シトロエンの傘下に入って経営の再建を図るマセラティは、1971年デビューのボーラに続いて、新世代のスポーツカーを1972年に発表する。ボーラのプラットフォームをベースに、実用性に富む2+2のパッケージングを構築した「メラク」だ。その機構には、シトロエンSMと共通のパーツが多く使用されていた――。今回は、北斗七星のひとつであるおおぐま座β星の星名に由来する“Merak”の車名を冠したスーパーカーの話題で一席。

【Vol.12 マセラティ・メラク】
1968年よりシトロエンの傘下に入り、開発体制および車種ラインアップの刷新を図って経営を立て直そうとしたマセラティ。1969年にはカロッツェリア・ビニヤーレのジョバンニ・ミケロッティがデザインした高級4シータースポーツカーの「インディ」、1971年にはイタルデザインのジョルジエット・ジウジアーロがデザインしたミッドシップスポーツカーの「ボーラ」を発表するなど、精力的な活動を展開していった。その攻めの姿勢は、1972年に開催されたパリ・サロンの舞台でも示される。ボーラのひとクラス下に位置する新型V6スポーツカーの「メラク」を雛壇に上げたのだ。
■V6エンジン搭載の2+2ミッドシップスポーツの登場
Tipo122のコードネームを冠したメラクは、プラットフォームをボーラと共用しながら、搭載エンジンのV6化(ボーラはV8)によってエンジンコンパートメントを短縮し、その分を後席にあてた2+2のパッケージングを創出する。ボーラと同じくジウジアーロが手がけた車両デザインは、キャビン前の造形をボーラと同イメージに仕立てる一方、リア回りはエンジンフードを露出させたノッチバックスタイルで構成。同時に、ルーフエンドからリア後端にかけて左右1本ずつのバー、通称フライングバットレスを配してファストバック風のルックスを実現した。基本骨格はボーラと同じくスチール製モノコックとマルチチューブラーフレームを組み合わせた構造で、前後ダブルウィッシュボーン/コイルの懸架機構も共通。ボディサイズは全長4335×全幅1768×全高1149mm/ホイールベース2600mmと、ボーラとほぼ同寸だった。

フロント部はボーラと同様のデザイン。搭載ユニットをボーラのV8からV6に変更することで「+2」のスペースをねん出
機構面については、シトロエンSM(1970年開催のジュネーブ・ショーでデビュー)と共通の構成パーツが多く採用される。まず前後ディスクブレーキの制動機構およびラック&ピニオン式の操舵機構には、SMと同様、エンジン駆動の高圧ポンプによる油圧を用いた作動システムを導入。さらに、ステアリングにはパワーセンタリング機構付のアシストシステムを装備する。ミッドシップに縦置きするエンジンは、SMと同様のC114型2965cc・V型6気筒DOHCユニットを専用チューニングして搭載。8.75の圧縮比と3基のウェーバー製42DCNFキャブレターによるスペックは、190hp/26.0kg・mのパワー&トルクを発生した。また、エンジン後部には油圧ポンプとアキュムレーターをセット。トランスミッションには5速MTを組み合わせた。内包するインテリアはSMと同仕様のパーツ、具体的には中心部を楕円形状とした1本スポークのステアリングホイールやセンター部までを一体式としたメーターパネル、幅広のセンターコンソールなどを装備し、スポーツカーというよりも上級サルーン的な雰囲気で仕立てられていた。
ちなみに、C114エンジンはマセラティがシトロエンの要請を受けて開発した新世代ユニットだった。2社の提携後、シトロエンはマセラティに新世代グランツーリスモ用(SM)のV6エンジンの開発を、しかも6カ月の短期間で完成させるよう求める。これを受けてマセラティのチーフエンジニアであるジュリオ・アルフィエリは、ボーラ用のV8ユニットから2気筒分を削除してV6化する案を打ち出す。ここで問題となったのが、V6レイアウトにとって振動面で不利となる90度のバンク角。対応策としてアルフィエリは、クランクシャフトに4個のバランスウェイトを組み込むというシンプルかつ経済的な方策を選択した。また、バルブ面積を大きくとったことにより、排気量は当初予定の2.5Lから2.7Lにまで拡大される。結果的に2カ月かからずに完成にこぎつけた新V6ユニットは、エンジン長がコンパクトな310mmに、重量がアルミ合金製のヘッドおよびブロックを採用した効果で軽量な140kgに仕上がり、シトロエン側の要件を十分に満たす仕様となったのである。
■独自色を強めた「メラクSS」に進化

エンジンフードを露出させたノッチバックスタイル。ルーフエンドからリア後端にかけてバーを配したファストバック風のルックスが特徴
最高速度225km/h、0→100km/h加速8.0秒という3L級スポーツカーとしての十分なパフォーマンスを発揮し、狭いながらも+2のスペースを備えたメラクは、ボーラ以上の高い人気を獲得する。しかし、外的な要因がその人気に水をかけた。1973年10月に勃発した第4次中東戦争を起因とするオイルショックだ。燃費の悪いスポーツカーには逆風が吹き、必然的にメラクの販売台数は伸び悩む。悪いことはさらに続き、シトロエンの経営が急速に悪化。1974年にはプジョーとシトロエンが企業グループを結成することで合意し、一時はマセラティもプジョーと提携を結ぶものの、経営上のメリットが少ないと判断したプジョーは翌75年に提携を撤回した。
窮地に陥ったマセラティだったが、それでも開発陣は不屈のスピリットでメラクの改良を行い、1975年開催のジュネーブ・ショーで進化版の「メラクSS」を披露する。パワーユニットはキャブレターの口径アップ(ウェーバー製44DCNF)や圧縮比の引き上げ(9.0)などにより、パワー&トルクが220hp/27.5kg・mへと向上。合わせて、フロントフードに熱対策のためのルーバーを追加する。シトロエンとの関係を断ったことから、インパネは独自タイプの新デザインに変更した。ほかにも、車両重量の軽量化や装備の拡充などを実施。最高速度は245km/hへとアップしていた。
■伊国内の税制を踏まえて「メラク2000GT」を設定

センター部までを一体式としたメーターパネル、幅広のセンターコンソールなどを装備
1975年8月になると、新興メーカーのデ・トマソがマセラティの救済に動く。1973年からデ・トマソの傘下に入っていたベネリが、マセラティの大半の株式を買収したのだ。そして、マセラティのマネージングディレクターにはアレハンドロ・デ・マソが就任した。
デ・トマソ・グループに入ったマセラティは、アレハンドロの指揮のもと、既存車種の見直しを図る。ボーラはデ・トマソ・パンテーラと競合することから、生産の中止が決定。一方、メラクに関してはイタリア国内の税制上で有利な排気量2Lクラスのグレードを設定する旨が決まった。

11年間でボーラの3倍以上となる1830台を生産した
2L版メラクは、「2000GT」のグレード名をつけて1976年開催のトリノ・ショーでデビューする。肝心のパワーユニットは1999cc・V型6気筒DOHC+ウェーバー製42DCNFキャブレター×3で、9.0の圧縮比から170hp/19.0kg・mのパワー&トルクを発生。3Lモデルに比べて車重が軽くなったことから、最高速度は220km/hに達した。一方、内外装のアレンジは簡素化が図られ、ブラックアウトしたバンパーやサイドストライプなどを装着していた。
相次ぐ会社の経営危機やオイルショックによる逆風など、様々な困難を乗り越えてラインアップされ続けたメラクは、デビューから11年ほどが経過した1983年に生産を終了する。生み出された台数はボーラの3倍以上となる1830台。この数字は、トライデント(マセラティのブランドマーク)の意地と気概で成し遂げられた偉大な記録なのだ。
【著者プロフィール】
大貫直次郎
1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バイク数台。趣味はジャンク屋巡り。著書に光文社刊『クルマでわかる! 日本の現代史』など。クルマの歴史に関しては、アシェット・コレクションズ・ジャパン刊『国産名車コレクション』『日産名車コレクション』『NISSANスカイライン2000GT-R KPGC10』などで執筆。
