動画再生回数1億回超えの韓国アート企業「d’strict(ディーストリクト)」が生み出したサブスクが面白い

近年、ミュージアムやレジャー施設、街中の屋外ディスプレイなどで、イマーシブな(没入感のある)映像コンテンツや広告を見かける機会が増えている。なかでもここ数年、世界的なトレンドとなっているのが、専用のメガネがなくても映像が飛び出して見えたり、投影されているものがあたかもそこにあるかのように見えたりする3Dサイネージだ。日本では、JR新宿駅東口の「クロスビジョン新宿」に投影される3D巨大猫で知られている。

 

韓国発のクリエイティブ企業の作品はSNSでの再生回数1億回越え!

このジャンルにおいて世界的に注目を集めているクリエイティブ企業がある。それが、韓国の「d’strict(ディーストリクト)」だ。彼らが2020年にソウルで発表した「WAVE」という作品は、SNSやロイター通信、CNNなどの海外メディアで話題になり、関連動画の合計再生回数は1億回を超えている。

↑ソウルの屋外ビジョンで公開された「WAVE」。街中に巨大な水槽が現れたかのようなリアルさ。波が水飛沫を上げながら躍動する様は圧巻だ

 

 

彼らはWAVEを公開したあとも、ニューヨークのタイムズスクエアで作品を公開したり、ドバイやラスベガスなど、世界8か所に体験型のメディアアート施設「アルテミュージアム」を作ったりと、国内外のメディアアートシーンで活躍している。

↑2021年、ニューヨークのタイムズスクエアに巨大な滝が出現。作品名は「Waterfall-NYC」

 

 

↑2023年12月には東京の表参道で、ファッションブランド「クリスチャン・ディオール」の広告作品を公開。ギフトボックスの中からコレクションのモチーフである「蝶」とバッグが現れ、幻想的な空間を作り出した

 

 

↑韓国の江陵や済州などにある「アルテミュージアム」は、非現実的な雰囲気を楽しめる新たな観光スポットとして人気だ。日本上陸も近いとの噂

 

作品を作るだけでなく新たにサブスクサービスも開始し日本で初お披露目

そんな彼らが2021年に、「LED.ART」というアートサービスの提供を開始し、2024年6月に幕張メッセで行われた日本最大級のサイネージの展示会「デジタルサイネージジャパン 2024」にて、その一部が日本でも初お披露目されたので紹介したい。

↑「デジタルサイネージジャパン」は、街中のメディアとして多様な役割を果たすデジタルサイネージの最新技術とその活用法を紹介するイベント

 

イベント初日には同社代表の李 誠浩(リ・ソンホ)さんも来日し、話を聞く機会をいただけたので、彼の声と共にお届けする。

↑展示会では、日本のLEDビジョンメーカー「LED TOKYO」のブースにて、LED TOKYOが開発した大型スクリーンに投影された

 

そもそもLED.ARTは、d’strictと韓国のデジタルスペースエクスペリエンス会社「CJ CGV」が共同で提供する法人向けのサブスクリプション型サービスで、会員は、世界で注目を集めているメディアアートを手頃な価格で活用できる。

 

法人向けのサービスではあるが、今後、普及することで一般消費者である我々が、街中で見かける機会はぐんと増えるだろうし、企業がこのサービスを導入することで、街の景色がガラリと変わる可能性を秘めたユニークなサービスである。

↑会場では、LED TOKYOのDXマーケティング事業部部長である福留尚弥さん (写真右)と、李さん(写真中央)のトークセッションも実施

 

李さんによるとLED.ART誕生のきっかけは、前述した「WAVE」の成功だったという。

 

「コロナ禍真っ只中の2020年にWAVEを発表した際、SNSで大きな話題となり、パブリックメディアアートの可能性を示すことができました。おかげで、世界各地からたくさんの問い合わせをいただいたのですが、WAVEのようなコンテンツを短時間で大量に生産するのは難しく、ほぼお断りすることになってしまいました。ですがこの経験から、WAVEのような魅力的な作品をあらかじめ作成しておいて、それをサブスクリプションで提供すればニーズがあるのではと考えるようになりました」(李さん、以下同)

 

サブスクリプション型というアイデアが生まれてから準備を進め、2021年にサービスの提供を開始。以降、韓国を中心にユーザー数を伸ばしているという。

↑左は大学病院、右は仁川国際空港での導入事例

 

「導入事例はすでに多くありますが、たとえばソウルの大学病院では、訪れた患者さんからヒーリング効果を得られると反響をいただきました。それを見たほかの病院からも導入したいとお声がけ頂いています」

↑今年の上半期に日本でも話題になった「涙の女王」という韓国ドラマでも、ヒロインが訪れるパーティー会場でLED.ARTが活用され、会場を華やかに演出した

 

「ほかにもクリスマスや年末のカウントダウンイベントなどの前後に、私たちのメディアアートがソウルの街を彩り、訪れた人たちのフォトスポットとして活躍しました」

 

没入感のある映像体験をイベントやアトラクションだけでなく日常に

「LED.ARTの最大のメリットは、映し出すコンテンツを変えるだけで空間の雰囲気を一瞬で変えられること。ディスプレイの形状や解像度に関係なく、ご活用いただける点も魅力です。都市開発などで新しい商業施設や空間を作る際に、集客する手段や来場者とのコミュニケーションツールのひとつとして、多くの企業から求められるようになると思います」

↑ジュエリーブランド「ティファニー」が主催する海洋生態系保護のためのチャリティーイベント「SAPPHIRE PROJECT」。オーストラリアで今年開催されたディナーイベントで導入された

 

↑韓国の観光公社がロンドンで開催したKorea Now Festivalの会場。映像を変えるだけで空間の雰囲気を一瞬で変えられる

 

日本国内でも都庁や東京駅のプロジェクションマッピングが話題になってはいるが、現在、メディアアートを使ったイマーシブな体験は、昨年東京・大阪・福岡で開催されたゴッホやセザンヌなどの絵画世界を体感できる「イマーシブ・ミュージアム」や、お台場の元ビーナスフォートにオープンした「イマーシブ・フォート東京」など、イベントやアトラクションが中心だ。

 

しかしLED.ARTの導入が進めば、病院や空港、ホテル、商業施設などで、日常的に非日常な空間を体感できる可能性があり、サブスクリプション型であるために、手頃な価格で季節に応じて流す映像を変えられるため、来場者は訪れるたびに、初めてそこを訪れたかのような気持ちになれる。

 

 

そして、都会のど真ん中で大自然やファンタジーの世界、近未来都市に迷い込んだような気分になったり。そこには新鮮な驚きとワクワク感がある。

↑韓国の龍山にある映画館やスパなどが揃うショッピングモール。季節に合わせてLED.ART作品が投影されている

 

自宅や商業施設に飾る絵画サイズが中心にはなるが、デジタルアートをサブスクリプションで提供するサービスは、LED.ART以外にもあるが、その大きな違いは何なのか。

 

「ほかのアート配信サービスは、様々なアーティストの方が自由に作品を登録できる場合がほとんどです。というのもこれらのサービスは、できるだけ登録作品数を増やすことを目指しているからです。そのため、時々、他の方が作った作品をコピーして作った作品が登録されてしまうケースがあるんです。

 

一方で私たちは、アーティストのオリジナリティや作品の真贋を自分たちの目できちんとチェックしたうえで、協業すべきかをきちんと見極めています。さらにアーティストに対しても、正当な報酬をお支払いするための購読料ポリシーを設けているので、それがメディアアート分野の今後の成長の支援にもつながると考えています」

↑2023年に「イギリスで最も人気の観光スポット」に選ばれた「The Outernet(ロンドン)」で、公開されたアート作品「FLOW」。最先端の巨大スクリーンいっぱいに巨人が舞い、西洋美術の歴史を表現。この作品ももうまもなくLED.ARTに登録される

 

 

現在、LED.ARTに登録されている作品は約180点(2024年7月時点)。前述した通り、彼らが目指すのは作品の量産ではない。とはいえ、彼らも選択肢(作品点数)の多さの重要性も認識してはいる。

 

「現在、アーティスト専属のキューレターと協力して、世界中のアーティストたちと積極的にコミュニーケーションをとっているので、今後は質にこだわりながらもいまよりも早いスピードで作品数を増やせると予想しています。2025年末までに1000作品に増やすのが目標です」

 

加えて、これまでの作品づくりの知見を活かし、空間自体のコンサルティングなども行い、より特別感のあるサービスを提供できるよう準備しているという。

 

さらに、現在の大型コンテンツの提供だけでなく、ホテルや高級リテールスペースでのフォトフレーム型メディアアートの需要の高まりに応えられるよう、小型のデジタルキャンバスとメディアアートをセットで提供する一体型サービスの準備もしているそうだ。

 

大型ディスプレイをコミュニケーションの手段に

 

 

李さんがLED.ARTで目指すのは、特定のサービスやブランドを紹介する広告目的で設置されることがほとんどである大型ディスプレイが、商業的な広告としてだけではなく、人々にとってもっと快適で魅力的な空間を作るためのコミュニケーション手段として定着することだという。

 

「私たちの最終ゴールは、メディアアートでその空間に新しいインスピレーションを生むことです。つまるところ芸術とういうのは、誰かが共感し、何かインスピレーションを得たときに生命力をもつと考えているからです。デジタルという特徴をいかし、一方的な配信媒体ではなく、人々がメディアアートを通じてお互いにコミュニケーションを取り合い、自分の好みを通じて人とつながっていく、そんなサービスに育てていきたいと思っています」

 

 

今回の展示会出展を経て、日本での本格的なサービス展開も目指しているとのこと。冒頭でいくつか紹介した彼らの作品のYouYube動画を見ていただければわかると思うが、彼らが作る作品は、リアルでありながらもどこか非現実的で、そこにはついじっと見続けていたくなる不思議な吸引力がある。

 

現状、d’strictが作成した作品がすべてLED.ARTに登録されているわけではないが、今後登録されていく可能性は十分にあるし、これらのクールな映像を作った会社が認めたクリエイターたちの作品が続々と登録されていくと考えると、おのずと期待は高まる。そしてこれらの作品が彩る街を想像したらワクワクせずにはいられない。

新型コロナの流行でアート市場に起きた予想外の動き~注目の新書紹介~

書評家・卯月 鮎が選りすぐった最近刊行の新書をナビゲート。「こんな世界があったとは!?」「これを知って世界が広がった!」。そんな知的好奇心が満たされ、心が弾む1冊を紹介します。

 

 

コロナ禍で変わり始めた価値観

みなさん、こんにちは。書評家をしています卯月 鮎です。コロナ禍での生活が続き、以前とは感覚も少し変わってきました。これまでなら人が並んでいたり、混雑していたりするお店を見かけたら、「何だろう?」と気になっていたものですが、今では人が密集しているというだけで腰が引けている自分がいます。友だち、仕事仲間、知り合い……そんな人間関係の線引きにも変化が生じた気がします。

 

こうなると、人間の本質を切り取って露わにするアートにも当然影響が出てくるでしょう。今回の1冊は、芸術の秋にふさわしい新書『新型コロナはアートをどう変えるか』(光文社新書)。混乱するアート市場の現状は? そして新生アートから見えてくる新型コロナが社会にもたらす意味とは?

 

 

著者はアート・コレクターで横浜美術大学学長の宮津大輔さん。ビジネスとアートの関係性を書いた『現代アート経済学』(光文社新書)でも知られています。

 

まず第1章は「芸術は疫病をどう描いてきたのか」。すべての人が平等にガイコツになって墓場で踊る「死の舞踏」というモチーフが流行った中世ヨーロッパの黒死病。粋でいなせな若衆になった楊枝やタライが病魔を退治する擬人化絵が描かれた江戸時代の麻疹(はしか)。流行病に影響を受けたアートの歴史が解説されます。

 

『聖闘士星矢』のセル画が予想外の高値

もっとも興味深かったのは第3章「アートは死なず」。中国マネーの台頭と依然として力を持つオイルマネーにより、コロナ禍前には7兆円に膨れあがっていたアート市場。しかし、販売の中心だったアート・フェアが軒並み中止に追い込まれ、一時的な混乱を迎えているようです。それでも著者は、外出自粛が追い風となったeコマース関連など新たな富裕層の参入が考えられ、「数年で従前の規模を越えることは、リーマン・ショックの事例から、まず間違いないでしょう」と予測しています。

 

さらに、新型コロナ感染拡大に伴って、趣味性の高いサブカル的な作品の取引が活発になっているというから驚きです。サザビーズ香港のオークションでは『聖闘士星矢』のオープニングのセル画が予想価格の5~7万香港ドルに対して、37万5000香港ドル(約525万円)で落札されたという例が挙げられています。感染防止のため他者との関わりが減ることによって、自分の本当に好きなものにお金を使いたくなる……その心境、よくわかります。

 

また、オンラインアートのトピックもなるほどと思えました。キーワードは「脱・所有」。2020年5月には世界中の名画が無料で楽しめるオンライン・アート・プラットフォーム「VALL」がスタート。月額料金制(月々2980円)で若手アーティストの作品もオンラインで鑑賞できます。絵画をコレクションする、展示されている美術館に足を運ぶ、そんな行動は過去のものとなるかもしれません。

 

新型コロナの流行によって見えてくる生きる意味とアートの必要性。深まる秋の夜長、温かい紅茶でも飲みながら、アートとは何かを考えるのもぜいたくな時間の過ごし方です。

 

【書籍紹介】

新型コロナはアートをどう変えるか

著者:宮津大輔
発行:光文社

世界のアート市場は、新型コロナウイルス感染拡大前まで活況を呈していた。実際、中国を中心とする華僑・華人を含むアジア、並びに中東産油国の旺盛な購買意欲に牽引され、オークション・ベースだけでも7兆3000億円(2018年)に上っていた。しかし、新型コロナウイルスが風景を一変させた。このパンデミックはアート市場にどのような影響を与えているのか――。本書では、人類が疫病といかに対峙し、芸術をもって描出してきたのかを振り返るとともに、ウィズ/ポスト・コロナ時代のアート界について市場動向を中心に予測する。同時に、歴史的転換点を迎えた現在、様々なアーティストによる作品紹介を通じて、彼ら・彼女らの作品に込めた意図を探る。

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【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。

バンクシーは一体何が凄いのか? バンクシー展で知る、世界が熱狂する匿名アーティストの作品とアート性、人物像とは

2018年からモスクワ、サンクトペテルブルク、香港など世界5都市を巡回し、のべ100万人以上を動員した『バンクシー展 天才か反逆者か』が、2020年3月から日本で開催中です。

 

世界中のストリートの壁面に、ステンシルによる社会風刺的なグラフィティ作品を描き続けている、謎のアーティスト「バンクシー」。“芸術テロリスト”とも称される彼の過激なスタイルは、今なぜ世界中の人々をこんなにも熱狂させているのでしょうか? 気になってはいるけれど実はよく知らない……そんな人のために、謎に包まれたアーティスト「バンクシー」を読み解き、作品を楽しむためのキホンをおさらいしてみましょう!

 

バンクシーって、いったいどんな人物?

活動拠点はイギリスのロンドン、それ以外は本名や年齢すら明かされていない謎のアーティスト「バンクシー」。街に突然現れるグラフィティ作品が世界中で議論を巻き起こし、今やオークションで億単位の高値がつく一流現代アーティストとしても君臨する彼は、一体どんな人物なのでしょうか?

 

「彼は1994年ごろからアメリカのニューヨークでグラフィティ活動を行い、’99年から活動拠点をロンドンに移したといわれています。その正体は謎に包まれており、好きでそうしているのか、必要に迫られてのことなのかはともかく、いまや現代の神話の域に達するまでになっているといえるでしょう」(『バンクシー展 天才か反逆者か』製作委員会・以下同)

 

バンクシーのアートは神出鬼没。世界中のストリート、壁、橋などに突如描かれる、ステンシルを用いたグラフィティ・アートがとくに有名です。また、ロンドンやニューヨークにある世界的規模の美術館・博物館にゲリラ展示を行うなど、アーティストとしては非常に過激なスタイルで知られています。

 

「愛嬌のあるネズミや女の子の絵柄など、一見どれもキャッチーでユーモラスな絵柄に見えますが、その背景には鋭い社会風刺や政治的メッセージが込められています。そんな作風から、彼を“芸術テロリスト”などと称する人もいる一方で、バンクシーはスタジオ制作を行って世界各地で個展を開催したり、宿泊施設や期間限定のテーマパーク、映画の制作など多面的な活動を行っているのも特徴的。今回の『バンクシー展 天才か反逆者か』でも、そういった彼の多面的な創作活動を取り上げています」

 

そんなバンクシーが、自らの芸術活動において大きな影響を受けているといわれているのが、イギリス西部の港湾都市・ブリストルのアンダーグラウンド・シーン。マッシヴ・アタックやポーティスヘッドといった世界的な音楽ユニットを輩出し、芸術家と音楽家のコラボレーションから新たなムーブメントを生み続けているブリストルの街には、『ウェル・ハング・ラバー』『マイルド・マイルド・ウェスト』といった、彼の著名なグラフィティ作品がいくつも残されています。

↑イギリス西部の港湾都市・ブリストルは、UKギターポップにヒップホップ、レゲエといった要素が融合したトリップホップというサウンドを生んだ街。’88年結成の代表的なユニット、マッシヴ・アタックのメンバーであるロバート・デル・ナジャ(通称3D)は、80年代にグラフィティ・アーティストとして活動していた人物でもありました。3Dと交流のあったバンクシーは、自身の作風が彼やブリストルのアンダーグラウンド・シーンから多くの影響を受けていると語っています

 

↑ブリストルのフロッグモア・ストリートに2006年に描かれた『ウェル・ハング・ラバー』

 

バンクシーの作風とは?

「グラフィティは、もしあなたがほとんど何も持っていなくても、
使うことのできるわずかな道具のひとつだ。
そして世界の貧困を救うための絵が思いつかなくても、
立ちションをしている奴を微笑ませることならできる」
(『バンギング・ユア・ヘッド・アゲインスト・ア・ブリック・ウォール』/バンクシー著 より)

 

バンクシーは1990年代後半から2004年頃まで、アーティストのCDジャケットやファッションブランド等に自身の作品を提供していますが、それ以降は音楽家をはじめ、マイクロソフトやナイキなど大企業からのオファーも、一切を断っているといいます。そんな彼の表現の中心にあるのが、街に突如現れるグラフィティ・アート。ストリートにダイナミックに描かれるグラフィティの醍醐味は、描かれた街とそこに流れる空気、時代背景などをまるごと含めて、その場所でしか味わえないことにあるといえます。そして一見ユーモラスにさえ見える絵柄の中に、過度な資本主義、暴力やテロ、人種差別、パレスチナ・イスラエル問題、児童労働といった社会問題に対する風刺が表現されているバンクシーのグラフィティは、見る者に強いメッセージを投げかけます。

 

「作品の大半は、ストリートの壁面に無許可で描かれます。近年では作品に気づいた建物の所有者がアクリル板などで保護するケースもありますが、多くは落書きとして塗りつぶされてしまいます。そのため現存している作品も多くはなく、実際に目撃できる人の数も限られているといえるでしょう。作風として代表的なのは、ステンシルを使用した独特のグラフィティと、それに添えられる風刺的でダークユーモアにあふれるエピグラムです」

↑ステンシルによって描かれた、バンクシーの有名なモチーフ。写真は『ベルサイズ・パーク・ラット』

 

バンクシーが用いるステンシルの技法とは、図形や文字の形をくりぬいたテンプレートと呼ばれる型板(型紙)の上から、スプレーなどで塗装を施して、壁面などに絵を描くというもの。有名なモチーフとしては、ここ日本を含め世界のあちこちに登場して世間を騒がせているネズミの絵がおなじみです。紛争真っ只中のパレスチナから、運河が流れる美しいベネチアの街まで、様々な舞台でゲリラ的に描かれるバンクシーのグラフィティは、作品をいかに素早く描き上げるかも創作を行うための重要な要素なのでしょう。以前はフリーハンドで描いていた時期があったようですが、’90年代半ばからステンシルに転向したそうです。

↑エピグラムとは、簡潔にしてウィットのある主張が込められた短い詩のことをいいます。バンクシーのグラフィティは、見る者に社会問題などを問いかけるようなエピグラムが添えられている作品が多く、この文字もまたステンシルの技法で描かれています

 

世界に名を知られたきっかけは?

ニューヨーク、ロンドン、そして東京。世界のどんな都市においても、グラフィティという名の落書きは所詮ありふれたもので、それらは数多の無名アーティスト、若者らによって日夜描かれ続けています。そんなグラフィティを表現の軸に置くバンクシーが一躍有名人になったきっかけは、何だったのでしょうか?

 

「最初に知名度を大きく上げたのは、2003年にロンドンのテート・ブリテン美術館において、作品を無断でゲリラ展示した事件だと思います。しかし、彼が起こした“事件”は他にも多数ありますので、一概にこれがきっかけだと言い切れるわけではありません。ちなみに、ここ日本で知名度が拡大したきっかけは、2018年にロンドンのサザビーズ・オークションで起きた『シュレッダー事件』だったと思います。この事件は日本のニュースでも大きく取り上げられ、テレビを通して彼の名前が広く知られることになりました」

 

世界中の美術館や博物館に無断でゲリラ展示を行うという表現活動は、バンクシーの常套手段のひとつです。これまで舞台となったのは、テート・ブリテン美術館、ロンドン自然史博物館、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館など世界的に有名なスポットばかり。当然ながら無断展示が見つかって即取り下げられてしまうケースもあれば、2005年に大英博物館でゲリラ展示した洞窟壁画を模した作品のように、物議を経て正式なコレクションに加わってしまった作品も存在します。

 

そして彼をいま世界で最も有名な現代アーティストにしたのが、代表作『ガール・ウィズ・バルーン』をめぐる『シュレッダー事件』でしょう。2018年にロンドンのサザビーズ・オークションで100万ポンド強の値がついた直後に、バンクシー自身が額の中に仕掛けたシュレッダーによって作品がズタズタに切り裂かれるというショッキングな事件は、日本のテレビやSNSでも注目されました。

↑シュレッダー事件はその後「美術史においてライブ・オークション中につくられた初の作品」といわれ美術界に語り継がれています。切り裂かれた作品は後日『ラブ・イズ・イン・ザ・ビン(愛はごみ箱の中に)』とバンクシー自身に名付けられたそう。(photo/gettyimages)

 

バンクシーは何度も世界を騒がせた!

バンクシーが世間を騒がせた事件はほかにも多々あります。そのいくつかをご紹介しましょう。

 

まずは2004年のパリのルーブル美術館。世界で最も有名なこの美術館において、彼はあろうことかダ・ヴィンチの名作『モナ・リザ』へのオマージュ作品を無断展示するという、大胆な創作をやってのけました。モナ・リザの顔をスマイリーフェイスに変えた、その名も『モナ・リザ・スマイル』です。

 

同年、ロンドン自然史博物館にゲリラ展示したのはステンシルではなく、マイクを持ったネズミの剥製です。ネズミの後ろには、スプレーで「Our time will come」なるメッセージがペイントされていました。このとき彼は学芸員に変装して展示を行なっていたといいます。

 

2005年に大英博物館でゲリラ展示されたのは、なんと洞窟壁画を模したコンクリート片でした。人間がショッピングカートを押している様子を古代の壁画チックに描いた作品『Peckham Rock(ペッカム・ロック)』は、3日間誰にも気づかれず展示されたそう。そして13年後の2018年、同地で正式に展示されることが決定しています。

 

ほかにも2005年にロンドンのノッティング・ヒルで約200匹の生きたネズミを放したエキシビションを行ったり、2013年にはニューヨークで1ヶ月間、毎日街のどこかに作品を残したり、バンクシーのアート活動はいつも奇想天外で刺激的。世間では賛否両論が渦巻いていますが、これがただの悪ふざけではなくアートとして一定の評価を得ているところに、バンクシーの凄みがあります。

 

バンクシーの略歴

 

バンクシーのアートはなぜこうまで人を惹きつけるのか?

では彼のゲリラ的な創作活動はなぜ評価され、人々を魅了するのでしょうか?

 

『シュレッダー事件』で知られる『ガール・ウィズ・バルーン』という作品を例に考えてみましょう。最初はロンドンのサウス・バンクの階段下にある壁に描かれ、やがて人々の希望のシンボルとなって、バンクシー自身も版画として販売するようになった代表作です。女の子がハート型のバルーンを手放すこの単純明快な絵柄に、人々が抱く印象は実にさまざま。たとえば、飛んでいってしまう風船に喪失感や別れ、寂しさのようなものを感じる人もいれば、自由や解放といったポジティブなイメージを感じる人もいるでしょう。その感じ方は、個々のパーソナリティや置かれた状況によって変わってくるといえます。

 

「バンクシー作品の魅力のひとつに、他の現代アーティストにはない“わかりやすさ”があると思います。彼の作品は単純明快だからこそ見る者に何かを感じさせ、人と会話させるという力を持っています。年齢や性別、人種さえも超えて誰の心にも直接何かを訴えかけ、考えさせ、何かしらの行動を起こすように触発してくるのです。それぞれの見方や意見は違っても、誰かと会話や議論を始めたくなる。そこに、バンクシー作品の素晴らしさがあると思います」

↑とある調査によると、『ガール・ウィズ・バルーン』はイギリス人の約70%がバンクシーの作品だと認知しているそう。「少なくとも現代アートの分野において、ここまで広く国民に認知・認識されているアーティストは他にいないと思います」

 

バンクシーにインスピレーションを与えたアーティストたち

1980年代、ブリストルの街で出会ったグラフィティ・アーティストたちに触発され、キャリアを本格的にスタートさせたバンクシー。そのアートの源流を辿ると、’70年代初頭のニューヨーク・シーンに登場した「ライター」であるといわれています。

 

「ライターとは、アフリカ系アメリカ人が多く暮らすハーレムや、ブロンクスのプエルトリコ人コミュニティ、ロウアー・イースト・ビレッジの小さなイタリア人地区などの出身者で、1950年代のストリート・ギャングから派生したアート集団のような人々のことを指しました。そこで生み出されていたのは、絶えず物事に反発する、いわゆる“ならず者のアート”。自分たちのアイデンティティという観点から、帰属を示す方法として標準化された彼らのアートは、後にグラフィティと呼ばれるようになって、世界のあちこちに拡がっていきました。こういったニューヨークのグラフィティ・シーンが海を渡ってブリストルの街に紹介され、バンクシーはそこから影響を受けて独自の思想、作風を形成していったと思われます。また彼の作品からは、ニューヨークのグラフィティやヒップホップの文脈だけではなく、攻撃的で反体制的なイギリスのパンク精神も感じられます」

↑バンクシーはアンディ・ウォーホルやキース・ヘリングといったポップ・アーティストへのオマージュ作品も制作しています。写真の『スープ・カンズ』は、ニューヨーク近代美術館に所蔵されているアンディ・ウォーホルのキャンベル缶の作品の隣に、ゲリラ展示したもの。本作は6日間もの間、誰にも気づかれず掲示され続けたそうです

 

バンクシーが世間を騒がせつつも、アートとしての価値を認めさせてきた所以を理解できたところで、最後に、知っておきたいバンクシーの作品 9選と、展示品の充実ぶりが話題の『バンクシー展 天才か反逆者か』の最新情報を確認しましょう。

 

知っておきたい、バンクシーの代表作

2020年現在、日本で絶賛開催中の展覧会『バンクシー展 天才か反逆者か』。ここで実際に見ることができる、バンクシーの代表作をいくつか紹介しましょう。

『ラフ・ナウ』

2000年にブライトンのナイトクラブからの依頼で描かれた作品。もの憂げなサルがぶら下げているのは、「いまは笑うがいいさ。でもいつかは俺たちがやってやる」と書かれた広告。愚かで野蛮な存在の象徴として笑い者にされているサルに、ならず者たちのアート活動から始まったグラフィティの反骨精神を重ねています。

 

『ケイト・モス』

人々はアートではなく、ブランドや人気のあるイメージにお金を払いたい。大衆はアートを必要としない……。そんな皮肉を見事に表現したアンディ・ウォーホルによるマリリン・モンローの肖像。バンクシーはこれを制作当時のポップアイコンだったスーパーモデル、ケイト・モスに置き換え、現代版にアップデートしてみせました。

 

『DIフェイスド・テナー』

エリザベス女王がダイアナ元妃にすり替わっている偽札。「バンク・オブ・イングランド」の代わりに「バンクシー・オブ・イングランド」と書かれており、2004年にノッティング・ヒルで行われたカーニバルの当日、作成した100万枚のうち一部が群衆めがけてバラ撒かれました。

 

『モンキー・パーラメント』

2009年にブリストル美術館で開催されたバンクシーの展覧会で発表。議員たちによる経費不正申告という国民的スキャンダルを背景に制作されたもので、描かれている下院議員たちの姿はなんとサル。世の政治に対する不満の高まりとともに登場したセンセーショナルな大作です。

 

『ブレグジット』

2017年にイギリスの海辺の街・ドーバーで描かれた色鮮やかな作品。建物の壁ほぼ全体を占める巨大なヨーロッパ連合の端から、作業員が金色の星のひとつを削り取っている絵です。バンクシー作と気づかれてからは地方議会が作品を24時間体制で監視するようになり、2019年に建物のオーナーによって塗りつぶされてしまいました。

 

『パンツ』

もとは2008年にロンドン北部の薬局外壁に描かれた作品。本来、3人の子供が見上げているのはパンツではなくイギリスの巨大スーパーマーケット「テスコ」のビニール袋でした。子供が消費者として忠誠を誓っている姿を描いた非常に政治色の強い作品でしたが、後年、難民支援のためのチャリティオークションに向けて新たに制作したのが本作。有名人が自分のパンツにサインをして販売するイベントから着想を得ています。

 

『コップ・カー』

車にタイヤがなければ、警察は人を危険から守ることも、犯罪を調査することもできない……。2003年に描かれたスケッチ作品で、国民を守ってくれるはずの警察に対する不信感を表しています。

 

『ラブ・イズ・イン・ジ・エア』

活動初期から継続的にパレスチナ問題に焦点を当てているバンクシー。こちらはパレスチナ・ヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムの建物に描かれた作品で、男性は火炎瓶ではなく花束を持っており、パレスチナ人の人権を訴えています。

 

『ラット・シリーズ』

都会に生きる労働者階級、弱者の思いを代弁する存在として描かれていると考えられる、思い思いの看板を掲げたバンクシーのネズミたち。そのルーツは、ステンシル・グラフィティの父として知られるブレック・ル・ラットの描くネズミが発端といわれています。

 

バンクシーの全貌を知れる・見られる『バンクシー展』とは?

ストリートに描かれているバンクシーのグラフィティは、特殊な方法で複製され保存されているようなものもあれば、落書きとして塗りつぶされ現存しない作品も多々あります。また、一連の版画作品のように証明書付きで販売されている作品もあり、これらは世界中の個人コレクターに所有されています。

 

2020年に横浜・アソビルで開催されている『バンクシー展 天才か反逆者か』で展示されているのは、複数の個人コレクターの協力のもと集められたオリジナル作品や版画、立体オブジェクトなど70点以上。バンクシーが題材の展覧会としては過去最大級の規模で、2018年から世界巡回をはじめ、すでに100万人以上の観客を熱狂させています。

 

作品は「政治」「抗議」「消費」といったテーマごとにまとめられており、場内にはバンクシーの世界観を追体験できる迫力の映像、インスタレーションなどもたっぷりと展示。アプリをダウンロードして、自分のスマホ+イヤホンを使って無料で楽しめる音声ガイドの内容が充実しているので、作品を深く味わうためにも会場でぜひ利用するといいでしょう。

 

チケットは予約制ですが、空きがあれば当日も購入可能です。特に夏以降は、昼間よりも16時過ぎから夜の時間帯が比較的空いていてオススメだとか。

 

美術館やギャラリーとは違う、アソビルというロケーションならではのフランクな雰囲気も、ストリート・アーティストたるバンクシーの世界観を楽しむにはちょうどいい感じ。横浜展は間もなく会期終了となりますが、秋以降は大阪での巡回展も決定しているのでお見逃しなく!

↑バンクシーの制作シーンをイメージさせるインスタレーション「アーティスト・スタジオ」。手がかりとなるいくつもの写真や映像作品などをもとに再現しています

 

↑2017年にイスラエルとパレスチナ自治区内の分離壁の近くにバンクシーがオープンさせた“世界一眺めの悪いホテル”こと『ザ・ウォールド・オフ・ホテル』。10の客室とギャラリー、同地域の歴史をたどる博物館などがあり、20点を超えるバンクシーの作品なども展示されています

 

↑イギリスで人間が監視カメラに映る回数は、1人1日あたり平均300回……。しかし監視カメラの映像で解決した犯罪は、わずか3%にすぎないのが実情といわれています。そんな現状を風刺しているのが、本展に展示されている作品『監視カメラ』。絵の横に実際のカメラとモニタが設置されており、作品を観賞している自分の姿がモニタに映し出されます

 

『バンクシー展 天才か反逆者か』
https://banksyexhibition.jp/

■横浜展
会期=2020年3月15日(日)~2020年9月27日(日)
※会期中無休
会場=アソビル
所在地=神奈川県横浜市西区高島2-14-9 アソビル2F
開場時間=平日 10:00~20:30(最終入場20:00まで)

■大阪展
会期=2020年10月9日(金)~2021年1月17日(日)
※12月31日(木)、1月1日(金)は休館
会場=大阪南港ATC Gallery(ITM棟2F)
所在地=大阪府大阪市住之江区南港北2-1-10
開場時間=平日 10:00~17:00(10月は20:00まで)/土日祝 10:00~20:00(最終入場は閉館30分前まで)

※新型コロナウイルス感染拡大の状況により延期、中止となる可能性があります。詳しくは上記のホームページを確認してください。