「安全な水とトイレ」の普及で企業の役割が拡大! 1600億円規模の市場に投資を促進

世界では子どもの約30%がトイレや水道のない学校に通っていると言われています。このような学校の衛生環境を改善するためには、どうすればよいのでしょうか? 近年、発展途上国では企業が現地の政府と組んで、学校のトイレや水道の整備に乗り出す動きが広がりつつあります。この取り組みは社会的なインパクトが大きいだけでなく、新たなビジネスチャンスとしても注目されています。

学校にトイレを普及するうえで企業が果たす役割が大きくなっている

 

発展途上国の多くの学校ではトイレや水道といった設備が整っておらず、子どもたちに深刻な影響を及ぼしています。ユニセフの調査によれば、学校でトイレが利用できないために、身体の不調や集中力の欠如が見られる子どもの割合は、ほぼ5人に1人に上るとのこと。10人に1人以上は排泄を避けるために意図的に食べ物や飲み物を取らないほか、女子の場合は生理中に学校に通わず自宅で過ごすことも多く、学校中退の増加につながるとされています。

 

また、トイレの不足や汚れは、下痢性疾患や寄生虫の増加といった健康上のリスクを増大させるだけでなく、水質汚染を引き起こすなど広範囲に悪影響を及ぼします。

 

このような状況を変えるために、地元の企業が政府と協力しながら学校にトイレや水道を提供し、衛生施設を管理する取り組みが広がっています。トイレが設置されると、学校側にはトイレットペーパーや石鹸をはじめ、生理用品や掃除用品などを揃える必要がある一方、これらの製品を取り扱う地元の企業にとってはビジネスチャンスとなります。

 

トイレから出る汚物や汚水の再利用にも企業が参入するようになりました。トイレから出る汚物は回収された後、農産物の肥料やバイオガスとして活用されています。バイオガスは家庭における料理や暖房などでも使われるほか、電気に変換することも可能。この取り組みは、経済活動のなかで廃棄されていた製品や原材料などを資源として再利用するサーキュラーエコノミー(循環型経済)の典型的な例と言えるでしょう。

 

そのほかにも、回収したトイレの汚物を分析して子どもたちの健康状態を管理する技術を企業が開発しており、学校の水質や衛生状態をモニタリングするための指標として活用されることが期待されています。

 

1ドルの投資で4.3ドルのリターン

学校のトイレや水道の整備には、どれほどの市場規模があるのでしょうか? 世界の水や衛生問題の解決を目指す企業が集まる「Toilet Board Coalition」がフィリピン、ナイジェリア、メキシコを対象に行った調査によれば、フィリピンの市場規模は年間9億4800万ドル(約1261億円)、ナイジェリアで6億6500万ドル(約884億円)、メキシコで12億ドル(約1600億円)とのこと。

 

このように、水や衛生への投資は世界中で年間数十億ドル相当の利益を生み出す可能性があります。学校のトイレや水道を整備するためには、従来の3倍以上の支援が必要と言われていますが、WHO(世界保健機関)は「水・衛生分野に1ドル(約133円※)投資すると、生産性が向上して4.3ドル(約570円)のリターンが期待できる」と試算しており、企業に投資を促しています。

※1ドル=約133円で換算(2023年4月13日現在)

 

発展途上国における学校のトイレや水道整備への投資は社会的意義が高い事業であり、大きなビジネスチャンスがあると言えるでしょう。販路拡大にとどまらず、企業のブランド価値向上につながる広報効果や、現地企業や政府など新たなパートナーの開拓も期待できます。こういったメリットを鑑み、関連事業を手がける日本企業は途上国の学校への投資を積極的に検討してみる価値があるのではないしょうか?

 

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日本のウォシュレットが欲しい! 先進国入りを目指すタイのトイレ事情

11月19日は「世界トイレの日」。2013年に国連が世界各国の衛生状況を改善するために設けました。タイでは19世紀のコレラの蔓延を契機にトイレの普及に力を入れ始め、1980年代の経済発展を経て、今日ではほぼ全世帯にトイレが設置されました。タイ政府は2036年の先進国入りを国家目標とし、公衆衛生の向上に力を入れています。タイのトイレ事情について、その歴史から現在の動向までを説明しましょう。

トイレは先進国入りを目指すタイの象徴

 

タイのトイレ史

18世紀末までのタイでは王族や貴族、僧侶のみがトイレを使用し、庶民は川や森、野原などで用を足していました。昔の俗語で「森に行く」や「畑に行く」は排泄を意味しています。

 

ところが、1817年にインドのガンジス川流域でコレラが大発生し、ラーマ2世統治下のタイ(サイアム)にも被害が及び、バンコクを中心に多くの人が犠牲となりました。その後もコレラはたびたび発生したため、1897年にラーマ5世が「バンコク都公衆衛生法令」を発し、バンコク市民はトイレで排泄するように義務付けられ、トイレの普及に乗り出します。

 

20世紀に入り、米国のロックフェラー財団から援助を受けたタイ政府は、地方でのトイレ建設を進め、設置数を増やしましたが、本格的な普及にはまだまだ及ばない状況でした。1930年代からはトイレ使用と入浴に関する児童用教材を製作し、国民の衛生意識育成を強化。その結果、第二次世界大戦後よりトイレが本格的に普及し始めたのです。タイ国家統計局のデータによれば、全世帯におけるトイレの普及率は2000年に約98%に達したとのこと。

 

日本とかなり異なるタイのトイレ

このような歴史を持つタイのトイレには日本と異なる点が多く見られます。主な違いを3つ挙げましょう。

 

1: トイレットペーパーを流せない

タイのトイレはトイレットペーパーを流せません。タイは水不足に悩まされることも多いので、水不足に備えて下水は配管が細く、水の勢いも弱く設定されています。トイレットペーパーを流すとすぐ詰まるので、トイレットペーパーは使用後に備え付けのゴミ箱に捨てています。

「紙をトイレに流すな」と注意を呼びかけるステッカー

 

2: ハンドシャワーで流す

日本では自動でお尻を洗い流すシャワートイレが普及していますが、タイでは空港や高級ホテル、高級大型商業施設にしか設置されていません。普通の商業施設や一般家庭トイレでは、設置されたハンドシャワーでお尻を流します。下水道の流れは弱くても、商業施設のハンドシャワーの中には水の勢いがとても強いものも。そのため、下着やズボン・スカートが濡れてしまうこともあるので注意が必要です。

 

3: タイ式トイレ

近年は便座式トイレが普及してきましたが、公衆トイレや古い商業施設、地場レストランでは旧来のタイ式トイレが残っています。和式トイレのデザインと似ているものの、和式とは逆にドアに向かってしゃがんで用を足します。水洗式ではない場合、トイレ内にある水槽の水をバケツに汲んで汚物を流します。

タイ式トイレで奥に見えるのが汚物流し用水槽とトイレットペーパーを捨てるゴミ箱

 

このように日本とは異なる点が多いタイのトイレ事情ですが、先進国入りを果たすには公衆衛生意識のさらなる向上が不可欠。そのために、官民挙げたさまざまな動きが見られます。

 

タイ政府は2010年代以降、世界トイレの日に合わせて公衆衛生のキャンペーンを実施してきました。さらに近年では学校教育にSDGsカリキュラムを取り入れ、トイレを中心とした公衆衛生の向上に取り組んでいます。

 

2018年には「20年間国家戦略」に沿い、保健省主導で「2019-2030年 安全衛生管理のためのマスタープラン」が以下のように策定されました。

 

1: 社会的弱者のための衛生的な家庭用トイレの増加

2: 衛生的な公衆トイレ、特に学校のトイレの増加

3: 安全なし尿管理システムの増加

 

各施策の予算配分を厚くし、すべての人の健康増進と伝染病の予防、健全な環境と生態系維持への貢献を目指しています。

 

日本企業もしのぎを削るトイレビジネス

1980年代におけるタイの経済発展に伴い、トイレは旧来のタイ式トイレから便座式に変わってきました。タイ王室系の最大財閥・サイアムセメントは1984年に日本のTOTOと合弁会社「COTTO」を設立し、便座式トイレの展開に着手。その後、アメリカン・スタンダード社が参入し、現在でもタイのトイレはCOTTOとアメリカン・スタンダード社の2社がシェア1位と2位を占めています。

 

TOTOは2013年にサイアムセメントとの合弁を解消し、以降はTOTOブランドでシャワートイレを販売。大型商業施設や高級ホテル、高級コンドミニアムを主な販売先として事業を展開しています。

 

近年、タイ人の日本へのビザなし渡航が解禁されたことで多くの人が日本のシャワートイレの良さに気づき、家庭用シャワートイレ(ウォシュレット)を望む声が高まりました。現在は一般家庭向け低価格モデルのシェア争いで、各社はしのぎを削っている状態です。

 

先進国入り目標に向けてトイレに関しても公衆衛生プロジェクトを推進するタイでは、10年後にはハンドシャワーやタイ式トイレがなくなってしまうかもしれません。タイらしさが薄れる一方で、誰でも利用できる衛生的かつ現代的なトイレが国中に普及するでしょう。

 

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36億人に安全なトイレを! ゲイツ財団とサムスンが新しいトイレの試作品を発表

世界最大の慈善基金団体であるビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団(以下、ゲイツ財団)は、途上国の衛生問題に取り組むために「Reinvent the Toilet Challenge」と呼ばれるプロジェクトを2011年に立ち上げました。その使命は、排泄物を媒介とした病原体から人々を守ること。このプロジェクトではトイレの再発明に取り組んでおり、先日、その試作品が誕生しました。

世界を救うトイレを作ろう

 

2022年8月、このプログラムに協力している韓国のテクノロジー企業・サムスン電子が、新しいトイレの試作品を開発したと発表しました。サムスン電子の研究開発部門にあたるサムスン電子総合技術院は、2019年に新しいトイレの開発においてゲイツ財団と協力することに合意し、3年間の開発期間を経て、今回の試作品発表にこぎつけたのです。

 

このプロジェクトで公開されたトイレは、熱処理技術やバイオプロセスの技術を搭載し、人の尿や便に含まれる病原体を死滅させ、排水や排出される固形物を安全な状態にできます。トイレを使った後に出る排水は安全で再利用が可能になり、便などの固形物は脱水・乾燥後に焼却して処分できるとのこと。試作品で実際にテストも行われ、その試験も成功しています。

↑サムスン電子が開発した新しいトイレの試作品

 

サムスン電子は、この新しいトイレがエネルギー効率に優れ、排水処理機能もあり、途上国や先進国の家庭向けに商品化するためにゲイツ財団が設定した条件を満たしていると述べています。ゲイツ財団は、上下水道が整備されていない環境下でも、電力をほとんど使用しないで衛生的に使うことができるトイレを求めており、そのために、世界中の研究者に助成金を与え、さまざまなプロジェクトを支援してきました。

 

世界保健機関(WHO)とユニセフによると、安全ではないトイレ設備の使用を余儀なくされている人は世界で約36億人いるとのこと。トイレの衛生問題や安全な水を利用することができないために、多くの幼い子どもたちが下痢にかかり、5歳未満の子どもが毎年50万人も命を落としているのです。

 

サムスン電子は、このトイレに関する特許を途上国に提供する予定であると同時に、量産化に向けた技術革新を進めるそう。途上国への普及に向けて、同社の踏ん張りどころは続きそうですが、「トイレ先進国」と言われる日本のメーカーが貢献できることも大いにありそうです。

 

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蚊に刺される=感染…途上国への「虫ケア」でアース製薬が示すSDGsのカタチ

アジア、中南米、アフリカなどで流行している、デング熱やマラリアといった「蚊媒介感染症」(病原体を持つ蚊に刺されることで発生する感染症)。重症型のデング熱は、アジアやラテンアメリカの一部で子どもの死亡の主原因に挙げられるほど深刻な問題となっています。

吸血中のヒトスジシマカ

 

こうした蚊媒介感染症についてグローバルな取り組みを行っているのがアース製薬です。そのひとつが、蚊媒介感染症の発生率を低減する「ワールド・モスキート・プログラム(WMP)」でのベトナムにおける活動支援。2021年に新設された同社の「CSR(Corporate Social Responsibility )/サステナビリティ推進室」の皆さんに、推進室新設の経緯やASEAN諸国における感染症対策ソリューションなどについてお話をお聞きしました。

 

アース製薬だからできるユニークなCSR/サステナビリティ活動

同社では、事業を通じて社会課題の解決を目指す「CSV(Creative Shared Value)経営」を推進。「CSR/サステナビリティ推進室」では、室長の桜井克明さんを筆頭に、都市害虫学の専門家である角野智紀さん、国際NGO団体職員としてミャンマー国境にある移民・難民のための診療所で働いていた田畑彩生さん、グローバルでマーケティング企業に従事していたライアン・グィン・フィンさんという多様性あふれるメンバーが、アース製薬ならではのサステナビリティを日々追求しています。

右から、桜井克明さん、角野智紀さん、田畑彩生さん、ライアン・グィン・フィンさん、NEXT BUSINESS INSIGHTS編集長・井上

 

特にユニークな取り組みが、以下の3点です。

 

ASEANでは民間企業初となる虫媒介感染症への取り組み:ワールド・モスキート・プログラム(WMP)

オーストラリアの研究者らが立ち上げたWMPは、世界の人々を蚊媒介感染症から守るための非営利型イニシアティブ。主な活動は、蚊に共生細菌ボルバキアを感染させることで、デング熱媒介能の著しく低い蚊を作り、デング熱感染症率を低下させる取り組み。生態系を崩さずにデング熱などの感染を防げるとあって、大きな注目を集めています。同社では、2021年からベトナムにおけるWMPの支援活動をスタート。民間企業によるWMP参画は、ASEANでは初の試みです。

 

事業を通じた社会課題への取り組み:感染症トータルケアに役立つ先端的テクノロジーの活用

革新的な酸化制御技術「MA-Tシステム」を活用した製品開発・販売を推進。「MA-T」は、亜塩素酸イオンから必要な時に必要な量の活性種(水性ラジカル)を生成させることで、ウイルスの不活化や除菌を可能にするシステムです。既存の除菌剤より安全性が高く、長期保存できるため、避難所などで使用する除菌・消臭剤、感染症予防に役立つマウスウォッシュにも活用されています。さらに、農薬・医薬品、牛の糞尿から出るメタンガスからメタノールを製造する技術などへの応用も見込まれています。

「MA-Tシステム」を採用した肌用ミスト

 

自然環境を持続させる取り組み:環境・生物多様性の保全

自然環境を保全するため、外来生物対策、動植物の分布に関する調査・モニタリングなどを実施。例えば、兵庫県赤穂市生島では、国指定天然記念物の照葉樹林を保護すべく、つる植物ムベの伐採を実施。兵庫県姫路市「自然観察の森」では土壌動物の調査、小笠原諸島ではツヤオオズアリの防除を行うなど、自治体と連携しながら生物多様性の保全に取り組んでいます。

赤穂市生島での活動風景

 

グローバルで経験豊富、エッジの効いたメンバーが集結

井上 アース製薬は、2021年に「CSR/サステナビリティ推進室」を新設し、ユニークな取り組みを進めています。なぜこのタイミングで推進室を立ち上げたのでしょう。

 

桜井 一つは昨今のめまぐるしい社会情勢の変化です。また、当社はプライム市場へ移行することとなりました。それに伴い、私たちは「感染症トータルケアカンパニー」として世界の人々の安全で快適な暮らしを実現するするとともに、社会の持続可能性や価値向上の取り組みをさらに推進する必要があると考えました。

「CSR/サステナビリティ推進室」発足の経緯を語る桜井室長

 

井上 なるほど。とはいえ、アース製薬では創業以来、虫ケア用品を提供し続けてきましたよね。専門部署こそありませんでしたが、事業を通じて社会貢献をしてきたのではないでしょうか。

 

桜井 おっしゃる通り、虫ケア用品は、販売すること自体が感染症対策になります。事業と社会課題の解決がここまで直結した企業は、珍しいのではないかと思います。

 

井上 私が勤めるアイ・シー・ネット株式会社もODA事業に関わっていますが、当たり前にSDGsに取り組んでいたからこそ、ことさら「SDGsへの取り組み」をアピールすることには少しためらいがありました。貴社も、これまではあえてアピールする必要がなかったのかもしれませんね。

 

田畑 そうですね。確かに「SDGsに取り組んでいる」自覚は薄いかもしれませんが、どの社員も「自分たちはお客様のお困りごとを解決する製品を販売している」という認識を強く持っています。

 

井上 推進室の皆さんは、昆虫学や公衆衛生、マーケティングなどそれぞれの専門領域を極めた方々です。バックグラウンドも多様で、ユニークな顔ぶれですね。

 

桜井 ここまで経験値が高くてエッジの効いたメンバーは、珍しいと思います。例えば田畑さんは、公衆衛生を海外で学び、タイで感染症対策に取り組んできた経験があります。WHOや国連ならこうした経歴のスタッフもいるかもしれませんが、事業会社では希少。角野さんは、虫防除に関する国家資格の講師を務める害虫のスペシャリストです。

 

井上 ライアンさんは、どのような事業に携わっているのでしょう。

 

ライアン ベトナムの貧困地域に家を建てたり、衛生環境を改善したりといった海外事業を担当しています。ESG関連のデータ分析、英語によるレポートの作成なども行っています。

ライアン・グィン・フィンさんは、グローバルマーケティング企業や海外営業に携わっていた

 

井上 これだけエッジの効いた方々が揃っていると、面白い活動が生まれそうです。

 

生態系を崩さず、蚊媒介感染症を防ぐ

井上 さまざまな取り組みの中でも、ASEANなどの途上国に向けた蚊媒介感染症対策はアース製薬ならではだと感じました。蚊を駆除するのではなく、ボルバキアという共生細菌に感染させることで、蚊の個体数を下げることなく蚊媒介感染症罹患率を下げるという手法がユニークです。

井上自身も途上国での活動経験がある

 

田畑 蚊に接種したボルバキアは親から子へ受け継がれます。そのため、ボルバキアに感染した蚊の卵を公園などの木に吊るし、蚊媒介感染症を引き起こさない蚊を増やすという地道な活動を行っています。熱帯医学研究を行う、ホーチミン・パスツール研究所とも協働し、蚊の卵や幼虫を育てる設備も設けました。こうした活動により、生態系を崩さず、蚊媒介感染症の発生率を抑えることができる体制が整ってきました。

 

井上 感染症と言えば、近年では新型コロナウイルス感染症がまず頭に浮かびますが、ASEAN諸国では新型コロナよりもデング熱が喫緊の課題なのでしょうか。

 

田畑 デング熱などの感染症は、アフリカやアジアの途上国で大きな問題になっていますが、なかなか注目されることがありません。そのため、こうした病気は「顧みられない熱帯病」と呼ばれています。新型コロナウイルス感染症のワクチンはすぐに完成しましたが、デング熱のワクチンがなかなか開発されなかったのは、こうした理由もあります。もちろん創薬の難しさの違いもあると思いますが、根深い問題が横たわっているのも事実です。

 

「蚊に刺される=感染」という、日本にはない危機意識

井上 蚊媒介感染症対策を行う上で、現在もっとも注力している国はベトナムですか?

 

桜井 現在はベトナム、タイが中心ですが、今後はフィリピン、マレーシアなど現地法人がある国を起点に取り組みを拡大していきたい考えです。

 

田畑 世界では、この6カ月で約10万人ものデング熱患者が発生しています。アース製薬がWMPを通じて支援しているのは、当社工場があり、なおかつデング熱の罹患率が高い地域です。

アースコーポレーションベトナムの工場

 

ライアン 今後取り組みを拡大する際には、先ほど挙げた4カ国の現地法人が同じビジョンを持ち、同じアクションを起こしていくことが必要です。そのため、CSR報告書の英語版も作成しています。

 

井上 私はパプアニューギニアでマラリアに罹ったことがあるので、蚊には強い恐怖を感じます。日本と海外では、蚊に対する意識も大きく違いますよね。

 

田畑  タイなどでは「蚊に刺される=感染」という認識です。以前は、デング熱が蚊媒介感染症であるという認識が地方では低かったのですが、啓発活動を進めれば、意識が高まっていきます。

 

井上 そういえば、先ごろアース製薬のタイ現地法人が販売する蚊とり線香を、「アース虫よけ線香モンスーン」として日本でも販売開始されたそうですね。今後も、途上国向けの製品を日本に“逆輸入”することはあり得るのでしょうか。

タイの現地工場での生産風景

 

角野 あり得ます。海外のヒット商品を日本仕様に変更して発売することもありますし、「アース虫よけ線香モンスーン」のように販売するケースも増えるのではないでしょうか。グローバルの研究部と日本国内の研究部が互いに刺激し合い、切磋琢磨しながらより良い商品を開発できたらと考えています。

 

井上 近年、アース製薬では虫よけ線香や液体蚊とりを「殺虫剤」ではなく「虫ケア用品」と称していますね。

 

桜井 やはり“殺”という言葉には、ネガティブなイメージが付きまといます。私たちが目指すのは、虫を殺すことではなく人間を虫から守ること。人間と虫の住空間を分け、人間の生活をケアするという意味合いで、「虫ケア用品」と呼ぶようになりました。

 

角野 生態系を構成している生物は、必ず何かしらの役割を担っています。例えばボウフラは、汚泥を餌にしているので水を浄化してくれますし、他の生物の餌になります。オスの蚊は花の蜜を吸うため、受粉の手助けもしています。人間から見れば蚊は鬱陶しいだけの生き物かもしれませんが、ウイルスからすれば自分たちを拡散してくれるありがたい存在。そういった視点を忘れてはならないと思います。

角野さんの虫に対する造詣の深さに、推進室のメンバーも驚かされることがしばしば

 

海外でのSDGsビジネスは時間がかかる。大切なのは、長期的な視野を持つこと

井上 ASEANにおける虫媒介感染症対策は、現地の政府やNGOなどと連携して取り組みを行うケースも多いのでしょうか。

 

田畑 そうですね。現地大学と帝人フロンティアとの3者共同プロジェクト、JICAのSDGsビジネス支援事業など、さまざまな形で現地機関と連携しています。また、日本の技術を紹介すると、現地の方から「ぜひ一緒に製品開発を」とお声がけされることも多々あります。そういう時には、ローカルの方々との協働がポイント。開発する製品も現地に根づいたものになり、事業が継続的に広がっていきますから。

JICAの支援事業で活動する田畑さん(写真右)

 

角野 逆に、日本の技術をそのまま持ち出し、「これを使ってくれ」と言ってもまったく広まりません。日本とは習慣や文化が違うので、現地にアジャストさせる必要があるんです。手っ取り早いのは、現地の方々と一緒に取り組むことですね。

 

井上 国内にとどまらず、現地の人も巻き込んだグローバルなオープンイノベーションを促進しているんですね。

 

田畑 以前、国際協力、人道支援を行っていた時に学んだことですが、主役は現地の方々。彼らに「自国の人々の役に立ちたい」という思いがあると、現地に根差したものが生まれると思います。

 

井上 その考え方は、人道支援に限らずビジネスでも有効なんですね。

 

田畑 そう信じています。長年ODAに携わっていると、支援がどのように始まり、どのように終わるのか見えてきます。長く継続するのは、現地の方々が主体になって推進するプロジェクト。ビジネスにおいても、確実に同じことが言えます。モノや技術だけポンと渡すだけではダメ。丁寧にキャパシティ・ビルディング(目標を達成するために、その組織が必要な能力を構築・向上させること)を進めることが重要です。

 

角野 プロジェクトが終わってからも、定期的にモニタリングし、フォローする。それくらいやらなければ継続は難しいと思います。

 

井上 そうなると、事業化までかなりの時間がかかるケースも多くなると思います。最初から長期スパンで事業計画を立てるべきということでしょうか。

 

田畑 確かに時間はかかるので、企業が新規事業として継続するのはなかなか難しいかもしれません。本当にその国の社会課題を解決したいのであれば、長いスパンで考えるべき。と言っても、余裕のある企業でなければできないわけではありません。大切なのは、長期的な視野を持つことだと思います。

 

井上 プロジェクトを長く続ける熱意も必要。推進室には、情熱と突破力を併せ持つメンバーが揃っているんですね。現地でプロジェクトを進めるうえで、障壁になること、課題を感じていることはありますか?

 

田畑 文化や感覚の違いは、大きな課題です。例えば、日本では手を洗うことが当たり前ですが、「清潔」に対する意識が違うと、手洗いの習慣もなかなか根づきません。こうした単純な違いのほかに、宗教に基づく思想、長年にわたって培われてきた価値観、心情なども障壁となることがあります。

 

角野 現地でプロジェクトを進める際には、まず我々の常識を取り払うところから始まります。わからないことは現地の人に聞く。製品開発においても、現地でのモニタリングやアンケートは非常に重要。例えば、虫ケア用品には香りをつけることが多いのですが、「絶対にこの香りが好きだろう」と日本人が満場一致で選んでも、現地でリサーチすると全然違う結果になることも。日本の常識は持ち込まないというのが、大前提です。

 

井上 それだけ価値観が違うと、「手を洗いましょう」と啓発しても根づかせるのは難しそうです。

 

角野 そうなんです。ですから、「なぜ手を洗う必要があるのか」という前提から説明する必要があります。大人は今までに身についた習慣があるので、なかなか浸透しません。そこで、幼稚園や学校など小さなお子さんに指導し、自宅でも実践してもらうようにしています。そのうえで「だから石鹸が必要なんだ」と理解してもらう。こうした啓発活動が重要です。

 

田畑 大事なのは、衛生状況をいかに改善し、感染症の発生率をいかに抑えるか。理由がわかれば納得し、行動変容につながる。もちろんその結果、当社の商品が売れればWin-Winですが、人道支援的な立場から言えば、感染症が抑えられるなら、どこの製品を使っていただいてもいい。ちなみに私自身がNGO団体からタイに派遣された時は、アース製薬の製品を国境地域で使っていました。当社の製品は、現地のラストワンマイル(顧客に製品が届く物流における最後の接点)で、消費者の方々に選んでもらえる商品力があると思います。

NGO団体での活動経験を現職にも活かしているという田畑さん

 

井上 長年培ってきた土台があるのは強みですよね。ローカルでも戦える商品力、価格競争力があるからこそ、現地の方々に選ばれる。その土台があるから、今求められる社会課題の解決にも貢献できているのでしょう。

 

地球との共生を考える、アース製薬の未来像

井上 最後に、皆さんの今後の展望や、推進室で挑戦したい事業についてお聞かせください。

 

ライアン どの国でサステナビリティ活動を展開するにしても、まず優先すべきはその地域の方々です。現地の方々とともに成長し、次のステップとして、ともに経済的に発展していく。これまでは製品を売ることが最優先でしたが、推進室では現地の方々の思いを大切にしています。そこに魅力を感じますし、今後もその地域の方々のことを第一に考え、事業を展開していきたいと思っています。

ベトナムで活動するライアンさん

 

田畑 今回は虫媒介感染症の話をさせていただきましたが、私個人としては「MA-T」の事業展開に注目しています。「MA-T」は、感染症予防だけでなくメタンからメタノールを製造するなど、気候変動、地球温暖化の問題にもリーチできる可能性を秘めています。「MA-T」の除菌剤が国連調達品となり、難民キャンプや紛争地、災害発生地で活用されることが私の願い。地球規模の課題を解決する際には、経済、教育などの格差が障壁となりますが、「MA-T」はこうした格差を埋める一助にもなると確信しています。

 

角野 まずは、当社のサステナビリティ活動の基盤づくりをしっかり進めていきたいと思っています。また、ESG評価機関などへの情報開示も推進室の重要な使命。個人的な展望としては、生物を殺すのではなく生かす取り組みに、さらに力を入れたいと思っています。昨今は気候変動、資源循環、生物多様性といった地球環境問題への対応が求められていますし、アース製薬もその流れに乗り遅れるわけにいきません。実はアース製薬は、飼育昆虫の数や種類が日本一。その経験や技術を生かし、希少な在来種の保護・保全に貢献できたらと思っています。

 

【取材を終えて~井上編集長の編集後記】

どんな会社でも創業時には熱い想いをもって事業を展開していると思いますが、時間がたつとその想いが薄れるケースも多いと思います。アース製薬は創業から130年たった今でも、全ての社員が「お客様のお困りごとを解決する製品を販売する」という認識をもっているそうですが、これは並大抵のことではなく、ビジョンをしっかり社内に浸透させ続けてきた、これまでの会社の努力があったのだと思います。明確なビジョンを持ち、そして魅力的な人材が集まっているアース製薬が、どういう活動を展開されていくのか、今後が非常に楽しみです。

 

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取材・文/野本由起   撮影/干川 修