本田技研工業のミディアムクラス車であるアコードは、1985年に全面改良を実施して第3世代に移行する。ボディタイプは従来型と同様にセダンとハッチバックを用意したが、ハッチバックには新たに「エアロデッキ」というサブネームがつけられていた――。今回は10代目が北米カー・オブ・ザ・イヤー2018を受賞したのを記念して、ワールドワイドでヒット作となった3代目のCA型系アコードで一席。
【Vol.56 3代目 ホンダ・アコード】
1980年代中盤の本田技研工業は、日本市場はもとよりアメリカ市場でも大きくシェアを伸ばしていた。その原動力は米国オハイオ工場で生産、さらに日本の狭山工場からも輸出された2代目アコード・シリーズで、1984年までにはアメリカにおける海外ブランド車のトップセールスを記録する。安価で壊れず、しかもスポーティ――アコードに対する米国ユーザーの評価は、非常に高いものだった。本田技研工業はこの勢いをさらに増すための戦略を打ち出す。2代目のデビューから3年9カ月という早いサイクルで、アコードのフルモデルチェンジを実施する決定を下したのだ。
3代目となる新型に課せられたテーマは、「ホンダ車らしく、しかも国際戦略車にふさわしい内外装と走りの実現」にあった。エクステリアはスポーティさやアメリカ市場の好みなどを重視して、リトラクタブルライトを採用したロー&ワイドのフォルムで構成。インテリアは広がり感と高度な機能性を持たせた上質なアレンジで仕立てる。メカニズム面ではFF車としては世界初となる4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションに新設計の軽量・高剛性モノコックボディ、新開発のB18A型1834cc直列4気筒DOHC16V(130ps)/B20A型1958cc直列4気筒DOHC16V(160ps)エンジン(ほかに改良版のA18A型1829cc直列4気筒OHC12Vエンジン/110psを設定)、ロックアップ機構付ホンダマチック4速フルオート、4輪アンチロック・ブレーキ=4wA.L.B.、車速感応型パワーステアリングなどの新ハイテク機構を積極的に盛り込んだ。
■新しいハッチバックモデルを訴求
ハッチバックモデルの「エアロデッキ」。シューティングブレークを彷彿させるロングルーフのスタイリング、高い居住性が魅力
1985年6月、CAの型式をつけた3代目アコードがついにそのベールを脱ぐ。キャッチフレーズは“時代を抜きさるもの”とし、先進のフォルムとメカニズムを強調。ボディタイプは4ドアセダンと3ドアハッチバックの2タイプを設定し、ハッチバックには「エアロデッキ」という専用のサブネームを付けていた。
新型のラインアップを見て、自動車マスコミ界が最も注目したのはハッチバックモデルのエアロデッキだった。かつてのシューティングブレークを現代的に解釈したようなロングルーフのビュレットフォルム(弾丸形状)は非常に斬新で、しかも空力性能(CD×A)は0.64の好数値を達成する。肝心のリアハッチはルーフ部にまで回り込み、後方のスペースが少ない場所でも開閉が可能。リアシートの居住性がセダンと遜色なく、しかも既存のハッチバック車より優れていたことも大きなアピールポイントだった。エアロデッキの販売はセダンより1カ月遅れの1985年7月から始まった。新種のハッチバックはセダンモデル以上にユーザーの注目を集め、販売開始当初は好調なセールスを記録する。走りに対する評価も高く、とくに4輪ダブルウィッシュボーンサスによるロードホールディング性能の高さやB20A型エンジンの高性能が話題を呼んだ。
セダンの2.0Si。注目度はエアロデッキのほうが高かったが、販売実績はセダンが大きくリード。「ハッチバック=安物グルマ」というイメージを払拭するには至らなかったようだ
好成績が続くかに見えたエアロデッキだったが、しばらくすると販売台数は伸び悩みはじめ、セダンに大きく水をあけられる月が続く。斬新すぎるフォルムが保守的なアコード・クラスのユーザーに受け入れられなかった、リアドアが未設定だったためにファミリー層にとっては使い勝手が悪かった、ハッチバック=安物グルマという日本人のイメージを払拭しきれなかった――要因は色々と考えられた。それでも開発陣は、新世代ハッチバックという意欲作に愛着を持ち、様々な改良を加えながら魅力度を高めていく。1986年3月には特別仕様車を設定。1987年6月にはバンパーやレンズ類を変更して新鮮味をアップさせる。1988年9月にはセダンとともに安全機構を装備するなど、セーフティ面を強化した。しかし、これらの改良も残念ながら販売成績の伸びにはつながらなかった。
■アコード・シリーズの好調を維持するため、2ドアクーペを投入
1988年に米国オハイオ工場で生産されていた2ドアクーペの発売を開始。「アコード クーペ」を名乗った
一方でアコード・シリーズ全体としては、セダンを中心に好調なセールスを継続。この人気を維持するために、メーカーは車種ラインアップの強化を随時図っていった。まず1987年5月には、一部改良を実施すると同時に、上級グレードのエクスクルーシブを設定する。同年7月には、欧州向けと同様の異型2灯式ヘッドランプを採用したセダンボディの「アコードCA(CAはContinental Accordの略)」を発売。1988年4月には、米国オハイオ工場で生産する3ボックスフォルムの2ドアクーペを輸入し、「アコード クーペ」の名でリリースした。
アコードは1989年9月にフルモデルチェンジを実施し、4代目のCB型系に移行する。その車種ラインアップに、エアロデッキの名はなかった。つまり、一代限りで消滅してしまったのだ。ただし、これは日本だけの話。エアロデッキは欧州市場でも販売(北米市場ではファストバックの3ドアハッチバック車を販売)したが、その人気は日本よりも遥かに高かった。やがてホンダのハッチバック車=エアロデッキという図式がユーザーに浸透していく。そのため、4代目アコードで登場したワゴンモデル、さらにシビックのワゴンモデルには欧州で販売する際にエアロデッキのサブネームが付けられた。開発陣のエアロデッキに対するこだわりは、結果的にヨーロッパで花開いたのである。
【著者プロフィール】
大貫直次郎
1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バイク数台。趣味はジャンク屋巡り。著書に光文社刊『クルマでわかる! 日本の現代史』など。クルマの歴史に関しては、アシェット・コレクションズ・ジャパン刊『国産名車コレクション』『日産名車コレクション』『NISSANスカイライン2000GT-R KPGC10』などで執筆。