【ムー的オリンピック秘話】幻の東京五輪を悼む神事だった!?「1938年の聖矛継走」(2)

前回紹介した(聖火でなく矛! 戦勝祈願の1万人リレー「1938年の聖矛継走」(1)はこちら。)出発式のようすからもわかるように、「聖矛継走」はスポーツ大会の看板を掲げながら、濃厚に神事の空気感を漂わせていた。

 

そして国民の側でも、これがただのスポーツ大会だとは受け止めていなかったのだ。

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聖矛継走を報じる「読売新聞」(国会図書館デジタルアーカイブより)。

 

聖矛の走るところ、沿道では日の丸が振られ、万歳三唱が沸き起こったが、これはまだライトな反応のほうだった。

 

静岡県内のある区間では、継走の一団が富士登拝よろしく口々に「六根清浄」を唱えながら走ったというし、一家総出で玉串を捧げて聖矛を迎える家族があったり、選士(リレー選手)や先導のオートバイに賽銭が投げ込まれることまであったりしたという(こうした道中のエピソードは、伴走した記者・小澤豊氏が記した「聖矛継走伴走記」(『陸上日本』臨時増刊に掲載)に詳しい)。

 

沿道となった土地の人々にとって、聖矛継走は「神様が通過する」に等しいできごとだったのだ。

 

継走のルートが、聖矛奉納の7社以外にも多くの寺社を経由していることからも、それは裏付けられる。

 

たとえば横浜では「関東のお伊勢さま」「横浜総鎮守」として崇敬される伊勢山皇大神宮が継走行程に加えられている。

 

都内(当時は東京市内)のルートをみてみると、神奈川県境の六郷橋を渡ったのち、六郷神社、貴船神社、大森神社、品川神社、泉岳寺、増上寺、愛宕神社、そして皇居(当時の呼び方では宮城)二重橋前と靖国神社をはさんで、日枝神社、神宮外苑競技場を経由して明治神宮と、これもまた実に多くの寺社が中継ポイントに設定されているのである。

 

もしもこの大会が現代に行われていたら、さしずめ「神様駅伝」とでも呼ばれていたのではないか……などと想像してしまう。

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そもそも、聖矛はなぜ明治神宮をゴールに目指したのか。実は、聖矛継走が行われた11月3〜6日というまさにこの期間、神宮外苑では「国民精神作興体育大会」という競技大会が行われていたのだ。

 

1938年は、日本のスポーツ界にとっては失意のどん底ともいえる年だった。嘉納治五郎らの尽力により、東洋初の五輪としての開催が決定していた1940年オリンピック東京大会の返上が正式決定されたのが、この年7月のことだったのである。

 

前年の盧溝橋事件に端を発する「支那事変」勃発以降、軍部はオリンピックへの協力姿勢を撤回し、国際情勢も戦争当事国である日本での五輪開催に異を唱えるようになっていた。

 

そのうえ、より現実的な問題として、オリンピック競技場の建設が「戦争遂行には不要の工事」として閣議決定よりに中断させられてしまい、五輪開催は断念せざるを得ない状況に追い込まれていたのである。

 

さらに言えば、五輪招致最大の功労者といってもよい嘉納治五郎が逝去したのもこの年だった。その最期は、まさに東京五輪の先行きについて話し合われたIOC総会の帰路、帰国直前の船のなかで亡くなるという壮絶なものだった。

 

この幻となった東京オリンピックでは、ベルリンでの聖火リレーの大成功に触発され、いくつもの壮大な聖火リレー案が提唱されていた。たとえばローマから海を越えて聖火を持ってくるという世界規模の案や、天皇家発祥の地とされる宮崎神宮から東京までを聖火でつなぐという案などがあったのだが、これらも五輪の返上とともに幻と消えた。

 

まるでその無念の仇討ちをするかのように決行されたのが、この年の国民精神作興体育大会、そして聖矛継走だったのである。

 

聖矛継走は、体育大会の閉会式にあわせてきっちり神宮競技場に入場するようペースを計算されていた。平均時速10〜11キロという予定速度を全行程においてほとんど乱すことなく管理され、見事どんぴしゃりで大会のフィナーレを演出することに成功している。

 

閉会式には、大会総裁として出席する昭和天皇の弟宮・秩父宮の姿もあった。その構図は1964年、20年越しで現実のものとなった東京オリンピックでの開会式の様子を彷彿とさせる。

 

聖矛継走は、この体育大会にとっての「聖火リレー」でもあったのだ。

 

それにしてもだ。体育振興、戦勝祈願が実際にこの継走の目的だったのだとしても、まだぬぐいきれない疑問が残る。

 

「神都」伊勢と「帝都」東京を結び、名だたる神社を中継しながら聖なる矛を運ぶという行為は、なにか表向き以上の意味を発生させてしまっているのではないか――ということだ。

 

そもそも、なぜ聖火ではなく聖矛だったのか。ひとつには、途中で消えるとまずいといったような現実的な声が、大会の後援者だった厚生省から上がったということがあるようだ。

 

しかし、この継走を「神事」と仮定して眺めてみると、「矛」には違った意味が見えてくる。

 

記紀神話の、天照大神の孫ニニギが高天原から天下る「天孫降臨」の場面を思い浮かべてもらいたい。ここでは、天津神一行を迎え入れる国津神・猿田彦は常に矛を携えた姿で描かれる。

 

あるいは猿田彦の妻となる女神アメノウズメは、天岩戸に引きこもってしまった天照大神を招き出すため、手に矛をもって舞い踊ったと『日本書紀』には記されている。

 

現代においても、ユネスコの無形文化財に登録されている津島神社(愛知県)の尾張津島天王祭では、神の先導として「鉾持ち衆」と呼ばれる若者たちが活躍する。

 

天王祭の朝、10人の鉾持ち衆は、それぞれに長大な布鉾を持ち、御旅所に遷座する神の先祓いとしてその鉾を手にしたまま天王川に飛び込むのだ。

 

その後、岸に着いた彼らが神社までの道のりを駆け抜けることで、神の進む道中が祓い清められる、とされている。そして、このとき鉾から滴り落ちるしずくには、病気や怪我を治す力があるという言い伝えも残されているのだという(「広報あいさい」2017年7月号を参照)。

 

このように、古来より矛を捧げて進むことには、神の先導、祓い清めという意味が見出されていた。伊勢神宮を出発する継走のアイテムとして、矛は他のなによりも相応しいものだったのではないだろうか。

 

続く……。

 

文=鹿角崇彦

 

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【ムー的オリンピック秘話】聖火でなく矛!戦勝祈願の1万人リレー「1938年の聖矛継走」(1)

毀誉褒貶ありつつも、どうにか無事に開幕を迎えようとしている平昌オリンピック。

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オリンピックといえば聖火リレーがつきものだが、今大会でも昨年11月1日から開会式までの101日間をかけた聖火リレーが行われている。

 

近代オリンピック大会で初めて聖火リレーが行われたのは、1936年、ナチス政権下で開かれたベルリンオリンピックでのことで、五輪と聖火が切っても切れないものとして定着していくのはこの大会以降のことだ。

 

平昌五輪でも、ギリシアから仁川にもたらされた聖火は、済州島や珍島などもルートに加えながら、韓国国内全2018キロの行程を走破しようとしている。

 

ところで平昌五輪のちょうど80年前、昭和13年(1938)の日本において、とある特異なリレーが行われていたことをご存じだろうか?

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当時の「日本陸上(臨時増刊)」(国会図書館デジタルアーカイブより)。

 

そのリレーとは、伊勢神宮でお祓いをうけた7本の聖なる矛を携え、東海道筋の神社に奉納しながら東京・明治神宮を目指して500キロ超の長距離をひた走る……というもの。

 

スポーツ競技とも、儀式とも、神事ともつかない大会、その名も「伊勢神宮明治神宮戦捷記念聖矛継走大会」である。

 

当時、この大会は「聖矛継走」と呼ばれて新聞でも盛んに報じられていた。この大会だけの特集号を組んだ雑誌もあったほどで、国民の注目度、認知度は現在からは想像もつかないほど高かったのだ。

 

なにしろ、この継走(リレー)には走者、伴奏者だけで1万5千人もの国民が参加しているのである。当時の記事からは、継走の一団が沿道の市町村から熱烈な歓迎を受けていた様子も見て取れる。

 

大会を主催したのは、日本陸上競技連盟と大日本体育協会という2つの団体で、その意味では聖矛継走はれっきとした「体育大会」だった。

 

一方で、その正式名称からもわかるように、大会はこの前年、昭和12年(1937)に勃発した「支那事変」の戦勝を祈願するという名目で行われたものでもあった。南京陥落が12年12月、その後内陸へと拠点を移す中華民国政府を追うように、日本は大陸に大量の兵力を投入し続けていた。やがて「泥沼」と呼ばれる長期戦化の兆しはありつつも、この頃はまだ多くの国民が「支那事変」の勝利を信じていた時代でもあった。

 

しかし、伊勢神宮から明治神宮の間を、聖なる矛を先頭に計1万人以上の国民が疾走するという行為が、果たして本当に「スポーツ振興」と「戦勝祈願」の意味しかないものだったのだろうか。目的に対して、その規模や内容がどうにも不釣り合いに見えてしまうのだ。当時の新聞や雑誌記事などから聖矛継走の様子を再現しつつ、その謎に迫ってみたい。

 

昭和13年(1938)、明治節(明治天皇誕生日として祝祭日になっていた11月3日)の翌日4日朝、伊勢神宮内宮の神楽殿に、はるばる東京から運び込まれた7本の矛が到着した。

 

矛は柄の長さ約180センチ、矛先6寸(約18センチ)の全長約2メートル、穂の付け根には金襴のヒレが下げられた立派なもので、東京神田の神祭具装束師・増田英治の手による、古式に則った「ホンモノ」の祭具である。

 

午前11時になると、陸連会長や宇治山田市長など名士列席のもと、神宮神職による修祓(お祓い)が行われ、7本の矛は晴れて「聖矛」となる。このうち1本が伊勢神宮に献納され、残りの6本は高々と天に掲げられ、継走の出発地となる宇治橋に移動していく。

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当時の「日本陸上(臨時増刊)」(国会図書館デジタルアーカイブより)。

 

宇治橋前で、ゴールの明治神宮に奉納される聖矛が正選士に、2番目の神社に奉納される1本が副選士に手渡される。そして12時、宇治山田市長の打ち鳴らす太鼓の音を合図に、両選士はじめ伴走の衛団は、1000人超という大観衆の見守るなか、栄えある大会のスタートを切ったのである。この様子は、NHKのラジオによって全国に生中継されていた。

 

こうして始まった聖矛継走は、11月4日〜6日の3日間をかけて、520キロの道のりを昼夜ぶっ通し、文字通り不眠不休で走り通した。

 

聖矛が奉納される7つの神社とは、スタート地点の伊勢神宮、結城神社(津市)、熱田神宮(名古屋市)、三嶋大社(三島市)、鶴岡八幡宮(鎌倉市)、そして東京の靖国神社、ゴールの明治神宮だ。

 

結城神社は、南朝の忠臣・結城宗広を祭神として創建された神社で、建武中興十五社と呼ばれる神社の一社でもある。

 

熱田神宮は言わずと知れた草薙御剣を神体とする日本屈指の大社。三嶋大社、鶴岡八幡宮はいずれも源氏からもあつく信仰された武功の神として名高い。

 

聖矛を奉納する7社は、戦勝祈願にふさわしい武神と、皇室ゆかりの神社とをバランスよく選んだ絶妙なラインナップになっている、といえるだろう。

 

出発式前後の様子をみるだけでも、この大会が「普通のリレー」でないことは容易に感じとれるが、それは走者を「選手」でなくあえて「選士」と呼ばせているようなところからも伝わって来る。『大辞林』によれば、「選士」には選ばれた人というほかに、平安時代に大宰府のもとで国防の任にあたった兵士、という意味もあるそうだ。

 

この正副選士が捧げ持つ2本以外の矛はバスに載せて追走させていたのだが、そのバスもまた並みのものではない。

 

バスの内部には事前に矛を納める祭壇が設置され、車外にはしめ縄を巡らせて榊を立てるという特別仕様が施されていた。バスというよりも、即席の移動式神社が仕立てられたといった様相だ。

 

矛は明らかに、駅伝のタスキや聖火のトーチとは次元の異なる、まさに「聖矛」以外のなにものでもない扱いを受けていたのである。

 

続く……。

 

文=鹿角崇彦

 

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