する大洗港へは徒歩10分ほど

 

↑大洗駅のインフォメーションコーナーの前には写真のような踏切警報器と、以前に鹿嶋臨港線の駅で使われていたポイント切り替え用の機械が置かれ、楽しめる

 

↑大洗駅構内に旅客列車用の車庫がある。大きな洗車機もあり。水戸駅発、大洗駅止まりの列車も多く、頻繁に車両の出し入れを行う様子がホームから眺められる

 

大洗駅から水戸駅までは途中2駅ほどと近い。

 

大洗駅の先で大きくカーブ、常澄駅(つねずみえき)付近からは、水田のなかをほぼ直線の線路が水戸駅近くまで延びている。高架路線、さらにロングレールが使用され、また踏切もないので、乗車していても快適、車窓の広がりも素晴らしく、乗るのが楽しい区間だ。

 

それこそ関東平野のひろがりが感じられる快適区間と言って良いだろう。

 

水戸駅手前で那珂川の支流にかかる鉄橋を渡れば、まもなくJR常磐線と合流。列車はカーブを描き、水戸駅ホームへ滑り込んだ。

↑水戸駅付近でJR常磐線と並走する。写真の車両は2016年3月に導入された8000形。これまでの6000形と異なり片側3トビラで乗り降りしやすくなっている

 

途中下車しなければ、乗車時間は鹿島神宮駅から水戸駅までが約1時間20分。長さはまったく感じず、快さだけが心に残ったローカル線の旅となった。

震災被害に遭いつつも復興に大きく貢献する「鉄道会社」が岩手にあった

おもしろローカル線の旅〜〜岩手開発鉄道(岩手県)

 

岩手県の三陸沿岸の街、大船渡市(おおふなとし)を走る「岩手開発鉄道」という鉄道会社をご存知だろうか。

 

自らも東日本大震災で大きな被害を受けながら、いち早く路線を復旧。日々、セメントの材料となる石灰石を大量に運び、東北復興に大きく貢献している。その輸送トン数を見ると、JR貨物を除く私鉄・臨海鉄道のなかで国内トップの輸送量を誇る。

 

さらに貨物専用鉄道ながら、沿線には趣ある駅やホームが残っている。そんなちょっと不思議な光景が見られるのが同鉄道の魅力でもある。今回は震災復興の裏方役に徹する岩手開発鉄道をご紹介しよう。

↑大船渡鉱山で採掘された石灰石が18両の貨車に積まれ、太平洋セメント大船渡工場の最寄り赤崎駅まで運ばれる。牽引するのはDD56形ディーゼル機関車

 

当初は旅客営業のため創立された鉄道会社だった

三陸鉄道南リアス線、JR大船渡線の盛駅(さかりえき)の横を青いディーゼル機関車に牽かれた貨物列車が、日中ほぼ40分間隔で通り過ぎる。

 

岩手開発鉄道の路線は赤崎駅〜岩手石橋駅間の11.5km。下り・上りとも1日に13〜18列車が走る。途中には3つの駅があり、それぞれに行き違いできる施設が設けられている。旅客列車が通らないので、駅というよりも信号所と言ったほうがよいかもしれないが、ホームとともに駅舎が残っている。これらの駅の跡が、貨物列車のみが走る路線なのに、旅情をそそるほど良い“アクセント”になっている。

この岩手開発鉄道、当初は旅客営業のために設けられた鉄道会社だった。

 

ここで、大船渡市を巡る鉄道史を振り返ろう。

 

1935(昭和10)年9月29日 国鉄大船渡線が盛駅まで開業

盛駅までは太平洋戦争前に鉄道が開通したものの、盛から北は地形が険しく鉄道が延ばせない状況が続いた。ちなみに三陸鉄道南リアス線の盛駅〜釜石駅間が全通したのは、1984(昭和59)年と、かなりあとのことになる。

 

1939(昭和14)年8月 岩手開発鉄道を設立

資本は岩手県、沿線各市町村、関係企業が出資し、当初から第三セクター経営の鉄道会社として誕生した。大船渡線の盛駅から釜石線の平倉駅(ひらくらえき)までの29kmの路線の開業を目指して会社が設立された。

 

なお、平倉駅を通る国鉄釜石線が三陸沿岸の釜石駅の間まで全通したのは1950(昭和25)年と、こちらもかなりあとのことだった。

 

1950(昭和25)年10月21日 盛駅〜日頃市駅間が開業

会社は設立したが、太平洋戦争が間近にせまっていた時代。物資の不足で路線工事は進まず、盛駅〜日頃市駅(ひころいちえき)が開業したのが1950(昭和25)年のことだった。

 

1957(昭和32)年6月21日 赤崎駅〜盛駅間が開業

太平洋セメントの大船渡工場の製品を輸送するために、赤崎駅〜盛駅間の路線を延長。同区間では旅客営業は行われず、貨物輸送のみが開始された。

 

1960(昭和35)年6月21日 日頃市駅〜岩手石橋駅間が開業

日頃市駅から先の岩手石橋駅まで路線を延伸され、赤崎駅〜岩手石橋駅間の路線が全通。大船渡鉱山からの石灰石の運搬が始まった。

 

震災による被害――津波により臨海部の線路が大きな被害を受けた

会社設立後、貨物輸送は順調だったものの、計画されていた釜石線平倉駅への路線の延伸は達成できず、当初から旅客営業は思わしくなかった。経営合理化のためもあり、40年以上にわたり続けられた旅客列車の運行が1992(平成4)年3月いっぱいで休止された。

↑2012年春に訪れた時の日頃市駅の様子。「がんばろう!東北」のヘッドマークを付けた貨物列車が行き違う。路線の復旧は早く、震災後、8か月後に列車運行が再開された

 

そして東日本の太平洋沿岸地域にとって運命の日、2011年3月11日が訪れる。岩手開発鉄道の路線や車両の被害状況はどのようなものだったのだろう。

 

岩手開発鉄道の路線では臨海部の盛駅〜赤崎駅の被害が特にひどかった。津波により線路の道床やバラストが流失、踏切や信号設備なども津波でなぎ倒され、流された。

↑臨海部の赤崎駅付近の2012年春の様子。盛駅までの臨海部の線路は新たに敷き直され、信号設備なども新しいものに付け替えられた

 

東北三陸沿岸で唯一のセメント工場でもある太平洋セメントの大船渡工場。震災1か月後の4月に太平洋セメントの経営陣が大船渡工場を訪れ、さらに岩手開発鉄道にも足を運んだ。大船渡工場のいち早い再開を決断するとともに、岩手開発鉄道による石灰石輸送の再開を望んだのだった。

 

とはいえ路線の被害は予想よりも深刻で、臨海部の路線復旧は、ほとんど新線を建設するのと変わらない手間がかかった。

 

岩手開発鉄道にとって幸いだったのは、盛川(さかりがわ)橋梁に大きな被害がなかったこと。ほかにも、ちょうど3月11日は工場の作業上の問題から、石灰石輸送の休止日にあたっていたため、沿線で被害にあった列車がなかった。津波は盛駅まで何度も押し寄せたが、機関車が納められていた盛車両庫までは至らなかった。

 

とはいえ、盛駅に停められていたすべての貨車は津波による海水の影響を受けた。貨車の多くは分解して潮抜きという作業が必要となった。

 

太平洋セメント大船渡工場は2011年11月4日からセメント生産を再開。岩手開発鉄道もいち早く路線復旧と車両の整備を行い、11月7日から石灰石輸送を再開させたのだった。

↑路線復旧後には貨車に「復旧から復興へ〜一歩一歩前へ〜がんばっぺ大船渡」「太平洋の復興の光と共に大船渡」などの標語が掲げられ地元・大船渡を元気づけた

 

ちなみに、盛駅に乗り入れている三陸鉄道南リアス線は、2013年4月5日に盛駅〜釜石駅間が復旧した。またJR大船渡線は、2013年3月2日からBRT(バス高速輸送システム)により運行が再開されている。

 

被害状況の差こそあれ、岩手開発鉄道の路線復旧がいかに早かったかがわかる。

 

JR貨物を除き、輸送量は私鉄貨物トップを誇る

東北の震災復興に大きく貢献している岩手開発鉄道。実は輸送量がすごい。国土交通省がまとめた鉄道統計年表によると、最も新しい平成27年度の数字は、岩手開発鉄道の輸送トン数は205万8156トン。

 

近い数字を上げているのは秩父鉄道の192万7301トン。臨海鉄道で最大の輸送トン数をあげたのが京葉臨海鉄道で185万607トンとなっている。

 

石灰石とコンテナ主体の輸送では、同じ土俵で比べるのは難しいものの、輸送トン数では、JR貨物を除き、貨物輸送を行う私鉄および第三セクター鉄道のなかでは最大の輸送量を誇っている。路線距離11.5kmという鉄道会社が、実は日本でトップクラスの輸送量だったとは驚きだ。

 

大船渡鉱山は石灰石の埋蔵量が豊富で新たな鉱区も開発されている。岩手開発鉄道が復興に果たす役割はますます大きくなっていると言えるだろう。

↑石灰石の輸送に使われるホッパ車ホキ100形。上部から石灰石を載せ、車両の下部の蓋を開けて石灰石を降ろす。ホキ100形は岩手開発鉄道の専用貨車として造られた

【路線案内1】盛駅をスタートして山側の駅や施設を見てまわる

貨物輸送専用の鉄道路線なので、もちろん列車への乗車はできない。そこでローカル線の旅としては異色だが、クルマで路線を見て回ろう。まずは盛駅を起点に山側の路線へ。

 

出発は盛駅から。岩手開発鉄道の盛駅は、JRや三陸鉄道の盛駅の北側に位置する。旅客営業をしていた時代のホームが残る。1両編成のディーゼルカー用に造られたホームは短く小さい。だが、四半世紀前に旅客営業を終了したのにも関わらず、待合室はそのまま、「盛駅」の案内もきれいに残っている。構内には立入禁止だが、盛駅の北側にある中井街道踏切から、その姿を間近に見ることができる。

↑岩手開発鉄道の盛駅。1両編成のディーゼルカー用に造られたホームは短く、またかわいらしい。待合室や案内表示などは、旅客営業をしたときのまま残されている

 

中井街道踏切から駅と逆方向を見ると、岩手開発鉄道の本社と、その裏手に盛車両庫があり、検査中の機関車や貨車が建物内に入っているのが見える。

↑盛駅の北側にある岩手開発鉄道の盛車両庫。東日本大震災の津波被害はこの車両庫の手前までで、施設やディーゼル機関車はからくも被災を免れた

 

ここから路線は、終点の岩手石橋駅へ向けて、ほぼ盛川沿いに進む。クルマで巡る場合は、国道45号から国道107号(盛街道)を目指そう。この国道107号を走り始めると、盛川の対岸に路線が見えてくる。

 

途中に駅が2つあるので、立ち寄ってみたい。

 

まずは長安寺駅。国道107号から長安寺に向けて入り、赤い欄干のある長安寺橋を渡る。すぐに踏切がある。このあたりから長安寺駅の先にかけて、撮影に向いた場所が多くあり、行き来する列車の姿も十分に楽しめるところだ。

↑長安寺駅のホームと駅舎。駅舎やホームは立入禁止だが、線路をはさんだ、盛川の側から、駅舎の様子が見える。木造駅舎で、改札などの造りも趣があって味わい深い

 

↑日頃市駅を通過する下り列車。日中は長安寺駅もしくは、この日頃市駅で列車の行き違いシーンが見られる。駅構内は立入禁止ながら外からでも十分にその様子が楽しめる

 

長安寺駅付近で上り下り列車を見たあと、次の日頃市駅を目指す。道路はしばらく路線沿いを通っているが、その後に、国道107号と合流、しだいに周囲の山並みが険しさを増していく。

 

列車の勾配もきつくなってくる区間で、長安寺駅前後が9.2パーミル(1000m間に9.2mのぼる)だったのに対して、次の駅の日頃市駅前後は19.6パーミルとなっている。

 

日頃市駅は大船渡警察署日頃市駐在所のすぐ先を左折する。細い道の奥に日頃市駅の駅舎がある。駅構内は立入禁止だが、駅舎横に空きスペースがあり、ここから列車の行き来を見ることができる。

 

【路線案内2】山の中腹に岩手石橋駅と石灰石積載施設がある

↑終点の岩手石橋駅に到着した列車は、バックで石灰石積載用のホッパ施設に進入する。施設内に入った列車は数両ずつ所定の位置に停車し、順番に石灰石を載せていく

 

↑石灰石積載用のホッパ施設の裏手には、周辺の鉱山から集まる石灰石がベルトコンベアーを使って、うずたかく積まれていた。この石灰石が施設を通して貨車に積み込まれる

 

日頃市駅から先は、国道107号がかなり山あいを走るようになる。終点の岩手石橋駅へは、岩手開発鉄道の緑色の「第二盛街道陸橋」の手前の交差点を右折する。さらに県道180号線を線路沿いに約1.0km、石橋公民館前のT字路を左折すれば到着する。

 

岩手石橋駅はスイッチバック構造の駅で、列車はスイッチバック。進行方向を変えて駅に進入してくる。山の中腹に、巨大な石灰石の積載用のホッパ施設がある。このホッパ施設内に貨車がバックで少しずつ入り、数両ずつ石灰石を積み込んでいく。ガーッ、ガラン、ガラン、という石が積まれる音が山中に響き、迫力満点だ。

↑岩手石橋駅はスイッチバック構造になっている。ホッパ施設で石灰石を積んだ列車は機関車を前に付替え、後進で写真奥の引込線に入ったあと、進行方向を変え赤崎駅を目指す

 

18両の貨車全車に石灰石が積まれたあとに、ディーゼル機関車が機回しされ、列車の逆側に連結される。そして後進して、スイッチバック用の引込線に入った後に進行方向を変更。石灰石を満載した上り列車は、下り勾配気味の路線をさっそうと駆け下りて行く。

 

岩手石橋駅の構内は立入禁止。踏切もあり注意が必要だ。見学の際は、安全なスペースでその様子を見守りたい。

 

【路線案内3】盛駅から赤崎駅までの路線も見てまわる

↑三陸鉄道の盛駅の横を通り抜ける赤崎駅行き上り列車。貨車には石灰石が満載されている。盛駅から赤崎駅へは約2kmの距離

 

↑太平洋セメント大船渡工場の最寄りにある赤崎駅。左が荷おろし場で、ここに列車ごと入り、貨車の下の蓋を開いて石灰石の荷おろしが行われる

 

盛駅に戻り、臨海部にある赤崎駅を目指す。三陸鉄道の盛駅のすぐ横に岩手開発鉄道の留置線があるが、上り列車はここには停まらず、終点の赤崎駅を目指す。市街地を抜け、間もなく盛川橋梁を渡る。

 

この橋梁よりも港側に架かるのが三陸鉄道南リアス線の盛川橋梁だ。クルマで赤崎駅方面へ移動する場合は、南リアス線の橋梁と平行に架かる佐野橋を渡る。道はその先で、岩手開発鉄道の踏切を渡り、県道9号線と合流する交差点へ。ここを右折すれば、間もなく赤崎駅が見えてくる。

 

この赤崎駅は当初から旅客列車が走らなかったこともあり、ホームや駅舎はない。岩手開発鉄道の職員の詰め所と荷おろし場が設けられ、その姿は県道からも見える。岩手石橋駅を発車した上り列車は、約30分で到着。荷おろし場にそのまま進入した列車から降ろされた石灰石は、ベルトコンベアーで隣接する太平洋セメントへ運ばれていく。

↑学研プラス刊「貨物列車ナビvol.3」誌(2012年7月発行)掲載の時刻表。同時刻はほぼ現在も変らずに使われている。工場の操業により運転休止日もあるので注意したい

 

赤崎駅〜岩手石橋駅間の11.5kmの旅。山あり川あり、趣ある駅舎が残るなど変化に富んでいる。

 

首都圏や、仙台市や盛岡市からも遠い岩手県の三陸海岸地方だが、三陸を訪れた際には震災復興を支える岩手開発鉄道にぜひ目を向けてみたい。最後に、大船渡周辺の復興状況と、そのほかの交通機関の現状を見ておこう。

【沿岸部の状況】大船渡駅周辺にはホテルや諸施設が建ち始めた

↑市街と大船渡湾の間に造られつつある防潮堤。もし大津波がきたときには遮断機が下り、右の重厚なトビラが閉められる。近くに立つと思ったより高く、巨大でそそりたつ印象

 

岩手開発鉄道の盛駅の周囲は、震災前から残る建物が多い。しかし、港側に足を向けると、その被害が大きかったことがわかる。JR大船渡駅付近は大船渡市内でも津波の影響が大きかった地区だ。2012年に筆者が訪れた当時は、ガレキが取り除かれていたが、何もない荒れ野の印象が強かった。

 

現在、大船渡駅周辺は更地となり、複数のホテルやショッピングセンターなど諸施設が建ち始めている。港との間には巨大な防潮堤の建設が進む。

 

一部、線路が道床とも津波にさらわれたJR大船渡線の跡はどのようになっているのだろうか。

 

【沿岸部の交通】北の鉄路は回復したが、南はBRT路線化

↑跨線橋から見た盛駅。右ホームには三陸鉄道南リアス線の列車が停まる。左側はJR大船渡線のBRT用ホームで駅舎側が降車用。右ホームから気仙沼方面行きバスが発車する

 

↑盛駅を発車した三陸鉄道南リアス線の下り列車。2019年3月には釜石駅の先、宮古駅まで旧山田線区間が復旧の予定。三陸鉄道に運営が移管され、全線通して走ることが可能に

 

↑盛駅には三陸鉄道南リアス線の車庫もある。南リアス線では主力のディーゼルカー以外に、レトロな姿の36-R3(写真中央)といった観光用車両も使われている

 

前述のように盛駅からの交通機関の復旧は2015年のことだった。三陸鉄道南リアス線は震災前の姿を取り戻した。

 

2019年3月には、釜石駅から先の宮古駅までJR山田線が復旧される予定だ。復旧後は列車の運行は三陸鉄道に移管され、盛駅と北リアス線の久慈駅まで直通で列車が運行できるようになる。

 

この三陸鉄道の北リアス線と南リアス線が結ばれる効果は、観光面でも大きいのではないだろうか。

 

残念なのは南側のJR大船渡線の区間だ。震災によりJR大船渡線は気仙沼駅〜盛駅間は路線の被害が大きく、列車の運行が行われていない。

 

列車に代わって運行されているのがBRTだ。BRTとはバス・ラピット・トランジットの略で、日本語ではバス高速輸送システムと略される。旧大船渡線の被害の少ない区間では線路を専用道に作り替えた。さらに専用道に転換できない区間は一般道路を利用してBRTを走らせている。

↑大船渡駅付近のBRT専用道。大船渡線の線路はすべて取り除かれ、バス専用道として造り直された。一般道との交差地点には、このように進入できないよう遮断機が設けられる

 

↑盛駅を発車した気仙沼行きBRTバス。元線路を専用道路化、復旧が難しい区間は一般道を利用して専用バスを走らせている。列車に比べて所要時間がかかるのが難点

 

鉄道に比べて本数が増発できるなど、利点はあるが、盛駅〜気仙沼駅間の列車ならば約1時間で着いた所要時間が、+15分〜20分かかるなどの難点も。

 

大船渡線の復旧が進まない現状とは裏腹に、三陸沿岸の海岸線をほぼなぞって走る三陸自動車道が2020年度には仙台市から岩手県宮古市まで全通の予定だ。この高速道路が完成すれば、仙台市方面からの直通の高速バスがより便利になり増発もされることになるだろう。

↑整備が続けられる三陸自動車道。2020年度中には仙台市から宮古市までの全線が開業する予定。全通後は高速バスなどの増発も予想される

 

三陸沿岸の鉄道網は、1896(明治29)年に起きた三陸地震の被害地域に、支援物資が届けられなかった反省を踏まえ構想された。以降、非常に長い期間を経て整備された。それから一世紀以上たち、東日本大震災以降は、鉄道復旧よりも、むしろ高速道路の整備が急がれている。

 

かつて大地震が起きたことで整備された鉄道網が、地震により一部は復旧を断念、代役のバス交通や高速道路網に代わられつつある。さまざまま事情があるだろうが、なんとも言えない寂しさが心に残った。

なぜ別々に発展? 近くて遠い2つの路線を抱えた東北の私鉄ローカル線のいま

おもしろローカル線の旅~~弘南鉄道弘南線・大鰐線(青森県)~~

 

青森県弘前市を中心に弘南線(こうなんせん)と大鰐線(おおわにせん)の2つの路線を走らせる弘南鉄道。同じ鉄道会社が運営する2本の路線だが、起点となる弘前市内の2つの駅は遠く離れ、線路はつながっていない。なぜこのように2本の路線は別々に運営されることになったのだろうか。

今回は列島最北の私鉄電車、弘南鉄道の旅を楽しんだ。そこには、過疎化に悩む地方鉄道の現状と、東北の私鉄ローカル線の魅力が浮かびあがってきた。

 

起点の駅が接続しない謎――弘前駅から中央弘前駅へ歩くと20分はかかる

まずは弘南鉄道の2本の路線の概略に触れておこう。

弘南鉄道の弘南線は弘前駅と黒石駅間、16.8kmを結ぶ。起点となる弘前駅はJR弘前駅に隣接しており、JR奥羽本線を走る列車との乗換えもスムーズだ。

 

一方の弘南鉄道の大鰐線は中央弘前駅と大鰐駅間の13.9kmを結ぶ。起点となる中央弘前駅は、駅名のとおり、弘前市の市街中心部、土手町に近い繁華街の近くにある。桜で有名な弘前城にも、中央弘前駅が近い。

 

この両線の起点となる弘前駅と中央弘前駅。ちょっと不思議に感じるのは、両駅が、約1.2km以上も離れていて(弘南鉄道の乗換案内では約2kmとある)、歩くと20分以上もかかることだ。両線の線路も接続されていない。

 

同じ会社なのに、なぜ駅が離れ、路線も別々となっているのだろう。それは、両線が異なる鉄道会社によって造られた路線だったからだ。

 

【駅が別々の理由1】元・和徳村に作られた官営の弘前駅

↑弘南鉄道弘南線の起点駅・弘前駅。JR弘前駅の駅舎に隣接していて、乗換えも便利だ。官営の奥羽北線の開業当時、同駅は弘前の外れ、和徳村に造られた

 

弘前市に鉄道が敷かれたのは1984(明治27)年のことだった。奥羽北線の弘前駅がこの年に設けられた。

 

実は弘前駅を名乗ったものの、駅は旧中津軽郡和徳村に設けられた。和徳村は昭和になり弘前市に編入されたが、弘前を名乗りながらも駅は市街から遠い場所に造られたのだった。その理由としては、鉄道黎明期に見られた住民の反対の声の高まりとともに、早く線路を敷設させたい明治政府の意向もあった。その結果、弘前駅は市街から遠い、当時は辺鄙な場所に造られたのだった。

 

その後の1927(昭和2)年に弘南鉄道の弘南弘前駅が、弘前駅に併設される形で誕生する。現在の弘南線の弘前駅である。

 

【駅が別々の理由2】市街の不便さを解決するため生まれた大鰐線

↑弘南鉄道大鰐線の起点・中央弘前駅。弘前市の中心街である土手町にも近い。ホーム横には土淵川が流れる。停まるのは主力のデハ7000系電車

 

一方の中央弘前駅だが、誕生したのは1952(昭和27)年と、弘南線に比べるとかなり新しい。当時はバスも普及しておらず、駅の遠さが市民生活のネックとなっていた。その不便さを改善すべく地元の有力者と三菱電機が出資して、弘前電気鉄道という会社を設立、現在の中央弘前駅〜大鰐駅間の路線を通したのだった。

 

だが、後発の弘前電気鉄道は堅調とは行かなかった。地域の幹線である奥羽本線とは、南側の大鰐駅で接続していているものの、肝心の弘前駅につながっていない。さらに台風の被害などの影響もあり、深刻な経営難に陥る。陸運局の仲介もあり、結局、弘前電気鉄道の路線は、1970(昭和45)年に弘南鉄道に譲渡され、会社は解散となった。

 

街から離れたところに幹線の駅が設けられ、駅周辺が次第に繁華になっていく。一方で駅から離れた市街が衰退していくという例は全国各地で見られる。弘前でも、こうした全国の都市と似た状況となっていったわけである。

↑弘前市の繁華街にあたる土手町。大鰐線の中央弘前駅から近いが、JR奥羽本線弘前駅からはバスの利用が必要となる。日中にも関わらず、通行する人の少なさが目立った

 

弘南鉄道に譲渡されてから40年近く。現状はどうなのだろう。国土交通省の鉄道統計年表の平成24年度〜27年度の数字を見ると、弘南線の年間乗車人数を見ると132万人〜134万人でほぼ横ばいとなっている。

 

一方、大鰐線は、平成24年度に57万人あった年間乗車人数は3年後の平成27年度には46万人まで減ってしまっている。中央弘前駅の1日の平均乗降人員も2004年には1814人あったものの、2015年には737人と半分以下にまで落ちている。

 

その理由として考えられるのは、同地域の幹線である奥羽本線との接続が悪いという点が大きいだろう。弘前に住む人が東京方面へ行く場合に、現在は奥羽本線に乗り、東北新幹線の新青森駅経由で移動する人が多い。高速バスも弘前駅前から発着する。大鰐線を使っても、弘前駅へは中央弘前駅からの移動が必要になる。

 

さらに弘前市の人口自体も1995(平成7)年には19万4485人をピークに徐々に減少、2017年1月には17万5721人にまで減っている。沿線人口の減少も、乗客減少に歯止めがかからない1つの要因なのかもしれない。

 

大鰐線は、路線の廃止がこれまで何度も取り沙汰され、そのたびに撤回されているのが現状で、現在も予断を許さない状況となっている。

 

さて、そんな弘南鉄道の2本の路線。まずは弘南線から乗車してみることにした。両路線に乗車する際には、1日フリー乗車券「大黒様きっぷ」(大人1000円)を使うと便利だ。

 

【弘南線の旅1】 東京五輪の年に生まれたデハ7000系に乗車

↑弘前駅に停まるデハ7000系。駅には1・2番線のホームがある。すぐ左にJR奥羽本線の線路が並んでいる。弘南線の線路幅はJR線と同じ1067mmで線路もつながっている

 

弘前駅に停まるのはデハ7000系電車。元東急電鉄の7000系電車だ。銘板を見ると1964(昭和39)年に造られた車両とある。東京オリンピックの年に生まれた電車だ。40年以上にわたり、東急そして弘南鉄道を走り続けてきた古参電車。ロングシート、天井に付けられた首振り扇風機が懐かしい。

↑デハ7000系の車内。2両編成が基本で、朝夕に増結される日もある。ロングシートで天井に付いた首振りタイプの扇風機が懐かしい。渋谷109の吊り革がいまも使われている

 

列車は日中の11〜13時台を除き30分間隔。弘前駅から黒石駅は全線乗車しても約30分の道のりだ。ただし終電が21時台で終了するので注意したい。

 

【弘南線の旅2】新里駅で五能線を走ったSLが保存される

↑新里駅(にさと)駅で保存される48640号機。五能線で活躍した8620形蒸気機関車で、新里駅の駅舎内には当時の写真なども展示されている。保存・塗装状態は非常に良い

 

弘前駅を発車して3つめの新里駅(にさとえき)。窓の外を見ていると、「あれっ!蒸気機関車だ。なぜここに?」

 

駅舎の横に8620形蒸気機関車が保存されていた。弘南線は開業後に、蒸気機関車が使われた時期が短く、1948(昭和23)年には早くも全線電化されている。よってこの路線に縁はないはず……。慌てて駅で降りて見たものの、車両がなぜここで保存されているのか、解説などはない。

 

調べたところ、48640号機は1921(大正10)年、汽車製造製で、晩年は五能線で活躍していた機関車とわかった。青森県の鯵ケ沢町役場で保存されていたが、NPO法人・五能線活性化クラブに譲渡され、2007年7月にこの場所に移設された。有志の人たちの手で整備されているせいか、保存状態も良かった。

 

【弘南線の旅3】 田舎舘(いなかだて)といえば「田んぼアート」

↑弘南線沿線の田舎舘村名物の「田んぼアート」。臨時駅も開設される。色違いの稲を植えることにより絵を描く「田んぼアート」。展望所から見ると素晴らしい絵が楽しめる

 

SLが保存されている新里駅から再乗車。終点を目指す。

 

館田駅(たちたえき)を過ぎると、90度以上のカーブを描き、平賀駅へ着く。ここには車庫があり、デハ7000系とともに古い電気機関車や除雪車などが並ぶ。赤い電気機関車は大正生まれの古参で、武蔵野鉄道(のちの西武鉄道)が導入した車両だ。こうした古参車両も目にできるが、車両のとめ具合により、ホーム上から見えないときもあるので注意したい。

↑平賀駅には車庫がある。左右のデハ7000系は中間車に運転席を設けた改造タイプで、顔つきが異なる。中央のED33形機関車は1923(大正12)年製、西武鉄道で使われた車両だ

 

平賀駅の先、柏農高校前駅(はくのうこうこうまええき)や、尾上高校前駅(おのえこうこうまええき)と学校の名が付く駅に停車する。弘南線、大鰐線では学校の名がつく駅が計7つある。弘南鉄道の電車が通学手段として欠かせないことがわかる。尾上高校前駅の1つ先が田んぼアート駅。この駅は臨時駅で朝夕や冬期は電車が通過となる。

 

この駅のすぐそばに道の駅 いなかだて「弥生の里」があり、こちらで田んぼアートが楽しめる。田んぼをキャンパスに見立て、色が異なる稲を植えることにより見事な絵が再現される田んぼアート。地元の田舎館村(いなかだてむら)の田んぼアートの元祖でもあり、多くの観光客が訪れる。ここで写真を紹介できないのが残念だが、今回訪れたときには手塚治虫のキャラクターが田んぼのなかに描かれていた。

 

【弘南線の旅4】 終点の黒石駅で見かけた黒石線とは?

↑黒石駅には、通常は使われていないホームと検修庫が隣接している。この検修庫の外壁には「黒石線検修庫」とある。弘南線でなく黒石線となっているのはなぜだろう?

 

↑夏祭りが盛んなみちのく。黒石駅前には「黒岩よされ」の飾り付けがあった。日本三大流し踊りの1つとされ、連日2000人にもおよぶ踊り手の流し踊りが名物となっている

 

途中下車しつつも到着した終点の黒岩駅。ホームの横には大きな検修庫が設けられている。その壁には「黒石線検修庫」の文字が。

 

「ここの路線は弘前線なのに、どうして黒石線なのだろう?」という疑問が浮かぶ。

 

調べてみると、黒石線とは以前に奥羽本線の川部駅と黒石駅を結んでいた6.2kmの路線の名であることがわかった。1912(大正元)年に黒石軽便線として誕生、その後に国鉄黒石線となり、1984(昭和59)年に弘南鉄道の黒石線となった。弘南鉄道では国鉄へ路線譲渡の打診を1960年代から行っており、20年以上もかかりようやく弘南鉄道の路線となったわけである。

 

弘南鉄道の路線となったものの、黒石線は非電化路線のためディーゼルカーを走らせることが必要だった。路線距離も短く、効率が悪かった。そのため1998(平成10)年3月いっぱいで廃止となってしまった。もし、鉄道需要が高かった1960年代に弘南鉄道に引き継がれ、電化され電車が走っていたら。時を逸したばかりに残念な結果になったわけである。

 

【大鰐線の旅1】 レトロな印象が際立つ中央弘前駅の駅舎

↑大鰐線の起点駅、中央弘前駅の駅舎。中に切符売場と小さな待合室、改札口がある。1952(昭和27)年からの姿でここにあること自体に驚きを感じる

 

弘南線の弘前駅へ戻って、次は大鰐線の起点駅、中央弘前駅を目指す。弘南バスの土手町循環バス(運賃100円)に乗車して「中土手町」バス停で下車、土淵川沿いの遊歩道を歩けば、すぐに駅がある。

 

見えてきた中央弘前駅。年期が入った駅舎に驚かされた。

 

列車は朝夕30分間隔、除く10時〜16時台と19時以降は1時間間隔となる。中央弘前駅発の終電は21時30分発と早い。弘南線よりも、乗降客が少ないこともあり本数が少なめだ。

 

中央弘前駅はホームが1つという質素な造り。弘南線と同じデハ7000系がそのまま折り返して発車する。

 

【大鰐線の旅2】土淵川沿いを走りリンゴ畑を見ながら進む

↑大鰐線の沿線にはリンゴ畑が多い。9月ともなると沿線のリンゴが赤く色づきはじめる

 

弘南線よりも大鰐線は、よりローカル色が強く感じられた。中央弘前駅を発車するとしばらく土淵川沿いを走る。次の弘高下駅(ひろこうしたえき)、さらに弘前学院大前駅、聖愛中高前駅(せいあいちゅうこうまええき)と3駅とも、学校名が駅名となっている。

 

4つめの千年駅(ちとせえき)を過ぎると、沿線には畑が多くなる。弘南線の沿線に水田が目立ったのにくらべて、大鰐線ではリンゴ畑が目立つ。青森リンゴの産地らしい風景が目を引く。

 

【大鰐線の旅3】津軽大沢駅の車庫にねむる古い車両に注目

↑津軽大沢駅の車庫の全景。1番左側がデハ6000系。中央にED22形電気機関車。ほか右には保線用の事業用車などが並ぶ

 

大鰐線の乗車で最も気になる箇所が、津軽大沢駅に隣接する車庫。ここには珍しい車両が眠っている。

 

まずはデハ6000系。元・東急電鉄の6000系で、1960(昭和35)年に製造された。現在では一般化しているステンレス車体を持つ新性能電車で、東急では試作的に造られ、また使われた車両だった。現在、2両のみが残り、秋の鉄道の日イベントなどの車庫公開時に近くで見ることができる。

 

ほかED22形電気機関車は、1926(大正15)年製で、信濃鉄道で導入、その後、大糸線、飯田線、西武鉄道、近江鉄道を経て弘南鉄道へやってきた車両だ。

↑ED22形は米国のボールドウィン・ウェスチングハウス社製。電気機関車草創期の車両で、国内の鉄道会社の多くが同社製を輸入、使用した。同線では保線などに使われている

 

↑大鰐線の除雪車キ104。元国鉄キ100形で、国鉄では貨車の扱いだった。機関車が後ろから押して走る。くさび状の先頭部で線路上の雪を分け、左右のつばさで雪をはねのける

 

赤い電気機関車ED22形と並び注目したいのが、除雪用のラッセル車。弘南線とともに大鰐線でも、国鉄で使われていたラッセル車キ100形を導入、冬期の除雪作業に使用している。大鰐線の除雪車はキ104形と名付けられた車両で、1923(昭和12)年に北海道の苗穂工場で造られた車両だ。

 

ED22形電気機関車と組んで使われる除雪車。冬期は大鰐駅に常駐して、降雪に備えている。寒い冬に、ぜひともこうした車両の雪かきシーンを見たいものだ。

 

【大鰐線の旅4】大鰐駅の名前がJRと弘南鉄道で違う理由は?

↑平川橋梁を渡る大鰐線のデハ7000系。同線沿線は周囲の山や河川など、変化に富み、写真撮影にも最適なポイントが多い

 

車庫のある津軽大沢駅を過ぎると、JR奥羽本線を立体交差で越え、さらに平川を越える。周囲の山景色が美しいあたりだ。

 

平川沿いに走ると、間もなく終点の大鰐駅に到着する。同駅は弘南鉄道の駅は大鰐駅。併設しているJR奥羽本線の駅は大鰐温泉駅を名乗る。この駅名にもおもしろい経緯がある。

 

1895(明治28)年に奥羽北線の駅が開業。大鰐駅と名乗った。1952(昭和27)年に弘前電気鉄道の大鰐駅が開業した。

 

その後、1970(昭和45)年の弘南鉄道に譲渡されたあとに同駅は、弘南大鰐駅と名が変更された。さらに1986(昭和61)年には国鉄と同じ大鰐駅に改称された。一方の国鉄・大鰐駅はJR化後の1991(平成3)年に大鰐温泉駅と改称された。

 

大鰐駅が、元々の名前で、二転三転していている。一時期、同じ名前となっていたものの、JR側の駅に新たに「温泉」が付けられていった。

↑弘南鉄道大鰐駅の全景。ホームは4・5番線となっている。JRの大鰐温泉駅のホームが1番線と、2・3番線となっているので、それに続く連番となったわけだ

 

↑弘南鉄道大鰐駅の北口出入り口。建物の中を通り、左に見える通路を使うと国道7号側の出入り口がある。北口駅舎は目立たたない造りで筆者も気付かず通り過ぎてしまった

 

↑JR奥羽本線とつながる跨線橋。昭和の香りがする構造物がこうして残っていることがおもしろい。この跨線橋を通り、先にある階段を下りれば弘南鉄道大鰐駅の南口がある

 

↑JR奥羽本線の大鰐温泉駅の玄関。写真右手には足湯も用意され、無料で大鰐温泉の湯が楽しめる。足湯とJR駅舎のちょうど間、奥に見えるのが弘南鉄道大鰐駅の南口の建物

 

弘南線と大鰐線の両線に乗車して、次のように思った。

 

1950年代に大鰐線を開業させた人たちが将来を見越して、いまのJR弘前駅と中央弘前駅を結ぶ路線を計画し、さらに大鰐線の線路と結びつけていたら。大鰐線もいまほどに乗客数の減少に苦しみ、廃止を取り沙汰されることもなかったかもしれない。

 

さらに廃止されてしまった黒石線が、鉄道需要が高かった時代に弘前鉄道の経営に移管されて姿を変えていたら。弘前市や黒石市をめぐる鉄道網も状況が変ったかもしれない。

 

歴史に“もし”や、“たられば”は禁物だとは思うものの、両線に乗車しつつ、そんな思いにとらわれた。

険路に鉄道を通す! 先人たちの熱意が伝わってくる「山岳路線」の旅【山形線・福島駅〜米沢駅間】

おもしろローカル線の旅〜〜山形線(福島県・山形県)

 

ステンレス車体の普通列車が険しい勾配をひたすら上る。せまる奥羽の山々、深い渓谷に架かる橋梁を渡る。スノーシェッド(雪囲い)に覆われた山のなかの小さな駅。駅の奥にはスイッチバック用の線路や、古いホームが残っている。駅を囲む山々、山を染める花木が一服の清涼剤となる。

JRの在来線のなかでトップクラスに険しい路線が、山形線(奥羽本線)の福島駅〜米沢駅間だ。福島県と山形県の県境近くにある板谷峠(いたやとうげ)を越えて走る。

 

いまから120年ほど前に開業したこの路線。立ちはだかる奥羽山脈を越える鉄道をなんとか開通させたい、当時の人たちの熱意が伝わってくる路線だ。

 

8時の電車の次は、なんと5時間後!

福島発、米沢行きの普通列車は5番・6番線ホームから出発する。5番線は在来線ホームの西の端、6番線は5番線ホームのさらにその先にある。この“片隅感”は半端ない。さらに普通列車の本数が少ない。2駅先の庭坂駅行きを除けば、米沢駅まで行く列車は日に6本しかない。

↑板谷駅の「奥羽本線発車時刻表」。この日中の普通列車の少なさは驚きだ。一方で山形新幹線「つばさ」はひっきりなしに通過していく *現在は本写真撮影時から時刻がやや変更されているので注意

 

上の写真は板谷駅の時刻表。光が反射して見づらく恐縮だが、朝は下り・上りとも7時、8時に各1本ずつ列車があるが、それ以降は13時台までない。さらにその後は、下りは16時台に1本あるが、上りにいたっては、13時の列車以降、5時間半近くも列車が来ない。

 

山形線の普通列車は、米沢駅〜山形駅間、山形駅〜新庄駅間も走っているが、こちらはだいたい1時間に1本という運転間隔だ。福島駅〜米沢駅間の列車本数の少なさが際立つ。沿線人口が少ない山岳路線ゆえの宿命といっていいかもしれない。

 

一方、線路を共有して運行される山形新幹線「つばさ」は、30分〜1時間間隔で板谷駅を通過していく。新幹線のみを見れば山形線は幹線路線そのものだ。

 

福島駅〜米沢駅間で普通列車に乗る際には、事前に時刻を確認して駅に行くことが必要だ。また途中駅で乗り降りするのも“ひと苦労”となる。新幹線の利便性に比べるとその差は著しい。

 

今回は、そんな異色の山岳路線、福島駅〜米沢駅間を走る普通列車に乗車、スイッチバックの遺構にも注目してみた。

 

【驚きの険路】 標高差550m、最大勾配は38パーミル!

上は福島駅〜米沢駅の路線マップと、各駅の標高を表した図だ。福島駅〜米沢駅間は40.1km(営業キロ数)。7つある途中駅のなかで峠駅の標高が1番高く海抜624mある。峠駅をピークにした勾配は最大で38パーミル(1000m走る間に38m高低差があること)で、前後に33パーミルの勾配が連続している。

 

一般的な鉄道の場合、30パーミル以上となれば、かなりの急勾配にあたる。ごく一部に40パーミルという急勾配がある路線もあるが、山形線のように、急勾配が続く路線は珍しい。

 

いまでこそ、強力なモーターを持った電車で山越えをするので、難なく走りきることができる。しかし、1990(平成2)年まで同区間では、赤岩駅、板谷駅、峠駅、大沢駅の計4駅でスイッチバック運転が行われ、普通列車は徐々に上り、また徐々に下るという“手間のかかる”運転を行っていた。

↑開業時から1990(平成2)年まで使われていた板谷駅の旧ホームはすっかり草むしていた。米沢行き普通列車は本線から折り返し線に入り、後進してこのホームに入ってきた

 

【山形線の歴史1】 難工事に加え、坂を逆行する事故も

さて、実際に乗車する前に、山形線(奥羽本線)福島駅〜米沢駅間の歴史をひも解いてみよう。

●1894(明治27)年2月 奥羽本線の福島側からの工事が始まる

●1899(明治32)年5月15日 福島駅〜米沢駅間が開業

当時の鉄道工事は突貫工事で、技術の不足を人海戦術で乗り切る工事だった。奥羽本線は北と南から工事を始めたが、青森駅〜弘前駅間は、わずか1年5か月という短期間で開業させている。一方で福島駅〜米沢駅間の5年3か月という工事期間を要した。この時代としては想定外の時間がかかっている。

 

特に難航したのが、庭坂駅〜赤岩駅間にある全長732mの松川橋梁だった。川底から高さ40mという当時としては異例ともいえる高所に橋が架けられた。開業後も苦闘の歴史が続く。

●1909(明治42)年6月12日 赤岩信号場(現・赤岩駅)で脱線転覆事故

下り混合列車が急勾配区間を進行中に蒸気機関車の動輪が空転。補助機関車の乗務員は蒸気とばい煙で意識を失ったまま、列車は下り勾配を逆走、脱線転覆して5人が死亡、26人が負傷した。

●1910(明治43)年8月 庭坂駅〜赤岩信号場間で風水害によりトンネルなどが崩落

休止した区間は徒歩連絡により仮復旧。翌年には崩落区間の復旧を諦め、別ルートに線路を敷き直して運転を再開させた。

●1948(昭和23)年4月27日 庭坂事件が発生、乗務員3名死亡

赤岩駅〜庭坂駅間で起きた脱線事故で、青森発上野行きの列車の蒸気機関車などが脱線し、高さ10mの土手から転落する事故が起きた。列車妨害事件とされるが、真相は不明。太平洋戦争終了後、原因不明の鉄道事故が各地で相次いだ。

 

当時の非力な蒸気機関車による動輪の空転・逆走事故、風水害の影響と険路ならではの問題が生じた。そこで同区間用の蒸気機関車の開発や、電化工事が矢継ぎ早に進められた。

●1947(昭和22)年 福島駅〜米沢駅間用にE10形蒸気機関車5両を製造

国鉄唯一の動輪5軸という珍しい蒸気機関車が、同路線用に開発された。急勾配用に開発されたが、思い通りの性能が出せず、同区間が電化されたこともあり、稼働は1年のみ。移った北陸本線でも走ったのは1963(昭和38)年まで。本来の機能を発揮することなく、稼働も15年のみという短命な機関車だった。

↑E10形蒸気機関車は国鉄最後の新製蒸気機関車とされ、福島駅〜米沢駅間の急勾配区間向けに開発された。登場は昭和23(1948)年で、1年のみ使われたのち他線へ移っていった

 

↑E10形は石炭や水を積む炭水車を連結しないタンク車。転車台で方向転換せずにバック運転を行った。現在は東京都青梅市の青梅鉄道公園に2号機が展示保存されている

 

●1949(昭和24)年4月29日 福島駅〜米沢駅間が直流電化

当時はまだ電化自体が珍しい時代でもあった。東海道本線ですら、全線電化されたのが1956(昭和31)年と後になる。いかに福島駅〜米沢駅間の電化を急がれたのかがよくわかる。

 

【山形線の歴史2】 新幹線開業後に「山形線」の愛称がつく

●1967(昭和43)年9月22日 福島駅〜米沢駅間を交流電化に変更

交流電化の変更に加えて路線が複線化されていく。1982(昭和57)年には福島駅〜関根駅間の複線化が完了している。

●平成4(1992)年7月1日 山形新幹線が開業(福島駅〜山形駅間)

線路を1067mmから1435mmに改軌し、山形新幹線「つばさ」が走り出す。それとともに、福島駅〜山形駅間に山形線の愛称がついた。

●平成11(1999)年12月4日 山形新幹線が新庄駅まで延伸

これ以降、福島駅〜新庄駅間を山形線と呼ぶようになった。

 

【所要時間の差は?】 新幹線で33分、普通列車ならば46分

さて福島駅〜米沢駅間の列車に乗車してみよう。同区間の所要時間は、山形新幹線「つばさ」が約33分。普通列車が約46分で着く。運賃は760円で、新幹線利用ならば運賃+特急券750円(自由席)がかかる。

 

所要時間は13分の違い。沿線の駅などや風景をじっくり楽しむならば、やはり列車の本数が少ないものの普通列車を選んで乗りたいものだ。

 

山形線の普通列車として使われるのは標準軌用の719系5000番代と701系5500番代。福島駅〜米沢駅間の普通列車はすべて719系5000番代2両で運行されている。

↑福島駅の5番線に停車する米沢駅行き電車。車両はJR東日本719系。2両編成でワンマン運転に対応している。ちなみに5番線からは観光列車「とれいゆつばさ」も発車する

 

車内は、窓を横にして座るクロスシートと、ドア近くのみ窓を背にしたロングシート。クロスシートとロングシートを組み合わせた、セミクロスシートというスタイルだ。

【山形線の車窓1】営業休止中の赤岩駅はどうなっている?

筆者は福島駅8時5分発の列車に乗った。乗車している人は定員の1割ぐらいで、座席にも余裕あり、のんびりとローカル線気分が楽しめた。同線を走る山形新幹線「つばさ」の高い乗車率との差が際立つ。

 

福島駅の先で、高架線から下りてくる山形新幹線の線路と合流、まもなく最初の笹木野駅へ到着する。次の庭坂駅までは沿線に住宅が連なる。

 

庭坂駅を発車すると、しばらくして線路は突堤を走り、右に大きくカーブを描き始める。ここは通称、庭坂カーブと呼ばれる大カーブで、ここから山形線はぐんぐんと標高をあげていく。ちょうど福島盆地の縁にあたる箇所だ。

↑庭坂駅から赤岩駅間の通称・庭坂カーブを走るE3系「つばさ」。同カーブ付近から列車は徐々に登り始める。福島盆地の雄大なパノラマが楽しめるのもこのあたりだ

 

庭坂駅から10分ほどで、眼下に流れを見下ろす松川橋梁をわたる。ほどなく赤岩駅へ。駅なのだが、普通列車もこの赤岩駅は通過してしまう。さてどうして?

↑赤岩駅は現在、通年通過駅となっている。普通列車も通過するので乗降できない。利用者がいない駅とはいうものの、ホーム上は雑草も無くきれいな状態になっていた

 

赤岩駅は廃駅になっていない。が、2016年秋以来、通過駅となっていて乗降できない。時刻表や車内の案内にも、赤岩駅が存在することになっているのだが、乗り降りできない不思議な駅となっている。営業していたころも長年、乗降客ゼロが続いてきた駅であり、このまま廃駅となってしまう可能性も高そうだ。

 

【山形線の車窓2】 スイッチバック施設が一部に残る板谷駅

板谷駅の手前で山形県へと入る。

 

板谷駅は巨大なスノーシェッド(雪囲い)に覆われた駅で、ホームもその中にある。おもしろいのは、旧スイッチバック線の先にある旧ホームだ。実際にスイッチバック施設が使われていた時代には、現在のホームの横に折り返し線があり、米沢方面行き列車は、この折り返し線に入り、バックしてホームへ入っていった。

 

特急などの優等列車は、このスイッチバックを行わず、そのまま通過していった。板谷駅は山間部にある同線の駅のなかでは、最も人家が多く、工場もある。が、列車の乗降客はいなかった。国道13号が近くを通るため、クルマ利用者が多いのかもしれない。

↑板谷駅は駅全体が頑丈なスノーシェッドに覆われている。駅舎はログハウスの洒落た造り。右側のホームが福島駅方面、左に米沢駅方面のホームがある

 

↑上写真の立ち位置で逆を写したのがこの写真。右の2本の線路が山形線の本線で、左の線路の先に古い板谷駅のホームがある。現在は保線用に使われている

 

↑上写真のスノーシェッドの先にある旧板谷駅のホーム。行き止まり式ホームで、列車は前進、または後進でホームに入線した。このホームの右手に板谷の集落がある。同駅は国道13号からも近くクルマでも行きやすい

 

【山形線の車窓3】雪囲いに覆われる峠駅、峠の力餅も楽しみ

板谷駅から5分ほどの乗車で、福島駅〜米沢駅間で最も標高が高い峠駅に到着した。

 

海抜624m。山あいにあるため冬の降雪量も尋常ではない。多いときには3mも積もるという。この峠駅の周辺には、滑川温泉などの秘境の温泉宿があり、若干ながら人の乗り降りがあった。

↑峠駅は巨大なスノーシェッド(雪囲い)に覆われている。標高624mと福島駅〜米沢駅間では最も高い位置にある駅で、冬の積雪はかなりの量になる

 

この峠駅、雪から駅を守るために、スノーシェッドが駅の施設をすっぽりと覆っている。この駅の改札口付近から、さらに別のスノーシェッドが200mほど延びている。

↑峠駅へと続くスノーシェッド。スイッチバックして旧峠駅へ進入するためのルートに使われた。複線分のスペースがあり非常に広く感じられる

 

こちらは現在、使われていない施設だが、複線の線路をすっぽりと覆う巨大な大きさだ。スノーシェッドは、200mぐらい間を空けて、さらに先の山側に入った地点にも残っている。このスノーシェッドの間に元の峠駅があったという。

 

駅近くの「峠の茶屋」で聞くと、「スノーシェッドですべて覆ってしまうと、蒸気機関車の煙の逃げ場がなくなる。あえて、スノーシェッドを空けた部分を設けていたんです」と教えてくれた。

 

現在の峠駅ホームをはさみ反対側には折り返し線用のトンネルがあった。福島方面行き列車は、この折り返し線に入り、バックして旧駅に入線していた。スイッチバックが行われた時代、さぞや楽しい光景が展開していたことだろう。

↑峠駅の目の前にある「峠の茶屋」。江戸時代は参勤交代が行われた羽州米沢街道の峠で茶屋を営んでいた歴史ある店だ。現在の「峠の茶屋」といえば、名物「峠の力餅」で有名

 

↑現在も峠駅のホームでの立売り(窓越し販売)が行われている。停車時間の短いのが難点だが、電話で事前予約しておくこともできる

 

↑峠の力餅10ヶ入り(926円)。餅米は山形置賜産のヒメノモチ、小豆は厳選した大納言、地元吾妻山系の伏流水を使用して製造する。ボリュームあり、お土産にも最適だ

 

峠駅近くの「峠の茶屋」。峠駅で下車した際には、昼食、小休止、そして次の列車待ちに利用するのも良いだろう。

 

【山形線の車窓4】関根駅〜米沢駅間は不思議に単線となる

峠駅から米沢駅側は、ひたすら下りとなる。峠駅の1つ先の大沢駅もスノーシェッド内の駅だ。峠駅や板谷駅のように明確ではないが、スイッチバックの遺構が残っている。

 

4駅に残るこうしたスイッチバックの遺構などは、1999(平成11)年5月に「奥羽本線板谷峠鉄道施設群」として産業考古学会の推薦産業遺産として認定された。

 

推薦理由は、「奥羽山脈の急峻な峠を越えるために、スイッチバック停車場を4カ所連続させ」、加えて「広大な防雪林を造営するなど、東北地方の日本海側地域開発にとって記念碑的な鉄道遺産である」こと。この路線が、歴史的に重要であり、国内の鉄道遺産としても貴重であるという、学会から“お墨付き”をもらったわけである。

 

大沢駅を過ぎると、右に左にカーブを描きつつ列車は下っていく。田畑が見え集落が広がると関根駅へ着く。

 

この関根駅の次が米沢駅。この区間は米沢盆地の開けた区間となり路線もほぼ直線となる。険しい福島駅〜関根駅間が複線なのに、関根駅〜米沢駅間のみ単線となる。

↑関根駅〜米沢駅間の単線区間を走る観光列車「とれいゆつばさ」。ほかの駅間と比べて平坦な同区間がなぜ複線とならなかったのだろうか

 

米沢駅の先、赤湯駅まで単線区間が続く。よってこの区間で列車に遅れが生じると、対向列車まで影響を受ける。米沢駅〜赤湯駅間も米沢盆地内の平坦な土地なのに、この米沢盆地内のみ単線区間が残ることに、少し疑問が残った。

 

終着の米沢駅に付くと、ちょうど向かいに観光列車「とれいゆつばさ」が停車していた。「とれいゆつばさ」の車内にある「足湯」を浸かりながらの旅も癒されるだろうな、とつい誘惑にかられてしまう。

↑米沢市の玄関口・米沢駅。江戸時代は上杉藩の城下町として栄えた。現在は人気ブランド米沢牛の生産地でもある。駅2階のおみやげ処でも米沢牛関連商品が販売されている

 

だが、今回はローカル線の旅なのだ。帰りにもこだわり、4時間ほど米沢周辺で時間をつぶして、福島行き普通列車に乗車した。逆からたどる山岳路線も味わい深い。峠駅を過ぎると、福島市内までひたすら下り続ける。普通列車とはいえ標準軌ならではの安定した走行ぶり、快適な乗り心地が心に残った。

東京方面行きが“下り”になる不思議ーー会津線はほのぼの旅に最高の路線

おもしろローカル線の旅〜〜会津鉄道会津線(福島県)~~

 

南会津の山あい、阿賀川(あががわ)の美しい渓谷に沿って走る会津鉄道会津線。2017年4月21日に東京浅草駅から会津鉄道の会津田島駅まで、特急「リバティ会津」が直通で運転されるようになり、山間のローカル線も変わりつつある。

 

さて、今回は1枚の写真から紹介しよう。次の写真は会津下郷駅で出会ったシーン。列車の外を何気なく撮影していた時の1枚だ。

↑会津下郷駅でのひとコマ。列車の発着時にスタッフの人たちがお出迎え&お見送りをしていた。さらに停車する列車の車掌さんも素敵な笑顔で見送ってくれた

 

これが会津鉄道会津線(以降、会津線と略)の、魅力そのものなのかもしれない。緑とともに鉄道を運行する人たち、そして会津の人たちの「素敵な笑顔」に出会い、心が洗われたように、ふと感じた。

 

ほのぼのした趣に包まれた会津線らしい途中駅でのひとこま。南会津のローカル線の旅は、この先も、期待が高まる。

 

【会津線の歴史】 開業してからすでに91年目を迎えた

会津線は、西若松駅〜会津高原尾瀬口駅間の57.4kmを走る。

 

その歴史は古い。およそ90年前の1927(昭和2)年11月1日に、国鉄が西若松駅〜上三寄駅(現・芦ノ牧温泉駅)間を開業させた。その後、路線が延伸されていき、1934(昭和9)年12月27日に会津田島駅まで延ばされている。

 

会津田島駅以南の開通は太平洋戦争後のことで、1953(昭和28)年11月8日に会津滝ノ原駅(現・会津高原尾瀬口駅)まで路線が延ばされた。

 

1986(昭和61)年には、野岩鉄道(やがんてつどう)の新藤原駅〜会津高原尾瀬口駅(当時の駅名は会津高原駅)間が開業した。この路線開通により、東武鉄道(鬼怒川線)、野岩鉄道、会津線(当時は国鉄)の線路が1本に結ばれた。

 

翌年の1987(昭和62)年4月1日には、国鉄が民営化され、会津線はJR東日本の路線になった。さらに同年7月16日に会津鉄道株式会社が設立され、会津線の運営がゆだねられた。

↑会津線ではディーゼルカーが入線するまでC11形蒸気機関車が主力機として活躍した。その1両である254号機が会津田島駅の駅舎横に保存・展示されている

 

【会津線の謎】ちょっと不思議? 東京方面行きが“下り”となる

会津線は西若松駅〜会津田島駅間が非電化、会津田島駅〜会津高原尾瀬口駅間が電化されている。

 

電化、非電化が会津田島駅を境にしているため、会津田島駅から北側、そして南側と別々に運行される列車が多い。北側は会津若松駅〜会津田島駅間、南側は会津田島駅〜新藤原駅・下今市駅間を結ぶ。さらに北はJR只見線に乗り入れ、南は野岩鉄道、東武鉄道と相互乗り入れを行う。

 

会津線全線を通して走るのは快速「AIZUマウントエクスプレス」のみで、会津若松駅〜東武日光駅(または鬼怒川温泉駅)間を日に3往復している。週末には、会津若松駅から北へ走り、ラーメンや「蔵のまち」として知られるJR喜多方駅までの乗り入れも行う。

 

昨年春から運行された特急「リバティ会津」は東京・浅草駅〜会津田島駅間を日に4往復、両駅を最短で3時間9分で結んでいる。以前は直通の快速列車が運行されていたが、最新の特急列車「リバティ会津」の登場で、より快適な鉄道の旅が楽しめるようになっている。

↑会津田島駅まで直通運転された特急「リバティ会津」。会津線内では、各駅に停まる列車と主要駅のみ停車する2パターンの特急「リバティ会津」が運行されている

 

↑快速「AIZUマウントエクスプレス」と、特急「リバティ会津」のすれ違い。会津田島駅〜東武日光駅間では、会津鉄道のディーゼルカーと東武特急とのすれ違いシーンが見られる

 

さて、一部の時刻表などで表記されているのだが、会津線にはちょっと不思議なルールが残っている。通常の鉄道路線では、東京方面行きが上り列車となるのだが、会津線内の西若松駅〜会津田島駅間では会津若松駅行きが上り列車となっている(会津田島駅から南は、会津高原尾瀬口駅方面行きが上り列車となる)。

走る列車番号にも、その習慣が残されていて、会津田島駅行きには下りということで末尾が奇数の数字、会津若松駅行きの上り列車には末尾に偶数の数字が付けられている。

 

この上り下りの基準が、通常と異なるのはなぜなのだろう。

 

【謎の答え】 国鉄時代の名残そのまま受け継がれている

国鉄時代、栃木県との県境を越える野岩鉄道の路線がまだできていなかった。会津線は福島県内だけを走る行き止まり路線だった。

 

行き止まり路線の場合は、ほとんどが起点側の駅へ走る列車が上りとなる。国鉄時代の会津線は、会津若松駅へ向かう列車がすべて上りだった。

 

野岩鉄道の開通により東京方面への線路が結びついたものの、会津田島駅を境にして、上り下り方向の逆転現象は残された。西若松駅〜会津若松駅間ではJR只見線の路線を走る。只見線の列車も、会津若松駅行きを上り列車としており、会津線の上り下りを以前のままにしておけば、同線内で列車番号の末尾を上りは偶数、下りは奇数に揃えられる利点もあった。

↑東武日光駅へ直通運転を行う「AIZUマウントエクスプレス」。漆をイメージした赤色のAT700形やAT750形と、AT600形・AT650形と連結、2両編成で運行される

 

↑2010年に導入されたAT700形やAT750形は、全席が回転式リクライニングシートで寛げる。その一部は1人用座席となっている

【人気の観光列車】 自然の風が楽しめる「お座トロ展望列車」

会津線には週末、観光列車も走っている。その名は「お座トロ展望列車」。2両編成で、1両はガラス窓がないトロッコ席(春〜秋の期間)、もう1両は展望席+お座敷(掘りごたつ式)席の組み合わせとなっている。

 

会津線の絶景スポットとされる3か所の鉄橋上で一時停車。絶景ビューが楽しめる。さらにトンネル内ではトロッコ席がシアターに早変わりする。

 

お座トロ展望列車は乗車券+トロッコ整理券310円(自由席)が必要になる。会津若松駅〜会津田島駅間の運転で、所要約1時間30分。のんびり旅にはうってつけの列車だ。

↑阿賀川を渡る「お座トロ展望列車」。左側のAT-351形がトロッコ席のある車両。右のAT-401形が展望席+お座敷席付きの車両だ。ちなみに阿賀川は福島県内の呼び方で、新潟県に入ると阿賀野川(あがのがわ)と名が改められる

 

↑湯野上温泉駅〜芦ノ牧温泉南駅間にある深沢橋梁。若郷湖(わかさとこ)の湖面から高さ60mを渡る橋で一時停止する。なお写真の黄色い車両AT-103形はすでに引退している

 

【歴史秘話】江戸時代の会津線沿線は繁華な街道筋だった

会津線の旅を始める前に、ここで会津、そして南会津の歴史について簡単に触れておこう。

 

まずは「会津西街道」の話から。会津西街道は会津線とほぼ平行して走る街道(現在の国道121号と一部が重複)のことを指す。会津藩の若松城下と今市(栃木県)を結ぶ街道として会津藩主・保科正之によって整備された。江戸時代には会津藩をはじめ、東北諸藩の参勤交代や物流ルートとして重用された。いわば東北本線と平行して延びる東北道とともに、東北諸藩には欠かせない重要な道路だったわけだ。

 

その栄えた面影は、大内宿(おおうちじゅく)で偲ぶことができる。すなわち、いまでこそ山深い印象がある南会津の里も、江戸時代までは華やかな表通りの時代があったということなのだ。

↑茅葺き屋根の家並みが残る大内宿。会津西街道の宿場として栄えた。会津線の湯野上温泉駅から乗り合いバス「猿游号」が利用可能。所要約20分(日に8往復あり)

 

あと忘れてならないのは、会津藩の歴史だろう。会津若松の鶴ヶ城を中心に3世紀にわたり栄えた会津藩。戊辰戦争により、西軍の目の敵とされた会津藩の歴史はいまでも、その悲惨さ、非情さが語り継がれる。会津藩の領地でもあった南会津や、会津西街道は戦乱の舞台となり、多くのエピソードが残されている。

 

【会津の人柄】朴訥な人柄を示す言葉「会津の三泣き」とは?

会津の人柄を示す言葉として「会津の三泣き」という言葉がある。

 

会津の人は山里に育ったせいか、朴訥な趣の人が多い。それはよそから来た人、とくに転勤族にとっては、時に“とっつきにくさ”を感じさせてしまう。そのとっつきにくさに、他所から来た人は「ひと泣き」する。

 

やがて暮らしに慣れると、その温かな心に触れて「二泣き」する。さらに会津を去るときに、情の深さに心を打たれ、離れがたく三度目の「三泣き」をするというのだ。

 

筆者は、個人的なことながら、会津とのつながりが深く、ひいき目につい見てしまうのだが、このような人々の純朴さは、訪れてみて、そこここで感じる。

 

先にあげたように列車に乗り降りする客人を迎え、見送る駅スタッフや乗務員の人たちの笑顔。こうした会津の人柄を知ると、旅がより楽しくなるだろう。

【車窓その1】まずは会津高原尾瀬口駅から会津田島駅を目指す

さて、会津鉄道会津線に乗車、見どころおよび途中下車したい駅などを、写真をメインに紹介していこう。

 

まずは野岩鉄道との境界駅でもある会津高原尾瀬口駅から。ここは、尾瀬沼への登山口でもある尾瀬桧枝岐方面へのバスが出発する駅でもある。

 

実際に野岩鉄道と会津鉄道の境界駅ではあるのだが、鉄道会社が変わったということはあまり感じられない。野岩鉄道方面から走ってきた電車は、ここでの乗務員交代は行わない。普通列車の大半が、東武鉄道6050型で、この車両は会津田島駅まで野岩鉄道の乗務員により運転、また乗客への対応が行われる。

↑会津高原尾瀬口駅は野岩鉄道との境界駅だが、駅案内には野岩鉄道の社章が付く。停まっているのは東武鉄道6050型電車。野岩鉄道、会津鉄道両社とも同形式を所有・運行させている

 

一方、ディーゼルカーにより運行される「AIZUマウントエクスプレス」は、野岩鉄道、東武鉄道線内も、会津鉄道の乗務員により運転、乗客への対応が行われる。

 

山深い会津高原尾瀬口駅からは、徐々に視界が開けていき、田園風景が広がり始め、20分ほどで会津田島駅へ到着する。

↑会津田島駅に停車する東武鉄道の特急「リバティ会津」。2017年4月に運行を開始した。東京の浅草駅〜会津田島駅間を日に4往復している

 

【車窓その2】「塔のへつり」とは、どのようなものなのか?

会津田島駅からは、非電化ということもあり、よりローカル色が強まる。

 

会津線の駅名表示。見ていると面白い仕掛けがある。田島高校前駅は高校生のイラストとともに「青春思い出の杜」とある。養鱒公園駅(ようそんこうえんえき)は、鱒のイラストとともに「那須の白けむりを望む」。会津下郷駅は昔話の主人公の力持ちのイラストと「会津のこころと自然をむすぶ」という、各駅それぞれ、キャッチフレーズが付けられている。こんなキャッチフレーズを探しつつの旅もおもしろい。

 

会津下郷駅を過ぎると、山が険しくなってくる。阿賀川も間近にせまって見えるようになる。そして塔のへつり駅に到着する。

 

「へつり」とは、どのようなものを指すのだろうか。「へつり」とは福島県または山形県の言葉で「がけ」や「断崖」のことを言う。駅から徒歩3分ほどの「塔のへつり」。阿賀川の流れが生み出した奇景が望める。

↑森のなかにある塔のへつり駅。独特の門が駅の入り口に立つ。景勝地・塔のへつりへは駅から徒歩3分の距離。塔のへつり入口には土産物屋が軒を並べ賑やかだ

 

↑100万年にもわたる阿賀川の侵食作用により造られた塔のへつり。対岸から吊橋が架かる。断崖絶壁に加えて人が歩行できるくぼみもできている

 

【車窓その3】 茅葺き屋根の駅やネコの名誉駅長がいる駅など

塔のへつり駅の隣りの駅が湯野上温泉駅。この駅は、時間に余裕があればぜひ途中下車したい。

 

ここは駅舎が茅葺きという珍しい駅だ。会津鉄道が発足した年に建て替えられた駅舎で、2005(平成17)年度には日本鉄道賞・特別賞も受賞している。

 

駅内には売店があり、また地元・湯野上温泉の観光ガイドも行われている。駅舎のすぐ横には足湯があってひと休みが可能だ。また駅から周遊バスに乗れば、会津西街道の宿場として知られる大内宿に行くこともできる。

↑湯野上温泉駅の駅舎は珍しい茅葺き屋根だ。駅舎内には観光案内所があり、南会津の特産品を中心に多くの土産品が販売される

 

↑湯野上温泉駅にある足湯「親子地蔵の湯」。列車を見送りながら“ひと風呂”が楽しめる。ちなみに駅から湯野上温泉へは徒歩2分〜15分の距離で、23軒の温泉宿や民宿がそろう

 

湯野上温泉駅の先はトンネルが多くなる。湯野上温泉駅〜芦ノ牧温泉駅間は、大川ダムが造られたことにより、1980(昭和55)年に建設された新線区間となっている。ダムにより生まれた湖を迂回するように長いトンネルが続く。

 

大川ダムにより生まれた若郷湖(わかさとこ)が芦ノ湖温泉南駅の手前、深沢橋梁から一望できる。会津若松駅行き列車の左手に注目だ。さらに大川ダム公園駅は、初夏ともなるとホームを彩るあじさいが美しい。

 

そして芦ノ牧温泉駅へ到着する。

 

この駅で良く知られているのが名物駅長の「らぶ」。2代目駅長で、芦ノ牧温泉駅の人気者となっている。施設長の「ぴーち」とともに働いているが、大人気のため営業活動(?)に出かけることも多い。ぜひ会いたいという方は、会津鉄道のホームページ上に“勤務日”が掲載されているので、確認してから訪れたほうが良さそうだ。

↑芦ノ牧温泉駅の名誉駅長「らぶ」がお座トロ展望列車をお見送り。施設長「ぴーち」とともに駅務に励んでいる/写真提供:芦ノ牧温泉駅(※写真撮影等はご遠慮ください)

 

【車窓その4】会津磐梯山が見えてきたら終点の会津若松駅も近い

芦ノ牧温泉駅あたりになると、両側に迫っていた山も徐々になだらかになっていき、沿うように流れていた阿賀川の流れも、路線から離れていく。

 

そして沿線に田園風景が広がっていく。このあたりが会津若松を中心とした会津盆地の南側の入口でもある。いくつか無人駅を通り過ぎると、右手に会津のシンボル、会津磐梯山が見えてくる。

 

南若松駅あたりからその姿はより間近になっていき、そして会津線の起点駅・西若松駅に到着する。

↑会津線の南若松駅付近は田園地帯も多く、好天の日には会津磐梯山の姿が楽しめる。秀麗な姿で、会津地方に伝えられた民謡では「宝の山よ」と唄われてきた

 

↑会津鉄道会津線の起点となる西若松駅。駅表示にJR東日本と会津鉄道の社章が掲げられている。鶴ヶ城の最寄り駅だが、城まで歩くと20分ほどかかる

 

西若松駅は会津線の起点駅だが、ここで終点となる列車はなく、全列車がこの先、JR只見線を走り会津若松駅まで乗り入れている。

 

会津若松駅は、会津若松市の玄関駅。会津藩にちなんだ史跡も多い。街の中心や主要な史跡は、会津若松駅からやや離れているので、まちなか周遊バス「ハイカラさん」を利用すると便利だ。

↑会津若松市の玄関口、JR会津若松駅。会津線の全列車は同駅からの発車となる。駅前に戊辰戦争の際に犠牲となった少年たちを讃えた「白虎隊士(びゃっこたいし)の像」が立つ

 

実に「絵」になる鉄道路線!! フォトジェニックな信州ローカル線の旅【長野電鉄長野線】

おもしろローカル線の旅~~長野電鉄長野線(長野県)~~

 

信州の山々を背景に走る赤い電車は長野電鉄長野線の特急「ゆけむり」。最前部と最後部に展望席があり、列車に乗りながらにして迫力ある展望風景が楽しめる。

長野電鉄長野線は長野駅と湯田中駅間を結ぶ33.2kmの路線。起点となる長野駅はJR駅に隣接した地下にホームがあり、また長野市街は路線が地下を走っていることもあって、ローカル線というより都市路線だろう、という声も聞こえそうだ。

 

しかし、千曲川を越えた須坂市、小布施(おぶせ)町、中野市を走る姿は魅力あるローカル線そのもの。山々をバックに見ながら走る姿が実に絵になる。ここまで“写真映え”する鉄道路線も少ないのではないだろうか。今回は、絵になる長野電鉄の旅を、写真を中心にお届けしよう。

 

【写真映えポイント1】

赤い特急と山や草花、木の駅舎の組み合わせが絶妙!

なぜ、長野電鉄長野線は写真映えするのだろう。まず車体色が、赤が基本となっていることが大きいように思う。色鮮やかで写りがいい。

 

特急は、1000系「ゆけむり」(元小田急ロマンスカー10000形HiSE)と、2100系「スノーモンキー」(元JR東日本253系「成田エクスプレス」)の2タイプが走る。それぞれ赤ベースの車体が鮮やかで、青空、周囲の山々、花が咲く里の景色、そして木の駅舎と絶妙な対比を見せる。

 

普通電車の8500系(元東急8500系)や3500系(元営団地下鉄3000系)も、車体に赤い帯が入り華やかで、こちらも信州の風景と良く似合う。

↑特急「ゆけむり」が信濃竹原駅を通過する。1000系は、元小田急電鉄のロマンスカー10000形。赤い特急電車と古い駅舎とのコントラストが何とも長野電鉄らしい

 

↑桜沢駅付近を走る特急「ゆけむり」。4月末、ようやく信州に遅い春がやってくる。沿線は桜などの草花が一斉に花ひらき見事だ。車窓から望む北信五岳にはまだ雪が残る

 

【写真映えポイント2】

プラス100円で乗車可能な「ゆけむり」展望席がGOOD!

車内から撮った風景も写真映えしてしまう。

 

特に特急「ゆけむり」の前後の展望席から見た風景が素晴らしい。展望席は、広々した窓から迫力の展望が楽しめる特等席で、志賀高原や高社山など沿線の変わりゆく美景が存分に楽しめる。

↑夜間瀬駅〜上条駅付近からは志賀高原を列車の前面に望むことができる。ぜひ特急「ゆけむり」の展望席から山景色を楽しみたい

 

↑長野線の夜間瀬川橋梁から望む高社山(こうしゃさん)標高1351.5m。整った姿から高井富士とも呼ばれ、信州百名山にも上げられている

 

特急「ゆけむり」は、元は小田急ロマンスカー10000形として生まれた車両で、小田急当時のニックネームはHiSE。車内に段差があり、バリアフリー化が困難なため、登場からちょうど25年という2012年に小田急電鉄から姿を消した。この2編成が長野電鉄へやってきて大人気となっているのだ。

 

筆者が乗車した週末には、小布施人気のせいか、長野駅〜小布施駅間は混んでいた。その先の小布施駅→湯田中駅はそこそこの空き具合となった。湯田中駅発の上り「ゆけむり」にも乗車したが、湯田中→小布施間で、運良く後部展望席を独り占めという幸運に出会えた。

 

この美景が乗車券+特急券100円(乗車区間に関わらず)で楽しめるのが何よりもうれしい。指定席ではなく自由席なので、席が開いてればどこに座っても良い。

 

週末には「ゆけむり〜のんびり号〜」という、ビューポイントでスピードを落として走るなど、まさに写真撮影にぴったりの特急も走るので、ぜひチャレンジしていただきたい(列車情報は記事末尾を参照)。

 

【写真映えポイント3】

長野電鉄のレトロな駅舎が、また絵になる!

駅で撮った写真も絵になる。

 

長野電鉄の路線の開業は大正の終わりから昭和の初期にかけて。開業したころに建てられた木造駅舎が信濃竹原駅、村山駅、桐原駅、朝陽駅と、複数の駅に残っている。トタン屋根、ストーブの煙突、木の腰板。木の格子入りガラス窓といった、古い駅の姿を留めている。

↑須坂駅の跨線橋で写した1枚。長野電鉄の多くの駅ではいまも昭和の駅の懐かしい情景がそこかしこに残されている

 

↑先にも紹介した信濃竹原駅の駅舎。開業は1927(昭和2)年のこと。90年も前の昭和初期の駅舎がほぼ手付かずの状態というのがうれしい

 

↑こちらは村山駅。駅の開業は1926(大正15)年のこと。沿線ではほかに、桐原駅、朝陽駅に古い木造の駅舎が残っている

 

長い時間、そこに立ち続けてきた駅舎。日々、人々を見送り迎えてきたそんな多くのストーリーが透けて見えてきそうだ。この4駅ほど古くはないものの、ほかの駅で目に触れる風景もレトロ感たっぷりで、何気なく撮った風景が実に絵になるのだ。

 

【写真映えポイント4】

さりげなく置かれる古い車両や機器にも注目

停車中の保存車両や、古い機器も絵になる。

 

例えば、須坂駅には赤い帯を取った3500系06編成2両が停められている。同車両は元営団地下鉄日比谷線の3000系で、当時、珍しかったセミステンレス車体を採用、車体横はコルゲートと呼ばれる波形の板が使われている。

↑須坂駅構内の3500系。この車両はすでに引退した車両で、長野電鉄の赤い帯やNAGADENという表示も取られ、営団地下鉄当時のオリジナルの姿に戻されている

 

1961(昭和36)年に登場し、高度成長期に都心を走る日比谷線の輸送を支え、1994(平成6)年に、日比谷線の最終運転を終えている。同車両は、長野電鉄のみに計39両が譲渡され、現在も現役車両として活躍している。ちなみに2両は2007年に東京メトロに里帰りした。

 

日比谷線を走っていた往時の姿を知る人にとっては、この須坂駅にたたずむ古い車両に、胸がキュンとなってしまう人も多いのではないだろうか。

 

また、須坂駅のホームには、いまでは使われていない古い転轍器(てんてつき)が多く置かれ、保存されている。

↑ポイント変更用の転轍器(てんてつき)なども須坂駅のホームで保存されている。右側に発条転轍器が並ぶ。このような古い装置が特に説明もなく保存されていておもしろい

 

これらの保存車両や転轍器は、特に案内があるわけでなく、また乗客に見せるために保存展示されているわけではない。さりげなく置かれているといった様子である。そこに案内表示はなくとも、長野電鉄を守ってきたという誇りが伝わってくるようでほほ笑ましい。

【残る路線の謎】不自然なS字の姿をしているワケを探る

ここからは長野電鉄長野線の歴史と路線の概要を説明していこう。

上の路線図を見るとわかるように、路線は長野駅からSの字を描きつつ湯田中へ向かう。

 

まずは長野駅と東西に結ぶ路線が千曲川を越えて須坂駅へ向かう。須坂駅の手前で急カーブ、信州中野駅までではほぼ南北の路線が結ぶ。信州中野駅から先で急カーブ、路線が東に向かい回り込むようにして湯田中駅を目指している。

 

この路線、須坂駅と信州中野駅付近の曲がり方が極端に感じてしまう。どうしてなのだろう。

 

現在は長野線という1つの路線になっているが、開業時は千曲川東岸を走る路線が先に設けられた。その歴史を追うと、

1922(大正11)年6月 河東(かとう)鉄道により屋代駅〜須坂駅間が開業

1923(大正12)年3月 須坂駅〜信州中野駅間が開業

1925(大正14)年7月 信州中野駅〜木島駅間が開業 河東線全線開通

 

そのほかの路線は

1926(大正15)年6月 長野電気鉄道により権堂駅〜須坂駅間が開業。この年に河東鉄道が長野電気鉄道を合併、長野電鉄となる

1927(昭和2)年4月 平穏線の信州中野駅〜湯田中駅間が開業

1928(昭和3)年6月 長野駅〜権堂駅間が開業、現長野線が全線開通する

 

このように、長野電鉄は、元々、千曲川東岸の屋代駅と木島駅(長野県飯山市)を結ぶ鉄道が最初に造られ、その後に沿線の途中駅から長野駅へ、また湯田中駅へ路線が延ばされていった。

 

長年、この路線網が引き継がれていたが、利用者減少が著しくなり、まず2002(平成14)年3月末に木島駅〜信州中野駅間が、2012年3月末に屋代駅〜須坂駅間の路線が廃止された。南北に延びていた路線がそれぞれ廃線になり、S字の路線のみが長野線として残されたわけだ。

↑2012年3月まで運行していた長野電鉄屋代線(須坂駅〜屋代駅間)。真田松代藩の城下町・松代(まつしろ)を通る路線でもあった。写真は松代駅に入線する3500系電車

 

↑現在、須坂駅から屋代方面へ延びる線路の一部が残り河東線(かとうせん)記念公園として整備されている。例年、10月中旬の土曜日にイベントも開かれている

 

↑信州中野駅の先で湯田中方面へ線路が右にカーブしている。左の線路は木島駅へ向かった元河東線の線路跡。この分岐付近のみ線路が残されている

 

【輝かしい歴史】上野駅発、湯田中駅行き列車も走っていた!

長野電鉄が最も輝いていたのが1960年ごろから1980年ごろだった。1961(昭和36)年からは、長野電鉄への乗り入れる上野駅発の列車が運転された。国鉄の急行形車両を利用、信越本線の屋代駅から、屋代線経由で湯田中駅まで直通運転を行った。翌年には通年運転が行われるほど乗客も多かった。この直通運転は1982(昭和57)年11月まで続けられている。

 

自社製の車両導入も盛んで1957(昭和32)年には、地方の私鉄会社としては画期的な特急形車両2000系も登場させた。その後、1967(昭和42)年には鉄道友の会ローレル賞を受賞した0系や10系といった一般列車用電車も新製するなど、精力的に新車導入を続けた。

 

路線も長野駅〜善光寺下駅間の地下化工事が1981(昭和56)年3月に完了している。

↑かつての須坂駅構内の様子。中央が2000系特急形車両でツートン塗装車と、後ろにマルーン色の編成が見える。2006年に特急運用から離れ2012年3月をもって全車が引退した

 

そんな順調だった長野電鉄も1980年代から陰りが見えはじめた。先の国鉄からの直通列車も1982年に消えた。営業収入は1997年の35億2000万円をピークに、長野冬期五輪が開催された1998年から減収に転じ、2002年には24億6000万まで落ち込んでいる。

 

この2002年に信州中野駅〜木島駅間の河東線の路線を廃止した影響もあったが、急激な落ち込みは河東線と平行して走る上信越自動車道が、徐々に整備されていったのが大きかった。まず1993年に更埴JCT〜須坂長野東IC間を皮切りに2年ごとに北へ向けて延ばされていき、1999年には北陸自動車道まで全通している。高速道路網の充実で、クルマで移動する人が増え、また高速バスの路線網も充実していった。

 

長野電鉄では2002年と2012年に河東線を廃線にし、車両は首都圏の鉄道会社の譲渡車を主力にするなど、営業努力を続けてきた。同社の平成24年度から平成27年度の損益を見ると(鉄道統計年表による)、平成24年度の5億から平成27年度には8億円まで数字を上げ好転している。前述した古い駅舎が数多く残る理由は、駅舎を建て直すほどの余裕が、これまではなかったという理由もあるのだろう。

 

ただ、古いものが数多く残り、昭和と平成が混在する、まさに写真映えする状況が生まれているわけで、少し皮肉めいた現象とも言えるだろう。

【鉄道好き向け乗車記】長野駅から湯田中駅まで撮りどころは?

長野電鉄長野線の始発駅はJR長野駅西口の地下にある。JR駅を出てすぐのところにあり便利だ。行き止まり式のホームからは、朝夕が特急を含めて15分間隔、日中は20分間隔で列車が発車する。

 

特急は一部列車を除き湯田中駅行き、普通列車は須坂駅もしくは信州中野駅行きが出ている。

↑長野駅の西口を出てすぐ目の前にある長野電鉄長野駅の入り口。こうした造りは都市と近郊を結ぶ都市鉄道の起点駅といった趣だ

 

↑長野電鉄長野駅の地下ホーム。停まるのは2100系「スノーモンキー」と8500系。8500系はいまも東急田園都市線で現役として活躍する車両だ。長野電鉄では2005年から走る

 

長野市街は地下路線が続き、3つ先の善光寺下駅まで地下駅となる。善光寺下駅の先で始めて地上へ出る。長野駅から朝陽駅まで複線区間が続き、しなの鉄道の路線などと立体交差する。朝陽駅から先は、単線区間となり、柳原駅〜村山駅間で千曲川を越える。

↑長野駅〜朝陽駅間は複線区間となっている。2100系「スノーモンキー」と8500系がちょうどすれ違う。写真の桐原駅近くでは都市路線らしい光景が見られる

 

25分ほどで須坂駅に到着する。ここには車両基地があるので、ぜひとも降りて見ておきたい。先の3500系などの保存車両や、古い転轍器などにも出会える。

 

須坂駅からは、ローカル色が強まる。長野ならではリンゴ園も沿線に多く連なる。

 

須坂駅から乗車7分ほどで小布施駅(おぶせえき)に到着する。小布施といえば、名産の栗、そして江戸時代には地元の豪商、高井鴻山(たかいこうざん)が葛飾北斎や小林一茶が招いたことで、独自の文化が花開いたところでもある。

 

そうしたうんちくにうなずきつつも、鉄道好きならばホームの傍らにある「ながでん電車の広場」に足を向けたい。ここには現在、特急として活躍した長野電鉄2000系3両が保存展示されている。車内の見学もできる。

↑小布施駅の構内にある「ながでん電車の広場」。長野電鉄オリジナルの特急型電車2000系が保存展示される。傍らの腕器式信号機もいまとなっては貴重な存在を言えるだろう

 

信州中野駅から先は、長野線の閑散区間となる。長野駅から湯田中駅まで直通で走る普通列車はなく、途中の須坂駅か信州中野駅での乗り換えが必要となる。

 

信州中野駅〜湯田中駅間では、朝夕30分間隔、日中は特急を含めて1時間に1本の割合で電車が走っている。本数は少なくなるものの、信州中野駅〜湯田中駅間には絵になるポイントが多く集まっている。

 

まず夜間瀬川橋梁。左右に障害物のないガーダー橋で、橋を渡る車両が車輪まで良く見える。もちろん撮影地としても名高い。車内からは高井富士とも呼ばれる高社山が良く見えるポイントでもある。

↑夜間瀬川橋梁を渡る2100系「スノーモンキー」。元JR東日本253系で、特急「成田エクスプレス」として走った。長野電鉄では2編成が入線、4人掛け個室(有料)も用意される

 

夜間瀬川を渡ると、路線は右に左にカーブを切りつつ、勾配を登っていく。このあたりの沿線はリンゴ園や、モモ園などが多いところ。GWごろは薄ピンクのリンゴの花、桃色のモモの花が沿線を彩り見事だ。

↑夜間瀬駅〜上条駅間を走る1000系「ゆけむり」。GWごろ高社山を仰ぎ見る夜間瀬付近ではモモやリンゴの花が見ごろを迎える

 

リンゴ園を見つつ急坂を登れば、列車は程なく湯田中駅に到着する。

 

この駅の構造、少し不思議に感じる人がいるかもしれない。現在のホームと駅舎とともに、すぐ隣に古い駅舎とホームがある。実はかつて、普通列車よりも長い編成の特急列車などは駅の先にある県道を越えて引込線に入り、折り返してホームに入っていた。

 

駅構内でスイッチバックする複雑な姿の駅だったのだ。さすがに不便だということで、2006年に大改造、スイッチバック用の施設は取り外され、現在のホームと線路のみとなっている。

↑湯田中駅に到着した1000系「ゆけむり」。右側の駅舎がかつての駅舎で、現在は日帰り温泉施設として使われている。線路は右側ホームにも沿って敷かれていた

 

↑日帰り温泉施設「楓の湯」として使われる旧湯田中駅舎。この建物の前には足湯(写真円内)もあり、無料で湯田中温泉の湯を楽しむことができる

 

列車が到着すると「美(うるわ)しの志賀高原」という懐メロがホームに流れる。志賀高原、そして湯田中・渋温泉の玄関口である湯田中駅らしい演出でもあるのだが、この曲が作られたのは1956(昭和31)年だという。このタイムスリップ感は並ではない。これぞ世代を超えた永遠のリゾート、志賀高原! というところだろうか。

↑湯田中駅前のバス乗り場。奥志賀高原ホテル行きや白根火山行きのバスが出ている。こうした“高原行きバスと乗り場”の光景も昭和の面影が強く感じられ、懐かしく感じられた

 

【観光列車の情報】

毎週末、下り:長野駅13時6分発、上り:湯田中駅11時25分発の上下2本は特別な「ゆけむり〜のんびり号〜」として走る。普通列車のようにゆっくりと沿線を走る観光案内列車で、撮影スポットで徐行運転を行うサービスもあるので、期待したい。料金は通常の特急と同じで、乗車券プラス特急券100円が必要。一部の車両はワインバレー専用車両となる(要予約)。

762mm幅が残った謎――三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

おもしろローカル線の旅~~三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道(三重県)~~

 

今回のおもしろローカル線の旅は、線路の幅について注目してみたい。

 

日本の鉄道の線路幅は次の2タイプが多い。まずは国際的な標準サイズを元にした1435mmで、新幹線や私鉄の一部路線の線路幅がこのサイズだ。JRや私鉄など在来線には1067mmという線路幅が多い。ほかに1372mmという線路幅も、京王電鉄京王線や都営新宿線で使われている。

 

さて、そこで注目したいのが、今回紹介する、三重県を走る三岐(さんぎ)鉄道北勢(ほくせい)線と四日市あすなろう鉄道という2つの路線。この2つの路線は762mmという、ほかと比べるとかなり細い線路幅となっている。

↑三岐鉄道北勢線の線路。踏切を渡る軽自動車を比較してみても、762mmという線路幅の細さがよくわかる

 

↑コンパクトな車両に比べると集電用のパンタグラフがかなり大きく、ちょっとアンバランスに感じてしまう

 

↑三岐鉄道北勢線の車内。細い線路幅に合わせ車内の横幅もせまい。そのためシートに大人同士が座ると、このような状況になる

 

ちなみに762mmという線路幅はナローゲージとも言い、この線路幅の鉄道は軽便鉄道(けいべんてつどう)と呼ばれる。大正末期から昭和初期、全国さまざまなところに鉄道路線が敷かれていったころに、地方の鉄道や鉱山鉄道、森林鉄道などが採用したサイズだった。1435mmや1067mmといったサイズに比べて、小さいために建設費、車両費、維持費が抑えられるという利点がある。

 

一方で、ほかの鉄道路線と車両が共用できない、また貨車などの乗り入れできない、スピードが出せない、といった短所があり、鉄道が成熟するにしたがって、多くの軽便鉄道が線路幅を広げるなどの変更がなされ、あるいは廃線になるなどして消えていった。

 

現在、762mmという線路幅を採用している旅客線は、三重県内を走る三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道の2路線に加えて、富山県の黒部峡谷鉄道のみとなっている。黒部峡谷鉄道の場合は、山岳地帯、しかも峡谷沿いの険しい場所にダム工事用の鉄道を通すために、あえて軽便鉄道のサイズにした経緯がある。

 

では、三重県の平野部に、なぜ762mmという線路幅の鉄道が残ったのだろうか。

 

【762mm幅が残った謎】広げる機会を逸してしまった両路線

三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道の両路線は、いまでこそ運行している会社が違うものの、生まれてからいままで、似た生い立ちをたどってきた。762mmの線路幅の路線が残った理由には、鉄道の利用者が多かった時代に、線路の幅を広げる機会を逸してしまったからにほかならない。

 

路線が開業したのは、四日市あすなろう鉄道が1912(大正元)年8月(日永駅〜伊勢八王子駅=1976年廃駅に)、三岐鉄道北勢線が1914(大正3)年4月(西桑名駅〜楚原駅間)と、ほぼ同時期だ。

 

開業させたのは三岐鉄道北勢線が北勢鉄道、四日市あすなろう鉄道が三重軌道(後に三重鉄道となる)という会社だった。太平洋戦争時の1944(昭和19)年に両社を含めて三重県内の複数の鉄道会社が三重交通として合併する。

 

その後に三重交通は、三重電気鉄道と名を変え、さらに近畿日本鉄道と合併(1965年)という経過をたどり、それぞれが近鉄北勢線と、近鉄内部線(うつべせん)・八王子線となった。

 

三重電気鉄道と近畿日本鉄道が合併した前年に、三重電気鉄道三重線(いまの近鉄湯の山線)が762mmから1067mmに改軌している。1960年代は鉄道需要が高まりを見せた時代であり、利用者が急増していたそんな時代でもあった。湯の山線は、沿線に温泉地があり、その観光客増加を見込んだため、改軌された。

 

その後の、モータリゼーションの高まりとともに、地方の鉄道路線は、その多くが利用者の減少に苦しんでいく。線路幅を変更するための工事は、新路線を開業させるくらいの資金が必要となる。近鉄湯の山線のように利用者が増加していた時代に改軌を実現した路線がある一方で、近鉄北勢線と、近鉄内部線・八王子線の路線は762mmという線路幅のまま残されてしまった。

 

40年以上にわたり、運行を続けてきた近鉄も、路線の維持が困難な状況に追いこまれていった。

 

2003(平成15)年4月に、近鉄北勢線が三岐鉄道に運営を譲渡、さらに2015(平成27)年4月に近鉄内部線と八王子線が四日市あすなろう鉄道へ運営が移管された。ちなみに四日市あすなろう鉄道は、近鉄と四日市市がそれぞれ出資して運営する公有民営方式の会社として生まれた。

【三岐鉄道北勢線】見どころ・乗りどころがふんだんに

前ふりが長くなったが、まずは路線距離20.4km、西桑名駅〜阿下喜駅(あげきえき)間、所要1時間の三岐鉄道北勢線の電車から乗ってみよう。

↑三岐鉄道北勢線の電車は一部を除き、車体はイエロー。車体の幅は2.1mで、JR在来線の車両幅、約3m弱に比べるとスリムで、コンパクトに感じる

 

北勢線の車両の幅は2.1m。車両の長さは15mが標準タイプとなっている。ちなみにJR山手線を走るE235系電車のサイズは幅が2.95m、長さは19.5mなので、幅はほぼ3分の2、長さは4分の3といったところだ。

 

乗ると感じるのは、そのコンパクトさ。先に紹介した車内の写真のように、大人がシートに対面して座ると、通路が隠れてしまうほどだ。

 

北勢線の起点はJR桑名駅に隣接する西桑名駅となる。列車は朝夕が15〜20分間隔、日中は30分間隔で運転される。そのうち、ほぼ半分が途中の楚原駅(そはらえき)止まりで、残りは終点の阿下喜駅行きとなる。

↑JR桑名駅に隣接する北勢線の西桑名駅。ホームは1本で、阿下喜行きか楚原行き電車(朝夕発車の一部電車は東員・大泉行きもあり)が15〜30分おきに出発している

 

↑北勢線の電車は正面が平たいスタイルの電車がほとんどだが、写真の200系は湘南タイプという形をしている。同編成のみ三重交通当時の深緑色とクリーム色に色分けされる

 

ほかの路線では経験することができない面白さ

さて762mmという線路幅の北勢線。床下からのモーター音が伝わってくる。かつての電車に多い吊り掛け式特有のけたたましい音だ。さらに乗ると独特な揺れ方をする。横幅がせまく、その割に車高があるせいか、横揺れを感じるのだ。クーラーの室外機も昨今のように天井ではなく、車内の隅に鎮座している。

 

ただこうした北勢線の音や揺れ、車内の狭さは、ほかの路線では経験することができない面白さでもある。

 

途中の楚原駅までは、ほぼ住宅地が連なる。楚原駅を過ぎると、次の駅の麻生田駅(おうだえき)までの駅間は3.7kmと離れている。この駅間が北勢線のハイライトでもある。車窓からは広々した田畑が望める。車内からは見えないが、コンクリートブロック製のアーチが特徴の「めがね橋」や、ねじれた構造がユニークな「ねじれ橋」を渡る。楚原駅から麻生田駅へは、傾斜も急で吊り掛け式モーターのうなり音が楽しめるポイントだ。

↑橋脚のアーチ部分が美しい「めがね橋」を北勢線140形が渡る。楚原駅からは1.2km、徒歩で15分ほどの距離で行くことができる

 

麻生田駅から終点の阿下喜駅へは員弁川(いなべがわ)沿いを下る。西桑名駅からちょうど1時間。乗りごたえありだ。運賃は全区間乗車で片道470円、1日乗り放題パスは1100円で販売されている。この1日乗り放題パスは、北勢線とほぼ平行して走る三岐線の乗車も可能だ。北勢線と三岐線を乗り歩きたい人向けと言えるだろう。

 

阿下喜駅には駅に隣接して軽便鉄道博物館もある。開館は第1・3日曜日の10〜16時なので、機会があれば訪れてみたい。

↑阿下喜駅に隣接する軽便鉄道博物館には、モニ226形という車両が保存されている。1931(昭和6)年に北勢線を開業させた北勢鉄道が導入した電車で荷物を積むスペースがある

 

さて北勢線の現状だが、順調に乗客数も推移してきている。2003年に三岐鉄道に移管され、運賃値上げの影響もあり一時期、落ち込んだ。その後に車両を冷房化、高速化、また曲線の改良工事などで徐々に乗客数も持ち直し、最近では近鉄当時の乗客数に匹敵するまで回復してきた。沿線の地元自治体からの支援が必要な状況に変わりはないが、明るい兆しが見え始めているように感じた。

【四日市あすなろう鉄道】車両リニューアルでイメージUP!

四日市あすなろう鉄道は全線が四日市市内を走る鉄道だ。

 

路線はあすなろう四日市駅〜内部駅間を走る内部線5.7kmと、日永駅〜西日野駅間の八王子線1.3kmと、2本の路線がある。西日野へ行く路線に八王子線という名が付く理由は、かつて同路線が伊勢八王子駅まで走っていたため。集中豪雨により西日野駅〜伊勢八王子駅間が1974(昭和49)年に不通となり、復旧されることなく、西日野駅が終着駅となった。

 

電車は起点のあすなろう四日市駅から内部駅行きと、西日野駅行きが出ている。それぞれ30分間隔、朝のみ20分間隔で走る。路線の距離が短いため、あすなろう四日市駅〜内部駅間で18〜20分ほど。あすなろう四日市駅〜西日野駅間にいたっては8分で着いてしまう。

 

四日市あすなろう鉄道になって、大きく変わったのが車両だ。近鉄時代の昭和50年代に造られた車両を徹底的にリニューアル。車内は、窓側に1人がけのクロスシートが並ぶ形に変更された。通路も広々していて、通勤通学も快適となった。同車両は、技術面で優れた車両に贈られる2016年のローレル賞(鉄道友の会が選出)にも輝いている。たとえ762mmと線路の幅は細くとも、居住性に優れた車両ができるということを示したわけだ。

↑四日市あすなろう鉄道となり、旧型車をリニューアル、新260系とした。同車両は車内環境の向上などが評価され、2016年に鉄道友の会ローレル賞を受賞している

 

↑リニューアルされた新260系は、ブルーの車両に続いて薄いグリーンの車両も登場。3両編成に加えて2両編成も用意され、輸送量に応じた運用が行われている

 

↑新260系の明るい車内。1人掛けクロスシートで、座り心地も良い。通路は広く造られていて、立っている乗客がいても圧迫感を感じることなく過ごすことができる

 

↑車内には吊り革(車内端にはあり)の代わりに座席にハート型の手すりが付けられている。車内が小さめなこともあり、吊り革よりこの手すりのほうが圧迫感なく感じる

 

まるで模型の世界のような可愛らしい駅や車両基地

近鉄四日市駅の高架下に同路線の起点、あすなろう四日市駅がある。ホームは1面、2本の線路から内部駅行き、西日野駅行きが出発する。
料金はあすなろう四日市駅から日永駅・南日永駅までが200円、それより先は260円となる。この200円と260円という料金以外はない。1dayフリーきっぷは550円。全線乗車する時や、また途中下車する場合には、フリーきっぷの方がおトクになる。

↑四日市あすなろう鉄道の車両の形をした1dayフリーきっぷ550円。あすなろう四日市駅の窓口で購入できる

 

↑内部行きと西日野行きが並ぶあすなろう四日市駅。朝は3両編成の新260系がフル回転で走っている

 

車両は現在、新260系が大半を占めている。新会社に移行したあとに、リニューアルされた車両だけに、きれいで快適。乗っても762mm幅ならではの狭さが感じられなかった。乗り心地も一般的な電車と差がない。

 

路線は内部線、八王子線ともに四日市の住宅街を走る。面白いのは内部線と八王子線が分岐する日永駅。駅の手前、四日市駅側で路線が分岐、八王子線用のホームはカーブの途中に設けられている。急カーブに車両が停車するため、ドアとホームの間に、やや隙間ができる。

 

ちなみにこの急カーブ、半径100mというもの。新260系などの車両の先頭部が、前にいくにしたがい、ややしぼむ形をしているが、この半径100mという急カーブで、車体がホームにこすらないようにするための工夫だ。

↑日永駅で内部線と八王子線の線路が分岐している。手前が内部行き電車。向かいが八王子線の電車。同駅で必ず内部線と八王子線の電車がすれ違うダイヤとなっている

 

ちなみに内部線は国道1号とほぼ平行して線路が敷かれている。途中、追分駅前を通る道は旧東海道そのものだ。古い町並みも一部に残っているので、時間に余裕があれば歩いてみてはいかがだろう。

 

八王子線の終点、西日野駅は日永駅から1つ目、行き止まりホームで駅舎もコンパクトだ。

 

内部線の終点は路線名のまま内部駅。この駅も味わいがある。駅の建物を出ると、すぐ右手に引込線があり、検修庫に電車が入っている場合は、駅のすぐ横まで先頭車が顔をのぞかせている。762mmという線路幅ならではの小さめの車両が顔をのぞかせるシーンは、普通サイズの車両のような威圧感もなく、見ていて何ともほほ笑ましい。それこそ鉄道模型のジオラマの世界が再現されているような、不思議な印象が感じられた。

↑内部駅を出たすぐの横にある検修庫。鉄道模型のジオラマの世界のような趣がただよう。普通サイズの電車ではとても味わえないサイズ感の違いが楽しめる

 

帰りは偶然だが、古くから走るパステル車両に乗り合わせた。3両編成のうち中間車両はロングシートで、乗るとナローゲージ特有の狭さが感じられた。昭和生まれの1編成(265・122・163号車)は何と2018年9月で引退する予定とされている。昔ながらの内部線・八王子線の雰囲気が味わえるのもあと少しとなった。

↑新260系が増えているなか、パステルカラーの旧車両の面影を残した車両も1編成3両のみ残っている。2018年9月には引退となる予定。乗るならいまのうちだ

日本一短い地下鉄となぜか電化されない路線――名古屋の不思議2路線を乗り歩く【名古屋市営地下鉄上飯田線/東海交通事業城北線】

おもしろローカル線の旅~~名古屋市営地下鉄上飯田線・東海交通事業城北線(愛知県)~~

 

今回紹介する名古屋市営地下鉄上飯田線/東海交通事業城北線の2路線。東海地方にお住まいの方でも、あまりご存知ないのではないだろうか? 沿線に住む人以外には馴染みの薄い路線となっている。だが、2路線とも謎が多く、実に不思議な路線なのだ。

 

【地下鉄上飯田線の謎】なぜ路線距離が0.8kmと短いのか?

まずは名古屋市営地下鉄上飯田線(以降、上飯田線と略)から。こちらはローカル線とは言えないかもしれないものの、異色路線として紹介しよう。

 

上飯田線は平安通駅(へいあんどおりえき)と上飯田駅(かみいいだえき)を結ぶ路線で、その距離は0.8kmしかない。わずかひと駅区間しかなく、上飯田駅より北は、名古屋鉄道(以降、名鉄と略)小牧線となる。そのため、ほぼ全列車がひと駅区間のみ走るのではなく、小牧線との相互乗り入れを行っている。

 

ちなみに0.8kmという路線距離は日本の地下鉄路線のなかで、最も短い。まさか記録を作るために短くしたのではなかろうが、0.8kmという短さは極端だ。なぜこれほどまでに短い路線になってしまったのだろう。

↑路線図ではわずかひと駅区間のみラインカラーが変わっているのがおもしろい

 

当初は名古屋市の中央部まで延ばすプランがあった。しかし−−

上飯田線が誕生したのは2003(平成15)年のこと。開業してから今年でちょうど15年となる。上飯田線が造られた理由は、名古屋市中央部への連絡を良くするためだった。

 

かつては、上飯田駅からは名古屋市電御成通(おなりどおり)線が走り、その市電に乗れば平安通や大曽根へ行けて便利だった。ところが、高度成長期、路面電車がじゃまもの扱いとなり、御成通線も1971(昭和46)年に廃止されてしまった。

 

それ以降、小牧線の上飯田駅は起点駅でありながら、鉄道駅との接続がなく、“陸の孤島”となっていた。その不便さを解消すべく造られたのが上飯田線だった。最小限必要なひと駅区間のみを、先行して開業させた。

↑名古屋市営地下鉄上飯田線の起点となる平安通駅。この駅で名古屋市営地下鉄の名城線と連絡している。車両は名鉄の300系

 

↑上飯田線の終点・上飯田駅。終点でもあり名鉄小牧線との境界駅となる。駅の表示には名古屋市交通局のマークと名鉄の両マークが併記されている

 

利用者が伸びない将来を考えて延伸プランは白紙に

上飯田線の路線着工は1996(平成8)年のこと。当初は0.8km区間に留まらず、名古屋市営地下鉄東山線の新栄町駅、さらに南にある中区の旧丸太町付近まで延ばす計画だった(1992年に答申の「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画」による)。

 

ところが、2000年以降、大都市圏の人口が増加から減少傾向に転じ、新線計画が疑問視されるようになった。そのため名古屋市は当初の計画を見直し、新たな路線開業は行わないとした。こうした経緯もあり、今後も上飯田線は0.8kmという路線距離のままの営業が続けられていきそうだ。

 

希少な名古屋市交通局7000形に乗るなら朝夕に訪れたい

上飯田線の電車はすべて平安通駅での折り返し運転。朝夕は10分間隔、日中でも15分間隔で、便利だ。平安通駅〜上飯田駅の乗車時間は、わずか1分あまり。

 

さすがにひと駅区間は短いので、乗車したら上飯田駅の隣駅、味鋺駅(あじまえき)、もしくは小牧駅や犬山駅まで足を伸ばしてみてはいかがだろう。

 

味鋺駅付近からは、地下を出て、外を走り始める。郊外電車の趣だ。小牧線の終点、犬山駅までは、平安通駅から片道30分ちょっと。犬山駅で接続する名鉄犬山線の電車で名古屋駅方面へ戻ってきてもいい。

↑上飯田線を走る電車のほとんどが名古屋鉄道の300系だ。電車は平安通駅発の小牧駅行きや犬山駅行きが多い。平安通駅から犬山駅までは所要時間30分ほど

 

上飯田線を走る電車は、ほとんどが名古屋鉄道の300系だ。ヘッドライトが正面中央部の高さにない不思議な顔立ちをしている。客席はロングシートとクロスシート併用タイプだ。

 

この上飯田線には名古屋市営地下鉄(運行する名古屋市交通局が所有)の電車も走っている。それが7000形だ。この7000形、4両編成×2本しか造られなかった車両で、この路線ではレアな存在となっている。切れ長のライトで、個性的な顔立ちをしている。

↑名古屋市交通局の7000形。2編成しか走っておらず、レアな存在。朝夕の時間帯のみを走ることが多い。フロントのピンク部分が色落ちしているのがちょっと残念だった

 

日中はあまり見かけることのない車両でもある。7000形に乗りたい、撮りたい場合は、朝夕に訪れることをオススメしたい。

【東海交通事業城北線の謎】なぜJR東海城北線ではないのか?

東海交通事業城北線(じょうほくせん・以下、城北線と略)は、中央本線の勝川駅(かちがわえき)と東海道本線の枇杷島駅(びわじまえき)間の11.2kmを結ぶ。

 

この路線には不思議な点が多い。まずはその運行形態について。

 

城北線は名古屋市の北側を縁取るように走る。起点となる勝川駅は、名古屋市に隣接する春日井市の主要駅で、JR中央本線の勝川駅は乗降客も多い。終点の枇杷島駅は、東海道本線に乗れば名古屋駅から1つめの駅だ。名古屋から近い両駅を結ぶこともあって、利用者は多いように思える。しかも全線が複線だ。

 

それにも関わらず非電化でディーゼルカーが使われている。しかも1両での運転だ。列車本数も朝夕で20〜30分に1本。日中は1時間に1本という、いわば閑散ローカル線そのものなのである。

↑東海交通事業城北線の車両はキハ11形のみ。朝夕を含め全時間帯、ディーゼルカー1両が高架橋を走る光景を見ることができる。正面に東海交通事業=TKTの社章が入る

 

↑枇杷島駅の駅舎にはJR東海と東海交通事業の社章が掲げられる。同駅の1・2番線が城北線の乗り場となっている

 

↑非電化にも関わらず、ほぼ全線が高架で複線という城北線。線路は名古屋第二環状自動車道の高架橋に沿って設けられている

 

JR東海の路線だが、列車を走らせるのは東海交通事業

城北線は運営方法も不思議だ。

 

路線を保有するのはJR東海で、JR東海が第一種鉄道事業者となっている。運行を行っているのはJR東海でなく、子会社の東海交通事業だ。城北線では、この東海交通事業が第二種鉄道事業者となっている。

 

さらに不思議なのは他線との接続。

 

終点の枇杷島駅のホームは東海道本線と併設され、乗り継ぎしやすい。

 

一方の勝川駅は、中央本線のJR勝川駅と離れている。JR勝川駅には城北線乗り入れ用のスペースが確保されているのだが、乗り入れていない。乗り入れをしていないどころか、両線の高架橋がぷっつり切れている。両鉄道の駅名は同じ勝川駅なのに、駅の場所は500mほど離れていて、7分ほど歩かなければならない。

 

JRの路線以外に、路線の途中で2本の名鉄路線とクロスしているが、接続はなく、最も近い城北線の小田井駅と名鉄犬山線の上小田井駅(かみおたいえき)でさえ約0.5kmの距離がある。

 

利用する立場から言えば、不便である。なぜこのような状況になっているのだろう。

↑手前はJR中央本線の高架橋。右奥が城北線の勝川駅がある高架橋。写真のようにぷっつりと両線の高架橋が切れている。さらにJR勝川駅と城北線勝川駅は500mほど離れている

 

↑城北線の勝川駅ホームから200m近く歩道が設けられている。その横に城北線用の留置線があり保線用の車両などが置かれている。先に見えるのがJR中央本線の高架橋

 

↑城北線ではICカードが使えず、車内清算のみ可能(一部駅では乗車券を販売)。枇杷島駅で下車するときは降車証明書が渡され、JR東海道本線へは一度ゲートを出て乗り換える

 

40年間にわたり必要となる路線のレンタル料

JR東海は現状、城北線を建設した鉄道建設・運輸施設整備支援機構(着工時は日本鉄道建設公団)から路線を借りて列車を走らせている。当然、そのための借損料を支払っている。借損料とは造った鉄道建設・運輸施設整備支援機構に対して払う賃借料のこと。「借りている路線の消耗分の賃料」という名目になっている。その金額は膨大で年間49億円とされている。この支払いは開業してから40年(城北線の全線開業は1993年)という長期にわたって行われる。

 

借損料は、現時点の設備にかかるもので、もし電化や路線延長など改良工事を“追加発注”してしまうと、支払う金額は、さらに上がってしまう。

 

投資金額に見合った収益が上がれば良いのだろうが、城北線の開業時点で、そこまでは見込めないと考えたのだろう。そのため、運営は子会社に任せ、運行も細々と続けられている。現状、駅の改良工事などの予定もなく、いわば塩漬け状態になっている。

 

路線の途中で上下線が大きくわかれる理由は?

城北線の路線は、不相応と思えるぐらい、立派な路線となっている。なぜこのような路線が造られたのだろう。小田井駅~尾張星の宮駅間にそのヒントがある。

↑小田井駅〜尾張星の宮駅間で上下線が大きく離れ、また高低差がある。ここから東海道本線の稲沢方面へ路線が分岐する予定だった

 

この駅間では上の写真のように上下線が離れ、また高低の差がある。ここから東海道本線の稲沢方面へ分岐線が設けられる予定だった。稲沢駅には旅客駅に加えてJR貨物の拠点駅がある。

 

下の地図を見ていただこう。名古屋周辺のJRの路線と、未成線の路線図だ。城北線と未成線の瀬戸線を結びつけることで、中央本線と東海道本線との間を走る貨物列車をスムーズに走らせたい計画だった。

 

かつて名古屋中心部を迂回する遠大な路線計画が存在した

JRとなる前の国鉄時代。輸送力増強を目指して、各地で新線計画が多く立てられた。城北線もその1つの路線だった。前述の地図を見てわかるように、城北線は中央本線と東海道本線を短絡する路線であることがわかる。

 

この地図には入っていないが、東側に東海道本線の岡崎駅〜中央本線の高蔵寺駅間を結ぶ岡多線・瀬戸線が同時期に計画され造られた。その路線は現在、愛知環状鉄道線として利用されている。

 

この愛知環状鉄道線と城北線をバイパス線として利用すれば、列車の運行本数が多い名古屋駅を通らず、東海道本線の貨物列車をスムーズに走らせることができると考えられた。

 

首都圏で言えば、東京都心を通る山手貨物線を走らずに貨物輸送ができるように計画されたJR武蔵野線のようなものである。

↑中央本線を走る石油輸送列車。四日市〜南松本間を走るが、名古屋近辺では一度、稲沢駅まで走り、そこでバックして中央本線、または関西本線へ向かうため不便だ

 

↑名古屋の東側を走る愛知環状鉄道線も名古屋のバイパスルートとして生まれた。同路線は国鉄清算事業団が賃借料を引き継ぎ開業、城北線のように借損料が発生しなかった

 

↑流通拠点、名古屋貨物ターミナル駅は名古屋臨海高速鉄道あおなみ線の荒子駅に隣接している。貨物列車は全列車があおなみ線経由で入線する(写真は稲沢駅行き貨物列車)

 

↑城北線や愛知環状鉄道線と同じ時期に造られた南港貨物線の跡。東海道本線から名古屋貨物ターミナル駅へ直接向かう路線として着工されたが、現在その跡が一部に残る

 

借損料の支払いが終了する2032年以降、城北線は変わるか

名古屋近辺では、東海道本線から名古屋貨物ターミナル駅へ直接乗り入れるために南港貨物線の工事も行われた。この南港貨物線も、当初に計画された貨物列車を走らせるというプランは頓挫し、一部の高架施設がいまも遺構として残っている。

 

貨物列車の需要は伸びず、また貨物列車もコンテナ列車が増え、高速化した。こうしたことですべての路線計画が立ち消えとなり、一部の路線が旅客線として形を変えて復活し、開業した。

 

さて城北線の話に戻ろう。城北線の借損料の支払いは、これから14年後の2032年まで続く。ここで終了、めでたくJR東海が所有する路線となる。

 

そこから城北線の新たな時代が始まることになるのだろう。複雑な経緯が絡む城北線の問題。せっかくの公共財なのだから、もっと生かす方法がなかったのだろうか。

 

国鉄時代の負の遺産にいまも苦しめられる構造に、ちょっと残念な思いがした。

カラフルトレインと独特な路面電車が走る稀有な街――“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅~~豊橋鉄道渥美線(愛知県)~~

 

愛知県の東南端に位置する豊橋市。この豊橋市を中心に電車を走らせるのが豊橋鉄道だ。今回はまず、豊橋鉄道がらみのクイズから話をスタートさせたい。

【クイズ1】普通鉄道+路面電車を走らせる会社は全国に何社ある?

【答え1】全国で5社が普通鉄道+路面電車を走らせる

豊橋鉄道は渥美線という普通鉄道(新幹線を含むごく一般的な鉄道を意味する)の路線と、市内線(東田本線)という路面電車を走らせている。こうした普通鉄道と路面電車の両方を走らせている鉄道会社は5社しかない(公営の鉄道事業者を除く)。

 

ここで普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社を挙げておこう。

 

東京急行電鉄(東京都・神奈川県)、京阪電気鉄道(大阪府・京都府など)、富山地方鉄道(富山県)、伊予鉄道(愛媛県)に加えて、豊橋鉄道の計5社だ。東京急行電鉄が走らせる路面電車(世田谷線)は、道路上を走る併用軌道区間がほとんどなく、含めるかどうかは微妙なところなので、実際には4社と言っていいかもしれない。

 

このように豊橋鉄道は全国でも数少ない普通鉄道と路面電車を走らせる、数少ない鉄道会社なのだ。

↑豊橋市内を走る路面電車・豊橋鉄道市内線(東田本線)。写真はT1000形で、「ほっトラム」の愛称を持つ。低床構造の車両で2008年に導入された

 

【クイズ2】1の答えのなかで、県庁所在地でない街を走る鉄道は?

【答え2】県庁所在地でない街を走るのは豊橋鉄道のみ

前述した普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社は、ほとんどが都・府・県庁所在地を走る鉄道だ。

 

5社のうち唯一、豊橋鉄道が走る豊橋市のみ県庁所在地ではない。豊橋市の人口は約37万人で、首都圏で同規模の人口を持つ街をあげるとしたら川越市、所沢市(両市とも埼玉県)が近い。人口30万人台の都市で、普通鉄道と路面電車の両方が走る、というのは異色の存在と言うことができるだろう。

 

豊橋市は愛知県の中核都市とはいえ、豊橋鉄道を巡る環境は決して恵まれていない。にも関わらず豊橋鉄道は優良企業であり、年々、手堅く収益を上げ続けている元気な地方鉄道だ。

 

今回は、そうした“元気印”の豊橋鉄道渥美線と市内線を巡る旅を楽しもう。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべてが1800系。もと東京急行電鉄の7200系だ。電車は3両×10編成あり、すべての色が異なる。写真は1808号車で編成名は「椿」

 

渥美線、市内線ともに90年以上、豊橋を走り続けてきた

豊橋鉄道の歴史を簡単に振り返っておこう。

 

1924(大正13)年1月:渥美電鉄が高師駅(たかしえき)〜豊島駅間を開業

1925(大正14)年5月:新豊橋駅〜田原駅(現・三河田原駅)間が開業

1925(大正14年)7月:豊橋電気軌道が市内線を開業、以降、路線を延長

1940(昭和15)年:名古屋鉄道(以降、名鉄と略)が渥美電鉄を合併

1949(昭和24)年:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更

1954(昭和29)年:豊橋交通が豊橋鉄道に社名を変更。同年に名鉄が渥美線を豊橋鉄道へ譲渡

 

歴史を見ると、太平洋戦争前までは、渥美線と市内線(東田本線)は別の歩みをしていた。その後に名鉄に吸収合併された渥美線が、名鉄の経営から離れ、市内線を走らせていた豊橋鉄道に合流した。ちなみに、現在も豊橋鉄道は名鉄の連結子会社となっている。

 

【豊橋鉄道渥美線】全10色の「カラフルトレイン」が沿線を彩る

豊橋鉄道は旅をする者にとって、乗って楽しめる鉄道でもある。

 

まずは豊橋鉄道渥美線の旅から。渥美線の電車は、その名もずばり「カラフルトレイン」の名が付く。

 

渥美線の電車は、とにかくカラフルだ。3両×10編成の電車が使われるが、すべての色が違う。1801号車は赤い「ばら」、1802号車は茶色の「はまぼう」、1803号車はピンクで「つつじ」、というように各編成には、沿線に咲く草花の愛称が付けられる。

↑赤い車両は1801号で編成名は「ばら」。渥美線の電車は沿線を彩る花や植物にちなんだカラーに正面やドアなどが塗られ、「カラフルトレイン」の名が付けられている

 

↑カラフルトレインの車体には写真のようにカラフルなイラストが描かれる。10編成ある車体の違いを見比べても楽しい

 

電車は元東京急行電鉄の7200系。1967(昭和42)年に誕生したステンレス車で東急では田園都市線、東横線などを長年、走り続けた。2000(平成12)年には全車両がすでに引退している。豊橋鉄道では、この東急を引退した年に計30両を譲り受けた。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべて1800系。元東急の7200系で、製造されたのは昭和42年から。東急車輌の銘板が掲げられる。車歴はほぼ50年だが大事に使われている

 

生まれた年を考慮すると、かなりの古参の車両ではあるが、豊橋鉄道では、古さを感じさせないカラフルなカラーに模様替えされている。

凝ったつくりの1日フリー乗車券。乗車記念にもぴったり

渥美線の起点となる新豊橋駅。駅名が違うものの、JR・名鉄の豊橋駅を出ればすぐ。アクセスも良く駅舎も快適だ。

↑渥美線はJR豊橋駅に隣接した新豊橋駅が起点となる。新豊橋駅は2009年に新装された駅舎で、豊橋駅東口・南口の連絡デッキ(自由通路階)とつながり利用しやすい

 

渥美線を旅するならば新豊橋駅で「1日フリー乗車券(1100円)」を購入したい。単に新豊橋駅と終点の三河田原駅を往復するだけならば、通常切符の方が割安だが(520円×2)、途中駅にも立ち寄るならばフリー乗車券のほうが断然におトクとなる。

 

さらに、この1日フリー乗車券。鉄道好きな人たちの心をくすぐる工夫がされている。ジャバラ状になっていて、広げると渥美線のカラフルトレイン10編成のイラストや解説を楽しむことができるのだ。使用後にも大事に保存してきたい、そんな乗車券だ。

↑豊橋鉄道の1日フリー乗車券。凝ったつくりで表裏に「カラフルトレイン」各色の車両説明とともに沿線の案内がプリントされる。記念に保存しておきたい乗車券だ

 

↑渥美線の新豊橋駅のホームには、フグなどの地元の産品のイラストが描かれる

 

乗車時間は片道40分弱。渥美半島の景色を楽しみながら走る

渥美線は新豊橋駅〜三河田原駅(みかわたはらえき)間の18.0kmを結ぶ。乗車時間は40分弱で、長くもなく、短くもなく、ほどほど楽しめる路線距離だ。

新豊橋駅から、しばらく東海道本線に並走して最初の駅、柳生橋駅へ到着。さらに東海道本線を越え、東海道新幹線の線路をくぐり南下する。

 

しばらく住宅街を見つつ愛知大学前駅へ。このあたりからは愛知大学のキャンパスや、高師緑地など沿線に緑が多く見られるようになる。

 

高師緑地の先にある高師駅(たかしえき)には渥美線の車庫があり、検修施設などをホームから見ることができる。

↑高師駅の南側に車両基地が設けられる。留置線に停まるのは1805号の「菖蒲」。菖蒲は梅雨の時期、豊橋市の賀茂しょうぶ園や田原市の初立池公園などで楽しめる

 

↑1807号「菜の花」の車内。シートは菜の花柄。吊り革も黄色と菜の花のイメージで統一されている。乗っても楽しめるのが豊橋鉄道渥美線の魅力だ

 

芦原駅(あしはらえき)を過ぎると沿線の周辺には畑を多く見かけるようになる。路線が通る渥美半島の産物はキャベツ、ブロッコリー、レタス、スイカ、露地メロンなど。渥美線の1810号車は「菊」が愛称となっているが、電照菊を栽培するビニールハウスの灯りも、この沿線の名物になっている。

 

そうした畑を見つつ乗車すれば、終点の三河田原駅へ到着する。同駅からは渥美半島の突端、伊良湖岬(いらこみさき)行きのバスが出ている。

↑渥美線の終点・三河田原駅。2013年10月に駅舎が改築された。1980年代まで貨物輸送に利用されていたため駅構内はいまも広々としている

【豊橋鉄道市内線】豊橋市内を走る路面電車も見どころいっぱい

豊橋鉄道では路面電車の路線を「豊鉄市内線」と案内している。路線名は東田(あずまだ)本線が正式な名前だ。ここでは市内線という通称名で呼ぶことにしよう。

 

ちなみに東海中部地方では、豊橋鉄道市内線が唯一の路面電車でもある。

 

市内線の路線は駅前〜赤岩口間の4.8kmと、井原〜運動公園前間の0.6kmの計5.4kmである。

 

路面電車は豊橋駅東口にある「駅前」停留場から発車する。行き先は「赤岩口(あかいわぐち)」と「運動公園前」がメインだ。途中の「競輪場前」止まりも走っている。

↑豊橋駅ビル(カルミア)の前に広がる連絡デッキを下りた1階部分に「駅前」停留場がある。写真は「赤岩口」行きの市内線電車。車輌はモ3500形で元都電荒川線7000形

 

名鉄や都電の譲渡車輌に加えて新製した低床車輌も走る

市内線で使われる車輌は5種類。

 

まず低床のLRV(Light Rail Vehicleの略)タイプのT1000形「ほっトラム」は、1925年以来、約83年ぶりとなる自社発注の新製車輌でもある。

 

ほか、モ3200形は名鉄岐阜市内線で使われていたモ580形3両を譲り受けたもの。モ3500形は東京都交通局の都電荒川線を走った7000形で、4両が走る。

 

モ780形は名鉄岐阜市内線を走ったモ780形で、市内線では7両が走り、主力車輌として活躍している。そのほか、モ800形という車輌も1両走る。こちらは名鉄美濃町線を走っていた車輌だ。

↑市内線の主力車輌となっているモ780形。地元信用金庫のラッピング広告が施された781号車など、華やかな姿の車輌が多い

 

↑元名鉄岐阜市内線を走った3203号車。クリーム地に赤帯のカラーは豊鉄標準カラーと呼ばれる。標準カラーだが、実際にはこの色の車輌は少なく希少性が高い

 

↑3201号車は「ブラックサンダー号」。豊橋で生まれ、現在、全国展開するお菓子のパッケージそのものの車体カラー。市内線の「黒い雷神」として人気者になっている

 

↑「おでんしゃ」は車内でおでんや飲み物を楽しみつつ走る、秋からのイベント電車だ。秋の9月24日までは納涼ビール電車が運行されて人気となっている

 

市内線を走る電車は、T1000形以外は、名鉄と都電として活躍した車両が多い。豊橋鉄道へやってきたこれらの電車たち。独特のラッピング広告をほどこされ、見ているだけでも楽しい電車に出会える。

 

日本一の急カーブに加えて、国道1号を堂々と走る姿も名物に

市内線は豊橋駅から、豊橋市街を通る旧東海道方面や、三河吉田藩の藩庁がおかれた吉田城趾方面へ行くのに便利な路線だ。

 

興味深いのは、市役所前から東八町(ひがしはっちょう)にかけて国道1号を走ること。国道1号を走る路面電車は、全国を走る路面電車でもこの豊橋鉄道市内線だけ。自動車や長距離トラックと並走する姿を目にすることができる。

↑豊橋公園前電停付近から東八町電停方面を望む。国道1号の中央部に設けられた市内線の線路を走るのはT1000形「ほっトラム」

 

国道1号を通るとともに、面白い光景を見ることができるのが井原電停付近。井原電停から運動公園前へ行く電車は、交差点内で急カーブを曲がる。このカーブの大きさは半径11mというもの。このカーブは日本の営業線のなかでは最も急なカーブとされている。

 

ちなみに普通鉄道のカーブは最も急なものでも半径60mぐらい。それでもかなりスピードを落として走ることが必要だ。

 

路面電車でも半径30mぐらいがかなり急とされているので、半径11mというカーブは極端だ。このカーブを曲がれるように、同市内線の電車は改造されている。

 

T1000形は、この急カーブを曲がり切れないため、運動公園前への運用は行われていないほどだ。日本で最も厳しいカーブを路面電車が曲がるその光景はぜひとも見ておきたい。

↑井原電停交差点の半径11mという急カーブを走るモ780形。見ているとほぼ横滑りするかのように、また台車もかなり曲げつつスピードを落として走り抜ける

 

赤岩口へ向かう電車は井原電停の先を直進する。赤岩口には同線の車輌基地がある。

 

この赤岩口も、同路線の見どころの1つ。車庫から出庫する電車は市内線に入る際に一度、道路上に設けられた折り返し線に入って、そこでスイッチバックして赤岩口電停へ入る。

 

折り返し線は道路中央にあり、通行する自動車の進入防止の柵もなく、何とも心もとない印象だが、通行するドライバーも慣れているのだろう。白線にそって電車の線路を避けて通る様子が見受けられる。

 

カラフルトレインと独特な路面電車が走る稀有な街――“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅~~豊橋鉄道渥美線(愛知県)~~

 

愛知県の東南端に位置する豊橋市。この豊橋市を中心に電車を走らせるのが豊橋鉄道だ。今回はまず、豊橋鉄道がらみのクイズから話をスタートさせたい。

【クイズ1】普通鉄道+路面電車を走らせる会社は全国に何社ある?

【答え1】全国で5社が普通鉄道+路面電車を走らせる

豊橋鉄道は渥美線という普通鉄道(新幹線を含むごく一般的な鉄道を意味する)の路線と、市内線(東田本線)という路面電車を走らせている。こうした普通鉄道と路面電車の両方を走らせている鉄道会社は5社しかない(公営の鉄道事業者を除く)。

 

ここで普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社を挙げておこう。

 

東京急行電鉄(東京都・神奈川県)、京阪電気鉄道(大阪府・京都府など)、富山地方鉄道(富山県)、伊予鉄道(愛媛県)に加えて、豊橋鉄道の計5社だ。東京急行電鉄が走らせる路面電車(世田谷線)は、道路上を走る併用軌道区間がほとんどなく、含めるかどうかは微妙なところなので、実際には4社と言っていいかもしれない。

 

このように豊橋鉄道は全国でも数少ない普通鉄道と路面電車を走らせる、数少ない鉄道会社なのだ。

↑豊橋市内を走る路面電車・豊橋鉄道市内線(東田本線)。写真はT1000形で、「ほっトラム」の愛称を持つ。低床構造の車両で2008年に導入された

 

【クイズ2】1の答えのなかで、県庁所在地でない街を走る鉄道は?

【答え2】県庁所在地でない街を走るのは豊橋鉄道のみ

前述した普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社は、ほとんどが都・府・県庁所在地を走る鉄道だ。

 

5社のうち唯一、豊橋鉄道が走る豊橋市のみ県庁所在地ではない。豊橋市の人口は約37万人で、首都圏で同規模の人口を持つ街をあげるとしたら川越市、所沢市(両市とも埼玉県)が近い。人口30万人台の都市で、普通鉄道と路面電車の両方が走る、というのは異色の存在と言うことができるだろう。

 

豊橋市は愛知県の中核都市とはいえ、豊橋鉄道を巡る環境は決して恵まれていない。にも関わらず豊橋鉄道は優良企業であり、年々、手堅く収益を上げ続けている元気な地方鉄道だ。

 

今回は、そうした“元気印”の豊橋鉄道渥美線と市内線を巡る旅を楽しもう。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべてが1800系。もと東京急行電鉄の7200系だ。電車は3両×10編成あり、すべての色が異なる。写真は1808号車で編成名は「椿」

 

渥美線、市内線ともに90年以上、豊橋を走り続けてきた

豊橋鉄道の歴史を簡単に振り返っておこう。

 

1924(大正13)年1月:渥美電鉄が高師駅(たかしえき)〜豊島駅間を開業

1925(大正14)年5月:新豊橋駅〜田原駅(現・三河田原駅)間が開業

1925(大正14年)7月:豊橋電気軌道が市内線を開業、以降、路線を延長

1940(昭和15)年:名古屋鉄道(以降、名鉄と略)が渥美電鉄を合併

1949(昭和24)年:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更

1954(昭和29)年:豊橋交通が豊橋鉄道に社名を変更。同年に名鉄が渥美線を豊橋鉄道へ譲渡

 

歴史を見ると、太平洋戦争前までは、渥美線と市内線(東田本線)は別の歩みをしていた。その後に名鉄に吸収合併された渥美線が、名鉄の経営から離れ、市内線を走らせていた豊橋鉄道に合流した。ちなみに、現在も豊橋鉄道は名鉄の連結子会社となっている。

 

【豊橋鉄道渥美線】全10色の「カラフルトレイン」が沿線を彩る

豊橋鉄道は旅をする者にとって、乗って楽しめる鉄道でもある。

 

まずは豊橋鉄道渥美線の旅から。渥美線の電車は、その名もずばり「カラフルトレイン」の名が付く。

 

渥美線の電車は、とにかくカラフルだ。3両×10編成の電車が使われるが、すべての色が違う。1801号車は赤い「ばら」、1802号車は茶色の「はまぼう」、1803号車はピンクで「つつじ」、というように各編成には、沿線に咲く草花の愛称が付けられる。

↑赤い車両は1801号で編成名は「ばら」。渥美線の電車は沿線を彩る花や植物にちなんだカラーに正面やドアなどが塗られ、「カラフルトレイン」の名が付けられている

 

↑カラフルトレインの車体には写真のようにカラフルなイラストが描かれる。10編成ある車体の違いを見比べても楽しい

 

電車は元東京急行電鉄の7200系。1967(昭和42)年に誕生したステンレス車で東急では田園都市線、東横線などを長年、走り続けた。2000(平成12)年には全車両がすでに引退している。豊橋鉄道では、この東急を引退した年に計30両を譲り受けた。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべて1800系。元東急の7200系で、製造されたのは昭和42年から。東急車輌の銘板が掲げられる。車歴はほぼ50年だが大事に使われている

 

生まれた年を考慮すると、かなりの古参の車両ではあるが、豊橋鉄道では、古さを感じさせないカラフルなカラーに模様替えされている。

凝ったつくりの1日フリー乗車券。乗車記念にもぴったり

渥美線の起点となる新豊橋駅。駅名が違うものの、JR・名鉄の豊橋駅を出ればすぐ。アクセスも良く駅舎も快適だ。

↑渥美線はJR豊橋駅に隣接した新豊橋駅が起点となる。新豊橋駅は2009年に新装された駅舎で、豊橋駅東口・南口の連絡デッキ(自由通路階)とつながり利用しやすい

 

渥美線を旅するならば新豊橋駅で「1日フリー乗車券(1100円)」を購入したい。単に新豊橋駅と終点の三河田原駅を往復するだけならば、通常切符の方が割安だが(520円×2)、途中駅にも立ち寄るならばフリー乗車券のほうが断然におトクとなる。

 

さらに、この1日フリー乗車券。鉄道好きな人たちの心をくすぐる工夫がされている。ジャバラ状になっていて、広げると渥美線のカラフルトレイン10編成のイラストや解説を楽しむことができるのだ。使用後にも大事に保存してきたい、そんな乗車券だ。

↑豊橋鉄道の1日フリー乗車券。凝ったつくりで表裏に「カラフルトレイン」各色の車両説明とともに沿線の案内がプリントされる。記念に保存しておきたい乗車券だ

 

↑渥美線の新豊橋駅のホームには、フグなどの地元の産品のイラストが描かれる

 

乗車時間は片道40分弱。渥美半島の景色を楽しみながら走る

渥美線は新豊橋駅〜三河田原駅(みかわたはらえき)間の18.0kmを結ぶ。乗車時間は40分弱で、長くもなく、短くもなく、ほどほど楽しめる路線距離だ。

新豊橋駅から、しばらく東海道本線に並走して最初の駅、柳生橋駅へ到着。さらに東海道本線を越え、東海道新幹線の線路をくぐり南下する。

 

しばらく住宅街を見つつ愛知大学前駅へ。このあたりからは愛知大学のキャンパスや、高師緑地など沿線に緑が多く見られるようになる。

 

高師緑地の先にある高師駅(たかしえき)には渥美線の車庫があり、検修施設などをホームから見ることができる。

↑高師駅の南側に車両基地が設けられる。留置線に停まるのは1805号の「菖蒲」。菖蒲は梅雨の時期、豊橋市の賀茂しょうぶ園や田原市の初立池公園などで楽しめる

 

↑1807号「菜の花」の車内。シートは菜の花柄。吊り革も黄色と菜の花のイメージで統一されている。乗っても楽しめるのが豊橋鉄道渥美線の魅力だ

 

芦原駅(あしはらえき)を過ぎると沿線の周辺には畑を多く見かけるようになる。路線が通る渥美半島の産物はキャベツ、ブロッコリー、レタス、スイカ、露地メロンなど。渥美線の1810号車は「菊」が愛称となっているが、電照菊を栽培するビニールハウスの灯りも、この沿線の名物になっている。

 

そうした畑を見つつ乗車すれば、終点の三河田原駅へ到着する。同駅からは渥美半島の突端、伊良湖岬(いらこみさき)行きのバスが出ている。

↑渥美線の終点・三河田原駅。2013年10月に駅舎が改築された。1980年代まで貨物輸送に利用されていたため駅構内はいまも広々としている

【豊橋鉄道市内線】豊橋市内を走る路面電車も見どころいっぱい

豊橋鉄道では路面電車の路線を「豊鉄市内線」と案内している。路線名は東田(あずまだ)本線が正式な名前だ。ここでは市内線という通称名で呼ぶことにしよう。

 

ちなみに東海中部地方では、豊橋鉄道市内線が唯一の路面電車でもある。

 

市内線の路線は駅前〜赤岩口間の4.8kmと、井原〜運動公園前間の0.6kmの計5.4kmである。

 

路面電車は豊橋駅東口にある「駅前」停留場から発車する。行き先は「赤岩口(あかいわぐち)」と「運動公園前」がメインだ。途中の「競輪場前」止まりも走っている。

↑豊橋駅ビル(カルミア)の前に広がる連絡デッキを下りた1階部分に「駅前」停留場がある。写真は「赤岩口」行きの市内線電車。車輌はモ3500形で元都電荒川線7000形

 

名鉄や都電の譲渡車輌に加えて新製した低床車輌も走る

市内線で使われる車輌は5種類。

 

まず低床のLRV(Light Rail Vehicleの略)タイプのT1000形「ほっトラム」は、1925年以来、約83年ぶりとなる自社発注の新製車輌でもある。

 

ほか、モ3200形は名鉄岐阜市内線で使われていたモ580形3両を譲り受けたもの。モ3500形は東京都交通局の都電荒川線を走った7000形で、4両が走る。

 

モ780形は名鉄岐阜市内線を走ったモ780形で、市内線では7両が走り、主力車輌として活躍している。そのほか、モ800形という車輌も1両走る。こちらは名鉄美濃町線を走っていた車輌だ。

↑市内線の主力車輌となっているモ780形。地元信用金庫のラッピング広告が施された781号車など、華やかな姿の車輌が多い

 

↑元名鉄岐阜市内線を走った3203号車。クリーム地に赤帯のカラーは豊鉄標準カラーと呼ばれる。標準カラーだが、実際にはこの色の車輌は少なく希少性が高い

 

↑3201号車は「ブラックサンダー号」。豊橋で生まれ、現在、全国展開するお菓子のパッケージそのものの車体カラー。市内線の「黒い雷神」として人気者になっている

 

↑「おでんしゃ」は車内でおでんや飲み物を楽しみつつ走る、秋からのイベント電車だ。秋の9月24日までは納涼ビール電車が運行されて人気となっている

 

市内線を走る電車は、T1000形以外は、名鉄と都電として活躍した車両が多い。豊橋鉄道へやってきたこれらの電車たち。独特のラッピング広告をほどこされ、見ているだけでも楽しい電車に出会える。

 

日本一の急カーブに加えて、国道1号を堂々と走る姿も名物に

市内線は豊橋駅から、豊橋市街を通る旧東海道方面や、三河吉田藩の藩庁がおかれた吉田城趾方面へ行くのに便利な路線だ。

 

興味深いのは、市役所前から東八町(ひがしはっちょう)にかけて国道1号を走ること。国道1号を走る路面電車は、全国を走る路面電車でもこの豊橋鉄道市内線だけ。自動車や長距離トラックと並走する姿を目にすることができる。

↑豊橋公園前電停付近から東八町電停方面を望む。国道1号の中央部に設けられた市内線の線路を走るのはT1000形「ほっトラム」

 

国道1号を通るとともに、面白い光景を見ることができるのが井原電停付近。井原電停から運動公園前へ行く電車は、交差点内で急カーブを曲がる。このカーブの大きさは半径11mというもの。このカーブは日本の営業線のなかでは最も急なカーブとされている。

 

ちなみに普通鉄道のカーブは最も急なものでも半径60mぐらい。それでもかなりスピードを落として走ることが必要だ。

 

路面電車でも半径30mぐらいがかなり急とされているので、半径11mというカーブは極端だ。このカーブを曲がれるように、同市内線の電車は改造されている。

 

T1000形は、この急カーブを曲がり切れないため、運動公園前への運用は行われていないほどだ。日本で最も厳しいカーブを路面電車が曲がるその光景はぜひとも見ておきたい。

↑井原電停交差点の半径11mという急カーブを走るモ780形。見ているとほぼ横滑りするかのように、また台車もかなり曲げつつスピードを落として走り抜ける

 

赤岩口へ向かう電車は井原電停の先を直進する。赤岩口には同線の車輌基地がある。

 

この赤岩口も、同路線の見どころの1つ。車庫から出庫する電車は市内線に入る際に一度、道路上に設けられた折り返し線に入って、そこでスイッチバックして赤岩口電停へ入る。

 

折り返し線は道路中央にあり、通行する自動車の進入防止の柵もなく、何とも心もとない印象だが、通行するドライバーも慣れているのだろう。白線にそって電車の線路を避けて通る様子が見受けられる。

 

「全駅から富士山が望める鉄道」の見どころは富士山だけじゃない! おもしろローカル線「岳南電車」の旅

おもしろローカル線の旅~~岳南電車(静岡県)~~

 

富士山の南側、静岡県富士市を走る岳南電車(がくなんでんしゃ)。富士山を見上げつつ1両で走るカラフルな電車が名物となっている。「全駅から富士山が望める電車」が岳南電車のPR文句。だが、売りは富士山が見えるだけではない! 乗っていろいろ楽しめる岳南電車なのだ。

↑主力車両の7000形。元京王井の頭線の3000系で、中間車の両側に運転台を付ける工事を受けたあとに、岳南へやってきた。オレンジ色のほか水色の7000形も走る

 

奇々怪々―― カーブが続く路線

岳南電車、その名もずばり、岳(富士山)の南を走る電車である。東海道本線の吉原駅(よしわらえき)と岳南江尾駅(がくなんえのおえき)間の9.2kmを結ぶ。路線はすべてが静岡県富士市の市内を通る。富士市内線と言ってもいい。

上の路線図を見てわかるように、吉原駅から、ぐる~っとカーブして、吉原の繁華街を目指す。さらにその先もカーブ路線が続く。なぜこのようにカーブが多いのだろう?

 

まずは、岳南電車の歴史を簡単に触れておこう。

 

1936(昭和11)年:日産自動車の専用鉄道として路線が設けられる。

1949(昭和24)年:岳南鉄道により鈴川駅(現・吉原駅)〜吉原本町間が開業される。その後、徐々に路線が延長されていく。

1953(昭和28)年:岳南富士岡駅〜岳南江尾駅間が開業し、全線開業。

 

太平洋戦争後に誕生、ちょうど70周年を迎えた鉄道路線である。そして、

 

2013(昭和25)年:岳南鉄道から岳南電車に路線の運行を移管

 

現在は富士急行グループの一員になっている。2013年に岳南鉄道から岳南電車に名前を変更した理由は後述したい。

↑岳南電車の起点となる吉原駅。JR吉原駅のホームとは専用の跨線橋で結ばれる。武骨な駅舎ながら、それが岳南電車らしい味わいとなっている

 

↑終点の岳南江尾駅。レトロな駅表示に変更されている。駅のすぐ横を東海道新幹線が通る。2駅手前の須津駅(すごえき)の近くには新幹線の名撮影地もある(徒歩15分)

 

↑岳南唯一の2両編成8000形。こちらも元京王井の頭線の3000系だ。岳南では「がくちゃん かぐや富士」の名が付く。朝夕のラッシュ時や臨時列車に利用されている

 

工場をよけて路線を敷いた結果、カーブが多くなった

富士市は第二次産業が盛んな都市である。

 

岳南電車が走る地域で、最も大きな工場といえばジヤトコだ。ジヤトコ前駅という駅すらある。吉原駅の北側にジヤトコ本社富士事業所が大きく広がる。直線距離にして南北1kmという大きな工場だ。

 

ジヤトコの富士事業所は太平洋戦争前に、日産自動車の航空機部吉原工場として誕生した。現在、同社は日産自動車グループの一員として、主に変速機を生産。日産自動車や、国内外の自動車メーカーに納入している。

 

岳南電車の路線は、太平洋戦争以前にこの工場用に敷かれた専用線が元になっている。路線開業の際には、工場を縁取るように線路が延ばされていった。

 

さらにその先にも大規模な工場などがあり、この敷地をよけるように線路が敷かれている。こうして工場をよけるように線路が敷かれていった結果、カーブが多い路線となったのだ。

 

岳南原田駅〜比奈駅間では工場内を走る箇所もある。奇々怪々、電車の上を太いパイプ類が通るその風景は、この岳南電車ならではの車窓風景だ。日が落ちると工場のライトをくぐるように走り、幻想的な光景が楽しめる。

↑富士市は大規模工場が多い。この工場を縫うように路線が通る。岳南原田駅〜比奈駅間では、工場の内部を抜ける。上空をパイプが張り巡らされた不思議な光景と出会う

大規模な引込線、これはもしかして…?

比奈駅と岳南富士岡駅の間に大規模な引込線が残されている。旅客輸送のみを行う岳南電車が、これはもしかして……?

 

岳南電車の沿線には、かつて多くの引込線が敷かれ、2012年3月17日まで実際に貨物輸送が行われていた。沿線の工場へ向けての貨物輸送の比重がかなり高かった。

 

貨物輸送を取りやめた理由は、JR貨物が連絡貨物の引き受けを中止したため。その裏には、鉄道貨物輸送のなかで大きな割合を占めていた紙の輸送が急激に減っていった現状があった。沿線には豊富な水を利用して日本製紙などの製紙工場が多いが、ペーパーレス化の流れもあって紙の生産量が減り、鉄道を使った紙の輸送量が急減していた時代背景があったのだ。

↑比奈駅と岳南富士岡駅間に残る大規模な引込線の跡。多くの貨車が停まっていた時代があった。この先、使われることなく放置されるのには惜しいように思われる

 

↑岳南富士岡駅構内には当時の貨物用機関車が保存される。手前のED50形ED501号機は上田温泉電軌という会社が1928(昭和3)年、川崎造船所に発注した電気機関車だ

 

かつては珍しい「突放」も見られた

先の引込線跡は、鉄道貨物の輸送用に設けられた留置施設でもあった。

 

2012年3月まで行われた岳南電車での貨物輸送。この路線の貨物輸送ではほかで見ることのできないユニークな輸送風景が見られた。

 

まずは使われる貨車の多くがワム80000形という屋根付きの有蓋(ゆうがい)車だった。最終盤となった6年前、このワム80000形が使われていたのは、岳南へ乗り入れる貨物列車のみとなっていた。

↑貨物列車が運転された当時の比奈駅の構内。コンテナ貨車とともに有蓋車のワム80000形が紙の輸送に使われていた。現在は比奈駅構内の引込線はほとんどが取り外されている

 

↑岳南での輸送に使われたワム8000形。すでに有蓋車での貨物輸送は消滅してしまった。かつては一般的だった天井の無い無蓋車もごく一部で利用されるのみとなっている

 

さらに岳南では、「突放(とっぽう)」と呼ばれる貨車の入れ換え作業が最後まで行われていた。かつては、貨車からの荷卸し、貨車の組み換え作業が行われた駅では、ごく普通に見られた突放。だが、近年になり、この突放が行われていたのは岳南のみとなっていた。

 

機関車がバック運転し、走行中に貨車を切り離し、その惰性で貨車のみを走らせる。それこそ「突放」の字のごとく、機関車が貨車を突き放した。貨車には作業員が乗っていて、貨車に付いたブレーキをステップに乗って操作、巧みに停止位置に停めるという作業だった。

 

機関車の運転士、そしてポイントの切替え、ブレーキをかける作業員らの息のあった作業を必要とした。危険が多い作業でもあったが、所定の位置に上手く停止、またはほかの貨車と連結させる熟練のワザが見られた。

↑後ろに写る貨車と連結を試みる突放作業の様子。無線片手に機関車の運転士らと連絡を取り合い、ステップ操作でブレーキを利かせ、貨車のスピードを巧みにコントロールした

臨時電車や沿線マップといった取り組みも

貨物輸送の割合が大きかった当時の岳南鉄道にとって、輸送中止の痛手は大きかった。不動産業、ゴルフ場経営などを行う岳南鉄道への影響を小さくしようと、鉄道部門のみを切り離して、子会社へ移した。貨物輸送が終了した翌年にそうした移管が行われ、鉄道の名前も岳南鉄道から岳南電車に変えた。

 

岳南電車のなかでも注目された貨物輸送ではあるが、廃止されてからだいぶ日が経った。筆者は久々に現地を訪れて電車に乗ったが、鉄道会社の経営も順調に軌道に乗っているように感じられた。

 

「ビール電車」や「ジャズトレイン」が夏期限定で運行。ほかにも、お祭り用に臨時電車やラッピング電車を走らせたり、詳細な沿線マップを作ったり、グッズをふんだんに用意したり……と地道な営業活動を続けている。こうした細かい活動が少しずつ実を結びつつあるように見えた。

↑吉原の祇園祭(6月9日・10日開催)に合わせて走った「お祭り電車」。タイムリーなラッピング電車を走らせるなど小さな鉄道会社ならではの動きの良さが感じられる

 

↑吉原駅構内に並ぶグッズコーナー。ずらりと並ぶグッズ類に驚かされる

 

↑全線1日フリー乗車券は700円。こどもは300円。春・夏・冬休みのこども券は200円と割安に。駅で配布されている沿線MAPは飲食店や観光地情報も掲載され便利だ

 

沿線の隠れた見どころ

起点の吉原駅から終点の岳南江尾駅まで、乗車時間20分ほど。沿線の見どころを紹介しよう。

 

吉原駅から出発すると、しばらく東海道本線と並走する。その後、ジヤトコの工場にそってカーブを走り、しばらく走るとジヤトコ前駅に付く。そこから吉原の町並みのなかを走り、吉原本町通りが通る吉原本町駅へ。さらに本吉原と住宅街が続く。

 

岳南原田駅を過ぎ、大きな工場を見つつ、前述した工場内を走れば比奈駅へ到着する。

 

この比奈駅には駅舎内に鉄道模型専門店「FUJI Dream Studio501」がある。模型好きの方は立ち寄ってみてはいかがだろう。

 

さらに隣りの岳南富士岡駅には車両の検修庫があり、また貨物輸送に使われた電気機関車と貨車が保存されている。これらの保存車両は駅ホームからの見学に限られるが、昭和初期生まれの貴重な機関車も残されるので、じっくり見ておきたい。

 

須津駅(すどえき)から岳南江尾駅までは住宅街を走る。須津からは東海道新幹線と富士山が美しく撮れることで知られる名スポットが近い。
電車が走る富士市は小さな河川が多く、豊富な水が流れる地でもある。岳南電車は数多くの河川を跨いで走る。これらは富士山麓から豊富に湧き出る伏流水が生み出した河川でもある。

↑岳南富士岡駅近くの流れ。沿線には富士山の伏流水を集めた小河川が多く、豊富な水の流れが目にできる。春から初夏にかけてはカルガモ一家との出会い、なんてことも

 

筆者が撮影していたポイントでも、こうした河川に出会ったが、水が豊富で流れは澄んでいる。見ていてすがすがしい気持ちになった。カルガモ一家がのんびり泳ぐ、そんな川の流れに心も癒された旅であった。

東急の路線らしくない!? 「東急こどもの国線」の不思議と“大人の事情”

おもしろローカル線の旅~~東急こどもの国線~~

 

前回のおもしろローカル線の旅では、千葉県を走る流鉄流山線を紹介した。路線距離5.7km、乗車時間が11分の非常に短い路線だったが、今回取り上げる、神奈川県を走る東急こどもの国線は路線距離3.4km、乗車時間7分とさらに短い。そのみじか~い路線に秘められた謎について解き明かしていこう。

 

東急の路線らしくない!? 東急こどもの国線の謎

東急こどもの国線は、東急田園都市線の長津田駅からこどもの国駅まで3.7kmを結ぶ。

この路線、ちょっと不思議なことがある。東京急行電鉄(以下、東急と略)の純粋な路線とは言い難い事例が、いくつか見られるのだ。

 

例えば、電車は横浜高速鉄道が所有する車両で、シルバーに黄色と水色という東急のほかの電車とは異なる車体カラーとなっている。駅などの表示は、東急の社章とともに、横浜高速鉄道という会社の社章が掲示されている。さらに長津田駅のホームも、東急の改札口を出た外に設けられている。

 

なぜ、このように東急の路線を名乗っているのに、ちょっと異なる点が多いのだろうか?

↑こどもの国線では横浜高速鉄道Y000系電車が2両編成で走る。横浜高速鉄道の車両だが、車両の運行や整備などは、すべて東急の手で行われている

 

↑終点のこどもの国駅。駅の表示は東急とともに横浜高速鉄道の社章が付けられている。そこには、こどもの国へ行くために造られた路線ならではの事情が潜んでいた

 

こどもの国行き電車にからむ“大人の事情”

こどもの国線は、東京急行電鉄の路線のなかでは、やや複雑な「立場」となっている。実は路線の所有者は東急ではない。横浜高速鉄道という第三セクターの鉄道事業者が持つ路線なのだ。

 

横浜高速鉄道は、神奈川県内でみなとみらい線の運営を行う鉄道事業者。みなとみらい線では、自社の車両を走らせ、東急東横線や東京メトロ線などとの相互乗り入れを行っている。このみなとみらい線では横浜高速鉄道が第一種鉄道事業者といわれる立場。第一種鉄道事業者とは、自ら路線を持ち、自らの車両を運行させる鉄道事業者のことだ。

 

横浜高速鉄道のこどもの国線の立場は、みなとみらい線とは異なり「第三種鉄道事業者」となっている。第三種鉄道事業者とは、鉄道路線を敷設、運営する事業者のこと。別会社である第二種鉄道事業者にその線路での列車運行を任せている。こどもの国線では東急が、この第二種鉄道事業者となっている。

 

こどもの国線にこのような複雑な事情が絡んだ理由を簡単に触れておこう。

 

こどもの国は旧日本軍の弾薬庫跡地を利用した施設。もともと、この弾薬庫まで延びていた引込線をこどもの国線として活用した。そしてこどもの国開園の2年後の、1967(昭和42)年に路線が開業した。

↑1965(昭和40)年に開園したこどもの国。こどもの国へ行く専用の路線として1967(昭和42)年に造られた

 

路線開業や電車の運行には東急が協力したが、開業時に路線を所有したのは社会福祉法人こどもの国協会だった。当初はこどもの国へ行く専用路線という色合いが濃く、休園日には列車の本数が大幅に削減された。

 

その後、沿線は徐々に住宅地化していった。通勤路線として使う側にしてみれば、こどもの国の営業にあわせた列車運行が不便でもあった。途中駅がなく、列車の交換が途中でできないなど、増発もかなわなかった。

 

通勤路線化にあたり路線の所有者が横浜高速鉄道に変わった

そこで通勤路線化が進められたが、こどもの国協会という公益法人が鉄道事業に本格的に関わるのは問題がある、とされた。

 

そのため1997(平成9年)、こどもの国協会から横浜高速鉄道に路線の譲渡が行われた。ちなみに、みなとみらい線の開業が2004年のことだから、それよりもだいぶ前に横浜高速鉄道の鉄道路線が生まれていたことになる。

 

子ども向けのこどもの国行き専用線から、通勤路線化するにあたって、第二種、第三種という「大人の事情」がからむ話になっていたのである。

↑長津田駅にあるこどもの国線の案内。平日の朝夕は列車が増発され、また日中は20分間隔で運行される。所要時間は長津田駅からこどもの国駅まで7分

 

急カーブから路線がスタート。途中に東急の車両工場も

長津田駅から電車が発車すると、すぐに東急田園都市線と分かれるように急カーブが設けられる。このカーブの半径は165m。普通鉄道のカーブとしては、かなりの急カーブだ。

 

そのため、時速を30km程度に落として走る。実は通勤路線化を図るときに、地元から「騒音がひどくなる」と反対運動が起きた経緯もあり、いまも騒音対策のためにかなり徐行して走っているのだ。

 

ほどなく、畑地を左右に見て走ると唯一の途中駅、恩田(おんだ)駅へ。

↑長津田駅を発車したこどもの国駅行きY000系電車。すぐに半径165mという急カーブにさしかかる。この急カーブを徐行しつつ走り始める

 

↑横浜高速鉄道のY000系のシートは、このようにカラフル。こどもの国のシンボルマークの赤、緑、青、黄(シートでは同系のオレンジを使用)に合わせた色のシートが使われる

 

恩田駅の近くには東急の長津田車両工場がある。東急の全車両の大掛かりな検査や整備が行われる重要な車両工場だ。時に留置線には、興味深い車両が停められていることもあり、鉄道ファン必見のポイントでもある。

 

さらにナシが植えられる果樹園が連なるエリアを過ぎれば、ほどなく終点のこどもの国へ到着する。こどもの国へは駅から徒歩3分の距離だ。

 

長津田駅から7分と乗車時間は短いものの、注目したい急カーブがあり、車両工場あり、となかなか興味深い路線でもある。

 

子どものころ、東京都や神奈川県で育った方のなかには、遠足でこどもの国へ行った人も多いのではないだろうか。時には童心に戻ってこどもの国で遊んでみてはいかがだろう。

↑恩田駅に近い東急の長津田工場を敷地外から見る。写真に映る白い車体は伊豆急行2100系。この後に同工場でザ・ロイヤルエクスプレスへの改造工事が行われた

開業1世紀で5回の社名変更の謎――乗車時間11分のみじか〜い路線には波乱万丈のドラマがあった!

おもしろローカル線の旅~~流鉄流山線~~

 

千葉県を走る流鉄流山線の路線距離は5.7kmで、乗車時間は11分。起点の駅から終点まで、あっという間に着いてしまう。それこそ「みじか〜い」路線だが、侮ってはいけない。その歴史には波乱万丈のドラマが隠されていたのだ。

↑流鉄のダイヤは朝夕15分間隔、日中は20分間隔で運行している。全線単線のため、途中、小金城趾駅で上り下りの列車交換が行われている。写真は5000形「あかぎ」

 

【流鉄流山線】開業102年で5回も社名を変えた謎

千葉県の馬橋駅と流山駅を結ぶ流鉄流山線。流山線は流鉄株式会社が運営する唯一の鉄道路線で距離は前述したとおり5.7kmだ。

歴史は古い。1913(大正2)年の創立で、すでに100年以上の歴史を持つ。その1世紀の間に5回も社名を変更している。このような鉄道会社も珍しい。ざっとその歩みを見ていこう。

 

1916(大正5)年3月14日:流山軽便鉄道が馬橋〜流山間の営業を開始

1922(大正11)年11月15日:流山鉄道に改称

1951(昭和26)年11月28日:流山電気鉄道に社名変更

1967(昭和42)年6月20日:流山電鉄に社名変更

1971(昭和46)年1月20日:総武流山電鉄に社名変更

2008(平成20)年8月1日:流鉄に社名変更、路線名を流山線とする

 

改名の多さは時代の変化と、波にもまれたその証

流鉄が走る流山(ながれやま)は江戸川の水運で栄えた町である。味醂や酒づくりが長年にわたり営まれてきた。この物品を鉄道で運ぶべく、流山の有志が資金を出し合い、造られたのが流山軽便鉄道だった。

 

創業時から流山の町のための鉄道であり、町とのつながりが強かった。そのためか、ほかの鉄道会社のように、路線延長などは行われず創業時からずっと同じ区間での営業を続けてきた。

 

当初の線路幅は762mmと軽便鉄道サイズ。その後に、常磐線への乗り入れがスムーズにできるようにと、線路幅が1067mmに広げられた。このときに流山軽便鉄道から流山鉄道と名称が変更された。

 

太平洋戦争後、電化したあとは流山電気鉄道と名を変え、さらに流山電鉄へ。この流山電鉄の社名は、わずか4年で総武流山電鉄と名を改められている。これは経営に平和相互銀行が参画し、大株主となった総武都市開発(ゴルフ場事業会社)の「総武」が頭に付けられたためだった。

↑総武流山鉄道時代の主力車1300形。こちらは元西武鉄道の譲渡車両で、西武では551系、クハ1651形だった。「あかぎ」というように編成の愛称がこの当時から付けられた

 

しかし、平和相互銀行は1986年に不正経理が発覚、住友銀行に吸収合併されて消えた。さらに大株主の総武都市開発がバブル崩壊の影響を受け、2008年に清算の後に解散。小さな鉄道会社は、こうした企業間のマネーゲームに踊らされ、また投げ出された形となった。

 

2008年には現在の、鉄道事業を主体にした「流鉄株式会社」となっている。

 

つくばエクスプレスの開業で厳しい経営が続いているが――

時代の変転、また経営陣が変わることで社名が変わるという、なんとも小さな鉄道ならではの運命にさらされてきた。

 

さらに2005年8月には、つくばエクスプレスの路線が開業。流鉄が走る流山市と都心をダイレクトに結ぶために、この開業の影響は大きかった。流鉄の利用者減少がその後、続いている。

 

とはいえ、流鉄の決算報告を見ると、2016年3月期で、鉄道事業の営業収益は3億3093万円、2017年3月期で3億2822万円。純利益は2016年度が340万円、2017年度が286万円と少ないながらも純利益を確保し続けている。

 

一駅区間の運賃は120円、馬橋駅〜流山駅間の運賃は200円、1日フリー乗車券は500円と運賃は手ごろ。ICカードは使えず、乗車券を購入し、出口で駅員に渡すという昔ながらのスタイルをとっている。大資本の参画はないものの、5.7km区間を地道に守り続ける経営が続けられている。

↑流鉄の馬橋駅。総武緩行線や、総武本線の線路と並ぶように駅とホームがある。通常はJR側の1番線を利用する。手前は2番線で、通勤時間帯のみの利用となる

 

↑馬橋駅の自由通路の西側に「流山線」の小さな案内板が架かる。発車ベルは「ジリジリジリーン」という昔ながらのけたたましい音色。レトロ感たっぷりだ

 

鉄道ファンの心をくすぐる所沢車両工場の銘板

流鉄の車両は1980年ごろから、すべて西武鉄道から購入した車両が使われている。1979年から導入された1200形・1300形、1990年代から使われた2000形や3000形。そして2009年からは、5000形車両が順次、旧型車両と入れ替えて使用している。

 

現在走る車両の5000形は、赤、オレンジ、黄色、水色など6色に塗られ、それぞれ「あかぎ」「流馬」「流星」といった車両の愛称が付けられる。
これらの車両は、すべてが所沢車両工場製だ。2000年まで西武鉄道では、ほとんどの車両を所沢駅近くにあった自社工場で製造していた。そんな証でもある銘板が、いまも車内に掲げられている。 鉄道ファン、とくに西武好きにとっては心をくすぐるポイントといっていいだろう。

↑現在、流鉄を走る5000形電車は2両×6編成。そのすべてが西武鉄道から購入した車両だ。西武時代の元新101系で、車内には「西武所沢車両工場」という銘板が付けられる

 

↑2012年まで走っていた2000形「青空」。西武では801系(2000形の一部は701系)という高度経済成長期に造られた車両で、1994年から20年近く流鉄の輸送を支えた

 

↑終点の流山駅。駅の奥に車庫と検修施設が設けられている。駅から徒歩3分、流山街道を越えたところに近藤勇陣屋跡(近藤勇が官軍に捕縛された地とされる)がある

 

流山には味醂を積みだした廃線跡など興味深い史跡が残る

乗車時間は11分と短いが、沿線の見どころを簡単に紹介しよう。

 

馬橋駅〜幸谷駅付近は常磐線の沿線で住宅街が続く。小金城趾駅に近づくと農地が点在する。鰭ケ崎(ひれがさき)駅からは流山市内へ入る。大型ショッピングセンターすぐ近くにある平和台駅を過ぎたら、間もなく流山駅へ到着する。

↑難読駅名の「ひれがさき」。ここの地形が魚の背びれに似ていたから、または地元の東福寺に残る伝説、神竜が残したヒレ(鰭)から鰭ケ崎の地名となったとされる

 

流山の街は「江戸回廊」を名乗るように味わいのある街が残る。新選組の近藤 勇が官軍に捕縛されたとさる、近藤勇陣屋跡。18世紀から味醂製造を続けてきた流山キッコーマンの工場も、街中にある。ここで造られるのが万上(まんじょー)本味醂(みりん)だ。1890(明治23)年に建てられ、国登録有形文化財に指定される呉服新川屋店舗(いまでも営業を続けている)といった古い建物も残る。

↑流山駅前に立つ流鉄開業100年記念の案内板。歴代の車両が写真付きで紹介されている。蒸気機関車やディーゼル機関車で客車を牽いたころからの歴史がおよそわかる

 

↑かつて流山駅から流山キッコーマンの工場まで引込線(万上線)が敷かれていた。1969(昭和44)年に廃止されたあとは市道として使われ、かたわらに記念碑も立つ

 

↑万上(まんじょー)本味醂の製造を続ける流山キッコーマンの工場。レトロふうな塀には引込線があった当時の写真などが掲げられている

 

コンパクトにまとまった古い流山の街。わずか乗車11分ながら、街を歩いた余韻を感じつつ、帰りはオレンジ色の「流星」に身を任せた。

 

都内を走る「忘れ去られた貨物路線」に再び栄光の時は来るか?――越中島支線/新金線の現状

おもしろローカル線の旅~~JR越中島支線/JR新金線~~

 

お江戸の中心といえば日本橋。その日本橋からわずか5kmのところに、都内で唯一となった、非電化路線が走っていることをご存知だろうか。JR越中島(えっちゅうじま)支線という名の貨物線がその路線。ディーゼル機関車が貨車を牽いてのんびり走っている。

今回は、JR越中島支線と、さらにその先の貨物専用線・JR新金(しんかね、もしくは、しんきん)線の2本の貨物専用線をご紹介しよう。両線とも貨物専用線のため、列車への乗車はできないが、路線にそってのんびり歩くことができる。新たな発見とともに、不思議さが十分に体験できる路線だ。

 

【謎その1】なぜ、都内唯一の非電化路線として残ったのか?

越中島支線や新金線という路線名を聞いて、すぐにどこを走っているのかを思い浮かべられた方は、かなりの鉄道通と言っていいだろう。それこそ、長年、忘れられてきた路線と言ってもいい。

 

走る列車の本数も少ない、いわば“ローカル貨物線”だが、なんとか旅客線にできないか、という地元自治体の話もあり、近年にわかに脚光をあびるようにもなっている。

 

まずは両路線のデータをおよび路線図を見ていこう。

◆越中島支線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 越中島貨物駅
距離:11.7km
開業:1929(昭和4)年3月20日

◆新金線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 金町駅
距離:8.9km
開業:1926(大正15)年7月1日(新小岩操車場〜金町駅間)

まずは越中島支線から見ていこう。なぜ都内で唯一の非電化路線として残されたのだろうか。電化される計画はなかったのだろうか。

 

【謎解き1】輸送量が少なく非電化のままが賢明だとの判断か

現在、越中島支線の列車は新小岩信号場と越中島貨物駅の間を走っている。日曜日を除いて日に3往復の列車が走り、JR東日本管内で使われるレール輸送やバラスト輸送が行われている。ちなみに貨物時刻表で紹介されているダイヤは、

9295列車 新小岩信号場12時10分発 → 越中島貨物駅12時22分着
9294列車 越中島貨物駅13時42分発 → 新小岩信号場13時55分着

という1往復のみだ。ほか2往復も走っているが、全便が臨時列車扱いで、実際に沿線で待っていても、上記の時刻を含め列車が走らない日がある。

↑新小岩信号場12時10分発の9295列車。この日はJR東日本のDE10形ディーゼル機関車が1両のみで走る。列車の早発、遅発はこの路線ではごく普通なのでご注意を

 

越中島駅にはJR東日本のレールやバラストを管理する東京レールセンターがある。現在、越中島支線にはこの東京レールセンターから、JR東日本管内へ運ばれるレールや、バラストの輸送列車が走る。ただ、前述の通り列車の本数は日に3本で、それすら走らない日もある。わざわざ電化して列車を走らせるほどの輸送量ではない。ゆえに、都内唯一の非電化路線として残ったのだろう。

↑越中島支線の終点、越中島駅には東京レールセンターがあって、JR東日本のレールやバラストの基地として使われている。最寄り駅は京葉線の潮見駅だ(徒歩約15分)

 

↑越中島駅から新小岩信号場へ向かう上り列車。大半が写真のようにレール輸送用の貨車(長物車)や、バラストを積んだホッパ車を連ねた列車が運行される

 

いまでこそ列車の本数が非常に少ない越中島支線だが、かつては多くの貨物列車が行き交い、賑わいを見せた時代もあった。ここからは、そんな時代を振り返っていこう。

 

【補足情報その1】かつては東京湾岸の鉄道輸送に欠かせない路線だった

昭和の初期に開業した越中島支線だが、この路線が1番、輝いたのが、太平洋戦争後の1950〜60年代のことだった。越中島駅から先、1953年に深川線が豊洲まで開業。さらに晴海まで晴海線が1957年に開業した。さらに1959年には豊洲物揚場線と、次々に路線が新設された。

 

豊洲といえば現在、築地市場の移転で話題になっている場所だが、かつて豊洲には石炭埠頭や鉄鉱埠頭があり、ほか様々な物資の陸揚げ基地として賑わっていた。

 

それらの物資の多くは貨物列車を使って都内および首都圏各地へ輸送されていった。それは路線をさらに汐留駅まで延ばす計画が立てられるほどの盛況だった。こうした逸話を聞くだけでも、多くの貨物列車が走った往時の様子が彷彿される。

↑いまも、越中島駅から豊洲方面へ数100mほど線路が延びている。線路が途切れた先の線路跡地は駐車場などに使われている

 

↑往時の姿を残す元晴海線の鉄道橋。橋の遺構は晴海通り・春海橋に沿うように残っている。線路も残り、いまにも貨物列車が走ってきそうな趣がある

 

貨物輸送に湧いた越中島支線だったが、1980年代になると物流の主役はトラック輸送となり、鉄道による貨物輸送が激減する。越中島駅から先の路線が徐々に廃止されていき、1989年の晴海線の廃止を最後に路線がすべて消滅した。

 

以降、越中島支線は、新小岩信号場と越中島駅間のレールとバラスト輸送のみが行われる路線となっている。

 

【補足情報その2】路線沿いには線路スペースを使った公園や、路面軌道の跡も

越中島支線の一部を線路に沿って歩いてみた。

 

今回、スタート地点としたのは都営地下鉄新宿線の西大島駅。まず明治通りを南へ向かった先に小名木川(おなぎがわ)が流れる。この小名木川は水運用につくられた人工河川で、川沿いには陸揚げした物資を積み込むための駅・小名木川駅が設けられていた。

↑小名木川に架かる越中島支線の小名木川橋梁。この左手にかつて小名木川駅があった。橋梁はワーレントラス橋で、見てのとおり重厚な構造の橋となっている

 

現在、駅の跡地には巨大なショッピングセンターが立っている。ちなみに同センター前の交差点名が「小名木川駅前」となっている。駅はすでにないものの、交差点名にのみ、その名残があるわけだ。

 

小名木川駅があった付近を線路ぞいにさらに歩いていくと、南砂線路公園がある。線路の跡地を歩道と自転車道にした公園で、江東区が設けた公園案内も立てられる。列車を待ちながらの一休みに最適だ。

↑越中島支線沿いに設けられた南砂線路公園(写真右)。複線区間の線路が敷かれていたスペースを利用。歩行者と自転車用のルートが設けられている

 

この先、線路沿いの道がいったん途切れるので、明治通りへ。南砂三丁目の交差点を過ぎたあたりで、不思議な遊歩道(南砂緑道公園)を発見した。この遊歩道は、横幅もあり、明らかに線路の跡のよう。越中島支線をくぐるように立体交差している。地元の人に聞くと、「ここは昔、チンチン電車が走っていたところなんですよ」とのこと。

 

遊歩道をしばらく歩くと説明があり、城東電気軌道(地元では城東電車の名で親しまれた)の砂町州崎線の跡だった。この城東電車はその後、都電となり都電砂町線(水神森=亀戸駅近く〜州崎間)として1972(昭和47)年まで走り続けた。

↑南町緑道公園はもと都電砂町線の路線跡。越中島支線と立体交差している。南側にはかつて汽車製造会社東京製作所があり、造られた鉄道車両が越中島支線を使って運ばれた

 

汽車製造会社東京製作所があったその先に永代通りが通る。平面交差するため、永代通りには踏切が設けられている。しかも信号機付き。列車が近づくと、通りの信号が赤になる。列車が少ないこともあり、通常の踏切では危険という判断からか、このようにドライバーに注意を促す造りとなっているのだろう。

↑永代通りと交差する越中島支線。列車の本数が少なく廃線と思うドライバーが多いためか、信号機付きの踏切となっている。この踏切から日本橋へ5kmの案内が架かる

 

永代通りを越え、明治通りを南に向かえば、終点の越中島駅も近い。帰りは東京メトロ南砂町駅か、JR京葉線の潮見駅を目指したい。

【謎その2】複線用の敷地がしっかりと残る新金線の謎

新金線は、誕生の経緯がなかなかおもしろい。そこから見ていこう。

 

千葉県の産物を、総武本線を使って輸送するにあたって問題になったのが、隅田川を越える橋がなかったこと。長年、総武本線は両国止まりだった。そのため、当時の貨物輸送は東武鉄道の路線経由で常磐線の北千住駅まで運ばれていた。この問題を打開すべく1926(大正15)年に誕生したのが新金線だった。

 

その後の1932(昭和7)年に総武本線の隅田川橋梁が完成したが、両国駅〜御茶ノ水駅間が旅客営業のみに造られた路線だったため、その後も総武本線の貨物列車は、新金線経由で走り続けている。

 

この路線を訪れてみて、奇異に感じるのは、ほとんど全線にわたり複線用の用地が確保されていることだ。下の写真のように、敷地はゆったりとしていて、さらに架線を吊る鉄塔も複線用に造られている。

↑新金線の線路は、ほとんどが複線化できるよう広いスペースが確保されている。将来、複線にして旅客路線に使えないか、地元の葛飾区などでは検討を続けている

 

【謎解き2】列車本数の減少で複線化が実現しなかった

1970年ごろまで新金線は、千葉方面と都心を結ぶ物流の大動脈でもあった。さらに越中島支線を走る貨物列車も、この路線を通って各地へ向かった。最盛期は、さぞや過密ダイヤとなっていたに違いない。

 

複線用のスペースを確保しておいた理由は、路線開業時に、将来の列車本数の増加を見越してのものだったのだろう。

 

ところが、1980年以降となると、新金線の列車本数は激減する。現在は、定期運行している貨物列車が日に3往復(うち1往復は日曜日運休)、ほか数便が臨時運行という状態だ。こうなると、とても複線にする意味がないと思われる。結局、新金線の複線化計画は夢物語に終わってしまい、確保した用地もそのまま塩漬け状態になってしまったわけだ。

↑金町駅から新小岩信号場へ向かう下り列車。高砂付近で京成本線の下をくぐって走る。写真の1093列車はEF65形式直流電気機関車での運用が行われている

 

【補足情報その1】貨物列車で必須の「機回し」作業に注目

現在、新金線を走る定期列車は次の3往復だ。

◆下り列車(金町駅 → 新小岩信号場)
1091列車:隅田川駅発 → 千葉貨物ターミナル駅行き
金町駅10時49分発 → 新小岩信号場11時00分着
1093列車:越谷貨物ターミナル駅発 → 鹿島サッカースタジアム駅行き
金町駅6時24分発 → 新小岩信号場6時35分着
1095列車:東京貨物ターミナル駅発 → 鹿島サッカースタジアム駅行き
金町駅0時27分発 → 新小岩信号場0時38分着(日曜運休)

◆上り列車(新小岩信号場 → 金町駅)
1090列車:千葉貨物ターミナル駅発 → 隅田川駅発行き
新小岩信号場19時20分発 → 金町駅19時30分着
1092列車:鹿島サッカースタジアム駅発 → 越谷貨物ターミナル駅行き
新小岩信号場19時52分発 → 金町駅20時02分着
1094列車:鹿島サッカースタジアム駅発 → 東京貨物ターミナル駅行き
新小岩信号場15時23分発 → 金町駅15時33分着(日曜運休)

 

貨物列車は電車のように、前後、進行方向をすぐに変えて走り出すことができない。進む方向を変える時には、機関車を切り離して併設された線路を逆方向へ走り、先頭となる側に機関車を連結させる「機回し」作業が必要となる。

 

地図上、Z字形の路線になっているこの新金線の路線。どの駅で機回しが行われているのだろうか。

 

まず金町駅では隅田川駅発の1091列車と、戻りの隅田川駅行きの1090列車の機回しが行われる。

 

新小岩信号場では、前述した3往復の列車がすべて機回し作業を行う。この機回しには地上の補助要員が必要なうえ、時間は最低でも15分程度は見ておかなければいけないとあって、各列車とも機回しのための時間に余裕を持たせている。

↑新小岩信号場へ到着したら、千葉方面へ機関車を付け替えるために、機回し作業が行われる。写真の1093列車で6時35分到着後に機回し、11時35分まで同信号所で待機する

 

ちなみにこうした作業は新小岩信号場に沿った遊歩道から見ることができる。貨物列車好きな方は一度、訪れてみてはいかがだろう。

 

【補足情報その2】国鉄形電気機関車の宝庫、新金線。撮影できるポイントも多い

前述した定期的に走る3列車だが、鉄道ファンにとってうれしいのは、すべての列車に、いまや貴重となりつつある国鉄形電気機関車が使われていること。

 

下り1091列車・上り1090列車、そして下り1093列車・上り1092列車にはEF65形式直流電気機関車が使われる。また下り1095列車と上り1094列車には、EF64形式直流電気機関車が使われている。

 

両形式とも、国鉄当時の原色に戻されつつある車両が増えているだけに、鉄道ファンにとって気になるところだ。新金線は、撮影ポイントが多く、国鉄形電気機関車が貨物列車を牽くとあって、鉄道ファンにとっては見逃せない路線にもなっている。

↑新金線では関東エリアでは少なくなったEF64形式の運用が見られる。上り列車は夜の運行が多いが、写真の1094列車のみ新小岩信号所15時23分発と理想的な時間帯に走る

 

【補足情報その3】新金線を訪れるとしたら小岩駅か京成高砂駅からがおすすめ

新金線は、金町駅から中川沿いに南下、路線のほとんどが、住宅の建ち並ぶなかを走る。踏切が数多いこともあり、撮影しようとするときには、この踏切が生かせる。複線化用に用意されたスペースを、列車との適度な“間”として生かせることもうれしい。

 

新金線を訪れるならば、京成高砂駅や、JR小岩駅から歩くことをおすすめしたい。京成高砂駅から中川方面に向かい、新金線に並走する道や中川の土手を歩けば、快い散策も楽しめる。

 

また小岩駅からは、徒歩15分ほどで、この路線の最大のポイントでもある中川橋梁へ行くことができる。

↑1091列車が新金線の中川橋梁を渡る。EF65形式が牽引、同橋梁を10時55分前後に通過する。中川の土手は広く、散歩がてらに訪れて撮影できる

 

新小岩信号場へは、JR新小岩駅からJR小岩駅方面へ徒歩で10分ほど。信号場内に停まる貨物列車や総武本線の列車がよく見えて、鉄道ファンにとっては魅力的なポイントにもなっている。ベンチもあり、小休止の場所にも利用できる。

↑新金線の新小岩信号場近くでみかけた花々。フェンスが花壇がわりに使われていた。新金線らしい何とものんびりした光景が沿線のそこかしこで見られる

 

↑新小岩信号場に停まる長物車(チキ車)。信号場沿いの道は遊歩道になっていて、行き交う列車が気軽に楽しめる。ただ遊歩道を走る自転車の通行には注意

 

葛飾区の新金線旅客化計画のその後を追う

今回、紹介した越中島支線と新金線には、長年にわたり、旅客路線とするプランが立てられてきた。

 

両路線が走る江東区、葛飾区を南北に結ぶ公共交通機関といえば、バスのみだ。バスはどうしても道路の渋滞に悩まされる。特に朝夕のラッシュ時には、運行が思い通りいかない。

↑JR新小岩駅と京成電鉄の青砥駅、JR亀有駅を結ぶ路線バスが運行されている。15分おきに走るバスで、新金線とほぼ平行して走るバスとしては最も便数が多く便利だ

 

こうした現状から江東区も葛飾区も、越中島支線や新金線を、旅客化できないか長年にわたり検討を続けてきた。

 

2017年に、さらに具体的に旅客化できないかを検討したのが葛飾区。新金線をLRT(ライトレールトランジットの略)の路線として生かせないかというものだった。低床で、高齢者にもやさしい乗り物として見直されつつあるLRT。国も導入支援を行い、実際に宇都宮市では、新たなLRT路線の建設に乗り出している。

 

新金線はすでに複線化できる用地があり、まっさらの新線を造るよりは、建設費も安くできる。

 

さてその検討結果が、2018年6月11日に葛飾区のホームページで発表された。

 

新金線のLRT案は、国道6号との平面交差や、需要予測に基づく採算性、貨物線のダイヤとの共存などの課題があるとしたうえで、「周辺の動向を見守りながら、南北交通の充実を図るストック材として活用方法を検討していく」としている。

 

新金線旅客化案はまったく消えたわけではないが、まずは地下鉄の延伸計画などのプランの促進に力を入れていくことになりそうだ。

西武鉄道の路線網にひそむ2つの謎――愛すべき「おもしろローカル線」の旅【西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線】

おもしろローカル線の旅~~西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線~~

 

東京都と埼玉県に路線網を持つ西武鉄道。その路線を地図で見ると、ごく一部に路線が集中して設けられている地域がある。一方で、ポツンと孤立して設けられた路線も。これらの路線網のいきさつを調べ、また訪ねてみると、「おもしろローカル線」の旅ならではの発見があった。

 

今回は、西武鉄道の路線網の謎解きの旅に出かけてみよう。

 

【謎その1】国分寺駅のホームは、なぜ路線で場所がちがうのか

下の地図は、西武鉄道の東京都下の路線図である。都心と郊外を結ぶ西武新宿線と西武池袋線、西武拝島線の路線が設けられる。東西にのびる路線と垂直に交わるように、南北に西武国分寺線と西武多摩湖線という2本の路線が走っている。

起点となる駅は国分寺駅で同じだが、国分寺線は東村山駅へ。その先、西武園線に乗り継げば西武園駅へ向かうことができる。一方の多摩湖線は萩山駅を経て、西武遊園地駅へ向かう。両路線はほぼ平行に、しかも互いに付かず離れず線路が敷かれている。途中、国分寺線と多摩湖線は八坂駅付近で立体交差しているが、接続する駅はなく、乗継ぎができない。

↑西武国分寺線とJR中央線の電車が並走する国分寺駅付近。路線を開業した川越鉄道は中央線の前身、甲武鉄道の子会社だった。以前は連絡線があり貨車の受け渡しも行われた

 

さらに、不思議なことに国分寺線と多摩湖線が発着する国分寺駅は、それぞれのホームが別のところにあり線路がつながっていない。国分寺線のホームはJR中央線のホームと並んで設けられているのに対し、多摩湖線の国分寺駅は、やや高い場所にある。同じ西武鉄道の駅なのに、だ。どうしてこのように違うところにあるのだろうか。

↑西武多摩湖線は、西武国分寺線よりも一段高い位置に設けられる。4両編成用のホームが1面のみでシンプルだ。駅に停まっているのは多摩湖線の主力車両、新101系

 

【謎解き】路線開発を競った歴史が複雑な路線網を生み出した

謎めく路線が生まれた理由は、ずばり2つの鉄道会社が、それぞれ路線を設け、延長していったから、だった。

 

国分寺線と多摩湖線の2本の路線の歴史を簡単にひも解こう。

◆西武国分寺線の歴史
1894(明治27)年 川越鉄道川越線の国分寺駅〜久米川(仮)駅間が開業
1895(明治28)年 川越線久米川(仮)駅〜川越(現:本川越)駅間が開業
*川越鉄道は後に旧・西武鉄道となり、1927(昭和2)年に東村山駅〜高田馬場駅間に村山線(現・西武新宿線)を開業させた。

◆西武多摩湖線の歴史
1928(昭和3)年 多摩湖鉄道多摩湖線の国分寺駅〜萩山駅間が開業
1930(昭和5)年 萩山駅〜村山貯水池(現・武蔵大和)駅間が開業
*多摩湖鉄道の母体は、堤康次郎氏(西武グループの創始者であり衆議院議員も務めた)が率いた箱根土地。経営危機に陥った武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の再建に乗り出し、株を取得。1940(昭和15)年、武蔵野鉄道が多摩湖鉄道を吸収合併し、同じ会社となった。

 

川越線(現・国分寺線)を運営していた旧・西武鉄道陣営と、多摩湖線を含む武蔵野鉄道陣営の競り合いはすさまじかった。

 

武蔵野鉄道が1929(昭和4)年に山口線(現・西武狭山線)の西所沢駅〜村山公園駅(のちに村山貯水池際駅と改称)間を開業、また1930(昭和5)年1月23日に多摩湖鉄道が多摩湖線の村山貯水池(仮)駅まで路線を延ばした。すると1930年4月5日には旧・西武鉄道が東村山駅〜村山貯水池前(現・西武園)駅間に村山線を延伸、開業させた(現在の西武園線)。1936(昭和11)年には、多摩湖鉄道が0.8kmほど路線を延ばし、村山貯水池により近い駅を設けている。

↑1930(昭和10)年ごろの旧・西武鉄道の路線案内。すでに多摩湖線が開業していたが、熾烈なライバル関係にあったせいか多摩湖線や武蔵野鉄道の路線が描かれていない

 

村山貯水池(多摩湖)の付近には、似たような名前の駅が3つもあり、さぞかし当時の利用者たちは、面食らったことだろう。両陣営の競り合いは過熱し、路線が連絡していた所沢駅では乗客の奪い合いにまで発展したそうだ。

↑東京市民の水がめとして1927(昭和2)年に設けられた村山貯水池(多摩湖)。誕生当時は、東京市民の憩いの場にもなったこともあり路線の延長が白熱化した

 

村山貯水池を目指した激しい戦いの痕跡が、いまも複雑な路線網として残っていたわけである。

 

そんなライバル関係だった両陣営も、1945(昭和20)年に合併してしまう。会社名も西武農業鉄道と改め、さらに現在の西武鉄道となっていった。

 

【補足情報その1】両路線とも本線系統とは異なる古参車両が運用される

筆者は、西武鉄道の路線が通る東村山市の出身であり、国分寺線や多摩湖線は毎日のようにお世話になった。いまもそうだが、国分寺線や多摩湖線は、西武鉄道のなかではローカル線の趣が強い。西武池袋線や西武新宿線といった本線の運用から離れた、やや古めの車両が多かった。

 

子ども心に、新しい電車に乗りたいと思っていたものだが、やや古い車両に乗り続けた思い出は、いまとなっては宝物となって心に残っている。そのころに撮影したのが下の写真2枚だ。

↑国分寺線を走る351系(1970年ごろ)。同車両は西武鉄道としては戦後初の新製車両として誕生した。晩年には大井川鐵道に譲渡され、長年にわたり活躍した

 

↑西武園線を走るクハ1334。西武鉄道では急速に増える沿線人口に対応するため、国鉄から戦災車両の払い下げを受け再生して使った。クハ1334もそんな戦災車両を生かした一両

 

現在、多摩湖線を走るのが新101系。西武鉄道の車両のなかで唯一残る3扉車で、1979(昭和54)年に登場した車両だ。40年近く走り続ける、いわば古参といえるだろう。

↑多摩湖線の車両は新101系のみ。写真のような黄色一色、先頭車がダブルパンタグラフという新101系や、グループ企業の伊豆箱根鉄道カラーの車両も走っていて楽しめる

 

一方の国分寺線や西武園線は2000系。西武初の4扉車として登場し、こちらも40年にわたり走り続けてきた。国分寺線には2000系のなかでも角張ったスタイルの初期型の2000系も走っている。古参とは言っても、それぞれ内部はリニューアルされ、乗り心地は快適だ。

↑国分寺線の主力車両は2000系。写真は初期の2000系で、角張った正面に特徴がある。この初期型も最近になって廃車が進みつつある

 

多摩湖線には、レトロな塗装車も走っているので、そんな車両に乗りに訪れるも楽しい。

 

【補足情報その2】国分寺線と多摩湖線のおすすめの巡り方は?

昭和初期に生まれた国分寺線と多摩湖線をどう乗り継げば楽しめるだろうか。手軽に楽しめるルートを2パターン紹介しよう。

 

◆ルート例1
国分寺駅(多摩湖線) → 萩山駅 → 西武遊園地駅 →(西武レオライナーを利用)→ 西武球場前駅 → 所沢駅 → 東村山駅 → 国分寺駅
*多摩湖線の電車は国分寺〜西武遊園地間を直通する電車と、国分寺〜萩山間を走る電車がある。

◆ルート例2
国分寺駅(多摩湖線) → 萩山駅 → 西武遊園地駅 →(徒歩10分)→ 西武園駅 → 東村山駅 → 国分寺駅
*西武園〜国分寺間は、直通電車の本数が少ないので、東村山駅での乗換えが必要となる。

 

ちなみに西武園駅から徒歩約10分の北山公園では6月17日まで菖蒲まつりが開かれている。駅からは八国山緑地などを散策しつつ歩けるので、訪ねてみてはいかがだろう。

↑西武遊園地駅と西武球場前駅を結ぶ西武レオライナー(西武山口線)。大手私鉄で唯一の案内軌条式鉄道(AGT)が走っている。古くはこの路線をSLや、おとぎ電車が結んでいた

 

↑北山公園は狭山丘陵すぐそばにある自然公園で、初夏には200種類8000株(約10万本)の花菖蒲が咲き誇る。6月17日までは菖蒲まつりが開かれ多くの人で賑わう

【謎その2】西武鉄道の路線網とは離れた「孤立路線」はなぜ生まれたのか

西武鉄道の路線図を見るとJR中央線の北側にほとんどの路線が広がっている。そんななか、唯一、JR中央線から南に延びる線がある。それが西武鉄道多摩川線だ。

路線距離は8km、駅数は6駅と路線は短い。西武鉄道の本体と離れた「孤立路線」がどうして生まれたのか、また孤立している路線ならでは、手間がかかる実情を見ていこう。

↑西武多摩川線を走る電車はすべてが新101系。標準色のホワイトだけでなく、写真のようにレトロなカラー(赤電と呼ぶ塗装)も走っていて西武鉄道のファンに人気だ

 

【謎解き】西武鉄道が計画してこの路線を開業させたわけではない

西武多摩川線の元となる路線が開業したのは、境(現・武蔵境)駅〜北多磨駅間が1917(大正6)年のこと。1922(大正11)年には是政駅まで線路が延ばされた。路線を造ったのは多摩鉄道という鉄道会社だった。

 

その後、1927(昭和2)年に旧・西武鉄道が多摩鉄道を合併した。1945(昭和20)年の、武蔵野鉄道と、旧・西武鉄道の合併後は、西武鉄道の路線となり、いまに至っている。要は西武鉄道が計画してこの路線を開業させたわけでなく、鉄道会社同士が合併を進めたなかに、この路線が含まれていたというわけだ。

 

この路線は多摩川の砂利の採取が主な目的として造られたが、すでに西武多摩川線での貨物輸送はなくなり旅客輸送のみ。沿線に競艇場や複数の公園が点在することもあり、レジャー目的で利用する人も多い。

 

【補足情報その1】赤や黄色いレトロカラーの電車がファンの心をくすぐる

西武多摩川線を走る車両は新101系のみ。多摩湖線と同じ車両だ。新101系はホワイトが標準色となっている。この標準色に加えて、西武多摩川線では、鉄道ファンに「赤電」の名で親しまれた赤いレトロカラー(1980年ごろまで多くの車両がこのカラーだった)と、新101系が登場したころの黄色いレトロカラーというレアな色の2編成も走っている(2018年6月現在)。

↑新101系のレトロ塗装車。同車両が登場した当時の色に塗り直され、赤電塗装の車両とともに西武多摩川線の人気車両になっている

 

この2編成のカラーは、西武鉄道のオールドファンに特に人気で、懐かしいレトロカラーの電車をひとめ見ようと沿線に訪れる鉄道ファンも目立っている。

 

【補足情報その2】JR中央線との接続は便利だが、京王線との乗換えはやや不便

西武多摩川線の起点駅は武蔵境駅。JR武蔵境駅と同じ高架路線の駅となっている。乗継ぎ改札口を利用すれば、JR中央線との乗換えは便利だ。

↑西武多摩川線の起点となる武蔵境駅。JRの駅と並ぶように高架下に設けられている。こちらは自由通路側の改札口だがJR中央線との乗換え口がほかにある

 

電車は平日、休日に関わらず10分間隔で発車している。武蔵境駅から終点の是政駅まで12分あまりだ。車窓からは、武蔵野らしく畑地のほか、野川公園など三多摩地区を代表する公園も点在し、四季を通じて楽しめる。

 

途中、白糸台駅が京王線の武蔵野台駅との乗換駅になる。ただし、乗換えはやや不便で、徒歩6分ほどかかる。白糸台駅の駅舎が京王線の武蔵野台駅側とは逆側のみのためだが、この位置関係がちょっと残念に感じる。ちなみに白糸台駅には車両基地があり、仕業点検など簡単な整備や清掃はここで行われる。

 

そして終点の是政駅へ。この駅は多摩川のすぐ近くにあり、裏手に土手があり、のぼればすぐに多摩川河畔となる。

↑終点の是政駅の先にはバラスト用の砂利や、レールの置き場があり、その区間のみ線路が延びている。かつてこの先が多摩川まで延び砂利運搬用に利用されていたのだろうか

 

↑是政駅を出たすぐ裏手に多摩川があり、土手からはJR南武線や、武蔵野貨物線の橋梁が見える。長い間、河畔では砂利採集が行われ西武鉄道多摩川線で運搬されていた

 

【補足情報その3】鉄道ファンにとっては隠れた人気イベント!? 孤立路線ならではの苦労

西武多摩川線には白糸台に車両基地があるが、この基地では本格的な整備を行っていない。そのため、西武鉄道の路線内にある車両検修場まで運び、検査や整備をしなければいけない。そのあたりが孤立路線のために厄介だ。

 

武蔵境駅には、JR中央線との連絡線がある。車両は通ることはできるが、西武鉄道の電車がJRの路線を自走することはできない。そこで「甲種輸送」という方法で、輸送が行われる。JR貨物に輸送を委託、JR貨物の電気機関車が西武鉄道の電車を牽引して運ぶのだ。

 

そのルートは、武蔵境駅 →(中央線を走行)→ 八王子駅(進行方向を変える) →(中央線・武蔵野線を走行)→ 新秋津駅付近 →(西武池袋線への連絡線を走行)→ 所沢駅 → 武蔵丘車両検修場 という行程になる。
また、整備を終えた車両や交代する車両は、その逆で西武多摩川線へ戻される。

 

約3か月に1回の頻度で行われるこの「甲種輸送」。JR貨物の電気機関車が西武鉄道の電車を牽くシーンが見られるとあって、鉄道ファンには隠れた人気“イベント”にもなっている。

↑武蔵境駅の先でJR中央線への連絡線が設けられている。検査や整備が必要になった車両は連絡線を通りJRの路線経由で西武鉄道の車両基地へ「甲種輸送」されている

 

↑西武多摩川線用の新101系の「甲種輸送」の様子。JR路線内では西武鉄道の電車は自走できないため、JR貨物の機関車に牽かれて運ばれる