1987年にリリースしたBe-1によって“パイクカー”ブームを創出した日産自動車は、その勢いに乗って第2弾の開発を決定する。1987年の東京モーターショーで参考出品車を披露し、1989年に市場デビューさせた新パイクカーは、「PAO(パオ)」の車名を名乗った。今回はモンゴルの遊牧民の家に由来するユニークなネーミングを冠した第2世代のパイクカーで一席。
【Vol.51 日産PAO(パオ)】
1987年1月に限定1万台で市販されたパイクカー(大量生産を前提としない“とんがった=pike”クルマの意)のBe-1は、当時の日本の自動車市場に大きな混乱をもたらした。受注は2カ月もかからずに終了。予約にもれた人は中古車、または予約を譲ってくれるユーザーを探し求め、これに業者が絡み、結果的にBe-1にはプレミアがつく。販売価格は東京標準で129.3~144.8万円としていたが、市場での取引額は200万円以上がザラだった。
「大手メーカーたるものが自動車マーケットの混乱を作り出した」などと自動車マスコミからは苦言を呈されたが、ハイテク一辺倒でクルマを開発していた当時の傾向に日産が一石を投じ、ユーザーの支持を大いに獲得したことは確かである。クルマの魅力は先進技術やスペックだけではない。ファッショナブルで個性的な内外装を持つことも重要だ――そう確信した日産は、パイクカー第2弾の開発を決定する。そして販売時には、市場での混乱を避ける戦略を練った。
■パイクカー第2弾はレトロデザインをさらに進化させた
ボディ同色の鉄板を効果的に用いたインパネ、アイボリー色のステアリングやスイッチ類がレトロムードを盛り上げる。シートは麻感覚の平織りクロスが用いられた
待望のパイクカー第2弾は、1987年10月に開催された第27回東京モーターショーにおいて参考出品の形で披露される。車名はモンゴルの遊牧民の家に由来する「PAO(パオ)」を名乗った。
パオの基本シャシーは、Be-1と同じくK10型マーチをベースとする。エクステリアパーツに関しては成形の自由度やコスト面を考慮して、外板の一部に樹脂パネルを使った。フロントフェンダーには射出成形の熱可塑性樹脂パネルを採用し、ボンネットにはガラス繊維を含んだSMC(シートモールディングコンパウンド)成形の熱硬化性樹脂パネルを導入する。さらに、耐食が激しいドアやリアゲートなどには両面処理の鋼板を使用した。防錆対策も重視され、パネル面にはフッ素樹脂塗装材、ボディの中空部分には入念な防錆シーラントを施す。ボディサイズは全長3740×全幅1570×全高1475mm、ホイールベース2300mmとコンパクトにまとめた。各部のアレンジにも工夫を凝らし、メッシュ状の大型フロントグリルや鉄パイプ製バンパー、上下2分割式のリアサイドウィンドウ、縦配列3連式の丸型リアコンビネーションランプ、電動開閉の小粋なキャンバストップ、金属製パイプのファッションレールなど専用パーツを豊富に盛り込む。ボディカラーはEarthy Colorと呼ぶ淡い色合いのアクアグレー/オリーブグレー/アイボリー/テラコッタをラインアップした。
遊び心にあふれたキャンバストップは電動式
インテリアに関してはボディ同色の鉄板インパネや象牙をイメージしたスイッチ類、アイボリー色のステアリングなどが特徴で、Be-1よりもいっそうレトロ感を強める。座席には麻感覚の平織りシートクロスを採用。取り外しが可能な専用デザインのオーディオユニットなども話題を呼んだ。
■第1弾の混乱の反省から“期間”を限定
ボディカラーは4色、写真は「テラコッタ」。発売から30年経った今でも色あせないこのデザインは、賞味期限の短い日本のプロダクトとしては驚異的。中古市場では未だに高値で取引されている
パオはショーデビューから1年3カ月ほどが経過した1989年1月に市販を開始する。型式はPK10。搭載エンジンはMA10S型987cc直列4気筒OHCユニット(52ps/7.6kg・m)で、トランスミッションには5速MTと3速ATを設定する。当初の生産はBe-1に続いて高田工業が担当し、後に愛知機械工業が引き継いだ。
パオはBe-1と同じく限定車の形ではあったが、限定したのは台数ではなく、受注期間であった。台数を絞って市場の混乱を招いたBe-1での反省を踏まえたのである。また、日産は販売方法そのものにも力を入れる。当時ベイエリアと呼ばれた東京都中央区の勝どき橋付近に専用スペシャルショップを開設し、パイクカーの情報発信基地として積極的に活用した。ここにはレストランやバーといったおしゃれな飲食スペースも併設。さらにキャラクターグッズも多数用意し、パオのロゴ入りマグカップやクッション、Tシャツ、文房具などを販売した。
最終的にパオは、約3カ月のあいだに5万台超(5万1657台)の大量受注を記録する。このなかにはプレミア価格での販売を当て込んだ業者の予約も入っており、販売台数が予想以上に多いと知るとキャンセルする人が続出した。とはいえ3万台以上を売る大ヒット作となったことは事実で、結果的に日産自動車のパイクカー戦略はまたしても成功裡に終わったのである。
【著者プロフィール】
大貫直次郎
1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バイク数台。趣味はジャンク屋巡り。著書に光文社刊『クルマでわかる! 日本の現代史』など。クルマの歴史に関しては、アシェット・コレクションズ・ジャパン刊『国産名車コレクション』『日産名車コレクション』『NISSANスカイライン2000GT-R KPGC10』などで執筆。