「常に喜びなさい」人類初の自己啓発本「聖書」から人生の楽しみ方を学んでみる

筆者は、英米のニューエイジ系作家が書いた文章を訳すことが多い。これまでかかわった作家たちに共通する特徴は意外に数字にこだわること、そして当然のことなのだろうが、聖書からのクォーテーション=引用=がとてもうまいことだ。

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読み物としての聖書

本気で聖書を読もうと思ったのは、32歳の時だ。フリーになって半年後、初めて一冊通して訳すというお仕事をいただいた。『天使の辞典』というタイトルで、さまざまな聖書の記述を何回も確かめる必要があった。

 

最初こそ面倒くさいという気持ちを抑えながらの作業になったが、終わる頃には、聖書の読み物としての面白さに目覚めていた。これはちょっといいな、というお気に入りの言葉もいくつかできた。

 

 

東洋思想の専門家が語る聖書

聖書の名言100』(綾瀬凛太郎・著/学研プラス・刊)の著者、綾瀬凛太郎さんの専門分野は原始仏教、密教、禅、チベット仏教などだ。まえがきで“専門外”の聖書について論じる姿勢を次のように記している。

 

聖書というのは、ある意味、人がどう生きるべきかを、膨大な言葉の積み重ねによって明らかにしようとした書物だと思う。
今回、門外漢にもかかわらず、無謀にもその解読に乗り出したわけだが、門外漢だからこそ見える側面もあるかもしれない。

『聖書の名言100』より引用

 

東洋思想の専門家が語る聖書の言葉。アプローチとして非常に興味がある。聖書の専門家の口からは出ないだろう言葉の数々を期待できそうだ。

 

 

「わたしをおいてほかに神があってはならない」

『出エジプト記』:20章3節に記されている言葉だ。エジプトを出たモーセがシナイ山で神から授かる十戒の最初の項目でもある。一神教であるキリスト教を象徴するような言葉に対し、綾瀬さんは次のように語る。

 

さて、聖書を読めば読むほど、聖書の神が一神である理由がわからない。わからないが、とにかく神がほかにあってはならないというのだ。しかも、これに続けて、「いかなる像も造ってはならない」という。いわゆる偶像崇拝の禁止だ。

『聖書の名言100』より引用

 

キリスト教の神こそが唯一無二の存在であり、ほかの宗教に対する排他的な響きも感じられる。

 

偶像崇拝を否定したのは、おそらく神を限定的に、誤ってとらえてしまうことを危惧したからだろうが、それにしても徹底してきびしい突きつけ方である。

『聖書の名言100』より引用

 

はっとした。キリスト教特有の――と少なくとも筆者は思っていた――排他的な姿勢を示すだけに感じられた言葉の裏側に、「神を限定的に、誤ってとらえてしまうことへの危惧」が介在している可能性は考えてもみなかったからだ。

 

 

「地上に富を積んではならない」

『マタイによる福音書』:6章19節、『ルカによる福音書』:12章33節に出てくる言葉。地上的な価値観にとらわれないという意味で、さまざまな宗教で命題とされている言葉だが、綾瀬さんによれば「これほど簡単でこれほど難しいこと」はないという。

 

一般に、キリスト教では清貧を尊ぶと思われているし、実際イエスの言葉にもそうした傾向がある。が、たんに貧乏なほうがいいというのではなく、ここでは富に執着するなといっているのだろう。

『聖書の名言100』より引用

 

まえがきに書かれている「門外漢だからこそ見える側面」という言い方のニュアンスがよく出た文章だと思う。歴史に名を残すような宗教家なら清貧も不可欠な要素かもしれない。でも、一般人にまでそれを求めるのは酷だ。あまりに貧しければ、心まで貧しくなってしまうかもしれない。

 

貧しさをよしとすることと、富に執着しないということはまったく別である。筆者はこれまで、自分勝手な想像の中で、キリスト教のありもしない極端な特質を創り上げていたようだ。

 

 

「常に喜びなさい」

『フィリピの信徒への手紙』:4章4節に出てくる言葉。口角が下がりきっている人。決してそういうつもりではないのだろうけれど、にらみつけるような視線を送ってくる人。こういう人は、電車の中でもスーパーのレジ待ちの列でも見る。綾瀬さんは言う。

 

不況もある。大気汚染もある。町には失業者があふれ、安心して食物も食べられない。どこをみても不安と疑惑、あきらめや憎悪が渦巻いている。こんな環境でいったいどう喜べばいいというのか。いやこんな環境だからこそ、喜びが求められているのだ。そしてそれは、きわめて有効な手段なのである。

『聖書の名言100』より引用

 

 

日々の生活の中でこそ生きる聖書の言葉

日常に落とし込んで、聖書の言葉の意味を説明していく。まえがきのとおり、聖書が「人がどう生きるべきかを膨大な言葉の積み重ねによって明らかにしようとした書物」であることを具体的に示してくれる。

 

筆者は、聖書の読み物としての面白さを改めて感じることができた。この本を手に取る人たちの多くが、同じように思ってくれるだろう。最後に、筆者が一番好きな聖書の言葉を紹介しておきたい。

 

旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使(みつかい=天使)たちをもてなした」(『へブル人への手紙』:13章2節)

 

みなさんも、自分だけのお気に入りの言葉を見つけてみませんか?

 

 

【著書紹介】

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聖書の名言100

著者:綾瀬凛太郎
出版社:学研プラス

「なんじの敵を愛せ」「心の貧しき人は幸いなり」「人はパンのみに生きるにあらず」「求めよ、さらば与えられん」……など、旧約聖書・新約聖書から心をうつ100の名言を厳選紹介。ユダヤ、キリスト教3000年の知恵による、生き方のヒントを学ぶ本!

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【ムー聖書の預言】2018年、聖書が警告する人類滅亡の危機とは?

現在、国際情勢はすでに危険水域を突破し、世界は第3次世界大戦の勃発から、それこそ人類滅亡の危機の瀬戸際にいる――そういっても過言ではないことはおわかりだろう。

 

だが、ここ最近の慌ただしい動き、さらには緊迫する世界情勢は、遙か以前から――それこそ、何千年も前から「予言」されていた、といえば、読者諸氏はどう思われるだろうか?

 

ここでは、現在の世界情勢や北朝鮮の動向が、すでに何千年も前から聖書に書かれていた、という仮説を論証していこう。

キリスト教徒の聖典『新約聖書』。画像は15世紀の手書き聖書。キリスト教徒の聖典『新約聖書』。画像は15世紀の手書き聖書。

 

そもそも聖書の預言者は「予言者」ではないし、預言は予言とは別物だ。聖書でいう「預言」とは、文字通り神から「預った言葉」なのである。そこで筆者は、聖書の預言とは純然たる未来予知というよりも、聖書を記した者たちが後世に与えた一種の指令書、未来の歴史を形作るためのプログラムなのではないかと考えている。

 

それがプログラムであるならば、それを忠実に実行する者がいる限り、聖書の預言が実現する――的中するとしても不思議はない。

 

さらにいうなら、聖書の解読に基づいたハルマゲドンの予言は、これまでにも何度もなされてきた。たとえば西暦1000年がハルマゲドンの始まりであるとか、近年では1844年に世界が滅ぶとか、1917年に最終戦争が勃発するとか……。

 

ご存じのように、これらの終末予言はすべて外れたわけだが、それが「予知」ではなく「プログラム」であるのなら、やはり何の不思議もないのである。

 

プログラムの実現を目指す勢力は、過去の時点においてはまだ、いくらそれを実現したいと願っても、それだけの力を備えていなかったのだ。

 

だが今や、人類は地球を何度も破壊しうるだけの力を実際に手にしている。このような時代は、聖書が書かれて以後、ここ数十年が歴史上で唯一である。

 

すなわち他ならぬ21世紀の現代こそ、聖書の預言が実現する条件が整ったといえるのである。

 

聖書にちりばめられた極東の暗喩

さて、ご存じのように聖書はユダヤ教およびキリスト教の聖典であり、とくに『旧約聖書』はユダヤ民族の歴史書でもある。  したがって、その舞台の中心となるのはもっぱら中東であり、現在のわれわれの焦点となっている極東に関する記述などは事実上、存在しない。

『旧約聖書』は古代イスラエル史、モーセの律法、預言者の言葉などを含む聖典。画像は19世紀の絵。『旧約聖書』は古代イスラエル史、モーセの律法、預言者の言葉などを含む聖典。画像は19世紀の絵。

 

だが、アメリカの聖書預言研究者ダラス・ジェイムズは、聖書全体を丹念に読み込んだ末に、聖句の中に見え隠れする「北朝鮮」を暗示すると思われる単語を発見した。「東風」という単語がそれである。

 

また、聖書において「終末の時」を暗示しているのが、「苦難の時」という言葉である。

 

たとえば『旧約聖書』「エレミヤ書」第14には、次のような一節がある。

 

「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか」

預言者エレミヤ。預言者エレミヤ。

 

さらに、同じく「ダニエル書」第12章。

 

「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はおまえの民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。おまえの民、あの書に記された人々は」

 

ここでいう「苦難の時」とは、単なる日常的な苦しみではない。聖書における苦難とは、人類の終末直前の戦争を意味しているのだ。『新約聖書』「マルコによる福音書」の中で、イエス・キリストはこう述べている。

 

「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る」

イエス・キリストも多くの預言を残している。イエス・キリストも多くの預言を残している。

 

また「災い」や「争い」などの言葉もこれに準じている。これを念頭において、たとえば次のような聖句をごらんいただきたい。

 

『旧約聖書』「ヨブ記」第38章には、次のようにあるのだ。

 

「災いの時のために、戦いや争いの日のために、わたしはこれらを蓄えているのだ。光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか」

 

ここでいう「わたし」とは神のこと。この一節はつまり神が「災い」や「戦いや争いの日」のために「東風」を予め用意している、という意味だ。もともと古代イスラエルにおいて「東風」とは、砂漠から吹き付ける烈しい熱風のことで、人畜、農作物に多大な被害を与えることで知られていた。であるなら、終末戦争のためにわざわざ用意された「東風」とは、「東方からの熱風のような脅威」、すなわち中国もしくは北朝鮮(あるいはその両方)のことにほかならない。そこに「光が放たれる」、つまり核が炸裂するのである !

 

さらに「ヨブ記」第27章を見ると――。次のようにある。

 

「破滅が洪水のように彼を襲い、つむじ風が夜の間にさらう。東0風0に運び去られて彼は消えうせ、その住まいから吹き払われる」

 

この文章が先の一節よりも前に出てくることから見ても、これはあるいは、核の先制攻撃は「東風」すなわち北朝鮮のほうから行われるということを意味するのかもしれない。

 

そして、やはり『旧約聖書』「ハバクク書」第1章――。

 

「騎兵は遠くから来て、獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き、砂を集めるようにとりこを集める」

 

この部分は新共同訳ではわかりにくいが、ヘブライ語本文自体が不完全で、読み方も不明。聖書学者のW・H・ウォードが「訳不可能と諦めるほかなし」と述べているほどだ。ちなみに、ここで「前方」と訳された単語は「東」を指しているので、全体を「東風」と読むこともできる。

 

もしそうなら、この一節は遠くから来た「鷲」、すなわちアメリカが北朝鮮を攻撃するという意味になる。

 

米朝戦争と日本への軍事介入

また、やはり『旧約聖書』の「エゼキエル書」にある次の一節――。

 

「タルシシュの船はおまえの物品を運び回った。おまえは荷を重く積み、海の真ん中を進んだ。漕ぎ手がおまえを大海原に漕ぎ出したが、東風00がおまえを打ち砕いた、海の真ん中で。おまえの富、商品、物品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちはおまえが滅びる日に海の真ん中に沈む」

預言者エゼキエ預言者エゼキエ

 

ジェイムズはこれを、米朝戦争の後、中国がアメリカを攻撃し、アメリカの海上貿易が不可能となることを意味する、と解釈している。

 

だが、何といってもわれわれ日本人にとって最も恐ろしいのは、『旧約聖書』「ホセア書」第13章にある次の一節だろう。

 

「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風00が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる」

 

冒頭の「エフライム」とは、イスラエルの族長ヤコブの子ヨセフが、エジプトでもうけた子だ。その子孫はエフライム部族を形成し、イスラエル12支族中最大の氏族となった。その後、エフライム族は歴史の上から姿を消すが、聖書研究家の久保有政氏によれば、このエフライム族こそ、シルクロードを越えて日本に渡り、皇室の祖先となった一族だというのである。

エフライム。彼の子孫たちが日本に渡ったという説もある。エフライム。彼の子孫たちが日本に渡ったという説もある。

 

ということは「兄弟の中で最も栄えた」エフライム族を「熱風(すなわち東風)が襲う」という非情な一節の意味は、ここまでお読みいただいた読者諸氏には、火を見るよりも明らかであろう。

 

すなわち近い将来、北朝鮮の核ミサイルは日本をも襲うのだ。そしてその結果、「水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる」のである !

 

われわれは今はただ、この預言が実現せずにすむことを祈るしかない――。

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(ムー2018年1月号 総力特集「2018年聖書大預言」より抜粋)

 

文=星野太朗

 

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【ムー聖書の秘密】「田」はエデンの園を意味している!漢字に隠された聖書預言

私たちが日ごろ使っている漢字には、『聖書』伝承が取り込まれている――。驚きの仮説について、具体例を見てみよう。

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たとえば「田」の漢字は、

 

田=口+十

 

となっている。「口」は囲い(境界)だ(古代漢字では「口」の部分は丸い形をしていた)。その中に、中心から4方向に発する線「十」が出ている。

 

「田」は、エデンの園の光景である。というのは、『聖書』によるとエデンの園には巨大な泉が湧きでていて、それが4つの川を形成していた。

 

「ひとつの川が、エデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて4つの川となった」(「創世記」2章10節)

 

「田」の「口」という囲いは、エデンの園を表し、その中の「十」は、中心から4方向に分かれでた4つの川を表していたのである。

 

『聖書』によればノアの大洪水前の地表付近には、今よりずっと多くの地下水が存在していたのである(それがのちに、ノアの大洪水をさらに巨大なものとした)。

 

2本の木が示す禁止事項

次に「禁」の字を見てみよう。

 

禁=木+木+示

 

で〝2本の木を示す〟という文字になっている。

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それで思い出されるのは、神はエデンの園の中央に、2本の木=「命の木」と「善悪を知る木」を生えさせたという『聖書』の話だ。神はそれら2本の木を示し、

 

「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(「創世記」2章17節)

 

と人に命じたという。つまり「2本の木」を「示」し、「禁」止事項を語った。

 

しかしアダムとエバ(イブ)は、後にこの「禁」を破り、「善悪を知る木」の実をとって食べてしまう。

 

なお、この「善悪を知る木」は「善悪の判断力がつく木」の意味ではない。それは「(人生が)善にも悪にも深くかかわってしまうようになる木」の意味である。

 

「知る」のヘブル原語は、頭の中で観念的に知るの意味ではなく、体験的に知るの意味だからだ。

 

たとえば「創世記」に「アダムはエバを知った」と書かれている。これはアダムがエバと夫婦関係に入ったという意味。この「知った」には同じ原語が使われている。

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また善悪を知る木の実を「食べる」とは、それが人生に展開していく意味である。たとえば「ヨハネの黙示録」を見ると、ヨハネは神から示された巻き物を「食べた」。すると預言の幻と言葉が、彼の前に次々に展開していったのである。食べるとは、展開していくことなのだ。

 

アダムとエバが、2本の木に関する「禁」を破り、「善悪を知る木」から実を取って食べたとき、善も悪も彼らの人生に、その子孫に、また歴史上に展開していったのである。

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(「ムー」11月号特集「漢字に隠された聖書預言」より抜粋)

 

文=久保有政

 

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